[23201] 昔の国民は政府に悪いことをされて喜んでいた。 h29.3.4
人間には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“悪いことをされる喜び”を与えて国民を幸福にする会社である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっている。
日本文化では政府に権力がなく、国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
昔は国の文明が低くて国民がテレビやゲームやパソコンを持っていなくて喜びがなかったから、国民は政府に税金を払って政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を与えてもらって幸福に暮らしていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今は国の文明が高くて国民がテレビやゲームやパソコンを持っていて喜びがたくさんあるから、国民は政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を与えてもらう必要がなくなって、政府に税金を払わず政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。今の国民は政府にお金をやって善いことをやってもらっている。例えば、今の国民は政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代を払って政府に善いことをやってもらっている。今の国民は政府を利用しないようにしながら政府の善いことをする会社だけ利用している。
昔の国民にとっては政府に悪いことをされるのが娯楽だった。昔の国民は政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして喜んでいた。昔の国民にとってはテレビや新聞で国民みんなが政府に悪いことをされている記事を見るのが楽しみだった。そのために昔の国民は毎日テレビや新聞にかじりついてニュースを見ていた。都会で政府が国民を虐[いじ]めている事件があると田舎[いなか]の人は羨[うらや]ましがっていた。今の国民にとってはテレビやゲームやパソコンを使って遊ぶことが娯楽である。今の国民はパソコンを使って作文を書いたり絵を描[か]いたり動画を作ったりしてみんなに見せて喜んでいる。今の国民にとっては政府は要らなくなっている。だから、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を潰しているのだ。
[23202] 政府は国民に悪いことをして国民を幸福にする会社である。 h29.3.4
人間には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて気持ちよくなる。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民を気持ちよくして国民を幸福にする会社である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民にいろんな悪いことをやっている。
日本文化では政府には権力がなく、国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
昔の人はテレビやゲームやパソコンがなくて喜びがなかったので、政府に税金を払って政府に悪いことをされて気持ちよくなって幸福に暮らしていた。つまり、昔の人は政府に税金を払って政府から“合法的な麻薬”(政府に悪いことをされたときに脳内から分泌される快楽物質のこと)を買って合法的な麻薬をやって幸福に暮らしていた。
今の人はテレビやゲームやパソコンがあるのでテレビやゲームやパソコンを使って遊んで気持ちよくなって幸福に暮らしている。今の人は政府が要らなくなったので政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]している。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっているので、国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。
文明が遅れていると人間は変なことをやって喜びを得なければならない。昔の人は政府に嫌な目に合わされて喜びを得ていた。今の人はテレビやゲームやパソコンで遊んで喜びを得ている。今の人は今の時代に生まれて幸せだ。今の人は文明を大事にしないといけない。今の人は科学をよく勉強して文明を維持して発展させないといけない。テレビやパソコンを超える楽しいオモチャを作り出さねばならない。未来に人類の文明が衰退したらまた政府が甦[よみがえ]るかもしれない。なるべくそうならないようにしないといけない。
今の人はテレビやゲームやパソコンが面白くて、政府に悪いことをされるのがつまらなくなって政府に税金を払わなくなって政府を潰している。テレビや新聞の上で今でも政府がピンピンしているのは嘘[うそ]である。現実には政府はかなり潰れている。テレビや新聞は嘘つきである。国民は自分の眼と頭で現実をしっかりと見て正しく生きて行かねばならない。
[23203] どうして今のテレビ番組はつまらないのか? h29.3.5
人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳の中に快楽物質が分泌されて幸福になるのである。
政府は国民から税金をもらって国民にいろんな悪いことをして国民に苦痛を与えて国民の脳の中に快楽物質を分泌させて国民を幸福にする会社である。
昔の人はテレビがなかったので、政府に悪いことをされるのが面白かったので政府に税金を払って政府が儲[もう]かっていた。
今の人はテレビがあってテレビが面白いので、政府に悪いことをされるのがつまらなくなって政府に税金を払わなくなって政府が潰[つぶ]れている。
つまり、テレビは政府のライバルである。テレビが面白いと政府が潰れる。テレビがつまらないと政府が儲かる。
そこで、政府はテレビ局にお金をやってわざとにつまらない番組を作らせて自分がテレビ局と共存しようとしている。だから、今のテレビ番組はつまらないのである。日本では政府は権力者ではないから、政府とテレビ局は平等である。だから、テレビ局は自分に動機がなければ政府の言うことを聞かない。今ではテレビ局はテレビやゲームやパソコンをやって喜んでいるので政府に悪いことをされて喜ばないから、テレビ局が只[ただ]で政府の悪い命令を聞いてつまらない番組を作ることはありえない。だから、テレビ局は政府からお金をもらってわざとにつまらない番組を作っているのである。テレビ局はたとえテレビ番組の視聴率が0%でもお金が儲[もう]かりさえすればいいから、政府の命令を聞いてつまらない番組を作るのだ。
テレビの黎明期[れいめいき]には面白い番組がたくさんあったのに、今では面白い番組がないのはそういうわけである。テレビの黎明期には政府はテレビ局をライバル視していなかったから、テレビ局が自由に番組を作っていたから面白い番組があったのだ。
国民がさっさと政府を潰さないからこんなことになっているのだ。国民は面白いテレビ番組が見たければ、早く政府を潰さねばならない。
国民が政府に悪いことをされて喜ぶなんて現代っぽくない。せいぜい近代までにしないといけない。今の国民はテレビやゲームやパソコンで遊んで喜ぶようにして、政府に悪いことをされて喜んではいけない。今の国民は政府が要らないから政府に税金を払わないようにして政府を潰さねばならない。
今ではテレビ局はネタ切れでマンネリで面白い番組が作れないのかもしれない。しかし、今の国民はテレビやゲームやパソコンに限らず電子レンジや冷蔵庫やエアコンや自動車などのいろんな文明の利器を使って楽しく暮らしてたくさんの喜びを得ている。国民はそれほど欲深[よくぶか]ではないから、文明生活をする喜びで十分である。やはり今の国民にとっては政府に悪いことをされる喜びなんか要らない。そのため、今の国民は政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなって政府を潰しているのである。たとえ、テレビ番組がつまらないためにテレビ局が潰れても政府は生き残れないのである。だから、いくら政府がテレビ局と組んでつまらない番組を作らせても無駄[むだ]である。政府一人で文明全体と戦うなんて無理である。今の国民は文明生活をすることによって十分な喜びを得ているので、今の国民にとっては政府に悪いことをされる喜びなんか要らない。やはり今の文明社会では政府は生き残れないのである。
[23204] 今の国民は政府に悪いことをされてもうれしくない。 h29.3.5
人間には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の脳には悪いことをされて苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じるメカニズムがある。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“悪いことをされる喜び”を感じさせて国民を幸福にする会社である。政府は国民に“悪いことをされる喜び”を感じさせるために国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりしている。(政府が国民を殺すと殺された国民はそれまでだが、政府が国民を殺すニュースを見たほかの国民は苦痛を感じてそれを癒すために脳内で快楽物質が出て喜びを感じるのである。そういう効果を“他人の不幸は蜜[みつ]の味”というのである。国民はテレビや新聞で政府が悪いことをやっているのを見て苦痛を感じてそれを癒すために脳内で快楽物質を分泌させて喜ぶのである。テレビや新聞の政府の記事は視聴者や読者にそういう変な喜びを与えるためにあるのである。政府に殺された人間も死ぬ間際[まぎわ]には脳の中で快楽物質が分泌されて幸福になっているのだ。/文学にも“悪いことをされる喜び”を表したものがある。例えば、『オズの魔法使い』では政治家が見かけは怖いが本当は優[やさ]しいおじいさんだと言っている。日本でも政治家のことを見かけは悪いが本音[ほんね]は善い人という。これらは、政府が国民に悪いことをすることによって国民に“苦痛に伴[ともな]う快感”を与えて国民を幸せにしていることを表している。『裸の王様』と『ムンクの叫び』と『オズの魔法使い』があれば、政府のことはほぼ理解できる。アニメ『風の谷のナウシカ』で腐海[ふかい]の底に気持ちがいい空間が広がっているのも、政府は表面的には国民に悪いことをやって国民を不快にしているが国民の脳の奥では快楽物質を分泌させて国民を幸福にしているということである。ちなみに、ナウシカ←ナシウ←カブ(ナ+シ≒カ、ウ≒ブ)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私である。ナウシカが虫に襲われて落っこちたところは、私が子供のころに遊んだ高知市朝倉の近所の原っぱである。私は子供のころはよく近所の原っぱで虫捕[と]りをして遊んだ。私は今母親が死んだ後始末[あとしまつ]のために高知市にいる。私が芝居を打っているのではなく、偶然にそうなっているだけだが。アニメ『デ・ジ・キャラットにょ』のブラックゲマ団の「悪ですからなあ」の滑稽[こっけい]なフリは、政府が国民を喜ばせるために悪いことをしていることを表している。これもまた“悪いことをされる喜び”を表している。『デ・ジ・キャラットにょ』のブラックゲマ団は『マジンガーZ』のドクターヘル(国の支配を企[たくら]む悪人)や『起動戦士ガンダム』のジオン皇国全体(国の支配を企む団体、スペースコロニーに住んでいる人が政府で、地球に住んでいる人が国民である)とも違う画期的な政府観である。『デ・ジ・キャラットにょ』のブラックゲマ団のほうが現実の政府にずっと近い。『デ・ジ・キャラットにょ』は見かけがふざけているだけで内容が正しい善いアニメである。平成29年3月8日追加:『スタートレック(宇宙大作戦)』の第63話「恒星ミナラの生体実験」(1969年ごろ)が、政府が国民に苦しみを与えることによって国民の脳内に快楽物質を分泌させて国民に快感を与えて国民を喜ばせていることを表している。つまり、政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えていることを表している。ほとんどそのまんま表している。人間に苦痛が与えられたときそれを癒すために脳内に分泌される快楽物質のことを、他人の傷を癒す超能力を持った生き物に喩[たと]えている。そうやってほんのちょっとだけSFの話にしている。平成29年3月10日追加:『北斗の拳』のトキが敵を気持ちよくして殺す“快楽拳”も政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にすることを表している。トキが死にかけなのは、今では政府のような国民に“苦痛に伴う快感”を与える団体が滅ぶ寸前であることを表している。このように、いくつかの文学には、人間に“苦痛に伴う快感”があることが書かれている。だから、みんなが人間に“苦痛に伴う快感”があることを知っていなければならない。私は政府が人殺しをやって悪いことをやっていることに確信を持っていたから政府について考えていたが、なかなか政府のことがわからなかった。私が人間に“苦痛に伴う快感”があることをもっとよく知っていたら、もっと早く政府のことがわかっていただろう。私が医学部に行って医学を教わっていなかったらわからなかったかもしれない。人間にとってはいろんなアイデア(概念)を持っていることが大事なのだ。平成29年3月12日追加:私が政府のことを理解するのに時間がかかったのは、約10年もかかったのは、私が“苦痛に伴う快感”の概念に到達するまでに時間がかかったからである。しかも“苦痛に伴う快感”の概念はすでにわかっている概念である。私が“苦痛に伴う快感”の概念に行くまでに時間がかかったのは、私が子供のころから生物学が苦手だったからである。人間は自分が苦手なことで時間を食うものである。私が“悪いことをされる喜び”を考え付いたのはニーチェの“奴隷道徳”からだったと思うが、詳[くわ]しくは私の哲学日記を見ればわかる。私は社会科は苦手だったが、倫理社会だけは得意だった。人間は自分が得意なことで助けられるものである。最初から“苦痛に伴う快感”がわかっていれば政府のことはすぐにわかる。私がこれまでに費[つい]やした10年の時間を短縮できる。)
左:恒星ミナラ 右:トキ
日本文化では政府に権力はなく、国民と政府が平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払えばよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わなければいい。
昔は国の文明が低くてみんなが文明生活をしていなくて喜びがなかったから、政府に税金を払って政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を感じていた。政府は国民みんなから税金をもらって儲[もう]かっていた。日本ではみんなが日本文化をやっているために悪いことをする団体と国民は平等だから、悪いことをする団体はそれほど儲かっていない。徳川幕府が「生かさず殺さず」と言ったのは幕府が自分の方針を言ったまでで、実際には国民は自分が好きなだけ幕府に年貢[ねんぐ]を納めていたので国民はけっこう楽しくやっていた。外国では悪いことをする団体が国の文化の偏[かたよ]りを利用して国家宗教や民主主義や身分制をやって国民が悪いことをする団体に服従して悪いことをする団体が権力があったので、悪いことをする団体が国民からありったけお金を奪ってすごく儲かっていた。国民は瀕死[ひんし]の状態だった。
今は国の文明が高くてみんなが文明生活をしてたくさん喜びがあるから、政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を感じることが要らなくなったので、政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民みんなから税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
今の政府はサービス過剰で国民みんなに悪いことをやっている。しかし、今の国民は文明生活をやって喜びが十分あるから、今の国民にとっては“悪いことをされる喜び”が要らなくなっているから、今の国民が政府に悪いことをされても嫌なだけでうれしくない。国民は喜びが足りないときには政府に悪いことをされるとうれしいが、喜びが間に合っているときには政府に悪いことをされると嫌である。昔の国民にとっては嫌さに混じって喜びが得られたが、今の国民にとっては嫌なだけである。今の国民は政府が嫌なので、政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。今では政府が国民に悪いことをするのは逆効果である。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている(日本文化では政府がいくら民主主義をやっても権力は得られないが)。今の国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府が倒れて政府が善いことをしなくなったら、国民が自分で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
一部の国民は「政府が善いことをする団体だ」と誤解しているために、政府が国民を殺しても「偶然に起きた事故だ」とか「秘密の犯罪組織が起こした事故だ」と思って、政府がやっていることがわからない。犯人は逃げも隠れもしない。みんなの眼の前にいるのが犯人だ。みんなが毎日テレビや新聞で見ている者が犯人だ。国民は早く現実を理解して政府に対して正しいことをしないといけない。人間は頭の中で「みんなが善い人だ」と思って幸せになっていればいいわけではない。日本人は実在主義だから真実を認識して自分が幸福になるように実在を改善しないといけない。日本人は『政府が悪い団体である』ことを理解して、『今の自分は文明生活で喜びが足りているから政府に悪いことをされて喜ぶ必要はない』と考えて政府に税金を払うのをやめて政府を倒さねばならないのだ。
都会ではとっくの昔にみんなが『政府が悪い団体である』ことを理解して政府に税金を払うのをやめて政府が滅んでいる。しかし、田舎[いなか]では今でもみんなが「政府が善い団体だ」と誤解して政府に税金を払って政府が儲[もう]かっている。今の都会の政府は田舎の政府からお金をもらってかろうじて建っているにすぎない。田舎の人はエッチなことをやって喜ぶのをやめて都会の人と同じようにもっと頭を使って考えて喜ぶようにしないといけない。田舎の人は政府について考えて政府のことを理解して政府に税金を払うのをやめて政府を倒さねばならない。
[23205] 人間にとってはテレビのほうが政府よりも面白い。☆☆ h29.3.5
政府は国民が税金を払って自分にいろんな悪いことをしてもらって自分に苦痛を与えてもらってそれを癒[いや]すために自分の脳内に快楽物質を分泌させて自分を幸福にする会社である。政府は国民を楽しませるためにある機関である。
テレビは国民が電源を入れて自分が面白い番組をチャンネルで選んで見て楽しむ装置である。
昔の人はテレビがなかったので、政府に税金を払って悪いことをされて幸福に暮らしていた。
今の人はテレビがあるので、テレビを見て幸福に暮らしている。今の人は政府が要らなくなったので、政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]している。
昔の人と今の人は幸福に暮らす方法が違う。
政府は文明社会以前の人間を幸福にする装置である。政府は時代遅れの人間を幸福にする装置である。人間にとってはテレビのほうが政府よりも面白い。だから、今の人間はテレビを買ってテレビを見て、政府に税金を払わなくなって政府を潰しているのだ。(たまに政府のほうがテレビよりも面白い人もいるが。)
要するに、今の人が幸福に暮らすためには、テレビを見て喜んで、政府に税金を払わず政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされないようにすればいいのである。
テレビや新聞は政府が自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをやっていることしか報道していない。政府は善いことは人前でするが悪いことは隠れてするので、テレビや新聞は政府が善いことをやっていることだけ報道して政府が悪いことをやっているのを報道しないのである。テレビや新聞は悪いことがあったことしか報道しない。だから、テレビや新聞を見た国民は「政府が善いことをする団体だ」と誤解してしまうのだ。本当は政府は悪いことをいっぱいやっている。それが政府の本来の仕事である。政府はオマケで善いことをちょっとだけやっているにすぎない。みんなはテレビや新聞に頼りすぎずにもっと広い目で政府を見て、政府が“善悪あわせ持った”会社であり、政府が悪いことをいっぱいやって善いことをちょっとだけやっていることを知って、政府に対する自分の考えを変えねばならない。そもそも政府は国民に悪いことをすることによって国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。昔の国民は文明生活をやらず喜びに飢[う]えていたために「政府が国民に悪いことをするのは国民を喜ばせるための手段」と見て政府が悪いことをするのを大目に見て許していたので、昔の国民にとっては政府は自分を幸福にする会社だったが、今の国民は文明生活をやって喜びに飽[あ]きているために政府にちょっとでも悪いことをされるのが嫌になって政府が悪いことをするのを大目に見なくなって政府が悪いことをするのを許さなくなっているから今の国民にとっては政府は自分を不幸にする会社にすぎない。政府は自分が権力を得て国民に無理やり悪いことができるようにするために民主主義でいやいやしかたなく善いことをやっているだけである。早く国民みんなで政府を倒して政府のない国にして国民みんなで幸福に暮らせるようにしないといけない。
昔の国民は政府が民主主義で善いことをやっているから政府が悪いことをするのを大目に見たのではなく、政府が悪いことをするのは国民に苦痛を与えることによって国民の脳内に快楽物質を分泌させて国民を幸福にするためだから政府が悪いことをするのを大目に見たのである。今の国民は昔の国民が政府が悪いことをするのを大目に見た理由を誤解しないようにして、今の政府が悪いことをしているのを大目に見てはいけない。今の国民は文明生活をやって十分喜びを得ていて、政府に悪いことをされて喜ばせてもらう必要がないから、政府に税金を払わず政府に悪いことをされないようにすればいいのである。今の国民にとっては政府が要らないから政府を潰してしまえばいいのである。今の国民は政府の善いことをする会社だけにお金を払って善いことをやってもらえばいいのである。将来、政府といっしょに政府の善いことをする会社が潰れたら、国民で新しく善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらえばいいのである。
昔の国民は政府が国民を喜ばせるためだからといって政府が国民に悪いことをするのを大目に見ていた。昔の人は人がやっていることの目的さえ善ければ細かい手段はどうでもよかった。私が子供のころに母親が私に注意していたとき私が母親の話の辻褄[つじつま]が合わないことを母親に言ったら、横で見ていた父親が私に「人の言葉尻[ことばじり]を取るな!」と言って怒った。父親は母親は私のためを思って私に注意してくれているのだからたとえ話が多少まちがっていても黙っておけと言うのである。昔の人は目的だけを見て具体的にやっていることを見なかった。昔の人は政府が国民を喜ばせるために国民を殺したり虐めたりしているのを見てけっして言葉尻を取らないようにして政府が善いことをしていると思って政府に感謝していたのである。
[23206] 政府は国民に“苦痛に伴[ともな]う快感”を与える会社である。☆
h29.3.6
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために脳内で麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民の脳内で快楽物質を分泌させて国民に快感を与えて国民を幸福にする会社である。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっている。政府が国民に悪いことをやっているのは国民に苦痛を与えて国民の脳内に快楽物質を分泌させて国民を幸福にするためである。
日本文化では政府に権力がなく国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
昔は国の文明が低くて国民が文明生活をしていなくて喜びがなかったから、政府に税金を払って政府に悪いことをされて政府に“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に暮らしていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。昔の人にとっての喜びといえば“苦痛に伴う快感”ぐらいしかなかった。文明が遅れていると人間にはそんな喜びしかないのだ。テレビが出来る前はみんなはそんな暮らしをしていたのだ。
今は国の文明が高くなって国民が文明生活をして喜びがたくさんあるから、政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらわなくてもよくなったから、政府に税金を払うのをやめて政府に悪いことをされなくなっている。今の国民はテレビやゲームやパソコンで楽しく遊んで喜びを得ているから、政府に悪いことをされて喜ぶ必要がなくなって、政府が要らなくなって政府に税金を払うのをやめて政府を潰[つぶ]している。政府は国民から税金をもらえなくなって潰れている。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府が滅んで政府が善いことをやれなくなれば、国民が自分で会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
テレビは国民に正しいことを教える機械ではない。だから、国民がいくらテレビを見ても『政府が国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である』ことはわからない。国民は自分で考えたり他人から教わったりして正しいことを知らねばならない。
左:『金田一少年の事件簿』より(たぶん金田一少年は私である。私が中高生のころ小学館の国語辞典を使っていた。編集者が金田一京助だった。そのためだろう。)
『政府が国民に悪いことをするのは、国民に苦しみを与えて国民の脳内で麻薬に似た快楽物質を分泌させて国民を幸福にするためである。政府は今でも昔のやり方で国民に喜びを与えているのだ。』
[23207] どうして今でも悪いことをする団体の世話になっている人がいるのか?
h29.3.6
今は文明社会である。みんながテレビやゲームやパソコンをやって文明生活を営[いとな]んで喜んでいる。
それなのに、今でも政府や宗教団体や暴力団などの悪いことをする団体の世話になっている人がいる。今でも政府や宗教団体や暴力団にお金を払って悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を味[あじ]わって幸福になっている人がいる。(暴力団が国民に悪いことをするときに「かわいがってやる」と言うのは、暴力団が国民に悪いことをするのは国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を喜ばせるためだからである。暴力団は字義通[じぎどお]り国民を「かわいがってやる」ために国民に暴力をふるのである。暴力団の「かわいがる」はけっして隠語[いんご]ではないのである。)
今でも悪いことをする団体の世話になっている人がいるのは、生まれつきテレビを見ても面白く感じない人がいるからである。生まれつき文明生活をやっても面白くない人がいるからである。
先天的に遺伝子の異常のためにテレビを見ても面白くない人がいるのである。先天的に文明生活をやっても喜びが感じられない人がいるのである。ヨーロッパ人が先天的に眼で見る喜びがあるだけで頭で考える喜びや心で思う喜びがなく宗教団体に従いたい気持ちがあるのと同じことである。
この世には先天的に遺伝子の異常のために眼で見る喜びや耳で聞く喜びや頭で考える喜びや心で思う喜びがなく、“苦痛に伴う快感”しか感じない人がいる。そういう人が今でも政府や宗教団体や暴力団の世話になっているのである。今でも政府や宗教団体や暴力団がそこそこ儲[もう]かって残っているのはそのためである。昔は文明が遅れていてテレビや文明生活がなくみんなが悪いことをする団体の世話になっていたので、そういう者が目立たなかったのである。(大学でも講義が難しすぎて考える喜びを失った者が宗教団体に入って親を泣かせることがある。そういう人は一時的なものだから、学部や学科を変えたりして自分が考える喜びを満足できるようにすればいい。)
普通の人はテレビを見て喜べるので幸せである。文明生活をやって幸福になれるので幸せである。そういう人は政府や宗教団体や暴力団の世話にならなければいい。政府や宗教団体や暴力団にお金を払って悪いことをされなければいいのである。
[23208] 政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために建っているだけである。
h29.3.7
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快楽を感じる。
政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために建っているだけである。政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民の脳内に快楽物質を分泌させて国民を幸福にする会社である。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたり国民にいろんな悪いことをしている。(平成29年3月13日追加:だいぶ前に(たぶん私が高校生のころだから今から約35年ぐらい前に)、政府が冷暖房完備で美味[おい]しい食事付きの“豪華な刑務所”を建てていたのも政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えるためである。政府は国中に犯罪者を増やして国民に悪いことをするために豪華な刑務所を建てたのである。“豪華な刑務所”のことはNHKの朝のニュースの最後にちょっとだけやっていた。ほかに“洗濯機を使った永久機関”こともやっていた。洗濯機←水を使う←水←ミズ←川ブ(ミ≒川、ズ≒ブ)←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だし、洗濯機←洗濯槽←丸くて長い←天皇家だから、洗濯機とは国家宗教の神のことである。だから、“洗濯機を使った永久機関”とは、政府が国家宗教をやって永遠に残り続けることである。NHKは今の時代には政府なんかどうでもいいと思って、政府から放送してくれと頼まれたビデオをニュース番組のおしまいにちょっとだけ流したのだろう。)
日本文化では政府に権力がなく、国民と政府が平等である。(私の哲学日記の[23143]の『裸の王様』のあたりからずーと読んでいけばわかる。)国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず悪いことをされなければいい。
昔の国民は文明が遅れていたために文明生活をせず喜びがなかったので、政府に税金を払って政府に悪いことをしてもらって政府に“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に暮らしていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今の国民は文明が進んでいるために文明生活をやって喜びがたくさんあるので、政府に悪いことをされて“苦痛に伴う喜び”を与えてもらう必要がなくなって、政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをされて喜ばせてもらわなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府がなくなって政府が善いことをしなくなったら、国民で善いことをする会社を建ててお金をやって仕事をしてもらうつもりである。
今の国民にとっては“苦痛に伴う快感”なんか古臭い。今の国民は文明生活をやって“苦痛を伴わない快感”が手に入るので“苦痛を伴う快感”なんか要らない。“苦痛を伴う快感”なんか怖[こわ]くて欲しくない。痛い思いをしてまで快感なんか欲しくない。わざわざお金を払ってまで“苦痛を伴う快感”を得る気になれない。そのため、今の国民は政府や宗教団体や暴力団などの国民に“苦痛を伴う快感”を与える団体にお金をやらなくなっている。政府や宗教団体や暴力団は国民からお金をもらえなくなって潰れている。
今の日本の景気がいいのは国民みんながよく働いているからであって政府が国民を豊かにしているからではない。政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために国民を貧乏にする。政府は国民を貧乏にするだけで裕福にしない。国民は政府があっても豊かにはなれない。だから、今の国民はさっさと政府を潰せばいいのである。今の日本にはまだ「政府に権力がある」と思ったり「政府が善いことをする団体だ」と思ったり(国民が政府に騙[だま]されて“一見[いっけん]善い政策に見えてじつは悪い政策”をやる場合もこれに含まれる)あるいは“苦痛に伴う快感”を得るために政府の言うことを聞いて政府が決めた国民を貧乏にする政策をやっている国民がたくさんいるから、早く政府を倒して政府に国民を貧乏にする政策を出させないようにしないといけない。
政府の法律会社や学校会社は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるためにある。法律会社は国民みんなに悪い法律や悪い国策をやらせてみんなに“苦痛に伴う快感”を与えるためにある。学校会社は子供に悪い教育(一見悪くないみたいだが本当は悪い教育)を受けさせて子供に“苦痛に伴う快感”を与えるためにある。昔は国の文明が低くてみんなが文明生活をやっていなくて喜びがなかったから、みんなが政府の法律会社が決めた悪い法律や悪い国策をやったり学校会社の悪い教育を受けて“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に暮らしていた。しかし、今は国の文明が高くなってみんなが文明生活をやってたくさん喜びがあるから、みんなが“苦痛に伴う快感”が要らなくなって政府の法律会社や学校会社が要らなくなっている。日本文化では政府に権力はなく、国民と政府は平等である。国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民の自由である。国民は自分が幸福になるように自分で政府の言うことを聞くか聞かないか決めればいい。昔の国民は自分のほうから政府が決めた悪い法律や悪い国策をやって自分に苦痛を与えて自分の脳内に快楽物質を分泌させて快感を得ていた。昔の国民は自分で自分に痛みを与えて自分の脳内に快楽物質を分泌させて気持ちよくなっていた。昔の子供は自分のほうから政府の悪い教育を受けて自分で自分を苦しませて自分の脳内に快楽物質を分泌させて幸福になっていた。今の国民は政府が決めた悪い法律や悪い国策をやらなくなって自分で善い法律や善い国策を決めてやっている。今の子供は学校に通わなくなって自分で好きなように勉強している。だから、今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府といっしょに政府の法律会社や学校会社を潰せばいいのである。
政府がやっているパチンコ店も国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を喜ばせるためにある。政府のパチンコ店は単純に国民を喜ばせるためにあるのではない。国民に“苦痛を伴わない快感”を与えて喜ばせるのではない。昔の国民は“苦痛に伴う快感”で喜んだが、今の国民は“苦痛を伴わない快感”に慣れていて、今の国民にとっては“苦痛に伴う快感”なんか古臭くて要らないから国民は政府のパチンコ店で遊ばなければいいのである。今の国民は家の中でテレビゲームをやって“苦痛を伴わない快感”で喜べばいいのである。(ちなみに、私はこれまで一度もパチンコをやったことがない。/平成29年3月24日追加:パチンコは面白くないゲームである。パチンコ店は政府が経営している娯楽施設である。パチンコが面白いとみんながパチンコばかりやるようになって政府に悪いことをされなくなって政府が潰れるから、政府は自分が潰れないようにするためにわざとにパチンコを面白くないようにしているのである。パチンコの面白さは“苦痛に伴う快感”よりも下である。今の人にとってはパチンコは面白くないゲームである。だから、今の人はパチンコをやらないほうがいいのである。/平成29年3月30日追加:人間には“お金を使う喜び”がある。パチンコは遊び自体が面白いのではなく“お金を使う喜び”を満足してくれるから面白いのである。)
これ以下平成29年3月13日追加:日本では政府に権力はなく国民と政府が平等である。だから、国民は政府が決めた法律や国策を無視して自分で勝手に法律や国策を決めてやればいいのである。今の国民みんなで「政府に税金を払うのをやめて政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えるのをやめてもらって、政府にお金を払って善いことだけしてもらえばいい」ことにすればいい。そうやって、今の国民が自分で自分が幸福に暮らせる決まりを決めて幸福に暮らせばいい。
昔は国民みんなが“苦痛に伴う快感”を満足していたから、国民みんなで「政府に税金を払って政府に殺されたり虐[いじ]められたりして政府が決めた悪い法律や悪い国策をやる」ことにしていた。反対に、今は国民みんなが“苦痛に伴う快感”を満足しなくなったから、国民みんなで「政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたりせず政府が決めた悪い法律や悪い国策をやらない」ことにすればいいのである。そうやって、いつの時代でも国民が自分が幸福に暮らせる決まりを決めて幸福に暮らせばいいのである。
日本では政府に権力がなく国民と政府が平等だから、そもそも国民が政府を利用するかしないかは国民の自由である。政府は悪いことをする会社なのに、親切にも悪いことをするサービスと善いことをするサービスを分けて国民が利用しやすくしてくれている。いくら政府が悪いことをする会社でも、仕事で悪いことをやっているのだから、仕事の決まりに則[のっと]って正当にしないといけないからだろう。だから、今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府の悪いことをするサービスを利用せずに、政府にその都度[つど]お金を払って政府の善いことをするサービスだけを利用すればいいのである。政府は国民に「政府は国民に善いことをするために国民から税金をもらっている」と言っているが、政府にとって善いこととは国民に悪いことをして国民の“苦痛に伴う快感”を満足することである。国民にとっての善いことと政府にとっての善いこととは意味が違うのだ。だから、今の国民は自分が“苦痛に伴う快感”を欲しくなければ政府に税金を払わなければいいのである。(政府は善いことの意味を拡張しすぎているからいけない。自分勝手に言葉の意味を拡張するのはいけない。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にするためだから国民に悪いことをやってもいいと考えている。“政府の論理”とはそういうことだ。しかし、今の国民にとっては“政府の論理”はありがたくないから、今の国民は政府に悪いことをされるのを断わればいい。政府が国民から税金を取るのは強盗だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。)
日本文化では政府に権力がなく国民と政府が平等である。だから、政府が国民から強制的に税金を取ることはできない。国民が自主的に政府に税金を払うことはできても、政府が国民から無理やり税金を取ることはできない。それなのに、政府は国民が政府に税金を払わねばならない法律つまり納税の義務を定めている。日本では国民と政府は平等だから、政府が国民から無理やり税金を取ることはまちがっているはずである。納税の義務の法律は明らかにまちがった法律である。それなのに、政府が納税の義務の法律を定めているのは、政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社だからである。政府は国民に悪いことをするために悪い法律や悪い国策を定めているのである。善い法律では国民が政府に税金を払うのは国民の自由だから、反対に悪い法律では国民が政府に税金を払うのは国民の義務になるから、政府は悪い法律を定めるために納税の義務の法律を定めているのである。しかし、国民と政府は平等だから、国民が政府が定めた悪い法律や悪い国策をやるかやらないかは国民の自由である。だから、今の国民は自分が政府に税金を払うのが嫌なら政府が定めた納税の義務の法律を守らず政府に税金を払わなければいいのである。政府が納税の義務を定めているのは、政府が国民に『政府が悪いことをする会社である』ことをわかりやすくするためである。政府は『自分が悪いことをする会社である』ことを国民に宣伝するために納税の義務を定めているのである。日本では政府に権力がなく国民と政府が平等だから、国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞けばよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。国民がそうやって暮らせるのが、日本のいいところである。
[23209] 今の国民は政府ではなく文明の利器に幸せにしてもらえばいい。 h29.3.7
人間にとって一番大事なのは自分が幸福に暮らすことである。
今の国民は今の社会の中で自分が幸福に暮らさねばならない。
今の国民は文明社会に生きている。文明社会にはテレビやゲームやパソコンなどいろんな文明の利器がある。文明の利器は国民からお金をもらって国民に面白い経験をさせて国民に“苦痛を伴わない快感”を与えて国民を幸福にする。
一方、政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする。政府は国民に“苦痛を伴う快感”を与えるために国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりしていろんな悪いことをする。
今の国民にとっては“苦痛を伴う快感”よりも“苦痛を伴わない快感”のほうがいい。
だから、今の国民は文明の利器にお金を払って文明の利器に面白い経験をさせてもらって、政府に税金を払わず政府に悪いことをされないようにすればいいのである。
そのようにして、今の国民は自分に苦痛を与えず快感だけを与えて幸福に暮らせばいいのである。
国民にとっては文明の利器も政府も自分を幸福にするためにある道具である。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与える道具である。政府は古臭い苦痛混じりの快感を国民に与える道具である。政府は純度の低い快感を国民に与える道具である。そのために、今の国民は政府を使わなくなって政府は国民からお金をもらえなくなって潰[つぶ]れているのである。
今の国民は文明の利器で喜びを得て喜びが間に合っているから、政府は自分に苦痛を与えるだけである。今の国民は政府に悪いことをされても苦痛を感じるだけである。今の国民にとって政府はただの邪魔[じゃま]である。今の国民は早く政府に税金をやるのをやめて政府を潰さねばならない。
文明の利器は国民に快感を与えるだけだが、政府は国民に苦痛と快感の両方を与える。今の国民が快感を得るためには政府よりも文明の利器のほうがいい。だから、今の国民は文明の利器にお金をやって政府に税金をやらなくなっているのである。政府は文明の利器ほど国民を上手に喜ばせることができないので滅んでいるのである。
要するに、今では国民が文明の利器を使って喜びが得られるから、国民がわざわざ政府に悪いことをしてもらって喜びを得なくてもいいから、国民は政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをされなくなって政府を潰しているのである。今の国民は文明の利器にお金をやって“苦痛を伴わない快感”を与えてもらって、政府に税金をやらず“苦痛を伴う快感”を与えられないようにして幸福に暮らしているのである。そうしてはじめて今の国民は文明生活を送ることができるのである。
[23210] 政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。
h29.3.8
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。
