[4101] 大人の性欲観 h20.1.21
大人は、性欲にとらわれないからこそ大人なのだ。
たとえ性欲で強い快感が得られても、大人はそれを否定する強い意志がなければならない。
たかが性欲のために、尊い知覚欲や愛情を犠牲にするのはもったいないじゃないか。[私の場合は、母が好きな気持ちがなくなりそうなのでオナニーをやめた。]
性欲で喜ぶのは動物であって、人間は性欲ぐらいで喜んではいけないのだ。
人間は生殖のために性交はしても、性欲を満足させてはならないのだ。

[4102] 男の気持ちと女の気持ち h20.1.22
男が知覚欲のひとつの気持ちで純粋に生きているのに対し、
女は知覚欲と見栄欲と愛情の3つの気持ちで生きているからグチャグチャして複雑である。
濁った気持ちで生きて行かねばならないのが、女のつらさである。
弱い者が強い者のふりをして何になる?
欲求満足の法則より、知覚欲+見栄欲+愛情=一定である。
私は知覚欲と愛情の強い女性が好きだ。

[4103] 競争欲 h20.1.22
競争欲はただ勝って喜ぶだけだ。
正しい(実在と一致する)かまちがっているかは関係ない。
だから、知覚欲とは違う。

[4104] 物と心の狭間[はざま] h20.1.22
気配(身体の周りにある拡散性の感覚波)は、いわば身体と心(つまり、脳細胞の神経興奮によって発生する局在性の感覚波)の境目だ。[もっとも、実在哲学では心(感覚)も物の一種と見なすから、統一的に物として取り扱うことができる。実在哲学は唯物論である。物心二元論は、デカルトのまちがいである。]
つまり、気配は、物質(精神以外の物)と精神(心、感覚すなわち脳細胞の神経興奮によって発生する局在性の感覚波)の境界にある新しい物質(拡散性の感覚波)である。
だから、物(感覚波以外の物質)の世界にも心(局在性の感覚波)の世界にもない念動力や念光力などの新しい珍しい自然現象が起こりえるのである。[ちなみに、幻聴は遠達性の感覚波(幻聴波)によって起こる現象である。遠達性(exp(iθ))・拡散性(exp(-r))・局在性(exp(-r^2))の区別は、脳細胞による感覚場の振動のさせ方の違いによってできるのだろう。]

[4105] わかることの違い h20.1.22
男と女ではわかることが違う。
男がわかるというのは頭(知覚)で理解できることであるのに対し、
女がわかるというのはただ眼で見えることだ。
つまり、男も女もそういう世界に住んでいるということだ。
男のセンスと女のセンスは位相が違うということだ。
女は現象が見えているだけで実在が見えていない。
[今の世の中は、男も女も教育を受ける機会は平等に与えられている。それなのに、男と女でわかることが違うのは、やはり生まれつきのセンスの違い(脳の性能の違い)によるものと考えられる。]
実在する男と女がそのように出来ているとすれば、それに従うしかない。
[もっとも、男にも眼で見えることしかわからず、女にも頭(知覚)で理解できることしかわからない者もいるから、性別で脳の性能が決まるとは一概には言えない(が、相関はある)。]

[4106] 被視感について h20.1.22
被視感は、自分が自分よりも頭(知覚)がいい者に見られることから生まれる感覚ではない。
被視感は、人間関係によって発生する感覚ではなく、個人的に決まるものである。
被視感は、知覚が働かず五感しか働かなくなれば誰にでも生まれる感覚である。
人間が格好つけたがるのも、被視感によるものである。

[4107] オナニーするとなぜ馬鹿になるか? h20.1.22
オナニーすると性欲が満足される。
ところで、欲求満足の原理より、知覚欲+性欲=一定だから、
性欲が満足されると、知覚欲を満足しようとしなくなる。
したがって、知覚欲を満足しようとしなければ知覚も働かない。
だから、馬鹿になるのだ。

[4108] 未来の結婚 h20.1.23
今は男女の結婚が自由だが、便利な電化製品ができて独身生活がしやすくなって人々が結婚しなくなって女性が子供を産まなくなって人口減少が続くと、そのうち結婚が義務化されるだろう。
夫婦は子供を1子以上もうけねばならないことが制度化されるだろう。
そうなれば、人類は性欲から逃げるのではなく性欲を克服しなければならなくなる。
それだけ人間の心についての深い理解や高い情操能力が要求されるわけだ。

[4109] 女は馬鹿さが長所である。 h20.1.23
女は生まれつき男ほど知覚欲や知覚が強くはない。
だから、女の認識は男に比べて五感的である。
女にとってわかるとは、ただたんに眼で見えることにすぎない。
だから、日常生活上の雑事については女のほうが上手にできる。
男は知覚で物を見るが、それだけに自分に理解できる狭いことについてしかわからない。
男は自分に理解できることしかわからないから、自分にちょっと理解できないことがあるとすぐにわからなくなって投げ出す癖がある。[私が中学高校生のとき、社会科や生物学が苦手だったのは、それらが“理解できない科目”だったからである。男にとっては自分に理解できないとわかった気がしないので、論理的に書かれていない社会科や生物学をいくら読んでもわからずすぐに眠くなって勉強することすらできなかったのだ。つまり、私と社会科や生物学の教科書の著者とのセンスが違いすぎたために、私にとっては社会科や生物学の教科書に書いてあることがわからなかったのである。]
女は馬鹿だからこそ理由にこだわらず要領よく課題を処理することができる。
眼で見ただけで(知覚で理由を考えずに、手を動かして)要領よく物事を処理する女の考え方も問題によっては有効なこともある。例えば、料理の味付けの場合、男が頭ごなしにぶっきらぼうに作るよりも、女の味覚でフィードバックして細かく調節しながら作るほうがおいしい料理ができる。男が知覚と理論できちんと設計して作るよりも、女が五感と経験で行き当たりばったりで作るほうがうまくできることもある。すき焼きの作り方に関しては、関東風が男性的で、関西風が女性的であるといえる。
男も女もそれぞれの脳の特性を活かして、自分にわかる(自分が得意な)実在の部分に適応して生きているのである。

[4110] キュリー夫人 h20.1.23
キュリー夫人は、ポーランドが生んだ偉大な科学者である。[他に、ポーランドが生んだ科学者にはコペルニクスがいる。]
キュリー夫人は、放射能について研究したが、ラジウムを手で持ってビーカーに漬けて温度変化を測っただけで、どうして放射能が出るかとか、放射能の実体は何であるかとか、放射能のエネルギーの源は何であるかとかについては、一切考えなかった。
女性の科学者も数学者も、眼先手先で要領よく研究しているだけで、知覚で理由を考えない。現象どまりで実在の認識には到達しない。
しかしながら、カメルリン=オネスも超伝導の理由まではわからなかったこともあるし、経験的にノーベル賞級の発見であることに違いはない。
[CSの旅チャンネルで見たポーランドは町全体がアートしていて、とくに駅や列車がかっこよかった。]

[4111] 誇大妄想狂 h20.1.23
科学的には、超能力は感覚波という物質を使う技術にすぎない。
一方、宗教は、超能力はもうちょっとで人間が世界を創造する神になれる証[あかし]だと考えている。
いったい、人類はいつまで宗教のくだらない説明に付き合わねばならないのか?

[4112] 男の味と女の味 h20.1.24
数学の世界においても、女性は五感的である。
なぜかなぜかと問い詰めて行けば、集合論の基礎や数学基礎論になるはずだ。
学校や大学の勉強は、考え流でも憶え流でもどっちでも行く。
とにかく、女性流の考え方でも数学や物理学がやれることはたしかである。
男の料理人やファッションデザイナーがいるのと同じことだ。
数学や物理の世界においても、男がやると男の味が出るし、女がやると女の味が出る。
女が数学や物理学をやっていけないことはない。
むしろ、男の脳ではわからなかったことが女の脳ならわかるかもしれない。

[4113] 文学やマンガの読み方 h20.1.24
『南総里見八犬伝』は、滝沢馬琴が江戸後期に書いた文学作品である。
仁義礼智忠信孝悌の儒教の教えが題材になっているのは、
江戸時代には徳川家が日本を支配していたので、
徳川家の支持した儒教が文学の世界に反映されているからである。
『金色夜叉』は、尾崎紅葉が明治時代に書いた文学である。
明治時代は明治天皇が日本を支配していたので、
明治天皇の金欲主義が文学の世界に反映されているのである。
『超くせになりそう』は、スタジオ旗艦[旗艦←きかん←研修医時代、私は上司の命令を“聞かなかった”。]が作ったアニメである。[原作は、なかの弥生[なかの弥生←医学生時代、私は同級生と“仲がややよかった”。]が描いたマンガだが、私は読んだことがない。]
昭和40年代から平成までは私が日本を支配していたので、
私の思想がマンガの世界に反映されているのである。[しかし、厳密に言えば、私は自分を神だと考えていないから、私をアイドルに喩えるのはまちがっている。だから、正確には私の思想ではなく、私に対する他人(日本神道の信者)の印象も含まれている。つまり、他人の思想が混じっている。]
つまり、日本の文学やマンガは、当時の日本の最高権力者の思想に従って作られているのである。だから、文学やマンガを読めば、最高権力者の思想がわかるし、文学やマンガを読むことは、最高権力者の思想で洗脳されることである。

[4114] 宗教人への提案 h20.1.25
宗教の人間は、たとえどんな立派な仕事に就いていても、根本的な考えが狂っているから生きる価値のない人間だと私は考えている。
集団自殺でもすれば?

[4115] 精神分裂病☆☆ h20.1.25
人間は自分の頭の中にもうひとつの実在即ち知覚界を持っている。
知覚欲や知覚がよく働いているときは、実在がよく見えているのでまちがいが起こらない。
しかし、性欲の満足で知覚欲が低下したり疲労で知覚が働かなくなると、実在が見えなくなりまちがいが起こりやすくなる。
知覚がよく働いているときには“実在への適応プログラム”が正常に働いて、長年の経験で自分がやらねばならないことややってはいけないことがわかっているから、例えば不良の非行など気に留めず自分のテレパシー器官を働かせようなどと考えないが、知覚が働かなくなると実在の海図を見失って(つまり、実在への適応プログラムが働かなくなって)心が気にすべきでないことを気にしたり知覚が考えてはいけないことを考えたりして、最後には取り返しのつかないまちがいを犯して人生を不幸にしてしまう。
知覚には“自分の心の働かせ方”についての知識もあるから、知覚が働かなくなると心の働かせ方が無秩序になってしまう。そんなときに、働かすべきでない感情(焦燥感情)を強く興奮させるような刺激(例えば、不良の非行など)があると、働かすべきでない感情が働くようになってしまうのである。つまり、正しいことよりも腹が立つことに敏感になってしまう。
また、知覚には“自分の感覚器の働かせ方”についての知識もあるから、知覚が働かなくなると感覚器の働かせ方が無秩序になる。そんなときに、働かすべきでない感覚器(テレパシー器官)を強く興奮させるような刺激(例えば、自分が手出し口出しできない状況において、自分の気に障る自分がどうしても直したい気持ちになる不良の非行を見せられること)があると、働かすべきでない感覚器が働くようになってしまうのである。つまり、眼で見えることよりもテレパシーで聞こえることに敏感になる。
働かすべきでない感情や感覚器が働くようになってしまった結果、実在への適応が妨げられて出世の道から外れてしまうのである。
[女の場合には、知覚界が男に比べて五感的であるが、発症機序は男と同じである。焦燥感情やテレパシー器官は強く働くと実在への適応を妨げるが、弱く働くとむしろ実在への適応を促すので人間にとっては必要な感情や感覚器である。]


