[7501] ヨーロッパと日本の違い h21.6.10
ヨーロッパは先天知を大事にする。ヨーロッパは眼で見ずに頭で考える文化である。
日本は後天知を大事にする。日本は眼で見て頭で考える文化である。
だから、ヨーロッパでは、キリストは本来は主[しゅ]であるのに、いつしか先天知の神と結びついて、キリストが神であることになった。
一方、日本では、日本人が眼に明るく、眼で見える後天知の世界には神がいないから、日本にはもともと神の概念がなく、主である神武天皇はいつまで経[た]っても主のままである。
したがって、ヨーロッパでは政府が神主義をやることができるが、日本では政府が神主義をすることができない。ヨーロッパでは人間を神の奴隷にすることができるが、日本では人間を神の奴隷にすることはできない。要するに、政府も国民と同じようにその国の文化に従っているだけである。
日本はヨーロッパの科学を受け入れることはできるが、ヨーロッパの宗教を受け入れることはできない。
ヨーロッパ言語が表音文字であるのに、アジア言語が象形文字であることにも文化の特徴が表れている。
[7502] 宗教とは何か? h21.6.10
宗教とは、民族の神話やおとぎ話の主人公のいいところを組み合わせて民族にとっての理想の政治家(主)を作って、民族の心の代表者である政治家(主)に従って政治をすることである。
実在の政治家にはあまりいい人間がいないから、理想の政治家を作らなければならなかったのである。
実在の政治家は顔を見せるだけで、心の内[うち]はわからないから、そんな危ない政治家に任せるよりも、素性[すじょう]の知れた理想の政治家(主)に任せたほうが、国民にとってははるかに安心できたのだ。
主は、心だけで身体のない人間である。主は民族にとっての理想的な心を持った人造人間である。
いない者を作るところに宗教の面白さがある。
[7503] 『主は死んだ。』 h21.6.10
キリストが丘の上で説教をしたように、ヨーロッパ人は自分の思想を他人に押し付けるのが好きである。
だから、キリスト教の国では、キリスト教の思想を国民に強制するのである。
キリスト教が他人にやたら厳しいから、ニーチェは鬱陶[うっとう]しいキリスト教に反発して、『主は死んだ』と言って、ゾロアスターを自分の神にしたのだ。人間の主に対する反抗だ。
反対に、日本では、神武天皇が説教しなかったように、自分の思想を他人に押し付けたりはしない。
だから、日本では原則として思想の自由が保障されている。日本では神武天皇教に入りたい人だけが入ればよく、強いて神武天皇教に入らなくてもいいのである。
日本はもとから思想が自由な国であって、わざわざ憲法で言わなくてもわかっているのだ。
[7504] 3つの宗教 h21.6.10
今の日本は、古くからある日本制(神武天皇教)と、戦後のアメリカ制(キリスト教)と、昭和40年頃から始まった偽主[ぎしゅ]制(私教)の3つの宗教が混ざっている。
今の日本は複数の宗教が混ざり合った複雑怪奇な国である。赤と白と青が混ざった汚い色である。[キリスト教が白色で表されるのは、キリスト教の国では先天知を大事にし、先天知の世界が白紙(タブラ・ラサ)の世界だからだろう。]
今の日本は戦後のアメリカ制(キリスト教)や偽主制(私制)に汚染されているから、早くもとの日本制(神武天皇教)に戻すべきである。
[7505] 日本人にとっての戦争とは? h21.6.10
太平洋戦争は、神武天皇のせいで起きたのではない。
逆に戦争が起きたから、神武天皇を言い訳[いいわけ]にしたのだ。
ヨーロッパで『主が死んだ』ので、日本もヨーロッパに合わせて戦争をしなければならなくなったので、政府は神武天皇を引っ張り出して、戦争の正当化をはかったのだ。
日本人は戦うのが好きだが、何も弾を撃って人を殺すのが好きなわけではない。
日本人にとっての戦いとは、物質的なものではなく、もっと精神的なものである。
日本人にとっての戦争とは、自分が他人に勝つことではなく、もっと孤独なものである。
[7506] 女の身体はどうして柔らかいのか? h21.6.10
女は妊娠する。
妊娠すると皮膚が伸展する。
皮膚が伸びるためには、皮膚が柔らかくなければならない。
皮膚が柔らかくなければ、内臓が圧迫されて病気になる。
皮膚が硬かったら、お腹が裂ける。
だから、女の身体は柔らかいのだ。
[7507] なぜ日本は中国に負けたか? h21.6.10
中国はアメリカと同じ多民族国家だから、国としての宗教がない。
一方、日本は単一民族国家だから、宗教が強い国である。
第二次世界大戦は、『主が死んだ』ことで始めた戦争である。つまり、宗教をやめるための戦争である。
だから、第二次世界大戦では、海で日本がアメリカに負けたように、陸では日本が中国に負けたのである。
戦争は国家間の芝居である。だから、勝ち負けはお芝居の役割りであらかじめ決まっていたのだ。
第二次世界大戦は宗教をやめるための戦争だったが、本当に宗教をやめてしまったら政府の仕事がなくなる。日本人が自分の意思で宗教を選ぶならやはり神武天皇教(すなわち日本民族の心)しかないと考えられるので、日本政府は神武天皇教をやめる必要はない。
もっとも、現代では宗教は法律ではない。政府が宗教をやる。国民が宗教を破っても罰せられはしない。それでいいじゃないか。
[7508] 現代は個人主義の時代 h21.6.10
ニーチェが『主は死んだ』と言ったように、現代はもはや民族の心を厳守しなければならない時代ではない。宗教は法律ではなく、国民が宗教を破っても罰せられることはない。
しかし、いくら政府が現代は個人主義の時代だからと言って、国中に悪い文化を流行[はや]らせるのでは[どうせ、政府が裏でお金を貰[もら]っているのだろう]、国民の足を引っ張っているのと同じだ。
例えば、私が中学2年生の頃にニッポン放送の『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』を聞いたために、自慰[じい]行為をするようになり、高校1年生の時精神分裂病に罹ってしまい、その後の人生を台なしにしてしまった。
だから、政府は、国民が幸福に生きていけるように、文化をある程度は規制しなければならない。
そうしなければ、もはや政府には何の存在意義もなく、早くなくなってしまったほうがいい。
やはり政府は何の役にも立たない馬鹿会社なのだろうか?
[7509] 承認制は禁止 h21.6.11
主制度では、主は国民に従い、政府は主に従い、国民は政府に従う。[[7478]の図を参照。ただし、図における神を主に置き換える。]
だから、政府は必ず主に従わなければならない。
つまり、主が政府に従うことはない。
したがって、政府が天皇に承認させてはならない。
偽主[ぎしゅ]制においても、政府が私(偽主)に承認させたりすることはない。というより、偽主制のすべてがまちがっているから、偽主制は一切やってはならない。
[7510] 偽主[ぎしゅ]は主ではない。 h21.6.11
主は国民の心に完全に従う国民にとっての理想的な君主であって、主は民族の神話やおとぎ話の主人公の長所をつなぎ合わせて作った架空の理想の人物である。フランケンシュタインのようなものである。[神武天皇の本名は神日本磐余彦尊[かんやまといわれひこのみこと]略して磐余彦[いわれひこ]であるが、磐余彦とは“おとぎ話”(昔は“石版”(磐[いわ]つまり平たい岩)におとぎ話を刻んだ)の“余”り“者”、つまり日本のおとぎ話を寄せ集めて作った人造人間のことである。]だから、政府が嘘で主と同類の者だとした実在の人物である偽主は、国民の心に従わないから主ではない(偽主≠主)。
主は国民に従うから、逆に国民は主に従わなければならないが、偽主は国民に従わないから、逆に『国民が偽主に従わなければならないことはない。』だから、これまでに政府がやって来た偽主制による政策のすべてが成り立たない。
[7511] どうして人間は神に従わなければならないか? h21.6.11
それは、神が人間よりも上の者であり、人間は神に従わなければならないと決まっているからである。
しかし、神は人間の先天知(人間が生まれつき持っている知識、赤ちゃんの知識)の世界にいる幻覚である。オバケと同じで実在しない。
だから、たとえ神に人間が従わなければならないとしても、そもそも神が実在しないから(神=φ(空集合)だから)、結局人間は神に従う必要がないのである。
つまり、神は人間の先天知にある概念であって、先天知の世界においては、神に人間が従わねばならない法則があるが、後天知(人間が生まれた後で実在から獲得した知識、大人の知識)の世界においては神が存在せず、後天知の世界ではいない神に人間が従うことができず、後天知の世界は先天知の世界よりも正しいから、神に人間が従わなくてもいいことになるのである。
もちろん、神と主とは別の者である(神≠主)。神と偽主が別者であることは言うまでもない(神≠偽主)。
[7512] 政府は要らない。 h21.6.11
政府がこれまで祀[まつ]ってきたすなわち従ってきた者は、主である。
主とは、民族の心の代表者である。
ところが、日本では戦後は『主が死んだ』ことになったから、政府は祀る者がない。
政府は主を祀る会社だから、主がいなくなればもはやすることがない。
つまり、戦後、政府は何も仕事をしていないのだ。
だから、政府は要らない会社なのである。
現代は個人主義の時代である。だから、国民は、自分の心の面倒は自分で見る。今の政府が自分の心の面倒を見るよりも、自分が自分の心の面倒を見たほうが自分の心を満足させることができる。だから、政府は要らないのだ。
現代は個人主義の時代である。だから、個人の心を満足させる会社は、民族の心を満足させる会社である政府とは別に建[た]てねばならない。
[7513] 日本は強盗の国 h21.6.11
神武天皇の物語は、他人の家に土足で上がりこんで他人の物(←ナガスネヒコの領地)を盗[と]る話と解釈することができる。
解釈が一意的でないのが、物語形式の限界である。
だから、たしかにこれまでの主ではいけない。
主(民族共通の心)にしろ、人類共通の心にしろ、解釈が一意的になるように、科学の命題形式で記述しなければならない。
[7514] 政府は国民に命令する会社である。 h21.6.11
主制度においては、主は国民に従い、政府は主に従い、国民は政府に従う。
国民は政府に従うから、つまり政府は国民に命令する会社であると言える。
しかし、政府は無条件に国民に命令できるわけではない。
政府は国民の心に従っているかぎり、国民に命令することができる。
多民族国家では、国民の心がバラバラだから、政府は国民に対して人類共通の心を満足させる命令しか出せない。
しかし、単一民族国家では、国民の心が民族の心でまとまっているから、政府は国民に対して民族共通の心を満足させる命令まで出せるわけである。それが、単一民族国家の利点である。だから、単一民族国家のほうが国民が幸福に生きていける。なぜなら、単一民族国家のほうが国民の心の相違が小さく、自分が他人の気に入らない態度を見なくても済むからである。単一民族国家のほうが政府が国民に強い命令を出すことができるので、それだけ国民が統一されて、自他の対立が少なくなって、国民の心が休まるわけである。つまり、政府は国民に対して一律な命令を出すことによって国民の心をまとめる機関だといえる。
ところが、偽主制度では、偽主が国民の心に従っていないから、政府が国民の心に従っていないことになるから、政府は国民に命令をすることができない。偽主制度では、主制度の円環(リング)が破れていて、社会制度として不適当である。
それなのに、これまで約40年間、政府は偽主制度で国民に命令を続けてきた。
だから、政府はその責任をとって潰[つぶ]れなければならない。そのほうが世の中がよくなるだろう。
[7515] 平安貴族 h21.6.11
平安時代の貴族つまり政治家は、歌を詠[よ]むことを遊びにしていた。
上手な歌を詠めなければ出世できなかった。
日本人の贅沢といっても、しょせんそんなところだ。
日本人は言葉で贅沢をするのだ。
さすがに日本は言葉と知覚の国だ。[万葉集とは万[よろず]の言葉を集めたという意味であり、つまり日本人が言葉の民族であることを表している。]
昔の政治家は自分の教養で威張っていたが、今の政治家はお金で威張っている。
教養は自分で磨かねばならないが、お金は他人から多く取ればいいだけだ。
今の政治家は、昔の政治家よりも馬鹿だ。
[7516] 他民族にまで宗教を広げてはいけない。 h21.6.11
日本には、たくさんキリスト教の教会や仏教の寺院がある。
しかし、日本民族はヨーロッパ民族やインド民族と違うのだから、つまり日本人の心はヨーロッパ人の心やインド人の心とは違うのだから、心の違いを超えて日本にキリスト教や仏教を広げようとしても、それは不可能である。
いくらキリストや釈迦が説教したからといって、民族の境界を超えてまで、ヨーロッパ民族やインド民族の心を他民族に押し付けようとするのは行き過ぎである。
