[2501] 抑鬱気質は明るい。 h18.8.5
抑鬱気質の人は抑鬱中枢の興奮性が強く抑鬱感の感覚が強い。
抑鬱感情が興奮しやすく、少しでも陰気なことをすごく不快に感じる。
だから、暗いことや陰気臭いことが大嫌いである。
反対に、明るいことや陽気なことが大好きである。
面白さに敏感で、文学が得意である。

[2502] 気質と得意・不得意 h18.8.5
焦燥気質の人は論理的である。だから、数学や物理のような論理的なことが得意である。一方で、社会科や生物学のような非論理的なことが苦手(不得意)である。
反対に、焦燥気質でない人、つまり焦燥中枢の感覚が弱い人は、非論理的なことが得意で、数学・物理が不得意で社会・生物学が得意である。
抑鬱気質の人は陽気である。だから、文学のような陽気なことが得意である。一方で、医学のような陰気臭いことが苦手(不得意)である。
反対に、抑鬱気質でない人、つまり抑鬱中枢の感覚が弱い人は、陰気臭いことが平気で、文学が苦手で医学が得意である。
つまり、

  焦燥気質である 焦燥気質でない
抑鬱気質である 論理的で陽気 非論理的で陽気
抑鬱気質でない 論理的で陰気 非論理的で陰気



焦燥気質の人は非論理的(五感的)なことがやれない。[もっとも、大学の数学は知覚的すぎて私には理解できなかった。知覚的にもほどがある。つまり、私が理解できるのは、五感的すぎず知覚的すぎないことである。]
抑鬱気質の人は面白くないことがやれない。
だから、焦燥気質でも抑鬱気質でもない人は何でもやれる。例えば、東大に行くような人は焦燥感も抑鬱感もない人、つまり論理性(正しさ)も面白さも感じない人である。要するに、感情の強い人、つまりわがままな人は東大に行けないのだ。
また、例えば、医学には論理性も面白さもない。だから、医学は論理性も面白さもわからない人にしかやれない。そういう無感情な人しか医学はやれないのだ。
ただし、東大の人も医者も知覚はよい。

[2503] キリストとブッダの性格分析 h18.8.5
キリストは抑鬱気質だったが焦燥気質ではなかった。つまり、キリストは性格は明るかったが論理や真実を貴ばなかった。[これに対して、ギリシア文化は多数の人間が作った文化だったので、焦燥気質でもあり抑鬱気質でもあった。つまり、数学・自然科学、文学などあらゆる方面において栄えた。]
一方、ブッダは焦燥気質だった。つまり、ブッダは真実を貴んだが、五感界を論理性のない世界と見なして無視した。

[2504] ルネサンスのもうひとつの可能性 h18.8.6
中世にヨーロッパにモンゴルが攻めてきた。
モンゴル軍は強かった。
ヨーロッパ人はこのままではいけないと思った。
モンゴル軍は仏教徒だった。
ヨーロッパ人は、インドにも神がいたことを知った。
そこでヨーロッパ人は仏教思想を取り入れることにした。
インドの神(ブッダ)は正義心の神だということで、ギリシア精神と通じるところがあると見て、ヨーロッパ人は古いギリシア文化を復興させることにした。
これがルネサンスである。
[一方、インド人はキリストを神だと見做さないので、今だにインド人はヨーロッパ文化を受け容れていない。]

[2505] 東大生気質[きしつ] h18.8.6
焦燥気質は正しさの感情が強く、
抑鬱気質は面白さの感情が強い。
一方、東大生は万能である。五科目全部がよくできる。
それは、東大生が情操(感情のコントロール)ができるからである。
焦燥中枢や抑鬱中枢の活動度を変えることで、幅広い世界に適応できる。

東大生は情操能力が高い。
私にはそんな情操能力がない。私は多少抑鬱感情がコントロールできる(つまり、多少面白くないことに耐えられるーこれができないと数学や物理学もわからない)だけで、焦燥感情が強すぎてコントロールできなかった。そのために、社会科や生物学のような非論理的学問がわからなかった。

東大生は情操能力が高い。
でも、それは『点取り欲』や『出世欲』や『他人から利口に見られたい欲』のためである。それらの欲が強いから、正しさの感情(焦燥感)や面白さの感情(抑鬱感)を平気で捨てられるのだ。私にはそんな欲がない(か、あっても弱い)から、正しさの感情を最後まで捨てられなかったのだ。正しさの感情を犠牲にしてまで社会科や生物学をわかりたくない。それに正しさの感情を犠牲にしていくら社会科や生物学をわかったって、そんなのは本当にわかったことにはならない。『わかる喜び』を失うほうが、社会科や生物学がわかるよりも大事だ。人間から『正しさの感情』や『面白さの感情』がなくなったら、あとはくだらない感情しか残らない。感情には大事なものとどうでもいいものとがある。私は『正しさの感情』が『点取り欲』や『出世欲』や『他人から優秀に見られたい欲』よりもくだらないとは思えない。『正しさの感情』を押し殺してまで『点取り欲』や『出世欲』や『他人から優秀に見られたい欲』を肯定する価値はない。だから私は『正しさの感情』を肯定する。
そんなこんなで、私は今でもずっと社会科や生物学がわからないままなのだ。

それでも『点取り欲』や『出世欲』や『他人から優秀に見られたい欲』のためにまじめに勉強や仕事をするうちはいいが、そのうち欲望が先に立って、『点取り欲』を満足するためにカンニングや対プリ勉強したり、『出世欲』を満足するためにコネやツテや裏金を使ったり、『他人から優秀に見られたい欲』を満足するために偽りの経歴や褒章をでっち上げたりするようになる。[すべての人がそうだとは限らないが。]これでは、『正しさの感情』や『面白さの感情』を肯定して生きて行くほうがずっとマシだ。
『点取り欲』や『出世欲』や『他人から優秀に見られたい欲』を肯定して一時的によい成績をあげるよりも、長い目で見て『正しさの感情』や『面白さの感情』を肯定して生きて行くほうがよい。
人間には肯定すべき感情と否定すべき感情とがある。一時的な眼先の欲望に駆られて、その選択を誤ってはならないのだ。

『正しさの感情』(焦燥感)と『面白さの感情』(抑鬱感)の二つの感情は、人間において最も感覚の強い感情である。そのため、精神病や神経症の原因にもなる。その他の感情は『正しさの感情』や『面白さの感情』に較べて感覚が弱いので、たとえ満足させたとしてもさほどの喜びは得られないのだ。

[2506] 九大医学部基礎研究棟における講義について h18.8.6
今から約20年前、私が医学生だった当時は、何をやっているのかわからなかった。
講義で使う教科書も面白くなかった。
しかし、今になって振り返ってみると、“角膜の酸素透過度”とか“細胞膜上にあるイオンチャンネルのイオン透過性の膜電位による変化”とか“空腹中枢の活動電位の糖濃度依存性”とか生物体の組織の物理的特性を調べる研究が多かったようである。つまり、物理学や化学における研究対象を生物体に置き換えたものが多かった。[ただし、生体は腐りやすいので、すばやく測定しなければならない。]
もっとも、生物体には生物特有の“角膜”とか“イオンチャンネル”とか“空腹中枢”とかの構造体があるので、それらの構造体の持つ生物学的特性と物理・化学的特性との関係がわかると面白い。
ただ、医学生の頃の私は物理・化学の勉強が不足していたので、それらの構造体に対して十分に物理・化学的な目を向けることができなかった。『まず物理学や化学が理解できていなければ、生物も理解できない。』できれば、自分たちの研究している生物の具体的な話しに入る前に、その生物体に適用される物理学や科学の理論を解説して欲しかった。

[2507] 私の場合 h18.8.7
医学の世界では『正しさの感情』も『面白さの感情』も満足されない。
だから、『見栄欲』(自分の外見をよくして他人に気に入られたい欲望)とか『性欲』(セックスやオナニーとかのエクスタシーの快感)とか『麻薬欲』(薬物による快楽中枢の刺激)とかその他のくだらない感情を満足しなければやってられないのだ。
医学生や医者の性格が悪いのはそのせいだ。
社会学とか生物学とかの世界も同じだ。
そんな世界には学問自体の喜びはなく(だから講義は面白くない)、学問以外の何かが喜びなのだ。

[2508] 焦燥感情の五感界への作用について h18.8.7
焦燥感情が知覚界へ作用すると『正しさの感情』となる。それは、知覚界に矛盾する二つの命題があると、焦燥感情が働いてイライラして不快になり、その不快感をなくすために知覚界に論理的矛盾がなくなるまで考えた結果、知覚界が正しくなる(つまり、実在と一致する)からである。
このように、考えごとをする者にとっては焦燥感情は『正しさの感情』になる。
考えごとをしない者にとっては、知覚界よりも五感界が主だが、五感界に焦燥感情が作用する(複合する)と、掃除・洗濯・炊事などをきちんとやる『几帳面さの感情』となる。例えば、掃除の場合、部屋の中が片付かずゴチャゴチャしているのを見ると焦燥感情が興奮してイライラするので、このイライラの不快感をなくすために、一生懸命部屋を掃除して綺麗にしようとする。炊事・洗濯についても同様である。つまり、焦燥感情が五感界に働いて五感界に整然とした秩序をもたらすのである。
反対に、家事をやりたがらないダラダラした主婦は、この焦燥感情つまり『几帳面さの感情』が働いていないのだ。例えば、掃除の場合、いくら部屋の中がゴミやホコリで散らかっていても、焦燥感が働かないので不快に思わず、そのままほったらかしである。
このように、焦燥感情はただイライラして不快なだけではなく、人間の思考や行動に有効に作用して人間の暮らしに役立っているのである。

