[3601] 吉村君のこと h19.10.5
これは私がまだ九州大学教養部の学生だった頃。私と和田君が吉村君の下宿に行ったとき、吉村君が「みんなお面[めん]を被りながら暮らせたらいいと思わん?」と私に言ったことがある。吉村君はボクシングジムに通っていて、「あしたのジョーの漫画を全巻古本屋で買った。」と言っていた。「将来美容師になりたい。」と言って、私の髪を変に刈ったのも吉村君だ。
[3602] 私の念動力について h19.10.5
初代天皇が戦争中に出したり夏のお盆のときによく出る光の玉は、感覚波を使える人間が突発的に何も考えずに出したように思われるが、私が赤ちゃんの頃に出した念動力は、私が感覚波をいじくり回しているうちに偶然発見した感覚波のひとつの性質であるように思われる。
つまり、私の念動力は、私が私の母親が使っている感覚波を見て、それを真似て、さらに自分で考えて発展させてはじめてなし得た技なのだ。
だから、私と私の母親すなわち超能力者と超能力者でない者との間に明確な境界線は引けず、神と呼ばれる超能力者も人間と同じ仲間なのである。
このように、超能力者が人間より上であるかないかは全然わからないことではなく、事実を丹念に拾って積み重ねていけば自然にわかることなのである。[100代以上も前に超能力者がいただけの今の天皇に、初代天皇の超能力がどうして出たかなんてわかるわけがない。]
要するに、超能力者は、特殊な超能力の使える人間であって、人間はみな多かれ少なかれ超能力が使えるから、超能力者だけが特別な存在ではなく、超能力者は人間よりも上の存在ではない。
超能力者は、科学や数学の天才人と同様、超能力の天才人なのである。
[3603] どうして西洋人は科学が強いか? h19.10.5
私は今から約7年前にJR宝塚駅前で“母親が3秒間20歳若返った姿”を見たことがある。
だから、私の母親は幻視波が出せる。
一般に、西洋人には幻視が多く、日本人には幻聴が多いと言われている。
西洋人に幻視が多いのは、西洋人が視覚的な具体的思考に長けているからだろう。
だから、西洋人は物に関する科学が強いのだ。
西洋人が数学のような論理的抽象的思考に強いのも、それらの抽象的思考がそもそも具体的な視覚的イメージに基づいているからであろう。
一方、日本人は幻聴が多い。それは、日本人が言葉だけによって、宙ぶらりんな思考しかできないからではないだろうか。
日本人が西洋人に比べて論理的思考が弱いのも、言葉だけに頼っているために非論理的ないいかげんな考えしかできないからではないだろうか。
幻聴や幻視を精神分裂病と切り離して考えてみると、幻聴や幻視の存在は日本人や西洋人の生まれつきの脳の特性あるいは文化によって生後作られた脳の特徴を表しているといえるだろう。
やはり、文化にも善い文化と悪い文化がある。西洋文化は日本文化よりも優れていると思う。だから、自国の文化に固執せず、他国の文化のよいところをどんどん真似して取り入れるべきである。
[3604] 考える意義 h19.10.5
考えるとは、知覚界に真実を作ることである。
だから、考えなければ、知覚界にまちがいが溜まって行く。
[3605] かわいいとは何か?☆☆ h19.10.5
かわいいとは、子供っぽいことである。
女は成長が子供のままで止まっていて、男よりも子供っぽいから、かわいいのである。
[3606] 超能力者の権威 h19.10.6
感覚波に念動力の性質があることを発見した私はノーベル物理学賞受賞者並みの権威がある。
感覚波で光の玉を出した初代天皇にもノーベル物理学者並みの権威がある。
しかし、いくら親の七光りがあるからといって、初代天皇から100代以上も後の子孫の今の天皇にどれだけの権威があるといえるだろうか?
まして、今の天皇にあやかる日本神道の宗教家に権威などあろうはずがない。
海外の他の宗教についても同様。
[3607] ノーベル物理学賞受賞者としての超能力者 h19.10.7
低温物理学者のカメルリン=オンネスが『水銀の超伝導現象』を発見したことに対しノーベル物理学賞を与えられたのなら[量子力学による超伝導現象の証明は、バーディーン、クーパー、シュリーファーの3名により、超伝導現象の発見からかなりあと(46年後)になされた。それは、シュレーディンガーの波動方程式のほかにいろんな学者によるいくつかの量子力学の原理の発見を待たねばならなかったからである。(数学の定理の証明に比べると簡単な気がするが。)]、私が『感覚波の念動力現象』を発見したことに対してもノーベル物理学賞が与えられるべきである。[神武天皇は『感覚波の発光現象』の発見者だと言うことができる。]
いつか将来、感覚波の基礎方程式や感覚波についてのいくつかの原理がわかるようになれば、感覚波の発光現象や念動力現象が理論的に証明される日がやって来るかもしれない。
[3608] 超能力オリンピック選手としての超能力者 h19.10.7
超能力オリンピックは人類の歴史が始まったときから全地球規模で開催されている世界大会である。
人間はみな多かれ少なかれ感覚波を操る能力すなわち超能力を持っているから、超能力オリンピックへの出場者の資格がある。
超能力者は、超能力オリンピックにおいてとくにめざましい成績をおさめた者だといえる。
[3609] 超能力は危険か? h19.10.7
普通の人の使う超能力をラジオ電波に喩えたら、超能力者の使う超能力はX線に相当するかもしれない。
ラジオ電波は安全だが、X線は危険である。
しかし、X線が危険であることが判明したのは、レントゲンがX線を発見してからずいぶん後のことである。[X線の染色体に対する作用の発見に対しては、ノーベル医学生理学賞が与えられたはずである。]
X線が発見されてからX線の危険性が認識されるまでの間は、X線に対しては野放しであった。
X線と同様に、超能力者の出す特殊な感覚波に対しても、その危険性が科学的に証明されるまでの間は野放しであるべきである。
超能力波(超能力者の出す特殊な感覚波)の危険性が永遠に証明されなければ、超能力波についての規制を設ける必要はなく、超能力者は超能力を自由に使ってよいことになる。[そもそも、超能力者が超能力波を出す機会が少ないだろうから、超能力波の危険性を実験的に証明するのは困難だろう。したがって、当分の間は超能力者は自由に超能力波を使えることになる。しかし、将来、人類が超能力波を使う機会が増えれば、超能力波の安全性が問題になり、超能力波の危険性について真剣に考えなければならなくなる。そのとき、もし、超能力波が危険であることがわかれば、超能力者が使用してよい超能力に関する法律が作られるかもしれない。]
[3610] CSと地上波 h19.10.8
昨日、一昨日と、11年ぶりに福岡に行ってきた。
2夜、南福岡駅近くのグリ−ンホテルに泊まった。
そこで、ひさしぶりにテレビの地上波を見ることになった。
でも、バラエティもドキュメンタリーもつまらなかった。
CMが多くて、番組がしょっちゅうCMで切られて、番組が断片の寄せ集めのように感じられた。
見てると、落ち着きがなくて頭がゴチャゴチャしてくる。
アニメは普段は見ないちびまるこちゃんとサザエさんを見た。
まるこの髪形が変な三角形になっていた。
ワカメの声が若返っていたが、前のほうが元気があった。
地上波がこれほどつまらないものとは知らなかった。
CSのアニメのほうがずっとましだ。
CSがおもしろいわけではない。
地上波が、つまらなさすぎるのだ。
だから、やっぱりCSがおもしろい。
地上波のテレビがあんまりつまらなかったので、
ベッドに付いているラジオをつけてみた。
NHK第2放送の『公開市民講座』をやっていた。
最初の晩には、ダンテの話を、
2日目の晩には、東日本の方言と逆説の日本史の話をやっていた。
ダンテが、政治家で生涯いろんな経験をしたので、それを書き留めたかったこと、
日本語の話し言葉には、地方によってさまざまなバラエティがあり、高知に住んでいた私なんかには東京か名古屋の言葉しかわからないので、できれば方言をなくして欲しいこと、
天皇や政治家がうそつきで自己を正当化するために歴史を書き換えていることなどを知った。
ラジオにはCMが入らないし、まとまったそこそこレベルのある話が聞けるので、なんだかおもしろかった。
[東日本の方言に関しては、今から40年前に横浜で流行し、20年前に東京に入ってきた接尾語の“〜じゃん”は、古くからある山梨、静岡の方言ではなく(ちびまるこちゃんにも出てくる)、英語のJanuary(1月)が由来であり、それは私の誕生日が昭和39年1月22日だからである。]
[3611] 念動力に関する法律 h19.10.8
念動力で他人の所有物を動かしてはならない。
自分の所有物を動かすのはかまわない。
しかしながら、そもそもひとりの超能力者が使える超能力は通常1種類で、超能力が使えるのは生涯の一時期だけに限られ[神武天皇の場合は数秒〜数分間、私の場合は(第3者による確認を要したので)数日間]、しかも故意に使うことはできないようなので、そもそも法律は要らない。
自分の超能力を自由自在に使える超能力者が現れないかぎり、超能力に関する法律を作っても仕方がないだろう。
[3612] 感覚波についての研究 h19.10.8
感覚波についての研究は、超能力の謎を解くためだけではなく、もっと現実的に精神分裂病者の幻聴(や幻視)に対する治療の一環としても研究する価値がある。
つまり、感覚伝達性感覚波を遮断する装置が作られれば、精神分裂病者は幻聴から解放されて心の安らぎが得られ、精神分裂病者の社会復帰を助けることにつながるはずである。[もっとも、精神分裂病の本体は不安中枢の過剰興奮にあるので、幻聴波の遮断は対症療法にすぎないが。]幻聴波は、星の光のようなものだから、幻聴波を遮る衝立[ついたて]を作ればいいのだ。
[3613] 私の脳に処理をした可能性について h19.10.8
以前私の母が、“私が乳幼児期に突然息が止まり顔色が紫になり大急ぎで富田先生のところへ連れて行った”ことがある話を聞いたことがある。私は何の病気かがわからないし、急いで走って連れて行っても到底間に合わないような気がするので変な作り話だと思う。母親が何かを隠しているように思われる。
