[9801] なぜ今の国民は政府を支持しているか? h22.3.20
江戸時代の武士の割合は、全人口の約1割だった。10%だった。
今の公務員の割合は、全人口の4%ぐらいである。
だから、国民に課せられる税金は幕府よりも政府のほうが安い。
それで、国民は政府を支持しているのである。
でも、それなら、警察と国会だけにして政府本体を除[の]ければもっと安い。
政府は余計な民主主義をやって国を悪化させる原因だから、そんな機関はなくなったほうがいい。
江戸時代に武士が多かったのは、それだけ幕府の仕事が多かったと言うことである。
今の政府は民主主義でほとんど仕事をしていないから、もっと人員を減らせるはずである。
いくら税金が安くても、社会が悪くなっては元[もと]も子もない。[江戸時代は税金が高かったが、高い税制だけあって完全雇用制だった。]
哲人政治の政治機関があったほうが、国が善[よ]くなるからいい。
税金が今と同じ程度で哲人政治の政治機関を作れないものだろうか?
[9802] 生かさず殺さず h22.3.20
幕府は哲人政治の政治機関である。だから、つねに『正しい理論』に基づいて政治をしなければならない。
だから、政府が国民を「生かさず殺さず」にして政府が国民からありったけの税金を取って、政府が自分の欲望を満足するために政治をするのは違反である。
しかしながら、幕府も人の子だから、多少は自分の欲望を満足して生きていたのである。幕府に悪気があったかどうかは不明である。
一方、政府は民主政治の政治機関である。だから、つねに政府が国民に従って政治をしなければならない。
しかし、実際には、政府は国家宗教やその他[た]の世論操作をして、国民に政府が国民よりも上の者であり政府が国民を支配しているかのように思わせて、民主主義とは裏腹[うらはら]に国民を政府に従わせている。
政府は国が民主主義をやるために作った会社だが、一度会社が出来てしまうと、あとは会社が民主主義から逸脱[いつだつ]して自己利益のために国民を利用するようになるのだ。
しかし、国民を騙[だま]すのにも限界があるから、いづれは国民に政府の正体がバレて、政府が国民になめられて政府が国民のために政治をしなければならなくなる。しかし、国民の大半は馬鹿だから、それでは国が悪くなる一方である。だから、最初から政府に国の政治をさせるべきではない。つまり、民主主義は最初からまちがっている主義なのである。
日本政府は明治維新から世界大戦まではまじめに植民地政策をやっていたが、その後は国民から税金を取るだけで特に政策をやっていない。暇つぶしに国家宗教でどうでもいいことをやっているだけだ。国民のためにならないことをやっているだけだ。今の政府は民主政治の政治機関ではない。哲人政治の政治機関でもない。国民の役に立たない政治機関であるだけだ。植民地政策も失敗したし、政府は最初からまったく役に立っていない。政府は要らない政治機関だ。
[9803] 日本は民主主義の国である。 h22.3.20
民主主義の国では、国民みんながつねに数の多いほうに従う。
ところが、国民の大半は馬鹿や不良である。
だから、民主主義の国では馬鹿や不良が支配者であり、馬鹿や不良がのさばることになる。
民主主義の国では馬鹿や不良が有利に生きていける。民主主義の国は馬鹿や不良の温床[おんしょう]である。
民主主義の国では馬鹿や不良に合わせた文化になる。例えば、最近の人間が自分の外見ばかり繕[つくろ]って、自分の中身を磨[みが]かなくなったのはそのためである。
[9804] 政府は未来の政治機関である。 h22.3.20
国家宗教は民主主義を支持することである。民主主義の政治機関である政府を支持することである。
残念ながら、今のところは国民の大半は馬鹿だから、今の世の中では民主主義をすることはできない。
しかし、将来国民の大半が利口になれば、民主主義がやれるようになる。知覚の分布が頭上がり(右上がり)になれば、民主主義では数が多いほうに国全体を合わせるから、民主主義をやればやるほど国がよくなる。そうなれば、政府も大手を振って国の政治がやれるようになる。
それまで、しばらく民主主義はお休みだ。当分今のところは哲人主義でやっていかねばならない。
[9805] 『天災は忘れた頃にやって来る。』 h22.3.20
天災とは天の災いのことであり、天とは天皇の天だから、つまり天災とは国家宗教による災いのことである。
国家宗教とは民主主義のことである。
日本は中世の頃、民主主義で国が無法地帯になり滅びかけたことがある。日本では国民の大半が法律の嫌いな馬鹿なので、民主主義では国が無法地帯と化すのである。
それなのに日本は幕末に再び民主主義で植民地政策をやって世界大戦に負けて滅びかけた。哲人政治の江戸時代を挟[はさ]んだために、人々が民主主義の恐ろしさをすっかり忘れてしまったからである。民主主義では最初からまちがった政策をやっているので、うまく行くはずがない。必ず失敗に終わる。
『天災は忘れた頃にやって来る』とは、人々が民主主義の恐ろしさを忘れてしまった頃に再び民主主義をやって国を滅ぼしてしまうから、民主主義の恐ろしさをけっして忘れてはならないということである。
しかし、今の日本は民主主義をやっている。だから、今の日本がまちがいを犯しているのだ。日本が滅びる前に民主主義をやめねばならない。
[9806] 日本政府は政策を実現しない機関である。 h22.3.20
民主主義とは、国民みんなが国民の大半に合わせることである。
ところが、日本では国民の大半が馬鹿である。
だから、民主主義とは馬鹿主義である。
馬鹿はかなわないことを望む。馬鹿は高望みする。馬鹿は夢を追いかけている間だけが幸せなのである。
だから、民主主義とは実現しない夢を追いかけることである。
したがって、日本政府の政策は実現できないことばかりである。日本政府の政策は成功せずに終わるだけである。日本政府は口先が大きいだけで実現する力がない。
日本政府は政策が失敗するたびに、ニヤリとするだけなのだ。
いくら国民が政府に従ったところで夢はかなわない。政府におとなしく従っている国民が馬鹿だ。たしかに国民の大半は馬鹿だ。
[9807] キリスト教とは何か? h22.3.21
民主主義とは、実現しない夢を追いかけて喜ぶことである。
国家宗教は民主主義である。
だから、国家宗教も実現しない夢を追いかけて喜ぶことである。
例えば、キリスト教の夢とは「他人に働かせて自分が遊んで暮らす」ことである。
日本神道の夢とは「他人の物を分捕[ぶんど]って自分が遊んで暮らす」ことである。
国家宗教の信者は、頭の中で実現しない夢を想像して喜んでいるだけなのである。そんな喜びが彼らの生き甲斐[がい]なのである。国家宗教とは夢を想像して喜ぶ会なのである。国家宗教とは起きながら夢を見る会なのだ。国家宗教とは、実現しない夢を頭の中で想像することを喜びとすることである。国家宗教とは、人間の“想像力”を使って快感を得る方法なのだ。
反対に、哲人政治では、実在に目を向けて、実現する夢を追いかけて喜ぶことである。哲人政治とは、夢を実現することを喜びとすることである。哲人政治とは、実在の世界の中で自分の夢を実現することである。
国家宗教すなわち民主政治は空想的だが、哲人政治は現実的なのである。国家宗教すなわち民主政治は文学的だが、哲人政治は科学的なのである。
人間の喜びには2種類ある。ひとつは空想的喜びで、もうひとつは現実的喜びである。国家宗教や民主政治の政治機関(政府)は前者を追及し、哲人政治の政治機関(幕府)は後者を追及する。だから、空想的喜びが強い人にとっては民主政治の国のほうが幸福であり、現実的喜びが強い人にとっては哲人政治の国のほうが幸福である。
しかし、『命あっての物種[ものだね]』というように空想は現実生活を背景にして成り立つことである。だから、人間は現実を第一に空想を第二にしなければならない。つまり、人間は現実的喜びを主として空想的喜びを副として生きるべきである。つまり、国は哲人政治を宗[むね]としなければならない。
[9808] どうして国家宗教は神を立てるのか? h22.3.21
国民が神に自分の願いをかなえてもらうためである。
明治維新から世界大戦までの日本では「他人の物を分捕[ぶんど]って自分が遊んで暮らす」願いをかなえてもらうために神武天皇を立てたのだ。国民みんなが「他人の物を分捕って自分が遊んで暮らす」願いを神武天皇にかなえてもらおうとしたのだ。
しかし、日本は世界大戦に負けて「他人の物を分捕って自分が遊んで暮らす」願いはかなわなかった。それで日本は神武天皇を捨てたのだ。それが天皇の人間宣言である。
日本が戦後の復興を終えた頃、日本政府は私を神にした。当時の日本には国家的政策はなかったが、『魔法のプリンセスミンキーモモ』の歌にもあるように個人のそれぞれの願いをかなえてもらうための神を立てたかったからである。実際には神を立てても現実に願いがかなうわけではないが、国家宗教においては実現しない夢を頭の中で想像するのが喜びなのでそれで十分なのである。それなら願いが実際にかなわなかった神武天皇でもいいことになるから、最近は神武天皇も復活したのだ。
古代ヨーロッパで奴隷解放の願いのためにモーゼを立てたが、ローマ帝国のために願いがかなわなかったので、モーゼを捨てて、その後に願いを変えて福祉の願いのためのキリストを立てたのと同じことである。
宗教では願いを現実にかなえることが喜びではなく、願いを頭の中で想像することが喜びなので、宗教に入っても自分の願いが現実にかなうわけではない。科学を勉強して、人間に実現できることの中で自分の願いをかなえるようにすれば願いがかなう。それが、哲人政治のやり方なのだ。
民間宗教が神を立てるのも国家宗教と同じ理屈である。つまり、民間宗教もまた実現しない夢を頭の中で想像して喜ぶ会なのだ。
[9809] 国会議員はどうして馬鹿なのか? h22.3.21
民主主義とは国民みんなが馬鹿に合わせることである。なぜなら、国民の大半が馬鹿だからである。
だから、民主主義の国では国民みんなが馬鹿でなければならない。
なかでも、国民の代表者である国会議員はとりわけ馬鹿でなければならない。
だから、民主主義の国では、国会議員が馬鹿なのである。国会議員は馬鹿だから、議論なんかとうていできたものではない。国会には議会としての機能がない。国会は政府が国家宗教で決めた法律を国民に発表するだけの場所である。
民主主義は国が悪くなる制度である。だから、早く民主主義をやめなければならない。
[9810] どうして政府に権力があるか?☆ h22.3.21
政府は民主主義の政治機関である。
政府は多数決の原理で動いている。
だから、政府は原理的に大勢の国民の支持を得ることができ、『権力の法則』によって強い権力を持つことができるのである。
しかし、そのために、政府はつねに馬鹿な不良に合わせた国造りをしているのである。なぜなら、国民の大半が馬鹿な不良だからである。年々国のガラが悪くなっている。
政府は自分が強い権力を持つのと引き換えに、自分の国を悪い国にしているのだ。
政府は国にとって善[い]い政治機関ではない。
[9811] 内閣支持率 h22.3.21
いつも低い値である。半分まで行ったことがない。
国民が政府に早くなくなって欲しいと言っているのである。
政府が本当に民主主義の政治機関なら、国民の意見に従ってなくなるべきである。
今の国民は民主主義そのものを嫌っているのである。だから、政府はなくならねばならない。
[9812] 政府は民主政治の政治機関ではない。 h22.3.22
政府が国民の多数決で国家宗教をやっているなら、神を国民の眼の前に出して正々堂々と国家宗教をやればいい。堂々と国家宗教で事件を起して人殺しをすればいい。
しかし、実際に政府は正々堂々と国家宗教をやっていない。政府は国民の眼の届かないところで隠れてコソコソと国家宗教をやっているだけだ。
それは、政府が多数決で国家宗教をやることを決めていないからである。
つまり、政府は民主政治の政治機関ではない。もちろん、哲人政治の政治機関でもない。政府は国民の総意にも正しい理論にもどちらにも基づいて政治をしていない。
つまり、今の日本政府は出鱈目[でたらめ]に政治をやっているだけだ。今の政府はもはや政治機関ではない。今の政府に日本の政治をやる資格はない。
政府が民主政治の政治機関でなければ、国民には政府を支持する理由がないから、『権力の法則』により政府には権力がない。政府に権力がなければ、国民は政府に従う必要はない。国民は政府の命令を無視して生きて行けばよい。
[9813] 科学の世界は民主主義ではない。 h22.3.22
科学では多数決で真理を決めたりはしない。
科学では正しいことを言った者が勝ちである。
科学の世界は哲人主義である。
だから、科学は急速に進歩したのだ。
[9814] 政府が悪い。 h22.3.22
政府は民主政治の政治機関である。
ところが今は、国民の大半は国家宗教をやって欲しくない。
だから、政府は国家宗教をやってはいけない。
それなのに、政府は国家宗教をやっている。はっきりとはやっていないがとにかくやっている。
だから、政府がいけない。民主政治に反することをしている政府がいけない。
それとも、政府はファジー論理でもやっているのか?
