[5801] 庶民文化研究者、町田忍(CS『旅チャンネル』より) h20.9.4
研究をもっと深めなければならない。
研究が具体的な事物に関するバラバラな事実の寄せ集めで終わっている。表面的な眼先のおもしろさで終っている。
これでは研究者とまではいえない。せいぜい愛好者どまりだ。
プロなら個々の事物を統一する“もっと奥にあるもの”が見えなければならない。

[5802] 真の有能な人間とは? h20.9.4
5教科全部できる人間よりも、将来人類のために役立つ人間のほうが偉い。
だから、試験だけできてもいけない。試験はこれまでの人類にできたことができるだけである。
これまでの人類にできなかったことができる人間のほうが価値が高い。(ただし、超能力者susp.は除く。)

[5803] 超能力者susp. h20.9.4
超能力者susp.とは、超能力者suspectedつまり超能力者と疑われる者である。
超能力者susp.と超能力者とは違う。
超能力者susp.を超能力者と確定するためには、証拠になる所見が必要である。
これまでに神とされた者は超能力者susp.であって超能力者ではない。
今日的には、超能力者susp.よりも人間であるとしたほうが診断としては“確からしい”。
政治家や宗教家は医者ではないから、超能力者か人間かの鑑別は医者に任せたまえ。
[超能力者susp.は人間よりも上の者ではないから、政治家は欲しくないだろう。]

[5804] 人間よりも上の者はいない。 h20.9.4
仮に、神武天皇の光の玉やキリストの後光や私のガラガラ回しは『人間に理解できない現象』だとする。
人間に理解できない現象が起こったのは、神武天皇やキリストや私が人間に理解できない現象を起こすことができる超能力者だからであって、人間よりも上の者だからではない。
神武天皇やキリストや私は“普通の人間に超能力が付け加わっただけの者”であって、人間よりも上の者とするには人間よりも上でない点が多すぎるからである。
神武天皇は後光を出せなかったし、キリストはガラガラを回せなかったし、私は光の玉を出すことができないから、一人の超能力者は一種類の超能力しか使えない。これまでに、2種類以上の超能力が使えた超能力者は一人もいない。
したがって、神武天皇やキリストや私はせいぜい超能力者にすぎず、人間よりも上の者ではけっしてない。
超能力者は科学者にとっては興味ある研究材料とはなりえても、もはや政治家が国民支配のために利用することはできない。もっとも、超能力者を信じるような科学者ではどうせ研究しても何もわからないだろうが。

[5805] とは何か? h20.9.4
つまり、神とは『人間に理解できないこと』ができた者である。
しかし、何が『人間に理解できないこと』かは時代によっても人によってもそれぞれ違う。
神を設けて理解を諦めるよりも、神を設けずに理解を諦めないほうが進歩的な考え方である。
理解を諦める癖が国民に蔓延するのは悪影響である。[宗教に入っている者が気が抜けまくっているのはそのためである。]
神制度は政治家による科学の妨害である。

[5806] 神を取るか、理解を取るか? h20.9.4
神を取って馬鹿になるよりも、理解を取って利口になるほうが、人類にとっては幸福である。
政治家や宗教家は馬鹿でも務まるから神を取ってもいいのだろうが、他の仕事は馬鹿では首になるから神を取るわけにはいかないのだ。[馬鹿な男なんか女から見ても取り柄がない。]

[5807] 悪循環 h20.9.4
宗教とは考えるのを諦めることだから、ひとたび宗教に入ると、宗教自体が何であるか考えずいつまでたっても宗教がまちがっていることに気づかないから、ずっと宗教に入ったままだ。
宗教は一度入ったら出られないゴキブリホイホイのようなものだ。
誰か信者が溜まったら捨ててくれないか。

[5808] 日本は要らない国か? h20.9.4
神制をやっている国には某国際組織からお金がもらえる制度があると聞く。
たしかに日本人は身体は不細工かもしれない。
しかし、日本にはそれを補って余りある、物質文化を超えた高度な精神文化がある。
精神文化は眼で見えないから外国人にとっては一見何もないかのように見えるが、日本人にはそれがちゃんと見えているのだ。

[5809] 神がいる世界と神がいない世界☆ h20.9.4
神がいると考える者は、『人間に理解できないこと』があると考えて、理解するのを諦めた者である。
一方、神がいないと考える者は、『人間に理解できないこと』はないと考えて、理解するのを諦めていない者である。
神がいる仮説からは、人間が考えない者となり、
神がいない仮説からは、人間が考える者となる。[理解できないとされていることでも、いくつかの新しい概念とそれらの概念に関する新しい法則を作れば理解できるようになることがある。だから、理解を諦めてはいけない。]
考える人間は考えない人間よりも有利だから、神がいる仮説よりも神がいない仮説を採ることにしよう。

[5810] 科学と宗教の戦い h20.9.4
宗教は神を認めて世界を人間に理解できないものとして捉えた。
一方、科学は神を認めず世界を人間に理解できるものとして捉えた。
昔は、実際に神武天皇の光の玉やキリストの後光が理解できなかったので、宗教が科学よりも優勢だった。
そのため、宗教は考えずに毎日遊んで暮らしていたが、科学は毎日考えて生きてきた。
宗教は昔の馬鹿のままだったが、科学は少しずつ利口になっていった。
現代の科学知識は、そうして古代から少しずつ積み重ねられて来た知識の集積だ。
いつしか、宗教が神を考えるもとになった神武天皇の光の玉やキリストの後光や私のガラガラ回しが、電磁気学や癲癇の知識で理解できるようになった。
科学と宗教の戦いは、最後には科学の勝ちとなったのだ。

[5811] 宗教論 h20.9.4
文系の宗教の本には、世界中のあちこちにはいろんな神を祭った宗教があると書いているだけである。
宗教自体が何であるかが書いていない。
研究をもっと深めなければならない。
天皇の名前を憶えるだけで天皇自体が何なのかわかっていないのと同じだ。

[5812] 文系と理系の戦い h20.9.4
文系は毎日考えずに遊んでいました。
理系は毎日考えて生きていました。
最後には、理系が文系に勝ちました(終わり)。
[物体が何時何分何秒にどこそこの位置にあるかを考えるのが理系であり、いつどこで誰と誰が何をしたかを考えるのが文系である。だから、物と人間を区別しなければ、理系と文系に境界線はない。]

[5813] 「わからないならわかるまで待とう光の玉」 h20.9.4
・ 鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす (織田信長)
・ 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす (豊臣秀吉)
・ 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす (徳川家康)
「わからないならわからせてみせよう光の玉」が宗教(日本神道)のやり方で、
「わからないならわかるまで待とう光の玉」が科学のやり方である。
何事にも短気では大成しないということですね(笑)。
[ちなみに「わからないなら見なかったことにしよう光の玉」が理論家のやり方である。]

[5814] 神を超える者 h20.9.4
神を超える者、それは人間である。
昔、人間に理解できないことをした神が偉いと考えられたが、
人間に理解できないことを理解できることにした人間こそが偉いのだ。
“理解できない”という概念が残っているのは文明が遅れている証拠である。
“理解できない”という病的概念が、いもしない神を生み出してしまったのである。
現代は科学万能の時代なので、人間に理解できないことはなく、神も消滅したのだ。

[5815] 科学的な生き方 h20.9.4
宗教とは、神がいると考えて、理解するのを諦めることである。
科学とは、神がいないと考えて、理解するのを諦めないことである。
どうせ死ぬまでの間には時間がたっぷりあるし、自分で少しずつ考えて行ってこの世界を理解したらいいじゃないですか。さっさと考えるのを諦めてしまったら、あとですることがなくて退屈で困るでしょう。そもそも諦めは解決じゃないですよ。
つまり、人間にとっては、宗教的な生き方よりも科学的な生き方がふさわしい。

[5816] 第一次科学革命 h20.9.4
古来より、人間は自分に理解できない対象を人間よりも上の者である神として崇[あが]める習慣があった。
原始時代には、人間にとっては自然全部が理解できなかったので、人間は自然全部を神として崇めた。これを八百万[やおろず]の神という。
しかし、神武天皇やキリストの頃には、八百万[やおろず]の神が死に絶えて、現人神[あらひとがみ]だけが生き残った。
したがって、紀元0年ごろかもうちょっと前に、わからないことだらけの世界から人類が脱却してわかることだらけの世界に人類の意識が急変した時期がある。人間が田んぼを耕し始め、人間が人間以外の自然を理解できる(征服できる)ことを身体で知ったからである。
それを第一次科学革命と命名する。
それでも、人間自身は他の物体に比べて構造が複雑であり解剖が容易ではないためにまだ理解されるには至らなかった。それで、人間を神とする現人神だけが生き残ったのだ。[人間にとって人間自身が理解できなかったのだから、人間にとって人間自身も神になったはずだが、人間と人間自身は同じなので、人間自身は神にはしなかったのである。理解できない現象を起こした人間だけを神としたのである。]
ベサリウスの『ファブリカ(人体の構造)』やニュートンの『プリンケピア』から産業革命の頃が第二次科学革命である。
現代では、人間自身まで科学によって理解されるものであることがわかり、もはや現人神でさえ生き残れないのだ。[もちろん、生物としての現人神が死んでいなくなったのではなく、現人神という見方がなくなったという意味である。]

