[3101] 宗教家から超能力者への作用について h19.3.28
宗教家は「超能力者に人類が従わねばならない」というまちがった原理を立てて、それに社会を従わせようとする。
しかも、超能力者が善人ならば、超能力者の身近にいる者を使って超能力者に余計な手出しをさせ(例えば、万引きに誘ったり、エロ本を見せたり、オナニーの真似をして見せたり、教室の隣の席に気に入らない者を置いて分裂病にかからせたり、幻聴で毎日勉強の邪魔をしたり、友人を使って苦手な分野へ進学させたり、就職活動の妨害をしたり、隣室の者に大きな音を立てさせて睡眠の妨害をしたりして)超能力者の人生をわざとにうまく行かないようにして超能力者を悪人にしようとする。
そうやって不幸になった超能力者に人類を従わせて、人類を不幸にして喜んでいる。
とことん意地糞悪い連中だ。

[3102] 天皇について h19.3.28
宗教家とは宗教を司[つかさど]る者である。
つまり、宗教家とは、「人類は超能力者に従わねばならない」という原理を立てて、超能力者や人類をその原理に従わせることを管理している者である。
天皇は、宗教家の立てた原理によって作り出された特別の地位に就いた者のことだから、天皇自身は宗教家ではない。
天皇は宗教によって生み出された者であって、天皇自身は宗教を司る者ではない。

[3103] 私の母親 h19.3.28
私の母親は、他人からよく思われることを生きがいにしている人ではない。
つまり、2人称視点の人間ではない。
私の母親にとっての愛情とは、他人を思いやる気持ちであって、何の見返りも要求せず、ひたすら他人の世話をする喜びである。

[3104] 親が子供を作るための条件 h19.3.28
子供を作りたければ、その子を一生幸福にしなければならない。
その自信のない者は、子供を作ってはいけない。

[3105] 私の父親 h19.3.28
私の父親は甘えん坊で、毎日母親に背負ってもらって登校していたが、小学1年生から6年生までずっと級長を務めて、クラスで一番後ろの席に座っていた。(ただし、1回だけ級長になれなかったことがある。)
球技が得意で、野球ではいつもピッチャーをやっていた。スキーもできる。
父の父親は「すごく厳しくて怖い人」(父談)だったそうだ。

[3106] 資本論 h19.3.29
昔の資本主義の下[もと]では、社会がお金持ちの幸福な資本家(正)と貧乏で不幸な労働者(反)の二つの層に分かれ、この社会構造が社会の発展を妨げていた。[資本主義における資本家と労働者の対立問題が完全に解消するのは、自営業においてのみである。]
つまり、昔の資本主義は、強い資本家が弱い労働者を不幸にしていじめて喜ぶ社会だったのである。
だから、反対に、社会が発展するためには、労働者の権限を強め、資本家と労働者の平等化(合)をはかればよい。
これが、現代の修正された資本主義である。
同じように、宗教主義の下では、社会が幸福な宗教家と不幸な非宗教家の二つの層に分かれ、この社会構造が社会の発展を妨げている。
つまり、今の宗教のある社会は、強い宗教家が弱い非宗教家をいじめて不幸にして喜んでいる社会である。そして、宗教家が非宗教家をいじめるために利用するのが、天皇と神(つまり超能力者)なのである。[それにしても、資本家が強いのはお金を持っているからである。それでは、宗教家が強いのは一体何を持っているからなのだろう?ただたんに強がっているだけなのではないだろうか。]
ところで、人間が生きていくためには物が要り、物を得るためには金が要り、金を得るためには労働しなければならない。労働するためには労働の場である会社や店などがなければならず、そのためには多かれ少なかれ資本主義を肯定しなければならない。
一方、宗教は人間が生きるためにとくに必要ではない。[現に私は何の宗教にも入っていないが、それで困ったことがない。]
だから、社会が発展するためには宗教をなくせばよい。つまり、宗教活動を荷う宗教家をこの世から葬り去ればよい。
宗教のある社会よりも宗教のない社会のほうが人類全体にとって幸福である。

[3107] 学習院大学 h19.3.29
天皇と日本神道の信者のためにある大学。

[3108] 宗教家は何を持っているか? h19.3.30
資本家はお金を持っている。
宗教家は‘権威’を持っている。
お金は眼で見えるが、権威は眼では見えない。

[3109] 宗教家とは何か? h19.3.30
大昔、超能力者が現れたとき、超能力者を神だと見なし、この者に人類が従うべきだと考えた者が最初の宗教家である。
現在の宗教家は、最初の宗教家が犯した超能力者に対するこの誤解を権威とともに現在にまで引き継いでいる。

[3110] 社会の発展とは何か? h19.3.30
新しい発明品が作られること。
お金は物にあとから付いて来る。
マルクスはお金の操作だけですべての物の管理ができると考えたが、それはまちがっている。

[3111] 権威とは何か?☆☆☆ h19.3.30
権威とは、人間(超能力者も含む)の信頼性である。[つまり、人間(超能力者も含む)は正しい知識のある分野において権威を持つ。だから、例えば、野球選手は野球の分野において権威を持つのであり、超能力者は超能力の分野において権威を持つのであって、すべての分野において権威を持つのではない。数学者のラマヌジャンが証明がわからなくても数式を作れたから数学の権威であるように、たとえ超能力者が超能力の原理が理解できていなくても超能力を使えれば超能力の権威と言える。ラマヌジャンが思春期に数学公式集を読んで感動して自分でも数学の研究を始めて自分だけの数学の公式を作ったように、赤ちゃんの頃の私も母親の出す優しい霊気(身体の周りに放射される感覚波、とくに母親のは濃くてほとんど質量再生型?の感覚波)に触れて感動して自分で霊気の研究を進めた結果念動力が使えるようになったのだろう。濃い霊気を出す女性は母親以外にもこれまでに3人見たことがある。]
正しいことを言えば信頼性が上がり権威が強まるが、
反対に、まちがったことを言えば信頼性が下がり権威が弱まる。[人間の感情に関することでも、「○○は幸福である。」、「××は不幸である。」と言えば、真偽の判定できる命題に変わるから、正しいかまちがっているかを問題にすることができる。]
だから、宗教家のような誤解のある者に権威を持たせてはならない。

[3112] 面白い物とは何か? h19.3.30
人間の大脳前頭葉には面白さの感情を荷う脳細胞(群)があり、その脳細胞(群)を興奮させる物が面白い物なのである。

[3113] 父の言葉 h19.3.30
私が小学高学年の頃、母親と口げんかをしたとき、私が母親の言葉に突っ込みを入れた(論理的矛盾を指摘した)とき、父は怒って私に向かって「他人の言葉尻をとるな!」と言った。
この言葉の言わんとするところは、人間の本質はその人間が活動させている感情にあるのだから、細かい言葉の表面的な論理的正しさなどを問題にせず、もっと言葉の奥にある他人が働かせている感情を見ないといけないと言うことである。

[3114] どうして偉い人は他人を不幸にしたがるのか? h19.3.30
偉い人は、知覚が働かない躁鬱気質の世界の中で努力して成功した人である。
躁鬱気質の世界では他人の目で自分を見るが、他人から自分を見ることは、逆に自分から他人を見ることでもある。
そんな人にとっての幸福とは、自分と他人とを比較した相対的幸福であって、自分自身を幸福にできない場合、他人を不幸にすることによって自分を相対的に幸福にすることができる。
だから、偉い人は自分が幸福になるために他人を不幸にしたがるのである。要するに、偉い人は意地悪なのだ。
[一方、知覚が働く焦燥気質(分裂気質)の人にとっての幸福とは、他人と自分を比較しない絶対的幸福であり、それは自分で自分自身を幸福に導くことである。]

