[6901] 東京の人 h21.3.22
仕事を真面目にやるだけで、
それ以外のことは何もできない。
[6902] 神は実在の人物ではない。 h21.3.22
神が実在の人物だとすると、たとえ神の定義がどうであれ、神は2000年に一度ぐらいしかめったに現れないものなのに、神が出現した時期が世界中で西暦0年前後と、ほぼ同じ時期に揃[そろ]うのは変である。
世界中の神の出現がほぼ同時期に揃うのは、神が架空の人物であり、一つの国で始めたことを他の国が真似たからである。神がそもそも実在しない人物だから、簡単に神を作り出すことができたわけである。
神が福祉団体が考え出した架空のマスコットキャラクターだとすると、納得が行く。
最初に発明された『マスコットキャラクター』は、今から約3600年前のモーゼであった。[たしかにモーゼのようなマスコットキャラクターがいると奴隷はその店に行きたがるだろう。今の子供がアニメや特撮番組のキャラクターが付いたお菓子やおもちゃを欲しがるのと同じことだ。]しかし、当時はまだ世界中に広がるほどではなかった。そして、今から約2000年前にキリストが発明されたとき、それを世界中の国々が真似てマスコットキャラクターと福祉団体がいっきに世界中に広まったのである。[今でもマクドナルドとかケンタッキーフライドチキンとかがあるから、昔も全国統一・全世界統一の食べ物を出す福祉団体があってもおかしくはない。今のロナルド(ドナルド)やケンタッキーおじさんがマスコットキャラクターであるように、昔はキリストが教会のマスコットキャラクターだったのだ。昔の教会では安い料理を出したり、今の映画やテレビのようにキリストを主人公としたおとぎ話を聞かせるサービスをやったりして、大勢の奴隷や乞食を楽しませた。]文化がヨーロッパと違うところでは新しいマスコットキャラクターすなわち神が生まれた。中東ではモハメットが生まれ、インドでは釈迦が生まれ、日本では神武天皇が生まれた。[洋食と和食の違いはあったにせよ、日本でも外国と同じように日本神道が奴隷や乞食に食べ物をやっていたと考えられる。だから、日本でも神武天皇のキャラクターに人気があったために、“転職”後、日本神道が容易に古事記を法律にして日本を支配することができたのである。ペットの犬に餌を与えて飼い慣らせば何でも言うことを聞くのと同じことである。]中国は、自分の国が世界の“中”心にあると信じていて他国の文化を受け入れなかったので、マスコットキャラクターすなわち神を作らなかったのである。
世界的に見れば、そもそも神とは神話の神つまり神話の架空の登場人物のことだから、キリストもモハメットも釈迦も神武天皇もその例外ではないのだ。
[6903] 福祉とは何か? h21.3.23
大昔は、みんな自分が食べていくことがやっとで他人の面倒など見る余裕のある者はいなかった。だから、その頃はまだ福祉の概念はなかった。
文明が進歩して、自分が食べていくのに余裕のある人が生まれると、余裕のある人が余裕のない人の世話をするようになった。福祉の概念の誕生である。
さらに文明が進歩して、人々が贅沢な暮らしをするようになると、自分が食べていくことができない者がほとんどいなくなった。福祉の時代は終わってしまったのである。
福祉とは、文明の発展段階の一時期に現れる社会現象にほかならない。その時期に奴隷や乞食に食わせる福祉団体が成長し、奴隷や乞食がいなくなってからは以前の福祉家が霊能者や政治家のような不合理な仕事をするようになったが、最近はみんなが合理的になったので不合理な仕事がなくなってきたということである。
[6904] どうして得意科目と不得意科目があるのか? h21.3.23
私も小学生中学年の頃までは、社会科が好きだった。ほぼ全科目が好きだった。(ただし、体育と音楽は除く。)
それが、歳が行くに連れて好きな科目と嫌いな科目の違いができるようになった。
それは、自分の心にとってテストの点を取るよりも大事なことができたからである。例えば、私の場合には、それは『合理的に・論理的に考えること』だった。そのために、私は社会科や生物学や国語が苦手だった。
歳が行っても全部の科目が得意な者がいるが、それはその人の心にとっては“テストの点を取ることが人生で一番大事”だからである。
得意科目と苦手科目があるのは、『心の分化』の仕方によって決まることなので、一度できてしまったら元には戻れない。だから、苦手科目を好きになるのは諦[あきら]めて、試験地獄が終わるまで嫌いな科目をいやいや勉強して低い点を取るのを我慢して生きていくしかない。けっして、自分が好きなこと・得意なことを大事にするのを忘れてはいけない。
[6905] 『人間の心は知覚に従属する。』 h21.3.23
まず[知覚で]正しくわかってから、心で思えということである。
例えば、宗教が何であるかを正しく理解してから、宗教に対して自分が心でどう思うかを問題にすればいいということである。
宗教が何であるかが正しくわかっていないのに、いくら宗教に対して心で思っても何にもならないということである。
[6906] 聖書は面白いか? h21.3.23
普通の人の目から見ると聖書はつまらないが、乞食の目から見ると聖書の話は面白い。
教会で聖書の話を聞いた乞食は、『フランダースの犬』のルーベンスの絵を見たネロのように、涙を流して喜んだにちがいない。[『フランダーズの犬』のネロや『新約聖書』のキリストやバハーイー教のバハーウッラーの話のように、ヨーロッパ人や中東人は悲劇が好きなのだ。一方、日本人は『古事記』の神武天皇のような、苦しい戦いの末に勝利を勝ち取る少年マンガの黄金パターンが好きなのだ。日本人は、客観的な明るく楽しい話も好きである。ちなみに、『カルピス世界名作劇場』の『フランダースの犬』や『あらいぐまラスカル』の絵が地味なのは、私が悲劇やペットが好きではないからである。]
しかし、今は乞食がいない。
だから、聖書の話を面白いと思う者もいない。
[6907] キリストは盲[めくら]の少女を治したか? h21.3.23
聖書には、キリストが手で触っただけで盲の少女を治した話がある。
普通の人にとってはつまらない話だが、盲の人にとっては面白い話なのだろう。
しかし、本当に手で触っただけで盲が治るわけがない。いくらなんでも、手術をしないと治らない。
聖書のキリストの話は、『手で触っただけで盲が治ればいいのになあ〜』という盲の人の気持ちを素直に表したお話なのである。
だから、聖書の話を聞いたからといって、病気が治るわけではない。
[6908] 信者とは何か? h21.3.23
信者とは宗教団体のサービスを受ける人である。[宗教団体のサービスをする人は衆務員[しゅうむいん]である。(衆務員が公務員のように給料を貰[もら]っているかどうか私は知らないが。)]
宗教の信者とは、乞食や病人である。
乞食は日本政府に申請すればお金が貰[もら]えるし、病人は医者にかかって病気を治してもらえばいいが、今でも宗教には乞食や病人の『心の支え』としての役割りがあるのである。[キリスト教ではそれが如実[にょじつ]に表れている。日本神道の神武天皇の話には乞食に食べ物を恵んだり病人を治す話は出てこないが、日本神道が昔福祉活動をしていたことから、今でも日本神道を『心の支え』にしている人はいると考えられる。]
しかし、今では日本国民の大部分は乞食でも病人でもないから、日本国民の大部分は日本神道の信者ではない。
だから、日本神道が日本国民全員を日本神道の信者と見なすことはまちがっている。
日本国民は、日本政府の『警護[けいご]サービス』を受けるために日本政府の国民になっているのであって、日本神道の『心の支えサービス』を受ける信者ではない。
『心の支えサービス』は贅沢[ぜいたく]なサービスだから、日本神道の『心の支えサービス』を受けたい人は、個人的に日本神道にお金を払って受けるようにすればいい。
[6909] なぜ神は田舎[いなか]の生まれなのか? h21.3.23
キリストはヨーロッパの片田舎のイスラエルの生まれだし、釈迦はエベレスト山の麓[ふもと]のネパールの生まれだし、神武天皇は九州の宮崎県北部の高千穂町の生まれだし、私は四国の高知県高知市の生まれである。
神はどれも田舎者だ。[小説『電車男』←田舎男←田舎者←私が高知県高知市の生まれ。]
神が田舎者なのは、田舎がどんなところかわからないから、話を聞いた人が自分の好きなようにイメージしやすいからである。
日本の昔話の出だしの『昔々あるところに〜』の“あるところ”と同じことである。
[6910] タロス星の幻怪人 h21.3.23
『スタートレック(宇宙大作戦)』第25,26話「タロス星の幻怪人」では、ミスタースポックがエンタープライズを乗っ取りクルー全員をタロス4号星に連れて行き、そこで人々に“まるで現実のような幻覚”を見せる不思議な能力を持った異星人がいることを示した。
ジーン=ロッデンベリーは、将来私(ミスタースポック)が宗教や宗教家(幻怪人)の正体を暴[あば]くことを予言していたのだ。
最後までエンタープライズの軍法会議室に座っていたメンデル准将[じゅんしょう]が、神なのだ。
カタワになったビーナやパイク大佐が信者のことだ。[口をきけなくなったパイク大佐の乗り物がNOで2回ランプが光るのは、私の名前が川野延夫[かわののぶお]で“の”が2つあるからである。]
[日本の脚本家は、ジーン=ロッデンベリーを見習って、もっと国民主権の視点からまちがったことをやっている教団や政府を批判する話を書かねばならない。宗教家や政治家の言いなりになって神を題材にした話を作ったり、現実から逃避する話を作るだけではいけない。]
[6911] 心の支えサービス h21.3.23
現代では、病人の身体の面倒は医者が見て、病人の心の面倒は宗教が見ることになっている。
普通の病気では心の面倒まで見る必要はないが、病気によっては見なければならないこともある。
そんな人はかわいそうだから、政府が補助費をつけてやって、民間の宗教団体で『心の支えサービス』を受けてもらうようにすればいい。[民間の宗教団体のやっている『心の支えサービス』とは、具体的には一体何をやっているのだろう?(麻薬や覚醒剤を売っているのだろうか?)民間の宗教団体の『心の支えサービス』の料金は一体いくらぐらいするんだろう?]
