[6501] 日本政府について h21.2.9
日本政府は、神(超能力者かもしれない者)についての架空の伝記や思想や喩えや駄洒落などを使って実在に反する悪法を作る組織である。
日本神道が日本政府であることがすでにひとつの悪法だといえる。
日本政府は自分たちが超能力者になって実在を思い通りにできない欲求不満を国民にぶつけてウサ晴らしをして遊んでいる機関である。
日本政府が日本を牛耳っているかぎり、日本が幸福になることはない。

[6502] 宗教の一生 h21.2.10
宗教は、まず最初に神(超能力者かもしれない者)の“超能力を習得する”ことから始まる。(中国型宗教)
しかし、当然ながら超能力を習得することなんかできないし、そこそこ人気もあったので、困り果てた教団は実話のような嘘をつき始めた。そもそも超能力が作り話なので、開き直って最初っから全部作り話でいいことにしたのである。
こうして宗教の腐敗は始まった。
もっとも、初期の頃には、まだ神は“説教する乞食”であった。この時分は、まだ神が腰が低かったので、より善い生き方を目指そうとする神に共感した人々が自主的に宗教に入るだけだった。(インド型宗教)
そのうち、教団が人気を得て勢力を増してくると、教団の権力をさらに強めるために、神のキャラクターが乞食から王や将軍などの権力者に出世し、神を実在よりも上の者として、神についての伝記や思想を真似たり、神の喩えや駄洒落などによって神に従いさえすれば実在に反したことをしてもよいとした。[ただし、この論法は超能力と常能力の区別がなく正しくない。[6474] 超能力者かもしれない者は実在よりも上か下か? h21.1.29を参照。]この頃になると、神を王や将軍にすることによって教団が政治的軍事的権力を得て政府や軍隊を作り、人々を強制的に宗教に入らせて教団の奴隷とし、帝国主義国家を形成するまでになった。(日本・アメリカ型宗教)[日本国憲法にある天皇制は、日本の神であった神武天皇を王としていたことの名残である。]
しかし、こうして権力の絶頂を極めた宗教も、最後には人々の反感を買って、人々によって神が殺されて教団が倒されて終わりになった。(ヨーロッパ型宗教)

つまり、宗教とは架空主義であって、架空が実在を支配することはできず、宗教は実在の中でまちがいを犯しているにすぎず、結局実在によって滅ぼされる運命にある。今どき、教団の作り話を真に受ける者もいないので、教団がひとり浮き上がっているだけであって、実在主義の人々から攻撃されることになる。
そもそも人間が実在を支配する力『超能力』を安易に手に入れようと思ったことがまちがいであって、少しやってみてできなければ潔[いさぎよ]く諦めればよかったのだ。嘘が小さいうちにやめておけばいいものを、いつまでもダラダラと続けているから、だんだん嘘が膨れ上がって、最後にはどうしようもなくなってみんなが嘘に呑み込まれてしまったのだ。つまり、誰かがついた「超能力者が出た」というちっぽけな嘘が、どんどん大きな嘘になって行って、最後には悪政や戦争となって、人類を苦しめることになってしまったのだ。危険な嘘もあったものだ。宗教は、軽々しく嘘をつくものではないという人類に対する教訓である。

[6503] 天使とは何か? h21.2.10
昔のキリスト教で、超能力を習得できた人のことである。天使によって違う超能力が使えるとされている。
教会が人気を得るために天使を12人も作ったが、その後天使となったものはなぜかひとりもいない。
天使には、実在よりもマンガや小説のほうがよく似合う。

[6504] キリスト教はいやらしい。 h21.2.12
性欲は心を実在から離れさせて実在を犯す原因である。[[4959]精神病《まとめ》☆ h20.5.4を参照。]
性欲は本来満足させてはいけないけれども、キリストの神制度を使ってその常識に反することをするのがキリスト教である。
仏教は、宗教家が死後の世界の商売で儲けるためにある。キリスト教は、性欲を満足させるためにある。日本神道は、政治家が悪政や戦争をするためにある。
一般に、宗教はまちがったことをするためにある。実在の中でまちがいを犯してはいけないから、宗教はないほうがいい。

[6505] 宗教が栄えるための条件 h21.2.13
従順なバカと卑怯[ひきょう]な利口の2種類の人種から成る国では宗教が栄えやすい。
中国やインドで宗教が発達しないのは、卑怯な利口がいないからである。
ヨーロッパで宗教が衰えたのは、従順なバカがいなくなったからである。
日本やアメリカで今でも宗教が強いのは、それらの国では従順なバカと卑怯な利口の2種類の人種が多いからである。
日本やアメリカで従順なバカと卑怯な利口の2種類の人種が多いのは、民族の文化や遺伝的な性格によるものだろう。
しかし、[6474]や[6486]で見たように宗教が正しくないことがわかれば、従順なバカもおとなしくしていないし、卑怯な利口も自分の非を反省して宗教をやらなくなるだろう。

[6506] 仮説として通る h21.2.14
超常現象の近くにいた者は超能力者かもしれない。
超能力者は実在よりも上の者すなわち実在を支配する者かもしれない。
ここまでは、仮説として通る。
しかし、超能力者についての架空の伝記や思想を作ってそれを真似たり超能力者の喩えや駄洒落を使うことによって実在に反することをするのは、実在の中でまちがったことをすることになるからいけない。
それは、超能力と常能力を混同していて、仮説としても通らない。
超能力者の超能力を手本として自分も超能力を身に付けて、その超能力を使って実在を支配して実在を自分の思い通りにするのなら、実在の中で正しいことをしていることになるからかまわない。
それは、仮説としても通る。

[6507] 暴力団の指導原理 h21.2.14
暴力団の指導原理は『力の強い者が人間社会を支配する』である。暴力団は、力さえ強ければあとはどうでもいいから、法律を犯して平気で人殺しをしたり拳銃や刀や麻薬や覚醒剤や人間の内臓などを売ったりしていたのである。
しかし、今の世の中は侍[さむらい]が刀を振り回したりガンマンが拳銃をぶっ放している時代ではないから、暴力団の指導原理は時代遅れなので、暴力団だけが独り時代劇の世界に行ってしまっていて周りの社会から浮き上がっているので、暴力団は仲間外れにされて滅びる運命にあるのだ。
一方、宗教の指導原理は『超能力者が実在を支配する』である。たしかに、いくら科学が進んでも超能力者が存在する可能性を否定することはできない。それなら、一生懸命超能力を習得して、その超能力を使って実在を支配して好き勝手にやればいい。しかし、超能力を習得できなければ、実在世界の掟[おきて]におとなしく従うしかない。

[6508] どうして私はマージャンが弱いのか? h21.2.14
約1年ぶりにマージャンをやってみたが、やっぱり弱かった。参照。
私がマージャンが弱いわけは、私がマージャンを面白いと思わないからだ。
約1年ぶりにやって、最初の頃は面白くてそこそこ強かったが、飽きてくると見る見る弱くなっていった。
マージャンをつまらないと思う気持ちが、知覚の働きを鈍らせるので負けるのである。
反対に、マージャンが強い人はマージャンを面白いと思っているからだろう。
幸か不幸か、私にはそんな気持ちはないようだ。

[6509] 日本政府は犯罪組織 h21.2.14
政治家は犯罪者である。
それは日本政府が、超能力者についての架空の伝記や思想を作ってそれを真似たり超能力者の喩えや駄洒落を使うことによって実在に反することをするすなわち実在の中でまちがったことをするだけの犯罪組織だからである。
日本政府は、日本国民が実在の中で生活するのを妨害するだけである。
そんな組織は実在の中にあってはならない。
政治家という仕事も存在してはならない。

[6510] 制度は理論に基づく。 h21.2.14
まちがっていることが通用するなら、天動説が今でも学校で教えられているはずである。
天動説が廃止されたのは、それがまちがった理論だからである。
理論に正しい理論とまちがった理論があるように、制度にも正しい制度とまちがった制度がある。
制度にはその根拠となる理論があり、理論に則して制度が行われねばならない。
現行の神制度は神の定義に忠実ではなく、神の意味がわからなくなっている。
神の定義から離れた神制度をやることは、神についてのまちがった理論を国民に教えるのと同じことである。
現行の神制度は神についての正しい理論(つまり、[6474]や[6483]や[6494]などで述べたこと)に則していないまちがった制度だから、廃止しなければならない。そして、神についての正しい理論に則した正しい制度に改めねばならない。それは、具体的には、超能力を信じる人が、これまでの超能力者かもしれない者の超能力かもしれない才能を手本として自分の超能力を鍛錬することになるだろう。[これまでの超能力者の超能力を深めて広げることによって、実在を自由自在に操る能力を獲得できるかもしれない。]超能力を信じない人は、何もやらなくてよい。[神の定義が超能力者かもしれない者であって思想家ではないから、仏教やキリスト教もとんだ見当違いをしていることになる。]

[6511] どうしてキリストは思想家になったか? h21.2.15
初期のキリスト教では、キリスト教徒はキリストのような超能力者になろうとして超能力の鍛錬に励[はげ]んだ。
しかし、だれも超能力を習得できなかった。
そこで、ある宗教家が、キリストが超能力が使えたのはキリストの思想に原因があると考えた。
それから、キリスト教徒は自分の超能力を鍛えることからキリストの思想(多分に後世の宗教家の創作だと思われる)を学ぶことに変わって行ったのである。[キリストの思想を学ぶキリスト教ができたのがキリストの死後100年ぐらい経ってからなのは、そのためである。それまでの間は、超能力の鍛錬をやっていたのだろう。]