[3115] 一つ目小僧 h19.3.31
昔、一つ目小僧は神だと見なされた。
それは、一つ目小僧が普通の人間に比べて不合理な存在だと考えられたからである。[しかし、現在は発生学によって一つ目小僧の発生原因が解明されてきたので、現在では一つ目小僧は神だと見なされなくなっている。]
超能力も普通の自然現象に比べて不合理な存在だと考えられるので、超能力者は神だと見なされているのである。[現代の科学では、まだ超能力の原理は解明されていないので、超能力は不合理な存在だと見なされているが、自然科学はまだ誕生してから歴史が浅いので、超能力が永久に合理的に解明されない現象であると決め付けることはできない。超能力の原理は現在の人類にとってはまだ未知だが、いずれは解明される日が来るであろう。]
このように、この世にはいくつかの不合理な存在があり、それらの不合理な存在を崇[あが]めるのが宗教である。つまり、宗教とは不合理主義である。不合理主義とは、要するにこの世はわけがわからないものであるということを認めて理解を放棄することである。
しかし、近代になって実在の世界を合理的にとらえる自然科学が発達したので、宗教は下火になった。さらに、科学の成功を背景にして生まれた合理主義哲学が宗教に追い討ちをかけた。
このままでは宗教が滅亡するので、宗教の生き残りをかけて宗教が哲学化されたものが、実存主義哲学である。
19世紀末には光電効果やローレンツ短縮など古典力学では理解できないいくつかの自然現象が発見された。科学で理解できない現象が現れると、宗教の力が強まり科学の力が衰える。この世が再び不合理主義の社会になってしまう。
しかし、ほどなく現れた相対性理論や量子力学が一見矛盾している自然現象を論理的に説明することに成功したように、科学が進歩すれば実在するすべての自然現象を合理的に説明できるはずである。
宗教や実存主義哲学は、もはや科学や合理主義哲学を負かすものではない。
むしろ、例外的な不合理な存在こそが実在への扉を開く鍵なのだ。
人類が自ら考えることを諦めなければ、かならず問題は解決され、その結果人類はより大きな自由と幸福を手に入れることができるであろう。

[3116] 太平洋戦争 h19.4.1
合理的には日本が負けることはわかっていた。
そこで、天皇に総帥権を与え、天皇の不合理な力を借りて戦争に勝とうとしたのだ。
結果は、負けに終わった。
これで、天皇には不合理な力がないことがわかった。
たとえ天皇に不合理な力(現代の科学でわかっていない能力)があったとしても、ガラガラ(天井から吊り下げる円形のモビール)が回る程度のことだろう。それ以外のことでは、普通の人間と変わらないのだ。

[3117] 空飛ぶ円盤 h19.4.1
私が赤ちゃんの頃に超能力で回したガラガラを飛行物体に喩えたのが空飛ぶ円盤である。[だから、ヒモで吊っていて当然。]

これはウンモ星人の円盤と言われるが、円盤のお腹のマークはどうしても“王”の字に見える。これは私の苗字の川の字に一を足したものである。(川+一=王。川野 is No.1の意味か?このNo.の略号も私が幼稚園の頃は、まだNr.と略していた。)
ウンモ星人という名前は、私が小学生ごろにはまだ付いてなかったが、私が小学生のとき毎月学校で学習研究社の『科学』と『学習』を買っていたが、たしか小学5年生の『学習』の付録に雲母の鉱石がついていたことがある。(『学習』の付録で面白かったのは、6年間でこの1回だけ。)

[3118] 未知の知 h19.4.1
実在の世界の中には、超能力のように現代の科学ではまだ理解できないことがある。
それは人類にとって未知の自然現象の存在を認めることである。
未知の現象が存在するからといって、それらの現象が実在の外にあることにはならない。
ただ、現在の人類の実在についての理解が実在の一部分に限られていることがわかるだけである。
ニュートンも力学を作ったすぐあとに「我々の眼の前には未知の大海が広がっている。」と言って、すでに自分の理論には適用限界があることを知っていた。
どんなに適用範囲の広い理論であっても、例外はあるものである。
それは現在の人類の実在についての理解が不完全であることを示している。
だからこそ、人類には永遠に発展の余地が残されているといえるのではないだろうか。
   

[3119] マージャンに強くなる方法 h19.4.2
マージャンの強い人の書いた本をよく読んで、マージャンに対する正しい見方を身に付ければよい。
素人は眼先の牌しか見えていない。
玄人は深く高い所からマージャン全体を見下ろしている。
要するに、マージャンの本を読んで勉強しながらマージャンをすれば強くなるのだ。[ただし、しょせんマージャンはゲームであり、ゲームは実在とは無関係な遊びにすぎないから、マージャンのことを考えて実在のことを考えないのはいけない。]

[3120] 科学と宗教 h19.4.2
科学と宗教では、認識の仕方が違う。
宗教は、直観(直感)と演繹から成るイデア論によって得られた知識(知覚における認識)である。
一方、科学は帰納と演繹から成る科学的認識の方法([3060]参照)によって得られた知識である。
宗教と科学とでは認識の仕方が違うだけだから、科学ではわからないが宗教ではわかるなどということはない(例えば、超能力者について)。同じ対象についてなら、科学のほうが宗教よりも正確にわかる。
宗教は科学以前の古臭い認識の方法であり、正しさにおいては宗教は科学に劣る。[宗教には論理性すらないことがある。]
したがって、宗教家の判断はいいかげんで出鱈目[でたらめ]だから信用できない。

[3121] どうしてこれまで宗教家には権威があったか?☆☆☆ h19.4.2
昔、ある人間が超能力者を見て神だと思った。
その人間は、神は絶対的な権威(ここでの権威は、宗教的な偉さの意味)を持ち、人類は神に従わねばならないとした。
そこで、超能力者は、その者が自分を人間よりも上の神としてくれたお礼に、その者に宗教すなわち神と人との関係を司る司教としての地位と権威を与えた。それで、その者は『自分が神や人間よりも上だ』と思った。それが、初代宗教家である。
現在の宗教家は、初代宗教家が神から与えられた地位と権威を超能力者に対する誤解とともに延々[えんえん]と引き継いできた。
しかし、そもそも現在の宗教家の地位や権威は初代宗教家の誤解が作り出した神が与えた地位や権威にすぎないので、本当は何でもない。
初代宗教家の地位や権威が誤解に基づく虚構にすぎないのだから、いくらそれを引き継いでも現在の宗教家に地位や権威があるわけではない。
だから、宗教家に仕[つか]える信者たちにも地位や権威はない。
そもそも宗教家とは超能力者を神と誤解する者だから、実在すなわち現代の科学的世界観の中では宗教家は成り立たない。
つまり、現在においては、もはや宗教家は存在し得ない。
よって、宗教もまた滅びるしかない。

[3122] 荘子胡蝶になる h19.4.3
荘子は自分が夢で蝶になったのを見て、
自分が本当は人間なのか蝶なのか迷った。
帰納的に考えれば、蝶に考えごとをする能力はないから、
人間であるのは明らかだ。

[3123] ゲームについて h19.4.3
ゲームが強い人は理数系よりも社会科が得意な人に多い。
自分で考えるよりも定石を憶えたほうが有利だからだ。
やはりゲームは言葉の上の作りごとで、実在ではない。
実在を考えるのが理系で、実在以外を考えるのが文系だ。
同じ頭を使うなら実在について考えたほうがいい。

本を読んでまでしてゲームするのは遊びではなく勉強だ。
ゲームはあくまでも遊びであるべきで勉強は行きすぎだ。
ゲームは自分が遊んで楽しければ(気分転換になれば)それでいいのであって、
他人に勝つために強いて強くなる必要はない。

[3124] ラクダは針の穴を通れるか!? h19.4.3
聖書によれば、キリストは『ラクダを針の穴に通せた』と言う。
おそらく、ピンホールカメラの原理で
ラクダの倒立像を暗室のスクリーンに映し出し、
大勢の観客を驚かせたのではないだろうか。

