[501] 土の心 h14.2.21
土には感覚がない。それがまさに土の心なのだ。土の心は無だ。
土から見ると人には感覚がある。
人間、死にかけたら、「自分の脳で感じている」ことが実感できる。
物から心を見れば、人間がわかる。
(哲学第一原理はこうして得られた。)
[502] 正しいことを楽しむ h14.2.21
自分が正しく理解できることの範囲内で、考えることを楽しむという意味である。
正しいと考えられることの中で、自分が楽しいと思うことを選んでやればよいということである。
正しいことのすべて、すなわちこの実在界に存在するすべての物事に対して無理やり楽しく思わねばならないという意味ではない。
人間だけが正しいことを楽しむことができる。
それができなきゃ人間失格だ。
正しいことを楽しむ気持ちを大切にしていけば、人間として成功できる。
たとえ程度が低くて仕事にはならなくても、
正しいことで楽しめばよい。
最初から上手な人はいない。
他人との競争は要らない。
[503] 共同弱意識 h14.2.22
思考波(感覚波のこと)の伝播により、人間同士の感覚の共鳴が起こり、共同弱意識が形成される。
弱意識とは意識と無意識の中間の強さの感覚である。
ボンヤリしていて自分で何も考えていないと、この共同弱意識に流される。
しかも、共同弱意識の内容はあまり正しくない。
自分できちんと字にして考えていないと、まちがいに呑まれてしまう。
[504] たてまえ h14.2.23
いちいちかっこをつけて言おうとしたがる連中は、他人に対するたてまえを言っているにすぎない。
本音を言わなきゃ、ただの嘘だ。
[505] 格言 h14.2.24
楽な道ならバカでも歩ける。
※おわび:2/25から私の勤務がこれまでの昼勤から夜勤に変わりました。そのため私の知覚のはたらきが以前に比べてよくありません。そのぶん記述した内容の信憑性[しんぴょうせい]が低くなります。まちがいが多いかもしれません。注意してお読みください。
[506] 日本人と正義の心 h14.2.27
自分が正しくいられるのなら、死んでもかまわないのが日本人やろが!!
[507] 幻聴よりも自分の眼と耳 h14.2.27
幻聴でわかることは、他人の思考波すなわち他人の認識である。それは、自分にとって、実在についての間接の経験である。
反対に自分の眼や耳でわかることは、実在についての自分の直接の経験である。
人間は他人よりも自分を信じることを選択した。
だから幻聴を捨て、自分の眼と耳を拾ったのだ。
[508] 梵我一如 h14.3.1
梵とは正しいこと、我とは楽しいことである。
梵我一如とは、正しいことで楽しむことである。
正しいことを考えて楽しむことである。
正しいことを考えているうちに、面白いことに考え当たることである。
例えば、数学の面白い定理を考え着くようなものか。
梵とは実在、我とは自分の心である。
梵我一如とは、実在の中で楽しむことである。
私が子供の頃は、よく鏡川(高知市の中央部を流れる川)の川原で小石を使って堤防や水路を作って遊んだものだ。
今の鏡川は、土手がコンクリートで固められて、川原もない。
生活には便利になったが、自然の中で楽しむことができなくなった。
[509] 自我 h14.3.2
認識を認識するから自我ができる。
自分の認識を自分が認識するから自我ができる。
認識を認識しなければ自我はできない。
自我ははじめからあるものではなく、自分の認識を自分が認識することによって、自分の中に作るものである。
自分の認識について自分が考えることによって、自分の知覚の中に作るものである。
作ろうとしなければ、いくら待っても出来てこない。
自我と意識とはまったく別の概念である。
意識とは、ただたんに感覚があることであり、感覚の強さによって無意識〜弱意識〜強意識までのさまざまな違いがある。
例えば、いわゆる自意識過剰とは、「自分が他人に見られている」感覚(を荷っている脳細胞)が過剰に興奮気味になっている状態である。
自我とは、自分の認識を自分が認識し、自分が自分の認識の仕組みを理解し、また逆に自分が自分の認識を管理・統治することであって、つまりは哲学の中枢である。
[510] 悪いのはどっちだ? h14.3.2
だいぶ前にスーパーの店員が私に言いがかりをつけたことを述べた(哲学日記[77]、[62]参照)が、この店員は正しいことで私に口出ししたのでないから、やはりこの店員が悪いことになる。
他人に口出しするなら、正しいことを言わねばならない。
そうでなければ、自分の間違いを他人に押し付けているだけだ。善いわけがない。
服装がきれいかきたないかなんて、知覚のはたらかないバカが‘色’にとらわれているだけだ。
認識の低いバカが認識の高い者に自分のバカ気たものの見方を押し付けようとするなど、もってのほかだ。
たかが動物ごときが人間様に口出しするな!