政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民の脳内に快楽物質を分泌させて国民を幸福にする会社である。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民にいろんな悪いことをやっている。(悪いことをする者が増えすぎると国民が平和に暮らせないので、国民は悪いことをしてもいい者を政府や宗教団体や暴力団だけに限定して、それ以外の者は悪いことをしてはいけないことにしてきた。)
日本文化では国民が政府に従わず国民と政府が平等である。日本文化では政府が身分制をやっても民主主義をやっても国家宗教をやっても国民が政府に従いたい気持ちにならず政府に権力がなく国民と政府が平等である。だから、国民は自分が政府に“苦痛に伴う快感”を与えられたければ政府に税金を払って政府に悪いことをされればよく、自分が政府に“苦痛に伴う快感”を与えられたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
昔の国民は文明が低くて文明生活ができなくて喜びがなかったので、政府に税金を払って政府に悪いことをされて政府に“苦痛に伴う快感”を与えてもらっていた。昔の人はほかに喜びがなかったので、政府が国民に悪いことをするのを大目に見て許していた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今の国民は文明が高くなって文明生活ができるようになって文明の利器(テレビやゲームやパソコンや冷蔵庫やエアコンや自動車など)を使って“苦痛を伴わない快感”をたくさん得ているので、政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらわなくてもよくなったので、政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをされて喜ばせてもらわなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。今の国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府が潰れて政府が善いことをやれなくなったら、国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
今の政府は消費税を取っている。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために消費税を取っている。そのうえ政府は国民から取った消費税で国民にいろんな悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えている。しかし、今の国民は文明生活をして“苦痛を伴わない快感”が得られるので“苦痛に伴う快感”が要らない。日本文化では政府に権力がなく国民と政府が平等である。国民が政府が決めた法律や国策をやるかやらないかは国民の自由である。だから、今の国民は自分が幸福に暮らすために政府に消費税を払わないようにしている。
[23211] 政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために建っている。☆ h29.3.9
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を感じると脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。苦痛の感覚は人間に自分の身体の異常を知らせるものだが、必要以上の苦痛があると人間が適切な行動をするために支障を来たすので、人間の脳には快感を発生させることによって自分の苦痛を抑[おさ]える仕組みが備わっているのである。人間以外の動物の脳にも同じ仕組みがあるから、動物にも“苦痛に伴う快感”がある。“苦痛に伴う快感”は人間だけではなくすべての動物にある。
政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする。政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民を苦しめて国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする。政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために事件や事故を起こして国民を殺したり虐[いじ]めたり悪い法律や悪い国策を定めたり学校で悪い教育をしたりしている。政府の省庁は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために建っているだけである。
日本文化では政府に権力はなく国民と政府は平等である。国民は自分が政府に“苦痛を伴う快感”を与えられたければ政府に税金を払って政府に殺されたり虐められたり政府が定めた悪い法律や悪い国策をやったり学校で悪い教育を受けたりすればよく、自分が政府に“苦痛を伴う快感”を与えられたくなければ政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたりせず政府が定めた悪い法律や悪い国策をやらず学校で悪い教育を受けなければいい。
昔の国民は文明が低くて文明生活ができなくて喜びがなかったから、政府に税金を払って政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に生きていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。昔は政府以外にも民間会社がたくさん建っていたが、どの民間会社も政府に敵[かな]わなかった。昔はそれほど面白いことがなかったのだ。昔は政府の“苦痛を伴う快感”がこの世で一番面白いことだったのだ。昔はみんなが政府の“苦痛を伴う快感”をありがたがるほど面白味のない退屈な生活をしていたのだ。昔の人は今みたいに面白い物がなかったから、政府に頼んで政府に悪いことをしてもらって自分に苦痛を与えてもらって“苦痛に伴う快感”を得ることによって自分を幸福にしなければならなかったのだ。
今の国民は文明が高くて文明生活ができて喜びがたくさんあるから、政府に“苦痛に伴う快感”を与えてもらう必要がなくなって、政府に税金を払わず政府に悪いことをされなくなっている。今では民間会社が政府よりも面白い物を作るようになって政府の人気がなくなっている。今では文明が発達していろんな物が出来て政府の“苦痛を伴う快感”よりも面白い喜びがいっぱいあるから、今の国民は政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。もっとも、日本文化では政府が民主主義をやっても国民は政府に従おうとせず政府は権力が得られない。国民は政府にお金を払って政府に善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府が潰れて政府が善いことがやれなくなれば、国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
今の人が「政府が善い人だ」と思うのはテレビの見すぎである。今の人は「政府は古臭い」とか「政府は要らないことをしている」と思うのが普通である。今ではテレビなんかつまらない。今の人はテレビを見るのを卒業して、自分で考えることを喜びにしないといけない。今の人はテレビばっかり見ていないで自分で考えて正しいことを知っていないといけない。
人間は“テレビを見る喜び”で終わってはいけない。テレビよりも先に進まねばならない。人間は“ゲームをやる喜び”で終わってはいけない。ゲームよりも先に進まねばならない。人間はテレビやゲームを卒業してもっと面白いことをしないといけない。
[23212] どうして昔は地主制度や財閥制度があったのか?☆ h29.3.9
昔は国の文明が低かったために昔の人にとっての喜びは“苦痛に伴う快感”しかなかった。そのために、昔の社会には地主制度や財閥制度などの国民にとって不利な制度があったのだ。昔の国民は自分で自分に苦痛を与えて“苦痛に伴う快感”を得るためにわざわざ自分のほうから自分にとって不利な制度をやっていたのだ。だから、昔は地主制度や財閥制度があって地主や財閥が儲[もう]かったのだ。昔の人は自分が政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を得るだけではなく、自分で自分に悪いことをして“苦痛に伴う快感”を得ていたのだ。昔の人が刺青[いれずみ]をやっていたのも自分で自分に苦痛を与えて“苦痛に伴う快感”を得るためである。昔の人にとっては自分に苦痛を与えることが自分が幸福になるための方法だったのである。
反対に、今は国の文明が高くなって面白い物がいっぱい出来て今の人にとっては“苦痛に伴う快感”なんか面白くなくなったので、今の社会には地主制度や財閥制度がなくなっているのだ。
戦後にアメリカ軍が日本に来て地主制度や財閥制度を廃止したのではなく、本当は日本の文明が高くなってみんなが文明的な生活をするようになってみんなが“苦痛に伴う快感”で喜ばなくなったから、みんなが自分で地主制度や財閥制度をやらなくなって地主制度や財閥制度がなくなったのだ。国のことは国民みんなが決めるのであって、政府や軍隊が決めるのではない。政府や軍隊は自分が国のことを決めているふりをしているだけで、本当は国民が国のことを決めているのだ。外国のように文化に偏[かたよ]りがある国では国民みんなが政府が身分制や民主主義や国家宗教をやると政府に従う本能があるから、政府に権力があって政府が国民みんなに命令できるのだ。だから、根本的には国民が国のことを決めているのである。一方、日本のような文化に偏りがない国では国民みんなが政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっても政府に従おうとしないから、政府に権力がなくて政府が国民みんなに命令できないのだ。日本では政府に権力がないから政府が国民に命令できないから、国民が自分で国のことを決めているのである。
日本には権力者がなく国民みんなが平等である。日本人は生まれつき眼や頭や心が均等に発達しているために自分が従いたい者がいないから『国民みんなが平等である』ことが社会の決まりになっているのである。だから、日本ではみんながよく法律を守ってみんなが平和に暮らせるのだ。つまり、日本人は生まれつき法律を守るように出来ているから法律を守るのだ。反対に、外人は生まれつき眼や頭や心のどれかひとつが発達してほかのふたつが発達していないために自分が従いたい者があるから「人間が不平等である」ことが社会の決まりになっている。だから、外国ではみんなが法律を守らずみんなが物騒[ぶっそう]に暮らしているのだ。外人は眼と頭と心が片チンバだから平和に暮らすことができないのだ。犬が種類によって性格が違うように、人間も種類によっても性格が違うのだ。
これ以後平成29年3月12日追加:会社に社長がいるのも、昔の国民が“苦痛に伴う快感”を満足していたからである。昔の国民は自分が社長に悪いことをされて苦痛を与えられて自分が“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福になるために会社に社長を置いていたのである。だから、社長は会社の中で悪いことをやるためにいるだけである。しかし、今は国の文明が高くなって今の国民は“苦痛に伴う快感”を満足しなくなっている。今の国民は社長に悪いことをされるのが嫌になっているから、会社から社長を追い出して社長のいない会社にしているのだ。
日本文化では権力者がいないから人間はみな平等である。日本社会は昔からずっと人間がみな平等な横社会である。日本社会には昔からずっと縦社会なんてものはなかった。ただし、昔は国の文明が低くて国民が“苦痛に伴う快感”を満足していたために国中のいたるところに“国民が悪いことをされる制度”があった。国中のいたるところに“悪いことをする者”がいた。反対に、今は国の文明が高くなって国民が“苦痛に伴う快感”を満足しなくなっているために国中のいたるところから“国民が悪いことをされる制度”がなくなっている。国中のいたるところから“悪いことをする者”がいなくなっている。そのようにしていつの時代にも国民が自分が幸福に暮らせるようにしてきたのだ。
[23213] どうして昔の人は“考える喜び”を満足しなかったのか? h29.3.9
『人間は大脳の古皮質よりも新皮質を働かせれば幸福になれる。』それが人間の幸福の法則である。
昔の人にも本やノートや鉛筆ぐらいはあったはずである。だから、昔の人でも本を読んだり自分が考えたことをノートに鉛筆で書いたりすれば“考える喜び”を満足して幸福に暮らせたはずである。
それなのに、昔の人は実際には政府や宗教団体や暴力団などの悪いことをする団体にお金を払って悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えられて幸福に暮らしていた。
“考える喜び”は新皮質の喜びであり、“苦痛に伴う快感”は古皮質の喜びである。昔の人が“考える喜び”を満足せずに“苦痛に伴う快感”を満足したのはおかしいことである。
昔の人が“考える喜び”を満足せずに“苦痛に伴う快感”を満足したのは、昔の人が「人間にとっては“考える喜び”よりも“苦痛に伴う快感”のほうが喜びが多い。」とまちがって考えていたからである。今の人が「人間にとっては“考える喜び”よりも“愛情や性欲”のほうが喜びが多い」と誤解して“考える喜び”を満足せずに“愛情や性欲”を満足しているのと同じことである。今の人が「人間にとっては“考える喜び”よりも“ゲームをする喜び”のほうが喜びが多い」と誤解して“考える喜び”よりも“ゲームをする喜び”を満足しているのと同じである。(私は今から4〜5年前に政府について考えながらゲーム(バトルフィールド3)をしているときに「ゲームよりも政府について考えるほうが面白い」と思ってゲームをやめた。“考える喜び”は自分が考えれば考えるほど喜びがエスカレートして増えていくから、たとえ最初は喜びが少なくてもだんだん喜びが多くなるから、いずれは他の喜びに勝つのである。/私は中学生のころに笑福亭鶴光[しょうふくていつるこう]がラジオの深夜放送の『オールナイトニッポン』で面白そうに性欲のことを話すのを聞いたために鶴光の話を真[ま]に受けてこれまでずっと「人間にとっては性欲が一番の喜びだ」と思っていた。しかし、最近人間の大脳の図を見て古皮質と新皮質の大きさを比較して『人間の感覚の強さは脳細胞の体積に比例する。人間の大脳では古皮質よりも新皮質のほうが体積が大きい。だから、人間にとっては古皮質の喜びよりも新皮質の喜びのほうが多い。つまり、人間にとっては考える喜びのほうが性欲や愛情の喜びよりも多い。』と考えた。私も高校生のころにそんな理由でオナニーをやって性欲を満足するのをやめたような気がする。)
昔の人も今の人も喜びについての理解が足りない。それではそもそも幸福になれるわけがない。まちがった道をいくら進んでも楽園に行くことはできない。
昔の人は「“考える喜び”よりも“苦痛に伴う喜び”のほうが喜びが多い」と誤解していたから、自分が考えることをせずに、悪いことをする団体にお金をやって悪いことをされていたのだ。昔の人にとって必要だったのはテレビやパソコンよりも“喜びについての知識”だったのだ。
人間にとって一番大事なのは“喜びについての知識”である。『人間にとっては“考える喜び”が最高の喜びである。』『誰にでも“考える喜び”はある。ただ“考える喜び”を満足していないから“考える喜び”がないにすぎないのだ。』今の人は喜びについて正しく理解して、自分が本当に幸福になることをやってまじめに自分の心を満足して幸福に暮らさねばならない。
昔の人は政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福になっていた。今の人はテレビを見てテレビに面白い番組を見せてもらって幸福になっている。昔の人も今の人も受身の喜びばっかりである。昔の人も今の人も自分が何もせずに他人に何かしてもらう喜びしかない。しかし、最近の人はゲームをやる喜びやパソコンをやる喜びのように自分でやる喜びに変わりつつある。そのうち、考える喜びをやるようになるだろう。そうすれば、人間にとって考える喜びが最高の喜びであることがわかるだろう。未来の日本では多くの人が考える喜びを満足して幸福に生きているようになるだろう。未来の社会は考える喜びを満足して幸福に生きている人と愛情や性欲を満足して不幸に生きている人が混在した状態になって平衡[へいこう]に達するだろう。人間が考える人と考えない人に分かれて二極化するだろう。
平成29年3月11日追加:人間が“考える喜び”を満足していないから政府に税金を払う必要がないことがわからず政府に税金を払っている。人間が“考える喜び”を満足すれば政府に税金を払わなくていいことがわかって政府に税金を払うのをやめる。人間が“考える喜び”を満足すれば正しいことがわかって実在のことがわかって幸福に生きられる。これまでだって人間はそうしてきた。だから、人間は“考える喜び”を満足すればいいのである。
[23214] 今のマンガ家は“苦痛に伴う快感”がないから自分たちで雑誌を作ればいい。
h29.3.10
マンガ出版社は自分のマンガ雑誌の20〜30ページ分をマンガ家に貸してマンガを描かせてマンガ家から高額な掲載料[けいさいりょう]を取って儲[もう]けている。地主が百姓に田んぼを貸して百姓から高いお金を取って儲けるのと同じことである。
昔は文明が低くて昔の人は“苦痛に伴う快感”で喜んでいた。昔のマンガ家はマンガ出版社に高いお金を取られてカンヅメにして虐[いじ]められて“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福になっていたから、わざわざマンガ出版社に頼んでマンガを載せてもらってマンガを売っていた。
今は文明が高くなって今の人は“苦痛に伴う快感”で喜ばなくなっている。今の人にとっては“苦痛に伴う快感”はむしろ嫌なだけである。だから、今のマンガ家はわざわざマンガ出版社に頼んでマンガを載せてもらってマンガを売らないほうがいい。
今のマンガ家が10人ぐらいで組んで自分たちが描いたマンガを寄せ集めて雑誌を作って出版して儲ければいい。そうすれば、マンガ出版社に余計なお金を取られないから儲けがそのまま自分たちのものになるからもっと儲かる。もっと幸福に暮らせる。
[23215] 政府は国民を幸福にする。ただし、悪いことをやることによってである。
h29.3.10
政府は国民を幸福にする会社である。ただし、国民に悪いことをすることによってである。政府は国民に悪いことをして国民を幸福にする会社である。政府は国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民が自分の苦痛を癒[いや]すために国民の脳内に快楽物質を分泌させることによって国民を幸福にするのである。政府は国民に悪いことをすることよって国民を幸福にするために、事件や事故を起こして国民を殺したり虐[いじ]めたり悪い法律や悪い国策を定めたり悪い教育をやったりする。政府は国民に悪いことをして国民を幸福にするために建っているだけである。政府がやるのは悪いことばっかりである。政府は自分が権力を得てもっと悪いことをするために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっているにすぎない。(北野武が少し前に「権力よりも愛だね」と言っていたのは、日本では国民みんなが政府に従わないから政府に権力はないが、政府が国民を幸福にするために国民に悪いことをしていることを言っていたのである。愛というのは政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えることである。日本政府には権力がないから、国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民一人一人の勝手である。今の国民はたとえ政府が国民を幸福にするためであっても政府に悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かなければいいのである。国民は政府が定めた法律や国策を無視して、自分で勝手に法律や国策を考え出してやればいいのである。北野武がテレビで言ったことだからまちがいない。)
昔の国民は文明が低くて面白い物がなかったので、政府に税金を払って政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。
今の国民は文明が高くなって面白い物があるので、面白い物を買って遊んで、政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]している。今の国民は『政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えられるよりも物を使って遊んだほうが喜びが多い』ことを知っているから、政府に税金を払うのをやめて物を買って遊んでいるのである。今の国民は“苦痛に伴う快感”なんか古臭くてわからないから政府に税金を払わなくなっているのである。今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをしてもらっているだけである。
今の国民は物を買って遊ぶだけではなく、いろんな喜びについてよく知って、自分が本当に幸福になることをやって幸福に暮らさねばならない。
平成29年3月12日追加:政府の問題は喜びの問題の一部である。つまり、政府の問題は「人間はどんな喜びを満足すべきか?」という問題に含まれる。今は文明社会である。政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。だから、政府の問題は、文明社会においては人間は“苦痛に伴う快感”を満足すべきかすべきでないか?ということである。人間にとっては“苦痛に伴う快感”と“文明の喜び”(つまり、テレビを見たりパソコンをやったりする喜び)のどちらを満足したほうがいいか?ということである。当然ながら、人間は“文明の喜び”を満足して“苦痛に伴う快感”を満足しなければいい。それが正解である。だから、今の国民は面白い物を買って使って喜べばよく、政府に税金を払わず政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らせばいいのである。それが人間にとっての楽園への道なのである。人間は“文明の喜び”によって楽園への新たな一歩を踏み出したのである。
[23216] 政府は国民を幸福にする。ただし、悪いことをやることによってである。
h29.3.10
政府は国民を幸福にする会社である。ただし、国民に悪いことをすることによってである。政府は国民に悪いことをして国民を幸福にする会社である。政府は国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民が自分の苦痛を癒[いや]すために国民の脳内に快楽物質を分泌させることによって国民を幸福にするのである。政府は国民に悪いことをすることよって国民を幸福にするために、事件や事故を起こして国民を殺したり虐[いじ]めたり悪い法律や悪い国策を定めたり悪い教育をやったりする。政府は国民に悪いことをして国民を幸福にするために建っているだけである。政府がやるのは悪いことばっかりである。政府は自分が権力を得てもっと悪いことをするために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっているにすぎない。(北野武が少し前に「権力よりも愛だね」と言っていたのは、日本では国民みんなが政府に従わないから政府に権力はないが、政府が国民を幸福にするために国民に悪いことをしていることを言っていたのである。愛というのは政府が国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えることである。日本政府には権力がないから、国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民一人一人の勝手である。今の国民はたとえ政府が国民を幸福にするためであっても政府に悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かなければいいのである。国民は政府が定めた法律や国策を無視して、自分で勝手に法律や国策を考え出してやればいいのである。北野武がテレビで言ったことだからまちがいない。)
昔の国民は文明が低くて面白い物がなかったので、政府に税金を払って政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。
今の国民は文明が高くなって面白い物があるので、面白い物を買って遊んで、政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]している。今の国民は『政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えられるよりも物を使って遊んだほうが喜びが多い』ことを知っているから、政府に税金を払うのをやめて物を買って遊んでいるのである。今の国民は“苦痛に伴う快感”なんか古臭くてわからないから政府に税金を払わなくなっているのである。今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをしてもらっているだけである。
今の国民は物を買って遊ぶだけではなく、いろんな喜びについてよく知って、自分が本当に幸福になることをやって幸福に暮らさねばならない。
平成29年3月12日追加:政府の問題は喜びの問題の一部である。つまり、政府の問題は「人間はどんな喜びを満足すべきか?」という問題に含まれる。今は文明社会である。政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。だから、政府の問題は、文明社会においては人間は“苦痛に伴う快感”を満足すべきかすべきでないか?ということである。人間にとっては“苦痛に伴う快感”と“文明の喜び”(つまり、テレビを見たりパソコンをやったりする喜び)のどちらを満足したほうがいいか?ということである。当然ながら、人間は“文明の喜び”を満足して“苦痛に伴う快感”を満足しなければいい。それが正解である。だから、今の国民は面白い物を買って使って喜べばよく、政府に税金を払わず政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らせばいいのである。それが人間にとっての楽園への道なのである。人間は“文明の喜び”によって楽園への新たな一歩を踏み出したのである。
[23217] 政府が国家宗教をやるのは自分のお金儲[もう]けのためである。 h29.3.11
日本では国民のほとんどは日本文化をやっているが、日本にもヨーロッパ文化にかぶれてヨーロッパ文化をやっている者がいる。
だから、政府がアニメやドラマや映画で国家宗教をやると(つまり、政府が国家宗教の神をキャラクターにしたアニメやドラマや映画を作らせて放映すると)ヨーロッパ文化にかぶれた者が政府に従うようになって政府の命令で政府に税金を払って政府が儲[もう]かる。そのために、政府はアニメやドラマや映画で国家宗教をやっているのである。
政府は自分がヨーロッパ文化にかぶれた国民から税金を取ってお金儲けをするためにアニメやドラマや映画で国家宗教をやっているのである。
同じように、政府が民主主義をやっているのは中国文化にかぶれた国民から税金を取って儲けるためである。政府が身分制をやっているのはインド文化にかぶれた国民から税金を取って儲けるためである。政府は自分がヨーロッパ文化や中国文化やインド文化にかぶれた国民から税金を取ってお金儲けをするために国家宗教や民主主義や身分制をやっているのである。
政府はテレビで国家宗教や民主主義や身分制をやっている。国家宗教の神の情報を使ったアニメやドラマが国家宗教で、政府が善いことをやっているニュースが民主主義で、政府が自分勝手に起こした人殺しや虐[いじ]めのニュースが身分制である。日本文化をやっている国民はテレビを見ても政府に従わず政府に税金を払わないが、外国の文化にかぶれた国民はテレビを見て政府に従うようになって政府に税金を払う。そのために、政府はテレビ局にお金をやってアニメやドラマや政府が善いことをやっているニュースや政府が自分勝手にやった人殺しや虐めのニュースを放送させているのである。ビール会社がビールを売って儲けるためにテレビ局にお金をやってビールの宣伝を放送しているのと同じである。
政府が私の許可を得ずに勝手に私を国家宗教の神にして私の情報を使ってお金儲けをするのは私の肖像権やプライバシーを侵しているからいけない。だから、国民みんなで政府の国家宗教に反対して政府を儲からないようにしないといけない。あるいは、私が法律会社に政府を訴えて政府を罰してもらわねばならない。日本では国民は政府に従わず政府に権力がなく、国民と政府は平等である。だから、日本では政府は国民と平等にしなければならない。政府は国民の人権を侵してはいけない。政府が国民の人権を侵したら政府が悪いことになって政府が罰せられねばならない。例えば、政府が私の人権を侵したら政府が悪いことになって政府が罰せられねばならない。だから、国民は政府を恐れずに政府が悪いと思ったらどんどん法律会社に政府を訴えねばならない。そうやって国民が政府から賠償金を取って政府を痛い目に合わせて政府を罰しなければならない。(テレビや新聞ではよく政府の責任のことを「国の責任」と言っているが、日本では政府に権力がなく国民が政府に従っていないから、日本では国民と政府は他人だから、政府の責任は政府ひとりの責任であって国の責任つまり国民みんなの責任ではない。つまり、政府が悪いのは政府ひとりが悪いのであって国民みんなが悪いのではない。国民みんなが政府に従っていれば政府の責任は国の責任だと言えるが、国民みんなが政府に従っていなければ政府の責任は国の責任とは言えない。政府の責任は政府の責任と言うべきであって国の責任と言うべきではない。テレビや新聞は言葉使いを正確にしないといけない。)
これ以下平成29年3月13日追加:日本文化では政府に権力はなく国民と政府は平等である。だから、日本では政府は国民と平等にしなければならない。日本人はインド文化をやらず日本文化しかやらない。インド文化では政府が身分制をやると国民みんなが政府に従って政府が権力が得られるから政府が国民を好き勝手にすることができるが、日本文化では政府が身分制をやっても国民みんなが政府に従わず政府が権力が得られないから政府が国民を好き勝手にすることができない。(インド文化ではみんなが頭で考えるだけで眼で見ないから、眼で見える世界を昔のままにしておくから、古臭い物を大切にする。“苦痛に伴う快感”を満足するために悪いことをする団体は古臭い。だから、インド文化ではみんなが政府を大切にするから政府が偉そうにしてみんなが政府に従うのである。つまり、政府が身分制をやるのである。反対に、日本人は眼と頭の両方で見るから、古臭い物を大切にしないから、政府を大切にしないから政府に従わないのである。インド人は古臭い物が好きである。戦争は古臭い習慣だから、今後はインドが戦争をやるかもしれないから注意しないといけない。アメリカが今でも軍事をやっているのはインド文化の影響だろう。/政府が身分制をやってちゃんと権力が得られるのなら政府が特定の個人を自分の好き放題にすることができる。政府が自分の気に入らない者を片っ端[かたっぱし]から殺すことができる。しかし、政府が身分制をやっても権力が得られないなら政府が特定の個人を自分の好き放題にすることはできない。国民がどんなに政府を馬鹿にしても政府は国民に手出しはできない。)しかも、今の国民のほとんどは“苦痛に伴う快感”を欲[ほっ]していないから政府が無差別に国民に悪いことをしてはいけない。江戸時代には国民みんなが“苦痛に伴う快感”を欲していたから幕府が国民みんなから年貢[ねんぐ]を取って無差別に国民を殺したり虐[いじ]めたりしてもよかったが、今では国民のほとんどが“苦痛に伴う快感”を欲していないから政府が国民みんなから税金を取って無差別に国民を殺したり虐めたりしてはいけない。それなのに、今の政府は自分が権力を得るために身分制をやって自分の好き勝手に国民を殺したり虐[いじ]めたりしている。だから、今の政府が悪い。政府は身分制をやってはいけない。国民で政府を罰しなければならない。政府に身分制をやめさせるためにも、国民みんなで早く政府に税金を払うのをやめて政府を潰[つぶ]さねばならない。
今の政府は身分制をやって好き勝手に国民を殺したり虐めたりしている。今の政府は私の許可を得ずに私を国家宗教の神にして勝手に私の情報を使っている。つまり、今の政府は国民と政府が平等であることを守っていない。政府が悪い。今の政府が文化や権力のことがよくわかっていないために自分に権力があると誤解して悪いことをやっているのだろう。国民みんなで早く政府を潰して世の中から悪い団体をなくさねばならない。
平成29年3月14日追加:日本人は日本文化しかやれない。日本人は政府が何をしても政府に従わず政府に権力がない。日本では国民と政府が平等である。しかも、今の日本では文明が高くなって国民の娯楽がたくさん出来て国民みんなが“苦痛に伴う快感”を欲していない。だから、今の日本では国民みんなが政府に悪いことをされるのを断って、政府に税金を払わず自分から政府に殺されたり虐められたりせず政府が定めた悪い法律や悪い国策をやらず悪い教育を受けていないのである。今の政府は国民みんなから税金をもらえなくなって潰れているのだ。
[23218] 外国では『人間がみな平等でない』ことが法律である。 h29.3.11
日本人は生まれつき眼と頭と心が均等に発達しているために、日本人には自分が従う特定の団体がない。日本には権力者がいないから、人間はみな平等である。日本では『人間がみな平等である』ことが社会の決まりである。だから、日本人は『人間がみな平等である』ことを守って暮らしているのである。しかも、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために実在が見えるから、実在においてみんなが平等にして暮らしている。だから、日本は平和で暮らしやすい国なのである。
反対に、外人は生まれつき眼と頭と心が不均等に発達しているために、外人には自分が従う特定の団体がある。外国には権力者がいるから、人間が不平等である。外国では『人間が不平等である』ことが社会の決まりである。『国民同士は平等だが、国民と権力者は不平等である。国民は権力者に従わねばならない』ことが社会の決まりである。だから、外人は『国民同士は平等だが、国民は権力者に従わねばならない』ことを守って暮らしているのである。外国では権力者が国民を自分の好き放題にできる。外国では権力者が国民をどうしようが罪[つみ]に問われない。(実際には、これまでは悪いことをする団体が民主主義や国家宗教や身分制などをやって権力を持っていたから多少多目に悪いことができたのであって、今は世界中の国の文明が高くなって国民みんなが“苦痛に伴う快感”が要らなくなって悪いことをする団体が仕事がなくなって滅んでなくなっているから、何もない団体がいくら民主主義や国家宗教や身分制をやっても国民みんなが団体に従おうとせず権力は得られないかもしれない。悪いことをする団体が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのは、悪いことをする団体が国民の眼を欺[あざむ]くために民主主義の団体や国家宗教の団体や身分制の団体に化けているのではなく、悪いことをする団体が自分が権力を得るために民主主義や国家宗教や身分制を併[あわ]せてやっているだけである。)しかも、外人は眼と頭と心が不均等に発達しているために実在が見えず眼の世界や頭の世界や心の世界の中だけに暮らしているから、国民同士が平等であることもろくすっぽ守られていない。例えば、ヨーロッパ人は眼の世界の中だけで暮らしているから人前では国民同士が平等にしているが人目につかないところでは国民同士が平等にしない。国民同士が不平等にして悪いことをする。中国人は心の世界の中だけで暮らしているから自分の好き勝手にするから人前でも国民同士が平等であることを守らない。(中国人は自分の心のままに好き勝手にするから他人に寛大でなければ生きていけない。福岡は中国に近いから、福岡の人間は他人に寛大である。)インド人は頭の世界の中だけで暮らしているから眼で見える世界に興味がなく眼で見える世界はどうでもいいから眼で見える世界では国民同士が平等であることを守らない。外人は国民同士が平等であることすら守らない。外人は悪いことばかりする。外国では権力者が国民を好き放題にするし、国民も国民同士が平等にせず悪いことをし合っている。だから、外国は物騒[ぶっそう]で暮らしにくい国なのである。(ドラマ『西遊記』の最終回で孫悟空一行が天竺[てんじく]に行く替わりに出発点に戻されたのは、理想の国はじつはインドではなく日本だからである。日本人は外国のことを知らないからインドが善い国だと誤解しているのだ。本当はインドはヨーロッパ人が恐れるほどガラが悪い国だから、日本人がインドに行くときは死ぬ覚悟で行かねばならない。今から約20年前にNHK教育の人形劇の『西遊記』でお釈迦様[おしゃかさま]の側近[そっきん]の偉い僧侶[そうりょ]が賄賂[わいろ]をもらって悪いことを見逃すのは、インド人が悪いことを平気でする人種であることを表している。)
今は国際化の時代である。日本人が外国に行ったり、外人が日本に入ったりしている。そのために、今では日本人と外人の違いがみんなの関心を集めている。日本人と外人では生まれつきの性格が違うために日本と外国では国の決まりが違うから、日本人は外国に行ったら気をつけねばならない。(私はまだ外国に行ったことがないけど。頭で考えれば外国のことが理解できるから、いちいち外国に行く必要がない(笑い)。)
ただ、日本人と外人で同じところもある。それは、国の文明が低いと国民が“苦痛に伴う快感”を満足することである。国の文明が低いと国民が悪いことをする団体に悪いことをしてもらって苦痛を与えてもらって“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に暮らしている。このことは、全世界共通である。(外国では悪いことをする団体が権力者を兼[か]ねている。だから、ますます悪いことをする。)しかし、今は世界中で文明が高くなって国民が面白い物で遊んで喜んで“苦痛に伴う快感”を満足しなくなっている。今では世界中で文明が高くなって悪いことをする団体が仕事がなくなって滅んでいる。
[23219] どうして今でも多くの国民は政府のことがわかっていないのか? h29.3.12
これまでに多くの者が週刊誌や文芸雑誌に私と同じようなことを書いてきた。それなのに、いまだに多くの国民が政府のことがわかっていない。それは、これまで週刊誌や文芸雑誌に投稿してきた者の言い方が下手[へた]だったからである。
これまでは投稿した者がボンヤリと曖昧[あいまい]にしか書かなかったから、読者がいくら読んでも何を言っているかわからなかったのである。
いくら言っていることが正しくても言い方が下手だと相手に意味が伝わらない。
このたび私が上手[じょうず]に書いてやったから、国民みんながすぐに政府のことがわかるはずである。政府はじきに潰[つぶ]れるだろう。
出版社の社長が政府からお金をもらって投稿された作文を何を言っているかわからないように曖昧に書き変えたのかもしれない。私は出版社に投稿せずに自分ひとりだけでインターネットの上で言っているから、誰の手入れもないからわかりやすいままなのだ。
[23220] 政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。
h29.3.12
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を与えられると脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。
政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である。政府は国民に悪いことをするために国民を殺したり国民の財産を奪ったり国民を虐[いじ]めたり国民を貧乏にしたりする。政府は国民に悪いことをするために国民から税金を取って事件や事故を起こして国民を殺したり虐めたりして悪い法律や悪い国策を定めたり悪い教育をしたりしている。要するに、政府は国民に悪いことをやっているだけである。政府の省庁は国民に悪いことをするために建っているだけである。
日本文化では政府が何をやっても国民は政府に従わず政府に権力がない。日本文化では国民と政府は平等である。だから、国民が政府に悪いことをしてもらうかしてもらわないかは国民の自由である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に殺されたり虐めてもらったり政府の悪い法律や悪い国策をやったり悪い教育を受けたりし、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたり政府の悪い法律や悪い国策をやらず悪い教育を受けなければいい。
昔の国民は文明が低くて面白い物がなくて喜びがなかったから、政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらっていた。昔の国民は政府に税金を払って政府に殺されたり虐められたりして政府の定めた悪い法律や悪い国策をやって悪い教育を受けて政府に“苦痛に伴う快感”を与えてもらって幸福に暮らしていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今の国民は文明が高くて面白い物がたくさんあって喜びがいっぱいあるから、政府に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えてもらうのが嫌になっている。今の国民は政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたりせず政府の定めた悪い法律や悪い国策をやらず悪い教育を受けないようにして政府に“苦痛に伴う快感”を与えられないようにしている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。(最近は「にゃんぱす」という挨拶[あいさつ]が流行[はや]っている。“にゃん”とはネコのことであり、ネコは表ではおとなしいが裏では強暴だから、表で民主主義で国民に善いことをやって裏では国民に悪いことをやって国民に“苦痛に伴う快感”を与える政府のことである。“ぱす”とは無視することである。だから、「にゃんぱす」とは政府を利用しないことである。今の人は政府に税金を払うのをやめて政府に悪いことをされないようになっているのだ。平成29年3月21日追加:もっとも、政府が民主主義をやっているのは中国文化にかぶれて心主義で生きている国民を政府に従わせて自分が権力を得るためであって、自分が善いことをする団体のふりをして国民の眼を欺[あざむ]くためではない。つまり“ネコをかぶる”ためではない。政府はネコに似ているが、けっしてネコと同じではない。)
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府が潰れて政府が善いことをやれなくなったら、国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
人間にとっては自分が幸福に生きることがもっとも大事である。人間は自分がどんな喜びを満足しようが自由である。今の国民は“苦痛に伴う快感”よりも“文明の喜び”(つまり、テレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりする喜び、文明の利器を使って暮らす喜び)を満足したほうが幸福に暮らせることがわかっている。今の国民はいくら自分が長年政府の世話になってきたからといって、もうこれ以上政府の世話になってはいけない。国民は自分が幸福に生きるためにどんな喜びを満足すればいいかよく考えて暮らさねばならない。
今の政府は国民の給料を天引き[てんびき]して国民から税金を取っている。政府が国民から税金を取っているのは国民に“苦痛に伴う快感”を与えるためである。政府は国民から取った税金でさらにいろんな悪いことをして国民にたくさん“苦痛に伴う快感”を与えている。(天引き←天←天皇家、天引き←天←テン←ンテ←川フ(“テ”の上の横線を“ン”に移す)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だから、政府は国家宗教をやることによってヨーロッパ文化にかぶれた国民を政府に従わせて税金を取っているとも言える。)しかし、今の国民は文明生活をして面白い物を使って遊んでたくさん喜びがあるから、今の国民にとっては“苦痛に伴う快感”はただの苦痛にほかならないから“苦痛に伴う快感”なんか要らない。だから、今の国民は政府に税金を払わないようにしないといけない。今の国民は会社の事務員に断って税金を払わないようにしないといけない。会社の事務員が物分りが悪くて「どうしても税金を払わないといけない」と言い張るなら、そんな事務員は要らないから「お前みたいなバカは会社にいてはいけない。さっさと会社を辞[や]めて会社から出て行け!」と言って会社から追い出さねばならない。事務員は文化や権力のことがよくわかっていないから政府や自分に権力があると誤解して偉そうにしているのだろう。そんな事務員がいるとみんなの迷惑だからさっさと会社から追い出したほうがいい。
