[4001] 宗教は禁止する。 h19.12.26
宗教では、超能力者に人間が従うことになっている。これが宗教界の掟である。
ところが、超能力は他人に教えられるものでも他人が学べるものでもない。[ただし、私と私の母の例のように、超能力者に一歩手前の母親がその子に教えることはできることがある。]
ましてや、超能力者の思想なんてたいていまちがっていて知る価値がない。
したがって、宗教は権威制のためにあるだけである。
ところが、権威制は合理性正当性がなく、社会を衰退させ破滅させる悪い制度である。
したがって、社会にとって宗教はあってはならない制度だから、宗教は禁止する。
[4002] 自分で考えよう! h19.12.27
超能力者の権威制はなくなったのだから、
いちいち超能力者の思想に従うなんて余計なことを考えずに、
自分が正しいと考えることをそのまま実行すればよい。
[4003] 大日本帝国 h19.12.27
大日本帝国では国ごと日本神道(神武天皇教)に入って、日本神道が法律化されていた。
大日本帝国において他の宗教に入ることは、日本神道とその他の宗教を掛け持ちすることであり、臨機応変にそれぞれの宗教に従うことが要求された。
ただ、明治の知識人にとって、天皇家は歓迎されなかったようである。
[4004] 権威制よりも正当性 h19.12.27
権威制に頼っている連中は正当性がなく汚いマネばかりする。
超能力者の権威制やその他の権威制がなくなったから、
社会の行動原理は権威制から正当制(合理性正当性を重んじる制度)に移るべきだ。
自分が超能力者やその他の偉いとされている者の思想に従うことをするのではなく、
自分が正しいと考えること(つまり、実在に従うこと)をすればよいだけだから、簡単なことだ。
[4005] 物に物を言わせる h19.12.27
アメリカは物に物を言わせる国だ。
私も子供のころは、よく物を投げたり物を壊したりして弟とけんかしていた。
物に物を言わせるのは現実的ではあるが、
いつまでも物に物を言わせるやり方をしているのは幼稚すぎる。
人間なら物に物を言わせるよりも、思想の正しさで勝負すべきだ。
[4006] 実在主義国家 h19.12.27
正当制社会においては、
正しい人が偉い人であって、偉い人が正しい人ではない。
正当制社会においては、正しい人にみんなが従う。
正しい人は実在に従うから、
正当制社会はみんなが実在に従う『実在主義国家』である。
[4007] 実在主義国家における文学 h19.12.27
実在主義国家においても文学は許される。
それは、人間の大脳前頭葉に心を荷う脳細胞群があるからである。
文学は心の表現であり、人間が人間の心について正しく理解するのを助けるためにある。
人間の心に知覚欲や愛情など善い感情があることを知るだけでなく、性欲や五感欲など悪い感情があるのを知ることも大切である。善い感情は肯定し、悪い感情は否定しなければならない。
幸福とは心を満足することだから、
人間が幸福に生きて行くためにも、文学の素養は必須である。
[4008] 棲み分け h19.12.27
男が知覚欲を満足し、女が愛情を満足するから、男と女で“棲み分け”[すみわけ]が成り立って社会がうまくいくのである。
男も女もみんなが知覚欲の満足で生きられたら、誰も子供を産んだり育てたりしなくなって人類が亡んでしまう。
[4009] 正当制国家における権威制 h19.12.27
みんなが正当制で真面目に生きて行こうとしているのに、
ひとりだけ権威で得する者がいたら、みんなが真面目に生きていこうとする気が失せてしまう。
たとえ法律は守っていても、そんな卑怯者は社会的な悪影響になるから追放すべきである。
[4010] 権威制ではうまくいかない。 h19.12.27
正当制国家すなわち実在主義国家では、人間が実在に従う。[昔はみんなの考えに従うことが正当だと考えられていたが、今は実在に従うことが正当だと考えられている。プラトンの頃は、まだ実験や観察と言う概念がなかったから、正しいとは自分の認識が大勢の人に正しいと認められることであり、認識が実在に合っていることではなかった。そんな実在から遊離した宙ぶらりんな世界では、今より権威が通用しやかったのも無理はない。超能力の存在が認められなかったのも、そのせいである。]人間は実在に従うから実在に適応できて幸福になれる。もっとも、ひとりの人間の考えは完全ではない(全知全能ではない)から、人間同士が他人の正しい考えに従って助け合いながら生きている。
反対に、権威制では人間が権威者(偉いとされている者)に従う。
権威者が実在に従っていれば、権威制は実在制にほかならない。
だから、権威制は権威者が実在に従っていないときに本領が発揮される。
つまり、権威制は、実在に従わない権威者に人間が従うことだから、人間が実在に従わないことであり、当然うまくいかない。
[4011] 超能力は感覚波を操る能力である。 h19.12.28
私が赤ちゃんの頃に現した念動力は、赤ちゃんは物を動かすのが好きなものだから、一見すると赤ちゃんのやりたいことが頭の中で思っただけで実現されたように見えるが、
神武天皇が戦闘中に現した光の玉は、どう見ても神武天皇の願いが実現されたものとは思えない。当時の武器は矢とか斧しかなかったから、飛んでくる矢が空中で止まるとか、そこら辺の石ころが念動力で敵に向って飛んでゆくとかのほうが、神武天皇の願いとしてはずっと適切だ。結果的には敵が(味方も)驚いて闘うのをやめたかもしれないが、光の玉は(お化け屋敷には向くかもしれないが)戦場には場違いな存在である。
私の場合にしても、赤ちゃんの願うことがおもちゃを動かすこと“だけ”、と言うのはかなり不自然である。他にもいっぱいしたいことはあるはずだ。
だから、前にも言ったが、超能力は自分の思ったり考えたりしたことがそのまま実現されると言うほどの能力ではなくて、実在世界に存在している感覚波という物質を超能力者が操ることによって感覚波を媒介して発現される物理現象なのである。だから、マンガの超能力とは違って現実の超能力でできることは非常に限られている。しかし、『事実は小説よりも奇なり』ということわざもあるから、超能力ではマンガよりももっと奇想天外なことができるかもしれない。しかし、これまでの経験では超能力で死傷者が出たと言う報告はないから、危険なものではなさそうだ。
[4012] 男女平等教育は妥当か? h19.12.28
女性はある年齢に達すると身体に変化が起きて知覚の働きが鈍って知覚欲が満足されなくなり他の感情を満足するように変わるようである。
知覚欲が満足されない状態で教育を受けることは、鬱病の患者のように非常につらいことである。
これでは、女性に対する拷問攻めにほかならない。
最近の女性に明るい表情がないのもそのせいである。
知覚が働かなくなった女性が幸福に生きるためには、知覚欲の満足よりも他の感情の満足で生きたほうがいいから、女性が自分の知覚が働かなくなったと感じた時点ですぐに学校を辞めて、その後は結婚して家庭に入って愛情(自分の子供や旦那をかわいがる喜び)を満足したり、知覚を使わないことをして楽しく暮らせばいいことにしよう。たしかに、知覚欲を満足することは他の感情を満足するよりも楽しいが、現に(現実に)知覚が働かなくなってしまったらもはや知覚欲の満足にこだわっても仕方がないから、さっさとあきらめて他の感情の満足に励[はげ]むべきである。
そもそも男女平等教育は女性が男性に馬鹿にされるのが嫌だったから始まったのだが、女性が身体的原因で不可避的に知覚の働きが鈍るのであれば、むしろ馬鹿にするほうが馬鹿だから、知覚が劣ることで女性を馬鹿にするような男性は相手にせず、女性は自分にとっての本当の幸福の道をひたすら邁進すればよいのである。
[もっとも、女性の身体変化にも個人差があるから、知覚の働きが鈍らず知覚欲の満足でずっと生きて行ける女性もいる。結婚は知覚欲の満足の妨げになるから、そんな女性はたとえ周囲の女性がみんな結婚しても自分は結婚せずに知覚欲の満足でひたすら生きて行けばよいのである。]
[4013] 超能力科学 h19.12.28
超能力科学は宗教と科学の統一である。
現代は権威よりも合理性正当性の時代だから、もはや宗教は成り立たない。
これまでは超能力者は宗教が扱ってきたが、
これからは超能力者は宗教の手を離れ、科学の手に委[ゆだ]ねられねばならない。
[4014] なぜ超能力者の命令が実現されないのか? h19.12.28
超能力者の命令が実現されるのは、超能力者の命令が宗教団体(宗教制(超能力者に従う制度)を敷く国の政府も含む)にとって有利になる(お金が儲かる)場合だけである。
私はこれまで宗教団体が有利になる命令を出していないから、私の命令は実現されなかったのである。
私を無理やりとっていろんな商品を作ったのも、ただたんに宗教団体が儲けるためだけである。私は[物理学科4回生のとき4万円を誰かからもらった以外は]少しも儲けていない。[宗教では超能力者に従うことが必要条件だとされているが、これでは従っているとはとうていいえないから、もはや宗教ではない。]
もともと儲かる部門に目をつけて、宗教団体が権威(命令力)を効かせて私をとった(例えば、色を青にするとか、“ぶ”を商標に入れるとかした)商品を企業に作らせて、その意匠代(私に関する情報提供代)として宗教団体が利益の一部を企業からもらっているのだ。
しかし、今後は宗教的権威はないから、宗教団体が私をとった商品を作らせることはできないはずだ。
[4015] 科学と宗教 h19.12.28
科学では、人間が実在に従う。
宗教では、人間が超能力者に従う。
科学と宗教では、制度が違う。
宗教と科学が結びつくと、宗教(超能力者または宗教団体の人間)が科学の力を利用して[戦争とまではいかなくても]宗教の勢力を強め、宗教のような不合理な組織が世界を支配するようになるから危険である。[宗教が余計な決まりをいっぱい作って世の中が鬱陶しくなる。]
だから、科学と宗教が共存してはならない。科学か宗教のどちらか一方に統一しなければならない。
現代は科学の時代だから、宗教が亡ばねばならない。[宗教は超能力者のまちがった思想を世界に広めるだけの組織である。]
政府は宗教の自由を認めるのではなく、宗教を禁止すべきである。
[4016] 権威はあるかないか? h19.12.29
権威がないとするなら、権威がない。
権威があるとすれば、超能力者である私が最高権威者だから、他の者は私の命令を聞かねばならない。
ところが、この前、私は「権威をなくせ」と命令したから、やはり権威がないことになる。
だから、権威があるとしてもないとしても、どっちみち権威がないことになる。
そもそも『権威制』は紀元200年〜1600年頃まで世界中のほぼすべての地域で行われていた制度であり、
それ以前の時代には権威制はなく、超能力者に一部の人間がなんとなく従っていただけだった。
昔の人は、“超能力者のほうが人間よりもできることがひとつ多いので、それだけ全知全能の神に近く、超能力者に従えばいい”と考えたのだろう。この考えによれば、人類は超能力者に従わねばならず、超能力者には人類に対する絶対的な権威(命令力)があることになる。
でも、現代的には、“超能力者は人間の才能のひとつである超能力の才能が発達した人間であり、超能力者だけが優れた人間ではないので、超能力者の考えが正しくなければ超能力者に従わなくてよい。”と考えられる。[才能の数だけ神がいるとする多神教の世界観に似ている。]だから、超能力者には人間と同じ権威しかない。
権威制は、フロギストンや真空の力やエーテルなどのように、人類が実在をわかりかけてきた頃に現われた『まちがった超能力者論』であり、今日的には『下手な考え休むに似たり』(下手に割り切って考えるくらいならはじめから何も考えないほうがいい。つまり、超能力者を人間よりも上の者だと割り切って考えるくらいなら、超能力者が人間よりも上か下か同じかはわからないとして考えるのをやめたほうがいい。ただし、超能力者と人間の妥当な関係としては、便宜上法律的には超能力者を人間と同じ者として扱えばいい。)、『過ぎたるはなお及ばざるが如し』(超能力者に権威を与えすぎたために、かえって社会が悪くなった。)といったところか。
科学から見たら、昔の超能力者論はお粗末すぎる論理だが、昔は科学がなかったので、それもやむをえない。でも、今は科学があるから、いつまでもそんな昔の人のまちがいに従っていてはいけない。
[4017] どうしてキリストは死刑にされたか? h19.12.29
もしキリストが生きていた時代に絶対的な権威があったら、わざわざ自分で面倒くさいクーデターなんか起こさなくても、国王に命令して『愛の国』を作れたはずだ。
だから、キリストが生きていた時代には、まだキリストに絶対的な権威はなかったのだ。
キリストに絶対的な権威が与えられたのは、キリストの死後、『まちがった超能力者論』が世界中で正しいと考えられるようになった紀元200年頃のことである。[いったい、誰が提唱したのだろう?]
