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[4201] ヨーロッパ建築ななぜ繊細なのか? h20.2.7
ヨーロッパ人はもともと感性が繊細である。
だから、1度以下の小さな違いで天動説よりも地動説のほうが正しいとし、科学が発達したのである。
反対に、日本人の感性は大雑把なので日本では科学が芽生えなかったのだ。

[4202] 神武天皇はなぜ罰せられなかったか? h20.2.7
神武天皇は自分を超能力者と考えて神だと考えなかったし、その上国の統治者として活躍したので、正しい者と見なされて罰せられなかったのである。神武天皇にも釈迦やキリストと同じように何らかの思想はあったが、当時はまだ日本の文化水準が低く記録として残せなかったのだろう。
それに、日本国も神武天皇やその子孫を君主とし、人間と同じように政治家として働かせたので、超能力者に対する国の扱いもほぼ妥当なものと考えられた。
それで、日本が『超能力者問題』をうまく解決した国として、国際的に日本の評価は高かったのである。
ところが、明治以降は日本が外国の超能力者観を取り入れてしまったために、国が超能力者(やその子孫)を不当に高く神だと考えるようになってしまった。日本の古来からの天皇制と外国の超能力者観が結びついて時代遅れの帝国主義が日本に誕生した。あげくの果てには日本が戦争を起こし、日本は超能力者の扱いが下手な国として罰せられる結果となった。
現代は科学の時代である。今や超能力者は脳に超能力器官が付いた人間にほかならない。その超能力にしても、感覚波量子と物質の相互作用を利用して弱い光や弱い力を発する微々たるものである。
超能力者を正当に扱えば国際社会における国の評価は高まり、不当に扱えば国の評価は下がる。
国が超能力者を不当に扱ったのなら、それは超能力者に対する国の犯罪だと見なされるので、国が責任をとらねばならない。
他人の評判を気にせず、自分が正しいと考えることをすればよいのである。

[4203] 男と女の遊びの違い h20.2.7
男は知覚欲を満足しようとし、女は愛情や五感欲を満足しようとする。
男は自分の部屋にこもって考えたりゲームをしたりしているが、
女は人形を抱いたり鏡を見たりしているのだ。

[4204] 神風特攻隊 h20.2.7
今度からは「天皇陛下万歳!」と言わずに、「天皇なんか糞食らえ!」と言いながら特攻しなければならない。
そもそも、神風は日蓮の超能力?(じつは台風の天気予報)であって、天皇の超能力ではない。

[4205] 私の超能力をどのようにして消したか? h20.2.8
超能力の基本は、感情の興奮にある。
私が赤ちゃんのとき、母親が私に気を掛けるのを真似て、超能力を発現することができたが、母親が私にネトネトした気を掛けるのは、母親が自分の特定の感情を強く興奮させることによって感情の感覚範囲を他人の脳にまで広げることによって他人に自分と同じ感情を感覚させることである。あるいは、感情の興奮が高まると大脳のどこかにあるテレパシー器官が活動して、その感情をテレパシー波に乗せて他人に伝達するのかもしれない。母親の住んでいる高知から私が住んでいる福岡や和田山にまで気持ちが届くから、前者ではなく後者の機序によるはずだ。
人間が火の玉(光の玉)を出すのは、恐怖の感情が高まったときにでやすいし、感情の興奮と超能力の発現とには深い関係がある。感情の興奮が高まリ、感情の興奮がある一定の閾値を超すと、波の性質が変化して超能力を発現する特殊な感覚波になるのかもしれない。あるいは、感情の興奮が一定の閾値を超すと、大脳のどこかにある超能力器官を興奮させて特殊な感覚波が出るのかもしれない。
したがって、たとえ超能力器官が大脳のどの部位にあるにせよ、超能力者の超能力を消すには、まず超能力者の感情を興奮しないようにすればいい。感情は大脳前頭葉にあることがわかっているから、大脳前頭葉を興奮しないようにすればいいのである。そのためには、一時的に赤ちゃんの呼吸を止めて大脳前頭葉に酸素が届かないようにすればよいのである。
私が小学3~4年生の頃、私の母が私に、私が小さい赤ん坊のときに死にかけたことがあり突然息が止まって顔が紫色になり急いで走って医者に連れて行ったことがあると話したことがあるが、おそらくそのことを言いたかったのではないかと考えられる。私の顔が紫色になったおじいさんの家から病院までは走っても10分以上かかるから間に合わないはずだと、子供の私にも当時その点を不審に思ったが、それは母親が真実を隠すために部分的に嘘をついていたからだろう。
私が高校生ぐらいのとき、ゾンビが流行っていたが、ゾンビは他人を自分のいいなりにするために前頭葉を酸欠にして働かなくすることであるが、それも私に対するひとつのヒントを与えるためだったのだろう。
私が子供の頃から他人に比べて感情が働かなかったのは、その処置のせいだったかもしれない。おかげで、私は感情が乏しかったので友達ができなかったし、感情が働かないので感情についての理解ができず国語の成績がよくなかったし、子供の頃からなんとなく他人に比べて元気がなかった。現代の医療技術では前頭葉だけを酸欠にするとはできないから、他の大脳の部位にも障害が生じたかもしれない。
私が高校1年生のときに怒って気が狂ったのも、小さい頃に受けた脳の処置のせいで怒りのインパルスの流れが正常と違っているために、テレパシー器官に過剰のインパルスが流れ込んで興奮が永続的になったのかもしれないし、“焦燥中枢が興奮しすぎて焦燥中枢に対する抑制が効かなくなった”(感情の過剰興奮による脱抑制効果)のも、脳の処置のせいかもしれない。
私の超能力器官(念動力器官)は、感覚波量子と他の物質の相互作用による弱い力を発生するだけで他人に迷惑をかけることがないから、特別な処置は要しない。つまり、これは私の超能力に対する不要な処置であり、いわばする必要のない手術である。これも超能力者であった私に対して犯した国のまちがいのひとつであるから国が責任を取らねばならない。[宗教家を管理するのは国だから、国が宗教家を罰しないかぎり宗教家がやったことも国の責任になる。私は個々の宗教家ではなく国がやっていると考える。それは、私が小学1~2年生の頃授業中に呼び出されて校長室で8名ぐらいの背広を着た大人から質問をされたことがあるし、私の個人情報を使った番組を公共の電波に乗せて日本中に伝達することを許可しているから、こんなことは国(つまり、日本国政府の中にある宗教的機関)にしかやれないからである。そもそも民間の宗教家は自分のお金儲けが目的だから、超能力者には関心がないだろう。]世の中には超能力を見たいと思っている人も大勢いるから、超能力者の超能力を消すことはこれらの人々を不満にさせることにもなるからやってはいけない。テレビでやったら視聴率100%はまちがいない。

[4206] 【物理学】それでも時間は延びている。 h20.2.8
公式『速く動く時計ほど時計の針は速く回る。』
同じ実体(例えば、日の出から日没まで)を速く回る時計で測ると時間(の長さ)は延びる。
時間や空間が変わると考えれば、話のつじつまを合わせることができる(矛盾が解消されて論理が復活する)。

[4207] 絶対矛盾の自己同一 h20.2.8
天皇は神(超能力者)でないのに神のふりをしているので、天皇制からは多くの矛盾が生じる。
“絶対矛盾の自己同一”は、西田幾多郎が天皇制を擁護するために言った言葉だとも考えられる。
実在の世界には矛盾がないのに、日本の社会には矛盾があるのは変である。
社会に矛盾があると理屈が通用しないのでやりにくい。
天皇制が日本社会の矛盾の源であるなら、それを断たねばならない。
天皇を王すなわち建国者の子孫と考えることもできるが、それならたんなる飾りであって実権を持たせてはならない。

[4208] 進化論 h20.2.8
実在の世界には矛盾がないから、超能力者が現われても矛盾がない。
人間が生物であり、生物が進化するものであるかぎり、人間よりも進化した超能力者が現われるのは当然である。
暗闇の中で明かりをともす人間ホタルや離れたところにある物を動かす人間リモコンがいたら、人間よりも便利じゃないか。

[4209] 天使の輪 h20.2.8
天使の頭の上にはドーナツ型の光の輪が光っている。
ところが、私の超能力理論では、念光は超能力者の頭から円柱状に出る以外には考えられない。
だから、天使の輪は、おそらく芸術家の作りごとであろう。
私は小学4~5年生のとき、台所で夕飯の支度をしている母親の身体から放射状に薄白い光が放[はな]たれているのを見たことがあるが、これも私の見まちがいだったのだろう。

[4210] 超能力者は増えるか? h20.2.8
知的な男にとっては女は家事をするだけの者にすぎないから、知的な男はあまり結婚しない。
知的でない男にとっては女は綺麗だったりかわいかったり性欲を満足する者だったりするから、知的でない男は結婚したがる。
[したがって、好きとは気が合うことである。]
しかし、社会的には知的な男のほうが知的でない男よりも有利である。
社会的に有利なことと結婚しないことが拮抗して釣り合っているのが現状である。
つまり、社会における知的な男の占める割合はほぼ一定であり、知的な男が100%になることも0%になることもない。
超能力者の場合には、超能力があったほうが若干有利に生きていけそうだが、
超能力の有無と結婚するかしないかは関係ないから、超能力者はすんなりと増えるのではないだろうか?

