[6701] どうして宗教の神話の文章は曖昧なのか? h21.3.7
宗教の神話の文章とくに聖書の文章なんかは、一般のおとぎ話に比べてわかりづらく曖昧に書かれている。
それは、国語の文章の多意性を利用するためである。
つまり、国語の文章が読み手によって意味が違うことを使って、神話をわざとに難解な文章で書くことによって、文章に多くの意味を持たせて、信者から見た意味と宗教家から見た意味を違わせて、信者に神話を認めさせた上で、宗教家が自分にとって都合のいいように文章を解釈して、宗教家が信者を自分にとって都合のいいように動かすようにするためである。
神話の法律が数学ではなく、国語で書かれているのはそのためである。
神話の世界に論理がないのも、わざとに筋道の通らない世界にしておいて、宗教家が信者に対して不合理な命令を出しやすくするためである。
政治家は信者にすぎないが、政治家が宗教家とつるんでいっしょになって国民に対して不合理な命令を出して、その儲けを山分けしているのだ。

[6702] 神話方式の問題点 h21.3.7
神話は文学だから心で読むものである。
現在の法律は科学だから頭で読むものである。
神話は心で読むものだから、大体心が同じであればなんでもいいのである。
だから、例えばキリスト教では、教団が作った政令に“愛の感情”が[ほんのちょっとでも]こもっていれば、どんな政令でも信者に出すことができる。[昔は国民のことを信者といった。]例えば、日本神道ならば、教団が作った政令に“戦いの感情”が[ほんのちょっとでも]こもっていれば、どんな政令でも出すことができる。
そんなやり方では、文章の書き方によっては、ほとんどどんな政令でも出すことができる。文章上の工夫をすればいいだけだ。
だから、神話方式では『法律はあって無き物』なのである。
現在の法律では、論理的に法律に従う政令しか出せないから、たしかに法律があるだけのことはある。
神話方式は誤魔化しが利きやすいから、宗教家にとっては有利である。つまり、信者にとっては不利である。[昔は宗教家が政治家だった。]
そんないい加減すぎるやり方で政治をやられては信者が困る。
今は民主主義の世の中である。宗教家と信者は平等である。
だから、現代では、もはや神話方式は採用されないのだ。

[6703] 神武天皇は偉いか? h21.3.7
神武天皇は架空の人物であり、現在の人間は科学のセンスを持っているから、作り話の上の架空の人物である神武天皇が偉いとは思わない。
だから、神武天皇が出てくる神話に“従いたい”とは思わない。神武天皇の神話を“従う気持ち”を持って読んだりはしない。あまり面白くない作り話ぐらいにしか思わない。
一方、科学の本や法律は正しいことが書いてあるから、科学のセンスを持った現代の人間は正しいことには従うから、科学の本や法律には“従いたい”と思うのである。[法律は、人間社会についての法則を書いた本と見なせる。]
だから、現代の人間は、神武天皇の神話には“従いたくない”が、科学の本や法律には“従いたい”と思うのである。

[6704] 宗教は第2政府である。 h21.3.7
宗教は第2政府である。昔の政府の生き残りである。
宗教に入るとは、第2政府の国民になることである。第2政府に政府の維持費[やその他]として税金を支払い、第2政府の出した政令に従うことである。
宗教は『神話方式』で政治をする。だから、ほとんどどんな政令でも出すことができる。例えば、キリスト教では“愛の感情”がほんのちょっとでもありさえすればどんな政令でも出すことができるし[例えば、免罪符は罪人に対する“愛の感情”で作った制度である。]、仏教では“禁欲の感情”(0の感情)がほんのちょっとでもありさえすればどんな政令でも出すことができるし、日本神道では“戦う感情”がほんのちょっとでもありさえすればどんな政令でも出すことができる。
信者は宗教家が作った政令にはどんな政令でも従わねばならない義務がある。
結局は、免罪符でもわかるように、宗教家が屁理屈をこねて自分にとって得になるようにするだけである。だから、信者にとっては損である。得して喜ぶ者はいても、損して喜ぶ者はいない。
今の国の政府(第1政府)に不満があるなら、第2政府にもきっと不満があるはずだ。
宗教に入ることは自分の不満を増やすことである。政府には仕方なく入るものであって、自分から進んで入るものではない。

[6705] 法律とは? h21.3.7
社会についての法則が法律である。
世界共通の、人間社会についての法則がある。物理法則のようなものである。
それとは別に、その国にしかない社会の法則がある。物性定数のようなものである。
だから、世界共通の社会の法則やその国独自の社会の法則に従う政令を作って、その政令に基づいて実在の社会を動かすことが政治である。物理学実験のようなものである。
だから、社会についての法則が正しければ思い通りに社会が動くし、まちがっていれば思い通りにならない。実験結果が理論通りにならなければ、後でその原因を考察してレポートに書かなければならない。そこに新しい発見がある。
ただ、物理法則と同じように法律には人間の心までは書いていないので、発明家が物理法則に自分の心やみんなの心を入れて発明品を作るように、政治家は国会で社会についての法則に国民の心を入れて政令を作らねばならない。つまり、国会は客観的な社会についての法則に国民の心を入れる場所である。[宗教には、残念ながら、国会のような場所がない。宗教では、宗教家が神話の心に従いながらほとんど自分の好き勝手に一方的に政令を作るだけである。だから、信者にとっては不利である。]
政治家が自分の得になることをしたければ、社会についての法則と国民の心の両方に従いながら、その隙間で儲けるしかない。頑張ればできないことではない。

[6706] 宗教はどうして面白いか? h21.3.7
昔の宗教は強制加入制だったから、信者は宗教から抜けられなかった。だから、宗教家が一方的に有利な政令を出すことができた。昔の宗教は、宗教家が面白いだけで信者は面白くなかった。
しかし、今の宗教は『自由加入制』だから、信者はいつでも宗教に入れるしいつでも宗教をやめることができる。[今の政府が国会を設けることで民主制を実現しているように、今の宗教は自由加入制を設けることで民主制を実現しているわけである。]
だから、信者は宗教家が自分の気に入らない政令を出したらすぐに宗教をやめることができる。
だから、宗教家はせいぜい信者の気に入るような政令を出さなければならない。
だから、今の宗教は面白いのである。

[6707] なぜ政府と宗教が結びつくか? h21.3.7
政府は強制加入制の代わりに国民の心を入れる国会を設けている。
宗教は宗教家が一方的に政令を作る代わりに自由加入制になっている。
だから、政府と宗教が結びつくと、強制加入制で政治家や宗教家が一方的に政令を作ることができる。だから、政府と宗教が結びつくと民主制が実現されず、政治家や宗教家が一方的に有利である。つまり、国民や信者が不利である。
政治家も宗教家も自分の得になることをしたいから、政府と宗教が結びつくのである。
反対に、国民や信者が得になるためには、政府と宗教が分かれねばならない。
今は政治家も国民も宗教家も信者もみんなが平等な民主制の世の中だから、政府と宗教は分かれねばならない。

[6708] どうすれば赤ちゃんに好かれるか? h21.3.7
赤ちゃんの好きなことをしてやれば、赤ちゃんに好かれることができる。それだけである。
赤ちゃんの目から自分を見て自分が赤ちゃんに好かれようとする受身の気構えで赤ちゃんに臨[のぞ]むのではなく、
自分から赤ちゃんが好きなことをしてやる積極的な気構えが大事である。
自然科学において『自然を支配するためには自然に従わねばならない。自然に従う者が自然を支配できる。』ように、
赤ちゃんに従う者が赤ちゃんを支配できるのだ。

[6709] 宗教が政府を超えられるか? h21.3.7
神話方式の政治は、宗教家に有利になりすぎて今日的には駄目である。
宗教が政府を超えるためには、法律以上の法律を作らなければならない。
しかし、0からいきなり天才になるのは無理である。無からいきなり現在の法律以上の法律を作ることはできない。
アインシュタインもシュレディンガーもニュートン力学を勉強したように、今の法律を勉強してそれを改良するしかない。
あるいは、政府と同じ法律を用いて、国会以上の制度を設けて政令に国民の心を今よりも入れやすくする方法があるかもしれない。
とにかく、今の政府の法律や制度を改良するのが現実的な発展の仕方である。つまり、政府を超えるのは政府しかない。

[6710] 宗教家や政治家は正常か? h21.3.7
宗教家や政治家は、政治によって自分が得ができるわけだが、政治で一体何が得られるのだろうか?
お金が得られる。しかし、お金は自分が生きていける程度にあれば十分である。人間の心はそれで十分だと言っている。
地位が得られる。しかし、民主制の世の中ではみんなが平等だから、政治家や宗教家はそれ程偉くない。[社員が社長に頭を下げるのだって、内心では馬鹿にしながらやっているのである。]
つまり、今の世の中では政治家や宗教家になっても、特に得られるものがない。
そこで、政治家や宗教家は政治そのものをゲーム化して楽しんでいる。
国民(特に私)を不愉快にする意地悪な政令を出すことを生きがいにしているのである。
くだらない。今の政治家や宗教家は馬鹿だ。精神異常者だ。
今の政治家や宗教家には政治の才能はない。それで、国民を喜ばせる代わりに国民に嫌がらせをしているのだ。
国民(特に私)が政治家や宗教家に仕返しする何かいい方法はないものだろうか?

