[1201] ‘感覚’のルーツ h16.4.30
『経験は理論に先立つ。』 つまり、概念を得るには、まず具体的な経験が必要だってこと。でも、経験だけじゃだめ。思考も大切。…古い概念で新しい経験をとらえることによって、新しい概念が得られる。新しい概念が世界を広げる。新しい概念が認識を実在に近づける。/
ニュートンが“リンゴが落ちる”のを見て‘万有引力’をヒラめいたように、
約13年前の春、私は風呂に入りながら“五感が動く”のを見て‘感覚’の概念をヒラめいた。
風呂といえば、アルキメデスが“風呂の水があふれる”のを見て‘比重’の概念をヒラめいたのが有名である。(ここまで来ると、ほとんど誇大妄想?)

[1202] 実在第1原理の意味(再確認) h16.5.2
『感覚は脳細胞が荷う』から、自分の脳細胞が荷う感覚しか自分には感じられない。それ以外のものを感じるには、何がしかの感覚器(眼とか耳とか)が必要となる。したがって、幻聴は感覚波をX器官が感知することによって聞こえるのであって、‘感覚自体に自他の区別がない’ことによるのではない。
自分の感覚は自分の脳ができてから生まれたのであり、自分の身体の消滅とともに消え去るのだ。永遠の精神というものはない。だから、心霊写真は作り事だ。


[1203] フィルター h16.5.2
精神分裂病では、五感主義なので、情報の流れが『五感→心』と五感から心への直接の流れがあるから、心が現象的な意味を拾いやすい。そのために幻聴で聞こえる言葉の不快な感じに敏感である。
一方、正常な人間の知覚主義では、情報の流れが『五感→知覚→心』と知覚を介して五感から心への間接の流れだから、実在的な意味しか心に通さない。いわば知覚がフィルターであり、実在しない現象的な意味が知覚においてカットされるのだ。そのために言葉の非実在的な意味に鈍感である。たいてい幻聴では不快だが非実在的なこと(どうでもいいこと、くだらないこと)しか聞こえないから、知覚を通せば全部消える。


[1204] 人間理解としての精神病 h16.5.2
私が精神病について考えるのは、精神の極端な場合だからです。ガリレイが斜台を用いて思考実験したように、極端な場合について考えたほうが、物事の本質を明らかにしやすい。
正常の人間の場合でも、多かれ少なかれ分裂気質や躁鬱気質が含まれていますから、分裂病や躁鬱病について考えることはけっして無駄なことではない。精神病について考えることは、人間理解の助けになる。

[1205] 奇形への恐怖 h16.5.2
分裂気質では五感から心への直接の情報の流れがあるので、現象的な意味に敏感である。
例えば、奇形を見て怖がるのは分裂気質に多い。
正常の人間は、たとえ奇形を見ても異常と思うだけで、そんなには怖がらないものだ。
私も、子供のころには『三つ目の猫や三面鬼』を見て怖くて眠れなかったから、分裂気質だといえる。でも、大人になると怖くなくなったから、多少は知覚主義になったのだろう。

[1206] 三途の川の意味 h16.5.3
マジカルエミでもそうだが、川の意味は時間の流れだ。だから、三途の川を越えたところに先祖の霊たちがいるというのは、時間の流れを超えた知覚界においては自分の存在は自分の祖先と同じ様に永遠であるということだろう。たとえ五感界から自分がいなくなっても、時間のある知覚界においては自分の存在はなくならないことは、物理学の4次元時空間においては当然のことである。ついでに、三途の川の3の意味は空間の3次元だ。空間の3次元に時間(川)の1次元が加わって4次元時空間すなわち実在する宇宙空間になる。
自分が生まれる前や死んだ後にも存在する、自他の区別の消滅した‘共同感覚界’なんてものはない。

[1207] 哲学第1原理からの疑問(『自分』とは何か?) h16.5.5
自分の脳から自分の脳細胞を一個取り出して、それを電気刺激して興奮させたとき、その脳細胞の荷う感覚は自分の感覚として‘自分に’感じられるか?その脳細胞が荷う感覚は一体‘誰に’感じられるのか?
自分に感じられれば、“感覚自体には自他の区別がない”ことになり、“共同感覚界”が存在することになりますが、
自分に感じられなければ、自分の脳から取り出した脳細胞の感覚は、もはや自分の感覚ではないことになり、“自他の感覚の独立性”が厳存することになる。
自分に感じられるか感じられないかは、誰かが実験してみるまでは正確にはわかりません。
でも、たぶん、自分とは自分の細胞の集合体であり、自分の脳から取り出した一個の脳細胞は、もはや自分とは言えないから、自分には感じられないのだと思います。

h16.5.8追加)でも、もしかしたら、免疫が自己非自己の認識ができるように、感覚が自己非自己の認識をしているのかもしれません。そうだとしたら、ある感覚が発生したとき、まずその感覚が自分のものであるか否(いな)か、つまりその感覚がどこにあるのか、自分の脳の内にあるのか外にあるのかを区別してから、自分の脳の中にあるとわかればそれを自分の感覚として強調し、自分の脳の外にあるとわかれば他人の感覚として弱調(抑制をかけて消去すること)しているのかもしれない。分裂病ではその過程が壊れていて、幻聴が聞こえるのかもしれない。でも、そうしたら、毎秒毎秒大脳で猛烈な自己非自己の判断の情報処理が行われていることになり不自然です。免疫が自己非自己の判断をするときに細胞膜の外側についている名札を見て区別しているように、自分の脳細胞には自分であることを示す名札が付いているはずだから、その名札が自分か自分でないのか決めているから、自分の名札が付いている脳細胞の感覚だけが‘自分に’感じられるのかもしれない。感覚にも名札が付いていて、自分の名札が付いている感覚だけが自分に感じられるのだ。したがって、自分の脳から取り出した一個の脳細胞は自分の感覚であり、‘自分に’感じることになるのだ。幻聴は他人のX器官から発生した感覚波を自分のX器官で聞いているのだ。幻聴は感覚の自他不可弁別性によるのではない。通常は自分の脳から一個の脳細胞を取り出すなんてことはしないから、自分と他人の脳のある場所の違いがそのまま自分と他人の区別を決めていると考えてよい。現代科学では、細胞レベルでの自他の区別を考えねばならない。一般に自他の区別は細胞のDNAで可能であり、脳細胞に自他の区別があるから、自分の脳細胞で発生した感覚は自分の感覚であり、自分が感じることになるのだ。したがって、自分の脳から取り出した脳細胞を地球の裏側に持って行って興奮させても、自分の感覚となる。将来脳移植なんかやると、他人の脳に移植した自分の脳組織は自分の感覚になるから、そのことが問題になるだろう。


[1208] 哲学第1原理の意義 h16.5.6
五感界に‘感覚’をつけたすことによって、五感界を実在界に近づける。
脳細胞に‘感覚’を荷わせることによって、五感界をより実在に近い洗練されたものにする。
やっぱり、私にとっての実在界は(修正された)五感界なのだ。
知覚は五感界を修正するためにある。(知覚によって修正された五感界を、広義の知覚界と考える。)
…ゴチャゴチャに書くのはバカの証拠。

[1209] 五感界の改良(『修正五感主義』) h16.5.7
実在認識の出発点は五感界にある。
だから、まず五感界を肯定する。
しかし、五感界には実在するのになかったり、実在しないのにあったりするものがある。
そこで、知覚が五感を改良する。
知覚は五感界にないものを補い、五感界にある余計なものを取り除く。
知覚が五感界を修正することによって、認識が実在に近づく。


[1210] 心 h16.5.7
心は認識された実在界(つまり、五感界+知覚界)に複合(従属且つ支配)している。
だから、認識された実在界が変わると、心も変わる。
五感界に複合する心は動物の心と変わらない。快・不快感しかわからない。
知覚界に複合する心は人間の心だ。幸・不幸がわかる。実在的な心だ。

つまり、『快楽には質の違いがある(J.S.ミル)。』

人間には心がある。心は実在するものに対しても不幸を感じる。だから、自分の心には注意せねばならない。心を無視しては危険である。自分の心にとっての幸福と不幸を前もってよく知っておかねばならない。(暇なときに考えておこう。)人間は幸福を選択し不幸を回避しながら生きていかねばならない(それを怠った者が不幸になる)。こんな歌があったら、世界を躁鬱病から救えるだろう。ミスタースポック(バルカン星人)にも聞かせてやりたい。

[1211] 無と有 h16.5.7
五感界にある余計なもの(実在しないもの)は無であり、反対に五感界にない必要なもの(実在するもの)は有である。
知覚は無を引き、有を足す。(知覚は五感界から無を削り、五感界に有を補う。)

無は別名、色とも言う。色キチガイとは、実在しない現象(五感)に囚われた状態を指す。
有には、例えば、空気(小2「音は空気の振動だ」)や力(古典力学「力が物体を動かす」)や原子(化学者ドルトン「物体の量子化」)や感覚(実在哲学「感覚は興奮した脳細胞が荷う」)などがある。
無とか有とか言っても、言葉が短すぎてわかりづらいから、
無≡実在外五感(≡色)、
有≡五感外実在、
五感界の中の正しい部分≡実在内五感≡五感内実在、
などと呼ぶことにする。(あまり使用しないと思うが。)

[1212] 空(くう) h16.5.7
空は空想の空で、積極的・能動的に実在しないことを考え出すことである。
また、そうして考え出されたこと。
空は必ずしも五感界の中にあるとは限らないので、無とは区別される。

h16.5.8追加)実在に空想が足された世界が文学(アニメやマンガ)の世界である。(空想が足された実在を、広義には空想と呼ぶ。)例えば、アニメにおける魔法や巨大ロボットなどが空想である。関係ない話だが、サンライズの勇者シリーズは、巨大ロボットを地味に取り入れることで世界の実在化を目指した、リアルロボットシリーズの一環であると考えられる。アニメに実在性を取り入れるのが、現代アニメの主流だ。(大人が見るから。)
文学の世界では、その世界(空想界)固有の五感や知覚や心がある。それらを、幻覚、妄想、煩悩と呼ぶ。アニメを見ることは幻覚を見るのと変わらない。幻覚に基づく知覚が妄想であり、幻覚と妄想に複合する心が煩悩(空想の世界に遊ぶ心)である。
文学の世界は空想や煩悩や妄想などがいろいろあるから複雑である。
一方、科学の世界は真理を鵜呑みにするだけだから単純である。
実際の人間の認識界は科学者が考えるほど単純ではない。
空想を認めないと、空想に呑み込まれてしまう。
空想を認めることが、空想に陥るのを防ぐ。

[1213] 黒い穴 h16.5.7
分裂病で、発狂寸前に、引金になった人の頭上に‘黒い穴’が見えることがある。
実際、私も高校1年生のとき、通路を隔てて隣に座っている不良の態度(授業中に教科書をパラパラめくりして遊んでいる)が気に入らなくて、そいつの身体を自分がサイコキネシスで操ってやろうと必死になって気張っていたとき、不良の頭上30cmぐらいのところにソフトボール大の‘黒い穴’が見えた。その日の夜自宅に帰ってから、近所の人が自分の悪口を言って嘲け笑う幻聴が聞こえ始めた…。

おそらく、この‘黒い穴’の意味は感覚子の欠如だろう。つまり、自分が他人の身体を支配しようとすることは、他人の感覚を認めないことだから、感覚の欠如した部分に‘黒い穴’が開いたのだ。そこには本来、その人の感覚(子)が入るべきだったのである。おそらく‘黒い穴’は、私の五感界が私に示した最終警告だったのだろう。私はそれを無視して暴走したために発狂してしまった。
分裂病において大事なのは、自分と他人の区別ではなく(そんな事は眼先のわかりきったことだ)、実在と認識の区別だ。自分や他人の認識(感覚)の存在を認めることが必要なのだ。
五感界自体は実在ではない。感覚は五感界の中にはない。感覚のない世界は実在の世界ではない。知覚で感覚を考えて、五感界を改良する(修正する)ことによって、認識界(五感界+知覚界)が実在に近づく。その修正された認識界の中で、見たり考えたり思ったりすることが大事なのだ。

[1214] 躁鬱気質 h16.5.8
認識と実在の関係が普通と逆だ。
普通の人にとっては、実在が主で認識が従であって認識が実在に従うが、
躁鬱気質の人にとっては、認識が主で実在が従で実在が認識に従う。
普通の人にとっては、実在内五感、実在内心で、実在内認識なのに、
躁鬱気質の人にとっては、五感内実在、心内実在であって、認識内実在なのだ。
実際には人間は猿の一種だから、躁鬱気質の世界観は思い上がりにすぎない。
世界観が間違っているから、結局病気(精神病)になるのだ。
間違いの世界観が特殊な状況下で成り立っていても、人間的には価値がない。
多少不利ではあっても、正しい世界観のほうがいい。
ちなみに、分裂気質の世界は五感界自体を実在と見なすことだ。この世界観も間違っており、結局精神病にかかって人生を終える羽目になる。
思想にも正しい思想と間違っている思想とがある。
人間にとっての正しい思想は、実在主義、知覚主義しかないのだ。

