[6601] 宗教は新世界の設計図である。 h21.2.24
宗教の作り話は、新世界の設計図である。
例えば、旧約聖書が紀元0年ごろに古くなったのは、紀元0年ごろの現実の世界が旧約聖書の設計図を追い越してしまったからである。
それで、紀元0年ごろに新しい世界の設計図を作った。それが新約聖書である。新しい世界には新しい主人公が求められる。それがキリストだった。キリストは宗教家が作り出した架空のキャラクターである。キリストは、エベレストの山頂のように、すべての人類が目指す究極の人間像なのだ。だから、実在の人物ではない。エベレストの山頂は実在するが、神は実在しないのである。いわば、『新約聖書』のキリストは『西遊記』の孫悟空のようなものだ。[キリストの十字架像の意味は、他人のために自分を犠牲にするということである。それは、しかし、日本人向きじゃない。]
西暦2000年の今、再び新しい神を作り出そうとしているのは、今の現実の世界が新約聖書やその他の宗教の作り話の設計図を追い越してしまったからである。新約聖書やその他の宗教の設計図によると、むしろ時代が後ろに戻ってしまうからである。
しかし、こうした宗教のやり方は、時代遅れで不適切だ。実在に基づかずに人間の空想だけで未来像を描いても実際にはその通りにはならない。『事実は小説よりも奇なり』というから、宗教家の予測など大方はずれだ。現代では、新しい科学の発見が時代を動かすのであって、もはや宗教家の夢が時代を動かすのではない。科学の進歩は日進月歩だから、いくら宗教家が新世界の設計図を書いてもすぐに時代遅れになる。
宗教は新しい楽園の設計図であるが、まず最初に目標を決めてそれを達成するやり方は疲れる。それよりも、『実在の法則』を守って一歩一歩確実に進んだほうが幸福への近道である。人類は微分方程式に従って運動するだけであって、その行き先は誰も知らないはずだし、誰にも決められないはずである。
もっとも、人類には自分で考えて生きたい者と他人に頼って生きたい者の2種類がいるから、他人に頼って生きたい者が宗教家の書いた新世界の設計図によって動かされることになるのかもしれない。しかし、他人に頼って生きたい者も幸福に生きたいはずだから、そんな当てにならない占いみたいな宗教よりももっとちゃんとした心理学や社会学に頼るはずだ。だから、宗教は無用だ。
今や、科学こそが新世界の設計図である。科学的認識の方法が成り立つぐらい文明が進んだからなしえたことである。それまでは、宗教の時代だった。そもそも、宗教が書けるのは作り話の設計図であって、実在の設計図ではなかったのだ。

[6602] 宗教と科学の違い h21.2.24
宗教は目標を書くことである。科学は真実を書くことである。
例えば、釈迦やキリストや神武天皇は人類の目標となる究極の人間像である。
人類は釈迦やキリストや神武天皇を目指して進化してきたのである。
しかし、今やそれらの神も時代遅れだ。
現実の人間が、釈迦やキリストや神武天皇を追い越してしまったのだ。
古くなった神は捨てねばならない。
それで、再びまた新しい神を作ろうというのだが、どうせ同じことの繰り返しだ。
これまでの神様は上品すぎて何の役にも立たなかった。
宗教家が想像力で作った架空の「絵空事の神様」よりも、実在の経験から帰納的に得られた『人間についての法則』が知りたい。
神は宗教家が空想で作り出した立派すぎる人間だから、どうせ人間は神になることはできない。神は、神になれない人間をかえって不愉快にするだけだ。神は、タンタロスの神話の飲もうとしても永遠に飲めない水のようなものだ。神は、永遠に食いつけないアンパン競争のアンパンのようなものだ。宗教家はできないことを人類にやれと命令する。これでは、宗教家の人類に対する意地悪だ。神は人類を嘲[あざわら]う悪魔だ。宗教家は人類のために天国ではなく地獄を作ったのだ。
それなら、実在の世界の中で誰でも実際にやれる『人間についての法則』のほうがいい。
人間の目標は実在する自分の心を満足することであって、自分が心の汚い宗教家が空想で作った架空のかっこいい神と同じになることではない。神は宗教家が作ったのだから、宗教は心の汚い宗教家と自分が一体化することだ。だから、人間は宗教では幸福にはなれない。つまり、宗教とは信者が神を真似ることではなく、信者が宗教家を真似ることなのだ。[神が実在の人間なら、信者が神を真似ることになるが、神は宗教家が作った架空のキャラクターだから、信者は宗教家を真似ることになるのである。]
科学者が実在の中に入りたがるのに対して、宗教家は実在の外に出たがる。つまり、科学者は実在の中で正しくしようとするが、宗教家は実在の中でまちがいを犯そうとする。そんなヤクザな宗教家を見習っても幸福になれるわけがない。例えば、聖書に著者名が書いていないのは、聖書がヤクザが書いた本だからである。

[6603] 目的因☆ h21.2.25
昔の人は世界を動かすものは、力やエネルギーではなく、目的だと考えていた。
物体が動くのは、世界が調和を求めるからだと考えていた。
それで、昔の人は未来世界の設計図を描いて、人間社会はそれを目指して発展していくことが必要だと真剣に考えたのである。
宗教とは、未来世界の設計図を書くことである。
旧約聖書や新約聖書の“約”とは、宗教家が神様と指きりげんまんの“約”束をして、『この設計図通りの世界を必ず作ります』という意味である。他の宗教も同じである。
しかし、昔の人が書いた未来世界の設計図は、どれもみな外れてしまったようだ。人間社会はキリストや釈迦や神武天皇が考えたように、愛のためや禁欲のためや戦争のためにあるのではない。今では、そんなものでは人間は幸福にはなれないことがわかっている。[戦争で幸福になる社会が、日本の宗教家が考えた理想の未来世界だったのである。]
近代になって科学ができたので、ますます設計図から外れてしまった。
宗教家は神様との約束を破ってしまったというわけだ。
最近になって新しい設計図に変えようとしたのは、これまでの設計図がみな外れすぎてみっともないので、宗教家が急いで新しい設計図に取り替えようとしたからだろう。そのために、超能力の元ネタが必要になったので、この度私が元ネタの人に選ばれたというわけだ。それまでの間は、超能力の元ネタが要らなかったので、たとえどんなに不思議なことが起きても、宗教家は無視していたのである。
今の人間から見ると宗教は無用の長物だが、昔はまず目標を立ててそれに向かっていくやり方が当前だと考えられていたので、それでこれまでずっと新しい世界の設計図を書き続けてきたのである。
しかし、現代社会は複雑だから、新しい世界の設計図を書くことは難しいし、人間の心は知覚に従属しているから、心は周りの世界によって変わってくるし、今と未来では世界が違っているから、未来世界の人間と今の人間とでは満足している感情も違うと考えられるので、未来世界の人間が満足している感情を現時点で決めることは不可能であると考えられる。未来人は、自分が満足している感情に我々が知らない新しい名前をつけて読んでいるに違いない。未来人の満足している感情はひとつだけではないだろう。つまり、現在の世界で未来の世界を捉えることがそもそも不可能なのである。世界は進化しているから、未来世界は現在世界の外にあって、我々の想像を大きく超えたものになっているだろう。つまり、未来世界の設計図よりも現実の未来世界のほうが上まわっているのである。だから、未来世界を現在世界の中で捉えることは無理なのだ。したがって、宗教は人間社会の進歩を阻[はば]むことになるだろう。[占いは自分で考えない者のためにあってもかまわないが、]もはや宗教はあってはならないものなのだ。
そもそも最近新しい設計図を作らなければならなくなったのは、みんなが宗教家の言うことを聞かなくなって自分勝手に世界を作るようになったからである。もはや宗教家の権威などない時代なのだ。

[6604] なぜプラトンは対話形式で書いたのか? h21.2.25
昔はまだ紙が貴重品だったから、言葉は会話が主体だった。
それで、プラトンは対話形式で書いたのである。
しかし、今は紙が貴重品ではなくなったので、言葉は文字が主体である。
だから、現代人は日記形式(独白形式)で書くのだ。

[6605] 『ノストラダムスの大予言』はなぜ外れたか? h21.2.25
『ノストラダムスの大予言』は昔のことは大体当たっているのに、未来のことは外れた。
1999年7月をすぎても予言に反して世界は残った。
私は小学生のとき、ノストラダムスの大予言を信じて自分は35才までしか生きられないのかと思ったものだ。
『ノストラダムスの大予言』が過去のことは当たるのに未来のことは当たらなかったのは、それが現代の作家の作り事だからである。つまり、現在までの人類の歴史を予言っぽく曖昧に言い換えて『ノストラダムスの大予言』を作ったのである。ノストラダムスという人物はいなかったのである。ノストラダムスの伝記もみな作り事である。

[6606] 宗教とは人間論である。☆ h21.2.25
宗教とは人間論つまり“人間とは何か何であるべきか”である。
人間のあるべき姿が神なのである。
人間は神を目指して生きていかねばならない。

だから、キリスト教圏では人間は愛のために、仏教圏では人間は禁欲のために、神武天皇圏では人間は戦争のために生きていかねばならないのだ。
しかし、今になってみると、それらの人間論はみなまちがっていたようである。

昔の宗教家が想像したようには行かなかったのだ。
人が何のために生きようが人の勝手だ。
人の生き方は宗教家が決めることではない。
昔宗教家に権威があったのは、昔の世界には『自由』という概念がなかったからだ。
今の世界には『自由』があるから、宗教家には権威がない。
宗教家は昔は人間学者だったが、今では当たらない占い師になってしまったのだ。
今の宗教家も私の超能力者制度をやる前に、“宗教とは何か何であるべきか”について考えてみたらどうだろうか?