動物は人間には勝てないのだ。
[511] 遺言 h14.3.4
人間は大脳があって、考える動物だということを忘れるな。
人間だけが実在を認識できる。
[512] 復習 h14.3.5
人間は実在について考える動物である。
実在は五感ではなく知覚である。
だから人間の心は五感ではなく知覚に従属しなければならない。
知覚に従属する心が人間の心であり、
五感に従属する心が動物の心である。
心自体が問題なのではない。
心が知覚に従属するか、五感に従属するかが問題なのである。
心が知覚の世界に従属するか、五感の世界に従属するかによって、心の価値が決まる。
知覚の世界は、考えることによって成長していく。
考えるとは、ことばを使って表現することである。
ことばが実体(実在するもの)に一致するまで、表現を改良し続けねばならない。
[513] 科学と哲学 h14.3.5
科学とは物(実在)について認識することであり、哲学とは認識について認識することである。
哲学第一原理「認識は、脳細胞の神経興奮によって感覚が発生することである。」によって認識は物になり、科学と哲学が結びつく。
[514] 分裂病と‘色’ h14.3.5
分裂病の人たちは幻聴の‘色’にとらわれている。
ただそれだけのことのために、ときには人を傷つけたり殺したりする。
たかが‘色’。されど‘色’。‘色’キチガイとは、よく言ったものだ。
分裂病の人たちは無口だから、五感界は豊かだが、知覚界は貧弱なのだ。
もっと、ことばを使ってよく考えて、自分の知覚界を発展させねば。
分裂気質とは、知覚(人間性)が未発達なまま五感(動物性)だけが発達した人のことである。
医学生にカンニング(五感:眼先の上だけで優秀なこと)が多いのもそのためである。
私はキタナイ人間が嫌いだ。
五感界=子供(動物)の世界。知覚界=大人(人間)の世界。
子供(動物)は考えることを通して大人(人間)になる。
五感界における哲学(例、東大の哲学)は子供の哲学であり、
知覚界における哲学(例、私の実在哲学)は大人の哲学である。
東大の哲学は、人間に対する見方が五感的だから、五感界での哲学に属するのだ。
かわいそうに勉強のしすぎで頭がパーになってしまったのだろう。
勉強しすぎると眼に見えるものしかわからなくなるのだろう。
東大が日本をくだらなくする因(もと)だ。
[515] 五感界は楽園たり得るか? h14.3.6
日本は五感主義を国民に植え付けようとしている。
五感界は現象であって、知覚界は実在である。
五感主義では‘色’にとらわれやすく、分裂病になりやすい。
また、実在界は無矛盾であるが、五感界には矛盾があり不安(イライラすること)になりやすい。
分裂病・神経症の原因は、日本の五感主義にある。
[516] 不幸の原因 h14.3.6
人間の頭の中にあるまちがいが、すべての不幸の原因である。
自分を不幸にした原因は、人々の頭の中にあるまちがいである。
まちがいはなくなったほうがいい。
頭の中にまちがいのある人間は、死んでいなくなったほうがいい。
まちがいはモトから断たなきゃダメ。
[517] 善と美 h14.3.6
[518] 知覚界における対人関係 h14.3.6
認識の正しさで人間の価値が決まる。
人を見るときには、その人の認識の正しさで見よ。
自分より正しい者には従属し、正しくない者には従属しない。
[519] 人間の本質 h14.3.6
人間の本質は心ではない。なぜなら、心は五感に従属するか、知覚に従属するかによって、動物の心にも人間の心にも変わるからである。
人間の本質は知覚である。知覚はことばを用いて考えることによって発達する。
知覚に従属する心が人間の心であり、知覚に従属する五感が人間の五感である。
動物の五感には幻聴があるが、人間の五感には幻聴がない。
[520] 質量と感覚 h14.3.6
質量密度にムラのある剛体があったとする。
質量は剛体の内にはあるが、剛体の外にはない。
同じように、感覚も脳の内にはあるが、脳の外にはない。
感覚の密度(というか強さ・種類)は脳の部位によって違いがある。
[521] 知覚界におけるコミュニケーション h14.3.7
正しいことは自分においても他人においてもともに成立するが、
自分にとって楽しいことは他人にとって楽しいとはかぎらない。
一般に、楽しいことは自他共通には成り立たない。
したがって人間同士のコミュニケーションはつねに正しいことであらねばならない。
公の場では、正しいことしか喋ってはならない。
他人に心の共感を求めてはならない。
[522] 知覚と五感 h14.3.8
