[723] 自他の弁別性 h14.6.21
天動説か地動説かはどうでもいい問題であるが、自分の給料が上がるか下がるかは大事な問題である。
人間関係もまたすべての人にとって大事な問題である。
自他の弁別性(自分と他人の区別がつくこと)があるかないかは重要な問題である。
自他の弁別性がない世界が分裂病者の世界である。自分と他人の区別がないから他人の思考が自分の思考と同じように意識化されて幻聴が聞こえるのだ。まちがった知覚が五感に作用して、五感を六感につくり変えたのだ。
自他の弁別性を荷っている脳細胞が破壊されたから、自他の弁別性が失われたのだ。
ひとたび自他の弁別性が失われた者に、自他の弁別性を取り戻せと言うのは無理である。
たとえ自他の弁別性がなくても、情報が正しければいいわけだから、六感界にある情報の中で正しい情報だけに目を向けるようにすれば、実在の世界に適応できて生きていける。
[724] 自然科学とキリスト教 h14.6.21
キリスト教では、人間が発狂して不幸になる原因を、人間が知覚で五感界の中にないことを考えるからだと決めている。
キリスト教では、五感界を実在だと見なして、人間が五感界以外のことを考えることを固く禁じている。
一方、自然科学では、五感を現象(人間が感じるだけで実在ではないこと)と見なし、五感界以外のところに実在があると考えている。
自然科学では、『実在は五感を超えたところにある。』
自然科学はモロにキリスト教に反している。
キリスト教では、五感界を実在と見なし、知覚は五感界について考えるので、知覚は五感に従属する。
一方、自然科学では、実在が五感とは別にあり、五感を実在を知るためのたんなる手段と見なすので、五感が知覚に従属する。
自然科学の根底にある世界観は、キリスト教の世界観に完全に反している。
自然科学ほど反キリスト教的な思想はない。
[725] 光と色 h14.6.21
ニュートンは、五感界において色が見える原因として‘光’という実体を考え出した。物体の表面から放射された‘光’が空間を伝わって人間の眼の網膜に入って電気信号に変えられ、視神経を伝わって、大脳皮質の脳細胞を神経興奮させると色の感覚が生じる。‘光’じたいは人間には絶対に感覚されないのである。
これに対し、ゲーテは、ニュートンの考え出した光はたんなる空想の作りごとにすぎないとし、五感界における色こそが実在なのだと考えた。
ゲーテは‘感覚’の概念がわかっていない。
五感に錯覚(例:外向き矢印の方が内向き矢印よりも長く見える)や幻覚(例:白抜きの十字路の真ん中に‘黒い玉’がボーと見える)があることを見れば、五感が実在でないことは明らかである。
文学では五感界を実在と見なしてもかまわないかもしれないが、科学では五感界はもはや実在ではないのだ。
[726] 仏教と自然科学 h14.6.21
仏教の世界観と自然科学の世界観は同じである。
だから日本やインドでは、ヨーロッパの近代自然科学がすんなりと吸収できたのだ。
[727] 神経症(ノイローゼ) h14.6.21
神経症とは‘五感のしこり’である。小さいときに五感で見すぎたことは、大人になっても知覚で見れなくなる。大人になって再び同じ出来事に出会うと、五感とそれに伴う心因反応(心の反応)が引き起こされる。
ところが五感は実在認識すなわち知覚とは異なるから、その心因反応は実在に不適応になる。
知覚で理解できないかぎり、一生逃げ回らねばならない。
でも、神経症の人は脳のイキがいいから、一生懸命勉強すれば(知覚で見れるようになれば)治るはずである。
つけたし:平成14年6月26日
神経症も分裂病も五感が知覚よりも優位である(感覚が強い)が、分裂病では全般的にそうである(∀五感>知覚)のに対し、神経症では部分的局所的にそうである(∃五感>知覚)にすぎない。[ただし、ここでは幻聴も五感に含めることにする。]神経症では大部分の認識については知覚が五感よりも優位であって(知覚>五感)、ふつうの人と変わらない。
分裂病において五感が知覚よりも優位(感覚が強い)なのは、もともと分裂病になる前の分裂気質[きしつ]がそういうものだからである。分裂気質の者は、‘感覚’の概念がなく、これまでずっと五感を実在だと見なしており、知覚が五感に寄りかかっている(つまり、従属している)。そもそも分裂気質の世界観(=‘感覚’の概念を持たないドイツ観念論の世界観)じたいが実在の中ではまちがいであり、まちがいの世界は遅かれ早かれ壊れてしまうのだ。分裂病の根本的原因は、‘自分と他人の区別’がつかなくなることではなく、分裂気質(の世界観)そのものにあるのだ。
『実在は五感を超えたところにある。』たとえ知覚が五感に反しても、実在に反しなければいい。やはり、人間は他の物体と同じように実在の中に存在しているのであるから、知覚が実在に反することを本気で(=強く)考えてはいけない。
[728] 『われ思う、ゆえにわれ在り。』(デカルト) h14.6.21
『われ思う』とは、‘自分の感覚(子)が発生する’ことである。
哲学T原理より、自分の感覚(子)が発生するためには‘自分の脳細胞が実在していなくてはならない’。すなわち、『ゆえにわれ在り。』となる。
