[3901] 分裂病における被視感について h19.12.12
分裂病では、焦燥感情が高まりすぎて、焦燥感情が知覚欲よりも強くなっていて、知覚欲が働かなくなっている。
そのために、分裂病では知覚が働かず、五感しか働かなくなっている。
そのために、分裂病では、『自分の知覚が働かないと他人の知覚に頼らなければならないから、“自分はつねに他人から見られる存在”であって、自分の存在が社会的(社交的)になる。』状態にある。
これが分裂病における“被視感”である。
分裂気質の人は、被視感に慣れていないから、分裂病に罹ると被視感を強く感じるのだ。

[3902] 未来の宗教 h19.12.12
未来の宗教は、超能力者のファンクラブである。
超能力者に弟子(後継者)は育たないから、相撲の角界にように超能力者部屋はできないが、それでも超能力者のファンはいるから、ファンが集まってファンクラブは作れるはずだ。[将来超能力の研究が進んで、超能力がスポーツのように誰でもできるような時代になれば、超能力者産業ができて経営が成り立つだろう。]
昔のように超能力者には権威(命令力)がないから、超能力者の命令にファンやその他の人間は従う必要はないが、超能力者の生活費及び超能力者博物館や記念館の建設維持運営費等を自主的に支援することはできる。
あなたが人間の超能力の才能に価値を認めるなら、ぜひ超能力者ファンクラブに入ってその思いを具体的な形にしよう。

[3903] 私の希望 h19.12.12
私はできれば、自分が興味ある分野の数学や科学の研究がしたく、精神病や宗教の研究なんかしたくないのだ。
ただ、私には確実に成果を上げられるほどの数学や科学の才能がなく、確実に仕事の成果を上げねばならないのなら、製造業の手作業の仕事を選ぶしかない。

[3904] 女性へのお願い h19.12.12
私はどうして女性の知覚が働かなくなるのかわからない。子供のときからずっと働いていないのか、大人になると突然働かなくなるのか、それもわからない。
それは女性の内的経験のことなので、女性にしかわからない。
だから、女性の知覚が働かなくなる原因だと考えられることを女性の手で公に著してもらいたい。
女性の知覚が働かなくなる原因がわかれば、その原因を社会からできるだけ排除し、女性も幸福に生きて行けるようにしたいので、ぜひ女性の協力をお願いしたい。

[3905] ひとつの仮説 h19.12.12
分裂病者が自分の焦燥中枢を興奮させて自分の焦燥感情の興奮が知覚欲の興奮よりも強まって知覚欲が働かなくなった結果、知覚が働かなくなるように、
また、欝病者が自分の抑鬱中枢を興奮させて自分の抑鬱感情の興奮が知覚欲の興奮よりも強まって知覚欲が働かなくなった結果、知覚が働かなくなるように、
女性もある年齢に達すると女性ホルモンの作用で大脳にある愛情中枢の興奮が強まって知覚欲が働かなくなった結果、知覚が働きにくくなるのかもしれない。私の観察によれば、女児が女の子の服を着ているのはたんなる習慣のためだが、大人の女性が女っぽい服を着ているのはたんなる習慣のためではなく愛情のためだと考えられるからである。[これは男の私の推測なので、まちがっているかもしれない。]
でも、それなら、大人の女性は大半が愛情のために生きているのだから、自分の愛情を満足させるために早く結婚して家庭に入り、外の仕事は男に任せるべきである。
しかし、女性の中には、たとえ女性ホルモンの作用で愛情中枢の興奮が高まっても、それでも知覚欲の興奮が愛情の興奮よりも強い人がいるから、そんな人が幸福に生きるための道も用意されていなければならない。

[3906] 石を上げる h19.12.13
私が小学1〜2年ごろ、近所の秤屋[はかりや]の息子の石田君と付き合っていたが、石田君とちょっと喧嘩して友達をやめた帰り道、5〜6人のおじさんが丸太を三脚に組んで大きな石を吊り上げているのを見かけたことがある。
この意味は、三脚で石を上げることは、三本川の名前の私が石田君を上げることだから、「私が付き合った(しかも最後には喧嘩別れした)友達の待遇をよくすることを私が承認した」ことと解釈される。
馬鹿じゃないんだから、私に無言で物を見せて承認させるより、言葉ではっきりと私から承認を取ったらどうだ?
まあ、私が宗教法禁止法を出したから、今後は宗教家が何をやっても無駄だが。

[3907] 腹が立つ h19.12.13
今後も私の人生によいことはなさそうだ。
日本人全員、貧乏死にの刑だ。

[3908] 私の現状 h19.12.13
私は現在失業中だが、実家に電話すると父も母も「はやく働け!」とはけっして言わず、「お金がなくなる前にはやく言いよ」とか「じっくり時間をかけて自分の能力を活かせる仕事を探しなさい」としか言わない。
どうなってるんだ、いったい!?

[3909] 超能力者ファンクラブ h19.12.13
現代は宗教が自由な時代だから、超能力者ファンクラブに入ろうが入るまいが個人の自由であり、またどの超能力者のファンクラブに入るかも個人が自由に選択できる。
はたして、この私にファンはいるだろうか?

[3910] 政治家はブ男 h19.12.13
いくらハンサムでも他人の考えを読み上げることしかできない者より、たとえブ男でも自分の考えをしっかり述べられる者に私は敬意を払いたい。
テレビかぶれした五感しか働かない低脳な視聴者に迎合する態度は、人類の指導者である政治家として慎むべきである。
人間の気高さは知覚欲を満足するところにあるのであって、五感主義は人間にとってふさわしい道ではない。
政治家は自らの身を持って、そのことを人類に教えるべきである。
お金では物しか手に入らないから、いくらお金があっても知覚欲の満足にはならない。
政治家には、人間がたとえ貧しくても知覚欲を満足して幸福に生きて行ける社会を作って欲しい。

[3911] 超能力者の偉さ h19.12.13
体操選手は、体操の技術があるほど権威がある、つまり偉いことになる。
それと同じように、超能力者も超能力の技術があるほど偉いことになる。
超能力者から超能力をなくすと、超能力者としてはもはや偉くない。
だから、人類は超能力者がその偉さを失わないために、超能力者の超能力の才能を保護育成することに務めねばならない。
[土佐弁で“偉い”とは“仕事がきつい”ことを言う。土佐では実質のない権威には否定的なので、偉いという言葉が否定的な意味で使われるのである。]

[3912] 超能力の発見者 h19.12.13
日本は世界の東の端っこにある田舎の国であり、
高知は日本の離れ小島の四国にある田舎の県である。
私の母親の実家は、四国のほぼ真ん中にある山の中の“立川”という小さな村で、ここで子供時代をすごし、戦後は高知市に下りてきて升形[ますがた]に住んでいた。
一方、私は高知市生まれの高知市育ちで、私は昔高知市上町2丁目の細木病院の近くにあった小さな産婦人科で産まれて、あとは高知市内の鴨部(2才まで)や朝倉(2才から15才まで)や福井町(15才から20才まで)で育った。
私の赤ちゃんの頃の超能力は、母親の超能力をまねて伸ばして身に付けたものであり、
母親の超能力がなければ、私の超能力もありえなかった。
超能力の学校や教科書はないから、身近に超能力を使える者がいなければ、超能力は自分で発見しないかぎりその存在はわからない。
超能力を大成させたのは私だが、超能力を発見したのは私の母親である。

[3913] 人類の指導者 h19.12.13
指導者は他人に命令して他人を導く者だから、指導者には適切な命令を出せる者こそがふさわしい。
現代では、それは政治家の仕事であって、超能力者の仕事ではない。
したがって、『超能力者と人類の妥当な関係』は、
超能力者に人類に対する絶大な権威(命令力)を与えず、
ただ超能力界のチャンピオンとしての地位を与えることである。


[3914] 過去の超能力者と人類の関係についての是正 h19.12.13
『超能力者と人類の妥当な関係』について考えてみると、
超能力者には人類に対する絶大な命令力はない。
だから、神武天皇の命令だという理由でしかたなく天皇制をつづけていたり、
キリストの命令だという理由でキリスト教を布教しているにすぎないのであれば、
それらはさっそくやめてよい。(他の超能力者の命令についても、同様。)
[もちろん、今の天皇が神武天皇の命令に従いたくなければ、自分から天皇をやめてもよい。]
そのほうが、これまでに超能力者が出したまちがった命令がなくなるので、世界がよくなるはずだ。
ただし、人類が自主的にそれらの活動を行っているのであれば、止めはしない。

[3915] 超能力者の命令が法律に反する場合 h19.12.13
浅原昭光[しょうこう](←山野上昭光[あきみつ]=高知学芸中学の数学の教師)のサリン事件のように、たとえ超能力者の命令でも法律に反する場合には、その超能力者を含む首謀者全員が法律によって罰せられる。

[3916] 超能力者に対するプライバシー侵害 h19.12.14
私はテレビや新聞などで顔を知られている有名人ではないから、
私を知らない者は、『えり子』や『ようこ』をたんなるアニメとして見るしかないが、
私を知っている者(例えば、朝倉(第2)小学校や高知学芸中学校の同級生)から見れば、『えり子』や『ようこ』はどうしても私に見える。
私から見ても私に見えたぐらいだから、他人から見ればなおさらだ。
私以外の人から見てもそう見えるなら、その認識には客観性があリ、たんなる私の見まちがいや思い込みとは考えられない。
したがって、“『えり子』や『ようこ』が私をもとにして作ったアニメである。”という命題は、真である。
この事実を拡張すれば、“これまでに日本で作られたほとんどすべてのアニメが私をもとにして作られている。”ことも容易にわかる。
私は子供の頃からアニメが好きでよく見るが、これまで私は超能力者としての権限で「私をもとにしたアニメを作れ」と命令したことはないから、これらのアニメはすべて宗教法で作られたものである。
ところが、この前私が宗教法禁止法を出したから、宗教法で作られたこれらのアニメは宗教法の根拠を失い私の人権を侵したことになる。

[3917] 人間にとっての幸福とは? h19.12.14
人間は知覚欲の満足で生きて行かないと幸福にはなれない。[女性は若い時期には女性ホルモンで愛情中枢の興奮性が増し知覚欲の働きが鈍っているが、本来は女性も知覚欲で生きているのだ。]
五感欲の満足や性欲の満足ではしょせん幸福にはなれない。
わざわざ自分からあまり幸福に生きて行けない道を選ぶことはない。

[3918] 宗教家の権威 h19.12.14
宗教家に権威(命令力)を与えるためには、その宗教家の命令が適切でなければならない。
それが『宗教家と人類の妥当な関係』だからである。
そのためには、宗教家の命令がはたして適切であるか(つまり、人類全体を幸福にするものであるか)判定する機関を国連や各国政府に設置すればいい。
その機関において宗教家の命令が不適切であると判定されれば、政府はその命令を退けることができる。
例えば、超能力者をもとにして作ったアニメは、人類全体を(というか、私を含む誰ひとりとして)幸福にするものではないから、作ってはならない。
そもそも、宗教家の権威はこれまで強い権威があると考えられていた超能力者と人類の間に挟[はさ]まることによって成立するが、この前『超能力者と人類の妥当な関係』によって超能力者にはとくに権威を与えないことになったから、宗教家にもとくに権威はない。だから、政府は宗教家の命令を無視して従わなければよいが、それでも宗教家が教団の人間に対して命令できるというのなら、社会的影響を配慮して宗教家の出す命令をいちいち政府が吟味する必要がある。したがって、宗教家が教団の人間に対して命令する場合には、いちいち政府に承認を得てからするようにしなければならない。

[3919] 『権威者と人類の妥当な関係』 h19.12.14
政治家や宗教家など、一般に権威(他者に対する命令力)を持つ者を権威者という。
ある者に権威を与えるためには、その者の命令が適切である、つまり人類全体を幸福にするものでなければならない。
適切な命令を出せる者ほど強い権威を与えるべきであり、適切な命令を出せない者に権威を与えてはならない。

