[3801] 超能力から教えられること h19.11.24
超能力は、学問や運動や芸能の才能と同じように人間の持っているひとつの才能である。
人間にはいまだ我々の知らない才能が秘められている。
超能力者は人間に潜在している未知の才能を伸ばし眼で見えるようにして示してくれたのだ。
超能力の存在は、実在の世界を理解することにとっても、役立つはずだ。

[3802] なぜ私は政治に関心がないか? h19.11.25
政治家が馬鹿だからである。
政治家の言葉が利口ぶっているだけで、内容に論理性がないからである。
理科や数学の世界から見ると、政治家は言葉使いが出鱈目である。
私は子供の頃に、政治家が馬鹿だと思ったし、
馬鹿に関ると自分に馬鹿がうつるので、
生涯関らないようにしているのだ。
[その結果、社会科が苦手になってしまったが。]

[3803] 時代劇 h19.11.25
時代劇がテレビで放送されるのは、天皇制がなかった昔のほうがいいという意味だ。

[3804] 超能力者に与える報酬について h19.11.27
超能力者にはその超能力の才能に対し権威が与えられる。
これまでの権威は、具体的には命令権であった。
ところで、才能があるからといって必ずしも命令権が与えられるわけではない。例えば、数学の新しい定理を見つけても、ふつうは命令権は与えられない。
現代においては、命令もひとつの才能であると見なされる。例えば、管理職では適切な命令をすることが仕事である。命令するのも、かならずしも楽ではない。
そもそも、命令権は才能に対するひとつの報酬であると考えられる。
ところで、才能に対する報酬を命令権で与えると、事態が複雑になり危険でもある。
だから、才能に対する報酬は、命令権(一般に、特権)ではなくお金か物がよい。
そうすれば、法律をいちいち変える必要がなく、社会が民主的で平和になる。
例えば、超能力の才能に対する報酬は、[天皇は超能力者ではないが]天皇のように特権で与えると、社会が複雑になり、ときには危険な事態が発生しうる。
社会の平和を最優先にするなら、超能力者に対する報酬はお金か物が無難でよい。
超能力者に対する報酬を、いい学校に行けるとかいい仕事に就けることとかにするのはこれまでの宗教法での取り決めであって、超能力者本人にとっては必ずしも幸福ではない(余計なお世話な)ので報酬とは言い難く、そういうやり方はむしろ超能力者に特権を与えることに近いから、他人と揉め事になりやすいので、やはり報酬は超能力者個人にお金か物を与えるほうがいい。超能力の才能に対する評価は個人によって違いがあるから、国や世界が超能力者に一律に報酬を支払うのではなく、世界中のひとりひとりの個人から個人が自由に決めた金額(0円でもいい)の寄付金を集めて超能力者に与えることにすればいい。超能力者がいない時代は、スイス銀行に貯金しておけばいい。超能力者が現われたときには、その超能力者にそれまでスイス銀行に貯めていたお金を全部与えることにし、超能力者が生きている間は、さらに世界中の人々から集めた寄付金を超能力者に与えることにする。だから、超能力者の個性によって寄付金の金額が変わることになる。[将来、超能力者が頻繁に現われる時代になれば、超能力者がもらえる金額は少なくなる。]
超能力者に対する寄付金は下記の口座のいずれかへ直接個人が振り込むか[※振込み手数料は個人の負担となります。]、またはこれまでの宗教が寄付金の徴収を担当する。宗教を介する場合には、寄付金の3割までを宗教の収入とすることができる。

1)ジャパンネットバンク 本店営業部001
  普通預金 口座番号1790529
  カワノ ノブオ
2)愛知銀行 稲沢(イナザワ)支店
  普通預金 895841
  カワノ ノブオ
3)ぱ・る・る 
  記号 16420
  番号 2051791
  川野 義江(名義)


[3805] 宗教法禁止法(その2) h19.11.28
たとえ公開された取り決めであっても、超能力者以外の人間が超能力者に関する特別な取り決めをして、超能力者や他の人間を巻き添えにしてはいけない。とくに超能力者が定めないかぎり、超能力者に対しては一般人と同じ法律が適用される。[公開非公開を問わず、政府や宗教その他の人間が超能力者に関する取り決めをしてはならない。]
したがって、政府が超能力者に関する法律を勝手に定めてはいけない。例えば、政府が超能力者に無断で超能力者の権威を使って政治をしてはならない。
超能力者の権威(漠然とした抽象的な偉さ)は、超能力者個人のものであって、超能力者の許しを得ないかぎり、国や宗教のものではない。
一般に、政府や宗教その他の人間が自分たちの決めたやり方で超能力者から承認を取って自分たちの取り決めで超能力者や他の人間を巻き添えにしてはいけない。

[3806] 契約 h19.11.28
現代社会における事業主と雇用者との人間関係は契約だから、事業主と雇用者とは対等であり、もはや権威は通用しない。
才能(仕事)に対する報酬が与えられるのみである。
報酬は通常はお金や物で与えられるが、地位や名誉や特権で与えられることもある。
例えば、超能力者は超能力の才能に対する報酬としての地位や名誉を人々から与えられた者であって、地位や名誉のある超能力者に有能と認められた国や団体や個人に対しては相応の地位や名誉が超能力者から与えられるわけである。
しかしながら、超能力者に対する社会的な地位や名誉は決まっていないし、まず生きるためにはお金が必要だから、やはり超能力者に対する報酬はお金がよい。

[3807] ノーベル数学賞 h19.11.28
数学は科学の基礎として重要である。数学を科学から切り離す見方はよくない。
ノーベルが自分の科学の研究に数学が要らなかったからといって、数学を学問の仲間はずれにするのはノーベルの自信過剰だ。アインシュタインはノーベルよりも頭がいいから、アインシュタインがノーベルから賞をもらっても大した意義はない。
古来より数学は科学と独立に発展してきたが、デカルトやニュートンが数学と科学とを結びつけることによって科学が大発展を遂げた。
学問は相互に協力し合って発展するものだから、数学を科学に比べて評価しないことは、学問全体としての発展を妨げることになる。
だから、ノーベル数学賞も設けるべきである。

[3808] 超能力者の権威 h19.11.29
超能力は人間の才能のひとつであり、超能力者は超能力の才能に優れた者である。
だから、超能力の才能においては超能力者はその他の人間より上であり、したがって超能力者には権威があることになる。

日本人は天皇制、一般には神制をとっているから、超能力の才能に重きをおく民族である。
体力、知力ともに他の民族に劣る日本人だが、昔から超能力の才能には長けていた。それで、日本は超能力者制を採ったのである。[ヨーロッパが知力に優れた者を擁護する天才制を採っているのと同様である。]
日本人は超能力においては他の民族に勝るから、超能力の才能においては世界一の民族かもしれない。
日本は超能力者で支えられた国といっても過言ではない。
だから、日本人や世界の人が、超能力者に権威を置くのも無理はない。

ただ、権威の意味が不明確である。
権威は命令権の意味で使われることが多いが、無制限に命令できるわけではない。
あまり超能力者に権威をおきすぎると、天皇制のように他国にとっても自国にとっても迷惑になる。
超能力者が超能力の才能で上だからといって、他の才能では(必ずしも)上ではないから、他の分野にまで権威を押し広げるのは権威の濫用になる。
だから、超能力者に権威を与えるのはいいが、社会的に迷惑にならないように与えねばならない。
また、権威は必ずしも命令権を意味しない。
だから、たとえ超能力者が自分に権威がないと言ったとしても、超能力の才能がないわけではないから、やはり超能力者には権威があると考えねばならない。
たしかに、超能力者に強い命令権を与えることは超能力者の権威を高めることになるが、無理に高めようとして余計なことをしすぎているように思われる。超能力者の権威を高めるために超能力者に強い命令権を与えることは、上手くない方法である。

日本が超能力者の権威で栄えるためには、日本が超能力者を他産する国であり日本人が超能力の才能のある民族であることを世界に知らしめれば十分である。
日本としては自国の権威を高めるために超能力者を利用したいとおもうはずである。
でも、それなら超能力者が現われたときから、その超能力者を国が保護して大事に育てるべきである。超能力者の超能力の才能を伸ばす手助けを国が行うのもいい。
しかし、私の場合、国は特別に私を保護しなかったし、それどころか反対に宗教か政府の誰かが私が超能力を発現したすぐ後に私の超能力を消す処置をしたようだし、その後もたびたび私の身内や周囲の者を使って私の生活を妨害しようとしつづけた。それは、他人に超能力の実態を知られないようにして超能力者の権威を守ったり、私の命令を操作する意義もあったろうが、よくわからない超能力で権威を高めるのはインチキ臭いし、他人が私の命令を操作してはもはや私の命令とは言い難い。これらは、日本の宗教や政府が超能力者の権威を無理に高めようとしてやった愚行であり、私の命令権を他人が利用しようとした犯罪である。
現代人は疑い深くよくわからないことを信じないから私の超能力をウヤムヤにするとかえって私の権威を損ねることになるし、超能力者の権威は命令権とはかぎらないから私の命令を操作しても無駄である。
やはり、超能力に関する事実は正確に公表しなければならないし、超能力者に行き過ぎた命令権を与えるのはよくない。

そもそも権威は超能力者の超能力の才能に対するひとつの報酬であると考えられる。
超能力の才能に対する報酬としては、権威(命令権)や地位や名誉やお金や物などがあるが、そもそもある者に権威が与えられるのはその者の意見が正しいからであり、超能力者が超能力の分野において権威を持つことはまだしも認められるが超能力以外の分野において権威を持つのは超能力者が不適切な命令を出すことになりやすいので、超能力者に権威(命令権)を報酬として与えることは上手くない。[あえて、超能力者に権威つまり他分野に対する命令権を与えるなら、超能力者が関与する分野の権威者の承認を得なければならない。承認が得られなければ、超能力者の命令は通らない。したがって、超能力者の命令は契機を与えるに過ぎない。]したがって、超能力者に対する報酬としては、他の地位や名誉やお金や物のほうがいい。
超能力は知力や体力の才能と同様に人間の才能のひとつだから、アメリカが知力や体力の才人の待遇をよくして国の力としているように、日本でも超能力者の待遇をよくすればいい。そうすれば、超能力者に行き過ぎた余計な命令権を与えなくていいし、国は国民の集合体であり国の権威は国民の権威の総和だから、超能力者と国との共生関係によって超能力者の権威(命令権)や地位や名誉を国が共有することになる。
[今の天皇は超能力者ではないが、]日本が天皇に強い命令権を与えるのは、日本の他国に対する命令権を強めるためであると考えられるが、今日では命令の正当性も考慮しなければならないから、日本が超能力者の権威を使って他国に命令する場合には他国(の最高責任者)の承認を得なければならないことにする。
超能力者の権威を共有して国の権威が高められるなら、国が保有する超能力者の数は多いほうがいい。超能力者が死んだ後では、『日本から過去に超能力者が出た事実』を用いて国の権威を高めればいい。[だから、天皇みたいなのを置く必要はない。]ただ、日本の権威の強さはその事実に対する他国の受け止め方にも左右されるので、日本が行き過ぎた権威を行使して他国の反感を買って戦争になっても私は知らない。
同様に、日本が天皇の待遇をよくするのも国際社会における日本の待遇をよくするためである。最近日本の契機が悪くなったのは私の待遇を悪くしたせいである。日本は超能力者と共生関係にある国だから、日本が繁栄するためには超能力者の待遇をよくしなければならない。

[3809] 日本の柱☆☆☆ h19.11.29
古来より日本は超能力者で支えられてきた国である。
だから徳川家康も天皇を粗末にはできなかった。
伊藤博文もその点を考慮して帝政を採った。
[徳川時代が終わり鎖国が解かれて日本が国際社会に仲間入りすることになったとき、日本の長所を世界にアピールするには超能力しかないと考えて今の法律ができたのだ。現代や未来は国際化の時代だから、各国が特異の才能を伸ばして、国同士で助け合って行かねばならない。]