それから、アニメやドラマで主人公が死にかけて超能力がなくなる話がやたらに多い。母親の話の通り、私にチアノーゼがあったとしても、そのことと超能力が消えたことを関係付けている点がおかしい。これでは、私の超能力を消すために私をチアノーゼにしたと言っているようなものだ。
したがって、何者かが私をチアノーゼにすることによって私の超能力を消した可能性が高いと考えられる。
超能力はしょせん無害なのだから、わざわざ超能力を消すために脳を仮死状態にするのは、れっきとした犯罪である。
[3614] 「自分は神だ。」 h19.10.8
今後「自分は神だ。」と言う超能力者が現れても、実際には超能力が使えるだけの人間にすぎないのだから、超能力者を神と認めて超能力者の発言に従わなくてもよい。
その超能力者は、嘘つきか誇大妄想にかかっているのだから、まともに相手にしなくてよい。
これまでの超能力者についても同様。
[3615] どうして釈迦は神ではないのか? h19.10.8
釈迦は超能力者ではあったが、自分が神とは認めなかった。
だから、釈迦は神ではないのである。
キリストは、実際にはたんなる超能力者であったにもかかわらず、自分が神だと認めた。
だから、キリストは神だと言われているが、本当は嘘つきの超能力者にすぎない。
[3616] 人間の才能☆☆ h19.10.9
人間には、知力、体力のほかに超能力(感覚波を操る能力)がある。
知力は、学校のテストや各種文化賞やノーベル賞などにおいて評価される。
体力は、各種体育大会やプロのスポーツ試合やオリンピックなどにおいて評価される。
ところが、超能力は、それを評価するものがない。
だから、超能力についても知力、体力と同じように何らかの審査会をおいて、その能力の評価をすべきである。
[3617] 神は存在するか? h19.10.9
まず、五感界において神を見たことがない。
知覚界においても、神という概念を使って五感界を論理的に説明しやすくなることがないから、神の概念は不必要であり、したがって神は存在しないことになる。
心界においては、自分の幸・不幸感や快・不快感があるだけで、神の感情なんてものはないから、ここにも神はいない。
超能力界においても、感覚波が見えたり、感覚波で電磁場や物体を動かしたりするだけだから、神はいない。
したがって、人間のどの感覚界においても神は存在しないから、実在界においても神は存在しないと言っていい。
[3618] なぜ、キリスト教や仏教に人気があるのか? h19.10.9
普通の人間が考えた哲学はどんなに出来がよくてもしょせん学問にすぎない。
超能力者の考えた哲学だから、大ウケなのである。
超能力者の哲学にとって正当性は問題外だし、超能力者の哲学に従って人生がうまくいかなくなっても責任はない。
[3619] なぜ、人間は超能力者を拝[おが]むのか? h19.10.9
人間が知力や体力の天才に敬意を払うように、
人間が超能力者を拝むのは、超能力の天才に対する敬意なのだろう。
[たとえ、現在の宗教における超能力者観がそうなっていなくても、本来はそうであったはずだ。]
知力や体力の天才に比べて、超能力の天才はめったに現れないから、それだけ有り難味が増すのだろう。
[3620] どうして、キリストは殺されたのか? h19.10.9
キリストは自分が神だと思っていただけで、実際には神ではなかったので、キリストを人間の超能力者にすぎないと考えている人々によって捕らえられ国家反逆罪に問われて死刑にされたのである。
[3621] 宗教とは何か? h19.10.9
人間には、超能力の天才に対する深い敬意がある。[すべての人間がそうではないにせよ、そういう人が多いのも確かだ。]
宗教家は、人間の超能力の天才に対する敬意に目をつけて、それを利用して自分が儲けようとしたのだ。
宗教は合法的にやるかぎりでは問題はないが、法を犯せば問題になる。
[3622] 帝国主義国家 h19.10.9
人間の超能力の天才に対する敬意を利用して、それを国家統一の契機に利用したのが、帝国主義国家である。[超能力者の現れた国でないと、この方法は使えない。]
政治家と宗教家は同じ穴のムジナである。
つまり、政治家と宗教家は目的が違うが、手段は同じなのだ。[政治家の目的が国家統一にあるのに対し、宗教家の目的は自分のお金儲けにあるが、人間の超能力の天才に対する敬意を利用する点では両者は同じである。]
[3623] 超能力委員会を置くに当たっての注意点 h19.10.10
超能力委員会を置くと、ある特定の個人がいつ・どこで・どんな超能力を出したかを本人が望めば世間一般に公開することになる。[本人が公開されることを望まなければ、非公開記録となる。または超能力者本人の希望によっては、匿名公開でもいいし、部分公開でもいい。私だったら、まず匿名公開にし、様子を見ながら徐々にその他の情報を公開する。超能力委員会は、とりあえず各国政府が置くことにしよう。超能力者の認定は公正(公に対して正しい)が原則だから、民間にやらせると自己の利益のために偽りの認定を出しかねないからである。]
あとは、世間一般の人々が、その超能力者をどう思おうが個人の自由である。
しかし、これだけでは、再び神制度が復活しかねないし、また反対にその超能力者が迫害されることになるかもしれない。
だから、超能力者に関する情報を公開する前に、世間一般の人々に超能力についてのある程度の予備知識を与えておかねばならない。
超能力とは実際にはどんなものか(とくに、一人の超能力者が一つの超能力しか使えないこと、超能力が偶発的に短期間だけ現れること、超能力が故意に使えるものではないことを強調する。)、どんな仕組みで超能力が現れるか[について現在わかっているかぎりでの理論、つまり、強い感覚波を出す人が感情的に興奮したとき、その感情が感覚波で実現される条件を満足する場合に限りその超能力が現れる。]、また超能力がけっして危険なものではないことを世間一般の常識にしておかなければならない。[もしも超能力の危険性が科学的に証明されれば、その事実を公表し対策を立てねばならない。]
文明社会は教育を前提に成り立つのであって、教育しなければ未開社会に戻ってしまう。
過去の過ちを再び繰り返さないためには、超能力者に関する教育は必須である。
世間一般の人々にそういう予備知識があってはじめて、超能力者に関する個人情報の公開が可能になるのである。
[3624] 科学と宗教の統一 h19.10.10
社会が発展するためには、社会制度が全体として論理的に統一されていなければならない。
科学と宗教に矛盾があっては世の中がうまくいかない。
科学と宗教に矛盾があっては、科学(神を認めない国)と宗教(神を認める国)の間で戦争になりかねない。
今後の世界平和のためにも、ぜひ科学と宗教を統一しなければならない。
[そのためのひとつの解答が、前章の『超能力委員会』である。]
[3625] 神の起源 h19.10.10
人は天才を見たとき、天才が人間よりも上だと思う。
その思いが神の起源なのだ。
優れた才能を持った人間を見て感動していけないとは言わないが、
実際には天才も人間なのだ。[人間のやることには、種も仕掛けもある。天才の原因がわかれば、誰でも天才になれる。]
感情に流されて、真実を見失ってはいけない。
感情の世界と実在とは違うものだ。[日本人が天皇制を認めてきたのは、日本人が直感的で感情的(つまり、眼で見て何も考えずにただ心で思うだけ)なせいかもしれない。[天皇家が直感的で感情的だから、日本神道が天皇家の性格を日本人に植え付けて日本人を直感的で感情的にさせているのかもしれない。]初代天皇が超能力で光の玉を出すのを見て、人々は初代天皇を神すなわち人よりも上である者だと思った。それで、初代天皇の待遇を人よりも上に見えるようにした。しかも、日本人は家族意識が強いので、初代天皇の子孫も人より上であると思った。それで、初代天皇の子孫の待遇も人よりも上に見えるようにしつづけた。そのため、2代目以降の天皇には超能力がないが、待遇が人よりも上なので、天皇の待遇を見た人が天皇を人よりも上だと思うのである。ところが、外人は論理的で知覚的なので、超能力のあった初代天皇だけが天才で、今の天皇を見てもただの人間としか思わないのだ。]
[昔は、学問もスポーツもなかったので、超能力の才能が目立ったのだろう。超能力の才能でしか人間を評価できなかった時代があったのだ。]
[3626] 超能力に関する教育の必要性 h19.10.11
科学はわかっているところについてはすごくよくわかっているが、わからないところについては未開社会と同じだから、超能力についての知識を世間の人々が持ってないと、将来超能力者が現れたとき神制度が復活する可能性が高い。神制度が復活すると、未来の進んだ科学力を用いて現在よりももっと過激な事態が発生するだろう。
だから、そんな事態を避けるためにも、超能力に関する予備知識を前もって世間の人々に与えておかねばならない。
超能力者はめったに現れないから、超能力を科学的に研究することは困難である。超能力者が現れなければ、超能力についての研究は将来においてもほとんど進まないだろう。めったに現れない超能力者に関する事実を積極的に活かし、超能力学を築き上げようと図らなければ、超能力に関してはなにもわからないままになる。
超能力は実在する事実である。眼前の事実から逃げ回る態度を人類は改めるべきである。人類がそんなふざけた態度をとり続ける限り、人類に真の幸福は訪れないだろう。
[3627] 私の超能力者観☆☆ h19.10.12
超能力で光の玉を出しても、私は敬意を払わない。
超能力で軽い物体を回すことができても、私は敬意を払わない。
超能力者に対する敬意が私にはないから、宗教家も政治家も私を利用することはできない。
スポーツ選手に対しても、芸能人に対しても私は敬意を払わない。[スポーツも芸能も人間の才能の一種ということはわかっている。しかしながら、彼らに対する敬意が私にはないのだ。]
私はスポーツ選手に対しても芸能人に対しても関心がない。
ただ、科学者や数学者などの知的才能の優れた者に対する敬意が私にはある。
実際、現代社会は科学者や数学者によって支えられているからである。
このように、現代においては個人の価値観が多様化している。
だから、超能力者に対する敬意で国家を統一したり、大金を稼ぐことはできないだろう。