[6912] 政治家だって馬鹿親父 h21.3.23
政治家は、心の面倒まで見ないといけない病人なんか、どうせ自殺し損ねた馬鹿息子や馬鹿娘ばっかりだから、そんな奴の面倒なんか政府が見てやらなくてもいい、自分の小遣[こづか]いでやれと思っているに違いない。
しかし、そう言う政治家だって、架空のおとぎ話で実在の国を動かすふざけた不合理的な仕事をやっている馬鹿親父[ばかおやじ]である。
馬鹿親父が馬鹿息子を馬鹿にはできない。
[6913] 国会議員に他人を裁[さば]く資格があるか? h21.3.23
日本の国会議員は、架空の神武天皇を実在の人物だとして、空想のおとぎ話の古事記を日本の法律にして実在の国を動かすふざけた不合理的な仕事をしている。しかも、古事記の解釈が嘘ばっかりである。
国会議員がペテン師なのに、国会議員の作った法律で国民が罰せられるのはおかしい。
ペテン師の国会議員に他人を裁[さば]く資格はない。
不合理的な人間が国会議員になってはならない。合理的な人間が国会議員にならねばならない。
[6914] 国会議事堂の正面入り口にあるモニュメントの解釈その2 h21.3.23
1階が国民で、2階が政治家で、3階が神(古事記の主人公)である。
1階が国民なのは、国会議事堂の本館が横に平べったく伸びていて、大勢の国民を表していると考えられるからである。
2階は、国民の上にあるから政治家である。日本の政治家は、古臭い宗教政治の政治家であって、空想の作り話である古事記を日本の法律にして実在の日本を動かす不合理な仕事をしている。
3階は、政治家の上にあるから神である。しかし、神は架空の人物だから、ペシャンコに潰れているのである。
[6915] 政府は国の意思決定機関ではない。 h21.3.23
国の意思を決めるのは国民全体である。政治家だけで国の意思を決めることはできない。
政府は国民に『警護サービス』をする会社である。だから、政治家が国民の上にいるわけではない。
政府は国民の後[あと]から付いてきて、国民の生活を守るために法律を定めて、その法律を国民全員に守らせるようにすればいい。
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[6916] 女は馬鹿である。 h21.3.23
女は馬鹿である。なぜなら、自分を美しいと思っているからである。女は自分の外見にとらわれているから、頭(知覚)が働かないのである。[つまり、女が頭が働かないのは、自業自得である。男のせいじゃない。]
女は自分を美しいと思っているから、やるべきことをやらないし、やらなくていいことをやろうとする。
女は自分を美しいと思っているから、人生の道を誤ることになる。
そもそも美しさは五感の上だけにあるのであって、実在しない概念なのだ。
女がどうしても自分の外見にとらわれて頭(知覚)が働かないというのなら、眼で見て手を動かす才能を鍛えて伸ばせばいい。
女が馬鹿なのは、頭が働く男と眼が働く女とで縄張りを分けているからだ。男と女は機能(役割り)を分担しているのであって、『人間全体が一つの生き物である』という視点に立って、男が女を卑下してはいけない。
そもそも男と女は比べるものではない。男は男として、女は女として優[すぐ]れていることが大事なのだ。
女の子はお人形を抱いて喜べる人種だから、男が女の気持ちなんかわかるはずがない。
しかし、いくら女が外見にとらわれているからといって女をいじめてはいけない。誰も、自分が女に生まれてきたくて生まれたわけではないからだ。
[6917] 男の生き方 h21.3.23
芸能人は、自分の評判ばっかり気にかけている嫌な連中だ。
他人に自分をよく思われたいなんて、それでも男の生き方か!?
男の生き方は、ただ正しいだけだ。
厳密に言うと、正しい上に楽しくやることだ。
[6918] 国民健康保険について h21.3.23
医者は国民に『医療サービス』をする仕事である。
国民は一生に100回は医者にかかる。
だから、国民健康保険は自分が将来医者にかかるときの積み立て貯金と見なすことができる。
他人のためではない、自分のために払うのだ。
したがって、国民健康保険を払うのは当然であると考えられる。
[それにしても高すぎる。もっと安くならないものか。どうせ貧乏人は長生きしないから、その分保険費用をまけてくれないだろうか?私はタバコを吸わないから、その分保険費用を安くしてくれないだろうか?]
[6919] 聖典は世界の計画書ではない。 h21.3.24
もしも、聖典が世界の計画書だとしたら、
キリスト教の国では、乞食と病人だらけになる。
だから、世界のどこの国もキリスト教をやらないはずである。
しかし、実際には、キリスト教をやっている国があるから、聖典は世界の計画書ではないのである。
聖典は、現在の科学知識や法律に従って解釈され、現在の科学知識や法律に従う範囲内で実施されるだけである。
だから、新しく宗教を始めても何にもならない。例えば、バハーイー教は無駄である。
[6920] 今後は宗教は儲[もう]からない。 h21.3.24
これまで宗教が儲かったのは、宗教に入ると他人よりも上になったからである。
しかし、今後は宗教が『心の支えサービス』を提供するサービス業になったから、
宗教に入ったからといって他人よりも上にはならないから、
もはや宗教に入る者もいない。
だから、宗教は儲からない。
[6921] 警察官は正義の味方ではない。筋肉馬鹿だ。 h21.3.24
警察はただ居るだけで何の仕事もしていない。
警察は『警護サービス』をする会社の社員ではない。
警察はただの政治家の飼い犬だ。
警察署に餌[えさ]になる生ゴミでも放り込んでやればいい。
この前子供がいたずらして近所の川に発砲した警官の事件があった。[川←川野(私の姓)]
その一発は政治家や宗教家の頭にめがけて撃てばいい。
それか、飼い犬は飼い主に似るというから、自分の頭にめがけて撃ってもよかった。
[6922] ノーベル賞に権威はない。 h21.3.24
最近のノーベル賞は、私の超能力者制度で受賞者を決めている。
例えば、[Wikipedia「ノーベル賞」参照]
1965年の朝永振一郎(朝永←朝←朝倉←高知市朝倉(私が中学3年生まで住んでいた所)。つまり、朝永振一郎とは、私が永遠に振るう(栄える)という意味である。3人で受賞したのは、私の名前(川野→川→三→3)を入れるためである。)
1968年の川端康成[かわばたやすなり](川端←川←川野(私の姓)、私が小学4〜5年生の頃、向かい隣の浅野耕太君の西隣に住んでいた独り暮らしのおばあさんがガスで自殺したことがあった。)
1973年の江崎玲於奈[えさきれおな]の『トンネル効果』(家の近所に荒倉トンネルがあった。私が子供の頃、江崎グリコのキャラメルとかチョコレートをよく食べていた。)
1974年の佐藤栄作『非核三原則』(核←カク←カノフ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)、三原則←三←川←川野(私の姓)、やはり核は核兵器のことで、私が子供の頃から戦争好きではなかったため。『非核三原則』とは、“核ではなく三を原則とする”ことであり、核とは丸い玉だから神武天皇のことであり、三とは三本川の川野の私のことであり、したがって非核三原則とは戦争の神である神武天皇よりも平和の神である?私に従ったという意味である。しかし、悪いのは神武天皇ではなくて、神武天皇のおとぎ話を曲解した日本政府のほうだ。日本政府は卑怯[ひきょう]である。)
1981年の福井謙一『フロンティア軌道理論』(私が中3から九大医学部に合格するまで高知市“福井”町1721の91に住んでいた。当時もこのことがちょっと気になっていた。フロンティア←F←ふ←ぶ←延夫[のぶお](私の名))
1987年の利根川進(私が和田君といっしょに日本を旅行したとき、東京では柴田直彦君の下宿に泊まったが、そのとき筑波大学の前田誠一君に会うために筑波大学まで行ったことがある。結局大学校舎に入っただけで会えなかったが、電車で行く途中“利根川”につながる霞ヶ浦が見えた。当時もちょっと気になっていた。)
1994年の大江健三郎の『万延元年のフットボール』『燃え上がる緑の木』(万延元年←延←延夫(私の名)、フットボール←F←ぶ←延夫、燃え上がる←私は子供の頃弟と喧嘩[けんか]するときすぐにカッと来て燃え上がる性格だった、緑の木←グリーンのキ←グノキ←ノブノキ←ノブノ川(キの分解)←川ノノブ←川野延夫(私の名前)、『万延元年のフットボール』の“全裸でキュウリを肛門に突っ込んだまま縊死して自殺する”も、私のネタを組み合わせただけだ。当時は私が九州大学理学部物理学科3回生の頃で、大江健三郎が受賞したことは知っていた(じつは開高健と誤解していた)が、それ以上詳しいことは知らなかった。)
2000年の白川英樹の『導電性高分子』(白川←川←川野、導電性高分子は当時私が着ていた作業服にも導電性高分子が使われていた。当時は気付かなかった。)
2001年の野依良治[のよりりょうじ](野依←川野に依る)
2002年の小柴昌俊[こしばまさとし](小柴←小←川←川野、ニュートリノ←N←延夫)
2002年の田中耕一『生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発』(田中←田中邦明[たなかくにあき]君(私とみその学舎から?高知学芸中学高等学校を経て高知大学理学部数学科2回生の前期までいっしょだった。)、高分子←高←高知、分子←ぶ←延夫)
2008年の小林誠と益川敏英[ますかわとしひで]『対称性の破れによるクオーク世代の予言』(対称性の破れ←私はうまれたとき斜頚だったので顔が左右非対称である。破れ←ぶ←延夫、クオーク←1964年にマレー・ゲルマンとジョージ・ツワイクがクオーク模型を提唱した←1964年は私のうまれた年、小林←小←川←川野、益川←川←川野)
2008年の南部陽一郎『自発的対称性の破れ』(対称性の破れ←同上、南部←南国土佐←私が生まれ育った所)
2008年の下村脩[しもむらおさむ]『オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見』(クラゲ←クラノブ←暗い延夫(私は性格が暗い)、緑色←グリーン←グ←ノブ←延夫、タンパク質←プロテイン←プ←ブ←延夫)
などがある。
つまり、私が生まれる前に受賞した1949年の湯川秀樹以外は全員私の超能力者制度によるものである。私が生まれた後の1965年の朝永振一郎以降は以前に比べてノーベル賞受賞者が格段に増えている。以上は日本の受賞者だけだが、外国の受賞者についても同じようなものだろう。