[3810] 地球の柱 h19.11.29
超能力者は地球の柱であるかもしれない。
将来、宇宙人が地球に攻めてきても超能力者で対抗できるかもしれない。

[3811] 天皇よりも超能力者の銅像 h19.11.29
わざわざ天皇を置いて天皇なんかをいい待遇にするよりも、神武天皇や私が超能力を発揮している姿の大きな銅像を日本の真ん中に建てたほうがいい。

[3812] 宗教と政府は、どちらが善でどちらが悪か? h19.11.29
宗教は、超能力者に関する自分勝手な非公開の取り決めをして、それで超能力者や他の人間を動かしている。
一方、政府は超能力者や他の人間に関する公開の取り決めをして、それで超能力者や人間を動かしている。
宗教と政府の違いは、取り決めが非公開か公開かの違いである。
通常は非公開の取り決めが悪で公開の取り決めが善である。なぜなら、人間は他人が見ているところでは悪いことができず、他人に公開する以上その取り決めは正当でなければならないからである。
したがって、通常は宗教は悪で、政府は善である。
もっとも、国の法律は物理の原理や数学の公理のような完全性はないから、法律には穴があり、そのために国法には任意性や自由性がある。だから、いくら政治が国法に則っていても、政治家によっては善いことも悪いこともでき、必ずしも政治が善とはいえない。
反対に、たとえ非公開の取り決めであっても善いこともあるから、宗教が必ずしも悪とは言えない。ただ、非公開の取り決めは、他人から見ると何をやっているかわからず、他人にとっては不安だから、やはり宗教はないほうがいい。

[3813] 超能力者の命令権 h19.11.29
超能力者には超能力の才能による権威(命令権)があるから、他人に対する命令ができる。
しかし、超能力者の命令は、物理の原理や数学の公理のように論理的に完全とは行かない。
つまり、超能力者の命令は絶対的ではなく、人類は超能力者の命令に必ずしも服従しなければならないわけではない。
また、たとえ超能力者の命令でも、ある程度の正当性が要求される。
ただ、普通の人よりは超能力者のほうが命令が通りやすいと言うことができる。
国政においては、超能力者と国とが共生関係にあり超能力者による国の権威の後押しがあったほうが、他国に対する命令が多少通りやすくなる。

[3814] 日本と超能力者の共生関係☆☆ h19.11.29
日本の法律を見るかぎりでは、日本が超能力者制を採っていることが明らかである。
したがって、超能力者と日本とは共生関係にあり、超能力者の待遇のよしあしと日本人全体の待遇のよしあしとは連動している。
日本の法律から超能力者制が消えないかぎり、この連動はなくならない。
かといって、国の待遇を善くするために待遇が悪くなった(不幸な)超能力者を国が殺せば、その国も殺された超能力者の後を追って他国に殺されることになるから、このやり方は採らないほうがいい。
反対に、待遇が悪くなった超能力者を国が助けてやれば、超能力者と国の共生関係によってその国を世界が助けてくれるから、国が豊かになるかもしれない。
実際に、私が中学2年のとき私を編入試験で入れてくれた私立高知学芸中学高等学校が校舎を移転して新築のきれいな校舎になったし、私が約10年間通っていた九州大学や九州大学医学部付属病院も新築されて大きな建物になった。私を研修医として最初に雇ってくれた佐賀県神埼郡吉野ヶ里町にある肥前療養所も私が雇われた頃に新築されて大きくなった。私を最近まで約5年間雇ってくれていた兵庫県養父市にある近畿NEOMAXも私を雇って4年目頃から工場が拡張されて大きくなった。私が最近まで約5年間住んでいた兵庫県朝来市和田山町も私の住所の近くにいろんな店ができてにぎやかになった。近畿NEOMAXに勤めていたとき毎日通っておかずを買っていた和田山農協スーパーも私が住んで4年目頃から改築されてきれいになったし、おかずがずいぶん美味しくなった。[もちろん、私はこれまで自分が通っている学校や病院や工場を新しくしろとか大きくしろなどと命令したことはない。(私ネタを混ぜたテレビ番組や映画やゲームや本や電化製品などを作れと命令したこともない。)私が特に他人に比べて得をしたこともない。私はこれまで他人が私に対して何をやるのか決めなかった。だから、以上のことは、私以外の人々が私に内緒で話し合って勝手に決めてやったことである。]

[3815] 超能力を消す必要はない。 h19.11.29
超能力そのものに危険性はない。
だから、超能力者の脳や身体に処理をして超能力を消すのは、超能力の研究ができず超能力の原理がわからないほうが超能力者の権威が増すと考えられたからである。
しかし、そもそも超能力の原理がわかることと、超能力の才能があることとは関係がない。つまり、超能力のメカニズムが理解できたからといって、超能力の才能の価値が減るわけではない。それは、ダイヤモンドの原子構造がわかったからといって、ダイヤモンドがレアであるかぎり、その価値が減らないのと同じことである。
あるいは、超能力の実態がわからないほうが超能力者の権威が増すから、超能力を消したとも考えられるが、現代ではむしろその反対に超能力の実態がはっきりわかっていたほうが超能力の不思議さが増すから超能力者の権威も増すと考えられる。超能力の実態が曖昧なままでは、超能力の真実味が損なわれ、かえって超能力者の権威が減るとも考えられる。

[3816] 宗教法禁止法(その3) h19.11.30
[天皇は超能力者ではないが、]人間が天皇に関する自分勝手な非公開な取り決めをして、他の人間を巻き添えにしてはいけない。[天皇が国法の範囲内で自分の意思で動くのはかまわない。]
昔から宗教は余計なことばかりして社会の邪魔だ。
第一、天皇は超能力者ではないから、そもそも宗教の対象ではないはずである。
宗教のやっていることは滅茶苦茶だ。

[3817] 超能力のない世界 h19.11.30
神武天皇やシャカやキリストや私などの超能力者のいない世界は空想の世界であって実在の世界ではない。
実在ではない世界を実在の世界だと考えていることは教科書バカ専門バカの世界であって健全ではない。空想世界を信じていることは実在世界の理解を妨げることにもなりかねない。
だから、できるだけ早急に超能力や超能力者の存在を人々に教育しなければならない。
超能力の存在を学校などで教育すると超能力が科学になり宗教の縄張りがなくなってしまうので、これまで宗教が超能力の存在の教育を妨害してきたのだろう。
宗教はまちがった世界観を人々の頭に植え付け人々をまちがった世界に導こうとする悪の組織である。

[3818] 日本国憲法の書き方について h19.11.30
日本国憲法では、天皇は何でも好き勝手にやっていいことになっている。
しかし、天皇が本当に好き勝手にやると、日本は1日で亡んでしまうだろう。
だから、実際には、天皇は好き勝手に何でもやっていいわけではない。
実際にはやっていけないことを憲法では何でもやっていいと書いている。
したがって、日本国憲法の書き方は不正確である。
論理的な書き方でない柔らかい書き方でもいいから、言葉通りにやっていいように書くべきである。

[3819] どうすれば日本の権威は強まるか? h19.11.30
超能力者には、超能力の才能による権威がある。その権威は超能力者個人のものである。[もっとも、いくら超能力者でも権威の強さは無限ではなく有限である。]
権威とは他者に対する命令権である。
だから、超能力者が「日本の権威を強める」と[世界中の人々に対して]命令したとき、日本の権威は強まるのだ。
そのためには、日本が超能力者にとって何らかの役に立たねばならない。[反対に、超能力者が「日本の権威を弱める」と命令して、日本の権威を引き下げることもできる。]
いくら他者が自主的に超能力者に従っても、超能力者が「その者の権威を強める」と命令しないかぎり、その者の権威は変わらない。[ただし、私ネタ取りは私に従ったことにはならない。]

[3820] 宗教の権威は? h19.11.30
宗教の権威は自分たちで勝手に自分たちの偉さを決めてやっているだけで、正式に超能力者から権威を与えられたわけではない。
だから、宗教には権威がない。

[3821] 超能力者の権威は? h19.11.30
超能力者の権威の強さは、超能力者の思想や命令によって決まるのではない。また、超能力者以外の者の主観や偏見によって決まるのでもない。
超能力者の権威の強さは、客観的に決まる。つまり、超能力者に超能力があることから正しく総合的に論理的に考えていくことによって自然に必然的に決まる。
だから、超能力者の権威の強さは超能力者自身でなくても、正しく考えさえすれば誰にでも決められるのである。
また、たとえ超能力者が自分に権威がないと言っても、超能力者の権威の強さは客観的に決まるので、超能力者の権威の強さは依然として変わらないのだ。[超能力者にいくら命令権があるからといって、自分の命令の強さまでも命令することはできない。]
権威の強さは命令の通りやすさだから、権威の弱い者は強い者に従わなければならない。[権威とは水戸黄門の印籠のようなものである。]
超能力者の権威が法律の権威を上回る場合には、超能力者が法律を犯してもかまわない。また、超能力者の権威が法律の権威を上回らない場合でも、権威は通用する。つまり、法律を犯さないようにしながら、法律の自由な部分で権威の強い者が弱い者を自分に従わせることができる。

[3822] 私の政策 h19.12.1
人間にとって最大の幸福は知覚欲の満足である。
知覚欲の満足を主体とした国や世界を作れ。

[3823] 超能力者の命令は無期限有効 h19.12.1
超能力者には超能力の才能による権威がある。その権威はかなり大きい。[学問やスポーツの天才にはその才能によって名誉や地位やお金が与えられるが、超能力者にはそれらのものが与えられないから、その代わりに権威すなわち命令権が与えられるのだ。だから、権威は超能力の才能に対する報酬とも考えられる。もっとも、超能力者は自分に与えられた権威を用いて名誉や地位やお金をもらってもよい。]
天皇制が延々と続いているのは、初代天皇の超能力者が「自分の子孫に強い権威を与える」と命令したからであろう。
だから、天皇は祖先の超能力者から強い権威を与えれられて日本一の権威者なのだが、初代天皇が“どれだけ強い権威かまでは命令しなかった”ので、ときどき天皇よりも強い権威者が現われて日本の支配者が交代することがある。
また、超能力者の命令に国境はないから、天皇の権威は外国でも(ある程度)通用するのである。
さらに、強い権威を持つ天皇から権威を与えられた者が貴族となったが、2代目以降の天皇は超能力者ではなく、しょせん人間の命令なので貴族の権威はあまり強くない。そのため戦後は貴族制が廃止になった。
キリスト教や仏教が延々と続いているのも、キリストや仏陀が「自分の思想を世界に広めよ」と命令したからだろう。キリストやシャカの思想が正しいから続いているのではなく、超能力者に権威(命令権)があると考えているから続いているのである。
近代以降は科学の時代となったから、超能力者の権威も以前に比べて多少衰えたが、それでも現時点においても世界の現状が支持する程度の権威はある。
超能力の原理が科学によって完全に解明された時代になっても、超能力者が大量生産されないかぎり、人々が超能力者に与えるべきだと考える権威の強さはあまり変わらないのではないだろうか。

[3824] 宗教とは何か? h19.12.1
超能力者には超能力の才能による権威(命令権)がある。
世界中の人々が超能力者に与えるべきだと考える権威の強さに応じて超能力者の命令に従っている。
これを超能力者制という。
宗教はこの超能力者制に便乗して超能力者制を悪用して自分たちの金儲けにしている。
超能力者制にたかる虫といったところか。

[3825] 超能力者制は妥当か? h19.12.1
超能力者には権威(命令権)があるが、その命令が妥当でないことも多い。
天皇制も政治家にとっては迷惑だし、シャカやキリストの教えも人類を幸福にする教えではない。
これでは超能力者制が人類を不幸にするためにあるようなものだ。
宗教という嫌な虫が湧くのもそのせいだ。
かといって、超能力者制を廃止にするのは極端すぎるから、
超能力者に与えるものを権威(命令権)ではなく、他の学問やスポーツの天才と同じように、名誉や地位やお金にしたほうがいいのではないだろうか。
そのほうが、人類にとっても超能力者にとっても幸福なのではないだろうか。

[3826] 宗教のやり方 h19.12.1
超能力者には強い権威があるから、他人に命令をすることができる。
しかし、命令というからにははっきりした命令でなければならない。
超能力者が言葉ではっきりと命令したこと以外は超能力者の命令とはいえない。
ところが、宗教は超能力者が言葉ではっきりと命令していないことまで広義に命令と解釈したり、超能力者の命令を自分たちがお金儲けをしやすいように言い換えたりして、人類に守らせている。
だから、宗教の言うことを聞いてはならない。