[6512] どうしてキリストは王様になったのか? h21.2.15
キリスト教徒は、自分が超能力者になるためにキリストの思想を一生懸命に学んだが、それでもやっぱり超能力は使えなかった。
そのために嫌気が差したキリスト教徒が、やけくそになってキリストの思想や言動をもじって悪いことをし始めた。
いつしかそれが世界中の流行となり、宗教はついに実在の中で悪いことをするためにあるようになった。
すると、ますます宗教の人気が上がり、さらには宗教家がキリストのキャラクターを貧しい思想家から王様に変えて、宗教家自身が本当は政治家ではないのに政治家みたいなことをするようになった。
反対に、国民はキリストを使って悪いことができなくなったので、宗教家に不満を抱いた。
それで、とうとうキレた国民が宗教家を倒してキリスト教は終わりになったのである。
だから、キリスト教の信者諸君は超能力をあまり本気にしてはいけない。超能力はあくまでもロマンなんだから、冗談と思って気長に気楽にやらねばならない。

[6513] どうして釈迦は思想家のままなのか? h21.2.15
仏教徒が我慢強いからである。仏教の思想そのものが忍耐を重んじているために、仏教徒は釈迦の思想や言動をもじって悪事を働くことをしなかったのである。

[6514] どうして神武天皇は王様になったのか? h21.2.15
日本人が短気でやけくそになりやすくしかも正義心が弱く集団心理が強いために、神武天皇の思想や言動をもじって悪いことをするのがすぐに国中に広まった。
あとはキリスト教と同様である。
ただ、日本人は平等意識も強いので、ヨーロッパほど宗教家と国民の待遇の違いが大きくなかったので、今のところ国民は宗教家を倒さずにじっとしているのである。

[6515] どうして中国では仙人は思想家にならなかったのか? h21.2.15
中国人は心が大らかでてきとうに遊びながら超能力の鍛錬をやっていて、超能力にあまり執着せず超能力者の思想にまで超能力の原因を追求しなかったからである。
それに中国には古くから孔子や荘子などの大手の思想家がいて幅を効かしていたので、新たに仙人の思想の入り込む隙間がなかったせいもあるだろう。
荘子の思想に『曖昧なものは割り切るな』というのがあるから、仙人は超能力者であるかないかわからない者だから、割り切らずに神制度をやると中国のようなやり方になるのだろう。[中国以外では、超能力者かもしれない者を超能力者だと割り切って神制度をやったから、過激になりすぎたのだ。]
それに東洋では、人間と自然が一体になることを重んじるので、人間が実在を支配するという発想がそもそもないので、超能力に興味がなかったからかもしれない。[日本人はアジアでは例外的に支配欲が強いので、宗教が好きだし、科学も強い。]
各国の文化的背景や国民の気質や宗教自体(宗教家が創作した超能力者についての架空の伝記や思想)などによって、それぞれの宗教の発展段階が決まるのである。

[6516] 鎖国の真意 h21.2.15
鎖国は戦争を禁止することである。
戦争をすると国が貧しくなるので、徳川幕府は戦争をしないために鎖国したのである。

[6517] 政治家のすべきこと h21.2.15
国民の気質や文化や資源などを考慮して、国民を善い方向へ導き、国民を幸福にすることである。
宗教は支配欲の浪費だから、科学に替[か]えたほうがいい。
日本人は眼先の物にこだわらないから、物の豊かさよりも知識の豊かさで満足させればいい。そのためには、他人の本を眼で読むことよりも自分の頭で考えることを習慣にすればいい。

[6518] 『君はこれでも宗教をやるだろうか?』 h21.2.15
宗教は、超能力者かもしれない者の出現から始まって、まず超能力の鍛錬をやって、次に超能力者かもしれない者の思想の研究に進み、ついには超能力者かもしれない者の伝記や思想をもじってまちがったことをするようになり、最後には宗教家が超能力者かもしれない者の伝記を書き変えて政治家や将軍みたいなことをするようになって宗教家が神制度を独り占めしたために大勢の反感を買って宗教が滅んでしまう。[アニメ『魔法のエンジェルスイートミント』第43話「金色卵のファンラック」を参照。]
国の文化や国民の気質や宗教自体の性質などによって、宗教がどこまで発展するかが決まる。
ただ、それだけのことだ。
宗教から得られたものは悪事だけで、善いことは何もない。宗教は支配欲の浪費だ。今では実在を支配するには科学がある。
どうやら超能力は偶然に出るものであって、人間が習得できるものではないようだ。できないことをやろうとして不満になるよりも、できることをして満足したほうが賢明ではないだろうか?

[6519] 地球はひとつ h21.2.15
現代は超音速ジェットに乗って地球を1日で1周できる時代だ。半日あれば地球の裏側まで行くことができる。つまり、地球はひとつである。
現代では他国がやっていることをいつでも見ることができいつでも他国に手を出すことができるので、国境はあってなきものである。もはや、どこの国にとっても他国は関係ないでは済まされない。
例えば、宗教の強い国は他国にとって家の近所に実在についての常識に反することをするキチガイが住んでいるようなものだから、自分の国に宗教が伝染するのを防ぐために宗教の強い国を他の国が攻撃してなくそうとするのは当然である。
宗教の強い国が自主的に宗教をやめない限り、この攻撃は永遠に続くだろう。

[6520] 誰が悪いか? h21.2.15
いくら自分が神についての研究をして神と同じことをしても自分がいっこうに超能力が使えるようにならないことに腹を立てて、やけくそになって“神が偉い者だから偉い者のしたことは自分もしてもいい”と考えて、神についての伝記や思想をもじって悪いことをした者が悪い。
神の定義はあくまでも『超能力者かもしれない者』であって、偉い者ではない。神は偉い者ではないから、神がしたことは自分もしてもいいことにはならない。
そのことに気づかずに、神についての伝記や思想をもじって悪いことをした者を真似て悪いことをした者も、また悪い。
いつまでも実らない研究を続けていると、人の頭も心も次第に腐っていくものだ。そんな研究は、さっさとやめてしまったほうがいい。

[6521] 超能力学としての宗教 h21.2.15
宗教ははじめは『超能力学』だったが、途中から変な『神制度』に変わった。つまり、宗教ははじめは科学と同じ実在主義だったが、途中から実在よりも制度を重んじる反実在主義に変わった。
超能力学は実在についての真理を探究する学問だからやってもかまわないが、神制度は実在に反することをするためにある悪い制度だからやってはいけない。
しかし、超能力学は神制度を生み出すもとになるという点では、超能力学も単純にいいとはいえない。
いわば、超能力学も神制度も癌であって、超能力学は良性の癌で神制度は悪性の癌といったところだ。
私も不思議なことは好きなので、超能力学も真面目にやるならいいと思う。

[6522] 日本政府は古臭い h21.2.16
超能力学から神制度への溝を跳び越えることができたのは、昔は『論理』(理屈をこねること)がなかったからである。[雰囲気だけでルーズに考えているから、超能力者が偉い人で、偉い人がやったことは自分もやってもいいから、超能力者がやったことは自分もやっていいことになるのである。しかし、論理的にはそんな論法は成り立たない。超能力者は超能力が使えるから確かに普通の人よりは偉いといえるが、偉い人がやったことは自分がやってもいいとはかぎらない。例えば、エジソンも偉い人だが、エジソンは発明で人を殺しかけたこともあったし、偉い人だからといって無制限に何でも自分が真似してやってもいいわけではない。しかも、超能力者がやったことといっても、超能力者の伝記は架空の作り話で概念的で曖昧だから、伝記を書き変えたり、自分で伝記の内容を勝手に解釈していろんなことができてしまうから、超能力者のやったことを真似てやってもいいことにはならないはずである。]
今は『論理』があるから、超能力学から神制度に変わることはない。
日本政府が神制度をやっているのは、日本政府が古臭い組織だからである。
今新しく行政機関を作っても、その機関は神制度をやらないはずだ。
日本政府も暴力団と同じように、『論理』のない昔の時代劇の世界に行っちゃっている連中なのだ。
人間は理屈をこねることによって実在へ近づいて行く。それをしないと、進歩せず、独りだけ時代に取り残されてしまう。

[6523] 外国には外国の宗教がある。 h21.2.16
たとえ日本で神武天皇の神制度をやっても、外国にはそれぞれの宗教のやり方があるから、日本の宗教のやり方は外国では通用しない。[ただし、アメリカは日本と同じ日本神道だから、日本の宗教のやり方はアメリカには通用する。]
だから、宗教は国際的には無効である。
宗教は国内的にのみ有効である。
つまり、日本には神制度で国民の幸福の邪魔をする日本神道(⊃日本政府)という組織があるだけのことだ。

[6524] 日本人は神制度を認めているか?! h21.2.16
日本神道は神制度(神と同じことを人間がやってもいいこと)を[正しいと]認めているが、その他の日本人は神制度を認めていない。
暴力団が暴力制度(暴力の強い者が人間社会を支配すること)を認めているが、その他の日本人が暴力制度を認めていないのと同じである。
不合理的な組織が日本を支配してはならない。暴力団が日本を支配していないように、日本神道も日本を支配してはならない。

[6525] 超能力者かもしれない者の情報公開について h21.2.16
『昭和40年ごろ高知県に住んでいるN.Kさんが1〜2才のとき夜中にベビーベッドで寝ていると、突然ガラガラ(ベッドメリー)が回り出したことがある。ただし、そのガラガラはゼンマイ動力でゼンマイを巻いて手を離すとすぐに2〜3分間オルゴールが鳴りながら回転する仕組みで、夜中に突然ガラガラが回ったときも1〜2分間オルゴールの音楽が鳴りながらいつもと変わらない勢いで回っていた。』ぐらいまでなら、公表してもかまわない。
私以外にも、超能力者かもしれない者は大勢いるから、そういうデータをたくさん集めて公表して研究すれば、超能力学は発展するはずだ。
しかし、私アニメを作ることは、本来やってはいけないことを神制度を使って無理やりやっていることなので許されない。

