[6801] ウサギかカモか? h21.3.16
私が九大医学部教養部学生の頃(私が21歳の頃)、『科学哲学』の講義で講師の先生(高橋という姓だったと思う)が
を見せて、学生に「何に見えるか?」と尋ねたことがある。
ウサギにも見えるし、カモにも見えるので、講師の先生は“カモウサギ”と呼んでいた。
神武天皇の話もカモウサギのように、平和の話とも戦争の話とも取れる。
あなたは、この絵が何に見えるだろうか?
老婆に見えるだろうか?それとも、若い娘に見えるだろうか?
[6802] どうして乞食が王様になったか? h21.3.16
日本の神武天皇の話は平和の話とも戦争の話とも取れる。
同じように、西洋のキリストの話は乞食の話とも王様の話とも取れる。
つまり、キリストの話は、他人を幸福にするために自分が貧しい乞食になった男の話とも取れるし、
大衆に人間としての正しい道を教えて導いて大衆の頂点に立った偉大な王様になった男の話とも取れる。
同じ話でも解釈によって意味がかなり違ってくる。
これが物語り方式の困ったところだ。
自分が言いたいことをズバリ言わずに、物語にして遠回りに話すから、何を言いたいのかわからなくなるのだ。
日本神道が明治時代に神武天皇の話の解釈を変えて日本の軍事化に利用したように、ヨーロッパでも中世の頃にキリスト教会がキリストの話の解釈を変えてヨーロッパの王制化に利用したのだろう。
[6803] どうしてソビエトは倒れたか? h21.3.16
ソビエトは、最初の頃は政府が会社の社長の代わりを務めて、国中の会社の儲けを国民に平等に分配する国だったが、
最終的には、政府が絶対権力を得て国民に対して何でもできる国になった。結局、政府高官も社長と同じようにただの金持ち馬鹿になってしまった。
それで政府が国民の反感を買って国民に倒されたのだ。
何についても途中で解釈を変えるのはいけない。先人の苦労を踏みにじってはいけない。せっかくできたいい物をふざけた気持ちで台なしにしてはいけない。
『初心忘るべからず』だ。
[6804] どうして政治家は宗教家の言いなりなのか? h21.3.16
日本の宗教家の神は、架空の神武天皇や実在の私などである。
しかし、今の日本の政治家の神は日本国憲法(特に前文)である。
だから、政治家が宗教家に従わなければならないことはない。
[6805] 宗教家とは何か? h21.3.16
宗教家はすでに実現してしまった古臭い理念を持った政治家である。
居ても悪くはないが、強いて居る必要はない。
一方、政治家はいまだ実現されていない新しい理念を持ってその実現を目指して政治をしている。
いくら宗教家が政治家に仕事を取られて暇になったからといって、
宗教家が宗教を誤解して余計なまちがったことをするくらいなら、いっそいなくなったほうがいい。
日本の政治家がすでに日本国憲法前文が実現されてしまってやることがなくて暇だというなら、
今の日本社会に内在する問題を自分で見つけて、その解決に向けて励[はげ]んでもらいたい。
政治家が宗教家のようになってはいけない。政治家が日本国憲法を曲解して余計なまちがったことをやってはいけない。
[私はテレビをあまり見ないから、政治家に対する敬意など一切抱[だ]いていない。]
[6806] ニーチェの勘違い h21.3.16
ニーチェはキリストを倫理学の偉人だと勘違いしていた。キリストを実在の人物だと勘違いしていた。
しかし、それなら、なぜヨーロッパ中にキリストの教会は建っているのに、プラトンの教会やデカルトの教会は一軒も建っていないかについて考えてもらいたい。
この矛盾を解決せずに、いくら超人を考えても無駄だ。
どうして昔の教会は質素な雰囲気なのに、最近の教会はトゲトゲしていてケバケバしい雰囲気なのかについても考えてもらいたい。[答えは、[6802]を参照。]
考えが実際と合わないのは、その考えがまちがっているからである。それなら、実際と合うまで考えを直さなければならない。
『神は死んだ。』欲深い宗教家がキリストの話の解釈を変えて、キリストを“王制の神”にして殺してしまったのだ。王制が滅んだからキリストもいっしょに死んでしまったのだ。宗教家が物語の意味をいじりまわすのがいけないが、そもそも『国家計画』を物語形式で述べることがいけないのだ。
[6807] 新しい宗教 h21.3.16
宗教とは、社会を革命することである。
これからの宗教は、カール=マルクスのような新しい『理想の国家像』を思いついた天才社会学者が、レーニンのような有能な助手を得て、多くの国民の賛同の下[もと]になされるであろう。
旧来の宗教は、自分達の『理想の国家像』の実現しかたが足りない今の政府に不満を垂[た]れるだけだ。
つまり、宗教とは社会運動に参加することである。今の政府に不満のある者同志が集まって、プラカードを持って座り込んだり、火炎ビンを投げつけて抵抗したりするようなものである。
宗教では、憲法とする『物語』が一意的に書かれていないために読み手が自分にとって都合のいい意味に取りやすく、多くの賛同者を集めることができる。今の宗教家がそれぞれの『物語』をどんな意味に解釈しているのかは、一般の信者にとってはわからない。
[6808] 王制はキリスト教の宗教家が作った。 h21.3.17
16世紀までは、キリスト教の宗教家が真面目に古くからある聖書の解釈に則[のっと]っていたので、キリストは福祉の神だった。そのために、ヨーロッパでは、16世紀までは地方分権の時代だった。
16世紀から18世紀頃までは、キリスト教の宗教家が聖書の解釈を変えて、キリストは王制の神になった。そのために、ヨーロッパでは、16世紀から18世紀頃まで中央集権の王制の時代だった。
それは、キリスト教会が儲けたいからであった。[宗教家も人間ですからな。]
しかし、王制の時代も長くなく、王制が滅びるとキリストはもとの乞食に戻ったのである。
日本でも、明治維新のときに、日本神道の宗教家が神武天皇の話の解釈を変えて、神武天皇はそれまでの平和の神から戦争の神に変えられた。[武家社会以前は日本神道が日本を支配していたのであり、江戸幕府が倒されたので、しばらく休んでいた日本神道が活動を再開したわけである。明治になって日本神道がドイツから憲法を輸入して日本政府を作った。だから、日本政府は日本神道の従属機関である。]
それもまた、日本神道が日本を軍国国家にして儲けたいからであった。
しかし、第2次世界大戦で日本は負けて、神武天皇はもとの平和の神に戻った。神も慣れないことをするものではない。
このように、洋の東西を問わず、宗教家が世界を動かしているといえる。
しかし、世界は人類みんなのものであり、宗教家だけのものではない。
最近の宗教家は自分のことだけしか考えないから、人類がいくら宗教家に従っても幸福にはなれない。
最近の宗教家は宗教をお金儲けの手段としか思っていない。だから、人類が宗教家に従っても、自分が損をするだけだ。
最近になって、宗教家の体質が変わったのは、昔の宗教の理念(『理想の国家像』)が崇高[すうこう]すぎて、全然お金が儲からないからである。世の中がお金で動いているのに、宗教だけがお金で動いていないので、真面目に宗教をやるのが嫌になったのだ。その反動で、お金儲けのことしか考えなくなったのだ。
人類は宗教家に従うほうが幸福だろうか?それとも従わないほうが幸福だろうか?