[2509] 私と弟 h18.8.8
私は焦燥感が強いので、論理性のない文章を読んでいるとすぐにイライラする。それに教科書はたいてい面白くないので、社会科や生物学の教科書を読んでいるとイライラとつまらなさの相乗効果ですぐに眠くなるのだった。
反対に、私の弟は焦燥感は弱いが、その代わり抑鬱感が強かった。それで、私と性格が合わないので、しょっちゅうケンカしていた。学校の勉強の教科書はたいてい面白くないので、それが不快で学校が嫌で登校拒否児だった。ただ家の中でも本は読んでいたので、国語は多少好きだったはずだ。
私の場合でも、弟の場合でも、とにかく、はっきりしていることは、感情が強いと苦手科目ができることだ。かと言って、感情のない子は、陰鬱で非論理的なこと(社会科や生物学)だけが得意であって、焦燥感や抑鬱感を働かす科目(数学・理科や国語など)は得意ではない。
情操(感情のコントロール)ができないと、5科目得意にはなれないのだ。

[2510] 帰省病 Return Disease h18.8.15
今年の夏は高知の実家に帰った。
4泊5日した。
帰った初日の晩飯には、母が『くじらと大根の煮物』を作ってくれた。
くじらの脂身と大根を薄くしょうゆで煮込んだものだ。
くじらの肉は高知の近所のスーパーでもめったに手に入らないそうだ。
くじらの肉は私が小学生頃まではすき焼きの牛肉の代わりに用いて食べていたが、その後は福岡で医学部生の頃、馬出[まいだし]のスーパーマルキョウで晩御飯のおかずによく『くじらのフライ2切れ』(160円)を買って食べていた。
その後はずっと食べたことがなかったから、約20年ぶりに口にしたことになる。珍味だ。
私がおいしそうに食べていると、父が自分の分まで私に譲ってくれた。
それはさておき、お腹いっぱいおかずを食べれたのはよかったが、いざ夜床につくと頭がギリギリ痛んで眠れなかった。ふとんに横になって2〜3時間経ってなんとか眠れた。
こんな夜が高知にいる間中続いた。
3日目の晩に母が作ってくれた『DinnerCurry』を食べたら腹が下げた。
高知にいるときは原因がわからなかったが、高知を発って自分のマンションに戻って3日経ってようやくわかった。
それは、水だ。
最近高知へ帰っても水道の水がツンとしておいしくない。高知の水道の水は苦くて辛い味がする。
一方、私は普段ハウスの『六甲の水』ばっかり飲んでいる。
もちろん、私の住んでいる所の水道の水も高知と同様苦くて辛い。
苦くて辛い水道の水を飲んだり、その水を用いて炊いたご飯やおかずを食べると、あとで体調が崩れて頭が痛くなったりするのだ。
4〜5年ぐらい前の高知の水は、もっと“ぬめり気”があってうまかった。今の水はサラサラしていてまずい。
このように、帰省して水質が急激に変化するために体調が崩れることを『帰省病』と名づける。
今度の件は、私が今住んでいる所の水に慣れたために起きたのではなく、高知の水質が最近急激に悪くなったために起きたのだと考えられる。
高知の実家では台所の水道の蛇口に“カルキの臭いをとる道具”をつけているが、昔はそんなものをつけていなかった。
高知の人口が増えたために上水道の浄化の仕方が変わったせいだと考えられるが、人体に悪影響なので、できれば昔の浄化の仕方に戻してもらいたい。
そうしてくれないと、今後高知へ帰りたくない。

[2511] 夜食の弁当の件について h18.8.15
今年6月に私が勤めていたOS(アウト・ソーシング)の株式会社コラボレートがNEOMAX近畿から撤退したので、私はコラボレートから新日本に会社を移って、以前と同じNEOMAX近畿で働いている。
約1ト月前に新日本の事務員(作業員の社員を管理する人)が新日本の社員(作業員)を集めてミーティングをした。そのとき、事務員は「数ヶ月前から夜食の弁当箱が盗まれている。月に2〜3万円にもなる。この中に犯人がいる。8月1日から夜食の弁当を中止にする。」と言った。そのため、今月はじめから今まで、夜食の弁当が出なくなった。みんな弁当が食べれないので、脂汗流して目を白黒させながら必死で朝まで働いている。お腹がすいて足元がふらついて事故る可能性もある。食事抜きで働くのは身体に悪い。そのうちみんな仕事ができない身体になってしまうだろう。私も弁当を食べないと、脳の調子が悪くて考えごとがしにくい。
ところで、上のように事務員は「この中(つまり、新日本の社員(作業員)の中)に犯人がいる」と言った。
これはすでに事務員が犯人を知っているからである。
なぜなら、その他の可能性がいろいろあるのに、「この中に犯人がいる」と断言したからである。
夜食の弁当を止められて一番困るのが新日本の社員(作業員)であるのに、新日本の人が犯人であると考えるのはおかしい。それなら、OSの他会社の者か自分の愛妻弁当を持ってきて食べているNEOMAX近畿の正社員がやったと考えたほうがもっともらしい。新日本の社員が自分で外で弁当を買って来て食べていると、自分が犯人であることがばれやすくなるからやりそうもない。あとで自分も夜食が食べれなくなって損をするから、こんないたずらをする者は新日本の社員の中にはいないはずだ。
それに、あとで新日本の社員以外の人がやったとわかった場合、はじめに新日本の事務員が新日本の社員を疑うのは自分の会社の社員に対して失礼すぎるだろう。この失言はあまりにも大胆すぎる。
だから、最初から事務員は犯人を知っていると考えられる。事務員が犯人を知っているのであれば、当人に注意して弁当箱盗みをやめさせるか、あるいは当人の仕事じたいを辞めさせるかしなければならない。
それに、そもそも弁当箱を盗ってもお金にならないし、弁当箱を欲しがる者もいない。だから、弁当箱を盗る個人的な動機がない。外部からの命令で誰かが動いたとしか考えられない。(あるいは、誰も動いていないのかもしれない。)事務員も外部からの命令で夜食を取り消したのだろう。事務員は今後一切外部からの命令に従わず、早く夜食を再開してもらいたい。[命令]

[2512] 母から出る優しい気について h18.8.16
今年の夏も実家に帰省したが、
最後の日の朝に、母から“優しい気”が出ていた(ちょっと芝居っぽかったけど)。
私の心が母の優しさを感じられるのは、
母の心を母のX器官(送信性テレパシー器官)から出した感覚波を
私のX’器官(受信性テレパシー器官)で受取って私の心で感じなおしたものだ。
だから、優しさは自分の心にあるのが真実だ(その引き金を引くのは母親だけど)。

幼少の頃の私が超能力でガラガラを回せたのも、
私の精神がガラガラと一体化できたからではなく、
私のY器官(送信性サイコキネシス器官)から出た感覚波がガラガラに作用したからであろう。

[2513] 天使伝説 h18.8.17
私が赤ちゃんだった頃、
親が空に放り上げると、空中で一瞬静止することがあったそうだ。(by幻聴+推測)
それを見た昔の人は、
赤ちゃんには眼で見えない羽がついていると考えた。
私は、感覚子と感覚波で説明したい。
赤ちゃんの脳から出た感覚波が赤ちゃんの身体と相互作用して、
赤ちゃんの身体に短時間上向きの力を与えたのだ。
『荘子』で崖から落ちた赤ちゃんが死ななかったのも、そのためなのかもしれない。
人間の脳には本来そういう力(性能)が備わっている[人がいる]のだが、
大人になるとその力の使い方を忘れてしまうのだろう。

[2514] 役立たずは無用である。 h18.8.17
私にとって役に立つとは、私の幸福を増進し私の不幸を回避させることである。
したがって、私と関わった人間で私にとって役に立った人間はひとりもいない。
むしろ私の周りの人間は、私の幸福を妨害し私の不幸を増進しただけだ。
私にとって役に立ったのは私自身だけだ。
私と関わった人間は日本人だけだ。[私と口をきいた少数の外人は除く。]
役立たずは無用である。
したがって、私にとって日本人は無用である。私の家族も例外ではない。

[2515] 日本人抹殺ゲーム h18.8.17
命令)今度どんな方法でもいいから日本人を累計で一番多く殺した外国に世界の支配権を与える。
ただし、日本人を全滅させてはならないとする。
日本人を殺す方法は、戦争でも、食料や資源の日本への輸出制限でも、日本製品不買運動などの経済制裁でも、新種の病気でも何でもよい。
“累計”で一番殺人数の多い国に支配権を与えるから、支配国が入れ替わることもありえる。
このゲームは私以降の神が現れてこのゲームを取り消すまで続く。(だから、私以降の神がゲームを取り消さなければ永遠に続く。)
ゲームを盛り上げるための細かいルールは世界中の国々(ただし日本は除く)で話し合って決めてもらいたい。例えば、“累計”を“10年毎”にするとか、戦争は禁止するとか、殺しの代わりに“不幸指数”を定義してその値で評価するとかに変えてもよい。

