[801] イデア(概念) h14.9.17
イデアは人間の頭(脳)の中にある。
イデアは知覚細胞が荷う情報である。
五感においてイメージが見えるように、知覚においてはイデアが見える。
知覚が働くかぎり、イデアは見えている。
イデア その2 h14.9.17
五感において花のイメージ(花の姿)が見えるように、知覚においては花のイデアが見える。
花のイデアとは、花についてのさまざまな知識(知覚的認識)である(*補足1後述)。
花のイメージよりも花のイデアのほうが、花の実体に近い(似ている)。
*補足1
知識は言葉で表現されるが、その実体は知覚におけるイデア(概念とも言う)である。
知覚におけるイデアと、五感における文字や音声を対応付けたものが言葉(知覚的言語)である。
五感におけるイメージ(視覚像)と、五感における文字や音声を対応付けたものも言葉(五感的言語)である。
言語中枢(音の系列としての音声と、線の系列としての文字が言語である。)は左脳にあるが、イデア中枢は右脳にある。
イメージ中枢は後脳にある。
言語中枢とイデア中枢またはイメージ中枢とを対応付けることが、言葉である。
イデア その3 h14.9.17
とにかく、‘イデア’という眼には見えないものが人間の脳の中にはあるのだ。
(もっとも、脳細胞の神経結合まで入れると、イデアも眼で見えることになるけれども。)
イデア その4 h14.9.17
人間は知覚の中にあるイデア(概念)を組み合わせて実体をつかむ。
例えば、哲学第一原理によって、認識の実体をつかむことができる。
イデアと実体とは抽象的に同じなのである。(つまり、イデアは実体の一面をとらえているにすぎない。)
イデア その5 h14.9.17
イデア(概念)はイメージ(眼に見えるものの像)を分析することによって作られる。
または、イデア同士の関係から作り出されることもある。
つまり、観るか考えるかしないかぎり、イデアは生成されないのだ。
人類はたくさんのイデアを作り出し、(それらを用いて)実在を理解してきた。
これからもまたそうしていくであろう。
[802] 男と女 h14.9.17
女は五感のイメージの世界の中に生きている。女心は五感のイメージの世界と複合する。だから、女心は原始的で野蛮で動物的で下品で汚い。(母親も女の一人である。)
男は知覚のイデアの世界の中に生きている。男心は知覚のイデアの世界と複合する。だから、男心は現代的で洗練されて人間的で上品で美しい。
五感界は時々刻々と変化する。だから、女心は秋の空のように変わりやすい。
知覚界は永遠に不変である。だから、男心は岩のように変わらない。
[803] 人類の宿命 h14.9.18
行きつく先が地獄だろうが何だろうが(つまり、将来不幸になろうが幸福になろうが)、実在に近づかねばならない。
心よりも知覚が優先する。
それが人間として生まれてきた者の宿命だ。
人類(≡人間の集団)とはそういうものだ。
[804] 現象よりも実在が大事。 h14.9.19
知覚でものを見る者(つまり、眼で見えないイデアの組み合わせとして実在をとらえる者、すなわち言葉で実在を理解する者)が五感でものを見る者(つまり、姿形を見ただけでわかったつもりになる者)に従うべきではない。
われわれ人類が見るべきものは、実在であって現象ではない。
[805] 昔の人は偉かった。 h14.9.19
昔の人は実在が理解できてなおかつ文学(冗談=おもしろい作り話)までもできた。
例えば、宮本武蔵は剣術のみならずマンガもうまかった。
2刀流でやれば、2倍の速さでマンガが描けただろう。
今の人は実在の理解がなくて冗談しか言えない。
たとえ文学の才はなくても、せめて実在の理解はあって欲しい。
[806] 分裂病になりやすい人 h14.9.19
勉強や仕事の上だけ知覚的で、その他の日常生活では五感的な人たちがいる。
実生活においてはまったく言葉を使って考えていない。
勉強や仕事ばかりして(勉強や仕事で忙しすぎて)、その他の自分の人生のことについては何も考えていない。
得意なことと不得意なこととの差が大きい。(躁鬱病でもそうだが、躁鬱気質の人は不得意なことで落ち込むだけで興奮はしない。)
感性が知覚と五感の両方あって分裂している。
こういう人が、五感で過度に興奮すると、知覚が働かなくなって分裂病になる。
五感界は実在界とは法則が違うから、五感界にとらわれると、実在界に適応できないようになる。例えば、五感界では自分と他人の身体が見えるだけだから、五感界には‘自分と他人の区別’がない。したがって五感界では、自分(の精神)が他人の身体を支配することが可能である。(もちろん、実在においては不可能である。)‘自分と他人の区別’は知覚で考えることによってはじめて出来るのだ。
補足)五感(とくに視覚)界とは、眼(というか、大脳後頭葉視覚野)で見える色・形のある世界である。
「知覚で見る」といっても、もちろん対象を眼や耳を使わずに知覚だけで見ようとするのではなく、対象を眼や耳で見たもの(いわゆる五感(界))をさらに知覚で見るということである。
分裂病は、今は‘感覚統合不全症(?)’と呼ぶらしいが、何もそこまで正直に言わなくても分裂病でいいと思う。今のネーミングは暗に五感界を積極的に肯定するような意味合いがあって好ましくない。
五感は知覚に従属すべきであって、五感じたいを肯定すべきではない。それでは分裂病と同じだ。‘五感の肯定’はあくまでも冗談であって本気にやってはいけないのだ。
自分が人間であるかぎり知覚的であらねばならないのだ。
[807] 人間は何のために生きるか☆ h14.9.23
人間は“自分が人間であるために”生きているのであって、
自分(の心)が幸福になるためや、自分(の身体)が生きるために生きているのではない。
人間にとっては、自分が『人間である』ことが、自分(の心)が幸福であることよりも、自分(の身体)が生きていることよりも優先する。
『人間である』とは、知覚的であることである。知覚が五感や心を支配していることである。
人間の本質は知覚である。
人間は、知覚が五感や心を支配するようにしながら生きていけばよい。
[808] 発明 h14.9.24
電気炊飯器、電気洗濯機、クーラー、テレビなどの発明品は、人の実在についての知識と人のもっと楽しくなりたいと思う心とから作り出されたものだ。(自動車は酔うから嫌い。)
知識だけでは発明できない。知識と複合する人間の心があって、はじめて発明が生まれるのだ。
「日常生活が便利になる」ことが、人間だけにわかる実在における楽しさなのだ。
これらの発明品は(知覚=実在に従属する)人間の心を満足させるためにあるのであって、(五感=現象に従属する)動物の心を満足させるためにあるのではない。
[809] 発見 h14.9.24
五感(ただし、知覚=実在非従属性五感)や古いまちがった知識と複合する心に迷わされず、ひたすら知覚(言葉や図を使って考える)だけで推し進むことが発見のコツだ。
発明においては知覚と複合する心が重要だが、発見においてはむしろ心がないほうが都合がいい。真理の探究心だけあればいい。
[810] 動物と人間とキチガイ h14.9.24
五感しかないのが動物で、(知覚において)五感に対して実在的意味づけができるのが人間(天才)で、(知覚において)五感に対して非実在的意味づけができるのがキチガイ(分裂病者)である。
ところが、五感は実在にある程度は近いとはいえやはり知覚には及ばないのであり、つまり五感は実在に対する非実在的意味づけと考えられるので、動物とキチガイはほとんど同じと見てよい。ただし、(知覚における)五感に対する非実在的意味づけ(例えば、自分が他人をマインドコントロールできると考えること)は、五感そのもの(つまり、見たまんま、聞いたまんま)よりも正しくないので、キチガイは動物(例えば、女性)よりも正しくない、すなわち実在に適応していない。キチガイは動物(例えば、女性)にも劣る。とも言える。
だから、例えば、他人の‘咳ばらい’(つまり、五感的刺激)に対して、動物とキチガイはそれを真(ま)に受けて『他人を不快にした自分が悪い』と考えるが、人間(天才)はそれを無意味と見なして『他人は実在しないものを五感で見ているのだから、他人が悪い』と考える。それが‘咳ばらい’に対する正しい(実在的な)意味づけであって、五感に対して実在的意味づけができるから人間(天才)なのである。
[811] イメージとイデア(現代物理のこころ) h14.9.25
P.A.M.Diracは物質の実体はイメージ(視覚像)ではもはやわからず、イデア(知覚的代数的概念)でなければ理解できないものだとした。
Einsteinは物質のイメージ(視覚像)にこだわりつづけたので、量子力学(物質の真実)がわからなかった。
物質の実体は五感ではなく知覚でなければ理解できない。
五感にこだわってはならない。(Einsteinが五感=現象にこだわるところにGoethe以来のドイツ気質が表れている。)
現代物理における‘わかる’とは、‘五感(とくに眼)で見える’ことではなく‘知覚で見える’ことである。
物理学の歴史は、哲学の歴史でもある。
量子力学を勉強するときには、イメージ(視覚像)でわかろうとせずに、イデア(代数的概念、ことば)だけでわかるようなつもりで勉強するといい。
なぜなら、実在は五感(絵)ではなく知覚(ことば)によってとらえられるからである。
古典力学はイメージの力学だが、解析力学はイデアの力学である。
量子力学が‘眼に見えない’のは解析力学をもとにしているのでやむをえない。
人間はどこまで五感のウソ(例えば、近接作用)を見破れるか?!