宗教家も、もとをただせば一介[いっかい]の社会学者にすぎない。マルクスの革命が失敗に終わったように、宗教家の独断による革命(例えば、王制や軍事主義や超能力者制度など)では成功しないだろう。宗教家に頼らずに、民主主義で決めたほうが安全確実だと思う。これまでの宗教による革命が[部分的に]成功したのは、そもそも民主主義で決めたことだからであって、宗教家が決めたことだからではない。つまり、ヨーロッパのキリスト教や日本の日本神道が成長したのは、キリスト教の『福祉主義』や神武天皇の『平和主義』に大勢の人々が賛同したからであって、宗教家に従いたいからではない。[お宮の鳥居は、平和の“平”である。]それなのに、宗教団体が大きくなったからといって、急にキリストや神武天皇の話の解釈を変えて宗教を“王主義”や“戦争主義”や“超能力者主義”などに変えるのは、宗教家が信者を自分のために利用しているだけである。[[6746] どうして神の入れ替えはいけないのか? h21.3.11を参照。]宗教家が宗教の主義を変えることは、別の宗教を始めることにほかならず、信者の了解を得ずに宗教家が勝手にやっていいことではない。
[6809] 『母をたずねて三千里』 h21.3.17
マルコ・ロッシの父親のピエトロ・ロッシの経営する『貧しい病院』が福祉主義だった頃の教会のことだ。
宗教団体がみんなに人気があるということは、それだけみんなが得をして宗教団体が損をするということである。
そのために、宗教団体に寄付をしてくれる者も大勢いた。それが、マルコの母アンナ・ロッシである。
後世その寄付金を悪用して、宗教の主義を変えて自分が一儲けしようとたくらむ宗教家が現れた。それがフランシスコ・メレッリである。
[6810] どうして江戸幕府は仏教と儒教を採用したか? h21.3.17
日本神道は平和主義だったので、武力主義の徳川家としては日本神道を採用できなかったのである。
それで、江戸時代には日本神道の埋め合わせに儒教を入れて、インドの仏教と中国の儒教を足し合わせて日本の憲法として使っていたのである。
薫的和尚[くんてきおしょう]が山内家の家庭教師をしていたのもそのためである。
長曽我部[ちょうそかべ]は山内家の前の高知の支配者である。長宗我部氏は日本神道の息がかかったものだったのだろう。
私が高知学芸中学2〜3年生の頃に、生物学の増田[ますだ]先生が授業中に曽我部君のことを「長がない」と言ったのは、『この世には“超”能力者はいない』と言いたかったのだろう。
日本神道が明治時代に神武天皇の話の解釈を変えて平和主義から戦争主義に転じたのは、江戸時代に徳川家に負けたとき、『現代は力の時代だ』と思ったからだろう。
[6811] 神武天皇は超能力者か? h21.3.17
キリストも釈迦も自分が超能力者である。
しかし、神武天皇の超能力?は天に助けてもらったことである。超能力者は天であって神武天皇ではない。天が神武天皇がピンチのときに力を貸してくれたのである。日本の神観とはそういうものである。だから、神武天皇自身は超能力者ではない。神は天であって、神武天皇はあくまでも人間である。
だから、日本神道が超能力者制をやるのがそもそもおかしい。
[6812] 宗教の昔と今☆ h21.3.17
宗教がみんなのためにあったのは中世までである。その頃は、みんなが得をして宗教家が損をしていたので、宗教はみんなに人気があった。
しかし、今はその反対である。近代以降は、宗教が宗教家のためにあるようになった。今では、宗教家が得をしてみんなが損をするだけなので、宗教は人気がない。[宗教家がお金儲けをするようになったのは、産業革命以降みんながお金持ちになっているのに、自分だけがいつまでも乞食同然の貧乏暮らしをしなければならないのが嫌だったからである。]
昔の宗教と今の宗教は名前は同じでも、中身が違うのだ。
[6813] 日本神道の利点 h21.3.17
キリスト教は、キリストの名前を使っているので、神の取替えが利[き]かない。
しかし、日本神道は神武天皇教とは言わず、神武天皇の名前を使っていないので、日本国内の神であるかぎり神の取替えが利くのである。
[6814] 今の日本神道の宗教家は人の心を踏みにじる悪人である。 h21.3.17
昔の日本神道は平和や福祉の機関だったので、宗教家は貧しかった。
日本神道に人々がお金を恵んでくれたのは、日本神道の平和主義や福祉主義に自分も協力したいと思ったからである。
けっしてそのお金で戦争したり超能力者制度をするためではない。
今の宗教家は自分のお金儲けのことしか考えていない。そんな者はもはや宗教家ではない。
[6815] 今の日本政府に税金を払う必要があるか? h21.3.17
日本政府は日本神道の従属機関である。日本政府は日本神道の命令のままに動いている。
今の日本神道の主義は超能力者制度である。だから、今の日本政府はくだらない超能力者制度(つまり、超能力者かもしれない者の個人情報を必ず混ぜた政令を作らなければならない制度のこと。情報が足らない場合には、超能力者かもしれない者の承認を得なければならない(足りない情報を超能力者かもしれない者に見せなければならない)。)をやるための機関である。平和のための機関でも福祉のための機関でもない。
だから、日本神道が滅びるか日本神道が宗教のやり方を変えないかぎり、日本国民が日本神道や日本政府に寄付金を恵んでやる必要はない。
[6816] 日本政府は要らない。 h21.3.17
民主主義はやらなくても、王制をやらなければ自然に民主主義になる。
平和主義はやらなくても、戦争をしなければ平和になる。
宗教家がまず世界観を決めて、政治家がそれを実現する。それが今の世の中の仕組みである。[国会議事堂の正面入り口の2階が宗教家の部屋で、1階が政治家の部屋だと思えばいい。3階はあってないようなものだから、架空の神の部屋である。]
それで、今の政治家は宗教家に命じられて要らないことばかりやっている。
宗教家の超能力者制度がそもそもまちがっているし、政治家は宗教家のまちがった理念を実現するために下手な企画を立てるから失敗続きで無駄なお金がかかるのだ。
Wikipedia「国会議事堂」より。
[6817] 宗教とは何か?☆ h21.3.17
宗教とは、少数の宗教家の独断と偏見で社会を動かすことである。つまり、宗教とは、宗教家による独裁制の政治である。[昔の宗教は国民全員による民主主義だったが、今の宗教は宗教家だけによる独裁制である。]
しかし、少数の人間の頭だけでは考えることがしれているから、そんなやり方ではまず成功しない。
ミツバチやアリが一匹だけでは脳が小さくて正しいことが考えられなくて弱いのに、集団になると一匹一匹の考えが足し合わされ掛け合わされて正しく考えられるようになって強くなるように、人間社会も国民全体の考えで動くことによって正しく考えられるようになって強くなる。
社会は一部の宗教家の判断だけで動かすべきではなく、国民全体の考えで動かすべきである。
つまり、近代社会は民主主義でなければならない。
だから、宗教はまちがった制度である。
[6818] 憲法改正 h21.3.17
今の憲法には憲法改正の手続きが述べられているが、
昔の憲法つまり聖書や神武天皇の話などの物語には憲法改正の手続きが述べられていない。
それは、昔の憲法が、改正されないことを前提にして書かれていたからである。
だから、最初に憲法が書かれた頃の解釈を後世になって変えてはいけない。
どうしても憲法を改正したければ、旧約聖書に対する新約聖書のように、新たに憲法を書き起こすしかない。
[6819] 焚書坑儒 h21.3.17
焚書坑儒とは、日本神道の行政機関である明治政府が仏教や儒教の本を焼いたり仏教や儒教の布教や研究を禁止したことである。
それは、日本神道にとってはその他の宗教がまちがいだったからである。[軍国主義である日本神道にとっては、個人主義の仏教や仁義主義(他人を愛したり正しい行いを守ること)の儒教が邪魔だったからである。]
それと同じように、近代民主主義にとっては超能力者制度はまちがいだから、超能力者制度の産物(私の個人情報を混ぜた政令やアニメや映画や書物や製品など)は早くこの世からなくさなければならない。
[6820] 宗教は儲からない。 h21.3.18
宗教は、みんなのためになることをすることである。
だから、みんなが得をする分、宗教家が損をする。
だから、宗教は儲からない。
もっとも、悪い宗教では、宗教家が自分のためになることしかしないから、宗教家が得をする分、みんなが損をする。
[6821] 政治家はどうしてお金持ちなのか? h21.3.18
宗教家は、神話に基づいて世界観を決定する。
政治家は、宗教家の世界観を具体的に実現する。
つまり、政治家は宗教家の下請[したう]けであり、日本神道の一員である。日本神道の幹部である。
今の政治家がお金持ちなのは、日本神道が悪い宗教だからである。
日本神道が日本人から税金を取るだけで、日本人のためになることを何もしていないから日本神道はお金持ちなのである。
日本神道の幹部になるのは大変かもしれない。しかし、日本神道はいい宗教ではない。
[6822] 第3の解釈 h21.3.18
今の宗教はキリスト教も日本神道も、信者からお金を取るだけで信者のためになることは何もしない。
だから、今のキリスト教や日本神道の神は、信者からお金を取るだけで何も仕事をしない“ぐうたらな神”である。
聖書のキリストの話や日本神道の神武天皇の話は、解釈によっては“自分が好きなことだけしてまともな仕事をせずにぶらぶら遊んで暮らしていた神”だともいえる。[カルバンの職業倫理説が出る前のキリスト教にその傾向がある。]
だから、今の政治家は、その解釈に従って、自分たちが国民のために仕事をせずに遊んで暮らしているのである。国民のためになることをしないから、国民から集めたお金が貯まってお金持ちなのである。
宗教は世界を作ることである。だから、仕事をしないことは政治家だけではなく国民にも適用されるはずである。だから、国民は“週休二日制”で働くことになっているのである。昔に比べると、今の国民は仕事をせずに遊ぶようになった。[国家宗教では、国民も信者も同じである。日本では日本神道が国家宗教なので、日本国民と日本神道の信者は同じことである。/ヨーロッパで昼食の時間が長いのは、キリストが“ぐうたらな神”だからである。]
他にも神話(神の物語)の解釈はありそうである。神話の意味は、相対性(同じ言葉でも読み手の解釈によって意味が変わってくること)があり不確定性(言葉の意味が一意的ではないこと)があるのだ。
