実在哲学概論Ver.2.10
平成16年7月7日改
T.一般論
実在(宇宙の真の姿)は静止した4次元空間(時間のある空間)のはずである。それなのに、私の眼には『物が動いて見える』。それは、私の視覚界が、私の大脳後頭葉の神経興奮によって“作り出された”世界だからである。それは、脳細胞の神経興奮に伴って発生している。だから、動いて見える。一般に、私の感じるすべての世界は、私の大脳によって作り出されている。それが、私の感覚界である。
感覚とは見たり聞いたり考えたり思ったり自分が感じることのすべてを言う。[感覚の定義]
ゆえに、自分が見たり聞いたりすることは自分の感覚であって実在ではない。
人間何も考えないでぼんやり暮らしている(いわゆるボンクラだ)と、自分が見たり聞いたりすることがそのまま実体だと誤解しがちだが、自分が見聞きするのは自分の感覚であって、その感覚を発生させるもとになる別のものがあると考えるのだ。
感覚の外に実在がある。自分にとって実在じたいは感覚されない。自分が感覚できるのは、自分の感覚(自分の五感と知覚と心)だけであって実在ではない。
感覚を発生させるもとになる実体の存在を仮定することにする。これが一番単純な考え方だからこれが一番正しいのだ。例えば、色の感覚を発生させるもとになるのが光である。光が眼に当たった結果色が見えるので、色と光とは別物である。自分にとって色は感覚されるが、光そのものは感覚されない。光は自分の感覚の外にあるからである。光が実在するように、色の感覚もまた実在する。
感覚は脳細胞の神経興奮によって生じる。【実在第1原理】
実在の中に脳細胞があり、脳細胞の活動(=神経興奮)によって感覚が生じる。
昔デカルトは、ただたんに感覚があると考えただけで終わったが、ここではさらに感覚がある原因までも考えているのだ。「なぜ感覚があるのか?」の答えを上の原理が与えているのだ。神経興奮の定義は、高校の生物学の教科書を見てもらえばわかる。
脳細胞の興奮が激しいほど、感覚が強くなり、はっきりと意識される。
生物学によれば、脳細胞は一秒間に何回かパッパと細胞膜の電圧が変化する。その回数が多くなるほど、その脳細胞が荷う感覚を強く感じることになるのだ。
だから、感覚はデジタルすなわちあるかないかの区別しかないのではなく、神経興奮の頻度によって強く感じる〜弱く感じるまでアナログにさまざまな感じる強さに違いがあるのだ。[感覚のファジー性]
論理というといかにも最初から割り切ったかのようであるが、本当は人間の脳で考えるかぎりは、徐々にはっきりとわかってくるのが実際のところである。弱い感覚がだんだん強くなっていって、最終的には完全にわかることになる。
脳細胞の活動は神経繊維を介して調節できるから、感覚の発生も制御できる。
感覚の発生を、原因となる自分の外にある物体だけに頼るのではなく、自分の頭の中だけで出来るようにするのがここでの狙いである。たとえ物体があっても、感覚の発生がなければ、自分はその物体を感じることがない。いわゆる『心頭滅却すれば火もまた涼し。』これによって要らない情報と必要な情報を選別することが出来るようになる。
感覚を荷う素粒子「感覚子」があり、脳細胞の神経興奮によってその脳細胞に固有の感覚子が発生する。
事実、生物学の実験でサルの脳に人の顔を見たときにだけ反応する‘顔細胞’という脳細胞があることがわかっている。顔細胞が神経興奮すると、顔の感覚が発生し、そのサルには顔を見たことが感じられる。顔細胞が顔の概念を荷っているといえる。
感覚子の存在は今のところ実験による確認はないが、とにかく感覚が存在することは自分の経験において絶対に確実だから、それを荷う物体が存在すると考えることが自然である。それを明確にするために感覚子という物体(素粒子)を考えることにするのだ。感覚が生じるのにはあまり大きなエネルギーは要しないから、感覚子はすごく小さな素粒子と考えられる。光子に似たものだろう。ただし、感覚の種類は多いから、光子よりも複雑な構造をしているだろう。
感覚子もほかの物質と同じように実在の中に存在する。
昔デカルトは、存在するものを精神と物質とに分け、精神を物質の世界つまり実在の世界の中にはないと考えたが、脳細胞の神経興奮で感覚が生じるのなら、いっそのこと感覚(精神)も実在(物質)の中に含めてしまうのが統一的でよいと考えられる。
