[401]ちょっとしたこと h13.12.20
ちょっとでも考えたことはメモしよう。
そのちょっとしたことを軽く見てはならない。
ちょっとしたことでも積もればかなりなことになる。
だからほんのちょっとした事でも大事なのだ。
[402]正しさと楽しさ h13.12.20
真理は普遍的だが、感情は一個人のものである。
正しさは他人に伝わるが、楽しさは自分の内でしか通用しない。
このことは、分裂気質においても、躁鬱気質においても成り立つ共通の真理である。
[403]善い心と悪い心 h13.12.20
善い心は興奮させればさせるほどよい。
反対に、悪い心は興奮させなければさせないほどいい。
[404]アニメ h13.12.20
私がアニメを見る目的は、‘きれいな絵を見て気持ちよくなる’ためだ。
絵は正しい原理を基にしているわけではない。
だから、アニメを見る喜びは、実在の内にある喜びではなく、実在の外にある喜びである。
実在の外にある喜びもまた大切である。
[405]実在の外にある心 h13.12.21
人間には実在の外にある心(正確には、心の一部としての感情)がある。
その心を適度に満足させるいい方法(無害悪)を見つけねばならない。(本来は、どうでもいいことではあるが。なくても死にはしない。)
例えば、私の場合、「アニメできれいな絵を見ていい気持ちになる」ことにしている。
[406]理想論 h13.12.21
実在の外にある心(感情)は間違っている。(⇔その存在も多少は認める。:現実論)
人間は実在の内にいなければならない。
一方、人間は自分の心を満足しなければ生きていけない。
実在の内において自分の心を満足させることを考えなければならない。
[407]女 h13.12.21
女は考えることを楽しみにできるほど人間性がない。
[408]二つの心 h13.12.21
人間にはまじめな心とふざけた心の二つの心がある。
それらの二つとも満足させながら、生きていかねばならない。
[409]超能力 h13.12.21
超能力とは、自分にできないことを無理にやろうとすることである。
自分の心を現実(実在)よりも優先させることである。
このため、本気で超能力を使おうとすると、心が実在の外に出て気が狂ってしまう。
心ー五感神経経路(心と五感を直接結ぶ神経経路)が活性化される。
実在の中でおとなしく楽しんでいればいいものを…。
[410]オナニー h13.12.21
オナニーは正しい原理を基にした喜びではなく、人間的な“考える喜び”ではないので、たとえみんながやっていても、善の心とは言い難い。
もちろん分裂病の直接の原因ではない。
[411]冬の山は高いか低いか h13.12.21
山の上の方に雪が積もっている。
‘雪が積もるのは高いところである。’と思いながら見ると、いつもより高く見える。
しかし、雪が積もると反射光がまぶしく光るので、山が近いところにあるように見え、いつもより低くも見える。
[412]反抗期 h13.12.22
たとえ親であろうが、正しくないなら善くはない。(つまり、親に正しい哲学の理解がなければ、しょせん善人の振りにすぎない。)
善くない親の気持ちなんか大事にしなくてよい。
[413]私はなぜ笑わないか h13.12.23
真理は普遍的だが、感情は一個人のものである。
正しさは他人に伝わるが、楽しさは自分の内でしか通用しない。
感情表現は無意味だ。だから、私は笑わない。(子供のころから)
他の人は何で笑うんだろう?
哲学的秩序を乱す行為だ。
いかに哲学の知識がないかがわかる。
[414]但馬の料理がまずいわけ h13.12.23
但馬の料理がまずいのは愛情がないからではなく、作り方がいい加減だからだ。作り方が不正確ででたらめだからだ。余計な邪念を入れず、ひたすら正しく作れば美味くなるはず。料理は細かいところを正確に決める微妙さこそが大事。料理がうまいかまずいかは、正確に作るかでたらめに作るかだけによって決まる。
[415]幻聴はどうして聞こえるようになるのか? h13.12.23
実在そのものは自分には感じられないから、自分にとってはどうでもいい。
自分に感覚できる実在は、自分の知覚にほかならない。
知覚は実在についての真の認識からなる世界である。
一方、五感には真・偽・無意味(真でも偽でもない)の情報がある。
知覚が五感を支配していると、偽・無意味の情報が五感において遮断され消去される。
幻聴はじつは五感の一種である。幻聴の内容の多くが真でないために、知覚が五感を支配しているかぎり、幻聴は遮断されて聞こえない。
ところが、心の興奮が激しくなり認識界における知覚の優位性(知覚>心、五感)が失われると、知覚による五感の支配がなくなり、幻聴が遮断されなくなって聞こえ始める。心が優位(心>知覚、五感)になると、物事を快不快の目で見るので、心が幻聴の偽・無意味な情報に振り回されて苦しむことになる。
[416]五感の分類 h13.12.23
五感は知覚との関係において、
真性(真の性質)を多く含む五感(まじめな五感):視覚、聴覚など、と、
真性をほとんど含まない五感(ふざけた五感):幻覚(幻聴など)
に分類される。
認識界において知覚が優位であれば、五感は真性を多く含むものに制限されている。
[417]分裂病の認識界 h13.12.23
認識界において知覚が優位であるとき、知覚に従属する五感(視覚や聴覚など)は活動できるが、知覚に従属しない五感(幻聴など)は活動できない。
精神分裂病においては、心が知覚に従属しないが、心が優位であれば、心に従属する五感だけが活動できるのであって、心は快な情報で満たされるはずである(キリスト教の真髄)。しかし、実際には不快のほうが強いから、分裂病においては、心が優位なのではなく、五感が優位であるとしなければならない。分裂病者の認識界においては五感が最も優位(分裂病:五感>知覚、心)なのである。分裂病の治療においては、五感と知覚の優劣関係がポイントになる。
[418]キリスト教の原理 h13.12.23
一般に、認識界においてひとつの感覚が優位である(興奮が強い)とき、その感覚に従属する感覚は活動できるが、従属しない感覚は活動できなくなる。[法則]
したがって、心を最も優位にすれば、心に従う感覚(五感や知覚)だけが活動し、心に逆らう感覚は活動できなくなる。自分の認識界が自分の心にとって楽しいことだけでいっぱいになる。
キリスト教では、身体中にクギを刺されても笑っていなければならないのだ。
わたしゃごめんこうむるよ。
[419]心が知覚に従属するか、五感に従属するか、それが問題だ h13.12.24
心が知覚に従属するかそれとも五感に従属するかは、知覚が五感よりも強いか弱いかで決まる。
知覚が五感に負けたから、心が実在(じつは知覚)の外に出て気が狂ってしまうのだ。
知覚が五感に負けないためには、知覚を積極的に働かせて、五感に起こる現象(真・偽・無意味の混じった世界)を知覚(真の目)で見る訓練をしなければならない。
[420]実在の外にある喜びも大事 h13.12.24
待遇が悪いと実在の内にある心(まじめな心)が十分に満足されない。
そこで実在の外にある心(ふざけた心)を満足して、足りない喜び(快感)を補ってやらねばならない。
かといって、そのことが知覚やまじめな心をあまり妨げてもならない。
そういう上手なやり方を見つけねばならない。
[421]幻聴 h13.12.26
幻聴自体は実在するが、幻聴で伝えられる内容(情報)の多くは真実ではない。
人間は真実しか認識しないものである。
よって幻聴は実在しないと考えるべきものである。
[422]知覚が心と五感を支配する。 h13.12.26
“真の知覚の目”に従属すると、ふざけた心やふざけた五感(幻聴など)が消失する。
どんなふざけた心やふざけた五感が消えるかは、どんな真の知覚が得られたかによってそれぞれ異なる。
反対に、偽の知覚の目に従属すると、まじめな心やまじめな五感が消失する。
[423]心の価値 h13.12.26
心自体には価値はない。
心が知覚に従属するか五感に従属するかによって、心の価値が決まってくる。
知覚が上で、五感が下だ。
知覚に従属する心は五感に従属する心よりも上だ。
[424]まじめな心だけではダメになる! h13.12.26
自分の家に帰ってまでまじめな心だけでやっていたら、そのうちウツになって何もやる気のない、ただ何もしないだけが喜びの無気力な人間になる。(実例は進学校で嫌になるほど見てきた。)
だから、ふざけた心を時々働かせることも必要。
実力もないのに、まじめ心だけで満足できるか!