[5817] どうして神は男だけなのか? h20.9.4
昔から、神とされた者はほとんど男だけである。
胎盤を通過した胎児の男性ホルモンが母親の脳の調子を狂わせて癲癇を誘発するのではないだろうか?
または、男の子の育児のほうが疲れるので母親の癲癇が起こりやすいのかもしれない。

[5818] 考えて生きていない者 h20.9.5
考えて生きていない者は実質的には宗教人と同じである。
宗教に入っていなくても、宗教に入っているのと同じだ。
他人の書いた本ばかり読んだりテレビを見てばかりしていると、宗教人と同じになる。
例えば、私の親も考えて生きている人間ではないから、宗教人と同じだ。

[5819] 教科書 h20.9.5
日本の教科書は理解しやすいように理解できるように書かれていない。
国語や社会科のように、理解しにくいことや理解できないことをわざわざ子供に教えている。
文部省が子供が理解する気持ちを無くそうとしている。
日本の教科書は『宗教ノススメ』だ。

[5820] 理解できる文とは? h20.9.5
数学や物理学のように、論理的合理的に書かれている文だ。私はつねに数学や物理学の文章を模範にしている。
社会科の文はアリストテレス力学のように表面的な眼先のことが具体的にバラバラに書かれているだけで、ニュートン力学のような論理的な統一的な記述ではない。
論理的な目を持ちえてはじめて人間なのだ。論理性のない社会科は人間以下の動物が見ている世界だ。
社会科は物理学のようにもっと研究を深めて、すべて理解できることで記述しなければならない。
論理的に書けるようになってはじめて理解できたことになるのである。社会科は理解できる前の生半可[なまはんか]な考えがダラダラと書かれているだけだ。理解できてから書け。理解できる前に書くな。[眼先で書くな。頭の中で書け。]自分が理解できていないことを他人に教えるなどもってのほかだ。

[5821] 人間に征服できないもの h20.9.5
昔の人は、この世には人間よりも上の者がいて、人間よりも上の者のやることは人間には理解できないと考えた。
だから、逆に人間に理解できないことは人間よりも上の者がやるからだと考えたのである。
だから、大昔の人にとっては、人間に理解できないことをする自然が人間よりも上の者であったし、昔の人にとっては、人間に理解できないことをした神武天皇やキリストや私などが、人間よりも上の者だったのである。
しかし、反対に人間に理解できることは人間よりも上の者がやることではないから、人間が自然や人間自身を理解し征服するようになると、それらは人間よりも上の者ではなくなったのである。
かつての八百万[やおろず]の神がなくなったように、現人神もまたなくなりつつあるのだ。
つまり、人間に征服できないものが神なのである。
人間が田んぼを耕して自然を征服すると自然は神ではなくなり、人間が医学で人間自身を征服すると人間自身が神ではなくなった。
もはやこの世のどこにも神はいなくなった。
『従属すれば征服できる』ことを学んだ人間にとっては、もはや神など無用なのだ。

[5822] どうして神武天皇は神だと考えられたのか? h20.9.5
神武天皇が生きていた頃には、人々はすでに田んぼを耕して暮らしていて、人間以外の自然は人間によって征服されるものであり、人間以外の自然を神だと考えなくなっていた。[田んぼを耕しただけで、人間以外の宇宙のすべてが理解できると思うのも大袈裟[おおげさ]だが(笑)。でも、それが宗教的な真理なのだろう。つまり、つまり、人間はひとつのことがわからなくなくなっただけで、それと似たすべてのことがわからないと思わなくなるものなのだ。]
それで、神武天皇の光の玉が、人間である神武天皇のせいとされ、神武天皇を人間よりも上の者すなわち神と考えたのである。

[5823] わからない学 h20.9.5
科学がわかる学であるように、宗教はわからない学だ。
科学がわかることの体系であるように、宗教はわからないことの体系である。
わからないことにも法則?があって、それを調べるのが宗教である。
この世には人間の理解を超えた物があって、理解できないことを理解できないままそれらを制御する(思い通りにする)ことによって[理解できないことと眼で見える物事の相互作用を介して]間接的に眼で見える物事を制御することができると宗教の者は信じているのである。[しかし、理解できないなら、理解できないままなんとかしようとするよりも、少しでも理解するように努力したほうが実際には近道である。これも歴史的真実だから認めざるを得ない。]
つまり、宗教とはわかったふりをすることだ。全部知ったかぶりの出鱈目[でたらめ]だ。当然うまく行くこともない。だから、何の価値もない。科学も宗教も当たって何ぼの世界だから、インチキは通用しない。
私は宗教のわからない体系を読んだことがない。宗教なんか勉強させられたら理解能力がなくなって頭が馬鹿になるだけだ。
現代では、現人神はもはや理解できる物だから、宗教のわからない体系を現人神に適用してはいけない。

[5824] わかる喜び h20.9.5
わかる喜びがなければ、クイズ番組もなぞなぞも成り立たんやろうが!?

[5825] 政治と宗教 h20.9.5
政治家は現人神が“人間よりも上の者”であることを利用して国民の支配に役立てようとする。
宗教家は現人神が‘理解できない物’であることを利用して自然界の制御に役立てようとする。つまり、理解できない現人神を理解しないまま制御することによって間接的に自然界を制御しようとする。
政治家と宗教家では現人神の利用目的や利用方法が違う。
しかし、今は現人神が科学で理解できる時代だから、いまどき現人神を“人間よりも上の者”や‘人間に理解できない物’と見なす者はいないから、現人神を使う政治家や宗教家はいないだろう。[天皇を見て人間よりも上の者と思っている政治家は頭がコレだ。宗教家はさすがに古臭すぎて誰も信用しないだろう。]

[5826] 宗教 h20.9.5
宗教では理解できないことを理解できないまま制御しようとする。
宗教は占星術のように、人間に理解できることがなかった大昔に発達した学問?なので、今日的には古臭くて利用する価値がない。
宗教は科学ほどには当たらないから信用できない。

[5827] 科学 h20.9.5
科学では理解できないことを理解できるようにしてから、理解しながら制御する。
科学では理解できないことを理解できるようにするまでに手間や時間がかかるが、ひとたび理解できるようになればいろんなことが容易に理解できるので進歩が速いのである。
一方、宗教は理解できないことを理解できないまま制御しようとするから、いつまでたっても進歩がないのである。

[5828] どうしていまだに政治家や宗教家が残っているのか? h20.9.5
自分で考えて生きている者なら、政治家や宗教家のしていることが根も葉もなく信用できないことは明らかなはずだ。[天皇や私が人間よりも上の者であることに一体何の根拠(つまり根)があるのか?!そうして一体何が得られる(つまり葉)と言うのか?]
それなのに、いまだに政治家や宗教家という仕事が残っている。政治家や宗教家をやって収入を得て生きている者がいる。
それは、自分で考えて生きていない者が国民の中に大勢いるからである。
彼等にとっては、政治家や宗教家が自分たちと同じレベルの人間なので、政治家や宗教家が信用できるのである。
つまり、政治家や宗教家の仕事が残っているのは、大勢の国民が馬鹿だからである。[こいつら「あうあう」しか喋れないんじゃないか?]