[6823] カルバンの職業倫理説 h21.3.18
キリストの仕事は布教だから、神であるキリストは熱心に自分の仕事をしたともいえる。
だから、自分の仕事を一生懸命することも神の神話に適[かな]ったことすなわち宗教だといえる。
聖書(キリストの神話)の解釈にはいろいろあり、そのためにヨーロッパのキリスト教はいろんな細かい宗派に分かれているのである。聖書の解釈の数だけ宗派があるのだ。
日本の仏教が、仏典(釈迦の神話)の解釈によっていろんな細かい宗派に分かれているのと同じことである。
キリスト教や仏教のちがう派の間では戦争が起こることさえある。
そもそもは、神話がルーズに書かれているために、解釈によっていろんな意味があることがいけないのだ。ガリレイが『自然は数学の言葉で書かれている』と言ったように、言葉は本来実在する事物のように、解釈によって左右されず一つの意味しかないように書くべきである。
神話がルーズに書かれているのは、[神が架空の人物であり]神話が架空の作り話だからである。だから、実在する事物のように一意的には書けなかったのだ。
[6824] 古事記と日本書紀 h21.3.18
キリスト教に聖書があるように、日本神道には古事記と日本書紀という2冊の有名な書物がある。
日本神道は日本初期には乞食のように貧しかった。つまり、日本神道も最初の頃は経営の苦しい貧しい福祉施設だった。それは、その頃はまだ神武天皇が日本を平定した一介[いっかい]の田舎者にすぎなかったからである。
途中から、古事記や日本書紀に載っている神武天皇の話の解釈を変えて、神武天皇を日本の王にしたから、日本が天皇家を王とする中央集権制の国家になって日本神道がリッチになったのである。
[6825] 神武天皇は王ではない。 h21.3.18
古事記には、神武天皇が王になるまでに日本各地の豪族を倒したことが書かれているだけで、
神武天皇が王になってからやったことは何も書かれていない。
古事記が言いたかったことは、神武天皇が日本を統一国家にしたことであって、王としての神武天皇の活躍ではない。
だから、神武天皇は日本の王ではない。
[6826] 靖国[やすくに]神社 h21.3.18
靖国とは青を立てた国のことである。
青は青空の青であり平和の象徴である。
つまり、靖国とは平和な国のことである。
だから、靖国神社に参拝することは、日本が平和な国であることを願うことなのである。
[6827] 徳川家康は日本神道の宗教家? h21.3.18
徳川家康は、神武天皇の話を“軍事力で日本を征服した者”の話だと考えた。
それで、自分も神武天皇と同じことをして武力で日本を征服したのである。
あるいは、神武天皇の話を武力で日本を征服した者の話だと考えた宗教家の指示に従って、それを演じた役者だったのかもしれない。
つまり、徳川家が江戸から天皇を京都に追い出したのは、同じ日本神道内での戦争派と平和派による内輪[うちわ]もめだったのだ。
[6828] 宗教家には権威がない。 h21.3.18
権威とは人気である。
宗教家は今でも自分に絶大な権威があると思っているらしいが、その権威の源は宗教がまだ『福祉施設』だった頃の宗教に対する大勢の国民の支持にある。[昔の宗教が『福祉施設』だったことは、中世の教会の建物やお寺やお宮の社[やしろ]に表れている。]けっして、神話や宗教家自身に権威があるのではない。
しかし、今は宗教がたんに“宗教家のお金儲けの施設”と化してしまっているから、今は宗教を支持する国民もなく、宗教家には権威がない。
昔と今とは違うのだ。
物体の運動には『慣性の法則』があるが、権威には『慣性の法則』がない。
いつまでも、昔の権威のままでいるわけではない。
宗教家の権威の強さは、その時代における宗教家に対する国民の人気で決まる。
[6829] 宗教は福祉施設である。 h21.3.18
宗教の仕事は『社会福祉』である。貧しい者や病んだ者に施[ほどこ]しを与えることである。[今でも、平和使節の仕事とはそんなものである。]
神話に基づいて世界を動かすことではない。
宗教家が勝手に仕事の内容を変えてはいけない。
[6830] 神武天皇はどうして生まれたか? h21.3.18
神武天皇はもともと日本社会福祉同盟の会長だった。
日本社会福祉同盟は大勢の国民に支持されて急速に成長し大きな会社になったので、それを記念して会長の伝記を作ることにした。
しかし、ただの会長の伝記では面白くないので、福祉の精神に則[のっと]りみんなが聞いて楽しめるようなおとぎ話にした。
会長が無一文の裸一貫から身を起こして幾多[いくた]の試練を乗り越えて最後には日本の頂点に立つ偉大な人物になっためでたい出世話にしたのである。さらには、会長がマンガのスーパーマンのように何でもできる超能力を使えるようにもした。
日本社会福祉同盟は最初の頃はみんなのためになることをするいい会社だったが、後世の宗教家がそのおとぎ話(会長の伝記)を世界を動かすために利用するようになり宗教家が自分の私腹を肥やす悪い会社になったのである。[葦プロアニメ『魔法のエンジェル
スイートミント』第14話「木馬がくれたおもいで 」に登場する“ジョーンズじいさんの公園”が宗教のことだ。ラルフ=アダムスが今の宗教家だ。スイートミントみたいな女の子がいたらいいなと思っても、現実にはいない。アニメとは絵で“言いたいこと”を伝えることである。だから、言いたいことがわからなければならないのだ。]
[6831] 国会議員はブタにも劣る。 h21.3.18
昔の日本神道は、国民のためになることをしようとして、貧乏で経営に苦しかった。
昔の日本神道は、ただで食べらせてくれる食堂であり、ただで治してくれる病院だった。[ただで食事をさせたり病気を治したりする代わりに、会長のおとぎ話を聞かせたのである。]
しかし、今の日本神道は、国民から税金を取るだけで、国民のためになることは何もしない。
今の国会議員はただじーっと椅子に座っているだけで国民のためにはちっとも働こうとしない。[日本政府は日本神道の実行機関である。]
国家議員はブタにも劣る。
[6832] モーゼ教 h21.3.18
昔の教会は、貧しい奴隷に食べ物を与えたり、貧しい奴隷の病気を治したりする機関だった。
それで、貧しい奴隷の人気を得て教会が急速に成長したのである。
最初に教会を始めた会長の功績を讃[たた]えて、モーゼのおとぎ話を作ったのである。
しかし、西暦0年頃になると、貧しい奴隷がいなくなったので、教会は新しい客層に対応するために経営の方針を大きく変更した。そのために、新しくキリストの話を作ったのである。
[6833] 貧乏人の店 h21.3.18
キリスト教も仏教も日本神道も、貧乏人の店である。奴隷や乞食のために、ただで食事を与えたり病気を治したりする店である。
昔は貧乏人が多かったから、貧乏人の店が大繁盛して全国の至る所に支店ができて国を牛耳るまでの大企業になった。
しかし、最近はみんなが裕福になったので、店が売れなくなリ、経営が苦しくなった。
それで、赤字経営の埋め合わせに、神話(会長の伝記)に拠[よ]ったつまらない理由をつけて逆にみんなからお金を取るようになったのである。
しかしながら、今でも世の中には貧乏人が大勢いるから、貧乏人の店はまだお客に困るほどではないはずである。
余計な超能力者制度をやる余裕なんかあるのだろうか?
[6834] 音楽とは何か? h21.3.18
音楽とは、音で“言いたいこと”を伝えることである。
だから、言いたいことがわかればいいのだ。
[6835] どうして宗教が出来たか? h21.3.18
貧乏人なんか死んでしまえばいい。馬鹿な貧乏人がいなくなれば国はよくなる。
その考えは、正しい。
しかし、それはあくまでも理想論である。[テストで百点満点取るほうがむしろ例外なのが現実だ。]
世の中はそれほど簡単にはいかない。
実際に、貧民の救済施設として宗教が出来た。
将来、文明が進歩してこの世から貧乏人が完全にいなくなれば宗教は消滅するだろうが、それまでの間は宗教にしっかり働いてもらわなければならないのだ。
[6836] 日本神道と日本政府の関係 h21.3.18
日本神道は日本政府の生みの親である。
本来、日本神道は社会福祉の機関であり、日本政府は日本神道の実行機関である。
しかし、現代では政府の仕事は福祉だけにはとどまらない。
だから、今では日本神道は日本政府の一部となっている。厚生労働省に入るだろう。
[6837] マスコットキャラクター h21.3.18
今の野球の球団やサッカーチームに専属のマスコットキャラクターがいるように、
昔の宗教団体もそれぞれの団体を象徴するマスコットキャラクターを作っていた。
おまけに、マスコットキャラクターにはお話まで付いていた。
それが、神と神話である。
例えば、モーゼと旧約聖書、キリストと新約聖書、神武天皇と古事記などである。
宗教団体のイメージアップと売り上げ増加のために架空の人物とその物語を作ったのだ。
福祉に対する捉[とら]えかたの違いによって、それぞれの国でちがったキャラクターが生まれたのである。
神や神話に権威があったのは、人々が宗教の福祉施設を絶大に支持したからである。けっして、架空のキャラクターである神や架空の作り話である神話自体に権威があったからではない。つまり、宗教とは福祉主義であって、神話主義ではない。
[6838] どうして中国に神がいないのか? h21.3.19
昔の中国にも、飢えた貧乏人が大勢いたはずである。
だから、中国にも何らかの福祉施設があったはずである。
しかし、中国には古くから民衆を軍事力で支配した政府があり、国が福祉施設を作ったので、神話が作られなかったのである。
他の国では福祉施設が民間から発生したために、規制がゆるかったので、自分達で好き勝手に神話を作ることができたのである。
それに、最近まで中国は外国の文化を受け入れず、独自の文化を誇[ほこ]っていたので、日本やインドのようにヨーロッパの宗教のやり方を真似たりしなかったのである。[いくら昔でも、100年かければ地球の裏側まで情報が伝わるものである。(ただし、鎖国の場合は除く。)]
[6839] 超能力者制度は宗教ではない。 h21.3.19
宗教家とは聖典を解釈する者である。[聖典とは、キリスト教の聖書や日本神道の古事記のように神話が書かれている本のことである。]宗教家は、聖典がみんなに正しい書物とされているので、聖典をどんなに解釈しても正しいと思っているのである。[つまり、権威とは正しいことである。昔は権威とはみんなにいいと思われることだったが、最近は科学のせいで正しいことになったのである。]
