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[901] 人間から個人へ h15.1.2
五感で見るか知覚で見るかは、その人じしんが決めることであって、他人に決められることではない。
五感で見るか知覚で見るかは人の自由だ。(もちろん、知覚で見るほうが正しいけれども。)
だから、人間は認識において一人一人が独立している。
人間は個人なのだ。
したがって、社会は個人の集まりなのだ。
[902] 感覚 h15.1.2
脳細胞の周りにある超時空間(アインシュタインが大統一理論を考えるときに考え出したような、4次元時空間を拡張した概念)が脳細胞が神経興奮したとき歪むことによって感覚が生じるのだ。しかも、その超時空間の歪みが量子化されている(つまり、歪みの程度がとびとびになっている)ので、ビジュアル的に粒子化して感覚子というものを考えるのだ。つまり、歪みの程度が量子化されているから個数が数えられる粒子に喩えただけであって、なにも形が粒子すなわち点であるわけではない。もっとも、感覚子の‘位置’を測定しようとすると、それは点として観測されるので、あたかも粒子であるかのように見えるが、本当は空間的に広がった超時空間の歪みそのものなのだ。(ただ、超時空間の歪みを数式で書くことは難しいので、現在のところはそれぞれの素粒子として別々に考察しているのだ。質点すなわち質量を持った素粒子は重力場すなわち4次元時空間の歪みそのものだから、質点があることと4次元時空間が歪んでいることとは同値なので、4次元時空間の歪みが激しいところではその真ん中に地球のような物質が現れることになるのだ。あるいは、4次元時空間が球対称に歪んでいるとその中心(特異点)に質点が現れる。つまり、質点(質量を持った粒子)とは4次元時空間の特異点(湧き出しまたは吸い込み口)にほかならない。質点の実体はその質点の周りの4次元時空間の歪みなのだ。一般に、超時空間がさまざまに歪みあって、この宇宙のすべての物質が作り出されているのだ。)
脳細胞が神経興奮して感覚が生じるのは、スイッチを入れて電球が点くようなものだから、感覚は光のようなものなのだ。光は電磁場という超時空間の歪みのようなものだと考えられるから、感覚も超時空間の歪みだと考えられるのである。感覚とは4次元時空間の一点に付随する超時空間の歪みであり、つまり感覚は4次元時空間の一点で発生するので、そこに(たまたま)自分の身体があると、その感覚は‘自分の’感覚だと見なされることになるのである。
[903] 男と女 h15.1.2
金玉が付いているから男なのではない。
男と女では感覚界の構造が違うのだ。
つまり、男は女よりも知覚が優位である。
[904] 結婚 h15.1.3
男と女の話になったらニヤニヤする。
お前ら、人間をなんだと思ってやがる。
人間が人間の法則を犯したら大変なことになるぞ。
人間は自分が不幸になろうがなるまいが知覚を肯定しなければならない。
それが人間の従うべき法則だ。
知覚においては女など無に等しい。
女は現象的だから相手にならない。何を言っているのかわからない。
結婚とは男が女と複合することであり、
女と複合することは現象に従属することにほかならない。
現象に従属することは人間には許されないのだ。
人間は現象を肯定しては生きて行けない。
だから、人間は結婚してはならないのだ。
…これでは人類が絶滅するかも知れない。
しかし、クローン技術が発達すれば、結婚しなくても人間が増やせるようになるだろう。
そういう時代が来ればもはや人類が絶滅することはない。
[904.5] 生と死 h15.1.3
現象の3次元空間においては、人が生まれてそれから死んでいなくなるが、
実在の4次元時空間においては、人は宇宙のある時点から別のある時点まで存在し、その人生は永遠に存在しつづける。
人間の存在は4次元時空間すなわちこの宇宙の中では永遠に失われることがない。
人が死んだからといって、なにを悲しむ必要があろうか。
[905] 物と心の統一 h15.1.3
物(感覚子以外の素粒子)と心(感覚子)は超時空間(アインシュタインが大統一理論を考えるときに作った4次元時空間を拡張した概念)の歪み方が違うだけである。
同じ超時空間の異なる歪み方によって物と心ができる。
(これで終われば物理は世話ない。物理学では、このアイデアを具体的に数式で表現しなければならない。)
[906] なぜヨーロッパ人はハンサムなのか? h15.1.3
長年にわたる人為淘汰のせいだ。
ヨーロッパの五感主義がハンサムな人間だけを生き残らせたのだ。
日本人もそうしようと思えばやっていたはずだ。
なぜそうしなかったかを考えるべきだ。
日本人は人間の一番大事な心を守りつづけてきたのだ。
それは“実在の中で”生きていこうとする心だ。(実在主義)
実在の世界と自分との和(複合Complex)を重んじる心が日本人の心だ。
[907] 宇宙とはなにか? h15.1.3
超時空間と超時空間の従う方程式がわかれば宇宙のすべてが解かれたことになる。(実際には、超時空間の構造も方程式もまだ不明だが。)
超時空間から物と心のすべてが生まれるのだ。素粒子や感覚子は超時空間の特異点として表される。(しょせん物理も文章力よ。ちょろいもんだ。)
超時空間の特異点以外の部分は素粒子や感覚子が運動する空間となる。(間違っていても細かいことは気にしない。)
[908] アニメーション h15.1.4
アニメーションの原理は視覚残像効果にある。
視覚残像効果を発見したのはガリレオだから、ずいぶん古い。
視覚残像効果とは、静止画の積み重ねによって動きが表現できるということだ。
つまり、物体の運動が“量子化”されているわけだ。
一見連続しているかのように見える動画の動きも、よく見ればとびとびの不連続な絵の集まりだ。
Max Plancはアニメを見なかったと思うけど、
量子力学のアイデアはこんなところにもあったんだなあ。
[909] 超能力 h15.1.4
脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。【実在第一原理】
このことは、物(感覚子以外の素粒子)から心(感覚子)への作用があることを意味する。
物と心の間には相互作用interactionがある。
ということは、逆に‘心から物への作用’があってもいいはずだ。
これが超能力の原理だ。
幻聴も超能力の一種だ。幻聴とは、他人の感覚子によって自分の脳細胞が活動することだ。つまり、他人の感覚子から自分の脳細胞への作用だ。通常は脳細胞が少し興奮するだけで感覚が弱いから幻聴が意識されることはないが、五感が過敏になっていると脳細胞の興奮が激しくて感覚が強いので幻聴が意識されることになるのである。(空気の振動=音を耳で聞き、電磁場の振動=光を眼で見るように、感覚場の振動=感覚波を大脳のどこかにある幻聴覚で聞くのだ。)
そもそも物(素粒子)と心(感覚子)とは同じ超時空間の歪み方が違うだけだから、物と心の間に相互作用があるのは当然だといえる。
感覚子の使い方がうまくなれば、超能力が使える(例えば、ほうきに乗って空が飛べる)かも?