[6526] 私マンガや私アニメは何がいけないか? h21.2.16
私は、人間がマンガやアニメを見ただけで実在から離れてしまうとは思わない。ただ、Hなマンガのように、マンガやアニメで見たことを実在の中でやると実在から離れてしまうことがある。だから、性欲や麻薬欲を刺激しない内容ならば、マンガやアニメを見てもいいと思う。したがって、マンガやアニメを作ること自体がやってはいけない悪いことなのではない。
キリスト教の絵画は、キリストについての理解を助ける挿絵である。超能力者になりたい人がキリストのことを知るために、あるいはキリストの神制度を使う者がキリストを利用するために、キリストを題材にした芸術作品を好んで見たのだ。だから、キリストを題材にした作品は人気があるけれども、芸術作品のすべてがキリストを題材にしなければならない理由は何もない。
私マンガやアニメは、超能力の習得にとって有益なことは述べられてなく今どき超能力を習得するために見る人はいないし、神制度は実在に反することをするためにある制度であり、私についての神制度はやらないほうがよく、私マンガや私アニメは悪事を流行らせるだけだから作らないほうがいいのである。[私マンガを読む人は、私マンガを見て、自分の解釈を入れて、その解釈したことを実在の中でやるのであって、私マンガの通りそのままをやるわけではない。複数の私マンガを組み合わせて使うこともある。だから、いろんなことがやれるわけである。]

[6527] 超能力はあるかないか? h21.2.17
頭の周りが光る超能力が使えたキリストが現れたのがきっかけになって、みんなが超能力の練習をしてみたが誰もできなかった。
そこで、次に、キリストと同じことをすれば超能力が使えるようになると考えて、みんながキリストと同じことをするようになった。
それでも、いつまで経っても誰も超能力が使えるようにならなかったので、短気な人が超能力が使えるようになる前に自分がやりたいことをやってしまった。
これが神制度の始まりである。
超能力が使えるようになってから自分がやりたいことをするのは、超能力が実在を支配する力なので実在の理に適[かな]っているからかまわないが、
超能力が使えるようになる前に自分がやりたいことをするのは、実在の中でまちがいを犯すことになるからいけない。[自動車の免許を取らずに自動車を運転するようなものだ。]

[神とは、超能力者かもしれない者のことである。]
超能力がないと考えるなら、最初から宗教をやらなければいい。
超能力があると考えるなら、超能力を習得するまでやらなければならない。
君は、超能力がないと考えるだろうか?それともあると考えるだろうか??

[6528] どうして日本の政治家は神制度を使うのか? h21.2.17
その昔、日本神道の宗教家が神武天皇の神制度を使って神武天皇の伝記を書き変えて神武天皇を王様にすることによって自分たちも王様になって日本政府を作った。そうやって日本政府ができた。
しかし、今は民主主義の時代である。したがって、日本の政治家は民主主義の原理に基づいて国民の投票によって選ばれる。昔のように、宗教家が政治家をやるということはない。
ところで、神武天皇の神制度を使えば、神武天皇が王だから、民主制ではなく王制で自分勝手に法律や政令を作ることができる。
だから、政治家の多くは日本神道に入って神武天皇の神制度を使っているのだ。[あくまでも、神制度が正しければの話だが。]

[6529] どうして神は人間よりも上の者なのか? h21.2.17
そもそも神とは超能力者かもしれない者のことであった。
はじめの頃の宗教は、みんなが神と同じことをすることによって超能力を得ようとしたが、誰一人として成功した者はいなかった。
宗教の人気がなくなりつつあることを心配したある宗教家が信者を獲得するために超能力と縁を切って神の定義を人間よりも上の者に変えて、神の信者であれば誰でも神と同じ人間よりも上の者になれるとした。[信者は宗教家に管理されて宗教をやっているので、一人の信者の独断で宗教のやり方を決めることはできないから、やはり宗教家が神制度を始めたと考えるべきである。]
宗教に入るだけで人間よりも上の者になれるので、みんながこぞって宗教に入った。[宗教に入らないと、宗教に入った者から差別されて攻撃されるからである。]
こうして神制度は急速に世界中に浸透したのである。
それで、日清戦争の頃には、神制度をやっている国では国民全員が宗教に入っていたし、そうなると国内的には人間よりも上の者であっても得にならないから、神制度をやっている国々が神制度をやっていない中国を征服しようとしたのである。
しかし、今では神制度は正当性がない制度と考えられるようになったので、世界的に神制度は通用しなくなったのである。[私の例でわかるように、誰でも一生に一度は超能力者かもしれない者にまちがわれるようなことがあるから、したがって人類すべてが超能力者かもしれない者と考えられるので、神すなわち超能力者かもしれない者は人間と同じであって人間よりも上の者とは言えないはずである。それに、神制度は超能力と縁を切ることによって始めた制度だから、再び超能力と縁をつなげるのは矛盾している。神制度は宗教家が勝手に神のキャラクターを決めて信者が神と同じになれる制度であり、つまり宗教家が勝手に信者のキャラクターを決めているのであり、そんなことが正しいと認められるわけがない。]


[6530] 宗教家はヘボ政治家 h21.2.17
宗教家の言いなりになっても人類が幸福にはなれない。
宗教家は実在に反する下手糞な制度を作って人類を不幸にするだけだ。[例えば、神は超能力者かもしれない者であって、そんな者はザラだから人間よりも上の者ではないのに、人間よりも上の者にしている。]
宗教家は頭が悪いから、宗教家が人類を幸福にして人類から返礼を受け取ることができないのだ。
人類は宗教家とは縁を切るべきだ。

[6531] 誰が悪いか?(その2) h21.2.17
神を人間よりも上の者として、神の信者であれば神と同じように人間よりも上の者になれるとした宗教家がそもそも悪い。
しかし、その宗教家のまちがった取り決めに従って宗教に入信した者も、また悪い。
宗教に入ると悪いことができるという理由で今でも宗教に入る者が後を絶たないのは情けない。
宗教家も信者も宗教に入っている者は全員実在に反したことをする悪者なのだ。

[6532] キリストの十字架 h21.2.17
キリストの十字架は、キリストが凶悪殺人強盗犯で、キリスト教に入ると何でも悪いことができるという宣伝である。キリストの十字架像がリアルで生々しいのは、キリストが実在する犯罪者だったと思わせるためである。
だから、キリスト教は世界で一番人気がある宗教なのである。
これでは性悪説を唱[とな]えたくなる。
自分が有利に生きるためならまちがったことをやるのは当然という人が宗教に入るのだ。どうしてそんなに心の荒[すさ]んだ人々が多いのだろうか?
良心的な人間はそれほどいないものだろうか?どうして善く生きるより悪く生きることを望むのだろうか?
『なくて七癖』というように、人間は生まれつき多くの欠点を持った生き物である。宗教のように人間の欠点を助長する会はこの世にあってはならない。
宗教が本当にいい会なら、この私がとっくの昔に入っているはずである。私がそうしないのは、宗教が悪い会だという何よりの証拠だ。
宗教に入っている者よりも宗教に入っていない者のほうが多くなる時代が早く来てもらいたいものだ。
キリストの十字架が、キリストのような悪い人になってはいけないという反面教師になってくれないものだろうか?

[6533] 『人を殺したほうが楽しいに決まっているじゃねえか?!』 h21.2.18
誰でも宗教に入れば実在に反する悪いことをすることができる。
悪いことができたほうが悪いことができないよりも有利に生きて行ける。
悪いことをするのはスリルがあって楽しいことである。
たしかに、私も小学3年生のとき万引きしたときには楽しかったが、物を盗むと自分が見張りに捕まり後で店の人に謝らなければならなくなるのでやめた。
中学3年生のときオナニーしたときには、性欲を満足する快感の一方で後ろめたさもあった。
高校1年生のとき精神分裂病に罹って近所の家から自分の悪口を言う幻聴が聞こえて仕返しに近所の家に乾電池を投げて窓ガラスを割ったときにも、攻撃する快感の裏で自制が利かない悲しさも感じていた。
人間の心は悪いことをしたときには、たとえ表面的には楽しくても、心の深いところでは不愉快になるようにできている。
文化のレベルが低いときには、認識が五感的なので、実在に反することをしても眼先の喜びが得られればそれで満足できる。
しかし、文化のレベルが上がると、認識が知覚的になるので、実在に反することをするのに耐えられなくなる。
それで、最近は、宗教をやめる人が増えたのである。
宗教に入るのはどうしても生活に困ったときにして、それまでは精一杯人間として真面目に生きてみようではないか。

[6534] 神武天皇は実在したか? h21.2.18
宗教では、神すなわち超能力者かもしれない者と、神の架空のキャラクターとは別である。
だから、実在の神武天皇と宗教において信じられている伝記の神武天皇とは別人である。
伝記の神武天皇の業績が一人の人物にしては多すぎるのは、それが宗教家が作り上げた架空の神武天皇だからである。
それとは別に、実在の神武天皇がいたのである。それがどんな人だったかはわからないが、何か不思議なことが身近にあったことは確かである。

[6535] 夕焼け小焼け h21.2.18
夕焼けは普通は赤いが、場合によっては金色に輝いて見えることがある。
夕焼けの金色の光に照らされたトンビが金色に輝いて見えることもある。
つまり、実在の神武天皇は、金色の夕焼けとその光に照らされたトンビを見たのである。
それを誰かに話したので、神武天皇が宗教家によって超能力者かもしれない者とされたのである。それだけの元ネタから、神武天皇の実話っぽい架空の伝記が作られたのである。
宮崎県では山岳部が西にあって金色の夕焼けが見えにくそうだから、神武天皇は宮崎県とは別の宮崎県の近く(熊本県?)に住んでいたのだろう。
[私が神武天皇の光の玉を金色の夕焼けだと考えた訳[わけ]は、オカルトビデオの隕石説がもっともらしくて悔[くや]しかったことと、当時私はインターネットラジオのChoiceRadio.comのクラシックで聞いたワグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の曲を思い出していてドイツの音楽はこんなにコミカルで大衆娯楽っぽいのかと思ったが、そういえばニーチェはワグナーの友人で、たしかニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』には「最も貧しい漁夫までもが、黄金の櫂[かい]で漕[ひさ]ぐ」という美しい一節があったが、黄金の櫂とは海に映[は]えた黄金色の夕焼けのことだと思ったときに、神武天皇の光の玉の正体はこれだと閃[ひらめ]いたのである。]

