[3701] 子供の教育は必要 h19.11.3
子供に本当に[自分ひとりの経験から]自分ひとりで考えさせると、現代の文化レベルまで達するには千年はかかる。それでは子供が死んでしまう。
箸の持ち方でも、人生の生き方でも、教育することには変わりない。だから、子供に箸の持ち方を教えるなら、人生の生き方を教えても、ちっともおかしくはない。
子供は生まれつき何の知識も持たないから、子供に自分ひとりで考えさせるとまちがいを犯すことが多い。その中には取り返しのつかないまちがいもある。だから、親(一般に大人)が子供に自分と同じまちがいを犯させないためには教育が必要である。
だから、親が子供に、自分が正しいと考えること、自分がまちがいだと考えることを[正しいことは正しいこととして、まちがいはまちがいであるとして]教えることは必須である。

[3702] 美とは何か? h19.11.3
美は五感欲に堕ち込んでいる人間が持つ概念であって、
知覚欲で生きている人間にとっては無意味である。

[3703] 最近本が売れなくなった理由 h19.11.3
1)ゲーム
2)インターネット
3)CS
4)DVD
つまり、本以外の娯楽が増えすぎた結果、[お金と時間が足りないために]みんなが本を買わなくなったのだ。
私が子供の頃は、知的娯楽と言えば、本しかなかった。(あと、プラモデルとかダイヤブロックとか。)
これも、最近の若者が知的でなくなった原因のひとつであると考えられる。[私なんか小学生から大学卒業するまで本を読みまくった。しかし、大学生になると、他人が書いた本を読むよりも自分が考えたことをノートに書くことを重視するようになった。できれば、読むより書くほうがいい。ただし、小学生頃の子供に無理やり書かせると、まだ知覚界に概念が足りないから『思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。』になる。(つまり、自分の空想に耽[ふけ]って、かえって実在理解を妨げることになる。)]

[3704] 洗礼は犯罪である。 h19.11.3
おらは死んじまっただ♪とか蜂のムサシは死んだのさ♪とか私が小学低学年の頃“死んじゃったソング”がよく流行った。[ムサシ→634→1964年生まれの3本川の私。蜂は私のおじいさんが山を持っていて蜂蜜を作っていたから。]
『ミンキーモモ』(空モモ)では、魔法使いのモモが死んだ後で魔法のない人間に生まれ変わっている。
私が小学生の頃には、アニメで記憶喪失ネタがよく見受けられた。
私が小学生の頃、薫的のおじいさん家に行ったとき、母が私が小さいとき突然に息が止まって顔が紫色になって富田さん(富田小児科のこと)までおんぶして走っていったことがあると言うのを聞いたことがある。
私は物心ついてから、一度も呼吸が止まる発作を起こしたことがない。癲癇[てんかん]持ちでもない。
私と和田君が福岡で同居していたとき、原理研に詳しかった和田君が「頭を洗うことをなんというか知っとる?洗脳。」と言って、私のほうを見てニヤリとしたことがある。
私が医者を辞めた後、NTTが私に無断で下宿の電話を止めて実家から私に電話がかからなくなっていたとき、父親が血相変えて[苦手な飛行機に乗って]私の下宿にやって来たが、父親が開口一番に「なんかせられんかったかえ?」と私に訊いた。
宗教家が超能力者を管理しているのだから、宗教家が古い迷信を信じて、超能力者の身体に何らかの処理をして超能力が出ないようにした可能性が高いと考えられる。
超能力は[感覚波でできることに限られるので]無害だし、超能力は個人の才能だから、宗教家に超能力者の才能を奪う権利はない。そのときの後遺症で一生苦しまねばならなくなったら、どうしてくれるんだ?それに超能力が現われるのは超能力者の生涯のごく一時期だけに限られるから、たった数回超能力が出ただけで超能力を取り除くのは、やらなくてよいことをやっているだけだ。
私が小学生の頃、一緒に遊んだ正岡淳之[まさおかあつし]君が、ときどき「一歩前進二歩後退。」「小さな親切大きなお世話。」と言っていたのは、“超能力者が超能力があるために宗教家によって身体に処理をされてその後遺症で普通の人間以下にされた”ことを暗示していたのだろう。[私の脳の後遺症をチェックするために、私が小学低学年の頃、両親が私にカムカム英語の歌でアルファベットを憶えさせたし、朝倉小学校では授業中に校長室?に呼び出されて5〜6人の背広を着た大人から私の身の周りのことについていろいろ質問されたことがある。]
超能力者も人間だから、超能力者の超能力を取り除く儀式いわゆる洗礼はれっきとした犯罪である。宗教家が超能力者の超能力を取り除いたのなら、その宗教家は有罪である。

[3705] 偉さとは何か? h19.11.3
スポーツ選手はスポーツができるから偉いのであって、
いくらスポーツ選手が偉くても、それだけで他者に対する命令権はない。
ただ、自分の意思で偉いスポーツ選手に従いたい者は、そうすればいい。
例えば、スポーツ選手が「肩でも揉んでくれ」と言ったとき、その選手に好意を持っている者は揉んでやればいい。スポーツ選手に無関心な者は、何もしなくていい。[仕事でマッサージを頼まれた場合にはやらねばならないが。]
同様に、学者は学問ができるから偉く、
超能力者は超能力が使えるから偉い。
ただし、偉いからといって、それだけで他者に対する命令権はない。
自分の意思で超能力者や学者に従いたい者は従えばいい。
つまり、偉さとは才能があることである。
政治家は、日本政府の幹部だから偉いのであって、
いくら政治家が偉くても、政治家に許された権限があるのみで、それ以外の命令権はない。
現在の天皇には、法律で定められたいくつかの権限があるが、
そもそも天皇とは超能力者の子孫にすぎないので、
日本の法律のほうがおかしいのだ。
人間はまちがいを犯すものである。
法律はしょせん人間が作ったものだから、法律が必ずしも正しいわけではない。
悪い法律はどんどん訂正して改善しなければならない。

[3706] 超能力者グッズ h19.11.4
タレントに好意を持っている者が世の中にたくさんいる場合、タレントに無断でタレントグッズを作って売れば飛ぶように売れてタレントグッズを作った者や売った者が儲かる。
このことがタレントにとっては面白くないらしく、タレントグッズを作って売るにはそのタレントに肖像等の使用料を支払ってタレントの許可を得なければならない。とくにタレントが作ったり売ったりして欲しくない商品については、その商品の製造販売を禁止することができる。
同様に、超能力者もタレントと同じ人間なので、超能力者グッズを作って売るにはタレントグッズと同じ手続きを踏んでもらわねばならない。

[3707] ばったモン h19.11.3
アニメのキャラクターグッズには、“ばったモン”つまり正規のキャラクターグッズの一部分を変えたニセ物を作って売ることがある。
その場合には、あまり規制が効かないので、売っていいことになる。でも、無許可の場合には問題になることもある。[『サザエボン』が販売禁止になるぐらいだから、かなり厳しいはずである。]
現行の超能力者グッズも、超能力者の一部分を変えて売っているので、一種の“ばったモン”だと言える。
したがって、アニメのキャラクターグッズの“ばったモン”と同じ扱いとなる。

[3708] 親の七光りはない。 h19.11.4
偉さとは、才能があることである。
だから、例えば、いくら親が偉い学者だからといって、その息子が馬鹿ならば、
息子には学問の才能がないから息子は偉くない。
同様に、超能力についても、天皇家の場合、初代天皇には超能力の才能があったから偉いが、
2代目以降の天皇には超能力の才能がなく、その他の才能にも傑出したところがないから、
2代目以降の天皇は偉くない。

[3709] 愛は盲目 h19.11.4
女は愛情を満足しさえすれば、それだけで満足し切って、ちっとも知覚で考えようとしない。
だから、子供のときの無知のままだ。
いくら女性でも、少しは知覚欲を持って考えて欲しい。
せめて母親なら、最低限子供の教育に関する知識はもってもらいたい。[子供を精神病に罹らせる親なんか失格だ。]
本気で子供のためを思うなら、愛情で知覚をはたらかせるはずだ。

[3710] 女のボケ h19.11.5
女は愛情だけで生きているから、愛情を注ぐ対象がなくなると、愛情が働かなくなり、満足できる感情がなくなって、何の快感も得られなくなって、脳が働かなくなってボケてしまう。
だから、愛情以外の感情も働かせて、趣味を持って生きることが大切である。
禁欲も行き過ぎると、かえって人生の妨げになる。

[3711] 宗教とは何か? h19.11.5
宗教とは、喩えば、江戸時代や戦国時代の武士のようなものだ。
当時は、各藩の殿様が偉かったから、その殿様に仕える武士達も偉かったのだ。
つまり、殿様が偉いので、その偉い殿様に仕えるがゆえに武士達も偉かったのである。
当時は、偉いだけで命令できたので、殿様は藩の人民に命令できたし、殿様が直接に命令を出さない場合には、代わりに殿様の側近が殿様の権威を借りて命令を出すことができた。
宗教では、殿様が超能力者やその子孫に、殿様の側近が宗教家に、それ以外の武士達が宗教人に相当する。[超能力者の子孫が殿様になるわけが納得できる。]
戦国時代には、殿様が藩の人民に命令できたので、人民から年貢(米や工芸品や金銭など)の取立てを命じることができた。それで、武士達は食っていくことができたのである。宗教の場合にも、超能力者やその子孫の命令だといって国民(とくに超能力者を信じている人)から年貢のようなものを取り立てて自分たちを養っているのである。つまり、宗教家が会社に命令をしてそれで会社に利益が出たらその利益の一部を自分の報酬として受け取っているのだ。[私のところに年貢がまわってきたことはないが。(物理学科4回生のとき4万円をもらっただけ。)]
逆に、殿様が藩の人民に命令することは、藩の人民を管理することになるので、それが殿様や武士達の仕事だったのである。宗教家もそんなつもりで仕事しているのだろう。
戦国時代には、殿様の命令は言葉や文書でなされたが、宗教の場合には命令はそれほど厳格なものではなく、超能力者やその子孫の側近(べつに近くにいるわけではないが)である宗教家が超能力者の意思に大体則する範囲内で、自分で命令を決めてやっているのだ。
しかし、今日では殿様はいないし、超能力者は超能力の才能があるから偉いが、偉いからといって特別超能力者に命令権があるわけではないので、戦国時代のようには行かない。
戦国時代の殿様は、今の政治家に相当する。政治家は偉くはないが、国民に対する命令権(つまり立法権)がある。その命令権で国民を幸福にできた政治家だけが政治的才能があり偉いことになる。偉くない政治家は国民によって罷免される。

[3712] なぜ明治政府は帝国主義を取ったか? h19.11.5
昔、日本には神武天皇という超能力者がいた。
そのため、日本では古くから宗教が盛んであった。
それで、日本には、超能力者を信じ、超能力者に従おうとする者が大勢いた。
それを政治に利用して、超能力者やその子孫が法を立てたり法を承認したりすることで、国民に対する法の命令権を強めることが明治政府の狙いだったのである。
しかし、このやり方では超能力者や天皇や政治家達が幸福になるだけで国民に不利な命令が出やすく、国民を幸福にする制度ではない。
国民が幸福になるためには、むしろ逆に国民が超能力者や天皇や政治家を支配するほうが有利である。
したがって、今日ではもはや超能力者制や天皇制は廃止すべきである。
戦後は、天皇に従おうとする者も減ったし、もはや天皇制に意義はない。
今後は、政治家と国民が互いに支配し合う制度でなければならない。
[私も幸福になりたくないわけではないが、ただ正当なやり方でないと心底から幸福にはなれない。私が小学中高学年頃に小学校で民主主義教育が流行ったから、すでに私の超能力者制には超能力者と国民が互いに支配し合う民主主義制が取り入れられていたのかもしれない。しかし、こうした民主主義制の下では有能な政治家がいればいいだけで、とくに超能力者や天皇はいなくてよいから、それなら最初から超能力者や天皇は政治から外しておけばいい。超能力者や天皇がどうしても政治家をやりたければ、超能力者や天皇が選挙に立候補して当選してから政治家になればいい。また、国民の中には自主的に超能力者に従おうとする者が大勢いるから、政治によらなくても命令権がなくても超能力者や天皇は国民を支配できるので、逆に超能力者や天皇にとっては政治が要らない。もっとも、宗教の力がなくなれば、超能力者(私)や天皇の国民に対する支配力は弱まるだろうが。]


