[4401] 中国の八仙人 h20.3.7
宗教は空想主義である。宗教は原則的に空想の世界である。宗教では、超能力を空想世界が具現化したものと捉えている。宗教では、超能力者を空想世界を実現できる者として、空想世界の実在性を示す者として捉えている。だから、宗教では超能力を尊び、超能力者をありがたがるのである。しかし、これは完全に超能力者に対する宗教の欲目であって、実在する超能力者に対する歪んだ解釈である。本当は、実在の世界に、まだ人類が知らない(理解できていない)人体に関する自然現象があるだけなのに。
中国には仙人と呼ばれる超能力者がいたが、八仙人に関する逸話は、私の『ドラゴンボール』のように、八仙人の実生活における出来事をちりばめた作り話(フィクション)である。つまり、八仙人に関する実話の成分が単語的に混ざっているだけで、話としては作り話である。残念ながら、八仙人が死んでしまっているので、今やどの部分が実話でどの部分が作り話であるかは明らかではないが。
だから、八仙人の有名な逸話は、じつは八仙人の超能力ではない。
それでは、八仙人は超能力者ではないかというとそうでもない。
私が赤ちゃんの頃に念動力を使えたように、八仙人にもなんらかの超能力があったはずである。
それを象徴しているのが八仙人が神通力を発揮するときに用いたとされる『暗八仙』である。残念ながら、暗八仙と神通力すなわち超能力との関係は明らかにされてはいない。[宗教は空想主義なので、宗教では仙人が空想世界の実在性を示してくれたことをありがたがっているだけで、実際にあった超能力は宗教ではどうでもいいこととされているので、八仙人の超能力は八仙人の添え物として軽く扱われているだけなのだろう。]たぶん私が赤ちゃんの頃家の中にあるものを念動力で動かしたように、暗八仙は八仙人が念動力で動かした物のことだろう。つまり、八仙人はみんな念動力者なのだ。
つまり、八仙人の超能力の実体は、暗八仙を念動力で動かしたことだけであって、それ以外の逸話(本人に因んだ話)は八仙人の実話がほんの少し混じっているだけの架空の作り話なのである。例えば、八仙人の中には歌が好きな者がいたし園芸が好きな者がいたが、八仙人に念動力があったということで、それらが超能力風に言い換えられて、天から歌が聞こえたとか、花が冬にも咲いたといった作り話になったのである。それから、念動力は実際にはちょっとした物を少し動かしただけだったが、それを大袈裟に言い換えて、1日に3千里を走ったとか、いきなり遠くに現れたとか、死んで天に昇ったとかいう話になったのである。[孫悟空は猿の超能力者(念動力者)だったのかもしれない。]
八仙人は大人になってから超能力を現したというから、私のように赤ちゃんの頃に超能力があるタイプとは違う。
八仙人の中にはひとり女がいるから、女の超能力者もいるということなのだろう。
中国には神の概念がなかったので、超能力者については大いに空想的に描かれてはいるけれども、人間が従うべき者としては見なされなかったのである。できれば、空想を交[まじ]えずに事実だけを正確に記録して欲しかったものである。
聖書のモーゼやキリストに関する逸話も、八仙人の例のように、おおかた作り話であって、モーゼやキリストの実生活における体験が断片的にほんの少し混じっているだけである。だから、聖書の作り話を信じてはいけない。モーゼがイスラエル人を率いてエジプトを脱出したことは嘘だし、キリストが布教活動したことも嘘である。ただ、モーゼは政治家になりたかったし、キリストは宗教家になりたかっただけだ。それで、聖書の上では偉大な政治家や宗教家として描かれているのである。実際には、ちょっとした超能力があっただけで、あとは普通の人とかわらない。モーゼの超能力は水を動かす念動力で、キリストの超能力は身体から光が出る念光力であったと考えられる。[中国の超能力者伝は嘘が見え見えだが、ヨーロッパ人は頭がいいから、ヨーロッパの超能力者伝すなわち聖書はあたかも実話のように見えるがじつは嘘なのである。]
日本の神武天皇についても、神武天皇が光の玉を出したことだけが実話であって、その他の神武天皇に関する伝記はほとんどすべて作り話である。宗教は空想主義であり、宗教の世界では作り話が当たり前で、実話がむしろ例外的である。神武天皇の超能力にしても、実際には、神武天皇がどうでもいいときに光の玉を出しただけで、戦いの最中に弓矢の先に出たと言うのは作り話だろう。しかしながら、昔の日本人は作り話の才能があまりなかったので、幸いにも神武天皇に関する逸話が世界で一番実話に近い作り話となっているのである。ちなみに、私の超能力がもっとも実際に近い形で表れているのは、『アイドル天使ようこそようこ』の第7話「さみしがりやの町の神様」のAパートの冒頭のシーンである。[さみしがりやの町の神様とは私のことである。私は子供の頃は寂しがり屋だったからである。ウルトラセブンのセブンが“ぶ”入れであるように、第7話には私の実話が濃く入っているのだ。]あと、私の父親が薫的のおじいさん(私の母の父親)から赤ちゃんの頃の私が笑うと私の近くにある物が動くことを聞いたことがあったそうだから[2〜3日前に父親が夜中にテレパシーで私に言っていた。だから、私が小学2〜3年生頃に聞いた母親の言葉ほどの信頼性はない。]、OP「陽春のパッセージ」でようこが笑うシーンにも超能力が表れている。私は赤ちゃんの頃には丸顔だったので、ようこは丸顔なのである。

[4402] 超能力はなぜ学校で教えないか? h20.3.7
現代は実在についての知識にあふれており、子供が学習にかける時間は限られている。
そんないそがしいなかで実生活にとって大事な知識を子供たちに効率的に教えるためには、めったにしか現われない超能力者のことなどに時間をかける余裕がない。
それで、学校では超能力を教えないのである。[今の天皇に超能力がないから、学校でも超能力のことを教えないのかもしれない。]
しかし、社会科や国語のようなくだらない作り話を教えるよりは実在する超能力のことを教えるほうが価値があるから、
今度からは社会科や国語の時間を割[さ]いて、超能力や性欲が悪い感情であることを子供たちに学校で教えたほうがいいだろう。今の日本が天皇制をとっているのは、天皇の祖先が超能力者であったからだということを子供たちに教えたほうが、子供たちの社会に対する理解が深まるはずだし、日本は割礼をしないから、その分を言葉で子供に教える必要がある。

[4403] 中国の八仙人 h20.3.7
鍾離権(しょうりけん) …公務員になって出世したが、ときどきドジをした。山で道に迷ったことがある。
呂洞賓(りょどうひん) …頭がよかった。
張果老(ちょうかろう) …ロバに乗るのが好き。絵を描くのがうまい?物事にくよくよしない性格(私の『スペクトルマン』の第45話「パル遊星人よ永遠なれ!!」と同じ手法)。
韓湘子(かんしょうし)…青年時代には、酒ばかり飲んでいる放蕩者だった。盆栽が趣味。占いをしたことがある(超能力とは関係がない)。
李鉄拐(りてっかい) …もとからブ男で片足。
曹国舅(そうこくきゅう) …優しい男。弟が嫌な性格。
藍采和(らんさいわ) …格好に無頓着で、お金に執着がない。歌がうまい。
何仙姑(かせんこ) …女。変なものを食べる癖がある。断食をしたことがある。[芝居小屋で念力芸を見せていたのはこの人じゃなかったっけ?]
参考にしたホームページ

[4404] かわいいとは何か? h20.3.7
かわいいとは、赤ちゃんに似ていることである。
かわいさは、女の愛情が生み出した概念である。
女は骨端線が閉じるのが早く赤ちゃんの顔や体型を留めているから、自分で自分のことをかわいいと思っているのである。
男でも赤ちゃんに似たところがあれば、女から見ればかわいく見える。

[4405] 天才と凡人 h20.3.7
ラマヌジャンやガロアは知覚のために生きていた。[小中高大学を首席で通した者に天才気質はない。ただの言いなり馬鹿だ。]
ラマヌジャンと言う数学の天才は証明の概念を持ってなく、具体的な数式しか書こうとしなかった。[微積分学と整数の基礎的な知識を独自で深めて行って、両者が結びついたところにラマヌジャンの数学が誕生した。ラマヌジャンが数式を生み出す原理となる公式がわからなかったので、当時のヨーロッパの学者たちを震撼させた。]
それでも100年先まで進むことができた。[マンガの天才なら1000年先まで進めるが、現実の天才は100年進むのがせいぜいだろう。]
インド人は実在とちょん切れている。
そういう点ではヒンズー教も仏教も変わらない。[私はヒンズー教の本質は階級制にあると思う。釈迦はインドから階級制をなくそうとした。私は実在制が理想だと考えるので、階級制には反対である。]
しかし、五感にこだわらないでは曖昧になる。[道教の始祖荘子はその点でまちがった。荘子は知覚的概念の一般性・普遍性を曖昧性と誤解した。]
私は、自分の考えたことをいちいち言葉にして書き留めている。
そのほうが確実に考え進むことができる。[それに面白い。]
天才は五感を必要としないが、凡人は五感を援用したほうがよい。
凡人は天才のまねをしないほうがいい。

[4406] ラマヌジャンと私 h20.3.7
ラマヌジャンの数式を生み出す原理となる公式がわからなかったうちは世界最高峰といわれたヨーロッパの数学者達をも震撼させたが、そのうちラマヌジャンの数式についての研究が進んで一般的な公式が見つかってからは、正統な数学となんら変わらなくなってしまった。
それと同様に、赤ちゃんの頃の私が現した念動力の原理は現在の物理学では不明で、宗教家やその他の人々を震撼させたが、将来脳科学やその他の科学の研究が進めば、そのうち何かの原理が見つかってあっけなく解明される可能性が高い。
つまり、ラマヌジャンの数式が数学であったように、私の超能力も科学なのだ。

[4407] 天皇制の哲学的背景 h20.3.8
善と悪、正しいとまちがい、美しいと汚いの区別を決めるのは、実在だろうか、それとも認識だろうか?[昔風に言うと、物だろうか、それとも心(精神)だろうか?]
宗教とは認識主義であり、
科学とは実在主義である。
宗教では、超能力は認識が実在に勝ること、認識が実在を負かすことと解釈している。
一方、科学では、超能力とは大脳に超能力器官のある特殊な人間が超能力器官を使って実在の法則に従って現した稀な自然現象であると考える。
宗教では、天皇家を認識が実在を支配できる特殊な才能がある一族と考えるので、天皇家を大事にするのである。
一方、科学的には、2代目以降の天皇には超能力器官はなく、天皇家は自分の考えを持たずにただ宗教家の言いなりになっているだけのフヌケにすぎない。つまり、仮に超能力が認識が実在を支配できる力であったとしても、2代目以降の天皇にはその能力がないから、宗教的にも天皇制には意義がないことになる。いったい宗教は何をやっているのだろうか?
それにしても、そもそも、認識が実在を支配できるのであろうか?
私の『哲学第1原理』によれば、認識は脳細胞の神経興奮で発生する感覚にすぎないから、認識は実在の世界に埋め込まれるので、認識主義は成り立たない。
だから、宗教的世界観はまちがっていることになる。
つまり、善と悪、正しいとまちがい、美しいと汚いの区別を決めるのは実在であって人間の認識ではない。人間の五感においても自然が美しく人工が汚いと感じるものだ。つまり、五感的にも美しいと汚いの区別を決めるのは実在であって人間の五感ではないのである。

[4408] 神風特攻隊 h20.3.8
日本は認識主義だから神風特攻隊ができた。
外人はその行為の意味が理解できなかった。
たしかに、日本は認識主義によって困難な状況を努力で打開できることもある。
しかし、ヨーロッパやアメリカの外人が努力していないわけでもない。
科学主義の世界観においても、外人は十分な努力をしている。
日本は外人の努力の結果を輸入しただけだ。
むしろ科学的世界観における努力のほうが健全で合目的的でよい。
例えば、認識主義で骨折り損の猛勉強をするよりも、科学主義で合理的に勉強したほうが時間を無駄にせすに効果的に勉強することができる。
それに認識主義の世界観では精神病に罹りやすいから、科学主義・実在主義の世界観のほうがいい。日本に割礼の習慣がなく日本でポルノ映画やエロ本が解禁なのは、日本人を認識主義にするためである。