[6536] 神武天皇制とは何か? h21.2.18
神武天皇の超能力の正体が夕焼け小焼けであったとすると、はじめから超能力ではなかったことになる。
それを宗教家が無理やり超能力に作り変えたのである。
だから、日本では、超能力の鍛錬はやっていない。神武天皇と同じことをすることによって超能力を身に付けようとすることもやっていない。
おそらく日本の神制度は、外国から輸入した制度だったのだろう。だから、いきなり神制度から始まったのだ。
宗教家が、昔の日本に神武天皇という人がいて、その人が将軍で王になって超能力みたいなことをしたという実話っぽい架空の作り話を作って、それを用いて神制度を始めたのである。
つまり、宗教家とは作り話を作ってそれで実在を動かすことを仕事としている者なのだ。
神とはその作り話の主役であり、その元ネタになった実在の人物がいるというだけのことである。神武天皇は、神武天皇の作り話を作った宗教家自身だったのかもしれない。おそらく、神武天皇の生没年とか出身地とかはフィクションなのだろう。作り話の神武天皇が子供を作ることはできないから、今の天皇は神武天皇とは他人なのだ。
ところで、作り話で実在を動かすことは、作り話が実在から論理的に帰納されて出来ていないから、作り話と実在が食い違っているために、非常に危険である。
人間も実在する物体のひとつであり、実在世界の中でそれ相応の位置を占めるべきであって、それを宗教家が作り話を作ってメチャクチャにするのは、実在世界の秩序を破壊する行為にほかならない。
人間は実在世界の中で正しい地位を占めるべきであって、宗教家の作り話の世界でまちがった地位を占めるべきではない。
天動説では地動説ほど文明が栄えなかったのと同じことである。
地動説は実在から論理的に帰納されて出来ているから、実在の世界そのままが映し出されているのであり、実話の地動説によるほうが作り話の天動説によるよりも実在に適応して生きて行くことができるから、それだけ幸福が実現されるわけである。
物については天動説よりも地動説が正しいように、人については宗教家の世界よりも近代合理主義による実力の世界のほうが正しいのだ。
宗教家の作り話は実在の物理法則は犯さないが、実在の人間や人間社会に関する『高度な法則』(例えば、道徳すなわち人間心理に関する法則や民主主義の原理や実力主義の原理など)を犯しているのだ。つまり、宗教はまちがった人文科学や社会科学であって、正しい学問の妨害をしているのだ。
たしかに、作り話の神武天皇は立派な人だが、今は戦国時代ではないので、神武天皇の真似をすることはできないから、神武天皇の作り話は役に立たない。
神武天皇の作り話は時代遅れで古臭いので、新しい作り話を作るために私を“元ネタの人”にしたのだろう。
しかし、一人の具体的な人を手本としてそれを見習って生きて行くこと自体が古い方法であり、物理学のように正しい『人間についての抽象的な法則』を守って生きて行くことのほうが実際の生活に適用しやすいから、もはや神は要らないのだ。
今後は、宗教家が作った作り話の神よりも、実在から帰納的に得られた正しい『人間についての法則』が求められる時代なのだ。
科学の本質は真実性にあり、宗教の本質は架空性にある。宗教は科学に負けたのだ。昔は真実がわからなかったから、架空の作り話が幅を利かせていたのだろう。

[6537] 宗教=文学×科学☆ h21.2.18
文学は人間の想像力で作られた実在から独立した架空の世界だから、宗教は文学ではない。
科学は実在から論理的に帰納的に作られた真実の世界だから、宗教は科学ではない。
宗教は架空の世界で実在を動かすことであり、文学と科学の中間である。
宗教は文学と科学が溶け合っていて、宗教は危険な学問だから、早くこの世からなくなって欲しいものである。


[6538] なぜキリストや釈迦は道徳を説くのか? h21.2.18
宗教はまちがった危険な学問である。宗教は悪事の生みの親である。
多くの人々が宗教に対する悪いイメージを抱いている。
宗教はそのいいわけをするために、人々に宗教に対する良いイメージを持たせるために、神に道徳を説かせているのだ。

[6539] 私アニメはなぜいけないか? h21.2.18
アニメ自体は空想の世界である。
しかし、アニメを作ることは実在における活動である。
日本神道はアニメ会社に命令して私アニメを作らせているのだから、それは実在世界における活動である。
私アニメを作るのは日本や世界で神制度をやる目的以外には考えられないし、神制度は世界に悪事を蔓延[はびこ]らせる原因だから、私アニメは作ってはならない。
私アニメは、キリストや釈迦の説法と同じように、人々に神制度(宗教)に対するよいイメージを持たせて神制度を支持させるために作ったと考えられる。
神制度(宗教)は、始めは人気取りのために面白いことをやってくれるが、人気が出た後では一部の者だけが面白い思いをしてその他の者は面白い思いができなくなる。
宗教の安っぽいご機嫌取りに騙[だま]されてはいけない。

[6540] 宗教(神制度)は何のためにあるのか? h21.2.18
神制度があれば、宗教家や政治家が世界を支配しやすくなるからである。神制度があれば、宗教家や政治家がてきとうに作り話をしてそれで世界を動かせるので、宗教家や政治家にとってはそのほうが都合がいいからである。
しかし、科学の世界には宗教家や政治家は口出しできない。それは科学が明らかに正しいからである。
これまでには超能力者についての正しい理論がなかった。それで、宗教家や政治家が超能力者についての作り話をして、それを用いて世界を動かしてきたのである。
しかし、この前私が『[6474] 超能力者かもしれない者は実在よりも上か下か?☆☆☆ h21.1.29』で超能力者についての理論を考えたから、もはや宗教家や政治家は神制度を使えない、つまり超能力者を使って自分たちにとって都合のいい世界を作ることはできないはずである。
宗教家や政治家にとって超能力者は使い道がなくなったので、今後は宗教家や政治家は超能力者についての作り話をするのをやめて、ひたすら実在に目を向けて合理的に考えていくしかない。

[6541] 今の天皇は神ではない。 h21.2.18
いくら宗教だからと言って作り話が何でも通るわけではない。[もしも、作り話が何でも通る制度があったら、人類の文明はとっくの昔に滅んでいただろう。]
宗教は神制度でなければならず、神制度では“神”に人間が従うだけである。
だから、今の天皇がいくら威張っても、何にもならない。
なぜなら、今の天皇は神ではなく、神である神武天皇を王だと思わせるために置いている“人”だからである。
だから、今の天皇が遊びまわったところで、それで信者が遊びまわれるわけではない。

[6542] 神武天皇は超能力者である。 h21.2.18
実在の神武天皇は金色の夕焼け小焼けを見た人だが、架空の神武天皇は念力で光の玉を出した超能力者である。
宗教における神武天皇は実在の神武天皇ではなく架空の神武天皇のほうだから、宗教における神武天皇は超能力者である。
だから、神武天皇の神制度では、神武天皇が超能力者として扱われている。
日本の宗教では、架空の作り話の元ネタになった実在の人は超能力者かもしれない者でなくてもよく“ただの人”でいいのである。神武天皇の場合には、宗教家が自分の経験をもとにして架空の神武天皇のキャラクターを作り上げたのかもしれず、宗教家が実在する神武天皇である可能性もある。
だから、わざわざ不思議なことがあった私を宗教の作り話の元ネタの人に選ぶ必要はなかったのである。もっとも、選んでも悪くはない。今日では外国を無視できないから国際的な視点でキリスト教や仏教に合わせて超能力者かもしれない者である私にしたのだろう。[日本らしさがなくなるが。]
ところで、神武天皇の神制度では神武天皇が超能力者として扱われているから、現行の神制度では『[6474] 超能力者かもしれない者は実在よりも上か下か?☆☆☆ h21.1.29』などで述べたように超能力と常能力を混同しているので神制度は不当ということになるのである。

[6543] アニメの作り方 h21.2.19
『バトルアスリーテス大運動会OVA』を見て思ったことだが、この話は私とは無関係に話を作って、あとから私らしさを無理やり加えているように思えた。[ちなみに、Mission 1には私の高校2〜3年生のときの100mのラップタイムが出ていた。]
アニメではまず脚本があって、それに脚色(演出)して話を作る。
脚本は私と無関係に作られるが、脚色(演出)で私らしさを加えているように思われる。
キャラクターについても、キャラクター原案は私と無関係に作られ、それに私らしさを加えて決定になる。
さすがに40年も経つとネタ切れやキャラクター切れになって、最近は面白いアニメがなくなった。
それなら、これまでに作られた脚本やギャラクター原案をもとにして、私と別の人で演出したり整形?したりして、似て非なるアニメを作ればいいだろう。
私が小学生の頃、一度読んだマンガをすぐにもう一度読んでも話を憶えていてつまらないので、3ヶ月ぐらい待って話を忘れてからマンガを繰り返し読んでいた。そうすると、十分に楽しめた。だから、上のやり方でリメイクしたアニメを見ても十分楽しめるはずである。

[6544] 神制度はどうして成り立つのか?☆ h21.2.19
神制度では、神と同じことをすれば自分がやりたいことをやってもいいとされている。[[6527] 超能力はあるかないか? h21.2.17を参照。]
神制度が正しい制度とされるのは、神が超能力者であり、超能力が実在を支配する力であり、信者が超能力を身に付けた上でのことである。
信者が超能力を身に付けていなければ、神制度は正しい制度ではない。
だから、信者諸君は、超能力を身に付けてから自分がやりたいことをやればいい。

[6545] 神制度をやることに意義はあるか?☆ h21.2.19
信者は超能力を見につければ自分がやりたいことをやれる。
しかし、実際に超能力を身に付けた者は有史以来ひとりもいない。
神制度は、制度があるだけでそれを使える者がひとりもいない無効な制度である。
神制度を使うのは、神制度が使えない制度であることがわからない頭の悪い者である。
頭が悪い者はいつの時代にもいるから、神制度を置いておくと危険である。
だから、神制度は廃止すべきである。