それまでは、ただ教団の中でしかキリストの権威は通用しなかったのだ。
キリストが200年遅れて生まれてきたら、楽に理想の国を作れたことだろう。
[4018] 正しさの意味の変遷 h19.12.29
昔は実在の概念がなかったから、みんなが“正しい人”に従えばいいと考えていたので、人間よりも出来ることがひとつ多いキリストや釈迦などの超能力者が人間よりも正しい人と考えられ、超能力者に人間が従えばいいと考えられていたのである。
しかし、今は実在の概念があるから、“実在に従う人”が正しい人と考えられるようになったので、超能力者は超能力に詳しいだけで、他の専門分野に詳しい学者や運動に詳しいスポーツ選手と同じような者だと考えられるようになったのである。
[4019] アドホックな修正 h19.12.29
宗教改革も日本国憲法も、『まちがった超能力者論』に対するアドホックな修正である。
まちがった原理に細かな修正を加えるだけでは、大きな発展につながらない。
もっと根本的なハードコアをたたき破らねばならない。
[4020] どうして『まちがった超能力者論』はなくならないのか?☆☆☆ h19.12.29
今やマンガにおいてさえ、超能力者は超能力がある人間にほかならず、超能力があるからと言う理由で超能力者の命令に従ったりする者はいないから、『まちがった超能力者論』は今や誰の目から見てもまちがいである。
それにもかかわらず、『まちがった超能力者論』がなくならないのは、『まちがった超能力者論』で宗教家や政治家など得をする者がいるからである。しかも、彼らには『まちがった超能力者論』によって強い権威があるから、一般人が彼らに命令して『まちがった超能力者論』をやめさせることができない。
しかし、そもそも宗教家や政治家の権威は『まちがった超能力者論』によって発生しているのであり、『まちがった超能力者論』においては宗教家や政治家たちよりも超能力者であるこの私のほうが権威(命令力)が上なので、私なら宗教家や政治家たちに命令して『まちがった超能力者論』をやめさせることができる。
だから、私が宗教家や政治家たちに命令して『まちがった超能力者論』をやめさせることにする。
私が『まちがった超能力者論』から『正しい超能力者論』に改めた後では、もはや彼らに権威はない。
[4021] 天皇の処置 h19.12.29
私が『まちがった超能力者論』を『正しい超能力者論』に改めた後では、もはや天皇にも人間と同じ権威しかない。
だから、天皇を日本の象徴に置いたところで、もはや日本にとって有利になることはない。
だから、天皇は要らない。
[4022] 地動説と天動説☆☆☆ h19.12.29
地動説が正しく天動説がまちがっていることを証明するためには、地動説が天動説よりも実在と合っていることを観察と実験によって実証しなければならない。
超能力者に関する『新しい超能力者論』と『古い超能力者論』についても同様である。
ヨーロッパにおいて宗教改革の前後を比べてみると、キリストの思想に従うよりも従わないほうが人類が発展できたことは事実だから、
キリストの思想がまちがっていたことは明らかである。
日本における天皇家の思想についても同様である。明治帝国憲法よりも日本国憲法のほうが日本が発展できたことは事実である。
だから、超能力者が人間よりも神に近い存在であり、超能力者に人類が従うべきであるとする『古い超能力者論』はまちがいである。
したがって、超能力者は超能力がある人間にすぎず、超能力者の正しい思想以外には人類は従わなくてよいとする『新しい超能力者論』のほうが正しい。
『古い超能力者論』では超能力者に絶対的な権威があったが、『新しい超能力者論』では超能力者に人間と同じ権威しかないので、今後は超能力者の権威は人間と同じ程度であるとする。
[4023] 日本の女性観 h19.12.29
日本におけるいい女とは、心がいい女であって格好がいい女ではない。
心がいい人とは、心が性欲や五感欲で汚れていない、心が知覚欲や愛情に満ちて心がきれいな人のことである。
日本の男は代々そういう基準で女性を見てきた。
その積み重ねが今の日本の女性である。
女性も、男性に対してそんな見かたで見ているのだろうか?
[4024] 政治家の権威 h19.12.29
政治家が「先生」と呼ばれてチヤホヤされるのは、政治家を贔屓[ひいき]にしておくとあとで自分がお金が儲かるからであって、天皇や私などの超能力者の権威とは関係ない。
政治家の権威(命令力)は、政治家の地位が高いことによる行政上の人間関係から必然的に生じることなので、超能力者の権威制とは無関係である。
だから、たとえ超能力者の権威制がなくなっても、政治家が「先生」と呼ばれることに変わりはない。
[4025] 外見と中身 h19.12.30
自分の外見にこだわる暇があるなら、自分の考え(中身)にこだわったほうがよい。
知覚が働かない者は被視感が強く、被視感の強い者は自分の外見にこだわり他人との対応がうまい。
[4026] 金欲と物欲 h19.12.30
五感では物しか見えないから、五感欲と物欲は同じものである。
お金では物しか手に入らないから、金欲と物欲とは同じものである。
けっきょく、五感欲と物欲と金欲は同じものである。
[4027] 女性はどうして色気づくのか? h19.12.30
男でも女でも人間は何らかの感情を満足して快感を得なければ生きて行けない。
女性はある年齢に達すると身体的変化のために大脳に脂が溜まって知覚の働きが鈍くなる。
女性は知覚欲の満足が得られないぶん、他の五感欲や愛情や性欲で満足を得ようとするから、性欲で満足を得ようとするぶん色気づくのである。
[4028] 超能力者の味覚 h19.12.30
私は、焼酎やお酒の味に関しては、ふくよかな甘い味よりも、すっぱいちょっと辛い味が好きである。
一般に、すべての料理について、そんな味が好きである。子供の頃からそうである。例えば、私は酢豚やカレイの南蛮漬けや胡麻祥酎『紅乙女』などが好きである。
釈迦やキリストもそんな味が好きそうである。
超能力者はみんな分裂気質だ(ふだんは冷静沈着だが、ときどきすごく怒ることがある)から、それと関係があるのかもしれない。
[4029] 女の愛情 h19.12.30
女性には愛情すなわち自分の子供や夫や親などをかわいがる喜びがある。[だから、結婚前でも、女性は愛情を満足しながら生きている。]
女性は他人の世話をするのが好きである。
女性が自分の知覚欲の満足のためにひとりで考えてばかりいられたら家事がはかどらない。
[4030] 昔の人と今の人 h19.12.30
昔は本も学校もノートもなかったから勉強することができず知覚を働かせて知覚欲を満足することができなかった。
それでみんな五感欲や愛情や性欲などを満足して、自分の身体を飾ったり他人の世話やエッチばかりして女みたいな暮らしをしていたのである。
しかし、今は本も学校もノートもあって勉強できるから、みんなが知覚を働かせて知覚欲を満足して生きることができ、みんなが自分の考えに基づいて自立して生きて行くことができるのである。
[4031] 宗教は不幸の種 h19.12.30
宗教は今では超能力者の権威を利用して超能力者のまちがった思想を世界に広め、人類を不幸にするためだけに存在している悪の組織である。
人間が幸福になるのはただでさえ難しいのに、そのうえ宗教に邪魔されては幸福になどなれるわけがない。
宗教は超能力者に対する誤解に基づいて自分にも強い権威があるとまちがって信じているだけの自己満足の組織にすぎない。[一方、政治家の権威は官僚制から派生するものなので、正当な理由がある。]
人類にとって宗教は不幸の種だから、はやくこの世からなくさねばならない。
[4032] 超能力者は神ではない。 h19.12.30
聖書にはキリストの愛の思想が書いてあるだけで、ニュートンの運動方程式もドルトンの原子論も書いていない。
人類の先を行く者と考えられたキリストでさえ、科学には弱かった。
だから、超能力者は全知全能の神ではない。
一般に、超能力者の認識には欠けたところやまちがったところが多いから、人類が超能力者の思想に従ってもうまくいかない。[私の哲学日記も、自分では正しいことを書いているつもりでもまちがいがあるかもしれないし、書いていないこともいっぱいあるから、読者は自分でまちがいがないかチェックしながら読まねばならないし、私の哲学日記以外にも各自がいろんなことを広く深く勉強して実在についての十分な知識を身に付けねばならない。私が九大理学部の学生時代にも、他人が書いた本を読むときには必ずまちがいがないかチェックしながらゆっくり読んでいたし、自分が本を読んでいて考え付いたことはすぐに本の余白に書き込んでいた。それだけで十分試験には通った。試験は通ればいいので、いい点を取る必要はない。だから、入試や就職試験の前に頑張ればいいので、ふだんは落第しないかぎり楽に勉強すればいい。]
[4033] 超能力者は人間であるかないか? h19.12.30
確率論におけるBertrandのパラドックスからわかるように、空間の各点に与えられた確率分布(確率密度)によって事象についての確率の値が変わるから、それと同じように超能力者は『人間の定義』によって人間になったりならなかったりする。
では、そもそも『人間の定義』とは何か?