[2516] 才能 h18.8.17
私の母は、「学校の勉強の才能はない」(本人談)が、家事の才能と優しさとか明るさとかの気を作る才能がある。[明るさといっても、顔をニコニコさせることではなく、身体から白い放射状の光が出ることだ。]
人間にはいろんな才能がある。
学問やスポーツの才能がすべてではない。

[2517] 超能力を消した方法 h18.8.18
私の大脳前頭葉前部を虚血状態にしてその機能を鈍らせることによって、幼少の私の超能力を消したのだ。
今でも、私の大脳前頭葉前部には活気(脳の活動に伴う生気)がない。

[2518] なぜテレパシーは遠くまで届くのか? h18.8.19
それは、感覚波が量子化されているからだ。
遠くの星の光が眼に届くのと同じだ。
それと、感覚波は人間の脳のX’器官以外の物質と相互作用しないので減衰しないのだ。
ニュートリノが地球を貫くのと同じだ。

【命令】 h18.8.20
全人類は、神を不快・不幸にしてはならない。

[2519] 私の友人の言葉の意味 h18.8.20
正岡淳「1歩前進、2歩後退」(私が朝倉第2小学校4〜5年生のとき正岡君の家で)←幼少の頃の私に超能力があったために、その超能力を消すために大脳を虚血状態にされたので大脳の他の機能も損なわれた。
川本竜彦「1度あることは2度ある、2度あることは3度ある。」(私が高知学芸高校2〜3年生のとき学校のF組の教室で)←私の超能力を消すために、1度目は私の大脳を虚血状態にし、2度目は大脳の機能を低下させる薬を飲ませ(これは推測)、3度目は私を分裂病にかからせてその後幻聴やガン飛ばしで私を苦しめ続け、私を勉強や仕事ができないようにした。
浜渦「(川野なんか)面白くない。」(私が高知学芸高校2〜3年生のとき学校のE組の教室で)←私が高1のとき分裂病にかかったきりで、いつまでたっても治らないので。あるいは、私が分裂病にかかっても、なかなか自殺しないので(同学年に電気コードで感電自殺したという噂[うわさ]の女生徒がいた)。

[2520] 夜食の弁当の件について(その2) h18.8.21
犯人は事務員の松本氏である。
今から約1ト月前、松本氏が夜勤明けの私と第2工場の空き缶捨て場で会ったとき、松本氏は私に向かって「その缶はずいぶんたくさんあるがうちから持ってきたのか?」と訊いた、私は「そうじゃありません。」と答えた…@。私は勤務中の4〜5日分の空き缶やペットボトルや空き瓶を勤務の終わりの日にまとめて捨てるので、たくさん溜まっていたのである。けっしてうちから持ってきたのではない。
7月中頃にあったミーティングでは、松本氏を含む3人の男の事務員が前に立って、夜食の弁当中止の件について話をした…A。
あと、8月に入る少し前、朝の出勤のバスの待ち合いのとき、事務員の松本氏が自家用車に乗ってやって来て車から降りて、私の隣の部屋に住んでいる作業員の広瀬君に青い紙を見せた…B。広瀬君は毎日宅配弁当を取っている。それで、いつも弁当箱が1階のポストに入れてある。
@より、松本氏の「その缶はずいぶんたくさんあるがうちから持ってきたのか?」という質問に対し、私が「そうじゃありません。」と答えたことから、私がたくさんの缶を工場からうちへ持ち出したことになる…C。
Aより、3人の男の事務員が前に立ったことから、Cの“たくさん”が具体化されて3万(3人のman)になる。[弁当箱は1箱300円ぐらいだから、1月に100箱の弁当箱がなくなることになるが、実際にはそんなに多くはないだろう。]
Bより、松本氏が広瀬君に“青い紙”←いつも青い服とズボンを着ている神=私を見せたことと、いつも広瀬君がポストに弁当箱を出していることから、Cの空き缶が弁当箱に置き換わる[どうして置き換わることになるかは理由不明だが]。また、青い紙を松本氏が広瀬君に見せたことから、Cの私が広瀬君か松本氏かに置き換わる(松本氏自身も青い紙を見ているので)[これまたどうして置き換わることになるかは理由不明だが]。
あと、Bより、事務員の松本氏が自家用車に乗ってきて駐車場に車を止めたことから、事務員の松本氏が弁当を駐車→中止したことになる[下手なシャレ]。
したがって、Cは全体として、広瀬君か松本氏が3万の弁当箱を工場からうちへ持ち出したために、夜食弁当が中止になった、ことになる。[ちなみに、松本とか広瀬という苗字の付く人はきまって私のライバル役である。(私が小3〜6の頃、松本零士のマンガを真似てマンガを描いていたことから、松本が私の(漫画家としての)ライバルということになる。あと、私が小学生のとき広瀬剛志[ひろせたけし]という不良がいて私と気が合わなかったから、広瀬が私のライバルになる。(でも、何かで一度だけ気が合ったことがある。)]
ところで、広瀬君にとっては夜食の弁当が中止になることは損である。なぜなら、弁当を食べずに働くことはつらいからである。また、私の周りで不自然に動いているのは事務員の松本氏だけであり、他の者とくに私と広瀬君はいつもと同じように動いている。したがって、犯人は広瀬君ではなく、事務員の松本氏であると考えられる。[もっとも、実際には、松本氏がシャレの上で犯人役を演じただけで、本当は何もなかったのかもしれない。]
とにかく、弁当が中止になった原因(?)は、松本氏の“駐車”にある[シャレだけで理由ではないが]のだから、駐車を止めさせれば弁当中止も止まるはずだ。そのためには、例えば、松本氏の自動車をブチ壊せばいい。

[2521] 男女平等 h18.8.21
人間にとっては、利口か馬鹿かの区別のほうが男か女かの区別よりも優先する。
つまり、馬鹿な男よりは利口な女のほうがいい。

[2522] 幸福のバロメーター h18.8.21
資源もエネルギーも有限である。
いくら経済成長率が高くても、資源やエネルギーを使い切ったら終わりである。
だから、経済成長率だけを幸福のバロメーター(指標、物差し)にしてはならない。
経済成長率を改良して、経済成長率に代わる新たな幸福のバロメーターを定義しなければならない。

[2523] デカルトの言葉 h18.8.21
「知覚は誰にでもある。ただ知覚の正しい使い方を知らないだけだ。」(デカルト著『方法序説』より)
デカルトの『精神指導の規則』には、知覚の正しい使い方が詳しく述べられている。//

※以下の[2524]、[2528]〜[2537]、[2545]、[2548]にあるやり方(“な。”とか“てはいけない。”とか“ことにはならない。”とかの手前の部分)は、国際規約や私の命令があるにもかかわらず、それに反してこれまで私に対する嫌がらせや攻撃をやり続けてきた方法の数々である。

[2524] 命令をきかない人 h18.8.22
命令をきかない人(反対組も含む)を私の周り(私に関わることのできる範囲)に置くな。
命令をきかない人を使って、私に対して命令に反することをさせるな。[命令]

[この方法を使って、一度幼少の頃の私の超能力を消した後も、国際規約に反して私の超能力を消したり、私の命令に反して私に対する嫌がらせをやり続けてきたのである。(今後、一度たりとも超能力者の超能力を消してはならないとする。)]
また、私の命令(または、公の組織が定めた規則)に反する命令を作って、
私の命令(または、公の組織が定めた規則)に反することを人にさせてもならない。[命令]

[2525] 反射衛星砲 h18.8.22
地上で作った中性子線やγ線などを静止衛星の反射板で反射させ、日本全土に照射する。
爆発や破壊を伴わない攻撃が可能である。

[2526] “分裂病”はBad Naming h18.8.23
昔の人は、分裂病者の幻聴を、自我が“分裂”してもうひとつの自我ができ、そのもうひとつの自我がもとの自我に対して悪口を言うこととして捉えた。
だから、“分裂病”と言うのである。

しかし、誰でも自分が幸福でありたいのだから、自分に対して自分自身を不快にする悪口を言う者はいないはずだ。
だから、幻聴は自分の自分に対する悪口であるとは考えられない。
幻聴はテレパシー(感覚波通信)による他人の自分に対する悪口にほかならない[悪口でないこともあるが]。
鬱病が抑鬱中枢の過興奮であるように、分裂病は焦燥中枢(イライラ中枢)の過興奮であるから、
分裂病は焦燥病(イライラ病)と呼ぶべきである。

[2527] “Resist temptation!”(私が高知市立朝倉中学校1年生のとき、英語の沢谷先生が教えてくれた言葉) h18.8.23
人間はなんらかの喜びがなければ生きられない。
誰でも、一時的に知的好奇心が満足できなくなって、性欲、物欲、美欲などの他の感情の満足に走ることがある。
でも、人間であるかぎり、いずれは知的好奇心の満足に戻るのであるから、一時だけの衝動に流されるべきではない。

[2528] 「おれが悪い。」 h18.8.23
「おれが悪い。」と言って、悪いこと(命令や規則に反すること)をするのもいけない。
また、自分が悪者だという理由で、悪いことをするのもいけない。[命令]
本当に悪いとわかっていたら、悪いことはできないはずだ。