ヨーロッパ民族やインド民族の中でそれぞれの宗教を他人に押し付けるのは民族統一の意味があるから許せるとしても、心は生まれつきで取替えが効かないから民族の違いを超えてまで自分の民族の宗教を他民族に押し付けるのははっきり言って無理である。[心は人間の大脳前頭葉前部の脳細胞群が荷っている喜怒哀楽を伴う感覚であり、心は生まれつき遺伝的に決まっていて取替えが効かないのである。]他民族にとっても、民族の心を分裂させられているようで、せっかくひとつの民族にまとまって幸福だったのに、わざわざ気の合わないグループに分けられて不愉快な思いをするのは嫌だ。だから、ヨーロッパ人やインド人は他民族を不愉快にするために他民族の国で宗教活動しているとしか思えない。他民族に対して嫌がらせをするために他民族の国で布教しているのだ。日本人は自分の考えを他人に押し付けるのが嫌いなので、キリスト教や仏教が他人に対する嫌がらせにしか見えないのだ。
日本人が本気で宗教をやるなら、神武天皇教しかない。他の宗教は日本人の心に合っていない。眼先だけで宗教をやっているから、キリスト教や仏教などの他民族の宗教がやれるのだ。しかし、心は生まれつきで取替えが効かないから、いくら他民族の宗教をやっても無駄である。チンプンカンプンなことをして時間を無駄にしているだけだ。
しかしながら、そもそも宗教は政府がやることであって、国民がやることではない。国民が宗教をやったとしても、自分で自分の民族の心の特徴を勉強することにほかならない。人間が本音で生きているかぎり、自分で自分の心をわざわざ知る必要はない。知ったところで、大して得にもならない。一生に一度くらいは知ってもいいが、そう何べんも知る必要はない。だから、宗教は政府に任せて、国民は他のことをすべきである。
世界中の宗教施設が、政府が神主義の世界を作るためにあるというなら、無駄な努力だ。今どき神を信じる者など一部の異常者しかいない。神は人間の先天知の世界にある幻覚だから、そんなこともわからない異常者ではせいぜい幼稚な事件を起こすことしかできない。今は21世紀だから、昔のヨーロッパみたいに大勢の人が神を信じるなんてありえない。とりわけアジアにおいてはそもそも神の概念がないから、政府がいくら国民に神の概念を植え付けようとしても無駄だ。神のためにならいつでも死ねる少数のエリート信者を育てるために、世界中の宗教施設があるというのなら、かなりの予算の無駄遣[づか]いを政府はしていることになる。
[7517] 偽主[ぎしゅ]制は政府制である。 h21.6.11
偽主は主ではない。すなわち、偽主は国民の心の代表者ではない。たんなる政府の嘘によって主と同類の者とされた者である。
だから、偽主制は主制ではない。すなわち、偽主制は宗教ではない。[宗教とは、要するに民族の心に適[かな]っていることである。例えば、神武天皇教とは、“日本人らしい”ことである。]政府は偽主制によって国民への命令を作っているが、それらの命令は偽主である私の意思ではなく、政府の意思によって作られている。私は政府のブロック遊びの個々のブロックを提供するまでで、それらのブロックを使って何を組み立てるかは政府の意思によって決まる。
だから、偽主制は政府制である。
政府の意思は国民の意思とも違っている。今の日本が日本国民にとって幸福ではないのは、日本政府の意思が日本国民の意思と違っているためだ。日本政府が日本国民の心をわかっていないからだ。
これでは政府がたんに国民に対する嫌がらせをしているにすぎない。
政府は国民から貰[もら]った税金で、国民に対して嫌がらせをしているのだ。一体、政府にとって国民の何がそんなに気に食わないのだろう?
政府は国民から取った税金で、私の偽主制度を使って高知学芸校上海列車事故やオウム真理教地下鉄サリン事件やJR福知山線脱線事故などを起こして国民を殺している。政府は恩を仇[あだ]で返すひどい会社だ。
政府は国民を苦しめるために、何の必要もないのに、わざわざ私を偽主にして偽主制度をやっている。
政府は国民を目の敵[かたき]にしている。一体、政府にとって国民の何がそんなに憎[にく]いのだろう?
今後も同様の事件が起こるなら、政府のような狂った会社はいっそのことなくなったほうがいい。
国民が政府に税金を払おうが払うまいが関係なく政府に殺されるのなら、いっそのこと政府に税金を払わないほうがいい。
昔の政府は外見は貧乏でも心は豊かだったが、反対に今の政府は外見が豊かでも心は貧乏だ。
今の政治家はテレビに出て曖昧なことを言ってニヤニヤするだけだ。
[7518] 法律は人類共通の心である。 h21.6.12
今の日本政府が守っているものは日本国憲法しかない。
日本国憲法は、人類共通の心である。
戦争の前と後で、日本人の心は変わらない。
だから、今の日本人には日本民族の心もあるはずである。
戦前は、政府が日本民族の心までも守っていたが、戦後は日本民族の心を守らなくなった。
政府は日本民族の心を守る代わりに、アメリカ制や私の偽主制をやるようになった。[戦争は国家間のお芝居である。勝ち負けはお芝居の役割りであらかじめ決まっていたことである。だから、日本が戦争に負けたのは、日本が単一民族国家であったために宗教の強い国だったからであって、日本民族の心が劣るからではない。]
日本政府は自由の意味がわかっていない。
自由とは何もやらずに、国民の好き勝手に任せることだ。
だから、政府は人類共通の心だけを守って、他には何もするな。
民族の心を守らなくなった分だけ、税金を安くしとけ。
[7519] 最近お米が不味くなったわけ h21.6.12
最近、お米が不味くなったのは、昔は「日本人はお米を食べる」のが決まりだったために日本で美味しいお米を作っていたが、最近は政府が“民族の心”を守らなくなったためにお米を日本で作らなくなったからである。
政府が民族の心を守るほうがいいだろうか、それとも守らないほうがいいだろうか?
[7520] 『神は死んだ』とは?☆ h21.6.12
ニーチェが言った『神が死んだ』とは、“人間が絶対的に従わねばならない者”がなくなったということである。
つまり、神とは“人間が絶対的に従わねばならない者”であって、先天知の世界にいる神を抽象化した概念である。
だから、『神が死んだ』の神とはやはり神のことである。
キリストは本来主だったが、ヨーロッパに根強い神の概念と結びついて、いつしかキリストは神となってしまったのである。
つまり、『神は死んだ』とは、キリストから神の概念を分離して除去して、キリストが神から主に戻って、キリスト教が最初の頃の健全な宗教に戻ると言うことである。
だから、神が死んでも、キリストが神から主に戻っただけで、キリストが死んだわけではない。マルチン=ルターの宗教改革と同じである。だから、世界大戦はやる必要がなかったのである。
キリストはヨーロッパ人の主だから、キリストとヨーロッパ人は対等であり、キリストがヨーロッパ人らしくなければ、逆にキリストがヨーロッパ人に従わねばならない。キリストがヨーロッパ人共通の心を表しているように、キリストのキャラクターを修正しなければならない。
所変われば人変わると言うように、時代が変われば人の心も変わるから、キリストは1世紀頃のヨーロッパ人の心を表しているのであって、近代科学ができた後の現在のヨーロッパ人の心とは違うと思われる。キリストが誕生した頃のヨーロッパと現在のヨーロッパは環境が違うから、自然選択によって生き残るヨーロッパ人の心も違うはずだ。キリストが誕生した頃のヨーロッパはまだ学校がなかったから馬鹿ばっかりだったが、現在のヨーロッパは数学や科学の先進国となっている。
2000年も経てば、さすがの民族の心も変わってしまうのだろう。
主とは民族の心を表した者だから、民族の心が変われば主も変わらねばならない。だから、キリストに代わるヨーロッパ人共通の心を表す新しいキャラクターが登場しなければならない。
そのためには、現在のヨーロッパで売れているおとぎ話の面白いところを組み合わせて大人向けに脚色した物語を書けばいい。あるいは、現在のヨーロッパ人の心の特徴を表す科学的な命題を書けばいい。
[7521] 私の偽主制は誰が始めたか? h21.6.12
神武天皇が他人に説教しなかったように、日本人は自分の考えを他人に押し付けるのが嫌である。
だから、日本人が私の偽主制を始めるわけがない。布教の概念が日本にはないからである。私の偽主制をやることは私教を布教することに他ならないから、日本人が積極的にやれることではない。
だから、私の偽主制すなわち私教は日本人が始めたのではない。当時日本にいたのは日本人以外にはアメリカ人だったから、おそらくアメリカ人が始めたのだろう。つまり、私教は戦後のアメリカ制によって日本で新しく作られた偽宗教(pseudo−religion)である。[ちなみに、アニメ『デ・ジ・キャラットにょ』第61話「小惑星が衝突にょ!」で、面茶やすしが頭の中で「日本セーフ」をリク=ハイゼンベルクが頭の中で「アメリカセーフ」を思い浮かべている話があった。野球は、野球→野9→のの→川野延夫[かわののぶお](私の名前)だから私のことで、つまり日本政府とアメリカ政府が私の偽主制度を共同でやっていることを表している。『魔法の天使クリィミーマミ』第38話「ときめきファンクラブ」にも、お金持ちのお坊ちゃんで結成したハイソサイティ・クラブがハンサムな男を使ってマミをからかう話があった。お金持ちのお坊ちゃんとはアメリカ政府のことだから、アメリカ政府が私の偽主制度をやっていることを表している。]
いくらアメリカが『工学の国』とは言っても、みだりに新しい宗教を発明してはいけない。宗教ではない宗教を発明されたら、みんなが迷惑することになる。それは、もはや公害の一種だ。
[7522] アメリカによる戦争に対する誤解 h21.6.12
戦争とは、自分の戦う心をみんなに見せ付ける一世一代の晴れ舞台である。
戦争は、自分の勇気をみんなに示す絶好のチャンスである。
けっして、日本人が死にたがっているわけではない。
だから、日本人は私の偽主制による事故で殺されても、ちっとも嬉[うれ]しくはない。
アメリカ人が「日本人が主によって殺されるのが好きだ」と勘違いして私の偽主制をやっているなら、すぐにやめるべきだ。
[7523] 民族の心を守る会 h21.6.12
宗教とは、民族の心を守る会である。
例えば、日本神道(神武天皇教)とは日本民族の心を守る会だ。
キリスト教とはヨーロッパ民族の心を守る会だ。
仏教とはインド民族の心を守る会だ。
日本で日本民族の心を守る会をやるのはわかるが、
日本でヨーロッパ民族の心を守る会やインド民族の心を守る会をやるのは変だ。
「ヨーロッパのおとぎ話がそんなに面白いかい?」
[7524] 一民族一宗教説 h21.6.12
宗教の聖典は、各民族が従うべき方程式のようなものである。
つまり、宗教の聖典のように生きれば、その民族は最も幸福に生きていけるのだ。
それぞれの民族が自分の民族の心を満足して生きていけば幸福になれるということである。
それぞれの民族が他民族の心を満足しても幸福にはなれないということである。
民族の境界を超えて宗教施設があるのは、昔は人間の心についてよくわかっていなかったからである。
心は生まれつき決まっていて取替えが効かず、心は環境によって自然選択され、心はそれぞれの民族によって違っているから、他民族の宗教をやっても仕方がない。したがって、例えば、ヨーロッパ民族はキリスト教を、インド民族は仏教を、イスラム民族はイスラム教を、日本民族は神武天皇教をやるしかない。
日本人は日本民族の宗教すなわち神武天皇教をやっていれば、最も幸福に生きることができる。
日本人が他民族の宗教すなわちキリスト教や仏教やイスラム教などをやっても、幸福にはなれない。眼先で宗教をやっているだけで、時間の無駄である。自分が他民族の宗教をやっても、自分の心を満足することはできない。[私から見ても、日本人のセンスと聖書の言葉はまったく合っていない。聖書の言葉はいたずらに細かいだけで面白味がない。あんなものが面白く読めるヨーロッパ人のセンスが信じられない。]
そもそも、宗教の聖典は、民族の心を言葉にして書いただけである。
だから、各人が自分自身の心を満足して生きていけば、自然に自分の民族の心を満足することになり、自分の民族の宗教をやっていることになる。
だから、自分からわざわざ宗教に入らなくても、実際には宗教に入って宗教をやっていることになるのである。
だから、自分で自分自身の心を満足して生きて行くことが誰にでも許されている現代では、わざわざ宗教に入らなくてもよいとされ、わざとらしい宗教施設がなくなりつつあるのだ。
だから、たとえこの世から宗教がなくなっても、実際には国民は自分の民族の宗教をやっているから、政府にとっては自分の民族の心を書いた宗教の聖典を学ぶ価値があるのである。
[7525] 民族の心 h21.6.12
古事記の神武天皇の話には、「日本人がお米を食べる」ことが載っていない。
しかし、「お米を食べる」ことは日本民族の心である。
政府は最近まで「日本人がお米を食べる」ことを管理してきた。だから、日本では美味しいお米を食べることができた。
日本政府の仕事は、宗教だけではないのである。
民族の心は、宗教以外のところにもたくさんある。
宗教の聖典だけでは、民族の心を十分には知り得ない。
このまま政府が“民族の心”を管理するのをやめてしまったら、はたして日本人は幸福に生きていけるのだろうか?