[3713] なぜこれまで人々は超能力者に従おうとしたのか? h19.11.5
わからないものに対して従うのが、古くからある人間の習性である。
これまでは、超能力が人間に理解できるものではなく、超能力の存在が人々の知覚を麻痺させたために、超能力者に対する人々の従属欲が掻き立てられたのかもしれない。
しかし、私の『感覚波理論』によれば、超能力がある程度理解できるから、超能力に対してももはや知覚が麻痺するほどのことはない。
したがって、超能力者に対して従わねばならないと思うこともなく、ただ超能力者の才能を偉いと思うだけだ。

[3714] 超能力者は物理学者である。 h19.11.5
物理学者は新しい物を発見して、その物の法則を究めて、これまでになかった新しい物を作り出す。
例えば、物理学者が“原子核”という[肉眼では見えない]新しい物を発見し、核世界の法則である『E=mc2』を見出し、核力をエネルギーとして取り出すことによって、原子爆弾や原子力発電所などこれまでの地球上になかった新しい物が作られた。
同じように、超能力者もこれまでの物理学にはない“感覚場”を発見して、感覚場の法則を使って、これまでに見たことのない念光や念力などの超常現象を現すのだ。
だから、超能力者も物理学者のしていることと本質的には同じである。

[3715] 政治と宗教の違い h19.11.6
政治は人間の中から代表者を選んでその者に国を治めさせる制度である。
一方、宗教は超能力者や天皇に国を治めさせる制度である。
政治の目的が国民全員の幸福にあるのに対し、宗教の目的は超能力者や天皇だけの幸福にある。
だから、完全に宗教的な国では、国民は超能力者や天皇の奴隷にすぎず、超能力者や天皇だけが幸福でその他の国民が不幸であり、完全に宗教的な国には超能力者と天皇以外の者が住めたものではない。
宗教と政治では目的が違うので、宗教と政治は対立し、宗教は政治の妨げになる。
そもそも政治にしても、国民一人一人に違う人生の目的があるから、国の目的は単純にひとつではない。
それに、超能力者は人間よりも上の者ではなく、人間の中で超能力が発達した者だから、超能力者は他の国民と同様一人の人間と見なすべきである。天皇は超能力者の子孫だから、天皇も一人の人間と見なすべきである。
同じ目的を持った者が政党として団結するなら、宗教を超能力者や天皇を幸福にする目的を持った者が集まったひとつの政党と見なせばよい。今日では、すべての国民が超能力者や天皇に従いたいわけではないから、超能力者制や天皇制を広く国民全部が従う国法の原理とするよりも、国民の一部分だけが従う政党の原理としたほうが妥当である。しかも、超能力者である私と天皇とは人生の目的が違うから、私党と天皇党とは別の政党になる。[私党は、すでにみどりの党として世界中に存在している。(私の名前が川野延夫[かわののぶお]で、延をカタカナにしてノブ、ノとブをくっつけてグになるから。)]

[3716] 感覚場理論 h19.11.6
感覚波器官は、人間の脳の中にある感覚波を出す器官だが、脳細胞一個がすでに感覚波器官である。
ただし、脳細胞一個の出す感覚波は局在性の感覚波で、その脳細胞のある付近にしか発生しない。すなわち、これが“感覚”である。
これに対し、感覚波器官の出す感覚波は[幻聴波のように]遠くまで届く。
電場だけだと遠くまで届かないが、電場と磁場が組み合わさることによって電波となり遠くまで届くように、
感覚場だけだと遠くまで届かないが、感覚場ともうひとつの場とが組み合わさることによって感覚波となり遠くまで届くようになるのだ。
もっとも、超能力を発現する感覚波は、脳細胞一個の出す局在性の感覚波とも、感覚波器官の出す遠達性の感覚波とも違う、特別な感覚波である。
音を立てるには空気を振動させる物が要るように、感覚つまり局在性感覚波を発生させるには感覚場を振動させる物つまり生きている脳細胞が要る。人間が死んだら、感覚場を振動させる物がなくなるので、感覚がなくなる。つまり、死後の世界は存在しないのだ。

[3717] 超能力者が人間よりも上でない根拠 h19.11.7
1)超能力は感覚波を使う特殊な才能であるが、感覚波を使う才能は多かれ少なかれ誰にでもある。
2)念光や念力などの超能力は強いときだけ眼に見える。弱いときは眼に見えないが、超能力がないわけではない。
したがって、超能力のない者とある者との間に明確な境界線は引けない。
つまり、超能力者とは人間誰にでもある感覚波を使う能力が異常に発達した者だと考えられるので、他の学問やスポーツの天才が人間であるのと同様に人間である。
ーーー
超能力者が人間であるとすれば、他の学問やスポーツの天才と同様に、他人に対する命令権などは特にない。
したがって、超能力者の超能力の才能に憧れを持つ者だけが、超能力者に自主的に従うことになる。

[3718] 超能力は一人だけではできない。 h19.11.7
ニュートンは天才だったが、ニュートン一人だけでは古典力学はできなかった。
ニュートンがいたのはデカルトがいたからであり、デカルトがいたのはガリレオその他の人々がいたからである。
ニュートン自身も『自分は巨人の肩に乗れたから遠くを見ることができた。』と述べ、その事実を認めている。
同じように、私は母親の身体の周りに漂うねっとりした気配を感じて自分の超能力に目覚めたのだから、超能力者である私がいたのは母親がいたからだし、
その母親は小さいときにおばあさんから日蓮宗の厳しい教育を受けたので、母親がいたのはおばあさんがいたからだし、
おばあさんは熱心な日蓮宗の信者だったので、おばあさんがいたのは日蓮がいたからだし、
日蓮宗は密教つまり仏教の一派なので、日蓮がいたのは仏陀がいたからである。…
つまり、学問にしろ超能力にしろ、一人の天才が現われるまでには多くの先達がいるのだ。

[3719] 動物への愛 h19.11.7
仏教では、人間が死んで他の動物に生まれ変わるとされている。
科学的常識(あるいは、私の実在哲学)ではそんなことはありえないから、それは他の動物に対する一種の愛情の表現なのだろう。つまり、動物はもとは人間だったのだから、粗末にしてはいけないというのだ。[私が私の母を連れて朝倉の三連水車を見に行ったとき、筑後川の河原で母親が「孝雄君(白血病で死んだ私の弟)も今頃は鳥になって飛んでいるかしら。」と言ったことがある。日蓮宗では人間の生まれ変わりを信じている。だから、母親は鳥類や動物に対する愛情が強いのかもしれない。]
しかし、他の動物への愛情が大切であるのを説明するのに、わざわざ生まれ変わりの概念を作リ出さなくても、他の動物にも人間である自分と同じような[喜びや苦しみなどの]感覚があるので他の動物をいじめてはいけないと考えればよい。そのほうが無駄な考えがないのですっきりしている。[インド人は、知覚による感情の支配を得意とする。そのためには、ときには嘘(作り話)も許される。私は、どんなときでも嘘は許さない。]

[3720] 日本政治の特徴 h19.11.7
大昔の日本は宗教の国であった。つまり、その当時の日本は完全な天皇制であった。日本人は天皇の奴隷であり、日本は天皇の幸福のためだけに存在していたのである。
時代が下ると、社会が複雑化し、単純な宗教では日本が治まらなくなった。
そこで、宗教に高度な政治性を取り入れて、貴族制が誕生した。貴族の中には天皇の権威に匹敵する者もいた。
その後、日本各地に武力者集団が現われ貴族の権威を押しのけて日本を支配するに至った。
それが、将軍制である。
江戸時代には、徳川家の権威が天皇の権威を上回ったので、天皇を京都に追いやった。江戸時代には、日本人は徳川家の奴隷であり、日本は徳川家の幸福のために存在していたのである。
黒船が来て日本がアメリカに負けると、徳川家がつぶれて、もとの天皇制に戻った。
明治時代から戦前までは、政治家が天皇制を支える貴族のようなものであり、日本は宗教色の強い天皇制・貴族性の国家であった。
昭和天皇が戦争をしたいと思ったので太平洋戦争が始まった。しかし、日本は戦争に負けた。
戦後は国民の力が強まり、日本人は天皇のためではなく自分の幸福のために生きて行けるようになった。しかしながら、天皇のために生きたいと願う日本人もいたので、日本の政治は天皇制と民主制の両方を併せ持つ国家体制となった。戦後の日本は、天皇のための国でもあるし国民のための国でもある。政治家は天皇と国民全員の両方を幸福にしなければならない。天皇制に偏ると天皇が幸福になり国民が不幸になるし、逆に民主制に偏ると国民が幸福になり天皇が不幸になるから、極端な偏りは避けねばならない。政治家は天皇と国民の板ばさみであり、政治家は天皇と国民の調停役を務めねばならない。
そこへ、昭和39年生まれの超能力者である私が現われた。
いまや政治は、国民と天皇と超能力者である私の三つ巴の体勢となった。政治家は国民と天皇と超能力者である私の三者に奉仕しなければならない。
超能力者は(天皇も)けっして人間よりも上の存在ではないが、超能力の天才としての権威を持ち、その権威を国の政治的目的のために利用できると言うのであれば、政治は国民のため天皇のため超能力者である私のための国を作らなければならない。

あるいは、政治家がもはや天皇制や超能力者制を政治のために利用できないと判断するなら、いっそのこと天皇や超能力者を特別視せず国民の一人と見なし、天皇制や超能力者制を廃止して、民主制一筋の国を作ってもよい。
一方、宗教は、いまだに完全な天皇制あるいは超能力者制の国(あるいは世界)を作ろうと企んでいる狂人集団である。[宗教の幹部が、天皇や超能力者のおこぼれで普通の人よりは贅沢な暮らしができるにすぎない。]人間には超能力以外のさまざまな才能があり、人間を不幸にするとそれらの才能が十分に発揮されなくなるので、完全な天皇制や超能力者制の国は繁栄しない。
いまや宗教は完全に時代遅れの廃止すべき組織にすぎない。

[3721] 川野法 h19.11.7
政治家が日本の法を定めるのではない。日本国民が政治家を介して日本の法を定めるのだ。
そうして出来たのが国民法である。
ところで、国民、天皇、超能力者である私は日本の3大権力者である。
したがって、国民が法を定められるなら、天皇や私だって法を定めることができる。
それが、天皇法と私法(川野法)である。
政治家は、それらの3つの法をうまく仲裁してひとつの法にまとめなければならない。
こうして、日本国憲法が出来上がるのだ。
[現在の日本国憲法では、天皇の権限が強すぎる。無駄な天皇の権限を削れ。]

[3722] 超能力者には権威がある。 h19.11.7
超能力者が人間よりも上であろうが下であろうが同じであろうが、
超能力者に特別な命令権があろうがなかろうが、
超能力者に超能力があるかぎり、
超能力者に従う人間がいることに変わりはない。
したがって、超能力者にとにかく権威(意見の通りやすさ)があることは確かである。

[3723] 政治家の務め h19.11.7
政治家が国民や天皇や超能力者を自分たちのために利用するのではない。
逆に、国民や天皇や超能力者が政治家を自分たちのために利用するのだ。
政府とは、国民や天皇や超能力者に従属する機関であり、
政治家はつねに国民や天皇や超能力者の3者に従属しながら意思決定しなければならない。
政治家が自分たちの都合だけで国民や天皇や超能力者の意見に従うか従わないかを決めることはできない。
国家の意思は、つねに国民と天皇と超能力者の話し合いで決めなければならない。
政治家は、国民の代表者であると同時に、天皇や超能力者の代弁者でもある。つまり、政治家の中には国民の代表者もいれば、天皇や超能力者の代弁者もいる。
政治家たちの話し合いで、3者の意見がまとめられてひとつになる。
例えば、超能力者の希望が国民や天皇の希望と一致すれば、その希望は実現するが、いくら超能力者が望んでも国民や天皇が望まなければ、その希望は実現しないことになる。

[3724] 超能力者制の長所 h19.11.7
国民の意見はつねに多数決によらざるを得ない。
だから、少数の意見は反映されにくい。
ところが、多数の意見が少数の意見よりもつねに正しいとはかぎらない。
超能力者制があれば、少数の正しい意見が活かされる。

[3725] 宗教はうまくいかない。 h19.11.7
宗教の目的は、完全な超能力者のための国を作ることである。
しかし、完全な超能力者制の国は、超能力者だけが幸福でその他の人間は不幸だから、大勢の人間の不満を煽[あお]りすぎて革命になる。
したがって、完全な超能力者制の国は成り立たず、宗教はもはや要らない。