生物学的な『人間の定義』では、人間の親から生まれてきたのが人間である。私は赤ちゃんの頃に超能力が使えたが、私の両親は人間だからしたがって私は人間である。神武天皇も超能力が使えたが、人間の女と結婚して人間の子供まで作ったのだから、神武天皇も人間であることになる。これまでの超能力者たちもみんな人間の親から生まれたのだからみんな人間である。
これまでのいろんな学者が考えた他の『人間の定義』を見ても、超能力の有無については触れていないし、超能力者は彼らの人間の定義にすべて適[かな]っているので、超能力者は人間だということになる。どこの国の法律でも超能力者は人間で通るはずである。法律的な『人間の定義』が生物学的な『人間の定義』と同じであるなら、超能力者は法律的には人間だと言うことになる。
そもそも超能力は感覚波を操る能力だが、感覚波を操る能力は多かれ少なかれ人間なら誰にでもあるから、超能力者とそうでない者との間にはっきりした境界線は引けないので、超能力者を人間と同じ者と見なすのが妥当である。[喩えば、永久磁石は特に磁性が強い物質だが、磁性は強かれ弱かれほとんどすべての物質にあるのと同じことだ。]
超能力者に絶大な権威があろうがなかろうが、昔から、超能力者は人間の仲間であり、超能力のある特殊な人間だと考えられてきたようである。たとえ、超能力者が人間よりも上の神だとされていても、実際には“絶大な権威のある特別な人間”の言い換えにすぎないので、わざわざ超能力者を人間とは別の神だと見なす必要はない。
[4034] 天皇の特権について h19.12.31
『新しい超能力者論』によれば、超能力者には人間と同じ権威(命令力)しかない。
だから、超能力者であった神武天皇でさえ人間と同じ権威しかない。
まして、神武天皇の子孫にすぎない今の天皇は神武天皇以下の権威しかないはずである。
だから、今の日本国憲法で規定されている天皇の権利はおかしい。
天皇を“日本の象徴”(つまり、日本人の見本)とするのは許せるとしても、天皇だけに特権(特別な命令ができる力)があるのは、超能力者に人間と同じ権威しかないとする『新しい超能力者論』に反している。たとえ天皇を政治家の一員と見なしたとしても、天皇の特権(の中に)は官僚制によって与えられた政治的権威とは考えられない(ものがある)ので、やはり天皇の特権(のいくつか)は認められない。
[4035] 宗教はどうやって私をとった商品を作らせたか? h19.12.31
ひとつは、この前私が述べたように、あらかじめ宗教が儲かりそうな分野に目をつけて、宗教が無理やり企業に私をとった商品を作らせて、その儲けの一部を後でせしめるやり方である。
もうひとつは、宗教が政治と組んで、国のお金を使って企業に私をとった商品を作らせるやり方である。例えば、瀬戸内海大橋なんかはこのやり方で作らせたのだろう。[川は海より高いところにあるから、海の上に掛ける橋にしなければならなかったし、川が3本線なので橋を3本掛けねばならなかった。私が小さいころ汽車に乗るのが好きだったから、そのうちの1本は汽車が渡れるように作られているのである。学生時代サイクリングをしていたから、自転車で渡れる橋があるのだ。橋が掛かった当時は、私が医学生だったころで、医者は人の役に立つ仕事だから、世の中の役に立つ物を作らねばならないという理由で、実用的な橋ができたのだ。しかし、今は、私はあまり仕事の上で世の中の役には立っていないから、アニメやゲームやフィギュアなど、趣味的な実用性のない分野での商品が主に作られているのである。そもそも瀬戸内海大橋にしても3本も要らない、2本はムダ、たとえ掛けるにしてももっと離れたところに掛けたほうがいいと思う。私が子供の頃母親に無駄遣いをするなと叱られたことがあるから、それで宗教家や政治家たちが国費の無駄遣いをしているのだろう。国の政策が超能力者一人の人生にいちいち左右されては政治がやりにくいし、政治自体もどうでもいい遊びみたいなものだと国民に受け取られる可能性もあるから、政治家は宗教的理由で動かないほうがいい。]
どちらのやり方にしろ、宗教家や政治家たちが儲かるだけで、消費者や国民への負担が増える。宗教家や政治家たちが儲かると、宗教家や政治家たちの権威が増し、世界の宗教色がますます濃くなる。
宗教家に権威があるのは『古い超能力者論』から生まれたまちがいであり、『新しい超能力者論』によれば宗教家には権威がないから、もはやこんなやり方はできないはずだ。
[4036] ヒルベルトの論理学 h19.12.31
ヒルベルトの論理の公理系は、ヒルベルトが論理的に考えて作らなければならなかった。まず、人間が論理的に考えられなければ、論理とは何かもわからないのである。
しかし、いったんヒルベルトの論理の公理系ができてしまえば、あとは逆に公理系に従って記号的に処理するだけで論理的な思考ができるようになった。
今から見ると、ヒルベルトの論理学はどう見てもコンピューター科学の基礎である。
しかし、ヒルベルトの生きていた時代には、まだコンピューターはおろかトランジスターもダイオードさえもこの世に存在しなかった。
数学者はコンピューターができる前からコンピューターを考えていた。
現代のコンピューターを作り出したのはハード的には物理学者や工学者などの発明によるが、ソフト的には数学者の尽力によるものである。
[4037] 自由のありがたさ h19.12.31
足で歩けるうちは足のありがたみがわからず、足を失ってはじめて足のありがたみがわかるように、今は自由があるのが当前とされているから自由のありがたみがわからないが、自由を失ってはじめて自由のありがたさがわかる。
宗教の権威が強くなると、宗教が不合理な余計な決まりをいっぱい作って人間の自由が失われる。そのときになってやっと自由のありがたみがわかってもすでに手遅れだ。
もっとも、人間が幸福に生きるためには自由であるだけでは足りず正しい思想に従わねばならない。宗教が人間を幸福にする決まりをいっぱい作ってくれるならありがたいが、人間を幸福にする決まりは科学や哲学に書いてあるから、宗教は超能力者のまちがった思想を広げ人間を不幸にする決まりを作るだけだ。人間が不合理な決まりに従わねばならないので、人間の正義心が損なわれ社会が乱れる。宗教は人類にとって幸福の敵だ。
[4038] 宗教はすでに死んでいる。 h19.12.31
宗教の権威は、超能力者の存在と『古い超能力者論』のふたつで成り立っている。
超能力者が存在することは事実だから変えようがない。
一方、『古い超能力者論』は人間が考え出した説であり、人間が考えたことにはまちがいがある。
人類は『古い超能力者論』が成り立たないことをすでに経験的に知っている。[つまり、人類は“超能力者は人間を超える正しい者である。真理に従えば幸福になれるから、人類は超能力者に従うべきである。”と言う仮説で最近までやってきたが、その仮説は暗黒時代(文化が衰退した時代)や太平洋戦争などでまちがいであることがわかったので、今では“超能力者は超能力のある人間にすぎない。超能力者の正しくない考えにまで人類が従ってはならない。だから、超能力者に人間を超える権威はない。”ことに改めたのである。]
ところが、地動説が正しいと信じられている今でも、天動説や地球が平らであることを信じる者がいるように、『古い超能力者論』をいまだに正しいと考えている人がいる。それが宗教の人である。
一部の人間の間でまちがいを信じるのは許されるが、正しい人の邪魔になってはならない。
すでに科学に比べて宗教は力が弱いことを、科学の人も宗教の人もともに知っていなければならない。
[4039] 人間が生きるためには、感情を満足しなければならない。 h20.1.1
[環境が変わったせいで、急に知覚が働かなくなり知覚欲を満足する喜びが失われることがある。
分裂病でも、焦燥感情の興奮が高まりすぎて知覚欲の活動が相対的に弱まって知覚の働きが鈍り、五感しか働かなくなることがある。
もとの環境に戻っても、もとのように知覚の働きが戻らず知覚欲が満足されないことがある。]
ところで、人間が生きるためには、何らかの感情を満足して快感や幸福感を得ることが必要である。
だから、知覚欲がどうしても満足できない人は、他の五感欲か愛情か性欲を満足して生きて行くしかない。
知覚欲を満足できなくなった男の人は、性転換すると若干身体がきれいに変われる(その代わり知覚の働きが若干鈍る?)から、五感欲が満足されてちょっぴり幸せになれるであろう。
[4040] 正しい命令 h20.1.1
『古い超能力者論』がなくなり『新しい超能力者論』に改められた後では、
超能力者は正しいこと(実在に合っていること)で他人に命令できるだけだから、宗教団体もまた正しいことで他人に命令できるだけであり、何でも命令できるわけではないから、今後は宗教団体が“何の正しい根拠もなく”企業に命令して商品を作らせて利益をせしめたり、政府と組んで国費を使って企業に商品を作らせてはいけない。
真理に従うと幸福になりまちがいに従うと不幸になる[つまり、実在に従うと幸福になり実在に反すると不幸になる]から、超能力者や宗教団体の正しい命令には他の人も喜んで従うはずである。
[4041] 超能力者主義か実在主義か? h20.1.1
人間は真理に従うと幸福になり、まちがいに従うと不幸になる。
超能力者よりも実在のほうが正しい。
だから、近代以降は、人間が超能力者ではなく実在に従うことになったのである。[超能力者だって実在に従ったから超能力が使えたのであって、実在に従わなかったらそもそも超能力者でなかったはずだ。]
人間が超能力者に従うことが宗教であり、人間が実在に従うことが科学である。
だから、現代は、宗教ではなく科学の時代なのである。
[4042] 第3の性 h20.1.2
知覚欲を満足できない男が、五感欲を満足するためにきれいになりたくて性転換することがある。
性転換した男は女ではないし、男でもない。だから第3の性だ。
性転換した男が満足できるのは、せいぜい五感欲どまりだ。
しかし、女性でも、五感欲だけではさすがにバカバカしい。[男から見ても、五感欲と性欲だけの女は嫌である。]
女は愛情(子供や夫をかわいがる喜び)で実在とつないでいるのだ。
第3の性では、女性ほどには愛情や五感欲の満足がないし、男性ほどには知覚欲の満足もないから、この世で一番不幸な性だといえる。
[4043] 死後の世界はない。 h20.1.2
感覚は脳細胞の活動によって生じるから、死んで脳細胞の活動がなくなれば感覚もまたなくなる。つまり、肉体を離れた霊魂(精神)なんて物は存在しない。
死後の世界はない。
だから、本人が死んだあとで、いくら愛情を注いでも何にもならない。
本人が生きている間に愛情を注がねばならない。
お墓参りをしたり、仏壇にお供え物をしたりお祈りして、そんなまちがったやり方で愛情を満足させてはならない。
本人が生きている間に本人の世話をしたりかわいがったりして愛情を満足しなければならない。
墓を立てたり墓参りをしたり仏壇にお供えやお祈りをしたりする習慣は、全部まちがっているからやめねばならない。
人間は死んだら終わり。生きている間がすべて。死んだ人間のことは忘れるしかない。
これ以上まちがったことを世界に流行らせてはならない。
死後の世界はないのだから、死後の世界がないような世界を作っていかねばならない。
[4044] 東大生 h20.1.2
東大生でもひたむきに研究する者は好きだが、
出世のためだけに勉強する者は嫌いだ。
[4045] 真善美 h20.1.2
真とは、実在に合っている知識のことである。
善とは、人間が満足させれば幸福になる感情のことである。
善とか真とかが五感に出たものが美である。
[4046] 実在する神様 h20.1.2
天皇は明治以前は、特別な命令力なんかは持たなかった。
外国を真似て作った明治帝国憲法がまちがっている。
つまり、明治帝国憲法のせいで、それまでは曖昧にしていた天皇の権威(命令力)が一挙に強まった。
昔、天皇には人並み以上の権威は与えず、ただ人間の上に置いていただけである。
それは、日本人が滅多にない才能の持ち主を珍重したからだと考えられる。
それは、動物園の珍獣のように、日本人がただ天皇家を大切にしただけのことである。
実際、動物園に超能力を出す動物がいたら、世界中から見物人が押し寄せてきて人気者になれるだろう。
[4047] 超能力がある世界 h20.1.2
死後の世界がないのと反対に、
超能力は実在するから、超能力があるような世界を作っていかねばならない。
超能力の存在を隠してはならない。
嘘の超能力を広めてもならない。
超能力に関する事実を人類に教えれば、超能力者に対する個人の印象は個人の自由である。
超能力を面白いと思うか思わないかは個人の自由である。
今の人なら、超能力を殺すよりも超能力を活かすことを考えるだろう。
科学的興味から超能力のメカニズムについて考えるに違いない。
超能力の研究によって実在についての新しい原理がわかれば、科学が大発展し、人類の生活は飛躍的に向上するにちがいない。
超能力者の作りごとの権威を利用するよりも、そのほうが人類が幸福になれるだろう。
[4048] 宗教と政治の結びつき h20.1.3
昔、『超能力者は人間よりも正しい者である。真理に従うと幸福になれるから、人間は超能力者に従わねばならない。』という説があった。
その説を信じて、超能力者に従う人々がいた。
それが宗教団体である。
昔は、その説を信じる人がいたが、信じない人もいた。信じない人にとっては、超能力者は超能力がある珍しい人間というだけで、それ以上のものではなかった。
一方で、国ができ始めると、国を治めるための命令を出す政治家が現われた。
政治家は国をまとめるために人々に命令を出さねばならないが、
自分が国民を従わせることができる理由が欲しかった。
そのころはまだ民主主義がなかったから、国民が自主的に政治家の作った法に従ってはくれなかったからである。
そこで政治家は宗教に目をつけた。
政治家と宗教家が組めば、政治家にとって自分が国民を従わせることが正当化できると考えたからである。
それで、国ごと宗教に入信させて、全国民を宗教団体に入れ、政治家の作った政策(法律)に天皇の承認を得ることで国民に対する強制力を持たせることができたのである。[でも、いきすぎると、それでも反乱が起こる可能性があるから注意しなければならない。]ときどき、天皇自[みずか]ら命令を出すこともあった。
それで、日本が天皇制を採るようになってから、『超能力者に人間が従わねばならない。』ことが国民普遍の真理となったのである。
あの徳川家康でさえ、[天皇自体は怖くなかったが]組織としての宗教の力を恐れて天皇を殺すことができなかった。『超能力者』の存在に確信を持てなかったことも、天皇を殺せなかったことの一因であっただろう。
そうやって、しばらく日本もやってきたが、太平洋戦争などにより『超能力者は人間を幸福に導く者である。超能力者に人間が従わねばならない。』ことがまちがいであると考えなければならなくなった。
そもそも、超能力者は超能力が発達した人間であって、知覚が発達した人間とは限らないから、超能力者に人間がつねに従えばいいわけではない。
つまり、宗教が長年正しいと信じてきた説がまちがっていたのである。
それに、今は民主主義の時代だから、国民が自主的に政治家の作った法に従ってくれるので、政治家にとっても宗教はもはや要らない。
今や、宗教は死んだ。
それでも、超能力者がときどき現われるとは事実だから、超能力者は生きている。
それでは、超能力者とは何か?