[4116] 宗教の謎 h20.1.25
科学は真実主義である。
それに対して、宗教は虚偽主義である。
ただし、神武天皇や仏陀やキリストや私に超能力があったことだけは真実である。
それに、あらぬことをたくさん付け加えたから全体的に嘘になってしまったのだ。
嘘の世界のなかでは宗教の人間が有利に幸福に生きて行ける。
だから、宗教の人間は嘘の世界を世界中に広めようとしてきたのだ。
しかし、宗教の人間の中にも自分たちの嘘にうんざり来た者もいた。
人間の中にある正義の心(知覚欲)が嘘に嫌気を感じさせたのだ。
嘘をついて幸福に生きて行くよりも、正直に生きて行くほうが幸福である。
嘘で心を満足するよりも、真実で心を満足したほうがいい。
嘘は真実には勝てないのだ。
真実に従えば幸福になるし、反対に虚偽に従えば不幸になるだけである。
人類を幸福に導くのは科学であって宗教ではない。
宗教のおかげで人類は長年不幸な目に合わされてきた。
宗教も最初から超能力者を神などと嘘をつかなければよかったのだ。超能力者を超能力者と言うだけにしておけばよかったのだ。それなら科学だって宗教にケチをつけたりはしない。
宗教も、神武天皇や仏陀やキリストや私などの超能力者以外の者は神としないことを守っているのだから、真実と嘘が入り混じって、態度が中途半端である。
宗教は真実に従っているのか嘘に従っているのかわからない。
宗教には、内部矛盾がある。
どうして宗教は自分たちの儲けのために最初から嘘に徹してやろうとしなかったのか?
それが宗教に関する最大の謎である。

だぶんそれは、人間が真実に頼らなければ自信が持てないからなのだろう。
完全な嘘をつくことは、人間の心の中にある正義の心(知覚欲)に反することになるので、やはり人間にとっては苦痛なのだ。人間にとって嘘をつくことは不愉快なことだから、真実に基づかなければならないのである。
宗教の人間といえどもしょせん人間であることに変わりはないというわけだ。
反対に、科学ではちょっとでも嘘をついてはいけないので、ちょっとでも矛盾があるとすごく悩む。[矛盾というと、シュレディンガーの方程式とボルンの原理の矛盾が『観測問題』として有名だが、並木美喜雄氏の考察では、“観測系を対象に回す”という考え方がユニークなのだ。はたして、観測系と対象の境目はあるのだろうか?コンピューターシミュレーションの結果では、観測系を対象に含めると対象粒子の波束の広がりが狭くなっているので、観測系を対象に含めるほど対象粒子の波束の広がりは狭くなり、観測系を完全に対象に含めたら対象粒子は一点に収束するみたいなので、ボルンの原理はシュレディンガー方程式に帰着されることが予想される(が、はたして?)。]
人間の正義心とはそれほどまでに強いものなのだ。

[4117] よいこが不良になるとき h20.1.25
よいこは人間として働かせるべき感情を働かして幸福に生きており、反対に不良は働かせるべきでない感情を働かせて不幸に生きている。
だから、よいこが不良になるのは、
1)働かせるべき感情が何らかの理由で満足できなくなり、喜びを得るために代わりに働かせるべきでない感情を働かさなければならなくなった場合、
2)知覚が働かずに感情の働かし方が無秩序になったときに、何らかの刺激によって働かせるべきでない感情を働かせてしまった場合
の2通りが考えられる。
1)の場合は、自分の心が満足できるように自分の進路を適切に決めれば事態を避けられる。
2)の場合は、知覚欲の働きを妨げる感情(性欲など)を満足せず、知覚がよく働くように睡眠や休息を十分とれば事態は避けられる。
ので、自分でまたは他人の世話で生活を工夫すれば、不良にならずに済む。

[4118] どうして私に念動力が使えたか? h20.1.26
人間の脳の中にテレパシー器官があるように、念動力器官もある。
赤ちゃんの頃には、まだ“働かすべき運動器”についての知識が出来上がっていないし、私は逆児[さかご]だったので産褥期に股関節脱臼や斜頚や胸鎖乳頭筋断裂(→『どくとるマンボウ青春期』)などの傷害を負って身体が不自由だったので手足が十分使えず、赤ちゃんの頃にどうしても近くにあるおもちゃを動かしたかった私は自分の手足の代わりに自分の念動力器官を使ったのである。それに、普通の赤ちゃんは周りの人間が手足を使うのを見てそれを真似て手足が使えるようになるのだが、私の母親はそれ以外にときどき私に濃い気持ちを掛けてくることがあるから、それで赤ちゃんの頃の私は人間の身体の周りに発散している気配を手の代わりに使えることを思いついたのだろう。
ただ、その後の母親の手厚い看病のおかげで私の身体もほぼ普通の子供並みに動くように治ったので、私が成長してからは念動力器官よりも手足を使うようになったのである。やはり念動力器官よりも手足のほうが便利がいいから、“働かすべき運動器官”として知覚は念動力器官よりも手足のほうを選んだのだ。ただし、赤ちゃんの頃手足が不自由だったせいで、その後も私の運動オンチは治らず、学校の体育の時間にはすごく気まずい思いをしなければならなかった。

[4119] 念動力は危険か? h20.1.26
念動力は、超能力者の身近にあるおもちゃなどの小さい軽い物体を特殊な感覚波で動かす能力である。
念動力は物を動かす能力であり、念動力だけでは物が見えないから、肉眼で見えない遠くにある物体は動かせない。赤ちゃんの頃の私も肉眼で見たおもちゃを念動力で動かしたのだから、眼で見えない所にある物体は動かせないはずである。[夜中に突然ガラガラが回りだすことがあったと前に言ったが、赤ちゃんは夜中に突然起きることがあるし、私の家は高知市鴨部の電車通りの近くにあった(鴨部の3叉路にある広瀬病院の東にあった細い道を北に少し入ったところの左手にあった板塀でトタン屋根の小さい平屋だった(→『巨人の星』の星飛雄馬が住んでいたバラックの長屋。長屋は、私が2才から15才まで住んでいた高知市朝倉若草町の6家1棟(つまり、ひとつの長屋に6つの家族が住んでいる)の県営住宅がモデルだが、県営住宅はコンクリートでできていたので、長屋の材質は私が2才以前に住んでいた鴨部の平屋から取っている。))ので夜中でもそんなに暗くなかったから赤ちゃんの肉眼でもガラガラが見えたのだと考えられる。]
それに、感覚波は粘性気体のようなものだから、感覚波では大きな重い物体は動かせないと考えられる。
したがって、超能力者の身近の眼につくところに危険な物体(例、ナイフや包丁などの刃物)を置かないかぎり、念動力に危険性はないと考えてよい。

[4120] 感覚波の基礎方程式 h20.1.26
電気の研究は電気ウナギから始まった。
電気ウナギの発見からマクスウェルの方程式までは約2千年もかかった。
同じように、超能力の研究は超能力者の発見から始まったが、
人類が超能力の原理を明らかにするまでにはいったい何年かかるだろうか?

[4121] 薫的和尚の教え h20.1.27
薫的和尚は、殿様に誇大欲よりも正義心(知覚欲)を働かして欲しかった。
しかし、バカ殿だったので誇大欲でしか物事を見ることができなかった。
自分の誇大欲を満足しない和尚が不愉快だったので、和尚を牢屋に入れて殺したのである。

[4122] 超能力者はなぜ偉いか? h20.1.27
知覚欲で見れば、超能力者はただたんに超能力器官を働かせたことのある人間にほかならない。
しかし、誇大欲で見れば、超能力者は人間よりも上にあるほどの偉い生き物になるらしい。
残念ながら、私は生まれたこのかた知覚欲ばかりで生きてきたので[厳密には、思春期に性欲と焦燥感情で生きていたこともあった。知覚欲ばかりといっても知覚欲だけということではなく、人間の心には他にもいろんな感情があって、知覚欲と相容れる感情は活動するが知覚欲と相容れない感情は活動しないということである。]、誇大欲で見た世界の意味がまったくわからない。わからないから、協力しようがない。

[4123] 私アニメはなぜ作られているか? h20.1.27
誇大欲で見た世界では、私が人間よりも偉い存在ということになる。
だから、私をアニメや文学などの世界に登場させて私を崇め奉る[あがめたてまつる]のだ。
私を入れた作品を作ると、誇大欲で生きている世界中の多くの人々(その中にはお金持ちもいる)から資金を貰[もら]えるらしい。
だから、アニメ会社はこぞって私を入れた作品を作ろうとするのである。
しかし、そんなことをすると人間の心の中にある誇大欲を強めることになるから、やめるべきである。
欲求満足の法則より、知覚欲+誇大欲=一定だから、誇大欲が強まると知覚欲が弱まり、人間の知覚の働きが低下して文明が廃[すた]れる恐れがある。
人間の本質は知覚にある。誇大欲の肯定は知覚欲の否定であり、人間性の否定にほかならない。
だから、宗教などによる人間の誇大欲を刺激する活動は禁止すべきである。

[4124] 女の欲望 h20.1.27
女は男よりも五感的である。
したがって、女は男よりも五感欲が強い。
女はなんだかんだいっても、しょせん立派な家に住んで綺麗な服を着て美味しい料理を食べるのが夢なのだ。

[4125] 天才発明家ニコラ=テスラ h20.1.27
エジソンが電球を発明していた頃、ニコラ=テスラは蛍光灯を発明していた。[エジソンがフィラメントに適した材料を求めて世界中を東奔西走していた頃、ニコラ=テスラはフィラメントを使わない発光装置を考案していた。]
エジソンが水力発電所を建設していた頃、ニコラ=テスラは地球システム(地球と共鳴する装置)を建設していた。
地球システムで地球のエネルギーを電気エネルギーに変換して、全世界に電気を供給しようとしたからである。
[ニコラ=テスラは、『鉄腕アトム』の天馬博士のモデルになっている。]

[4126] 宗教病 h20.1.27
抑鬱感情を働かせすぎたのが、鬱病である。抑鬱感情で見える世界が、鬱病患者の見ている世界である。
焦燥感情とテレパシー器官を働かせすぎたのが、分裂病である。焦燥感情とテレパシー器官で見える世界が分裂病者の見ている世界である。
同様に、誇大欲を働かせすぎたのが宗教病である。誇大欲で見える世界が宗教人の見ている世界である。
どの病気でも、知覚欲以外の感情を満足しようとして知覚欲を満足しようとしなくなっており、知覚が働かなくなっている。そのせいで、まちがった実在しない世界が見えているのである。
人間は知覚が疲れて知覚が働かないとき、まちがって働かせるべきでない感情を働かせてしまうことがある。そんなときはよく寝てよく休んで知覚の疲れを取り除き知覚をよく働くようにして、人間が本来働かせるべき知覚欲の回復に努めるべきである。
宗教に入るとそれだけで普通の人間よりも偉いことになり誇大欲が満足されて喜びが得られるが、それは知覚の働きを妨げる悪い感情だから、最初から宗教に入らないほうがよい。

