[2801] 私の母 h18.11.27
私が小学3〜4年頃、私の母は親戚のおばさん(母の妹)が若草町の県営住宅の私の家を見に来て帰ったあとで「美人は心が冷たい。」と言った。
それを言うなら、「かわいい女は頭がバカだ。」だ。
なるほど、私の母は家電製品としては万能で優秀な性能だったが、残念ながら子供への教育機能までは付いていなかった。どうして私の弟が子供の頃から勉強嫌いで学校へ行くのが嫌だったかわからなかったし、どうして私が高1のとき気が狂ってダメになったかもわからなかった。
とにかく問題とぶつかったとき考えようとする気持ちがない。将来来るべき問題に備えて、前もって考えておくこともしない。
だから、人生行き当たりばったりで上手く行かない。上手く行かないことが山積みになる一方だ。
これでは、多少かわい気がなくても、しっかりした考え深い女のほうがいい。そのほうが子供にとってためになる。
美人もかわいい女も見た目がちょっと気持ちいいだけで、しっかり者の考え深い女の人生の真相に達した知覚の深い喜びには到底かなわない。
私が小学5〜6年の頃、私の母は私の弟の面倒を見切れなくて困って私の父に弟の面倒を見させようとしたが、これはまちがっている。なぜなら、男には子供への愛情がなく、主な関心は仕事と自分の遊びにしかないからである。やはり、子育ては女の仕事だ。[谷脇優子さんの父親の場合は、同じ高知学芸中学校の英語の教師だったから、子供への愛情よりも教師としての情熱(教育熱)で谷脇さんを男勝りに育てたのだと思う。]
【NEWS】 h18.11.28
昨晩、以前にあったパソコンの通信妨害により私の35万円のHUSHが完全に壊れた。スイッチを入れても、スピーカーから変な人の声のような音が繰り返し流れるだけで起動しなくなった。OLIOSPECに修理を頼まねばならない。[その間、BattleField2やBattleField2142のパソコンゲームが遊べない。]→同じような被害にあったら、すぐにインターネットの接続を切りましょう。その後は、必要なときだけつなぐようにすればいいでしょう。
[2802] 宗教と科学の違い h18.11.29
宗教では、『はじめに言葉ありき。』だ。
つまり、宗教は典拠主義である。
だから、宗教は同じことを繰り返しているだけで発展しない。
これに対し、科学では『はじめに物がある。』だ。
つまり、科学は実在主義だ。
科学の真理は実在する対象が決めるので、言葉(つまり認識)が実在に完全に一致するまで科学は発展し続ける。
[2803] ∃と∀の違い h18.11.29
いくら学者の学説が正しいからといって、学者のあらゆる考えが正しいわけではない。
人間は学者の正しい学説には従うべきだが、学者のその他の考えには従わなくてもいい。[ただ、学者は正しい学説の“担体”だから、真理を大切にするなら、真理の担体である学者も大切にするのは当然である。例えば、ホテルに泊まったとき、学者には同価格帯で一番いい部屋に泊めてやるとか、食堂で食べるとき、学者には一番新しい食器を出してやるとかすると、学者は大喜びである。]
学者のいくつかの学説が正しいからといって、その学者のすべての考えを正しいと信じるのは行きすぎである。
それは∃と∀の混同にほかならない。
せっかく高校の数学で習ったことを、大人になって忘れてしまうのでは、なんのために勉強したのかわからない。
子供のとき学校で習ったことは大人になっても実生活の中で活かさなくてはならない。
[2804] 弟のこと h18.11.30
弟は子供のころから勉強が嫌いで保育園へも泣く泣く行ったほどだから、たぶん第1次性徴期(3〜5才)でミスったのだろう。
性徴期にミスると、心が性欲に支配され知覚欲が働かなくなって、勉強嫌い学校嫌い仕事嫌いになる。
私は第2次性徴期(思春期)にミスった。
その他、性欲に支配されやすい時期として、結婚後の第3次性徴期(30〜40才)がある。[この時期に結婚する人は、異性に興味がなく見合い結婚なので、性欲についての予備知識がなく、性欲が悪い(つまり、自分を不幸にする)感情だと知らないので、性欲に支配される危険性が高いのである。]
性徴期は、いわば人生のハードルであって、この時期いかに性欲のハードルに引っ掛からずに飛び越えるかが問題である。
[2805] 親の子供に対する教育について h18.11.30
親も『自分の人生、ああすりゃもっとよかったな』と思うことがあるはずだ。
それ(つまり、自分がすればよかったと思うこと)を子供にさせればよいだけだ。
そんな思いのない親は自分の人生に対する反省が足りない。
[2806] 政治家 h18.11.30
政治家は天皇の権威にすがっておいしい思いをしたい連中だ。
権威という実在から独立した(実在から離れた)価値を決めて、それで人間の値打ちを勝手に決めている。
天皇の権威にすがることによって、自分たちの権威も高まると思っている。
自分が天皇から権威をもらって偉くなって、『無理が通れば道理が引っ込む』のをやりたいだけだ。
世の中をムチャクチャにして喜んでいる連中だ。
しかし、そもそも権威は実在しない架空の価値だ。
実際に、人間の身体は実在の中にあるのだから、そんな架空の実在しない価値なんか決めてもうまくいくわけがない。
学者や技術者と比べると、政治家なんか実在の世界の外にいるバカバカしい連中だ。[実在から目をそむける生き方は、もはや人間の生き方ではない。]
政治家は日本神道か狂人に近い。
政治を腐敗させないためには、権威の大元[おおもと]である天皇をなくすしかない。
平成18年12月2日追記)天皇制がダメな国を作り出す。天皇も政治家も悪い人ではない。ただ、『天皇制』がまちがった悪い制度なのだ。天皇制があるから、国家神道みたいな汚い組織が生まれるのだから、天皇制はぜひなくさねばならない。国家神道とは、つまり、政治家以外で天皇(または神)の権威を借りた者のことなのだ。権威という実在の外にある架空の概念もこの世からなくさねばならない。(ただし、学者の権威は学者に才能があるから認めてもよい。運動選手や音楽家も才能があれば権威はある。今の天皇の祖先には超能力の才能があっただろうが、今の天皇には超能力の才能がないから、今の天皇に権威はない。『親の七光り』は、実力のない虚栄につながるから認めないことにしよう。)
[2807] 都会 h18.11.30
都会に生まれたら都会で育つしかない。
ところが、都会には只[ただ]で遊べる野山がない。
都会の遊園地で遊ぶためにはたくさんお金がいる。
子供にはそんなお金がないからおとなしく勉強するしかない。
それで都会の子供は勉強がよくできるのだ。
都会で遊ぶにはいちいちお金がかかる。
都会で暮らすのはたくさんお金がかかる。
お金がかかる割には、それほど幸福は得られない。
人間には自然を美しく思う感情がある。
都会ではこの感情が満足させられない。[プラネタリウムの星は光の点にすぎないし、公園だって自然の真似だ。]
都会ではせいぜいつまらない競争欲を満足させることしかできない。
都会で満足できるのは、くだらない(いやらしい)喜びだけだ。
都会では、人間の本心を満足させることができない。
都会は偽りの幸福に満ちている。
都会は人間にとっての楽園ではない。
[2808] 純粋経験 h18.12.1
観光バスの窓から紅葉を見るのは、
自分が紅葉を見るのであって、
見るものと見られるものとの対立がある。
これに対し、
自分が山道を歩いていて山と自分との一体感を体験するのは、
もはや見るものと見られるものとの区別のない純粋経験である。
[2809] 誘因 h18.12.1
オナニーは自分の性欲中枢を興奮させることだが、
オナニーすると、一般に自分のすべての感情を興奮させやすくなる。
それで、焦燥中枢を興奮させすぎて焦燥病にかかりやすい。
オナニーは直接に焦燥病の原因ではないが、
焦燥病になりやすくするので焦燥病の誘因である。
[2810] 超能力とは何か? h18.12.1
超能力とは、脳細胞(サイコキネシス器官)と物体のエネルギー授受[じゅじゅ]のひとつの様式である。
つまり、脳細胞と物体の間の空間は、超能力エネルギーを伝達する性質がある。

つまり、空間は超能力エネルギーを伝える管のようなものである。
このとき、人の超能力器官から放出された超能力エネルギーZが、物体の運動エネルギーKとなる。
すなわち、
Z=K【拡張されたエネルギー保存則】
が成り立つ。[つまり、念力波(エネルギー)というものがこの宇宙に実在する。大型サイクロトロンでないとレアな素粒子が生成されないように、私の脳でなければ念力波が発生しないのだ。超能力は物理的にはこの宇宙の構造を解く鍵[かぎ]として重要だが、政治的には近代以降においてはもはやなんの意義もない。][黒い紙に光が当たると、黒い紙の温度が上がるようなものである。つまり、この場合、光のエネルギーPが、黒い紙の熱エネルギーUに変換されるわけである。すなわち、P=U。(ただし、Uの基準を、光が当たる前に黒い紙が持っていた熱エネルギーとする。)]
