[7401] 先天知をなめてはいけない。 h21.5.27
現代は科学の時代である。だから、先天知よりも後天知が正しい。
しかし、だからといって、先天知がなくなったわけではない。科学さえあればなんでもわかるわけではない。
私も子供の頃、科学が絶対に正しいと思って、人間の心なんか要らないと思って心を馬鹿にして無視していた。
そのせいで、私が中学高校生の頃、社会科がわからなくて勉強しようとしても眠くなって勉強できなくてその原因がわからなくて困ったことがあったし、私が医学部医学科に進学して医学の講義が面白くなくて落ち込んでいた時、どうして自分の気持ちが落ち込むのかわからなくて苦しまねばならなかった。
それは、自分に心があるからだが、科学の後天知の世界ではそれを答えとすることは認められない。
先天知の世界においてはじめて答えが得られるのだ。
だから、今でも先天知がなくなったわけではない。人間は後天知+先天知の世界に生きているのだ。
だから、今でも宗教をやれないわけではないし、宗教が要らなくなったわけでもない。
しかし、神武天皇教やキリスト教のような古臭い柔[やわ]な宗教では、私が医学部に進学するべきであるかないかについて正しい答えを出すことはできなさそうである。
だから、宗教そのものも現代の進んだ科学の後天知の世界において改めて捉[とら]えなおさなければならない。宗教を物語り調の文学としてやるのでは限界がある。宗教も科学みたいに分析的に書かねばならない。つまり、先天知の世界も後天知の世界と同じように科学的に研究しなければならないのである。

[7402] 医学とは何か? h21.5.27
私が医学生の頃、何度か外科学実習で手術場に足を運んだが、ベテランの先生でも少しはびびって手術をしていた。
手術はやられるほうも恐いがやるほうも恐いのだ。
若い医者だったら、手術の前の日の晩は眠れないかもしれない。
医学は自分の心の中にあるグロさの感情との戦いである。
もっとも、私が医者をやめたのは、私がグロさに弱いからではなく、医学のわからない感じが嫌だったからである。
人間は知覚的な世界に生きるべきだから、私は医学をやめたのである。[私の世界では、物を眼で見て頭で考えてはじめてわかったことになるので、物を眼で見るだけの医学はわからない感じがするのである。]

[7403] どうして女にはキリスト教が人気があるか? h21.5.27
女が神武天皇教や仏教が似合うわけがない。
神武天皇教や仏教は男の宗教である。
キリスト教は愛の宗教だから、女が似合うのだ。[もっとも、ヨーロッパ人は頭がいいから、男がキリスト教をやっても違和感がないように工夫をしている。男にとっての愛とは、自分の才能で社会に貢献するという意味だ。]
だから、将来新しい宗教をやるとすれば、男と女をちゃんと区別して、男と女の両方が出て来る物語にしなければならない。
今の日本人に男らしさがないのは、日本政府が神武天皇教をやめたせいかもしれない。

[7404] 大脳は袋小路 h21.5.28
大脳は、五感→知覚→心で終わりである。
逆は、心で折り返しで、心→知覚→運動野→筋肉で終わりである。
つまり、人間の大脳は袋小路[ふくろこうじ]であって、五感と運動野で外界に開かれているだけである。
たとえテレパシー器官による交信はあっても、プラトンが言ったような知覚で実在を直接に見る“直観”能力はない。
だから、先天知は、動物の本能と同じように、人間に生まれつき与えられた本能である。
先天知は人間の大脳に生まれつきプレインストールされたプログラムであって、あまり実在について正確なものではない。例えば、いくら先天知で、ある者を神と思っても、その認識は正しくない。
一方、後天知は生まれた後で得られた五感の経験について知覚で考えることによって新しく生成された実在についての正確なプログラムである。例えば、後天知の世界には神が発見されていないから、神がいない。
だから、先天知のプログラムを後天知のプログラムで修正するとますます実在について正しく考えることができて、それだけ快適に生きることができるようになるのである。例えば、いくら先天知の世界に神がいても、後天知の世界に神がいなければ、神はいないのである。

[7405] 先天知と後天知とどっちが正しいか? h21.5.28
後天知では、ある認識が正しいかどうかは、物に訊[き]いて判断する。
例えば、鉄の玉と木の玉とどちらが早く落ちるかは、実際に鉄の玉と木の玉を落として判断する。
これに対して、先天知では、人間がある認識を生まれつき持っているというだけで、ある認識が正しい根拠が何もない。
例えば、人間は生まれつき天が動いていると思っているが、天が動いている根拠は特にない。遠くの星に住んでいる人から見れば、地球のほうが動いているように見えるだろう。
人間の心についても、愉快な物が正しく、不快な物がまちがっているとはかぎらない。
例えば、河豚[ふぐ]は美味いがあとで死ぬことがある。[どうして河豚は自分の毒に平気なのだろう?]
とにかく、後天知ではある認識が正しい根拠(つまり、観察と論理)があるのに、先天知では根拠がない。
だから、後天知のほうが先天知よりも正しいと考えられるのである。

[7406] どうしてこれまで神がいなかったのか? h21.5.28
先天知の世界には神がいる。それは、私が小学1〜2年生頃に見た私の先天知が正しいと言っている。
しかし、私以前には、生きている人間を神とすることはなかった。
それは、神は人間ではないからである。
昔の人は、神を民族の心だとちゃんとわかって宗教をやっていたから、何も問題は起こらなかったのである。
今の人は、神の意味を誤解して、神を超能力者のことだと勘違いして宗教をやっている。
それは、もはや宗教ではなく、無意味なメチャクチャだ。チンドン屋だ。
宗教の聖典の物語は、民族の心を言葉で書いたものである。神は物語の登場人物であって、神が物語を作ったのではない。大事なのは、物語であって、神ではない。
先天知の世界の神は空に居て地上を歩いたりはしないから、宗教の神は厳密には先天知に居る神様とは違う。だから、宗教では先天知に居る神様をキャラクターに使って、民族の心を書いたのだ。だから、大事なのは、民族の心であって、神ではない。[神が人間よりも上の者というだけだったら、王制と変わらないから、宗教に人気が出るわけがない。だから、宗教は神が人間よりも上の者ということで持っていたわけではない。]
これまで政府に人気があったのは、政府が民族の心を正しく仕切っていたからである。しかし、今の政府がやっている私の超能力者制度は民族の心とはまったく関係がない、人間のものとは思えないほど無意味な活動である。
政府が扱うのは国民の心であって、神ではない。国民の心がわからない今の政府に存在する意義はない。

[7407] 宗教は奇麗ごとであって汚いごとではない。 h21.5.28
宗教は見る者によって姿を変える。
心の綺麗な人が見れば綺麗に見えるが、心の汚い者が見れば汚く見える。
最近の宗教が汚くなったのは、人の心が汚くなったからである。
人の心が汚くなったのは、戦後のアメリカ制のせいである。[物事には善い面と悪い面の両方がある。だから、アメリカ制にも善い面と悪い面があるのだ。アメリカ制の悪い面とは『エロ・グロ・ナンセンス』だ。]
宗教は政府が“お金儲け”をするための道具ではなく、そもそもは国民の心を善くするための手段だったのだ。
今の宗教は、反対に国民の心を悪くしているだけである。
心の汚い者が宗教を誤解して汚い宗教(つまり超能力者制度)をするから、ますます人の心が汚くなる。これでは悪循環だ。

人間が『正しさ』を大事にすれば、心は自然に綺麗になる。
宗教は昔の心理学だと思えばいい。宗教の聖典は、民族の心についての研究を集大成したものである。
政府は国民の心を正しく知り、国民の心に適[かな]った国を作ればいい。
そうすれば、国民にとって幸せな国になる。[あんまりガミガミやると鬱陶[うっとう]しくなるから、程ほどに。]
昔のような物語調の宗教でなくてもいいから、とにかくまず国民の心を正しく知ることから始めねばならない。

[7408] 宗教は、悩む者を救わない。 h21.5.28
宗教は正常者の心理学である。
だから、心が悩める者のための心理学ではない。
だから、宗教を精神病院の代わりに使うことは不適当である。
心が病気の者は素直に精神病院に行かねばならない。

[7409] 宗教とは何か? h21.5.28
宗教とは他人に哲学を考えてもらうことである。[アーサー=ショペンハウエルが、読書とは他人に考えてもらうことであると言ったのと同様である。]
ただ、他人が作った既製品であるので、自分の人生上の問題を解くのに役立つかどうかはわからない。
やはり、細かいことは自分で考えなければならないようである。
私の見たところでは、宗教に入っても大して役に立たないように思われるが、入って有害でもなさそうなので、入りたければ入ればいい。暇人[ひまじん]の遊びの一種かもしれない。
たしかに宗教は哲学だが、例えばキリスト教では先天知の世界にいる神にキリストという名前をつけているだけでキリストという思想家がいたわけではないから、高校の倫理社会でキリスト“の”思想と言って教えるのはやめてもらいたい。正確には、新約聖書を書いた人の思想である。[キリストの墓についての番組が毎年作られているのは、キリストが実在の人物ではないことを仄[ほの]めかしている。]

[7410] 人間はどのように生きるべきか? h21.5.29
人間は物の法則と心の法則の両方を満足しながら生きていかねばならない。
物について一般法則があるように、心についても一般法則がある。
民族としての心の共通性に着目して民族の心を満足させるためにできた会社が政府である。
だから、政府は、民族の心を満足する国を作らなければならない。例えば、昔日本政府が天皇を置いたのは、日本人みんなの心の世界に神がいたからである。
しかし、今の政府は宗教に対する誤解からできた私の超能力者制度をやって民族の心を満足する国を作ることを忘れている。
国民はもはや政府に頼ることができない。
だから、国民は自分自身で自分の心を満足させねばならない。
政府が仕事をしない分、国民の仕事が増えたわけだ。
今や政府は国民にとって要らない会社だ。
国民の人権(人類共通の心。つまり、自分が殺されたら嫌だ、自分の物を他人に盗られたら嫌だと思う気持ち)は今の政府とは別の会社に保障してもらわねばならない。例えば、お金は銀行に預ければ守ってもらえる。政府の要人が殺されるのは、要らない人間だからである。普通の人間は、よっぽど他人に恨[うら]まれないかぎり殺されることはない。他人に恨まれたら、法律があろうがなかろうが殺される。

[7411] 政府がこの世のすべてではない。 h21.5.29
政府が扱うのは、民族の心だけである。
この世には心だけではなく物がある。
だから、政府はこの世の半分しか支配していない。
それに、心についても各人の個性があるから、心の細かいことは自分自身で考えなければならない。
政府が支配しているのは、この世の半分の半分だけである。

[7412] 西洋音楽 h21.5.29
モーツアルトは、ヨーロッパ民族の心を音で描いた。
ラファエロは、ヨーロッパ民族の心を絵で描いた。
政府は、ヨーロッパ民族の心を物語で書いた。
西洋科学は、ヨーロッパ民族の心を科学の言葉で書いた。
いまや政府は、文化の一部である。
政府には国民が悪い心(例えば、性欲や麻薬欲や超能力者制度欲)を満足しないように見張る役目がある。
政府は国民を善い方向に導いて国民を幸福にする義務がある。

政府自身が超能力者制度をして悪い心を満足してはいけない。

[7413] 体育や音楽や美術の試験について h21.5.29
通常の学科は答案用紙で試験をする。
だから、生徒が悪い成績をとってもあまり恥をかかない。
しかし、体育や音楽や美術はみんなの前で試験をするから下手な人は恥をかく。
子供は特に恥を気にする。
だから、体育や音楽や美術の試験は先生が一人ずつ生徒を呼んでみんなに見えないところで試験をするべきである。

[7414] 戯画は事実ではない。 h21.5.29
今の政府は戯画を事実と思って悪事をやっている。
戯画は、悪い点を誇張して描いたものであって事実そのままではない。
つまり、戯画は冗談であって事実ではない。
しかし、心が汚い者が見ると戯画が事実に見えて、戯画を現実にやろうとする。それでも足りなければ、自分の頭の中に想像で戯画を描いてそれを実行しようとする。例えば、今の政府は、昔の政府が神がいるという嘘をついて国民を騙[だま]して国民をいじめたり財産を奪ったりしていたと思って、超能力者制度をやっている。
心が汚い者は事実と冗談が入れ替わっている。心が汚い者にとっては事実が冗談で冗談が事実なのだ。
今の政府は心が汚くて頭が馬鹿で文系理系両方の教養が足りない。
今の政府は自分が馬鹿すぎるせいで国民も馬鹿だと思っている。
政府には心の汚い者を入れてはならない。
今の政府は、まちがった超能力者制度を40年余りも続けている。だから、今後しばらくは政府に税金(国民が自分の心を政府に満足させてもらった礼金)を払わなくていい。