まじめ心だけで満足できるのは、よっぽど頭のいい人間だけだ。
バカはふざけた心の満足がなければ生きていけない。
実在する人間は誰だって多かれ少なかれバカだ。
[425]うつ病 h13.12.27
いつも自分にとって快適な現実が与えられるわけではない。
自分の実在の内にある心(まじめな心)が常に満足されるとはかぎらない。
不快な現実に適応しようとして自分の心(不快感)を押さえ込む。
いくら心を押さえ込んでも、自分の好き嫌い(何を快不快に思うか)が変わるわけではない。
心を押さえ込みすぎて戻らなくなったのがうつ病。
[426]五感 h13.12.27
五感が実在でないわけではない。
五感には多くの実在が含まれている。
五感の中の何が実在で何が実在でないかを見極めるのが知覚。
錯覚がいくら感覚されても、その内容が実在において真でないとして捨てられるなら、幻聴に対してもそうすべきだ。
[427]鍵 h13.12.27
自分のくだらない心やくだらない五感を打ち消すためには、‘鍵となる認識’が必要である。(哲学第一原理や第二原理がその例である。)それが発見されるまでは、いくら頑張っても効果がない。見つかるまで考えるしかない。
[428]冗談ではすまない。 h13.12.27
私はなぜ気が狂ったか?
→隣の不良の英語の本のパラパラめくりを見て不機嫌になるといったどうでもいい五感にとらわれた上に、さらに本気で超能力を使って相手の意思をコントロールしようなどと考えて自分で自分の知覚を否定した。
→自分の知覚の中にあるまちがった考えが正しい考えを否定した。ふざけた心がまじめな心を打ち負かした。
→☆いくら冗談と思っていても、本気で気張ると真実になる(知覚においては真実と見なされる)。
→そのまちがった考えが、自分の心や五感をねじ曲げる。幻聴が聞こえて苦しむ。
例えば、コックリさんなんかでも本気でやると、頭の中では本当にあることになる。私も子供のころ遊園地でみんなといっしょにコックリさんをやったことがある。幸いにも、あまり本気でやらなかったので発狂せずにすんだ。
→正しい考えは一生懸命必死で念じればよいが、まちがった考えは強く念じてはならない。
[429]眼の痛み h13.12.28
角膜炎や結膜炎なら眼が痛いのはわかる。
しかし、何も身体が悪くないのに眼が痛いのは五感の錯覚だ。
眼に病気がないのが正しいなら、五感の錯覚のほうを否定すべきだ。
あなたは知覚の真実よりも、五感の錯覚を信じるのですか?
[430]一般性と個性 h13.12.28
ラマヌジャン曰く、「数学の奥義はひとつひとつの数が持っている個性を活かすことにある。」
例えば、97+47の計算をするとき、ふつうは一の位の足し算をしてから十の位の足し算をするやり方で計算をする。この方がどんな場合にも通用するので便利である。
しかし、97+47=97+(3+44)=(97+3)+44=100+44=144という計算の仕方もある。
97という数は、‘あとちょっとでキリのいい100になる数’なので、その個性を活かして計算すると上のようになる。
この数の個性に目を付けるやり方は、数学の帝王ガウスも裏技として頻繁に使用していたといわれている。
われわれはふだん物事の一般性にばかり目を向けて、個性を活かすことを忘れてしまっているのではないか?