[3726] これまでの宗教はおかしい。 h19.11.8
宗教とは、超能力者を幸福にすることである。
キリスト教も仏教も超能力者が死んだ後でも超能力者のための国を作ろうとしているが、超能力者がすでに死んでいないのだから、そんなことをしても超能力者は幸福にはならない。
超能力者が死んだ後でも宗教をし続けるのは、宗教が超能力者の“おこぼれ”で自分たちが幸福になろうとしているからである。
日本の宗教にしても、2代目以降の天皇を幸福にしたところで、2代目以降の天皇は超能力者ではないのだから、やっていることは宗教ではない。[たとえ初代天皇が子孫の幸福を望んだとしても、それは宗教の拡大解釈のしすぎである。初代天皇が死んだ後では、いくら子孫を幸福にしたところで初代天皇の感情中枢を興奮させて初代天皇に幸福感を感じさせることはできないから、子孫を幸福にしなくていい。]
宗教とは、超能力者を幸福にすることだから、超能力者が死んだ後や超能力者の子孫を幸福にすることはもはや宗教ではない。
宗教は、超能力者が生きている間に、超能力者を幸福にしなけれはならない。
ただし、宗教は超能力者だけの幸福を考え国民の幸福を考えないので、国民の不満を煽[あお]り国に革命を起こし国を滅ぼすことになるので、今後は宗教はやらないことにする。
政治にしても、『超能力者を幸福にするために、超能力者に人間が従う』ことがこの世の法であるとして政治に宗教性を取り入れてもいいが、政治は国民のためにもあるのだから、政治は超能力者が生きている間に超能力者と国民の両方の幸福を実現しなければならない。超能力者を無制限に幸福にしなくてもいいなら、十分実現可能なはずだ。

[3727] 今の私の待遇は不当である。 h19.11.8
超能力者は超能力の才能が異常に発達した人間である。
つまり、超能力者は人間であって、人間よりも上の存在ではない。
だから、超能力者を、学問やスポーツの天才と同等に扱えばよい。
『超能力者を幸福にするために、超能力者に人間が従う』とは、そのような意味である。
しかし、今の私は、全然そのような扱いを受けていない。
だから、今の私の待遇は不当である。
[インチキ宗教をやるしか能のない宗教は無視して、]
政府は国民と超能力者の両方の幸福を実現しなければならない。
超能力者とその他の国民とは別人だから、超能力者を幸福にすることと国民を幸福にすることは別ごとであり、たとえ超能力者を幸福にすることが国民を幸福にしなくても、国民を極端に不幸にしない限り、それは実現されるべきである。
一億人の人間の幸福を実現するよりも、一人の超能力者の幸福を実現するほうがはるかに容易なはずである。
話が抽象的でわかりにくければ、超能力をひとつの仕事と見なして、その仕事代を政府が超能力者に支払えばいい。そうすれば超能力者が幸福になるし、人間が超能力者に従ったことにもなる。お金を貢物[みつぎもの]の代わりと考えればよい。
その仕事代とは、超能力者の一生の生活費とすればいい。
1月の生活費が20万円として、人生80年で、20×12×80≒2億円となる。[私のこれまでの生活費も含む。]
超能力者の妻子代については、超能力者の妻子は超能力者ではないので、政府が出す必要はない。
[キリストや釈迦は他人に説教するのが好きだったのだろうが、私は他人に説教するのが好きではない。]

[3728] 天皇と私の違い h19.11.8
宗教とは、超能力者を幸福にすることである。
政治的にも、『超能力者を幸福にするために、超能力者に人間が従う』という超能力者法が存在する。
日本には、超能力者の家系が2つ存在する。
それが、天皇家と川野家である。
天皇にとっての幸福とは物欲や名誉欲である。[なぜなら、天皇家は物持ちだし、国民から立派に見られたがっているので。]
一方、私にとっての幸福とは知覚欲である。
だから、政府は、超能力者がそれらの欲望を満足できるように取り計らう義務がある。[ただし、現在の天皇は超能力者ではないから、『超能力者を幸福にするために、超能力者に人間が従う』超能力者法の適用とはならず無視してよい。]
私が超能力者を人間と考えているので“人間並みの幸福”でよしとするのに対し、天皇は超能力者を人間よりも上の者と考えているので‘人間離れした幸福’でないといけないので、天皇の欲望を満足するには多くのお金がかかる。
また、超能力者を幸福にしてその見返りを期待するのは野暮である。例えば、私は学問の天才に対して、自分に何かできることがあったらよくしてあげようと思うけれども、その見返りはけっして要求しない。見返りを期待するのは商売上の習慣であって、天才に対しては通用しない。つまり、天才がその才能を発揮したことが人間を幸福にするのであって、人間が天才を幸福にすることはそのお礼なのだ。だから、超能力者の超能力の才能に対して感動を覚える人は超能力者にお礼をすればよいが、無関心な人は無視してもよい。[私自身も無関心な人の一人だが、それでも超能力を間近で見たら感動するだろう。]日本政府にいる政治家の中にも、超能力の才能に感動する者がいるから、そういう者が超能力者に対して幸福になるように取り計らってくれているのだ。それならば、わざわざ『超能力者を幸福にするために、超能力者に人間が従う』超能力者法なんて堅苦しいものを定めなくてもよい。そもそも、宗教は超能力者の芸(超能力)を見て(知って)幸福になった人間が自分を幸福にしてくれたことに対する超能力者へのお礼なのだ。それを人間を縛る堅苦しい法にするのは、人間の自然な心を踏みにじる下品な行為である。

[3729] まとめ h19.11.8
超能力者は人間よりも上の者ではなく、人間である。
超能力者は、学問やスポーツの天才と同様に扱われるべきである。
したがって、学問やスポーツの天才に特に命令権がないように、
超能力者にも命令権はない。
超能力者の超能力の才能をおもしろいと思う者が、
超能力者に自分を楽しませてくれたことに対してお礼をするだけである。

[3730] 天皇ははたして自分を人間よりも上だと思っているか? h19.11.9
人間は猿とは結婚しない。
天皇が自分を人間よりも上だと思っているのなら、どうして人間の女と結婚するのか?
人間の女と結婚して子供が生まれるなら、生物学的には天皇は人間だということになる。
それに、生まれた子供の“人間よりも上度”は、父親の“人間よりも上度”の半分になるから、現在の125代今上天皇の“人間よりも上度”は神武天皇の4.7019774×10-38倍になる。
これでは、ほとんど普通の人間と変わらない。
したがって、天皇は自分を人間よりも上だと思っていないことになる。たぶん、人間と同じだと思っているのだろう。
日本が外国に比べて身分の差があまり激しくないのは、そのためだろう。

[3731] どうして日本は男尊女卑なのか? h19.11.9
神武天皇が男だったから。天皇が男を女よりも偉いと決めたから。
しかし、それは宗教的な理由であって、本来は、国民の総意で決めるべきだし、細かくは個人によってそれぞれ違う。つまり、男を女より偉いと思う者もいれば、女を男より偉いと思う者もいるし、男と女の偉さは変わらないと思う者もいる。私は、五感人が知覚人に従う性質があることは確かだが、男が知覚人で女が五感人であるとは限らないと考える。

[3732] なぜ今の天皇は絶大な権威を持つのか? h19.11.9
人間には、学問、スポーツ、超能力の3つの才能がある。
天皇が現われるまでは、超能力者の偉さは、他の学問やスポーツの天才の偉さと同じ程度だったが、
初代天皇が超能力者の偉さを日本の法(日本人全員が従わねばならない決り)にして以来、天皇の偉さが絶大になった。
しかし、そもそも偉さは個人ひとりひとりの心が決めるものなので、それを国民全員が従わねばならない法にしてはならない。[例えば、私の心にとっては、理数系の天才だけが偉く、その他の天才は偉くない。スポーツの天才にスポーツの才能があることは認めるが、心に感動が湧かないのである。誰が偉いか偉くないかは、人によって違う。]
したがって、天皇の権威(偉さ)を法で定めてはいけない。
天皇すなわち超能力者の子孫の権威(偉さ)は個人の心が決めるので、個人の自由だから、法で一律に規定することはできない。
とにかく、超能力者だけを偉いとすることは不当である。他の学問やスポーツの天才だって偉いのだ。
天皇や超能力者の偉さが法で規定されなくなれば、天皇や超能力者を国民と別に考える必要はなく、政治家はひたすら国民に従えばよいことになる。

しかし、天皇はともかく、これまでも私の権威は法で規定されてはいなかった。それなのに、私に従う者がいたのは、日本国憲法を一般化して『超能力者に人間が従わねばならない。』という法があると考えて従う者がいれば、たんなる超能力者に対する感動で従った者もいるからである。完全な超能力者制の国家を作ろうとする、つまり国民全員が超能力者に従うべきであるとする宗教の考え方はまちがっているので、『超能力者に人間が従わねばならない。』ことを法にはできない。やはり、超能力者に従うか否かは個人の自由にすべきである。したがって、超能力者の考えに従う者の集まりである超能力者党までは許されるが、超能力者の考えに国民全員が従わねばならないとする超能力者法は許されない。

[3733] 取り込みについて h19.11.9
宗教の力が強い国では、たんに国民を超能力者の命令に従わせるだけではなく、国民[の性格や思想や生活習慣など]を超能力者と同じにさせることがある。これを取り込み制度と言う。
しかし、人間には、学問、スポーツ、超能力、芸能などいろんな才能があり、ひとつの才能に偏ってはならない。ひとつの才能だけでは国が成り立たないからである。
だから、たとえ超能力者が偉いとしても、超能力者だけから成る国を作ろうとする取り込み制度はまちがいである。

[3734] 嘘の超能力はいけない。 h19.11.9
超能力は感覚波を操る技術である。だから、超能力は感覚波でできることしかできない。
キリスト教や仏教のように、いくら超能力者の権威が強いからといって、超能力者が嘘の超能力で自分の権威を高めるのは行き過ぎである。
一般に、いくら権威が強いからといって、真実(真理)を否定することはできない。いくら権威が強くても、真実には従わねばならない。

[3735] チェルノブイリ h19.11.9
チェルノブイリの原発事故も、私の名前延夫[のぶお]のノブが付いているから人為的事故である可能性が高い。
私が分裂病にかかって人生がうまく行かないことを事故に喩えているのだろう。
他に、高知学芸高校上海列車事故[高知学芸高校は私の母校であり、私は子供の頃汽車に乗るのが好きだった。]もNY[ニューヨーク、Nは私の名前のイニシャルで、Yは私の父親と母親の共通のイニシャル]貿易センタービル事件も尼崎列車事故[天帝ユタと名乗る男が当時尼崎に住んでいた。]も、そのほか3人の作業員が橋げたにつぶされたとか下水工事で窒息死したとか、岡山が水浸しになった[その後、私の部屋のエアコンから水滴が落ちるようになった。]とか全部日本や世界の宗教関係者が私に因んでおこした事件だ。
最近の宗教はガラが悪い。やはり廃止にしたほうがいい。

[3736] 超能力の価値 h19.11.9
超能力者は人間なら誰にでもある超能力(感覚波を操る能力)が特に発達した人間であるから、
超能力者は人間よりも上の者ではなく、人間であり、
超能力者を、学問やスポーツの天才と同等に扱えばよい。
学者にとっての仕事が学問であり、スポーツ選手にとっての仕事がスポーツであるように、
超能力者にとっては、超能力を発現したことが仕事である。[超能力者のその他の仕事は大したものではない。]
超能力者の超能力を、スポーツ選手の技や芸能人の芸と見なせばよい。
ただし、芸能人の芸は大勢の人々の前で繰り返して披露できるが、
超能力者の場合、超能力には再現性がないので、超能力を直接目撃したのは少数の人だけで、
その他の人々は超能力者が超能力を現した事実を文字や言葉で知るのみである。
[偶然に、写真やビデオに撮られる可能性もあるが。]
超能力の事実が多くの人々を感動させるのだから、それが超能力者の仕事である。
したがって、その感動の報酬として超能力者は大勢の人々からお金(お賽銭)や貢物[みつぎもの]を貰[もら]えるわけである。[しかし、私はこれまでに(物理学科4回生の4万円以外には)一度もお金や貢物をもらったことがない。仲介の宗教家や政治家がネコババしていたのだろう。自分たちだけが儲けて、超能力者本人に1円も支払わないのは卑怯なやり方だ。]

[3737] 才能の報酬 h19.11.10
あるところに、100mを9秒で走った者がいたとする。
その記録は、公的に正式な記録として通用するものとする。
その者の名前と住所が明らかであれば、それだけでその者にお金や貢物が集まってくるであろうか?
あるいは、100mを9秒で走った者がいるという事実だけを公開して、その者の氏名も住所も明かさずに、その者の代理を立てて、その者が代理を介してお金や貢物を受け取るものとすれば[代理にも多少の給料は払うが]、はたしてお金や貢物が集まるであろうか?
それとも、たとえその者が顔を開かしたとしても、はたして事実とそれだけのことで、お金や貢物が集まるのであろうか?
あるいは、公式の記録が残るだけで、学者の研究のように1円も貰えないのではないだろうか?

