[4501] 【物理】重力発電 h20.3.17
特殊相対性理論によって質量エネルギー(E=mc)が発見されたように、地球が太陽の周りの歪みの違う時空間を通過することによってエネルギーを取り出せるのではないだろうか?[私が物と心が混じった『感覚子』の概念を使って新しく見えてくる世界を描いているように、アインシュタインは時間と空間が混じった『時空間』の概念を使って新しく見えてくる世界を描こうとしたのである。]

[4502] 超能力者に対する誤解 h20.3.17
実在の世界には、ときどき希[まれ]に念光力や念動力などの超能力を発現する者が現われる。
ところが、現在の物理学にはまだ超能力の概念がない。[早く帰納的に作って欲しい。]
そのために、宗教で神とされている超能力者に対するさまざまな誤解が生じている。
・天才宗教家…キリスト、釈迦
・国を最初に治めた人…神武天皇
・国を治める政治家…天皇(超能力者ではないが)
・ものすごい努力をした人…キリスト?
・優しい人、温かい人…キリスト
・真理を悟った者…釈迦
・幻視が使えた人…全員(ジーン・ロッデンベリー説)
これらの超能力者に対する誤った意味付けは、すべて科学的・合理的世界における意味付けである。
一方、超能力者に対する認識主義的・宗教的な意味付けとしては、
・全知全能の者(いわゆる神)…超能力者は普通の人にはできないことがひとつできたので、全知全能の神と誤解されたのである。
・人の願いを何でも叶える者(全知全能の者にしてはじめてできることだ。)
・神憑[がか]りの者(全知全能の神が人間に取り付いたもの)
である。これらの概念は空想の世界の中にしかない。
現代人はみんな科学的・合理的世界の中に生きている。
最近では、宗教の者ですら、超能力者に対する宗教的な意味付けを忘れ、科学的な意味付けをしている。
最近の宗教は、科学的世界にほんの少し宗教的意味が付け加わっているだけである。
もはや純粋な認識主義の成り立つ時代ではない。
現代において宗教をすることにはすでに無理がある。
だから、宗教はやめたほうがいい。
実在から逃れる暇があれば実在について考えたほうがいい。
最近では、テレビやビデオで空想世界を楽しめるから、宗教は要らないだろう。

[4503] 法は不完全である。 h20.3.17
法律は物理学ほど完全な実在世界についての体系ではない。
だから、法に従っていさえすればいいと言うのは、法を過信しすぎだ。
法だけでは足りないことを、物理学や心理学やその他の知識で補いながら生活しているのだ。
むしろ、逆に自分が勉強した知識で足りないこと(社会的知識)を法律で補っているにすぎない。
まず、法律よりも常識がなければ生きていけない。
だから、ときには常識に反する法を無視することもある。

[4504] 天皇制は犯罪の元[もと] h20.3.17
天皇制があるから認識主義になる、つまり認識が実在に従わずに実在を支配しようとする。
認識主義になるから、心が実在世界の決まりに従わずに欲望を満足しようとして犯罪が起こる。
だから、天皇制は犯罪の元である。[宗教やオナニーやセックスや麻薬など認識主義になることは全部犯罪の元である。]

[4505] 宗教は悪である。 h20.3.17
認識主義は、人間を不幸にする悪の思想である。
実在主義は、人間を幸福にする善の思想である。
宗教は認識主義だから、悪の思想である。
科学は実在主義だから、善の思想である。
宗教ではよく世界を善と悪の戦いの構図で捉えるが、その宗教自体が悪なのである。

[4506] 宗教ではなぜ超能力者の教えに従うのか? h20.3.17
宗教の者が超能力者の教えに従うのは、超能力者の教えが正しいからではなく、
神である超能力者の教えに従うことによって超能力者を崇[あが]めればその全知全能の力で自分の願いを叶えてもらうことができると信じているからである。
理由が尋常ではない。
宗教は倫理学や道徳学ではなく、古い時代の迷信を今でも信じようとする会にほかならない。
実現しない迷信を信じて、一体何になるというのか?
時間の無駄になるだけじゃないか。[宗教のような認識主義では、認識と実在を一致させるという考え方がないから、まちがった考えでも棄却されないので、いくら迷信が正しくなくてもそのまま延々と続けられているのである。]
そんなことをしてなにが面白いのか全然わからない。
どうして、そんなくだらない迷信が信じられるのだろう?
よほどおめでたい連中だ。
あるいは、不幸すぎて気がおかしくなっているのかもしれない。

[4507] 超能力の原理 h20.3.17
興奮した脳細胞は感覚を帯びた粒子であり、人間の脳の中には、脳細胞で発生する感覚の振動によって真空中を伝わる感覚波を出す器官がある。
それを超能力器官という。
感覚波を介して情報伝達をする器官がテレパシー器官である。テレパシー器官は精神分裂病における幻聴の症状を引き起こす困った器官である。しかし、ときには、雪山で遭難した者が麓[ふもと]に住んでいる家族にテレパシーで自分の居場所を伝えて九死に一生を得たという話や、学校でいやいや水泳の選手にされた女の子がテレパシーで先生に訴えて水泳の選手を別の女の子に代えてもらったという話もある。
また、脳細胞は質量や電荷を持った粒子からできているので、脳細胞から成る超能力器官が激しく活動すると、質量や電荷に関する大きな運動量やエネルギーを持った感覚波が放出される。その感覚波が物体や空気と反応すると、物体が動いたり空気が光ったりする。それが、いわゆる念動力や念光力などの超能力である。[感覚がかなり複雑な構造体であり、感覚の振動によって発生する感覚波もまた複雑な構造をしているために特徴的な物理作用を現すのだと考えられるが、機序についての詳細は今後の研究を待つしかない。]昔は念動力や念光力を現した者が全知全能の神にまちがわれたことがあったが、今はもうそんな古い習慣はなくなっている。

[4508] 男は何のためにいるのか? h20.3.17
生物の基本形は女である。
それは生物の種を維持するためには、出産や育児が欠かせないからである。
一方、男はその生物の特徴を最大に発揮するためにある。だから、男には出産や育児の能力がない。
例えば、人間の男では知覚が発達し、ライオンの雄では筋肉が発達している。
人間の女が人間としての特徴を十分に発揮しないのもやむを得ない。
男女システムが地球上の生物共通の方法である。それは、その方法がその生物の特徴を活かしつつ、種として生き残る必要十分なやり方だからである。

[4509] 天皇制や私制をやる理由 h20.3.18
天皇制とは、日本人を天皇に政治的に従わさせることである。
私制とは、私の個人情報を混ぜて作られたテレビ番組や製品などを日本人に見させたり買ったりさせることである。
天皇制も私制も、天皇や私が決めた制度ではなく、日本神道が勝手に決めた制度である。
日本神道が天皇制や私制をやる理由は、日本に認識主義を広げて日本人みんなを認識主義者にするためである。
しかし、認識主義は実在主義に比べて劣るし、認識主義は精神病や犯罪の原因になるので、日本を認識主義の国にすることは、日本を不利にすることになる。
だから、日本政府は日本神道に天皇制や私制をやめさせて、今後の日本神道の活動を一切封じなければならない。

[4510] 日本政府の責任 h20.3.18
日本政府が日本神道の力を恐れていようがいまいが、日本神道の中枢が日本政府の中にあろうがなかろうが、とにかく日本の中で行われていることはすべて日本政府が責任を持たねばならない。
これまでも、日本政府は日本神道の完全な好き勝手にはさせてはいないから、日本政府は日本神道に対してかなり顔が利くはずである。
だから、今後も日本政府が日本神道の活動を管理しなければならない。
日本神道が何か事件を起こしたら、日本政府が責任を取らねばならない。
日本政府の者は有名人で国民に対して顔が割れているから、そのほうが国民が安心できるはずだ。

[4511] 日本の進むべき道 h20.3.18
人類の歴史は実在主義と認識主義の戦いである。
日本では江戸時代と第2次世界大戦後は実在主義の江戸幕府や日本政府が認識主義の日本神道よりも力が強かった。
しかし、その他の時代においては、認識主義の日本神道が実在主義よりも力が強かった。
これまで日本は実在主義の日本政府と認識主義の日本神道の二本立てでやってきたが、私がこの前実在主義が正しく認識主義がまちがいであることを明らかにしたから、これからの日本は日本神道を廃して日本政府の一本立てでやればいい。
今後の日本を支配する(というか管理する)のは、日本政府であって日本神道ではない。

[4512] 認識主義と実在主義の起源 h20.3.18
認識主義の起源は、昔の人間の実在に対する無知である。
昔の人間は実在に対して無知だったから、自分の空想を頼りにして生きて行くほかはなかった。
反対に、実在主義の起源は、人類の実在に関する知識である。
つまり、人類の実在に関する知識が蓄積して、先人の実在に関する知識を使って生きて行くことができるようになったので、実在主義になったのだ。
したがって、高度な文明社会においては必然的に実在主義になる。[人類にとって実在は永遠に知り尽くせない広大な世界である。]
反対に、認識主義は原始社会でしか成り立たない。
認識主義は過去に向かい、実在主義は未来に向かう。

[4513] マンガ主義 h20.3.18
実在世界の中でいっときの娯楽のためにマンガを読むのはマンガ主義ではない。
マンガ家が生計を立てるためにマンガを描くのもマンガ主義ではない。
マンガ主義とは、マンガの世界が実在世界を支配して、
マンガの世界で実在の世界にある事物を意味づけることである。
例えば、都会っ子がテレビの世界で実在世界を意味づけるのもマンガ主義である。
マンガ主義は認識主義の一種である。
いくら共働きでいそがしいからといって、小さい子供にあまりマンガやテレビばかり見せてはいけない。

[4514] 現代の認識主義 h20.3.18
現代の認識主義の世界は、純粋な認識主義の世界ではなく、実際にはほとんど大部分(99.99%以上)が実在主義の世界と同じであり、ただその中に認識主義の部分がほんの少し残っているだけである。
しかし、その残っている部分が、現代の認識主義の世界全体を大きく歪める原因になっている。
残っているのは、実在主義の世界においてまだ理解されていないことである。
例えば、実在主義の世界における超能力者が認識主義の世界ではいまだに神だとされている。
しかし、神の力とされている超能力がたとえその原理や仕組みがわからなくても、帰納的に超能力の概念として成立するから[しかも、超能力者の概念と全知全能の神の概念とは明らかに異なるから]、神はもはや認識主義の部分ではなく実在主義の部分だといえる。[帰納的に得られた超能力の概念が認められなければ、他の実在主義の部分についても帰納的に得られた概念はすべて拒否されねばならないが、そうすると実在主義の部分はほとんどすべてなくなってしまうはずである。]
したがって、現代の認識主義の世界はもはや実在主義の世界と同じである。


[4515] 神の概念がある世界 h20.3.18
現代の認識主義の世界は、実在しない神の概念がある実在主義の世界である。
神の概念があるために、その世界は論理的統一性を欠いている。
神の概念があるために、実在の世界とは違っている。
神の概念がある世界は面倒臭くて住みにくい。

[4516] 現代の宗教 h20.3.18
今では超能力者が自分の願いを叶えてくれると信じている者は地球上に一人もいない。
誰にとっても、超能力者は超能力者でしかない。
それなら、いっそのこと宗教をやめろ。
現代の宗教は神のいない認識主義である。
要するに、バカとキチガイの溜まり場にすぎない。

[4517] 天皇制の今と昔☆ h20.3.18
天皇制は、昔は国民が自分の願いを叶えるために形の上で天皇に従う制度だった。
それが今では、上の文の前半があまりにも不合理的であるとの理由からなくなって、上の文の後半だけが生き残って、国民が天皇に強制的に従わされることになってしまった。
今の天皇制には目的性がない。
だから、何のためにやっているのかわからない。
上の文の前半を合理的でないという理由でやめたのなら、後半もやめろ。
後半だけ続けるから最悪の制度になるのだ。
だから、純粋な認識主義か、純粋な実在主義かのどちらかにしなければならないのだ。
中途半端に認識主義と実在主義が混じっているから悪くなるのだ。
[いったい、天皇制のおかげでどれだけの日本人が犠牲になったと思う?]
つまり、今の天皇制は認識主義でも実在主義でもないということだ。
だったら、いったい何なんだ?