でも、今のところは感覚子と相互作用するのは脳細胞だけだから、スプーン曲げなんてできないと思うよ。
[910] 人間の成長 h15.1.6
人間は赤ちゃんのころは心で生き、子供のころは五感で生き、大人になると知覚で生きるのだ。
生まれたままの赤ちゃんの心は純粋である。
それが子供になると、五感で実在を見る(つまり、ただたんに形や色や音において実在を見る)ようになり、五感は実在とは違う世界だから、子供の五感と複合した心は赤ちゃんの心よりもくだらない。
さらに大人になると、知覚で実在を見る(つまり、いろんな知覚的概念(イデア)において実在を見る)ようになり、知覚は実在に近い認識だから、大人の知覚と複合する心は赤ちゃんの心よりも価値がある。
つまり、赤ちゃんの純粋な心は、将来知覚と複合する可能性があるという点で、子供の五感と複合した心よりは上だ(価値が高い)が、大人の知覚と複合した心よりは下な(価値が低い)のだ。

[911] 幻聴と空耳 h15.1.6
幻聴はそもそもみんなにある。(人々は感覚波の海に浸かって暮らしている。)
それを意識するかしないかだけの違いだ。
幻聴が意識されるのは、五感の活動が高まっているからで、反対に
幻聴が意識されないのは、五感の活動が高くないからだ。
正常人でも時々五感の活動が一時的に高まることがあり、
そんなとき‘空耳’が聞こえるのだ。
幻聴と空耳の違いは、
幻聴が四六時中聞こえているのに対し、
空耳は一時しか聞こえない点にある。
つまり、幻聴では持続的に五感が過興奮しているのに対し、
空耳では一過性にしか五感が過興奮しない。
感覚波の海に呑まれて溺れた者が分裂病者である。
[912] 愛について h15.1.10
愛は心主義の世界の中にある。
知覚主義=実在主義の世界の中にはない。
勉強や仕事がうまくいかなくなって知覚が働かなくなり心が相対的に強まり心が意識された者が、幼児退行を起こして愛情に走るのだ。
[913] 笑いについて h15.1.10
笑いは知覚や五感から独立した(従属しない)心じたいの肯定である。
人が笑うのは、そいつが心主義だからだ。
知覚主義では、実在の世界の中に快や不快があるから、快の感情がそのまま単独で表情として表現されることはない。
…日本人同士‘わかり合える’とは、‘心でわかる’と言う意味だ。心で生きている者同士の間でなければそもそも成り立たない。
知覚主義者にとって気味が悪いのは、よく笑ういい年こいて心本位で生きているチンプンカンプンな躁鬱気質の連中のほうだ。そいつらは、生き方が間違っている気狂い予備軍にほかならない。
[914] 知覚主義 h15.1.10
自分がリコウとかバカとかじゃない。
知覚の世界すなわち実在の世界を肯定するかしないかだ。
自分の頭が悪いのは言い訳に過ぎない。
[915] 幻聴は色だ。 h15.1.10
幻聴が聞こえてきたとき、
『幻聴は色だ。』と強く念じれば、
幻聴の意味にとらわれなくなる。(色=実在非従属性五感)
[916] 三つの目 h15.1.14
人間は、知覚、五感、心の三つの目で実在を見ている。(人間の頭の中には三つの目があるといってもいいが、‘頭の中’という表現が五感的なのでよくない。)
知覚の目で見ると、真偽の区別が生まれる。(真とは実在することで、偽とは実在しないことである。)
心の目で見ると、快不快の区別が生まれる。
五感の目で見ると、見えるか見えないかの区別が生まれる。(この世は眼で見えることがすべてではない。)
[917] 本質は実存に先立つ。 h15.1.14
ある実存主義者は、『実存は本質に先立つ。』と言った。
実存とは心であり、本質とは実在すなわち知覚であり、先立つとは優先することだから、上の言葉は『心は知覚よりも優先する。』ことを言っている。
それは実存主義者すなわち心主義者の生き方を述べたにすぎない。
実在主義者すなわち知覚主義者の生き方を言うなら、『本質は実存に先立つ。』とでもなるか。
[918] 善人と悪人 h15.1.14
人間には善い部分と悪い部分の両方がある。
善い部分を伸ばし悪い部分を抑えることが大事である。
人間の善い部分とは実在を認識する知覚であり、悪い部分とは実在を認識しない五感や心である。(もっとも、五感や心を知覚に従属させれば、五感や心も善化される。)
善人とは人間の善い部分を伸ばし悪い部分を抑えてきた人であり、反対に悪人とは人間の悪い部分を伸ばし善い部分を伸ばさなかった人である。
たとえ今までが善人でも今後悪い部分を伸ばせば悪人になるし、反対に今までが悪人でもこれから先善い部分を伸ばせば善人になる。
この世には、完全な善人も悪人もいない。
[919] 法律は間違いである。 h15.1.15
実在に従えということは、人間が任意に決めた慣習など(あいさつとか法律とか)には従うなということでもある。
『ソクラテスの弁明』の真意は、くだらない人間達が勝手に取り決めた法律なんかには従うなと言うことでもある。(∵ソクラテスが正しいにもかかわらず死刑にあったということは、取りも直さずソクラテス以外の者達が決めた社会的ルール(法律)のほうが間違っていたからであり、と言うことはつまりそんな間違った社会ルールなんかに従ってはならないことを意味する。)
[920] 田舎文化 h15.1.17
きれいにこだわるのはパーの百姓ぐらいのもんだ。
あいつらは眼で見えることしかわからないアホだ。
田舎文化は心と知覚が五感に従属しているくだらない文化だ。
五感支配型文化だ。(バカばっか)
反対に、都会文化は心と五感が知覚に従属している知覚支配型文化だ。(おリコウばっか)
ついでに、私の生まれ育った高知は(といっても先祖代々高知生まれではない)、南国らしい陽気さに満ちた人情豊かな心支配型文化だといえる。(アホばっか)
都会文化は知覚支配型だが、田舎文化には五感支配型と心支配型の2種類がある。北国系の田舎文化は五感支配型だが、南国系の田舎文化は心支配型である。
[921] バカとアホ h15.1.17
バカとアホとは違う。
バカとは五感主義のことで、
アホとは心主義のことである。
[922] 横目(やぶにらみ) h15.1.18
五感の感覚が強まり、五感が意識され、自分の身体の周りの五感界にとらわれているから横目(やぶにらみ)になる。
動物は五感しかないから、動物の目はみんな横目だ。
知覚で物事を考える知覚界のある人間の目は、もはや自分の身体の周りの五感界にはとらわれていないから、正面目である。
横目(やぶにらみ)になりたくなければ、自分の五感を助長するな。
[923] 自分自身 h15.1.18
自分より正しい者には従属(つまり、役に立つ・心を満足する)しなければならないが、自分より正しくない者には従属してはならない。
自分の周りに自分よりも正しい者がいなければ、自分は自分自身に従属すればいい。
自分は自分の役に立つ・自分の心を満足することをすればよい。
[924] 結婚 h15.1.18
合理主義(=知覚主義=実在主義)を徹底させれば結婚できないことをキルケゴールは知っていた。
だから、結婚する者は合理主義ではない。