政府が日本の法律に載っているような‘人類の心’を管理するだけで、“日本人の心の特徴”を考慮しないで、はたして日本人が幸福になれるのだろうか?[聖典には、民族の心の特徴の一部分が書いてあるだけである。]
自由は自分の心を満足するためにある。だから、日本人が幸福であるためには、政府が‘人類の心’を満足するだけではなく、“民族の心”を満足しなければならない。その上に、国民が自分で“自分だけの心”を満足すれば、国民が最高に幸せになれる。
[7526] 主とは何か? h21.6.13
主とは民族の心の代表者である。
主は聖典の物語の主人公である。
聖典の物語は、民族の神話やおとぎ話の面白い部分を組み合わせて、大人が読んでも抵抗感がないように細かく具体的な話にしたものである。例えば、モーゼはエジプト神話から、キリストはギリシア神話から、釈迦はインド神話から、神武天皇は日本神話から、モハメットはイスラム神話から作られているのだ。
主は民族の心に従うから、逆に民族は主に従う。つまり、主と民族とは対等である。だから、主が民族の心に従っていなければ、主を民族の心に従うように修正しなければならない。あるいは、新しい主を作り出さねばならない。
宗教とは、民族が主に従うことである。
主は“民族の心”の一部分を表しているにすぎない。
政府は、主を一般化した“民族の心”を管理している。
[7527] 神とは何か? h21.6.13
神とは、“人間が絶対的に従わねばならない者”のことである。
神は、人間の先天知の世界にいる「空の上にいて地上の人間を見張っていて悪い人間を見つけては罰してくれる人間よりも上の者の神様」から分析して作り出された概念である。
人間の先天知の世界にいる神様はオバケと同じように幻覚だから、神の概念も実在的な概念ではない。
神の概念は先天知の世界で通用する概念であって、後天知の世界では通用しない。
だから、神の概念を後天知の事物に適用しては(当てはめては)ならない。例えば、主や偽主は後天知の世界の事物だから、主や偽主を神としてはならない。
[7528] 偽主とは何か? h21.6.13
偽主とは、政府によって主と同類の者にされた人間である。
偽主は、民族の心に従っていない。だから、逆に民族が偽主に従うこともない。偽主を神だと考える一部の異常者が偽主に従うのみである。政府は異常者を使って事件を起こして人を殺している。
民族は偽主に従わないから、偽主では宗教はやれない。
政府は“民族の心”を管理する会社だから、偽主制は政府の仕事ではない。
[7529] 主は神ではない。 h21.6.13
主が神だとすると、人間が2000年前の心と現在の科学知識の頭を持って生きねばならないことになる。
心と知覚が釣り合わなくなる。
聖書の蓋然的な記述と、科学書の必然的な記述が釣り合わないのと同じだ。
本来、心は知覚に従わねばならない。
だから、主は神であるわけにはいかない。つまり、主すなわち昔の民族の心を絶対的に肯定するわけにはいかない。
現代には現代の民族の心があるから、いつまでも昔の民族の心を引きずっているわけには行かない。
現代の民族の心で新しい主を作り出さねばならない。
しかし、現代では、時代は日進月歩で変わるから、主なんかいちいち作っている暇なんかない。昨日作った主が今日はすでに古臭くなっている。現代人は忙[いそが]しくて、主を作っている暇さえもない。
だから、現代では、みんなが自分自身の心を肯定して生きていくしかない。そうすれば、自然に国が民族の心で生きて行くことになる(ただし、単一民族国家の場合)。
もともと、この世に絶対的に肯定できるものなんかない。たかが人間の知覚で考えることに絶対的に正しいことなんかない。神の概念は人間の思い上がりだ。
「我思う、ゆえに我在り」はデカルトが考え出した絶対的な知識だが、それさえも麻酔下に置かれた人間は思わないのに存在しているから、絶対的とはいえない。
「F=ma」はニュートンが考え出した法則だが、それも超高速や超ミクロな世界では成り立たない。現在の相対論や量子論もまだまだ絶対的とはいえないだろう。
人間は現在における最も正しい知識を正しいと思っているだけだ。それ以上のことは人間にはできない。それが、人間というものだ。
[7530] キリスト教の歴史 h21.6.13
中世において、キリストはヨーロッパ民族の主として作られた。つまり、キリスト=主。この頃は、キリストと人間は対等だった。[古臭くなったモーゼの代わりにヨーロッパ民族の新しい主としてキリストが作られたのである。]
近代になって、キリストはヨーロッパにある神の概念と結びついた。つまり、キリスト=主×神。この頃は、キリストは人間よりも上の者であり、人間はキリストに絶対的に従わねばならなかった。
現代なると、哲学の進歩により、神と主とが別であると考えられるようになり、キリストから神の概念が分離され除去されてキリストは本来の主に戻った。つまり、キリスト=主。再び、キリストは人間と対等になった。
一方、日本には神の概念がないので、中世に日本民族の主として作られた神武天皇は、近代でも現代でも主のままである。つまり、神武天皇=主かつ神武天皇≠神。[第二次世界大戦中に、神武天皇が神とされたのは、日本が国としての統一を強めることの言い換えにすぎない。日本には神の概念がないから、神は無意味な記号にすぎない。]私は神武天皇は古臭いとは思わない。私は神武天皇は科学時代の今でも十分に通用する主であると考える。
[7531] 主は超能力者? h21.6.13
第二次世界大戦のとき、日本には神風特攻隊があった。
日本では、日蓮が蒙古襲来の際に神風を吹かしたと伝えられている。
日蓮宗では、主である仏陀を『超能力者』だと考えていた。
田舎臭すぎる。
日本人が他民族の宗教をやると、自分がわかる部分しかわからないために、いろんな誤解を生じる危険がある。
日蓮は、仏典の奇跡のところしかわからなかったので、釈迦を超能力者だと勘違いをしたのだ。
[7532] 今や世界はひとつ h21.6.13
日本は哲学と文学の国だ。[しかし、私は数学や科学が好きだ。]
アメリカは工学の国だ。[アメリカは飛行機やロケットやコンピューターなど新しい物を発明してきた。]
ヨーロッパは科学の国だ。[ヨーロッパ人は先天知を重んじてきたから、頭で考えることに慣れている。]
インドは数学の国だ。[0を発明したのはインド人で、インド人は頭が柔軟な民族だ。論理がないのに数学ができる。]
中国は料理の国だ。[私は中国のことをよく知らない。]
アフリカは自然と動物の国だ。[アフリカは人類の故郷[ふるさと]だ。]
それぞれの国の長所を活かせば、素晴らしい世界ができる。
[7533] どうしてゲームに強い奴がいるのか? h21.6.14
ゲームに強い奴は、ゲームが面白いからだ。
ゲームが面白いから、頭がよく回るのだ。頭がよく回るから、強いのだ。
ゲームが面白いのは、ゲームより他に面白いことがないからだ。
人生の中でゲームが一番面白いなんて、かわいそうだな^^
ゲームは他人と付き合うための手段であって、ゲーム自体が目的ではない。
ゲームはしょせんゲームだ。そんなに面白いものではない。
[7534] 個人主義は主主義である。 h21.6.14
主とは、個人の心の中にある民族の心である。
つまり、個人の心の中には、その個人が属する民族の主がいる。個人の心には主が含まれている。
だから、個人が自分自身の心に従うことが、個人が主に従うことである。
だから、個人が自分自身の心に従うかぎり、主は特に要らない。[ただし、単一民族国家の場合。中国やアメリカのような多民族国家の場合には、中央政府は人類の心を管理するのみである。しかし、地方政府(日本の県庁や市役所のようなもの)がその地方にいる民族の心を管理することができる。だから、多民族国家でも単一民族国家でも同じようなものである。反対に、日本は単一民族国家だから、中央政府が民族の心まで管理できるわけである。]
つまり、主とは『民族』のことである。個人が自分の中にある『民族』を理解しているかぎり、主は要らない。逆に、いくら形の上で主に従っていても、『民族』の理解がなければ、それは形骸にすぎない。宗教ごっこであって、宗教ではない。
キリスト教はヨーロッパ民族を学ぶことであり、仏教はインド民族を学ぶことであり、イスラム教はイスラム民族を学ぶことであり、神武天皇教は日本民族を学ぶことである。他民族のことを学ぶより、自分の民族を学ぶほうが、自分が幸福に生きていくためには重要である。
自分には自分の心がある。自分の心を満足することが、自分が幸福に生きることである。だから、現代人は自分の心について知らねばならない。自分の民族の聖典は自分の心を知る助けになる。
[7535] 快感と幸福 h21.6.14
快感と幸福とは違う。
快感とは、感情自体にとって快であることである。だから、性欲や麻薬欲のように、今日の快感が明日の不快感の原因となることもある。
幸福とは、感情と実在の兼[か]ね合いで、感情が満足されていることである。つまり、心と知覚(したがって実在。なぜなら、知覚⇔五感⇔実在だから。(⇔は、←かつ→の意味。))がうまく噛み合わさって動いていることである。
快感は分析的概念であり、幸福は総合的概念である。つまり、快感とは心だけが快であることであり、心が満足されているだけだが、幸福とは心が快でありかつ知覚が真であリ、心と知覚の両方が満足されていることである。
[7536] 人間の原則 h21.6.14
『実在を自分の眼で見て自分の頭で考えて自分の心で思って自分の筋肉を動かして行動する』ことが人間の原則である。
今の人間は自分の頭で考えることをサボっている。だから、人間の原則を満たしていない。そんな者はもはや人間とは呼べない。
アメリカ制は自分の頭で考えないので困る。アメリカ制は日本制ではない。アメリカにいるアメリカ人が自分の頭で考えないとは言わないが、日本でやっているアメリカ制では自分の頭で考えない。
昔の日本人は、特に意味もないのに、やたら自分の頭で考えたもんだ。つまり、日本人は『考える民族』なのである。
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[7537] 主は『民族』ではない。☆ h21.6.14
日本人は米を食べるのに、古事記には神武天皇が米を食べたと書いていない。
だから、主には足りないところがある。
日本人は戦争を日課としないのに、神武天皇は毎日戦争をやっている。
だから、主には余計なところがある。
宗教の主は物語形式(文学形式)で『民族』を表しているために、足りないところや余計なところがある。ひとつの物語だけで『民族』のすべてを語るには無理があるし、面白さを出すために余計に書いたところもある。
主は『民族』の象徴にすぎない。主よりも『民族』の方が大事である。主を見て『民族』を見ない、『民族』よりも主を大事にするのは、本末転倒である。
[7538] アメリカは日本より優れていない。 h21.6.14
太平洋戦争は第二次世界大戦の一部である。
第二次世界大戦は、政府が『神が死んだ』ことを「宗教が終わった」と勘違いして始めた戦争である。第二次世界大戦は、宗教を終わらせるための戦争である。
だから、戦争の性格上、科学の国のアメリカが宗教の国の日本に勝っても仕方がない。戦争はスポーツの試合とは違う。
それに、アメリカは『工学の国』であり、日本は『哲学と文学の国』である。戦争は“物”で戦うものだから、工学の国が哲学と文学の国に勝つのは当然である。
アメリカは日本に戦争で勝ったが、アメリカが日本より優れていたわけではない。
だから、戦後の日本がアメリカに従う義理はない。戦後の日本がアメリカ制をやる必要はない。