[4518] 神は人間が従う者ではない。 h20.3.18
神は昔から、自分の願いを叶えるために崇める者とされてきた。
人柱とか人身御供とかは、何らかの願いを神に叶えてもらうための犠牲者である。
だから、人間は無条件に神に従ったりはしない。
もし仮に、ここに全知全能の者がいたとして、人間はその者に対して何をするだろうか?
人間はその者に従ったりはせずに、やはり、その者に頼んで自分の願いを叶えてもらおうとするはずだ。
なぜなら、もし神が全知全能ならば、いちいち人間に命令なんかしなくても自分独りで何でもできるからだ。
古来から神は人間にとって自分の願いを叶えてもらう者であり、
人間が神に頼む方法にはいろいろあって、昔は生贄[いけにえ]など残酷なやり方だったが、最近は神の教えを守ったり、神の子孫に政治的に従ったり(かえって昔より残酷かも)、神の個人情報を混ぜたテレビ番組を見たりするなど比較的無難な方法が取られるようになってきている。
しかし、19世紀以降は、帰納法と演繹法による科学的認識の方法が広く人類一般に浸透したために、神に願いを叶えてもらおうとする者が地球上からいなくなった。だから、現代においてはすでに神に頼むこともないから、神の教えを守ったり天皇制や私制をする必要はない。[天皇制をあんまりしつこくやっていたら、そのうち天皇が誰かに殺されるかもしれない。]

[4519] 現代の宗教 h20.3.18
現代の宗教には神の概念はない。
現代の宗教はたんなる認識主義にすぎない。[認識主義とは、認識が実在に従おうとせずに、認識を闇雲に正しいと考えて、認識に実在を従わせようとすることである。だから、精神病者が自分の狂った世界に実在を合わせようとして暴れまわることや、犯罪者が法律を守らずに自分の欲望を満足するために犯罪を犯すのと同じことである。]
現代の宗教は、わけがわからないことをやっているガラの悪い連中の集まりにすぎない。
現代の宗教は軽症の精神病者や軽犯罪者から成る、世界中に認識主義を広げようとしている悪の組織である。[いくら自分たちが治らないからといって、他人を道連れにしなくてもいいだろう?]
現代の宗教は精神病者や犯罪者を増やすためだけにある暴力団のようなものだ。
人類はこの世にはびこる認識主義と永遠に戦っていかねばならない。

[4520] 神は甦[よみがえ]らない。 h20.3.18
神は死んだ。[つまり、天然痘ウイルスが地球上から絶滅したように、神の概念が全人類の頭の中からなくなった。]
しかし、たとえ神は死んでも、神の概念を生み出した認識主義は死なない。
人間の心の中に性欲や麻薬に反応する快楽中枢があるかぎり、認識主義はなくならないだろう。
認識主義は実在主義の片隅で細々と生き続けることだろう。
しかし、たとえ認識主義が残っても、今後再び超能力者が現われることがあっても、この世に帰納法があるかぎり神は甦[よみがえ]ることはない。

[4521] 性欲と異性愛とは別の感情である。 h20.3.18
性器を刺激したときに得られる性欲の快感と、自分の気に入った異性を見たときに感じる異性愛の快感とは別の感情である。
私はまだ性欲を経験したことのない小学2年生のときに、隣のクラスにいる女の子が好きになったことがあるから、まちがいない。
ただ、大人になるほど異性愛は弱くなるから、異性愛で結婚する者はいないだろう。

[4522] 認識主義における超能力者の意義 h20.3.18
1)超能力者は、認識主義の世界にいる全知全能の神が人間の姿になって実在の世界に現われた者である。人間は、超能力者に頼めば自分の願いを何でも叶えることができる。
2)超能力者は、認識主義が正しいことの証[あかし]である。なぜなら、超能力では自分が思ったことがそのまま現実になるからである。
どちらも、認識主義による超能力者に対する歪んだ解釈である。
現代では実在主義が正しく認識主義がまちがっていることがわかっているから、どちらも成り立たない。
だから、いまどき認識主義の宗教に入る者は、認識主義を正しいと考える異常者だけである。

[4523] 宗教と精神病院 h20.3.18
気が狂った認識主義の者が同じ認識主義の宗教に入っても治るはずがない。
認識主義の者は実在主義の精神病院に入れば治るかもしれない。

[4524] 認識主義者と実在主義者 h20.3.18
認識主義者は、認識と実在の対立があったときに認識を正しいと考えて、認識と実在を統合しようとせずに認識が実在を支配しようとする。つまり、認識主義者は自分の認識の空想の世界の中で生きて行こうとする。
反対に、実在主義者は、認識と実在の対立があったときに実在を正しいと考えて、認識を実在に従わせて認識と実在を統合しようとする。つまり、実在主義者は実在の世界の中で生きて行こうとする。
人間考えていけば、自然と実在主義になるものだ。
だから、認識主義者は考えて生きて行こうとしない者である。
つまり、考える者が実在主義であり、考えない者が認識主義である。

[4525] 認識主義と超能力者の関係 h20.3.18
現代においてはすでに神の概念はないが、それでも日本神道(日本認識主義の会)は超能力者を利用して自分たちの儲[もう]けにしようとする。
それで、わざわざ天皇制を置いたり私制を置いたりするのである。
天皇制も私制も、国民のためでもなく天皇や私のためでもなく、たんに日本神道のためだけに存在するのである。
しかし、天皇も超能力者である私も自分が日本神道のような悪の組織のために役立つのは嫌である。[天皇はどうか知らないが、私は日本神道と契約をした憶えはない。]
それに、いまどき神を信じている人はいないから、超能力者制をやっても大した儲けにはならないはずである。
だから、日本神道は自分たちの利益になりそうな誰か適当な別の人を捜してその人と正式に契約を結んで営利活動をすればよい。
しかし、いまどき認識主義を信じているのは異常者だけだから、いくら人気を得ようとしても儲かるはずがない。
宗教の実体が認識主義の会であることがバレてしまった今となっては潰[つぶ]れて行くだけである。

[4526] 宗教の実体 h20.3.18
『現象=実体×認識者』だから、
哲学を知らない人にとっては、宗教の実体がわからず、眼先で宗教が見えるだけだから、宗教は何をやっているのかわからない得体の知れない組織にすぎない。
しかし、哲学を知っている人なら、認識と実在の概念を知っているので、宗教の実体が認識主義者から成る、人類を不幸にする悪の組織であることがわかる。
宗教に入っている人自身、神が何であるのかわかっていなかったように、宗教が何であるのかもわかっていないだろうから、私の考えが正しいと思うなら、すぐに宗教をやめなさい。

[4527] 政治家はお金のことしかわからない。 h20.3.18
天皇制や私制が日本にはある。
明らかに、日本政府と日本神道はグルになっている。
政治家はお金でしか物事を見ないから、たとえまちがっていてもたとえ日本が不利になってもお金さえくれれば言いなりになるのだ。
それでは、日本政府も認識主義だ。

[4528] 日本の恥 h20.3.18
日本神道の者はキチガイの者である。
天皇制や私制はキチガイの者によって支えられている狂った制度である。
そんな制度が日本にあることは日本の恥である。

[4529] 宗教は昔の科学である。☆ h20.3.18
昔は、みんなが全知全能の神が宇宙を作ったと考えていた。
神は全知全能なので神に頼めば自分の願いが叶うと考えて、世界各地で生贄[いけにえ]の儀式が行われていたのである。
そこへ超能力者が現われたので、超能力者に神の概念が適用されて[適切な適用ではないが]、超能力者が神ということにされた。
それで、みんなは自分の願いを叶えるために一生懸命に神である超能力者を崇めたのである。
しかし、神に祈る方法では何も効果がなかったので、人類は新しい願いを叶える方法を捜し求めるようになった。
そして、近代科学が誕生した。
科学では実在についての真理に従うことによって自分の願望を実現できる。
それで、人々は神ではなく実在についての真理を信じるようになった。
みんな宗教から科学に乗り換えたので、宗教は急速に衰えていった。
宗教には、科学を理解しようとしない、認識主義の者だけが残った。
そして、宗教はいまでは精神異常者の会になってしまったのである。

[4530] 宗教はまちがった科学である。☆ h20.3.18
今は誰もかれも、宗教の者や精神病の患者でさえも科学的な見方をしている。
だから、昔の神がいる世界観はまちがった仮設だと考えて誰も信じていない。
宗教が昔の科学だとすれば、仮設が完全に捨てられたわけで、宗教はもはや成り立たない。
宗教は古いまちがった科学にすぎなかったのである。
現代の科学から見たら、古い世界観を信じている者なんか馬鹿にしか見えない。
宗教を今でも国家的に続けている日本は、古い迷信に憑[つ]かれた遅れた社会である。
まちがった科学をやることに何の意義もないことに早く気付いて欲しいものである。
少なくとも、古いまちがった世界観を信じている者に自分が動かされるのだけは嫌だ。

[4531] みんなわかっていない。 h20.3.18
宗教の者が神や宗教が何であるのかわからずに宗教を続けているように、
今でも日本で天皇制や私制を続けているのは、日本の政治家や国民が天皇制や私制が何であるかがわかっていないからである。
『裸の王様』のように、みんなわからないのに知ったかぶりをしてやっているのである。
わかっていないからこそやれるのであって、わかればやらないはずである。
みんなの無知や誤解を利用して、宗教がひとり儲けているのである。

[4532] 古い科学を信じる会 h20.3.18
日本神道やその他の世界の宗教は、いわば古い科学を信じる会だ。
宗教は昔の科学であり、科学であることにおいては宗教も科学も同じことだ。
古い世界観がまちがっていて新しい世界観が正しいことはよくあることだ。
だから、科学があれば宗教は要らない。
宗教を、科学では扱えない人間の心理に関する知識の体系だと考えている者はとんだ宗教に対する誤解である。[ただ過去の超能力者がそういうことに関して述べただけのことにすぎない。]
まず宗教が何であるのかわからずに、いくら宗教を詳しく学んでも無駄である。

[4533] なぜ日本では宗教が続けられているのか? h20.3.18
日本では古い世界観(宗教)と新しい世界観(科学)が同居している。
しかし、古い世界観と新しい世界観とは矛盾する。
なぜなら、古い世界観には神がいるのに、新しい世界観には神がいないからである。
古い世界観がまちがっていて新しい世界観が正しいのは明らかだ。
だから、新しい世界観だけあればいい。古い世界観は余計だ。
願いは自分で叶えるから、神なんか要らない。
まさか、政治家は天皇を今でも神だと信じているのだろうか?