[3738] 超能力者の教え h19.11.10
超能力者の教えは、はたして超能力者自身によるものだろうか?
かなり宗教家による誘導が入っていると考えられるので、
ほとんど宗教家の教えといったほうがいい。
宗教家が超能力者に悩みの種を植え付けて超能力者に考えさせたのなら、悩みの種の植え付け方によって超能力者の考えをかなりの程度操作できるから、それは宗教家の誘導だ。
[私にエロ本を見せるようなことを、キリストや釈迦にもしたのだろう。]
そもそも超能力者の主な才能は超能力であって説教ではないから、超能力者ひとりだけでは上手に説教なんかできるはずがない。

[3739] 古い哲学 h19.11.10
現代社会はデカルトに始まる。
だから、現代社会で生きるためにはデカルト以降の哲学を学ぶべきである。とくに、デカルト哲学は必読である。
それ以前の時代の哲学は、今とは違う古い社会で生きるための哲学なので、読んでもあまり役に立たない。

[3740] 現代の宗教 h19.11.10
現代においては、すでに正しい哲学が十分用意されているし、哲学は哲学者に任せればよいから、哲学者としての超能力者の出番はない。
また、超能力者は人間であって、超能力者に特別な命令権はないから、超能力者に人間が特に従う必要はなく、超能力者のための国や世界を作る必要はない。
ただ、超能力者には超能力の才能があるので、その才能を高く評価する人々がいる。
そんな人々が集まって、超能力者のために役立つ活動をするのはかまわない。
超能力者の利益のために働く団体が、現代の宗教である。
もっとも、どんな才能を高く評価するかは個人の自由なので、超能力者に対する高い評価を他人に強制することはできない。
また、他の学問やスポーツの才人と同様に、超能力者を超能力の才能だけで評価しなければならない。超能力者のその他の才能までも評価の対象にすべきではない。キリストが愛のために死のうが、釈迦が禁欲のために修行しようが、そんなのはどうでもいいことだ。(天皇に対していろいろな才能を評価の対象にするのは、天皇に超能力その他の特別な才能がないからである。)わざわざ劣っている部分を探して、高く評価しない理由にしてはいけない。

[3741] 皇室アルバム h19.11.10
皇室だけが偉いのではない。
他の学問やスポーツの分野にも偉い人はたくさんいる。
だから、皇室アルバムの時間を、日本や世界に住んでいるいろんな偉人の紹介の時間に当てればよい。

[3742] 偉さの比較 h19.11.11
人間には、超能力、学問、スポーツ、芸能など、いろんな才能がある。
ひとつの才能だけでは国が成り立たないし、人間としても生きていけない。[超能力の才能がはたして要るだろうか?]
だから、どの才能も平等に評価されるべきである。
[超能力を人間の才能に含めないから、超能力者が現われたとき超能力者を人間でない者つまり神と見なして世の中がおかしなことになるのだ。]

[3743] どうして女は子供を育てるのか? h19.11.11
子供を産んだり育てたりするのは面倒なのに、女がそうするのは、女に愛情の喜びがあるからである。
男には愛情がないから、ときどき女のすることに合点がいかないことがある。

[3744] 宗教は誰のためにあるか? h19.11.11
そもそも宗教は超能力者のためにあるのであって、その他の人間のためにあるのではない。
そもそも宗教は[玉座に着いた超能力者の前にひれ伏した人間が]超能力者のためにお金や貢物を捧げる会であって[もっとも、自由意志で捧げるのであって、強制ではない。]、
人間のために超能力者を利用する会ではない。
だから、宗教家が超能力者が死んだ後で、超能力者の哲学の講義代を人々から取るのは不当だし、
政治家が超能力者が死んだ後で、超能力者(の子孫)の権威を用いて自分の作った法を国民に押し付けるのも不当である。[たとえ超能力者であっても、自分の作った法を他人に押し付けることはできない。]
超能力者は超能力の才能のある人間であり、社会が才能のある人間を大事にするのは当然のことだから、超能力者を大事にする会としての宗教があってもいい。
宗教にはいろんなやり方があるが、超能力者の利益になることが最も大事なことである。
超能力者を幸福にしない宗教は、宗教とは言えない。
宗教は、超能力者が生きている間に超能力者を幸福にすべきであり、超能力者が死んだあとでは活動を休止すべきである。[超能力者不在の時代には、将来現われる超能力者のために貯金をするのもいい。]

[3745] 超能力者の哲学 h19.11.11
超能力者の哲学(超能力者の教え)を信じることよりも、超能力者の超能力に感動することが大事である。
超能力者の哲学の部分だけしか見ないなら、それはもはや哲学者であって超能力者ではない。
したがって、超能力者の哲学は宗教の対象ではない。
超能力者の哲学は、哲学か倫理学が扱うべきであって、宗教が扱うべきではない。

[3746] 私の政策 h19.11.11
日本は、知覚欲の満足を中心にした国作りを目指すべきである。
知覚欲の満足以外に人間の幸福はないからである。
[面白さをあまり表に出さない面白さが大事。]

[3747] 宗教とは何か? h19.11.12
宗教とは、超能力者に“従う”人間の集団と考えられてきた。
そのため、宗教は超能力者に“従い”ながら超能力者を利用して自分たちが儲ける会になっていた。
しかし、そもそも宗教は宗教自身のためにあるのではなく超能力者のためにあるのであり、
宗教とは超能力者に超能力の才能の報酬としてお金や貢物などを捧げる会である。
つまり、宗教とは超能力者に“従う”人間の集団ではなく、超能力者を“幸福にする”人間の集団である。

[3748] 超能力者を“幸福にする”には? h19.11.12
超能力者にとっては超能力を発現したことがすでにひとつの仕事である。学者が優れた論文を書いたり、スポーツ選手が新記録を出したりするようなものである。
仕事の報酬はお金で支払われる。
そのお金で超能力者が自分の感情を満足させれば、超能力者が幸福になる。
超能力者に払うお金は、超能力者が幸福であるために必要な費用だから、衣・食・住の生活費と電気・ガスなどの光熱費とその他の娯楽費の合計である。
現代社会は、学問、スポーツ、超能力、芸能、政治、宗教など各分野の才能のある者が幸福に生きていける社会であるべきだから、他分野の才人と同様に超能力者にもそれなりの待遇を用意しなければならない。[国民を幸福にするのが有能な政治家であるように、超能力者を幸福にするのが有能な宗教家である。]

[3749] 超伝導現象 h19.11.12
超伝導現象は1911年オランダの低温物理学者カメルリン=オネスが偶然に発見した。
その頃はまだ量子力学が生まれる前で、理由はわからなかった。
それに超伝導現象はHgやSn、Pbなど特殊な物質だけにあると考えられていた。
しかし、量子力学の基礎が完成して、超伝導現象がバーディーン、クーパー、シュリーファーの3名によって理論的に説明されると、超伝導現象はほとんどすべての物質にあることがわかった。
超能力現象も超伝導現象と同じように、その理由が判明すれば、すべての人間や他の動物にもあることがわかるはずである。
超能力者はただ、高温超電導物質のように、超能力現象が強く現われたにすぎないのだ。[超能力者では超能力の大きさが普通の人間と比べて大きく、高温超電導物質では超伝導から常伝導への転移温度が普通の物質と比べて高い。]

[3750] 【物理学】超伝導現象 h19.11.12
超伝導は電子の運動に関することだから、電子の位置よりも運動量に関係しているはずである。
電子はフェルミ粒子だから、2個の電子が結合するとボーズ粒子になる。
電子対の2個の電子が同じ方向に動くと絶対0度で電流が流れることになっておかしいから、2個の電子の向きを反対に向ければいい。
超伝導体では反対向きに動く電子の間に結合力が働く。とくに、高温超電導体では結合力が強い。つまり、超伝導体の中にあるすべての電子は電子対になっている。
ボーズ粒子はボーズ=アインシュタイン凝縮によって何個でも同じ状態をとることができる。電場を掛けないとき超伝導体中のすべての電子対は運動量0の状態で止まっているが[電子対を一個のボーズ粒子と見なせばよい。]、電場を掛けると電子対がいっせいに同じ方向に動き出す。これが超伝導現象である。

[3751] 【物理学】ドップラー効果の憶え方 h19.11.12
はじめに、観測者が音源に近づく場合、音波自体は変わらないから、
fo=fs(1+vo/va)=fs×(va+vo)/va[vaは音速]、であることは直感的にわかる。[ただし、風は吹いていないとする。]
だから、逆に音源が観測者に近づく場合には、[分母と分子を引っ繰り返して、]
fo=fs×va/(va-vs)と憶えてしまえばよい。
したがって、一般に、空気が止まっていて観測者と音源が動く場合には、[上の2式を組合せて、]
fo=fs×(va+vo)/(va-vs)となる。
風が速さvwで吹いているときには、空気に対する観測者と音源の相対速度を考えて、
vo'=vo-vw、vs'=vs-vwとして、
fo=fs×(va+vo')/(va-vs')となる。[ただし、|vw|<|va|。風速が音速を超えると新しい音波(衝撃波)が発生する。]

[3752] 私の超能力に関する母の証言 h19.11.13
「昔鴨部に住んでいたとき(私が2歳3ヶ月以前)、時々オバケがいたずらをすることがあった。」(詳細はよく憶えていないが、たしか家の中にあるいろんな物が突然動くことがあったようなことを言っていた。)
「夜中に突然ガラガラが回り出すことがあった。」[ガラガラとは、赤ちゃんをあやすために天井から吊り下げる円環形のモビールのこと。]
私が小学2〜3年生頃、夕飯を食べた後で一度だけ母が私に聞かせてくれた。

[3753] 感覚場理論(つづき) h19.11.13
感覚場は非線形場である。
遠達性感覚波は、感覚場のソリトンである。
局在性感覚波は、水の波紋のように時間とともに拡散して散ってしまう。感覚の実体は局在性感覚波であり、感覚にいろんな種類があるのは、局在性感覚波の波形にいろんな形があるからである。それぞれの感覚は、一定の波形の局在性感覚波に対応している。[光の色が波長という一つのパラメーターで統一的に表されたように、感覚についてもひとつのパラメーターで表されるかもしれない。例えば、感覚度30の感覚が喜びの感覚で、感覚度50の感覚が悲しみの感覚であるというように。感覚度31の喜びが五感欲の喜びで、感覚度32の喜びが知覚欲の喜びであるというように。]

Yanto Suryono 氏による
Surface Plotterを使用した。

超常現象性感覚波は電磁場や物質場と相互作用するが、そもそも脳細胞の神経興奮による感覚の発生すなわち局在性感覚波の発生は脳細胞と感覚場の相互作用であり、脳細胞の中にある電磁場や物質場と感覚場との相互作用であるので、その逆反応と見なせば十分ありえることである。
幻聴が聞こえることは、遠達性感覚波による幻聴器官の興奮、つまり感覚場による脳細胞の中にある電磁場や物質場への作用と見なせるので、感覚場から電磁場や物質場への作用があることはたしかである。
超常現象性感覚波は、脳細胞の外にある電磁場や物質場と相互作用する特殊な遠達性感覚波と見なすこともできる。オペラ歌手が声でワイングラスを割ることができるように、遠達性感覚波の出し方によってはそんなことが可能になるのだろう。[超常現象が超能力者から離れたところで起きるのは、念力の場合にはワイングラスの喩えで理解しやすいが、念光の場合は、念光波を量子化した念光子に寿命があると考えればよい。念光子の発射速度にばらつきがあるために、光の玉が尾を引いたりすることもあるのだろう。]