合理主義をやめないかぎり、人は結婚することが出来ないのだ。
知覚主義では、『(人間の価値は認識の正しさだけで決まる。)正しい者が正しくない者に従属することは禁止されている』から、女は男よりも‘バカまたはアホ’な(つまり、正しくない)ので、正しい者としての男が正しくない者としての女に従属しては(つまり、役に立っては)いけないから結婚は許されないのである。(補足1;いくら女に学歴があっても、知覚はない。女は生まれつき心主義か五感主義かなので、知覚主義=実在主義ではないのである。知覚主義は男にしかできない生き方なのだ。補足2;知覚主義では、『正しくない者が正しい者に従属しなければならない。』だから、女が男に従属しなければならないが、いくら女が男に従属しても、男が女に従属しなければ、男女の複合としての結婚は成り立たない。つまり、いくら女が男に近づこうとしても、男が女に近づこうとしなければ、男女は一緒にはなれない。『正しい者が正しくない者を支配しなければならない。』ことを男が女に近づく理由にするとしても、そんな恐い理由じゃ女のほうが逃げ出すだろう。そもそも、そんな理由で女と結婚する男なんかいるか!?それなら、政治家か教育者になればいいだろう。個人の自由を守るよりも、社会の秩序(つまり、正しい者が正しくない者を支配すること、正しくない者が正しい者に従属すること)を守るほうが本当は大事なのだが、最近は正しさなんかどうでもよくなってきている。せっかく人類が長年かけて築き上げてきた秩序を今になって壊そうとしている。今の世の中は正しくない者が正しい者に口出しをする。世も末だ。『女は男の言うことを聞いても、男は女の言うことを聞かなくていい。』のが本来あるべき姿だが、こんなことわかっている女なんかいない(とくに最近では)。『女は知覚がないから、女は男の言いなりでいい。』のが常識であるべきだが、守られていない。いくら男女平等を理想にしたところで、生まれつき(知覚のない)サルが(知覚のある)人間になれるわけじゃないし、うまくいくわけがない。世の中メチャクチャになる一方だ。結局、他人事に口出しする暇があったら、自分自身をもっと正しくすることを考えるしかないのが私にとっての現状だ。補足3;古来多くの哲学者が独身なのは、モテないからではなく、知覚主義だからだ。)
だから、結婚する者は心主義か五感主義かだ。
心主義では、たんに人は異性を‘愛する’からである。
五感主義では、女が男よりも‘きれい’なので、男が女に従属すべき(つまり、役に立つべき・奉仕すべき)ことになるからである。
(‘愛’は心における概念であり、‘きれい’は五感における概念であって、これらは知覚すなわち実在における概念でない。‘バカ’は知覚すなわち実在における概念である。)
人の生きるべき道は知覚主義しかないので、彼らは人の生きるべき道を踏み外している。
こんな不合理主義がまかり通る世の中では、明日世界大戦になって人類が全滅してもちっとも不思議ではない。
自分の両親もだ。
母親がアホ(心優位)なのは女だから仕方がないとしても、
父親はそれでも男か?!
結婚している人がみな知覚主義に背いているとすれば、
人間なんて本当にいるのか?!
知覚主義(すなわち、自分が人間であること)を捨ててまで、結婚する価値があると言うのか?
世の中にいるのはみな知覚主義を踏みにじった、人間を辞めた者たちなのではないか?!そんなわけのわからない連中が集まって、この日本国を作っていると言うのか!?
結婚した者達はいったいなにを考えて結婚したのか??結婚を正当付けるちゃんとした根拠はあるのか?
大人だからと言って、知覚主義から心主義や五感主義に堕落して一体なにがいいというのか??
世の中でたらめな人間ばっかりだ!
[925] 実在原理 h15.1.19
実在第一原理(実在は五感を超えたところにある。五感は現象であって実在ではない。)は、五感主義の否定であり、
実在第二原理(心の善悪は実在認識の有無によって決まる。)は、心主義の否定である。
残った知覚主義すなわち実在主義にこそ、人間にとっての生きる道がある。
【実在哲学第三原理】知覚を肯定せよ。心と五感を知覚に従属させよ。
[926] 人間への道 h15.1.20
自分の心や五感を助長してはいけない。
知覚を伸ばそう。知覚を強めよう。
(補足;他人の書いた本は読まなくていいから、自分の置かれた立場を、自分で考え出した実在的な言葉を使って実在的に見るようにしよう。心言葉(例、かわいい・愛)や五感言葉(例、きれい・汚い)は使わないことにしよう。)

[927] テレビ h15.1.20
テレビは実在ではない。
テレビで五感や心を満足させれば、実在ではそれらを満足させなくて済む。
実在で心や五感を満足させようとしてはいけない。
それが知覚主義≡実在主義だ。
人が知覚主義であるためには、いい‘暇つぶし’が必要なのだ。
[928] 宝くじ h15.1.20
運(偶然・確率)で当たるから、五感や知覚に縛られていない。
心の目で見れば宝に見えるのかもしれないが、
心で見なければただの紙切れだ。(知覚で見れば、期待値相当分の価値はあるが、損であるのは明らかだ。だから、貧乏くじ。)
保険も宝くじと同じで、ただの賭け事(ギャンブル)だ。損であるのは明らかだ。
[929] 学校 h15.1.20
学校で教えていることには、けっこう実在的でない・知覚的でないことが多い。
どうして、学校でわざわざ音楽や体育を教えねばならないのか?!
明らかに、それらは五感的だ。
ついでに、国語は心的だ。
そんなの自分独りでやればいいだろ!?
学校で子供に無理やりくだらないことを教えるな!
[930] 愛・憎しみと好き・嫌いの違い h15.1.20
愛・憎しみは知覚から独立した心の感情だ。
好き・嫌いは知覚に従属した心の感情だ。
愛・憎しみは動物的な心だが、
好き・嫌いは人間的な心だ。
[931] 言葉 h15.1.21
言葉には3種類ある。
知覚言語と五感言語と心言語だ。
知覚言語は知覚および知覚と複合する心の表現であり、
五感言語は五感および五感と複合する心の表現であり、
心言語とは知覚や五感から独立した心の表現である。
例えば、‘きれい’とか‘汚い’とかは物の見た目に関する表現だから五感言語であり、
‘かわいい’とか‘愛する’とかは物の実体や見た目に複合する心の表現ではないから心言語である。
[932] 人間関係 h15.1.22
『正しい者が正しくない者を支配しなければならない。正しくない者は正しい者に従属しなければならない。』から、そもそも‘正しさ’(のセンス)のない心主義や五感主義は、知覚主義に従属しなければならない。そうしてこそ、全人類の社会秩序が保たれる。
例えば、
男と女の関係においては、
男は知覚主義=実在主義である。
女は(生まれつき知覚が足りないから)心主義か五感主義である。
したがって、男は女を支配しなければならないし、女は男に従属しなければならない。
だから、男と女は結婚して、男は女に口出しして、女はそれに従わなければならない。(もっとも、男が独身でいて、女の口出しに従わないでいてもいい。女はわがまま好き放題にやっておかしくなって死ね!)