デカルトの哲学原理『われ思う、ゆえにわれ在り。』は、私の哲学T原理『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。』に論理的に従属するのだ。
[729] 現象としての冗談 h14.6.23
ドイツの哲学では、五感が実在で、五感界に起こることはすべて真実だし、知覚は真実である五感に従属するので知覚も真実だし、これでは認識界に冗談を入れる余地がない。だから、ドイツ人は冗談のわからない人種である。
一方、フランスの哲学では、五感が現象で知覚が実在であり、知覚はすべて真実だから知覚には冗談が入れないけれど、一般に五感は真実ではなく、知覚界においてはまちがいは許されないが、五感界ではいくらまちがいがあってもかまわない。だから、五感には冗談を入れる余地がある。もちろん、それは知覚界から見るとまちがいや無意味にすぎないが。フランス人は冗談のわかる人種である。
五感を実在と見なす人には冗談がわからないが、五感を現象と見なす人には冗談がわかる。
[730] 自他弁別性を荷う脳細胞 h14.6.24
自他弁別性を荷う脳細胞は、五感界においてもすでに自他弁別性が存在することから、原始的な脳細胞であり、後天的経験的に形成されるものではなく、先天的遺伝的に形成されるものである。つまり、生まれつき誰にでもあるものであって、わざわざ考えなければわからないものではない。
知覚において自他不可弁別性(自分と他人の区別がないこと)を強く考えると、遺伝的に形成された自他弁別性を荷う脳細胞が死滅して自他弁別性が失われる。自他弁別性は原始的基本的な機能であるだけに、知覚でその機能を代償することは不可能である。自他弁別性は一度失われると元には戻らない。
そこで、自他弁別性によらずに、人間の脳における情報処理を復興する方法を考えねばならない。そのひとつが、情報についての真・偽・無意味の区別をつける方法である。‘自分と他人の区別’は戻らないが、‘実在と現象(本気と冗談)の区別’がつけば、生きるにさほどの不便はない。つまり、実在は五感(または六感)ではなく知覚であり、幻聴[げんちょう]は現象[げんしょう]にすぎないのだ。(おやじギャグ)
五感と知覚だけからなるカントの世界に‘感覚’の概念を付け加えると、実在と五感と知覚からなるデカルトの世界になるが、同時に自分の感覚と他人の感覚を結ぶ‘感覚波’(幻聴の実体)も実在することになる。この問題を解決するのは、同じデカルトの世界から得られる概念‘実在と現象の区別’である(ヒント:幻聴の言葉の内容に目をつける)。
[731] 心因性拒食症(アノレキシア・ネルボーザ)のひとつの発症機序についての考察 h14.6.24
人間の大脳皮質の知覚において「私は太っている。私はやせたい。食べてはだめ。私はおなかがすいていない。」と強く考えると、視床下部にある空腹細胞(空腹感を発生する脳細胞)が死滅して空腹感を感じなくなり、食事を摂らなくなってやせて死ぬ。
[732] 実在と現象 h14.6.25
実在がわかるから、現象がわかる。
実在がわからなければ、現象もわからない。実在と現象がゴチャゴチャなままだ。
[733] 実在哲学における人間関係 h14.6.26
自分より感覚(五感〜知覚)の劣る者に従属するな。
自分より感覚の優れた者に従属せよ。
[734] 医者は悪人 h14.6.27
『病は気から』とあるように、悪気があるから病気になる。
ゆえに、病人は悪人である。
医者は病人の味方である。
悪に従属するのは悪人だから、悪人の味方もまた悪人である。
ゆえに、医者も悪人である。
[735] 世界の大域的構造 h14.6.27
人間は誰でもみんな何らかの世界観を持っていて、その枠組みに当てはめて個々の具体的な認識が成り立っている。そして、その具体的な認識に基づいて行動している。
[736] オナニーと感覚の関係 h14.6.27
オナニーをすると感覚が現象的(五感的)になり、オナニーをしないと感覚が実在的(知覚的)になる。
オナニーをすると知覚で考えないから五感(とくに性感)の感覚が強まり、五感が意識で知覚が無意識になり、あいまいなことしかわからなくなる。心が知覚よりも五感に複合し、心が動物的になる。
オナニーをしないと知覚の感覚が強まり、五感が無意識で知覚が意識になり、はっきりしたことがわかるようになる。心が五感よりも知覚に複合し、心が人間的になる。
オナニーをすると、感覚が現象的になる、すなわち五感(現象)を実在と見なすようになり、知覚と五感の優劣関係が逆転(知覚>五感→知覚<五感)し、分裂気質[きしつ]になる。さらに、分裂気質の者が五感が実在で知覚が冗談だと考えて、知覚で実在に反することを強く考えると分裂病になる。
したがって、分裂病にならないためには分裂気質にならねばよく、分裂気質にならないためにはオナニーをしなければいい。
五感が実在に反するのはかまわないが、知覚が実在に反してはならないのである。
つけたし:平成14年7月1日
分裂病では、知覚が実在に反しており、知覚界が実在界と分かれて裂けているから分裂病と言う(?)。自然科学でも実在についての誤解はありえる(例:天動説、古典力学)が、誤差が小さく日常生活ではほとんど問題にならないので、分裂病ではないのである。