[6607] なぜ作り話のキリストが自分の思想を語るのか? h21.2.25
キリストが新約聖書の中で自分の思想を熱く語るシーンがある。
キリストが自分の思想を語るのは、アニメで絵を描くのが面倒臭いときに言葉だけで済ますのと同じことである。つまり、宗教家が具体的に話を作るのが面倒臭いときに、キリストに直に思想を喋らせて済ませていたのである。
新約聖書はドキュメンタリーではなくドラマであって、キリストは実在の人物ではなくドラマの登場人物であって、キリストの台詞[せりふ]はドラマの脚本家である宗教家が考えた言葉である。
キリスト教がキリストが死んで100年以上経ってから始まったのは、昔話にすれば多少変なことでも誤魔化しが効くからである。そもそもキリストは実在しない人物なのだから、生没年なんかどうでもいい。キリスト教を始めてから100年以上前にキリストという人物がいたことにすればいいのである。キリストを実在の人物にしたのは、実在しない人物よりも実在する人物にしたほうがみんなが話を信用するからである。それが、昔からある宗教のやり方である。キリストの誕生日が“紀元前4年頃”なのもキリストが実在したかのように思わせる手なのだ。旧約聖書や新約聖書が神との約束だというのも、それが本当は嘘の作り話だからである。宗教では、人間心理を利用したいろんな騙[だま]しのテクニックが使われているのだ。
宗教は最初っから嘘ばかりである。こんなのが本当に人間論だといえるのだろうか?
宗教家はもともとは売れない哲学者だったが、自分の人間論にいろんな嘘の細工を施したら売れるようになったので、それ以後嘘をつくようになったのである。自分の抽象的な思想を具体的な神を主人公にしたおとぎ話にしたり、その神が実在する人物であることにしたり、さらに神が超能力を使えることにしたのもそのためである。つまり、宗教家とは文学の才能で出世した哲学者のことである。だから、宗教家の関心は実在の世界にあるのであって、文学者のように架空の世界の中だけに閉じこもっているのではない。
宗教は人間論であり社会論でもあるから、宗教家は一種の政治家のようなものである。当時は王がいたが、王の命令よりも宗教家の話のほうが面白かったから、王よりも宗教家に人気があったのである。それで宗教家に権威があったのである。
しかし、近代以降は人々が『自由』に生きることを求め、宗教家の人間論や社会論が鬱陶[うっとう]しくなったので、それで宗教家に従わなくなったのである。

[6608] 中国にはどうして神がいないのか? h21.2.25
中国にも、孔子や荘子の宗教がある。
しかし、孔子や荘子はもともと実在の人物であって、その人物が自分の思想を述べたまでである。
中国の哲学者は、文学の才能があまりなかったので、自分の思想を直に述べるだけで、他国のように神が主人公の長いおとぎ話を作らなかったのである。
中国は大きな国で、始皇帝の万里の長城を見てもわかるように王の権威が絶対的だったので、宗教家には王以上に出世する余地はなかったのだ。[中国の皇帝は日本のようなヘンチクリンな帝王ではなくて、ちゃんとした人間の帝王である。]
だから、中国では、宗教家にはあまり権威がないのである。

[6609] かっこいいパターン説 h21.2.25
神武天皇の光の玉の正体は、宗教家が空想で作ったたんなる“かっこいいパターン”である。
それをいかにも実際にあったことのように思わせるのが、日本神道の宗教家の腕前である。
だからいくら神武天皇の光の玉の正体について詮索しても、実在の世界の中には正解は見つからない。
そもそも神武天皇が実在の人物ではないので、いくら光の玉の正体について考えても無駄である。

[6610] 子供から大人まで楽しめる思想の勉強会 h21.2.25
宗教家が、神の作り話を実話さながらのディテールにしたのは、大人の鑑賞にも堪えるようにするためである。
神が超能力を使うようにしたのは、小さい子供にも楽しめるようにするためである。[さすがに、言葉を喋る動物は出てこないが。]
宗教家が目指したものは、子供から大人までみんなで楽しめる思想の勉強会だったのだ。
宗教は真理を追究する学問ではなく、たんなる宗教家の思想を広めるための勉強会である。

[6611] 感情をひとつに決めることはできない。 h21.2.26
人間が生きていくためには、ある程度の戦闘欲も要る。愛情も要る。禁欲も要る。
しかし、戦闘欲ばかりや愛情ばかりや禁欲ばかりだとうまく行かない。
人間の心の中にはつねに戦闘欲や愛情やその他の感情が同時にさまざまな強さで働いている。
人間の心は知覚に従属する。知覚は実在を認識する。つまり、知覚には実在に関するさまざまな知識を荷う細胞群がある。[今の自分の心は、自分が生まれつき持っている心が、自分が生まれた後で得た実在についての知識によって制限されながら発達したものである。]したがって、心は実在に従属する。だから、心の中では、実在に従属するさまざまな感情がいろんな強さで活動している。要するに、知覚で実在を正しく認識していれば、あとは自動で心がバランスよく働いてくれるのである。だから、知覚で実在を正しく認識することが一番大事である。そのためには、常日頃実在について考えることが大事である。それを怠る者は、知覚が実在化されず、心が実在に反することをして実在の中でまちがいを犯し、自分自身や他人を不幸にすることになる。[私も毎日楽しく哲学日記を書いているわけではない。時には、かなりつらい気持ちで考えながら書くこともある。]
まあ、とにかく、これまでの宗教がやってきたように何かひとつの感情だけを働かせて生きることは、話がわかりやすくなるけれども、そんな生き方では人間の思考や行動パターンが偏ってうまくいかない。だから、これまでの宗教の思想はみなまちがっていたのである。人間が幸福に生きるためには、もっとたくさんの感情を程よい強さで活動させねばならない。ひとつひとつの感情をどの程度の強さで働かせればよいかをいちいち書くのは難しいから、その代わりに『心が知覚に従属する』ことを使って、具体的な知識の集まりとして表現するのだ。つまり、実在に関する科学知識を習得することが、道徳すなわち正しく心を働かせることの言い換えなのである。だから、科学知識があれば、もはや宗教は要らないのである。だから、世界中に科学知識が普及すると、宗教に入る人が減るのだ。現代では、これまでの宗教のような大雑把な書き方では通用しないのだ。
今の人間は正しくなければ納得しない。どんなに面白くてもまちがった思想には従わない。だから、宗教すなわち文学的に味付けされたまちがった思想は、現代では売れないのだ。現代では、多少面白くなくても正しい思想のほうが売れるのである。[キリスト教は愛情さえあれば他の感情は要らないという思想であり、仏教は一切の感情が要らないという思想であり、神武天皇教は戦闘欲さえあれば他の感情は要らないという思想であるから、みなまちがった思想である。]

[6612] 神武天皇について h21.2.26
神武天皇の光の玉の元ネタは、中国の鳳凰[ほうおう](つまり、火の鳥)ではないだろうか?
鳳凰は金色に輝く鳥で、生まれ変わるときには炎の中に突っ込むから、神武天皇の光の玉の話によく似ている。[科学忍法“火の鳥”は、『科学忍者隊ガッチャマン』が搭乗するゴッドフェニックスの必殺技である。]
なにより、中国は日本の隣の国である。
中国の鳳凰の伝説が日本に伝えられて、神武天皇の光の玉の話になったのである。
鳳凰の伝説が日本に伝えられたのは、神武天皇がいた時代(紀元前660年〜585年)よりも後かもしれないが、神武天皇は架空の人物だから、中国から鳳凰の話が日本に伝えられた後で神武天皇の話を作ったと考えれば問題はない。
天皇の寿命が正常化するのが西暦200年頃だから、その頃に現在の神武天皇の話ができて、神武天皇から第15代目ぐらいまでの天皇の話も作って、神武天皇の子孫とされている天皇を置いたと考えればいい。つまり、その頃に、日本神道ができたと考えられる。年代的に、日本神道はキリスト教の真似とも考えられる。

[6613] どうして日本の文学者は神武天皇の光の玉を使うのか? h21.2.26
梶井基次郎の『檸檬』や武田泰淳の『ひかりごけ』や川端康成の『雪国』などの文学作品には、神武天皇の光の玉が使われている。
多くの文学者が神武天皇の光の玉を題材に使ったのは、光の玉を作品中に用いることによって、同じ光の玉が登場する神武天皇の話も架空の文学作品にすぎないことを読者に訴えているのだ。つまり、日本神道の神である神武天皇が架空の人物であって実在の人物ではないことを読者に教えているのである。
レモンは身近の食べ物だし、ひかりごけはカビだし、雪国は寂しい田舎である。どれにも、讃[たた]えるイメージはない。だから、日本の文学者が神武天皇を讃えていたとは考えにくい。

[6614] 心 h21.2.26
人間の脳は、有機物でできたコンピューターである。
コンピューターは無機物でできているが、人間の脳は有機物でできたコンピューターなのだ。
コンピューターの情報処理素子はトランジスターだが、人間の脳の情報処理素子は脳細胞だ。
トランジスターは電子が動くだけだが、脳細胞にはその他に『感覚』を発生する性質がある。
脳細胞が『感覚』を持つ性質を最大限に活かした器官が、心なのだ。

[6615] シャボン玉の歌 h21.2.26
シャボン玉の歌(野口雨情作詞、中山晋平作曲、1922年発表)は、シャボン玉が神武天皇の光の玉の喩えである。
シャボン玉の歌の歌詞は、日本政府は神武天皇教を控えめにやるべきだという主張であり、人間には戦闘欲がある程度は必要だがありすぎてはいけない、人間は考えもせずにただ戦うだけになってはいけないと言っているのだ。

[6616] 日本政府について h21.2.26
日本政府は、日本の行政機関であリ、日本国民を管理している。
日本政府は、日本神道に従っている。
しかし、日本神道は人間の戦闘欲のみを肯定するまちがった思想である。
だから、日本政府は日本神道と縁を切るべきである。


[6617] 宗教がやるべきこと☆ h21.2.26
宗教とは、人類を思想で支配することである。
ところが、科学にかぶれた今の人類は正しい者にしか従わない。
だから、今の人類を支配するためには、正しい思想でなければならない。
したがって、宗教は、まず『正しい思想』を準備し、それをもとにして神を主人公とする具体的で面白い話を作らなければならない。
将来、人類の文化が進んで宗教が正しい思想でなくなったら、また新しい宗教を作らなければならない。

[6618] どうして政治家は安楽死法を認めないのか? h21.2.26
私が以前提案した安楽死法を認めると、医者の収入が減るからである。
医者は自分の収入が減るのが嫌なので、政治家に圧力をかけて安楽死法を認めさせないのである。
安楽死法があれば、いつでも好きなときに死ぬことができる。自分の人生が何かの原因でうまくいかなくなったら、すぐに死んで、その後の人生の苦しみを免れることができる。
医者は安楽死法を認めても普通の人よりも待遇がいいから、けちけちせずに安楽死法を認めなさい。

[6619] 日本神道(改) h21.2.26
今の日本があるのは、神武天皇のおかげである。
ただし、それは超能力者としての神武天皇ではなく、戦闘欲者としての神武天皇である。[超能力者としての神武天皇は、子供しか相手にしないだろう。]
日本人はこれまで神武天皇を見習って自分の戦闘欲を高めることによって、日本を世界有数の優れた国にしてきた。
だから、日本人にとって『戦闘欲を高める思想』は善であると考えられる。
だから、思想はそのままにしておいて、神武天皇とは違うキャラクターで、現代および未来の日本人の生活を舞台としたストーリーにすればいい。今の日本人に受けるには、戦闘欲が強いだけではなく、知覚欲が強く、戦争をしない、超能力を使わないキャラクターが活躍する縁起のいい出世話にすればいい。
しかし、現代は『記録の時代』だから、嘘の過去の歴史を作ることは現代においては不可能だと考えられる。それに、これまでに私が哲学日記に書いたように、すでに宗教のやり方は研究されて知られてしまっているから、これまでの宗教と同じやり方は通用しない。今は、宗教の神を実在させることはできない時代なのだ。
それなら、NHKドラマ『おしん』やフジテレビアニメ『ドラゴンボール』のように、視聴率がよかったテレビ番組を再放送しても同じことである。たとえ文学であっても、心は実在と共通するから、文学でも十分その役目を果たすと考えられる。したがって、わざわざ危ない宗教なんかやらなくても、国民の戦闘欲を高める文学やテレビ番組を作ればいいのである。
それに、どんな嘘であるにしても、そもそも嘘をつくのはよくないことである。真理欲に反することである。ちょっとした嘘をついたために、人類の歴史が滅びることだってありえる。だから、最初から嘘の文学にしたほうがかえって安全なのである。