超能力エネルギーZのもとは、筋肉の運動エネルギーのもとと同じ“食べ物”だから、そんなに大きなエネルギーではない。それに、サイコキネシスの場合は、おそらく超能力者が肉眼で見た物体にサイコキネシス器官から放出された超能力エネルギーを与えて動かすのだから、眼で見えない物は動かせないと考えられる。つまり、サイコキネシスは比較的安全な超能力だと考えられる。
[2811] 権威 h18.12.2
才能のある人間には権威(偉さ)がある。例えば、学者や運動選手や芸術家も才能があれば権威がある。超能力も才能のひとつだから、超能力者には権威がある。つまり、権威とは才能のある人間に対する漠然とした価値観である。権威とは、人(や国)が持っているひとつの属性である。[身長や体重と同様に権威という量が人(や国)にはある。]才能のある者に対して自然に心が偉いと思うことが権威である。
才能があった人間にも権威がある。例えば、引退した野球選手(例、長嶋選手)には権威がある。また、今は超能力がないが、かつては超能力があった私にも権威がある。
権威は原則的には才能のある個人だけにあるものだが、才能がある人間を生み出した国にも多少の権威がある。なぜなら、その国の文化や習慣が、才人(才能のある人間)を生み出す契機となったからである。例えば、エジソンを生み出したアメリカにも権威があるし、ニュートンを生み出したイギリスにも権威がある。だから、才能のある人間の両親や祖父・祖母にも権威がある。[才人を生み出す契機になった場合にだけ、権威が与えられる。したがって、才人となった後でいくら才人の近所に住んでも権威は与えられない。例えば、今の私の近くに住んでも私から権威はもらえない。]
死んだ人にも権威がある。例えば、エジソンやニュートンには、本人が死んでしまった今でも権威がある。エジソンやニュートンを生み出したアメリカやイギリスにもずっと権威がある。
しかし、才能がある人間の子孫には、子孫が親の才能を生み出したわけではないから、子孫自身に才能がないかぎり権威はない。才能のない人間には権威を認めるべきではない。例えば、今の天皇の祖先の超能力者には権威があるが、今の天皇には超能力がないから権威がない。(天皇の祖先に権威があれば、今の天皇はいなくてもかまわない。わざわざ天皇を血筋でつなげる必要はない。)
権威者の意見は権威が大きいほど通りやすいが、何でも意見が通るわけではない。例えば、引退した野球選手にいくら権威があっても、国際政治について意見を述べたところで、しょせんは素人[しろうと]談義だから、その意見がそのまま通るわけではない。同様に、神に権威を置くのはかまわないが、神に政治的才能がなければ、神を政治組織に組み込んではいけない。ただ神に個人的な権威を認め、国は神を生み出したものとして権威が与えられるだけでいい。
[2812] 謁見[えっけん] h18.12.3
才人の権威を授[さず]かることができるのは、その才人を生み出した親や先生や県や国であり、才人となった後で才人に会っても権威がもらえるわけではない。
だから、外国の大使が日本の天皇に謁見するのは、天皇の権威を授[さず]かるためではなく、交渉のためである。[もっとも、天皇は才人ではないが。]
このように、天皇は政治家としての機能も果たしているが、外交のためなら外交官や国際会議があるので、強いて天皇がいなくてもよい。
[2813] 『親の七光り』 h18.12.3
いくら親が偉くても(権威があっても=才能があっても)、子供が偉いわけではない。
いくら親が才人(才能のある人)で権威があっても、子供に才能がなく、子供が親の才能を生み出したわけではないから、子供にはなんの権威もない。[したがって、例えば、今の天皇には権威すらないのである。]
子供が親の威を借りて、他の子供に意地悪をするなどもってのほかである。
いくら親に子供への愛情があっても、自分の子供が正しくなければ、自分の子供を叱らねばならない。
[2814] 男女平等 h18.12.3
いくら男女平等だからといって、考えない者に人間の資格はない。
男女平等でありたければ、女性は男性と同じくらい考えなければならない。
[2815] 東大生へ h18.12.3
この度の問題の核心は『なぜ赤ちゃんが手を触れずに[もちろん、足や身体のその他の部分を触れることなく、物をぶつけたりもせず、息を吹き付けるのでもなく]周りにあるおもちゃを動かせたか?』にある。天皇がどうだとか、超能力者の権利がどうとかは、すべてこの現象の解釈(理論的説明)に依存する。
東大の人は頭がいいのだから、なにかひとつ気の利いた説明をしてはくれないものだろうか。[私は、サイコキネシス器官から念力波が出て物質と相互作用するのだと考える。]ただし、説明は人が勝手に決めるものではなく、実在における真実を言葉で表現したものであらねばならない。私よりも正しい理論があれば、私は喜んでそれに従うつもりである。
[2816] エッチな人は曖昧である。 h18.12.3
エッチな人は性欲で生きている。
性欲と知覚欲とは拮抗するから、エッチな人は知覚欲が働かない。
知覚欲が働かないから、知覚が活動せず、知識(知覚における認識)が精確にならない。
したがって、エッチな人は知識が不精確で曖昧なのである。
[2817] どうして女は男よりもバカなのか? h18.12.3
性欲は知覚欲と強く拮抗するが、愛情は知覚欲と弱く拮抗する。[愛情とは、子供とイチャイチャする喜びである。]
人間が生きて行くためにはなんらかの欲(快または幸の感情)を満足しなければならないが、ひとつの欲を満足すると、他の欲を満足しようとしなくなるからである。
したがって、女性は愛情を満足する分、知覚欲を満足しようとしないので、知覚が働かずバカなのである。
女性は知覚欲を満足しなくても愛情を満足させて生きて行けるので、バカのままでもいいのである。
[2818] 実存主義 h18.12.3
教会(外国の神道)におべっかを使って、[その見返りに]おいしい思いをしようとする主義。
パスカルとかがそうである。
ニーチェは『神が死んだ』と言って教会にケンカを売ったから実存主義者ではない。
[2819] わけのわからないもの h18.12.3
宗教はわけのわからないもの(超自然現象)を扱い、科学はわけのわかるもの(自然現象)を扱う。
わけのわからないものでも時代が進んで科学が発達すれば、いずれはわけのわかるものになる。
つまり、宗教は科学に吸収される。
例えば、念動力(サイコキネシス)も、いずれは科学でその謎が解明される。
[2820] 宮内庁御用達 h18.12.3
どうせ日本神道の信者が作ったシロモノだ。
[2821] 親の教え h18.12.5
私が小さい頃の親の教えは、人は心を見ないといけない、
人の心は善でなければならない(悪気があってはならない)ということだ。[心が善ければ多少の間違いはかまわない。]
ただ、それだけだ。[ただし、正しいかどうかは別である。]
[2822] 日本神道における神の定義の曖昧さについて h18.12.6
今度の私の例のように、日本神道における神の定義は超能力者である。
しかし、一方、日本神道がこれまで神としてきた歴代の天皇は初代天皇を除けば超能力者ではない。
おそらく、日本神道は神の子孫をやむをえず神と見なしてきたのだろう。
天皇は[初代天皇を除けば]神ではなく、準神といったところか。
外国の神道は神の定義に忠実で神は一代限りである。[神が子供を作らなかったことにもよるが。]
外国人の思考が論理的で、日本人の思考が非論理的なのも、こんなところによるのだろう。
日本が眼に見える準神を置いたのに対し、外国の神は昔に死んでしまって眼に見えない。
日本人の思考が具体的で、外国人の思考が抽象的なのも、こんなところによるのかもしれない。
[2823] 小針明宏はなぜ死んだか? h18.12.6
『スーと来て、ガクッとなるから数学』で有名な小針明宏(こはりあきひろ、‘明’はほんとは別の字)は、京都大学の助教授だったが、交通事故で自動車にはねられて死んだ。
おそらく、小針明宏が反帝国主義者であったので、天皇の命令か日本神道の判断で轢き殺されたのだろう。
[2824] なぜ女は男を好きになるのか? h18.12.6
女性には愛情すなわち子供とイチャイチャする喜びがある。
女性が愛情を満足するためには、まず男性と結婚しなければならない。
女性が男性と結婚するためには、女性は男性を好きにならねばならない。
つまり、女性が男性を好きなことは、それ自体は無意味なことだが、子供への愛情に結びつき、子供への愛情は女性にとっては幸福なことだから、女性は男性を好きになるのである。
[2825] [2785]性欲に焦燥感が伴うことは性欲を禁止すべき理由にはならない。
h18.12.6
人間はどんな喜びを満足するときにも多少の不快感を味わうものである。例えば、スポーツのときには身体を動かすことに伴う疲労感があるし、勉強のときにも多かれ少なかれ考える苦しさがある。