つまり、今の国民の大半は国家宗教をやって欲しくないが、国家宗教をやって欲しい国民も少しいるから、両方を折衷[せっちゅう]して“国家宗教をやらないようにしてやっている”のだ。
だから、やはり政府は民主政治の政治機関ということになる。
とにかく、民主政治は国民みんなを悪い国民に合わせて国を堕落させるまちがった政治である。
だから、政府を倒さなければならない。
[9815] 国家宗教をやるのとやらないのとどっちが正しいか? h22.3.22
人間は現実的な喜びを主とし空想的な喜びを副とすべきである。
国家宗教は空想的な喜びをやることである。
だから、国家宗教をやらないほうがやるよりも正しい。
だから、わざわざ政府がファジー論理を使ってまで無理やりまちがった国家宗教をやる必要はない。
国家宗教をやるかやらないかについては、せっかく正しい者が大半を占めるいい状況になっているから、政府はその状況を活かして国家宗教をばっさりとやめるべきである。
そうすれば、国民みんなが正しい者に合うから国全体がよくなる。
今は、国全体として宗教をやる時代ではない。
どうしても宗教をやりたい人は、個人的にやるようにすればいい。
宗教とは実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことだから、そんなことは個人的にやればいいことだ。
国家宗教も民間宗教も宗教としては同じだから、どうしても宗教をやりたい人は民間宗教に入ればいい。
[9816] どうして政府は国家宗教をやめたか? h22.3.22
政府は民主政治の政治機関である。
昔は国民の大半が宗教をやっていたから、政府は国家宗教をやっていた。
しかし、今は国民の大半が宗教をやめたから、政府は国家宗教をやらなくなった。
宗教とは実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことである。宗教とは昼間に起きながら夢を見ることである。だから、国家宗教といっても実際には国民がそれぞれの個人的な夢を心の中で思い浮かべて喜んでいたのである。時代によっては、たまたま国民みんなが同じ夢を見ることがあっただけである。
例えば、第2次世界大戦も宗教である。日本人は最初から戦争に勝つつもりはなく、戦争に勝てればいいと思っていただけである。当時の日本人は日本が戦争に勝つ夢を頭の中で想像して喜んでいただけなのである。当時の日本人は日本が戦争に勝つ夢を頭の中で想像して喜ぶために戦争をやったのである。実際の戦争の勝ち負けなど最初からどうでもよかったのである。
今の人間は空想的な喜びよりも現実的な喜びを大事にするから、宗教をやらなくなったのである。現代人にとっては、もはや宗教は不要なのである。
[9817] 民主政治と哲人政治☆ h22.3.22
政府は民主政治の政治機関である。
幕府は哲人政治の政治機関である。
民主政治と哲人政治は反対である。
だから、政府と幕府は反対である。
幕府が実現できることの中で国民の心を満足するのに対し、
政府は実現できないことの中で国民の心を満足する。
幕府が現実の世界の中で政策をやるのに対し、
政府は空想の世界の中で政策をやるだけである。
幕府が実現できる政策をやる機関なのに対し、
政府は実現できない政策をやる機関である。
民主政治は「多数決の原理」によるが、実際には国民の大半が馬鹿である。
馬鹿は想像の世界で喜ぶだけなので、政府の政策は空想的でくだらないのである。
一方、哲人政治は『正しい理論』によるが、正しい理論は利口が考える。
利口は現実の世界で喜ぶだけなので、幕府の政策は現実的ですばらしいのである。
[9818] どうして政府は国家宗教をやるのか? h22.3.22
政府は民主政治の政治機関である。
民主政治は「多数決の原理」による。
実際には、国民の大半が馬鹿である。
馬鹿は宗教をやりたがる。馬鹿は現実的な喜びよりも空想的な喜びを大事にするので、宗教をやりたがるのである。
反対に、利口は宗教をやりたがらない。利口は現実的な喜びを空想的な喜びよりも大事にするので、宗教をやりたがらないのである。
だから、政府は両者を折衷[せっちゅう]して国家宗教を“やるようにしながらやっていない”のである。
しかし、馬鹿のほうが利口よりも数が多いから、本来は政府は国家宗教を“やらないようにしながらやっている”ようにすべきである。政府は民主主義に反している。だから、内閣支持率がいつも低いのである。
政府はいちいち馬鹿を考慮しながら政策をする。利口と馬鹿を混ぜてグチャグチャにした汚い政策をする。だから、日本がだんだん悪くなっていく。
反対に、幕府は馬鹿を無視して政策をする。利口だけからなる純粋で綺麗[きれい]な政策をする。だから、日本がだんだんよくなっていく。
[9819] 『二人とロバ』 h22.3.22
民主政治の喩[たと]えである。
民主政治では政府が国民みんなの意見を聞くので、政府が国民みんなの意見を政策に取り込んだ挙句[あげく]政策を台無しにしてしまい何もできなくなって国民みんなが損をするのである。
例えば、今の日本政府が国家宗教を“やらないようにしてやっている”のも、やっていることにもならないし、やっていないことにもならないので、何もやっていないのと同じである。それなら、いっそやらないほうがいい。
また、民主政治では、国民の大半が馬鹿なので、まちがった政策をやって失敗することが多い。民主政治では、夢と現実がひっくり返っている[つまり、通常は夢(心)が現実に従っているが、民主政治では逆に現実が夢に従っている]ので、現実に盲目なので、たいてい政策が失敗するのである。
民主政治はまったくろくなことがない。
[9820] 国家宗教による人殺しは不当である。 h22.3.22
国家宗教も民間宗教も宗教であることに変わりはない。政府が国全体で宗教をやるから国家宗教というだけである。
宗教とは実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことである。
宗教では、神に願いをかなえてもらえることになっている。[例えば、神武天皇は、ふだんは国民みんなのそれぞれの願いをかなえる神だったのである。特に植民地時代には、日本が植民地を持つ夢を日本が植民地戦争に勝つ夢をかなえる神だったのだ。]実際には、願いがかなうことはないが。
だから、宗教では神を立てて、信者が神に願いをかなえてもらうように祈[いの]るまではやってもいい。信者は神に祈ることによって心の満足が得られればそれで十分である。
しかし、それ以外はすべてやってはいけないことである。それらは宗教に対する誤解が生んだ過[あやま]ちである。
だから、例えば、神の伝記に因[ちな]んで人殺しをすることはまちがいである。政府はまちがったことをやっているのである。たとえ政府であっても、誤解に基づいてやったことは罰しなければならない。
宗教は空想の世界の中で楽しむことであって、実際に現実の世界の中でやることではないのである。
昔は娯楽が少なかったから、宗教が娯楽のひとつだったのである。昔の人は暇だったから空想の世界の中で想像で遊んでいたのである。[今でも宗教の信者は突然立ち止まってしばらくボーとしていることがある。]昔は科学がまだ出来ていなかったので、人々は夢を実現することにこだわらなかったので、夢を空想するだけで満足していたのである。
[9821] 民主政治とは何か? h22.3.22
民主政治とは空想の世界の中で政治をすることである。
民主政治の政策は言葉の上で面白いだけで、実際に成功したためしがない。
民主政治の政策はオオカミ少年のように嘘ばっかりである。民主政治では「多数決の原理」に従うが、国民の大半が馬鹿なので、馬鹿は口先がでかいだけで失敗ばかりなので、政府の政策も失敗ばかりなのである。
だから、国民は民主政治の政治機関(政府)には何も期待していないのである。
[9822] 政府の政策の特徴 h22.3.22
政府は民主政治の政治機関である。
政府は多数決の原理で動いている。
国民の大半は馬鹿である。なぜなら、近代の日本が植民地政策に失敗したからである。
だから、政府は馬鹿に合わせた政策をやっている。
例えば、馬鹿は宗教をやりたがるから、政府は国家宗教をやっている。
例えば、馬鹿は眼で見るだけで考えないから、政府は頭で考えるよりも眼で見る喜びを重視した社会作りをしている。
例えば、馬鹿は男よりも女に多いから、政府は男よりも女に有利な社会作りをしている。
たしかに日本が世界大戦に負けて植民地政策に失敗したように、日本人の大半は馬鹿である。そうだからこそ、日本では民主政治をやってはいけないのである。日本が江戸時代に繁栄したのは、幕府が哲人政治をやって国民の大半の馬鹿を抑[おさ]えていたからである。今のヨーロッパやアメリカが繁栄しているのは、ヨーロッパやアメリカの政府が哲人政治をやっているからである。そのために、ヨーロッパやアメリカでは日本よりも雰囲気が厳しいのである。だから、日本ではやはり哲人政治にしなければならない。日本が民主政治をするなど1000年早いわ!
[9823] どうして幕府は鎖国したか? h22.3.22
徳川家康の時代には、世界中の国が民主政治をやっていたからである。
日本が開国すると、どうしても世界の情勢に合わさなければならず、日本が哲人政治をやりにくいから日本は鎖国したのである。
しかし、現在は情勢が一転して、世界の先進国では哲人政治をやっているから、むしろ日本が開国して哲人政治に合わせたほうがいいのである。
いまだに民主政治をやっているのは世界広しと言えども日本ぐらいのものである。
[9824] 宗教とは実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことである。 h22.3.23
古代の日本では、実際に任那[みまな]の植民地政策をやっていたから、国家宗教は夢を実現することだった。
しかし、中世以降の日本では植民地政策をやっていなかったから、国家宗教は夢を実現することから実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことに変わった。だから、民主政治のせいで悪人になった国民に神武天皇がからかわれて犯罪のネタに使われたりしたのである。[当時の犯罪の一部に神武天皇のネタを使った犯罪があっただけで、みんなが神武天皇のネタを使った犯罪をやっていたわけではない。だから、神武天皇の話に因[ちな]めばどんなことでもやっていいわけではないのである。神武天皇の話は植民地政策の宣伝のために作られたおとぎ話にすぎないのだ。]
現在では、世界的に植民地政策が禁止されているから、国家宗教は実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことのままである。現代における宗教の意味とはそんなものである。
現代では、夢を実現することは科学の役割りになってしまった。科学では人間が実現できることの中で夢をかなえるから、夢を実現することができるのである。
[9825] どうしてソクラテスは殺されたか? h22.3.23
ソクラテスがアテネの神に逆[さか]らったからである。
アテネの神は民主主義の神である。
ソクラテスは真実探求型の人間だったのでみんなとは違う真理を発見したために、民主主義に背[そむ]いたことになって殺されたのだ。
民主主義の国では真理の探究さえもできないから、アテネはすぐに滅びたのだ。
常識はまちがっていることが多いことを忘れてはならない。
ヨーロッパではときどきみんなとは違う真実を発見する研究者が現れる。だから、今のヨーロッパは実質的には哲人政治の国なのだ。現代では、科学が哲人主義だから、政治も哲人主義にしなければならない。そうすれば、科学と政治が仲良くなって、社会全体のまとまりがよくなる。
哲人主義は発展する。民主主義は衰退する。だから、社会を発展させたければ哲人主義の政治機関にしなければならない。
人間にはプライドがある。だから、人間はなかなか他人には従わない。しかし、人間であれば真理の発見者に対して敬意を抱[いだ]くべきである。だから、私は哲人政治の政治機関であれば喜んで従うつもりである。
哲学の行き詰まりが哲人政治の政治機関が現れない原因なのかもしれない。現状の哲学を超える画期的な哲学を持った政治家が現れるのはいつのことだろうか?