超能力者とは、超能力が発達した珍しい人間にほかならない。超能力者は人間が従うべき存在ではない。でも、超能力者が正しいことを言ったら、それに従ったほうがいい。[たとえ乞食でも死刑囚でも、真実を言えば神様である。反対に、学者や政治家でもまちがいを犯すことがある。]超能力者の取り柄は超能力にあるのだから、できればその才能を伸ばしていってもらいたい。そのほうが人類のためになりそうだから。
[4049] 占い h20.1.3
昔は人々が霊能力なんかを信じていたから、超能力者が人間を支配できたのだ。
でも、今は超能力よりも科学を信じる時代だから、
超能力者よりも科学者のほうに人々は従うのだ。
それに、超能力者といっても、神武天皇は念光力の達人だし、
私は念動力ができるだけで、
予知能力や透視能力なんかとは超能力の種類が違うから、
神武天皇や私なんかに従っても何にもならない。
つまり、政治家には念光力者や念動力者よりも予知能力者や透視能力者のほうが適性があるから、念光力者(の子孫)や念動力者に人類を支配させるのではなく、予知能力者や透視能力者に人類を支配させるべきである。
[もっとも、私も、デジャブがよくあるし、バトルフィールドのゲームをしているとき、敵が陣地を取りに行ったり、背後から敵が自分を狙っているのを“感じる”ことがたまにあるから、他の超能力(テレパシ−能力など)も多少備わっているようである。]
あるいは、超能力者よりも学者のほうが信頼できるなら、政治家が超能力者に従うよりも、科学者や政治学者に従うようにしたほうがいい。つまり、日本では天皇を学者に置き換えて、政治家が学者の承認を得ながら正しく政治できるようにすればいい。
[4050] どうして私はオナニーをし始めたか? h20.1.3
私が中学生頃に読んだ『エッチななぞなぞの本』[私は子供の頃からなぞなぞが好きだったので、つい買ってしまった。]に、ビールビンの口から泡が吹き出している絵があった。
笑福亭鶴光の『かやくごはん』にも似たような絵があった。[私は中学2年生の冬に風邪を引いて、夜眠れないのでラジカセのスイッチをつけたら、たまたま鶴光の『オールナイトニッポン』をやっていて、それ以後毎週聴くようになって、本も買った。私は『鶴光のオールナイトニッポン』に毎週はがきを5枚くらい出していた。1度2枚だけ採用されて読まれたことがあるが、私が鶴光さんの似顔絵をはがきの左下?に描いていたのに、鶴光さんが「この絵は自分の顔でしょうかね…」と言ってから私の考えたギャグを読んで、その後銭の素[ぜにのもと](ビニール革の紡錘形のキーホルダー付きの小さい財布)を2個もらった。]
私はその絵を真似してオナニーをし始めたのだ。[私は子供の頃、楽しいことは正しいことだと信じていたので、1度やり始めると止まらなかったのである。]
[たとえ、そんな絵を見なくても、子供が中学生頃になるとひとりでに自分の性器をいじったりするようになるから、それまでに子供に道徳教育をして自分で性器をいじって性欲を満足させてはならないことを教えておかねばならない。]
[4051] 念動力とはどのようなものか? h20.1.3
私の理論によれば、念動力は私の脳にある感覚波器官と対象となる物体の間に感覚波を介して働く力である。
喩えば、ホースで水をかけて物体に当てて物体を動かすようなものである。実際には、感覚波は水よりも空気に近いから、工場によくあるエアーガンで空気を吹きかけるようなものである。
だから、念動力ではあまり大きな重たい物は動かせないし、あまり細かい作業もできない。
超能力も科学で理解できるから、科学を信じれば超能力を信じることになるから、超能力を信じたければ科学を信じさえすればよい。
[4052] 宗教美術を作ってはならない。 h20.1.3
日本アニメは、キリスト教における宗教絵画のようなものである。
それらは、教団の人気取りのため、つまりはお金儲けのためにある。
しかも、本人(私)には無許可だし、本人に対する礼もない。[私は物理学科4回生のときに4万円をもらったが、誰から何の理由でもらったのかわからないので、もらったことにはならない。]
宗教絵画のキリストは本物のキリストに近いかもしれないが、
幸いながら?日本アニメの私はあまり私に似ていない。
あえて言えば、『陸上防衛隊まおちゃん』の鬼瓦まおが小学中学年頃の私によく似ている。
教団のお金儲けのために、たとえ本人に似ていないとはいえ、本人を題材にして本人に無許可で作品を作ることは、法律的にも問題になる。
ミケランジェロが教会に無理やり宗教絵画を描かされて芸術家としての寿命を縮めさせられたように、日本でも宗教が芸術家に命令して無理やり宗教美術を作らせているのだ。教会は人間を道具ぐらいにしか思っていない。こういう宗教の傲慢な態度は、芸術を育てるよりもむしろ芸術を損ねることになる。キリスト教の宗教美術が陰気臭いように、日本アニメも多かれ少なかれ陰気臭さを帯びているのは、宗教がまちがった原理を日本や世界に広めるのが目的でそれらを作らせたからである。
私はいかなる方法によっても、宗教のようなまちがった原理を信じているいかがわしい集団の役に立ちたくない。
宗教を滅ぼすためにも、そのような宗教美術を作ってはならない。
[4053] 気持ちを活かす社会 h20.1.4
アイドルは、“自分が他人によく見られる気持ち”が満足されるので女の子にとってやりがいのある仕事である。
女の子にとって看護婦さんが人気があるのは、看護婦さんが“他人の世話をしたい気持ち”を満足する仕事だからである。
専業主婦も、“子供や夫をかわいがる気持ち”が満足されるので女の子にとっては満足できる仕事である。
男は女では満足できない“知覚欲”が満足できるので、正しさが要求される仕事をすることができる。
逆に言えば、女は知覚欲を満足しないことでもやれるので、男にとって女は貴重な存在であるといえる。
すべての人間が自分の心を満足し自分の心を表現しながら生きている。
ノーベル賞は人間の頭のよさに対して表彰しているのではなく、人間の知覚欲に対して表彰しているのだ。
オリンピックは運動能力に対して表彰しているのではなく、運動欲(身体を動かすことに伴う喜び)に対して表彰しているのだ。
何でも、善い感情に対しては賞が付くものである。
反対に、悪い感情に対しては罰が付くものである。
だから、宗教のようなまちがいを信じ世界にまちがいを広める喜びに対しても罰が付くべきである。まちがいを信じているのだから、知覚欲の満足ではありえない。
権威欲も他人にまちがった命令をするのが目的だから、知覚欲の満足ではありえない。
性欲は満足すると強い快感が得られるが、知覚欲や愛情など善い感情の満足の妨げになり、焦燥感や抑鬱感の興奮性を高めて精神病の原因にもなるから、男にとっても女にとってもありがたい感情ではない。みんな性欲が地獄ということがわかっているから、性欲の満足に陥らないように必死になって他の感情を満足させているのだ。
人が生き甲斐にしている感情はそれぞれだが、とにかく、『自分がなるべく幸せになるようにすればいい』ことは人類共通の真実である。
[4054] 宗教原理 h20.1.4
宗教原理とは、『超能力者は人間よりも正しい者だから、人類は超能力者に従うべきである。』とする原理である。
宗教に入っている者は、宗教原理を支持する者である。
宗教に入っていない者は、宗教原理を支持しない者である。
世界中で見ると、宗教に入っている者(86%)のほうが入っていない者(14%)よりも多い。
しかし、宗教原理がまちがっていることは科学的には明らかである。
いくら数が多くても、まちがいはまちがいである。
宗教原理はまちがっているから、宗教的理由で実在の中で動いてはならない。
[4055] 正しいほうが勝つ! h20.1.5
世界中で宗教原理に従っている人が86%もいる。
これらの人々は実際に宗教原理に従って生きていられるのだから、宗教原理は正しいといえる。
しかし、正しさにも“程度の問題”がある。
天動説に従ってもある程度は実在を正しく理解できたように、
宗教原理に従ってもある程度は実在を正しくとらえられるが、
天動説よりも地動説のほうが実在の世界によく合っていたように、
『超能力者は人間よりも正しい者だから、人類は超能力者に従うべきである。』とする宗教原理よりも、
『超能力者は超能力が使える珍しい人間にすぎない。超能力者の考えのうち正しいものだけに人類は従うべきである。』とする私の新しい超能力者観のほうが実在の世界によく合っている。[昔は実在についての正しい原理がわかっていなかったから、超能力者の考えを鵜呑みにして正しいと信じられたが、今は自然科学から社会科学まで実在界についてのいろんな正しい原理がわかっているから、それらの原理に照らしてみて超能力者の考えが正しいかまちがっているかがわかる。]
それはすでに人類が経験済みの事実である。
宗教原理よりも、私の新しい超能力者観のほうが正しいから、
私の新しい超能力者観に従って新しい世界を作って行かねばならない。
[4056] 他人からよく見られる世界 h20.1.5
他人からよく見られる世界においては、他人からよく見られることが善いことであり、他人からよく見られないこと(悪く見られること)が悪いことである。
だから、他人からよく見られる世界においては、正直とか嘘とかはどうでもいい。
つまり、嘘でも他人からよく見られればそれは善いことであり、
反対に正直でも他人から悪く見られればそれは悪いことである。
私も子供の頃は、まだ何が正しく何がまちがっているのかよくわからなかったから、他人からよく見られることが善いことで他人からよく見られないことが悪いことだと思っていた。
それで親に自分がよく思われようとしてよく嘘をついたもんだ。
[4057] 合理的な社会作り h20.1.5
社会制度には明確な根拠が必要である。理由のない制度を黙認する態度は、知覚的にも健全ではない。
天皇制のように、天皇の定義も天皇に国民が従わねばならない理由も伏せて明らかにしない制度は、もはや現代では通用しない。
天皇の定義が神武天皇という超能力者の子孫であり、超能力者の子孫という理由だけで天皇に国民が従わねばならないことに国民が納得しなければ、直ちに天皇制を廃止しなければならない。超能力者は超心理学研究所で被験体となるべきであり、国会の中心にいるべきではない。
不合理な制度を廃止し、合理的な制度を整えて人間が住むにふさわしい社会を作っていかねばならない。
[4058] 精神病の発症機序☆☆☆ h20.1.6
分裂気質とは、生まれつき焦燥感情が興奮しやすい(イライラしやすい)性格である。[仏教では、感情一般に対して否定的なため、快な感情を認めず、不快な感情が興奮していない状態を快な状態と考えるために、分裂気質(いつもは冷静でときどきすごく感情的になる性格、いわゆるヒステリー)になりやすい。]
躁鬱気質とは、生まれつき抑鬱感情が興奮しやすい(腰が抜けやすい)性格である。
焦燥感情も抑鬱感情も不快な感情である。
一般に、不快な感情はそれ単独では不快な感覚を伴うので興奮を抑制しようとするが、
他の快な感情と“連動して(共役して)”興奮することによって、
快な感情を満足するために、それと連動する不快な感情を自ら興奮させることがある。
躁鬱病では、家族への“愛情”のために自分の抑鬱感を刺激する嫌な仕事や勉強を我慢することで自分の抑鬱感を興奮させることになる。
そのとき、抑鬱感情の興奮が弾性限界を超えて興奮が鎮まらなくなると鬱病になる。