[431] ことば h14.1.1
ことばの色(五感じたいに対する感情的反応)にとらわれるからいけない(とくに幻聴の場合)。
ことばの真偽性(正しいか、間違いか、その他=無意味か)だけを問題にすればよい。そこに実在がある。
正しい中で楽しいことを考えればなおよい。
[432] 冗談 h14.1.1
色の世界は冗談の世界だ。
本気にする必要はない。
[433] ことばと絵 h14.1.1
ことばで言おうとすると、すでにわかっていることばの組み合わせでしか表わせないが、
絵(図)で描けば、ことばでわからないことでも表現できる。
左脳は論理、右脳は直観。
[434] 人間はなぜ笑うか? h14.1.1
他人にとらわれているからだ。
汚い奴ほどよく笑う。
芸人なんかうわべだけいい人で、心の中はやくざだ。
[435] 私はどうしてキチガイ(分裂病)になったか h14.1.8
ある日私の隣の席にいた不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをしていた。
感じわるい。
しかし、彼のしていることは真偽性を考慮すれば何でもない。
連日の猛勉強で頭が疲れていて真偽性を考える余裕もなく、感じだけにとらわれて興奮してしまったために、分裂病になってしまったのだ。
[436] 勉強の価値 h14.1.9
デカルトの解析幾何学やニュートンの力学の知識そのものは実生活においてはあまり役に立たないが、勉強で鍛えた論理のセンスは貴重である。
つけたしh14.1.22
勉強するとしないとでは、「わかること」の定義(意味)に違いがある。
[437] バカは死ななきゃ治らない。 h14.1.9
バカは頭の中が間違いだらけだ。
バカは見かけが人間なだけで、中身は動物以下だ。
バカは考える習慣がないから、いつまで経っても改善されない。
バカは考えないから、反省しない。
バカは死ぬまでバカのままだ。
バカに説得しよったら一生かけても時間が足りんわ。
[438] 哲学 h14.1.9
哲学は万人の学である。
たとえ医学や数学は嫌いですんでも、哲学は嫌いではすまない。
人間であるかぎり、哲学を知らないではすまされない。
[439] プラトン h14.1.9
プラトンは貴族で仕事をしないでも暮らせたので、考えるための時間は十分にあったが、なにぶんイイトコ育ちなのでツッコミが手ぬるい。
しかし、『実在=イデア(知覚的概念)』という哲学の本質は突いている。
『実在=イデア(知覚的概念)』=『色即是空』=『理性的なものは現実的である。』
けっきょく2000年たっても、哲学はここから一歩も進んでいない。
プラトンは知覚でなければ実在は見えないとし、現在の科学はその知覚に基づいて五感を見ているだけだ。
人間そのものが変わらないかぎり、ここから先の哲学はないのかもしれない。
[440] 歴史 h14.1.10
歴史とは、ひとことで言えば、知ったかぶりだ。
[441] 測定 h14.1.10
測定とは、物を数に変換することだ。
[442] 哲学の堕落 h14.1.10
プラトン『実在=知覚的概念(イデア)』=シャカ『色即是空』=ヘーゲル『理性的なものは現実的である。』
これらは表現が違うだけで、同じ内容を意味している。
最近の哲学の思想は文明に汚染されて、哲学の本質を見失っている。
新しければいいというものではない。
哲学の使命は、時とともに薄れていくもの(実在、人間性の概念など)を必死で記憶の中に繋ぎとめていくことだ。
[443] 五感の分類 h14.1.11
[444] 日本はロクでなしの国だ。 h14.1.11
私は実在主義である。
日本は五感主義の国である。
よって私と日本は対立する。
日本の政治家たちは国民をブタに変える(心を堕落させる)ことを喜びにしている。そのほうがお金だけで動くので利用しやすいからだ。
日本では、子供のときマトモでも大人になるとクダラナクなる。
そりゃ生まれたときには(狂う前だから)誰でもマトモ(正気)だ。
哲学を知らないから堕落するのだ。
義務教育に哲学がない。
お前らもあんまり日本に洗脳されたらいかんぜ。
つけたし h14.1.16
政治家連中の考えが足りないから、日本政府に従属しても幸福にはなれないのだ。
つけたし h14.1.17
文句言われとうなかったら、早よう実在原理に従属する国を作ってみい!
つけたし h14.1.18
政治家なんて、認識の正しさで見れば、ただのバカオヤジだ。
食欲と性欲だけが肥大した寄生虫だ。
つけたし h14.1.24
政治家もそんな人間ばかりだと、日本も落ちぶれたものだな。
つけたし h14.1.26
親が悪いと子供までも不幸になる。今の政治がそれだ。
つけたし h14.2.8
首相だって論理的に考えることが出来ない、ただのヨッパライと同じだ。
それでも大学出か!?
[445] ことばの丸暗記 h14.1.11
高校までの勉強は、ただことばを文字や音として憶えているだけだ。
私も高校のとき、『実在=イデア』を記号として暗記していただけだった。
それでも試験では点が取れて合格になる。しかし、それでは理解ではない。ことばの中身がないからだ。
[446] キルケゴールと愛 h14.1.11
人はなぜ愛するか?
若いうちは哲学に無知だから、自分の心にとらわれやすく、自分の心をそのまま肯定できると考えているからだ。
生物の仕組みは上手く出来ているもんだ。
[447] 女 h14.1.13
『人を見るには、その認識の正しさにおいて見よ。』(私の実在哲学より)
これが、男女同権の原理である。
しかし、私個人の経験の範囲内では、
女性は記号を憶える能力に長けているだけだ。記号に中身がない。
だから、語学とかには堪能だ。そんな女性はこれまでに何人も見てきた。
認識が正しいというよりも、記号の記憶が正しいだけだ。
記号と実生活の結びつきがない。
実生活においては何も知らないバカと同じだ。
女が真偽性を考えながら物を見たことがあるか?
女にとって知覚など五感の付録だ。
女においては知覚が五感に従属する。心も五感に従属する。
いわば生まれながらのキチガイ(分裂病者)だ。
医者も女のようなものだ。
[448] 母の言葉 h14.1.15
いくら文明が発達しても、文明に‘振り回されては’いけない。(眼や耳だけの欲望に取り付かれてはいけない。)
[449] 思想の自由 h14.1.13
言葉の上だけの思想の自由など、実際にはないに等しい。
言葉は行動を伴ってこそ意味を持つ。
行動の自由こそ、真の思想の自由だ。
[450] 女の特権 h14.1.14
女のバカは許されるけど、男のバカは許されない。
女は楽しさを、男は正しさを極めねばならない。
[451] 親のスネかじり h14.1.16
親のスネをかじっていけないとは言わない。ちゃんと親の言うことをきいておとなしくしているなら、それだけの権利は認められるべきだ。
しかし、親のスネかじりでは、世界観がゆがんでいる。実体が見えていない。見えにくい部分がある。
学生のうちはまだまだものが見えていないから、フトイことは言わないほうがいい。実行はなおさらだ。
[452] なぜ幻聴が聞こえるようになるのか? h14.1.16
そもそも五感(いわゆる外界に対する感覚)において幻聴は聞こえていた。
知覚において真偽性を考えることによって、五感における無意味な情報(を荷う脳細胞)に抑制が働き、幻聴の感覚が無意識化されていた。
知覚の抑制を振り切って五感が興奮すると、無意味な情報の感覚が強まり、幻聴が意識化されて幻聴が聞こえるのだ。
[453] 口出し h14.1.17
真理は普遍的だが、感情は一個人のものである。
他人のことに口出ししたいなら、正しいことを言え!
[454] 実存主義は悪魔だ。 h14.1.18
キルケゴールは勉強の落ちこぼれで、人間的な考える喜びを自分の内に見出せなかったから、泣く泣く愛情(じつは女の身体への性欲)にすがって生きていかねばならなかった。多少文才が備わっていたので、一見賢そうに見えるだけだ。言葉が巧みなのは、形の上の言葉しかわからんからだ。あんなのは子供のたわごとで、論理性がないから哲学でもなんでもない。
感情そのものを肯定すると、実在から遠ざかる。知覚の働かない人間は動物以下だ。
人類は過去にあった同じ間違いを二度と繰り返してはならない。
[455] 仕事 h14.1.19
真理は普遍的である。
だから、自分のやった正しいことが、他人においても正しいのであり、
仕事が成り立つのだ。
[456] 正しさ h14.1.19
日常生活において正しく考えられることが一番大事なことだ。
勉強は、日常生活で鍛えた知覚力を、紙の上の言葉の世界に応用したにすぎない。
日常生活こそがすべての基本だ。
[457] 感覚 h14.1.21
感覚についてはほとんど何もわかっていない。
感覚波が飛ぶくらい不思議でもなんでもない。
そもそも感覚が存在すること自体が不思議だ。
電荷や質量があるのも不思議だ。
いずれはそれらが存在する理由を説明できる日が来るかもしれないが、
今のところはその存在を認めることにしよう。
[458] ハインロートを読む(その2) h14.1.22
ハインロートの理性とは、私の真偽性と同じものだ。
曰く、『分裂病は理性=真偽性の喪失である。』
[459] 自他の壁なんかどうでもいい h14.1.23
大事なのは自他の区別ではなく、正しいか間違いか無意味かの区別だ。
正しければ自分で考えようが他人から教わろうが同じだ。
分裂病で喪失しているのは自他の区別ではなく、真偽性の区別だ。
見失っているのは自分自身ではなく、実在の世界全体だ。
[460] 中国の思想とインドの思想 h14.1.23
中国の老荘思想などアイマイで取るに足りない。
あんなモンでよく思想などと呼べたものだ!