ことばを用いて考えることによって知覚が発達する。
大脳皮質上の知覚エリアが、ことばを用いて考えることによって、成長し、発達する。
知覚があると五感(幻聴も含む)を客観的に見られる(別の視点から眺められる)が、
知覚がないと五感そのものが即真実になる。
[523] 赤ちゃんとコミュニケートする方法 h14.3.8
赤ちゃんはまだ眼がよく見えていない。
赤ちゃんは感覚波でお母さんとコミュニケートするのである。
だからお母さんは楽しい心で赤ちゃんに接しなければならない。
どうせ赤ちゃんは眼が見えていないのだから、いくらお母さんが顔で笑ってもしかたがない。
赤ちゃんはお母さんの楽しい心を、頭の中で感じるのだ。
赤ちゃんはすでにお母さんのおなかの中にいるときから、感覚波でお母さんの思っていること・考えていること・見ていることを感じているのだ。
[524] 世界の安定性 h14.3.8
赤ちゃんの共同意識界(感覚波で赤ちゃんとお母さんが結びついた世界)も、子供の五感界(視たこと聞いたことをそのまま実体と見なす世界)も不安定で崩壊しやすい。
安定なのは実在と同じ(厳密には実在に最も近い)知覚界(自分がことばを用いて考えることによって、自分の頭の中に築いた世界)だけだ。
[525] 世界の変遷 h14.3.8
赤ちゃんの頃は、思考波でお母さんと結びついて共同意識界を作っている。
しかし、「感覚波でお母さんに聞く(甘える)よりも、自分の眼で見たことのほうが正しい」と思う年頃になると、自分で思考波を断ち切って、次のステージの五感界(自分の眼で見えることや耳で聞こえることをそのまま真実と見なす世界)に入る。
さらに、五感界には実在しない‘色’があることを知ると、次のステージの知覚界(正しい原理に基づいてことばを用いて考える世界)に入る。
[526] 分裂病の心 h14.3.8
分裂病の心は共同意識界(感覚波で感じたことをそのまま真実と見なす世界)に従属する心であって、普通の人の五感界(眼で見たことをそのまま真実と見なす世界)や知覚界(自分がことばを用いて考えたことを真実と見なす世界)に従属する心とは性質が異なる。
躁鬱病の心は普通の人と同じように、五感界や知覚界に従属する。
[527] 世界の階層 h14.3.8
心は、心が従属する感覚(知覚、五感、共同意識:幻聴)によって、価値が変わる。
知覚に従属する心が最も高く、五感に従属する心が中で、感覚波に従属する心が下である。
[528] オナニー h14.3.10
オナニーは自分の性器に対する‘色’を強めることであるが、
他の五感や共同意識に対する‘色’も強めることになる。
‘色’にとらわれやすくなると、知覚界から五感界や共同意識界へ飛び出しやすい。
五感界へ飛び込むと、神経症(例、他人の咳払いが嫌)になり、
共同意識界へ飛び込むと、精神分裂病(幻聴が嫌)になる。
セックスも同様。
[529] ‘色’ h14.3.10
‘色’とは知覚(つまり実在)に従属しない心、
五感や共同意識(幻聴)だけに従属する心である。
[530] ‘色’から抜け出す方法 h14.3.10
五感や共同意識をそのまま受け入れるから、‘色’にとらわれることになる。
自分の心を知覚に従属させれば、‘色’は活動しなくなる。
五感界や共同意識界の情報に対して、真・偽・無意味の区別を付け、真の情報だけを受け入れるようにすれば、五感や共同意識が知覚に従属するようになり、(たとえ心が五感や共同意識に従属しているとしても)、結局自分の心も知覚に従属することになる。
[531] 音 h14.3.11
生まれて始めて音を聞いたときは、自分の頭の中だけで感じていた。音は自分の頭の中から聞こえるものだった。
それが、音と他人の口の動きや物の振動と関係があることがわかって、音が次第に対象化されて、音は自分の外から聞こえてくるものと感じるようになった。
[532] 知覚に従属する世界 h14.3.12
人間であるかぎり、正しくなければならない。
幻聴の情報は、正しいところがないから捨てた。
五感の情報は、知覚に従う部分だけが正しい。
正しくないことはくだらない。
人間は正しいことの中で楽しめばいい。
[533] 知覚界におけるコミュニケーションその2 h14.3.11
心は個人固有のものであるが、真理は普遍的である。つまり、好きなこと・嫌いなことは、人によって違いがあるが、正しいことなら、自分にとっても他人にとっても成立する。
だから、公の場では、いくら他人が面白くなくても、正しいことを堂々と言うべきである。
正しいことなら、いくら他人が面白くなくてもかまわない。