平成29年3月14日追加:今でも政府が残っているのは、世の中には政府のことがわかっていない馬鹿が多いからである。今でも馬鹿が政府に税金を払っているから政府が建っているのである。しかし、税金は高いから馬鹿は馬鹿でも馬鹿すぎる。毎月政府に高い税金を払って政府に嫌なことをされているのはいくらなんでも馬鹿すぎる。馬鹿は自分を反省してもうちょっと考えて暮らして世の中のことが正しくわかるようになって自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。
[23221] 『パンドラの箱』 h29.3.12
パンドラの箱は政府のことである。パンドラの箱を開けるとは、政府がやっていることを知ることである。
パンドラの箱を開けると中からたくさんの悪魔が飛び出してきて箱の底にちょっとだけ天使がいたというのは、政府は本来悪いことをする会社であり、政府は悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけやっていることである。政府はそもそも悪いことをする会社だからたくさん悪いことをやっている。政府は自分が権力を得てもっと国民に悪いことをするために民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっているのである。
『パンドラの箱』のおとぎ話には、政府がたくさん悪いことをしていることが書いているだけで、肝心の政府が何のために悪いことをしているかが書いていない。人間には“苦痛に伴う快感”がある。政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にするために国民に悪いことをしているのである。『パンドラの箱』のおとぎ話は肝心なことを書いていない。まったく意地の悪いおとぎ話だ。『パンドラの箱』のおとぎ話からたくさんの政府についての誤解が飛び出してきてみんなを不幸にしている。『パンドラの箱』のおとぎ話自体がパンドラの箱だ。
[23222] 『侍[さむらい]ジャイアンツ』(再考) h29.3.12
『侍ジャイアンツ』は『巨人の星』のあとに作られたスポ根野球アニメである。『侍ジャイアンツ』は“消える魔球”のあとの野球アニメである。だから、『侍ジャイアンツ』は国民みんなが“苦痛に伴う快感”を満足しなくなったあとの政府のことである。『侍ジャイアンツ』における魔球とは“権力”のことである。『侍ジャイアンツ』のテーマは“権力”である。
『侍ジャイアンツ』とは、侍が身分制で、ジャイアンツが巨人で民主主義のことだから、今の政府が身分制と民主主義をやって権力を得ようとしていることである。
ハイジャンプ魔球とは、今の政府が身分制をやっていることである。つまり、今の政府がお高ぶって国民を自分の好き放題に殺したり虐[いじ]めたりしていることである。エビ投げハイジャンプ魔球とは、今の政府が私や天皇などの国家宗教の神の情報を使って身分制をやっていることである。エビ←エビの形が丸くて長い←天皇家、エビ←ビエ←ビえ←カブ(ビ≒カ、え≒ブ(“え”の上の点と右下の線を右上に移す))←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だから、エビとは天皇と私の国家宗教の神のことである。
大回転魔球とは、今の政府が天皇と私の両方を神にして国家宗教をやっていることである。大回転魔球←大←O←光る玉←天皇家、回転←カイテン←カテン←カブ(テ≒フ、ン≒゛)←川ブ←私だから、大回転とは天皇家と私のことである。番場蛮[ばんばばん]が大回転魔球を樽[たる]に入って特訓したのは、樽←形が丸くて長い←天皇家、樽←タル←ルタ←川ブ(ル≒川、タ≒ブ(“タ”の左斜め線と真ん中の斜め線を右上に移す))←私だから、樽が天皇家と私だからである。今の政府は国民の“苦痛に伴う快感”で支えられなくなったために自分を“権力”だけで支えないといけないので、国家宗教による権力を強化するために天皇家と私の両方を神にしているのである。ときには政府が天皇家を神にしているか私を神にしているか区別しにくいことがある。そのために、大回転魔球は眼がチカチカしてボールが見づらいのだ。
分身魔球は今の政府が身分制と民主主義と国家宗教の全部をやって幕府と政府の両方を兼[か]ねてやっていることである。今は国民が文明が高くなって“苦痛に伴う快感”を満足しなくなったので、政府は権力だけで国民から税金を取って稼[かせ]がねばならない。そのために、政府は必死になって身分制と民主主義と国家宗教の全部をやって少しでも多くの権力を得ようとしているのである。番場蛮が空き缶を手で潰[つぶ]して分身魔球の特訓をしたのは、空き缶←丸くて長い←天皇家であり、私と天皇家が国家宗教の神としてライバル関係にあることを表している。
『侍ジャイアンツ』が言いたいことは、今の政府が身分制をやっていることである。タイトル名とハイジャンプ魔球が言いたいことである。あとは、付け足し程度のことである。
今の政府は必死で身分制や民主主義や国家宗教などをやって権力を得ようとしている。しかし、日本では政府がいくら身分制や民主主義や国家宗教をやっても国民が政府に従わず政府は権力が得られない。政府は無駄[むだ]な努力をしているだけである。(『侍ジャイアンツ』の絵柄が『巨人の星』に比べてオチャラケ(手抜き)なのは、今の政府が権力を得ようとしてもしょせん無駄だからである。)だから、最終回でベーブルースみたいなやつが出てきてことごとく番場蛮の魔球を打つのである。ベーブルースみたいなやつが日本人のことである。アメリカも日本も世界中の文化を受け入れてやっているから、アメリカと日本は似ているからアメリカ人が日本人の代わりなのである。そして、最後には番場蛮が死ぬのである。つまり、政府が潰れてなくなるのである。(アメリカは日本と同じように世界中の文化を受け入れているが、アメリカ人と日本人はまったく違う。実際には、お国柄[おくにがら]は文化ではなく人間で決まる。日本人は中国人とインド人とヨーロッパ人の遺伝子が混じり合った特殊な人種である。だから、日本人は政府がどんなことをやっても政府に従わないのである。一方、アメリカ人は遺伝的にはヨーロッパ人と同じである。だから、アメリカ人は政府が国家宗教をやると政府の言いなりになるのである。アメリカは日本と同じように世界中の文化を受け入れているが、アメリカ人と日本人は人種が違うから、アメリカ人と日本人はやることが全然違うのである。日本人は中国人とインド人とヨーロッパ人の混血だから世界中の文化が部分的に(日本文化すなわち実在主義に適[かな]うところだけ)やれるが、アメリカ人はヨーロッパ人だからしょせんヨーロッパ文化しかやれない。日本人自身が外国文化に対する篩[ふるい]なのだ。マンガの上ではアメリカ人は日本人の代理をやれるが、実際にはアメリカ人では日本人の代理はやれないのだ。)
ちなみに、主人公の番場蛮は、番場蛮←バンババン←バンバン←バンンバ←川ブ(バン≒川、ン≒ん≒フ、バ≒゛)←川野延夫←私である。八幡太郎平[はちまんたろへい]が今上天皇である。当時の政府は私をメインの国家宗教の神に天皇家をサブの国家宗教の神にして国家宗教をやっていたのである。番場蛮はスポーツ万能だが、私は小さいころから運動が苦手で野球が嫌いである。番場蛮は土佐高校出身だが、私は高知学芸高校出身である。
[23223] 今のヨーロッパ人は宗教団体に従わなくなっている。☆ h29.3.15
ヨーロッパ人は狩猟民族だから生まれつき戦争が好きである。日本人も1/3はヨーロッパ人だからちょっとだけ戦争が好きである。
しかし、テレビが普及してからはヨーロッパ人は戦争をしなくなった。それは今のヨーロッパ人にとっては戦争をするよりもテレビを見るほうが面白いからである。今のヨーロッパ人にとってはテレビがあって“戦争をする喜び”よりも“テレビを見る喜び”のほうが喜びが多いからヨーロッパ人はテレビを見て戦争をやめたのである。テレビのおかげで世界が平和になったのだから、まったくテレビは偉大な発明である。ノーベル平和賞ものである。日本でもテレビのおかげで国民みんなが戦争をしなくなって平和になった。けっしてアメリカ軍が日本人を骨抜きにしたから日本人が戦争をしなくなったのではない。テレビが日本人を骨抜きにしたから日本人は戦争をしなくなったのである。
それと同じように、ヨーロッパ人は生まれつき眼だけが発達しているために“宗教団体に従う喜び”があるが、今のヨーロッパ人にとってはテレビがあって“宗教団体に従う喜び”よりも“テレビを見る喜び”のほうが喜びが多いので、今のヨーロッパ人はテレビを見て宗教団体に従わなくなっている。今のヨーロッパ人にとっては自分が宗教団体に従うよりもテレビを見るほうが面白いので、宗教団体が滅んでいるのである。宗教団体がテレビに負けたのである。今のヨーロッパ人は教会の中にテレビを持ち込んで宗教を無視してテレビを見て喜んでいるのである。それを見た宣教師が怒ってみんなに注意するが、最後には宣教師も説教をやめてみんなといっしょになってテレビを見て喜んでいるのである。
“戦争をする喜び”も“宗教団体に従う喜び”もテレビが出来る前の喜びである。今ではテレビが出来たので“戦争をする喜び”も“宗教団体に従う喜び”もなくなっている。テレビは軍隊や宗教団体の権力も奪うのである。テレビは人間を平等にするからすごい発明である。ヨーロッパ人はヨーロッパ文化しかやれないから、ヨーロッパは外国の文化を取り入れることによって権力者がいなくなったのではなく、テレビによって権力者がいなくなったのだ。ムンクの『叫び』はまちがいなのだ。ムンクの『叫び』の3人の黒服の男の替わりにテレビを描けばよかったのだ。今のヨーロッパ人は日曜日の朝は教会に行かずに家の中でテレビを見てすごしているのだ。
文明によって面白い物が出来れば、それよりも面白くない物が滅ぶ。人間にとってはテレビを見ることは戦争をすることや宗教団体に従うことよりも面白いから、テレビによって軍隊や宗教団体が滅んでいる。人間にとってはテレビを見ることは自分が悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を与えられることや政治団体に従うことや暴力団に従うことよりも面白いから、テレビによって“苦痛に伴う快感”を与える団体や政治団体や暴力団が滅んでいる。(ヨーロッパ人が生まれつき宗教団体つまり国家宗教をやる団体に従う喜びがあるように、中国人は生まれつき政治団体つまり民主主義をやる団体に従う喜びがあり、インド人は生まれつき暴力団つまり身分制をやる団体に従う喜びがある。一般に外人には生まれつき“特定の団体に従う喜び”がある。外人の大脳の中にある“特定の団体に従う喜び”を担[にな]う脳細胞が権力の実体なのだ。反対に、日本人にはそんな喜びはない。日本人には実在に従う喜びがあるだけだ。だから、日本人は自分で考えて実在を知らねばならないのだ。)
要するに、テレビが出来てから人間の喜びが急に増えた。人間にとってはテレビだけが面白くて、テレビ以外のことは面白くなくなった。人間はテレビばっかり見るようになって、テレビ以外の娯楽をやらなくなった。つまり、戦争や“苦痛に伴う快感”や“特定の団体に従う喜び”をやらなくなった。そのために、軍隊や政府や宗教団体や暴力団が滅んでいるのだ。
外人には生まれつき“特定の団体に従う喜び”があるが、日本人には生まれつき“特定の団体に従う喜び”がない。だから、日本では政府や幕府が何をやっても国民は政府や幕府に従わず政府や幕府は権力が得られない。江戸時代は幕府が身分制や民主主義をやったが国民みんなが幕府に従わず幕府は権力がなかった。近代は政府が民主主義や国家宗教をやったが国民みんなが政府に従わず政府は権力がなかった。現代は政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっているが国民みんなが政府に従わず政府には権力がない。日本では幕府や政府が自分ひとりだけで寂[さみ]しく身分制や民主主義や国家宗教をやっているだけである。国民は幕府や政府と平等にしている。国民は自分で考えて自分が幸福に暮らせるように幕府や政府の決めた法律や国策をやったりやらなかったりしている。例えば、江戸時代には幕府がインドを真似[まね]て身分制や生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]を定めたが、当時の国民は自分が身分制や生類憐みの令をやっても面白くないと思って自分で幕府が定めた身分制や生類憐みの令を破って身分制や生類憐みの令をやらないようにして幕府と平等にして動物を虐待していた。それと同じように、今の政府は納税の義務の法律を定めているが、今の国民にとっては“苦痛に伴う快感”が要らないから自分が政府に悪いことをされても面白くないから自分で政府が定めた納税の義務の法律を破って政府に税金を払わないようにして政府を潰[つぶ]している。
[23224] 政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。
h29.3.15
人間には“苦痛に伴う快感”がある。つまり、人間は悪いことをされて苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる。
政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。政府は国民に悪いことをするために国民と契約せずに国民から税金を取ったり、無差別に事件や事故を起こして国民を殺したり虐[いじ]めたりして、悪い法律や悪い国策を定めて国民を虐めたり貧乏にしたりして、悪い教育をやったりしている。
日本では国民が政府に従わず政府に権力がなく国民と政府は平等である。だから、国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔は国の文明が遅れていて国民みんなが文明生活をしていなくて喜びがなくて“苦痛に伴う快感”が欲しかったから、国民は政府の言うことを聞いて政府に税金を払って政府に無差別に殺されたり虐められたりして政府が定めた悪い法律や悪い国策をやって悪い教育を受けていた。政府は国民みんなから税金をもらって儲[もう]かっていた。
今は国の文明が進んで国民みんなが文明生活をやって喜びがたくさんあって“苦痛に伴う快感”が欲しくなくなったから、国民は政府の言うことを聞かなくなって政府に税金を払わなくなって政府に無差別に殺されたり虐められたりしなくなって政府が定めた悪い法律や悪い国策をやらなくなって悪い教育を受けなくなっている。政府は国民みんなから税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
今の政府は自分が権力を得るために身分制をやって国民を自分の好き勝手に殺したり虐めたり、民主主義をやって国民のためにちょっとだけ善いことをしたり、国家宗教をやって神の情報を使ってテレビ番組や映画を作ったりしている。しかし、日本人は政府が何をやっても政府に従わないから、政府は権力が得られず自分ひとりで無駄[むだ]なことをやっているだけである。
今の政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをやってもらっている。将来、政府がなくなって政府が善いことをやれなくなったら、国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
[23225] 今の政府の悪い点 h29.3.16
今の政府は国民に悪いことをして国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために、国民と契約せずに国民から税金を取ったり、無差別に国民を殺したり虐[いじ]めたり、悪い法律や悪い国策を定めたり、悪い教育をやったりしている。
そのうえ、今の政府は自分が権力を得ようとして身分制をやって自分の好き勝手に国民を殺したり虐めたりして、民主主義をやってちょっとだけ善いことをやったり、国家宗教をやって私や天皇家の情報を使ったことをやっている。
したがって、今の政府が悪い点は、国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために無差別に国民を殺したり虐めたりしていることと、身分制をやって自分の好き勝手に国民を殺したり虐めたりしていることを、国家宗教をやって私や天皇家の情報を使っていることである。今の時代には国民みんなは“苦痛に伴う快感”を欲しくないので政府が無差別に国民を殺したり虐めたりしてはいけない。日本では政府と国民が平等なので、政府が身分制をやっても政府は権力が得られないので、政府が自分の好き勝手に国民を殺したり虐めたりしてはいけない。日本では政府と国民が平等なので、政府は私や天皇家の肖像権[しょうぞうけん]やプライバシー権を侵してはいけないので、国家宗教で私や天皇家の情報を勝手に使ってはいけない。それ以外のことは、国民が『政府は国民に“苦痛に伴う快感”を与える会社である』ことや『日本では政府と国民が平等である』ことや『今の国民みんなは“苦痛に伴う快感”を欲しくない』ことを知っていれば、自分で政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされるのを避けられるから政府は悪くない。つまり、今の国民は自分で政府に税金を払わなければいいし、政府が定めた悪い法律や悪い国策をやらなければいいし、政府の悪い教育を受けなければいい。今の国民は自分で政府にお金を払って善いことだけやってもらえばいい。国民がそうしないのは国民のほうが悪い。
今の政府はたくさんやってはいけないことをやっている。今の政府が悪い。国民で今の政府を罰しなければならない。
今の政府は国民に「政府の誰がやってはいけないことをやっているかわからないから自分が罰せられることはない」と思っていい気になってやってはいけないことをやっている。今の政府にやってはいけないことをやめさせるには、今の政府を潰[つぶ]すしかない。国民みんなで早く政府に税金を払うのをやめて政府を倒さねばならない。
もしも政府が私の作文を読んだために自分がまちがっていることを理解して身分制で勝手に国民を殺したり虐めたりするのをやめたり無差別に国民を殺したり虐めたりするのをやめて本来政府に殺されるはずの人が殺されずにすめば私が考えたかいがあるだろう。昔の人は“苦痛に伴う快感”が欲しかったから自分が政府に殺されて喜んでいた。昔の人は“政府に殺される喜び”があったから私のせいで政府に殺されずにすめば「余計なことをしないでくれ!」と私に怒っただろうが、今の人は“政府に殺される喜び”よりも“テレビを見る喜び”のほうが強いから私のおかげで政府に殺されずにすめば「これでまたテレビが見られる」と思って喜ぶだろう。
[23226] どうして私がみんなに政府のことを教えているのか? h29.3.17
今ぐらいの文明水準なら国民のほとんどが“苦痛に伴う快感”を欲しくないはずである。
それなのに、今でも政府が残っている。
それは、今の国民の多くが政府のことを知らないからである。政府のことを誤解しているからである。今の国民の多くが政府の言いなりになって政府に税金を払っているから政府が残っているのである。
それなら、今の国民に政府のことを教えれば政府が潰[つぶ]れることになる。みんなは税金がもったいないから、政府に税金を払うのをやめるはずである。政府が潰れるはずである。
だから、私がこうして政府のことをみんなに教えているのである。
[23227] 外国ではみんなが悪いことをやってもいいと思っている。 h29.3.21
政府が国民を幸福にするために悪いことをするのは善いことであって悪いことではない。政府は国民を幸福にする手段として悪いことをしているだけであって、悪いことをする目的は国民を幸福にすることだから普通の会社と同じである。だから、政府や宗教団体や暴力団は国民みんなと同じ社会に中にいられるのである。
昔の人は文明が遅れていて喜びがなかったから“苦痛に伴う快感”でもしかたがないと思ってないよりはましだと思って、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされてたくさん不幸な思いをしながらちょっとだけ幸福になっていたのである。不幸な思いを我慢[がまん]しながら幸福な思いを強めて喜んでいたのである。昔の蓄音機(レコードプレーヤーのこと)はノイズがひどかったがみんながないよりはましだと思って我慢[がまん]して聞いていたのと同じである。昔の人は性格がすごく我慢強くて情操[じょうそう]がすごく発達していたから政府に悪いことをされて喜ぶことができたのだ。今の人ではおそらく無理だろう。
人間は悪いことをされると苦痛を感じるが、苦痛を弱めるために脳内に快楽物質が分泌されて気持ちがよくなる。だから、昔の人は自分が気持ちよくなるためにほかの人に悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に悪いことをしてもらって、自分の脳内に快楽物質を分泌させて気持ちよくなっていたのである。昔の人は自分が気持ちよくなる手段として政府に悪いことをされていたのである。昔の人がお灸[きゅう]をすえてもらって痛い思いをして脳内に快楽物質を分泌させて気持ちよくなっていたのと同じである。
今の人は自分が気持ちよくなるためにほかの人に善いことをしてもらうが、昔の人は自分が気持ちよくなるためにほかの人に悪いことをしてもらっていたのである。そういうのをカルチャーショックというのである。
政府が国民を幸福にするために悪いことをするのは善いことである。世界中の政府がそうしている。しかし、外国の政府は身分制や民主主義や国家宗教などをやって国民を政府に従わせて国民に多めに悪いことをやって国民を不幸にして悪いことをやっている。
それは、外人は眼と頭と心が不均等に発達しているために悪いことをやってもいいと思っているからである。
そのため、外国の政府は自分が悪いと知りながら、身分制や民主主義や国家宗教などをやって国民を政府に従わせて権力を得ているのである。外国の政府は権力を得て悪いことを多めにやって儲[もう]けている。外人は政府に多めに悪いことをされて不幸にされている。しかし、外人はそんな政府が好きなのである。だから、外人はおとなしく政府に多めに悪いことをされているのである。
反対に、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために悪いことをやってはいけないと思っている。
そのため、日本の政府は身分制や民主主義や国家宗教を形の上でやるだけで国民が政府に従わないことを認めている。日本の政府は権力が得られないので国民が自分が好きなだけ政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて自分で自分に適度な“苦痛に伴う快感”を与えて自分を幸福にすればいいと思っている。日本人は自分で政府の言うことを聞くか聞かないか決めて自分がちょうどいい程度に政府に悪いことをされて幸福になっている。もちろん、日本人もそんな政府が好きである。
もっとも、今では世界中の国で文明が発達して国民みんなが文明生活をして喜びがたくさんあって国民みんなが“苦痛に伴う快感”も“政府に従う喜び”も要らなくなっている。今の国民は政府に悪いことをされたり政府に従ったりするよりもテレビを見るほうが楽しいから、政府に悪いことをされたり政府に従ったりするのが嫌になっている。そのため、今では世界中の国で国民みんなが政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今では世界中の国で国民みんなが政府に税金を払わなくなって政府が潰[つぶ]れている。
日本人はみんなが悪いことをやってはいけないと思っているが、外人はみんなが悪いことをやってもいいと思っている。日本人と外人では習慣が違う。だから、日本人が外国に行くときには注意しないといけない。反対に、日本人はみんな悪いことをやってはいけないと思っているから、日本では悪いことをやってはいけない。悪いことをやりたければ外国に行ってやらないといけない。
これ以後平成29年3月30日追加:昔タモリが『笑っていいとも!』(だったかな?)で「悪いほうが有利」と言ってニヤリとしたのは、日本ではみんなが悪いことをしないから自分が日本で外国の文化をやって悪いことをすれば自分が有利になるということである。しかし、日本ではみんなが悪いことをやってはいけないから、自分が勝手に外国の文化をやって悪いことをやってはいけない。自分が外国の文化をやっていることを理由にして悪いことをやってはいけない。外人も日本に来て悪いことをやってはいけない。文化とは人間の中身が外に表れたものである。だから、人間は自分の国の文化しかやれない。日本人は日本文化しかやれない。日本ではみんなが日本文化をやって悪いことをやらないようにしないといけない。日本人がヨーロッパ文化がやれないように、ヨーロッパ人も日本文化がやれない。日本人が日本文化しかやれないように、ヨーロッパ人もヨーロッパ文化しかやれない。日本人は悪いことをしないが、ヨーロッパ人は悪いことをする。ヨーロッパでは悪いことをやっても罪[つみ]にはならないが、日本で悪いことをやったら罪になる。ヨーロッパ人が日本に来たら、日本人はヨーロッパ人に悪いことをされないように注意しないといけない。日本でヨーロッパ人が悪いことをしたら、すぐにヨーロッパ人を牢屋に入れないといけない。
日本のアニメ会社が私や天皇家に無断で勝手に私や天皇家の情報を使ってアニメを作っているのは、アニメ会社がヨーロッパ文化をやっているからである。しかし、日本ではみんなが悪いことをやってはいけないから、日本でアニメ会社が自分がヨーロッパ文化をやっていることを理由にして悪いことをやってはいけない。アニメ会社はちゃんと私や天皇家の承認を得てから私や天皇家の情報を使ってアニメを作らねばならない。私は承認しないから私の情報を使ってアニメを作ってはいけない。
[23228] 快感の効率 h29.3.21
一般に、人間は外からの刺激に対し快感と不快感を同時に感じる。
そこで、快感の効率を、快感の効率=快感÷(快感+不快感)で定義する。
政府に悪いことをされるやり方だと、快感の効率(政府)≦0.01である。
テレビを見るやり方では、快感の効率(テレビ)≒0.5である。
だから、テレビを見たほうが政府に悪いことをされるよりもはるかに快感の効率がいい。
だから、今では国民みんなが政府に悪いことをされるのをやめてテレビを見るようになったのである。そのために、テレビを作る会社やテレビ局が国民みんなやスポンサーからお金をもらって儲[もう]かって、政府が国民みんなから税金をもらえなくなって潰[つぶ]れているのである。
[23229] 政府の仕事は国民に苦痛を与えることによって国民を喜ばせることである。
h29.3.25
人間には“苦痛に伴う快感”がある。人間は自分が苦痛を与えられるとそれを癒[いや]すために脳の中で麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じるように出来ている。
政府は国民に苦痛を与えることによって国民を喜ばせる団体である。政府は国民に苦痛を与えるために、国民と契約せずに国民からお金(つまり税金)を取ったり、事件や事故を起こして無差別に国民を殺したり虐[いじ]めたりして、国民を苦しませるための法律や国策を定めたり、国民を苦しませるための教育をやったりしている。
日本人は政府が身分制をやっても民主主義をやっても国家宗教をやっても政府に従わないので政府に権力がない。日本では国民と政府が平等である。日本では国民が自分が政府に苦痛を与えられたければ政府の言うことを聞き、自分が政府に苦痛を与えられたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔の国民は文明が遅れていたので昔の国民にはあまり喜びがなかったので政府に苦痛を与えられることが自分が喜びを得るための重要な方法だった。昔の人にも食べる喜びや寝る喜びや遊ぶ喜びはあったが今の人に比べると喜びの量が少なかったので、自分に苦痛を与えることによって喜びを補[おぎな]っていたのである。そのために、昔の人は自分のほうから政府の言うことを聞いて政府に苦痛を与えられて“苦痛に伴う快感”を得て喜んでいた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今の国民は文明が進んでいるので今の国民には喜びがたくさんあるので政府に苦痛を与えられることがもはや自分が喜びを得るための方法ではなくなった。今の人にはテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンを使ったりする喜びがあって大量の喜びが得られるので政府に苦痛を与えられて喜ぶ必要がなくなっている。今の国民にとっては政府に苦痛を与えられることがただの苦しみにすぎずむしろ邪魔[じゃま]である。そのため、今の国民は自分で政府の言うことを聞くのをやめて政府に苦痛を与えられないようにして幸福に暮らしている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。水が温度が上がると固体から液体になって状態が変わるように、人間は文明が上がると“苦しみに伴う喜び”を満足することから満足しないことに状態が変わるのだ。
今の政府は自分が国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取るために身分制や民主主義や国家宗教などをやっている。しかし、日本人は政府が何をやっても政府に従わないので政府はひとりで無駄[むだ]なことをやっているだけである。政府は民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっている。今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などの善いことをやってもらっている。将来、政府がなくなって政府が善いことがやれなくなったら、国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをやってもらうつもりである。
[23230] どうして政府は嘘[うそ]をつくのか? h29.3.27
政府は国民に悪いことをして国民に苦痛を与えて国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を幸福にする会社である。
政府は国民に悪いことをする。嘘は悪いことである。嘘をついて人を騙[だま]すのは悪いことである。だから、政府は嘘をつくのである。例えば、政府は国民みんなに「政府は国民みんなのために一生懸命善いことをしている。政府は善いことをするために税金を使っている。」と言うのである。政府は国民に苦痛を与えることによって国民を喜ばせるために、国民に嘘をついて国民を騙して国民を苦しませようとしているのである。人間にとっては嘘で騙されるのは苦しいことだから、政府は国民を苦しめて喜ばせるために嘘をつくのである。
日本文化では国民が政府に従わず、政府に権力がなく、国民と政府は平等である。だから、国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。例えば、国民は自分が政府に悪いことをされて喜びたければ、政府の嘘を真[ま]に受けて政府に善いことをしてもらうために政府に税金を払って政府に騙されて苦しめばよく、自分が政府に悪いことをされて喜びたくなければ、政府の嘘を真に受けず政府に善いことをしてもらうために税金を払わないようにして政府に騙されないようにして苦しまなければいい。
つまり、政府は国民を苦しませて国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を喜ばせる会社だから、政府は国民を苦しませるために国民に嘘をついて国民を騙そうとするが、国民は自分が政府に苦しまされて喜びたくなければ政府の嘘を真に受けなければいいのである。政府が「国民から税金をもらって善いことをする。」と言っても、国民は政府の言うことを本気にせずに政府に税金を払わなければいいのである。政府が「国の景気をよくしている」と言っても、国民は政府の言うことを本気にせずに、『本当は政府が国民を苦しませて喜ばせるために国の景気を悪くすることをいっぱいやっている』と思えばいいのである。また、政府が政府に従う者を有利にするのも嘘である。そうすれば、欲深い者が政府に従うと思って政府は特定の国民と組んで芝居をしているのである。政府は国民みんなを騙すために特定の者を有利にしているだけで、普通の国民は政府に従ってもいいことはなにもないのである。そうやって、政府は国民に無駄[むだ]な骨折りをさせて国民を苦しませて国民に“苦痛に伴う快感”を与えて国民を喜ばせているのである。
今の国民は文明的な生活をして喜びがたくさんあるから、わざわざ政府に悪いことをされて喜ばなくてもいい。だから、今の国民は政府の言うことを聞くのをやめて政府に悪いことをされないようにすればいいのである。政府は自分が国民を従わせるために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっているから、政府が悪いことをやるのと善いことをやるのとは別のサービスだから、国民は政府にその都度[つど]お金を払って善いことだけやってもらえばいいのである。
[23231] インド人は政府を身分が上の者にするから政府が国民を好き勝手にできる。
h29.3.29
日本政府が身分制をやって権力が得られるなら日本政府は国民を自分の好き勝手にできるが、日本政府が身分制をやっても権力が得られないから日本政府は国民を自分の好き勝手にできない。
反対に、インド政府は身分制をやって権力が得られるから国民を自分の好き勝手にできる。
インド人は頭だけが優れていて眼や心が劣っているから、頭で見える世界だけを進歩させて発展させて、眼で見える世界をほったらかしにして遅れたままにしようとする習性がある。動物や他人に苦しみを与えて喜ばせる団体は遅れている。そのため、インドでは動物や他人を苦しませて喜ばせる団体を残すために、動物が人間よりも身分が上であり、他人を苦しませて喜ばせる団体が普通の人間よりも身分が上にしているのである。インドでは動物が神であるのは、動物を人間よりも身分を上にするためである。インドでは動物が人間を好き勝手にできるし、他人を苦しませて他人を喜ばせる団体が国民を好き勝手にできる。そういうわけで、インドでは動物や他人を苦しませて他人を喜ばせる団体に権力があるのである。つまり、インド人は自分のほうから他人を苦しませて喜ばせる団体を身分が上にしているから他人を苦しませて喜ばせる団体に権力があって国民を好き勝手にできるのである。
一方、日本人は眼と頭と心が均等に発達している。日本人はインド人と違うから、日本人は眼で見える世界を昔のままにしようとしないから、日本では動物や“他人を苦しませて他人を喜ばせる団体”を身分を上にしない。つまり、日本には身分制がない。日本では動物や他人を苦しませて他人を喜ばせる団体に権力がないのである。日本では人間が動物を好き勝手にするし、国民と他人を苦しませて他人を喜ばせる団体は平等なのである。つまり、日本人は他人を苦しませて喜ばせる団体を身分が上にしないから他人を苦しませて喜ばせる団体に権力がなくて国民を好き勝手にできないのである。政府がひとりで身分が高いふりをしても、国民みんなは政府を身分が上の者にしないから政府には権力がなく政府は国民を自分の好き勝手にできないのである。
日本人はインド人とも中国人ともヨーロッパ人とも違う別の人種なのである。日本人がいくら外人の真似[まね]をしても外人にはなれない。日本人は日本人にほかならない。日本人は自分の中身を生活の上に表現して外国の文化とは違う日本の文化を創[つく]らねばならない。
サルトルが「人間は自分がなりたい者になれる」と言ったのはまちがいである。現実には『人間は自分自身にしかなれない。』人間は自分を知って自分に適[かな]ったことをやれば成功して幸福になり、自分に適ったことをやらなければ失敗して不幸になるだけである。サルトルは政府からお金をもらって(というか、政府に学者の仕事をやらせてもらっていたお礼に)、外人に変わりたいと思っている国民に外国の文化をやらせて政府が身分制や民主主義をやって権力を得るのに有利にするためにまちがった哲学を広めていたのである。あるいは、政府がみんなにできないことをやろうとさせてみんなを苦しめてみんなに“苦しみに伴う喜び”を与えてみんなを幸福にするための手伝[てつだ]いをするために、サルトルはみんなにまちがった哲学を広めていたのである。三島由紀夫が政府からお金をもらって(というか政府に文学の仕事をやらせてもらっていたお礼に)国民みんなにまちがった思想を広めていたのと同じことである。(三島由紀夫が放任教育を勧めたから私の親が本気にして子供を子供の好き勝手に育てたのかもしれない。しかし、それでは子供がまともに育たない。子供が幸福になれない。親は人間にとっての幸福とは何かを理解して、つねに子供に眼を光らせて子供の人生の軌道修正をしてやらねばならない。子供は何も知らない。だから、親が自分の知識を子供に与えてやらねばならない。そうしない親は子供が自分でまちがいをおかして不幸になるのをただ待っているだけだ。特に、親は子供に人間にとって何が幸せかを教えてやらねばならない。)
インド人は頭が優れていて眼や心が劣っているから、眼で見える世界をほったらかしにして昔のままにする。しかし、コンピューターはインド人に受け入れられた。コンピューターはプログラムで動くので、プログラムは頭でわかることなので、インド人はコンピューターが得意なのである。インド人はプログラムを組むのが好きなので、なんでもプログラムを組んで、コンピューターを使った電化製品が豊かになるかもしれない。日本人もこれまで自分に受け入れられることだけやって受け入れられないことはやらなかった。日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために実在主義なのでヨーロッパの科学は受け入れたが、宗教は受け入れなかった。そうやって日本も発展してきた。インドも同じことである。もっとも、インド人がどうしようがインド人の勝手だが。日本人にはインド人のやることはよくわからない。(平成29年3月31日追加:ヨーロッパ人が“眼で見る喜び”を満足するために頭で考えることを受け入れて科学や産業が発展したように、インド人も“頭で考える喜び”を満足するために眼で見ることを受け入れて科学や産業が発展するかもしれない。つまり、ヨーロッパ人が“眼で見る喜び”を満足するためには街並みを豪華にするために物やお金が豊かでなければならず、そのためには科学や産業を発展させねばならず、そのためには頭で考えねばならないから、ヨーロッパ人はしぶしぶ頭で考えることを受け入れた。それと同じように、インド人が“頭で考える喜び”を満足するためにはコンピューターでプログラムを組まねばならず、そのためにはコンピューターを作らねばならず(日本の国産のPC8001みたいに)、コンピューターを作るためには科学や産業を発展させねばならず、そのためには眼で見なければならないから、インド人はしぶしぶ眼で見ることを受け入れるかもしれない。インド人はプログラムを組んで楽しむために科学や産業全体を発展させるかもしれない。一方、中国人は面白いことのためにはなんでもするから、テレビやゲームやパソコンが面白いから、テレビやゲームやパソコンを作るためにしぶしぶ眼で見ることや頭で考えることを受け入れて科学や産業を発展させている。つまり、中国人は今でも本音[ほんね]では心主義なのだ。中国で文化大革命を起こした張本人[ちょうほんにん]は毛沢東ではなくテレビなのだ。要するに、人間はやる気が大事なのだ。動機が大事なのだ。人間は自分が喜ぶためには多少嫌なことでもやるのだ。そうやって、今では世界中の国が発展している。世界中の国で文明が高くなっている。ヨーロッパ人は眼の喜びのために頭を使っている。インド人は頭の喜びのために眼を使っている。中国人は心の喜びのために眼や頭を使っている。日本人は最初から眼と頭と心を使っている。今では世界中のみんなが眼と頭と心の全部を使っている。山の登り道が違っても頂上が同じであるように、将来は世界中の文化が同じになるかもしれない。文化の土台は人間だから、世界中の人間が同じになるかもしれない。)
[23232] 人間にとっては仕事のほうが遊びよりも面白い。 h29.3.29
人間にとっては遊びは暇つぶしにすぎない。遊びは休息にすぎない。人間にとっては仕事のほうが遊びよりも面白い。
ただし、それは生まれてから死ぬまでずっと自分の本心に適[かな]ったことをやってまじめに生きていった人にとってである。まじめに生きている人は面白い仕事に就[つ]いて楽しい思いができる。反対に、自分の本心に反することをしてふざけて生きている人にとってはそうはいかない。ふざけて生きている人は自分の本心に反するつまらない仕事について苦しい思いをするだけである。
人間は才能があれば仕事になり、才能がなければ仕事にならない。仕事の本質は才能である。だから、人間は自分の才能を磨[みが]いて、それを仕事にすればいいのである。
人間の大脳は新皮質が古皮質よりも発達している。だから、人間にとっては考えることが一番面白い。私はときどきバイク(原付一種)に乗ったりキャンプをしたり、写真を撮ったり動画を作ったりするがどれもあまり面白くない。かったるい。人間にとっては考えること以外はしょせんただの暇つぶしにすぎない。人間にとっては「食う寝る遊ぶ」ことよりも『考える』ことのほうが面白いのだ。(性欲は古皮質の喜びである。たしかに性欲は強いが、新皮質は広いから新皮質にある喜び(つまり大脳前頭葉にある喜び)を全部足すと古皮質にある喜び全部よりも喜びが多くなる。だから、人間は性欲を満足するよりも新皮質の喜びを満足して生きて行ったほうが幸福になれるのだ。)
今の多くの人はテレビが楽しいと誤解している。そもそもテレビなんか眼で見るだけで面白くない。人間にとっては実感が一番面白い。人間にとっては実際に実在(自然)と触れ合うことが楽しい。だから、私はアウトドアなのだ。私はバイクに乗ったりキャンプをしたりするのだ。実在の中で自分の眼で物を見て頭で考えて行動することが人間にとっては一番楽しいことなのだ。テレビを見ることは政府に苦しめられて喜ぶことよりは面白いが、けっして実在と触れ合うことほどは面白くないのだ。
人間にとっては実感が一番面白い。人間は実在を見ることが一番大事だ。眼で見えることは実在の一部だ。眼で見えることには幻覚や錯覚もある。だから、人間は眼で見えることにこだわってはいけないのである。(私は小学1〜2年生のころおじいさんが自分で選んで買ってくれた5〜6冊組みのナゾナゾの本に載っていたヘルマン格子図形(黒い正方形の中に白線の格子があって十字路に実在しない黒い玉が見える錯視)を見て人間の眼は当てにならないと思った。)人間は自分が持っているすべての感覚を使って眼と頭と心のすべてを使って実在を見ないといけないのだ。
[23233] どうして今でも政府が残っているのか? h29.3.29
政府は国民に苦しみを与えて国民を喜ばせる会社である。しかし、今の国民は文明が進んで喜びがたくさんあるので“苦しみに伴う喜び”が要らない。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に苦しみを与えられなければいい。今の国民は政府に税金を払わず政府を潰[つぶ]せばいい。
それなのに、今でも政府が残っているのは、多くの国民が上のことを知らないからである。
昔は本の時代だった。文学者や学者が幅を利[き]かせていた。だから、国民みんなが学者に従っていた。国民みんなが政府についてよく知っている学者が書いた本を読んで政府のことを知って自分が幸福になるように政府を利用していた。
しかし、今はテレビの時代である。芸人やスポーツ選手が幅を利かせている。だから、国民みんなが芸人やスポーツ選手に従って芸人やスポーツ選手の真似[まね]をしている。国民みんなが歌を歌ったり冗談を言ったり格好[かっこう]をつけたりスポーツをやったりしている。
今の人はテレビの見すぎである。人間は自分が幸福でなければならない。人間は自分が幸福であるためにテレビを利用しないといけない。今の人はテレビを見すぎて不幸になっている。今の人はテレビを見るのをやめてもっと本を読んで政府のことを知って自分が幸福になるように適切に政府を利用しないといけない。
[23234] 私はどうして格好[かっこう]をつけないか? h29.3.31
私が格好をつけないのは、格好をつけても喜びが得られないからである。
周[まわ]りのみんなを見ても格好をつけて喜んでいないからでもある。むしろ嫌がっているように見える。お金があるなら自分が幸せになることにお金を使えばいい。
日本人は格好をつけても幸福にはなれない人種なのである。
だから、私は格好をつけないのである。
人間は自分が幸福になることをやって幸福にならないことをやってはいけない。
私は自分が幸福にならないから格好をつけないのである。
[23235] 日本人には4種類ある。☆ h29.3.31
私は子供の頃から物理学や数学は好きだが、社会科や生物学が嫌いである。
それは、私が頭で考えることが好きだが、眼で見ることが嫌いだからである。
インド人もそういう気持ちなのだろう。そのために、インド人はこれまで眼で見ることをせずに頭で考えることばかりしてきたのである。眼で見ることをほったらかしにして頭で考えてわかることだけを発展させてきたのである。インド人の“眼で見ることが嫌いな気持ち”が生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]や身分制を生み出したのである。
私は頭で考えることが好きで眼で見ることが嫌いである。そのために、学校ではさんざん苦労をした。自分の苦手科目を勉強するのが嫌で嫌でどうしようもなかった。苦手科目を我慢[がまん]して勉強してもいい点は取れなかった。苦手科目を勉強しようとしても気持ちが落ち込んで頭が働かなくなって眠くなって勉強することができなかった。
