[3501] どうして躁鬱気質の人は我慢してはならないのか? h19.8.18
分裂気質の人にとってオナニーすることが性欲中枢の関連性興奮(つまり、大脳において興奮している中枢の近くにある中枢も興奮しやすくなること)によって焦燥感を高めるように、
躁鬱気質の人にとって気落ちすることを我慢することは抑鬱感を刺激する原因がいつまでも取り除かれないままになり抑鬱感(落ち込み感)を高めることになるからである。
毎日、我慢していると、そのうち抑鬱感がずっと興奮したままになり死ぬまで治らない鬱病になる。
[補足)人間の性格が分裂気質になるか躁鬱気質になるかは、乳幼児期の親の育て方によって決まる。子供をわがままに(つまり、親が子供の主体性を大事にして)育てると分裂気質になり、反対に子供を親のいいなりに(つまり、親が子供を厳しくしつけて)育てると、躁鬱気質になる。]
[3502] 引越しうつ病について h19.8.18
引越ししたあとに鬱病にかかる人がいる。
たぶん、引越し先で近所とのトラブルがあって(あるいは、とくにトラブルがなくても)近所の人が悪口を言うようになったからだろう。[例えば、都会から田舎に引っ越してきて、夫が出世しない貧乏一家であるとか。あるいは、反対に、田舎から都会に引っ越してきて田舎者だとか。]
近所の人の悪口が抑鬱感(落ち込み感)を刺激する原因なのだ。
[3503] 【物理の頁】古典力学の世界 h19.8.18
『現象=実在×観測者(空間しか見えない)』
我々人間の眼には今のことしか見えないが、記録をとれば現象が変化していることがわかる。つまり、空間と時間からなる4次元世界が実在の真の姿であって、4次元世界においては万物が静止しており、逆に我々は実在の時間的断面しか眼にすることができないのだ。
その4次元の実在における法則がF=maなのだ。[ガリレイ変換も満足している。]
[3504] 【物理の頁】顕微鏡の世界 h19.8.18
『現象=実在×観測者(視力が弱い)』
我々人間の眼には視力の限界があるので小さい物が見えない。顕微鏡を使えば眼に見えない小さな物まで拡大して見ることができ、眼に見えない物と眼に見える物との区別がなくなる。人間の視力を∞にしたとき見える世界、それが実在の真の姿なのだ。例えば、顕微鏡の世界には毛細血管があるから血液が循環していることがわかるし、細菌が病気の原因であることもわかる。したがって、その細菌を殺せば病気が治ることもわかる。
[3505] 【物理の頁】一般相対性理論 h19.8.19
『現象=実在×観測者』
アインシュタインは特殊相対論における観測者(v)を、一般相対論において観測者(v、a)にまで拡張した。
特殊相対論において、『光速度不変の原理』から座標系間の変換則(ローレンツ変換)を導いたように、一般相対論では、『等価の原理』から座標系間の変換則(一般化されたローレンツ変換)が導かれる。
特殊相対論において、実在についての法則がローレンツ不変性を満足しなければならなかったように、一般相対論においては、実在についての法則が一般化されたローレンツ不変性を満足しなければならないのである。現象についての古典力学における既知の法則と座標系についての法則(つまり、一般化されたローレンツ変換則)とから、実在についての法則が求められる。
その結果、近日点移動やブラックホールなど、古典力学にはなかったいくつかの新しい実在に関する知見を得ることができた。
一般相対論によって、宇宙に関する研究が大きく前進したのである。
[3506] なぜ競馬場がつぶれたか? h19.8.19
日本神道の資金源を断つためである。
[他にパチンコ店や宝くじも日本神道の資金源だといわれている。]
[3507] なぜ天皇は日本国王ではないのか? h19.8.19
王なら宗教が推[お]したりはしない。
やはり、天皇は宗教的存在すなわち神(超能力者)であった神武天皇の子孫であって、
日本を最初に統治した者(日本国王)の子孫ではない。
[3508] 【物理の頁】空間・時間とは何か? h19.8.19
数学で集合に距離を定義するように、空間や時間は人間が実在に組み込んだひとつの構造である。[測る前に距離はない、測った後に距離ができる。物差しを物に当てて(観測者の時空間の格子を実在に被[かぶ]せて)はじめて物の長さが決まるのであり、物差しを物に当てなければ物はただそこにあるだけ(距離が未定義の世界においてただたんに物が存在している状態)なのだ。]つまり、実在をひとつの集合と見て、その中の異なるふたつの元すなわち実在の中の異なる2点の間のひとつの値の決め方が時間・空間なのである。[物の長さは測ってはじめて決まるのであって、測る前から物の長さなんかはない。物の長さ(現象)は、物(実在)と物差し(観測者)の両方で決まるのであって、物(実在)だけで決まるのではない。日常経験では、(人間の動く速さが光速に比べて遅いので)物差しが万人共通であり、あたかも物差しがなくても物だけで物の長さが決まると思い込んでいるのだ。同じ物(実在)であっても、観測者が物に対して止まっているか動いているかによって物差しが縮んだり伸びたりするので、物の長さ(現象)が違って見える。つまり、観測者が物に対して速く動けば動くほど、物は縮んで見える。]
だから、ひとつの時間・空間と他の時間・空間との関係が問題になる。
ただ、相対論では時間と空間がローレンツ変換で混じり合い時空間となっている。相対論における実在とは、時間と空間が混じり合った世界であり、そんな世界における物理法則を記述した式が、相対論的な運動方程式なのである。[現象=実在×観測者。現象界においては時間と空間が別であるが、実在界においては時間と空間が混じり合ってひとつの時空間となっているのである。]
[3509] 【物理の頁】実在か現象か? h19.8.19
量子力学の世界において、実在も現象もどちらも真実である。
トランジスターやパソコンを作るためには実在が大事だし、
超光速の通信のためには現象が大事だ。
だから、用途に応じて実在か現象かを使い分ければいい。
[3510] 超能力者とは何か? h19.8.20
超能力者とは、
相対論のアインシュタインや
量子力学のシュレーディンガーに並ぶ
精神力学すなわち一種の物理学の天才である。
例えば、私の場合、私の母の発する霊気から考察を深めていくと、『実在についてのある法則』に達し、その法則を応用することによって念動力が使えるようになったのである。
[3511] 私の母が子供の頃に見た人魂の正体について h19.8.20
私の母が立川(大杉の奥)に住んでいた頃、夏の夕涼みに妹や友達といっしょに川原に出ていたとき、急に人魂が現れて怖くなってみんなで逃げたが、逃げても逃げても人魂が付いて来て、必死の思いで近所のおじさんの家に逃げ込んだことがあったそうだ。
母は、このときの人魂を2〜3日前に死んだ近所のおじいさんの霊魂だと考えている。
しかし、私の哲学第1原理によれば、人間は死んだら感覚がなくなり感覚波も出すことができなくなるので、死人が人魂つまり霊光(霊電磁波)の玉を出すことはできないはずだ。
おそらく母親の見た人魂は、[ブロッケンの妖怪のように]母親自身が作り出した霊光だったのだろう。
だから、母親が逃げても逃げても後を追いかけてきたのだ。
[ちなみに、私は生まれてこのかた一度も人魂を見たことがない。]
[3512] 哲学における現象界と実在界 h19.8.21
現象界においては、眼で見たことしかわからず、眼では物しか見えず眼では心が見えないから、[デカルトの物心2元論のように]物と心が分かれている。
しかし、実在界においては『実在哲学第1原理』より、物と心(精神つまり感覚)が統合されている。[仏教は物心一如だから、仏教では物と心が統合されている。量子力学の世界において、現象界では波と粒子に分かれているが、実在界では波と粒子が統合されてΨとなっているのと同様である。]
そんな物と心が統合されている実在界においては、念動力や霊光のような超常現象が実現可能なのである。
[3513] どうして私は赤ちゃんの頃に念動力が使えたのか? h19.8.21
私の母から聞いた話によると、私のおばあさん(母方の母)は熱心な日蓮宗の仏教徒であったそうだ。
それで私の母は、小さいときにおばあさんから厳しい日蓮宗の教育を受け、物心一如の意[こころ]を得て、濃い気を発したり霊光を出したりする超能力が使えるようになったのだ。
そして、私は赤ちゃんの頃に母の超能力を見て、この世には超能力があることを知り、さらに独自に考察を深めることによって念動力が使えるまでになったのだ。
[3514] 【物理の頁】ボルンの原理 h19.8.21
ボルンの原理は観測者の法則ではなく、現象の法則である。
[3515] 宗教とは何か? h19.8.21
神すなわち超能力者とは、超能力を実現可能とするような実在についての未知の法則(つまり、超能力原理とそこから派生するいくつかの法則)を知っている者である。超能力者は、超能力原理[量子力学におけるシュレーディンガー方程式のようなもの]とそれから派生するいくつかの法則[量子力学におけるパウリの原理のようなもの]を用いて、自分の身体にある組織を適切に働かせて超能力を発現するのである。[だから、超能力者の身体(とくに脳)を解剖するだけでは、超能力の謎を解明することはできない。]
したがって、宗教とは、超能力についての研究会のことである。
超能力のメカニズムを解明するために、宗教の人は、超能力者に付いて、超能力者から超能力が使えるようになるための知識と技術を学ぶのである。
そして、自分の国に帰って、自分が超能力者から学んだことを国中の人々に教えてあげるのだ。
みんなが超能力を応用して、[電磁気学で電燈やモーターができ、熱力学でエンジンやクーラーができ、量子力学でトランジスターやパソコンができたように]これまでにできなかったことができるようになれば、これまでよりも幸福に生きて行くことができるはずである。
[3516] どうして宗教は今のようにくだらない会になってしまったのか? h19.8.21
超能力者に付いて、超能力のメカニズムを解明することに成功した者はひとりもいなかった。
それで、ある時期から、宗教は超能力者の超能力を研究する会から、超能力者の権威を借りてお金をもうける会に堕落してしまったのである。
[超能力がどこまで理解できるかは、当時の科学水準によるので、将来科学が進めばきっと超能力のメカニズムが理解できるようになるだろう。そうなれば、宗教もその本来の姿を取り戻すはずだ。]
[3517] 実在をなめるな! h19.8.21
人間はどうして生きていられるか?