正しければ何を言ってもいい。
[534] 日本 h14.3.12
今の日本は、人間の住める国じゃない。人間以下の動物の国だ。
人間が満足して住める国であって欲しい。
今の日本の不況の根本的原因は、日本人の認識レベルの低さにあるのだ。
個人主義で認識レベルの高いヨーロッパにかなうわけがない。
おごる平家は久しからず。日本は高度経済成長で調子に乗りすぎていた。
哲学的法則が歴史を支配する。このままでは近い将来、日本がヨーロッパに従属しなければ生きていけない日が来るであろう。
[535] 表現と読解 h14.3.12
読解は表現の逆変換である。
表現とは、知覚界の概念(つまり、頭で考えていること)を五感界の(つまり、眼で見える)文字(または、耳で聞こえることば)に変換することである。
読解とは、五感界の文字を知覚界の概念に変換することである。
表現は五感を知覚に従属させることであり、
読解は知覚を五感に従属させることである。[表現と読解の定義]
表現を伴う思考は、知覚における営みであるが、
読解だけの読書は、たんなる五感の行いにすぎない。
他人のことばを理解するとは、自分の知覚界にある概念を自分の五感界にある(つまり、自分の眼で見える)他人のことばに対応づけることである。
だから、人間はあらかじめ自分で考えたことしか、他人のことばを理解できない。
そうしなければ、知覚界は五感界の記憶にすぎなくなってしまう。それはエセ知覚界であって、本当の知覚界ではない。女にとっての知覚界は、たんなる五感界(色)の記憶にすぎない。男にとっての真の世界は知覚界であるが、女にとっての真の世界は五感界なのである。
他人のことばを理解するには、自分が自分の考えを表現するときのようにしなければならない。読解では、他人のことばをそのまま記憶する(鵜呑みにする)ことしかできない。読解では、ことばの形を憶えるだけで、ことばの内容(知覚的意味)を理解することができない。
[536] カントの三大批判書 h14.3.13
『純粋理性批判』=知覚論:知覚自体が何かについて論じたもの
『実践理性批判』=心論:知覚に従属する心(善)について述べたもの
『判断力批判』=五感論:知覚に従属する五感(美)について述べたもの
要するに、カントの三大批判書とは、真・善・美についての解説書である。
[537] 耳学問 h14.3.14
他人のことばを理解するのに、自分が自分の考えを表現するような仕方でしていたのでは、とうてい大学入試の半分も点が行かない。
それなのに東大の人は満点近くとれる。
このことは、彼らが上の理解の方法をとっていない、つまり他人のことばを形(五感的意味)の上だけでしかわかっていないことを示している。彼らの知覚は五感の記憶でしかないのだ。
政治家には東大卒の人が多いから、日本の国会は幼稚臭いのだ。
あいつらは心の幼稚な部分が肥大しているだけだ。
日本の政治がうまくいかない原因は、政治家たちが五感のことしかわからず、物事の実体がわかっていないからだ。
あいつらに国民を支配する資格なんかない。
[538] 知覚界における衣食住 h14.3.14
正しいことを考えて楽しむことが人生の目的である。
したがって、
衣服は、自分の身体のサイズに合うなら何でもいい。色やデザインにこだわらない。安いに越したことはない。
食事は、自分が正しく考えることを促すような、頭の働きを快活にするようなものがいい。味は2の次。見た目は3の次。
住居は、自分が考え事をできるような場所さえあればどうでもいい。自分が考え事をする時間を多く持てるように、生活(スーパーでの買い物、ゴミ捨て、洗濯など)に便利な場所にあるのが望ましい。
[539] 知覚界から見た国語・算数・理科・社会 h14.3.14
国語は、理系の本が読めるぐらいの読書力を養えればいい。あとは、授業のかたちを借りた娯楽にすぎない。
算数と理科は、文句なし必修。
社会は、近所の地理しかわからない。歴史はタイムマシンができてからにしよう。
音楽は、‘音色’の世界だから禁止。美術も禁止(絵の宿題が面倒すぎる)。体育は時間のムダだからないほうがいい。
習字は、眼で見た字の‘形’にこだわるので禁止。習字はことばに対する冒涜[ぼうとく]にほかならない。
今の学校は子供にいらないことを教えすぎる。感性を悪くするだけだ。
文部省のアホなカリキュラムのせいで、毎年大勢の子供たちが人間から動物に変えられているのだ。人間として生きていけないようにされているのだ。日本の教育は人間を腐らせる教育だ。あまり学校でくだらないことを教えるな!