[6711] 宗教でなければ宗教ではない。 h21.3.7
宗教とは、神話方式で政治をすることである。
だから、超能力者制度は宗教ではない。もちろん科学でもない。
超能力者制度は、宗教と科学の両方のくだらない悪いところが混ざってできた似非[えせ]宗教である。それは、もはや宗教の定義から逸脱しているので宗教とは言えない。
免罪符制度は宗教の中で犯した非行であって宗教だが、超能力者制度は宗教の外で犯した非行であってもはや宗教ではない。それは、たんなる犯罪である。
似非宗教を宗教としてやってはいけない。偽札[にせさつ]が札[さつ]ではないのと同じことである。
偽札を使うことが犯罪であるように、似非宗教をやることは犯罪である。宗教家の犯した犯罪である。

[6712] 宗教の定義 h21.3.8
国語辞典を引けば宗教の定義が書いてある。
しかし、それは正しい定義ではない。
これまで宗教の定義はたくさんあったが、宗教の正しい定義はひとつもなかった。
私がはじめて宗教を正しく定義した。
「超能力者制度」があるところを見ると、宗教家ですら宗教の定義を知らないらしい。
よくそれで宗教家が務まって来たもんだ。

[6713] どうして文学者は神武天皇の光の玉を文学作品に入れたのか? h21.3.8
今のマンガのキャラクターには麻生首相に似たのがいる。
それは、首相に対する軽い攻撃である。
マンガ家自身や国民が今の政治に対して不満があるから、その不満の仕返しに首相に対して軽い攻撃をしたのである。
それと同じように、文学者が自分の書いた文学作品に神武天皇の光の玉を入れたのは、文学者や国民が当時の政治に対して不満を抱[いだ]いていて、その不満の仕返しに日本政府に対する軽い攻撃としてやったことだと考えられる。だから、どの文学作品を見ても光の玉に対するいいイメージがないのである。例えば、梶井基次郎の『檸檬』ではスーパーで売られている安っぽい果物だし、武田泰淳の『ひかりごけ』では汚いカビだし、川端康成の『雪国』では寂[さび]しい田舎の町である。
したがって、私アニメも同じ意味があると考えられるが、マンガ家や国民が政府に対して不満があるからと言って、私に対して軽い攻撃をするのは“とばっちり”(八つ当たり)だ。それなら、当時の首相に対して軽い攻撃をすべきだ。だから、やはり、日本神道の勘違いだ。つまり、日本神道は日本の文学に神武天皇の光の玉が入っているのは日本の決まりだとまちがって考えたからである。今の日本神道が、当時の日本政府や日本神道が文学者に命じて神武天皇の光の玉を強制的に入れさせたのだと勝手にまちがった解釈をしたからである。
日本神道は宗教の定義も知らないし、文学者が文学作品に光の玉を入れた理由も誤解していたのだ。私アニメは世界的に作られているから、世界中の宗教がみなまちがっていたことになる。昔のキリスト教の絵画は、キリストの神話(当時の法律)を絵に描いて神話の内容を視覚的にわかりやすくしたものだから、文学者が文学作品に神武天皇の光の玉を入れたのとはまったく目的が違っている。
そもそも神とは神話に登場する架空の人物であり、実在の人間である私は神ではない。これまでのキリストの絵は、画家が聖書をもとにして自分の空想で描いたものである。だから、宗教的には私を宗教画にする理由はないし、マンガ家やアニメーターが私をマンガやアニメに入れる理由もない。
つまり、昔の文学者は政府の攻撃のために文学作品に神武天皇の光の玉を入れたから馬鹿ではないが、今の宗教家やマンガ家やアニメーターは自分たちの宗教に対する誤解のために私をマンガやアニメに入れたのだから馬鹿である。

[6714] 考えは考えることによって生まれてくる。 h21.3.8
考えるから考えることがあるのであって、
考えなければ考えることがない。
考えることがあるかないかは、考えようとするかしないかで決まる。
考えようとしていれば、自然と考えることができてくる。

[6715] 日本人の心 h21.3.8
日本人の心とは、他人の真似をしたがることだ。
日本神道がキリスト教を真似て宗教を始めたのも、日本人に真似をしたがる気持ちがあるからだ。日本人が学習能力が高いのは他人を真似る気持ちがあるからだ。
だから、反面、日本人には自分で考える独創性が欠けているのだろう。
しかし、自分で考える練習を積めばできないことではない。
つまり、外人が自分で考えるのを真似すればいいのだ。
もっとも、他人と戦うことが好きなのも日本人の心のひとつだ。他にもあるだろう。

[6716] 日本神道の神は神武天皇である。 h21.3.8
日本神道がキリスト教の真似であろうがなかろうが、とにかく日本神道の神は神武天皇である。
日本が戦争に負けたからといって、神武天皇を捨てる必要はない。たとえ日本人が戦争に負けたからといって、日本人の戦う気持ちまで捨て去る必要はない。戦争に負けたぐらいがなんだ。そんなこと気にする必要はない。
日本神道が飛鳥時代に新しい神として聖徳太子を作っても聖徳太子が神になれなかったのは、すでに日本神道の神が神武天皇だと決まっていたからである。
一つの宗教には一人の神しかいないのだ。【一宗教一神の原理】
いくら宗教団体にとって都合が悪くなったからと言って、神の入れ替えはできないのだ。
だから、今さら日本神道がじたばたして新しい神を作ろうとするのがまちがっているのだ。
どうしても新しい神を作りたければ、新しい宗教団体として始めるしかない。
もちろん、神は空想の作り話の上の架空の人物であって、実在の人物ではない。これまでいくつかの宗教で神の像を作ってはならないとされてきたのは、神が架空の人物でなければならないからである。もしも神が実在の人物だったら、むしろ神の像を作ったほうがいいはずである。

[6717] 『王様と乞食』 h21.3.8
『王様と乞食』の童話は、キリスト教ができた頃に乞食だったキリストがキリスト教の勢力拡大とともに王様になった話ではない。
キリスト教は、最初からキリストの神話を法律とする行政組織だったのである。キリストはマルチン=ルターがいた頃も乞食だったし、今でも最初のときと同じ乞食のままである。[キリストが乞食なのは、大衆の人気取りのためだと考えられる。]
『王様と乞食』の話は、宗教に対する誤解によって作られた童話である。宗教を神制度だ(つまり、宗教に入れば信者が神と同じことができる)と勘違いした者が作ったのだろう。だから、比較的最近作られた童話なのだろう。
日本神道も国会議員だけが入れる宗教ではなく、世界中の誰でも入れる宗教である。つまり、日本神道の国会議員が王や将軍になって独断で政令を作ったり国民に戦争させたりすることではなく、日本神道の宗教家が『神武天皇の神話』に則[のっと]って作った“戦う心のこもった政令”に日本神道の信者が従うことである。[すると、これまで私の周りにいる者(私の両親や兄弟や友達)が私に対してしてきたことは何だったのだろう?]

[6718] 日本の政治は最悪だ。 h21.3.8
正しかろうがまちがっていようが、とにかく明治以降日本政府は日本神道と組んだ。
日本政府が日本神道と組んだのは、強制加入制で神話方式の政治をするためである。
強制加入制にすると、日本国民全員が日本神道の信者になり、日本人全員からお布施[ふせ](つまり税金)を取り立てることができる。
神話方式で政治をすると、宗教家が国民を無視して一方的に政令を作ることができて有利になる。その分、国民にとっては不利になる。
日本政府が国民全員から税金を取り、日本神道が神話方式で国民を無視して一方的に政令を作り、警察が国民に政令を守らせるのである。儲けは政治家と宗教家と警察で山分けだ。
こんな政治のやり方に我慢している日本国民も異常だ。
我慢しなければならない理由がないではないか!?

[6719] 神話のない宗教 h21.3.8
神話は宗教家と信者の約束である。宗教家が信者に“自分が絶対にこの神話に則った精神で政令を作って出す”と約束をするのである。だから、宗教家が神話に背[そむ]いた政令を出したときには、その宗教家が罰せられたはずである。
神話のない宗教は、法律のない政府のようなものだ。神話のない宗教では、宗教家が自分の好き勝手な政令を作って信者に出すだけである。それは、もはや宗教とは言えない。原始時代の社会制度にも劣る。
今の日本神道の宗教のやり方は、神話のない宗教である。宗教家が一方的に有利で、信者が一方的に不利だ。

[6720] なぜ明治政府は科学と宗教の2本立てにしたのか? h21.3.8
明治政府には、科学で政治をする政治家と宗教で政治をする政治家の両方がいた。宗教で政治をする政治家が宗教家だと考えればいい。
科学の政治は民主制であり、政治家は国民の心を政令に反映させるための道具にすぎず、政治が国民に有利になる。
宗教の政治は神話制であり、政治家が神話の精神に則っていさえすれば国民を無視して一方的に政令を作れるので、政治が政治家に有利になる。
明治政府は、国民と政治家の両方を平等に有利にするために、科学と宗教の2本立てにしたのである。
国会は、科学で政治をする政治家と宗教で政治をする宗教家、つまり国民と政治家の喧嘩[けんか]の場だと考えればいい。だから、日本神道を宗教に選んだのかもしれない。神武天皇の神話制は単独の宗教としては[戦争のとき以外は]使い道がないので、国民と政治家の対立の構図の中で活かすことにしたのだろう。神武天皇の神話制は、公[おおやけ]の戦いの場で活かして欲しいものである。

[6721] どうして民主主義になったか? h21.3.8
それは、世の中が文学の時代から科学の時代になったからである。
文学の時代は心で見るから、心で見ると、眼に見えないことが通用しやすいから、偉さといういい加減な概念が通用したのである。
科学の時代は物で見るから、物で見るかぎり、人間はみんなそんなに違いがないからみんなが平等になったのだ。
今はみんなが平等な時代だから、国民や信者が政治家や宗教家に仕返しができる時代なのだ。

[6722] どうして宗教が衰えたか? h21.3.8
それは、世の中が文学の時代から科学の時代になったからである。
文学の時代は、心を見て物を見なかったから、神という眼で見えない架空の人物が実在の人物と同等に通用したから、宗教がやれたのだ。
科学の時代は、物しか見ないから、実在しない架空の人物は物ではないから相手にされないので、宗教がやれなくなったのだ。
いくら人間は心で価値が決まるといっても、実在の世界の中で実際に生きている人間よりも作り話の世界の中だけにしかいない架空の人間のほうが心が綺麗だから実在の人間よりも架空の人間のほうが優れているとするのは、物に盲目すぎだ。
最近になって、人類はようやくキリストや釈迦や神武天皇や聖徳太子が実在しないことに気付いたのだ。
キリスト教に入っている連中は、実在の麻生首相よりも架空のキリストのほうが偉いと思っている連中なのだ。