[4534] 日本神道は日本の伝統? h20.3.18
日本人なら日本の伝統を大事にしたいが、肝心なのは日本か外国かではなくて正しいかまちがっているかだ。
いくら日本神道の古い世界観が日本固有のものであるとしてもそれがまちがっていれば、もはやそれを受け容れることはできない。

[4535] なぜ今でも古い世界が残っているか? h20.3.18
今でも天皇制や私制が残っているのは、古い世界で有利に生きて行ける者がいるからである。
天皇制や私制を支持しているのは、古い世界を残そうとしている日本人の一部の少数の日本神道の者たちである。しかし、新しい世界と古い世界は矛盾するので、古い世界を残すことは新しい世界を拒否することになリ、大多数の日本人にとっては不利になるので、現代において古い世界を残そうとすることはまちがっていると考えられる。
つまり、古い世界で有利に生きて行ける日本神道の者が古い世界を残そうとしているが、大多数の者にとっては新しい世界のほうが有利だから、多勢に無勢で、遅かれ早かれ結局はみんなが新しい世界のほうに移行するはずである。
日本神道の者も、世界の趨勢[すうせい]を鑑[かんが]みて、かつて他のみんながそうしたように自分たちも古い世界をやめて新しい世界に変わるべきである。つまり、日本神道をやめるべきである。一般に、世界中の人間が宗教をやめるべきである。

[4536] 宗教と科学の関係 h20.3.19
古い世界は宗教であり、新しい世界は科学である。
古い世界(宗教)を残そうとしている者は、
古い世界(宗教)と新しい世界(科学)の関係を正しく理解していないからかもしれない。
つまり、宗教を残そうとしている人は、宗教と科学が矛盾せずに両立し相補うべきものだと考えているが、
じつは宗教も科学であり、宗教は古い科学だから、宗教は科学に置き換えられるべきものなのである。
宗教には神の概念があるが、科学には神の概念がないから、その点において宗教と科学は矛盾するから、宗教と科学は相容れず、宗教か科学かどちらかひとつにしなければならない。
宗教は古い時代のまちがった科学である。だから、宗教は新しい時代の正しい科学によって代わられなければならない。宗教は、かつて超能力者を全知全能の神と誤解したこともあるから、宗教はやめるべきである。
実際に、宗教の者でさえ神の概念を信じていないのが現状であるから、現代の宗教は神の概念のない宗教であり、宗教が第一原理とする『神はこの宇宙を作った全知全能の者である。』が成り立たないから、現代の宗教はこれまでの宗教的世界観をただなんとなくダラダラと続けているにすぎないから、いっそ思い切ってやめてしまったほうがいい。
宗教の本に「神や現人神(あらひとがみ、超能力者)に祈[いの]れば願いが何でも叶う。」と書いてあるだけで、実際にはこれまで神や超能力者に祈っても願いが叶ったことは一度もないから、宗教は何の役にも立たないので、宗教を続ける意義はない。[超能力者の教えを守ったり、天皇に政治的に従ったり、超能力者の個人情報を混ぜたテレビ番組を見たり製品を買ったりすることは、現人神である超能力者に願いを叶えてもらうための交換条件であると宗教では考えられているが、実際には願いが叶うことはないので、この取引は成り立たない。]

[4537] 神の起源☆ h20.3.19
宗教は太古の人間が考え出した原始的な物理学である。
当時は予備知識が何もなかったから、無から考え始めねばならなかった。
それで、まず最初に、人間が田んぼを耕[たがや]して田んぼを作るように、この宇宙を作った“ある者”がいると昔の人は考えた。
その“ある者”が神なのである。
こうして神の概念が帰納的に作り出された。
昔の人は、こうして得られた神の概念を用いて実在の世界を論理的に演繹的に説明しようとした。[太古の昔から、帰納法と演繹法による科学的認識の方法はすでに存在していたのである。]
神はこの宇宙のすべてを作ったから、人間も神によって作られたと考えた。いわば、神は人間にとって親のような者である。
神はこの宇宙を作った者だから、神に頼めばどんな願いも叶うはずだと考えた。つまり、人間は神の力を利用して実在の世界を自分の思い通りにしようとしたのである。
そうして、昔の人は神に頼む方法をいろいろ考えた。
それで、昔の人は、神に生贄[いけにえ]を捧[ささ]げて自分の願いを叶えてもらおうとしたのである。
普通の人間にできないことができた超能力者に対しては、超能力者がこの宇宙を作った全知全能の神が人間の姿になって実在の世界に現われた者だと見なされて、超能力者が神の代わりを務めることになった。人間は超能力者の教えを守ったり、超能力者の子孫に政治的に従ったりすることで自分の願いを叶えてもらおうとした。[実際の超能力者は普通の人間にできないことがひとつできただけで、けっして全知全能の者ではない。だから、本当は超能力者は神の代わりにはならない。]
こうして長い間人間は神の概念を信じて実在の世界を理解し実在の世界を自分の思い通りにしようとしたが、結局うまく行かなかった。
それで、人間は神の概念によらない実在世界についての新しい理解を求めるようになった。
そうして、近代になって、ようやく“力”の概念を用いて実在世界を説明する自然科学が誕生したのである。
自然科学によって、人間は実在の世界を自分の思い通りにできるようになった。自然科学によって、これまで治せなかった病気が治るようになり、科学のいろんな発明品によって生活が便利になり、人間は昔の時代に比べてずいぶん幸福に生きて行けるようになった。
つまり、宗教は今にしてみれば古い時代のまちがった科学にすぎなかったのである。

[4538] 太平洋戦争はなぜ起こったか? h20.3.19
日本神道の組員は、政界や軍部など日本のいたるところに入り込んで日本を動かしている。
日本神道が自分たちの人気を得るために、政界や軍部を動かして、
天皇に宣戦布告させて始めたのが太平洋戦争である。
日本神道は日本が戦争に勝てると思って戦争を始めたのだが、実際にやってみると負けたので、その思惑とは反対の結果になってしまった。
戦後、日本神道の人気はガタ落ちになってしまった。
さすがに、古い世界を信じているだけのことはあって実在に盲目だ。先を見る目がない。
第一、新しい世界の中で古い世界を信じる者が人気を得ようとするのが無理なことである。
潰[つぶ]れかけの組織が悪あがきをして面白くないことをやってはいけない。

[4539] キリスト教の今と昔 h20.3.19
昔のキリスト教は、信者が神様であるキリストに自分の願いを叶えてもらうために形の上でキリストの教えを守る会だった。
しかし、今のキリスト教は、キリストの教えを真理と考えて本気でそれに従う会になっている。
ところが、キリストの教えはもともとそんなに正しいものではないから、今のキリスト教はうまく行かなくなっている。
宗教を中途半端にやるくらいなら、潔[いさぎよ]く割り切ってやめてしまったほうがいい。それがヨーロッパ精神というものだろう。

[4540] 宗教の是正 h20.3.19
宗教の者は、これまでの宗教が超能力者を神と考えたことはまちがっていたから、もとのこの宇宙を作った神に祈る大昔の(モーゼよりも前の)宗教に戻したほうがいいと考えているかもしれない。
つまり、現人神[あらひとがみ]の概念はまちがっていたからやめにして、もとの神の概念だけからなる宗教に戻してやって行こうと考えているかもしれない。
私は、それはよい考えだと思う。
今では神を信じる者がいなくなっているが、それでもお守りぐらいは売れるだろう。[私はお守りなんか欲しくないが。]
もちろん、生贄[いけにえ]はやってはいけない。

[4541] 古い世界の心 h20.3.19
人間は、知覚に心が従うので、知覚における世界観によって心の働き方が違ってくる。
つまり、古い世界にはその世界特有の感情がある。例えば、神に服従する感情とか神に祈る感情とかがある。
しかし、今はそんな感情を持っている者は少ない。

[4542] 政治家は下卑[げび]ている。 h20.3.20
政治家は知覚欲で生きている人間ではない。政治家は自分で考える人間ではない。
知覚欲で生きている人間ならば、正しいかまちがいかを第一にするので、日本神道のようなまちがった原理を信じている組織の言うことを聞くわけがないからである。
政治家は五感欲で生きている。つまり、物欲や金欲で生きている。
どうせ、日本神道から金をもらって[国民の反感をあまり買わない程度に]言いなりになっているだけだ。

[4543] どうして釈迦は自分を神ではないといったのに、仏教が宗教になっているのか? h20.3.20
キリストは自分を神だと言ったからキリスト教があるのはともかく、
釈迦は自分が神ではない、つまり全知全能の神の概念をひとつの超能力しか使えない自分に適用する(当てはめる)のはまちがいであると言ったのに、仏教があるのはおかしい。
しかし、釈迦が生きていた当時はまだ神の概念のない近代科学が生まれるはるか以前のことであり、その頃は世界中のみんながまだ神の存在を強く信じていた。
そのために、たとえ釈迦自身が自分を神ではないと言ったところで、みんなは釈迦のほうがまちがっていると思って、あいかわらず釈迦を神だと考えたのである。しかし、現代においてはたとえ宗教が残っていても、すでに神の概念は実質的にはなくなっているから、たとえ超能力者がキリストのように自分は神だと言い張っても、もはや誰も超能力者を神とは見なさないだろう。
つまり、近代科学が誕生するまでは、人間は神しか頼る者がなかったから、少しでも神と見なされる者は、本人が好むか好まないかに関らず、ことごとく神だということにされたのである。[その頃は、ちょっとでも変った物はなんでも(石でも木でも)神にされた。そういう物が今も日本各地に残っている。]
しかし、今は科学があるから神が要らなくなったので、たとえ本物の神が現われたとしても誰も相手にしないだろう。