[540] 人間の心 h14.3.15
知覚に従属する心が人間の心だ。
五感に従属する心は人間の心ではない。
人間以下の動物の心がいくら発達したって、何の値打ちもない。
[541] 正義の心 h14.3.15
正義の心というひとつの特別な心(感情)があるわけではない。心の中の一部分に、正義の心というものがあるのではない。
正義の心とは、正しいことを認識する知覚に従属した心という意味である。心が(五感ではなく)知覚に従属した状態のことを指す。正義の心とは、知覚界の中で培われた心のことである。
[542] 知覚の目と五感の眼 h14.3.17
実在を知覚(真)の目で見たのが物理学で、
実在を五感(色)の眼で見たのが文学である。
例えば、五感の眼で見ると何もないことが、
知覚の目で見ると0があることになる。
ガロアはアーベルよりもセンスが知覚的であった。
ガロアは知覚界で多くの概念を発見し、それらに名前をつけた。
フェルミも実在に関する知覚界で多くの発見をし、自分の名前をつけた。
頭が良いとは、眼で見えないことが頭の中で見えることである。
紙の上だけの数学よりも実在を知覚の目で見れることが大切である。
頭の中で見えることを眼で見えることに対応付ければいい。
一生懸命考えてはじめて実在(真実)が見える。
[543] 成長 h14.3.17
若いころは‘色’に惑わされているが、
年がいくと実在(真実)だけしか問題にしないようになる。
実在でないものに惑わされている自分がバカらしく思えるからだ。
[544] 見栄 h14.3.18
見栄とは五感界における喜びである。くだらない。人間的な値打ちがない。
[545] 死ぬに越したことはない h14.3.18
今の日本は遅れすぎている([539] 知覚界から見た国語・算数・理科・社会を参照)ので、日本の中ではくだらない五感的=動物的欲望しか満足されない。
今の日本の中で生きることは、人間にとっては不幸であり、早く死ねるなら死んだほうがましである。
自殺に伴う痛みが怖いから、しかたなく生きているにすぎない。
生きているためには、守らねばならないルールがある。
そのルールが実在哲学にほかならない。
[546] 仏教はキライ h14.3.18
人間の精神は、脳細胞の活動(神経興奮)に伴う感覚の発生にほかならない。
だから、死んだ後の人間の霊など存在しない。
したがって、葬式も墓も必要ない。
人間死ねばゴミといっしょだ。
死後の世界の存在を仮定する仏教はバカ気ている。
自分が死んだ後でも絶対お寺の世話にはなりたくない。
[547] 知覚界 h14.3.18
知覚界こそが人間にとってふさわしい居場所であり、知覚界に従属する心こそが人間の心である。
[548] サルまね h14.3.19
個人主義がないと民主主義はうまくいかない。
合理主義がないと男女同権はうまくいかない。
ヨーロッパにはもともと個人主義も合理主義(知覚主義=実在主義)もあるから、民主主義も男女同権も善いほうに行く。
しかし、日本には個人主義も合理主義もないから、民主主義も男女同権も悪いほうに行く。
個人主義(自分の心を肯定すること)のない民主主義(一人一人の心の違いを認めること)は、たんなる全体主義(みんなが同じ気持ちでないといけないこと)にほかならないし、
合理主義のない男女同権は、くだらない五感主義(‘色’主義)に堕落してしまう。
日本がいくらヨーロッパのまねをしたって、付け焼刃のうわべだけのまねではうまくいかないのだ。
[549] 人間にとっての幸福とは h14.3.19
人間は人間として生きなければ真に幸福にはなれない。
人間が動物であるよりも、人間が人間であるほうが幸せである。
[550] 真実 h14.3.20
真実はすぐにはわからない。
一所懸命に時間をかけて考え続けることによって、やっとわかるようになるのである。
[551] 五感界の穴 h14.3.23
五感界は閉じていない。
五感界には穴がある。
脳が五感界の穴である。