それなのに、人がスポーツや勉強をしようとするのは、それによって得られる快感が、それらに伴う不快感よりも大きいからである。
この世に純粋に快感だけが得られることなんかひとつもない。
それと同様に、性欲を満足するときにも多少の不快な焦燥感を感じるが、不快感よりも性欲の快感のほうが大きいので、焦燥感があるからといって性欲の妨げにはならないのである。
やはり、人間にとって性欲がいけないのは、[2691]にあるように、性欲と知覚欲が拮抗するからである。
人間は知覚欲を働かねば生きて行けない生物なのである。
[2826] 日本の神道と外国の神道の対応 h18.12.6
外国の神道と同様、日本の神道における神とは超能力者のことであり、それはつまり初代天皇と私である。
日本の神道における[初代天皇以外の]天皇は、外国の神道における司教に対応する。それは、天皇にも司教にも超能力がないから彼ら自身は神ではなく、ただ神道のトップとしての地位と権力を有する者だからである。
日本の神道の司教(すなわち[初代天皇以外の]天皇)と外国の神道の司教の違いは、血筋でつなぐかつながないかの違いである。[天皇の世襲制は、司教に神性を持たせるために日本神道が考え出した工夫である。]
したがって、影で天皇や私にちょっかいを出している日本神道の影の首領(ドン)は外国の神道における司祭に対応することになる。

日本神道の影の首領は、天皇や私に手出しをするが、ほんらいは私や天皇に従属すべき者である。
日本国憲法で定めているように、日本人はみな日本神道の信者である(ただし、私と天皇と日本神道の司祭を除く)。
したがって、日本人はみな私や天皇に従属しなければならない。
外国の司教が住んでいる大聖堂が、日本の天皇が住んでいる皇居に対応する。
ほんらい天皇は神と人間をつなぐ連絡係だから、天皇は神である私の意思を速[すみ]やかに国民に伝えなければならない。
[2827] 国家神道 h18.12.7
国家神道とは、日本国の宗教であり、日本人は生まれながらに神道に入らなければならないのである。つまり、日本人はみんな国家神道の信者なのである(神、天皇、司教を除く)。[ただ、今は“宗教の自由”があるから、他の宗教に入ってもよい。その場合、その者は二つの宗教に入ったことになる。つまり、その者は二つの神(あるいはその代弁者)を仰ぐことになる。(神は他人にとって心のよりどころだから、神は他人が仰ぐに値するほど立派で偉大でなければならないのだ。)]
[2828] 言葉にしない h18.12.7
初代天皇は自分の思想を言葉にしなかった。
日本神道は初代天皇の“言葉にしない”性格を日本人に広めた。
だから、今の日本人は[外人に比べて]自分の考えを言葉で表現しようとしないのだ。
今の日本人が、言葉で自分の考えを表現せず、論理性がなく、抽象的なことがわからないのはみな初代天皇のせいである。[および、日本神道が初代天皇の性格を日本人に広めようとしたせいである。]
[2829] なぜ天皇は国会に対して口出しできるのか? h18.12.7
日本人は生まれながらにしてみな日本神道の信者である。
だから、国会議員といえども日本神道においては(日本神道的に見れば)信者にすぎない。
一方、天皇は日本神道の司教であり、司教は信者よりも上だから、天皇は国会議員に対して口出し(命令)できるのである。
[2830] はたして神は偉大か? h18.12.7
キリストやブッダは自分の思想を言葉で残したが、現代においてはキリストの思想もブッダの思想も[古い科学と同じように]時代遅れであまり正しいとはいえない。
正しくなければ、偉大ではない。
おそらく、人々が小さい頃から『神は偉大だ』と教えられてきたから、それをそのまま鵜呑み[うのみ]にして『神は偉大だ』と考えるようになったのだろう。
あるいは、神(超能力者)の偉大さは、[物や心についての知識の]正しさを超えたところにあるのかもしれない。つまり、神は超能力があるから[それだけで]偉大なのであって、それ以外の理由は要らないのである。だから、たとえ神の言葉がまちがっていても、神の偉大さゆえに、人々は神の言葉に従ったりするのである。[賢明な態度とは思えないが。]
むしろ、神の偉大さはその超能力にあることを認めて、超能力と知覚とは別の才能だから、神の考えにもまちがいがありえるので、神のまちがいは自分たちで正して従わないようにするのが賢明であろう。[司教は神の言葉を現代の知識に照らし合わせて正しく修正しながら、その意思を人々に伝えなければならない。]
人の心には超能力など不思議なものに対する好奇心や憧れがあるから、その気持ちを大切にしなければならない。
[2831] なぜ日本の政治家はうそつきなのか? h18.12.7
初代天皇に論理性がなかったので、日本では言葉のつじつまが合わなくてもよく、したがって自由にウソがつけるのである。[よいことではないが。]
[2832] 宮内庁 h18.12.7
宮内庁は日本政府の組織である。
政治的に天皇を管理している。
いわば、政治家(日本神道の信者)から天皇(司教)へのフィードバックを担当している。
[2833] 超能力者 h18.12.7
超能力者は天界に住んでいる神ではない。
しかし、超能力者は、少なくとも人間(Homo sapiens)よりは上の生物である。
このことは全世界で認められている。
[2834] どうすれば自分で考えるようになるか? h18.12.7
人間は群れると自分で考えようとしなくなる。
これは人間の習性である。
だから、反対に、人間はひとりきりになると自分で考えようとする。
この習性を活かせばよい。
[2835] 承認について h18.12.7
天皇(司教)は私(神)の思想(つまり、私の実在哲学、哲学日記など)の正しい部分に照らして国会の決議を審査し、国会の決議が神の思想の正しい部分と抵触しなければ(食い違わなければ)承認することとする。
抵触した場合には、国会の決議に修正を命じることができる。
天皇にこの仕事ができなければ、司教の役は他の人にやってもらうことにする。[私の思想をよく理解している者に司教の役を頼めばいい。][司教は世襲制にしてもしなくてもいい。とにかく、仕事のよくできる人を司教にしてほしい。]
[2836] 日本神道と日本政府の関係 h18.12.7
日本人はみな日本神道の信者である。
したがって、日本人はみな日本の神の思想(のうちの正しい部分)に従わねばならない。
その管理をするのが日本神道の組織である。[私の思想(の正しい部分)を日本の習慣や慣習に取り入れてほしい。(哲学第4原理;性欲と知覚欲の拮抗あたりをメインにやってもらいたい。)法律のように特に罰則を置かなくてもよい(必要ならば置いてもよい)。][私の思想が古くなって間違いになったら、片っ端から捨ててよい。正しい部分だけ残してほしい。将来、私の思想を拾う部分がなくなったら、完全に人間の自由にしてよい。]
一方、日本国民の日常生活における特定の事柄(主に個人の物的財産)について管理をするのが日本政府である。
日本神道と日本政府は担当する分野が違う。互いに足りないところを補い合ってやっているのだ。
[2837] ヨーロッパの歴史 h18.12.8
キリストは、人間が幸福に生きるためには、
1)愛情を働かせる。
2)知覚を働かさない。
の2つのことを守らねばならないと考えた。
当時の人々にとっても、このキリストの考えは正しいと考えられた。
しばらくの間は、それでうまく行った。
しかし、中世頃になると、このキリストの考えでは社会的発展が停滞するようになった。
そこで、ヨーロッパの人々は、この社会的危機的状況を乗り越えるために、キリストの2)の考えを捨てることにした。中世頃になると、教育がかなり普及したので、キリストの2)の考えはまちがいであると一般に考えられるようになったからである。
それで、現在のキリスト教ではキリストの2)の考えはなくなり、1)の考えだけが正しい部分として残されている。
このように、いくら神の言葉(考え)でも、それに無条件に従えばよいのではなく、正しい部分とまちがった部分を区別し、正しい部分には従い、まちがった部分には従わないようにしなければならないのである。
[2838] 今の天皇は生きていてもムダ。 h18.12.8
今の天皇の祖先に当たる初代天皇は自分の思想を言葉にしなかった。
そこでやむをえず日本神道は天皇の性格を国民に広めることにした。
しかし、今の天皇は初代天皇から2千年以上経っているので、初代天皇の性格と大きく違うはずである。
だから、今の天皇の性格を取っても神の性格を広めることにはならず宗教的には何の意義もない。
したがって、今の天皇は生きていても仕方がない。天皇の世襲制もやめねばならない。
[2839] 2人の神 h18.12.8
日本には、大昔の初代天皇と今の私の2人の神(超能力者)がいる。
宗教では、神の思想(の正しい部分)を国民に広めることになっている。