[6723] 日本では税金を支払わない自由がある。 h21.3.9
今は科学の時代だから、民主主義つまり人間はみんな平等である。
だから、国民と政治家と宗教家は平等である。
日本では、日本政府と日本神道が組んで、強制加入制で神話制の政治をやっている。日本国民全員が日本神道の信者である。
宗教では、神話方式で政治をするから、宗教家に有利で信者に不利である。今の日本神道は、神話方式の代わりに、私の個人情報を混ぜた政令を作って出している。[しかし、この宗教のやり方は、『[6650] どうしてキリストは神なのか?《まとめ》 h21.3.2』で述べたように、宗教が超能力者制度だとすると世の中には宗教がもっとたくさんあるはずなのに実際にはそうではなくて矛盾があるから、日本神道の宗教に対する誤解であって日本神道は宗教のやり方がまちがっていると考えられる。つまり、今の日本神道がやっていることは宗教ではない。]しかし、今は人間がみんな平等でなければならないから、宗教は自由加入制でなければならない。つまり、自分が宗教が嫌だったら、自由に宗教をやめることができなければならない。
したがって、日本政府と日本神道が組んだ政治形態では、日本の政治が自分の気に食わなければ、自分が日本の政治から抜けることができる。つまり、自分が日本政府に税金を支払わないことができる。つまり、日本では、国民が政府に税金を支払おうが支払うまいが国民の自由である。それが科学時代の人間の権利である。

[6724] 日本政府は日本神道と組んだら儲かるか? h21.3.9
政治とは、国民から税金を取って、国民に政令を作って出して、国民に政令を守らせることである。
日本では、日本政府が国民から税金を取って、日本神道が国民に政令を作って出して、警察が国民に政令を守らせている。
いまここで、
1)国民から取れる税収は一定額である。
2)政治は政令を作るのみで、副収入はない。
3)日本政府と日本神道と警察の規模が同程度である。
と仮定する。
a)日本政府が日本神道と組む場合、日本政府と日本神道と警察で税収を山分けすることになるから、日本政府と日本神道と警察の儲けは税収×1/3となる。
b)日本政府が日本神道と組まない場合、日本政府と警察で税収を山分けすることになるから、日本政府と警察の儲けは税収×1/2となる。
つまり、日本政府と日本神道が組む場合よりも組まない場合のほうが、日本政府と警察の儲けが1/2÷1/3=3/2=1.5倍になる。
したがって、日本政府は日本神道と組まないほうがいいと考えられる。

[6725] 神話方式は政治家にとって有利か? h21.3.9
仮に、政府が任意の方法で政治をやれるものとする。例えば、法律方式でやってもいいし、神話方式でやってもいいものとする。国民は全員政府に加入しているとする。
政治とは、国民から税金を取って、国民に政令を作って出して、国民に政令を守らせることである。
政府の収入は、国民の税金だけであって、副収入はないとする。
その場合、政治家がどんなやり方で政令を作っても、政治家の収入は変わらないから、神話方式だからといって特に政治家が有利になることはない。ただ、政治家が神話方式で政治をすると、社会の動かし方が不適切になるので、国民にとっては損になる。政治家が法律方式で政治をしたほうが、社会の動かし方が適切であり、国民にとっては得になる。[現代は科学の時代なので、人間はみな平等だから、政治家の偉さも、神話方式でも法律方式でも変わらない。]
つまり、政治家にとっては神話方式でも法律方式でも儲けは同じであり、国民にとっては神話方式よりも法律方式のほうが得である。
したがって、政治家と国民から成る国としては、神話方式よりも法律方式を採るべきである。

[6726] 江戸時代は夜警国家 h21.3.9
警察の力が強くなって、警察が国を支配した状態が夜警国家である。
武士は貴族社会の警察であり、武士の力が強くなって国を支配したのが武家社会である。
だから、江戸時代は政府がない夜警国家だったのである。
したがって、江戸時代は、庶民の文化は発展したが、法律は進歩しなかったのである。

[6727] 現代では女が男よりも上? h21.3.9
男が女と同程度の思考力しかなければ、男は女よりも見かけで劣るから、男が女よりも下であることになる。
だから、男は何が何でも女よりも思考力や体力において上でなければならない。そうしなければ、男の取り柄がない。
そのための努力を男はしなければならない。

[6728] 国会について h21.3.9
社会についての法則に詳しい学者グループと、国民の心を代表する政治家グループが戦う場にすればいい。
両者が納得行くまで話し合えば、現実的でありかつ国民の心を満足するいい政令を作ることができるだろう。

[6729] キリストの正体は光の輪っかである。 h21.3.9
キリストの正体は光の輪っかであり、男は光の輪っかに意識を乗っ取られて操られている人形にすぎない。


[6730] 法律は中国の発明品 h21.3.9
中国に宗教がないのは、中国には昔から現在のような法律があったからだ。
孔子や荘子の思想は、一般に宗教と呼ばれているが、法律的性格はないから、厳密には哲学と呼ぶべきである。プラトン哲学と言うのだったら、孔子哲学とか荘子哲学と呼んでもおかしくはない。[日本の江戸時代においても、仏教が法律で、儒教(孔子哲学)が道徳だった。プラトン哲学を法律にすると難しくなりすぎて一般向きではないから法律には向かない。]
中世の頃に、中国と西洋の交流があった際に、中国から西洋に法律が輸入されて、西洋でも法律が作られるようになったのかもしれない。
法律(法律による国家運営システム)は、羅針盤、火薬、絹、活字印刷などに並ぶ中国の発明品だ。
ヨーロッパの発明にように見えてじつは中国の発明である物が意外に多い。

[6731] 日本のキリスト教は猿真似 h21.3.9
弥生時代に日本神道がキリスト教を真似て失敗したのは、キリスト教の心が日本人の心と合わなかったからである。
一方、西洋科学はヨーロッパ人の知覚欲の産物であり、知覚欲は人類普遍の感情なので、全世界で西洋科学は受け入れられるのである。
キリスト教の神話はヨーロッパ人独特の感情で書かれた物だから、日本人には受け入れられなかったのだ。
だから、今の日本でやっているキリスト教は眼先だけの猿真似であり、心はチンプンカンプンで何もわかっていないのだ。日本人にキリスト教の心がわかるのだったら、弥生時代でもキリスト教がやれたはずだ。日本人がキリスト教をやると、ノイローゼ馬鹿みたいだ。
一方、仏教はインド人独特の感情で書かれたものであるが、インド人と日本人は遺伝的に似ているから生まれつきの心も似ているので、仏教の神話は日本人にも受け入れやすかったのだ。
法律は神話が発展したものだから、西洋の法律もキリスト教と同じようにヨーロッパ人独特の感情で書かれている可能性が高い。
だから、明治維新のとき、日本がドイツの法律を輸入したとき、それが弥生時代のキリスト教のように日本人に受け入れられず失敗に終わるのを恐れて、ドイツの法律と古くから日本にある日本人の心を代表する神武天皇の神話とを抱き合わせて日本の法律としたのだ。本来は、西洋の食材と日本の食材を日本人の心で組み合わせたすき焼きのように和洋折衷にしてドイツの法律と神武天皇の神話をバラバラに分解して日本人の心で組み合わせて一つの日本の法律をちゃんと作ればよかったのだが、急いでいて時間がなかったので、ドイツの法律と神武天皇の神話を並べて2つセットで日本の法律としたのだ。それが、衆議院と貴族院の二院国会制である。そうすれば、西洋の法律に良くも悪くも日本の心を取り入れることができると考えたのである。今でも、日本国憲法に天皇制が残っているのはそのためである。そんな大雑把な日本の心の取り入れ方ではなく、もっとすき焼きのようなきめ細かな取り入れはいつになったらできるのだろうか。最近は、神武天皇が架空の人物であることがみんなに知られるようになってきたから、いつまでも日本が神武天皇制をやっているのは幼稚園みたいでみっともない。西洋の法律に神武天皇によらない日本人独特の心を上手く入れて日本の法律を作らなければならない。つまり、西洋の法律と日本社会独特の法則を日本人の心で組み合わせて一つの日本の法律を作り上げねばならないのだ。[例えば、日本社会独特の法則の一つに、“性欲に対して否定的である”ことが挙げられる。]

[6732] アマチュアとプロの違い h21.3.9
アマチュアとプロの違いは、ぼんやりわかるかはっきりわかるかの違いである。
同じことでも、アマチュアが言うとぼんやりにしか言えないが、プロが言うとはっきりと言える。
最初はぼんやりとしかわらないことでも、何度も考えているうちにだんだんはっきりわかってくる。
つまり、アマチュアとプロの違いは、一つのことを考えるのにかけた時間の違いなのだ。

[6733] なぜ日本神道は宗教を曖昧にしかやれなかったか? h21.3.10
今の日本神道は宗教をチンプンカンプンで曖昧にやっているような気がする。
それは、日本神道が宗教を超能力者制のことだと誤解していて、宗教が何のことかが正しくわかっていなかったからである。
宗教が何のことかが正しくわかっていなかったために、宗教とは何かがはっきりとわからなかったので、宗教を曖昧にしかやれなかったのである。[ヤブ医者が病気がはっきりとわかっていないために、曖昧模糊に患者を診るのと同じことである。]
宗教の定義が正しくわかっていたなら、宗教をはっきりとやれたはずである。[国語の試験がやれるのだったら、宗教で作った政令が神話に適[かな]っているかいないかもわかるはずである。]
今の科学の時代に新しく宗教を始めるべきではないこともわかったはずである。[神話方式では“粗い法律”しか書けないので、もはや現代の科学時代に起こる複雑な社会問題には対応できないのだ。]