[9826] 『猿の惑星』 h22.3.23
政府は民主主義の政治機関である。
政府は多数決の原理で動いている。
国民の大半は馬鹿である。
政治家は国民の代表者だから、とりわけ馬鹿である。[天皇が馬鹿だと言われるのも、天皇が馬鹿主義の政府の代表者だからである。]
つまり、政治家は人間よりも知能の低い猿である。
『猿の惑星』の猿とは政府のことである。
民主主義の国(例、アメリカ)は猿の政府が人間の国民を支配する『猿の惑星』なのだ。
民主主義の国では馬鹿な猿が利口な人間を滅ぼして馬鹿な猿ばかりの国になるだろう。
民主主義の国では国民が政府と戦っている。しかし、国民が政府と戦う構図自体が政府による世論操作なのだ。民主主義の国だから、本来は政府が国民にひたすら従わなければならないはずである。民主主義の国では、政府に“国民と戦う権利”はないはずである。
[9827] 人間は自由の刑に処せられているか? h22.3.23
現在までにわかっている哲学上の真理がいくつかある。
それらの真理で政治機関を動かせば、哲人政治の政治機関になる。
だから、現在でも、その気になれば哲人政治の政治機関がすぐに出来る。
だから、人間は自由の刑に処せられてはいない。そんなに人間は自由ではない。
[9828] どうして日本の民主政治は衆愚政治なのか? h22.3.23
近代日本の植民地政策が失敗したからである。日本人が馬鹿の見本だからである。日本人が人類の恥さらしだからである。
だから、戦後の日本政府は自分の国の国民を馬鹿だと思って、馬鹿に合わせた衆愚政治をするようになったのである。
反対に、近代ヨーロッパやアメリカでは植民地政策がしばらくの間[あいだ]成功した。
だから、ヨーロッパやアメリカ政府は自分の国の国民を利口だと思って、利口に合わせた政治をするので衆愚政治にはならなかったのである。
戦前の日本政府はまだ自分の国の国民を馬鹿だと思っていなかったから、利口に合わせた民主政治をやっていたのである。国民を引き上げる民主政治をやっていたのである。
民主政治は「多数決の原理」でやるが、いちいち国民みんなの意思を考慮しなければならないのでけっこう面倒臭い。割り切って『正しい理論』だけでやる哲人政治のほうがかえって簡単である。
[9829] 民主政治と哲人政治☆ h22.3.23
国民には正しい考えの者とまちがった考えの者の両方がいる。
民主政治では、それらの両方を考慮して、“正しくもありまちがってもいる”政策をやらねばならない。[手塚治虫のマンガによく出て来る“わからないことをいう学者”と同じだ。]
反対に、哲人政治では、まちがった考えの者を切り捨てて、正しい考えの者だけを拾って、正しい政策をやればいい。
いくら国民の中にまちがった者がいるからといって、民主政治がまちがった者を考慮してまちがった政策をやり続けていれば国はどんどん悪くなる。
だから、哲人政治のほうが断然いいのである。
[9830] 日本政府は日本神道ではない。 h22.3.23
古墳時代までは日本政府は日本神道だけをやっていたが、飛鳥時代から日本政府は仏教を取り入れた。
飛鳥時代からは、日本政府は仏教と日本神道の両方をやるようになった。
それは、そもそも日本政府が民主主義の政治機関だからである。
仏教をやりたい国民がいれば、日本政府は当然仏教をやるのだ。
だから、日本政府は日本神道と同じ組織ではない。日本政府は日本人がやりたい宗教を全部やるのだ。
江戸幕府も仏教をやったが、それは幕府が仏教を正しい宗教だと考えたからやったのであって、日本政府が仏教をやりたい国民がいたから仏教をやったのとは理由が違う。江戸時代に日本政府が日本の政治をしていれば、日本政府がキリスト教もやっただろう。
[9831] 宗教に権力はあるか? h22.3.23
『権力の法則』より、宗教団体の権力はその宗教団体に対する国民の支持に比例する。
宗教とは、実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことである。
ところが、現代の人間は、空想の喜びよりも現実の喜びを重視する。現代では、宗教には人気がない。
だから、今の宗教に権力はないのである。
[9832] どうして日本のテレビ番組は派手[はで]なのか? h22.3.23
政府は民主政治の政治機関である。
政府は多数決の原理で動いている。
国民の大半は馬鹿である。
だから、政府は馬鹿に合わせた政治をしている。
例えば、馬鹿はテレビが好きである。
だから、政府はテレビに力を入れた政策をしているから、日本のテレビ番組は派手で面白いのである。外国のテレビ番組は日本に比べて地味である。
私はテレビをほとんど見ない。年末年始に教養ドキュメンタリー番組やオカルト番組を少し見るだけである。だから、政府が私に従った政策をしているからテレビ番組が面白いわけではない。
[9833] どうして日本は不況なのか? h22.3.23
日本では国民の大半が馬鹿である。だから、民主主義は馬鹿主義である。
政府は馬鹿に合わせた政治をしている。
馬鹿は現実のことなんかどうでもいい。現実のことなんかほったらかしである。
だから政府も現実のことなんかほったらかしだから、日本が不況なのである。日本が不景気のままなのである。
もともと政府は幕府とは違って現実の世界の中で政策をやらないから、現実問題は苦手なのである。[[9817]
参照。]政府は空想の世界の中で政策をやるだけだから、どうでもいい国家宗教ばかりやって、現実問題は扱わないのである。[馬鹿は空想的だから、馬鹿主義の政府は空想的な政策ばかりやるのである。国家宗教は空想的な政策のひとつである。]だから、景気が悪くなる一方で、いつまで経[た]ってもよくならないのである。
政府はいわゆるマンガ会社である。調子がいいふりをしているだけで実際には出鱈目[でたらめ]な仕事ばかりやっているのだ。
[9834] どうして政府は国家宗教をやるか? h22.3.23
幕府は利口に合わせた政策をやるが、政府は馬鹿に合わせた政策をやる。
利口は現実的だが、馬鹿は空想的である。
だから、幕府は現実的な政策をやるが、政府は空想的な政策をやるのである。
国家宗教は国民みんなが実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶことであり、国家宗教は空想的な政策だから、政府は国家宗教をやるのである。
[9835] 菊池賞とは何か? h22.3.23
芥川賞とは、政府に批判的な文学に授[さず]けられる賞である。
反対に、菊池賞とは、政府に賛同的な文学に授けられる賞である。
芥川の“川”とは徳川家の“川”である。
菊池の“菊”とは天皇家の家紋の菊である。
芥川賞の文学が理知的なのに対し、
菊池賞の文学は情緒的である。
菊池寛[きくちかん]の『父帰る』の父とは天皇家のことである。
菊池寛の“寛”とは、政府が国民を自由放任にして国民に対して寛大であるの“寛”である。[[9869]参照。]
菊池賞の受賞者に贈[おく]られる時計は神武天皇の光の玉の喩えであり、100万円は100代まで天皇家の子孫が蔓延[まんえん]したという駄洒落[だじゃれ]である。
[9836] 『キチガイに刃物』 h22.3.23
『キチガイに刃物』とは、科学が発達した文明国が原始的な民主政治をやっていることである。[世界中のどこの国でも民主政治から始まったから、民主政治はもっとも原始的な政治なのである。]
そういう国は国際的にきわめて危険である。日本は戦前も戦後も変わっていない。いつ植民地政策を日本がまたやりだすかわかったもんじゃない。
幕府が刀を持っていたのは、幕府が哲人政治の政治機関だったから、『キチガイに刃物』ではない。
[9837] 日本はどうして幕府を倒したのか? h22.3.23
幕末にペリーが日本に来たとき、世界の情勢を聞いた国民は、「今の世界は植民地時代である。他人の物を分捕[ぶんど]った者が勝ちである。馬鹿が得をする時代が来た。」と思った。
それで、国民は利口主義の幕府を倒して、馬鹿主義の政府を日本の政治機関にしたのである。
しかし、結局日本は植民地政策に失敗し、世界大戦後の世界は馬鹿が得をする時代ではなくなった。
だから、日本は早く馬鹿主義の政府を倒して、利口主義の幕府を日本の政治機関にしなければならない。
[9838] 国民は政府に従う必要はない。 h22.3.24
今、仮に国民全員が民主政治に賛成しているものとする。
政府が多数決の原理で動いているのであれば、国民は政府に従うべきである。
しかし、例えば政府が国家宗教をやっているように、政府は厳密に多数決の原理で動いてはいない。現代人の多くは宗教をやらないから、政府が国家宗教をやっているのはおかしい。いくらファジー論理でやっているとしても政府は国家宗教のやりすぎである。今の国民は政府に国家宗教で殺人事件を起してもらうほど宗教をやっていない。
政府は多数決の原理では動いていない。だから、国民は政府に従うべきではない。
また、『猿の惑星』の例のように、政府は民主主義の原理に反して国民を支配しようとしている。だから、政府は民主政治の政治機関ではない。だから、国民は政府に従うべきではない。
政府は多数決に基づかずに出鱈目[でたらめ]に政治をやっているだけである。政府は口先だけで自分が民主政治の政治機関だと言っているだけである。政府がちゃんと政治をしていないなら、国民もちゃんと政府に従う必要はない。
実際には、国民の多くは民主政治に賛成していない。民主政治は国を悪化させるまちがった政治である。だから、ますます国民は政府に従うべきではない。
[9839] どうして日本は戦争に負けたか? h22.3.24
政府が実現できない政策をする政治機関だからである。[[9817] を参照。]
日本が戦争に勝って世界を征服することが政府の政策だったから、日本は戦争に負けたのである。
政府は空想の世界で政策を立てるだけだから、現実の世界では政府の政策は実現しないのである。
政府は実現できない政策を立てるのが仕事だから、政府の政策はすべて失敗するのである。
政府は現実の世界においてはまったく役に立たない政治機関なのである。
現代は“現実の時代”だから、政府を国の政治機関にしておくことはまちがいである。
[9840] ホーキングとは何か? h22.3.24
ホーキングとは、ホウキの王様(キング)ということである。
ホウキとは箒[ほうき]のことではなく、放棄のことである。
だから、ホーキングとは放棄の王様である。
政府は空想的な政策を立てるだけで、現実問題を放棄するので放棄の王様である。
だから、ホーキングとは政府のことである。
政府は現実問題を放棄するので役立たずである。
だから、ホーキングは身体障害者の役立たずなのだ。
私はホーキングの業績は知らないが、たぶん何もないのだ。つまり、ホーキングは学者ぶっているだけで、じつは学者ではないのだ。たぶん、ただの国家宗教の信者だろう。
[9841] 政府は空想的な政治機関である。 h22.3.24
幕府と政府は反対である。
幕府は善人に合わせた政治をするが、政府は悪人に合わせた政治をする。
善人は現実的だが、悪人は空想的である。善人は現実が好きだが、悪人は現実が嫌いである。
だから、政府は空想的な現実離れした実現できない政策を立てて、失敗するだけである。
政府は現実が嫌いで現実的な問題を扱わないから、国民の現実の生活が荒れ放題である。
国民にとってはそんな政治機関は要らない。
政府を支持する国民はいない。『権力の法則』によって、政府に権力はない。だから、国民は政府の命令に従わない。
[半村良の『亜空間要塞』とは、空想的な政治機関である政府の喩[たと]えである。]
[9842] どうして政府は悪人に合わせた政治をするのか?☆ h22.3.24
政府はもともと民主主義の政治機関である。
ところが、実際には国民の大半が悪人であるために、民主主義は悪人主義である。
悪人は現実が嫌いで空想的である。
だから、政府は空想的な政治機関になってしまったのである。政府は国家宗教ばかりやって現実問題をほったらかしにするようになったのである。
『初心忘[わす]るべからず』というように、本来政府は国家宗教をやる機関ではなく民主主義の政治機関である。今の国民が宗教をやらないなら、政府は国家宗教をやめるべきである。今の国民が現実が嫌いな悪人でないなら、政府は空想的な政治機関をやめて現実的な政治機関となるべきである。
[9843] どうして江戸幕府は倒れたのか? h22.3.24
ペリーが日本に来たときに、国民はペリーから世界中で植民地政策をやっているのを聞いて、国民は「そんな国の儲[もう]けかたもあるのか!?」と思った。
長く続いた鎖国のせいで、日本人は“植民地政策”があることをすっかり忘れていたのである。徳川家康は、日本人が外国のまちがった思想にかぶれるのを防ぐために鎖国をしたのである。しかし、アメリカは日本の鎖国の壁を突破して日本に侵入して日本に“植民地政策”を広めたのである。
アメリカやヨーロッパは植民地政策で儲[もう]かって景気がよかった。
そこで、日本も植民地政策をやろうとした。その時点では、妥当[だとう]な判断だといえる。