>それは、実在に適応しているから。
人間はどうすれば幸福になれるか?
>実在に適応しながら、同時に自分の心を満足するようにすれば幸福になれる。もっとも、心は実在する大脳前頭葉の脳細胞群の神経興奮によって発生する感覚であるから、ひとえに実在に適応すれば幸福になれると言ってもよい。つまり、人間は実在に適応すればするほど幸福になれるのだ。
[3518] これまでの宗教は無駄だ。 h19.8.21
シャカもキリストも脇道に逸[そ]れている。
どうして、これまでの超能力者は超能力を自分の哲学の中心に据[す]えようとしなかったのか?![もっとも、仏教には超能力の研究らしい跡[あと]がいくつか見受けられる。古い宗教ほど、宗教の原形(つまり、超能力の研究)を多くとどめているということか。]
禁欲だの愛だのは他の哲学者に任せて、超能力者は超能力について考えればよかったのだ。[もっとも、超能力者も人間だから、超能力以外のことについて考えてはいけないとまではいわないが。]
[3519] どうして私は念動力が使えたか? h19.8.24〜25
1)感覚波が存在する。
哲学第1原理より、脳細胞が神経興奮すると“感覚”が発生する。[感覚は、これまでの物理学にはない概念である。]
電子が振動すると電磁波が発生するように、感覚が振動する(つまり、脳細胞の興奮が振動する)と“感覚波”が発生する。
人間の脳には感覚波を発生する器官がある。
逆に、人間の脳には感覚波を見る器官もある。
人間同士の間には、感覚波によるコミュニケーションがある。[とくに、赤ちゃんはまだ眼が見えないから、母親と赤ちゃんとのコミュニケーションは感覚波によらねばならない。]
2)非言語的な感覚波(言葉によらない感覚波)
私の父も母も無口で、強いて他人に言葉で訴えたりしない。
私の父も母も分裂病ではないから、テレパシー(幻聴波)で他人に訴えたりはしない。
私の母は、感情自体を感覚波に乗せて他人(例えば、私)に伝えることができる。[赤ちゃんはまだ言葉がわからないから、感情自体でわかりあうしかない。]
3)感覚波は見えれば出せる。
感覚波を見る(感じる)器官を逆に働かすと感覚波を出すことができる。
あるいは、見る器官と出す器官は一対になっており、見る器官が働けば、じきに出す器官も働く。[幻聴と同じ。]
赤ちゃんの頃の私は、母親の出す非言語性の感覚波(感情を乗せた濃い気)を感じる(見る)ことができたから、逆に自分も非言語性の感覚波を出すことができたのだ。
4)感覚のコントロール
哲学第1原理より、感覚はそれを荷う脳細胞の神経興奮によって発生するから、脳細胞の神経興奮をコントロールできれば感覚の発生をコントロールできることになる。
とくに仏教の場合、自分の感情をコントロールできることは必須である。
私の母は、おばあさん(母方の母)から厳しい日蓮宗の教育を受けたので、自分の感情をコントロールすることが得意であった。
それで、私の母は優しさの感情を“高める”(強める)ことができ、優しさの感情を感覚波に乗せて出すことができたのである。[母親が私の近くにいると、私の気持ちが落ち着くのはそのためである。ヘンな取り柄もあったもんだ。]
感覚をコントロールできれば、感覚波に乗せる感覚を自由に変えることができる。感覚波に乗せる感覚によって、性質の違う感覚波が出る。
赤ちゃんの頃の私は、感覚波に乗せる感覚を自分でいろいろ変えてみて、その結果、脳細胞以外の物質(例、プラスチック)と相互作用する感覚波(念力波)を出すことに成功したのである。[私が中学生のとき勉強していて気持ちが張り詰めると住宅の木の柱がピシピシ鳴ったり、今でも怖いと思ったりすると家具のプラスチックやガラスがピシッと鳴ったりするのは、緊張感や恐怖感の感情の感覚を感覚波に乗せると、特定の物質(W族元素の長鎖分子)と相互作用するからなのだろう。]
5)動機(物を動かしたい気持ち)
私は小さいころからテレビのダイヤルや時計のリューズやプラモデルの地底モグラのドリルなど、物を回したり物が回ったりするのが好きだった。
そんな“物を動かしたい気持ち”を感覚波に乗せると、念動力波が放射されてプラスチックのような有機物の軽い物体が回転したりするのかもしれない。[あまり大きな重たい物は動かせないようである。]
要するに、物を動かしたい気持ちを強めて感覚波に乗せると、物によっては動いたりすることがあるのだ。
[3520] どうして私の母は3秒間20歳若返ることができたのか!? h19.8.26
今から約5〜6年前、母が豊岡に住んでいる私のところに遊びに来たとき、帰り間際に宝塚駅で母親が3秒間だけ20歳若返った姿を見たことがある。
本当に人間が若返られるわけがないから、これは、幻視の一種だろう。つまり、幻聴で言葉を感覚波に乗せて他人に伝えるように、母親が自分の若いときの視覚像を瞬間的に強めて感覚波に乗せて私に伝えたのだ。
それで、私にはあたかも母親が急に若返ったかのように見えたのだ。
神武天皇の発した光もまたそんな幻視だったかもしれない。
ただ、私の母親が子供のとき夏の川原で夕涼みに見た人魂は「子供たちみんなが見た」そうだから、それは幻視ではなく母の出した感覚波の作用でできた光(電磁波)の玉だと考えられる。[特定の感覚波と電磁波の間には相互作用があるのだろう。母が川原が暗かったので“もっと明るければいいのに”と思う気持ちを感覚波に乗せたために、火の玉が生じたのかもしれない。]
神武天皇の光が本当にあったことだとすれば、その光は、絵ではあたかも太陽の光のように燦然[さんぜん]と眩[まばゆ]く描かれているが、実際には人魂のようにボンヤリした光だったのではなかろうか。
私の母親の急な若返りにしろ、神武天皇の出した光にしろ、いくら稀にしか現れない奇跡であっても、それには科学的な理由がちゃんとあるから、自然現象のひとつにすぎないのだ。わかれば不思議でもなんでもない。
[3521] 超能力が現れる条件 h19.8.28
超能力者自身に関する条件としては、
1)感覚波が出せること。
感覚波器官が働かねばならない。
2)感覚を強められること。
自分で感覚を強めることができねばならない。
感覚を強めて感覚波に乗せると、感覚によってそれぞれ違った性質を持った感覚波が出る。[要するに、超能力=感覚波×感覚。]
それから、超能力者以外に関する条件としては、
3)超能力が現れやすい環境があること。
念動力なら身近に軽いプラスチックのおもちゃがあることや、光の玉なら周りが暗いことが超能力が現れやすい条件である。
[3522] 超能力のメカニズム h19.8.28
感覚波に言葉を乗せると幻聴になり、感覚波に視覚像を乗せると幻視になり、感覚波に優しさの感情を乗せると他人の気持ちを癒す霊気になり、感覚波に緊張感や恐怖感を乗せるとガラスや木の柱をピシッと鳴らすことができる。
このように、感覚波に乗せる感覚によって、性質の違う感覚波が出る。
幼い頃の私は、感覚波に乗せる感覚をいろいろ変えて試してみて、ついに『物体を回転させる感覚』を見出したのだ。
その感覚は、単一の感覚かもしれないし、複数の感覚の配列かもしれない。
赤ん坊のことだから、その感覚はなにかの感情である可能性が高い。
いくつかの感情を順番に興奮させて感覚波に乗せると、物体を回転させる性質を持った念力波になるのかもしれない。
光の玉を出すのも同様である。怖い怖いと思っていると人魂が出たりするから、おそらく、感覚波に恐怖心を乗せると、光の玉を出す性質を持った感覚波が出るのだろう。神武天皇も戦いの恐怖のあまり巨大な光の玉を出したのではないだろうか。
天使の輪は、光の形がトーラス形で光の玉とは形が違うから、何か別の感情を乗せるのだろう。
赤ん坊のころはまだ言葉がわからず眼も十分見えていないのでそのぶん感覚波器官が働いており[産婦人科のベビールームに行くと、ボワーとした雰囲気が漂っているのはそのためである。]、しかも感情の興奮が激しいから、強い感覚波が出やすく、超能力が現れやすいのだろう。[反対に、大人は、眼や耳に頼って感覚波器官をあまり使わないし、感情の興奮も激しくないから、強い感覚波が出にくく、超能力が現れにくいのだ。]