[812] 《精神病まとめ》 h14.9.27
動物:五感しかない(現象的)。
正常人:五感に対する実在的意味づけが知覚においてなされている(実在的)。
分裂病者:五感に対する非実在的意味づけが知覚においてなされている。つまり、実在でないことを考えている。
五感もある程度は実在について正しいから、正しさの順に言えば、正常人(人間)>動物>分裂病者。
鬱病者:知覚(でわかることの範囲)が狭い。
神経症:五感の中に一部分興奮しやすいところ(いわゆるトラウマ)がある。
[813] 私の場合 h14.9.27
隣の席に座っている不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくり遊びをしているのを見て『学生にあるまじき態度だ』と怒るまではかまわないが(なぜなら、それは実在に基づく感情といえるからである)、『あいつの身体を超能力で操ってやろう』とまで考えることはまちがっている。(やはり、マンガの読みすぎが原因か。)
まちがい(例、自他不可弁別性のイデア)を知覚の中に植えつけると、五感に対して広くまちがった意味づけがなされ、実在に適応できなくなる。これが、精神分裂病だ。神経症では、まちがいが具体的な五感(イメージ)の経験だけに限られるので、あまり広い障害(実在への不適応)は起こらない。
『ふざけすぎたことは本気になって考えるもんじゃない。』ことを当時(高校一年生)の私は知らなかったのだ。
[814] どうして幻聴が聞こえるか? h14.9.29
知覚における非実在的(マンガ的)概念‘自他不可弁別性のイデア’が大脳上の五感の中枢に作用して幻聴覚(感覚波に対する感覚)を目覚めさせるのだ。
知覚における‘自他不可弁別性のイデア’が五感を支配することによって、五感そのものを‘自他不可弁別性のイデア’に従属するように作り変えて、幻聴が聞こえる(他人の脳から出た感覚波(感覚子が真空中で振動することによって立てる波)が自分の聴覚に変換される)ようになるのだ。(動物に幻聴がないところを見ると、五感にもすでに‘自他の区別’はあるようだ。)
‘感覚がある’ことに較べれば、‘幻聴がある’ことなんかさほど不思議でもない。
[815] イメージとイデア その2 h14.9.29
イデア(知覚概念)はイメージ(視覚像)よりも普遍的・一般的である。
例えば、‘花のイデア’は世界中のすべての具体的に存在する花に当てはまるが、‘花のイメージ’は具体的に存在する特定のひとつの花(固有名詞)だけに限られる。
イデア(言葉)はイメージ(絵)よりも当てはまるものが多いので、それだけ普遍的・一般的なのである。
[816] 人間とは h14.10.1
デカルトは『われ考える、ゆえにわれあり。』と言った。
パスカルは『人間は考える葦である。』と言った。
両者に共通する点は、とにかく『人間とは考えるものだ。』ということだ。つまり、人間は知覚のある生物なのだ。人間の本質は知覚である。人間性とは知覚にほかならない。
[817] マンガ家とは h14.10.1
マンガ家とは、まちがった思想を子供たちの頭に植え付けて子供たちの人生を不幸にするのを生きがいにしている意地悪な大人である。
[818] 親に頼んで生まれてきたんじゃない。 10.1
仕事をしないで生きていける時代にならなければ人生が幸福とはいえない。(考える頭があったら、それぐらいのことわかるやろうが。)
今の時代に生まれてくることがそもそもまちがっている。
このまちがいを正すには死ぬしかない。
そもそも不幸の原因は、今の人類が実在について無知すぎることにある。
100万年後に生まれてくれば、なんでも思い通りにできて、みんなが幸せだ。
100万年後に生まれたかった。
しかし、実際には、人間として生まれたら人間として生きていくしかない。
幸福を問題にするには、まだ100万年早いのかもしれない。
[819] 食べ物が大事 10.3
おいしいものを食べれることが生活の基盤である。
うまい食い物がないとヤル気が出ない。
おいしいものを食べれることが何よりの幸せだ。
衣食住が生活を支える3本の柱だ。
衣と住は私の給料では満足されない高嶺(たかね)の花だ。
近所のスーパーでおいしいおかずを買って食べることが、たったひとつの人生の支えだ。
衣(気に入った服)はダメ、住(よく眠れる家)もダメ、食(おいしいおかず)もダメでは、私の人生は成り立たない。
[820] T市はバカの集まり h14.10.4
私の住んでいるT市はおいしい食べ物がない。
まずいもんばっかり食べていると、頭がだんだん悪くなる。
町並みが陰気くさいのも、住民に悪気が多いのも、みんなここの人の頭が悪いせいだ。
私がここへ来る前は収入は今の半分以下だったけど、倍以上楽しかった。
[821] 貧乏 h14.10.4
私がここ(T市)へ来てからすっかり暮らしが“貧乏”になった。
貧乏とは、収入とは無関係に、暮らしぶりが貧しいことだ。
例えば、おいしいものが食べたいのに、スーパーにおいしいものが売っていないこと。
自分の眼に合うメガネが欲しいのに、メガネ屋がヘタクソで度がやたらきついメガネしか作れなくて、結局かけずじまいでお金が無駄になること。
[822] 知覚の発達 h14.10.5
知覚が五感に従属しているあいだは、知覚は曖昧模糊であり、
知覚が五感を支配するようになると、知覚は明晰判明になる。
(なぜなら、五感界がそもそも実在について曖昧模糊だからである。)
[823] T市は地獄 h14.10.7
おれらあの貧しい給料で買えるもんゆうたらせいぜい‘スーパーのおかず’だけやんか。かんじんのそれがゲロゲロにまずかったらなんちゃあおもしろうないわ。なんの喜びものおて仕事だけせんといかんがか。そんなんあるか。ここは地獄や。
[824] 仕事心得 h14.10.7
1.運を当てにするな。あいまいさを残すな。「たぶん、いいだろう」は通用しない。
2.数字に出ないことをせよ。(結局は出るけど。)数字だけ上げようとするな。数字は人を欺く(あざむく)。数字だけ上げようとする者にまじめな者はいない。
3.ムダをなくすのはよいことだが、要ることまでしないのはよくない。
[825] 食事が第一 h14.10.7
まずい食い物を自分の口につめこむことが楽しいことか。
毎日毎日自分で自分をいじめているだけやんか。
そのうち性格が意地悪になる。
まずい食べ物は身体にも悪い。
T市に来てから毎年冬にカゼひいて休まないかんようになったわ。
[826] 実在哲学の原則 h14.10.11
われわれの眼で見える世界は五感(=現象)であって実在ではない。
実在は五感を超えたところにある。
実在は知覚によって見ることができる。
五感と心を知覚(≒実在)に従属させよ。
五感(=現象)においてではなく、知覚(≒実在)において心を満足するようにせよ。
[827] 社会的存在としての人間 h14.10.27
他人のことはどうでもいい…のではなく、
自分より正しい者には従属し、
自分より正しくない者には従属しない。
ことが大事なのだ。
‘どうでもいい’で済ますのは実在逃避だ。
[828] 女はどうして女らしいのか? h14.11.2
女の身体の現象的意味に捕らわれるからだ。
女はもともと頭が男で身体だけが女なのだが、
身体の五感的意味にとらわれると頭までが女になってしまうのだ。
つまり、頭で身体を見ずに、身体で頭を見ようとするから、身体が女だと頭も女になってしまう。
‘頭で身体を見る’とは、取りも直さず、‘頭が男なのに身体だけが女’と言うことである。
私も、友人から、「こいつは見かけによらない」とよく言われていた。
男の身体は醜いから、身体で頭を見ると、頭まで汚くなければならないことになる。
マンガじゃないから、見た目のまんまがその人の性格なのではない。
見た目のまんまで性格が決まるのだったら、女はいやらしく、男は汚らしくなければならないことになる。
女は身体がフニャフニャだから、頭もフニャフニャであり、
男は身体が汚いから、頭の中も汚いのだ。
そういう見方をしてはいかん。
頭の中身と身体とは一致しないものだ。
だから、いくら身体がフニャフニャしていて弱そうでも、頭は男らしく知覚的であればよいのであり、
いくら身体が汚らしくても、頭の中はきれいであればいいのだ。
(そうでなければ、デカルトに数学がわかるはずがない。)
頭を身体に合わす必要はない。それは他人の目にたよりすぎだ。他人に自分を決めてもらおうとしているからだ。
逆に、身体を頭に合わす必要もない。それは、見栄だ。それに、そもそもそんなことは不可能だ。頭が男だからって、女の身体を男の身体に変えることはできない。人間はみな頭が男(知覚優位)で、身体が女であったり男であったりするだけだ。
一般に、身体と頭とは関係ないのだ。
『知覚を五感に従属させてはならない。
その逆に、五感を知覚に従属させねばならない。』とは、そういうことだ。
女が女らしいのは、人間を眼で見える身体の上だけで捉えているからである。
眼で見えない感覚の質まで含めると、意外と男だったりする。
人間を眼先の上の身体だけで見るか、それとも
認識の正しさ(感覚の質)まで考慮して見るかの違いだ。
キュリー夫人やコワレフスカヤは、パッと見の身体的には女だが、
物理や数学の物差しで見ると、男なのだ。五感バカではない。
評価すべき目で見れば、女は身体だけが女で頭は必ずしも女(つまり、五感バカ)ではない。
人間が五感バカになるかならないかは、文化によるのだろう。
つまり、男は厳しく、女は甘く育てられたから、男は知覚が発達し、女は生まれたままの五感バカのままなのだ。
そうでなければ、東大に受かる女なんかいないことになる。
何度も言うが、身体だけで人間を見るから、男と女が違うことになるので、
認識まで含めて人間を見れば、男と女は身体が違うだけで、頭は同じ人間すなわち知覚のある動物なのだ。
頭が五感バカなら、たとえ身体が男でも頭は女だ。
ただ眼で見るだけで、言葉を使って考えないなら、頭は女だ。
同じ言葉を使っても、言葉の意味が五感ではなく知覚にあることが大事なのだ。
社会全体の文化レベルが低く、人間を眼先だけ(イメージ)でしか見れないから、男と女の違いがあるのであり、
人々に知覚的概念(イデア)が与えられ、社会の文化レベルが上がり、人間を認識の正しさ(感覚の質)で見れるようになれば、男と女の違いは解消するだろう。
子どもだって、大人顔負けに知覚の発達した者もいる。
子どもと大人の違いは身体の違いだけであって、頭はそんなに違わないのかもしれない。
たとえ身体が子どもでも、知覚が大人並みに発達していれば、大人の仲間に入れるべきである。
逆に、身体が大人でも、頭が子どもであれば、子どもの仲間に入れたほうがいい。
子どもと大人の違いは、年齢や身体の大きさにあるのではなく、感覚の質すなわち五感と知覚の違いにあるのだ。
女が女らしいのは、自分というものを自分の身体にすぎないと考えているからである。
自分というものを自分の頭(認識、感覚)まで含めるなら、女はもはや男と同等である。
自分を五感の上だけで捉えるか、実在の上で捉えるかの違いだ。
自分を実在の上で捉えているなら、身体だけが女で頭が男でありうる。