ところが、幕府は頭が固くて自給自足政策しかやってくれなかったので、国民は幕府を倒して、幕府の代わりに植民地政策をやってくれる政府を復活させた。[幕府が植民地政策をやってくれれば、そのほうがよかったのだが。]日本政府は民主政治の政治機関だから、国民の大半が植民地政策をやりたかったので、「多数決の原理」によって日本政府が植民地政策を受け持つことになったのである。
しかし、植民地政策は失敗に終わった。島国育ちの日本人にとっては世界が無限に広いつもりだったが、実際には思ったよりも狭くて、他国との植民地の取り合いになって戦争で負けてしまったのである。
日本が世界大戦に負けてしまったのは、成り行き上やむをえないことであって、特に日本人が馬鹿だったわけではない。日本人は精一杯植民地政策をやって、それに失敗しただけのことである。
植民地政策をやめた今の政府には、民主政治の欠点だけしかない。今の政府は完全な衆愚政治の政治機関である。政府は空想に耽[ふけ]って現実はほったらかしである。政府には国民が望む政治機関としての機能がない。だから、国民は早く政府を倒して、哲人政治の政治機関を復活させねばならない。
[9844] ヨーロッパやアメリカではどうして民主主義の政治機関でもうまく行くのか?☆
h22.3.24
ヨーロッパやアメリカでは科学が好きな国民が多い。現実が好きな空想が嫌いな国民が多い。
だから、ヨーロッパやアメリカの民主主義の政治機関は、実質的には哲人政治の政治機関にほかならない。だから、ヨーロッパやアメリカでは民主主義の政治機関でもうまく行くのである。
一方、日本では科学が嫌いな国民が多い。空想が好きな現実が嫌いな国民が多い。
だから、日本の民主主義の政治機関は、実質的には衆愚政治の政治機関にほかならない。日本の民主主義の政治機関は、空想に耽[ふけ]って現実をほったらかしにするのでうまく行かない。
形の上で日本がいくらヨーロッパやアメリカを真似ても、国民の性格が違うからうまく行かない。いくらヨーロッパやアメリカで民主主義がうまく行くからといって、日本でもうまく行くわけではない。日本には日本にふさわしい政治のやり方がある。日本には哲人政治の政治機関のほうがふさわしい。
日本人もドイツ人もイタリア人も空想が好きで現実が嫌いである。だから、世界中から虐[いじ]められるのだ。国民の嫌な性格を直すためにも、日本の政治機関は哲人政治にしなければならない。
私の父親はよく文学を読むが、ノンフィクションしか読まない。だから、私は科学が好きなのだ。国民にとって政府は親のようなものである。だから、まず親が子供に善[い]い人間の手本を示さなければならないのだ。
[9845] 日本人は悪の民族 h22.3.24
日本人の大半は日本政府が国家宗教をやっていることを知っている。
それなのに、国民が政府に文句を言わないのは、国民が国家宗教を支持しているからである。
日本人の大半は、実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶ習慣がいまだにあるのである。[私や私の家族にはないが。]
日本人の大半は現実が嫌いで空想が好きなのだ。それは悪人の特徴である。
だから、日本人は悪の民族なのだ。
[9846] 政府が要らないことの証明 h22.3.24
政府は民主政治の政治機関である。
政府は「多数決の原理」で動いている。
ところが日本人の大半は馬鹿である。
馬鹿は現実が嫌いで空想的である。
だから、日本政府は国家宗教ばかりやって現実問題はほったらかしなのである。
政府は国民のために何の役にも立たない。そんなのはもはや政治機関ではない。
国民にとって政府は要らない機関である。
国民は政府を支持しない。
『権力の法則』によって、政府に権力はない。
だから、国民は政府に従わない。
[9847] 法律とは何か? h22.3.24
法律とは多数決である。国民の多数決で法律が決まるのである。けっして政治家や国会議員の独断で決まるのではない。
そこが民主政治のいいところである。
だから、この前のコンビニ強盗は有罪になったのである。日本神道の神に因[ちな]んで強盗をしても、強盗をやったことに変わらないから有罪なのである。国家宗教の神は、日本人が願い(実現する願いまたは実現しない願い)をかける時の祈[いの]りの対象にすぎないから、いくら神に因んでも実際に強盗したら当然無罪にはならないのである。たとえ神に自分が無罪になる願いをかけても、犯罪が見つかって捕[つか]まったら有罪になるのだ。[神が偉いから神に因めば何をやってもいいという発想は、おそらく神が聖典の作り話の上で偉そうにしているから神に権威があると思ったためだろう。たとえ神のもとになった実在の人物がいたとしても、聖典の話は当時の政府の政策に沿[そ]って作られた作り話である。]
もっとも、哲人政治でも『正しい理論』に基づいて法律を決めるのだから、悪くはない。むしろ、そのほうがまちがいがないからいいぐらいだ。
今のところは民主政治の法律でもそんなに悪くないからいいが、将来悪い国民が増えたら他人を殺しても他人の物を盗ってもいい悪い法律になるから、民主政治は危険である。実際に、日本はかつて中世にそんな状態になったことがあるのだ。だから、なるべく哲人政治にしたほうが安全である。みんなが知らないうちにまちがいだらけの世の中になってしまうのが、民主政治の怖[こわ]いところである。
[9848] 宗教団体に権力はあるか? h22.3.24
国家宗教でも民間宗教でも、宗教とは実現しない夢を頭の中で想像して喜ぶことである。【宗教の定義】
そんなくだらないことを支持する国民は現代ではほとんどいない。現代人は実現できることにしか興味がない。今日日[きょうび]は「自分が宗教の信者だ」なんてみっともなくて人前で言えたもんじゃない。
だから、『権力の法則』により、宗教団体に権力はない。
したがって、一般人に対しては宗教団体の命令は効かない。宗教団体の中で神や幹部の命令が信者に対して効くだけである。
今の日本国民の大半は宗教をやらないから、「多数決の原理」により日本政府は国家宗教をやらない。つまり、日本国は宗教団体ではない。いくら日本政府が熱心に国家宗教をやっても[日本政府の国家宗教のやり方はあまりにもテレビ向きで、宗教の定義から逸脱[いつだつ]しているが。つまり、日本政府のやっていることは実質的には宗教ではなく、宗教でないことを無理やり宗教と呼んでいるだけである。]、日本国民が宗教をやらなければ、日本は宗教の国ではない。だから、日本神道の幹部である日本政府や日本神道の神である神武天皇や天皇や私などの命令が国民に対して効くこともない。つまり、日本政府はたんなる政治団体であって、宗教団体ではないのである。日本政府は民主政治の政治機関だから、日本政府は日本国民に従わなければならない。『権力の法則』より、日本政府は日本国民の支持に比例して権力があるのであって、国民の支持がなければ政府には権力はない。
[9849] 政府がいけない。 h22.3.25
まず、民主主義そのものがいけない。民主主義は社会を悪化させる主義である。
仮に民主主義がいいとしても、政府は民主主義をちゃんとやっていない。政府は民主主義に反したことばかりやっている。例えば、国民が宗教をやらない時代に、政府は国家宗教をやっている。だから、政府は民主主義の政治機関ではない。
要するに、政府は現実の問題をほったらかしにして、どうでもいい国家宗教ばかりやっている。政府は役立たずの機関である。
だから、政府がいけない。
[9850] 日本政府は現実的な民主政治をすべきである。 h22.3.25
政府は民主政治の政治機関である。政府は国民の大半に合わせた政治をしなければならない。
日本人の大半は馬鹿である。つまり、現実が嫌いで空想が好きである。
しかし、日本人の大半は宗教をやっていない。現実問題をほったらかしにまではしない。
だから、日本政府がどうでもいい国家宗教ばかりやって大事な現実問題をほったらかしにするのは民主政治に反している。政府がひとりでくだらないことをやっているだけである。これでは、衆愚政治以下の愚人[ぐじん]政治である。哲人政治の反対である。[もっとも、政府の国家宗教には、国民を政府に従うようにさせる国民に対する洗脳の意図もある。しかし、洗脳は暗黙の訴えで効果が弱く、一度バレてしまえば以後効かなくなるから、やはり政府が無目的に無意味な国家宗教をやっていると見なすべきである。]
日本人は多少外国に比べて文学的なだけである。
だから、日本政府もヨーロッパやアメリカの政府のように“現実的な民主政治”(≒哲人政治)をやればいい。今はそういう時代だ。
[9851] どうして大日本帝国政府は二院制だったのか? h22.3.25
明治時代の日本政府は民主政治と貴族政治が半々だった。
それは、そもそも日本政府が植民地政策のために作られたからである。
貴族政治とは植民地政策のことである。
明治から世界大戦までは日本政府の仕事は植民地政策であって民主政治ではなかったのである。[もちろん、植民地政策が最も民主的な政策だったのである。植民地政策に比べれば、その他の民主的な政策はほったらかしにされたのである。]
[9852] 今の日本政府は愚人政治の政治機関である。 h22.3.25
日本政府はそもそも民主政治の政治機関である。
今の日本人の大半は、多少文学的だが、現実が好きで空想が嫌いである。
だから、日本政府が真面目[まじめ]に民主政治をするのだったら、「多数決の原理」に従って、ヨーロッパやアメリカの政府と同じように、“現実的な民主政治”をやっているはずである。
しかし、実際には、日本政府はどうでもいい国家宗教ばかりやって大事な現実問題をほったらかしにして‘空想的な民主政治’をやっている。
だから、今の日本政府は民主主義の政治機関ではない。日本政府は「まちがった理論」に基づいてまちがった政治をやっている愚人政治の政治機関である。
したがって、今の日本政府には国民の支持がない。日本国民は政府が民主政治の機関であって政府が国民に従うから政府を支持しているのであって、政府が民主政治の機関ではなく政府が国民に従わなければ国民は政府を支持しない。だから、『権力の法則』(つまり、ある団体の権力の強さは、その団体に対する国民の支持に比例する。)により、今の日本政府には権力がない。だから、国民は政府には従わない。国民は政府に逆[さか]らって政府を倒すだろう。
[9853] 芥川龍之介はなぜ政府に対する批判を伏せて書かねばならなかったのか? h22.3.25
芥川は「羅生門」から「河童」まで、ことごとく政府に対する批判的な文学を書き続けた。例えば、『杜子春』は天皇になりたい国民が、神武天皇が当時の天皇に成り下がった(←両親が牛になった)のを哀[あわ]れに思って自分が天皇になることを諦[あきら]める話である。
芥川が生きていた時代(明治25年〜昭和2年)には、植民地政策をやっていた政府に対する国民の支持が強く、『権力の法則』により政府に強い権力があった。
そんな時代においては、露骨[ろこつ]に政府に対する批判的な文章を書くと周[まわ]りの国民からボコボコにされるので、芥川は政府に対する批判を喩[たと]え話にして伏せて書かねばならなかったのである。
しかし、今の政府はもはや民主政治の政治機関ではないので、今の政府には国民の支持がない。だから、『権力の法則』により政府には権力がない。だから、今の時代では、露骨に政府に対する批判的な文章を書くことができる。書くことが許される。
だから、実際に私がこうして露骨に政府に対する批判を書いているのである。
[9854] 日本はすでに無政府主義である。 h22.3.25
今の日本政府は現実問題をほったらかしにしている。
だから、今の日本は無政府主義である。政府の建物が建っているだけで政治機関としての機能がない。
しかし、今の日本政府は余計な国家宗教をやっている。日本から余計なことを除[の]けるためには、政府を倒すべきである。
日本の現実問題を解決するためには、日本に善[い]い政治機関が必要である。それは一体いつになったら出来るのだろうか?(哲人主義>無政府主義>民主主義)
[9855] うさぎとかめ h22.3.25
うさぎは政府である。うさぎは白くて丸いので神武天皇の光の玉である。
かめは幕府である。徳川家康の『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。』という思想が“かめ”っぽい。
政府はたまに派手[はで]な政策で成功して大もうけするが、それ以外のときは失敗続きで国が悪くなる。
幕府は大もうけすることはないが、正しい政策で国を少しずつよくすることを積み重ねていく。
だから、最後には幕府が政府に勝つのだ。
[9856] 宗教人の生き方 h22.3.26
普通の人は、『実在の世界』を勉強して、『実在の世界』の中で幸福に生きていこうとする。
ところが、宗教の人は、「空想の世界」を勉強して、「空想の世界」の中で幸福に生きて行こうとする。
だから、宗教は、実現できない夢を頭の中で想像して喜ぶだけなのである。『実在の世界』の中で「空想の世界」で生きて行くことは最初から無理な話である。
例えば、聖書に記されているキリスト教における空想の世界は、そもそも中世のヨーロッパ政府が自分たちの福祉政策を一般大衆へ宣伝するために作った“神話”なのである。だから、キリストは福祉の超能力が使える神なのである。