[2529] 「みんなにやるならいい。」 h18.8.24
「私ひとりにやるんじゃない、みんなに(他の人に対しても)やるならいい。」という屁理屈も禁止する。[命令](例、私の住んでいるマンションの私と山内さんの傘が盗られた。新日本の社員全員の夜食の弁当が中止になった。)

[2530] 曖昧な言い方 h18.8.24
曖昧な言い方で命令するのもいけない。
つまり、文末まで、〜であるか〜でないか、〜せよか〜するなか、
はっきりと言い切らねばならない。[命令]
聞く方の恣意によるのでは、正確に情報が伝わらないからである。
それに、聞き手の恣意に依らない言い方をすることは、
話し手の表現力を高めることになる。
表現力を高めることは思考力を高めることにもなる。

[2531] 「不快にならなければいい。」 h18.8.24
相手が不快にならなければいいと言う理由で、相手が不快になるまで攻撃してはならない。[命令]

[2532] その他 h18.8.24
自分で自分自身を不快にしたからと言って、同じことをやって他人を不快にしてもいいことにはならない。[命令]

[2533] 「ごめん。」 h18.8.25
「ごめん。」と言って謝ったからといって、悪いことをしてもいいことにはならない。[命令]

[2534] 反対組の人 h18.8.25
自分が反対組(私の命令をきかない人の集まり)の人だからといって、私の命令に反することをしてもいいことにはならない。[命令]

[2535] 自分が悪いと思わない。 h18.8.26
自分が悪いと思わないと言う理由で、悪いこと(命令や規則に反すること)をしてもいいことにはならない。[命令]

[2536] みんながしている。 h18.8.26
みんな(自分以外の人)がしているからと言う理由で、自分が悪いことをしてもいいことにはならない。[命令]

[2537] 私が嫌い。 h18.8.26
私が嫌いと言う理由で、私の命令に反することをしてはならない。[命令]

[2538] 自分は馬鹿。 h18.8.26
自分は馬鹿で私の命令がわからないからと言う理由で、私の命令に反することをしてはならない。[命令]

[2539] 命令を知らない。 h18.8.26
私の命令を知らないからと言う理由で、私の命令に反することをしてはならない。[命令]

[2540] 自分のしていることがわからない。 h18.8.26
自分で自分のしていることがわからないからといって、悪いことをしてもいいことにはならない。[命令]

[2541] 自我と対我の解消法 h18.8.26
自分で自分のことを考えていると、考える自分≡自我と考えられる自分≡対我が生まれる。
自我と対我は相反するものである。
この自我と対我の対立を解消する方法としては、
1)曖昧化…“である”か“でない”かを言い切らない方法。ただし、この方法では理解そのものが成り立たなくなる。弊害があまりにも大きいため、この方法はとらないほうがよい。
2)弁証法…自我と対我の対立を超えたひとつの概念を創出することによって、この対立を解消する方法。一種の悟りのようなもの。言葉があるだけで、実際にはよくわからない(例、主客未分の純粋経験とか)。止揚すると言うだけで、済ませていることも多い。
3)感覚子による方法…『脳細胞の神経興奮で感覚子が発生する。』と考える方法。この考えでは、そもそも自我と対我の区別を考える必要がない。だから、自我と対我の対立もない。

[2542] 管理者たちへ h18.8.26
私の管理者と、管理者に従ってきた者たちは、公務員および民間会社の会社員を辞職しなければならない。今後一切、世界中のすべての国でいかなる労働(金銭の収入を伴う行為)に従事してもならない(だから、自営業もアルバイトもだめ)。[命令]

[2543] 管理者へ h18.8.26
私の管理者は、私と独立に(つまり、私に従属せずに)他の者に命令してはならない(指示を与えてはならない)。[命令]
私の管理者も私の命令に従わねばならない。[命令]
[“管理者”という言葉は、埼玉の高野君(理1)?が私に幻聴で教えてくれた。スタートレック・ボイジャーの第1,2話にも出てくる。私は“管理者”という言葉が私を管理する者なら誰でも当てはまるので上手いと思ったので、この言葉を用いることにした。]

[2544] 日本語はどうして単数と複数の区別をしないのか? h18.8.26
日本人は団体への所属意識が強い(者が多い)。
それで、自分と自分が所属している団体とを同一視するあまり、単数と複数、つまり元と集合の区別をつけないのである。
しかし、私は個人主義であり、数学においても論理的に元と集合とは区別すべきなので、やはり元と集合すなわち単数と複数の区別は明確にすべきである。(いちいち“たち”を付けろとは言わないが。)

[2545] 言ったり見せたりしてもだめ。 h18.8.26
私の前で言ったり、私の眼の前で物に喩えて言いたいことを見せたからといって(承認の代わりのつもりらしい)、やっていいことにはならない。[命令]

[2546] 政治が命令のすべてではない。 h18.8.27
例えば、権威ある学者(つまり、正しい学者)の見解に従うのは、学問的関係に基づく命令である。
宗教の教祖が信者に命令するのは、宗教的関係に基づく命令である。
学問や宗教は政治ではない。
私は生物的関係に基づいて人類に命令するのである。

[2547] 命令とは何か? h18.8.27
あるひとつの関係に基づいて上下ができる。
上の者が下の者を従える。
支配・従属関係に基づいて発せられた言葉が命令である。
生物的関係は、他のすべての関係よりも優位にあるから、
無条件に神が人類に命令できるのである。

[2548] 誤解・曲解 h18.8.27
私の命令を誤解・曲解して、私の命令に従わないのもいけない。私の命令には、余計な解釈をせずにそのまま従わなければならない。[命令]
例えば、私の周りにいる一部の者は、私が命令したときの私の気分を読んで、その気分を自分たちが真似ることで自分たちが私の命令に従ったことにしているが、最近私が書いた『私の命令に背く方法』を読んで私が怒っていると誤解し、その怒りを自分達が真似ることによって逆に私を攻撃している。しかし、私はただこれまでの私の命令に背く方法(およびこれから先考えられる私の命令に背く方法)を列挙したまでで、別に怒って書いたわけではない。だから、私が怒っているとするのは誤解である。それに、当然のことながら、命令者の気分を真似ても命令に従ったことにはならない。

※その他、これらに準じる私の命令に背く行為を禁止する。つまり、私の命令をきかなくてもよい理由をつけて、私の命令をきかないことを禁止する。[命令]この命令は、これまで私が出した及びこれから私が出すすべての命令に適用される。
[私がこうしていくら個々に命令を列挙しても切りがないので、一言で何と言ったらよいか考えていたとき、養父の誰か(よくわからない)が『私の命令をきかなくてもよい理由をつけて、私の命令をきかないことを禁止すると言ったらいい。』と幻聴で私に教えてくれた。私はこの言い方が上手いと思ったので、この言い方を採ることにした。]

[2549] 美人よりは金持ちのほうがマシ。 h18.8.27
男も女も、美欲で生きている者よりは、金欲で生きている者のほうが(若干知的で)いい。
[美人とは美欲で生きている者のことである。]

[2550] 体育系よりは文化系(文系+理系)のほうがいい。 h18.8.27
体育系の者は判断力がなくて、いつも他人の言いなりで動くだけだ。
他人に従うこともある程度は大事だが、自分で判断を加えながら従うほうがいい。

[これはテレビニュースなどで作られた体育系の歪んだイメージである。実際には、体育系のすべての人が他人の言いなりではなく、文化系の中にも他人の言いなりの人もいるから、上のことは必ずしも成り立たない。私のまちがいである。ついでに、アニメ『空手バカ一代』の“かわら割り”のシーンは、あらかじめかなづちで割っておいたかわらをのりでくっつけたものを手で押しているにすぎないことは言うまでもない。]

[2551] どうすれば赤ちゃんと仲良くやれるか? h18.8.27
母親と赤ちゃんが仲良くやるためには、母親が赤ちゃん好きなだけではなく、逆に赤ちゃんが母親好きでなければならない。つまり、赤ちゃんが甘えん坊でなければならない。
人間の性格(心)は遺伝されるから、赤ちゃんが甘えん坊であるためには、父親か母親自身が甘えん坊でなければならない。
それを知るためには、結婚相手の男性の親に、結婚相手の男性の小さい頃の性格について詳しく訊いてみればいい。
甘えん坊の男性と結婚すれば、甘えん坊の子供が生まれるだろう。

[2552] インドの神の言ったこと h18.8.28
「私以外の思想を受け容れるな。」
一方、キリストは「私は完全である。」とは言ったものの、「私以外の思想を受け容れるな。」とは言わなかったので、近代ヨーロッパはインドの思想を受け容れたのである。
おそらく、昔のヨーロッパの人は彗星なんかを見て、“神の言った言葉は完全に正しいが、神の言わなかったこともある”と考えたのだろう。

[2553] 徳川家康 h18.8.28
徳川家康は頭のいい男だったので、『天皇が普通の人間にすぎない。』ことを見抜いていた。
眼先のハッタリに騙されない鋭い眼力の持ち主だったのである。
それで、天皇を東京から追い出した(殺すまでの度胸はなかったが)。

