[5401] 思想家 h20.7.13
シャカやキリストはただの人間である。
シャカやキリストは“古代の思想家”であって、神(人間の願いを叶えてくれる者)ではない。
シャカやキリストの思想は古臭くて間違っていて、現代では役には立たない。
自分の願いを叶えて欲しければ、シャカやキリストではなく“神”に祈るべきである。

[5402] 神 h20.7.13
この宇宙を作った者がいると仮想的に考えることができる。人はその者を神と呼ぶ。神は何でもできるから、神に頼めば自分の願いを叶えてくれるかもしれない。しかし、叶えてくれないかもしれない。それは、神にしかわからない。
神は人間にうるさい説教をしないし、人間に命令もしないし、国民から税金を取って余計な祭りごとをする悪どい政府も付いていない。
もはや人間は神に願いを言うだけで神に従う必要はないし、政府に税金を支払わなくてもいい。
自分ができないことを神に祈るよりも、自分が実在を理解して自分ができることの中で自分の心を満足させることを考えたほうがいい。そうすれば、もはや神になんか祈らなくてもいい。

[5403] クイズ? h20.7.13
『錯視でガラガラが回ったように見えたなんて話ができすぎだ。
だから、政府が私の母親にそんな話をさせたにちがいない。』
と、考えた読者も多かっただろう。
母親の「夜中に突然ガラガラが回った」話は、私に対する一種のクイズのようなものだ。
私の母親はそんなクイズを考える頭を持っていないから、日本政府の人が考えたのだろう。
そのクイズに対して私がどんな答えを出すか反応を見たかったのだろう。
最大の謎は、どうして“私”にクイズを出したか?だ。
…。
わからないから、やっぱり、母親が夜中に突然ガラガラが回っているのを見たのは事実で、その話が日本政府に伝わって、政府が私を超能力が使える神だと誤解したと考えるしかない。[フレーザー・ウィルコックス錯視は1979年に発見されたそうだから、私が生まれた1964年当時に政府の者がそんな問題を作れるわけがない。フレーザー・ウィルコックス錯視の第一発見者は、私の母親?]

[5404] 神 h20.7.14
神とは何でもできる者のことである。【神の定義】
だから、[神は]この宇宙を作ることができた。
神に祈れば、[神は何でもできるので、]自分の願いをかなえてもらえるかもしれない。
宗教とは、何でもできる神の存在を仮定し、自分の願いをかなえてもらうために神に祈ることである。

[5405] 日本神道 h20.7.14
日本神道は天皇教である。
つまり、神でない天皇を神とする邪教(まちがった宗教)である。
日本神道の者はまちがった宗教を信じている心が汚い者である。
日本神道は日本の宗教の一部であり、日本には日本神道以外の宗教もある。

[5406] 実存主義と実在主義 h20.7.14
知覚に心が従属しない者にとっては神が存在するが(実存主義)、
知覚に心が従属する者にとっては神は存在しない(実在主義)。
神が存在するかしないかは個人の主義による。
神がいる者ほど不幸であり、神がいない者ほど幸福である。
神は自分の心を満足してはくれない。自分の心は自分が満足しなければならない。
神は人間の不幸の種であり、神を捨てたほうが人間は幸福になれる。
人間が幸福になるためには、実存主義よりも実在主義のほうがいい。
[でも、神がいるから人間は自分の願いを祈ることができ、自分の願いを頭の中で思い浮かべることは[夜寝ているときに夢を見るように]たとえ一時的ではあっても幸福な気持ちになれるから、場合によっては神がいたほうがいいこともある。だから、大目に見れば、宗教は許せる。喩えれば、宗教はマンガを読むようなものであり、人間は完全に合理的な存在にまで進化していないのが現状であって、人間は合理的な存在であると同時に不合理的な存在でもあるから、合理的な存在である人間にとって科学が必要であるように、不合理的な存在である人間にとっては宗教もまた必要である。[私にとっては、マンガやゲームがあれば十分だが。つまり、私にとってはマンガやゲームが宗教なのだ。マンガやゲームが苦手な人は宗教で遊ぶしかない。]ただ、天皇教やキリスト教などの超能力者のように見えた者を神とする宗教は、神でない者を神とするまちがった宗教だから、あってはならない。]

[5407] 遊び h20.7.14
人間の心には実在(知覚における実在的認識)に従属している部分と実在に従属していない部分の両方があって、[実在に従属している部分を満たすのが仕事であり、]実在に従属していない部分を満たすのが遊びなのである。
遊びには、マンガやゲームや宗教などがある。
人間には不合理的な部分もあることを認めることが、真に合理的ということである。

[5408] お祭り h20.7.14
宗教は自分の願いをかなえてもらうために神を“お祭り”する遊びである。
田舎の村祭りや神社祭りが宗教のほんらいの姿である。
神殿や教会や神社は神と人間をつなぐところだから、そこそこ立派なのである。

[5409] 保険 h20.7.14
昔は科学がなかったから、人間は自分の願いを叶えるために神に祈るしかすべがなかった。
今は科学があるから、人間は自分で自分の願いを叶えることができるようになった。
例えば、五穀豊穣は農学で叶えるし、無病息災は医学で叶える。
宗教は万が一のための“保険”のようなものである。

[5410] 超能力者は神ではない。 h20.7.14
たとえ超能力者が仮にいたとしても、超能力者は限られた超能力がひとつかふたつ使えるだけだから、何でもできる神ではない。
だから、超能力者は人間の願いを叶える神としては役に立たず、超能力者は神の代役にはなれない。
まして超能力が使えない人間ではなおさらだ。

[5411] 馬鹿のひとつおぼえ h20.7.14
古来より、神武天皇の光の玉だけが延々と日本文学のネタにされてきたのは、「天皇家が光の玉を出すことしか能がない役立たずの神だ」と言いたかったのである。
天皇も神として自分が不適任だと思ったら、自分から天皇を辞めるべきである。

[5412] 太陽を西から出す h20.7.14
日本昔話で、太陽を西から出した男がその後ですぐ死んでしまう話(タイトル忘れた)は、太陽が神武天皇の出した光の玉の喩えであって、自分が天皇になりたいなどと思ったら殺されるぞと言う政府の国民に対する脅しである。
初代『天才バカボン』の歌はバカボンつまり私が天皇家と対等かそれ以上の神であることを言っているし[天才=天賦の才能←超能力、バカボン←カバボン←かわののぶお(私の名前、ダジャレ)、ちなみに『Vガンダム』のジン=ジャハナムがバカボンのパパに似ていたのは、ジン=ジャハナムが私だからだ。]、ときどきテレビで『白夜のフィンランド』の特集があるのは天皇家のおだてのために政府がやらせているのである。

[5413] 八兵衛 h20.7.14
名古屋の方言で仲間はずれにされることを八兵衛[はちべえ]という。
八は8で、8は瓢箪[ひょうたん]の形に似ていて、瓢箪は丸がふたつつながっていて神武天皇の出した光の玉がつながっているということだから、つまり八兵衛とは天皇のことである。
天皇が人間でない者とされ、人間から仲間はずれにされているからだ。

[5414] 遊びとしての宗教 h20.7.14
何でもできる神なんていないのは、合理的に考えれば当たり前のことである。
しかし、人間はまだ完全に合理的な存在にまでなっていない。
人間の心には実在に従属しない部分がある。
だから、その心の不合理的な部分を満足させるために、想像で神がいると考えて、その神に自分の願いを叶えてくれるように祈る“遊び”があってもいいのである。
もっとも、私はマンガやゲームをやって心の不合理な部分を満足している。だから、私には宗教は要らない。

[5415] 女が男に求めるもの h20.7.14
自分が女にもてたいために「自分が美男子になりたい」と神に祈る男がいる。
女は男に美しさを求めたりはしない。
眼で見えないことがわかるのが男の才能であり、その男の才能を女は男に求めるのだ。

[5416] 男が女に求めるもの h20.7.14
男は眼に見えないことがわかるから、女に美しさを求めたりはしない。
家事や育児の才能を男は女に求めるのだ。
家事や育児がよくできる女を男はかわいいと思ったりするのだ。