孔子も眼先ばかりで五感へのとらわれが強くまったくくだらない。
『瓜田に履(くつ)を入れず、李下に冠を正さず。』
まったく見栄(=他人への甘え)ばっかりだ!
中国の思想は分裂病の原因だとさえいえる。
これに較べてインドの仏陀の思想はズバ抜けている。
よくこれだけのことが2千年以上も前にわかったものだ。
インド人は‘やせがまん’しているだけじゃない。
インドにはすばらしい文化がある。
それは代数学だ。
数字を発明したのはインド人だ。
インド人の精神文化の面子を立てたのがラマヌジャンだ。
インドは理性(明晰な知覚)の国だ。
一方、ヨーロッパは科学力(いわゆる物)の国だ。
そういう日本は悟性力(明晰な五感)の国だ。
各国が自分の国民性の優れている点を活かせばいいのだ。
[461] つまらない仕事(または勉強)に耐える方法 h14.1.24
つまらない仕事(勉強)ばかりしていると心が落ちこむ。沈む。すると頭(知覚)が回らなくなる。ますます仕事がきつくなる。ますます心が沈む。最後にはうつ病になって自殺する。
だから、自分のしている仕事がつまらない場合には、何か面白いもので心を満足させる必要がある。仕事や勉強でまじめ心を満足できない場合には、せめて遊びでふざけた心を満足させて欲求不満を解消しなければならない。
アニメやマンガを見るのはそのためである。けっして要らないことをしているわけではない。
[462] 男の世界と女の世界 h14.1.24
男は知覚でものを見る。(つまり、まずものを五感で見て、さらにその五感を知覚で見る。)
女は五感でものを見る。
男心は知覚(=実在)に従属し、女心は五感に従属する。
男心と女心は生まれつき少し違っているかもしれないが、
ものの見方の違いによる後天的な差も大きいように思われる。
[463] 現実の喜び? h14.1.24
花見に行ったり、ロレックスの時計を買ったりするのは、現実の喜び(実在における快)ではない。
それらは五感の喜びにすぎない。
眼に見えることが必ずしも現実ではない。
[464] ヨーロッパ哲学の限界 h14.1.25
『実在に従属すれば実在を支配できる。』(byベーコン)
実在に従属するといっても、科学や数学の知識に限られている。
哲学が入っていない。
人間以外には詳しいが、人間自身に疎いのが、西洋哲学の欠点である。
こんなの哲学じゃない。
自然科学を正当化しているにすぎない。
[465] 私が服を買わない理由 h14.1.25
動機がなければ行動は生じない。
私は服を買いたいと思わないから、服を買わないのだ。
お金がないからではない。
[466] 無 h14.1.25
仏教が最後に無になる(思索の果てに無の概念に到達する)のは、センスが知覚に偏りすぎているからだ。
情報についても無から有は生じない。知覚における概念はすべて五感の経験から生み出されるのだ。
五感も大切にしなければならない。
[467] 悟性と理性 h14.1.25
幾何学は悟性、代数学は理性でわかるものだ。
悟性とは明晰な五感であり、理性とは明晰な知覚である。
幾何学はギリシアのものであり、代数学はインドのものである。
幾何学と代数学を‘結びつけた’のがデカルトの代数幾何学である。
[468] もと精神科医の哲学 h14.1.27
私は昔一年間だけ精神科医の見習いをやっていたことがある。
この世に不幸な精神病がなければ、
人間の精神は完全に自由であり、
哲学などは要らないが、
実際には精神病が存在するので、
人間は自分の認識についてもルールを決めて生きていかねばならない。
真冬に真っ裸で外に寝てたら、誰だって風邪を引くのと同じことだ。
ビルの屋上から飛び降りたら、誰だって骨を折るのと同じことだ。
[469] 愚連隊 h14.1.30
人間同士が群がるのは、母親への甘えの名残だ。
いくら身体が大人でも、心は頼りない赤ちゃんだ。
心が赤ちゃんのままで進歩しないのは悪人だ。
根性が女の腐った奴ばかりだ。
[470] 無意識 h14.1.30
無意識とは弱い感覚の認識である。
感覚が強まれば、無意識が意識化される。
生活にとって要らない情報は、はじめ意識されていても、やがて無意識化される。
知覚において実在でない情報、心において愉快でない情報は無意識化される。
[471] ことば h14.2.2
ことばは知覚の五感への表現だ。
だから、ことばがなくても知覚があれば、自分にとってはそれでいい。
[472] 「飼い慣らされる」 h14.1.30
くだらねーエサ(例えば、金とか地位とか名誉とか)を与えられて、
他人の思い通りに動かされること。
日本人なんか、クソバカの集まりだ。
お前らの選んだ道は、飼い慣らされて生きる道だ。
お金欲しさに人間やめたいがか!?
自分が人間であることの自覚が足りない。
[473] 資本論 h14.1.30
要するに、「貧乏人では幸せになれない。」と書いてあるのだ。
人間にとって幸せとは自由であることであり、
労働は人間の自由を奪うからである。
貧乏人では働かなければ生きていけない。
親の金で一生遊んで暮らせるお金持ちのボンボンしか幸福にはなれない。
貧乏人はどんなにあがいても、しょせん幸せにはありつけないのだ。
自分の子供に一生遊んで暮らせるだけのお金をやれない貧乏人は子供を作るな!!
子供が不幸になるだけだ。
「働かなければ生きていけない」ことが物理学の基本法則から論理的に証明されないかぎり、この言葉は真理とはいえない。
たんなる一時的な取り決めにすぎない。
他人の言いなりになるな!
誰が仕事をする奴を立派だと決めた?