[3628] 女性の知的レベルについて h19.10.12
私は小学高学年頃になると、自分の母親をときどきバカと言っていた。[逆に、母親は私の目つきが悪いと言っていた。]
だから、成人女性の知的レベルはだいたい小学中学年ぐらいなのだ。
その程度の知的レベルでは現代社会には付いて行けないから、
現代社会の中で生きる女性にとっては現代社会が理解できず、
そのため知覚が麻痺して働かず五感しか働いていないから、
他人に従って生きているだけなのだ。[女には他人に従う喜びしかない。女は知覚が麻痺しているから、女の生き甲斐は知覚欲ではない。女の生き甲斐は五感欲か愛情その他なのだ。例えば、私の母親も愛情一筋で生きている人だ。]
そもそも現代社会は、科学者や数学者によって作り出されたのであり、
科学者や数学者には男が多いから、
現代社会に女が付いて行けなくなるのもしかたがない。
[3629] 超能力者に関する情報公開について h19.10.12
これまでの超能力者に関する嘘混じりの曖昧な情報公開では、現代人の感性ではかったるくて相手にする気がしない。
現代人の関心を引くためには、もっと正確な情報を与えなければならない。[写真入りがいいかもしれない。]
超能力者本人が許す限りで、超能力に関する正確な情報を公開しなければならない。[超能力者の眼を(心霊写真のように)黒い帯で隠すとかして、超能力を使っている瞬間の写真や映像を載せれば信憑性[しんびょうせい]がぐっと強まるだろう。超能力者が未成年者の場合には、成人するまで待って本人の承諾を得てから公開すればいい。]
公開次第、新聞やテレビなどで報道すればいいだろう。
超能力に関する正確な情報が社会に広まれば、人々は超能力についての正しい理解を持ち、人間と超能力者が協調して仲よく暮らせるような社会制度を作り上げることだろう。[私の考えでは、超能力者が超能力を使えるのは超能力者の生涯のうちでほんの一時期だけ(数秒〜数日)に限られるから、超能力者を強いて普通の人間と区別せずに平等に扱えばいいと思う。]
もちろん、超能力があった事実を何もなかったことにして闇に葬るようなまねはしてはいけない。それは人類にとっての貴重な経験なのだから、大事にして人類の将来のために活かさねばならない。
[3630] なぜ超能力者は神とまちがわれたか? h19.10.12
超能力者の使う超能力が“あまりにもすごい技”のように見えたので、それを目の当たりにした人々は超能力者を本当の神だと思ったのだ。
しかし、これは科学の未発達な未開社会において(あるいは眼で見たことを科学的に理解しようとしない人々にとって)であって、
超能力が科学的に理解できるようになれば、超能力も当たり前の事実のひとつにすぎない。[超能力についての科学的理論は、私の哲学日記[3519]〜[3537]その他に述べた。]
つまり、天才スポーツ選手や天才科学者と同じように、超能力者は超能力の才能に卓越した稀な人間にほかならないのだ。
[3631] 未来の超能力者 h19.10.12
自動車ができても100m走がなくならず、
コンピューターができても科学がなくならないように、
たとえ将来超能力(つまり、感覚波の操作)が機械でできるようになっても、超能力者は現れるし、超能力者の価値は永遠になくならないだろう。
[3632] 超能力研究所 h19.10.13
超能力者に関するテレビや新聞などによる情報公開は強いて必要ではない。
しかし、超能力者が実在することも無視すべきでない事実である。
科学的には超能力の存在は重要な意義を持つ。
そこで、各国に少なくともひとつ超能力研究所(または研究室または研究員)を置くことにしよう。
超能力者が発見されたら、超能力研究所に連絡し、超能力研究所の者が超能力者を科学的に研究することにする。
超能力者に関する情報は、医学の症例報告のように、本人を特定できないように名前などを伏せて公開すればよい。本人の希望があれば一部あるいは全部を公開してもよい。[ただし、情報は正確に。嘘や曖昧はいけない。]
超能力者が現れない時代には、超能力研究所は超能力に関する正しい知識を社会に浸透させることを任務とする。
[3633] なぜ我慢は欝気質の人にとって悪いのか? h19.10.13
そもそも欝気質の人が我慢しなければならないのは、その人の居る環境がその人にとって欝刺激を与え続けているからである。
だから、我慢を続けることは、その人に欝刺激を与え続けることである。
欝刺激を与え続けると、欝中枢の興奮が次第に強まり、そのうち欝中枢の興奮が持続的になって鬱病にかかる。
だから、欝気質の人が我慢しなければならないときには、欝刺激を取り除くために環境ごと変えなければならないのである。
[3634] 神と人間の区別 h19.10.14
ギリシア神話に出てくる神は万能ではない。最高神ゼウスも稲妻が使えるだけだ。つまり、ギリシア神話に出てくる神は、人間ができないことができるのだ。超能力者は人間ができないことができるので、神と考えられたのだ。しかし、それは超能力者が超能力の才能に卓越しているから人間にできないように見えるのであって、超能力の才能は多かれ少なかれ誰にでもあるから、人間の力でできたと考えるほうが自然である。ニコラ=テスラが科学の力で高電圧を発生させて稲妻を作ったように、昔神にしができないと考えられたことが最近は人間ができるようになってきているから、神と人間の違いはもはや明確ではない。現代ではもはや神と人間の区別は成り立たないのである。つまり、人間が神になりつつあるのだ。
[3635] 女はバカか? h19.10.14
女性のめぼしい天才と言えば、キュリー夫人かコワレフスカヤしかいない。
しかし、勉強ぐらいなら、たとえ知覚が麻痺していても、努力すれば五感だけでもできる。
知覚が働かないのがバカだから、『バカでも学問はできる』と言ったほうが適切かもしれない。
つまり、女性の学問の質は五感的なのだ。
私は知覚欲で生きている女性を具体的に知らないので、こう言っても許されると思う。
[3636] なぜ男と女がいるのか? h19.10.14
男は出産以外の才能に長け、女は出産の才能に長けている。
男だけでは出産できないから種として続かない。
女だけでは種としては続くが出産以外の才能に劣る。
男と女が共生することによって、出産以外の才能と出産の才能との両方に長けることができ、種として続きながら出産以外の才能にも長けることができるのである。
つまり、種全体として強くなるために強い男と弱い女に分かれているのだから、個体的に男が強く女が弱いからといって男が女を軽蔑してはいけない。
将来科学が発達して人工的に出産できるようになれば、女が要らなくなるから、男だけの社会になるだろう。
[3637] 放任教育の危険性 h19.10.14
親が子供に幸せになって欲しいと望むのは当然だが、たんに幸福になって欲しいだけでは漠然としすぎる。
子供に自由を与えるだけでは、子供は幸福にはなれない。
子供にはまだ何が自分にとって幸福かがわかっていないので、子供の主体性に任せっきりにすると、たいてい子供は不幸になる。
人間は誰でも自分が幸福になろうとするが、知識がなければうまく行かない。
子供を幸福にするためには、親が自分の幸福についての理解を活かし、親が子供のやることについてある程度まで制限を加える必要がある。
つまり、親が子供のやることに始終眼を光らせ、子供が自分から幸福への道を歩むときには褒めて助けてやり、反対に子供が自分から不幸への道を歩むときには叱って[子供に不快感を与えて]禁止すればいい。
親にそれさえする気がないのなら、それは放任教育ではなく、たんなる放任だ。
人間以外の生物は放任でも生きて行けるが、人間は後天的に大脳にプログラムを作って実在に適応しなければ生きて行けない生物なので、他の生物のように放任ではいけない。
親に幸福についての理解があってはじめて子供を幸福な方向に導けるのだから、まず親に幸福についての理解がなければならない。
いくら親が仕事熱心でも、親に幸福についての理解がなければ、子供の人生がうまく行かない。親が偉いほど子供が馬鹿なのは、そのせいだ。
[3638] 暴力団はなぜあったか? h19.10.14
それは、天皇が国民に対し暴力的だからである。
つまり、天皇は国民を不幸にしたがっているのだ。
日本神道が、天皇の意向を汲んで、日本各地に暴力団を置いていたのである。
[私の父親が警察の会計課に勤めていたので、私の代わりに警察が暴力団を倒したのだ。私は小学1〜2年生頃まで、父親が拳銃を持っていると思っていた。(参考;『そろばんずく』←そろばん(会計の計算をする道具)+ずっく(私が子供の頃履いていた靴)ー塾(私は小学生のとき塾に行かなかった。私が塾に通ったのは中学1年生の1年間だけだ。予備校へも行かなかった。自宅で浪人した。))]
[3639] 人間の改良 h19.10.14
人間が幸福になるためには、知力・体力(・超能力)に優れた人間であればよい。
科学によって遺伝子を操作すれば、知力・体力(・超能力)ともに優れた人間を作り出せる。
人類が幸福になるためなら、遺伝子操作による人種改良も許可すべきである。
[3640] 西暦と元号の謎 h19.10.15
西暦はキリストの誕生日を起点としている。
元号は各天皇の即位日を起点としている。
しかし、キリストが超能力者であるのに対し、天皇は初代天皇以外は超能力のない人間なのだから、日本の元号制は超能力者と超能力者でない者とを同一視する不当な制度である。
ここは、やはり、西暦のように初代天皇の誕生日を起点としなければならない。ただ、初代天皇の誕生日が正確にわからないために、やむをえず超能力のない天皇の即位日を起点にしなければならなかったのだろう。
それなら、私も超能力者だから、いっそ私の誕生日である『西暦1964年1月22日』を起点として新暦(東暦)を定めればよいではないか。
それにしても不思議なのは、日本のような狭い国でも2600年かの間に2人の超能力者が現れたのに、ヨーロッパのような広い範囲の地域にいまだにキリスト以外の超能力者が現れていないことだ。そのことは、西暦が如実に示している。
日本が世界で辺鄙なところにある田舎の国だから、超能力者のような変人が現れやすいのだろうか?
それとも…?