[4211] なぜヨーロッパで中世まではキリスト教が支配的だったか? h20.2.8
古来よりヨーロッパ人は真実主義である。
キリストの思想が真実を大事にする思想ではなかったのに、どうしてヨーロッパではキリスト教が受け入れられたのか?
それは、まず第一に、キリストが本物の超能力者だったからである。
ヨーロッパ人は真実主義だから、本物の超能力者を超能力者として扱わないわけにはいかない。
しかも、当時はまだ実数についても物質についても何もわかっていなかったから、当然超能力者についてもわかっていなかった。超能力者について考えられる科学的基盤がまだできていなかったのだ。
だから、さすがのヨーロッパ人も超能力者が何であるかがわからなかった。
つまり、ヨーロッパ人にとっては自分たちが超能力者をわからないこと自体がひとつの真実だったのである。
ヨーロッパの学者達は自分たちのわからなさを自覚していたがゆえに、なにもできなかったのだ。いくら自分がわからないことがわかっても(無知の知)、そこから先はどうしようもなかったのだ。
一方で、宗教家達は独断でキリストを人間よりも上の神だと決め付け、その考えを一般大衆に広げっていった。
学者たちがどうしてよいかわからず何もできなかった間に、宗教家達は熱心にキリストが神であることを説いてまわったので、いつの間にかヨーロッパではみんながキリストを神だと考えるようになってしまったのである。
正直に自分がわからないことを認めてなにもできなかった者よりも、知ったかぶりをしている連中のほうが幅を利かしていたのだ。
ただ、さすがに宗教家達にとってもキリストの思想はあまり正しくないと思われたらしく、一応キリストの愛の思想を受け容れてはみたものの、じつはそれは幸福にはならないまちがった思想であるというニヒルな教えが、キリストの十字架像には込められている。
しかし、その後の宗教改革や科学の誕生を経て、ヨーロッパでは科学が発達し、進化論や量子力学や脳科学などが生まれて、今では科学的に超能力をある程度まで理解できるようになった。
超能力とは、人間の脳の中にある超能力器官で発生した感覚波量子が空気分子やプラスチックなどと反応して発光や運動を引き起こす自然現象である。
今や超能力がどういうものかがわかったので、もはや超能力者も宗教家の知ったかぶりも恐れるに足らない。
今後は、科学者が超能力者に関する正しい考えを一般大衆に広げて、超能力者に関する過去のまちがった考えを世界中から一掃しなければならない。

[4212] 超能力者は人間よりも上か下か同じか? h20.2.9
宗教とは、超能力者を人間よりも上の神と考えることである。
宗教に入っている人は人類の86%もいるから、人類の86%の人々が超能力者を人間よりも上の神だと考えている。
しかし、いくら数が多くてもまちがっていたら何にもならない。[ガリレイが生きていた頃には、地球が回っていると考える者などほとんどいなかった。]
それでは、超能力者は人間と同じかあるいは下なのだろうか?
超能力者が空気分子やプラスチックなどの物質と反応して発光や運動を引き起こす感覚波量子を出す超能力器官がある人間だということはわかったが、
今でも昔と同じように、超能力者が人間よりも上であるかないかはわからない。
でも、人間同士の間でも、ある人間が他の人間よりも上であるかないかはわからない。
しかし、社会制度としては、人間が実在に適応することが大事なので、実在がわかっている人間が実在がわかっていない人間を支配する体制でなければならない。その体制を維持するのが政治家の務めである。
超能力の才能と知覚の才能とは関係ないから、超能力者が他の人間を支配する体制は妥当ではない。
だから、超能力者と人間を区別するのをやめて、超能力者を人間と同様に扱えばいい。

[4213] 私は天皇ではない。 h20.2.9
最近の美少女アニメはみんな私の顔である。[少女マンガの主人公も私の顔である。]
私のことを知っている者は、私がブサイクなので私に対するイヤミだと思いながら見ている。
アニメを作る側も自分たちに特権があって私を馬鹿にできると考えているように思われる。
天皇はいい待遇だから馬鹿にされても耐えられるが、
私はなんのいい待遇もないから馬鹿にされるのは割に合わない。

[4214] 実力主義 h20.2.9
超能力者は、超能力が使えたからといって、作りごとの取り決めで有利に生きて行けてはならない。
超能力が使えるなら、その超能力を実生活の場で実際に使って有利に生きて行けばいい。

[4215] なぜ戦争はなくならないのか? h20.2.9
中東諸国などがやっているわけがわからない戦争は、武力主義のパフォーマンスである。
合理主義に反対している不合理主義者が日本の天皇や世界の宗教活動を喜んで見ているのと同じように、真実主義に反対している武力主義者が戦争を喜びながら見ているのだ。
戦争をしている国に対して世界中の武力主義者からお金が支給される制度があるのかもしれない。
しかし、人間社会を支配するのは実在がわかっている者[実在の世界について何から何まで一人で全部わかるのは無理だから、各分野の専門家の複数の人間から成る集団]であって、武力が強い者でも超能力が使える者でも政治家でもないから、そんなパフォーマンスはいくらやっても無駄である。[武力主義では科学を戦争のための道具に使うだけあって、戦争のために科学があるという科学に対する見方がまちがっている。実在主義の国でも武力を使うことはあるが、戦争は科学の一応用にすぎず、戦争は実在の世界の状況がよくわかっていて自国がどうしても武力を用いねばならずしかも自国が勝つ場合にだけするのだから問題はない。そもそも、軍事の指揮官や戦略家に世界を支配させても、軍事以外のことはわからないからうまく行かない。]

[4216] 神武天皇の場合 h20.2.9
神武天皇の場合には、超能力で出した光の玉で戦争に勝ったから、
戦争に勝った功績をたたえて高い地位が与えられたのだ。
しかし、それなら一代限りで、末代まで延々と高い地位を与え続ける必要はない。

[4217] ベッドメリー h20.2.9
私がこれまでガラガラといってきたものは、今ではベッドメリーというらしい。
ただ、今のように洒落[しゃれ]た物ではなく、天井からヒモで吊るしてドーナツ型をした軽いプラスチックの管にタコの足のようなビロビロがたくさん付いていて電池で回るものだった。回るときにガラガラ音がするのでガラガラと呼ばれていた。
現在市販されている「くまのプーさんICメリー」や「ディズニーベビーICメリー」や「ベビープーのリモコンメリー」などとほぼ同じものである。ただ、私の家にあったのは、2段ではなく1段のもっと簡素なものだった。

[4218] 超能力の使用期間 h20.2.9
火の玉を生涯に2回以上見た人は稀[まれ]だから、人が念光力を使うのは生涯に1度きりだろう。
私の母の話では、子供の頃大杉の奥の立川[たちかわ]というところに住んでいたときに暑い夏の夕方夕涼みに川原に出ていたときに火の玉を見たそうだが、火の玉を目撃してから怖くて逃げ回って近所のおじさんの家に逃げ込むまでずっと後をついてきたそうだから、火の玉は3分間ぐらいは光り続けたのだろう。おじさんの家に入ってほっと安心したから、火の玉を出している本人(つまり母親)の恐怖心が薄らいだので、火の玉も消えたのだ。
火の玉と光の玉は同じ物だと考えられるから、神武天皇が光の玉を出したのも、生涯に1度きりだったのだろう。
火の玉は怖いときにしか出ないから大勢の人がいる町中では出にくいので火の玉の目撃者がいつも少数であるのに対し、神武天皇が光の玉を出すのを目撃した者が大勢いたから、火の玉を出した者は超能力者になれないのに、神武天皇は超能力者で通るのである。でも、追試不可能な現象に対しては、一度に大勢の(複数の)目撃者がいることが必須だろう。
私の念動力の場合は、私の母や薫的[くんてき。高知市西新屋敷のこと。]のおじいさんかおばあさんかが目撃したはずだが[薫的のおじいさんとおばあさんは昨年亡くなった。]、その後で他の確認した人がいたはずだから、数週間から長くても数ヶ月ぐらいにわたって念動力がときどき現われていたものと考えられる。私が九大医学部を首になってNTTが私の下宿の電話を勝手に切って実家から電話がかからなくなっていたとき、父親が血相変えて私の下宿に苦手な飛行機に乗ってやって来たことがあるが開口一番に「なんかせられんかったかえ?」と私に訊いたことがあるから[普通は「なんかあったがかえ?」と訊くはずだ。]、たぶん私が小さい頃誰かが私の超能力を確認した後で“なんかした”のだろう。父親はそのことを知っているのだ。それなのに私に話そうとしないのは、私が知ると悲しみのあまり自殺するのを心配したからだろう。
とにかく、念光力にせよ念動力にせよ、一人の超能力者の超能力はそう何度も現せるものではない。感情が特殊な興奮状態にないかぎりそうやすやすと出せるものではない。そもそも、すごく怖かったりすごく物を回したいと思ったりすることは、一人の生涯においてそう滅多にあることではないからだ。[∵特殊な状況→心→超能力器官→感覚波量子→超常現象。]だから、わざわざ超能力を消す必要はない。たとえ、超能力がいつでも何度でも使えたとしても、超能力では弱い力しか出ないので他人にとって迷惑になるほどのものではないから、そのままにしておくべきである。神武天皇の出した光の玉が太陽のように熱かったら出した本人がその場で焼け死んでいたはずだし、力には作用反作用の法則があり、念動力で強い力を出すと反動で出した本人の頭が吹っ飛ぶから、あまり強い力は出せないはずだ。念動力を使うたびに頭が後ろに揺れるから、念動力を使ったかどうか眼で見ればわかる。

[4219] 国の責任 h20.2.9
民間の宗教家は自分のお金儲けにしか関心がないから、私の超能力なんてどうでもいいはずだ。[民間の宗教家はお金儲けにしか関心がないが、宗教家に一定のお金を払って“サービス”(たぶん、何らかの気休め)が受けられるなら、それでもいい。]
だから、国の政府の中にある宗教的機関が、超能力者である私を扱ったに違いない。
私が朝倉小学校の2年生のとき、授業中に校長室に呼び出されて6~8人くらいの背広を着た大人たちから私の日常生活について質問されたことがある。
また、私が小学2年生のとき、休み時間に友達が私の席に来て、突然私に「もしも、自分が思ったことが何でも本当になったらどうする?」と訊いたことがある。
国が私の超能力を“何でもできる力”と考えて、私の超能力を消すために何らかの処置を私の脳に対してしたのなら、それは国のまちがいだから国の責任になる。
お前らそれでも東大出か!?