そんなのはイヤイヤ仕事をしている奴らの女々しい作り事だ。
私としては一刻も早く「働かないでも生きていける」社会の実現を望むものである。
[474] ガリ勉バカの最期 h14.2.1
自分の嫌いな科目を無理に勉強すると心が壊れる。
心が腰抜けになって、頭がしんどくて何も考えられなくなる。
人間らしい心のないエッチな動物になる。
そのうち自分のエッチ心を満足させるためにならどんなことでも平気でする、他人に利用されるだけの言いなり人間になる。(例えば、お医者。h14.1.30「飼い慣らされる」参照。 )
人間としては正しいことで楽しめばいいのだから、多少不利に見えても嫌いな科目は勉強しないことにしよう。
それを認めるような教育システムであってもらいたい。
実際、試験の点が悪い人はこの方法を勇気を持って実践しているわけだから、なかなか侮(あなど)れない。
試験の点がいいだけがノウではない。
[475] ノストラダムスの大予言と分裂病(試論) h14.2.2
実在哲学では、感覚子はそれが発生した脳細胞の近くに一時的にしか存在しないとした。
しかし、感覚波がある。
そもそも幻聴は実在しており、われわれはそれを無意識化することによって実在への適応性を高めている。
感覚波は空間的に自分の脳に局在しない。
もし仮に、これが時間的にも局在しないとすればどうか?
別の時代にいる他人の思考波が今の自分に伝わってそれを聞くことができるとすれば?
他人の思考波に年代の情報が含まれていれば、たとえ思考波が時間を超えてやってきても、いつの時代の出来事かがわかる。
ノストラダムスは幻聴の能力を最大限に発揮して、かの偉大な予言をなしえたのかもしれない。
でも、そんなことが本当にできたら、賭け事は成立しなくなるだろう。
[476] 学問 h14.1.30
学問など紙の上のおけいこごとにすぎん。
フヌケになるだけだ。
[477] ゲームとアニメ h14.2.6
ゲーム(おもにテレビゲーム)は、現実の外にある楽しみである。その楽しみは実在の世界の法則に従属せず、病的でくだらない。
マンガの中にもそのようなくだらない心によって描かれたものが多いが、
よいアニメには健全な心すなわち実在の世界に従属する心が宿っている。
たとえアニメの具体的表現が非現実的であっても、そこに宿っている心が現実的であればよい作品だといえる。
[478] ゲームと現実 h14.2.6
ゲーム(おもにテレビゲーム)は心本位である。
心が面白いものと面白くないものとを決める。
面白ければ、現実的(実在的)であろうがなかろうが関係ない。
心のこのようなあり方は明らかに悪であり、テレビゲームはこのような悪の心(実在に従わない心)を育てるものだといえる。
[479] アニメ★ h14.2.6
アニメは本質的にはおとぎ話である。
アニメは絵解きおとぎ話である。
おとぎ話は、本来難しいはずの人生訓を、面白い作り話で甘く味付けしたものである。
同じように、アニメは何らかの教えを、かわいいキャラクターやメルヘンチックな背景などで甘く楽しく美しく味付けしたものである。
だから、アニメには、まず作品の核となる教えが必要である。
善の心の基になるのが正しい知識であるのだから、
アニメにおいて善の心を描くことは、
正しい知識を絵で表現することにほかならない。
教えとなる題材は、イロハがるたからとってもいいし、グリム童話や哲学大全からひろってもいい。
あとは、その題材に甘い衣を着せるだけでいい。
学校や塾では教えてくれないことをアニメが教えてくれればいい。
[480] ヤフーの検索 h14.2.7
一般に、人は自分より正しい者には従属し、正しくない者には従属しないべきである。
したがって、ヤフーの検索は正しいことを書いてあるホームページを残し、まちがったことを書いてあるホームページを抹消すべきだ。
私のホームページは正しいことしか書いていない。まちがったことは書いていない。
それなのにヤフーの登録から削除されてしまった。
他の哲学のホームページなんか、でたらめないいかげんなことばかり書いているのに、堂々とトップに登録されている。
フテブテしいかぎりだ。
こんなことがゆるされてよいのか?!
面白いこと楽しいことを、正しいことよりも優先することがはたして善いことであろうか?
いったいヤフーの会社の人たちはどんな考え方で生きているのだろうか?
そいつらは世の中をメチャメチャにしてニンマリしているような奴らではないのか!?
自分たちが救いようのないバカだからか?
いまさら謝っても遅いわ!
もう、お前らの大脳は要らない。
要らないから、頭ごと切り落としてやらあ!
バサッ、ボトッ、ペッペッ、うんこチンチン
自分たちの勝手だと言うなら、それは君たちの考えが足りないのだ。
十分な考えがあれば、勝手ということばでは済まされないことがわかるはずだ。
[481] 言論の自由 h14.2.8
ことばをものから切り離すな。
ことばだけの世界ほどくだらないものはない。
ことばだけの世界にある心ほど汚いものはない。
いくら言論の自由があるからといって、
ことばの世界がウソやまちがいだらけになるのはよいことではない。
言論の自由は、正しいことを言うための自由であって、
うそやまちがいを言うための自由ではない。
[482] 自分が第一 h14.2.8
自分が考えたことや思ったことを大事にしないで
どうして他人から得た知識にばかり頼ろうとするのか?!
自分がこれまで一生懸命生きてきたがやろうに、
その自分の考えや思いを大事にせんでいったいどうするがか!!