まず心から入った人は躁鬱気質になるが、
まず眼先から入った人は分裂気質か神経質になる。
躁鬱気質と分裂気質・神経質とでは人生の進む向きが反対なのだ。
眼先だけで済まして言葉で考える習慣のない人は分裂気質のままだ。毎日言葉を使って考えていれば、次第に神経質(つまり、人間にふさわしい正常な気質)になる。
曖昧でニタニタ笑いをする者は分裂気質だ(かつては私もそうだった)。原理に基づいて論理的に考えないから、考えが曖昧なのだ。五感界には眼で見えるか見えないかの区別しかなく、知覚界のように正しいか間違いかの区別ではないので、事の真偽を問われると曖昧な返事しか返さない。ニタニタ笑いは、心が低級な動物的な快感しか感じないことの表れだ。あるいは、自分の心を否定しようとするニヒルな意志の表れだ。躁鬱気質の人は、心を肯定するからもっと大声で笑う。

[1215] 輪廻転生 h16.5.9
哲学第1原理『感覚は脳細胞が荷う』ことにより、自分の脳にある何十億個の異なる脳細胞の感覚が、同じ一つの“自分”というものに感じられるのは、自分の脳細胞のDNAが同じだからと説明される。自分の脳細胞と他人の脳細胞は違うDNAを持つから、脳細胞で発生する感覚にも自他の区別があり、自分の脳細胞で発生した感覚は他人には感じられないし、逆に他人の脳細胞で発生した感覚は自分には感じられないことになる。(でも、そうすると、一卵性双生児は同じDNAを持つから、一卵性双生児の間には感覚の区別ができないことによる‘自他不可弁別性による意思疎通’が存在することになる。そんな話は聞いたことがないが、私には一卵性双生児の知り合いがいないので正確なことはなにも言えない。一卵性双生児のような同じDNAを持つ者の間にある自他不可弁別性による意思疎通は、分裂病におけるX器官によるテレパシー通信とは別物である。)
ところで、人間の遺伝子は、何代にも渡って組み換えられていくうちに、たまたま同じ遺伝子組成を持った人間が二人できることがある。そうした人間同士の間では、DNAが同じだから、時間や空間を超えて感覚を共有し合うことになる。仮に、あなたと2千年前のどこかの国の王子とが同じDNAで、あなたと王子とは互いに意思疎通が出来るとしよう。あなたには2千年前の王子が考えていることが感じられるから、あなたが王子の生まれ変わりのように思われるだろう。このように、輪廻転生は、仮にあったとしても、同じDNAを持つ同種間に限られ、仏教のように人間が魚に生まれ変わったりはしないだろう。
もっとも、単純に、誰かの作り話かもしれない。あるいは、催眠術による誘導尋問かもしれない。誰でも自分が知らないことを無理やり言えと強制されたら、作り話をするしかないだろうから。

[1216] 『自分』 h16.5.9
哲学第1原理すなわち『感覚は脳細胞が荷う』が、感覚は脳細胞があるところにしか存在しない。例えば、数学を考えているときには右側の脳が暖かくなるから、大脳が局所的に活動していてその部分だけで感覚しているはずだ。つまり、感覚はそれぞれの脳細胞が感じている。ところで、脳細胞の間には結合があり、一つの塊りを形成している。その塊りを『自分』と呼んでいるにすぎない。つまり、同じ一つの自分が感じていると言うけれど、実際には、自分の脳にある個々の脳細胞がその脳細胞のある場所で感覚を感じているに他ならない。
したがって、例えば、自分と他人が結合するとき、自分か他人のどちらかが感じれば、『我々』が感じていることになる。でも、実際には、自分か他人のどちらか一人が感じているにすぎない。これと同様に、脳細胞が神経興奮すると感覚が生じるが、感覚はそれを荷う脳細胞が存在する場所と同じ場所にしか存在しない。その他の場所では、その脳細胞が荷う感覚はまったく感じられないのだ。
だから、自他の感覚の区別はDNAとは関係ない。やはり、輪廻転生はありえない。


[1217] 電波と感覚波 h16.5.9
電荷と電荷とが電波で相互作用しあう(力を及ぼしあう)ように、感覚子(つまり、脳細胞に局在した感覚)と感覚子とが感覚波で相互作用しあう。
ただの電荷では弱い電波しか出さないように、ただの感覚子では弱い感覚波しか出さない。
でも、アンテナを作れば強い電波が出せる。
アンテナが強い電波を出すように、X器官は強い感覚波を出すのだ。


[1218] 躁鬱気質と分裂気質 h16.5.10
躁鬱気質は無条件に自分の心を肯定するので、自分の心についての考慮が足りず、幸福を選択し不幸を回避しながら生きていないために、不幸に陥る。『灯台下暗し。』
分裂気質は無条件に自分の五感を肯定するので、自分の五感についての考慮が足りず、実在内五感を選択し実在外五感を回避しながら生きていないために、不快に陥る。
知覚主義では、自分の心が実在するものに対しても不幸を感じることがあることを知っているので、幸福を選択し不幸を回避しながら生きているので、不幸に陥らない(陥りにくい)。また、自分の五感界が実在とは違うことを知っているので、たとえ幻聴が聞こえても実在外五感としての幻聴に囚われない。そもそも、実在すなわち知覚界においては「自他の独立性」が考慮されるから、自分が他人を『超能力』で支配しようとして自分の『X器官』を活動させるようなことはしないはずだ。そんなことをすると、あとで自分が他人にX器官の超能力(幻聴)で支配されることを知っていれば、絶対に自分のX器官を使おうとはしないはずだ。それに、たとえX器官の超能力を使って他人に幻聴で訴えたとしても、他人はそれを聞いてはくれないだろうから、X器官を使うだけ無駄だと言うものだ。「X器官を使ったから他人が自分の言うことを聞いてくれた」ようなことを、親が子供に教えてはいけない。私の場合、私が小学5年生ぐらいのとき、母親から「自分が水泳の選手に選ばれたのが嫌で嫌でたまらなくて、心の中で先生に訴えたら、なにも言わないのに次の日別の人に代えてくれた」話を聞かされたことがある。こんな話を聞かされたから、高校一年生のとき超能力を使おうとして発狂したのだろう。もっとも、それまでに哲学について考えていれば、そんな超能力を使わなかったかもしれないが。反対に、親が子供に『超能力はない』と教えたら、子供はそんなものがないと油断して冗談と思ってふざけて使おうとするかもしれない。その結果、X器官が活動して分裂病になるだろう。だから、『超能力(幻聴)』は実在するのだ。実在するからこそ使ってはならないのだ。使えばあとで自分が大損することを教えればいい。そんなおとぎ話か絵本でもあれば、世界を分裂病から救えるだろう。

[1219] 分裂気質(五感主義) h16.5.11
分裂気質の五感主義では、眼で見えるか見えないか、耳で聞こえるか聞こえないかの区別しかない。眼で直接見えること、耳で直接聞こえることが世界のすべてであり、眼で見たこと耳で聞いたことをそのまま受け取り、そのまま受け取ったことに対する心の反応しかない。眼で見たこと、耳で聞いたことが正しいか間違いか、実在か非実在かを考えない。だから、例えば、耳で他人の咳払いを聞くと、それがそのまま事実であり、それに対する不快感しか感じない。その他人が正しいか間違いかについてはなにも考えない。つまり、眼で見えない、耳で聞こえないことに関しては何にも考えない。
同様に、躁鬱気質すなわち心主義では、心の幸・不幸(快・不快)の区別しか思わない。心の幸・不幸が世界のすべてであり、心で感じた幸・不幸をそのまま受け取ることしか出来ない。心の幸・不幸が正しいか間違いか、実在か非実在かを考えない。正しかろうが間違いだろうが、実在であろうがなかろうが、幸ならよく不幸ならよくない。ただそれだけだ。例えば、第2次世界大戦において、日本が負けているにもかかわらず、戦争を続行しようとしたのは、ひとえに勝利を夢見てのことだ。パチンコだってそうだ。
知覚主義では、認識が正しい即ち実在でありさえすれば、見た目が良かろうが悪かろうが(機能美)、心が幸であろうが不幸であろうが、どうでもいい。たしかに認識が実在になるまでは、五感や心にかまわずに知覚で考えなければならないが、正しくなれば心についても考慮しなければならない。

[1220] 心 h16.5.11
ただ実在がわかりさえすればいいのではない。
それなら他殺や自殺もやりたい放題だからだ。
人間には実在についての知識のほかに、心がある。
心が実在の中の幸と不幸を決める。
幸を選択し不幸を回避しながら生きていかねばならない。
実在の中に幸福を入れることによって人生が幸福になる。

[1221] 国語 h16.5.11
人間には実在についての知識のほかに、心がある。
だから、人間には科学のほかに、国語の勉強もしなければならない。
五感を通して物(実在)を知るだけではなく、心についても知らねばならない。
「こうすれば幸福になる。ああすれば不幸になる。」と言うことを知らねばならない。
人の心の普遍的部分は国語で勉強できる。しかし、自分の心に固有の特殊的部分については、めいめいが自分ひとりで知るように努めるしかない。それが実存(じつぞん)というものだ。

[1222] オナニーと痴呆化 h16.5.13
オナニーは、性感による快感の肯定だから、つまりは五感界そのものの肯定である。
オナニーは頭(知覚)を使わないから、オナニーは知覚化される以前の裸の五感界じたいの肯定である。つまり、オナニーは自己の痴呆化であり、知覚によって実在化された認識界から裸の五感界への退行なのである。
オナニーばっかりしていると、知覚が呆けて五感界しかわからなくなり、それまで知覚によって補われていた『自他の独立性』も失われて、最終的には他人の行動を支配しようと怒りにまかせて自分のX器官(テレパシー器官)に火をつけて分裂病に罹(かか)ってしまう。分裂病は、その昔「早発性痴呆」と言った。
オナニーは自分自身を痴呆化することである。毎日オナニーしていると、悪い痴呆癖が身に付く。いったん痴呆癖が身に付くと、自分を痴呆化することしかやらなくなって、不良になってしまう。この痴呆癖を改めないかぎり、人間に戻ることはできない。例えば、毎日自分の考えたことを日記に書くとかして、知覚を働かせる善い癖を身に付けるよう心がけよう。

[1223] 『心の表現としての世界』 h16.5.13
物に心を入れるようにして、心が物の上に表現される(『物心一如』)。つまり、心は物(一般には、言葉や絵も含む)と物との構成(組合せかた)や物の動きの中に表現される。例えば、甘えん坊の甘えの気持ちは、身体の動きとしての身振りや表情の中に表れている。
物を表の世界とすれば、心は裏の世界だ。
物の裏を読めば、心が見える。
文化には物の側面と心の側面の両方がある。
日本には、日本にある物の上に表現された日本人の心がある。
ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』は、世界各国の文化の裏に隠された人々の心について書かれている。(生協の3割引セールで買って夏休みに読んだことがある。分厚い本。)

[1224] 普遍性と特殊性 h16.5.13
物に普遍性と特殊性があるように、心にも普遍性と特殊性がある。普遍性があるから、学校で物理や国語が教えられる。一方、特殊性については、各人が考えなくてはならない。心に自他共通の普遍性があるから、心で共感できる(わかり合える)。しかし、自分の心には自分だけの特殊性もあるから、すべてが共感できるわけではない。

物についても必ずしも普遍的ではない。日本にある物とヨーロッパにある物とは違う。例えば、日本には木があり、ヨーロッパには石がある。日本は木に詳しく、ヨーロッパは石に詳しい。(自分が詳しいわけではないが、我々国民としては詳しいと言える。)もちろん、木と石には共通性があるから、物の普遍的部分については共感できる。だから、ヨーロッパの物理学が日本でも通用し、物理学の勉強のし甲斐がある。しかし、木と石とは違いもあるから、物の特殊的部分については共感できない。木については日本で、石についてはヨーロッパで考えるしかない。日本で石について考えたり、ヨーロッパで木について考えたりしても仕方がない。自分が持っていない物についていくら考えても無駄だ。自分の眼前にある自分が持っている物についての知識以外は役に立たない。いくら物理学を勉強しても、理論が適用できる物がなければ、空しいだけだ。

心についても、自分と他人とでは共通性も相違性もある。共通性があるから、ヨーロッパの文学や哲学を学ぶ甲斐がある。例えば、日本人にもヨーロッパ人にも知覚があるから、ヨーロッパの合理精神は学ぶ意義がある。しかし、相違性もあるから、なんでもかんでも自分に通用するわけではなく、適当に自分でアレンジしなければならない。例えば、日本人はヨーロッパ人ほど五感に囚われがなく、心が自由で豊かなので、日本人のほうが深いギャグを楽しむことができる長所がある。その反面、五感が弱いので、知覚の基礎をなす物的経験に乏しく、結果として知覚があまり発達しない短所もあるが。