[7539] 日本は“幻聴”の国 h21.6.14
日本文学には、幻聴のことが時々書いてある。日本の文学者はヤケクソになったとき幻聴のことを書く癖がある。志賀直哉も川端康成も紫式部も“幻聴”のことを書いている。
日本には古くから“幻聴”の概念がある。
だから、日本は『哲学の国』と言われるのだ。
したがって、日本では冷静な大人なら、幻聴が何であるか・幻聴がどうして聞こえるかを説明できなければならない。幻聴が聞こえることと、精神分裂病が別であることを知っていなければならない。
[7540] 世界大戦はどうして起こったか? h21.6.14
私が世界大戦の前に生まれなかったからである。
もしも、私が世界大戦の前に生まれていれば、私が神と主が別の概念であることを明らかにし、『神が死んだ』とは神の概念が死んだすなわち“人間よりも上の者”の概念がなくなったことであり、キリストが神からもとの主に戻ることだと解説することができたから、世界大戦は避けられたはずだ。
日本は『哲学の国』だから、それくらいのことは朝飯前だ。
連合国は自分達が戦争で勝ったことで喜んでいるが、“物”の上だけよければいいと思っていては第三次世界大戦や第四次世界大戦が延々と繰り返されることになる。
この世には、科学や工学だけでは解けない問題もあるのだ。
[7541] 君は自分の心がわかっているか? h21.6.14
日本人は戦前まで『考える民族』で通ってきた。
しかし、戦後はアメリカ制のせいで、“眼で見るだけで頭で考えない民族”となってしまった。
しかし、民族の心がたった数十年で変わるわけがない。
だから、日本人は今でも『考える民族』のはずである。
日本人は『考える喜び』が他の民族よりも強い。
だから、今の日本人は、自分の心が正しくわかっていないのだ。
だから、古事記を読んで日本人の心を勉強する必要がある。
つまり、今の日本人は自分の心を満足して楽しく生きていないと言うことだ。
昔の日本人の方が自分の心をよくわかっていたということだ。
日本人は自分の眼で見るだけでは喜べないように出来ている。例えば、日本人がテレビを見たり格好つけたりしても、日本人にとっては楽しくないのだ。
今の日本人は自分の心がわかっていないために、自分が楽しくないことをするほど馬鹿になってしまっているのだ。
[7542] 客観的ということ h21.6.14
いくら寺田寅彦が東京大学教授だからと言って、ヤマタノオロチを火山の溶岩だと考えたのはまちがいである。ヤマタノオロチは万能の天才と言う意味である。
いくら偉い学者だからと言って、まちがいが正しくなるわけではない。いくら偉い学者だからと言って、考えがすべて正しいわけではない。いくら偉い学者だからと言って、まちがいはまちがいである。
それと同じように、大勢の人間が宗教や主について誤解しているからと言って、彼らの考えが正しいことにはならない。いくら大勢が考えたからと言って、まちがいはまちがいである。
アメリカ政府や日本政府が私の偽主制度をやったのも、アメリカ政府と日本政府の宗教や主に対するまちがいである。
[7543] 他人の土俵で相撲を取る。 h21.6.15
数学や科学においては日本はヨーロッパにかなうわけがない。
それは、ヨーロッパが『数学と科学の国』だからである。
だから、日本の数学や科学は娯楽用と考えればよい。[日本人は他人の金魚の糞[ふん]になるのが好きじゃない。]
日本人はもっと“自分の眼で見て自分の頭で考える”ことを大事にすればいい。そこに日本人の才能がある(ような気がする)。『自分を知り他人を知れば百戦危うからず。』
自分の心の機嫌をとらねば自分の頭が考えてくれない。
人間は自分が気に入るようにしか考えられないものだ。
だからこそ、自分の心のことがよくわかっていなければならないのだ。
[7544] 犯人はアメリカ政府と日本政府 h21.6.15
私の偽主制は、昭和40年頃に、アメリカ政府と日本政府が共同で始めた偽宗教である。
私の偽主制を使って民族の心にそぐわぬ命令を出しているのは、アメリカ政府と日本政府だ。
民族の心にそぐわぬ命令を出して国家を精神的に破壊しているのは、アメリカ政府と日本政府だ。
[7545] 日本は宗教の国 h21.6.15
宗教とは『民族』のことである。『民族』の特徴を本にしたのが聖典である。
だから、宗教が強い国とは、民族意識が強い国のことである。
反対に、中国やアメリカは多民族国家で、民族意識が弱い。
したがって、第二次世界大戦では、第二次世界大戦は宗教を終わらせる戦争だったから、単一民族国家である日本が多民族国家である中国やアメリカに負けたのである。
人種や民族は人類の客観的な分類である。
民族は人類の心による分類である。
戦争をやっても民族がなくなるわけではないから、第二次世界大戦は無駄だったことになる。
日本が宗教の国であるとは、日本が単一民族国家であることの言い換えである。
そんなことは、日本の国の出来かたで決まったことだから、今さらどうしようもない。
日本は世界の隅[すみ]っこにある国だから、民族が混[ま]ざらなかったので、単一民族国家なのである。
[7546] 宗教とは何か? h21.6.15
宗教とは、『民族』を活かすことである。
例えば、「日本人は米を食べる」から、政府が国民に米を作らせるのが、宗教をやることである。日本人がお米を食べることが宗教である。つまり、宗教とは『民族』することである。宗教とは、民族[みんぞく]の心を満足[まんぞく]することである。宗教とは『民族性』を考慮することである。[だから、「車は左人は右」も宗教である。[多くの国で「車が右で人は左」なのは、科学の国だからである。科学の国では車が正しい(rightつまり右)ので、車が右なのである。反対に、日本は哲学と文学の国なので、日本では車が正しくないので、車が左なのである。]日本人が日本語を喋[しゃべ]るのも宗教である。]
日本人は長年米を食べてきたから、身体が米食を美味しく感じるようにできている。
だから、日本人が米を食べれるようにすると、日本人は幸福に生きられるのだ。[日本人の中にはパンが好きな者もいるが、そんな者は自分でパンを買って食べればいい。大勢の日本人は米が好きだから、日本では米を主体とする食文化にすればいいのである。]
また、日本人は長年言葉を使って生きてきたから、言葉を使うと楽しく感じるようにできている。
だから、日本人が言葉を使えるようにすると、日本人は幸福に生きられるのだ。
眼先・耳先で物を見るのは日本人的ではない。だから、美容のためにパンを食うなどもってのほかだ。
人間は脳があるおかげで万物の霊長になることができた。かつての日本が国際的に高く評価されていたのも、神武天皇教が言葉と知覚を崇[あが]める宗教だからである。今の日本は、神武天皇の心を忘れすぎている。そんな民族はもはや用無しだ。国際的に軽蔑されるだけだ。
[7547] 個人主義と民族主義 h21.6.15
日本は単一民族国家だから、日本では個人主義=民族主義である。
それなのに、日本政府は今が個人主義の時代だからと言って、反民族主義をやっている。例えば、日本古来の米主体の食文化を潰してパン主体の食文化に変えている。
日本政府は個人主義を民族主義をやらないことの言い訳[わけ]に利用している。
日本政府は一生懸命反民族主義をやって、日本を日本人にとって不快な国にしている。
[7548] 準法律 h21.6.15
今の日本の法律は、“人類共通の心”を述べたまでである。
法律には罰則がある。
“民族共通の心”は法律にはしにくい。
例えば、「日本人は米を食べる」ことを法律にすると、パンを食べた者が罰せられなければならないからである。
だから、“民族共通の心”は法だけで、律すなわち罰則をなくせばいい。
これを準法律と名づける。
そうすれば、「日本人は米を食べる」ことも政府が管理することができる。“民族共通の心”まで政府が管理することができる。
もちろん、“個人の心”は各人で管理するしかない。そうしないと、政府の仕事が増えすぎてパンクする。自分で自分の心について考えてみるのも、いい知覚のトレーニングになる。
[7549] 政府は要るか要らないか? h21.6.15
今の政府は“民族の心”を管理していないようである。
それは、「日本人が米を食べる」のに、政府は米を作らないからである。
今の政府は、“人類の心”しか管理していない。
政府があると、“人類の心”に反する者が罰せられるとすることができるが、政府自身が偽主制をやって人を殺している。
『犯罪者によって殺される者より、政府によって殺される者のほうが数が多い。』
したがって、政府があるよりもないほうがいい。
今や政府は仕事のない要らない会社である。だから、暇つぶしに私の偽主制をやっているのだ。
[7550] 政府が要らなくなった訳[わけ] h21.6.16
政府は、“民族の心”を満足する会社である。
しかし、戦後は、個人主義の世の中になり、政府が“民族の心”を満足する必要がなくなった。[しかしながら、本来は、単一民族国家では、多数決の原理によって、個人主義=民族主義になるはずだから、政府は依然[いぜん]として民族の心を満足する必要があるはずである。だから、政府が屁理屈をこねて仕事をサボっているのだ。]
それで、政府は仕事がなくなった。
それで、政府は暇つぶしに私の偽主制をやっていたのである。
だから、本当は政府は仕事がない会社だから、政府は要らないのである。
[7551] 日本人は神武天皇を神と見ていない。 h21.6.16
平安時代の頃はどうだか知らないが、明治以降は日本人は神武天皇を神と見ていない。
なぜなら、明治から昭和の文学においては、神武天皇の“光の玉”を玩具[おもちゃ]扱いしていたからである。
だから、明治以降の日本人は、神武天皇を国民と対等に見ていたと思われる。
それが行きすぎる感じがあったので、昭和初期に政府が小林多喜二リンチ殺人事件(インチキ臭い)を起こして、文学者に神武天皇をあまり馬鹿にしないように自粛[じしゅく]させたのだ。
昭和の始めから太平洋戦争の頃まで田河水泡が昭和天皇の顔を模[も]した『のらくろ』を描いていたから、日本人は神武天皇をあまり神格化して見ていないと思われる。
[7552] 聖典は民族の特徴を書いた本である。 h21.6.16
フランシス=ベーコンは『自然を支配するためには、自然に従わねばならない』と言った。
人間も自然の一部だから、
人間を支配するためには、人間に従わなければならない。
例えば、日本人に命令するためには、日本人に従わねばならない。
『プリンケピア』が自然に従うための教科書のように、
『古事記』は、日本人に従うための教科書である。
日本人に命令するのは日本政府である。
だから、日本政府が古事記を読まねばならない。
政府でなくても多かれ少なかれ他人に命令することがあるから、
日本人みんなが古事記を読まねばならない。
しかし、“日本人性”は何も古事記を読まなくても、日常生活で直接に日本人から学ぶことができる。
だから、古事記は強いて読まなくてもいい。
要は、日本人が日本人として幸福に生きる道があればいい。
それは、特に日本人に限らない。
聖典は、人間として幸福に生きる道を書いた本である。
中世における哲学オリンピックのようなものだ。
日本人は文学ばかりして遊んでいて、科学をなめていたから、西洋に遅れを取った。
それが、日本が太平洋戦争に負けた原因となった。
だから、古事記はまちがっている。
心が楽しいだけでは進歩しない。
キリスト教の聖書は日本人から見ると細かいだけで面白くない本だが、哲学的には正しいのかもしれない。つまり、プリンケピアを生んだのも聖書である。
古事記のような文学だけして毎日楽しくやればいいという暮らしでは、人間として幸福に生きていけないのだ。