[4127] 二つの世界 h20.1.27
知覚欲の前の時代は誇大欲の時代だったから、知覚欲を満足して生きて行けない者が宗教に入って誇大欲を満足して生て行こうとするのである。
知覚欲で見た実在が科学の世界であり、誇大欲で見た実在が宗教の世界である。
はたして、人間は知覚欲で生きるべきか、それとも誇大欲で生きるべきか?
人間の才能は発達した知覚にあり、発達した知覚と連動する知覚欲が心の中にある感情の中では一番強いはずだから、知覚欲で生きたほうが幸福である。人間が夜夢を見るのは、寝ているときでさえ知覚欲を満足しようとしているからである。
人間の知覚のセンスは一人一人微妙に違うから、各人が自分の知覚のセンスに合ったことを学んだり考えたりすれば知覚欲を満足して幸福に生きて行けるはずだ。

[4128] 誇大欲の世界 h20.1.28
知覚欲が正しさで実在を見るのに対し、誇大欲は偉さで実在を見るので、誇大欲の世界では正しくなくてもよいのである。
だから、誇大欲で生きている人にいくら正しい議論をしても、それでは納得してもらえないのである。

[4129] 帝国制 h20.1.28
誇大欲で生きている人が知覚欲で生きている人を支配するのが帝国制である。[政治家も宗教家も誇大欲で生きているから同じ穴の狢[むじな]である。]
ところが、誇大欲で生きている人は正しくなくてもよいから、
支配する者がまちがっていて支配される者が正しいことになる。
これは支配者が正しく判断できる者でなければならないという権威の法則に反するから、まちがっている。
だから、帝国制はまちがった社会制度である。

[4130] 女の世界 h20.1.28
女は生まれつき心の中に母性本能(愛情)が埋め込まれている。
母性本能で見た世界が女の世界である。
女が動物や小物などを見て「かわいい」と言うのは、母性本能で実在を見ているからである。
知覚欲が正しさで実在を見るのに対し、母性本能はかわいさで実在を見るので、知覚欲で見た世界と母性本能で見た世界とは違っている。

[4131] 古典物理と現代物理 h20.1.28
古典物理の構図は、「現象=実体」である。
これに対し、現代物理の構図は、『現象=実体×観測者』である。
現代物理の構図によって、観測者から切り離された実体を認識できるようになった。
この考え方によって、人類は実在の真の姿に一歩近づくことができたのである。
相対論では、4次元ベクトルやテンソルが実体の姿である。
量子論では、状態関数が実体の姿である。
量子論と相対論を組合せると、実在の世界に素粒子のスピンや反粒子があることがわかる。

[4132] 男の面白さと女の面白さの違い h20.1.28
男が知覚欲で実在を見るために、男にとっての面白さが正しさに基づいている(つまり、知覚欲に従属する面白さである)のに対し、
女は母性本能(愛情)や五感欲で実在を見るために、女にとっての面白さはかわいさや綺麗さに基づいている(つまり、愛情や五感欲に従属する面白さである)。
男が少女漫画を読んでも面白くないのはそのためである。その逆に、女が少年漫画を読んでもたぶん面白くないだろう。

[4133] 尾立君はどうしてパラパラめくりをしたか? h20.1.28
尾立[おりゅう]君は、高知学芸中学校で不良で通っていた。私の目で見ても、いかにもガラの悪そうな生徒だった。高知学芸中学3年生のとき、男子トイレで前田誠一君と尾立君が喧嘩したという噂[うわさ]があった。前田誠一君とは、前田君も私も数学が得意だったので、私が高校1〜2年生のとき、半年間ぐらい高知学芸高校で数学を教えていた森先生が自宅の部屋でやっている『森塾』(→どうぶつの“森”とか、シルバニアファミリー“森”のなかまたちなど)にいっしょに通っていたことがある。
私が高知学芸中学3年生のとき、後期の生徒会選挙で私が副文化委員に選ばれ、尾立君は副体育委員に選ばれた。生徒会では、文化会員と体育委員とでは仕事が別なので、とくに私と尾立君とで揉[も]めることはなかった。
高知学芸中学校の谷脇優子さんの例のように(→私の元祖魔法少女日記の【元ネタ】ドラゴンボールヒロイン H20.1.24のブルマの項を参照)、机の席順は担任の教師によるコントロールが可能である。だから、私が高知学芸高校1年のとき、尾立君が私の隣の席に座っていたのは宗教的な操作によるものと考えられる。
尾立[おりゅう]君は、雰囲気が『まじかる☆タルるートくん』の原子力[はらこりき]に似ている。なんかの話で原子力の頭のうえに黒い穴があったのが、動かぬ証拠である。(→私の哲学日記[1213] 黒い穴を参照)
したがって、尾立君は、宗教(日本神道)の信者であって、
尾立君は、将来テレビ番組で私のライバル役を演じるために、何か私の気に障ることをしなければならなかったので、指令を受けてパラパラめくりをしたのであると考えられる。
ただ、当時たまたま私は精神的に不安定状態にあったので、尾立君のパラパラめくりを見て発狂したのである。あとで、私の心の奥底で(つまりテレパシーで)誰かが悲しんでいるような様子が窺[うかが]えたから、私が発狂したことは宗教にとっては計算外の出来事だったと思う。私が中学2年生の冬に自室で自分のチンポの皮に5円玉やビーダマを入れて遊んでいたときにも、私の心の奥底で誰かの泣き声が微[かす]かに聞こえたから、子供のときから私のやることを誰かが始終テレパシーで監視していたと考えられる。

[4134] 哲学第1原理 h20.1.28
私は子供の頃から科学や数学が好きで科学や数学の本ばかり読んでいた。
その反面、国語が苦手で人の心に関しては疎かった。
そのせいもあって、高校1年生のときには精神分裂病に罹ってしまった。
大学生になっても、人の心のことについてはほとんどなにもわからなかった。
これではあまりにも自分が人間として情けないと思い、私が21才のときから哲学日記を書き始め、私が28才のとき7年の歳月を費やしてようやく『哲学第1原理』に到達した。(→『覇王大系リューナイト』のアデューの口癖「騎士道大原則ひとーつ!」)
哲学第1原理は、心の世界を物の世界に変換して、物についてのセンスを活かして心について考えることができるようにするフーリエ変換やラプラス変換のようなものである。

[4135] 科学と政治の関係 h20.1.29
昔は君主制だったが、今は民主制である。
ほんらい国は国民一人一人からなるので、政治はできるだけ国民一人一人の意見を忠実に政策に反映させるべきである。
しかし、昔は国民一人一人の意見を反映させる“具体的な手段”がなかったから、国が国民の中の特別な一人の意見に従う君主制にならざるを得なかった。
その後、紙やペンや印刷や自動車やメガホンやテレビなどが発明されて、ようやく今日の投票制による民主主義が実現したのである。
政治は、その時代の科学技術で実現可能な最善のやり方でやってきた。政治はその時代の正しい実在観に基づいて(従って)やってきた。
科学知識や科学技術が発達すれば、それにつれて政治のやり方も変わる。
だから、近代科学が誕生する以前からあった古臭い「神制度」(君主制の一種で、全世界が超能力者の意見に従う制度)のやり方も変わらねばならない。

[4136] どうして人は有名になりたいか? h20.1.29
被視感の強い人は、他人に見られることを好む。
だから、被視感の強い人が有名になりたいのである。
被視感のない人は、むしろ他人に見られるのを嫌がるだろう。
だから、被視感のない人は、有名になりたがらないのである。

[4137] 私の母 h20.1.29
私の母は、あまりしゃべらずに身体を動かすタイプである。
家では朝から晩まで炊事、洗濯、掃除など何がしかの家事をしている。
しかし、手紙は上手に書く。字もうまい。私の前で女の子の絵を描いたり、「リンゴの唄」を歌ったことがある。
話すときには、言葉をはっきりと話す。でも、勉強はあまり好きじゃないようだ。私がガリ勉していると、「あんまり勉強しなよ」と私に言うことがある。
テレパシー(幻声)はめったに使わず、その代わりジトーとしたネトーとした濃い気を掛けてくる。

[4138] 私の父 h20.1.29
私の父は、家ではあまりしゃべらず酒を飲むか読書をしている。私が小学生の頃、父親の部屋には世界名作全集が置いてあった。(→アニメ世界名作劇場)
話すときには、言葉がいつもボンヤリしている。言葉の最後が曖昧なことが多い。母よりも土佐弁を使うことが多い。人前で話すのは苦手だと言っていた。(私もあんまり好きじゃない。最近は、話す機会がない。)
しかし、手紙は上手に書く。酔うとたまに「岸壁の母」を歌うことがある。
スポーツ好きで、学校ではいつも野球のピッチャーで、若いときにはスキーをしていたそうだ。スキーのために夜行列車に乗って瀬戸内海を渡り北近畿にある八鹿[ようか]のスキー場まで通ったそうだ。
家の者から頼まれると、自転車のタイヤのパンクの修理から屋根裏のスズメバチの巣の除去までひとりで何でもこなす万能選手。
テレパシーは使わないが、いつも気がもんもんしている。

[4139] 私アニメはなぜ作られているか?(その2) h20.1.30
誇大欲で見ると私が偉い神だから、
私アニメを作ると神である私を崇め奉ったことになり、
誇大欲で生きている世界中の大勢の者からお金が出る。
それに、アニメやマンガを作る者が五感欲で生きていて、
お金が出るとお金で物が買えて五感欲が満足されるからである。

[4140] 幻聴病 h20.1.30
幻聴は存在(実在)する。
存在するものを存在しないと考えることは、一種の現実逃避だ。存在しないと考えようが考えまいが、存在するものは存在する。
幻聴が存在しないと考えて、存在しないからほったらかしでいいとすることは考え下手だ。
幻聴が存在すると考えて、幻聴病(幻聴覚が働く病気)に陥らないように対策を立てるのがいい考え方だ。
人間には誰でも幻聴覚があるが、幻聴覚を働かせないようにしている。幻聴覚が働くと他人の考えることが聞こえて自分の思考が混乱して被害妄想を抱いたり被視感に苛[さいな]まれたりして苦しむから、幻聴覚を働かせないようにしているのだ。
子供は幻聴覚を働かせてはならないことを知らないから、子供に幻聴覚を働かせないように注意することが必要である。[性欲も働かせないように注意しなければならない。]
例えば、コックリさんで発症した分裂病は、幻聴だけの分裂病すなわち幻聴病だと考えられる。
反対に、幻聴のない分裂病は焦燥感情が興奮している状態であり、抑鬱感情が興奮している鬱病と同じような病気である。感情抑制剤が効くだろう。

[4141] 鬱病 h20.1.30
人間の心の中には、躁感情(浮き浮きする気持ち)と鬱感情(落ち込む気持ち)がある。
自分の勉強・仕事内容と自分の躁感情や鬱感情との対応を無視して行動すると、自分が勉強・仕事しなければならないことが自分の鬱感情を刺激することになって鬱病に罹りやすくなる。
自分が人生の進路を選択するまでに、自分の躁感情・鬱感情が何に対応するかを知っておかねばならない。それを怠ると、あとで鬱病に罹っても仕方がない。
例えば、私の場合は、私のおばあさんも母親も日蓮宗に入っていて、私も小さい頃に日蓮宗に入っていたから、知覚的なものと躁感情が・五感的なものと鬱感情が対応する性格(気質)だった。だから、医学部に進学して医学ばかり勉強しなければならなくなると、医学で鬱感情が刺激されて自分の気持ちが落ち込んだのだ。世の中には、私と正反対に、知覚的なものと鬱感情が・五感的なものと躁感情が対応する性格の人もいるだろう。そんな人は医者に向くのだ。対応は生まれつきの感情や育った環境などによって人それぞれ違うから、自分で自分の対応について考えて、その考えに従って行動しなければならない。[人間は自分が勉強や仕事がわからないから落ち込むのではない。わからないだけでは知覚欲や五感欲が満足されないだけで、落ち込むことはない。私が高知大学の数学科のときにも、大学の数学が難しくてまったく理解できなかったが、それでも落ち込むことは一度もなかった。それは、たとえ数学が私の知覚欲を満足しなかったとしても、数学が私の抑鬱感情を刺激するものではなかったからである。だから、私が若い頃は、数学の本がほとんど理解できないのに楽しく読めた。九大医学部に合格して教養部にいた頃は、一時期数学の本をほぼ1日に1冊のペースで80冊ぐらいわからないまま読んでいた。]