分裂病では、自分が気に入らない(自分の焦燥感情を刺激する)相手の態度を身体や言葉で直しようがない場合に、“超能力”で直そうとして超能力を高めるために自分の超能力器官(幻聴器官)に気合いを入れて興奮させることがある。
そのとき、超能力器官(幻聴器官)の興奮が弾性限界を超えて鎮まらなくなると不愉快な幻聴が四六時中聞こえ続けるようになり分裂病になる。[マンガのテレパシーは自分が聞きたいときだけ聞こえる便利なものだが、本物のテレパシーは自分が聞きたくなくても聞こえる嫌なものである。本物の幻聴で聞こえるのは、ほとんど自分に対する悪口ばかりである。私が小学2年生のときに一度だけ聞こえた幻聴は、強い幻聴波によるものである。(『人造人間キカイダー』の放送のために誰かが私に強いテレパシー波で「この道を行け」と訴えたのだ。当時の私は調子が良かったので、このまま行けばいいとみんなが思っていたからである。)]
[もっとも、超能力器官は快な感情ではないが、超能力器官がないと考えれば諦めて焦燥感情の抑制に向かうところが、超能力器官があると考えたために自分が気に入らない相手の態度を超能力で直すことができるまで焦燥感情の興奮が収まらないので、超能力器官は焦燥感情に共役する快な感情の役目を果たしているわけである。/抑鬱中枢の興奮を鎮める抗欝剤が鬱病に有効であるように、大脳のどこかにある幻聴器官の興奮を鎮める抗幻聴剤が開発されれば、分裂病の特効薬となるだろう。]
われわれの知らない物理がある。それを使って、幻聴やその他の超能力が発現されるのである。
[4059] 宗教と政治が結びつく理由 h20.1.6
宗教はテレパシーなど超能力の世界である。
一方、政治は五感の世界である。
超能力の中でも、念光力や念動力は五感(肉眼)で見える超能力である。
だから、念光力や念動力によれば、宗教と政治が結びつくことができるわけである。
つまり、日本では、五感界と超能力界を合わせた世界がこの世のすべてだと考えて[陰陽二行説]、念光力や念動力の使い手は、宗教と政治すなわち超能力界と五感界の二つの世界の統治者つまり全世界の統治者だと見なされているのである。
でも、本当は、念光力や念動力がたまたま使えただけのことである。世界を治めるためには、もっといろんな知識が必要である。現代では、ひとりの人間の知識だけで世界を治めることはとうていできない。念光力や念動力の使い手は、念光力や念動力の専門家ではあるが他の分野には疎いので、全世界の統治者ではありえない。ひとつのことについて詳しい者よりも世界全体について満遍[まんべん]なく知っている者のほうが統治者には適していると考えられる。形式的な議長を務めるにしても、議長向きの適性のある者のほうが超能力者よりもずっと効率よく会議を進められる。
現代では、電磁波や超音波など眼に見えない物も実在する物と認められているから、眼で見えるか見えないかの区別すなわち五感と超能力の境界線の意味はなくなっている。[電波法があるから、今では眼に見えない物でも政府が管理している。超心理学があるから、今では超能力も科学の対象となっている。私の『感覚波理論』も超能力に対する科学のひとつである。宗教は次第にその縄張りを失いつつある。]知覚で見える実在観が実在界に近いから、世界全般に詳しい物理学者のほうが超能力者よりも統治者には向いている。将来、超能力が物理学で理解されるようになれば、超能力者は超能力のことだけしか知らないから、世界全般に詳しい物理学者こそが統治者にふさわしい者である。将来、物理学が発達し、政治も物理学で理解できる時代になれば、実在界のすべての原理を学習したひとつのコンピューターが地球を管理し支配するようになるだろう。
[4060] 科学と宗教 h20.1.6
科学でも宗教でも認識している対象は同じ実在である。
科学的認識が五感とそれから帰納された知覚によるように、
宗教的認識は超能力とそれから帰納された知覚による。
感覚系の超能力は、幻聴と幻視と予知能力や透視能力ぐらいだから、
幻聴と幻視はテレパシー能力で、他人が頭の中で考えていることを聞いたり見たりするだけだから、自分が他人の考えを介して実在を間接的に見ることになるので、しょせん科学には及ばない。
予知能力は時間を超えて過去のことや未来のことがわかる能力であり、
透視能力は空間を超えて離れたところのことがわかる能力である。
私には予知能力も透視能力もないので詳しいことはわからないが、透視能力は遠くにいる人間からのテレパシーを感じる能力だから幻聴や幻視と同じものであり、予知能力は[幻聴での交信が時間に沿って行われるように]感覚波が因果律に従うから不可能であると考えられる。
だから、感覚系の超能力はすべてテレパシー能力だから、五感が直接に実在を見るのに比べて、超能力は間接に実在を見ることだから、五感のほうが超能力よりも実在についての情報が正確である。超能力でわかることなら五感でもわかる。五感でわからないことは超能力でもわからない。つまり、五感があれば超能力は要らない。だから、実在認識は五感の上に成長し、超能力の上には育たない。つまり、科学は発展し、宗教は衰退するのみである。[実際には、宗教的認識の多くは、五感の観察や実験によらないのはおろか超能力にさえもよらないいい加減な当てずっぽうの山勘[やまかん]で成り立っていると考えられる。だから、科学のほうが宗教よりも信頼できるので、ある対象について科学的言及がある場合には宗教による見解を無視してよい。例えば、超能力については宗教よりも私の『感覚波理論』で見なければならない。]
かといって、視覚や聴覚が実在する感覚であるように、超能力もまた実在する感覚のひとつだから、視覚や聴覚などの仕組みが視覚的知覚的に理解されたように、
超能力の仕組みも視覚的知覚的に理解する価値があるといえる。
人間にとって視覚だけでなく聴覚や味覚や嗅覚や触覚なども実在に適応するために必要であるように、
感覚系の超能力もまた実在についての何らかの側面をとらえているかもしれないので必要であると考えられる。[他人のテレパシーに潜在意識的に従うことで実在への適応性を高めているかもしれない。]
テレパシーを出す能力や念動力や念光力などの運動系の超能力も、実在への適応に役立っているかもしれないから、それらもまた必要である。筋肉の仕組みが視覚的知覚的に理解されたように、運動系の超能力についても視覚的知覚的に理解する価値がある。
[4061] 念動力理論 h20.1.7
哲学第1原理により、物質としての脳細胞と感覚波の間には相互作用があることがわかる。
一般化して、感覚波から脳細胞以外の物質への作用もあると考えられる。
したがって、物体の(感覚波における)固有振動数と同調する感覚波が出せれば、エネルギーの授受が可能だから、物体がひとりでに動き出したり回りだしたりすることができるはずである(共鳴現象)。
[4062] 司馬遷 h20.1.7
司馬遷が名文を書けたのは、性欲が満足されないぶん知覚欲を満足しなければならなかったからである。
[私と朝倉第2小学校や高知学芸高校で同級生だった柴田君のあだ名が柴さんだったのは、司馬遷の駄洒落だったからである。]
反対に、性欲が満足されると知覚欲を満足しなくなるからバカになる。
大人が子供よりもバカなのはそのためである。
[4063] 宗教よりも科学 h20.1.8
科学的認識の方法とは、まず実在する対象を五感で認識し、さらに五感の認識を知覚で認識し、逆に知覚の認識を実在する対象を介して五感で検証することによって知覚の認識の真偽を判定する方法である。
科学的認識の方法によらないのが、宗教的認識である。
科学的認識の方法は最も効率のよい実在を認識する方法であるから、すべての対象を科学的認識の方法によって認識すべきである。したがって、超能力に対しても、科学的認識の方法で認識しなければならない。
科学的概念は明晰判明であるが、宗教的概念は曖昧模糊なので、実在はそもそも論理的で明晰判明だから、明晰判明な対象は明晰判明な概念でなければとらえられないので、実在を認識するためには科学的概念の組合せによるしかない。
宗教的概念は実在の中ではもはや出番がない。宗教的概念で見た世界は実在の世界ではない。宗教的世界は実在の世界ではない。見た物ともとの物とが一致していないから、見た物に基づいてもとの物を動かしても思い通りに行くわけがない。反対に、科学では見た物ともとの物とが同じだから、見た物に基づいてもとの物を動かすと思い通りになるのである。宗教的世界では科学的世界に比べて思い通りにならないので、思ったことが実現されず、幸福にはなれない。例えば、宗教による超能力者観は実在の超能力者とは違うので、いくら宗教による超能力者観に基づいて世界を動かしてもうまく行かず(思い通りにはならず)、最後には失敗に終わる。実在の超能力者は、超能力器官の付いた人間にほかならず、他の部分は人間と同じだから、この科学的認識に基づいて世界を動かしていけばよい。つまり、超能力者の超能力について科学的に研究すれば実在についての新しい真実(法則)を発見できて、ますます実在を人類の思い通りに動かすことができ、人類の幸福な世界が実現に近づくわけである。宗教は超能力者の無駄遣いにすぎないから、超能力者を宗教の手に委[ゆだ]ねてはならない。
[4064] 科学に従う宗教 h20.1.8
実在の中では正しくしなければならない。なぜなら、認識を正しくして認識と実在(つまり、見た物ともとの物)が同じであってはじめて実在に適応して生きて行くことができるからである。
だから、実在の中で宗教したければ、宗教も正しくしなければならない。
宗教は近代科学が誕生する以前にあった古いまちがった世界観(実在観)であり、宗教は正しさでは科学には及ばないから、宗教がどうしても生き残りたければ、宗教は科学に従うしかない。
科学的真実に基づきながら宗教をすれば、まちがいは起こらず、世界を乱すこともない。
宗教だって幸福を願うことは科学と変わらないはずだ。
ただ、宗教はまちがった実在観なので、宗教的認識に基づいて世界を動かすと思い通りの結果にならず、期待していた幸福が実現できない。
そこで、宗教が科学に従うことで、宗教の中のまちがいを取り除き正しさだけを残すことによって、宗教を実在の世界に適合させて、宗教的認識を合理化正当化すれば、実在の中でも宗教活動ができるようになる。例えば、冠婚葬祭のお祝いぐらいは宗教でやってもいい。ただし、祭は、死後の世界の存在を認めることだから、私の『感覚論』(実在哲学)に反するのでやめるべきである。
超能力者についても、超能力者は科学的には超能力器官のある人間にすぎないので、宗教はその科学的超能力者観に従いながら超能力者を扱わねばならない。
あるいは、宗教が科学に従うのがどうしても嫌なら、宗教が実在の世界から出て行って小説やマンガやコンピューターグラフィックスなどの空想世界の中に自分たちの神や理想の世界を作ってそこで宗教活動すればいいだろう。それも、実在世界に悪影響を及ぼさない程度にしなければならない。
[4065] 宗教は暴力団? h20.1.10
科学はわかることに根拠を置く。[だから、科学的認識にはワリキリ感がある。]
反対に、宗教はわからないことに根拠を置くから、何をしでかすかわからず、近所に住んでいる人にとってはこわい存在である。
しかし、そのこわさを宗教の権威の拠り所とすることは、暴力団や精神異常者と同様に野蛮なやり方だから認められない。
[4066] わかることとわからないこと h20.1.10