[1225] 物と心の相互作用 h16.5.13
心は物の上に表現されるから、物が違えば心も違う。
例えば、医者はお金持ちだから物が豊かである反面、医者の息子は物欲が強いバカ息子だ。
バカ息子にとっては、物の意味付けが実体ではなく現象止まりでくだらない。
知覚が働かないので痴呆と同じだ。

[1226] 心に関する誤解 h16.5.14
慣れれば幸せになるなんてとんでもない誤解だ。いくら実在について学んでも、実在全体が幸せになるなんてことはない。実在の中に幸福な部分と不幸な部分とがある。実在について知ることは、認識界の実在である部分が増え、実在でない部分が減るにすぎない。
かつての私は、たとえ嫌いな医学について学んでも、勉強して慣れれば、医学が好きになると考えていた。たしかに、医学を勉強したから、医学の世界のことが多少はわかった。しかし、勉強しようがしまいが、テストでいい成績を取ろうが取れまいが、お金が儲かろうが儲かるまいが、医学の世界は私の心にとっては永久に不幸な(落ち込む)世界なのだ。
なんでも慣れて幸せになるなら、はじめから自分の心なんかないのと同じだ。それなら、わざわざ自分の心のことなんか考えなくていい。
人間の身体のことなんか、私にとっては興味がない。嫌いだ。私の父親も、そのまた親も、私の家系はみんな医者が嫌いだ。人間の心が遺伝する証拠だ。
出来ようが出来まいが、わかろうがわかるまいが、好き嫌いは変わらない。
ただ、医学が好きな人もいるから、これは人間の心の普遍的部分ではない。私の心の固有の性質である。医学を勉強して変わることは、若干の医学知識が得られるだけで、医学が好きになったりすることはない。人の知覚は変わっても、人の心は変わらない。
誰にでも、人間の心はある。人間として生まれてきた者にはみな人間の心がある。それを上手に満足出来なかった者が動物の心しか満足できない落伍者になるのだ。人間の心を満足するかぎり知覚が働かなくなることはない。自分にとって幸福な世界を深く究められたら、それで自分は満足だ。
私の不幸なもの…社会科(歴史、地理)、体育、音楽、生物学、医学、それからエッチなこと全般。私がこれらのものに関ってはならない。できれば、一生関らなければよかった。無理やり勉強させやがって、畜生!そんなことするから、人間の心が失われるのだ。(数学や物理も好きだったが、これは教科そのものに興味があったからではなく、ただ先生の人柄が面白かったからである。だから、数学や物理が私の心にとって幸福なわけではない。だから、私が数学や物理を捨てたからといって、私が不幸になるわけではないからどうでもいい。英語も好きな先生のときは好きだったが、嫌いな先生に変わってからは嫌いになった、それ以来嫌いなままだ。)
私が中学高校生のころ、一番疑問に思ったのは、どうして歴史や生物学を勉強するとき眠くなって勉強できなくなるかと言うことだ。その答は、私に心があるからだ。私の心にとっては、歴史や生物が不幸であるから、気持ちが落ち込んで、知覚も働かなくなって、眠くて勉強できなくなるのだ。思い切って、捨てればよかった。テストでいい点を取ろうとしてセコい気持ちで我慢して勉強した自分が浅はかだった。私にとっては、テストでいい点を取るよりも嫌な科目の勉強をするほうが不幸だったのだ。そもそもテストでいい点を取る喜びなんてつまらないちっぽけなものだ。結局、無理やり頑張って勉強したものの、結果はそれほどよくなかった。しょせん嫌な科目は物にならない。
小学校の終わりまでは、ほぼ科目によらずに良い点が取れたのだが、中学校に上がると好きな科目と嫌いな科目とに分かれた。嫌いな科目は勉強しようとしても眠くなって勉強できなかった。これでは良い点の取りようがない。好きな科目と嫌いな科目に分かれたのは自分の心が目覚めたせいだから、嫌いな科目は無理に勉強しようとせず、高校までの勉強は、自分にとって好きな科目と嫌いな科目がわかるためにあるのだと考えればいい。そのほうが進路を決めるのに都合がいい。
たとえ、嫌いな科目の勉強に耐えてテストでいい点とって、出世して、金持ちになっても、人間の心が満足されなければ不幸だ。眼先のつまらない戯れ事(ざれごと)に惑わされて、心そのものを見失ってはいけない。世の中の人はみな満足すべき心を間違っている。
よく「なんのために勉強するか」「なんのために生きるか」といわれるが、それは人間の心を満足するためだ。もっとも、自分の生活にとって必要不可欠なこと(掃除洗濯など)は嫌でもやらねばならないが。
「わかればできれば幸せになる」誤解を信じていることが躁鬱病の原因になる。真実は「いくらわかってもできても不幸なことは不幸」なのだ。だから、自分の心にとっての幸福と不幸をよく知っておかねばならない。自分の心にとっての幸福を選択し不幸を回避しなければ、不幸になり、躁鬱病になる。
自分の心を知ることはそれほど容易ではない。小学校から大学まで膨大な時間をとって国語を教える意義はそこにあるのだから。

[1227] 心 h16.5.16

心が実在に従属しても、実在のすべてが幸福になるわけではない。

実在がわかるまでは五感や心に囚われず知覚で考えなければならないが、実在がわかれば心のことも考慮しなければならない。なぜなら、たんに真実であるだけでは、自分の幸も不幸もともに実現するからである。幸を実現し不幸を実現しないためには、自分の心を知り適切に実在を選択しなけれなばらない。つまり、精神病院の床をウンチまみれで這いずり回るか、それともお天道様の下で堂々と胸を張って生きて行くかは心が決めることであって、知覚が決めることではない。なぜなら、知覚はただ正しいか間違っているか、すなわち実在するかしないか、つまり実現できるかできないかを決めるだけであって、病院の床を這いずり回ることもお天道様の下で堂々と胸を張って生きて行くことも共に実現可能(やろうとすればできる)、つまり実在する、すなわち正しいから、知覚だけでは両方とも選択されてしまい、どちらか一つを選ぶことができないからである。知覚でわかるのは正しいか間違いか、すなわち実在するかしないかだけで、幸か不幸かはわからない。正常な人間の心にとっては、病院の床を這いずり回ることが不幸でお天道様の下で堂々と胸を張って生きて行くことが幸だから、心によって前者が回避され後者が選択されるのだ。〔したがって、分裂病は知覚の異常というよりは心の異常というべきだ。心が人間の心から動物の心に変化したために、奇異な行動をとるのである。オナニーが人間にとっていいわけがない。心を上げる(善くする)には知覚を使うしかない。人間が人間の心を失ったとき、もはや人間としては生きて行けない。人間の心を取り戻せ。人間の心は知覚と複合しているから、自分の心を知覚と複合させれば人間の心を取り戻せる。〕
たとえ幸であっても空想は空想であって実在ではない。反対に、たとえ不幸であっても実在は実在であって空想ではない。
心が実在に従属すると、実在の外の部分が消えるが、実在の内にある幸と不幸の区別はなくならない。

実在(物)に幸を入れると幸になり、実在に不幸を入れると不幸になる。自分の実在が不幸なら、それは自分が自分の実在に不幸を入れたからだ。国語(人の心)の勉強をバカにして、幸と不幸について真剣に考えていないからバチが当たったのだ。自分の心を粗末にしたから、逆に自分の心に苦しめられるのだ。もっと自分の心について真剣に考えるべきだ。
同様に、空想(言葉や絵や特撮)に幸を入れると幸になり、不幸を入れると不幸になるが、そもそも実在しないからどうでもいい。
空想とは‘実在(物)でない’ことを考え出すことだから、実在あっての空想であり、実在がなければ空想も意味を成さない。

[1228] 天才 h16.5.16
インドの天才数学者ラマヌジャンにとっては数学を考えることが幸であり、ニュートンにとっては物理を考えることが幸だった。
天才の本質は心にある。
日本人には数学や物理を考えることが幸であるほどの天才がいないから、天才と心で共感はできないだろう。ただ字で書かれた物を五感で読んで知覚で理解するだけだ。

[1229] 心と共役する(複合する)世界 h16.5.16
オナニーの性欲の快感と共役(複合)する世界は、知覚で修正される以前の裸の五感界だ。よって、オナニーすることは、裸の五感界の肯定に他ならない。すなわち、自分を痴呆化することである。
反対に、自分が考えたことを日記につける喜びと複合する世界は知覚界だ。よって、自分が考えたことを日記に書きとめることは知覚界の肯定である。すなわち、自分の人間性を高めることである。

[1230] 実在の選択 h16.5.17

実在の選択の仕方によって、実在は幸にも不幸にもなる。



自分の実在を幸にするか不幸にするかは、自分の実在の選択のしかたで決まる。自分の実在の選択のしかたは、自分の心で決まる。自分の心を真剣に考えていれば、正しい選択ができる。
心が大脳前頭葉の脳細胞の神経興奮として実在する以上、心を無視することはできない。

[1231] どうして私は歴史や生物学が嫌いだったのか? h16.5.17
歴史(すなわち、過去の実在した事件を知ること)も生物学も実在する物についての知識だから、実在主義者の私が根本的に嫌うことはないはずだ。それなのに、私が歴史や生物学が嫌いなのは、歴史や生物学の本を書いたり教えたりする者と私とでは心が合わなかったからだ。ところで、心と物とは共役(複合)するから、けっきょく私にとっては物としての歴史や生物学が嫌いなことになる。
しかし、メンデルの遺伝の実験やシュレーディンガーの『生命とは何か』とかは私にも面白く読めるから、やはり物ではなく心の問題だ。歴史や生物学が私と心の合う人が本を書いたり教えたりしてくれれば、私はきっとそれらを好きになったに違いない。
私は割り切った言い方をする人が好きだ。反対に、グチャグチャフニャフニャした割り切らないあやふやな言い方をする人は嫌いだ。そういう人が書いた物を見ても、ガラクタみたいな文章がゴタゴタ羅列しているだけで、サッパリわからない。不愉快だ。つまり、私の心は知覚と複合し、五感と複合しない。センスの問題だ。小学校までの私の心はまだ五感と複合していたが、中学生になると心が変わって知覚と複合するようになった。そのために、小学生までの私は科目によらず何でも得意だったが、中学生になると歴史や生物学のような五感でわかる科目は苦手になったのだ。それは私の心が大人になって成長したせいだから、むしろわからないことを喜ぶべきであって、わからないことは放ったらかしにして気にしなければいい。私にわかって欲しければ、歴史や生物学の教科書を知覚でわかるように書き直せ。五感語を知覚語に翻訳してくれ。それができないなら試験をするな。日本の中学高校の教育は五感と知覚の‘センスの違い’が取り入れられていない。
この世は、五感人と知覚人の殺し合いだ。大人になった知覚人と子供のままの五感人の戦いだ。五感人と知覚人とは心が合わないから、互いに他を滅ぼそうとする。日本では、良寛のような‘いい歳していまだに子供としか遊べないような大人’がもてはやされる。

[1232] 心の目覚め h16.5.18
自分の心は自分の思い通りになるものではない。例えば、ひとたび中学生ごろに心が目覚めてしまったら、もはやそれを押し殺そうとしてもできたもんじゃない。自分の幸・不幸を変えようとしてもそれはできない。自分にできることはただ、自分の心にとって何が幸で何が不幸かを正確に知ることだけだ。『自分の実在に幸を入れれば自分は幸になり、不幸を入れれば自分が不幸になる。』ことを守って行くだけだ。自分の心の存在を無視して、幸・不幸の選択を誤り、自分の実在に不幸を入れたら自分が不幸になる。
私の場合、中学生のころに大人心が目覚めて、歴史や生物学が嫌いになったが、心は自分の思い通りにはならないからもはや諦めるしかない。心は自分の都合のいいように変えられるものではない。自分が意識して自分の実在に幸・不幸を入れるまでもなく、自分の心が勝手に動いて(活動して)自分の実在に幸・不幸を入れてしまったのだ。自分は自分の心を肯定するしかない。そうなると、当然、二次試験で歴史や生物学のある大学は避けねばならないし、共通一次試験(大学センター試験)でも低〜中得点の大学しか狙えないことになる。でも、それは仕方がない。それが自分の世界だと思って、諦めるしかない。心が自分と他人とで違う以上、自分が他人と同じようにするわけには行かないのだ。たとえ、自分の周りのみんなが都会の一流大学に進学できても、自分は独り寂しく地方の三流〜二流大学に行くしかない。それでも、自分の心を真剣に思うなら、自分は喜んでそうすべきだ。お金が欲しいとか、自分の見栄を張りたいとか、小っぽけな眼先の邪心に囚われて自分の進むべき道を誤っては、かえって自分が不幸になる。
自分の心が中学生のころから知覚を好み五感を嫌うようになったのは、たぶん男性ホルモンの影響だろう。

[1233] 快と幸 h16.5.18
快を得るにはお金がかかるが、幸を得るにはお金がいらない。
例えば、女が整形手術で美人になったり、
ヨーロッパの豪華な見栄えのする建物を作るにはお金がかかるが、
日記に自分の考えたことを書くにはお金が要らない。