五感界から知覚界へのぬけ穴が哲学第一原理である。
ぬけ穴…それは、ビックリマンの天聖門のようなもの。さしずめ知覚界が次界だ。次界の先まで行った哲学者はいまだかつていない。
哲学第一原理から実在の存在が導かれるが、同時に感覚波の存在も導かれる。それを乗り越えるには理性(真・偽・無意味を区別する能力)が必要である。もっともいくら感覚波が実在しても、自分が影(他人の見えないところ)で悪いことをしていなければ、悪口の幻聴は聞こえないだろう。
[552] 感情のない男の子 h14.3.24
むかし友達からよく「感情がない」と言われる男の子がいた。
その子は本当に感情がないのではなかった。
その子の感情が知覚に従属していて、ほかの子のような五感に従属している感情とはあまりにも異質であったために、ほかの子にとってはあたかも感情がないかのように見えていただけだった。
[553] 好き嫌い h14.3.25
知覚に従属する心にも好き嫌いはある。
正しいことなら何でも好きというわけにはいかないからである。
正しいことの中にも自分の心にとって好きなことと嫌いなこととがある。
例えば、私は物理は好きだが、医学・生物学は嫌いだ。
自分は正しいことの中で自分の好きなことを考えて、自分の生きる糧にすればいいのだ。
知覚に従属した心にも好き嫌いはある。
その好き嫌いを無視すればうつ病になる。
いくら正しいことでも自分が嫌いなことをこらえているとうつ病になる。
仏教では煩悩すなわち動物的心すなわち五感に従属した心を否定しているが、すべての心を否定しろと言っているのではない。
人間的心すなわち知覚(=実在)に従属した心は積極的に肯定しなければならない。
人間は正しいことなら何でも好きなわけではない。そこに心があるのだ。
正しいことで好きなことがあるなら、その気持ちを大切にしなければならない。
[554] 動物人間 h14.3.26
動物人間とは、動物の心(五感に従属する心)を持った形の上だけの人間のことを言う。
今の日本は動物人間の動物人間による動物人間のための社会だ。
その中では、知覚に従属する心を持った人間が幸せになることはできない。
動物的欲望を満足するために金がある。金は‘色’代にすぎない。
金を稼ぐために仕事がある。
動物は仕事をしたがるが、人間にとっては仕事は考える自由を奪うだけの邪魔ものにすぎない。
自由が奪われるから、仕事は不愉快なのだ。
私は子供の頃からずっとやりたい仕事がないし、今でもない。
仕事で得られるのは金だけであり、金ではくだらない動物的欲望しか満足されないのだ。
貴族社会が武士社会に、武士社会が平民社会に取って代わったように、
今の日本の動物社会も早く人間社会に取って代わらねばならない。
[555] 散髪 h14.3.26
中学生のころから理髪店に通うのが嫌になった。小学5年生のとき散髪代を理髪店に行く途中で落としてしまったことがある。
中学生の頃私の中で人間的心が芽生えたらしい。だから見かけの‘色’でしかない散髪がバカバカしくて嫌になったのだ。自分の動物的心を満足することに嫌気がさしたのだ。人間は考えの正しさで評価されるべきであって、髪形のかっこよさで人間の価値を決めるべきではない。
散髪のようなくだらない習慣を早く廃止して欲しいものだ。
[556] 仕事 h14.3.27
今の日本は動物人間の社会である。
今の日本における仕事は動物人間の動物人間による動物人間のための仕事である。
くだらない仕事ばかりで、私がやりたい仕事がない。子供のときからそうだったし、今でもそうだ。
日本社会は、つくづく人間にとって魅力のない社会だ。
仕事はくだらない。
なぜなら、仕事はお金を稼ぐためにあり、お金は‘色’代でくだらないから、お金のためにある仕事はもっとくだらないことになるからである。
私にとって仕事などどうでもいい問題であり、仕事の裏でやる遊びこそが第一なのだ。
仕事は他人に対する見栄にすぎない。
見栄の世界はバカバカしい。
人生には表と裏すなわち仕事と遊びの2面がある。