[3641] 宗教が超能力者に対して支払わねばならないこと☆☆☆ h19.10.15
キリスト教が世界中に広まったのは、キリスト教会の努力の賜物だろう。また、仏教が東洋に広まったのも、仏教会が尽力したからだろう。超能力者と人間との人種や民族的な同族意識も働いているに違いない。
これに対し、日本の宗教である日本神道が世界に広がりにくいのは日本神道の努力が足らないせいだが、超能力者であった初代天皇やその他の天皇がこれといって特徴的な思想を残さなかったためでもある。それに、日本人は世界で孤立した民族なので、同族意識によっては広がりにくいのだろう。
宗教が大きな組織になったのは、超能力者自身によるよりも宗教の努力によるのはたしかである。
しかし、宗教は人々の超能力者に対する敬意を利用して儲けているので、今日的に言えば、キリストの名前やキリストの肖像やキリストの思想をキリスト本人に無断で教会が勝手に使って自分達の組織を儲けさせ自分達の組織を太らせるのは、キリスト本人を無視しすぎた行為であり一方的で不当である。もっとも、キリスト教が大きな組織になったのはキリストが死んでから後だったのでキリストにお礼のしようもないが、キリストが生きている間だったら当然キリストにお礼を支払わねばならない。超能力者にお礼を支払わないために、超能力者が死ぬのを待ってから宗教活動するのも卑怯である。[超能力者が死んだ後のほうが作り話がしやすいからだろう。]
超能力者は神ではなく人間なのだから、超能力者は人間と同じ権利を持つ。したがって、キリスト教会はキリストの遺族に名義権や肖像権や著作権や人格権やプライバシー権や名誉権などの使用料を支払わねばならないし、仏教会は仏陀の遺族に支払わねばならない。その他の超能力者に対しても同様。
[3642] 国を潰す h19.10.16
私が国と妥協したところで、私にとっては幸福ではない。
私が国に勝ったなら、私は国を潰す。[ここでの国とは日本国のことである。]
私が国に勝つとは、私が国がまちがっていることを証明することである。
国は超能力者を人間ではなく神と考えていたのだから、国がまちがいである。
[3643] キリストの場合 h19.10.16
キリストはクーデターを企て国を潰そうとした。
だから、キリストの意向を汲んで、キリスト教圏では宗教が国よりも強かったのである。
[3644] どうして瀬戸内海大橋が出来たか? h19.10.16
世界中には、超能力者に敬意を持っている人々(超能力者のファン)が大勢いる。
そういう人々からの出資で瀬戸内海大橋が出来たのだ。
それに、私は船に酔いやすいし、私が将来大阪や東京に住むことになれば瀬戸内海大橋を利用する機会が多いと考えられたからである。
しかし、実際には福岡に住んでいた。高知の実家に帰省するときには瀬戸内海大橋を利用すると遠回りになるので、飛行機を利用することが多かった。それで、私が福岡に住むようになると、高知空港がジェット機が離着陸できるように拡張され、ダグラスDC9のジェット機が高知と福岡を40分あまりで結ぶようになったのである。
私が働きだして福岡を離れると、高知と福岡をもとのYS-11のプロペラ機が結ぶようになった。
私が福岡に住んでいるときには、美味しいお米やスーパーの素材が手に入ったのに、福岡から離れることが決まるとそれらが手に入らなくなった。お米屋が変わって新米から古米になったし、箱崎ダイエーで売っている切り身のシャケの保存料が塩からビタミンCに変わって変な味になって美味しさがなくなった。
私が豊岡(兵庫県北部の町)に住んでいて和田山に引越が決まったときも、西垣スーパーで売っているうどんの麺がカンスイの量が増えて不味くなった。豊岡では、うどんと鳥ごぼうだけが私の食生活の支えであった。[その後、うどんがもとに戻ったかどうか、私は知らない。]
今住んでいる和田山(兵庫県朝来市和田山町)でも、引っ越してきたときには美味しい物がなかったが、最近は農協スーパーで和食系の美味しいおかずが売られるようになってきた。スーパーの中に魚屋もできた。
これらは、すべて超能力者である(正確には、超能力者であっただが)私のファンが食料の生産や流通経路をやりくりしてやってくれたことである。
和田山の今住んでいる所の近所は、私が越してきたときには田んぼばかりだったが、私が越して来てからはいろんな遊行施設が建つようになった。[私は利用しないが。]
私が今から4年前に全線のほぼ3割?が高架化されている後免=奈半利線に乗ったせいか、福岡市や高知市のJRの路線も高架になった。[JRの字も、よく見ると形が川に似ている。]
仕事のことでは、私が但馬松下で派遣社員として働くようになって2年目から夏にクーラーが入りだした。私が勤めていたときは時給が1300円ぐらいだったが、私が辞めると1050円に減った。近畿ネオマックスで勤めたときも2年目の夏からクーラーが入るようになった。工場面積が約2倍に広がった。
私が医学部や物理学科にいた頃(32歳頃)までは世の中の動きが派手だったが、その後地味になったのは、超能力者である私に対する敬意が私の活動によって変化するためなのだろう。つまり、私の人生がうまく行っているときには私に対する敬意が強まるからそれだけ出資が増えて大きなことがやれるが、私の人生がうまく行かないときには私に対する敬意が薄まり出資が減って小さなことしかやれない。私に関する情報は、宗教的あるいは政治的な情報網で世界中に伝わったのだろう。
私自身に対する出資がないのは、超能力者に対する敬意を持っている人々からの出資が宗教家や政治家を介するために直接私の手元に届かなかったためである。直接私に出資を与える代わりに、私の周りの生活環境をよくしてきた。つまり、政治家や宗教家が超能力者である私を利用して私の住んでいる近所の町や日本を改善してきたのである。私の近所がよくなれば、多かれ少なかれ私も得をすることになるから、それはそれでいいし、多かれ少なかれ私の意向を汲んで作られていると言えなくもない。しかし、実際には、私が子供の頃の自分と他人を区別しない性格を私の意向と解釈して、宗教家や政治家が差し向けた私の近くにいた者の意向を汲んで作られたものが多い。それは、信者からの出資の悪用と言えるのではないか。
超能力者である私の意向が宗教家や政治家の気に入れば私の人生をうまく行くようにして信者(超能力者に敬意を抱く者)からの出資を増やしその出資を自分達のために利用できるし、反対に私の意向が気に入らなければ私の人生をうまく行かないようにして信者からの出資を減らして何もやれないようにすればいい。これでは、宗教家や政治家が超能力者や信者を自分達のために利用しているだけだ。超能力者や信者が怒らないわけがない。
そもそも、宗教家や政治家を介するからいけないのだ。超能力者も信者も宗教家や政治家の道具ではない。そんなやり方でしか宗教や政治をやれないなら、いっそ信者からの出資を全部打ち切って、宗教も政治もなにもやらないで欲しい。
宗教や政治によらずに、私の意向を正確に反映する組織があればいい。そんな組織があれば、信者からの出資を現在よりも有効に活用できるだろう。
[3645] 超能力財団 h19.10.16
宗教からも政治からも独立した超能力財団を設置することにする。
超能力財団は、世界中の信者からの出資を管理し、超能力者の意向を正確に反映しながら事業を行うこととする。
超能力者の意向を正確に反映するために、超能力者自身もその運営に携わることとする。
[3646] どうして私は福岡に引っ越すのか? h19.10.16
今年9月31日にアウトソーシングの会社である新日本を労働削減の理由で解雇された。
それで、5年間働き続けた近畿ネオマックスでも働けなくなった。
新日本の営業の人の話では、今は全国どこでも(とくに名古屋にも)仕事の空きがないという。
ならば、どこへ行っても同じだと思い、以前福岡に住んでいたとき食事が美味しかったから、福岡に行くことに決めた。はじめは岡山に行こうと思ったが、瀬戸内は夏に蒸し暑いし、美味しい魚がなさそうなのでやめた。高知は私が帰ると同居しないでも親が嫌がるし、最近高知も人口が増えて狭っ苦しいし、水道の水がカルキ臭くて不味いし、スーパーで売られている食材も昔(私が20歳頃まで)ほど美味しくない。福岡は水道の水にぬめりがあって美味しいし、スーパーで売られている味噌や野菜や肉などの食材も私の身体に合って美味しかった。
[3647] 新体制の意味 h19.10.20
今から約2年前の正月に日本政府が行った新体制の意味は、日本政府が神(じつは超能力者のこと)や天皇から権威を借りられなくなったら、日本政府の権威を高めるためにはもはや軍事や立法によるしかないということである。
それでは、そういうことにしてください。
でも、日本に超能力者である私や超能力者の子孫である天皇がいることは事実なのだから、超能力者が日本から2人も出た事実を活かして『世界の神秘?!超能力者の国、日本』として世界中に宣伝すれば、国際的に日本の立場を若干有利にすることができるかもしれない。[超能力者を学者やスポーツ選手と同等に見なせばよい。超能力者の超能力の才能に敬意を払う人は世界中に大勢いるから、日本人の遺伝的な素質や文化が超能力者の発現に寄与していると考えられるのなら、日本が超能力者を生んだ国として注目されてもいいはずである。]
しかしながら、超能力は超能力者個人の才能だから、超能力者の権威(才能に対する敬意)を露骨に国が取り込んで国の権威にしてしまうのは大袈裟すぎる。
超能力の才能は超能力者個人のものにしておいて、国の権威はGNPとか平均寿命とか軍事力や経済力やその他の“国としての才能”によるべきである。
[3648] 宗教の方法 h19.10.20
シャカもキリストも自分の思想を全人類に広げようとした。
しかし、シャカもキリストも自分の思想を文学的にしか述べなかった。
シャカやキリストが自分の思想を論理的に厳密に述べられなかったために、シャカやキリストの思想にはいくらか隙ができてしまった。
その思想の隙を利用して、シャカやキリストの思想と自分の思想とを組み合せることによって、人間である自分のために神(超能力者)であるシャカやキリストの思想を利用して儲けることが宗教のやり方である。
現代は科学の時代だが、いまだに神(超能力者)を信じる者が大勢いるので、こんな宗教のやり方が有効なのである。
宗教家は(政治家も)超能力者に対する敬意はなく、ただ超能力者を自分のために利用するだけだが、信者には超能力者に対する敬意があるので、宗教家は(政治家も)超能力者と信者の両方を自分のために利用していることになる。
ただ、神とは本来超能力を使える人間のことであり、宗教家が宣伝するような立派な人(つまり、見栄欲で生きている人)や完全な人のことではないから、信者たちは宗教家の作り話にだまされているのだろう。[宗教家が、神の思想を脚色して立派に見せているのだろう。]
宗教家(や政治家)が超能力者や信者を自分のために一方的に道具として利用することは超能力者や信者に対して失礼なので、宗教家(や政治家)による超能力者や信者の利用は禁止すべきである。
どうしても、宗教家や政治家が超能力者や信者を利用したければ、相互利益を目的としなければならない。
ただし、『人間は正しさを第一に生きなければならない。』(私自身の言葉)ので、嘘や偽りは禁止する。