[4409] なぜ宗教は空想主義なのか? h20.3.8
宗教では、超能力者の伝記が空想的に書かれている。
それは、宗教が認識主義であるために、空想の作り話のほうが実在の実話よりも主体であるからである。
そのために、宗教では超能力者の伝記がほとんど作り話だらけであって、実話の成分はほんのちょっとしかないのである。
しかし、そのために、超能力者の本当の超能力が何であったのかわからなくなるのでは、おもしろくない。
だから、たとえ宗教的な超能力者の作り話の伝記があるにせよ、それとは別に科学的に書いた超能力者の実話だけの伝記もなければならない。

[4410] 男の存在意義 h20.3.8
女は愛情で生きているので、ちょっと難しいことがあるとすぐわからないといってあきらめる。
だから、女ではわからないことを男が考えてわかってやらねばならない。
そのために男がいる。

[4411] 超能力者の超能力はなぜ消されたか? h20.3.8
数学者広中平祐[ひろなかへいすけ]のエッセーに、木の分類をしている外人が自分の分類に当てはまらない木を見て「この木は存在しない」と言ったという話がある。
それと同じように、超能力者は人間の定義に当てはまらないので、超能力者を人間の定義に当てはめるために、超能力者の超能力を消したのである。
認識主義にもほどがある。
理論は実在に従うべきであって、実在が理論に従うべきではない。
したがって、人間の定義を守るために超能力者の超能力を消すよりも、むしろ人間の定義を拡張して超能力者を人間の集合に含めるべきである。人間の定義を守って人間自身が進歩しなくなるよりも、人間自身を進歩させるために人間の定義を破ったほうがいい。[科学の発明品がある時代では、人間と超能力者の能力的な違いはほとんどないので、むしろ人間自身を進歩させることのほうが大事である。]
たしかに人間は法(人間が認識した実在)に従わねばならない。しかし、そもそも法は実在に従わねばならないことを忘れてはならない。
19世紀の末頃に古典力学に従わない現象が発見されてそれを受け容れることによって相対性理論や量子力学が生まれて物理学が飛躍的に発展し現代の豊かな文明がもたらされたように、超能力者を受け容れない世界よりも超能力者を受け容れた世界のほうが社会的に発展するにちがいない。つまり、超能力の存在を認めて超能力を研究して新しい自然の法則を発見することによって我々の世界観がさらに発展しいっそう豊かな文明がもたらされるにちがいない。超能力つまり超能力者の脳の中にある発光や運動の機能を持った有機素子についての研究は、半導体産業のように新しい技術の開発につながる可能性が極めて高いと考えられる。

[4412] 超能力の研究は可能か? h20.3.8
人間が猿を猿としか見ないように、猿は人間を人間としか見ない。
脳細胞の神経興奮によって感覚が発生することは、猿でも人間でも同じである。
人間に超能力があるのなら猿にも超能力があるはずである。
だから、超能力を出せる猿が見つかれば超能力の研究は発展するが、今のところそんな猿は見つかっていない。
しかし、人間の超能力者ならときどき現れる。
超能力は、超能力者の人生の一時期にしか現われないが、その一時期においては再現性がある。だから、その時期には科学的な研究がある程度は可能である。
今はまだ超能力の仕組みが明らかではないが、今後科学的研究を少しずつ積み重ねていけば、いつかは超能力に関する十分な観察データが得られて、超能力の原理や仕組みが明らかになるはずである。[日本人が外人のように超能力の原理や仕組みを考え出すのは無理としても、眼で見て観察データを取るぐらいならできるはずである。]

[4413] 宗教と科学の方法としての是非について h20.3.8
認識が実在に従おうとせずに実在を支配することはできない。
認識は実在に従うことによってはじめて実在を支配することができる。
つまり、宗教の方法はまちがいであり、科学の方法が正しい。
実際に、日本に天皇家が添加されても、日本は実在を支配できなかった。
第2次大戦における日本の敗北によって、天皇家は何の役にも立たない道具であり、これまでの超能力に対する考えがまちがっていたことが判明した。
それでも、日本は認識主義をあきらめようとしない。
まちがった認識やまちがった方法を続けることに一体何の意義があるというのか?
まちがいを守ることが人間として汚い行為であることにどうして気付かないのか?
国の法にわざとにまちがいをくっ付けることで喜んでいる日本人とは、一体何者なのか?
不完全なことがそんなに面白いか?
今や天皇はまちがい主義の象徴にすぎない。
日本に生まれたために人生をまちがって不幸になることを望まなければならないとしたら、日本ほど嫌な国はない。

[4414] 日本が認識主義を守るわけ h20.3.8
性欲を満足すると強い快感が得られるので、オナニーやセックスをしすぎると心主義つまり認識主義(キチガイの考え方)になる。
国会議員は、性欲を満足しすぎて認識主義になっているために、認識主義においての最高者とされる天皇に仕[つか]えているのである。

[4415] 和よりも智 h20.3.9
日本では子どものうちだけ勉強して、大人になったらみんなと仲良くなることばかりして自分で考えることがない。
他人面[ひとづら]がいいだけで、自分で考えていないから自分が本当にわかっていることがない。
自分にわかっていることがないから、そのうち自分が他人に合わせることしかできなくなる(悪循環)。
いくら歌や宴会芸が上手にできても、実生活における正しい知識がなければ自分や家族が人生の上でまちがいを犯して不幸になってしまう。
みんなと仲良くなる暇があったら、自分で考える時間に当てたほうがいい。
たまにみんなと会って、自分が日頃考えていることをてきとうに話し合ってみんなで情報交換すればもっといいかもしれない。[自分の個人的趣味のことをいくら他人に話しても他人にとってはわからないから他人は喜ばないだろう。他人にとっては鬱陶[うっとう]しいだけだ。だから、自分の個人的なことは他人に話さないほうがいい。他人が知っていそうなこと(例えば、天気や時事ネタ)だけを他人に話せばいい。他人が知っていそうなことがなければ、強いて何も話さなくてよい。]

[4416] 私の言葉に対する取り扱いについて h20.3.9
私の言葉自体を売り物にして他人が儲けるのはいけないが[そのうち気が向いたら自分が売るかもしれないから。また、儲けないようにして売るような屁理屈なやり方は嫌いだ。あるいは、私の言葉を言い換えて売り物にするのもいけない。他人が私の言葉を参考にして論文を書いて自分の手柄にするのもいけない。]、
私の言葉を正しいと考えて、それに従うことはかまわない。

[4417] 願望の実現について h20.3.9
超能力者が超能力を発現したのは、超能力者の願ったことと超能力者の脳の中にある超能力器官でできることとがたまたま一致したからである。
けっして、超能力者の願いが実在の法則に打ち勝ったからではなく、
超能力者の願いが何でも叶[かな]うわけでもない。
例えば、天皇家にそんな超能力の才能があるなら、天皇家を神だと仰[あお]ぐ日本人はとっくの昔にみんな毎日遊んで暮らせるようになっていたはずである。天皇家も国民の年貢や税金に頼らずに、自分の超能力で自分の好きなことができただろう。
しかし、実際には、神武天皇が光の玉を出したこと以外には何も起きていない。[神武天皇が日本を治めたことも、いかにも神武天皇の願いが叶ったかのように思わせるための作り話にすぎない。聖書や仏典の記述についても同様である。]
したがって、超能力は何でも自分の願いが叶う能力ではなく、ただ、超能力者の脳の中にある超能力器官が働いて、超能力器官にできる光の玉を出したり小さな物を動かしたりすることができたにすぎない。超能力器官にできることはそれだけであって、それ以外のことは何もできない。[もっとも、将来別のことができる超能力者が現われるかもしれないが、たぶんひとつのことしかできないだろう。]
超能力は、超能力者の脳の中にある超能力器官の働きで実現するのであって、超能力者の心で強く願ったことが実現するのではない。たとえ超能力者でも自分の超能力器官にできない超能力を使うことはできない。
昔の人が、超能力を超能力者の願いが何でも叶う能力だと考えたのは、昔の人が科学を知らなかったからである。
つまり、人間の願望が実現できるかできないかを決めるのは実在であって人間の心ではない。
いくら人間が強く願っても、実在において実現可能なことしか実現できない。
だから、自分の幸福を実現するためには、自分の願望を強く念じるよりも、実在において実現できることを知ったほうが近道である。
実在のことを知ろうとしないで、いくら自分の願望を強く念じても時間の無駄である。

ところで、人間の脳の中にはテレパシー器官がある。
ところが、そんなことは学校で教えないし、本にも書いてないし、みんながマンガの上だけの冗談と思っているから、冗談で心の中で他人に自分の意思を伝えたいと強く思うと自分の脳の中にあるテレパシー器官が働いて本当にテレパシーが使えるようになってしまう。しかも、ひとたびテレパシー器官が働き始めると、こんどは自分で止めたくても止められない。それは、テレパシー器官が働くか働かないかは、自分の心が決められることではなく、自分の脳の中に実在しているテレパシー器官が決めることだからである。だから、テレパシー器官を働かせたくなければ、はじめから使わないようにするしかない。[子供にテレパシーを使わせないためには、テレパシーという言葉をこの世からなくせばいいと考えている者が多いが、たとえ大人が隠しても子供はそれを自分で見つけるから無駄であり、私はむしろテレパシーという言葉を残すべきであり、テレパシーはあるけれどもテレパシーを使うと他人の思考と自分の思考が混ざって自分の思考が混乱して自分が考えられなくなって困るからテレパシーを使ってはいけないと最後まできちんと子供に教えるべきであると考える。同じように、子供をキチガイにさせないためにキチガイという言葉をなくそうとする者がいるが、そんなことをしても無駄であって、むしろ子供にはキチガイという言葉を教えてやり、この世にはキチガイ病(精神病)という誰でも罹る病気があり、自分の脳の中にある焦燥感情(イライラする感情)や抑鬱感情(腰が抜ける感情)を強く興奮させると死ぬまでずっとそれらの興奮が鎮まらなくなり焦燥感や抑鬱感で苦しめられるから、絶対にそれらの感情を強く興奮させてはいけないときちんと教えるべきである。]
このように、精神分裂病もまた、現代人の超能力に対する無知や誤解が自[みずか]らにもたらした災いであるといえる。
天皇家も
釈迦もキリストも精神分裂病も、超能力に対する人類の無知や誤解が自らにもたらした災難である。これらの災難を防ぐためには、人類は実在する超能力から目をそむけずに、超能力に対して積極的に立ち向かっていくべきである。人類は超能力についてもっと真剣に考えるべきである。

[4418] 放任教育について h20.3.9
放任教育とは、親が子供のしたいようにさせることだが、それは親が子供の言いなりになることでもある。
こういった親の態度は、自分で考える大人の態度とはいいがたい。
自分で考える親なら、人間一般に成り立つことは子供に教えて聞かせるはずである。
子供が知っておくべきことを子供に教えない親は、自分で考える人間ではない。
親が自分で考えない人間なら、自分で考えない悪い癖を子供は親から学ぶだろう。
自分で考えない大人は、身体が大きいだけの子供だ。

[4419] なぜ日本に自分で考える習慣がないのか? h20.3.9
日本に自分で考える習慣がないのは、いずれ誰かが天皇家の正体に気付くことを恐れたためである。そのために、日本では大人になると毎日宴会をして自分で考えないようにさせているのだ。ちょうど、キリスト教がキリストの正体を隠すために人間の知覚の働きを恐れ科学を禁じたのと同じことである。
日本語の語尾が曖昧なのも、自分で考えてもわかることがないようにするための、日本神道の陰謀である。

[4420] 超能力のおかげ? h20.3.9
現代の日本が豊かなのは、外国から科学技術を取り入れたからであって、天皇がいるからではない。
実際には科学の力でできたことを、天皇の超能力のおかげだと思わせようとしている。
見ようによってはどうにでも言えるものは、すべて天皇のおかげだとしている。
実際には天皇はなにもやっていない。

[4421] なぜ、私ネタの番組を作るのか? h20.3.9
あれは、超能力が自分の願いをかなえる能力であると考えた者が、超能力者の超能力をみんなに分け与えるためにテレビ番組や映画に超能力者のことを混ぜて放送しているのである。
しかし、実際には、私は高1のとき精神分裂病に罹ったきりで治っていないから、私の願いが何でも叶[かな]うわけではない。だから、私ネタを混ぜた番組を見ても願いが叶うわけではない。(むしろ縁起悪いかも?)