仕事がいくら立派でも遊びがくだらなければ、そいつの負けだ。
仕事がダメでも遊びがよければ、そいつの勝ちだ。
[557] キチガイの心 h14.3.27
私の身近にいるキチガイ君へ
ものの見方はものにはよらない。だから、キチガイ君のものの見方が悪いのであって、私が悪いのではない。オレには関係ない。
幻聴が聞こえるたびごとにいちいち咳をして騒ぎまわるのは、キチガイ君の認識界が五感・幻聴界優位であるために、キチガイ君の心が五感・幻聴界に従属しており、五感・幻聴界に従属した心にとっては幻聴の世界が実在する世界のようなものであり、幻聴(の悪口?)がひどく気に障るためである。
また、幻聴界に従属した心は、自己中心的であって、自分自身を何も理由がないのに正しいと見なし、他人に攻撃的になる。
キチガイ君の幻聴に従属した心は、くだらない、価値の低い心なのだ。
私だって幻聴が聞こえることはあるが、幻聴で聞こえることばを真(ま)に受けていない。それは私の心が五感・幻聴界よりも知覚界に従属しているためである。
[558] ふたたび・どのようにして私は幻聴が聞こえるようになったか h14.3.27
五感界が幻聴界への入り口である。五感界と幻聴界とは本質的には同じである。
今から約25年前、私は毎日オナニーをしていた。性感を刺激することが、広く五感界すべてへのとらわれを強めていったのだ。
ある日、私は隣の席の不良が授業中に教科書のパラパラめくり遊びをしているのを見てひどく腹を立て、超能力を使ってパラパラめくり遊びを阻止しようとした。眼で見える世界への強いとらわれが私に不合理なこと(つまり、超能力)を考えさせたために、私は実在界=知覚界から五感界へはみ出してしまったのだ。その日、私が自宅に帰って夜中に勉強していると、近所の家から幻聴が聞こえ始めた。五感界と幻聴界が近くにあるために、知覚界の楽園から五感界にはみ出してしまった私は同時に地獄の幻聴界に入ることになってしまったのである。[それ以前にも、引越ししてまもなくの頃、近所の家から幻聴のようなもの(悪口+笑い声)が聞こえたことがあったが、そのときにはその幻聴があまり気にならず、その場かぎりで済んだ。]幻聴界に入ってしまった私の心は、知覚界に従属していた以前の心とはすっかり変わってしまった。私の心の価値が暴落してしまったのだ。
[559] 瓢箪鯰(ひょうたんなまず) h14.3.27
中学校の歴史の教科書に瓢箪鯰の水墨画が出ていた。ひとりの漁夫が瓢箪を持って川に泳いでいる鯰を捕まえようとするところが描かれていた。たしか国宝に指定されていたはずである。
瓢箪鯰とは、ツルツルする瓢箪でヌルヌルする鯰を捕まえることの難しさ、つまりとらえどころのないものを捕らえようとすることの難しさ、つまり心をコントロールすることの難しさを説いている。
心じたいをとらえることはたしかに難しいが、心は五感(・幻聴)界か知覚界かに従属しているのだから、自分の認識界をことばを用いて考えることによって知覚化し、心を五感よりも知覚に従属させれば、心の価値を高めることができる。
[560] 日本社会 h14.3.27
日本社会は人間を腐らせる社会だ。
人間に対する理解が足りない。
[561] キチガイの心(その2) h14.3.28
バカのものの見方が悪い(まちがっている)のは、バカ自身がまちがいだからである。私が悪いのではない。私は関係ない。
よくそれだけ咳が出るなあ。それが君の世界(つまり、五感・幻聴界)の“ことば”なのかい。
いくら君が大声で咳をしても、正しいことは一言も言っていない。正しくないのなら相手にしようがない。
君と僕とはちがう世界の中にいて、それぞれちがうものが見えているようだね。
同じものでもものの見方がちがえば、ちがうものが見えるんだね。
[562] 私のこれまでの人生 h14.3.28
[563] 赤ちゃんはなぜ幻聴が平気なのか h14.3.28
赤ちゃんは共同意識界(すなわち幻聴界)にいるのに、なぜ幻聴が平気なのか?