ところで、超能力者制度はまちがっている。なぜなら、超能力者制度は、古事記に対するまちがった解釈によってできた制度だし[神の定義を実在の超能力者あるいは身近で不思議なことが起きた実在の人とすることがまちがっている。神とは、昔福祉団体が始めたおとぎ話サービスのおとぎ話の主人公である。だから、神は架空の人物である。]、そもそも架空の作り話の古事記で実在の世界を動かす宗教政治自体が不合理的でまちがっているからである。[おとぎ話で動かせるほど現実は甘くはない。]
だから、超能力者制度でノーベル賞受賞者を決めることもまちがっているから、今後はノーベル賞に権威はない。
要するに、ノーベル賞は私の駄洒落[だじゃれ]で賞をやっているだけである。そんな馬鹿げた賞に権威があるわけがない。
[6923] 受験戦争、競争社会 h21.3.24
神武天皇のおとぎ話の世界が現実となったものが受験戦争や競争社会(仕事戦争)である。
神武天皇のおとぎ話の世界では、毎日戦[いくさ]をしなければならないからである。
しかし、おとぎ話は話として聞くのが面白いのであって、それを実際にやることが面白いわけではない。
おとぎ話の使い道をまちがえている。
それに、神武天皇の話は戦争好きの人間を“平和”を願う気持ちに変える話であり[鳥居の形は平和の“平”の字である。]、国民に戦争をさせるための話ではない。
だから、神武天皇のおとぎ話を日本の法律にして、日本を受験戦争や競争社会の国にしてはいけない。[おとぎ話の教訓的部分は実行してもいいが、それ以外の部分は実行してはいけない。しかし、紛らわしいから、念のためにまちがいが起こらないように、最初からおとぎ話を法律にしないほうが無難である。]
[6924] 私の弟はなぜ登校拒否だったのか? h21.3.24
私は小さい頃から弟と仲が悪くて、しょっちゅう家の中で弟と喧嘩していた。
だから、私の超能力者制度でみんなが弟を保育園や学校でいじめたから、弟が登校拒否になったのかもしれない。
そもそも学校はあまり楽しいところではないから、ちょっと嫌なことがあると子供はすぐに行きたくなくなるものだ。
小学高学年の頃から弟は学校に行かなくなり、その後は家の中に閉じこもってばかりいて、27歳の頃に白血病にかかって29歳で死んだ。[癌細胞は光や熱に対して普通の細胞よりも若干弱いから、光や熱(お風呂)を適度に浴びると癌細胞が殺されるのかもしれない。]
[6925] 人間は合理的な生き物である。 h21.3.24
人間が肺で息を吸って心臓で血を巡[めぐ]らしていることは、誰にとっても変わらない。
それと同じように、人間が合理的な生き物であることも誰にとっても変わらない。
“政治家がおとぎ話を法律にして人々を支配している不合理的な世界”はやむを得ない事情でできてしまったのであって、人間は誰もそんな世界を本心から望んではいない。
つまり、昔奴隷や乞食を客にして安い料理を食わせたり病気を診たりおとぎ話を聞かせたりして合理的な仕事をしていた福祉団体が、文明が進歩して奴隷や乞食がいなくなったために“おとぎ話を法律にしてすべての人々を支配する不合理的な仕事”をするようになりこの世が不合理的な世界になってしまったが、最近は科学教育が普及して人々が再び合理的になりこの世から不合理的な仕事をなくしてこの世を合理的な世界にしようとしているのである。
人間は本来合理的な生き物であり、それが一時的におかしくなっていただけである。
[6926] 世の中には不合理的な人間もいる。 h21.3.24
世の中にはヤクザのように不合理的な人間もいる。
しかし、それは例外者であって、人間本来の姿ではない。
特に、政治家(つまり、『警護サービス会社』の幹部)のような要職に就く者が不合理的な人間であることは許されない。
だから、架空と実在の区別もつかない不合理的な人間は、もっと下の仕事に就かねばならない。
[6927] 天皇は公務員である。 h21.3.24
天皇は、名前こそかっこいいが、王と呼ぶほどいい待遇ではない。
それは、天皇が総理大臣や国会議員と同じように日本政府に勤める公務員の一人だからである。
天皇は神武天皇の子孫の役を演じている特殊な公務員である。
[6928] 日本神道と日本政府の関係 h21.3.24
日本神道と日本政府は同じ団体である。
つまり、今の日本政府の前身が日本神道である。
昔は奴隷や乞食相手の福祉団体であった日本神道が、古事記を法律として使うことによって客を奴隷や乞食から日本人全員に広げて日本政府になったのである。つまり、日本神道の呼び名が変わって日本政府になったのである。日本神道は日本政府の昔の名前である。[衆務員が公務員になったのである。]福祉団体の客が信者であり、日本政府と日本神道は同じものであり、日本政府の客は日本国民全員だから、日本国民はみんな日本神道の信者である。政府が聖典を法律にしている宗教政府の場合、政府の国民と宗教の信者は同じものなのである。
日本を支配した日本政府は、さらに古事記の解釈を変えて、日本を天皇家を王とする中央集権国家に変えて、軍事国家に変えて、最後に超能力者制度の国にしようとしたのである。
今の日本政府は古事記を法律にして不合理的な政治をしている宗教政府だから、早く国民に『警護サービス』や『福祉サービス』を提供する政府と[『心の支えサービス』は福祉サービスに入れることにする。]、神武天皇の話や新作の話を客に聞かせる『おとぎ話サービス』をする宗教に分かれて、それぞれ合理的な仕事をするべきである。
[6929] 私にちょっかいを出した者たちは何なのか? h21.3.24
日本神道は日本政府になった。日本神道は結婚や葬儀のサービスをしないから、全員日本政府になったのである。
私の両親や妹や親戚や家の近所の友達や塾や学校の友達や家の近所に住んでいる人や通りすがりの見知らぬ大人や外人や子供や私と同じ職場の先輩や同僚たちは、これまで私にいろんなちょっかいを出し続けてきた。
私にちょっかいを出した者たちは、私の超能力者制度でやっていて、超能力者制度は古事記の解釈によるのだから、つまり日本政府の指図で動いていたのである。つまり、私にちょっかいを出した者たちは、ただの国民だったのである。
しかし、今は国民主権の時代だから、政府がやるからといって何でも正しいわけではない。
たとえ政府の指図でも、自分で正しいか正しくないか、やるべきかやるべきでないかを判断してから、自分が正しいとやるべきだと思ったときだけやることにしなければならない。
日本政府の不合理的な仕事に協力したのなら、この世を不合理的な世界にしようとしている者の一人ということになるから、合理的な世界を作ろうとする者たちから攻撃されても仕方がない。
[6930] 政府の仕事 h21.3.24
『警護サービス』は、国民全員が加入しなければならない。
しかし、『福祉サービス』は、それを受ける者が乞食や病人など一部の国民に限られている。
しかし、人間にとって弱い者に対する優しい気持ちは大切である。
だから、『福祉サービス』は、やはり政府の仕事である。
『警護サービス』は、人間の自分自身を大切にする気持ちを満足させるサービスであるといえる。
[6931] よくわからない文章 h21.3.24
Wikipediaの今の政府の仕事に関する文章を読んでみると、よくわからないことばかり書いている。
それは、聖典を法律として使っている古い不合理的な宗教政府の概念によっているからである。
他人の文章を書き写す者は進歩しない。
自分の眼で見て自分の頭で考える者でなければ進歩しない。
現状があーだこーだ言うのは、どうでもいい言い訳である。
理論的に正しいことがすべてである。
[6932] ドン=キホーテ再考 h21.3.24
ドン=キホーテの有名なくだりは、政治家が宗教家になったということである。
つまり、それは、日本では明治維新に対応する。
ヨーロッパでは巨人が風車になったように、日本では刀が菊になったということである。
つまり、ドン=キホーテがいた頃(西暦1600年頃)に、ヨーロッパでも幕府が宗教団体に乗っ取られたということである。
[6933] 天使の輪っか h21.3.25
天使の輪っかの元ネタは、内暈[ないうん]だ。
キリストの頭の輪っかも、内暈である。
キリストを太陽に喩えているのである。つまり、頭に輪っかの付いたキリストを神とすることは太陽を神とすることであり、太陽を神とすることは自然を神とすることであり、自然を神(人間が従うべき者(擬人化))とすることは自然科学にほかならない。
[6934] 政治家は偉いか? h21.3.25
今の日本の政治家は、古事記を法律に使っている宗教政治の政治家である。日本国憲法は古事記を元[もと]にして作られているので、日本国憲法を法律にすることは古事記を法律にしていることと同じである。
ところで、古事記はおとぎ話であり、おとぎ話を法律として使うことは空想と現実を同一視することであり不合理的でまちがっている。
そんな簡単なことに気付かない政治家は馬鹿である。
だから、政治家は偉くない。
[6935] 日本神道は生き残れるか? h21.3.25
いまや宗教は、客におとぎ話を聞かせる『おとぎ話サービス』をする会社である。
キリスト教は世界中に支店を持つ世界企業である。キリスト教の信者は神父のおとぎ話を聞くために、毎週教会に通うのである。おとぎ話の『イソップ物語』に教訓が含まれているように、おとぎ話の『聖書』にも教訓が含まれているから『聖書』の話はためになるのである。
一方、日本神道は日本にしか店がないローカル企業である。しかも、薄っ平[ぺら]い神武天皇の話しかない。
しかし、中津風唐揚げがケンタッキーフライドチキンに勝ったこともあるから、日本だけに限れば日本神道がキリスト教に勝てないこともない。
それにしても、昔教会でおとぎ話をしたのは、当時はまだ本が高くて貧しい乞食や病人には高価な本を買って読むことができなかったからである。それで、自分が本を買って読む代わりに安いお金を払って神父から話を聞いたのである。しかし、今は本が安く手に入るし本が買えないほどの貧乏人はいないから、わざわざ教会に通って話を聞く必要はないはずである。だから、毎週教会に通って神父の話を聞いてる信者は、自分が何をしているのかわかっていない連中である。宗教や聖書が何であるかがわかっていないから、そんな馬鹿げたことが平気でやれるのだ。つまり、信者は自分が馬鹿だと言っているようなものだ。ニーチェも言ったように、教会に通って聖書の話を聞いているとだんだん心が奴隷や乞食や病人になっていく。毎日遊園地で遊んでいるうちにロバになったピノキオと同じだ。教会に通う暇があったら、他の本を読んで現代的な教養を身に付けたほうがいい。
[6936] キリストは空中からパンを出したか?[[6907] キリストは盲[めくら]の少女を治したか?