[6546] 宗教とは何か? h21.2.19
宗教とは科学と同じように人類が実在を支配するためのひとつの方法である。
神(超能力者かもしれない者)のことを知り神と同じことをすれば、ひょっとしたら自分も超能力が使えるようになるかもしれないと思って人は宗教をするのである。
だから、神制度を使う者は宗教界の外道である。
宗教においても正しい規律があり、神制度はそれを犯しているからいけない。

[6547] 宗教の利用法 h21.2.19
信者は自分が超能力を使って実在を思い通りにしたいために、神のことを知り神と同じことをしようとする。
世界にはそんな者が大勢いる。
宗教家は神のキャラクターを決めることができる。
だから、宗教を利用して世界をよくするためには、宗教家が神のキャラクターをありったけの善人にすればいい。この世のすべての真理を説き、心がそれらの真理に従い、かつ実行力のある者のリアルな話を作ればいい。その者にちょっとだけ超能力っぽいことをさせるのも忘れてはならない。
けっして、神を人間よりも上の者にしたり、神を王や将軍にしたり、神制度(神をもじって実在に反することをしてもいいとすること)をやってはならない。
宗教家が無制限に神のキャラクターを決めたり宗教のやり方を無制限に決められるわけではない。宗教にも一定の法律があるのだ。

[6548] 私は一体何なのか? h21.2.19
私は宗教家に“何かがグルグル回る”という超能力の元ネタを提供した者であって、それ以上の者ではない。
それなのに、宗教家が宗教を誤解しているために、私が小さい頃から私に要らない手出し口出しをし続けてきた。
神の元ネタになった者に手出し口出しをしてはならないこともまた宗教についての法律のひとつである。
今の宗教家はバカすぎるから、宗教家になるための資格試験でも課したほうがいい。

[6549] 超能力者は人間よりも上の者ではない。 h21.2.19
超能力者は最初っから人間よりも上の者ではなかった。
それなら、ユリ=ゲラーが現れたとき、超能力を使えただけで人間よりも上の者になれたはずである。
わたしも子供の頃にテレビで見たユリ=ゲラーを真似て自分もスプーン曲げをやってみたができなかったので超能力の習得はあきらめた。ユリ=ゲラーの自伝を読んだりしてユリ=ゲラーについての研究にまでは発展しなかった。
昔に超能力が流行ったのは、昔の人が今よりも暇だったからである。
昔の人もやらねばならないことはあったが、今よりも暇な時間が多かったのだろう。
それでその時間を超能力の研究や習得に費やしたのである。
超能力者を人間よりも上の者にしたのは、宗教家の悪ノリであって、本来はやってはならないことなのだ。

[6550] 神とは偉大な思想家のことではない。 h21.2.19
偉大な思想家が神ならば、デカルトやカントも神のはずである。
しかし、そうではないから、神とはやはり超能力者のことなのである。
合理主義哲学で偉大なのは、デカルトとカントだけである。
私もデカルトとカントのアイデアはしょちゅう使っている。
合理主義哲学のそこから先の発展はないのだろうか?

[6551] 釈迦は超能力釈迦? h21.2.19
釈迦は『生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天井天下唯我独尊」と言った』とされているが、この出来事は超能力っぽくない。
したがって、この有名な出来事は作り話であって、釈迦は本当は他に“何か”があったはずだと考えられる。
だから、釈迦は超能力者で通っているのだ。
[しかし、その“何か”は、私の例でわかるように誰にでもあるような些細[ささい]なことに違いない。だから、釈迦を特別視しなくてもいいはずだ。]

[6552] しょうもないことでは盛り上がらない。 h21.2.19
今はばかばかしいことで騒ぐ時代ではない。
私はしょうもないことで騒ぎ立てるのが嫌いだ。私は無理やり喜んだり笑ったりわざとらしいことをするのが嫌いだ。
宗教はもともとがしょうもないことだから、いくらやっても盛り上がらないのだ。
今の時代に騒ぎたければ、実際に本当にすごいことをやって見せるしかない。

[6553] 宗教とは何か? h21.2.19
神とは、宗教家が作った作り話の主役の“架空の人物”(キャラクター)である。【神の定義】
世の中には、架空の人物である“神”にあこがれている人間が大勢いる。
抽象的な哲学は面白くないが、“神”が出てくる具体的な作り話なら面白いと思う者が大勢いる。
宗教とは、宗教家が“神”が登場する作り話を作って、“神”に従って生きようとする大勢の人々を操作することである。【宗教の定義】宗教家は、“神”に従って生きようとする大勢の人々を実在に従うよい方向に導かねばならない。“神”に従って生きようとする大勢の人々を実在に反する悪い方向に導いてはならない。そうなるように、宗教家は“神”のキャラクターや宗教のやり方を考えねばならない。[だから、例えば日本神道がやっている神武天皇の神制度は宗教としてはまちがっている。]
ところで、“神”に関する作り話を作るためには、元ネタが要る。それは多くの人々から供給される。昔は作り話に面白みを加えるために超能力を使ったので、“神”は超能力者でなければならず超能力の元ネタが珍重されたが、今は実話らしさのほうが大事にされるのでむしろ超能力は使わないほうがよく、“神”は超能力者でないほうがいいので、超能力の元ネタは要らなくなった。[だから、日本神道が超能力者かもしれない者である私を元ネタにしたのは、まちがいである。超能力者に憧れていて宗教をするなら、私が小学生の頃スプーン曲げをやってみてできずにすぐ諦めたように、自分が超能力をちょっとやってみてできなければすぐにやめるはずである。それが、何日も何年も続くのは、やはり宗教が人間の生き方を説く実践的な哲学だからであると考えられる。]
しかし、大勢の人間を実在に従うよい方向に導くためには、宗教家が想像で作った架空の人物である“神”を真似て生きるよりも、実在の人間から論理的に帰納的に得られた『人間についての法則』によるほうが確実である。しょせん架空の作り話によるやり方では、実在からはみ出して悪くなるのが落ちである。“神”の信者が「宗教家の作り話の通りに生きても幸福になれなかった」と文句を言っても、宗教家はそこまで責任は持てないだろう。しかし、今はまだ『人間についての法則』が少ししかわかっていないから、将来『人間についての法則』が十分わかるまでの間、間に合わせに宗教をやるのも仕方のないことだろう。[ニーチェは19世紀終りに『神は死んだ』と言ったが、実際には神が死ぬにはまだ早いのだ。]
つまり、宗教とは科学でまだわかっていないところを空想で埋めることなのだ。例えば、人生論は科学ではまだよくわかっていない分野なので、宗教でいいかげんにやっているのである。実在については宗教よりも科学のほうが確実だから、宗教は科学を否定してはならず、宗教は科学つまり合理主義的世界観(例えば、民主主義)に従わねばらない。

[6554] 『ウサギとカメ』 h21.2.20
ウサギは宗教のことで、カメは科学のことだ。
宗教は早いけれどもそれだけに荒削りでまちがいが多く、
科学は遅いけれどもそれだけに細かくて正確である。
だから、科学が理解したことについては宗教は科学に席を譲[ゆず]らねばならない。
例えば、私が『[6474] 超能力者かもしれない者は実在よりも上か下か?☆☆☆ h21.1.29』で述べた超能力理論は、これまでに宗教家が考えた超能力理論よりも正しいので、宗教は超能力に関して科学に席を譲って神制度をやめねばならないのだ。

[6555] 中国には宗教がない。 h21.2.20
中国の気功とか太極拳は超能力学ではなく、誰の身体にもある気の理論に基づく一種の医学である。
中国の宗教は孔子や荘子の思想とされるが、それは神が出てくる作り話ではなく、実在する孔子や荘子が説いた『人間についての理論』である。
むしろ、荘子の思想が、架空の“神”が人間の生き方を説く宗教の発生を防いだともいえる。
中国では、超能力者かもしれない者は仙人とされていて、宗教とは別なのだ。

[6556] モーゼ教はどうして滅んだか? h21.2.20
モーゼは紀元前13世紀頃に奴隷であったイスラエル人をエジプトから新天地カナンへと導いた英雄的人物とされているが、モーゼ教が滅んだのは、モーゼが両手を挙げて海を割った超能力が派手すぎて古臭いと思われるようになったからである。[モーゼの超能力の正体は、モーゼがイスラエル人を率いて逃げてきたとき、たまたま紅海が干潮になっていてイスラエル人が紅海をどぶって渡れたが、後から追っかけてきたエジプト人が来たときには紅海が満潮になっていて歩いて渡れなかったことだろう。昔は徒歩が移動手段だったので、海の満ち引きが大きく影響したのである。]
それで、もっとマイルドな超能力に変えるために、西暦0年の頃新たにキリストを作ったのである。
それでも、超能力が派手すぎて古臭くなったから、西暦2000年の今新たに神と作ろうとしているが、その超能力の元ネタを提供したのが私というわけである。

[6557] 実在逃避 h21.2.20
人間は考えることによって実在に近づいていく動物である。
だから、考えない人間は実在から逃避している。
宗教について考えないまま宗教をやることは、一種の実在逃避である。[現実とは、実在の眼で見える部分であり、実在逃避と現実逃避とはちょっと違う。]
私は新しい神を作るための超能力の元ネタの提供者としてはつまらない人間だが、宗教論の思想家としては面白い人間である。
私は新しい神を作るための超能力の元ネタになった実在する人間であって、神でも宗教家でも信者でもない。

[6558] 宗教はまちがった人文科学や社会科学である。 h21.2.20
日本神道では、神が人間よりも上の者であり、神の信者が人間よりも上の者となって他の人間を支配できることになっている。
しかし、それは架空の作り話である。
架空の作り話で実在を動かしている日本社会がうまくいくわけがない。
日本神道の宗教家の神のキャラクターの決め方や宗教のやり方がまちがっているのだ。