感覚子は脳細胞の近くで発生し、数ミリ秒程度の寿命がある。
感覚子に寿命がないと、自分の過去の感覚と今の感覚が混じって思考に混乱を来たすからである。実際、過去の感覚は思い出さない限り感じられないから、感覚子が時間とともに消えると考えるのが自然である。ダヴィンチの視覚残像効果(アニメの原理)の発見によれば、人間の感覚は数ミリ秒程度持続するから、感覚子の寿命も数ミリ秒程度あると考えられる。あるいは一回でなくても、数回に分けて感覚子が発生すると考えてもいいかもしれない(細かいことはどうでもいい)。
脳細胞の神経興奮は時空間の因果律に従うから、感覚子の発生もまたそうであり、ゆえに感覚も時空間の因果律に従う。つまり、現在の感覚は現在の自分の脳にしかなく、過去の感覚も未来の感覚も現在は存在しないから、現在の自分には感じられないことになる。[ベルグソンの問題の解]
感覚子の概念を使えばこんなことわかりきっている。こんな当たり前のことすらわからないのは、ヨーロッパに正しい哲学がないからだ。ヨーロッパ哲学はいまだにデカルトの間違い(精神は物質ではないという考え方)を引きずっているのだ。

U.各論
1)感覚の分類
人間の大脳における感覚は五感、知覚、心(いろいろな感情の集まり)に分類される。五感、知覚、心は感覚の質(味)が違うだけで、みな脳細胞の神経興奮で発生することは同じである。ただし、それぞれの感覚を荷う脳細胞の存在する部位が異なっている。五感は後頭葉・側頭葉で、知覚は頭頂葉で、心は前頭葉で、それぞれ感覚する。
五感とは、見たり聞いたり味わったり匂ったり触ったりする感覚である。
知覚とは、真偽の区別のある感覚である。
五感の経験から知覚の概念や命題が作られる。
例えば、眼で見た一匹一匹の具体的な‘犬のイメージ(視覚像)’の記憶から、眼で見えない‘犬のイデア(概念)’が作られる。(注:犬のイデアぐらいなら眼で見えるともいえるが、一般にイデアは知覚の中にあって眼では見えないものだ。)
無から有は生じない。概念は頭の中だけでいくら考えても、ひとりでに湧いてくるものではない。眼で見たことについての蓄えられた情報(記憶)を加工することによって、知覚における概念が作られるのだ。知覚における概念の源はすべて五感にあるのだ。
概念とは集合であり、知覚におけるひとつの概念に五感におけるさまざまな具体的事物が属する(対応すると言ってもよい)。
例えば、知覚における一つの犬の概念に、眼で見たさまざまな具体的な犬が属する。
人間の脳には物体の特徴を抽出する能力が備わっており、その能力によって概念が作られ、逆にその概念に当てはまるものとして個々の具体的な物体が捉えられる。こういう概念と物体の関係は、数学における集合と元の関係と同じである。
法則とは一般的命題であり、適用される(当てはまる)すべての具体的事象がそれに従う。
例えば、「犬は喜ぶとしっぽを振る。」という一般的命題に、すべての個々の犬が従うから、タロさんもジロさんもしっぽを振る。
例えば、ニュートンの運動の第三法則(F=ma)は、眼で見えるすべての物体に適用される。法則は一つの事象を分析することによって得られる、すべての事象に共通の性質である。人間の五感においては個々の具体的な出来事しか見えないが、人間の知覚においては普遍的な法則が見える。実際に、物理学はたくさんの法則で成り立っており、この宇宙(実在)にはもともと法則があるように作られているのだと言うことが出来る。
論理とはことばの法則、つまり概念・命題間の所属・適用関係が論理である。
論理とは、命題と命題の間の支配・従属関係であるということもできる(実在哲学では、支配・従属関係を知覚の内部だけに限らず、もっと広げて用いる。すなわち、知覚と五感、知覚と心、五感と心の間にも支配・従属関係があることを認める。)
原理とは、他のすべての命題を論理的に支配する最高の命題である。例えば、『エネルギー保存則』から、永久機関がいくら工夫を凝らしても作れないことがわかる。個々の具体的な永久機関よりも、『エネルギー保存則』のほうが原理的なわけである。
知覚は、論理関係によって結び付けられた多くの概念・命題から成る構造体である。
〈参考〉勉強には記憶と適用しかない。
テストの問題を解くためには、一般的な公式を暗記(記憶)し、
それを具体的な問題に適用(当てはめること)すればよいだけである。