ところが、聖典は無条件に正しい書物とはいえない。
例えば、超能力者制度は神話に超能力の記述があることから出来た制度であるが、神話に超能力の記述があるのは、昔は馬鹿な貧乏人が宗教の主[おも]な客層だったのであり、超能力が馬鹿に受けるギャグだったために神話に採用されたからであって、宗教が超能力者の存在を認めていたからではない。したがって、超能力者制度は宗教ではない。[当時の貧乏人も、超能力の話になったとき『そんなこと現実にはないわ!』と心の中で思いながら話を聞いていたに違いない。]
聖典は正しく解釈したときにはじめて正しい意味になるのであって、それ以外のときには正しくない。だから、字義通りに解釈していいわけではない。
そもそも聖典が正しいとされたのは、大勢の人々が福祉主義の宗教を支持したためであって、聖典自体が正しいわけではない。だから、宗教家が聖典の意味を曲解するようになり大勢の人々が宗教を支持しなくなった今では、もはや聖典は正しくないのである。
[6840] キリストは働き者か怠け者か? h21.3.19
聖書は読みようによっては、キリストが働き者だったり、怠け者だったりする。
そういう場合には、聖書にはそもそもどちらも書いていないと考えればいい。
原典には書いていないことだから、どちらにも取れるのである。
ただ言えるのは、キリストが愛(福祉)の人だったことである。
つまり、キリストが働き者とか怠け者とかは、読み手が自分で付け加えたことなのである。
神武天皇の場合には、神武天皇の話だけでは神武天皇が平和の人とも戦争の人とも取れるから、どちらも書いていないと言っていい。しかし、お宮の形から、神武天皇はじつは平和の人であったとわかるのである。
[6841] 鳥居の意味 h21.3.19
鳥居は形が平和の平の字に似ているから平和を願うことだが、
神武天皇の弓先に火の鳥がとまって願いを叶えることができたので、幸運を願うことでもある。
鳥居は平和と幸運のシンボルなのだ。
[6842] 言葉だけでは足りない。 h21.3.19
言葉は言いたいことを伝える道具である。
だから、言いたいことを理解しなければならない。
言いたいことを正確に理解するためには、文献だけでは不十分で、他の史料も合わせて考慮しなければならない。[いくらピラミッドだけを見ていても、ピラミッドが何のために建てられたのかわからないようなものである。ピラミッドが建てられた当時のエジプト人の思想を知らないかぎり、ピラミッドが何のために建てられたのかはわからない。吉村作治教授の話では、ピラミッドはエジプトの王様が永遠に生きるために建てたのだそうだ。]
例えば、神武天皇を古事記の文献だけから戦争の神とすることは誤解であり、お宮の雰囲気から平和の神と解釈するのが正しいことになる。神武天皇は争いが絶えなかった日本各地の豪族を平定して、日本を統一して争いのない平和な国にした神なのである。
そもそも聖典は、宗教団体が自分達のイメージアップのために作った話であって、正しいことが書いてある本ではない。だから、聖典に拠[よ]ったからといって実行していいことにはならない。
また、神の定義を不思議なことが近くで起きた人と解釈するのは、文献から帰納された定義だが、その定義では私だけが神とされることに矛盾がある。これまでも私以外にも神がたくさんいなければならないはずである。神が実在の人物だとすると、極少数の者だけしか神になっていないのは、神の定義にその他の条件もあるからだと考えねばならない。その他の条件は、文献以外のことから推測されねばならないが、私がこれまで考えてきたことによると、神は宗教団体が自分達のイメージアップのために作ったマスコットキャラクターなのであり、マスコットキャラクターに関する話は空想の作り話であり、不思議なことは話を盛り上げるための演出にすぎないから、神の定義は不思議なことが近くで起きた人ではないのである。だから、私を神とすることは当たらない。文献以外の史料を考えに入れると、そもそも宗教とは『社会福祉』をすることであって、王制をやったり、戦争をやったり、超能力者制度をやったりすることではない。
近代になって客層が変化して宗教が商売がやりにくくなったのなら、紀元0年頃に新約聖書を書いたように、また新しい聖典(続新約聖書?)を書くべきである。そうしないのは、宗教家の怠慢である。
[6843] 法律も福祉である。 h21.3.19
法律は弱い者を守るためにあるから、福祉の一種である。
だから、日本神道が日本政府の生みの親というのも頷[うなず]ける。
しかし、日本政府の仕事は今や弱い者を守ることだけではないから、逆に日本神道が日本政府に飲み込まれてその一部になってしまったのだ。
[6844] 集団としての生物 h21.3.19
生物は個体ではなく集団として捉えるべきである。[数学の群論において、代数的に閉じた集合を一つの“数”[かず]と見なすようなものである。]
個体は集団の一部分である。
生物は集団として生き残り、集団として進化すればいいのである。
例えば、男と女では役割りを分担している。
男が頭がよくて女が眼がいいのはそのためである。
だから、女が頭が悪いとか男が眼が悪いとか言っていがみ合っても仕方がない。
現代においては、男が正しく考えなかったら男の取り柄[とりえ]がないのではないだろうか?
[6845] 宗教と科学は対立しない。 h21.3.19
宗教とは曖昧に考えることではない。
宗教の本質は『社会福祉』である。
だから、社会福祉のために科学を使うこともあるから、宗教と科学は対立するものではない。
中世の教会において、論理的教育がなされなかったのは、聖書の記述を鵜呑[うの]みにした誤りである。
宗教家が自分が本ばかり読んでいるほうが楽だからと言って、聖典主義に陥ったためだ。
いくら本ばかり読むとは言っても、その他の教養が足りなくていいわけではない。
[6846] どうして宗教団体はイメージアップしなければならなかったか? h21.3.19
昔の宗教は社会福祉だったので、宗教団体は貧乏で、宗教団体の建物はとにかくオンボロだった。汚くて臭かった。
だから、せめて言葉の上だけでも印象をよくしようとして、美しい言葉の世界を作り上げたのである。
本来宗教は困っている人を助けるためにある。[宗教は、弱い者の味方である。]
いくら自分達自身が困っているからといって、自分達のために宗教を利用してはいけない。
[6847] 聖典の利用に関する制限事項 h21.3.19
神は人類の貧しさが生み出した架空のマスコットキャラクターである。
聖典は教団のイメージアップのために作られた架空の作り話である。
だから、聖典を教団のイメージアップ以外の目的で使用してはならない。
例えば、聖典を国や世界を動かすための憲法として使ってはならない。
宗教の定義は『社会福祉』だから、それは当然のことである。[福祉と立法を混同してはいけない。]
[6848] 宗教家は仕事を変えるべきである。 h21.3.19
近代になって、ほかの会社はお金を儲けて裕福になっているのに、宗教だけがいつまでも貧乏人を相手にして貧しい思いをしなければならなかった。
それで、宗教家は、宗教を自分のお金儲けの道具に利用しようと考えたのである。
しかし、それでは、もはや宗教は弱い者の味方をする社会福祉とはいえない。
そんなにお金が欲しければ、宗教家は宗教家としての仕事をやめて、もっとほかの儲かる仕事に変わるべきである。
宗教家としての仕事を真面目にやりたい者も、この世のどこかにきっといるはずだ。
[6849] 聖典はどうして出来たか? h21.3.19
今の宗教家は聖典がどうして出来たのか答えられない。
今の宗教家は聖典自体が何なのかわからずに、聖典の解釈を政治家に実行させている。
聖典は、昔の宗教家が教団の粗末なサービスを言葉で誤魔化すために考え出した工夫である。[戦後の紙芝居屋が、紙芝居のお話で不味いお菓子の味を誤魔化していたようなものである。]
つまり、聖典は、教団の『演出』の書物であって、真理の書物(実在についての真理が書かれた書物)ではない。
だから、ニュートン力学の原本や日本国憲法(社会は複雑だから、103個の条文つまり法則がある。)のように、聖典を実行するわけにはいかない。
[6850] どうして聖書は厚いのか? h21.3.19
牧師が教会に来る客層に合わせて話を選んで話していたからである。
つまり、聖書は、話の辞典なのである。話のネタ本なのである。紙芝居の傑作集である。
だから、聖書は国語辞典のように厚いのだ。
[6851] 紙芝居の感想文 h21.3.19
宗教家は紙芝居の感想文を書いて政治家にやらせている。
国民は誰もそんな制度に賛成していない。宗教家が自分勝手にやっているだけだ。
その紙芝居は昔の貧乏人向けに書かれたものであり、現代にはそんな貧乏人はいないから、そんな紙芝居を喜ぶ者はいないだろう。
宗教家の感想文は言うまでもない。
だから、宗教家が書いた感想文を政治家にやらせる根拠は何もない。
[6852] 日本政府は国民から税金を取れない。 h21.3.19
現在の日本政府は日本神道に従っている。[日本政府を日本神道の実行機関だと考えればいい。]
現在の日本神道の聖典は、神武天皇の話だけである。
だから、現在の日本政府は神武天皇の話に則[のっと]った日本を作ろうとしている。
ところが、神武天皇の話には神武天皇が王になるまでの話しかない。
もともとの神武天皇の話には国民から税金を取る話はない。[そんな話があったら、紙芝居は興ざめしてしまうはずである。]
だから、日本神道が自分で勝手に神武天皇が国民から税金を取る話を付け足して解釈しているのである。[たとえ取るとしても、神武天皇なら安い税金しか取らないはずである。]
したがって、日本政府は国民から税金を取ることはできない。
たとえ日本政府が潰[つぶ]れても、どこかの民間の保険会社がありさえすれば、福祉がなくなることはない。
[6853] 日本はデタラメ制の政治である。 h21.3.19
明治以降、日本では日本政府が日本神道に従う宗教制の政治をやっている。
ところで、日本神道は神武天皇を戦争の神とまちがって解釈した。
日本政府は日本神道のまちがった解釈に従って実行した。
日本神道が神話をまちがって解釈したのなら、それはもはや宗教制とは言えないのではないだろうか?