[7415] 超能力者制度は日本政府の発明? h21.5.29
原子爆弾を発明したのは、ヨーロッパの理論を応用したアメリカである。
超能力者制度を発明したのは、戦後アメリカに占領された後の日本政府である。
原子爆弾で大勢の人が死んだが、超能力者制度ではそれ以上の人が死んでいる。
超能力者制度はれっきとした武器だ。
だから、原子爆弾を作ってはいけないように、超能力者制度もやってはいけない。

[7416] 聖典とは何か? h21.5.29
聖典は、民族の心についての原論である。民族の心についての研究書である。[昔はまだ科学がなかったから、神話形式(文学形式)で記述されているのである。]
聖典は、民族の一般人の心理について書いてあるのであって、心の悩みがある者を救うための本ではない。だから、心が病気の人は宗教に入るよりも病院に入ったほうがいい。
聖典は本来は政府が読むべきものであって、国民が読むべきものではない。
聖典は、政府が民族(国民)の心を勉強して民族の心に適[かな]う国を作るために読むものであって、
国民が聖典を読んでも特に何もすることはない。

[7417] 見て書く文と考えて書く文 h21.5.30
巷[ちまた]には政府について意見を述べた文はたくさんある。
しかし、どれもこれもゴチャゴチャしていてすっきりはっきりと書いた文がない。
眼で見て書く文には論理がない。
頭で考えて書く文には論理がある。
見て書く文は、眼で見た印象だけで書いているので、まだ実体が見えていない。
眼で見た印象だけで書いてあるので正しさがないから論理性がないのである。
女が自分の裸を眼で見て綺麗と思うのと同じ目である。
自分の主観的な感情で書いているだけで、頭で考えて実体を見ようとしていない。
記述に論理性が出るぐらい考え深めなければ、正しくわかっているとはいえない。
いくら言葉数が多くても正しくなければ何にもならない。まちがいが多いだけだ。ただのゴミだ。
考える以上は『正しさ』を大事にしなければならない。それが人間というものだ。

[7418] アメリカ制の長所と短所 h21.5.30
アメリカ制の長所は、科学と、戦う心である。『スタートレック(宇宙大作戦)』は科学の味が出ていて面白かったし、『トムとジェリー』は喧嘩[けんか]のいいお手本になった。[『スタートレック』以外には科学の味がする文学はない。]
アメリカ制の短所は、『エロ・グロ・ナンセンス』である。戦後日本ではアメリカのギャングを真似て暴力団が作られた。
長所と短所は必ずしも組になるわけではないから、長所を伸ばして短所をなくすべきである。そうすれば、もっと面白くなる。

[7419] どうして日本で超能力者制度が始まったか? h21.5.30
日本政府は太平洋戦争後宗教をやめた。
宗教をやめた政府は、宗教をやっていた頃の政府について考えて、宗教とはいない神をいるという嘘をついて国民を騙[だま]して、国民をいじめたり国民から財産を奪うことだと考えた。
それで、昭和40年頃に、夜中に突然回りだしたガラガラの下にいた赤ん坊の私を嘘で神であることにして、私の超能力者制度を始めたのである。
だから、私の超能力者制度は宗教ではない。政府の宗教に対する誤解に基づく悪事である。
本来、宗教とは国民共通の心を表した物語を作って、その物語に沿った国を作ることによって、国民の心に適[かな]った国を作ることである。だから、国民は政府に協力したのである。つまり、宗教は科学と同じように合理的である。
戦後の政府は頭が悪い。だから、宗教を誤解した。[戦前の政治家が貧乏だったのは、それが日本人の心だからである。政治家は日本人の心の手本だから、乞食同然の貧乏暮らしだったのである。だから、戦前の政治家は偉かったのである。]
超能力者制度は、日本人の馬鹿さの象徴である。日本の恥だ。だから、政府は超能力者制度をやめねばならない。

[7420] 医者は変わり者 h21.5.30
医学は面白くない学問である。日本人の心にとっては頭で考えて書く文が面白く、医学のような眼で見て書いただけの文は面白くないからである。
医者は面白くない仕事である。日本人の心にとっては貧乏が面白く、医者のようなお金が儲かる仕事は面白くないからである。
医者は面白くないことをやりたがる変わり者なので、それで面白くない眼で見た言葉ばかりの医学を勉強するし、不愉快な病人と毎日顔を会わせる仕事をするし、お金が儲かる仕事をするのである。
要するに、日本人は知的な民族なのだ。それが日本人の心だ。

[7421] 神武天皇の話について h21.5.30
古事記の神武天皇の話は、要点だけをギュッと絞[しぼ]って簡潔に書いてある。余計な言葉の修飾がない。客観的な事実を並べるだけで、あまり感情的な表現がない。話が抽象的であって、具体的ではない。話が単純明快であって、曖昧模糊ではない。
神武天皇自身はどうでもいい。古事記の記述の仕方(文体)に日本人の心が表れている。
それなのに、神道の信者の丸顔のデブは神武天皇に土下座[どげざ]しろとばかり言う。信者は馬鹿だ。お経読みのお経知らずだ。たしかに先天知の世界にいる神は空の上にいて人間を見張っているので人間よりも上の者だが[私が小学1〜2年生頃に自分の内界で見た神様は空に一人しかいなかった]、その神のキャラクターを借りて作った神武天皇は人間と同じように地面の上を歩いているので人間よりも上の者ではない。神武天皇は『ウルトラマン』の着ぐるみのように神のキャラクターを被[かぶ]っているだけで、中身は人間である。だから、人間よりも上の者ではない神武天皇に土下座する必要はない。先天知の世界にいる神は空の上にいて人間を見張っている“正しい”者だから、神武天皇に人間の“正しい”心を説かせるために、神武天皇に神のキャラクターを被[かぶ]せたと考えればいい。[信者の馬鹿に理屈を言っても無駄か?最後に神武天皇が日本の王になったのは、日本人の“実力で出世して偉くなりたい”という気持ちの表れである。架空の人を偉いと言っても仕方がない。/江戸時代の学者である本居宣長[もとおりのりなが]が古事記を評して『物の哀れを知る心』と言ったのは、当時は徳川制だったために天皇家を弱々しく言わなければならなかったからである。日本に春夏秋冬の季節の移り変わりがあるように、日本が天皇家から徳川家の時代に変わったことを言わなければならなかったからである。要するに、徳川家に対するお世辞[せじ]である。そんなことに、本居宣長は35年もかけたのである。つまり、本居宣長はインチキ学者である。(時代はだんだん正しい方向に動いているから、結局インチキは最後にはバレてしまう。もっとも、本人はすでに死んでしまっているから感じないが、汚名を着せられるのは確実である。大学の文学部の学者は本居宣長みたいな連中ばっかりなのだろうか?)それと同じように、今は真実が第一に通用する科学の時代だから、政府がまちがった超能力者制度をやることは禁止される。]

[7422] 宗教はなぜ正しいか?☆☆ h21.5.30
宗教とは、人間の先天知を言葉で書くことである。

宗教が正しいのは、先天知の正しい者が自然選択によって高い確率で生き残るからである。【宗教論の基本定理】

しかし、今は後天知の時代なので、たとえ先天知がまちがっていても、学校でよく勉強して後天知が正しければ高い確率で生き残ることができるので、今では上の宗教が正しい理屈が成り立たない。
だから、世界中に学校が普及した現代では、もはや宗教は正しいとはいえないのだ。
今や人間は後天知に頼って生きていくしかないのである。
たしかに、心は汚くてもいい。しかし、今は科学の時代だから、心が汚くなった分、頭は正しくなければならない。だから、やはり私の超能力者制度をやってはならない。

[7423] 心は自由である。☆ h21.5.31
現代では、心は国民の自由である。[国民は、自分で自分の心を満足しながら好き勝手に生きて行けばいい。]
しかし、心がなくなったわけではない。
いくら心が自由であるといっても、心がどうにでもなるわけではない。心には心自体の法則がある。[若いうちはわからないかもしれないが、歳を取ればだんだんわかってくる。]
だから、国に『心についての法則』を取り締まる機関があると国民にとっては都合がいい。例えば、麻薬欲や性欲やその他の非行欲を取り締まり、国民が地獄に陥[おちい]るのを防ぎ、国民を天国に導く機関があればいい。
心についての法則は正しくなければならないから、一般に『正しさを取り締まる機関』であると言ってもいい。
つまり、国に『正しさを取り締まる機関』があればいい。かつてのヨーロッパの教会のように、心理についての正しさだけではなく、物理についての正しさも取り締まる機関があればいい。
『正しさを取り締まる機関』自身が超能力者制度のようなまちがったことをやってはならない。
宗教は、「政府が国民にいない神をいるといって嘘をついて騙[だま]すこと」ではなく、「国民共通の心を物語にしてその物語に沿った国を作ることによって国民共通の心に適[かな]った国を作ること」である。[⇔星が動いて見えるのは、「天が動いている」からではなく、「地球が動いている」からである。]
[政府がまったく何もなくて私を超能力者としたのなら真っ赤な嘘であるが、政府は私の母が夜中に突然ガラガラが回るのを見たことで私を超能力者だとしたのだからピンクの嘘である。だから、テレビ番組では、ピンクとか桃色とかの言葉がよく使われるのだ。]

[7424] 日本とアメリカの国旗 h21.5.31
日本の国旗は太陽を表している。
それは昔日本が太陽が昇る所にある国だと考えられたからである。
しかし、ヨーロッパや中国から見て日本が太陽が昇る所にある国だというのはわかるが、日本から見て日本自身を太陽が昇る国だというのはおかしい。日本でも、やはり太陽は東から昇るからである。
反対に、アメリカの国旗に星があるのは、アメリカが夜の国だからである。[だから、アメリカにバットマンがいるのだ。日本に月光仮面が現れたのも、当時の日本がアメリカに占領されていたからである。]
アメリカは夜の国だから、ダークな薄汚いイメージがある。
アメリカの国旗に横縞[よこしま]が入っているのは、アメリカが邪[よこしま]な国だからである。アメリカの国旗には、赤と白の横縞が入っている。白は潔白というように正直の色で、赤は真っ赤な嘘というように嘘つきの色である。アメリカの国旗は赤と白が段だらに入り混じっているから、赤でも白でもない、赤か白かがわからないはっきりしない曖昧な国なのだ。
 アメリカは金と物の国である。一方、日本は心と言葉の国である。日本がいくらアメリカを真似ても日本人がアメリカ人になれるわけではない。日本がアメリカの真似をしても日本人が幸福になれるわけではない。戦後しばらくは日本はアメリカに占領されていたが、今は日本はアメリカから独立している。だから、日本はいいかげんでアメリカの真似をやめるべきである。
いくら日本が戦争でアメリカに負けたからといって、日本がアメリカの真似をすることはない。日本人は自分の戦う心を満足するために戦争したのであって、戦争に勝つために戦争したのではないからである。日本人はアメリカ人のように他人と勝負して勝つことが喜びなのではない。水戸黄門が『吾唯知足』[われただたるをしる]と言ったように、日本人はみだりに自分と他人を比較しない。日本人はたとえ自分が下手であっても、自分が楽しければそれで満足である。他人と競争して勝つことを喜びとする者は、最後にはカンニングばかりするようになって終わる。つまり、実力よりも嘘つきでNo.1になる。

[7425] 政府は自説が正しいと思っていない。 h21.5.31
政府は、宗教とは政府がいない神がいるという嘘をついて国民を騙すことだと考えている。
聖典を見るかぎり、神とは超能力者のことである。
政府は、まず超能力者が本当に現れたと思っていない。科学的に考えて、人間と外見が同じ者が人間と違う能力を使えるわけがないからである。
それなら、昔の政府が超能力者がいるという嘘をついたことになるが、そんな単純な嘘で騙[だま]されるほど国民が愚かだというのもうそ臭い。第一、国民は超能力者の話を聞いただけで超能力者を直[じか]に眼で見たわけではない。それで騙せるなら、どんな嘘でも通用しそうなのに、いつまでも聖典の物語だけに縛られているのはおかしい。
近代のヨーロッパで王制が潰れたのは、政府による聖典の嘘の解釈がいけないということの証拠である。[近代ヨーロッパで王制が始まったのは、今の政府が私の超能力者制度を始めたのと同じ理由であると考えられる。つまり、政府が宗教を嘘をついて国民を騙すことだと考えたからである。私の超能力者制度は、近代ヨーロッパにおけるキリストが王であるという嘘を、私が神であるという嘘に置き換えただけである。近頃の政府は言葉で言ってもわからないから、フランス革命のような暴動によらねばならなかったのかもしれない。]
だから、政府の説はまちがっている。
政府自身も自分の説に自信がない。
だから、政府は建前の民主主義の政治の裏に隠れてコソコソと私の超能力者制度をやっていたのである。