h21.3.23を参照。] h21.3.25
聖書には、キリストが空中からたくさんパンを出して、飢えている人に与えた話がある。
普通の人にとっては面白くはないが、毎日腹を空[す]かせている乞食にとっては面白いのだろう。
しかし、本当に空中からパンを出せるはずがない。そんなことをすれば、『エネルギー保存の法則(E=mc2)』に反してしまう。
聖書にあるキリストの話は、『腹いっぱいパンが食べたいなあ〜』という貧しい乞食の気持ちを素直に表しただけである。
だから、いくら聖書の話を聞いたからといって、お腹が満たされるわけではない。
[6937] 日本人はエッチがサマにならない。 h21.3.25
政治家は空想と現実の区別が付いていない馬鹿である。
政治家が馬鹿なのは、政治家がエッチだからではない。
政治家はエッチがやりたかったが、ブ男のためにエッチすらやれなかったくだらない連中だ。
日本人にはハンサムや美人がいないから、エッチがサマにならない。
エッチがサマになるのは、いい身体をしているヨーロッパ人や中東人だけだ。
ヨーロッパは昔はエッチしか娯楽がなかった国だったが、自分達の腑抜[ふぬ]けた根性を科学でたたき直したのだ。日本が昔は戦争ばかりしていた国だったが、自分達の戦争好きな心を神武天皇の話でたたき直したのと同じことだ。[ヨーロッパ人がエッチだったのは、ヨーロッパは寒いところなので、冬場は外で遊べず家の中に閉じこもってエッチ以外にすることがなかったからである。エッチな人は五感的であり、科学は五感を知覚で捉えることだから、エッチな人が科学を勉強すると知覚的になるのである。つまり、眼でしか物を見ない五感欲の強い人が科学を勉強するとだんだん知覚や知覚欲が働くようになるのである。キリスト教は科学が生まれる前のヨーロッパで出来たから、聖書の話には昔のヨーロッパ人の[うわべだけは上品だが]馬鹿でエッチなセンスが濃く染み込んでいる。聖書だけ見ていても、ヨーロッパ人がエッチ馬鹿であることはわからないが、『文化全体』を見るとそれがわかる。つまり、ヨーロッパ人はもともと馬鹿だったのである。それが自然科学の話で急に賢くなったのだ。]
だから、政治家が馬鹿なのは、他に原因がある。たぶん、おとぎ話の主人公にすがって自分もみんなに偉いと思われたかったからだろう。不合理なことをやろうとするから知覚が働かなくなって馬鹿になったのだ。要するに、生き甲斐の問題だ。
[6938] 平和教育 h21.3.25
日本人には、戦闘民族の血が流れている。[日本人の顔がその証拠である。]
日本は放っておくとひとりでに戦争を始める国である。
だから、何らかの形で『平和教育』をしなければならない。
例えば、小学校の国語で神武天皇の話を勉強させなければならない。ただし、子供が神武天皇の話の意味を誤解しないように、平和主義を明確にした文章にしなければならない。それから、神武天皇が架空の人物であることもしっかり教えておかねばならない。[国語は心の教育である。]
[6939] 政治家の言葉 h21.3.25
政治家は利口だから曖昧に話すのではない。
政治家は馬鹿だから曖昧にしか話せないのである。
政治家は自分が他人から偉く思われたいために、知覚を捨てた男だから馬鹿なのである。
[6940] 王とは何か? h21.3.25
神とは、人間が逆らうことのできない強い力を持った者のことである。
だから、古来より人間にとって自然は神であった。
王とは、自分自身を神とする者である。
日本の政治家は、神武天皇を神として自分はそれに従うだけである。
日本人は、あまり他人の上に立つのが好きではないので、自分自身を神にしないのである。
日本人は自分を神とするほどの自信がないので、他人を神にして自分はそれに従うのである。
[6941] 人数が多いだけでは駄目 h21.3.25
人数が少ない集団よりも多い集団のほうが強い。
しかし、人数が多いだけでは駄目である。
いくら人数が多くてもまちがっていたらいけない。
たとえたった一人でも正しい者が勝つのである。
[6942] アニメ監督とは何か? h21.3.25
アニメ監督とは、子供のための動く紙芝居を作る人である。動く紙芝居を作る集団のリーダーである。
だから、アニメにとってお客は子供である。
だから、子供のためにアニメを作ればいい。
国民の『警護サービス』や『福祉サービス』をする会社である日本政府のために作らなくてもいい。
[6943] 警護サービスの代金について h21.3.25
年間の犯罪発生件数に犯罪者一人当たりにかかる平均の費用をかけて、それを国民全部で分担すればいい。
そんなに高くならないはずだ。警護サービスは設備投資にそんなにお金をかけなくてもいいから安くできるはずだ。
同じように、福祉費も、福祉サービスを受ける者の人数に平均の費用をかけて、それを国民全員で分担すればいい。
そんなに高くないはずだ。
[6944] 人間の心は知覚に従属する。 h21.3.25
人間の心は曖昧[あいまい]で変わりやすい。
例えば、日本人の心は、戦争好きかと思えば平和を願ったりする。
ヨーロッパ人の心は、エッチ馬鹿かと思えば真面目に研究したりする。
人間の心は“ちょっとのこと”で正反対になる。
その“ちょっとのこと”が知覚なのである。
つまり、日本人に神武天皇の話をちょっと聞かせるだけで平和を願うようになり、
ヨーロッパ人に自然科学の話をちょっと聞かせるだけで真面目に研究するようになる。
それと同じように、私の哲学日記に書いてあることをちょっと読んだだけでも、ずいぶん人の心は変わるはずである。物の見方も変わるはずである。例えば、政治家や日本政府を客観的に理解しながら見れるようになる。
平和の喜びは戦争の喜びよりも大きいから、ひとたび平和の喜びが手に入れば、もとの戦争の喜びが嫌になる。[受験戦争で他人と競争して勉強する喜びよりも、自分ひとりだけで考える喜びのほうが大きい。]
考える喜びはエッチ馬鹿の喜びよりも大きいから、ひとたび考える喜びが手に入れば、もとのエッチ馬鹿の喜びが嫌になる。
それと同じように、政治家がわかる喜びは政治家がわからない喜びよりも大きいから、ひとたび政治家がおとぎ話の古事記を日本の法律にして不合理な仕事をしている馬鹿だとわかる喜びが手に入れば、もとのわけもわからずに政治家にペコペコ頭を下げる喜びが嫌になる。
[6945] どうしてデカルトは天才だったのか? h21.3.26
ヨーロッパはもともとエッチ馬鹿の天下だった。
言葉の意味も曖昧なままで、だらだらといたずらに考えて時間を無駄にするだけだった。
みんなはエッチ馬鹿の教授の書いた本をありがたがって一生懸命勉強して自分も教授と同じエッチ馬鹿になっていた。
しかし、小さい頃から自然そのものを見て育ったデカルトには、エッチ馬鹿の教授の書いた本が嫌だった。それで、エッチ馬鹿の教授の書いた本を読まなかったので落ちこぼれになった。
その後、デカルトは、他人の本を読むのを一切やめて、自分ひとりで全部最初から考え直した。
それで、デカルトの書いた本には“自分で一[いち]から考える気持ち”がこもっているのである。
デカルトの本を読んだ人々は、デカルトと同じように自分で一から考えるようになった。
それで、今のヨーロッパの人々は、考える気持ちが強いのである。
[6946] 日本人は王が好きじゃない。 h21.3.26
日本の神道がそもそも八百万[やおよろず]の神を崇[あが]める多神教であったことからわかるように、日本人は一神教の王制が好きじゃない。[日本神道は最初の頃は、神武天皇の話以外にもいろんな日本の神の話を客に聞かせていたに違いない。だから、神武天皇の話は少ししかないのである。つまり、日本人は昔から、人間の心にはいろんな感情があることを知っていたのである。神は、人間の心の中にある感情を擬人化した者である。]
だから、八百万の神の中で神武天皇だけを重んじた中央集権制の天皇制なんか好きじゃない。
日本人は王制が嫌いだから、いくら日本政府が望んでも、日本ではヨーロッパみたいな“絶対王政”なんかやれっこない。中途半端な王制(つまり、天皇制)をいつまでもダラダラと続けているだけだ。
それなら、いっそのこと日本政府は天皇制をやめてしまえばいい。そのほうがすっきりして気持ちがいい。
日本に『警護サービス』の会社があれば、日本を『地方分権で平和な国』にできるはずである。
[6947] 天皇は馬鹿 h21.3.26
人間は、子供のうちは他人の言いなりになるのは仕方がないが、
いい歳したら自分の考えを述べることができねばならない。
しかし、天皇はいつまでたっても政府の言いなりで、自分の考えを一言[ひとこと]も述べようとしない。
それもそのはず、天皇は日本政府の公務員の一人にすぎないからである。
天皇は神武天皇の子孫の役を演じる役者にすぎないので、それ以外の時には台詞[せりふ]がないのである。
[意外に、電車に乗って自宅に帰ってたりなんかして。]
[6948] 科学はどのようにして発展するか? h21.3.26
実在的概念ができれば、科学は急速に発展する。
実在的概念ができれば、それを組み合わせて実在の世界が書けるので、実在に関する知識が急激に増える。
実在的概念は、実在に関する観察と思考によって作り出される。
[6949] 超能力者制度は超能力者の命令を聞く制度ではない。 h21.3.26
私は、母校の高知学芸中学高等学校に恨[うら]みはない。
それなのに、高知学芸高校列車事故事件が起きた。
だから、超能力者制度は超能力者の命令を聞く制度ではない。威張りんぼの超能力者のわがままな命令に国民がおとなしく従わねばならない制度ではない。[それはたんなる空想のイメージであって、実際に見て知っているわけではない。]
私が医学生の頃に帰省したとき、私の父親が私といっしょにお酒を飲んだとき「ばったり行った」(つまり、台無しになった)と言って、私を高知学芸中学高等学校にやったことを後悔していただけで、高知学芸中学高等学校に対して恨んではいない。[私が高知学芸中学高等学校に行ったことは私も悪いが、私の親も悪い。私が進学校に行ってニヤニヤするタイプの人間ではないことぐらい、親にわからないものだろうか?進学校はボンクラやガリ勉馬鹿の行くところであって、自分で考えるのが好きな人間の行くところではない。]
それに、私の父親と私とは別人だから、いくら私の父親が高知学芸高校に恨みがあったとしても、父親の命令を聞く必要はない。
だから、高知学芸高校列車事故事件は日本政府の政治家が勝手に起こした事件である。日本政府の政治家が、私の超能力者制度を使ってつまり私の個人情報や私が経験したことを組み替えて自分の好き勝手な命令を作って中国の国民に実行させることによって起こした事件である。[[6446] 神制度の仕組み☆ h21.1.26を参照。[6446]の表の上半分と私が子供のころに“16パズルで遊んだ”ことや“他人に命令した”ことなどを使えば、政治家が私の個人情報や私が経験したことを組み替えて自分の好き勝手な命令を作ることができる。つまり、まず古事記から『超能力者(つまり、身近で不思議なことがあった者)に人間が従わねばならない』、つまり超能力者の命令を人間が聞かねばならないことになる(じつは、誤解であるが)。超能力者に伝言ゲーム(8人ぐらいの生徒が列になり、先生が一番前の生徒に自分が紙に書いた50字ぐらいの言葉を見せる。生徒は、前の生徒から聞いた言葉を小さい声で耳打ちして次の生徒に順番に伝えていく。最後の生徒は自分が聞いた言葉を前に出て黒板に書く。先生が自分が教えた言葉を読み上げる。たいてい、最後の生徒が書いた言葉と先生が教えた言葉が違っている。)をさせることによって、超能力者が「自分と同じことをしろ」と他人に命令したことになる。[私は伝言ゲームの最後の人ではなかった。]それで、政治家が超能力者と同じことをすることができる。超能力者が親や先生などの上の者の言うことを聞かないつまり超能力者が上の者に従わないことがあると、政治家も上の者に従わないことができるつまり政治家が私に従わないことができる。だから、政治家が自分が都合のいいときだけ超能力者に従って超能力者と同じことができ、都合が悪いときには超能力者に従わず超能力者と同じことをしなくてもいいようにできる。超能力者が学校で他人に命令することがあると、政治家も他人に命令することができる。超能力者が生徒会で自分が書いたことを他人にやらせることがあると、政治家も超能力者が書いたことを他人にやらせることができる。超能力者が絵日記を書くことによって、政治家が超能力者の個人情報や超能力者が経験したことを他人にやらせることができる。超能力者が自分のノートに他人の言葉を書き写すことがあると、政治家が超能力者の個人情報や超能力者が経験したことに別の人が書いた言葉を混ぜて他人にやらせることができる。超能力者(つまり私)が子供の頃に朝倉神社のお祭りのときに買ったプラスチック製の16パズル(4×4の正方形の升[ます]に1から15までの数字と☆が付いた16個のピースが嵌[はま]っていて、1から15までの数字のピースをバラバラにして升に嵌[は]めて空白にピースを指で滑らせることによって1から15までのピースを順番に並べるパズル)で遊んだことと、超能力者の母親がパズル(ディズニーのバンビの36片ぐらいのジグソーパズル)のピースの裏とそのピースが嵌[はま]っていた場所にマジックペンで同じ数字を書いて超能力者にパズル遊びをさせたことによって、超能力者の母親にとっては超能力者が自分自身のようなものだから、つまり超能力者の母親が超能力者と同じになるから、超能力者が自分が書いた言葉をバラバラにしてそれを超能力者が組み替えたことになるから、政治家が超能力者の個人情報や超能力者が経験したことに別の人が書いた言葉を混ぜて組み替えて他人にやらせることができるようになる。超能力者が自分で好き勝手なことをすると、政治家が自分の好き勝手に超能力者の個人情報や超能力者が経験したことに別の人が書いた言葉を混ぜて組み替えて他人にやらせることができるようになる。こうして、古事記から超能力者制度ができることになるのである。しかし、そもそも最初の古事記の『超能力者に人間が従わねばならない』という解釈がまちがっているので、その後[あと]でいくら細かいことをやっても仕方がない。全滅である。だから、超能力者制度は成り立たない。]
それが、国民の『警護サービス』をする会社のやることだろうか?だから、日本政府は警護サービスの会社に向かない。誰か、日本で警護サービスの会社をやってくれる資本家はいないだろうか?現代は国民主権の時代だから、どの会社を日本の警護サービスの会社にするかは国民の投票(多数決)によって決めればいい。
[6950] 東京人は不合理的である。 h21.3.26
東京人は不合理的である。
なぜなら、東京の真ん中に皇居があるからである。
東京人は、架空の人と実在の人を混同しているから不合理的である。
東京人は、不合理的な宗教政治家に協力する不合理的な人間の集まりだ。
それが、中央集権制国家の実体だ。
東京人が虫が好かないのはそのせいである。
[忘れてはいけないのは、人間が実在の中に生きていると言う事実である。この事実だけはどうしようもない。]
[6951] 政治家は偉いか? h21.3.26
政治家は自分自身が偉いわけではなく、古事記にすがって偉いだけである。
ところが、古事記は昔の日本神道が作った架空のおとぎ話にすぎない。
今の日本政府の政治家は、おとぎ話と現実の区別も付かない狂ったキチガイだ。
[6952] 宗教政治は悪 h21.3.26
現代では、宗教政治は悪である。
なぜなら、宗教政治は、架空のおとぎ話を現実の国を動かす法律にしている不合理的な政治だからである。
現代は合理的な世界を作ろうとしている時代だから、不合理的な宗教政治が邪魔である。
宗教政治は二つに割って、客におとぎ話を聞かせるだけで政治的権力を持たない宗教と、架空のおとぎ話ではなく国民が互いに他人の権利を侵さないための共通の決まりを法律とする政府に分かれなければならない。
[6953] 政治家は国民よりも上ではない。 h21.3.26
宗教政治では、政治家が聖典を法律として国を動かしているだけである。
神が人間よりも上であるとは、聖典には一言[ひとこと]も書いていない。
それは、そもそも神とは聖典の主人公であり架空の人物(マスコットキャラクター)のことだからである。[貧乏人相手の福祉家が宗教政治家に転職する際に、神の意味を人間よりも上の者に変えてしまったのである。宗教家とは、政治的権力を失った宗教政治家のことである。聖典を読んで客に話を聞かせる者のことである。つまり、中世の貧乏人を客とする福祉家が、近代になると国民を客とする宗教政治家になり、さらに現代では聖典好きの一部の国民を客とする宗教家になったのである。]
架空の人物が実在の人間よりも上ということは成り立たない。
だから、神は国民よりも上ではない。
政治家は人間だから、国民と同じである。
そもそも、政治家は警護サービスの会社の幹部なのだから、国民よりも上であるわけがない。ただし、警護サービスの会社の中では上役[うわやく]である。
[6954] 聖典は法律ではない。 h21.3.26
そもそも聖典には、“聖典を法律として用いよ”とは書かれていない。だから、聖典を法律に用いるのは政治家の独断である。
“政治家が聖典を法律として使っていい”とは聖典には書かれていない。
だから、いくら聖典に拠[よ]っても、政治家に聖典を法律として使ってもいい特権があることにはならない。
つまり、政治家はそもそもただの人間にすぎない。
政治家は、他の国民と同じ人間である。
したがって、政治家がいくら聖典を法律として使いたくても、他の国民の同意が得られないかぎり、聖典を法律として使うことは許されない。
[6955] 復活祭 h21.3.26
一度死んだ人間が3日後に甦[よみがえ]るわけがない。
だから、いくら政治家のご機嫌取りとはいえ、復活祭などというありえないことを祝うお祭りはやるべきではない。
そんなことをしてまで政治家に媚[こ]びへつらう自分自身がみっともないとは思わないのか!?