[737] 天才 h14.6.27
天才とは、五感界にはない実在すること・もの(例えば、‘感覚’の概念)を考え着いた人である。[天才の定義]
[738] 幻聴のとらえかた h14.6.27
幻聴が聞こえるか聞こえないかが問題なのではなく、幻聴を真に受けるか受けないかが大事なのである。
幻聴が聞こえるか聞こえないかは‘自分と他人の区別’の有無によるが、
幻聴を真に受けるか受けないかは‘実在と現象の区別’の有無にかかっている。
[739] 偉さとは何か? h14.6.28
実在哲学においては、正しい者には従属し、正しくない者には従属してはならない。
正しい者が他者を支配するから、正しい者が偉いのだ。
正しいとは、感覚が知覚的なことである。
政治家は肩書きだけが立派だが、実際には論理的思考が出来ないくらい感覚が五感的で正しくないから偉くない。
[740] マンガと文学 h14.6.28
知覚では実在に反することを考えてはいけないが、五感ではかまわない。
知覚で本気になって実在に反することを考えるとキチガイになる。
知覚では数学と科学しか考えてはいけないが、
五感界では冗談(実在に反すること)が許される。
五感界では、マンガや文学を楽しんでもよい。
しかし、いくらマンガや文学がおもしろいからといって、マンガや文学を現実(実在)よりも優先してはならない。
あくまでも、実在哲学(≒デカルト哲学)の構図の中で楽しまねばならない。
オナニーをやると、五感の感覚が強くなりすぎて、実在が知覚から五感に変わる、つまり実在哲学の世界が観念論の世界に変わる、すなわち正常気質が分裂気質に変わるのでよくない。
やはり、人間にとっては知覚の楽しみが一番健全でよい。
[741] バカの道徳 h14.6.28
バカは生まれてからずっと五感界の中に居る。
五感界で考えまちがいをするとキチガイになるから、バカは絶対に考えることがない。
考えないことがバカにとっての道徳である。
バカは一生バカのままでいればいいのだ。
[742] ‘感覚’の概念 h14.6.28
私が‘感覚’の概念を考え着いたのは、28歳のころだった。
「どうして物が見えるのか?」を考えていたときだった。([180]参照)
しかし、実在哲学の構図は、小・中学生のころにもすでに無意識的にはわかっていた。
だが、はっきりことばとして認識したのは28歳になったときだった。
[743] 心 h14.6.30
心は眼で見た印象(バカの場合)や知覚で考えた事実(人間の場合)などに基づいて、なるべく自分が楽しくなるように按配する。
つまり、五感や知覚は認識の受動的側面であり、心は認識の能動的側面である。
心は個人によって違うから、快・不快の区別は個人の次元である。自分が快か不快かは、自分の心に訊[き]くしかない。
自分の心を働かせば自分が快になり、自分の心を働かさなければ自分が快にはなれない。自分が楽しくなりたければ、自分の心を働かせて自分が行動するしかない。したがって、私は『うる星やつらDVD-BOX2』を買わねばならない。でも、買いたいけどお金がもったいない。仕方ないから、ヤフオクで中古でも買うとするか。BOX2だけなら5万以下、BOX1&2なら10万以下で!(私事ですいません)
[744] 鬱病の発症機序 h14.7.1
鬱病は、躁鬱気質の人が適応できない(知覚でわからない)環境に入ることによって起こる。知覚が働かなくなるから、知覚と複合する人間の心も働かなくなり、落ち込むのだ。鬱病の人はエッチな淫男に間違われることが多いが、それは人間の心が働かず、五感と複合する動物の心だけになっているからである。
ふつうの人が、どのようにして躁鬱気質になるかは、今のところ私にはわからない。子供の頃から、狭い環境の中で育ってきたせいだろうか。
ふつうの人は得意と不得意の差があまりないが、躁鬱気質の人は得意と不得意との差が大きい。つまり、躁鬱気質の人は、得意なことはふつうの人以上にすごくよく出来るが、反対に不得意なことはふつうの人以下でまったく出来ない。成績に凸凹がある。
かといって、実際には不得意なことのない人はめったにいないから、すべての人が多かれ少なかれ躁鬱気質であるともいえる。すると、鬱病はたんに人が自分の不得意な環境に入ったことだと言っていい。誰でも(運が悪ければ)鬱病になる可能性がある。ただ、鬱病になるのを避けるためには、かねてからつねに自分の得意と不得意を知り、自分に不得意な環境に自分が入らないように注意しなければならない。
[745] あいまいとダラダラ h14.7.1
知覚界はイデア(概念)の世界で論理があるが、五感界はイメージ(印象)の世界で論理がない。
だから五感界はあいまいである。
したがって五感界と複合する心はダラダラである。
[746] 日本が危ない! h14.7.2
分裂気質の公務員が日本を汚いヨーロッパ文化に染めようとしている。
五感の欲求を満足する多くの施設が政府の援助で日本中に建てられつつある。
このままでは日本人全部が下品な動物に変えられてしまうぞ!!