[3920] 政治家の権威 h19.12.14
政治家は、[その政治家が関与する]人類に対して適切な命令つまり人類全体を幸福にする命令を出せる者でなければならない。
政治家の命令が適切かどうかの判定は、最終的には人類に委[ゆだ]ねられる。
政治家の命令が人類によって不適切と判定されれば、人類は(手段を問わず)その政治家を罷免する(葬り去る)ことができる。

[3921] 尾立くんのこと h19.12.15
私が高知学芸高校1年C組の新学期の4月、私は前から2列目の席に座っていたが、通りを挟んで私の右隣の席に座っていた尾立[おりゅう]君が山崎先生の英語読本(リーダー)の時間に教科書をパラパラめくりしているのを見て怒った私が自分の怒り中枢に力を込めて興奮させた結果、精神分裂病にかかってしまった。それ以来27年間、ずっと私の分裂病はよくならず、私は不快な毎日をすごしている。
尾立君が宗教家の命令によらず教科書のパラパラめくりをしたのなら、私は尾立君を許すことにする。
しかし、尾立君が宗教家の命令でわざわざ教科書のパラパラめくりをしたのなら、私は尾立君は許すが尾立君に命令した宗教家は許さないことにする。私が生まれつき怒りっぽい性格で軽度の斜視であったことは家での弟とのけんかや身体所見などで宗教家にはよくわかっていたはずだから、私の隣の席で私の気に障ることをしたら私が腹を立てて気が狂い私の目の調子がおかしくなるのは予想できたはずだ。私はその宗教家を無期懲役刑に処したい。ただし、尾立君に宗教家の命令に従うか従わないか判断の余地が与えられていたなら、私のことを心配せずにただ宗教家から報酬(将来の出世)をもらうためだけにそんなことをした尾立君にも同じ刑(無期懲役刑)を与えたい。
同様に、私が生物学が苦手なことを知っていて私に医学部に進めと助言した和田君や、私が物理学が得意なことを知っていて物理学科に行くなと助言した川本君や西森君も、彼らに命令した宗教家を無期懲役刑に処すのは当然だが、彼らが宗教家の命令によらずに助言したかまたは宗教家の命令に逆らう余地なく従わねばならなかったために私に不利な助言をしたのなら私は彼らを許せるが、もし彼らに宗教家の命令に従うか従わないかの判断の余地が与えられていて私に不利な助言をしたのなら、彼らにも同じ刑(無期懲役刑)を与えたい。

[3922] 私はどうして分裂病に罹ったか? h19.12.15
私は高校1年生のとき右隣に座っていた尾立君が英語読本の時間に教科書のパラパラめくりをするのを見て腹を立て自分の怒り中枢に力を込めて興奮させた結果、私の右脳のどこか(右耳の奥?)が焼き切れて壊れてしまい、それ以来私は分裂病に罹ってしまった。
私が自分の頭に力を入れすぎて脳のどこかが壊れたと思った瞬間、私は自分の頭の中で「この程度のことで壊れるはずじゃなかったのに」と思った。
ところで、『あしたのジョー』でカーロス=リベラがホセ=メンドウサに右脳を強打されて選手生命を潰される話があるが、これは私が赤ちゃんの頃超能力を出した後キリストの命令で、ある宗教家が私の右脳に電気ショックか物理的な強打を与えて私の右脳を器質的に破壊し超能力を出ないようにしたことを言っているとも考えられる。
それから、私が九州大学一般教養部で受けた高田教授の『核問題を考える』の講義で、教授は「“脆弱”という言葉を憶えておきなさい」と言ったことがあるが、これは幼い頃に脳に電気ショックや強打などを受けた私の脳がそのために脆弱になったことを言っているとも考えられる。
つまり、私が分裂病に罹ったそもそもの原因は、私の超能力を取り除くために受けた脳処置にあるとも考えられる。
もし、それが本当なら、私の超能力を出ないようにするために幼い頃の私の脳に処理をした宗教家を罰しなければならない。超能力の価値と考え合わせて、その宗教家は死刑とする。[ただ、今から約40年も昔のことなので、その宗教家はすでに死んでいるかもしれない。]

[3923] 女性の人生 h19.12.15
女性は本来男性同様知覚欲の満足で生きているが、若い時期には女性ホルモンで愛情中枢の興奮性が高まって知覚欲が相対的に弱くなっていて、知覚が働かなくなっている。

だから、女性は若い時期には愛情を満足させて生きて行き、他の時期には知覚欲を満足させて生きて行けばいい。
[ただ、女性の中には若い時期でも知覚欲が愛情よりも強く知覚が働き続ける人もいるから、そんな人は一生結婚せずに知覚欲を満足させて生きていけばいい。]

[3924] 男性の人生 h19.12.15
男は女のように発情期(愛情が知覚欲よりも強まる時期)がないから、男は一生知覚欲を満足させて生きていけばよい。
ただ、女性の愛情を受け入れる余裕のある男性が、その女性と一緒に暮らすと自分が煩わしい日常の雑事から解放されて自分の知覚欲がよりいっそう満足されやすくなり自分の幸福が増すと判断される場合には、女性と結婚すればいい。

[3925] 国や世界の決まりについて考えること h19.12.15
国民が政治に関心を持たなくなり、国民が国の決まりを政治家まかせにしたきりで自分は政治家の言いなりになって自分ではなにも考えないという態度はよくない。
それでは、国が政治家のいいようにされてしまい、国民にとってのいい国にはならない。
人間が知覚欲を満足して生きて行くなら、国や世界の決まりについて考えることもあるはずである。
国や世界の決まりは何から何まで正しいわけではない。
自分で国や世界の決まりのおかしい点に気付いたら、それを自分で考え直してみて、よりよい決まりにしてゆくことは意義あることである。
国民が自分の正しい意見を政治家に進言して法を改正することができるような制度があったほうがいい。

[3926] 権威の乱用は禁止 h19.12.15
ある者に権威すなわち命令力があるのは、その者が正しい判断ができることに関してのみである。
権威者が他者に対して命令できるのは、権威者が正しい判断ができるので、他者が権威者の判断に従えばよいからである。
だから、あるひとつのことに関して権威者であっても、他のことに関してよく知らず正しい判断ができなければ、そのことに関しては他者が権威者の判断に従うことができないから、もはや権威者とはいえない。
つまり、ある権威者が自分が得意とする分野を超えて自分が不得意な分野にまで権威を利かすこと(いわゆる権威の乱用)はできない。
したがって、超能力者はせいぜい超能力の権威であって、思想や政治の権威ではない。だから、超能力者の思想を世界中の人々に信じさせたり、超能力者の子孫(!?)に政治家をやらせてはいけない。
超能力者が超能力の権威であるといっても、超能力者自身にはとくに超能力に関する知識がないからじつは権威とはいいがたい。しかし、超能力者には超能力を使えるための“気構え”があると考えられるから、超能力を使えるためのひとつの条件として、その“気構え”を他者が学ぶことは有意義かもしれない。
超能力者は超能力の原理までもは知らないが、超能力が使えるための“気構え”は知っているといえる。
だから、いちおう超能力者は超能力の権威であるといえる。
私は赤ちゃんの頃母親を真似て超能力が使えたが、母親はいまいち超能力者ではないから、私の母親と父親の“気構え”が両方揃えば超能力が発揮されるのかもしれない。
将来、これまでに現われた超能力者の“気構え”についての研究が進み、それらの“気構え”をすべてマスター(会得)すれば超能力者になれる時代が来るかもしれない。

[3927] 女は損、男は得 h19.12.15
愛情を満足することと、知覚欲を満足することを比較すると、
愛情を満足するよりも知覚欲を満足するほうが面白い。
しかし、女性は発情期には愛情を満足するしかない*から、一生懸命愛情を満足して喜びを得るしかない。[*その原因としては、脳に脂[あぶら]が溜まって知覚の働きが妨げられるせいかもしれない。]
一方、男は知覚欲を満足することによって喜びを得るしかない。
感情は満足しなければ喜びが得られないから、
知覚欲を満足しない男よりも愛情を満足する女のほうが幸福である。

[3928] なぜ女はお化粧するか? h19.12.16
女がお化粧するのは他人に見られる感じ(被視感)がするからである。
他人に見られる感じがするのは、知覚の働きが鈍って五感優位になっているからである。人間は知覚が働くときは互いに他を見る存在だが、五感しか働かないと互いに他に見られる存在になる。
知覚の働きが鈍るのは、知覚欲よりも他の感情が強く興奮しているからである。
分裂病では焦燥感情(イライラ感情)が、鬱病では抑鬱感情(オチコミ感情)が強く興奮しているために、知覚欲の興奮が相対的に弱まり、知覚が働かなくなっている。
女性では愛情の興奮が強くなっているために知覚の働きが鈍り他人から見られる感じが強いのだ。女性は他人から自分がよく見られたいためにお化粧するのである。
でも、焦燥感情や抑鬱感情が不快な感情であるのに対し愛情は快な感情であり、女性は知覚欲の満足の代わりに愛情を満足しているわけだから、女性はいちおう幸福に生きて行ける。
男が他人から見られる感じ(被視感)が強まるのは、焦燥感情や抑鬱感情の興奮が強まって知覚欲の興奮が相対的に弱まっているときだが、知覚欲の満足が得られないのはかなりつらいことである。それを代償するために五感欲や愛情や性欲や食欲など他の感情を満足しようとするのだが、知覚欲ほどの満足は得られない。そんな時には、まず焦燥感情や抑鬱感情を鎮めることを先にしたほうがよい。

[3929] 超能力の価値がなくなる日 h19.12.16
縄文時代にエレキテルを発明した者がいたら、おそらく天皇になれただろう。
しかし、マクスウェルの時代になれば、子孫は天皇をやめねばならなくなるだろう。
それと同じように、遺伝子操作で生まれつき感覚波器官が発達した人間を作ることができ、その改良人間が実際に念光や念動などの超能力を使えるようになったら、今の天皇や私の価値はもはやないだろう。
しょせん、超能力者制は科学が発達するまでの間の野蛮な習慣にすぎないのだ。

[3930] 人間は超能力者をどう見ていたか? h19.12.17
そもそも最初から、人間は超能力者を全知全能の神だとは見ていない。
ただ、人間よりもひとつだけ才能の多い者とは見ていたはずだ。
しかし、いくら超能力者がひとつ才能が多いからといって、超能力者は超能力以外の才能においてとくに優れているわけではないから、権威の乱用は許されない。
だから、これまでも実際には、超能力者の命令はそんなに効いていなかったのではないだろうか?
つまり、昔から、あまり人類にとって害にならない程度に超能力者の命令を聞いてきたのではないだろうか?
例えば、釈迦やキリストの思想は、釈迦やキリストが生きていた時代には正しい思想とみんなに信じられて社会発展の助けになったが、1000年以上も経つとさすがに時代遅れになってかえって社会発展の足を引っ張ることになってきたので、形の上だけで従うことに改めたのである。
すると、昔から、人類は自主的に超能力者に従ってきたといえるのではないか。中世においては、宗教の力が強かったから宗教の力で人類は超能力者の命令に強制的に従わされたが[超能力者の権威(命令力)を強めるとその超能力者に従う教団の権威も強まるので、そのために教団は精一杯超能力者の権威を強めようとしたのである。]、現代においては、超能力者の命令制はすでに撤廃されてしまっているといえるだろう。
つまり、現代の宗教は、超能力の才能に価値があると考える者による自主的活動にほかならない。超能力者は命令を出すが、それに従うか従わないかは個人の自由である。でも、超能力者の命令(宗教家が勝手に命令と見なしたことも含む)に従って法を犯した場合には、法を犯した者の罪になり、超能力者の責任にはならない。もちろん、超能力者自身が法を犯した場合には、その超能力者の罪になる。また、ある者が超能力者に関して自分で決めた取り決めで、超能力者やその他の人間を害した場合もその者(ある者)の罪になる。