[4220] バカばっか(宗教の信者へ向けた言葉) h20.2.10
キリストだか釈迦だか知らねえが、わけもわからないのに他人の言葉を信じるな。
そこまで馬鹿だと、もはや人間じゃない。
超能力者は正しい者とは別だから、信じなくてもよいのだ。

[4221] 【物理】リーマン幾何学の初歩 h20.2.10
物体の長さは、物体に物差しを当てて測ることによってはじめて決まる。
同じ物を違う物差しで計ると長さが違う。

つまり、物差しが伸びると物体の長さが縮む。[現象=実体×観測者(物差し)]
相対論においては、
動いている物を止まっている者が見ることは、逆に
止まっている物を動いている者が見ることであり、
動いている物差しは伸びるから、
物の長さが縮んで見えるのである。
また、時間については、動いている時計は速く進む(時計の針が速く回る、つまり時間の物差しが縮む)から、
物の時間の長さが伸びて見えるのである。
だから、例えば、動いている素粒子の寿命(生成から消滅までの時間の長さ)が伸びて見えるので、同じ速さでも長い距離を移動できるのだ。
一般相対論においては、質点のない時空間は直交座標系(4本の座標軸の組合せだから座標“系”という)で歪[ゆが]みがないが、質点(例えば、地球)があると質点の周りの時空間が球対称に歪むのである。[図は面倒くさいので省略する。電荷が作る電場と同じ。]ところで、歪んでいる時空間の中に静止した物体を置くことは、歪んでいない時空間の中に重力で加速度運動している物体を置くことと同じである(いわゆる等価の原理)。したがって、歪んでいる時空間についての微分方程式を解けば、各点における歪んでいる時空間の曲率からその場所における重力の強さがわかるわけである。つまり、現象=実体×観測者(時空間)より、現象÷時空間=実体だから、歪んでいない時空間における重力による加速度運動と歪んでいる時空間における静止運動(一般には、慣性運動)とが実体としては同じものだということである。“歪んでいる時空間”(連続的に分布している4次元座標系列)を考えることによって、重力による加速度運動が静止運動に帰着されるので、[ガリレイが“時間軸”を考えることによって、物体の運動を静止した図形に置き換えて(ヨーロッパ人の感性にとって)考えやすくすることができたように、]重力場が扱いやすくなるわけである。

重力レンズ効果については、時空間が歪んでいなければ光は直進するが、太陽の近くでは時空間が歪んでいるために光が曲がるのである。
光の赤方偏移については、時空間の各所で光の速さは同じCだが、歪んでいない座標系から見ると地球の中心に近いところほど時空間の歪みがきつくそれだけ鉛直方向の空間の物差しが縮んでいるので[時間の物差しは空間の物差しに比べてあまり違わない。]、歪んでいない座標系から同じ光を見れば、地球の中心に近い所に比べて遠い所のほうが光の波長が伸びて振動数が減ったように見えるのである。

水星の近日点の移動については、太陽と時空間との相互作用がなければ太陽の周りの時空間は一様に等方的であって、水星は正確に同じ楕円の上を運動し続けるが、実際には太陽と時空間との相互作用があるために太陽の周りの時空間は太陽を中心として球対称に非等方的になるから、太陽の遠いところと近いところの時空間の歪みの違いによって近日点の移動が引き起こされるのである。

[4222] 日本政府はヤクザだ。 h20.2.11
民間の宗教家は超能力者に関っても得にならないから関らない。
だから、超能力者に関るのは政府の宗教的機関だけである。
私が高1のとき分裂病に罹って以来、近所の者に悪口を言わせ続け、
私に毎日ガン飛ばしで不快な目にあわせ、
大学入試や就職や睡眠妨害で仕事の邪魔などし続けたのは、すべて日本政府の仕業である。
これでは、日本政府も一種のヤクザだと考えざるを得ない。
まともな組織じゃないから、天皇に支配させても続くわけだ。

[4223] 人間主義より自然主義(実在主義) h20.2.11
小さいときから親に厳しくしつけられると人間主義になるようだ。
人間主義とは、正しかろうがまちがいだろうがとにかく“偉い人”の言うことを聞くことである。
そんな思想が人類を幸福にできるとは考えられない。
人間は実在に従うことによって自分の願望を実現できるのだから、人間主義よりも自然主義(実在主義)でなければならない。
例えば、日本政府は典型的な人間主義団体である。日本が幸福な国になれないのは、日本政府が原因である。
[ちなみにnatureとscienceの違いは、natureが自然そのものであるのに対し、scienceは人間に理解された自然のことである。自然そのものを対象にするかぎり、五感における具体的発見も知覚における抽象的理論に劣らず大事である。]

[4224] 知覚よりも心 h20.2.11
Hな女の頭の中は、男の裸ばっかりだ。
Hな女でも頭(知覚)はいいかもしれないが、性欲ばかり満足させて生きているから男の裸以外のことは考えられなくなっているのである。
つまり人間にとっては、知覚のできの良し悪しよりも、何の感情を満足させて生きているかのほうが大事なのだ。
つまり、人間の本質は心にあるのだ。
いくら頭(知覚)がいい人でも、知覚欲以外の感情を満足させて生きていたら、そのうち馬鹿になるということである。

男と女の違いもそこにある。男が知覚欲だけで生きているのに対し、女は愛情で生きているために、女は男よりも若干馬鹿なのである。キュリー夫人やコワレフスカヤが頭がいいのは、親が厳しくしつけて愛情を満足させなかったからである。ただ、そこまでして女が賢くなる必要はない。人類が続くためには、女の愛情を満足させたほうがいい。子育てが自分の知覚欲の満足の妨げになるからといって、女が子供を産まなくなったら人類は絶滅する。

[4225] ドクロパンツ h20.2.11
以前私がNISSEN通販で買った紳士パンツ5枚組みセットにドクロ柄のパンツが入っていた。
安いと思って買ったのに、ドクロパンツが入っていてガッカリした。
ドクロは、私の顔がなんとなくドクロに似ているのと、私が小学生の頃に住んでいた高知市朝倉若草町県営住宅23号の1階便所の入り口の上の柱にドクロ形の木目が付いていたからである。私はこの木目が怖くて、その恐怖心を克服しようとして夜中に起きて10分ぐらい階段に座ってじっとこの木目を見続けていた。そしたら母親が起きてきて、「いったい何をしゆが?」と訊いたので、私は「なんでもない」と答えてその場を去った。(ドクロ→『新世紀エヴァンゲリオン』第19話「男の戦い」の使徒の顔や『撲殺天使ドクロちゃん』や『ヤッターマン』のドクロストーンや『大空魔竜ガイキング』や『デ・ジ・キャラットにょ』第1話「でじこだにょ」など)
私に因んだ商品を作ると、人間主義団体や不合理主義団体などから予算が出るので、消費者にとっては安い値段で品質の良い商品を買うことができる。
しかし、ドクロパンツではもともこもない。
ドクロパンツではHをする気にもなれないので、性欲の抑制にでもなると思ったのだろうか?

[4226] 念力で海を割れるか!? h20.2.11
『旧約聖書』で、モーセは海を割ってイスラエル人を引き連れて海を渡ったとされている。
念動力で海を割るつまり海の水を押し除けるためには巨大な力が要る。
力学の作用反作用の法則により、超能力者の身体には反動ですごい力がかかる。
だから、当然モーセの身体は空の彼方に吹き飛ばされたはずである。
だから、海を割ったのはモーセの超能力ではなく、何か別の力(例えば、万有引力)である。
[海を割るシーンは、『魔法の天使クリィミーマミ』第16話「海に消えたメモリー 」や『魔法のプリンセスミンキーモモ』(2代目)の後期OPなどに見られる。]

[4227] 旧約聖書 h20.2.11
昔は今ほど真実と嘘の区別にこだわらなかったので、旧約聖書には本当にあったことと作り話とが混在している。
モーセがエジプト軍の追っ手を振り切ってエジプトからカナンに行ったことは事実だろうが、その途中で海を割ったことは嘘だ。実際には、どんなことがあったのかわからない。ただたんにモーゼがイスラエル人を連れてシナイ半島を歩いて渡り、追いかけるのが面倒くさくなったエジプト軍があきらめて引き返しただけのことだったかもしれない。その事実に“超能力で海を割る”作り話を付け足して話を面白くしているだけのことなのだ。
プラトンが自分の哲学書を対話法で書いたように、モーセは真実と作り話を混ぜこぜにする書き方で書いたのだ。昔の歴史書は面白さが重視されたので、記述の真実性にはあまりこだわらなかったのである。
だから、今の人が科学書や歴史書を読むときのように、旧約聖書の記述を全部が真実だと考えて読んではならない。頭の中で事実と作り話を分けながら読まなければならない。
とはいえ、モーセがエジプト人の奴隷だったイスラエル人を自由に解放したのだから、天才的な指導者であったことには違いない。いわばエヴァリスト=ガロアやラマヌジャンの社会科版といったところか。

[4228] 聖書とは何か? h20.2.11
モーセは天才的な指導者であったが超能力者らしくない。海を割る奇跡はあまりにも作り話すぎて真実らしさがない。ただ、モーセは預言者だから、テレパシーの才能があったのかもしれない。
キリストは天才的な宗教家だったが、そもそも宗教家になったのはキリストに超能力があったからで、キリストは本質的には超能力者である。キリストを描いた絵には後光が射している絵が多いから、キリストは念光力の才能があったのだろう。ただし、超能力の才能は神とは関係がない。
したがって、聖書は超能力者の伝記をまとめた書物である。
ただ、私はモーセの超能力は嘘だと思う。テレパシー能力そのものは実在するが、それは他人の思考が聞こえるのであって、神の声を聞く能力ではない。十戒も神が作った法にしてはしょぼい出来だ。ソクラテスも神の声を聞いたと伝えられているから、昔の人は幻聴(テレパシー)を神の声を聞く特殊な才能だと考えていたのだろう。

[4229] 宗教とは何か? h20.2.11
科学が世界を合理的に説明するのに対して、宗教は世界を不合理的に説明する。地球には、世界を不合理的なものだと考える者が多いから、宗教に入っている者が多いのである。しかし、私に言わせれば、世界を不合理的にできていると考える者は考えが足りないのであって、よく考えれば世界は合理的に出来ているのである。
宗教家として有名なのは、ゾロアスターや釈迦やキリストやマニなどである。
ゾロアスターは宗教家だが超能力者ではなかったようだ。[私は詳しくは知らないが。]
釈迦もキリストも宗教家だが、そもそもは超能力者である。しかも運動系の念光力の超能力者である。
マニにはテレパシー能力があったらしい。もっとも、テレパシーで聞こえるのは他人の思考であって、天使のお告げではない。テレパシー能力だけなら、精神分裂病者なら誰にでもあるから珍しくはない。
宗教家には超能力の才能がある者が多いが、超能力自体は合理的存在であって、不合理的な存在ではない。つまり、超能力は人間の脳の中にある超能力器官の働きによって引き起こされる自然現象である。眼や耳や手足が身体の外についているのに対し、超能力器官(テレパシー器官、念光力器官、念動力器官など)が身体の中にあるだけのことである。私は神の存在を信じないが、たとえこの世に神がいたとしても、超能力は神とは関係がない。

[4230] 神武天皇の場合 h20.2.11
神武天皇は超能力者だったが、世界の根本原理について不合理的に考えなかったから宗教家ではない。だから、神道は宗教ではない。
神武天皇は国家統一を志して活躍したから、どちらかというと政治家である。政治家がたまたま国家統一の途中で超能力を使っただけのことである。
いわば、日本のモーゼといったところか。[どうやって宗教するんだろう?モーゼは十戒を作ったからそれを守ることが“超能力者びいき”をすることになるが、神武天皇は法を作らなかったから、神棚を祭って崇めるだけか?]
ちなみに、神武天皇は九州宮崎県の出身である。超能力者が出るのは、温帯の中でも暑いところが多いようだ。[私が受精卵となったのは宮崎県である可能性がある。]