[4544] 宗教ごっこ h20.3.20
現在、世界の86%の人々がなんらかの宗教に入っているとされている(Wikipediaより)。
しかし、実質的には神の概念はなくなっている、つまり神が本当にいるとは誰も考えなくなっているから、現代の宗教は言葉の上だけでやっている“宗教ごっこ”にすぎない。
つまり、現代の宗教は昔の人が考えていた古い時代のまちがった物理学を歴史的に勉強する会になっている。
現代の宗教には、もはや歴史的な意義しかない。
現代の宗教は考古学にほかならない。
つまり、我々の先祖が持っていた古いまちがった実在観を知ることはかまわない。
しかし、古いまちがった世界観を実際に実在の中でやってはならない。
実在に対して、実在についてのまちがった理論である宗教を適用してはならず、
実在に対しては、実在についての正しい理論である科学を適用しなければならない。
[現代の科学に、超能力者の概念がなければ、新しく帰納的に作ればよい。]
宗教的理由で実在の人物に手出しをして実在の人物(私を含む)を傷つけたり殺したりすれば、それはれっきとした犯罪である。例えば、宗教が現人神である私の個人情報や私の体験を混ぜたテレビ番組を見た人が自分の願いを叶えることができると考えて、私が小さい頃から私にテレビ番組のネタを入れるために私の身近にいる者を使って私に余計なちょっかいを出させていたが、私が高校1年生のときに私の嫌いな不良を私の隣の席に座らせて私の気に障ることをさせて私を精神分裂病に罹らせたのは許すことのできない犯罪である。さらに、現人神である私を分裂病に罹らせた高知学芸高校に復讐するために宗教が上海[シャンハイ]で列車事故を起こして大勢の生徒を殺害したために被害はいっそう大きくなった。
宗教は現人神である超能力者に対して何かをすれば人間の願いが叶うと考えて、超能力者に対してあれこれ余計な手出しをしているが、実際には何の願いも叶わないので、今後超能力者に対しては一切宗教的に関与してはならない。また、宗教が私を傷つけた者に対して宗教の世界の法で復讐するのもいけない。
宗教はこれまでに自分がまちがった考えに基づいて犯した過失の責任を取らねばならない。

[4545] フェルマーの大定理の謎 h20.3.20
フェルマーの大定理は、ワイルズという数学者がこれまでに他の数学者によって発見された3〜4つの定理を組み合わせて解くことができた。
最大の謎は、そもそもなぜワイルズがフェルマーの大定理を解こうとしたか?である。
これまで、フェルマーの大定理については、解くことができない問題だとか、たとえ解けても収穫のない問題だとか言われていたから、まず誰も解こうとしないはずである。
ワイルズがフェルマーの大定理の問題を解こうとしたのは、私が九州大学医学部に受かって六本松の教養部に通っていた頃、宗教においては神だとされている私がフェルマーの大定理の問題を解こうとしたことがあるからである。

[4546] 宗教の条件 h20.3.20
要するに、宗教はまちがった実在観だから、まちがった実在観で実在の世界を動かしてはならないと言うことだ。[つまり、フロギストン理論やエーテル理論や神理論である宗教で実在の世界を操作したら、考えたことと実際が合わなくなると言うことだ。]
せめて動かすなら、宗教が実際には何にもならないことであることを認識したうえで、例えばバレンタインデーやクリスマスプレゼントのように、実在の人間(超能力者も含む)を絶対に傷つけたり殺したりしない安全なやり方で何か楽しいことをやらねばならないと言うことだ。

[4547] 神理論 h20.3.20
フロギストンやエーテルが実在しない物質であるように、神も実在しない物質である。
フロギストンやエーテルの存在を仮定する理論が実験と合わないように、
神の存在を仮定する宗教も実際にやった結果と合わない。
だから、宗教すなわち神理論は実在についてのまちがった理論なのである。

[4548] 国家的に天皇制や宗教をやってはならない。 h20.3.21
近代科学が始まるまでは、一般的に神がいると考えられていた。
それで、神や現人神に願いを叶えてもらうために、生贄とか天皇制とか宗教をやっていたのである。
しかし、近代科学が生まれてからは、神がいないと考える者が大多数であり、神がいると考える人はごく一部の少数者だけに限られるようになった。
思想の自由があるから、神がいると考えようが神がいないと考えようが個人の自由である。
でも、他人にまちがった考えを押し付けることはできない。
だから、近代科学誕生以降は、生贄は殺人行為だから認められず、天皇制や宗教はごく一部の人だけでやることにして、他の者が彼らに付き合ってそれをやる必要はない。
だから、国家的に天皇制や宗教をやってはならないのである。

[4549] 思想の自由 h20.3.21
近代科学が生まれてからは、神がいると考える人はごく一部の少数者だけに限られるようになった。[でも、神を信じることは、神の概念のない科学を受け入れないことになるから、はたしてそんな考えで社会の中で暮らして行けるのだろうか?]
現代においては思想の自由があるから、個人的にはまちがった考えを持つことは許されるが、まちがった考えで他人を動かすことは絶対に許されない。宗教とは、神がいると考える思想である。だから、例えば、神がいると考える者が神がいないと考える者に対して命令して動かすことは許されない。例えば、神を信じる宗教の者が、神を信じない超能力者である私や私の周りにいる者に指示して動かすことはやってはいけない。

[4550] 神がいる科学 h20.3.21
江戸時代にも科学はあったが、一般的には神が信じられていた。
だから、江戸時代までの科学は神がいる科学だった。
しかし、明治以降の近代科学は、神がいない科学である。
だから、江戸時代までは神がいると考える者でも科学文明を受け容れて生きていけたが、明治以降は神がいると考える者は科学文明を受け容れられず、社会の中では生きていけないはずである。
現代では、神を信じる者はうそつきだ。本当は信じていない。

[4551] 道徳律 h20.3.21
現代においても神を信じている者がいるのは、神がいる世界の中で培[つちか]われた道徳律を活かすのが目的のようである。
しかし、神がいる世界における道徳律と神がいない世界における科学との間には矛盾がある。その矛盾が現代社会においてさまざまな問題を引き起こしている。
だから、神がいない世界での新しい道徳律を早く確立しなければならない。
それをやろうとしたのが、ニーチェである。
その具体的な解答のひとつが、私の実在哲学である。

[4552] 現代における宗教の意義 h20.3.21
現代における宗教の意義は、神がいる世界における道徳律にあるのであって神がいる世界における科学にあるのではない。
科学的知識においては、神がない世界における科学のほうが神がいる世界における科学よりもはるかに正しいことがわかっているから、神がいる世界の科学は要らないのである。
しかし、神がいない世界における道徳律がまだない。
そのため、神がいない世界の科学と神がいる世界の道徳律を足し合わせて使っている者が多い。
しかし、そのやり方はあまりに安直である。
基盤になっている世界観が違うから、ゴタゴタして感触が悪いはずだ。
人によっては、科学知識のことなんかどうでもいいから、道徳律の欲しさのあまり神のいる世界の科学までも信じる者もいる。
たしかに、神のいない世界にはまだ確固とした道徳律が出来ていない。
しかし、なければ自分で考え出して作るのが人間と言うものだ。

[4553] 日本における天皇制の意義 h20.3.21
西洋が科学と宗教を足しさわせて使っているように、
日本においても、科学と日本の宗教である天皇制を足し合わせて使っている。
そのために、日本の国会には天皇を置いているのである。天皇は、いわば、日本の道徳の象徴である。
しかし、時代が進むにつれてしだいに科学的世界に立脚した新しい道徳律ができて行っているから、古い世界の道徳律である宗教はだんだん小さくなっている。
神のいない世界における道徳律が完成すれば、天皇制や宗教はなくなってしまうだろう。

[4554] 宗教とは何か? h20.3.21
宗教とは、神がいる世界観のすべてである。つまり、宗教とは神がいる世界における科学的知識と道徳律のふたつから成り立っている。
現代においては、宗教すなわち神がいる世界観はその道徳律がやや正しいだけで、科学的知識は正しくない。現代においては、宗教は現代科学に反しない道徳律が少し使えるだけであって、その科学的知識はまったく使えない。とくに、日本の宗教は、道徳律がなく科学的知識だけなので、現代においてはもはや使い道がない。
宗教における科学的知識は正しくないから、実在する超能力者に対して宗教における科学的知識で働きかけてはならない。その他の人間に対しても同様である。
一方、神がいない世界観には今のところ科学だけで道徳律がないから、早く神がいない世界における道徳律を考えて作り出さねばならない。もっとも、神がいない世界観における科学も完成しているわけではないから、今後も神がいない世界において科学を考え続けねばならない。
要するに、時代によって科学的知識は変わり、科学的知識が変わるに連れて道徳律も変わる。
つまり、人類は昔神を信じていたが、それはまちがいだった。ただ、それだけのことである。

[4555] 神がいない世界における超能力者に関する科学と道徳律 h20.3.21
神がいない世界における超能力者は超能力者にすぎない。
つまり、神がいない世界における超能力者に関する科学は、超能力者とは普通の人間にできないある特定のことができる人間にほかならない。超能力の原理や仕組みはわかっていないので、今後も超能力に関して科学的研究をして行かねばならない。
神がいない世界における超能力者に関する道徳律は、超能力者の超能力の自由な使用を認めること[ユリ・ゲラーや関口少年の超能力を見た人は、もっと見たいと思っただけで、超能力を消さねばならないと思った人はいないから、超能力は自由に使ってよい。オセロゲームがコンピューターでも出来るように、超能力で出来ることは人間が科学や手足を使って出来ることと同じだから、問題はないはずである。]、超能力者を超能力が使えるというだけで差別せず超能力者とその他の人間を平等に扱うことである。

[4556] 現代における宗教の利用法 h20.3.21
ヨーロッパでは、キリスト教を神がいない世界における道徳律ができるまでのつなぎとして使っている。
日本では、天皇が政府が立てた政策を国民に対して命令することによって国民に対する政策の強制力を強めている。つまり、日本の宗教である日本神道における道徳律は、日本神道の信者が天皇に従うことである。
ヨーロッパにしろ、日本にしろ、宗教ははやくなくなったほうがいい。
つまり、ヨーロッパでは、神がいない世界の道徳律をはやく確立し、
日本では政府の意義を国民がよく理解して、天皇がいなくても日本政府の命令に従うべきであると考えるようにならねばならない。