[3827] なぜ伊藤博文は天皇制を採ったか? h19.12.1
伊藤博文が自分の博識を見せびらかすためである。

[3828] 超能力者制 h19.12.1
超能力者には超能力の才能による大きな権威がある。
超能力者は自分の大きな権威によって好き放題に命令することができる。
したがって、超能力者は自分にとって有利な命令ばかりして人類にとって有利な命令を出さないのが普通である。
だから、超能力者制は人類にとってけっして有利な制度ではない。
しかし、これがこの世界の決まりであり、これまで人類はこの決まりに従ってきたし将来においても[超能力の才能の価値がなくなるまでは]従い続けねばならないのだ。
超能力者制は、いつも万物の霊長だと思い上がっている人類に対する一種の教訓の意味があるのかもしれない。

[3829] 理想の超能力者 h19.12.1
超能力者には超能力の才能による大きな権威(命令権)がある。
人間には命令できないことでも超能力者なら命令することができる。
人類が有利になるのも不利になるのも、超能力者の命令次第である。
だから、国や世界のために超能力者を役立てるためには、
超能力者を国や世界にとって有益な命令を出す人間に育て上げればよい。
超能力者に命令をしてそんな人間に無理やりならせることはできないが、
ある程度の誘導は掛けてもいいはずである。
また、国や世界にとって不利な命令を超能力者に出させようとする者が超能力者に近づかないように、国や世界がつねに超能力者の周りに目を光らせていなければならない。

[3830] 超能力者の命令に背いた罰 h19.12.2
超能力者には超能力の才能による大きな権威(命令権)がある。
その権威の強さは、超能力の才能があることから客観的に論理的に正当に必然的に決まる。[命令の強さまで命令することはできないので、権威の強さは客観的に決めるしかない。]
超能力者には超能力の才能から客観的に決まる権威の強さがある。
ところで、権威が強い者の命令に背いた場合には強い罰が与えられ、権威の弱い者の命令に背いた場合には弱い罰が与えられる。
したがって、超能力者の命令に反した場合には、その権威の強さだけの罰が与えられる。[中世ヨーロッパにおけるキリスト教に反した科学者の迫害のようなものか。でも、いくら基督[キリスト]でも、実在に反することはできないから、科学的真理は認めねばならないはずだ。実在の権威は超能力者の権威よりも強いってことか。]

[3831] 超能力者の権威は妥当か? h19.12.2
これまで超能力者には超能力の才能による権威(命令権)があると考えてきたが、
超能力の才能に対して権威があると考えることははたして妥当といえるだろうか?
超能力者に対しては権威に代わるもっと妥当な報酬があるのではないか?
超能力者に対してするべきことを決めないでいるかぎり、個人が超能力の才能に対して妥当と考えることを好き勝手に自由にやればいいことになる。
しかし、それでは国や世界を危険にさらすことになる。ときには、超能力者を危険にさらすことにもなる。
だから、国や世界が超能力者に対する妥当な取り決めをしなければならない。
それをやらないのは、政治家の怠慢だ。
きちんと成文法にして公開しないから、世界中で超能力者絡みの変な事件がいつまでも止まないのだ。
政治家たちがいつまでも『超能力者問題』から逃げ回らずに、いちど『超能力者問題』について各国の国会や国連で本腰据えて考えてもらいたい。
世界中の人々(超能力者も含む)が妥当と考えられる措置を施せば、それで丸く収まるはずだ。

[3832] ソドムとゴモラ h19.12.2
旧約聖書にあるソドムとゴモラの逸話はどうしても原子爆弾を連想させる。当時の人類の技術では原爆を作れないから、すでに地球に宇宙人が来ていて、銀河連邦で決めた超能力者制を実施しているのかもしれない。

[3833] ポルターガイスト現象 h19.12.2
はじめにこのwebsiteを御覧いただきたい。
明らかに、この女中の話は念動力である。
だから、この女中は超能力者だと言うことになる。
それなら、この女中には超能力の才能による大きな権威があったはずである。
しかし、私はこれまでそんな話は聞いたことがない。
したがって、この話は作り話だということになる。
あるいは実話だったとしても、この女中が生涯なにも命令しなかったかだ。

[3834] 『超能力者問題』に対する私の解答 h19.12.2
超能力者は人間であり、学問やスポーツの天才と同じ扱いを受けるべきである。
したがって、今度から超能力者が現われたら、
“自分が超能力を現した事実”だけを自由に使えることにして、他は学問やスポーツの天才と同じように、一般人と同じ法律を守らねばならないことにする。例えば、“自分が超能力を現した事実”を使って、会社を建ててもよいし、政党を作ってもよいが、法律を上回るいかなる越権行為も許されないとする。[法律を守りながらでも、“自分が超能力を現した事実”による権威で有利に生きて行けるだろう。]
学問やスポーツの天才はいくら才能があってもそれを他人によって消されたりはしないから、超能力の才能に対するいかなる処置も禁止する。超能力者本人が超能力の才能を伸ばしたければ(できればの話だが)自由にやってよい。
もちろん、宗教法禁止法は全人類が厳守しなければならない。

[3835] 権威は万能 h19.12.3
権威とは命令力である。
強い権威があれば自分がやりたいこと欲しいことが当時の人類ができることの範囲内でなんでもやれる貰えるのだから、
強い権威があれば最高だ。
だから、超能力の才能のある超能力者には人類にとっての最高のプレゼントである強い権威を与えればいい。
それで、超能力者は有利になる。
でも、人類は有利になるのだろうか?
多少は人類のことも考えねばなるまい。
超能力者の命令は1000年間有効ということにしたらどうだろうか?
いっそ超能力者が生きている間だけ有効にしたらどうだろうか?
超能力者の命令は生きている超能力者の権威があってこそだから、超能力者が死んだ後では無効になるのが道理だろう。
また、そのほうが超能力者の出現を祝う意味も持たせられる。
超能力者が死んでいなくなった後では、普通の世界に戻ればいい。
そのほうが、長い間超能力者の変な命令を聞かなくてすむから、人類にとっても幸福なはずだ。[超能力者の死後、自主的に超能力者の命令に従いたい者までも止めたりはしないが。ただし、その場合、自己責任で従うのであって超能力者の権威とは関係ないことになる。]

[3836] 超能力者の命令は正しいか? h19.12.3
いくら超能力者がいい命令を出したつもりでも、それはその超能力者が生きていた当時においてのことであって、時代が進めばまちがった悪い命令になる場合もある。
だから、超能力者の命令にいつまでも従い続けるのは、必ずしもいいことではない。
ただし、超能力者の命令のうちその時代においても正しいと考えられることについては従ったほうがよい。

[3837] 超能力者が幸福であるためには? h19.12.3
たとえ、超能力者に絶大な権威があったとしても、超能力者に何が幸福なのかについての正しい知識がなければ、その超能力者は幸福にはなれない。
だから、超能力者には、正しい幸福観がなければならない。

[3838] 超能力者の権威の有効期間は? h19.12.3
宗教法禁止法は未来永劫人類が守るべき法律である。
宗教法禁止法を人類に永遠に守らせるために、超能力者である私の命令は無期限有効にしたい。
私は上で超能力者の命令の有効期間が1000年であるとか超能力者が生きている間だけであるとか述べたが、それはあくまでも超能力者の権威についての素人[しろうと]である私の意見であって、妥当かどうかは定かでない。
命令で命令自体の有効期間を定めるのも客観的でなく不自然である。
超能力者の命令の有効期間を決める原理を今の私は思いつかない。
とりあえず、世界の現状を参考にするしかないか。

[3839] 聖書とは何か? h19.12.3
聖書とは、これまで人類の中に現われた超能力者についての伝記を束ねたものである。
当時の人々が持っていた概念や理論を使って、超能力者に関する事実およびその事実に対する理論的解釈を言葉で表したものである。[概念は理論の中に埋まっているものだから、理論から切り離して事実だけを述べることはできない。]
だから、現在の人の目で見ると一見でたらめなことを書いているように見えるけれども、その元になるれっきとした事実があり、けっしていい加減なことを書いているのではない。
聖書ほどの権威のある書物には、けっして嘘や作り話は書いていないはずだ。たとえ今の人から見ると嘘や作り話のように思われる話でも、当時の人にとっては精一杯真実を表そうとして書いたに違いない。
例えば、ソドムとゴモラの話にしても、当時の人々にとっては火山の噴火しか知らなかったから、原子爆弾の爆発を火山の噴火に喩えて表現したのであって、ソドムとゴモラの町は火山の噴火ではなく何かの原子爆弾以上の科学兵器で滅ぼされたのだと考えられる。天使とはたぶんその兵器を使った宇宙人のことなのだろう。宇宙人が超能力者の権威を認めて、それを犯した人類を裁きにかけた事実を記しているのだ(?)。

[3840] なぜ中国では超能力者の評価が低いか? h19.12.3
中国は大きい国だから、当然過去4000年の歴史の間には幾人かの超能力者が現われたはずである。
日本の七福神の元である八仙人がおそらく中国の超能力者である。[私は8人全員が超能力者だと思ってはいないが。]
それなのに、中国は超能力者制を採っていない。
それは、中国人が考えない民族だからである。[最近は、変わってきたかもしれないが。]
反対に、ヨーロッパ人は頭がよくよく考える民族だから、超能力の才能の価値についても正しくよく理解していて、超能力の才能を高く評価したから、ヨーロッパでは超能力者制が濃いのだ。
ヨーロッパにおいて超能力者の命令を人類が長い年月に渡って聞くというのも、おそらく超能力者制として妥当なやり方なのだろう。

[3841] 超能力者と人間の妥当な関係 h19.12.3
ヨーロッパで宗教が容認されているのは、政治的にも超能力者制を認めているからである。
現在のヨーロッパの超能力者制から察するに、超能力者に対する人間の妥当な関係は、人間が超能力者の命令を最大限よく聞くことであると考えられる。
キリストが生きていた当時は、キリストの命令に周りの人間ができるかぎり従ったし、キリストの死後はキリストの教えに従いキリストの教えを広げる命令だけが生き残りそれを長年忠実に守り続けてきた。
宗教はいつの間にか自分たちの営利を目的にする団体になってしまったが、本来宗教は超能力者の命令を実行する会つまり超能力者の命令に人類を従わせる会だったのである。超能力者が生きている間は、超能力者のおこぼれで宗教も生きていくことができたが、超能力者が死んだ後は自分たちで自分たちの活動資金を稼がねばならなくなり、そうしているうちにいつしか自分たちの営利目的の団体へと化してしまったのである。
とにかく、古今東西を問わず、超能力者に対する人間の妥当な関係は、人間が超能力者の命令をできるだけ聞くことだったのである。超能力の価値がなくならないかぎり、この関係を守り続けていかねばならない。
もっとも、現在は昔ほど超能力の価値を高く評価しないから、昔に比べると超能力者の命令力は弱くなったといえる。しかし、それでもなお世界の現状が示している通り、超能力者の権威すなわち命令力はかなり強いと考えられる。[いくら科学が発達しても、超能力の価値はあまり変わらないだろう。]

[3842] なぜ宗教は弱くなったか? h19.12.3
政治家の命令(法律)を人類に守るのが政治である。法律には罰則がある。
超能力者の命令を人類に守らせるのが宗教である。現在の宗教には罰則がない。
超能力者のいない時代の宗教はしょせん人間の集まりにすぎず、宗教の人間の権威は政治家の権威(命令力)にはかなわないから、宗教だけで独自の罰則を決められないのだ。
しかし、超能力者の生きている時代は超能力者の権威があり、超能力者の権威は政治家の権威よりも強いから、超能力者の命令に背いた場合には超能力者の権威(命令力)に応じた罰が与えられる。そもそも宗教は人間に超能力者の命令を守らせる会だから、超能力者の命令の実行および命令に背いた者の処罰は誰がやってもよい。[私もなるべく穏便にしたいが、超能力者と人間の妥当な関係がこうなっている以上、私にとってもどうしようもないのだ。]