[483] 理性と心 h14.2.8
自分の理性に火をつけるのは、自分の心の興奮だ。
心の興奮なくしては、そもそも人間が始まらない。
おとなしくしているだけでは、モコモコ動くだけのでくの坊になる。
[484] (まとめ)人間にふさわしい喜び h14.2.9
人間の喜びは正しさの上になければならない。
正しさの上にある楽しさが人間としての喜びである。
正しさを抜きにした五感の上だけの快感は、人間以下の動物の喜びである。
それは知覚のある動物として生まれた人間には許されない。
つねに正しさを考慮しなければならないだけ制限が強くなるが、それは自分が人間であるかぎり耐えねばならない宿命なのだ。
[485] 考えるままに… h14.2.10
君たちは心中心で生きているんじゃない。
五感中心で生きているのだ。
心中心で生きるとは、どんなにつらい苦しいことがあっても常に心を楽しく愉快に保つことだ。
君たちは眼先の快不快に流されるだけだから心中心ではなく五感中心なのだ。
五感中心なのは人間以下の動物だ。
動物が人間に口出ししてはならない。
自分に人間的才能がないからと言って、そこまでやけくそになるなよ。
しかし人間の本質は心よりも知覚にある。
生まれつきの人間の心は動物と同じだ。
心を中心にしては人間が動物のままだ。
近世ヨーロッパにおいても、心中心では実在を支配できない、実在を支配したいなら心を実在に従属させねばならないとして、実在を客観的に知ること、すなわち知覚の重要性を反省している。
キリスト教のような心中心のやり方では、人間は生まれたときの赤ちゃんのままであり、発展性がないのだ。
哲学第2原理より、
心の善悪は知覚における哲学的知識の有無で決まるのだから、
たとえ心中心で快ではありえても、善ではありえないのだ。
善でない心に人間的価値はない。
哲学第1原理より、
そもそも心は人間の前頭葉にある心を荷う脳細胞の神経興奮なのだから、
空間的に心は実在の世界の一部なのであり、
実在の世界の中で楽しむとするほうが
まさしく実在世界の構造と一致しているわけだ。
ヨーロッパの伝統的なキリスト教哲学である実存哲学のように
心の世界の中に実在があるとする見方では、
空間的に心と実在の関係が逆であり、不自然で無理があるのだ。
精神か物体か、悩んでしまうところだけれど、
心の世界の外にある無感覚の世界の存在を認めないから、
話がグチャグチャになってわけがわからなくなるのだ。
それにどう見たって、石コロには心なんかないな。
心があるのは、神経細胞を持った動物だけだ。
精神の本質は感覚(感じること)であり、
その感覚は脳細胞の神経興奮で発生する感覚子という素粒子と考えればよいのだ。
これまでだって何だかよくわからない質量や電荷を眼で見える物体に乗せて考えて来たのだから、同じように何だかよくわからない感覚も眼で見える脳細胞に乗せて考えればよいのだ。
男の大脳のほうが女の大脳よりも知覚が発達しているから、
男は知覚中心であり、女は五感中心である。
最近男女同権などといって女が偉そうにしている。
五感が通れば知覚が引っ込む。
これではいけない。
昔パスカルが『人間は考える葦である。』と言ったように、
人間の本質は知覚にあるのだから、
男は人間、女は動物であり、
動物を人間より上にすることは間違っている。
女は男に口出ししてはならない。
女は無口なほうがいいのだ。
東大出の女もいるって?
それは記号をよく憶えているだけだ。
昔デデキントが『女には悟性しかない』と言ったように、
女の言葉には知覚的意味がない。
親の世話がいいだけで、鳥かごの中のオウムと同じだ。
男の認識と女の認識では認識の質が違うのだ。
昔俺たちの旅で、
『男は母親もひとりの女であることを知って大人になる。』
と言ったように、
男は女を下に見れないでは男たり得ないのだ。
若いもんはオナニーやセックスをやりたがっているが、
それらの行為は心を知覚よりも五感に従属させるので、
自分の人間性を下げることになる。
人生は食うか食われるかの競争で、動物が人間に食われるのだから、
自分の人間性を低め自分自身を不利にするようなことは許されないのだ。
アメリカは武力にものを言わせ、弱い国から資源やエネルギーをぶん取っている悪い国だ。
人間としての正義は力の強さではなく、考えの正しさにあるべきだ。
アメリカは人類の人間性を破壊して、世界の秩序をメチャクチャにしている悪い国だ。
このままでは、また戦争になる。
国会討論会で政治家同士がもめている。
誰かひとりが絶対に正しいことが言えるなら、論争の余地はないはずだ。
全員がみなあやふやだから、いつまでたってももめるのだ。
そんな連中に自分の命を預けないかん国民の気にもなってみろ!
政治家は自分が仕事しないで国民から税金をふんだくるだけか!
お前らもやくざと同じやないか!
お前らの出世ゲームにつき合わされたらたまらんわ!
もっとまじめにやれ!
冬季オリンピックでスポーツの話題が幅を利かしている。
人間の価値は認識の正しさにあるのだから、
スポーツ選手なんか身体がいいだけで人間としては無価値だ。
五感が発達しているだけで頭は空っぽだ。
そんな連中をテレビや新聞で大きく採り上げてはいけない。
いくらお金は儲かっても、人間としての価値は低いからだ。
人間ならスポーツなんかやるな!
もっと頭を使う仕事をやれ!
いくら会社のイメージアップになるからといって、
アホなスポーツ選手ばかり囲いたがる会社は嫌いだ。
テレビでわかりやすいだけだろが!
女は五感の動物で、母親も女だから、
女の子は母親だけで育ててもいいが、
男の子は父親も面倒を見ないといけない。
そうしないと、男の子の中にある、せっかくの知覚が発達しない。
女は眼先だけだから、女の勉強はノートに字を書き写すだけだ。
男がこんなことしていたら、せっかく男だけに付いている‘いい頭’が働かず、指が疲れて眼が悪くなるだけだ。
女のやり方は全部くだらない。
男が女のやり方をまねしてはならない。
男の場合、気合を入れて本を読めば、それで勉強は終わりだ。
教科書しか読まなければ誰でも東大へ行ける。
みんなが東大へ行けないのは教科書以外のものを読むからだ。
ラジオやマンガやテレビなどから要らない情報を与えず、子供が自分の目で考えるかぎり、子供は良い子に育つ。
親の子供に対する管理能力しだいだ。
いい年になれば自然に子どもに自己管理能力が身に付く。
それまでは、親が面倒を見てやらねばならない。
放任主義では子供が不良になるだけだ。
子供は予備知識が足りないから、正しいことも間違ったことも分けへだてなく受け入れるからだ。
子供の頭の中が間違いだらけになったら、誰でも不良になる。
女は顔かたちはいいが、ただそれだけだ。
くだらない。
人間の価値は認識の正しさで決まるのだから、
そいつに正しい考えがなければ、なにも値打ちがないのだ。
顔がいいのと、頭がいいのとは質が違うのだ。
顔がいいかわるいかは五感の世界における作りごとにすぎないが、
頭がいいかわるいかは実在の世界にある実在する区別なのだ。
人間が知覚的動物であるいじょう、
もはや顔のよさには何の価値もないのだ。
人間は人間であって、たんなる動物ではないのだ。
男が見掛けのことばかりに気を使うのは、
気が弱いからだ。
他人に嫌われるのが嫌だからだ。
私は他人の気の弱さまでもまねしたくはない。
どうせ相手は正しくはないのだから、無視してやればいい。
『他人に口出ししたければ正しいことを言わねばならない。』ことすらわかっていないようでは、
そいつが常識がないバカなだけだ。
バカほど他人に口出ししたがるのは、まさにバカだからだ。
正しくない者が正しい者に口出ししたがるのは、自分が正しくないことがわからないほど正しくないからだ。
ひとりで好きにやってろ!
いいかげんに考えすぎるんだよ、バカが!
女と変わらんヤサ男がビービー言うんじゃねえ!
お前が正しいから言ってんじゃねえんじゃねえか!?
正しいことが何かすらわかっていないんじゃバカすぎるよ。
お前の他人に対するバカな見方をやめろということだよ。
私のほうでも、社会の中でまともに生きていくためには、
「正しい者には従い、正しくない者には従わない。」ルールを厳守せねばならない。
それにしても、あまりにも日本には正しくない者が多すぎる!