したがって、超能力者をあくまでも“超能力の才能に卓越した人間”として扱わねばならない。[超能力者の思想や言行は、超能力とはほとんど何の関係もないから、あくまでも超能力の“おまけ”にすぎない。超能力者の超能力が人間に会得し難いために、その代わりとして人間なら誰でも真似できる超能力者の思想がもてはやされたのだろう。]
信者は宗教家の作り話を信じて踊らされる不純な者は排除し、超能力者の超能力の才能に純粋に敬意を抱く者だけに制限しなければならない。
そして、宗教家(や政治家)[一般的に、他者]が超能力者や信者を利用した場合には、利益の一部を超能力者や信者に還元しなければならない。(例えば、宗教家が超能力者の権威や信者からの出資を利用して利益を得た場合には、超能力者には利益の10%を、信者(出資者)には利益の60%を与えねばならない。銘々の信者には、その60%を分配して与えるものとする。残りの利益の30%は、宗教家のものである。政治家(国家)が超能力者の権威を借りて(つまり、国外国内の大勢の人々が持っている超能力者に対する敬意を利用して)軍事費や法律費を節約できるのなら、それは超能力者の仕事と見なされるので、その浮いたお金の一部を超能力者に返さねばならない(超能力者の生活費を負担してくれる程度でよい)。超能力者に対する権威の借用費の支払いは宮内庁の役人の仕事とする。その他、テレビ番組等における私の個人情報の使用料(利益の1%程度でよい)も私に支払わねばならない。つまり、民間の個人や団体が私の個人情報を利用した(つまり、故意に私の個人情報を混ぜ込んだ番組を作った)場合には、私の個人情報の使用料を私に支払わなければならない。)
今の私に子孫はないが、超能力者の子孫(例えば、天皇)についても超能力者と同様とする。[しかし、たとえ超能力者の子孫であっても超能力がなければ、純粋な信者は敬意を払わない。信者は超能力者であった初代神武天皇に対して敬意を払うのであって、今の天皇は超能力者ではないから、今の天皇に対しては敬意を払わない。]
神(実際には、超能力者)の権威が何だかんだ言って有耶無耶[うやむや]にして世界を不安定にするよりも、金銭問題にして定量化して明確にしたほうが、超能力者を含む人類全体にとって安全である。
今後、超能力者が現われるたびに、国民や人類が危ない橋を渡らねばならないのなら、人類は私の取り決めに従ったほうがいい。
[3649] 明治帝国憲法(と日本国憲法) h19.10.20
日本人みんなが日本神道の信者すなわち日本で生まれた超能力者に対して敬意を抱[いだ]く者ではないのに、天皇に日本を支配させることを国法の原理にした明治帝国憲法は(日本国憲法も)異常である。
政治家たちのひとりよがりだ。
政治家たちが日本人全員が日本神道の信者だと仮定して作った明治帝国憲法は(日本国憲法も)、そもそも仮定がまちがっているから無効である。
[3650] 川野賞 h19.10.20
もしも私にノーベル財団と同じ利益が与えられたなら、毎年、優秀な数学者にノーベル賞と同額の賞金を出そう。
その他、ノーベル賞に欠けている部門(芸能、音楽、美術その他)の優秀な者に賞金と栄誉を与えよう。
[3651] 男女の差より知覚五感の差 h19.10.20
現代の社会は知覚者(知覚が働く者)のために作られている。
今後は、男女の差より知覚五感の差が重視されるだろう。
[つまり、これまで男らしさ・女らしさと考えられてきたことは、そもそも知覚人らしさ・五感人らしさにほかならない。知覚人は自分の知覚が働くから自分の知覚で物事を実在的に見て自分の判断に基づいて自主的に生きて行けるが、五感人は自分の知覚が麻痺して働かず五感しか働かないからいつも他人の判断に頼って他人に従属して生きて行かねばならない。]
[3652] 『1度あることは2度ある。』 h19.10.21
私が高知学芸高校2〜3年生のとき、川本竜彦君が私と顔を会わせるとよく、「1度あることは2度ある。」「いや、2度あることは3度ある、だったかな?」と言うことがあった。
川本君の言葉にある「1度あること」とは、私が乳幼児期に超能力を発現したことであり、「1度あることは2度ある。」とか「2度あることは3度ある。」とかの言葉は、超能力が何度も発現されたら危険だから超能力を取り除いたことを意味しているように思われる。
[超能力の才能(つまり、感覚波を使う技術)はすべての人間に多かれ少なかれあり、超能力の科学的研究のためには超能力者のはっきりわかる超能力を残したほうが有益であると考えられるので、今後は超能力者の超能力を温存したほうがよい。]
[3653] 神とは何か? h19.10.21
神とは人間を超えた存在である。
私の知っている限りでは、そんな者は今のところ存在しない。
[超能力の才能はすべての人間に多かれ少なかれあるから、超能力者は神ではない。]
存在しない者のことを考えても時間の無駄だから、神を問題にしても仕方がない。
[3654] 和辻哲郎の『風土』 h19.10.22
人間誰でも大自然の中で独りっきりになると自分で考えようとするものである。
反対に、人の多いところにいると他人のために働く仕事本位の人間になる。
私が高知学芸高校で倫理社会を習った先生は、「和辻哲郎の『風土』なんか、どうでもいいことを長々と述べただけの大したことのない本だ」と言っていた。[私は『風土』を読んだことがない。日本の哲学者なんか仕事で哲学をやっているだけでセンスがイケてないので、本なんか読んでもムダだ。]
私も若いときは自分が住んでいるところなんかどうでもいいと思っていた。
しかし、年を取って経験を積むと、住所の環境による心理への影響は絶大であることがわかった。和辻哲郎は正しかったのである。
要するに、
自分で考え事をしたいなら田舎に住め。
他人のために働きたいなら都会に住め、だ。
[私は田舎が好きだが、あんまり田舎へ行くと生活が不便になるので、やむを得ず人中で暮らしている。]
[3655] どうして明林堂は生き残れたか? h19.10.22
11年ぶりに福岡に帰ってきた。
国道3号線沿いの景色もずいぶん変わっていた。
しかし、明林堂書店だけは昔のままだった。
明林堂は私が九州大学理学部を卒業して就職浪人していたとき、『うる星やつら』ワイド版全15巻や『機動戦艦ナデシコ』フィルムブック全3巻を買った書店だ。会社訪問の間が暇なので、暇つぶしにマンガを買って読んでいたのだ。
宗教家が、私が明林堂でマンガをよく買っていたのを知って、福岡に住んでいる信者に「本を買うときには明林堂で本を買うように」指示を与えたとしたら、明林堂を訪れる客数が増え、明林堂の売り上げが増えるので明林堂が儲かり明林堂が生き残れることになる。
[3656] 洗面器よりシャワーの何が便利なのか!? h19.10.23
フローリングよりも畳のほうが床が柔らかくていい。畳の匂いも心が落ち着く。[それは、畳のほうが自然に近いからである。日本人は自然が好きなので、わざわざ人工の家の中にまで自然を持ち込もうとするのだ。]
コンクリートの硬い感じが住居空間を支配する世の中は、日本人好みではない。
ただたんにヨーロッパやアメリカの文化を取り入れるだけではダメだ。
西洋人と日本人は心の感じ方が違うのだ。
西洋人にとって気持ちよくても日本人にとっては気持ちいいとはかぎらない、むしろ気持ち悪いこともたくさんあるのだ。
だから、慎重に外国の文化を受容しなければならない。
フローリングは見た目は綺麗だが、畳は触った感じや匂いがいい。
日本人は、見えることよりも見えないことにこだわるのだ。
日本人から日本人の優れたところを取り除いたら、何の取り柄もない馬鹿なヨーロッパ人にすぎない。
[3657] どうして、最近シャワーが日本に増えたのか? h19.10.23
洋画の濃厚なラブシーンなど日本人の感性が受け付けるものではない。
日本人には、かったるいアニメビデオぐらいがお似合いだ。
おおかた、風呂場のエッチシーンにシャワーが出てくるので、それを見た日本人が必死に真似ているのだろう。
[3658] 宗教の誤り h19.10.23
宗教の誤りは、超能力者を人間ではなく人間を超えた神としてきたことにある。
これは宗教人だけでなく広く人類一般が犯してきた誤りである。
そもそも超能力すなわち感覚波を操る能力は超能力者だけにあるのではなく人間みんなにあるものであり、
超能力者は人間の才能のひとつである超能力の才能が発達した人間にほかならないのだから、
超能力者は神ではなく人間である。
[3659] やおろずの神 h19.10.23
神とは人間にない才能を持っている者のことである。
ところが、自然界にある物には人間が持っていない物性すなわち才能がある。
だから、昔の人は自然界にある物を何でも神と見なしたのだ。
現代では、科学で物の性質を理解するから、もはや人間は物を神とは見なさない。
したがって、超能力についても、[超能力は人間なら誰にでもあるが、]私の『感覚波理論』で原理的には理解できるから、もはや人間は超能力者を神とは見なさない。
[3660] スポーツの神 h19.10.23
古代オリンピックにおいては優秀な成績を収めたスポーツ選手は神だと見なされた。
しかし、現代オリンピックにおいてはいくらスポーツ選手が優秀な成績を収めても神とは見なされない。ただ、比喩的に神と呼ばれることがあるだけである。
それは、現代においては、そもそも人間を超えた神など実在せず、したがって神の概念が無意味だと考えられているからである。
スポーツ選手は実在するスポーツ選手そのものが大事なのであって、わざわざ実在しない神に喩えても仕方がない。
超能力者についても実在する超能力者自身を見るべきであって、超能力者を神に喩えても仕方がない。
実在する超能力者自身は、超能力の才能が発達した人間にほかならない。[つまり、超能力者は人間にない才能を持った神ではなく、人間にある才能を伸ばした者いわゆるニーチェのいう超人である。]
[3661] 科学とは何か? h19.10.23
人間に感じられるのは自分の“感覚”だけであって、
自分の感覚の外に自分には感覚できない“実在”がある。
実在は感覚できないから、人間が実在を目指そうとしても目指すことすらできない。[地図で目的地に向うのとは話が違う。]
実際には、人間が自分に感覚(理解)できることを伸ばして行って実在に近づくしかないのだ。
[3662] 鳥 h19.10.23
人間には空を飛ぶ才能がないから、鳥を神だと考える者がいる。
ところが、人間はある程度泳ぐことができるから、魚は神ではない。
科学で鳥の飛行の仕組みが理解され飛行機が作られ人間が空を飛ぶようになると、鳥は神ではなくなった。
同じように考えると、
人間なら誰でもある程度超能力が使えるから、超能力が発達した超能力者も神ではない。
超能力の仕組みが科学的に理解され[超能力機が作られ人間が超能力を使えるようにな]れば、超能力者も神ではないことになる。
[3663] なぜ超能力者は神だと見なされたのか?☆ h19.10.23
超能力は発達して強くならないかぎり眼で見えない。
超能力は誰にでもあるが、弱いと眼で見えないので、
超能力者以外の人間には超能力がなく、
超能力者だけに超能力があると考えられたので、超能力者は神だと見なされたのである。