[3843] 神は生きている。 h19.12.3
ニーチェは、いつもお酒ばかり飲んで享楽に明け暮れているデオニソス神を愛好した。
昔、デオニソスという名のお酒好きの超能力者がいたにちがいない。
ニーチェはデオニソスの生き方こそがこれからの人類にとってふさわしいと考えた。
現代においても、なお神は生きているのだ。

[3844] 現代の宗教 h19.12.4
現代の宗教は自己の営利目的の組織であって、超能力者のために働く組織ではない。
だから、宗教がいくら神(超能力者)の名を唱えても、超能力者の命令を実行する組織ではないから、宗教が超能力者の権威(命令力)を使って何かすることは許されない。
要するに、現代の宗教は超能力者とは無関係だから、宗教が超能力者の権威(命令力)によって他者に命令することはできないのである。

[3845] 私の命令 h19.12.4
人間(超能力者も含む)にとってすべきことは、まず自分の生命確保である。
だから、超能力者である私は私の生活費の支給を人類側に要求する。[支払方法は、上記[3804]を参照。]
命令するためには、まず命令する者が生きていなければならない。
命令する者の待遇をよくすればそれだけいい命令になるかもしれない。
反対に、命令する者を不機嫌にすれば悪い命令が出るだろう。
私がこれまでに出した命令もすべて有効である。[私が書いた正当な命題も命令に含まれる。]その他の命令は今後も随時行う。

[3846] 超能力者に関する取り決め h19.12.4
国や国連が、超能力者と人間の妥当な関係を決めることはできない。
なぜなら、超能力者は人間よりも権威(命令力)が強い者だと考えられているからである。
人間が人間および人間未満の者(動物や植物やその他の物質)に関する取り決めはできるが、人間が人間よりも上の者(権威が強い者)に関する取り決めを人間だけですることはできないと考えられているからである。
ただひとり、現在の地球上にそれができる者がいる。
それは、超能力者である私だ。
私だったら、私を含む超能力者に有利にしたいから、超能力者の命令力は人間の命令力よりも無限に強いすなわち超能力者の命令に人間が絶対的に従えといいたいところだが、現実的には超能力者の命令力は有限で超能力者の命令力は普通の人間の命令力の数億倍程度だから、人間も団結すれば超能力者に勝てるから、超能力者の行き過ぎた命令は人類で食い止められるはずである。会社において、社長の命令力は社員の命令力よりも強いが、全社員が一致団結してストライキをすれば社長の命令を取り消しできるのと同じである。私の上の命令の場合、私のひと月の生活費は約20万円なので、日本人一人当たり月に約0.002円出してもらえばそれでいい。

[3847] 教会の権威 h19.12.4
近代以前、教会はキリストの知覚欲を働かせてはならないという言葉通りに、学者を殺しまくった。
教会は超能力者であったキリストの権威でキリストの出した命令を実行できると考えられていたからである。
しかし、キリストも、具体的に自分の目の前に偉い立派な学者を持ってこられたら、殺せとは言えなかったはずだ。
だから、教会による学者の迫害は、教会がキリストの言葉だけに頼って行った一種の無責任主義である。
そもそも、キリストが生きている間でさえ、教会自体に特別な権威があるわけではなく、教会は権威者であるキリストの命令を実行する機関にすぎないから、キリストの死後はなおさら教会はただの人間の集まりにすぎず、教会の権威で人間を勝手に殺していいはずがない。[したがって、たとえ私の命令を日本政府が実行しても、日本政府の権威が強くなるわけではない。それは、超能力者である私に強い権威すなわち命令力があるから私が日本政府を動かして私の命令を実行させることができるのであって、日本政府が自分の権威を強めるために私の命令に従うのではない。そういうわけで、日本政府の方、私の生活費の支給の件よろしく。]
現代においては、たとえ超能力者が知覚欲を働かせてはならないと言ったとしても、その命令に賛成できない者が多いから、その命令は否決されるだろう。[実際に、すでに世界はそうなっている。]

[3848] ヨーロッパではどうして数学が学問の仲間はずれなのか? h19.12.4
キリストは、知覚欲を働かせてはならないと言ったから、おそらく五感欲を肯定したはずである。
だから、ヨーロッパの世界は五感欲が満足されるように作られているのだ。
自然科学は、五感の経験に基づき、五感への実践を目的とする学問だから、五感欲を多かれ少なかれ満足する。
しかし、数学は言葉だけ(概念だけ)の世界で、五感界との結びつきが薄く、五感欲を満足しない。
だから、キリスト教社会であるヨーロッパでは、数学だけが学問の仲間はずれにされているのである。
しかしながら、ニュートンもアインシュタインもその他大勢の物理学者たちは数学と自然科学とを結びつける方法を用いて科学の研究をしているから、数学も五感欲の満足に一役買っている。
それに、そもそもデカルト以降は知覚欲の満足で人類は生きるようになったから、もはや数学をやっていけない理由はない。[現代のキリスト教では、知覚を働かしてはいけないとは言わない。]
だから、数学を学問の仲間はずれにするのはよそう。
私はというと、私が小学1〜2年ごろ同級生が「算数なんか面白くない」と言ってたけれども、私は便所掃除が大事なようにたとえつまらないことでも生活にとっては大事なこともあるから、算数も大事だと考えて勉強した。[しかし、もともと、私は子供の頃から算数や理科が好きなほうだった。超能力も科学の一種だから、超能力者が理科や算数が好きなのは当たり前だ。もっとも、超能力の場合は超能力器官の経験に基づくのであって、五感の経験に基づくのではない。]

[3849] 超能力者の条件 h19.12.4
私の母は、比類ない心の純粋さを持っているまれな女性だ。
中学生頃コンピューター人間と呼ばれていたこの私でさえ、子供の頃から母親の真面目さにはとうていかなわないと思っていたほどだ。
赤ちゃんの頃の私は、母親が感覚波を出すのを真似てそれをさらに発展させることによって念動力を発揮することができた。
私の母親も父親も眼先のことにはこだわらない大らかな心の持ち主だ。
超能力を現すには、超能力器官の働きも必要だが、その上に心の純粋さ綺麗さがなければならない。
汚い心の持ち主は、いくら超能力器官を鍛えても、超能力者にはなれないのだ。

[3850] 哲学日記事始 h19.12.5
私は、九州大学に入って故郷を離れて一人暮らしをはじめてから日記を書き始めた。
大学生にもなって自分の考えひとつ持てない、いつまでも考えが曖昧なままの自分がなさけないと思ったからだ。
高校生までは、他人の書いた本を読むだけだった。
大学生は自由な時間を多く持てるし、それを活かなければと思った。
自分の考えをなにがなんでもはっきりさせてやろうという気持ちで書いた。
それと、東京大学に入った朝倉第2小学校や高知学芸中学高等学校で私と同級生だった柴田君が、エール出版の『私の東大合格作戦』の本に自分の投稿が顔写真入りで掲載されたのを見て「本は読むものではなく書くものだ。」と言っていたこともある。
最初の日の日記には、意志の太陽の周りを知覚の地球が回っている図を描いた。(→『ようこそようこ』のよっきゅんのマーク)
←大体こんな感じの図だったと思う。
あれから、はや23年にもなる。
私の哲学日記も、大学ノートからホームページになった。
私の考えも、最初の頃に比べるとだいぶ変わったしはっきりした。
しかし、いまだに自分の考えははっきりしないという気持ちがある。

[3851] 法王の権威 h19.12.5
法王の権威は、法王自身の宗教(超能力者であったキリストの教えを人々に守らせ広げること)の才能によって発生した権威(命令力)であって、
超能力者であったキリストの権威とは何の関係もない。

[3852] 日本政府の権威 h19.12.5
超能力者制を採る日本政府の権威は、日本政府の宗教家としての才能に対して発生した権威であって、
超能力者であった神武天皇や私(まだ生きているけど)の権威とは関係ない。

[3853] どうしてアジアにおける日本の地位は高いのか? h19.12.5
中国は超能力を評価していない。
日本と西洋は超能力を高く評価している。
日本と西洋はこの点において共通している。
西洋はいまや世界のリーダーだから、
日本も世界で国として高い地位に置かれているのだ。
つまり、国が発展したのは超能力を高く評価したからだと考えられるので、
逆に超能力を高く評価した国が発展すると世界中でなんとなく考えられているのである。
超能力を高く評価する国では、超能力者を人間よりも上に置くので、
超能力者制に人間を向上させる心理的効果があるのかもしれない。
あるいは、日本と西洋とは超能力を高く評価している点で共通していて、
日本と西洋とは気が合うので、
日本が西洋からいろんな援助を受けられるからである。
もちろん、日本が超能力者が出る国であることも忘れてはならない。

[3854] 中国の仙人 h19.12.5
中国の仙人(超能力者)は山奥にひとりだけで住んでいたから、
山奥にひとりだけで住むことが仙人の命令だったかもしれない。
つまり、中国も超能力者制に従ってきたのだ。
日本の神武天皇の命令が自分の子孫に政治的権力を与えることだったから、
たとえ天皇自身がそれを嫌がっても天皇はそうしなければならない定めなのだ。

[3855] 私の命令 h19.12.5
私の命令は今のところ宗教法禁止法と私の生活費の支給の2つしかない。
私の個人情報を使ったアニメや漫画やその他の文芸作品を作れとか、私の個人情報を商品の名前やデザインに使えという命令を出したことはない。そこで、今ここで、私の個人情報を他者が私の承認を得ずに使用してはいけないという命令を付け加えることにする。

[3856] 超能力者の命令の有効期限 h19.12.5
キリストは自分の命令に有効期限をはっきり設けなかったから、近代以降キリストの命令力が衰えたのかもしれない。
すると、やはり超能力者の命令は無期限有効なのか?
しかし、超能力の才能の価値はその希少さからいって学問の天才の才能の価値の10〜100倍程度であり、超能力者の権威といえども人間の権威の数億倍程度だから、やはり超能力者の死後時間がたてば衰えるのが世の常だろう。
[たとえ超能力者が自分の命令を無期限有効といったとしても]超能力者の命令力の半減期は1000年といったところか。
しかし、ニュートンの権威が衰えたのはニュートンの力学の基本原理が成り立たなくなってからだし、運動選手の権威が衰えるのは記録が破られたときだし、それに対して超能力の価値は今のところ損ねるものがないし[将来超能力者が教育や遺伝子操作で大量生産されれば価値は暴落するだろうが]、それなら超能力者の権威すなわち命令力は今のところ変わらないと考えるのが妥当なはずだ。したがって、超能力者の命令は超能力者が自分の命令を無期限有効とした場合やはり無期限有効になる。[私の宗教法禁止法と生活費支給法と個人情報使用禁止法は無期限有効とする。]一般に、超能力者の命令は、超能力者が命令を出した[例えば、私が命令を書いた]直後から超能力の価値がなくなるときまでの間有効とする。]
超能力の才能に対しては超能力者に権威(命令権)を与えるしかなく、このやり方が今でも通っているのである。そもそも学者や運動選手や芸能人に支払われる給料や研究費などの活動資金も、彼らの権威(才能に伴う命令力)によって決まることなので、同様に超能力者もその権威で自分の生活費の支給などが決められるのである。運動選手や学者や天皇のように、民間企業や国が超能力者のスポンサー(出資者)になれば、超能力者の個人情報を使った商品を作ったり超能力者が国の政策を承認することによって政策の施行力を強めたりすることができるのだろう。

[3857] 超能力競争 h19.12.5
キリストの正味の超能力は後光が差したことだけで、念光力の才能においては日本の神武天皇のほうが上だから、キリストの命令は聞かなくてよい。[私は、私が小学4年のとき、台所で晩御飯を作っている母親の身体(胴体部分)から後光が射[さ]す(放射状に白い光の筋が出る)のを見たことがある。それを見た私は感動のあまり一生この人以外を好きにはならないぞと誓った。私はどんなにナイスバディのおねえちゃんより後光が射した母親のほうが好きだ。]
私の超能力は念動力で家の中にある軽い物がちょっと動かせる程度だが、近代科学誕生以後はじめて正式に確認された超能力である。