[3523] 感覚波に乗せる感覚は先天知によるものである。 h19.8.29
人間には本能的に暗闇を怖がる性質がある。
夏の暑い日には夕涼みに外に出る人が多く、暗闇を怖がる人が多いので、人魂が出やすいのだ。
強い感覚波を出す体質(気質)の人が恐怖感を感じると人魂が出る。
人魂は太陽や行灯[あんどん]の代わりであって、本来は恐怖感を和らげるための物である。
だから、恐怖感じたいが感覚波に乗るのではなく、周りを明るくするために、『光を出す感覚』を感覚波に乗せたのだろう。
恐怖感自体が感覚波に乗っても、その恐怖感が周りに伝わるだけである。
恐怖感が一定の強さを超えたとき、ひとりでに生まれつき大脳の中にある神経回路が働いて『光を出す感覚』が感覚波に乗って、人魂が出るのだ。
他人に自分の意思を訴えたいと強く念じると、自分ではとくに何もしないのにひとりでにテレパシーが使えるようになるのと同様である。[本人はできないつもりで冗談でやったことが本当になったので迷惑なかぎりである。最初から「人間には潜在的にテレパシー能力があ[リテレパシーがあると自分の考えが他人に伝わるだけではなく逆に他人の考えが自分にも聞こえて自分の思考が混乱して自分で考えられなくなって馬鹿にな]るから他人に頭の中で訴えてはいけないし(コックリさんのように)他人が頭の中で考えていることを覗[のぞ]こうとしてもならない」と真実を教えるべきである。]
私の念動力の場合にも、自分で試行錯誤して『物を回す感覚』を発見したのではなく、物を回したい感情が一定の強さを超えたとき、生まれつき大脳の中にある神経回路が働いて『物を回す感覚』が感覚波に乗って、ガラガラが回ったのだ。
人間には生まれつき感覚波に乗せる感覚についての知識があり、感情が一定の強さを超えたときその知識が働いて特定の感覚が感覚波に乗っていろんな現象が起こるのだ。[もっとも、ある程度感覚波に乗せる感覚を自分でコントロールすることも可能である。]
だから、感覚波ではいくつかの決まったことができるだけで、何でもできるわけではない。
[3524] キリストの奇跡について h19.8.29
日本の神武天皇と同じく光が出ただけだ。
他のは全部作り話だ。[日本人の長所は作り話をしないことである。]
[3525] マスコミ h19.9.1
昔はテレビやインターネットがなかったから、
神の実像が伝わらなかった。
それで、人々は神の虚像を信じたのだ。
今はマスコミが発達しているからそうはいかない。
現代人にとっては、作りごとのうそは通用しない。
神とは、光の玉や念動力などの超常現象を起こした者のことなのだ。
[3526] 教科書がすべてではない。h19.9.1
教科書は、生徒の履修時間が限られているために、人間が現代社会で生きていく上で大事なことを拾って載せているだけだから、教科書に載っていることがこの世のすべてではない。
教科書に載っていない事実・真実もたくさんある。
超常現象もその中のひとつである。
[3527] 超能力の原理 h19.9.1
感覚波器官にある特定の働かせ方をさせると、特殊な感覚波が出て、光の玉を出したりプラスチックのおもちゃを自転させたりすることができる。
それが超能力である。
[超能力を現すために、感覚波器官をどのように働かせばいいかは今のところ不明である。人の感情が高まると先天知(人間が生まれつき持っている感覚波器官の働かせ方に関する知識)が働いて、特殊なやり方で感覚波器官を働かせて、超常現象が発現されるのである。電磁場と相互作用する感覚波(psychowave)で光の玉が現れ、物質場と相互作用する感覚波で念動力が現れる(A・P→光の玉、Ψ・P→念動力)。]
[3528] 超能力者の住んでいる世界 h19.9.2
超能力者は、普通の人間よりも自由度が高い空間に住んでいる。[超能力者は普通の人間にできないことができるから、そのぶん自由度が高いと言える。]
超能力者は、その感覚波器官で普通の人間が見れないことも見ることができ、できないこともすることができる。例えば、感覚波に感覚を乗せて自分の感覚を他人に伝達したり逆に他人の感覚を自分が察知することができるし、また感覚波自体の性質を用いて光の玉や念動力などの超常現象を発現することもできる。[ちょうど電磁波がラジオやテレビなどの情報伝達に用いられるほか、電磁波と分子との相互作用を利用して電子レンジで食品の加熱に用いられたり、水銀灯で殺菌に用いられたりするのと同様である。]
感覚波器官は生まれつき誰にでも備わっているから、誰でも多かれ少なかれ超能力の才能がある。
普通の人間は成長すると感覚波器官が働かなくなるが、超能力者においてはそれがいつまでも働き続けるのだ。
[3529] 陰気臭い人間ほど格好を付けたがる。 h19.9.4
人間は落ち込み気分が強くなると、知覚が働かなくなって、五感のことしかわからなくなる。
だから、身体や服装のことにばかり気を使うようになる。
つまり、逆に言えば、格好をつける人は気分が落ち込んでいる人なのだ。
[3530] 火の玉はなぜ出るか? h19.9.5
火の玉が出るのは、人が暗闇の中にいて暗闇を怖いと思ったから、明るい光が欲しくなって出たのだろう。つまり、強い感覚波の出る人間が強度の恐怖を感じると、潜在意識的に念光波(光の玉を出す感覚波)を出すプログラムが働いて、感覚波器官から念光波が出て、光の玉が現れるのだ。しかし、当の本人は感覚波でそんなことができるとは知らないから、突然自分の眼の前に火の玉が現れてかえって怖がることになるのだ。
一方、私は赤ちゃんの頃に念動力が使えたが、赤ちゃんはまだできることとできないことをよく知らないから、自分で念力波で物を動かせてもそんなに驚かず、むしろ喜んでいるのだ。
[3531] 統一理論 h19.9.6
《解説》神武天皇の光の玉と夏のお盆の頃によく見られる人魂とは同じ物と考えられ、これらは人の感覚波器官から出る念光波によってできたものと考えられる。
私が幼少の頃に発現したプラスチックのガラガラを回す念動力も、感覚波器官から出た念力波によるものと考えられる。
幼少の頃の私は、母親の出す感情波(感情を伝える感覚波)を感じて、感覚波の存在を知り、自分の感覚波器官を鍛えることによって念力波を出すことができたから、感覚伝達性感覚波も超常現象性感覚波も同じ感覚波器官から出る感覚波であると考えられる。
それに私の母は家の中ではほとんどいつも優しさを帯びた感情性感覚波を出しており、他に3秒間20歳若返る幻視や、母が子供の頃夏の夕涼みに川原で見た人魂や私が小学4〜5年頃母が台所で料理しているときの体幹の輝きなどの念光を出すこともできるから、これらの現象はすべて同じ感覚波器官から出た感覚波によるものと考えられる。[私の母は、このように日蓮宗の奥義を窮[きわ]めたいくつかの術が使えるのだ。]
つまり、感覚波は感覚を伝達することができるし(感覚伝達性感覚波)、またまれには念光や念力などの超常現象を現すこともできる(超常現象性感覚波)。
つまり、感覚伝達(五感を経由せずに感覚波で感覚が伝わること)や超常現象は感覚波の物性による自然現象である。
[3532] タヌキが人を化かすとは? h19.9.6
タヌキが人と出くわしたとき、タヌキの驚きの感情が高まったためにタヌキの感覚波器官から幻視波が出てタヌキの近くにいる人が幻視を見せられて化かされるのであろう。
タヌキは強い感覚波を出す動物だから、タヌキも神武天皇のような光の玉を出すことができるのかもしれない。
[3533] 超常現象は意識的に出せる(現せる)か? h19.9.6
感覚伝達性感覚波は、感覚伝達性感覚波を出せる人にとっては意識的に出すことが比較的容易だが、
超常現象性感覚波は、いちど超常性感覚波を出した者にとっても、感覚波器官や特定の感情の高まりのほかに先天知すなわち生まれつき持っている潜在意識的なプログラムが働かないといけないので、意識的に超常現象を出すことは非常に難しい。多くの条件が揃ってはじめて超常現象が現れるのだから、なかなか本人が意識的に出せる(現せる)わけではない。ただ、赤ちゃんの頃は、大人に比べて先天知が働きやすいと考えられるから、意識的に超常現象を出しやすいのかもしれない。