[3754] 不完全な心 h19.11.14
心は、いろいろな快感や不快感を発生する神経細胞の塊りである。
生物は進化の過程でいろいろな快不快感を発生する感情を生み出してきた。
人間には生まれつき、心と、心と他の五感や知覚との対応関係(つまり、神経連絡)が備わっている。それが人間に与えられた先天的なプログラムである。
先天的なプログラムによれば、自分にとって快なことはやり、不快なことはやらなければいい。
私も子供のころは自分の心の快不快の区別を当てにして生きていけばよいと思っていた。
しかし、その先天的プログラムにはいくつかの欠陥がある。
私が思春期の頃、私はオナニーが快感だったから、オナニーをやってよいものと見なして、オナニーをやり続けた結果、[関連興奮によって性欲中枢の近くにある感情中枢の興奮性が高まり、怒りの感情が高まりすぎて鎮まらなくなり]分裂病に罹り、以前よりも不快になってしまった。
したがって、自分の心が絶対に正しいわけではなく、自分の心だけを頼りにして生きて行くことはできない。
快なことの中にもやってはいけないことがあり、不快なことの中にもやらねばならないことがある。
とくに、一時の快感にとらわれて自分の不快感を自分で高めることは精神病に罹る原因だから、絶対にやってはいけない。[私の場合、自分の気に入らない相手の身体をテレパシーで操りたいと思って、自分の怒りの感情を自分で一生懸命高めていた。その結果、自分の脳の一部が焼き切れたようになって、自分の怒りの感情が鎮まらず、自分の怒りの感情に流されて行動するようになり、自分の心が自分の思い通りにならなくなって、分裂病に罹ってしまった。同様に、鬱病においても、自分の出世や成功の喜びために落ち込んだ感情を我慢しすぎた(じつは高めすぎた)結果、落ち込んだ感情が鎮まらなくなって鬱病に罹るのだ。]
心を知覚で客観的に見て、心の働きを知覚によって改善すれば、もっと幸福になれる。

[3755] 感情共役説 h19.11.14
不快感を興奮させると不快感が強まるだけだから、不快感単独では自分で不快感を興奮させる者はいない。
しかし、ときには不快感と快感が同時に働く(共役する)ことがある。[ちなみに、共役は、私が中学高校生の頃は、「きょうえき」と読んだが(例、共役複素数)、今は「きょうやく」と読む。私の父と母の共通のイニシャルYが入ったために、「えき」が「やく」になったのだろう。]
分裂病では、自分の支配のために(つまり、自分が他人を自分の思い通りにしたいために)自分の怒りの感情を自分で高めすぎて怒りの感情が鎮まらなくなる。
鬱病では、自分の出世や成功のために自分の落ち込んだ感情を高めすぎて(我慢しすぎて)落ち込んだ感情が鎮まらなくなる。
快感と不快感が共役し、快感を得るために不快感を興奮させすぎることが精神病の原因である。

[3756] 超能力者の価値 h19.11.15
超能力者は、ノーベル賞級の学者やオリンピック級のスポーツ選手に比べて出現率が低い。
だから、その希少さで超能力の権威を他の才能に比べて高く評価する考えもある。
たしかに、ダイヤモンドは他の石に比べて希少であるがゆえに価値がある。
しかし、超能力はたしかに希少な才能ではあるけれども、そもそも超能力者であるかないかの境界がはっきりせず、超能力の力の大きさの基準をどこにおくかで超能力者の出現率が違ってくる。将来人間の超能力の大きさを敏感に測定できる機械ができれば、今よりもっと超能力者が増えることになるだろう。
逆に、ノーベル賞の基準を仮にニュートンよりも偉大な研究をなした者と定めれば、ノーベル賞受賞者はこれまでに一人もいないことになる。
これまでの超能力認定者にしても、超能力があるとされた者はたしかに超能力があるといえるが、超能力がないとされた者に実際に超能力がないとは言い切れない。
したがって、可視的超常現象を起こすことのできる超能力者を、他の学問やスポーツの天才に比べて過大に評価する必要はないのである。
ところで、ノーベル賞受賞者には『該当なし』の年がある。それと同様に、[超能力認定者を可視的超常現象を現した者にかぎれば、]超能力認定者にも『該当なし』の年がある。超能力認定者該当なしの年は何百年も何千年も続くかもしれない。超能力が一年以上に渡って発揮されることも考えにくいから、超能力認定者のある年は何千年に一年ぐらいだろう。

[3757] 超能力の種目 h19.11.15
オリンピックの競技に種目による区別があり、ノーベル賞に学問分野による区別があるように、
超能力も種類によって区別されるべきである。
例えば、念光と念力は別の種目として区別されるべきである。
また、音を出す超能力(念音)も超能力に含めてもよい。

[3758] 人気 h19.11.15
オリンピック選手が引退後、テレビのバラエティ番組に出演してアイドルになれば人気が出る。
人気が出ればお金が儲かるかもしれない。
しかし、人気が出ようが出るまいがオリンピックの記録自体は変わらない。
それと同じように、私がテレビに出れば人気が上がるか下がるか知らないが、
私の超能力についての記録そのものは変わりはしない。

[3759] 人類の使命 h19.11.15
過去の先人の間違いにしたがってはならない。
真理を発見し、真理を積極的に受け入れ、
真理に従う世界を作っていかねばならない。

[3760] 『神原理』から『人間原理』へ h19.11.15
昔の人々は、この世界を作った神がいると考えた。
つまり、神は世界を作れるものと考えていた。
それを『神原理』と言う。
超能力者は、見たこともない現象を現すことができるので、世界を作ることができる者すなわち神か神に近い者と考えられた。
人間は超能力者に姿かたちが似ているので、人間も神に近い者と考えた。
それで、昔の人々は自分で世界を作ろうとして無駄な努力を重ねてきたのである。
しかし、近代になって、それまでの長年の経験から、どうも人間に世界は作れるものではないと考えるようになった。
人間にできることは、ただ世界[の法則]を知り、世界を利用することだけだと考えるようになった。
それが『人間原理』である。『人間原理』に従う具体的認識が科学である。
実際、超能力者にしても、私の例でもわかるように、自然界にある感覚場という眼で見えない物を発見し、その性質を使って超常現象を現したにすぎない。けっして、超能力者が世界[の法則]そのものを作れるわけではない。だから、超能力者も『人間原理』に従う人間にほかならないのだ。

[3761] 宇宙はどうして存在するか? h19.11.15
『神原理』によれば、宇宙は神が作ったから存在すると考えればよい。
この宇宙の法則が数式で書かれるところを見ると、
その神はたいそう数学がお好きなようだ。
では、その神はどうして存在するのか?
神が神自身を作ったからである。
なるほど、神ならそんなこともたやすくできるのだろう。
では、どうして人間が神を拝んだり神にお供えをあげたりしても、
その者に得になることがこれまでないのか?
神はどうして自分を慕う人間までも無視しようとするのか?
神はあまりにも人間に冷たすぎるのではないか?!
それは、たぶん、神には人間の意思が伝わらないからだろう。
それなら、人間が神を拝んだところで仕方がない。
逆に、人間のほうが神を無視せざるを得ない。
人間と神の間に意思疎通を図る方法が存在しないかぎり、
人間にとって神はいても仕方がないということだ。
昔の人は、神に対する拝み方や神と意思疎通を図る方法をさんざん研究したに違いない。
けっきょく、それらはすべて無駄に終わったということだ。
これでは、経験的には、『神はいない』と結論せざるを得ない。
神がいるというはっきりした証拠がないのに、神を信じろというほうが無理だ。
それなら、この宇宙はどうして存在するか?
それは、この宇宙のみが知ることだから、宇宙に訊いてみるしかない。
人間が宇宙を観察し実験して、宇宙と意思疎通を図ることによって、その答えが得られるはずだ。

[3762] ヨーロッパはどうして物が豊かなのか? h19.11.15
それは、キリストが知覚欲を満足せず物欲が強かったからである。
反対に、インドの釈迦は物欲を否定したので、インドは物が貧しいのである。
日本が物が豊かでないのは、天皇家が物欲があまりなかったからである。
人間が超能力者に従わなくてもよくなった今、人間は自分自身に従えばいい。

[3763] 私は神を信じない。 h19.11.15
私は赤ちゃんの頃日蓮宗つまり仏教で育った[私の名前に“延”の字が入っているのがその証拠だ!]ので、私の頭の中には神の概念がない。
だから、私は神を信じない。私は生まれてこのかた一度も神を信じたことがない。
人間は自分で修行つまり超能力の才能を伸ばして仏すなわち超能力者になるしかないのだ。

[3764] 政治家には権威がない。 h19.11.16
政治家は原則的には国民に従属しなければならないので、国民よりも下の存在ということになる。
しかし、これでは政治家にとっては面白くない。
政治家が国民よりも上に立つためには、国民よりも上の存在だと考えられている天皇に従うしかない。
それで、政治に天皇が組み込まれ、政治家が人間よりも上と考えられている天皇に従うから、自分たちも[天皇よりは下だが]人間よりも上の者のつもりでいるのである。
つまり、政治家が国民に従うにしろ天皇に従うにしろ、政治家自身には権威(ここでは、普通の人間よりも身分が上であること)がなく、つねに他者に従属しなければならない頼りない存在なのだ。
[私は、たとえ民主制においても、多くの国民を幸福にする有能な政治家には権威がある、つまり政治的な才能に伴う偉さがあると考える。]

[3765] 超能力の価値は絶対的か相対的か? h19.11.16
超能力を他の能力に比べて絶対視すると、超能力者が他の人間よりも偉いことになり、今の日本には私しか超能力者がいなくて、天皇はあくまでも超能力者の“子孫”にすぎないから、私が天皇よりも日本中の政治家よりもすべての日本人よりも偉いことになる。
しかし、そもそもひとりの超能力者と他の超能力者の偉さの比較をどうすればよいのか?天皇が人間よりも偉く、私が天皇よりは偉いのはいいとしても、神武天皇と私とではどちらが偉いのか?
神武天皇と私とでは超能力の種類が違うので、比較がしづらい。
神武天皇と私の超能力を種目が違う超能力であるとして、独立な才能と見なして、相互に比較できないとすることである。
神武天皇がいくら偉くても、死んでいないから、現在の地球には私の他に人間しかいないので、現在の世界は私が牛耳れることになる。
しかし、そもそも超能力が他の才能に比べて絶対的であろうか?
私には、数学や物理学の才能が超能力よりも優れていると思えて仕方がない。
かといって、数学や物理学の才能だけでは人類は幸福には生きていけない。
人類が幸福に生きるためには、その他のたくさんの能力が必要である。[スポーツは見るよりやるほうが大事である。]
超能力の才能は、むしろ要らないとさえ言ってもいい。
ただ、超能力については未知の部分が多く、超能力が将来人類の幸福のために役に立つ可能性もないとは言えない。
したがって、超能力を人間の才能に含めることは意義あることである。
人間は生物であり、自分の幸福のために生きているのだから、それらの才能は等しく大事にすべきである。
だから、超能力だけが他の才能に比べて絶対的に価値があるとは言えない。
超能力は、他の学問やスポーツなどの才能と、同等に見なすべきである。
したがって、超能力者がとくに他の人間に比べて偉いわけではない。
だから、超能力者の子孫である天皇だけに従う日本の政治がまちがっている。
日本の政治は、各分野の才人に等しく従うべきである。とくに、超能力に関しては天皇よりも私に従うべきである。
才人を特別視せずに日本人はみな平等とすると、才人と凡人の待遇が同じになって、日本が才人が増えない無能な国になってしまうのでよくない。
才人の待遇をよくすると、誰もが才人になろうと励み、また才人が有能な子孫を残すことが増えるから、国がよくなる。
超能力も人間の可能性のひとつだから、学校で学問の才能を磨き、ジムでスポーツの才能を磨くように、超能力教室で超能力の才能を磨くようになるだろう。
幸い、私の例でわかるように、超能力には遺伝性があるし家庭環境による教育もできるから、超能力者の育成は十分可能であると考えられる。
超能力者が安定して供給できるようになれば、超能力についての科学的研究もきっとはかどることだろう。超能力が競技として成立する日も夢ではない。

[3766] 天皇とは何か? h19.11.17
はたして、天皇は、人間か、人間よりも上なのか?
とにかく、歴史的事実からすれば、天皇は、徳川家やアメリカ大統領よりは下だ。
ところで、徳川家やアメリカ大統領は人間だから、天皇は人間以下だということになる。
それでは、明治憲法や日本国憲法では、日本国民が天皇に従うことになっているが、
それは一体何なのか?!
じつは、それは、憲法のでっち上げにすぎない。
つまり、憲法が嘘を言っているのだ。
天皇はとっくの昔に(2代目以降は)人間なのに、
人間よりも上の者のフリをして来たにすぎないのだ。
徳川家康は、その嘘を見抜いたから、天皇を従わせることができたのである。
たとえ、超能力者の子孫でも、超能力がなければただの人間なのだ。[たとえ超能力者であった神武天皇が「自分の子孫に絶大な権威を与えよ」と命令しても、その命令が有効なのは神武天皇が生きている間だけである。]
憲法はただ、人間である天皇と人間である国民の主従関係を規定しているだけなのだ。
天皇は人間だから、人間としての権威が天皇を上回る場合には、当然天皇を従わせることができるのだ。
また、いくら超能力者を信じて(超能力者に従って)いても、その者自身に超能力がなければ、やはりただの人間だ。
だから、今の世界には、私以外に超能力者はなく、超能力においては私以外のすべての人間が私未満である。
たしかに、超能力者も人間だが、超能力においては天皇よりも上なのだ。
天皇(2代目以降)は人間であって超能力者ではなく、宗教は超能力者に人間を従わせる組織だから、天皇は宗教である日本神道の対象ではない。
最初から、天皇(2代目以降)は政治的存在にすぎず、宗教的存在ではないのだ。
日本神道は天皇を神(超能力者)としているから、むしろ日本神道が宗教でないと言ってもいい。日本神道はタテマエは宗教だが、実質的には政治的組織であって宗教ではないのだ。日本神道は、明文化された憲法を持たない政治組織なのだ。
ヨーロッパにおいても、教皇などがいるが、教会の者は超能力者に従う者であって人間にすぎないから、人間としての権威が教会の者の権威を上回る場合には、教会を従わせることができるのである。