まず勉強の仕方がわかっていなければ、いくらガリ勉しても徒労に終わる。勉強に筆記は必要ない。ただ本を読んで大事な法則を憶えればよいだけである。眼(五感)よりも頭(知覚)を使うように勉強しなければならない(勉強のコツ)。
概念や論理のことなんかは堅苦しくてどうでもいいと思われるかもしれないが、哲学が言葉(言葉の中身は概念)を用いて考えるかぎり、まず言葉じたいが何かを明らかにしておかねば話が始まらない。まず基本的なことがわからなければ、そこから先へは進めないのだ。
心はいろんな感情(快・不快感を伴う感覚)の集まりである。
心の是非を問題にするよりも前に、まず心の存在を認めることにする。
五感の現象や知覚の実在に対して、心は快感または不快感を感じる。つまり、心は眼で見えることに対してだけでなく、頭の中(知覚)で考えることに対しても快・不快感を感じる。
感情子には快不快という量があると言ってもよい。ちょうど、荷電粒子にプラスとマイナスの電荷があるように。
心は遺伝によって生まれつき決まっている。
人の顔や身体が違うように、人の心もひとりひとりみんな違う。
感情には快・不快感以外の感覚も混じっているが、快・不快感という一つの共通の物差し(座標軸)であらゆる感情を測ることができる。文学においては快・不快感以外の感覚を問題にすることが多いが、実生活においては快・不快感が最も重要だから、主にそれだけを考えればよい。
2)感覚の関係
2−1)人間の感覚界
人間は大脳が発達している。ゆえに、人間は考える動物である。
人間の本質は考えることすなわち知覚にある。
知覚だけが人間の取り柄であり、その他の点では他の動物以下である。〔チーターのように速く走れないし、鳥のように空を飛べない。〕
知覚の役割は実在を知ることに尽きる。(数学は別として)
知覚は五感の情報を元にして、あれこれと試行錯誤しながら考えて、実在の認識に近づいていく。考えることによってのみ実在が見えてくるのだから、けっして考えることをやめてはいけない。
人間の心には善悪の区別がある。
善とは心が知覚すなわち実在に従属することであり、
悪とは心が知覚すなわち実在に従属しないことである。【実在第2原理】
心が善か悪かは知覚が決める。
知覚(≒実在)に従属する心を善の心、知覚に従属しない心を悪の心という。例えば、現実(五感界の実在的部分)に従う心は善の心だが、現象(五感界の非実在的部分)に従う心は悪の心である。
実在内存在としての人間にとっては、心の快・不快よりもまず実在の中に自分がいることのほうが優先する。だから、人間の心は知覚(実在覚、感覚化された実在)に従属しなければならない。知覚を強く活動(神経興奮)させれば、自然に心が知覚に従うようになる。
ただたんに善というだけでは、必ずしも心は幸福ではない。心には実在に従う不幸もある。例えば、自分の身体をいたわり自分の身体が健康だと自分は幸福であるが、反対に自分の身体を壊し自分の身体が病気になると自分は不幸になる。つまり、心には実在とは独立に幸・不幸の区別があり、自分が善かつ幸であってはじめて、自分が実在の中で幸福であり得るのだ。
人間の心は平等ではない。善の心が上で悪の心が下だ。善は悪を支配すべきであり、悪は善に従属すべきである。
心の善悪は知覚で決まるのだから、人間の価値は認識の正しさにある。“認識の正しさ”だけで人間の価値が決まる。
知覚が心を支配できるのだったら、知覚が五感も支配できるはずだ。
知覚における概念(イデア)は五感における視覚像(イメージ)の‘演算’(思考による加工)によって作られる。たまに、知覚は五感界の中にない実在的概念(時間や感覚など)を作り出す。ゆえに知覚界は五感界よりも実在に近い。知覚を強く活動(神経興奮)させれば、自然に五感が知覚に従うようになる。知覚が五感を支配すると、五感には実在(≒知覚)に従属する部分(即ち現実)と、実在に従属しない部分(即ち現象)とがある【実在第3原理】ことが分かる。現実とは五感の中に現れた実在であり、現象とは五感の中にしかない実在しないことである。実在の中に生きている人間にとっては、現実は大事だが、現象は無視すべきである。例えば、知覚言語としての数学を用いて五感界を見たから、五感界の実在的部分(現実)だけが見えて、自然科学(実在認識)が発達したのだ。人間においては知覚が五感を支配しているから、人間にとっては知覚が意識(強い感覚)で五感が無意識(弱い感覚)であり、人間は毎日知覚界から五感界を眺めて暮らしている。自分が感覚しようがしまいが、実際には自分は実在の中にいるのだから、(なんだかんだ屁理屈を言っても、結局は)自分は実在に従わなければならない。実在は知覚によってはじめて見ることができる。