[4142] 焦燥病 h20.1.30
人間の心の中には、
物事が自分の思い通りに行って心が落ち着く気持ち(安堵感情)と、反対に
物事が自分の思い通りに行かずにイライラする気持ち(焦燥感情)がある。
人間に焦燥感情があるから、人間は自分の考えと実在を一生懸命合わせようとするのだ。焦燥感情が思考の動機であるといってもいい。
だから、焦燥感情をなくすためには、実在を自分の考えに合わせるか、あるいは自分の考えを実在に合わせるしかない。
実在を自分の考えに合わせられない場合には、自分の考えを実在に合わせるしかない。
それをやらないと、イライラ感情が高まって焦燥病や不安神経症に罹る。
例えば、私の場合、尾立君のパラパラめくりを見てイライラしたが、授業中で机が離れていたので尾立君の態度を直させることができなかった。その場合には、自分にそう迷惑がかかるわけではないから尾立君の勝手にしたらいいと考えればよかったのだ。そう考えることができていたら、自分の焦燥感情が鎮まって、尾立君の身体を自分の思い通りに動かすために自分のテレパシー器官を働かせようなどと考えなかったから[たとえテレパシーが使えたとしても、そこまではできない。]、分裂病に罹らずに済んでいただろう。そう考えることができなかったのは、受験勉強とオナニーで頭(知覚)が疲れて働かなかったせいだ。自分の知覚が働かなくなるほど、勉強やオナニーをしてはいけなかったのだ。

[4143] 女の心の特徴 h20.1.30
女は生まれつき心に愛情を持っている。
愛情で実在を見るから、かわいいかかわいくないかの区別ができる。
欲求満足の法則より、愛情を満足するぶん知覚欲を満足しない。
知覚欲を満足しないから、知覚が働かず認識が五感的になる。
認識が五感的だから、五感欲が発達している。[女は眼で見える物でしか喜ばないからお金がかかる。]
つまり、女は愛情と五感欲が発達していて、実在をかわいさとか美しさとかの物差しで見ているのだ。つまり、女とはかわいさとか綺麗さとかで喜んで生きているだけの生き物なのだ。しかし、女はそういう見方で実在に適応して生きているのである。[女はかわいさとか美しさとかで実在を見るから、自分のかわいい美しい身体を見て喜べるのだ。反対に、男は正しさでしか実在を見ないから、いくら自分の身体がかわいくきれいになっても喜べないのである。](→『ウルトラマンレオ』に、女は馬鹿だと言う内容の話があった。女の楽園を守るのが男の務めだと言っていた。その頃、私は自分の母を「馬鹿」と言うことが多かったためである。『機動戦艦ナデシコ』でも、ホシノ・ルリがミスマル・ユリカのことをたびたび「ばかばっか」と言っている。『機動戦艦ナデシコ』では、アニメと現実世界とのインターラクション(相互作用)がテーマであった。当時私は、エヴァよりもナデシコのほうが好きだった。)
でも、知覚欲を満足しようとして、しかめっ面の女よりはいい。満足できない感情を満足しようとするよりも、満足できる感情を満足する女のほうが賢明である。

[4144] 男の心の特徴 h20.1.30
男は知覚欲だけで生きている。
男は成長しても子供のときと同じである。
[もっとも、いくら知覚欲だけといっても、厳密には面白さや優しさなどの知覚欲と相容れる感情も働かせている。しかし、知覚欲と相容れない感情は働かせないということである。私にも五感はあるし子供のときは主に五感を働かせていたからきれいはわかるが、私の心には愛情がないようなのでかわいいとなるとまったくわからない。反対に、女にも知覚があるから知覚欲も働いているに違いない。つまり、女にも正しさはわかるということである。男は大人になると知覚欲が働き知覚で考えるようになるが、女は大人になると愛情が強く働くようになるので知覚ではあまり考えないのだろう。]

[4145] 競争欲 h20.1.30
知覚欲と競争欲は違う。五感の上のことで競争する場合もあるからだ。
知覚欲は自分の知覚を働かせる喜びであって、競争欲すなわち自分と他人を比較して自分のほうが優れている喜びとは別のものである。

[4146] 正しさはすべてを支配する。 h20.1.30
人類の文化文明の基礎は、正しさすなわち実在を正確に見れることにあるから、
かわいさや美しさで物を見る者は、正しさで物を見る者に従属しなければならない。
もちろん、偉さで物を見る者も、正しさで物を見る者に従属しなければならない。

[4147] どうして分裂病者は幻聴が気になるか? h20.1.31
分裂病者とは、焦燥病と幻聴病を併発した者のことである。(分裂病=焦燥病×幻聴病)
ところで、人間は自分が気になっている(自分に関心がある)ことほどよく聞こえる特徴がある。
分裂病者は焦燥感情が強まっているから、自分をイライラさせる幻聴の悪口にとくに敏感である。
だから、分裂病者は幻聴の悪口がよく聞こえるのである。[鬱病者は抑鬱感情が強まっているから、自分を落ち込ませることにとくに敏感になっているので、ますます落ち込みが激しくなるのである(悪循環=不幸のポジティブフィードバック)。]
単独の幻聴病だったら、悪口がそれほど気にならないので、そんなに(分裂病ほど)幻聴に敏感ではないだろう。

[4148] 分裂病の発症機序 h20.1.31
分裂病に罹らないためには、人間の超能力とくにテレパシーについての正しい知識を持っていなければならない。
人間の脳の中にはテレパシー器官がある。テレパシー器官は、自分の思考を他人に伝えたり、逆に他人の思考を自分に伝えたりすることができる。
焦燥感情とテレパシー器官を同時に強く働かせた(興奮させた)ことが分裂病の原因である。
自分が気に入らない他人の態度を見て自分の焦燥感情が強く興奮して、自分が気に入らない他人の態度を直させるために超能力で他人の身体を自分の思い通りに動かそうとして自分のテレパシー器官を強く働かせてしまったために分裂病にかかる。
超能力で他人の身体を自分の思い通りに動かそうとすると、自分の脳の中にある自分のテレパシー器官を強く働かせてしまうことになり、自分の思考がテレパシーで他人に伝わるだけではなく、逆に他人の思考がテレパシーで自分にも伝わってきて、テレパシーによる他人の悪口が自分の焦燥感情を刺激して自分が不快になって暴れたりすることになるから、絶対に超能力で他人の身体を自分の思い通りに動かそうとしてはならない。つまり、人間にはテレパシー能力があるが、テレパシーを使うと自分が不快になるので使わないのである。
それに、テレパシー器官では自分の思考が他人に伝わるだけで他人が自分の考えを納得しないかぎり他人の身体を自分の思い通りに動かすことはできないから、他人が自分の考えを納得してくれなければ、いくらテレパシーを使っても無駄である。つまり、テレパシーだけでは他人をマインドコントロールすることはできないのだ。
だから、自分が気に入らない他人の態度を直させるには、自分が腕ずくで他人の身体を動かすか、または自分の言葉で他人を説得するしかない。どちらもできない場合には、自分が他人の態度を気にしないようにするしかない。
[これほどまでに言っても、それでもテレパシーを使おうとする者がいるなら、それはその者が悪い。他人の言葉を馬鹿にして聴いている者が悪い。でも、洗剤を混ぜ合わせて毒ガスが出るとわかっていればあえてそうする者はいないから、たぶん大丈夫だろう。自分がテレパシーを使うのはいけないし、他人にテレパシーを使わせてもいけない。]

[4149] 鬱病の発症機序 h20.1.31
人間の心には、躁感情(浮き浮きする気持ち)と抑鬱感情(落ち込む気持ち)がある。
抑鬱感情を強く働かせた(興奮させた)ことが鬱病の原因である。自分の抑鬱感情が働くと、自分の気持ちが落ち込む。
不運にも、自分が勉強・仕事しなければならないことが、自分の抑鬱感情を刺激することがある。
そんな時、抑鬱感情を我慢すると、抑鬱感情を刺激し続けることになって、鬱病がますます悪化する。
だから、自分が落ち込んだなと思ったら、すぐにその原因を解析し、その原因を回避するようにしなければならない。

[4150] 神経症とはなにか? h20.1.31
ある特定の事柄が自分にとってものすごく苦手であることが神経症である。
ときには、日常生活の妨げになることがある。
そんなときには、神経症ではある特定の事柄と自分の不快感情との間に強い神経連絡があり、そもそもある特定の事柄に対する知覚における意味付けがおかしいことが多いので、ある特定の事柄について知覚で考え直すことによってその意味を変えるようにすればよい。

例えば、人前で上がる人は人を野菜と考えればよいというのは、その典型例である。被視感の弱い人間は人前に出ると突然自分が慣れていない環境に置かれて調子が狂って緊張するから、相手を眼のない野菜と見なして自分が見られる環境にないと考えることが有効なのだろう。被視感の強い人は、自分が他人に見られることに慣れているから人前に出ても緊張しないのだ。(人間を感覚がある物体と考えても有効ではないだろうか。これなら嘘をつかなくてもいいから、もっといいはずだ。)
私は子供のとき運動が苦手で嫌でしょうがなかったが、自分は産褥期[さんじょくき]の傷害で運動が苦手になったのだから自分にとってはどうしようもないことだと考えて、自分の運動オンチはあきらめて放り捨てて体育のテストは0点でいいことにして、なにか他の楽しいことをして時間をすごせばよかったのだ。(いまさら考え直しても手遅れだが。)
私の友達の和田君は海老[えび]を食べるのが苦手だと言っていたが、和田君は金欲が強いから、高級料理だといったらゲテモノでも喜んで食べるだろう。
女性がチンポが苦手な場合には、父親が自分に暴行を加えたのは父親が性欲のために気が狂っていたからであって今度の相手の男性が性欲が強くなければそんなことはしないと考えれば、乗り切れるだろう。

[4151] 超能力の発現機序 h20.1.31
人間の超能力には、テレパシーなどの感覚系の超能力と、サイコキネシスなどの運動系の超能力がある。
人間の感覚器には、眼・耳・鼻・口・皮膚などの五感のほかに、脳の中にテレパシー器官がある。[分裂病の発症率から察して、]テレパシー器官は人間の100人に1人以上あり、珍しくはない。テレパシー器官を持つ者が、テレパシー器官を強く興奮させると、テレパシーが聞こえたりテレパシーで話したりできるようになる(が、けっして楽しいことではない)。
人間の運動器官は通常筋肉しかないが、ごくまれに脳の中に念動力器官や念光力器官などの運動系の超能力器官を持った者が生まれてくることがある。運動系の超能力器官を持った者が、それらの超能力器官を強く興奮させると、念動力や念光力などの超能力が発現されるのである。[テレパシーと同様、詳しい機序は現在のところ不明である。]感覚系の超能力に比べて運動系の超能力は非常にまれであり、人類全体でも1000年に1人ぐらいしかいない。
[分裂病者の数は多いから、テレパシーの研究は儲かるだろう。テレパシーの仕組みがわかれば、ついでに運動系の超能力の仕組みもわかるかもしれない。]