[3931] 私の脳のどこが壊れたか? h19.12.17
私は高校1年生のとき自分の脳に力を入れて興奮させたために脳のどこかが壊れて分裂病に罹ってしまった。
しかし、それ以前にも、私がまだ朝倉の県営住宅に住んでいた中学2〜3年の頃、2階の自室で勉強していると、ときどき右耳の奥にある脳神経核がヒリヒリして右の頬が引きつることがあった。
もっと以前、私が小学4〜5年ごろ、母親の右顔が顔面神経麻痺になったことがあった。それは母が通院して半年ぐらいで直った。
ところで、横溝正史の『本陣殺人事件』に、一本の紐[ひも]を渡してある留め具が一番外れやすいものから順番に外れていって一連の現象が引き起こされるトリックがある。
それと同じように、もともと何らかの原因で私の脳の中で一番脆弱だった私の右脳の奥にある脳神経核(三叉神経核?)を、私が高1のときに興奮させすぎたために、その部分が壊れて機能不全に陥ってしまったと考えられる。だから、私以外にも、脳の神経核がヒリヒリして顔が引きつるような人は、その部分をあまり興奮させないように注意する必要がある。

[3932] 超能力者と人間の妥当な関係 h19.12.17
超能力者は私のように超能力を使えることが視覚的に確認された者だが、私の母のようにいまいちで超能力者でない人やいまにで超能力者でない人は他にもたくさんいると考えられる。
だから、超能力者である者とない者との境界ははっきりしない。
それに、人間の才能は多種多様であり、超能力の才能ひとつが加わったくらいで超能力者を人間でないと見なすのは大袈裟すぎる。
超能力者を人間であると考えるかないと考えるかは、個人によって意見の分かれるところである。
とにかく、超能力者が人間であるにせよないにせよ、超能力者と人間の妥当な関係としては、超能力者を人間と同等な者と見なすのが最も妥当である。[法律的には超能力者を特別扱いしなくても済むから、そのほうが為政者(国民の管理者)にとっては楽である。]
ただ、そうしたからといって、超能力者を人間と同じにするために、超能力者の超能力を[超能力者の身体や脳に処置をして]わざわざなくしてしまうのはいけない。
超能力者の超能力が暴走して自分で止められなくなり「僕を殺してくれ」と他人に泣いて頼まないかぎり、他人が超能力者の超能力をいかなる方法によってもなくしてはならない。
ただ、超能力者に超能力の才能があった(またはある)ことは事実なのだから、その点で超能力者を高く評価するのはかまわない。超能力界のチャンピオンとしての超能力者にプレゼントやお金などをやって、超能力者を喜ばせるのはかまわない。

[3933] 天皇と人間の妥当な関係 h19.12.17
正直言って、私は最近まで天皇について考えたことなどなかった。
たいていの人は、最近までの私と同様、天皇が何者であるのか知らない。
天皇が何者であるのか知らないから、今の天皇制を黙っておとなしく受け入れているのだ。
もし、天皇が超能力者の子孫にすぎないことを知ったら、みんなが今の天皇制を認めないはずだ。
無知や偽りで持っているだけの制度は早く廃止したほうがよい。
だから、まず天皇の実体を全人類に対して公開しなければならない。[天皇の実体がみんなに知られると、天皇や日本神道や日本政府は今ほどの権威(命令力)がなくなるから、それで天皇や日本神道や日本政府は真実を隠しているのだ。他の宗教についても、釈迦やキリストの実体が知られると、教団の権威が失われるから、それで教団が釈迦やキリストの真実を隠しているのだ。]
超能力者の存在と、これまで人類が超能力者に関してやってきたことについて全人類に公開して、『超能力者と人間の妥当な関係』や『天皇(超能力者の子孫)と人間の妥当な関係』について、この辺で人類みんなでもう1度考え直してみなければならない。
私の考えでは、超能力者は超能力の天才であって、学問やスポーツの天才と同等の人だから、ノーベル賞やオリンピックと同じように超能力の才能を高く評価する社会制度を確立しなければならない。それが超能力者に対する人類の義務である。

[3934] 天皇制の末路 h19.12.17
日本が天皇に頼りすぎて、他の産業の発展をおろそかにすると、
1000年後にどこかの国が超能力ベビーの開発に成功して
日本の天皇の価値が暴落し、それとともに日本が滅びることになるかもしれない。

[3935] 男は度胸 h19.12.17
整形手術や性転換などで身体が美しくなれば、
自分が他人からよく見られてうれしいだろう。

[3936] 超能力者制で得られないもの h19.12.17
超能力者制で手に入るのは、権威(命令力)だけである。
超能力者制では、権威欲が満足されるだけである。
しかも、権威が手に入るのは、天皇や宗教家や政治家など一部の人間だけである。
しかし、宗教家や政治家の中には、権威が欲しくない者もいる。
そういう者は、正しい者の味方である。

[3937] なぜガリレオは助かったか? h19.12.18
ガリレオは宗教裁判で有罪とされたが、3日間の禁固刑だけで許された。
たとえ宗教の権威がなくなっても、社会全体がそれでよくなればいいと当時の宗教家達が考えたからである。

[3938] 天皇制の問題点 h19.12.18
天皇制の下[もと]では、天皇に絶大な命令力がある。
性格がおとなしい民主的な思想を持った天皇なら天皇制でも問題ないが、
性格が乱暴な戦争好きの天皇が現われたら日本は何の理由もなしに戦争しなければならなくなる。
天皇の性格や思想によって善くも悪くもなるのが天皇制の困ったところである。

[3939] 天皇制の長所 h19.12.18
現代建築が安っぽくて味がないのに対し、
大正時代の建築はユニークでおもしろい。
それは、大正天皇が建築に造詣が深かったからだろう。
天皇には絶大な命令力があるから、「おもしろい建物を作れ」と言えば、予算を2の次にしてとにかくおもしろい建物ができるのだ。
天皇制がなくなれば、もはや予算度外視のそういった事業はやれなくなる。
でも、いつか天皇並みに強い命令力のある人間が現われて、建築に興味を持っていれば、建築家に命じておもしろい建物を作ってくれるだろう。

[3940] 権威過度集中禁止法 h19.12.18
超能力者を含むいかなる生物(一般には、あらゆる物体)に対しても、その者に絶大な権威(命令力)を与えることを禁止する。その生物に実力が伴う[例えば、人類の科学力を超える武器を作ることができる]場合を除き、その生物には人為的には人間と同程度の権威しか与えないことにする。[超能力は武器にならないから、過去に現われた超能力者に対しても人間と同程度の権威しか与えないことにする。]
それは、たとえその生物が人間より上でも下でも同じでも、それが社会的には『人間とその生物の妥当な関係』だからである。
一般に、人類全体を幸福にするような適切な指示命令を出せる者にしか強い権威(命令力)を与えるべきではない。
政治的命令はそれぞれの事業に対する予算の配分を決めることだが、たとえ個々の事業が委託会社まかせでまちがいがなくても、事業全体として国民全体を幸福にしなければ政治的命令としてはまちがっていることになる。だから、天皇がわがままな命令を出して、どうでもいいこと(国民全体の幸福とは無関係なこと)に予算をたくさんつぎ込んで、予算が無駄遣いになることは、政治的命令としては失格である。

[3941] 一般化された宗教法禁止法(ある特定の生物に関する私的立法禁止法) h19.12.18
ある生物(一般には、あらゆる物体)について、その生物が人間であろうがなかろうが、その生物について一部の人間だけで勝手に非公開の決りを作って、その決りに従ってその生物や人間に働きかけることを禁止する。
ある生物についての決りを作ることができるのは、その生物が属する国か国連だけであって、国や国連が決まりを制定した際には国民や人類に対してその決まりを確固とした文章として公開しなければならない。[細かいことは、法律の専門家にお任[まか]せする。]
とくに超能力者に対しては、他の人間と区別せず、人間と同じ法律が適用され、人間と同じ人権が与えられるとすればよい。超能力の才能は超能力者個人の所有物であり、他者がそれを侵してはならない。

[3942] 超能力者予算 h19.12.18
学者やスポーツ選手に自分の専門分野以外のことに対する権威(命令力)がないように、超能力者にもとくに権威がないので、超能力者の命令実行費を他者が支払う必要はない。
しかし、超能力者に超能力の才能があった(またはある)ことは事実なので、その点を高く評価しなければならない。
そこで、私から日本または世界中の政府に対して超能力者予算を出すことを提案する。
超能力者予算は、優秀な学者に対するノーベル賞やオリンピックの優勝者に対するメダルのように、超能力者の優秀な超能力の才能を賞賛するための費用である。予算に余裕がなければ、『超能力者認定証』の紙切れ1枚を国や国連(世界)のハンコ入りで発行してくれるだけでいいが、予算に余裕があれば、超能力者の一生の日常生活費(私の場合、月に30万円前後)も出してもらいたい。

[3943] アニメの権威 h19.12.19
超能力者に関する『権威の法則』には、
1)超能力者には絶大な権威(命令力)がある。
2)超能力者に従えば従う者の権威も増す。
3)超能力者の権威を強めれば、その超能力者に従う者の権威も強まる。
がある。
これまで、宗教家や政治家たちは権威の法則に従って、超能力者に従うことで自分たちの権威を強めて利益を得てきた。
したがって、アニメ(一般には、すべての商品)についても、
1’)超能力者だった私には絶大な権威があり、
2’)“従う”の意味を“元ネタに使う”ことだと解釈すれば、私を元ネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)を作ればそのアニメの権威が増す。つまり、そのアニメで儲かることになる。
3’)私のネタを濃く入れれば入れるほど、そのアニメの権威が増す。つまり、そのアニメでますます儲かることになる。
これまで私をネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)が儲かっていたのは、私をネタにした商品を作るほうが私をネタにしない商品を作るよりも儲かるように、宗教家や政治家が給与や販路や消費などを操作していたからだろう。
しかし、だいぶ前に、私が「私に従うとは私の出した命令に従うことである。」「私をネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)を作るな。」と命令したし、この前私が宗教法禁止法を出したので私の命令を誰も変更することができないから、もはや私をネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)を作っても儲からないどころか、私の命令に背いたことになりかえって損害が出るはずだ。
しかしながら、超能力者の権威についてよく考えてみると、そもそも超能力者には超能力界における権威しかなく、上の3つの権威の法則は超能力界の中でしか成り立たないから、超能力と関係のない他の分野においては超能力者にとくに権威はない。
したがって、商業や工業は超能力とは関係がない分野なので、いくら宗教家や政治家たちが私をネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)を作らせても私に従ったことにはならないから、宗教家や政治家たちが今後私をネタに使ったアニメ(一般には、すべての商品)を作らせても、もはや権威は得られず儲かりはしない。[私が小学5〜6年生の頃、父親が「商人はやり方が汚い。」と私の前で話したことがあった。私に商人が汚いやり方をしてもよい、さらには誰でも汚いやり方でお金儲けをしてもよいことを認めさせるために宗教家や政治家が私の父親に喋[しゃべ]らせたのだろう。]
私をネタに使ったアニメ(一般には、すべての商品)が人類全体の幸福にとって役立つとはかぎらず、[人類が釈迦やキリストや神武天皇の思想に縛り付けられても人類全体の幸福にとって有利ではなかったように、]人類全体の幸福のためには私のネタに制限しないほうが有利であると考えられるので、今後は私をネタにしたアニメ(一般には、すべての商品)を作ってはならない。

[3944] 超能力者の価値 h19.12.19
体操の選手がいちいち自分で物理学の運動方程式がわかって体操しているわけではない。
体操選手が運動方程式がわかっていようがいまいが、体操選手の技の価値は変わらない。
たとえ運動選手が自分の技を他人に教えられなかったとしても、運動選手が自分の技ができたことが事実であるかぎり、その運動選手の価値は変わらない。
それと同じように、超能力者の場合も、超能力者自身が超能力の原理がわかって使っているわけではなく、したがって超能力の奥義を他人に伝えることもできないが[ただし、私と私の母親のように、超能力の才能のある親がその子供に対してなら教える(というか、子供が自分から学ぶ)ことができる。]、
とにかく超能力者が超能力の技を使えたことは事実なので、
超能力者の価値は変わらないのだ。
つまり、たとえ超能力者に権威(命令力)がないすなわち自分の技を他人に教えることができなくても、
とにかく超能力者が超能力の技を使えたという事実さえあれば、
超能力者にはそれだけの価値がある。
だから、人類はこれまでのように超能力者の権威を利用して自分たちが儲けることをやめ、
これからは超能力者自身の役に立たねばならない。
運動選手の技によって利益を得る者がその運動選手に対して謝礼をするように、
超能力者の技によって利益を得る者はその超能力者に対して謝礼をしなければならない。
また、運動選手がオリンピック以外のところでいい記録を出した場合、その記録が公認のものでありさえすれば、その記録がその選手のベスト記録として通用するように、
超能力者についても今のところはまだ超能力のオリンピック大会はないが、たとえ大会はなくても公認された記録があれば、その記録が通用するはずである。