[3125] 宗教家と天皇の関係 h19.4.3
宗教家が天皇を立てる代わりに、天皇も宗教家に宗教的権威(宗教的地位から派生する特権)を認めている。
だから、宗教家がなくなれば、天皇を立てる者がいなくなるから、天皇にも権威がなくなる。
天皇に権威がなくなれば、政治家たちも天皇から権威がもらえなくなる。
だから、政治家は自分自身で自分の権威(つまり、人間としての信頼性)を得なければならない。
政治家が宗教家の代わりに天皇を立てるのは、政治家が不当なやり方で自分の権威を強めることだから許されない。

[3126] 社長 h19.4.4
具体的に会社に貢献した人が社長になるならいいが、人間性がいいとか気品があるとかいった曖昧な理由で社長になるのはよくない。
社長が自分の息子に本当に愛情があるなら、息子を有能な人間に育ててやればいい。そのほうが息子にとっても空威張りで生きて行かなくても済むから幸せだ。

[3127] 社会衛生学 h19.4.4
犯罪が起きてしまったら遅い。
犯罪が起こる前に防がねばならない。
宗教による犯罪は大規模で大勢の人が死ぬ。
だから、宗教による犯罪を防ぐためには宗教をなくさねばならない。

[3128] 職業のランク h19.4.4
理科系は実在主義だから、最高位とする。
文科系は理科系よりも下だが、さらに
アニメ等のクリエーター系は文科系以下だ。
作り事はかったるいからだ。
医学系は、最近は科学性が増しているから理科系と同等とする。
工科系も理科系と同等とする。
数学系は理科系の基礎を成すので理科系と同等とする。

[3129] 一人称視点気質における誇大⇔劣等感について h19.4.6
一人称視点気質(分裂気質、焦燥気質)の人においても、誇大⇔劣等感情は心の底で弱く働いている。
二人称視点気質(躁鬱気質)に人において、安心⇔不安感情が弱く働いているのと同様である。
それは、一般に人間が一人称視点と二人称視点の両方の世界で生きているからである。完全に一人称視点か二人称視点のどちらかに割り切って生きて行けるものではない。つまり、人間は常に個人的存在であると同時に社会的存在でもあるのだ。だから、状況によっては一人称視点気質の者でも誇大⇔劣等感が強くなったりすることがある。

[3130] ラマヌジャンの数学の方法 h19.4.6
ラマヌジャンが数学のことを考えているうちに、いつしかラマヌジャンの頭の中に“ラマヌジャン関数”が作られた。
そのラマヌジャン関数の性質を使って、いくつかの数学の公式が生まれたのである。
ちょうど、三角関数の性質から数学の公式が生まれるのと同じことだ。
例、π=4tan-1(1)=マクローリン展開の式。

[3131] 理系の人にとって天皇とは h19.4.6
理系の人にとって、天皇とはわからないものだ。
理系の人は、自分がわからないものをわからないままにしておくものだ。
どうしても自分の生活にとって必要になれば考えるが。
文系の人にとっては“偉い人”で通ったかもしれないけど。

[3132] 王冠 h19.4.7
王冠のトゲトゲの形状は、超能力者から出る感覚波を真似たものだろう。
しかし、私が小学4〜5年ごろ母親が夕飯の支度をしている時に見た母親のオーラ(身体から出る白い輝き)は、
母親の胴体から紡錘状に放射状に光っていて(ちょうど、StarTrek NextGenerationのOPの最後のエンタープライズがワープする時の空間の亀裂の光と同じ形)、頭中心に光ってはいなかった。

[3133] 超能力者は他の人間よりも上か? h19.4.8
人間は他の動物に比べて劣る点はたくさんあるが、
人間は知覚が他の動物よりも優れていた。
その結果、人間は他の動物を支配することができた。
それは、人間が知覚によって他の動物ができることわかることはたいていできるしわかるし、さらに他の動物にはできないわからない多くのことが人間だけにできたりわかったりするからである。[ヨーロッパ人の生活が豊かなのは、実質的にヨーロッパ人が他の人類を支配しているからである。でも、それはヨーロッパ人の知覚が優れていることによる必然的な帰結なのだ。]
超能力者には普通の人間にはない超能力がある。
超能力には、超能力でしかできないことや超能力でしかわからないことがあるだろう。
しかし、超能力は万能ではない。
超能力でできることは極限られている。
だから、超能力者はとうてい全知全能の神ではない。
つまり、超能力者にはできないことやわからないことでも他の人間ができることわかることはたくさんある。
超能力者は超能力に関しては他の人間よりも上だが、
人間が超能力者よりも上な点(つまり、できることわかること)は数多く存在するから、
超能力者に超能力の才能があるからといって、超能力者が人類を完全に支配することはできないだろう。[とくに、強力な武器がある現代では、超能力者と人間はほぼ互角だろう。]
そういう意味では、超能力者と人間は平等なのだ。
したがって、超能力者は超能力の才能がある特殊な人間であって、人間よりも上の神ではないことになる。
だから、初代宗教家が超能力者を単純に人間よりも上の神だと考えたことは間違いなのだ。
したがって、たとえ宗教家が神と人間の関係を司る者であっても、宗教家は人間よりも上だとはいえない。
超能力者にとっては、宗教家が自分を勝手に管理されては迷惑である。
管理の才能のない宗教家であれば、なおさらだ。
超能力者と人間は平等だから、超能力者にも人間と同じ人権が保障されるべきであり、超能力者の同意なく宗教家が勝手に超能力者を管理することは許されないはずだ。

[3134] 宗教家の勝手な取り決め(その1) h19.4.8
今から約2年前、私が自分が神だとされていることに気付いた最初の頃、幻聴で「あなたがこんど超能力の才能を取り戻したら、それはあなたの才能として認めましょう。」と女の声が聞こえてきた。
この言葉は、かつて宗教家が私の超能力をなんらかの方法で取り除いたことを意味していると考えられる。
宗教家が自分勝手に超能力者に対する処置を決めてそれを実行したと考えられる。
超能力者が人間であるとすれば、明らかに法律違反である。

[3135] 宗教家の勝手な取り決め(その2) h19.4.8
私が幼稚園の頃、薫的のおじいさん(母の父親)から『なぞなぞの本のセット』(でたらめとか、てんで話にならないとか、電信柱を立てて運ぶとかいったなぞなぞが載っている5冊セットの箱入りの本)を買ってもらって読んだことがある。
そのため、宗教家が私の身近にいる者を使って私に自分が神であることを気付かせるために、いろんななぞなぞを出していた。
・私が朝倉小学校2年生のとき、放課後に友達が「頭で考えたことが何でも本当になったらどうする?」と訊いてきた。私は「わからん。」と答えた。
・私が10歳頃の先祖祭りのとき、母が私を横目で見ながら「あのこと教えてもええやろか」と言ったが、その後何も教えてくれなかった。
・私が高知学芸中学校のとき、級友2人(西川君と浦山君)が授業中に「ちょうじゃ」「はすいけ」としょっちゅう言い合っていた。[「ちょうじゃ」はおそらく超者で超能力者の意味。たぶん「はすいけ」=斜めに行け=悪くなればいいの意味。]
・私が高知学芸高校のとき、級友2人(倉田君と小原君)が、これまた授業中に「じゃっけん」「ごりら」(または、「さる」)としょっちゅう言い合っていた。[「じゃっけん」は弱肩の意味。当初は小原君が弱肩だと思っていたが、本当は私の肩が弱くて外野から投げたボールがホームベースまで届かないの意味。「ごりら」は、私の顔の雰囲気。あるいは、「じゃっけん」「さる」だから、邪見去るで、精神分裂病で悪化した私の斜視が治ればいいの意味。]
・私が大学に上がってからは、NHK教育の『ピコピコポン(第2部)』とか『やっぱりヤンチャー』とかに私事のネタを入れて流していた。[『ピコピコポン』は、タイトルが私が小学生の頃に好きだったNHK教育ラジオの『ピッポピッポボンボン』に似ているし、『ピコピコポン』第2部最終回の最後のオチ?が、私が小学校5〜6年生のときに描いたマンガと同じだった。『やっぱりヤンチャー』では、ヤンチャーの汚い時計とかヘナヘナウイルスとかに明らかに私事のネタが入っていた。]
・福岡にTvQが開局してからは、テレ東系のアニメに私の母に似たキャラクターがたびたび登場していた。[例えば、『天地無用!』の美星とか、『花の魔法使いマリーベル』のユーリとか。]