[5417] 男の子の面倒は父親が見ないといけない。 h20.7.14
男と女では生まれつき心が違うので満足させる感情も違い生きる道も違っている。
だから、男にとって女がわからないように、女にとっては男がわからない。
女に女特有の問題があるように、男には男特有の問題がある。
だから、いくら女が育児をしないといけないとは言っても、男の子がある程度大きくなったら女親では男の子の思考や行動が理解できず男の子が扱えなくなるので、男の子の面倒は男親が見ないといけない。

[5418] 僕の夢 h20.7.14
僕はどうでもいい数学や科学の研究がやりたかった。
大事なことは、どうでもいいことで、数学や科学なんかそれこそどうでもいい。
ただどうでもいいことをやって給料をもらって生活さえできればよかった。
それで、なにひとつ業績を残さずに死ねたらいいなあと。

[5419] 宗教の原理 h20.7.14
現人神すなわち超能力者は実在しない。
これが、宗教の原理である。[神武天皇やキリストやシャカや私の例について考えてみれば、この原理は一般的に成り立つものと考えられる。]
この原理によって、現人神を神とする宗教は成立しない。
今後は現人神を神とする宗教は廃止する。

[5420] 誰が政府を倒すか? h20.7.14
天皇ひとりを倒すことは、天皇はしょせん人間だから誰にでもできる。
面倒なのは天皇を神としている政府を倒すことである。
政府は大勢の人間から成る組織だから、1人の人間の力では政府を倒せない。
江戸時代には、徳川軍が日本政府を江戸から追放した。
つまり、軍隊が政府を倒した。
それで、日本は江戸時代には楽園だった。
今は政府が太りすぎたので、残念ながら日本には政府を倒せるほどの大きな組織はない。[『ウルトラマン』の怪獣は政府の喩えだ。]
しかし、天皇が神でないことは今日では国民の常識となっている。
国民もひとつの組織と言える。
だから、国民が政府を倒すことができる。

[5421] 男と女の違い☆ h20.7.14
山小屋で遭難したとき、男は自分独りで動き回って自分の力でなんとかしようとして体力を使い切って死ぬのに、女はじっとして動かないので助かることがよくあると言う。
つまり、男は自分で考えて自分で行動する習性があるのに、女は他人から命令されないかぎり考えたり動いたりしない習性があるのだ。
だから、学校に通っているうちは、学校では勉強するようにみんなが言われているので男も女も同じように勉強するから男も女もあまり違いが出ないが、大人になって自分で考えてやらねばならないようになると、男は放っておいても自分ひとりで考えるのに、女は他人から命令されないかぎり考えようとしないから、男が考えて生きているのに、女は考えて生きていないから、男と女とでは差ができるのである。
男がやらなくてもいいことをやろうとするのに対し、女は自分がやらねばならないことだけやるようにできている。
男が独りになりたがるのに対し、女は群れになりたがる。
男と女とでは生まれつきの心が違うので、男と女では考え方や行動の“しかた”(プログラム)が違っていて、その違いが具体的な考えや行動の違いとなって表れるのだ。
そうやって、人類全体としての適応範囲を広げているのだろう。

[5422] クソ坊主 h20.7.14
そもそもシャカは母親が浮かれて「あら、うちの子ったら、生まれた直後に7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言いましたのよ。」という冗談を言っただけで神にされた者である。だから、神でないシャカを神と考えて、仏教をやることはまちがっている。
シャカは「眼先のことにとらわれるな」と言ったのに、お寺の坊主は仏教自体がなんであるかを少しも反省せず、毎日眼先だけで仏教をやっている。
これでは、馬の耳に念仏だ。

[5423] 事実か錯覚か? h20.7.16
私の家族が昔高知市鴨部に住んでいたとき、夜中に突然ガラガラが回りだすことがあった。[ガラガラ=赤ちゃんをあやすために天上から吊り下げて音を出しながらグルグル回るガラガラ(別名;ベッドメリー)→クラゲの癒し。]
こうしたことが2〜3度あったと言う話を私が小学2〜3年生のとき母親から聞いたことが1度だけある。
ガラガラが夜中に突然回ったのは、はたして事実だったのだろうか?それとも錯覚だったのだろうか?
ガラガラが突然回りだしたとき、ガラガラの音がせずに、ガラガラを注視したり、ガラガラを別の角度から見ると止まって見えたのであれば、それは錯覚である。おそらく、フレーザー・ウィルコックス錯視(別名;視野周辺部運動錯視)というものだろう。この錯視は繰り返し見てもなくならないから、2〜3度あってもおかしくはない。
しかし、ガラガラが突然回りだしたとき、ガラガラの音がして、スイッチの紐を引っ張らねばガラガラが止まらなかったのなら、それは実際にガラガラが回っていたことになる。私はスイッチの故障だと思うが、スイッチの接触が悪くて夜中に気温が下がったり家が揺れたりした弾みにスイッチが入ってガラガラが突然回ったのかもしれない。ガラガラのスイッチの接触不良が原因であれば、2〜3度同じことがあっても別に不思議ではない。[普通はガラガラをおもちゃ屋さんに修理に出すはずだ。それとも、“超能力”のせいにするだろうか??]
私が詳細を母親に訊[き]いて、母親が当時のことをよく憶えていれば、詳しい回答が得られて、事態が一層明らかになるはずだ。
足りない情報は自分から訊いて補わねばならない。
今度機会があれば、いっぺん訊いてみてもいい。
私が上手に母親に訊けば答えてくれるが、私が下手に母親に訊けば機嫌を壊して答えてくれないかもしれない。

[5424] 念動力か錯覚か? h20.7.17
夜中に突然回ったガラガラが音を出さずに回っていたのであれば、それはスイッチの故障のせいではなく念動力か錯視のせいだと考えられる。[昼間スイッチを入れてガラガラを回してみて音がすれば、音を出す装置の故障ではないことがわかる。]
もしも赤ちゃんの私がガラガラを念動力で回したのであれば、ガラガラを天上から吊り下げておく紐[ひも]が捩[よじ]れているから、念動力で一定方向にグルグル回った後で念動力が切れて逆方向に回ってから止まるはずだ。
反対に、錯視の場合には、紐の捩れがないから、一定方向にグルグル回っただけで逆方向に回らずに止まるはずだ。
したがって、“ガラガラの回りかた”によって、念動力か錯視かが決まる。


[5425] MT野癲癇[てんかん] h20.7.17
「夜中に突然ガラガラが回って見えた」の“突然”という言葉が気にかかる。
フレーザー・ウィルコックス錯視であれば、いつでも回って見えるから、“突然”回って見えたというのはおかしい。
だから、キリストの母親が視覚野の単純部分発作でアウラの幻覚を見たように、私の母親はフレーザー・ウィルコックス錯視を司[つかさど]るMT野の単純部分発作でガラガラが“突然”回っているように見えたのではないだろうか?
こんな病気がたまにはあってもいいのではないだろうか?
すると、私がこの病気の第一発見者だということになる。

[5426] こじつけ h20.7.17
これで、大多数の者は、私の母が夜中に突然ガラガラが回って見えた原因が私の母のMT野癲癇のせいであることが理解できたと思う。
しかし、これだけ言っても、それでもなお、私の念動力でガラガラが回ったと言い張る人がいる。
しかし、それは少数のキチガイじみた人たちであって、自分の教団のための“こじつけ”だ。

[5427] 火の玉 h20.7.17
私の母親が子供のとき近所の川原で見た火の玉も視覚野の単純部分発作で見えたアウラ(光暈[こううん])ある可能性が高い。
私の母親は視覚野の癲癇発作が多いようだ。
癲癇は100人に1人見られるありふれた病気だから、珍しくはないが。
[Wikipedia「てんかん」に載っているラファエロの『キリストの変容』の絵の意味は、絵の上にいるキリストの後光が絵の右下にいる少年が癲癇発作で見たアウラだと言っているのである。ラファエロ(1483-1520)の頃になると、癲癇についての知識が溜まってきて、キリストの後光の正体がほぼ明らかになったと思われる。]

[5428] モハメット h20.7.17
イスラム教の開祖のモハメットは自分自身が癲癇持ちだったという説がある。参考
側頭葉癲癇で幻覚を見て、それで自分が神や天使と対話できる超能力者だと思ったのだろう。