[6559] 私アニメはどうして作られるのか? h21.2.20
それが日本神道の宗教のやり方だからである。
つまり、私アニメを作るのは日本神道の宗教家のてきとうな取り決めであって、何ら理由はない。
宗教は架空の世界を実行することだから、架空の世界の取り決めには理由がなくてもかまわないのである。
しかし、私以外の人間についてはそういったアニメがまったく作られていないのだから、合理的には実在する人間についてのアニメを作ることは禁止されていると考えられる。
だったら、私も実在する人間であり、宗教は科学を否定してはいけないので、私アニメを作ってはいけない。
キリスト教の絵画はキリストの後光や題材が全部作り話で絵のキリストの顔が本人と似ていないし、日本の文学作品は光の玉が作り話で神武天皇が登場しないから許されるのである。

[6560] 宗教では理由よりも結果が大事。 h21.2.20
宗教は、実在からネタを集めてネタを組み合わせて作り話を作って、その作り話を実在の世界において実行することである。[[6537] 宗教=文学×科学☆ h21.2.18の図を参照。]
だから、宗教では、作り話が正しいことを証明する理由は要らないが、その代わりよい結果を出さなければならない。
例えば、私アニメを作っても何かが不自然にグルグル回ったり登場人物の顔が変な感じがするだけで、いいことは特に何もない。だから、私アニメはやめるべきである。
日本の政治家の政治も、国民にとってはいいことが何もないし、政治家も国民の反感を買って楽しくないはずだ。だから、政治家が神武天皇の神制度を使うのはいけない。[信者を管理するのは宗教家だから、日本神道に入っている政治家も宗教家の言いなりになって動いていることになる。]
日本神道の宗教家は宗教のやり方が下手糞だ。やめてしまえ!
宗教家は裏で隠れてコソコソやらずに、政治家のように表に出てやれ!宗教家も政治家のように投票で選んだり任期を決めたりしてちゃんとやったほうがいい。宗教家はまちがえたなら、その責任をとれ!
宗教は占いと同じで当てずっぽうで作り話をするだけなので、やはりまちがいが多い。宗教は科学でどうしてもわからない問題があったときだけ使えばよく、なるべく使わないほうがいい。

[6561] 宗教を滅ぼすのは科学である。 h21.2.20
宗教は科学でわかっていないところを空想で埋めることである。
科学は今から500年ぐらい前に始まったばかりである。
だから、それ以前の時代には、宗教しかなかったのだ。
人間は科学に頼るべきだろうか?宗教に頼るべきだろうか?
とりあえず、科学でわかっていることは宗教に頼らないことにしよう。[だから、例えば、科学で正しいとされる民主主義をやらないために、王である神の神制度を使って王制をやるのはいけない。]
宗教を滅ぼすのは科学であって、そのためには科学の研究を進めるしかないのだ。
科学の研究は理科だけではなく、人文、社会、芸術などのあらゆる分野に押し広げねばならない。
宗教を滅ぼすのは科学である。つまり、実話のような嘘を滅ぼすのは嘘のような実話なのだ。

[6562] 荘子の思想 h21.2.20
今の人は超能力を信じないが、今から2000年ぐらい昔の人は超能力を信じていた。
超能力者かもしれない者がいたとき、たいていの人間はその者を超能力者だと割り切って考えた。
しかし、荘子は『曖昧なことは割り切るな!』と説いたから、超能力者かもしれない者がいたとき、その者を超能力者であるとも超能力者でないとも割り切らずに、そのまんま超能力者かもしれない者として捉[とら]えた。それが仙人である。仙人はちょっと人気があるだけで、普通の人と同じように扱われた。[私の超能力は八仙人の超能力ほど珍しくはないから、私を仙人扱いしなくてよい。伝説の八仙人の超能力も事実そのままではなく、もとの事実が伝えられていくうちにだんだん変わって行って、最後にわけがわからない話になったのだと考えられる。しかも、どの仙人についても、作り話がどれも短くてディテールが粗いから、仙人は宗教の神とは違うのだ。]
中国には“超能力者”という割り切った概念がないから、中国では超能力者の神が出てくる作り話が受けなかったので、中国には宗教がないのである。
中国では、超能力者かもしれない者以外にも、曖昧なことは割り切らずに曖昧なままでやっているのである。
だから、『中国』と言うのだ。
[反対に、ヨーロッパや日本では割り切ることが大事である。だから、超能力があるのかないのかわからない神制度のようなことをやってはならない。昔の日本では宗教家の作り話に呑[の]まれていたから、作り話の超能力者を真に受けて、本当に超能力者が実在すると思って、実在の中で宗教をやっていたのである。本来、宗教はマンガのように読むものであって、やるものではないのだ。]

[6563] キリスト教はなぜ人気があるのか? h21.2.20
キリスト教は2000年続いている。
だから、キリスト教の作り話はそれだけ高い信頼性があるのだ。
たとえ科学的な裏付けがなくても、2000年経っても反証されない“仮説”はほぼ正しいというわけだ。
しかし、「空は青い」みたいな当たり前のことをただ書いているだけで、知る価値がないともいえる。

[6564] 実話のような嘘の話 h21.2.21
宗教の作り話は、実話か嘘かわからないほど出来のいい話である。
しかし、そのせいで宗教の作り話を実在の中でやる者がいて困る。
だから、フィクション(架空の作り話)の本の場合には、本の最初に「この本の内容は作り話です。」という但[ただ]し書きを必ず付ける様にしなければならない。

[6565] 宗教は文学である。 h21.2.21
宗教とは作り話によって実在を動かすことだが、一般の文学も多かれ少なかれ宗教性を持つ。文学者も宗教家のようなものだ。
文学にもいい文学と悪い文学がある。
いい文学とは読んでためになる文学であり、
悪い文学とは読むと害になる文学である。
日本神道の文学(神武天皇に関する作り話)は、世界に害を与えたから読んではいけない悪い文学である。

[6566] 天皇とは何か? h21.2.21
天皇は、神武天皇の作り話の世界から抜け出た実在の人間である。
しかし、紙の上の神武天皇が本物の子供を作れるわけがない。
天皇は、神武天皇が実在の人物だと思わせるために日本神道の宗教家が置いている役者なのだ。
だから、天皇なんかまともに相手にしなくてもいい。
天皇は、宗教に対する誤解を招く原因だからいないほうがいい。

[6567] 作り事制 h21.2.21
天皇は、作り事制の最後の生き残りだ。
近代以降、宗教が衰退しているのは、実話制の科学によって作り事制の宗教が駆逐[くちく]されているからだ。
作り事は頭の中だけの世界であって、実在において実行すべきものではない。
作り事制は実話制に改めるべきである。

[6568] 明治政府 h21.2.21
明治政府が科学と宗教の二本立てでやろうとしたのは、自然科学は実話で、人文科学と社会科学は作り事でやろうとしたからである。
しかし、人間も人間社会も実在する“物”だから、それ自体の法則を持って動いているのであり、人文科学や社会科学を作り事制でやろうとするのはまちがっている。
実話制と作り話制の足し合わせはいけない。
最近は人文科学も社会科学も進んでいるから、明治政府のような世界観は誰も持っていないだろう。

[6569] 日本神道 h21.2.21
日本神道とは、神武天皇に関する作り話を『人間の法則』とする集団である。
日本神道の信者にとっては、神武天皇の作り話が『人間の方程式』なのである。
しかし、それは宗教家が想像で作った架空の法則であって、実在から論理的帰納的に導かれた実在の法則ではない。
実在の法則は実在の世界の中で実行できるが、架空の法則は架空の世界の中にとどめるべきだ。
もっとも、今の日本神道の『人間の法則』は政治家にしか適用できないから、『政治家の法則』と言うべきである。
政治家はそんなにおとぎ話が好きなら、国会をやめて幼稚園に入ればいい。[マンガ『ドクタースランプ』の最初の頃のおとぎマシーンとかホイ=クエンとかは政治家のイヤミだ。ちなみに、センベエは私で、アラレちゃんは私の小学生の頃の友達の正岡淳之[まさおかあつし]だ。]

[6570] 宗教は得か損か? h21.2.21
占いは当たるも八卦[はっけ]当たらぬも八卦である。[「当たるも八卦当たらぬも八卦」とは、「私の占いは必ずしも当たるとはかぎりませんが、それでよければ占ってあげましょう。」という意味である。]
宗教も占いも同じことだから、宗教は当たれば得だし外れれば損である。
宗教が得か損かは、神に関する作り話を実行してみて結果が出るまでわからない。
つまり、宗教の神に関する作り話は闇雲に立てた仮説であって、実在において検証しないかぎりそれが正しいかまちがっているかわからないのである。例えば、神武天皇の作り話は、日清戦争や日露戦争のときは日本の政治家が戦争に勝って正しかったが、太平洋戦争のときには日本の政治家が戦争に負けてまちがいだったから、作り話が当てはまらない反例が見つかったので、もはや神武天皇の作り話は実在に当てはまる正しい仮説とはいえない。
宗教は当てずっぽうのバクチだから、ハズレのない科学のほうがいい。現在わかっていないことでも研究すればわかるようになるから、宗教に頼るのをやめて、真面目に科学の研究を進めるべきである。

[6571] 神とは何か? h21.2.21
神の信者は神と同じことをするのだから、神とはいわば方程式における一般定数のようなものである。[例えば、ax+b=0のaとかbとかが一般定数である。一般解は、x=−b/aだから、具体的にaとかbとかが与えられたとき、一般解の公式にaとかbとかを代入すればすぐに解がわかるわけである。]
神の信者は、神についての作り話の神に自分自身を代入して神と同じことを実在の中でやるわけである。
ところが、宗教では、神についての作り話は宗教家が当てずっぽうで作った話だから、正しいとはかぎらない。
神の信者は、神についての作り話を自分自身に適用する前に、それが正しいかどうかよく考えて確かめなければならない。