[6620] どうして日本の文学者ははっきりと神武天皇が架空の人物だと言わなかったのか? h21.2.27
それは、文学者が眼先の言葉遣いは上手だが、頭が悪くてはっきりしたことがわからないからである。
文学者は、宗教に関心がある者が多いが、科学者のように割り切って考えることができないから、これまで神武天皇が架空の人物だとはっきり断言した者がいないのである。文学者はてきとうに思ったことをすぐ言葉にするだけで、頭を使って深く考える習慣がないから、いつまで経っても割り切って分かることがないのだ。
一方、科学者は自分の専門の研究ばかりして、宗教のようなつまらない問題に関心を持っていない。
科学者ははっきりした考え方をするが、宗教に目を向けないので、これまで誰も神武天皇が架空の人物だと言わなかったのである。科学者は、宗教は文学部の問題だと思って、これまで宗教について誰も考えなかったのだ。
そういうわけで、これまで神武天皇は実在の人物として生き残ってきたのである。
日本の文学者が割り切って考えないのは、神武天皇の作り話に論理性が足りなかったせいだろう。どこの国でも、どの宗教でも、宗教における神の作り話は、どれも言葉の意味がぼやけていて論理性がない。だから、宗教に長く入っていると、だんだん頭が悪くなるのだ。だから、文学者には宗教に関心がある者が多いのだ。文学部の者は、言葉の意味がぼやけて話がグチャグチャしていて面白くない奴ばっかりだ!!宗教家と文学者は同じ穴のムジナだから、宗教家が科学時代の今でも宗教をやめないように、文学者も神武天皇が実在の人物だと思っていて、面白半分に神武天皇の光の玉を文学に用いるのだ。要するに、文学者はバカだから、神武天皇が実在すると思っているのである。

[6621] どうして私アニメを作るのか? h21.2.27
それは、アニメの製作者が、私が架空の人物だと思っているからである。
アニメの製作者が、私を日本神道の宗教家が空想で作った架空の神にすぎないと思って、私をデフォルメしたさまざまなアニメのキャラクターを作ったのである。
しかし、実際には、私は実在の人物であって、宗教家の作り話の主人公である神の超能力の元ネタの人にすぎず、神本人とは関係がない。つまり、本来は神は宗教家が考え出した架空の人物にすぎず、神の超能力も宗教家が空想で作ったものであって、神の超能力の元ネタの人を神と見なすことはないのだが、今の日本神道の宗教家が宗教を誤解していて超能力者が実在すると思っていたために、超能力者かもしれない私をまちがって神だと考えたのである。
宗教家は神が実在の人物だと考えているのに、アニメの製作者は神が架空の人物だと思っていて、アニメの製作者は神をアニメで使っても神が文句を言うことはないと考えたから神をアニメで使うことにしたのである。
しかし、実際には私は実在の人物である。だから、こうして哲学日記を書くことができる。宗教家もアニメの製作者も両方とも誤解しているのだ。神が実在の人物だと誤解した日本神道の宗教家も悪いが、日本神道の宗教家の言っている神が本当に架空の人物かどうか確かめもせずに一方的に架空の人物だと思ったアニメ製作者も悪い。
ともかく、最近は、文学者でも神は実在しないと考えるようになっているようである。

[6622] どうしてイランイラク戦争があったのか? h21.2.27
私が高校生の頃に、イランとイラクが戦争をしたのは、イランとイラクの宗教家が宗教を誤解しているからである。
イランとイラクの宗教家は、宗教が人類が神の命令を聞くことだと誤解しているのである。
そのせいで、多くの人命が犠牲になった。
アメリカの宗教家もその気が濃いから、アメリカ国民は注意しなければならない。
知的後進国では、宗教家もバカなら、その宗教家におとなしく従う国民もバカだ。

[6623] 天皇は何のためにいるのか? h21.2.27
日本神道を始めた頃の宗教家は、神武天皇が実在の人物だと思わせるために天皇を置いた。
しかし、今の宗教家は、天皇が本当に神武天皇の子孫だと思っている。
今の宗教家は宗教の何たるかがわかっていない。
宗教家も100代を超えるとただのバカになってしまうようだ。

[6624] 私アニメはどうしてあるか? h21.2.27
アニメの製作者が、日本神道の宗教家と同様に、神が実在の人物であり、人類が神に従わねばならないと思っていたからである。
それで、アニメの製作者は宗教家の言いなりになって、[詳しい理由はわからないが、]私アニメを作ったのだ。
日本の文学者が、自分の作品に神武天皇の光の玉を入れたのも、宗教家の言いなりだったからである。
文学者やアニメ製作者が日本神道の宗教家の宗教に対する誤解に盲従したために、神武文学や私アニメが作られたのである。
アニメ製作者も文学者と同様にバカであって、神が実在の人物だと思っていたのである。
文学作品に神武天皇の光の玉を入れたり、アニメに私の個人情報を入れたりしても何にもならない。だから、それは宗教ではないのである。

[6625] どうして日本の政治家は神制の政治をするのか? h21.2.27
日本の政治家が、アニメの製作者と同様に、神が実在の人物であって、人類が神に従わねばならないと思っているからである。
それで、日本の政治家は宗教家の言いなりになって、神制の政治をしてきたのだ。
日本の政治家が、神制の政治と民主制の政治を混ぜた政治をしているのは、その時代における神の権力と国民の権力の両方の強さを考慮しながら政治をしているからである。
要するに、政治家も文学者やアニメ製作者と同じようにバカであって、神が実在の人物だと思っているのだ。
日本人に戦闘欲を吹き込む政治をするのは多少意義があるかもしれないが、それ以上に政治家が宗教家の言いなりになることはない。
しかし、日本人が戦闘を好むのは、日本人が神武天皇に従ったからではなくもともと日本人がそういう心を持った民族だからである。つまり、日本人の生まれつきの心を具現化した人物が架空の神武天皇というわけだ。だから、宗教家が文学者やアニメ製作者に口出しなんかしなくても、日本では戦闘欲を持ったキャラクターが活躍する文学やアニメが自然に作られるし、宗教家が政治家に口出しなんかしなくても、日本ではひとりでに国民の戦闘欲を刺激する政治が行われるのだ。だから、わざわざ宗教なんかしなくてもいいのである。

[6626] 宗教も科学と同じである。☆ h21.2.27
宗教は、思想で人類を支配することである。
しかし、宗教が人類を思想で支配できたのは、人類に従っているからである。宗教家が人類の生まれつきの心を具現化した神の作り話を作ったから、宗教家が人類を支配できたのである。
つまり、宗教は実在する人間の心に従ったから実在する人間の心を支配できたのである。
その点では、宗教も科学と同じであって、『実在を支配するには実在に従わねばならない』のだ。
宗教は人間の心についての科学であるとも言える。
つまり、宗教は科学の一種なのだ。


[6627] キリストの十字架像 h21.2.27
キリストはヨーロッパの宗教家が作った架空の人物だから、キリストに何をしようがかまわない。
だから、キリストを十字架に串刺しにした像が世界中の至る所に作られたのである。
アニメ映画『トムとジェリー』のトムがスライスにされたりペチャンコにされたり爆弾で吹っ飛ばされたりするのと同じことである。
そもそもキリスト教のキリストに関する話が作り話だから、キリストをオーバー気味に殺したのだ。[しかし、キリストの作り話を作り話だと思わないバカのために、キリストの十字架の話は拷問の原因にもなった。]
キリストがヨーロッパ人の生まれつきの心を具現化したものとすれば、ヨーロッパ人は生まれつき残酷な心を持っているといえる。しかし、それは、寒冷地では稲が育たず[麦は育つが米ほど美味くはなく]食べて生きていくためには動物や人間を殺さなければならなかったからであって、けっしてふざけているからではない。

[6628] 日本のアニメと『スタートレック』の違い h21.2.27
私は昨日『スタートレック(宇宙大作戦)』を全話見終わった。1日に2〜3話のペースでほぼ毎日見てきた。[高知に帰省しているときは見れなかった。10話に1話ぐらい録画ミスで見れなかった回もあった。]
それで、今日はひさびさに『ミンキーモモ(2作目)』第15話「忍者出現!忍びのモモ」を見た。インターネットテレビで『天地無用!魎皇鬼 第1期 (OVA)』も見た。
『ミンキーモモ』も『天地無用!』も、ノリがよくてつまらなくはないが、気分が楽しいだけであって自分で考えようとする気持ちが足らず、“現実的な厳しい思考は他人に任せて、自分たちはどうでもいいことをやって楽しくやればいい”という気持ちがあるのがわかる。
一方、『スタートレック』には、“人間は考える生き物である”という気持ちが濃く入っている。
日本のアニメに知覚欲(思考欲)が入っていないのは、日本人が心が楽しくさえあれば頭で考えなくてもいいと思い上がっているからである。
毎日日本のアニメを見ていると、自分で考えようとする気持ちが失われて、いずれは考えないバカになってしまいそうだ。
そんなことだから、日本人はいつまで経っても、宗教を超能力者制度(超能力者が実在し、人間が超能力者に従わねばならないこと)だと思っているのだ。[はたして、超能力者制度が楽しいだろうか?]
一方、アメリカ人は、自分で考えて問題を解決しようとするから、頭で考える気持ちが日本人よりも強いのだ。
日本人は、『考える気持ち』についてはまだまだ外国の文化を見習わねばならない。

[6629] 理系の見方 h21.2.27
宗教は、本来は思想の勉強会なのに、現在では超能力者制度になっている。
それは、ちょうど『浦島太郎』のおとぎ話を、本来は宗教の信者に対する批判の話なのに、UFOに乗って宇宙旅行をした男の話と解釈する者がいるのと同じである。[『浦島太郎』の話は、日本神道の信者が神武天皇の話に夢中になりすぎて、現実を見失ったという話である。宗教に夢中になりすぎてはいけないという信者に対する警告である。後から付け加わったと言われている玉手箱の話は、神武天皇の話が作り話であることをみんなにばらすと殺すぞという脅しである。]
つまり、それらは、物事を物質的に捉[とら]える理系の見方である。
科学の影響を受けて、宗教に対して科学的なものの見方をしたために、いつしか宗教が超能力者制度になってしまったのだ。
今の宗教は、本来の宗教と科学がごちゃ混ぜになったために、本来の宗教の意味を見失って宗教音痴になっている。
宗教は、もっと文学的なセンスで捉えなければならない。宗教は文学だから、文系の見方でなければ真意はわからない。宗教は心で見るものであって、物で見るものではない。
つまり、日本神道とは、『日本人の心』についての勉強会である。すなわち、日本神道は日本心道である。神とは、氏神(自分の先祖の偉い人)のように『自分が見習うべき者』であって、超能力者制度のように“自分が従わねばならない者”ではない。

[6630] 信者は物憶えが悪い。 h21.2.27
『浦島太郎』の話にあるように、宗教の神についての話はそんなに夢中になるほど面白いものだろうか?
たんに、信者がお上品ぶっているだけではないだろうか?今はたくさん文学作品があるから、宗教の神についての話だけではなく、他にいくらでも面白い話がありそうである。
ところで、私が小学生の頃、マンガを面白く読むために、一度読んだマンガの内容を忘れるまで3ヶ月待ってから、読み返すようにしていた。
だから、信者が聖書や神武天皇の話を楽しむためには、それらの話を忘れるまで3ヶ月待ってから読み返すようにしなければならないはずである。つまり、3ヶ月間は宗教をやれないはずである。
それなのに、信者は毎日楽しそうに宗教をやっている。
信者はよっぽど物憶えが悪いのだろうか?