[4422] 天皇制はなぜあるか?☆ h20.3.9
その昔、超能力を自分の願いをかなえる能力だと考えた者が、超能力者の超能力を国民みんなに分け与えるために超能力者を国の君主としたのが天皇制の始まりである。
しかし、何も起こらなかったので、そののち制度を改めて、超能力者の子孫である天皇に実際に強い命令力を与えて天皇の願いが叶うような制度にしたので、今では超能力のない天皇でも自分の願いが叶うようになっている。ただし、科学でできることの範囲内で願いが実現できるだけである。

[4423] 女の長所と短所 h20.3.9
女は馬鹿だから男におとなしく従うところが男から見てかわいく見えるのである。[私は自分が子供の頃、私の母親が家族のために(じつは母親自身の家族に対する愛情を満足するために)喜んで働くところがかわいいと思ったことがある。あとは、アニメの女の子でもそうだが、男から見て女の顔や身体の形がちょっと面白いからだろう。]
しかし、その反面、馬鹿だから理屈が通用せずわがままでもある。[女は知覚欲が弱く考える癖がない。女は家の中で家事をしたりテレビを見たりしているだけだ。これではいやでも馬鹿になってしまう。]
女は男に従う者でもあるが従わない者でもあるのだ。

[4424] キリスト教はなぜあるか?☆ h20.3.9
その昔、超能力を自分の願いをかなえる能力だと考えた者が、キリストの超能力をみんなに分け与えるために、キリストを崇[あが]めれば自分の願いが叶うことにしたのが、キリスト教の始まりである。キリストの教えに従うことはキリストを崇めることになるので、それで人々は自分の願いを叶えるためにキリストの教えを守ろうとしたのである。
しかし、その後何も起こらなかったので、14世紀頃になってヨーロッパ人はそれまでの自分たちの考え方を徹底的に反省し、ついにイギリスのフランシス・ベーコンが『認識は実在に従おうとしなければ実在を支配できない。認識は実在に従うことによって実在を支配できる。』と述べて宗教と科学の本質を明らかにし、宗教的世界観を放棄したのである。

[4425] 日章はなぜ見えるか? h20.3.9
太陽光線が放射状の筋になって見えることがある。これを日章[にっしょう]という。昔の大箱マッチの蓋[ふた]の絵にも日章が描かれていた。
私は今から約6年前兵庫県出石町[いずしちょう]にある但馬松下株式会社の工場で夜勤で働いていたときに、ある晴れた冬の日の朝5時ごろ山の谷間の東の空に日章を見たことがある。
豊岡市や出石町は盆地になっていて風が吹かないし、おそらく上空にある水平になった氷の結晶が回折格子の働きをして太陽光線の特定の角度の光を強めるために光の筋になって見えるのだろう。あるいはまた、人間の視覚野には特定の角度の光線に敏感に反応する細胞群があるそうだから、客観的な自然現象と人間の大脳の視覚野の相乗作用で太陽の光が放射状に筋になって見えるのかもしれない。
私が岡山や豊岡でお盆の頃に見た幻日[げんじつ]もそうだったが、日本の近畿地方や中国地方では変わった自然現象がよく見られる。
日章も幻日も自分の眼でじかに見た瞬間はすごいと思って感動するが、この世ならぬものを見たとはいっても、しょせんは自然現象にすぎない。ちゃ〜んと科学的理由が存在するのだ。

[4426] 人間は馬鹿か利口か!? h20.3.9
今でも年寄りは天皇を人々の願いをかなえる者だと信じている。
でも、それは、年寄りが戦前戦中に教育を受けたからである。
しかし、今は、誰もそんな考えをする者はいない。
正しい教育は、絶大な効果を発揮するものだ。

[4427] 日本人と日本政府と日本神道の関係 h20.3.9
日本神道とは、日本で生まれた超能力者を神(全知全能の者、自分の願望を何でも実現できる者)だと考える者から成る組織である。
日本政府は天皇に従属する組織であり、日本政府は天皇を神だと考えていると考えられるので、日本政府は日本神道に含まれると考えられる。[日本政府が天皇の近くにいるのは、超能力者の近くにいるほど自分に多くの超能力が分け与えられそれだけ自分の願いが叶えられると考えているからである。]
一方、今時の正常な日本人は日本で生まれた超能力者を神とは考えないから、日本神道の構成員は日本人のごく一部にすぎない。
したがって、日本人と日本神道と日本政府の関係は、
日本人⊃日本神道⊃日本政府[⊃は真部分集合を意味する。]
となる。

[4428] 心と身体 h20.3.10
男の身体は男の心つまり知覚欲が満足できるように作られている。
女の身体は女の心つまり愛情と五感欲が満足できるように作られている。
だから、たとえ男が女の身体になっても、心が男のままだと女の身体では満足できないから、幸福にはならない。女の身体になると知覚に脂が溜まって知覚がよく働かなくなるから、男の知覚欲が満足できなくなって不幸になる。
女の身体になると五感欲が若干満足しやすくなるが、知覚欲の満足に比べると喜びは些細[ささい]なものである。[五感欲は知覚欲が満足できない者がしかたなく満足するあまり楽しくない感情である。]
女の中にもキュリー夫人やコワレフスカヤのように頭がいい人もいるが、女が知的な仕事をするにはすごい努力を要するのであって、男なら同じ仕事を楽々やれるから、わざわざ男が女の身体になって苦労を増やすことはない。女はもっと知覚を使わない五感的な仕事をするのに適している。
逆に、女が男の身体になっても、心が女のままだと愛情も五感欲も満足できなくなるから、かえって不幸になる。
たとえ医学で身体の性を入れ替えることができるようになっても、心つまり大脳まで入れ替えることはできないから、身体の性を入れ替える方法では幸福にはなれない。
自然は完全である。人間の身体と心は調和するように作られている。人間が浅はかな気持ちで自然をいじるとかえってよくないことになる。

[4429] 言葉の味 h20.3.10
言葉は知覚とは限らない。
言葉には、知覚的な言葉と五感的な言葉がある。
一般に、男の言葉使いは知覚的で、女の言葉使いは五感的である。
女は五感が発達して知覚が発達していないから、眼先の不合理的なことがよくわかる。
男は知覚が発達して五感が発達していないから、合理的なことしか受け付けない。
つまり、男は理解で、女は悟解だ。[私が高知学芸中学3年生のとき、数学の山之上[やまのうえ]先生が「川野君は理性よりも悟性が強いね。」とみんなの前で私に言った。しかし、当時の私はすでに理数系が得意で社会科や生物学が苦手だったから、理性的な人間だったはずである。山之上先生(東京大学卒業)は私が論理的な理解よりも直感的な理解が得意だと思って言ったのだろうが、じつは山之上先生がまちがっていたのである。私が社会科が得意だったのは小学4年生までで、小学5年から始まった歴史が苦手だったし、朝倉中学校の地理の試験で100点(先生の採点ミスで本当は95点)をとったのを最後に地理もパーになったから、小学高学年頃から私は五感的よりも知覚的な人間になったのだと考えられる。]
女が物理学や数学をやったから知覚的なのではなく、男が社会科や生物学をやったから五感的なのではない。知覚的か五感的かは対象よりも個人の感性で決まるのだ。

[4430] 道徳 h20.3.10
男と女では心も身体も違う。
だから、男には男の道徳があり、女には女の道徳がある。男の道徳と女の道徳は違う。
男と女を同一視して、男と女に同じ道徳を課してはならない。
そして、男と女がいっしょになると男と女の間に相互作用が働く。
つまり、家族=男+女+男・女。
子供が1人できれば、
家族=男+女+子供+男・女+男・子供+女・子供。
子供が2人できれば、
家族=男+女+子供1+子供2+男・女+男・子供1+男・子供2+女・子供1+女・子供2+子供1・子供2となる。

[4431] 現代の超能力観 h20.3.10
超能力は[ドラえもんの4次元ポケットのように]願いを何でも叶える能力ではなく、超能力者の脳の中にある超能力器官の働きである。
超能力器官とは、願いを何でも叶える器官ではなく、発光や運動と言った特定の物理現象を引き起こす器官である。
実際に、超能力者が現したのも、発光や運動と言った特定の物理現象だけに限られている。超能力者が何でもできたと言う観察記録はない。超能力者が他人の願いを叶えたと言う記録もない。
ところで、私が小学生だった頃、日本でユリ・ゲラーや関口少年の超能力が流行したが、わざわざテレビにユリ・ゲラーや関口少年などの偽者[にせもの]の超能力者を出演させたのは、過去に現われた神武天皇や釈迦やキリストや中国の八仙人や私などの本物の超能力者の超能力とユリ・ゲラーや関口少年などの偽者の超能力者の超能力が同程度のものだからだと考えられる。
ところが実際に、ユリ・ゲラーや関口少年の超能力を見て、ユリ・ゲラーや関口少年が何でもできて他人の願いを何でも叶えることができると考えた者はおそらく地球上にひとりもいなかったはずだ。ユリ・ゲラーや関口少年にできたことは、スプーンを曲げることだけだ。だから、みんなもユリ・ゲラーや関口少年をそれほど特別視せずに、ユリ・ゲラーや関口少年に平気で接することができたのである。[スプーン曲げの元ネタは、私は小学2年生の頃までお箸[はし]が使えず、全部スプーンで食べていたことにある。]
今の人間から見ると、超能力はそんな風にしか考えられない。
ところが、人間の中には、超能力を願いを何でも叶える能力だと考える人間がいる。そういう人間は、自分の眼で見て考える人間ではなく、他人から聞いたことを鵜呑み[うのみ]にするタイプの人間である。
古い時代の超能力に対するまちがった考えを信じて生きて行くことは、超能力者に対するまちがいが他のことにも及んで世界全体に対するまちがいに広がってゆくから、自分自身が実在に適応できなくなって困るだけではなく、そんな人間がいると他人にとっても迷惑である。
そもそも、超能力が願いを何でも叶える能力であることと、他の科学知識との間に矛盾がないだろうか?現代人は、ユリ・ゲラーや関口少年の超能力を自分の眼で見ても、超能力を願いが何でも叶う能力とは考えなかったから、必ず矛盾があるはずだ。
現代の実在観で超能力を捉[とら]えると、超能力の原理がなんだかわからないにせよ[私は、超能力が脳から出る感覚波を使うことだと考えているが]、とにかく超能力は超能力者が実際にできたひとつのことができるだけであり、超能力が願いを何でも叶える能力ではないことは明らかである。現代社会の中で生きて行く人間は多かれ少なかれ科学的認識の方法を身に付けており、科学的認識の方法では、自分の眼で見たことをむやみやたらに一般化しないので、変わったことがひとつできたからと言って何でもできるとは考えないのである。
だから、実際にユリ・ゲラーや関口少年の超能力を見た人も、ユリ・ゲラーや関口少年を全知全能の神だと思ってひれ伏したり、願いを何でも叶える能力があると思ってありがたがって拝[おが]んだりしなかったのである。
つまり現代では超能力者は超能力者にほかならず、超能力者を神だと考える者はいないのである。

[4432] 超能力は実在するか?☆ h20.3.10
物理法則に反する超能力はありえない。
だから、例えば、キリストが100個のパンを出したと言う超能力は質量保存の法則やエネルギー保存の法則に反するから、嘘の作り話である。また、キリストが死んだ人間を生き返らせたり、釈迦が遠くに住んでいる病気の人間を思っただけで治したりするのは、エントロピー増加の法則?や医学の法則に反するから、これも嘘の作り話である。[生物を構成するのは細胞であり、細胞の核に蓄えられた生きるための情報が死んだ後ですぐに失われるから、生物は一度死んだら生き返らないのである。]
しかし、光を出したり、小さな物を動かしたりする超能力は、それに必要なエネルギーをまかなえれば実現できると考えられるから、大脳の中にある超能力器官でできないとは限らない。
今のところ超能力器官の仕組みはわかっていないが、そこはブラックボックスと言うことにして、ブラックボックスの中身については未来の科学者の研究に任せようではないか。
現在の我々にわかっていることは、ただ、超能力者の脳の中に発光や運動を引き起こす超能力器官という特別な器官があることだけだ。
しかし、そのことがわかっただけでも、人類は実在世界に対する大きな一歩を踏み出したと言えるのではないだろうか?