[5829] 超能力者である確率 h20.9.5
これまでに超能力者とされた者は超能力者susp.にすぎない。
そこで、これまでに超能力者とされた者が“超能力者である確率”を考えてみよう。
神武天皇の光の玉は明らかにコロナ放電だから、神武天皇が超能力者である確率は0%。
キリストの後光は、キリストの頭の皮膚に発光器官があったという記録もないし[もし、キリストの頭の皮膚に発光器官があって頭の周りが光って見えたのなら、それは理解できることだからキリストは神ではないことになる。]、キリストの頭の中に発光器官があったのなら頭蓋骨の外側にまで光が漏れる理由がわからないし、いくら超能力器官でも光源から離れた場所を光らせることはできないから、キリストが超能力者である確率も0%。
私のガラガラ回しはガラガラが三度回っただけでガラガラ以外の物体が動いたことは一度もなく、私の性格からするともっといろんな物を自分の念動力で動かしたいと思うはずだから、私が超能力者である確率は0%である。[たとえ私の母親が家の中でガラガラ以外の物が動くのを見たとしても、その時は私が物体から離れていたので私とは関係ないはずである。]
まじめに考えるなら、『確率0%』以外の答えはない。

[5830] 宗教や政治は科学に依存する。 h20.9.5
ある者の近くである現象が起きたとする。
ある現象が『理解できない現象』でなければ、その現象の近くにいた者が人間よりも上の者とはいえない。
ある現象が『理解できない現象』であるかどうかは、見る者の科学知識によって決まる。
したがって、人間の持っている科学知識が進歩して、理解できない現象が理解できる現象になったとき、人間よりも上の者は人間よりも上の者ではなくなるのだ。[例えば、今どき神武天皇と同じことをやっても誰も人間よりも上の者にはなれない。]
つまり、宗教や政治は科学に依存するのである。

[5831] 神についての法則 h20.9.5
神とは、『人間に理解できない現象』の近くにいた者のことである。【神の定義】
だから、科学が進歩して人間の理解力が増せば、『人間に理解できない現象』がなくなるから神もいなくなる。つまり、t→∞のとき神→φ。【神についての法則】

神がいないほうが余計な面倒が起こらず世の中が平和になるから【神と国民の関係】、『人間に理解できない現象』が現われたとき、理解できない原因が現象の近くにいた者にあるのではなく、自分たちの科学知識の不足にあると考えて、現象の近くにいた者を人間よりも上の者である神とはせずに、自分たちの持っている科学知識の向上に努めることにしよう。

[5832] 問題が解けない! h20.9.5
数学の問題が解けないとき、その原因を問題のせいにするか、それとも自分のせいにするか。
問題のせいにする者は、勉強しないからちっとも力が付かない。
一方、自分のせいにする者は、勉強するから力が付く。
問題のせいにする者よりも自分のせいにする者のほうが伸びる。

[5833] 政治家は宗教家の言いなり? h20.9.5
『人間に理解できない現象』が発見されたとする。
宗教家が「『人間に理解できない現象』の近くにいた者は人間よりも上の者の神である。国民が神に従えば幸福になれる。」と言ったとする。[私は宗教家ではないから人間の神に対する細かい従い方までもは知らないが、宗教家が神に対する人間の細かい具体的な従い方についていちいち決めるのだろう。つまり、政治家と宗教家は別人であって、政治家は宗教家に人間の神への従い方を決めることを許可するだけで、具体的な細かい従い方については宗教家が自分の考えで[非論理的不合理的に]決めるのである。ただ天皇に関して憲法で決めている分は、政治家がやっていることである。ただし天皇制でエロ本やポルノ映画を作るのは、宗教家が政治家に任されてやっていることである。]
政治家は、宗教家の言葉を信じて国民を神に従わせるだろうか?それとも『人間に理解できない現象』があるのはたんに人間の科学知識が不足しているからだと考えて、宗教家の言葉を無視するだろうか?
政治家が宗教家を信じるのと信じないのとでは、どちらのほうが国民が幸福になれるだろうか?
政治家がちゃんと学校を出た人で気が狂っていなければ、当然宗教家の言葉を無視するだろう。

[5834] キリスト教はどのようにして生まれたのか? h20.9.5
キリストの母親がキリストの後光を見た。
キリストの後光は、当時は『人間に理解できない現象』だった。
宗教家が「『人間に理解できない現象』の近くにいた者は人間よりも上の者の神である。人々が神に従えば幸福になれる。」と言った。
それで、人々は神であるキリストに一生懸命に従って幸せになろうとしたのである。
当時は人間自身はまだ理解できる対象ではなかったから、『人間に理解できない現象』を現した者は人間よりも上の者である神だと考えられていて、神については宗教家が詳しいとされていたから、人々は喜んで宗教家の言葉に従ったのである。
当時は八百万[やおろず]の神が滅びた頃で人々は神に飢えていたから、みんなが現人神[あらひとがみ]であるキリストにいっせいに群がってキリストの人気が沸騰したのである。

[5835] 新しい発想を思いつくためのコツ h20.9.5
今の自分の頭の中にある知識で考えられるありったけの[めぼしい]ことを考え尽くして、それでも考え続けたとき新しい発想を思いつくことが多い。
だから、自分の考えがなくなりかけているときがチャンスである。自分の考えがないと思って考えるのをやめるのではなく、そんなときこそいつもより余計に考えなければならない。
したがって、人間の考えることに“終わりはない”のである。

[5836] 神は宗教家のエサではない。 h20.9.6
宗教家にとっては神は飯の元だから、少しでも神と疑われる者がいれば宗教家は積極的に神にしたがる。
しかし、神にした後で、宗教家が神の近くにいる者を使って神に対していろんな不合理的非論理的な操作を加えるので神にとってははなはだ迷惑である。とくに宗教家は神を精神病に罹らせることが多いようである。
科学が人間以外の自然も人間自身も征服した科学万能の現代において、宗教家が顔を出せる所などもはやひとつも残っていない。宗教家はそろそろ店じまいをしたほうがいいだろう。
宗教家がいなくなれば、もはや政治家が宗教家を使って神制度をすることもできまい。

[5837] 宗教から科学へ h20.9.6
昔は、人間に理解できないことが多かったので、世界中のあちこちに理解できないことの専門家である宗教家がいた。昔は、現代のような論理的に合理的に理解できる科学がまだなく、対象が理解できないことが当たり前だったので、理解できないことを理解できないままに操作しようとする原始的な科学者が大勢いたのである。つまり、昔の科学者はみんな宗教家だったので、まだ不合理的非論理的にしか考えられなかったのである。
昔の人にとっては、キリストの後光が出ることが理解できなかったので、ある宗教家がキリストを人間よりも上の者の神と考えた。神であるキリストに人間が従えば幸福になれると考えて、キリスト教を始めた。
さらに、政治家が宗教家の話を信じたために、国中世界中にキリスト教が広まった。
しかし、しょせんは宗教家のいいかげんな作り話だから、実際にはキリスト教にそれほどの効果はなく、1000年以上たつとみんなが嫌気がさしてきた。
人々の中には、宗教家の神に対する人間の従わせ方がまちがっていると考える者や、そもそもキリストが本当に神なのか疑う者が出てきた。
そこで、しびれを切らした政治家が思い切ってキリスト教をやめてみよう(政教分離)という話になったのである。
それで、人々が宗教をやめて、新しい科学や合理主義哲学ができて世界は一変した。

[5838] 宗教人は犯罪者 h20.9.6
現代は宇宙のすべてのことが論理的合理的に理解できる科学万能の時代である。
いまだに“(人間に理解できないことができる)神がいる”とか“神に人間が従えば幸福になれる”とか信じている馬鹿な宗教人がいることが悪い。
現代においては、宗教そのものがすでにひとつの犯罪なのである。

[5839] 宗教はなぜ人気があるか? h20.9.6
人間は誰でも幸福になりたいと思っている。
神に従うことは、比較的容易である。
だから、宗教に人気があるのだ。
しかし、容易なだけにその効果も期待できない。
そんなことをするよりは、
自分にとって幸福なこととは何かについて考えて、
その実現に励[はげ]んだほうが確実である。

[5840] どうして幸福になれないか? h20.9.6
考えて生きていないからである。
考えて生きていないと道を見失って不幸になる。
だから、幸福になるためには、考えて生きることだ。
もっとも、考えて生きるといっても、学校や塾の勉強をすることではない。
毎日考えて生きていれば、そのうち道が見えてきて、だんだん幸福になる。

[5841] 神への従い方 h20.9.6
八百万[やおろず]の神すなわち自然神への従い方は、人間の代表者が神の生贄[いけにえ]となることによって行われた。そうすれば、神の怒りを静めて人間への災いを防ぐことができると信じられたからである。
一方、現人神[あらひとがみ]すなわち人間神への従い方は、人間が神の思想や習慣などを真似ることによって行われた。そうすれば、人間が幸せになれると信じられたからである。
神に対する従い方は、神自身が決めたのではなく、神についての専門家とされる宗教家(神学者)が決めたのである。
しかし、宗教家は神すなわち理解できない者がいると思っているぐらい理解することができなくて頭が悪いから、そんな頭の悪い者が考えたことなどうまくいくわけがない。
だから、人類は頭の悪い宗教家の考えには従わないほうがいいのである。【最終定理】

[5842] 超能力者は神か? h20.9.6
神とは人間に理解できないことができた者である。
超能力者の身体のどこかに超能力器官があって、その超能力器官の働きで超能力現象が起きていると考えれば超能力は理解できるし、超能力の力の性質を調べる手段や方法は現代ではいくらでもあるから、超能力者はもはや神ではないのである。
神が人間に理解できないことができた原因のひとつに、神が人間よりも上の者だからという仮説がある。人間に理解できないことができた者というだけでは宗教家しか利用できないが、人間よりも上の者となると政治家にも利用できるようになる。しかし、人間よりも上の者にしてはできたことが超能力だけで他は普通の人間と変わらないから、人間よりも上の者仮説は大袈裟すぎてまちがっていると考えられる。だから、神はせいぜい人間に理解できないことができた者にしておけ。
そもそも人間に理解できないことがあるのは、人間に理解する気がないからだと考えられる。したがって、安易に神を設けるのをやめて、理解できないことをもっとよく考えて理解することにしよう。