[7425] どうして日本で宗教が始まったか? h21.5.31
明治時代に、日本がヨーロッパから科学を取り入れたように、
古墳時代(A.D.300年頃)に、日本がヨーロッパから宗教を取り入れたのである。
当時は、日本政府が宗教が国の発展のために役に立つと考えて、宗教をヨーロッパから輸入して、和洋折衷して、キリストの話を神武天皇の話に作り変えて天皇制を始めたのである。[神武天皇がB.C.711年の生まれなのは、モーゼとキリストの誕生日を足して2で割ったからである。]
その後約1000年間は、日本政府は宗教で国を治めてきた。
明治維新になって、日本はヨーロッパから新しく科学を取り入れて、宗教と科学の二本立てで国を治めるようになった。
太平洋戦争以後は、日本は科学だけで国を治めるようになるはずだったが、その代わりに超能力者制度をやり始めた。
これでは、近代科学が始まった頃にヨーロッパの政府がキリストを王だという嘘をついて王制を始めたのと同じである。近代ヨーロッパの王制の二の舞である。
そもそも科学と宗教は方法が違うだけで、真理を求める心は同じである。
宗教よりも科学が正しければ、宗教は科学に座を譲[ゆず]らなければならない。
人間の心は宗教だけが捉[とら]えられるのではない。人間の心は、科学的にも捉えることができる。
だから、国民共通の心は現代では科学的に知るようにしなければならない。
政府は、宗教が科学に破れたことでいつまでも落ち込んでいないで、いいかげんに頭を冷やして冷静にならなければならない。
政府は、科学的に正確に捉えた国民共通の心を満足する国を作らなければならない。そうすれば、国民は、以前よりももっと幸福になることができるはずである。政府が“いい仕事”をすれば、国民も政府を偉いと思って尊敬するはずである。

[7426] 神とは何か? h21.6.1
聖典を見るかぎり、神とは超能力者のことである。
しかし、そもそも神とは、人間の先天知の世界にいる、空の上で人間を見張っている、人間と同じ形をした空気のように透明な“変な生き物”のことである。
聖典の言葉だけによると、神の意味を超能力者だと誤解してしまう。
だから、アプリオリ(無前提)に聖典の言葉だけによって読んではいけない。聖典を読むためには、あらかじめある程度の予備知識が要求される。
今年始めにテレビで放送した『歴史冒険ミステリー 世界のピラミッド徹底解剖!!人類史上最大の謎を解けSP!』の中で、吉村作治教授がピラミッドを作った当時のエジプト人の死生観からエジプトのピラミッドを『魂の再生復活装置』と考えたように、聖典を読むためには、背景にある当時の人の思想を知ってからにしないといけない。

[7427] 宗教とは何か? h21.6.1
宗教とは、民族の心理学である。
宗教の聖典には、民族の心理が記されている。
だから、宗教をやることは、民族の心理を学ぶことである。
科学が物理についての真理であるように、宗教は心理についての真理である。[だから、昔の教会では天動説とキリスト教をセットで教えていたのである。今の学校で理科と国語を教えているようなものである。つまり、宗教は今の“国語の授業”の代わりである。]
科学と同じように宗教は真理なのである。
ただし、宗教は古い時代に書かれた心理学である。
今の科学時代の知識で読んでも、聖典に何が書いてあるのかわからない。
エジプトのピラミッドが何のために作られたのかがわかるためには、まず当時のエジプト人の思想を理解しなければならないように、聖典を読むときには、当時の人々の思想を学んでからにしなければならない。[私が九州大学の医学部生だった頃、解剖学第1講座の山本寅男[やまもととらお]教授が「どうして、個体発生が系統発生を繰り返す(エルンスト・ヘッケルの法則)のかがわからない」と言った。つまり、人類の進化は人間の進化と同じである。だから、私は昔の人類の思想の代わりに自分が小学1〜2年生の頃の思想を用いたのである。]

[7428] 浦島太郎 h21.6.1
今の科学時代の知識で浦島太郎の話を読むと、奈良時代の日本人に相対性理論を理解している者がいたことになる。相対性原理による時間の遅れをおとぎ話の形で表したのが『浦島太郎』ということになる。
しかし、宗教の知識で読むと、神武天皇の神制度を上手に宣伝した(→カメを助けた)田舎の少年が出世して政府(→竜宮城)に入ったが、仕事が事務職で楽なので(→タイやヒラメの舞い踊り=事務職、魚は平たいので紙の喩え)普通の人よりも長生きした(→浦島太郎が竜宮城から帰ってみると知った人がいなくなっていた)。ただし、政府の人が古事記(→玉手箱)の神武天皇の話を詳しく国民に教える(→玉手箱を開ける)と政府は滅んでしまうだろう(→白髪[しらが]の老人になって死ぬ)という話である。つまり、政府が神武天皇に関する嘘をついてインチキをやって儲けているという話である。
浦島太郎の話は、本来浦島太郎が竜宮城から故郷の村に帰るまでの話である。玉手箱のエピソードは後世新たに付け加わった話である。
玉手箱の話が付け加わったのは、万葉集が出来た759年(奈良時代)の頃で、政府が天皇を置いた頃(300年頃)からずいぶん時間が経っている。
神武天皇の神制度を助けると出世して政府に入って楽な仕事ができるのはいいとしても、政府のやっていることが神武天皇の話と食い違っているのはおかしいと考えた当時の民間の知識人が、玉手箱の話のオチを付け加えたのだろう。
しかし、今では古事記の神武天皇の話が誰でも本で読めるから、政府の仕事が神武天皇の話と合っているかいないかがチェックできるので、政府はインチキができなくなっている。
だから、最近政府は神武天皇の神制度をやめて、本がない私の超能力者制度に変えたのである。
しかし、詳しい話がわからない神武天皇の神制度にせよ本がない私の超能力者制度にせよ、そもそもそれらは政府による宗教に対する誤解すなわち宗教を政府がいない神をいるといって嘘をついて国民を騙して儲けることと考えたことによるのであるから、政府がいけない。
宗教は政府と国民が一体となって、政府と国民が協力していっしょになってやるものである。だから、政府だけで宗教の意味を勝手に変えてまちがった宗教をやってはいけない。
今の国民も、今の政府のやっていることが民主主義の政治と食い違っていることにもっと早く気付かねばならなかったのだ。
今は科学の時代だから、国民はまちがいに関してはうるさいから、政府は宗教を誤解してまちがったことをやってはならない。

[7429] 国民にとって政府は道具である。 h21.6.2
政府は、国民の心を満足する国を作る会社である。
国民が政府に、国民の心を満足する国を作れと命令をしているのである。
聖典は、政府がきちんと仕事をしているかどうかチェックするための物差しである。
国民が政府に命令をして聖典を書かせたのである。
政府が国民の心を満足する国を作った仕事代として税金を払っているのである。
だから、政府が国民の心を満足する仕事をしていなければ、国民は政府に仕事代を払う必要はない。

[7430] 宗教は嘘をつくことではない。 h21.6.2
宗教は、国民にとっての正しい心を物語にしてその物語に沿った国を作ることによって、国民の心を満足する国を作ることである。
だから、神とは国民にとっての正しい心を持った者のことである。正しい心を持った架空の理想の人物のことである。
先天知の世界にいる本来の神は空の上にいて人間を見張っている人間よりも上の者だが、宗教の物語の中の神は人間と同じ者である。神は呼び名にすぎず、実質的には人間である。
例えば、日本人にとっての神は乞食である。物は貧乏だが心は豊かな者である。ところが、奈良時代から室町時代にかけては、政府が貴族の生活をして贅沢[ぜいたく]に暮らしていた。だから、政府は神武天皇の心に背[そむ]いて暮らしていたのだ。だから、奈良時代の『浦島太郎』の作者が今の政府はなってないと思って、玉手箱の話を付け加えたのである。タイやヒラメの舞い踊りは、お金(←平たいから魚の喩え)を湯水のように使って遊ぶことかもしれない。[浦島太郎の歌は1911年(明治44年)の作である。だから、タイやヒラメの舞い踊りは国家公務員の事務職のことだろう。]
宗教の聖典に出て来る神は国民にとっての理想の生き方をしている人物のことであって、空の上にいる神様のことではない。知識人は正しくそのことを理解していたが、阿呆[あほう]な庶民は空の上にいる神様のことだと思っていたので、政府が人間よりも上の者であるかのように贅沢な暮らしをしていても文句を言わなかったのだ。

[7431] 『神は死んだ』 h21.6.2
神は死んだとは、先天知の世界が後天知の世界よりも正しくはないことがわかったという意味である。
それぐらいのことだったら、紀元前の人間でも知っていた。宗教の神が空の上にいる神様ではなくて、国民の正しい心を持った理想の人物であるのがその証拠である。だから、宗教の神の超能力についても物として見てはならず、心で見なければならない。つまり、宗教の神の超能力は、人を救いたいとか戦いに勝ちたいとかいった現実の中ではどうしようもない神の気持ちをヤケクソで形にしただけであって、実際にあんなことがやれる者がいたわけではない。[ナガスネヒコとの2度目の戦いにおいて、地の利の効かない神武天皇の軍は苦戦を強いられ、最後には神武天皇を含め十余名しか生き残らなかった。それに対し、何千何万の兵士からなるナガスネヒコの軍は神武天皇の軍を四方八方から取り囲み、神武天皇の軍をついに小高い丘の上に追い詰めた。そんな絶体絶命の状況の中で神武天皇の軍は勝たねばならなかったのだ。要するに、日本人は楽天的だということである。あるいは、この世には人間の常識を超えた物が存在する、実在の世界は人間の知覚を超えているという日本人の世界観を表したものである。神武天皇の“光の玉”は文学者が好んで題材にするが、“丸くて光る物がある”という見方は眼先的すぎて、真[しん]に日本的とは言い難[がた]い。日本人が物がないのに心が満たされている乞食[こじき]であり、古事記のタイトルが古事記だから、日本人は駄洒落[だじゃれ]が好きとされているがそれはまちがっている。たしかに古事記の本の表紙のタイトルは古事記だが、古事記の本編には駄洒落が一切使われていないから、日本人は駄洒落を“見え透いたもの”と軽蔑していて、本当は日本人は駄洒落が嫌いなのである。だから、神武天皇の光の玉を文学に使うのは、私の目から見ると馬鹿げたくだらない行為であると思われる。光の玉があることよりも、客観的で明晰判明に書かれていることが日本文学にとっては大事である。つまり、字面[じづら]よりも認識の質が大事なのだ。]
神が死んだとは、空の上にいて人間を見張っている神様がいないということであって、国民にとっての理想の生き方をしている人物がいないという意味ではない。つまり、宗教の聖典に出て来る神が死んだわけではない。
モーゼが民族の指導者であるのに対して、キリストは町内会の会長である。神武天皇は田舎出身の一兵士である。時代を経る毎[ごと]に、神は人間化して行ったのだ。
つまり、神が死んだとは科学的な意味での神がいないということであって、宗教的な意味で神がいないということではない。もっとも、政府にとっての都合のいい神は死んだかもしれないが。


[7432] 戦前の華族について h21.6.2
日本では戦前は華族がいた。
華族は、政府が国民に神を人間よりも上の者に思わせるために置いたのである。[しかし、教養のある者は、神をそんな目で見ないから、予算の無駄使いである。]
政府のほとんどの者は、乞食暮らしをしていた。
華族は芝居であって、実際にはその他の政府も国民もみんな貧乏暮らしだったのだ。その証拠が国会議事堂のボロい建物である。
今の政府が贅沢[ぜいたく]な暮らしをしているのは、戦後のアメリカ制の影響である。
今の日本はアメリカから独立しているし、日本人がアメリカ人の真似をしたって、日本人が幸福になれるわけではないから、いいかげんで政府はアメリカの真似をするのをやめるべきである。

[7433] 宗教とは何か?神とは何か?《まとめ》☆☆ h21.6.2

宗教とは、政府が国民の心を物語にして、その物語に沿った国を作ることによって、国民の心を満足させることである。【宗教の原理】
神とは、その物語に出て来る主人公のことであって、国民の心の代表者である。【宗教における神の定義】

神は、先天知の世界にいる空の上で人間を見張っている人間よりも上の者のことではないし、後天知の世界にいる人間にはできない不思議なことができる超能力者(ただし、いまのところ未発見)のことでもない。
以上のことがわかっていない者は、教養の足りない野蛮人である。

[7434] 本当に神がいたらどうするか? h21.6.2
ここでの神とは、人間の先天知の世界にいる空の上にいて人間をいつも見張っている人間よりも上の者のことである。
いまのところは、神はまだ発見されていない。
近代科学が始まってから、約300年が経過するが、これまで神がひとりも見つかっていないところを見ると、ひとまず神はいないと考えてよさそうである。
そこで、私は『神は存在しない』と割り切って決めることにする。
これを自然科学の法則のひとつと考えることにする。
しかし、将来ひょっとして神が発見されることがあるかもしれない。
その時は、神に懇[ねんご]ろに謝[あやま]ることにすれば、寛大な神は愚かな人間の過[あやま]ちをきっと許してくれるにちがいない。