[4152] はたして聖書は無料か? h20.1.31
たとえ聖書そのものは無料でも、聖書を読んで信者が増えれば教会は儲かることになる。
だから、私の哲学日記を個人的に読んで勉強するのはかまわないが、それを本にして売ったり無料で配ったりするのはいけない。

[4153] 性欲について h20.1.31
分裂病やテレパシーについての知識があれば、たとえ性欲を満足するためにオナニーやセックスをしても分裂病にはならないだろう。
欲求満足の法則より、性欲の満足は知覚欲や愛情などの満足の妨げになり、人間にとっては知覚欲や愛情のほうが大事だから、遅かれ早かれ性欲を捨てるはずだ。そこで、人間は性欲のくだらなさを自分の身をもって(経験的に)知ることになる。[私も性欲のために母親を好きな気持ちがなくなってしまうのがあまりにももったいないと思って、せいぜい1年間ぐらいでオナニーをやめたと思う。]
性欲をオナニーなどで満足したせいで一時的に感情全体の興奮性は高まっているが(いわゆる疾風怒濤期)、性欲を満足するのをやめれば再びもとの感情が平静な状態に戻るだろう。
ただし、前もって分裂病やテレパシーについての知識を持っていなければ、感情全体の興奮性が高まっているために焦燥感情も興奮しやすくなっているので、分裂病になる可能性はかなり高いと考えられる。[私の場合は、あいにくそういう知識を持っていなかったので、尾立君の教科書のパラパラめくりを見て焦燥感情とテレパシー器官を強く働かせてしまったために分裂病にかかってしまった。]

[4154] どうして釈迦は二人いるか? h20.1.31
釈迦は、B.C.463年生まれの釈迦とB.C.560生まれの釈迦の二人いる。もちろん、本物は一人だ。
釈迦はたぶん生涯一度も人前に顔を出さなかったのだろう。
それを宗教が皮肉って、釈迦が二人いることにしたのだ。[→ミンキーモモ(2代目)第59話「夢に唄えば」第60話「夢の彼方に」の元ネタ]

[4155] 宗教が私にしてきたこと h20.1.31
私が小学2年生のとき、計算ドリルの問題を考えながら朝倉小学校のプールの周りの溝掃除をしていたとき、空耳で「この道(おそらく理数系の学問のこと)を行け」という大人の声が聞こえた。そのときは、私がまだ自分の焦燥感情やテレパシー器官を強く働かせていなかったので、空耳が一回聞こえただけで終わった。
私が小学4〜5年生頃、高知市朝倉の南団地の南にある家に住んでいた前田君(前田誠一君ではない)が、ある日私をひと気のないプレハブに連れ込んで私にエロ本やシンナーの入ったビニール袋を見せたことがあった。そのときは、私には性欲もシンナー欲もなかったので、それだけで終わった。
問題は、今でも治っていない私の精神分裂病についてである。
宗教は超能力に詳しいから、精神分裂病についてもかなり詳しく知っていたはずだ。
私は子供の時分から時々心の奥底で他人の気配がするのを感じていたから、宗教の者が私をテレパシーで監視していたはずであり、私に分裂病やテレパシーについての知識がないことも知っていたはずである。
私が中3の2学期頃からオナニーをし始めて、感情全体が興奮しやすくなっていたことも知っていたはずである。
私の両親も性欲が悪いことは知っていたはずであり、当時私がオナニーをして性欲を満足させていてことも私の臭いや私の態度などから当然知っていたにちがいない。それでも両親が私に注意することが一度もなかったのは、宗教が私の両親に私に注意することを禁じていたからだと考えられる。私の両親は、私が子供の頃からいろんなネタ入れをし続けてきたので、宗教の命令を聞いて私のオナニーを注意しなかったのも十分ありえることである。
釈迦やキリストの例でもわかるように、昔から神(超能力者)には精神的攻撃をかけてもよいことになっているらしいので[理由がわからない。理由のないことはやってはいけない。やっていいならやっていい理由が要る。]、高1の春に私と気が合わない尾立君を私の近くの席に置いて私の気に障ることをさせて私を怒らせて精神分裂病にかけたのだ。私は生まれつき軽度の斜視があったので(→NHK教育『みんなともだち』の歌とか、ガチャ目のマンガのキャラクターとか)、私の横に座っていた尾立君を横目で睨[にら]み付けて怒ったために、その後ガン飛ばしをされるたびに私の眼が痛くなって視線がますます外を向くようになった。
その後も、私が大学に進学するときも、私の親しい友人を使って私の進路を不利にして私を鬱病に罹らせて苦しめたのだ。
九大物理学科卒業後の就職のときにも、私が好きな物理の仕事に就けないようにして私を悲しませた。それでもなんとか派遣会社には就職できた。
昨年9月末日には、最後の生きる望みだった派遣会社までも首にされた。
それから4ヶ月。今も仕事に就けないままだ。

[4156] 宗教とはなにか? h20.1.31
科学が合理主義であるとすれば、宗教は不合理主義である。
残念なことに、日本ではいまだに不合理主義が有力であり、日本の憲法では正しくない者が正しい者を支配する体制(帝国制)である。
昔は、超能力者だけが普通の人間にはできないことができたので、超能力者が実在の外にいる者、不合理主義の王者と考えられたから、超能力者の子孫を日本の君主としているのである。
しかし、実際には、超能力者もテレパシー能力者と同じように、人類がいまだ知らない実在する物理法則を使って超能力を発揮しただけだから、合理主義者の一人である。
人類の歴史は、合理主義(知覚主義)と不合理主義(非知覚主義)との戦いである。
つまり、人間とサルとの戦いである(→『宇宙猿人ゴリ』、『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』、『スペクトルマン』)。
合理主義か合理主義でないかは、実在に対する人間の見方の問題である。
ところで、ガリレオ=ガリレイが言ったように、『実在は合理的にできている。』
だから、合理主義者のほうが不合理主義者よりも実在に適応できて有利である。
不合理主義で実在を捉えても、わからないことが増えるだけだから時間の無駄である。
実存主義も不合理主義の一種である。岩波書店の『実存主義入門』が読みにくく面白くない本なのは、私や岩波書店が不合理主義を嫌いだからである。
実在における不合理主義など自殺行為にほかならない(→神風特攻隊)。為政者が不合理主義者だと、国民が為政者に何をされるかわからないので不安である。[宗教家は民間の政治家だから、宗教家も為政者である。]人類が幸福に生きるためには、合理主義でなければならない。

[4157] 不合理主義 h20.2.1
ほんらい君主は正しい命令が出せる者でなければならないが、超能力者は超能力が使える者であって正しい命令が出せる者とは違う。だから、超能力者を君主とすることはまちがっている。しかし、まちがっているからこそ、不合理主義では通るのだ。
つまり、世の中をまちがいだらけにすることが、不合理主義国家の理想なのだ。
不合理主義国家では、超能力者の子孫が超能力者ではないのに君主が務まるのは、まさにそれがまちがいだからである。
反対に、不合理主義国家では正しいことが通らないから、私がいくら正しいことを言っても通用しないのだ。
不合理主義における命題はA=notAだから、不合理主義ではどんな命題でも自己矛盾を来たして成り立たない。つまり、不合理主義は無だ。だから、不合理主義は存在してはいけない。つまり、不合理主義は不合理であるがゆえに合理的でなければならないので、もはやなんの主義でもないのである。

[4158] 超能力は自然現象である。 h20.2.1
超能力は“超”自然現象ではない。つまり、自然(実在)を超える現象ではない。
超能力は、いまだ人類が知らない実在の物理法則を使って発現される自然現象である。
だから、“超”能力と言うのもおかしいが、すでに人類が知っている実在の物理法則で理解できる能力を超えた能力と言う意味で、超能力と言うのである。
超能力はテレパシーと同様、原理がわかっていない既知の自然現象の一つである。[脳細胞は電荷や質量を感覚(波)に変換する物だから、その逆もありえると考えれば、念光現象や念動力現象が起きてもおかしくはない。]

[4159] 鬱病におけるイライラ感 h20.2.1
鬱病では、自分が勉強・仕事しなければならないことが自分の抑鬱感情を刺激して自分の気持ちが落ち込んで自分の知覚が働かなくなり自分が勉強・仕事することができなくなる。例えば、私が中学・高校生のとき、社会科や生物学が苦手だったのは、それらが私の抑鬱感情を刺激することだったからである。そんなときには、学科と自分の抑鬱感情との対応は自分の生まれつきの感情や育った環境などによって決まってしまうことなのでもはやどうしようもないから、それらの学科を捨ててしまえばいい。つまり、いい点を取ろうなどと無謀なことをせず進級できる程度に勉強すればよかったのだ。(たぶん出席がよければ、0点でも進級できる。)学科と抑鬱感情との対応がない人は、苦手科目がないから、勉強しさえすればいい点が取れるのだ。そういう人はたぶん仕事でも苦手な仕事がないから、何でもやりさえすればよくできるのだろう。
ところで、中国では鬱をイライラするの意味で用いることがある。
たしかに、鬱病でもイライラすることがある。
鬱病のときのイライラ感は、気分が落ち込んで知覚が働かなくなって知覚欲が満足できないことによるフラストレーション(欲求不満)によるものである。

[4160] わかることとわからないこと h20.2.1
科学がわかること主義であるのに対し、宗教はわからない主義と言うこともできる。
だから、宗教国家では、わからない自然現象を現した超能力者が国家最高の君主であり、わからないことがわかることを支配する体制なのである。
日本が年功序列型なのは、頭がボケて物事がわからなくなった老人のほうが頭がよく働いて物事がわかる若者よりも偉い(支配者だ)からである。
日本語の文末が尻切れトンボで曖昧なのも、わからないことを大事にするからである。
世の中をわからないことだらけにすることが、わからない主義国家の理想なのだ。
わからないことを基[もと]にしてわかることを考えると、わかることでもわからなくなる。わからなければ何もできない。何もできなければ不幸になるだけだ。
反対に、わかることを基にしてわからないことを考えると、わからないことがわかるようになる。わかればできる。できることが多ければ、それだけ幸福になる。例えば、病気が治れば幸せになる。テレビを見たり、テレビゲームで遊べれば楽しくなる。
そもそもわからなければ知覚欲が満足されないから、人間はその最大の幸福を失うことになる。
日本ではわからないことをやったりわからないことを言った者ほど偉いことになるが、天皇だって必ずしもわからないことばかり言うわけではない。わからないことばかり言うと相手にされなくなる。
いくら面白いことでも実現されなければ何にもならない。だから、国の支配者は実現できることがわかっていなければならないから、わかること主義でなければならない。
老人が若者よりも偉いのは、経験による年の功があるからである。
言葉使いが曖昧では、もはや現代社会は成り立たない。
年々科学はその縄張りを広げている。年々わかることが増えわからないことが減りつつある。今後、超能力やその他のことが科学で理解されるようになれば、もはや宗教は成り立たない。
人間が幸福を求める以上、わからないことよりもわかることを大事にするはずである。
科学は人類を幸福にし、宗教は人類を不幸にする。
人類は科学を拾い、宗教を捨てるべきである。
[私の文は野暮[やぼ]ったい。でも、“わかりやすければ”それでもいい。]