[6572] 安っぽい宗教☆ h21.2.21
神が自由に他人の物を奪い取ったり他人を殺したりすることにすればいい。
そんな宗教を作ればさぞかし人気が出るだろう。
日本神道が、神が王であり将軍であるとしているのも同じことだ。
政治家が日本神道に入って民主制を無視して王制で政治をするのはあんまりだ。
時代遅れの非常識な神ではいけないのだ。
神は最低限、法律を守らねばならない。【神についての法則】
法律では足りない決まりを神で補うわけである。

[6573] なぜキリスト教徒は科学者を迫害したのか? h21.2.21
キリスト教徒は、キリストと同じことをする者である。
中世のキリスト教では、キリストを人間よりも上の者としていたので、キリスト教の信者も人間よりも上の者だったのである。
一方、科学者は宗教に入っていないから、ただの人間だった。
人間よりも上の者は人間よりも上だったので、キリスト教の信者は科学者を迫害したのである。
今のキリスト教では、キリストを人間よりも上の者としていないので、信者が科学者を迫害することはない。

[6574] 従うの意味 h21.2.22
宗教における神に人間が従うことの意味は、人間が神の命令を聞くことではなく、人間が神の真似をする(人間が神と同じことをする)ことである。
そのことは、氏神[うじがみ]において顕著である。氏神と人間の関係は親と子の関係と同じである。子は親の命令を聞いて育つのではなく、子は親の真似をして育つのである。
私が『[6077] 出家とは何か?☆☆ h20.11.21』で運よく“氏神”と言う言葉を思いついたから、神制度の謎が解けたのである。[当時私は仕事をしながらガリレオ=ガリレイのことを考えていて、どうしてガリレイの著書に“蛆虫”[うじむし]と言う言葉が用いられているかについて考えていた。ガリレイの本に蛆虫と書いてあるのは、教会の嫌がらせだったのかもしれない。(それにしても、ガリレイの本業は医者である。どうして医者が天体のことを考えたりするんだ?!ガリレイは『慣性の法則』がわかっていたから、物体が慣性の法則から外れる原因としての『力』もほとんどわかっていたといえる。)]
つまり、神制度とは、信者が宗教家が作った作り話の神と同じことをすることである。
だから、神は法律に従う必要があるし、信者が作り話のネタを拾って駄洒落や喩えなどを使って自分が法律に反したことをするのはいけない。
神の超能力には、[信者には超能力の真似なんかできないから]特に意味はなく、作り話を面白くするための味付けにすぎない。もちろん、現実には、そんな超能力を使える者などいない。

[6575] 超能力の元ネタの人 h21.2.22
宗教家は神が出てくる架空の話を作ったが、その話の中で神は超能力が使えることになっている。
神の超能力は宗教家が無から考えて作り出したのではなく、神の超能力の元ネタになった人がいる。
もっとも、超能力の元ネタの人が実際に超能力を使えたわけではない。
超能力でないことを、宗教家がひねって超能力に作り変えただけである。
だから、架空の作り話の神は超能力が使えるが、神の超能力の元ネタになった人は超能力が使えないのである。
超能力の元ネタの人は、宗教家自身かもしれない。
キリストの超能力の元ネタは薄暗い部屋の中で光の射し方の加減で身体が光っているように見えたことだし、ブッダの超能力の元ネタは普通の赤ちゃんよりも早く歩いたり喋ったりする赤ちゃんがいたことだし、モーゼやモハメットの超能力の元ネタは精神分裂病の幻聴のことだし、神武天皇の超能力の元ネタは金色の夕焼けを見たことだし、新しい神(名前はまだない)の超能力の元ネタは私が赤ちゃんの頃に使っていたガラガラが故障していたために夜中に突然ガラガラが回り出したことだ。
どれも不思議というほどのことはない。
それが超能力の元ネタなのだ。

[6576] 神はいる。 h21.2.22
『神は在る、鉄塔の碍子に在る。
神は在る、起重機の斜線に在る。』[北原白秋「鋼鉄風景」より]
神はいる。神は宗教家が作った作り話の上にいる。
神は宗教家が作った作り話の上の登場人物(キャラクター)であって、神は実在の人物ではない。
だから、釈迦もキリストもモハメットも神武天皇も新しい神(名前はまだない)もみんないないのだ。
神は紙の上の生き物であって、実在する生き物ではないのだ。

[6577] どうして日本に独自の文化がないのか? h21.2.22
最近の邦楽は多かれ少なかれ洋楽の影響を受けている。
日本独自の音楽はないといってもいい。
日本が独自の文化にこだわらず海外文化を積極的に取り入れてきたのは、
日本人が正しいかまちがっているかしか問題にしないからである。
日本人は自分の考えよりも他人の考えのほうが正しければ、躊躇せずに取り入れる。
自分の非を認めるのも、日本人の得意技のひとつである。
ならば、宗教がまちがっていると思って、やめるべきだ。

[6578] どうして日本では車は左人は右なのか? h21.2.22
右は正しい、左はまちがいという意味を持っている。
日本は宗教の国で科学を否定するし、車は科学の産物だから、車は左人は右なのである。
アメリカは宗教よりも科学の国だから、車は右で人は左なのだ。

[6579] 科学とヤマカン h21.2.22
人間は、科学でわかっていないことをヤマカンで補いながら生きている。
人間は、科学とヤマカンの両方に頼って生きている。
ところで、宗教とは、宗教家が神の出てくる作り話を作って、信者が神と同じことをすることである。
信者は、ヤマカンの部分を宗教家に決めてもらっているのである。
だから、曖昧に宗教をやったからといって、ヤマカンの部分が曖昧になるだけで、科学は依然として守らねばならない。
だから、曖昧に宗教をやったからといって、法律を犯していいことにはならない。

[6580] 宗教家は偉いか? h21.2.22
宗教家の仕事は、神の出てくる作り話を作って信者に神と同じことをさせることである。
だから、宗教家は占い師や文学者と同じぐらいの偉さである。
宗教家が偉く見えるのは信者の思い込みにすぎず、信者が宗教家の言いなりになるほどのことはない。

[6581] 宗教家は超能力者である? h21.2.22
宗教家は科学でわからないことをヤマカンで当てる才能があるのだから、一種の超能力者である。
だから、神の超能力の元ネタの人は超能力者ではなく、宗教家自身が超能力者なのである。
それとも、イカサマ師にすぎないのだろうか?
宗教家は科学者ではないのだから、超能力者かイカサマ師かのいずれかである。

[6582] 政治家が信者になる理由 h21.2.22
政治家は実在すなわち科学的世界観に則[のっと]って国民を管理する者である。
一方、宗教家は架空の作り話に則って信者を管理する者である。
政治家と宗教家とは則る土台が違う。
だから、政治家と宗教家は別である。
政治家はちょっと科学でわからないことがあると、すぐに架空の作り話に頼って政策を決めている。神武天皇に関する作り話は日本の政治家の隠れた指針書(ガイドブック)なのだ。日本の政治家は、政治家になってはみたが自分がやればいいことがわからないので、それで神武天皇の神制度ばかりやって暇を潰しているのだ。
だから、政治家は信者になってしまうのだ。
政治家は他人が作った架空の作り話に頼るよりも、もっと自分の頭を使って考えねばならない。
政治家が信者になる病気を治すためには、社会科学が進歩して、政治家をコンピューターに置き換えるしかないのだろうか?

[6583] 宗教が滅びる理由 h21.2.22
実際に、今の世界では科学に押されて宗教は滅びつつある。
それは、科学のほうが宗教よりも信頼性が高いからである。
それは、宗教が超能力ではなくイカサマだからである。
つまり、宗教家がイカサマ師だからである。当たらない占い師なら偉くない。

神武天皇の作り話も、昔の宗教家がでたらめに書いたくだらない嘘の話にすぎず、人間が従うべき法則が記述されているありがたい話ではない。
だから、政治家が神武天皇を真似て王になったつもりで民主主義を無視して独断で政治なんかやってはいけないし、将軍になったつもりで国民に戦争させてはならない。
政治家は他人の本を読んで丸暗記するよりも、自分の頭を使って考えて新しい人間社会についての法則を発見しなければならない。
政治家はおとぎ話を演じる役者ではなく、実践的な社会学者でなければならない。

[6584] 宗教とは自分で考えないことである。 h21.2.22
宗教の作り話があると、科学でわからないことがあるとすぐにその本を読んで神を真似るだけである。
自分で考えようとしない。
だから、新しい正しいことがわからない。
宗教は科学を阻害[そがい]するから、宗教の作り話はなくさなければならない。
架空の作り話に頼って生きるよりは、何もないところに新しい秩序を発見するほうがいい。
たとえ死んでも自分で考えて生きるほうがいい。

[6585] 政治家は偉いか? h21.2.22
政治家は信者であって宗教家のいいなりだから、政治家は宗教家ほど偉くはない。政治家は、ビル火災で飛び降りた信者のように、宗教家の指示通りに動くロボットである。
ところで、宗教家は直観で科学でわからないことがわかる超能力者ではなく、くだらない嘘の作文を書いたり、その嘘の作文に則って信者に指示を与えたりするイカサマ師だから偉くない。
したがって、政治家も偉くない。
科学者に比べたら、宗教家も政治家もゴミだ。

[6586] 宗教団体は儲かるか? h21.2.23
占い師は、占いが当たれば信者が増えて儲かるし、反対に占いが外れれば信者が減って儲からない。
宗教は占いだから、宗教家の占いが当たって信者が得をすれば信者が増えるから宗教家も儲かるが、反対に占いが外れて信者が損をすれば信者が減るから宗教家も儲からない。
宗教家はイカサマ占い師だから、占いが外れることが多いので、宗教団体つまり宗教家も信者も儲からない。
一方、科学はまちがいがないから、確実に儲かる。
だから、みんな宗教よりも科学に入りたがるのだ。