自分を五感の上でしか捉えられないなら、身体が女なら頭も女にならざるを得ない。
対象を五感で見るか知覚で見るかは、知覚のトレーニングしだいだ。
知覚がトレーニングされていれば、対象を知覚で見ることができるが、
知覚のトレーニングが足りなければ、対象を五感でしか見られない。
『人間は人間になろうとするから人間なのであって、
人間になろうとしなければ動物のままだ。』
頭が男で身体が女の女は、頭がいい、知覚の発達した女である。
しかし、世の中には、対象を五感でしか見られない者がいる。
そういう者は、自分自身や他人を五感で見る。
しかも、他人の正しい認識を自分のまちがった認識に従えようとする。
そういう連中は物の実体が見えていないのだから、そいつらに合わせる必要はない。他人のまちがいまで真に受けなくていい。
自分は自分の正しい認識を信じて生きていけばいい。
いくら、頭を使わないのが楽だからと言って、まちがいでは何にもならない。
人間にとっては、楽か苦よりも、正しいかまちがいかが優先する。
正しい世界すなわち実在の世界の中で、苦を減らし楽を増やすように考えればいいのであって、
楽だからと言って、正しかろうがまちがいだろうがどうでもいいのではない。
人間は認識の世界の中に生きているのではなく、実在の世界の中に生きている。
たとえ実在自体が感覚できなくても、人間が実在の中で行動するかぎり、実在が問題になる。
人間の認識が実在する脳細胞の神経興奮による感覚(子)の発生である以上、
認識よりも実在が優先する。
だから、たとえマンガであっても、実在的部分と空想的部分とに分け、実在的部分を重視し、空想的部分を軽視するような見方で見ることが大事なのである。
ただおもしろかったらいいという認識主義(快楽主義)ではダメで、実在主義(知覚主義)でなければならないのである。
人間はつねに実在の中に生きているのであって、そのことを忘れて認識の世界の中だけに閉じこもってはならないのだ。
そんなことしてたら、実在に不適応になって、生きていけなくなる。
[829] 『実在は五感を超えたところにある。』 h14.11.9
子供の頃の私は、眼で見える世界が実在で、自然科学の世界は人間の頭の中で作り出した作り事の世界にすぎないと考えていた。眼で見える瞬間瞬間に移り変わる世界のほうが実在で、時間を取り入れた4次元世界は眼で見える世界を理論的統一的に説明するために考え出された人工の世界にすぎないのだ。
28歳ごろになって、やっと、時間のある4次元世界のほうが実在で、五感(眼で見える世界)は人間が頭の中で作り出した世界だということに気がついた。五感は人間の大脳の後頭葉にある脳細胞の興奮による感覚の発生によって作られた世界なのである。実在においてすべてのものは静止しており、五感は各瞬間における感覚(子)の発生・消滅であるがゆえに動いて見えるのである。
子供は眼で見るだけで、まだ言葉で考えることが不足しているから、五感のほうを知覚よりも実在だと見なしている。大人は眼で見たことを言葉で考え直すから知覚のほうが実在になる。人間の大脳は実在を見るための巨大な眼玉なのだ。
[830] 『精神病について』 h14.11.10 (昨夜ヤフー掲示板のほうから来られた方がいたので)
躁鬱病は、知覚が狭い。
分裂病は、感覚が五感的だ。
したがって、
鬱病気質の者が知覚でわからないことに出会うと五感でしかわからなくて人間の心が働かなくて落ち込む。
分裂気質の者が五感で興奮しすぎると知覚が働かなくなって実在に適応できなくなる。
躁鬱気質の者が外向的なのは、自分がわかることが狭いので他人に自分を助けてもらう必要があるためである。
分裂気質の者が内向的なのは、言葉を用いて考えないために、他人との意思疎通がうまくいかないためである。
あるいは、
躁鬱気質の者は、感覚が知覚的過ぎるために、五感を知覚化する過程すなわち学習が苦手であって、自分の知覚でわからないことに出会うと手も足も出なくなる。
イデアはイメージから余計な部分をそぎ落として洗練した、実在についての必要十分な情報を含む概念であり、そうして得られたイデアをもとのイメージに対応付けることが、そのイメージに対応する実体についての理解にほかならない。
そもそも、人間の認識には、知覚、五感、心の三つがある。
知覚優位型が正常な人間であり、
五感優位型が分裂気質であり、
心優位型が躁鬱気質である。
心優位であるからこそ、心の快不快が前面に表れているのだ。
五感優位であるからこそ、五感の非実在性が前面に出て、実在への適応不全を引き起こしているのだ。
知覚優位であれば、知覚は最も実在に近いから、実在に適応して人間らしく生きていけるのだ。
躁鬱病者は自分の心にとらわれているために、そもそも自分の心が自分の感覚と複合していることを見失って、心が独りで暴走しているのだ。
自分の心にとって自分が置かれた環境が不快であるのは、自分の心と複合する自分の感覚界(知覚〜五感)と自分の置かれた環境が大きく食い違っているためである。例えば、数学の好きな人が医学部に行っても、その人の頭の中は数学の知識ばかりなので、医学の世界と縁がなく、自分が自分の置かれた環境から締め出されたようになり、自分のこれまで活動していた知覚が働かなくなるので自分の心も働かず、人間としての喜びを失って落ち込む。一方、親が医者の者は、医学の知識があるので、医学部に行っても医者をやっても、知覚が働くので、知覚と複合する心も活動でき、人間としての喜びを持ち続けることができるのである。
だから、自分の親か親戚かが医者をやってない者が医学部に行くな!躁鬱気質の者は、自分の心にとらわれているので、ちょっとお金がもうかるとか親に孝行できるとかでいい気になって、医学部に行こうとするが、そもそも自分に適性(自分の感覚界と自分の環境が一致していること)がないのを見失っていて大失敗をする羽目になる。医学部にいって心が落ち込んでも、どうして自分の心が落ち込むかが理解できずに、そのままガムシャラに勉強し続けてますます事態が悪化する。人間20ぐらいになれば、そうやすやすと自分の感覚界を変えられるものではない。『80の手習い』とは言うが、遊びとしての学問はできても、仕事としての学問は到底無理である。それに、勉強したくてする学問は、多かれ少なかれ自分の感覚界と勉強しようとすることが一致しているからであり、まったくの無知ではやはり務まらない。ガムシャラにやるだけでは、骨折り損のくたびれもうけだ。人生を無駄にしてはいけない。
分裂気質では、五感が知覚と心を支配しており、
躁鬱気質では、心が五感と知覚を支配している。
分裂気質の者が五感で興奮しすぎて(五感の意味で不愉快になりすぎて)、五感が過敏になって分裂病になるように、
躁鬱気質の者は心で興奮しすぎて(自分の環境を不愉快に感じすぎて。不愉快に思うのも興奮の一種である。)、心が過敏になって躁鬱病になる。
分裂気質の者は、五感が知覚と心を支配しており、言葉の意味は五感にある。つまり、言葉に対応する自分の視覚的聴覚的イメージがそのことばの意味になるのである。
躁鬱気質の者は、心が知覚や五感を支配しており、言葉の意味は心にある。つまり、言葉に対して心で感じる快不快感がその言葉の意味なのである。
本来、言葉の意味は知覚にあり、五感のイメージから要らない部分を捨てて洗練して出来たイデアが、言葉の意味にほかならない。
人間には、知覚、五感、心の3つの認識の中枢があり、
知覚優位型は普通の正常な人間であり(これもひとつの精神病型)、
五感優位型は異常な分裂気質であり、
心優位型は異常な躁鬱気質である。
実在に適応して最後まで生き残るのは、実在がよく見えている知覚優位型の者だけである。
ちなみに、神経症は、正常な人間の中に潜んだ局所的限局的な分裂病だと言える。
神経症では、性が問題になることが多いらしいが、そもそも性感が五感だから、性器の意味が五感的なのだろう。
ドイツ人の感覚が現象的なのも、名詞に性の区別があるせいなのかもしれない。
第一どうして、生物ではない物体が男になったり女になったり中性になったりするのか?そんなの、ただのイメージでしょうが!ここにドイツ人の五感に対する強いこだわりがあるのだ。そんなドイツ人の中にも理論的な者がいるのがこれまた不思議だ。数学用語には性の区別がないからか?それなら、ドイツ語から性の区別をなくしましょう。そうすれば、ドイツ人の感覚がもっと知覚化されるだろう。
最近、分裂病が‘統合失調症’と改名されたが、これでは言葉の中身がはっきりしないので、いい名前ではない。『躁鬱病』と言う名前がこの病気の本質が心にあるのを明示しているように、分裂病の本質は五感の非実在性にあるのだから、『現象病』と名づけて、現象と実在の違いを強調したほうがよい。
[831] どうして幻聴が聞こえるのか?☆ h14.11.10
知覚は自分ひとりの頭の中で考えることだが、五感は他人のことを見聞きすることである。
そもそも五感には、他人の思考そのものを聞く能力(第六感とも言う)がある。
分裂気質で五感の興奮が高まりすぎると、他人の思考そのものがはっきりと聞こえるようになる。他人のことがわかりすぎると、自分が他人に従属せざるを得なくなる。
反対に、知覚を働かせると、自分が自分の頭の中で独り考えるだけで、自分の考えに照らしながら他人の発言や態度を見ることになる。自分のことがわかりすぎると、他人が自分に従属せざるを得なくなる。
子どもだって、自分の知覚で考えながら他人を見ているから、自分の知覚の感覚が他人からの幻聴の感覚よりも強いので、他人からの幻聴が(相対的に)聞こえないのだ。
五感を興奮させすぎて五感が過敏になると、他人からの幻聴が自分の知覚の感覚よりも強まるので、他人からの幻聴のほうがよく聞こえることになる。
だから、幻聴を聞こえにくくするためには、自分が言葉で考えて自分の知覚の感覚を強めるしかない。人間には感覚の強いほうの感覚しか感じらないのだから、知覚の感覚が幻聴の感覚よりも強くなれば、もはや幻聴は聞こえないのと同然なのだ。
[832] どうして“躁鬱病は知覚が狭い”のか? h14.11.10
躁鬱病者は心主義である。
自分が本当におもしろくてわかることなんかめったにない。
だから、躁鬱病者は、知覚が狭いのだ。
実在への適応を広げるには、自分の心を知覚に従属させねばならない。
それがなければ人間進歩がない。
[833] 人はどうして精神病にかかるか。(ヤフー掲示板から来られる方が意外に多いのに応えて)
心主義で生きているから躁鬱病にかかる。
五感主義で生きているから分裂病にかかる。
知覚主義で生きているから人間になる。
昔、ハインロートは『分裂病は理性の喪失である』としたが、
理性とは、言葉がはっきりしていることだから、
つまり、理性の喪失とは知覚の喪失なので、
分裂病は五感主義ということになるのだ。
[834] 気質と病気 h14.11.15
躁鬱病でも分裂病でも
実在とのつながりがあるうちは気質(きしつ)で済むが、
実在とのつながりが切れると病気になる。
つまり、たとえ五感主義であっても、ある程度実在を受け容れているうちは分裂気質の人で済むが、
実在を否定してまで自分の五感を肯定するようになると、実在と認識(知覚、五感、心)とのつながりが切れて、五感が知覚と心とを支配するようになって、立派な分裂病者になる。