ただ、練習して自分の感情や先天的プログラムや感覚波器官を自分でコントロールできるようになれば、意識的に超常現象性感覚波が出せるようになるかもしれない。ただ、そんなことをしても超常現象性感覚波でできることは非常に限られていて[例えば、念光波で光の玉を出したり、念力波で身近にある軽いプラスチックのおもちゃを動かしたりすることができるだけ]、日常的にはほとんど役に立つことはないから、よほど超常現象に興味のある人でないかぎり苦労してまでそんなことをしようとはしないだろう。でも、もし今の私に超能力が使えたら、超能力の原理を明らかにするために、超能力を使っていろんな実験をするにちがいない。なぜなら知的好奇心こそが人間の原動力であるからだ。科学的な実験データの量が増えれば、次第に超能力の原理がわかってくるはずだ。そうなれば、案外誰にでも超能力が使えるのかもしれない。そんな時代がいつかはやってくるのかもしれない。
[3534] はたして超常現象性感覚波は有害か? h19.9.7
ラジオやテレビの電波は人体にとって無害であるが、X線は人体にとって有害である。
X線が人体にとって有害なのは実験(観察も含む)と理論によって判明したことである。
だから、感覚波についても電磁波と同じように考えればよい。
つまり、幻聴波や感情波などの感覚伝達性感覚波については多くの経験によって感覚波自体は人体にとって無害であると考えられるが、念光波や念力波などの超常現象性感覚波については経験が少ないので人体にとって有害か無害かわからない。
それがわかるのは、実験(観察も含む)と理論によってのみである。
ただ今のところ現在までは超常現象性感覚波が人体にとって有害であるという観察事実はないから、超常現象性感覚波が人体にとって無害だと見なすべきである。[たとえ超常現象性感覚波が人体の内部に侵入してきても、もともと人体の中から出たものなので人体に対する悪影響はないと考えられる。]
さらに、超常現象性感覚波による災害や犯罪も現在までは発生していないから、超常現象性感覚波は災害や犯罪の原因ではないと見なすべきである。
それに、感覚伝達性感覚波が感覚波器官どうしの相互作用しかないため数百キロ離れていても届くのに対し、超常現象性感覚波は感覚波と電磁場や物質との相互作用があるためにせいぜい数十メートルしか届かない。したがって、超常現象性感覚波は十分離れていれば影響はないと考えられる。
しかし、X線のように超常現象性感覚波が人体にとって有害であることが実験(観察も含む)や理論から判明した場合には、超常現象性感覚波に関する規制を設け、場合によっては超能力者の感覚波器官を切除するのもやむをえない。[虫垂炎なんかと同じ。]
[3535] 超能力は犯罪に使えるか? h19.9.7
答え)使いにくい。
理由)超能力でできることは、例えば光の玉を出したり、軽いプラスチックのおもちゃを自転させたりと、感覚波でできることに限られていて、しかも超能力は偶発的に現れるものであり、超能力を意識的に発現することは難しく、たとえできたとしても感覚波は空間的な広がりがあるので大まかなことしかできず細かい仕事はできないので、犯罪への利用はおろか日常生活における利用価値もほとんどない。
実際、眼で見えない粗いことしかできない感覚波よりも眼で見えて細かいことができる手の指のほうが犯罪にはずっと使いやすい。わざわざ犯罪に使いにくい超能力で犯罪をしようとする者はいないだろう。
[3536] 超能力は病気か? h19.9.7
精神病の患者のように、超能力者本人や超能力者の身近にいる人が超能力で苦しんでいる場合だけ、超能力を病気と見なし、その治療に当たるべきである。反対に、さほど問題でない場合には、超能力を病気と見なさずそのまま放置してよい。
それにしても、ときたま光の玉が出たりプラスチックのおもちゃが動くぐらいのことでいちいち困る者がどこにいるだろうか?[癲癇よりは安全だと思われる。最初は誰でも驚くが、見慣れれば驚かなくなるはずである。]
超常現象が超能力者の出す特殊な感覚波による現象だとわかっていれば、もはや超常現象を見てもそれほど驚く者はいないはずだ。
超常現象なんかすごくもなければ不思議でもない。[地球が月を『万有引力』で引っ張っていると考えれば不思議でなくなるのと同じことである。]ただ珍しいだけだ。
[3537] 超能力は危険か? h19.9.7
昔の人は超能力者が光の玉や念動力を出すのを見て超能力者が何でもできると考えた。
しかし、実際には、超能力でできることは感覚波でできることに限られている。
超能力者は感覚波器官から超常現象性感覚波(特殊な感覚波)を出して超常現象を現すのだから何でもできるわけではない。感覚波にできることは限られている。
超常現象性感覚波でできることは、今のところ知られている限りでは、光の玉と念動力だけだから、これ以外のことは超能力ではできないと考えてよい。
[3538] 珍しい自然現象 h19.9.8
念光や念力は、
1)強い感覚波を出す人が、
2)特定の感情が強く興奮したとき、[特定の感情とは、恐怖心や物を回したいと願う感情のことである。]
3)生まれつき脳に備わっている念光や念力を現すための神経回路(プログラム)が働いて、念光や念力を現す感覚波が出て、
4)超能力者の周りが暗かったり、超能力者の身近に軽いプラスチック製のおもちゃがあったりして、超常現象が現れやすい環境にある
場合にだけ現れる。
超常現象が現れるためには以上の4つの条件が揃[そろ]わなければならず、したがって超常現象は人体に関するめったに現れない珍しい自然現象であるといえる。[厳密には、5)他人が超常現象を見ている。ことも必要である。]
これはちょうど、太陽に関する緑閃光(グリーンフラッシュ)が、
1)緑色が十分残るほど空気が澄んでいて
2)夕日が水平線ぎりぎりまで残る場所から、
3)太陽が完全に沈む直前、または昇った直後に
だけ見られる珍しい自然現象であるのと同じことである。[私が小学生のときに読んだ小学館の『こども学習じてん』には、緑閃光の写真が載っていたが、なぜ見えるのかわからないとも書いてあった。]
他にも珍しい自然現象として、ブロッケンの妖怪とかセント・エルモの火とか私がお盆の頃の夕方に岡山や豊岡で発見した“光る雲”(幻日)などがある。[参照]ほかに、私が出石[いずし]の但馬松下で夜勤で働いていたとき、冬の朝に、ちょうど徳用マッチの箱の絵のように、太陽の光が車軸状に筋になって輝いているのを見たことがある。
超能力は人体に関する珍しい自然現象のひとつにほかならない。
いまだ人類の知らない珍しい自然現象は他にもいろいろあるはずだ。それらは今後人類が次第に発見して行くであろうし、あるいはそれらの中には永遠に人類の知らないままであり続けるものがあるのかもしれない。また、それらの中には、重大な物理的世界観の革命をもたらすものがあるかもしれない。
[3539] 子供が大人より善であるわけがない。 h19.9.8
子供は大人よりも実在の世界について無知である。
子供は物についても心についてもまだ知らない。
知らないから、間違いを犯しやすい。
悪の感情を悪と知らずに働かせて、その結果不幸に陥ることが多い。[たとえ一時的に善の感情を働かせて善人であっても、その後で悪の感情を働かせて悪人になる虞[おそれ]がある。]
だから、子供は大人よりも善ではない。
したがって、子供が不幸にならないために、大人は自分が正しいと考えることを子供に教えなければならない。
[私が子供の頃、私の親が私に教育しなかったのは、私の親がまちがった性善説を信じていたからである。]
[3540] 結婚についての2つの疑問 h19.9.8
1)人間は知覚欲で生きて行くべきなのに、どうして異性に対する愛情(性欲?)が働くのか?
2)一歩譲って愛情が働くのを認めたとしても、どうして本心から好きでもない異性と結びつかねばならないのか?はたして、本当に自分が好きな相手と結婚できた者がいるのか?