日本で科学が生まれなかったのは、日本人が実在に目を向けなかったからである。
日本人が実在逃避だから、西洋人に負けたのだ。
哲学でも、日本は西洋に敗北したのだ。
古事記は聖書ほど読む価値がない。
しかし、本はしょせん本にすぎない。
人間は本に拠[よ]らなくても、直接人間から学ぶことができる。
聖書も古事記も哲学の本である。
科学も哲学である。
聖書も古事記も、『人間として幸福に生きる道』を模索した本である。
古事記は聖書に負けたが、聖書は科学に負けている。
現代では、科学がもっとも正しい。
つまり、『自分の眼で見て自分の頭で考える』ことが人間として最も幸福に生きる道である。
哲学オリンピックは、科学が優勝したのだ。
キリスト教には自分の眼で見ることがある。
古事記には自分の頭で考えることがある。
キリスト教と古事記が一体となったのが科学だ。
今や世界にはひとつの哲学しかない。それが科学だ。
聖書も仏典もコーランも古事記も、みんな科学になったのだ。
現在のアメリカや日本は、眼で見るだけで頭で考えていない。
だから、現在のアメリカや日本では、人間は幸福に生きていけない。
宗教が何であるかもわかっていないほど馬鹿な政府に支配された国では、国民が幸福に生きていけないのは当然だ。
[7553] ヨーロッパと日本における超能力観の違い h21.6.16
聖書ではキリストの超能力はつまらなく書かれている。
それは、ヨーロッパ人が、現実においてできないことをつまらなく思うべきだとしたからである。
反対に、古事記では神武天皇の超能力が最高に盛り上がるように書かれている。
それは、日本人が、空想の上で面白いことを大事にしているからである。
ヨーロッパ人は現実志向なのに対し、日本人は現実逃避である。
その点では、日本人はヨーロッパ人を見習うべきである。
[7554] 偽主制は科学でも宗教でもない。 h21.6.16
アメリカは科学の国だ。[科学とは眼で見ることである。]
日本は宗教の国だ。[宗教とは、頭で考えることである。]
だから、アメリカと日本が組んで、科学でも宗教でもない偽主制が出来たのだ。
つまり、偽主制=科学×宗教。
しかし、偽主制はやはり宗教性が強い。
偽主制は偽宗教と見なすべきである。
偽主制には正当性がないから、やめるべきである。
アメリカは『正義の国』だから、まちがったことをやってはいけない。
[7555] 人間と科学 h21.6.16
後[あと]に出来た物が前の物より優れているのは当たり前である。
人間の祖先はアフリカで生まれたが、今や世界中に広がっている。
それは、人間が他の動物よりも優れていたからである。
それと同じように、科学はヨーロッパで生まれたが、今や世界中に広がっている。
それは、科学が他の宗教よりも優れていたからである。
[7556] 科学と宗教 h21.6.16
科学とは眼で見ることである。眼で見たことに基づいて頭で考えることである。
反対に、宗教とは頭で考えることである。頭で考えたことに基づいて眼で見ることである。
つまり、科学は帰納法であり、宗教は演繹法である。
ヨーロッパの宗教は宗教っぽいが、日本の宗教は科学っぽい。
ヨーロッパの宗教は演繹法だから、神の概念がある。
日本の宗教は帰納法だから、神の概念がない。
今では、宗教が科学に従わねばならないとされている。つまり、人間はまず眼で見たことに基づいて頭で考えて、次に頭で考えたことに基づいて眼で見なければならない。
科学は宗教を征服した。だから、帰納法も演繹法もまとめて科学とされている。
[7557] 科学は宗教の組み合わせである。☆ h21.6.16
キリスト教とは、眼で見ることである。
仏教とは、頭で考えることである。
神武天皇教とは、心で思うことである。
イスラム教とは、性欲や麻薬欲を満足することである。
昔は、眼で見ることや頭で考えることや心で思うことなどがバラバラだった。
今では、それらが統合されて、ひとつの『科学』となっている。
つまり、『人間は実在を眼で見て頭で考えて心で思って筋肉を動かして行動するものである。心が頭に従うためには、性欲や麻薬欲は断たねばならない。』[[7536]
人間の原則 h21.6.14 の図を参照。]
科学は世界中の宗教を組み合わせた『世界宗教』である。科学は現時点における人類最高の哲学である。
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[7558] どうしてイタリアで科学が生まれたか? h21.6.16
ガリレオ=ガリレイは科学の父である。
ガリレオ=ガリレイはイタリアの人である。
昔のヨーロッパでは、地中海経由でインドと交易していた。
だから、インドの仏教の知覚主義がイタリアに入ってきて、ヨーロッパのキリスト教の五感主義と結びついて科学が誕生したのである。つまり、科学=キリスト教×仏教。
日本では、飛鳥時代(西暦538年)にインドの仏教の知覚主義が日本に入ってきたが、日本の神武天皇教の心主義と結びついても何も生まれなかった。結びつき方が悪いと無駄になるのだ。
[7559] 科学は正義、宗教は悪☆ h21.6.16
科学は現時点における人類最高の完全な哲学である。だから、科学は正義である。
一方、宗教は科学の一部分だけでできた片輪[かたわ]の哲学である。だから、宗教は偏見であり悪である。
『正義は悪に勝たねばならない。』のが、人類普遍の法則である。
だから、この前の世界大戦では、宗教の国が科学の国に負けたのである。
だから、今は世界中が科学の国なのである。
[7560] 科学は人類の原則である。 h21.6.16
科学は現時点における人類最高の完全な哲学である。
だから、今や世界中の人間が原則として科学に従わねばならない。
ただし、得意・不得意の癖[くせ]が、それぞれの人種や民族や個人にはある。
それも現実として受け入れなければならない。
各民族や各個人が自分の得意とする分野を受け持って活躍すればいいのである。
[7561] 筋肉教 h21.6.16
筋肉教とは、筋肉を動かすことである。[[7557] 科学は宗教の組み合わせである。☆
h21.6.16 を参照。]
これまで、そんな宗教はなかったが、宗教が科学の一部分である以上、そんな宗教も存在しなければならない。
体育系の人は筋肉教の信者なのだ。
[7562] ガリレイはどうして宗教裁判に負けたのか? h21.6.16
今でこそヨーロッパは科学の国だが、昔は眼先の国だった。
当時世界の最高知であったガリレイが教会に頭で負けるはずがない。
ガリレイが宗教裁判で負けたのは、ガリレイがキリストよりも格好が悪かったからである。
[7563] 日本は心の国 h21.6.16
大岡越前は、子供の手を最後まで離さなかったほうを本当の母親とすると言って、2人の母親に子供の手を両側から引っ張らせて、最後まで子供の手を離さなかった方の母親が偽物だと判決した。
だから、江戸時代も日本は神武天皇教をやっていたのだ。
私の祖父母も私の両親も心で見る。そんな教育を受けてきた。
しかし、私は科学的にしか考えない。主[おも]に頭で見る。
昔の日本は本当に心主義の国だったのだ。
ヨーロッパ人が格好いいように、日本人は心がいいのだ。
日本人が格好悪いように、ヨーロッパ人は心が悪いのだ。
だから、聖書は汚い言葉で書かれているのだ。
したがって、キリスト教に入ることは、わざわざ自分で自分の心を悪くすることである。キリスト教に入ることは、ヨーロッパ人の短所を学ぶことである。日本人がキリスト教に入って自分の心を汚くしたら、格好も心も両方とも悪くなって、何の取り柄もなくなる。
[7564] 現代は科学の時代 h21.6.16
現代は科学の時代である。
宗教の時代は過去の話だ。
偽主制は科学でも宗教でもなく正当性がないからやってはいけない。
だから、私の偽主制から生まれた私アニメや私マンガもいけない。[私アニメや私マンガがあることは日本政府やアメリカ政府が私の偽主制度をやっていることを意味しており、他にもいろんな事件が私の偽主制で起きていることを意味している。私アニメや私マンガがあるために殺人事件が起こるなら、両方ともあってはいけない。]
エロ本に自分の裸を無断で載せられたら、誰でも怒るだろう。
しかし、承認を取った人なら載せてもいい。[私は、たとえエロ本に自分の裸を載せた人でも、直接に会ってみてまともな人なら、それくらいのことは大目に見ようと思う。それは、身体自体がその人自身ではないからだ。アイドルのスキャンダル写真なんかも当然本人の承認を得た上で雑誌に載せているのである。それを隠し撮りだと思って読んでいる読者が馬鹿なだけである。]
それと同じように、私を無断でアニメやマンガのネタに使うのは納得行かない。
しかし、納得行く形でなら、やってもかまわない。[例えば、キャラクターデザイナーが、アニメ製作会社の誰かを本人の許可を得た上でモデルにするなら納得できる。それが理想的なやり方だ。]
それが、科学時代の現代に相応[ふさわ]しいやり方だ。
[7565] 未来の世界 h21.6.17
現代は科学の時代である。
そのうち、世界中のどこに行っても同じ顔をした人間が同じ生活をするようになるだろう。
世界が一様になる。
それは、なんか寂[さび]しいような気がする。
世界が多様なほうが楽しいような気がする。
民族性が完全に失われた世界は、不気味だ。
それに、八方美人は無能と言うから、そんな世界に住んでいる人間なんかただのお人形みたいなアホだ。
人間は才能に偏りがあってこそ才能を発揮できるのだ。
だから、民族性は大事にしたほうがいいような気がする。
しかし、やっぱり、個人主義かなあ。
それなら、なおさら、自分の才能を活かす必要がある。
自分の才能を活かすと、自分の中に潜んでいた民族性が自然に現れてくる。
生まれつきの自分の脳の特徴は死ぬまで自分に付いてまわる。
だから、未来社会もそんなに今と違わないだろう。
[7566] 日本はギャグの国 h21.6.17
古事記を見るかぎりでは、日本は面白さやおかしさを大事にする国である。
しかし、毎日文学ばかりしていては、あまり進歩しないだろう。
文学は心でやるものだが、心は人の一生を通じてあまり変わらないからだ。
だから、日本が心の国である限り、日本は進歩しない国だ。
一方、知覚は生きて考える限り進歩する。
だから、知覚の国は進歩する。
考える者は進歩するが、眼で見る者や心で思う者や筋肉を動かす者は進歩しない。
いくら日本が文学の心の国だからと言って、常識がわかっていないのは文学のやりすぎだ。
マンガを読むのは、常識が身についてからあとでいい。
面白いことを正しいことよりも優先するのは、正しさをぶち壊しにすることだから、もはや面白くない。
日本は戦争を心だけでやったから、負けたのだ。
日本は心の国だから、日本は勝つために戦争をやったのではなく、戦争が面白いと思ったから戦争をやったのだ。
でも、結局日本が戦争に負けたことは面白くはなかった。
だから、やはり心の国ではいけないのだ。
日本は戦争に負けてよかったのだ。
科学は現時点における人類最高の完全な哲学である。
反対に、宗教は科学が出来る以前にあった不完全な片輪[かたわ]の哲学である。日本が戦争に負けたのも、宗教が科学に哲学で負けたからである。アメリカでも、ヨーロッパでも、宗教が科学に負けたのだ。この前の戦争で日本がアメリカに負けたのは、哲学において宗教が科学に負けたからである。世界大戦は、人類最高の哲学である科学が出来たお祝いに世界中でやったお祭りである。原爆は祭りのフィナーレを飾る花火である。宗教の儀式で善の神が悪の神を倒す芝居があるように、世界大戦は全世界を舞台にした宗教の悪の国が科学の善の国に倒されるお芝居だったのである。