[6631] どうして天皇を置いているのか? h21.2.28
私は作り話だからと言って必ずしもくだらないとは思わないが、日本人の多くは作り話というだけでくだらないと思っている。
神武天皇の話が作り話だと思われると、日本人にそっぽを向かれるので、わざわざ実物の天皇を置いて神武天皇が実在した人物であるかのように思わせているのだ。
そのために、日本では弥生時代に超能力者が実在したことになってしまった。
ますます、くだらないだけである。

[6632] どうして日本人はバカなのか?☆ h21.2.28
神武天皇の話に、『考えようとする気持ち』が入っていないからである。
もっとも、このことは日本特有ではなく、キリストの話にも『自分で考えようとする気持ち』が見られない。
やはり、それは、『浦島太郎』の玉手箱の話のように、信者に宗教について考えられるといずれはそれが嘘の作り話でもっている会であることがばれてしまうからである。
だから、宗教では神の話には『考える気持ち』を入れないようにしているのだ。
だから、宗教に長く入っていると、考えないバカになってしまうのである。
日本人がバカなのは、日本人の多くが日本神道に入っているからである。

日本神道は、日本人の心の一部分と言うことにして、日本神道だけやるのはやめよう。
要するに、日本には『神武天皇の神話』があるだけのことである。日本人なら誰でも一生に一度はそれを読んだことがある。[私も小学生の頃に、高知市中ノ橋通りにある金高堂書店で「海幸山幸」とか「いなばの白うさぎ」とか「やまたのおろち」とかの話が載っている『日本の神話』の絵本を親が買ってくれて読んだことがある。]それでいいじゃないか。

[6633] 作り話のほうが心を描[えが]きやすい。 h21.2.28
心を描くためには、実在の中でやるよりも作り話でやるほうがよく描ける。
実在の中でやると、実在自体の法則によって制限されて、心が見えにくくなるからである。
だから、宗教では作り話の世界で民族の心を描くのである。
つまり、宗教とは民族の心を勉強することである。
日本人は生まれつき日本人の心を持っているが、それを知覚で理解することが大切なのである。
明治政府が科学と宗教の二本立てでスタートしたのも、人間には物の知識と心の知識の両方が必要だと考えたからである。
昭和になって宗教が超能力者制度になったのは、宗教を誤解する者がいたからである。神についての作り話をその心を理解せずに、言葉だけで捉える者がいたからまちがったのである。宗教界にはときどきそんな変なことをする者がいて困る。
最近は、心の知識を学校で教えていない。しかし、人間には心の知識が必要である。偏見やまちがいにならないようにすれば教えたほうがいい。それが『国語』の授業の役割なのかもしれない。科学知識なんて専門家以外は使わないから、むしろ心の教育に力を入れたほうがいい。

[6634] 日本神道は政治家だけが入る宗教ではない。 h21.2.28
神武天皇はいく度かの戦いの末に日本の王となった。
神武天皇が王になったのは話の結末にすぎず、大事なのは『戦う心』である。
だから、神武天皇が王になったからと言って、日本神道が政治家だけが入る宗教と言うのは曲解である。
神武天皇の『戦う心』は日本人全員が、世界の人類全員が見習う価値がある。

[6635] 神武天皇はなぜ実在しないのか? h21.2.28
神武天皇は話の上では王で将軍で超能力者の一人三役の男ということになっている。
しかし、神武天皇が王であったとすると、初期の頃の天皇の業績についての記録がほとんど残っていなかったり、年齢が140歳ぐらいもあることと矛盾する。[初代の神武天皇の記録が残せるなら、それ以降の天皇の業績や年齢についての記録も残せるはずである。昔の日本人は、神は中国の仙人のように長生きするものと考えていたから、天皇が長生きするのは当然だと考えたが、今の人間の目から見るとかえって不自然なだけである。]
だから、神武天皇は実在しなかったと考えられる。
したがって、神武天皇の話は実話ではなく架空の作り話であることになる。
誰でも多少の時間をかけて考えれば、神武天皇の話が作り話であることはわかるはずである。[文学者は書くことに時間を取られて考える時間が足りないから、神武天皇の話が実話だと思っているのである。]
それでも、神武天皇の話が価値を失わないのは、そこに盛られた心が優れているためである。
そう考えたからこそ、日本人は日本神道をこれまで長い間続けてきたのである。
[だから、わざわざ実物の天皇を置いておく必要はないのである。]

[6636] どうして神武天皇は超能力が使えたのか? h21.2.28
もしも、神武天皇の話が実話だったら、神武天皇が超能力を使えることは嘘になるので絶対にいけないことである。
神武天皇の話がもともと作り話だから、作り話なら何でもありなので、神武天皇がいくら超能力を使っても嘘にはならないのである。
だから、神武天皇が超能力を使えるのは、そもそも神武天皇の話が作り話だからである。
神武天皇が超能力を使ったのは、神武天皇の話が作り話であることをみんなにわからせるためである。つまり、神武天皇の超能力は、作り話の目印だったのである。

[6637] 天皇制は戦争の原因か? h21.3.1
たとえ天皇制がなくても、日本は戦争をやっていただろう。
その証拠に、第2次世界大戦のとき、神武天皇教ではないヨーロッパの国々でも日本と同じように派手に戦争をやっていた。
だから、戦争と天皇制とは関係がないのである。たとえ、日本が江戸時代であったとしても、やはり太平洋戦争は起こっただろう。
神武天皇教は『戦う心』を重んじるけれども、それは抽象的一般的な意味においてであって、けっして戦争をやるためにある宗教ではない。
つまり、人類の歴史が始まってから20世紀頃までは、とにかく戦争の時代だったのだ。日本がその時期にたまたま天皇制をやっていただけのことである。

[6638] 神武天皇は超能力者ではない。 h21.3.1
金色に光ったのはトンビであって、神武天皇ではない。
神武天皇が戦っている最中に、突然空に金色のトンビが現れて、神武天皇の弓先にとまって金色に輝いたのである。
だから、超能力者はトンビであって、神武天皇ではない。
神武天皇はただの人である。神武天皇が真面目に戦う心で生きてきたから、天が力を貸してくれたのだ。
強いて言えば、神武天皇が140歳近くまで生きたことが超能力である。

[6639] なぜ天皇は最初の頃は乞食だったか? h21.3.1
『古事記』と『日本書紀』は、日本創造と歴代天皇の一生について書かれた書物である。
それらの書物の名前から、神武天皇は“日本初期”には“乞食”だったと考えられる。
神武天皇は、最初の頃は“人類愛を説く乞食”だったのである。
神武天皇が人類愛を説く乞食だったのは、神武天皇がそもそもキリストを真似て作られたキャラクターだったからである。
つまり、神武天皇は最初の頃はキリストだったのである。
日本神道はもともとキリスト教を真似て作られた宗教だったのである。
日本神道はキリスト教の真似である。
しかし、日本人にはキリストのキャラクターが受け入れられなかったので、その後日本人好みの戦いで立身出世する話に作り変えられて、今の神武天皇のキャラクターができた。
『古事記』と『日本書紀』は、どちらも『旧約聖書』と『新約聖書』の真似だと考えられる。

[6640] キリストはどうして生まれたか? h21.3.1
神は民族の心を具現化した架空の人物である。人類はまず神を立てて(つまり、神話を作って)、その神の心に適[かな]う世界(楽園)を作り続けてきた。それが『宗教の方法』である。
西暦0年ごろ、古臭い『旧約聖書』のモーゼでは、当時の人々と心が合わなくなったので、新しい神を作る必要が生まれた。
そこで、『ギリシア神話』や『プラトン哲学』を元にして『新約聖書』が作られた。『新約聖書』の主人公がキリストである。[だから、昔のキリストは『ギリシア神話』の神々のように、いろんな不思議な超能力が使えたのだ。また、『プラトン哲学』の登場人物のように愛について哲学するのである。キリストがイスラエル出身なのは、神武天皇が宮崎県出身であるように、田舎人の都会への憧れと都会人の自尊心の両方を満足させるためである。(しかし、私にはそんな気持ちはない。東京が楽園とは思えない。)]
西暦2000年の今では、『新約聖書』のキリストも古臭くなって、現代の人々と心が合わなくなったので、再び新しい神を作る必要が生まれている。
今度は、どんな神ができるだろうか?

[6641] どうして鍵屋と言うのか? h21.3.1
鍵屋は江戸時代の日本を代表する花火屋である。
どうして鍵屋と言うのだろうか?
昔は本が貴重品だったので、本には鍵がついていた。
鍵を開けると本を読めるが、鍵を閉じると本が読めない。
本とは、神について書かれた神話の本のことである。
徳川家は神話の本を閉じた者なので、花火屋が徳川家を讃[たた]えて鍵屋と名乗ったのだ。

[6642] 昔は宗教、今は政府☆ h21.3.1
かつて宗教が人々を支配できたのは、宗教が人々の心を捉[とら]えていたからである。
宗教が人々の心に従っていたから、宗教が人々の心を支配できたのである。
宗教では民族の心を具現化する架空の人物である神を立てて(つまり神話を作って)、その架空の神に実在の王の代わりに政治をさせたのである。つまり、宗教では人々が神を選んでその神に人々を支配させたのである。神は王よりも人々の心に従っていたので、王よりも神が人々を支配できたのである。要するに、宗教とは架空の神を総理大臣とする民主制の政治である。[宗教とは、人々が自分の心に従う神を作り出して神に政治をさせることである。宗教家は、架空の神と実在の人々とを仲介する取り持ち役である。神の心にそぐわない命令を出した宗教家は後で何者かによって暗殺されたのである。]
しかし、今は、政府がその役目を担[にな]っている。
宗教は神話が一度できるとその後しばらく変わらないのでいずれは人々の心と合わなくなるが、政府は時々刻々と変化する人々の心にリアルタイムに対応することができる。
つまり、宗教は昔の政府であり、政府は現代の宗教なのだ。政府は宗教が進化した組織である。
だから、政府があれば宗教は要らない。つまり、宗教は神話から政府に移行する過渡期に一時的に現れた政治形態だったのである。


[6643] 日本神道をやってはいけない。 h21.3.1
時代が変われば人の心も変わる。それは、人間の心は知覚に従属し、知覚は実在に従属し、文明(実在の生活空間)は時代と伴[とも]に進歩するからである。
だから、弥生時代の日本人の心を描いた神武天皇では、今の政治家は務まらない。
神武天皇が総理大臣になると、日本が原始時代に戻ってしまう。
いつの時代にも今の社会への不満はあるが、その不満は過去に憧れるためではなく、未来に進むために使うことにしよう。

[6644] 宗教は無駄金使い h21.3.1
宗教の神は、今から2000年ぐらい昔の吉野ヶ里遺跡が建っていた頃に住んでいた人である。
宗教とは、現代において過去の世界を作ることである。現代の日本に吉野ヶ里遺跡を建てて暮らすことである。
いくら宗教をやればお金が出るといっても、そんなことのためにお金が使われるのだったら、使われないほうがまだましだ。
だから、宗教はやらないほうがいい。

[6645] 宗教=文学×政治 h21.3.1
宗教は、神話に基づいて政治をすることである。
今では、宗教の政治的機能は政府に、神話的機能は文学に取って代わられている。
今では、宗教はやることは何もない。
宗教が無駄なことばかりやるくらいなら、ないほうがましだ。