また、例えば、
大人と子供の関係においても、
大人は知覚主義であり、
子供は‘正しさ’の概念のない心主義や五感主義だから、
子供は大人に従属しなければならないし、
大人は子供を支配しなければならない。
それが子供と大人にとっての義務だ。
大人(とくに男親)は子供に口出ししなければならない。(いくら女でも子供に対する口出しは許される。このときばかりは女の支配欲が満足されるわけだ。)
けっして、進歩的な思想だからといって、女や子供に自由を認めてはならない。
進歩的な思想では、知覚主義も心主義も五感主義も対等で、どの主義を選ぶかは個人の自由であるが、そんなのは全部作りごとだ。
本当は、人間は(感覚しようがしまいが)実在の中で生きているのであり、実在においては知覚主義が正しく、心主義や五感主義は間違っている。心主義や五感主義の肯定は、けっきょく本人が鬱病や分裂病などの精神病になって不幸な目に会うだけだ。人間には主義の選択における自由はないのだ。
自分自身が正しくない者は正しい者に従属することによって正しさが保たれるのだから、女・子供は男に従属しなければならないし、逆に男は女・子供を支配しなければならない。人間関係が疎になって女・子供に自由を認めて放任しておくと、いずれは女・子供が気が狂って廃人になってしまう。
いくら、女・子供の仕事や学校の成績が良くても、それは‘おもしろさ’や‘かっこよさ’のためであって、‘正しさ’のためではない。女・子供にとっては、知覚が心や五感に従属しているのだ。いくら哲学が間違っていても、眼先の仕事や勉強ぐらいならできる。長い目で見ると成功しないが。
そもそも‘実在’を無視するから人間が自由になりすぎておかしなことになるので、人類が長年かけてつかんだ実在概念を絶対に放棄してはならないのだ。
[933] 実在に対する無視 h15.1.22
男は実在の中で苦心して楽しいことを考え出すが、女子供はその楽しい(おいしい)ところだけしか見てくれない。楽しさを支えている実在的な部分に目を向けようとしない。
[934] 知覚と複合する心 h15.1.22
若者は実在の世界の中で‘格好つけ’たらいいと思っているらしいが、
そんなことはありえない。
なぜなら、実在すなわち知覚と複合する心と、五感と複合する心とは違うからである。
(私の39年の経験によれば、)
実在と複合する心は‘格好いい’とか‘格好悪い’とか思わない。なぜなら、格好いいとか悪いとかは物の見た目に関する感情であって、物の実体とは無関係だからである。
同様に、実在と複合する心は、他人を‘愛する’とか‘憎む’とか思わない。他人を‘愛し’たり‘憎ん’だりする心は、五感と複合する心か、あるいは人が生まれながらに持っている(知覚や五感から独立した)純粋な心においてである。(もっとも、知覚と複合する心においても他人に対する‘好き’‘嫌い’はある。知覚主義にとってもバカやアホは‘嫌い’だし、リコウは‘好き’だ。)
だから、知覚主義すなわち実在主義では、他人と結婚しようとか服装や髪型を格好つけようとかしないのだ。
[935] 分相応 h15.1.23
動物が動物らしくすればいいように、人間は人間らしくすればいい。(解説;動物はたとえ知覚がなくても、動物としてふさわしく生きていれば問題はない。反対に、人間には知覚があるから、知覚がない動物のように生きるわけにはいかない。)
男が男らしくすればいいように、女は女らしくすればいい。(解説;たとえ女がバカかアホでも、分相応に生きていれば問題はない。むしろ知覚のない女が知覚のある男のように無理に生きようとすると問題が生じる。反対に、男は女のようにバカかアホみたいに生きるわけにはいかない。)
要するに、自分は自分らしくすればいい。自分が自分らしくしないとおかしくなる。だから、自分とは何かを正しく理解することこそが問題だ。
[936] 自他の区別 h15.1.25
自他の区別は五感界にはない。
自他の区別は考えることによってはじめてできる。
[937] 男は女と結婚できるか? h15.1.26
まず、“相手が自分よりも優れていなければ、その相手に近づこうとはしない。”ことが、知覚主義・五感主義・心主義の違いに関わらず一般的に成り立つ。
@男が知覚主義(=合理主義=実在主義。正しさが第一)の場合
知覚主義の男は‘認識の正しさ’で人間の価値を評価する。一般に、女は男よりも認識の正しさがないから、知覚主義者の目では女は男よりも見劣る。したがって、知覚主義の男は女に近づこうとせず、結婚しない。
A男が五感主義(=現象主義=見栄主義。格好よさが第一)の場合
五感主義の男は‘顔・体の美しさ’で人間の価値を決める。一般に、女は男よりも顔・体が美しいから、五感主義の男は女に近づこうとする。一方、女は心主義か五感主義かのどちらかである。(知覚主義の女なんかいないだろう。)心主義の女は‘心の善悪’で人間の価値を決めるが、五感男(五感主義の男の省略形)の五感と複合する心は、心女(心主義の女の省略形)の生まれたままの純粋な心よりも価値が低いから、心女は五感男に近づこうとしない。また、五感女(五感主義の女の省略形。以下同様)は‘顔・体の美しさ’で人間を評価するが、一般に男は女よりも顔・体が美しくないから、五感女は五感男に近づこうとしない。要するに、男が五感主義の場合、男は女に近づこうとするが、逆に女は男に近づこうとしないので、男と女は一緒になれず、結婚できない。
B男が心主義(=快楽主義=愉快魔。楽しさが第一)の場合
心主義の男は‘心の善悪’で人間の価値を決める。一方、女は五感主義か心主義かである。五感女の五感と複合した心は心男の生まれたままの純粋な心よりも価値が低いから、心男は五感女に近づこうとしない。他方、心男も心女も生まれたままの純粋な心の持ち主だから、心の価値は同じなので、心男と心女と互いに近づきあい結婚できる。要するに、男も女も共に心主義の場合にだけ結婚が成立する。
しかしながら、そもそも男は人間であるかぎり知覚主義でなければならないので、@のように結婚は成り立たない。

[938] 太平洋戦争 h15.1.27
実在哲学第二原理により、知覚と複合する心は生まれたままの純粋な心よりも優れている。
白人社会には知覚と複合する心を持った天才がいて、その天才に他の者が従属するような制度(システム)が確立している。
一方、日本は‘良寛が手まりで近所の子供たちと仲良く遊ぶ’のを尊ぶように、生まれたままの純粋な心に頼っていて、そこから先の進歩がない。
太平洋戦争において、日本は物で白人に負けたのではない。心で白人に負けたのだ。
[939] 実在界 h15.2.2
知覚界の極限に実在の世界がある。
知覚界lim→実在界
[940] 数学の帝王ガウス h15.2.2
ガウスは数学はよく出来たが、結婚もした。
ガウスでも女性に対して愛情を感じることがあったのだろうか?