だから、初代天皇の思想の正しい部分と私の思想の正しい部分を足し合わせて、それを日本国民に広めればよいのである。
ただ、私の見たところでは、初代天皇は自分の思想を言葉にしなかったので、初代天皇の思想の正しい部分は何もないと見なしてよい。だから、実際には、今の日本の宗教(日本神道)には私の思想の正しい部分だけしかない。
[2840] 宗教の輸入について h18.12.8
ひとりの神の思想の正しい部分には限りがある。神といえども、何から何まで考えるわけには行かないからである。だから、人間が幸福であるためには、ひとりの神の考え(の正しい部分)を守るだけでは足りない。
そこで、その不足を補うために外国の神の思想(の正しい部分)を取り入れることがある。
ひとつの正しい思想と別の正しい思想とは矛盾しないので、こうした思想の足し合わせが可能なのである。
人間が幸福に生きるためには、国境を越えて、外国の宗教(つまり、外国の神の教え(の正しい部分))を利用するのも一法である。
それでも足りなければ、自分で自分が守るべきことを考えて決めるしかない。
[2841] 論理的でないものは実在的ではない。 h18.12.8
『論理的なものは実在的である。』
したがって、論理的でないものは実在的ではない。
実在的でないものは勉強しても仕方がない。
だから、例えば、社会科は勉強しないほうがいいのである。
[2842] クリスマス h18.12.9
クリスマスは、キリストの誕生を人々が祝うことである。
キリスト教は、キリストの思想(の正しい部分)を人々に広めることである。
キリスト教もクリスマスも、神(超能力者)であるキリストを人間よりも上に置くためのひとつの方法である。
[2843] 西暦 h18.12.9
キリストの誕生から何年経ったかを表すのが西暦である。
これも、神(超能力者)であるキリストを人間よりも上に置くための方法である。
日本では、明治・大正・昭和・平成とかがあるが、天皇は日本神道の司教であって神ではないから、そこまでやらなくてもいい。[ただ、数字が二桁で済んで便利なので、司教で区切るのも良い方法である。]
[2844] 集会 h18.12.9
キリスト教では、日曜日の朝に集会を開いて、キリストの思想(の正しい部分)を人々に広めている。
これは、神(超能力者)であるキリストを人間よりも上に置くひとつの方法である。
ただ、このやり方では、せっかくの休日が潰[つぶ]れてしまうので、私はやらない。
宗教は、ただ神(超能力者)の思想を人々に広めさえすればいいのだから、なにも集会でなくても他に方法はある。
例えば、学校で教えればいい。
私の思想は、大雑把には、
『人間が幸福になるためには、
1)知覚欲を働かせる。
2)性欲を働かせない。
ことを守ればよい。』のだから、
例えば、1)学校や大学などの教育施設を建てる。2)エロ本とかエロビデオとかを作らない、売らない。エッチな深夜放送をやらない。風俗文化を根絶する。(女性の面白さはそんなところにあるのではない。)とかすればいい。
[2845] 神の思想の正しい部分 h18.12.9
神には超能力があるが、超能力の才能と知覚の才能とは関係ないので、神の思想にもまちがいがありえる。
だから、宗教では、その時代の知識に照らし合わせて、神の思想の正しいと考えられる部分だけを人々に広めなければならない。
しかし、だからといって、“たとえ悪いことをしても、それまでに善いことをたくさんしていれば許される”わけではない。例えば、収賄事件を起こした政治家が、それまで政治家としてめざましい活躍をしてきたから無罪になるわけではない。
法律は法律であって、法律と宗教のやり方を混同してはいけない。
[2846] 性交 h18.12.9
性交は『新しい生命を創る』厳粛な行為である。
快楽を得るための遊びではない。
[2847] 躁鬱感 h18.12.9
躁感・鬱感は、対人関係における(つまり、他人から見た自分に関する)感情である。
一方、焦燥感・安心感は、一人称視点における(つまり、自分から見た他人に関する)感情である。
鬱感は、他人が自分を低い(低能、無能)と見なしているとき、自分が感じる落ち込んだつらい気分である。
反対に、躁感は、他人が自分を高い(有能)と見なしているとき、自分が感じるうわずったうれしい気分である。
焦燥感は、自分が他人の態度が気に入らないとき、自分が感じるイライラした不快な気分である。
安心感は、自分が他人の態度が気に入ったとき、自分が感じる和[なご]んだ愉快な気分である。
人は厳しく育つと他人から見た自分に関する二人称視点の感情が発達し、
反対に、人はわがままに育つと自分から見た他人に関する一人称視点の感情が発達する。
[2848] 実在の中に出で立つ。 h18.12.11
人間は小さい頃はまだ五感界の中にいて実在の外にいるが、
大人になって考えて物が見れるようになると実在の中にいられるようになる。
人間はややもすると間違い(実在しないもの)に囚われて実在の外に出やすい。
実在の外に出ると不幸になる。
本当の幸福は実在の中にある。
つまり、合理主義(実在主義)は善で、実存主義は悪である。
[ちなみに、超能力は実在する力の一種である。大人は手や足を動かすことに慣れているから、超能力を使おうとしないのである。]
[2849] 二人称気質と一人称気質 h18.12.11
二人称視点の人は、他人が自分を気に入れば一緒に遊ぶし、他人が自分を気に入らなければ一緒に遊ばない。他人から見た自分に関する感情すなわち躁感・鬱感が発達しており、いわゆる躁鬱気質である。[ベタベタした感じのする人。]
一人称視点の人は、自分が他人を気に入れば一緒に遊ぶし、自分が他人を気に入らなければ一緒に遊ばない。自分から見た他人に関する感情すなわち安心感・焦燥感が発達しており、いわゆる焦燥気質(分裂気質)である。[サッパリした感じのする人。]
[2850] 神の定義 h18.12.11
神とは超能力のある人間のことである。[神の定義]
その超能力も、実はガラガラのおもちゃを念力で回したりする程度のことで、大したことではない。
神道はこの神の定義が一般に知られると神がなめられて神道全体が低く見られるので、それを恐れて神が見つかるとすぐに神の超能力を何らかの方法で消してきた。つまり、神の意味を伏せてきた。
それで、これまで神の定義がわからなかったのである。[私は幸運にも、母から1〜2回自分が小さい頃の話を聞いたことがあるので、すぐにわかった。]
キリストやブッダなどの過去の神は宗教において偉業をなしたが、それは神道の連中が神の考えたことをオーバーに盛り上げているだけで、そもそも神が考えたことは何でも宗教になるので実は大したことではない。
神とは超能力のある人間であって、宗教は超能力のある人間が考えたことにすぎない。超能力のない人間が考えたことは、どんなに凄[すご]くても哲学その他の学問止まりであって宗教にはならないのである。[ニセ宗教にはなるかもしれないが。今日においては(とくに神の定義を知らない人にとっては)宗教と哲学の区別はなく、例えば私にとっては愛情の重要性を説いたキリスト教よりも知覚の使い方を説いたデカルト哲学のほうが優れていると思われる。]
こうして神の定義がバレてしまっては、もはや神の超能力を消す意義もないので、今後は神の超能力を消すこともないはずだ。[残念ながら、私の場合は私に手出しをして超能力を消してしまったようだが。(私の身体が絡むから政府も関与したはずだ。)]神の超能力を消さなければ、神の本当の姿がわかるので、もはや神の思想(の正しい部分)を人々に広めたりすることはなくなるだろう。ただ、人々が神を敬[うやま]って、“神を人の上に置く”ような行事(例、クリスマス、西暦など)をするような形で宗教が残ることはあるだろう。
[2851] 信者の誤解 h18.12.12
神を規定する性質は超能力にあって、これ以外にはない。[神の定義]
神(超能力者)は人間よりも上の存在である。[このことは世界中で認められている。]
宗教においては神以外の者に超能力はないから、人間よりも上なのは神だけである。司教以下(司教も含む)はすべて人間である。[ただ、会社や軍隊のように宗教内における階級差はある。]
これまで宗教では、神が人間よりも上だから、自分たちも人間よりも上だと言って威張っていたが、これは神の定義がわかっていないことによる誤解である。
[2852] なぜ今の日本は不景気なのか? h18.12.12
私が中学生頃までは日本がGNP世界第1位で景気がよかったが、私が高1のとき焦燥病(精神分裂病)にかかってから日本の景気が低下して、今ではアジアの中でも真ん中ぐらいになっている。
それにひきかえ、隣国の韓国は好景気で高度経済成長を続けている。
国の景気のよしあしは、国際貿易で決まると考えられる。国の生産品を外国がよく買ってくれ、逆に生産に必要な原料を外国がよく売ってくれれば、国がもうかり景気がよくなる。