したがって、現代は科学の世界である。
現代の日本は、科学の国である。
現代の日本人は、『実在を自分の眼で見て自分の頭で考えて自分の心で思って自分の筋肉を動かして行動する。』
科学の世界においては、実在(現実の生活)と文学は別である。
現実の生活と文学とは、世界の土台が違う。現実の生活と文学とは公理系(世界の基本法則)が違う。
しかし、現実の生活と文学は心で結びついている。
文学は日本人にとって人生の支えとなるが、文学をそのまま真似ても仕方がない。
文学は話を作ることだが、話を作ることと考えることは本質的に同じである。
文学における心の動きは、自分が考える時にも役に立つ。
文学は五感や知覚で見るものではなく、心で見るものだ。
日本人ならそれができる。
なぜなら、日本は文学の国だからだ。
科学の世界の中では、宗教は死なねばならないが、文学は生き残ることができる。
科学の世界では、正しさを第一としなければならない。綺麗さや面白さは2の次である。
宗教は科学ができる以前の科学の一部分だけを強調した偏った古臭いまちがった哲学である。だから、科学の世界では、もはや宗教はやってはならない。
もちろん、私の偽主制度のような偽宗教は、正しくないからやってはいけない。超能力者でない者は超能力者ではないし、超能力者は人間が従う者ではないし、そもそも宗教は神に人間が従うことではないし、偽主制度はまちがいだらけである。科学の世界では正しくないことはやってはいけない。
[7567] 現代は科学の時代である。 h21.6.17
現代は科学の時代である。だから、宗教は時代遅れだ。
しかし、今だに日本における仕事の大半は、子供が親の後を継[つ]いでやっている。
天皇制では、子供が親の後を継いで天皇をやるが、それは宗教ではない。
天皇制の本質は、日本が心で思う国であることである。かつて日本人が天皇家を崇[あが]めていたのは、日本が心の国であることを誇[ほこ]りにしていたからである。つまり、天皇は心の国の象徴(symbol)だったのだ。
だから、子供が親の後を継ぐことなんかは、そもそも宗教とはまったく関係がない。
科学では、才能のある者が仕事に優先的に就くべきである。そうすれば、その仕事は発展する。したがって、日本が発展する。
だから、今後の日本では、そうしなければならない。
[7568] インドはどうして遅れているのか? h21.6.17
インドは、頭で考える国である。
しかし、人間は頭だけでは考えられない。まず概念がなければ、知覚は考えられない。
知覚における概念は、五感の経験から作り出される。
だから、ヨーロッパが中世の終わりにインド文化の頭で考えることを受け入れることによって発展したように、
インドもヨーロッパ文化の眼で見ることを受け入れれれば発展するだろう。
いくら仏教やヒンズー教が民族の伝統であっても、まちがいであっては仕方がない。まちがいにこだわっても、進歩しない。
科学が人類最高の完全な正しい哲学であれば、それを早く受け入れるべきだ。
正しい哲学を受け入れた国が、世界を支配する。
[7569] アメリカは若い国 h21.6.17
アメリカはできてからまだ300年もたたない若い国である。
人間が生まれた頃はまだ実在のことを何も知らないように、
アメリカも若い国だから、まだ実在のことがわかっていない。
つまり、アメリカは実在について無知な馬鹿の国である。
だから、宗教を誤解して、私の偽主制度のような余計なことをしたのだ。
アメリカ政府と日本政府は全世界の人類に対して偽主制度で犯したまちがいの全責任を取らなければならない。
[7570] 『神が死んだ』 h21.6.17
『神が死んだ』とは、宗教が不完全な偏ったまちがった哲学であることである。
ニーチェの言いたかったことは、科学が人類最高の完全な哲学であることである。『ツァラトストラ』とは、科学教の聖書である。[ニーチェはギリシア文学に強かったから、聖書の正体がギリシア神話の寄せ集めであることを知っていたはずだ。ニーチェはそのことをヒントにして独自で考えを深めることによって、ついに科学が宗教であることを見抜いたのだ。『ツァラトストラ』が聖書のパロディなのは、聖書がギリシア神話のパロディだからである。いわば科学は“何でも願いが叶う方法”だが、それを3つに割って昔の世界の各民族がひとつずつを守っていたことになる。『仮面の忍者赤影』や『ドラゴンボール』で鐘[かね]や玉を集めるのはそのためである。]
だから、この前の世界大戦では、科学の連合国が宗教の枢軸国を倒したのだ。
しかし、ヨーロッパで世界大戦を2度やったのは、ヨーロッパにはモーゼとキリストの2人の神がいたからであり、ヨーロッパは科学では進んでいるが哲学では遅れていることの証拠である。
デカルト哲学は数学や科学の研究のための哲学であって、宗教を考えるための哲学ではない。デカルト哲学では、宗教のことについてまでは考えられない。デカルトの宗教論は、デカルトは宗教の蓋然的な議論が嫌いだったから数学や科学を熱心に考えたのであり、『我思うゆえに我あり』だから神は要らないと言うことに尽きる。とにかく、ヨーロッパの宗教学は遅れていた。そのために、戦争が起きたのだ。ニーチェは時代の先を行く天才だったが、その他の連中(特に政治家)が字面[じづら]しかわからない馬鹿だったために、『神が死んだ』からと言って死んだ2人の神を弔[とむら]うために戦争をして大勢の人間を神への生贄[いけにえ]に捧[ささ]げたのだ。[政治家が馬鹿だと国民が迷惑する。だから、政治家に定期的に知能テストと常識テストを課してもらいたい。]
一方、日本が世界大戦で負けたのは、日本が宗教の国であり最初から科学の国に負けねばならないことを日本人がよく知っていたからである。日本人は戦争がお芝居にすぎないことをよく知っていたから、戦力がまだ残っているのに最後まで戦わずに降伏したのだ。世界大戦以後、日本は戦争をやっていない。だから、日本は哲学の国なのである。
[7571] ニーチェの永劫回帰の思想 h21.6.17
ニーチェが永劫回帰の思想を通して言いたかったことは、『人間にとっては心が知覚に従属する。人間は知覚を心にまで深めねばならない。』と言うことである。
その例として、ニーチェはインドの輪廻転生思想を採ったまでである。つまり、永劫回帰が知覚であり、運命愛が心である。
だから、ニーチェの永劫回帰の思想が具体的な点において論理的におかしいとか、科学的におかしいとか言っても、そんなことはどうでもいいことである。
新しい物を作るから古い物が壊れる。それがニヒリズムだ。
[ニーチェと言えば髭[ひげ]が有名である。『魔法のプリンセスミンキーモモ』のシンドブックがミンキーモモ(私)の先生なのはそのためである。ハイゼンベルクの行列力学は、私の“震える物差し”の議論に似ている。つまり、無限次元ベクトルが“震える物差し”に対応する。無限次元ベクトルの各成分が“震える物差し”に乗っている人から見た確率の値に対応する。]
[7572] 道化師 h21.6.17
ニーチェの『ツァラトストラ』の序文には、ツァラトストラが人生を綱渡りに喩えて話をしていた時、上にいた道化師が本物の綱渡りのことだと勘違いして綱渡りを始めて途中で足を滑らして落ちて死んだ話がある。
つまり、ニーチェはあらかじめこの本の物語が喩え話であることを断って、読者に十分な注意を促しているのだ。
それにもかかわらず、後世の政治家は、ニーチェの『ツァラトストラ』を誤解して戦争を起こしてしまった。
まったく政治家は救いようのない馬鹿だ。
そんなことでよく人間が務[つと]まるものだ。
もっとも、自分が言いたいことをいちいち喩え話で話されるのも(田舎[いなか]の子に多い)、聞くほうが疲れるが。
男だったら、自分が言いたいことを正々堂々と言え!キリスト教徒を恐がって比喩で話すな!
[7573] 日本一のIQの男 h21.6.17
私が小学2年生の時、授業中に校長室に呼び出されて6〜8名の背広を着た大人から日常生活のことについて質問されたのは、IQテストの1週間後ぐらいのことである。当時はまだ日本がアメリカ制だったために、学校でIQテストがあったのである。
私が私の母親から、「私が赤ちゃんの頃、曙町東町[あけぼのちょうひがしまち]に住んでいた時、夜中に突然ガラガラが回った」話を聞いたのは、私が小学2〜3年生の頃である。それまでは、一言も、母はそんな話をしなかった。
だから、もしかしたら、私は日本一のIQ少年だったのかもしれない。当時私がIQテストで日本で一番の成績だったために、日本政府とアメリカ政府が組んで『宗教についての問題』を私に解いてもらうことにしたのだ。
しかし、小学1年生の入学式の時、似合わないパンティストッキングを母に無理に履かされたことがあるし、小学1〜2年生の頃に下のブリーフが見えるほど裾[すそ]の短いズボンを履かされていたから、IQテストをする以前にすでに私の偽主制度をやっていた節[ふし]がある。
だから、私が偽主なのは、やはり本当にガラガラが夜中に突然回りだしたからである。私の母は、テレパシーが強いタイプなので、母のテレパシーを聞いた政府の者が私を偽主にすることを思いついたのかもしれない。あるいは、母が口でおばあさんか誰かに喋って、それが政府にまで伝わって、政府が私を偽主にしたのかもしれない。
[7574] 超古代文明の遺産 h21.6.17
今から約5万年前に地球上に存在した超古代文明が、科学技術が進歩しすぎたために滅亡した。そのとき賢者が人類が2度と同じ過[あやま]ちを繰り返さないために、科学を3つの部分に分けてそれらがもとのひとつになることがないようにそれぞれを世界の端[はし]の国に置くことにしたのだ。
しかし、今や人類は再び科学を甦[よみがえ]らせてしまった。
政治家が馬鹿でなければ人類は生き残れるだろう。
科学を悪用した馬鹿が人類を滅ぼしたのだ。
[7575] 政府は馬鹿である。 h21.6.17
ヨーロッパ政府は『ツァラトストラ』が読めなかったし、アメリカ政府と日本政府は宗教を誤解して国民の承認を得ずに私の偽主制度を始めた。
政府の実体は“馬鹿の集団”である。政府は外見が立派なだけで中身は馬鹿である。
馬鹿が他人に命令する資格はない。
だから、国民は政府に従わなければいい。
[7576] どうしてユダヤ人は虐殺されたのか? h21.6.17
ニーチェは「神が死んだ。神を殺したのは“あなたがた”だ。」と書いた。
そこで、当時のドイツ政府は、聖書にユダヤ人がキリストを殺したと書いているから(参考)、“あなたがた”をユダヤ人のことだと考えて、ユダヤ人がキリスト教を潰[つぶ]したとして、ユダヤ人の大量虐殺を決めたのである。だから、ドイツは宗教の国とされたのだ。
私の考えでは、“あなたがた”とはガリレオ=ガリレイが始めた近代科学を受け入れたヨーロッパの人々のことである。
だから、当時のドイツ政府はまちがっている。
[7577] 科学教の原理 h21.6.17
『人間が実在を自分の眼で見て自分の頭で考えて自分の心で思って自分の筋肉を動かして行動する。自分の頭で考えたことに自分の心が従うためには、性欲と麻薬欲を断たねばならない。』のが科学教の原理である。[[7536]
人間の原則 h21.6.14 の図を参照。]
要するに、自分の眼で見て自分の頭で考えることだ。
細かいことは、各自の自由とする。
現代人は、全員科学教に入っている。だから、科学教の信者は66億人だ。
科学教は、現時点における人類最高の完全な哲学である。
科学教に比べたら、これまでの宗教は科学教の一部分だけを拾[ひろ]った不完全な偏ったまちがった出来損ないの哲学だ。
[7578] 科学の国と宗教の国 h21.6.18