[7435] どうして私の両親は政府の命令を聞いたのか? h21.6.3
私の両親は私が小さい頃から、私に不自然なちょっかいを出してきた。1年に1〜2回ぐらいの頻度でちょっかいを出してきた。
私の両親が政府の指示に従ったのは、私の両親が学[がく]がなくて宗教が何であるのか知らないからである。
もしも、私の両親が宗教や神が何であるのか知っていたなら[[7433]参照]、政府の指示は宗教の定義に背[そむ]いているので、政府の命令に従わなかっただろう。
それと同様に、民間企業が政府の命令に従っているのは、民間企業が宗教や神が何であるのか知らないからである。
宗教では、まず最初に政府が国民の心を表した物語を作って、次にその物語を国民に公表して、それからその物語に沿った具体的な命令を国民に出すはずである。聖書の冒頭にも『はじめに言葉ありき。』と記されているから、はじめに物語があるはずである。[聖書にある『はじめに言葉ありき。』の言葉とは人間が生まれつき持っている先天知のことを意味していると考えられるが、宗教の物語は国民共通の心つまり先天知から作られるので結局同じことである。]
だから、政府が物語を作って公表する前に、政府が国民に宗教で命令を出すはずがない。
また、神とは、その物語の架空の主人公のことだから、私のような生きた人間が神であるわけがない。
だから、国民が宗教や神について正しく理解していれば、これまでの政府の命令に従わなかったはずである。
一方、私がこれまで政府の命令に従わなかったのは、私に対して直接に制府の命令が出たことがなかったことと、私が理由がはっきりわからないことには従わない性格だからである。私自身も最近まで宗教や神について理解していなかったから、それまでの間は行動しなかったのである。
今後も政府が嘘をついて国民を騙[だま]そうとするのをやめなければ、国民が政府の嘘やまちがいに従わないようにするしかない。もしかしたら政府は故意に嘘をついているのではなく純粋にまちがっているのかもしれないから、国民が政府の嘘やまちがいに従わないことは、むしろ国民の政府に対する親切といったほうがいい。

[7436] 日本はアメリカ制にする必要はない。 h21.6.3
太平洋戦争で日本がアメリカに負けたのは、第二次世界大戦が『神が死んだ』ことによって始めた戦争だからである。第二次世界大戦は『神が死んだ』から神に従う人間も死ななければならないと思って世界中の政府が組んで始めた戦争だったのである。[ただし、ここでの神とは、人間の先天知の世界にいる空の上から人間を見張っている人間よりも上の者のことであって、宗教の聖典の物語に登場する国民の心の代表者のことではない。しかし、そんな神ならとっくの昔の紀元前にすでに死んでいるのであって、政府が20世紀に入ってわざわざ世界大戦をするまでもない。だから、第一次・第二次世界大戦は政府の勘違いによって起こった戦争だったのである。哲学的には個人主義によって以前に比べて宗教が多少弱まったが、それでも神(国民の心の代表者)が死ぬほどではない。国民共通の心があるかぎり神は不滅である。『神は死んだ』はニーチェが言い出した言葉だが、ニーチェの言う神とは宗教の神のことであり、宗教の神は民族の心の代表者なのだから、民族の心があるかぎり神は死んだりはしない。だから、そもそもはニーチェがまちがっていたのだ。]
日本が負けないと『神が死んだ』ことにならないから、日本は最初から負けに決まっていたのである。第二次世界大戦は、最初から日本が負けるシナリオに沿って演じたお芝居だったので、日本が負けたのである。
日本は宗教の強い国で、アメリカは科学の強い国だから、日本はアメリカに負けなければならなかったのである。
ヨーロッパでも、ドイツやイタリアなど宗教の強い国が負けた。[ドイツはプロテスタントの国、イタリアはカトリックの国である。]
だから、日本が戦争でアメリカに負けたからといって、アメリカが日本よりも思想が正しいわけではないから、日本がアメリカ制にする必要はない。日本は日本制にすればよいのである。日本は古事記の神武天皇の話のようにすればよいのである。

[7437] どうしてヨーロッパで科学が誕生したのか? h21.6.3
ルネ=デカルトは、宗教の蓋然的[がいぜんてき]な推論が嫌いだった。
宗教が蓋然的な推論なのは、聖書の記述が蓋然的だからである。
デカルトは、宗教が嫌いだったから、そのぶん熱心に科学を研究したのである。
ガリレオもニュートンも宗教が嫌いだったから、科学ばっかり研究したのである。
だから、ヨーロッパで近代科学が誕生したのである。
一方、日本では、古事記の神武天皇の話が比較的客観的に明晰判明に書かれている。
だから、日本では宗教が嫌いな人があまりいなかった。
だから、日本ではみんなが宗教が好きだったので、科学が誕生しなかったのである。
古事記の神武天皇の話が論理的なので、日本では宗教も科学も同じ心でやることができる。
日本人にとっては、物を見る目も心を見る目も同じなのである。

[7438] 古事記の神武天皇の話はどうやってできたか? h21.6.3
まず、日本のおとぎ話の中から、日本人の心をよく表していると思われるものをいくつか選ぶ。
次に、それらのおとぎ話を組み合わせて、ひとつの話にする。
できあがり。
私が小学4年生の頃に読んだ『日本の神話』の絵本には神武天皇の話はなくて、他の話が載っていた。
『いなばのしろうさぎ』は、オオクニヌシノミコトが優しいが、もともとはうさぎが嘘をついたのがいけないから、ちょっと甘すぎる。
『海幸山幸』は、兄が意地悪で、弟がいい人で、長男の私も子供の頃に読んでいて違和感があった。[長男は親に甘やかされて育てられているから他の兄弟に比べてわがままなのである。]ただ、海の水が“どうして”塩辛いかということを考えた世界最初の話ではある。神武天皇の話の中の兄猾・弟猾[えうかし・おうかし]の話に雰囲気が似ている。
『やまたのおろち』は、力の強いスサノオノミコトが頭のいい人(←ヤマタノオロチ。ヘビは頭がいい人の喩え。)を酒で酔わせて倒す話だから、陰険である。でも、この話は酒で酔わせて倒すオチが面白いので神武天皇の話の中の土蜘蛛[つちぐも]の話に取り入れられている。
神武天皇が岡山で出会って部下にした、亀の背中に乗った椎根津彦[しいねつひこ]は、明らかに浦島太郎である。[ここまで来ると、もはやギャグである。]
つまり、古事記の神武天皇の話は日本の神話や昔話の面白い部分をまとめて作っているのだ。
だから、神武天皇という人は実在の人ではないのである。
神武天皇は日本の支配者というより、おとぎ話の世界の支配者なのである。神武天皇は日本のおとぎ話の世界の王様なのである。

[7439] 法律について h21.6.3
法律は、科学的に書いた国民の心である。
法律の書き方は、ユークリッドの幾何学原論やニュートンのプリンケピア(自然哲学の数学的原理)に似ている。
一方、神武天皇の物語は文学的に書いた国民の心である。
だから、法律と神武天皇の物語は同じものである。
昔は科学がまだなかったから、文学的に書くしかなかったから、法律が神武天皇のおとぎ話のようになったのだ。
科学は文学よりも書き方が正確だから、法律があれば神武天皇の物語は要らない。だから、今では法律だけあればいいのである。天皇制は神武天皇の物語制でやっていた制度だから、天皇制はもはや用がない。
だから、昔の日本では、神武天皇の話を知っていれば、政府のしていることが神武天皇の話に適[かな]っているかどうかがわかったのである。奈良時代や室町時代の政府が貴族制をして贅沢[ぜいたく]な暮らしをしていたのは、神を人間よりも上の者と誤解していた“阿呆[あほう]な庶民”がいたせいであり、神武天皇の話には贅沢な暮らしをする話が出てこないから、貴族制は神武天皇の話に適っていないまちがった制度だとわかる。
それと同じように、今の日本では、日本の法律を知っていれば、今の政府のしていることが日本の法律に適っているかどうかもわかる。今の政府のしていることは、私の超能力者制度やアメリカ制でやっているから、民主主義を謳[うた]った日本の法律に適っていない。今の政府が私の超能力者制度やアメリカ制をしているのは、社会科の教科書やテレビや新聞の政治記事を鵜呑み[うのみ]にして自分の眼で見て考えない“阿呆な庶民”がいるせいである。だから、今の政府もまちがっているのだ。[私の超能力者制度は、政府が宗教を国民に嘘をついて儲けることだと考えて始めた制度である。要するに、嘘つき制である。だから、私は超能力者でもないのに、神なのである。政府は、「この世には超能力者がいて超能力者は神であり人間よりも上の者である」と考えている“阿呆な庶民”がいることを利用して、それに便乗して“阿呆な庶民”を騙して儲けているのである。つまり、政府は、昔も今も“阿呆な庶民”の宗教に対する誤解を利用して儲けているのだ。政府は、キリストや神武天皇や私などの神が人間よりも上の者であるという“阿呆な庶民”の誤解に便乗して儲けているのだ。宗教の神は架空の物語に登場する国民の心の代表者だし、超能力者制度の神は政府が嘘で超能力者にしただけのただの人間であって、人間の先天知の世界に住んでいる空の上にいて人間を見張っている人間よりも上の者の神ではない。神にもいろんな意味があるから、それらを混同してはいけない。
つまり、昔も今も、政府は頭の悪い“阿呆な庶民”の誤解を利用してそれに便乗して私腹を肥やしているのである。だから、国民はどうせ自分は生まれつき頭が悪いから馬鹿のままでいいなどと開き直らずに、一生懸命勉強して自分の誤解をなくすように努[つと]めるべきである。

[7440] オバケについて h21.6.3
人間には生まれつき与えられた本能的な知識がある。それが先天知である。
例えば、心は先天知の一部である。誰でも、子供の頃は、自分の心によって生きている。
しかし、心以外にも先天知がある。
例えば、神は、知覚における先天知である。
私は小学1〜2年生の頃、学校の休み時間に外で遊んでいる時、空の上に神様がいるような気がした。
オバケも、知覚における先天知である。
私は小学生の頃、オバケが恐かった。心霊写真を見ては、震え慄[おのの]いていた。
しかし、先天知は後天知ほど正しくはない。人間の後天的な知識は先天的な知識を上回る。
歳を取るにつれて、私は空を見ても神様が見えなくなった。
私が28歳の頃、人間の霊魂が存在しない証明をしてからは、もはや心霊写真はただのトリック写真にしか見えなくなった。[空飛ぶ円盤は、神武天皇の神制度の宣伝のためにやっているだけである。]
しかし、奇形児は今でも恐い。私は子供の頃から奇形児がいることを知っていたが、医学部で発生学を習ってからはますますいると信じるようになった。幸い今のところ、実物を見たことはない。大人になって子供の頃より少しは慣れたが、それでも恐い。今でも、自分からは極力見ないようにしている。

[7441] アメリカ制 h21.6.3
私が子供の頃は、高知市朝倉若草町県営住宅23号に住んでいたが、家の近くには国立病院があった。
私が風邪にかかったときなどにときどき国立病院に行くことがあった。
国立病院では、廊下で診察を待っていたが、廊下のところどころにはホルマリン漬けの標本が飾ってあった。
胃癌や肺癌の大きな標本があったし、ヤヌース体の標本もあったように思うが、子供の頃の私には見ても何のことだかわからなかった。
それらは、戦後のアメリカ制でやっていたのである。アメリカ制は『エロ・グロ・ナンセンス』だから、国立病院ではグロい標本を人目につくところに飾ってあったのである。
アメリカ制はお金と物にしか価値を認めない馬鹿好みの制度である。最近の日本人が言葉で考える癖のない眼で見るだけの馬鹿になったのはアメリカ制のせいである。だから、日本はアメリカ制をやめるべきである。

[7442] 日航機123便墜落事故 h21.6.3
日航機123便墜落事故は、私が九州大学医学部教養部2回生の頃に起きた事故である。
神武天皇や私が人間よりも上の者だと信じる阿呆な庶民のパイロットが、500名余りの大勢の乗客を犠牲にした痛ましい事件である。
墜落したジャンボジェット機は日本の喩えである。パイロットは政府と阿呆な庶民の喩えであり、乗客はその他の健全な国民の喩えである。
日本を政府と阿呆な庶民が操縦すると、政府ともども日本人全員が殺されるという警告である。

[7443] 麻雀の面白さ h21.6.3
麻雀は、次にどんな牌が来るかわからないところが面白いのである。
人間は、自分がわからないことに対して自分に都合がいいことを考えて“喜び”を得る習性がある。
確率ゲームの“面白さ”はそこにあるのだ。
人間はその“面白さ”を求めて確率ゲームをするのである。
宝くじについても、当たることを期待して待っている間が楽しいのである。
だから、宝くじはなるべく早く買って長く楽しんだほうがいい。