[5843] 現人神禁止法 h20.9.6
現代は宇宙にあるすべての物とくに人間自身について科学で理解できる時代である。たとえ今すぐに理解できないことでも、時間をかけて考えていけばきっと理解できるはずである。
したがって、人間に理解できないことをしたとする現人神の存在を仮定することを禁止する。[これまでの経験からすると、たいてい現人神自身は人間に理解できないことをした張本人ではない。]宗教家が現人神だからという理由で、現人神を自分の好き勝手にすることを禁止する。
一方、八百万[やおろず]の神すなわち自然神は、すでに弥生時代に禁止されている。そうしなければ、生贄[いけにえ]にするという理由で宗教家が自分の好き勝手に人を殺せるからである。
したがって、一般に、すべての神を禁止する。

[5844] 天皇とは何か? h20.9.6
弥生時代に人間に理解できないことをした神武天皇の子孫である。
弥生人が遅れていただけで、神武天皇が偉いわけでも優れていたわけでもない。

[5845] 宗教家と政治家は別者である。 h20.9.6
宗教家は理解できないことを扱う者である。[反対に、科学者は理解できることを扱う者である。]
政治家は国民を支配することが目的であって、とくに理解できないことを専門にしている者ではない。
だから、宗教家と政治家は別者だと考えられる。
しかしながら、政治家も国民を支配するために神を利用することがあるから、宗教家と通じる所もある。

[5846] 宗教家の実力 h20.9.6
理解できないことが起きたら宗教家に相談すればいいというのはマンガの世界である。
宗教家は理解できないことを理解できないままいじくり回して結局台無しにするだけだ。
宗教家に相談するくらいなら、誰にも聞かないほうがマシだ。

[5847] 超能力者と神は別者である。 h20.9.6
超能力者には、理解できる超能力者と理解できない超能力者の2種類いる。
超能力者のうちの理解できない超能力者が神である。

したがって、神は超能力者だが、超能力者は神とはかぎらない。
ところで、理解できない超能力者は身体に超能力器官がない超能力者だが、それはたぶん超能力ではないだろう。超能力者と考えるもとになった“理解できない現象”があるのなら、時間をかけて考えて行けばいつかはきっと理解できるだろう。今日理解できなくても明日は理解できるかもしれない。時間制限なしの一本勝負だ。
つまり、この世はすべて人間に理解できることばかりなのだ。

[5848] 『神は死んだ。』 h20.9.6
人間以外の自然現象にもたくさん理解できていない問題がある。
しかし、現代人はもはやそれらを神とはしない。
ならば、理解できないことをした人間を神とするのもやめよう。
現代は人間と人間以外の物を区別する時代ではないのだ。
理解できないのは、理解できないことをした人間が神だからではなく、今の自分たちの知識が不足しているからにすぎない。
宗教の馬鹿騒ぎをする暇があったら、少しでも理解できるように努力すべきだ。

私の例についても、発見当時学者チームを組んで本格的に調査したら、私の母親の癲癇であることぐらいすぐに判明したはずだ。調査不十分で、私を神にしたのは日本の恥だ。インチキをするなどもってのほかだ。[宗教には理解の概念がなく、理解できるかできないかを決めるのは科学であり、科学で理解できない対象が宗教の対象となるのであって、宗教は科学に依存しなければならないのだから、宗教が科学を無視して勝手に独断で神を決めてはならない。当時私を調査した者が癲癇を知らなかった可能性が高いから、たぶん宗教の独断で私を神と決めたのだろう。]
『神は死んだ。』とは、“人間に理解できない”という概念を使ってはいけないという意味である。それが20世紀以降の人類共通のルールだ。

[5849] オカマの人へ h20.9.6
オカマは女の外見[そとみ]だけを見て中身[なかみ]を見ていない。
女は外見はいいかもしれないが、中身は面白味がなくつまらないものだ。
男にとって女は憧れる対象ではない。

[5850] どうして日本は神国なのか? h20.9.6
日本が宗教界において世界を牛耳るためである。[政治的問題とは、人間と人間の支配従属関係に関する問題ということである。]
日本に神がいれば、日本が有利になれるからである。[はたして、宗教人(宗教をやっている人)は神の意味がわかっているのだろうか?]
天皇は、第2次世界大戦の敗北で使い者にならなくなった。
だから、日本は是が非でも新しい神を欲していたのである。
しかし、それでもインチキはいけない。
宗教人もインチキは許さないはずだ。[インチキ神を立てることは宗教自身をつぶすことになる。]
理解できないことと嘘をつくことは別事だからである。
中国や韓国が真面目にやっているのだから、日本も見習って真面目にやれ。

[5851] 人はなぜ宗教に頼るのか? h20.9.6
科学が理解できる問題を扱うのに対し、
宗教は理解できない問題を扱う。
だから、理解できない問題を抱えている者が宗教に相談するのである。
しかし、宗教に相談しても相談料を取られるだけで問題が解決されるわけではない。
せいぜい一時的な気休めが得られるだけだ。
それなら、自分で問題を考えて解決するように努力したほうがいい。
人間は、問題と戦う精神を失ってはならない。

[5852] 天皇制はどうしていつまでも続くのか? h20.9.7
宗教家は頭が悪くて理解できることがほとんどない。【宗教家についての法則】
したがって、宗教家はコロナ放電が理解できない。
宗教家にとっては神武天皇の光の玉が『理解できない現象』のままなので、天皇制はいつまでも続くのである。
線路(閃光←神武天皇の光の玉)は続くよどこまでも?[新幹線ひかり号も神武天皇のひかりの玉にあやかって付けられた名前だが、新幹線という名前は日本が新たに神制の国としてやっていこうという決意を表している。]
やはり理解できる現象か否かは頭のいい科学者が決めることであって、頭の悪い宗教家が決めてはいけない。

[5853] 日本は神制の国 h20.9.7
神制の国であることは、日本では科学者よりも宗教家が幅を利かすということである。
理解できる者よりも理解できない者のほうが偉いということである。
つまり、日本では頭の悪い者のほうが偉いのである。
日本では政治家は宗教家を信用して科学者を信用しないということである。
私もとくに頭のよさにはこだわらないが、それでも結果を出すことは大事だと思っている。
頭の悪い者は自分で考える気持ちがないから、行き当たりばったりの失敗を繰り返すだけでうまく行きそうにない。
たしかに日本には資源がないが、近海で採れた新鮮な魚を食べているために頭のよさがある。[外人は家畜の肉ばかり食べているので、頭の中がネットリして頭がよく回らない。ただ、ドイツ人はビタミンBを多く含んだ豚肉をよく食べるので頭がいいといわれている。]
政治家は宗教家と組んだりするほどやけっぱちにならなくてもいい。

[5854] 神制はインチキ制度 h20.9.7
神制では理解できないことをした者を神とするわけだが、
理解できるかできないかは人によるので神制はインチキ制度である。
制度としては成り立たない。

[5855] 泣きごと h20.9.7
日本が神制の国ということは、“自分に理解できない”という泣きごとを認める国ということである。
それなら、子供がいちいち勉強をしなくても、僕には勉強が神だから全部理解できませんと言って勉強しなければいい。
何でもかんでも神にして、自分ができないことを許してもらえばいい。

[5856] 日本のゲーム h20.9.7
私は『Battle Field』でしか遊ばない。[上手くはないが、遊んでおもしろければそれでいいと思っている。]
日本のゲームは全部ダサダサの糞ゲーだ。
その上ゲームは値段が高い。[日本のゲームは買って遊ぶためにあるのではなく、作って売るためにあるのである。]
テレビでアニメを見るのはただでできる。
ゲームってそんなにおもしろいだろうか?
本を読むほうがおもしろくないか?
自分で言葉を書くほうがおもしろくないか?
言葉を尊[とうと]ぶのは、言葉のほうが世の中の深い所にあることが描[えが]けるからである。
最近の絵ばかり見て喜ぶ風潮では、表面的な浅いことしかわからない。

[5857] 美濃部達吉は信者か? h20.9.7
美濃部達吉は東大教授だったが、天皇機関説とかいうわざとに的外れの説を唱えて日本人を煙[けむ]に巻き、天皇制を攻撃するつもりで実際には天皇制を擁護する結果となった。
天皇制を攻撃するためには、神制では理解できないことをした者を神とするわけだが、理解できるかできないかは人によるので神制はインチキ制度である。というべきだ。
美濃部達吉は日本神道の信者だったのではないだろうか?