[3541] 精神病は治るか? h19.9.8
現代の医学では、まだ精神病は治らない。
だから、罹らないようにするしかない。
罹らないための工夫を絶対に講じなければならない。
[3542] 人間は生きるために生きているのではない。 h19.9.9
生きるためだけならば、脳幹や視床下部や自律神経系だけあれば足りるのであって、
そんなものは寄生虫か虫の世界であって、人間の世界ではない。
人間が生きる目的は、もっと別のところにある。
[3543] 人間の死に方 h19.9.9
自分がどうしても死なねばならないとしたら、
自分が好きなことをやってから死にたい。
あるいは、好きなことをやっている最中に死にたい。
[3544] 神武天皇の光の玉について h19.9.9
戦闘中に光の玉を出しても飛んで来る敵の矢を防ぐことはできないから、神武天皇が光の玉を合目的的に出したとは考えにくい。[戦闘中に火の玉が出たから敵が驚いただけだ。]
やはり、超能力は万能ではなく、超能力すなわち人の感覚波器官から出る感覚波では限られたことしかできないのだろう。
[3545] 偉さとは何か?☆☆ h19.9.9
人が他者を偉いとするのは、自分がその者に従うことによって自分が幸福になる場合である。
政治家や学者が偉いとされるのは、国民が政治家の政策や学者の学説に従うことで自分が幸福になるからである。
ところが、超能力者は超常現象を引き起こす特殊な感覚波を出したことがあるだけで、人が超能力者に従っても幸福になるわけではない。
したがって、超能力者は人よりも偉くはなく、人が超能力者に従う必要はない。
[3546] 超能力者に関する特別法についての規定☆☆ h19.9.10
『超能力者とは、超常現象を起こす特殊な感覚波を出したことのある珍しい人間である。』
この命題『…』から物理的に派生する事項以外を特別に超能力者に課してはならないし、
またその他の人間に課してもならない。
例えば、超能力者の人類文化への取り込みは上の命題から論理的に導けない[珍しいことを理由にするのは不適当である。]から、人類に取り込みをさせてはならない。また、人類が超能力者に余計な試練など与えてはならない。
超能力者であるかないかを問わず、何人たりとも超能力者に関して上の命題『…』から論理的・必然的に導かれない特別な規制を他者あるいは自分自身(超能力者と人間の両方を含む)に課すことを禁止する。
なお、上の『…』はすべての超能力者について成り立つ。
[3547] どうして男は理数系が得意なのか? h19.9.12
女は子供を産むので愛情が多かれ少なかれ働かねばならないが、男は知覚欲だけで生きているから、男は知覚を使って考える理数系が得意なのである。[女でも、知覚欲の強い者は理数系が得意である。でも、愛情のない女は自己認識に欠けると思う。それに、女は子供を産まねばならず、そのために女の人生は画一的なものになりがちだが、男は子供を産まなくていいので“精神的な自由”がある。理数系においては自由な精神による想像性が物を言うので、男のほうが女よりも理数系が得意なのである。]]
知覚界には論理性があるから、知覚欲で生きている者は非論理的な世界を受け入れられない。
だから、理数系が得意な人は社会科や生物学のような知覚欲が満足されない世界には何も得るもの(快感)がないから、そんな世界が苦手である。
女は子供を産むから生物に関心があり、そのうえ知覚欲が弱いので知覚が働かないぶん五感がよく働くので、眼で見たことをそのまま鵜呑みにする生物学(や医学)が得意である。
男でも知覚欲で生きていない者は理数系が苦手である。例えば、医者の息子は、金欲や名誉欲で生きているから、論理性のない医学(五感欲が満足される医学の世界)が得意である。
試験でいい点を取りたい欲望が強い者は、全科目が得意である。
誰でも自分に関心があること(つまり、自分がこれまで満足してきた感情が満足される世界)については得意である。
[3548] 天皇について h19.9.12
私は天皇についての自分の考えのほうが日本の法律よりも正しいすなわち実在に近いと信じている。
正しくない日本の法律は日本の恥だ。
人間は実在の中に生きている。[正しいかまちがいかは人間が決めることではなく、実在が決めることである。]
だから、実在に反する考えに従うことは自分を実在の外に出すことであり、すなわち死を意味する。
実際には、天皇はただいるだけで直接国民に対して命令することはない。
もし、天皇が国民に対して命令しその命令に国民が正直に従わねばならないとしたら、日本はとっくの昔に滅んでいただろう。
天皇制が続くのは、天皇がただ生きているだけで、何もしないからである。
何もしないでただ生きているだけでは、“日本の象徴”とは言えない。
ときどき馬鹿すぎる天皇が現れて不当な命令を出すだけだ。
天皇は何もしないかまちがった命令を出すだけで日本人を幸福にしないから、日本人は天皇を上に置いて天皇に従わなくてよい。
[3549] 実在=空想 h19.9.13
実在の世界は、人間が五感界をもとにして想像力で作り出したファンタジーだ。
そこには論理性・無矛盾性がある。
[実在ははじめから存在しているが、人間の認識能力が限られているので、実在を認識するためにはみんなで協力しなければならない。]
[3550] 超能力で実現できること h19.9.13
強い感覚波を出せる人がたまたま感覚波でできることを強く望んだとき、それが実現する。[例えば、『光の玉を出したい』と願えば光の玉が出るし、『物を回したい』と願えば物が回る。また、『他人の意思を操りたい』と願えば幻聴が聞こえるようになる(あとで自分が困ることになるが)。]
だから、反対に感覚波でできないことをいくら強く望んでもそれは実現しない。[今のところ知られている限りでは、感覚波では、光の玉を出したり軽いおもちゃを回したり、テレパシーを使ったりすることができるだけである。]
超能力でできることは感覚波でできることに限られている。
つまり、感情(夢、願望)が実在に従属しなければその感情は実現しない。
実在に従属する感情だけが実現する。
その点は、超能力でも常能力(普通の能力)でも同じことだ。
[3551] 超能力は病気か? h19.9.13
幻聴までも超能力に含めるなら、幻聴は病気と言える。なぜなら、たいてい幻聴では、幻聴が聞こえる本人が苦しんでいるからである。
しかし、光の玉や念動力などの超常現象については、本人や周りの者が苦しむどころか、かえって珍しがって喜ぶぐらいだから病気ではない。
幻聴の超能力は病気だが、超常現象の超能力は病気ではない。
だから、幻聴は治療してなくすべきだが、超常現象の超能力はそのままにしておくべきである。[もっとも、たとえ幻聴が聞こえても、本人が困っていなければ特に治療はせず、そのまま放置してよい。]
[3552]日本政府における天皇の存在意義 h19.9.14
日本政府の作った政令に人間よりも上の存在と考えられている天皇の承認を得れば、政令が国民に通りやすいからである。
とくに不合理な政令を出すときには効果的である。
しかし、このやり方は一部の政府の者にとって有利なだけで国民を幸福にしないので、廃止すべきである。
[3553] 政治家とは h19.9.14
善い政治家とは、国民にとっての幸福とは何かを知り、それを実現できる者のことである。[自分の私服を肥やそうが肥やすまいが、とにかく国民を幸福にするのが善い政治家である。]
反対に、悪い政治家とは国民の幸福を踏みにじろうとする者である。
国会には、善い政治家が多く、悪い政治家はいないほうがいい。[私は自分の幸福が保障されるのなら、税金を今の2倍出してもいい。]
[3554] 宗教家とは h19.9.14
宗教家は、科学的真実を受け容れようとしない[例えば、超常現象を起こした者を、人間よりも上の神だと見なすだけで、超常現象を起こす特殊な感覚波を出したことのある珍しい人間と見なさない。宗教家は、どうして超常現象が起こったかを考えない。考えないから進歩しない。]ので、人類にとって幸福実現の妨げとなる邪魔者である。
だから、宗教家はいないほうがいい。
[3555] 東洋思想 h19.9.14
東洋では、人間も自然の一部と見なす。
だから、超能力者が起こした超常現象も自然現象のひとつであり、科学的考察の対象となる。
[3556] 人間は性欲で幸福になれるか? h19.9.15
人間が性欲で生きるとすれば、これまでに人間が知覚欲で得てきた多くのものを失うことになる。
性器をいじるだけで幸福になれるほど単純な人間はいない。
[3557] 第4の火 h19.9.15
第1の火は、原始人が発見した松明の火だ(熱エネルギー)。
第2の火は、エジソンの電球だ(電気エネルギー)。
第3の火は、アインシュタインが発見した原子力だ(質量エネルギー)。
第4の火は、超常現象性感覚波で現れる光の玉だ(感覚波エネルギー)。
これらはエネルギーの形態が違うだけで、同じエネルギーの仲間だ。
[3558] どうして私の母は超能力が使えるか? h19.9.17
私の母は子供の頃に川原で火の玉を出したことがあるから超能力者である。
一般に、女は愛情が働くために知覚欲が働かず、知覚が働かないぶん五感が働くので五感欲が強い。つまり、女は愛情と五感欲が強い。[人間を心理的に見れば、その人間の感覚界の大域的構造がわかりやすい。]
しかし、私の母は小さいときからおばあさん(母の母)に仏教の一派である日蓮宗の厳しい教育を受けたので五感欲が働かずそのぶん愛情と知覚欲が強い。
私の母は小学校までの教育しか受けていないが、知的な気品がある。
仏教では五感を否定しているから、五感によらずに実在を認識するには、感覚波器官によるしかない。
それで、私の母は超能力が使えるのである。[いわば、感覚波器官欲が強いってことか。]
[3559] どうして私は放任教育だったか? h19.9.17
私の父の話によると、父の父はすごく怖い人だったそうだ。(詳細不詳)
私の母は、母の母から厳しい日蓮宗の教育を受けた。[母の父は戦時中だったので出征していて留守だった。]
私の父も母も、親から厳しい教育を受けて嫌な思いをしたので、この私には甘い放任教育を施したのだろう。
[3560] 女が結婚するまでにしなければならないこと。 h19.9.17
女は大人になると子供を産み多かれ少なかれ愛情を働かせねばならずそのぶん知覚欲が働かなくなるので、子供のうちに知覚欲を働かせて知覚を鍛えておかねばならない。
[3561] 宗教はムダ h19.9.18
たとえ超能力者の言行を研究して苦しい修行の末に超能力が使えるようになったとしても、できることは光の玉を出すか、軽いおもちゃを回すことぐらいだ。
そんなことできても暮らしの役に立たないから、苦しい修行が割に合わない。
[大人の目から見れば]遊びとしても、あまり面白くない。
[たとえ芸人になったとしても、ネタがひとつかふたつしかないから、芸人としての寿命は短いだろう。]
だから、宗教はバカバカしい。
それに、たとえ超能力者を人間の上に置いて超能力者に従ったとしても、超能力者は超能力以外のことについては人間と同じで、超能力者の思想が他の人間の思想に比べてとくに優れているわけではないから、とくに超能力者に従ったからといって人間に従うよりも得になることはない。
だから、宗教が超能力の研究であるにせよ、超能力者の思想に従うことであるにせよ、人間にとって得になることはほとんどないのである。
だから、宗教はやめたほうがいい。
[ただし、超能力を研究して、その原理を見出し、一般化すれば、生活の役に立つ応用が発明されるかもしれない。超能力は感覚波技術であり、原子力と同じく、上手に使えば暮らしに役立つはずである。]
[3562] 国の責任 h19.9.19
今後私に『国が悪い』と書かれると国が責任をとらねばならないので、そうなる前に私を殺して私の口を封じればいいと国は考えている。[ここでの国とは、日本政府のことである。]
おそらく国は宗教が超能力者に詳しいと思って、超能力者(である私)の管理を宗教に一任したのだろうが、実際には宗教は超能力者についてはほとんど何も知らず、ただ超能力者をダシにして利益をむさぼる集団にすぎなかった。
宗教は超能力者および超能力者と他の人間との関係を司る機関だが、実際には超能力者を人間よりも上の神としてただそれを制度化しているだけの古臭い組織である。
明らかに、宗教における超能力者観は2000年前のものと変わらず、科学の発達した現代においてはもはや通用しない。とくに現代においては武器が発達しているので、2000年前のように超能力者の独断で何でもできる体制は非常に危険である。
今後、政府はまちがった宗教に頼らず、[3546]の『…』に基づいて超能力者を管理しなければならない。
一方、宗教は超能力者を人間よりも上の神とするしか能がないばかげた組織だから、もはや使い道がない。
戦後、国家神道はアメリカ軍によって解体され[消滅はしなかったが]、戦後は国が宗教を支配する体制だった。
したがって、この度の超能力者である私の件については、そもそも国が宗教に委[ゆだ]ねたことがまちがいなので、国が責任をとらねばならない。
[3563] 宗教によるまちがった超能力者観を消去せよ。 h19.9.20
これまでに宗教が超能力者を人間の上の者としてやってきたことを、ことごとくこの世からなくさねばならない。
そうしなければ、超能力者に対するまちがったイメージを永遠に人類に植え付けることになる。
[3564] 感覚波で何でもできるわけじゃない。☆☆ h19.9.20
もしも感覚波で何でもできるのだったら、赤ちゃんの私は感覚波で物を回すことぐらいしかできなかったから、赤ちゃんの私は物を回したいとしか思わなかったことになる。
赤ちゃんの願望は他にもいっぱいあるはずだから、これはおかしい。
よって、感覚波で何でもできるのではない。
[3565] 仕事について h19.9.21
はたして仕事を好きでやっている者がいるだろうか?