[4161] 未来の人類 h20.2.1
超能力は、脳が発達した人間でなければ使えない。人類は脳が高度に組織化する方向に進化しているので、その進化の一端として時折感覚波を扱える超能力器官を持った人間が現われるのである。
超能力を、霊長類の脳が獲得した知覚の次の能力と考えればよい。
未来の人類は、超能力を使って生活しているかもしれない。
超能力を使って、灯[あか]りを点[つ]けたり物を動かしたりできれば便利だからである。[いまどき、念動力でおもちゃを動かせたぐらいで誰も驚かない。「ああ、そうですか」ぐらいにしか思わない。科学が進歩したので、科学に比べたら超能力なんて大したことないと思うからだ。]
テレパシーも便利なので、みんなが使っているかもしれない。ただ、テレパシー器官がむやみに働くと精神病者のようにかえって生活に支障を来たすので、テレパシー器官の働きをテレビのボリュームのように調節して、自分が使いたいときだけテレパシー器官を使えるようになっているだろう。

[4162] 不合理主義者でも東大に通る。 h20.2.1
東大に受かるためには、五科目全部の勉強ができればいい。
ところで、科目が勉強できるかできないかは、科目と抑鬱感情との対応がないかあるかによって決まる。
だから、たとえ不合理主義者でも、例えば誇大欲を生き甲斐にしている者でも、五科目と抑鬱感情との対応がなければ、五科目全部を勉強できるから、頭がよほど悪くないかぎり熱心に勉強すれば東大に受かるだろう。
知覚欲で生きていない者でも、東大に合格するのである。東大だから、知覚欲を生き甲斐にしているとはかぎらない。
その後の出世も同様だから、政治家の中には知覚欲以外の不合理的な感情を生き甲斐にしている者がいるに違いない。
そんな者が権力を握れば、日本国民はその者の不合理な感情で動かされることになる。
実在が見えていない者が実在が見えている者を支配して欲しくないものだ。

[4163] 高校時代の勉強について h20.2.1
私は子供の頃から中学生の終わりまで、自分が勉強したければ自由に勉強することができた。大変幸福な時代であった。
しかし、高校時代は、私は分裂病に罹って気が狂っていてほとんど何も勉強できなかった。
しかし、高校で教える知識など、その後の人生にとってほとんど何の役にも立たないことも事実である。例えば、私はこれまで外国に出たことがないので英語は要らない。自分の専門以外の勉強なんか、どうせ中途半端な知識を頭に詰め込んだにすぎないから、最初からないほうがかえって頭がすっきりしていいくらいだ。
だから、高校時代のわずか3年間の勉強など時間の無駄のようなものだから、高校時代に勉強できてもできなくても同じである。
そんなことより大学時代以来これまでずっと考え続けて生きてきたことのほうがはるかに大事である。たとえ死んだとしても悔いはない。

[4164] 手の眼 h20.2.2
昔、私が小学生頃に読んだオカルトの本に、指先で本が読める少女の話があった。
おそらくこの話は作家の作りごとなのだろう。
しかし、もしも、この話が本当であるとすれば、
指先も眼も大脳皮質もずべて外胚葉由来の組織なので、
指先が眼の網膜のように化生(別の組織に分化)したのかもしれないと考える。

[4165] 焦燥感情は抑鬱感情よりも抑えやすい。 h20.2.2
子供の頃は、相手の態度が気に入らなくて(焦燥感情が興奮すると)すぐに手を出してけんかしていた。
しかし、成長して身体が大きくなると、もはや自分を子ども扱いしてくれず、自分が手を出すと法律違反になるので、けんかはやめた。
したがって、たとえ相手の態度が気に入らなくても(焦燥感情が興奮しても)、自分が手を出すことができないから、自分の焦燥感情自体を抑えねばならなくなった。自分が手を出すのを必死でこらえていれば、自分の焦燥感情を抑制することになる。自分が手を出すか出さないかは眼で見てわかることなので、とにかく自分の手を動かさないようにしていれば、自分の焦燥感情が抑えられることになる。[ただし、超能力を用いて自分の気に入らない相手の態度を直させようとする場合を除く。だから、子供に前もって「いくら相手の態度が自分の気に入らなくても超能力を使ってはならない」ことを注意しておかねばならない。そもそも、『超能力では相手の態度を自分が自由に操ることはできない。』だから、このことも教えておかねばならない。]
一方、抑鬱感情は自分の頭の中のことなので、眼で見てわかることではない。抑鬱感情を抑えたくても、眼ではどうすればいいのかわからない。だから、抑鬱感情を抑えることは焦燥感情を抑えることよりも難しいのである。だから、鬱病はいい歳した中年のおじさんでも罹りやすい病気なのだ。

[4166] 政治家の責任 h20.2.2
仮に私が政治家であったとすれば[宗教家も民間の政治家だから政治家に含めることにする。]、超能力者に対して自分の超能力者に関する誤解によって与えた不利益は、自分に責任があるから、それを自分が償[つぐな]わねばならないと考える。自分のまちがった見方のせいで超能力者を不利益にしたのなら、それは自分が悪いことになる。超能力者が何であるか知らずにやったというのなら、水俣病なんかの公害問題と同じだ。(→石ノ森章太郎の『サイボーグ009』に、公害のことを私害と言っている箇所がある。公害は政治家ひとりの責任だと言いたかったのだろう。ところが、当時小学生だった私は床屋の待ち合いに『サイボーグ009』のマンガを読んでいて、公害の害は被害と言う意味だから、私害では一人の者が害されることになって言葉の使い方がまちがっていると思った。その後、床屋に行く途中の道に蛆虫[うじむし]が湧いた犬の“死骸”が捨てられていた。)
超能力者をはっきりとわからないやり方で不利益にしたのなら[例えば、ミンキーモモOVA『旅立ちの駅』で、おばさんが「首をちょんぎっちゃえ」と言うのを真似て私を首にされたら私にとって迷惑である。]、反対に超能力者にはっきりとわからないやり方で利益を与えて償わねばならないと考える。
超能力者が死ぬまでに、自分の責任を果たさねばならないと考える。

[4167] 女はエッチか!? h20.2.2
エッチとは、性欲が強いことである。
ところが、女には愛情と五感欲と知覚欲があるから、それらを十分に満足すれば、性欲を満足しなくてもいい。だから、女だからといって、男に比べてとくにエッチなわけではない。実際に、私の母はエッチではない。父親のほうがエッチだ。
私もエッチな女なんか好きじゃない。

[4168] なぜ女言葉には最後に“わ”が付くのか? h20.2.2
女の心には男の心にはない愛情がある。
女は愛情を働かせてかわいいかかわいくないかの区別で実在を見ているのだ。
言葉の最後に“わ”を付けると、言葉がかわいく見えるから、“わ”を付けるのである。

[4169] 不合理主義国家 h20.2.2
不合理主義国家では、不合理な者やわからない者がほど偉いことになる。不合理主義国家では、不合理な者やわからない者が合理的な者やわかる者を支配している。だから、偉い政治家や宗教家ほど、不合理的にわからないように話をするのである。
超能力者の存在が、この世界が不合理にできていることやわからないようにできていることの証拠だと言うのである。
しかし、超能力は現代の科学ではまだわかっていない(理解されていない)と言うだけで、根本的にわからない(理解されない)わけではないから、超能力者を不合理主義やわからない主義の旗印にすることはできない。
だから、超能力者の存在は、この世界が不合理的にわからないようにできていることの証拠にはならない。
したがって、この世界が不合理的にわからないようにできている証拠はない。そもそも、世界が不合理的にできていることの証拠が、たった数名の超能力者の存在でしかないというのはあまりにも苦しい。
むしろ、合理的な科学的方法によって人類は実在を支配することに成功したのだから、実在は合理的にできていると考えるべきである。
実在が合理的にできているのなら、合理主義のほうが実在によく適応できて幸福に生きて行ける。
そもそも、合理的であるかないかは実在に対する見方の相違にすぎず、なにも超能力によらなくても、実在を不合理的に見ることはできる。実在を不合理的に見るためには、知覚欲以外の感情で実在を見ればよいので、たとえ超能力が存在しないとしても実在を不合理的に見ることは可能である。逆に言えば、超能力と不合理主義とは関係ないので、超能力は合理的にも不合理的にも見ることができる。
たしかに人間に心の中には不合理的な感情もたくさんあるが、合理的な感情(知覚欲)に根差してこそ、それらはうまく働くのである。だから、やはり人間は合理主義でなければならない。
日本の政治家や宗教家たちが日本を不合理主義国家にしている張本人である。人類の86%を占める宗教に入っている人々が、不合理主義者やわからない主義者である。
しかし、そのことは、人類の残りの14%は合理主義者やわかる主義者ということでもある。
世界は合理主義者が不合理主義者を支配することによって、人類全体が実在に適応できて幸福になることができる。
したがって、日本のような不合理主義国家は他の合理主義国家によって支配されねばならない。

[4170] 超能力者は偉いか? h20.2.3
世の中には、不合理主義者がたくさんいる。全人類の86%もいる。
不合理主義者の目で見ると、超能力者が偉い者に見えるらしい。
超能力者が偉いことは合理的にはわからないから、不合理的にはわかるのだろう。[合理主義(真実主義、実在主義)にとって偉人とは正しい考えを持っている者のことであり、超能力者は超能力があるだけで正しい考えを持っていることとは別だから、合理主義にとっては超能力者は偉くない。特定の集団内で超能力者を偉いと思うことは許されても、それを他人に強制することは許されない。いくら眼で見て美人が偉くても、頭で見て美人が偉くないのと同じことである。美人コンクールは美的感覚を持った者の間でやるのはかまわないが、その価値観を全人類に広げることは行き過ぎである。]

[4171] 不合理主義者は合理主義者に従わねばならない。 h20.2.3
合理主義者の目で見ていいことは不合理主義者がやってもかまわないが、
合理主義者の目で見ていけないことは不合理主義者がやってはならない。
例えば、私の個人情報を勝手に使って商品を作ることは合理主義的にはいけないことである。
だから、不合理主義者が私の個人情報を勝手に使って商品を作ってはならない。
また、例えば、合理主義においては、超能力は個人の才能のひとつだから、それを他人が消すことは許されない。個人にとって便利な才能なら、なおさらである。
不合理主義は合理主義に従わねばならないから、不合理主義でもやってはいけない。
合理主義では、これまでに超能力で被害にあった者がいないから、超能力は危険ではなく超能力は消さなくていい。
超能力が危険かどうかわからないのに勝手に超能力を消すことは、わからない主義だからやってはいけない。わからない主義では、超能力がわからない才能だから自分たちもわからないことをやってもいいので超能力を消してもいいことになるが、こんな理屈は合理的には認められないから、やってはいけない。