本来聖書はヨーロッパ政府が社会科の教育のために作った“社会科の教科書”だったのだが、教科書が作り話になりすぎたために、国語の教科書のように「空想の世界」の教育になってしまったのである。そのせいで、ヨーロッパの人々は「空想の世界」の中で生きるようになってしまったのである。キリスト教の教会は学校だったのである。
宗教の人は、一生の間[あいだ]空想と実在の食い違いに苦しめられて、夢が実現できないイライラ感に苦しめられながら生きている。人は宗教によっては幸福にはなれない。宗教は自分で自分を苦しめるだけだ。
だから、宗教の人はそんな生き方をやめて、普通の人のように、実在の世界を勉強して、実在の世界の中で自分の夢をかなえるようにすれば、もっと幸福になれる。
一方、政府は民主政治の政治機関である。だから、政府と宗教は本来別の概念であり関係がない。中世のヨーロッパでは、政府が教会を建てて国民に聖書やアリストテレス力学やプトレマイオス天文学を勉強させていた。ところが、聖書やアリストテレス力学やプトレマイオス天文学はまちがいが多い内容だったので、かえってヨーロッパの人々は馬鹿になってしまったのである。そのせいで、ヨーロッパは文化が衰退して暗黒時代になってしまったのだ。一方、中世の日本では、政府がときどき国家宗教で余計なことをするだけで、政府は民主政治で国民をほったらかしにしていたから、国民が好き勝手し放題で、国中が荒れていたのである。政府が宮中[きゅうちゅう]で曲水の宴[うたげ]をやって優雅に和歌を詠[よ]んで遊んでいる一方で、国民は互いの物を奪い合って殺し合いをしていたのである。
[9857] どうして宗教は空想的なのか? h22.3.26
宗教は中世の社会科である。宗教の聖典は中世の社会科の教科書である。
中世の社会科の教科書はまちがっているので、中世の社会科は空想的なのである。つまり、宗教は空想的なのである。
例えば、キリスト社会学(キリスト教のこと)は「福祉政策」を原理としていたからまちがっていた。[福祉政策では「弱い者を強い者よりも有利にする」ので、国がひっくり返るのである。「弱い者を強い者よりも有利にする」とみんなが弱い者になろうとして強い者がいなくなる。つまり、みんなが他人に働かせて自分が遊ぶようになると、働く者がいなくなる。だから、国が成り立たない。]神武天皇社会学(日本神道のこと)は「植民地政策」を原理としていたからまちがっていた。[植民地政策では、少数の支配者が多数の奴隷を支配しなければならないが、奴隷が一方的に不利なので、少数の支配者に対する多数の奴隷の支持が得られず、『権力の法則』によって少数の支配者には権力がなく、多数の奴隷が少数の支配者に従わなくなるので、結局失敗に終わるのである。]
アリストテレス力学が「力を加えないと物が止まる」ことを原理としていたからまちがっていたのや、プトレマイオス天文学が「天が動いている」ことを原理としていたからまちがっていたのと同じことである。
まちがいは現実と合っていないから、まちがいは頭の中で想像するだけで、実現することはできない。だから、キリスト社会学や神武天皇社会学やアリストテレス力学やプトレマイオス天文学などは紙の上に書いてあるだけで、それらの世界を実現することはできないのである。
まちがいを支持する者はいないから、『権力の法則』によってまちがいには権力がない。だから、キリスト社会学や神武天皇社会学やアリストテレス力学やプトレマイオス天文学は権力がないのだ。
政府よりも幕府がうまく行ったのは、民主原理よりも哲人原理のほうが正しいからである。つまり、まちがった者による多数決よりも正しい者による少数決のほうが正しいのである。正しいかまちがっているかは人間が主観的に決められることではなく、人間から離れた実在によって客観的に決まることなので、民主原理よりも哲人原理のほうが正しいのだ。
徳川家康は日本に仏教を取り入れたが、仏教については「知覚で真理を見る」ことは正しいが「五感を用いない」ことはまちがいである。だから、徳川家康は、さらに儒教を取り入れることによって「五感を用いる」ように修正したのだ。徳川家康は、日本を正しい哲学が通用する国にしたから、江戸時代の日本は繁栄したのである。反対に、政府は民主政治で国民をほったらかしにするので、政府の時代は日本がまちがった哲学が通用する国になって滅亡するのだ。つまり、国民の常識がまちがっている国は滅亡し、国民の常識が正しい国は繁栄するのだ。
政府は民主政治で国民をほったらかしにする。政府は自分のストレス解消のために国家宗教で国民を殺したり虐[いじ]めたりするだけである。[[9858]参照。]それなら、政府なんて要らない。政府なんかあってもなくても変わらないから、潰[つぶ]れてなくなったほうがいい。
[9858] 政府はどうして洗脳をするのか? h22.3.26
政府は民主政治の政治機関である。
政府は多数決の原理で動いている。
だから、政府は国民の支持を得やすい。
この世には『権力の法則』があるから、政府には権力が発生する。
政府は自分に発生した権力をさらに強めるために、国民に対していろんな洗脳をして国民を支配しようとするのである。
政府の国民に対する洗脳とは、例えば、国家宗教である。国家宗教の神が聖典の上で偉そうにしているので、国民には神が人間よりも上の者だと思われているので、政府は国家宗教で国民を殺したり国民を虐[いじ]めたりして自分を国民よりも上の者に思わせようとしているのだ。[ただし、政府は自分が国家宗教でやっていることをあからさまにはしていないから、国家宗教による洗脳効果は弱いと考えられる。政治家のたんなるストレス解消かもしれない。例えば、鉄道の高架化も、国民が毎日長い階段を登らなければならないので、政府による国民に対する虐[いじ]めだと考えられる。民主政治では、政府が国民よりも下なので、政府はストレスが溜[た]まるのである。]また、例えば、国会中継や国会議員の記者会見なども、国会議員が偉そうにして、国民に政府が国民よりも上の者だと思わせているのだ。
しかし、社会科の教科書にあるように政府は本来民主政治の政治機関だから、政府は国民に従わねばならない。だから、政府は国民よりも偉くはない。政府は国民よりも下だ。
真実がバレてしまったら、もはや洗脳は効かない。政府は国民に対する余計な洗脳をやめるべきである。
それじゃあ、国民は『民主主義の原理』を実践[じっせん]して国民は政府に偉そうにして税金を払わないでおくか。
そもそも、政府は国民よりも下だから、国民に納税の義務があることがおかしい。税金は契約制にすべきである。政府は国家宗教で国民を虐[いじ]めるだけで、現実問題はほったらかしである。政府は国民の役に立たない。だから、国民が政府の世話になりたくなければ政府と契約しなければいい。
[9859] 自由か強制か? h22.3.26
人間は自由放任にするとまちがいを犯して悪い人間になりやすい。
例えば、それが私だ。私は中学3年生の頃、オナニーが悪いことだと知らずにオナニーをして、テレパシー器官と焦燥中枢を同時に活動(神経興奮)させてしまったために『条件反射』でテレパシー器官と焦燥中枢の間に連合が出来て精神分裂病に罹[かか]った。それ以後、人生に楽しいことがなくなり、人間関係がうまく行かなくなり出世できなくなった。
だから、人間には『正しい哲学』による強制が必要なのである。自由は減るが成功は増える。長い目で見ると、そのほうが幸福である。
したがって、国の政治は国民を自由放任にする民主政治よりも国民を正しい箍[たが]に嵌[は]める哲人政治のほうがいい。そのほうが国民が幸福になれる。そのほうが政治機関も多くの国民の支持が得られて強い権力を得ることができる。
[9860] 精神分裂病の原理☆ h22.3.26
1)人間の脳細胞には“感覚”(感じること)がある。脳細胞が興奮すると感覚が発生する。感覚と感覚は感覚波(テレバシー)で相互作用する。人間の脳には、感覚波を出したり聞いたりするテレパシー器官がある。
2)テレパシー器官と焦燥中枢(イライラ感情の中枢)を同時に興奮させると、『条件反射』によって両者の間に連合が形成されて精神分裂病に罹[かか]る。【精神分裂病の必要十分条件】
精神分裂病に罹[かか]らないためには、テレパシー器官があること自体は仕方がないから、テレパシー器官と焦燥中枢を同時に興奮させないようにすればいい。つまり、自分が怒りながらテレパシーを使おうとしてはならない。
精神分裂病を治すには、自分で自分の頭の中にある焦燥中枢の興奮を抑えることができるようになるしかない。
[9861] 躁鬱病[そううつびょう]の原理 h22.3.26
人間は眼で見て頭で考えて心で思って身体で動くと、すべての感覚と筋肉を使うからバランスが取れた万能人になる。万能人は弱点がないから、苦手がないから、鬱病[うつびょう]に罹[かか]りにくい。
ところが、幼少児期[ようしょうにき]に親などから偏[かたよ]った教育を受けると、使わない感覚や筋肉ができて、苦手ができる。苦手なことをやると心が沈んで(つまり、鬱感情が興奮して)鬱病になる。要するに、人間の心に鬱感情があるから鬱病になるのである。
鬱病に罹らないためには、子供の頃から偏らない教育を受ければいい。
鬱病を治すには、苦手なことから逃[のが]れるしかない。苦手があるということは得意があるということでもある。だから、自分が得意なことをやればいい。
[9862] どうしてカミュは殺されたか? h22.3.26
カミュは自動車で轢[ひ]き殺された。
それは、カミュが神武天皇教を悪く言ったからである。
当時のヨーロッパには神武天皇教の植民地政策を強く支持するグループがいたので、そのグループによってカミュは暗殺されたのである。
しかし、植民地政策は上手[うま]い政策ではない。一時[いっとき]成功するだけで、長続きしないはかない政策である。したがって、あまり儲[もう]からない政策である。[[9857]を参照。]
だから、いくら神武天皇教の植民地政策を支持しても無駄[むだ]なのだ。
もっと頭を使って他[ほか]の善[い]い政策を考えねばならない。
[9863] 宗教の信者とは何か? h22.3.26
宗教とは中世のまちがった社会学である。
だから、宗教の信者とは、中世のまちがった社会学をいまだに信じている人たちである。
現代には現代において正しいと考えられている社会学がある。現代において正しいと考えられている政策がある。[福祉政策そのものは現代にもあるが、キリスト教のような福祉政策を原理とした社会学は行き過ぎてもはや現実的ではない。現代の社会学ではむしろその反対に「強い者を弱い者よりも有利にする」政策を採っている。例えば、アメリカは資本主義だから反キリスト教的である。だから、アメリカがキリスト教をやっているというのは嘘[うそ]である。共産主義や民主主義がキリスト教に近いといえる。]
だから、わざわざ中世の古臭いまちがった社会学を信じるのは変である。そんな暇があったら現代の新しい社会学を勉強すべきである。
[9864] 神とは何か? h22.3.27
宗教は中世の社会科である。聖典とは中世の社会科の教科書である。
プラトンの哲学が対話形式で書かれていたように、ガリレイの物理の教科書が対話形式で書かれていたように、中世の社会科の教科書は対話形式で書かれていた。戯曲形式で書かれていた。
その社会科の教科書の主役となる登場人物が神だったのである。
つまり、神とはオストワルドの『化学の学校』に出て来る先生のように、中世の社会科の教科書に出て来る先生だったのだ。[そんな者に対して祈ったって、願いがかなうわけがない。]
当時はまだ“正しい政策”がわかっていなかったから、神が‘まちがった政策’を説[と]いていたのである。当時はまだ“社会にとっての正しい原理”がわかっていなかったから、神が‘社会にとってのまちがった原理’を説いていたのである。昔は現実の社会のことがまだよくわかっていなかったから、社会科の教科書にはまちがったことが書いてあったのである。
最近の教科書は独話形式で書かれているので、神はいなくなった。
[9865] 宗教は要るか? h22.3.27
宗教は中世の社会科である。
宗教はまちがった社会科である。宗教は‘社会にとってのまちがった原理’を説いている。例えば、キリスト教の福祉原理も神武天皇教の植民地原理もまちがいである。そんな社会は実現できない。[[9857] 参照。]
まちがったことを教えることは社会にとって有害である。
だから、宗教は要らない。宗教はなくならねばならない。
[9866] 政府は要るか? h22.3.27
政府は民主主義の政治機関である。【政府の定義】
ところが、今の政府は民主主義の政治機関ではない。
今の国民の大半は現実的で空想的ではないのに、
今の政府は現実問題をほったらかして国家宗教ばかりやっている。
今の政府は政府が何であるのかわかっていない。今の政府は政府自身を誤解している。
今の宗教団体の多くが宗教が何であるのかわからず、宗教自身を誤解しているのと同じである。
今の政府は政府失格である。今の政府は政府ではない。だから、政府は要らない。
政府が国民から税金を取りたければ、政府は真面目[まじめ]に政府としての仕事をしろ!