そりゃ、少しはいるだろう。
でも、普通は仕事は嫌なものだ。
こういう私も例外ではない。
カルバンの職業倫理説はいわば屁理屈で、
キリストも仕事が嫌だったみたいだ。
仕事はあくまでも生きるための収入を得るための活動であって、
仕事そのものを人生の目的としてはならない。
[3566] 男にとっての結婚の本音 h19.9.22
男が女を飼う(失礼だが)のは、
家の中に“温かい雰囲気”を入れるためである。
結局、女にはそれだけの意義しかないのだ。
男にとって子供はむしろうるさくて目障りなくらいだと思う。
女のためにしかたなく我慢してやっているのだ。
女性の発する“温かい雰囲気”には、感覚波が関係しているかもしれない。[女は魔物]
幸福の本質は気持ちがいいことだから、感覚波による“温か気分”の伝達は[物を介さず]直接的であり、それだけ効果的である。
[3567] どうして私は尾立君の英語の教科書パラパラめくりに激怒したか? h19.9.22
尾立[おりゅう]君と私とは、高知学芸中学校の生徒会で尾立君が副体育委員で私が副文化委員をしていた仲?である。
じつは尾立君はリーゼントが似合いそうな小柄の不良っぽい男で、とうてい私と気が合わない。
私が高1のとき尾立君と同じクラスになって、通りを挟んで隣の席にいた尾立君の英語の教科書のパラパラめくりを見て激怒して、念力で尾立君の身体を操ってパラパラめくりをやめさせようとして自分の脳に気合いを込めすぎて精神分裂病にかかってしまった。
それ以来、今まで私の精神分裂病は治っていない。
私が尾立君のパラパラめくりに激怒したのは、尾立君が学問をバカにしていると思ったからである。
私が小学生のとき、弟に自分のランドセルを踏まれて大ゲンカしたのも、弟が勉強をバカにしていると思ったからである。
私は学問をバカにする者を許せない気性なのだ。[私は体育と音楽が苦手だったから、そのぶん勉強にウエイトがかかっていたのだ。]
でも、今なら尾立君が英語の授業がおもしろくなくて退屈してパラパラめくりしていたのだということがわかる。
高校生だった私は、他人の心理を理解しないのに、自分では好き勝手に腹を立てていた。
人の心を見ないのは、仏教の最大の弱点・欠点である。[私の母も、弟がどうして登校拒否なのかわからなかった。]
当時の自分がもっと人の心に理解があれば、オナニーもしなかったし、尾立君に激怒することもなかっただろう。
[パラパラめくり→パラパラ…今から約20年前、川本君が京大生だった頃、川本君が私と会ったとき「パラッパラ」とよく言っていた。「京都大で今パラッパラと言うのが流行っている。」とも言っていた。]
[3568] どうして私は枕をしないのか? h19.9.22
私は子供の頃から夜寝るとき枕をしない。
それで涎[よだれ]をだらだら流して寝る。
私が枕をしないのは、私が逆子[さかご]だったからである。
ただ、今は工場の仕事で立ち作業ばかりで猫背で首を曲げていることが多いので、枕をして寝ている。
[3569] 私の自己評価 h19.9.22
『念動力の発見者、即ち自転性念動力の実在性の証明者、
および超常現象の感覚波理論による統一をした者。』
[3570] 偉さとは何か? h19.9.23
偉さとは、その人がやった仕事に対する敬意のようなものだ。
だから、国会議員のように仕事をやる前から偉さがあるのはおかしい。[試験に通ったから偉いとでも言うのか!?選挙も試験の一種だ。私は、試験は仕事に入らないと思う。]
他人から偉いと思われたければ、それに見合う仕事をすることだ。
[3571] 五感界は曖昧である。 h19.9.23
数学の難しい本を読むとき、いくら字が眼で見えても、字の意味が知覚で見えなければ、本の内容がわかっているとは言えない。
これと同様に、人間が実在に目を向けたとき、いくら物の形や色が眼で見えても、物の物理的意味が知覚で見えなければ、実在がわかっているとは言えない。
数学の難しい本を読んだとき、字の意味がわからなくてチンプンカンプンで困るように、実在に目を向けても、物の意味がわからなければ同様にチンプンカンプンな思いをする。
だから、五感界だけでは曖昧なのである。
五感と知覚が協力してはじめて実在についての理解が成立するのだ。
[3572] 天皇は無用の長物 h19.9.23
最近まで日本は外国と戦争しても[引き分けに終わったことはあっても]負けたことがなかったし、外国に侵略されたこともない。
これを、日本に天皇がいるおかげだと考える日本人も多かった。
しかし、第2次世界大戦では日本は戦争に負けた。
天皇がいるから負けるはずがないと考えていた人々も、このとき自分の考えを改めねばならなかった。
天皇にも戦争の勝敗を決めるほどの権威はなかったのである。
もはや、天皇や神の時代ではない。
つまり、宗教が科学に敗れたのだ。
[3573] 子供が思春期までに知っていなければならないこと h19.9.24
人の頭の中には脳がある。
脳の中にはイライラ中枢やオチコミ中枢がある。
イライラ中枢やオチコミ中枢を興奮させすぎると興奮しっぱなしになり、
死ぬまでイライラしたり落ち込んだりしなければならなくなる。
[絵;怒った顔のイライラ中枢と落ち込んだ顔のオチコミ中枢。通常は一時的に興奮して大きくなってもすぐに鎮まって小さくなるが、力んで中枢を興奮させるとそれらが大きくなって大きくなったままになる。(面倒くさいので絵は描かない。)]
…私が子供の頃に読んだ小学館の『こども学習事典』には、精神病のことが書いていなかったので、そこがアキレス腱になった。人間(とくに子供)が幸福に生きて行くためには精神病の知識のほうがその他の科学知識よりも大事であるから、大事なことを先に教えるべきである。
[3574] バカの世界 h19.9.24
勉強に付いて行けなくなるとわからないから知覚が麻痺して知覚が働かなくなり、
五感しか働かないバカになる。[だから、バカかリコウかは生まれつき決まっているものではなく、誰でもバカになる可能性がある。誰でも苦手な勉強ばかりさせるとバカになる。逆に見れば、バカがリコウになる可能性もある。]
知覚が働くうちは自分が他人を見ているが、
知覚が働かず五感だけしか働かないと他人に見られるだけの自分になる。
そうなると、他人に見られるところだけよくしようとして
自分が綺麗になりたいと思ったりして[綺麗の概念自体が曖昧だと思うが。]
心理が女性っぽくなる。[つまり、女が女らしいのは、そもそも女が五感しか働いていないためである。だから、たとえ男でも五感しか働かなくなれば女らしくなる。反対に、たとえ女でも知覚が働く者はあまり女らしくない。いくら女でもバカすぎると五感欲と性欲しかなくて陰気臭くてやりきれない。だから、女でも多少は知覚欲が働くほうがいい。]
この状態を抜け出すには、自分が知覚で見れる世界に入ることである。
そうすれば、もとの自分が他人を見る状態に戻ることができる。
[3575] キリスト教 h19.9.24
人生がうまく行った者は知覚欲を満足して幸福に生きて行けるが、
知覚欲を満足して生きていけない者は、
何か他の感情を満足して生きて行くしかない。
愛情は知覚欲ほど満足が得られないが、
愛情は一応善の感情だから肯定できる。
キリスト教は人生の落ちこぼれを拾う有効な方法である。
[たぶん、キリスト自身も人生の落ちこぼれだったのだろう。]
[3576] 人生最大の問題 h19.9.24
人間何の感情を満足させて生きて行くかが問題だ。
五感欲を満足させると、そもそも五感欲は動物の感情であり人間に相応[ふさわ]しい感情ではないから、人生が堕落して最後には不幸になる。[J.S.ミルが言ったブタの喜び。]
自分が考えたことを書き留めたりして知覚欲を満足させると、人間の本質は知覚にあるから、人間として幸福に生きて行くことができる。
人間は満足させる感情がなくなると、生きて行くことができない。
満足させる感情によって、人間を分類することができる。[私は他人との接触があまりないので、他人がどんな感情を満足させているかはよく知らないが。]
[3577] どうして知覚が働かなくなると、他人に見られる自分になるのか? h19.9.24
自分の知覚が働く場合、自分の知覚で実在を見ることができる。
ところが、知覚が働かなくなると、理解の土台としての知覚が失われる(コペルニクス的転回の喪失)ので、実在に頼るしかない。
知覚が働かなくなると、他人が正しいかまちがっているかも自分にわからなくなり、逆に自分が正しいかまちがっているかを他人が決めることになる。