つまり、それはもはやただのデタラメ制にすぎない。
超能力者制度にしても、お宮には神武天皇が超能力者である雰囲気がないから、神武天皇が超能力者だという解釈はまちがっている。[つまり、神とは不思議なことが身近で起きた人のことではなく、架空のマスコットキャラクターだということである。]
だから、超能力者制度もデタラメである。
[6854] 宗教国家は福祉国家である。 h21.3.19
宗教とは本来『社会福祉』のことである。
だから、宗教国家とは福祉国家のことである。
それなのに、宗教家が勝手に神話の解釈を変えることによって宗教の意味を変えて、軍事国家にしたり超能力者制国家にしたりしている。
世界の人は、宗教を福祉のつもりで日本にお金を恵んでくれているのに、宗教家が勝手に宗教の意味を変えたら詐欺[さぎ]になるではないか。
宗教家が真面目に福祉をやればいいではないか。そうすれば日本はいい国になる。
[6855] 宗教制の政治 h21.3.20
昔の宗教団体(福祉団体)の宗教家(福祉家)が、客へのサービスと教団のイメージアップのために架空のマスコットキャラクター(いわゆる神)を作り、そのマスコットキャラクターが活躍する物語を作った。マスコットキャラクターとマスコットキャラクターが活躍する物語は、昔の宗教家が自分の経験をもとにして作ったのである。[戦後の紙芝居屋が、自分の経験をもとにして紙芝居を作ったのと同じことである(例、『ゲゲゲの鬼太郎』)。キャラクターは、客への受けと昔の宗教家の個人的な趣味の両方で作られたのだろう。]
マスコットキャラクターが活躍する物語は一冊の聖典にまとめられた。聖典は、代々宗教家に引き継がれている。
宗教制の政治においては、
まず、宗教家が聖典を解釈して“宗令”[しゅうれい]を作る。
次に、政治家が宗教家の宗令をもとにして具体的な政令を作って国民に出す。
最後に、国民が政治家の政令を実行して実在化する。
こうして、聖典に基づいた世界が実現されるのである。
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[6856] 天地創造 h21.3.20
旧約聖書や古事記に載っている天地創造の話は、昔の自然科学である。
この世界がどうして出来たかを知ることは、当時の人々の知的好奇心を満足することだった。
科学教育も社会福祉の一つと考えられたので、教団の施設で科学の話もしたのである。
話にまちがいが多いのは、昔の科学だから仕方がないことである。
[6857] 誰が悪いか? h21.3.20
現在の日本の宗教は福祉ではない。
宗教制の政治において、政治家が本当に宗教家の宗令に忠実に従っているならば、悪いのは聖典をまちがって解釈した宗教家である。故意であろうがなかろうが、まちがって解釈した宗教家が悪い。
しかし、聖典を正しく解釈すれば、福祉や平和の意味しかない。
福祉や平和を願う心は日本国憲法前文に述べられている。
だから、わざわざ宗教家を入れるほどのことはない。
[6858] 宗教とは超能力者制度ではない。 h21.3.20
古事記には神武天皇が127歳まで生きたと書いている。
だから、神武天皇は実在の人ではない。
神武天皇の活躍も超人的である。
だから、神武天皇は実在の人ではない。
つまり、神武天皇は実在の人間ではなく架空のマスコットキャラクターである。
神武天皇が平和の神であって戦争の神ではないように、
神武天皇は架空の人物であって実在の人物ではない。
一般に、宗教で神とされる人物はすべて架空の人物である。
したがって、宗教では実在の人間を神としてはならないのであり、実在の人間を神とする超能力者制度はまちがっているのである。超能力者制度は、宗教家の宗教に対する誤解が生み出した制度である。
それに、宗教は聖典主義であり、まず最初に聖典がなければ宗教はやれない。だから、聖典のない超能力者制度は、もはや宗教とはいえない。
これまでの宗教には福祉や平和などの目的があるが、超能力者制度には目的がなくただの言葉の上の遊びにすぎない。
神武天皇の話が古臭くなって、最近の客は神武天皇の話で喜ばないというのなら、神が公務員として働いているバハーイー教のように、新しい神の物語を空想力で作り出さねばならない。[バハーイー教の神バハーウッラーの話は、明らかに新約聖書のキリストの話を現代風にアレンジしただけである。バハーウッラーは超能力を使わない。だから、現代の神はもはや超能力者ではない。超能力はマンガのものであって、宗教のものではないのだ。バハーウッラーは公務員だから、バハーイー教の国では国民全員が公務員であり、つまり社会主義国家である。社会主義国家では生産手段が国有つまり国民全員が公務員だが、さらに共産主義国家では個人の財産も国有であり、つまり共産主義国家とはお金のない社会である。共産主義国家では、国が一つの生き物なのである。]
しかし、宗教にとってお話はあくまでも副次[ふくじ]のサービスであって、本業は社会福祉であることを忘れてはならない。
人間が合理的な生き物なら宗教なんかは要らないが、世の中には精神病者みたいな連中がウヨウヨいるから、宗教のようなガラクタを放り込むためのゴミ箱が必要なのだ。
宗教の神話は福祉施設の紙芝居(おとぎ話)だったのであり、いくら聖典をありがたがっても奇跡は起こらないのである。『イソップ物語』のようにおとぎ話には教訓が含まれているから、多少道徳の書として役に立つというだけのことである。
[6859] なぜ宗教に入っている人が大勢いるのか? h21.3.20
現在の地球上には、宗教に入っている人が9割もいる。
それは、宗教が何のことだかわかっていないからである。
宗教が社会福祉のことだとわかれば、みんな大急ぎでやめるだろう。
ただ、今の地球上にはいまだに社会福祉施設として真面目に活動している宗教団体もいくつかあるだろう。
[6860] 宗教国家とは何か?[Wikipedia「国教」参照。] h21.3.20
宗教国家では、国民全員が宗教に入っている。
宗教とは社会福祉のことだから、宗教国家は貧乏人の国である。
だから、北欧やアフリカや南アメリカや中東の国が宗教国家なのである。
[6861] 信仰の自由とは何か?☆ h21.3.20
宗教とは『社会福祉』だが、それぞれの宗教によって福祉のやり方が細かくちがっている。
だから、他人へのサービス精神が旺盛な方は、余暇などを利用して社会福祉活動をすればいいが、
自分の好きなやり方で福祉活動をしている宗教を選んで入ればいいということである。
[6862] 日本神道とは何か? h21.3.20
日本人に生まれたからには、日本神道に入らなければならない。
つまり、日本も宗教国家である。
日本人として生まれた以上、日本神道の福祉のやり方に協力しなければならない。福祉をするのが公務員で、福祉をされるのがその他の国民である。福祉をされる側としては、日本神道にその活動資金として、つまり公務員の福祉に対するお礼として、税金を支払わなければならない。
日本神道の公務員としての活動だけでは物足りず他人へのサービス欲が十分に満たされない方は、日本国内にあるその他の宗教に入って自分のサービス欲を気が済むまで満足させればいい。逆に、日本神道のサービスだけでは物足りずもっと他人からサービスされたい方は、日本国内にあるその他の宗教の信者となってお金を払って宗教団体のサービスを受ければいい。宗教団体のサービスは、昔は飯[めし]を食わせるぐらいでよかったが、最近はサービス内容が高度化しているから、それ相応のお金を支払わなければならない。
[6863] 日本神道のサービスとは? h21.3.20
私は生まれてこの方、一度も日本神道のサービスを受けたことがない。
民間の日蓮宗には、私が赤ちゃんの頃私の脚が不自由で脚がよくなるようにお祈りをしてもらったことと私の名前をつけてもらったことでお世話になった。
医者には、高知市升形[ますがた]の富田小児科に私の不自由な脚をマッサージ療法で治してもらったこと小学生のとき風邪を診てもらったことや、今から2〜3年前に兵庫県朝来市和田山町[ひょうごけんあさごしわだやまちょう]に住んでいたとき、約1年間上垣医院[うえがきいいん]で高血圧の治療をしてもらったことがある。
だから、私や私の親が日蓮宗や医者にお金を支払うのはわかるが、日本神道にお金を支払うのは納得がいかない。
とはいえ、日本にはまだ貧乏人が大勢いるから、その人たちは日本神道にお世話になっているかもしれず、そのためにお金が要るのかもしれない。その人たちは収入がなくてお金が支払えないから、その人たちの代わりに私や私の親がお金を支払わなければならないのかもしれない。
しかし、私は生まれてから一度も日本神道に世話をしてもらった人を見たことがない。だから、日本神道は貧乏人の面倒を見ていないのかもしれない。それなら、日本神道は福祉の仕事をしていないから、私や私の親が日本神道にお金を出して協力してやる必要はない。
日本神道も民間化して、日本神道からサービスを受けた者だけが日本神道にお金を払うようにならねばならない。
日本政府が日本神道とくっついているから、日本政府のサービス内容が不明確になるのだ。このままでは日本神道が倒れるといっしょに日本政府までも倒れることになる。だから、日本政府は日本神道と分かれて、日本政府のサービス内容を明確にして、国民に納得してもらって生き残るしかない。
かつて日本神道が福祉施設であったように、日本政府は国民にサービスをする会社なのだ。日本政府がその目的を忘れたとき、日本国民は日本政府を潰[つぶ]しにかかるだろう。
[6864] サービス機関としての宗教と政府 h21.3.20
サービスにはする側とされる側がある。だから、日本神道や日本政府はサービスをする側であり、日本国民はサービスを受ける側である。日本国民は、日本神道や日本政府とは別なのである。
宗教団体は昔は貧乏人に飯[めし]を食わせたり貧乏人の病気を診てやったりしたが、最近は大衆食堂や病院ができて、宗教団体はそれらに仕事を取られて、宗教団体の仕事内容が変わって、一般人にとっては宗教が何をするのかわからなくなっている。
だから、宗教団体はそのサービス内容を明確にして、一般人に対してサービス内容を明示しなければならない。そうすれば、一般人にとっても宗教を選ぶときの目安が立って便利である。サービス料金を事前に明らかにすれば、あとでいざこざが起こることもない。
政府も宗教と同様に、サービス内容がわかりにくいから、サービス内容を明確にして一般人に対してサービス内容を明示しなければならない。
そうすれば、世の中には病気の治療費を払えない貧乏人が大勢いるからその人たちの代わりに自分が治療費を払うと納得して医者のサービスに対して国民全員が医療保険費を払うように、政府のサービスに対しても国民が納得して税金を払ってくれるようになるはずである。[世の中に貧乏人がいなければ、医者にかかる人だけが治療費を払えばいいが、実際には治療費を払えない貧乏人がいるから、国民全員が医療保険費を払うのは仕方のないことである。しかし、私個人としては、病気にかかる人は自分が大酒を飲んだりタバコを吸ったりして自分の健康管理ができていない人だから、病気にかかるのはその人自身が悪いので、他人の身体の面倒まで自分が見てやる必要はないので、医療保険制度には反対である。]
[6865] どうして日本神道は神武天皇を戦争の神と誤解したのか? h21.3.20
日本の江戸時代は、武士が武力で国民を支配する武家社会だった。
明治時代は長い江戸時代の後だったために、日本神道の宗教家も武家の目でしか物を見れなくなっていたので、神武天皇の話を“武力で日本を征服した人の話”だと勘違いしたのである。
それで、日本政府は日本神道の宗令に沿って日本の軍事化を推[お]し進めたのである。
第2次世界大戦後には、日本の近代科学化も進んで、日本の宗教家が科学の目で物事を見るようになった。それで、神武天皇の話を“超能力で日本を征服した人の話”だと思って、私を日本で二人目の超能力者とみなして超能力者制度を始めたのである。
しかし、超能力は科学ではない。たんに日本神道の宗教家が少年マンガの読みすぎで神武天皇の話を誤解しただけだ。
いくら宗教家に資格試験がなく、宗教家が選挙で選ばれないからといっても、もう少し教養のある者を宗教家にしなければならない。
[6866] 神とは何か? h21.3.20
神とは、人間の心の中にある弱い者への優しさとか平和を願う気持ちとかを擬人化した者である。
つまり、神とは人間の心の中にある弱い者への優しさや平和を願う気持ちのことである。
神が偉大だというのは、人間の心の中にある弱い者への優しさとか平和を願う気持ちを大切にしようということである。
人間の心の中にはなんと素晴らしい感情があることか!