[4557] 天皇家の思想 h20.3.21
天皇家の思想で有名なところと言えば、私が小学2年生のときに習った、『聖徳太子の17条の憲法』がある。だから、日本の天皇家にも、思想がないわけではない。天皇家の思想は歴代天皇すべての思想から成っている。
だから、ヨーロッパにおける神がある世界の道徳律は超能力者であったキリストの思想だが、日本における神がある世界の道徳律は超能力者であった神武天皇の子孫である天皇家の思想である。それらは、部分的には今日でも通用している。しかし、それらはそもそも超能力者にすぎなかったキリストや神武天皇の子孫の思想にほかならないから、自分で考えた思想のほうが正しければ、そんな出来の悪い思想に自分が従わなくてもよい。
他に、神がある世界には、神と人間の関係に関するもろもろの規定がある。
しかし、神の概念がそもそも間違っているのだから、それらは今日的には成り立たない。

[4558] どうして人間は神に従うのか?☆ h20.3.21
昔は、神がいる世界が真実の世界だと考えられていた。
神は宇宙を作った者である。だから、神は人間を作った者である。いわば、人間にとって神は親のような者である。子供は親に従うから、人間は神に従うのである。
昔は、キリストや神武天皇などの超能力者は、全知全能の神が人間の姿になって現れた現人神[あらひとがみ]だと考えられたから、つまり超能力者は神なのであって、だから、人間は神であるキリストや神武天皇(の子孫)に従うのである。
しかし、今は、神がいない世界が真実の世界だと考えられているから、超能力者は超能力者にすぎず、超能力者と言うだけで人間は超能力者に従ったりはしない。だから、現代ではキリスト教も天皇制も意義はない。

[4559] 神はいるか? h20.3.21
釈迦は自分は神ではないと言ったが、神はいないとは言わなかった。[釈迦は自分が超能力者だと知っていたのだろうか?]
デカルトもカントも、神はいないとは言わなかった。
神がいないと言ったのは、ニュートンが始めてである。
むしろ、超能力者にすぎない自分を神であると言ったキリストのほうが大胆不敵である。
私は神はいないが超能力者はいると考える。
超能力者は人々の考えとは無関係に、ときどき現われる。

[4560] 昔の人は精神異常か? h20.3.21
昔の人は神がいると信じていたが、認識主義ではなかった。
昔の人は田んぼを耕しながら、神の概念を帰納的に考え出し、そうして得られた神の概念を使って実在の世界を論理的演繹的に説明しようとしたのである。[[4537] 神の起源☆を参照。旧約聖書や古事記はそのようにしてできた、いわば大昔の自然科学書なのである。]
だから、昔も今も科学的認識の方法自体は変わらない。
ただ、昔の人はアイデアが悪かったので、実在しない神という概念を作り出してしまったのである。
認識の方法は間違いではないが、具体的な認識が間違っていたのだ。
実在しない概念で実在を見ることは精神分裂病における妄想症に近い。
しかし、心は正常だから、精神病ではない。
しかしながら、昔は神がある世界で今の神がいない世界とは違っていて、人間にとっては知覚に心が従属するので、知覚の世界観が違うから心の働き方も今とはずいぶん違っていて、平然と神に生贄を捧げたり、「天皇万歳」と叫びながら敵艦に特攻したりして、今から見ればキチガイ染みているといえる。[銃弾が飛び交うなかで戦うのと、天皇万歳と叫びながら特攻するのとは、戦いの質が違う。]

[4561] 宗教の者は精神異常か? h20.3.21
宗教に入る者の大部分は、現代の神のない世界における道徳律の欠如を補うために宗教つまり神がいる世界における[現代の科学知識に反しない限りでの]道徳律(例えば、キリストや釈迦の教え)を学ぶために宗教に入るのだから、精神異常者つまり認識主義者とは違う。
精神異常者は、いくら認識と実在が対立しても認識が実在に従おうとせず認識が実在を従わせようとする認識主義になっているために、いくら自分の考えがまちがっていてもそれを直そうとせず他人の説得を聞き入れずに暴れたりする。
ただ、宗教に深入りしすぎて、現代の科学的常識に反する宗教の道徳律や、現代においては明らかにまちがっている宗教の科学的世界観(例えば、超能力者を現人神だと考えること)までも信じるのは、神妄想症にまで発展した精神異常だといえる。[超能力者であった神武天皇を現人神と考えることによって成立している天皇制も神妄想症の一種である。]
現代における宗教は道徳にすぎないのであって、宗教における科学的世界観はまちがっているから従ってはならない。

[4562] 認識主義と精神病 h20.3.21
オナニーやセックスや麻薬などで性欲や快楽中枢を満足させて快感を得続けると、実在よりも認識を中心にして考える認識主義になる。
認識主義になった者が、何かのきっかけで自分の焦燥中枢とテレパシー中枢または抑鬱中枢を興奮させすぎると分裂病や抑鬱病になる。
一度焦燥中枢や抑鬱中枢を興奮させると、その興奮状態は数年間続く。[ただし、無治療の場合。精神病院に行って治療を受けると興奮期間は短くなるかもしれない。]
オナニーやセックスや麻薬をやめて認識主義の精神状態を抜け出し、さらに自分の焦燥感情や抑鬱感情に神経線維を伸ばしてそれらの中枢を抑制することができれば、数年後には(もっと短いかもしれない)、焦燥中枢や抑鬱中枢の興奮は治まって分裂病や抑鬱病は治るはずである。焦燥感情の興奮が鎮まると、テレパシーはただの音にしか聞こえなくなる。[ただし、合併症のない場合。精神病発症の際に、脳の過剰な興奮によって他の脆弱な脳神経核などを微視的器質的に損傷すると、その部分の易興奮性(興奮しやすさ)は一生の間治らない。]
だから、たとえ精神病になっても治らないとあきらめてはいけない。長い目で見れば治る可能性は高い。

[4563] 抑鬱神経症 h20.3.21
認識主義でない者でも、自分の抑鬱中枢を刺激する環境にしばらく置かれると、抑鬱中枢の持続的な興奮状態になる(つまり、腰抜けが一時的に治らなくなる)ことがある。
これを、抑鬱神経症と言う。例えば、引越鬱病では、引越先の環境が自分の抑鬱中枢を刺激するので鬱状態になる病気である。[とにかく事物と抑鬱中枢との間に対応があれば、事物を見たときに抑鬱中枢が刺激されて気分が落ち込むから、それ以上落ち込む理由を考えても仕方がない。]
ただし、この場合には、自分の抑鬱中枢を刺激する環境から抜け出せば、抑鬱中枢の興奮はすぐに収まり、もとの状態に戻る。
抑鬱神経症に対して薬で抑鬱中枢を抑制して治そうとしても、環境が変わらないかぎり抑鬱中枢に対する刺激が続くので、治らないと考えられる。
反対に、抑鬱病の場合には、環境から独立に抑鬱中枢が興奮しているので、薬がよく効くのである。

[4564] どうして人によって苦手科目があったりなかったりするのか? h20.3.21
東大に合格する人は五科目全部が得意科目であって苦手科目がない。
私は東大に憧れはなかったが、中学高校時代には社会科や生物学が苦手で困っていた。
私が社会科や生物学を勉強しようとしても、すぐに気分が落ち込んで頭が働かなくなり眠くなって勉強できなくなるのだ。
当時私も、どうして自分が社会科や生物学が苦手なのか?考えたが、結局原因がわからなかった。[私が小学高学年の頃から社会科や生物学が苦手だったので、オナニーとは関係がない。]
しかし、あれから30年経った今の私は、ある程度、その原因を理解することができる。
私に苦手科目があったのは、私の生まれや育ちのせいで、私の抑鬱中枢と社会科や生物学との間に対応関係ができてしまったためである。中学高校生にもなると、その対応関係はもはや一生の間変わらないのだ。
だから、私には苦手科目があったのである。
一方、東大に合格するような人は、生まれや育ちが私とは違うので、抑鬱中枢と五科目全部との間に対応関係がない人である。だから、そんな人は、勉強しようとしても気持ちが落ち込まず眠くならないので、いくらでも時間が許すかぎり勉強することができるので成績がいいのである。
つまり、人間に苦手科目があるのは、人間の心の中に抑鬱感情があるせいなので、それ以上考えてもどうしようもない。そんな場合には、好きな科目だけよく勉強して、嫌いな科目は50点以下であることを最初から覚悟して、いい大学に合格するのは諦めなければならない。人間はそこそこ幸福に生きることができればいいので、いい大学に入れなくてもくよくよしないで生きて行くことのほうが大事である。

[4565] 万能の秀才よりも一芸の天才のほうが大事。 h20.3.21
人生にとっては仕事が大事である。
子供時代の勉強は将来の仕事のトレーニングであるべきである。[つまり、子供の勉強を無駄にしてはいけない。]
ところで、専門性が要求されない仕事はない。
だから、一科目だけがすごく得意な者よりも五科目全部が得意な者をいい待遇にするのは、無意味な行為である。

[4566] 面白さとは何か? h20.3.21
正しい世界の中に面白さがある。
つまり、人間の脳の心の中には面白さの感情があり、その面白さの感情を活動(神経興奮)させることが面白いことなのである。
だから、実在であろうがなかろうが、面白さの感情を興奮させさえすれば面白いのである。
ただし、面白いと言うからには、正確に面白さの感情を興奮させなければならない。面白さの感情を興奮させない物は面白いとはいわない。
人間の心は知覚に従属し、知覚における世界観によって心の働き方が違ってくるから、おもしろさの感情も人それぞれである。つまり、人によって面白さの感情に対応する事物がそれぞれ違うし、また各事物に対する面白さの感情の興奮の強さも違う。