[4433] 科学的認識の方法 h20.3.10
昔の人は、超能力者の超能力を見て超能力が何でもできる能力、人間の願いを何でも叶える能力だと考えた。
その仮設に従って実際に成功したことは一度もなかったが、それでも人類は何千年もの間この仮説を捨てようとしなかった。
それは、昔の人がまだ科学的認識の方法を知らなかったからである。
科学的認識の方法では、仮説を立てて一度でも失敗したらすぐにその仮説を捨てる。
だから、科学的認識の方法では、実際に釈迦やキリストや天皇に願っても願いが叶ったためしがないから、超能力は何でもできる能力でも、人間の願いを叶える能力でもないことがすぐにわかる。
昔の人は、じつに能率の悪い考え方をしていたものだ。

[4434] 天皇制を鵜呑みにするな! h20.3.10
天皇制は今では厳然とした日本政治の仕組みになっている。
しかし、そもそもなぜ天皇に従わなければならないのかわからない。
理由がわからないまま天皇制を続けるのは、合理主義的な人間にできることではない。
理由がわかってはじめて従う気になるのが、合理的な人間と言うものだ。

[4435] 宗教的世界観とは何か?☆ h20.3.10
超能力者の超能力を何でもできる能力、人間の願いを何でも叶える能力と考えて出来たのが宗教的な世界観である。
宗教的世界観では、『超能力が何でもできる能力、超能力が人間の願いを何でも叶える能力である』ことが第一原理となっている。
それでは、ニュートンの運動の3法則を第一原理とする科学的世界観とはずいぶん違っているわけだ。
宗教の第一原理である超能力者の法則と科学の第一原理であるニュートンの運動の3法則とは矛盾する[超能力者の法則が成り立てば超能力は何でもできるからニュートンの運動の3法則が成り立たないし、逆にニュートンの運動の3法則が成り立てば超能力は何でもできるわけではないことになって超能力者の法則が成り立たなくなる。]から、宗教の世界観と科学の世界観とは相容れない。
それに、宗教は認識が実在に従わないで実在を支配する方法であり[実際には何もできないが]、科学は認識が実在に従うことによって実在を支配する方法だから、宗教と科学とは方法においても明らかに違う。
だから、宗教を肯定する者は科学を否定し、科学を肯定する者は宗教を否定する。
したがって、宗教の者は科学の発明品(自動車やテレビや電話など)を一切使うことができないはずだ。それでも、宗教の者は生きて行けるのだろうか?
日本政府も今のところ科学と宗教の両方を採っているが、どちらかひとつに決めねばならない。[日本に超能力者が出たことと日本が宗教第一原理を採ることとは別ごとだから、いくら日本に超能力者が出たからといって日本が宗教の超能力者の法則を採ることは日本がただたんに古いまちがった世界観に従うことにほかならないからやめたほうがいい。]

[4436] 空飛ぶ円盤は存在するか? h20.3.10
超能力が物理法則を犯さないから存在すると言うなら、現代の人類にとって未知のエンジンを載せて宇宙を準光速で飛び回る空飛ぶ円盤も存在するだろう。
しかし、幽霊は存在しない。なぜなら、私の哲学第一原理によれば、感覚つまり精神は脳細胞の活動で発生するから、死んで脳が活動しなくなったあとでは感覚つまり精神はもはや存在しないからである。だから、心霊写真も事実ではなくて嘘の作りごとである。仏教の死後の世界も全部嘘の作りごとである。だから、墓は建てなくてよい。
ネッシーは、生物の個体数が少なすぎると日本のトキのようにすぐに絶滅するから、どうだろう?

[4437] どうして? h20.3.10
ガリレオは地上の物体の運動について詳しく研究して落下する物体が等加速度運動することまで明らかにした。
ニュートンは、さらにどうして落下する物体が等加速度運動するのか?を考えた。
そして、重力を発見したのである。
そこで、コペルニクス以来始まったどうして?はいったん終わったのである。

[4438] 科学的認識の方法 h20.3.11
科学的認識の方法を取る学者はギリシア時代にもいた。
例えば、アルキメデス(紀元前287−紀元前212)は風呂に入って自分の身体を軽く感じたことから浮力の原理を発見した。
これは、明らかに帰納法である。
しかも、その浮力の原理を用いて船が浮かぶことが理解できたから、これは演繹法である。
したがって、アルキメデスはすでに科学的認識の方法を用いていたことになる。
ただ、アルキメデスはその方法を自分で認識するには至らなかった。
つまり、ギリシア時代にもすでに科学的認識の方法はあったが、科学的認識の方法についての認識がなかったのである。
その後で不幸にもキリスト教が流行ったから、ギリシアの科学的認識の方法はいったん廃[すた]れてしまったのである。

[4439] どうして天皇は役に立たないのか? h20.3.11
キリストの教えに従うことがキリストを崇めることになるように、神武天皇の子孫である天皇に従うことは、神武天皇を崇めることになる。[たんなる宗教上の取り決めにすぎないと思われるが。]
しかし、神武天皇はとっくの昔に死んでしまっているから、よしんば神武天皇の超能力がなんでも願いを叶える能力であったとしても、さすがに死んでしまっていて身体がなければ神武天皇の超能力も効果がない。[たとえ、超能力が神武天皇の精神の働きであったとしても、私の哲学第一原理より、精神は脳細胞の活動で発生する感覚(あるいは感覚波)にすぎないのだから、身体がなければ精神もないので、やはり神武天皇の超能力の効果は期待できない。]
だから、いくら今の天皇に従っても、願いは叶わないのである。

[4440] どうして今の天皇に権威があるのか?☆☆ h20.3.11
今の天皇に権威つまり他人を従わせる力があるのは、天皇に従うことが神武天皇を崇めることになり、人々が自分の願いを叶えることができるからである。
つまり、人々は自分の願いを叶えるために天皇に従っているまでのことである。
しかし、その考えはまちがっている。[[4439]参照。]
人々は自分の願いを叶えるために天皇に従っているにすぎないのだから、願いが叶わなければ天皇に従う者はいない。
つまり、今の天皇に他人を従わせる力すなわち権威はないのである。

[4441] 宗教の原理☆☆ h20.3.11
宗教の原理すなわち昔どこかの誰か(不明)が考えた超能力の3法則は、
1)超能力はなんでもできる能力であり、願いをなんでも叶える能力である。
2)超能力者を崇めれば、超能力で自分の願いを叶えてくれる。
3)超能力者の超能力は超能力者が死んだ後でも有効である。
である。
宗教は、これらの超能力の3法則に従って、細かい法則をたくさん作り出して、人間社会を動かしている。[その中には、日本政府も含まれている。]
しかし、現代においては、
1)ユリ・ゲラーや関口少年の例でわかるように、科学的認識の方法が身に付いている現代人にとっては、たとえ女子供でも、超能力を見てなんでもできる能力とか願いをなんでも叶える能力だとは考えない。現代人は自分の眼で見たことしか信じないので、超能力では超能力者が実際にできたことしかできないと考える。
2)1が成り立たないから、2も成り立たない。
3)私の哲学第一原理より、超能力者の身体が死んだ後では超能力者の脳の中にある超能力器官も超能力者の精神も両方ともなくなってしまうので、超能力者が死んだ後では超能力者の超能力は無効である。
したがって、現代の科学的世界観においては、上の宗教の超能力の3法則は全部成り立たない。つまり、フロギストンやエーテルや生物の自然発生説が否定されたように、宗教が立てた超能力者についての仮説を否定しなければならない。

[4442] どうすれば願いは叶うか? h20.3.11
超能力者の超能力に頼っても願いは叶えられない。
自分が実在世界について勉強して実在世界にある物を用いて自分の願いを実現することによって、自分の願いを叶えることができるのである。

[4443] なぜ宗教の超能力の3法則があったのか? h20.3.11
昔は物と心つまり認識される物と認識する者の区別もついていなかった。
人々にとっては、世界はわけがわからないことだらけだった。
そんな低い文化の中で、超能力を見たら、心で思ったことがなんでも物になる(実現される)能力だと誤解しても仕方がない。
しかし、だからといって、そんなまちがった考えを今でも続けることはもはや許されることではない。

[4444] 日本の宗教の独自性 h20.3.11
一般的に、世界の宗教では、
4)超能力者の教えに従うことが、超能力者を崇めることになる。
とされている。
したがって、他の超能力者についての法則と合わせて、
超能力者の教えに従うことが、自分の願いを叶えることになる。
わけである。
しかし、神武天皇は無口な行動派で思想を残さなかったので、日本では例外的に、
4’)超能力者の子孫に従うことが、超能力者を崇めることになる。
とされている。
それで、日本では、超能力者であった神武天皇の子孫である天皇に権威があるわけである。

[4445] 宗教の危険性 h20.3.11
上の4や4’で見たように、超能力者を崇める方法には任意性がある。
超能力者を崇めるためには、何をするかわからないのが宗教の危険なところである。
例えば、超能力者である私を崇めるために、中国の上海で私の出身校である高知学芸高校の生徒が乗っていた列車事故を起こしたり、アメリカのNY(ニューヨーク)で旅客機事故を起こしたりする。[NYは、私と私の両親のイニシャルである。]
事故を起こして私を崇めれば、自分の命と引き換えに自分の願いが叶うとでも思ったのだろうか。
ところで、宗教の者も人間だから、人間が勝手に他の人間の生死を決めることは許されない。
現行法と、宗教の法則とは矛盾する。
法律を守るためにも、宗教を否定しなければならない。

[4446] 科学人と宗教人 h20.3.11
宗教の原理はまちがっているから、はやくこの世からなくすべきである。
今日においては、日本のように、一般の正常な者は宗教(の)原理に従っていない。
しかし、今日においてもなお、宗教の原理に従っている者たちがいる。
その者たちがすんなり改心して宗教の原理を放棄してくれればいいが、そうしてくれないかもしれない。
ところで、宗教と科学では原理が矛盾対立しているので、宗教原理に従う者は科学原理に従わず、科学原理に従う者は宗教原理に従わない。
ちょうどキリストの教えと釈迦の教えが矛盾対立しているためにキリスト教社会と仏教社会が相容れないように、宗教社会と科学社会は相容れないから、宗教原理に従う者は科学社会の中で暮らしてはならず、科学原理に従う者は宗教社会の中で暮らしてはならない。
キリスト教社会と仏教社会が分かれているように、宗教社会と科学社会は分かれていなければならない。
したがって、科学原理に従う科学人は宗教原理に従う宗教人と互いに分かれて独立して暮らさなければならない。つまり、科学人は宗教人に命令しても命令を聞いてもならないし、宗教人は科学人に命令しても命令を聞いてもならない。
科学原理に従う科学人が科学人だけで社会を作って生きて行くように、
宗教原理に従う宗教人は宗教人だけで社会を作って生きて行けばいい。


[4447] 超能力の実在性 h20.3.11
念光力器官も念動力器官もテレパシー器官も作動原理や内部の仕組みは現代の科学ではまだわからないが、そんな物があると仮定すると、宗教(神制度)や精神分裂病が論理的・合理的に理解される。
それなら、超能力の実在性(超能力が実在すること)を認めたほうが話が早いし、実効性がある。超能力の存在を認めずに迷宮入りになるよりも、超能力の存在を認めて解決したほうが発展性がある。
科学とは、そういうものだ。

[4448] 無駄のないよさ h20.3.11
旅チャンネルの『RailwayStory』#50「PART3アンデスを越えて(アルゼンチン〜チリ)」で見たラテンアメリカの世界には、昔の日本の田舎ように、無駄のないよさが光っている。
北アフリカのモロッコよりもすごかった。
ヨーロッパかぶれしていない町が今でもそこにはある。