[5429] お金よりも大事なこと h20.7.18
いい歳こいて、お金でしか物事が見えないのでは、かえって大人げない。
博打[ばくち]でお金を無駄遣いするのは悪いことだが、それはそもそも博打をするのが悪いのであって、お金の無駄遣いが悪いのではない。
一般に、お金を借りるのは悪いことだと考えられているが、目的にもよる。つまり、博打などの悪いことでお金を借りるのは悪いことだが、正しいことでお金を借りるのは悪いことではない。
大事なことであれば、お金を借りてでも成就[じょうじゅ]させねばならない。
お金だけで物事を見るのは、行きすぎた数学主義(抽象主義)だ。
税金も本来あるべきではないのに、お金だけで物事を見るから逆に税金が正当化されてそれでまちがった世界が作り出されているのだ。

[5430] 母親への質問事項 h20.7.18
1)ガラガラが突然回るのを見たのは母親だけか?他に見た人はいなかったか?
2)ガラガラをどんな格好で見たか?ガラガラをどの位置からどの方向で見たか?目の隅っこで見たか、それとも眼の真ん中でジーと見たか?[もっとも、MT野癲癇の場合には、眼の隅っこでなくても回って見えるかもしれないが。]
3)ガラガラが突然回ったとき、ガラガラの音が鳴っていたか?ガラガラが突然回って見えた後で、ガラガラに何か故障はなかったか?
4)突然回リ出したガラガラをどうやって止めたか?スイッチの紐を引っ張って止めたか、それとも何もせずにひとりでに止まったか?
5)ガラガラはいつ、どれだけの間回っていたか?ガラガラはどんな回り方をしていたか?一定方向か、それとも反対向きに回ることがあったか?とくにガラガラが止まるときに反対向きに回ることがあったか?回る速さは一定速度か、それともときどき違う速さだったか?ガラガラは回るだけだったか、それとも“揺れ”はなかったか?[直感的には、念動力だとガラガラが揺れる動きになりそうだ。回すためには、ガラガラを握ることができねばならないから、この見えない“マジックハンド”には親指と人差し指のような“指”が付いていなければならない。それでも、ガラガラを揺らさずに回すのは難しそうだ。天井から紐[ひも]で吊り下げられたガラガラを揺らさずに回すためには、1本のマジックハンドでは無理で、2本以上のマジックハンドでガラガラを均等に掴[つか]んで回さなければなければならない。はたして、赤ちゃんのマジックハンドでいきなりそこまで精確な動きができるだろうか?]
6)ガラガラが回って見えたとき、他に“変な感じ”はなかったか?物が変に見えたり、火の玉が見えたり、音がしたり、味や臭いがしたことはなかったか?身体が動いたり、顔が引きつったりしなかったか?意識が跳[と]んだりはしなかったか?
7)ガラガラが突然回って見えたとき、いつも赤ちゃん(私)が近くにいたか?赤ちゃんはどんなふうにしていたか?
8)ガラガラが回って見えたとき、[母親の]身体が疲れていなかったか?疲れていた日の晩に見えることが多かったか?
9)他に動いて見える物はなかったか?あったとすれば、どんなに動いていたか?どんなふうに見たか?眼の隅っこで見たか、それとも眼の真ん中で見たか?

[5431] 聖書 h20.7.18
よくホテルに聖書が置かれている。
聖書は他人に勧めるほど値打ちのある本ではない。[読みたくなるほど面白い本でもない。]
だからこそ、他人に勧めなければ値打ちが出ないのだ。[まさに、コマーシャルとはそういうものである。]
どうせ、聖書を置いておけば教会からお金がもらえるからだろう。

[5432] 親が子供に教えるべきこと h20.7.18
人間の心の中には善い感情と悪い感情があって、性欲が悪い感情であることは、親が子供に教えておかねばならない。[これぐらいのことなら、私の許可を得なくても、子供に教えてかまわない。]
私の親は私に一言も性欲が悪い感情であることを教えてくれなかった。それで、私は中3のときオナニーに耽[ふけ]って高1の4月に精神分裂病に罹ってしまった。その後、私の人生はうまく行かなくなった。人間の心の中に善い感情と悪い感情の区別があることも教えてくれなかった。私の親は『放任主義教育』だったので、親は私にほとんど何も教えてくれなかった。
[親が教育しないと子は教育が必要だと考える。反対に、親が厳しく教育すると子は教育は要らないと考える。だから、隔世的に教育が甘くなったり厳しくなったりする。]
大人にとっては当然のことであっても、子供にとってはまだ知らないことだから、きちんと子供に言葉にして教えなければならない。それは、大人にとっても自分の考えをはっきりさせるいい思考の訓練になる。
いい考えは本で売っていないから、自分で考えねばならない。
本はすでに常識となっていること(真実と確定したこと)を字にして固定しているだけで、人間は常識だけでは生きていけないから自分で考えて常識だけでは足りない部分を補わなければならない。
デカルトは『簡単なことでも発見されていないことがまだまだたくさんある。』と述べている。だから、我々は自分で考えて簡単なことを発見しなければならないのだ。

[5433] 火の玉再考 h20.7.18
私の母親が子供のときに見た火の玉が、キリストの母親が見たのと同じような視覚野の単純部分発作によるアウラ(光暈)だとすれば、火の玉から逃げるために180度身体の向きを変えた後でも依然として火の玉が自分の眼の前に見えるはずであり、自分が逃げている途中で後ろを振り返ったときにだけ火の玉が見える(だから、自分の後を付いてくるように見える)というのは変である。[ちなみに、私の母はけっして嘘を言う性格ではない。“癲癇気質”によく見られるように正直である。もっとも、母はごくたまに幻覚を見るのみで、癲癇の持病ではない。]
だから、火の玉は単純な視覚野の単純部分発作で見えるものではなく、MT野癲癇でガラガラが回って見えたように、“高次の視覚野の異常興奮”で見えるのである。
視覚野に写った光学映像が知覚野において‘自分が見ているものが何であるか’がわかるまでの途中の情報処理過程における異常である。
ちょうどデジカメでオーブが写るようなものである。[参考。これは、私が和田山に住んでいた頃、竹田城に登る途中で太陽を逆光で撮ったときに偶然写ったものである。30個ぐらいのオーブが写っている。写真の上の真ん中に見えるひときわ明るい丸が太陽である。けっして、レンズに付いた水滴や汚れではない。]最近のデジカメはたんに映像をデジタル信号にしてメモリーに保存するだけではなく、途中に画像処理をはさむのでその過程でオーブが写るのである。
オーブと火の玉は似ているから、デジカメの画像処理と人間の画像処理とは似ているところがあるのだろう。私にはわからないが、デジカメの画像処理に詳しい人なら、人間の脳において火の玉が見える仕組みがわかるかもしれない。
人間の視覚の仕組みがよくわかるようになれば、[『代数幾何学』で2次曲面の分類ができたように]人間が見る幻覚(錯覚も含む)のパターンの分類ができるようになるだろう。
とにかく、火の玉が脳の視覚野のどこか(おそらく前のほう)における単純部分発作(焦点性癲癇)によるものであることにはちがいない。
したがって、火の玉は実体として存在するわけではないから、グループの中の一人にしか見えないはずである。その人は霊感が強いのではなく、癲癇なのである。[卑弥呼も火見子だから、火の玉を見た癲癇持ちの女性だったのだろう。]

[5434] 神宿る人 h20.7.19
中国のモン族(ミャオ族)では、癲癇の患者が不思議な体験をするので、癲癇の患者を神宿る人だと考えて、癲癇の治療を拒[こば]むことがあるそうだ。参考
ならば、神宿る人の神とは癲癇の発作焦点のことだ。

[5435] コロナ放電 h20.7.19
私は神武天皇の持っていた弓の先に生じた現象がコロナ放電の正極における現象と同じものだと述べたが、私の他にも私と同じ考えを持っている者がいる。
「脱力」はなぜ重要なのか
神武天皇の弓の先にとまって道案内をつとめたという金色のトビが放電現象によるセントエルモの火ではないかと述べている。
どこまでほんとやら… 古事記と電気のおはなし
『古事記』に載っている「神武天皇が高天原(宮崎県北部の高千穂町)から出雲の国(島根県東部)に降り立ったとき金色に輝く鳶が神武天皇の弓先にとまった」話について、「セントエルモの火」がこの鳶の正体であって、日本最初の放電現象の目撃記録だと述べている。