[5858] 神の定義 h20.9.7
神とは、人間に理解できないことをした者である。
これが神の定義だが、人間に理解できるかできないかは人によるので、人によって神であったりなかったりするので、神は一意的には決まらない。
これでは、神の定義とは言えない。
つまり、神は定義できない概念なので、神について考えても仕方がないのである。
政府が神制度を設けるなどもってのほかだ。[国家と政府は違う。政府は国家の中枢であって全体ではない。]
追記)集合とは物の集まりであるという定義からは、すべての集合は集合ではないことが導かれるように、定義が甘いことによるパラドックスは付き物である。そういう場合には、定義をもっと細かくする。例えば、神については、神とはすべての人間に理解できないことをした者であるとすればよい。だから、一人でも理解できる者がいれば神ではなくなる。また、人間に未来人までも含めれば未来においては人間に理解できないことなどないから、神は一人もいなくなる。[理解できないことに決めた責任者の名前を公表するのもいい。]それに今度の私の件では、私がしたとされる“理解できないこと”が具体的に何なのか人々に公開されていなかったから、そもそも理解できないことかどうかもわからず、私に対して神の定義が当てはまるかどうかわからない。人々に理解できないことが具体的に何なのか知らさずに理解できないことにしてしまうのは反則である。神でないことがわからないようにして神制度を成り立たせるのは卑怯[ひきょう]である。緩い土台の上には高い建物が建たないように、神の定義が曖昧では神制の国は発展しない。神のような曖昧模糊な土台に基づく国作りをやめて、もっと別のしっかりした土台を探したほうがいい。[このように私が神制度に反対しているのは、神制度が神である私にとって得にならない制度むしろ損になる制度だからである。]

[5859] 視覚野に対する電気刺激 h20.9.7
人間の脳の蓋(頭蓋骨)を開けて視覚野を電極で刺激したとする。
ところによっては、白い光の暈[かさ]や物が回って見えるかもしれない。[人間の脳の中では、運動の基本は円運動(回転運動)にあるのであって、子供が円運動を喜ぶのはそのためであり、並進運動は円運動の組み合わせとして認知されているのかもしれない。]
おもしろいことだ。

[5860] 反証主義 h20.9.7
私の母親が見たガラガラが夜中に突然回ったことは、私の『癲癇仮説』(私の母親の回転運動視覚野の癲癇)で理解される。
私の癲癇仮説を否定する事実はひとつも存在しない。[私の母親が見えたのがガラガラの回転運動だけで、それ以外のことは何一つ起きておらず、私の念動力だとすると赤ちゃんはいろんな物を動かしたがるものだから赤ちゃんがガラガラのみを3べん回して終わったとするのは不自然であり、私の念動力よりも母親の回転運動視覚野の癲癇だと考えたほうがもっともらしい。ガラガラだけしか回らなかったのだから、超能力の原因は私よりもガラガラにあると考えられる。『ポケモン事件』の透過光のパタパタのように、ガラガラの模様が母親の癲癇を誘発したのだろう。]
したがって、私の癲癇仮説は真理と見なされる。

[5861] 人間は超能力をも理解する。 h20.9.7
たとえ理解できない現象が超能力者の超能力によるものであったとしても、未来人はそれをも理解するであろう。
だから、超能力者であっても神とはいえないのである。
[政治家がゴチャゴチャやりたがるのは政治家が阿呆だからである。]

[5862] 時間 h20.9.7
昔の人は時間が何かがわからなかった。『ユークリッド幾何学』に見られるように、時間の概念がなかったと言っても過言ではない。昔の人は時間のない世界に住んでいたので、昔の人にとって世界は未来永劫に変化しないものだったのである。[昔の人は、太陽や月がいつも同じところをグルグル回っているだけで、毎日毎年同じことが永遠に繰り返されるだけだと思っていたのである。]
それで、昔の人は、今理解できないことは将来においても理解できないままだと考えたので、神(つまり、人間に理解できないことをした者)は永久不変に神だとされたのである。
しかし、今では時間についての理解が進んでいる。
時間とは、この世界に存在する空間(縦・横・高さ)とは別のもうひとつの眼に見えない次元である。人間が対象を計るときの物差しとなるものである(現象=対象×人間)。[つまり、昔の人にとっての時間は一日や一年で同じところに戻ってくる円周だったが、今の人にとっての時間は無限遠まで伸びている直線なのだ。]
今の人にとっては、世界が変化するものであることが常識となっている。
だから、今の人は、たとえ現在の人類に理解できないことでも未来の人類にとっては理解できると考えることができる。
したがって、もはや神も永久不変の存在ではなく、時間の関数なのである。[例えば、神武天皇の場合、神=神武天皇(紀元前666年から明治頃まで)だが、人間=神武天皇(西暦2008年7月8日(私の哲学日記 [5380] とんび)以降)である。]

[5863] 宗教家制 h20.9.8
神制とは、宗教家が神に関して決めたことを政治家が国民に守らせることである。
だから、神制の実質は宗教家制だ。
ところが、宗教家は頭が悪いから、こんなやり方で上手く行くわけがない。国民が幸福になれるわけがない。
政治家の悪ふざけだ。
私や神武天皇を理解できないことをした者として宗教家任せにすることは、世の中のことすべてを理解できないことにして宗教家任せにできるはずである。
宗教家がこの世のすべての問題を扱うことができるはずである。
これでは時代逆行的退行的で効率が悪い。

[5864] 明晰と曖昧 h20.9.8
科学者は対象を明晰判明に理解してから操作しようとする。
これに対して、宗教家は対象を曖昧模糊で不理解なまま操作しようとする。
だから、科学者は明晰判明に対象を操作するが、
宗教家は曖昧模糊にしか対象を操作しない。
しかし、明晰にしろ曖昧にしろやったことに変わりはない。だから宗教家は私や国民に対してしたことについて、ちゃんと責任を取らねばならない。
宗教家は診断をはっきりとつけないまま患者の身体をやみくもにいじくり回してかえって容態を悪化させるヤブ医者と同じだ。宗教家にとっての患者とは、私や日本や世界の人類のことだ。
例えば、神についてなら、たとえパッと見は理解できない現象を起こした神のように見えても、“時間をかけて考えれば”理解できない現象が理解できる現象になって神はいなくなるはずである。つまり、宗教家は考えるのが嫌いな短気な科学者であって、腕の悪いヤブ科学者にすぎない。[宗教家が考えるのが嫌いなら、頭脳労働ではなく肉体労働をやるべきだ。(私は考えるのが嫌いではないが、肉体労働をやっているが。)]どれくらい“時間をかけて考えれば”いいかがわからなければ、フェルマーの大定理に360年、神武天皇の光の玉に2500年もの時間がかかったのだから、‘理解できない現象が理解できるまでにかかる時間についての理論’が今のところ存在しないから[問題が難しければ難しいほどそれを解くのに要する時間がかかるだろう。問題がどれだけ難しいかは解けてみないとわからないから、問題の難易度に関する理論はできないだろう。]、いっそ問題を解くのに要する時間を無制限にしてどんな理解できないことでもいつかはきっと理解できると考えて、グチャグチャして煮え切らない宗教を辞めてしまえば世の中が統一できて雰囲気がスッキリして気持ちがいい。
理解できることをわざとに理解できないことにするインチキを防ぐためにも、宗教はなくなったほうがいい。

[5865] どうして宗教家は私を曖昧模糊に操作したのか? h20.9.8
私を宗教家が曖昧模糊に操作したのは、私が神であるか神でないかわからないから曖昧模糊に操作したのではなく、もともと宗教家は曖昧模糊にしか対象を把握せず曖昧模糊にしか対象を操作しないものだからである。
だから、宗教家にとって私はたしかに理解できないことをした者(つまり神)だったのである。
しかし、宗教家が私を理解できないことをした者だと判断したことはまちがいである。
なぜなら、この前私が理解できることであることを証明したからである。宗教家にとって理解できないことでも、その他の者にとっては理解できることである。
それなら、宗教家の責任になるのではないだろうか?[宗教家を信用した政治家にも責任はあるが。]

[5866] どうして天皇は人間よりも上の者なのか? h20.9.8
昭和のはじめ頃に、政治家が日本の科学が強くないことを知って、宗教に救いの手を求めたために、政治家と宗教家の癒着が強かったからである。天皇が人間よりも上なのは、その頃の名残である。宗教なら、資源がなくても馬鹿でもできる。
宗教国となった日本が狂って世界を敵に回して戦争を始めた。
それで、恐れをなした世界が戦後すぐに湯川英樹にノーベル賞をやって、日本が科学の強い国だと煽[おだ]ててくれたのである。
こうなったらもはやDHAが豊富な魚に頼るしかない。