人間の心の中に優しさとか平和を願う気持ちがあるのは、超能力よりも不思議である。
眼の前に焼き鳥が落っこちてくるよりも頭がピカッと光るよりも不思議である。
[6867] 日本は福祉国家である。 h21.3.20
日本は日本神道を国教とする宗教国家である。
日本では、すべて日本神道の聖典である『古事記』に基づいて国事がなされる。[[6855]
宗教制の政治 h21.3.20の図を参照。]
つまり、日本は『古事記』のためにある国である。
だから、日本は弱い者に優しい福祉国家なのだ。[古事記→乞食]
[6868] どうして仏教では偶像崇拝が禁止されているか? h21.3.20
それは、宗教を超能力者制度にしないためである。
宗教とは、人間の心の中にある弱い者への優しさとか平和を願う気持ちなどといった特定の感情を大切にすることである。神とは、弱い者への優しさや平和を願う気持ちのことである。
偶像を作って神を眼で見えるようにすると、必ず宗教を超能力者が世界を支配することだと誤解する者が現れるので、それを心配して偶像を作ることを禁じたのである。けっして、釈迦が顔が悪いからではない。
[6869] はたして聖典は正しいか? h21.3.21
聖典主義では、宗教家によって聖典から宗令が作られ、政治家によって宗令から政令が作られ、国民によって政令から物が作られて、聖典が実現される。
だから、いくら国民や政治家が正しく自分の仕事をしても、宗教家が正しく仕事をしないと、国全体がまちがいになる。
下の人がまちがえても一部分のまちがいにとどまるが、上の人がまちがえると全体がまちがいになる。
だから、宗教家は正しく聖典を解釈しなければならない。
しかし、聖典自体ははたして正しいのだろうか?
そもそも聖典は福祉団体が客へのサービスと団体のイメージアップのために始めた作り話の紙芝居だから、聖典に書かれていることが必ずしも正しいわけではない。
聖典には特定のいくつかの感情を大事にするように書かれているが、必ずしも聖典で認められている感情を肯定できない場面が人生にはある。人生は心だけで決まるのではなく、物でも決まる。聖典には物の法則が書かれていない。それに、聖典を破ったほうが生きていくのに有利な場合も人生には多くある。科学の利器を使える現代ではそんな場合が増えている。聖典を破ったほうがもっと幸福になれる場合がある。だから、聖典は正しいとはいえない。聖典を過信するとかえって不幸になる。
聖典といえどもしょせんは人間が書いた書物だから誤りがあるのは当然である。聖典がまちがっていることを証明するには、反例を捜せばいい。例えば、聖典には弱い者に優しくする福祉の精神が述べられているが、実際には、弱い者に優しくするよりも、強い者に優しくしたほうが有利に生きていける。その証拠に、最近の宗教団体は国民に味方するよりも政治家に味方するようになっている。日本の軍国主義は、どう考えても国民の味方ではない。どうせ政治家のお金儲けの味方だろう。超能力者制度も、国民の味方とはいいがたい。それも政治家のお金儲けにとって都合がいいからだろう。[超能力者制度は、宗教家が考えたにしてはあまりにも素人[しろうと]臭いから、政治家が考えた制度のように私には思われる。]したがって、日本神道は弱い国民よりも強い政治家の味方である。そのほうが、日本神道が有利に生きて行けるからである。聖典を破ったほうが幸福に生きていけるのだから、聖典はまちがっている。宗教団体自身がその反例である。宗教団体自身が聖典を破るようになったら、宗教はおしまいである。
聖典に書かれていることはまちがっているのだから、もはや聖典に拠[よ]っても仕方がない。
したがって、聖典主義はやめるべきである。
現代においては、聖典よりも『お金や物』に拠[よ]ったほうが幸福になれるようである。
聖典には『お金』の話が出てこないから、そこに盲点があったのだ。
[6870] 建前 h21.3.21
日本の国会議事堂の正面入り口は、3階が聖典の部屋で2階が宗教家の部屋で1階が政治家の部屋になっている。
つまり、宗教家は聖典に忠実に従い、政治家は宗教家に従うことになっている。
しかし、実際には宗教家は国民よりも政治家の味方だから、逆に宗教家が政治家に従っている。
しょせん、聖典主義(福祉主義、弱い者主義、民主主義、国民主義)は、国会議事堂の建物の前にあるだけの建前にすぎないのだ。
[6871] ドン=キホーテ h21.3.21
ドン=キホーテの話は、政治家(巨人)の正体は宗教家(風車≒十字架)だったという話である。
昔は、政府は宗教団体の実行機関だったが、近代になると、政府の力が強くなって、逆に政府が教団を尻に敷くようになったのだ。
今では、政府にとっては教団が邪魔になったから、政府と教団が分かれている。
日本もどうせヨーロッパの後追いになるだろう。
そのほうが、国民にとっても得になるからだ。今日では、聖典によるよりも、お金や物に拠[よ]ったほうが幸福になれるからだ。
今日では、政府や教団と国民は別であり、政府も教団も国民にサ−ビスする会社である。政府と教団が分かれたほうが、それぞれのサービス内容が明確になって仕事がしやすくなるはずだ。国民にとってもそのほうが安心できて利用する機会が増える。
[6872] 私は神ではない。 h21.3.21
神とは、福祉団体の架空のマスコットキャラクターである。
しかし、私は実在の人間である。
だから、私は神ではない。
[6873] 国民は信者ではない。 h21.3.21
信者とは、日本神道を利用する者のことである。[日本神道で働いている人は、日本政府の公務員のようなものだから、いわば“衆務員”[しゅうむいん]だ。]
ちょうど、患者が病院を利用する者であるのと同じことである。
国民は、信者がお金が足りないから、代わりにお金を出してやっているだけだ。いわば、国民宗教保険費(国民聖典保険費)だ。
だから、国民と信者とは別である。
[それにしても、日本神道のサービスとは一体何だろう?日本神道が大衆食堂や他の福祉施設に仕事を取られてやることがないなら、日本神道のサービスなんかない。それなら、そんな会社は要らない。国民宗教保険費を国民が払う必要はない。]
[6874] 古事記を読む h21.3.21
古事記を読むとは、古事記の意味が正しくわかることである。
けっして、古事記の言葉を丸暗記することではない。
したがって、神武天皇は平和の神であり、
神武天皇は、天の使いの火の鳥に助けてもらった者であり、
神武天皇は、福祉団体である日本神道の架空のマスコットキャラクターである。
私に関する超能力者制度は、古事記に字面[じづら]の上で拠[よ]っているだけで、
古事記を正しく読んでいないのである。
[6875] 超能力者制度とは何か? h21.3.21
超能力者制度とは、政治家が超能力者かもしれない者の個人情報を混ぜた政令を作って国民に出すことである。[超能力者制度とは、本来は超能力者かもしれない者に人間が従うことだが、超能力者かもしれない者が子供の頃によくやる遊びを使って、超能力者かもしれない者に従うことを超能力者かもしれない者の個人情報を混ぜた政令を出すことに言い換えたのである。]
つまり、政治家が超能力者かもしれない者の個人情報さえ混ぜておけばどんな政令でも国民に出せることである。
だから、政治家がほとんど自由に政令を作ることができる。
日本の政治は政治家制であって、国民制ではない。
政治家が、日本神道といっしょになって古事記を悪用して、自分達にとって有利な、国民にとって不利な世界を作ろうとしているだけだ。