[5436] 駄洒落 h20.7.19
『古事記』は、天皇家が自分で働かずに国民からお金をもらって生きている乞食だから。
『日本書紀』は、日本の初期のことが書かれているから。

[5437] 宗教に入っている者は宗教に入っていない人間に劣る。 h20.7.19
人間は平等である。
ただし、それはみんなが正しい限りであって、まちがっている者と正しい者とは平等ではない。
まちがっている者は正しい者に劣る。だから、学校で生徒が先生に従うように、まちがっている者は正しい者に従わねばならない。
宗教に入っている者は稀な自然現象の近くにいた人や癲癇患者自身やその近くにいた人を超能力者だと考えてまちがいを信じて生きているから、宗教に入っていない人間よりも知性が劣るので、宗教に入っている者は宗教に入っていない人間に従わねばならない。

[5438] シャカの超能力 h20.7.19
シャカの母親はシャカが生まれた直後に7歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と言ったと言った。参考
この話がたんなる嘘では宗教になりにくいから、たぶん嘘ではなかったのだろう。
たぶんシャカの母親がお産の直後に見た癲癇か何かの原因による幻覚だったのだろう。
[昔は幻覚の概念がなかったので、シャカの母親の話は事実(実際にあったこと)だと見なされ、シャカは神だと考えられた。]

[5439] 日本には憲法がない。 h20.7.19
現在の日本国憲法は政府の者が作ったのであり、政府の者は宗教の者(宗教に入っている者)だから、宗教に入っていない人間は日本国憲法に従わなくてもよい。
実在界においては、まちがっている者が正しい者に従わなければならない。それで、社会秩序が保たれる。
宗教に入っている者はまちがいを信じて生きているから、宗教に入っていない者よりもまちがっている。
したがって、宗教に入っている者は宗教に入っていない人間に従わねばならず、
宗教に入っていない者は宗教に入っている者に従わなくてもいい。

[5440] どうして赤ちゃんは崖[がけ]から落ちても死ななかったか? h20.7.19
『荘子』には、赤ちゃんが崖から落ちたのに傷ひとつ負わなかった話が出ている。
それは、おそらく崖の下に雪が積もっていたからである。
CS(衛星放送)の『DISCOVERY CHANNEL』で、400メートル以上の高さの崖(東京タワーよりも高い!)から落ちた女性が崖の下に雪が積もっていたために助かった話があった。
うわさ話が伝わっていく途中で、崖の下に雪が積もっていた部分がなくなって、崖から落ちた部分だけが残ったのだ。

[5441] 神の分類 h20.7.19
1)全知全能の何でもできる者(絶対神)…大昔からいる神。科学(実在学)においては存在しないとされるが、宗教(遊び学)では、この宇宙を作った者、人間の願いをかなえてくれる者とされている。
2)超能力者と誤解された人間
2−1)稀な自然現象の近くにいたために超能力者と誤解された者…モーゼ(大干潮)、神武天皇(コロナ放電)など
2−2)癲癇による幻覚のために超能力者と誤解された者
2−2−1)自分が見た幻覚のために自分自身を超能力者と誤解した者…モハメット、卑弥呼など
2−2−2)他者(例、母親)が見た幻覚のために超能力者と誤解された者…シャカ、キリスト、川野延夫(私)など
今後は超能力者はいないと考えて、自分の願いをかなえてもらうために全知全能の神に祈る“遊びとしての宗教”のみが許されるとする。

[5442] 本気で生きろ! h20.7.19
いちいち宗教で許されているからやってもよくて、宗教で許されていないからやってはいけないというふうにしか考えられない人間は、自分の心で本気で生きている人間の態度ではない。
そんな人間では一生かけても真の幸せをつかむことはできないだろう。

[5443] 神は道徳を知らない。 h20.7.19
神は何でもできる無限の存在だから道徳が要らない。だから、神は道徳がわからない。
人間は有限の存在だから、人間が幸せに生きるためには一定の決り=道徳を守ることが必要であり、神は道徳がわからないから、人間は自分で自分が守るべき道徳を考えなければならず、人間は自ら考え出した道徳に従って生きて行かねばならないのだ。

[5444] 神は命令しない。 h20.7.19
神は全知全能だから自分ひとりで何でもできる。その気になれば、宇宙全部を作ることもできる。
神は自分ひとりでなんでもできるから、人間に命令してやらせることなどない。
だから、神は人間に命令しない。

[5445] どうして今でもキリスト教が存在しているのか? h20.7.19
明治維新頃に、精神医学がほぼ確立して、イエス=キリストの超能力が母親が見た癲癇によるものであることが明らかになった。
だから、その頃からキリスト教の勢力は衰えキリスト教の信者は減りつつある。
ただ、キリスト教も大きな宗教だから、そんなに急にはなくならない。
今世界に存在しているキリスト教は、キリスト教がなくなる途中の姿である。
天然痘が世界から絶滅したように、あと数百年すれば世界からキリスト教が絶滅するだろう。
それまで、もうしばらくの間、私たちは我慢しなければならない。

[5446] 宗教は無駄だ。 h20.7.19
つまるところ、宗教は精神病患者(癲癇患者)の幻覚を信じる会だ。
精神病患者の幻覚を信じてもいいことがあるわけがない。

他に、電気がわからない会もあるが、これも馬鹿みたいでかっこわるい。

[5447] 心霊スポット h20.7.19
心霊スポットは、癲癇の人が変な物が見える所であって、
私たち脳が正常な人は変な物が見えないから行っても無駄だ。

[5448] なぜ政治家は宗教を保護しようとするか? h20.7.20
いまどき宗教に入る者は、馬鹿だけである。
馬鹿はお金持ちに多い。
宗教は元手がほとんど要らないし、“お金持ち馬鹿”からの献金ですごく儲かる。
だから、政治家は自ら宗教家(あるいは宗教団体の経営者)となって宗教をやって儲けているのである。

[5449] 国家宗教と民間宗教の違い h20.7.20
民間宗教の超能力は最初からペテンだが、国家宗教の超能力は本物でなければならない。
超能力が本物であってはじめて、入信や献金(つまり税金)の強制力が働くのだ。
民間宗教の超能力はインチキだから、入信や献金が自由なのである。
それなら、民間宗教のほうが正直だ。

[5450] 都会と田舎の違い h20.7.20
都会と田舎の違いは、都会には自然がなく、娯楽はしょせんテレビだけと言うことだ。
都会ではテレビが自然だから、都会っ子はテレビによく適応している。昨晩テレビで見たギャグを学校や会社で真似て大受けしている。
都会では『自然に帰れ』と言う言葉が意味を持つ。つまり、田舎ではわざわざ自然に帰らなくても自然があるが、都会では自然がないから敢[あ]えて自然に帰らなければならない。
都会では遊ぶことがないから、勉強ばっかりしているのでそれで勉強がよくできるのだ。私は小さいときに自然の中でよく遊んでいたから、それで字だけで勉強する社会科や国語が苦手だったのだ。
都会には自然がなく自然の概念がわかっていないから、それで都会っ子はテレビ番組みたいにチャラチャラして正義心がないのだ。都会っ子はテレビで骨抜きにされている。都会っ子には人間の持っている自然な心がない。[それで、子供が小さいときは田舎に住ませて大きくなってから都会に住ませる親がいるのだ。]
都会っ子が真実よりも作りごとを大事にするのもテレビの見すぎだからだ。

[5451] 攻撃するなら物でせよ h20.7.20
小説家が言葉だけで政府や天皇に攻撃するのは手ぬるい。
言葉の上だけでいきがっているのは青びょうたんだ。
政府や天皇がまちがっているのは、実在における問題である。
どうせ攻撃するなら物でやらねばならない。

[5452] 自然はF=maではない。 h20.7.20
自然はゴチャゴチャしていて、とてもF=maではない。
私が28歳になるまで『F=ma』がわからなかったのも、小さい頃に自然の中で遊んだからだ。
自分で哲学日記を書くようになってから、はじめて『F=ma』がわかるようになった。

[5453] 癲癇による超能力者の発生を防ぐ方法 h20.7.20
癲癇は100人に1人いるありふれた病気だし、癲癇で見える幻覚の種類も多種多様であってどこまであるかがわからない。
超能力者制(超能力者に人間を従わせること)の是非を別としても、癲癇のせいで超能力者にすることは正しくない。
癲癇による幻覚は頭の中で見えているだけで実体としては存在しないから、2名以上の者が必ず超常現象を見たことを超能力者認定の必須条件にすればいい。