[3858] 世界憲章 h19.12.5
世界憲章には『人類が超能力者に従わねばならない』と定められているらしい。
しかし、これは超能力者以外の者による超能力者に関する非公開の取り決めだから、私が定めた宗教法禁止法によって無効である。[たとえ、公開されても、私が定めた宗教法禁止法(その2)によって無効である。]
よって、今後は、私の定めた超能力者に関する規定に人類は従わなければならない。
超能力者に与えるべき権威(命令権)を決める理論、もっと一般に
『超能力者と他の人間との妥当な関係』を決める理論が現われないかぎり、
ひとまず私の取り決めでよしということにしよう。

もし、そんな理論を考え付いた人がいたら、私に御一報お願いしたい。
私の承認の上、その理論を採用したいと思う。

[3859] 超能力者制の予算について h19.12.5
超能力者が出現した最初の頃は、超能力者の命令を実行しても儲からないと思うかもしれないが、
そのうち超能力者の命令を実行するための制度が整ってきたら、超能力者の命令を実行するための適当な予算が配分されるようになる。
だから、予算のことは後回しにして、まずは超能力者の命令を実行することを考えるべきだ。
要するに、予算は命令のあとから付いてくるので、予算のことは心配しなくてもよい。

[3860] 女性の幸福 h19.12.5
女性は子供を産むために頭が弱くなって一生男の下手にまわって生きていかねばならないなから、かなり嫌なはずだ。
愛情のために知覚欲も支配欲も犠牲になるのだ。
だから、せめて、女性の愛情は十分に満足させてやる社会にしなければならない。
女性の愛情は子供の幸福のためにあるのだから、子供にとっても幸福な社会でなければならない。
子供心は単純で、子供を幸福にするなんておもちゃかお菓子をあげて遊ばせておくだけでいいのだから、さして難しいことではない。そのためには、昔の駄菓子屋のような店があちこちにあればいいと思う。
物質欲や五感欲なんかのくだらないかったるいどうせ満足させてもあまり幸福感が得られないふざけたしょうもない感情よりも、男にとっての知覚欲や女にとっての愛情や子供にとっての遊び心の満足を主体にしたそれぞれの国の老若男女みんなが幸福に生きて行ける社会を作らなければならない。性欲や賭博欲や麻薬欲の満足なんて刹那的な幸福感が得られるだけで後でもっと不幸になるから絶対に禁止しなければならない。五感欲も知覚欲が働かなくなって気分が落ち込んだ者にとっての生きがいというだけならば、世の中がくだらなくなるので認めないほうがよい。
予算は制度のあとから付いてくるので、予算は後回しにして、まずそういう社会を作ることだ。

[3861] 超能力者制の問題点 h19.12.6
私が超能力を発現する以前の時代は、日本各地でヤクザや押し売りなどがはびこっていた。[予算は命令のあとから付いてくるから、まともな収入のないヤクザでもどこからか何らかの収入を得て生きて行けるような仕組みになっていた。]
それは、当時はまだ天皇が日本の最高権力者であり[宗教法禁止法もなかったから]、天皇の気風に従うことを超能力者であった神武天皇の命令と見なして、日本各地で天皇の気風をまねた悪事が横行していたからである。 
そんな者に対していくら警察や市民が注意しても、『超能力者であった神武天皇の命令に従ってはいけない理由』もっと一般に『超能力者に絶大な権威(命令力)がない理由』を誰もはっきりと説明できなかったので、こんな非行が真昼間から堂々とまかり通っていたのである。
超能力者に強い権威(命令力)がある理由もなんだかよくわからないが、反対に超能力者に強い命令力がない理由もそれ以上にわからない。
そのために、天皇に因んださまざまな悪事がやっていけないことではないとされて当然のように行われていたのだ。
日本の超能力者の2代目である私が登場してようやくこのような悪事が禁止された。
そのため、私が生まれる前の日本を知っている年長者には「今の日本がいい。」と言う者が多い。
このような惨事を2度と繰り返してはいけない。
日本に(世界に)3度目の超能力者が現われる前に、なんとしても、超能力者に絶大な命令権を与えてはいけない理由、もっと一般的に超能力者と他の人間の妥当な関係を理論的に説明できる者が現われなければならない。
私が死んだ後では、はたして日本はどうなるかな?[超能力の才能の価値がなくなるまでは超能力者の権威(命令力)は絶大だから、超能力者である私の命令(私が書いた正しい命題を含む)が人間にすぎない天皇の命令よりも効くし、神武天皇の出した命令のうち死後も通用するのは自分の子孫である天皇に権力を与えることだけだから、次の超能力者が現われるまでは私の命令が多かれ少なかれ日本や世界を支配し続けるだろう。]

[3862] ヤクザ(暴力団)はどうしてなくなったか? h19.12.6
神武天皇の命令によると、[天皇の“法に反する暴力が好きな気風”に従って]ヤクザはあることになる。
一方、私の命令によると、ヤクザはないことになる。[私は「ヤクザをなくせ」というはっきりした命令を出したことはないが、小さいときからヤクザは嫌いだったので、当時はまだ有効だった宗教法によってヤクザをなくすことに決まったのだ。]
超能力者の権威すなわち命令力は大体みな同じだと考えられるから、神武天皇と私の命令力が相殺されて、超能力者の命令としては何にもないことになる。
ところが、人間社会全体としてはヤクザがないほうがいいと考える人の数のほうが多いから、人間社会の法則である多数決の原理によって、ヤクザがないことに決まったのだ。
私の死後は、私が出した宗教法禁止法があるから、天皇が「ヤクザを作れ」とはっきりと命令しないかぎり、2度とヤクザは出てこないだろう。

[3863] 天皇制について h19.12.6
神武天皇の命令では、天皇制はある。
私の命令では、天皇制はない。[天皇に権威はあるが政治的才能はないから天皇はないほうがいいと私は考える。]
したがって、神武天皇と私の命令を一緒にすると、超能力者レベルでの命令はないことになる。
したがって、あとは日本国民の多数決で、天皇制の存続か廃止かを決めればよい。

[3864] 多数決決定 h19.12.6
『超能力者と人間の妥当な関係』は、超能力者の超能力の才能による権威(命令力)で決まるのではなく、人間の知覚の才能で決まるのである。
だから、多数決決定によって、『超能力者と人間の妥当な関係』を決めればよい。ただし、多数決で決めさえすれば何でもいいというわけではなく、判断の正当性も考慮しなければならない。
超能力者に絶大な権威があるかないか、多数決で決めるなら、人間側の単純な希望としては当然ないことになるだろうが、実在的には果たしてどうなるだろうか?
単純に超能力者に絶大な権威がないとするのではなく、超能力者である私を含む少数意見も尊重して、超能力者に程よい権威を与えるべきである。つまり、ある程度までのことなら超能力者の命令を人類が聞くべきである。例えば、人類は超能力者に対しいくつかの特権(生活費支給権など)を認めるべきである。[ヨーロッパでも、近代に入る頃に、超能力者に与えられる権威についての見直しが行われたはずである。その結果、現在のヨーロッパ社会になっているのなら、現在の超能力者の権威もそんなに小さくはないはずだ。]

[3865] 超能力者と国の関係 h19.12.6
超能力者の超能力の才能に伴って発生する権威(命令力)は、そもそも超能力者個人のものであって国のものではない。
国が超能力者の命令を実行して超能力者を特別有利にしないのに、国が『超能力者が出た国』として国の権威を強めることは許されない。
超能力者が「国の権威を強める」とはっきり命令しないかぎり、超能力者によって国の権威は強まらない。
[私はこれまで一度もどこかの国の権威を強めるなんて命令したことはない。([3867]権威の法則参照)]

[3866] 最近の中国 h19.12.6
神武天皇の命令では、今の天皇は中国が嫌いだから日本と中国は仲が悪い。[昔、遣唐使を派遣した頃の天皇は中国が嫌いではなかったのだろう。]
私の命令では、私はとくに中国が嫌いではないから日本と中国は仲が悪くはない。
超能力者である神武天皇と私の命令が相殺されて無効になって、ようやく日中国交が回復した。
ところで、最近中国を含めてアジア全体の権威が世界的に強まったのは、アジアが『超能力者が出た地域』としてアジア全体の権威を強めたからではないか?[権威(命令力)が強いと、商談の取引等の際有利になる。]
これは、超能力者である私個人の権威を国や地域が私に無断で勝手に吸収して自分の権威とすることだから、超能力者である私の権威の横領であって許されない。
以後このようなやり方で他者が私の権威を使って自分の権威を強めることを禁止する。

[3867] 権威の法則 h19.12.7
命令者が自分自身の命令力を変える命令はできないが、自分よりも命令力が弱い他人の命令力を変える命令はできる。ただし、自分の命令力以上の命令力を他人に与えることはできない。
また、学者の権威が学者が属する学界の中で主に通用するように、相撲の力士の権威が角界の中で主に通用するように、超能力者の権威も超能力者界で主に通用するのだが、超能力者界という限定された集団は特に存在しないから通常超能力者界はこの世界全体だと考えられている。[中国の太極拳は、スポーツであって超能力ではない。]

[3868] 日本はなぜ不景気なのか? h19.12.6
超能力者一人の権威(命令力)は、日本一国の権威よりも強い。(ひょっとしたら、全世界の権威よりも強いかもしれない。)
だから、日本は昔から神武天皇の命令に従わなければならなかったので天皇制を採ってきたのである。
最近の日本が不景気なのは、日本が超能力者である私の命令(これまで宗教法によって命令と解釈されたことを含む)を聞かないから、世界中の権威に詳しい人々の手によってその制裁として国際的にあるいは国内的に日本が不景気にされているのだ。

[3869] 未解決の問題 h19.12.7
『超能力者の権威の強さ』を決める理論、もっと一般的に
『超能力者と他の人間の妥当な関係』を決める理論は、今のところ存在しない。[超能力者にかぎらず、一般に人間の権威の強さを決める理論は今のところ存在しない。]
だから、それらは今のところ絶大な権威(命令力)を持つとされる超能力者によって一方的に決められる。[私としては、超能力者にいくつかの具体的な特権(生活費支給権など)を与えるのが妥当だと思う。]
超能力者が絶大な権威を持つのは、やはり超能力の才能の希少価値と神秘性(科学的に未解明であること)によると考えられる。

[3870] 超能力者の命令の無効化 h19.12.7
今の天皇なんかただいるだけでちょっとした外交以外は何にもしない。
神武天皇の命令を聞いて天皇に大きな権威を与えるなら、
天皇はもっとわがままな利己的な命令を日本国民に対してどんどん出せるはずである。
しかし、実際には、天皇がそんな命令を出すことはない。
日本における仏教も、釈迦の命令を聞いてシャカの教えを守るのではなく、
実際にはわけのわからない念仏をちょっと唱えて仏壇に拝むだけである。
キリスト教も、本来はキリストの教えを忠実に守らなければならないが、
現在のキリスト教は、たぶん日本の仏教と同じように、かなり形骸化しているはずだ。
神武天皇や釈迦やキリストは超能力者で、本来は超能力者には絶大な権威があるから、超能力者の命令には人類は絶対的に従わねばならないはずである。
しかし、超能力者のわがままな命令に従わされても人類が幸福になることはなく、超能力者の命令に従わされることは人類にとって迷惑だった。
そこで人々は、そもそも超能力者に絶大な権威を与えたことがまちがっていたと反省した。
それで、超能力者の命令をあまり迷惑にならない程度に弱めて従うことにした。
それが現代の『超能力者と人間の妥当な関係』である。

ところで、神武天皇や釈迦やキリストが生きていた時代には、超能力者の生活費ぐらい人類が当然出していたはずだし、同じ超能力者である私の生活費ぐらい人類が出しても人類の生活に支障をきたすほどの大きな問題ではないから、この度の私の生活費(月に25万円程度)支給法は現代の『超能力者と人間の妥当な関係』においても十分通用する命令である。
神武天皇や釈迦やキリストの命令に従うために各国が要する予算は、月に25万円以上はかかっているはずである。
したがって、人類は私の生活費支給法の命令に従わなければならない。
宗教法禁止法は、人類の安全のためには当然なければならない。
超能力者の個人情報使用禁止法は宗教法禁止法の一種であると考えられ、超能力者の個人情報を使用する目的がまったく不明であるし、超能力者と人類の両方にとって面白くないことが多いから、これもまた当然なければならない法だといえよう。