・最近のアニメのヒロインはほとんど全部私か私の知人のデフォルメだ。ほぼ毎回私事ネタが入っている。
…私に自分が神であることを気付かせるのに、どうしてわざわざなぞなぞにしなければならないのか?私の身近にいる者を使ってなぞなぞを出すのはともかく、公共の電波や出版物などを使ってなぞなぞを出すのはやりすぎだ。個人情報を本人の同意なく公衆の眼前にさらけ出すのは、法律違反になるはずだ。
私が超能力者であったかなかったかは、人の力で変わらない客観的事実なのだから、本人が物心ついた時分に(つまり、実在と空想の区別がついた頃に)、手っ取り早く本人に教えてやればいい。宗教家のまわりくどいやり方では余計な手間や時間や費用がかかるだけだ。それに、大しておもしろいなぞなぞじゃない。
肝心のなぞなぞの答えがわかってしまった以上、もはやこれ以上なぞなぞを出し続ける意義はない。
最近は、なぞなぞを通り越して私に対する批難になっている。[例えば、『はじうお』=恥じな延夫、『のだめ』=延夫はだめ、『バッカーノ』=ばかな川野、など。]

[3136] 天皇について h19.4.8
昔、宗教家が天皇を全知全能の神だと考えた。
だから、天皇には人間よりも上の地位が与えられたのである。
今の天皇は全知全能ではないが、人間よりも上の地位が与えられている。
いったい、宗教家の誤解にいつまで付き合わなければならないのだろうか?

[3137] 宗教家の勝手な取り決め(その3) h19.4.10
私の赤ちゃんの頃の超能力を取り除いたことや、私に自分が神であることを気付かせるためになぞなぞを出したこと以外にも、
・私が小学生の頃、私の友人を使って万引きに誘ったり、事故で田んぼに横転した自動車の初心者マークを盗んだり、エロ本やシンナー袋を見せたりした。
・私が中学生の頃、同級生を使ってオナニーの仕草を見せたり、学校で禁じられていたインベーダーゲームに誘ったりした。
・私が高校生の頃、同級生を使って私を憤慨させ精神分裂病にかからせたり、その後も幻聴やガン飛ばしで私の勉強を邪魔し続けた。
・私が高知大学を中退し浪人していた頃、私の友人の和田君を使ってわざわざ私が苦手とする医学部に進学させたり、福岡で和田君と同居していたときには、冬に和田君に毎日大声で咳払いさせて私を不快にし続けた。教養部の2年間は私の成績は良かったが、医学部に進学してからは、私の成績は見る間に悪化し抑うつ神経症で不愉快な日々を送らなければならなかった。医師国家試験には合格し医学部を卒業したものの、1年間研修医をしただけで医者を辞めてしまった。
・私が九州大学医学部付属病院精神科の研修医を辞めて下宿浪人しているときにも、受験勉強の邪魔はしなかったが、九大理学部物理学科2次試験の1週間前から私の下宿の隣室に落ち込む気分を出す者を置いて私の気分を落ち込ませて勉強を妨害した。それでもなんとか2次試験には合格した。
・私が九大理学部物理学科を卒業して就職活動をしたが、1社も私を採用してはくれなかった。
・そこで私は人材派遣会社へ就職することになったが、寮の私の部屋の隣や上の部屋にステレオや電気ドリルで大音を立てる者を住ませて私の睡眠妨害をすることがたびたびあった。但馬松下では睡眠不足で休んだために解雇になった。
…など、いろんなことがあった。
これらは法律違反ではないが、私を不快・不幸にすることばかりである。[こうして見ると、宗教は超能力者の人生をうまく行かないようにして超能力者を不快・不幸にして喜ぶ会(人間の集まり)なのかもしれない。]
超能力者が人間よりも上の神ではなく超能力のある特殊な人間であるなら、人間である超能力者とその他の人間の関係を司る宗教家もただの人間にすぎないので、宗教家が勝手に取り決めを作って超能力者と人間を管理する特権はない。

[3138] 抗不安薬と抗精神薬 h19.4.11
抗不安薬は大脳皮質の具体覚(知覚)の興奮を抑制する。
これに対し、抗精神薬はイライラ感情(焦燥病)やオチコミ感情(躁鬱病)などの感情中枢の興奮を抑制する。
だから、神経症には具体覚の興奮のほかにイライラ感情やオチコミ感情が伴うので、抗不安薬と抗精神薬の併用が有効である。
精神病は具体覚の興奮はあまり関係なく、主に一般覚である感情中枢の問題なので、専ら抗精神薬だけを用いる。
焦燥病の幻聴に対しては、幻聴覚の興奮を抑える薬があればいいが、今のところはまだそんな薬はない。[大脳における幻聴中枢の部位を特定し、幻聴波と相互作用する(反応する)分子(網膜の視細胞におけるロドプシンのようなもの)が判明すれば、その反応をブロックすることで抗幻聴薬が作れるだろう。]




[3139] 日本の政治家はなぜ悪いか? h19.4.11
日本の政治家が悪い原因は、天皇に頼っているからである。
日本神道がなくなれば、政治家の体質は改善されるだろう。

[3140] 神道の信者の気質について h19.4.12
神道の信者は、要するにキチガイのヤクザだ。
宗教家の命令なら言いなりになって何でも実行するし(精神分裂病)、
他人の命をなんとも思わない(誇大妄想狂)。

[3141] 宗教家による神の取り込みについて h19.4.13
宗教家は、神と呼ばれている者(じつは超能力者)の悪い所ばかり…“アニメやマンガが好き”“ゲームが好き”など…を国民(一般には、世界中の人間)に取り込ませて(つまり、真似をさせて)、
反対に、神の良い所…“自分が考えたことを日記に書く”“論理的に考える”“他人に悪気をかけない”など…をまったく国民に取り込ませようとしない。
これは、やはり宗教家が国民の足を引っ張ること、つまり国民を不幸にすることしか考えていないことを示している。
かつての戦争もその一例とするなら、これはもはや許されることではない。

[3142] 超能力者の超能力を取り除くべきか? h19.4.14
昔は超能力がまさに神業だと考えられたから、昔の宗教家は宣伝のために積極的に超能力者の超能力を残すことを考えただろう。そのほうが宗教団体の勢力が強まるからである。
しかし、今は科学が発達したので、科学に比べると超能力が見劣るから、宗教団体の勢力を維持するためには、超能力者を神と見なすだけで、神が人から甘く見られないためにむしろ超能力を取り除くことを考えるだろう。
つまり、超能力者の超能力は最初から人類にとって無害なのである。超能力者の超能力は、超能力者の身近にある軽い物体を動かすぐらいの力しかないので、超能力が人類にとって危機となることはありえない。[賭博場へ立ち入り禁止にはなるかもしれないが。]
超能力で生活できる道があれば、わざわざ他人の物を盗ったり他人を殺したりして犯罪者になる危険を冒すことはないはずだ。超能力者にとっては、超能力でまじめに生活できるほうが犯罪者になるよりも幸福だからである。超能力を科学的に研究するなら、多少の予算は付くはずだ。
それに、超能力の発現は乳幼児期だけとは限らないから、大人になって発現した超能力は黙っていれば他人にわからない。だから、超能力者の取り締まりは完全にはできない。教団も「2度目に取り戻した超能力は認める(許可する)」と(幻聴で)言っていた。子供に比べて大人が道徳的とは限らない。子供の超能力がいけなくて大人の超能力がいいというのは屁理屈だ。
したがって、超能力者の超能力を取り除くのは不当であると考えられる。超能力を取り除くときに脳が脆弱になる危険性が高いので、本人にとっては不利益だから、やってはいけない。