[3945] なぜアニメの主役には女の子が多いのか? h19.12.19
アニメの主役は視聴者に“見られる者”である。
女性は男性よりも被視感が強く、そのぶん他人によく見られる才能が発達しているので、アニメの主役には女の子が適しているのである。
一般に、テレビ番組の主役は女が多く、たとえ男でも被視感の強い“見られ屋”が多い。
反対に、見る者を主役にしては自分独りで考えてばかりいて番組が成立しないだろう。
女性の脚本家が面白いのも、他人によく見られる術[すべ]をいろいろ心得ているからである。
しかし、本当の面白さがわかっているのは男のほうなのだ。

[3946] 私をネタにしたアニメに宗教的な意義はあるか? h19.12.19
私をネタにして作ったアニメ(一般には、すべての番組)は、純粋に私のネタだけから出来てはいないので、私から採ったネタと、私の周りにいる者から採ったネタと、完全な作りごとのネタとが混在している。
たとえ私をネタにしていても、反対にしたり逆にしたり組合せを変えたりしているので、何が私のネタなのか見ていてもわからない。
これでは、いくら私に従いたい者がいても、テレビのアニメ(一般には、すべての番組)を見るだけでは、私に従っているのか、私の周りにいる者に従っているのか、それともまったくの作りごとに従っているのかわからないので、従いようがない。
それなら、もはや私をネタにしたアニメ(一般には、すべての番組)には宗教的な意義はないといえる。
だから、私をネタにしたアニメ(一般には、すべての番組)には商業(お金儲け)その他の意義しかないのだ。

[3947] 超能力者の権威について h19.12.20
超能力者は、超能力の技が他人に教えられるものではないために、肝心の超能力についても権威はないが、
たとえ超能力と関係がないことであっても、超能力者の考えが正しい場合には、人類はそれに従うべきである。
なぜなら、考えが正しい場合には、その考えに従ったほうがうまく行く(人類全体が幸福になる)からである。
実際に、これまでも釈迦やキリストや神武天皇の思想についても、超能力者の思想が正しいと考えられるかぎりできるだけ人類はそれに従ってきたのである。
ただ、近代科学が誕生した後はキリストの思想のまちがっている部分に従うのをやめ、太平洋戦争に負けてからは神武天皇の思想(すなわち天皇制)のまちがっている部分に従うのをやめた。つまり、近代以降はキリスト教に形の上だけで従うことになったし、太平洋戦争以降は天皇を形の上で置いているだけである。

[3948] 超能力者が普通の人よりも正しく知っていること h19.12.20
たとえ超能力者が超能力の技の出し方について知らなくても、これまで私が考えてきたような超能力に関係することについては普通の人は考えることさえなく、超能力者は普通の人よりもよく知っているから、それらのことについては人類は超能力者の考えに従うべきである。

[3949] 宗教原理 h19.12.20
古来より、人類は超能力者の正しい考え(人類全体を幸福にする考え)に従ってきた。
これが宗教原理である。
宗教原理を司る者(人類に守らせるように管理する者)が宗教家である。
ところが、宗教家には善い宗教家と悪い宗教家がいる。
善い宗教家は、宗教原理に忠実であるが、
悪い宗教家は、自分勝手に宗教原理を拡張したり歪めたりして、
超能力者の正しくない考えを教え広めたり、
超能力者に因んだ商品を作ってそれを売って儲けたりする。
また、帝国主義国家では、政治家も宗教家である。
政治家は法律を宗教原理に則って超能力者の正しい思想が言葉として表現されたものとして捉えているので、
新しい超能力者が現われた際には、まだ新しい超能力者の思想が成文化していないので、政治家も宗教家も同じである。
だから、宗教家と同じように政治家の中にも宗教原理を忠実に守る善い政治家と宗教原理を守らない悪い政治家がいる。
悪い宗教家や政治家が現われるのは、宗教原理を反した者に課す罰則がないからである。
宗教原理の違反者には、その罪の大きさに応じた罰を与えねばならない。[細かいことは法律の専門家にお任せする。]

[3950] 宗教原理はあるべきかないべきか? h19.12.20
超能力が使えたことによる超能力者自身の価値は、宗教原理があろうがなかろうが変わらない。
宗教原理があったほうが超能力者の正しい思想が人類の文化の中に取り入れられ人類全体が幸福になるから、
やはり宗教原理はあったほうがいい。
宗教原理がないほうが人類は自由になるが、ただたんに自由になるだけでは幸福になれるとはかぎらない。
自由があって不幸になるよりも、自由がなくて幸福になるほうがいい。
人間が幸福であるためには、ある程度の自由の制限が必要だ。
もちろん、人類にある程度の自由を認めることもまた幸福であるために必要だ。
やはり、宗教原理はあったほうがいいのではないだろうか?

かといって、超能力者に正しい思想を考えさせるために、超能力者をつらい目にあわせるのは残酷だ。
その反対に、超能力者が正しいことを考えてこれ以上世の中を善くさせないために、超能力者が何も考えられないほどつらい目にあわせることもありえる。
人類の幸福にとっては宗教原理はあったほうがいいが[少なくともあって損はないが]、超能力者の幸福にとっては宗教原理はないほうがいい。
宗教原理があったところで、超能力者自身にとっては幸福になることがない。
超能力者個人の幸福を守るためには宗教原理はないほうがいい。
宗教原理がなくなれば、宗教も帝国主義国家もなくなる。
わざわざ超能力者が正しい思想を考えなくても、もっと思想の才能がある他の人間の思想家が正しい思想を考えてくれる。
思想が正しければ、人類は超能力者よりも人間の思想家(例、デカルト)のほうに従う。[現代が科学の時代なら、科学も宗教も変わらない。]
超能力者が思想家になりたければ、宗教原理の助けを借りずに、他の人間と同じように自分で勉強して思想の実力でなればいい。
こうしてみると、超能力者にとっても人類にとっても宗教原理はないほうがよく、超能力者はただ超能力の才能があった(またはある)ことだけで評価したほうがよい。
ただし、これまでに超能力者に正しい思想を考えさせるために、宗教家や政治家が超能力者をつらい目にあわせてきたのなら、宗教家や政治家はその責任をとるべきだ。

[3951] 【元ネタ】「ビタミンEがない。」 h19.12.20
今から約20年前私が九大医学部の学生だった頃、水上茂樹[みなかみしげき]教授から生化学を習ったが、講義中に水上教授は「ビタミンには、A、B、C、DとかPとかQとかXYZとかありますが、Eだけがない。」と話したことがあった。当時私は「ビタミンEってあるじゃないか。」と思った。他の学生も私と同じことを思っているようだった。[ビタミンEは、α-トコフェロールという物質だそうです。]
水上教授の「ビタミンEがない。」の言葉の意味は、EがEastのEだから、「東がない。」、つまり東の天皇の権威がないことだったのである。講義を聴いていた信者の学生には、たぶん意味が伝わっていたのだろう。私が医学部生になったので、私のほうが権威が増したために、天皇の権威がないところまで行ったのだ。

[3952] 男が女と結婚したいと思うとき h19.12.20
男にとって女の基準は自分の母親にある。
自分の母よりいい女と思ったとき、男はその女と結婚したいと思うのだ。

[3953] 女に対する男の見方 h19.12.20
女はうわべだけ楽しそうにしている。
女のもっと深いところにある気持ちがわからなければいけない。

[3954] 私の趣味 h19.12.20
私は身体がいい人よりも気持ちがいい人のほうがいい。
その人といっしょに暮らせば自分も楽しくなれそうだからだ。

[3955] 超能力のために(その1) h19.12.20
人間は、身体と気配(拡散性感覚波)の複合体だ。
肉眼で人の身体を見るよりも、その人から出ている気配を感じろ。
[私も私の父親も、私の母親の出す気配を母親の長所のひとつと認めている。私は物心着いた子供(大体5歳ぐらい)の頃から、母親の周りにある気配がいったい何なのか疑問を抱いていた。とくに薫的のおじいさんの家に行ったとき、母の気配が濃かった。]

[3956] 権威について h19.12.21
命令が正しければ正しいほど権威(命令力)が増し、命令がまちがえばまちがうほど権威が減る。
地動説が現れる以前、教会は夜空の星は天球に張り付いて動いていると考えていた。そんなところに、教会の教えに反する彗星が現われたために、教会の権威が失墜してしまったことは有名である。そのせいで、天空のことについては教会の権威はなくなってしまった。そして、人々が自由に宇宙を議論できる時代になった。今では、生物の進化についてもキリストを神だと見なしたことも教会の誤解であったことがわかっている。これらは教会が自分の権威を強めるためについた嘘だったのだ。[現代の科学においては、キリストがたったひとつの超能力が使えただけで全知全能の神だと考えることは一般化のしすぎであって、まちがいである。キリストはひとつの超能力(念光力)が使えただけの超能力者であって神ではないと考えるのが正しい。]他の宗教についても同様。
一般に、たとえ命令でなくても、ひとりの人間が考えた認識には他者が従うことがあるので、認識も命令の一種だと見なすことができる。
試験は、実在がよくわかっているかどうかを試すことであり、実在がよくわかっている人の命令(指示)に従えばまちがいがなくうまくいくので、試験の成績のいい人に強い命令力を与えるのである。だから、試験に受かれば権威がもらえることになる。
超能力者は、超能力の才能があったが、超能力を他人に教えることができないので、超能力者に権威(指導力)はない。
ただ、自分に実力はあっても他人に教えるのが下手な運動選手や学者はたくさんいるので、超能力者だけが例外というわけではない。
とにかく、超能力者に超能力が使えたことは事実である。
だから、その点を評価すればいい。

[3957] 天皇の権威について h19.12.21
神武天皇は、はじめから全知全能の神ではなく念光力が使えた超能力者として通っている。
外国では超能力者が全知全能の神とされたが、日本では超能力者がたんなる超能力者とされてきたために、外国の超能力者に比べて日本の超能力者(神武天皇)の権威は弱く平民的である。
そのため、外国では宗教原理すなわち超能力者の正しい思想に従うことが社会制度として通っているが、日本では超能力者の正しい思想に従うやり方はとられていない。その証拠に、神武天皇の思想は天皇制の他には何一つ残っていない。
神武天皇に念光力の才能があったのは事実だから、神武天皇には超能力者としてそれ相応の待遇が与えられたことはまちがいない。[残念なことに、神武天皇にどんな待遇が与えられたのか私は詳しくは知らない。]
神武天皇の子孫である天皇に強い権威があるのは、日本神道や日本政府が自分たちの権威を強めるために神武天皇の権威を強めようとして神武天皇の子孫である天皇を神武天皇に“見立てて”天皇の権威を強めたからであって、本来は、たとえ超能力者の子孫であっても超能力がなければ他の人間と同じと見なすべきなのだ。
権威は適切な命令を出す者に与えられるべきだから、適切な命令を出せない天皇に強い権威(命令力)を与えることはまちがっている。
同様に、適切な命令を出せない宗教家や政治家達に強い権威(命令力)を与えることもまちがっている。
権威は認識の正しい者に与えるべきであって、それ以外の者に与えるべきではない。
超能力者やその子孫に強い権威を与えたことは、過去の人類が犯した最大の誤りである。
だから、今後は、そんなまちがった風習をなくさねばならない。