[6646] 宗教は道徳ではない。 h21.3.1
宗教の神は昔の人々が神話の神々の中から投票で選んだ総理大臣であり、宗教の神話は昔の人々が作った法律である。[昔の人は神話しか知らなかったので、法律を書こうにも神話の形式を真似てしか書けなかったのである。]
しかし、現代においては、もはや宗教は政治ではない。
宗教は文学にすぎない。神武天皇やキリストや釈迦が登場する物語は数ある文学作品のひとつにすぎない。
つまり、宗教は昔の人の心である。宗教は昔の人の心が入ったタイムカプセルである。
だから、宗教は道徳ではない。
宗教に入るとは、昔の人の心を勉強することにほかならない。
だから、いくら宗教に入っても、現代社会における問題を解決することにはあまり役に立たないと考えられる。

[6647] 天皇は存在しない。 h21.3.1
架空の神武天皇が、実在の子孫を作れるわけがない。
だから、天皇は実在の世界においては存在しない。
天皇は眼で見えているが、立体の幻[まぼろし]であって、実際には存在していないのだ。
皇居の防弾ガラスは天皇が実在する人間であると思わせるためにはめてあるのだ。

[6648] 神と同じになる。 h21.3.1
宗教とは、神話を読むことによって民族の心を具現化した架空の人物である神と自分が一体化し、神とともに生きることである。
しかし、それは抽象的な心においてであって、具体的な作り話の出来事においてではない。
それは実在と作り話が心で共通するだけで、それ以外では共通しないからである。
神武天皇教によっては『戦う心』『失敗してもくじけない心』を会得することができるが、それ以外のことはできないのである。[その他に、『田舎者が都会に憧れる心』も会得できるが。(都会に行っても眼先の喜びしか得られない。だから、田舎者が行きたがるのだ。)]
しかし、神武天皇の神話だけでは守らねばならない心が少なすぎて、これでは法律とはいえない。もっと、神武天皇の神話以外にも神話をたくさん読んで守らなければならない心を増やさなければ、法律とはいえない。現代においては、どの宗教の神話も規律が少なすぎて、法律としては不完全すぎて使い物にならない。
だから、日本神道やキリスト教や仏教などは、少林寺拳法や柔道や剣道などが身体を鍛えると同時に心を鍛えることであるように、現代人のひとつの教養であって、現代社会の中で等閑[なおざり]にされがちな感情を育成する『心を鍛える会』であって、人間の人格形成にとってはそれ以外の教養もまた大切にしなければならないのである。つまり、自分で心を鍛えたい人だけが宗教をやればよく、それ以外の人は宗教をやらなくていいのである。少林寺拳法や柔道や剣道の教室に入らなくても、適当に家の外で遊びまわっていれば自然に身体や心が鍛えられるように、特に宗教に入らなくても、適当に本を読んだりテレビを見たりしていれば、宗教で鍛えている感情と同じ感情を鍛えることができるから、どうしても宗教に入りたい人以外は、特に宗教に入る必要はない。

[6649] 『世界の偉人伝 第1巻 キリスト』 h21.3.2
インターネットで調べてみたが、「ぎょうせい」という出版社から出た『新装 世界の伝記 全50巻セット』には、実在する人物に混じって「第12巻 キリスト」と「第18巻 釈迦」がある。参考。たいてい、世界の偉人伝には、釈迦とキリストの両名が入っているようである。
まだ、一般には、宗教が神としている人物が架空の人物であって実在の人物ではないことが知られていないようである。しかし、そのことを知っている人が少なからずいることもまた事実であると考えられる。
しかし、子供を健全な大人に育てるためには、子供にまちがいを教えてはいけない。電球が偉人なのではなく、電球を発明したエジソンが偉人であるように、キリストが偉人なのではなく、キリストを発明した(つまり、架空のキリストの伝記を書いた)宗教家が偉人なのである。[キリストを発明した宗教家が無名なのは、キリストを実在の人物だと思わせるための手である。]孫悟空が偉いのではなく、『西遊記』を書いた人が偉いのと同じことである。キリストや釈迦を偉人伝に加える者は、作り話の内と外の区別ができていない者だ。[実在主義とは作り話の外に出ることであり、反対に実存主義とは作り話の中に入ることである。]だから、実在と架空を区別するために、『世界の偉人伝』として実在の人物についての偉人伝を一通り書いてから、付録の別冊として『架空の偉人伝』をつけることにすればいい。

[6650] どうしてキリストは神なのか?《まとめ》 h21.3.2
キリストの超能力はたくさんあるが、ほとんどが嘘であり、真実らしいのは頭が光ることだけである。
したがって、キリストの超能力がほとんど嘘であるように、キリストの言行(言ったりやったりしたこと)もほとんど嘘であると考えられる。
キリストが頭が光ったぐらいのことで神にされたのなら、世の中にはもっとたくさん神がいるはずである。
しかし、現実には神はキリストしかいない。
それは、神の定義が超能力者(かもしれない者)ではなく、民族の心を具現化した者だからである。
そもそも、神とは民族の心を代表する架空の人物だったのであり、人類は大昔から架空の神の物語を作ってそれを法律のように大切に守り続けてきたのである。それが宗教なのである。
つまり、キリストは西暦0年頃に新しく作られた“実話っぽい神話”の主人公の神様にすぎなかったのである。キリストが超能力を使えたのは、キリストがもともと神話の神様だったからである。
キリストだけではなく、釈迦や神武天皇やモハメットなども“実話っぽい神話”の神様なのである。つまり、キリストや釈迦や神武天皇やモハメットなどは実在の人物ではなく、神話の架空の人物だったのである。

[6651] 法律は民族の心である。 h21.3.2
人間がビルから飛び降りて死のうが、飛び降りずに生き残ろうが、その人間の勝手である。
正しいかまちがっているかだけなら、ビルから飛び降りて死ぬことも、飛び降りずに生き残ることもどちらも実現できるから正しいことである。
それを、ビルから飛び降リて死ぬよりも、飛び降りずに生き残るほうが善いことだとするのは、人間の心によるからである。
ビルから飛び降りて死ぬのは痛い思いをするし、飛び降りずに生き残ればもしかしたら将来楽しいことがあるかもしれないから、人間は飛び降りずに生き残るほうを選択するのである。
このように、心抜きでは決まらず、心によってはじめて決まることが世の中にはたくさんある。
例えば、拳銃で他人を撃って殺そうが、他人を撃たずに生かそうが、人間の勝手である。それを、他人を撃って殺すよりも他人を撃たずに生かそうとするのはやはり人間の心によるからである。
現在の実話の法律は、昔は実話か空想かわからない宗教の神の物語だったのであり、さらにその昔は空想の神話だったのである。
だから、大昔の神話が民族の心を書いたものであるように、昔の宗教の神の物語も民族の心を書いたものであり、現在の法律も民族の心を書いたものである。

[6652] 現代は国際化の時代 h21.3.2
宗教は民族の心である。
なのに、日本にはキリスト教や仏教などがある。
キリスト教はヨーロッパ民族の心であり、仏教はインド民族の心である。
日本の江戸時代に天草の人がキリスト教を取り入れたのは、ヨーロッパ人の心に価値を見出したからである。
聖徳太子や徳川家が仏教を取り入れたのも、インド人の心に価値を見出したからである。
日本神道の神武天皇教には『戦う心』や『くじけない心』は書かれているが、『自分で考えようとする気持ち』がない。日本人の心には欠点がある。[神武天皇教にある『自分で考える気持ち』は、奇策を思いつく程度であって、それでは足りない。]
神武天皇教に書かれている“日本人の心”にこだわると、かえって自分の心の欠点を増やすことになる。神武天皇の心だけでは、人間は生きて行けない。
自分の心の欠点を補うためには、積極的に外国の宗教を取り入れるべきである。
しかし、今は宗教によらなくても、学問や小説やテレビ番組や映画などによっても、外国人の心を学ぶことができる。外国人の心がよく書けている教材を使って、自分が学びやすいやり方で学べばいい。

[6653] 数学の書き方について h21.3.2
定理とは自分が考えて行って、最後にわかったことである。
証明とは、定理にたどり着くまでに自分が考えて行った道筋を記録したものである。
定理とは、自分が考えて行ってここまで来たんだという喜びを表したものである。登山のとき、山頂で撮った記念写真のようなものである。

[6654] 宗教は昔の法律である。 h21.3.2
宗教とは古臭い昔の法律、またはその法律を守ることである。
ただ、今とは違って、昔の法律は書き方が神話形式だったのである。
プラトンの時代には紙が貴重品で言葉は文字よりも会話が主体だったために、プラトン哲学が対話形式で書かれたように、
昔は法律が『人間が神様と約束をすること』だったから、昔の法律は神話形式で書かれたのである。つまり、昔は神様が出てくる話を作ってそれを法律の代わりにしていたのである。[ただし、『ギリシア神話』は、人間が神と約束をする法律ではない。ギリシア神話はギリシア人の自由奔放な心が作り出したたんなる空想の面白い作り話である。]
『人間が神様と約束をする』とはなんとも不合理的な考え方だが、昔はそれが一般に通用していたのであり、人類が今の文明にたどり着くまでにはいろんな紆余曲折を経なければならなかったと言うことである。

[6655] やまたのおろち h21.3.2
やまたのおろちとは、おろちが蛇[へび]で“頭のいい人”の喩えだから、やまたのおろちとはいろんなことに精通している頭がいい人のことである。つまり、万能の天才人のことである。
だから、スサノオノミコトがやまたのおろちにお酒を飲ませて頭を働かなくして倒すことができたのである。
寺田寅彦がやまたのおろちを火山だと考えて、スサノオノミコトの話を昔の人がダムを作って溶岩の流れを食い止めたのだとする説は、行き過ぎた科学的な見方である。第一、自然の力は強大で、今でさえ溶岩の流れを食い止める術[すべ]を持たないのに、昔の人が小さなダムを作ったぐらいで溶岩の流れを変えることができたとはとうてい考えられない。
寺田寅彦は、『浦島太郎』を空飛ぶ円盤に乗った人類最初の男だと考えるのと同じまちがいをしたのだ。文学と科学が混じったことから来るまちがいである。文学は文学的に、科学は科学的に解釈しなければならない。文学を科学的に、科学を文学的に解釈してはいけない。現代の宗教は、本来は文学である神話を科学的に解釈したことによるまちがいである。科学の時代において宗教をやることがそもそも無理なのである。[科学を文学的に解釈することは、かつてゲーテがやろうとしたことである。]
科学者もまた自分の研究に忙[いそが]しくて、余計なことを考える暇がないようだ。

[6656] 復讐法 h21.3.2
日本神道の宗教家が宗教を誤解していたせいで、私はとんだ迷惑をかけられた。
宗教家が私の身近にいる者を使って私にちょっかいを出してくれたおかげで、私は幸福な人生を送ることができなくなった。
日本神道の宗教家にはこの償[つぐな]いをさせなければならない。
私を不幸にしたのと同程度、その宗教家を不幸にしなければ私の気が済まない。

[6657] 日本らしさを保存する会 h21.3.3
日本人の心はなにも神武天皇の神話だけにあるのではない。
日本の風呂や畳などにも日本人の心が宿っている。
『戦う心』や『くじけない心』は日本人でなくても持っている。
宗教とは、要するに日本人の心を保存する会だから、
日本国憲法ができて用済みになった神武天皇の神話は文学の世界に譲[ゆず]ることにして、
日本の中で育ってきた日本固有の文化を保護育成すればいい。