[3143] 東京人[私のような田舎者の目で見た東京人の感想] h19.4.14
仕事や勉強は熱心だが、
気構えが奴隷だ。
これが“群生相の心理”というものであろう。[反対に、東京人から見れば私のような田舎者は“孤独相の心理”なのだろう。福岡のような地方都市の人間は、群生相と孤独相の心理がうまく中和しているから、広く多くの人に受けるのではないだろうか。]

[3144] 超能力者の所持品について h19.4.14
中世のヨーロッパでは、宗教家が神すなわち超能力者であるキリストの所持品(一般には、キリストにちなんだあらゆる物品)を集めることが流行していた。
それは、宗教家がキリストの所持品を多く持っていればいるほど、それだけ宗教家の権威が強くなるからである。
しかし、これも宗教家たちが自分たちで勝手に決めた取り決めにすぎない。
宗教家に超能力者や他の人間を管理する特権はないから、宗教家が勝手に超能力者である私の持ち物…私の哲学日記のノートやおじいさんに中学祝いに買ってもらった3万円のSEIKOの腕時計など…を持ち出してはいけない。
したがって、宗教家は私の所持品を私の元へ返さねばならない。

[3145] 妄想 h19.4.15
人間は五感に対して知覚で意味付けしながら五感を見ている。
正常では、人間は五感に対して知覚において実在性概念によって意味付けをして五感を実在的に解釈しながら見ているので、人間は実在にうまく適応しながら生きて行けるのである。
一方、精神病では持続性の感情興奮がある。そのために、精神病では知覚が感情に支配されている。
持続性感情興奮による五感に対する知覚認識の歪み[ゆがみ]が妄想である。
焦燥病ではイライラ感情による五感に対する知覚認識の歪み(被害関連妄想・注察妄想)が、
躁病・鬱病では誇大感情・劣等感情による五感に対する知覚認識の歪み(誇大妄想・卑小妄想)が生じる。


[3146] 超能力が超能力でなくなる日 h19.4.15
実在の世界には、現在のわれわれ人類がまだ知らない『場』があって、その『場』の中で超能力者の脳のどこかにある超能力器官と他の物質とが相互作用することによって超能力が発現される。
科学によって、馬の走る性能が自動車に置き換えられたように、いずれは超能力者の脳のどこかにある超能力器官が何かの有機チップを内蔵したテレビのリモコンのような道具に代わる日が来るだろう。
そうなれば、そのリモコンのボタンを押せば誰でも超能力(念動力)が使えるから、もはや超能力は超能力でなくなるだろう。

[3147] 幻聴から空耳へ[精神病について語れることが、大人の条件である。] h19.4.15
赤ん坊は、まだ知覚が未熟なので実聴覚(いわゆる、普通の聴覚)を直接に心で感じている。
赤ん坊にとってはまだ言葉を意味ではなくたんなる音として聞いている。
赤ん坊が大きくなって、知覚が発達し知覚に実在性五感(視覚や聴覚など)から作られた実在性概念が溜[た]まってくると、実聴覚を知覚の実在性概念で意味付けながら聞くようになる。つまり、言葉を音ではなく意味で聞くようになる。そして、その意味をさらに心で感じるわけである。



焦燥病の場合には、病気にかかり始めの頃は、イライラ感情の興奮が激しく、知覚がイライラ感情に支配されており、幻聴覚に対してイライラ感情で歪[ゆが]んだ知覚で意味付けし(被害関係妄想)、さらにその歪んだ知覚認識を逆にイライラ感情が不快に感じて暴れたりする。[妄想とは、女・子供の“おやけ”が激しくなったものである。つまり、自分の不快・不幸な感情に流されて知覚を歪め、その歪んだ知覚を逆に心で感じてますます自分自身を不快・不幸にすることが、妄想による心理的悪循環のメカニズムである。]

十分時間が経って、知覚の活動が回復して、知覚が心や五感を支配できるようになると、知覚が自分の大脳におけるイライラ感情中枢(脳細胞群)の位置を掴[つか]みイライラ感情中枢を抑制することによってイライラ感情が鎮[しず]まり、幻聴覚に対して知覚において実在性概念で意味付けながら聞くことができるようになる。すると、幻聴覚にはもともと実在的な意味がほとんどないので、幻聴覚に対する知覚認識を逆に心でたわいないと感じて不快に思わなくなる。


[3148] 破瓜[はか]型分裂病 h19.4.15
人間の記憶には短期記憶と長期記憶の2種類がある。
破瓜型分裂病は、短期記憶のようにインパルスがイライラ感情をグルグル回っている状態であって、まだ長期記憶のようにイライラ感情が易興奮性を獲得していない状態である。
だから、そのインパルスが発熱中枢へ逃れてアースされると、一過性に発熱して治る。

[3149] Hの世界 h19.4.15
Hな人は、性欲の興奮が激しく、性欲が知覚を支配している。
性欲によって歪められた知覚で五感を意味づけることによって、知覚に妄想が生じる。その妄想を逆に性欲で感じて興奮したり嫌悪したりする。


[3150] 精神医学から見た国会 h19.4.16
国会、一般に日本政府は躁鬱病患者の溜まり場である。
そこには、躁鬱病患者に見られる妄想のあらゆるパターンが観察される。[とくに誇大妄想が強い。]
みんな躁鬱病の妄想に取り付かれて実在を見失っている。
今や国会は精神病院と化している。
そんなキチガイ連中に、どうして健全な精神の日本国民が従わねばならないのか!?
国会が躁鬱病患者の巣窟と化さないためには、国会議員は地位の高さよりも議論の正しさを尊[たっと]ばねばならない。[そのためには、物だけでなく人の心をも視野に入れた広い考え方のできる人間が議員にならねばならない。/国会や日本政府をおかしくしている原因は天皇だ。地位の高さだけで持っている天皇制は要らない。地位の高さだけで持っている天皇は国民の敵だ。]

[3151] ゲーム h19.4.17
ゲームは勝つことが喜びではない。
ゲーム自体の持ち味を味わうことが、ゲームの喜びである。
[だから、例えば、麻雀なんかよりもBattleFieldのほうが面白い。コンピューターを修理に出してから2ヶ月になる。はやくコンピューターが治らないかなあ。]

[3152] イデア論 h19.4.17
昔の学者は、人間の知覚に一種の超能力性を仮定して、人間の知覚には五感によらず直接に事物の真相を見抜く力があると考えた。
これがイデア論である。

しかし、実際には、人間の知覚にはこんな都合のいい超能力はなく、人間は五感の経験(つまり、眼で見たこと)を知覚で考え深めることによってはじめて事物の真相を見ることができるのである。

[3153] 男とは何か? h19.4.17
男の本質は知覚にある。
つまり、知覚が働く者が男であり、知覚の働かない者が女である。
身体の違いよりも、知覚が働くか働かないかで、人間の生き方が決まるのだ。
ところが、人間の本質は知覚にあるから、人間は男だけであり、知覚の働かない女は人間ではないことになる。
人間であるかないかの分類はともかく、各人がそこそこ幸福に生きて行ければそれでよいのである。[家庭が成立するための条件は、収入と家事である。男が収入を支え、女が家事を支えればそれでよいではないか。家事をやるには眼と手が動けば足りるから、余計な勉強は無駄である。(無駄のないのが日本人好みである。)それ以上の幸福がどこにあるというのか!?]