したがって、知覚が麻痺して働かなくなると、他人依存型の思考しかできなくなる。
他人依存型の世界においては、自分が他人によく思われる喜びしかないので、自分が利口に見られたり自分が綺麗に見られたりしたがるようになるのである。
しかしながら、他人依存型世界における喜びは、自己中心型世界における喜びよりも弱い[五感欲の喜びは他人に従属した世界の中での喜びなので、喜びが打ちひしがれて、喜びの程度が弱いのである。]ので、幸福に生きるなら、知覚を働かせて自己中心型世界に(つまり、自分の知覚で実在を見る認識の方法で)生きるべきである。
[もっとも、知覚界における概念は、実在における五感界における経験から作り出される。だから、子供のときの五感界における経験が後の人生にとってとても大切である。]
[3578] 火の玉はどうしてできるか? h19.9.24
念光波を量子化して念光子という素粒子を考える。
その素粒子には一定の寿命があるとする。
感覚波器官で念光子が生成されたのち、一定の速さと寿命で走ったあと、念光子が光子と何かの素粒子に分解するとすれば、超能力者から一定の距離離れたところに光の玉が現れることが理解できる。[超能力者と光の玉の距離が場合によって違うのは、念光子が生成されたときの速さが違うからである。]
[3579] 平均化 h19.9.25
四国と本州の間に橋が掛かり四国と本州との間の交流が盛んになると、四国が本州に似てくる。
昔、四国が離島だった頃、高知には美味しい食べ物がたくさんあり、大阪や東京からわざわざ美味しい物を食べるために高知へ旅行に来る人も多かった。
しかし、今は高知に来ても美味しい物はほとんどない。四国と本州の間に橋が掛かって物流がよくなったために、首都圏で物を大量に売ろうとして、食べ物を大量生産するために工程が手抜きになってしまったためだ。
だから、高知で食べても本州で食べても食べ物の味はそんなに変わらなくなってしまった。
私がまだ高校生の頃、山岳部で四国の中央にある村や町に行ったことがあるが、四国の田舎独特の濃い大正時代風の雰囲気があった。
今頃はどうなっているだろうか。
北海道もトンネルで本州と陸続きになったから、北海道もたぶん四国と同じことになっているだろう。
私は、交流が盛んになることによる平均化のために地方文化の独自性が失われていくのをおもしろくないと思う。このままでは地球全体が同じになってしまう。そうならないために、地方文化の独特の味を守っていかねばならない。
交流が盛んになることによる平均化は、地方文化だけではなく人間についても当てはまる。
都会には人が多く、したがって人同士の交流も盛んであり、そのために人間が平均化されている。
つまり、都会人には個性がない。
都会人は他人から学ぶ(他人を真似る)だけで自分ひとりで考えようとしない。
個性のない人間ほどつまらないものはない。
[3580] 中世に現れた彗星を見てヨーロッパの人々が考えたこと。 h19.9.25
彗星のことは聖書に書いてなかった。
そこで人々は、彗星を見て、天界に住んでいる神様が私たち人間にキリストがまちがっていることを教えてくださったのだと考えた。
そこでヨーロッパの人々は、キリスト教を否定し、新しい人間の生きる道を求めた。
これがルネサンスである。
[3581] クオバディスドミネ?とはどういうことか? h19.9.26
それまではみんな聖書に書かれていることをひたすら正しいと信じて生きていたが、この頃の時代になると、聖書の内容の真偽性について疑いの目を向け始めた。
『クオバディスドミネ?(我何をか知る?)』とは、宗教から科学へ時代が移り変わろうとしていた頃の名言である。
[3582] 天皇と私の違い h19.9.26
天皇は正しくてもまちがっていてもどうでもいいから、とにかく新しいことつまり流行を追いたがる。
一方、私は古くても正しいことは採るが、新しくてもまちがっていることは採らない。
[3583] どうして日本は年功序列型なのか? h19.9.26
天皇が実力がないのに肩書きだけで威張っている。
だから、日本は天皇をまねて年功序列型なのである。
[3584] 戦争はなぜ起こるのか? h19.9.27
理屈もなにもなく、ただ幸せになるためだけだったらとにかく戦争すればいい。
自分の国が無理やり幸福になろうとして他人の国に暴力を振るうのが戦争である。
しかしながら、やはり人間は理性的な動物であるべきである。
自分の国が幸福になりたければ、やはりきちんと国際ルールを守って正しくして幸福にならねばならない。
[3585] 日本国憲法は日本人の願望ではない。 h19.9.27
私は憲法を[物理学の法則と同様に]実在する人間集団である社会の法則[もちろん、国民の心も含む。つまり、その法に従ったとき、国民の心が最も満足されることになるような法を定めねばならない。]だと考えているが、
憲法をたんに国民の願望だと考える者もいるらしい。
しかし、たった光の玉を出したことがあるだけの者の子孫に従いたいと思う者がいるわけがない。
だから、憲法が国民の願望だと考えることはまちがっている。[それに、法に従わねばならないのなら、まずその法が実現できるものでなければならない。だから、まず第一に、法は実在に従っていなければならない。だから、法は物理法則であることが必要なのだ。だから、法は作りごとの嘘であってはならない。法は、まず正しくあらねばならないし、その上に国民の心を満足するものでもあらねばならない。嘘ではたとえ一時的に人をだませても、いずれそのうちボロが出てうまく行かなくなる。]
[3586] 政治家と宗教家は別人 h19.9.27
政治家は、超能力者も人と同じと考え、人を管理する。
宗教家は、超能力者を人とは別と考え、超能力者と人を管理する。
政治家と宗教家とは、超能力者に対する見方が違うので別人なのである。
[3587] 政治家はバカ h19.9.27
政治家が宗教家を信じて宗教家に従っていたのは、
政治家が何でも自分が思ったことが本当になる神の存在を信じていたからである。
そんな頭でよく政治家になれたもんだ。
[3588] 政治と宗教 h19.9.27
宗教とは、超能力者を人の上に置いて超能力者に人を従わせることである。
政治とは、超能力者を含むすべての人間を管理することである。
だから、政教一体の社会では、超能力者を頂点とする社会体制になる。
反対に、政教分離の社会では、超能力者を人と対等とし、超能力者も人間もみんな平等な社会体制になる。
社会を統[す]べる者は社会をよく知っている者であるべきであって、
超常現象を現したことがあるだけの超能力者に社会を統治させるのは妥当でないし、それを願う者もいない。[超能力者には、超能力を研究させるのが妥当である。]
したがって、宗教は政治と分離させるべきであり、宗教は時代遅れの古臭いまちがった制度だから廃止すべきである。
[3589] 宗教は社会の敵 h19.9.29
1)キリスト教の場合
キリスト教では愛情を第一に説く。ところが、欲求充足の原理より、人間は愛情が満足されると、そのぶん他の感情例えば知覚欲を満足しようとしなくなる。知覚欲が減ると、知覚が弱い知覚が麻痺して五感しか働かない他人の言いなりになるバカが増える。[人間にとって愛情がまったく要らないとは言わないが、やはり人間は知覚欲を第一にすべきである。正しいかまちがいかの区別が付くことが認識の基本だから、知覚を抜きにしては考えが始まらない。]
2)仏教の場合
人間は知覚で実在を見る。ところが、知覚における概念は五感の経験から作り出される。しかし、仏教では五感を否定するから知覚の概念も得られず、キリスト教と同様に、知覚の働かないコペルニクス的転回のできないバカな人間ができる。
3)日本神道の場合
天皇家はバカが多いから、天皇家を真似るとバカがうつる。
一方、現代社会は知覚による実在認識で成り立っている。[だから、ウソやペテンは通用しない。]知覚の働かないバカでは、現代社会を生きて行けない。
したがって、キリスト教や仏教などの宗教は知覚の働かないバカを作り出す方法であって、現代社会の発展を妨げる敵である。
[3590] どうして女は男が好きなのか? h19.9.29
男は知覚で実在を見れるのに、
女は知覚が麻痺して五感でしか実在が見えない。[ここでは話をわかりやすくするために単純化しているのであって、実際には女も多かれ少なかれ知覚的である。]
男はリコウだから自分で考えて実在がわかるのに、
女はバカだから他人に頼って他人の言いなりになるしかない。[男が孤独で、女が群れなのは、そのためである。]