出世(付け足し)
進学校で手に入るのは出世だ。
出世で手に入るのはお金だ。
お金で満足できるのは、幸ではなく快だ。
快が要らなければ、出世もまた要らない。
快が要らない者は、進学校に行かなくてもいい。(皆が進学校に行くからと言って、自分が行く必要はない。人の心には、皆と同じ部分と自分だけの部分がある。自分に快(五感の欲望)がなければ、他人の真似をしてはいけない。他人の真似をしても自分が幸福にはなれない。)〔私もただたんに‘みんなが行く’と言う理由だけで進学校に入ったが、そこにはあまり面白い教師がいなかった。おかげで、英語、社会、生物が嫌いになった。進学校はお金の喜びのある者がいやいやながら勉強するところだから、私のようなお金の喜びのない者が行っても意義がないばかりか、勉強の喜びまでも失ってしまう。進学校はお金の喜びのある者が入ると幸福になるが、私のようなお金の喜びのない者が入ると反対に不幸になるだけだ。けっして‘みんなと同じにすれば幸福になれる’などと安易に考えてはいけない。〕

[1234] 善と悪 h16.5.19
実在に従属する心は善だが、従属しない心は悪である。[哲学第2原理]
よって、物に心を入れるのは善だが、言葉に心を入れるのは悪である。

[1235] 糞バカ教授 h16.5.19
教室で帽子をかぶっている学生を見て怒った教授がいた。
帽子をかぶっているからといって何が間違っているのか。
帽子をかぶっていないからといって、何が正しいのか。
教室で帽子をかぶっているのが間違いなら、そのことを論理的に証明すべきだ。
たんに見た目の感じのよしあしだけでものを言うな。
知識が正しいか間違っているかだけが問題だ。
それ以外のことに口出しするのは男らしくない。余計なことだ。
それでも元帝国大学の物理学科の教授か?!
Q大の教授たちはこんなやつばかりだった。
知覚をまったく使っていない。そこら辺の親父となんら変わらない。
どうせ研究だって眼で見るだけで頭を使っていないんだろうが。
お前らは感性が知的じゃない教授というのは名ばかりで、たんにバカが格好の上で勉強しているだけだ。バカが五感で言葉を憶えただけだ。五感を使っているだけで、知覚を使おうとしない。
お前らは五感界が好きで知覚界が嫌いなのだ。
そんなのでよく教授が務まるもんだ。これでは『痴呆大』(地方大)だとバカにされてもしかたがない。バカな教授ばっかりいるから『痴呆大』と言われるのだ。
どうして眼先の感じのよしあしよりも、知覚の真偽を問題にしないのか。
学校も大学も真理を学ぶためにあるのだから、服格好なんかどうでもいい。個人の自由だ。

[1236] 性欲の悪影響 h16.5.20
エッチなことばかりしていると、五感界が好きで知覚界が嫌いになる。性欲の快感で、心が変質したせいだ。眼先のことばかり関心が行くだけで、実在を考えたがらない。
これで幻聴でもあれば、心が幻聴にばかり関心が行くから、分裂病になる。実在を無視だ。

[1237] 女と男 h16.5.20
地に足が着いていないのが女。一生宙ぶらりんで心の世界の中で遊んでいるだけだ。『好きと嫌いだけで普通がない。』
地に足が着くのが男。男は実在がわかるから、実在の上に心を構築できる。

[1238] 抑鬱反応と躁鬱病の違い h16.5.21
神経症(ノイローゼ)の抑鬱反応は、実在はよくわかっているが、自分の心にとっての幸・不幸がよくわからなくて、自分の実在の選択を誤った結果、不幸に陥った状態である。
これに対し、うつ病は、自分の心にとっての幸・不幸はよくわかっているが、実在がよくわからなくて、実在の選択を誤った結果、不幸に陥った状態である。
神経症の世界は、普通の人の世界と同じく、心が実在(実際には知覚)に従属する世界であって、実在に明るく心に暗い。そのために、心についての間違いが多い。反対に、躁鬱病の世界は、実在が心に従属する世界であって、心に明るく実在に暗い。そのため、実在についての間違いが多い。

抑鬱反応では、自分の心の存在を認め、自分の実在選択の誤りを認め、自分の実在が自分の心の幸の(少なくとも不幸でない)領域に入るよう選択し直せば治る。
鬱病では、不幸な実在から幸な空想へ逃れやすい傾向があるが、自分の実在についての誤解を認めて、自分の実在を自分の心の幸の領域に入るよう選択し直せば治るはずである。

[1239] 善悪と幸不幸の関係 h16.5.22
善とは心が実在(実際には知覚)に従属(複合)していることであり、悪とは心が実在に従属していない(つまり、空想に従属している)ことである。
一方、快不快は五感に従属する心であり、幸不幸は知覚に従属する心である。例えば、耳目の喜びは快であり、話の面白さは幸である。
快不快よりも幸不幸のほうが高級であり、人間にふさわしい心といえる。
一般には、たとえ空想といえども知覚に伴う心は幸不幸である。反対に、たとえ実在する物体についてであっても、五感に伴う心は快不快にすぎない。
したがって、幸不幸の区別は善悪によらない。
善の心の中に、さらに幸・不幸・その他の感情の区別がある。つまり、善の心であるからといって、幸であるとは限らない。




[1240] 共通主観 h16.5.22
共通主観(共通心、積心)とは、個人の心の共通部分を言う。

個人の所有物(例えば、身体)は各自の心に従っていればよいが、公共の所有物(例えば、建物やテレビ番組など)は、共通主観に従っていなければならない。〔逆に言えば、共通主観があるから、芸術やテレビ番組が成り立つのだ。芸術とは、人間の心の発見である。「文学は頭ではなく心でわかるものだ。」と国語の得意な友人が昔言ったことがある。〕

[1241] 実在哲学の構造 h16.5.22

実在・感覚・五感・知覚・心などの基本概念から、すべての哲学概念(善・悪など)を正確に定義し直す。定義は、即ち理解である。例えば、力の概念は大昔からあったが、古典力学の運動の第3法則F=maによって、力の概念により正確な意味づけが与えられる。〔力は眼には見えないけれど、実在する。物理学を勉強すれば、眼に見えないものの存在を実感できるようになる。〕

[1242] 犯罪者の心理 h16.5.23
(心理とは、心だけではなく、五感や知覚を含む人間のすべての感覚についての法則を意味する。)
「ただ正しければいい。心は要らない。」と考えているのが、犯罪者である。
正しいから犯罪が実現できた。誰も自分が犯罪者になって“喜ぶ”者はいない。
間違った思想が人間を犯罪者にするのだ。

[1243] 偉人伝 h16.5.25
人の心の勉強と言えば、偉人伝を読むことだ。
自分の心の中にある偉人と共通する心を発見できる(かもしれない)。
私も、ガウスやガロアやカントールやラマヌジャンたちから、人の心について教えられた。(詳しい伝記を読んだわけではないが、断片的なエピソードから学ぶところがあった。)
私には彼らのような数学の才能はないが、人が知覚主義でなければならないこと、すなわち論理を愛する心を教えられた。
『学問とは知を愛することである。』(プラトン)

[1244] 『実在は知覚を超えたところにある。』 h16.5.25
ヘーゲルにとっては実在⇔知覚界(実在≡知覚界)だったが、所詮はニュートン力学の提灯持ちだ。
実在はそんなに単純ではない。
五感が知覚よりも実在的なこともあるのだ。(例えば、相対論や量子力学の発見)
ヘーゲル哲学は時代遅れだ。哲学として正しくない。

[1245] 言葉尻 h16.5.26
言葉尻すなわち言葉の終わりは‘である’か‘でない’かだ。
だから『言葉尻を取るな』とは、言葉の真偽にこだわらないことだ。
言葉の心をわかれ、つまり言葉に込められた他人の心を自分の心で共感しろということだ。
子供のころ他人の言葉尻を取ろうとすると、よく父親にひっぱたかれた。
(父親はわかったフリだ。厳密には、実在に従属するのが善の心で、従属しないのが悪の心だから、言葉の真偽性も問題になる。でも、物より心が大事な場合には、いちいち言葉尻を取らずに心をわかるようにすればよいのだ。)

[1246] キチガイ h16.5.27
心が普通の人から大きく違っているのがキチガイ(気違い)だ。
普通の人では、心が実在(実際には知覚)に従属している。
躁鬱病では、逆に実在が心に従属している。心が普通の人とは微妙に違う。
分裂病では、心が五感(とくに幻聴)と複合している。心が普通の人とはかなり違う。それでも、普通の人と同じ部分もかなりある。〔他人の身体や思考を自分が“超能力で”操作したいと思う心が幻聴覚を開く。だから、そういう思いは禁物。そんなことを心で思ってはいけない。一般に、心で思っていいことといけないこととがある。心にも決まりがある。それが道徳だ。ちゃんとした手順を踏んで、言葉や身体を使って他人を動かそうとするのは問題ない。自分の幸・不幸を決めるのは自分の心だ。人は物と心の両方に縛られながら生きている。物と心の両方を知ってはじめて人間は幸福に生きていけるのだ。キリスト教でも仏教でも実在哲学でも何でもいいから、早速に心の知識を持つべきだ。人間にとっての幸・不幸が何であるかを、手遅れになる前になるべく早く知るべきだ。ところで、私には子供のころからずっと‘将来の夢’というのがなかった。それほどまでに私は知覚主義なのである。だから、夢のために真実をごまかすことがない。〕

[1247] 幸福とは? h16.5.28
私が日記を書くときのモットーは『正しくて面白いことを書く』だが、その面白さを感じるのが心である。
正しくても面白くないことがあるから、
ただたんに正しいことを考えるだけでは幸せとはいえない。
だから、アタラクシアは幸せとはかぎらない。
幸せは実在とは関係なく心で決まる。
幸福とは、心が知覚すなわち実在の内にあって、
しかも幸せな状態である。
つまり、知覚で考えることの中にも面白いこととそうでないこととがあって、その面白さこそが幸福感なのだ。だから、ただたんに知覚で考えるだけでは必ずしも幸福とはいえない。

[1248] 幸福になる方法 h16.5.29
@知覚主義において…知覚主義では心が知覚(実在)に従属するから、物(実在)に心を入れるようにして心を具現しなければならない。幸福になるためには、物に幸を入れ、不幸を入れないようにしなければならない。物から離れて心は存在し得ないのである。
A心主義において…心主義では、知覚(実在)が心に従属するから、心に物を容れるようにして心を具現しなければならない。幸福になるためには、幸福に物を従え、不幸に物を従えないようにする。心から離れて物は存在し得ないのである。(つまり、心の欲求・欲望が先にあって、その欲求を満足させるために物を使う。だから、欲求が満足されさえすれば、物のことはどうでもいい。)
一般には、一人の人間がどちらかひとつの方法だけを用いるのではなく、場合に応じてどちらかの方法が適宜選択されるようだ。もっとも、個人によってどちらかに偏ることはあるかもしれないが。
例えば、大学受験のとき、浪人してでも志望校に入りたがるのはAの心主義型。反対に、自分の成績の範囲内で受験校を決めるのが@の知覚主義型〔私の場合は知覚型〕。
例えば、結婚するとき、自分の好みのタイプでないかぎり絶対に結婚しないのがAの心主義型。反対に、職場や親の選んだ相手の中から自分の好きな人を選んで決めるのが@の知覚主義型。
また、例えば、給料日に何かおいしいものが食べたくて店を探すのがAの心型。(もっとも、給料が出た後だから、厳密には@型ともいえる。本当においしいものが食べたい人なら、借金してでもそうするだろう。)反対に、商店街をぶらぶらしていてお昼になってお腹が空いたから食堂に入るのが@の知覚型。一般に、決められた予算の範囲内で遊びプランを立てるのが@知覚型で、遊びのためには借金を厭(いと)わないのがA心型である。
あるいは、また、大学の試験でカンニングして(つまり、過去問や対プリを見て)合格するのがA型で、不合格覚悟で実力で試験に臨むのが@型だ。
料理のとき、材料に真心を込めておいしい料理を作るのが@知覚型、面倒くさいので出来合いのおかずを買ってきて済ますのがA心型。
赤ちゃんの汚れたオムツを自分の手で洗濯板を使って洗うのが@知覚型、自分の手が汚れるのが嫌なので紙オムツを買って済ませるのがA心型。
〈まとめ〉物に心を入れるのが知覚型。心に物を容れるのが心型。一般に、知覚主義と心主義とでは物と心の関係が逆転している。
『心に物を容れる』やり方では、心の満足さえ得られればよいから、物に関するウソ・ゴマカシ・インチキ・デタラメが起きやすい。決まりを守らない。口先がでかいだけで実行が伴わない。物に対するいいかげんな態度が、ひいては躁鬱病の原因にもなり得る。
『物に心を入れる』やり方では、物から離れた夢を持つことができない。また、物の正しい理解には時間がかかるので、それまで心を入れられない。そのため、実体としての物よりも現象としての物に心を入れる者が多い。くれぐれも『物に幸を入れる』のであって『物に快を入れる』ことにならないように。心に対する否定的・消極的な姿勢が、神経症的抑鬱反応の原因にもなり得る。