[5867] 日本の政治の流れ h20.9.8
明治大正時代には日本の政治は民主制が強くなりつつあったのに、
昭和に入ってから、昭和天皇が乗り気だったせいか、急に神制が強まりだした。
戦後20年の間は再び民主制や科学制が強かったが、それも一時だけで
昭和40年代以降には再び神制つまり宗教制が強まりだした。
日本の政治は何をやっているのか!?
政治家はそんなに科学者よりも宗教家が好きなのか?
日本の宗教家ってそんなに優秀なんですか?(初耳)
悲しいことに、日本のような馬鹿が多い国では科学よりも宗教が幅を利かしているのが実際である。
しかし、もはや神や宗教にそれほどの力はない。
なぜなら、この前私が神や宗教の正体を明らかにしたからである。
つまり、神とは理解できないことをした者であり、宗教とは理解できないことに縋[すが]る頼りない生き方にすぎない。理解できないのは、理解できない者が馬鹿だからである。[素人[しろうと]にも宗教が直感的に胡散臭いことはわかるが、それ以上詳しいことはわからない。だから、宗教は今まで続いていたのだ。私が赤字のような簡単なことを言うと、自分にもそんなことぐらい以前からわかっていたという顔つきをするが、じつはまったくわかっていなかったのである。だから、『はだかの王様』だと童話作家にからかわれるのだ。]
これで神は使い者にならなくなったから、もはや政治家は神制をやらないはずだ。
今さら宗教家や政治家程度の出来の頭で、国民を騙[だま]せるほど世の中は甘くない。

[5868] 現代版『はだかの王様』 h20.9.9
(キリストの十字架像を見た親子連れの対話)
子供「どうして、こんな裸の痩せた人が偉いのですか?」
親「それは、この人の母親が癲癇[てんかん]だったからです。」
子供「やはり、科学が遅れていてはいけませんね。」

[5869] 仏教について h20.9.9
釈迦の教えが正しいかまちがっているかは別として、仏教は宗教である。
宗教とは、理解できないことをした者を神とすることである。
だから、仏教自体はまちがった行為なのだ。
仏教は、釈迦の母親の癲癇として理解できていることを理解できないことにするからまちがいなのだ。

[5870] 人間を神にする方法 h20.9.9
神とは、“理解できない”ことをした者である。
しかしだからといって、日本のように、肝心の“理解できないこと”を喩えでわかりにくくして国民に伝えて、“理解できないこと”が何だかわからないようにして、ほんらい理解できることを理解できないことにしてただの人間を神にするのは汚いやり方である。
つまり、宗教家や政治家にとっては、人間を神にするためには、たとえどんなことをしてでも“理解できないこと”をした者にすればいいと思っているのである。宗教家や政治家にとっては神の定義を満足しさえすれば何をやってもいいと思っているのである。つまり、宗教家や政治家にとっては、この世に一人でも“理解できないこと”を理解できない者がいるかぎり、“理解できないこと”をした者にできると思っているのである。
しかし、普通は、一人でも(たとえ未来人でも)“理解できないこと”を理解できる者がいたら、もはや理解できないことをした者にはならないはずである。
そこで、正々堂々と新聞の朝刊の1面目に“理解できないこと”を[匿名で]公表して、国民にいっしょに考えてもらうようにしなければならない。
そうすれば国民にとっては『頭の体操』になるし、神が出たと言って騒ぐこともなくなるだろう。

[5871] 人類には未来がある。 h20.9.9
神とは、理解できない現象を起こしたと考えられる者のことである。
しかし、客観的には、我々の知識不足による理解できない現象があるだけのことである。
それを宗教家が、神が出たと言って騒いでいるだけのことである。宗教家が科学者のイヤミを言って喜んでいるだけである。
理解できない現象は時間をかけて考えて行けばいつかはきっと理解できるはずである。
これまでの人類の歴史がそれを裏付けている。
だから、たとえ現在において理解できない現象があったとしても、未来の人類に理解を託すことができる。
だから、わざわざ理解できない現象を起こしたと考えられる者を神にして余計な問題を増やしてはいけない。

[5872] 神は不定概念である。 h20.9.9
神は、“理解できないこと”をした者である。
だから、“理解できないこと”が理解できない者にとっては神だが、“理解できないこと”が理解できる者にとっては人間である。
見る人によって神になったり人間になったりするのでは不便で面倒である。
喩えれば、お金は刻まれている金額が誰にとっても一意的に決まるから便利に使えるのであって、見る人によってお金の金額が変わるのではとても使えたもんじゃない。
だから、神も見る人によって金額が変わるお金のようなものだから、神になったり人になったりして一意的に値[あたい]が決まらない神など使いものにはならないのである。したがって、神を使って社会制度を組み立てることなどとうていできたものではない。
理系にせよ、文系にせよ、現代社会ではすべて定義できるすなわち見る人によらず一意的に決まる概念に基づかなければならないのだ。
神は見る人によって値を変える不定概念なので、現代社会においてはもはや使い物にはならないのである。[しかし、普通は、“理解できないこと”を理解できる人が一人でもいたら理解できないことにはならないから、理解できる人が一人でもいる場合にはもはや誰にとっても神ではないのである。神であるかないかを決めるのが面倒臭ければ、いっそ思い切って神などなくしてしまえば楽である。]

[5873] 神と大統領の違い h20.9.9
大統領は選挙で決まるが、
神は理解できないことをした者というだけで決まる。
だから、大統領は国民の多数決で決まるが、
神は少数の宗教家の独断で決まる。つまり、国民の一部の馬鹿な宗教家が理解できないだけで神にされる。
大統領は多数決で決めたから正当性があるが、
神は少数決で決めたから正当性がない。
いっそのこと、国会議員と同じように神も選挙で決めたらどうか?神は人間に理解できないことをした者という出来損ないの定義をやめて、国民なら誰でも自由に神(他人の見本になれるいい人すなわち見本人)に立候補できて、選挙で神を決めることにすればいい。そうすれば、神制自体は残すことができる。

[5874] 神は人間である。 h20.9.10
神とは、理解できないことをした者だが、馬鹿にとって理解できないことでも利口にとっては理解できることである。
だから、神は利口にとっては人間にほかならない。
したがって、神は実体的には人間であって、それを見る連中がただ馬鹿なだけだ。
人間が神に見える連中が馬鹿だということにすぎない。
人間÷馬鹿=神、神÷利口=人間といったところか。[つまり、利口は馬鹿の逆数である。]

神がいる所には必ず馬鹿がいて、馬鹿がいるところに神が現われるわけである。
馬鹿が神を生み出す原因である。
現代においては、馬鹿がいること自体がすでに奇跡だ。

[5875] 神と人間は別の動物? h20.9.10
一般人にとっては、“理解できないこと”がないから、神と人間は同じである。
しかし、宗教人にとっては、“理解できないこと”があるから、神と人間は別の動物である。
つまり、宗教人が私を人間とは別の神と考えていただけであり、一般人は私を人間だと考えていた。
したがって、宗教人が私を人間と別扱いしたことは、『むささび・もま事件』と同様に不当であると考えられる。
よって、宗教人は有罪である。

[5876] 哲学的なまちがい h20.9.10
科学人は、人間に‘原則的に’理解できないことはないと信じている。
宗教人は、人間に‘原則的に’理解できないことがあると信じている。
だから、宗教人は進歩しない考え方である。
理解できないことがあれば考えて理解すればいいだけだ。
たとえ、何日かかろうと何万年かかろうと。
実際に、理解する気さえあれば、意外に早く理解できるものである。
哲学的には、科学人が正しく、宗教人はまちがっている。
つまり、『人間に原則的に理解できないことはない』のがこの世の真理である。
実際に、これまで宗教で神とされた者が行った奇跡すなわち人間に理解できないことがすべて科学で理解されてしまったではないか。
だから、宗教人の哲学(考え方)はまちがっているのである。

[5877] 科学の哲学と宗教の哲学 h20.9.10
科学の哲学は、人間には‘原則的に’理解できないことはないとすることである。
宗教の哲学は、人間には‘原則的に’理解できないことがあるとすることである。
人間に理解できないことがあったとき、科学人は自分で考えて理解しようとするが、宗教人は諦めて考えようとしない。
だから、科学は進歩するが、宗教は停滞するのだ。つまり、科学には明日があるが、宗教には昨日しかない。
そのうえ、宗教は理解できないことの近くにいた者を神にする。馬鹿は自分に理解できないことを他人(つまり神)のせいにして、自分を反省しようとしない。神がいなければ、馬鹿も自分で考えるだろう。つまり、神は馬鹿が自分で考えないようにするための工夫だ。馬鹿は自分で考えるとすぐに間違いを犯すので、神を立てることによって自分で考えないようにしているのだ。つまり、神は知覚の麻酔剤のようなものだ。そんな下手な工夫をしなくても、要するに、正しいことを他人から学ぶか自分で考え付けばいいのである。喩えれば、山で道に迷ったとき、最初に道を間違えた所まで引き返して再び正しい道を歩き出すようなものである。そうすれば、神なんか要らない。つまり、自分で考えてもうまく行かないのは、自分の頭の中に考えまちがいがあるせいだから、そのまちがいを自分で考え直して修正すればよいのである。人間は宗教的方法つまり考えない方法によってはまちがいを抑えるのがせいぜいで中途半端にしか救われない。人間は科学的方法つまり考える方法によってまちがいを直すことができ完全に救われるのだ。つまり、科学が考えることによって問題を解決する方法であるのに対し、宗教は考えないことによって問題を解決?する方法である。宗教家が馬鹿だから、『考えないことによる悩みの解決法』しか見出せないのである。