[3958] 医者にお金がかかるわけ h19.12.21
人間は知覚欲が満足されなければ五感欲を満足しようとし、
さらに五感欲が満足されなければ性欲を満足しようとする。
医者は、医学では知覚欲の満足が得られないし、
性欲を満足するのも嫌だから、
それで五感欲を満足させるためにお金がかかるのである。

[3959] オカマについて h19.12.21
自分が美しくなりたいという自分の五感欲を満足するために、自分の身体に処置をして美しくなろうとする者がいる。
それもひとつの問題解決策ではある。
しかし、そもそもどうして自分が五感欲を満足させねばならなくなったかについてよく考えてもらいたい。
自分の知覚欲を満足させさえすれば、どうせ満足させたところで大して面白くもない五感欲をわざわざ満足しなくてもすむのだ。
オカマが自分の五感欲だけを満足して知覚欲を満足しようとしないなら、けっして楽しい人間ではない。
女でも、愛情のない五感欲だけの女なんか絶対に魅力ない。
[アニメの魔法少女は男とも女とも違う第3の性である。魔法少女アニメがオカマを生み出す原因になったのかもしれない。君がオカマになりそうな男を見つけたら、「魔法少女なんて本当にいたらみっともなくて生きていけないんだよ」と親切に教えてあげよう。]

[3960] ヤラセ h19.12.21
子供の私に女の子の格好なんかさせたなら、一生精神異常を来たすかもしれない。
だから、宗教家が私の母親に指示するときも、私にパンティストッキングを入学式の日にはかせるぐらいのことしかさせなかったのだ。
しかし、尾立君の事件は予定外の誤算だった。そもそも尾立君に何をやらせたかったのか、わからないが。
ともかく、この前私が宗教法禁止法を立てたから、ヤラセも今後は禁止だ。

[3961] 宗教法禁止法の下での宗教原理 h19.12.22
宗教法とは、超能力者に関して人間が決めた決まりで、超能力者や他の人間を動かすことである。
超能力者に正しい思想を考えさせるために、またはその反対に超能力者に正しい思想を考えさせないために、超能力者をつらい目に合わせるのは、宗教家や政治家達が超能力者について自分たちで勝手に決めた宗教法のひとつだといえる。
だから、宗教法禁止法があれば、たとえ宗教原理があっても、超能力者が不利になることはない。
私が作った宗教法禁止法は、宗教家や政治家たち一部の人間だけが得をし他の者が損をする宗教法を禁止する法であり、人類全体を幸福にする正しい考えだから、人類は宗教法禁止法に従うべきである。
宗教原理すなわち超能力者の正しい思想に人類が従うことは、人類と超能力者の妥当な関係だといえるから、これも認めるべきである。
そもそも、まず宗教原理がなければ宗教法禁止法も成り立たない。
したがって、人類は宗教原理と宗教法禁止法の両方とも認めるべきである。

[3962] 日本は宗教原理を守ってきたか!? h19.12.22
少し前までの日本にはヤクザがいたが、ヤクザは天皇制の下[もと]で生まれた組織であり、天皇制は神武天皇の思想でできた制度であるが、ヤクザは明らかに人類全体の幸福にとって邪魔者だから、日本は無制限に神武天皇の思想に従ってきたのであって、人類が超能力者の正しい思想だけに従うとする宗教原理に従っていないことになる。
私の商品化も、宗教家や政治家などの一部の人間だけが得をして他の者が損をし、国の経済を妨害するので、人類全体を幸福にすることではなく、そもそも私の思想に従うとはとうていいえないから、やはり宗教原理に従っていない。
このように、これまで日本は宗教原理に忠実に従ってこなかった。
こんな無制限に超能力者の思想に従うやり方では、超能力者と人類の妥当な関係とは言えないから、日本はこれまでの宗教のルーズなやり方を改め、宗教原理に忠実に従うべきである。

[3963] 宗教原理 h19.12.22
宗教原理によれば、超能力者の正しい思想に人類が従わなければならないことになる。
しかし、超能力者の思想を偏重して受け容れると、人類の文化が偏ってしまいうまくいかなくなるのではないかと危惧する人もいる。
しかし、真実に従えば得をするだけで損をすることはないから、超能力者の思想が十分に分析されてその正しい部分がわかって、その正しい部分だけに従えば人類が不利になることはありえない。
また、人類の文化が偏ってうまく行かなくなるほど超能力者の思想を偏重して取り入れなければいい。人類の文化がバランスよく発展できる程度に、超能力者の思想を取り入れればよいのである。
前に、“宗教原理があったところで超能力者が幸福になることはない”[3950]と述べたが、超能力者が人類全体を幸福にする思想を考えられるのなら、人類にとってその超能力者は生きていたほうがいいから、人類はその超能力者が幸福に生きて行けるように按配しなければならない。だから、宗教原理は超能力者を幸福にすることがあるので、宗教原理は超能力者にとってあったほうがいい。また、たとえ超能力者が正しい思想を考えられなくても、宗教原理によって超能力者の正しい思想だけに人類が従うのなら、その超能力者をわざわざ不利にして殺す必要はない。
宗教原理と宗教法禁止法があれば、人類が超能力者に命令する(超能力者を操作する)ことはできず、逆に超能力者が人類に命令することは正しいかぎり可能なので、超能力者にとって若干有利である。
もっとも、超能力者には思想の才能がとくにないから、宗教原理は超能力者と人類の妥当な関係ではないと考えることもできる。すると、宗教原理に従わず超能力者をその超能力の才能だけで評価することになるが、その評価する方法のひとつが宗教原理だと考えることもできる。
それに、たとえ宗教原理がなかったとしても、超能力者はめったにない超能力の才能があった人なのだから、せめて人間国宝か天然記念物並みに幸福に生きて行けるぐらいにはしなければならない。

[3964] 宗教原理 h19.12.22
外国において人類が超能力者の思想に従わなければならないとする宗教原理が発達したのは、超能力者を全知全能の神だと誤解していたからである。
しかし、外国でも、今では昔の名残で超能力者の思想の正しい部分を細々と取り入れているだけである。
日本では昔から超能力者を超能力者としてしか見ていない。だから、日本では最初から宗教原理がないとさえ言える。どんな馬鹿でも一生のうちにひとつぐらいはいいことを言うものであり、神武天皇の思想がひとつも残っていないのは日本がはじめから宗教原理をとっていない証拠だといえる。
外国と日本とで超能力者に対する見方が違うのは、外国は一神教でひとりの神に絶対権力があると考えるのに対して、日本は多神教でひとりの神に権力が集中しないことが背景にあったためだとも考えられる。
天皇制は、神武天皇の思想というよりも、神武天皇の超能力に対して人類(日本人)が与えた金メダルのようなものだと考えることができる。
戦前は政治家や宗教家が自分たちの権威を強めるために神武天皇を悪用して天皇制が強化されたが、戦後は宗教家や政治家があまりそういうことをしなくなったので[日本が太平洋戦争に負けたので戦後天皇家の権威は衰えた。そんなところへ折りよく超能力者である私が生まれてきたので、宗教家や政治家達は天皇家から私に乗り換えたのである。(『バス(BUS)に乗り遅れるな!』)]、今の天皇制は神武天皇の超能力に対するほぼ妥当な褒美だといえる。
しかし、それでも神武天皇にちょっと褒美をやりすぎた感じがあり、褒美を与えるにしてももっと違ったやり方のほうがよかった気がする。天皇制が神武天皇の超能力に対して日本人が与えた褒美だとすれば、天皇家を末永く幸福に生きて行けるようにするぐらいでよく、なにも天皇家を日本の政治の頂点に置かなくてもいいと思う。
私も神武天皇と同じ超能力者であり、私にも神武天皇と同等の資格があるから、私も何か褒美をもらわなければならない。私をかわいい女の子に変えたアニメなんか私が見てもあまりうれしくないから褒美とは言えない。[かわいい←かわ←川野]

[3965] 私に対する褒美について h19.12.22
私は自分の知覚欲を満足して生きたいので、山奥の静かな山荘とそこで思索しながら暮らすための生活物資と資金を人類に対して要求する。

[3966] 宗教とは何か? h19.12.22
宗教家とは、超能力者を絶大な権力者(命令力のある者)とし、その超能力者に従うことによって自分の権威を強める者のことである。
宗教家の率いる組織が宗教である。
帝国主義国家においては、政治家も宗教家と同じである。
超能力者を絶大な権力者とすることは、宗教家の自分勝手な取り決めであり、宗教法と見なされるので、私の宗教法禁止法によって以後禁止する。
宗教家は私の命令に従わねばならないので、私の宗教法禁止法に従って宗教家をやめねばならない。

[3967] 宗教原理について h19.12.22
昔の宗教原理は、超能力者の命令が正しいか正しくないかを問わず、超能力者の命令に人類が絶対的に従うことであった。
しかし、近代以降、宗教の権威が衰えたので、超能力者の正しい命令(思想)だけに従う修正された宗教原理になった。
しかし、それでも、なんか違和感が漂っている。
どうして人類はそんなにしてまで超能力者に従わなければならないのか!?
人類は本音では超能力者に従いたくはなく、宗教家や政治家達によって無理やり従わされていただけなのだ。
だから、そもそも宗教原理があることがまちがっているのであり、超能力者はその超能力の才能で純粋に評価されるべきであり、超能力者に対して人類は何らかの形で褒美を与えるだけでよい。
超能力者はこれまで人間にできないと考えられていたことが人間にできることを人類に対して示した点において偉大なのである。

[3968] どうしてキリストは罰せられたか? h19.12.22
キリストはクーデターを企てたので死刑になった。
それは、キリストがいくら超能力者であっても人間にほかならないので人間と同じ刑罰が与えられたからである。
キリストに絶大な権威が与えられたのは、キリストが死んでしばらく経ってからのことである。
それまでは、なんら人間と変わらなかったのだ。

[3969] 超能力者としてのキリスト h19.12.22
キリストと聞いて最初に思いつくのは思想家としてのキリストであって超能力者としてのキリストではない。
それは、日本の高校の倫理社会でキリストが愛の思想を説いた世界の4大思想家のひとりとして教えられているからである。
キリストが超能力の偉人ではなく思想の偉人として有名なのは、キリストの思想は誰にでも簡単に真似ができ、思想なら宣教師がみんなの前で繰り返し公演でき小道具も手間も要らないので宣教師を送り込むだけでキリストの思想を世界中に広めることができ、しかもある程度人々が生活するうえでためになるからである。
超能力だったら、キリストにしかできないし、しかもキリストの生涯のうちできたのはせいぜい1〜2回であって、とうていみんなの前で繰り返し披露できる代物ではないし、たとえ見せ物になったとしても物珍しいだけで、それがじかに人々の生活にとって役に立つものではない。
そういうわけで、キリスト教の権威を強めるためには、超能力者としてのキリストよりも思想家としてのキリストのほうが便利だったので、超能力者としてのキリストよりも思想家としてのキリストのほうが有名なのである。
馬鹿はみんながキリストのことを偉いと言っているだけでキリストは偉いと思うが、
考え深い人はキリストの思想なんて大したことがないのにみんなから偉いといわれていることに納得行かず、自分であれこれ考えているうちにそのうちキリストの“奇跡”すなわち超能力にたどり着く。
さらに考え深い人は、その後も自分で思索をつづけて、宗教家や政治家達が超能力者に絶大な権威を与えて自分たちの権威を強めることに利用していることにまで考え至るかもしれない。
鋭い人は、宗教家や政治家たちが超能力者の超能力を確認した後、超能力者の身体に処置をして超能力を消し、その後も超能力者の人生にあれこれ嫌なチョッカイをさんざん出して超能力者の人生を台無しにし、超能力者が死んだ後では超能力者に関して嘘にならない程度に超能力者の美化をしてその人生を書物にしたため、後世の宗教家や政治家達が超能力者の作られたイメージを利用して超能力者を神聖化し自分たちが超能力者に従うフリをして自分たちの権威を強め自分たちの私服を肥やしていることまで突き止めるかもしれない。
だから、考え深い人にとっては、キリストが本当は超能力で偉人なのだとわかっている。
私がキリストを超能力者だと知ったのは、子供の頃にテレビや本で見たキリストの絵でキリストの頭に天使の輪がかかっているのを見たことがあるからだが、私はキリスト教徒ではないのでそれ以上のことは知らない。
まあ、きょうびは、SF映画や漫画などで超能力が日常茶飯事だから、キリストが超能力者であることをみんなが抵抗なくすんなりと受け容れられる。漫画には正義の超能力者もたくさんいるから、超能力者というだけで周りの人から危険視されることもないだろう。
それに比べて、宗教は、超能力者を絶大な権威者としか見ようとしない数千年前と同じ古臭い物の見方をつづけているつまらない会にすぎない。
これからは、超能力者を超能力者として受け容れる科学の時代だ。