政治家に馬鹿にされている自分自身がみじめだとは思わないのか!!
[6956] クリスマス h21.3.26
クリスマスはイエス=キリストの誕生日である。
架空の人物でも誕生日はある。
しかし、それを祝うのはよっぽどの新約聖書のマニアだけである。
一般の人がそこまでやることはない。
[6957] キリスト教とは何か? h21.3.26
教会でキリストの話を聞くことである。
落語や漫才と同じようなものである。
古典芸能の一種である。
昔の奴隷や乞食や病人が喜んだ話を聞くことである。
聖書に暗い話が多いのは、昔の奴隷や乞食や病人の性格が暗かったからである。教会の神父が奴隷や乞食や病人に受けるために暗い話をしたのである。キリストが十字架にかけられているのは、奴隷や乞食や病人の同情を買うためである。
[6958] 宗教政治家はただの国民である。☆ h21.3.27
宗教政治では、宗教政治家はすべて神すなわち聖典の権威に拠[よ]らねばならない。
つまり、宗教政治では、偉いのは聖典だけで、宗教政治家自身は偉くない。
しかし、その偉い聖典には、聖典を法律にして使うことや、宗教政治家が聖典を法律として使うことなどは一言[ひとこと]も述べられていない。
つまり、宗教政治家が聖典を法律として使える根拠がなにもない。
宗教政治家が聖典を法律に使っているのはすべて宗教政治家の独断にすぎない。
したがって、宗教政治家は、ただの国民にほかならない。ただの国民が政治家ぶっているだけである。
だから、宗教政治家は国民の許可を得ずに、勝手に聖典を法律に使うことはできない。
宗教政治家はただの国民なのだから、国民が宗教政治家に従う必要もない。
[6959] 日本国憲法とは何か? h21.3.27
日本国憲法は古事記を具体化しただけである。しかも、古事記のまちがった解釈を具体化しただけである。
そもそも架空のおとぎ話である古事記を実在の世界を動かす法律として用いることは不合理的でまちがったことであり、日本国憲法は不合理的な憲法であるといえる。
現代ではみんなが不合理的なことをするのをやめてこの世を合理的な世界にしようとしている。
だから、日本人は不合理的な日本国憲法を法律として使うのをやめて、合理的な現代にマッチした新しい合理的な憲法を作らなければならない。
国民の人権を保障する国民共通の約束を国民みんなで決めねばならない。
おとぎ話から離れた、実在の世界に根ざした憲法を作らなければならない。
[6960] 警護サービスをする会社 h21.3.27
国民を警護するとは、国民一人一人の人権(思想の自由、言論の自由、身体の自由、財産の自由など)を守ることである。[Wikipedia「人権」より。特に、日本では、皇族の人権が認められているが、そもそも皇族は神武天皇の子孫の役を演じる公務員なのだから、皇族の人権なんか認める必要はない。天皇は公務員だから、日本政府の指示で動いているだけである。]
国民みんなで『国民の警護サービスをする会社』を作って、その会社で国民みんなで国民の人権を守るための共通の約束を決めて、国民みんなで決めた国民共通の約束を国民みんなに守らせるようにしなければならない。
不合理的とは複雑であり、合理的とは簡単であると言うことだ。
[6961] 神について☆ h21.3.27
神とは人間が逆らうことのできない絶対的な権力を持つ者のことである。
王とは自分自身を神とする者である。例えば、古代エジプトの王様のような者である。
しかし、王はどう見ても人間だし、王が他の誰かに殺されて取って代わられることもしょっちゅうだから、実際には王は人間が逆らうことができないほどの者ではないから神ではない。
宗教政治では、おとぎ話の架空の人物が神である。架空の人物は殺されることもないし歳を取ることもないが、そもそも架空の世界と実在の世界は別だから、架空の世界にいる神が実在の世界を支配できるわけがない。[私に関する超能力者制度は、実質的には宗教政治家が自分の好き勝手な政令を作っているだけだから、もはや王制とはいえない。]
したがって、神は実在の人物でもなければ架空の人物でもない。
神は人間ではない。神はこの宇宙を支配している『物理法則』である。
[6962] 非ユークリッド幾何学 h21.3.27
ユークリッド幾何学の第1から第4公準までが新約聖書に相当する。
昔の新約聖書の解釈は、それにキリストが福祉家であるという第5公準が付いていた。
しかし、新しい新約聖書の解釈では、それにキリストが王であるという別の第5公準が付いていた。
新約聖書に用いられている言葉の意味を変えると、キリストが福祉家であったり、王であったりできるのである。
つまり、新約聖書は書き方が不十分なのである。
しかし、新約聖書を細かく読むと、キリストが盲[めくら]の少女を手で触れただけで治したり、空中からたくさんのパンを出して飢えた乞食に配るなど、どう見ても王様らしくなく、福祉家としか思えない。
だから、キリストが王であるとする新しい解釈には無理があるといえる。
新約聖書に関するかぎりでは、やはりユークリッド幾何学つまりキリストを福祉家と考えるのが妥当である。
[6963] 言葉は心である。 h21.3.27
人間にとって一番大事なのは、心である。肉眼で見える身体の表面ではない。
言葉はその人の心が外に現れたものである。つまり、言葉とは、心が知覚を働かせて知覚が考え出したことを手の指を動かして眼で見える形のある文字(あるいは、耳で聞こえる音声)にしたものである。
言葉はその人の心の産物である。身体の産物ではない。
[6964] マンガは合理的である。 h21.3.27
マンガは架空を架空とすることだから、合理的である。
キリスト教で聖書の話を神父が客に聞かせることも、架空の話を架空の話とすることだから、合理的である。
現代は何でも合理的にしなければならない。つまり、架空は架空、実在は実在というように、架空と実在をちゃんと区別しなければならない。
だから、政治は、実在を実在としてやらなければならない。実在と空想をゴチャゴチャに混ぜ合わせてやってはいけない。現代の政治は、宗教政治つまりおとぎ話を法律とする文学政治ではなく、実在する人間の権利を守るためにある国民共通の約束を法律とする科学政治でなければならない。
[6965] 男顔の女 h21.3.28
アニメやマンガのヒロインが、実在する男の誰かの個人情報を入れて作った感じがする男顔の女だと嫌だ。
見ているとなんか気持ちが悪くなる。
自分の場合には自分のことがよくわかっているので耐えられるが、他人の場合には相手が誰なのか相手がどういう人間なのかわからなくて不安だし、相手が男だと思うとヒロインが十分に好きにはなれず、アニメやマンガのノリが悪くなる。
だから、アニメやマンガの絵を描く人は、話に合った人物像を空想だけで描いて欲しい。そうすれば、たとえ男顔の女でも女顔の男(アニメやマンガによく出てくる細身で美形で長髪の男)でも、対応する実在の人物がいないと思えば、気持ちよく楽しく見ることができる。
[6966] 過保護育ちの宗教政治家 h21.3.28
日本政府の宗教政治家が、不合理的な宗教政治をやって事件を起こして他人に痛い思いをさせても平気なのは、宗教政治家が過保護育ちのために不合理的なことがわからないほどの馬鹿であって、その上生まれて一度も自分が痛い思いをしたことがなく他人の痛さがわからないからである。
馬鹿は死ななきゃ治らないから、痛さを教えてやるしかない。
宗教政治家を殴ったり蹴ったりガン飛ばしをしたりして痛さというものを教えてやればいい。
そうすれば、自分がしていることの非を悟り、宗教政治をやらなくなるだろう。
[6967] 相対性 h21.3.28
『現象は実体と物差しの両方で決まる』のが現代物理の常識である。相対性理論でも、量子力学でも同じである。[私の『物理勉強室』の「現代物理学」を参照。]
普通の人の物差しには、架空と実在の二つの目盛りがあるのだが、
宗教政治家の物差しには、架空と実在の目盛りがないのだ。
だから、普通の人は架空と実在の区別ができるが、
宗教政治家は架空と実在の区別が付かないのだ。
一般に、普通の人と不良とでは物差しの目盛りが違うから、普通の人が見ている世界(現象界)と不良が見ている世界は違う。
それでも、不良を殴りたくなるのは、不良の世界がまちがっているからである。
人間の心にはまちがいを許さない『正義の心』があるからである。
[6968] 私が本を出す条件 h21.3.29
私に「ぜひ本を書いてください」と頼む人がいて、その人が私が本を書く条件を整えてくれれば、私は強いて断りはしない。
しかし、そんな人がいなければ、私が本を書いても自分にとって得になることがないから、わざわざ本を書いたりはしない。
私に頼むぐらいならもっと作文が上手な人に私の文を読んで書いてもらえばいいと思っている者がいるかもしれないが、それは盗作になるので認めない。『言葉は心である』から、他人が考えたことを自分が考えたかのように書いた作文は、その人間のうそつきの泥棒の心でできた作文だ。そんな作文が世の中に広まれば、みんなが嘘つきの泥棒になるだけだ。
しかし、私の作文は宗教政府に攻撃的だから、宗教政府の者が私に頼んだりはしないだろう。
民間の人も、宗教政府と揉[も]めるのが嫌だから、私に頼んだりはしないだろう。
[6969] おとぎ話『福祉太郎』 h21.3.29
むかしむかしあるところに弱い者に親切にする福祉団体がありました。
福祉団体は、貧しい乞食に食べ物を与えたり、病気で苦しむ病人を診てやったりしました。
福祉団体は、貧しい乞食や病人におとぎ話をして聞かせるサービスもするようになり、みんなの人気を得ました。