反対に、子供の頃から社会科や生物学は好きだが、物理学や数学は嫌いな人はヨーロッパ人の気持ちがよくわかるだろう。子供の頃から国語は好きだがそれ以外の科目が嫌いな人は中国人の気持ちがよくわかるだろう。物理学や数学と、社会科や生物学と、国語とでは大脳の使い方が違うのだ。対象の違いよりも大脳の使い方の違いなのだ。“頭で考えるのが好きで眼で見るのが嫌いな人”でも頭で考えてわかるところは社会科でも生物学でもわかる。“眼で見るのが好きで頭で考えるのが嫌いな人”でも眼で見てわかるところは物理学でも数学でもわかる。
日本人は眼と頭と心が均等に発達しているが、それでも個人によって多少の偏[かたよ]りがある。厳密には日本人も眼と頭と心が不均等である。日本人はみな同じではない。ずっと昔から日本にはいろんな人間がいる。日本はずっと昔から国際的な国なのだ。私は“眼で見ることが好きで頭で考えることが嫌いな人”や“心で思うことだけが好きで眼で見ることも頭で考えることも嫌いな人”とは気が合わない。人間は自分が嫌いなことが好きで好きなことが嫌いな人とは気が合わない。それでも他人を攻撃せずにいっしょにやっていくのが日本人の取り柄[とりえ]なのだ。つまり、日本人とは“攻撃欲のない人間”の集まりなのだ。自分と他人が気が合わないことに耐えられるのが日本人の特技なのだ。国が発展するためには、国が国際化されていなければならない。つまり、国には違う種類の人間がいないといけない。同じ種類の人間だけにすると気が合って楽しいが、国が衰退して滅ぶ。(戦争で頭のいい人が減ったというのは、頭のいい人は自分が死ぬことを恐れずに戦って死ぬからである。戦後の日本では頭がいい人が少なくなっている。だから、もっと頭のいい人を大事にしないといけない。私と気が合う人は私の政府についての理論がよくわかるだろうが、私と気が合わない人はわからないだろう。今の日本には頭がいい人が少ない。そのために日本で政府が倒れるのが遅れているのだ。)
日本人はみんな見掛けが似ているが中身が違う。日本人には眼と頭と心が均等に発達している人と、頭が発達して眼と心が劣っている人と、眼が発達して頭と心が劣っている人と、心が発達して眼と頭が劣っている人の4種類の人間がいる。眼と頭と心が均等に発達している人は全科目が得意である。不均等に発達している人は得意科目と不得意科目がある。眼と頭と心が均等に発達している人は苦手科目がないから勉強で苦労しないが、不均等に発達している人は苦手科目で苦労しないといけない。人間は自分が幸福になることをやって不幸になることをやってはいけない。人間は自分のタイプを知って自分の得意科目だけを勉強して苦手科目を勉強してはいけない。自分が得意な仕事をやって苦手な仕事をやってはいけない。そうやって自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。政府は国民(つまり子供)を苦しめて国民に“苦痛に伴う快感”を与えるために国民に苦手科目を勉強させている。国民は政府に打ち勝って0点の答案に打ち勝って自分の得意科目だけを勉強しないといけない。大学の入試は共通一次試験を廃止して二次試験だけにしないといけない。生きることは自分を不幸にするものとの戦いである。人間は自分を不幸にするものとの戦いに勝って幸福を獲得しなければならない。
平成29年4月5日この段落追加:それでも日本人は日本人である。日本人は大雑把[おおざっぱ]には眼と頭と心が均等に発達しているために実在が見えて『人間がみな平等である』ことを守ろうとする。日本人は他人に悪いことをすると自分の気持ちが悪くなる。だから、日本人は悪いことをしない。日本では国民みんなは自分が幸福であるために悪いことをしない決まりを守らなければならない。日本では“他人を苦しませて喜ばせる団体”は、自分が他人に悪いことをして自分の気持ちが悪くなるのを堪[こら]えながら必死で他人に悪いことをしているのである。反対に、外人は外人である。外人は眼と頭と心が不均等に発達しているために実在が見えず『人間がみな平等である』ことを守ろうとしない。インド人は眼で見えることはどうでもいい、中国人は自分の心のままにやればいい、ヨーロッパ人は他人の眼で見えるところで善ければいいという理由で悪いことをする。外人は他人に悪いことをすると自分の気持ちがよくなる。だから、外人は喜んで他人に悪いことをする。外国では、国民みんなは自分が幸福であるために、悪いことをする決まりを守らなければならない。外国では“他人を苦しませて喜ばせる団体”は自分が他人に悪いことをすると気持ちがよくなるので、つい多めに悪いことをしてしまうのである。
[23236] 人間は正しいことを知って正しいことをやると幸福になる。 h29.4.2
私が自分の本(つまり『政府学入門』)をヤフーオークションの本、雑誌>ノンフィクション、教養>雑学、知識のコーナーに出品したついでに同じコーナーに出品されているほかの本を見ていたら『夫婦生活大図鑑』という大人の性生活の本が出品されていて表紙の裸の男女の写真を見て私は大変気分を害[がい]した。(私は気分を害したので腹いせにこの作文を書いた。)そんな本は別のコーナーに出品すべきである。出品するコーナーがまちがっている。性欲を満足することは大脳の古皮質を働かせることであって新皮質を働かせることではないから雑学のコーナーにはふさわしくない。そもそもこんな本を誰が買うのか?!それぐらいのことは本を読まずに自分で考えてやれ!もっとも、『スマホが神になる』や『儒教(つまりヨーロッパ文化)に支配された中国人と韓国人の悲劇』などほかにいくつか私の考えに近い本も出品されていた。
世の中には性欲の満足を勧[すす]める本が多い。そのために、本当は人間は性欲や愛情を満足すると古皮質が働くようになって新皮質が働かなくなって不幸になるのに、性欲や愛情を満足すると幸福になると思っている者がたくさんいる。筆者は性欲を満足して不幸になった者の責任を持てるというのか!?いいかげんなことを書いて他人を不幸にしてもいいと思っているのか?!絶対に他人の幸福の邪魔[じゃま]をしてはいけない。
それと同じように、政府はテレビで民主主義ばかりやっている。そのために、本当は政府は悪いことをして国民を喜ばせる会社なのに、善いことをして国民を喜ばせる会社だと思っている者がたくさんいる。刑事ドラマで暴力団を犯罪組織として扱っているために、暴力団が犯罪組織だと思っている者がたくさんいるのと同じである。しかし、本当は暴力団が国民を苦しめて喜ばせる団体であるように、政府も国民を苦しめて喜ばせる団体である。テレビ局は政府を善いことをして国民を喜ばせる会社だと誤解して不幸になった者の責任を取れるというのか!?テレビ局は政府について偏[かたよ]ったことを放送してみんなの政府についての誤解を招いてもいいと思っているのか?!今の国民は文明の喜びに慣れすぎているために“苦痛に伴う喜び”を知らない。そのために、今の国民は政府のことがわからなくなっている。今の国民が電気機関車に慣れているために蒸気機関車がどうやって動くのか知らないのと同じである。今の国民が鉛筆削り器ばかり使っているためにナイフの使い方を知らないのと同じである。つまり、今の国民は新しいことは知っているが古臭いことは知らないのだ。
人間の眼では地球が止まっていて太陽が動いているように見える。そのために、本当は地球が太陽の周[まわ]りを回っているのに、昔はみんなが太陽が地球の周りを回っていると思っていた。そのために、物理学が遅れて文明が発達しなくてみんなが不便で喜びのない生活をしなければならなかった。みんなは喜びを得るために政府に悪いことをしてもらって政府に“苦しみに伴う喜び”などという下劣[げれつ]で効率の悪い喜びを与えてもらわねばならなかった。“苦痛に伴う喜び”はほとんど苦痛ばっかりで喜びはちょっとだけしかないが昔なのでしかたがなかった。昔は庶民にとってはそんな喜びしかなかった。
今ではみんなが地球が太陽の周りを回っていることを知って運動の原理を知って暮らしている。そのために、文明が発達してみんなが便利に楽しく暮らしている。人間は正しいことを知って正しいことをやると幸福に暮らせる。だから、今のみんなは性欲を満足せずに新皮質の喜びを満足して、政府に悪いことをしてもらわずに政府に税金を払わずに政府を潰[つぶ]さねばならない。
[23237] 昔の人は“考える喜び”を満足できなかった。 h29.4.4
昔は文明が遅れていて、昔の人はテレビやゲームやパソコンなどなくて文明の喜びがなくて喜びに飢えていて喜びを得るために政府の言うことを聞いて政府に苦しい目に合わされて“苦しみに伴う喜び”を得て暮らしていた。
それだけではなく、昔の人は自分が生活するために毎日朝から晩まで働かねばならず考える暇がなく“考える喜び”を満足することができなかった。たとえ子供でも大人の仕事を手伝ったり家事を手伝ったりして考える暇がなく“考える喜び”を満足できなかった。だから、たとえ人間にとって“考える喜び”が最高の喜びだとしても、昔はみんなの生活が貧しくてみんなが“考える喜び”を満足するわけにはいかなかったのである。
反対に、今は文明が進んで、今の人はテレビやゲームやパソコンなどがあって文明の喜びがあって喜びに満ちていて、わざわざ政府の言うことを聞いて政府に苦しまされて“苦しみに伴う喜び”を得なくてよくなっている。政府は国民みんなから税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
しかも、今の人は自分が生活するために朝から晩まで働かなくてもよくなって、考える暇があって、“考える喜び”を満足することができる。子供もたくさん暇があって“考える喜び”を満足できる。人間にとっては“考える喜び”が最高の喜びである。そのため、今では多くの人が“考える喜び”を満足して生きている。今では便利な電化製品がいっぱいあって独身でも生活できるので、“考える喜び”を満足して生きている人は結婚しない。“考える喜び”を満足して生きている人は子供を残さない。“考える喜び”を満足せずに生きている人は子供を残す。親が“考える喜び”を満足しないと、子供も“考える喜び”を満足しない。そのために、“考える喜び”を満足して生きている人が減って、“考える喜び”を満足せずに生きている人が増えて、性欲や愛情を満足するために生きている人が増えて、日本の人口が増加しているのである。
今は人間が“考える喜び”を満足できる時代なのに、今では“考える喜び”を満足して生きている人が減っているのである。
[23238] どうして日本人は悪いことをしないのか? h29.4.11
ヨーロッパ人は眼だけ発達していて頭と心が遅れている。そのために、ヨーロッパ人は頭で理屈を考えるのが嫌いでなんでも神のせいにして神に従うのが好きである。ヨーロッパ人は頭で考えて“みんなが平和に暮らすための決まり”を守ることが苦手で人目につかないところで悪いことをするのが好きである。だから、ヨーロッパ人は神にちなんだことをやって悪いことをするのが好きである。
インド人は頭だけ発達していて眼と心が遅れている。そのために、インド人は眼で見えることに関心がなくて眼で見えることはどうでもよくて眼で見えることを古臭いままにするのが好きで動物や“国民を苦しませて喜ばせる団体”を身分が高いことにして動物や“国民を苦しませて喜ばせる団体”を大事にして動物や“国民を苦しませて喜ばせる団体”に従う。インド人は眼で見えることが嫌いだから眼で見えることはどうでもいいからみんなが平和に暮らすための決まりを守らず悪いことをするのが好きである。インド人は眼で見えることはどうでもいいから人前で堂々と悪いことをする。
中国人は心だけが発達していて眼と頭が遅れている。そのために、中国人はなんでも心で決めるので多数決が好きだから国家権力に従うのが好きである。中国人は頭で考えてみんなが平和に暮らすための決まりを守るのが苦手で自分勝手に悪いことをするのが好きである。中国人が多数決に従うことと自分勝手にやることとは矛盾するが、中国人は頭が遅れているから矛盾なんかどうでもいいのである。多数決に従うことと自分勝手にやることが論理を超えて両立しているのが中国人なのである。
反対に、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために、眼と頭の両方を使って実在が見える。そのために、日本人は実在に従うだけで神にも国民みんなにも古臭い物にも従わない。日本人は実在において“みんなが平和に暮らすための決まり”を守るのが好きである。だから、日本人は悪いことをしないのである。ただし、政府や宗教団体や暴力団のような“国民を苦しませて喜ばせる団体”は国民を苦しませて喜ばせるために国民に悪いことをするから例外である。人間の脳に苦しみを癒[いや]すために快楽物質が分泌されて喜びを感じる仕組みがあるためにそんな逆説的なことをする団体(つまり普通は善いことをすることによって幸福にするがその反対に悪いことをすることによって幸福にする団体)があるのである。
日本人と外人では人間が違う。日本と外国では文化が違う。日本ではみんなが悪いことをしないのが常識である。反対に、外国ではみんなが悪いことをするのが常識である。外国に行く日本人は外人に悪いことをされないように注意しないといけない。逆に日本に来る外人は悪いことをするとすぐに警察に捕まるから注意しないといけない。
もっとも、今では世界中の国でみんなが科学をやるようになって眼と頭と心の全部を使うようになって日本人に似てきている。今の世界では眼と頭と心が均等に発達している者が有利にされてより多く生き残れるから、世界中でそういう者が増えている。そのために、今では世界中の国でみんなが日本人のように実在主義になって頭で考えて善いことをやって悪いことをやらなくなってきている。世界中の国でみんなが悪いことをしなくなって平和に暮らせるようになってきている。日本人の取り柄[とりえ]がなくなってきている。
[23239] モニターについて h29.4.11
今の私は母親の遺産で「Dell ディスプレイ モニター P2417H/23.8 インチ/IPS/非光沢/フルHD/6ms/VGA,DP,HDMI/USBハブ/3年間保証」を買って使っている。アマゾンで19,870円した。
YouTubeなどの映像はきれいに見える。ときにウットリするほど美しく見える。画面が横長というか縦短[たてみぞ]なので、YouTubeが全画面表示にすると画面の上下が切れて見づらい。シアターモードで見るしかない。反対に、動画の編集やメールはやりやすい。
しかし、文字がちょっとにじんで汚い。特に自分がメモ帳で書くときにつらい。多少のことは我慢[がまん]しながらめげずに書くしかない。
文字がきれいに見えるためにはモニターの解像度を上げるしかない。しかし、そうするとモニターの値段も上がる。4K(3840×2160、フルHDの4倍)だと約6万円はする。自分の財布と相談して決めればいいだろう。
平成29年4月18日追記:私は今ヤフーオークションで約1万5千円で落札した「コアi5メモリ8G」のパソコンを使っている。パソコンをコアi5メモリ8Gのに替えたら、ユーチューブの動画がHD画質で見れるようになって文字の滲[にじ]みもなくなった。文字の滲みはモニターのせいじゃなくてパソコンのせいだったのだ。このモニターはなかなかいい。
[23240] バイクよりも自転車のほうが面白い。 h29.4.16
私は今原付に乗っている。50ccの原付一種に乗っている。
原付は自転車よりも速くて楽に遠くまで行ける。
しかし、原付は自転車ほど楽しくない。
人間は自分の足で移動すると、運動になって、快感を得ることができる。
反対に、人間がエンジンで移動すると、運動にならず、快感を得ることができない。
人間には“運動する喜び”がある。自転車は“運動する喜び”を満足してくれるから楽しい。バイクは“運動する喜び”を満足してくれないから楽しくない。
人間は楽をすると快感が得られない。だから、人間は苦労しないといけない。人間は苦心してやり遂[と]げると喜びが得られるから、ある程度は苦労したほうがいいのだ。
人間が欲しいのは快感であって楽[らく]さではない。人間がいくら楽をしても喜びは得られない。人間がなにもしなければ喜びも得られない。人間には“考える喜び”や“運動する喜び”がある。だから、人間が快感を得るためには自分の頭で考えたり自分の筋肉を動かしたりすることが必要なのである。今では文明が高くなって人間が仕事の上では自分の頭や筋肉を使わなくてもよくなってきている。だから、人間は遊びの上で自分の頭や筋肉を使って快感を得て幸福に暮らさねばならないのである。
人間が幸福になるためには素直に自分が喜びを得られることをしないといけない。だから、人間は億劫[おっくう]がらずに自分の頭で考えたり自分の筋肉で運動しないといけない。
もっとも、“自分が頭や筋肉を使う喜び”と“政府に苦しまされる喜び”とは違う。人間の脳には苦しみを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じる仕組みがあるので、人間は苦しみの副産物として喜びが得られるのである。昔の人は政府に自分を苦しませてもらって快感を得ていたのである。しかし、今は文明が高くなってみんながいろんな喜びを得る手段があってみんなが喜びがたくさんあって“政府に苦しまされる喜び”が要らない。“政府に苦しまされる喜び”はたしかに喜びではあるが、人間が政府にたくさん苦しまされてちょっと喜びが得られるだけなので、人間にとっては喜びよりも苦しみのほうが多くて喜びの効率が悪い。だから、みんなは“政府に苦しまされる喜び”を満足しないほうがいい。だから、みんなはわざわざ政府に税金を払って政府に苦しまされなくてもいい。政府に苦しませてもらわなくてもいい。みんなは政府に税金を払わず政府を潰[つぶ]して政府をなくせばいい。
[23241] 人間が生きるためには喜びが要る。 h29.4.17
マゾ(被虐待欲)は、喜びのない者にとっての最後の生きがいである。何をやっても面白くない者は他人に虐[いじ]められることを喜びにして生きていくしかないのである。被虐待欲さえない者はなんの喜びもなく死ぬしかない。
それと同じように、昔は文明が低かったから、昔の人は物がなくて喜びがなかったので被虐待欲を満足して喜びを得ていた。昔の人は政府や宗教団体や暴力団に虐められることによって喜びを得ていた。『溺[おぼ]れる者は藁[わら]をもすがる』というように、喜びのない者は被虐待欲さえも満足するのだ。飢えて食べ物がない人が不味[まず]いバッタやネズミさえ食べるのと同じことである。
反対に、今は文明が高いから、今の人は物がたくさんあっていろんな喜びがいっぱいあるので被虐待欲を満足して喜びを得なくてもよくなった。そのため、今の人は自分が政府や宗教団体や暴力団に虐められないようにしている。被虐待欲は喜びを得るためにたくさん苦しみを味わわねばならないので、今ではほとんど苦しみを味わわずに喜びを得る方法がたくさんあるので、今の人は被虐待欲を満足しなくなったのである。今の人は文明が発達して物が豊かだから自動車や自転車やテレビやパソコンなどのいろんな道具を使って喜んで、わざわざ政府や宗教団体や暴力団に虐められて嫌な思いをして喜ばなくなったのである。
今の人は政府や宗教団体や暴力団に虐められて喜ばなくなっている。政府や宗教団体や暴力団は国民を虐めて喜ばせるために国民からお金を取る。だから、今の人は政府や宗教団体や暴力団にお金を払わなくなっている。政府や宗教団体や暴力団は儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。
国民が政府に税金を払うか払わないかは国民の自由であって、他人に決める資格はない。社員が政府に税金を払うか払わないかは社員の自由であって、会社の上役や事務員に決める資格はない。だから、国民は自分が被虐待欲を満足したくなければ政府に税金を払わなければいいのである。
政府は民主主義をやって自分が国民のために善いことをやっているふりをして国民を自分に従わせて自分の権力を強めようとしている。民主主義とは、“国民を苦しませることによって喜ばせる団体”が心主義の国民を従わせて権力を得て多めに悪いことをするために、国民みんなのためにちょっとだけ善いことをしたり善いことをしているふりをしたりすることである。(平成29年4月24日追加:民主主義は政府が国民を従わせて権力を得るためのひとつの方法である。身分制や国家宗教と同じことである。民主主義を民本主義[みんぽんしゅぎ]と言わないのは、民本主義だと政府が本気で国民に基づかねばならず政府が国民を従わせることにならないからである。だから、政府は民本主義と言わずに民主主義と言うのである。)政府はテレビや新聞の上で国民のために善いことをしているふりをして現実の上では国民に悪いことをしているだけである。政府は国民に悪いことをして国民に“苦しみに伴う喜び”を与える会社である。国民はテレビを見すぎてテレビの上の政府の芝居を本気にして政府に騙[だま]されないようにして、現実の上で政府がやっていることを見ないといけない。政府はテレビや新聞の上で善いことをする会社なだけで、現実の上では国民に悪いことをして国民の“苦しめられる喜び”を満足して国民を喜ばせる会社にすぎない。今の国民の多くは政府が現実の上で水道やゴミの処理や役所などの仕事をやっているのを見て、それを広げて「政府が善いことをする会社だ」と思って、政府がテレビや新聞の上で芝居でやっていることを現実にやっていると思っているのである。今の国民は文明が発達して物が豊かになって物を使って喜ぶようになって“苦しめられる喜び”で喜ばなくなっているから、今の国民にとっては政府は要らないから政府にお金をやらないようにして(つまり税金を払わないようにして)政府を潰[つぶ]さねばならない。
[23242] どうしてボンカレーは電子レンジの加熱時間が1分40秒なのか? h29.4.18
1分40秒とは1←最初←初代天皇←神武天皇←天皇家、4←十(4≒十)←ten←天←天皇家、0←○←光る玉←神武天皇←天皇家である。
ボンカレーを作っている会社は大塚食品である。大塚とは大塚←大←O←光る玉←天皇家である。
ボンカレーの加熱時間は以前は2分だった。2分←2フン←ツーフン←ツフン←川ブ(ツ≒川、フン≒ブ)←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私である。今は1分40秒である。1分40秒←1と4と0←天皇家である。
大塚食品はこの前カロリーメイトにカビが入っていた事件を起こした。
大塚食品はヨーロッパ文化をやる会社である。大塚食品はヨーロッパ文化をやっているから国家宗教をやって政府に従っているのである。大塚食品は政府の命令で以前は私を神としてボンカレーの加熱時間を2分にしていたが、今は天皇家を神としてボンカレーの加熱時間を1分40秒にしているのだ。大塚食品は政府の命令でカロリーメイトにカビを入れて国民みんなに嫌がらせをしたのだ。カビはカビ←カブ(50音表で“ビ”と“ブ”が近い)←川ブ←私である。
大塚食品は自分が悪いことをやるためにヨーロッパ文化をやっているのである。ヨーロッパ文化ではみんなが眼で見えないところで悪いことをやってもいいからである。どうりで、ボンカレーは舌先三寸で後味[あとあじ]が不味[まず]い。どうせ腐[くさ]った材料を使って儲[もう]けているのだろう。腐った材料を過酸化水素で無理やり消毒してぎりぎり食べれるようにしてボンカレーを作っているのだろう。だから、最近の人間は癌[がん]が多いのかもしれない。
ボンカレーが牛肉100%にこだわるのも大塚食品がヨーロッパ文化をやっている証拠である。
文化は人間で決まる。人間がどの文化をやるかは人間自身で決まる。日本人は日本文化しかやれない。日本人はヨーロッパ文化をやれない。これまで日本人は日本文化で受け入れられる分のヨーロッパ文化をやってきただけであって、けっしてヨーロッパ文化全部をやってはいない。だから、日本人は日本文化しかやらないのだ。日本人は善いことをするのが好きで悪いことをするのが嫌いだから悪いことをやらない。だから、日本人は自分が悪いことをやるためにヨーロッパ文化をやってはいけない。日本人はヨーロッパ文化を自分が悪いことをやるための道具にしてはいけない。日本ではみんなが日本人だから日本文化をやっているからみんなが悪いことをやってはいけない。日本人は善いことをやると気持ちがよくなって、悪いことをやると気持ちが悪くなる。日本では悪いことをやると自分自身に反することをしたことになって有罪になる。日本人は自分の心に従って善いことをやって悪いことをやってはいけない。犯罪者は根性がふざけていて自分の心に忠実に生きていないから悪いことをやるのである。犯罪者はマンガを読みすぎて自分の心に反することをするから悪いことをやるのである。人間はまじめに自分の心を満足して幸福に生きていかねばならないのだ。
人間にとって一番大事なのは喜びである。お金は自分が喜びを得るための手段にすぎない。だから、人間は自分の喜びを目的にして、お金儲けを目的にしてはいけない。日本人は生まれつき善いことをやって悪いことをやらないと気持ちがよくなるように出来ている。だから、日本人はお金のことなんか考えずに善いことをやって悪いことをやってはいけない。そうすれば日本人は幸福になれる。
人間には“考える喜び”や“運動する喜び”がある。人間が喜ぶためにはお金は要らない。人間は自分が考えたり運動したりして喜んで、物を買って喜んではいけない。人間は自分が考えたり運動したりするのを優先して、物を買うのを後回[あとまわ]しにしないといけない。商人や他人を喜ばせてはいけない。自分自身が喜ばねばならない。人間が物を買っても本心では喜んでいない。人間は自分が本当に喜ぶことをやって自分の本心を満足して本当に幸福にならねばならない。
人間は自分が喜ぶことをやって自分が喜ばないことをやってはいけない。政府や宗教団体や暴力団は国民を嫌がらせて国民に“苦しみに伴う快感”を与えて国民を喜ばせる団体である。今の国民は“実在について考える喜び”や“運動する喜び”で喜んで“苦しみに伴う喜び”で喜んでいない。だから、今の国民は政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを断って政府や宗教団体や暴力団にお金をやらないようにして政府や宗教団体や暴力団を潰[つぶ]さねばならない。
[23243] 今の日本では政府が国民を従わせてお金を儲[もう]けようとしている。☆
h29.4.20
昔の人は文明が低くて物が貧しくて物を使って喜びが得られなくて喜びに飢えていたから“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得ていた。昔の人は政府や宗教団体や暴力団に悪いことをしてもらって苦しみを与えてもらって喜んでいた。昔の人は政府や宗教団体や暴力団などの“苦しみを与えることによって喜ばせる団体”にお金を強盗してもらって喜んでいたので、“苦しみを与えることによって喜ばせる団体”はすごく儲かっていた。
反対に、今の人は文明が高くなって物が豊かになって物を使ってたくさん喜びが得られるので喜びに飽きているから“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得なくなった。今の人は政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを断って苦しみを与えられないようにして苦しまないようにしている。今の人は政府や宗教団体や暴力団などの“苦しみを与えることによって喜ばせる団体”にお金を強盗してもらって喜ばなくなったので、“苦しみを与えることによって喜ばせる団体”は儲からなくなっている。
今の人は“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったので、もはや“苦しませることによって喜ばせる団体”はみんなからお金を取って儲けることができなくなったのである。
外国では政府がヘンチクリンなことをやって国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取って儲けている。インド人は知覚主義である。知覚主義の人は身分制をやる団体に従う。インドでは政府が身分制をやって国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取っている。中国人は心主義である。心主義の人は民主主義をやる団体に従う。中国では政府が民主主義をやって国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取っている。ヨーロッパ人は五感主義である。五感主義の人は国家宗教をやる団体に従う。ヨーロッパでは政府が国家宗教をやって国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取っている。外国では政府が国民を従わせて国民が政府に逆らえないので、政府が国民にいろんな悪いことをして国民を苦しめている。魚が餌[えさ]で釣られて人間に食われるのと同じことである。(ヨーロッパが発展したのはヨーロッパ人がインド人を受け入れて協同でやることにしたからである。インド人が頭脳労働担当で、ヨーロッパ人が肉体労働担当でやることにしたからである。だから、インドが発展するためにはインド人がヨーロッパ人を受け入れて協同でやればいいのである。インド人がヨーロッパ人に肉体労働をさせてこき使ってやればいいのである。)
そのため、今の日本では政府が身分制や民主主義や国家宗教などをやって国民を従わせて国民に命令して国民からお金を取って儲けようとしている。ところが、日本人は実在主義である。最近の日本で山登りやキャンプが流行[はや]っているのは日本人が実在主義であることを表している。つまり、山登りとは自分が高いところに登ることではなく、自分が自然と触れ合って実在に従うことなのである。日本人は実在に従うと幸せになるから山に登るのである。いわば、日本人にとっては自然が神なのである。山が神なのである。それが日本人の心なのだ。人間は自分の脳で自分の主義が決まる。インド人は知覚だけが発達しているために知覚主義しかやれない。中国人は心だけが発達しているために心主義しかやれない。ヨーロッパ人は五感が発達しているために五感主義しかやれない。日本人は五感と知覚と心が均等に発達しているために実在主義しかやれない。実在主義の人は実在に従うだけであって、身分制をやる団体にも民主主義をやる団体にも国家宗教をやる団体にも従わない。日本では政府が何をやっても国民は政府に従わない。つまり、日本では政府が国民を従わせることができない。だから、日本では国民みんなは政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府を潰[つぶ]せばいいのである。日本では政府はわけがわからないことをやっているチンドン屋にすぎない。国民は政府がやっていることを笑って無視して政府の言うことを聞かなければいいのである。
インド人は古臭い物(つまり野蛮な社会や文明が遅れている社会)に従いたがる。中国人は国民みんなに従いたがる。ヨーロッパ人は神に従いたがる。日本人は実在に従いたがる。人種によって従いたがる物が違う。インド人は古臭い物に従うと自分の気持ちがよくなるから古臭い物に従いたがる。中国人は国民みんなに従うと自分の気持ちがよくなるから国民みんなに従いたがる。ヨーロッパ人は神に従うと自分の気持ちがよくなるから神に従いたがる。日本人は実在に従うと自分の気持ちがよくなるから実在に従いたがるのである。人種によって脳の構造が違うから従いたがる物が違うのである。
[23244] 政府は悪いことをする団体ではない。 h29.4.23
政府は国民に悪いことをする団体ではない。政府は国民を苦しませる団体である。政府は国民が苦しむことをする団体である。政府は国民を苦しませることによって国民を喜ばせる団体である。人間には“苦しみに伴う快感”があるので、政府は国民に快感を与えるために国民を苦しませるのである。政府は国民を苦しませるために、事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたり、国民を苦しませる法律を定めたり、国民を苦しませる教育をやったり、国の景気を悪くして国民を貧乏にしたりする。(平成29年4月25日補足:政府は国民を苦しませて喜ばせるために国民に悪いことをしなければならない。ところが、日本人は“みんなが平和に暮らすための決まり(つまり法律)”を守るのが好きなので、善いことをやるのが好きで悪いことをするのが嫌いである。だから、政府は自分が嫌なことをしないといけない。だから、日本人にとっては政府はつらい仕事なのだ。)
同じように、宗教団体や暴力団も国民に快感を与えるために国民を苦しませる団体である。
昔は文明が低くて国民みんなは物が貧しくて物を使って喜びが得られなかった。そのために、昔は国民みんなが政府や宗教団体や暴力団などの“苦しみを与える団体”に苦しませてもらって快感を得て喜んでいた。
反対に、今は文明が高くなって国民みんなは物が豊かになって物を使ってたくさん喜びが得られている。そのために、今は国民みんなが政府や宗教団体や暴力団などの“苦しみを与える団体”に苦しまされるのを断って苦しまされないようにして幸福に暮らしている。政府は国民を苦しませるために国民から税金を取っている。だから、今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府に苦しまされないようにしないといけない。国民は政府にお金をやらないようにして政府を潰[つぶ]さないといけない。
もっとも、今では国民みんなが“苦しみに伴う快感”を得なくなったために、今の政府は身分制や民主主義や国家宗教などをやって国民を政府に従わせて国民を自分の好き放題にしようとしている。今の政府は国民を従わせて国民に命令して国民から税金を取って儲[もう]けようとしている。しかし、日本人は政府が身分制をやっても民主主義をやっても国家宗教をやっても政府に従うようには出来ていない。だから、日本では国民みんなは政府に従わず政府の命令を無視して政府に税金を払わず政府を潰せばいいのである。日本では国民みんなは政府の命令を聞かず政府の命令で自分が嫌なことをやらなければいいのである。
[23245] 『侍[さむらい]ジャイアンツ』 h29.4.23
『巨人の星』も『侍ジャイアンツ』も日本の野球マンガである。『巨人の星』の星飛雄馬[ほしひゅうま]の魔球は“政府が国民を苦しませることによって国民を喜ばせること”だったが、『侍ジャイアンツ』の番場蛮[ばんばばん]の魔球は“政府が変なことをやることによって国民を従わせること(つまり政府が権力を得ること)”である。
ハイジャンプ魔球はインドの身分制を表している。インド人は眼で見えることが嫌いなので、眼で見える世界を放置するために動物や“国民を苦しませることによって喜ばせる団体”を身分が高いことにして大事にしている。そのため、インドでは政府が身分制をやることによって国民を従わせている。
大回転魔球は中国の民主主義を表している。国会議事堂の議員の席が丸いからである(下図参照)。中国人は眼で見ることも頭で考えることも嫌いで、心のままにやるのが好きなので物事の是非[ぜひ]を心で決める多数決が好きである。そのため、中国では政府が民主主義をやることによって国民を従わせている。(平成29年4月25日追加:女は眼と心が発達しているが頭が遅れている。だから、女は見かけと多数決で動くだけで、自分で考えず正しいことでは動かない。女には正義の心がない。女は要領がいいだけだ。女はそういう生き物である。女はヨーロッパ人と中国人を足して2で割った生き物である。)
分身魔球はヨーロッパの国家宗教を表している。ヨーロッパ人は頭で考えることが嫌いなので、頭で考えないようにするために神が人間に理解できないことをやったことにして神を崇[あが]めている。そのため、ヨーロッパでは政府が国家宗教をやることによって国民を従わせている。国家宗教では特定の人間を神であることにしている。国家宗教では特定の人間から神を造り出している。神は特定の人間のもうひとつの姿つまり分身である。
今の日本政府はインドや中国やヨーロッパの政府の真似[まね]をして身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせようとしている。しかし、日本人には身分制も民主主義も国家宗教も効かない。日本人は政府が何をやっても政府に従わない。だから、日本では国民みんなは政府の言うことを聞かず自分が不幸になることをやらなければいいのである。日本では国民みんなは政府の命令を聞かないようにして政府に税金を払わないようにして政府を潰[つぶ]せばいいのである。
[23246] 今の政府は国の文明を遅らせようとしている。 h29.4.25
政府の敵は文明である。国の文明が高くなると国民が物が豊かになって物を使って喜ぶようになって“苦しみに伴う喜び”が要らなくなって政府の世話にならなくなって政府が滅ぶからである。
そのため、今の政府は国の文明を遅らせている。今の政府は国民に科学や産業をやらせないようにさせている。今の政府が国民にテレビやゲームやマンガを流行[はや]らせて国民を現実離れにさせているのは国の文明を遅らせるためである。そうやって、政府は国の文明を衰退させて国民が物が貧しくなって物を使って喜ぶことができなくさせて“苦しみに伴う喜び”が要るようにさせて政府の世話にならねばならないようにさせて生き残ろうとしているのである。
昔のヨーロッパが暗黒時代になったのも、“国民を苦しませることによって喜ばせる団体”が生き残るためである。当時のヨーロッパでは文明が高くなって国民が物が豊かになって物を使って喜ぶようになって“苦しみに伴う喜び”が要らなくなりかけていたので、“国民を苦しませることによって喜ばせる団体”が自分が生き残るためにヨーロッパの民族運動を煽[あお]ってインド文化や中国文化をヨーロッパから追い出したのでヨーロッパの文明が衰退して暗黒時代になったのである。ヨーロッパからアジア文化がなくなったために国民みんなは物が貧しくなって不幸になったが、“国民を苦しめることによって喜ばせる団体”は政治団体から宗教団体に姿を変えて生き残って痛くもかゆくもなかったのである。
今の政府は自分が生き残るために国の文明を遅らせようとしている。国民を現実離れにさせて科学や産業を嫌いにさせている。近代の政府は自分が国民からたくさん税金を取って儲[もう]けるために国民に科学や産業を勧[すす]めていた(近代の政府は民主主義で国民のためにちょっとだけ善いことをやるために国民が科学や産業をやることを応援していた)が、反対に今の政府は自分が生き残るために国民が科学や産業をやることに反対して国民に科学や産業を嫌いにさせている。しかし、国民が幸福に生きるためには文明が必要である。国の文明が高くなったほうが国民が幸福に暮らせる。将来、国の文明が高くなって国民が労働から解放されれば幸福に暮らせる。だから、国民は政府の言いなりになってはいけない。国民は政府の誘導に逆らって現実に興味を持って科学や産業を好きにならねばならない。今の政府は自分が生き残るために国の文明を遅らせて国民みんなを不幸にしようとしている。国民みんなは自分たちが幸福に暮らすために早く政府を倒さなければならない。(日本の科学や産業が進まなければ、後進国が追い上げてきて日本より安いお金で物を作って日本が儲からなくなるが、日本の科学や産業が進めば、日本が新しい物を作って儲けることができる。)
政府が経済企画庁や文化庁や科学産業庁を置いているのは看板だけである。政府は本当は国の景気を悪くして国民を貧乏にして、外国の悪い文化を入れて国の文化を遅らせて、国民を科学を嫌いにさせて国の科学や産業を遅らせている。政府のやっていることは羊頭狗肉[ようとうくにく]である。国民は政府の看板に惑[まど]わされないようにしてさっさと政府を倒さねばならない。
そもそも政府は国民を苦しませることによって国民を喜ばせる団体である。政府の仕事は国民を苦しませることである。例えば、政府は国民を苦しませるために赤字のローカル鉄道を経営して国民から高い税金を取っていた。赤字ローカル鉄道は政府が国民を苦しめるための道具だった。それなのに、鉄道が民営化されたのは、国の文明が高くなって国民が“苦しみに伴う喜び”が要らなくなって政府に税金を払わなくなったからである。政府はお金が足りなくなって鉄道を経営できなくなって鉄道を民営化したのである。今の国民は政府を倒している。だから、国民みんなは政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいいのである。
[23247] 今は政府の時代ではない。 h29.4.25
これまで政府は“国民を苦しめることによって喜ばせる団体”だった。昔は国民が物が貧しくて物を使って喜ぶことができなかったから、政府に苦しめられて喜んでいた。国民は政府に苦しめられて喜ぶために政府に税金を払っていた。国民は政府に苦しめられて喜ぶために政府の言うことを聞いて政府に殺されたり虐[いじ]められたり貧乏にされたりしていた。
しかし、今の国民は物が豊かになって物を使って喜ぶようになっている。今の政府はもはや国民を苦しめて喜ばせることができなくなっている。今の国民にとって政府は要らなくなっている。
そのため、今の政府は身分制や民主主義や国家宗教などの変なことをやって国民を従わせようとしている。政府は国民を従わせて国民を自分の好き放題にして国民に悪いことをやって国民に命令して国民からお金を取って儲[もう]けようとしている。
しかし、日本人には変なことが効かない。だから、日本人は政府に従わなければいい。日本では国民みんなは政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府を倒せばいい。政府が民主主義でやっている国民の役に立つ事業を民営化して国民でお金を払って仕事をやってもらえばいい。(政府は水道をやっているが、今ではスーパーやコンビニや自動販売機で水を売っている。だから、政府の水道局が潰[つぶ]れても、国民はスーパーで水を買って飲めばいい。実際に、私が兵庫県和田山[わだやま]に住んでいたころ、和田山の水道の水が自分の身体に合わなくて飲めなかったので、スーパーで「六甲のおいしい水」を買って飲んでいた。月に6000円ぐらいかかっていた。風呂は銭湯[せんとう]にでも通えばいい。だから、政府の水道局がなくなっても国民が死ぬことはない。国民は政府を恐れることはない。)
今は政府の時代ではない。つまり、今は“苦しめられる喜び”の時代ではない。国民は政府を無視すればいい。今の国民は今の自分が喜ぶことをやって幸福に暮らせばいい。例えば、今の国民は自分の頭で考えたり、自分の身体で運動したり、山や海へ行って自然と触れ合ったりして楽しめばいい。
政府がテレビや新聞に出て民主主義で善いことをしているふりをしているのを見て喜んでいる者は馬鹿である。国民は政府の民主主義の芝居よりも実際に政府がやっていることを見ないといけない。政府は実際には国民を苦しめることをたくさんやっている。政府は国民を従わせて権力を得るために民主主義をやっているだけである。現実にちょっとだけ善いことをやるのが民主主義の流儀[りゅうぎ]なので、政府はちょっとだけ善いことをやっているにすぎない。ほかのたくさんの善いことは全部国民がやっている。政府は善いことをちょっとだけしかやっていない。国民は政府がなくなってもほとんど困らない。今の国民にとってはむしろ政府がなくなったほうが嬉[うれ]しい。だから、今の国民は政府を倒せばいい。(中国では政府が民主主義をやると国民が政府に従う。中国人は“国民みんな”に弱いので政府が国民みんなに従っているふりをすると政府に従う。中国人は眼も頭も悪くて雰囲気で物を見るので、政府が本当に国民みんなに従っていなくても、現実にちょっとだけ国民みんなに従うことをやってほかは国民みんなに従っているふりをすれば「政府が国民みんなに従っている」と思って政府に従うのである。中国では政府がそうやって国民を従わせて、多めに悪いことをやって国民から多めに税金を取って儲[もう]けている。一方、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているので、そんな方法は通用しない。日本人は実在に従うだけで国民みんなには従わない。日本では政府が民主主義をやっても国民は政府に従わない。日本人は中国人ほど心だけで物を見ないから民主主義が効かない。)
昔は国民みんなが政府に苦しめられて喜んでいた。昔は国民みんなが政府のファンだった。だから、昔は国民が政府に逆らうとみんなに嫌われるので、国民は政府に逆らえなかった。反対に、今は国民みんなが政府に苦しめられたり悪いことをされたりして嫌がっている。今は国民みんなが政府が嫌いである。だから、今は国民が政府に逆らってもみんなに嫌われないので、国民は好き勝手に政府に逆らうことができる。今の国民は政府の命令を聞かないようにして政府に悪いことをされないようにして政府に税金を払わないようにして楽しく暮らせばいいのである。
[23248] 日本人は眼で見るだけの世界の外で暮らさねばならない。 h29.4.26
陰気臭い馬鹿は眼で見ることしかわからない。逆に眼で見ることしかわからないのは陰気臭い馬鹿だ。眼で見るだけの世界は陰気臭い馬鹿のものだ。眼で見るだけの世界では頭も心も働かないから陰気臭い馬鹿が住んでいるのだ。
眼で見るだけの世界では値段の高いきれいな物が価値がある。しかし、私はそんな世界には住んでいないからどうでもいい。
眼で見るだけの世界は日本人にとって幸福ではない。日本人が眼で見ることにとらわれて道を誤るとそんな世界に陥[おちい]るのだ。日本人は自分の眼や頭や心を均等に働かせて眼で見るだけの世界の外で幸福に暮らさねばならない。
[23249] 日本人には民主主義も身分制も国家宗教も効かない。☆ h29.4.26
マンガでは今の政府が悪者である。それは、今の政府が民主主義や身分制や国家宗教などをやって国民を従わせて国民を好き放題にして国民に悪いことをやっているからである。政府が国民を従わせて国民に命令して税金を取っているからである。
テレビや新聞で政府が民主主義をやっているのを見て「政府が善い団体だ」と思っている者はマンガにも劣る。