[7444] 日本国憲法の欠点 h21.6.4
現在の日本国憲法は万国共通の憲法であって、日本人の心の個性が盛り込まれていない。
民主主義の議会制は細かいことを決めるためにあるのであって、神武天皇の物語のような原則的なことを決めるのではない。
だから、神武天皇の物語に代わる日本人の心の個性を反映する法則を日本国憲法に盛り込んだほうがよい。
今の日本国憲法の第1章にある天皇制では、天皇が人間よりも上の者とされているが、それは原始信仰の神(つまり、先天知の世界にいる神)と宗教の神を混同した誤解である。
天皇(神武天皇)は日本人の心の代表者であって、けっして人間よりも上の者ではない。[日本人の心の代表者とは、日本人の心の特性(特徴)を最もよく表した者であって、そのためには実在しない架空の人物であってもいいのである。]
今の国会は、戦前のように自分達の判断の基準となる神武天皇の物語がなくて、自分達が基づくものがない不安定な状態である。だからアメリカ制によったり、私の個人情報によったりすることになるのである。
日本国憲法序文には国民の自由が高々と謳[うた]われているが、自由自由といわれても、それだけでは無意味であって何のことだかわからない。
だから、早急に、神武天皇の物語に代わる日本人の心の個性を表す科学的命題を箇条書きにして決める必要がある。それをつねに国民に公表して是非を問う義務がある。日本人の心の個性を表す命題とは、例えば、日本人は知覚と言葉の民族であって、眼と物(お金)の民族ではないことである。そういう命題がなければ、そのうち日本民族は滅んでしまうかもしれない。

[7445] 日本人の世界観 h21.6.4

私の子供の頃の世界観とは、先天知の世界観のことである。
しかし、日本人は、先天知を後天知よりも重んじたりはしない。
日本人は客観的だから、後天知が先天知よりも正しいことは百も承知である。後天知とは知覚であり、先天知とは心と五感だから、つまり知覚が心や五感よりも正しいことを知っている。
とくに現代では、日本人もへったくれもない。
日本性にこだわるよりも、まず正しさにこだわらなければならない。
日本人らしさが正しさを否定するなら、むしろ正しさが日本人らしさを否定しなければならない。
それが、日本人というものだ。

[7446] 思春期は相転移現象 h21.6.4
誰でも子供の頃は、心と五感が中心の先天知の世界観である。
しかし、大人になると、知覚中心の後天知の世界観になる。
思春期は、先天知の世界観から後天知の世界観に認識界の構造が大きく変わる時期である。
だから、思春期は心理的に不安定なのである。

[7447] なぜイスラム教は文明国では人気がないのか? h21.6.4
イスラム教では、神のモハメットが聖典のコーランを書いたとされている。
しかし、そもそも宗教における神とは、国民の心の代表者の架空の人物であるから、架空の人物が本を書けるわけがない。本の中にいる人が本を書けるはずがない。
イスラム教は宗教の節度を踏[ふ]まえておらず、悪ノリのしすぎである。
だから、文明国では嘘臭いイスラム教を嫌うのだ。

[7448] なぜマニ教が滅んだのか? h21.6.4
かつて、中世のヨーロッパやアフリカや中国には世界中の宗教の神を束[たば]ねたマニ教が存在した。
つまり、マニ教の聖典の物語は、聖書や仏典やコーランや古事記の話を組み合わせてできているのである。おとぎ話の世界ブリタニア百科事典といったところだ。
しかし、そんな物語は、もはやどこの国の国民の心を表してもいない。
マニ教の神は、どこの国の国民の心の代表者でもない。
だから、そんな宗教はあっても仕方がないので、滅んだのである。

[7449] なぜ中国には宗教がないのか? h21.6.4
それは、中国が多民族国家だからである。
宗教の聖典の物語は、民族の心を表した物語だから、中国には国としてまとまった聖典や神がないのである。
中国は、国が民族よりも大きいから、それで宗教がないのである。
反対にヨーロッパは、民族が国よりも大きいから、それで国の違いを超えて宗教(キリスト教)があるのである。
中国の八仙人は、神を超能力者のことだと勘違いした者が作ったデマ(噂話[うわさばなし])である。
中国は多民族国家だから、民族によって心が違うから、心で国を治めることはできず、物(つまり、民族共通の心よりも一般的な“人間共通の心”)で国を治めるしかない。だから、中国では早くから律令制(つまり法律制)が発達したのだ。

[7450] アメリカにはどうして宗教があるのか? h21.6.4
アメリカも中国と同じ多民族国家である。
宗教とは、政府が民族の心を物語にして、その物語に沿った国を作ることによって、民族の心を満足することである。
だから、アメリカには宗教がないはずである。
なのに、アメリカにキリスト教や神武天皇教や私教(川野延夫教)があるのは、アメリカ政府が宗教とは何かがわかっていないからである。
キリスト教は、もともとアメリカがイギリスの土地だったからあるのはわかるとしても、神武天皇教や私教に至ってはまったく無意味である。だから、やっぱりアメリカは宗教が何かがわかっていないのだ。
アメリカが眼と物の国だから、アメリカ人は頭(知覚)で考えない馬鹿だから、アメリカでは政府も国民も両方とも宗教を誤解しているから宗教をやっているのだ。
要するに、アメリカが宗教をやっているのは、アメリカがまちがっているからである。だから、アメリカは宗教をやめねばならない。

[7451] 日本の場合 h21.6.4
日本は、幸いにも単一民族国家である。つまり、日本では国と民族が同一である。日本においては国≡民族である。
ひとつの民族の中では、人間の心はほぼ同じである。[なぜなら、民族は人類の心による分類だからである。]
だから、日本では心で国を治めることができる。
したがって、日本国憲法に、国民の特性(特徴)を表す命題を盛り込んで政治をすることができる。

[7452] 宗教は政府がやるものである。 h21.6.4
宗教とは、政府が民族の心を物語にして、その物語に沿った国を作ることによって、民族の心を満足することである。
だから、宗教は本来政府がやるものであって、国民がやるものではない。
しかし、聖典は国民(本来は民族)の心についての統計調査のようなものだから、本当に聖典に書いてあることが正しいかどうか確かめるためにも、国民にとっても聖典は一読する価値はある。

[7453] 西洋の科学、東洋の哲学 h21.6.4
たしかにヨーロッパは科学や数学が得意である。
しかし、キリスト教の曖昧な言葉使いのために、哲学が遅れている。[ヨーロッパ人にはデカルトのように心がはっきりした者がいるから、キリスト教のフニャフニャした言葉使いがいけないのだ。]
反対に、日本では、古事記が明晰判明な言葉で書かれていたために、哲学の遅れがない。
だから、アベレージ(平均、総合、全体)では日本は西洋に勝るとも劣らない。
だから、日本が知覚の国であることを諦[あきら]める理由はない。
日本人にはアメリカ人とは違って知覚欲がある。だから、日本人に生まれたら知覚欲を満足して生きるしかない。
頭で考えたくない人、眼で見て心で思うだけの馬鹿で生きたい人はアメリカに引越しすればいい。

[7454] 歴史アニメ h21.6.4
日本の歴史そのものをアニメにしても面白くないから、日本の歴史を喩[たと]えた面白い話を作ってそれをアニメにすればいい。
そうすれば、歴史の苦手な人でも、サブリミナル効果で歴史を楽しく学ぶことができる。
あとは、学校の歴史の時間に具体的な固有名詞をその構造に当てはめて憶えるだけだから、容易である。

[7455] 宗教学の本 h21.6.4
今の市販されている宗教学の本は、世界の宗教についての具体的なデータを載せているだけで、宗教についての自分の考えを述べていない。それらは眼で見ただけで頭で考えていない言葉で書かれているから、読んでもほとんど理解できない。[文系の学者は、自分の頭の悪さを言い訳にして理解できない講義をしている。そんな者に他人を教える資格はない。そんな者は半殺しにして教室から放り出さねばならない。]
宗教学の本は、丸善の理科年表のようなものだ。
丸善の理科年表だけを読んでも科学がわかったとはいえない。
科学がわかるためには、理論書を読まねばならない。
その理論書が宗教についてはまだないのだ。
だから、宗教学が遅れているのだ。
だから、今でも世界中でまちがった宗教が政府や国民によって行われているのだ。
どこかに『宗教についての科学的原理』のような本がないものだろうか。

[7456] 民族の心はどうして違うのか? h21.6.4
宗教が正しいのは、先天知の正しい者が自然選択によって高い確率で生き残るからである。[[7422]を参照。]
ところで、自然環境は人間が住んでいる場所や時代によって違っている。
だから、自然選択によって高い確率で生き残る先天知も、住んでいる場所や時代によって違っている。
つまり、環境によって先天知が選ばれるために、環境が違えば先天知も違うために、民族の間では心が違っているのである。

[7457] 日本は貧乏な国である。 h21.6.4
日本には資源がない。鉱物も石油もウランもない。
だから、日本では物と眼の喜びが満足できない。
代わりに、日本には森や水がある。だから紙を作ることができる。紙から本やノートを作ることができる。
だから、日本では言葉と知覚が満足できる。
そうやってわれわれの祖先は長い間生き抜いてきた。
だから、日本人は言葉と知覚の喜びが強いのである。
日本人の言葉使いが明晰判明なのは、日本人の知覚がいいからである。[例えば、連立一次方程式の解の研究は日本がヨーロッパよりも進んでいた。江戸時代の数学者関孝和は、行列式の概念を発明し、連立一次方程式の解の公式を書き表すことに成功した。(数学では基本的な概念ほど価値が高いのである。数学では、ラジオの組み立てのように、部品を組み合わせて複雑な装置を作るよりも新しい部品を作るほうが価値が高いと考えられているのである。)]
したがって、日本政府は言葉と知覚の喜びを満足する国を作ればよいのである。

[7458] どうして戦後医者の待遇がよくなったのか? h21.6.4
医者は眼で見て心で思うだけで、頭で考えることがない。
いわば、医者はアメリカ人だ。
戦後日本はアメリカに占領されてアメリカ制だったから、医者の待遇がよかったのである。
しかし、今はアメリカが日本から離れていったから、再び医者の待遇が悪くなったのである。
[かつて、日本の国鉄に食堂車(ビュッフェ)があったのも同じ理屈である。日本がアメリカを真似て贅沢にしていたから、食堂車があったのだ。]

[7459] 真理は永遠である、まちがいはいっときである。 h21.6.4
正しいことは永遠に続くが、まちがったことは長くは続かない。
だから、かつてマニ教が滅んだように、私の超能力者制度もしょせん長くは続かない。
人間の心は真理が好きでまちがいが嫌いだからである。

[7460] 宗教の神はおとぎ話の世界の王様である。 h21.6.5
日本の神である神武天皇の物語は日本の神話やおとぎ話を組み合わせてできている。
だから、神武天皇は神話やおとぎ話の世界の王様であり、架空の人物である。
日本の宗教は、ヨーロッパの宗教を輸入して始めた制度だから、
ヨーロッパの宗教も日本の宗教と同じようにしてやっていたと考えられる。
つまり、ヨーロッパの神であるキリストの物語は、ヨーロッパの神話やおとぎ話を組み合わせてできているのであり、キリストはヨーロッパの神話やおとぎ話の世界の王様であり、架空の人物である。
例えば、キリストが水を触ってブドウ酒に変えたのは、ギリシア神話のマイダス王の話からである。キリストがちぎったパンがあとでたくさんに増えた話は、ギリシア神話の英雄ヘラクレスのヒドラ退治の話からである。[私は日本人なので、ヨーロッパの神話やおとぎ話に詳しくないので、それ以外はわからない。ヨーロッパの神話やおとぎ話に詳しい方は、自分で考えてみてもらいたい。]
インドの神である仏陀[ぶっだ]の物語も、インドの神話やおとぎ話を組み合わせてできているのだろう。だから、仏陀も架空の人物である。
もっとも、宗教の神が架空の人物であろうが実在の人物であろうが、とにかく国民(本来は民族)の心の代表者でありさえすればどうでもいい。それが宗教のいいところだ。

[7461] 宗教はやっても無駄 h21.6.5
神は国民(本来は民族)の心の代表者である架空の人物である。
だから、国民が神に従うのではなく、逆に神が国民に従わなければならない。国民の心に従っていない神は、神として失格である。
選挙で国民の代表者を選ぶのと同じ理屈である。代表者が国民に従わねばならないのであって、逆に国民が代表者に従わねばならないのではない。国民が代表者に従わねばならないのなら、そんな者は代表者ではなく独裁者である。
だから、国民が宗教に入って神を信じても何にもならない。
宗教をやっている国民は無駄なことをしているだけである。
心は生まれつきのもので取替えが効かないから、外国(本来は他民族)の宗教をいくら学んでも仕方がない。