昔は世界中に乞食や病人が大勢いたので、乞食や病人にサービスをする福祉団体はすぐに世界中に広まり、福祉団体は連日大勢の乞食や病人で大賑[おおにぎ]わいでした。
しかし、文明が進んで人々がお金を蓄え豊かな暮らしをするようになると、福祉団体にしだいに客が来なくなりました。
そこで、福祉団体は、おとぎ話を法律にして政府の真似をするようになりました。
人々は以前自分達に優しくしてくれた福祉団体を信頼して福祉団体の言うことを聞きました。
はじめのうちはおとぎ話を正しく解釈して真面目に政府の仕事をしていた福祉団体も、国の支配体制が固まると、急に態度を変えました。
福祉団体は自分たちを宗教政府と名乗り、おとぎ話の主人公を人間よりも上の者ということにして、おとぎ話の主人公に仕[つか]える自分達も人間よりも上だと言って威張るようになりました。
宗教政府はおとぎ話の解釈を変えて、自分達にとって有利な国を作るようになりました。例えば、ヨーロッパではキリストを弱い者に優しくする福祉家から思想の力でみんなを幸福な楽園に導く王様に変えることによって王制の中央集権国家にし、日本では神武天皇を各地の豪族を支配し日本を平和な国にした統治者から自分のために他人の土地を奪う強奪者に変えることによって他国を軍事力によって征服する軍事国家にしました。[日本政府は、日本における宗教政府である。日本国民は日本政府によって戦争に行かされて戦わされるだけである。いくら日本国民が戦いに勝利して他国を占領しても、その財産は日本政府のものであって、日本国民のものではない。つまり、日本政府にとって、日本国民は自分達の財産を増やすための道具にすぎない。]最近では、日本政府は古事記を“超能力者(身近で不思議なことがあった者)が人類の王となる話”と解釈して、小さい頃に頭の上でガラガラが突然回りだしたことがある私を超能力者として王制をしていますが、実質的には私制ではなく宗教政府制になっています([6949]を参照)。
宗教政府がおとぎ話を曲解してメチャクチャな政令を作って国民に出したので、国中がメチャクチャになり人々の暮らしも以前に比べて幸せではなくなりました。
こうして、この世は、宗教政府が支配する不合理的な面白くない世界になってしまいました。
しかし、その後[のち]、みんなが学校に通って勉強して合理的な考えを身に付ける時代になると、宗教政府のしていることに疑問を感じる人が現れました。
大勢の人が、宗教政府がおとぎ話を法律にして国を動かしていることが不合理的でまちがっていると考えるようになりました。
そこで、国民は一致団結して宗教政府を倒し、宗教政府の替[か]わりに新しく『国民の警護サービスをする会社』を作りました。警護会社は、国民の人権を守るための国民共通の約束を法律とし、その法律を国民みんなに守らせることにしました。[人権とは、実在における人間の具体的な暮らしの観察から帰納的に作り出された科学的概念であり、つまり“人間が自分で自由にできること”である。]
こうして、国民は悪い宗教政府を追い払って、ようやく幸せに暮らせるようになりました。
めでたし、めでたし。
[これまでのおとぎ話の失敗は、話を面白くしようとして比喩を使いすぎて、何が言いたいのかわかりにくくなったことである。だから、『福祉太郎』の話はこのままのほうがいい。]
[6970] モーゼの十戒(Wikipedia「モーゼの十戒」参照。) h21.3.29
モーゼの十戒には、今日で言うところの『基本的人権』が述べられている。
当時は奴隷は、他人の持ち物であり、奴隷に適用される法律すらなかったのだ。
モーゼの十戒は、当時の奴隷にとっては、まさに夢の法律であったのだ。
当たり前のことが当たり前になるまでには、ずいぶん時間がかかったのだ。
[6971] マンガ家 h21.3.29
マンガ家は絵が描けるだけで、1+1=2もわかっていない。
心が五感を働かせるだけで、知覚を働かせることがない。
ちゃんとした絵が描けるんだったら、ちゃんとした画家になったはずだ。
つまり、知覚の才能もなければ、五感の才能もないということだ。
[6972] 馬鹿で卑[いや]しい日本の政治家 h21.3.29
私は子供の頃から一度も、日本政府の政治家を偉いとか利口だとか思ったことがない。
それは、日本政府の政治家が宗教政治家であって、架空と実在の区別も付かない馬鹿だからである。
合理的な現代社会では、利口が偉くて馬鹿が卑しいので、馬鹿な日本政府の政治家は偉くないのである。
日本政府の政治家は馬鹿だから、実力で出世できるわけがない。インチキ出世ばっかりだ。
[6973] 現代における政府の役割り h21.3.29
現代は国民主権の時代である。
だから、国の意思は国民全体の意思であり、政府の政治家だけの意思ではない。
政府が国の意思を決めなくてもいい。
政府は、国民の『警護サービス』をする会社だから、国民の人権を守るための法律を作り、その法律を国民に守らせるだけでいい。
『福祉サービス』も、政府がおまけでやればいい。福祉も広い意味では警護すなわち人権を守ることになるからである。
[6974] 国家宗教とは何か? h21.3.30
国家宗教という世界共通の宗教のやり方(福祉のやり方)があって、国によって名前が違っているだけである。
つまり、乞食に食べ物をあげたり、病人の病気を診たり、おとぎ話を聞かせたりするサービスが国家宗教なのである。建物やおとぎ話がそれぞれの国によって違っているだけである。
福祉の精神はキリスト教において最も顕著に現れているから、国家宗教の原型はキリスト教やその前のモーゼ教にあったと考えられる。それが紀元元年頃に、急速に世界中に広がったのである。つまり、中東のイスラム教もインドの仏教も日本の神武天皇教もすべてヨーロッパのキリスト教の真似である。
国家宗教は、中世までは乞食や病人を客とする福祉団体であったが、近代に入ってそれまでの福祉団体から政治団体に性格が変わった。それが、国家宗教の名前のゆえんである。宗教政府は一時的に旺盛を極めたが、それも今では時代遅れだ。
今のヨーロッパ諸国では政教分離が進んですでに政府はおとぎ話を法律にしなくなっているから、その他の国でも文化の先進国であるヨーロッパに倣[なら]って直[じき]に政府がおとぎ話を法律にしなくなるはずである。世界中の国がヨーロッパの後追いをしているだけである。だから、世界の宗教政府は悪あがきをせずに、さっさと国民の人権を守る政府とおとぎ話を客に聞かせる宗教とに分かれなさい。
[6969]のおとぎ話の『福祉太郎』ぐらいのことは、現代人にとって必須[ひっす]である。その程度のことがわかっていなければ一人前の大人とはいえない。現代人なら、それぐらいの知識は常に頭の中に入れて行動しなければならない。
一方、最近流行[はやり]の民間宗教では、日本政府がおとぎ話を法律にしているのを真似て、自分達で勝手に法律を決めて独自の世界を作っている。会員制にして変なことやエッチなことやヤバイことをやっている。これでは、バーやキャバレーと同じことだ。それは、もはや宗教というよりもたんなる娯楽施設だ。国家宗教のおとぎ話ももともとは乞食や病人の娯楽だったのだから似たものであるが、最近は宗教も客層が貧乏人からお金持ちに変わって儲かるらしいぞ?私は宗教とは縁がないが、できればサービス内容だけでも知りたいものだ。
[6975] 女の喜び h21.3.30
女の喜びは2種類しかない。
それは、自分の外見にとらわれる喜びと、自分の子供をかわいがる喜びである。
自分の外見にとらわれる喜びの強い女は自分の子供をかわいがる喜びが弱く、
反対に自分の外見にとらわれる喜びが弱い女は自分の子供をかわいがる喜びが強いようである。
男の目から見ると、自分の外見にとらわれる喜びの強い女は、知覚が働かなくて馬鹿だから嫌である。
[6976] どうしておとぎ話の書き変えはいけないのか? h21.3.30
これまで宗教政府はおとぎ話の解釈を変えるだけで、おとぎ話の言葉そのものを変えることはなかった。
それは、おとぎ話には、おとぎ話の書き変えに関する規定が書かれていないからである。
だから、宗教政府はおとぎ話を書き変えたくて仕方がないのに、そうすることができないのである。
でも、それなら、おとぎ話には、おとぎ話の使い方に関する規定も書かれていないのだから、おとぎ話を法律として使うことがそもそもできないのではないだろうか?[日本国憲法には、日本の法律および憲法の書き変え(改正)に関する規定や法律や憲法による国の運営の仕方に関する規定が述べられている。しかしながら、日本国憲法はいくつか曖昧な概念がある古臭い憲法であって、まだ十分に国民主権が発揮されていない。そもそも議員に国民の“権力”を“信託”して国の意思を決めさせる必要があるのだろうか?日本政府が国民の警護サービスをする会社と思えば、議員は国民の人権を守るのが当然の義務であって、議員は国民の人権を守ることだけやればよく、それ以上のことはやる必要がない。警護サービスをする会社が自分の会社が保障する人権を国民に提示し、国民が警護会社と契約を結ぶことによって警護会社から警護サービスを受ける換[か]わりに代金を支払うのである。つまり、電気料金や水道料金と同じことである。また、日本国憲法の天皇に関する規定についても、天皇は神武天皇の子孫の役を演じる公務員であり日本政府の一員にすぎないのだから、日本国憲法の天皇に関する規定は無用の長物であり、撤廃すべきであると考えられる。]
だから、宗教政府がおとぎ話を法律として使っているのは、やはり宗教政府の独断であって、宗教政府は政府のふりをしているただの団体にすぎないのではないだろうか?