[6658] 宗教は楽しいか? h21.3.3
宗教とは、昔の神話形式で書かれた法律を守ることである。
だから、今の法律を守ることが大切なことではあるが楽しいことではないように、
宗教をやることも楽しいことではない。

しかも、現代においては神話形式で書かれた法律は不完全すぎて使い物にならないので大切なことですらない。
だから、宗教に入っても何にもならない。

法律を守ることは最低の道徳であって、楽しみは法律以外のところにあるように、
宗教をやることも最低の道徳であって、楽しみは宗教以外のところにあるのだ。
[聖書は昔の法律の本だから、今の法律の本を読んでも面白くないように、聖書を読んでも面白くないのは当然である。聖書がしみったれた地味な言葉で書かれているのは法律だったからである。][道徳に優れているも劣っているもない。個人が幸福に生きるためには、[『Law is low.Moral is high.』と言われるように、]最低の道徳である法律に自分で+αしなければならないというだけのことだ。]

[6659] 教会とは何か? h21.3.3
キリスト教とは、キリストの神話を法律として守ることである。
だから、教会とはキリスト教の行政機関である。
今の市役所や県庁や国会議事堂などの役所みたいなものである。
ヨーロッパの至る所に教会が建っているのは、それが昔の役所だったからである。役所なら、人の住んでいるところにはたいていどこにでも建っているものである。
日本のお寺やお宮もかつては役所だったのである。

[6660] 宗教とは何か? h21.3.3
宗教とは、宗教家が神の神話を作って、それをみんなが法律として守ることである。
だから、昔は、宗教は実在の中に入ることだったのである。
ただし、今の法律と比べると昔の法律であった神話は法律としては不完全で使い物にならないから、
近代以降は、宗教が“実在の外に出る”ことだと皮肉を言われるようになってしまったのだ。

[6661] 神仏習合 h21.3.3
日本神道の法律は、神武天皇の神話である。
一方、仏教の法律は、釈迦の神話である。
神武天皇の神話と釈迦の神話は違うから、同じ日本に違うふたつの法律があると面倒なことになる。
だから、神武天皇の神話と釈迦の神話を統合して、新しい神を作ってひとつの神話にまとめ上げる必要があったのである。それが、神仏習合である。
それと同じように、
宗教の法律は、神の神話である。
一方、現代の日本国の法律は、日本国法律である。
神の神話と日本国法律とは違うから、同じ日本に違う法律があるとゴタゴタが起きて面倒である。
だから、神の神話と日本国法律を統合して、新しい法律を作らなければならないのだが、神の神話は現代においては法律としてはあまりにも不完全で法律としての資格がないから、神の神話は文学の世界に譲ることにして、日本国法律だけでいい。

[6662] なぜ日本で仏教が盛んだったか? h21.3.3
日本神道は、最初はキリスト教で始めたが日本人に不評だったために、急遽[きゅうきょ]軍人として出世した神武天皇の話に作り変えた。
しかし、それは他者に対して攻撃的で法律には向かなかった。日本神道は、日本神道に入れば他者に攻撃できて有利になるのを歌い文句にして、多くの信者を獲得しようとしたのである。
一方、釈迦の神話は現代法と同じように禁欲を本[もと]としていたので法律としては優れていた。[他人の物を盗ってはいけない、他人を殺してはいけないのは、自分の物欲や怒りを抑えることであり、禁欲することだからである。]
そこで、多くの日本人は、神武天皇の神話よりも釈迦の神話を自分が守るべき法律に選んだのである。
日本では、神武天皇の神話は戦争のときに使われるだけで、それ以外のときはすべて釈迦の神話を使っていたのだ。

[6663] 愛の法律 h21.3.3
キリスト教は愛の法律である。
キリスト教は最も優れた法律である。それは、他者に対して親切であることは、最も優れた法律だからである。
しかし、それは理想主義で作られた“言葉の上だけやたらに立派な法律”にすぎず、素晴らしすぎて日本人には夢物語にすぎないように思われる。
日本人はエゴイストなので、キリスト教を嫌うのである。
日本人がヨーロッパ人に比べて馬鹿なので、自分ひとりが生きるのがやっとで他人の面倒を見る余裕がないからかもしれない。
キリスト教の愛の精神は、現代法の福祉厚生に活かされている。

[6664] 神話とは何か? h21.3.3
神話とは、人間の作家が作り出した架空の人物である神が登場する空想の作り話である。つまり、神とは架空の人物という意味である。
神話を聞いた人々は多かれ少なかれ主役の神を真似て生きるので、神には人々の指導者としての役割りがある。それで、神を指導者という意味で“人間よりも上の者”と言うのである。
人々の心を捉[とら]えた神話は後世に残るが、捉えなかった神話は廃[すた]れてしまう。
神話には、その骨格となる話の元ネタになった実在の人物がいる神話といない神話とがある。
もっとも、神話の神が使う超能力は作家が空想力で作り出したものであって、神が実在しない人物であることを表すためのものであって、超能力の元ネタの人はいないと考えられる。神話の神が使った超能力は、実際に人間がいくら真似ても真似できないので、神話における超能力はたんに話を面白くするためだけのものであったと思われる。

[6665] 日本帝国憲法 h21.3.3
日本神道がその法律にしている神武天皇の神話は、日本帝国憲法の前の憲法だったと考えればよい。
現在では日本帝国憲法が使われていないのだから、それより前の神武天皇の神話が使われないのは当然である。
厳密には、神武天皇の神話は室町時代頃まで(西暦1600年頃まで)の法律だったと考えられる。参考。[公家社会と武家社会の関係は、フランケンシュタイン博士とフランケンシュタインの関係と同じである。つまり、公家社会が法律とした神武天皇の神話が『戦う心』を持った武士を生み出し、武士の集団である武家社会に公家社会が滅ぼされたのである。フランケンシュタインの話は、人間を作ったはずの神が逆に人間に殺されたということである。『フランケンシュタイン』の出版は1818年だから[Wikipedia参考]、『神が死んだ』と言ったニーチェよりもかなり前である。]
宗教とは神話を法律に用いることである。現在では、日本の法律は日本国憲法の下[もと]での法律だから、神話を法律に用いてはいけないのは当然である。

[6666] 寝[ね]るとは何か? h21.3.3
寝るとは考えることである。
起きるとは書くことである。
人間は、寝ている間に頭の中で考えたことを、起きている間に眼と手を使って書き表すのである。

[6667] 国連は馬鹿の固まり h21.3.3
神話制にしろ超能力者制にしろ、とにかく宗教はまちがいである。
私は宗教がまちがいだとわかっているのに、
国連や国会は宗教が正しいと思って宗教の言いなりになってきた。
だから、国連や国会は馬鹿の固まりなのである。
したがって、国連や国会に協力する者はいない。
それでも男か!負けたら死ねや!!


[6668] 神話を法律にはできない。☆ h21.3.3
宗教では、神の神話を法律として使っている。
神の神話では、神はひとつの感情しか持っていない。
キリストは愛のために、釈迦は禁欲のために、神武天皇は戦うために生きている。
愛情にしろ禁欲にしろ戦う気持ちにしろ、やりすぎはかえっていけない。やりすぎると自分が生きていけなくなる。『過ぎたるはなお及ばざるが如し』と言うことわざがあるように、物事には程度と言うものがある。
それに、人間は神話の神様のようにひとつの感情だけを満足して生きているのではない。心の中にあるいろんな感情を同時に満足させながら生きている。人間の心には、愛と憎しみ、喜びと悲しみなどのように相対立するふたつの感情がつねにある。
神の神話では、そこが書けていない。
神様は人間の心がわかっていない。つまり、神様を発明した昔の宗教家が人間の心がよくわかっていなかったのだ。
現代の文学者のほうがよっぽどいい作文が書ける。

だから、神の神話を法律にしてはいけないのである。

[6669] 新しい宗教は要るか? h21.3.4
宗教とは、神話を法律に使うことである。
昔は、まだちゃんとした法律がなかったから、やむを得ず法律の代わりに神話を使わなければならなかったのだ。
今は世界中の国にちゃんとした法律がある時代だから、もはや神話を法律の代わりに使う必要はない。
だから、今さら新しい宗教を始める必要はないのである。

[6670] 法律以上の法律 h21.3.4
昔は世界中で神話を法律として用いていた。だから、宗教が政治だった。宗教家が政治家だった。昔は、世界中で宗教が国を治める国家宗教であった。
しかし、今は世界中で神話を法律とはしなくなった。神話とは別に法律ができた。宗教家とは別に、法律を『新しい神話』として用いる政治家が生まれた。宗教家は政治家に仕事を奪われ仕事を失った。[つまり、『ドン・キホーテ』のドン・キホーテが風車を退治する話は、その頃に法律ができて、政治家が宗教家に代わったということである。/『新しい神話としての法律』と言う名前の本があったような気がする。]
今の宗教が国を支配したければ、現行の法律以上のいい法律を作らなければならない。そんなことはできないだろう。だから、宗教の時代は終ったのだ。

[6671] 宗教は面白くないし、ためにもならない。 h21.3.4
宗教とは、神の神話を法律として用いることである。
だから、宗教における神の神話は、昔の『法律』である。
したがって、『法律』は文学ではないから面白くないし、
『法律』は道徳ではないからためにもならない。
今の『法律』を読んでも、面白くもなければ、ためにもならないように、
宗教の神の神話を読んでも、面白くもなければ、ためにもならないのだ。

宗教の神の神話を読むよりも、テレビを見たりゲームをしたほうがずっと面白いだろう。
宗教の神の神話を読むよりも、最近の哲学者や思想家の本を読んで勉強したほうがずっとためになるだろう。
今でも世界中に宗教をやる人が大勢いるのは、彼らが宗教に対する正しい認識を持っていないからではないだろうか?つまり、現代は[宗教家も含めて]宗教を誤解している者が宗教をやっている時代なのだ。

[6672] 超越者とは何か? h21.3.4
宗教でいう超越者とは、つまり神話の中の主人公のことである。
つまり、作家が作った神話に登場する架空の人物のことである。
“架空の人物”が“実在を超越している者”であるのは言うまでもない。
だから、平然と超能力を使えたりするのである。

[6673] 釈迦はどうして神なのか? h21.3.4
釈迦の超能力は、生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天井天下唯我独尊」と言ったことである。
なんか超能力っぽくない。
そもそも神とは神話の主人公のことだから、必ずしも超能力を使わなくてもいいのである。
釈迦は神話の主人公だから、たとえ超能力を使わなくても釈迦は神なのである。
釈迦の出生直後の変なエピソード(上述)は、まず最初にこれから始まる釈迦の話が架空の作り話であって釈迦が実在の人物ではないことをみんなに教えるためにわざわざ付けた話だと考えられる。[昔の人は嘘に敏感だったから、一発で嘘だと気付いたのだ。今の人はマンガの読みすぎで嘘に鈍感なので、本当のことと勘違いする者がいる。]
たとえ超能力者でも、生まれてすぐには「天井天下唯我独尊」とは言えそうにない。釈迦は超能力者を超えているのかもしれない。釈迦は超超能力者だ。
そもそも“神”とは“示す偏[へん]に申す”だから、人間とは何か何であるべきかを態度で示して言葉で申す者である。仏も神と同じ意味である。