[3767] 超能力者の権威は? h19.11.17
超能力者は人間である。
超能力者は、他の学問やスポーツの才人と同等に扱われるべきである。なぜなら、人類が幸福に生きて行くためには、どの才能も平等に必要だからである。ひとつの才能を他の才能に比べて不当に高く評価してはならない。[超能力の才能は今のところ社会的に活かせていないが、将来性がある。]
だから、超能力者だけに絶大な権威を与えてはならない。[権威とは、他人が自発的にその者に従うことである。一方、権力とは、その者が強制的に他人を従わせることである。権威が強まったら権力になるから、両者は本質的には同じことである。(例えば、〜してくれませんか?(権威)<〜してください。<〜しろ!(権力))]
たしかに、『超能力者に絶大な権威を与える法』は存在するかもしれないが、人類が幸福であるためには、そんな法は廃止したほうがよい。
超能力者の超能力を消したお詫び[おわび]にそんな法を守っているなら、自分たちが超能力者に従う代わりに、超能力者にちゃんと弁償すべきである。なぜなら、超能力者に支配欲がない場合、他人が自分に従っても超能力者はちっともうれしくないからである。お金で弁償すれば、あとは超能力者が自分で自分の心を満足するから、そのほうがお詫びになる。[しかし、そもそも超能力は危険でないから消す必要がない。]
法があるからといって法に従うだけでは、支配欲がない超能力者にとってはうれしくなく、他人はいやいや超能力者に従わねばならず、両方とも面白くない。
昔は今のようにいろんな娯楽がなかったから、他人を支配する喜びが主だった。『超能力者に絶大な権威を与える法』はそんな古い時代にできた法だから、今の時代にやっても面白くないのだ。
そもそも、法は人類(超能力者も含む)が幸福になるためにあるのであって、人類を不幸にする法はないほうがいい。
なにも超能力者を無視せよといっているのではない。超能力者に他の才人と同等の権威を与えよと言っているだけである。
それなら、社会的発展を妨げない程度に超能力者に高い権威を与えればいいかというと、そうではない。たとえ10年間は社会の発展を妨げなくても、100年、1000年たてば歪み[ひずみ]が増幅されて大きな被害になる恐れがあるからである。だから、はじめから、超能力も他の才能も厳密に同等にしたほうがいい。もっとも、今はまだ超能力者が散発的に現われるだけで、超能力者はせいぜい100才ぐらいまでしか生きていないから、超能力者に多少大きな権威を与えてもそんなに大きな被害にはならない[歪みが一時的に大きくなるだけで、超能力者が死んだ後ではもとに戻る。]と思うが、将来超能力者が頻繁に現われるようになったら、超能力者に共通の意思(超能力者気質)が増幅されて社会に大きな被害をもたらすかもしれない。そうならないためにも、超能力者にあまり強い権威は与えないほうがいい。

[3768] 宗教とは何か? h19.11.17
超能力者が生きている間に『超能力者に絶大な権威を与える法』によって発生した組織であり、超能力者が死んだ後でも組織体としての権威を持って残っている。
しかし、いくら超能力者に従う組織であっても、超能力者が死んだ後ではしょせん人間から成る組織にすぎないから、組織体の者の権威を上回る者が現われたら、その者が組織を自分の意思に従わせることができる。
また、超能力者が死んだ後では、もはや超能力者に従う必要はないから、超能力者が生きている間に超能力者の権威で太った組織体を布教以外の目的に利用してもよい。
組織の経営がうまければ大きくなるが、下手だとつぶれる可能性もある。

[3769] 信者の権威 h19.11.17
宗教の構成員を信者と言う。
戦国時代の殿様の家臣[かしん]のように、信者は超能力者が生きている間に超能力者に従えば多少は超能力者の権威をもらって自分も偉くなれるかもしれないが、超能力者が死んだ後でいくら超能力者の言葉に従っても、もはや超能力者の権威をもらって偉くはなれない。つまり、超能力者が死んだ後では、信者は宗教から権威をもらって偉くなるしかないのだ。信者の偉さは人間から成る組織体としての宗教から与えられるのであって、超能力者から与えられるのではない。信者の偉さは組織体としての宗教の偉さに比例するのだ。

[3770] 俺は政治家よりも偉い! h19.11.17
超能力者として、私は天皇よりも上である。
国法において、政治家は天皇よりも下である。
したがって、私は(日本の)政治家よりも上である。

[3771] 宗教は悪の組織である。 h19.11.17
宗教に入ると、組織体としての宗教から権威を与えられて偉くなる。
つまり、誇大感情が満足される。
誇大感情は強まると誇大妄想症や躁病などの精神病に罹るから悪の感情である。
だから、宗教は悪の組織である。
学問やスポーツなどの成果で間接的に誇大感情を満足させるのは許される。
しかし、誇大感情を満足させること自体が目的となってはいけない。  
宗教に入っただけで誇大感情が満足されるのは安易すぎるからよいことではない。

[3772] 多数決決定 h19.11.18
代議員制は古い。情報処理能力が発達すれば直接民主制が実現する。
S=ΣWiSi
Siは国民個人の意見量。賛成が1で反対がー1。
Wiは国民個人の権威量(いわゆる重み)。Wiが大きいほど権威が強い。
Sは国民の総意。S>0で賛成、S<0で反対が決定する。
例えば、戦争をするかしないかは、この方法で決めたらいい。

[3773] どうして面白いアニメが少ないのか? h19.11.18
これまでに日本で作られたアニメのタイトルは約10000タイトルもあるのに、
私が面白いと思うアニメは5作もない。
1.超くせになりそう(放送日1994・4・5〜1995・1・3)
2.魔法のエンジェルスイートミント(1990・5・2〜1991・3・27)
3.魔法のプリンセスミンキーモモ[新](1991・10・2〜1992・12・23)
4.キャッ党忍伝てやんでえ(1990・2・1〜1991・2・12)…ギャグは面白いのだが、いかんせんキャラクターがネコ型ロボットなので、感情移入がいまいち。
せいぜい、このくらいしかない。
これらの作品はすべて、私が九州大学理学部物理学科にいた頃(1991〜1995)に作られた物である。
その頃私は自分が好きな物理学の勉強ができて、[精神病に罹ってはいたものの]比較的幸せな人生を送っていた。
それに比べて、最近のアニメは面白くない。
それは、私が工場の面白くない仕事で安月給で働いていたからである。
ところで、アニメの面白さと景気のよさとには関係がある。
景気がいいときには面白いアニメが作られ、景気が悪くなると面白くないアニメが作られる。
景気が悪くなるとアニメビデオなんてしょうもない贅沢品は売れなくなるから、制作費が減るために面白い物が作れないことはわかる。
しかし、日本政治が天皇制であり、宗教が明文化された法を持たない政治であって、日本では政治も宗教もともに超能力者制をとっているのを考えてみると、
私が幸福なときには景気がよくなり私の趣味であるアニメも面白い物が作られ、反対に私が不幸なときには景気が悪くアニメも面白くないものが作られることが納得できる。
もっとも、私が景気を悪くするように日本政府に命令しているわけではないし、アニメ会社に面白くないアニメを作れと命令しているわけでもない。
それは私の命令ではなく、政治や宗教の自主的な働きでそうなっているのである。
だから、原因は私にあるのではなく、“超能力者制”にあるのだ。
“超能力者制”を活かせば、今後私の個人的生活が幸福になると、日本の景気がよくなり面白いアニメが作られることになるが、残念ながらその可能性は今のところ小さい。
近代以前のヨーロッパが不合理主義社会であり全体的に不幸なムードにあったのは、そもそもキリストの人生が不幸であったせいだとも考えられる。[合理的に考えれば、いくらキリストに超能力者としての絶大な権威があったとしてもキリストが死んだ後ではキリストに従わなくてもいいことになるが、それは『人間主義』的な合理的なものの見方であって、当時は社会全体が『神主義』だったから、人間は神に従う者であり、神は永遠不滅な者であり、超能力者であったキリストは人間よりも神に近い者だと考えられていたので、キリストもまた永遠不滅の者であり、キリストの死後も長らく人類はキリストに従わねばならなかったのである。したがって、キリストが不幸な人生を送ったので、キリストに従う人類もまた不幸にしなければならなかったわけである。]
“超能力者制”がなくなれば、超能力者個人と社会全体との関連がなくなるから、超能力者がらみの面倒な規制が取り払われて、社会はそこに住む人間の好きなようにすればいいのだからやりやすくなるはずだ。
現代はもはや『神主義』ではなく『人間主義』の時代である。超能力者は神に近い者ではなく人間の中にある超能力の才能を伸ばした者にすぎず、超能力者の権威は他の学問やスポーツなどの分野の権威者と同じである。現代においては、“超能力者制”はもはや不当な制度である。したがって、世界の宗教は滅びるべきであり、日本の政治は『神制』(つまり、“超能力者制”や“天皇制”)から『人間制』(つまり、“民主制”)に改めるべきである。
いまどき『神』の存在を本気で信じている者なんていないから、日本が神制なんか採ったところで時代遅れで世界の笑いものになるだけだ。そもそも神がいなけりゃ、神制なんか採ったところで仕方がない。

[3774] ユリ=ゲラーと私 h19.11.18
ユリ=ゲラーは超能力者ではない。超能力者のフリをしているただの芸人(下手な手品師)だ。[ちなみに、私の母親の名前は裕季子[ゆりこ]という。]
それに比べて、私は本物の超能力者だ。
したがって、私はユリ=ゲラーよりもいい待遇であるべきだ。

[3775] 宗教の論理 h19.11.18
この宇宙を作った神がいる。
神は人間よりも偉い。
自分は人間よりも偉い神に従う者だから、人間よりも偉いのだ。


[3776] 政治家と宗教家の関係 h19.11.19
政治家は、日本国憲法にある通り、天皇に従うだけである。
一方、宗教家は、超能力者である私に従う。
私に従うかぎり宗教家は人間である政治家よりも偉いから、
政治家は宗教家に従わねばならない。
したがって、政治家は[間接的に]私に従うことになる。
ところが、天皇と私とでは超能力者としての偉さが私のほうが上だから、
政治家は天皇よりも私に従わねばならない。

[3777] 超能力者の権威の大きさは? h19.11.19
超能力者は人間だから、超能力者の権威は他の学問やスポーツの才人の権威と同等である。
しかしながら、超能力者の権威が精確にどの程度なのかはわからない。
ただ、超能力者の権威が天皇や政治家の権威よりも上であることはたしかである。
だからといって、超能力者ひとりのために、社会が大きく動くと社会にとっては迷惑である。
だから、超能力者が社会に対して口出しすることは禁止すべきである。それは政治家の仕事であって、超能力者がすべきことではない。
それに、現代は(たぶん未来も)個人主義の時代だから、超能力者もあまり他人のことには口出ししたくない。
したがって、超能力者の社会的な要望は[よほど正しい意見でないかぎり]聞かなくてよいが、
超能力者の個人的な要望なら[正しくなくても]ある程度までは聞くべきである。[せめて、生活費の面倒ぐらい国が見るべきである。]
また、社会全体への要望は[正しくないかぎり]聞かなくてよいが、社会の一部への要望なら[正しくなくても]ある程度は聞くべきである。