[4231] 神の起源☆☆ h20.2.11
昔の人はテレパシー能力を神の声を聞く能力だと考えたらしい。
つまり、テレパシーで人間に話しかける者が神なのだ。
しかし、今ではテレパシーは他人の思考を聞く能力であって、神の声を聞く能力ではないから、神はいないと考えられている。
また、昔はテレパシー能力が神の声を聞く能力だと考えていたから、その他の念光力や念動力などの超能力も神と関係があると考えられたのだ。
しかし、今はテレパシー能力と神とは関係ないから、その他の超能力も神とは関係ないと考えられている。

[4232] 超能力者びいき h20.2.11
昔から、人類は超能力者が現われたら超能力者びいきをしてきた。
モーセはイスラエル人の指導者になれたし、[モーセ級の指導者は他にもたくさんいたが(例、ガンジー)、モーセにはテレパシー能力があったので彼らとは別格なのである。ただし、今日的に見れば、モーセの超能力は超能力とはいえない。]
神武天皇は日本の初代統治者になれたし、
釈迦やキリストは、世界的な宗教家になれた。
しかし、超能力は神とは関係がないし、超能力の才能は知覚の才能とは関係がなく超能力者と正しい者とは別だから人類が超能力者に従うことはまちがいだし、人類が超能力者びいきをしても人類にいいことはないからやめたほうがいい。
超能力者を特別扱いするよりも、超能力を科学的に理解するほうがずっと大事である。
超能力者も超能力で特別扱いされて出世するよりも、超能力を直に用いて有利に生きたほうがずっと気持ちがいいはずだ。
つまり、超能力者は自分の超能力で何をしてもいいが、その代わり人類は超能力者に対して一切特権は認めないということである。

[4233] なぜキリスト教は人気があるか? h20.2.12
宗教を信じているのは不合理好きな者である。
キリスト教は世界で一番不合理な宗教だから人気があるのだ。
その証拠に、あまり不合理でない仏教は人気がない。
日本の神道は、神武天皇も私も不合理的な世界観を作らなかったから宗教ではない。
モーセの十戒のうち四戒までは不合理的だから、宗教といえるのである。

[4234] 相対性原理 h20.2.12
現象=実体×観測者。
すなわち、現象÷観測者=実体。
つまり、合理主義における超能力者と不合理主義における神とが実体(すなわち具体的存在としての釈迦とかキリストとか私とか)としては同じであるということである。
不合理主義から見ると合理主義における超能力者が人間よりも上の神に見えるし、世界には合理主義者よりも不合理主義者のほうが多いから、人類全体としてみれば合理主義における超能力者が人気がある。
合理主義における超能力者が不合理主義であるほど不合理主義者にとって共感できるので不合理主義者には人気があり、反対に合理主義における超能力者が合理主義であるほど不合理主義者にとって共感できず不合理主義者から嫌われるのだ。
一方、不合理主義における神が合理主義であるほど合理主義にとって共感できるので合理主義者に人気があり、反対に不合理主義における神が不合理主義であるほど合理主義者にとっては共感できず合理主義者からは嫌われるのだ。
不合理主義者にとっては合理主義における超能力者が人間よりも上の神なので、不合理主義者の間では合理主義における超能力者の伝記(いわゆる聖書や経典)がもてはやされるのである。不合理主義の伝記は、不合理主義の観点から書かれているので、合理主義から見れば記述が正確でない。不合理主義における神の伝記も合理主義から見れば、超能力者が政治(神武天皇やモーセ)や宗教(キリストやマニ)や哲学(釈迦)をしただけのことである。
不合理主義者にとっては、合理主義における超能力者は人間よりも上の神であり人間が従わねばならない者だが、
合理主義にとっては、超能力者は超能力器官が発達した人間にすぎず、合理主義にとって上の者とは実在について正しく知っている者のことであり超能力の才能とは関係がないから超能力者というだけで人間よりも上の者とは言えず、放っておいて勝手に超能力を使って暮らせばいい者である。

[4235] 合理主義の長所 h20.2.12
超能力者は合理的にも不合理的にも見ることができるが、はたしてどちらの見方がいいのだろうか?
合理主義の世界観(現象)には矛盾がないが、不合理主義の世界観には矛盾がある。
したがって、合理主義では論理的推論(演繹)ができ、推論が論理で行われるので正しい前提からは必ず正しい結論が導かれ、ひとつの真理がわかればそこから多くのことがわかるが、不合理主義では論理的推論ができず推論が山勘[ヤマカン]で行われるので、正しい前提からまちがった結論が導かれることが多く、たとえ真理がわかってもそこから先に進まない。合理主義の世界観(科学)が日進月歩であるのに対し、不合理主義の世界観(宗教)が旧態依然としているのはそのためである。つまり、科学は新世界を切り拓けるが、宗教は過去の出来事を記録することしかできない。
論理的推論は人間の知覚の得意とするところであり、知覚の才能は人間においてとくに発達しているので、知覚の才能を活かした合理主義のほうが知覚の才能を活かさない不合理主義よりも断然有利である。
わざわざ発展性のないまちがいを犯す考え方を選ぶ馬鹿はいないから、当然不合理主義よりも合理主義を選ぶべきである。

[4236] 宗教とは何か? h20.2.12
宗教とは、世界を不合理的に説明付けた言葉(概念)の体系のことである。
キリストが始めたキリスト教や釈迦が始めた仏教が有名だが、超能力者にしかできないことではない。
世界に儒教や道教やヒンズー教などの超能力者以外の者が始めた宗教がたくさんあるのはそのためである。[ヒンズー教は、超能力者である釈迦が始めた仏教に対抗するために人間が始めた宗教である。]
ただ、超能力者がやると、不合理主義者の間では超能力者が人間よりも上の神ということになるから、プレミアが付いて人間が始めた宗教よりも上に置かれるのである。

[4237] 合理主義とは何か? h20.2.12
合理主義とは、イギリスの帰納論とヨーロッパ大陸の演繹法をくっ付けたものである。
つまり、合理主義=帰納法+演繹法。早い話、科学のことである。

[4238] 鳥居 h20.2.12
神道のシンボルマークが鳥居なのは、神武天皇の弓矢の先に“鳥(トビ)がとまった”からである。[参照
仏教のシンボルマークが車輪なのは、釈迦が八正道を唱えたからである。
キリスト教のシンボルマークが十字架なのは、キリストが十字架に磔[はりつけ]にされたからである。
他の宗教のシンボルマークも、それぞれに意味が付けられている。

[4239] 神道とは何か? h20.2.12
神道とは、世界中の不合理主義者の中で、神(合理主義における超能力者)である神武天皇を崇めている者の団体である。
神武天皇は不合理的な世界観を作らなかったが、神道自体が不合理的な世界観なので、神道は宗教なのである。つまり、神道は人間が始めた宗教であって、神武天皇が始めた宗教ではない。
Wikipediaでは日本人の1億人あまりが神道に入っていることになっているが、そんなに大勢の日本人が不合理主義者というのは現状と合っていない。
日本人は昔から合理的な考え方を好む民族だから、神道の信者なんか実際にはほとんどいない。[日本の関孝和は独力で行列式の概念に到達した。だから、日本人は合理主義者である。新しい世界を切り拓くのは数学者である。物理学者は数学者の後を追うだけである。物理学者は数学と実在の対応を付けるだけである。]

[4240] 宗教に入るとは? h20.2.12
宗教に入るとは、自分が不合理主義で生きて行くことを決心することである。
なんか、ガラが悪い。

[4241] 男にとっての理想の伴侶 h20.2.12
自分にとっての衣食住を満足してくれる人。

[4242] 二兎を追う者一兎をも得ず。 h20.2.12
明治政府は富国強兵を謳って西洋科学を受容する一方で帝国制を開始した。
合理主義と不合理主義を同時に満足しようとしたのである。
善人にとっても悪人にとっても満足できる国を作ろうとしたからである。
外国も日本のどっちつかずの態度を快く思うはずがない。
韓国の陰陽太極図のシンボルも、善も悪も同時に満足しようという日本と似た趣旨の表れである。

[4243] モーセの超能力 h20.2.13
テレパシー能力の存在は昔から知られていたし、テレパシー能力はザラだから、たんにテレパシー能力があるからといって不合理主義者がテレパシー能力者を神と見なしたとは考えにくい。
それなら、世界中のすべての分裂病者を不合理主義者が神だと見なすはずである。
例えば、神からデルフォイの神殿に行けとテレパシーで指示されて、そこに汝自身を知れと書かれていたのを見て哲学者になる決心をしたソクラテスも神のはずである。しかし、ソクラテスは聖書には載っていないから神ではない。
だから、モーセの本当の超能力はテレパシー能力ではない。
モーセの本当の超能力は“海を割る”能力である。
ただし、本当に海を割ったのではなく、念動力でバケツに入った水を割るように動かす(水面を凹ませる)ことができたのだと思う。
その超能力をモーセの伝記の中に取り込んで大袈裟にして海を割ることに喩えたのだ。[不合理法(不合理主義者の間で決めた法)に基づいて、モーセが話を大袈裟に言ったり話をごっちゃにする癖があったことから、(モーセが死んだ後で不合理主義者の誰かが)モーセが小さいときに超能力でバケツの水を割ったことをエジプトを脱出するときに海を割ったことに言い換えたのだろう。]
してみると、日本の神武天皇が光の玉を出したのも、戦いの最中[さなか]ではなくて、私と同じように赤ちゃんの頃だったのかもしれない。
とにかく、モーセがテレパシー能力以外の超能力を使えたことは事実である。つまり、モーセは私と同じ念動力系の超能力者であって、神武天皇はキリストや釈迦と同じ念光力系の超能力者なのだ。
それにしても、昔の超能力者はよく頑張ったものだ。超能力以外の才能にも長けていたんだなあ。

[4244] 不合理主義 h20.2.13
昔は、まだ科学がなかったから、今よりも多かれ少なかれみんなが不合理主義者だった。
でも、今は、すでに科学があるから、合理的なものの見方が溢[あふ]れているから、そんな時代にあえて時代の趨勢[すうせい]に逆らう非科学的な不合理的な物の見方をすることは、れっきとした不合理主義である。
つまり、昔は不合理主義しか選べなかったが、今は合理主義か不合理主義かを選ぶ自由がある。
しかし、たとえ一時的に不合理主義であっても、その後で時間をかけて考えて行けば次第に考えが合理的になっていくから、結局人間は合理主義者なのである。