[4449] オウム真理教 h20.3.11
日本におけるオウム真理教と世界における日本が同じ関係にある。
科学的世界に宗教原理を持ち込んで科学を宗教のために悪用すると、他人や他国にとって迷惑である。
オウム真理教以外の日本人から見てオウム真理教の人間が幸福に見えなかったように、
日本以外の世界の国から見て日本が幸福には見えないだろう。
科学的世界における宗教は、善い人生を目指すのが目的にしろ精神的開放感を得るのが目的にしろ、合理的でなければならない。宗教のために科学的世界を破壊するような宗教は認められない。

[4450] 私が天皇だったらどうするか? h20.3.11
まず天皇制をやめる。天皇制はまちがった宗教原理に従う制度だからである。
そして日本の政治をできれば実在制つまり学者制の政治にしたいところだが、今のところは議院内閣制で許しておく。

[4451] 素敵さ h20.3.11
ヨーロッパ文化はたしかに素敵であるかもしれない。
しかし、日本人の心にはそもそも素敵さに対する感性がないから、いくら形の上だけでヨーロッパを真似て素敵にしても無駄である。むしろ、日本人にとっては素敵さは不快でさえある。
日本人にとっての快適さは素敵さとは別のところにある。
もっと自分の心を働かせて物を見なければならない。
女のくだらない五感的な感性に合わせるよりも学者の実在的な感性に合わせたほうがいい世の中になる。

[4452] 精神分裂病 h20.3.12
認識と実在との間に対立があったとき、認識が正しく実在がまちがっていると考えて、認識を肯定して実在を否定しようとするあまり、自分の脳を激しく興奮させて精神病に罹ってしまうことがある。
実在が自分にとって不快に感じられるとき、その対立を実在世界の中で合理的に(実在世界の中において)解決しようとしないで、心を肯定して実在を否定しようとして、心を激しく興奮させた結果、[テレパシー器官を興奮させてテレパシー器官が働くようになる以外にも、]脳に微小的な器質的な破壊が生じることがある。脳を激しく興奮させすぎた結果、その人にとって一番脆弱な(壊れやすい)脳の部分が微小的に壊れてしまう。マクロスコピックな検査ではわからないミクロスコピックな器質的な破壊が生じる。つまり、精神病はミクロスコピックな脳の器質的破壊である。だから、精神病者の脳を顕微鏡で詳しく調べれば、どこかに微小な器質的な破壊が見つかるはずである。それが精神病の正体である。
精神病が知覚が疲れているときに罹ることが多いのは、知覚が働くときには実在の世界が見えていて認識と実在の対立を合理的に(実在世界の中において)解決しようとするが、知覚が疲れてよく働かないときには実在の世界が見えていなくて実在の世界の外で認識と実在の対立を不合理的に解決しようとするからである。一般的にはテレパシーは実在しないつまり実在世界の中にテレパシーはないと考えられているが、知覚が疲れてよく働かないときには、テレパシーが存在しないということをすっかり忘れているために、実在しているテレパシー器官をついつい活動させてしまうのである。[赤ん坊が超能力を発現することが多いのは、赤ん坊はまだ超能力が実在することを忘れていないからである。本当は実在世界には超能力があるのだが、学校では超能力ことを教えないからいつしか超能力がない世界を実在の世界だと考えるようになってしまうのである。だから、大人でも実在の世界が見えなくなるぐらいに知覚が疲れていると超能力を発揮できることがあるかもしれない。テレパシー器官は精神分裂病の原因になるので有害だが、その他の超能力器官は無害だから、テレパシー器官は働かせてはならないが、その他の超能力器官は働かせてもかまわない。しかし、実際には、テレパシー器官以外の超能力器官を働かせることはなかなかできないことである。それは、テレパシー器官以外の超能力器官を持っている者が少ないことと、テレパシー以外の超能力器官を働かせる必要が実際の生活においてはほとんどないからである。[もっとも、たとえ実生活で使う必要がないといっても、超能力の原理がわかっていないのだから、超能力を研究する必要があるので残しておくべきである。超能力が有害な物でなければ、保存しておくべきである。つまり、テレパシー器官は精神分裂病の原因になるので有害だから切除してもかまわないが、その他の超能力器官は無害だから保存しておくべきである。]テレパシー器官がテレパシーしか使えないように、その他の超能力器官もひとつの超能力しか使えない。だから、超能力者に人間の願いをなんでも叶える能力はない。超能力者は全知全能の者でも人間の願いを叶える者でもない。

精神分裂病には、テレパシー器官だけが働くものと、それに脳の微小な器質的破壊が加わったものの2種類がある。例えば、私の場合は、私が小学4〜5年生頃私の母親が顔面神経麻痺になったことがあるし、私が精神病に罹る前の中学2年生の頃勉強中に右の顔の頬がヒリヒリして引きつることがよくあったから、右の顔面神経核の辺りに私の脳の弱点がもともとあったようである。私が高1のとき通りをはさんで右側の席に座っていた不良の態度が気に入らなくて自分の脳を激しく興奮させたときに、自分の脳の弱点が微小的に壊れてしまった。それ以来、他人にガン飛ばしをされると右の顔面神経核の辺りがズキズキ痛んで眼が外側を向いてしまうようになってしまった。私のように、脳に微視的な器質的破壊が加わったケースはむしろ稀かもしれない。[テレパシーがなくて、脳の微小な器質的破壊だけがある精神分裂病もあるかもしれない。]
精神分裂病では、はじめの数年間はテレパシーで焦燥感情が刺激されてイライラすることが多いけれども、そのうちテレパシーに慣れてきてテレパシーを音と同じように考えてあまりイライラしなくなる。だから、分裂病は慢性的な焦燥感情の持続的興奮というほどのものではなく、ただ多少の焦燥感情の興奮しやすさがその後も残るだけである。

[4453] 超能力は危険か? h20.3.12
中国の八仙人が有名だから、中国では過去に超能力者がいたことは確実である。
ところで、私が医学生の頃、外科学実習で手術の見学をしたことがあったが、休憩時間に中国から留学に来た中国人の医者が、「中国の奥にはまだ戸籍もないところがある。」と言って笑っていた。
つまり、中国は国民の管理が甘い。
だから、中国で過去に現われた超能力者(超能力を使ったことのある者)も何の処置もされずにそのまま放置されていた可能性が高い。
それでも、中国に超能力で事件が起こったという記録はこれまでに一件もない。
だから、超能力は危険ではないと考えられる。

[4454] オナニーと分裂病は関係があるか? h20.3.12
オナニーすると性欲が満足されるので知覚欲を満足しようとしなくなり知覚が働かなくなる。[短期間だとわかりにくいが、長期間だとかなり知覚が働かなくなる。]
知覚が働かないと五感に敏感なり他人の態度がすごく気になる。
知覚が働かないと実在が見えなくなり、実在の世界の中で合理的に問題を解決しようとしなくなる。
一方、オナニーすると、仕事や勉強中にオナニーできずに欲求不満になりちょっとのことで腹を立てやすくなる。
さらに、オナニーすると性欲を満足したときの快感が強いために感情主義になり、実在と感情が対立して実在が感情にとって不快に感じられるとき、自分の感情を抑えようとせずに、反対に実在を打ち負かそうとして自分の感情(中枢)を強く興奮させるようになる。[感情主義は鬱病の原因でもある。]
そんなときに、他人がちょっと自分の気に入らないことをすると自分がすごく腹を立てて、それを実在世界の中で合理的に解決しようとせずに、テレパシー器官を働かせて解決しようとして分裂病に罹る。
このように、オナニーと分裂病との間にはいろんな関係があるので、オナニーは分裂病の原因であると考えられる。

[4455] テレパシーを使わないほうがいい理由 h20.3.12
テレパシー器官は一度働き出すと途中で止めることができない。つまり、テレパシーは一度使えるようになると使うのをやめることができない。これはテレパシーの法則であり、どうにもならない。携帯電話のように、自分が都合のいいときだけ使うわけにはいかないのである。
自分がテレパシーが使えるようになると、逆に他人の考えていることが自分にテレパシーで聞こえるようになる。これはテレパシーの法則なので、どうしようもない。つまり、テレパシー器官は自分から他人に意思を伝えるだけではなく、その逆に他人から自分にも意思を伝えることができる。これをテレパシー器官の相反定理という。
テレパシーが聞こえるようになると、テレパシーで自分の悪口を言うやつがいて自分が不愉快になるから、はじめからテレパシーは使わないほうががいいのである。

[4456] 超能力に関する妄想の起源について h20.3.12
眼に見える現象は、認識と実在の両方で決まるという説がある。
だから、認識の力が強いと実在を負かすことができて心で思ったことが実現されるというのである。
超能力に関する妄想もそんなところから生まれてのだろう。
心で思っただけで宇宙が変わるならいちいち頭を使って考える必要がない。
そんな安易な方法があれば、誰でも教わりたいものだ。
それで人類は長い間自分の夢を叶えるためにそんな便利な方法を求めつづけてきたのである。
ところが、いくらやっても自分で超能力が使えるようにならないので、いつしか自分で超能力を使う代わりにこれまでに現われた超能力者に頼って超能力者を崇めることによって自分の夢を実現しようとするようになったのである。
しかし、実際には、これまでの超能力者が超能力でできたことはひとつのことだけであり、しかも念光力か念動力かに限られているから、なんでもできたわけではない。
つまり、超能力も実在の法則に従って発現される現象にすぎず、超能力で実在を変えることなどできはしない。
だから、超能力者にいくら頼っても無駄である。

[4457] 演繹法 h20.3.12
認識主義では、認識が実在を打ち負かすものと考えられている。
その気構えがヨーロッパ大陸では強く残っているので、演繹法が得意なのである。
科学者の考え出した原理が、いわば一種の超能力のようなものと見なされているのだ。

[4458] ヨーロッパかぶれ h20.3.13
ヨーロッパはたしかに日本よりも科学や数学では優れているが、哲学では明らかに劣っている。[自分より優れている者の存在を認めるところが日本の長所である。]
ヨーロッパの哲学は、キリスト教のせいで、認識主義であり狂っている。キリストの教えも下品だが、宗教自体も哲学の大きな遅れの原因となっている。
日本の哲学がいいのは、幸運にも神武天皇が思想を残さなかったからである。
そのため、明治時代には、日本はヨーロッパの科学や数学だけを取り入れ、哲学は取り入れなかった。ヨーロッパの科学や数学に日本の哲学を組み合わせていちいち和洋折衷をやっていた。
しかし、最近は、劣っているヨーロッパの哲学までも取り入れている。
だから、最近の建築はヨーロッパかぶれして認識主義とりわけ五感主義がかってキチガイ染みて汚らしく見えるのだ。
いくら国際社会になったとはいえ、わざわざ他国の劣った点までも取り入れることはない。

[4459] 認識主義は精神病の原因である。 h20.3.13
オナニーやセックスや麻薬などで性欲や他の快楽中枢が満足されて強い快感が得られると、自分の感情を中心に考える感情主義になる。感情主義が知覚や五感にまで広がると、一般に自分の認識を中心に考える認識主義になる。
認識主義になると、認識が実在に従おうとしない。認識が実在に従おうとせずに、実在を支配しようとする。
精神分裂病では、
実在しないと考えられているテレパシーで問題を解決しようとする。例えば、テレパシーで他人の頭の中を覗いたり、テレパシーで他人の身体を操ろうとして、テレパシーを使おうとする((知覚主義))。
しかし、実際には、テレパシーが実在するために、テレパシーが本当に使えてしまう。[学校で教えられている狭い実在ではテレパシーは存在しないが、広い実在ではテレパシーが存在する。]
また、そうしてテレパシーが使える後になっても、テレパシーの悪口で自分の焦燥感情が刺激されてイライラするのを、自分の焦燥感情が悪いと考えられずに、テレパシーで悪口を言う者が悪いと考えてテレパシーで悪口を言う者を激しく攻撃しようとする((感情主義))。
鬱病では、
自分が置かれた環境のために自分の鬱感情が刺激されて自分の気持ちが落ち込んでいる場合に、自分の鬱感情が悪いと考えずに自分が置かれている環境のほうが悪いと考えて、ひたすら環境のほうを攻撃しようとする((感情主義から知覚主義(妄想)への拡大))。
さっさと自分が動いて自分の鬱感情を刺激する環境から自分が抜け出せばいいのに、自分が動かずに環境を攻撃するだけだからいつまでたっても鬱感情の刺激から逃れられない。
人間の心の中には鬱感情という気分が落ち込む感情があり、鬱感情は普段は自分の生活を幸福にするために役立っているのだが、場合によっては問題になることがある。
事象(環境)と鬱感情の対応はどうしようもないから、事象(環境)を否定するか、鬱感情を否定するかしかない。ところが、自分ひとりのために自分の周りの環境全体を変えることは通常できないから、逆に自分が動いて自分の周りの環境から抜け出せばよいのである。
しかし、そもそもは、認識主義になっていること自体が原因だから、自分の認識に対して目を向けられるようになり、自分の認識を客観的に(物と同じように)見れるようになることが大切である。