[747] 実在哲学とデカルト哲学の違い h14.7.3
実在哲学では‘感覚’を実在するものと考える。同じひとつの実在の世界の内に物体と感覚とが同居する。つまり、他の素粒子’(陽子、電子、中性子など)と同等に‘感覚子’(感覚という量を荷う素粒子)が存在する。
一方、デカルト哲学では感覚を実在しないとし、物質界とは別の精神界に追いやった。これほどまでに統一性を欠く下手なアイデアは滅多にない。
[748] 私の願い h14.7.4
どうせ生きていても楽しいことがない。
幸せになれる人はなれるが、なれない人はなれない。
じたばたしたところで人生の苦しみが長引くだけだ。
早く死んだほうが苦しみがなくていい。
自動安楽死装置が欲しい。
[749] 無思想 h14.7.4
自分が無思想だから他人の思想に流される。
しかも他人が正しいかどうかはわからない。
[750] 現象界と実在界の違い h14.7.4
他人を愛するか愛さないかは現象界の出来事だが、
他人を生かすか殺すかは実在界の出来事である。
[751] 幸せになる方法 h14.7.5
人は五感の印象や知覚の原理に基づいて、なるべく自分の心を快にするように考えたり行動したりする。
つまり、積極的に自分の知覚や筋肉を働かせて考えたり行動したりして自分の心を快にしようとしないかぎり、自分の心を快にすることができない。
いくら自分に運が来るのを待っていても、何にもならない。
ましてや、自分の心を快にするのを面倒臭いからといってためらったりバカバカしいからといって押し殺したりしていては、自分が幸せにありつくなんてことは永久にない。
自分の五感の印象や知覚の原理に基づいて、自分にできるかぎりのことをして、自分の心を満足させればよいのだ。
そうしなければ、自分の心がサビついてしまう。
例えば、私は最近5年間魔法少女アニメLD-BOXやマジカルエミDVD-BOXばっかり見つづけてきた。正直言って飽き飽きした。この前ヤフオクで落札したスペクトルマンLD-BOXを見て、「ほんらいアニメは一期一会。一回かぎりの面白さなんだ。」と思った。そこで私は方向転換して、アニメのLD-BOXやDVD-BOXを今後買い続けるよりも、衛星放送を見れるようにした方がよいと考えた。金銭的には問題ない。むしろそのほうが安上がりだ。今後の問題点は、共同住宅(マンション)なので、アンテナがついているかどうか不動産にきくこと。デコーダーの取り付けを自分でやるなり部屋の中立ち入りで電気店の人なりにやってもらうよう手配することだ。また、そのための日取りを決めないといけない…。
[752] 老人問題 h14.7.5
壊れたビデオやパソコンは捨てたほうがいい。
人間の本質は知覚である。
年老いて痴呆になったガラクタに生きる価値はない。
[753] 老人問題における現象と実在の対立 h14.7.9
現象的には、おじいさん・おばあさんがかわいそうだから、めんどうをみてやらねばならないが、
実在的には、知覚が活動しないボケ老人の面倒をみることは間違っている。そんなことしてたら、五感的な悪人が知覚的な善人よりも優利になって、悪が善を支配し、国が滅びる。知覚が活動しなくなった者は殺すべきだ。
現象的世界はキレイごとばっかしで古い。けっきょくは、実在的世界でなければうまくいかないのだ。
実在の快のために現象の不快をこらえることも人間としての義務である。
人間は現象の中ではなく実在の中で生きて行かねばならないのだ。
[754] 錯覚における現象と実在の違い h14.7.10
内向き矢印は外向き矢印よりも長く見えるので、そのまま“長い”としてよいのが現象界である。
しかし、物差しを当てて測ってみると同じ長さなので、実在界においては“同じ長さ”ということになる。
女の子の顔や身体を見て美しいと見えるのも、現象界ならではである。
実在界においては、知覚的な人が善人で、五感的な人が悪人である。
あなたは、バカなペルシャちゃんと、頭のいいユーミちゃんとどっちの方が好きですか?(正解は、頭のいいユーミちゃん)
[755] どうして少年漫画は少女漫画よりもよく売れるのか? h14.7.11
男は知覚優位型世界観であり、女は五感優位型世界観である。
だから、男は漫画を冗談として読めるが、女にとってはキチガイの素になりうる。女はかろうじて現象的な漫画(絵が美しいだけで実在的な内容の漫画)が読めるだけだ。
男は漫画が読める生き物だが、女は漫画を読めない生き物なのだ。
裏を返せば、それだけ男の人生は厳しいのだ。
男は漫画を読めるから少年誌はよく売れ、女は漫画を読めないから少女誌はあまり売れないのだ。
[756] 法則『オナニーするとバカになる。』 h14.7.12
【証明】オナニーとは、自分の五感(の一種である性感)を激しく興奮させることによって、その五感と複合する心を活動させることだから、自分の感覚を五感化する行為である。(反対に、ことばを使って考えることは、自分の感覚を知覚化する行為である。)
一方、バカとは感覚が五感しかない者のことである。
よって、オナニーは自分をバカ化することにほかならない。【証明終】
[757] デカルトの代数幾何学 h14.7.14
ギリシア人は感覚が五感的なので、ギリシアでは幾何学が発達していた。
インド人は感覚が知覚的なので、インドでは代数学が発達していた。
幾何学は直観的で、代数学は論理的だ。
双方の世界を行き来することで、互いに他の短所を補い長所を活かす方法が、デカルトの代数幾何学である。
知覚界と五感界とは無関係ではなかったのだ。
こうして実在が論理的にも見られることをデカルトは実証した。
ほんらい言葉は物の集合だから、知覚界の言葉と五感界の物との間には対応関係が存在する。例えば、‘人’という言葉には、眼で見えるいろんな人が対応している。言葉と物とは切り離すことができないのだ。
[758] 現象界・実在界における衣・食・住・性 h14.7.15
|
現象界
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実在界
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衣