同様に、たとえ心主義でも、ある程度実在を受け容れているうちは躁鬱気質の人で済むが、
実在を否定してまで自分の心を肯定するようになると、実在と認識とのつながりが切れて、心が五感と知覚を支配するようになって、立派な躁鬱病者になる。
五感主義も心主義も、実在においては成り立たない。それを無理やり成り立たせようとするから、病気になるのである。
実在において成立するのは、実在主義≡知覚主義だけである。
[835] 精神病の原因は哲学の無知にある。 h14.11.17
精神分裂病や躁鬱病は、
“学校で哲学(認識についての知識)を教えない”ことによる
哲学についての無知や誤解によって起こる。
正常人は知覚≡実在(本当は、知覚≒実在)を肯定している。
行き過ぎた五感の肯定が分裂病で、
行き過ぎた心の肯定が躁鬱病である。
1+1=2であって
1+1=1や1+1=3でないように、
正しい哲学は実在主義≡知覚主義しかないのだ。
倫理とは他人の思想を学ぶことではなく、
正しい哲学を考えることである。
[836] 躁鬱病について h14.11.17
人間には感覚の強いほうの感覚しか感じられない。
自分が苦手なことに出くわすと、
知覚が働かないで
心が不愉快になるばかりだから、
心の不快感が知覚の感覚よりも強まるので、
心の不快感だけが感じられることになる。
例えば、私の場合、
苦手な医学部にいたときは、
私の知覚の中には医学のイデア(概念)がなかったので、
医学に対する心の嫌悪感だけが強くて、
医学を知覚で考えることができなかった。
そうなっちゃうと、もはや
私にとっては
医学に対する嫌悪感だけしか感じられないのである。
私には医学のイデアの素になる医学のイメージ(五感的経験)がなかったので
医学を知覚で考えることができなかったのだ。
反対に、自分が得意な(イデアを持っている)ことをやっているかぎりは
自分の知覚がよく働くので、
多少自分の心が不愉快であっても、
知覚の感覚が心の感覚よりも強いので、
自分には自分の知覚だけが感じられて
自分の心の不快感は感じられないのだ。
オイラーが自分の虫歯の痛さをこらえるために
数学の研究をしたことはあまりにも有名なエピソードである。
それが、人間として生きているということなのだ。
[837] 哲学第一原理について h14.11.17
脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。
ゆえに、脳細胞が神経興奮しなければ感覚は発生しない。つまり、自分に感じられない。
実在自体は、脳細胞が神経興奮する前だから、自分には感覚できない。
自分に感じられるのは、実在から反射された光が網膜に入って視細胞を興奮させて、そのインパルスが視神経を経て大脳後頭葉にある脳細胞を興奮させて感覚が発生してから後である。
たとえ五感が実在について間違っていようとも、五感が脳細胞の神経興奮で発生する以上、五感はいやがうえにも自分に感じられることになる。
知覚についても、ただ知覚を荷うべき脳細胞があるだけで、知覚を荷う脳細胞が活動(=神経興奮)しなければ、知覚の感覚は生じない。
つまり、五感について考えることがなければ(=脳細胞を神経興奮させねば)、いつまで経っても実在を感じることができず、実在が見えてこない。
自分が実在を見るためには、自分の知覚を活動させて五感の間違いを修正しなければならない。
[838] デカルトの本 h14.11.17
‘方法序説’が有名だが、あまりいいことが書いていない。
それよりも、‘省察’だったかな、脳のグロテスクな絵がたくさん載っている本のほうがデカルト哲学の本質(つまり、『脳において感覚が発生する』と言うこと)がよくわかる。(もちろん訳本で)
私も医学部の図書館で、毎日お昼休みに書庫にこもって読んだ思い出がある。
解体新書(近代文化の礎)の世界に3冊しかない本も見たことがある。
[839] 哲学第一原理について h14.11.18
『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する』
したがって、自分に感じられることはみな自分の脳細胞の活動(=神経興奮)によって発生した感覚なのである。
したがって、自分の眼で見えること・耳で聞こえることは、実在そのものではなく、すべて自分の後頭葉・側頭葉の活動にほかならないのである。自分に見えること・聞こえることは、自分の大脳皮質で発生している感覚であって、実在じたいではないのだ。
自分がイデアで考えることは、自分の大脳皮質の知覚野(頭頂葉)の活動である。
自分が心で思うことはすべて自分の大脳前頭葉の神経興奮で発生した感覚にすぎないのだ。
[840] 人は何のために勉強するのか? h14.11.18
試験でいい点を取るためにするのではない。
知覚をトレーニングし、知覚の感覚を強めるためにするのだ。
勉強とは、勉めて知覚を強くすることだ。
[841] 幻聴 h14.11.18
何も考えなくても心臓や肺は動いている。
自律神経系がコントロールしているからだ。
しかし、神経系である以上、何らかの感覚はあるはずだ。
それが感じられないのは、人間が大脳で他のことを考えているからである。
人間には感覚の強いほうの感覚しか感じられない。
いくら自律神経系で感覚が発生していても、
大脳でそれより強い感覚が生じていれば、
大脳での感覚しか感じられないのだ。
つまり、人間にとっては、
大脳での感覚が‘意識’で、自律神経系での感覚が‘無意識’ということになる。
同様に、知覚が五感より感覚が強ければ、
知覚が意識で、五感が無意識となる。
精神分裂病では、五感が知覚より感覚が強くなる。
分裂病者にとっては、五感が意識で知覚が無意識となる。
そのとき幻聴が聞こえる。
ということは、
ふつうの人でも、本当は五感でつねに幻聴が聞こえ続けているのではないか。
五感にはそもそも他人の思考を眼や耳を介さなくても知る能力(いわゆる第六感)があるのではないか。
すべての人間に幻聴(テレパシー)の能力が備わっているのではないか。
人間以外の動物には五感しかないから、
いわば分裂病のモデルであり、
動物には人間が無意識の奥に押し込んで忘れていた特別な能力があるのではないか。
[842] 色と煩悩 h14.11.20
色とは知覚非従属性五感のことであり、
煩悩とは知覚非従属性心のことである。
(色の実体は光の波長であり、色は五感の上だけにしか存在しない。色とはよく言ったものだ。)
知覚非従属性五感の概念がわかると分裂病にならない。
知覚非従属性心の概念がわかると躁鬱病にならない。
五感や心を知覚に従属させることが人間にとっての善である。
[843] 分裂病と躁鬱病のまとめ h14.11.20
分裂病とは五感が過度に活動(=神経興奮)している状態であり、
躁鬱病とは心が過度に活動している状態である。
正常では知覚が五感や心よりもよく活動している。
[844] 私の場合 h14.11.20
小さいころに日蓮宗のお世話になったから(私の名前とも関係がある)、
小さいころから心が実在に従属しないといけないことはわかっていた。
実在の中でおもしろいことをすればいいのだ。(だから私は躁鬱病にはなりにくい。)
しかし、眼で見える世界が実在ではなく五感にすぎないことに気づいたのは、私が哲学第一原理を発見した28歳のときだった。それまでの私は、眼で見える五感の世界をそのまま実在だと考えていた。私はこの点で考えが足りなかった。(そのために私は分裂病になってしまった。)
大トロや。
[845] どうして私は五感が現象であることに気づかなかったか? h14.11.23
私は五感が実在ではなく感覚であることに気づくまでに28年もかかった。
一方、心が実在に従属しなければならないことはほとんど生まれつきわかっていた。
それは、私の父親が‘煩悩’(心≠実在)の概念は知っていたが、‘現象’(五感≠実在)の概念は知らなかったからである。
実在の中で楽しんでいるつもりが、じつは現象の中で楽しんでいたのだ。
私の父親も、その父親も、そのまた父親も、みなことごとく現象の概念を知らなかったのだ。
かのデカルトが「我思うゆえにわれ在り。」(つまり、人間の認識はすべて大脳の上で行われている。)と言って、五感が現象であることを訴えてくれたのに、その意味がわかった者はほとんどいなかった。
人が出世できるかどうかは20才までで決まる。
子どもは親を見て育つ。
親の考えが足りなければ、子どもは一生出世できない。そういう運命にあるのだ。
この私が出世できかったのは、親が悪いからだ。どうしようもない。これは運命なのだ。
[846] 他人の本を読むことと自分で考えること h14.11.24
他人の本を読むことは、他人の認識界を知ることであって、実在を知ることではない。
間接的な情報に頼っていては、要領がいいだけで、はっきりした認識を持つことができない。
実在を知るためには、自分ひとりで考えねばならない。
[847] 認識についての五感的定義と知覚的定義 h14.11.24
見るものと見られるものとがあるのは、認識の五感的定義だ。
認識の知覚的定義は、脳細胞の神経興奮で感覚が発生することだ。
例えば、夜見る夢では、見られるものがないのに感覚が発生する。
それは、脳細胞が勝手に興奮するからだ。
[848] existenceの意味 h14.11.25
existenceとは、実存主義の言うように、
「外に出で立つ」ことではなく、
その本来の意味は、実在主義が言うように、
「(認識の)外に在るもの」のことである。
実在は五感を超えたところにある。
[849] 幻聴について h14.11.26
動物は言葉を持たないが、人間は言葉を持つ。だから、動物は分裂病になっても、(たとえイメージ=視覚像による交信はできても)言葉がないから幻聴はない。動物はたとえ悪気はあっても、言葉がないから相手の悪口を言えない。しかし、人間である分裂病者は五感が強まっていると同時に言葉を持っている。つまり、分裂病者は動物と人間の合いの子である。だから、分裂病者は言葉のテレパシーで交信ができる。すなわち、これが人間特有の病気としての幻聴である。人間の中の動物性(すなわち五感)が強まったからテレパシーが生じて、それに人間特有の言葉が加わって生まれたものが幻聴なのである。
動物にはテレパシーがある。人間には言葉がある。だから、動物と人間の合いの子である分裂病者には幻聴があるのだ。
[850] 五感と知覚と心 h14.11.26
生まれたての人間の心は五感にも知覚にも縛られていない(従属していない)。
五感が強くなると、心は五感に従属する。美とか愛とかの女心だ。
知覚が強くなると、心は知覚に従属する。正義とか探究心とかの男心だ。
心が強くなると、心は知覚や五感の束縛から逃れ空想(妄想)を生み出す。
知覚が実在を認識する。科学者や工学者。ひどけりゃ離人症。
五感が現象を認識する。音楽家とか画家とか。ひどけりゃ分裂病。
心が空想を認識する。文学者、作家。ひどけりゃ躁鬱病・妄想症。
知覚、五感、心のうちのどれかひとつの中枢に偏るのはかまわないが、