[4460] 東洋精神と西洋精神 h20.3.13
東洋精神は昔から実在主義である。つまり、認識が実在に従おうとする。
反対に西洋精神は昔から認識主義である。つまり、認識が実在を支配しようとする。[自然選択により、西洋と東洋の環境の違いから、厳しい環境の西洋では認識主義の人間が多く生き残り、優しい環境の東洋では実在主義の人間が多く生き残ったのである。]
もっとも、東洋にも認識主義の者がいて、西洋にも実在主義の者がいる。
東洋精神と西洋精神が統合されたところに科学的認識の方法が成立する。
一方、宗教の世界は認識主義であり、科学の世界の半分でしかない。
実在主義の下では哲学が発達し、認識主義の下では科学や数学が発達する。
だから、両者のよいところを取り入れて思想の偏りを是正すればよい。
イギリスや日本は昔から自分が狭い島国であることを意識しているから、外国のいろんな国から思想を積極的に取り入れようとしてきた。[イギリスの帰納法は、東洋との関りの中で生まれた思想であるかもしれない。]
それで、自国の偏狭な思想にとらわれず文化を発展させることができたのである。
日本は明治時代に西洋から科学や数学を取り入れることによって認識主義(認識が実在を支配しようとする気構え)を取り入れて、それが日本古来の実在主義(認識が実在に従う気構え)と相成って、日本は大きな発展を遂げたわけである。
科学的認識の方法は東洋の実在主義と西洋の認識主義の折衷だから、現時点における最も優れた主義であり、宗教のような時代遅れの認識主義は蒸気機関車と同じようなものだから、はやくやめたほうがいい。

[4461] なぜ日本の天皇制はヨーロッパで受けがいいか? h20.3.13
日本の天皇制は、宗教だから認識主義である。
一方、ヨーロッパは昔から認識主義である。
だから、日本が天皇制をするとヨーロッパの思想と通じるので、ヨーロッパで受けがいいのである。

[4462] なぜ日本は天皇制を大事にしたのか? h20.3.13
日本は昔から実在主義だった。
しかし、それだと主義が偏るので、実在主義の日本の中に反対の認識主義の天皇制を置いて、実在主義と認識主義の折衷を図[はか]ったのである。
しかし、今では実在主義と認識主義が統合された科学的認識の方法が確立しているから、天皇制をわざわざ置く必要はない。
日本の中に天皇制を置いても、実在主義の中に認識主義を付け焼刃的に足し合わせているにすぎない。つまり、実在主義と認識主義の折衷は天皇制ではうまく行かず、科学的認識の方法によらねばならなかったのである。
天皇制はすでに無用の長物と化しているのだ。[宗教もまた過去の遺物にすぎない。]

[4463] 第二次世界大戦はなぜ起こったか? h20.3.13
認識の世界では、日本が世界を支配することができた。
そして、天皇家は、認識を実在化する不思議な能力がある一族であると考えられていた。
そこで、天皇を元帥にして戦争をすれば、日本が世界を支配できると考えたのである。
しかし、戦争に負けたので、天皇家に不思議な能力がないことがわかった。

[4464] 天皇制は国家的な精神病の原因である。 h20.3.13
天皇制があるために、日本は認識主義になり、実現不可能なことをしようとする。
その結果、無駄な損失を出す。
自国にとっても他国にとっても天皇制は迷惑である。
オナニーやセックスや麻薬で人間が認識主義になるように、天皇制や宗教で国が認識主義になる。
認識主義は精神病そのものだから、天皇制や宗教は国家的精神病の原因であるといえる。

[4465] 認識主義に発展性はあるか? h20.3.13
認識主義は認識を実在化するだけである。
たとえ自分の考えている世界観と実在が合っていなくても、自分の考えている世界観が正しく実在がまちがっていると考えて、自分の世界観を一向に直そうとしない。[自分が考えている世界観と実在が合っていない場合、実在の世界(あるいは、正しい世界観を持っている人)を攻撃することもある。]
だから、自分が考えている世界観に発展性がない。
認識主義では、昔の世界観を守っていくだけである。
つまり、認識主義は考えない。

[4466] 認識主義は創造しない。 h20.3.13
認識主義では、自分の考えている世界観と実在が合っていないときに実在の世界(実在世界の法則に従って人々がコツコツと築き上げてきた世界、科学的認識の方法に従って築いてきた世界)を攻撃して破壊しようとする。
ところが、自分の考えている世界観も空想にすぎず実現しない世界である。
だから、認識主義は実在の世界を破壊するのみで創造しない。
[1000年前の世界に戻すことならできるだろうが、そんなことをしても人々は幸福にはならない。]

[4467] 科学的認識の方法は創造する。 h20.3.13
科学的認識の方法によれば、自分の考えている世界が実現できるから、自分の考えている世界のほうが現在の実在の世界よりも幸福ならば、現在の世界を破壊して自分の考えている世界を創造しようとする。
本当に人類は幸福な世界を目指して進んでいるのだろうか?
中年男の私から見れば、今の世界はケバイだけであまり楽しくないような気がするのだが…。

[4468] 宗教と科学の関係 h20.3.14
宗教は帰納法のない科学である(宗教=科学ー帰納法)。
科学が実在についての完全な考え方であるのに対し、宗教は不完全な考え方である。
反対に、帰納法のある宗教が科学だから、宗教が発展したのが科学であるとも言える。
つまり、宗教とは科学が生まれる以前にあった古い時代の物事の考え方なのだ。

[4469] 宗教のない世界 h20.3.14
宗教は古い時代のまちがった実在についての考え方にすぎない。
一方、科学は正しい実在についての考え方である。
科学があれば宗教はもはや要らない。
だから、宗教はないほうがいい。
宗教を禁止することはできるから、宗教のない世界は実現できる。
宗教のない科学だけの世界にしよう。
[科学的世界観と相容れない宗教は禁止しなければならない。科学的世界観においては超能力者は超能力者にすぎないから、超能力者がらみの宗教をしてはならない。反対に、科学的世界観と相容れる宗教(例、より善い生き方を求める会、実社会で疲れた心を癒す会など)は許可してよい。]

[4470] 宗教の自由 h20.3.14
日本国憲法では、宗教の自由が認められている。
ところが、宗教は認識主義だから、まちがった世界観を肯定するために実在の世界を攻撃して破壊されたら迷惑である。
国は破壊された実在の世界を保障もしないのに、認識主義を許可してよいわけがない。
日本国憲法は、矛盾が多い不完全な法律だ。[3年に一度ぐらい法律の内容を検討して改定する努力が必要である。]

[4471] 結婚はセックスのためにあるのではない。 h20.3.14
セックスのために結婚したのだが、実際にセックスをしても思ったほど楽しくなかったので結婚を後悔して大泣きすることがある。
セックスが楽しいか楽しくないかは実際にやってみないとわからない。
だから、当てにしないほうがいい。
そもそも、性欲のために結婚するなどもってのほかだ。
性欲について無知すぎる。
性欲を満足すると認識主義になってキチガイになるから、性欲は満足しないほうがいい。
性交(セックス)は女が子供に対する愛情を満足するためにするのであって、男や女が性欲を満足するためにするのではない。[受精のために性交するのなら、性欲を満足しなくてもいいはずである。性欲を無意識的に満足させる(性欲中枢を弱く興奮させる)だけでも、男が射精するには十分なはずである。]
結婚前には、セックスよりも、相手の女性に料理を作らせて味見するほうが大事である。

[4472] 神はどこにいるか? h20.3.14
認識主義では認識が実在に従わないために、認識主義の世界には実在しない概念が存在する。
認識主義の世界の中には神の概念が存在する。認識主義における神の意味は全知全能の者である。
一方、科学的認識の方法では、神の概念は存在しない。科学的認識の方法では、現在までにまだ全知全能の者は見つかっていないから、神は存在しない。
認識主義の世界には、また超能力者の概念が存在する。ただし、認識主義における超能力の意味は、認識をなんでも実在化する能力のことである。神は全知全能だから超能力が使えるし、反対に超能力者は願いをなんでも実現できて全知全能だから、認識主義において神と超能力者は同じ者である。
科学的認識の方法の下でも超能力はあるが、科学的認識の方法における超能力の意味は念光力や念動力など限られたひとつのことができるだけである。科学的認識の方法では、超能力の存在は確認されているが、超能力の原理や仕組みは現在のところまだ不明である。
実在する(科学的認識の方法における)超能力者に対して認識主義者が自分の持っている神の概念を当てはめて見るので、認識主義者にとっては実在する超能力者が神ということになる。しかも、認識主義では認識と実在が合っていなくても認識が正しく実在が間違いだということになるから、一度神の概念を超能力者に当てはめるとその後いくら自分の考えと実在が合っていなくても、ずっと超能力者は神のままである。認識主義者は頑固で他人に自分が間違っていると言われても自分が正しいと言い張るから、いつまでも誤解が解けないままである。いわゆる、精神医学で言うところの妄想症である。
しかし、認識主義者の誤解に正常者(科学的認識の方法に従う者)が付き合わされては迷惑だから、妄想症の患者を精神病院に入れて一般人から隔離するように、認識主義者を正常者(科学的認識の方法に従う者)から隔離して影響が及ばないようにして、認識主義者の誤解に正常者が従わされないようにしなければならない。
つまり、神も超能力も認識の世界に存在するだけで、実在の世界には存在しない。

[4473] 神はどこにいるか? h20.3.14
認識主義では認識が実在に従わないために、認識主義の世界には実在しない概念が存在する。
認識主義の世界の中には神の概念が存在する。認識主義における神の意味は全知全能の者である。
一方、科学的認識の方法では、神の概念は存在しない。科学的認識の方法では、現在までにはまだ全知全能の者は見つかっていないから、神は存在しないと考えられている。
認識主義の世界には、また超能力者の概念が存在する。ただし、認識主義における超能力の意味は、認識をなんでも実在化する能力のことである。神は全知全能だから超能力が使えるし、反対に超能力者は願いをなんでも実現できて全知全能だから、認識主義において神と超能力者は同じ者である。
科学的認識の方法の下でも超能力はあるが、科学的認識の方法における超能力の意味は念光力や念動力など限られたひとつのことができるだけである。科学的認識の方法では、超能力の存在は確認されているが、超能力の原理や仕組みは現在のところまだ不明である。
つまり、神も超能力も認識の世界に存在するだけで、実在の世界には存在しないのである。
実在する(科学的認識の方法における)超能力者に対して認識主義者が自分の持っている神の概念を当てはめて見るので、認識主義者にとっては実在する超能力者が神ということになる。しかも、認識主義では認識と実在が合っていなくても認識が正しく実在が間違いだということになるから、一度神の概念を超能力者に当てはめるとその後いくら自分の考えと実在が合っていなくても、ずっと超能力者は神のままである。認識主義者は頑固で他人に自分が間違っていると言われても自分が正しいと言い張るから、いつまでも誤解が解けないままである。いわゆる、精神医学で言うところの妄想症である。[西丸四方著『精神医学入門』の鬱病の例を参照。]
しかし、認識主義者の誤解に正常者(科学的認識の方法に従う者)が付き合わされては迷惑だから、妄想症の患者を精神病院に入れて一般人から隔離するように、認識主義者を正常者(科学的認識の方法に従う者)から隔離して正常者に影響が及ばないようにして、認識主義者の誤解に正常者が従わされないようにしなければならない。