[4245] 不合理効果 h20.2.13
宗教は、人間の気休めのためにある。
実在の世界は、人間に正しいかまちがいかの区別が要求される厳しい世界である。
そんな世界の中ばかりにいたら気疲れがするので、ときには休みたくなる。
宗教の世界には、たとえ言葉の上だけであっても正しいかまちがいかの区別がないので、心理的にリラックスできるのである。
宗教家はその効果を狙って、わざとに論理の効かない曖昧模糊な世界を限定された空間の中に作り出しているのである。
宗教は映画館やゲームセンターのように、現代人のストレスを解消することに貢献している立派なサービスである。
でも不合理が行き過ぎると悪ノリして他人に迷惑をかけることになるから、あくまでも気休め程度に留めるべきである。

[4246] 実在の外にいる者 h20.2.13
超能力者を不合理的に見ることは一歩譲って許せるとしても、
超能力者を不合理的に扱うことはもはや許されることではない。
つまり、超能力者の超能力が不合理的に見て危険に思われたからといって、勝手に超能力者の身体に処置をして超能力を消すことは許されることではない。
そんなことが許されるなら、超能力者以外の者に対しても不合理的に見て自分の気に入らなければ手出しをしていいことになるから、不合理主義者のしたい放題ができる世の中になる。
不合理主義者は、正しいかまちがいかの区別で物を見ないので、いわば実在の外にいる者である。
実在の外にいる者が実在に手出しをすると、実在がメチャクチャにされて迷惑である。
だから、実在の外にいる者が実在に手出しをしてはならない。

[4247] 超能力者は人間の反例ではない。 h20.2.13
超能力者は不合理的な存在ではない。
超能力者は実在の世界が不合理的にできていることの証[あかし]ではない。
超能力者が人間の反例というのなら、自分たちの人間についての理論を実在と合うまで考え直すべきである。つまり、これまでの人間観を変えるべきである。
『人類の中にはときどき脳の中に特殊な器官(超能力器官)を持った者が生まれることがある。たまたま何かの機会にその特殊な器官が強く興奮して未知の素粒子(超能力量子)を放出することがあると、その素粒子が空気やプラスチックや水などと反応して光が出たり物が動いたりする。』
こうして、超能力について合理的な説明が付いたから、もはや超能力者はその他の物質と同様に合理的な存在の一員なのである。

[4248] 不合理法より合理法 h20.2.14
人類は不合理主義者の間で決めた不合理法よりも、合理法すなわち帰納法+演繹法=科学的認識の方法に従わねばならない。
人間は実在に従って自分の願望を実現することによって幸福になるのだから、不合理法に従うと実在に従うことができなくなり不幸になるのである。

[4249] 聖書とプリンケピア h20.2.14
人類は聖書に従ったほうが幸福になれるのだろうか?
それともプリンケピア(自然現象の数学的原理)に従ったほうが幸福になれるのだろうか?
聖書に書かれていることは実在しない空想の世界であり、
プリンケピアに書かれていることは実在の世界である。
本当の幸福は空想の世界にあるのだろうか?
それとも実在の世界にあるのだろうか?
人類は空想の世界に生きるべきか?
それとも実在の世界に生きるべきか?

[4250] 哲学第1原理 h20.2.14
『脳細胞が興奮すると感覚を発生する。』
人間の感情を含むすべての認識が実在する脳の働きであるなら、もはや実在の世界しかない。
たとえ人間が頭の中で実在しない世界を空想しているときでも、その空想を担っている脳細胞は依然として実在の中にあるのである。[孫悟空がお釈迦様の手から出られなかったのと同じ理屈だ。]
いくら頭の中で空想の世界を想像することができても、空想の世界そのものが存在するわけではないから、いくら実在の世界の中で空想の世界に従っても思い通りに行かないのである。
不合理主義は実在の世界の中で空想に従うことだから、はじめからうまく行くわけがない。

[4251] 空想の表現 h20.2.14
人間の頭の中にある空想の世界は、実在の世界の中に言葉や絵や模型として表現される。
言葉や絵や模型は空想の表現であると同時に、実在の中に存在する物体でもあり、
物としての言葉や絵や模型は実在の法則に従うから、
実在の中で実現できる分しか、空想を表現できない。
つまり、空想の世界を表現するためには実在の法則に従わねばならない。
まず実在の世界がなければ、空想の世界も表現できないのである。
逆に、言葉や絵や模型がいくら実在する物体であっても、それら自体が実在しているわけではなく、それらが空想の表現にすぎないことを忘れてはならない。

[4252] かなえられない願望 h20.2.14
人間は実在に従って自分の願望を実現することによって幸福になる。
願望は実在に従うときにのみ実現される。
実在に従う願望は実現されるが、実在に従わない願望は実現されない。
実在の世界の中での願いはかなえられて幸福になるが、
空想の世界の中での願いはかなえられないのでかえって不幸になる。
つまり、人間の心は知覚(実在)に従ってこそ幸福になれるのであって、
知覚(実在)に従わない心は幸福にはなれない。
実在に従うことは、心が知覚(実在)に従うことである。
空想に従うことは、いわば心が心自身に従うことであって、心が知覚(実在)に従うことではない。
つまり、合理主義は心が実在に従うことだから幸福の思想であり、
不合理主義は心が実在に従わないことだから不幸の思想である。
空想の世界は一時[いっとき]の遊びにすぎず、真[ま]に受けるほどのものではない。
空想の世界を真に受けない練習も大事である。
[私が高知学芸高校のとき佐野校長が朝礼のときに言った「三当四落」を真に受けて猛勉したが過労でかえって勉強できなかったように、他人が言った嘘か本当かわからないことを本気にしないこと(本当と考えないこと)も大切である。]

[4253] 実在か空想か? h20.2.14
人類の幸福への道は実在にあるのだろうか?それとも空想にあるのだろうか?
心が実在に従うべきか?それとも実在が心に従うべきか?
しょせん、心は実在の中にある脳細胞の興奮で発生する感覚にすぎない。
そんな心に実在を従わせるほどの力はない。
心をやみくもに肯定して実在を心に従わせるよりも、
逆に心を実在の中で満足させることを考えるべきである。
心をやみくもに肯定しても、心で思うことが実在に反していれば、いくら実在を心に従わせようとしても実在は心に従ってはくれない。
>合理主義が、まず実在を肯定して心を実在に従わせることであるのに対し、
不合理主義は、まず心を肯定して実在を心に従わせようとすることであり、
不合理主義者は超能力を実在を心に従わせる能力と考えているから、
不合理主義者の間では超能力者が高く買われるわけである。
でも、それは人間の欲目が生み出した超能力に対する誤解である。
超能力は超能力者の脳にある超能力器官において発生した超能力量子が他の物質と反応して引き起こす自然現象であって、超能力量子でできることしかできないから、心で願ったことが超能力器官で実現される場合にだけその願望が実現されるにすぎず、一般に超能力を実在を心に従わせる能力と考えることは超能力に対する拡大解釈のしすぎである。
実際に、超能力者が発現した超常現象はたったひとつの現象にすぎず、いろんなことができたわけではないから、超能力を実在を心に従わせる能力と考える何の根拠もない。[釈迦は超能力でいろんなことができたといわれるけれども、その記述は不合理法に基づく釈迦の物事を一般化して考える癖による言い換えだと考えられるから、実際には釈迦は超能力でひとつのことしかしなかったのだと考えられる。]


[4254] 子供は正しくない。 h20.2.14
子供は実在の世界についてまだよく知らないから、正しい者ではない。
子供が正しければそもそも勉強する必要がないから、子供は正しくない者なので、子供の親が子供に対して自分が正しいと考えること(自分にとっても子供にとっても成り立つと考えられること)をもっとびしびし言って聞かせるべきである。

[4255] 子供はなぜ咳[せき]をするか? h20.2.14
子供は咳をする。とくに冬の寒い頃になるとよく咳をする。
子供はまだ呼吸器系とくに気管支系が大人のように十分発達(成熟)していないから、それで咳をするのである。
身体が小さいことは空気のフィルターが小さいことだから、フィルターが小さいと空気中の埃[ほこり]を十分取り除けないので、その分を咳で補って取り除いているのである。

[4256] 不合理主義者と合理主義者の関係 h20.2.14
不合理主義者に合理的な議論が通用しないからといって、不合理主義者が合理主義者に従わないなら、
逆に合理主義者に不合理的な議論も通用しないから、合理主義者が不合理主義者に従う必要もない。

[4257] 私に謝るための条件 h20.2.14
私に謝るためには、自分のほうが正しいことを論理的に証明しなければならない。
それができないかぎり私は許さない。

[4258] 人間による他の生物の管理について h20.2.15
人間が人間未満の生物を管理するのは、人間に許された特権である。それは、人間が他の動物の習性を知覚で理解できるので、他の動物を支配することができるからである。犯罪者も人間未満の動物だと見なせるので、犯罪者を動物並みに檻[おり]に入れたり、ときには死刑にすることも許されるのである。
反対に、人間が人間以上(人間と同じかそれ以上)の生物を管理(ここでの管理とは、生物の才能を奪うために身体に何らかの処置をすること)するのは、原則として禁止すべきである。超能力者は人間よりもひとつ才能が明らかに多いから、人間以上の生物と見なされるべきであり、したがって人間は超能力者を管理することができないから、超能力者の超能力を消したりすることはできない。
生物の進化の法則を人間だけが否定することは許されない。それは自然に対する人間の思い上がりである。この世に進化論があるならば、人間が進化してもおかしくはない。だから、超能力者が現われる。ならば、それを当然のこととして受け入れようではないか。それが知性ある人類の取るべき態度ではないだろうか。むしろ、超能力者の登場を進化論が正当であることの証[あかし]として、人類の来るべき進化の現われとして大いに歓迎しようではないか。

[4259] キリストははたして甦[よみがえ]ったか? h20.2.15
キリストは「自分は神だから不死である。」と豪語して磔刑にされたが、あっけなく死んでしまった。
3日後にキリストが甦ったと噂[うわさ]が立ったが、キリストの代役がボロが出るのを恐れてすぐにやめたのだろう。
どうせ、不合理法に基づいて、キリストが嘘をつく癖があったから、不合理主義者が仕組んだ芝居で死んでも甦ることにしたのだろう。

[4260] 天皇はボンクラではない。 h20.2.15
天皇をボンクラというのは当たらない。
天皇だから優秀な人間でなければならないというのは他人の勝手な思い込みだ。
だから、実際の天皇が優秀な人間でないからといってボンクラ呼ばわりするのは失礼だ。
ただ神武天皇の子孫を天皇と呼んでいるだけのことだ。
それを勝手に日本の支配者にした国民が悪いのだ。