[6734] 民間宗教は宗教ではない。 h21.3.10
民間宗教は宗教ではない。
なぜなら、神が実在の人間だし、宗教が神話を作らないからである。
今の民間宗教は、日本神道と同じように似非[えせ]宗教なのである。
超能力者制とまでは行かないが、宗教に対する誤解に基づいた活動であることはたしかである。
日本神道は国家宗教で日本政府と結びつきがあるという点で、政府と結びつきのない民間宗教とは違っている。

[6735] 日本神道は無意味 h21.3.10
人間社会は、昔は神話方式で政治をしていたが、今は法律方式で政治をしている。[政治とは社会を管理すること、つまり社会を見て社会を動かすことである。]
神話方式は、信者の心を満足する方法である。昔はまだ、科学がなかったので、社会を客観的に捉えることがなく社会についての法則がわからなかったので、人間の心を満足することしかできなかったのである。
法律方式は、物としての社会の法則と国民の心の両方を満足する方法であり、現時点においては最も優れた方法だと考えられる。
ところが、今の日本神道の宗教のやり方は超能力者制つまり超能力者かもしれない者の個人情報をただたんに混ぜた政令を作って信者に守らせる方法である。この方法では、信者の心も社会の法則も両方とも満足されない。こんな宗教のやり方は無意味である。日本社会を潰すやり方である。
日本神道が日本社会を支配したければ、日本社会に従わなければならない。今の日本神道は日本社会つまり物としての日本社会の法則と国民の心の両方に従っていないから、日本社会を支配することはできない。

[6736] 神武天皇の神話は日本人の心である。 h21.3.10
神武天皇の神話は日本人の心である。
しかし、それは毎日戦争に明け暮れていた弥生時代の日本人の理想とした心である。
弥生時代の人間は、戦争しかやることがなかったのである。
今の人間は、反対に戦争をやらなくなっているから、神武天皇の神話を現代の法律にすることは不適当であると考えられる。
日本神道は神武天皇以外を神としてはいけないから、日本政府が宗教団体と組みたければ、何か他の宗教団体と組むしかない。
宗教団体が日本人の心を代表するものであり、宗教団体が日本人の心を絶対に守ると国民に約束するのであれば、むしろ国民としては宗教団体と日本政府が組むことを歓迎する。

[6737] 日本神道の犯したまちがい h21.3.10
この度の私の件について日本神道が犯したまちがいは、
1)宗教を超能力者制度にしようとしたこと。
2)神武天皇以外の者を神にしようとしたこと。
である。
1は宗教の定義に反する。
2は宗教の一宗教一神の原理に反する。
どちらにしろ、世界の一宗教団体にすぎない日本神道の独断でやっていいことではない。
いくら日本神道に人気がないからといって、宗教団体が宗教のルールに違反したことをやってはいけない。
これまでに人気がない宗教団体が滅んできたように、日本神道も滅びるしかないのだ。
だから、日本神道の人は、何か他の仕事を探したほうがいい。

[6738] 戦争の時代は終った。[[6721]、[6722]参照。] h21.3.10
これまでが戦争の時代だったのは、これまでが文学の時代だったために、人類が物に対して盲目で心だけで戦争をしていたからである。
物に対して目を向ければ、戦争は物を破壊する行為にすぎない。戦争で得られる物は何もない。
現代は科学の時代であり、人類が物に対して目を向けるようになったから、戦争をやらなくなったのだ。

ところで、日本神道の神である神武天皇は戦争をすることしか知らない。
戦争の時代が終ったから、日本神道の役目も終ったのだ。
たとえキリスト教や仏教は残っても、日本神道は滅びるのだ。

[6739] 愛だけではいけない。 h21.3.10
愛だけでは免罪符制度のようなものができる。
だから、愛だけではいけない。
人間は愛以外の感情も満足しなければいけない。
例えば、正義心だ。
人間は正義心を満足するために新しく政府を作った。
それで、ヨーロッパには、教会と政府の連立政権の国がある。

[6740] 仏教の心 h21.3.10
仏教には正義心がある。
それもただの正義心ではない。
超然的正義心だ。
それを描いたのが釈迦の神話である。
日本人も正義心が強い民族である。
だから、江戸時代には仏教が日本の法律だった。
しかし、正義心だけでは人間は生きられない。[[6651]を参照。]
何か他の感情も満足させねば生きていられない。
仏教だけでは足りないのだ。

[6741] シャボン玉の歌 h21.3.10
シャボン玉の歌は、日本政府が神武天皇制をやって欲しくないという主張である。神武天皇制を控えめにやればやっていいという意味ではない。
神武天皇制をやると、日本が必ず戦争になり、戦争は物を壊すだけなので、神武天皇制に反対するのである。
日本の文学者が自分の文学作品に神武天皇の光の玉の悪い喩えを入れたのも、神武天皇制に反対するからである。
日本人はみんな神武天皇制に反対している。だから、日本政府が日本神道と組んだのがそもそもいけなかったのだ。

[6742] ノーベル賞 h21.3.10
世の中を科学の時代にすることが、今や世界中の人々の願いである。
日本の科学者にやたらノーベル賞受賞者が多いのも、日本を科学の国にしたかったからである。日本人に科学がわかって欲しかったからである。
日本は物が貧しい国だからこそ、物を大事にしなければならない。物を大切にする技術は日本で開発しなければならない。

[6743] 戦後はどうして医療保険制度ができたのか? h21.3.10
現代は科学の時代である。
科学では対象を物として見る。
戦後に医療保険制度ができたのは、みんなが人間を物として身体[からだ]として見るようになったからである。

[6744] 宗教は国民の心を決めることである。☆ h21.3.10
宗教は、国民の心を決めてしまうことである。[ちょっと、古臭い宗教観ではあるが。]
例えば、キリスト教国では、国民が愛の感情を満足しさえすれば幸福になれると決めている。神武天皇教国では、国民が戦う気持ちさえ満足すれば幸福になれるとしている。つまり、日本では戦争をすることが幸せだと決まっているのである。だから、これまで日本は国民を幸福にするためにしょっちゅう戦争をしていたのだ。[昔は文学の時代だったから、戦争を心だけで見ていたから、戦争がかっこいい何かに見えたのだろう。]
しかし、現代では、心は人間の大脳前頭葉皮質が荷う感覚であって、心は生まれつき客観的に決まっていて、他人が決められるものではないことが常識になっている。実際に、私は戦争なんかしたくない。
したがって、宗教は現代では成り立たない。宗教は、人間の心がまだなんだかよくわからなかった時代にできたまちがった制度である。昔の人は心が眼で見えないからどうにでもなると考えていたのだ。

[6745] 今日[こんにち]では宗教の自由が認められている。 h21.3.10
宗教は、国民の幸福を一つの感情の満足だけに決めてしまうことである。[ちょっと、古臭い宗教観ではあるが。]
しかし、現代は科学の時代だから、心は人それぞれ違うものだということがわかっている。
だから、国民が満足すべき感情を決めると、必ず幸福になれない国民が出ることになる。
国民が一人一人好き勝手に生きることにしたほうが、国民みんなが幸福になれる。
だから、今日では宗教の自由が認められ、国民が自分の心に合った宗教を選んで入ることができる。宗教に入れば、自分が具体的に何をすれば幸福になれるかを教えてもらえる。もちろん、宗教に入らなくてもいい。その場合には、自分の心の面倒は自分が見なければならない。

[6746] どうして神の入れ替えはいけないのか? h21.3.11
宗教団体には、神を入れ替えてはいけない決まりがある。すなわち、一宗教一神の原理がある。
それは、宗教団体がつねに神とともに成長するのであり、人々が神を受け入れれば信者が増えて宗教団体が大きくなり、反対に人々が神を受け入れなければ信者が減って宗教団体が小さくなるからであって、宗教団体が大きいのは神が大勢の人々に受け入れられている証拠であって、宗教団体が大きくなったからといって急に神を入れ替えて宗教団体の幹部が大勢の信者を自分のために利用してはいけないからである。
つまり、宗教団体はつねに人々のためにある機関でなければならないから、神の入れ替えは認められていないのだ。
例えば、日本神道の場合、神武天皇が日本人に受け入れられたから大きくなったのであり、大きくなったから明治維新のとき日本政府と組めたのである。だから、日本神道が日本政府と組めたのは神武天皇抜きではありえない。したがって、日本神道が神武天皇を捨てて他の神に入れ替えることは許されない。実際に、日本神道が飛鳥時代に日本神道をもっと大きくするために新しい神として人気の出そうな聖徳太子を作っても、聖徳太子は神武天皇と入れ替わって神にはなれなかったのだ。[聖徳太子がいい人すぎて、かえって日本人に嫌われたのかもしれないが。]この度の私の件でも、私がいっとき神にされただけで、結局私は神武天皇と入れ替わって神にはなれないだろう。[しかし、今の科学の時代では戦争をやらなくなったから、戦争をやるしかノウがない神武天皇も捨てるしかない。だから、日本神道も神武天皇とともに消えるしかないのだ。]
一般に、宗教団体が政府と組むと、国民がみな信者になり、上述の『神と宗教団体の正比例の法則』(神が人気があれば宗教団体が大きくなり、神が人気がなければ宗教団体が小さくなること)が成り立たなくなって自然界の調節が効かなくなるので、宗教団体は政府と組んではいけない。例えば、日本神道の場合、神の人気の割には宗教団体が大きすぎると考えられる。