やっぱりガウスもおもしろいからかっこいいから正しかっただけだ。
おもしろさやかっこよさのために正しかったにすぎない。
知覚が心や五感に従属している。
ガウスも‘女の子脳’だったのだ。
[941] 真偽の区別 h15.2.2
真偽の区別は五感界にはない。
正しいか間違いかの区別は考えることによってはじめてできる。
五感界にあるのは、ただ見えるか見えないか、聞こえるか聞こえないかの区別だけだ。
[942] 感覚度 h15.2.3
感覚度とは人間に感じられる感覚の強さのことである。[感覚度の定義]
意識とは最も強い感覚度の感覚である。
無意識とは意識に較べて感覚度の弱い感覚である。
正常者は知覚が意識で、心と五感が無意識である。
分裂病者は五感が意識で、知覚と心が無意識である。
躁鬱病者は心が意識で、知覚と五感が無意識である。
知覚を興奮させて知覚の感覚度を高めれば正常者になり、
五感を興奮させて五感の感覚度を高めれば分裂病者になり、
心を興奮させて心の感覚度を高めれば躁鬱病者になる。

[943] 甘え h15.2.5
ひと言で言うと、
甘え=従属
である。
[944] 日本が悪い。 h15.2.7
日本は知覚主義者が楽しめる(住みやすい)ようには作られていない。
おかげで、子供のときからやりたい仕事がなくてやけくそになって生きていくしかなかった。
今の日本には動物の喜びしかない。
政府にいるバカ(五感主義者)とアホウ(心主義者)が悪いのだ。
[945] 視覚について h15.2.16
視覚は物体の色や形を認識する。
色については、実体とはことごとく無関係である。ただ、色のイメージに複合する心が若干生きていくのに役立つだけだ。それとて知覚における実在認識には及ばない。例えば、火が赤いからといって危険視していては、いつまでたっても火を利用することができない。人間は火の性質を学習することによって、火に対する恐怖を克服したのだ。
形については、ほぼ実体の認識に近いといえる。ただ、視覚は物体の表面の形を認識するだけで、物体の内部構造については何もわからない。物の内部を見るには、物を分解するしかない。物体の表面についても、‘くりこまれた’表面の形が見えるだけで、物体を構成する個々の原子までもが見えるわけではない。
[946] 『まず形から入る』 h15.2.16
形とは五感のことである。『まず形から入る』とは、現代人が『まず五感から入る』ことを言っている。
実在哲学で、“イデア(眼に見えない概念)がイメージ(眼で見た視覚像)から作られる“と言っているのと同じだ。
昔の人はまず心から入ったそうだが、私にはナンノコッチャわからん。(おそらく、生まれたままの心を大切にすることだろう。でも、これでは楽しければなにをしてもいいとする快楽主義にすぎない。)
現代人が、まず形のある五感から入って形のない知覚認識にまで到達するのならいいが、まず五感から入っていつまでも五感の中に居続けるのではかえって進歩がない。
[947] 聴覚について h15.2.17
聴覚は詞(ことば)と曲とから成る。
曲については、視覚における色と同様に実在と対応しない。それは人間の五感が作り出した幻にすぎない。(もっとも、色が光の波長に対応するように、音階は音波の波長に対応する。)
詞(ことば)については、視覚における形と同様に、実在とほぼ対応する。しかし、そもそも言葉はイメージやイデアを音声(や文字)に置き換えた(対応付けた)ものであって、言葉単独では無意味である。言葉の意味としてのイメージやイデアは自分の五感における経験から作り出さねばならない。実在と対応しない言葉は、たとえ耳で聞こえたり眼で見えたりしても、その意味はわからないものだ。(だから、私には歴史がわからないのだ。)
[948] 学校 h15.2.19
数学・物理は知覚を発達させる。
国語は心を発達させる。
体育・音楽・美術は五感を発達させる。
学校で要らないこと(つまり、五感や心を発達させる科目)を教えるな。
おかげで、自分が悪くなっただけだ。
…
そういえば、私が小学生の頃(昭和40年代)には、民主主義という言葉が流行っていた。
民主主義とは、人間はみな平等であり、互いに支配・従属し合うべきだとすることだ。
本当は、人間は不平等であり、正しい者が正しくない者を支配し、正しくない者が正しい者に従属すべきなのだ。
学校は子供に要らないこと・まちがっていることを教えて、子供を不幸にするだけだ。
[949] ハイデガーと私 h15.2.19
ハイデガーの言う“世界内存在(すなわち実在内存在)”とは、五感や心が“実在すなわち知覚に従属している”ことである。
《ポイント》〇が□内存在である=〇が□に従属する
ハイデガーにとっての実在とは“みんなが実在と認めること”だったが、私にとっての実在とは“感覚の外に在るもの”である。なぜなら、たとえ感覚がなくても自分は実在の中にいる(夜寝ているときのように)わけだし、また大勢の考えがつねに正しいとは限らないからである。
[950] 人間界 h15.3.3
正しい者が正しくない者を支配し、正しくない者が正しい者に従属する。
人間の価値は認識の正しさだけで決まる。
それが(そういう目で見た世界が)人間界だ。
[951] フィルター(専門用語) h15.3.9
五感界の中のどの部分を活動(神経興奮)させどの部分を活動させないか、つまり五感界の中の何を意識化し何を無意識化するか決めているのは知覚である。
つまり、知覚が五感のフィルターである。

あとがき;フィルターというのは水路の堤防のことだから、インパルス(脳細胞の興奮の流れ)は水の流れに喩えられる。脳の各中枢(知覚、心、五感)の活動度(興奮性;興奮しやすさ)が変化することは、(水は最も流れやすい水路を流れようとするから)インパルスの流れを変えることでもある。つまり、脳の各中枢の興奮性が変化することは、意識化される感覚が変わるだけではなく、大脳における情報処理の順番も変わることになる。
[952] 人はどうして気が狂うのか? h15.3.10
正しい哲学が知覚主義しかないことはわかった。
しかし、知覚主義では男が女と結婚することができない。
したがって、結婚して子供を作った男は、みな心主義か五感主義であって知覚主義ではないことになる。
つまり、結婚する男はみな哲学が間違っている。
一方、子供は親を見て育つ。
親の哲学の間違いをその子供が受け継ぐ。
それがいずれは子供の気が狂う原因となるのだ。
キチガイ親父に育てられると、子供にも精神病がうつる。
[953] 反抗期がなぜあるか? h15.3.10
結婚して子供を作る父親は哲学が間違っている。
子供も成長すると自分でものを考えるようになる。
親の哲学の間違いに気づいた子供は、親に従属せず反抗する。
親の哲学の間違いに気づかない子供は、親に従属したままで心主義か五感主義かであり、
親に反抗しない代わりに、いずれは自分が気が狂うことになる。親への甘えが強い子供ほど気が狂いやすい。
(それなら、なぜいったん親に反抗した子供が大人になると結婚するのだろうか?)
[954] 心主義 h15.3.10
‘心で生きている’というと聞こえはいいが、
心で生きているということは快・不快の区別を第一にして生きていることだから、
じつのところは‘ただ楽しければナニをしてもいい’という快楽主義にほかならない。
だから、心主義ではオナニーをしてもいいことになるのだ。
(オナニーをすると五感の感覚が強まって五感主義になる。)
[955] ダメな日本社会 h15.3.10
子供のときは知覚主義だが大人になると心主義や五感主義になって、
子供よりも大人が落ちぶれて悪いのが日本社会の欠点である。
[956] 放任主義 h15.3.10
女と結婚した男は、知覚が心や五感に負けた負け犬である。
ところが、生まれてきた子供は知覚主義であることがある。
父親が子供に哲学で負けたと思ったとき、
自分が子供に教えてはいけないと悟り、
その父親は子供に対して放任主義になる。
[957] 人類は生き残れるか? h15.3.11
人間性と生物性(子孫を残すこと)とは矛盾する。
知覚は人類を人間たらしめると同時に、人類に滅亡をもたらす。
人間は一人孤独に生きていけばよい。
この世は、人間の皮をかぶった動物だらけだ。
[958] 感覚界の支配 h15.3.11
まんが偉人物語#4『エジソン/良寛』を見て感動した(涙)。
エジソンは知覚の偉人で、良寛は心の偉人だ。
エジソンが電球を発明してくれたから、私は感覚子の発生を思い付くことが出来た。
私が子供のころ読んだ心霊本によると、エジソンは死んだ人と話が出来る霊界ラジオを発明したかったのだということだ。(ホンマかいな?)