[4172] 私はどうして谷脇さんが好きにならなかったか? h20.2.3
男の心には愛情がないから、かわいさなんてわからない。
男は五感欲で生きる者ではないから、きれいさや美しさもどうでもいい。
つまり、いくら谷脇さんがかわいくて綺麗であったとしても、男にとってはそんなことは無価値なのである。
ただ、谷脇さんは成績がよかったから、正しさの魅力があった。ただ、いくら自分と気が合うといっても、女に正しさを求めることは男として情けないことなので、女の正しさの魅力もあまり大事ではない。
そうなると、最終的には自分を気持ちよくしてくれる感覚波が出るか出ないかで値打ちが決まる。
残念ながら、谷脇さんは感覚波が出るほうではなかったので、私の母に負けたのである。
しかしながら、女について自分の好みをグチャグチャ言うほうが男らしくないので、そもそもこんな議論は成り立たない。
男にとって女は自分の知覚欲を満足するために自分の代わりに家事をしてくれればそれでいいのである。

[4173] 超能力者とはなにか?! h20.2.3
超能力者は、今から何万年か何十万年か後の人類の進化した姿である。
進化した人類が勉強がよくできる人というのは、偏ったものの見方にすぎない。

[4174] サルはどうやってヒトに進化したか? h20.2.3
昔サルの群れの中にたまたま頭のいい(知覚が発達した)サルが生まれた。
サルはその頭のいいサルを大事にして子孫をふやそうと考えた。
それで、そのサルの群れには頭のいいサルがどんどん増えて、
突然変異で生まれた頭のいい形質を伸ばすことに成功した。
それが、現在のヒトの祖先である。
人間の場合には、頭のよさには先天的素質もあるが後天的要因の影響も大きいので、
優生学は適用しなくなったのだ。
超能力の場合には、知覚の才能ほど種を有利にしない(つまり、人間と超能力者とで大差はない)ので、
とくに大事にしなくてもいいが、
超能力についての研究材料としては大切にしたほうがいいと考えられる。

[4175] 釈迦が歩いた後に蓮の花が咲いたか?! h20.2.3
たぶん、宗教の者が不合理主義やわからない主義でついた嘘だろう。[不合理主義やわからない主義では、正しいかまちがいかの区別がないので、嘘をついてもいいのである。]
念光現象かなにかを大袈裟に言っただけのことだ。
嘘で他人を不安に陥れてほしくないものだ。
おかげで、超能力では何でもできると誤解した者が、赤ちゃんの頃の私の超能力を消すために私をひどい目にあわせて私が大変な目にあったじゃないか。

[4176] キリストはパンを100個にできたか?! h20.2.3
質量保存の法則に反している。
たとえ、E=mc2を使ったとしても、素粒子をパンの形にするにはマクスウェルの悪魔の力を借りてでも不可能だろう。
キリストと宗教の者が組んで、食べ物に目がくらんだ貧しい人々をだましただけだ。
キリストも念光力は使えたかもしれないが、調子に乗って嘘をつくな!

[4177] 人類の進化はどのように起こるか? h20.2.3
人類の次の生物が超能力者である。
その魁[さきがけ]として、人類の中にポツリポツリと、ほんのちょっとだけ超能力が使える超能力者が現われるのだ。
すでに、現在の人類には、多かれ少なかれ超能力が備わっている。ただ、それを使う機会がないだけだ。
ロシアの指先で本の字が読める盲目の美少女と同様、赤ちゃんの頃の私は身体が不自由だったので念動力を使ったのだ。

[4178] 政治家は馬鹿 h20.2.4
いくら人類の86%が不合理主義者(わからない主義者も含む)だからといって、
国を管理する立場にある政治家(宗教家も含む)が不合理主義者に従ってどうするか?!
不合理主義者は、いわば人類の落ちこぼれだ。
むしろ、政治家は不合理主義者を教育し正しい方向に指導する義務がある。
個人において知覚欲が他の感情を支配していなければならないように、
社会においても合理主義者が不合理主義者を支配していなければならない。
個人と同様、社会はひとつの生き物である。
社会を進化させるためにも、不合理主義者に従ってはならない。自分の正しい知識に基づいて考えて行動しなければならない。
それにしても、宗教家が神がいると言ったからといって、いい歳をした政治家までも神が本当にいると信じるなんて、政治家たちは頭が麻痺して働いていないんじゃないか?そんな連中に大事な日本を任せるなんてことができるか!?
せめて、神が超能力者ぐらいのことは自分で考えろ!そしたら何をしたらいいかわかるだろうが!
政治家は、ちょっと知能が低すぎんか?あんたら政治家辞めて養護学校に入ったら?

[4179] 合理主義とは何か? h20.2.4
合理主義には、イギリス経験論と大陸合理論の2つがある。
ところで、人間は猿から進化したし、生物の進化には『個体進化は系統進化を繰り返す』[九州大学医学部解剖学第1教室の山元寅男教授が講義のときに話した。]法則があるし、猿には五感しかなく、子供は知覚的には未熟な人間つまり猿だと考えて、進化の法則に従えば、イギリス経験論のほうが正しいと考えられる。
少なくとも教育的には、まず五感から入り次第に知覚で考えるようにするのがよいだろう。
とにかく、合理主義が真実主義、実在主義であることに変わりはない。

[4180] 『哲学とは自分で考えることである。』 h20.2.4
昔、日本のある偉い教授が、『哲学とは自分で考えることである。』と言った。
他人の書いた本を読むのは五感を働かせているにすぎない。知覚が五感に従う状態である。
人間としては、これではいけない。自分が考えて、五感を知覚に従わせてこそ、人間なのだ。

[4181] 未来の人類 h20.2.4
未来の人類は、超能力で灯りを点けたり身近にあるちょっとした物を動かせるようになっているかもしれない。
しかし、自分が考えただけで物を動かせるから、うかつに考えることはできない。
そのためには、今よりもっと高度な情操能力が要求されるだろう。
私の超能力の場合は、身体が不自由なときの手の代用だったから、身体が自由になれば使わないし、超能力と言ってもそんなに強力なものではなかったから、自分が自分の超能力で困るところまでは行かなかった。
私以外の場合でも、自分が自分の超能力で困るところまで行けば、自然に超能力を使わなくなるのではないだろうか?
だから、自分の超能力で困ることはまずないだろう。

[4182] 子供時代 h20.2.4
子供の頃は誰しもまだ知覚が十分に働いていないので五感主義であり正しいかまちがいかの区別がないので、嘘をつくことが多い。
私も、自分が親にいい子に見られようとしてよく嘘をついたものだ。
自分がUチャンネルを回しすぎて壊した自宅の白黒テレビやリューズを回しすぎて壊した薫的の[近所に薫的[くんてき]神社があることからこう呼ばれている。高知市新屋敷のこと。]おばあさんの腕時計をみんな弟のせいにした。
大人は子供よりも知覚が働いて正しいかまちがいかの区別がつくから、子供は大人に従わねばならない。

[4183] 論より証拠 h20.2.4
釈迦やキリストは、「自分が超能力で何でもできる。」と言葉でただ言っただけで、
実際にその場で自分が超能力を使って何でもできることを示したわけではない。
他人の言葉ではなく、自分の眼で見たことを信じなければならない。
私は子供の頃からテレビで見たことも信じなかったから、歴史の教科書は最初の2ページの縄文時代のところまでしかわからなかった。
それなら、自分が眼で見たことがないから、私の超能力も信じないって?
それでもいい。ただ、私の『哲学日記』などの記述と最近の日本や世界の動きの間になんらかの相関があると貴方[あなた]が感じられたなら、その理由として私が超能力者であることも一考する価値があるだろう。

私自身も自分の超能力については母親の言葉でしか聞いたことがないが、そのときの母親の口ぶりから事実であったと信じている。私の母親は嘘をつくときには、話し方がぶっきら棒で平坦になるからだ。
そのとき聞いたことによると、私の超能力(母親は幽霊の仕業[しわざ]だと言っていたが)は、天井から吊り下げられたガラガラを回すことができただけだ。[ガラガラ→ガラモン(ウルトラQの怪獣)]
このことから、私は超能力を、人間の脳のどこかにある超能力器官で感覚波を操る能力だと考えたわけだが、
幸いにも、同じ日本の神武天皇の超能力が光の玉を出すことだけだったのは、私の超能力の感覚波説を支持する有力な証拠であるといえる。[私も神武天皇の超能力は絵でしか見たことがないが、絵がリアルなので信用に値すると考えている。]
つまり、超能力は感覚波でできることに限られるから、超能力では何から何までできるわけではないということだ。

政治家(宗教家も含む)が超能力の正体を伏せるのは、超能力に対する個人の曖昧な思惑を利用して、自分たちがあくどい儲けをしようと企んでいるからだろう。
それなら、みんなが自分の眼で見たことしか信じないようにすればいい。
自分の眼で超能力を見たことがなければ、いっそのこと超能力は存在しないと考えてもいい。
でも、私の母親の眼と私の知覚を信用するなら、超能力は存在するが、超能力では身近に光の玉を出したり、身近にあるちょっとした物を動かすぐらいのことしかできないと考えてもらいたい。昔から神とされている超能力者の正体は、その程度の者なのである。
そんな者に対して祈ろうが願いを掛けようがどうなるものでもない。縁起担ぎをしても何にもならない。なぜなら、感覚波でできることではないからだ。
だから、超能力者は自分の超能力を使って勝手に便利に暮らせばよく、周りの人間が超能力者に対してとくにすることは何もないということだ。

[4184] どうして超能力者の超能力を消さねばならないのか? h20.2.5
超能力者の超能力を確認した後すぐに超能力者の超能力を消すのは、超能力が他人の霊気(感覚波)エネルギーを吸い取ると考えたからである。
しかし、それは当てずっぽうの推論なので、真実主義とは言い難い。
3人並んで写真を撮ると、真ん中の者が早死にするというまちがった迷信と同じことだ。
科学的には、超能力者の超能力は、超能力者自身の超能力器官を強く働かせて強力な感覚波を発生することによって発現されるのだから、他人の霊気(感覚波)とは関係ない。だから、超能力者は一人だけで周りに人間がいなくても超能力を使うことができる。実際に、赤ちゃんの頃の私が超能力を使ったとき、私の近くにいた両親や親戚には何事もなかった。私が物心ついたときには、両親も親戚も元気だったから、おそらく何事もなかったはずだ。
実際に、他の超能力のテレパシーでも他人のエネルギーを吸い取ることはない。もし、そうなら、精神病院の近くに住んでいる人が元気がなくなって病気になるはずである。
だから、超能力は他人に迷惑をかけるものではなく、それを他人が消す理由がないので、超能力を他人が消すことは許されないのである。

[4185] 実在の人物をモデルにした作り話はいけない。 h20.2.5
少し前、『モンキーターン』というアニメに、私を管理している営業マンの波多野さんに似ているキャラクターが同じ名前で出ていた。
私は波多野さんと親しく付き合ったことがないので、私には波多野さんが会社の資金を競艇に注ぎ込んだかどうかわからない。
だから、わからないからこそ、私を含むこのアニメを見た人が波多野さんと競艇に何か関係があるのではないかと思ってしまうのである。
人間の心には他人を悪く思う気持ちもあるから、はっきりしたことがわからないときには、たいてい悪い評判が立つだけである。それを理由に会社を首にされたら、当人にとっては大迷惑である。
だから、実在の人物をモデルにした作り話を作ってはいけないのである。