ほかの二つを無視してはいけない。
[851] 哲学原理発見秘話 h14.11.26
哲学第一原理は、私の長年の哲学思考から自分で考え着いたのですが、福岡にはお寺が多いので、どこかのお寺の和尚さんがテレパシーで半ば教えてくれたような気もしました。哲学第一原理の内容は、物心一如といって昔から(紀元前から)あるものです。
哲学第二原理は誰の力も借りず自分ひとりの力で考えついたのですが、自分で書きながら自分の実力を超えているなと思いました。親から、「人間は心だ。」と聞かされて育ったので、そう信じていたのですが、それなら「心の善悪とはなにか」と考え進むに当たって、“心の善悪は人間の知覚で決まる”ことがわかりました。つまり、正しいことを考えている人の心は善で、反対にまちがったことを考えている人の心は悪なのです。こんな単純なことがわかるのに37年の歳月を費やさねばならなかったとは!他人の力を借りずに、自分ひとりで考えるのは時間を食うものです。これでやっと、人間とは何かがわかりました。(哲学第一原理だけでは、動物とは何かがわかるだけです。)
[852] クレッチマーの分類のまね h14.11.26
クレッチマーは人間をその体型によって、肥満型、痩せ型、筋肉型の三つに分類した。そして、肥満型は躁鬱気質に、痩せ型は分裂気質に、筋肉型はてんかんに、それぞれ相関があることを見出した。
一方、私は人間の認識の中枢が知覚、五感、心の三つあり、その人の優位な中枢によって、知覚型、五感型、心型の3種類に分類できると考える。知覚型は正常気質(あえて言えば神経質)、五感型は分裂気質、心型は躁鬱気質そのものである。
[853] 精神病の徴候について h14.11.27
躁鬱病では、心の興奮が激しいから、心が表情や身振りにオーバーに出る。
分裂病では、五感(と五感に複合する動物の心)の興奮が激しいから、(本来五感に備わっている)幻聴や動物性などが表に出て来る。
ヒステリーも分裂病の一種だから、人間の中にある虫みたいなところ(突然動きが固まったりするとこ)が表れる。
誰でも一過性に五感や心が興奮することはある。そうでなければ、テレビや映画は見れんだろう。持続的に興奮し続けるのが病気だ。
[854] 麻薬について
麻薬は人の心に直接作用して人の心を快にする。
だから、麻薬使用者は心主義なのだ。
心主義者(躁鬱気質)が麻薬にはまるのだ。
人間は知覚主義でなければならないから、
麻薬を使用してはならない。
[855] 幻聴の治療について
分裂病者は五感の興奮が高まっている。
だから、テレパシーが聞こえる(幻聴)と同時に、
幻聴の“現象的意味”に敏感である。
だから、他人の幻聴の悪口に過敏に反応するのである。(女の口げんかといっしょだ。)
知覚のトレーニング(実在的概念を用いて考えること)を積み重ねて、
五感の興奮を上まわるぐらい知覚の興奮を高めれば、
聴覚の“実在的意味”のほうに敏感になるから、
たとえ幻聴が聞こえても、
幻聴はもはや気にならないのである。
[856] 分裂病の治療について h14.11.30
正常者は知覚が五感よりも優位である(知覚>五感)。
分裂病者は五感が知覚よりも優位である(五感>知覚)。
したがって、分裂病を治すには、
何らかの手段によって、
知覚を五感よりも優位にすればよい。
例えば、血行を五感よりも知覚へ多くまわすことによって、
五感の活動を抑え知覚の活動を高める。
知覚のトレーニング(つまり、言葉を使って考えること)をして、
知覚の活動が五感の活動を上まわるようにする、など。
[857] 私はなぜ気が狂ったか。☆彡 h14.11.30
高校一年のとき私の隣の席に不良がいた。
その不良が英語の時間に教科書のパラパラめくりをしていたので、私はそれを横目で見て憤った。
そこで私は“自分の五感(視覚界)に力をこめて”、「あいつの身体を自分の思い通りにしてくれ!」と神に祈った。
その後、学校では何事もなかったが、その日の晩自宅に帰って勉強していると、近所のオバハンが私の悪口を言って嘲う[あざわらう]声が幻聴で聞こえてきた…。
覚醒・睡眠のリズムをつかさどるのは脳幹である。脳幹が大脳各所の脳細胞の活動度を決めている(マグーンの賦活系)。私が“自分の五感の活動度を上げよう”とした結果、私の五感の活動(覚醒度)が知覚の活動を上まわってしまい、私は自分の知覚界から追放されて自分の五感界に入ることになってしまった。
脳幹の調子がおかしくなって、知覚よりも五感の覚醒度が高くなってしまったために、五感が知覚よりも優位になってしまったのだ(分裂病)。
躁鬱病の場合は、“自分の心に力をこめて心の活動を高めすぎた”(=覚醒度を高めすぎた=意識を強めすぎた)結果、心が知覚や五感よりも優位になってしまったのだ。
脳幹が関与する点では、分裂病も躁鬱病も癲癇[てんかん]もみな同じである(大統一理論)。分裂病では五感が活性化され、躁鬱病では心が活性化され、正常では知覚が活性化されている。癲癇では一時的に運動野が活性化される。
[858] 人間主義は知覚主義である。 h14.12.1
要するに、人間においては五感で知覚を見るのではなく、知覚で五感を(ことばでものを)見るようにしなければならないのだ。
実在的概念で五感を見るようにすれば、知覚非従属性五感(イドラ)にとらわれるのを防ぐことができる。
動物の中でも人間だけが火を恐れない。人間には火の実体を見抜く能力(すなわち知覚)が備わっているからだ。他の動物は火の現象的意味(イドラ)におどらされているにすぎない。
[859] H君のこと h14.12.2 ☆彡
今日まで、すっかり忘れていた。
H君のことを。
H君は、私が高校一年のとき隣の席に座っていた不良に腹を立てて気が狂った日、ちょうどその不良の隣の席に座っていた。つまり、私の二つ右隣の席に座っていたのだ。
私が発狂した日の帰り道、鏡川の堤を自転車で並んで走りながら、H君は私に、「この眼で見える世界は本当の世界ではないんだね。」と、たった一言諭[さと]してくれた。
私がこの言葉を聞いたとき、内心では馬鹿にしていた。学校の成績では私のほうがH君よりも上だったから、負け犬の言い訳にしか聞こえなかったからだ。
しかし、その日から22年経って、実在哲学の中でこの言葉を捉えなおしてみると、『実在は五感を超えたところにある。』と同様、まさに正しいことを言っているわけで、たぶん今頃は私よりもずっと出世していることだろう。
[860] 分裂気質と躁鬱気質 h14.12.3
分裂気質の者は、五感で見たり聞いたりするだけで言葉を使わないから、無口である。無口だから孤独である。
躁鬱気質の者は、空想癖で冗談が得意だから、みんなの人気者である。
[861] 従属の意味 h14.12.3
‘心が実在に従属する’とは、知覚で認識した実在の世界の‘中で’自分が楽しいことをすることである。
‘心が現象に従属する’とは、五感で認識した現象の世界の‘中で’自分が楽しいことをすることである。
[862] 咳ばらい h14.12.5
私が他人の咳ばらいを気にしなくなったのは、相手が何を認識しているかがわかったからである。
その者が認識しているのは、五感で見える現象であって知覚で見える実在ではない。
たんなる現象ならば相手にする必要はない。自分は正しくない者には従属する必要はない。
(これぐらいのこと常識であって欲しい。)
他人のバカさがわからないほどリコウな者は、それほどリコウでもないってことかな。
[863] 人間的なものの見方 h14.12.6
人間は知覚から五感を見ている。すなわち、言葉で物を、イデアでイメージを見ている。
知覚は五感にはない概念(時間や感覚など)を創り出して、
その世界から五感界を眺めている。言葉の世界から物の世界を見ている。自分にとってわかることからわからないこと(が混じっている世界)を見ている。
[864] 哲学今と昔 h14.12.6
昔は人々が素朴な生活をしていたから、
知覚が実在で、
五感が知覚に従属する部分(現実)と、知覚に従属しない部分(現象)とに分ければそれでよかった。
しかし、今はマンガとかテレビとか数学とかいろいろあるから、
知覚が実在に従属する部分(物理学)としない部分(数学;イデアでできた実在しないこと)に、
五感が現実と現象と空想(アニメのキャラのようにイメージでできた実在しないこと)に分けられる。実在しない点においては、現象と空想は同じである。
近代において哲学に‘実在’の概念が、さらに現代において哲学に‘空想’の概念が導入された。
[865] 言葉の世界と眼に見える世界 h14.12.12
眼で見える世界は現象の世界にすぎず、(眼で見える世界について)言葉で考えた世界のほうが実在の世界に近い。
したがって、言葉を使って考えようとしなければ実在の世界を見ることができない。
言葉は純粋である。
眼で見える世界には現象の汚れがある。
言葉を使って眼に見える世界について考えるようにすれば、汚れた現象の世界の中にある純粋な実在的部分だけを拾い出すことができる。
[866] どうして親父は駄洒落[だじゃれ]を言いたがるのか? h14.12.14
親父は痴呆が来ている。つまり、知覚の働きが低下している。だから、言葉に対する意味づけが五感的にならざるを得ない。つまり、言葉をたんに音として捉えるから、駄洒落が得意なのである。
[867] サブリミナル効果 h14.12.14
一人の人間に同時に二つの情報が与えられると、感覚の強いほうの情報しか感じられない。しかし、感覚の弱いほうの情報も密かに認識はされている。
これを利用したのが、サブリミナル効果なのだ。
[868] 言葉のサラダ h14.12.14
分裂病では知覚の働きよりも五感の働きのほうが亢進している。
だから、言葉に対する意味づけが、知覚における論理的なものではなく、五感におけるたんなる音の響きになっている。
したがって、分裂病では音の類似によって単語がつながるようになる。これを‘言葉のサラダ’という。言葉に対する意味づけが極端に現象的になっている。
教育ママが自分の息子に英才教育をしようとして、幼児期から難しいことを教えすぎると、分裂病と同じ‘言葉のサラダ’状態になることがある。それは、言葉の中身となるイデアができる前に言葉を教えようとするから、言葉をたんなる文字や音として五感的に捉えているからである。英才教育は、自分の子供を分裂病患者にするのと同じことだ。イデアは子供が自分自身で考えようとすることによってのみ知覚の中に作られる。それには時間が掛かるし、他人の管理できるシロモノではない(未来においてニューロ・シナプティック・スキャンでも出来ないかぎりは)。親は子供が自分で考えようとするのをけっして邪魔してはいけない。大学の受験勉強だって、言葉を眼先耳先だけで捉えて、自分自身を分裂病患者にするような勉強の仕方ではいけないのだ。
[869] イデアとイメージ h14.12.15
無から有は生まれない。
だから、イデアは頭の中だけで出来るのではない。イデア(知覚界における抽象的概念)はイメージ(五感界における具体的経験)から作られる。
一方、イデアは知覚だから善で、イメージは五感だから悪だ。
ということは、
善の源は悪なのだ。善はもともと悪だったのだ!