ところで、脳細胞は電気興奮を感覚に変換する素子である。
感覚子が振動することによって(生成・消滅することによってかもしれないが)感覚波を発生する。(電子が振動することによって光子を発生させるように。)
動物の五感野にある脳細胞に電極を突っ込んで電気で強制的に強く刺激すれば感覚波を発生するはずである。
もちろん、この装置では死んだ人とは話が出来ないけれども、物質界と感覚界をつなぐことが出来る。(実在哲学の世界では、感覚も物質の一種と考える。ここでの‘物質’の意味は、これまで物理学の対象とされてきたものの総称とする。)
この装置を使えば、人間が感覚界を支配できる。(『三つ目がとおる』でボルボックが植物界を支配したように。)
ともかく、いずれは感覚も物理学の対象となるであろう。
[959] 感覚波の存在実験(ノーベル賞級) h15.3.12

脳細胞Aを電気刺激して興奮させて、脳細胞Bの電気的反応を観る。
(脳細胞Aの神経興奮が鎮まるとき感覚波を放出し、感覚波が脳細胞Bに吸収されると脳細胞Bが電気興奮する。)
このように感覚波があるのに、どうしてふつうの人は正気でいられるのか?
説明:われわれは日常生活において、必要な情報と不必要な情報を区別し、必要な情報を拾い不必要な情報を捨てている(すなわち必要な情報を意識化し不必要な情報を無意識化している)ので、たとえ幻聴(すなわち感覚波)が聞こえても不必要な情報として捨ててしまえば正常に生きていけるのである。
こんな理屈を聞かされても、それでも不必要な情報にとらわれるのは、やはり五感の興奮が強いからです。五感が意識で知覚が無意識になっているからです。言葉(イデア)を使って考えて(たいがい分裂気質の人はこれをやっていない)知覚の興奮を高めて、知覚が意識で五感が無意識になれば直ります。言葉を使って考えることは、五感界における(五感界への)知覚の表現である(すなわち、五感を知覚に従属させる、知覚界が五感界を侵略・征服する、知覚界におけるイデアを五感界における言葉(文字や音声)に対応付ける)と同時に、知覚を意識化する(感覚を強める)ことでもあるのです。
大事なのは“知覚を働かせて考える”ことです。

[960] とにかく考えよう h15.3.14
思考することは前進することである。(たとえ間違いでもいい。間違いを抜けるとそこに正しさがある。)
考えなければ赤ん坊のままだ。
[961] 心を働かせる必要性 h15.3.15
心が知覚すなわち実在に従属していても、実在のすべてが好きになるわけではなく、実在に対する好き嫌いがある。実在化された心でも、実在に対する好き嫌いはある(実在の中に好きなものと嫌いなものとの区別がある)。
だからこそ、(知覚だけではなく)心を働かせて、自分の生活空間を自分の心にとって楽しい環境に作り変えなければならない。
[962] ストレス(心主義の世界観) h15.3.17
心主義の世界では、自分の心を肯定する。
しかし、自分が生きていくためには、眼先の実在にも従わねばならない。
つまり、自分の心と実在の両方を肯定しなければならない。(そのため、裏と表がある。眼先の実在が表で、自分の心が裏。)
しかし、自分の心と実在の間には矛盾があるから、ストレス(すなわち、実在に対するどうにもならない不快感)を生じることになる。
反対に、実在主義では、心が知覚すなわち実在に従うので、実在のある特定の対象に対する不快感はあるものの、心主義のようなストレスは生じない(ストレスとは別のものである、ストレスとは不快感の質が違う)。
[963] 分裂病者ヘのアドバイス h15.3.17
あなたたちには世界が五感界しかない。五感界のほかに実在界があることを知らない。実在界を認識するのは知覚である。知覚界ができれば五感界が現象(つまり、考えるに値しないくだらない冗談)であることがわかる。…となるはずです。
[964] どうすれば知覚が働くのか?(精神病をとく鍵) h15.3.20
実在哲学がわかれば自然に知覚が働き出す。
勉強なんか必要ない。
[965] 精神病の原因について h15.3.21
五感を過度に興奮させると分裂病になる。
心を過度に活動させると躁鬱病になる。
それらが、分裂病や躁鬱病の直接の原因だが、
そもそも五感や心を過度に興奮させるに至ったおおもとの原因こそが真の原因であるといえる。
それは、その人の哲学(つまり、認識についての認識)における無知や間違いである。
そこを直さないかぎり、たとえ一時的に分裂病や躁鬱病が治っても、また再発することになる。
正しい哲学的認識が得られれば、自然に知覚が働くようになり、精神病は治る。
そして、正しい哲学とは私の実在哲学である。
(他人から哲学を学ぶことは、自分のプライドが傷つくけれども、正しいことは誰が考えても正しいことなので、自分が考えても他人が考えても結局同じことです。)
[966] 幸せの塔 h15.3.22
快感を荷う脳細胞を興奮させる(脳細胞と共鳴する)感覚波を放出する塔を作れば、みんなが快感を感じることができる。(実際に、テレパシーで他人の快感が自分に伝わることがあるから、幸せの塔の建設も原理的には可能なはずである。)
[967] 恐竜はなぜ絶滅したか?! h15.3.27
恐竜は力を欲していた。
一方、女は男よりも弱い。
したがって、オスの恐竜はメスの恐竜に魅力を感じなくなり、恐竜は結婚しなくなり、絶滅した。
同様に、
人間は知覚を欲している。
一方、女は男よりもバカだ(知覚が弱い)。
したがって、男の人間は女の人間に魅力を感じなくなり、人間は結婚しなくなり、絶滅するであろう。
恐竜にしろ、人間にしろ、力や知覚の強いことが、生物の法則(つまり、子孫を作るためには、男が女に魅力を感じ、結婚しなければならない。)と矛盾したために、絶滅するに至ったのである。
進化の系統図では、恐竜や人間は、先細りの袋小路の行き止まりなのだ。
恐竜や人間は、いくら力や知覚が強くても、生物としては失敗作なのだ。
[968] 言葉とは何か? h15.4.1
言葉とは、記号や音声をイメージ(視覚像)やイデア(概念)と対応付けたものである。
言葉の意味とは、記号や音声と対応するイメージやイデアのことである。

[969] 意識とは何か? h15.4.1
意識とは強い感覚のことであって、医学で定義しているような自分が見たり思ったり考えたりしていることが自分にわかることとは別である。
それは自己認識であって、意識ではない[と、実在哲学では定義する]。
自己認識が一般化されたものが哲学である。
[970] 分析と総合 h15.4.1
分析とは、全体を部分に分解することである。
総合とは、部分から全体を作ることである。
例えば、イメージ(視覚像)の演算(すなわち思考)から得られた実在的イデアを組み合わせることによって、実在する対象が理解される。
[971] カントの善意志について h15.4.3
カントは、『善は善自体が目的である』と言った。
カントにとっての善とは、実在哲学にとっての知覚と同じものである。
知覚は知覚自体が目的であって、心や五感を目的としない。つまり、正しいことはとにかく正しいのであって、楽しいためやかっこいいため(眼で見えるため)に正しいのではない。