実在は人間にとってわかることとわからないことから成る。
儒教では宇宙を人間にわかるものとして捉え、反対に道教は宇宙を人間にわからないものとして捉える。[つまり、科学も儒教である。ただし、量子力学における“ボルンの原理”は道教思想の現われであると考えられる。]
しかし、わからないことに目(五感と知覚)を向けてもどうせわからないからそもそも見るのをやめて、
わかることだけに目を向けてそれを着実にわかることにしよう。
どうせ、人間の脳は有限だし、未来に優秀なコンピューターができたとしてもしょせん情報処理能力は有限だし、大宇宙にはそれを超える複雑な現象が起こりうるから、脳やコンピューターでは理解できないことがあるはずだ。
それは人間の限界であって、運が悪ければ人類が絶滅することになるかもしれないが、諦めるより仕方がない。
そんなことより、実在の中の人間にわかる部分に目を向けて一歩一歩わかることを増やして行くことが大事である。[例えば、超能力ぐらいのことだったら、人間が研究すれば理解できるはずである。]
また、アイデアが湧けば、これまでわからなかったことでもわかるようになることがある。例えば、私の“実在第一原理”によって、人間が自分の感覚について理解できるようになる。
実在の分かる部分に目を向けてその部分を動かせば思い通りになってうまくいく(幸福が実現できる)。
反対に、いくらわからない部分に目を向けても何も見えてこないから、めくらめっぽうに動かしても、何にも思い通りにはならないから、無駄な努力である。
だから、人間は自分にわかることだけをしっかりと考えて行けばいいのだ。わかることが増えれば、できることも増えるから、それだけ実在を思い通りにできることになる。
[4067] 宗教は知ったかぶりをするな。 h20.1.10
どうせ、人間の脳は有限だし、未来に優秀なコンピューターができたとしてもしょせん情報処理能力は有限だし、大宇宙にはそれを超える複雑な現象が起こりうるから、脳やコンピューターでは理解できないことがあるはずだ。(前文参照)
例えば、さいころの出る目はわからない。
ところが、宗教はわかるはずのないさいころの出る目がわかると言うのである。実際には、当たることがないが。(確率1/6では当たるが。)宗教はわからないことを無理やりわかることにしている。
だから、超能力者に関しても、宗教は本当は何者だか知らないが、自分勝手に判断して、超能力者を人類が従うべき正しい者だと決め込んでいるのだ。超能力者の超能力を消すのも、宗教の正当な根拠のない独断による行為だ。
宗教のくだらない作り話に付き合わされる者の身にもなってみろ。お前らの博打[ばくち]に協力する気はねえ。
宗教は知らないのに知ったかぶりをするな。
[4068] 超能力者は人間か人間でないか? h20.1.11
始祖鳥は翼を持っていたが10mぐらい地面から離れて移動できるだけで、まだ飛べるというほどではなかった。
だから、始祖鳥は爬虫類であって鳥ではない。
でも、もう少し翼に揚力があれば鳥になれただろう。
鳥だって夜は木にとまって眠るから、飛んでいる時間や距離は長いが始祖鳥と本質的には変わらない。
超能力者の超能力も始祖鳥の羽と同じである。
人類の歴史上において散発的に現われる超能力者は、超能力を自由自在に使えるとまでは行かないから、超能力に関しては鳥とまでは行かずまだ始祖鳥のようなものだろう。
超能力者には、脳のどこかに発達した『超能力器官』があるから、もはや人間ではないかもしれない。Homo
sapiens psychokinesicaかな?[分類学的には、どうなるんだろう?]
ただ、人間には科学の力があるから、人間が鳥を研究して飛行機を作って空を飛べたように、超能力者の超能力を研究して超能力の機械を作って超能力を使えるようになるだろう。
耳を真似てマイクを作り、眼を真似てカメラを作り、口を真似てスピーカーを作れたから、超能力の真似もできるはずだ。
たとえ機械を使ってでも超能力を使うことができたなら、超能力者と人間の区別にこだわる必要はないだろう。
そうなれば、超能力者はただ機械を使わなくても超能力が使える者にすぎない。ちょっとすごいだけで、そんなに大したことではない。
とにかく、超能力者は生物学的分類学的には人間ではないかもしれないが、法律的には人間と同じであることにしよう。そのほうが政治家が楽だからだ。たとえ超能力で犯罪が起きたにせよ、新しい殺人兵器を発明した科学者と同じ扱いでいいから、超能力者を人間と強いて区別する必要はない。
そもそも超能力ではごく限られたことしかできないから、たとえ超能力があっても人間に比べてそんなに特別に有利なわけではない。電球をつければ明るくなり、リモコンのスイッチで扇風機が回る時代においては、超能力者も人間も実生活の上でほとんど差はない。
[4069] 女の子の秘密 h20.1.11
女の子の秘密とは、知覚が働いていないことだ。
人の外見だけでは知覚が働いているかいないかわからないので、
女は外見だけ男に合わせることによって男と同等の権利を得ようとしているのだ。
女は知覚欲以外の感情を満足して、知覚欲が働かず知覚で考えて生きていないから、外見で他人に合わせることしかできないのだ。[ただし、知覚欲で生きている女性も少しはいる。]
女性も男女同権であることよりも、自分が幸福であることを考えたほうがよい。男と女では生きる道つまり満足させる感情が違うから、それぞれの道で幸福を目指せばよい。つまり、男>女でも男<女でもなく、男≠女なのだ。例えば、女性の下着がスケスケなのは、他人からよく見られたいとか肌触りがいいとかいった女性特有の感情を最もよく満足するように作られているからである。一方、男の持ち物は、知覚欲を最もよく満足するように作られている。
正しい考えを持たない人間が社会を支配するようになると、正しい考えを持つ者が不利になって、社会が実在に反することになるから、正しい考えを持たない人間に社会を支配する機会を与えないほうがよい。
[4070] 罰金制度 h20.1.11
罰金制度では、制度を逆手[さかて]にとってお金を払えば悪いこと(法に反すること)をやってもいいことになるからいけない。金持ちがますます有利になるだけだ。
罰は罰金以外の方法で与えねばならない。
[例えば、私の『哲学日記』や『アニメ日記(元祖魔法少女日記)』などを本人の許可を得ずに勝手に本にして売ったら何億円も儲かって著作法違反の罰金はせいぜい30万円ぐらいだから、無断で売ったほうがいいやという考え方はいけない。]
[4071] ブスとはなにか? h20.1.12
機嫌が悪い者がブスなのだ。
自分で自分の心のことがわかっておらず自分の心を満足できない者がブスなのだ。
最近の女は嫌な勉強ばかりしているからブスなのだ。
[4072] 性欲の弱点 h20.1.12
性欲は性腺と連動しているために、性腺の精液が再充填されるまでに1日ぐらい待たねばならない。
その間は、いくら性欲を満足したくても性腺が追い付かないために性欲を満足できず、かえって欲求不満になりイライラして不快になる。
つまり、性欲は時間をおかねば満足できない(タイムラグがある)し、満足できないことによる不快感がある。
一方、知覚欲は知覚だけで満足できて、しかも知覚中枢の脳細胞の末端にある神経伝達物質が分泌切れになることはまずないから、満足しようと思えばいつでも満足できる。このために、知覚欲には欲求不満がない。
つまり、性欲には禁断症状があるが、知覚欲にはない。
だから、性欲よりも知覚欲のほうが純粋な満足感が得られるのである。
[4073] ソフィストの世界 h20.1.12
私の父も母も、他人がしていることは自分もやってよく、反対に他人がしないことは自分もしてはいけないと思っているタイプの人間である。
つまり、自分が正しいためには、自分のしていることが本当に正しいかまちがっているかはどうでもよく、ただ自分が周りの者に正しいと思われてさえいればいいのである。
私の親は歳を取っても、いまだにそんな子供のような考え方をしている。
それは近代自然科学が誕生する以前の、プラトンが生きていた時代のソフィストが活躍していた頃の考え方である。
私の親にかぎらず、今でもそんな考え方をしている者は大勢いるから、いくら時代が進んでも人類の底にある考え方は進歩しないものだ、学校教育は試験の点数を取らせることにしか役に立っていないとガッカリさせられる。
[4074] なぜ私の親は私に教育しなかったか? h20.1.12
以前述べたように、私の母も父も親からかなり厳しい教育を受けて育ったそうである。
それなのに、私には教育をしたことがない。[あえて言えば、私が小学4年生のときに、「中庸」と母が私に言っただけである。]
ふつう、自分が親から厳しく育てられたら、自分の子供に対しても同じように厳しく教育するはずである。
だから、私の母も父も私に対して厳しく教育したはずである。
それなのに、私に対して教育しなかったのは、宗教家や政治家が彼らの権威を用いて私の両親が私に教育するのを禁止していたからだと考えられる。
親に教育を禁止された子供は、ジャングルの中に置き去りにされた赤ん坊のようなものである。たとえ人間に生まれても、教育されなければ獣と変わらない。
しかも、人生にはたった一度でもまちがえてはいけないことがある。それらは親が子供に教えなければわからないことであって、子供ひとりで試行錯誤でわかることではない。
私の母親も父親も性欲が悪い感情であることを知っていたはずである。それなのに、私が中3のときオナニーするのを注意しなかったのは、やはり注意するのを宗教家や政治家に禁じられていたからだと考えられる。[私がもし親だったら、自分の子供にオナニーの注意をすることぐらいはできる。]
親に教育されないでまともに生きていけた人間はひとりもいない。
人生は、ただでさえ危ない綱渡りのようなものである。宗教家や政治家がちょっとでも私の親に介入して私の人生を失敗する方向に導いたのなら、その責任を取らねばならない。
[4075] どうして信者は得をするか? h20.1.12
宗教の信者は、神とされている超能力者の思想にある程度従って生活すれば、自分の希望がかなえられるようになっている。
それは、近代自然科学が始まる前の、『古い世界観』ではそのように決まっているからである。
信者の希望がかなえられるのは、宗教が信者にお金を出したり、国や世界に働きかけたりしているからである。
そういうことは、自分たちでお金を出して、自分たちの組合の中だけでやるならかまわない。
でも、国や世界の人々のお金を使って、自分たちの組合の外で他人(私も含む)を巻き添えにしてやるのはいけない。
[4076] なぜ教会は天動説を採ったか? h20.1.13
天動説では、地球以外のすべての天体が地球を中心に回っており、地球だけが宇宙の中で特別な存在である。
これは、超能力者であったキリストが人類の中で特別な存在であることに対応している。
だから、教会は天動説を採ったのだ。[理由とまではいえないが、構造が似ているので採用したのだろう。]
しかし、この自然観では、どうして地球だけが宇宙で特別な存在なのか?という疑問に答えられない。
宇宙についてよく考えてみると、すべての天体を地球と同じものと見なすほうが自然に思われてくる。
そう考えると、地球も他の星と同じように動いていると考えるのが自然である。
つまり、超能力者もそんなに特別な存在ではないということだね。
[4077] 【数学】直感と論理 h20.1.13
デデキントは実数をはじめて“論理的に”定義した。