[3778] 超能力者の権威の大きさは?(つづき) h19.11.19
現代は神の時代ではなく人間の時代である。
したがって、超能力者は人間の中にある超能力の才能を伸ばした人間であり、他の学問やスポーツの天才と同等に見なすべきである。
ところが、超能力者の出現は非常にまれである。
したがって、超能力者の権威は、他の学問やスポーツの天才に比べて大きいと考えられる。
世界中で、ノーベル賞受賞者やオリンピックの優勝者はほぼ毎年一人はいるが、
学問やスポーツの天才とまで呼ばれる者は100年に一人ぐらいだし、
超能力者の出現がおおよそ1000年に一人だから、
超能力者の権威は、学問やスポーツの天才の権威のおよそ10倍と見なされる。
超能力を発現した者には、超能力を発現したときから死ぬときまで超能力者としての権威が与えられる(性別年齢国籍人種不問)。
超能力者に気に入られて超能力者に従うことができた者には、超能力者から若干の権威が与えられる。
超能力者が死んだ後では、いくら超能力者の言葉を信じようが(従おうが)超能力者の物を持っていようが、超能力者から権威を与えられることはない。
宗教は、超能力者が生きているとき超能力者と超能力者に従う者が作った組織であるが、超能力者が死んだ後では組織体としての権威があるだけでもはや超能力者から権威は与えられない。
ところで、学問やスポーツの天才はその権威で国や世界からお金をもらって自分の好きなことができる(無制限にとは行かないが、ある程度までは好き勝手が許される)。だから、超能力者もその権威である程度の好き勝手は許される。少なくとも、国や世界に自分の生活費を出させるぐらいの命令はできる。公務員は仕事をして自分の生活費を国からもらっているが[天皇だって、法で定められた義務を果たしているから、公務員の一人である。]、超能力者にとっては超能力を発現したことがすでにひとつの大きな仕事をしたことになるから、それで一生国や世界からお金をもらって生きて行っても悪くはない。超能力者が人間に超能力が使えることを示したことは、いわゆる科学的な新発見だから、科学的にも価値ある仕事だと言うことができる。[その事実から帰納して理論を作ることは、未来の人類への宿題である。]

[3779] 親の七光りとは何か? h19.11.19
親に権威があると、その子供にも権威がある。
それは、親が生きている間は、親の命令で子供の権威が増やせるからである。
しかし、親が死んだ後では、もはや子供に権威を与える者がいなくなるから、子供は自分自身で自分の権威を高めないといけない。

[3780] 宗教についての訂正 h19.11.19
宗教は超能力者が現われてからできたのではない。
すでに超能力者が現われる以前からあった組織だ。
その頃は、まだたんに宇宙の創造主である神を崇める者たちから成る集団であった。
そんなところに、普通の人間にはできないことができる超能力者が現われたために、超能力者に神の概念が当てはめられて、超能力者が“生きている神(現人神)”だと言うことにされ、現人神[あらひとがみ]である超能力者に人間が従わなければならないことになったのである。
超能力者が現われようが現われまいが、とにかく宗教が『神主義』者の集団であることに違いはない。
それでは、超能力者の権威と、宗教の教団の権威とではどちらが上か?
古い『神主義』の社会においては、神や超能力者が宇宙の頂点にあったので、超能力者ひとりの権威が教団全体の権威よりも上であったに違いない。だから、たとえ超能力者の意見がまちがっていても、多数決でそれを否定することはできず、人類はいやいやながら超能力者のまちがった意見に従わねばならなかった。
しかし、近代以降の『人間主義』社会においては、人間ひとりひとりが宇宙の底辺に等しく並んでいて、人間ひとりひとりの権威は原則的に平等であり、超能力者も人間も原則的には同じ権威を持つのであって[ただし、超能力者の超能力の才能を考慮して、超能力者には他の学問やスポーツの天才と同じ権威を与えるべきである。少なくとも、ユリ=ゲラーや関口少年などのニセ超能力者よりも強い権威を与えねばならない。]、集団の権威は個人の権威の合計だから集団の権威が個人の権威よりも強く、したがって超能力者一人よりも人間の集団である宗教の教団の権威のほうが強い。だから、現代においては超能力者のまちがった意見に他人が服従することはもはやありえないのだ。
それでは、みんなが等しくまちがっていればそれでよいかと言うと、そうではない。それは、人間の感覚の外に『実在』が存在するからである。実際、いくら多数決で決めたことでもまちがっていたらうまく行かない結果に終わる。多数決は少数のまちがいを訂正するためのひとつの方法なのだ。だから、『人間主義』社会においては、ひとりひとりの個人が正しく判断できることが前提とされているのであり、それができなくなったとき、人間が自分で判断するのを放棄してもとの人間がいるかいないかさえもわからない神に盲従する『神主義』に戻らなければならなくなってしまうのだ。
だから、日本人もいつまでも自分で考えたがらない古臭い『神主義』に頼らずに、自分で考えて自分で判断する『人間主義』で生きて行かねばならない。

[3781] お金と幸福 h19.11.20
お金は幸福になるためのひとつの手段にすぎない。
だから、幸福感はお金よりも大事である。
幸福感は大脳前頭葉の脳細胞の神経興奮で発生する感覚だから、
自分の脳や身体を一番大事にしなければならない。

[3782] 自由主義 h19.11.20
職業安定所なんかよりも安楽死をさせてくれる施設があったほうがいい。
人間が本当に自由なら、
まず生きるか死ぬかの選択の自由を与えるべきである。
成人に達した人間には死ぬ自由も認めるべきである。
生きたいと思う人だけが職業安定所に行けばいい。
人間は歳を取れば取るほど幸福になるのが難しくなる。
いい歳になったら、身体がだるくて働くのも面倒臭くて苦痛である。自分が生きるよりも死ぬほうが合理的な判断に思える。
歳を取ると、感情(を荷う脳細胞)の働きが鈍くなって、喜びがなくなり生きる気力が湧かなくなる。
そんな人は職業安定所に行くよりも、さっさと安楽死施設に行ったほうがいい。
安楽死施設があれば、わびしい厚生年金をかけたりしなくていいし、自分の生活苦による犯罪も減るはずだ。
生きているのが幸福な間は生きていて、
生きているのが苦痛になったら、さっさと死んだほうが人生全体としては幸福である。
安楽自殺を認めない法は、国民の労働力を確保することだけを目的にした国民の自由意志を認めない古い制度の名残にすぎない。

[3783] 神はいるか? h19.11.20
この宇宙を作った神がいるのなら、
どうしてこの宇宙の中に住む人間に神はいないと考える自由を与えたのか?
神が宇宙を支配する(支配したい)のなら、
当然宇宙の中に住む者はすべて神に従うように最初から作られていなければならない。
それなのに、私のように神を信じない人間や神に従わない人間がいるのは
神が人間を支配しない(支配したくない)ことを表している。[あるいは、そもそも神がいないかだ。]
つまり、神と人間とはそもそも支配従属関係で結ばれていないのだ。神と人間との間には支配従属関係が成り立たないのだ。
それなら、人間がいくら神を拝んで神に従うと言っても、神はそれを認めないから、神に従うことができないはずだ。
したがって、人間が神に従うことによって神から権威を与えれれることもないはずだ。
つまり、宗教は成り立たないのだ。

[3784] 宗教は無駄である。 h19.11.20
神は宇宙を作った者である。したがって、人間を作ったのも神である。
これは、ちょうど、コンピューターのプログラマーがコンピューターの中のデジタル空間にプログラムで動く人間を作ったようなものである。
したがって、神が人間を支配する(意のままに動かす)ときには、コンピューターのプログラマーが新たにプログラムを付け加えてデジタル空間にいる人間の動きをコントロールするように、神が宇宙の中に新たに法則を作って人間をコントロールするから、人間はいやがうえにも神に従わされることになるので、なにも人間がわざわざ意識して神に従う必要はない。
たとえ神がいるとしても、人間が神に意識して従う必要はなく、人間は神を意識せずに自然に動いていればそれで神に従ったことになるのであって、それ以上のことをわざわざやらなくてもいいのだ。
したがって、宗教は余計な無意味なことをやっているにすぎない。人間が宗教を作ってわざわざ神に従おうとするのは、人間自身の自発的意思にすぎず、神の意思ではない。人間は自分の依存心(従属心)を満足させたいがために、“余計な者”を作り出して、それに従っているだけなのだ。その“余計な者”は神ではなく、人間の依存心が作り出した妄想にすぎない。

[3785] 芸術家の自由 h19.11.20
日本のアニメなどにおいて、私がアニメのキャラクターになっているだけでなく、
西洋美術を見ても、キリストを題材にした芸術品がやたらと多い。[キリストやマリアも、おもしろくなく思っているかもしれない。それに、芸術の題材は幅広く採ったほうが芸術品を見る者にとって物の見方が広がるからいい。]
それは、宗教が勝手に作った宗教法と関係があると考えられる。
私は上で、人間が神に従うことができず宗教が成り立たないことを証明したから、宗教が勝手に法を作ることもできないはずであり、一方芸術家は自由にやりたいのが性分だから、今後一切人間文化に宗教が口出しすることは禁止する。
でも、現在の人間から成る組織体としての宗教の強い?権威で他の組織(例、アニメ会社やマンガ出版社)や個人(芸術家)へ命令ができるとすれば、今しばらくはやむをえないことなのかもしれない。しかしながら、私は宗教団体へ自分を題材にした芸術品を作れなどと命令したことはないし、他の超能力者も死んだ後ではそんな命令はできないので、自分の会社や自分個人の権威が宗教団体の権威を上回ると考える者が現われれば、もはや宗教団体に従って自分の意思に沿わない作品をわざわざ作らなくてもよい。

[3786] 超能力者の肖像権は? h19.11.20
政府の権威が宗教の権威を上回れば、宗教は政府が作った法律に従わねばならないし、超能力者である私も人間の一人だから、私の肖像権が認められねばならない。
反対に、宗教の権威が政府の権威を上回れば、政府が宗教法(宗教が作った法律)に従わねばならないから、私の肖像権は認められないかもしれない。ただ、私は私の肖像を使えと宗教団体に命令したことはこれまでに一度もない。宗教の権威が超能力者である私から与えられたものであれば、当然宗教は私の命令に従わねばならない。したがって、私は私の肖像を使うことおよび使った物を製造販売することを今後一切禁止する。あるいは、宗教の権威が現在の人間から成る組織体としての権威にすぎないとすれば、国の法律に従わねばならないから、やはり私の肖像権が認められることになる。[上で述べたように、人間が神に従うことはそもそもできないことだから、宗教の権威が神から与えられることはない。]
どちらにしろ、超能力者である私の肖像権は認められる。

[3787] 宗教は成り立たない。 h19.11.21
人間には神を信じない神に従わない自由が与えられている。[人間の中には、私のように神を信じない者神に従わない者がいるからである。]
それは、神に人間を支配する意思がないことを示している。
それなら、人間が神に従いたいと言っても神はその訴えを認めないだろう。
だから、人間は神に従えないのである。
つまり、宗教ができないのだ。

[3788] 超能力者は神ではない。 h19.11.21
超能力者にしても、超常現象をたった1つ現しただけで宇宙の創造主である神に喩えられて、一生のあいだ人々の誤解に付き合わされるのは迷惑である。超能力者にとっては、誤解を持った人々のために自分の人生を台無しにされて不愉快である。超常現象はすでに宇宙に存在している法則を使って発現したのであり、宇宙の法則そのものを作り出すのではないから、超能力者に神の概念を当てはめることは、概念の適用の誤りである。
いわば、超能力は自然科学の一種であって、超常現象(日常生活を超えた現象)ではあっても、超自然現象ではないのだ。

[3789] 超能力はめったに発現されない。 h19.11.21
もし、これまでに超能力者がしょっちゅう超能力を発現することができたら、超能力者が神と誤解されることはなかっただろう。
公衆の面前で超能力者が超能力を繰り返し披露することができたら、超能力者はただの超能力を使える人であって、神と誤解されることはなかっただろう。
超能力者が言葉の上だけで周りの人々から神と言われる存在でその実体がわからなかったから、超能力者が何であるかがわからない人々にとっては周りの人々に従うしかなくそのためこれまで超能力者が神で通っていたのである。[超能力も何もない天皇でさえも神で通っていたのである。]そもそも神でない者を神と呼んでいただけのことであり、要するに“裸の王様”だ。[超能力者が人間であって神でないことを人々に知らしめるためには、実際に超能力者が超能力を使っているところを人々に見せるのがもっとも効果的である。現代はテレビの時代だから、心霊写真のように超能力者の映像の眼に前張りをしてでも、公衆の面前に超能力者の姿を曝すべきである。そうすれば、みんなが超能力者の存在を認めるだろうし、超能力の実体がよくわかるので、もはや超能力者を神だと誤解する者はいなくなるだろう。]
したがって、超能力者が超能力を発現することはめったになく、生涯の内でも極短期間であったに違いない。例えば、神武天皇で1回きり、私の念力でもせいぜい数週間の間見られただけである。
その超能力にしても、漫画や映画で見るようなすごい力ではなく、実際には光の玉を出したり家の中にある小さい軽い物を動かすことができるぐらいで、懐中電灯でも赤ちゃんの手でもできる程度のことだから、法律的に問題になるほどのことではない。だから、超能力者の超能力を消さなくていい。どうしても、超能力のことが心配で超能力を消したいなら中途半端に超能力者の脳に処理をして超能力を消すよりもいっそのこと超能力者ごと殺すべきである。しかし、超能力者が人間ならみんな多かれ少なかれ持っている超能力の才能を伸ばして現われるのなら、誰でも超能力者になる可能性があるから、いくら超能力者を殺してもそれで超能力者が絶対現われなくなるとはかぎらない。つまり、超能力者を絶滅させたいなら、もはや人類を皆殺しにするしかないのだ。だから、超能力者の超能力に対しては[よほど危険な事態にならないかぎり]寛大に見て自然経過を観察しながら放置しておけばいい。