宗教団体がどうしても神を入れ替えたければ、自由加入制すなわち自由脱退制にするか、あるいは別の宗教団体として最初から始めねばならない。

[6747] 宗教団体が政府と組む前と組んだ後 h21.3.11
宗教団体が政府と組む前は、自由加入制だから、神が人気があれば教団(宗教団体の略)は大きくなるし、反対に神が人気がなければ教団は小さくなる。例えば、神武天皇は弥生時代から室町時代頃までは日本人に人気があったから、日本神道は大きくなったのである。日本神道に入った人は、みんな神武天皇のように生きたい、つまり神武天皇のように毎日戦争をして暮らしたいと願ったのである。
しかし、宗教団体が政府と組むと事情は一変する。宗教団体が政府と組むと、強制加入制になるので、国民全員が信者になる。神が人気があろうがなかろうが教団の大きさは変わらない。しかも、宗教団体が国民の幸福を決めてしまう。例えば、日本神道の場合、日本神道の神は神武天皇と決まっているから、日本人はみんな戦争が幸福であることになってしまうのである。だから、明治時代にできた日本政府神道(日本政府と日本神道が組んだ組織)は、日本人を幸福にするためにしょっちゅう戦争をやってくれたのである。[私が小学生の頃、正岡淳之[まさおかあつし]君と遊んでいたが、正岡君は私といっしょに遊んでいるときにときどき「月月火水木金金」とか「小さな親切大きなお世話」とか言っていた。どちらも戦争のことを言っているのだ。正岡君の父親は善通寺[ぜんつうじ]に住んでいて自衛隊で働いていた。]
しかし、この世は宗教だけがすべてではない。現代は科学の時代だから、戦争の時代は終ったし、宗教自体もなくなりつつあるので、神武天皇を神とする日本神道の役目も終った。日本政府は組む相手を失った。今後は日本政府だけで日本の政治をやっていかねばならない。

[6748] 日本神道は日本人独特の心ではない。 h21.3.11
日本神道の神は神武天皇である。神武天皇は戦争をする神である。
神武天皇が日本人に人気があったのは、神武天皇の戦う心が日本人特有の心だと思っていたからである。
しかし、アメリカや中東の国もよく戦争をやっているから、戦争をするのは日本人独特の心とはいえない。戦う心は日本人だけのものではない。だから、日本人が日本神道にこだわる理由はない。
そもそも神話は法律だったから、国民独自の心を表すよりも法律として向いているほうが大事だったのである。
日本人の心も時代とともに変わってしまったようである。

[6749] 心は変わる!☆ h21.3.11
弥生時代の日本人と今の日本人とでは心がずいぶん違っている。
文化や文明が変われば、そこで暮らす人間の心も違ってくる。
神武天皇は弥生時代の日本人には人気があったが、今の日本人には人気がない。
弥生時代の日本人は戦争することが幸福だったが、今の日本人はそうではない。
昔の人間は宗教に頼りたがったが、今の人間は宗教に頼りたがらない。
長い時間をかけて生物が進化するように、大陸が移動するように、人間の心も変化するのだ。
だから、同じ一つの宗教をいつまでも続けるのはまちがっている。
宗教では神が変えられないから、神は古くなっていくだけだ。
現代では、宗教の古臭い神だけではなく、宗教そのものが人気がないのだ。

[6750] 作り事はくだらない。 h21.3.11
女の人はマンガが嫌いである。
なぜなら、マンガは作り話であり、作り話はくだらないからである。
それなら、宗教の神話だって作り話だし、神も作り話の登場人物だから、宗教もくだらない。
だから、女の人は宗教に入ってはいけない。
[法律は、実在の社会についての法則を書いたものだから、くだらないとはいえない。]

[6751] 宗教は信者を幸せにする会である。 h21.3.11
宗教は信者を幸福にする。
それぞれの宗教が独自の幸福観を持っている。
例えば、キリスト教では幸福とは愛情することである。
仏教では幸福とは禁欲することである。
神武天皇教では幸福とは戦争することである。[日本神道の本質は神武天皇教である。]
信者は自分が幸福になるために幸福観を実践する。
だから、キリスト教の信者は自分が幸福になるために愛情する。
仏教の信者は自分が幸福になるために禁欲する。
神武天皇教の信者は自分が幸福になるために戦争する。
昔は地球が止まっていて天が動いていたように、
昔は愛情や禁欲や戦争などが幸福だったのだ。
昔の人が天文について誤解していたように、
昔の人は人間の心についても誤解していたのだ。
昔は人間の心のことがよくわからず
心理学者もあまり自信がなかったので、
架空の人を先生にしなければならなかったのだ。
つまり、宗教とは『昔のまちがった幸福論』である。
[超能力者制度とはまったく何の関係もない。]

[6752] 幸福とは何か? h21.3.11
何が幸福かは、自分の心に訊[き]け!
人の心は一人一人違うから、他人に教えてもらうことはできない。

[6753] 新しい正しい幸福論 h21.3.12
宗教は古いまちがった幸福論である。宗教はまちがったインチキ臭い教えだから“臭教”である。2000年前の幸福論だから、まちがった幸福論である。
いくら宗教の自由が認められているからといって、まちがった幸福論を教える機関が世界中にあるのは不健全である。それでは、いろんな種類のまちがった幸福論を世界中に広げるだけだ。いくら宗教の自由が認められているからといって、まちがった幸福論を教える機関があっていいことにはならない。
古いまちがった幸福論を教える機関なんか世の中から早くなくしてしまって、新しい正しい幸福論を教える機関を作って欲しい。
私としては、人間はある程度実在のことを知ったら、自分の心を肯定してよい、それが幸福ということだと思う。

[6754] 日本神道の幹部を割り出す方法 h21.3.12
これまで私に不自然なちょっかいを出した者を尋問して、誰からそんな指示を受けたか訊[き]けばいい。
誰から指示を受けたかをたどって行けば、大元[おおもと]の日本神道の幹部にたどり着けるはずである。
日本神道の幹部は、許しがたいから当然全員死刑である。

[6755] 私アニメを作ることはなぜいけないか? h21.3.12
日本神道の幹部は、宗教を超能力者制度だと誤解して宗教をやっている。
超能力者制度はどんなやり方でやるにせよ、とにかくまちがった制度だからやってはいけない。
私アニメの製作者は眼先の仕事がよくできるだけで、自分がまちがった者のいいなりになっていることがわかっていない。
眼先の仕事がよくできるだけで、自分がしていることがまちがっていることがわかっていない。
殺し屋がいくら人殺しが上手でも、そもそも人殺しがいけないことだから殺し屋がいけないのと同じことだ。
私アニメは、超能力者制度というまちがった宗教観が具体的に表現されたものだからいけないのだ。
たとえアニメ作りの技術は下手でも、正しい思想で作られている作品のほうがいい。
私アニメを作った者は、どうして単純に私アニメを作ったらいけないと思えなかったかが不思議である。そんなこともわからずに、よく人間として生きていけるものだ。そんなのでよく文学作品を作ったりできるものだ。

[6756] キリストの遺品 h21.3.12
キリストは架空の人物だから、中世にコレクターの間で高額で売買されたキリストの遺品はみな偽物[にせもの]である。
日本神道の者がそれを真似て、私の物を盗んだ。
私が小学生の頃、万引きしたり、他人の自動車の初心者マークを盗んだことがあるので、日本神道の信者が超能力者制度を使って私の物を盗んだようだ。
超能力者制度はまちがった宗教観だから、やってはいけない。
だから、日本神道の信者が私から盗った物(特に、私の哲学日記第1巻)は私に返せ。

[6757] 宗教とは何か?《まとめ》☆ h21.3.12
宗教とは昔のまちがった幸福論である。
ただし、それは神話形式で書かれていた。[幸福論を神話形式で書いてはいけないという決まりはないからである。神が実在の人物であるとは神話には一言[ひとこと]も書いていない。]
信者が多くなった宗教では、国のようになり、神話方式で政治までするようになった。

今でも宗教に入る人は大勢いるが、宗教に入っても誰も幸福になれないのは、それが昔のまちがった幸福論だからである。
今日[こんにち]では、心は生まれや育ちによって一人一人違っていてしたがって幸福も人それぞれであり、宗教の言うように幸福を一つの感情の満足に決めることができないことがわかっている。つまり、今日では個人が自分の心に従って生きていけばいいだけであり、宗教なんかに入って団結しても仕方がない。宗教はやることがなく、あっても仕方がないから、ないほうがいい。宗教なんかに入らず、個人が自分で自分の心を満足したほうが自分の心をよりよく満足できてもっと幸福になれる。宗教は人間の幸福が特定の一つの感情の満足にしかないとする偏見をみんなに押し付ける会だから、なくなってしまったほうがいい。

[6758] インド文化 h21.3.12
インドは暑い国である。
そんな国で細かいことをすると気分がイライラしてたまらない。
だから、インド人は気短に話す。
だから、インド人の言葉は表面的には矛盾していることがある。
しかし、言葉の意味は論理的なのだ。[さすがのインドも夜になると涼しくて考えやすくなるからかもしれない。]
だから、「禁欲が幸福である。」と一見矛盾したことを言ったりするのだ。
たぶん、その言葉の意味は、“実在を冷静に知覚し、その知覚に心を従属させれば幸福になれる”と言うことなのだろう。

[6759] なぜヨーロッパ人は愛の感情が強いのか? h21.3.12
ヨーロッパは寒いところだから、ヨーロッパ人が生き残るためにはみんなで助け合わねばならなかった。
だから、ヨーロッパ人は他人に親切で、愛の感情が強いのである。
反対に、日本のような温暖なところでは、食料が豊富なので家族がテンデンバラバラに好き勝手に暮らしていた。
だから、日本人は他人に不親切で、エゴイストなのだ。そのために、小さい部族の間では戦争が絶えなかった。
ヨーロッパでキリスト教に人気があり、日本で仏教や日本神道(神武天皇教)に人気があるのは、それぞれの国で宗教ができる以前の文化を引きずっているからである。つまり、それぞれの国の昔の生活における幸福観を言葉にしたものが宗教にほかならない。
このように、現在の人種や民族による身体つきや気質の違いは、生まれ育った土地の違いによるものである。[例えば、皮膚の色の違いは他の獣に食べられないための保護色によるものである。つまり、白人は雪の中で、黄人は草の中で、黒人は土の中で目立たないような皮膚の色をしているのである。]
科学によって地球上の環境がほぼ同じになり、国際交流によってそれぞれの文化が交じり合い溶け合えば、しだいに人種や民族による違いがなくなって、同じ一つの文化になっていくであろう。
最終的には、全地球上の人種や民族による対立がなくなって、全地球が一つの国にまとまるだろう。[人間と人間の間で(例えば、男と女の間で、資本家と労働者の間で、政治家と国民の間で、宗教家と信者の間で)幸福の程度に極端な差があることもなくなるだろう。]