[つまり、感覚波の技のうち眼(眼球)で見えるものだけが超能力とされてきたのである。しかし、現代では、眼で見えない物でも実在すると考えるから、超能力は誰にでもある。これまでに超能力者以外にも、物体が動かない程度の(静止摩擦力があるから)弱い念力波や眼で光の玉が見えない程度の(人間の暗視力には限界があるから)弱い念光波を出した者がいたかもしれない。だから、超能力者は超能力が発達した人間であって、スポーツ選手や学者のように、特定の才能に優れた人間と見なすべきである。]
[3664] 宗教と政治の関係 h19.10.23
日本国憲法では、日本人みんなが日本神道の信者であると仮定されているが、
まず、神がいなければ始まらない。
超能力者を神とするのは宗教だから、
宗教と政治が組んで始めて、日本国が治まることになる。
でも、超能力者は人間より上の神ではなく人間なのだから、
宗教はもはや成り立たず、
政治が人間と超能力者の両方を管理すればよいことになる。
[超能力は無害だから、とくに超能力者法を定める必要はない。]
[3665] 超能力者 h19.10.23
超能力者は人間より上の存在ではないが、
超能力の分野では世界有数の偉人だといえる。
[3666] 宗教はなぜあったか? h19.10.23
釈迦は自分を人間よりも上の神としなかったので、釈迦は神ではない。
しかし、宗教としての仏教は存在する。
それは、釈迦が[神ではないが]超能力者であったからである。
キリストは自分を神だと言ったので、一般にキリストは神だとされているが、
一部のキリスト教の信者は、キリストを神でも人間でもない超能力者だと考えている(三位一体説)。
このように、超能力者が神であるにせよないにせよ、今まで超能力者は人間ではないと考えられていた。
政治は人間しか扱えず、超能力者は人間ではないから、政治とは別に超能力者を扱う宗教が必要だと考えられてきたのである。
ところで、これまで超能力者が人間ではないとされたのは、超能力が超能力者にしかないと考えられていたためである。
しかし、実際には、超能力者以外の人間にも弱い超能力があり、超能力者は普通の人間よりも強い超能力を持った者にほかならない。
学問やスポーツの天才が神でないのなら、超能力の天才も神でないはずである。
したがって、超能力者も人間であることになる。
超能力者は人間だから、宗教は要らないことになる。
[3667] どうして日本の政治家は権威(ここでは、命令の強制力の意味)がないのか?
h19.10.23
日本の政治では、政治家の作った法を天皇が承認することで、法を国民に押し付けることができるようになる。
日本の政治家がいいかげんに法を作っているから、人間よりも上の者とされている天皇の承認を得なければ、法を国民に押し付けれらないのである。
しかし、実際には、[超能力者が人間だから、]天皇も人間である。
だから、天皇が承認しても、法の強制力が強まるわけではない。[天皇の承認は、もはや無意味である。]
法の強制力を強めるのは天皇ではなく、法自体の正しさである。
数学の定理の証明のように、法に証明を付けてその正しさを示せば、国民は納得して自[みずか]ら法に従うはずである。
[3668] 誰が日本を統治すべきか? h19.10.24
神とは人間にない才能を持っている者である。
超能力は人間にない才能だと考えられてきたために、これまでは超能力者が神だった。
しかし、超能力者は超能力が強いだけで、他の人間にも強かれ弱かれ超能力があるから、
超能力者だけが超能力を持っているわけではない。
ほんらい超能力は、人間誰にでもある才能である。
したがって、超能力者は神ではない。
神は人間にない才能を持っていて、人間よりも上の存在だと考えられてきたために、日本を統治すべき者であったが、
超能力者は神ではないので、超能力者は人間よりも上の存在ではなく、日本を統治すべき者ではない。
日本を統治すべき者は、政治家すなわち弁証論的思考に優れた者であるべきである。
超能力の才能と弁証論的思考とは無関係なので、超能力者は政治家には向かない。
超能力者には超能力の強人としての権威はあるが、政治家としての才能がないので、政治をやらせてもうまく行かない。
学者やスポーツ選手に政治をさせてもうまく行かないのと同じことだ。
アメリカ大統領のように“誰でも好感の持てる人”だったらいいが、
それは俳優やタレントの才能だから、
これまた超能力者の出番ではない。
日本的には人間を外見よりも中身で見るので、他人のセリフを借りて喋るだけの俳優やタレントは政治家にはなれないのである。
政治家に必要なものが思考力よりも権威(他人に敬意を抱かせる才能)であるなら、
日本の国会に各分野の権威者を集めて束ねれば、日本は強い国になれるかもしれない。
もちろん、その場合、政治的判断は政治家以外の専門家が行うこととする。
日本には知力体力の権威者がいないから、その分超能力の権威者に頼らねばならないのかもしれない。
[3669] 超能力は一日にしてならず。 h19.10.24
超能力者の超能力(ここでの超能力は、超常現象性超能力・可視性超能力の意味)が発現されるのは一瞬(数秒〜数日)のことだが、
超能力が発現されるまでにはかなりの時間を要する。
私の念動力の場合、私の母が感覚波を使うのを見て、それを真似て感覚波をいろいろいじくりまわしているうちに偶然念力波を出すことに成功したのだが、念力波が出るまでの感覚波についての試行錯誤には想像を絶するものがあったかもしれない。[『巨人の星』の大リーグボールと同じようなものだ。]
神武天皇の光の玉の場合にも、光の玉が出たのは戦闘中のいっときの事件だが、それまでにはまさに眼で見えない日々の感覚波を操る技術の鍛錬があったのかもしれない。[超能力が現われるまでの弱い感覚波は眼で見えないから、どんなに感覚波を操る技術を鍛えていても眼ではわからない。]その他の火の玉(火の玉と光の玉とは質的には同じ物と考えられる。つまり、火の玉は弱い光の玉だと考えられる。)を見た者も、潜在的に感覚波を使う訓練を毎日していたと考えられる。毎日練習を積んで感覚波を操る技術の発達した者が、たまたま恐怖心に駆られて念光波を出したために火の玉が現れたのだ。
つまり、私にしろ神武天皇にしろその他の人にしろ、超能力が使えるまでには眼に見えないところで感覚波を操るためのかなりの練習を積んでいたと考えられるのであって、けっしてある日突然に使えるようになったわけではない。
感覚波を操る技術に習熟した者だけが超能力(可視性超能力)が使えるのである。
この点は、超能力もスポーツや学問と同じである。スポーツでは、基礎技術の積み重ねによってはじめてウルトラCの技が使えるようになるのであって、はじめからウルトラCができる選手は一人もいない。ただ超能力は発現されるまでは眼で見えないから、その点ではスポーツよりも学問に似ている。
超能力者とは、自分の身体の中にある超能力の種子(つまり、感覚波器官)を自分で育てて伸ばして大きく成長させた者である。
[3670] 知覚の麻痺 h19.10.25
自分が見ていること・していることが自分でわかっていないと、
知覚が麻痺して五感しか働かなくなる。
そうなると、自分の身体を飾ることにしか頭が働かなくなる。
これでは、文化の後退である。
こんな人間が日本中、世界中に広がると問題である。
だから、高価な衣服の代わりに自分で考える習慣を身に付けて
現代社会を理解しながら生きて行くようにしなければならない。
[3671] 女性が五感欲に支配されないために h19.10.26
女はなかなか知覚欲の満足が得られない。[知覚欲の満足で生きている女がいないとはかぎらないが。私の経験が狭いせいか、具体的にそんな女を私は知らない。]
そのため、女が快感を得るためには他の感情を満足させねばならない。[人間が生きているためには、何らかの感情を満足して快感を得なければならない。]
他の感情とは、五感欲や性欲などである。
しかし、五感欲は他人に従属的で面白くないし、
性欲は精神病(や性病)になりやすいので危険である。
愛情を満足させれば安全に幸福に生きて行ける。
キリスト教は女性のための宗教だといえる。
[3672] どうして男は女を好きになるか? h19.10.26
女は知覚欲の満足が得られにくいから愛情で生きている。
だから、女は男を好きになる。
男の心の中にも愛情がないわけではないから、
女が男を好きになると、逆に男がその女を好きになることがある。
しかし、そもそも男は知覚欲で生きるものだから、
知覚欲が満足できない馬鹿な男以外は女を愛したりはしない。
しかし、どんなに知覚のいい男でも、長い人生の中ではたまに知覚が働かなくなることもある。
知覚欲が満足しにくくなったとき、何らかの快感を得るためにやむを得ず男は女を愛するのだ。
[3673] 宗教は要らない。 h19.10.27
宗教は人間よりも上の者を管理する。
しかし、超能力者は人間だから、
宗教は超能力者を管理してはならない。
もはや宗教はやることがないから、
宗教は要らない。
[3674] 人間の進化はどのように起きるか? h19.10.27
知覚の進化について考えてみると、
知覚は多かれ少なかれどの動物にもあるが、
人間においてとくに発達している。
つまり、人間だけが持つ他の動物にはないいろいろな才能は
すべて知覚が量的に発達していることに起因する。
つまり、知覚が大きいだけで、いろんな新しいことができるようになる。
知覚が少しずつ大きくなって、ある大きさに達したとき、それまではできなかったことが突然できるようになる。[パソコンの性能が少しずつ良くなって行って、ある段階に達したとき、突然これまでできなかった新しいことがやれるようになるのと同じことだ。始祖鳥の翼が少しずつ大きくなって行ってついには空が飛べるようになったのだ。]
超能力についても同じことが言えて、
超能力が少しずつ発達して行って、
あるレベルに達したとき、突然超能力でこれまでできなかったことがやれるようになるのだ。[ただし、感覚波でできることに限られる。空を飛べる鳥類が生まれた結果始祖鳥は絶滅したが、人間の才能は多種多様なので、超能力者が現われたからといって、超能力の才能の有無だけが生死を決するようなことはない。]
いわゆる、『量の変化が質の変化をもたらす。』のだ。
つまり、新しい能力を持った生物が生まれたときには、突然に不連続的に現われたように見えるけれども、実際には連続的な進化が少しずつ積み重なって行って進化が一定のレベルを超えたために現われたのであって突然現れたわけではない。[[3663]の図を参照。]
[3675] 私の好きな女性のタイプ h19.10.27
私が最近見たDISCOVERY CHANNELのトラベル&アドベンチャー「スウェーデンとデンマーク」が面白かったのは、女性レポーターがイケてるからだ。
私は、この手の女性に弱い。
私が小学低学年の頃、ドリフターズの『8時だよ全員集合!』に出てくるゴールデンハーフのエバが好きだった。
[3676] どうして物理学では超能力がわからないのか? h19.10.27
感覚があるから感覚波がある。
感覚波があるから超能力がある。
現代の物理学では、まだ感覚の存在がわかっていないから、
超能力もわからないのだ。
[3677] 神とは何か? h19.10.27
数学や物理学の天才(才能に優れている人)にしかわからないこと・できないことがある。
そのため、数学や物理学の天才を神と呼ぶ人もいる。
そういう人が、数学や物理の天才を神と見立てて崇めても一向に構わない。
それは個人の自由である。[ときどきそのせいで事件が起こることがある。]
超能力の天才もそれと同じようなものではないだろうか?