[3790] 私の超能力を見たのは誰か? h19.11.21
私が赤ちゃんの頃念動力があったそうだが、私自身はその記憶がない。
私の母親は「昔鴨部に住んでいたとき、オバケがいたずらをして家の中の物が動くことがあった。」と言っていたから、私の母親は念動力を見たに違いない。[私の母親は冗談を言わないタイプだ。]
父親は、当時仕事でいそがしく、夜遅くならないと家に帰らなかった(午前になることもしょっちゅうあった)から、見たことがないかもしれない。[ただ、母からオバケのいたずらの話は聞いたことがあったようだ。]
母方のおじいさんとおばあさんは私が小さいころによく世話になったから、見たことがあったかもしれないが、私はおじいさんやおばあさんからそんな話しを聞いたことがないし、今年両方とも亡くなったのでわからない。
あとは、宗教か政府の確認者がいたはずだが、具体的に誰なのか私は知らない。[私の親は知ってるかもしれないが、私に話したことがない。]
したがって、私の念動力について詳しい話しを聞けるのは、私の母からだけである。[しかし、私が小学2年の頃、母から1回聞いたきりである。私が2〜3年前に訊いても、なにも知らないとしか言わなかった。]

[3791] 超能力者の権威の大きさは? h19.11.21
宇宙の創造主である神の権威は∞である。
しかし、キリストやシャカの権威は∞とは思えない。
それは、キリストやシャカが当時の学問である哲学の喜びを主として生きていて、人間である庶民と超能力者であるキリストやシャカとの間にたびたび会話が交わされており、人々が超能力者をある程度人間と対等な者だと見なしていたと考えられるからである。
当時の人々もそんなに馬鹿ではないから、超能力者を神と同じ者だとは当然見なしていなかったはずだ。
神武天皇にしても、光の玉を出しただけですぐに日本が統一できたわけではないから、当時においても超能力者が絶対的な権威を持っていたとは考えにくい。
したがって、超能力者の権威は大きいけれども有限大である。
しかしながら、超能力者から権威を与えられた宗教団体の権威が一時は国の権威を上回るほどだったから、超能力者の権威は相当大きかったに違いない。
私としては、超能力者に対する昔の権威の与え方は多少大袈裟すぎるとしてもほぼ正当だったと考えている。

[3792] 超能力者の権威の大きさは?(つづき) h19.11.22
もっとも、近代以前は『神主義』の世界だったから、そのために超能力者の権威が大きめに評価されていたことはまちがいない。『神主義』の世界においては、超能力者に∞の権威を持つ神から権威が与えられたので、当然超能力者の権威が大きめに評価されたのである。
一方、現代は『人間主義』の世界である。
『人間主義』の世界においては、超能力者は宇宙の創造主である神とは無関係であり、超能力者にはもはや神から権威が与えられないので、超能力者の権威は昔ほど大きくはない。
実際、ユリ=ゲラーや関口少年なんか、そこらへんの芸人と変わらなった。
しかし、私は子供の頃すでにユリ=ゲラーを本当の超能力者とは思わなかった。それは、“念力で壊れた時計を直す超能力”があまりにもインチキ臭かったからである。
関口少年も登場後すぐにインチキがばれたから超能力者と思う暇もなかった。
当時は、超能力がブームだったから、多少のインチキも大目に見てくれていたのだろう。
インチキ超能力者にもそこそこの権威があったから、テレビに出ることができたのだ。
近代以降は『人間主義』の時代に変わったから、過去に現われた超能力者に対しても『人間主義』における超能力者としての権威が与えられるようになった。なかには、超能力者のことをただの思想家だと思っている者も少なくない。それでも、今のキリスト教や仏教などの宗教団体が成り立つのだから、『人間主義』における超能力者の権威もそう小さくはない。もちろん、宗教団体自体の権威で支えている部分もあるが、超能力者の権威で支えられている部分もかなり大きいと考えられる。[厳密に言えば、キリストやシャカはとっくの昔に死んでいないから、キリストやシャカが権威を振るいようがない。だから、“超能力者の権威”というよりも、今の人間の超能力者に従いたい気持ちと言ったほうが適切だ。]
仏教では、シャカ自身は自分を神ではなく人間だと言ったものの、実際には周りの人間はシャカを神と見なしていた。しかし、近代以降はみんなが超能力者を神とは見ず人間と見る傾向があるから、シャカも神ではなく人間と見なされるようになった。それでも仏教の権威は依然としてかなり大きいところを見ると、やはり超能力者としてのシャカの権威はかなり大きいと考えられる。
キリストやシャカの哲学が宗教となって世界中に広まっているのに対し、デカルトやその他の哲学者の哲学が学問としての哲学に留まっているのは、デカルトその他の哲学者が人間であるのに対しキリストやシャカが超能力者であるからである。
したがって、やはり現代においても、超能力者の権威は学者(やスポーツ選手)の権威よりは大きいと考えられる。

[3793] 宗教は哲学ではない。 h19.11.23
宗教とは、超能力者に従うことである。
いくら、超能力者に憧れてあるいは超能力者が人間よりも優れた者だと考えて、超能力者に従いたいといっても、
キリストやシャカなどの過去の超能力者の哲学(人生訓)は
『神主義』だった古い世界における人間の生き方を説いたものであって、
『人間主義』である現代社会にそぐわないところが多い。
たとえそれらが『神主義』とは無関係であったとしても、キリストの過度の愛情やシャカの禁欲な生き方は、現代的にはあまりにも不自然な生き方である。[宗教の信者は、キリストやシャカが神扱いされていたところに魅[ひ]かれて、自分もキリストやシャカのように神扱いされたいために入信するのかもしれないが。]
超能力者の超人的なところは、その超能力にあるのであって、哲学にあるのではない。
だから、超能力者にいくら憧れがあっても、現代的に見ればまちがっている超能力者の哲学に従う必要はない。
どうしても超能力者の哲学に従いたいなら、超能力者の残した哲学を分析し、現代的に通用する部分だけに従えばいい。通用する部分がなければ、(神棚を建てて)超能力者を拝むだけでいい。[それ以上のことがしたければ、何か超能力者の役に立つことをすればいい。]
わざわざ超能力者の残したまちがった哲学にしたがって、自分の人生をうまく行かないようにするのは賢いやり方ではない。
超能力者はその超能力に対して拝むだけであり[未来では、自分の超能力を鍛えるようになっているかもしれないが]、哲学は哲学者に聞くほうが、現代的には賢明な生き方である。

[3794] 宗教は政治ではない。 h19.11.23
超能力者の超人的なところは、その超能力にあるのであって、政治の才能にあるのではない。
だから、超能力者の政治に従う必要はない。
どうしても超能力者に従いたいなら、超能力者の作った政策を分析し、民主主義に適[かな]った部分だけに従えばいい。
わざわざ超能力者の作ったまちがった政策にしたがって、国を滅ぼしてしまうのは賢いやり方ではない。
超能力者はその超能力に対して拝むだけであり、政治は政治家に聞くほうが、賢明である。
[天皇の政治に対する口出しも、天皇は国法で規定されただけの役職であり超能力者ではないが、もし天皇が超能力者であったとすれば、超能力者の権威の濫用である。]

[3795] 宗教は超能力だけにしろ。 h19.11.23
超能力者は超能力を発現したことがすでにひとつの仕事である。
超能力者に関するその他のことは、余計なおまけである。
超能力者による哲学も政治も余計なことである。
超能力者をその超能力だけで評価したほうが、国や世界にとっても無難である。
宗教が超能力者に関する自分勝手な非公開な取り決めをして(いわゆる宗教法)、超能力者や他の人間を巻き添えにするのは迷惑なことである。例えば、超能力者が現われた国が超能力者から勝手に権威を取って、自国に有利で他国に不利な政策を他国に対して押し付けるのは、卑怯なやり方であリ、戦争にもなりかねない。
宗教は、超能力者の超能力の才能を拝み、超能力者のために役立つ会に留めるべきである。

[3796] 超能力か幻視か? h19.11.23
シャカの身体から蓮[はす]の花が咲いたとか、役小角[えんのおづぬ]が握った小枝が見る間に大木になったとかは、荒唐無稽な作り話に思われる。
それは、おそらく超能力ではなく幻視だろう。
カメラかビデオに写せば、超能力か幻視かが区別できる。

[3797] 超能力は実在する。 h19.11.23
たぶん、超能力が実在することをみんなは知らないだろう。(東大生だって知らないだろう。)
真実を隠す必要はない。積極的に教えるべきだ。
真実を知らないことが世界がおかしくなる原因だ。
超能力が実在することを、世界中の学校の理科の教科書で教えるべきだ。
せめて、ブリタニカ世界大事典には載せるべきだ。
超能力や超能力者の概念が世の中に定着し超能力の実態が明らかになれば、今後超能力者が現われてももはや超能力者を神だと見なしたり超能力者に過大な権威を与えたり超能力者を危険視して騒ぎ立てたりすることはなくなるはずだ。[今から30年前でも、すでにユリゲラーや関口少年の超能力を信じる人がいても、大した騒ぎは起こらなかった。昔から、超能力者を危険視することはあまりなかったようだ。]

[3798] 宗教法禁止法 h19.11.24
超能力者以外の人間が超能力者に関する自分勝手な非公開な取り決めをして(いわゆる宗教法)、超能力者や他の人間を巻き添えにしてはいけない。【宗教法禁止法】
私が死んだ後は、世界中で最も権威のある機関がすべての人間に私が定めた宗教法禁止法を守らさねばならない。そのほうが超能力者やその他の人類にとって幸福だからである。[もっとも、私が死んだ後は、原則的には人類の自由である。]
超能力者は自分の権威の範囲内で人間に対して自由に命令できるが、いくら超能力者でも人間に対して超能力者の権威(有限大)を超える命令をした場合には、人類に殺されても仕方がない。[超能力者の権威の強さは、その超能力者が生きている時代によって決まる。超能力者自身が決めることではない。]
同時代に超能力者が2人以上存在した場合には、超能力者の権威は同じと考えられるので、超能力者同士がお互いによく話し合ってどうすればいいか決めてください。

[3799] 天皇が居る意義は? h19.11.24
現在の天皇は超能力者ではなく、日本国憲法で定められた役職にすぎないので、
天皇が日本国外に出るともはや何の権威も持たないことになる。[だから、天皇に腐ったトマトが飛んできても仕方がない。]
つまり、天皇は日本国内で威張っているだけである。
天皇は日本国憲法から権威を与えられているにすぎないから、憲法あっての天皇なので、天皇の権威より日本国憲法の権威が上だ。
日本国憲法は日本人みんなが決めたものだから、天皇の権威より日本人みんなの権威のほうが上だ。
それなら、わざわざ天皇が居る必要はない。
何のために天皇が居るのか?

[3800] 宗教はなんであるべきか? h19.11.24
超能力者の本質は超能力にあるのであって、その他の言動にあるのではない。
例えば、キリスト教美術では、必ずキリストの十字架像が真ん中になっているが、
本来はキリストが超能力を発揮した姿が真ん中にあるべきである。[ただし、嘘の超能力はいけない。]
キリストの十字架像は隅[すみ]のほうに描けばいいのだ。
超能力者の出来損ないの哲学を教えられるのも迷惑だ。
これまでの宗教は何をやっているのかわからない。超能力者の人気取りや宗教団体のお金儲けのことばかり考えて堕落している。
超能力者の超能力を浮き彫りにすると、人間と超能力者との違いが際立ち超能力者の人気が減るので、超能力を隠そうとさえしている。
宗教のルーツは、超能力者の超能力を拝み超能力者の役に立つ会であるから、
これまでの宗教がやってきた無駄な点余計な点を取り除いて、宗教の原形に戻すべきである。


戻る