今の政府は、缶ジュースの自動販売機で自分が欲しいジュースとは別のジュースが出てきたようなものだ。そんな自動販売機に払う金はない。
[9867] 現代の宗教 h22.3.27
宗教とは本来は中世のまちがった社会学である。
現代の宗教は、“社会にとっての正しい政策”や“社会にとっての正しい原理”を考えることである。考えて実践[じっせん]することである。
科学の実験のように実際にやってみなければ理論が正しいかどうかわからないから、実践するのはよいことである。
成功すれば、今の国の政治機関に代わる新しい国の政治機関になれるかもしれない。
まぎらわしいから宗教団体と言うよりも政治団体と言ったほうがいいだろう。
[9868] 神とは何か? h22.3.27
神とは中世の社会家の教科書に出て来る主人公である。
神とは、教科書の著者の代理人である。神は教科書の著者本人であると言ってもいい。
例えば、キリスト教の神はキリストではなく、聖書の著者である。つまり、福祉原理を考え出した政治家こそがキリストの正体なのである。プラトン哲学に出て来るソクラテスの正体がプラトン本人であり、ガリレオの『天文対話』に出て来るサルビアチの正体がガリレオ本人であるようなものである。
宗教団体とは政治団体のことである。宗教団体は“ある特定の社会的原理”に基づいて出来た団体のことだから、政治団体と同じである。
だから、一般に、宗教団体の神とは政治団体の政治家のことである。社会思想家のことである。つまり、神とはある特定の政策を執行[しっこう]する人のことである。[神とは政治家のことである。だから、たとえ本物の超能力者がいたとしても、超能力者は超能力者にすぎず、神ではない。]信者とは神(政治家)の政策を支持する人のことである。
大事なのは、政治団体の原理が正しいかまちがっているかであって、政治家が誰かではない。例えば、キリスト教の原理は福祉原理であってまちがっているから、キリスト教団は悪い政治団体なのである。
[9869] 『赤信号みんなで渡れば怖くない。』 h22.3.27
かなり以前にビートたけしがテレビで言っていた言葉である。
『赤信号みんなで渡れば怖くない。』とは、多数決のことである。多数決ではたとえ決定事項がまちがっていても実行に移されるのである。
『みんな殿様になりたいんだ。』とは、民主主義のことである。民主主義とは国民一人一人が自分勝手にすることである。民主主義ではたとえ自分の考えがまちがっていてもそれを肯定できるのである。
つまり、ビートたけしが言っているのは、今の日本が民主主義の国であり、多数決の原理で動いているということである。政府は国民をほったらかしにしている。自由放任[ほうにん]にしている。政府が国民をほったらかしにすれば、国は自然に多数決の原理に従って民主主義の国になるからである。たとえ中世のようにこの世が地獄になっても、それは国民の責任だから政府の知ったことではないと言うわけである。
民主主義では国民の思想がまちがいになるからいけない。だから、政府に日本の政治をさせてはいけない。国が健全に維持されるためには、国が発展するためには、国民の思想を管理する組織が国には必要なのである。
[9870] 現実的な民主政治でもかまわない。 h22.3.27
政府は民主主義の政治機関である。
それなら、今の国民の大半は現実的なので、政府は現実的な民主政治をしなければならない。
私は現実的な民主主義に対してまで文句を言うつもりはない。
現実的な民主主義は哲人政治とあまり変わらないので、どちらでもいい。
空想的な民主政治をやっている今の日本政府は民主主義の政治機関ではない。政府が国民をほったらかしにするのは民主的であるが、政府が国家宗教をやるのは民主的ではない。だから、政府は国家宗教をやめねばならない。でも、それなら、政府は何もすることがないからあっても仕方がない。だから、政府はなくなったほうがいい。
現実的な民主政治は哲人政治とあまり変わらない。だから、善[い]い政治機関は幕府のような哲人政治の政治機関以外にはない。
みんなで決めようが決めまいが正しいことは正しいし、まちがいはまちがいである。多数決決定はむしろまちがいを増やすだけである。現代人は、多数決決定によらなくても正しいかまちがいかの区別はできる。だから、現代では、多数決決定など要らないのだ。国民が『正しい政治理論』を考え出せばいいのである。政治機関が『正しい政治理論』を実践しさえすればいいのである。
[9871] 民主政治と哲人政治とどっちが正しいか? h22.3.27
たとえ国民の大半が民主政治を支持しても、哲人政治のほうが正しい。
だから、国の政治機関は哲人政治の政治機関にしなければならない。
それなのに、今の日本人は哲人政治を嫌っている。
それは、哲人政治には自由がないからである。
しかし、自由であることと幸福であることとは違う。
たとえ自由でなくても幸福であるならいい。
人間にとっては自由よりも幸福のほうが大事である。[もっとも、江戸時代にもマンガを読むくらいの自由はあった。江戸時代にも居酒屋はあった。]
だから、やはり哲人政治でいいのである。
国民の大半が馬鹿だから、民主政治の政治機関(政府)に従っているまでのことである。
[9872] 幕府と政府の違い h22.3.27
現代では福祉原理はうまく行かないことはわかっている。[[9857]参照。]
幕府は国民の福祉原理(つまり福祉政策を原理とする国家を作ること)の訴えに対して刀で脅[おど]して国民の訴えを退[しりぞ]けて、未然[みぜん]に失敗を防ぐ。
政府は国民の福祉原理の訴えに素直に従って、あとで失敗する。
だから、幕府では国が繁栄するが、政府では国が滅亡するのだ。
残念ながら国民の大半が馬鹿であることは真実だから、その点を考慮して政治機関を設[もう]けなければならない。
[9873] 幕府の誤[あやま]り h22.3.27
幕府が鎖国をせず、近代化をもっと早くやっていれば、日本はヨーロッパやアメリカのように植民地政策で儲[もう]けることができたはずだ。世界大戦のときにも連合国軍にまわれたはずだ。
だから、その点は幕府の判断が誤っていた。
幕府は原則的には正しい政策をする機関だったが、いくつかまちがいを犯していたのだ。
だから、幕末の国民に幕府のまちがいを指摘されて幕府は倒されたのだ。幕府は自分の政策がまちがっていた責任をとって自決したのだ。
どんな政治機関にもまちがいはある。幕府は反省を怠[おこた]って自分が正しいとうぬぼれて政策の改良を怠[なま]けていたから、政治機関としてはいまいちだった。広く世界に目を向け世界の動きをキャッチできなかったのが、幕府の敗因だ。
とにかく政治機関が“社会にとっての正しい原理”で動けばいいことは確かである。だから、民主政治でも哲人政治でも、とにかく政治機関が“正しい政策”で政治をすれば成功するのである。
[9874] 質より量 h22.3.27
たとえインドがイギリスの植民地であったとしても、個人としてはラマヌジャンはヨーロッパ人よりも上である。ラマヌジャンが数学の定理だけ考えて、証明はヨーロッパ人の助手にやらせたのだ。[ラマヌジャンは1から10000ぐらいまでの具体的な自然数の性質を自分で調べて、そこからいくつかの帰納的概念を自分で作り出していた。それがラマヌジャンの数学の強さの秘訣[ひけつ]だ。カール=フリードリッヒ=ガウスも同じような方法で数学をやっていた。具体的なことについて考えているなかで、帰納的に“概念”が作り出されるのだ。誰でも、やっていることは同じなのだ。]
残念ながら、日本人に天才はいない。正直言って、関孝和や高木貞治はヨーロッパ人よりもちょっと下だ。
しかし、たとえ天才はいなくても、そこそこ業績が上がればいい。
質で駄目でも、量(人数)ならなんとかなる。
だから、日本人が知覚の分野での活躍をあきらめる必要はない。
[9875] キリスト教団とは何か? h22.3.28
“福祉原理の国”は実現できない。[[9857]参照。]
“永久機関”が実現できないのと同じことである。
永久機関は1人でも作れないし、1万人でも1億人でも作れない。
だから、福祉原理の国も1人でも1万人でも1億人でも作れない。
したがって、キリスト教団とは空想の世界で福祉原理の国を想像して喜んでいるだけである。キリスト教団は実際に実在の世界の中で福祉原理の国を作ろうとしないから、福祉原理の国が実現できないことがいまだにわからないのだ。頭のおかしいあわれな連中だ。
日本神道も同じことである。日本神道は“植民地原理の国”が作れないことがわからない頭のおかしいあわれな連中なのだ。
ただ、宗教団体(つまり政治団体)によっては『正しい原理』を持っているかもしれないので、一概[いちがい]に宗教団体が悪い団体であるわけではない。キリスト教団と日本神道が実現できないことを望んでいる悪い教団だと言っているだけである。
[9876] 私は神ではない。 h22.3.28
私は子供の頃から政治活動に興味がない。自分が政治的原理を持って政治活動をやったことがない。
つまり、私は政治家ではない。
神とは政治家のことである。[[9868] 参照。]もっとも、神といってもその実体は政治家なのだから、わざわざ神とわかりにい言葉で言わなくても最初からわかりやすく政治家と言えばいい。宗教家も政治家のことである。
私は政治家ではないから、私は神ではない。
[9877] モーゼ教団 h22.3.28
モーゼ教団の原理は『奴隷解放原理』である。つまり『人権保障原理』である。
人権保障原理は正しい原理である。
人類は近代になってなんとかこの原理を実現できた。
モーゼ教団の原理は現代においても通用する正しい原理だったのである。
たまにはまともな宗教団体(政治団体)もあるということである。
つまり、現代の全世界がモーゼ教団なのだ。全人類がモーゼ教の信者なのだ。
つまり、今の全世界の国々が『奴隷解放原理』(モーゼの原理)を満足しているということである。『奴隷解放原理』は国についての正しい社会法則だったのである。『ビオ・サバールの法則』が電磁場についての正しい法則であるように、『モーゼの原理』は国についての正しい法則なのである。たとえ反応速度は遅くても(つまり、奴隷のない社会を実現するまでに長い時間がかかっても)、“奴隷のない社会”は安定に存在できるので、『モーゼの原理』は国についての正しい法則なのである。
[9878] 日本政府は駄目[だめ]教団だ。 h22.3.28
日本政府は民主原理である。哲人原理ではない。
かつては植民地政策をやっていた。
いまでも国家宗教政策をやっている。
馬鹿主義政策をやっている。利口主義政策をやっていない。
女尊男卑政策もやっている。
五感主義政策もやっている。知覚主義政策をやっていない。
肩書き主義政策もやっている。実力主義政策をやっていない。
日本政府がやる政策にはまったくろくな物がない。国を滅ぼすまちがった政策や原理ばっかりだ。
日本政府は「滅亡原理」の政治団体なのだ。
政府は自分の人気をとるために、馬鹿に弱い者に狂った者に有利な汚い政策をやっている。政府にとっては国民がお客なので、政府は精一杯お客のご機嫌をとっているのである。“国民の支持”が得られないと、政治機関はやっていけないからである。しかし、政治機関にとって大事なのは客の機嫌をとることではなく、『正しい政策』をやることなのである。
[9879] 仏教 h22.3.28
江戸幕府が日本に仏教を取り入れたのは、日本人に“真理を尊[たっと]ぶ心”を植え付けるためである。
仏教は知覚主義なので、真理を尊ぶのである。
明治時代に日本の近代化がうまく行ったのは、日本人に真理を尊ぶ心があったからである。
今の日本人に真理を尊ぶ心が弱いのは、江戸時代から離れすぎてしまったからである。そのうち、日本人が痴漢[ちかん]の群れになるだろう。
もっとも、仏教の信者(私も含む)は真理を尊ぶ心が今でも強い。
[9880] 徳川家康はどうして身分制を定めたか? h22.3.28
仏教には身分制がない。仏教はモーゼ教の奴隷解放原理に従っていたので、神武天皇教やキリスト教のように身分制がないのである。
だから、徳川家康が身分制を自分で定めたのである。
農業はつらい仕事である。
だから、国民に「職業選択の自由」を認めると、みんなが農業をやらなくなる。
しかし、それでは国が成り立たない。