日本が不景気で韓国が好景気なのは、国際貿易において外国が日本に対し不利にし、韓国に対し有利にしてくれるからである。
外国が日本を不利にしたそもそもの原因は、神である私を私の周りにいる日本人が攻撃して、私を精神病にかからせ私を不調にしたからである。
[2853] オウム真理教は宗教か? h18.12.13
麻原彰晃は、神(超能力者)ではなく人間だから、オウム真理教は宗教ではなく宗教ゴッコである。
私は前に神でない者が神になること、すなわち人間による神権の取り込みは死刑になると決めた。
だから、この前の公判で麻原彰晃の死刑が決まったのだ。
[2854] サダム=フセイン h18.12.13
サダム=フセインは明治天皇を崇拝していたから、日本の天皇家の加護を受けていた。
しかし、私が『初代天皇以外の天皇は神ではなく人である』と説いたから、天皇家の加護が効かなくなった。
それで、フセインが死刑に決まったのだ。
[2855] 宗教 h18.12.13
宗教とは、神(超能力者)を人の上に置くことである。[超能力者は超能力がある点で人間よりも優れているから、超能力者は人間よりも上に置かれるのである。けっして超能力者がすべての点において人間よりも優れているわけではない。]
そのための具体的方法が、
1)神の思想(の正しい部分)を書物や集会などによって人々に広めることや、
2)神の誕生日を祝うことや、
3)神の偶像を拝むこと
などである。
[私にとっては、私の思想(の正しい部分)を人々に広めたり、私の誕生祝いをしたり、私の偶像を拝んだりしても、大してうれしくはない。それより、『安楽自殺法』を実現してくれたほうがよっぽど私の役に立つ。]
[2856] 神の国、日本 h18.12.13
日本は神で持っているひよわな国だ。
天皇は神の定義を曖昧にして、自分がこれまで神のつもりでやってきた。[おそらく、天皇自身も、神の定義を知らないのだろう。]
神道の信者たちも“神の定義の曖昧さ”につけ込んで、自分たちも神であるかのように振舞い、神の特権を乱用してきた。
しかし、このたび本物の神である私が現れて、神とはサイコキネシスの超能力のある人間であることがわかり、天皇は初代天皇を除けばただの人間であることが判明した。
その本物の神である私の超能力も、しょせん念力でガラガラのおもちゃが回る程度のことにすぎない。
現代はデカルトが切り拓いた世界であり、明晰判明さで成り立っている。だから、神の定義も明確にしなければならない。天皇制のような曖昧模糊さで成り立っている馬鹿げた世界は時代遅れでまちがっている。
[2857] 女はつらいよ h18.12.13
人間にとっては、知覚欲の満足が一番楽しいことである。
しかし、女は子供を産み子供を育てるのに忙しく、考えごとをする暇がない。
だから、たとえ愛情が知覚欲よりもつまらなくても、女は知覚欲よりも愛情を満足させるしかないのである。[女は自分の裸を毎日見ているから愛情を働かさなければならない気持ちになるのだろう。]
つまり、人間にとっては、面白かろうがなかろうが、とにかく自分がしなければならないことをするしかないのだ。
[2858] 幻聴はあるかないか? h18.12.14
五感界においては幻聴は存在しないが、実在界においては幻聴は存在する。
普通は幻聴が問題になることはないが、焦燥病にかかり焦燥感情が高まると幻聴が焦燥感を刺激して不快になるので問題になる。
聴覚の蝸牛器官のように、幻聴覚をつかさどる器官が脳のどこかにあるに違いないが、今のところどこにあるかは不明である。
乗り物酔い薬のように、飲めば幻聴が聞こえなくなる薬はまだできていない。
幻聴がないと考えてあとで焦燥病にかかって苦しむよりも、あらかじめ幻聴があると考えて焦燥病にかからないように注意するほうが賢明である。
[2859] 超能力の科学的研究の必要性について h18.12.15
昔、近代自然科学ができる前は、日蝕は太陽の神が人間を嫌って姿を隠すことであり、稲妻はゼウスの神が人間を怒って天空から放った矢であった。その時代の人々は不可解な自然現象に恐怖し、恐怖感に耐えながら毎日生きて行かねばならなかった。
しかし、ニュートンが地球の運動とリンゴの運動を統一してからは、日蝕は太陽が月の裏側に隠れることであり、稲妻の正体は電気であることがわかった。[アメリカのフランクリンが凧を揚げて実験した。]
こうして、自然現象が神話的空想的意味づけをやめて、科学的実在的に意味づけられることになって、みんなが日蝕や稲妻などの自然現象に対して客観的楽観的な目を向けることができるようになったのである。
だから、超能力に対しても同じように、神様がらみの意味づけをやめて、科学的実在的意味づけに改めなければならない。そのためには、今度から超能力者が現れたら、その超能力をできるだけ温存し、超能力を科学的に研究して、超能力の実体を解明しなければならない。
そうして、超能力に対して科学的実在的な意味づけができるようになれば、みんなが安心して気軽に超能力に接することができるだろう。
[2860] 教育の条件 h18.12.15
人間の心には生まれつき知覚欲(考える喜び・学ぶ喜び)がある。
人間にとっては、知覚欲の満足が最大の喜びである。
だから、子供に対しては知覚欲の喜びを伸ばし知覚欲の喜びを損ねないように配慮しながら、教育しなければならない。
考えようとする気持ちを失わず、毎日考え続ければ、どんな問題でもいつかは解ける。
[2861] 宗教は誇大欲を満足するためにあるのではない。 h18.12.15
そもそも宗教は“神(超能力者)を人の上に置く”ためにある。
それなのに、自分の誇大感情(自分が他人より優れている喜び)を満足させるために宗教に入る者がいる。
これでは悪い政治家と同じだ。[悪い政治家は勝てない戦争をやりたがる。]
人間にとって一番楽しい感情は知覚欲であるのに、あまり楽しくない誇大感情を一生懸命満足させようとしている。
そのために心は汚く腐[くさ]っており、もはや人の心ではない。
外見は2本足で立っているけれども、心は人のものではないので、もはや人間ではない。
自分の誇大感情を満足するために変な宗教に入って間違った知識を身に着けるよりも、学校や大学で習ったことを基にして自分で真面目に考えたほうがいい。
[2862] 宗教の変遷 h18.12.18
この世には、ごくまれに超能力者が現れる。
超能力者を昔の人は「神」と呼んで崇[あが]めた。
これが宗教の始まりである。
宗教ははじめは純粋に“神を人の上に置く”ことだったが、時代を経るにつれて、“神を人の上に置き”ながら人間側の利益(お金とは限らない)にもなる方法がとられるようになって行った。[神が数千年に一度しかめったに現れないので、最初は神のためにあった宗教も、しだいに“神を人の上に置く”意味合いが薄れ、人のための宗教に変わってしまったのだろう。]
0)神すなわち超能力者が見つかるとすぐに超能力者の超能力を消し、神の定義をわからないようにして民衆を支配しやすくするのも、そのためである。[[2855]への付け足し]
しかし、この0)のやり方では、民衆をだましているのと変わらず、超能力者にとっても自分の超能力の才能を失うことになり、また超能力を消す際に他の脳機能を損ねる可能性もあり、超能力者にとって有害無益・失礼千万なので、今後は廃止すべきである。
そもそも“神を人の上に置く”のは、誇大感情のある神がそうすると喜ぶからである。私のような誇大感情のない神にとっては“神を人の上に置い”ても嬉しくも何ともない。
事実は神に超能力があり人に超能力がないことだけであって、神が人の上に在ることではない。
宗教はそもそも『人間が神の喜ぶことをする』ことであって、“神を人の上に置く“のは誇大感情の強い神に対するひとつの方法にすぎない。
これからの宗教は、神と人間の両方を幸福にする方法でやって行かねばならない。
[2863] 犯罪に使われることが超能力を消す理由にはならない。 h18.12.18
人間の手がピストルを握れるからといって、手をちょん切られてはたまらない。
これと同様に、超能力者の超能力が犯罪に使われる可能性があるからといって、超能力者の超能力を消す理由にはならない。
超能力者に関する刑法は、実際に超能力が犯罪に使われてから、その都度決めればよい。
[2864] 医者の世界 h18.12.19
医学には論理性がない。[たとえあってもほとんどない。]
論理性がないから実在的でない。
実在的でないから知覚的でない。
つまり、医学では五感しか働かない。
だから、医者には五感欲(見る喜び・聞く喜び)しかない。[だから医者は、ブランド品で身を固めたがるのだ。]
医者には知覚欲(知覚の喜び)がない。
そのうえ医者は幼い頃から親の躾[しつけ]が厳しいから、躁鬱感情が発達している。
躁鬱気質の喜びは誇大感(自分と他人を比較して、自分が他人よりも優れている喜び)である。
つまり、医者の世界は、五感欲と誇大感情の満足でできている世界である。