[4567] 日本神道は犯罪者組織である。 h20.3.22
私は九大医学部を卒業した後、研修医を1年間務めただけで医者を辞めて、もう一度九大に入学して物理学科に入ったが、一般教養のドイツ語の授業で医学部のときと同じ先生に当たリ、ちょっと気まずい思いをした。その先生が、あるとき、講義の最中に「人間は歳を取ると無駄な神経回路がなくなって頭の働きがよくなる。」と言ったことがある。[無駄な神経回路とは、私の脳の中にある超能力器官のことを指していると思われる。]
歌では、翼の折れたエンジェ〜ル♪とか、
アニメでは、生まれ変わって魔法がなくなったとか、魔法を封印するとか、
これまでにいろんなところで、超能力者の超能力を何者かが人為的に操作してその超能力を使えなくしたことを示唆する場面が登場している。
宗教の古臭いまちがった世界観を信じる者が自分たちの世界観で判断して処置をしたのなら、明らかに犯罪になる。[母から聞いた話では、私が赤ちゃんの頃に急に息が止まって顔が真っ青になって死にかけたことがあったそうだが、それと何か関係があるのかもしれない。]そんなことが許されるなら、自分たちで勝手に作り話をして特定の個人を殺してもいいことになるからだ。
たしかに日本では天皇制があり、世界中でも宗教が行われているが、現代では天皇制でも宗教でも『神がいる』とは一言も明言されていない。[日本の憲法に、神がいるなんて一言も書いていない。]実際には、世界中で神がいると信じている者は一人もなく、みんな心の底では神がいないと思っている。だから、私はここで敢[あ]えて『神はいない』と明言する。
天皇制については、現代においては超能力者を現人神(あらひとがみ、つまり宇宙を作った全知全能の神が人間の姿になって地上に現われた者)だと見なして超能力者やその子孫に人間である国民が従うことは明らかにまちがいだから、天皇制は日本の歴史的伝統を重んじて神がいると信じられていた頃の過去の時代の権力者が形の上だけで執り行うたんなる儀式にすぎない。要するに、天皇制は国会の添え物であり、くだらない芝居である。日本の予算に余裕がなくなったり、みんなが古臭くて嫌だと思うようになったら、そのうち廃止されるだろう。
宗教については、近代科学が誕生したのが長い人類の歴史においてはつい最近のことであり、現代の科学的世界観に基づく道徳律がまだ十分に出来ていないので、その間やむを得ず古い時代に出来た道徳律を代用しているだけのことである。
それなのに、天皇制や宗教が行われているのを見て『みんな神がいるといまだに信じているんだな』と自分勝手な解釈をして、そんなつもりで世の中を動かす者がいたとしたら大変なことになる。
いまだに超能力者を現人神だと考えて古い世界の法則で動いている集団がいるのなら、暴力団が自分たちの決まりで勝手に動いて他人に迷惑をかけるように、彼らは現代社会の中では犯罪者集団にほかならない。この前暴力団が警察につぶされたように、その集団も警察が取り締まってつぶすべきである。外国の宗教が過去の超能力者の教えを道徳律としている倫理的な活動であるのに対し、日本神道はそういう道徳律がないからただ古い世界の法則で動いているだけの会だと考えられる。したがって、日本神道は犯罪者組織と見なして警察が取り締まるべきである。警察が踏み込んで組織を解体させるべきである。

[4568] 日本神道の経営はどのようにして成り立っているのか? h20.3.22
暴力団も日本神道も不合理的非合法的な組織である。
組織が成り立つためには財源が必要である。
暴力団の財源が麻薬や拳銃の密売や商店街の見張り代や暴力の代行請負代であったりしたように、日本神道の財源も何かあるはずである。
信者からの寄付金のほかに、やはり、日本神道に逆らったら後でひどい目にあわせるぞと言って日本中の会社からお金を脅[おど]し取ったりしているのだろうか?
組織の構成員が多いからこそ、こんなやり方も成り立つのだろうが、それにしても汚いあくどいやり方だ。
警察ははやく日本神道の本部に踏み込んで組織をつぶしてはくれないものだろうか?

[4569] 日本神道の犯罪行為 h20.3.22
私が和田山に住んでいたとき、私の留守中に私の部屋に入って冷蔵庫の中に牛乳を入れたり、部屋に置いてあった折り畳み傘やデジタルの腕時計を盗んだりしたのは日本神道の仕業だと考えられる。
なぜなら、金にならない折り畳み傘や腕時計を盗んだり、牛乳を冷蔵庫に入れたりする泥棒はいないからである。
日本神道が宗教的な理由でやったこととしか考えられない。

[4570] 女の特性 h20.3.22
女の心には愛情(子供をかわいがる気持ち)がある。
女に愛情があるから、男は女に甘えが利くのだ。

[4571] 日本の宗教と外国の宗教の違い h20.3.22
日本の宗教(日本神道)は、神武天皇が思想を残さなかったし、他の天皇もその時代の政治的な命令を出しただけなので、神がいる世界の世界観が今でもそのままむき出しで残っている。
一方、外国の宗教は、各時代の超能力者が何らかの思想を残してきたので、超能力者の思想を道徳律として守る会になっている。
日本の宗教は大昔のままで変わらないのに、外国の宗教は一番新しく現われた超能力者の思想を前面に押し出すことによって時代の流れに対応している。
そのため、日本では現代の科学的世界観と日本の宗教の古臭い世界観との食い違いが問題となっているのに対し、外国では科学的世界観とそれに従う超能力者の教えとを組み合わせることによって人間が実在に適応しながら幸福に生きて行けるようにしている。

[4572] 17条の憲法と宴会制度 h20.3.22
日本社会に宴会制度があるのは、聖徳太子が17条の憲法を作ったからである。
聖徳太子の17条の憲法は、いわば、モーゼの十戒のようなものである。
聖徳太子が、和の精神を尊んだために、その後の日本ではみんなと仲良くすることが一番大事になってしまったのである。
戦艦大和が作られたのも、そのせいである。
一方、私は、子供の頃からみんなと仲良くすることよりも自分が正しく考えることのほうが大事だと思っている。
いくらみんなと仲良くやっても、みんなが間違っていれば何にもならないと思う。
宴会なんかいくらやっても仕方がない。
私は子供の頃から、他人とゲームをするときしか付き合ったことがない。
宴会制度は、現代の科学的世界観と相容れない古臭い道徳律だと思う。

[4573] 科学と道徳律 h20.3.22
人間においては、心が知覚に従う。つまり、知覚における実在観によって心の働き方が違ってくる。
つまり、まず最初に、その時代において正しいと考えられている実在についての科学的世界観がある。
次に、その科学的世界観の中で生きている人間がどうすれば幸福に生きて行けるかについて考えた道徳律がある。
つまり、まず科学が先にあって後で道徳律が出来上がる。
昔の神がいる世界観には科学と道徳律の両方があるが、
今の神がない世界観には今のところ科学しかなく、早く道徳律が出来るのを待っているのが現状である。
しかし、いくら昔の神がある世界に科学と道徳律の両方があっても、それらがまちがっていては何にもならない。
昔の神がいる世界観では科学的知識がまちがっているから、それに付随する道徳律もまちがっている。例えば、人間は神に従わねばならず、超能力者は現人神だから、人間は超能力者に従わねばならないとされているが、このことは現代においてはまちがっている。しかし、超能力者の具体的な教えがある程度正しければ、人間は超能力者の教えに従ってある程度幸福に生きて行くことができるわけである。超能力者に正しい思想がある宗教では、そのようにして神がいる世界のまちがいを伏せながら表向きはなるべく正しくやっているわけである。しかし、超能力者に正しい思想がない宗教では、神がいる世界のまちがいを補うものがないので、まちがった世界観をまちがったまま続けて行かねばならないのである。
しかし、現代は神がいない時代だから、超能力者は神ではなくただの超能力者にほかならず、もはや人間は超能力者(やその子孫)に従わなくてよいのである。人間は優れた哲学者(人間でも超能力者でもどちらでもよい)が考えた道徳律に従って幸福に生きて行けばよいのである。[それで物足りなければ、自分自身で考えてもよい。]

[4574] 仏教と実在哲学 h20.3.22
私の実在哲学は釈迦の教えと大して変わらない。
例えば、性欲を悪い感情と考え、知覚欲や愛情を善い感情と考えていることはほぼ同じである。
しかし、釈迦が生きていた頃の科学的世界観と私が生きている頃の科学的世界観とはかなり違っている。
たとえ科学的世界観が違っていても、道徳律はあまり変わらないものだ。
人間の道徳律が科学的世界観によらないというのは面白い。

[4575] なぜヨーロッパ人は美形なのか? h20.3.22
キリストはアラブ人だ。
アラブ人は顔の堀が深い。[私の父親も、そんなことを言っていた。]
ヨーロッパでは、キリストが現人神だと考えられ、人間はキリストに従わねばならなかった。
その上、ヨーロッパ人は理論好きで完全欲が強いから、宗教が徹底的にやられた。
ヨーロッパでは、すべての人間がキリストに何から何まで従わねばならなかった。
それで、ヨーロッパではキリストに似ない顔つきの者は殺され、キリストに似た顔つきの者だけが生き残ったので、今のヨーロッパ人はキリストに似て美形なのである。

[4576] 真理は天からやってくる。 h20.3.22
キリストは天文学に興味がなかったので、天文については自分の考えを述べなかった。
そこで、キリストの教えに一応従っていると考えられるプトレマイオスの天文学が取られたが、
中世頃にプトレマイオスの天文学に反する彗星が現われたので、
プトレマイオスの天文学はまちがっていると考えられるようになった。
ヨーロッパでは、とにかく正しいことが最優先なので、
それで、キリスト教世界にあっても天文学については比較的自由に研究が許されたのである。
しかし、それが、ニュートン力学を生む結果となった。
ニュートン力学の世界では、物体は力で動くだけなので、神が要らない。
ニュートン力学は、神の存在を否定してしまったのだ。

[4577] なぜ日本には神の概念があったか? h20.3.22
中国は大国なので基本的に自給自足型の経済である。
それで、中国は昔から外国と国交をしなかった。
一方、日本は小国で資源がないので、昔から日本は広く外国と貿易をしなければならなかった。
神の概念は最初にどこの誰が考え出したのか知らないが、
日本が広く外国と貿易をする中で、神の概念も日本に伝えられたのである。
一方、中国は閉鎖的なので、神の概念がないまま現代までやってきたのである。

[4578] どうして神に祈っても何にもならないのか? h20.3.23
それは、神が人間が作り出した実在しない概念だからである。[フォイエルバッハも、『神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ。』と述べた。]
つまり、人間は存在しない者に向かって祈っていたわけだ。
それでは、願いが叶うわけがない。[神様のお札[ふだ]にションベンを引っ掛けても、「神様のバカヤロー嫌いだ早く死ね」と言っても罰[ばち]が当たらないのは、神がいないからである。]
今日的には、自己暗示の一種だろう。
つまり、神に祈る行為によって、実際には自分で願いを叶える意志を強めていたわけだ。

[4579] 思想の自由 h20.3.23
神がいると思おうがいないと思おうが人の勝手だ。とはよく言うが、
やはり神がいると考えることはまちがいだから、勝手ではないのではないだろうか?
自分がまちがいを信じて生きて行くことは、自分や他人に害を及ぼすのではないだろうか?
自分で自分に害を及ぼすことを信じていったい何になるのだろうか?
まちがいを信じている者が悪い者で、真実を信じている者が善い者ではないだろうか?
思想の自由とはいうけれど、やはり人間であるからにはなるべく正しい思想を信じるべきではないだろうか?
[思想の自由を完全に認めたら、法律も成り立たなくなるのではないだろうか?だから、法律は言葉が下手糞で、それ自体に立脚できるほどの体系ではない。法律は常識で補わなければならない。例えば、日本の法律には、ニュートンの方程式もシュレディンガー方程式も載っていないから、日本の法律だけによれば自動車もコンピューターもできないから私たちの日常生活が成り立たない。]