[4261] イギリスとドイツと日本 h20.2.15
イギリスのニュートンとドイツのライプニッツと日本の関孝和だけが当時微積分を理解していた。[日本は仏教の国で物に対する偏見があったので、数学は進んでいたが科学が遅れていたのである。私は物に対して知的な目を注ぐのはよいことだと思う。私が医学生の頃、私が『身体』と頭の中で考えただけで私の両親が血相変えて怒ったことがある。私の父親は医者嫌いだし、母親は日蓮宗の厳しい教育で育ったので、私の両親とも人間を身体だと考えていないようである。]
知的に優秀な民族にハンサムはいない。
アメリカはイギリスと同じで、アメリカ(イギリス)だから、これら3国は世界の首脳だ。

[4262] 知覚欲か五感欲かそれが問題だ。 h20.2.15
私が医学部のとき医学の勉強で抑鬱感情が刺激されて知覚が働かなくなり五感欲を満足させて生きて行こうとしたことがある。しかし、五感欲の満足で得られる快感が知覚欲で得られる快感よりもずっと弱かったので、五感欲を満足させて生きて行くのをやめて知覚欲の満足で生きたかったので医者を辞めて物理学科に入りなおした。
五感欲が知覚欲よりも楽しければ、医学部で落ち込んだのを契機にして、その後もずっと五感欲を満足させて生きていたはずである。しかし、実際にはそうしなかった。
だから、五感欲は知覚欲ほど強い快感は得られないのだ。
女の場合は、五感欲で得られる快感の不足を愛情で補っているのである。
つまり、男にしろ女にしろ人間は五感欲だけでは生きられないということだ。

[4263] 「俺は人間よりも上だ!」 h20.2.15
たとえこの次の超能力者が現われて「俺は人間よりも上だ!」と言ったとしても、それはその超能力者が自分自身に対するひとつの考えを述べたまでで、他人がその考えに従わねばならない義務はない。
合理主義においては、正しい者が正しくない者を支配すべきだから、いくら超能力者でも実在に対する正しい考えを持っていなければその超能力者に従う必要はない。
つまり、「俺は人間よりも上だ!」が“自分が生物学的には人間よりも上だ”という意味なら正しいが、“自分が人間よりも上だから人間に何でも命令できる”という意味ならまちがいである。したがって、“超能力者が生物学的には人間よりも上である”という考えは正しいから従わねばならないが、“超能力者が人間に何でも命令できる”という考えはまちがいだから従ってはならない。
合理主義において、正しい者とは正しい(つまり、実在と一致している)考えを担っている者の意味であり、正しい者が正しくない者を支配するとは、すべての人間が正しい者が担っている正しい考えに従わねばならないという意味である。正しい者の正しくない考えにまで従わねばならないという意味ではない。だから、個人は正しいこと(物理的法則や心理的法則)で規制されるだけであり、個人の自由は最大限認められるということである。でも、将来物理法則や心理法則が細かくわかっていけば、そのうち規制だらけになって個人の自由がなくなってしまうかもしれない(例えば、オゾンホールとか温室効果とかエネルギーや資源の危機とか)。でも、幸福に生きて行けるならそれでもいいはずだ。[自由というだけで喜んではいけない。幸福のための自由でなければ何にもならない。たとえ自由がなくても幸福であれば満足できるはずだ。]未来社会においては、個人の進学、就職、結婚、出産、死亡などがすべてコンピューターの計算によって決まってしまうかもしれない。

[4264] どうして超能力者は神なのか? h20.2.15
超能力者が神であるのは、不合理的に見たからであって、
合理的に見れば、超能力者は超能力者にほかならない。
超能力者が神である理由が合理的には存在しないからこそ、
不合理的には超能力者が神なのである。

[4265] 天皇はどうして日本人を支配できるか? h20.2.15
合理的に見ると、天皇は正しい者ではないから日本人を支配する資格はない。
合理的には天皇が日本人を支配することはまちがいだから、
不合理的には正しいこととして通用するのである。
要するに、天皇制は合理的にはまちがっているから、不合理的には正しいのである。
一般に、合理的にまちがっていることは不合理的には正しいことであり、
合理的に正しいことは不合理的にはまちがいである。

つまり、合理主義に従うと実在に適応できるが、
不合理主義に従うと実在に適応できなくなる。

[4266] 天才ニュートン h20.2.15
私は母親が好きだが、それ以上に『実在の世界』が好きだ。[私は医学部の臨床講義のときに、このことに気付いた。]
ガリレイは、“時間”の概念を用いて地上の物体の運動について詳しく研究したが、
さらに、ニュートンは、星空の物体(つまり、月やその他の惑星)と地上の物体が同じ法則で動いていることを説明することに成功した。ここに、星空の世界と地上の世界が同じひとつの世界として統一されたのである。[ニュートンはリンゴの木の下で寝そべってリンゴが落ちるのを見ながら、ガリレイの斜台の実験のことを思い浮かべていた。そのうち眠くなって、自分が夢の中でリンゴを投げることを想像していた。リンゴを弱い力で横に投げるとガリレイが言ったように放物線を描いて落下するが、もっと強い力で横に投げたら、そのうちリンゴの落ちる地点はどんどん遠くなって、しまいにはリンゴが地球をグルグル回るようになるだろう。そのときニュートンは自分の頭の後ろにリンゴがぶつかるのを感じて目が覚めた。そして彼は、放物運動と周天運動が同じものであることに気付いたのである。]
同じように、私の哲学第1原理によって、物質の世界と感覚の世界が統一される。“感覚子”を考えることによって、物質の世界と感覚の世界が同じひとつの世界として統一される。

[4267] 男に煩悩がない理由 h20.2.15
女には乳房や子宮があるから、それらの器官と連動する感情すなわち愛情が心の中にある。一方、人間は大脳の知覚が発達しているから、知覚と連動する感情すなわち知覚欲もある。女は愛情と知覚欲の両方を満足しながら複雑に生きているのである。
ところが、男には乳房や子宮がないから、純粋に単純に大脳の知覚と連動する感情すなわち知覚欲の満足だけで生きて行けるのだ。そこが男の強みである。

[4268] 関孝和 h20.2.16
私が高校2~3年生の頃、高知市帯屋町にある金高堂[きんこうどう]で私が川本竜彦君といっしょに『解法のテクニック』か何かの数学の参考書を見ていて、ふと関孝和の絵に出くわしたとき川本君は「関孝和は本当はこんなんじゃないって。偉く見せるためにわざとに偉そうに描かせたんだって。」と私に言って聞かせたことがある。(→どういう意味かは、わかるよね?)それと、前にも言ったが、高知学芸高校の図書館にある『新数学辞典』(一松信、竹之内脩編集、大阪書籍)を私と川本君がいっしょに見ていて、アメリカのコンピューターの父と言われるフォン=ブラウンの顔の写真を見ていたとき、川本君は「眼が嵌め込み[はめこみ]みたいだね。」と私に言って聞かせたことがある。

[4269] 不合理法とは何か? h20.2.16
超能力者が実際にやったことを、不合理法に従って超能力者の悪い癖を用いて言い換えて、聖書や経典などの超能力者についての偽りの伝記が作られた。
つまり、不合理法は真実を嘘に変える法である。
不合理法に従えば従うほど、正しいことがまちがいになる。
つまり、不合理主義(宗教)とはまちがいを崇[あが]めまちがいに従う主義である。
合理法、つまり科学的認識の方法が真実を認識するための方法であるように、
不合理法とは、まちがいを認識するための方法なので、
不合理法を事実に適用すると、まちがった認識が得られるのである。
不合理主義では超能力者を崇めるが、そもそも超能力は超能力者が実在の法則に従って発現した事実であって超能力者が(または実在が)犯したまちがいではないので、超能力者を崇めることは不合理主義に反している。
不合理主義はまちがいを犯した者を崇めるのだから、犯罪者かテストで0点を取った者を崇めるべきだろう。

[4270] 甘え h20.2.16
甘えとは、子供が自分のまちがいを親の愛情を利用して親に(正しいこととして)認めさせることである。
甘えは、不合理主義が生んだ歪んだ文化である。甘えを認めると、子供がまちがった考えを持ったまま大人になってしまう。まちがった考えを持ったまま生きているとそのうち失敗するから、甘えは長い目で見ると子供を不幸にする。子供のまちがいを認める大人にとっても悪影響である。
合理主義では、甘えは許されない。合理主義では、親は子供を厳しく育てねばならない。ただし、親が子供にまちがいを教えることも許されない。親は子供に正しいことだけを教えねばならない。

[4271] 『幸福に生きよ。』 h20.2.16
人間はただたんに生きているのではない、幸福のために生きているのである。
だから、幸福のために生きられなくなったら、もはや生きている価値がない。

[4272] 安楽自殺法はなぜ認められないか? h20.2.16
合理的に見れば、安楽自殺法は正当である。
だから、不合理的には安楽自殺法はまちがいであり、認められないのだ。

[4273] 駄洒落取り h20.2.16
超能力者の名前を駄洒落[だじゃれ]にして商品の名前などに取り込むことは、
合理的に見れば、やる必要のない・やってはいけないことだから、
反対に、不合理的には、やる必要のある・やらねばならないことなのだ。

[4274] 不合理主義者は私の考えに従うことができるか? h20.2.16
私は私の実在主義哲学が合理的に正しいと考えている。
一方、不合理主義者はまちがいを崇めまちがいに従う。
だから、不合理主義者は私の考えに従うことができない。
しかし、それは論理的に正しく考えたからそうなるのであって、
論理的に正しく考えなければ私の考えに従うことができる。
しかしながら、不合理主義者が論理的に正しい考え方をしないこともまた論理的だと見なせるので、不合理主義者が私の考えに従わないこともできる。
一般に、不合理主義者はまちがっていることをやってもいいが、
反対に、不合理主義者が正しいことをすることも不合理的だと見なされるので、
不合理主義者は正しいことでもまちがっていることでも両方ともすることができる。
つまり、不合理主義者は何をやってもいいのである。
しかし、そうなると超能力者が現われた場合、不合理主義者は超能力者が自分にとって都合のいいときだけ超能力者を立てようとする(強い命令力を与えようとする)だろう。
それでは、不合理主義者が超能力者を介在させて自分のまちがった意見を通しているだけだ。
不合理主義者が支配する社会になるだけだ。
例えば、日本の場合、不合理主義者団体が国会であり、超能力者とは天皇のことである。[神武天皇以外の天皇は超能力者ではないが、不合理的には超能力者と見なされる。(原理的には誰でもよい。)天皇自身も不合理制を認めているので、不合理主義者の一人と見なされる。]
合理主義者は不合理主義者に従わなくてもいいから、国会の決定が少しでも不合理なら拒否してよい。