将来、医学が進んで医学が物理学のように論理的・知覚的になれば、医者も知覚欲の満足で生きて行くことができるだろう。
[2865] 物理学も宗教である。 h18.12.19
神が考えたことは何でも宗教になるのだから、例えば神が数学や物理学が好きで数学や物理学を考えたら、数学や物理学も宗教になる。
そんな神のいる国の国民はみんな、数学や物理学を一生懸命勉強しなければならない。
[2866] 文学について h18.12.19
文学は、実在しない概念をポンと思いついて、その概念と矛盾しないように論理的に世界を構築することであるから、数学に似ている。
[2867] 躁鬱気質と安心不安気質 h18.12.19
親の躾[しつけ]が厳しいと、子供は躁鬱感情が発達して躁鬱気質になる。
反対に、親が子供をわがままに育てると子供は安心不安感情が発達して、安心不安気質になる。
躁鬱気質の喜びは、誇大欲(自分が他人から偉いと思われる喜び)である。
安心不安気質の喜びは、支配欲(他人が自分の思い通りになる喜び)である。
躁鬱気質の者が誇大欲[安心不安気質の者にとっては従属欲と見なされる]を満足するためには、他人にとって自分がよく見られなければならないから、眼先耳先の五感欲が発達する。例えば、政治家や医者や社会学者や芸術家などがこれに属する。
安心不安気質の者が支配欲を満足するためには、自分が他人のことをよく理解しなければならないから知覚欲が発達する。例えば、数学者や自然科学者や文学者などがこれに属する。[安心不安気質の者が孤独を好むのは、自分が支配できない対象(他人)と一緒にいると、自分が不安になる(イライラして不快になる)からである。]
その他、性欲の満足で生きている者(痴漢)は、性欲は知覚欲と拮抗するが五感欲とは拮抗しないので、痴漢は五感欲が発達している。
女性は愛情が発達しているが、愛情は知覚欲と拮抗するが五感欲と拮抗しないので、女性は五感欲が発達している。[女性の知覚欲が発達しすぎると子供への愛情が働きにくくなるような気がする。]
[2868] 神の気質[きしつ] h18.12.19
ブッダは「サイの角のようにただ一人歩め。」と言った。ブッダの言葉には代数学的整合性があるし、ブッダは知覚的な人だから、誇大欲はない。
キリストは「汝の隣人を愛せ。」と言った。「汝の隣人に愛されるようになれ。」とは言わなかったから、キリストは一人称視点の人であり、誇大欲はない。
私は小さい頃からずっと親に自由奔放に(つまり、放任主義で)育てられてきたから、自己中心的な見方しかない。だから、誇大欲はない。
このように、超能力を発揮した神はみな安心不安気質であり、支配欲の喜びしかない。
したがって、宗教すなわち『人間が神の喜ぶことをする』ためには、人間が神の命令に従うしかない。[それにしても、私は他人に命令したり、自分の思想を人前で説法しても嬉しいとは思わない。[『他人に説法するより自分自身に説法せよ。』(by私)]聖書の中のキリストや仏典の中のブッダは誇大感がありすぎる。これまでの神は後世の作家に性格を書き変えられているのではないか?いくら神が死んでいないからといって、これでは神に対して失礼ではないか!?]
[2869] ムダのない宗教 h18.12.20
超能力者には超能力があり、その他の人間には超能力がない。
超能力者は超能力がある点で他の人間よりも優れている。[超能力者は超能力以外の点では他の人間に劣ることがある。]
したがって、超能力者を讃[たた]えるならその超能力で讃えるべきであって、それ以外のことで讃えるべきではない。例えば、超能力者の思想が優れていることで超能力者を讃えるべきではない。超能力者の思想で超能力者を讃えたりするから、超能力者が偉大な思想家に間違われたりするのである。
神の本質は超能力にあるのであって、思想その他の活動にあるのではない。[例えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどは優れた思想家であったが、彼らには超能力がなかったので神にはなれず、彼らの思想は宗教化されなかったのである。]
したがって、超能力者を讃えるなら、例えば、超能力者の超能力がはじめて確認された日を『超能力の日』(または『念動力の日』)に指定したり、その日に『超能力祭』を催したりして、超能力者の超能力をそのまま祝えばよい。[必ず、『超能力』を明示すること。例えば、『超能力の日』にNHKで私の幼い頃に発揮した超能力の実写を放送する。]その他の余計なことはやってはいけない。[超能力者を思想で人の上に置くことにすると、超能力者どうしの思想の競争になり、自国の超能力者に優れた思想を持たせるために、わざとに超能力者をつらい目に合わせたりすることになるので、超能力者の超能力で端的に祝うことにしたほうが超能力者にとっては負担にならず楽である。]
[2870] 宗教はいらない。 h18.12.20
こうして、法律によって超能力者の超能力が発現された日を国民の祝祭日にしてしまえば、それ以上のことはやらなくていい。
だから、例えば、超能力者の思想(の正しい部分)を国民に広めたりしなくていい。
したがって、そのための実行機関である国家神道も不要である。
だから、国家神道の司教である天皇も要らない。
天皇がいなければ、日本国憲法の第1〜8条も要らない。
“神(超能力者)にすがって国が豊かになる”ことはいいことだから、その気持ちを『超能力の日』や『超能力祭』として形にすればいい。
[ただし、超能力者が考えた思想や研究は、それらを超能力者の人間としての業績と見なし、他の人間の思想や研究と同様に扱えばよい。つまり、思想や研究については、超能力者だからといって特別視しなくてもいい。]
[2871] 男と女では教育の仕方が違う h18.12.20
母親の教育は愛情でするが、
父親の教育は知覚でする。
男と女とでは感情の働かせ方が違うので、
子供に対する教育の仕方も違うのだ。
[2872] 一体感 h18.12.21
湯川秀樹がノーベル物理学賞を取ったから、『日本人は物理が苦手な民族ではない、[同じ日本人である]自分もがんばれば物理が得意になれる』ような気持ちになる。
広中平祐がフィールズ賞を取ったから、『日本人は数学が苦手な民族ではない、自分もがんばれば数学が得意になれる』ような気持ちになる。
同じように、日本に私のような超能力者が現れたから、『日本人は超能力者の出ない民族ではない、自分もひょっとしたら超能力者になれる』ような気持ちになる。
このように、人間には民族や人種としての一体感があり、同じ民族や人種の中で他人ができると自分もできると考えてしまうものである。
ヨーロッパの各地に盛んに教会が建てられたのは、人々がキリストの教えを学ぶと同時に、超能力者であるキリストとの一体感を体験するためでもあったのだろう。
[2873] 黒人いじめ h18.12.21
白人による黒人いじめや黄人いじめの原因は、キリストという白人の超能力者がいたことである。超能力者のキリストが白人であったため、白人種が黒人種や黄人種よりも優れた人種であると白人は考えたのである。白人が大航海時代に全世界に船で乗り出し、全世界を支配しようとしたのもそのためである。
しかし、このたび黄色人種から超能力者である私が現れた。
したがって、超能力の形質に人種特異性はないと考えられる。つまり、白人からも黄人からも黒人からも超能力者は現れ得るのである。だから、もはや白人が黄人や黒人に比べて特に優れている根拠はないから、白人が黒人いじめや黄人いじめをやってはいけない。運動や芸術の才能においては黒人が白人よりも優れているから、もはや白人が黒人を劣った人種と見なす理由はない。
[2874] リンカーンはなぜ殺されたか? h18.12.21
リンカーンは黒人を白人と対等であると考えた。
しかし、白人の中には、超能力者であるキリストが白人だったから、白人が黒人よりも優れていると考える者がいた。
そんな白人にリンカーンは殺されたのである。
[2875] 個性を伸ばそう h18.12.21
自分と他人を比較して自分が他人より優れていることで喜ぶよりも、
自分自身の身体にある性能を引き出し伸ばすことで喜ぶほうがいい。
[2876] 人間は知覚欲の満足で生きて行かねばならない。 h18.12.21
性欲は知覚欲よりも快感が強い。つまり、性欲[の満足]で生きている痴漢が一番楽しい。
しかし、女がその身体構造ゆえに[たとえ愛情が知覚欲よりつまらなくても]知覚欲よりも愛情で生きて行かねばならないように、人間は大脳が発達しているから、その身体構造ゆえに性欲よりも知覚欲で生きて行かねばならないのである。[知覚は人間の唯一の取り柄であり、人間が知覚を使うのをやめたら、動物以下の暮らしになる。性欲(と食欲)だけで生きて行けるのは寄生虫だけだ。]
とにかく、おもしろうがなかろうが、自分がやらねばならないことをしなければならないのだ。
[2877] 人間は知覚欲の満足で生きて行くほうが幸福である。 h18.12.23