[3871] 超常現象に対する心理反応について h19.12.8
私は小学4年生のとき台所で晩御飯を作っている母親の体幹から後光が射すのを見て、一生この人以外は好きにならないぞと自分の心に誓った。
この例のように、超常現象を間近で見ると何か人間以上の技に触れたような感動を覚えて帰依したくなるような気持ちになる。
人間の心には生まれつき超常現象に対する感情が備わっていて、その感情の味は一生忘れられないほどすばらしいものである。
純粋な心で見るとこの世のものでないほどの感動を生み出す超常現象も、合理的精神を持って知覚で見るとたんなる感覚波芸の一種にすぎないというのが悲しいことである。

[3872] 『それでも念動力は存在する。』 h19.12.8
現代科学では、超能力の存在は未知である。
そのため、科学者から見ると、超能力の存在はたんなる作りごとの嘘にしか見えない。
しかし、思っただけで光の玉を出したり、物を動かせたりする超能力は実在する。
だから、そのような超能力が可能になるような世界観を作り上げねばならない。

[3873] 超能力者の超能力は消せるか? h19.12.8
私の宗教法禁止法があるから、将来超能力者が現われても、2度と人間が勝手な取り決めをして超能力を消すことはできない。
私は超能力を消すなと命令するから、超能力者としての私の権威によって、将来超能力者が現われたら私のこの命令が通用する。
たとえ、これまでに現われた超能力者が超能力を消せと命令したことがあっても、私の命令と相殺されて無効になる。
だから、最終的には人間の判断で決めることになるが、これまでの超能力者に関する経験から、超能力が現われるのは超能力者の生涯のほんの短い間だけで超能力で被害にあった人はこれまでにいないから、[また、私の理論によれば、超能力でできることは感覚波でできることに限られていて、エネルギー的に小さいことしかできないので危険性は低いと考えられるから、]わざわざ超能力を消す必要はないし、超能力についての科学的データを採ることは人類の科学知識にとって有益なことであるから、超能力を消さないほうがよいはずである。よって、人間が合理的判断に基づくかぎり、超能力を消すことはできない。

[3874] 超能力の存在意義 h19.12.8
学問は、人類の生活を物質的精神的に豊かにするから、その存在価値があることはいまさらいうまでもない。
スポーツは、人間の肉体および精神の健康を維持する上で効果があり、スポーツ好きな人にとっては生き甲斐になるから、スポーツにも存在意義がある。
超能力は、今のところはまだこれといって人間の実生活を豊かにするものではないが、超能力には人間の才能の無限性を感じさせる魅力があるし[実際には、感覚波でできることに限られると思うが]、超能力(超常現象)に対する心理反応には独特の感動があるから、やはり超能力にも存在意義があり、実際そのために今でも超能力好きな人が世界中に大勢いるのである。

[3875] 超能力者の私生活保護法 h19.12.8
超能力者も人間と同じように幸福に生きる権利があるから、
『今後超能力者が幸福に生きようとするのを他人が邪魔してはならない』ことを命令する。
私が高校生で分裂病に罹っていたときには、幻聴やガン飛ばしなどでさんざん勉強を邪魔されたし、
はじめて愛知県の稲沢で就職したときにも、私が睡眠中に隣の部屋でミニコンポをうるさく鳴らされてほとんど眠れない日が10ヶ月ぐらい続いた。豊岡でも和田山でも、上の部屋や隣の部屋でうるさい音を立てて眠れない日が数ヶ月〜半年続いたことがある。
そんな苦しみを今後私や将来現われる超能力者に対して与えてはならない。

[3876] 超能力者認定証 h19.12.8
『水戸黄門も印籠なければただの人』であるように、超能力者にも超能力を発現した事実を証明する物がなければただの人になってしまうから、
超能力者にも超能力者であることを他人に明確にわからせるような(運転免許証のような)認定証を国や世界などの組織がきちんと与えるべきである。[私もできれば欲しい。]
それは超能力を発現した日からなるべく早く本人かその親に与えることにする。
その認定証には超能力者がいつどこでどんな超能力を発現したかをできるだけ正確に記しておくとよい。
そうすれば、誰が超能力者であるかがみんなにはっきりとわかるから、超能力者に超能力者に関する法を明確に適用できるようになり、超能力者に関する法的事項を処理しやすくなって便利である。(要するに、運転免許証やその他の資格証明証と同じ。)

[3877] 超能力者に関する法☆☆ h19.12.8
この前私が宗教法禁止法を定めたから、これまでの人間による超能力者に関する取り決めはすべて無効になった。
そこで、今ここで、私が私自身および将来現われる超能力者に対する取り決めを定めることにする。
まず、超能力者には超能力の才能の希少性と神秘性による絶大な権威(命令力)が与えられる。[と、超能力者である私が超能力者の絶大な権威を用いてひとまず定めることにする。]
超能力者は“人類にあまり迷惑にならないかぎり”人類に対して自由に命令を出すことができる。[したがって、これまでに私が出した命令も“人類にあまり迷惑にならないかぎり”すべて有効である。ただし私の命令について後の命令が先の命令に反する場合には、後の命令だけを有効とする。]つまり、超能力者は人類に対して自由に命令をすることができ人類は命令に従わねばならないが、人類にとってあまりにも迷惑になる(損害が大きい)命令に対しては人類は超能力者の命令に従わなくてもよい。[例えば、釈迦やキリストが人類に対して自分の教えを守れという命令を出してから2000年も経つと、さすがに教えの内容が古臭くなり教えを守ると人類の文化の発展が妨げられるようになったので、釈迦やキリストの教えに忠実に従わなくても、形の上だけで教えに従うフリをするだけでいいことに改められたが、そんな実のないことをするくらいならいっそ思い切って全部やめてしまってもいいということである。日本の天皇制も、神武天皇の時代には親の地位を子供が継ぐのが当然だったが、そのやり方では社会的に重要な地位を無能な人間が占めることになり社会の発展が妨げられるので、現在ではやめたほうがいいと考えられる。]
超能力者の出した命令は、[人類にとってあまりにも迷惑にならないかぎり]半永久的に有効とする。
私以外の超能力者がこれまでに出した命令は私の命令に反しないかぎり有効である。私以外の超能力者がこれまでに出した命令が私の命令と対立した場合には、相殺されて無効になり、あとは人類側の判断で自由に決定することができる。
人間が超能力者の命令に反した場合には、超能力者の権威に応じた罰がその者に与えられる。
ただし、将来、超能力のメカニズムが科学的に明らかになり、超能力者が大勢現われ、超能力の価値が暴落すれば、超能力者の権威もなくなることにする。
また、『超能力者の権威の強さ』を決める正当な理論、より一般に『超能力者と人間の妥当な関係』を決める正当な理論が現われれば、超能力者もそれに従うことにする。[私は、超能力者が普通の人間よりも少し幸福に生きて生けるためのいくつかの具体的な権限(生活費請求権(ただし上限付き)など)を超能力者に与えればそれでいいと思う。それが『超能力者問題』に対する平和的かつ経済的な解決だと思う。そうすればいちいち超能力者の出す命令に従わなくてもいいから、人類にとっては楽である。しかし、これではややお粗末な答えだし、将来もっと名案が出るかもしれないから、それまでの間はこれまでの人類の歴史的伝統も踏まえて超能力者に万能命令権である権威を与えることにしておく。]

[3878] 超能力者の生活費請求権について h19.12.9
超能力者にはその類稀[たぐいまれ]なかつ神秘的な超能力の才能による強い権威(命令力)があり、人類に対していろんな命令を出すことができるが、超能力者の命令のうち人類にとってあまりにも迷惑な命令には人類は従わなくてもいい。
だから、超能力者の命令のうち人類にとって有益な命令かまたはあまり迷惑にならない命令を人類は聞けばよいことになる。
超能力者の生活費請求権(生活費支給法)は、私を含む超能力者みんなが“善い命令”を出すための必要経費だと考えれば納得できるはずだ。

[3879] 現代における宗教 h19.12.9
超能力者には超能力の才能による絶大な権威があり、人類に対して自由に命令することができる。
ところが、超能力者に人類にとって迷惑になる命令を出されては困るし、迷惑になるかならないかの判定はときどき難しいことがある。
そこで、超能力者の命令を人類にとって迷惑になる(人類を不幸にする)命令とあまり迷惑にならない命令と有益な(人類を幸福にする)命令に分類し、人類にとって有益な命令とあまり迷惑にならない命令だけを実行する機関が必要になる。ときには、その機関が超能力者に対して命令の訂正を求めてもよい。もちろん、超能力者の命令の分類および実行は、実在についての最新の知識に基づいて正当になされねばならない。
その機関が現代における宗教である。その機関には、これまでの宗教のような非常識な人間を入れてはならず、健全な知性と心を持った者から成る組織でなければならない。
その機関を運営するための予算も必要だから、国や世界がそのための予算を出さねばならない。[超能力者に対する予算も忘れてはならない。]

[3880] 超能力者の生活費請求権について(その2) h19.12.9
超能力者が出たという事実は、現代のような高度情報化社会においてはすぐに世界中に広がるだろう。
超能力者が出た国は、多かれ少なかれそのために得をするはずだ。[そんなことないというなら、“超能力者の誕生祝”のようなものを超能力者が現われた国に対して世界中の国々が出す制度を私の権威で決めてもよい。]
そのお返しとして、超能力者の生活費の面倒ぐらい国が見てやってもいいではないか。国民全員の分担にすれば、個人一人一人にそんなに迷惑をかけることもないはずだ。

[3881] 超能力者は人間国宝 h19.12.9
超能力は“技”だから、超能力者は重要無形文化財としての技の保持者として“人間国宝”に相当する。
国は人間国宝に認定された個人や団体に対して、その支援と保護を行う。
超能力の場合には、超能力の発現は超能力者の生涯の短期間だけに限られるが、超能力者が生きているかぎり超能力が甦る可能性があるので、超能力の保護はすなわち超能力者の保護であり、国は超能力者を保護するために超能力者の生活費を支給する義務があると考えられる。
そもそも超能力者は、超能力によって与えられた権威(命令力)よりも超能力の才能そのもので評価されるべきであり、国は超能力の才能を消すことよりも超能力の才能の保護育成にこそ力を入れるべきであり、国はそのための予算を出さねばならない。
でも、超能力者に権威を与えることがこの世界の法であることが公認されているのなら、超能力者を人間国宝と認めた上で、[3877]に書いた条件つきで超能力者に権威を与えてもよい。人間側が超能力者に権威を与えるか与えないかわからないというのなら、私は超能力者にとって有利にするために超能力者に権威を与えることにする。仮に超能力者が人間よりも進化した生物であるとしても、超能力者が人類を支配して人類を苦しめるよりも、人類と超能力者とが助け合って世界全体をよくしていったほうがいいから、そのために超能力者に権威を与えることは一概に悪いこと(人類にとって不利益なこと)ではない。たとえ私の次に現われた超能力者がわがままな暴君であったとしても、しょせん超能力者ひとりきりでは何もできないし、宗教家も人類の過去の歴史を振り返ってみて超能力者に行き過ぎた権威を与えることはまちがいだとわかっているから、たとえ超能力者と宗教家が組んだとしてもそれほど悪い(人類を不幸にする)ことはできないはずであり、たとえ次の超能力者が悪い命令を出したとしてもこの度の私の命令では超能力者が善い(人類を幸福にする)命令か悪くない(人類をあまり不幸にしない)命令しか出せないことにしたから、超能力者の命令としては私の命令と次の超能力者の命令とで相殺されて、あとは人類が多数決で決めればいいから、人類全体にとって有利に決められるはずである。