[5878] 宗教は何のためにあるか? h20.9.10
カタワには明日がない。
だから、現実に背を向けてなるべく現実について考えないようにするために宗教がある。
それなら、もっと消極的に宗教をやれ。
絶対に健全な一般人を巻き込むな。
神は知覚の麻酔剤なのだから、とくに理解できないことをした人でなくてもいいはずだ。[それに、最近の信者には神が理解できないことをした者ではないことがばれてしまっている。だから、かえって、神の意味がわからなくなっている。そうなると、もはや神の意味なんかない。だから、最近の信者は神をなめているのだ。
宗教家は、理解できないことをした人以外を神にしてくれ。

[5879] 学力よりも考力[こうりょく] h20.9.11
学力が大事なのは子供のうちだけだ。
大人にとっては他人の考えを学ぶ学力よりも自分で考える考力が大事だ。

[5880] 総理大臣と神の違い h20.9.11
総理大臣とは日本を任せることができる者である。だから、たしかに人によってある者が総理大臣であったりなかったりするが、多数決つまり選挙で決めるので、総理大臣に当選した者を総理大臣と認める者が大勢いるから、総理大臣制が社会制度として成り立つのである。
一方、神は理解できないことをした者である。だから、人によってある者が神であったりなかったりするが、今日では国民の知的水準が高くなっているので、神武天皇や私を理解できないことをした者と認める者などほとんどいない。[もちろん、君にも神武天皇や私が人間に見えるよね?]したがって、今日では神武天皇や私についての神制は社会制度としては成り立たず神制を行うことはできないのである。[総理大臣に関しては総理大臣の立てる政策が自分の心を満足するものであるかないかで心の問題なので多数決で決めねばならないが、神に関しては人間に理解できるかできないかの問題なので客観的に決まることであり心に関する問題ではないから多数決で決めることではなく、理解できないことのように見えることを理解できる者が一人でもいたら神ではないことになると考えられる。たとえ、現在において理解できる者が一人もいなくても、未来において理解できる者が現われると考えて、現在において理解できないことをした者を神にしないのが科学的には妥当であると考えられる。(→[5884]を参照。)]

[5881] 『はだかの王様』の昔と今 h20.9.11
昔はキリストが神に見える者が利口で人間に見える者が馬鹿だとされていたが、反対に今ではキリストが神に見える者が馬鹿で人間に見える者が利口とされている。
今は理解できることをわかることが利口とされているが、昔は理解できないことをわかることが利口とされていたのだ。
昔と今では、利口と馬鹿の意味がひっくり返っているのだ。

[5882] 実在観の昔と今☆ h20.9.11
昔のギリシア人は静力学までは論理的合理的に理解することができたが、動力学については『飛ぶ矢は飛ばず』とか『アキレスと亀』などの問題がパラドックスとされ合理的論理的に理解することができなかったために、昔の人は『実在が不合理的非論理的にできている』と考えていた。それで、理解できないことをしたと考えられたキリストが実在についての真実を知る者とされ、キリストの思想がニュートンの法則やアインシュタインの相対性原理のように世界の指導原理とされたのである。[神武天皇(無口だったので子孫が代理を務める。)や私についても同様。]
しかし、ガリレイやニュートン頃になって、運動が論理的合理的に理解されるようになると、反対に『実在は論理的合理的にできている』と考えられるようになったのである。それで、不合理なことをやったと考えられていたキリストはどうでもいい者とされて、人々の目はキリスト以外の物へと向けられるようになったのである。
今の宗教を信じている人たちは、かつて『実在が不合理的非論理的にできている』と信じられていた頃の人々の生き残りなのである。将来再び難しいパラドックスが発見されて、実在が不合理的にできていると考えられるようになれば、再び理解できないことをした者が実在についての真実を知る者としてキリストのように取り沙汰されることがあるかもしれない(できれば、あって欲しくないものである)。

[5883] 実在は合理的か不合理的か? h20.9.11
実在が合理的にできていると考えるのが科学であり、
反対に、実在が不合理的にできていると考えるのが宗教である。
私自身は、実在がひたすら合理的論理的にできていると考えている。
たとえ一見不合理的に見えることでも、いくつかのアイデアで補えば合理的に見えるようになり、それこそが実在の真の姿なのだと考える。不合理的に見えることは、実在の偽りの姿にすぎない。
人間に知覚があるのも、実在が合理的論理的にできているからだろう。
理屈はともかく、世の中は“当たって何ぼの世界”だから、当たらない宗教よりも当たる科学のほうが当然信頼できる。

[5884] 宗教の世界 h20.9.11
宗教では、実在が不合理的非論理的にできていると考える。
それで、理解できないことをした[ように見えた]者が、不合理的非論理的な実在についての真理を悟った者だと見なされたのである。
それで、理解できないことをした[ように見えた]者の思想を真理と見なして人々がそれに従うことによって不合理的非論理的な実在に適応して幸福に生きようとしたのである。[こうして見ると、宗教の考え方も科学と同じように論理的合理的である。]
しかし、今では『実在が論理的合理的(数学的)にできている』という大前提に基づく科学のほうが『実在が非論理的不合理的にできている』という大前提に基づく宗教よりも、実在についてはるかに多くの知識を得ることができたので、科学の大前提のほうが宗教の大前提よりも正しいと考えられる。つまり、『実在は論理的合理的にできている』から、科学が正しく、宗教はまちがっているのだ。したがって、神とは、宗教のまちがった大前提が作り出した妄想にすぎなかったのである。
だから、今後は理解できないことをした[ように見えた]者が現われたら、その者を実在についての真理を悟った者と考えるのをやめて、理解できないことについてよく考えてそれを理解できるようにしなければならない。

[5885] どうしてモーゼは神ではなくなったのか? h20.9.13
大昔は、『実在が不合理的非論理的にできている』と考えられていた。それで、奇跡(つまり、人間が理解できないこと。モーゼについては、神の声を聞くことか、あるいは海を割ったこと)を起こしたモーゼが実在についての真理を悟った者だと見なされて、みんながモーゼの教えに従ったのである。
しかし、ギリシア時代になると、反対に『実在が合理的論理的にできている』と考えるようになったので、モーゼはどうでもいい者とされて無視されるようになったのである。
さらに、ギリシア時代末期になると、動力学に関する『飛ぶ矢は飛ばず』や『アキレスと亀』などのパラドックスで混乱をきたして、再び『実在が不合理的非論理的にできている』と考えられるようになったので、新しい奇跡(後光を出したこと)を起こしたキリストが実在についての真理を悟った者だと見なされて世界の指導者となったのである。モーゼも論理的には復活できたはずだが、一度みんなに捨てられて評判を落としていたので再起不能のままだった。
つまり、神が出るのは『実在が不合理的非論理的にできている』と考えられていた時代で、『実在が論理的合理的にできている』と考えられている時代には神は出ないのである。現代においては、科学上のパラドックスも特になく『実在が論理的合理的にできている』のが常識だから、もはや神の出る時代ではない。かつてモーゼが捨てられたように、これまでの神も捨てられる運命にあるのである。例えば、日本人の多くが神武天皇の奇跡(光の玉を出したこと)が電磁現象のコロナ放電であると考えるようになったために、神武天皇は捨てられたのである。

[5886] 実在第0原理 h20.9.13
実在についての第0原理とは、『実在が論理的合理的にできている』ことである。
だから、この原理に従う科学が発達し、これに対立する原理に従う宗教は発達しないのだ。
どうしても宗教をやりたければ、実在以外の世界でやらねばならない。
しかし、それでは意義がないから、馬鹿馬鹿しくて誰もやらないだろう。
つまり、現代は科学の時代なのだ。

[5887] 不合理主義はおもしろいか? h20.9.13
『実在が不合理的非論理的にできている』と考える者に、本当に面白い者はいない。
『実在が論理的合理的にできている』と考えて、そうして得られた実在観の上に面白いことを考える者が本物の面白さがわかっている者である。
『実在が不合理的非論理的にできている』と考える者は、自分独りでメチャクチャをやる空しい面白さしかわからないつまらない者である。