[4580] 宗教の自由 h20.3.23
宗教は厳密には神がいると考えられていた頃の世界観だから、今日的にはまちがっているので、信じてはいけないのではないだろうか?
つまり、宗教の信仰の自由はない。
ただし、宗教の道徳律を、今日の科学的常識に反しないかぎりで使用するのは許される。
しかし、できれば、そんな過去の遺物に頼らずに、新しい科学的世界観に立脚した新しい道徳律を考え出すべきである。

[4581] テレパシー器官 h20.3.23
将来診断技術が進歩すれば、脳の中にあるテレパシー器官の有無がわかる時代が来るかもしれない。
脳の中にテレパシー器官がある者は、将来精神分裂病にかかる危険性が高い。
精神分裂病にかかった者は、犯罪者になる可能性が高い。
だから、脳の中にテレパシー器官があるとわかった者は、その時点で殺されるかもしれない。
しかし、それはいくらなんでもかわいそうだから、将来精神分裂病に罹りやすいから注意しなさいよと言うだけにしよう。

[4582] 電気ショック療法 h20.3.23
精神分裂病では、焦燥感情やテレパシー器官が電気的に興奮しているのだから、脳に電気ショックを掛けて脳細胞の興奮をいったん停止させれば、それをきっかけに焦燥感情やテレパシー器官の興奮が収まり精神病が治るかもしれない。
抑鬱病についても、電気ショックを掛ければ抑鬱中枢の興奮が収まり治るかもしれない。
ロボトミーは、かなり広範囲の感情を殺すことになり、多くの喜びが奪われることになるので、やってはならない。
現在では、化学薬品によって焦燥中枢やテレパシー器官?や抑鬱中枢が特異的に抑制できるから、非特異的な副作用の多い電気ショック療法やロボトミーは禁止されている。
[仏教系の人は、人間の心に対する物質的な理解を嫌うが、それは仏教のまちがいだから、まずそのまちがいを直さねばならない。今から2600年前の釈迦が抗精神病薬のことなど知っているはずがない。]
焦燥感情やテレパシー器官や抑鬱感情も、何らかの生活の役に立っているから、それらを完全に働かないようにするとかえって生活に支障が出る。だから、薬で弱く抑える程度でよいのである。
心の中にある感情と事象の間には対応関係があり、快な感情は事象に対する引力で、不快な感情は事象に対する斥力になるから、引力と斥力の両方で生活がより適切にコントロールされているのだ。まあ、それも知覚における世界観にもよるが。

[4583] 宗教の限界 h20.3.23
キリスト教は誰が見てもそんなに大した教えではないから、はじめからなめてかかれるから無難だが、
仏教は一見誰が見ても正しい教えに見えるから、つい本気にしてしまう。それで、まちがいまでも信じてしまい、かえって難しいことになる。
一般に、宗教は古い世界の中で生きていた超能力者の教え[ただし、人間宗教の場合は人間の教え、超能力者の教えのない宗教の場合は宗教家(神がある世界の研究者)の教え]だから、多かれ少なかれまちがいが染み込んでいる。だから、鵜呑みにして信じてはいけない。
宗教の教えを学んだ後で、自分で考え直して本当に正しいかまちがっているか検討を加えねばならない。

[4584] 超能力者を馬鹿にするな! h20.3.23
神様はいないから、神様の絵に落書きしたり神様のバカヤローと叫んだりして、いくら神様を馬鹿にしてもかまわないが、
現人神すなわち超能力者は実際にいた人間だから、馬鹿にしすぎてはいけない。例えば、遊び半分に聖書にションベンを引っ掛けたり、キリストの像を壊したりしてはいけない。[ただし、宗教的世界観がまちがっているという理由で聖書を焼いたりキリストの像を壊したりするのはかまわない。もっとも、過去の人類の実在に対する誤解(つまり、神がいると考えたことや超能力者を現人神だと考えたこと)を反省する材料として、聖書やキリスト像をいくらか残して置く価値がある。
超能力者の考えに検討を加えて、正しいこととまちがっていることに分けて、正しいことだけ拾いまちがっていることは捨てればよい。
超能力者のまちがった考えは馬鹿にしてもよいが、正しい考えは敬[うやま]わねばならない。

[4585] バカの見本 h20.3.23
要するに、宗教は昔の人の実在に対する誤解である。
現代においては、もはや宗教はバカの見本にすぎない。

[4586] 感情主義 h20.3.23
オナニーやセックスや麻薬をやって、自分の性欲中枢や麻薬中枢を満足させて快楽を得ていると、実在よりも自分の感情を中心にしか考えられない感情主義の人間になる。
感情主義の人間になると、自分の感情と実在が対立したとき、自分の感情が正しく実在がまちがっていると考えて、自分の感情のまちがいが認められない悪い人間になる。
だから、オナニーやセックスや麻薬をやってはいけない。
ただし、良寛のように過度に自分の感情がまちがっていると考える必要もない。相手が悪い感情を働かせている場合は、相手が悪いと考えるべきである。相手が悪い場合には相手を攻撃してもよい。とくに、まちがった世界観を信じて心を狂わせている者を攻撃すべきである。

[4587] 神がいると考えてよい条件 h20.3.23
神がいると信じる者は、自分が神がいると考える根拠を示さねばならない。
それができないかぎり、神がいると考えてはならない。
私は、これまでに自分の体験から神の概念を帰納する機会がなかったので、
神がいるなんて考えたことがない。

[4588] 奴隷根性と自立心 h20.3.23
神がいる世界の道徳律は奴隷根性である。
神がいない世界の道徳律は自立心である。

[4589] 宗教に入る h20.3.23
現代に科学に入るという言葉がないように、近代科学ができる前の時代には宗教に入るという言葉がなかったはずである。
宗教はその当時の一般常識だったので、その時代に生きていればみんなが自然に入るものだったのである。
つまり、神がいる世界が当たり前で、とくに異国の現人神である釈迦の教えに従うことを出家するというのだ。
しかし、近代科学が生まれてからは、宗教に入るという言葉ができた。
宗教に入るという言葉の意味は、科学から出るという意味である。
つまり、神がいない世界から出て神がいる世界に入るという意味である。
みんなが科学に入っているのに、ひとりだけ科学から出るというのは身勝手だ。
社会的人間の取るべき態度ではない。

[4590] 科学時代と宗教時代の願望の実現の仕方のちがい h20.3.23
近代科学では実在の法則を知ってそれを用いて自分の夢を実現するが、
昔の人は神や現人神に祈ることによって自分の夢を実現しようとしたのである。
そんなに世界が大きく違っていればもはや共通点はない。
だから、科学(近代以降の神がいない世界)と宗教は相容れないのである。
[ただし、最新の超能力者の思想を教義とする宗教では、超能力者の思想は割合近代科学の世界に近いので、科学(近代以降の神がいない世界)と宗教は科学的知識を除いてはだいたい一致するので、科学時代においても宗教ができるのである。しかし、見ようによっては、自分たちの昔のまちがった世界観をすっぱりと改めずに、いつまでもズルズルしつこく引きずっているように見える。どうして神がいる世界がまちがいだという簡単なことがわからないのか!?まちがいをまちがいだと認めることがそんなに嫌なことなのだろうか??まちがいがそんなに好きか?人間だったら、神がいるかいないかはっきり割り切ることが大事だ。(やっぱり、みんな宗教が何のことかわかっていないのではないだろうか。いそがしくて考える暇がないからかもしれないが、わからないままやったりするな!)しかし、宗教が何のことかがわかっていないというだけで、いつまでも宗教をこのままのさばらせ続けてもいいものか!?科学的知識において近代科学が宗教をはるかに凌[しの]いだように、道徳律においても過去の超能力者をはるかに凌く思想家が現れないものだろうか。そうすれば、宗教はこの世から完全に姿を消すだろう。]

[4591] なぜ神武天皇やキリストは永遠に不滅だと考えられたのか? h20.3.23
この宇宙を作った神が存在する。【原理】
ならば、その神を作った者は何か?
神が宇宙を作った者であり、神が存在するつまり神がこの宇宙の中にいる以上、神を作ったのは神自身だと考えねばならない。【定理】
したがって、母親が子供を産むように、神は神自身を産み出すから、神は永遠に不滅なのである。【定理】
神武天皇やキリストなどの超能力者は現人神だと考えられて神と同一視されたから、永遠不滅だと考えられたのである。
だから、今でも神武天皇やキリストが生きているから、神武天皇の子孫に従ったりキリストの教えを守ったりして神武天皇やキリストを崇めれば、願いを叶えてもらえると昔の人は考えたのである。[神武天皇には教えがなかったので、教えを守る代わりに神武天皇の子孫に従わねばならなくなったのである。]
しかし、実際には願いが叶えられることはなかったので、人々はしだいに神理論がまちがっていると考えるようになっていったのである。
しかし、神理論に代わる新しい理論(近代科学)がなかなか現われなかったので、それまでずっと古臭い神理論で我慢しなければならなかったのである。[そしたら、今宗教をやっている者たちは何なんだ?私はやはり神理論の狂信者なのだと思う。私ならいくらお金をもらってもいくら出世させてくれても、まちがいを信じることはできないからである。神の妄想に取り付かれた者は『適応障害』だから、さっさと精神病院へ行け。]