[3882] 超能力者と人間の妥当な関係 h19.12.9
昔、あるところに不思議な超能力が使える超能力者が現われた。
村の人々は超能力者を見たことがなかったから、人間が超能力者をどのように扱ったらいいのかわからなかった。
それで、村のみんなが話し合って、ひとまず超能力者を人間よりも上に置いて超能力者の言うことをみんなで聞くことにした。
それが超能力者制のはじまりである。
昔は学校がなかったのでバカが目立たなかったから、超能力があるだけで人類の長[おさ]になることができたのだ。
しかし、現代では超能力者はただ超能力の才能が発達した人間にすぎないから、超能力者を人間の上に置き超能力者に絶大な権威を与えることは超能力者と人間の妥当な関係とは考えにくい。
だから、超能力者には絶大な権威を与えず、ただ超能力の才能がある人間として超能力の才能の優れた点を高く評価すればいい。
できれば、私の希望としては、その高い評価を超能力者の実生活における幸福に結び付ける社会制度があって欲しいのだが。[今のところは、残念ながらない。]

[3883] テレビ文化の下品さについて h19.12.9
たとえ私が結婚してテレビアニメのヒロインのような女の子が生まれたとしても、
私の子供が「私、かわいい?」と私に尋ねたとしたら、
私は惑わずその子をぶって、
「お前らのかわいさは身体だけにょ。
母親のかわいさはお前らとは次元が違うにょ!」と答えるだろう。

←私のお気に入りの1枚
『アニメージュ』2007年12月号142ページより

[3884] 『超能力者に絶大な権威はない。』 h19.12.9
たとえ私が、「超能力者に権威はない。」と言っても(書いても)、超能力者の私に権威があると考えている人にとっては依然として私に権威があるままである。
私に権威があるかないかは私の命令で決められることではなく、個人の考えによって決まることなのだ。
だから、たとえ一時的に、私が「超能力者に権威がない」と言っても、その後で私が「超能力者に権威がある」と言い直せば、以前私が述べた私の命令に関する規定“先の命令と後の命令が食い違う場合にな、後の命令が先の命令よりも優先する。”によって、私に権威が戻ることになる。
ただし、この前私が出した宗教法禁止法は、私に権威があると考えている人にとっては私の命令である宗教法禁止法に従わねばならないから以後私に関する取り決めは自分で作れないことになるし、
私に権威がないと考えている人にとってはもとから私に権威がないと考えているから最初から私と無関係な世界に生きているのでやはり私に関する取り決めは作らない。
つまり、宗教法禁止法は私に権威があると考えようがないと考えようが万人に対して有効な法なのだ。
このように、もとから私に権威がないと考えている人は私とはそもそも無関係な世界に生きているので、その人たちは私の命令を聞かず、
私に権威があると考えている人だけが私の命令を聞くのである。
そして、『超能力者の私に権威があるかないかを決める理論』がまだ存在しないので、私に権威があるかないかは個人が自由に決められることである。
ただし、私がこの前宗教法禁止法を出したから、超能力者の私に権威があると考える人たちは以後は私の命令に忠実に従うほかはない。
例えば、私が「私の超能力者としての評価を私の実生活における幸福に結びつける社会制度(換金システムなど)があればいい」と言えば、私に権威があると考える人々がその制度を設けるように働いてくれるはずである。
[超能力者すべてに権威を置く(権威があると考える)人にとっては、私の後に現れた超能力者に権威を置くのなら、同じ超能力者である私にも権威を置かねばならないから、私の宗教法禁止法に従わねばならないことになり、私の後に現れた超能力者についても自分たちで勝手な取り決めはできないことになる。ただ、私には権威を置かず私の後に現れた超能力者“だけ”に権威を置く人にとっては、私の宗教法禁止法が効かないので、その超能力者に関する勝手な取り決めで世界を動かせることになる。[例えば、私の例で言うと、ある政治家の発言にブ(またはB)音が入っていないという理由だけでその政治家が殺されたり失脚したりする。]そうならないためには、その超能力者になるべく早く私と同じ宗教法禁止法を出すように誰かが教えてやればいい。それにしても、いつまで同じことを繰り返せばすむのだろうか?(やはり、超能力の価値が暴落するのを待つしかないのだろうか?)]

[3885] 宗教法の仕組み h19.12.10
『超能力者の権威(命令力)の強さを決める理論』は今のところ存在しない。
だから、超能力者の権威の強さは個人が自由に決めることができる。
なかには、超能力者に一国の権威よりも強い権威があると考える人もいる。
そんな人にとっては、超能力者に“従って”いれば国の法律は取るに足りないものとして無視できることになる。
しかも、超能力者に対する“従い方”は、宗教家によってある程度自由に決めることができる。
だから、宗教家が超能力者に“従い”ながらある程度の制限つきで国や世界を支配できることになる。
つまり、宗教家が超能力者と人間の間に挟まって人間をある程度自由に動かすことができる。
しかも、宗教家が超能力者に“従って”いるかぎり人間よりも上の存在だから、たとえ首相や警察でも宗教家に口出しすることができない。[ただし、その場合、厳密に言うと、首相や警察も超能力者に絶大な権威があると認めていなければならない。]
これが宗教法の仕組みである。
しかし、これでは、人類にとって迷惑である。
だから、この前私が宗教法を禁止した。

[3886] 川野教はできるか? h19.12.10
この前私が宗教法禁止法を出したから、
私が「私の教えを守り広めよ」という命令を出さないかぎり、
川野教はできない。
しかも、超能力者に権威を置くか置かないかは個人の自由だし、
どの超能力者に権威を置くかも個人の自由である。[そもそも大昔から自由である。]
だから、たとえ私が「私の教えを守り広めよ」という命令を出したとしても、
私に権威を置く者の間でしか川野教は流行[はや]らないだろう。

[3887] 宗教は義務か? h19.12.10
『超能力者に人間は従わねばならない』ことを証明できれば、
宗教すなわち超能力者に人間が従うことが義務化できるが、
今のところこの命題の証明は存在しない。
したがって、宗教は義務ではない。

[3888] 川野教 h19.12.10
超能力者である私に権威があると考える者から成る集団がある。
超能力者である私はその集団に対して命令を出すことができる。
超能力者である私と私に権威を置く者から成る人々の集まりが『川野教』である。
そこで、まず最初に、私はその集団に対して「私に私の生活費として月30万円支給せよ」と命令する。
その集団の代表者を決めて、その代表者が私に月30万円を支給できるように、各人に支払い金額を割り当てて集金し私の口座に入金しなければならない。その際、代表者が手数料としていくらかお金をもらってもよい。
もちろん、個人的に私の口座へ直接振り込んでくれてもかまわない。その貢献度に応じて、私からその者に権威を与えるようにしてもよい。(ただし、その権威は川野教の中でのみ有効とする。)
今後、私の命令が追加されるかもしれない。川野教の発展は、私が出す命令によって決まる。
私に権威を置く集団の中では、私の命令に論理的に従うかぎり他者に命令することができる。
しかし、私に権威を置かない人々に対してまで私の命令に従わせることはできない。
ただし、私の命令に他者を従わせる際、他の人間関係を併用することも許される。

[3889] 権威の数量化 h19.12.10
個人的に私の口座へ振り込んでくれた方には、私から権威を与えることにする。
その権威は川野教の中でのみ有効とする。
権威の単位は、私の名前に因んでK(ケイ)とする。
その際の換算レートは、1円=1Kである。
K値の多い者ほど、川野教の中で強い命令権があることになる。K値の多い者が少ない者に対して、私の命令とは無関係に、自分の命令を出すことができる。
他に、私が特に気に入った者に対して、無料でK値が与えられることがある。
K値の付与は、私のHPの哲学日記上にて公表することにする。[ジャパンネットバンクのほうが早く反映されます。愛知銀行は現在通帳記入できなくなっておりますので、お振込み人名の確認ができません。郵便貯金は通帳が親元にありますので、これも確認できません。つまり、ジャパンネットバンクだけしか振込み人名の確認ができません。]
お金で権威を買えるチャンスは、私が生きている間だけ!この機会を見逃すと、2度と手に入らないかも?みなさん、よく考えて投資しましょう。[ご購入いただいた権威は、超能力者が大勢現われて超能力の価値が暴落するまで半永久的に有効です。]

[3890] 政治家はどうしてこれまで超能力者と人間の妥当な関係を決めなかったか? h19.12.11
超能力者が何千年かに1度現われることは、すでに人類のこれまでの歴史からわかっていたことだから、超能力者に対する適切な対処法についてすでに政治家達が考えたにちがいない。
しかし、日本の憲法を見てもわかるように、どこにも超能力者のことが記されていないから、実際にはこれまで超能力者の対処法について考えた者はいない。
これまで人間が超能力者と人間の妥当な関係を定めなかったのは、猿が人間についての法を作らないように、超能力者を人間よりも上の存在だと見なしているからだろう。
超能力者を人間と同等に見なしているなら、当然超能力者についての法がすでに存在しているはずである。
たとえ超能力者が人間より上であろうが同じであろうが下であろうが、とにかく超能力者は超能力者なので、この前私が出した宗教法禁止法は依然として有効である。
しかし、私が出した宗教法禁止法の命令を宗教家を含む人類全体が聞いたということは、人類が私に従うことをすでに決めていたとしか考えられない。
なにも超能力者の命令に対して人類が絶対的に従わなくても、超能力者は超能力があることで普通の人よりも多少幸せに生きて行ければそれで十分である。
実際、私は最近まで自分が超能力者であり自分に絶対的な命令権があることを知らなかったが、そんな命令権があって不幸にされるよりもそんな命令権がなくて幸福に生きて行けるほうがはるかにいい。
超能力者の命令に人類が絶対に従うという大袈裟な取り決めのために、どれだけ多くの人間や超能力者が不幸にされてきたことか。
第一、超能力者に対して自分が超能力者であり人類に対する絶対的な命令権があることを教えないのは、おふざけ以外の何物でもない。
たしかに、超能力者と人間の妥当な関係は超能力者の権威で決める以前の問題であり、頭のいい人なら超能力者でなくても考えて決めればいいことだし、実際超能力者よりも頭のいい人はいっぱいいる。
それなのにこれまで誰もそうしなかったのは、超能力者自身について及び他の超能力者について及び超能力者と人間の関係については、人間が決められることではなく超能力者にしか決めてはいけないことになっているからだ。人類が本音で超能力者を人間よりも上の存在だと考えているとは考えにくいから、それは私以前の超能力者たちが超能力者を人間よりも上の存在だと決めてきたからであろう。
そのために、これまで超能力者が現われたときの対策を人類が立てることができなかったのである。
そこで、今ここで、私は超能力者と人間の妥当な関係については超能力者以外の人間が決めてもよいことにする。ただし、その決定はでたらめではなく実在的観点から見て正当なものでなければならない。
でも、そうなると、この問題はそんなに容易なものではない。実際に、現在のところ、この問題に対する解答はまだ存在しない。だからこそ、この問題の解答を人類自ら出すのを放棄して長らく超能力者に委ねてきたのだ。ところが、肝心の超能力者は超能力の才能があるだけで残念ながら頭はよくなかったので、まちがった答えになってしまった。人類の無責任が自らに招いた災いだと言えよう。
私なら、私や私以降に現れる超能力者のためには、超能力者には自分が超能力を現したことがあることをなるべく早いうちに(遅くても12歳までに)はっきりとよくわかるように教えてやり、超能力者には超能力の才能があることで“多少普通の人よりも幸福に生きて行ける道”を用意してやるほうが、超能力者にとっても人類にとってもともに幸福なはずである。
超能力者に絶対的な命令権を与えるよりも、超能力者にいくつかの限られた特権を与えたほうが人類にとってははるかに安全で無害だから、これを将来『超能力者と人間の妥当な関係』の問題が解けるまでの暫定[ざんてい]的な答えとしよう。
超能力者に人類に対する絶対的な権威(命令力)を与えると話が大袈裟になりすぎて人間社会がうまく行かなくなるから、その代わりに超能力者に幸福な人生を送ってもらうために超能力者にいくつかの特権を与えることにする。人類に対する絶対的な権威(命令権)など、きちがいの独裁者以外喜ぶほどの代物[しろもの]ではない。
要するに、超能力者の人生の幸福が保証されればいいわけで、そのひとつがこの前私が定めた超能力者の生活費支給法すなわち超能力者の生活費を全額国が負担することだ。ただし、超能力者ひとりに掛ける予算は国家予算の1%までとする。(平成19年度において日本の国家予算が200兆円くらいだから、超能力者ひとりに1年間に2兆円まで出すことになる。使い切れなかったお金は国に返還することにする。)もっとも、生活費支給法が適用されるのは超能力者が生きている間だけで超能力者の子孫には支給されないことにする。超能力者の子孫は超能力がなければただの人だから、超能力者法の適用とはならないからである。ところで、天皇については、神武天皇が作った法だから、他人である私が口出ししたくはないが、今の私なら才能で見て当然上のように考えるから、神武天皇の考え方はあまりにも親バカすぎたわけだし、神武天皇も自分の取り決めで後世どんな問題が生じるかまでは細かく考えなかっただろうから、私の考えと神武天皇の考えを折衷して天皇に関する超能力者全体としての取り決めはなかったことにして、あとは人類が自分たちで判断して好きに決めればいい。
たしかに、この私の生活費支給法の取り決めは私の頭がよくなくて到底エレガントな解答とは言い難く下手な解答だけれども、いきなり『超能力者と人類の妥当な関係』への完全な正解に達するのは私以外の人にとっても難しいことだから、将来この問題に対する正解が見つかるまでの間、しばらく人類はこの私の下手な不完全な解答で我慢してもらうことにする。
今後私が超能力者に与えるべき他の権利が見つかったら、漸次[ぜんじ]付け加えることにする。[超能力保護法;超能力者の超能力の才能を他者が無くしたり減らしたりしてはならない、もあったほうがいい。宗教法禁止法は言うまでもない。]
それにしても、私の次の超能力者は『超能力者と人類の妥当な関係』にどんな解答を与えるのだろうか?(人類は早めに正解を出したほうがいい。)