[3970] 権威制から褒美制へ h19.12.23
超能力者に強い権威(命令力)を与えるのは宗教家や政治家達が自分の権威を強めるためにするのであって、たいてい超能力者が死んでから後のことだから、超能力者の得にはならない。
超能力者の才能を高く評価して、超能力者の得になることをするのだったら、超能力者には権威よりも褒美を与えてやればいい。
ただ、超能力者の才能が発揮されるのは一生のうち一回ぐらいしかないから、学者や運動選手と違って、超能力の才能では食べていけない。
だから、超能力者の場合の褒美は、国や世界が超能力者の生活を保障することが含まれる。
でも、超能力者はめったに現われない(世界中で千年に一人程度)から、国や世界がそれほど負担になることはない。[将来、超能力者が大量に現われるようになれば、別だが。]超能力者の認定は、これまでと同じように政府や国連の専門家が行うことにする。[認定の際に運よく証拠ビデオが撮れたら、超能力者が超能力を使っているシーンをテレビで見られるかもしれない。]
これまでの権威制による国や世界の経済損失に比べれば、私の提案する褒美制のほうがはるかに国や世界の損失が少なくて済むのは明白である。
権威制は宗教家や政治家など一部の人間だけが得をしてその他大勢の人間が損をする制度である。
それに比べれば、褒美制は超能力者しか得をしないが、他の人間に掛かる負担は極めて小さい(超能力者が生きている時代は、一人一月当たり0.0003円程度、超能力者がいない時代は0円)。
超能力者に対する褒美制は、あくまでもノーベル賞や金メダルの代わりであるから、超能力者にそう贅沢をさせなくてもかまわない。[もちろん、超能力者の子孫に超能力がなければ、褒美制の対象にはならない。]超能力者が知覚欲を満足させながら生きて行くのに足る程度、あるいは超能力の訓練をするのに足る程度の暮らしができる権利を与えてやればいい。
世界には超能力の才能に魅力を感じ超能力者の生活支援に出資したい人々も大勢いるから、わざわざ国や世界が特別予算を組まなくても、そんな人からの募金だけでも十分費用はまかなえるはずだ。
もちろん、褒美制になれば権威制の下[もと]で発達した宗教団体や帝国主義国家はこの世から消えてなくなる。世の中が自由で明るくなる。これまで宗教家や政治家達によって隠されてきた超能力に関する情報も、広く一般に公開される。[ただし、超能力者のプライバシーを損ねないかぎりで。もちろん、超能力者が自分からテレビに出て有名になってお金を稼ぐのはかまわない。]
こんな条件で、みなさん、いかがなもんでっしゃろ?

[3971] とり4題 h19.12.23
あやとり…私が小学4〜5年生の頃、若草町の県営住宅の児童公園で他の子供が私に「ちょっとあやとり手伝ってくれない?」と声を掛けてあやとりを手伝わされたことがある。綾を取るとは、文芸の技巧を加えることだから、私の体験を素[もと]にしていろんな作品を作ってよいことを私に承認させたのだろう。
とりもち…これも同じ児童公園で、私が小学4〜5年生頃、私より1才年上の安養寺一郎[あんようじいちろう]がセミを採るために棒に鳥もちをつけているのを見たことがある。取り持ちとは、双方の間を取り持つことだから、超能力者であった私と宗教家や政治家たちとの間を安養寺一郎や他の私の周りにいる人間が取り持ってもよいことを私に承認させたのだろう。
陣取り…私が小学3〜4年生頃、陣取りといって、石ころを指で弾[はじ]いて自分の陣地に入ると石で囲った範囲を自分の陣地にできる遊びがあった。校庭や児童公園などでよく遊んだものだ。私が陣を取るとは、私が日本(や世界)を支配する、つまり私に従う者を増やすと言う意味だったのだろう。ただし、当時の私はそんなことなどつゆ知らず純粋な陣取り遊びに熱狂していたし、私は今でも日本(や世界)を支配したいなどと思わないから、宗教が勝手に日本(や世界)を私に従わせていたのだろう。テレ東系アニメ『神秘の世界エルハザード』に陣内[じんない]君といういけすかないキャラクターが登場するが、その髪型から天皇であると考えられるが、陣内だから陣地がないつまり天皇に従う者は誰もいないという意味だったのだろう。すると、『天地無用!』の阿重霞[あえか]の顔はどう見ても私ではないから、やはり天皇だったのだろう。その後、指で石を弾くやり方から釘[くぎ]を地面に立てるやり方に変わったが、あれは私が取った陣地を強く打ち込んで固定するすなわちずっとその状態を維持する意味だったのだろう。
おとりこみちゅうすいませんが…豊岡に住んでいたとき、テレビのコマーシャルでサラリーマンが「おとりこみちゅうすいませんが」と言うのを見たことがある。取り込むとは、他人の物を取って自分の物にすることだから、当時私にあると考えられていた私の絶大な権威(命令力)を宗教家や政治家たちのものにすることを私に承認させるつもりだったのだろう。  

[3972] 権威制反対 h19.12.23
いくら政治家が出世したからといって、自分に権威があると思って、なんでもかんでも政治家の好き勝手に国民に命令されたら国民が困る。
政治家が人並み以上に努力したことはよくわかっているから、政治家の待遇のよさはある程度考慮するので、政治家の不当な命令で他人の生活をかき乱すのはやめて欲しい。
政治家は国民を幸福にするのが仕事だから、その本分を忘れて自分の世界を作ることに狂奔してはいけない。
政治家には国民を幸福にするための適切な命令を出す能力があればよく、その妨げになる権威はなくなったほうがいい。
政治家は頭がいいから、その頭のよさをぜひ国民の幸福のために活かして欲しい。
宗教家も“影の政治家”だから、出世するには政治家同様それなりの努力が要ったことと思うが、超能力者に絶大な権威がなくなった後では、もはや宗教はやっていけないから、転職を考えたほうがいい。

[3973] 仏教は他人のためならず h19.12.23
私は中学3年まで日蓮宗に入っていたが、毎週日曜の朝に仏壇の前でちょっとお経を唱えて鉦[かね]を3回叩くだけだった。
仏教では、人間のすべての感情を否定するので、自分の心に目を向けられず、自分の心についての理解を妨げる。
それで、私は子供の頃から自分の心に対して考えず無知であったため、性欲や怒りの感情が悪い感情であることを知らなかったので、中学3年のときオナニーに耽[ふけ]ったあげく自分の怒りの感情に流されて分裂病にかかってしまった。
仏教に入っていなければ、自分の心に対して目を向けることができ、人間が知覚欲を肯定し、五感欲や性欲や怒りや落ち込みの感情を否定して生きて行けばよいことにもっとはやく気が付いたはずだ。
私は親に仏教に入れられたせいで不幸にされた。
私はキリスト教のことはよく知らないが、キリスト教でも愛情の大切さを説くだけで、性欲を禁止するとはっきり言っていないから、たぶんオナニーをやめさせる役には立たなかっただろう。
日本神道の長所は、他の宗教のような余計な思想がないことである。ただ、天皇家の思想に合わせなければならない義務があるみたいなので、これも多かれ少なかれ人生の妨げになるだろう。
とにかく、宗教はロクなもんじゃない。宗教の教えはみなまちがっている。宗教に入って権威を強めて幸福になるぶんよりも、教えに従って人生をまちがえて不幸になるぶんが多いから、最初から入らないほうがいい。

[3974] 高邁[こうまい]の心 h19.12.23
野田又夫の『デカルト』(岩波新書)には、晩年のデカルトが“高邁の心”を説いたと述べている。[キリストの愛に対抗して、デカルトは高邁の心を説いたのだろう。]
私は、デカルトが“知覚欲”(知覚を働かせる喜び)で生きた人なのだと思う。
日本神道の権威のせいで、“知覚欲”を“高邁の心”となんだかよくわからない言い方に変えられたのだろう(冗談)。
[私が説く“知覚欲”とは、勉強や仕事をする喜びでも、試験でいい点数をとる喜びでもなく、ただたんに知覚が働くことに伴う快感である。だから、テレビを見るときでもゲームをするときでもプラモデルを作るときでも、知覚を働かせながらするのであれば、すべて知覚欲の満足になる。知覚が働き知覚欲を満足させる者にとって自分は他人を見る存在だから、高邁の心すなわちプライド(自尊心)は知覚欲から生まれてくる感情なので、知覚欲がありさえすればよいのである。]

[3975] 男が女と結婚する理由 h19.12.23
男が女と結婚するのは、結婚したほうが煩わしい家事に時間をとられず自分の知覚欲がよりいっそう満足されるからである。
とくに電化製品のなかった昔は、結婚しないかぎり男の生活は成り立たなかったと考えられる。
でも、今は便利な電化製品がたくさんあるから、男が女と結婚するメリットは昔に比べてだいぶ減っている。
とにかく、結婚が男の知覚欲の満足にとって有益であることはわかる。
しかし、子供を作ることが、女の愛情を満足させることにはなっても、男の知覚欲を満足させることにとって一体なんの役に立つのか?!
子供ができたらたいてい子供に邪魔されてかえって知覚欲の妨げになるはずだ。
だから、子供を作るのはひとえに女の愛情を満足させるためなので、男の知覚欲の満足の邪魔にならないように、子供の面倒(育児から道徳教育まで)はすべて女が見なければならない。[女だって子供の頃は知覚欲を満足させて生きていたから、男の子が知覚欲で生きているのがわかるだろう。]

[3976] 人間にとっては知覚欲が一番大事な感情である。 h19.12.23
人間が幸福に生きて行くためには、知覚欲を満足するしかない。
知覚欲以外の感情を満足しようとすると、けっきょく不幸になる。
なぜなら、知覚欲を肯定すると知覚が働く。知覚が働くと実在が見える。実在が見えると実在に適応できて他のいろんな感情も満足されて幸福になるからである。
反対に、知覚欲を否定すると知覚が働かない。知覚が働かないと実在が見えない。実在が見えないと実在に適応できず他の感情も満足できないので幸福になれない。
『うそつきは泥棒の始まり』といわれるように、知覚欲以外の感情を満足するために嘘をつくことは、知覚欲を否定することになるので、自分で自分の幸福を否定することだから、縁起が悪い。
他人の感情を満足するために自分が嘘をつくことがあるが、いくら他人が幸福になっても肝心の自分が不幸になってしまったら、もともこもない。
つまり、人間は嘘をついてはならず、正直に知覚欲を満足しながら生きて行かねばならない。

[3977] 証拠 h19.12.23
私は以前「私に因んで作ったアニメの原版(マスターテープ)及びすべての制作資料を焼け」と命令した。
はたしてこの命令は実行されたのであろうか?
いくら他人が「私の命令を実行した。」「焼き捨てた。」と口先で言っても、
私がその証拠を自分の眼で確認しないかぎり、この命令が実行されたとは認めない。

[3978] どうして私に因んだアニメをなくさねばならないか? h19.12.24
私に因んだアニメ(一般には、番組、すべての商品)が世界に残っているかぎり、世界には超能力者に関する権威制が残っていることになる。
世界から権威制をなくすためには、人類がこれまで超能力者に関する権威制でやってきたことのすべてを世界からなくさなければならない。
例えば、キリスト教の教会や仏教の寺院や日本神道の神社をすべて破壊してなくさねばならない。いくら建物がきれいでも、汚い権威制で作られた物はなくなったほうがいい。