[2554] 感情でわかる h18.8.28
感情でわかってもわかったことにはならない。
例えば、“オナ二ーが不潔だ(または気品を欠く)からやらない”というのでは、オナニーをしてはいけない理由としては未熟で不十分である。『[2447]分裂病の発生機序』にあるように、『オナニーするといずれは分裂病(焦燥病)に行き着くことになり、分裂病(焦燥病)に罹ると不快になる』から、オナニーしてはいけないと理解していなければならない。
一般に、心だけでは、物事が正確にはわからない。心で物を見るのではなく、知覚で物と心の両方が見えてこそ、わかったことになるのである。

[2555] 命令 h18.8.29
私のホームページを私以外の者が書き変えてはならない。(掲示板やチャットに書き込むのはよい。)

[2556] 8リングス h18.8.29
私が朝倉小学校の2,3年生の頃、学校で『8リングス』が流行していた。2個1対の縦につなげた4対8個のリングで、ひよこや一輪車や罠[わな]などいろんな形を作る遊びである。[→『ジャングルはいつもハレのちグウ』のひよこ]
形のひとつに“裏ひよこ”と言うのがあって、裏ひよこはリングをつなぎ変えないかぎり作ることはできず、私はリングを外さずにひよこから裏ひよこを作る不可能なことに挑戦していた。(結果的にはできなかったが。)
私が“他人にやれないことをやろうとした”のは、私が憶えている限りでは、このときだけである。

[2557] 吾唯足知(鹿脅しの蹲[つくばい]の言葉) h18.8.29
心がある程度満足されたら、それ以上求める必要はない。
人類は限りなく前進しなくてもいい。(でも、仕事からの解放までは行きたい。)

[2558] 安楽死法 h18.8.29
幸福な世界を実現するためには、不幸な人間がいなければいい。
したがって、20才以上の成人には、自分の意思で自由に安楽死(無痛死)できる権利を認める。[20歳未満の未成年は、まだ実在が見えていないので、安楽自殺権を認めない。本人の意識がしっかりしていて、自分が将来幸福になる可能性が極めて低いと正しく判断できるのであれば、安楽死を認めることはむしろ正当であると考えられる。]
ただし、他者を唆[そそのか]したり脅[おど]かしたりして自殺に追い込むのは禁止する(有罪とする)。[ただし、私が定めた法によって自殺に追い込んだ場合は無罪(例えば、ケンカ法に従って外人が日本人を崖っぷちに追い詰めて日本人が飛び降り自殺した場合、その外人は無罪)。私が他人を自殺に追い込んでも、私は無罪(例えば、仮に私がお札を1枚100万円で日本国民全員に売りつけたことが原因で誰かが自殺しても、私は無罪)。]
今後、安楽自殺を実現するための研究をすみやかに行い、平成28年までには日本各所に安楽自殺のための施設を設置し、無料で安楽自殺できるようにしなければならない。[命令]

[2559] 女の才能 h18.8.30
女の才能は、子供を産んで育てるだけ。
しかし、それは大雑把な分類であって、
じつは、その中には、いろんな(未知の)才能が隠されているのだ。
例えば、子供に優しい気持ちを掛けることもそのひとつだ。[私の脳には優しさに反応する部分があるが、私の弟にはそれがないことを母親は見抜いていた。]
『気持ちを作る』才能が女性にはある!(男にはできんだろ。や〜いや〜い。たとえできても、男と女では作る気が違うのだ。そこに秘密がある。)

[2560] 無条件に心に従えばよいわけではない。 h18.9.1
人間の心の中にあるすべての感情を肯定してよいわけではない。
それでは、かえって不幸になるからである。
人間が幸福であるためには、肯定してよい感情といけない感情とがある。
例えば、知的好奇心は、実在についての理解を深めるとこれまでできなかったことができるようになり、人間の感情を満足しやすくするので、肯定すべき感情である。例えば、医学は、治らなかった病気が治せるようになるし、物理学は、自動車やクーラーやコンピューターなどの発明のもとになる。
反対に、性欲は一時的には快楽であるけれども、結果的には焦燥感を高めて分裂病にかかりやすくなるので、否定すべき感情である。
食欲や酒やタバコの欲も、肯定しすぎると自分の身体を壊して病気で苦しむことになるので、ほどほどに肯定しなければいけない。その他の遊びも、遊び欲を肯定しすぎるとあとで疲れて嫌な思いをするので、ほどほどに肯定したほうがよい。
このように、ひとつの欲望(感情)を肯定すると、いろんな結果を生むので、それらの結果に対するその他の感情の反応までも考慮して、欲望(感情)を肯定すべきかすべきでないかを決めねばならないのである。

[2561] 五感界の意義 h18.9.1
五感界(視覚や聴覚で見える世界)は実在認識の出発点であり、五感界を知覚で考え深めることによって実在認識に近づく。

[2562] パソコンゲームのその後 h18.9.1
以前、私のパソコンゲームのマルチプレイをインターネットを介して邪魔されたことがあったが、1ヶ月前ぐらいからされなくなった。
以前、私の留守中に私に無断で私の部屋に入って物を盗られたり壊されたりしたことがあったが、3ヶ月前ぐらいからされなくなった。
以前、私が私の哲学日記に『7億円くれ』と書いたことがあったが、いまだに1円ももらっていない。

[2563] 美欲とは何か? h18.9.2
美欲とは自分が他人に見られる喜びである。“八方美人”と言う言葉にもあるように、美は顔や身体の見てくれのよさについてだけではなく、勉強や仕事の出来についても言うことがある。
『見るか見られるか』、つまり、
自分が他人を見る喜びで生きるか、自分が他人に見られる喜びで生きるかの違いだ。[焦燥(分裂)気質と躁鬱気質の違いを生み出す原因は、子供に対する親の接し方にある。つまり、子供の主体性を大事に(わがままに)育てると分裂気質になり、反対に子供の管理を厳しくする(子供を親の言いなりにする)と躁鬱気質になる。見るか見られるかで、人間の心の働き方が違ってくるのだ。]
『見る自分から見られる自分へ』、つまり、
自分で自分の目を信用できなくなった者が、他人の目に頼らねばならないことになる。

[2564] どうして私と弟はケンカしたのか? h18.9.2
私の母親の言うところによれば、「私と弟は同じ育て方をした」そうだ。
私がわがままに育てられて焦燥気質になったから、弟も私と同じ焦燥気質だ。
焦燥気質の人間はわがままだから、見る者であって見られる者ではない。
同じ家の中に見る者が二人いると気が合わないときにケンカが起こる。
私と弟は大雑把には同じ焦燥気質の性格で気が合うといえるのだが、それでも別人だから細かいところでは気が合わず、そこのところでケンカが起こる。
仮に弟が躁鬱気質であったなら、私と仲良くやれただろう。
私には10才年下の妹も一人いるが、私と妹は一度もケンカしたことがないから、たぶん妹は躁鬱気質なのだろう。
私と弟とは、同じ焦燥気質でよくケンカをしたが、私のほうが弟よりも3才年上であったので、体力の差でいつも私がケンカに勝っていた。そのため、私はわがまま欲(つまり、支配欲(安堵感・安心感))が満足されて面白かったが、弟はそれが満足されずいつも面白くない思いをしていた。それで私の支配欲は伸びて行ったが、弟の支配欲は育たなかった。私は支配欲が満足される喜びがあるのに、弟は何の感情も満足されず喜びがなかった。私が理数系が得意であるのに対し、弟に特に得意科目がなかったのは、そんなところにも原因があるのだろう。
私の弟は焦燥気質で勉強嫌いだったので、内弁慶の登校拒否児だった。

[2565] 褒賞は必要 h18.9.2
[2502]の図の第3象限は正しさも面白さもない領域だ。
他人に褒められる喜びがなければとうていやってられない分野だ。
だから、褒賞は必要である。
[第1,2,4象限の世界は、やっているだけで正しさや面白さの満足感が得られるから、とくに褒章は要らない。]

[2566] 反対組 h18.9.2
私の反対組(≡私を不快・不幸にした者、または私を不快・不幸にしようとした者)の人に対しては、誰でも自由に攻撃してよい。[命令]
[不快とは見る者の喜びが満足されないことであり、不幸とは見られる者の喜びが満足されないことである。]
攻撃とは不幸・不快にすることであり、その手段・方法・程度は任意とする。
たとえ反対組の人を殺しても無罪とする。

[2567] 私の希望 h18.9.2
私にとっては、私を幸福・愉快にするものは存在して欲しいし、反対に私を不幸・不快にするものは存在して欲しくない。
例えば、外人は私に科学や数学やゲームなどで喜びを与えてくれたから存在して欲しいが、私の周りにいる日本人は私に不快感を与えただけだから日本人はみな存在して欲しくない。管理者(政治家かもしれない。宮内庁の誰かかもしれない。管理者は私と天皇の調整役みたいだから、天皇自身が管理者であるとは考えられない。)の命令に日本人なら誰でも従うなら、日本人すべてを私の敵だと見做しても差し支えないからだ。

[2568] 4次元時空間 h18.9.2
われわれの住んでいる宇宙は、4次元時空間である。[宇宙には物(点と思えばよい)たちがあり、物と物の間には時間・空間と言う異なる2種類の隔たりがある。]
4次元時空間の中では、一度やったことは永遠にやったことになる。