[4474] 天皇とは何か? h20.3.14
科学的認識の方法が確立する以前は、まだ認識主義が正しい主義として世の中に通用していた。
認識主義では[認識と実在の区別がついていないために]認識の世界にあることは実在することになるので、その頃の時代には、認識の世界の中にある神が実在すると考えられていた。
そんな時代にいた神武天皇は超能力が使えたので神だということにされた。
神を崇めれば自分の願いが叶えられるとされた。
神である神武天皇の精神は不死であるとされた。
神武天皇の子孫に従えば神武天皇の精神を崇めることになり、自分の願いが叶うとされた。
こうして、認識主義の世界の中で[妄想症の患者が自分の妄想を太らせていくように]超能力者であった神武天皇やその子孫の天皇に関するさまざまなルール(科学から見ればただの迷信にすぎないが)が作られていったのである。
しかも、認識主義では認識と実在が合っていなくても認識が正しく実在がまちがいだと考えるので、認識主義の下で決めたルールで実際にうまく行かなくても、それは実在のほうが悪いとされて、一向に改められることなく続けられたのである。
しかし近代になって、認識主義(演繹法)と実在主義(帰納法)とが統合されて科学的認識の方法ができた。科学的認識の下では、もはや超能力者は限られたひとつの超能力が使えるだけの者であって、神ではなくなった。
科学的認識の方法ができた後で神武天皇が現われたとしたら、神武天皇は神ではなく、ユリ・ゲラーや関口少年と同じように一人の超能力者としか見なされなかったはずだ。認識主義の世界と科学主義の世界では超能力者に対する意味付けが違うのである。
日本で今でも天皇制が残っているのは、今でも神武天皇や天皇を神と考える者がいるということを表している。天皇制は天皇を神だと考える者たちによって成り立っている制度である。国会議員は、天皇を神だと考える者たちを怖れているので、天皇を神のように崇めることにしているのだ。
しかし、戦後の科学教育で神の概念は学校で教えられなくなり、天皇を神だと考える者は急激に減ってきている。日本や世界から神の概念がなくなれば、天皇はただの人にすぎず、国会議員も天皇に従わなくなるから、もはや天皇制は成り立たない。神の概念がなくなれば、これまでに現われた超能力者たちは神ではなくただの超能力者にすぎなくなるから、宗教も天皇制と同じように成り立たなくなるだろう。

要するに、
認識主義の中で神の概念が生まれた。
認識主義では、超能力者が神だと考えられた。
天皇制は認識主義によって成り立っている古臭い制度にすぎない。
科学的認識の方法が浸透し認識主義がなくなれば、天皇制も宗教もこの世からなくなる。

[4475] 天皇は認識主義が成り立つ根拠? h20.3.14
マイケルソン・モーレーの実験が相対論の根拠であり、電子線の回折実験が量子力学の根拠であるように、神武天皇やその他の超能力者は認識主義が成り立つ根拠とされていると考えることができる。
しかし、科学で理論の根拠となる実験を崇めたりはしないから、認識主義でも認識主義の根拠となる超能力者を崇めたりはしないはずだ。科学では実験よりも理論を考え出した人を崇めるから、認識主義でも超能力者よりも超能力者についてのルールを考え出した人を崇めるはずだ。
したがって、超能力者を崇めるのは、超能力者を認識主義が成り立つ根拠と考えるからではなくて、やはり認識主義の世界において超能力者を崇めると自分の願いが叶うことになっているからだろう。

[4476] 認識主義と宗教の関係 h20.3.14
精神病や妄想症はすべて認識主義だから、認識主義は宗教よりも広い。
宗教は認識主義の一部である(認識主義⊃宗教)。
つまり、宗教は超能力者に関する認識主義である。
宗教は神妄想症患者の集団ということができる。

[4477] 精神分裂病☆ h20.3.14
精神が実在から切り離れて分裂した病気が精神分裂病である。
もっとも、精神と実在の統合が失われて調子が悪い症状といっても同じことであるが。
精神分裂病では、精神(認識、感覚界)が実在から切り離れて心の焦燥感だけで動いている。
躁鬱病では、精神が実在から切り離れて心の愉快感や落胆感だけで動いている。
精神が実在から切り離れていることは、分裂病でも躁鬱病でも同じであり、ただ動機となる感情が違うだけである。
焦燥感情や抑鬱感情は強く興奮させると、精神と実在が切り離れる原因になる。
さらに、認識主義は焦燥感情や抑鬱感情を強く興奮させる原因であり、
オナニーやセックスや麻薬や宗教や天皇制は認識主義になる原因である。

[4478] 超能力とは何か? h20.3.14
神武天皇の例でわかるように、超能力は超能力者の頭の中にある超能力器官の発作であると考えられる。
ただ、私の例のように、超能力器官が半ば意識的に使えることがある。夜中にガラガラが突然回ったのは発作的だし、私が笑ったときに近くの物が動いたのはなんとなく意識的な感じがする。[神武天皇の超能力は一回きりしか出なかったが、私の超能力はある特定の期間においてたびたび現われた。]
ともかく、実在における超能力は光の玉を出したり身近にある小さな物を動かすことができるだけで、宗教の者が信じているような何でもできる能力ではない。

[4479] 人間の気高さの源は何か? h20.3.14
『天才とキチガイは紙一重』と言われるように、ヨーロッパの認識主義が天才を生み出すもとであると考えられる。
しかし、私は、自分の焦燥感情や抑鬱感情や知覚欲が自分の知覚を働かせるもとになっていると考える。つまり、私は五感的なことに対して抑鬱感情が働いて気分が落ち込んで不快になるから五感的なことを避けようとするし、実在と認識が食い違うと焦燥感情が働いてイライラして不愉快になるから知覚を働かせて正しいことがわかるまで考えようとするし、知覚が働くと知覚欲が満足されて喜びが得られるから知覚を働かせて考えようとする。
知覚が働くためには、キチガイと紙一重になる認識主義なんかなくても、知覚欲やその他の感情があれば十分である。

[4480] 宗教は精神病の原因である。 h20.3.14
正常者は科学的世界観すなわち認識が実在に従うことによって実在を支配することができる、認識と実在が結びついた世界の中に生きている。
反対に、宗教は認識が実在に従わずに実在を支配しようとする認識主義であり、宗教の者は認識と実在が切り離れた世界の中に生きている。
宗教者が焦燥感情や抑鬱感情を強く興奮させると精神病になる。
だから、宗教は精神病の原因である。


[4481] キリストの愛情 h20.3.15
私の理論によれば、男には愛情がない。
だから、キリストの言っている愛情とは性欲であると考えられる。
だから、キリスト教は性欲を説く宗教なのだ。
教会の尖塔は陰茎の喩えで入り口は陰唇の喩えでドームは乳房の喩えである。
性欲は認識と実在を切り離す悪い感情であり、
知覚欲は認識と実在を結び付ける善い感情である。

[4482] 宗教のやり方 h20.3.15
宗教は認識主義である。宗教では、認識が実在に従わずに実在を支配しようとする。したがって、宗教では、
まず、実在とは無関係に自分たちのたんなる思いつきで勝手な決まりを作る。
次に、その決まりでとにかくやってみる。
そして、たまたまうまく行けば自分たちの手柄にし、
反対にうまく行かなければ、実在のほうが悪いと考えて一向に反省することがなく、まちがった決まりを取り消さずにそのまま続ける。
そんなやり方で、超能力者やその他の国民を動かされたら、国が亡んでしまうし、たとえ亡ばなくても[たまに偶然にうまく行くことがあっても、長い目で見れば確率的統計的に]損をすることは確実である。
つまり宗教は具体的な決まりがまちがっているというよりも、そもそもやり方がまちがっているのである。

[4483] 超能力に対する宗教の歪んだ解釈 h20.3.15
宗教は認識主義であり、宗教では認識が実在に従わずに実在を支配しようとする。
ところで、宗教とは無関係に、実在には超能力という人体に関する珍しい自然現象がある。
ところが宗教は、超能力を認識が実在に従わずに実在を支配できることの証拠だと考えて、自分たちの主義が正しいと信じ、ますます活発に活動するようになった。[つまり、天皇は認識主義の象徴である。]
宗教の妄想に付き合わされる者にとっては、いい傍[はた]迷惑である。
超能力はまちがった認識主義を正当化するためにあるのではない。

[4484] 認識主義と科学主義とではどちらが正しいか?☆ h20.3.15
方法においては、認識主義よりも科学主義(ニュアンス的には実在主義)が正しいことは明白である。
なぜなら、認識は実在する脳の働きにすぎないからである。
脳の働きには法則があり、それ以上のことを脳がすることはできないからである。[脳の働きは、脳細胞の神経興奮による感覚の発生と脳細胞間の神経連絡による情報処理と身体の他の器官との間の情報の入出力と、その他脳内にある超能力器官によるテレパシーや念光力や念動力などの自然現象である。]
認識主義は、実在に盲目なだけである。
認識主義は、超能力に対する誤解をするだけで、役に立ったためしがない。
認識主義では、何もできずに惨めな思いをするだけだ。
例えば、ヨーロッパでは正しい科学者を認識主義を否定する者として迫害したし、日本では認識主義に従って勝てない戦争をして自国他国ともに大きな損害を出した。
それでも、認識主義は自分たちの主義(認識主義)を改めない。
それは、認識主義ではたとえ自分たちの主義(認識主義)がまちがっていてうまく行かなくても、認識主義であるがゆえに自分の主義(認識主義)が正しく実在の世界が悪いとしか考えないからだ。
これでは、どうしようもない。
一度認識主義になったら死なないかぎり治らない。
だから、最初から認識主義にならないようにするしかない。
認識主義の教育だけはしないことにしよう。

[4485] 認識主義VS実在主義☆ h20.3.15
世界には、認識主義を取る人々と実在主義(科学主義)を取る人々の2種類がいる。
認識主義と実在主義とは認識と実在の関係において根本的に違うから、両者を統合することはできず、どちらかひとつに決めるしかない。
認識主義では実在に適応できずうまく行かない。幸福にはなれない。
実在主義では実在に適応できてうまく行く。幸福になれる。
私は自分が幸福になりたいから、認識主義よりも実在主義を取る。

[4486] ニセ認識主義 h20.3.15
認識主義が科学(実在主義)の発明品を利用することはもはや認識主義とは言えない。
認識主義なら認識主義に徹しなければ認識主義だとはいえない。
現代の認識主義はもはや認識主義ではない。ニセ認識主義だ。
認識主義と実在主義のただの混ぜくちゃにすぎない。
それなら、いっそ実在主義(科学主義)に徹したほうがスッキリする。
世界観に統一性がなければ、その世界観は矛盾して滅びてしまう。

[4487] 精神病の治し方 h20.3.16
精神病の原因は認識主義であるから、まず第一に認識主義の原因であるオナニーやセックスや麻薬や宗教をやめねばならない。
そして、分裂病なら焦燥感情とテレパシー器官を、鬱病なら抑鬱感情の中枢を抑制すれば治るはずである。[頭の中で(知覚で?)それらの中枢に抑制性の神経線維を伸ばしてそれらの中枢の活動(神経興奮)を抑制する。]なぜなら、認識主義においては焦燥感情や抑鬱感情が正しいが、反対に実在主義においては焦燥感情や抑鬱感情が悪いから、それらの悪い感情を鎮めなければならないからである。分裂病では、焦燥感情が鎮まればテレパシーが気にならない。鬱病では、抑鬱感情の中枢を抑制しにくい場合には、自分の抑鬱中枢を刺激する環境に自分がいるのを我慢せずに、自分の抑鬱感情を刺激する環境から早く脱出して自分の抑鬱感情に対する刺激を止めたほうが効果的である。

[4488] 日本神道の中枢は国会である。 h20.3.16
宗教とは、超能力者に関する認識主義である。
日本神道とは、日本の超能力者に関する認識主義である。
日本神道は、天皇や超能力者を崇めれば自分の願いが叶うと日本人に対して嘯[うそぶ]いている。[日本人の誰が信じるだろうか?]
日本神道の中枢は国会(あるいは日本政府内の国会直属の機関)である。[なぜなら、私(もと超能力者)が小学2年生のとき授業中に校長室へ呼び出されたことがあったが、民間の宗教団体が朝倉小学校に乗り込めるとは考えられない。文部省の許可を得なければならないから、日本神道の中枢は日本政府の機関以外にありえない。また、天皇制や超能力者制(私制)をやっても民間の宗教団体が儲かるとは考えられないから、やはり天皇制や超能力者制(私制)をやっているのは日本政府である。]
日本に認識主義を浸透させて、日本人みんなを日本神道の信者にしようとしているのは、日本の国会にほかならない。国会が日本の認識主義を広める会の総本部である。
しかし、日本に認識主義を浸透させることは、日本人みんなをキチガイにすることと同じだから、日本人の足を引っ張らないためには国会は宗教活動をやめねばならない。