[3979] 超能力者の褒美制について h19.12.24
もし、宗教家や政治家達が超能力者に対してなにもチョッカイを出していなければ(例えば、超能力者の身体に処置をして超能力を消したり、超能力者の周りにいる人間を使って超能力者にいろいろチョッカイを出すことがこれまでに一度もなければ)、オリンピック選手に金メダルを与えるように超能力者に超能力者認定証を出すのは必要だとしても、超能力者が超能力について本を出したりテレビに出演したりしてお金を稼ぐのは認めることにすれば、超能力を芸にして食べていけないのは超能力の性質上仕方がないことなので、なにも超能力者の生活費まで国や世界が出さなくてもよい。
しかし、私の例のように、宗教家や政治家達が超能力者に対してこれまでいろいろとチョッカイを出してきたなら、その責任を取って、今後の私の生活を保障しなければならない。[これまでに現われた超能力者に対しても生活を保障してやりたいところだが、彼らはすでに死んでしまっているので、どうしようもない。]もちろん、私に超能力があったことは事実なので、私の超能力者認定証も発行しなければならない。

[3980] どうしてキリストは罰せられたか? (改) h19.12.24
キリストはクーデターを企てたので死刑になった。
それは、オウム真理教の麻原彰晃なんかと同じで、キリストがいくら宗教団体の仲間内で超能力者であるために人間よりも上の者だとされていても、宗教団体の外では人間と同じだったので、人間と同じ刑罰が与えられたからである。
キリストに絶大な権威が与えられたのは、キリストが死んでしばらく経ってからのことであり、『権威制』を人間の誰かが考え付いた後である。『権威制』が始まる前は、超能力者であるキリストも人間も法的には同じ扱いをされていたのである。
『権威制』とは、超能力が使えた者に(超能力者が死んだ後で)絶大な権威を与え、宗教家や政治家が超能力者に従えば権威(命令力)が強まるという制度である。[『権威制』は“超能力者”や“従う”の解釈によって、いろんなやり方がある。外国では真面目に超能力者の思想に従うことになっているが、日本では天皇の場合には超能力者を超能力者の子孫と解釈して超能力者の子孫の思想に従ったり、私の場合には超能力者が子供の頃に自分と他人の区別をつけない思想であったことを利用して超能力者本人の希望をかなえず超能力者と面識があった者の希望だけをかなえたり、超能力者に駄洒落を言う先生を付けて超能力者の名前を商標化したり、私が小さいころからアニメが好きで子供の頃に女の子の真似をしたからといって私を女の子に変えたアニメを作ったり、私の家に人形が飾っていたからと言ってフィギュアを作ったりしている。]
神武天皇も釈迦も権威制ができるまではそれほど強い権威はなかった。日本の天皇が何代目かまで伝記がはっきりしていないのは、それまでの天皇には強い権威がなかったからである。
『権威制』が生まれたのは、新約聖書ができたころで、だいたい西暦200年ごろのことだろう。すぐに世界中に広まったので、全世界的にその頃から『権威制』が始まったのである。私は『権威制』ができた後に生まれたので、私の場合は生きているときから絶大な権威があったのである。
昔は、権威制で社会発展が促されたけれども、教育が普及し民主制になってからはかえって邪魔になった。宗教家や政治家たちが私服を肥やすために好き勝手な命令を出すのも迷惑だし、超能力者の偏った思想に従わされるのも迷惑だ。
今日的に見れば、超能力者に関する権威制も、それ以外の権威制もともに、健全な社会発展の妨げになる悪い制度だと考えられる。そもそも人間が権威欲で生きていることが健全ではない。
『権威制』は、すでに十分その勤めを果たし、今やお払い箱の制度なのだ。
それに、権威制のもとで、超能力者である私が権威制を廃止にすると言ったら、宗教家や政治家達は権威制を廃止にしなければ権威が強まらないのでけっきょく権威が強まらないから、もはや権威制はおしまいだ。
たとえ権威がなくても、この世には“真実の力”がある。私の意見が正当であれば、“真実の力”でそれは通る。

[3981] 中国も例外ではない。 h19.12.24
日本の仏教は中国を経由して伝わったから、
中国にも仏教はあるはずだ。
だから、中国も『権威制』に従って宗教をやっていた国だ。
でも、中国は帝国主義国家ではないから、一部の人間だけがやっていただけだ。
中国の王様は、たとえ自分の権威が強くなっても、超能力者に従うのが嫌だったのだろう。今の自分の権力だけで十分だと考えたためかもしれない。

[3982] 権威の強さ h19.12.24
権威はお金と違って眼で見えず数値化されていないので、
実際に命令を出してみてそれに相手が従うかどうかによって、自分の権威の強さを決めるしかない。
昭和天皇も自分の権威の強さがわからなかったので、戦争でそれを測りたかったのだろう。
権威すなわち命令力があるのは正しい命令ができる人だけにして、正しい命令ができる人(正しく認識できる人)に正しい命令ができない人(正しく認識できない人)が従うようにして、権威制をやめたほうが、幸福な世界になるはずだ。

[3983] アイドル h19.12.24
見られ屋はうれしいだろうが、
見られ屋でなければむしろ嫌だ。

[3984] 中国の8仙人 h19.12.25
私は8仙人の全員が超能力者であったとは思っていないが、その中の数人は本物の超能力者だったと思っている。
中国は広いし人口が多い国だから、中国4千年の歴史において数人の超能力者が現われても不思議ではない。[日本では、中国はなんでもある国としてみんなに知られている。]
ところが、中国は超能力者の権威制を採っていない国だから、超能力者が現われても超能力者に絶大な権威を与えたりせずに、超能力者を超能力者としてありのままに見たはずだ。
そもそも権威制は宗教の権威を強めるために考案された制度だから、中国でも宗教を興[おこ]したい者がいたなら、超能力者の誰かに絶大な権威を与えて宗教を始めたはずだ。
しかし、超能力者の権威制に反対している国だから、国内では宗教を始めにくかったのだろう。
したがって、中国の8仙人は超能力者のままであり、中国における8仙人の待遇は、日本における超能力者の権威制が始まる前の初代神武天皇の待遇とほぼ同じであったと考えられる。[今後の私に対する待遇の参考にされたい。]
しかし、現に今でも8仙人として伝えられているぐらいだから、当時も超能力者に対してそこそこの評価はあったと考えられる。少なくとも、李白や杜甫ぐらいには有名だったと思われる。8仙人の超能力についてもかなり詳細に伝わっているから、中国では昔から超能力に関する情報公開も認められているのだ。それで、気功とか太極拳とか、超能力者のモノマネみたいなことをやっているのだろう。超能力者の超能力を消すような野蛮なこともしなかったにちがいない。
将来、私も、8仙人の仲間に加えられるのだろうか。私の超能力と人生の概略と似顔絵ぐらいは未来永劫に残るのだろうか。少し嫌な気分だが、超能力の実在を証明するため、将来の超能力科学へデータを提供するためになら、伝記と似顔絵ぐらいは残してもかまわない。

[3985] 超能力は大事かそうでないか? h19.12.25
私の母親が私が小学1〜2年生のとき一回だけ昔鴨部[かもべ]に住んでいたとき超常現象があったことを話しただけで、それ以後私が2年前に問いただしても超能力のことを一言も話そうとしないのは、
私の親にとっては、この世に超能力があることなんかどうでもいいと思っているからにちがいない。
たしかに、私の親の日常生活にとっては、超能力があることなんかどうでもいいと言える。
しかし、仮に、将来ある理論物理学者がひとつの原理を思いつき、その原理から論理的に考えてゆくと、人間に超能力があることが導かれたとする。
そのとき、その物理学者が超能力が実在することを知らないと、その物理学者はそんな結論が出たから自分の原理がまちがっていると考えてその理論を破棄するだろう。
反対に、その物理学者が超能力が実在することを知っていたら、自分の結論が正しいと考えて、自分の理論を正しいと信じて学会で勇[いさ]んで発表するだろう。
だから、いつまでも超能力が実在することを隠して公開しないままだと、真実がまちがいだと考えられ、反対にまちがいが真実だと考えられる心配がある。
真実を人類に隠しておくことは、物理学の発展において大きな障害になるに違いない。
かつて、宗教的な理由のために地球が動いていることがタブーとされたために近代科学の誕生が大きく遅れをとったように、今後超能力が実在することをタブーとしたために人類の文明の発達が大きく遅れをとることは大いにありえることである。
人類が馬鹿馬鹿しい歴史を繰り返さないためにも、ここらで一発超能力の公開に踏み切らねばならない。

[3986] 権威制の弊害 h19.12.25
権威制の下[もと]では、超能力者には(死んだ後でも)絶大な権威があり、超能力者に従う宗教家や政治家たちが強い権威を得ることができる。[明治維新に当たって、日本は実力としての国力が弱いから、それを超能力者に関する権威制で無理に補おうとしたのだろう。]
さらに、超能力者に従う宗教家や政治家たちに従う者も強い権威を得ることができる。
そうやって権威を強めた者が自分たちが出世したいからといって、正しい命令ができる能力とは無関係に国の中枢を占めると、無能な連中が国の中枢を占めることになり、実際には国家体制が脆弱になり国力が低下する。つまり、国の脳みそがバカになるから国全体がダメになる。
権威だけが強い無能な者に権威者の権威者による権威者のための国を作られては、他の有能な者が迷惑する。
実力よりも権威を尊重してはならない。実力があれば権威は要らない。
やはり、的確な判断のできる有能な者が国の重要なポスト(役職)に就けるようにしなければならない。そのほうが日本の国家体制が強化され日本が発展できる。

[3987] 宗教法禁止法の修正 h19.12.25
人間が超能力者に関する取り決めを一切やれないのは、人間にとっても超能力者にとってもともに不便である。
これでは、超能力者だけが人間社会の外にいるようなものだ。
超能力者と人間は同じ社会の中で生きて行かねばならないので、多かれ少なかれ超能力者に関する取り決めは必要である。
したがって、人間が超能力者に関する“正しい取り決め”(合理性正当性のある取り決め)をするのは認めることにする。むしろ、積極的にやってもらいたい。反対に、合理的精神に反するメチャクチャな取り決めをしてはならない。例えば、超能力者に関する権威制はやってはならない。超能力者の超能力を消すことも正当な理由がないのでやってはならない。

[3988] 人間の身体 h19.12.25
私の父も母もそうだが、仏教系の人は、心の世界に逃げ込んで人間の身体を無視しようとする傾向がある。[この気質は、超能力と非常に深い関係があると考えられる。私は超能力が発達しやすい家庭環境で育ったために、念動力が使えたのである。]
人間の身体を無視しようとするから、いつまでたっても人間の身体を実在的に見ることができないのだ。
人間の身体を実在的に見るならかまわないし、むしろいい年した大人ならできねばならない。
人間の身体を五感で見て知覚に概念を得てさらにそれらの概念を洗練されたものにし、逆にその洗練された概念で人間の身体を見ることによって、人体に関する知識が豊富になるのである。

[3989] どうして超能力者の超能力を消すのか? h19.12.25
超能力者の権威制が世界的に通用するのは、超能力の仕組みが科学的にわかっていないからである。
だから、超能力者の権威制を維持するためには超能力の仕組みがわかってはいけないから、超能力を科学的に研究させないために、これまで宗教家や政治家たちが超能力者の超能力を消してきたのである。
したがって、超能力者の権威制がなくなれば、もはや超能力の仕組みがわかってもかまわないから、超能力者の超能力を消す必要はないのである。