[5454] デジャブ h20.7.20
Wikipedia『既視感』にも書いてあったことだが、デジャブは眼からの視覚情報が後頭葉の視覚野に行き、さらに後頭葉の視覚野から頭頂葉の知覚野に行くときに、バイパスして後頭葉の視覚野から側頭葉の記憶野に行ってしまうために、頭頂葉の知覚野で記憶野と視覚野を統合したときすでに過去にあったこととして認知されるために起こるそうだ。つまり、デジャブは“情報の流れの障害”が原因なのだ。あまり考えずに物を見る、見たままの形で記憶することが得意な直感的な人間に多い現象であると考えられる。

[5455] 岡潔 h20.7.20
私が若い頃には岡潔は偉い学者だと思っていたが、今はそうではない。
仏教にコネる学者なんかにいい学者はいない。
数学の上でだけ合理的な学者なんか学者じゃない。
大袈裟に言えば、鼻くそでも業績になる。
大袈裟に言うか言わないかの違いだけだ。

[5456] 「わすれました。」「記憶にございません。」 h20.7.21
昔、「わすれました。」「記憶にございません。」と言った政治家がいた。
「わすれました。」は、“わ”が川野の“わ”である。
「記憶にございません。」は、記憶[きおく]が菊[きく]で天皇家のことである。
つまり、政治家が神の権威を借りて、あったことをなかったことにして揉[も]み消しているのだ。
政治家にとって、神は便利な道具である。
自分たちで勝手に“政治家ルール”を決めて、幼稚園のお遊戯のようなことをやっているのだ。つまり、政治家たちの間では自分の発言が神に因[ちな]めば嘘をついてもいいという暗黙のルールがあるのである。
政治家は神を使ってあったことをなかったことにするし、なかったことをあったことにする。政治家が世の中を乱す大元[おおもと]だ。政治家は実在に抗[あらが]う者だ。

[5457] 勉強嫌い h20.7.21
勉強嫌いの人は、真実をどうでもいいと思っている。
勉強嫌いの人は、真実に対して無関心で冷淡である。
勉強嫌いの人は、自分がおもしろいと思うこと(たいていテレビ)にしか反応しない。
そんなに人類にとって真実がどうでもいいことなのだろか?!
そんなに人類にとって真実はおもしろくないのだろうか?!

[5458] テレビの世界 h20.7.21
都会っ子にとってはテレビが自然である。
都会っ子はテレビに適応している。
都会っ子は、テレビでやっていることが真実であり、テレビでやっていないことは嘘だと考える。
都会っ子はテレビに合わせて行動する。昨晩テレビで見たギャグを学校や会社で真似ようとするし、テレビでコマーシャルをやれば商品が売れる。
都会っ子はテレビの中でだけ幸福である。
都会っ子はテレビでやっていればおもしろく、テレビでやっていないことはおもしろくないと思う。
都会っ子は自分がテレビに出れれば自分が世界を作れる神になったと思って喜んでいる。

[5459] 私にとってのテレビとは h20.7.21
田舎者の私にとっては、生の自然が身近に豊富にあったのでテレビを自然と対比して捉えていて、子供の頃からテレビを作りごとの世界と見なしている。アニメやドラマのみならず、ニュースもドキュメンタリーもテレビでやっていることは何でもかんでも作りごとだと思っている。だから、NHKの大河ドラマを見ても実感がわかず歴史の勉強の役には立たなかった。私は自分の眼でじかに見たこと以外は事実と思わないように子供の頃から心がけているのだ。

[5460] 男と女の役割☆ h20.7.21
男はイソップ童話に出てくる夜空の星ばかり見ていて足下[あしもと]の井戸に落ちて死んだ学者のようなものである。
反対に、女は足下ばかり見ているので井戸に落ちて死ぬことはないが、その代わりに空が見えない人種である。
だから、男と女が組めば、空と足下の両方を見ることができて、うまくやっていける。

[5461] 女は考えが足りない。 h20.7.21
もしも赤ちゃんの私がガラガラを念動力で回したのであれば、ガラガラを天上から吊り下げておく紐[ひも]が捩[よじ]れているから、念動力で一定方向にグルグル回った後で念動力が切れて逆方向に回ってから止まるはずだ。[[5424]参照。]
私の母親がもうちょっと考え深ければ、当時このことに気付いて、自分の見たことが現実ではなく錯覚にすぎないことがわかったはずだ。
そうすれば、宗教が私を神とすることもなく、政治家が世界を乱すこともなく世界は平穏無事なままだった。
女は眼で見るだけで頭で考えない。バラバラな事象が集まった論理のない世界の中に生きている。だから、生物学・医学や社会科など論理のない世界が平気なのだ。
私の父親が母親からよく話を聞いて、母親の誤解を正してやればよかったのだ。

[5462] 科学と宗教の反比例の法則 h20.7.21
神=超能力者が存在する世界においても解けない問題がひとつある。
それは、『そもそもどうして超能力者がいるのか?』である。
この問題を解くためには、最初から神=超能力者がいないと考えればいい。
昔は幻覚や電気の概念がなかったから、超能力者=神が生まれただけのことだ。
人間の無知が神の産みの親だ。
だから、科学が発達すればするほど超能力者=神がいなくなって宗教が衰える。
つまり、科学と宗教は反比例の関係にある。【科学と宗教の反比例の法則】
つまり、科学×宗教=K(一定)

[5463] 宗教が通れば科学が引っ込む。 h20.7.21
科学と宗教は反比例する。
だから、天皇の権威を守るためには、学校で電気を教えないことになるかもしれない。
日本では電気が使えなくなるかもしれない。
そうなれば、電灯もエアコンもパソコンも電車も使えない。
天皇と電気とどっちのほうが大事だろうか?
君は、宗教と科学のどちらを選ぶか?
あるいは、私の権威を保つために、癲癇という言葉を使ってはならず癲癇の治療ができなくなるかもしれない。
私と癲癇の治療とどちらが大事だろうか?
君は、宗教と医学のどちらを選ぶか?

[5464] 母親と赤ちゃんの引力について h20.7.21
私の母は心が気持ちいい人だ。
赤ちゃんが母親に近寄って来るのは、母親のいい気持ちを赤ちゃんがテレパシーで味わいたいからである。
母親に愛情があると、赤ちゃんが近くにいると母親がいい気持ちになるので、赤ちゃんはますます母親に近寄ってくるのである。

[5465] キリスト教や仏教が役に立たない理由 h20.7.22
まず、キリストもシャカも超能力者ではない。母親の癲癇によって超能力者にまちがわれただけである。
しかも、キリストやシャカはプラトンやアリストテレスのような専門の哲学者ではなく、“素人[しろうと]の3文哲学者”にすぎない。
まじめに一生懸命考えたのではなく、耳当たりのいい言葉をただ調子よく並べているだけである。
正しさよりも他人に受けることしか眼中にない。
だから、キリスト教も仏教も書いてあることがいいかげんで、ろくに役に立たないのである。

[5466] 神の交代 h20.7.22
科学と宗教は反比例する。科学が進めば、超能力者=神がいなくなって宗教が衰える。
モーゼが神でなくなったのは、科学が進歩して、当時の人々が大干潮が地震(地殻の隆起)によるものであることがわかったからである。
モーゼが神ではなくなったので、新しい神キリストが現われたとき、キリストにみんなの人気が集まったのである。
同じように、私に人気が集まるのは、これまでの神が神ではなくなったので、日本や世界が新しい神を求めていたからだろう。
神武天皇の光の玉を出した超能力は放電現象にすぎないことがわかったし、他のシャカやキリストやモハメットの超能力も癲癇によるものであることがわかって、これまでの神がすべて神ではなくなってしまったからである。
しかし、私のガラガラを念動力で回した超能力も私の母親がMT野癲癇で見た幻覚だから、私も超能力者=神ではない。
地震と電気と癲癇の概念が超能力者を滅ぼしたのである。
今は、宇宙を作った何でもできる絶対神としての神しかいない。