[5888] 宗教は何のためにあるか? h20.9.14
宗教は『世界が非論理的不合理的にできている』と考えている。
ところが、『実在は論理的合理的な世界』である。
だから、宗教は実在の中ではやれない。
宗教は非論理的不合理的な世界を憧れる信者が空想の世界に逃避して自分の心を慰めるためにあるのだ。
だから、宗教が科学のように実在の世界のことを扱ってはいけない。例えば、宗教が実在において理解できないことをしたように見える者を神にしてはいけないのである。
科学も宗教も互いの世界の縄張りを侵してはいけない。

[5889] 宗教に入るとは? h20.9.14
昔は、宗教に入るとは『実在が非論理的不合理的にできている』と考えることであった。
しかし、これでは『実在が合理的論理的にできている』という現状に合わないから、実在の中では生きていけない。
だから、今後は、宗教に入るとは、『実在が論理的合理的にできていることを認めて実在の中でまじめに生活し、非論理的不合理的にできている空想の世界で遊ぶ』ことだとする。神様がどうしても欲しければ、非論理的不合理的にできている空想の世界の中で実在しない神様を作って拝[おが]めばいい。絶対に実在の世界の中で実在する神様を作ってはいけない。

[5890] どうしてインドでは奇形児が神様にされたか? h20.9.14
『実在が不合理的非論理的にできている』ことを大前提とする宗教では、『実在が不合理的非論理的にできている』ことの証[あかし]となる者を神様とする習慣がある。つまり、神様とは宗教が大前提とする『実在が不合理的非論理的にできている』ことの物的証拠である。
そのために、昔のインドでは人間の出来損ないである奇形児が神様とされたのである。
しかし、最近の医学では胎児の発生についての研究が進んで、胎児の発生が論理的合理的な物質の変化であることが明らかとなったので、今では奇形児を神様にすることはなくなったのである。
一般に、現代では人体についての研究が進んで、人体も他の物体と同じく論理的合理的にできていることが明らかになったので、もはや人間を神様とすることもなくなったのである。

[5891] 【物理学】観測問題とは? h20.9.14
観測問題とは、ボルンの原理をシュレーディンガー方程式(と何かの仮定)から導くことである。
つまり、ユークリッド幾何学の第5公準を第1〜第4公準から導くのと同じことである。
すなわち、ボルンの原理を導くためにはシュレーディンガー方程式と他に何の仮定が要るのか?あるいはボルンの原理は独立した命題であって他の命題から導くことができないのではないか?ということを詳しく調べることである。
私はボルンの原理は観測装置が測る物理量のみに依存して観測装置の具体的な特性が捨象[しゃくしょう]されているし、十分エレメンタリー(基礎的・原理的)な式だから、シュレディンガー方程式に他の仮定を入れて導かれるものではなく、それ自体が独立した命題なのではないかと思う。つまり、ボルンの原理は原理というだけあって証明不可能なのではないかと思う。たとえ、将来ボルンの原理が証明できることがわかったとしても、それまでの間証明なしに使っても物理学的には悪くはないと考えられる。[“観測時に成分波(物理量の固有状態)の位相がランダム化される”からひとつの値に収束するという説明もある。これは、シュレーディンガー方程式と“観測時に成分波の位相がランダム化される”仮定とからボルンの原理を導いたので、観測問題を解いたことになる。でも、それならどうして“観測時に成分波の位相がランダム化される”のだろう??これでは、ボルンの原理を論理的に同値な他の(しかも、かえって証明しづらい)命題に言い換えただけなので、“観測時に成分波の位相がランダム化される”ことが証明されないかぎり観測問題が解けたとは言えない。]
ボルンの原理が言いたいことは、Ψの物理量を測定したとき、たくさんの測定値がこれこれの確率で得られるというごく当たり前のことをいっているだけではないかと考えられる。理論(Ψ)と実験値の関係を素朴に述べただけである。

[5892] 反証主義 h20.9.14
宗教の大原理『実在は非論理的不合理的にできている』に対する反証事例は、いくらでもある。例えば、ニュートンによる惑星の運動の解明や電磁気についてのマクスウェルの方程式などである。学校や大学で教えていることのすべてが、宗教の大原理に対する反証事例だと言っても過言ではない。
これに対して、科学の大原理『実在は論理的合理的にできている』に対する反証事例はひとつもない。神武天皇の光の玉や釈迦の超早熟やキリストの後光やモーゼやモハメットの神のお告げや私のガラガラ回しなどは、すべて科学的に論理的合理的に説明できることであり、科学の大原理に対する反証事例ではない。
したがって、宗教の大原理は否定されるが、科学の大原理は否定されない。
つまり、宗教の大原理は成り立たないが、科学の大原理は今のところ成り立つ。すなわち、宗教はまちがっているが、科学は正しい。したがって、人は科学をやるべきであり宗教をやるべきではない。

[5893] どうして私は枕をしないほうが眠れやすいか? h20.9.14
私が逆子[さかご]だったから。つまり、人間が夜眠るのは母親の子宮の中にいたときと同じ状態であり、母親の子宮の中にいたときと同じ姿勢にするとよく眠れるのである。

[5894] 合理的心と不合理的心 h20.9.15
人間の心は知覚に従属する。
科学の合理的世界観に従う心は合理的心であり、
反対に、宗教の不合理的世界観に従う心は不合理的心である。
ところで、実在は論理的合理的な世界である。
だから、科学の合理的世界観は実在の世界と同じだから、科学の合理的心は実在に順[したが]う善の心である。
宗教の不合理的世界観は実在の外にある空想の世界だから、宗教の不合理的心は実在に逆らう悪の心である。

[5895] 合理的には刑罰しかない。 h20.9.16
ある者を神にすることによっていい思いをした者を罰しないでおくと、また同じことをする者がきっと現われる。
だから、宗教の大原則である『実在は不合理的非論理的にできている』ことを“理解できないことをしたように見える者”に適用した者(およびその適用に倣[なら]った者)には厳罰を与えねばならない。
例えば、私を女の子に変えたマンガ家やアニメーター(及びその子孫)を街で見かけたら車ではねて轢き殺しても無罪になる。[子孫がターゲットになるのは、気質が遺伝するからである。]

[5896] マヤはどうして滅んだか? h20.9.17
マヤは地球の気候が1年周期で繰り返す論理的合理的な科学的法則を見出し、それをうまく利用することによって繁栄した。
どんな国でも科学的認識に従う国は繁栄する。
しかし、マヤにも『実在が非論理的不合理的にできている』という宗教の大原理を信じる者がいた。
マヤの宗教家がマヤに現われた“理解できないことをしたように見えた者”を神とすることによって、マヤが科学的法則よりも神の思想に従うようになったために国が実在に従わなくなり国が滅びてしまったのである。

[5897] どうして宗教は曖昧にしかやらないのか?☆ h20.9.17
宗教がきちんと私を神にして私の思想に人類を厳密に従わせようとしないのは、
宗教が自分の大原理すなわち『実在が不合理的非論理的にできている』ことに対して自信を持っていないからである。
宗教は科学の大原理すなわち『実在が合理的論理的にできている』ことが正しく自分がまちがっていることを知っているのだ。
宗教は自分の大原理がまちがっていることを知っていて、それでもやり続けているから、弱々しく曖昧にしかやれないのだ。
そんな後ろめたい宗教なんかさっさとやめちまえ!
[宗教には自己矛盾があり、宗教に入るとまちがいだと知りながらやめられないとまらない悪い癖が身に付いて意志が弱くなるから宗教はやめたほうがいい。]

[5898] 父親のだらしない考え方 h20.9.17
父親は私が福岡にいたとき「自分に合った仕事をしなさい。」と言った。
どんな仕事が私に合うかは[私自身が考えようが親が考えようが同じで]客観的に決まることだから、もっと具体的に言って欲しい。
父親が自分の子供について理解していないのでは、親とは言えない。
親が子供の好き勝手にさせる“放任主義”は、親が自分の子供について何も考えようとしない“考えない主義”の言い換えにすぎない。
一般に、私の親は自分では何も考えようとしない。だらしのない親だ。

[5899] 宗教は論理的である。 h20.9.17
宗教は『実在が不合理的非論理的にできている』と考えて、理解できないことをしたように見える者を実在についての真理を悟っている者とし、その者の思想に人類を従わせようとする。
こうして見ると、宗教も科学と同じで論理的である。
“理解できないことをしたように見えた者”を神とする最初の所が不合理的なだけで、そこから先は科学と同じように論理的だ。
それでは、宗教の大前提に宗教自身が背いていることになる。[完全に不合理的非論理的にやらないといけないとしたら、宗教は一体何をやれるのだろう??]

[5900] 私の趣味 h20.9.18
私はみんなと仲良くやるよりも、正義のために戦うほうが好きだ。
私がお喋りする奴が嫌いなのも、みんなと仲良くやるために喋るからだ。


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