善から悪が生まれるのではなく、悪から善が生まれるのだ。
(ドラゴンボールで善の神様から悪のピッコロ大魔王が生まれたのと反対だ。大体にして、マンガと事実とは反対なものだ。)
子供は悪で、大人は善だ。
しかし、大人が善であるためには、子供時代の悪が必要なのだ。
悪(五感)を否定してしまっては、善(知覚)もまたないことになってしまう。
‘憎まれっ子世にはばかる’(悪ガキのほうが立派な大人になる。)とも言うじゃないか。
[870] 分裂病 h14.12.16
通常は、知覚が五感よりも活動が強いために、五感が無意識で知覚が意識である。
分裂病では、五感に力をこめたために、五感の活動が知覚の活動よりも強く、五感が意識で知覚が無意識になっている。つまり、知覚と五感の意識・無意識関係が逆転している。五感にはもともとテレパシーが備わっているから、五感が意識化されると幻聴が聞こえるようになる。
この逆転を元に戻せば、分裂病は治る。そのためには、私のように毎日日記を書いて知覚の活動を刺激するのもひとつの方法である。
[871] 概念の添加による五感界の拡大について h14.12.16
概念の添加による(実在従属性)五感界の拡大は、
冪[べき]根の添加による体の拡大によく似ている。
ただし、ここでの知覚とは実在についての認識にかぎる。
数学のような実在と関係のない認識は除外する。
数体がべき乗根の添加によって拡大するように、実在従属性五感界は、べき乗根を取る操作と類似した思考によって作られた新しい概念の添加によって拡大する。
デカルトが、自然(実在)に対する認識を数を用いて測れるものに制限したのは、色(実在非従属性五感)を排除するためであった。
[872] 知覚界の生成による現実と色の区別の発生 h14.12.17
知覚は感覚された実在である(知覚界≒実在界)。
実在そのものは、哲学第一原理によって、人間には感覚されない。
五感界はイメージから成る世界であり、
知覚界はイデアから成る世界である。
知覚界は、五感界に五感界の中にはない新しい概念(例、時間や感覚など。イメージの‘演算’によって作り出される。)を添加する(付け加える)ことによって作り出される。
したがって、知覚界≠五感界。
このことから、五感界は知覚界(≒実在界)に従属する(=の中にある)部分すなわち現実と、知覚界に従属しない(=の外にある)部分すなわち色とに分類される。
五感が知覚に従属することによって、現実だけが意識化され、色(知覚非従属性五感)は無意識化されることになる。
[873] 鬱病に見られる分裂病的症状 h14.12.17
躁鬱病者は心主義であり、その人が置かれた環境においては心が満足されないために、心が落ち込んでいる(不快感を軽減するために、心に抑制が掛かっている)。ここで、心を力んで過度に興奮させると鬱病(永続的に心が興奮しつづける状態)になり、させないと鬱病的反応(一時的な心の興奮)で済む。
心が落ち込むと、心と複合していた知覚も働かなくなる。
知覚が働かなくなると、五感が知覚よりも優位になり、五感が意識化されて認識が現象的になり、分裂病的症状が現れる。
こうして、鬱病に分裂病がかぶさることがある。
[874] 仕事と勉強(私の夢=空想) h14.12.17
人間を不幸に陥れる最大の要因は仕事と勉強である。
仕事や勉強のあるかぎり、人生は本質的に不幸であり、この不幸から永久に逃れることができない。
仕事や勉強の苦しみに較べたら、精神病の苦しみなど取るに足りない。
仕事や勉強は人間から自由を奪う。自由を奪われた人間は、奴隷や囚人にすぎない。仕事や勉強に勝る人間に対する侮辱はない。
仕事や勉強のあるかぎり、人類に幸福はない。はやく仕事や勉強のない社会を作って欲しい。
[875] 実在と現象 h14.12.18
頭の中(知覚)で考えた時間のある(止まっている)4次元空間(箱のようなもの)が実在である。
したがって、眼で見える時間のない(動きのある)3次元空間が現象である。
現象界に時間がない(つまり、動きがある)のは、現象界は人間の大脳の活動(神経興奮)によって作り出された(ある程度は実在的であるが)架空の世界であって、実在そのものではないからである。
感覚子に寿命があるから、五感界は動いて見えるのである。
[876] 心も大事 h14.12.19
実在の中で自分の心を満足しようとしなければ、自分は幸福にはなれない。
自分の心を満足しないままでいると、だんだん生きているのが辛くなる。
[877] 格律 h14.12.19
人間である自分が自分の‘人間性’に背く行為をしてはならない。
幸福になろうが不幸になろうが、人間であることをやめるわけにはいかない。
人間が人間であることを忘れてしまうほど落ちぶれてはいけない。
人間性とは知覚性であり、すなわち実在性である。
ヘーゲルが『合理的な者は現実的であり、現実的な者は合理的である。』と言ったことを思い出す。(合理を知覚、現実を実在と読み替えれば、私の見解と一致する。)
[878] 人間になるための方法 h14.12.19
五感を知覚に従属させれば人間になる。
五感を知覚に従属させるためには、知覚の興奮を極度に高めればいい。
“正しい言葉”を念を込めて頭の中で発すればいい。
必死に念じれば道は開ける。
[879] サブリミナル効果(その2) h14.12.19
一人の人間の大脳において同時に二つの感覚が発生した場合、感覚の強い感覚だけが感じられて、感覚の弱い感覚は感じられない。感覚の弱い感覚は、感覚されてはいるものの、意識されない。つまり、感覚の強い感覚だけが意識化され、感覚の弱い感覚は無意識化される。そういう法則が、人間の脳にはある。
[880] 近代哲学史 h14.12.20
デカルトやカントやヘーゲルまでが‘知覚主義’。知覚すなわち実在中心の世界観だ。
その後フランスでフッサールらによる‘五感主義’の哲学があった。いわゆる現象学。現代では、心理学がこれに相当する。
ショペンハウエルやニーチェやサルトルなんかが‘心主義’の哲学。筆の立つ文学者が多い。人生を心の実現過程として捉える。
ここらで、もう一度実在主義=知覚主義に戻ろうではないか。
知覚、五感、心。感覚にはまだまだ謎がいっぱいある。
[881] 自殺について h14.12.21
ショペンハウエルは、『人間は盲目的に生きていたいから生きるんだ』と考えた。
それなら、なんで人は自殺するんだ?