[1249] 感覚器 h16.5.29
自分には自分の感覚しか感じられない。
だから、自分の感覚以外のものを感じるには感覚器が必要となる。
感覚器とは、感覚以外のものを感覚に変換する装置である。
例えば、眼は光を視神経の興奮に変えるし、
耳は空気の振動(音)を超神経の興奮に変換する。
同様に、X器官は感覚波を感覚に変換する。
感覚波と感覚は別のものである。
幻聴は他人が発した感覚波を自分のX器官が感じ取るのであって、他人の感覚自体を自分が感じるのではない。
X器官から自分の心に届くまでには、まだ自分の五感と知覚を経由しなければならない。
だから、自分である程度はどうにかなるのだ。


[1250] 幻聴 h16.5.29
感覚波もX器官も実在するものだから、実在主義でも幻聴の存在自体は肯定するしかない。
問題は、幻聴の中身だ。〔音波が実在する空気の振動だからといって、音波に乗っている言葉がすべて真実というわけではない。うその言葉もいっぱいある。〕
中身は根もフタもない戯言ばかりだから、相手にしなくていい。
眼や耳だって、同じ様なことがある。
自分が考えるべきことだけを考えていればいいのだ。

[1251] 神経症は分裂病の一種? h16.5.30
かつて中井久夫は『神経症は局在した分裂病である』と言った。
たしかに、神経症(ノイローゼ)の多くでは、実在の現象的側面への囚われが見られるから、いわば“幻聴のない五感病”だと言える。かと言って、神経症すなわち知覚における実在についての誤解による不安感の高まりがないわけではない。つまり、これまで神経症と考えられていたものにはふたつのタイプがあって、ひとつは純粋な神経症すなわち知覚病(実在についての知覚における誤解による不安感の高まり)であり、もうひとつは“幻聴のない五感病”すなわち実在の現象的側面への強い囚われによる不快感の高まりである。どちらにしても、実在についての正しい理解を持てば治るはずである。
これは分類上の問題であって、純粋な神経症はこれまで通り知覚病に入れられるが、“幻聴のない分裂病”は分裂病の特殊型と見なせばいい。
つまり、五感病にはふたつのタイプがあって、ひとつは幻聴のある分裂病、もうひとつはこれまで神経症と呼ばれてきた“幻聴のない分裂病”である。
幻聴のない分裂病では、現象に囚われているために実在に適応できなくなっている。例えば、エビが食べれない人の場合、エビの姿がイモムシに似ていて気味が悪いから食べられないのだ。そんなのは合理的理由じゃなくて、形の上だけの現象的理由にすぎないから、知覚病ではない。しかし、分裂気質(五感優位型)ではない神経質(知覚優位型)の人に見られることがあるので、限局性・焦点性の五感病だといえる。普通の人にも見られる幼稚な部分の名残だ。五感のインパクト(いわゆるトラウマ)が強すぎると、しこりとなって残るのだろう。普通の人だって、さすがに本物のイモムシは食べられないだろうから、潜在的には五感病にかかっているとも見做せる。だから、他人のことを偉そうに言える義理はない。食糧不足で毎日食べる羽目になれば、そんな恐怖症もなくなるかもしれないが(嬉しくはない)。西洋人がタコを食べられないのも合理的理由なんかないから、五感病すなわち幻聴のない分裂病だと見做せる。奇形児を怖がるのも五感病である。そんなことでは発生学や小児外科の単位を取れない。いっそのこと、この“幻聴のない五感病”を『五感病(現象病)』と名づけ、幻聴のある分裂病と区別したほうがいいかもしれない。
そもそもフロイトはノイローゼの原因を性的トラウマにあるとしたが、性的トラウマは合理的理由ではなく現象的理由にすぎないから、神経症(つまり知覚病)よりもむしろ五感病(現象病)と呼ぶべきであろう。〔私は小学生の頃まで母親といっしょにお風呂に入っていたから、異性の裸を見てもなんとも思わない。画期的なトラウマ予防法だ。女の子も父親といっしょにお風呂に入るのを推薦する。〕
一方、受験ノイローゼは試験の成績が悪いことが気になって、勉強に身が入らずに、ますます成績が悪くなるといった、いわゆる“くりこみ型神経症(森田神経症)”だから、神経症のすべてが五感病だというわけではない。あるいは、学者タイプの人だったら、純粋な知覚病による不安感(イライラ感)の高まりだってあるかもしれない。そもそも科学の出発点は五感界であり、五感界と実在界とはそんなに大きく違わないから、五感病と知覚病もそんなに大きい違いがあるわけではない。しかしながら、五感型気質(分裂気質)では知覚が五感に対して受身であるが、知覚型気質(神経質)では知覚が五感に対して能動的だから、この微妙な違いが積もり積もって大きな違いとなるのだろう。
『物(実在)に心を入れると幸せ』になるように、『現象(眼で見たり耳で聞いたりする世界)に考えを入れると実在』になる。したがって、3段論法により『現象に考えを入れ、その上に心を入れると幸せ』になるのであって、知覚の五感に対する能動性、さらに心の知覚に対する能動性が幸福の実現にとっては不可欠なのだ。
人間は常に実在の内にいる。感覚(子)も感覚波も実在の内にあるから、実在主義(知覚主義)ではその点が考慮されているのに、心主義や五感主義では人間がどうしても実在の外にいるから最終的には破綻する運命にある。

[1252] 天皇制(帝国制) h16.5.31
社会全体をひとつのまとまったもの(リバイアサン)と見做して、その中の特別な一人だけが幸福でありさえすれば、その他全員が不幸でもよいとする社会制度。幸福とは社会(の中にいる特別な一人)が幸福であることであり、個人が幸福であることではない。かつて帝国制のもとでの人民はこのような考えに基づいて行動していた。→[1216]『自分』参照。

しかし、“感覚の局在性”(感覚は、その感覚を荷う脳細胞のあるところにしか生じないこと)によれば、他人の感覚は自分には感じられないから、いくら帝王が幸福でも自分にはその幸福感がちっとも感じられない。むしろ腹立たしいくらいだ。したがって、“感覚の局在性”が取り入れられた近代国家では、個人主義に基づく民主主義体制にならざるを得ない。

[1253] 心が変わる! h16.6.1
幻聴に囚われるのは、心の関心が幻聴にばかり向いて、実在に向かないからだ。
オナニーすると、心の質が変わって、心の関心が現象(五感自体)にばかり向くようになる。つまり、物事の現象的意味合いだけで反応するようになる。早い話が、バカになる。例えば、いくら隣の席の不良の態度が気に入らない『としても、不良の身体はその不良のもの(所有物)だから、不良の自由であって不良の心に従属すればよく、自分の心に従属しなくてもいい』はずだ。しかし、眼に見えないこと(上の括弧部分)が考えられなくなると、ただ見た目の態度が気に入らないだけで、すぐに燃え上がってしまう。〔オナニーや徹夜勉強などで、知覚が疲れて働かないのも、現象に囚われやすい原因になる。知覚にとっては正しいか正しくないかが問題だが、五感にとっては見えるか見えないか・聞こえるか聞こえないかだけが問題になる。知覚と結びついた心は物事の実在的な味わいがわかるが、オナニーなどをして五感と直結した心は、五感自体の味わいしか感じられなくなる。〕
心の関心を実在に向かせるためには、オナニーと反対のことをすればよく、例えば自分が考えて面白いと思ったことを日記に書き留めることを日課にすればよい。(ただし、必ずしも‘毎日’する必要はない。自分が思いついたときにだけ日記に書けばよい。だから、メモ帳とボールペンは常に携帯しなければならない。)つまり、自分の五感と心を知覚に従属させることを習慣付ければよいのだ。
自分の心の質は、自分のすることによって善くも悪くも変化する。自分の心を善い方向に導かなければならない。


[1254] アニメに対する拒絶反応 h16.6.2
実在主義では、まず実在があって、実在でないものとして空想がとらえられるから、空想的なアニメを見ても混乱しない。もっとも、幸と不幸にはちょっと疎いけれども。〔簡単に言えば、不快が幸で、快が不幸なのだ。〕
反対に、心主義では幸と不幸の区別しかなく、実在と空想の区別が弱いから、実在的なドラマは安心して見れるが、空想的なアニメを見ると感覚界に混乱をきたす。
だから、実在主義者(知覚主義者)はアニメを見ることを好むが、心主義者はアニメを見ることを嫌うのだ。〔実在主義者は慎重すぎておいしい話を逃すし、逆に心主義者はおいしい話にだまされやすい。〕

[1255] 知覚と五感と心の関係図 h16.6.3

白丸の外側は闇(無感覚界)で、人間には白丸の内側しか感じられない。〔現実とは、五感に現れた実在の部分である。例えば、ガリレオが木星の衛星を発見したこと。木星の衛星の存在は知覚でも変わらない真実である。〕
分裂病では色とそれに複合する心が、躁鬱病では悪とそれと複合する妄想(空想)が関係している。
より一般的な知覚と五感と心の関係は、

のようになる。世界が8つの領域に分類される。〔各自で、8つの領域に適当な名前を付けてみてください。〕
もっと正確には、知覚にも実在でない部分(妄想)があるので、知覚と五感と心と実在からなる4つの球による世界の分類を考えなければならないが、これは3次元の立体なので2次元の図には描けない。

[1256] 相撲 h16.6.3
相撲では土俵から外に出た者が負けだが、
哲学では実在から外に出た者が負けだ。
いわば、土俵が実在だ。
心主義も五感主義も実在の外に出ているから負けだ。
オナニーすると、だんだん五感主義になり、実在の外に出て行くから負けになる。

[1257] 私の幼年時代 h16.6.4
子供の私にとっては眼に見える世界(すなわち五感界)こそが唯一の存在であった。
科学は五感界を統一的・論理的に説明するために人間が創り出した架空の言葉の体系にすぎない。
心は物の裏に込められている。物の裏を読めば人の心が見えてくる。人の態度や言葉には、その人の心が込められている。態度や言葉の裏を読めば、人の心が見えてくる。
私の周りにいた多くの人々から人の心について学んだ。幸いにも小学校までは身近に善い人がいたので、その人達から善い心を学ぶことができたが、不幸にも中学生になって進学校に進んでからは身近に悪い心を持った級友が大勢いたので悪い心を学んでしまった。そして、高校1年のとき、ついにあの悲劇が起こってしまった。そして私の快適だった五感界はあっけなく崩壊してしまった。
確固とした言葉によらず、曖昧な心だけによって支えられている世界は脆く儚い(はかない)ものである。

[1258] 娯楽の世界 h16.6.5
アニメやドラマを見る場合、空想か実在かの区別を問わず、脚本家や演出家の心がおもしろいと感じたことを絵や実在(物)の上に表現し、それを視聴者が見て、絵や物の裏に込められた心を感じ取るのだ。自分と同じ心(共通主観)ならおもしろいと感じるが、自分と違う心(固有主観)ならつまらないと感じるわけだ。
アニメやドラマは、人間にとってなにが幸福かを思い出させてくれる(教えてくれる)。
できれば、テレビの世界だけでなく、自分が直接経験する実在の世界にもおもしろいことがあればいいのになあ。