そこで、徳川家康は農業人口の流出を食い止めるために、農民の身分を高くして農民の待遇をよくしたのである。[身分制とは身分が下の者が上の者に服従する制度ではない。もし、そうだったら、工業者や商業者が農民に服従しなければならない。しかし、実際にはそんなことはない。だから、身分制度とは身分が下の者が上の者に服従する制度ではなく、職業別に待遇を調整することなのである。武士は軽労働だから、武士の待遇は商人と同じぐらいでいいと思う。]だから、飢饉[ききん]のとき農民だけが一揆[いっき]を起して武士に反抗する元気があったのである。[江戸幕府が飢饉の地方への食料物資の配給をやれば、幕府に人気が出て国民の支持を集めただろう。しかし、実際にそうしなかったのは、幕府が身分制を論理的・形式的に考えすぎて、武士が農民のためになることをしてはならないと考えたためである。本来幕府は国民によって支えられていることを忘れてはならなかったのだ。/江戸時代には身分制があったから、大勢の農民がお米を作っていたので、江戸時代の日本人は国産の新米のおいしいお米が食べられたのである。しかし、今は日本政府が「職業選択の自由」政策をやっているから、農民はみんな農業を辞[や]めて他の仕事に移ったので、日本人がおいしいお米が食べられなくなったのである。外国産の古古米のまずい米しか食べられなくなったのである。]
徳川家康が穢多[えた]・非人[ひにん]を定めたのは、人々の幕府に対する不満を方向転換させて穢多・非人に向けさせるためである。幕府の哲人政治はインテリ以外の国民の支持が得られにくいので、幕府を安定に存在させるためには穢多・非人がどうしても必要だったのである。つまり、穢多・非人が幕府体勢の基盤を支えていたのである。
国民が幕府を支持していたのは、幕府が『正しい政治』をするからである。たとえ国民の気持ちを無視しても、幕府は『正しい政治』をするのである。それ以外には幕府の取り柄[とりえ]がなかったのである。
[9881] 民主政治と哲人政治 h22.3.28
民主政治は、政治機関が国民の支持が得られやすいのが長所である。しかし、実際には悪い国民が善い国民よりも多いから、政策が悪化しやすいのが難点である。
反対に、哲人政治は、政策が正しいのが長所だが、国民の支持が得られにくいのが難点である。そのために、政治機関の者が刀で国民を脅[おど]しつけたり、穢多・非人の身分を定めたりする必要があった。
民主政治は長い目で見れば必ず失敗に終わる。それは過去の人類の歴史が物語っている。世界中の国で民主政治は失敗に終わっている。
日本ではかつて江戸時代に哲人政治をやっていた。だから、日本ではやる気さえあれば哲人政治ができる。
無政府主義も民主政治と同じである。なぜなら、民主政治では、政治機関が国民をほったらかしにするからである。だから、善[い]い政治は哲人政治以外にはない。
存在価値のある政治機関は、『正しい社会原理』によって国を運営する哲人政治の政治機関以外にはない。
安っぽい国民の人気取りの民主政治は国を滅ぼす。
[9882] 馬鹿に生きる価値はない。 h22.3.28
馬鹿はこの世に客観的真理があることすらわかっていない。真理は実在が決めるのであり、人間が決めるのではないことがわかっていない。
そんな馬鹿には生きる価値がない。馬鹿は人間の資格がない。馬鹿は死んだほうがいい。
そんな馬鹿のために、わざわざ国の政治機関が民主政治などやってやることはない。
[9883] 競馬[けいば] h22.3.28
今の日本政府は行き当たりばったりで当てずっぽうに政治をやっている。
そのために、日本政府は日本中に競馬場を建てて国民に競馬をやらせている。
つまり、政府が賭け事[かけごと]のように政治をやるために、国民に賭け事をやらせているのである。政府は自分が出鱈目[でたらめ]な政策をやるために、国民に出鱈目なことをやらせているのである。
政府が自分の政策をやるために、国民の大半に政府の政策と同じことをさせている。“逆民主主義”である。そんなのはもはや民主主義ではない。政府が自分のために国民を利用しているだけだ。政府主義だ。
政府がやっている国家宗教も競馬と同じことである。政府が国家宗教をやっているから、国民はいやいや政府の国家宗教につき合わされているだけのことだ。国民が自分から国家宗教をやることはない。
今の日本の国は政府主義の国だ。
それなら、国民には今の政府を支持する理由がない。だから、国民は政府を支持しない。国民の人気が得られない政府は潰[つぶ]れるしかない。
[9884] 民主主義はどうして複雑化するのか? h22.3.28
民主主義では政府が国民の支持を得やすいから、『権力の法則』により政府に権力が発生する。
権力を持った政府は、自分の権力をもっと強めようとして国民にいろんな洗脳をかける。そのために、本来は政府が国民に従わねばならないのに、国民は「国民が政府に従わねばならない」ように思っている。例えば、国会議員がテレビや新聞で偉そうにするのはそのためである。政府が国家宗教で国民を殺したり虐[いじ]めたりするのもそのためである。[しかし、最近の国民は政府が国家宗教をやっていることを知らないから、国家宗教による洗脳は効果がないと思われる。]
権力を持った政府は、また、政府が自分の好き勝手な政策をするために、国民に政府と同じことをさせることによって、民主主義の原理を満足させている。このようにして、政府は民主主義すなわち国民主義を政府主義に変えている。例えば、政府は自分がいいかげんに政治をやるために、国のあちこちに競馬場やパチンコ店などの賭博場[とばくじょう]を建てて大勢の国民に遊ばせているのである。
その結果、民主主義の国では、本来は政府が国民に従わねばならないのに、逆に国民が政府に従わねばならないようになっているのである。これでは、もはや民主主義ではない。政府主義である。
一方、哲人政治の国では、国民が政治機関にいやいや従っているだけだから、政治機関に権力が発生しにくい。だから、政治機関が国民をわざわざ洗脳したり、国民に政府と同じことをさせたりしないのである。だから、哲人政治の国では、国民が政府に従うだけで簡単なのである。
日本の政治機関がこのままの政府では日本が民主主義と政府主義の両方によって汚染されるだけである。[民主主義自体にも、国民の大半が馬鹿な悪人であることによって、国を悪化させる作用がある。実際に、実現しない政策を支持している宗教団体にいまだに大勢の人が入っているように、世の中は馬鹿ばっかりだから、善人よりも悪人のほうが多いのである。大半の大人は、人間の皮をかぶった獣[けもの]であり、図体[ずうたい]がでかいだけで知能は子供以下なのである。]だから、政治機関に「多数決の原理」だけでなく、「正しさの原理」も取り入れるようにしなければならない。例えば、哲人政治の改良として、哲人政治の政治機関が政策を作って、政治機関の作った政策に対して国民の代表者の過半数が賛成したときに、その政策が実施されるようにすれば、哲人政治と民主政治の両方を満足させることができる。
[9885] 学者と芸人 h22.3.29
学者は、アインシュタインやノーベル賞受賞者クラスの学者は人気があって権力があるが、普通の学者は多少業績があっても人気がなく権力もない。
一方、芸人は人気だけで持っている。人気が出ればかなりの権力もある。
幕府の政治家は学者であり、政府の政治家は芸人である。政府の政治家は人気があるから権力があるが、幕府の政治家は人気がないから権力がない。だから、政府の政治家は手ぶらで国民に命令できるが、幕府の政治家が国民に言うことを聞かすためには刀を持たねばならなかったのである。
政府の政治家はうわべだけ優しくて頼[たよ]りにならないヤサ男であり、幕府の政治家は無愛想[ぶあいそう]だが頼りになる男と言えよう。
[9886] どうして植民地時代は終わったのか? h22.3.29
[9857]にあるように、植民地政策は長続きしない。一時的に短期間植民地を取れるだけで、すぐに失われてしまう。外国に急に攻めて来られたら征服されるしかないが、時間をかければ反乱の準備ができるので、いつまでも征服されっぱなしではないのである。
日本やドイツが植民地政策に乗り出した頃には、ヨーロッパやアメリカの植民地ではすでに植民地の住民の反乱が起こり植民地時代は終わりを告げようとしていた。
それで、ヨーロッパやアメリカは植民地時代を終わらすことに決めて、これから植民地政策に乗り出そうとしている日本やドイツを叩[たた]き潰したのである。
『善は急げ』という通り、機会を逃[のが]した者はおいしい目にはありつけないのだ。
だから、今後当分の間は、植民地政策をやろうとする国は先進国からボコボコにされて痛い目に合わされるのである。
[9887] 男と女 h22.3.29
男と女では生まれつき心が違う。つまり、生きる目的が違う。
だから、男と女では頭の働かせ方や身体の働かせ方が全部違う。
男と女では満足させている感情が違う。だから、生き方も自然に違ってくる。
女に男の生き方をさせることはできないし、反対に男に女の生き方をさせることもできない。
人間は自分の心に逆らってはいい仕事はできない。自分の気に入らない仕事をして鬱病[うつびょう]に罹[かか]るだけだ。反対に、人間は自分の心に適[かな]ったことをするといい仕事ができる。例えば、女は赤ん坊や病人の面倒を見るのが好きな生き物だから、医者や看護婦には向くのである。
[9888] 歴史は繰り返す。 h22.3.29
このまま日本が民主政治の政治機関である政府で行けば、日本はだんだん悪い国になるだろう。
日本が滅びかけた頃に、ようやく哲人政治の政治機関に変えるだろう。
その後で、またなにかのきっかけで民主政治の政治機関に変わるだろう。
そういう“サイクル”を繰り返すのが日本という国の特性なのだ。
[9889] でんでん虫 h22.3.29
テレビや新聞に出て来るのは国会議員であって、政治家ではない。
政治家は国会議員の上にいる者である。国会議員は政治家の政策の下[もと]で法律を作っているのだ。
政治家は国会議員を裏で操[あやつ]っている者である。
政治家はテレビや新聞に出て来ることはない。だからでんでん虫なのだ。
反対に、国会議員はテレビや新聞によく出て来るから、でるでる虫なのだ。
[9890] 永劫回帰[えいごうかいき] h22.3.29
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の後半では“永劫回帰の思想”について書かれている。永劫回帰とは「歴史は繰り返す」ことである。国が周期的に善の時代と悪の時代をまわって運動していることである。ニーチェは国が歴史を繰り返すことを個人が人生を繰り返すことに喩[たと]えて表現しているのである。ヨーロッパのキリスト教の民主政治の時代の前にはギリシア・ローマの哲人政治の時代があったのであり、ヨーロッパは哲人政治の善の時代と民主政治の悪の時代を繰り返しているのである。[国が善の時代と悪の時代を繰り返すことは、アフリカ人やインデアンの伝説にもある。]
したがって、『ツァラトゥストラ』前半の“超人の思想”は、「哲人政治」のことである。つまり、ニーチェは神が死んだ後に、つまり民主政治が終わった後に、哲人政治の時代が来ると言っているのである。だから、実際に、今のヨーロッパやアメリカでは民主政治をやめて哲人政治をやっているのだ。だから、日本でも、いいかげんで民主政治をやめて哲人政治に切り替[か]えなければならない。
つまり、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は社会学の教科書だったのである。
[9891] 真実主義とまちがい主義 h22.3.29
真実主義のひとつが哲人主義である。哲人主義では正しい理論に基づいて政策を決めるので、正しい政策を決めることができるのである。真実主義では政策が正しいので、政策をすぐに実現することができ、人々の幸福な暮らしに直接に役立つのである。
まちがい主義のひとつが民主主義である。民主主義では多数決で政策を決めるので、まちがった政策を決めることができるのである。まちがい主義では政策がまちがっているので、政策が失敗続きで、いつまで経[た]っても政策が実現できず、今の宗教のようにいつしか人々が頭の中で政策を想像して喜ぶだけになる。これでは空想と現実のギャップのために、かえってストレスが溜[た]まる。
今の日本政府はまちがい主義の政治機関であって、真実主義の政治機関ではない。そんな政治機関は国民の役に立たない。税金の無駄[むだ]だ。だから、早く政府を倒して真実主義の政治機関を作らねばならない。
神は死んだ。だから、人類は早く現実に目を向けねばならない。[[9890]参照。]
[9892] 日本はどうすべきだったか?☆ h22.3.29