ただ生きていたいだけなら、自分で死ぬ人はいないはずだ。
人が自殺するのは、人生が苦しくて、その苦しさから逃れるためだ。
人は人生に楽しさがあるから生きているので、苦しさしかなければ生きる価値はない。
そういう見方は、心主義者の得意とするものだ。
知覚主義者や五感主義者は自殺が得意ではない。
知覚主義者や五感主義者は自殺の概念を持たないからだ。
心主義が自殺の概念を生むのだ。
早い話、人生がおもしろくなくなったから死ぬのだ。
知覚主義者は人生がおもしろかろうがなかろうが、実在の中で生きていればそれでいいし、
五感主義者も人生がおもしろかろうがなかろうが、現象の中で生きていればそれでいい(できればおもしろいほうがいいけど)。
いくら自殺がしたくても、自分が知覚主義か五感主義であるかぎり、自殺することはできない。
自殺したければ、自分が心主義になるしかない。
心主義の意(こころ)を会得すれば、自分も自殺することができる。
夢や空想が知覚主義や五感主義からは出てこない。
夢や空想は実在や現象に縛られないからだ。
夢や空想は心主義の産物だ。
「自分の夢をかなえるために生きる」ということが、知覚主義や五感主義ではわからない。
なぜなら、夢の概念が知覚主義や五感主義では成り立たないからだ。
知覚主義は実在の世界の中で自分の心を満足しようとするから、今の自分ができることの中で楽しむわけで、‘願望’や‘希望’はあるけど、いまだかなうことのない実在離れした‘夢’なんか持っていない。
五感主義でも同様だ。実在を現象に置き換えればいい。
夢とは実現(実在化)できようができまいが、現象化できようができまいが、自分がしたいことであって、心で見ればわかる。
心主義者にとっては、「夢を実現することが人生なのだ」そうだ。
知覚主義者は、正しいこと(実現できること)の中で楽しいことをやり、
五感主義者は、眼で見えることの中で楽しいことをやるが、
心主義者は、楽しいことの中で正しいことや眼で見えることをやるのだ。
しかし、人間の本質はその発達した知覚にあり、心の善悪を決めるのは知覚(正しい認識)の有無であるから、実在においては五感主義や心主義は成り立たず、結局は知覚主義しか残らない。
実在の中では、人間には知覚主義しか許されないのだ。
しかも、人間は実在の外に出ることはできない。
それは、この宇宙が人間に対して決めたことなので、人間はそれに従うしかない。
これまでだって、人類はこの道(知覚主義)を歩いてきた。人間とはそういうものだ。人間はこの道に沿って進化してきた。人道はここにある。。
知覚主義者は実現できることの中で楽しくやろうとするが、
五感主義者は眼で見えることの中で楽しくやろうとする。
マンガは五感主義の産物だ。
たとえ実現できなくても絵に描ければそれで心が満たされる。
心主義はそれを超えて、たとえ実現できなくても絵に描けなくても言葉にすらならなくても、おもしろければそれでいい。
なんのこっちゃわからんなってしまった(失敗)。
それでは、五感主義の定義を変えよう。
五感主義は“実在に対する現象”にかぎることにする。
だから、マンガは空想を絵にしたものだから、知覚主義の世界にも五感主義の世界にも属さず、心主義の産物であることになる。
五感主義とは、あくまでも実在するもの(人や服や機械など)に対する現象的意味の世界を肯定することとする。
テレビのバラエティや漫才なんかは、おもしろ本位だから明らかに心主義の産物だが、言葉がなければできないから、言葉の世界に制限されていることになるが、言葉の意味が知覚や五感の世界にあるからといって知覚主義や五感主義と言ってしまっては元も子もないわけで、知覚主義や五感主義の対象が同じ実在であるのに対し、漫才は実在離れしていて漫才の対象とするものは実在ではないから、やはり漫才は心でわかるものであって、知覚主義や五感主義ではわからないのだ。つまり、バラエティや漫才やマンガは心でわかるようにすればわかる。もっとも、マンガ(アニメも)の‘絵の味’(線や色の旨味)に関しては五感でわかるしかない。ギャグマンガのギャグは心でわかる。ストーリーマンガのまじめな話は知覚でわかる。対象とするものによって、働く感覚の種類が違うのだ。おもしろさにしたって、知覚における実在的なおもしろさがあれば、五感における現象的なおもしろさもあり、また心じたいにおける空想的なおもしろさもあるといったように、いろいろある。
例えば、‘ロボットが人間の代わりに働く仕事や勉強のない未来社会の絵’については、‘仕事や勉強のない’ことについては心で見て、絵としての線や色の出来の良し悪しは五感で見て、ロボットの構造が力学に適っているかいないか(リアルであるかないか)は知覚で見るといったように、一つのものに対しても同時に複数の目を働かして見ているのだ。
[882] 実在に対する現象的意味と実在的意味 h14.12.21
実在(絵も含めて)に対する現象的意味とは、物や絵の形や色のことである。
物や絵の形や色の感覚(五感の中でも視覚)と複合する心が、それを楽しいと思ったりつまらないと思ったりする。格好のいい物や絵を見れば楽しく思い、格好の悪い物や絵を見れば不愉快に思う。
言葉に対する現象的意味とは、文字や音声のことである。
文字や音声の感覚(五感の中でも視覚や聴覚)と複合する心が、それを楽しく思ったりつまらなく思ったりする。綺麗な字を見れば楽しく思い、汚い字を見れば不愉快に思う。美しい声を聞けば楽しく思い、汚いだみ声を聞けば不愉快に思う。
一方、実在に対する実在的=知覚的意味とは、「今日は雨が降っている」とか「お昼はスーパーに買出しに行かねばならない」とか、概念の組み合わせによって作られたものごとである。これまで概念は眼に見えないイデアのこととしてきたが、ここでの概念は眼に見える(現実的な)イメージをも含めた広義のものとする。つまり、眼に見えようが見えまいが、すなわち五感が知覚に従属していようがしていまいが、実在と対応すればそれでよしとする。例えば、雨滴は眼で見えるが、それを雨滴と概念化してもなんら支障はない。概念化された雨滴は、雨滴の形や色を問題としているのではなく、雨滴という言葉に対応する実体を指しているのだ。雨滴という概念が視覚を介して雨滴の実体と対応していると考えてもよい。((たとえ五感が介さなくても、(具体的な)概念に対応する実体が存在すればそれでよしとするのが知覚主義=合理主義だ。知覚主義=合理主義では、概念を五感が介しようがしまいがどうでもよく、つまり眼に見えようが見えまいがとにかく実在するものはするのだと考える。眼に見えない概念(例えば時間とか感覚とか)の添加された世界の中で、眼で見える現象が合理的に(つまり、論理的に無矛盾に)説明できればそれでいいのだ。もちろん、その説明は実在と合っていなければならないが。))そういう意味で「今日は雨が降っている」と言ったとき、そういう状況に対する現象的なイメージ(寂しいとか落ち着いたとかのムード)を言っているのではなく、たんなる事実を言っているのである。それが、実在に対する実在的意味なのだ。
言葉の現象的意味は、文字や音の響きとしての美しさや汚さにあったが、言葉の実在的意味は、その言葉の内容が正しいか間違っているかにある。
同じように、絵の現象的意味は、形や色の美しさや汚さにあったが、絵の実在的意味は、その絵に描かれたことが正しいか間違っているかにある。
物の現象的=五感的意味は、物の形や色にあったが、物の実在的=知覚的意味は、その物がどんな部品でどのように組み立てられているかにある。人体解剖がその典型だ。
人類の歴史には二つの黄金期があった。プラトンが生きていたころのギリシアとデカルトが生きていたころのヨーロッパだ。その遺産で現代の人間は食っているだけだ。
人間はやはり知覚の生き物である。それが人間の宿命だ。
[883] 我思うゆえに我在り h14.12.21
デカルトのこの言葉の意味は、「この世には‘感じること’すなわち‘感覚’というものが実在する。感覚は脳細胞の神経興奮によって発生する。」ということだ。
したがって、われわれに見えているこの世界は、自分の大脳が作り出した世界であって、実在そのものではない。実在の世界は自分が感じる前の世界であって、自分の大脳の外にある。例えば、赤い色はもともとは波長が3800Å前後の光であって、その光が人間の大脳の後頭葉において赤い色の感覚に変換されるのだ。(もっとも、光そのものが色の感覚に変化するのではなく、
光が網膜に入って生じた神経興奮が後頭葉まで伝わって脳細胞を神経興奮させて、やっと色の感覚が発生するのだ。)
五感(つまり、眼で見たり耳で聞いたりすること)じたいが実在ではなく、実在の世界が五感の外にあることがわかったから、人間は頭(知覚)を使って考えて、実在の世界を自分の知覚の中に創り上げねばならない。そうしないかぎり、人間にとっては実在の世界がわからないのだ。
その線に沿って、現在まで人類は物理学的世界観を創り上げてきた。ぶっちゃけ、物理学は実際の生活においてほとんどなんら寄与するところがないけれども、意識的あるいは無意識的に五感に対して物理的な見方が働いているのであり、それが取りも直さず自分が人間としての文化的生活を営んでいることにほかならない。まあ、たしかに、身の周りにもコンピューターやビデオデッキやエアコンなどの電化製品はいっぱいあるし、それらに対する恐怖感や違和感が自分にないというところが実は物理学のおかげだったりするわけである。たとえ、学校で学んだ物理学の知識じたいは役に立たなくても、物理学的なものの見方(すなわち知覚的に物を見ること。つまり、五感界の中にない概念を考え出して、その拡張された世界の中で五感界を理解すること)は実際に役に立っているのだ。
[884] 知覚主義万歳! h14.12.21
知覚主義の正しさは私がよく知っている。
なぜなら、子供の頃の私が知覚主義だったからだ。
知覚主義であるかぎり、人間は不敗だ。
残念ながら子供の頃の私はまだ哲学に疎かったため、人生の一時期(思春期)に知覚主義から五感主義に堕落してしまい失敗したのだ。
知覚主義をつづけているかぎり、絶対に失敗などしない。
人生をやり直せないのは残念だが、やり直したくもないのが実情だ。
人間として生まれたら、死ぬまで知覚主義で生きていくべきなのだ。
それが人間としての使命だ。
私は子供のころ哲学に疎かったから失敗した。
正しい哲学を知っていれば、きっと成功したに違いない。
実在哲学は、勉強よりも何よりも、最も深いところにある知識ではなかろうか。
それなくしては、人間としてまともに生きていくことができないのだ。
[885] 知覚主義万歳!! h14.12.22
人間には、知覚、五感、心の3つの感覚がある。
したがって、どの感覚を肯定するかによって、
知覚主義、五感主義、心主義の3つの生き方がある。
しかるに、実在の中では知覚主義しか成立しない。
なぜなら、知覚主義は実在主義だからである。
五感主義の行く末は分裂病であり、