[4489] 神は実在しない概念である。 h20.3.16
神の概念は帰納的には得られないから、科学的世界には神の概念はない。
神(全知全能な者、人の願いを何でも叶えてくれる者)の概念は認識主義の世界の中だけに存在する空想的な概念である。
認識主義の世界には神の概念があるので、普通の人にできないことがひとつできた超能力者に神の概念を当てはめて、超能力者が全知全能の神ということになる。しかも、認識主義の世界には実験(つまり、実在において仮説の真偽を検証する)という概念がないから、たとえ実際に超能力者が全知全能でなくても、人の願いを叶えられなくても、超能力者が神であるという考え(仮説)を否定することにはならず、超能力者は神のままである。つまり、認識主義の世界では、一度神にされたら死ぬまでずっと、さらに死んだ後でもずっと神のままなのである。
一方、科学的世界には神の概念がないので、超能力者は最初から超能力者にほかならない。

[4490] 神を信じる者と信じない者 h20.3.16
神(全知全能な者、人の願いを何でも叶えてくれる者)の概念は、認識主義の世界の中だけに存在する空想的な概念である。
神を信じる者は認識主義者である。
神を信じない者は実在主義者である。
神を信じる者が、神の概念を使って実在の世界を解釈すると、実在(科学的世界観)とは別の世界が出来上がる。それが宗教の世界である。
私は、神は信じないが、超能力者の存在は信じている。

[4491] 神の概念 h20.3.16
神(全知全能な者、人の願いを何でも叶えてくれる者)は、フロギストンやエーテルなどと同じ実在しない概念である。
科学的世界において実験すれば、人間を含めて地上に存在するすべての物が神でないことはすぐにわかる。例えば、超能力者に願いを掛けてそれが叶えられなければ、超能力者が神でないことはすぐにわかる。超能力者にできないことがひとつでもあれば、超能力者は神でないことになる。
認識主義の世界においては、実験の概念がないから(観察の概念もないが)、ある者を一度神だと見なしたら、あとはどんなことがあってもその考えを否定することはできないから、未来永劫神だということになる。もっとも、認識主義の世界自体が滅びてしまえば、神もなくなるが。

[4492] 神武天皇はなんの役に立つか? h20.3.16
ひょっとしたら、神武天皇は全知全能であったかもしれない。人の願いを何でも叶えられたかもしれない。[全知全能であることが、人の願いを何でも叶えることの必要条件である。残念ながら、神武天皇は死んでしまっているから、神武天皇が全知全能であったかどうか確認することはできない。]
しかし、たとえ神武天皇が全知全能であったとしても、今の天皇にいくら従ったところで、ホーキング博士の時間順序保護仮説によって、すでに死んでしまっている神武天皇に自分の願いは伝わらないから自分の願いを叶えてもらうことはできず、何にもならないはずである。[今の天皇は、明らかに全知全能ではない。]
だから、今の天皇制に実在的な意義はないと考えられる。

[4493] 日本神道 h20.3.16
日本神道とは、日本の認識主義をとっている人の集まりである。
国会も認識主義者の集まりで、日本神道の中枢機関である。
国会が認識主義の世界の決まりを作って、日本神道の者が国会の命令に従って動いているのだ。
しかし、日本には私のように認識主義を取っていない者も大勢いる。
認識主義を取っていない者に対しては国会の命令が効かない。
国会や日本神道の者は神妄想症に取り付かれたキチガイで、認識主義は集団精神病と考えられるから、認識主義者以外の者にとっては認識主義者は迷惑だから一切関らないで欲しいものである。人間は一度キチガイになると死ぬまで治らないので、認識主義が受け継がれるかぎり、日本神道は続いていくのである。
あるいは、
日本神道とは、日本認識主義同盟であり、そんな組織が大昔から日本にはある。
日本認識主義同盟は大きな組織であって、国会はその組織の力を恐れているから、組織の決めたくだらない決まりにしぶしぶ従っている。その場合には、国会は日本神道の中枢ではなく、日本神道の中枢は国会とは別にあり、国会は日本神道の命令で動いているにすぎない。
しかし、現代は科学の時代で認識主義を取っている者は年々減ってきているから、日本認識主義同盟も今では小さな力の弱い組織のはずである。国会もそんな弱い組織の力など恐れるに足りない。だから、国会はそんな弱い組織の言いなりにならずに健全な実在主義の国を作ればよいのである。

[4494] 時代遅れの認識主義 h20.3.16
昔はまだ科学がなかったから認識主義の力が強かった。
ところが最近になって科学(実在主義)が生まれたから認識主義の力が弱くなった。
未来では認識主義はこの世からなくなっているだろう。
人間が幸福に生きて行くためには、科学(実在主義)のほうが宗教(認識主義)よりもはるかに役に立つから、人類は実在主義を取って認識主義を捨てたほうがいい。
認識主義の世界では、人間は実在しない概念に動かされて失敗するだけである。実在しない概念の最大級が“神”である。
一方、実在主義の世界には実在しない無駄な概念がないから、それだけ失敗やまちがいが少ない。だから、確実に幸福に生きて行けるのである。

[4495] 国会は日本神道の中枢か否か? h20.3.16
国会が日本神道の中枢であることを思わせるシーンはよくアニメや特撮などに登場する。[私はドラマを見ないので、アニメや特撮のことしかわからない。]例えば、『超人バロム1』には日本を攻撃する魔人ドルゲの正体として車椅子に乗った国会議員が登場するし、『ようこそようこ』には国会議員らしき面々がハゲチャビンとして登場するし、『りぜるまいん』にはりぜるを管理している公務員らしい黒服のおやじ3人組が登場する。
しかし、日本神道が国会とは別の組織であることを思わせるシーンもよく出てくる。例えば、『仮面の忍者赤影』には、日本神道の頭領らしい人物が日本を裏で動かしている者として登場している。『愛と正義の使者レインボーマン』にはシネシネ団という日本を目の敵にしている影の組織が登場するが、第2部殺人プロフェッショナル編にはシネシネ団の作った偽札のためにインフレで困窮している日本政府がでてくるから、シネシネ団と日本政府とは別であると考えられる。『陸上防衛隊まおちゃん』では、3人の幕僚長が日本の首相に莫大[ばくだい]な予算を請求して首相をしょっちゅう困らせている。
ただ、『ようこそようこ』や『魔法陣グルグル』のマンガでは、一見すると超能力者である私に天皇と同じ強い命令権があるかのように思われるのだが、よ〜く考えてみると、日本神道における超能力者の役割はその超能力でみんなの願いを叶える者だから、かなりアニメと実際とでは超能力者に対する意味あいが違うように[神道の者自身が超能力者の意味がわかっていないように思われる。]、国会が日本神道の中枢であるとするのも国会に対する見当違いである可能性が高いと考えられる。それに、国会議員は有名人で顔が割れているから、国会議員が日本神道の者だとすると国民から直接に批難を受けてやりにくいから、やはり日本神道は国会とは別の組織であり、国会に強い影響を及ぼしている黒幕の組織であると考えられる。また、国民の代表である国会議員は天皇の敵のようにも見えるから、国会議員は日本神道に抗[あらが]う組織なのかもしれない。江戸幕府は日本神道よりも強かったが[つまり、認識主義よりも刀が強かったのだ。]、江戸幕府が外国に倒されて日本のNo.2であった日本神道が台頭し新設の明治政府に圧力を掛けて天皇制にさせたのだと考えられる。
国会が日本神道の中枢であろうがなかろうが、ともかく日本に日本神道という[今のところは強いが将来は弱くなる]組織が存在することに変わりはない。


[4496] 認識主義の生き方と実在主義の行き方 h20.3.16
認識主義の生き方では、認識と実在の統合を最初からあきらめていて、認識の世界の中だけでつまり空想の世界の中だけで生きている。認識主義の者は、実在の世界とは別の認識主義の世界を一生懸命勉強してその世界の中で幸福に生きようとする。
一方、実在主義の生き方は、認識が実在に従い逆に実在を認識に従えながら、認識と実在を統合しながら実在の世界の中で生きている。

[4497] なぜ日本神道は私が勉強するのを妨害したのか? h20.3.16
日本神道は認識主義であり、認識が実在に従わずに実在を支配できると信じている精神病気質の者の集まりである。
日本神道は日本に認識主義を広めて日本人みんなを精神病気質にしようとしている。[一方、文部省は日本に科学主義(実在主義)を広めようとしているから、日本神道と日本政府とは意向が違うから、日本神道と日本政府は対立する組織でもある。]
日本神道は、日本神道にとっての神である私を認識主義にすればますます日本における日本神道の勢力が強まると考えて、日本神道は私が子供の頃から私を認識主義者にしようとしてきた。
私が小学4〜5年生のとき私の友達の前田君を使って私にエロ本やシンナー袋を見させたのも、私を認識主義の非行少年にしようとしたからである。
私が中3のとき毎日オナニーをしていたが、家族の者や級友たちが私に注意しなかったのは、私を性欲で発狂させて認識主義者に変えるために日本神道が口止めさせていたからである。
私が高1のとき私の隣の席に不良の尾立[おりゅう]君を座らせて私に気に入らないことをさせて私を刺激し私を精神病にかからせたのも、私を認識主義者に変えるための工作である。
私が高校生のとき家の周りの者を使って私に幻聴で悪口を言わせたり私にガンを飛ばしたりして私が勉強するのを妨害したのは、私が勉強して実在主義になると、認識主義が広がらなくなるので、それで私が勉強するのを妨害したのである。
つまり、日本神道すなわち日本認識主義同盟は自分たちの勢力を強めるためだけに、私の勉強を邪魔し続け私の人生をうまく行かないようにさせたのである。
しかし、そんなことをしても、現代は科学つまり実在主義の時代だから、遅かれ早かれ日本認識主義同盟は滅びるので、わざわざ私の邪魔をする必要はなかったはずだ。

[4498] 超能力者は偉いか? h20.3.16
科学的世界観における超能力者の偉さについて考える。
まず超能力を発現する者がいなければ、超能力を発見する者もなく、超能力を確認する者もなく、超能力の原理を明らかにしようとする者もいない。
今のところ超能力の原理を解明した者はいないから、超能力の発現者(私)と発見者(私の母)に実験物理学者としての名誉が授けられるべきである。
神武天皇も超能力を発現したが、神武天皇と私とでは超能力の種類が違うので、私には新種の超能力の発現者としての名誉が与えられるべきである。

[4499] 認識主義はキチガイ h20.3.16
実在主義者にとって天皇制や私制は一体何をやっているのか何の意義があるのかわからない。
3年ぐらい考えなければ理解できない。
それほどまでに今日では認識主義は気が狂っているのである。

[4500] 【物理】重力とは何か?(一般相対性理論の話) h20.3.17
重力場の中で自由落下する座標系(時空間)から見たら重力がなくなってしまうので、逆に重力のない空間(無重力空間)で逆向きに加速度運動する座標系から見たら重力がある(生じる、発生する)ことになる。[脳細胞の神経興奮で感覚が発生するように、座標系の加速度運動で重力が発生するのである。]
つまり、見かけの重力と本物の重力が同じものだということである。
自由落下する座標系(時空間)は最初は止まっているが、動き出して下に行くほど速くなるから[特殊相対性理論によって]それだけ時空間の歪みが強くなる。つまり、歪みが違う時空間を空間的に配置すれば重力場と同じものが作れる。

つまり、地上にいる私たちは上向きのエレベーターに乗っているのと同じことである。[ただし、地球から無限遠にある静止したエレベーターを基準にした場合。]
ところで、『現象=実体×観測者』だから、
重力場の実体が空間的に分布した歪んだ時空間ということなのである。
ところが、観測者も時空間だから、時空間から時空間を見ることになる。
だから、見る側と見られる側の時空間の歪みが一致したところで、現象として歪みのない空間つまり重力のない空間が見られるのである。


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