しかし、日本人には民主主義も身分制も国家宗教も効かない。だから、日本人はいくら政府が民主主義や身分制や国家宗教をやっても政府に従わなくていい。日本人は政府の命令を聞かず政府に税金を払わず政府を倒せばいい。
中国人は心だけで見るので政府が民主主義をやると政府に従う。インド人は頭だけで見るので政府が身分制をやると政府に従う。ヨーロッパ人は眼だけで見るので政府が国家宗教をやると政府に従う。しかし、日本人は眼と頭と心の全部で見るので政府が何をやっても政府に従わないのである。(外人は単眼の化け物だが、日本人は三つ目の化け物である。)日本人は中国人ともインド人ともヨーロッパ人とも違うので、政府が民主主義をやっても身分制をやっても国家宗教をやっても政府に従わなければいいのである。
今はまだ文化について理解のない国民が政府に従っている。政府は国民が文化について理解がないことを利用して国民から税金を取って儲[もう]けている。早く国民みんなは文化について理解して政府に従うのをやめて政府を倒して政府のない社会にしないといけない。(江戸時代の日本も今みたいになっていた。だから、安藤昌益[あんどうしょうえき]が日本中を遊説[ゆうぜい]してみんなに「幕府が身分制をやっても国民は幕府に従わなくてもいい」ことを説いて回ったのだ。もっとも、当時はまだ日本の文明が低かったので国民みんなが“苦しみに伴う喜び”が必要だったので幕府がなければならなかったが。)
平成29年5月1日追加:今の日本政府は国民が文化のことがわからないと思って本当は自分に権力がないのに権力があるふりをして国民に命令している。しかし、本当は日本政府には権力がない。だから、日本国民は政府に従わなくていいのである。日本国民は政府と平等にして政府が定めた法律が嫌なら守らなければいいのである。政府が定めた政策が嫌ならやらなければいいのである。日本国民は政府と平等にして自分が嫌なら政府に税金を払わなければいいのである。日本国民みんなで早く政府を倒して政府に苦しまされないようにして幸福に暮らせるようにしないといけない。
[23250] ヨーロッパで国家宗教を活かせるのは“国民を苦しませて喜ばせる団体”だけである。
h29.4.28
ヨーロッパ人は国家宗教に弱い。ヨーロッパ人は眼がいいだけで頭や心が弱いので、頭で考えるのが嫌いなので、神が好きなので国家宗教に弱いのである。ヨーロッパ人は神に従うと気持ちがよくなるので神に従いたがるのである。猫がマタタビに弱いのと同じことである。
しかし、売れない物を売っている店が国家宗教をやったからといって、みんながその店の言いなりになってその店の物を買うようになってその店が儲[もう]かるわけではない。国家宗教はそれほどは効かない。国家宗教はそれほど強力ではない。そんなやり方で儲かるのなら、ヨーロッパ中の店が国家宗教をやっているはずである。しかし、実際にはそんなことはない。だから、たとえヨーロッパでも国家宗教はヨーロッパ人を言いなりにするほどの強い力はないのである。
国家宗教が効くのは、“国民に悪いことをやって国民を苦しませて喜ばせる団体”が多めに悪いことをするときだけである。“国民を苦しませて喜ばせる団体”は国民に悪い命令を出して国民を苦しませて喜ばせるから、国民は政府が多めに悪い命令を出すとそれだけ喜びが増えるから、国民は政府が多めに悪い命令を出すことにそれほど反対ではないから、政府は国家宗教をやることによって国民を弱く従わせて国民に多めに悪い命令を聞かせることができる。そうやってヨーロッパの“国民に悪いことをやって国民を苦しませて喜ばせる団体”は国民から多めに税金を取って儲けたのである。
しかし、今はヨーロッパの文明が高くなってヨーロッパ人みんなが物が豊かになって物を使って喜びが得られるようになって喜びがたくさんあるから、わざわざ“国民を苦しませて喜ばせる団体”に苦しませてもらわなくてもよくなっている。だから、ヨーロッパではみんなが政府に苦しまされるのを断っている。たとえ政府が国家宗教をやっても、国民は“苦しみに伴う喜び”が要らないから、今では“苦しみに伴う喜び”は売れない物だから、たとえ政府が国家宗教をやっても国民は政府から“苦しみに伴う喜び”を買わなくなっている。そのために、今のヨーロッパでは政府がだんだん滅んでいるのである。
インド人だって今では科学で喜んでいる。科学をやるには眼と頭と心の全部を使わないといけない。もはやインド人が頭だけで暮らすことはできない。だから、今のインド人は眼と頭と心の全部を使うようになって来ている。インド人が身分制にこだわる理由はもはやない。だから、今のインドではみんなが身分制をだんだんやらなくなって政府が滅んでいるのである。
中国人だって今では科学で喜んでいる。科学をやるためには眼と頭と心の全部を使わないといけない。もはや中国人は心だけで生きるわけにはいかない。今の中国人は眼と頭と心の全部を使うようになってきている。今の中国人は民主主義に弱くない。だから、今の中国ではみんなが民主主義をやらなくなって政府が滅んでいるのである。
日本人は昔から眼と頭と心の全部を使ってきて科学が好きだから科学の時代になっても問題ない。日本人は自然科学が弱いが、科学は自然科学だけではない。人文科学や社会科学もある。日本人は人文科学や社会科学には強い。とにかく日本人は実在的な見方に強い。日本では科学の時代になったからといってわざわざ社会制度を変える必要はない。日本人はこれまで通り生きていけばいいのである。日本の宗教はどうでもいいことをやって息抜きをしているだけである。日本では宗教は日ごろの緊張をほぐすためにある。つまり、日本人にとって宗教は遊びにすぎない。日本人は神に従っても気持ちよくなったりしない。
結局、人間は実在の中に生きている。人間は眼で見るだけの世界の中にも頭で考えるだけの世界の中にも心で思うだけの世界の中にも生きていない。人間が実在を見るためには眼と頭の両方を使わねばならない。人間が実在の中で幸福に暮らすには眼と頭と心の全部を使わねばならない。人間にとっては実在における幸福が真の幸福である。だから、今では世界中でみんなが眼と頭と心の全部を使うようになって科学をやって幸福に暮らすようになっているのである。日本人にとっては当たり前のことでも、外人にとっては難しいことなのだ。
[23251] 今の人にとってはマンガは面白くない。h29.5.1
昔はみんなが貧乏な暮らしをしていたからマンガが面白かったのだ。昔の人は物が貧しくて物で喜べなかったから現実で喜べなかったから空想で喜ぶしかなかったからマンガや文学で面白がっていたのだ。
今はみんなが物が豊かになって物で喜ぶようになっている。だから、マンガが面白くないのだ。
今の人にとってはマンガは面白くない。だから、今の人は無理にマンガを読まなくていい。現実そのもので楽しめばいいのだ。
マンガは昔も今も同じである。人間は昔と今では違う。人間の感性が変わったからマンガが面白くなくなったのだ。
今の政府は国民みんなにマンガを流行[はや]らせている。マンガ家の待遇をよくして国民みんなにマンガを読ませようとしている。それは、政府がみんなにマンガを読ませてみんなを現実離れにさせて国の文明を遅らせるためである。国の文明が遅れれば、昔のようにみんなが“苦しみに伴う喜び”を欲しがって政府に苦しめてもらうようになるからである。だから、今の人は政府の勧[すす]めに逆らってマンガを読まないようにしないといけない。今の人にとって面白いのはマンガではなく現実だから、現実で楽しむようにすればいい。
昔の人は物が貧しくて空想で喜ばねばならなかったから、空想で現実を捉[とら]えていた。昔の人は空想で現実を見て、現実が空想と違っていると現実が嫌になって、空想の世界に引きこもっていた。反対に、今の人は物が豊かになって現実で喜んでいるから、現実で空想を捉えるようになっている。今の人は空想が現実と違うと空想がまちがっていると思って素直[すなお]に空想で喜べなくなっている。だから、今の人にとってはマンガが面白くないのだ。
それから、昔の日本ではみんながそこそこお金を持っていたが面白い物がなかったので“苦しみに伴う喜び”を得るために政府に苦しめてもらっていた。今の日本でもみんながそこそこお金を持っているが面白い物が少なくなっている。政府が国民に命令して面白い物を作らせないようにして面白い物をなくしているからである。政府はそうやって国民から喜びを奪って国民に“苦しみに伴う喜び”を欲しがらせて政府に苦しめてもらうようにさせているのである。だから、国民は政府の命令を聞いてはいけない。日本政府には権力がないから、国民は政府に従わなくてもかまわない。国民は政府の命令を聞かずにみんなが面白いと思う物を作らねばならない。大事なのはお金よりも喜びだ。面白い物がなくなればみんなは物を買わなくていいからお金持ちになるが喜びがなくなる。国民みんながお金持ちの国よりも国民みんなが喜びのある国を目指さねばならない。政府がマンガに力を入れているのも国民みんなに面白くないマンガを買わせて国民みんなの喜びを奪うためである。国民みんなは面白くない物を買わないようにして本当に面白い物を買わねばならない。
[23252] 人類保存計画 h29.5.2
人間にとっての喜びは“考える喜び”や“運動する喜び”や“自然と触れ合う喜び”などである。けっして性欲や“異性とイチャイチャする喜び”ではない。性欲や“異性とイチャイチャする喜び”は人間の古皮質を興奮させて人間を精神分裂病に罹[かか]らせるので危険である。それに、性欲や“異性とイチャイチャする喜び”を満足させて古皮質を興奮させると古皮質と新皮質の拮抗作用[きっこうさよう]によって新皮質の興奮が抑制されて新皮質が興奮しなくなって喜びが減る。
人間は自分の大脳の新皮質を興奮させて古皮質を興奮させなければ幸福に生きていける。【人間の幸福の法則】
しかし、人間が異性と性交しなければ人間は生まれず人類が滅んでしまう。
だから、人工授精を使えばいい。医者が注射器で精巣から精子を採って、それを膣[ちつ]に入れればいい。
男女が結婚して、性欲を満足しないために人工授精をして、“異性とイチャイチャする喜び”を満足しないために男女が死ぬまで別居すればいい。たまに男女が会うことぐらいはいい。
そうすれば、人間は性欲や“異性とイチャイチャする喜び”を満足せずに、人間を生むことができる。人類を滅亡させずにすむ。子供も親を軽蔑[けいべつ]せずに尊敬のまなざしで見てくれる。
政府は哲学者にお金をやって国民みんなが不幸に生きねばならない哲学を作らせている。そうやって、政府は国民の喜びを奪って国民に“苦しみに伴う喜び”を満足しなければならないようにさせて政府に苦しめてもらうようにさせているのである。国民は政府が作ったインチキ哲学に騙[だま]されないようにして、本当に幸福に生きねばならない。
[23253] 政府は国民を不幸にするために医療保険制度をやっている。 h29.5.3
昔は医学が遅れていて老人が早く死んでいたので人口分布はピラミッド型だった。昔は医療保険制度がなかったので国民が医療にお金を取られることがなかった。だから、昔は国民が医療のために不幸になることはなかった。もっとも、昔は文明が遅れていたから国民が物が貧しくて物を使って喜びを得ることができなかったので“苦しみに伴う喜び”を得るために政府に苦しめてもらっていた。
反対に、今は医学が進んで老人がなかなか死なないので人口分布は逆さピラミッド型になっている。その上、今は政府が医療保険制度をやっていて国民が医療にたくさんお金を取られて貧乏になって物を買えなくなって喜びが減っている。政府の医療保険制度は割高である。バカ高である。今では科学や産業が発達して国民が物やお金が豊かなので、政府の医療保険制度がなかったらたとえ人口分布が逆さピラミッド型になっても国民はそこそこ豊かに暮らせるのに、政府が医療保険制度を定めたせいで国民はますます貧乏に暮らさねばならなくなっている。
政府は国民を幸福にするために医療保険制度をやっているのではない。政府は国民の喜びを増やすために医療保険制度をやっているのではない。本当は、政府は国民を不幸にするために、国民の喜びを減らすために医療保険制度をやっているのである。今の国民はまだ自分が政府に従わなくてもいいことがわかっていないから、政府は国民に命令して国民に医療保険制度をやらせて国民からたくさんお金を取って国民を貧乏にしているのである。政府は国民の物の喜びを奪って昔のように国民に“苦しみに伴う喜び”を欲しがらせて政府に苦しめてもらって喜ぶようにさせているのである。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を復活させるために医療保険制度をやっているのである。(アニメ『ラムネ&40[フォーティ]』の妖神[ようじん]ゴブーリキとは“苦しみに伴う喜び”のことである。)政府は国民の喜びを奪うために国民から高い医療保険費を取って国民に物を買えないようにさせて物の喜びが得られないようにさせているのである。
国民は自分が不幸になるから政府の医療保険制度をやってはいけない。日本では政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっても国民が政府に従わないから、国民は政府の命令を聞かなくてもかまわない。国民は政府の医療保険制度をやらなくてもかまわない。政府は国民からお金を取るために医療保険制度をやっている。国民みんなで政府の医療保険制度をやらないようにして政府にお金をやらないようにして政府を潰[つぶ]せばいい。医者は国民からその都度[つど]お金をもらって治療するか、あるいは自分で保険制度を設けて国民からお金をもらうようにすればいい。
今の医者は国民が政府に従っていると思って政府に頼って政府に医療保険制度をやってもらって、政府からお金をもらって儲[もう]けている。しかし、本当は日本では国民は政府に従う必要がないから、そのうち国民みんなが自分が政府に従う必要がないことがわかって政府の言うことを聞かなくなって政府の医療保険制度もやらなくなるだろう。単純に言って、保険制度は国民にとって損である。保険会社が儲かるだけで国民が損をする。自動車保険も国民にとって損である。国民は自動車保険に入るよりも安全運転をすればいいだけである。バイク保険も国民にとって損である。自分がバイクを盗られても大丈夫[だいじょうぶ]なようにバイク保険に入って一生保険会社に保険費を取られるよりも、自分が貯金をして盗られたバイクを買い直すほうが安上がりである。(国民は友達に頼んで自分のバイクを盗ってもらって2台分儲けたりしてはいけない。)だから、たとえ医者が政府とは別に医療保険制度を設けても、国民は医者の医療保険制度をやらないだろう。だから、結局医者はその都度国民からお金をもらって治療するしかないのである。医者は今よりも貧乏になるだろうが、それが本来の医者の姿なのである。そのほうが国民が医療に余計なお金をかけずにすんでお金が豊かになって物をたくさん買うことができてもっと幸福に暮らせるだろう。
不治[ふじ]の病人やカタワは生きていても不幸な思いをするだけだ。不治の病人やカタワを幸福にするには早く死なせてやればいい。人間が幸福になるためには死ぬのも一手だ。医者は自分がお金を儲けるために不治の病人やカタワを無理やり生かして苦しませている。医者は治る病気を治らなくして病気を長引かせて儲けている。だから、国民は医療保険制度をやってはいけない。国民みんなが幸福に暮らすためには医療保険制度をやってはいけないのである。国民が余計なことをやらなければ最も幸福に暮らせるのである。人間が余計なことをやるから不幸になるのだ。人間が余計なことをやらなければ幸福なのだ(荘子[そうし]みたいだ)。政府は国民を苦しませる団体である。政府は医療保険制度をやっている。だから、医療保険制度は国民を苦しませることなのである。政府は国民を苦しませることによって喜ばせる団体である。しかし、今の国民は物が豊かになって物を使う喜びを満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”がなくなっている。だから、今の政府は国民を苦しませて不幸にするだけなのである。今の国民にとっては政府が要らないから、早く政府を倒してなくせばいいのである。
[23254] 権力とは何か? h29.5.3
権力とは国民が政府に従うことである。国民の生まれつきの習性を利用して政府が“あること”をすれば国民が政府に従うようになって政府に権力が得られて政府が国民に命令を聞かせることができるようになる。例えば、政府が国家宗教をやればヨーロッパ人が政府に従うようになる。ヨーロッパ人は生まれつき神に従うと気持ちがよくなるので、政府が国家宗教をやると政府に従う。政府が民主主義をやれば中国人が政府に従うようになる。中国人は生まれつき国民みんなに従うと気持ちがよくなるので、政府が民主主義をやると政府に従う。政府が身分制をやればインド人が政府に従うようになる。インド人は生まれつき古臭い物に従うと気持ちがよくなるので、政府が身分制をやると政府に従う。政府が何をやっても日本人は政府に従うようにならない。日本人は生まれつき実在に従うと気持ちがよくなるので、政府はどうしようもないので政府に従わない。日本人は学者の正しい説には従うが学者そのものには従わない。つまり、外国では政府に権力があるが、日本では政府に権力がない。人種によって習性が違う。犬や猫の種類によって違う癖があるのと同じことである。
今の日本ではまだ国民の多くが文化や人種の特徴について理解がないために政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっているのを見て政府に従っている。国民の多くは政府の命令を聞いて年金制度や医療保険制度や消費税などをやって政府に不幸にされて暮らしている。文化人類学は戦後に始まった新しい学問なので、国民の多くは文化人類学を知らないので文化や人種の特徴についての理解がないのである。
早く国民みんなが文化や人種の特徴について理解して、自分が政府に従う必要がないことを理解して政府に従うのをやめねばならない。国民みんなで政府の命令を聞くのをやめて政府に不幸にされないようにしないといけない。国民みんなで早く政府を倒して国民を苦しませる団体をなくして自分たちが幸福に暮らせるようにしないといけない。
今の日本では政府は最後の手段として本当は自分に権力がないのに権力があるふりをしている。今の日本では政府は本当は自分が国民を従わせられないのに、自分が国民を従わせられるふりをしている。国民は政府の芝居に騙[だま]されないようにして政府に従わないようにしないといけない。日本では国民と政府は平等だから、国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民一人一人の自由である。国民は自分が本当に幸福になるときだけ政府の命令を聞けばいい。政府は嘘[うそ]をついて国民が幸福になるように思わせるから、国民は注意しないといけない。政府は昔も今も変わらない。そもそも政府は国民を苦しませることによって国民を喜ばせる団体だから、今の国民は“苦しみに伴う喜び”がないから、国民が政府の命令を聞くと政府に苦しまされて不幸にされるだけだから、国民は政府の命令をいっさい聞かなければいいのである。(政府は国民を苦しませる団体だから、政府にとっては国民に嘘をついて国民を苦しませるのはやってもいいことだから、政府は国民に嘘をつくのである。だから、国民は自分でよく考えて政府の嘘に騙されないようにしないといけない。)
昔は外国では国民が“苦しみに伴う喜び”が欲しかったから政府が身分制や民主主義や国家宗教をやると国民は政府の言うことをますます聞いて政府が国民に命令を聞かすことができた。反対に、今は外国では国民が“苦しみに伴う喜び”が嫌になっているから政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっても国民は政府の言うことを聞かなくなって政府が国民に命令を聞かせられなくなっている。今では外国では国民が政府が身分制や民主主義や国家宗教をやって政府に従いたい気持ちよりも“苦しみに伴う喜び”を嫌う気持ちのほうが強いから政府の言うことを聞かなくなっている。今では世界中で政府が滅びつつある。
[23255] 会社には事務員の替わりに作業員を置けばいい。 h29.5.3
会社には作業員と事務員がいる。作業員は働いているが、事務員は働いていない。
事務員を減らして作業員を増やせばいい。事務員の替わりに作業員を置けばいい。
そうすれば、たとえ作業員が仕事を多少休んでも替わりの作業員がいっぱいいるから会社の仕事に支障はない。作業員は自分が好きなだけ自由に休むことができる。作業員はたとえ眠れなくても次の日休めばいいから困らない。作業員が楽に働くことができる。
[23256] 政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。 h29.5.3
人間の脳には“苦しみに伴う喜び”がある。人間は苦しみを感じると苦しみを癒[いや]すために脳の中で麻薬に似た快楽物質が分泌されて喜びを感じるように出来ている。
昔は国の文明が低くて国民みんなが物が貧しくて物を使う喜びがなかったから“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得て暮らしていた。
政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。政府は国民が苦しむことをして国民に“苦しみに伴う喜び”を与えることが仕事である。例えば、政府は国民を苦しませて喜ばせるために国民から税金を取っているのである。国民は政府に苦しむことをしてもらって、苦しみに混じって喜びを感じていたのである。
しかし、今は国の文明が高くなって国民みんなが物が豊かになって“物を使う喜び”がいっぱいあるから“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。“物を使う喜び”とは、テレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりして得られる喜びのことである。“苦しみに伴う喜び”は苦しみに混じってちょっとだけ喜びが得られる。一方、“物を使う喜び”はほとんど苦しみなしに喜びが得られる。“苦しみに伴う喜び”は“物を使う喜び”よりも喜びの効率が低いので、今の国民みんなは“物を使う喜び”ばっかり満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったのである。
今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。今の国民は政府が要らなくなっている。今の国民は政府に苦しまされるのが嫌なので政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]しているのである。
今は国民が物が豊かなのでマンガや小説が面白くない。しかし、昔は国民が物が貧しかったのでマンガや小説が面白かった。それと同じように、昔は国民が物が貧しかったので政府に苦しめられて喜んでいた。しかし、今は国民が物が豊かなので政府に苦しめられても喜ばない。今の国民にとってはマンガや小説が嫌なように、政府に苦しめられるのも嫌である。今の国民は物が豊かなので“物を使う喜び”ばかり満足してほかの喜びを満足しなくなっている。そのために、今ではマンガ家や小説家や政府などが滅んでいるのだ。今の国民はマンガが嫌である。今ではマンガに人気がない。今のマンガ家が絵が下手[へた]なのはマンガ家が儲[もう]からなくなっているからである。(もっとも、マンガの天才が現れて本当に面白いマンガが描[か]けるなら、みんながそれで喜んでもいいが。)
今の国民みんなは“物を使う喜び”を満足している。物を作るためには科学や産業が要る。だから、今の国民みんなは科学や産業を勉強しないといけない。今の国民みんなは眼と頭と心の全部を使って物を見ないといけない。今の国民みんなは頭を使って考えねばならない。
[23257] 国民みんなの人気を得た会社が儲[もう]かる。 h29.5.3
昔の人は物が貧しかったので物を使う喜びがなかったので“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得ていた。
そのため、昔は国中にいっぱい“苦しみに伴う喜び”を満足する団体があった。
しかし、古代の日本ではその中のある団体が国家宗教をやって神を使った駄洒落[だじゃれ]で国民を苦しめたので国民みんなが面白がってその団体に苦しめられてもらうようになってその団体が儲[もう]かって大きくなった。それが日本政府(大和朝廷)である。それが「浦島太郎」のおとぎ話である。ほかの“苦しみに伴う喜び”を満足する団体は売れずに小さいままで、日本政府に管理されるようになった。日本政府の命令で国民を苦しめてほそぼそとお金を稼[かせ]いでいた。
今の人は物が豊かなので物を使う喜びがあるので“物を使う喜び”を満足して喜びを得ている。
そのため、今は国中にいっぱい“物を使う喜び”を満足する団体がある。電化製品を作る会社やテレビ局やパソコンのソフトを作る会社などがある。その中でも面白いことをやって国民みんなの人気を得た会社が儲かって大きくなっている。ほかの会社は売れずに小さいままで、大きい会社の部品を作ってほそぼそとお金を稼いでいる。
今の人は物が豊かなので“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。そのため、今は国中に“物を使う喜び”を満足する団体が出来て“苦しみに伴う喜び”を満足する団体が潰[つぶ]れてなくなっている。国を作るのは特定の団体ではなく国民みんなである。国民みんなが本気で自分の心を満足して、自分の心を満足する会社にお金をやって会社を大きくして、自分の心を満足しない会社にお金をやらず会社を潰せばいいのである。
[23258] 国民が政府のことを理解すれば政府は潰[つぶ]れる。☆ h29.5.3
今の国民の多くが政府に従っているのは政府のことがわかっていないからである。
政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。人間の脳には“苦しみに伴う喜び”がある。政府は国民が苦しむことをして国民に“苦しみに伴う喜び”を与えて国民を喜ばせる団体である。その上、政府は身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせようとしている。政府はそういう団体である。民主主義とは政府が国民みんなに従うことを実際にちょっとだけやったり国民みんなに従っているふりをしたりして国民を従わせることである。国家宗教とは政府が神を崇[あが]めることをやって国民を従わせることである。身分制とは政府が上の者をやって国民を自分の好き放題に虐待することによって国民を従わせることである。
しかし、今では世界中で国の文明が高くなって国民みんなが物が豊かになって“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。今の国民は“物を使う喜び”が発達して強くなって“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっている。そのため、今の国民は政府に苦しいことをされても嫌なだけである。政府が身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせる力はあまり強くない。今の国民にとっては政府に苦しいことをされるほうが政府に従うよりも嫌である。だから、今では世界中で国民が政府に従わなくなっている。
政府が国民から税金を取っているのは政府が国民を苦しませるためである。今の国民は政府に苦しまされるのが嫌である。今の国民は“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足していないから政府が要らなくなっている。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を潰[つぶ]せばいいのである。
今の国民の多くは“物を使う喜び”ばかり満足してテレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりして遊んでばかりいて政府について考えず政府のことがわかっていないために政府に従って政府の命令を聞いて不幸に暮らしている。今の国民の多くはテレビやゲームやパソコンの上で幸福なだけで現実の上では不幸である。今の国民はまず政府のことを理解してから“物を使う喜び”を満足して喜べばいい。そもそも人間は現実の世界の中で暮らしている。今の国民はまず現実について理解した後で“物を使う喜び”を満足して幸福に暮らせばいいのである。
人間はただ生きているだけではいけない。幸福に生きねばならない。政府は国民を苦しませることによって喜ばせる団体である。政府は国民を苦しませることばっかりする。しかし、今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、今の国民が幸福であるためには政府が邪魔[じゃま]である。だから、今の国民はさっさと政府を潰さねばならない。その後で“物を使う喜び”を満足して楽しく暮らせばいい。
[23259] 日本人も多少は“政府に従う喜び”がある。 h29.5.4
日本人に完全に“政府に従う喜び”がなければ、国の文明が高くなって国民が“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったときに政府に従うのをやめるはずである。
しかし、実際には国の文明が高くなった後でも、国民は政府に従っている。
だから、日本人も多少は“政府に従う喜び”があるのである。日本人も完全に眼と頭と心が均等ではなく多少偏[かたよ]りがあるから、偏りに応じて“政府に従う喜び”があるのである。もっとも、日本人は外人に比べると眼と頭と心が均等に発達しているから、日本人は外人に比べると“政府に従う喜び”が少ないのである。日本は外国に比べると国民と政府が平等なのである。
しかし、今では文明が高くなって国民が物が豊かになって“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足していない。今の国民は“物を使う喜び”が発達して強くて“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっている。だから、今の国民は政府に苦しめられても喜びを感じないから政府に苦しめられるのが嫌である。
今の国民は政府に苦しめられるのが嫌である。たとえ今の国民が“政府に従う喜び”があっても、“政府に苦しめられるのが嫌な気持ち”に比べると“政府に従う喜び”のほうが弱いから、今の国民は政府の言うことを聞かないはずである。
それなのに、今の日本では国民の多くが政府の言うことを聞いている。国民の多くが政府の言うことを聞いて政府に税金を払って政府が儲[もう]かっている。
結局、今の国民の多くは政府のことがわかっていないから政府に従っているだけである。今の国民の多くはテレビや新聞で政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民みんなに従って善いことをする団体だ」と思っていただけで、『政府が国民を苦しませることによって喜ばせる団体である』ことや『政府が国民を苦しませることをたくさんやっている』ことを知らなかったから政府に従っていただけである。今の国民の多くは「政府が国民みんなのために善いことをやっている」と思っていたから、政府に善いことをやってもらうために毎月政府に高い税金を払っていたのである。しかし、実際には今の国民の多くは政府に悪いことをされて苦しめられているのであって政府に善いことをしてもらって喜んでいるのではない。今の国民の多くは本当は政府に悪いことをされて苦しめられているのに政府が善いことをしてくれている思って喜んでいるのである。今の国民の多くが政府のことが正しくわかっていたら、今の自分は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから政府に苦しめられるのは嫌だと思って、多少“政府に従いたい気持ち”があっても政府の言うことを聞くのをやめて政府に税金をやるのをやめて政府を潰[つぶ]すだろう。
国民の多くは早く政府について正しいことを理解して、政府についての誤解を直して、政府の言うことを聞くのをやめねばならない。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。しかし、今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから政府が要らない。今の国民みんなで早く政府を潰して、政府に苦しめられないようにして幸福に暮らさないといけない。
[23260] 今の人は政府を誤解している。 h29.5.4
民主主義は本来心主義の人が国民みんなに従うことを利用して、政府が国民みんなを崇[あが]めて心主義の人を従わせることである。政府が実際にちょっとだけ国民みんなに従うことをやったり国民みんなに従っているふりをしたりして心主義の人を従わせることである。心主義の人にとっては国民みんなが神なのである。五感主義の人が神に従うように、心主義の人は国民みんなに従うのだ。だから、民“主”主義というのだ。国家宗教が本来五感主義の人が神に従うことを利用して、政府が神を崇めて五感主義の人を従わせるのと同じである。政府が実際にちょっとだけ神に従うことをやったり神に従っているふりをしたりして五感主義の人を従わせるのと同じことである。国家宗教では政府が神に従っている“ふり”をすることによって五感主義の人を従わせている。国家宗教では政府が本当に神に従っていなくても五感主義の人を従わせることができる。国家宗教では政府が厳密に神に従ったことをしなくてもいいのである。実際に、国家宗教では政府は国家宗教の神である私の得になることをひとつもやっていないから、民主主義でも政府は国民みんなの得になることをひとつもやっていない。つまり、崇めるとは従っているふりをすることであって本当に従うことではないのである。国家宗教が政府が神に従っているふりをすることであって神に従って神のためになることをすることではないように、民主主義は政府が国民みんなに従っているふりをすることであって国民みんなに従って国民みんなのためになることをすることではないのである。政府は国民みんなを崇めるためにつまり国民みんなに従っている“ふり”をするためにわざわざ“間接”民主主義をやっているのである。(日本人は五感主義ではないから、日本では政府が国家宗教をやっても国民は政府に従わない。そのため、日本では政府が国家宗教を転用して神の情報を使ったことをやって国民を苦しめている。近代以後はヨーロッパ政府も日本政府を真似[まね]て神の情報を使ったことをやって国民を苦しめるようになったのである。)
しかし、今では民主主義は政府が国民みんなの前で実際にちょっとだけ国民みんなに従っていることをやったり国民みんなに従っているふりをしたりすることによって、政府のことを知らない人に「政府が国民みんなのためになることをする団体だ」と思わせて政府に従わせることになっている。
昔の人は物が貧しくて“物を使う喜び”がなくて“苦しみに伴う喜び”を満足して喜んでいたから、『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことを知っていたから、民主主義が政府が心主義の人を従わせる方法であることを知っていた。国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体が国民みんなに従うことをするわけがないから、昔の人は政府が国民みんなを従わせて国民にもっと苦しませる命令を出すために民主主義をやっていることがわかったのである。
今の人は物が豊かで“物を使う喜び”ばっかり満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっているから、政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体であることがわからなくなっているから、政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民みんなのために善いことをする団体だ」と思って政府を信頼して政府に従っているのである。政府が善いことをしてくれると思って政府に高い税金を払っているのである。
つまり、今の国民が“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったために政府を誤解しているにすぎないのである。昔の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していたから政府のことが正しくわかっていたが、今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから政府のことを誤解しているのだ。けっして政府が国民を騙[だま]しているのではなく、国民が勝手に政府を誤解しているだけなのである。
今の人は早く政府のことを正しく理解して、自分の政府のついての誤解を直して、政府に従うのをやめねばならない。政府は本来国民が苦しむことをして国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体であり、政府は国民を従わせるために民主主義をやっているだけである。しかし、日本人は心主義ではないから、政府が民主主義をやっても政府に従わない。日本では国民と政府は平等である。今では国の文明が高くなって国民が物が豊かになって“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、今の国民は政府に苦しめてもらう必要がない。だから、今の国民は政府の“国民を苦しませるための命令”を聞かないようにすればいい。税金は政府が国民を苦しませるために国民からお金を取ることだから、国民は政府に税金を払わなければいい。早く国民みんなで政府に税金を払うのをやめて政府を倒して、政府に苦しめられないようにして幸福に暮らさねばならない。
[23261] 文化は人で決まる。 h29.5.4
インド人は知覚だけが優れていて五感や心が劣っている。インド人は知覚主義であって、五感主義でも心主義でもない。インド人は自分が五感主義ではないことを表すために、わざとに古臭い物を残しているのである。つまり、眼で見る世界を発展させずに昔のままにしているのである。そのために、インドでは国民みんなが動物や国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体を上の者にして従っているのである。
ヨーロッパ人は五感だけが優れていて知覚や心が劣っている。ヨーロッパ人は五感主義であって、知覚主義でも心主義でもない。ヨーロッパ人は自分が知覚主義ではないことを表すために、自分がわからないことがあったときに原因について考えようとせず、近くにいた人を神にして神に従っているのである。(ヨーロッパ人は五感主義だから眼で見る世界を発展させるのが好きだから新しい物が好きである。ヨーロッパ人は古臭い物が嫌いである。そのため、ヨーロッパでは国民みんなが数千年に一度神を入れ替えるのだ。今ではキリストも神武天皇も古臭い。だから、私が神なのである。)
中国人は心だけが優れていて五感や知覚が劣っている。中国人は心主義であって、五感主義でも知覚主義でもない。中国人は自分が心主義であることを表すために、国のことは国民みんなの心で決めることにして国民みんなに従っているのである。
日本人は五感と知覚と心が均等に優れている(同時に劣っているとも言えるが)。日本人は眼と頭の両方を使って実在が見えるので実在主義である。日本人は実在主義であって、五感主義でも知覚主義でも心主義でもない。日本人は自分が五感主義ではないことを表すために見た目をよくしない。日本人は自分が知覚主義ではないことを表すために古臭いことを嫌う。日本人は自分が心主義ではないことを表すためにみんなと違うことをする。日本人は個人主義である。日本人は自分が実在主義であることを表すために、ときどき山に登って自然と触れ合って喜ぶのである。
[23262] 今の日本では国民がどうして政府に従っているか?☆ h29.5.7
日本人は眼と頭と心が均等に発達している。日本人は五感主義でも知覚主義でも心主義でもない。日本人は眼と頭の両方を使って実在が見えるので実在主義である。実在と心は対立するので心主義ではない。日本人は自分の心に対してクールであって中国人のようにむやみに自分の心を肯定しない。日本人は中国人のように自分の心を肯定するために実在から離れてしまうほど文学的ではない。
そのため、日本人は昔から政府に従わない。日本人は昔も今も政府に従わない。日本では政府が国家宗教や身分制や民主主義をやっても国民が政府に従わない。つまり、日本では政府に権力がない。日本では国民と政府が平等である。日本では人間はみんな平等である。日本では社長も社員も大人も子供も男も女も金持ちも貧乏人もみんな平等である。
だから、昔の日本で国民が政府の“国民を苦しませる命令”を聞いていたのは、国民が自分の“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得るためである。人間の脳には苦しみが与えられると苦しみを癒[いや]すために麻薬に似た快楽物質を分泌[ぶんぴつ]して快感を感じる仕組みがある。政府は国民を苦しめる命令を出すので、国民は政府の命令を聞いて自分で自分を苦しませて“苦しみに伴う喜び”を満足して喜んでいたのである。国民は自分で自分を苦しませるために政府の命令を聞いて政府に税金を払っていたのである。
今の日本で国民が政府の“国民を苦しませる命令”を聞いているのは、国民が政府のことがわかっていないからである。もっとも、国民の中にはすでに政府のことがわかっていて自分で政府の“国民を苦しませる命令”を聞いていない人もかなりいる。昔の国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、政府が国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体であることを知っていた。政府が国家宗教や身分制や民主主義をやるのは外国の文化にかぶれた国民を非国民を従わせるためであることを知っていた。しかし、今の国民は文明が高くなって物が豊かになって物を使って喜んでいる。物を使って喜びを得ている。今の国民は“物を使う喜び”を満足している。そのため、今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっている。そのために、今の国民は政府のことがわからなくなっている。文明が高くなったために今の国民は政府のことがわからなくなっている。国民が政府のことがわからなくなるのは文明の副作用である。今の国民は政府がテレビや新聞で民主主義をやっているのを見て「政府が国民のために善いことをする団体だ」と思って政府に善いことをしてもらうために政府の命令を聞いて政府に税金を払っている。しかも、今の国民はテレビや新聞で毎日毎日繰り返して「政府が民主主義の団体である」ことを刷り込まれているので、頭の奥に「政府が民主主義の団体である」ことがこびりついていて頭の中でそのようにしか考えられなくなっているのである(私もそこから抜け出すのに苦労した)。しかし、本当は政府は国民を苦しませて国民に“苦しみに伴う喜び”を与える団体だから、国民は政府の“国民を苦しませる命令”を聞いて政府に苦しまされているのである。今の国民は本当は政府に苦しまされて不幸にされているのに政府に善いことをしてもらって幸福にしてもらっているつもりでいるのである。今の国民は大きな勘違いをしているのである。
今の国民は政府のことを知らないために自分で自分を不幸にしている。だから、今の国民は自分が幸福になるために政府のことを知らねばならない。政府は国民を苦しませて国民に“苦しみに伴う喜び”を与える団体である。日本では政府と国民が平等だから、国民が政府の“国民を苦しませる命令”を聞くか聞かないかは国民の自由である。昔の国民は文明が低くて物が貧しくて“物を使う喜び”がなかったから、喜びに飢えていたから、自分のほうから政府の“国民を苦しませる命令”を聞いて自分で自分を苦しませて“苦しみに伴う喜び”を得て喜んでいた。反対に、今の国民は文明が高くなって物が豊かになって“物を使う喜び”がいっぱいあるから、喜びに飽きているから、自分のほうから政府の“国民を苦しませる命令”を聞かないようにして自分で自分を苦しませてはならない。今の国民は政府の命令を聞いて自分で自分を苦しませるのをやめて政府に不幸にされるのをやめて幸福にならねばならない。政府が国民に命令して国民から税金を取るのは国民を苦しませるためである。今の国民は自分で政府に税金を払うのをやめて自分で自分を幸福にしないといけない。
政府は国民を苦しませて国民に“苦しみに伴う喜び”を与える団体である。政府は国民を苦しめる法律を定めたり国民を苦しめる政策をやったり国民を苦しめる教育をやったりして国民を苦しめている。政府は国民に黙って国民に知られないようにして国民を苦しめることをやることもある。おまけに政府は身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせようとしている。政府は身分制をやって国民を自分の好き勝手に虐待している。政府は毎日事件や事故を起こして国民を好き勝手に殺している。今の国民は文明が高くなって物が豊かになって“物を使う喜び”がたくさんあって“苦しみに伴う喜び”が要らないから、政府の“国民を苦しませる命令”を聞くのをやめて政府に苦しめられないようにしないといけない。今の国民は政府の税金の命令を聞くのをやめて政府に税金を払わないようにしないといけない。今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府を潰[つぶ]さねばならない。国民みんなで早く国民みんなを苦しめる政府をなくして国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。