[2569] 子供の感覚界と大人の感覚界の違い h18.9.3
[2561]より、子供の感覚界は五感的(悟性的)であるのに対し、大人の感覚界は知覚的(理性的)であることがわかる。つまり、子供の感覚界は知覚界が五感界に従属しているのに対し、大人の感覚界は知覚界が五感界を支配している。

[2570] 大阪人のいじくそわるさ h18.9.3
他人のお金を盗るのは、自分の得になる(自分を幸福にする)からわかる(いいことではないけど)。
ところが、自分の得にならないのに(自分を幸福にするわけではないのに)他人の嫌がることをしたがる者がいる。
それが“いじくそわるさ”だ。[正確には“いじくそわるい人”だ。もっとも、私は大阪に住んだことがないから、大阪人のみんながいじくそわるいかどうかは知らない。]
いったい、いじくそわるさを伸ばして何になるのだろうか。
それではお互いに他人を不幸・不快にするだけであり、社会全体が不幸・不快になるだけだ。
他人を不幸・不快にすることより、自分自身や他人を幸福・愉快にすることをすべきである。

[2571] いじきたなさ h18.9.3
いじきたなさとは、低級なすなわち動物的な喜びを不必要に過大に満足することである。
喜び(幸福)には、人間的な喜びと人間以下の動物的な喜びとがある。
動物的な喜びが張っている(強い)人を“いじきたない人”と呼ぶのである。

[2572] 尾立君のこと(追加情報) h18.9.3
尾立君とは、私が高知学芸高校1年のとき通路を挟[はさ]んで私の隣の席にいた不良である。私が私の焦燥中枢を過興奮させる原因になった男である。
じつは、尾立君は、私が高知学芸中学3年のとき後期生徒会の副文化委員長をしていたとき、同じ生徒会の副体育委員長をしていた。[もちろん、私は推薦されていやいやなっただけだが。]生徒会ではときどき口をきく程度の付き合いしかなかった。尾立君は3年B組で私は3年C組だったので、クラスでの付き合いはなかった。
中3のとき、前田君と尾立君がトイレでケンカしたという噂[うわさ]があった。前田君とは、みその塾からの知り合いで、中3のときの学力テストの数学ではいつも私が100点で1番で前田君は90点で2番だった。
高1の冬に私は前田君に誘われて3〜4ヶ月間『森塾』に通っていた。森塾とは、高知学芸高校と土佐塾予備校で掛け持ちで数学を教えていた森先生が自宅の2階の空き部屋を教室にしてやっていた塾である(→おもちゃ『小さな森の教室?』)。森先生は独身だったので部屋が余っていた。森先生は独身だったのでいつもインスタントラーメンを自分で炊いて食べていた。私が森塾に通い始めて1〜2ヶ月経ったとき、和田高明君と森脇直子さんが加わったが、2人ともすぐにやめてしまった。

[2573] 宴会について h18.9.3
宴会とは、互いに他人をおだて合う会である。
宴会芸は、自分の見られる喜びを満足するためにやるのである。
おだてにしろ、宴会芸にしろ、見られる喜びのない者にとっては、何の意義もないつまらない(むしろ不快な)会である。[女の子だからといって必ずしも見られる者であるわけではない。]

[2574] 私と天皇と管理者の関係 h18.9.4

これまでは管理者が私や天皇やその他の人を支配してきた。それは、管理者が私と天皇を同格だとまちがって考えていたからである。
しかし、管理者こそただの人間にすぎない。天皇も人間にすぎない。
一方、私は人間より上の神である。
したがって、これからは私が天皇(10年後には廃止)や人(管理者も含む)を支配する。

[2575] 人の性格は生まれつきだけでは決まらない。 h18.9.4
子供に対する親の管理が厳しいと子供が躁鬱気質になり、反対に親が子供を放任主義で育てると子供が焦燥気質になる(例、私や私の弟)ように、人間の性格は育て方によって変わるから、人間の性格は生まれつきの心だけで決まるのではない。

したがって、どんなに悪い性格の人(例、天皇)でも、性格を悪くしたのは本人だけのせいではなく、親、兄弟、友人などその人に関わったいろんな人のせいでもあるから、性格の悪さをその人だけのせいにしてはいけない。

[2576] 考えない大人 h18.9.4
人間の認識は、五感界から出発して知覚で考え深めることによって実在に近づいてゆくから、考えない大人はいつまでたっても出発点の五感界にいるだけである。
人間にとっては、考える習慣が大事である。

[2577] ハイデッガーの哲学 h18.9.4
ハイデッガーの哲学は、見られる者にとっての世界観である。
ハイデッガーにとっての“世界”とは、互いに見られる関係で結びついた人間の集まりにほかならない。このことから、“世界外存在”すなわち『疎外』(仲間はずれ)の概念が生まれてくるのである。
見られる者は躁鬱気質なので、ハイデッガーの哲学は躁鬱気質の世界観である。
以前に私が描いた[2502]の図は、見る者すなわち焦燥気質の者にとっての学問観であり、見られる者すなわち躁鬱気質の者にとっての学問観ではない。なぜなら、見る者と見られる者とでは“正しさ”や“面白さ”の意味が違うからである。
見られる者にとっての正しさとは、他人から見て自分が正しく見えることであるから、他人の言葉に自分が従うか、または他人の言葉と同じことを自分が言うことである。また、見られる者にとっての面白さとは、他人から見て自分が面白く見えること、すなわち自分が他人を面白がらせることであって自分自身が面白いと思うことではない(大阪風)。
したがって、見られる者にとっては他人が言葉で書いたことに自分が合わせことができる学科はすべて正しいのであり、ほぼ全科目が正しいことになる。ただし、数学では言葉の裏にあるイデアがわからねばならないので、見られる者にとっては社会科や生物学などの言葉だけの学問が易しく、数学や物理などのイデアの学問が難しいことになる。
反対に、デカルト哲学は見る者すなわち焦燥気質の者にとっての世界観である。例えば、正しさとはデカルトにとっては“自分が明晰判明にわかること”だったが、プラトンにとっては“みんなが正しいと認めること”だった。ヨーロッパにおける近代化とは、『見られる者から見る者へ』の変革であったと言えよう。
一方、中国では古くから道教と儒教の二つの道徳があるが、荘子が見る者であるのに対し、孔子は見られる者であると言えよう。[孔子の言う“仁”とは、見る者としての気構えのことか。]

[2578] 東大生気質 h18.9.4
東大生が全科目得意なのは、東大生が子供の頃から親に厳しく躾けられ躁鬱気質の見られる者だからである。
私も小学校中学年の頃までは体育を除けば全科目がよくできたが、中高校生頃になると明らかに得意科目と不得意科目の差がついた。それは私が見る者であり、私の気質が焦燥気質だからである。[たとえ数学や理科の教科書や参考書を書いた人が見られる人でも、最初に数学や理科の本を書いた人は見る人で、見られる人は見る人を真似て書いたのだから、数学や理科の本には最初に書いた人の“見る人性”が残っているのである。これに対し、社会科や生物学の本は最初から見られる人が書いたから、見る人性がなく、見る人にとっては読んでもわからないことだらけなのだ。]
中高生になったらもはや気質は変わらないから、あとは自分の気質を考慮して勉強や仕事を続けるしかない。つまり、得意・不得意の差をなくそうとするより、不得意科目は困らない程度に勉強して得意科目に全力を打ち込むべし。

[2579] 個人か社会か h18.9.6
一般に、ひとりの人間は焦燥気質と躁鬱気質の両面を併せ持つ。
つまり、人間は個人的存在であると同時に社会的存在でもある。見る者であり見られる者でもある。ただ、人によってどちらかに偏りがある。
例えば、焦燥気質の強い者が医学を勉強すると(例、私)、見る者としてわからないくてイライラして眠くなって勉強できなくなる上に、成績の結果が悪くて他人から低く見られて見られる者としての喜びも満足できずに落ち込むことになる。反対に、躁鬱気質の者が数学を勉強しても、同様である。少なくても、どちらかの喜びは必要である。[数学者の岡清は、聴衆が一人もいなくても最後まで講演を続けたという。]

[2580] 私が仕事に興味がないわけ h18.9.7
前にも書いたかもしれないが、私が小学4,5年生頃、私の母親が唐突に「のん君(私の呼び名)は将来何の仕事をやりたい?学校の先生か国鉄の職員(運転手)がいいんじゃない。学校の先生だったら夏休みがあるし(当時)、国鉄の職員だったら全国旅行できるし…。」と言った。まるでほかの誰かに言わされているように、仕方なく言っていた。
私は母親のあまりにも気のない言い方にムッと来て、それ以後学校の先生も国鉄の職員も一般にすべての仕事に興味が失せた。自分が将来なりたい仕事のことなんか全然考えなかった。