だから、バカな女にとってはリコウな男が憧れであり、女は男が好きなのだ。[女の従属欲が満足される。]
逆に、女は他人の言いなりだから、男はバカな女が好きなのである。[男の支配欲が満足される。]
男がリコウで女がバカだから、夫婦がうまく行くのだ。[でも、そのために、わざわざ女がバカになる必要はない。]
[3591] ローマ法王について h19.9.30
キリスト教におけるローマ法王は、日本神道における天皇と同じようなものである。
日本神道において天皇とは別に宗教家がいるように、キリスト教においてもローマ法王とは別に宗教家がいる。
日本神道における宗教家とは宮内庁であり、宮内庁が日本の超能力者(およびその子孫である天皇家)を管理している。しかしながら、超能力者は人間よりも上の神ではなく、超能力者は人類の中の超能力が使える特別な人間であって超能力者を人間と特に区別する必要はないから、今後は宮内庁を置かなくてよい。[超能力は本能的に出るものであり、人間が生身[なまみ]で使える超能力は、光の玉を出すか軽い物体を自転させる念動力が使えるかぐらいで行き止まりでその先の発展は多分ないから、あまり超能力について心配しなくてもよい。]
[3592] 超能力者の権威 h19.10.2
超能力者が人間よりも上であるかないかはともかく、
超能力者には超能力を使える(または使えた)者としての権威がある。
どんな超能力を使えたかを具体的に明確にして、嘘偽りを言わなければ、科学的にも認められる。
超能力者を人間よりも上であるかないか、あるいは人間の中で偉いか偉くないかは、各人の考えに任せる。私に言わせれば、天才的な科学者や数学者も人間よりも上の存在であるように思われる。人間業と思えない人は、文学や芸術やスポーツなど他の分野にも大勢いる。超能力者が人間よりも上であるという明確な証明が存在しないので、超能力者が人間よりも上かどうかは現在のところ不明である。不明であるから、超能力者の権威の強さは、個人が自由に決めてよい。[誰でも気配を感じることがあるように、感覚波は誰でも多かれ少なかれ使っている。だから、超能力者以外の人間も感覚波を使える点では超能力者と同じであり、ただ超能力者はいわば天才的な感覚波使いであって、普通の人よりも変わった感覚波を出すことができるのだ。こうして見ると、超能力もスポーツと同じであり、超能力者の常人離れした超能力はいわばスポーツで言うところの神業なのだ。]
ただ、超能力者に権威があるとしても、超能力者の権威を他人が勝手に利用するのは許されない。それは、人間の権威者の場合と同様である。超能力者の権威は超能力者自身のものであって、超能力者の許しを得ないかぎり他人が超能力者の権威を借りたり奪ったりすることはできない。してみると、現在の宗教家は、キリストや初代天皇などの超能力者の許しを得て超能力者の権威を借りて使っているのだろう(そうでない場合は許されない)。[すると、現在の天皇は初代天皇の権威を借りて使っているのであって、宮内庁の権威は初代天皇の権威の又貸しだ。]
また、超能力を使える(または使えた)者としての権威は主に超能力界において幅を利かすのであって、他の世界においては、超能力者はシロウトだから、超能力者をなんとなく偉いと思うだけで、正しい考えでないかぎり超能力者の考えに従う必要はないだろう。それは、人間の権威者の場合と同様である。
[3593] キャラクターグッズ h19.10.3
いくら首相が偉いからといって、首相のキャラクターグッズを勝手に作って売るのはいけない。
いわゆる、肖像権の問題だ。[誰か(本人自身も含む)一人でもキャラクターが誰だか同定できれば、それは肖像権に触れることになる。]
この場合には、本人の許可が必要なはずだ。
一般的に、権威者の権威を本人の許可を得ずに他人が利用して儲けることは禁止されているはずだ。
超能力者も一種の権威者だから、他の人間の権威者の場合と同様である。
[3594] 失業率0%の国 h19.10.3
失業率0%の国は、社会主義の国であって、
いわば国民全体が公務員の国である。
怠慢か熱心かは、その人の性格で決まるのであって、
公務員になったからといって、突然怠慢になる者はいない。
全国民が平等だとは言わないが、つまりヒラと出世の違いはあるとしても、国民全員が就業できることが国家としての第一条件である。
いくら資本主義とは言っても、失業者を出してはいけない。[仕事の椅子の数は決まっているから、あまり国民の数を増やすな。]
[3595] 超能力オリンピック h19.10.4
誰でも気配を感じるように、感覚波は誰でも多かれ少なかれ使っている。
だから、誰でも多かれ少なかれ超能力者だといえる。
ただ、これまでに神と呼ばれたほどの者はいわば天才的な超能力者であって、普通の人よりも優れた超能力の技を使うことができるのだ。
こうして見ると、超能力もスポーツと同じであり、これまでに神と呼ばれた者は天才的な超能力選手だといえる。
[3596] 超能力者の超能力を消してはいけない理由 h19.10.4
超能力者は、超能力のある人間である。[ただし、ここでの超能力者とは、神と呼ばれるほどの超常現象を起こした者のことを指す。超能力は多かれ少なかれ誰にでもあるから、超能力者の超能力もまず安全だと考えてよい。]
人間の身体は、その人間のものであって、他人のものではない。
だから、他人が本人の許可なく勝手に本人の身体に物理的または心理的操作を加えてはならない。
超能力の発生源である感覚波器官は、その人間の身体の中の脳の中にあるから、その者のものである。
だから、他人が超能力者の身体に勝手に物理的または心理的操作を加えて、超能力を強めたり弱めたりしてはならない。
[逆に、超能力者がその超能力を使って他人に暴行を加えることは、まずできないはずだ。実際、今までにやった者はいない。]
[3597] 替玉[かえだま] h19.10.5
私がまだ九州大学教養学部の学生だった頃(20〜22歳頃)、1階に寿屋スーパーが入っている福岡市城南区長尾1丁目の富永ビルの4階の409号室に和田君といっしょに住んでいたが[築20年3DKで月37500円の部屋。私と和田君が6畳の1部屋ずつ占拠して、残った4畳半の部屋はみんなの(和田君が人付き合いが多かったのでお客が多い)交流ルームだった。台所は3畳くらいの広さがあった。風呂場はシャワーこそ付いていなかったが、トイレとは別で快適だった。しかも、隣の部屋とは隙間で隔てられていて、隣の部屋の音がほとんど聞こえなかった。飛行場からも遠いので、飛行機の騒音が気にならない。部屋が南向きでベランダで布団も楽々干せる。下には駐車場もある(私は利用しなかったが)。]、ある晩近所(歩いて1〜2分)の焼き鳥屋に私と和田君と吉村君の3人で行ったことがある。
そのとき、焼き鳥とラーメンを頼んだが、ラーメンを食べ足りなかったので替玉を頼んだ。
替玉とは、50円くらいの料金でラーメンの麺だけ追加してくれるサービスである。
そういう訳で、和田君や吉村君や私と面識のあるその他の人が、ときどき私の替玉になって私の代わりにアニメに登場するのである。[当然ながら、替玉は真実に反するので、替玉は認められない。]
[3598] 生存率100%の国 h19.10.5
労働欲がすべての人間にあるわけではない。
仕事をする人が仕事をしない人よりも贅沢な暮らしができるのは当然としても、
仕事をしなくてもそこそこ満足に生きて行ける国がいい。
将来、仕事が自動化されたら働きたい人だけ働けばいい。
[3599] 安楽自殺法 h19.10.5
年を取って、生きたくない人まで無理やり生かしておくのは変だ。
人間が自分の身体に対する自由を持つのなら、自分が生きるか死ぬかも自分で決めてよいはずだ。
どうしても死にたい人までわざわざ生かしておく必要はない。
そもそも自殺したい人は不幸な人だから、そんな人がいなくなったほうが社会全体が幸福になって社会が活性化するからいい。
子供のときの判断は不確かで自分の生死を決められるほどではないとしても、成人になったら自分の生死を自分で決めてよいはずだ。
また、現在の医療水準において安楽死は十分可能である。
したがって、成人に対する安楽自殺法の適用は妥当であると考えられる。
[3600] 戦争について h19.10.5
政治家や軍事家や神(超能力者)や天皇(超能力者の子孫)は人間だから、同じ人間である他人に戦争させることは他人を殺傷することと同じだから法律的(または人道的)に許されないはずである。
したがって、誰の命令でも戦争することはできない。