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きれい
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自分の身体のサイズに合えば何でもいい。
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食
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うまい
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食べると身体(とくに脳)の調子が良くなるものがいい。
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住
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りっぱ
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生活に便利な場所にあって、生活がしやすければそれで十分。
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性
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快楽
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子供を作るため
|
人間は本当は実在界の中に生きているのであって、現象界の中に生きているのではない。
[759] 社会秩序 h14.7.15
『感覚の知覚的な者が善人で、五感的な者が悪人である。悪人は善人に従わねばならず、善人が悪人に従ってはならない。』
この原理に従うことは社会秩序を増進する行為であり、反対にこれに背くことは社会秩序を破壊する行為である。例えば、親が自分の子供に対する情に負けて、親が子供のわがままを聞いてやるの(いわゆる甘やかし)は、感覚が五感的な悪人である子供に、感覚が知覚的な善人である大人が従属することであり、上の原理に反するから、してはいけない行為である。親は子供に対して厳しくしなければならない。そのほうが、一時的には子供がかわいそうであっても、長い目で見れば必ず子供のためになる。
[760] 子供時代 h14.7.15
子供時代はすべての人間にとって弱点である。
子供はまだ知覚が十分に発達していないので、子供にいくら論理や原理を説明してもわかってくれない。
わからない者にわかることをいくら言ってもわかってくれない。
わからない者にはわからないことのほうがよくわかる。
子供には子供の道徳があり、大人には大人の道徳がある。
大人には理屈で説明すれば通じるが、
危険な子供時代を乗り切るには、理論的な哲学よりも母親の愛情のほうが大事なのだ。
[761] ハイデガーの哲学 h14.7.15
COMMON SENSE(常識、共通認識)⇒実在;人間どおしの共通認識を実在とすることにする。
【説明】実在自体は人間が感覚できないものであり、人間に感覚できる実在は自分の知覚に他ならない。知覚で実在を見てつじつまが合うから、その知覚は実在と一致する、つまりその知覚は正しいとしているにすぎない。人間にとっては実在自体が実在ではなく、自分にとって感覚できる自分の知覚を実在と見なすしかないのだ。人間は言葉で物を見るので、その言葉が実在になるのだ。言葉⇒実在。人間にとっては、自分の知覚で考えたぶんだけが実在になるから、知覚で考えないかぎり実在は全然見えてこないことになる。
−−−−−−−−ここまでは、私の実在哲学と同じ。−−−−−−−−
土人の社会ではヘンな踊りをしても異常者と見なされないのは、ヘンな踊りが実在的なことだと土人のみんなが考えているからである。むしろ、土人の社会では背広を着て眼鏡をかけていることが異常だと見なされる。それは、背広や眼鏡が実在的なことではないと土人のみんなが考えているからである。つまり、土人にとっての実在は、土人たちの共通認識によって創り出されているのだ。それと同じく、現代人にとっての実在も、現代人たちの共通認識によって創り出されている。例えば、犯罪者はみんなの共通認識から外れた行動をとるので、実在(社会)外存在者として牢屋に放り込まれる。精神分裂病者も、みんなの共通認識ではありえない幻聴が聞こえるので、実在外存在者と見なされて閉鎖病棟に放り込まれる。みんなの共通認識に適[かな]う者だけが実在内存在者すなわち社会人とみなされる。
−−−−−−−−閑話休題。−−−−−−−−
私の故郷の高知では、みんなが自分本位だ。個人は自分の好き勝手に行動する。いくら他人が困ってもかまわない。(補足:他人が迷惑しているかいないかは他人の感覚だから、自分にわかることではない。そもそも自分自身が何をすべきかが問題であって、他人の迷惑なんか大した問題ではない。)しかし、そのかわりたとえ自分が困っても、他人に助けを求めてはならない。自分の問題は自分ひとりで解決しなければならない。この世界においては、各人の感覚界は全部違っている。だから、COMMON SENSEが存在せず、したがって実在がない。各人それぞれの実在があるといってもいい。自分の言葉⇒自分の実在、他人の言葉⇒他人の実在。実在がひとつだけとはかぎらない。COMMON SENSE⇒実在、は成り立たないのだ。
私の実在哲学では、感覚が各人の脳に局在している以上、各人の感覚界は各人独りのものであり、各人の感覚界はそれぞれ別々だから、COMMON(共通している)という言葉には意味がない。本当にCOMMONかどうかがわからない。各人は自分独りの感覚界の中で起こることに対してだけ面倒を見ればいい。他人の感覚界は自分には感覚できないことだから、自分にとってはどうでもいい(とするしかない)。このほうが私の日常生活には合っている様な気がする。