もっとも、実在哲学においては、『善とは知覚が心や五感を支配している状態』として定義される。
[972] フィードバック h15.4.4
人間が認識すべきものは実在であって現象ではない。
ゆえに、五感は知覚に従属すべきである。

これができないと、人間として生きて行けない。
[973] 知覚が心や五感を支配する。 h15.4.4
正しさ(実在について考えること)を第一とし、
楽しいことや眼で見えること・耳で聞こえることにこだわってはならない。
実在の世界の中で楽しみ、自分で考えたことを言葉にして表現しよう。アニメは建て前。本音は実在のほうがおもしろいのだ。
[974] “幸福の塔”の原理 h15.4.11
快感を荷う脳細胞に電極を突っ込んで強烈に興奮させると、快感の感覚子(または感覚波、この際どっちでもいい)が大量に放出されて、周囲にいる人間が快感を感じる。…これなら、簡単に作れそうだ。そういえば、野球場とかライブとかで人が大勢集まるところでは気持ちに共感が出来やすいのも、周囲の人々が感覚子(感覚波でもいい)を出しまくっているからだろう。
[975] 『我思う、ゆえに我在り。』の意味 h15.4.11
私の脳細胞が興奮(神経興奮)するから、‘私’の感覚が発生する。
一般に、私の感覚はすべて私の脳細胞の興奮で発生する。[哲学T原理と同じ]
[976] 人殺し h15.4.15
日本はアホ(心主義者)とバカ(五感主義者)とで99%強だ。
そいつらは人間ではない。
人間は知覚主義者(知覚の興奮が強い者)だけだ。
そいつら(アホとバカ)を殺したところで人殺しにはならない。
なぜなら、そいつらは人間ではないからだ。
[977] 知覚主義は個人主義である。 h15.4.16
知覚主義では女は無価値だ。
知覚主義では、男は一生独身だ。
[978] 統合失調症 h15.4.17
人間は知覚主義でなければならず、
五感主義や心主義は成り立たない。
つまり、五感や心で感覚界を統合するのは無理だ。
統合失調の原因は、
五感や心を肯定しようとする(興奮させる)ことだ。
[979] 夢と現象 h15.4.17
実在認識(知覚)があるから、夢(知覚に従属しない心)や現象(知覚に従属しない五感)があるのであって、
実在認識がなければ、夢も現象も(つまり、冗談が)成り立たない。
実在認識がなければ、夢や現象が実在なのだ。
[980] 統合失調 h15.4.18
五感と知覚、心と知覚の両方を肯定しようとすると矛盾すなわち統合失調が生じる。
かと言って、知覚を否定し、五感や心を肯定するわけにはいかない。
人間として生まれたら、知覚を肯定するしかない。
[981] 認識とは何か?
H15.4.19
認識とは感覚化である。
知覚は感覚されるが実在は感覚されない。
感覚される知覚と感覚されない実在との対応をつけることが認識である。

知覚界はイデア(概念)から成る。イデアは眼で見えない。
五感界はイメージ(視覚像)から成る。
イデアはイメージ(視覚像)や他のイデアから思考によって作り出される。
知覚も五感も感覚されるが、実在は感覚されない。
だから、まず実在を観察して(見て)、五感界にイメージを獲得しなければ(作り出さねば)ならない。
ただし、イメージはあくまでも実在の仮の姿であって、実在そのもの(真の姿)ではない。
実在の真の姿は知覚において感覚される。
[982] 理解とは何か? H15.4.19
知覚において概念を組合せて実在する対象と同じ構造体が作られたとき、その対象を理解したと言う。
[983] 冗談 h15.4.20
言葉や絵の上では冗談が許されるが、実体(実在する物体)の上ではもはや冗談が成り立たない。
だから、文学やアニメが成立する。
もっとも、本来ことばは正確に用いるべきであって、面白さのためにことばの意味を乱雑にしてはいけない。
(実際、私はアニメはよく見るが、文学はまったく読まない。だから、ことばの世界は実在で、眼で見る世界は現象にすぎないというわけだ。)
ヨーロッパで“北斗の拳”が放送されないのは、ヨーロッパに正しい哲学がないからだろう。
冗談が大事で実在がどうでもいいのでは、本末転倒だ。
[984] 数学がわかるとは? h15.4.27
女は5個のリンゴや5個のビー玉ならわかるが、‘5’そのものがわからない。
それは女にとっての‘わかる’ことの意味が、眼で見えることに限られているからである。
そのために、眼に見えない‘5’のイデアがわからないのだ。
わかることの意味を、眼に見えないところにまで広げれば、‘5’のイデアもわかるようになる。
数学的感性とは、眼に見えないことがわかることである。
それをことばで表現することである。
[985] 勉強とは? h15.4.28
勉強とは、自分の人間的部分(すなわち知覚)を勉めて(すなわち積極的に)強めることだ。
卒業式の日に自殺するような学生は、本当は自分の人生が辛くて嫌だけれども、勉強のためにならこれまで辛抱してなんとか生きてきたのだ。
卒業して勉強する目的がなくなったから、生きるのをやめたのだ。
しかし、くだらない目的(すなわち心や五感)のために一生を生きようとする者よりは立派である。
[986] ニュートン h15.4.29
古来より、数多(あまた)の人々が夜空を見上げてきた。
ニュートンは天が動いていることから地が動いていることに変えた。
(私は見るものと見られるものの関係としての認識から、脳細胞の神経興奮による感覚の発生としての認識に変えた。)
そのとき、力とか仕事とかエネルギーとかいう概念ができた。
(そのとき、実在とか意識とか人間性とかその他いろんな概念もついでに生まれた。たとえ同じ言葉を使っていても意味の定義がこれまでとは違うのだ。)
それらの概念を用いて、自動車とかエアコンとかができた。
(例えば、幸福の塔。)
ニュートンの前には自動車とかエアコンなどは存在しなかった。
エアコンができたおかげで、人間は自然の涼風をありがたがらなくなった。
やはり、ニュートンは世界を変えたのだ。
やはり、ニュートンは天才だ。
(私も天才だ。)
[987] 本気と冗談 h15.4.29
知覚(すなわち実在認識)と、知覚に従属する心と五感は本気だ。
知覚に従属しない心(夢)と知覚に従属しない五感(現象)は冗談だ。
つまり、冗談は知覚(実在認識)によってはじめて成立するのだ。
知覚(実在認識)のない冗談は、もはや冗談としての意味を持たない。
(これで、やっとアニメが見られる。)
[988] 大人は汚い h15.4.29
知覚と心と五感の間には対立(不一致)があるから、
知覚と心、知覚と五感の両方を肯定することはできない。
人間であるからには知覚を肯定しなければならないのに、
大人は心や五感を肯定しようとする。
大人の感覚界には矛盾がある。
大人の感覚界は分裂している。
だから、大人は汚い。
うわべだけまともぶっていても、中身はでたらめだ。
矛盾のある者に耳を貸す必要はない。
だって、根本的には、そいつらが間違っているということでしょうが!!