[3154] 焦燥病の被視感について h19.4.17
焦燥病では、自分で自分のイライラ感情を過度に興奮させた結果、イライラ感情の興奮が激しくなっていて、知覚がイライラ感情の興奮を止められなくなり、知覚がイライラ感情に支配されて、知覚の活動が鈍[にぶ]っている。
そのために、知覚に比べて五感の活動が強くなっている。
ところで、五感界においては“自分が他人に見られている”。五感界とは“自分が他人に見られる”世界である。
したがって、焦燥病では“自分が他人に見られる”感じ≡被視感が強い。[鬱状態で、オチコミ感情の興奮が強まり、知覚がオチコミ感情に支配されて、知覚の活動が鈍ったときにも、被視感が高まる。]

反対に、焦燥病が治って知覚の活動が強まり、知覚が心や五感を支配すると、イライラ感情が鎮まり、被視感もなくなる。


[3155] オナニーと焦燥病の関係について h19.4.21
オナニーは、自分の性器を手で刺激することによって、自分の性欲を過度に興奮させることである。
オナニーが日課になると、一般に自分の心の中にあるすべての感情を過度に興奮させるようになる。[いわゆる感情的になる。]
そこで、運悪く、自分のイライラ感情を刺激する出来事に出くわすと、自分のイライラ感情を過度に興奮させて焦燥病にかかってしまう。

[3156] 政治家について h19.4.21
政治家は宗教家と同様、偉さだけで生きて行こうとしている連中である。
政府は、政治家と政治家の[正しさではなく]偉さを競う場にすぎない。
政府は神道と同様に、正当な理由がないのに存在している組織である。
どちらも要らない。
[宗教家は絶対に要らないが、政治家が生き残りたければ、政治家は偉さのためではなく正しさのために生きるべきである。“偉さ”は、人の心の中にある誇大感情が生み出した妄想的概念であり、事実に基づいた実在的概念ではない。つまり、政治家は国民の心を満足する正しい政策を決定できる者でなければならない。少なくとも、天皇や宗教家などにかかる宗教費を節約すれば、国家予算を今よりも有効に国民の幸福の為に活用できるはずである。]

[3157] 坂本竜馬の像 h19.4.22
高知の桂浜には坂本竜馬の像が立っている。
ところが、高知県人は他人を偉いと思わない。[土佐弁で“えらい”とは、つらい・苦しいの意味である。土佐弁には偉いの意味に該当する言葉がない。つまり、土佐には偉さの概念がないのだ。土佐っ子は素朴で実直(つまり、実在主義)なので、作り事の偉さなんか認めないのである。]
だから、坂本竜馬の像は崇めるためではなく、ただ観光目的のために建っているだけなのだ。

[3158] どうして日本人は天皇の待遇をよくしたのか? h19.4.22
天皇は、神(完全者、全知全能の者)ではないが、神と人の中間者だと考える者がいた。

だから、天皇の待遇をよくしておけば、天に居る本当の神様がそれを見て『日本人は神に対する信仰心の厚い民族だから、何か日本人によいことをしてやろう。』と思うと考えて、それを目当てに天皇にいい思いをさせ続けて来たのである。
しかし、実際には天に神様は居ないし、したがって天皇が神と人の中間者であることもないから、いくら天皇にいい思いをさせたところで、返ってくるものは何もないのである。

[3159] 心の運動方程式 h19.4.22
アニメは、たんなる娯楽ではない。
アニメには、人生のさまざまな場面において人がとるべき『心の運動方程式』が記されている。

[3160] 偉さについて h19.4.23
偉いとは、優れていることである。
ただ、人間を計る物差しはいっぱいあるので、
ひとつの物差しで計っていくら偉くても(優れていても)、
別の物差しで計ったら偉くないことがある。
つまり、人が偉いか偉くないかは計る物差しによる。
例えば、政治家が偉いのは政界においてであって他の世界においてではないように、
超能力者が偉いのは超能力界においてであって他の世界においてではない。
その上、物差しを計る物差しはない、つまり人間を計る絶対的な物差しはない。
だから、例えば、政治家は超能力者よりも偉くはないし、
逆に超能力者が政治家よりも偉いわけではない。


[3161] どうして超能力者は偉いのか? h19.4.23
ズバリ、レアだからである。
ダイヤモンドが普通の石に比べて希少であるために価値が高いのと同じ理屈だ。

[3162] 神道皆殺し法 h19.4.23
人類にとって、神道の連中は百害あって一利なし。[神道とは、キリスト教や仏教や天皇教などの超能力者に関る宗教である。]
したがって、全世界の宗教家ならびに宗教家に従う者は存在してはならない。
つまり、宗教的原理(一般には、真実でないこと。とくに、超能力者に関する嘘・偽り)に従う者は世界に一人たりとも生きていてはならない。
例えば、私以外の日本人がみな神道の者であれば、私以外の日本人は全員死なねばならない。
神道の者は全員他殺されるか自殺するかして死ななければならない。

[3163] 薫的和尚 h19.4.24
私のおじいさんの住んでいた高知市西新屋敷の近所に、薫的和尚[くんてきおしょう]を祭った小さな神社がある。
私が小学低学年の頃、おじいさんが飼っていた鳥が死んだので、薫的神社の裏山にいっしょに埋めに行ったことがある。
薫的和尚は、殿様の漢字の書き間違いを注意して牢屋に入れられ自分の舌を噛み切って死んだ。
人間にとって偉さと正しさとどっちが大事であるか?
薫的和尚はそれを命がけで殿様に教えようとしたのだ。

[3164] 天皇は日本の恥だ。 h19.4.26
天皇が日本人として恥だというのではない。
我々の遠い先祖が犯した[超能力者を人間よりも上の神だと見なした]誤解が、人類として恥だというのだ。
我々の先祖が過去に犯した過[あやま]ちを正すのが、現代の我々の使命ではなかろうか。

[3165] 超能力は神武天皇だけにあるのではない。 h19.4.26
超能力の才能のある者は、神武天皇の他にもこの私のように何千年かに一度生まれてくる。
だから、神武天皇を絶対視しなくてもよい。
超能力者が未来永劫現れないわけではないから、わざわざ天皇を血筋でつながなくてもよい。
[超能力の形質は他人種に比べて日本人に濃いのではないだろうか。]

[3166] かわいさとは何か!?(その2) h19.4.26
かわいさとは、フニャフニャして頼りないことであり、要するにバカの言い換えである。
『かわいいと言われるほどのバカでなし。』

[3167] 科学と宗教の関係 h19.4.27
科学と宗教は物の見方の違いである。
つまり、科学と宗教とは扱う対象が違うのではなく、同じ対象を科学的にも宗教的にも見ることができる。
ところが、科学的な物の見方のほうが宗教的な物の見方よりも正確である。
科学的な物の見方とは、五感の経験に基づいて知覚で推論して物の実像を見ることであり、宗教的な物の見方とは古来よりの迷信や直観などによって物の虚像を見ることである。
科学では知覚と実体とが一致しているので、知覚で考えたことが実現するのに対し、宗教では知覚と実体とが一致していないので、知覚で考えたことが実現しない。つまり、宗教的な物の見方では、頭の中で考えていることと実際に起こることとが一致しない。宗教的な考え方では失敗に終わるから、宗教的な考え方でいくら考えても無駄である。

科学が発達し科学的な物の見方で多くの物が見れるようになったために、宗教の縄張りが狭くなった。
たとえ現代の科学でいまだ理解できない現象に対しても、科学的に見るべきであって、宗教的に見るべきではない。つまり、もはや宗教で扱う物はこの世(実在の世界)にはない。

[3168] 政治家の条件 h19.4.27
故意に国民を不幸にしてはならない。

[3169] なぜ宗教は古臭いか? h19.4.28
宗教では、大昔の迷信や直観に基づく曖昧な物の見方しかない。
それは、私の前に超能力者が現れたのが今から約2千年以上前のことで、その当時はまだ帰納法や演繹法による科学的な物の見方がなく、迷信や直観によって物を見るしかなかったからである。
その当時は超能力者自身も周囲の人間と同じように迷信や直観による物の見方しかしなかったので、それを超能力者の属性のひとつと見なして、今でも宗教に入っている者は過去の超能力者と同じように迷信や直観による古臭い物の見方しかしないのである。
幸いにも、この私は近代科学的な物の見方が誕生してから後に生まれてきたので、宗教的な物の見方をしなくて済んだ。
現代には、宗教的な物の見方よりも強力な科学的な物の見方があるので、すべての人類は宗教的な物の見方を捨て科学的な物の見方を採らねばならない。したがって、私以後に現れる超能力者に対しては、科学的な物の見方で接しなければならない。つまり、超能力者に対し、観察データを取ったり科学的概念で考えたりして、超能力の本質を科学的に解明しなければならない。