私の故郷の高知には神道や仏教以前の思想が色濃く残っていると考えられるから、案外これが日本人の一人としての私の思想のルーツであるのかもしれない(私個人的にはドーデモイイことだが)。
[762] 実在界における好き嫌い h14.7.16
衣類に関しては、自分の身体のサイズに合っているのが好き、合っていないのが嫌い。
食事に関しては、自分の身体の調子を良くするのが好き、悪くするのが嫌い。
住居に関しては、自分の生活に便利な家が好き、不便な家が嫌い。
このように、実在界においても心の好き嫌いの区別は成立するのである。
心の好き嫌いはあってもかまわない。
むしろ、あったほうがいい。
心の好き嫌いがあるかないかが問題なのではない。
実在を五感で見るか知覚で見るかが本質的な問題なのだ。
[763] 理性と悟性 h14.7.18
理性とは、自分の考えが知覚の原理に従っているかどうかがわかることである。
悟性とは、自分の考えが五感の経験に従っているかどうかがわかることである。
[764] 物理学 h14.7.18
物理学とは、知覚(ことば)で五感(もの)を見ることである。五感(もの)を知覚(ことば)に従属させながら見ることである。
眼で見たままの世界よりもことばで考えた世界のほうが、実在の世界に近いのだ。
物理学の対象は、眼で見たままの世界ではなく、感覚の外にある実在なのだ。
眼で見たままの世界について考えることは、物理学ではなく現象学だ。
言葉に基づいて物を理解することができる。
私の図式に基づけば人間を理解できる。
[765] 今の世の中 h14.7.18
今の世の中は私の実在哲学に全然従っていない。
だから、今の世の中はまちがっているのだ。改良しなければならない。
[766] ノーベル賞 h14.7.23
ノーベル文学賞なんかいらない。なぜなら、出版すれば印税で十分お金がもうかるからだ。ノーベル医学賞もいらない。ノーベル賞はもっとお金のもうからない分野の研究者に与えるべきだ。ノーベル数学賞なんかあったらいいな。
ノーベルさんもいい歳して自分の個人的感情に駆られて数学賞がないのも大人気ない。数学がなかったら物理だってできんだろうが。もっと社会的責任を感じて欲しい。
[767] デカルト哲学 h14.8.1
デカルトは‘脳’の概念を積極的に哲学に導入しようとした。
だから『われ考える。ゆえにわれ在り。』と言った。
私の哲学T原理と本質的には同じである。
しかし、哲学U原理がなければ人間はとらえられない。
デカルト哲学は動物の哲学にすぎない。
[768] 五感界(特に視覚界)の限界 h14.8.3
眼に見えているとわかったツモリになりやすいが、
ただ形と色が見えているだけだ。
眼ではそれしかわからない。
それ以上のことは知覚で考えなければわからない。
[769] 善と悪 h14.8.4
善悪の本質は心ではなく感覚(知覚〜五感)にある。なぜなら、心は感覚に従属するからである。
善とは感覚が知覚的なことであり、悪とは感覚が五感的なことである。
[770] 自殺のすすめ 8:55 2002/08/06
私が諸君に最後の勇気を授けよう。
崖から落ちると痛い。
でも、‘痛い’のは動物の心だ。
人間が動物の心なんぞに負けてはいけない。
[771] ヒステリーの治し方 h14.8.5
ヒステリーとは、幼児期にある特定の事象に対する五感を活動させすぎた結果、それが長期間の記憶となって残ったものである。
似た事象に再び遭遇すると五感の記憶が再活動する。
五感は現象であり実在とは違うために、実在への不適応が起こる。
そこでヒステリーを治すには、問題となっている事象を、五感ではなく知覚で見れるようにすればいい。
知覚は実在的だから、知覚で見れるようになれば実在に適応できる。
そのためには、問題の事象を五感ではなく知覚で意味付ければいい。
つまり、問題の事象に対する五感を、さらに知覚で意味付けすればいい。
問題となる事象の実体が知覚で見えるようになれば、実在に適応できるので、問題が解消されたことになる。
五感を知覚で意味付けるには、とにかく五感に対して言葉を使って知覚で考えるしかない。
[772] 色の因数分解 h14.8.6
光×視覚(脳)=色:色÷視覚(脳)=光。
人間に感覚できるのは色であって、光じたいは感覚できない。光は波動関数Ψに似ている。
光や波動関数の存在を仮定できるのが、合理主義の強みだ。
脳の存在は解剖学が明らかにした。
医学を下敷きにしてはじめて物理学が成り立つ。
自分の実体×他人の目(脳)=他人が見た自分。
他人の目が正しければ自分の実体が見え、他人の目が正しくなければ自分の実体が見えない。
[773] 知覚界⊃五感界 h14.8.6
知覚界は五感界についての論理的(言葉がはっきりした)統一的世界観だが、知覚界には時間や空気などといった五感界にはないものの存在を仮定するので、知覚界が五感界を含んでいる。すなわち、知覚界⊃五感界。
ただし、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、バスコ=ダ=ガマが世界を一周して地球が丸いことを実証したように、いまだ知らないことについては五感界⊃知覚界ということもある。
[774] 故郷の味 h14.8.6
高知の料理は味第一で、見た目にかまわない。それが高知の料理の精神[こころ]だ。包丁人味平の世界だね。ドラムカンでチャーハン。床屋のマンガで読んでた。
Mr.味っ子の世界は、料理の見た目が奇抜なだけで、味については味皇が「う・ま・い・ぞ・おー」と叫ぶけれども、しょせんは絵の世界なのでテレビを見ている者には味がわからず、本当に作って食ってみたらきっとゲロゲロの味だと思うぞ。味良良一は女みたいで嫌いだ。
但馬(兵庫県北部)の料理は味も見た目もまずくてしょうがない。
[775] 受験英語について h14.8.6
知らない単語が出たら、知らないことは諦めるしかないので、あまり単語の暗記はしなくていい。知らない単語が出たら、前後関係から単語の意味を推理すればよいのだ。
要は‘基本構文(公文[こうぶん]?)の記憶’だ。
一見複雑な英文の奥底に、自分が憶えて知っている基本構文と同じ構造があるのを見抜くことが出来ればいい。