[1259] 宗教 h16.6.5
ナムミョウホレンゲキョ〜
念仏とは、言葉に込められた“心”を会得することである。
だから、言葉の真偽性はあまり問題にならない。言葉自体の意味はわからなくても、言葉に込められた心がわかればよいのだ。〔宗教において問題なのは知識ではなく心だ。〕
人間の心というものは昔も今もあまり変わらないものだ。
科学は真実を教えるだけで、人間にとっての幸・不幸についてはなにも教えてくれない。それを教えてくれるのが宗教なのだ。宗教は人間にとってなにが幸福でなにが不幸かを思い出させてくれる(教えてくれる)。〔仏教よりもキリスト教のほうが実在志向だったために、キリスト教文化圏では科学が発達した。〕
心には、人類共通の心もあれば、民族固有の心もある。だから、世界に多くの宗教がある。その民族にとっては、民族固有の宗教に従っているほうが最も幸福なのである。だから、いくら他の民族が幸せにしているからといって、自分の民族に他の民族の宗教を無理やり適用しても、自分の民族がそれで幸せになれるとは限らない。しかし、人類共通の心をとらえていれば、自分の民族も幸せになれるかもしれない。例えば、日本民族に物欲がなければ、いくらヨーロッパの宗教を受け入れても幸せにはなれないのだ。〔カール・リシェという人は『世界にはひとつの正しい宗教しかない』と言ったが、これは間違いである。世界にはいろんな心の持ち主がいて、心の数だけいろんな宗教があるのだ。いくら実在に従っているのが善の心で従わないのが悪の心だとしても、善の心の中にある幸・不幸の区別は民族の数だけいろいろあるので、一概にひとつの民族の幸・不幸観を他の民族に押し付けることはできない。〕
心の善悪については実在に従属するかしないかで一般的に決まるが、心の幸不幸については民族(細かくは個人)固有の心で決まる。つまり、なにが幸でなにが不幸かは各民族(個人)の大脳前頭葉前野に存在する心によって客観的に決まるのであって、脳の構造が違えばそれぞれ違うものなのだ。〔そもそも勉強嫌いだったら、勉強しても何にもならない。不幸になるだけだ。他のことをやって幸せになったほうがいい。アフリカには物がないから、木を叩いて音を出したり身体に色を塗ったりして楽しむしかない。日本にも物がないから、言葉や絵で楽しむしかない。物の楽しみがあるのはアメリカやヨーロッパだけだ。〕人間であるかぎり善の心でなければならないが、それ以上のルールはない。つまり、人間の本質は知覚にあるので、人間の心は知覚(すなわち実在)に従属しなければならないが、知覚に従属した心(善の心)の中にある幸・不幸の区別は個人固有の心によってそれぞれ違うので、一般的なルールはもはや存在しない。善の心であれば、各自の心の幸・不幸を積極的に肯定すべきである。〔他人の言いなりになるな!自分の心を無視するものは他人の心も無視する。それから、心の普遍的部分は国語や道徳や宗教などで他人から学ぶことができるが、自分固有の部分については自分しかわかる者がいない。他人の意見は参考にならない。自分の心についての判断は自分ひとりが責任を持たねばならない。責任重大だ!〕

[1260] 男女平等 h16.6.5
人間の優劣は、知覚的か五感的かで決まるのであって、男か女かで決まるのではない。
五感的な男は知覚的な女にも劣る。
男女平等は、知覚的であるかぎり男と女を対等と見なすことであって、知覚と五感を対等と見なすことではない。男が五感的である必要はない。〔昔は、男が知覚的で女が五感的だと決まっていたから、女が男よりも劣っており、女は男に従属しなければならなかった。しかし、学力テストの成績などを見てみると、女でも男勝りの者がいる(見方を変えれば、男でも女に劣る者がいる)から、女性だからというだけで男よりも劣っていて男に従わなければならないなどと考えてはいけない。性別と知覚に相関はない。〕

[1261] 論理 h16.6.6
五感界には言葉の丸暗記しかないが、
知覚界には論理がある。
論理とは、一般的原理の具体的命題への適用から成り立つ言語体系である。
実際には、既知の言葉で未知のことを表すことだ。既知の言葉を組み合わせて未知のことを表すことだ。〔例えば、心は‘人が物の裏に込めたもの’として表される。〕
ときには、新概念の導入も必要になることがある。

[1262] 文学空間 h16.6.6
心は物(や絵や言葉)の裏に込められている。だから、物理性(真偽性)にこだわると心は見えにくくなる。〔ちなみに、物の裏とは物の組合せや動きのことである。[1223]参照。〕
文学空間においては、物事の真偽性がゆるいので、実在空間(知覚空間)においては物の裏側に隠れて見えにくかった心が表に現れやすくなり、心の存在がありありと感じられる。
数学や物理学の命題にも心が入っている。しかし、通常は命題の真偽性(実在性)のほうが問題なので、心のほうは無視されている。しかし、数学や物理学の命題にも時おり心の味(面白さや美しさ)が感じられることがある。面白さや美しさのない命題はもはやコンピューターのものであって、人間のものではない。(あくまで、共通主観としてだが。)

[1263] 自分のとっての善の心 h16.6.6
善の心とは、実在に従属した心のことである。ただし、ここでの実在とは、実在する宇宙全体のことを指すのではなく、自分が選択した実在、つまり自分が日常生活で直接経験する実在する宇宙の極小一部分のことである。そもそも、実在する宇宙全体など人間の脳で理解できるものではない。

自分の心は、自分が選択した実在に従属していれば、善の心だといえる。つまり、“自分にとっての”善の心とは、自分が選択した実在(自分が日常生活で経験する実在)に従属している自分の心と考えればよい。

〔例えば、私は社会科と生物学が嫌い(不幸)なので、私にとっての実在にはそれらに関する知識がない。他にも知らないことがいっぱいある。それでも、日常生活に支障をきたすことがないので、私が日常生活で経験する実在が私にとっての実在なのだ。〕

[1264] 物と心ーー言葉の両側面 h16.6.6
言葉には、物と心の両面がある。
物とは、言葉の物理的(実在的)側面で、真か偽か(正しいか間違いか)の区別がある。
心とは、言葉の心理的側面で、幸か不幸かの区別がある。
実在には幸と不幸の両方がある。つまり、物に従属するのは善の心だが、善の心の中にも、幸か不幸か、その他いろんな心の味がある。
言葉は、物を表す場合と、心を表す場合のふたつがあるので、
場合に応じて、知覚や心を働かすようにしなければならない。〔例えば、念仏では、言葉の真偽性(正しいか間違いか)が判らなくても、言葉に込められた心がわかればよいのだ。言葉には知と心の両面があるから、そんなことが可能になる。言葉が正しいか間違いかばかり気にすると、肝心の心がわからなくなる。突然の試験話で恐縮ですが、国語の問題文は(頭≡知覚ではなく)心で読め(心を活発に働かせて文に込められた著者の心を共感せよ)。数学や物理は知覚を働かせて読めばわかります。同様にして、社会や生物学は五感を働かせて読めばわかるはずですが、私は苦手だったので実感できません。要するに、対象(科目)に応じて自分の感覚の働き(活動度)を自由にコントロールできることが、5教科試験で良い点を取るコツのようです。(私はできませんでしたが。世の中には器用なやつがいるもんですね。)〕

[1265] 面白さとおかしさの違い h16.6.8
面白さとは実在の中にある喜び(幸福)で、
可笑しさ(おかしさ)とは実在の外にある空想の喜び(幸福)である。
だから、面白さは大事にしなければならないが、
可笑しさは笑い飛ばすべきものである。〔例えば、デ・ジ・キャラットのギャグやドリフのコントは可笑しいのであって面白いのではない。別に表現(笑い声)が伴わなくても、可笑しいものは可笑しく、面白いものは面白いが。〕

[1266] 幸福とは? h16.6.9
幸福とは、幸があって不幸がないことである。
詳しく言えば、自分にとっての幸福とは自分にとっての実在(つまり、自分の日常生活)が自分の心にとって幸であって不幸でないことである。

しかし、これでは一般的すぎて具体的に何が幸で不幸かがわからない。
そこでもう少し具体的に考えてみることにする。
まず、だれでも最初に考えつくことは、
@肉体と精神が共に健康であること。病気がないこと。
A戦争がないこと。平和であること。
B自分の仕事や勉強が自分の心にとって幸であり不幸でないこと。つまり、自分が嫌いな仕事や勉強をせず、自分が好きな仕事や勉強だけすればいいこと。
などである。

自分の実在の日常生活があまりにも不幸でないと、なにが不幸であるのか忘れてしまう。
自分の心にとっての不幸を思い起こす(思い出す)ことも自分の日常生活を幸福に保つためには大切である。これがドラマ(仮想体験・疑似体験)における悲劇の存在意義だ。
また、そもそも自分の心にとっての幸福が何であるのか知っていなければ、自分の日常生活において幸福が実現できない。これがドラマにおける喜劇の存在意義だ。〔不況になると喜劇が流行るのは日常生活において少なくなった幸福を補うためであろう。〕
テレビドラマを見て、幸せに思ったり不幸に思ったりすることは大事なことである。


[1267] 性欲はどうして人間にとって不幸なのか? h16.6.9
人間にとっての幸福とは、@肉体的精神的に健康なことである。人間が精神的に健康であるとは、人間の本質であるところの知覚が十分に活動し、心が善で五感が現実になっていることである。([1255]図参照)つまり、感覚界における心や五感に対する知覚の支配体制が確立することが、人間が精神的に健康であることである。

〔この図は大事なので、ぜひ印刷して額縁に入れて床の間に飾ってください。〕
ところが、性欲による性行為は、知覚の支配によって現実となっていた五感を、色にまで広げさせ、五感が現実となることを妨げるために、感覚界における知覚の支配体制を崩壊させることになる。つまり、性行為は人間が精神的に健康であることを阻害する。したがって、性行為は人間にとって不幸の原因である。〔高校生のころの私は、このことが理解できていなかったために、その後一生面白くない人生を送らなければならなくなった。〕
同様に、知覚の支配によって善となっていた心を悪にまで広げさせる煩悩(空想的な欲望・実現されない願望)も、感覚界における知覚の支配体制を崩壊させるので、不幸の原因となる。
このように、色も煩悩も感覚界における知覚の支配体制を崩壊させるので不幸の原因である(分裂病と躁鬱病の原因)。

[1268] 実在は選択の仕方によって幸にも不幸にもなる。 h16.6.9

一般的な実在には幸と不幸の両方があるが、自分が実在を選択し特殊化することによって、自分の実在(つまり、自分が直接経験する日常生活)を幸を多く不幸を少なくすることができる。


[1269] 実在には幸も不幸も共にある。 h16.6.9
できれば、自分の人生に幸だけあって不幸がないほうがいいが、実際にはそうは行かないものである。

〔でも、なるだけ幸を多くし不幸を少なくする努力は大事である。〕

[1270] 色と煩悩 h16.6.9
色による知覚の支配体制の崩壊が分裂病および神経症(いわゆるノイローゼ)である。幻聴を伴うのが分裂病で、伴わないのが神経症である。〔分裂病でも現象全体(五感全体)に対して過敏なのではなく、幻聴に対してのみ過敏である。分裂病の多くは、幻聴に対してのみ過敏であり、その他の五感に対しては正常者とほぼ同じ反応を示す。だから、『分裂病が広汎で神経症が限局している』と言うのは当たらない(中井久夫は間違っている)。つまり、分裂病も神経症も共に限局している。いわば、分裂病とは、“幻聴神経症”である。フロイトの神経症でも性欲が原因で、幻聴も性感も共に現象覚だから、この意味でも分裂病を神経症と同じ病気と見なすことができる。五感を現象と現実に区別することによって、視覚や聴覚などの現実覚を肯定できるようになる。〕
同様に、煩悩(実現されることのない欲望による知覚の支配体制の崩壊)が躁鬱病の原因である。〔アニメを見て絵がきれいと感じたり、話が面白い・可笑しいと感じたりするのも、広い意味では色・煩悩であるが、興奮が弱く一過性なので、知覚の支配体制を崩壊させるには至らない。一方、性欲や他人のつくり話に‘本気(マジ)で感動’なんかすると、興奮が強く永続的なので、いずれは知覚の支配体制を崩壊させるに至るのである。酒はいいが麻薬はいけないようなものだ。『過ぎたるは及ばざるが如し』が日本の道徳である。〕

[1271] 色即是空 h16.6.9
色は現象で、
空は空想で、実在の外を意味するから、
“色即是空”とは、『色は実在の外にある』ことを表している。

[1272] 証明 h16.6.10
証明は迷路に似ている。原理と結論の間にある雑多な横道の中から、適切な道だけを選び出して道をつなげることだ。〔数学の奥義は、@言い換えA無駄な考えをしないB日常生活における五感の経験とつなげることである。〕
問題例(クリック)

[1273] 煩悩の例 h16.6.10
『医者のところへお嫁に行けば、一生働かないで楽して暮らせる』と思っても、保険の点数が減って医者の給料が低くなると、普通のサラリーマンのように夫婦共働きをしなければならなくなる。せっかくの期待が裏切られ、心が落ち込む。
自分にとっての実在(つまり、自分の日常生活)が変われば、それにつれて自分の心の働かせかた(活動させかた)も変えねばならない。

『人間、諦めが肝心だ。』
幸の感情とその反対の不幸の感情とは対をなしている。例えば、自分が働かないでいられる幸福と自分が働かなければならない不幸とは対をなしている。そして、幸の感情と不幸の感情とは対で生成・消滅する。例えば、働かないでいられる幸福を活動させると働かなければならない不幸も同時に生まれる。反対に、働かないでいられる幸福を諦めると働かなければならない不幸も同時に消える。素粒子に物質と反物質とがあるように、心にも幸の感情と不幸の感情が対を成して存在している。また、自分にとっての実在(つまり、自分の日常生活)が変わると、それにつれて活動する感情が変化する。例えば、貯金をしてお金が溜まってくると‘自分にとっての実在’が変わってくるから、それに伴って新しい物を買いたい気持ちがじわじわ湧いてくる。
以上のように、人間は自分にとっての実在に応じて自分の心の中にある特定の感情を湧き上がらせたり諦めたりすることができる。[実在従属型心]
ところが一部の人間はこのような心の調節をすることができない。その原因は、その感情の興奮が永続的になるほど強すぎること(それだけ、その感情がその人にとってかけがえのないものであること)と、実在を認識する知覚の働き(興奮)が弱いこととによる。そういう人を躁鬱病者と呼ぶ。〔だれにでも‘かけがえのない感情’はある。それに対しては、もはや諦めは効かない。むしろ自分にとっての実在のほうを変えるべきである。自分の実在か自分の心の変えやすいほうを動かして、自分の実在と自分の心の調和をはからねばならない。〕
『人間、諦めが肝心だ』のことわざは、躁鬱病にかからないための極意と言えよう。
同様に、色を抑制して消すことのできない者を分裂病者と呼ぶ。