心主義の行く末は躁鬱病である。
実在の外に出る主義は実在の中では成り立たず精神病になるだけだ。
[886] くずかご h14.12.22
知覚界の中に、‘現象のくずかご’、‘空想のくずかご’を設けておいて、その中に現象や空想などの要らない情報を放り込んで捨てればよい。
現象や空想は、見ているときだけ楽しめば、あとは要らない。
[887] 予知能力のメカニズム h14.12.22
知覚の中に‘もうひとつの実在’(つまり、感覚された実在のこと)があって、そこで実在世界のシミュレーション(思考による未来予測)が行われている。
現象にとらわれている昼間には知覚の中にある‘もうひとつの実在’が見えにくいが、夜眠っているときは五感が働いていないので、この‘もうひとつの実在’が見えやすくなっており、夢の中で未来のことがわかったりするのだ。
[888] 欲望について h14.12.25
私も仕事は嫌いだが、みんなも仕事がしたくてするわけではない。お金が欲しいから仕事をするのだ。お金を欲しがるのは物欲(五感の欲望)にとりつかれているからだ。
私が通った地元の某有名進学中学高等学校なんかそんな連中ばかりだった。ヨーロッパは耳目の物欲にとりつかれたノイローゼバカの文化だ。ヨーロッパでは‘現象’の概念が浸透していない。
人間が五感の欲望にとりつかれてはいけない。知覚=実在の欲望ならいい。自分が人間になりたい欲望ならいい。
それにしても、どうしてこう人間は大人になると五感ばかりが強まるのだろうか。どうして知覚を強められないのか。五感に力をこめて念ずるぐらいしなければ、五感が強くなったりしないはずなのに。人間なら、とくに意図しなくても、自然に知覚が働こうとするのではないか。ともかく、言葉を用いて考える習慣を大事にしよう。
[889] 正しい生き方は知覚主義しかない。 h14.12.28
人の哲学観は、その人の認識界の構造の表現である。心が優位な者は心で見る(つまり、例えば、石が落ちているのを見て‘石が落ちたいんだから落ちるのだ’と説明するような仕方で見る、物事を好き嫌いの感情だけで解釈するような見方で見る)心主義の哲学を主張するのであり、五感が優位な者は五感で見る(つまり、物事を見た目だけ・聞いた耳だけで解釈するような見方で見る・聞き方で聞く)五感主義の哲学を主張するのであり、知覚が優位な者は知覚で見る(つまり、物事を実在の世界において解釈するような見方で見る)知覚主義の哲学を主張する。
ところが、心や五感や知覚で感覚しようがしまいが、実際には人間は実在の中で暮らしているのであり、そのために知覚主義だけが正しく、五感主義や心主義はまちがっていることになる。もっとも、知覚といえども、五感や心に較べれば断然実在に近いけれども、厳密には実在に一致しないわけだから、知覚の絶対肯定は許されない。人間はできるだけ正しくあらねばならないが、自分の認識を絶対肯定できるほど正しくはないことを知っていなければならない。
[890] 学校 h14.12.28
人間は知覚を発達させるべきなのに、学校では五感を発達させるようなくだらないことばかり教えている。
学校は人間の価値を低下させる悪い教育機関だ。
[891] 実学のススメ h14.12.28
われわれ人間が思考の対象とすべきものは、空想でも現象でもなく実在なのだ。
実在とは、五感の原因となっている世界であり、知覚によって認識できる。
[892] 受け皿 h14.12.28
自分が考えていることの中で重要だと思われることをノートに書き留めていけば、それ以外のことは大事でないどうでもいいこと(現象のようなもの)と見なせる。
情報の受け皿を設ければ、その外側は全部情報のくずかごと見なせる。
[893] 言葉に対する五感と知覚 h14.12.28
言葉に対する五感とは、‘たんなる言葉の聞いた感じ’である。
言葉に対する知覚とは、“言葉の知覚的=実在的意味を考える”ことである。
例えば、他人の咳ばらいは、いくら五感において聞いた感じが悪くても、知覚においては無意味であるにすぎないのだ。
[894] オームとヘーゲル h14.12.29
ヘーゲルは「世界精神すなわち知覚こそが実在だから、五感が知覚に従属しなければならない」と考えた。だから、オームのような実験に基づいて理論を作ること、すなわち知覚が五感に従属するのを忌み嫌った。オームは抵抗の実験を「電子のタマが原子殻のクギにぶつかって起こるのだ」と説明したが、ニュートン力学には電子や原子殻が存在しなかったので、ヘーゲルはオームの理論は正しい説明にはなっていないと考えた。ヘーゲルの物理観においてはニュートン力学が絶対的なのであり、すべての実験事実は必ずニュートン力学の原理に基づいて論理的に証明されていなければならないのだ。しかし、今ではニュートン力学が厳密には正しくないことがわかってしまっているから、知覚が絶対に正しいとはかぎらないので、世界精神すなわち精神(心)と実在(物)が融合したようなものはもはや考えられないのだ。つまり、ヘーゲルにおいては知覚≡実在だったが、今では知覚≒実在にすぎないことがわかっている。ヘーゲルの時代にはニュートンは神様だったが、今の時代ではアインシュタインでさえもただの人間だ(EPRの実験でまちがっていた)。
実在哲学の立場から言えば、五感の中にも現実(つまり、実在に従属する部分)もあるので、ときには五感が知覚よりも正しいことがあり、実在を認識するのに手段を選ばないとすれば、五感を肯定することも許されるのである。実在主義においては、知覚も五感も実在を知るためのたんなる手段にすぎないのだ。
デカルトも、実在を知るためにはあらゆる手段を使えといったから、知覚を使おうが五感を使おうが心を使おうが、何だってかまわないはずだ。
[895] 仕事や学校のない社会がいい。 h14.12.29
人々が仕事を肯定するのは、物欲(五感の欲望、五感に従属する心)に取り付かれてお金が要るので仕事をしなければならないためだ。そのために、社会の言いなりになって、おとなしく働いている。仕事や、仕事のための準備期間である学校があったほうがいいと信じ込まされている。
しかし、私は子供(小学2年生)のころから『仕事や学校がないほうがいい』夢を持っていた。仕事や勉強がなくなれば、絶対に人間は幸福になる。仕事や勉強がなくなれば、物欲は満足されなくなるが、そのほうがもっと人間として幸福に生きられる。人間としての欲望は自由に思考することにある。ギリシア人のように毎日小高い丘の上で議論ばかりして生きていけたらどんなにか幸せに違いない。上っ面の動物的で安っぽい物欲に流されてはいけない。人間にふさわしい自由に考え事がしたい欲望を信じるのだ。
あなたは、五感が好きですか、それとも知覚が好きですか?
あなたは、動物のままでいたいんですか、それとも人間になりたいんですか?
[896] 俺たちゃ五感界にゃ住めないからに〜♪ h14.12.31
この私をブサイクだと〜?
五感界ではそれも事実だろう。
しかし、五感で見た事実は真実とは言えんのじゃ、こんボケ〜。
五感界を出た人類の行く先はどこか?
実在だ。
しかし、実在は感覚できず、知覚が推理するのみ。
知覚は実在に近づくことはできても、けっしてそこに到達することはない。
実在は無限の彼方にある。
山(五感)の彼方の空遠く実在ありと私が言う。
(魔法陣?エバンゲリオンのOPに出てくるアレじゃないよ。)
[897] 実在哲学はこうして出来た。 h14.12.31
私が高校一年のとき気が狂ってから7年間は何も考えられなかった。
受験勉強でいそがしかったせいもあるけど。
大学2回生になって暇になったので哲学をノートに書いて考え始めた。
それから3年目に“支配・従属”がわかった。
人間の頭の中にある認識の間には支配・従属関係がある。
それから、さらに3年たって“感覚”の概念を得た。
宇宙の真の姿は時間のある4次元宇宙であり、そこでは万物が静止している。
それなのに、眼に見える世界が動いて見えるのは、眼に見える世界が人間の脳(後頭葉視覚野)が作り出した世界(すなわち感覚)にほかならないからである。一般に、自分が“感じている”世界(自分が五感で見たり聞いたり、知覚で考えたり、心で思ったりすること)はすべて自分の脳が作り出した世界である。
自分の感覚は自分の脳細胞が神経興奮して作られる(哲学第一原理)のであり、
自分の感覚の外に“実在”の世界がある。
人間の感覚は五感と知覚と心の3つに分けられる。それぞれの感覚を脳の異なる部位が担当する。五感は後頭葉・側頭葉で、知覚は頭頂葉で、心は前頭葉で、それぞれ感覚する。
実在は五感を超えたところにある。
五感で見えるのは現象であり、知覚によって実在が見える。
去年の夏ごろ“心の善悪”とは何かがわかった(哲学第2原理)。
大学2回生のときから14年かかった。
心が五感に従属している状態が悪であり、心が知覚≒実在に従属している状態が善なのだ。
知覚が心を支配できるのだったら、
知覚が五感を支配できるはずだ。
知覚が心と五感を支配している状態が正常な人間の姿であり、反対に
心が知覚と五感を支配している状態が躁鬱病であり、
五感が知覚と心を支配している状態が分裂病である。
自分の心を興奮させると躁鬱病になり、
自分の五感を興奮させると分裂病になり、
自分の知覚を興奮させると正常な人間になる。
正常な人間になるためには知覚を興奮させればいい。
五感にはもともとテレパシーが備わっているから、
五感が興奮しすぎると幻聴が聞こえるのだ。
これで、長年の分裂病が解けた!(完全に治ったわけではないが。)
知覚におけるイデア(概念)は五感におけるイメージ(視覚像)の‘演算’によって作り出される。
言葉を使って考えることによって知覚が発達する。
これでおわりか?…いや、おわりはつねに新しいはじまりなのだ。
[898] 西田哲学 h14.12.31
五感的な概念が多い。
どうせ、戦後GHQのあと押しでばらまかれた、
日本人をバカに変える哲学だろうが。
[899] 地獄耳 h14.12.31
年寄りになると地獄耳になる。
地獄耳とは幻聴のことだ。
年寄りになると知覚の働きが低下する(痴呆になる)ので、
五感が知覚よりも優位になって、
幻聴が聞こえるのだ。
分裂病でも幻聴が聞こえるが、
分裂病では知覚の働きは低下していない。
分裂病では自分の五感の興奮を強めすぎたために、
五感が知覚よりも優位になって
幻聴が聞こえるのだ。
分裂病者に対しては、分裂病者じしんが五感を肯定しようとする悪人だから、
幻聴で悪口を浴びせ放題だが、
年寄りの場合は、人間歳をとれば誰でもなる気の毒なことなので、
幻聴で悪口は言われないのだ。
[900] 心 h14.12.31
人間の心の一番深いところにある欲望は、
人間になろうとする心だ。
力とか女とか物とかへの欲望は
上っ面の心にすぎない。ばかばかしい。
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