一方、外人は眼と頭と心が不均等に発達しているので、外国では政府が身分制や国家宗教や民主主義などをやって国民が政府に従っている。もっとも、今では外国では国民が文明が高くなって国民が“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足していない。だから、今の外国では政府が身分制や国家宗教や民主主義をやって国民を弱く従わせて国民に弱い命令を出して国民にちょっとだけ悪いことをやったりしているのである。今の外国では政府が国民に命令して国民からちょっとだけ税金を取って儲[もう]けてほそぼそと生き残っているのである。
今は科学の時代なので科学ができる者が有利に生き残れる。眼と頭の両方利[き]く者が有利に生き残ることができる。日本人みたいに眼と頭と心が均等に発達している者が有利である。だから、今後は世界中で眼と頭と心が均等に発達している者が増えるだろう。眼と頭と心が均等に発達している者は政府に従わない。だから、今後は世界中で国民が政府に従わなくなるだろう。世界中で政府が国民に悪い命令ができなくなって国民から税金を取れなくなって潰れてなくなるだろう。
平成29年5月8日追加:昔知恵遅れの子供が赤ちゃんがお腹を空かせていると思って赤ちゃんに哺乳瓶[ほにゅうびん]で砂を飲ませて殺したことがある。それと同じように、今の政府は国民を幸せにするつもりで国民が苦しむことをやっているのである。今の政府は自分が国民に善いことをしているつもりで国民を苦しませているのである。たしかに、人間には“苦しみに伴う喜び”がある。昔の人はそうやって喜びを得ていた。しかし、今の人は物が豊かになって物を使って喜んでいる。“物を使う喜び”は国民がほとんど苦しみを味あわずに喜びを得ることができる。一方、“苦しみに伴う喜び”は国民がさんざん政府に苦しみを味あわされて喜びを得なければならない。そのために、今の国民は“物を使う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。今の国民にとっては“物を使う喜び”だけあればよく“苦しみに伴う喜び”がないほうがいい。日本では国民と政府が平等である。だから、今の国民は自分で政府に“苦しみに伴う喜び”を与えられるのを断ればいいのである。今の国民は自分で政府の国民を苦しめる法律を守らず政府の国民を苦しめる政策をやらず政府の国民を苦しめる教育を受けなければいいのである。今の国民は自分で政府に税金を払うのをやめればいいのである。そうやって、今の国民は自分で自分が政府に苦しめられないようにして自分で自分を幸福に暮らせるようにしなければならない。
[23263] 今の日本は中国文化を受け入れる必要はない。 h29.5.8
日本は景気のいい国の文化を受け入れてきたのではない。例えば、今の中国は景気がいいが、日本は今の中国から受け入れる物は何もない。今の中国はヨーロッパを真似[まね]て科学や産業をやって物やお金が豊かになって儲[もう]かっているだけだから、日本にとって新しい物は何もないから日本は中国から受け入れる物が何もないのである。中国がただ景気がいいだけである。
日本はこれまで外国から“日本文化で受け入れられる日本文化にはない物”を受け入れてきたのである。日本文化において日本よりも優れている外国の物を受け入れてきたのである。例えば、コンピューターはアメリカの発明である。今の日本はコンピューターを受け入れているから、今の日本はアメリカ文化を受け入れているのである。日本はアメリカ文化を部分的に受け入れているのである。
日本はけっして景気のいい国の文化を真似てきたのではない。今の中国には日本よりも優れている物がないから、今の中国がいくら景気がよくても、日本は中国から受け入れる物が何もないのである。
もっとも、将来中国が日本文化で受け入れられる日本よりも優れている物を作れるようになったら、日本は喜んでそれを受け入れるだろう。
したがって、今のテレビ局が中国文化を受け入れて中国っぽいマンガを作ったりお笑い番組(落語や漫才やバラエティなど)に力を入れているのは意味がない。国民みんなはテレビ局が中国文化をやっているのを真似て中国文化をやってはいけない。日本人は実在主義だから実在主義に適[かな]うことをやらねばならない。日本人が中国文化をやっても幸福にならない。日本人は日本文化をやらなければ幸福になれない。今のテレビ局は日本人にとって面白くない番組をやっている。だから、今の日本人はテレビ番組を見なければいい。
ヨーロッパ人の眼で見る文化とインド人の頭で考える文化が結びつけば最強である。科学は世界最強の文化である。日本人は科学に適性があるのだから、科学をやればいい。日本人は科学をやれば幸福になれるのだから、科学をやればいい。日本中の本屋で科学の本を売ってテレビで科学番組をやって国民みんなを幸福にすればいい。日本人は科学や産業をやって物を作って物で喜んで幸福に暮らせばいい。
日本人は物で喜ぶが、インド人や中国人は物で喜ばない。インド人は数学で喜んで、中国人は文学で喜ぶ。日本人はインド人とも中国人とも違う。けっして科学は普遍的[ふへんてき]な文化ではない。世界中のどこの国でも自分の国の文化で受け入れられるものしか受け入れない。そのため、最近までインドや中国は科学を受け入れなかった。インド人はコンピューターでプログラムを組んで喜ぶために科学を受け入れて、中国人はテレビでお笑い番組を見て喜ぶために科学を受け入れたのである。日本人は子供のときは数学が強いが、インド人は大人になっても数学が強い。インドは世界最強のプログラム国になるかもしれない。ヨーロッパ人も物で喜ぶが、ヨーロッパ人は物の見かけで喜ぶ。日本人は物の中身で喜ぶ。日本人もヨーロッパ人も物で喜ぶが、喜び方が違うのである。例えば、ヨーロッパ人にとってのかわいさと日本人にとってのかわいさは違う。ヨーロッパ人は見た目でかわいさを感じるが、日本人は仕草[しぐさ]でかわいさを感じるのである。(平成29年5月20日追加:中国人は心が発達して眼や頭が劣っている。中国人にっては面白いことが一番大事である。中国人が喩[たと]えてものを言うのは、そうすればつまらないことでも面白くなるからである。中国人が曖昧[あいまい]に口を利くのも、そのほうが面白いからである。中国人が嘘[うそ]をつくのは本当の話よりも嘘の作り話のほうが面白いからである。反対に、日本人は面白さにあまりこだわらないから、正しいことをそのまま言えばいいのである。日本人は嘘をつかずに物事を喩えずに明晰判明に言えばいいのである。)
私が国家宗教の神であるのは、私がインド系の文化だからである。今上天皇はヨーロッパ系の文化である。皇太子は中国系の文化である。私はインド系の文化である。今は国際化の時代だから、日本政府はインド文化をやるために私を国家宗教の神にしたのである。
[23264] 人間は苦しみよりも喜びが多ければ受け入れる。☆ h29.5.9
昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していた。昔の人にとっても苦しみそのものは嫌だった。しかし、昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得るために苦しみを我慢[がまん]していた。それと同じように、ヨーロッパ人は頭で考えることが嫌なので科学が嫌いである。宗教が好きである。しかし、ヨーロッパ人は物が豊かになって綺麗[きれい]な物を作って“眼で見る喜び”を満足して喜びを得るために頭で考えることを我慢して科学をやっているのである。ヨーロッパ人がヨーロッパ文化をやりすぎると眼で見るだけで頭で考えなくなって科学や産業がやれなくなって貧乏になってきれいな町に住めなくなるので、ヨーロッパ人はきれいな町に住むためにヨーロッパ文化を多少緩[ゆる]めてインド文化を入れて我慢して頭で考えるようにして科学や産業をやっている。どんなものにも喜びと苦しみの両方がある。ヨーロッパ人にとって科学は頭で考えることは嫌だが“眼で見る喜び”をたくさん満足してくれるので、総合的には科学は喜びを与えてくれるものなので科学を受け入れているのである。同じように、中国人は眼で見ることや頭で考えることは嫌いだが、科学は“心で思う喜び”をたくさん満足してくれるので、多少の嫌さは我慢して受け入れているのである。同じように、インド人は眼で見ることが嫌いだが、科学は“頭で考える喜び”をたくさん満足してくれるので、多少の嫌さは我慢して科学を受け入れている。一方、日本人は眼で見ることも頭で考えることも特に嫌ではないので、科学をすんなりと受け入れている。科学をやって物を豊かにして物で喜んでいる。ただし、日本は資源が貧しいのでなかなか物が豊かにならない。(平成29年5月18日追加:今の中国は科学や産業をやるようになって物やお金が豊かになったが、今でも中国人は中国文化をやっているだけである。中国人はテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりして面白いことをやって楽しみたいから自分が眼で見ることや頭で考えることが嫌なのを我慢[がまん]して科学や産業をやったのである。近代のヨーロッパ人が町をきれいにしたいから自分が頭で考えるのが嫌いなのを我慢して科学や産業をやったのと同じことである。今でも中国人は中国文化をやっている。ヨーロッパ人もヨーロッパ文化をやっている。人間は自分自身であることしかできない。人間は自分自身以外の者にはなれない。中国人はヨーロッパ文化をやったから国が豊かになったのではない。中国人は中国文化をやって多少自分が嫌なことを我慢したから国が豊かになったのである。今のインドでもインド人はコンピューターでプログラムを組んで喜ぶために科学や産業をやっている。インド人は眼で見ることが嫌いだが、頭で考える喜びを満足するために眼で見ることを我慢して科学や産業をやっている。インド人もインド文化しかやっていない。インド人は国が豊かになろうが貧乏になろうが頭で考える喜びしかない。インド人はコンピューターでプログラムを組んで喜ぶことができればいいだけである。世界中の人間が自分の文化しかやっていない。中国が豊かになったのはヨーロッパ文化をやったからではない。未来のインドが豊かになってもヨーロッパ文化をやったからではない。中国が豊かになったのは中国文化をやって豊かになったのである。将来インドが豊かになってもインド文化をやって豊かになったのである。中国人は心で思う喜びのために我慢して科学や産業をやったのであって、眼で見る喜びを満足するために科学や産業をやったのではない。インド人は頭で考える喜びのために科学や産業をやったのであって、眼で見る喜びや心で思う喜びのために科学や産業をやったのではない。インド人には頭で考える喜びしかない。だから、インドではコンピューターがいいだけで車もテレビも冷蔵庫もおんぼろなのだ。人間は自分が幸福になるために動くだけである。人間は自分が幸福になることしかしない。だから、日本人も日本文化しかやってはいけない。日本人は実在が好きだから科学や産業をやっただけである。日本人は眼で見る喜びや心で思う喜びや頭で考える喜びのために科学や産業をやったのではない。日本人にとっては自分が実在において幸福になればいいだけであって、国が豊かになろうが貧しくなろうがどうでもいいことである。馬鹿は眼で見ることしかわからないからお金や物が好きだが、日本人は実在が好きなだけであってお金や物はどうでもいい。ヨーロッパ人が眼で見る世界で幸福であればいいように、中国人が心で思う世界で幸福であればいいように、インド人が頭で考える世界で幸福であればいいように、日本人は実在の世界つまり眼と頭の両方で見る世界において幸福であればいいのである。科学はヨーロッパで生まれたが、ヨーロッパ人はぜんぜん科学的な民族ではない。日本人のほうが科学的である。ヨーロッパ人は芸術的な民族にすぎない。ヨーロッパ人は生まれつき眼が発達して頭と心が劣っている。中国人は生まれつき心が発達して眼と頭が劣っている。インド人は生まれつき頭が発達して眼と心が劣っている。日本人は生まれつき眼と頭と心が均等に発達している。人間が幸福になるためには自分の心を満足しないといけない。ヨーロッパ人が眼で見る喜びを満足する国にしているように、中国人が心で思う喜びを満足する国にしているように、インド人が頭で考える喜びを満足する国にしているように、日本人は自分が幸福に暮らすために自分の国を実在の喜びが満足される国にしないといけない。もっとも、千年後か一万年後の遠い将来には、世界中の人間が科学で淘汰[とうた]されて眼と頭と心が均等に発達した日本人(日本人はいまひとつ科学に強くないから、むしろイタリア人やドイツ人やイギリス人)みたいな人間ばかりになるかもしれない。世界中の人種や文化や言語が統一されてひとつになるかもしれない。)
人間にとってはどんなものでも喜びと苦しみの両方がある。苦しみよりも喜びのほうが多ければ人間はそのものを受け入れる。反対に、喜びよりも苦しみのほうが多ければ人間はそのものを受け入れない。科学は“眼で見る喜び”や“心で思う喜び”や“頭で考える喜び”や“実在を理解する喜び”など人間のいろんな喜びを満足してくれるので、今では世界中の国で科学が受け入れられているのである。
昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、昔の人にとっては“苦しみに伴う喜び”は苦しみよりも喜びのほうが多かったのだろう。昔の人にとっては“苦しみに伴う喜び”の喜びの効率は0.5よりも大きかったのだ(喜びの効率=喜び÷(喜び+苦しみ)である)。昔の人にとっては“苦しみに伴う喜び”は苦しみよりも喜びのほうが多かったのだ。(もっとも、政府に殺されたり重傷を負わされたりした人にとっては苦しみのほうが喜びよりも多かったが、一般の国民にとっては喜びのほうが苦しみよりも多かったのだ。政府が事件や事故を起こして国民を殺したり重傷を負わせたりしているのは、国民みんなを脅[おど]して苦しめて“苦しみに伴う喜び”を満足して喜ばせるためなのだ。だから、政府に殺されたり重傷を負わされたりした人は国民みんなを喜ばせるための犠牲者[ぎせいしゃ]なのだ。国民みんなは政府に脅されて喜んで政府を支持しているから、政府に殺されたり重傷を負わされたりした人は国民みんなが怖くて政府に文句が言えなかったのだ。)しかし、今では文明が高くなって物が豊かになっていろんな便利な物が出来て人間がほとんど苦しまずに喜びを得ることができるようになったから、“苦しみに伴う喜び”よりも喜びの効率が高い物がたくさん出来たから、みんなは“物を使う喜び”ばかり満足するようになって“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったのだ。みんなは政府や宗教団体や暴力団が要らなくなってお金をやらなくなって政府や宗教団体や暴力団が滅んでいるのだ。(平成29年5月24日訂正:昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していたが、それは“苦しみに伴う喜び”について苦しみよりも喜びのほうが多かったからではなく、ちょっとでも喜びが欲しかったからである。たとえ“苦しみに伴う喜び”の喜びの効率が0に近くても、喜びに飢えている者にとっては“苦しみに伴う喜び”が欲しいのであり、“苦しみに伴う喜び”を満足するのである。昔の人は喜びが少なくて喜びに飢えていたから、“苦しみに伴う喜び”がほとんど苦しみばかりで喜びがちょっとしかなくても“苦しみに伴う喜び”を満足していたのである。)
政府は国民を苦しませて国民に“苦しみに伴う喜び”を与える団体である。政府は国民に“苦しみに伴う喜び”を与える団体だから、政府は国民を苦しませねばならない。たとえ政府が民主主義をやっていても、政府は総合的には国民を苦しませねばならない。政府は国民に“苦しみを伴わない喜び”よりも“苦しみに伴う喜び”を多く与えねばならない。政府は国民を苦しませずに(厳密にはほとんど苦しみを与えずに)喜ばせるよりも国民を苦しませて喜ばさねばならない。そうでなければ政府ではない。昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していて“苦しみに伴う喜び”が発達して強くなっていたから政府に苦しまされて“苦しみに伴う喜び”を満足してもらって喜んでいたから、総合的に政府に苦しまされるよりも喜ばされるほうが多かったから政府を受け入れていた。反対に、今の人は“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっているから政府に苦しまされてもそのまま苦しいだけだから、総合的に政府に喜ばされるよりも苦しまされるほうが多いから政府を受け入れなくなっている。今の人は政府を受け入れなくなって、自分で政府に苦しまされるのを断って政府に苦しまされないようにしている。今の人は政府の税金の命令を聞かなくなって政府に税金を払わなくなって政府が儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。
[23265] 政府の本業は国民を苦しめることである。 h29.5.9
政府=国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体+身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせる団体である。政府の本業は国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足することであって、身分制や民主主義や国家宗教をやるのはおまけである。つまり、国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体≫身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせる団体である。政府は国民にもっと国民を苦しませる命令を聞かせるために、身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を政府に従わせているにすぎないのである。政府が身分制や民主主義や国家宗教をやるのは国民を従わせるためであり、国民のために“国民を苦しませずに喜ばせること”をするためではない。だから、政府が民主主義で国民のために“国民を苦しませずに喜ばせること”をするのはちょっとだけであり、政府が“国民を苦しませずに喜ばせること”をするよりも国民を苦しめることをするほうがずっと多いのである。(日本人は善いことが好きだが、反対に外人は悪いことが好きである。外国では悪いことをやる者が自分の心に忠実に生きていることになるので、政府も悪いことをするのである。外国では政府は悪いことをするために身分制や民主主義や国家宗教をやって国民を従わせているのである。日本政府は外国の政府を真似[まね]て身分制や民主主義や国家宗教をやって悪いことをしているのだ。)
特に日本では、政府が民主主義をやっても国民が政府に従わないから、政府はどうせやってもしかたがないと思って少しだけ民主主義をやっているだけだから、政府は国民みんなに従って“国民を苦しませずに喜ばせること”をほとんどやっていない。政府は国民を苦しませることをいっぱいやって、“国民を苦しませずに喜ばせること”をほとんどやっていない。
要するに、政府は国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。政府が身分制や民主主義や国家宗教をやって“国民を苦しませずに喜ばせること”をするのはわずかである。昔の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、政府に苦しめられて“苦しみに伴う喜び”を満足して喜んでいたから、総合的には政府に苦しめられるよりも喜ばされるほうが多かったから、政府を受け入れていた。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に苦しめられて喜んでいた。昔の人は政府に苦しめられて喜ぶために政府に税金を払っていた。反対に、今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、政府に苦しめられても“苦しみに伴う喜び”を満足せずそのまま苦しいだけだから、総合的には政府に苦しめられるほうが喜ばされるよりも多いから、政府を受け入れなくなっている。そのため、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に苦しめられなくなっている。今の人は政府の税金の命令を聞くのをやめて政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]しているのである。
[23266] 政府は本当は善いことをする団体ではない。 h29.5.9
政府が本当に善いことをする団体なら、国民と政府の平等性を維持するために、国民からその都度[つど]お金を取ってサービスをするはずである。国民から強制的にお金を取って何かわからないことをやったりするわけがない。
だから、政府は本当は善いことをする団体ではないのである。政府は本当は国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。(平成29年5月14日追加:“苦しみに伴う喜び”というと言葉の上では矛盾があるが、脳の上では矛盾はない。人間の脳はそのように出来ている。人間の脳にはそういう物性がある。つまり、人間の脳には苦しみが与えられるとそれを癒[いや]すために快楽物質が分泌されて喜びを感じるように出来ている。日本テレビの『特命リサーチ200X』にもバイクや登山で事故った人がそういう体験をした例が報告されていた。昔の人は物がなくて物を使って喜びが得られなかったから、昔の人は人間の脳にそういう性質があることを知っていてそれを利用して喜びを得て幸せに暮らしていたのだ。)
政府が国民から税金を取るのは、政府が国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足させて国民を喜ばせるためである。
日本では国民と政府が平等だから、国民は政府に従う必要はない。国民は政府が定めた法律を守ったり政府が定めた政策をやる必要はない。国民が政府が定めた法律を守るか守らないか政府が定めた政策をやるかやらないかは国民一人一人の自由である。国民が政府に税金を払うか払わないかは国民個人の自由である。
昔の国民は物が貧しくて物を使って喜びが得られなかったので政府に苦しませてもらって“苦しみに伴う喜び”を満足して喜んでいた。昔の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足するために政府の言うことを聞いて政府に苦しめられて喜んでいた。政府の法律を守って政府に税金を払って苦しめられて喜んでいた。政府の政策をやって政府に苦しめられて喜んでいた。
今の国民は物が豊かになって物を使ってたくさん喜びを得ていてわざわざ政府に苦しみを味わわされて“苦しみに伴う喜び”を満足しなくてもいい。今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足したくないから政府の言うことを聞かなければいい。政府の法律を守らず政府に税金を払わなければいい。国民が政府に税金を払わないようにして政府を潰[つぶ]せばいい。そうやって国民一人一人が自分が幸福に暮らせる社会を作ればいい。
政府は法律や学校や水道やゴミや役所など特定の業務だけ国民のためになることをやって、それ以外はすべて国民を苦しめることをやっているだけである。法律や学校もほとんどは国民を苦しめることをやっている。馬鹿な国民は「政府が国民みんなの面倒を見て国中の会社に指示を出して国民みんなに“苦しみのない喜び”を与えて国民みんなが幸福に暮らせるようにしている」と思っている。馬鹿の勝手な妄想である。政府は国民の眼の届かないところで国民を苦しめることをやっているだけで、国民に“苦しみのない喜び”を与えて国民を幸福にしたりしていない。国民みんなは政府のことを正しく理解して、早く政府を潰して国民みんなを苦しめる団体をなくして国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。
[23267] 医者は意地糞悪馬鹿[いじくそわるばか]である。☆ h29.5.14
医者は心が汚い。
医者は他人が病気で苦しんでいるのを見るのがうれしいから医者をやっているのだ。
医者は生まれつき意地悪だ。医者は心底[しんそこ]意地悪だ。意地糞悪馬鹿だ。医者は根性が悪いので頭も悪い。医者は心が腐っているので眼で見ることがわかるだけで頭で考えることがわからない。医者は心が病気だ。
私はそんなに意地悪ではないから医者と気が合わないから医者を辞[や]めたのだ。医者は意地糞悪い人間がやる仕事だ。
医者が政府と組んで医療保険をやっているのも、医者が国民が医療保険に高いお金を払って生活に苦しんでいるのを見るのがうれしいからだ。医者が国民が政府に苦しめられているのを見るのがうれしいからだ。
国民は医者をいい待遇にしても幸福にならない。だから、医者に悪い待遇をさせればいい。国民みんなが医療保険をやめて医者を貧乏にして苦しませればいい。
同じように、商人が好きなのはお金だ。商人は他人からお金を取ることが好きなのだ。商人はお金のためなら何でもやるのだ。
商人が政府と組んで消費税をやっているのも、自分が国民みんなから消費税を取って国民みんなが貧乏人になって自分がお金持ちになってみんなに威張[いば]るのがうれしいからだ。商人も善い人間ではない。国民と政府は平等だから、国民が政府が決めた制度をやるかやらないかは国民個人の自由である。国民は自分で消費税をやめて消費税を払うのをやめて商人に付け上がらせないようにしないといけない。
[23268] 学問について h29.5.14
人間の心で実在を理解することはできない。人間が自分の心に乗っかっていては実在はわからない。面白いか面白くないかという目でいくら実在を見ても実在はわからない。
一方、人間の五感と知覚では実在を理解することができる。人間が自分の五感と知覚を働かせれば実在を理解できる。人間が自分の眼で見て自分の頭で考えれば実在を理解できる。しかし、五感や知覚には面白い感覚はない。だから、実在についての知識そのものは面白くない。しかし、面白くなくても正しければいいのだ。
実在そのものは無味乾燥である。実在についての知識は直接に人間の心を満足することではないから面白いことではない。文学のように面白いことではない。しかし、人間は実在を知ることによって知的好奇心(つまり“知る喜び”)や“考える喜び”を満足することができる。それが面白いのだ。実在そのものは人間の心を満足するものではない。だから、人間が自分で自分の心を満足するように実在を利用しなければならないのだ。人間は実在を利用することによって自分の心を満足することができる。それが発明ということだ。それが面白いのだ。
最近の人間はテレビやマンガばっかり見て自分の眼と心ばかり働かせているから、自分の頭を働かせていないから、実在が理解できなくなっているのだ。実在のことがわからなくなっているのだ。例えば、政府のことがわからずに政府のことを誤解して、本当は『政府が国民を苦しめることによって喜ばせる団体である』のに「政府が国民のために善いことをする団体だ」と思って政府の言うことを聞いて自分で自分を苦しめて自分を不幸にして馬鹿げたことをやっているのだ。最近の人はもっと自分でテレビやマンガを見ないようにして、自分の眼と心を働かせないようにしてもっと頭を働かさねばならない。そうすれば、実在のことがわかってくるだろう。人間は自分の眼と頭と心を均等に働かせればいい。人間は自分の大脳の新皮質を働かせて古皮質を働かさなければいい。それ以外のことは自然に任[まか]せて放[ほう]っておけばいい。そうすれば、ひとりでに人間は幸福に暮らせるだろう。
[23269] ドラえもん h29.5.15
『ドラえもん』のマンガは私が小学2年生のころに(1972年ごろに)小学館の学習雑誌に載るようになった。
ドラえもんの“ドラ”とは役に立たないという意味である。“えもん”とは武士の名前に付くから、身分制をやっているという意味である。つまり、“ドラえもん”とは威張[いば]っている役立たずという意味である。
つまり、私が小学2年生のころに政府が国民にとって役に立たなくなったということである。
政府は国民を苦しませるいろんなことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。
昔の政府はドラえもんではなかった。昔の政府は国民の役に立っていた。昔は国民が科学をやっていなかったので文明が遅れていて物が貧しくて物を使う喜びがなかったために国民が自分の“苦しみに伴う喜び”を満足して喜んでいたので、昔の政府は国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせていたので国民の役に立っていたのである。
反対に、今の政府はドラえもんである。今の政府は国民の役に立たなくなっている。今は国民が科学をやるようになって文明が発達して物が豊かになっていろんな物を使って喜ぶようになって国民が自分の“苦しみに伴う喜び”を満足して喜ばなくなっているので、今の政府が国民を苦しませても国民は喜ばないから国民の役に立たなくなっているのである。
今の国民にとっては政府は役立たずである。ドラえもんも自分の名前でそう言っている。今でも政府は国民が苦しむことをたくさんやって国民を苦しませている。日本では国民と政府が平等だから、国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民個人の自由である。国民が政府の法律や政策をやるかやらないかは国民一人一人の自由である。早く国民みんなで政府に税金を払うのをやめて政府を倒して、国民みんなを苦しませる団体をなくして、国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。
[23270] 人間にとってはゲームをするほうが性欲を満足するよりも面白い。 h29.5.15
私はゲームをやるほうが性欲を満足するよりも面白いと思う。実際に、私がパソコンゲーム(エレクトロニックアーツ社のバトルフィールドシリーズ)をするようになってから一回も性欲を満足したことがない。私が仕事や勉強でストレスがたまっていても、パソコンゲームをやって喜びが得られるので性欲を満足する必要がなくなった。
だから、今のみんなにとってもゲームをやるほうが性欲を満足するよりも面白いはずである。人間は喜びが多いことをやって喜びが少ないことをやらない。だから、今の人は性欲を満足せずにゲームをやる。今の人は性欲を満足する暇があったらゲームをやって喜んでいる。それなのに、今の日本の人口が増加しているのが不思議だ。今後は減るのかもしれない。
逆に、昔は今のようにゲームがなかった。だから、昔の人は自分が喜びを得るために性欲を満足していた。たとえ自分が本来性欲を満足するのが嫌でも、喜びを得るためにしかたなく性欲を満足しなければならなかったのである。たとえ自分が性欲を満足したくないと思っていても、喜びが足りないときには喜びを得ることが最優先されて自分の意思に反して性欲を満足してしまうのだ。
昔は今のようにテレビやゲームやパソコンがなくて昔の人は面白くなく暮らしていた。昔の人はストレスがいっぱいたまっていた。昔の人は欲求不満になっていた。だから、昔の人は自分が喜びを得るためにたとえ自分が嫌でも“苦しみに伴う喜び”を満足しなければならなかった。昔の人は自分が喜びを得るために、自分が嫌だと思いながらいやいやしかたなく政府や宗教団体や暴力団に苦しみを与えてもらっていた。
反対に、今は文明が高くなって、今の人は物が豊かで物を使っていろんな喜びが得られる。今の人にとっては性欲や“苦しみに伴う喜び(被虐待欲[ひぎゃくたいよく])”を満足するよりもテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりするほうが面白い。だから、今の人はテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりするばっかりで、セックスやオナニーをやったり政府や宗教団体や暴力団に苦しみを与えてもらったりしなくなったのである。今の人は一日中ゲームばかりして遊んでいて、政府や宗教団体や暴力団にお金をやらなくなって政府や宗教団体や暴力団が儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れているのである。
昔の人はテレビやゲームやパソコンがなかったから、自分が仕事や勉強でストレスがたまって欲求不満になってどうしても喜びが欲しいときにセックスやオナニーをして性欲を満足したり政府や宗教団体や暴力団に苦しめてもらって“苦しみに伴う喜び”を満足したりしなければならなかった。昔の人は喜びに飢えていたのでよくないことをしないといけなかった。自分がやるのが嫌なことをしないといけなかった。みっともないキチガイじみたことをしないといけなかった。今の人はテレビやゲームやパソコンがあるので、もはやそんなことをしなくてもいい。自分が嫌なことをしなくてもいい。今の人はセックスやオナニーや政府や宗教団体や暴力団よりももっと面白いことをして喜びを得ればいいのである。
[23271] 人間は十分な喜びが得られるとそれ以上喜びが欲しくないように出来ている。
h29.5.16
昔の人はテレビやゲームやパソコンなどがなかった。そのために、昔の人は性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得ていた。昔の人は性欲を満足するだけでは喜びが足りないのでいっしょに“苦しみに伴う喜び”も満足して喜びを得ていた。人間が性欲を満足してもそれほど多くの喜びは得られない。だから、昔の人は“苦しみに伴う喜び”を足さなければ生きて行けなかったのである。
今の人はテレビやゲームやパソコンなどがある。そのために、今の人はテレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりして喜びを得ている。人間は十分な喜びが得られるとそれ以上喜びを欲しがらないように出来ている。(そうでなければ、人間は永久に欲求不満で苦しまねばならなくなるが、実際にはそんなことはないから、人間はある程度の喜びが得られるとそれで満足して、それ以上喜びが要らなくなるのである。)今の人はテレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりして十分な喜びが得られるので、それ以上喜びが要らなくなって性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。そればかりか、タバコを吸う喜びやお酒を飲む喜びも要らなくなって満足しなくなっている。だから、今では禁煙や禁酒が一般的になっているのだ。もともとタバコもお酒も身体に悪いからやめたほうがいい。
今の人にとってはテレビを見る喜びだけでは喜びが足りないので性欲を満足しないといけないが、テレビを見る喜びとゲームをやる喜びの両方あれば喜びが十分あるので性欲を満足しなくてもいいのである。そのため、今では性欲を満足する仕事が儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。私はキャンプのときにはラジオを聞くが、ラジオの深夜放送だって昔に比べると性欲の話題が減って上品になっている。それは、今の人が性欲を満足しなくなっているためである。
人間には仕事や勉強をする喜びもある。しかし、仕事や勉強をする喜びは少ないので、ほかのことをやって喜びを足さねばならないのである。昔の人も仕事や勉強の喜びがあったが、それだけでは喜びが足りなかったので性欲や“苦しみに伴う喜び”も満足していたのである。(もっとも、昔の人でも仕事や勉強で十分な喜びが得られる天才的な人は、ベートーベンやモーツアルトのような人は、自分から“苦しみに伴う喜び”を満足する仕事(政府や宗教団体や暴力団などのこと)の世話になるのを断って世話にならなかったのである。)今の人も仕事や勉強の喜びがあるが、それだけでは喜びが足りないので、テレビを見る喜びやゲームをする喜びやパソコンを使う喜びなども満足しているのである。今では文明が進んで今の人にはテレビやゲームやパソコンなどがあるのでテレビやゲームやパソコンなどを使って喜びを得ているのである。人間にとってはテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりするほうが性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足したりするよりも喜びが多く得られるので、今の人はテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりするだけで性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足したりしなくなっているのである。
この段落平成29年5月19日追加:男女がイチャイチャする愛情も大した喜びではない。男女が愛することによって多くの喜びが得られるのなら、とっくの昔に国民みんなが“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって政府が潰[つぶ]れているはずである。しかし、政府はこれまでずっと建っている。男女の愛情だけでは喜びが足りないので、これまで人間はずっと“苦しみに伴う喜び”で補わねばならなかったのである。だから、男女の愛情も実際には大した喜びではないのである。男女の愛情も性欲もテレビやゲームやパソコンの喜びに比べればずっと少ないのである。人間にとってはテレビやゲームやパソコンのほうが愛情や性欲や“苦しみに伴う喜び”などよりもずっと多くの喜びが得られるのである。政府は愛情や性欲のような大したことのない喜びを煽[あお]って(つまりあまり面白くないことをさも面白いことであるかのように宣伝してみんなにやらせて)国民を欲求不満に陥[おちい]らせて復活を狙[ねら]っているのだ。
平成29年5月21日追記:ヨーロッパでは昔からきれいな町にしてきた。それでも、戦後までは国民みんなが政府に苦しめられて喜んでいた。だから、ヨーロッパ人にとっても“眼で見る喜び”も大した喜びではない。日本人にとってはなおさらである。ヨーロッパでは戦後までは国民みんなが戦争をしたり植民地を取ったりしていた。戦後になってテレビやゲームやパソコンが出来てから、国民みんなが戦争や植民地をやめた。国民みんなにとってはテレビやゲームやパソコンをやったりする喜びが戦争や植民地をやる喜びよりも喜びが多いから、国民みんながテレビやゲームやパソコンをやって、戦争や植民地をやめたのである。国民みんなにとってはテレビやゲームやパソコンをやる喜びが政府に苦しめられる喜びよりも喜びが多いから、国民みんなはテレビやゲームやパソコンをやって政府に苦しめられるのをやめたのである。そのため、ヨーロッパでも政府が潰[つぶ]れてなくなりつつある。
この段落平成29年5月17日追加:人間が生きていくためにはある程度以上の喜びが必要だが、ある程度の喜びが得られればそれ以上の喜びが要らなくなる。昔の人は物が貧しくて物を使う喜びがほとんどなかったので、自分が生きていくために必要な喜びを得るためにお酒やタバコをやったり性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足しなければならなかった。今の人は物が豊かで物を使ってたくさん喜びが得られるので、それ以上喜びが要らなくなってお酒やタバコをやめたり性欲を満足しなくなったり“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。人間にとってはお酒やタバコや性欲や“苦しみに伴う喜び”よりもテレビやゲームやパソコンなどの物を使う喜びのほうがより多くの喜びが得られるので、人間は新しい喜びを取り入れて古い喜びを捨てているのである。
人間は自分が幸福になることをやって不幸になることをしなければいい。日本では人間はみな平等であるから、国民は店や会社の命令を聞かず自分で自由に自分の心を満足すればいい。国民は自分がテレビを見たければテレビを買って見ればよく、ゲームで遊びたければゲームを買って遊べばよく、パソコンをやりたければパソコンを買ってパソコンをやればいい。国民は自分が性欲を満足したくなければ性欲を満足する仕事の世話にならなければいい。国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足したくなれば“苦しみに伴う喜び”を満足する仕事の世話にならなければいい。政府や宗教団体や暴力団と縁[えん]を切って命令を聞くのをやめてお金をやらなければいい。
もっとも、今の人の多くが政府の世話になっているのはそういう理由ではない。今の人はとっくの昔に“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっているから、今の人は自分の“苦しみに伴う喜び”を満足するために政府の言うことを聞いているのではない。今の人は政府のことがわかっていないから「政府が国民のために善いことをする団体だ」と誤解しているから政府の言うことを聞いているのである。今の人はいくら自分が面白いからといってテレビやゲームやパソコンばかりやらずに、たまには現実のことを勉強して知らねばならない。そうしたほうが、もっと幸福に暮らすことができるだろう。もっと多くの喜びを得ながら暮らすことができるだろう。
私は今から3〜4年前に自分が政府について考えるためにゲームをやめた。人間にとっては“考える喜び”のほうが“ゲームをやる喜び”よりも強い。私は毎日政府について考えているうちに政府について考えることによって多くの喜びが得られるようになったからゲームのほうがつまらなくなったからゲームをやめたのだ。私が政府について考えているときも私は性欲を満足することは一度もなかった。人間にとっては“考える喜び”が最大の喜びである。人間は考えることによって最も多くの喜びが得られる。だから、考えることをゲームをやることよりも優先したほうがいい。今の私は政府のことがわかったから政府について考え進めることが難しくなって“考える喜び”を満足するのが難しくなったからゲームをやって多少の喜びを得て暇つぶしをしているのだ。
暴力団はあからさまに国民を苦しめることをやっているが、宗教団体は政府と同じように民主主義をやって国民みんなを崇[あが]めて国民みんなに従って国民みんなのために善いことをしているふりをしている。しかし、宗教団体も政府と同じように実際には国民を苦しめることばかりやっている。宗教団体は国民にまちがった道徳や哲学を広めて国民を苦しめている。そもそも宗教団体は国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体であって、国民に正しい道徳や哲学を教えるところではない。国民は宗教団体を誤解して宗教団体の世話になってはいけない。宗教団体は政府や暴力団と同じように国民を苦しめることによって喜ばせる団体だから、“苦しみに伴う喜び”を満足しない者が宗教団体の世話になっても苦しめられて不幸になるだけで幸福にはならない。人間は自分が考えたりテレビやゲームやパソコンをやったりして喜びを得るようにして宗教団体の世話にならないようにしないといけない。政府や暴力団の世話にならないようにしないといけない。人間はむやみに禁欲して喜びに飢えて自分が喜びを得るために性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足しないといけなくなって風俗や宗教団体や政府や暴力団の世話になってはいけない。人間は素直[すなお]に考えたりテレビやゲームやパソコンをやったりして喜ばなければならない。人間は性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足するようになってはいけない。今の政府は昔のように国民みんなが政府の世話になるようにするために自分が国民を苦しめることをやっているついでに国民の面白い物をなくして国民の喜びを奪う政策をやっているから国民は政府の言うことを聞いてはいけない。
暴力団はあからさまに国民を苦しめることをやっている。昔は国民みんなが物が貧しくて物を使う喜びがなくて“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、暴力団が手当たりしだいに国民に悪いことをして国民を苦しめてもよかった。国民みんなが暴力団に悪いことをされて苦しめられて喜んでいたので、誰もおとなしくして暴力団に文句を言わなかった。しかし、今は国民みんなが物が豊かになって物を使って喜ぶようになって“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、暴力団が国民に悪いことをして国民を苦しめることができなくなった。国民みんなが暴力団に悪いことをされると不機嫌[ふきげん]になって暴力団に怒るようになったので、暴力団は国民に悪いことができなくなったのである。暴力団は儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れているのだ。