それまでは、ニュートンによる直感的な実数の定義しかなかった。
ペアノは自然数をはじめて“論理的に”定義した。
それまでは、直感的な自然数の定義しかなかった。
カントールによる集合の概念があってはじめて実数や自然数を論理的に(分析的に)定義できる(理解できる)ようになったのである。それだけ、集合の概念には価値がある。
一般に、ある対象を論理的に理解するには、その対象を論理的に構成する概念が揃わなければならない。それまではひとかたまりに直感的に理解するしかない。物質>分子>原子>素粒子>クォークのようなものである。認識を理解するのに、感覚の概念が要るようなものである。
対象を論理的に理解することによって、他の対象との関係やその対象について述べられた命題の意味をより鮮明に理解することができる。
[4078] なぜ超能力者は超能力を使えたか? h20.1.13
宗教による説明)超能力者が人間よりも上の存在者(神)だから、超能力(奇跡の力)が使えたのだ。[したがって、普通の人間にできることができない者は、人間よりも下の存在者ということになる。]
科学による説明)超能力者の脳には超常現象を現す特殊な感覚波を発生する超能力器官があるから、超能力が使えたのだ。
>宗教による説明は、科学による説明に比べて、ぶっきらぼうでやっつけ仕事である。
キリスト教による惑星の運動の説明)宇宙は超能力者であるキリストを中心にできているから、空にある星もキリストが立っていた地球を中心にして回っているのだ。
ニュートン力学による惑星の運動の説明)惑星は太陽からの万有引力でF=maに従って、楕円軌道を描くのである。[ニュートンは、空間、時間、質量、力などの概念を用いて記述した運動の3法則と万有引力の法則を使って、ケプラーの3つの法則を論理的に証明することに成功した。]
>このように、宗教による自然現象の説明は、つねに超能力者の概念を用いるから垢抜け[あかぬけ]しないし、肝心の超能力者についての論理的分析的な理解がないから、超能力者が何であるかがはっきりとわからず、したがって超能力者の概念を用いた自然現象の説明の仕方が直感的になりすぎていて正しくない。
超能力者に従えば幸福になれることも、宗教における法則のひとつである。…(絶句)。
宗教は科学に比べて実在が見えていない。だから、宗教に従ってはならない。
科学的な正しい認識に従って実在を動かさないと大まちがいが起こって大変なことになる。
科学がない昔だったら私でも宗教の話を信じたかもしれないが、今は科学があるから宗教はくだらない作り話にしか聞こえない。
[4079] 女の魅力 h20.1.13
女の魅力には、身体と心と身体の周りに出ている気配の3つがある。
私の母は気配がボワボワして近くにいると気持ちが和む。[私の母は、気配が気持ちよかったり、身体が光ったりするところが魅力的である。]
私が小学1〜2年生頃、母といっしょに薫的のおじいさんの家に遊びに行ったとき、母の気配が普段よりもいっそう濃くなり、これはいったい何なんだろう?と疑問に思ったことがある。
赤ちゃんの頃の私も母から出ている気配に興味を持ち、自分も母親の気配を真似ているうちに偶然に念動力を発現したのだろう。
[4080] 私の妹 h20.1.13
私の妹は子供の頃は私と同じ江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを全巻買って読んでいたから[私は図書館で借りて読んでいただけだが]、知覚欲を満足していたと考えられる。
ところが思春期になると、第2次性徴に伴って知覚の働きが鈍くなって知覚欲が満足できずにイライラし、その後は他人からよく見られる喜びや他人の世話をする喜びや子供や旦那をかわいがる喜びなどを満足するように変わって行ったのだ。
たとえ知覚欲がその他の感情に比べて質が高くても、本人が知覚欲を満足できなくなれば、何か他の満足できる感情を満足して生きて行くしかない。[J.S.ミルは、知覚欲が人間の一番善い感情だから、男も女も知覚欲で生きるべきだと考えた。]
特別に知覚欲が他の感情に比べて喜びが強いわけではないから、知覚欲以外の感情でも満足させれば十分な快感は得られるはずである。
ただし、知覚欲は知覚が働きさえすれば満足できるから他の感情に比べて満足しやすく、それだけ大きな喜び(強い快感)が得られるわけである。他人によく見られる感情は、よほどの美人でないかぎり満足するのは難しい。だから、知覚が働く者なら、当然知覚欲を満足させるはずである。女の場合は身体の生理的変化に伴って不可抗力的に知覚が働かなくなって知覚欲が満足できなくなるから仕方がないが、男の場合はただの馬鹿だ。
[4081] 男にも子供の責任がある。 h20.1.14
女は子供の頃は知覚欲で生きているが、大人になると知覚欲では生きれらなくなる。[大脳皮質も皮膚も、同じ外胚葉からできた組織である。大人の女は皮膚が脂っぽいから、大脳皮質も脂っぽくなって知覚の働きが鈍るのだ。女は知覚の働きが鈍いから、ボーとしていて女らしいのだ。]
一方、男は生まれてから死ぬまで知覚欲で生きられる。
男が知覚の世界を取り、女は五感の世界を取る。だから、男と女でうまくいく。
大人の女は知覚欲で生きていないから、ちょっと難しいことがあるとすぐにわからないと言う。ときには泣くこともある。
だから、女が考えないぶん、男が考えなければならない。
男は休日に自由時間がたっぷりあるから、その時間を使って考えなければならない。
子供の世話は原則的には女がするが、女が子供のことでわからないことがあったら男が考えて解決策を出さねばならない。それも男の務めである。[でも、わからないと言ったときにはすでに手遅れのことが多いから、男親がつねに気を配って早めに手を打たねばならない。]
それに、男の子の男の部分は女では経験がなくてわからないから、男の子の男の部分は男親が世話をしなければならない。例えば、女親では男の子が思春期になると自慰行為をするのを知らないから、それを注意しないでおいて分裂病をきたすことがある。[自慰行為はやめれば治るが、精神病は一度罹ると治らない。]人間には精神病がある。精神病は誰でもかかる。そんなことも経験や知識(勉強)がなければわからないのだ。人生にとって大事なことから順番に勉強しなけばならない。
[4082] 実力主義 h20.1.14
権威(命令力)は、適切な命令を出せる者のみに与えるべきである。
正しい命令を出す実力のない者に権威を与えてはならない。
一般に、人間の実力しか認めてはならない。実力のない権威や資格や地位などを認めてはならない。
人間が猿を支配できたのも、人間に知覚の実力があったからで、人間に猿以上の権威があったからではない。
[4083] テレパシーと携帯電話 h20.1.14
人間に科学の発明品を添加したら、超能力者と同じかそれ以上のことができる。
照明器具があれば念光力者と同じになり、
テレビやエアコンなどのリモコンがあれば念動力者と同じになり、
携帯電話があればエスパー(遠隔感知能力者)と同じになる。
今ではほとんど誰でも照明器具やリモコンや携帯電話を持っているから[私は携帯電話は持っていないが]、科学文明社会の中で生きる人間は超能力者と変わらない。人間と超能力者はできることが同じで、ただ手段が違うだけである。だから、文明社会の中では法律的には人間と超能力者を区別する必要がない。
[4084] 最近の女性文化について h20.1.15
昔は男が独身で生活するのは無理だったから、それで自分の身の周りの世話をさせるために女と結婚した。
しかし、今では便利な電化製品がいっぱいあるから強いて結婚しなくてもいい。
だから、結婚しない男が増えた分だけ、結婚できない女も増えた。
だから、結婚できない女は男と同様に独立して生きて行かねばならない。
女は知覚欲の満足がないうえに、結婚できない女は家族を世話する喜びや家族をかわいがる喜びが満足できないから、他人からよく見られる喜びだけで生きて行くしかない。
だから、最近とくに、女の間でダイエットとかエステとかブランド物とかが流行っているのだ。
[4085] どうしてオナニーは分裂病の原因なのか? h20.1.15
オナニーすると、性欲が満足される。[進学校の詰め込み教育では知覚欲が満足されず、不足した喜びを補うためにオナニーするようになる。]
性欲が満足されると知覚欲を満足しようとしなくなり“知覚が働かなくなる”。[連日の激しい受験勉強のせいで知覚が疲れていて知覚が働きにくくなっているせいもある。]
知覚が働かなくなると、対象を五感だけで見るようになる。[要するに、バカになる。]
そうなると、子供のように、対象を実在的に見られなくなり、感情が知覚的な感情から五感的な感情になり対象を冷静に見られなくなる。
そんなときに、ちょっとでも自分の気に触ることがあると、生まれつきの怒りっぽい性格(分裂気質)のために感情的に激しく興奮して、おまけに自分の気に入らない他人の態度を直そうとして“実在しないと考えられている”超能力(テレパシーとかマインドコントロール)を本気で使おうとして、焦燥感情とテレパシー中枢を興奮させすぎて、分裂病に罹る。[テレパシーは本当は実在するけれども、テレパシーが使えると他人の悪口が自分に聞こえたり逆に自分の思考が他人に漏れたりして結果的には自分が不愉快になるので、テレパシーを使わないためにテレパシーは実在しないと便宜的に考えるのである。分裂病における被視感はテレパシーによるものであり、鬱病における知覚が働かないことによる被視感とは別のものである。分裂病では鬱病ほどは知覚が働かなくはならない。]
[4086] なぜ人類は超能力者に従うのか? h20.1.15
私が小学4〜5年生頃、台所で夕飯の支度をしている母親の身体から薄白い光が放射状に放たれているのを見て感動して、私は「母親以外の人とは結婚しないぞ」と思った。
念光(霊光)には、それを見た者に念光を発する者が絶対者だと信じ込ませ、その者に従いたくなるような気持ちにさせる心理的効果がある。
人間の心は生まれつき念光に対してそんな気持ちが生じるようにできている。
だから、人間が頭を使わず心だけで見ると、まさに超能力者は自分が従いたくなるような者なのである。
しかし、人間の心で感じたことがそのまま真実なのではなく、真実は五感の経験を知覚で帰納して他の知識と論理的につじつまが合うように考えることによって見えてくるものだから、母親の身体が光ったのが母親の身体のどこかにある超能力器官の働きであるとすれば、なにも母親に従わなくてもよいのである。
[4087] どうして男は任意の女性と結婚できるか? h20.1.16
男は自分の知覚欲をより満足させるために自分の身の周りの世話をしてもらうために女と結婚するのである。
だから、自分の身の周りの世話をきちんとしてもらえさえすれば、結婚相手の女性は誰でもよい。
[4088] パチンコ h20.1.18
パチンコとは、パーでチンコということだ。つまり、天皇家は馬鹿で性欲が生き甲斐ということだ。
玉を弾いて運まかせというのも、天皇家が戦争好きで賭け事好きということを表している。
あと、パチだからパチるで国民の稼ぎを横取りし、ンコだからウンコで汚いこと好きということかもしれない。
つまり、エッチで戦争好きで運まかせすなわちエロ・グロ・ナンセンスというのが天皇家の気風である。
一方、私もアニメやゲームが好きで、子供のころはちょっと女の子に憧れていた。それは、私の目から見て、父親よりも母親のほうが楽しそうに見えたからかもしれない。