人間は知覚を使っていろんなことができ、それだけ多くの感情を満足することができる。
人間が幸福か不幸かは、ひとつの感情だけで決まることではなく、感情全体で決まることである。
たしかに性欲は知覚欲より快感が強いけれども、性器を使うよりも知覚を使ったほうが感情全体としては幸福になれる。つまり、性欲系感情群(性欲の下[もと]に満足されるいろんな感情)よりも知覚欲系感情群(知覚欲の下に満足されるいろんな感情)のほうが全体としての快感が強い。
だから、知覚欲を肯定したほうがいいのである。

[2878] 未知なる大宇宙 h18.12.23
眼で見えるのが実在する宇宙の一小部分であるように、知覚で[考えて]見えるのもやはり宇宙の一部分である。
人間の知覚を超える知能を持つ生物がいれば、人間ではけっして見ることのできない宇宙の姿が見えるだろう。
[2879] 神の偉大さ h18.12.24
イエス・キリストは直感的で感情的な神(超能力者)であった。
キリストの思想は卑近で高度感がないため、一般人に受け容れやすく親しみやすかった。
しかし、そのためキリストは偉大な神だと見なされず、はりつけにされて殺されたり[イエスは“愛の国”を作ろうとして、国と戦争した結果、敗れて国王に殺されたのだ。]、宗教改革以降は教義を何度も訂正されたりした。
キリストは貧乏人だったため、まともな教育が受けられず、そのため思想が幼稚であり、人々からなめられたのだ。
神が偉大でない社会においては、人間的発展がしやすい。キリストが偉大でない神であったために、神が絶対視されず、人間中心主義が成立しえたのである。
一方、ブッダは論理的で知的な神であった。ブッダの思想は深遠で高度感があり、一般人には近寄りがたいものがある。
ブッダは偉大な神なので、今でも仏教国では、人々はブッダの教えに従って暮らしている。
ブッダは王族の息子だったので、豊かな教育に恵まれ、現在においてもその価値を失わぬ優れた思想を持つに至ったのだ。
神が偉大である社会においては、人間的発展がしにくく、今でも人々は神の教えを頑[かたく]なに守って数千年前と同じ暮らしを続けている。
人間にとっては、偉い神よりも偉くない神のほうがありがたいようである。
[2880] 現象 h18.12.25
男と女では満足している感情が違うので、男と女は同じ実在の世界に居ながら違う現象を見ているのだ。(現象=実在×感覚)
[2881] 王族と貴族 h18.12.25
王は国の最高の政治的権力者であり、日本の内閣総理大臣やアメリカの大統領に相当する。とくに、血縁で王の地位を継ぐ場合に王族と呼ぶ。
伯爵・男爵は学問や戦争などにおいて偉大な業績を成し遂げた者であり、とくに血縁で地位を継ぐ場合に貴族と呼ぶ。
しかし、ベルヌーイ一族の例を見てもわかるように、学問や戦争や政治の才能はせいぜい3代までしか続かない。
政治や学問や戦争の才能は血縁で何代も継げるものではない。
だから、学問や戦争や政治の業績に対する賞讃は個人的に与えられるべきであり、血縁で何代も地位を継ぐような制度は廃止すべきである。
[2882] 信者の気質 h18.12.25
普通の人は自分の心に立脚して生きている。
それは心が正常に機能しているからである。
ところが信者は心が汚く腐っている。[信者はキチガイがまともぶっているだけだ。]
だから信者は自分の心に立脚して生きて行けなくなっている。
そんな者は精神病院に行って心が正常に機能するように治してもらえばいい。
それなのに、信者は宗教に入って他人(神や司教や司祭)の心にすがって生きて行こうとするのである。
つまり、信者は他人の言いなりになって動くだけのお人形である。
人間は自分の心に基づいて生きて行くべきであり、信者の生き方は人間としてまちがっている。
心の調子がおかしくなったら、ヘンな宗教に入って他人の言いなりにされるよりも、精神病院へ行って早く自分の心を正常に働くように治してもらいなさい。
そのほうが人間としてのプライドが立つはずだ。
[2883] 女性にとっては愛情が大切。 h18.12.25
子供を育てるのは大変なことだ。
そのつらさを子供を思う愛情で楽しさに変えねばならない。
勉強ばかりして知覚欲しか働かない女は、子供を見ても愛情が湧かず育児ノイローゼになるだけだ。
女として生まれてきたら原則的に『子供を産み子供を育てなければならない』ので、知覚欲よりも愛情を大切にすべきだ。[それでも頭のいい人は勉強ができるだろう。]
[2884] 嘘をついてまで幸せになるな! h18.12.26
いくら心が大事とはいえ、
嘘をついてまで幸せになろうとしてはいけない。
あることをないことにし、ないことをあることにすることは実在を否定することであり、
ひいては知覚欲の否定にほかならない。
性欲の満足ではないが、やっていることは痴漢と同じである。
まず実在を肯定すること、そして実在の中に幸せを見出すこと、そこに人間の生きる道がある。
[2885] 職業倫理説 h18.12.26
キリストは“愛の国”を作ろうとした。
そこでは、他人の物は自分の物であり自分の物は他人の物だった。
だから、誰も他人を頼りにして自分から働こうとはしなかった。
“愛の国”の人々は昼間から道端にうずくまったり寝転んだりして好き勝手にダラダラしていた。[中世末期において教皇や聖職者たちが堕落していたのは、彼らがキリストの思想に忠実に従っていたからである。]
それを見かねたカルバンは、『仕事をすることによって人は善人になる。』と考えた。
そうして人々の愛情でふやけた怠惰な心に喝[かつ]を入れたのである。
[2886] 懐疑主義 h18.12.26
ヨーロッパでは中世まではみんながキリストの言葉を信じて疑わなかった。
ところがいくら聖書の教えに従っても、ちっとも人々は幸福にならなかった。
キリストの『愛の国を作れば、みんなが幸福になれる。』と言う言葉を信じて1000年以上一生懸命やってみても、けっきょく幸福にはなれなかったのだ。
そこで人々は考えた。
『この世に真理などあるのだろうか?』
これが懐疑主義の始まりである。
[2887] 個性と一般性 h18.12.26
現象は実体と感覚の両方で決まる(現象=実体×感覚)。
したがって、公共施設は広くみんなに受け容れられるように非個性的・一般的に作られるべきであり、反対に個人の所有物は個人の感覚にとって気持ちよいように個性を利[き]かして選んだり作ったりしなければならない。
つまり、公共施設は広く浅く作られるべきであり、個人の所有物は狭く深く作られるべきである。
[2888] 実存主義 h18.12.26
実存主義とは、『実在の外に出[い]で立つ』ことである。
ところが、人間の脳は常に実在の中にあり、どんなに脳を働かせたところで実在の外に出ることはできない。
あえて言えば、五感は実在そのものの認識ではないから五感は実在の外にあるが、五感自体は大脳の神経興奮によって発生した感覚であってやはり実在の内にある。
実存主義における『実在の外』とは、けっきょく五感界のことを指しているのである。
実在主義(合理主義)とは、『実存の外に出で立つ』ことである。五感界が実在の外にあるからこそ、人間は知覚を使って考えて、実在の内に戻るように努力しなければならない。
また、エクスタシーも、実在の外に出るのではなく、実際には人間の脳の中にある性欲中枢の神経興奮によって発生した感覚である[つまり、人間の脳の中にある興奮した性欲中枢が荷っている感覚である]から、人間は依然として実在の中にあり続けるのである。
マンガを読んでいるときでも、読んでいる脳自体は実在の中にある。
実在の外の世界なんてものはありえないのである。
だから、例えば超能力も、超能力者が実在の外に出て使った能力ではなく、超能力者が実在の中に潜んでいる[現在の物理学において]未知の原理を用いて発現した能力なのである。
[2889] 子供について h18.12.27
知覚界における概念(イデア)は五感界の経験を分析して作り出される。
だから、子供はまだ五感界の中に居る。
いくら子供に大人が理論的に説明しても、子供にはまだ知覚界に概念がないからわからない。
その代わり子供には大人の言葉に理屈ぬきで従う性質があるから、大人は自分が正しいと考えることを子供にどんどん教えてあげればいい。
子供が思春期頃になると、子供の知覚界に概念が溜まってきて自分で理屈をこねて考えられるようになるから、もはや親の一方的な命令は子供に通用しなくなる。
[2890] 神とは犠牲心の強い者のことを言うのではない。 h18.12.27
たしかにキリストは自分の信者たちのために十字架にはりつけにされて殺された。
だから、キリストは犠牲心が強かった。[それを為政者たちは活かしたかったので、キリスト教を支持した。]
しかし、キリストのほかにも、ジャンヌ=ダルクや天草四郎時貞や太平洋戦争の戦没者たちも大勢の人々のために自分の命を捧[ささ]げた尊[とうと]い人である。