だから、国民が宗教政府に従う道理もないのである。
[6977] 日本国憲法第17条(「日本国憲法」参照。) h21.3.30
『第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。』
公務員とは、日本政府のことである。日本政府は、日本の宗教政府である。
日航機123便墜落事件や高知学芸高校列車事件やオウム真理教地下鉄サリン事件は、私に関する超能力者制度で日本政府が起こした事件だから、日本政府が真実を喋るとすれば、日本政府が有罪になる。[日航機123便墜落事件は私に関する超能力者制度と神武天皇制の両方で起きた事件だと考えられる。ボーイング747型機の後部圧力隔壁が神武天皇の光の玉の喩えである(Wikipedia「日本航空123便墜落事故」の中ほどにある後部圧力隔壁の写真を参考)。圧力隔壁の破損は、天皇の人間宣言によって天皇と人間の違いがなくなったことの喩えである。日航機123便墜落事故は私が九州大学医学部教養部2回生の夏休みに起きた事故だが、私が教養部1回生のとき高知学芸高校の同級生の吉村隆博[よしむらたかひろ]君の数学の試験を“替え玉”で受験したことがあるし、和田高明君と吉村隆博君と私とでいっしょに下宿の近所のラーメン屋に行ってラーメンを“替え玉”して食べたことがある。だから、日航機墜落事件で亡[な]くなった犠牲者は日本政府の国会議員の替え玉であると考えられる。高知学芸高校列車事件と同じように、日本政府が私が高校1年生のとき私の隣の席に座っていた尾立[おりゅう]君に英語の教科書のパラパラめくりをさせたために私を精神分裂病に罹らせてしまったお詫[わ]びに、日本政府の国会議員が死刑になる代わりに日航機に乗っていた乗客や搭乗員や高知学芸高校の生徒や教師を事故で殺したのである。]
しかし、喋らなければ確固とした証拠はないから、無罪になる。
[6978] おとぎ話を法律にする会社 h21.3.30
日本政府をおとぎ話を法律にする会社と考えることもできる。
しかし、本屋さんで売られているおとぎ話の本には、たとえ定価が書いてあっても、おとぎ話を法律にして使うことは書かれていないから、今日的にはおとぎ話を勝手に法律として使うことはできない。
だから、日本政府はおとぎ話を法律にする会社としてはやっていけないのである。
[6979] 日本神道の誓約 h21.3.30
昔、日本神道は「日本を神武天皇のおとぎ話のような素晴らしい国にしてみせる」と国民に約束した。
それで、国民は日本神道に一票入れたので、日本神道が日本を支配することができたのである。[日本神道が神武天皇のおとぎ話を乞食や病人に聞かせていた頃は、まだ日本各地で豪族の争いが起こっていて、日本が平和な国になっていなかった。その頃には、まだ神武天皇のおとぎ話は未来の夢物語にすぎなかったのである。]
日本神道は人々の期待を裏切らず、おとぎ話の通りに日本を平和な国にしようと真面目に仕事をした。それで、日本はいったん平和な国になった。[その頃聖徳太子のおとぎ話が新しく作られたのである。]
しかし、その後、日本は侍[さむらい]が刀を振り回す戦国時代に入り、最後には徳川家が日本を支配して江戸時代を迎えたのである。日本神道は江戸幕府によって江戸から追い出されて京都で大人しくしていた。
江戸幕府が欧米諸国の突然の来日によって倒れると、日本神道が再び日本を支配した。
しかし、それは以前の日本神道ではなかった。日本神道は日本政府と名前を変え、神武天皇のおとぎ話を曲解して日本を軍事国家にし始めた。それでも国民は、以前日本神道が日本をいい国にしてくれたのを信頼して日本神道の政策に我慢しながら付いて行ったのである。
しかし、結局日本が太平洋戦争に負けたので、戦後は国民みんなが神武天皇が嫌いになった。[おとぎ話で戦争をやって負けても仕方がないと思うが。]
それで、日本神道(現日本政府)は昭和40年頃に神武天皇を私に入れ替えたのである。
しかし、それでは、古事記にある神武天皇のおとぎ話の大半は無視されることになるから、「日本を神武天皇のおとぎ話のような国にする」と言った約束に反することになるのではないだろうか?
それなら、神武天皇を私に入れ替えることもできないはずである。
つまり、日本では実在の人物に関する超能力者制度はやれないことになる。
あるいは、日本政府が昭和40年頃に古事記のおとぎ話によらずにまったく新しく超能力者制度を始めたというのなら、そのことを国民にちゃんとことわって国民の了承を得てからやらなければならない。日本政府が国民に黙って勝手に超能力者制度を始めたというなら、日本政府が日本国憲法を勝手に改正したことになるから、日本政府が日本国憲法に違反したことになる。
[6980] 国家宗教は世界宗教である。 h21.3.30
日本神道(現日本政府)は、国家宗教の日本支部である。
イランやイラクの政府は、国家宗教のイラン支部やイラク支部である。
アメリカ政府は、国家宗教のアメリカ支部である。
ヨーロッパ各国の政府は、国家宗教のヨーロッパ各国の支部である。
アフリカ各国の政府は、国家宗教のアフリカ各国の支部である。
国家宗教はサービスの仕方が世界共通なので、もともとひとつの組織なのである。
各国の支部が連携して全世界的に活動しているのだ。[前にSUPER CHANNELでやっていた『スタートレックエンタープライズ』の番宣CMでトゥポルが「ネットワークで制御されています」と言っていたのは、世界中の国家宗教が連携してひとつとなって活動していることを言っているのである。]
国家宗教の原型はキリスト教なので、国家宗教の本部はヨーロッパのどこかにあるだろう。
国家宗教は、私が生まれるまではおとぎ話と同じ国を作る『おとぎ話制度』をやっていたが、
私が生まれてからは、超能力者つまり身近で不思議なことがあった実在の人物の個人情報や経験したことを混ぜた政令(政府の命令)を作って国民に出す『超能力者制度』をするようになったのである。
『おとぎ話制度』ではおとぎ話による制約が強すぎてやりにくいので、世界中の国家宗教のおとぎ話に共通に超能力者が登場する所に目をつけて、『おとぎ話制度』に従いながらもっと宗教政治家の自由が利く『超能力者制度』に変えたのである。[かつて日本で“共通”一次試験があったのは、「今や宗教は全世界“共通”の超能力者制度である」ことを日本政府が全世界の人々に通告するためであったと考えられる。]
いまや私に関する超能力者制度は日本政府だけでなく、世界中の政府がやっているのだ。ただし、具体的なやり方は国によってそれぞれ違っている。例えば、私が高校生の頃にイラン・イラク戦争が起こったのは、イラン・イラクの政府が戦争好きだからである。私の情報を混ぜた場所や戦法で戦争をしている。
こうして見ると、『おとぎ話制度』にしろ『超能力者制度』にしろ、全世界の政府は要らない余計な活動をして人類の足を引っ張っているだけである。
いっぺん人類が政府を倒して、その後でそれぞれの国なり県なりが『警護サービスをする会社』を作ったほうがよさそうである。
[6981] 不文法には改正についての規定がない。 h21.3.31
現在の日本神道が古事記の記述に基づいて私に関する超能力者制度をやっているのは、昔の日本国民が『日本神道が古事記を法律として使う』ことを認めたからである。
それが、不文法だったために、今でも日本神道(現日本政府)は古事記を法律に使っているのである。
しかし、今の日本国憲法に憲法改正の規定があるように(第96条)、不文法にも憲法改正の規定がなければならない。
憲法改正の規定がないのは、憲法として不備である。国民によるフィードバックがなければ、国民がその法律を認めているかどうかわからない。そんなあやふやなものを憲法として使うことはできない。たぶん今の国民の大多数は、『日本神道が古事記を法律として使う』ことを認めないはずだ。
それに、不文法には有効期限が明記されていない。『宗教政府がおとぎ話を法律として使う』法律はとっくの昔に有効期限が切れているにちがいない。
したがって、以前の『日本神道が古事記を法律として使う』不文法は、法律としては使えない。
どうしても日本神道が古事記を法律に使って超能力者制度をやりたければ、その旨[むね]を国会議員が国会で提起して日本人全員による多数決で決めなければならない。
将来、不文法が流行[はや]らないためにも、ぜひそうしなければならない。自分がなんだかわからないまま他人が言いがかりをつけてきて、自分が納得行かないまま他人に罰せられるのでは、自分にとって不愉快だ。不文法はその場で作ればいいから、とんだ迷惑である。不文法が許される世の中なら、文になっていないことなら何でも通用するので、何でもやりたい放題である。
[6982] 現代では成文法しか通らない。 h21.3.31
現代人は合理的である。明晰判明である。
だから、現代においては、法律はすべて眼で見て確かめることのできる文章で書かれていなければならない。しかも、その文章は解釈によって曲げられることのないように、言葉が一意的な意味を持つように十分細かく正確に書かれていなければならない。
したがって、現代においては『宗教政府がおとぎ話を法律として使う』言葉になっていない法律は通用しないのである。
[6983] 中国は日本を嫌えるか? h21.3.31
中国は日本が昭和時代に中国の一部の領土を支配していたからといって日本を嫌っている。
しかし、昔の中国が唐だった時代には、逆に中国が日本に攻めてこようとした。
大勢の日本人が中国軍に殺されたこともある。
歴史の一断面だけを見て、他人を悪く言うのはいけない。
長い目で見ればお互い様なのだ。
日本神道も日本人が武家の味方について悔[くや]しかったこともあっただろうが、太平洋戦争で十分お礼はしたはずである。
だから、もうこれ以上古事記を法律にして国民に嫌がらせをしてはいけない。
[6984] 『福祉太郎』一部訂正 h21.3.31
しかし、文明が進んで人々がお金を蓄え豊かな暮らしをするようになると、福祉団体にしだいに客が来なくなりました。
そこで、福祉団体は、おとぎ話を法律にして政府の真似をするようになりました。
人々は以前自分達に優しくしてくれた福祉団体を信頼して福祉団体の言うことを聞きました。
はじめのうちはおとぎ話を正しく解釈して真面目に政府の仕事をしていた福祉団体も、国の支配体制が固まると、急に態度を変えました。
↓
しかし、文明が進んで農耕生活が普及すると飢えに苦しむ乞食は減り、病院ができると病人は医者に診てもらうようになったので、福祉団体はおとぎ話サービスを聞きに来る客だけになりました。世の中にいろんな娯楽ができると、福祉団体におとぎ話を聞きに来る客もしだいに減ってきました。
そこで、福祉団体は「おとぎ話のような素晴らしい世界を作る」ことを国民に約束して、国民の協力を得て夢の世界の実現に向けて政治活動をするようになりました。
はじめのうちは福祉団体はおとぎ話通りに真面目に政治をしていましたが、国の支配体制が固まると態度を変えるようになりました。
[6985] 性欲か知覚欲か? h21.3.31
性欲を肯定して生きても、その先はどん詰まりだ。いくら性欲を満足しても喜びの強さはいつも同じである。それに、性欲を肯定すると心が実在から離れて心が実在の世界に背[そむ]くようになり犯罪を犯したり精神病に罹りやすくなる。
一方、知覚欲を肯定すると、その先は広大無限の世界だ。知覚欲は満足すればするほどそれだけ喜びが強くなる。知覚欲を肯定すると、心が実在と噛み合って心が実在に従いながら実在を支配するので、心が幸福な世界を実現しながらその中で幸福に生きて行くことができる。[昔の人間には“五感界”しかなかった。『実在界』の発見こそが、近代科学における最大の発見である。]
人間は性欲を満足するよりも知覚欲を満足したほうがより多くの幸福感が得られる。だから、人間は性欲よりも知覚欲を満足して生きるべきである。
[6986] エロ本について h21.3.31
エロ本では、女が自分の裸を見せびらかしている。
女がそんなことができるのは、女が生まれつき外見にとらわれる喜びを満足しながら生きているからである。
しかし、男にはそんな喜びはない。
どうして、男がそんな気持ちをわざわざ勉強してまで身に付けなければならないのか?