[6587] 宗教はみんなを不愉快にする会だ。 h21.2.23
占いがいくら吉でも、実際に占いの通りにやってみてうまくいかなかなければ凶である。
いくら宗教家がおめでたい作り話を作っても、それが実現しなければかえって不愉快である。
宗教は話がめでたいだけで実現しないので、みんなを不愉快にする。

[6588] 宗教は超能力者のためにある会ではない。 h21.2.23
身体の周りが光って見えることや、金色の夕焼けを見ることや、おもちゃが故障して突然動き出すことなどは、誰にでも一生に一度ぐらいはあることだ。
キリストや神武天皇や私の超能力くらいで神になれるのなら、誰でも神になれるはずだ。
それなのに、神になれないのは、実在のキリストや神武天皇や私が作り話の神の超能力の元ネタの人にすぎないからである。
神は作り話の人であって、実在する人ではないのだ。神が超能力を使ったほうが話がおもしろくなるので、超能力の元ネタの人がいるのである。
日本神道の宗教家が私のことで騒いでいるとすれば、それは日本神道の宗教家が宗教を誤解しているからだ。宗教家が神武天皇の作り話を読んで、神武天皇が実在する超能力者だと思いちがいをしたから、宗教が超能力者のためにある会だと誤解していたのだ。宗教家の作り話に宗教家が騙[だま]されていたのだ。
宗教とは、宗教家が神が出てくる作り話を作って、宗教家が神の信者にその作り話に則った指示を与えて信者を適切に動かすことである。占い師が、古めかしい本を用いて信者の運勢を占うのと同じことである。いわば、宗教とは占い師のチェーン店であり、神はその暖簾[のれん]なのだ。

[6589] 日本の階級制☆ h21.2.23
日本では、占い師が政治家を支配し、政治家が国民を支配している。
日本は、占い師が支配する国つまり占い師制の国だ。
しかも、それは当たることがないイカサマ占い師だ。
占いよりも科学が当たるから、占い師を科学者に置き換えたほうがいい。


[6590] どうして信者は女が多いのか? h21.2.23
宗教とは占いである。
信者は自分で考えずに宗教家の占いを信じて生きている。
信者に女が多いのは、女が自分で考えないからである。
女は眼で見るだけで頭で考えない生き物である。
女が眼で見るだけなのは、女の欠点ではなく女の個性なのだ。
考えようによっては、女の長所なのだ。
[日本がイカサマ占い師制の国なのは、日本人全員が眼で見るだけで頭で考えない民族だからだろうか?しかし、それは悪い習慣だ。日本にもっと『自分で考える習慣』を取り入れなければならない。]

[6591] 宗教が必要な人もいる。 h21.2.23
人が自分で考えて生きていこうが、他人の指示で生きていこうが勝手である。
自分の考えで生きていきたい人間がいるように、他人の指示で生きていきたい人間もいる。
宗教は、他人の指示で生きていきたい人間のためにある。
他人の指示で生きていきたい人間がいるから、宗教がある。

[6592] 人が神を選ぶ。 h21.2.23
アメリカ建国当時は、まだアメリカの神はキリストだったに違いない。
ペリーやハリスが江戸時代に日本に来て神武天皇のことを知り、それからアメリカの神は神武天皇になったのだ。
アメリカ政府が神をキリストから神武天皇に変えたのは、キリストよりも神武天皇のほうがアメリカ人の気質[きしつ]に合っていると判断したからだろう。
つまり、神は人間が自分にとって有利になるように選ぶものであり、また作り出すものなのだ。かつて、フォイエルバッハが『神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った。』と言ったのもそのためである。
つまり、神とは宗教家が作ったおとぎ話の主人公と言うわけである。
アメリカ人もレディメイドの中古の日本の神を使うのではなく、エジソンの発明のように新しい神を発明すればよかったのだ。

[6593] 国会議員気質 h21.2.23
大学の入学式や会社の入社式に親といっしょに来るような奴だ。
小さい頃から、なんでも親のいうことを聞いて育ってきた奴だ。
親の言うことを聞いておけばまちがいがないから、いつも親に頼らなければならないのである。
それでも、いい歳になったら親が身近にいなくなるから、親の代わりに神に甘えているのだろう。

[6594] ドイツ語ではどうして数詞が逆読みなのか? h21.2.23
42は日本語では“よんじゅうに”だが、ドイツ語では“zweiundvierzig”となる。
ドイツ人が数字を逆読みするのは、ドイツ人がヨーロッパ人らしく細かいところにこだわることを大事にするからである。
そうやってドイツ人は自分の国の文化を守り育てているのだ。

[6595] 宗教はどうあるべきか? h21.2.24
人間が自分で考えて生きていこうが他人に頼って生きていこうが勝手だから、世の中に宗教があるのは仕方がない。他人に頼って生きていこうとする者に[神が出てくる作り話に則って]適切な指示を与えることが宗教の務めである。
しかし、神武天皇神の作り話は、政治家が王になったつもりで民主制によらない政治をしたり将軍になったつもりで国民に戦争させたりするだけだから、神武天皇は神には向かない。神武天皇を神として宗教をやってはいけない。
せめて釈迦やキリストのように法律を守る神でなければいけない。聖徳太子もそう考えた。
神の作り話のネタを拾って駄洒落や喩えなどを使って非行を働くのは、もはや宗教ではなく、いけないのは当然である。

[6596] どうして釈迦やキリストの思想は曖昧なのか? h21.2.24
仏教もキリスト教も占いである。仏教やキリスト教の宗教家は、作り話の釈迦やキリストの言葉を真似て信者に指示を与える。
占いは超能力ではなくイカサマだから、本当に当たるのではなく、信者に当たったように思わせればいいだけである。[日本の政治家が日清日露戦争を見て、神武天皇の作り話が正しいと信じたのも同じである。]
そのためには言葉が曖昧なほうが都合がいいから、それで釈迦やキリストの思想は言葉遣いが曖昧なのである。
つまり、釈迦やキリストの思想は占いであって教えではないのである。
釈迦やキリストは法律を守る良い子の神だけれども、それだけであって、それ以上の者ではない。

[6597] 宗教はいいわけ h21.2.24
人間は自分で考えて生きていこうが他人に頼って生きていこうが勝手である。
しかし、自分で考えて生きていくか他人に頼って生きていくかを決めるのは、その人自身である。
だから、宗教家に頼って宗教家の指示に従って犯したまちがいは、その人自身のまちがいになる。信頼できる宗教家に頼らなかったのがいけないのである。
だから、例えば、政治家が日本神道の宗教家の指示で犯したまちがいは、[職務上であろうがなかろうが、]その政治家自身が悪いのである。

[6598] 『金の卵を産むニワトリ』 h21.2.24
イソップ童話の『金の卵を産むニワトリ』は、ニワトリが作り話の神のことで、欲深い老夫婦が宗教家のことである。
欲深い宗教家が、神の作り話をいじり回して結局駄目にしてしまったのだ。
宗教家はあまり欲張ってはいけないと言う教えである。
例えば、昔ある宗教家が神を人間よりも上の者にして、宗教に入れば誰でも神と同じ人間よりも上の者になれるとしたのは一時的には名案だったが、みんなが宗教に入ってしまえば利かなくなるから、神についての無理な取り決めが結局宗教を潰してしまうことになったのだ。[日本では、『仮面の忍者赤影〜金目教編〜』の前口上のように、宗教に入らなければ祟[たた]りがあると脅[おど]かしてみんなを宗教に入らせた。その点は日本のほうが矛盾がなく考えが深い。しかし、その宗教ができる前はみんなが祟られていたことになるから、やはりおかしい。]

[6599] 宗教は占いにすぎない。☆ h21.2.24
いくら宗教家が頑張ってみても、宗教家が世界そのものを作れるわけではない。
昔の人は、実在がそれ自体の法則を持たないどうにでもなるグニャグニャしたものだと思っていたから、それで宗教家の思い描いた世界観に従ってそれを実現して行こうと考えたのである。
しかし、ついにニュートンが客観的な『自然の法則』を発見してしまったから、実在には実在自体の法則があり、人間は『実在の法則』に従わなければ実在を支配することができず、この世は単純に人間の思い通りになるものではないことがわかったので、これまでやっていた宗教が当てずっぽうの占いであることがばれてしまったのである。

[6600] 宗教は架空の世界観にすぎない。 h21.2.24
私が小学高学年の頃、美術の時間に“理想の未来世界の絵”を描いたことがある。
当時は私もまだ実在に関する知識を持っていなかったので、変てこな未来世界の絵になってしまった。
昔の人も子供時代の私のように、実在についての知識を持っていなかった。
それで、昔ある宗教家が、架空の理想の世界観を描いて、それを実現すれば幸福になれると考えた。
神とは、宗教家が考えた架空の理想の世界観に登場する架空の主人公である。それで、信者はこの世に理想の世界を実現するために、一生懸命神を真似て生きようとした。私が小学高学年のときテレビで見た『スタートレック』に登場する精神融合の“超能力”が使えるスポックに憧れてスポックの真似をしていたように、信者も“超能力”が使える神に憧れて神の真似をしていたのだ。人間は心理的に超能力者を真似たがるので、宗教家はその心理法則を利用して神のキャラクターを作ったのである。
しかし、近代科学が誕生して、実在に『客観的な法則』があることがわかってから、宗教は、昔のギリシア科学のように、宗教家が頭の中だけで考えた“机上の空論”にすぎないことがわかった。
昔はやりたいことが先にあってそれを実現すれば幸福になれると考えられていたが、今は実在を知ってから自分がやりたいと思うことをやって幸福になる時代なのだ。
実在には実在自体の法則があり、人間も人間社会も実在する“物”だから、物について客観的法則があるように、人間や人間社会についても客観的法則がある。
人間が幸福になるためには、実在から切り離れた心の中で勝手に理想の人間を想像して、自分が理想の人間と同じになることによって幸福になるのではなく、実在の人間に関する経験から帰納的に『人間についての法則』を知り、その法則に従って自分や他人を支配することによって幸福にならねばならないのだ。


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