[7462] 郷に入っては郷に従え? h21.6.5
人間の心は生まれつきのもので取替えが効かない。
だから、外国に行っても、個人の心は変わりやしない。
例えば、日本人がインドネシアに行ってもイスラム教の習慣に従う必要はない。
日本人とインドネシア人とは民族が違うのだから、心も違うので、それぞれが自分の心を守って自分の心を満足して生きればいいのである。

[7463] アメリカは物の文化 h21.6.5
アメリカは多民族国家である。アメリカは心の違う者同士が集まったひとつの国なのだ。
だから、アメリカでは心で他人とわかりあえることがない。互いに他人のギャグがわからなくてシーンとしているだけである。
だから、アメリカでは物で他人とわかりあうしかない。
だから、アメリカは物の文化なのである。
物の文化だから眼先の喜びしかないのである。
物を買うにはお金が要るから、アメリカは資本主義の国なのである。
それが、アメリカ文化の独自性なのだろう。
日本とアメリカとは文化が違うのだから、互いに他の文化を侵[おか]してはならない。

[7464] 宗教は文化の一部である。 h21.6.5
文化とは、国民の心に従う世界を作ることである。
宗教とは、国民(本来は民族)共通の心を物語にして表すことである。政府は宗教を政治の手段として用いている。
だから、宗教だけが文化ではない。科学や工学や文学や音楽や美術やスポーツなども文化である。
宗教は文化の一部なのだ。
だから、宗教だけが国民の心の尺度ではない。宗教の物語形式によらない表現方法のほうが国民の心をよく表していることもある。
したがって、宗教がつねに他の文化を支配するわけではない。ときには他の文化が宗教を支配することもある。
国民の心を表すためには、国民の心の特徴を科学のように箇条書きの命題にして必要十分な記述にして表すのが最も適切だと思われる。

[7465] 人類の心と民族の心と個人の心 h21.6.5
科学が万国共通の普遍性があるのは、真理を愛する人類共通の心で書かれているからである。
だから、ヨーロッパの科学がそのまま日本でも受け入れられるのである。
しかし、人間には民族固有の心もある。
だから、キリスト教は日本人には受け入れられない。
さらに、人間には個人固有の心もある。
だから、同じ民族であっても、かならずしも他人と気が合うわけではない。
現代では、人間の心は自由とされているが、それは自分のありのままの心を肯定して生きてもよいという意味であって、民族共通の心がなくなったという意味ではない。
だから、いくら現代では人間の心の自由が認められているからといって、政府の仕事がなくなったわけではない。政府は、国民の心の民族共通の部分に注目して、それを満足する国を作ればいいのである。[町全体が赤い屋根で統一されているように、日本人みんなが言葉と知覚の人間で統一されていることが望ましい。だから、日本人にとっては、知覚的に正しいことが最も尊[とうと]ばれるのである。かっこいいだけの男は人間ではなくて人形[にんぎょう]である。]それ以上細かいことに関しては、個人の自由を認めるということである。


[7466] ニーチェの本が売れないわけ h21.6.5
私は高校生の頃、ニーチェの『ツァラトストラ』を熱中して読んだことがあるが、今の私が読んでみると、ニーチェの文には“くだらない意味”がこもっている。感情的で何を書いているのかよくわからない文ばかりである。ぼんやりした喩え話をするだけで、直接に意味そのものを言おうとしない。参考。
いい歳した大人の書いた文とはとうてい思えない。大学教授が書いた文とは思えない。思わず地方大学に飛ばしたくなる作文だ。梅毒患者の思考奔逸[しこうほんいつ]の作文だ。
人間の書く文は、もっと理知的な客観的な意味がなければならない。
だから、『ツァラトストラ』は売れなかったのだ。
ヨーロッパは哲学が下手だ。そんなことのために世界大戦になったのでは、いくら悔[く]やんでも悔やみきれない。

[7467] 『神は死んでいない。』 h21.6.5
ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、よく考えてみると何を言っているのかわからない。
人間の先天知の世界に住んでいる空の上から人間を見張っている人間よりも上の者である神がいないことは、紀元前の人間でも知っていた。
人間の先天知が後天知よりも正しくないことも、紀元前の人間でも知っていた。
だから、ニーチェの言っている神は人間よりも上の者のことではなく、キリストのことだと考えられる。
しかし、キリスト教の神であるキリストはヨーロッパ民族の心の代表者であって、いくら自然科学が進歩しても、民族の心がなくならないかぎりキリストが死ぬことはない。
だから、神は死なないはずである。
神を宗教の神のこととするなら、今でも『神は死んでいない』。
したがって、ニーチェが「神が死んだ」と言って騒ぎ立てたのは、宗教の神のことでもないと考えられる。
おそらく、ニーチェが神と呼んでいた者は、宗教の神であるキリストと先天知の世界にいる人間よりも上の者が混ざってできた怪物のことだろう。宗教の神と先天知の世界にいる人間よりも上の者である神を組み合わせてできた邪神のことだろう。
そんな神なら、いくら死んでもいっこうに構わない。
人間は真理が好きで、まちがいが嫌いだ。
だから、そんな神はいなくなったほうがいい。
そういう意味なら、たしかに「神は死んだ」のだ。
言葉は正確に使わなければならない。ニーチェが神の意味を詳しく言わなかったために、世界大戦が起きてしまった。言葉は短いに越したことはないが、短すぎるのも曲者[くせもの]だ。反対に、世界の宗教の聖典にあるキリストの物語や神武天皇の物語のように冗長すぎても何を言いたいのかわからない。言葉は詳しいに越したことはないが、誤解を招くほど余計な言葉が多すぎるのはいけない。

[7468] 正しさを取り締まる機関 h21.6.6
日本を完全に自由化すると、
麻薬を売ったり、
外国から武器を輸入して売ったりする会社が現れる。
これでは、国民が健全に生きて行くことができない。
そこで、正しさを取り締まる機関が必要になる。つまり国民共通の心を満足する機関が必要になる。
政府は要らないが、正しさを取り締まる機関は要る。
『必要は発明の母』というから、日本政府がなくなれば、そのうち正しさを取り締まる機関ができるだろう。

[7469] 自分からやろうとする気持ち h21.6.6
今の人間は、自分からやろうとせず、他人から命令されて動くだけである。
それは、日本が、自分からやろうとすることを大事にしないからである。
自分でやることを大事にしなかった国は、結局無気力な人間ばかりになって最後には落ちぶれる。

[7470] 宗教の聖典についての誤解 h21.6.6
私の超能力者制度は、古事記にある神武天皇の物語の火の鳥の話からできた制度である。
日本のお酒を飲んで歌う習慣は、古事記の神武天皇の物語の土蜘蛛[つちぐも]の話からできた習慣である。[神武天皇の仲間が歌を合図にして敵に切りつけて倒したのは、中国の司馬遷[しばせん]が書いた『史記』?にある2人の敵同士が刀の舞を装[よそお]って互いに敵に切りつけた話からだろう。だから、みんなで歌を歌うのは、そもそもは中国の習慣であって日本の習慣ではない。]
どちらも、神武天皇の物語のどうでもいい枝葉末節の部分に囚[とら]われてできた余計なくだらない制度や習慣である。
日本人は、神武天皇の物語の大事なところを読んでいない。
私は、神武天皇の物語の大事な部分は、その言葉使いの明晰判明さにあると考える。それは、とりもなおさず、日本人の知覚の優秀さを物語っている。
だから、日本人は日本を知覚が優秀な人間の住んでいる国にしなければならない。
まあ、無理をしなくてもいいが、国民が知覚の鍛錬[たんれん]を怠らない国にしたいものだ。
だから、大人はあまりたくさんお酒を飲むのをやめよう。子供はテレビばっかり見るのをやめよう。
聖典は文学調に書かれているので言葉の尾ひれが多く誤解を招きやすい。だから、国民(本来は民族)の心を知るために聖典を使うのはもうやめよう。

[7471] 『神とは何か?何であるべきか!?』《まとめ》 h21.6.6
宗教とは、政府が国民(本来は民族)共通の心を物語にして、その物語に沿った国を作って、国民の心を満足させることである。【宗教の原理】
神とは、その物語に登場する主人公であり、国民の心の代表者である。【神の定義】
聖典とは、国民(本来は民族)共通の心を表した物語である。
国民の心がある程度正しいのは、正しい心を持った者が自然選択によって高い確率で生き残るからである。【科学による宗教の正当性の証明】
したがって、人間の先天知の世界に住んでいる空の上にいて人間を見張っている人間よりも上の者は宗教における神ではない。それは、とっくの昔の紀元前に死に絶えた古[いにしえ]の神である。
紀元前の人間でも、先天知の世界にいる人間よりも上の者の神がいないことを知っている。
紀元前の人間でも、先天知が後天知よりも正しくないことを知っている。人間として生まれたら当然のことである。
宗教の聖典の物語は、昔の神話やおとぎ話を組み合わせて作られた話である。だから、宗教の神は実在の人物ではなく、おとぎ話の世界の王様である。[日本の天皇は神武天皇のジオラマ(立体模型)だから、あってもなくてもどうでもいい。高校の倫理社会で、キリストや仏陀[ぶっだ]を実在の人物として取り上げているのはまちがいである。]
民族とは、人類の心による分類である。地球上の自然環境の違いが、民族による心の違いを生み出したのだ。
民族によって心が違うから、地球上には民族の数だけ宗教がある。
人間の心は人間の大脳前頭葉前部にある先天的なプログラムであって取替えが効かないから、外国(本来は他民族)の宗教を学ぶことは無意味である。神は国民の心の代表者だから、神が国民に従わねばならないのであって、逆に国民が神に従わねばならないのではない。
@中国やアメリカのような多民族国家は、ひとつの国に多数の民族がいるから、国としての宗教がない。
A世界中の聖典の物語を組み合わせて作り出したマニ教や私の超能力者制度などの人工宗教は、地球上のどの民族の心も表していないので滅びる運命にある。
過去の世界大戦は、19世紀末に『神が死んだ』ために神に従う人間も死ななければならないと思って世界中の政府が組んで起こした戦争である。[世界大戦が第一次と第二次と2度起きたのは、先天知の世界にいる人間よりも上の者である神(モーゼにはその雰囲気がある。)と、宗教の国民の心の代表者である神の両方が死んだためである。しかし、私は宗教の神は死んでいないと考える。民族の心があるかぎり、宗教の神も死ぬことはない。ヨーロッパではモーゼとキリストがゴッチャになっていたから、キリストも人間よりも上の者だと思ったのだろう。]
政府の仕事は国民の心を満足させることである。宗教は政府が政治をするためのひとつの手段である。宗教は本来政府がやることであって、国民がやることではない。[Bだから、日本には日本神道の教会はないが、国会に天皇がいるのである。]昔は民主主義の議会制の政治がなかったから、実在の議員の代わりに宗教の神を使ったのである。宗教の神は、国民の心についての統計調査報告である。現代では、国民の心を表すためには、冗長な物語よりも、必要十分に科学的に箇条書きした命題のほうが適切であると考えられる。
[私の【宗教の原理】からは、宗教についての3つの法則@ABが論理的に導かれる。詳しいことは、哲学日記の各節[せつ]を参照されたい。]

[7472] 快感発生装置 h21.6.7
いずれ将来、人間の感覚や感覚波についての研究が進めば、快感を感覚波に乗せて周囲に発散する装置が作られるだろう。
スイッチを入れれば、周りにいる人が心地よくなれるのだ。
テレパシー器官で聴く音楽のようなものだ。
麻薬のような副作用がないから、飛ぶように売れるだろう。

[7473] どうしてまちがった宗教をやる者がいるのか? h21.6.7
国民が自国や他国(本来は他民族)の宗教をやったり、政府が世界大戦をやったり超能力者制度をやったりするのは、宗教を誤解しているからである。
それは、昔の教会(つまり、ヨーロッパ政府)が天動説を支持していたことと同じである。
つまり、政府や国民の宗教を誤解している者たちが、まちがった宗教をやっているのだ。
宗教とは、政府が国民(本来は民族)の心を政策に反映させることに他ならない。だから、宗教は政府がやることであって、国民がやることではない。政府は宗教の聖典の物語によらなくても、宗教をすることができる。[それで、年々宗教に入っている国民の数が減少しているのだ。政府も宗教の聖典によらずに宗教をやるようになってきている。]

[7474] 先天知の神がいないことの証明 h21.6.7
人間の先天知には、空の上にいて地上の人間たちを見張っている人間よりも上の者の神がいる。
その神は、地上にいる悪いことをした人間を見つけては罰してくれる。
もしも、そんな便利な神がいたら、警察は要らないはずだ。
しかし、実際には、悪人を罰するためには警察が要るから、先天知の世界に住んでいる人間よりも上の者の神はいないのだ。
先天知の世界に住んでいる神はオバケみたいなものだ。いもしない幻覚が見えているのだ。ヘルマン格子錯視の交差点に見える黒い玉のようなものだ。神もオバケも人間の知覚に生まれつき仕組まれた幻覚なのだ。[神はgodで、オバケはghostで、音が似ているから似た者である。]
誰でも子供のうちは神やオバケが見えるが、大人になると見えなくなる。