科学の国は、正しい哲学の国である。
宗教の国は、まちがった哲学の国である。
正しさはまちがいに勝たねばならない。
だから、科学の国は宗教の国に勝ったのだ。
[7579] 政府に税金を払う必要はない。 h21.6.18
政府は自国語の意味もろくすっぽわからないほどの馬鹿の集団である。
眼先で字面[じづら]がわかるだけで、それ以上のことはわからない。
正しい仕事がやれない会社に、前金で仕事料をやらなくていい。
まちがってやった仕事は仕事にはならない。
だから、まちがった仕事をする政府にはお金をやらなくていい。
[7580] どうして私の偽主制が始まったか? h21.6.18
国民はともかく、政府は馬鹿である。
『神は死んだ』から、日本政府は神武天皇が死んだと考えて、第2次世界大戦をしたのである。
大勢の日本人を死んだ神武天皇の生贄[いけにえ]として捧げたのである。
戦後、神武天皇が死んでいなくなった。
しかし、昭和20〜40年頃は、復興にいそがしかった。
昭和40年頃になると、一段落ついて、暇になって宗教をやる余裕ができたので、アメリカ政府と日本政府が組んで私を新しい神にしてまちがった宗教を始めたのである。
近代以降、政府のやることはまちがいばっかりである。
政府は要らない会社である。だから、公務員は要らない人間である。要らない人間は殺せばいい。生きていてまちがいを犯されるよりは、死んで何もやらないほうが無難である。
[7581] アダムとイブのリンゴ h21.6.18
リンゴは性欲の喩[たと]えである。
女性の性器は西洋梨に喩えられるが、さらに西洋梨をリンゴに喩えたのだろう。つまり、アダムとイブがリンゴをかじるとは、SEXをすることである。
人間の心は知覚に従うべきであるのに、性欲に従ったから、アダムとイブは人間の原則を犯して、人間としての楽園から追放されたのである。
つまり、アダムとイブの話は、人間は性欲を禁じなければならないということである。
キリスト教では、性欲は禁止されている。
アダムとイブはヘビに唆[そそのか]されてリンゴをかじった。ヘビとは頭のいい人の喩えだが、「エッチをすると綺麗になる」とでも言われたのだろう。
[7582] 喩[たと]え話は危険である。 h21.6.18
アダムとイブの話は喩え話である。性欲は禁じなければならないという意味である。けっして、知覚を禁じる意味ではない。[アニメ『とんでぶーりん』のOPにはブタ鼻がついたリンゴの実が登場するが、リンゴが知恵の実とまちがわれている。]
ニーチェの『ツァラトストラ』も喩え話である。宗教はまちがった哲学であり、科学教は正しい哲学という意味である。けっして、ユダヤ人がキリスト教を潰したという意味ではない。
宗教の聖典の物語も喩え話である。聖典は、民族の特徴や哲学を書いた本という意味である。けっして、神と呼ばれる偉い人がいたという意味ではない。
このように、喩え話は誤解を招きやすい。
だから、今後はなるべく喩え話はしない方がいい。大事な用件を伝える場合には、けっして喩え話を用いてはならない。
他人の理解力を当てにしてはならない。なるべく他人に誤解されない文を書かねばならない。
[7583] ニーチェの超人 h21.6.18
ニーチェは、宗教はまちがった哲学であり、科学教は正しい哲学と考えた。
ニーチェの超人とは科学人のことである。科学する心を身に付けた人のことである。“実在を自分の眼で見て自分の頭で考える人”である。[自分の眼で見て自分の頭で考えるとは、自分の眼で見たことを知覚で分析して概念を作って知覚で考えて、逆に知覚で考えたことで五感を見るということである。けっして、自分の眼で見ることと自分の頭で考えることが別々に分かれていてバラバラになっていることではない。]
日本でも、昭和40年頃に『科学する心』を強調していたし、現代人はニーチェの呼んでいた超人なのである。
ニーチェは、100年後の人間像を予言していたのだ。
反対にキリストとは、紀元1世紀から20世紀までの間生きていた‘自分の眼で見るだけで頭で考えない’古いヨーロッパ人のことである。
[『ツァラトストラ』の第1部超人編は五感と知覚の関係を、第2部永劫回帰編は知覚と心の関係を述べている。『ツァラトストラ』は、ヨーロッパに現れた3度目の聖書(つまり哲学書)である。その主人公が超人=ツァラトストラである。ニーチェは自分の想像力だけで、100年後の現代人気質を描[えが]こうとしたのである。だから、ツァラトストラは実在した人物ではないし、想像で書いたので多少曖昧になってしまったのだ。とにかく、『ツァラトストラ』には、現代人の生き方みたいなものが載っている。だから、若者に人気があるのだ。わたしも高校生の頃にはよく読んだし、私が大学1回生の時、高知大学の生協に『ツァラトストラ』の原著(ドイツ語)を注文してドイツから半年待って取り寄せてもらった。今でも、その本は大切に持っている。[ちなみに、大学生を1“回”生2“回”生と数えるのは、私の偽主制によるものである。なんか変だ。]]
[7584] 精神の三段の変化 h21.6.18
『ツァラトストラ』には、人間の精神が駱駝[らくだ]から獅子[しし]になり、さらに獅子から小児[しょうに]となった話が述べられている。(参考)
駱駝とは、モーゼつまり古代人のことである。
獅子とは、キリストつまり中世人〜近代人のことである。
小児とは、ツァラトストラつまり現代人のことである。
文化文明には節目があり、その前後で、人間の生き方が大きく変わるのだ。
ヨーロッパは、これまでにそんな節目を2度経験してきたのである。
[7585] キリストの輪 h21.6.18
前にも書いたことだが、キリストの頭の周りにかかっている光の輪は、ラファエロの『キリストの変容』にあるような癲癇[てんかん]の人が発作の前に見る幻覚(アウラ;前兆)のことではなく、日暈[ひがさ、にちうん]という自然現象のことである。
つまり、キリストを太陽と重ねているのだ。
それが、コペルニクスの地動説のヒントになったのかもしれない。
[7586] お勧め哲学書ベストスリー h21.6.18
1)ニーチェ(1844から1900、ドイツ)著『ツァラトストラ』…ただし、ざっと読み流せばいい。どうせ喩え話で書かれた本だから、細かく読む必要はない。私も高校生の頃に読んだ。
2)プラトン(ー427〜ー347、ギリシア)著『ソクラテスの弁明』その他の対話編…私も高校生の頃に読んだ。古い時代に書かれた本なので、内容が易しい。プラトンは「人間の知覚には対象の本質を直接に見る“直観力”がある」と考えていたから、あまり本気を出して読まない方がいい。
3)デカルト(1596〜1650、フランス)著『方法序説』『精神指導の規則』『省察』…私はデカルトの本を大学生になってから読んだ。『精神指導の規則』は九州大学一般教養部のテキストだった。『省察』は九州大学医学部図書館の3階の書庫にあって、昼休みに読んでいた。脳みその解剖図がグロかった。
おまけ)ショペンハウエル(1788〜1860、ドイツ)著『知性について』『読書について』…私が高校生の頃に読んだ。この人は哲学者よりも随筆家向きだ。随筆ではこの人の右に出る者はいない。[ショペンハウエルの主著は『意志と表象としての世界』だが、それはその題名の通りカントの“コペルニクス的転回”を踏まえたもので、要するに『先天知主義』である。カント以降、ドイツ哲学は先天知主義を目指して進むようになった。ドイツ文化には、人間に先天知主義を肯定させる何かがあるらしい。最終的には、世界大戦でドイツが敗北国となることによって、ドイツ観念論すなわちドイツ先天知主義は断たれた。[7594] 実存主義は不合理主義である。 h21.6.19を参照。/ショペンハウエルはその主著『意志と表象としての世界』において『人間を動かしているものは盲目的な衝動である』としている。つまり、ニュートンは万物の運動の原因を“力”だとし、ヘーゲルは運動の原因を“矛盾”だとしたが、ショペンハウエルは運動の原因を“盲目的な衝動”だとしたのである。たしかに、心自体には正しさはない。心にあるのは、喜怒哀楽の感情の感覚だけである。人間に正しさを与えるのは知覚である。だから、知覚と心を噛み合せて動かせばいい。ショペンハウエルは心と知覚の“噛み合せ”までは考え付かなかったのだ。]
プラトンは中世の、デカルトは近代の、ニーチェは現代の思想を表している。
あとは、高校生の頃に習った倫理社会の教科書や参考書をマスターしておけば十分だね。
わかりにくい本は、馬鹿が見栄を張って書いたからである。そんな本は読むと馬鹿がうつるから、読まない方がいい。
一番大事なことは、やはり他人の本を読むのではなく、自分の頭で考えて言葉を書くことだ。
他人の本には正しいことが書いてあるがまちがっていることも書いてあるから、あとで自分で考え直してみる必要がある。他人の本にはあくまでも他人が考えたことが書いてあるのであって、実在自身が本を書いてくれたわけではないからだ。
[7587] なぜ天皇は海洋生物学の研究をするのか? h21.6.18
それは、古事記の神武天皇の話が直感的に書かれているからである。
生物学は、眼で見るだけの学問だから直感的なので、天皇は生物学の研究をするのである。
できれば、面白い文学が書けるといいが、それは難しいから、天皇はそこまではしないのだ。
[7588] 政府に他人のことが言えるか?! h21.6.19
もしも私が税金を払わないとしたら、政府の人が来て私が法を犯していると言えるだろうか?
政府自身が私の偽主制度を使ってさんざん法を犯しているのに、私が税金を払わないことを政府が咎[とが]められるだろうか?
政府がそんなチャランポランなことでいいのだろうか!?
政府がそんなことだから、世の中が非行や犯罪だらけなのだ。
政府自身が法を犯してもいいということは、国民が法を犯してもいいということだ。
政府なんかあったって、国民が訳のわからない理由で殺されるだけだ。
そんな物騒な会社はないほうがいい。
だから、国民は政府に税金を払うべきではない。
政府はそもそもは宗教(つまり、民族の心を満足すること)をやるためにある会社だったが、今の政府は宗教をようやらないらしい。
だから、難しい宗教をやる代わりに、簡単な私の偽主制度をやっているのだ。
政府が宗教をするなら国民は喜ぶが、政府が偽主制度をしても国民は喜ばない。[現代は科学の時代だから、宗教をやることは禁止されているが、それは政府が国民にまちがった偏見の哲学(例えば、日本の場合は、心主義の哲学)を押し付けてはいけないという意味であって、政府が国民の心の中にある民族の心を満足してはいけないという意味ではない。政府は現代の科学教(正しい哲学)の下[もと]での国民共通の心を満足すればいいのである。]
今の政府は、民主主義の政治もようやらない。[日本の政治家は、話し合いもようやらない(十分にできない)。]
今の政府にできることは、馬鹿でもできる私の偽主制度だけだ。
そんな政府なら、誰も要らないと思うだろう。
くたばれ!政府の馬鹿会社が!!
[7589] たとえ神が死んでも、日本人の心は死んでいない。 h21.6.19
戦前の日本では、宗教すなわち心主義の哲学を教えていた。
戦後の日本では、科学教を教えている。
人間の心は知覚に従属する。哲学は知覚の中の知識である。
だから、戦前の日本人の心と戦後の日本人の心は若干働き方が違う。
しかし、戦後、日本人の心がなくなったわけではない。
だから、日本人共通の心もあるはずである。
政府はそれを満足すればいい。
それが、政府の本来の仕事である。
それなのに、政府は自分のやるべき仕事をサボって、余計な私の偽主制ばかりやっている。
それくらいのこともわからない政府に一体何の仕事がやれるのか?!