[3170] どうしてノーベル数学賞がないのか? h19.4.29
ヨーロッパでは、今だにキリスト教の反知覚主義が残っている。
自然科学は五感の経験に基づくからキリスト教でも多少は許されるが、数学はほとんど知覚だけでやるのでキリスト教では許されない。
そこで、キリスト教団が優秀な科学者であったノーベルの身近に嫌な性格の数学者であったミッターク=レフラーを置いてノーベルに嫌がらせをし、ノーベルにノーベル数学賞を設けさせなかったのである。
しかし、数学は自然科学の基礎であり、数学の概念もそもそもは五感の経験の分析から作られたものなので、数学と自然科学の地位は対等であるべきである。
ノーベル科学賞があるならノーベル数学賞もあるべきである。

[3171] どうして日本神道の宗教家はテレビに顔が出ないのか? h19.4.29
外国のキリスト教や仏教の宗教家はよくテレビに顔を出すのに、日本神道の宗教家の顔はテレビで見たことがない。
それは、日本神道が第2次世界大戦後アメリカ軍によって解体され正式の宗教として認められていないからである。
そのために、日本神道の宗教家も信者も、どこの誰かもわからず、隠れてコソコソと宗教活動しなければならないし、日本神道に入っていることを他人に知られてはならないのである。もしも日本神道に入っていることを他人に知られてしまったら、日本神道をやめねばならないのだ。

[3172] みんなが幸せになる方法 h19.4.29
神道の者が超能力者をネタにして人類に対して嫌がらせを働く(例、戦争)のは、神道の者自身が不幸でどうしようもないからである。神道の者は、自分が幸福になりようがないから、他の者を不幸にしようとするのである。[神道の者が幸福になれない原因のひとつは、おもしろくない宗教に入っているせいである。]
したがって、神道の者が他殺されるか自殺するかして死んでいなくなれば、神道の者はどうしようもない不幸から解放されるし、他の人類は自分たちを不幸にする者がいなくなるから、みんなが幸せになれる。

[3173] 感覚 h19.4.30
感覚とは、“自分が感じる”ことであり、
既成の物理量に還元できない新しい物理量である。
感覚と念動力とは何らかの関係があるかもしれない。
[万有引力だって念力みたいなものじゃないか。]

[3174] 念力の日 h19.4.30
宗教の時代は終わった。これからは科学の時代だ。
念力学(感覚波動力学)が新しい時代の宗教である。
そこで、私の超能力(念動力)が始めて確認された日を『念力の日 NenriKi-day』と命名し、その日を世界中の国々の共通の記念日と定める。

[3175] 科学する心 h19.5.1
超能力を見て、ただすごいと思うだけではなく、
どうして超能力が使えるのか?
超能力とは何なのか?を考えなければならない。

[3176] 私アニメ、私グッズは禁止 h19.5.3
宗教とは、超能力者を人間よりも上の神だ[したがって、全人類は無条件に超能力者に従わねばならない]と考えるまちがった世界観である。
そのまちがった世界観における行動が、宗教活動である。
私アニメ、私グッズ、私商標は宗教活動の一環であり、
潜在意識的な布教活動と見なされ、
まちがった世界観を全人類に広めることだから、
許されないのである。
[曖昧情報による公的な潜在意識的な布教活動はとにかく禁止。私グッズをどうしても作りたければ、他のタレントグッズのように、正式に私の許可を取ってから作らなければならない。]


[3177] 科学VS宗教 h19.5.3
科学とは、真理を全人類に広めることであり、
宗教とは、まちがいを全人類に広めることである。
科学が人類を幸福にし、
宗教が人類を不幸にする。
科学人は人類を幸福にする善人であり、
宗教人は人類を不幸にする悪人である。

[3178] 科学と文学 h19.5.3
科学が『物の運動方程式』であるのに対し、
文学は『心の運動方程式』(つまり、人が幸福に生きるための心の動かし方を述べたもの)である。[例えば、ヘルマン=ヘッセの『車輪の下』は、ガリ勉すると不幸になる、学校の勉強がよくできるだけでは幸福にはなれないことを述べたものである。]
科学と文学とは相補うべきものなのだ。

[3179] わけがわからないものに頼るな h19.5.6
知覚の理解によらずに、儀式や呪文なんかに頼っても何にもならない(時代遅れ)。
この世には物しかなく、物は物自体の法則に従って動いているのであり、物を人に喩えて物に訴えても、物は少しもそれに応[こた]えてはくれない。
私が赤ちゃんの頃に発揮できた超能力はたぶん念動力だけであり[“願いがかなう力”とかだったら、もっといろんなことができたはずだ。]、念動力は電磁力のように数学的に記述される物理的な力だろう。
なぜなら、私は小さい子供の頃から数学や科学が好きで、わからないことよりもわかることのほうに興味があったからだ。
[ちなみに、“かなう”とは漢字で“叶う”と書く。十が十字架みたいだ。十字架に口で訴えることが、願いが叶うということなのだ(もちろん科学的な根拠はない)。]

[3180] 超能力赤ちゃんの見た世界 h19.5.6
もしも、私の赤ちゃんの頃の超能力で“願ったことが何でもできる”のだったら、赤ちゃんの願うことは子供の描いた絵のように実際とは大きく違っていて曖昧模糊なものだから、おそらく私の周りの人も私自身も肉体の構造が破壊されてめちゃくちゃになって生きてはいないだろう。
だから、私の赤ちゃんの頃にあった超能力でできたのはおそらく念動力だけなのだ。
腕力では、身近にある物から出ている光を眼で見て手で物を持って物を動かすように、念動力では、身近にある物から出ている特殊な気を脳にある念視器官で見て、逆に念動力器官から特殊な気を出して気で物を持って物を動かすのである。

でも、それなら念動力でやっても腕力でやってもそんなに変わらないから、腕力に比べて念動力を特に危険視しなくてもよいだろう。[しかも、私の念動力の場合、軽い物体をその場で自転させるだけだったらしいから、ますます安全だ。]

[3181] 日本に古墳が建った理由 h19.5.6
最初にエジプトにピラミッドが出来た。
エジプト文化がゆっくり世界中に広まって、何千年か後にやっと日本にたどり着いた。
日本の古墳はエジプトのピラミッドの真似である。
世界中のすべての古墳が、エジプトのピラミッドの真似なのだ。


[3182] 宗教とは何か? h19.5.6
宗教とは、儀式や呪文などわけがわからないことに頼って生きようとすることである。
わけがわからないことを基にした体系なので、論理も原理もない。
眼先のことがわかるだけで、頭の中がゴチャゴチャしている。
五感界がまともなだけで、知覚界はメチャクチャだ。
つまり、宗教とは五感と心しかない世界である。

[3183] どうして宗教人は宗教をやめないのか? h19.5.6
宗教人とは、宗教に入っている者すなわち宗教家と宗教家に従う信者を言う。
宗教が悪であるにもかかわらず宗教人が宗教をやめようとしないのは、宗教がわけがわからないことを基にしているために、五感と心しかない世界であり、心に対する明晰判明な理解(知覚的認識)がないために、心に関する善悪の区別がつかないからである。[宗教の反知覚主義では、明晰判明な知覚的概念を用いないので、物や心についての認識が曖昧模糊である。]
宗教人は自分が悪人である自覚がないので、いつまでたっても宗教をやめようとしないのである。