[1274] 幻聴の治し方 h16.6.11
分裂病は“幻聴神経症”(幻聴ノイローゼ)である。つまり、分裂病は幻聴という特殊な五感についての神経症である。幻聴についての現象(色)に囚われている状態が分裂病である。
一方、通常の五感すなわち眼や耳(視覚や聴覚)については現実と現象(色)の区別ができる。その現実と現象の区別を幻聴について適用すればよい。



(補足)現実と現象について、
現実とは五感界の中の真(ま)に受けていい部分で、現象とは五感界の中の真に受けてはいけない部分である。現象はたんに感覚として存在するだけで、実在に対する認識ではない。例えば、他人が正しいことを言うときには一生懸命聞かねばならないが、でたらめなことを言うときには無視してよい。他人の正しい言葉が現実であり、でたらめな言葉が現象である。
正しいか、まちがいか、でたらめかは、知覚が決めているのであり、五感の背後には常に知覚(すなわち実在覚)の働きがある。〔でたらめとは、正しいかまちがいかの区別が付かないことである。〕

性感も幻聴も実在が子供に課した大人になるための試験のようなものだ。これらが色(現象)であって現実でないことがわかれば一人前の大人だ。
性感や幻聴は現象であって現実ではない。したがって、それらを用いてはならない。一方、眼や耳(視覚や聴覚)は、多少の現象性を帯びているにしろ、大雑把には現実であるから用いてよい。

ただし、視覚や聴覚にも、たんなる見掛けのかっこよさや耳当たりがいいだけの言葉(いわゆる巧言令色)などがあるから、視覚や聴覚のすべてが肯定できるわけではない。〔『巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)。』してみると、孔子の曰く(のたまわく)“仁”とは、人間の本質であるところの知覚なのかもしれない。〕

[1275] 実在内存在 h16.6.12
人間は実在の内にいるから、
実在に従わねばならない。
実在を知ることが、
実在に従うことにほかならない。

[1276] 知への愛なんて本当にあるのか? h16.6.12
哲学すなわちフィロソフィーとは知を愛することだと習った。
しかし、“知を愛する心”なんて本当にあるのか?
知覚は心の外にあるから、心の中に知覚への愛情なんかないはずだ。
心はたんに知覚に従属するだけだ。〔知覚はすなわち実在であり、知覚への愛は実在への愛にほかならない。ところで、実在の中に幸を入れるから実在が幸になるのであって、実在そのものは無情である。だから、実在と心とはそもそも無関係である。下図参照。/物に幸を入れるから幸になるのであって、物に幸を入れなければ幸にはならない。自然そのものは人間にとって幸福ではない。自然に人間の手を加えることによってはじめて人間にとって幸福な社会ができるのだ。〕

…人間に知覚への愛情なんかない。
人間はそこまで便利に出来てはいない。〔もしそうなら、みんな自分から進んで勉強するので、いやいや勉強する必要はない。しかし、これは当然ながら事実ではない。〕
人間が知覚を使うか五感を使うかは、たんにそれらの感覚についての理解(つまり哲学)によるだけだ。別に知覚を使い‘たい’から使うわけではないし、五感を使い‘たくない’から使わないわけでもない。
心は現象覚(性感、幻聴)よりも現実覚(視覚、聴覚など)と複合(支配および従属)しなければならず、さらに五感よりも知覚と複合しなければならない。
知を愛する心などないが、知覚と複合する心はある。〔五感と複合する心もある。哲学によって、心は五感よりも知覚と複合しなければならないことがわかる。〕
だから(五感よりも)知覚(つまり実在)に心を入れなければならない。〔オナニーすると、心と現象覚との複合が強まり、心と知覚界との複合が相対的に弱まるから、心が現象覚の方ばかり向くようになる。つまり、幻聴のことばかり気にするようになる。〕

心はただ他の感覚と複合させられて、その感覚に応じた感情を感じるだけである(例えば、現象界なら快・不快感、知覚界なら幸・不幸感など)。つまり、複合する感覚によって心は変わるのだ。
心に“実在(知覚)への愛”や“現象(性感や幻聴)への憎しみ”などないから、心が実在覚(知覚)と複合するか現象覚(性感や幻聴)と複合するかは、心自身が決めることはできない。それを可能にするのは哲学(認識についての認識)のみである。〔哲学は、数学や物理学のように、知覚の一種である。〕つまり、哲学(知覚)が現象覚よりも実在覚に心を複合させるのだ。〔この選択はまさに知覚によるのであって、心によるのではない。〕

[1277] 人間は死んだらどうなるか? h16.6.12
キリスト教では天国に行ける。
仏教では他の動物に生まれ変わる(輪廻転生)。〔だから、他の動物をいじめてはいけない。〕
わが実在哲学では、肉体が死ねば脳細胞の神経興奮がなくなるから、感覚が発生しなくなり、感覚界が消滅する。ただそれだけだ。

[1278] 感覚界の独立性 h16.6.12
自分には自分の脳細胞が荷う感覚しか感じられない。
他人には他人の脳細胞が荷う感覚しか感じられない。
自分の感覚界(五感界∪知覚界∪心界)と他人の感覚界とは独立である。
自分の感覚界と他人の感覚界とは感覚器(眼や耳やX器官など)を通してのみ作用しあう。


[1279] 幻心 h16.6.12
日本では幻聴が多いが、アメリカでは幻視が多いと聞く。〔電話でファックスが送れるようなものだ。その人の実在とのつながりの弱い部分が幻覚になるのだろう。日本では眼で実在とつながっているが、アメリカでは言葉で実在とつながっている。しかし、幻視ではさぞかし生活に不便だろう。CDを聞きながら車の運転はできるが、テレビを見ながら車の運転はできない。外人は気の毒だ。私は幻視は見たことがない。〕
それなら、心の感覚波もあるはずだ(幻心)。〔子供のころ母親からモア〜とした雰囲気が出ているのを感じたことがある。〕
料理店のそばを通るとき、他人の味覚がときどき伝わることがある(幻味)。
X器官を使えば、言葉や映像(イメージ、視覚像)や心や味まで、なんでも伝えられるのだ。

[1280] 神経伝達物質と精神病 h16.6.15
ドーパミンが現象覚の神経伝達物質なのだ。だから、それを阻害すると現象覚は弱まる。つまり、私の提唱したX器官がドーパミンで動いているわけだ。いわば、ドーパミンは野蛮な神経系のトランスミッターなのだ。だから、ドーパミン拮抗薬を投与すると、幻聴が弱まるが、同時に性感も弱くなる。現象覚と現実覚は異なるから、視覚や聴覚は無事だ。してみると、性機能改善薬は現象覚を高めるから、分裂病者に飲ませてはいけないことにもなる。それに、性機能改善薬は分裂病者を増加する危険性もある。
同様に、心の活動を阻害する物質が抗欝薬だ。心が働かなくなれば実在に対する不幸を感じることもない。できれば、幸を促進し不幸を阻害する物質があればいいのだが。そんな微妙な作用をする薬はまだない(かも)。
要するに、向精神薬は興奮しすぎた五感や心を抑制し、知覚の働きを相対的に促進することによって、感覚界における知覚の支配体制の回復を促すわけだ。知覚促進剤(例、ヒデルギン;ガンバロンに出てきたのはドワルギン)を併用したほうがいいだろう。

[1281] 俺が社会科や生物学を嫌いな理由 h16.6.15
社会科や生物学は現実覚でわかる。論理がない。
数学や理科は知覚でわかる。
現実覚と複合する心は知覚(実在覚)と複合する心よりも低級でくだらない。心の問題だ。オナニーや幻聴が知覚よりもくだらないのと同じ理屈だ。哲学的理由だ。
だから、私は社会科や生物学が気に入らないのだ。たかが試験のために現実覚やくだらない心を捨て切れなかった奴のほうがケチ臭い。くだらないことで良い点を取っても仕方がない。むしろ恥だ。いくら社会や生物が現実覚だといっても、それを裏づけする理論体系がないからほとんど現象にすぎない。現象と複合する心は暗くて汚い。社会学者や生物学者の心が嫌だ。〔いくら試験で良い点を取っても、実生活の態度を見ればバカだとわかる。試験にカンニングは通用しても、実生活にカンニングは通用しないからだ。〕

[1282] 哲学 h16.6.15
心に知覚への愛などないから、心自体が五感よりも知覚を選択することはできない。
心に五感よりも知覚を選ばせるのは知覚である。知覚が、心を五感よりも知覚と複合させる。
だからこそ、それぞれの感覚の性質について知覚が正しく理解し、適切に感覚を構成して(支配・従属させて)、人間に相応しい認識システム(神経回路)を組み立てなければならない。

[1283] 現実覚 h16.6.16
知覚が五感を通して実在を見る。
それが現実覚だ。
例えば、空を見て「今日はよい天気だ。」と言うとき、ここでの‘今日’とか‘よい天気’とかが知覚的概念であって、知覚がそれらを組み合わせて五感で見えたものを表現しているのだ。そうすることによって、知覚が実在を見ることができるのである。五感自体は、たんに青く見えるだけであって、いくらそれ自体を相手にしたところで仕方がない。
現実覚では五感を超えたところにある実在を問題にするが、現象覚では自分の五感そのものが問題になるのであって、五感の向こう側にある実在(実体)が見えていない。

現実覚においては五感が知覚に従属するが、現象覚においては知覚が五感に従属する。
あらかじめ知覚界において作っておいた実在的概念で五感を見るとき、五感の向こう側にある実体が見える。〔実在的概念があるから、五感界に表れ出でるものについての知覚における実在的解釈(実在的意味づけ)が可能になる。アニメを見たり音楽を聴いたりするのは、あくまでも実在の外での現象界での‘遊び’であって、本気ではない。〕社会科や生物学では知覚界の中で実在的概念を作り出さずに、いきなり五感だけで物を見るので、実在的認識には至らず、現象的認識に留まるのである。〔社会科や生物学では、知覚が五感に従属するのみであって、知覚が五感を支配することがない。知覚のあり方が腰抜けの青びょうたんだ。知覚が弱い。彼らは五感界を考えているのであって、実在を考えているのではない。五感界に囚われが多い。オナニーや幻聴と同じだ。人間の恥だ。〕
視覚や聴覚は、知覚的概念を組み合わせて実在を見るために役立つので現実覚だが、性感や幻聴は実在を見るために役立たないので現象覚なのである。(幻聴で聞こえるのは、他人の思考だけであって、直接に実在する音が聞こえるわけではない。性感についても、性感でわかるのは皮膚と皮膚との触れ合い程度のことだから、実在が見えるほどのことではない。)
知覚すなわち実在覚と複合する心は善すなわち清く明るい心であり、反対に現象覚と複合する心は悪すなわち汚く暗い心である。社会学や生物学は知覚界の中で作られた概念(例えば、力や原子や感覚子)を用いて五感界を見ないから現象学にすぎず、それに携わる社会学者や生物学者の心は暗く汚いので、私は彼らが嫌いだ。〔五感界の外にある実在的概念(例、力や原子や感覚子など)が知覚界にあれば、五感が知覚に従属するが、なければ逆に知覚が五感に従属する。知覚が五感を支配するか、知覚が五感に従属するかは、五感界の外にある実在的概念の有無によって決まる。〕

[1284] 戦争と平和 h16.6.17
アラブの国では毎日のように戦争している。〔戦争は破壊もあるが創造もある。戦争は兵器を創造する。戦争は科学を推進する。〕
アラブの国で戦争が絶えないのは、アラブ人にとっては戦争が幸福だからだ。
日本人にとっては平和が幸福なように〔私も爆弾で身体をバラバラにされて無意味に死ぬのはいやだ〕、アラブ人にとっては戦争が幸福なのだ。
誰も彼らを止める理由はない。

[1285] 創り事の五感界 h16.6.18
五感界の中にない実在的概念はけっして人間の創り事などではなく、むしろ実在の一部分しか見えていない五感界のほうが人間の創り事なのだ。五感界は人間が生まれつき持っている(遺伝的に与えられた)実在認識にすぎない。いわば、ニセの実在界である。
実在は五感ではなく知覚である。

〔熱力学を現象学と言うことがあるがこれは当たらない。熱エネルギーやエントロピーのような五感界の外にある“実在的概念”を用いて物体を見るのだから、やはり実在学である。これに対し、社会学や生物学ではいくら学術用語を用いていても、センスは五感にすぎないから、現象学にほかならない。いわば、ニセ学問だ。知覚を使っていないから人間の認識に値しない。低レベルの人間から見た世界観を書いているだけだ。それを学生に教え広めるなんて、とんでもない。悪影響だ。〕