[4592] 日本神道の信者は狂信者か? h20.3.24
たしかに、神や現人神に祈っても何にもならないことは近代科学誕生以前の昔からすでに経験的にわかっていた。
それは、日本神道の信者にとっても同じことである。
だから、日本神道の信者の狙いは他のところにある。
つまり、日本神道の信者の狙いは現人神に祈ることではなく、現人神に従うことにある。
例えば、天皇が悪いことをすればするほどその者たちも悪いことをしてもいいことになるので法を犯せるぶん有利になるわけだ。[暴力団と同じ理屈だ。他に、(幻聴で聞いたことだが、)神でだましてお金を儲ける方法があるらしい。(詳しいやり方は知らない。神の意味(つまり、神が超能力者の私であること)を伏せて、他人の頭の中にある神のイメージを利用して、「日本にありがたい神様が現われたから私が神様に頼んであなたの願いを叶えてあげよう。」と言って、痴呆老人や騙[だま]されやすい性格の人からお金を巻き上げたりしているのだろうか。)]
細かいことはよく知らないが、とにかく日本神道の信者は古い世界(つまり、神がいる宗教の世界)の法則を使って有利に生きている。
新しい世界(つまり、神がいない近代科学の世界)にいろんな法則があるように、古い世界にもいろんな法則があって、その法則を使って彼らは有利に生きているのである。
しかし、彼らが有利に生きていることは、その反面彼ら以外の者が不利になることである。
つまり、新しい世界の中で生きている者が不利になることである。
つまり、間違っている者が得をして、正しい者が損をすることになる。
そんな変な世界を日本神道の者が日本の中に作り出しているのである。
日本神道の者は神理論の狂信者ではないが、神理論を悪用している者であって、古い理論を信じないで、ただ自分たちの欲望を満足するために利用しているだけだ。
しかし、それでは、新しい世界とは別の古い世界のルールで動いている集団が日本に存在していることになり、古い世界のルールは部外者にとってはわからないから(多少の推測はできるけれども)、新しい世界のルールで動いている者にとっては暴力団と同じで何をされるかわからないので迷惑である。
しかし、そうまでして自分が有利に生きこうとするのは人間としてやっぱりなんかおかしい者たちだと考えられる。彼らのやり方は汚くて卑怯[ひきょう]である。そんなやり方で有利に生きて行けて何がうれしいのだろう?狂信者とまでは言えなくても、そんなことが平然とやれるのは、心理的にはやっぱり異常者だと思われる。[暴力団の組員と同じで、キチガイとまでは言えないが、ガラが悪い。いい人ぶっているが、じつは悪い人なのである。]
たしかに古い世界のほうが有利になることが多いかもしれない。しかし、今は新しい世界である。現代においては、新しい世界が正しく古い世界がまちがいである。古い世界は日本にも世界にもない。だから、古い世界の決まり(ルール、法則)を使用することは許されないのである。いくら日本神道の信者の数が多くても、まちがいはまちがいなので、やはり古い世界の法則を使ってはいけない。「赤信号みんなで渡れば怖くない。」だが、たとえ怖くなくても実際にはみんなで轢[ひ]かれてしまうのだ。「無理を通せば道理が引っ込む。」だが、たとえ道理が引っ込んでも実在の世界は依然として我々を支配しており、無理を通せばいずれは破綻することになる。

[4593] 日本神道とは何か? h20.3.24
日本国憲法や法律が新しい世界の法則(社会的ルール)であるのに対し、
日本神道とは古い世界の法則をいまだに使い続けているグループである。
自分たちで日本国の憲法や法律とは別の法律を勝手に作って使用しているグループである。
これは違法行為にほかならない。
外国の宗教が新しい世界になるべく合わせようとしているのに対し、
日本の宗教は新しい世界に合わさずにそのままやっているのである。
だから、外国の宗教は違法行為ではないが、日本の宗教は違法行為である。
外国の宗教が正しさを重んじて新しい世界に古い世界を従わせてやっているのに対し、
日本の宗教は正しさを重んじようとせず新しい世界の中で古い世界をそのままやっているのである。
外国の宗教ではまだ新しい世界の道徳律が出来ていないのでその代わりに古い世界の道徳律を使っているにすぎないのに対し、
日本の宗教では新しい世界の科学と矛盾した古い世界の科学を今でも平気で用いているのである。
古い世界の科学の有効期限は、近代以前までである。
世界の中で日本だけが(日本人の一部の人が)古い世界のまちがった科学をいまだに使い続けているのはやはりおかしい。

[4594] 日本政府と日本神道の関係 h20.3.24
政治家は新しい世界の社会的法則である日本国憲法や法律を守るグループである。
一方、日本神道は古い世界の社会的法則を守るグループである。
しい世界は神がない世界で古い世界は神がある世界で新しい世界と古い世界とはまったく違っており、
新しい世界の社会的法則と古い世界の社会的法則とは全然違うので、
政治家と日本神道は対立するライバルである。
つまり、日本政府や一般の日本人が平成の日本国憲法や法律を守って暮らしているのに、
日本神道はいまだに江戸時代の法律を守って暮らしている時代遅れの連中である。

古い世界は近代以前で終わっている。
日本神道の者は学校で勉強したことがあるのだろうか?
古い世界は今から400年も前に終わっている。
古い世界から新しい世界への転換期に日本神道のような集団が現われるならまだしもわかるが、いまだに古い世界を続けているところを見ると、日本神道の者達は古い世界が終わり新しい世界に変わったことをいまだに知らないのではないだろうか?

[4595] 世界の法則 h20.3.24
世界の法則には、科学的法則(物についての法則)と社会的法則(人間と人間の関係についての法則)と道徳的法則(個人的な内的世界の法則)の3つがある。[社会的法則と道徳的法則は、科学的法則に含まれると考えることもできる。]
神がいない新しい世界は、まず科学的法則の発見から始まった。
現代の新しい世界は科学的法則と社会的法則はほぼ完成したが、道徳的法則がいまだに不備である。神がいる古い世界の道徳的法則が残っていることが、新しい世界の道徳的法則ができるのを邪魔しているとも考えられる。
日本では、一般的には新しい世界の科学的社会的道徳的法則が通用しているが、一部の者の間ではいまだに古い世界の社会的法則と道徳的法則が通用している。
外国の宗教では古い世界の道徳的法則の使用だけに止[とど]めているのに対し、
日本の宗教では古い世界の道徳的法則のほかに社会的法則まで(古い世界における社会的法則と科学的法則は同じだからつまり全部)使用しているのである。
そのために、日本の宗教では新しい世界との対立が問題となりやすい。
[道徳的法則は個人の自由がかなり認められるので、新しい世界の道徳律と古い世界の道徳律がかなり違っていても、あまり問題にはならない。でも、キリスト教の道徳的法則(道徳律)は新しい世界の中で生きて行くには弱いから、自分で道徳的法則を考え出す者が現われるはずだ。]
しかしながら、日本神道の者は新しい世界の科学的法則を用いて生活していることは明らかだから、日本神道の者は矛盾した二つの世界の中で暮らしていることになる。
日本神道の者は論理性合理性が足りない。

外国の宗教の者は、きちんと論理的に考えて新しい世界と古い世界が矛盾しないようにして暮らしている。
日本神道の者の頭の中の世界はグチャグチャだ。
日本では古いまちがった世界がいまだに残っているといっても一体何の自慢になろうか?
外国の宗教の者は新しい世界に適応しながら生きているのに、
日本の宗教の者は新しい世界に適応しないで生きている。
だから、外国に比べて日本の宗教の者は犯罪者じみていてガラが悪い。

[4596] 自由の意味 h20.3.24
自由とは、自分で考えて決めねばならないという意味である。
どうでもいいという意味ではない。
[昔サルトルは「人間は自由の刑に処せられている。」といったが、この言葉の意味は、自分で道徳律を考えているとまちがえて痛い目に会ったりするから、さっさとキリスト教に入ってキリストの教えを信じたほうが無難だということである。]

[4597] 感覚の意味 h20.3.24
私の実在哲学における感覚の意味は、
これまでの哲学にあるような“何かを見る”(対象知)ということではなく、
端的に“自分が感じる”ことであるとしている。
人間の脳は具体的なイメージ(経験)から抽象的なイデア(概念)を作り出す能力があり、
そのイデアを担う脳細胞が神経興奮すると、そのイデアの感覚が生じるのだ。
私の哲学第一原理すなわち「脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。」は、私が自分で発見した『感覚』の概念を用いて、生物学における脳の法則すなわち「人間は脳で見たり聞いたり考えたり思ったりする。」を論理的に言い換えたものである。
感覚の概念を用いれば、五感と知覚と心の相互作用や、感情の善と悪の区別や、感覚波による超能力の仕組みや、精神病の仕組みなどを書くことができる。[数学でπ(つまり、円の直径と円周の比)という量を考えれば、円の面積や球の体積などが書けるのと同じことだ。]

[4598] 二つの世界 h20.3.24
現代の日本において、神がいる宗教界と神がいない科学界の二つの世界があることは、
話をするときに、いちいち文の頭に、
神がいる世界ではとか、神がいない世界ではとか、古い宗教の世界ではとか、新しい科学の世界ではとか、
付け加えてから話さなければならなくなる。
これでは、面倒臭いから、やはりひとつの世界だけにすべきである。

[4599] キリスト教の宇宙観 h20.3.24
ギリシア時代の宇宙観に、わざわざ実在しない神を持ち込んで、神のいる天上界と神がいない地上界の二つの世界に分けて不統一な宇宙観にしたのがキリスト教の宇宙観である。[バカにかぎって無駄なものを付け足したがるものである。]
だから、ルネサンス期には逆にキリスト教の宇宙観から無駄な神を取り除いてもとの神のないギリシア時代の宇宙観に戻していかねばならなかった。
つまり、ギリシア時代にすでに近代の自然科学ができていて、キリスト教時代にわざわざそれをまちがいに変えて、それをルネサンスでもとに戻しただけなのだ。
つまり、ヨーロッパはその間の1500年の時間を無駄にしたわけだ。
[ギリシア時代にはまだ科学的認識の方法がなかったのではなく、科学的認識の方法についての明確な認識がなかっただけで、実際にはギリシア時代よりもずっと以前から帰納法と演繹法から成る科学的認識の方法が取られていたのである。ただ、帰納法でまちがいを犯すことは昔からよくあったのである。つまり、認識の方法は正しいが、具体的な認識がまちがっていることはよくあることである。私の推測では、神の概念が生まれたおよそ1万年ぐらい前から科学的認識の方法はすでに存在していたのである。]

[4600] 日本神道は別の国を作れ! h20.3.25
科学的法則は現代においては世界共通なので取り立てて言うことはない。[例えば、神がいないことは今日では一般的な科学的常識である。]
道徳的法則は現代においては原則的には個人の自由が認められているので法律にはできない。[もっとも、個人の内的なことに関しても人類普遍的に成り立つことはある。(例えば、性欲や麻薬欲は禁止とか、知覚欲や愛情の満足で生きて行くべきであるとか。)それは自由ではない。だから、法律にできる。しかし、細かな細則については個人が自分で考えて決める余地はある。そこは個人の自由(自分で考えて決めねばならないこと)であって、一般的な法則を作ることはできない。]
だから、社会的法則(人間と人間の関係についての法則)だけが、その国の法律である。
国の一部の人間(つまり、日本神道の者)だけがみんなとは別の社会的法則(つまり、神がいる世界における神や現人神と人間の関係についての法則)で動くのは法律違反である。
だから、別の社会的法則で動いている人間を罰しなければならない。
国の一部の人間だけがみんなとは別の社会的法則で動かれたら、もはや国とは言えない。
どうしても、そうしたければ、自分たちで別の国を作ってくれ!
日本神道の社会的法則が神がいる世界のまちがった科学的法則に基づいて作られているなら、その社会的法則もまたまちがっている。
だから、日本神道の社会的法則は現代の神がいない世界の科学的法則に基づいて作られた日本の社会的法則に反するので、日本神道は犯罪者集団だから罰せられるべきである。


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