[6674] 政治の基本原理 h21.3.4
科学において、『自然を支配するためには自然に従わねばならない。自然に従う者が自然を支配する。』ように、
政治においても、『人間の心を支配するためには人間の心に従わねばならない。人間の心に従う者が人間の心を支配する。』のである。【政治の基本原理】
つまり、政治は科学のひとつであり、人間の心も自然のひとつと言うことだ。
法律とは、国民の共通の心を書いたものである。だから、神話も文学も美術も音楽も法律も同じものだ。
さらに科学を知覚欲を書いたものと見なせば、科学も文学も芸術も法律も全部いっしょになる。

[6675] 子供をかわいがる h21.3.4
子供を褒[ほ]めてやったり子供に欲しい物を買ってやったりすることだけが子供をかわいがることではない。
子供に正しいことを教えてやることもまた子供をかわいがることである。
だから、女性だからといって馬鹿でいいわけではない。

[6676] 国会は天皇を置くな! h21.3.4
神武天皇の神話は、昔から法律には向いていないとされてきた。
天皇は、神武天皇の神話のために生きているだけである。
神武天皇の神話も天皇も、日本神道が外国の宗教を下手に真似た失敗作である。
キリスト教や仏教は現行の法律と通じ合うところがあるが、神武天皇教は現行の法律と相容れない。
だから、外国で国教をやっているからといって、日本でも国教をやっていいことにはならない。

[6677] 十七条の憲法 h21.3.4
聖徳太子は十七条の憲法を作った。
聖徳太子は『和の精神』を尊び、神武天皇の戦う心と正反対である。
聖徳太子は、神武天皇の神話のまちがいを修正しようとしたのである。
しかし、聖徳太子は人間であって神ではない。一方、神武天皇は神である。[聖徳太子は、天皇ではなく第31代用明天皇♂の第二皇子(次男)であり、別名厩戸皇子[うまやどのおうじ]と言われ、馬屋で生まれたとされている。キリストの真似がみえみえである。だから、聖徳太子は実在の人物ではなく、架空の人物すなわち神だったのかもしれない。聖徳太子の和は、キリストの愛の言い換えなのかもしれない。聖徳太子の十七条の憲法は、モーゼの十戒の言い換えなのかもしれない。聖徳太子は、日本神道がキリストやモーゼを元にして作った神武天皇と正反対の性格の神だったのかもしれない。]
この私も人間であって、神ではない。
しかしながら、神とは昔の作家(宗教家)が作った架空の神話の主人公であって、神武天皇はそもそも作家が作った架空の人物にすぎない。
架空の神武天皇を生み出したのは、実在の作家である。
神武天皇は実在の作家の化身である。
だから、神武天皇に従うことは、その無名の作家に従うことに他ならない。
つまり、天皇制とは、その無名の作家制に他ならない。

無名の作家よりは、聖徳太子や元医者であった私やその他の人のほうが信頼できるはずである。[[6668] 神話を法律にはできない。☆ h21.3.3 を参照。]
これ以上、日本神道の馬鹿な作家(宗教家)の言いなりになるのは御免だ。

法律は国民の心だから、国民の心がわかっていない作家(宗教家)が勝手に法律を書いてはならない。


[6678] 神武天皇+聖徳太子=すべての人間 h21.3.4
日本神道は、神武天皇の神話を法律にしてやってみたが、神武天皇の神話が法律には似合わなかったので、うまくいかなかった。
そこで、日本神道2番目の神として、神武天皇と正反対の性格を持った聖徳太子を作った。
あとから改良されただけのことはあって、聖徳太子の神話はたしかに法律には適していた。
しかし、日本神道はすでに神武天皇を神にしてしまっていたために、聖徳太子は神にはなれなかった。
聖徳太子は神武天皇を補正するための“架空の人間”とされるにとどまった。
その後、日本神道は神武天皇と聖徳太子の二本立てでやっていったが、日本神道は失敗作の神武天皇のほうを神とするしかなかったのだ。
ところで、神武天皇と聖徳太子の2人がいれば、ほぼすべての人間の性格をカバーすることができる。
これでは、法律がないのと同[おんな]じだ。
日本神道はもっとよく考えてから神を決めるべきだったのだ。
日本が仏教を取り入れなければならなかったのは、そのためである。
日本が上手く治まっていたのは、仏教のおかげである。[明治以降は外国が作った法律のおかげである。日本人は“自分で考える気風”がないので、自分で考えるのがよっぽど苦手なようである。]
だから、日本神道によって作られた聖徳太子ですら、日本神道では日本が治まらないとわかっていたので、「日本に仏教を取り入れよ」と言わねばならなかったのだ。

[6679] 日本神道の意味 h21.3.5
日本神道は、キリスト教の真似から始まった宗教である。
神武天皇は、キリストのキャラクターが日本人に受けなかったために、頭に来てやけくそになった日本神道が日本人に受けるためだけに作ったキャラクターである。しかし、安受けあいを狙いすぎて、神武天皇のキャラクターがかえって日本人の反感を買ってしまい、うまくいかなかった。神武天皇の生没年(紀元前711年〜紀元前585年)は、釈迦(紀元前560年〜紀元前480年)の真似だと考えられる。
聖徳太子(西暦574年〜622年)は、失敗作の神武天皇を補うために、イスラム教のモハメット(西暦570年頃〜632年)の『和』の精神とキリスト教のモーゼの『十戒』を組み合わせて作ったキャラクターである。
つまり、日本神道の“日本”は、キリスト教やイスラム教などの外国の宗教の受け売りという意味である。つまり、神武天皇や聖徳太子の神話は、外国の神話の盗作だったのである。だから、日本神道の神は日本人の心を具現した者ではなく、日本には向いていないのである。

[6680] 宗教は文化の土台ではない。☆ h21.3.5
宗教が神話制から超能力者制に変わったのは、
人類の文化が文学の時代から科学の時代に変わったからである。
昔の人は物事を文学的に見ていたから、宗教が神話制に見えたが、
今の人は物事を科学的に見るから、宗教が超能力者制に見えるのだ。
つまり、宗教は文化に乗っかっている建物であって、文化の土台ではないのだ。
神話制は宗教に対する正しい解釈だが、超能力者制は宗教に対するまちがった解釈である。
宗教は、法律ができた頃にさっさと滅べばいいものを、いつまでも続けているから厄介物になるのだ。
[テレビドラマやアニメでは宗教は世の中で一番深いところにあるものとして書かれるが、あれはハッタリである。宗教がよく喩えを使うのは、実際にはそれとは違うからである。いわゆる“思わせぶり”というやつである。]

[6681] 昔は文学の時代である。 h21.3.5
今の法律を文学的に書くと神話つまり宗教の神の物語になる。
今の法律は科学的に書いた世の中の決まりだから、自然科学の法則のように箇条書きでも通用するのである。
昔は文学の時代だったから、昔の法律は神話で書かれたのだ。
今は科学の時代だから、今の法律は物理学のように書くのだ。

昔は文学の時代だから、何でも心で見ていたが、
今は科学の時代だから、何でも物で見るのだ。
昔の人は心に明るく物に暗かったが、
今の人は物に明るく心に暗いのだ。
未来の人は物にも心にも明るくあって欲しいものだ。

[6682] 文学と科学 h21.3.5
文学では、論理のない空想の世界において心を書く。文学では、細かい話のつじつまが合わないことなどどうでもいい。[だから、文学では、現実にはない魔法や超能力や便利な道具などを容れることが許されるのである。]
科学では、論理がある知覚の世界で物を書く。科学では、ほんのちょっとした矛盾があっても許されない。
ちょうど、量子力学においてシュレーディンガー形式が原子に適用しやすく、ファインマン形式が高エネルギーの素粒子の反応に適用しやすいように、文学の書き方は心の問題に適用しやすく、科学の書き方は物の問題に適用しやすい。
現代の法律は科学だから、物の側面だけを見て、心に光を当てていない。
しかし、宗教は人類の文化がまだ文学の時代だった頃の昔の法律だから、宗教の世界観は古臭くて現代では使い物にならない。だから、現代人の心を知るには、現代の文学を読んだり現代のテレビ番組や映画などを見たほうがいいだろう。

[6683] 宗教家が宗教を知らないでは済まされない。 h21.3.5
科学の方法とは、観察や実験によって理論と実在を対応させて、実在についての理論を作ることである。
宗教の方法とは、宗教家が架空の神話を作って、信者がその神話を法律のように守って生きて行くことである。
科学者が科学の方法を知らずに科学をやることが許されないように、
宗教家が宗教の方法を知らずに宗教をやることは許されない。

[6684] 宗教を科学的に見る。 h21.3.5
宗教とは、架空の神話を法律にすることである。
だから、宗教が正しいかまちがっているかは、架空の神話を法律にしてその社会がうまくいくかいかないかで決まる。
架空の神話が正しければ社会がうまくいくが、架空の神話がまちがっていれば社会がうまくいかない。
神武天皇の神話では、人々に争いが起こって社会がうまくいかないのは明らかである。
だから、神武天皇の神話を法律にすることはまちがっている。
つまり、日本神道はまちがった宗教である。
神武天皇の神話よりは、日本国憲法の下[もと]での法律のほうが社会がうまくいくから、日本国憲法の下での法律が完全でないとはいえ、日本国憲法の下での法律のほうが神武天皇の神話よりはよい法律であるといえる。つまり、日本政府のほうが日本神道よりもよい行政機関なのである。

[6685] 宗教は道徳ではない。 h21.3.5
宗教は、神話を法律とすることである。
一方、道徳とは、個人が幸福に生きるために自分で法律に+αした決まりを作ることであって、法律自体を守ることではない。
宗教とは、昔の法律を守ることだから、道徳とは言えない。昔の人にしても、公[おおやけ]の宗教とは別に個人的な道徳を持っていたに違いない。
宗教を道徳と思っているのは、宗教に対する誤解である。
あえていえば、現代の宗教は、法律ができて用済みになった昔の宗教の神話を、道徳としてリサイクルしている(廃品を再利用している)といったところか。だから、現代の宗教は、入ろうが入るまいが個人の自由であって、国民に入るように強制することはできない。

[6686] 双六とマージャン h21.3.5
子供はまだ『確率』の概念を知らないから、単純な双六でも楽しめる。私も小学中学年頃までは、友達とよく双六をして遊んだものだ。勝った負けたといって喜んだり悔しがったりしたものだ。
ただ、大人は『確率』を知っているので、もはや単純な双六では大人としては物足りなくつまらないので、大人の双六ではさらに自分で選択できる要素をいろいろ持たせている。
そういう目で見れば、マージャンも双六の言い換えにすぎない。バンカースや人生ゲームみたいなものだ。

[6687] 日本人の役に立ちたくない。 h21.3.5
宗教とは、古い時代の出来損ないの法律を学ぶことだ。
そんなことに何の意義がある?
超能力者制をするなどもってのほかだ。
そんなくだらないことに時間をかける人間は嫌いだ。
そんなことに時間をかけるのなら、自分で考え事をしたほうがいい。
日本人に自分で考える気風がないのは、しょうもない宗教をやったりするからだ。
日本人が宗教をやめないなら、私は日本人のために役に立つことをしたくない。
そんなくだらない民族のために役に立つなんて真っ平御免だ。
むしろ、まちがっている者を罰するのは人間として当然のことではないだろうか。

[6688] 神武天皇は偉いか? h21.3.5
作り話の上で活躍した人間が偉いと思うか?
だから、神武天皇は偉くない。
神武天皇を尊敬している人間は馬鹿だ。
神武天皇の神話は法律には適していなかったので、
神武天皇の作り話を作った作家も偉くない。

[6689] 建国記念日 h21.3.5
神武天皇は神話上の架空の人である。
日本は神武天皇によって初めて治められたとされている。
架空の人がどうやって実在の日本を建国したのだろうか?
日本は架空の人が治めるほどいいかげんな国なのだろうか?
日本は架空の人が治めた架空の国なのだろうか?