[1286] 学校 h16.6.18
学校は試験を餌にして子供たちに社会科や生物学のようなくだらないこと(現象学)を無理やり教えている。
ただ試験の点数さえよければいいわけではない。いくら試験でいい点を取ってもセンスを損ねては元も子もない。〔木を見て森を見ず。本末転倒。〕知識がありさえすれば試験でいい点が取れる。社会科や生物学にも知識があるが、それらの知識は五感界に従属している知覚界の中で作られた病的なものであり、センスが悪い。出来損ないの学問だ。余計なことは勉強しないほうがよい。
教科にもよい教科(数学や物理などの実学)とわるい教科(社会科や生物学などの現象学)があり、よい教科を勉強すると知覚が五感を支配してよいセンスが身に付くが、反対にわるい教科を勉強すると五感が知覚を支配してわるいセンスが身に付く。〔センスとは五感と知覚と心の関係である。わるいセンスとは五感が知覚を支配することで、よいセンスとは知覚が五感を支配することである。〕
たかが試験のためにセンスを犠牲にするなんて馬鹿げている。
知識よりもセンスが大事だ。たとえ知識がなくてもセンスがよければいい。〔たいていの人は知識だけでセンスがわるいが、まれに知識がないのにセンスがいい人がいる。その人は数学よりも理科よりも文学(国語)よりも哲学がわかっている人だ。数学や理科や文学は学校で教えるので誰でもわかっているが、哲学は学校では教えないので哲学がわかっている人は非常にまれだ。本に書かれていることも滅多にない。たぶん、これが俺の価値なのだろう。私に関ってくる友人も、それが目当てだった。その哲学も、じつは母親譲りなのだ。つまり、実在哲学がわかっているのは、この世に私と私の母親の二人だけだ。もっとも、母親は言葉にはしなかったが。〕
私は中学高校で社会や生物が出来なかったことを誇りに思う。〔私はいくら社会や生物を勉強しても眠くなるだけで、一度も‘わかった’気がしなかった。〕
人間にとっては知識よりもセンスのほうが大事だ。
学校は知識を与えるよりもセンスを磨くところであって欲しい。

学校は、数学や物理などの実学(実在学)だけを教えていればいい。
あと、国語や道徳の時間に、人間にとっての一般的な幸福や不幸について教えてやればいい。細かい個人的なことは各個人に任せよう。

[1287] 「悟性はあるが理性がない。」 h16.6.20
私は中学3年のとき、数学の教師から「悟性はあるが理性がない」と言われたことがある。
知覚主義では、知覚が五感や心を支配している。〔自分が人間であるかぎり、知覚主義は守らなければならない。〕
悟性とは知覚が五感を支配していることで、理性とは知覚が心を支配していることである。〔悟性と理性の定義は、人によって違うから注意されたい。ちなみに論理性とは、知覚界における概念間の整合性のことだ。〕

中学生のころの私は国語が理科に較べて弱かったから、この言葉は当たっていたかもしれない。〔理科は知覚で五感を見ることであり、国語は知覚で心(とくに日本人の心)を見ることだから。さしずめ、数学は知覚自体の能力(論理)ってとこか。〕
ガリ勉をすると、知覚が外ばかり向いて内に向かなくなるから、悟性は発達するが理性が弱くなりがちだ。
そのうえ社会科や生物学のような論理性のない学問を勉強させられると、知覚が五感に支配されるようになるから危険だ。〔社会や生物学のような論理性のない学問は、五感が知覚を支配している感覚界において生まれたものだから、それらを勉強することは感覚界における五感の支配を認めることであり、感覚界における知覚の支配体制を崩す原因になる。〕
人間性を捨ててまで試験でいい点を取りたいのか!?試験にそれほどまでの価値があるのか?

[1288] 複合(complex) h16.6.21
精神病は心の病気である。
心は複合する感覚によって質が変わる。
実在知と複合している心は正常。
性感と複合している心は神経症。
幻聴と複合している心は分裂病(幻聴神経症)。
妄想(非実在的知覚)と複合している心は躁鬱病。〔妄想と空想は違う。本人が実在だと考えているのが妄想で、実在でないと考えているのが空想である。躁鬱気質は実在と非実在の区別が曖昧なので、妄想に陥りやすい。/ちなみに、アニメは絵で描かれているので、はっきり空想だ(実在でない)とわかるところがいい。〕

分裂病では幻聴覚と心が複合している。そのため、心が幻聴に敏感になっているし、心が異質になっている。
日ごろ自分が興味ある実在のことについて考えて、実在覚と心の複合を強めれば、幻聴覚と心の複合が相対的に弱くなり、心が正常化される。

[1289] 物の悦び h16.6.22
お金持ちには物の悦びがある。
ちがう!!
それは‘物’の悦びではなく、
‘五感’の悦びだ。
物を知覚にある実在的概念で見るのではなく、物を五感で見てそれと複合する心で快いと感じるだけだから、知性や教養の足りない者の物に対する見方にすぎない。
物を知覚にある実在的概念で見て、それと複合する心で幸福と感じるのが真の“物”の悦びだ。

[1290] 知恵と知識の乖離(かいり) h16.6.22
東大も試験で優秀なだけで、実生活は普通の人と変わらないかそれ以下だ。
塾や学校で学んだ知識なんて試験のときに役立つだけで、実生活においては何の役にも立たないものだ。〔まあ、実際には、学校で学んだ知識も、多少は物を見るときに役立っていると思います。〕
実生活では、自分で一から考え直さなければならないものだ。〔学校や本で習ったことが正しいかどうか確かめることが、まず第一に必要だ。〕
紙の上の奇麗事ではまだ他人事だ。
土臭さがないと本物ではない。

[1291] 子供の哲学 h16.6.23
私が子供のころには、自分が楽しければ何をしてもいいと考えていた。
子供のアルゴリズムは、‘楽しければやっていいし、楽しくなければやってはいけない’ただそれだけだ。

子供だからといって、思想が正しいわけではない。
子供の考えは経験不足で浅薄だ。
そもそも楽しいか楽しくないかの区別は、心によって変わるから、曖昧(あいまい)な基準であって、何を言っているのかわからない。

[1292] 別解 h16.6.23
君は、整形手術をどう思うか?
「親からもらった大事な身体を、そんな風におもちゃにしたら、神様の罰が当たる。」〔これが理由と言えるのだろうか。〕
本当は、物の見方が現象的で実在的でないのがいけないのだが、
‘整形手術をやらない’と言う点では、同じ結論に達している。
結果的にやらないのであれば、理由はどうでもいいようなものだ。
理論はちがっていても、結果が同じになることがある。〔でも、私の理論のほうが適用が広く正確だ。〕

[1293] 真理観今昔 h16.6.24
プラトンの頃は、自他共に認める一般的命題が真理であった。
しかし、デカルト以降は、実在と一致している命題が真理となった。

[1294] 都会人 h16.6.24
都会人は他人(田舎人)を利用するのが上手なだけで、他人の役には立たない。

[1295] 作文練習法 h16.6.24
まず短い文がはっきりわかるように書け。
それができたら、短い文を組み合わせて大きな文を作ろう。〔マンガと同じ。〕

[1296] ヒステリー(神経症)って何ですか? h16.6.25
ヒステリーは五感への囚われが強い。五感自体は実在認識ではないから、五感自体に囚われると、認識と実在とのズレが起こり、実在に適応できなくなる。五感自体に囚われると実在が見えなくなる。普通は、知覚で五感を見るから、五感自体に囚われることがなく、五感の誤りが知覚において訂正される。性感や幻聴は感覚が強いので囚われやすいが、視覚や聴覚だってたまに囚われることがある。〔性感や幻聴のような原始的な五感は実在とのくい違いが大きいから症状が激しいが、視覚や聴覚のような進化した五感は実在とのくい違いがあまりないから、症状が軽い。(もっとも、重い神経症は軽い分裂病よりも重いから、必ずしも神経症だからといって分裂病よりも軽いわけではない。)性感のような原始的な五感を用いれば用いるほど(つまり、性感のような‘腐った眼’で実在を見れば見るほど)、実在がわからなくなり、実在への不適応が起こりやすくなる。幻聴でわかるのは実在ではなく他人の思考だけだから、実在への不適応になる。同様に、妄想も実在ではないから、妄想に囚われると実在がわからなくなる。(五感は先天的・遺伝的に人間に与えられたものだが、妄想は自分で後天的に創り出したものである。ただ、それらの五感を使うか使わないかの決定は、人間に委(ゆだ)ねられている。たとえあっても使わなければ、ないのと同じだ。)反対に、知覚を用いれば用いるほど、実在への適応が増す。科学が望遠鏡や顕微鏡を発明して、いわば‘良い眼’で実在を見たから、実在のことがよくわかったのだ。〕だから、フロイトが「神経症の原因のすべてが性感にある」と言うのは行き過ぎだ。正確には、性感ではなく五感(現象覚、非実在覚)にあると言うべきだ。結局、どんな精神病でも『感覚とは別に実在があり、実在を認識し、感覚自体が実在ではない』ことがわかれば治る。

女性は男性より知覚が弱いから、ヒステリーにかかりやすい。かかりやすいからこそ、女性のほうが道徳に詳しい、と言うこともある。〔私も母親の哲学知を受け継いだだけのような気がする。〕
社会学者や生物学者には男のくせにヒステリーな奴が多い。五感に囚われている。それでも学問のつもりか!?
五感を貫いてその向こうにある実在を見るのが、男の認識というものだ。

[1297] 感覚器の選択 h16.6.27
人間は実在の中にいる。
人間は神ではないから実在を創ることはできないが、実在を知ることならできる。
人間は実在を認識し、その認識に基づいて行動することによって、実在に適応する。
実在を正しく認識すれば、それだけ実在によく適応できる。
人間の感覚器には、性感、X器官(テレパシー器官)、眼や耳などがある。
性感を用いると、性感とはつまるところ皮膚の触感だから、実在のことについてはほとんど何もわからない。だから、性感と知覚が複合すると知覚がバカになるし、性感と心が複合すると心がキチガイになる。
X器官(テレパシー器官)は他人の感覚波を感じる器官であって実在を見るための器官ではないから、X器官を働かせると実在が見れなくなる。
妄想は感覚器ではないが、自分の心が作り出した妄想に呑み込まれるとやはり実在を見失う。
眼や耳は、実在の見れる部分(範囲)が広くて正確だから、眼や耳と複合すると知覚や心が発達する。〔眼と耳だけを使っていれば、自然に頭は良くなるし、心も善くなる。〕
したがって、感覚器は眼と耳を用いるべきである。

[1298] 物より物の見方 h16.6.27
生物や社会を思考の対象にしてはいけないわけではない。むしろ、それらは実在する物だから思考の対象として避けるわけにはいかない。ただ、それらに対する物の見方が、五感で事実を書き留めた眼先だけの見方ではなく、知覚を用いる論理的な見方でなければならない。〔言葉に論理性がないのが知覚を用いて考えていない証拠である。〕そうしないかぎり、人間にとって相応しい理解の仕方とはいえない。

[1299] 現象と色想 h16.7.2
ヨーロッパ哲学もデカルト→カント→ヘーゲルの頃まではよかった。〔デカルトは感覚の概念を発見した。カントは人間の感覚界を五感と知覚と心に分けた。そして、ヘーゲルは知覚界こそが実在であるとした。哲学における最も美しい景色だ。〕
でも、それから後がよくない。〔いろんな人が精神病を正当化(言い訳)しようとしたが、今でも精神病者は病院の檻の中にいる。人間は実在の中におり、実在を知るには知覚が要るから、知覚を否定する精神病を正当化することはできないのだ。文明(科学技術)が進歩して、知覚の制限を多少緩めることはできても、知覚そのものを否定することは人間にとって許されないのだ。〕
合理主義の下でのみ真の幸福が成り立つが、
それ以外に人間には冗談の非実在の幸せや快感がある。
非実在的知覚を妄想と空想に区別したように、
非実在的五感を現象と色想に区別しよう。
本人が実在だと考えているのが妄想や現象で、
実在だと考えていないのが空想や色想だ。
妄想は躁鬱病の原因に、現象は神経症や分裂病の原因になる。
合理主義(というか知覚主義、実在主義)の下でも空想や色想は許されるが、妄想や現象は許されない。

[1300] 物にも個性がある。 h16.7.2
心すなわち個人の前頭葉で発生する感覚に個性があるように、
物すなわち個人の所有物にも個性がある(物と心の対称性)。
個人の所有物についての知識が物理学である。そうでなければ、机上の空論にすぎない。自分が持っていない物についていくら詳しくても、つまらない。〔昔、雑誌の付録の“紙のキーボード”でパソコンの練習をしたことがあったね。〕
反対に、物理学において一般法則(すべての物に共通する法則)があるように、
心にも一般法則がある(はずである)。
だから、国語で試験がやれるのだろう。


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