しかし、そもそも古事記を“超能力者かもしれない者に人間が従うこと”と解釈するのは誤解だから、超能力者制度は成り立たない。
[6876] 国民は訴訟人ではない。 h21.3.21
日本国民全員が日本政府を利用する者ではない。
日本政府を利用する者は、訴訟人[そしょうにん]である。
日本人全員が訴訟人ではないが、日本人全員が訴訟人となる可能性がある。
近代国家では国民は法律で守られているので、そのためのお金(いわば国民法律保険費)を国民が政府に支払っているのである。国民の警護[けいご]は、政府のサービスの一つである。
法律は国民の法則であり、福祉団体が客へのサービスと教団のイメージアップのために作ったおとぎ話である聖典とは違う。[昔の教団では、ラジオ放送を聞かせる代わりに聖典を講読したのである。無言で不味い食事をするのがあまりにも侘[わび]しかったために、おとぎ話をするサービスを考えたのである。]
[6877] 日本人の顔 h21.3.21
日本は法律がなくても治安がいいほど平和な国である。
それは、日本人みんなに平和主義が浸透しているからである。
それは、昔の日本神道の働きによるものである。[だから、日本人は日本神道がいい団体だと思ったのである。]
けっして、日本人がもともと平和主義者だったからではない。
昔の日本人は互いに喧嘩[けんか]していがみ合う嫌な民族だったのである。
その証拠が、日本人の顔である。
[日本人はいざとなれば敵に体当たりして死ぬぐらいの意志の力がある。この前の戦争でそれがむき出しになったのである。]
[6878] ペンは剣よりも強し h21.3.21
昔の日本人は剣を持って暴れまわっていた。
剣で他人を切り殺し他人の財産を奪うことが日本人にとっての幸福だった。[かつての暴力団はその生き残りであった。暴力団はいわば弥生人(古代日本人)の生きている化石なのだ。]
しかし、そんな日本社会を嫌だと思う者も日本人の中には大勢いた。
そこで、日本神道が神武天皇の話を作って日本中を歩きまわり神武天皇の話を普及させたのである。
その後、日本人は神武天皇の話を守って平和に生きるようになった。
いわば、日本神道が日本政府だったのである。日本における福祉とは、まずは他人と喧嘩しないことだったのである。乞食つまり飢えている人に物を食べらせたり病気を診てやったりすることも副次的にやったのだろう。
しかし、日本でも科学が発達し物が豊かになってくると、神武天皇の話を守って平和に生きるだけでは物足りないと思う人が増えてきた。
今では神武天皇の話を守らないほうが、もっと幸福に生きることができる。
そこで、日本政府が新しい神話として日本国憲法を作った。
その後、日本人は日本国憲法を守って以前よりも幸福に生きるようになった。
日本人はつねに幸福を目指して生きてきた。日本人は幸福に生きるためには一定の決まりを守る必要があることを知った。いつの時代においても人間が最大の幸福を得られるような決まりでなければならない。そのためには、つねに決まりを手直しする必要がある。
[6879] 日本が平和な時代 h21.3.21
日本が平和な時代は、飛鳥時代から室町時代まで(約1000年間)と江戸時代(約330年間)と第2次世界大戦後(約70年間)の3つの時期だけである。合計1400年間ぐらいである。
日本はそれ以外の時代には、つねに何らかの形で戦い続けてきた。
戦争は政治家のお金儲けになるだけで、国民にとっては迷惑なだけである。
科学的には、政治家も国民も同じ人間である。科学的には正しい人間が偉いのであって、いつもまちがいばかり犯している政治家なんか全然偉くない。
国民は、政治家が国民よりも偉い者であるという意識を捨て去らねばならない。
[6880] 神武天皇よりも警察 h21.3.21
今の人間は、平和を望んでいるからおとなしくしているのではない。
警察に捕まって処罰されるのが嫌だからおとなしくしているのだ。
だから、神武天皇の話は今では通用しないのだ。
神武天皇の話には警察官が一人も出てこない。神武天皇が活躍していた時代には[話の上にすぎないが]、まだ日本に警察がなかったから、神武天皇のような英雄が必要だったのである。
しかし、今は警察が日本各地にいるから、神武天皇のような英雄は要らないのだ。
神武天皇の話は、ちゃんとした警察ができるまでの間に合わせだと考えればいい。
現代人は、神武天皇のような架空の英雄で誤魔化しが利くほど馬鹿でもなければ良心的でもない。
[6881] 宗教政治とは何か?☆ h21.3.21
今の日本の政治は宗教政治である。
つまり、日本神道と日本政府が合体した“日本政府神道”が日本の政治をやっているのである。
日本神道の法律は古事記である。
日本政府の法律は日本国憲法である。
だから、日本政府神道の法律は、『(古事記+日本国憲法)÷2』である。いわば、『古事記日本国憲法』である。
今の日本神道の古事記解釈は超能力者制度だから、日本政府神道は私に関する超能力者制度と日本国憲法の民主制を足して2で割った政治をやっているのだ。だから、私の個人情報が政令に混じった民主制の政治なのである。
しかし、今の日本神道の古事記解釈はまちがっているから、それは正しい宗教政治ではない。
正しい古事記解釈は平和主義と福祉主義だから、日本政府神道がやるべき宗教政治としては、平和主義と福祉主義を強調した民主政治となる。例えば、軍事予算を節約した、福祉や厚生に力を入れた民主制の政治をやることになる。
[6882] 火の鳥について h21.3.21
古事記の火の鳥の話は、神武天皇が天の使いである火の鳥に助けられて戦に勝った話である。
しかし、現代人は自分で考えて実行するので、天の使いを当てにしない。
それに、現代では超能力がないことが常識なので、誰も神武天皇を超能力者とは考えない。
だから、古事記を現代風に解釈したら、火の鳥の話はカットされることになる。
[6883] 日本人は戦争がお好き h21.3.21
日本人は、その顔を見てもわかる通り、戦争をやりたがっている。
しかし、残念なことに、今は戦争の時代ではない。
だから、いくら戦争したいと言っても、戦争をさせてやるわけにはいけない。
どうしても戦争をしたければ、自衛隊に入って模擬訓練で我慢してもらうしかない。
[6884] 聖典は幸福の書ではない。☆ h21.3.21
聖典は、昔の法律である。聖典は、昔の幸福の書である。宗教団体の建物は昔の役所である。ただ、今とは役所の仕事内容が少し違っていたのだ。
昔と今ではずいぶん世の中が変わった。
今は、お金ができたし、科学の発明品であふれている。今は、奴隷や乞食がいなくなった。[聖典が書かれた頃の時代の人を今の時代に連れて来たら、さぞかしびっくりするだろう。]
だから、今の世の中では、聖典を守るよりも聖典を破ったほうが幸福になれる。
聖典はもはや幸福の書ではない。
現代では、現代の憲法が幸福の書である。
現代においては、聖典よりも現代の憲法を守ったほうが幸福になれる。
したがって、現代においては聖典に基づく宗教政治は行ってはならない。
[6885] 客がいない店 h21.3.21
昔、宗教団体は、奴隷や乞食に安い飯[めし]を食わせたり病気を診てやる店だった。
しかし、今では奴隷や乞食がいなくなったし、大衆食堂や病院ができたから、宗教団体は客がいなくなった。
したがって、宗教団体は潰[つぶ]れるしかない。
それなのに、宗教団体が潰れていないのは、宗教団体がサービス内容を変えたからである。
一体、宗教団体はどんなサービスをしているのだろう?