[3990] 神武天皇か私か? h19.12.25
私が医学部生の頃は私にかなり権威があったので、私が船に酔いやすいと言う理由で、3本の瀬戸内海大橋が建ち、福岡⇔高知空港間にジェット便が飛んだ。
超能力者の権威制にはどの超能力者に従わねばならないかについての規定がないから、当時日本の宗教家や政治家たちが自分に得になると考えられる私のほうに従ったからである。
世界中に宗教している者が大勢いるのは、宗教することによって自分の権威が強まるからである。超能力者の権威制には、超能力者には絶大な権威が与えられるとあるだけで超能力者の権威の強さはみな同じとされているから、みんな自分にとって得になると考える超能力者に従っているのである。だから、例えば、日本でもキリストや仏陀の思想が自分の得になると考えれば、キリスト教や仏教をやってよいのである。
神武天皇には自分の思想がなく、外国における超能力者の権威制は超能力者の思想に従うことだから、外国では神武天皇に関する宗教がやれず、それで外国には神武天皇教がないのである。
日本における超能力者の権威制は、神武天皇については神武天皇の子孫の思想に従うこととされているが、超能力者本人の思想に従うことではないから、神武天皇教では宗教家や政治家たちがあまり強い権威を得ることができない。一般に、日本の宗教は外国に比べて権威制の規定がルーズだから、そのぶん外国に比べて宗教家や政治家たちが超能力者から強い権威が得られず、宗教や政治に力がないのである。
権威制には問題が多いが、それでも日本に実力が足りないと考える者は、権威制を採りつづけるだろう。
しかし、権威制を取るかぎり、人類は超能力者の思想に従わねばならない。これでは人類が自由に生きることができない。
権威制を取るかぎり、実力のない無能な者が宗教に入って強い権威を得て社会を支配することができる。宗教の力で出世するのはどう見ても邪道である。
このように、権威制は社会を腐敗させるくだらない制度である。
権威制がなくなれば日本は弱い国になるかもしれないが、だからといっていつまでもそんな卑怯な手に頼っていてはいけない。今後の日本は実力を身につけねばならない。
日本が超能力者である神武天皇や私などの傘に入って安泰でいられるためには、もっと最初からきちんと超能力者の命令に従う国家体制にしておかねばならなかった。
しかし、超能力者の権威制を採る国(超能力者の権威制を妥当と考える国)の間では権威制で顔が利いても(命令できても)、超能力者の権威制を採る国が超能力者の権威制を採らない国(超能力者の権威制を妥当と考えない国)に対しては顔が利かず(命令できず)、年々権威制を採らない国や人々が増えているから、どうせ権威制は遅かれ早かれ滅びる運命にある。
実際に権威制の効果は科学力や経済力や軍事力などに押されて年々減りつつあるし、誰が考えても権威制は正当な善い制度ではないから、権威制が滅びるのも当然のことである。
そもそも権威制は、その昔、実力のない国が無理に国力をつけるために考え出した苦肉の策であった。しかし、今では、超能力者の権威制で得られる権力よりも、科学や経済や軍事で得られる権力のほうがはるかに強いから、超能力者の権威制の存在意義が失われつつある。つまり、無能な国や人の間では宗教的な権威が通用するが、有能な国や人の間では才能のほうが権威よりも物を言うので宗教的な権威はあまり通用しない。将来においては、ますます才能が物を言うようになるから、宗教上の権威はなくなってしまうだろう。[反対に、戦争やエネルギー危機などで人類が再び無能になれば、宗教的権威がはびこる世界に戻るかもしれない。]
それに、超能力者の権威制自体妥当ではない。なぜなら、権威すなわち命令力は正しい命令のできる者に与えるべきであり、超能力者が正しい命令ができるとは限らないから、超能力者に絶大な権威を与えることがまちがっているからである。[超能力者から権威だけもらって超能力者の代理に命令させればいいと思うかもしれないが、それでは超能力者の権威制に反することになるので、そんなやり方は許されない。だから、たとえ国がメチャクチャ不利になっても、権威制をとるかぎり、超能力者の命令には従わねばならないのである。日本は第2次大戦までは権威制で痛い目に合っていなかったから権威制を支持していたが、戦争に負けたので権威制はもうコリゴリと思った。そんなところに私が現れたから権威制が復活しかけたが、やはり従っても得にはならなかった。]
現代は権威に頼る者よりも実力で真面目に生きて行く者が有利な時代である。超能力者の権威制などもはや過去の遺物にすぎない。

[3991] ディスカバリーチャンネル h19.12.25
CS(衛星放送)のディスカバリーチャンネルには、青や緑の服を着た外人がよく登場するが[青は、BLUE←ブルー←ぶ←のぶお(私の名前)、緑はグリーン←グ←ノブ←のぶお(私の名前)]、彼らは私に従う者である。私に従っていることが他人にすぐにわかるように、青や緑の物を身に付けているのだ。有名人でもないのに、テレビに出られるのはそのためである。[私が小学5年生のとき、学校のテレビ放送で私が浅野耕太君の応援演説をしたことがある。]
ディスカバリーチャンネルは、番組が全体的に私ネタ(私が経験したことまたは私の知人が私の眼の前でやったり言ったりしたこと)だし、映像やテロップなどにも私ネタが随所に見受けられる。[ディスカバーチャンネル←カバー←かわ←かわの(私の苗字)]

[3992] 近畿NEOMAXはどうして拡張されたか? h19.12.25
私は兵庫県養父氏にある近畿NEOMAXに今年9月30日まで約5年間派遣社員として働いていた。
私が勤めて4年目頃から工場の拡張工事に入り、私が解雇される1ト月前に新しい工場が完成した。[私が自分が宗教上の神である(つまり、私が以前超能力者であった)ことに気付いたのは勤めて約3年目頃である。]
私が勤め始めた頃には第1〜第3工場までしかなかったが、拡張された後では第1〜第5工場になった。工場の面積が約2倍ぐらいになった。
私が勤めていた派遣会社の新日本にも、私が勤めて4年目頃から“労働能力の高い人”が派遣されて来るようになった。
これはなぜだろうか?
雇用関係の上では、私が新日本や近畿NEOMAXに雇われて従う者だが、
宗教関係の上では、新日本や近畿NEOMAXが私に従うと見なされるので、
権威制によって、新日本や近畿NEOMAXには権威(命令力)が発生し、
いい人材を得たり大きな工場を建てたりすることができたのである。[私は出勤日にはできるだけ休まずに仕事に行くことを心がけただけで、とくにいい労働者がいて欲しいとか工場が広くなればいいとか思ったことはない。]
しかし、私が解雇された後では、もはや新日本も近畿NEOMAXも宗教的に私に従うとは見なされないから、新日本にも近畿NEOMAXにも超能力者の権威制によって私から得た権威はなく、今後は私から得た権威を使っていい人材を得たり工場で作った製品を買わせたりすることはできない。

[3993] 宗教上の権威はどこまで通用するか? h19.12.25
宗教上の権威を認めている人とくに私に従う者の間では、私の命令(思想や習慣などを含む)によく従っている(真似る)者ほど権威(命令力)が増す。例えば、私に従うつもりで青い服を着ていれば、他の私に従っている者が協力してくれる。
宗教上の権威を認めていない人や、たとえ宗教上の権威を認めていても私以外の超能力者に従って私に従っていない人の間では、私に権威はなく、私の命令(思想や習慣など)に従う必要はない。[ただし、宗教上の権威を認めていない人でも、宗教上の権威を認めている人と何らかの人間関係がある場合には、超能力者の命令を聞かねばならないこともある。]
また、たとえ宗教上の権威を認めていて私に従っていても、私の命令の内容によっては従わなくてもいい。とくに命令の内容が犯罪に当たる場合には、従わないほうがいい。
宗教上の権威を認めている人は今後すぐにはなくならないだろうから、もうしばらくは宗教の権威制が実際には有効だろう。
それまでは、宗教上の権威を認めている人とくに私に従う者の間では、私の権威が通用するのだ。

[3994] 誰でも宗教家になれるか? h19.12.25
宗教家の下に付くのはいいが、自分が独立して宗教家をやろうとすると他の宗教家から言いがかりをつけられるかもしれない。
だから、自分が宗教家になるためには、どこかの宗教家がやっている宗教に入って宗教家の下に付いて宗教界での出世を狙って努力するしかない。
ただ、私の宗教に関しては、誰でも私の思想をホームページで見れるので、いわば私が超能力者兼宗教家であって、誰でも私の宗教に入れる。

[3995] 川野教の特徴 h19.12.26
私には思想がある。
その特徴は、
1)哲学第一原理に基づく実在哲学がある。→人間は知覚欲で幸福になれる。超能力理論。
2)科学性、合理性を重んじる。→権威制に否定的である。
3)アニメやテレビゲームが好きである。

[3996] 建物 h19.12.26
今のJRの駅舎は無駄なことにこだわってくだらない感じがして汚く見える。
旧国鉄の駅舎は、コンクリートの塊りで機能美に優れていてセンスがよかった。
建物は人を入れる箱のような物だから、箱自体に凝っても仕方がない。

[3997] 神主義か実在主義か? h19.12.26
自分たちの間だけで勝手に神を決めて、その神の思想に従った者が有利に生きて行ける制度に、いったい何の意義があるというのか?
神が全知全能で神の思想が実在と同じだったら神主義でも実在主義と変わらないから神主義でも幸福に生きて行けるが、
神である理由が超能力が使えたことだけだったら、神はせいぜい超能力について詳しいだけで[じつは、神自身にもどうやって自分が超能力を使えたのかわからない。]、神は超能力以外のことには詳しくないから、神の思想に従っても実在に適応できず幸福にはならない。
超能力者に超能力が使えた理由は、超能力者が全知全能だからではなく、意志が善だからでもなく、ただたんに超能力が得意だったからである。
ヨーロッパでも中世までは神主義でやってきたが、中世になると裏目に出始めたので、その後はもとの実在主義に戻した。[ギリシア時代には、まだ一部の人間が超能力者を神として従っていただけで、全人類が超能力者に従ってはいなかった。ヨーロッパにおける神主義は一時的な流行にすぎなかったのである。]
実在主義とは、『人間が実在に従うことによって実在を征服する』(フランシス=ベーコン)[つまり、実在を五感で見て知覚で考えて実在についての真実を知り、逆にそうして得られた知識を使って自分の心を満足させる物体を作り出す。]ことである。
このやり方で、人類みんなが以前よりも幸福に暮らせるようになったことは、眼前の事実である。
それに比べて、神主義では神にへつらう一部の人間しか幸福になれなかったし、今から見れば彼らもさほど幸福ではなかったように思われる。

[3998] 政治家って何だ? h19.12.26
昔、ある政治家が、宗教の権威が国境を越えて絶大なのを見て、宗教家を羨ましく思って、宗教家と手を組んだ。
これが、宗教政治の始まりである。
しばらくの間は、そのやり方でうまくいっていたが、途中からうまくいかなくなった。
科学者が現われたからである。
そこで、政治家は宗教家を捨てて、新しく科学者と手を組むことにした。
これが近代政治の始まりである。

[3999] 宗教は合理的ではない。 h19.12.26
宗教では、超能力者に人間が従うことになっている。
しかし、超能力者はただたんに超能力が得意なだけで、それ以上の者ではない。
超能力者に従ったところで、せいぜい自分にも超能力が使えるようになるだけで、他に得することがない。
実際には、超能力者自身にも超能力がどうして自分に使えたのかわからないくらいだから、宗教に入っても超能力が使えるようにはならない。
だから、けっきょく宗教に入っても何にもならない。
だから、宗教には最初から入らないほうがいい。
[あえて言えば、超能力は科学の一種だから、超能力者には科学の才能があるといえるが、科学の才能を習得したければ、宗教に入るよりも科学の勉強をしたほうがいい。]

[4000] キリストはなぜ人気があったか? h19.12.26
キリストは貧乏育ちで貴族のように勉強することができなかったので、知覚否定主義者だった。
その頃のヨーロッパにはまだ学校がなく勉強できる人が少なかったので、キリストの知覚否定主義や愛の思想が大勢の人々の間で強く支持されたのである。
しかし、中世頃になると学校が増えて、みんなが勉強することができるようになったので、キリストの思想は支持されなくなった。
つまり、中世頃になるとキリストの人気が失われたので、宗教の権力も弱くなったのである。
今では、義務教育で勉強したくなくてもしなければいけないから、中世の頃よりも勉強嫌いの人が増えたので、かえってキリストの人気が増しているかもしれない。


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