[6690] 『新しい酒は新しい革袋に盛れ』(新約聖書マタイによる福音書第9章17節より) h21.3.5
現代の宗教は、古くて使えなくなった昔の法律つまり宗教が使っていた神話を道徳としてリサイクルすることである。
しかし、今の時代には今の時代の道徳がある。
古い時代の法律を今の時代の道徳として使うことは適していない。
今の時代には今の時代に生きる者が考えた道徳が適している。
『新しい酒は新しい革袋に盛れ』とは、新しい社会には新しい法律が必要であるという意味であり、新約聖書が書かれた当時の社会の法律には、古いモーゼの神話は時代遅れで新しいキリストの神話が適していることを言っている。つまり、現代の科学時代の法律には、宗教の神話よりも政府の法律のほうが適していると言うことでもある。[法律を神話で書かれても何を言っているのかわかりにくくてみんなが困る。いちいち神話で(例えば、神話の一節を引用して)話さなければならなかったら、何が言いたいのかわかりにくくてコミュニケーションが成り立たない。]

[6691] 信者とは何か? h21.3.6
宗教が使えない道徳であることに気付かない馬鹿である。
昔の死んだ法律を今の道徳として使えないことがわからない馬鹿である。
何の役にも立たないものをありがたがっているおめでたい連中である。
昔の法律は昔の法律にすぎない。昔の法律を今の道徳として使うことは無理がある。だから、宗教はあくまでも『古い法律』として見なさなければならない。
量子力学や相対論を理解するために、古典力学や電磁気学を勉強することがあるように、
たしかに今の学問を理解するためには昔の学問を勉強しなければならないが、
信者は今の法律を理解するために昔の法律を勉強しているのだろうか?
世界には、法律の勉強に熱心な者がなんと大勢いることか!
しかし、信者が今の法律を読んで勉強することはないから、『法律学入門』にすぎず、趣味の勉強ということになるが、それでも今の法律の理解を助けることにはなるから、社会勉強の一種である。
つまり、宗教は、現在の社会を理解するための勉強なのである。
小学校の理科が天動説やアリストテレス力学で、中学高等学校の物理学が地動説や古典力学で、小学校の理科が中学高等学校の物理学の前準備であるように、
宗教は『法律学の初級過程』であって、信者はいつまでもそこにとどまるのではなく、自分でさらなる勉強を進めるべきである。現代社会と結びつきのない“机上の空論”では退屈するだろう。それでこそ、趣味の勉強といえるのだ。
信者は『法律学の初級過程』に時間をかけすぎだ。そんなものは歴史上の遺物にすぎないから軽く通り過ぎることにして、もっと近代や現代の法律の勉強に時間をかけるべきだ。そのほうが、正しい社会観が持てるから、法律学の勉強としてはずっと面白いだろう。物理学が客観的に存在する物質についての法則を知ることであるように、法律学とは客観的に存在する人間の集団としての社会についての法則を知ることだから、つまり法律学とは社会学であり、法律を知ることは社会についての理解を深めることである。
古典力学ではトランジスターがまったく理解できないように、宗教の神話では現代社会が全然理解できないのだ。だから、宗教の神話にいくら時間をかけてくわしく勉強しても時間の無駄である。現代社会を理解するためには、宗教の神話よりももっと進んだ教科書を使わねばならない。

[6692] 未来の法律 h21.3.6
法律を文学的に書くと、宗教の神話のようになり、
法律を科学的に書くと、今の法律のようになり、
法律を?学的に書くと、未来の法律のようになる。
今のところはまだ?学ができていないので、未来の法律がどのようになるかはわからない。

[6693] 現代の道徳 h21.3.6
現代は科学の時代だから、法律も科学的に書く。
だから、道徳も科学的に書くべきだ。
私の『実在哲学』はその一例である。

[6694] 免罪符について h21.3.6
昔ヨーロッパの教会では免罪符を発行していた。誰でも教会にお金を払えば犯罪を犯しても無罪になれる制度である。マルチン=ルターはこの制度に腹を立てて宗教改革をした。
日本でも、江戸時代に田沼意次[たぬまおきつぐ]が老中をしていた頃に免罪符を発行して問題になった。
だから、教会は行政機関であって、道徳機関ではなかったのである。[教会は最初から行政機関だったのであって、道徳機関が勢力を得てから行政機関になったのではない。]
つまり、キリスト教は法律であって、道徳ではなかったのである。
道徳とは、プラトン哲学のような『善く生きるための個人的規律』を言うのであって、キリスト教のような“他人と揉[も]め事を起こさないための社会的規律”とは性格が違っている。
宗教の神話はもともと社会的規律としての法律として作られたものだから、個人的規律としての道徳に向いていないのは当然である。

[6695] 人間は一体何が楽しいのか? h21.3.6
免罪符を買えば無罪になるからといって、犯さなくてもいい犯罪が増える。
いい歳こいた政治家が、いくらお金があってもそれで遊んで楽しむことはできない。[子供の裏口代に要るんか?]
人間は何を楽しみとすべきか、それが問題である。
その問題が解けていないから、世の中がうまくいかないのである。

[6696] 宗教に入るとは? h21.3.6
宗教の神話は道徳ではなく、昔の法律である。
今の人間は自分が属する国の今の法律に従わねばならない。
したがって、宗教に入るとは、今の法律と昔の法律のふたつの法律を持つことである。
昔は宗教の神話が“信者が絶対に守らなければならない法律”だったので、そのイメージを利用しているのだ。[神は信者を脅[おど]すための道具である。]
守る法律の数が多ければ、それだけいい人になるという考え方である。【法律の重ね合わせの原理】
今の法律には自由があるが、自由がありすぎるとかえってうまく行かなくなるので、昔の法律で補う必要があるのかもしれない。つまり、人はサルトルの『自由の刑』から逃れるために宗教に入るのだ。
昔は宗教は政府だった。今は国の政府が政府だから、宗教は第2政府といったところだろう。 [実際には、第2政府が財政難のため、信者が宗教の食い物にされることが多いようである。]
宗教に入るとは、第2政府の国民になることである。第2政府は財政難だから、高い税金を取られるのは当然である。私が『実在哲学』を考え出したように、自分で道徳を考えたほうが安上がりである。

[6697] どうして日本は太平洋戦争に負けたか? h21.3.6
神武天皇の神話が作り話だったからである。神武天皇が架空の人物だったからである。
作り話の上では神武天皇は戦いに勝ったが、実在の上では日本は外国に負けたのである。
現実は作り話のように甘くはない。マンガを読んでかぶれただけでは本当の戦争には勝てないのだ。[日本軍が空軍の力を軽視したのは、神武天皇の神話には飛行機が出てこないからである。]
神話は、理想の社会についての夢を書いたものである。神話は文学的に書いた法律つまり人間社会の姿であり、文学は人間の夢を書くことだからである。だから、神話の予想はみんな外れたのだ。神話の実現できないオベンチャラなど信じても何にもならない。かえって、邪魔だ。
法律は、実在の社会についての事実の法則を書いたものである。だから、法律に従って政策を決めて政策を実在の社会に適用するとうまく行くのだ。将来、社会についての新しい法則が発見されるかもしれない。つまり、法律は人間が“決める”ものではなく、実在する社会によって“決まる”ものである。[たとえ法律が国民共通の心を書いたものだとしても、心も人間に生まれつきのものであって客観的に存在するものだから、やはり法律は“決める”ものではなくて“決まる”ものである。]今後の法律の発展を期待したい。

[6698] 現代人は作り話が嫌い。 h21.3.6
神武天皇の神話は、日本神道が日本を支配するために作った神話である。
つまり、神武天皇の神話は最初から国内法であって国際法ではない。
しかし、神武天皇は日本人の心を捉えられず、日本神道は日本を支配できなかった。
神武天皇は、日本が戦争をするときに出番があるだけで、それ以外ではお払い箱だ。
宗教で戦争が起こったのは、昔は宗教団体が政府をやっていたからだ。昔は宗教団体が政府だったから、宗教団体が国のことは何でもやっていた。だから、宗教団体がときどき戦争もやっていた。[特に神武天皇の神話で戦争が起こっていたのではない。とにかく昔は戦争をやる時代だったから、日本はときどき外国と戦争をし、その度に神武天皇が引き合いに出されたのだ。神武天皇は戦争の飾りにすぎない。戦争の時代と宗教の時代がたまたまダブっていただけだ。]
日本神道が神武天皇の神話を手抜きで作ってしまったために、神武天皇は戦争するしか取り柄がないので、国際的には戦争以外での使い道がない。
そもそも現代人のセンスは、架空の人の作り話で喜べるほど文学的ではないのだ。
現代人は科学的だから、実在の人物の実話でないと盛り上がらないのである。

宗教は、神話やおとぎ話だけしか娯楽がなかった大昔に流行[はや]った古い政治のやり方である。
宗教は今のヤングには受けないのだ。
今のヤングは、おとぎ話を法律にするなんて馬鹿げたことはできないのだ。
おとぎ話を法律にする国なんて馬鹿馬鹿しくて住む気になれるか!
宗教は時代錯誤だ。今がどんな時代なのかちっとは考えろ!
公務員は面白くなくてもいいから真面目に働いてくれ。

[6699] 日本神道は宗教団体として有能ではない。 h21.3.7
宗教で一番偉いのは、神の神話を作った人だ。
ところが、日本神道の場合、日本神道の神は神武天皇だが、神武天皇の神話はキリストや釈迦の神話に比べて薄っぺらで内容に乏しく、神武天皇がただ敵と戦うだけである。
だから、神武天皇教では、信者がただ他人と戦うだけである。それだけの内容しかないのである。
こんな簡単な話では、とても法律にすることはできない。
外国では法律は分厚い本になっているのに、日本だけ法律が薄っぺらな紙切れだ。
日本神道では、日本は治められない。
いくら国が小さいからといって、法律までも小さくしてはいけない。
日本神道は、世界でも売れない教団だったが、出身地の日本ですら売れなかったのだ。
オリジナルにこだわる気持ちはわかるが、日本の神話よりも外国の神話のほうが法律として優れているなら、日本の法律には外国の神話を使おうではないか。日本の神話は文学として残せばいい。
日本神道が最初から釈迦の神話を法律に使えばよかったのだ。自国製にこだわらないところが日本の優れているところじゃないか。

[6700] 日本神道がオリジナルの神にこだわる理由 h21.3.7
日本神道はどうしても自分たちが作った神を日本人に信じさせようとしている。
それは、日本神道の神が日本神道が作った架空の神話の主人公だから、日本人に日本神道の神制(神に従うこと)を認めさせれば、日本人が日本神道の作り話制(作り話に従うこと)を認めたことになり、日本人を日本神道の好きなように操ることができることになるからである。
そんな見え透いた手に引っ掛かる馬鹿が今の時代にいると思うか!


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