この段落平成27年5月17日追加:暴力団はテレビドラマでやっているような犯罪組織ではない。暴力団が犯罪組織だとすれば、国民みんなの平和な暮らしを脅[おびや]かすから国民みんなでとっくの昔に潰[つぶ]してなくなっているはずである。それなのに、暴力団は建っている。今でも建っている。だから、暴力団は犯罪組織ではないのである。暴力団は国民に悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせてくれる善い団体なのである。だから、昔は暴力団が国民みんなの人気があってヤクザ映画が作られたりしていたのだ。例えば、暴力団が麻薬を売ったり臓器売買をしたりするのも国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせるためであって、暴力団が悪いことをして儲[もう]けるためではない。刑事ドラマは架空のフィクションなのである。昔は国民みんながテレビやゲームやパソコンを持っていなくてテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりして喜びが得られなかったから、自分が生きていくために暴力団に悪いことをしてもらって苦しめてもらって“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、暴力団が国民みんなを脅[おど]してお金を取って儲かっていた。しかし、今は国民みんながテレビやゲームやパソコンを持っていてテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりしてたくさん喜びを得ているから十分な喜びがあるから、自分が生きていくために暴力団に悪いことをして苦しめてもらう必要がなくなったから暴力団と縁を切って暴力団の世話にならないようにして暮らしている。そのため、暴力団は国民を脅してお金を取れなくなって儲からなくなって潰れている。それと同じように、今は国民みんなが政府に悪いことをしてもらって苦しめてもらわなくてもよくなったから、国民みんなが政府と縁を切って政府の世話にならなくなって、政府は国民から税金を取れなくなって潰れている。例えば、政府は自動車税という名目で国民から税金を取っている。暴力団が見まわり代という名目で国民からお金を取っているのと同じである。だから、国民は政府に自動車税を払わなくていいのである。道路の土地は土地の所有者が善意で国民みんなのために無料で使ってもらっている。道路の工事にお金がかかるだけである。道路の工事費は道路公団や水道会社やガス会社や電気会社などが出してくれている。政府の自動車税は政府が国民を苦しめるために取っているだけである。だから、国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していなければ政府に自動車税を払わなければいい。そのほうが筋[すじ]が通っていて正義だ。
今ではみんながバイクや自動車を持っている。しかし、バイクや自動車はあまり面白い物ではない。人間にとってバイクや自動車は移動手段にすぎない。景色のいいところや面白い人がたくさん住んでいるところに行けば幸せになるが、景色の悪いところや面白くない人がたくさん住んでいるところに行くと不幸になる。行き場所に注意しないといけない。
[23272] 政府は国民が自分の“苦しみに伴う喜び”を満足するためにある娯楽施設である。
h29.5.18
民主主義は政府が国民を従わせる方法のひとつである。心主義の人は、つまり心だけが発達して眼や頭が劣っている人は、多数決に従うので、国民みんなに従おうとする。そこで、政府は自分が国民みんなに従っているふりをして心主義の国民を従わせているのである。
民主主義は国家宗教や身分制と同じように政府が国民を従わせる方法にすぎない。五感主義の人は、つまり眼だけが発達して頭や心が劣っている人は、頭を使って考えるのが嫌いなので、自分がわからないことがあったときすぐにわからないことの近くにいた人を神にして神のせいにしようとする。そこで、政府は自分が神に従っているふりをして五感主義の人を従わせるのである。知覚主義の人は、つまり頭だけが発達して眼や心が劣っている人は、眼で見るのが嫌いなので、眼で見る世界をほったらかしにして昔のままにしておこうとする。古臭いことに従おうとする。そこで、政府は自分が古臭いことに従っているふりをして、政府(つまり“苦しみに伴う喜び”を満足する団体)自身が古臭い団体だから、政府は自分自身に従って政府が国民を自分の好き放題にすることによって国民を自分勝手に殺したり痛めつけたりすることによって、知覚主義の人を従わせているのである。
中国人は心主義だから、中国では政府が民主主義をやって国民を従わせている。ヨーロッパ人は五感主義だから、ヨーロッパでは政府が国家宗教をやって国民を従わせている。インド人は知覚主義だから、インドでは政府が身分制をやって国民を従わせている。
しかし、日本人は心主義でも五感主義でも知覚主義でもない。日本人は中国人でもヨーロッパ人でもインド人でもない。日本人は眼と頭と心が均等に発達しているので、日本では政府が民主主義をやっても国家宗教をやっても身分制をやっても国民が政府に従わないのである。
そもそも政府は民主主義をやる団体でも、国家宗教をやる団体でも、身分制をやる団体でもない。政府は国民に悪いことをして国民を苦しめることによって国民を喜ばせる団体である。人間の脳には苦しみを感じるとそれを癒[いや]すために麻薬に似た物質が分泌されて快感を感じる仕組みがある。つまり、人間には“苦しみに伴う喜び”がある。政府は国民にいろんな悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。外国の政府は民主主義や国家宗教や身分制をやって国民を従わせて国民に多めに“国民を苦しめる命令”を出して国民から多めに税金を取って儲[もう]けていたのである。日本人は善いことが好きだが、反対に外人は悪いことが好きなので、外国では国民みんなが政府が悪いことをするのを許しているので、政府が悪いことをやって国民を従わせて儲けていたのである。
昔は国民みんなが科学や産業をやらなかったので国の文明が遅れていて国民みんなが物が貧しくて国民みんなが物を使って喜びが得られなくて喜びに飢えていたから、国民みんなはお酒を飲んだりタバコを吸ったり遊郭[ゆうかく]に通って性欲を満足したり政府や暴力団や宗教団体に苦しめてもらって政府や暴力団や宗教団体の言うことを聞いて“苦しみに伴う喜び”を満足したりして幸福に暮らしていた。昔は文明が低くてそんなざっとした喜びしかなかったから、昔の人はしかたなくそれらを満足していたのである。そのため、昔は酒屋やタバコ屋や遊郭や政府や暴力団や宗教団体がすごく儲[もう]かっていた。
しかし、今は国民みんなが科学や産業をやるようになったので国の文明が進んでいて国民みんなが物が豊かになって国民みんなが物を使ってたくさん喜びを得て喜びが十分にあるから、国民みんながテレビを見たりゲームをやったりパソコンをやったりして生きていくために十分な喜びが得られるから、国民みんなはお酒やタバコをやめたり遊郭に通うのをやめて性欲を満足するのをやめたり政府や暴力団や宗教団体に苦しめられるのを断って政府や暴力団や宗教団体の言うことを聞かないようにして“苦しみに伴う喜び”を満足するのをやめている。そのため、今では酒屋やタバコ屋や遊郭や政府や暴力団や宗教団体が儲からなくなって潰[つぶ]れてなくなりつつある。
[23273] どうしてテレビ局は政府に従っているか? h29.5.18
芸能人は心主義である。芸能人は眼や頭が劣っていて心だけが発達しているから心主義である。芸能人は面白いことのために生きているから心主義である。
心主義の人は民主主義をやる団体に従う。今の政府は民主主義をやっている。だから、芸能人は政府に従うのである。芸能人は政府の言うことを聞いて何でもやるのである。
テレビ局全体が心主義である。テレビ局は面白い番組を作って流して人気を得ればいいだけだから、心主義である。テレビ局は心主義の人間で固めている。心主義の人は政府に従う。だから、テレビ局は政府に従うのである。
政府は国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体なので、政府は国民を苦しませるためにテレビ局に命令してテレビで政府について本当のことを言わないようにして国民に政府の正体を知らせないようにして国民を政府に苦しめてもらうようにし向けているのである。政府はテレビ局に命令して政府の正体を放送しないようにさせている。だから、テレビ局はけっして『政府が国民にいろんな悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である』ことを言わないのである。正しいことを言わないことも嘘[うそ]をつくことである。政府はテレビ局に命令して情報操作をさせて嘘の情報ばかり流させて国民に『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわからないようにしている。そのために、国民の多くは政府の正体を知らずに、テレビで政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民のために善いことをする団体だ」と思って政府に善いことをしてもらうために政府の言うことを聞いているのである。政府が国民の多くに命令して税金を取って儲[もう]かっているのである。国民の多くは政府の言うことを聞いて自分が政府に幸福にしてもらっているつもりになっているだけで、本当は政府に苦しめられて不幸になっているのである。
昔は国民みんながテレビやゲームばっかりやっていて心主義だったから民主主義をやっている政府に従っていた。
しかし、今は国民みんながテレビやゲームをやめて“実在の喜び”に移行している。今の国民みんなは登山やキャンプやサイクリングをやっている。今の国民みんなは実在的なドキュメンタリー番組を見たり実在的なシミュレーションゲーム(例、バトルフィールドシリーズ)をやったりしている。今の国民みんなは心主義をやめて実在主義になりつつある。日本人は熱しやすく冷めやすいから、いっときはテレビやゲームが珍しくてテレビやゲームばっかりやっていたが今では本来の自分の心を取り戻してテレビやゲームをほどほどにやるようにしておもに実在の中で楽しむようになっている。
実在主義の人は政府に従わない。だから、今の日本では国民みんなが政府に従わなくなりつつある。国民が政府と平等になっている。国民が実在について興味を持って政府について考えて『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことを知るようになっている。国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していないから政府に苦しめられるのを断っている。国民は政府の言うことを聞かなくなっている。国民は政府に税金を払うのをやめて政府を潰[つぶ]している。
[23274] 今の人は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していないために政府のことを誤解している。
h29.5.19
人間は自分が生きていくためにある程度以上の喜びが必要だが、ある程度の喜びが得られるとそれ以上の喜びが要らなくなる。
人間は自分が知覚に持っている概念を組み合わせて対象を理解する。だから、人間は自分の知覚に対象を理解するために必要な概念がなければ対象を理解することができない。
昔の人は文明が低くて物が貧しくて物を使って喜びが得られなかったので、喜びが足りなかったので自分が生きていくために“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得なければならなかった。昔の人は自分の“苦しみに伴う喜び”を満足していたから『政府が国民に悪いことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわかっていた。『政府が民主主義や国家宗教や身分制をやるのは、政府が国民を従わせるためである』ことを知っていた。『日本人は外人と違って政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっても政府に従わないので、国民は政府と平等にすればいい』ことを知っていた。昔の人は自分でちょうどいい程度に政府の“国民を苦しませる命令”を聞いて自分の“苦しみに伴う喜び”を適切に満足して幸福に暮らしていた。
反対に、今の人は文明が高くなって物が豊かになって物を使ってたくさん喜びが得られるので、喜びが十分あるのでそれ以上喜びが要らなくなって“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分の“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、人間に“苦しみに伴う喜び”があることを忘れてしまって政府のことがわからなくなっている。テレビや新聞で政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民みんなのために善いことをする団体だ」と思って、政府に善いことをしてもらうために政府の言うことを聞いて政府に税金を払っている。日本人は甘えの気持ちが強いので、政府が善い団体だと思って政府に甘えて政府の言いなりになっているのである。今の人は頭の中で自分が政府に善いことをしてもらって幸福になっているつもりでいるだけで、実際には政府に悪いことをされて苦しまされて不幸になっているのである。
今の人は政府のことがわからずにまちがったことをやっている。今の人は政府のことを誤解しているために自分で自分を不幸にしている。今の人は早く政府のことを正しく理解しないといけない。政府は国民に悪いことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足するために“国民を苦しませる命令”を出す。今の人は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していなければ政府の言うことを聞かなければいい。この世に政府があるかぎり誰かが政府の言うことを聞いて自分が不幸にされる。だから、今の人は自分で政府に税金を払わないようにして早く政府を潰[つぶ]さねばならない。(私も今の人と同じように“苦しみに伴う喜び”を満足していない。だから、私も最初は政府のことが理解できなかった。私は10年ぐらい時間をかけて政府について考えて頭の中で“苦しみに伴う喜び”という概念を考え出して政府のことを理解したのである。科学者が“加速度”や“力”という概念を頭で考え出して物体の運動を理解したのと同じことである。)
日本人は実在主義である。だから、日本人は実在において正しいことをやらねばならない。日本人は正しいことを理解して正しいことをしないといけない。政府は民主主義で国民のために善いことをする団体ではなく、政府は国民にいろんな悪いことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。政府は国民を喜ばせるために国民を苦しませることをやる。政府は国民を苦しませて喜ばせるために“国民を苦しませる命令”を出す。だから、国民は自分が“苦しみに伴う喜び”が要らなければ、政府の“国民を苦しませる命令”を聞かなければいい。国民は自分が“苦しみに伴う喜び”が要らなければ、政府の法律を守らず政府の政策をやらず政府の教育を受けないようにすればいい。政府に税金や自動車税を払わなければいい。国民は自分で政府に苦しまされないようにして楽しく暮らさなければならない。
日本人は実在主義である。日本人は民主主義も国家宗教も身分制もやらない。日本人は実在に従うだけで、国民みんなにも神にも古臭い物にも従わない。日本人は実在において正しいことをやるだけで、国民みんなに合わせたことをやらない。神に従うことをやらない。古臭いことをやらない。(もっとも、日本人は実在において正しいことなら国民みんなと同じことをやるし神に従うことをやるし古臭いことでもやる。)日本のドン(首領のこと)は実在において正しい者のことである。PUBG[パブジー]のドン勝とは最後に正しい者が勝つことである。日本では法律は国民みんなで決めることではない。日本では法律は実在が決めることである。日本では法律は“実在において国民みんなが平和に安全に暮らすために守らなければならない決まり”である。日本では法律が正しいかまちがっているかを決めるのは国民みんなではなく実在である。日本では国民が自分で「法律が国民みんなが平和に安全に暮らすために役に立つ」と考えられるときだけ法律を守るのである。国民が実際に法律をやってみてうまくいかなければ法律を修正する。日本では昔から科学的に法律を決めるのである。これからもそうやって日本人は法律を決めて法律を守って暮らしていけばいいのである。
日本人は実在において正しいことが好きだから法律をよく守る。しかし、外人は実在においてまちがったことが好きだから法律を守らない。外国にも法律(つまり国民みんなが平和に暮らすための決まり)そのものはあるが、みんなが法律を守らない。外国ではみんなが法律を守らないことが国の決まりになっているのである。
[23275] どうして政府は民主主義や国家宗教や身分制をやっているのか? h29.5.20
政府は国民に悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民を苦しめるために国民が苦しむ法律や政策や制度を定めて国民に国民を苦しめる命令を出している。国民が政府に従うと国民が余計に政府の命令を聞いて国民が苦しむことになるから、政府は国民を苦しめるために国民を政府に従わせるために民主主義や国家宗教や身分制をやっているのである。政府は国民にひとつでも多く国民を苦しめる命令を聞かせるために、一生懸命に民主主義や国家宗教や身分制をやっているのである。つまり、政府は国民に“国民を苦しめる命令”を売る会社である。政府が民主主義や国家宗教や身分制をやるのは政府のセールス(販促活動)なのである。政府が民主主義や国家宗教や身分制をやるのは、政府が国民に政府の命令を聞かせるための工夫[くふう]である。テレビコマーシャルが国民に商品を買わせるための工夫であるのと同じである。
しかし、政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのを見て政府に従うのは心主義や五感主義や知覚主義の人間だけである。日本人は生まれつき眼と頭と心が均等に発達して実在主義だから、政府がいくら民主主義や国家宗教や身分制をやっても政府に従わない。日本人には政府の販促活動は効かない。
もっとも、日本人の中にも眼や頭や心が不均等に発達しているカタワ(非国民)がいるから、政府はカタワに政府の命令を聞かせるために民主主義や国家宗教や身分制をやっているのだろう。実際に政府が民主主義や国家宗教や身分制をやると国民が政府の命令をよく聞くから、政府は民主主義や国家宗教や身分制をやっているのだろう。実際にテレビコマーシャルをやると商品がよく売れるからコマーシャルをやっているのと同じである。
しかし、本来日本人には政府の民主主義や国家宗教や身分制は効かない。日本人は政府には従わない。日本では国民と政府が平等である。国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民一人一人の自由である。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。昔の国民は物がなくて物を使って喜びが得られなかったから、“苦しみに伴う喜び”を満足するために自分が好きなだけ政府の国民を苦しめる命令を聞いて政府に適度に苦しめてもらって喜んでいた。政府は国民を苦しめるために税金の命令を出しているから、昔の国民は政府に税金をよく払って政府が儲[もう]かっていた。反対に、今の国民は物が豊かになって物を使ってたくさん喜びが得られるから、“苦しみに伴う喜び”を満足する必要がなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府に苦しめられなくなっている。政府の税金の命令を聞かなくなって政府に税金を払わなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
この段落平成29年5月21日追加:政府がセールスでやっていることと政府の仕事が違うから、国民は政府がセールスでやっていることを政府の仕事だと思って政府のことを誤解しているのだ。つまり、政府がセールスで民主主義をやっているから国民はてっきり「政府が民主主義をやって国民のために善いことをする団体だ」と思っているが、本当は『政府は国民が苦しむことをして国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体』なのである。スイカ売りのスイカが見本だけ甘くて売り物がまずいのと同じことである。
いくら国民が政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのを見て政府に従いたくなっても、肝心[かんじん]の政府の売り物は“苦しみに伴う喜び”である。政府の商品は“国民の苦しみ”である。今の国民はテレビやゲームやパソコンなどをやって十分喜びがあるから、喜びが間に合っているから、もうこれ以上喜びは要らない。今の国民は“苦しみに伴う喜び”なんか要らない。そんなゲテモノの喜びは要らない。国民は自分が政府の商品を買いたくなければ政府に断って買わなければいい。国民は政府が定めた法律や政策や制度をやらなければいい。国民は政府の税金の命令を聞かず政府に税金を払わなければいい。今の国民にとっては政府は要らないから、国民みんなで早く政府を潰[つぶ]して政府をなくせばいい。
昔の国民は政府が好きだったが、今の国民は政府が嫌いである。それは、人間の心から“苦しみに伴う喜び”がなくなっていったからである。昔の国民は政府に喜ばせてもらっていたから政府が好きだった。今の国民は政府に苦しまされているだけだから政府が嫌いである。人間は自分が面白いことをやって面白くないことをやらなければいい。昔の国民は政府に苦しめられるのが好きだったから政府の言うことを聞いていた。今の国民は政府に苦しめられるのが嫌だから政府の言うことを聞かなければいい。そうやって、国民は自分で自分の心を満足して幸福に暮らせばいいのである。
昔の人は喜びが足りなかったのでやむを得ず“苦しみに伴う喜び”を満足していた。昔の人は政府や暴力団や宗教団体の言うことを聞いて苦しめられて喜びを得ていた。それは人類にとっての黒歴史である。昔の人は“苦しみに伴う喜び”が人間が恥ずべき悪い喜びだと思いながら欲求不満に駆られていやいやしかたなく“苦しみに伴う喜び”を満足していた。昔の人にとっては“苦しみに伴う喜び”は必要悪だったのである。今の人は物が豊かになって物を使って喜びを得たり余暇が増えて自分で考えたり運動したりできるので“苦しみに伴う喜び”を満足するのをやめている。今の人は考える喜びや運動する喜びや物を使う喜び(テレビを見たりゲームをやったりパソコンを使ったりする喜び)を満足して政府や暴力団や宗教団体の言うことを聞かないようにして幸福に暮らしている。人類はようやくみっともない喜びを満足して暮らさなくてもよくなったのである。テレビを見たりゲームをやったりする喜びは考える喜びや運動する喜びに比べればくだらない。しかし、くだらない喜びも大事である。今の人間は自分が性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足して落ちぶれないために多少くだらなくてもテレビを見たりゲームをやったりして喜べばいいのだ。
今では文明が高くなっていろんな種類の喜びがあるから、今の人にとっては喜びの選択肢が増えたから、今の人は自分にとってなるべく喜びが多いことをやって喜びが少ないことをやめたのである。今の人にとっては考えたり運動したり物を使ったりして喜ぶほうが性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足したりするよりも楽しいから、今の人は考えたり運動したりテレビを見たりゲームで遊んだりパソコンをやったりして喜んで、セックスやオナニーをしたり政府や暴力団や宗教団体に苦しめられたりするのをやめたのである。(平成29年5月25日追加:物を使う喜びはテレビやゲームやパソコンだけではない。食べるのが好きな人にとっては冷蔵庫や電子レンジはたくさん喜びを与えてくれる。運転が好きな人にとっては自動車やバイクが多くの喜びを与えてくれる。エアコンは夏は涼しく冬は暖かくしてくれてみんなが年中快適にすごせるのでみんなに多くの喜びを与えてくれる。今ではいろんな道具があって、今の人はいろんな道具を使ってたくさんの喜びを得て暮らすことができるのだ。)
[23276] 今の人は人間に“苦しみに伴う喜び”があることを知っていなければならない。
h29.5.21
外人は政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのを見て政府に従うが、日本人は政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのを見ても政府に従わない。それは、外人が生まれつき眼と頭と心が不均等に発達しているのに対し、日本人が生まれつき眼と頭と心が均等に発達しているからである。
それなのに、昔の日本人が政府の“国民を苦しめる命令”を聞いていたのは、昔の日本人が“苦しみに伴う喜び”が欲しかったからである。政府は国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。政治とはその字面[じづら]とは裏腹に国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を幸福にして国を治めることである。昔の日本人は物が貧しくて物を使う喜びがなかったので、自分が少しでも多くの喜びを得るためにほんのちょっとしか喜びのない“苦しみに伴う喜び”を満足しなければならなかったのである。昔の日本人は自分が“苦しみに伴う喜び”を得るために政府や宗教団体や暴力団の“国民を苦しませる命令”を聞いて政府や宗教団体や暴力団に苦しまされて喜んでいたのである。(人間には“苦しみに伴う喜び”がある。“苦しみに伴う喜び”は言葉の上では矛盾があるが、実在の上では矛盾がない。人間の脳には苦しみを感じるとそれを癒[いや]すために快楽物質が分泌されて喜びを感じる仕組みがある。つまり、人間の脳には苦しみによって喜びを感じる機構(メカニズム)が備わっている。人間が過度の苦しみを感じると生きていくうえで支障となるので、苦しみを減らすために苦しみによって喜びを感じる機構が備わっているのである。だから、矛盾がないのである。昔の人は喜びを得る手段があまりなかったので、人間の脳に備わっている“苦しみによって喜びを感じるメカニズム”を利用して政府に苦しめてもらってわずかな喜びを得ていたのである。)
しかし、今の日本人は物が豊かになって物を使ってたんさん喜びを得ているので“苦しみに伴う喜び”が要らなくなって“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。今の日本人は“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっている。そのため、今の日本人は人間に“苦しみに伴う喜び”があることを忘れてしまって政府のことがわからなくなっている。政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民のために善いことをする団体だ」と思って、政府に善いことをしてもらって自分が幸福になるために政府の言うことを聞いている。しかし、実際には政府は国民に“国民を苦しめる命令”を出しているから、今の日本人は政府の命令を聞いて政府に苦しめられて不幸にされているのである。今の人が政府のことがわからなくなって政府を誤解していることが、今の人が“苦しみに伴う喜び”を満足していないことの何よりの証拠である。今の人はいろんな物を使ってたくさん喜びが得られるので“苦しみに伴う喜び”を満足する必要がなくなって“苦しみに伴う喜び”を満足せずに生きているのである。それなのに、多くの人は自分で自分のことを知らないから、『自分が“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなったために政府のことがわからなくなった』ことがわからないのである。多くの人はいつの間にかひとりでに「政府が善いことをする団体だ」と誤解して政府に善いことをしてもらうために政府の言うことを聞いているのである。
人間には“苦しみに伴う喜び”がある。そのことを忘れてはいけない。人間に盲腸があることを忘れてはいけないのと同じである。ただし、“苦しみに伴う喜び”は面白くない喜びである。政府は国民にいろんな悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。政府は国民を苦しめるために国民を苦しめる法律や政策や制度を定めて国民に“国民を苦しめる命令”を出す。政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのは、政府が国民を従わせて国民に自分の命令を聞かせるためである。本来、民主主義とは心主義の人が生まれつき国民みんなに従う習性があることを利用して政府が国民みんなに従っているふりをして心主義の国民を従わせることである。民主主義は政府が国民みんなに従って国民みんなのために善いことをすることではない。今の国民の多くが民主主義の意味を誤解しているのである。日本政府は昔からちゃんと民主主義をやっているのである。
日本人は政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっても政府に従わない。日本では政府と国民は平等である。国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民一人一人の自由である。今の日本人は物が豊かになって物を使ってたくさん喜びが得られるので“苦しみに伴う喜び”が要らない。だから、今の日本人は自分で政府の“国民を苦しめる命令”を聞かなければいい。自分で政府の国民を苦しめる法律や政策や制度をやらなければいい。政府は国民を苦しめるために国民に税金の命令を出して国民から税金を取っているから、国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していなければ政府に税金を払わなければいい。今の日本人は“苦しみに伴う喜び”が要らないから政府が要らない。だから、国民みんなで早く政府に税金を払うのをやめて政府をなくさねばならない。
政府は民主主義で善い仕事をしている。法律や学校や水道やゴミや役所などの仕事をしている。政府が潰[つぶ]れたら、どこかの民間会社が政府に代わって善い仕事をやる。政府がやれることなら誰でもやれる。だから、国民は心配せずに政府を潰せばいいのである。
政府は国民にいろんな悪いことをして国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。政府は国民を苦しめるために国民に“国民を苦しめる命令”を出している。政府は民主主義や国家宗教や身分制をやって国民を政府に従う気にさせて国民に“国民を苦しめる命令”を聞く気にさせようとしている。しかし、日本人には政府の民主主義や国家宗教や身分制は効かない。日本では国民は政府に従わない。国民は政府と平等である。国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民一人一人の自由である。だから、国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足したければ政府の言うことを聞き、自分が“苦しみに伴う喜び”を満足したくなければ政府の言うことを聞かなければいい。国民の中には文明が嫌いでテレビやゲームやパソコンをやらなくて喜びが足りなくて性欲や“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得なければならない者がいるから、政府はそういう者のためにあるのである。国民は自分が文明が好きでテレビやゲームやパソコンをやって喜びが十分あって“苦しみに伴う喜び”が要らなければ自分で政府の命令を聞くのを断って政府に苦しめられないようにして暮らせばいいのである。自分で税金の振り込み用紙を引き破って捨てたり、会社の事務員に自分が税金を払うつもりがないことを伝えて税金を払わないようにすればいいのである。
今の人と昔の人では生活が違うから満足している喜びが違う。今の人と昔の人では知識も世界観も違う。そのために、今の人にとっては昔の物が何のためにあるかがわからなくなっていることがある。そこが考古学の難しいところである。例えば、今の人にとってはエジプトのピラミッドが何のために建てられたのかがわからない。そのために、今の人は昔の人がピラミッドを建てた理由をいろいろ誤解している。政府についても同じことである。昔の人は今の人が満足していない“苦しみに伴う喜び”を満足していた。政府は国民の“苦しみに伴う喜び”を満足するためにある団体である。今の人は政府の意義を正しく理解して、自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していないなら政府の世話にならないようにしないといけない。
[23277] 奴隷[どれい]とは何か? h29.5,24
奴隷とは“苦しみに伴う喜び”(被虐待欲[ひぎゃくたいよく])を生きがいにしている人間のことである。ニーチェが言う奴隷根性とは被虐待欲のことである。奴隷にとっては自分が鞭[むち]で打たれて苦しめられることが最高の喜びなのである。奴隷とはそういう気持ちの悪い人間のことなのである。奴隷とは変態のことなのである。反対に、貴族とは“苦しみに伴う喜び”を生きがいにしない者のことである。貴族とは“苦しみに伴う喜び”が最大の喜びではない者である。貴族はいい暮らしをしていていろんな喜びがあったので“苦しみに伴う喜び”が最大の喜びではなかったのである。
大昔の人は“苦しみに伴う喜び”を生きがいにしていた。大昔はまだ文明が遅れていて大昔の人は食べていくのがやっとだったからほとんど喜びがなかったから大昔の人にとっては“苦しみに伴う喜び”が最大の喜びだった。モーゼが神だったころには、世界中のほとんどの人にとって“苦しみに伴う喜び”が一番の喜びだった。少数の貴族が“苦しみに伴う喜び”以外の喜びを最大の喜びとしていただけだった。
しかし、キリストが生まれたころに古代科学が芽生[めば]えて文明がかなり進歩した。そのために、みんなにとって“苦しみに伴う喜び”が他の喜びに押しやられて最低の喜びになった。もっとも、昔の人にとっても喜びが少なくて他の喜びだけでは喜びが足りなかったのでやむを得ず“苦しみに伴う喜び”を満足していた。昔の人はいやいやしかたなく自分から政府や宗教団体や暴力団に虐待されて“苦しみに伴う喜び”を満足して幸せに生きていた。(モーゼのころにはみんなが奴隷だったのでみんなが奴隷として“苦しみに伴う喜び”を満足して生きていた。そんな時代にモーゼが奴隷解放なんかするわけがない。モーゼがみんなに“苦しみに伴う喜び”を満足しない生き方を教えるわけがない。そんなことをしたらモーゼがみんなに袋叩[ふくろだた]きにされるだろう。それに、宗教団体や政治団体や暴力団にとってはみんなが“苦しみに伴う喜び”を満足してくれないと商売上がったりだから奴隷解放なんかするわけがない。だから、モーゼもキリストのように奴隷道徳を説いたのだろう。みんなに自分の“苦しみに伴う喜び”を満足して幸福に生きることを勧[すす]めたに違いない。キリストが生まれたころにそれまでの聖書が旧約聖書とされて、内容が大幅に書き変えられてモーゼが奴隷を解放することになったのだろう。そして、キリストはみんなに「右の頬[ほほ]を殴[なぐ]られたら左の頬を差し出せ」と説いてみんなにちょっとだけ“苦しみに伴う喜び”を満足するように教えたのだ。)
たしかに、キリストが生まれたころにみんなは奴隷ではなくなった。みんなにとっては“苦しみに伴う喜び”が最大の喜びではなくなった。しかし、みんなはまだ十分な喜びが得られなかったので“苦しみに伴う喜び”を満足して生きていかねばならなかったのである。
現代になるとさらに文明が発達してみんなにとっていろんな喜びが出来た。そのために、今の人にとっては喜びがたくさんあって物を使って十分な喜びが得られるので“苦しみに伴う喜び”を満足しなくてもよくなったのである。今の人は自分で政府や宗教団体や暴力団に虐待されるのを断って政府や宗教団体や暴力団に虐待されないようにして幸せに生きているのである。
[23278] ゲームの喜びとは何か? h29.5,24
私はこのごろ毎日ゲームをやっている。一日に6時間ぐらいゲームをやっている。パソコンでバトルフィールド2をやっている。これは戦争ゲームである。バトルフィールド2はそれ以後のバトルフィールド3や4や1に比べて絵が陽気なので私は好きだ(バトルフィールド1はさすがに絵がきれいだが)。
だから、私にとってゲームの喜びとは戦争をする喜びのことである。ゲームは現実の喜びを満足している。ゲームは現実の喜びを架空の世界で満足している。ゲームの喜びは現実の喜びにほかならない。
同じように、テレビの喜びも現実の喜びである。私はテレビで鉄道番組を見ている。鉄道で日本や世界を旅する番組を見ている。私にとってはテレビの楽しみは旅行の楽しみにほかならない。テレビは眼や耳の世界で現実の喜びを満足するためにある。(味とか匂[にお]いや暑さや寒さはテレビでは伝わらない。)テレビもまた現実の喜びを架空の世界で満足する。テレビの喜びも現実の喜びにほかならない。
テレビやゲームは現実の喜びからおいしいところだけを抜き出しておいしくないところを取り除いたものである。だから、テレビやゲームは喜びが多いのだ。
今の人はテレビやゲームをやって喜んでいる。今の人は毎日テレビやゲームをやって多くの喜びを得ている。今の人は昔の人と同じ喜びを味わっているが、今の人のほうが昔の人よりも喜びの量が多い。そのために、今の人はお酒やタバコの喜びや性欲や“苦しみに伴う喜び”が要らなくなって、お酒やタバコやセックスやオナニーや政府や宗教団体や暴力団に虐[いじ]められるのをやめているのだ。
[23279] 女は男の付録である。 h29.5.25
女は男ほど頭で考える才能がないから自分で考えて正しいことがわからないからいつでも男の言いなりである。女だけでは生きていけない。女は男に従ってはじめて生きていける。女は男がいないと生きていけないのである。
女は男の付録である。女は男の添え物[そえもの]である。だから、女は付録としての自分の身分をわきまえて男に対して偉そうにせず控[ひか]えめにしないといけない。女は男の言いなりになって生きていかねばならない。
近代の日本で女が偉そうにしていたのはヨーロッパ文化の影響である。ヨーロッパ人は頭で考えるのが嫌いだから、ヨーロッパ文化では馬鹿のほうが偉いから女は男よりも馬鹿だから女尊男卑[じょそんだんぴ]だから女が偉そうにしていたのである。今は文化人類学が進んで『日本人は日本文化しかやれない』ことがわかっているから、日本人は眼と頭の両方を使うから実在が見えるから、日本文化は実在主義だから男は女よりも実在がよくわかるから男のほうが女よりもちょっと偉いのである。だから、今の日本では男が女に対してちょっと偉そうにしないといけない。女は男の添え物でいいのである。
政府は国民を苦しめて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。政府にとっては国民を苦しめるのは国民を幸福にするための仕事だから、政府が国民を苦しめるのは悪くない。だから、政府は平気で国民を苦しめることをする。政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのは、政府が国民に中国やヨーロッパやインドなどの外国の文化をやらせて国民を不幸にさせて苦しめるためである。日本人は他人の真似[まね]をするのが好きなので、政府は国民の前で外国の文化をやって国民が政府の真似をして国民に外国の文化をやらせようとしているのである。日本人は日本文化をやると幸福になり、外国の文化をやると不幸になる。だから、国民は政府の真似をして外国の文化をやってはいけない。国民は政府を無視して自分で日本文化をやって幸福に暮らせばいいのである。
[23280] 性欲はなぜいけないか? h29.5.25
性欲は精神分裂病の原因である。性欲を満足すると大脳の古皮質全体が興奮するようになり、古皮質にある“怒り中枢”や古皮質にある“テレパシー器官”が興奮するようになりテレパシーが聞こえて怒って暴れたりするようになって精神分裂病に罹[かか]る。テレパシーが聞こえると不愉快[ふゆかい]になって苦しまねばならなくなる。精神分裂病は一度罹ると死ぬまで治らないので死ぬまで苦しみ続けることになって人生を棒に振ることになる。人間が性欲を満足すると精神分裂病に罹って不幸になるから性欲を満足してはいけないのである。
性欲を満足すると考える喜びがなくなる。性欲を満足すると大脳の古皮質全体が興奮するようになる。大脳には新皮質と古皮質の間に拮抗[きっこう]作用がある。つまり、古皮質が興奮すると新皮質が抑制されて、新皮質が興奮すると古皮質が抑制される。だから、人間が性欲を満足すると古皮質が興奮して新皮質が興奮しなくなって考える喜びがなくなるのである。しかも、大脳の新皮質には考える喜びがある。人間の大脳の新皮質は古皮質よりも大きいから、人間にとっては考える喜びが性欲よりも喜びが多い。人間にとっては考える喜びが最大の喜びである。人間が性欲を満足すると考える喜びを満足するよりも少ない喜びしか得られなくなる。だから、性欲を満足してはいけないのである。昔の人は物が貧しかったから自分が生きるのが精一杯で仕事ばっかりしていて暇[ひま]がなくて考えることができなかったので考える喜びなんかどうでもよかったので性欲を満足していた。しかし、今の人は物が豊かだから余裕を持って生きているからあまり仕事をせずにたくさん暇があって考えることができるから考える喜びを満足できるからもはや性欲を満足するわけにはいかなくなったのである。(女は昔から井戸端[いどばた]会議をするのが好きだが、井戸端会議は考えることではなくてしゃべることである。女はしゃべるのは好きだが、考えることは嫌いである。女は考える生き物ではない。女は眼先のことで喜ぶだけで概念(イデア)で喜ぶことはない。)
昔の人は物がなくて物を使って喜びを得ることができず、暇がなくて考え事をすることができなくて考える喜びが得られなかったから、お酒やタバコをやったり性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足したりして喜びを得ていた。昔の人は喜びが少なくて喜びに飢えていたので、精神分裂病に罹る危険を冒してまで性欲を満足していたのである。胃ガンや肺ガンに罹る危険を冒してまでお酒やタバコをやったりしていたのである。政府に殺される危険を冒してまで“苦しみに伴う喜び”を満足していたのである。
今の人は物が豊かで物を使って喜びを得ることができて、暇があって考え事をすることができて考える喜びを得ることができるから、人間にとってはテレビを見たりゲームをやったりパソコンをやったり考えごとをしたりするほうが、お酒やタバコをやったり性欲を満足したり“苦しみに伴う喜び”を満足したりするよりも多くの喜びが得られるから、今の人はテレビを見たりゲームをやったりパソコンをやったり考えごとをしたりして、お酒やタバコやセックスやオナニーや政府や宗教団体や暴力団に虐[いじ]められるのをやめたのである。(若者は経験や思考が足りないために物事の真価がわからないからお酒やタバコや性[せい]が面白いと思っているが、本当は大して面白い物ではない。今ではもっと面白い物があるから、お酒やタバコや性をやらないほうがいい。/昔の子供は“苦しみに伴う喜び”つまり“虐[いじ]められる喜び”があったから、学校でみんなに虐められて喜んでいた。みんなに虐められて喜ぶために学校に通っていた。今の子供は“虐められる喜び”がないから、学校でみんなに虐められるのが嫌になって自殺する。昔も今と同じように虐め自体はあったが、昔の子供は今の子供と違って虐めを苦にしてしょげたりせずに元気に学校に通っていたのである。昔の子供は“苦しみに伴う喜び”を満足していて“苦しみに伴う喜び”があって不良にお金を取られて苦しまされて喜んで不良にお金を取らせていたから、不良が全国に蔓延[まんえん]していたのである。不良はみんなを喜ばせるためにお金を取っていたのである。今の子供は“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”がなくなって不良にお金を取られるのが嫌になって不良にお金を取らせなくなったから、国中から不良がいなくなったのである。子供も大人も同じである。今の人は“苦しみに伴う喜び”つまり“虐められる喜び”がないから、自分で政府に虐められるのを断って政府に虐められないようにすればいいのである。荘子[そうじ]が言ったように、子供はなにも知らないから自然に正しいことをするが、大人はまちがったことを知っているからまちがったことをするのである。大人は子供を見習ってまちがった考えを捨てて正しい考えを持って正しく行動しないといけない。)
人間はひたすら喜びを求めて行けばいい。人間はより多くの喜びが得られることをすればいい。そうすれば人間は幸福になれる。人間が人間らしく生きることになる。それが人間にとっての道徳である。哲学である。
中国人は心だけが発達していて多数決で物事を決めるので社会主義だから自分がみんなに善く思われないといけない。だから、中国人はおしゃべりである。反対に、日本人は眼と頭と心が均等に発達していて実在主義だから自分が実在において正しければいいだけである。だから、日本人は無口である。日本人はたとえ自分が正しいことを知っていてもあまり他人には教えない。だから、日本人は自分で考えて正しいことを知らないといけないのである。しかし、今はインターネットが発達して人間が自分で考えたことをみんなに見せてみんなが知ることができる。無口な人でも他人に自分の考えを伝えることができる。今はみんなで知識を共有できる時代なのである(もっとも、著作権はあるが)。