馬鹿は何をやっても無駄だ。死ぬよりほかに道はない。
[7590] 日本は何のために戦争をやったか? h21.6.19
日本が第2次世界大戦に加わったのは、まちがった宗教(神武天皇教)をやめて正しい科学教をやるためである。
だから、今の日本は科学教の国である。
しかし、私の偽主制度は科学教に適[かな]っていない。
科学教の国では、政府が科学教の下[もと]での国民共通の心を満足しなければならない。
私の偽主制度では、政府が私の個人情報を混ぜて政令を出しているだけである。
私の偽主制度では、私が超能力者であることと、超能力者に人間が従わねばならないことの二つが仮定されているが、どちらもまちがっている。
私の超能力は、私の母親が見たことを政府が勘違いしただけだし、
『人間が従わねばならないものは、人間に従っているものだけ』であって[支配・従属の原理]、超能力者は人間に従っていないから、逆に人間が超能力者に従わねばならないこともない。
科学教では、『正しさが第一』とされるから、私の偽主制度はやれない。
科学教では、せいぜい天皇を“日本民族が哲学と文学の才能に優れていることの象徴”として置いておくだけにとどめねばならない。
[7591] なぜアメリカは強い国だったのか? h21.6.19
それは昔のアメリカが科学教の国だったからである。
科学教は正しい哲学なので、他の国が科学教を正しいと認めたから、『支配・従属の原理』によって他の国はアメリカに従ったのである。だから、アメリカは強かったのである。
しかし、今のアメリカは、まちがった偽主制度をやる国と化している。科学教の国じゃない。偽主制度はまちがった哲学である。
だから、今後の世界の国々は、アメリカに従わないのである。
[7592] 蟹[かに] h21.6.19
蟹は横ばいで前進しない。
考える者は前進するが、眼で見たり心で思ったり筋肉を動かす者は前進しない。
だから、天皇制を蟹に喩えるのは、“日本の心主義の哲学が前進しない”という意味である。
小林多喜二の『蟹工船』は昭和4年に発表されたが、蟹工船とは心主義の哲学をやっている日本のことである。文学者小林多喜二とは文学の国日本のことである。
だから、小林多喜二がリンチで派手に殺されたのは、第二次世界大戦の予告である。政府が小林多喜二リンチ殺人事件(おそらく作り事)を起こしたのは、文学の国日本が近い将来世界中の国々から寄ってたかって攻撃されて滅ぼされることを国民にあらかじめ教えて心の準備をさせるためだったのだ。飛行機の刑とは、将来日本が空襲で攻撃されることの喩えである。
戦争の原因は、ヨーロッパで生まれた科学教が日本の心主義の哲学よりも正しかったからである。日本が戦争をして負けねばならなかったのは、日本の哲学がまちがっていたためだから仕方がない。
一国の哲学を入れ替えることは、その国の文化を根底からひっくり返すことである。口先だけでできることではない。そのためには、一度国が滅びるしかないのだ。古い哲学でできたものをすべて破壊して取り除いた後に、新しい哲学でできたものを建てねばならないのだ。
[7593] 好き嫌い h21.6.19
私は子供の頃数学や物理学は好きだったが、国語や社会科や生物学や体育や音楽は嫌いだった。
それは、私の心に好き嫌いがあるからである。
好き嫌いは生まれつきの心と、後天的に獲得した知識によって決まる。知識には科学知識だけでなく、哲学的知識も含まれる。私は小さい頃日蓮宗つまり仏教に入っていた。仏教は頭で考えることである。だから、私は論理的なことは得意だが、非論理的なことは不得意だったのだ。
だから、反対に、もしも私が神武天皇教に入っていたとしたら、神武天皇教は心で思うことだから、私は非論理的なことが得意で、論理的なことが不得意になっていただろう。国語や社会科や生物学や音楽が得意で、数学や物理学が不得意になっていただろう。
もしも、私が科学教に入っていれば、私は国語算数理科社会音楽体育全部が得意になっていただろう。
宗教は偏った哲学である。だから、小さい頃に宗教に入ると得意・不得意の違いができて、あとで学校の勉強で苦労しなければならないことになる。
哲学は他の学問よりも深い。だから、まず哲学が正しくなければならないのだ。
[7594] 実存主義は不合理主義である。 h21.6.19
合理主義は合理主義である。だから、実存主義は不合理主義である。
パスカル(1623〜1662、フランス)は、『人間は考える葦である。』と言ったから、考える合理主義と葦(つまり弱い者)であるキリスト教を折衷しようとした思想家である。
カント(1724〜1804、ドイツ)は、神が人間の知覚の中だけにある者(つまり、オバケと同じように、先天知の世界だけにいる幻覚)としたから、合理主義者である。カントは科学が得意だったから、合理主義である。しかし、カントが“コペルニクス的転回”で先天知主義を復活させたせいで、その後のドイツが“宗教の国”(先天知主義の国・知覚と心主義の国)になってしまった。カントの“コペルニクス的転回”はbad ideaだ。先天知を肯定したがるのが、ヨーロッパ人の悪い癖だ。私は「時間」や「空間」も後天知から分析して作られた概念だと思う。人間の知覚におけるすべての概念が後天知から作り出されたのだと思う。後天知主義は進歩するが、先天知主義は横ばいで進歩しない。先天知主義の国は遅れた野蛮な国になる。だから、世界大戦で、ドイツは後天知主義の国々から攻撃されて滅ぼされたのだ。パスカルもカントも、合理主義と不合理主義の狭間[はざま]にあるはっきりしない哲学者である。
ヘーゲル(1770〜1831、ドイツ)は、矛盾が運動の原理だと考えたから、不合理主義であり実存主義である。ヘーゲルは、カントの“コペルニクス的転回”の後を継いで“先天知の世界”を大々的に復活させた大きなまちがいを犯した哲学者である。ヘーゲル哲学がわかるのは馬鹿だけである。カントもヘーゲルも言葉が下手糞である。言葉が下手糞なのはキリスト教の聖書と同じように思考が未熟な証拠である。つまり、ドイツ観念論はまちがっている。だから、世界大戦でドイツは滅ぼされたのだ。
ニーチェ(1844〜1900、ドイツ)は科学教を提唱したから、合理主義である。眼で見るだけの五感主義の不合理主義のキリスト教を攻撃したから、合理主義である。ニーチェの思想が合理的なのは、ニーチェが合理主義者だからである。
科学教(=実在×見る×考える×思う×行動する)は人類最高の完全な正しい哲学だから、科学教を信じる者は実在の中に入ることができる。だから、自然科学ができるのだ。
これに対し、これまでの宗教は科学教の一部分を拾っているだけの不完全な偏った哲学だから、宗教を信じる者は実在の外に出てしまう。だから、実存主義(existentialism、実在の外に出る主義)と言われるのだ。
科学教とは、正しいことを大事にすることである。実在を自分の眼で見て自分の頭で考えることである。科学教は、現代人にとっての常識である。
[7595] アメリカは科学の国 h21.6.19
アメリカは、出来立てホヤホヤの頃は科学の国だった。
ヨーロッパも科学の国だが、ヨーロッパはキリスト教の上にできた科学の国だった。ヨーロッパではキリスト教と科学が混じっている。
そこで、アメリカは、純粋な科学の国として、ヨーロッパとは違う特色を出そうとしたのである。
宗教のある国では、たとえ新しく科学を取り入れても、どうしても古い宗教による偏りが生じてしまうが、アメリカには古い宗教がないから偏りがなく、五感と知覚と心がバランスよく働いて発明の得意な『工学の国』になったのだ。
そうやって、アメリカはしばらく科学の正義の国として世界に君臨した。
しかし、第2次世界大戦後は、日本政府とグルになって、私の偽主制度の国になってしまった。
私の偽主制度は宗教にも劣るくだらない哲学である。
世界大戦とは、正しい哲学の国がまちがった哲学の国を滅ぼすことである。
アメリカと日本は戦争で滅ぼされたいのだろうか?[ヨーロッパや韓国が指を鳴らしながら様子を窺[うかが]っているぞ。]
[7596] どうしてキリスト教は奴隷道徳なのか? h21.6.20
キリスト教は、眼で見る哲学である。
奴隷は、眼で見るだけで頭で考えない。
だから、キリスト教は奴隷の道徳なのである。
また、読書しすぎると、活字を自分の眼で見るだけで自分の頭で考えなくなるから、奴隷根性になる。日本の学者が馬鹿なのはそのためである。
[7597] どうして日本にキリスト教と仏教と日本神道の3つの宗教があるのか?
h21.6.20
日本神道は心で思う哲学である。日本神道だけでは心に偏りすぎる。
そこで、日本は飛鳥時代(西暦538年、百済の聖明王の使者)に、頭で考える仏教を取り入れた。聖徳太子は日本で作った仏教の主[しゅ]である。
それで、日本の哲学は頭で考えて心で思うことになり、多少偏りを直すことができた。
さらに、日本は江戸時代(西暦1549年、フランシスコ=ザビエル)に、眼で見るキリスト教を取り入れた。
それで、日本の哲学は眼で見て頭で考えて心で思うことになり、一応現代の科学教と同じになった。
つまり、それぞれの哲学を足し合わせて使うために、日本にはキリスト教と仏教と日本神道の3つの宗教があるのである。
しかし、3つの宗教を掛け持ちしている人は少ないから、やはり別々に宗教があっても効果的ではない。
現代では、『科学教』のひとつがあればよく、これまでの宗教は全部要らないのである。
[7598] 日本は心の国 h21.6.20
日本は心の国である。いまでもそうである。
だから、日本では気のいい人が好まれる。
しかし、気がいいだけで頭で考えない人が本当にいい人間なのだろうか?
気がいい人は自分の気がいい原因がわかっているのだろうか?
偶然に気がいいだけではないだろうか?
それなら、別に気がよくても、そんなに価値があるとは思わない。
それに、気がいいだけでは進歩しない。人間は頭で考えないかぎり進歩しない。
やはり、気がいいことよりも、頭で考えて正しい知識を持っていることの方が大事だと私は思う。
[7599] 命[みこと] h21.6.20
日本には神の概念はない。それは日本が後天知主義の国だからである。
しかし、神の代わりに命[みこと]の概念がある。
命とは、人間の心の中にある善い感情を擬人化した者である。
日本では、自分の心は実在する対象であり、自分の心についての知識を後天知と見なす。つまり、日本では、物も心も同じなのだ。[[7445]
日本人の世界観 h21.6.4 の図を参照。]そして、日本では物よりも心を大事にしているのである。
だから、ヨーロッパ人がイメージする先天知主義の国と、心主義の国日本とはかなり違うのだ。
[7600] 『戦争の法則』 h21.6.20
まちがった哲学の国は正しい哲学の国によって滅ぼされて、その後正しい哲学の国になる。
哲学はもっとも深い学問であるがゆえに、哲学を入れ替えるためにはその国のすべての文化文明を滅ぼさねばならない。
それが、『戦争の法則』である。戦争は人間が関わる客観的な自然現象であり、条件さえ揃[そろ]えばいつでもどこでも起こるものだ。
戦争をするかしないかは、世界中の人類が考えて決めることである。ひとたび戦争をすることに決まったら、勝つ国と負ける国の政府は戦争の準備に入るだけである。戦争の準備期間は約20年である。
例えば、かつてドイツと日本はまちがった先天知主義の哲学をやっている国だと考えられた。それで、世界大戦によってドイツも日本も滅ぼされ、敗戦後はドイツも日本も後天知主義の科学教の国になったのだ。[ヨーロッパで世界大戦が第一次と第二次の2回あったのは、1度目の世界大戦だけではドイツが自分の哲学のまちがいを改めなかったからである。]
現在、アメリカと日本で行われている私の偽主制度もまちがった哲学である。私の偽主制度は、後天知主義の科学教に適[かな]っていない。
だから、いずれ将来、アメリカと日本は世界中の国々から戦争されて滅ぼされるだろう。そのうち日本は“新兵器の実験台の国”になるだろう。