[3891] 超能力者に対する罰則 h19.12.11
古来より超能力者には絶大な権威がある。この権威は超能力の才能が希少価値や神秘性を失い、超能力の価値が暴落するまで続く。
現代では超能力者の権威が漠然とした絶大な命令力としてではなく、いくつかの具体的な権限として成文化されていることが望ましい。
超能力者がその権威の行使により人類に対して多大な損害を与えた場合には、超能力者の権限が一部制限されることがある。(例、宗教改革、日本国憲法など)

[3892] 超能力に危険性はない。 h19.12.11
超能力が危険なもの、例えば宇宙に穴をあけるような性質のものであれば、超能力が一度発現した時点ですでに宇宙は終わりになっているはずである。
しかし、超能力が1度現われても、宇宙にはなんら変わりはない。
2,3度現われても別に変わりはない。
これまでに超能力で人が病気になったり死んだと言う記録もない。
超能力が人間が生まれつき持っている感覚波を操る能力が発達したものであるとすれば、超能力は自然食品のように安全であると考えられる。
だから、超能力を危険視する必要はない。
むしろ、超能力を保護育成して、その実体を科学的に明らかにすることが人類の科学知識の発展にとって望ましい。超能力の応用は、人類の物質的精神的幸福にとってきっと役立つことだろう。
だから、私はここに超能力者の絶大な権威でもって『超能力保護法』を制定し、それを未来永劫有効とする。

[3893] 超能力者に権威を与えることは妥当か? h19.12.11
東大生ぐらいの知性で超能力者に権限を与えていけない理由がわかるなら、とっくの昔に超能力者に権威を与えなくなっているはずだ。
それがいまだに廃止されずに続いているのは、現代においても超能力者に権威を与えることが人類にとって妥当だと考えられているからである。
その理由は、昔は超能力者が神だと考えられていたからだろうが、今では超能力の才能の希少価値と神秘性にあると考えられる。
現代では超能力者に罰則まで用意されていることだし、人類にとってあまり迷惑にならなければよしとするか。

[3894] 天皇制について h19.12.11
天皇制は天皇の絶大な権威を国が利用するためにある制度ではなく、神武天皇の命令でしかたなく続いている制度である。
実際に、これまで天皇制が日本国民にとって有益であったことはほとんどない。
だからといって、それを理由に天皇制が廃止されたこともない。
それは、天皇制が神武天皇という超能力者の絶大な権威(命令力)で始められた制度だからである。

[3895] 超能力者社会学 h19.12.11
これまで『超能力者と人類の妥当な関係』について研究する者がいなかった。
それは、すでに現われた超能力者(またはその子孫)または宗教家や政治家たちが、その手の研究を妨害し続けてきたからであると考えられる。
そこで、『超能力者と人類の妥当な関係』についての研究を、なんびと(超能力者を含む)によっても妨げられることなく、人類や超能力者が自由にできることにする。【超能力者と人類の社会関係について自由に研究できる法】
超能力者と人類の関係が不自然であると、人類にとっても超能力者にとってもともに居心地が悪いものだ。
しかし、『超能力者と人類の妥当な関係』について万人が認めるようなはっきりとした結論が出るまでは、現行の超能力者制すなわち超能力者に絶大な権威を与えることで行くことにする。将来『超能力者と人類の妥当な関係』について正当な結論が出れば、超能力者(とその子孫)や宗教家や政治家もそれに従うことにする。

[3896] 超能力者に関する情報の公開について h19.12.11
超能力者のことは、新聞にも教科書にも出ていないし、事典にすら出ていない。
超能力者に関する情報を人類が隠してきたのは、そうすることによって宗教家や政治家などの得をする者がいるからである。
超能力者が現われても、[超能力者の超能力が出ないようにして]超能力者をなんだか実体がよくわからない神にしてしまえば、人類はわけもわからずその者に従うほかはなく、あとは自分たちが決めた超能力者に関する勝手な取り決め(宗教法)で自分たちが利益を得ることができるとそういう連中が考えたからである。
しかし、こんなやりかたがいいわけがない。上海列車事故やNY貿易センタービル事件などは、一部の人間だけで勝手に決めた宗教法による犠牲者である。[NとYは、私と私の両親の名前のイニシャルである。]
だから、今ここで私は、宗教法禁止法に加えて、超能力者に関する情報を世界中の人々に公開しなければならない『超能力者情報公開法』を定める[未来永劫有効とする]ことにする。(もちろん、超能力者に関する情報は正しいものでなければならない。超能力者(またはその親)が匿名希望の場合には、顔や名前や住所を伏せて公開することにする(国名ぐらいなら公開してもかまわない)。ただし、超能力者の超能力以外の私事に関することはあまり公開しないことにする。)[私なら、今のところ、私に超能力者認定証を与えて、私の顔と住所を伏せて私の名前と性別と年齢と国籍及び私が発現した超能力についての事実までは公開してよいとする。]
また、超能力者や人類に対してこれまでに宗教家や政治家達がやってきたこと(例えば、超能力者の身体に処置をして超能力を取り除いたこととか、自分たちが決めた宗教法でいろんな人を殺したりしたことなど)についても公開しなければならないことにする。

[3897] 宗教法による犯罪について h19.12.11
この前私が宗教法禁止法を出した。
したがって、これまでの宗教法による犯罪は、宗教法がなかったこととして行った場合の罪に相当する刑罰を首謀者に対して与えることにする。[詳細は刑法に詳しい方にお任せする。]

[3898] 天皇と政府の関係 h19.12.11
天皇は神武天皇の命令によって強い権威(命令力)がある。
しかし、天皇には国の政策を適切に決定する政治的才能がない。
そこで、天皇と政府が組んで、政府が天皇に政策の承認を得ることによって、政策の命令力を強めているのだ。
天皇の権威が強ければ、外国に対しても命令ができるから、日本が有利になる。
反対に、天皇の権威が弱ければ、外国に対して命令できず、日本が不利になる。
私は超能力者だから神武天皇と同等の権威があるが、
今の私は世界中のどこの国の政府とも組んでいない。
私は、政府がいちいち天皇に頼らなくても、政府自体の権威(命令力)によって、国民や外国に対して命令すればいいと思う。
天皇は政府の権威を強めるためのおまけのようなものだ。
もしも私が日本政府と組めば、天皇と私の2人がかりでますます日本政府の権威が強まり、国内国外の人類に対する日本政府の命令力が強まって日本が国際的に有利になるかもしれない。
しかしながら、私にとってはそもそも超能力者に強い権威があること自体に強い疑問があり、たとえ超能力者に強い権威があることが正当だとしても、今のやり方ではまちがった政策が通りやすくなるだけで人類全体のためにならないと考えられるので、政府に協力する気にはなれない。本当に人類を幸福にする政策ならば、わざわざ権威(命令力)なんかの助けを借りなくても、相手のほうからすすんで政策に従ってくるはずである。だから、政策が権威の助けを借りなければならないのは、その政策が人類全体を幸福にしない悪い政策である証拠であり、そんな悪い政策を世界に通用させようとする国は世界の敵である。私が日本政府と強力するとますます日本が悪い国になってしまう恐れがあるから、私は敢えて日本政府とは協力しないのだ。日本政府はいつまでも超能力者の権威(命令力)に頼らず、自分たちで決定した政策の力だけで堂々と世界の国々と勝負せよ!
正しく考える者には強い命令力を与え、まちがって考える者には弱い命令力を与えねばならない。だから、判断の正しさと無関係に強い権威を持っている者はいないほうがよい。
だから、超能力者に強い権威を与えることは不当であり、超能力者には超能力界のチャンピオンとしての地位だけ与えるのが適切である。[超能力界がなければ作れ!]

適切な命令を出すことは管理職の仕事であり、日本政府は管理職の集団だから、日本政府の頂上に立つ者は日本で一番適切な命令を出す才能がある者だから、日本政府の頂上に立つ者に日本で一番強い権威(命令力)を与えるのが適切である。今の天皇にはなにもない。

[3899] 宗教とは何か? h19.12.11
宗教とは超能力者界である。
例えば、キリスト教は超能力者であるキリストを超能力界のチャンピオンと崇める者の集団である。ただ、相撲の角界なんかと違って宗教では超能力の才能のある弟子が育たたず団体を維持しにくいのが宗教の弱点である。
そのために、超能力者の子孫が政治を摂ったり超能力者の思想を広げたりして、超能力者の別の才能に頼って何らかの収入を得て団体を維持していくしかない。
現代では、宗教の自由が認められているから、例えば、キリスト教会の中ではキリストが世界のチャンピオンだからキリストの命令を聞いてキリストの思想を守ったり広めたりしなければならないが、キリスト教会の外ではキリストはもはや世界のチャンピオンではないから、キリストの命令に従わなくてよい。つまり、超能力者の権威はその超能力者の宗教団体の中だけで有効であり、宗教団体の外では超能力者の権威は無効である。近代以降、人類の視野が世界全体に広がり、世界にいくつかの違った宗教があり、ひとりの超能力者の権威が及ぶ範囲には限りがあることを知ったことが、超能力者の権威を弱くさせた原因のひとつだと考えられる。
超能力者があまりにも現われにくく、超能力者の弟子が育たないために、宗教が本道を外れた的外れなことばかりやらねばならなくなっているのが宗教界の悲しい現状である。
現代の宗教は、もはや超能力者の命令に従う会ではなく、超能力に憧れを持っている者の集まりだから、超能力者ならキリストでも釈迦でも神武天皇でも私でも誰でもいいはずである。
宗教から政治や思想など余計なものを取り払って、ひとつ超能力者の超能力の才能だけで人集めをしてみたらどうだろうか。珍しい神秘的な超能力の才能を持った超能力者にちょっと拝めばいいだけだから、そのほうが余計なことをしなくて済むので、誰でも安心して入会できるのではないだろうか?これだけでは面白さが足りないというなら、教会(宗教団体の集会所)の中でバーベキュー大会やゲーム大会や映画鑑賞会などを開いたりして何か別の企画といっしょにして楽しめるようにすればいいだろう。

[3900] 社会的と孤独 h19.12.11
自分の知覚が働かないと他人の知覚に頼らなければならないから、自分はつねに他人から見られる存在であって、自分の存在が社会的(社交的)になる。
反対に、自分の知覚が働くと他人の知覚に頼らなくてもいいから、自分はつねに他人を見る存在であって、自分の存在が孤独になる。
つまり、知覚が働かない者は社会的であり、知覚が働く者は孤独である。


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