[6760] 宗教家は国民の代表者である。 h21.3.12
いくら民主主義を実現するために選挙があると言っても、
選挙の公約を聞いただけで、立候補者がいい人か悪い人かすぐにわかるわけがない。
しかも、選挙の前と後では人が変わる。
選挙の前は国民にペコペコしても、選挙の後では急にふんぞり返って自分のことしか考えなくなる。
これでは、誰を選んでも変わらない。選挙なんかやっても無駄だ。
だから、宗教がある。
宗教は古いまちがった幸福論をやめて、新しい正しい幸福論に変わるべきである。
つまり、宗教家が[超能力者制度をやらないのはもちろんのこと]くだらない神話や神なんか作るのをやめて、国民の生[なま]の気持ちをリアルタイムに忠実に代表する者になればいいのである。
もちろん、これまで通り政治家は宗教家に従わなければならない。
そうすれば、民主制の理想の政治を実現することができる。
だから、これまで国家宗教という隠れた組織があるのを大勢の国民が認めていたのである。宗教家という裏の政治家がいるのを大勢の国民が認めていたのである。


[6761] 神は架空の総理大臣である。 h21.3.12
いい政治家なんかひとりもいない。
そこで、昔の人は現実の政治家に嫌気が差して、「どうせいい政治家がいないのだから、いっそのこといない人を政治家にすればいい」と考えて、架空の政治家として神を作って、国民で神の投票をして(つまり、どれかの神の信者になって)、当選した神に(つまり、信者の多い宗教団体に)国を任[まか]せたのである。
神の公約が神話である。
宗教家は神の公約に従ってそれを実現しなければならない。
架空制には私も賛成である。
もっとも、私は神武天皇の公約には反対だから、私は神武天皇には投票しない。
それにしても、任期2000年とは、ずいぶん古い総理大臣だな。
架空の人間は不死身だから、長生きするのは当然だ。[神は神話があるかぎり生きているのだ。だから、昔の人は神を殺すために神話を焼いたのだ。]

[6762] 神の公約 h21.3.12
日本が第2次世界大戦に負けたために、神武天皇の票数はガクンと下がった。このままでは神武天皇が実在の政治家にも負けてしまう。日本神道が日本政府の下に敷かれることになる。[そもそもは、神武天皇の自業自得なのだが。]
そこで、日本神道は2000年ぶりに新しい神を立てねばならなくなった。
神とは、顔も身体もない、公約だけの政治家と考えればいい。
もっとも、今は国民の心の自由が保障されている時代である。
だから、新しい神の公約には、少なくとも国民の心の自由を保障することが述べられていなければならない。
つまり、新しい神は神話のような履歴書があるよりも、『日本国憲法前文』みたいなことを公約として喋ればいいのである。
実在の政治家の選挙と同じように、何人かの新しい神を作って、その中から一番いい神を国民の投票によって選ぶようにしなければならない。

[6763] 政治家はコンピューターがいい。 h21.3.13
政治とは、国を管理すること、つまり国を見て国を動かすことである。
国を見て、考えて、国を動かすことである。
国を見るとは、国についてのいろんなデーターを取ることである。
考えるとは、政治学の法則に照らして、適切な政策を決定することである。
国を動かすとは、政策を実行させることである。
国を見たり、国を動かすことはどうしても人手によらねばならないが、
考えることは、コンピューターでもできることである。
コンピューターのほうが“私情”を挟まないから、まちがいのない正確な判断を下すことができる。
今のところは、考えることは政治家まかせであるが、
将来コンピューター技術が進めば、コンピューターに任[まか]せられるだろう。
そうなれば、政治家も神も両方とも要らなくなる。

[6764] どうして国会に天皇がいるのか? h21.3.13
神は架空の総理大臣である。しかし、身体がないので、その存在を忘れてしまいがちである。
たとえ神が口が利けなくても、神が眼で見えると、他の政治家も神を意識して喋らなければならなくなる。
そこで、昔の人は銭湯の富士山の絵のように、国会議事堂の前に神武天皇の絵を描こうとした。
しかし、あまり上手には描けなかった。
それで、絵を描く代わりに神武天皇に似ている人を国会議事堂の前に置くことにしたのである。

[6765] 宗教は、実在の政治家による政治とまったく同じではない。 h21.3.13
宗教とは、架空の政治家に政治をさせることである。
それは、実在の政治家による政治とほぼ同じようなものである。
しかし、ヒルベルト空間(無限次元空間)が3次元空間と同じところもあるが違っているところもあるように、
架空の政治家による政治は実在の政治家による政治と同じところもあるが違っているところもあるのだ。
例えば、架空の政治家は身体がないから不死身で長生きするが、考えが初めて就任したときと一向に変わらないので時代遅れになりすぎる点が、実在の政治家による政治とは大きく違っている。
日本の政治は最近まで、徳川時代を除いては、神武天皇という架空の総理大臣を置いて時代遅れの政治をやっていたのである。

[6766] 浦島太郎 h21.3.12
浦島太郎は政治家のことだ。
田舎の子が日本神道にいい働きをしたと認められて政治家になったのはいいが、政治家はいつも国会議事堂の中に篭[こも]って神武天皇の下[した]で働いているだけだから、今の世の中を知らない。
神武天皇の正体が2000年前に作られた架空の総理大臣にすぎないことを知ってしまったら、びっくりして死んでしまうかもしれない。
浦島太郎の話は、時代遅れの宗教政治をしている政治家への風刺なのである。


[6767] あなたは神武天皇より上ですか、それとも下ですか?☆ h21.3.13
宗教とは、実在の政治家の代わりに架空の政治家に政治をやってもらうことである。
神とは架空の政治家であり、神話は神の経歴である。
昔の人は、神の経歴を見て、神をいい人か悪い人か決めたのである。
民族に選ばれた神は、民族の心の代表者である。

たしかに弥生時代の日本人にとっては、神武天皇が一番人気があった。
しかし、時代が進むと、外人のブッダも人気が出て来た。
徳川家康は自分のほうが神武天皇よりも上だと思ったので、神武天皇を追っ払ったのである。

今の政治家は自分のほうが神武天皇よりも下だと思っているので、神武天皇の下[した]でおとなしく政治をやっているのだ。
架空の政治家にしろ実在の政治家にしろ日本の政治家には政治的才能がないので、外国の政治家に日本の政治を任[まか]せたほうがいいかもしれない。[日本人はエゴイストなので政治家には向いていないのである。ブッダもエゴイストだが、私情を挟まないので、コンピューターのように信頼が置けるのだ。]

[6768] 国民の願い h21.3.13
国民の願いは、自分が幸せになることだけである。
そのためには、政治家が実在だろうが架空だろうがどうでもいい。
結果として、自分が実在において幸福になれればいいだけだ。
昔は、架空の政治家を立ててうまくいったが、今の時代は変化が大きいから、そんな政治のやり方ではうまく行かないのだ。
昔は、架空の政治家を立ててうまくいったから、宗教つまり架空の政治家に政治をやらせることが正しいことだとみんなは思ったが、今は一時[いっとき]いいだけですぐに古臭くなってうまく行かなくなることがわかっているから、10年に一度くらい神を入れ替えるならいいかもしれない。あるいは試しにやってみて、その結果大勢の国民が幸福になるなら継続とし、ならなければ別の神と入れ替えることにすればいいかもしれない。
宗教すなわち架空の政治家制の長所は、政治家が純粋に国民の意思の代表者であることと、政治家が私情を挟まないことである。短所は、政治家が就任したときと考えがまったく変わらず、時代に取り残されることである。だから、その長所を活かして短所を取り除いて宗教政治をやればいい。

[6769] あなたは神を信じますか? h21.3.13
神が本当にいると思っているのは子供だけで、大人は神が作り事の架空の人物であることを知っている。
昔は人間の寿命が短かくてみんなが馬鹿な子供だったからみんなが神を信じていたが、今は人間の寿命が延びて賢い大人になったからみんなが神が架空の人物だと知っている。

[6770] 中国にはどうして神制がないのか? h21.3.13
中国では、皇帝の権力が強かったために、架空の政治家である神を当時の皇帝が認めなかったからである。
他の国では、民衆の力が強かったために、架空の政治家が実在の政治家よりも強い権力を持てたのである。
神とは民族の心の代表者である。
つまり、神制度とは民主主義のことである。

[6771] 宗教が何かがわかってから宗教をやれ! h21.3.13
今の日本や世界の宗教家は、宗教が何かがわからないままいいかげんに宗教をやっている。
まず、宗教とは何かについてよく考えて、宗教とは何かがはっきりとわかった後で宗教をやらねばならない。
宗教を誤解して宗教をやるのは、宗教をやったことにはならない。
宗教に対する誤解のために人に迷惑をかけたのなら、正式に謝るべきである。
宗教が何であるかがわかるためには、宗教について考えねばならない。
宗教とは何かは、宗教的に考えてもわからない。
宗教とは何かは、科学的に考えることによってわかるのである。

[6772] 戦争を愛する感情 h21.3.14
日本民族の神が神武天皇であることからわかるように、日本人の心の奥底には『戦争を愛する感情』がある。
第2次世界大戦までは、日本人はみんな戦争を愛して生きていたのである。
戦後は反戦教育が盛んに行われたから、日本人の戦争を愛する感情が大分失われたのである。
しかし、それでも、今なお日本人の心の奥底には戦争を愛する感情が潜[ひそ]かに息づいているのである。