このように、
人間の感覚界は知覚が中心にあり、心と五感は知覚に従属する。

2−2)感覚界の構造(平成17年1月2日改) 知覚は実在を認識する。ところが、五感や心は必ずしも実在を認識しない。
実在に対する従属性によって、五感や心が分類される。
五感は実在に従属する実在性五感(視覚や聴覚)と実在に従属しない現象性五感(性感)に分類される。〔もっとも、実在性五感界と実在は同じではない。実在性五感界に知覚が考察を加えることによって、知覚界が実在に近づいて行く。〕
心は実在に従属する実在性心(まじめな感情)と実在に従属しない空想性心(ふざけた感情)に分類される。空想性心は、夜見る夢や本やテレビなどの限られた空間の中だけで満足される。
2ー3)精神病(平成18年7月22日改訂)
人間の脳には心や知覚や五感などの感覚がある。
脳の不適切な働かせ方や生活環境の変化などによって、不快感の高まったのが精神病(神経症も含む)である。
精神病と神経症
感情中枢の過興奮によって感情中枢自体の易興奮性が高まったのが精神病であり、
感情中枢に入力する対象覚(五感や知覚)の興奮性が高まったのが神経症である。

精神病(平成20年5月4日改定)
《精神病とは何か?》
人間の心にはいろんな感情がある。
心には不快な感情と快な感情がある。
不快な感情には、とくに精神病の原因となる焦燥感(思い通りに行かなくてイライラする気持ち)と鬱感(落ち込む感情)がある。
分裂病(焦燥病)では、焦燥中枢とテレパシー中枢を興奮させすぎたために、それらの中枢が興奮しやすくなっている。
鬱病では、抑鬱中枢を興奮させすぎたために、抑鬱中枢が興奮しやすくなっている。[“頑張る”ことが、自分の抑鬱中枢を自分で興奮させることになっている。]
《精神病はどうして罹るか?》(→哲学日記[4959] 精神病《まとめ》☆ h20.5.4参照)
人間の心は知覚に従属している。 人間の知覚には『焦燥中枢や抑鬱中枢などの感情中枢やテレパシー中枢を興奮させてはいけない』道徳律があり、その正しい道徳律に心が従いながら生きている。 ところが、オナニーやセックスや麻薬をやって心が性感や麻薬感に従うと、心が知覚にある正しい道徳律に従わなくなる。
それで、心が焦燥中枢や抑鬱中枢などの感情中枢やテレパシー中枢を興奮させてしまって分裂病や鬱病などの精神病に罹る。 『他人の身体を自分の思い通りに操[あやつ]りたい』とか『他人が頭の中で考えていることを覗[のぞ]いてみたい』と強く思うことが、テレパシー器官を働かせるきっかけになる。
自分が気に入らない他人の態度を見て“腹を立てる”ことが、焦燥中枢を興奮させることになる。[自分が気に入らない相手の態度を見て腹が立って、相手の態度を直すために相手の身体を自分の思い通りに動かしたいと思うから、焦燥中枢とテレパシー中枢を同時に興奮させることが多い。]
自分が落ち込むことを必死に我慢して“頑張る”ことが、抑鬱中枢を興奮させることになる。 焦燥中枢や抑鬱中枢などの感情中枢やテレパシー中枢の興奮が鎮まり、心が再び正しい道徳律に従うと精神病は治るが、それまでにはかなりの時間(数年〜数十年)がかかる。

神経症
3)分裂神経症(焦燥神経症)…いわゆる神経症(ノイローゼ)で、焦燥中枢に入力する対象覚(五感や知覚)の興奮性が高まったもの。焦燥中枢の易興奮性は永続的ではないので、原因となる対象覚の興奮がなくなれば焦燥感もなくなる。

4)抑うつ神経症…鬱中枢に入力する対象覚の興奮性が高まったもの。鬱中枢の易興奮性は永続的ではないので、原因となる対象覚の興奮がなくなると鬱気分もなくなる。

ほかに、躁病(躁中枢の過興奮で、その易興奮性が永続的になったもの)や癲癇(運動中枢が発作的に興奮するもの)や癲癇神経症(癲癇中枢に入力する対象覚の興奮性が高まったもの)などがある。
※詳しくは、私の『哲学日記』を参照。
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