[2581] ケンカ法(改) h18.9.7
まず、全人類を私の管理者[私の管理者が複数いる場合には、それらの管理者のすべてを指す。]と管理者に従属する者[管理者の指示(直接・間接を問わず)に一度でも従った者または従う者は従属者とする。]とそれ以外の者とに分類する。
それ以外の者と私とは無関係だから、[2474]のケンカの掟によって私は彼らに関与しないことにする。
管理者に従属する者には私の味方役と敵役がいるが、それは管理者が決めているようなので、私が味方役に有利にし敵役に不利にするようなことはせず、一括して扱う。それに、同じ人間が味方役になったり敵役になったりすることがあるので、味方役・敵役を分けず、従属者と呼んでひとまとめに扱う。管理者が私の周りにいる従属者たちを使って(または自分自身で)私をコントロール(管理)している。[だから、私の管理者や管理者の従属者たちに命令するだけで私にまで作用が及ばなければ、私の管理者にはならない。反対に、一度でも私に作用が及んだら私の管理者になるということである。]
管理者とその従属者(管理者に従ってきた者)が私の人生を不快・不幸にしてきたことは事実である。
したがって、『私の管理者およびその従属者たちに対して、日本人外人を問わず誰でも自由に攻撃せよ。』とくに、管理者の間や従属者の間で攻撃しあってもよい。管理者が従属者を攻撃してよいし、従属者が管理者を攻撃してもよい。[命令]
攻撃の手段・方法・程度は任意とするが、原則として(つまり、場合によっては破ってもよい)私が私の人生において管理者とその従属者たちによって与えられた不快・不幸感と同程度の分量の不快・不幸感を彼らひとりひとりに与えることとする。私の管理者とその従属者以外の者への攻撃は禁止する。ただし、従属者は、これまで管理者の命令で私に関わった者だけではなく、管理者の命令があれば私に関わる者も含むとする。

[2582] ケンカ法についての細かい調整 h18.9.7
仮に管理者の命令で1人の従属者が私を1発なぐるとしても、100人の従属者でかかれば私を100発なぐれるから、私を撲殺できるだろう。
この場合、100人の従属者のうちの誰が私を殺したのか特定できない。だから、従属者には連帯責任がある。もちろん、従属者に命令した管理者にも責任がある。
ただ、組織では上へ行くほど責任が重くなるから、管理者は責任が重く、従属者は責任が軽くなる。それ相応に罰してもらいたい。少なくとも管理者には、私と同程度の分量の不快・不幸感を与えてもらいたい。[管理者や従属者が辞めたからといって、これまでにやった罪や罰を逃れることはできない。刑を済ませてからだったら、辞めてもかまわない。]

[2583] なぜ人類は超能力者の超能力を消すのか? h18.9.8
1)犯罪に使われる可能性があるから。←手が犯罪に使われる可能性があるからといって手を切り落とすことはないから、これは理由にならない。
2)危険だから。←超能力は他人を殺すためにあるのではない。他人を殺すためだけにある武器や兵器のほうがよっぽど危険だ。だから、これも理由とはいえない。
3)超能力が犯罪に使用された場合、立証しにくいから。←手による犯罪の場合にも必ずしも立証しやすいわけではない。物的証拠だけで立証されることは稀ではなかろうか。ほかに動機や状況などから攻める方法もある。ウソ発見器や自白剤による立証もありうる。だから、超能力だからといって特別に立証しにくいとは言えない。
4)超能力者の超能力を消すのは妥当か?←手が犯罪に使われたからといって、犯罪者の手を切り落とすわけではなく、改心させるのが原則だ。犯罪が起きるかどうかは手段や道具ではなく心の問題である。だから、超能力が犯罪に使用されたからと言って、超能力者の超能力を消すのではなく、やはり牢屋の中で改心させるべきである。
5)超能力で何ができるかわからないから。←超能力で何ができるかは超能力をじっくり観察しなければわからない。わかる前にそれを消すというのは、そもそもわかろうとしないことだから、わからないことを理由にすることはできないはずである。
とにかく、実際に犯罪が起こる以前に超能力者の超能力を消すことはあまりにも不当な仕打ちである。
よって人類側の有罪とする。
その責任は、管理者とその従属者たちにとらせることとする(それ以外の者には罪はないから罰もない)。[例えば、私の場合、幼少の私の超能力を消せと命じた者(当時の管理者)およびその命令に従って私の超能力を消した者(当時の従属者)を有罪とし罰することにする。]
したがって、今後超能力者の超能力を消してはならないこととする。

[2584] どうして幼少の頃の私の超能力を消したと言えるのか? h18.9.8
1)私が小学3年生の頃私の母親が「むかし鴨部に住んでいたとき夜中に急にガラガラが回りだすことがあった。たぶん幽霊のせいじゃないかしら。」と話すのを聞いたことがある。
2)私が私立高知学芸高校の2年生で分裂病にかかっていたとき、隣の家のおばさんが近所のおばさんと立ち話をしていて私が自分の悪口を言っていると勘ちがいして怒鳴りに言ったとき、それを見た私の母が悲しんで私に「私らが悪いがやったら、私らに怒っていいき、近所に迷惑かけんといて。」と言った。
3)私が国立九州大学医学部付属病院の医者を辞めて1年間自宅浪人していたとき、NTTにポケベルの解約を頼んだところ自宅の電話までも切られたことがある。電話がつながらないので、急遽高知にいる父親が飛行機で血相変えて福岡にいる私のところにやってきたとき、最初に父親が私に「誰かになんかせられんかったかえ?」と訊いた。[当時の私は、まず電報打ってから来いと思った。]
4)アニメで主人公が“一度死ぬ”ネタがやたらに多い。(『ミンキーモモ』、『とんがり帽子のメモル』、『ビックリマン』、『幽遊白書』、『北斗の拳』など。)
←1)は、幼少の頃(4歳以前)の私にサイコキネシスの超能力があったことを示している。[今の私はそのことを憶えていない。]
2)と3)は、幼少の頃の私の超能力を消すのを親が認めて許したか、または親が私から目を離した間に誰かに超能力を消されたことを示している。
4)は、幼少の頃の私を1度仮死状態にして超能力を消したことを表している。
以上のことをまとめると、『幼少の頃の私にはサイコキネシスの超能力があったが、その超能力を誰か(当時の管理者と従属者)が私の親の許しを得てあるいは親が目を離した間に私を仮死状態にして消した』ことになる。[もちろん、今後はこんなことがあってはならない。]

[2585] 偉さ h18.9.9
“偉さ”は、見られる世界においてはじめて意味を持つ概念である。
見る世界においては偉さは無意味だ。

[2586] 管理者と従属者の責任 h18.9.10
今後日本に(世界に)神(例、私)による損失が出た場合には、神の管理者およびその従属者たち[日本人・外人を問わず]が責任を負って返済しなければならないとする。その他の人は一切責任を負わなくてよいとする。[管理者が神に従っている場合にも、管理者及びその従属者たちが責任を負わねばならないとする。][命令]

[喩えば、ある政治家が自分の政策を実行して失敗して赤字を出したとする。その赤字を国が(つまり国民の税金で)支払う(穴埋めする)のではなく、その失敗した政治家(及びその政治家に従属する集団)が支払うことにするのである。反対に黒字が出たら、その何割かは政治家(及びその政治家に従属する集団)が個人収入としてもらえることにする。(この意味、わかるよね?)]

[2587] 天皇について h18.9.12
民主主義と天皇制(一般に王制)は矛盾するから、天皇(王)を認めることはできません。
憲法に規定されている天皇(王)の権限だけ奪えば、その他のことはどうでもよい。
皇居や家財道具一式は奪わないことにする。[ただし、天皇は皇居や家財道具一式の管理費を自分で出さねばならない。天皇は私生活のために、国費を使うことはできない。天皇の権限のない天皇は、もはや国民の一人にすぎず、他の国民と同じように生活しなければならない。]
天皇の権限がなくなったあとでも、自分を天皇と名乗ってもよい。