したがって、強い犠牲心のためにキリストが神とされてキリストの思想がキリスト教とされるのなら、この人たちも神とされ思想は宗教となるはずである。
ところが実際にキリスト以外は神とされないし、思想も宗教になっていない。
したがって、神とは犠牲心の強い者のことではなく、やはり超能力者のことなのである。
[私がクルクル回る物体でシンボル化されているように]キリストはよく十字架でシンボル化されるけれども、犠牲心で神なのではなく、超能力で神なのである。
だから、いくら大勢の人々のために自分の命を捧げても、超能力がなければしょせん神にはなれないのである。
[2891] 自分自身の心で生きよ。 h18.12.27
神とは超能力のある[またはあった]者のことである。
超能力のあることと、心の出来が良いこととは関係ない。[昔は脳のことがよくわかっていなかったので、超能力があると、心も知覚も五感もすべてが優れていると考えられたのである。]
だから、たとえ心の調子がおかしくなって自分の心に立脚して生きて行けなくなっても、神の心に従えばよいわけではない。
超能力の才能しかない神なんかの心に従うよりも、もっと心の出来のいい人間の心に従ったほうがいい。
しかし、そもそも心の調子が良かったときには自分の心に立脚して生きて行くことができたのだから、やはり宗教なんかに入って他神や他人の心にすがって情けなく惨[みじ]めに生きて行くよりも、精神病院に行って自分の心を治してもらってちゃんと自分の心で生きて行けるようにしたほうがよい。[親が入っているから入信した者は、どうして親が入信したかを考えてみよ。]
[2892] 近代政治の誕生 h18.12.28
中世頃までは純正なキリスト教社会だったために、愛ゆえに自分と他人の区別すらなく、“個人”の概念が認められなかった。
中世頃になってキリスト教が大幅に改造されて、はじめて“個人”の概念が認められた。
“個人”の人権を守るために生まれた組織が、近代政治なのである。
[2893] ボルンの原理と超能力(仮説) h18.12.28
観測者が物の位置を見ようとすれば点になり、運動量を見ようとすれば波になるように、
『現象=実体×感覚』だから、特殊な感覚で実体を見れば、いまだ人類が見たことのない現象(超能力)が現れるはずである。
超能力者は特殊な感覚で実体を見るから、超能力者にしかわからないことがあるはずである。
仏教では「昔の神が眼先で実体を見たから物体が生じた。」と言うように、人間(あるいは超能力者)が用いる感覚によって実体がどんな現象になるかが決まるのである。
[2894] 理数科学は大人の味。 h18.12.28
私が音の味まで分かりながら音楽が聴けていたのは小学3年生頃までだ。
小学生頃は自分で絵や漫画を描くのが好きだったが、中学生頃になると面倒臭くなって嫌になった。
今でも面白いのは、理科と数学だけだ。
いわば理数科学は最初から大人の味だったわけだ。
[2895] 宗教改革 h19.1.5
キリストは貧乏で十分な教育が受けられなかったので、キリストの教えには最初から矛盾するところがあり、言い足りないところも多かった。
それで、教会の教皇や聖職者たちがキリストの教えに従いながらキリストの教えを悪用し、社会を悪い方向に進ませ、自分たちの私服を肥やしていた。[例えば、“右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ。”という命題を悪用すれば、いくらでも自分以外の者をいたぶれることになる。また、教皇や聖職者たちに年貢を納めることを教皇たちへの愛情と考えれば、厳しい年貢の取り立ても正当化される。]
マルチン=ルターは、これではいけないと思い立ち、キリストの教えの中にある互いに矛盾する命題の一方を捨て[例えば、キリストの教えの中に『人類を幸福にする』と『知覚を否定する』の二つの命題があったとき、文明が発達した社会においては両者の命題は矛盾対立するので、後者を否定し前者を肯定しなければならない。]、キリストの教えの言い足りない部分を補って、教会の教皇や聖職者たちの堕落を諌[いさ]め、社会を善い方向に進ませた。
これはキリストの教えを根底から否定するやり方ではなく、キリストの教えに従いながらキリストの教えを改良することなので、宗教革命と言わず宗教改革と言うのである。
宗教改革は神(超能力者)ではなくマルチン=ルターという人間の手によってなされたのだ。
同じように、日本神道の司教や司祭や信者たちの堕落を諌めるために日本神道の教義(私は内容を知らない。『和をもって尊しとなす。』とか『柔よく剛を制す。』みたいなものか。)を修正して日本神道の宗教改革をして、[あるいは日本政府の政治家たちの堕落を諌めるために日本政府についての法律(これも私は内容を知らない。法律に詳しい人以外は知らないだろう。)を修正して日本政府の政治改革をしたりして、]日本社会を善い方向に進ませるマルチン=ルターのような人間が日本にも現れないものだろうか。[ちょうど、第2次世界大戦後のアメリカ軍が、日本におけるマルチン=ルターの役割を果たしたといえよう。しかし、その法改正によるやり方も万全とはいえず、いまだに日本神道の汚いやり方が生き残っている。少なくとも、『宗教の者が超能力者に干渉してはならない。一般に、宗教の者が他者の身柄を拘束したり他者に危害を加えてはならない。』項目を日本神道の教義に付け加えねばならない。]
[2896] 宗教よりも政府がマシ。 h19.1.5
神(超能力者)の掟[おきて]は、人間の法よりも強いから、政府は宗教の下[もと]で形成されねばならない。つまり、政府は宗教に従わねばならない。

しかし、そもそも神すなわち超能力者は超能力の才能のある人間にすぎないから、部分的に普通の人間よりも優れた存在者(生物)にすぎず、神を絶対視して神を人間の上に置く必要はない。
神の掟にも間違いや矛盾や不足があるから、必ずしも人間の法よりも強い、つまり正しいわけではない。
神の掟にせよ、人間の法にせよ、正しくなければ個人も社会も善い方向には進まない。
つまり、正しさにおいては神の掟も人間の法も平等である。
神も人も実在の前においては平等である。
したがって、私は神を人の上に置く宗教よりも、神を人と平等に置く政府のほうを肯定する。

[2897] 神の掟 h19.1.6
そもそも神の思想を掟とするやり方は、人間の勝手だ。そんなやり方では、立法マニアの神以外は喜ばない。神も人間も幸福に生きたいのだから、人間が神の人生に不当に干渉してはならないはずだ。
[2898] 宗教と政府 h19.1.6
宗教は人間の心つまり願望に基づいて成立する。
宗教では、全知全能の(実際には、いくつかの超能力が使えるだけの)神が基準で人間は限られた存在だから、人間が神に従わねばならない。
一方、政府は科学的世界観つまり実在に基づいて成立する。
政府では、限知限能の人間が基準で神は超能力の備わった進化した人間だから、人間と神は基本的人権において平等である。神と人間は同じ人権を保障される。神の才能すなわち超能力は神個人のものだから、神がそれを使って何をしようが[法に反しない(つまり、他人の身体を傷つけない、他人の人権を侵害しない)限りは]勝手である。

[2899] 神についての法 h19.1.6
この世には、人間が作った『神についての法』がある。
その内容には、
1)何らかの方法で超能力者の超能力を消し去ること。
2)超能力者の思想を掟として人類がそれに従うこと。(ただし、「酒くれ・金くれ・女くれ〜」はいけないらしい。)
などがある。(私は詳しく知らない。)
しかし、実際には[超能力者の脳の構造は普通の人間の脳とほとんど変わらず]超能力者の超能力でそれほど大したことは出来ないはずだから、神の超能力はほとんど人間にとって無害だと考えられる。おそらく、科学知識を持たない昔の人が超能力を見て恐怖のあまり作ったのが、1)の項目なのだろう。しかし、それでは、人類はいつまでたっても超能力が理解できないままであり、人類の知的好奇心が満足されず、真実から目を背[そむ]けることは人類の科学的発展を阻害する。[いくら火が危険だからといって火に手を出さなかったら、今日の人類はありえなかっただろう。]したがって、1)の項目は削除すべきである。
それに、神の思想が正しければ人類を幸福に導けるが、反対に正しくなければ不幸に導くだけだ。思想の正しさは、主に知覚の才能だから、神だからといってとくに正しいわけではない。神の思想にまちがいがあった場合、人類がそれを修正できないのでは困ったことになる。したがって、2)の項目は、人類の幸福への道を妨げるものであり、これまた削除すべきである。
このように、『神についての法』には、人類や神自身を幸福にする善い項目がない。したがって、『神についての法』は直[ただ]ちに廃止しなければならない。
[2900] 宗教とは何か h19.1.6
宗教とは、『神についての法』に従って神と人間の両方を管理する組織である。
したがって、『神についての法』がなくなれば、宗教も成立しなくなる。