それが見抜けたら、あとは‘基本構文’を与えられた英文に当てはめて(適用して)読解すればよいのだ。
[776] 受験数学について h14.8.6
これも英語と同様に、要は‘基本公式の記憶’だ。記憶すれば理解できる。
一見複雑な問題の奥底に、自分が憶えて知っている基本公式と同じ構造があるのを見抜いたら、解けたも同じだ。
それが見抜けたら、あとは‘基本公式’を与えられた問題に当てはめて具体的に解けばよいのだ。
[まとめ]英語でも数学でも、〈基本構造(つまり一般的構造)〉+〈特殊な条件〉=〈複雑な問題〉:〈複雑な問題〉−〈特殊条件〉=〈基本構造〉
[777] 現代社会に対する不満 h14.8.6
仕事をせんと生きていけんような世の中に生まれてきたって、だれもうれしくない。
生まれて損した。
はやく人間の代わりにロボットが仕事をする社会を作って欲しい。
1000年あとに生まれてきたらよかった。
[778] 善の心と悪の心 h14.8.7
善の心とは正しい知覚(つまり実在)に複合する心であり、悪の心とはあいまいな五感(形と色以外には意味がない)に複合する心である。
人間は本当は現象(五感界)の中に生きているのではなく実在(知覚界)の中に生きているので、善の心は肯定できるが、悪の心は肯定できない。
[779] 人間の分類 h14.8.7
善人とは感覚が知覚的な者であり、悪人とは感覚が五感的な者である。
世の中には善人と悪人の2種類の人間がいる。
善人だけとか悪人だけとかいうことはない。
自分は善人には従属し、悪人には従属しなければいい。
[780] 人間の条件 h14.8.8
人間の本質は知覚である。
就職しても、結婚しても、考えることをやめてしまってはいかん。
[781] 動物と人間の共通性 h14.8.9
『自分の心をなるべく快にし、なるべく不快にしない。』
このことは五感界においても知覚界においても成り立つ。
[782] 女のものの考え方 h14.8.13
女は一生の間現象界の中に生きている。
五感界、つまり遺伝的に受け継いだ実在観だけに基づいて反応している。
言葉になった理由がない。
それでも、下手な理由よりは当たることがある。
[783] ガンダム第12話「ジオンの脅威」を見て h14.8.13
みんなが一体、幼稚な世界観だ。
医学があるから個人に分かれる。
脳があるから感覚できる。
脳が一人一人別々であれば、感覚だってそうだ。
感覚界はその人独りだけのものだ。
自分の感覚界は自分が創る。
実在に行こうが、現象のままでいようが個人の勝手だ。
もっとも、人間は本当は実在の中に生きているのであり、
現象は実在と違うので、現象では実在に不適応になる。
感覚界の外に実在が在る。
実在の中に生きる物にとっては実在に従うしかない。
五感で見えるものを知覚で考えれば実在が見える。
実在は在る。しかし、五感で見たものとはかなり違っているのだ。
実物はこんなに楽しい色なんかついているわけがない。
[784] 終りなき道 h14.8.14
ひとつ文を書くことは、一歩前へ進むことだ。
一歩一歩積み重ねていけば遠くまで行ける。
[785] 私の夢 h14.8.20
ミンキーモモではないけれど、この私でさえ夢がある。
それは、仕事のない社会をつくることだ。
人間が仕事をせずに生きていけるようになったら人生ハッピーだ。
そのためには、奴隷を機械に置き換えればいいのだ。
残念ながら今の私には自分の夢を実現する機会はないが、それでも私は自分の夢を捨てるつもりはない。
[786] どうして私はアニメを見るのか? h14.8.20
人間は自分が思っているほど実在的ではない。
人間の感覚界は実在と現象がゴチャまぜだ。むしろ、ほとんどが現象で、一部分が改良されて実在になっているにすぎない。
人間には実在に従う心と現象に従う心の両方がある。ほとんど大部分が現象に従う心で、一部分だけが実在に従う心であるにすぎない。
だから、現象に従う心を満足させねば、人間は安定に存在できないのだ。(甘え)
[787] 守護霊よ、さらば h14.8.22
自分が生まれつき持っている実在の(に対する)イメージは、自分の両親・先祖から遺伝的に与えられたものだ。
子供のうちは生まれつき持っている実在観の(に基づいた)反応だけで生きている。喜びも悲しみも、その世界観の内にある(世界観に従属する)。
自分に遺伝的・先天的に与えられた実在観は、いわば自分にとっての守護霊のようなものだ。
自分が考えて作った知覚(界)は、先祖から与えられた実在観をのりこえる。それは、自分の先祖と縁を切ること、守護霊が自分から離れることでもある。
例えば、それが哲学第一原理にほかならない。
[788] どうして分裂病者は自分の間違いを認めようとしないのか?8.27
分裂病者は自分の五感(現象)と五感に複合する心を肯定しようとする。
だから、五感と複合する心において不快と見なされる対象に対して、これを排除するために攻撃する。
分裂病者における‘正しい’の意味は、自分の五感(=遺伝的に与えられた実在のイメージ・似姿)と合っていることにほかならない。反対に、‘まちがい’の意味は、自分の五感と合わないことである。分裂病者は自分の五感を絶対肯定しようとするから、自分の間違いを認められないのだ。つまり、本来間違いや正しさや無意味は知覚(界)における概念であり、五感(界)においてはそもそも間違いや正しさや無意味という概念が存在しないから、感覚が五感しかない分裂病者にとっては‘まちがい’とは何であるかがわからないために、自分の間違いをいつまでたっても認められないのだ。
正常者の感覚は五感から知覚へ進行するが、反対に分裂病者の感覚は知覚から五感へ退行する。分裂病者は自分の‘感覚の運動’の方向を決める意志(思想)に間違いがあって、‘感覚の運動’の方向が正常者とは向きが反対なのである。言葉(知覚)を使って考えようとする意志こそが、人間にとって必要不可欠なものである。
分裂病者は五感を肯定しようとするが、実際には五感(現象)は実在とは違っているから、五感(現象)の肯定は実在(知覚)の否定であり、実在に適応できなくなる。だから、五感を肯定しようとする者は最後には病気になる。