[2588] 私の敵は何者か? h18.9.14
1)政治家…同業他者の観点からすると、政治家の敵は政治家であって、それ以外の者ではない。私はこれまで政治には無関心で、特定の政党や政治家を非難したことがないし、政治家に恨みを買うこともない(はずだ)。よって、政治家は私の敵ではない。[ただし、政治家が神の管理者である場合を除く。→3)へ]
2)天皇…天皇は人間であって神ではない。このことは天皇自身もおそらく知っているはずだ。天皇の遠い祖先は神であったかもしれないが、とにかく今の天皇はただの人間(Homo sapiens)だ。人間である天皇と神である私とは同業他者になりえないから、天皇が私を攻撃することはない。これまで私の周りにいる者が天皇の属性を使って私を攻撃してきたが、これは彼らが勝手に天皇を利用(悪用)しているだけであって、天皇の命令だとは考えにくい。私は特に天皇に対して悪意は抱いておらず、したがって逆に天皇が私に対して特に攻撃することもないはずだ。よって、天皇もまた私の敵ではない。
3)管理者…私を見張り、私の周りにいる従属者を使って私に作用している者が、私の管理者である。[管理者はひとりかもしれないし、複数かもしれない。私は具体的に誰かは知らない。]神に関しては“取り込み制度”(人類が神の属性を生活に取り入れなければならない制度)があるために、管理者が神を上手に導いて人類の得になるようにしなければならないわけだ。ところが、私のような『不甲斐[ふがい]ない神』になると、取り込みがかえって人類の損になる。その場合、管理者は私の周りにいる従属者たちを使って私の生活を妨害し私を不快・不幸にし私に自殺させようとまでするのである。[取り込み制度は私が廃止した。]また、私が取り込み制度(人間の恣意(自分勝手な考え)で神の属性を人間に取り入れること)を命令制(神の恣意で人間を神に従わせること)に変えた後で自分のホームページの哲学日記に管理者やその従属者たちの不利になることを書くとその仕返しに私の所持品を壊したり(例、私の自転車のタイヤに穴を開けてパンクさせる、私のズボンや服に穴を開けて着れないようにする、など)[私は無断で他人の部屋や家に入ったりしないし、他人の物を盗んだり壊したりしたことも(最近10年間は)ない。]、私にガンを飛ばして私の眼を痒[かゆ]くしたり[私は他人にガン飛ばしはできない。]、仕事中に私の近くでわざとに大きな物音を立てて私の気分を害したり[私はそんなことはやらない。]、私が眠っていると部屋の壁を叩[たた]いて物音を立てて私の睡眠を妨害したりして、私を不快・不幸にし私を攻撃する。管理者とその従属者たちは、要するに不良の集まりであって、社会全体を悪くして自分たちの得になるように神を悪い方悪い方に誘導し[例えば、神の友人を使って神にエロ本を見せたり(私が小学4〜5年頃前田君(前田誠一君とは別人))、神の前で自分のズボンに両手を突っ込んで両手を激しく上下に揺すって見せたり(オナニーのまね(当時は意味不明)、私が中学2年頃神野君)したことがあった。]、そのあげく神が(気が狂って)使い者にならなくなると嫌がらせをして早く殺そうとする。この管理者グループ(管理者とその従属者たち)こそ神である私の敵なのである。こいつらは、私が取り込み制度を廃止した後では(神性の取り込みもできなくなるから)もはやただの人間にすぎない。ただの人間の言うことを他人がきく必要はない。私がこいつらの役に立つなどまっぴら御免だ。私は他人を不快・不幸に突き落とそうとする連中や自分で考えようとしないバカの役に立ちたくはない。こいつらは社会を悪くして社会全体を不快・不幸にするために生きているのだから、いないほうがいい。

[2589] 命令 h18.9.15
私の前で曖昧に物に喩えて私の承認を得ようとしてはならない。[私も物の喩えでは何のことを言っているのかほとんどまったくわからないし、ただたんに私に見せただけで(または聞かせただけで)私が承認したことにされてはたまらない。そんなやり方では私への命令と見做さざるを得ない(罰あり)。]

[2590] 取り込みか命令か? h18.9.15
神であるキリストが「正義よりも愛が大事です。」と言ったとしても、『まずある行為や思想に愛が“あるかないか”がわかるのは正義の心に照らしてみてはじめてはっきりするのだから、正義の心なしには愛もまた成り立たない』はずだから、キリストの言葉はまちがっている。正義よりも愛を取るキリストの考えは浅はかである。一般に、キリストの哲学はあまりにも未熟で幼稚で不備である。[佐久間象山に『西洋の科学、東洋の哲学』と言わしめた程だ。]キリストの哲学に従うことは人類の長年にわたる経験や思考によって獲得された真実や真理を放棄することであり、明らかに人類にとって損である。
“取り込み制度”は人類の恣意で神の属性を取捨選択して自分にとって都合のいい(広義には都合が悪い程ではない)部分だけを人類に取り入れることだから、取り込み制度の下[もと]ではキリストの哲学の大部分は捨てられるはずである。それにもかかわらず、ヨーロッパで長い年月にわたってキリストの哲学を取り続けているのは、そもそも人類の神に対する関わりかたが取り込み制度ではなく命令制だからである。つまり、昔から神と人間の関係は、人間側が自分たちの都合で神を取り込む取り込み制ではなく、神側が自分の都合で人間たちに強制的に自分を取り込ませる命令制なのである。

[2591] ヨーロッパとインドの違い h18.9.15
ヨーロッパは異文化に対して受容的だが、インドは排他的である。
それは、そもそも、キリストが「自分以外の思想を受け容れてはならない」と言わなかったのに対し、ブッダが「自分以外の思想を受け容れてはならない」と言ったせいである。「他人に惑わされず、サイの角のようにただひとり進め」とブッダは言った。
おそらく、他人(神も含む)の思想を受け容れることは他人を愛することにつながるので、キリスト教では他神の思想を受け容れられるのだろう。

[2592] たとえ神でも実在に従わねばならないわけ h18.9.15
自分が神であるのは、実在において自分に超能力が使える時期があったからである。[神の定義]
だから、そもそも実在における真実を認めなければ、神は神でいられないので、たとえ神でも実在には従わねばならないのである。たとえ神でも実在における真実は認めなければならないのである。
昔のヨーロッパ人もそう考えたので、たとえキリストが認めなかったとしても、客観的にみんながほうき星を見たらほうき星は実在し、キリストは知らなかったかまちがっていたことになるので、キリストの教えよりも実在そのものに関心が向けられたのである。

[2593] 天皇について h18.9.16
政治家は役職であり、民主主義の象徴である。一応、彼らは善玉である。[彼らをみんなが悪い目で見るから悪くなるのかもしれない。]
天皇は王制の下での役職であり、民主主義に反している。しかし、現在の日本国憲法の下では、この対立は目立たない。政治家を善とすれば、天皇はずるい小悪といったところか。天皇は居て迷惑という程ではないが、できれば居ないほうがいいと私は考える。たとえば、子供に「民主主義なのにどうして天皇がいるの?」と訊かれたとき親は「世の中とはそういうものだ。」としか答えられないだろう。子供はガッカリして、しょせんこの世は要領さえよければどうでもいいんだなといじけてしまうかもしれない。私は子供の幼いピュアな心に痛々しい傷を負わせたくはないのだ。
一方、管理者グループ(管理者とその従属者たちの集団)は、世の中に悪を広げて人類全体を不快・不幸にしようとしている悪の集団である。心はゴミで、ゴミが人間の真似をしているだけだ。いくらいい人のフリをしても、しょせん偽善者だ。たしかに身体は人間のものだが、脳の中にあるプログラムが人間のものではない。彼らこそが大悪であり、この世にいてはならない存在である。[政治家や天皇はテレビや新聞に顔や名前が大きく出て有名だが、管理者グループは顔や名前が不明でいてもいないような存在である。各国の管理者グループも、日本と同じようなものだろう。]宗教の連中も、もとは管理者グループと同類だったはずだ。つまり、宗教は偽善だ。

[2594] バカ殿 h18.9.17
考えずに生きていけるのはバカ殿だけだ。
われわれはそんなに[考えずに生きていけるほど]いい身分ではない。

[2595] オナニーはしてはいけない。 h18.9.17
[2447]の図(人間の運動方程式)と、
『人間は(神も)誰でも快楽・幸福を求め、不快・不幸を避けるものである。』[快楽幸福原理]
のふたつのことから、
人間は(神も)オナニーをしてはいけない。
ことが導かれる。

[2596] どうして管理者グループは今なお神に攻撃し続けるのか? h18.9.17
私が取り込み制を廃止して命令制に変えた後でもなお、管理者グループの私に対する攻撃が止まらないのは、私を不快・不幸にして私の気分を害し私の思考を狂わせ私に悪い命令を出させるためか、あるいは私に善い命令を出させないためであろう。

[2597] 善・悪のふたつの意味 h18.9.17
個人的には、つまり見る者としては、自分を愉快・幸福にする感情が善の感情であり、反対に自分を不快・不幸にする感情が悪の感情である。
一方、社会的には、つまり見られる者としては、他人を愉快・幸福にする感情が善の感情であり、反対に他人を不快・不幸にする感情が悪の感情である。

[2598] どうしてインドにヒンズー教があるのか? h18.9.17
インドには仏教だけではなく、ヒンズー教もある。
昔ヒンズーの神が「他の思想を受け容れるな。受け容れさせようとしたら戦え。」と人間たちに命じたからである。

[2599] WWUはどうして起こったか?(私の推測) h18.9.19
世界恐慌のさなか、国民の生活は貧しく、天皇への献上品(特に食べ物)も年毎に粗末になっていった。
「オレ(天皇)にひもじい思いをさせやがって!国民の役立たずが!!おぼえていろよ。」と天皇は怒った。[普通の人だったら、もう少し頭を使って考えて、国民が苦しい生活を強いられているのに同情して哀れに思うところだが。]
それで天皇は腹が立った仕返しに、戦争をして全国民に地獄の苦しみを味あわせることにした。[普通の人なら、自分ひとりが少し不幸になったくらいで、大勢の人を犠牲にしようなどとくだらない考えを起こさないものだが。]
戦争とは天皇による国民いじめだ。
どだい天皇家は心で思って頭で考えないので判断が感情的で無駄に終わることが多い。[こんな天皇に付き合わされる国民の身にもなってみろ。]

[2600] 超能力のヒミツ h18.9.20
私の父も母も赤ちゃんの頃の私を『主体的に』扱い育ててくれた。[これは今でもずっと続いている。]
だから、赤ちゃんの頃の私にも相手を『主体的に』見る見方があった。
物を『主体的に』見て“何か”が見えたから、それで超能力が使えたのではなかろうか。[もっとも、遺伝的素質の関与もあると思うが。]
『土をつかもうとするのではない。土につかんでもらうようにするのじゃ。』(ダイバ=ダッタ)
科学的な物の見方は、人間の働きかけに対する物の反応を見ているだけで、物を『主体的に』見ているのではない。


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