大人になっても他人の本ばかり読んでいるような奴はだめだ。
子供が他人の本を読むのはしかたがないが、
大人は自分で考えるのを大事にすべきだ。
そりゃ、正しければ他人から学んでもいいが、
あいにく(恐竜とか宇宙とか)どうでもいいことほど正しくて、
肝心なことになるほど間違っているのが世の常だ。
自分が自分の経験を基にして自分で考えるしかない。
アインシュタインも言ったように、
『真実とは簡単なもの』なのだ。
[486] 西洋文化と東洋文化 h14.2.10
キリスト教の考え方は心肯定的だから、
心を変えずに実在のほうを変えようとする。
反対に、仏教の考え方は実在肯定的だから、
実在を変えずに心のほうを変えようとする。
ヨーロッパで科学(物についての知識)が発達したのも、自分の心を肯定したいからである。
心を変えずに物のほうを変えようとするから、物についての知識が発達する。
インドには物についての知識はないが、心についての知識がある。
物を変えずに心のほうを変えようとするから、心についての知識が発達する。
キリスト教を信じているヨーロッパの世界は
町並みが幼稚染みている。
あれはけっしてセンスがいいのではなく幼稚臭いだけだ。
生まれつきの心のままで実在をいじるから、実在が幼稚臭くなるのだ。
教会のゴタゴタした装飾も、
童話に出てくるような街並みも、
ヨーロッパ人の心が赤ちゃんのままでいることを如実に示している。
ヨーロッパ人は頭はそこそこいいが、心はパーのままなのだ。
精神文化は低いのだ。
反対に、インドは実在肯定的だから、インドの街並みは原始時代の荒野のままである。
まるで時間が止まったかのような景観が、インド文化のすごさを見せ付けている。
インドでは実在を肯定し、自分の心を実在に合わせて変えようとしてきたので、人間の外側にある世界は昔のままだが、人間の内側にある心が極度に発達しているのだ。
精神文化が極端に高度である。
ときにラマヌジャンのような数学者が現れてヨーロッパの数学者たちを赤子のように翻弄する。
インドには本来それだけのポテンシャルがある。
かく言う日本はヨーロッパよりもインドに近い。
日本人のわびさびを好むセンスは、けっしてヨーロッパのセンスに劣らない。
むしろヨーロッパ人のセンスのほうが幼稚で遅れているのだ。
日本人のセンスのほうが大人らしくて進んでいる。
日本人は自分のセンスにもっと自信を持つべきだ。
ヨーロッパでは物は豊かだが心が貧乏で、
インドでは物は貧乏だが心が豊かだ。
日本では物も心も適度に豊かであればいい。
正しいことで楽しむようにすれば、それが実現できるはずだ。
[487] エセ信者 h14.2.12
仏像拝んできれいと思うがやったら、
‘色’に惑わされとることになるやろ?
それでも仏教信じとるつもりか!?
[488] 科学と哲学 h14.2.14
たんなる快よりも善が大事。
知覚は人間の唯一のとりえであり、
快は知覚に基づかないが、
善は知覚を下敷きにする。
知識は、知覚における認識のことであり、
科学は(認識のない)物質についての知識であるが、
哲学は精神(認識)についての知識である。
科学と哲学とは反対の性格の知識だといえる。
科学は、自分の心を肯定し実在を変えることであり、
哲学は、実在を肯定し自分の心を変えることである。
変えようとすると、変わらない部分(法則)が見えてくる。
物に法則があるように、心(認識)にも法則がある。
哲学と科学は相補的な知識であり、
人間にとっては両方とも必要である。
学校では科学ばかり教えて哲学はまったく教えない。
ずいぶん偏った教育だ。
このままでは人間がだめになる!
昔の日本人は科学はできなかったが哲学はできた。
今の日本人は科学も哲学も両方だめだ。
何のとりえもない。
インドでは心の法則がわかったために科学が要らなかった。
ヨーロッパでは心の法則がわからなかったために科学ができた。
ヨーロッパ人はいまだに哲学に無知であるが、
インド人はやすやすと原爆を作ることができた。
今までやらなかっただけで、できないわけではない。
哲学がわかっていれば科学は難しくない。
[489] 歴史 h14.2.15
眼先で記号を憶えているだけで、
記号と実在との間につながりがない。
死んだ人間のことを知って何になる?
文学の作り話と同じだ。
そのうえ論理性がない。
いくら昔のことを詳しく知っていたって、
明日なにが起こるか全然わからんじゃないか!
知っていても仕方がない。
歴史の授業のたんびに眠くて仕方がなかったよ。
[490] 本気と遊び h14.2.16
ヨーロッパ文化では‘色’を認めるが、
日本文化では色は認めない。
香水とか、その最たるものだ。
和食は身体によいものの中でなるだけ美味しくなるようにする。
日本ではあくまでも正しいことの中で楽しまねばならない。
人間の心は五感ではなく知覚に従属させねばならない。
しかし、それは本気の世界の中での話だ。
遊びにおいては多少の色も許される。
もちろん本気のほうが遊びよりも大事なことは言うまでもない。
できれば本気の世界の中だけで生きて行きたいが、
それが許されない場合もある。
つまり、正しいことで楽しむのが本望だが、
自分の仕事のうえでは必ずしもそれが満足されない。
運悪く私は‘いい仕事’には就けなかったからだ。
それで休日にこうして考え事をして補っているのだが、
それでも、そればっかりではマンネリで疲れてしまう。
そこでアニメや特撮を見て息を抜く。
考えることも楽しいし、アニメを見ることもまた楽しい。
両者には違う楽しさがある。
本当は自分で考え事するほうが、他人の作ったアニメを見るよりも楽しいのだ。
自分が考えたことや思ったことを言わないでは、自分が実在していることにはならない。
自分が考えたことや思ったことを言うことによって、自分が実在していることになるのだ。
人間としては正しいことで楽しむほうが、
正しくないことや無意味なことで楽しむよりも善い。
正しいことで楽しむとは、例えば、
数学や物理の問題を自分で考えて解いて答えが合って喜ぶとか、
きちんと試験勉強をして試験でいい点を取って喜ぶとか、
実在の世界について自分でいろいろ考えをめぐらすこととかである。
試験勉強についても、試験でいい点を取るのが面白いから勉強するのではなく、勉強することじたいを楽しみにしないといけない。
自分の嫌いな科目でそうすることは無理だが、
自分の好きな科目でならそれは可能だ。
そこに自分の人間性があると見て、
それを守っていけばよい。
そこにしか自分の人間性がないと思え!