国会議員は要らないから、国会議員をジャンボジェット機に全員乗せて地面に激突させて皆殺しにすればいい。

[4275] 不合理主義と合理主義 h20.2.17
超能力者は、合理的に見れば人間以上の超能力者であり、不合理的に見れば人間よりも上の神である。
超能力者は合理的にも不合理的にも見れるから、超能力者と不合理主義者とはそもそも関係ない。
つまり、自分が合理主義者であるか不合理主義者であるかを決めるのは、超能力者ではなく、自分自身である。
不合理主義者の内でも、とくに超能力者を人間よりも上の神だと見なす者が宗教人である。だから、不合理主義者のすべてが宗教人というわけではない。例えば、キリストを人間よりも上の神だと見なす者がキリスト教徒であり、仏陀を人間よりも上の神だと見なす者が仏教徒であり、神武天皇を人間よりも上の神だと見なす者が神道徒であり、私を人間よりも上の神だと見なす者が新神道徒である。不合理主義者は、超能力者を人間よりも上の神だと見なし、神の教えに従おうとする。
一方、合理的に見れば、キリストも釈迦も神武天皇も私も、その生涯の一時期に超能力を使ったことがある者にすぎない。だから、合理主義者は超能力者の考えが正しくないかぎり超能力者に従おうとはしない。
不合理主義者は神の教えに従うが、あくまでも不合理的に従うにすぎないから、超能力者に関するイメージが美化されているし、神の教えも超能力者が述べたそのままの形ではなく不合理主義者にとって都合のいいように書き換えられている。そうしてできたのが、キリスト教の聖書や仏教の経典などである。
合理的には、超能力者の生涯についての正確な記録をとり、超能力者の思想をそのままの形で残してこそ資料としての価値があるといえる。とくに超能力者が発現した超能力については、科学的価値が高いので、できるかぎり信頼性の高い正確な観察記録をとらねばならない。
人間は合理主義であるべきだが、一応思想の自由があるから不合理主義も許される。ただ、完全な不合理主義では実在の世界の中では生きていけないから、人間は多かれ少なかれ合理主義者である。反対に、いくら合理主義者でもクリスマスには子供にプレゼントを買ってあげたり、年始参りに近くの神社に行ったりすることもあるから、多少不合理的なところもある。つまり、完全な合理主義者もなかなかいないものである。日本には、合理主義者がいれば不合理主義者もいる。日本人のすべてが神道徒であるというのは嘘である。たぶん、年始参りに行っただけで神道徒であることにしたのだろう。
個人がまちがった考えを持っているのは個人の自由だから一歩譲って許せるとしても、まちがいを他人に押し付けることは許されない。反対に、正しい考えを他人に押し付けることは許される。つまり、合理主義者が不合理主義者に従う必要はないが、逆に不合理主義者は合理主義者に従わねばならない。不合理主義者が自分のまちがった考えに基づいて他人を扱うことは許されないが、合理主義者が自分の正しい考えに基づいて他人を扱うことは許される。例えば、宗教人が私を人間よりも上の神だと見なすことは許されるが、その考えに基づいて私を扱うことは許されない。私が神だという理由で、私の超能力を消したり私に精神的攻撃を加えたりすることは許されない。また、不合理主義者が自分のまちがった考えを世の中に広げることも、不合理主義者が合理主義者を支配することになるので許されない。例えば、私の駄洒落取りも、広い意味ではまちがった思想を社会に広めることになるので許されない。
人間を救うのはまちがいではなく真実である。まちがった考えは人間を不幸にし、正しい考えは人間を幸福にする。つまり、合理主義は人類を幸福にし、不合理主義は人類を不幸にする。人間は幸福のために生きているから、合理主義を肯定し、不合理主義を否定しなければならない。

[4276] 不合理主義者にとっての超能力者の意義 h20.2.17
不合理主義者にとって、超能力者は自分たちの不合理主義を強める者だと考えている。
しかし、合理主義者にとっては、そんなのは不合理主義者の勝手な取り決めにすぎないから、馬鹿馬鹿しいので従わない。
いまどき不合理主義者に従って得をするなどと考える者はいないから、たとえ超能力者が不合理主義者たちの味方に付いたとしても、不合理主義者たちの独りよがりに従おうとはしないだろう。
そもそも、どうして超能力者が不合理主義を強める者になるのかが理解できない。理解できないからこそ、不合理主義なのだろう(笑)。

[4277] 超能力は消さねばならないか!? h20.2.17
不合理的に見て、超能力が危険であろうがなかろうがどうでもいいことだが、
合理的に見て、超能力が危険であるかないかは厳密にはまだわからない。
私の超能力についての仮説が正しければ、超能力はそんなに危険なものではなく、たとえ超能力が使えるまま成人したとしても、脳は筋肉とはちがって超能力器官の大きさは成人してもそれほど変わらないから、超能力の強さは子供のときとさほど違わないはずだ。
だから、超能力はよほどのことがないかぎり消そうとしてはならない。
その他、超能力についての研究が済んで、これ以上データを取っても仕方がないからという理由で超能力を消したりしてはいけない。

[4278] 火の玉について h20.2.17
火の玉は、脳の中に念光力器官を持った者が怖い環境に置かれたとき、恐怖心で念光力器官が興奮して念光力量子が放出され、念光力量子が空気分子と反応して空気分子中に含まれる電子が励起して元の状態の戻るときそのエネルギー差が光子として放出されることによる発光現象である。
だから、念光力量子を出している本人から見ると発光体を真正面から見ることになるので円形に見える。同じ発光体を横から見ると棒状に見える。これが、いわゆる火の玉の尾に相当する。つまり、火の玉は立体的には円柱形である。
火の玉が逃げても逃げても後から付いてくるのは、逃げているのが火の玉を出している張本人だからである。逃げて走っているときに前方に火の玉が見えないのは、念光力量子の速さよりも走る速さのほうが速く、自分が走った後に火の玉が現れるからである。[オナラの拡散速度よりも速く走ったら、出した本人は臭くないと同じ理屈だ。]以前私がひとりで怖い本を見ているときにテレビのブラウン管のガラスとサッシのガラスがピシッと鳴ることがあり、テレビとサッシの位置間隔と音が聞こえる時間間隔から原因となる念力波?の速さはだいたい秒速30cmぐらいだと述べたことがあったが、ガラスを鳴らす念力波と火の玉を出す念光波の速さがほぼ同じなら、走る速さよりも念光波の速さが遅いので理屈に合う。
火の玉から逃げて安全な所に出ると火の玉が急に見えなくなるのは、安心して念光力器官が興奮しなくなったからだろう。
蒸し暑い夏の夜に火の玉を見た人が多いのは、夕涼みに外に出る人が多いからである。そのため、お盆の頃には先祖の霊が帰ってくるという迷信まで生まれた。昔は今ほど家が混んでいなかったから、外に出ると暗くてひと気がなく怖い感じがしたのだろう。私は高知市生まれの高知市育ちなので火の玉を見たことはないが、私の母親が子供の頃大杉の奥の立川(高知県と愛媛県の県境にある小さな村)に住んでいたとき、夏の夕涼みに母と妹と近所の友達4~5人といっしょに川原に出ていたとき火の玉を見たことがあるそうだ。たぶん、このときの火の玉は私の母親が出したものだったのだろう。
ちなみに、これまで日本で火の玉を見た人が大勢いるのに、その人たちがひとりも天皇になれなかったのは、不合理的に見てその人たちが神ではなかったからである。

[4279] わけがわからないもの h20.2.17
その昔、超能力者が不合理主義を強める者であり不合理主義者が超能力者を支持したのは、昔の人にとっては超能力がわけがわからない現象つまり不合理現象に見えたからだ。
でも、それなら、飛行機が飛んでいても携帯電話で話していても昔の人にとってはわけがわからないものに見えたはずだから、超能力だけがわけがわからないものとはいえないはずだ。
わけがわからないものが時代によるとするなら、超能力の仕組みが解明された未来においては超能力はもはや不合理現象ではなくなっているから、現代においても超能力を不合理現象と見なさなくてもよいはずだ。

[4280] あるものとないもの h20.2.18
超能力は未解明の現象であって、不合理な現象ではない。
超能力現象は非常に稀にしか現われないために、科学的研究が困難なので、今日までその仕組みが科学的に理解されていないのである。
つまり、超能力は人類がまだ理解できていないだけであって、宇宙に存在しないものが存在するわけではない。
超能力は、宇宙にはあるものとないものの両方があることを意味するのではない。
つまり、超能力は宇宙が不合理にできていることの証[あかし]ではない。
超能力は不合理主義の根拠とはなりえない。

[4281] 男が格好付けなんかやれるか!? h20.2.18
それじゃ、まるで男が女のようにしなければならないみたいじゃないか!?
男と女とでは満足している感情が違うから、男と女とでは同じようには行かないのだ。

[4282] 不合理主義と合理主義とどちらが有利か?☆☆ h20.2.18
不合理主義ではただしいことでもまちがっていることでも何でもやれる。
一方、合理主義では正しいことしかやれない。
だから、不合理主義のほうが合理主義よりもまちがっていることがやれるぶん有利である。
しかし、それは制度上の違反ができるつまり、人間社会の法則を犯せる(法律を破る)ということで、実在の法則を犯せるわけではない。
たとえ昔の人が超能力者を実在世界の法則を犯せる者と考えていたにしても、不合理主義者は超能力者が実在世界の法則を犯せることと自分たち不合理主義者が人間社会の法則を犯せることとを混同している。
不合理主義は人間社会に通用するだけで実在世界には通用しない。
不合理主義は人間社会を支配できても実在世界は支配できない。
不合理主義が栄える社会は犯罪者ばかりで物質的には貧しい暮らしをしなければならない。
それなら、反対に、合理主義で犯罪者のいない社会を作って、物質的にも豊かになったほうが幸福な暮らしができるのではないだろうか。

[4283] なぜアニメのキャラクターは私と似ていないのか? h20.2.18
科学では、認識が実在に従わねばならないから実物と同じに描かねばならないが、
宗教は科学とは違うので、宗教では認識が実在に従わないから実物と同じには描けない。
日本は、政府が天皇制をとっていることからわかるように、不合理主義の国だから、
日本のアニメは不合理主義に従って作られているので、
アニメのキャラクターは私と似ていないのである。
不合理主義をやめにしないか?