キリスト教は結婚のサービスをしている。
仏教は葬式のサービスをしている。
宗教は、不合理的な余計なサービスをして必死に生き残ろうとしている。[みっともない。まるでチンドン屋だ。]
しかし、最近は神が架空のマスコットキャラクターであることが知られてきたり、昔のしきたりに合理性がないなどの理由から、宗教の世話になる機会が減ってきている。宗教の世話にならなければ安上がりで済むし、不合理なものと関わらずに済むのでそのほうが楽しい気分でやれる。
人類が習慣そのものを変えようとしている。人類が合理的なことしかやらなくなってきている。[それは、宗教界で神とされていた私が合理的だからではなく、人類全体がそうしたいと思っているからである。]
それも、ひとえに人類が自分の人生を少しでも多く幸福なものにしようとしているからである。
[6886] どうして中世は不合理的な世界だったか? h21.3.21
昔は、宗教団体は奴隷や乞食に安い飯[めし]を食わせたり病気を治してやったりする合理的な仕事をしていた。
しかし、文明が発達して、奴隷や乞食がいなくなり、大衆食堂や病院ができると、宗教団体は客を失って、神の権威を笠[かさ]に着て不合理的な仕事を始めるようになった。元[もと]福祉家が、架空のマスコットキャラクターの人気を利用して不合理的な仕事をしてお金を儲けるようになった。[神が架空のキャラクターでは権威がないから、転職するとき聖典をリアルな味を出すように書き直して神を実在の人物に変えたのだろう。]
そのせいで、中世は不合理的な世界が地上に出現してしまったのである。
その後、近代科学ができて、人類が合理的な物の見方を身に付けると、宗教団体などの不合理的な仕事をする者との関わりを避け、不合理的な仕事をする者を地上から締め出すようになって来た。これまでの不合理的な仕事を地上から根絶し、すべての仕事を合理的な仕事にすることによって、合理的な世界を地上に作ろうとしているのである。つまり、人類は過去の不合理的な習慣をやめ、新しい合理的な習慣を始めようとしているのだ。暗い不合理的な世界から明るい合理的な世界に変えようとしているのである。
[6887] マンガと宗教の違い h21.3.22
マンガでは、マンガの登場人物が実在しないことになっている。
ところが、宗教では、聖典の登場人物が実在することになっている。
つまり、マンガ家は正直だが、宗教家は嘘つきだ。
そこが、マンガと宗教の大きな違いである。
架空の人物を架空の人物とするのは合理的だが、架空の人物を実在の人物とするのは不合理的である。
マンガ家は合理的な仕事だが、宗教家は不合理的な仕事なのはそのためである。
マンガの登場人物が架空の人物であることがわかっても、マンガの価値に変わりはないが、
宗教の神が架空の人物であることがみんなに知られてしまうと、宗教はもはや“みんなでおとぎ話を読む会”にほかならないから、宗教は潰[つぶ]れてしまうだろう。
[6888] 建物の味 h21.3.22
今の建物は無駄が多くて不合理的な味がする。
昔の建物のほうが無駄がなくて合理的な味があった。(特に駅舎。)
『世の中は不合理的な世界から合理的な世界に進んでいる』のだから、
それに合わせて建物の味を選ばねばならない。
[6889] 実在的なものは論理的だが、論理的なものは実在的とは限らない。 h21.3.22
数学者が頭の中で考えているときには、実在するか実在しないかなんて考えていない。
実在に対応するものが見出されたときには、それが実在することになる。
しかし、数学者が頭の中で考えているときには、実在しようがしまいがどうでもいい。ただし、論理的でなければならない。
つまり、論理性と実在性は違う。
論理性の中に実在性が含まれている(論理性⊃実在性)。
つまり、実在的なものは論理的だが、論理的なものは実在的とは限らない。
これとは別の話だが、神は一見すると実在の人物のように見えるが、これまでに私が考えたように、神が実在の人物だと仮定してよく考えてみると必ず矛盾が出てくるから、神が実在の人物ではなく架空の人物であることがわかる(背理法)。つまり、√2が有理数だと仮定すると矛盾が出てくるから、√2が有理数ではないすなわち無理数であるのと同じことである。[[6842]の後半“また、神の定義を”以降を参照。つまり、神が実在の人物だとすると、神とは不思議なことが身近であった者のことになるが、そうするとこれまでに現れた神の人数が少なすぎるので、矛盾することになる。]
[6890] 馬鹿につける薬はある。 h21.3.22
世の中にいくら馬鹿が大勢いるからといって、宗教が馬鹿を騙[だま]し続けているのは目に余る。
いくら馬鹿な人でも正しいことを教えればわかるはずである。
神が昔福祉団体がサービスで始めたおとぎ話の主人公であることや、世の中が豊かになって奴隷や乞食がいなくなって福祉団体が仕事を失って、神のキャラクターを使って不合理的な仕事をするようになったために世界が不合理的になったことや、今の世界と昔の世界は違うから聖典を守るよりも聖典を破るほうが幸福に生きていけることなどは誰でも一度聞けばすぐにわかるはずである。
聖典の話で面白ければ、たいていどんなことでも教えられるはずである。
[6891] 政府はどうしてできたのか?☆ h21.3.22
昔、奴隷や乞食に安い値段で食事をさせたり病気を診たりする福祉団体があった。
しかし、世の中が豊かになって奴隷や乞食がいなくなり、福祉団体は客がいなくなった。
そのために、仕事を失った福祉家が神のキャラクターを使って不合理的な仕事を始めるようになった。
例えば、福祉家の中には聖典を法律に使って人々を支配する者が現れた。
それが政治家である。
政治家の作った組織が政府である。始めの頃の政府は、聖典を法律に使っている宗教政府だった。
宗教政府が世界中にできたために、世の中は不合理的な暗い世界になってしまった。[“架空”のおとぎ話である聖典を“実在”の世界を動かす法律に使うことが“不合理的”なのである。]
しかし、その後、近代科学の誕生によって人々の合理的精神が呼び覚[さ]まされ、人々は不合理的な宗教政府に反対し、宗教政府は聖典を法律として用いなくなり、宗教政府は政府と宗教団体に分かれた。
政府もまた、今の結婚や葬儀のサービスと同じように、昔の奴隷や乞食に食わせる福祉団体がルーツなのである。
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[6892] 芝居 h21.3.22
福祉家が聖典を法律にして政治家を始めた頃[ころ]は、政治家に少しでも反抗した者はすぐに殺された。
それは、政治家が自分に絶大な権力があり、神が実在の人物であると人々に思わせるための芝居であった。
しかし、テレビドラマなどによって芝居の概念が人々の常識となった今では、政治家のやることぐらいは誰にでもお見通しである。
政治家の三文芝居は現代人にはもはや通用しないのだ。
[6893] 農家はどうして馬鹿なのか? h21.3.22
農家の仕事はきつい肉体労働である。
農民は栄養の大部分を筋肉に取られて十分な栄養が脳に回らず脳が働かないから馬鹿なのである。
脳が働かず馬鹿だから、快楽がセックスしかないのである。
脳が働かないほどきつい仕事はこの世からなくさなければならない。
[6894] 日本の政治は宗教政治である。 h21.3.22
日本国憲法の前文では、平和主義や民主主義などが述べられ、聖典を法律にはしていない。
しかし、日本国憲法の本文は、明らかに天皇制である。
日本国憲法の本文が天皇制なのは、日本政府がいまだに古事記を憲法にしているためである。つまり、日本国憲法は古事記からできている憲法なのである。[もっとも、古事記に対するまちがった解釈によってできているのだが。つまり、神武天皇が実在の人物であり、神武天皇が日本を中央集権制の国にした日本の初代王であるとする解釈がまちがっているのである。そんなことは古事記には一言[ひとこと]も書いていない。]
私の超能力者制度も、古事記を憲法にしてできた制度である。
だから、日本の政治は、聖典を憲法とする不合理的な宗教政治である。
つまり、日本の国会議事堂の正面入り口に“1階が政府の間[ま]で2階が宗教の間で3階が聖典の間”であるモニュメントが飾ってあるように、国会議事堂の中にいる政治家全員が宗教政府の政治家つまり『宗教家兼政治家』なのである。日本の政治家は古事記を憲法としているので宗教家でもあるわけである。もと、聖典を法律にして政治を始めた宗教家の子孫である。
しかし、『世の中は不合理的な世界から合理的な世界に変わろうとしている』から、日本政府は聖典を憲法とするのをやめて、つまり天皇制や超能力者制度をやめて、合理的な社会制度を憲法として、日本を合理的な国にしなければならない。
[6895] 私アニメは不合理的である。 h21.3.22
架空のおとぎ話の主人公である神を実在の人物だとしたり、
架空のおとぎ話である聖典を実在の世界を動かす法律にしたりすることは、
架空と実在を混同していて不合理的である。
だから、その逆に、実在の人物を架空の人物にすることも不合理的である。
したがって、実在の私を架空のマンガやアニメのキャラクターにする私マンガや私アニメはいけないのである。
それに、私マンガや私アニメは宗教政治の産物であり、宗教政治は不合理的でまちがっているから、私マンガや私アニメはいけないのである。
[絵を描く人なら、絵の世界の中だけで架空のキャラクターを作れるはずである。具体的なモデルがいなくても、話だけから登場人物の絵が描けるはずだ。例えば、神武天皇の絵も神武天皇の話を聞いた画家が想像で描いたものである。]
[6896] 国は一つの生き物である。 h21.3.22
高知の山には田んぼがたくさんあり、山の高いところにも人が住んでいる。
山の高いところに住んでいる者は万能人である。生活に必要なことは自分一人で一通りなんでもできるからである。昔の人はたいてい一人でなんでもできたものである。
もっとも、その万能人はできることが多いだけで、一つのことだけで見ればそう上手[うま]くはない。
一人の万能人が分かれていって、それぞれの機能が専門化して高度になって、大勢の専門家からなる国ができたのである。
人間の身体に腎臓や肝臓や肺や心臓や脳などがあるのと同じことである。
今や国は一つの生き物なのである。人間の身体の一つの臓器にとって他の臓器が欠かせないように、自分にとって他人の存在は欠かせない。
[6897] ヨーロッパの音楽 h21.3.22
ヨーロッパの音楽、特にクラシックには、ヨーロッパ人の“考える気持ち”が入っている。
一方、日本の音楽には、“頭を使わずに気楽に楽しむ気持ち”が入っている。つまり、タカラの人生ゲームのような気持ちである。
しかし、『これからの世界は合理的な世界』だから、日本人もヨーロッパ人の考える習慣を真似て身に付けねばならない。[碁や将棋でも頭は使うが、ゲームのルールが実在の世界とまったく関係がないので、現実逃避の気[け]がある。もっと、パソコンゲームの『Battlefield2』のように“現実的な味”がするゲームでなければならない。私も『Battlefield2』ではNAK2のニックネームで遊んでいる。]
[6898] 政治家は悪人である。 h21.3.22
政治家が宗教をやっているのを真似て、日本のあちこちでも宗教をやっている。
政治家がやっていることだから、自分もやっていいと考える者がいる。
それは、あくまでも政治家が正しいとしての話である。
政治家は、架空のおとぎ話である古事記を実在の世界を動かす法律に用いている不合理的な人間である。
今は『世界中が合理的な世界を作ろうとしている』時代だから、不合理な政治家を真似[まね]てはいけない。
政治家は悪人だから、政治家のやっていることを真似てはならないと考えるべきである。
[6899] 言行一致 h21.3.22
いくら自分の考えを本にしてそれが100万部1000万部売れても、自分の考えが実現されなければ何にもならない。
その反対に、たとえ自分の考えを本にしてその本が1冊も売れなくても、自分の考えが実現されれば何かやったことになる。
[6900] 国会議員は反省しない。 h21.3.22
国会議員は、架空の作り話である古事記を日本の法律に用いている。
国会議員が自分が本当に悪いことをしたと思ったら自殺して死ぬはずである。
そうしないのは、国会議員が全然反省していないからである。
国会議員は這[は]いつくばって匍匐[ほふく]前進で歩け!