[5467] 地震雷火事親父 h20.7.22
『地震雷火事親父』は、怖いものの代表だとされているが、それはこれらが超能力者=神を生み出す原因となるからである。
地震はモーゼの海を割った超能力のもとになったし、
雷と火事は神武天皇の光の玉を出す超能力のもとになったし[火事が光の玉の喩え]、
親父つまり神武天皇は今の天皇を生み出すもとになった。
これに癲癇を付け加えれば完全だ。
今後二度と超能力者が現われて欲しくないものである。

[5468] どうして人間は超能力者に従わねばならないか? h20.7.22
人間が動物を支配し、動物が人間に従わねばならないのは、人間が動物よりも進化した生物だからである。
これが生物界の法則である。つまり、生物界には“動物の階級制”があるのである。
これまで、人間が超能力者に従わねばならなかったのも、超能力者が人間よりも進化した生物だと考えられていたからである。その生物学の法則を管理するのが宗教や政治の務めであった。
しかし、これまで超能力者と考えられてきた者は、実際には地震や放電現象や癲癇などによって超能力者とまちがわれた者にすぎなかった。
だから、これまで超能力者と考えられてきた者に人間が従わねばならない道理はない。
だから、宗教も政治も成り立たない。[絶対神に祈る“遊びとしての宗教”は許されるけど。]

[5469] 宗教とは何か? h20.7.22
宗教とは、地震や電気や癲癇がわからない会であり、科学を否定する会であり、
正しい者に文句をつける会である。[暴力団よりたちが悪い。]

[5470] キリスト教の人 h20.7.22
キチガイがキリスト教に入っているだけだ。
キリスト教は隠れ蓑で、じつはただのキチガイだ。

[5471] 宗教とは何か? h20.7.22
哲学研究会でも、精神病院でもない。
超能力者がいるというまちがいを信じる汚い会だ。
陰気臭くてくだらない最悪の会だ。

[5472] 私が宗教家だったら h20.7.22
もしも私が宗教家だったら、かわいい女の子を産んだ癲癇持ちの女性に目をつけて、その女性に癲癇が起こったら赤ちゃんのほうを見なさいと指示をする。
そうすれば、癲癇で見た幻覚が赤ちゃんの超能力だということになるからである。
もちろん、その女の子が生きている間は、その女の子に関する情報を集めるだけで、その女の子を攻撃するようなことは一切しない。
その女の子が死んでから、その女の子を神とする宗教を始める。[100年ぐらい前後したって問題ないからである。]

[5473] 超能力殺人事件 h20.7.22
『名探偵コナン』か『金田一少年の事件簿』かなにかの“超能力殺人事件”で、犯人が超能力で殺人したままで終わってしまったら事件を解決したことにはならない。
そんなことが許されたら、ちょっと難しい事件や迷宮入りの事件はすべて犯人が超能力でやったことにすればいいだけだ。これでは解決にはならない。
一見超能力でやったかに見えるありえないことが、じつはよく考えると別の現実的な手段で行われたことが明らかにされてはじめて事件が解決されたことになる。
これまでの実際に起こった“超能力者事件”についても同じように考えるべきだ。
宗教のように超能力のせいにして終わっているのでは迷宮入りにしただけで、問題を解決したことにはならない。

[5474] 国会議員の考え方 h20.7.22
国会議員の考え方は、いくら自分たちが[実在の法=絶対神が作った法を犯して]まちがっていてもおもしろければそれでいいというのである。
しかし、国会議員がおもしろいぶん、国民は不愉快な思いをしている。
だったら、国民が国会議員の考え方を真似て、自分たちがおもしろくなるように[国会議員が作った]法律を犯してまちがったことをして税金を払わなければいい。あるいは、自分が勝手に国会議員よりも上の存在だと考えて、国会の命令を無視して好き勝手に生きて行けばいい。

[5475] 天皇は日本の法律を犯しているか? h20.7.22
電気の法則が日本の法律に載っていないからといって、電気の法則を犯していいのだろうか?
政治家の態度を見たところでは、日本では日本の法律に載っていないことは何でも犯していいのだろう。つまり、私のような政治家以外の人間は実在の上に法律を乗せて法律を見ているが、逆に政治家は法律の上に実在を乗せて実在を見ているのだ。
日本では日本の法律を犯さないかぎりでは何をやってもいいのだ。
つまり、電気の法則が日本の法律に載っていないから、法律に載っていないことは自由に考えてもよいので、神武天皇の光の玉が神武天皇の超能力でやったことになり、天皇家が超能力者=神ということになるのだ。さらに、天皇家が神すなわち人間よりも上の者だから、天皇家に因めば日本の法律を犯してもいいことになり、つまり何をやってもいいことになるのである。
しかし、『電気事業法』とか『電気工事士法』とか『電気工事業の業務の適正化に関する法律』とか『電気用品安全法』とか『日本電気計器検定所法』とか『電波管理法』とか電気に関する法律は日本の法律にたくさんある。これらの法律において前提とされている知識からコロナ放電を導くことができたなら、天皇家は超能力者=神ではなくなり天皇を辞めねばならないはずだ。例えば、コロナ放電を原理とする空気清浄機に電気用品安全法が適用されれば、日本の法律はコロナ放電を電気現象と認めていることになり、日本の法律においても神武天皇の光の玉はコロナ放電すなわち電気現象によるものであることになり、天皇家は超能力者=神ではないことになるのである。

[5476] 精神保健福祉法 h20.7.22
癲癇は『精神保健福祉法』の適用となっている。
したがって、日本の法律は癲癇の概念を認めたことになり、日本の法律においては私の母親が見たガラガラが回る幻覚は癲癇によるものであることになるから、私は超能力者=神ではないことになる。
シャカもキリストもモハメットも超能力者=神ではないことになる。

[5477] どうして国会議員は不細工なのか? h20.7.23
国会議員が不細工なのは、自分が努力してここまで出世したと国民に思わせるためである。
徳川家康が『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。』と言ったのと同じ理屈である。[徳川家康の名言は立派すぎる。これらの明言を守れば、たしかに政治家にはなれるだろうが、人間として幸せにはなれないだろう。だから、憶えないほうがいい。]
実際には、国会議員は馬鹿ばっかりだから、努力なんかしていない。
馬鹿だから、神制度なんか使う気になるのである。
どうせ、神制度を使って楽に出世したのだろう。
政府は神制度を守るためだけにある機関だから、政府の中では神制度が通用するし、神制度を残す気さえあれば馬鹿でも国会議員になれるのである。
したがって、政治家が不細工なのは、努力家だからではなく、馬鹿だからである。

[5478] 日本政府は2600年前から進歩していない団体である。 h20.7.23
日本政府は、政治組織ではなく宗教団体である。[たしかに政府は法律も作っているが、宗教的世界の中で法律を作っているからやはり宗教組織である。]
日本人全員を強制的に宗教に入らせて、日本人から賽銭の代わりに税金を取って余計な宗教活動をしている組織である。
ところが、あいにく私はそれほど宗教に関心はない。
なんかの宗教に入っていないと気が休まらないほど神にすがる心は持っていない。
私は神を信じるほど野蛮な原始人ではない。
無理やり宗教に入らされると、私の人間としてのプライドが傷つく。
いいかげん日本で馬鹿をやるのはやめにしてくれんか?
[私は小さい頃から直感的に宗教は汚いことをする会にしか思えなかった。だから、政府も政治家も嫌いなのである。宗教が汚い会であることは誰にとってもわかりきっているし、大人になれば誰でも政治が宗教だとわかるから、みんなも私と同感のはずだ。]

[5479] 高度経済成長時代 h20.7.23
今ではいつまでたっても不況から抜け出せない日本だが、日本もかつて大いに繁栄した時代があった。
それは昭和30〜40年代(1955年から1973年まで)の『高度経済成長時代』である。
それは日本が戦争に負けて天皇家の権威が衰えて、私がまだ小さかった子供の頃だ。私に関する情報がまだ十分溜まっていなくて、私に関する神制がやれなかった頃である。
つまり、日本政府が無駄な神制をやめて純粋な民主制で動いていた時代だ。だから、最も理想的に経済が発展できたのだ。神制ではあほらしいことに無駄金が使われて、日本が不景気になるだけだ。