こういう大人が子どもの不幸の原因にもなるのだ。
だから、大人は、せいぜい自分が心や五感を肯定していることを子供の前で隠そうとする。
しかし、実際には心や五感を肯定しているのだから、いつかはボロがばれる。
子供は生まれつき知覚主義であることが多いが(無知の効用)、哲学に疎いと、いずれは悪い大人を真似て心や五感を肯定するようになる。一時のまぼろし。
数学では、矛盾した体系からは任意の命題を演繹できるという。
ならば、感覚界に矛盾のある大人にとっては法律はなんの効力も持たないのだ。
本音と建て前の区別があるからなんとか社会が維持されている。
大人は眼先のことしかわからない。本音で生きてはいない。本音と言っておきながら、じつは本音で生きていない。生きられもしない。
表向きはまともでも、中身は腐っている。リンゴと同じだ。ミカンじゃない。
白人は眼先への囚われが強く五感的だが、そうなった原因は五感で女性に美の価値を認める男しか女性と結婚しなかったためである。
東洋では心で女性に価値を認めようとするが、同様の屁理屈だ。
キルケゴ−ルは心や五感を肯定して女性と結婚しようとしたが、それは合理主義をぶち壊すことにほかならない。
キルケゴールは女と結婚するかしないかで悩んだが、それは当時の哲学が不完全だったからだ。
当時の哲学は知覚のことばかりを考えて、心や五感からは目をそむけていた。
実在哲学においては、もはやそんな悩みは存在しない。
人間であるからには知覚を肯定しなければならない。知覚で見れば女性は無価値だ。無価値なものに心を惹かれることはありえない。それが答えだ。
どんなに屁理屈をこねても、人間が知覚を否定して心や五感を肯定することは許されないのだ。
自分が人間であるためには、全人類を滅ぼしてもいい。
人類はこれまで知覚と五感と心の区別をしてこなかった。
数学や物理に較べて哲学にあまりにも無知だ。
これまでの人類は、一体何を考えて生きてきたのか!?
問題は、どっちの世界のほうが人間が本当に幸福に生きられるかだ。
ニワトリでさえガラスにぶつかったら迂回して餌を食べるではないか。
人間が幸福であるためには心そのものを肯定するのではなく、知覚を肯定しなければならないのだ。わかりきっている。
[989] ガリレイはなぜ宗教裁判にかけられたか? h15.4.30
ガリレオの理論がチャチだったから。
そのため、遊び半分と見られた。
ニュートンぐらいだったら、もはや逆らう者はいなかったはずだ。
(やはり、数学で高度に武装しなければならないのでしょう。)
それにしても、「それでも地球は動いている」なんて言う奴は、それでも男か!?
男だったら拷問にかけられて死んでも自分の信念を否定してはならない。
[990] 和洋折衷 h15.5.4
日本の心(実在主義=知覚主義)で西洋の科学技術を受け容れること。
西洋文化は西洋の心(五感主義)で西洋の科学を容れたものである。
実在主義哲学と自然科学とが結びつけば、これに勝るものはない。
[991] 男女不平等 h15.5.4
遺伝的に女は男よりも知的でないから、
女は男に従属することによって、社会秩序が保たれる。
男女同権は実在原理(とくに第2原理)に反するから、許してはならない。
ヨーロッパは哲学が間違っているので、日本がヨーロッパを真似てはいけない。
[992] 結婚について h15.5.4
男は、女が男よりもきれいだから楽しいからと言って、結婚しようとする。
五感や心で評価するのは、人間に対する間違った見方だ。ふざけている。
その点、女は、男が女よりも頭がいい(正しい=実在的だ)からといって結婚しようとする。
女のほうが男よりも結婚の動機は自然だ。
[993] どうしてお城は町の真ん中の高いところにあるのか? h15.5.6
お城は江戸時代の‘幸福の塔’である。お城の殿様の大脳(とくに心)から快感子(快感を荷う素粒子)が四方八方に放射されると、城下町の町民たちがみな幸せを感じることになるのだ。
遊んで楽しむことが殿様の仕事だ。
[994] スキゾフレニア h15.5.17
スキゾフレニア(分裂病、統合失調症)は幻聴を聞いて吠えたり暴れたりする。
スキゾはそういう世界(刺激→反応系)の中にいる。
表面的には嫌がっているが、心の奥ではおもしろがっているのだ。
そういう世界の中にいたいから、そういう世界の中にいるのだ。
表面的には「勉強や仕事をしたい」などと言うが、
本音では『幻聴を聞いて、吠えたり暴れたりしたい』のであり、
勉強や仕事をするのが嫌なのだ。勉強や仕事のことなどどうでもいいのだ。
そもそも、心が動物である者に人間的な勉強や仕事をする資格などない。
[995] 幻聴について h15.5.17
幻聴は、五感界肯定の副作用だ。
分裂病者本人は『五感界の愉快な面だけを肯定したい』のだが、その副作用として不快な幻聴が聞こえるのだ。
心の奥では五感界を肯定したくて、その余計なおまけとして幻聴が聞こえるわけである。
幻聴は嫌だが、その程度のことでは五感界(の欲望)を諦め切れないのだ。
彼らが五感界を放棄しないのはそのためだ。
[996] 先祖祭り h15.5.21
何年かに一度、親戚どうしが集まって、酒を飲んだり料理を食ったりするだけのくだらない会合になってしまっている。
そんなことしても何にもならない。時間の無駄だ。
同じ親族なら同じ原理を共有すべきであり、
親族会とは、自分たちの信じる原理を確認し改善する会、
その原理が具体的にどのように実践されたかを報告する会であるべきだ。
[997] 心センサー h15.5.21
心は眼で見えない。
だから、心を無視しがちだ。
それなら、心を眼で見えるようにしてやればよい。
脳波計や嘘発見器を改良して、心が快か不快か数値でわかるようにすればいい。心が眼で見えれば迷いもなくなる。
そうすれば、自分が将来何の職業に就きたいかもよくわかるはずだ。
[998] 俺が学者になりたくなかった理由 h15.5.21
うわべだけ利口ぶっていて、中身はそこらへんのと違わない。要領がいいだけ。
仕事がたんに学者と言うだけで、仕事以外は凡人だ。肩書きが立派で、中身はオンボロ。
眼先で学問の真似事をするだけで、認識が知覚的ではない。しょせん、猿まね。
手先眼先のお稽古事に過ぎない。他人前でお行儀がいいだけで、頭の中が汚らしい変態。
中身がバカだから、眼先の知識で武装しようとするのだ。
眼先のことだけ頭が良くて、中身が普通の人と同じ奴は嫌いだ!
私はと言えば、哲学から能力(ちから)を借りて勉強に応用しただけで、勉強そのものは何の役にも立たなかったよ。
[999] 細菌と感覚波 h15.5.26
パスツールは、細菌がものを腐らせると考えた。
細菌は空中のいたるところにいる。
それなら、どうして人間の身体は腐らないんだ?
それは免疫で説明が付く。
同様に、
私は、幻聴を感覚波の意識化であると考えた。
感覚波は空中のいたるところにある。
われわれは感覚波の海に浸かって暮らしているのに、どうして幻聴が聞こえないのか?
それは、[972]フィードバックで説明が付く。
[1000] 分裂病者における言葉の意味 h15.5.29
分裂病者は、
言葉の真偽性(正しいか間違っているか無意味かの区別)即ち実在的(知覚的)意味よりも、
言葉の雰囲気(言いかた)即ち現象的(五感的)意味に敏感である。
言葉の中身の意味よりも表面的な上辺(うわべ)のことしかわからない。
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