ーそれは赤ちゃんがまだことばがわからないからである。
ことばを知った大人がふたたび共同意識界に入ると、なまじっかことばがわかるばかりに、幻聴病みになる。
[564] 五感界における‘わかる’の意味 h14.3.29
五感界における‘わかる’の意味は、ただたんに自分の眼で見たことばの記憶があることである。たんに本でことばを知っていることである。
‘わからない’の意味は、ことばの記憶がないことである。
本に書いてあることは何でも正しく、それをただ記憶していれば何でも‘わかった’ことになる。
文書主義は五感主義である。
医学・生物学や歴史学などにおける‘わかる’の意味がコレである。
[565] 複合complex h14.4.1
五感界、幻聴界、知覚界などの感覚界に心は従属する。従属する感覚界が違うと、心は違った状態になる。つまり、心が何を快に思い、何を不快に思うかは、従属する感覚界によって変わる。
逆に、感覚界に従属した心は、その感覚界の中での快を得、不快を減らすために、その感覚界の中で能動的・積極的に行動しようとする。
このように、感覚界と結びついた心を“感覚・心複合(体)”と呼ぶことにする[定義]。例えば、五感・動物的心複合体、幻聴・狂気複合体、知覚・人間的心複合体などがある。
感覚界と、それに複合(相互従属)する心界から成る世界が、その人間の認識界である。
認識界=感覚界+心界
(〜c=a+bi;複素数complex number)
これが人間の認識界の構造式であり、この式をニコニコ(^_^)(ペンネーム)の基本定理と呼ぶ。(西暦2002年4月2日0時40分)
(〜加群の構造式…アーベルの基本定理)
[566] 人間としての才能 h14.4.1
正しいことで楽しめることが、人間としての才能である。
それはみずから伸ばそうとすることによって発達する。
例えば、私は小学校の低学年のころ、ご飯を食べるのを忘れてしまうほどダイヤブロック遊びに夢中であった。
ことばを使って考えるのもいい習慣だ。ただし、そのことばは五感界のことばではいけない。知覚界のことばでなければいけない。その例が、哲学第一原理、第二原理だ。
いくら生まれつきよい知覚が備わっていても、それをみずから進んで使おうとしなければ、知覚は発達しない。
知覚が発達しなければ、知覚に従属する人間の心も発達しない。
[567] 幻聴・狂気複合体 h14.4.1
幻聴・狂気複合体にとっては、幻聴の世界こそが真実の世界であり、その他の知覚界や五感界は冗談の世界にすぎない。したがって、幻聴・狂気複合体の人間は幻聴にばかり敏感に反応し、反対にその他の感覚には鈍感である。いくらうわべではマトモぶっていても、自分の出来の悪い認識の世界にはウソはつけない。哲学がなんにもわかっていない。子供のときから一歩も進歩していない。私には幻聴を嫌がる理由が全然わからない。幻聴界に複合している心ほどくだらないものはない。行動原理は性欲だけだ。
こんな人間は、咳ばかりして言っていることが少しも正しくないから、全然相手にならない。正しいところがないので、存在が無のようなものだから、無視するしかない。
[568] “黒い穴”に御用心!! h14.4.2
今から約25年前、私が超能力を使おうとして発狂する直前に、隣の席の不良の頭のすぐ上にソフトボール大の“黒い穴”が見えた。これが見えたら危険サイン。すぐに興奮を鎮めよう。
江川達也のまじかるたるルートくんのアニメにも、ざけんじゃねえぞうの頭の上に同じ“黒い穴”が描かれていた。あぶないマンガだ。
芥川龍之介の歯車も似たようなものだろう。
おそらく視覚野のアウラ(興奮のほとばしり)なのだろう。
[569] オレはどうして算数が好きになったか h14.4.2
オレが小学2年生の頃同じクラスの女の子が、算数がおもしろくないと言って泣いていた。
オレが算数に魅かれたのは、その‘おもしろくない’ところが気に入ったからだ。
‘おもしろくない’便所掃除もなんとなく好きだった。
[570] 哲学第二原理 h14.4.2
哲U原理は世界に上下関係(優劣関係)があることを言っている。
すなわち、共同意識界(幻聴界)<五感界<知覚界。
上下関係のつけ方が正しければ、人生はよい方向に進む。
この上下関係は実在する上下関係であって作りごとではない。
[571] 平安京エイリアン h14.4.2
ゲームデザインの最高峰。東大のいいところはこれだけ。
遊んでいると、まるで心が洗われるようだ。
他のゲームはムダが多いだけ。バカ臭くてやる気がしない。
[572] ことばとこころ h14.4.3
知覚界において人間の心がはぐくまれる。
五感界においては動物の心しか育たない。
ことばを使って考えることによって、人間の心が養われる。
[573] 五感界と知覚界の関係 h14.4.3
知覚界(実在界)−正しさ=五感界(現象界)
五感界には正しいもまちがいも無意味の区別もない。見たまま聞いたままオナニーしたままのそのまんまの世界だ。
バカは(実在界とは別の)五感界に住んでいる。
バカは“正しさ”の概念を知らない。バカは、正しいかまちがいか無意味かの区別を考えながら五感界を見ていない。だから、バカには知覚界がない。知覚界のある人間とは別の世界にいるのだ。
戻る
|