[5480] 気持ちよりも大切なこと h20.7.23
たとえ天皇を神と信じても、天皇が神でないことはどうにもならない真実である。[天皇は神武天皇の子孫であって、神武天皇は超能力者にまちがわれた人間にすぎないから、あくまでも天皇は人間である。]
天皇が神でないことは真実なのだから、たとえ自分が天皇を神だと信じたくても、その気持ちを抑えて、真実に従わねばならない。[日本が天皇を神だと言って調子こいて独りよがりでやっていたら、世界中の国から攻撃されることになる。]
真実は人間が絶対に変えることができないものだから、真実には従うしかない。[貧乏人の子供がいくら高い物が買いたくても、貧乏なのは事実だから我慢するしかないのと同じことだ。天皇が神であったら同じ日本人である自分も神であることになって気持ちいいことだが、天皇が神でないのは真実だから、いくら気持ちよくても天皇が神であることを受け容れてはならない。
だから、天皇が神ではなく人間だと考えて世界を作らなければならない。
そうすれば、道が開ける。

[5481] 人はなぜ宗教に入るか? h20.7.24
宗教に入ると、自分が神と“一体化”して自分も神になれる。
自分が神になることは“気持ちいい”ことだから、人は宗教に入りたがるのである。
宗教は、自分が神と一体化して“自分も人間よりも上の存在になった”という感じを楽しむことである。
つまり、宗教は人間にとって、誰でもすぐに気持ちよくなれる麻薬のようなものである。
[人間は絶対神との間には“同族感”が湧かないから、絶対神とは一体化することができない。だから、超能力者宗教(現人神宗教)にとっては、絶対神は使い者にならない無用の長物である。それに、神は天皇やキリストやシャカのように“偉い”とされていてこそ一体化したときに“気持ちよさ”が得られるのであって、私のように偉くない神は一体化しても快感が得られないので超能力者宗教にとっては要らない神なのである。だから、日本政府は毎年多額の資金を投じて天皇を“偉く”見せて、天皇と一体化して快感を得ている者の心を満足させているのである。もちろん、神には人間よりも上の者である証拠の“超能力”がなければならないことは言うまでもない。]
しかし、実際にはこれまで神とされてきた者はすべて絶対神でも超能力者でもなく、稀な自然現象や母親や自分自身が見た幻覚のせいで超能力者にまちがわれた人間にほかならない。だから、神はいないのが真実である。
人間にとっては、嘘を信じて気持ちよくなることよりも、真実を信じて生きて行き、その先に真の幸福を見つけることのほうが大事である。
[私が『哲学日記[4959] 精神病《まとめ》☆ h20.5.4』で述べた分裂病理論によれば、まちがいを信じることはまちがいに心が従うことであり[性感や麻薬感に心が従うのと同じように]心が実在に従わないことになってまちがいを犯すもとになる。だから、まちがいを信じてはならない。つまり、宗教はやらないほうがいい。]

[5482] 神の条件 h20.7.24
1)超能力…人間よりも上の者である証[あかし]として必要である。
2)同族性(つまり、自分と同じ人間・人種・民族であること)…自分が神と一体化できるために必要である。
3)偉さ…自分が神と一体化したとき快感が得られるために必要である
これらの3つの条件が揃[そろ]うと、頭の中で自分が神と一体化したときに強い快感が得られ、その神は宗教的に存在価値があることになるのである。
学者とかスポーツ選手とかアーティストでは超能力がないから神にはなれない。いくら彼らがその才能において優れていても“人間よりも上の者”ではなく、彼らと頭の中で一体化しても宗教特有の快感が得られないから、彼らには宗教的な価値がない。
絶対神は人間にとって同族性がないから人間が一体化することができず、一体化に伴う快感が得られないから、現人神宗教(超能力者宗教)にとって価値のある神ではない。
私はいくら神とされていても偉さがないから、人間が私と頭の中で一体化しても“気持ちのよさ”が得られず、現人神宗教にとって価値のある神ではない。
一方、シャカやキリストやモハメットや天皇は、これら3つの条件をすべて併[あわ]せ持っているので、現人神宗教において価値ある神とされるのである。
文化が低い国では娯楽がないので、頭の中で神と一体化して快感を得る宗教がもてはやされるのである。
しかし、実際には、“超能力”は事実ではないので、これまで神とされてきた者はすべて神ではなく、今後は現人神宗教はやって行けない。
今後は、人類は現人神との一体化による強い快感は得られず、絶対神に祈る弱い快感でほそぼそと遊ぶしかないのだ。

[5483] マンガと宗教の違い h20.7.24
マンガは最初から空想であることが前提とされ、描かれていることは具体的にはまちがい(ありえないこと)だけれども心理的にはまちがっていない(のが私的には“いいマンガ”であリ、そういうマンガを選択しながら私は見ている)。
一方、宗教は事実であることが前提とされ、心がまちがいに従うゆえに心理的にも異常になる。つまり、宗教をやると気が狂う。[例えば、いくらキリストが超能力者であると頭の中で考えていても、実際にはキリストが超能力者ではないのが真実だから、実際には頭の中でまちがいを信じて気が狂っていることになる。]
マンガは夜見る夢のように実在と別のところでやっているから問題にならないが、宗教は麻薬やセックスやオナニーのように実在と同じところでやっているから問題なのである。

[5484] なぜ日本では天皇を代々繋[つな]げなければならないか? h20.7.24
日本人は昔のことにこだわらない気質がある。
日本に『水に流す』とか『立つ鳥跡を濁さず』とかいう諺[ことわざ]があるのもそのためである。
日本もインドと同じように時間の概念がない民族なのだろう。
だから、いくら弥生時代に神武天皇という超能力者がいたとしても、それは昔のことであって、今の時代に自分の眼の前にいなければどうでもいいことと思ってしまうのである。
だから、わざわざ眼の前に神武天皇の子孫である天皇を置いて、天皇を神であった神武天皇の子孫だから神ということにして、神の存在をいちいち眼でわかるようにしなければならないのである。
[それにしても宗教は時代遅れのじじい臭い快楽だなあ。今の時代、そんなワビた快楽にすがらなければ生きていけないほど娯楽がないのだろうか?]

[5485] どうして日本人は天皇の命令に従うのか? h20.7.24
宗教で自分を気持ちよくしてくれたから、そのお礼に神である天皇の命令に従うのだ。
いわば恩返しである。
[しかし、今はテレビやパソコンやゲームなんかの発明で娯楽の種類が増えたから、そんなに天皇をありがたがる人がいないかも。]

[5486] どうして政府の力が衰えたか? h20.7.24
政府は天皇に関する宗教をやる機関である。政府はいろんな催[もよお]しごとをして天皇を“偉く”見せることで、国民に天皇との一体感による宗教的な喜びを与えてきた。[天皇が“人間である”ことや“超能力者であった神武天皇の子孫である”ことは動かないことなので、政府はこの点については何もやらなくていい。もっとも、天皇が超能力者の子孫というのは嘘だが。]
しかし、戦後はテレビやマンガやゲームなどの多くの遊び道具が発明されて遊びが多様化し、天皇なんかの時代遅れの年寄り臭い不健全な宗教的な喜びが国民にとってもはや要らなくなったから、国民にとって天皇の祭りごとをする政府も要らなくなり政府の力が衰えたのである。[私に関する祭りごとについても同様である。]

[5487] 馬鹿の会 h20.7.24
今どき宗教に入って神との一体感で気持ちよくなっている奴は、今でも神武天皇やキリストなどが本当に超能力者であると思っている知恵遅れの奴らだ。
宗教に入っている者は科学や医学の教養の足りない馬鹿だ。ほんとに学校で勉強したのだろうか?馬鹿すぎて気味が悪い。
宗教は馬鹿の会だ。宗教国家は馬鹿の国だ。馬鹿の国に生まれた者は不運だ。

[5488] なぜ政治家≡宗教家は超能力者を上手に操作できないか? h20.7.25
政治家が超能力者を上手に操作できるくらい精確な考えができるなら、
最初から超能力者と考えないはずである。
超能力者でない者を超能力者と決めるくらいいいかげんな考えしかできないから、
超能力者をとうてい思い通りに操れるわけがない。
超能力者で日本をよい国にしようなど夢のまた夢だ。
そんなことができるほど政治家≡宗教家は頭がよくない。