[3184] 宗教人がしてはならないこと h19.5.6
宗教は心と五感しかない世界だから、宗教人は知覚を使う仕事に就いてはならない。
また、宗教人は反知覚主義だから、知覚の産物である文明の利器(例、テレビやクーラーや自動車やコンピューターなど)を使用してはならない。

[3185] どうしてヨーロッパはルネサンス期に宗教から科学に乗り換えたのか? h19.5.6
世界がヨーロッパだけなら、宗教の反知覚主義、すなわち五感と心しかない世界でもやっていけた。
しかし、世界にはヨーロッパ以外の国もある。
中世末期にヨーロッパがモンゴルに攻められて、宗教の卑力さを痛感したので、ヨーロッパはその頃宗教から科学に乗り換えたのである。

[3186] どうして日本では宴会をやるのか? h19.5.6
宗教は、反知覚主義であり、心と五感だけの世界である。
だから、宗教が幅を利かしている日本のような国では、ときどき宴会を開いてお酒を飲んで知覚が働かない馬鹿にならねばならないのである。

[3187] 科学と宗教のわかり方の違い h19.5.7
例えば、物が動くことについて、
宗教では、物が動いているのを眼で見ただけでわかったことになるが、
科学では、物に力が働いて動くと考えてはじめてわかったことになる。
宗教では、原理や論理がわからなくても、たんに眼で見えただけでわかったことになるが、
科学では、眼で見えるだけではわかったことにならず、原理と論理で理解できてはじめてわかったことになるのである。
宗教では、何かやってそれでうまくいきさえすれば(思い通りになれば、願いが叶えば)わかったことになるが、
科学では、それをさらに分析し、原因と結果を論理的に連結して理解できてはじめてわかったことになるのだ。

[3188] なぜ超能力は宗教の対象なのか? h19.5.7
科学では、原理と論理で理解できないとわかったことにならないのに対し、宗教では眼で見えただけでわかったことになる。
超能力については、科学では今のところ超能力の原理が明らかではないからわかったことにならず、一方宗教では超能力者が超能力を使うところを眼で見ただけでわかったことになるから、超能力は科学よりも宗教の対象になるのである。
[ただし、これは本来よいことではない。超能力に対しても、宗教でわかったことにしてはならず、科学的に観察データを取って、それらのデータに基づいて知覚で考えて超能力の原理を明らかにすべきである。]

[3189] はたして宗教家は神のことがわかっているか? h19.5.7
宗教家は、昔の文献や自分自身の五感的直観などによって、神すなわち超能力者に対する扱いを決めている。
神に対して何かをやってうまく行けば、それで国や世界が幸福になると信じている。
そのため、日本政府や国際連合も宗教家の活動に対していくぶん協力的である。
神に対する扱いのひとつの例として、“ぶ入れ”がある。“ぶ”とは、私の名前すなわち川野延夫(かわののぶお)の“ぶ”であり、“ぶ入れ”とは、この“ぶ”の字を商品や商店の名前に入れて物の売れ行きを伸ばす効果を狙ったものである(例、セブンイレブンとかブルガリアヨーグルトとか)。
しかし、科学的には超能力は超能力者の脳にある念視器官や念動力器官の働きであると考えられるから、超能力と“ぶ入れ”とは科学的には何の関係もない。
だから、いくら“ぶ入れ”をしても効果はないはずである。
しかし、実際には“ぶ入れ”をすると社会現象になるほどによく売れる。
しかし、それは宗教家の神(超能力者)に対する扱いが正しくて宗教的な超自然的な理由でよく売れるのではなく、じつは宗教家が全国の信者に命令して名前に“ぶ”の付く商品を買わせているからである。
この点、宗教家は政治家に近い。
知覚を用いず五感(と心)だけによる宗教的なわかり方では神(超能力者)について正しくわかることはほとんどなく、大部分が間違いか出鱈目であり、したがってこれまでに宗教家が宗教的な超自然的な理由で神(超能力者)を動かしてうまく行ったことはおそらく一度もなく、みな政治家のやり方で信者たちに命令して動かしていただけのことであり、そんなことで国や世界が幸福になったためしがない。

[3190] 宗教と科学の関係 h19.5.7
超能力のように、宗教では[眼で見えただけでわかったことになるから]わかっているが科学でわからないことはたくさんある。
しかし、それは、いわゆる数学の未解決の問題(××予想)のようなものであって、今後の科学に託された知覚で解決すべき課題なのだ。
この意味では、宗教は科学の一部と見なすことができる。


[3191] 宗教家の命令について h19.5.7
宗教では命令に合理性がなくてもよいので、宗教家は信者に何でも命令できる。
信者は、わけがわからないまま宗教家の命令に従わねばならない。
信者にとっても、物を買わせられるぐらいならまだしもいいが、特攻命令を下されたらたまらない。
私なら、怖くて宗教に入らない。

[3192] 宗教家は一体誰か? h19.5.7
宗教家の正体は、民間の宗教家と、天皇と国会を結んでいる宮内庁の連中である。
宮内庁や民間の宗教家が、いいかげんな宗教的理由で、神(超能力者)や国民を動かしていただけのことである。
宗教家が誰であれ、宗教的な物の考え方で成功することはありえない。

[3193] 京都大学 h19.5.8
日本神道大学(日本神道の信者が行く大学)

[3194] 三菱重工 h19.5.8
日本神道の信者を囲う(優先的に採用する)会社

[3195] 浅野と川本の論文 h19.5.8
信者の似非[えせ]学者が書いた論文なんか、読んだら目が腐る。
[反知覚主義者のくせに、論文なんか書くな!]

[3196] 日本神道が社会に根深く入れる理由 h19.5.9
会社で日本神道の上役が下役の者に対して「日本神道の信者に有利に、信者以外の者に不利にした」とする。
そうすると、日本神道の信者は早く出世して上役に上がれ、信者でない者は一生出世せずに上役に上がれないことになる。
このようにして、日本神道の者が会社の中枢を占め、会社を自分たち日本神道のものにし、日本社会を神道のために動かすことができるわけである。[日本政府についても同様。]

[3197] 宗教人は死ぬべき。 h19.5.9
人間の本質は知覚にある。
なのに、宗教は反知覚主義である。
だから、宗教人(宗教家と信者)に生きる価値はない。

[3198] 真実への道 h19.5.11
麻雀において、要る牌を拾い要らない牌を捨てることによって上がりに近づくように、知覚界において、五感界の実在成分を拾い非実在成分を捨てさらには五感界の中にはない実在成分を加えることによって実在認識に近づいて行く。
私の作文についても、最初はまちがいが多くて正しいところはほとんどないが、前の認識の正しい部分を拾いまちがっている部分を捨てときには新しい正しさを加えることによって何度も考え直して行けば次第に真実の認識に近づいて行くのである。

[3199] 量子力学 h19.5.12
五感界には実在について正しい部分とまちがった部分が含まれている。
“物理量の一意性”も五感界の実在についてのまちがった部分であって、実在する物理量は一般的に多意である。[古典力学の[ツボの中に入った]サイコロの場合には、われわれが出た目を知らないだけで、どれかひとつの目が出ているのだが、量子力学のサイコロの場合には、われわれが出た目を知らないだけではなく、すべての目が同時に出ているのだ。]
つまり、知覚界において一意的なもの(すなわち状態関数Ψ)は、五感界において多意的である。[対象の固有値以外の物理量を測るときには、観測の際に対象に力(≡観測力)が働いて対象の状態を変えてしまうのだろう。/観測問題とは、つまり“どうして五感界では光に色が付いて見えるのか?”のようなものである。物理学の対象は五感界ではなく実在界であるから、五感界固有の現象は(生理学にまかせて)物理学にとってはどうでもいいのである(どうでもいいとまでは行かないにしても、さほど重要でない問題である)。]
[無限少量も知覚界にあって五感界にない概念である。]

[3200] 時間・空間について h19.5.12
時間・空間の概念は、五感界における経験から帰納されて作り出された概念であって、人間が生まれつき知覚界に持っている概念ではない。


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