幕府の鎖国制をやめて、日本が外国と交易して、先進国の文化・文明を大いに取り入れるべきだった。その点では、政府の文明開化政策は正しかったと言える。
しかし、政府の植民地政策はやるべきではなかった。ペリーが日本に来た頃には、すでに世界的に植民地時代は下火[したび]だった。当時の世界の最新の情報を入手して、植民地政策を始めるべきではなかったのだ。
身分制は最近まであったような気がする。日本政府が私の国家宗教を始める前の昭和40年頃まではあったのだと思う。その頃までは、農民の待遇が比較的よかった。身分制(つまり、職業別に待遇を調整して、職業別の労働人口を最適な割合に維持すること)は国が安定に存続するためには必要な制度であると思う。そのほうがおいしいご飯が食べれるから、いい制度なのだと思う。
だから、日本の政治機関は『真実主義』に従って、外交政策をやり、植民地政策をやめて、身分制をやるようにすればいい。
幕府の政策も政府の政策も部分的に正しく、部分的にまちがっていた。だから、両者の正しいところを拾[ひろ]ってまちがったところを捨ててやればいいのである。哲人政治でも民主政治でも、とにかく政策が正しければいいのであり、まちがっていてはいけないのだ。
[9893] まちがったことはやってはいけない。☆ h22.3.29
神とは『政治家』のことである。つまり、『ある特定の政策を執行[しっこう]する者』のことである。[[9868]参照。]だから、例えば、私は政治家ではないから、私は神ではない。また、宗教とは『ある特定の政策を支持すること』である。
しかし、世界中の宗教をやっている者たちは神の定義を「超能力者に思われた者」とか「偉大なことをした者」とか勝手に変えて、神と人間の関係を「神は絶対的な権力者であり、人間は神に従わねばならない」と勝手に決めて、その関係を利用して「神に因[ちな]めば何をやってもいい」ことにして悪いことをやっている。
宗教の者たちがやっていることはすべて神や宗教に関する“誤解”に基づくことだから、本来やってはいけないことである。誤解に基づいてやっていいのなら、法律を自分勝手にまちがって解釈してなんでもできるはずである。しかし、実際には、法律をまちがって解釈してはいけないから、宗教の者たちがやっていることもやってはいけないことなのである。
したがって、今後は宗教に入っても得になることがないから、宗教に入らないほうがいい。
[9894] 多数決決定 h22.3.30
仮に国民みんなが“良識”の持ち主で、国の政治機関が多数決で正しい判断ができるものとする。
政治機関はいくつかの政策を行う機関である。いくつかの政策を行わない機関でもある。
そこで、政治機関がいくつかの政策(例えば、人権保障政策、外交政策、植民地政策、軍事政策、身分制政策、福祉政策、国家宗教政策など)を国民に提示して、国民一人一人にそれらの政策をやるべきか・やらざるべきか・どちらでもいいかを質問して、答えてもらって、その統計によって政治機関がやる政策ややらない政策を決めればいい。
つまり、高校のクラスで文化祭の出し物を多数決で決めるのと同じ要領である。
そうすれば、多数決の利点を活かして、政治機関が独断と偏見を避けて正しい政治をすることができて、国が繁栄して国民が幸福になれる。
将来インターネットが普及すれば、このような民主政治をすることができるようになるだろう。
ときどき政治機関がテレビや新聞などで自分がやっていることを国民に映像入りで報告するようにすれば、国民も納得して、国民の政治機関に対する信頼が得られるだろう。
しかし、そうすると、やはり植民地政策と福祉政策に高い票が集まるかもしれない。[私が働いていた人材派遣会社も福祉政策の一環である。]やはり国民の大半には“良識”が欠如しているから、政治機関の政策のひとつひとつを頭のいい人からなる審議会にかけて、やるべきかやらざるべきかを検討して決めたほうがいいかもしれない。哲人政治の場合には、独断と偏見を振りかざすバカ殿の権力者を設[もう]けずに、そうやって複数の頭のいい人で話し合って決めればいい(共和制)。
しかし、そうすると、今度は政治機関主義の政治になってしまいそうである。国民が政治機関の食い物にされるだけである。[哲人政治の欠点は、権力者が独断と偏見に陥[おちい]ってまちがいを犯しやすいことと、政治機関主義になりやすいことである。]だから、国民の大半に“良識”がある場合には、民主制のほうがいいだろう。国民も自分が政治機関の言いなりになるのが嫌なら、一生懸命に勉強して“良識”を身に付けるだろう。
‘国民みんなの統計’と‘政治機関の頭のいい人で話し合った結果’が一致した部分については問題がないが、一致しない部分については国民側と政治機関側で討議をして勝ったほう(つまり、“証明”がより正しいほう)に決めねばならない。そういう討議をする場を国に設ければいい。テレビ放送しながらやってもいい。
総合的に見れば、税金が高い点を除けば、哲人政治のほうがいい。日本人はそもそも平等意識が強いから、武士もやたらに威張らない。だから、税金もそれほど高くはない。御意見箱を構えれば、国民が政治機関のまちがった政策に対して意見もできるだろう。あるいは、国民が政治機関のまちがいを指摘[してき]するテレビ番組でもやればいい。哲人政治の国では、‘正しさ’の概念があるから、たとえ政治機関でもまちがいがあれば直さねばならない。反対に、民主政治の国では、‘正しさ’の概念がないから、政治機関は出鱈目[でたらめ]に政治をやるだけである。民主政治の国では、政治機関が出鱈目だから、政治機関が民主的にさえ政治をやらない。民主政治の国では、政治機関が政治機関として機能せず、国がメチャクチャになる。だから、大雑把[おおざっぱ]に言えば、国の政治は哲人政治のほうがいい。
政治機関は国民の教師である。政治機関は国民を正しい方向にそろえる装置である。政治機関がなければ国民は好き勝手にするから正しい方向を向く者もいればまちがった方向を向く者もいる。だから、国民の体系のエントロピーが高い。そこに政治機関の磁場がかかって、国民は正しい方向にそろってエントロピーが低くなるのだ(常磁性体モデル)。だから、国にとっては哲人政治の政治機関がやはり要るのだ。
[9895] 日本の軍事政策 h22.3.30
核弾頭は安い。しかし、大陸間弾道ミサイルは高い。
だから、日本には核弾頭だけを置いておけばいい。
外国が日本に攻めてきたら、核弾頭を鉄道や飛行機で運んで、日本人もろとも外国の軍隊を吹っ飛ばすのだ。
[9896] 国民は政府に税金を払う必要はない。☆ h22.3.30
政府は民主政治の政治機関である。
民主政治の国では、‘正しさ’の概念がない。[哲人政治の国では政治機関が『正しい理論』に基づいて政治をするから‘正しさ’の概念があるが、民主政治の国では政治機関が「多数決の原理」で政治をするから、‘正しさ’の概念がないのである。たとえ国民の意見がまちがっていても、政府はそれを実行するのである。幕府と政府が反対であり、幕府に‘正しさ’があるから、政府に‘正しさ’がないのである。幕府は秩序を作る機関であり、政府は混沌[こんとん]を作る機関である。]
だから、国民が税金を払うのが正しいわけではないし、払わないのがまちがっているわけでもない。
だから、国民は政府に税金を払おうが払うまいがどうでもいい。
したがって、国民は自分の好きなだけ政府に税金を払えばいいのである。払わなくてもいいのである。日本政府はかつて中世にこんな理由で倒産したのである。‘正しさ’がなければ、国民が政府に従わねばならないか従わなくてもいいかがわからない。‘正しさ’がない世界では、国民が自分の好き勝手にできる。だから、中世の日本人は政府に従わなくなったのである。
日本政府が日本国憲法を破って国家宗教を使って国民を殺しているのも、民主主義の国では‘正しさ’の概念がないからである。それなら、国民が憲法第30条を破って税金を払わなくてもいい。いくら国家宗教でも人殺しをしてはいけない。国家宗教は人殺しの理由ではなく、人殺しの飾りにすぎない。今の国民の大半はまだ人殺しをしてもいいとは思っていない。だから、政府は民主主義の「多数決の原理」で人殺しをしているのではなく、民主主義の『‘正しさ’がない原理』で人殺しをしているのである。[政府が私を神に決めたのも、「多数決の原理」に従っていない。]したがって、今の国民の大半は政府に税金を払わなくてもいいとは思っていないが、民主主義の『‘正しさ’がない原理』を使って国民が政府に税金を払わなくてもいいのである。あるいは、哲人主義の『‘正しさ’がある原理』を使って、今の政府がなくなったほうがいいから政府に税金を払ってはいけないと言ってもいい。
ちょっと前にテレビ番組で「客が自分の好きだけな宿代を払えばいい旅館」が出ていたが、それは民主主義の国の喩[たと]えである。民主主義の国では、‘正しさ’がないから、決まった宿代もないのである。だから、客が自分の好き勝手に宿代を決められるのである。
[9897] どうして幕府は植民地政策をやらなかったか? h22.3.30
幕府は哲人政治の政治機関である。
哲人政治の国では、‘正しさ’の概念がある。
幕府から見て、「他人[たにん]の物を分捕[ぶんど]って自分が遊んで暮らす」植民地政策が道徳的に見て正しい政策と考えられなかったから、幕府は植民地政策をやらなかったのである。
しかし、国民はどうしても外国を真似[まね]て植民地政策をやりたかったから、幕府を倒して政府にやってもらうことにしたのである。
政府は民主政治の政治機関で、民主政治の国では‘正しさ’の概念がないから、成功しようが失敗しようが、国民がやりたいことがやれるのである。だから、国民が植民地政策をやりたければ、植民地政策がやれるのである。
[9898] 理想の政治機関 h22.3.30
哲人政治にしろ民主政治にしろ、とにかく政治機関は『真実主義』でなければならない。『正しい政策』をやらねばならない。
だから、原則的には哲人政治の政治機関でいい。
ただし、哲人機関には哲人が独断と偏見に陥[おちい]りやすい欠点がある。
だから、目安箱や「国民が政治機関に対して文句を言うテレビ番組」などによって民主制を取り入れて哲人の独断と偏見を補[おぎな]って政治機関が正しい政策を行えるようにしなければならない。
あと、政治機関が政治機関主義になりやすいという欠点があるが、『正しさにおいては政治機関も国民も平等である』という原則があるから、国民が正当な意見を主張すれば政治機関もそれに従わざるを得ないから、国民が政治機関が不当に国民に比べて待遇がいいことを証明すれば、政治機関も自分の待遇をよくすることを控[ひか]えめにしなければならないのだ。むしろ、今の政府のほうが‘正しさ’の概念がないから、国民の正当な意見を無視して一向に自分のまちがいを改めず自分の待遇をやたらによくして大勢の余分な公務員を抱[かか]えて国民から高い税金を平気で取っているのである。民主政治とは‘正しさ’のない政治にすぎないのである。
つまり、『国民から政治機関へのフィードバックのある民主的な哲人政治の政治機関』こそが理想の政治機関であると言える。[つまり、これがニーチェが言った『善悪の彼岸[ひがん]』にある政治機関なのだ。善とは‘正しさ’のある哲人政治のことである。悪とは‘正しさ’のない民主政治のことである。だから、『善悪の彼岸』は哲人政治と民主政治が折衷[せっちゅう]された“民主的な哲人政治”でなければならないのである。]
[9899] 君は民主主義の国で生きていけるか!? h22.3.30
民主主義の国では‘正しさ’がない。
‘正しさ’がないから、国民が何でも自分の好き勝手にできる。他人を自由に殺したり他人の物を自由に奪ったりすることができる。
そんな国では国民がまともに生きていけない。
だから、民主主義はまちがっている。
したがって、民主主義の政治機関である政府を国の政治機関にしておくことはまちがっている。
[9900] 政府は国民から税金を取れるか? h22.3.30
政府が国民から税金を取ることは、政府がこのまま日本が民主主義の国であることが正しいと考えていることになる。
しかし、民主主義の国には‘正しさ’がないから、国民は民主主義の国では生きていけない。[[9899]参照。]
だから、日本が民主主義であることはまちがっている。
したがって、政府が国民から税金を取ることはまちがっている。
むしろ、国民は政府に税金を払わずに、政府を早く潰[つぶ]して、哲人政治の政治機関に変えたほうがいい。
それでも、政府が国民から強制的に税金を取り立てようとするなら、政府は糞馬鹿[くそばか]すぎるので政府を殺してもいい。