[7475] 世界大戦はどうして起きたか? h21.6.7
19世紀末に科学や哲学上の理由によって『神が死んだ』ことになった。
ここでの神とは、人間の先天知の世界に住んでいる人間よりも上の者のことである。
一方、国民が神と呼んでいる者は宗教の神のことであって、国民の心の代表者である仮想の人物のことである。
ところが、政府は国民が神と呼んでいる者が先天知の世界に住んでいる人間よりも上の者のことだと思って、それなら神が死んだから神に従う人間も死なねばならないと思って、勝手に世界大戦を始めた。
つまり、政府の一方的な誤解によって世界大戦が引き起こされたのである。
国民は政府にとんだとばっちりを食わされて大損をしたことになる。
私の超能力者制度に関しても、政府が宗教を嘘をついて国民を騙すこととし、神を嘘で超能力者つまり神にでっち上げた人間のことだとして、勝手に私の超能力者制度を始めた。
国民は政府の誤解によってまたしても損をしたことになる。
政府はいつも宗教上のまちがいを犯して国民に被害を与えている。
政府による被害のほうが犯罪者による被害よりも大きい。
そんな馬鹿げた会社なんか要らない。
公務員を皆殺しにして政府をなくしてしまったほうがいい。

[7476] 文系気質[きしつ]と理系気質 h21.6.7
文系の人は、親に過保護かあるいはその反対に厳しく育てられたために、正しいかどうかを決めるのに他人に頼る傾向がある。
その結果、“他律脳”になっている。いつも心中で他人の顔色ばかり窺[うかが]っている。
その上、やはり今の人間は心がくだらない者のほうが多いらしく、文系の人の心もくだらなくなっている。欲しがるのは、金と物と権力と女だけだ。
政府に入ると、金や物や権力や女が手に入る。それで、政府には文系出身の者が多い。それで、政府は多数決思考なのだ。それで、政府は国民のまちがいに便乗して、貴族制をしたり、世界大戦をしたり、私の超能力者制度をしたりするのだ。[私の超能力者制度は、神を政府が嘘で神にでっち上げた者のことだと考えている国民に対する政府の便乗行為と見なすことができる。]

反対に、理系の人は、親に放任教育で育てられたために、正しいかどうかを自分で考えて決める傾向がある。
その結果、“自立脳”になっている。すなわち“自分の眼で見て自分の頭で考える脳”になっている。
だから、知覚欲が強く、人間らしさがある。欲しがるのは、真理と思考だけだ。
政府に入っても、真理がわかるわけではない。だから、理系の人は政府に入らないのだ。

[7477] 私の超能力者制度は宗教ではない。 h21.6.7
私の超能力者制度では、私の個人情報(私が経験したことを含む)を混ぜた政令(政府が出す命令)を出すことになっている。
その結果、オウム真理教地下鉄サリン事件やJR福知山線脱線事故のようなことが起きている。
つまり、私の超能力者制度とは、政府が神としている私に“従う”かぎりでは[“従う”の意味については、[6949] 超能力者制度は超能力者の命令を聞く制度ではない。 h21.3.26 を参照。]政府がどんな命令でも私を神だと信じる者(神の正しい意味がわかっていない者。つまり、神が本当は国民(本来は民族)の心の代表者である架空の人物なのに、実在の人物だと思っている者。本当は神が人間に従わねばならないのに、その逆に人間が神に従わねばならないと信じている者)に出すことができる制度である。
しかし、そもそも宗教とは、政府が国民(本来は民族)共通の心を政令に反映させることである。そのために、わざわざ国会に天皇(国民の心の象徴)を置いているのである。
ところが私の超能力者制度では、私の個人情報によって政令が制限されるために、政令に国民共通の心を反映させることが妨[さまた]げられている。
つまり、政令に国民共通の心を反映させることと、政令に私の個人情報を使うこととはまったく無関係であり、したがって私の超能力者制度は宗教ではないと考えられる。
今の政府に勤めている職員は一体何なんだ?!お前ら、自分の仕事を一体何だと思っているんだ?

[7478] 神は国民に従わねばならない。 h21.6.7
神は国民に従わねばならない。[そうなるように、神を決めなければならない。]
政府は神に従わねばならない。
国民は政府に従わねばならない。
結局、国民は国民に従わねばならない。自己満足的で矛盾がない(self-consistent)。
これが正しい神制度の仕組みである。

神が聖典の主人公であろうが、国民共通の心を箇条書きで表した科学的命題であろうが、この図式は成立する。

[7479] 神は死んでいない。 h21.6.7
神とは国民(本来は民族)の心の代表者である。
神とは、国民共通の心を言葉で表したものである。
だから、神は聖典の主人公でも、国民共通の心を箇条書きで表した科学的命題でもいい。[もっとも、それらを神と呼ぶと、先天知の世界にいる人間よりも上の者の神と混同しやすいので、念のために、聖典の主人公や国民の心を箇条書きした科学的命題を別の名前で呼んで神と明確に区別したほうがいい。例えば、心のキャラクターとか、心の法則とか呼べばいい。漢字で書けば、伸[しん]とか、、[しん]とか。]
もっとも、聖典は言葉が冗長で、国民共通の心が何であるかがはっきりしないから、現代では箇条書きで表した科学的命題のほうが神に相応[ふさわ]しいと考えられる。
19世紀末には『神が死んだ』と考えられたが、神が国民の心の代表者であるとすれば、神は今でも生きているし、国が滅ばないかぎり神は未来永遠に生きているはずである。
だから、政府は新しい神に従って政令を作って、国民に出さねばならない。

[7480] 神は完全ではない。☆ h21.6.7
神とは、国民の心の代表者である。[だから、神は聖典の主人公であっても、国民共通の心を箇条書きで表した科学的命題であってもいい。現代では、前者よりも後者のほうがいい。]
国民の心には長所もあれば短所もある。
だから、神は完全ではない。
ヨーロッパの神は、物には強いが言葉には弱い。
日本の神は、物には弱いが言葉には強い。[日本人が考え好きで、眼で見て心で思うだけではないからである。]

[7481] 宗教の施設は国会だけにあればいい。 h21.6.8
宗教は政府がやるものであって、国民がやるものではない。
だから、宗教の施設は国会だけにあればいい。それ以外は要らないからすべて破壊すべきである。
ただし、聖典の本や国民の心の特徴を表した科学的命題を読むことは個人の自由とする。

[7482] 宗教の自由はない。 h21.6.8
宗教は政府がやるものであって、国民がやるものではない。
だから、国民に宗教の自由はない。国民が宗教をやることは禁止される。
宗教とは国民の心の特徴を知ることであり、政府は国民の心を政令に反映させるために宗教をやるのである。だから、国民が宗教をやる必要はない。もっとも、自国や他国の国民の心の特徴を知ることはやってもいい。[海外旅行に行く前に、旅行先の国の人の心を知っておくことは有益だからである。]
巷[ちまた]の宗教は“神に人間が従う”ことであり、本来は神が人間に従うべきだから禁止されるのである。
巷の宗教は、先天知の世界にいる人間よりも上の者の神と宗教における国民の心の代表者の神とを混同して教えている。
巷の宗教施設は国民にまちがったことを教えているいけない学校だ。

[7483] 政府は国民のためにある。 h21.6.8
政府がないよりもあったほうが、国民が自分の心を満足しやすくなる。[[7478]を参照。]
だから、政府があったのだ。電気会社やガス会社と同じことだ。
反対に、政府があるよりもなかったほうが国民が自分の心を満足しやすくなるのだったら、とっくの昔に政府はなくなっていたはずだ。
だからこそ、政府は国民の心をよく知り、国民の心を満足する国を作らなければならない。

[7484] 神はいる。☆☆ h21.6.8
ここでの神とは、人間よりも上の者のことである。
神はいる。
ただし、神は人間の先天知の世界にいるだけである。実在の世界にはいない。
神は、オバケと同じように子供のうちだけ見える幻覚である。

[7485] 私の超能力者制度について h21.6.8
ここでの神とは人間よりも上の者のこととする。
世の中には、神が実在して、神に人間が従わねばならないと信じている珍しい者がいる。ここでは信者と呼ぶことにする。
一方、政府は宗教を国民に本来いるはずがない神をいるという嘘をついて騙[だま]すことだと考えている。
だから、政府は私を神だとでっち上げて、私に“従って”[従うの意味については、[6949] 超能力者制度は超能力者の命令を聞く制度ではない。 h21.3.26 を参照。つまり、神に従うとは、神とした者の個人情報(経験したことも含む)を混ぜた命令を他人に出すことである。]作った命令を信者に出して、実行させたのだ。例えば、日本政府は信者に命令してオウム真理教を作らせてオウム真理教地下鉄サリン事件を起こさせたし、信者の列車の運転手に命令してJR福知山線脱線事故を起こさせたのだ。
これが私の超能力者制度である。
昔は神武天皇を神として同じことをやっていたが、日本が戦争に負けて神武天皇が神に相応[ふさわ]しくなくなったので、今では私を神ということにしてやっている。
信者は私のことを知らないが、政府が私を神としているというだけで信者は政府のどんな命令でも聞くのである。
信者は馬鹿だが、その信者に便乗[びんじょう]して悪いことをさせる政府も馬鹿である。
それが、政府の昔からの悪い癖である。
そもそも政府は正しさを取り締まる機関なのだから、他人のまちがいを利用してはいけない。それでは、共犯者だ。
神武天皇も最初は純粋に日本人の心の代表者だったが、政府が“信者”を利用していろんな事件を起こさせることによって信者の神についての誤解を世間一般に広げることによって、いつしか日本人全員が神武天皇を人間よりも上の者だと思うようになったのだ。つまり、政府が“信者”を利用して、日本人全員が神武天皇を人間よりも上の者だと思うように洗脳したのだ。私の場合についても同様である。政府はこれまでの事件を国民を洗脳するための手段ぐらいにしか見ていない。政府は信者を先生にして国民にまちがった神主義(神に人間が従わねばならないこと)を教えさせて、日本を神主義の学校にしているのだ。そうやって、政府は国民を自分達の命令を何でも聞く奴隷に改造しようとしているのだ。
政府はまったく余計なことをする会社だ。なにより、まちがいを国民に植えつけようとしたことが許せない。そんな会社にはもはや用はない。そんな会社は信用置けない。日本人の心の面倒は別の会社にみてもらうことにする。

[7486] どうして日本に宗教施設がいっぱいあるのか? h21.6.8
日本にキリスト教の教会や仏教の寺院やその他の宗教施設がたくさんあるのは、
人間よりも上の者である神が実在すると信じている信者を養成するためである。
一人前の信者を育てるために、日本政府が国民の税金を使って日本各地に宗教施設を建てて国民に神主義を教えているのだ。日本中の宗教施設は信者の養成学校なのだ。政府にとって信者は神主義を国民全体に広げるための道具なのだ。信者の養成学校に通っている者は、日ごろ神主義で生活しているので、周りの者も多かれ少なかれ神主義の影響を受けることになる。周りの者は、ただで神主義を勉強させてもらっているわけだ。
しかし、最近は国民みんなが頭がよくなってきたから、優れた信者がめっきり減ってきている。
このままでは宗教施設もなくなりかねない。
現代で、神主義をやろうとするのがそもそも無理な計画だ。
悪だくみをするなら、神主義などというありふれた方法によらず、もっと頭を使って別のことを考えなければならない。
そもそも政府なんて会社は要らない。基本的人権は国民が自分自身で守ることにする。政府は神主義をするためにあるだけだから、早くなくなったほうがいい。

[7487] 今の宗教がなっていないわけ h21.6.8
本来宗教とは、政府が国民の心を物語にして、その物語に沿った国を作ることによって、国民の心を満足させることである。神とは、その物語の主人公であり、国民の心の代表者である。だから、本来は神が人間に従うべきである。
それなのに、今の宗教では、人間の先天知にいる人間よりも上の者である神と宗教の神をゴッチャにして、宗教の神も人間よりも上の者として、宗教の神に人間が従わねばならないことにしている。そんなまちがったことを、世界中の宗教施設で毎日大勢の人々に教えている。
つまり、神が人間に従わねばならないのが正しいのに、今の宗教では反対に人間が神に従わねばならないことになっている。地球が動いているのが正しいのに、天が動いているとしているようなものだ。
だから、今の宗教は駄目[だめ]なのである。今の宗教は、政府が国民を奴隷にするためにまちがったことを教えているからいけないのである。[信者は、自分の子孫が将来政府にひどい目にあわされても平気なのだろうか?]