[4284] 科学と宗教の違い h20.2.18
私が偉い人である場合、
科学では認識が実在に従わねばならないので、私を出世させたり私を豊かな生活にするが、
宗教では認識が実在に従ってはならないので、私の友人を出世させたり私の近所の建物を立派にしたりする。
科学(合理主義社会)では正しい者が支配者になり出世するが、
宗教(不合理主義社会)では正しくない者が支配者になり出世するのだ。

[4285] 合理主義国家では女が不幸になるか? h20.2.18
合理主義国家では正しくない者が正しい者に従わねばならないから、女が男に従わねばならないが、女が不幸というわけではない。
女は主に愛情や五感欲の満足で生きていて知覚欲の満足で生きていないので、女が男に従わず独断で行動してまちがいを犯して不幸になるよりも、女が男に従って行動してまちがいを犯さないほうが幸福になれるからである。
もちろん、女が自分で正しく考えて幸福に生きることはかまわない。
最近便利な電化製品ができて男が女とあまり結婚しなくなり、あふれた女が自立して生きて行かねばならず、独身の女には自分が従うことのできる男がいないから、自己判断で生きて行くしかないので昔のように女は馬鹿ではすまないのである。
また、家族持ちの男は、女や子供がまちがいを犯して不幸にならないように女や子供を自分に従わせる義務があるので、つねに女や子供を見守り、まちがいを犯しそうなときには注意してやり、まちがいを犯さないように正しいことを教えてやらねばならない。
逆に、男が女や子供に従うことは、正しい者が正しくない者に従うことだからやってはいけない。

[4286] 合理主義国家と不合理主義国家 h20.2.18
貝原益軒は、『養生訓』の中で女の取るべき態度として「幼きは親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従え」と唱え、あくまでも正しい者が正しくない者を支配する(つまり、正しくない者が正しい者に従う)ことを説いたが、それは武家社会が合理主義社会だからである。
将軍制(武家社会)は合理主義であり、天皇制は不合理主義である。
合理主義国家では正しい者が正しくない者を支配するから、みんなが実在に従うことができまちがいを犯さず幸福に生きられるが、
不合理主義国家では正しくない者が正しい者を支配するから、みんなが実在に従うことができずまちがいを犯して不幸になる。
日本はいいかげんで素直に合理主義国家にならないものだろうか?

[4287] 哲学と科学 h20.2.18
哲学が科学よりも正しさにおいて勝ることはない。
正しさにおいては、
哲学的命題「正しい者に正しくない者が従わねばならない。」も
科学的命題「F=ma」も
数学的命題「1+1=2」も
すべて平等である。
つまり、哲学や社会学や科学におけるすべての正しい命題に全人類が従っているような社会を作らねばならない。そうすれば全人類がまちがいを犯さずに幸福に生きて行ける。[国が管理できない部分については、各個人が管理しなければならない。]
一個人が全知全能であることはありえないから、自分が得意の分野では他人を支配できるが、自分が不得意な分野では他人に従わねばならない。

[4288] 合理制と不合理制 h20.2.18
合理制では、正しい者が正しくない者を支配する(正しくない者が正しい者に従う)。
そうすることによって、人間みんなが実在に従ってまちがいを犯さずに幸福に生きることができる。
反対に、不合理制は、正しくない者が正しい者を支配する(正しい者が正しくない者に従う)。
だから、人間みんなが実在に逆らってまちがいを犯し不幸になる。
不合理制は、合理制を乱しているだけの邪魔ものだ。人間の幸福を邪魔して不幸にするだけの意地悪な制度だ。

[4289] 天皇の変な命令 h20.2.19
戦争に限らず、自分の命を投げ打ってまで従わねばならない命令を出せるのは、不合理主義において人間よりも上の存在とされている天皇だけである。
天皇の変な命令は、不合理制に乗っかって出されているのだから、それに従わねばならないのは同じ不合理主義者の旧神道徒とその他の不合理主義者の一部だけでよい。
合理主義者は不合理主義者とは違う世界にいるのだから、天皇の不合理な命令に従う必要はない。

[4290] 戦争と平和 h20.2.19
平和とは戦争がないことである。
では、戦争とは何か?
戦争とは、不合理主義者の偉い人が自分の国民を使って互いに殺し合いをさせる娯楽である。[『高知学芸高校列車事件』や『ニューヨーク貿易センタービル事件』などを起こしたのは各国の政治家たちである。合理的にはいけないことだから、不合理的にはいいことになるのである。]
馬鹿をおだてりゃ付け上がる。
だから、合理主義者は不合理主義者に従ってはならない。

[4291] 毛沢東 h20.2.19
毛沢東は、中国に古くから住み着いている皇族たち(不合理主義において人間よりも上の存在と考えられている者たち)を皆殺しにして、平等な人間の社会を作った偉人である。
中国から不合理主義を一掃して合理主義の国を作った偉人である。
[合理主義においては、超能力者も人間も大差ないから、超能力者も人間の仲間である。]

[4292] 日本国憲法は何のためにあるか? h20.2.19
国会議員が天皇に恩を売って、自分たちも人間よりも上の者にしてもらうためである。
もっとも、作りごとの不合理主義の世界においてであるが。

[4293] 不合理主義とは何か? h20.2.19
昔、高知学芸中学校の同級生だった川崎玄博[かわさきげんぱく]君が休み時間に「自分で自分が嫌になった。」と泣き言を言ったことがある。
つまり、不合理主義者とは実在の世界が嫌になった者である。
どんなにつらく苦しいことがあっても、この自分自身を生み出した実在の世界を嫌ってはならない。

[4294] SEXとは何か? h20.2.19
SEXとは、性欲を満足することではなく、愛情を満足することである。
[愛情とは、女が子供をかわいがる気持ちのことである。]

[4295] 女にとっての結婚とは何か? h20.2.19
まず、SEXによって愛情が満足できることである。
また、男に従うことによって、自分で考えないですむことでもある。
だから、その分を男が考えてやらねばならないのだ。

[4296] 『天皇は不合理主義の象徴』 h20.2.19
天皇は不合理主義の象徴である。
日本で不合理主義を成り立たせるために国会議員が天皇を置いているのである。
天皇に会って喜んでいる連中はすべて不合理主義者である。

[4297] 超能力者は神ではない。 h20.2.19
超能力者を勝手に神だと考えて、神は死なない者だからという理由で超能力者を殺してもいいことにされては、超能力者の身が持たない。
だから、実在的意味以外の意味を実在する対象に与えてはならない。

[4298] 不合理主義者を攻撃せよ! h20.2.19
この世に不合理主義者がいるかぎり人類の幸福は訪れない。
不合理主義者は人類の敵である。
私は福岡に住んでいて他の地域に住んでいる者の顔がわからないし、殴りたくても手が届かないから、誰か私の代理に(仕事や勉強の腹いせのついでに)そいつらに制裁してくれ。
ターゲットは、政治家(国会議員)と天皇と宗教人および彼らに従った者たちだ。
たとえ仕事や勉強の腹いせであっても、不合理主義者がこの世にいないことはよいことだから、たとえ国の法律に反していても攻撃してもかまわない。もちろん、方法は自由とする。

[4299] 子供のときには男も女も同じである。 h20.2.20
知覚欲が知覚と連動した感情であるように、愛情は乳房や子宮と連動した感情である。だから、男には愛情がない。[愛情とは、子供をかわいがる気持ち、つまり子供の世話をして喜ぶことである。]
子供のときは、女はまだ乳房や子宮が成長していないから愛情がない。だから、子供のときには、男も女も同じで五感欲と知覚欲の満足で生きている。子供のときには、まだ五感の経験から知覚の概念を作る途中なので、子供に無理やり知覚で考えることを強制してはいけない。子供にとっては、考えるよりも見たり聞いたりするほうが大事である。
ところが、大人になると、女は乳房や子宮が発達するから愛情が強くなる。欲求満足の法則より、その分女は知覚欲が弱くなる。だから、大人になると、女は男ほど知覚が働かない。したがって、女には知的仕事を与えないほうがよい。たとえ、女に知的仕事ができても、男ならもっと楽に軽々とやれるから、わざわざ知覚がよく働かない女に不向きな知的仕事を与える必要はない。女には知的才能をあまり要求しない事務職を与えるとよい。
見せ掛けの男女平等制のせいで、知的でない女が大勢社会進出したために人間社会は知的でない女が支配して五感欲や性欲の満足のためにあるかのようなムードが漂うようになってきている。このままでは五感欲や性欲で生きている人間が支配する社会になってしまう。仕事で手に入るのはお金であり、お金で手に入るのは物であり、物で満足されるのは五感欲と性欲である。人類は進むべき道を誤っている。人間社会は知覚欲や愛情の満足のためにあるのであって、五感欲や性欲の満足のためにあってはならない。
人間は自分の感情を満足して生きているだけなので、いくら他人が自分より頭がよくても自分に競争欲がなければどうでもいい。知的才能がない人間は、知覚欲を満足するよりも競争欲を満足して生きているだけである。
いくら男が知覚欲の満足で生きているからといって、女がそれを真似して男と同じように知覚欲の満足で生きる必要はない。女には男にはない愛情がある。むしろ、それを満足して生きてほしい。
中年になると、女は乳房や子宮の働きが衰えるからそれに連れて愛情も減る。女はその頃から再び知覚欲が働き出す。中年になると、男と女の心の違いは再びなくなる。

[4300] 知覚欲と五感欲 h20.2.20
人間の大脳皮質においては知覚野が五感野よりも広いから、知覚欲のほうが五感欲よりも大きな喜びが得られる。
考えれば考えるほど知覚野が発達するから、それだけ知覚欲が満足されて大きな喜びが得られる。
それに、五感欲と知覚欲では方向が違う。
五感欲と知覚欲の両方を満足してフラフラしながら生きている者よりも、知覚欲の満足だけで生きている者のほうがまっすぐ遠くまで行ける。
たとえ将来科学が発達して男が美しくなれる時代になっても、男に五感欲がなければそんな技術を利用しない。
[そもそも五感欲を満足しようとするのは知覚が働かなくなって知覚欲が満足できなくなっているからであり、知覚が働かないのは自分がしなければならない勉強や仕事が自分の抑鬱感情と対応しているからで、その対応は自分の生まれや育ちによって決まってしまうものなのでもはや対応自体を変えるわけにはいかないから、自分がしなければならない勉強や仕事を自分の抑鬱感情と対応しないものに変えれば知覚が働くようになり知覚欲を満足できる。]


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