[4186] 最近のアニメの動向 h20.2.5
『ロメオ×ジュリエット』…私には愛情がない。かわいいとは何かがわからない。
『蒼天の拳』…私はタバコをまったく吸わないし、臭いに敏感でもない。
『しゅごキャラ』…私は違う自分になりたいと思ったことなど一度もない。
最近のアニメは、あえて私と違うことや私が絶対にやらないことをキャラクターにやらせている。
だいぶ前に私が私の個人情報を使ってアニメを作るなと言ったから、それで私の個人情報以外の情報をわざと使ってアニメを作ったのだろう。[個人情報とは特定の個人を特定できる情報のことだが、現に(実際に)私が私自身だと特定できているのだから、それは個人情報といえるのではないだろうか?]
最近のアニメの雰囲気がなんか暗いのも、私が暗い性格ではないためなのかもしれない。
もっとも、『ロメオ×ジュリエット』は昔父親が自分の部屋に置いていた世界名作全集の一冊ロミオとジュリエットのことで私が数学好きなのでとが×になっているし、『蒼天の拳』では蒼が青いでブルーでぶ入れだし天が天使で超能力ベビーのことだし北斗神拳は私が小学3〜4年生頃私の母親が風呂上りの私に対してやった“いちくりにくりさんくり”(人差し指で身体をつつくこと)が元ネタだし、『しゅごキャラ』のヒロインは顔や性格が私に似ているから、完全に私と縁が切れたわけじゃない。
私でできたことだから、今度からは誰かに正式に許可を取ってやればいいだろう。

[4187] 万引き h20.2.5
いくら超能力が使えても、懐[ふところ]に商品が忍び込むのを他人に見られたら、手でやろうが念動力でやろうが同じことだから、
超能力(とくに念動力)で問題になるのは、監視カメラの向きを変えることだけだ。
それを防止するには、監視カメラを向きの変えにくい頑丈なものに置き換えればいい。
店での万引き以外に、そう超能力で問題になることはないだろう。[実在の世界には『エネルギー保存則』があり、超能力に対してもその法則が適用されるはずだから、そう超能力で自由に何でもできるわけじゃない。]
超能力者が住んでいる近辺の店に置いてある監視カメラを向きを変えにくいものに交換しなければならないが、
それは来るべき『超能力時代』に向けての先行投資だと考えれば、安いものだ。

[4188] 文化の多様性 h20.2.5
宗教による不合理主義では、人類が超能力者に従わねばならないことになっているが、
それでは人類の文化が超能力者色で統一されすぎて文化の多様性が失われてしまう。
しかし、合理主義で超能力者の実像に基づいて論理的に考えていけば、人類が超能力者に従わねばならない理由がないから、従わなくてもいいことになる。
人類の文化に多様性を認めるということは、超能力者を人類の一員として認めることでもある。
人類に超能力者を加えた集合を、新しい人類の定義とすればいい。人類と超能力者の関係についての規定は、超能力者の超能力(念動力)を人類の手と同じように考えて決めればいいだろう。超能力者は[『のろいの館』のタマミのように]手が3本ある人間だと見なせばいい。念光力は、チョウチンアンコウの提灯[ちょうちん]ぐらいに思えばいいだろう。

[4189] 神武天皇について h20.2.5
神武天皇は、念光現象が特定の個人によって発生することを確認された数少ない例のひとつである。おそらく、釈迦やキリストも同じタイプの超能力者だったのだろう。
神武天皇が出した光の玉は、神武天皇の周りに居た数十名ぐらいが目撃しただけだったはずだ。その他の者は、目撃者の話を聞いて信じただけだ。その後も話がまったく太っていないのは、日本人が正直だったからである。
もしも神武天皇が自分が出した光の玉に自分で驚いていたら、それは人魂ということになって、超能力者としては認められなかっただろう。
だから、神武天皇は念光力者であってその上に人魂を恐れない勇気を持っていたのだ。

[4190] 念光現象について h20.2.5
エジソンが発明した白熱電球は『黒体輻射の原理』を用いるから発光体が高温でなければならず電球に触ると熱くて火傷[やけど]するが、
テスラが発明した蛍光灯は『電子の励起現象』を用いるから高温にならず蛍光灯に触っても火傷しない。
神武天皇が発現した念光現象は『感覚場と電磁場の相互作用による発光現象』だが、たぶん今の液晶テレビに用いられている発光ダイオードの光のように触っても熱くないだろう。だから神武天皇は火傷しなかったのだ。[念光現象は、感覚波が空気分子の電子を励起させるのかもしれない。超能力器官から特定の方向に発射された感覚波量子が空気分子と衝突して空気分子に含まれる電子を励起するのである。だから、念光は円柱状に発光するのであって、出した本人や向かい側から見れば丸い玉のように見えるし、横から見れば棒のように見える(いわゆる火の玉の尾)。念動力の場合には、運動量を持った感覚波量子を物体に当てて動かすのだろう。[→ウルトラマンのスペシウム光線。ゼットンの光の玉でウルトラマンが倒されたから、皇室と私はいわばライバルだ。その後、ハヤタ隊員は一命を取り留めたが普通の人間になってしまった。仮面ライダーの本郷猛が脳の改造手術の前にショッカーの研究室を脱出できたのは、じつは私が超能力を消すために脳に何らかの処置をされたことの裏返しである。本郷猛に比べて一文字隼人がかっこ悪いのは(小学生頃の私はそんなことをちっとも思わなかったが)、小さい頃の私は人並みにかわいかったが、小学生頃になると変な顔になったためである。]例えば、ガラガラの同じ所に感覚波量子を当て続ければ、水の流れが水車を回すように、ガラガラを回すことも可能である。ガラガラがプラスチックでできていて、プラスチックが軽い物質であるために感覚波量子による弱い力でも回ったのだ。超能力器官から出る感覚波の波長の違いによって、感覚波と相互作用する物質の種類が変わるのかもしれない。超能力器官は、ブラウン管の電子銃みたいなものだろう。電子銃が電位差で電子を加速するように、超能力器官は感位差で感覚(波量)子を加速するのだ。]

[4191] 人間と人間の関係についての規定 h20.2.6
人間の集合が社会である。超能力者も人間の集合に属する。
社会には、内部構造つまり人間と人間の関係についての規定がある。
昔は、超能力が強い者や武力が強い者や男(Y染色体を持つ者)が社会を支配した。
今は、合理的な者(実在について正しく認識できる者)が不合理的な者を支配する。
そのほうが、社会のすべての人間が実在に適応できて幸福に生きて行けるからである。
そのほうが、社会が安定でありかつ発展できるからである。

[4192] 政治家の仕事☆☆ h20.2.6
政治家の仕事は、
合理的な者が不合理的な者を支配するように管理しながら、
大勢の人の心(知覚欲や五感欲や愛情など)を満足するような社会を作ることである。
だから、政治家はひとつの感情しかわからない偏狭な者ではなく、大勢の人のいろんな心がわかる者でなければならない。
政治家は、社会の支配者ではなく社会の管理者である。
『人間は実在に従属することによって実在を支配できる。』(by F.Bacon)
人間は実在に従属しながら自分の感情を満足させることによって幸福に生きて行くことができる。
実在に人間を支配させればうまくいくが、実在は口を利いてくれないから、実在の代わりに実在がわかっている人間にその他の人間を支配させるのだ。[図では煩雑さを避けるために描いていないが、政治家も正しい者によって支配されねばならない。]


[4193] 脳の違い h20.2.6
私は毎朝アリナミンA(1錠に33mgのフルスルチアミンが含まれている)とポポンSを1錠ずつ飲んでいる。
私の母はアリナミンA5をときどき飲んでいる。前に、アリナミンAを飲んだら頭が痛くなったことがあるそうだ。
私も前にチョコラBBを飲んだら頭が痛くなったことがある。
つまり、人の脳は外見はあまり違わないが、脳の働きにはかなり個人差があるということだ。

[4194] なぜオナニーすると美男になるか? h20.2.6
私は中学3年生のとき半年間ほど毎日オナニーをしていたが、そのために父親の機嫌がよくなるほど美男になった。
それは、精巣に供給された栄養分やエネルギーが精子の製造に消費され男性ホルモンの分泌が減少するために、身体が脱男性化するためだろう。

[4195] 戦争について h20.2.6
いくら他国を支配するために戦争したいからといって勝手に勝てない戦争を始められたら困るので、軍部は開戦の前に科学部に相談して戦争の許可を得なければならない。
世界戦争は、戦争が長期化して互いに被害が甚大になる可能性が高いので、今後は起こらないだろう。
他国に戦争してこられたらそれに対して応戦しなければならず、戦争を吹っかけられた国にとっては迷惑だから、最初に戦争を始めた国が悪い。
そもそも戦争の原因は、国家間の豊かさに大きな格差がある場合、貧乏国が裕福な国の豊かさを奪おうとしてやけくそになって裕福な国に命がけのけんかを仕掛けるからである。だから、国家間の豊かさがほぼ平等になれば戦争をしなくなる。人間には欲求満足の法則があるから、いくら裕福でも満足度には上限があるから、裕福な者の余った豊かさを貧乏人に分けてあげればみんながほぼ平等に豊かになって満足できる。

[4196] 都会者と田舎者 h20.2.6
都会者は口先だけ上手で心が汚い。
田舎者は口下手だが心が綺麗だ。

[4197] 心と身体の調和 h20.2.6
人間の心と身体(心以外の部分)は調和している。
男の心で女の身体では知覚欲が満足しにくい(脳に脂肪が溜まって知覚がよく働かない?)し、
女の心で男の身体では愛情も五感欲も満足できない。
知覚欲にとっては、いくら自分の身体がかわいくて綺麗でも少しもうれしくないし、
愛情や五感欲にとっては、いくら自分の知覚がよく働いても少しもうれしくない。

[4198] ウィルソンの霧箱 h20.2.6
感覚波量子と空気分子の中の電子やプラスチックの中の電子?との間には相互作用がある。
だから、ウィルソンの霧箱のような装置を用いれば、感覚波量子の検出ができるだろう。
念光波については、念光波量子と空気分子中の電子の衝突で励起された電子が元の準位に戻るときに放出される光を敏感に感知する装置があればいいのだ。
念力波については、ガラス管の中にプラスチック製の小さい水車を作って、ガラス管の中を真空にして空気抵抗を小さくして水車が回りやすいようにして、念力波量子の衝突による水車の回転を検知する装置があればいい。
あまり超能力の強くない人でも、けっこう出ているかもしれない。

[4199] なぜキリストは罰せられたか? h20.2.7
キリストが生きていた頃は、まだキリスト教は民間宗教にすぎず国家宗教ではなかった。
つまり、キリストは自分を神だと考えていたが、国王はキリストを神だと考えなかった。
キリストは自分自身を神だと考えて自分たちで新しい国を作ろうとして内乱を起こし捕らえられた。
一方、国王はキリストを神だと考えなかったので、キリストを国家反逆罪で死刑にした。
この場合は、国王の考えが正しいので、当然キリストが罰せられるべきである。
ヨーロッパなどの真実主義の国では、キリストがまちがっていると考えるので、キリストの十字架像をシンボルにしているのである。
私の場合には、反対に私自身は神だと考えず、国が私を神だと考えた。
それで国が私に対していろんなことをしてきた。
この場合は、国の考えがまちがっているので、当然国が罰せられるべきである。

[4200] なぜ釈迦は罰せられなかったか? h20.2.7
それは釈迦が自分を神だと考えず、国の決まりに反する悪いことをしなかったからである。
それなのに、国は釈迦を神だと考えて釈迦に対していろんな余計なことをした。
この場合には、国の考えがまちがいであり、当然国が罰せられるべきである。
インドが世界から罰せられてきたために、インドは今でも貧しい不幸な国なのである。


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