[7488] なぜ私の個人情報を混ぜたテレビ番組があるのか? h21.6.8
今の政府は私(川野延夫)を神とする神制度をやって、私の女の子に変えたアニメやマンガを作っている。
日本中や世界中のテレビ番組や映画などに私の個人情報が使われている。
それらはすべて政府の国民に対する洗脳である。
政府が世界中の人間を政府の奴隷に改造するために、政府が私を神とする神制度をやっているのである。
政府は今のところはおとなしいが、そのうちいい機会があれば政府は大々的に私の神制度をやって世界中の人間を政府の奴隷にするつもりでいるのだ。

[7489] 私の超能力者制度は失敗作である。 h21.6.8
昔の神制度は、神を人間よりも上の者だと考える者と神を国民の心の代表者だと考える者が混じり合っていっしょに宗教をすることができた。
だから、神を国民の心の代表者だと考える者を神を人間よりも上の者だと考える者に徐々[じょじょ]に移行させることができた。そうして長い年月をかけて、ほぼ全員が神を人間よりも上の者だと考えるに至ったのだ。
しかし、今の私の超能力者制度すなわち私を神とする神制度では、たとえ私を人間よりも上の者だと考える者がいたとしても、私を国民の心の代表者だと考える者がいない。
だから、最初の種(つまり、私を国民の心の代表者だと考える者)がないから、昔の宗教のように政府が宗教を太らせることができない。私を神とする宗教に入っている者は、私を人間よりも上の者だと考える一部の少数の異常者だけである。
これでは、いつまでたっても、国民を政府の奴隷にすることはできない。
政府はとんだ無駄足を食ったものだ。

[7490] 政府の夢 h21.6.9
政府の夢は神主義の国を作って国民を政府の奴隷にして自分達が贅沢な暮らしをすることである。神と人間の階級差を利用して自分達が儲[もう]けることである。
神主義の国では、神は人間よりも上の者であり、人間は神に従わねばならない。
しかし、そういう意味での神は、人間の『先天知』の世界にいる空の上にいて人間を見張っている神のことであって、オバケと同様に誰もが子供時代に見る『幻覚』にすぎない。
そんな神がいないことなど今日では誰にとっても常識である。オバケがいないのと同じことである。
聖典の物語の主人公や政府が嘘で超能力者(というか、聖典の物語の主人公と同類の人)にでっち上げた人間を神と呼んでいるのは、概念の『混同』である。全然神とは別の者を神と呼んで、無理やり神にしているだけである。
今どき人間が神に従わねばならない神主義を信じる者など他人からキチガイ扱いされて白い目で見られるだけだ。だから、事故を起こして他人を道連れにして死にたがるのだ。
神主義が成り立たない以上、いくら政府が神主義の国を望んだところでかなうわけがない。
政府も大人気[おとなげ]ない夢を持ってはいけない。いい歳した大人なら、もっと現実的な夢を持たねばならない。

[7491] 国民の心の代表者 h21.6.9
神武天皇は日本人の心の代表者である。
神武天皇が戦[いくさ]をしたのは、そもそも日本人が戦争が好きだからである。
だから、第二次世界大戦でも、日本人は胸を張って喜んで出征したのである。
日本人は戦争が好きだから戦争をしたのであって、戦争に勝つか負けるかはどうでもいいことである。
神武天皇は日本人の心の代表者であって、正しい結果を出すためのコンピューターではない。
心にとっては自分が満足できるかできないかが問題であって、結果が正しいかまちがいかが問題ではない。
心とはそういうものである。

[7492] 私と神武天皇との違い h21.6.9
この私は日本人の心の代表者でもなんでもない。
だから、私は聖典の物語の主人公にはなれない。
神武天皇に日本人が従ったのは、そもそも神武天皇が日本人に従っているからである。つまり、日本人は自分自身に従ったまでのことである。
一方、私は日本人に従っていないから、逆に日本人が私に従うこともない。だから、私では宗教をやることはできないのだ。
フランシス=ベーコンが、『自然に従う者が自然を支配する。』と言ったように、
自分が他人を従わせるためには、まず自分が他人に従っていなければならない。
私の場合、そのルールを犯しているから、いくら宗教をやっても成功しないのだ。
よっぽど都合がいい者を“主”[しゅ]にしないかぎり、宗教は成功しない。
神話やおとぎ話の抽象的な主人公でないかぎり、うまく行かないわけだ。
[物語を具体的にして神武天皇を実在した人物のように思わせているのは、いい歳した大人にとってはさすがにおとぎ話の主人公を“主”とすることは耐えられないからだろう。それで、大人向きに子供のおとぎ話を脚色したのである。]
実在する具体的な人間には『なくて七癖』と言われるように必ず他人に嫌われるところがあるからうまく行かないのだ。


[7493] ヨーロッパの主[しゅ]と日本の主 h21.6.9
神とは、人間の先天知にいる空の上にいて地上の人間を見張っている、人間と同じ形をしていて空気のように透明な、人間よりも上の者である。神はオバケと同様に子供時代の幻覚である。
一方、主とは、民族の神話やおとぎ話を組み合わせて作った聖典の物語の主人公のような、国民(本来は民族)の心の代表者である。主は国民に従うがゆえに、逆に国民は主に従い、主[しゅ]は国民の主[あるじ]となりえたのである。いわば、主とは民主主義社会における政治家みたいな者だ。
ヨーロッパでは、宗教が古くから始まったために、神と主の区別が十分ではなかった。
つまり、神≒モーゼで、モーゼ≒キリストだったために、神≒キリストだった。
だから、ヨーロッパ人にとっては、キリストは人間よりも上の者だったのである。
しかし、日本では、宗教が新しく始まったために、神と主とが区別されていた。
つまり、神≠神武天皇(主)だった。神と神武天皇はまったく別物である。
だから、日本人にとっては、神武天皇は人間よりも上の者ではなかったのである。
しかし、教養のない田舎者は、神と主とを混同して、神=神武天皇としていた。
それで、平安時代の頃は、政府が人間よりも上の者のような贅沢な暮らしができたのである。
しかし、明治に入って文明開化を迎[むか]えると、教養のない田舎者が減ったから、
明治以降の政府は、平安時代の貴族のような優雅な生活をすることはできなかったのだ。
だから、現代でも、日本政府が昔の貴族のように暮らすのは無理なのである。
現代では、神はオバケと同様にすでに死んでいる。つまり、“人間よりも上の者”という概念は完全にこの世からなくなってしまったのだ。天然痘ウイルスが絶滅したようなものだ。
だから、現代では誰もが“人間よりも上の者”として暮らすことはできないのだ。
ちなみに、この私は政府の嘘によって聖典の物語の登場人物と同類の者にされた者であって、神でも主でもない。ただの人間である。つまり、神≠私かつ主≠私。強いて言えば、私は偽主[ぎしゅ](pseudo−Lord)だ。だから、私を神だと考える一部の異常者しか、政府が作った私の命令に従わない。

[7494] アメリカによる神武天皇教の誤解 h21.6.9
たしかに日本人は戦争が好きだが、けっして人殺しが好きなわけではない。
日本人にも他人に対する優しさはある。
そうでなければ狭い日本では生きていけない。
日本人はアメリカ人のように自分の主義や思想をずうずうしく他人に無理やり押し付けたりはしない。
神武天皇が行動派なのは、日本人が自分で考えて自分で実行するタイプだからである。
神武天皇が他人に説教をしないのは、日本人が他人に自分の思想を押し付けたりはしないからである。[反対に、キリストや釈迦が説教するのは、ヨーロッパ人やインド人が自分の思想を他人に押し付けるタイプだからである。
いわゆる、他人に厳しいタイプだからである。それでも、正しいことを押し付けられるのなら歓迎するが、心はその人固有の物であって取替えが効かないから、心まで押し付けられるのは真っ平御免である。つまり、ヨーロッパの科学を押し付けられるのは嬉[うれ]しいが、ヨーロッパの宗教を押し付けられるのは嫌だ。]
だから、アメリカのやっていることは神武天皇教ではない。
アメリカの宗教は、神武天皇教とキリスト教を組み合わせた変なことにすぎない。
やはり、アメリカは宗教がない国と言っていい。

[7495] キリスト教と神武天皇教 h21.6.9
キリストは心が汚い。神武天皇は心が綺麗だ。
だから、日本ではキリスト教を禁止してもらいたい。
日本の女性がいくら神武天皇教に入りたくないからといって、キリスト教に入って汚い心を肯定されては困る。
だから、女性は仏教に入ればいい。そのために、日本に仏教がある。
キリスト教では人間の悪い感情を肯定する。
あんなのは宗教ではない。
キリスト教は人間の心がわかっていない。
キリスト教は人間以下の動物の宗教だ。
キリスト教はサルの宗教だ。
キリストがサルを作ったのではない、サルがキリストを作ったのだ。
しかし、ヨーロッパでは、キリスト教が劣っているぶん、科学の正しさで補っているから、それでいいのである。

[7496] 私アニメはなぜいけないか? h21.6.9
私アニメとは、私の個人情報(私が経験したことも含む)を混ぜて作ったアニメである。
私アニメは、私が『魔法少女日記』で解説をしないかぎり、他人にとっては私アニメかどうかわからない。
ところで、神武天皇の物語は、客観的に明晰判明に正しい視点から書かれている。[神武天皇自身はどうでもいい。神武天皇自身よりも、神武天皇の物語を作った作者の思想が重要なのだ。]
よって、日本人は客観的な民族だから、他人がわかるかわからないかよりも、やったかやらないかを重んじる。
インディアンが嘘をつかないように、日本人も嘘をつかないのだ。
しかも、日本人は正しさを重んじる民族だから、自他の区別を問わずまちがいを許さない。
だから、政府がまちがって宗教をやったことも許さない。
したがって、たとえいかなる形であっても、私の神制度(超能力者制度)は許されないのである。
だから、私アニメも私マンガも、その他の私の神制度によって作り出されたあらゆる物も許さないのだ。

[7497] 何の取り柄[とりえ]もない日本人 h21.6.9
今の民間会社は社員を格好のいい人間にしようとしている。
日本政府は、日本人全員を格好のいい人間にしようとしている。
つまり、日本人全部が、日本人を見かけがいい人間にしようとしている。
しかし、あちらを立てればこちらが立たずだから、自分の外見ばかりに磨[みが]きをかけている者は、頭の中がお留守になる。つまり、かっこいい者は馬鹿だ。眼がいいだけで頭が悪い。
今の日本のままでは、そのうち日本人が何の取り柄もない民族になって落ちぶれて滅びるだけだ。

[7498] キリストは主[しゅ]であって神ではない。☆ h21.6.9
キリストは、ヨーロッパの神話やおとぎ話を組み合わせて作った物語の主人公であって、ヨーロッパ人の心に従う主である。だから、逆にヨーロッパ人はキリストに従うのである。
一方、神とは人間の先天知の世界にもともと住んでいる空の上に浮かんでいる空気のように透明なおじいさんである。神は空の上にずっと浮かんでいて地上に降りて来ず、人間に話しかけたりはしない。神はずっと黙って地上の人間を見張っていて、悪いことをした人間を見つけると罰するだけである。
だから、キリストは神ではなくて、主である。
主はおとぎ話から作られるが、神は人間の先天知に最初から住んでいる。
だから、主と神はまったく別の者である。
神はおそらく全世界共通だが、主は民族によってそれぞれ違っている。
神と主が混同されたのは、どちらも人間が従わねばならない者だからである。しかし、神には無条件に従わねばならないが、主には主が民族の心に従う場合だけ従えばいい。だから、ヨーロッパ人はキリストが自分の気に入らなければ、キリストに従わなくてもいいのである。

[7499] 神が存在しないことの証明 h21.6.10
神には感覚がある。
哲学第一原理(脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する)より、感覚は脳細胞が荷うから、神には脳があることになる。
脳が生きて活動するためには身体がいる。
身体があれば空中に浮いていることはできない。
だから、神は矛盾する。
したがって、神は存在しない。
つまり、神は人間の先天知に住んでいる幻覚にすぎないのだ。オバケと同じだ。
だから、神は子供のうちだけ見えて、大人になると見えなくなるのだ。

[7500] 政府は要らない。 h21.6.10
政府は神主義の世界を作るためにある会社である。政府は神主義の世界を作るために、国民に「人間は神に従わねばならない」ことを一生懸命に教えている。
神主義の世界では、国民は政府の奴隷であり、国民は政府が作った神の命令をおとなしく聞くだけである。
つまり、神主義の世界は、政府にとっては天国だが、国民にとっては地獄である。
神とはそもそも人間の先天知にいる幻覚だから、神が人間に命令なんかするはずがない。子供は神が見えるから政府が作った神の命令に従うかもしれないが、大人は神が見えないから大人は政府が作った神の命令には従わない。
未来の人間は賢いから、「神とは一体何者か?どうして人間が神の命令に従わねばならないか?」と政府に尋[たず]ねるだろう。
政府はまともに答えられないから、政府の作った神の命令には誰も従わないだろう。


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