[5489] 日本人にとって天皇とは h20.7.25
昔、日本人にとって天皇は大和民族が他の民族よりも優れている生き証人であった。[それは、天皇が“日本人の”超能力者すなわち神(人間よりも上の者)だったからである。]
だから、日本人は天皇を大事にした。天皇の命令にはできるだけ協力した。
しかし、今では天皇は日本の文化が遅れていることの生き証人である。
今や日本人にとって天皇は大和民族が他の民族よりも劣っている生き証人にすぎない。
つまり、外人にとっては天皇は自分の民族が大和民族よりも優れている生き証人である。
だから、外人のほうが日本人よりも天皇を大事にするだろう。
日本政府は外人のために天皇を置いているのかもしれない。
[まちがいを心のよりどころにするのはかっこ悪い。]

[5490] キリスト教について h20.7.25
人がキリスト教に入るのは、自分もキリストと同じ神(人間よりも上の者)になって、自分が人間よりも上の者になった“いい気持ち”を味わうためである。
しかし、自分がキリストと同じ神になるためには、ただ自分が頭の中でキリストと同じであると思えばいいだけだから、わざわざ教会に入らなくても自分ひとりでやればいい。
キリスト教は世界中に広まっているから、自分が人間よりも上の者とは、キリスト教に入っている者がキリスト教に入っていない者よりも上という意味なのだろう。
しかしながら、それらはあくまでもキリストが超能力者であってのことであって、キリストが超能力者ではなくただの人間にすぎなければ、たとえ自分がキリストと同じだと思ってもキリストが人間なら自分も人間どまりだから、精神の高揚感は味わえず、キリスト教は何の役にも立たない。
『キリストが超能力者である』とか『キリストが神(人間よりも上の者)である』とかいったまちがいを信じることで得られる“病的な”喜びによらなくても、なにか他のもっと健全な喜びで生きて行けないものか。

[5491] マンガと宗教の違い h20.7.25
マンガがくだらないとされるのは、マンガの登場人物(例えばスーパーマン)が実在せず、マンガで描かれていることが嘘の作り話だからである。
これに対し、宗教がくだらないとされないのは、宗教で神とされる者(例えばキリスト)が実在の人物だからである。
しかし、宗教の経典(例えば聖書)に書かれていることは事実ではない。とくに、宗教で神とされる者(例えばキリスト)が超能力者であったというのはまちがいである。
だから、宗教もマンガと変わらない。宗教もマンガと同じようにくだらない。
むしろ、マンガが紙の上だけでまちがいをやるのに対し、宗教は実在の中でまちがいをやるから、宗教はマンガよりもくだらない。

[5492] 軽蔑馬鹿 h20.7.25
軽蔑馬鹿とは、嘘の作り話をしてでも他人を軽蔑したがる者のことである。
例えば、日本人は同じ日本人である神武天皇が超能力者だという嘘の作り話をして、大和民族が他の民族よりも優れていると言って、他の民族を軽蔑している。だから、日本人は軽蔑馬鹿である。

[5493] マンガの女の子と実在の女の子の違い h20.7.25
マンガの女の子はいつも元気があって楽しそうにしているが、
実在の女の子はただおとなしいだけだ。おとなしく与えられたことをやるだけだ。
実在の女の子はけっして面白いものではない。

[5494] 武力政治と宗教政治の違い h20.7.25
武士が国民を刀で脅しつけて支配するのに対し、
宗教では、国民が自分の意思で神に従属する。
武家社会では、武士が国民を強制的に支配するのに対し、
宗教社会では、国民が本質的に自由であり、国民が神に自主的に従属するのである。国民が人間よりも上の者である神(例、天皇)との一体感によって得られた“いい気持ち”のお礼に、神のために働くことで国が治まるのだ。[だから、放っておいてもひとりでに神が国を支配できてしまうのである。そのためには、神が“人間よりも上の者”でなければならないが。それにしても、わかりやすい理由だ。それだけに臭いと思わねばならないが。私は超能力者すなわち現人神(例、天皇)がいると言って国民を騙すよりも、超能力者はいないと言って国民に正しいことを教えたほうが、国民が賢くなっていいと思う。]

[5495] 『宗教はいい。』 h20.7.25
宗教がいい喜びだと言うのは、麻薬のように身体的依存がなく強い副作用がないからである。
麻薬に比べたらマシだと言っているにすぎない。
しかし、まちがいを信じていい気持ちになる(つまり、超能力者でない者を超能力者だと考えて、すなわち人間よりも上でない者を上だと考えて、さらに自分が人間よりも上の者と同じである、したがって自分が人間よりも上の者だと考えていい気持ちになる)のはいいことだと思えない。
まちがいを信じること自体いいことではないから、宗教はいいことではない。
まちがいを信じることは自分で自分をきちがいにすることだから、いいことではない。[きちがい(気違い)とは心が実在に従っていない(気が実在と違っている)ことである。人間においては心が知覚に従属するから、知覚がまちがっていると心がきちがいになる。知覚が実在に従っていない(実在と違っている)ことは、知覚が考えることつまり間[ま]を取ることだから、まちがい(間違い、間が実在と違っている)と言うのだ。まちがいを信じて心が気違いになるといろんなまちがいを犯しやすくなるからいけないのである。]

[5496] 割り切ることが大事 h20.7.26
日本には天皇がいるが、天皇の中身を考えずに、なんだかわからないまま政府の言いなりになって天皇に従うよりも、自分で天皇の中身を考えて、自分が天皇や政府にしたがう必要がないことがわかれば従わないほうが大事である。
天皇は人間よりも上の者だろうか人間よりも上の者ではないのだろうか?それが問題だ。
いつまでも灰色のままにしておかずに、一度自分で考えて白黒はっきりさせることが大事である。
私は天皇やこれまで現人神とされてきた者がすべて自然現象や癲癇による誤解であって人間よりも上の者ではないと考えているが、政府は天皇やその他の現人神を超能力者であり人間よりも上の者だと考えている。
自分が正しく政府がまちがっていれば、自分を通すのが人間である。
たしかに政府は強い組織だが、政府よりも実在のほうがもっと強い。だから人間は政府よりも実在に従うべきである。

[5497] キリストは馬鹿か? h20.7.26
たしかにキリストが生きていた時代には癲癇の概念はなかった。
でも、キリストが考え深ければ、幻覚(見まちがい)の概念ぐらいはどうにかなったかもしれない。
たとえ当時幻覚の概念がなかったとしても、なければ自分で考え出して作ればいい。たとえ新しい概念を作り出さなくても、当時すでにあった概念を組み合わせれば何とかなっていたかもしれない。私だったら、当時でも夢は誰でも知っているから、キリストの母親が見たキリストの後光は、母親が寝ぼけていて昼間見た夢に眼で見た現実のキリストの姿がたまたま重なって見えたものとして考えたかもしれない。
キリストがもっと考え深くて、自分の超能力の正体が母親の幻覚だとわかっていれば、世界の歴史は大きく変わっていたはずだ。宗教なんかとっくの昔になくなっていたかもしれない。

[5498] どうして女はおとなしいか? h20.7.27
女[の態度]がおとなしいのは、心が冷たいからである。[心が冷たいとは、喜怒哀楽が弱いことである。女は感動が弱いからおとなしいのだ。]
反対に、男が活動的なのは、心が熱いからである。
人間に黒人と白人がいて、黒人と白人が別の人種であるように、
人間に男と女がいて、男と女は別の人種なのである。
黒人と白人が顔や身体や心や知覚や五感のそれぞれが違うように、
男と女では顔や身体や心や知覚や五感のそれぞれがかなり違うのである。
例えば、女には“愛情すなわち子供をかわいがる感情”があるが、男にはない。だから、女心は男にはわからないし、反対に男心は女にはわからない。
男と女にはそれぞれ長所と短所がある。[例えば、愛情がなければやれないことは、女にはやれるが男にはやれない。]だから、単純に優劣は決まらない。それぞれの長所を活かして互いに助け合って生きていけばよい。

[5499] どうして聖書はつまらないのか? h20.7.27
聖書は昔に書かれたものである。
昔は娯楽がなく世の中が今ほど楽しくなかった。聖書はそんな時代に書かれたからつまらないのである。
あんなもの読む価値ない。時間がもったいない。

[5500] 女の価値 h20.7.27
キュリー夫人やコワレフスカヤは、それまで男にしかできないと考えられていた物理や数学の研究をした。
しかし、それは女にしかできないことではない。男でもできる。だから、女がやれたからと言ってとくに価値があることではない。
女は女にしかできないことができてはじめて価値があるのだ。


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