[物理学の天才は、物の性質を理解し物を使って自分にしかできない発明をする。超能力者も自分の感覚波器官という物を使って自分にしかできないことをしたのだから、一種の物理学者と言える。]
[3678] 超能力者は絶対者ではない。 h19.10.27
現代においては、個人の価値観は多種多様である。
だから、超能力者に敬意を持つ者と持たない者の両方がいる。
したがって、超能力者(またはその子孫)に従うことを国法の原理にしたり、超能力者に関する情報を公共の電波に乗せて流すなんてことは、してはいけない。[それなら、OVAにして売ればいいことになるが、やはり超能力者も人間だから、勝手にやってはいけない。超能力者にとって不利な情報を流して超能力者に迷惑がかかる恐れもある。(わかる人が見たらわかる。)どうしてもOVAを作りたければ、人間の場合と同様、超能力者に正式に許可を取ってからやらねばならない。]
[3679] すごい!からなぜだろう?へ h19.10.27
超能力者が超能力を使うのを見て、すごい!と思うよりも、なぜだろう?と疑問を持たねばならない。
思うだけで考えないのは薄情だ。物に対して失礼だ。
人間ならば、自分の知覚を使って考えて、超能力の謎を解こうとする意気込みを持つべきである。
[3680] 時代錯誤 h19.10.28
おそらく、宗教家や政治家は超能力者を見て、自分や国のために利用できると思ったのだろうが、そんなのは数千年も前の社会の風習だ。昔の社会のまちがった風習を現代社会に持ち込むのは危険だ。昔の風習は昔だから成り立っていたのであって、現代においては現代の物の見方で統一しなければならない。そうしなければ、社会が矛盾をきたして崩壊する。[超能力を見てすごい!と思うだけですんでいたのは昔のことで、今は超能力も科学的に見なければならない。]
[3681] 超能力だけを例外視するわけにはいかない。 h19.10.28
磁石が離れた所にある物を引き付けるのだって、はじめて見た子供にとっては驚異的だ。
磁石が物を引きつける実験は再現性が利くので、科学的によく研究されて十分詳しく理解されている。
しかし、超能力現象は地球上で数千年に1度観察されるかされないかの非常にまれな現象だから、科学的には研究しにくい。
しかし、だからと言って、超能力だけ科学的に見ないわけにはいかない。
超能力に対する科学的な仮説を立てて超能力を科学的に見ることは現代においては必須だ。
[3682] なぜ超能力者は神に適しているのか? h19.10.28
学者を神にすると、国民に勉強ばかりさせることになる。
スポーツ選手を神にすると、体育ばかりさせることになる。
超能力者を神にしても、超能力をさせるわけにはいかないから、とくに何もさせることはなく、偏らないからいいのである。
[最近は、みんなが勉強に偏りすぎて運動不足気味だから、むしろスポーツ選手を神にしたほうがいいかもしれない。]
[3683] 超能力者は人間よりも上の存在ではない。 h19.10.28
人間よりも上の存在なら、人間にはない才能がなければならない。
しかし、超能力(感覚波を操る能力)は人間にもある才能であり、超能力者はただ超能力の才能が普通の人よりも発達した人間にほかならない。
超能力が発達しているから、念光や念力などの眼で見える技ができるのである。
体力が発達しているから、体操で難易度の高い技ができたり、
科学力が発達しているから、ロケットで月に行けるようなものだ。
知力や体力が人間にあるように、超能力も人間にある。
超能力者は人間の中にある特定の才能を伸ばした者だから、人間である。
超能力者が人間よりも上の存在でないなら、超能力者には人間に対する絶対的な支配権や命令権などない。
超能力者には、超能力の才能とその他の人間の才能があるだけだ。
[3684] 法と実在 h19.10.28
法(物理法則や国法など)が実在と合っていなければ、そんな法に従っても思い通りに行かず不快な思いをするだけだ。
そんな場合には、法のほうを改めねばならない。
そもそも法は人間の実在観にすぎず、法は実在に従属すべきである。
つまり、実在が法を支配するのであり、法が実在を支配することはできない。
例えば、日本の国法では、日本国民は天皇に従わねばならないことになっている。
しかし、本当は天皇は人間よりも上の存在ではないから日本の国法はまちがっており、まちがった国法に従って不快な思いをしなければならないのは日本国民である。
だから、日本国民は日本の国法に従ってはならない。
国会議員は天皇と組んで自分達の悪法(つまり、国会議員や天皇だけが得をしてその他の国民が損をする法)を国民に押し付けようと企[たくら]んでいるが、そもそも天皇は人間よりも上の存在ではないから国民がそんな悪法に従う必要はない。
だから、天皇を人間よりも上の者とする天皇制を廃止し、国民のための政治を早く確立すべきである。
[3685] 天皇の役割 h19.10.28
国民が天皇に頭を下げたり国旗を振ったりするのは、天皇の権威を高めるための国民の努力である。[天皇に権威があるのは、初代天皇が念で光の玉を出した超能力者だったからである。]
天皇の権威が高まると、
国内的には国法の強制力が強まり治安がよくなり、
国外的には日本が有利になるからである。
実際に、日本の治安がいいのは天皇のためかもしれないし、
アジア諸国の中で日本だけが独特の地位を占めてきたのも天皇のおかげかもしれない。
しかし、天皇が人間よりも上の存在でないのは科学的な真実である。
芝居で真実を誤魔化したり、嘘で真実を否定するのは善いことではない。
たとえ不利になっても、真実を貫くべきである。
そのほうが結果的には、幸福になる。
[3686] 神説から人間説へ h19.10.28
超能力者の神説では、超能力者の超能力は超能力者にしかなく、ゆえに超能力者は人間よりも上の存在すなわち神であった。
超能力者の人間説では、超能力者の超能力は超能力者以外の人間にもあり、超能力者は誰にでもある超能力がとくに発達した者だから、他の学問やスポーツの天才と同様、超能力者は人間である。
これまで、超能力者の神説が有力だったのは、
超能力が弱いうちは眼に見える形にはならず、超能力がとくに発達したときにかぎって念光や念力などの超常現象となって現われるので、超能力は超能力者にしかないと誤解されていたためである。
じつは、超能力は誰にでもあるものであり、したがって神の概念は成り立たない。
[超能力者が数千年に1度しか現われないことは超能力に対する科学的研究を困難にするが、科学的にはどうでもいいことである。つまり、たった一度でも起こったことは実在することであり、狭い地球上で数千年に1度現われるのなら、広い宇宙での超新星爆発よりはよくある現象だといえるから、稀か稀でないかは時間や空間のスケールの取り方によって変わってくるのでどうでもいいことだといえる。]
[3687] 甘えん坊は危ない。 h19.10.28
甘えん坊は自分と他人の区別が弱いから、他人のすることに腹を立てやすい。
腹を立てて、自分の不安中枢を興奮させすぎると、分裂病にかかる。
甘えん坊が有利なのは子供のうちだけである。
思春期が来ると誰でも多かれ少なかれ性欲が興奮しやすくなり、関連性興奮によって他の感情も興奮しやすく不安中枢や抑鬱中枢を興奮させすぎて精神病にかかりやすい時期だから、
思春期までに子供の甘えん坊の癖を直すようにしたほうがいい。
[3688] 超能力で何ができるか?! h19.10.28
超能力でできることは、光の玉を出したり、軽い物体をその場で回転させるような、単純な自然現象だけである。[感覚波にエネルギーを伝える性質があるので、そのようなことができるのだ。]
1個のパンを100個にしたり、死人を生き返らせたりするような複雑なことはやれない。
[3689] そんなに年取ってまでどうしても生きたい老人がいるだろうか? h19.10.29
人間はいつまでも若くない。若い頃と年寄りとでは身体が違う。
若い頃は生きているのが楽だが、年を取るにつれて生きていることがだんだんつらくなる。
老人にとっては生きること自体が苦痛なのではないだろうか?
そんな老人が我慢してまで生きねばならないのだろうか?
人生の目的は幸福にあるのであって、生きていること自体が目的化してはならない。
毎日病気でつらい思いをして生きねばならない老人や、とくに楽しみもなく生きているのが空しくなった老人には、死を与えたほうが幸福ではないだろうか?[むしろ医学がなかった時代のほうが楽に死ねたのではないだろうか?]