[6987] 超能力者制度は成り立つか? h21.3.31
超能力者制度は、“超能力者(身近で不思議なことがあった人)に人間が従う”ことが前提とされている。
しかし、どの宗教のおとぎ話にも超能力者に人間が従う話はない。
たとえ超能力者が王になる話にできたとしても、超能力者が王になった後で人間が超能力者に従う話はない。
それは、宗教政府がおとぎ話に付けたおまけ(後日譚[ごじつたん])である。
そもそも、人間は他人に従うのが好きではない。王や超能力者に従うのも好きじゃない。だから、おとぎ話の最後にそんなこれまでの面白さをぶち壊しにするような落ちを付けるわけがない。
だから、超能力者制度はおとぎ話に対するまちがった解釈である。
したがって、世界の宗教政府は超能力者制度をすることはできない。
[6988] 男から見た女の価値 h21.3.31
女が近くにいると男は楽しい気持ちになる。
それは、女が自分の頭の中にある楽しい気持ちをテレパシーで周囲に伝えているからである。
つまり、女は快感子を周囲に放出する『快感子の塔』なのである。
いくらお金があっても快感そのものはお金では買えないから、男にとって女はありがたいものである。
[6989] マンガだけでは駄目である。 h21.3.31
かつて高橋留美子は「マンガ家も大学を出なければ一人前にはなれない」と言った。
人間の頭の中には心があり、それを漫画で表現したものがその人の漫画である。
だから、マンガを描くためにはまず頭の中の心を作らねばならない。
頭の中の心を作るためには、大学に通って勉強しなければならないのである。
マンガばかり読んでいては、頭の中の心が腐ったままなので、そんなくだらない心をいくらマンガにしてもいいマンガは描けないのである。
ヨーロッパのクラシック音楽も、音楽家の頭の中にある心を音楽で表現したものである。
だから、いくら音楽の才能があっても、書きたい心がなければ音楽は書けないのだ。
[6990] 憲法と法律と政令 h21.3.31
日本政府(旧日本神道)の不文憲法は、『古事記を日本の法律とすること』である。
その不文憲法で作られた不文法律が、『超能力者制度つまり身近で不思議なことがあった者の個人情報や経験したことを混ぜた政令を作って国民に出すこと』である。
その不文法律で作られた不文政令が、日航機123便墜落事件や高知学芸高校列車事件や私アニメや私マンガなどである。日本政府の作った政令は、みな不文法律の超能力者制度で作られた不文政令なのである。明治日本帝国憲法も昭和日本国憲法もただ置いてあるだけで、機能していない。国会議員もいるだけで機能していない。日本政府は憲法や国会そっちのけで、神武天皇のおとぎ話制度や私の超能力者制度ばかりやっているのである。
日本政府はそもそも『聖典サービス』(つまり、聖典のような世界を作ること)をする会社なので、自分達が神武天皇のおとぎ話制度や私の超能力者制度をやるのは当然だと思っているのである。つまり、日本政府は聖典に書いてあることなら何をやってもいいと思っているのである。[しかし、それは国民にとっては迷惑である。他の国の政府についても同様である。]
しかも、日本政府は自分達の会社のサービス内容を国民に具体的に明確に言葉で示したことがない。[サービスの理念だけがかっこよくて、実際に具体的にやっているサービスがお粗末では困る。]
現代において、そんなサービス内容の不明確な会社は早く潰[つぶ]れるべきである。今日日[きょうび]は聖典なんかに頼らなくても人間が自分で考えていい世界を作るから、聖典サービスの会社なんか要らない。人間の心は知覚に従属しているから、文明が進んで世界が変われば心も変わるから、いつまでも祖先の心(つまり聖典)を守って生きていけるわけではない。祖先は死んでいないから、死んでいなくなった人間よりも今生きている人間のほうを優先すべきだ。現代の法律は現代の世界に合ったものでなければならない。現代は科学の時代だから、身近で不思議なことがあったとしても何らかの科学的原因があるはずであって、そもそも不思議でもなんでもない。現代では、ちょっと不思議なことがあったぐらいでいちいち騒いだりはしない。現代は明晰判明な時代なので、騒ぐならもっとはっきりとした超能力者が出てからにしなければならない。はっきりしない超能力者で騒ぐのは現代的ではない。だから、超能力者制度は現代に似つかわしくない制度である。
[6991] 人類の新たな目標 h21.4.1
これまで人類は、聖典のような国を作ることを目標としてやってきた。そのためにあるのが政府である。政府は“聖典サービス”すなわち聖典の世界を実現することを仕事とする会社である。
しかし、当初の目標はすでに実現してしまい、することのなくなった政府は無理やり聖典の解釈を変えて新しい目標を作り出した。しかし、政府が新しい目標とした世界はどれも人類にとって幸福な世界ではなかった。超能力者制度もまたしかりであった。
つまり、聖典はすでに過去のものである。“聖典サービス”をする世界中の政府もとっくの昔に滅びるべき組織なのである。
いまや世界中の政府を国民の『警護サービス』や『福祉サービス』をする会社に変えることが、人類の新たな目標なのだ。今は実現していないからこそ、実現していかねばならないのだ。
[6992] 神武天皇は平和の神である。 h21.4.1
人間は戦争するのが好きではない。誰でも戦争に行かされるのは嫌である。
だから、戦争の神である神武天皇を日本人の神にするはずがない。
したがって、日本政府の古事記の解釈がまちがっていると考えられる。
その証拠が、神社の鳥居の形が平和の平の字に似ていることと、神社の落ち着いた物静かな雰囲気である。
神武天皇は、もとは平和の神だったのである。
日本人は戦争好きな顔をしているが、心の奥では平和な世界を願っているのだ。
[6993] テレパシーは実在する。 h21.4.1
誰でも不快なことは嫌である。
だから、たとえ精神分裂病の患者でも、自分でわざわざ自分に悪口を言う者を頭の中で作って自分を不愉快な目に合わせることはない。
だから、テレパシーは実在すると考えられる。しかし、証拠は今の所はまだない。
ただ、テレパシーで言っていることはつまらないことが多いので、普通の人は聞こえていても、それを無視しているのである。
精神分裂病の患者では、自分の不愉快な気持ちに駆られて自分の頭の中にある『テレパシー器官』を使おうとしたために、不快中枢と『テレパシー器官』が条件反射で結びついているために、逆にテレパシーが聞こえると不愉快になって、テレパシーの音源を消そうとして暴れまわるのだ。
実体としてのテレパシー波は、自分のテレパシー器官にある脳細胞が荷う『感覚子』と他人のテレパシー器官にある脳細胞が荷う『感覚子』を媒介する素粒子として考えることができる。[粒子の位置を測定しなければ、震える物差しの上に乗って見ることになるから、粒子が波として見える。私の『物理勉強室』の「現代物理学」を参照。]電子と電子を光子が結んだり、陽子と陽子をπ中間子が結ぶのと同じことだ。
[6994] 日本政府は石ころだ。 h21.4.1
現代の科学においては、無機物と有機物の境界はない。
だから、石ころも人間も同じだ。
人間、いい歳したら、人間も物も同じに見えるようにならねばならない。
したがって、石ころも、人間の集まりである日本政府も同じだ。
だから、自然科学も政治学も同じだ。
今の日本政府は不合理的な宗教政府だから、いくら今の日本政府のことを詳しく知っても仕方がない。時間の無駄だ。一生懸命になってまちがいを勉強しているだけだ。まちがっている天動説やフロギストン説を勉強しているようなものだ。いつまでたっても日本政府が不合理的な組織であることに気付かずにおとなしく勉強し続けているほうがよっぽどおかしい。
[6995] 不合理欲か合理欲か?[[6985] 性欲か知覚欲か? h21.3.31を参照。]
h21.4.1
人間の心の中には合理的なことを好む合理欲と不合理的なことを好む不合理欲がある。
いくら人間が不合理欲を満足して生きようとしても、実在が合理的にできているから、不合理欲の満足には限界がある。
一方、人間が合理欲を満足して生きると、実在が合理的にできているから、心と実在が上手く噛み合って、人間が実在の中で幸福に生きていける。だから、合理欲は満足すればするほど喜びが大きくなる。
人間は不合理欲を満足するよりも合理欲を満足するほうがより多くの幸福感が得られる。だから、人間は不合理欲よりも合理欲を満足して生きるべきである。
したがって、人間が住んでいるこの世界から不合理的なことをなくして合理的な世界を作るべきである。
[6996] 人類の新たな目標(その2) h21.4.1
コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見したように、人類は近代になって『実在界』を発見した。
だから、人類は実在界において幸福にならねばならない。それが人類に課せられた新たな目標だ。
現象界に生きる人間の夢は、この世を美男美女ばっかりにすることだろう。
そんな志[こころざし]の低いくだらない夢では駄目だ。
つまり、人間というものは眼で見えないことが頭で考えてわからなければならないということだ。
人間は考えることが好きなのだ。人間の頭がでかいのはその証拠だ。人類は長い年月をかけて『実在界』を目指して進化してきたのだ。
それなら、今の世界中の政府が聖典サービス(この世を聖典と同じ世界にすること)をしている余計な会社ということも考えてわからなければならない。世界中の政府を『警護サービス』や『福祉サービス』をする会社にしなければならない。世界中の政府を具体的なサービス内容を国民に提示して国民と契約を結んで収入を得る会社にしなければならない。いまに世界中の各家庭に政府のサービス内容を具体的に記述した電話帳のように分厚い冊子が配られることになるだろう。
[6997] 政治家への罰 h21.4.2
これまでに日本政府は聖典サービスで大勢の人間を殺したり傷つけたりしてきた。
だから、日本政府の政治家は全員拷問で殺されなければならないとする。
日本政府が潰れるまで、未来永劫この法が適用されるものとする。
[6998] おとぎ話の多解釈性 h21.4.2
おとぎ話は解釈によって意味が変わる。
だから、おとぎ話を法律として使うことは不合理的なのである。
法律には、必ず意味がひとつに決まる文章を用いなければならない。
だから、今の日本や世界の政府のようにおとぎ話を法律として使う『おとぎ話サービス』をする会社はあってはならない。
[6999] どうして日本は戦国時代になったか? h21.4.2
飛鳥時代に新しい日本の神として聖徳太子を作ったからである。
聖徳太子は平和の神ではなかったので、その後日本各地で戦争が起こるようになったのである。
聖徳太子にも平和の神としての属性を持たせるべきだったのだ。
[7000] おとぎ話制度の不文律性 h21.4.2
今の世界中の政府は、『おとぎ話を法律とすること』(おとぎ話制度)を不文律の法律にしている。
不文律どころか、言葉によって語られることすらない。
政府は今の国民の承諾をまったく得ずに、勝手に一方的におとぎ話制度を使っている。
これは、国民主権の原則に反している。[前のアパートの住人が新聞社と契約を取っていたからといって、自分が新聞を取る必要はないのと同じである。自分の祖先が日本神道と契約を取ったからといって、自分が日本神道と契約を取ったことにはならない。]
だから、世界中の政府はおとぎ話制度をやってはいけない。