[6773] 今の日本の政治家はなぜ仕事をしないのか? h21.3.14
日本はこれまで長い間宗教政治でやってきた。
宗教政治では、政治家は架空の総理大臣である神の下[した]で行政を担当した。
しかし、戦後は架空の総理大臣である神武天皇が取っ払われたから、政治家は仕える主[あるじ]を失って自分が何をやったらいいかわからなくて、呆然[ぼうぜん]としているのだ。[[6766]の図を参照。]
だから、今の政治家は仕事をしないのである。給料を貰[もら]うために国会議事堂に座りに来るだけである。
日本は早めに神武天皇に代わる新しい架空の(つまり、実在の人間を超えた、言葉だけで出来た)総理大臣を作り出さねばならない。[とりあえず、新しい神には『失業率0の社会を実現する人、お金の要らない社会を実現する人、日本人みんなが貧困や戦争や偏見による差別などから解放されて、人間は富や地位ではなく人間性の向上を目指して生きていく社会を実現する人(『スタートレック』の孫引きだが)』というのはどうだろうか?つまり、『日本社会の理想的な未来像』を描けばいいだけだ。要するに、『日本人の生き甲斐』を追求できるような社会を作ればいいだけだ。日本人の生き甲斐として、例えば“知覚欲”というのはどうだろうか?(絶対に勧めるわけではないが。)もっとも、今の宗教家は宗教を超能力者制度だと誤解するほど馬鹿だから、今の宗教家に民族の生き甲斐を考えさせてはいけない。誰か別のもっと頭のいい人に考えてもらったほうがいい。

[6774] 釈迦が総理大臣になったら… h21.3.14
インドの神は釈迦である。
釈迦は、禁欲を喜びとした。
だから、インドでは面白い物を作って売ってはならない。つまらない物しか作って売ってはならない。ちょっとでも面白い物を作って売ったら死刑である。もちろん、外国から面白い物を輸入してもダメである。

[6775] 神は国である。 h21.3.14
戦前の日本の理想の国家像は軍事国家だった。
だから、日本の神は軍人である神武天皇だったのだ。
つまり、神とは理想の国家像の“擬人化”である。
今の日本の理想の国家像は何だろうか?
トマス=ホッブズ著『リバイアサン』より
今の日本はお米が不味[まず]いから、神が田んぼを耕しているってのはどうだろうか?晴れの日は田んぼを耕し、雨の日は家で本を読んだり自分が考えたことをノートに書いたりするのはどうだろう?

[6776] 神の入れ替えはいけないか? h21.3.14
神は、理想の国家像を擬人化した者である。
文化や文明は進歩するから、理想の国家像は時代によって変わる。
だから、神も時代によって変わるべきである。
モーゼもキリストに変わったから、神の入れ替えがいけないということはない。

[6777] なぜ多神教はいけないか? h21.3.14
神とは理想の国家像を擬人化した者である。
多神教だと、理想の国家像が複数あることになる。
一つの国に対し理想の国家像は一つであるべきである。
だから、多神教はいけないのである。
だから、マニ教は滅んだのだ。

[6778] バハーイー教 h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
イスラエルは、バハーイー教である。
バハーイー教の神バハーウッラーは公務員である。
イスラエルは事務国家を目指しているようだ。
バハーイー教徒が迫害されるのは、イスラエルが事務国家に似合わないからである。

[6779] 国家宗教と民間宗教 h21.3.14
国家宗教の神は、理想の国家像を擬人化した者である。
民間宗教の神は、理想の共同体像を擬人化した者である。
だから、民間宗教も大きくなれば国家宗教や世界宗教に成り得る。
国家宗教も始めは自由加入制の小さな民間宗教だったのであり、それが信者を集めて大きくなってやがては国民全員が入らなければならない強制加入制の国家宗教にまで成長したのである。村が町になり、町が国になったのと同じようなことである。
国家宗教の神は、奴隷解放や軍事国家や個人主義国家や福祉国家の象徴(後述)であって、民間宗教の神のように、ハダカでエッチに耽[ふけ]ったり、薬を使って幻覚の世界で幸福になるようなくだらない神ではない。

[6780] 福祉国家 h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
キリストは、弱い者に親切にする神である。
だから、キリストは福祉国家を擬人化した者である。[昔は福祉という概念がまだなかったから、国家の理想像を述べるためには、架空の人物であるキリストの言行として具体的に述べるしかなかった。だから、あんな長ったらしい神話になったのである。しかし、具体的な話のほうがわかりやすいから、いい方法だと思う。]
キリスト教国の理想の国家像は福祉国家なのだ。
日本にキリスト教の教会を建てた成果は一応あったと思われる。

[6781] 個人主義国家 h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
仏陀[ぶっだ]は、自分ひとりで正しい道を行く超然的な神である。
だから、仏陀は個人主義国家を擬人化した者である。
仏教国の理想の国家像は個人主義国家なのだ。

[6782] 日本の場合 h21.3.14
日本では、日本神道といっしょに仏教も人気が高かったから、
日本の理想の国家像は軍事国家で個人主義国家であることであり、
神の足し合わせもありということである。
つまり、必ずしも多神教がいけないということはない。[神の掛け持ちはいけないことではない。だから、ヨーロッパでは教会の屋根を緑色に塗ったりしているのだ。緑色←グリーン←グ←ノブ←延夫(私の名)。]
しかし、個人主義は今では憲法で保障されているから、あえて仏陀を神としなくてもいいから、
日本は神武天皇だけを神としたのだ。

[6783] 理想から現実へ☆☆ h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
だから、理想の国家像が憲法で保障されて現実のものとなれば、神はその役目を終えたことになる。
神は憲法の条文に姿を変えて、憲法の中で永遠に生き続けるのだ。
神は必ずしも擬人化(さらには超能力者化)されなくてもかまわない。[擬人化は、話を具体的にしてわかりやすくするため、超能力者化は話を面白くするための工夫である。]
日本国憲法(とくに前文)が、今や日本の神だと言ってもいい。

[6784] 科学と宗教は相容れないものではない。 h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
宗教とは、神を憲法として政治をすることである。
だから、宗教と科学は対立しない。宗教と科学は共存できる。
例えば、軍事国家でも科学は必要だし、個人主義国家でも福祉国家でも科学は必要である。

[6785] モーゼはなぜ滅びたか? h21.3.14
神とは、理想の国家像を擬人化した者である。
モーゼは奴隷を解放した神である。
つまり、モーゼは奴隷制のない国家を擬人化した者である。
西暦0年頃に、奴隷制のない国家が実現したから、モーゼは長きに渡る神としての使命を終えて、憲法の中で永遠に生き続けることになったのである。だから、モーゼはじつは滅びていないのである。
反対に、西暦2000年頃に神武天皇が滅びたのは、軍事国家が実現したからではなく、世界的に戦争(軍事国家)が禁止されたために神として捨てられたからである。

[6786] 今後宗教をどうすべきか? h21.3.15
宗教についてよく考えて、宗教が何であるかがわかれば、今後宗教をどうすればいいかもわかる。
奴隷制の国家がなくなったためにモーゼ教がなくなったように、
個人主義国家や福祉国家が憲法で保障されるようになったために仏教やキリスト教がなくなる。[キリスト教の『聖書』は、本一冊丸ごと使って“福祉”のたった一語を述べた書物である。新しい概念を創造するためには、多くの言葉を弄[ろう]するものだ。]
軍事国家が科学によって禁止されたために神武天皇教がなくなる。
神は憲法の条文に姿を変えて、憲法の中に生き続けていると思えばいい。
だから、過去の宗教は現代ではもはややる必要はない。

もっとも、これまでと同じように、『現代における理想の国家像を擬人化した者の物語』を新しく作って新しい宗教をやってもいいが、日本国憲法前文にもすでに理想の日本像が述べられているし、宗教はそれを擬人化したり超能力者化したりして話に尾ひれをつけるだけだから、新しく宗教をやる必要はないのだ。つまり、現代では神から擬人化や超能力者化を取り除いて話の本質だけを浮き彫りにした『憲法』があるから、宗教の長ったらしい作り話は要らないのだ。それに、現代では『社会学』という学問があるから、理想の国家についての“新しい概念”もそこで創造されて研究されるから、新しく宗教をやる必要はないのだ。[社会学において新しく作り出された概念には、例えば、カール=マルクスが作った“社会主義”がある。いわば、『資本論』は現代の聖書だ。]それに現代人は仕事や遊びで忙[いそが]しいから、政府の法律を守るだけで精一杯で宗教のような余計なことをする暇はないはずだ。

[6787] 失楽園☆ h21.3.15
カール=マルクスが頭の中に思い描いた理想の国家である社会主義国家も、いざ実現してみると意外につまらなかったりする。
イエス=キリストの姿を借りて述べられた福祉国家も、いざ実現してみると思ったよりも地味でつまらなかったりする。
現実は理想通りにはなかなかいかないものである。
夢は夢だから楽しいのであって、夢が実現されると夢がぶち壊しにされるだけである。
言葉は言葉であるうちが楽しいのであって、言葉を実現して眼で見えるようにすると楽しさとは程遠いものだったりする。
博士や大臣になれるまでは楽しいが、いざ博士や大臣になってみるとつまらないのもそのためである。

[6788] 聖書は文学である。 h21.3.15
聖書は、ヨーロッパ人にとっての理想の国家像を擬人化したキリストの物語である。
しかし、現実は理想通りにはなかなか行かない。
だから、いくら聖書に書いてあることを実現しようと頑張っても、現実の国家は聖書に書いてある通りにはいかない。
聖書に書いてあることの中には法律に取り入れられて実現できた部分もあるが、大部分は聖書の中だけにあって実現されていない。
したがって、聖書の記述の大部分は読んで面白いだけの文学にすぎない。
仏陀の話も神武天皇の話も同様である。
昔は実在のことがまだよくわかっていなかったので、宗教の神話は実現できることとできないことがごちゃ混ぜに書かれていたのである。
一方、現代の法律は実現できることだけで書かれている。
したがって、神話は面白いが実現できず、法律はつまらないが実現できるわけである。