[789] 分裂病の治し方8.28
分裂病では五感は働くが知覚は活動しない状態になっている。
だから、知覚を活動させればいい。
そのためには、言葉を使って考えることを日常生活に取り入れればいい。
その際、他人の本を眼で見ながら書き写すのではなく、自分が頭の中で考えたことを言葉で表現することが肝心である。
これを毎日やり続ければ、そのうち治る。
[790] 女8.29
いつでも眼を大きく見開いて、黙ってただ見るだけだ。
頭の中では何も考えていない。
何も考えずにただ見るだけだ。
見て思うだけだ。
そんなことなら動物でもできる。
野蛮で下品だ。
[791] どうして私は音痴なのか?8.30
五感は現象であり、知覚は実在である。
五感はもともと真実ではないから五感では冗談が許されるが、知覚はできるかぎり真実でなければならないから知覚はつねに本気である。
五感は映像(イメージ)・絵の世界であり、知覚は概念(イデア)・言葉の世界である。
知覚はつねに真実でなければならないから、言葉を現象化してはならない。
すなわち歌は許されない。
アニメは絵だから見てもいい。
[792] ‘実在しない’ことh14.9.2
知覚は五感から時間をかけて作られるから、はじめは知覚が五感に従属するが、最後には五感が知覚に従属する。大人においては五感が知覚に従属する。
したがって、五感は知覚に従属する五感と知覚に従属しない五感とに分かれる。
つまり、知覚に従属しない五感もある。
知覚は実在だから、知覚に従属しない五感は‘実在しない’ことである。いわゆる、‘ありえない’ことである。
そういう五感は‘実在しない’こととして楽しめばいい。
例えば、アニメやゲームの世界には‘実在しない’けど楽しいことがいっぱいある。
[793] 4次元空間9.5
自分が住んでいるのは、時間のない3次元空間ではなく、時間のある4次元空間である。
自分が生まれる前も死んだ後も、自分はこの宇宙に存在している。
ただ感覚の発生が自分の生存中にしかないということだ。
[794] 私はなぜ笑わないのか?9.7
お前ら(≡私以外の大部分の人間)が笑うのは、現象か空想の喜びのときだけやろうが。
現象や空想の喜びは実在の喜びに較べてくだらない。非人間的だ。
私の感性(≡感覚の性質)が知覚的で実在的であるために、私は実在の喜びでしか笑わないのだ。
[795] 私と同じことを考えた人々 h14.9.10
私が哲学日記でこれまで書いて来た文を、私は他人の書いた本の中で見たことがない。ただ、昔NHK教育でやっていたYOU(司会:糸井重里)という番組の中で、ある一人の若者が「自分の認識していることは、自分の頭(脳)でやっていると考えたらいい。」と訴えているのを見ただけだ。これはまさしく私の実在哲学第一原理と同じであり、デカルト哲学の原理でもある。
デカルト哲学の原理は「われ考えるゆえにわれ在り」だが、この意味は、「人間の思考はすべて人間の‘脳’において行われる」ということだ。つまり、人間は自分の脳においてしか認識する(感覚する)ことができない。自分の脳がなくなれば、自分の認識もまた消えてなくなる。今、自分に見えているものは、自分の脳において生じている像であって、対象自体ではない。したがって、自分が考える自分自身の姿もまた自分の‘脳’の所産(はたらきによって生まれたもの)にほかならない。
今日びでは、「人間が‘脳’で認識する」ことは、もはやあまりにも常識と化してしまっているが、このことは近代ではデカルトが最初に考え出したことなのである。
[796] 文化と文明9.10
もの(五感的イメージ)をことば(知覚的イデア)にすることが文化(つまり文に化えること)であり、逆にことばをものにすることが文明(つまり文を眼で見えるように明らかにすること)である。
文化あっての文明であり、文化なくしては文明もまたないのだ。
[797] “日本の政治家はダメ人間”h14.9.11
今の日本の政治家に自分の人生を管理させても、自分が“人間らしく”生きて行けるとは思えない。
それはそもそも今の日本の政治家たちがダメ人間(人間をやめた動物)だからである。
そいつらに管理させると、人間が悪くなるだけだ。人間が動物に変えられる。
私は他人に管理されるのがいやだから、自分で自分を管理することにしたのだ。
管理そのものが悪いのではない。
悪人が管理すると社会全体が悪くなり、善人が管理すると社会が善くなる。
ただそれだけだ。
[798] “英語と数学の類似点”h14.9.12
英語でひとつひとつの単語(例、boy,pen,…)の意味がわからなければ英文全体の意味がわからないように、数学でもひとつひとつの数学記号(例、0,1,∫,…)の意味がわからなければ数式全体の意味がわからない。ただし、英単語の意味の多くが五感のイメージの世界の中にあるのに対し、数学記号の意味は知覚のイデアの世界の中にある点が違っている。
数学の問題を解くのに、数学の問題に公式(定理)を適用して解くように、英文の読解にも、英語の問題文に構文(公文?)を適用して読解する。
このように、数学と英語とは見かけが違うだけで、やっていることは同じである。
[799] “ことばの意味”h14.9.12
ことばは五感のイメージや知覚のイデアの表現であって、ことば自体は無意味である。
ことばとイメージやイデアとを‘対応づける’ことによって、はじめてことばが意味を持つ。
[800] “実在”h14.9.12
眼(大脳皮質視覚野)で見えている世界は現象であって実在ではない。
ことば(ことばの実体としてのイデア)で考えている世界が実在の世界である。
つまり、実在の世界とは、物理学でいう電子・陽子・中性子・光子などの素粒子と、実在哲学でいう五感・知覚・感情などの感覚子から成る世界である。感覚子も素粒子の一種(つまり、感覚という‘量’を荷う素粒子)であるから、この世はすべて物質から成ると言える。
哲学第一原理が物質としての脳細胞と(精神としての)感覚子とを結び付ける。
実在哲学において物理学と哲学が統一される。
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