たしかに、天皇家はちょっとエッチなのかもしれない。
でも、それは大袈裟に言ってのことであって、大まかに見れば普通の人間とあまり変わらないはずだ。きっと、いいところもあるにちがいない。
[4089] 形の面白さ h20.1.19
性欲が働かないかぎり、女の裸なんか見てもつまらない。
形の面白さといえば、戦車や戦闘機や鉄道の車両などだろう。
最近の鉄道番組は駅や路線ばかり取り上げて、肝心の車両そのものへの関心がない。
新幹線がスピードを要求されるのでデザインが決まってしまうのはやむをえないとしても、鈍行はとくにスピードが要求されないのでもっと自由にデザインにこだわって欲しい。車体の中身だけ新しいのに変えて、外観は昔のままがいい。
[4090] 男の世界と女の世界 h20.1.19
男は自分の身の周りの世話をしてもらうために女と結婚するのだから、男にとって女の格好なんてどうでもいい。[逆に言えば、男は女ではわからないできないことをするためにいるのだから、女にとっても男の格好なんかどうでもいい。]
女が格好つけるのは、自己満足のためつまり女が自分の他人からよく見られたい欲望を満足するためにすぎないのだ。[かといって、男が女を馬鹿にするのはいけない。男は母親から生まれるのだから、女をやしべる(軽蔑する)ことは男をやしべることにもなるからである。女が女としての道を踏み外していなければ軽蔑されるいわれ(理由)はない。]
[4091] 食べ物が大事 h20.1.19
『脳をよく働く状態にしてさえやれば、あとの細かいことは脳自体がひとりでに考えてくれる。眠っているときに考えて起きているときに書く。』(私の魔法少女日記[737]より)
食事は、男にとっては知覚欲を、女にとっては家族への愛情(世話したりかわいがったりする喜び)を満足するために食べるものである。
おいしいお米は脳の働きをよくする。しかし、スーパーで売られている今のお米は、脳の働きをよくする食べ物ではない。だから、食べてはいけない。スーパーのお米は、新米が出だした秋口から年末までしか食べられない。
女も、脳の働きをよくするおいしい料理を手間ひま惜しまずに家族のために作ってやらねばならない。子供の頭の出来のよしあしは、母親の料理で決まると言っても過言ではない。
[4092] 脳が大事 h20.1.19
『脳をよく働く状態にしてさえやれば、あとの細かいことは脳自体が自動で考えてくれる。』
衣食住を調[ととの]えて、脳がよく働く状態にしなければならない。
あとは、デカルト哲学(『精神指導の規則』など)があれば十分だ。[私の『実在哲学』もあったほうがいい。]
脳がハードウェアで、デカルト哲学がハードウェアに適合させるためのOSのようなものだ。
[4093] 子供の教育 h20.1.19
植木屋が善い枝を残し悪い枝を切るように、
子供が悪い道へ進むのを防ぎ善い道へ進むようにするのが親の務めである。
そのためには、子供が何の感情で生きているかをつねにチェックしなければならない。
男も女も性欲だけは駄目だ。なぜなら、1)知覚が働かなくなる。男は知覚が働かねばならないし、女はいいかげん弱い知覚が、ますます働かなくなるからいけない。2)精神分裂病になる。性欲は働かさなければ働かなくなるが、精神分裂病は一度罹ると治らない病気なので、最初から罹らないように心掛けるしかない。[いくら病気が嫌いだからといって病気を知らないのはいけない。100人に1人ぐらい罹る病気のことは知っておかねばならない。人間を病気に罹ることのない完全な者だと見なす考え方はまちがっている。医学の基礎的なことは常識化されていなければならない。医者に悪いと言われたときには、すでに手遅れのこともある。精神病は病気になっても死にはしないが、人生が健康でも死でもない不快な状態にずっと置かれることになるので軽く見てはならない。]
男が女のように見栄欲(他人からよく見られる喜び)を働かせるのは、抑鬱状態で知覚欲が働かなくなったときだから要注意。[女は生まれつき知覚“欲”(つまり、頭を働かせる喜び)が弱い生き物なのかもしれない。だから、他の感情の喜びで補わねばならない。その分無駄金がかかる。しかし、そうしないと、性欲に走りもっと悪化する。もちろん、個体差もあるだろうが。]
[4094] 慈悲の感情 h20.1.19
人間の心の中には苦しんでいる他人をかわいそうに気の毒に思う感情がある。
この慈悲の感情のために、人間は他人を攻撃できない。
ただし、他人が正しくない場合にはこの限りではない。
[4095] 自然選択 h20.1.20
人間はそれぞれ置かれた環境に適応して生きている。
アフリカでは、人間はライオンの餌[えさ]だから、知覚欲よりも運動欲のある者のほうが生き残れる。
反対に、アジアやヨーロッパでは、寒さに適応しなければならないから、運動欲よりも知覚欲のある者のほうが生き残れる。
[4096] 男が好きな女性とは? h20.1.20
いくら女性でも、元気で(活発で、自主的で、積極性があって、つまり従属的でなく、他人の言いなりでなく)明晰判明で正直な者がいい。
つまり、知覚欲が強い女性のほうが好まれる。
人間は自分と気の合った者を好むのだ。
[4097] 喜びの質 h20.1.20
五感界の上だけで楽しむなら、お金持ちほど幸福だ。
女がお金持ちに憧れるのはそのためだ。
[でも、見たり聞いたりするだけで、それほど喜びが得られるのだろうか?]
でも、知覚界の上で楽しむなら、あまりお金は要らない。
ただ、知覚がよく働くことが必要条件である。
東京が眼で見る喜びであるのに対し、京都=大阪は耳で聞く喜びである。
大阪の町は汚い。問題は、なぜ汚いか?だ。
[4098] どうして女は家族をかわいがれるのか? h20.1.20
女は、家族を動物のようにかわいがる。
それは、女が家族の動物的な部分だけを見てかわいがっているからである。
だから、家族の歳が行っても、動物的な部分は変わらないから、いつまでも赤ん坊のようにかわいがれるのである。
女は人間を動物のように見なしてかわいがっているのだ。
つまり、女は家族の人間的な部分が見えていないのだ。
女がわかるのは動物までということかな。
女は自分が知覚欲が弱いから知覚が働かないので、動物と同じようなものだから、動物のことしかわからないのだ。
女は家族の動物的な部分の担当で、男は家族の人間的な部分の担当ということかな。
[4099] テレパシー器官 h20.1.21
幻聴が聞こえるようになるのは、自分のテレパシー器官を興奮させすぎたからである。
一般に、テレパシー器官はないと考えられているが、勘のいい人は無意識の内にもテレパシー器官の存在に気付いていて、ときどきそれを使っているのかもしれない。
不快な感情でも実在への適応に役立つように、テレパシー器官も何らかの意味で実在への適応に役立っている可能性はある。例えば、オンラインゲームのバトルフィールド2モダンコンバット(PS2版)のHarborEdgeの1番陣地などで敵の裏取りを狙撃兵のレーダーがなくてもなんとなく勘だけで察知できることがあるのは、テレパシー器官の働きだと考えられる。たまに眼が背中に付いているかのように自分の背後に迫る敵の動きをキャッチすることもある。テレパシー器官では他人の考えていることがわかるので、それを考慮しながら自分が有利に行動できる。
テレパシー器官は弱く働くうちは有利だが、あまり強く働きすぎると他人の考えがわかりすぎて自分が不快になってしまう。自分が聞きたくもない他人の悪口が聞こえたり、ガン飛ばしで頭が痛くなったりして、自分が不快になる。
テレパシー器官が存在することは多かれ少なかれ誰でも知っているから、分裂病の根本的な原因は、テレパシー器官を過度に興奮させねばならなくなった状況にあるといえる。
それは、性欲の満足させすぎや勉強や仕事のしすぎの疲れなどで知覚が十分に働かなくなって、自分と他人の区別が付けられなくなり、気にする必要もない他人の悪い態度が気になって、それを直したくても言葉や腕ずくで直すことができず、自分がテレパシーを使って他人の意思をコントロールしなければならなかったからである。本来は、他人の悪い態度を気にするよりも、自分が自分のやるべき勉強や仕事に集中すればよかったのだ。それができなかったのは、やはり自分が性欲を満足させて知覚欲が働かず、そのうえ勉強や仕事のしすぎで知覚も働かなくなっていたからである。やっぱり、分裂病の原因は、自分の知覚欲の低下にある。人間は心が一番大事だということだ。
念動力器官も、赤ちゃんが遊びでやるぐらいなら楽しくていいが、働きすぎると自分がちょっと思っただけでいろんな物が動いて大変なことになり、かえって自分が困る。だから、自分で調節して自分が困らない程度に弱く働かせるはずだ。しかし、実際には、念動力は感覚波を介してエネルギーを物体に伝えることだからあまり重たいものを動かすことはエネルギー的に見て不可能だし、感覚波は身体の周囲にしか分布しないのであまり遠くの物も動かせないから、余計な心配はしなくていいはずだ。それに、そもそも私が赤ちゃんの頃に念動力を使おうとしたのは、私が産褥期[さんじょくき]の傷害で自分の身体が不自由で思い通りに動かなかったからである。もしも、私の身体が自由だったら、もちろん自分の手でおもちゃをつかんで動かしたはずだ。幸い母親の手厚い看病のおかげで大きくなってからは身体が自由に動くようになったし、物を動かすには念動力よりも手のほうが便利なので、念動力を使わなくなった。つまり、念動力でできることなら手でもできるし、手のほうが念動力よりも強く遠く細かいことができるので、手だけを使うようになったのだ。つまり、テレパシーの代わりに言葉や文字があるように、念動力の変わりに手があるのだ。テレパシーよりも言葉や文字が便利なように、念動力よりも手のほうが便利なのである。しかしながら、テレパシーは言葉や文字ではわからない他人の思考がわかるように、念動力では手ではできないことができるかもしれず[それがわかれば大発見になる]、念動力もテレパシーのようにあれば実在への適応に役立つこともあるから、他人がそれを失わせることは本人を不利にすることなので、してはいけない。テレパシーを除[の]けないなら、念動力も除けるな。
[4100] 男の一生と女の一生 h20.1.21
男の一生は、知覚欲(や運動欲)をひたすら満足していけばいい。
男の一生に比べて女の一生は複雑である。
女は幼少女期は、頭(知覚)のいい者は知覚欲を満足して生きて行けるが、知覚欲を十分満足できない者は被視感に苛[さいな]まれ、他人からよく見られる見栄欲で生きて行かねばならなくなる。女は幼少女期には、まだかわいがる家族がいないので家族をかわいがったり世話したりする愛情は満足されていない。愛情が満足されないぶん、見栄欲で満足を得ながら生きて行かねばならない。幸い、若い子はきれいに見られる習慣があるので、見栄欲を満足しながら生きて行ける。
女は結婚すると、家族ができるので愛情を満足しながら生きて行ける。愛情が満足されると、もはや見栄欲は満足する気がしなくなる。しかし、家族を持っても家族にかわいげがなく愛情の満足に至らない場合には、依然として見栄欲で満足を得ながら生きて行かねばならないこともある。
女は中年をすぎると、子供が巣立ち愛情が満足できなくなり、自分の身体が老化して見栄欲も満足できなくなる。そのために、他人の悪口ばかり言って喜ぶ意地悪な性格になる。
最後に、なんの感情も満足されず喜びが得られなくなって死ぬ。