一般に、幸福に生きて生けなくなった人間は死んだほうが幸福ではないだろうか?
幸福に生きて行けなくなった人間に安らかな死を与えることは正当といえるのではないだろうか?
[3690] 念力波発生装置 h19.10.29
私が赤ちゃんの頃に念力でガラガラ(赤ちゃんを癒すために赤ちゃんのベッドの上の天井から吊り下げるクラゲのような形をした音を立てながら回る飾り)を回したことがある。
この事実は、念力波とガラガラとの間に相互作用があることを示している。
ガラガラは、感覚波エネルギーを力学的エネルギーに変換する“感覚波モーター”の役割を果たしている。
したがって、逆にガラガラ(プラスチックの円環体)を回すと念力波が出るかもしれない。
そうして発生した念力波で離れたところにある別のプラスチックの円環体を回す(自転させる)ことができるかもしれない。
[3691] どうして私は中3のときオナニーに耽[ふけ]らなければならなかったか?
h19.10.30
人間は何らかの感情を満足して快感を得なければ生きていけない。その感情が安全なものなら幸福に生きて行けるが、危険なものならときには不幸に陥ることがある。
幸いにも、私は小学校から中学1年までは、自分の知覚欲を満足して幸福に生きることができた。
ところが、進学校である高知学芸中学校の詰め込み教育では勉強が面白くなかったので、私は自分の知覚欲が満足できず他の感情を満足しなければならなくなり、私には自分の五感欲を満足する習慣がなかったので、私は自分の性欲を満足しなければならなかったのである。
もし、私が公立の楽な中学校や高校に通っていたら、勉強が面白いので、私は自分の知覚欲を満足してすくすくと善い大人に成長できたし、幸福な人生を送ることができただろう。
[高知県では、他県とは反対に、私立校が受験進学校で勉強が厳しく、公立校が就職校で勉強が易しいのである。]
[3692] 超能力は危険か? h19.10.30
原爆が危険なのは、そのエネルギーが大きいからである。
一方、超能力のエネルギーの元は超能力者が食べた食品のエネルギーであり、エネルギー的に見れば小さいので、危険視しなくてもかまわない。
それに、超能力の元である感覚波は人間誰でも持っている物だし、超能力者が超能力を現したとき超能力者自身および超能力者の周囲の者に身体的異常が現われたという事実もないから、超能力の人体への影響はないと考えてよい。
さらに、これまでに知っているかぎりでは、超能力は偶然に突発的に一生のうちで数回のみ現われるものであり、超能力者が使おうと思ってもなかなか意識して使えるものではなく、超能力では単純な自然現象しかできないので、超能力が複雑な犯罪行為に用いられる恐れはない。
したがって、超能力は安全だから、超能力をとくに取り締まる必要はない。
[3693] どうして私は医学生時代に自分の睾丸を紐で縛ったのか!? h19.10.30
私は医学が苦手だったので、医学生のときには知覚欲が満足できなかった。
それで、何らかの快感を得るために五感欲や性欲を満足しなければならなかった。
私は自分が女のように綺麗になりたくて、そのためには自分の睾丸が邪魔だと考えたので、自分の睾丸を殺すために自分の睾丸を紐でくくって血行を遮断しようとしたのである。
それでもなかなか自分の身体が綺麗にはならず[女性が綺麗なのは女性ホルモンによるので、男が睾丸を紐でくくっても綺麗にはならない。]、自分の五感欲が満足できなかったので、
ときどきオナニーをして性欲を満足させることもあった。
[3694] はたして女は馬鹿か? h19.10.31
女は多少知覚は男よりは劣るにせよ、五感欲と愛情だけを満足させて真面目に生きていけば、結構利口になるかもしれない。[性欲抜きの五感欲だったら認めてもよい。]
大事なことは、知覚よりも心である。知覚の不利さを心の真面目さで補えば、結果的には男と同等に利口になるかもしれない。
つまり、一般に人間の利口さ=五感×知覚×心である。人間の利口さは知覚だけで決まるのではない。
[3695] 男と女の違い h19.11.2
女は生まれつき男よりも知覚が劣るために、知覚欲が満足できないぶん五感欲と愛情を満足させて生きているので、その部分がよく発達している。[つまり、女は眼で見えることに関する知識と子供や夫がらみの知識にはよく通じている。だから、場合によっては、女の知識はバカにはできない。]
五感欲は他者に従属的な喜びだから自立的な知覚欲ほどの大きな満足が得られないが、その足りない分を女は愛情で補っている。愛情は五感欲と違って能動的で支配的だから、五感欲の従属的な喜びとは喜びの質が違う。[ただし、すべての女性が知覚が劣るわけではない。知覚欲は五感欲よりも喜びが大きいから、女性でも知覚欲が満足できる人はそのほうが幸福だからそうしたほうがいい。つまり、女でも男の奴隷にならずに自立できる者はそのほうが幸福だからそうしたほうがいい。反対に、自立できない女は男の奴隷としてそこそこ幸福に生きて行くしかない。また、たとえ女が知覚欲を満足できなくても、五感欲と愛情を一生懸命満足させれば、もっと幸福になれるかもしれない。何らかの感情を満足させて頑張れば幸福になれるのだから、とくに知覚欲の満足にこだわる必要はない。人間は快感がなければ生きられないから、女がやせ我慢して五感欲も愛情も満足させないでいると、性欲を満足しなければならなくなって、なおさら危険である。だから、多少知覚欲よりくだらなく思われても、五感欲や愛情を満足させたほうがいい。]
男が知覚が働かなくなって五感しか働かなくなった場合、男は子供を産めず男には愛情がないから、男には五感欲の快感の不足を補うものがなく、知覚欲で生きるよりも不幸になる。
つまり、男が女みたいにして生きても幸福にはなれない。
また、男と女とでは才能に差があり満足させている感情が違うので、男が女に知覚欲を満足をさせて生きろと言ったり、逆に女が男に五感欲や愛情を満足させて生きろと言ったりしてはならない。
一般に、人が満足させている感情は人それぞれ違うので、人が他人の満足させている感情に口出ししてはならない。[ただし、他人が悪の感情を満足させている場合には、不幸になる前に注意してあげるとよい。]
[3696] どうして女は女らしくなるのか? h19.11.2
女は小学中学年頃までは男とさほど違わないが、
女は小学中学年頃で身体の成長が止まるために、そこから先のレベルの勉強には付いて行けないのだ。
私が小学高学年頃に、自分の母親をときどき「バカ」と言うことがあったのは、母親の知的水準が小学中学年頃であることを見抜いていたからだ。[逆に、母親は私を「眼偽祖(めぎそ、目つきのこと)が悪い」と言うようになった。]
それで、女はたいてい小学高学年から先は勉強がわからなくて、知覚が麻痺して、五感しか働かなくなるのだ。[なかには例外もいるが。]
だから、女は小学中学年頃から先は、性格が他者に従属的になり[ただ見るだけで理解がないから、他者の判断に従わざるを得ず、他者の言いなりになる。]、自分の顔を化粧したり身体を着飾ったりして五感欲と愛情を満足させながら生きて行くようになる、つまり女らしくなるのだ。
男と女は生まれ持った心は同じだが、脳や身体が違うために、生後心の働き方が違ってくる。
つまり、男は知覚が強いから知覚欲で生きて行けるが、女は五感欲でしか生きていけない。[ただし、知覚の強い女もいる。東大や京大に行けばわかるらしい。]
女は子供を産んで育てるから愛情が強いが、男は子供を産まないから愛情が弱い。
[3697] どうして知覚欲や五感欲や愛情は無難なのか? h19.11.2
性欲は精神病の原因になるから危険である。性欲が精神病の原因になるのは、大脳における性欲中枢と不安中枢や抑鬱中枢の距離が短く、関連興奮によって性欲中枢が興奮すると近所にある不安中枢や抑鬱中枢もいっしょに興奮し、不安中枢や抑鬱中枢の興奮性が高まる結果、それらが持続的に興奮するようになって分裂病や鬱病などの精神病に罹るからである。
一方、知覚欲や五感欲や愛情が安全なのは、大脳においてそれらの感情を荷う中枢と不安中枢や抑鬱中枢などの距離が長く、関連興奮が起こりにくいからであると考えられる。
[3698] どうして今の日本は昔に比べて知的でないのか? h19.11.2
最近の若者は昔に比べて感性が五感的である。男が女みたいに着飾っている。
それは、感性が五感的な女性が社会に進出して社会を支配するようになり社会が五感的になってしまったからである。
男女平等の本質は、人間が知的であるかぎり性別は問題にしないことにあるのであって、無条件に男と女を平等視することではない。
社会は五感よりも知覚の方向に進むべきであり、五感の方向に進む社会は退行的である。
[五感欲は知覚欲を満足できなくなった者が快感欲しさにしかたなく満足している感情であり、積極的に満足すべき感情ではない。]
[3699] 誰が日本を駄目にしたか? h19.11.3
今のヨーロッパがあるのはデカルトが真実を大事にしたからである。
人間の文化は真実の知識の積み重ねでできるのであり、
真実を大事にしなければ、いつまで経っても文化は育たない。
初代天皇なら真実を大事にしただろうが、
2代目以降の天皇が嘘をつき続けた[つまり、2代目以降の天皇は超能力者ではないのに、超能力者のふりをしている]結果、
真実なんかどうでもいことになってしまい
日本が駄目になってしまったのだ。
楽しければ真実なんかどうでもいいのではなく、
真実を一番大事にしなければならない。
真実のためには心が犠牲になってもよい。
[3700] デカルトはなぜ死んだか? h19.11.3
デカルトほどの優秀な頭脳を持ってすれば、自分が北国スエーデンに行って死ぬことなどわかりきっていたはずだ。
それなのに、デカルトがそれを拒まなかったのは、プライド(自尊心)のためだ。
それは、デカルトがフランス人だったからだ。
[デカルトはその主著『方法序説』の中で、たとえ自分が崖から落ちることがわかっていてもまっすぐ進むべきであると述べている。知覚者たる人間は、1度自分が言ったことを取り消せないのだ。(私はデカルトほど知覚の才能がないから、過去の自分のまちがいは現在の自分が訂正することにしている。)]