昔ジョン=シュツアート=ミルが言ったように、
快楽には強さの違いだけではなく、質の差があり、
たとえわずかであっても人間的な喜びのほうが、
どんなに激しくても動物的な喜びよりも尊いのだ。
ほんの少しでも自分の中に人間的な喜びがあれば、
あとはそれを自分の全人生をかけて強めていけばよい。
そうすれば、いつの日にかきっと、自分の中の人間的な喜びが、動物的な喜びを上回ることができる。
それが人間として生きることなのだ。
人間には人間性があるが、動物性もある。
動物性を強めるばかりでは、やがて人間をやめねばならないときが来る。
自分が2本足で立てるからといって油断してはならない。
[491] うつ病 h14.2.16
うつ病では知覚は正常に働いている。
しかし、心が外向きすぎて、
自分の心が見えていない。
他人がニコニコしていると、
自分もそれをやりたがる。
他人の勧めに乗りやすい。
こう言う私も医学部に進学したのは、
「医者はお金が儲かる。親孝行になる。」
という友人の勧めであった。
そういう気持ちも確かにあるが、
自分の本心はもっと深いところにあるのだ。
お金が欲しい気持ちや、親孝行したい気持ちよりも、
医学を嫌う気持ちのほうがはるかに強かったのだ。
医学の勉強があまりにも不愉快で
欲求不満がたまりすぎて、
心が落ち込んでおかしくなった。
頭が働かず、何も考えられなくなった。
それでも何とか医学部を卒業し、医師免許を取り、
精神科に1年間勤めた。
そこで患者さんと接しているうち、
「うつ病を治すには自分の本心を肯定するしかない。」
と考えた。
教養部時代、物理学が面白かったので、
私は物理学科に再入学した。
しかし、年をとりすぎたので、まともな会社には就職できなかった。
それでも、医学部時代の不愉快さに比べればマシだ。
[492] 人間性 h14.2.18
正しいことで楽しめるのが人間性である。
正しくないことや無意味なことで楽しむのは人間性ではない。
自分に人間性がなければ、自分は人間ではないことになる。
いくら2本足で立って歩いていても人間ではないのだ。
人間であるとは、正しいことで楽しめることだ。
それくらいのことができないのでは、人間である資格がない。
[493] 幻聴☆ h14.2.18
幻聴とは感覚波(思考波)の‘色’にとらわれていることである。
幻聴だけに限らず、音や光の‘色’にとらわれているなら、同じ分裂病である。
知覚が働いていないから、‘色’にとらわれるのだ。
例えば、隣の不良が教科書のパラパラめくりをしているのを見て、‘嫌な感じ’にとらわれるのなら、すでに分裂病になりかけている。
たしかに授業中に教科書のパラパラめくりをすることは正しくない。
正しくないことはやってはいけない。
‘正しくない’ことと、‘感じが悪い’こととは指し示しているもの(つまり、隣の不良がパラパラめくりしていること)は同じだが、ものに対する見方が違うのだ。
‘正しくない’のは知覚における見方であり、
‘感じが悪い’のは五感における見方である。
人間であるからには、五感よりも知覚を選択しなければならない。
[494] 私が医学部に行った理由 h14.2.18
ひとつには、この前述べたように、友人の勧めがあったためである。
ふたつは、現役で地元(K県)の大学の数学科に入ったが、数学科の講義がまったくわからず、落ちこぼれてしまったためである。
私は高校までは数学が得意のつもりだったが、大学では全然わからず、どうしようもなかった。本を読んでも、眼で字が見えるだけで、字の意味が全然感じられなかった。
試験だって、毎回ほとんど白紙で提出していた。
そんな状態だから、もうこれ以上数学科にいても仕方がないと思い、友人の勧めに乗って思い切って医学部に転向したのである。
教養部に居るときには、まだ医学は習わないから居心地がよかったが、医学部に進学すると医学という学問体系の論理性のなさに閉口して人生の何もかにもが嫌になった。
教養部に居るときでも、生物学の講義は苦手で、毎回出席はするものの大方寝ていた。
そもそも中学のころから生物は苦手で、試験では50点以上とったことがなかった。
それで高校では、生物学を捨てて、化学と物理を選択した。
やっぱり、生物が苦手な人は、医学部には行かんほうがええわ。
数学科は、受験参考書なんか読んで受験問題集をようようで解けるような実力では到底仕事になり得ないから、進学しないほうがいい。
理科がわからない能無しは、文系に進んで、他人のお世辞を言いまわって一生這いつくばって生きるしかない。理科すらわからないのでは、到底人間のことなどわかるわけがない。つまり、文系の人間は何にもわかることがない。
ちょっとでも理科がわかり、理科に興味があれば、化学か物理か工学に進むべきだ。
[495] 男と女 h14.2.19
男と女は身体は似ている。
しかし、男には人間性があるが、女には人間性がない。
いまだに女は化粧をしたがる。
女は人間よりも動物に近い。
哲学がわかっていれば、男女平等は認めがたい。
ヨーロッパ人は科学しかわからないから、男女平等なのだ。
[496] 福岡 h14.2.19
福岡は中国に近いから縁起が悪い。
中国の悪い思想の影響が強い。
あんなところに何十年住んでも、善いことはひとつもわからない。
人間が悪くなるだけだ。
町全体にアホ気が漂っている。
アホ気た思考波が町全体を包んでいるので、そこに住む人が悪影響を受ける。
考えが微妙に悪いほう悪いほうへと行ってしまう。
博多の共同弱意識(意識と無意識の間にある感覚)がアホだ。
[497] 嘘 h14.2.19
あったことを言わないのは、なかったことを言うのと同じだ。
[498] 分裂病 h14.2.19
分裂病において自分が正しいとしか考えられなくなるのは、五感を強く活動させすぎた結果、知覚における真・偽・無意味の区別が失われて、最も単純に「自分が正しい」としか考えられなくなったためである。
‘色’が知覚(=認識された実在界)に添加された結果、実在の世界と食い違った妄想体系ができる。
‘色’とは、五感にあって実在にはないことである。
色即是空の意味がわかれば、分裂病は治る。
[499] 世界に正義のあらんことを h14.2.20
まちがった者が正しいものを嫌う理由は二つある。
ひとつは、論理的にまちがいにとっては、正しいことがまちがいになるから。
ふたつは、相手が自分よりも正しいと、自分が相手よりも見劣りするからである。
ある大学にO教授というまちがった思想の者がいた。
その教授は自分よりも正しい思想を持っているある学生Kを就職の斡旋をワザとしなかったために、その学生はとうとうどの会社にも就職できなかった…。
まったくとんでもなくくだらないヤツが教授(しかも国立大)にいたもんだ。
まちがいはこの世に存在しないほうがいい。
まちがった思想を持っている者は死ぬべきだ。
[500] 哲学第一原理 h14.2.20
正しい者には従属し、正しくない者には従属してはならない。
私が哲学第一原理を考えついたとき、心の奥で私と親・先祖との結びつきがチョン切れたような気がした。
私の親・先祖はまちがっていたのだ。
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