[6789] 宗教家とは何か? h21.3.15
社会主義国家を実現しようとする『マルクス教』においては、カール=マルクスが神で、レーニンが宗教家だ。[もっとも、マルクスは写真が残っているから実在の人物だが。]
つまり、宗教家とは、神の話を実現しようとする者だ。
もっとも、神の話は文学だから、今で言うなら、宗教家は映画監督やアニメ監督といったところだ。
だから、神の話を書いた脚本家こそが神だ。つまり、[擬人化しようがするまいが]理想の国家像を書いた者が神なのだ。例えば、聖書や仏典や神武天皇の話を書いた無名の作家が神なのだ。キリストや仏陀や神武天皇は劇中に登場する架空の人物にすぎない。
科学でさえ実現するのは難しいのに、まして素人[しろうと]の書いた文学が実現できるわけがない。
空想は甘いが、現実は甘くないのだ。

[6790] 信者とは何か? h21.3.15
宗教とは、神が書いた理想の国家像を実現することである。
神が書いた理想の国家像を実現するために、宗教家の手足となって働く者が信者である。
要するに、信者とは宗教界の下っ端[したっぱ]の構成員である。

[6791] 中庸 h21.3.15
仏教は利己[りこ]主義であり、キリスト教は利他[りた]主義である。
利己主義すぎても、利他主義すぎてもうまくいかない。
利己主義と利他主義の真ん中だとうまくいく。
だから、日本にはお寺と教会が混在して全体として中庸を保っているのである。
お宮は軍事主義だから[建物に雰囲気が出ていないが]、あまり置かないほうがいい。

[6792] 鐘の音 h21.3.15
私が大分県中津市に住んでいたときには(平成20年9月中旬から同年12月中旬まで)、朝の6時半にお寺の鐘が鳴っていた。
鐘の音が届く範囲内は仏教の支配下にあるのだ。
「個人主義社会を実現するぞー」と朝一番にみんなに気合いを入れているのだ。
[私は中津市に住んでいたとき北と南を勘違いして道に迷ったことがたびたびあった。11月下旬の朝、南西に見えた雪をいただいた山(英彦山?)がすごく美しかった。]

[6793] 宗教について h21.3.15
神とは、『理想の国家像』を書いた者である。
宗教家とは、神が書いた『理想の国家像』を実現しようとする者である。
信者とは、神が書いた『理想の国家像』を実現するために宗教家の手足となって働く者である。
宗教とは、『理想の国家像』を実現することである。つまり、宗教とは社会を革命することである。

ただ、昔の『理想の国家像』は文学的に書かれていたので、実現できないことが多く混じっていた。
今の『理想の国家像』は科学的に書かれているので実現できるが、実際に実現してみると思いがけない問題が発生したりして思ったほど幸福ではないことが多い。[私もどんな『理想の国家像』が本当に幸福なのかはわからない。]
だから、今の実際にある社会を時間をかけて少しずつ改良していくほうが幸福な社会を実現するためにはまちがいのないやり方なのかもしれない。

[6794] どうすれば宗教が成功するか? h21.3.15
宗教とは、社会を革命することである。
だから、信者が多ければ社会革命つまり宗教が成功する。
つまり、神が書いた『理想の国家像』が大勢の国民に支持されれば、その宗教は成功する。
どこかに、そんな素晴らしい『理想の国家像』は転がっていないものか?
とにかく、まず新しい『理想の国家像』を作らねばならない。『超能力者制度』だと、超能力者[とされた者]に人間が従わねばならない体制が理想の国家像だということになる。そんな馬鹿馬鹿しい体制を誰が支持するものか!
[宗教が扱うのは、あくまでも理想の『国家像』であって、けっして理想の“人間像”ではない。]

[6795] 宗教は社会革命である。 h21.3.15
日本に仏教が伝えられたとき、日本ではそれまでの集団主義社会から個人主義社会への革命がなされた。
さらに、自分がおとなしく我慢するだけの社会がつまらなかったので、誰もが自由に自分の欲しい物を他人から横取りし自分が気に入らない奴を殺しまわれる社会を作りたいと思った。
それが神武天皇教つまり日本神道である。つまり、神武天皇は自由主義国家を擬人化した者である。
“自由主義”は日本国憲法でも制限つきである程度は認められている。だから、神武天皇は完全に捨てられたわけではない。
神武天皇の神話は、実力があれば田舎者でも出世できるとも読める。だから、神武天皇は実力主義国家を擬人化した者と言うこともできる。実力主義も現在の憲法では認められている。

[6796] 物語方式の問題点☆ h21.3.15
宗教では、『理想の国家像』を擬人化や超能力者化した物話[ものがたり]を憲法として用いている。
そのために、現行の憲法にはない問題が発生する。
1)今度の私の例のように、宗教を超能力者制度と誤解される虞[おそれ]がある。
2)宗教を、過去に実在した人物による倫理学だと誤解される虞がある。実際に、日本で用いられている高校の教科書では、釈迦やキリストが実在の人物だとされている。
3)宗教では、『理想の国家像』にいっぱい尾ひれをつけたり話をオーバーにしたりして物話を作ってあるために、逆に物話から『理想の国家像』が何であるかがわかりにくい。例えば、日本神道の神武天皇(本名は磐余“彦”[いわれひこ]と言い、神話(作り話)が丸出しである。)の物話からは、『理想の国家像』が、軍事国家なのか自由主義国家なのか実力主義国家なのか判然としない。読み手の解釈によって、『理想の国家像』がさまざまに違ってくるのでは困る。言葉による意思伝達がうまくいかないのでは、言葉の使い方が上手とはいえない。[江戸時代に作られた日本のお城に比べると、日本のお宮には[鳥居がでかいだけで]軍事国家の雰囲気がないから、本来神武天皇の物語には軍事的な意味はなかったのかもしれない。明治時代以降の日本神道の宗教家の神武天皇教に対する誤解のために日本が軍事国家にされたのだ。]
4)物話が長ったらしいわりには、言おうとしている『理想の国家像』が簡単である。例えば、聖書における『理想の国家像』は福祉国家というだけである。たったそれだけのことを伝えるために、あれだけ膨大[ぼうだい]な言葉を弄[ろう]するのでは、聞かされるほうがたまらない。時間の無駄である。
以上のことから、宗教の物話よりも政府の憲法のほうが言葉による表現としては優れていると考えられる。

[6797] どうして昔の人は憲法を物話形式で書いたのか?☆ h21.3.15
昔はまだ法律が今みたいに細かく詳しくはなかったから、法律は大雑把な憲法しかなかった。
宗教家が臨機応変で物語りに従った政令をその場で作って出していたのだ。
ところで、昔の人が憲法を物語形式で書いたのは、憲法を大勢の人に普及させるためである。
その証拠に、今の日本には立派な憲法や法律があるが、言葉が難しくて誰も読まないから、日本人はほとんど誰も憲法や法律の内容を知らない。
昔は今みたいによく整備された“法律による国家運営システム”(国会や各省庁や都道府県庁や市町村役場や裁判所や警察などを国中に設置して連携して働かせること)が構築できなかったから、とにかくまず広くみんなに『憲法』を読んでもらい知ってもらうことが一番大事だったのだ。そのために、憲法をみんなに親しみやすい物語風に書いたのである。[昔は司法・立法・行政を全部まとめて世界の各地にあるお宮やお寺や教会でやっていたのである。今は政府に機能が取られているから、それらはもはや抜け殻[がら]にすぎない。]
『国家計画』(『理想の国家像』のこと)を擬人化して聞き手との一体感を出したり、超能力者化して話にナンセンスな面白味を加えたりしたのも、とにかくみんなに憲法に対する興味を持ってもらうためであった。しかし、そのために、後世宗教に対するさまざまな誤解を生み出す原因にもなってしまったのである。

[6798] モーゼはなぜ滅んだか? h21.3.16
奴隷解放の国家計画が西暦0年頃にほぼ達成されたからである。
それなら、個人主義や福祉や自由主義などの国家計画もほぼ西暦2000年頃にほぼ達成されたから、釈迦やキリストや神武天皇などの神も滅びるべきである。
現代では世界中に教育制度が行き届いているから、『国家計画』をわざわざ擬人化したり超能力者化したり余計なことをして語らなくてもいい。だから、宗教(衆教、臭教)は要らない。

[6799] 神武天皇は平和の神である。 h21.3.16
神武天皇は“平和の神”である。なぜなら、お宮がそんな雰囲気だからである。
それが昔の日本の『理想の国家像』だった。
それが『理想の国家像』を擬人化した神武天皇のコンセプトだった。
昔の日本は各地の豪族が小競り合いを繰り返していたので、そんな戦[いくさ]ばかりの世の中は嫌だと思ったので、日本人は各地の豪族を治めて日本を統一した“平和の神”として神武天皇の物語を作り上げたのである。
それを、明治時代に日本神道の宗教家が神武天皇を戦う神に作り変えて、日本の『理想の国家像』を軍事国家に変えたのである。

[6800] 聖徳太子はなぜ作られたか? h21.3.16
飛鳥時代になると日本各地の豪族が暴れなくなり日本が一応平和になって、神武天皇の話の目的がほぼ達成されたからである。つまり、飛鳥時代頃に、神武天皇は滅びたのである。
そこで、モーゼに代わってキリストの話が作られたように、神武天皇に代わって聖徳太子の話が作られたのである。
聖徳太子は一度に十人の話を聞くことができたと言うから民主主義の神である。
それも現代ではほぼ達成されたから、聖徳太子も滅びたのだ。


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