今は交通や通信が発達して国際交流が盛んである。日本にもたくさん外人が来てたくさん外国の文化が入ってきている。だからこそ、個人が大事なのである。人間はみな違うから幸福もみな違う。日本人にとって幸福であることと外人にとって幸福であることは違う。人間は互いに寛大でなければならない。人間は互いに自由を認め合わねばならない。日本人は外人を支配せず、外人は日本人を支配しない。日本人は日本人にとって幸福であればよく、外人は外人にとって幸福であればいい。だから、日本人は外人を真似[まね]たりせずにしっかりと自分の心を満足して自分が幸福に暮らさねばならないのである。日本人は自分が幸福になることをやって自分を幸福にしないといけない。
昔は文明が遅れていて文学の時代だった。人間が実在を知らずに自分の心だけを満足する時代だった。しかし、今は文明が進んで科学の時代である。人間が実在を知り実在において自分の心を満足する時代である。人間は本当は実在の中に生きているから、人間の真の幸福は実在にある。今の人間は実在について考えて実在を知って実在を利用して自分の心を満足して幸福に暮らさないといけない。今は人間が心の世界(文学のこと)を知って幸福になるよりも、実在を知って実在において自分の心を満足して幸福に生きる時代なのである。
人間にとっての真の幸福が実在にあるのなら、人間が自分の心を満足していけば自然に実在について考えるはずである。人間は作り話よりも実在においてより多くの喜びを得ることができる。人間が自分の幸福を求めていけばお笑い芸人になるよりも科学者になるはずである。お笑い芸人は道徳がまちがっている。お笑い芸人は面白くない人間である。お笑い芸人は昔の文学の時代の名残[なごり]である。お笑い芸人は古臭い。お笑い芸人は政府が国民みんなを不幸にして苦しめるために置いている政府のまわし者である。今はお笑い芸人よりも科学者の時代なのである。
[23281] 『巨人の星』 h29.5.27
『巨人の星』の大リーグボールつまり魔球は、政府が国民にいろんな悪いことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせることである。
大リーグボール1号は、政府が国民に鞭[むち]を打って国民を喜ばせることを表している。1号は打者に打たせて打者をアウトにするから、打者を喜ばせて苦しませる。逆に言えば、打者を苦しませて喜ばせる。つまり、政府が国民を苦しませることによって国民を喜ばせることを表している。
大リーグボール2号は、今では国の文明が高くなって国民がテレビを見たりゲームをやったりパソコンをやったりして喜びを得ているので、国民が政府に虐[いじ]められて喜ばなくなったことを表している。だから、“消える魔球”というのである。
大リーグボール3号は、今の国民が“苦しみに伴う喜び”がないために今の政府は国民に善いことをするのを装[よそお]って国民を苦しめなければならなくなったことを表している。だから、“下手[したて]投げ”なのである。政府が国民をあまり苦しませなくなったので“超スローボール”なのである。今の国民は“苦しみに伴う喜び”を満足していないために、『政府が国民を喜ばせるために国民を苦しめている』ことがわからなくなっている。だから、大リーグボール3号は誰も打てなかったのである。しかし、さすがに政府自身はそのことを知っている。だから、政治家である伴宙太[ばんちゅうた]が3号を打つことができたのである。また、昔は国民が政府に苦しめてもらって喜んでいたが、今では国民が政府に苦しめてもらって嫌がっている。昔は政府は国民を喜ばせてくれて国民の味方だったが、今では政府は国民を苦しめるだけで国民の敵である。だから、3号では伴宙太と星一徹(つまり政府)が飛雄馬[ひゅうま](つまり国民)の敵になったのだ。(私は政治家ではないが、『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわかった。私は他人から聞いたのではなく自分ひとりで論理的に考えて行ってそのことがわかったのだ。私はインド文化やヨーロッパ文化や中国文化などの世界各国の文化について考えた末に政府は世界各国の文化とは関係がないことがわかった。その後で、私は開き直って原点に戻って「政府は善いことをする団体だ」と考えた。しかし、私は自分でも全然合っていないと思って笑ってしまった。そこで、私は反対に『政府は悪いことをする団体だ』と考えた。人間が善いことをされて喜ぶように、悪いことをされても喜ぶのではないかと考えた。そこから考えを深めて行って『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわかったのである。私の哲学日記を約2年前の2015年4月ぐらいのところから読んで行けばわかる。)
大リーグボール3号によれば、政府は国民を喜ばせるために国民を苦しめている。つまり、政府と国民は平等である。国民と政府は平等だから、国民が政府に虐められるか虐められないかは国民の自由である。今の国民は物が豊かになって物を使って喜びを得ているから“苦しみに伴う喜び”が要らなくなっている。だから、今の国民は自分が政府に虐められるのを断って政府に虐められないようにすればいい。今の国民は自分で政府に税金を払うのをやめて政府に税金を取られないようにすればいい。そのため、今では政府が潰[つぶ]れているのである。(そもそも世界中で国民と政府は平等である。国民は自分がいいだけ政府の“国民を苦しませる命令”を聞いて政府に適度に苦しめられて自分の“苦しみに伴う喜び”を満足して喜びを得ればいい。しかし、政府はセールス(販促活動つまり国民に“国民を苦しめる命令”をよく聞かせること)をやっている。政府の国家宗教のセールスはヨーロッパ人にはよく効くから、ヨーロッパでは国民が政府の“国民を苦しませる命令”を多めに聞いて政府に多めに税金を取られて政府がすごく儲[もう]かっていた。一方、日本人には政府の国家宗教のセールスは効かない。だから、日本では政府はそこそこ儲かっていたにすぎない。しかも、ヨーロッパでは国民が自分の国の文化だけでは文明が衰退してやっていけないのでアジア文化を強引に受け入れていた。自分が嫌なのを我慢[がまん]してインドの身分制をやったり中国の民主主義をやったりしていた。そのため、ヨーロッパではみんながインドの身分制をやって政府が国民よりも身分が高かったのである。ヨーロッパでは人間が不平等になったのである。一方、日本人は生まれつき科学が好きである。日本人は日本文化だけでも文明が進むので外国の文化を強引に受け入れる必要がない。そのため、日本ではみんなが日本文化に適[かな]う外国の文化を受け入れるだけである。そのため、日本ではみんながインドの身分制を受け入れなかったので、日本では政府が国民よりも身分が高くならなかったのである。日本では人間がみな平等のままなのである。/インド人は頭だけが発達している。そのため、インド人は眼で見ることが嫌いである。インド人は眼で見ることをしない。インド人は眼で見ないようにするために眼で見える世界を昔のままにしておく。そもそも身分制はインド人が古臭い物や古臭い習慣を残すために生み出した制度である。身分制のためにインドではみんなが物が貧しくなっている。しかし、インド人は眼で見ることが嫌いだから物が貧しいことが好きである。だから、今でもインドでは身分制がみんなに支持されて残っているのである。インド人は眼で見えることはどうでもいいので奇形の人がみんなに混じって暮らしている。インド人は眼で見えることはどうでもいいので平気で犯罪を犯す。往来[おうらい]で殴[なぐ]り合いをする。インドは男気[おとこぎ]を形にした国なのである。/キリスト教の教会は女性の陰部や乳房を模[も]したものである。一方、イスラム教の寺院(モスク)はドームが人間の頭を模したものであり、ミナレット(尖塔)が天を突く槍[やり]であり人間が知性を用いて自然を支配することを表している。イスラム教の寺院はヨーロッパの頭で考えない文化とアジアの頭で考える文化が入り混じって出来た複合的な建物なのだ。ヨーロッパ人は五感だけが発達しているから性欲を満足するが、中近東の人は知覚のほうが五感よりも発達しているから知覚欲を満足しているのだ。ユダヤ人が頭がいいのも中近東の出身で知覚欲を満足して生きているからだろう。中近東やインドは大昔から文明が高い国なので頭のいい人が有利に生き残ってきたので、中近東やインドの人は頭がいいのである。中近東やインドは暑くて環境が厳しくて人間が頭を使って環境を整えないと生き残れないので頭のいい人が生き残ってきたのだろう。一方、ヨーロッパは寒くて作物が育たないからヨーロッパ人は狩猟民族で眼がいい。ヨーロッパ人は狩猟民族だから“戦争をする喜び”や“植民地を取る喜び”があって自分の心を満足するために戦争や植民地をするのだ。中国人は環境が温暖で作物が育つので、眼も頭も使わなくていいから心だけが発達したのだ。日本は国が海に開けていて大昔から世界中の民族が日本に集まってきたから、日本人は世界中の民族の血が混ぜ合わされて眼と頭と心が均等に発達しているのだ。)
私は小学生のころ『巨人の星』のアニメを3回見た。高知では野球が人気があるので高知放送では晩方『巨人の星』の再放送ばかりやっていた。私は『巨人の星』が面白かった。しかし、さすがに子供の私には政府のことを言っているのがわからなかった。星飛雄馬が私であるのがわからなかった。星←ホシ←ホし←川フ(ホ≒川、し≒フ)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私。子供のころの私は眉[まゆ]が太かった。少年時代の星飛雄馬の頬[ほほ]に3本の線が左右で2つあるのは、3本2つ←三ふ←川フ(三≒川)←川ブ←私であることを表している。
[23282] 今の人は“苦しみに伴う喜び”がなくなっているために政府や宗教団体や暴力団を誤解している。
h29.5.29
昔の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していたから、『人間に“苦しみに伴う喜び”がある』ことを知っていた。そのために、昔の人は『政府や宗教団体や暴力団が国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことを知っていた。『政府が民主主義をやったり宗教団体が国家宗教をやったり暴力団が身分制をやったりするのは、国民みんなや神や古臭い物に弱い国民を従う気にさせて命令を聞く気にさせてお金を取る命令をよく聞かせて儲[もう]けるためである』ことを知っていた。
反対に、今の人は“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、『人間に“苦しみに伴う喜び”がある』ことを知らなくなっている。そのために、今の人は『政府や宗教団体や暴力団が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわからなくなっている。今の人は「政府が国民のために善いことをする団体であり、暴力団は犯罪組織であり、宗教団体は国民に道徳を教える団体である」と思っている。今の人は政府や宗教団体や暴力団を誤解している。今の人は「政府が善いことをする団体だ」と思って政府の言うことを聞いて政府に苦しまされている。今の人は「暴力団が犯罪組織だ」と思って暴力団を怖がっておとなしく暴力団の言うことを聞いて暴力団に苦しまされている。今の人は「宗教団体が正しい道徳を教える団体だ」と思って宗教団体(例、原理研究会)に入って宗教団体に苦しまされている。
ヨーロッパでは古代にはみんながアジア文化をやっていて頭で考えていたから『地球が太陽の周[まわ]りを回っている』ことを知っていた。ところが、中世になるとみんながヨーロッパ文化をやるようになって眼で見るだけで頭で考えなくなったから『地球が太陽の周りを回っている』ことを知らなくなって「太陽が地球の周りを回っている」と思うようになった。近代になって再びみんながアジア文化をやるようになって頭で考えるようになって『地球が太陽の周りを回っている』と考えるようになった。(古代や近代や現代のように国が外国の文化をやる時代には自分の国の文化の代わりに外国の文化をやるから“代”の字が付くが、中世のように国が自国の文化をやる時代には自分の世界だから“世”の字が付くのだ。日本は昔からずっと自分の国の文化だけをやってきたから古世・中世・近世・現世というべきである。)それと同じように、昔の人は文明が低くて物が貧しかったので喜びが少なくて喜びに飢えていたから“苦しみに伴う喜び”を満足して“苦しみに伴う喜び”が発達して“苦しみに伴う喜び”がはっきりあったので『政府が国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことを知っていた。今の人は文明が高くなって物が豊かになっているので喜びがたくさんあるので“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなって“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっているので『政府が国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことがわからなくなって「政府が国民のために善いことをする団体である」と誤解しているのである。(あまり上手な喩[たと]えではないから、深く考えなくてもいい。)
人間には“苦しみに伴う喜び”がある。これは事実である。今の人は早くこの事実を知って政府や宗教団体や暴力団に対する誤解を直さねばならない。今の人は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していないから、政府の“国民を苦しませる命令”を聞くのをやめねばならない。政府は国民を苦しませるために国民から税金を取っている。今の人は政府の税金の命令を聞くのをやめて政府に税金を払うのをやめて政府を潰[つぶ]さねばならない。今の人は宗教団体や暴力団の言うことを聞くのもやめて宗教団体や暴力団を潰さねばならない。暴力団が麻薬を売るのは自分が法律を破ってあくどいことをするためではなく国民を禁断症状で苦しませて“苦しみに伴う喜び”を満足させて喜ばせるためである。暴力団は犯罪組織ではなく、国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である。暴力団は国民と平等にしている。国民は暴力団を怖がらないようにして暴力団の言うことを聞かないようにしないといけない。もっとも、自分の“苦しみに伴う喜び”を満足したい国民が政府や宗教団体や暴力団の言うことを聞いて苦しむのはかまわない。人間はなにかの喜びがないと生きていられないから、物を使う喜びがない人はそういう団体の世話になって生きていけばいい。人間が生きるためにはある程度喜びが必要だから、物を使う喜びのない人は酒やタバコや性欲や“苦しみに伴う喜び”のように多少悪い喜びでも満足しないといけない。だから、必要悪というのだ。もっとも、普通の人にとっては考えることや運動することやテレビやゲームやパソコンなどで十分多くの喜びが得られるから、そんな喜びは要らないが。
[23283] 国民の誤解のパターンその2 h29.6.3
今の国民は物が豊になって物を使って多くの喜びを得て“苦しみに伴う喜び”を満足しなくなっている。そのために“苦しみに伴う喜び”が退化してなくなっている。
そのために、今の国民は『政府が国民にいろんな悪いことをして国民を苦しませて国民の“苦しみに伴う喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。』ことがわからなくなっている。国民はテレビや新聞で政府が民主主義を国家宗教や身分制をやっているのを見て「政府が民主主義や国家宗教や身分制をやって国民を従わせる団体だ」と誤解している。
しかし、そもそも日本人には民主主義も国家宗教も身分制も通用しない。中国人のように心だけが発達している民族は、政府が民主主義をやって国民みんなに従っているふりをすると政府に従う。ヨーロッパ人のように眼だけが発達している民族は、政府が国家宗教をやって神に従うふりをすると政府に従う。インド人のように頭だけが発達している民族は、政府が身分制をやって古臭い物に従うふりをすると政府に従う。しかし、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために実在に従うだけであって、国民みんなにも神にも古臭い物にも従わない。日本人は政府が民主主義をやっても国家宗教をやっても身分制をやっても政府に従わないのである。
だから、今の日本人の多くが政府に従っているのは「政府が民主主義や国家宗教や身分制をやって国民を従わせている」からではなく、「政府が民主主義で国民のために善いことをやっている」と誤解しているためである。
今の日本人の多くは『人間には“苦しみに伴う喜び”がある』と考えて、『政府が国民の“苦しみに伴う喜び”を満足する団体である』ことや『日本人は政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっても政府に従わない』ことを理解して政府に従うのをやめねばならない。今の国民の多くは、自分が“苦しみに伴う喜び”を満足したくなければ政府の言うことを聞くのをやめて政府に苦しめられないようにしなければならない。政府に税金は自動車税を払うのをやめねばならない。政府に年金や医療保険費を払うのをやめて、自分でお金を貯金してその都度[つど]店にお金を払って物を買ったり、その都度医者にお金を払って自分の病気を治してもらうようにしないといけない。
日本人は実在に従うのみで、国民みんなには従わない。だから、たとえ国民の多くが政府のことを誤解して政府の言いなりになっていても、自分は政府のことを正しく理解して自分が“苦しみに伴う喜び”を満足していなければ、つまり自分がマゾの変態でなければ、政府の言うことを聞かなければいいのである。日本人は国民みんなに従わない民族だから国民みんなに従わなければいいのである。
戦前は国民みんなが“苦しみに伴う喜び”を満足していた。昔は国民みんなが政府に虐[いじ]められて喜んでいた。今日的[こんにちてき]には国民みんながマゾの変態だった。しかし、当時的には国民みんなが正常だったのだ。当時は国民みんながそれで普通だったのだ。(政府は強盗や人殺しをやって国民を虐めていた。国民みんなは自分が虐められて喜ぶために政府が強盗や人殺しをするのを許していたのである。政府が実際にやっていることは犯罪者と同じだが、政府は犯罪者とは違っていた。政府は国民を虐めて喜ばせるために強盗や人殺しをやっていた。一方、犯罪者は自分のために強盗や人殺しをやっていた。昔は科学がなくて国民みんなが心で人を見ていたから、国民みんなが強盗や人殺しをする目的で政府と犯罪者を区別して政府は善い人で犯罪者は悪い人で通っていたのである。)
要するに、昔の国民は政府に虐められるのが面白かったから政府に虐められていた。今の国民は政府に虐められるのが面白くなくなったから政府に虐められなくなったのである。流行は時代とともに変わる。昔の子供がたまごっちで面白がっていたが、今の子供がたまごっちで面白がらなくなったのと同じことである。今ではゲーム機のハードウエアが進歩してたまごっちよりも面白いゲームがたくさんあるから、今の子供はたまごっちが面白くなくなってたまごっちをやらなくなったのだ。それと同じように、今では文明が進歩して政府に虐められることよりも面白いことがたくさんあるから、今の国民にとっては政府に虐められることが面白くなくなって政府に虐められなくなったのだ。
今の国民は自分が“苦しみに伴う喜び”を満足しなくてもいい時代に生まれたことを幸せに思わねばならない。
[23284] 政府は国民を虐[いじ]める会社である。 h29.6.7
人間には“虐められる喜び”がある。人間は他人に虐められて不快になるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じるように出来ている。
昔の人は物が貧しくて物を使って十分な喜びが得られなかったから、しかたなく“虐められる喜び”を満足して喜びを得ていた。昔の人は政府にいろんな悪いことをしてもらって自分を虐めてもらって“虐められる喜び”を満足して喜んでいた。政府は国民にいろんな悪いことをして国民を虐めて国民を喜ばせる団体なのである。
しかし、今の人は物が豊になって物を使ってたくさん喜びが得られている。今の人はテレビやゲームやパソコンなどをやって多くの喜びを得ている。今の人はもはや“虐められる喜び”は要らない。だから、今の人は政府に虐めてもらわなければいい。今の人は自分で政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされないようにすればいいのである。人間はみな平等だから、政府と国民は平等だから、国民は自分が政府に悪いことをされるのが嫌なら自分で断ればいいのである。今の国民は自分が他人に虐められるのが嫌なら、政府の“国民を虐めるための命令”を聞かなければいいのである。政府に税金を払わなければいいのである。
今の国民はいくらなんでも自分が他人に虐められたいか虐められたくないかぐらいわかるだろう。政府は国民を虐めるために法律や政策や制度を定めて“国民を虐める命令”を出す団体である。民主主義は政府が国民みんなに弱い国民を政府に従わせるための方法であって、政府が国民のために善いことをすることではない。民主主義は政府が国民みんなに従うふりをして国民みんなに弱い国民を政府に従わせて“国民を虐める命令”を聞かせることである。だから、国民は政府が民主主義をやっているからといって政府に従う必要はない。今の国民は自分が他人に虐められたければ政府の言うことを聞き、自分が他人に虐められたくなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。そうやって、今の国民は自分で自分を幸福に暮らせるようにすればいい。
今の国民の多くはテレビで政府が民主主義をやっているのを見て「政府が国民のために善いことをする団体だ」と誤解して、政府に善いことをしてもらうために政府の言うことを聞いている。しかし、本当は政府は国民にいろんな悪いことをして国民を虐める団体である。テレビは正しいことを放送する機械ではない。テレビはカメラで撮ったことをただ流すだけの機械である。国民がいくらテレビを見てもカメラで撮ったことしかわからない。だから、国民はテレビで見たことを鵜呑[うの]みにしてはいけない。国民は自分の頭で考えながらテレビを見ないといけない。テレビばっかり見ていると眼で見えることしかわからなくなる。実在がわからなくなる。真実の世界がわからなくなる。だから、テレビをあまり見ないようにしないといけない。眼で見えることは実在の一部分であって、眼で見えることがすべてではない。だから、人間は自分の頭で考えながら眼で見ないといけない。
政府は国民を虐める会社である。政府はありとあらゆる方法で国民を虐める。政府は国民を虐めるために国民から高い税金を取って“国民を不幸にする仕事”にお金をやっている。マンガやテレビは国民にまちがった道徳を教えて国民を不幸にするので政府はマンガ家やテレビ局にお金をやっている。だから、国民は自分でよく考えて正しい道徳をやらねばならない。自分が幸福になることをやって自分が不幸になることをやらないようにしないといけない。そもそもの元凶[げんきょう]は人間に“虐められる喜び”があることである。そのために、昔は国民みんなで政府を建てて政府に虐められて“虐められる喜び”を満足して喜んでいた。しかし、今では国の文明が高くなって国民みんなが“虐められる喜び”を満足しなくなっている。だから、今では国民みんなで政府を倒して“虐められる喜び”を満足しないようにしているのだ。
昔の政府は虐めが必要悪だと思ってまじめに国民を虐めていた。今の政府は虐めが要らないと思いながらふざけて国民を虐めている。今の政府のほうが昔の政府よりも悪質である。このままでは国民が不必要にいたずらに政府に不幸にされるだけである。国民みんなで早く政府を倒して新しい時代にしないといけない。今の時代は国民にとって政府を倒すのが正しい道徳である。今の時代に政府を倒す度胸[どきょう]がないのは馬鹿である。自分の幸福をどうでもいいと思っているアホたれである。人間は自分を幸福にすれば幸福になり、自分を幸福にしなければ不幸になる。国民がこのまま政府を倒さないと政府が国民の喜びをなくして国民の喜びが足りなくなって国民が政府に虐めてもらわねばならなくなる。そうならないように国民はまじめに政府に税金を払わないようにして政府を倒さねばならない。
今の国民の多くは政府がどんな団体なのかわからないまま政府の言うことを聞いて毎月政府に高い税金を払っている。自分が何を買っているかわからないまま高いお金を出して物を買うようなものである。ボケた老人が高いお金を出してざっとした壷[つぼ]を買ってありがたがっているのと同じである。本当は今の国民の多くは政府の言うことを聞いて政府に高い税金を払って政府に虐められているのである。国民の多くは馬鹿である。国民の多くは早く政府のことを正しく理解して自分が政府に虐められたくなければ政府の言うことを聞くのをやめて政府に税金を払うのをやめねばならない。
政府は国民を虐める会社である。政府は民主主義や国家宗教や身分制をやって国民を従わせようとしている国民を虐める会社である。しかし、日本人には民主主義も国家宗教も身分制も効かない。日本では政府は国民と平等であり、政府は国民を虐める会社にすぎない。今の日本では国民は物が豊かになって物を使って十分な喜びが得られるので“虐められる喜び”は要らない。だから、今の日本では国民は自分で政府の言うことを聞かず政府に税金を払わないようにして政府に虐められないようにすればいいのである。(今の外人にとっても政府に従いたい気持ちよりも政府に虐められるのが嫌な気持ちのほうが強いので政府の言うことを聞かないようにすればいい。)
[23285] テレビゲームは面白くない。 h29.6.13
私は今年の5月31日から6月4日の5日間北部九州を原付[げんつき]でキャンプしながら回った。その後私は下宿に帰ってから毎日テレビゲームをして遊んでいる。パソコンでバトルフィールド2のマルチプレイをやって遊んでいる。カルカンドやシャーキーペニンスラやオペレーションブルーパールなどのマップで遊んでいる。
テレビゲームよりも原付キャンプツーリングのほうが面白い。なぜなら、ゲームが空想の世界でやっているのに対し、原付キャンプツーリングは現実の世界の中でやっているからだ。
だから、今ではみんながテレビゲームをやめて山登りやキャンプやサイクリングをしたりして現実の中での遊びに変っている。
人間にとっては空想よりも現実のほうが面白い。だから、人間は現実の中で遊びたがるのだ。
もっとも、年がら年中原付キャンプツーリングはできない。体力も時間もお金も足りない。だから、穴埋めにゲームをやるのだ。ゲームはつまらない暇つぶしだ。
人間にとっては考えることが一番面白い。次が現実の中で遊ぶことで、その次がゲームで遊ぶことだ。それ以下はもはや人間が喜ぶことではない。
人間にとっては考えることが一番面白いが、それも考えることがあってのことだ。考えることがないときには、現実の中で遊んだりゲームをしたりして遊ぶしかない。
マンガや小説は文学である。文学は他人の心の世界を肯定することである。しかし、人間は実在の中で生きることが面白いから、文学は面白くない。だから、人間は文学をやらないほうがいい。
テレビゲームは善い喜びではない。人間は本来実在の中で生きるべきであり、ゲームは空想の中で楽しむことだから善いことではない。人間(特に日本人)にとっては実在の中にいることが幸福であり、実在の外に出ることは不幸である。ゲームは眼先で楽しいだけで、本音[ほんね]では不愉快[ふゆかい]である。ゲームは実在の中で遊べないときにしかたなくやることである。そういうのを必要悪というのだ。未来の人間は実在の中だけで遊んでいるが、現在の人間は文明がまだそんなに高くないから空想の中で遊ばなければならないのだ。それと同じように、人間は善いことをされて喜ぶべきであり、悪いことをされて喜ぶべきではない。人間は親切にされて喜ぶべきであって、虐[いじ]められて喜ぶべきではない。“虐められる喜び”を満足することは喜びが足りないときにしかたなくやることである。昔の人にとっては“虐められる喜び”は必要悪だったのである。
[23286] 政府と宗教団体と暴力団の違いについて h29.6.19
政府や宗教団体や暴力団などの“国民を虐[いじ]める団体”は民主主義や国家宗教(国家でなくてもいいが)や身分制のどれでもやっていい。全部をやっていい。ただし、政府は主[おも]に民主主義をやり、宗教団体は主に国家宗教をやり、暴力団は主に身分制をやる。主にどれをやるかで政府(政治団体)か宗教団体か暴力団かが決まる。
民主主義は中国文化で、国家宗教はヨーロッパ文化で、身分制はインド文化である。一方、“虐められる喜び”は世界共通の文化である。昔は人類みんなに“虐められる喜び”があったのである。
[23287] 政府は嘘[うそ]つきである。 h29.6.20
政府は国民を虐[いじ]める会社である。
嘘をつくと相手を虐めることになる。
だから、政府は嘘をつく。
昔の国民には“虐められる喜び”があったから、昔の国民は自分が政府の嘘に騙[だま]されていることを知りながらわざとに政府に騙[だま]されていた。
ところが、今の国民には“虐められる喜び”がない。だから、今の国民は政府の嘘に騙されてはいけない。今の国民は自分で考えて政府の嘘に騙されないようにしないといけない。
[23288] 小さな親切、大きなお世話 h29.6.21
「小さな親切、大きなお世話」とは、政府が民主主義で国民のためにちょっとだけ善いことをやって、その一方で国民を虐めるためにたくさん悪いことをしていることである。
昔の国民は“虐められる喜び”を満足して幸福になっていたから、自分のほうから政府に虐められるために政府の言うことを聞いていた。
ところが、今の国民は“虐められる喜び”を満足していないから、自分が政府に虐められないために政府の言うことを聞いてはいけない。
[23289] 天才政治家田中角栄 h29.6.21
田中角栄が天才政治家と言われるのは、正々堂々と国民を虐めたからである。国民みんなが見ている前で国民みんなを虐めたからである。
そもそも政治家とは国民を虐める者である。物事をはっきりやるのが天才だから、田中角栄は天才政治家なのである。
[23290] 政府が残っているのは昔の文化の名残[なごり]である。 h29.6.24
人間には“虐[いじ]められる喜び”がある。政府は国民にいろんな悪いことをして国民を虐めて国民の“虐められる喜び”を満足する団体である。政府は国民を虐めるために国民から税金を取ったり、国民が嫌がる法律や政策や制度を定めたり、事件や事故を起こして国民を殺したりする。
昔の物が貧しい時代には国民は“虐められる喜び”を満足したほうが幸福に生きられたから、昔の国民は“虐められる喜び”を満足していた。そのために、昔の政府は繁盛していた。反対に、今の物が豊かな時代には国民は“虐められる喜び”を満足しないほうが幸福に生きられるから、今の国民は“虐められる喜び”を満足しなくなった。そのために、今の政府は滅んでいる。
今の国民は自分が“虐められる喜び”を満足しなくなったために政府のことがわからなくなっている。政府のことを誤解して「政府が国民のために善いことをする団体だ」と思って政府の言うことを聞いている。今の国民は早く政府のことを正しく理解して政府の言うことを聞くのをやめて政府を潰[つぶ]さねばならない。
民主主義とは政府が国民みんなに従っているふりをして、国民みんなに弱い国民を政府に従わせて、国民みんなに弱い国民に政府の“国民を虐める命令”を聞かせることである。国民みんなに弱い者は国民みんなに従うので、政府が国民みんなに従っているふりをすると政府に従えば国民みんなに従うことになるので政府に従うのである。だから、政府が国民みんなに従っているふりをすると政府が国民みんなに弱い者を従わせることができるのである。つまり、政府が国民みんなと国民の間に入って国民を従わせることである。これが民主主義の原理である。民主主義は政府が国民に自分の命令を聞かせるための一つの方法にすぎない。政府の本質は国民を虐める会社である。
昔の人は“虐められる喜び”があったから、昔の親は自分の子供を可愛[かわい]がるために自分の子供を虐めていた。昔の親は自分の子供を可愛がるために自分の子供に焼け火箸[ひばし]を当てたり熱湯をかけたり自分の子供を殴[なぐ]ったり蹴[け]ったりしていた。今の人は“虐められる喜び”がないからそんなことをしない。政府や宗教団体や暴力団は国民にとって親のようなものである。政府や宗教団体や暴力団は昔の文化の名残である。だから、今の人は早く自分で政府や宗教団体や暴力団に虐められるのをやめて政府や宗教団体や暴力団をなくさねばならない。(“虐められる喜び”がどんな喜びなのかは宗教団体の信者に訊[き]けばよくわかるだろう。私にはわからない。)
今の人は昔の人がどうして戦争したのかわからない。人間の心には“戦争をする喜び”がある。昔の人は“戦争をする喜び”を満足するために戦争したのである。今の人は“戦争をする喜び”を満足しなくなったから戦争をしなくなったのである。戦争に核兵器を使ってはいけないとか細菌兵器を使ってはいけないとかいうルールがあるのは、戦争がゲーム(娯楽)だからである。それと同じように、今の人は昔の人がどうして政府に虐められていたのかわからない。人間の心には“虐められる喜び”がある。昔の人は“虐められる喜び”を満足するために自分のほうから政府の嫌な命令を聞いて政府に虐められていたのである。今の人は“虐められる喜び”を満足しなくなったから自分から政府に虐められないようにすればいいのである。自分で勝手に政府の命令を聞くのをやめて自分が政府に虐められないようにすればいいのである。
子供はとっくの昔に自分でガキ大将に虐められるのをやめている。昔はみんなが虐められるのが好きだったからガキ大将がみんなを虐めてやっていた。ガキ大将はみんなの人気者だったのだ。今はみんなが虐められるのが嫌だからガキ大将がみんなを虐めなくなっている。それなのに、今でも大勢の大人が自分が政府に虐められるのを我慢[がまん]しておとなしく政府に虐められている。大人は子供よりもバカだ。大人は子供を見習って自分で政府に虐められるのをやめねばならない。
[23291] どうしてオカマが流行[はや]っているのか? h29.6.30
男は眼で見ないからブスにも彼氏[かれし]がいる。反対に、女は眼で見るからブ男には彼女がいない。(もとネタ:【ゆっくり実況】合コンに行ったら美女しかいなかった!_前編【脱出!美女だらけの部屋】てきとう太郎 https://www.youtube.com/watch?v=Aul79WFV8W4 &後編 https://www.youtube.com/watch?v=Zpl9h4oXva0)
インドは男文化の国である。インドは眼で見ない国である。だから、インドでは奇形の人がみんなといっしょに暮らしているのである。
インドは男文化の国である。ヨーロッパは女文化の国である。中国はオカマ文化(男女[おとこおんな]文化)の国である。中国人は国民みんなに弱いから、中国では男文化と女文化が入り混じってオカマ文化が発達しているのである。
今の日本は中国文化を受け入れようとしているからオカマが流行っているのである。
しかし、日本人は日本文化しかやれない。日本文化と中国文化は違う。日本文化は実在主義である。日本人は実在に従う。実在には男と女の両方がいる。だから、日本は男と女の両方の国である。日本人は男は男らしく、女は女らしくの国なのである。
男は実在がわかるが、女は実在がわからない。だから、実在主義の文化では女は男に従わねばならない。日本では女が男に従うことが女らしさというものである。それが女の美徳である。日本では女は偉そうにしない。自己主張せずにおとなしく生きていくのが女にふさわしい生き方である。
インドは男文化の国である。男は実在がわかる。だから、インドは科学が苦手なふりをしている国である。インドは余計な娯楽をやらないから無駄[むだ]に科学を発展させていないだけである。インド人は生活に必要な程度の科学はしっかりとやっている。だから、ヨーロッパには暗黒時代があるが、インドには暗黒時代がない。しかし、今ではコンピューターが出来て、インド人はコンピューターをやるために科学全部をやっている。今のインドではコンピューター産業に便乗[びんじょう]して科学全体が発展しているのである。
[23292] どうしてソ連はうまく行かなかったか? h29.6.30
ソ連は社会主義国である。中国も社会主義国である。社会主義には長所も短所もある。社会主義は国民の個性が無視される代わりに経済性が高いのが長所である。
社会主義には長所がある。だから、ソ連は国が出来た最初のころは調子がよかった。しかし、そのうちだんだん社会主義の短所が目立ってきてうまく行かなくなった。
ソ連の政府が社会主義を悪用して国民を虐[いじ]めるようになったからである。ソ連の政府が社会主義の短所を活かして国民の嫌がらせをするようになったからである。
国民みんなで政府を片付[かたづ]ける前に社会主義をやったからソ連はうまく行かなかったのである。政府は国民を虐める会社である。政府は国民を虐めるために悪いことをなんでもやる。国民みんなで政府を片付けてから社会主義をやればうまく行ったかもしれない。だから、ソ連の国民が社会主義をやりたければ、まず政府を倒して政府をなくしてからにしないといけない。ソ連の文明が高くなって国民みんなが物が豊かになって“虐められる喜び”を満足しなくなってから社会主義をやらねばならない。
日本は個人主義の国である。かといって、国民がどうでもいいことをやるだけである。国民が自分の見かけを個性的にしているだけである。国民が無駄[むだ]なことをやるだけである。日本もちょっとは社会主義にしたほうがいいのかもしれない。
[23293] 暴力団の仕事 h29.7.1
今では文明が高くなって国民が物が豊かになって物を使って喜びを得て“虐[いじ]められる喜び”を満足しなくなっている。
しかし、世の中には今でも“虐められる喜び”を満足している人がいる。つまりマゾの人がいる。物が豊かになっても物を使って喜びが得られず“虐められる喜び”を満足して喜びを得なければならない者がいる。マゾの人も普通の人も見かけは同じである。人は見かけによらぬものである。
今でもマゾの人がいるから、暴力団はそういう人を虐めてお金を儲[もう]けているのである。暴力団はマゾの人を虐めるためにマゾの人からお金を奪ってお金を儲けているのである。
国民は自分がマゾでなければ自分が“虐められる喜び”を満足していなければ、自分で暴力団に虐められるのを断って虐められなければいいのである。国民は自分がマゾでなければ、暴力団にお金を払えと脅[おど]されてもお金を払わなければいいのである。
政府も暴力団と同じ“国民を虐める団体”である。政府は民主主義をやって暴力団は身分制をやっているから違う団体に見えるだけである。国民は自分がマゾでなければ政府に虐められるのを断って虐められないようにすればいいのである。政府は国民を虐めるために国民から税金を取っているから、国民は自分がマゾでなければ政府に税金を払わなければいいのである。
会社の社長はマゾだから自分の会社の儲けを全部政府にやって自分が虐められて喜んでいる。社長は自分に“虐められる喜び”があるから社員みんなにも“虐められる喜び”があると思って社員みんなを喜ばせるために社員みんなを虐めている。今どきそんな社長は失格である。社員みんなで社長にお金をやらないようにして社長を倒して変態のいない会社にしないといけない。無能なバカのいない会社にしないといけない。
昔はみんながマゾだった。だから、昔はみんなが政府や宗教団体や暴力団などの“虐める団体”に虐められて喜んでいた。昔はみんなが政府や宗教団体や暴力団などにお金を脅し取られて喜んでいた。政府や宗教団体や暴力団が儲かっていた。反対に、今はみんながマゾではない。だから、今はみんなが政府や宗教団体や暴力団などの“虐める団体”に虐められないようにしている。今はみんなが政府や宗教団体や暴力団にお金を取られないようにしている。今は政府や宗教団体や暴力団が儲からなくなって潰[つぶ]れている。
人間の心には“虐められる喜び”がある。そのために悲劇が誕生した。ニーチェはギリシアの古典文学を研究しているときに『人間には“虐められる喜び”がある』ことを発見した。例えば、イオがウシに変えられてアブにつつきまわされるように。ギリシアの悲劇は人間の“虐められる喜び”を満足するためにある。テレビドラマの『おしん』と同じである。ニーチェはさらに考えを進めて『キリスト教は人間の“虐められる喜び”を満足することである』ことがわかった。これまで長い間人類は“虐められる喜び”を満足するためにいろんなことをやってきた。昔はみんなが自分の“虐められる喜び”を満足するためにみんなで“虐める団体”を建てて虐めてもらっていた。しかし、今は文明が高くなってみんなが物が豊かになって物を使って喜びを得るようになって“虐められる喜び”を満足しなくなっている。ようやく、人類は“虐められる喜び”から開放されたのだ。
[23294] “男が女になる病気”を治す方法 h29.7.2
人間はある程度以上の喜びがないと生きられない。人間はある程度以上の喜びが得られれば、それ以上喜びを得ようとしない。
ところが、人間の心には“男が女になる喜び”や“女が男になる喜び”がある。(参考:#1【RPGアツマール】俺(女)から脱出! 生放送でやってみるよ! ゆっくり小甘 https://www.youtube.com/watch?v=4XVLcPAXzD0 )
だから、人間が十分喜びが得られないと“男が女になる喜び”や“女が男になる喜び”を満足するためにおかしなことをする。例えば、女装したり男装したり性転換したりする。
人間が“男が女になる病気”や“女が男になる病気”に罹[かか]るのは喜びが足りないせいである。だから、“男が女になる病気”や“女が男になる病気”を治すためには、自分が好きなことをやって喜びを得ればいい。例えば、人間は考えたり、運動したり、テレビを見たりゲームをやったりパソコンをやったりするのが好きだから、そうやって喜びを得ればいい。自分が嫌いな勉強や仕事をするのをやめて、自分が好きな勉強や仕事をすればいい。人間が普通のことで喜べば異常なことで喜びを得なくてすむ。
[23295] どうしてテレビ局は本当のことを言わないのか? h29.7.9
テレビ局が政府の正体を言わないのは、テレビ局が政府とつるんでいっしょに国民を支配していい生活をするためである。テレビ局が本当のことを言わなければ、国民が政府が民主主義や国家宗教や身分制をやっているのを見て「政府に従わねばならない」と思って政府に従うから、テレビ局は政府と協力して国民を従わせて国民から税金を取って楽に暮らそうとしているのである。
しかし、今の国民は政府の正体を知りつつある。今の国民はいろんなところから情報を仕入れて政府の正体を知るようになっている。
そのため、テレビ局は政府といっしょに国民に嫌われるようになっている。国民はテレビを見なくなっている。テレビ局は予算が足りなくなってつまらない番組しか作れなくなっている。ますます国民はテレビ離れしている。
人間は自分が正しいことを知っていたらすぐにみんなに教えるべきである。みんなが正しいことを知っているようにすべきである。そうしない者が悪い。
[23296] 今のヨーロッパ人は昔のヨーロッパ人ではない。 h29.7.9
人間は自分の文化しかやれない。例えば、古代のヨーロッパではみんながアジア文化を受け入れて科学が発達したが、そのうちみんながアジア文化を捨てて科学が衰退して暗黒時代になった。ヨーロッパ人は眼で見るだけで頭で考えたり心で思ったりするのが嫌いなので、いっときは我慢[がまん]して頭で考えて科学をやっても、しばらくすると頭で考えるのをやめて科学をやめてしまったのである。
しかし、近代以後のヨーロッパではみんながずっとアジア文化を受け入れて科学をやっている。暗黒時代になっていない。だから、今のヨーロッパ人は昔のヨーロッパ人と同じではない。今のヨーロッパ人は頭で考えることも好きである。
近代以後のヨーロッパではみんなが“科学ができる人”を優遇して科学ができる人を優先的に残してきた。ノーベル賞がその一例である。ノーベルの最大の発明はノーベル賞なのかもしれない。そのため、今のヨーロッパではみんなが頭で考えることが好きになって科学がよくできるようになっているのだ。人間が自分自身を選択することによって人種を改良しているのだ。日本人もヨーロッパ人を見習ってそうしないといけない。
人間にとっては価値観が大事である。価値観に合わせて人間を選択すればいいのだ。今の時代の価値ある人間は“科学ができる人”だ。だから、科学ができる人を社会的に優遇して増やせばいいのだ。
テレビを見てゲラゲラ笑っても本当に幸福にはなれない。そこまで文学的なのはダメ人間である。人間は実在に適応して実在の中で自分の心を満足することによって本当に幸福になれる。美男の実体は変態の色キチガイ馬鹿である。科学のかの字もない。だから、今の国民はテレビの芸人なんかさっさと捨てて科学をやればいいのだ。日本を実在主義の国家にすればいいのだ。
[23297] 「一粒で二度おいしい。」 h29.7.12
政府は国民を虐[いじ]めて喜ばせるために国民から税金を取って、税金の一部を使って民主主義で国民のためにちょっと善いことをする。だから、一粒で二度おいしいというのである。
グリコの社員はみんなマゾ(虐められるのが好き)だから一粒で二度おいしいのである。
普通の人は虐められる喜びがないから一粒で一度しかおいしくない。
政府が民主主義で国民のために善いことをするのは国民を従わせて国民に虐める命令をもっと聞かせるためである。政府は国民を虐める会社である。政府が民主主義をやるのは国民を虐めることがよくできるようにするためである。今の国民は“虐められる喜び”がないから政府は要らない。今の国民は政府の言うことを聞かないようにして政府を倒せばいいのである。
国民が政府に税金を払うと自分が政府に虐められることを認めたことになって政府が容赦[ようしゃ]なく国民を虐める。政府は国民を虐めるためならなんでもやる。だから、国民は政府に税金を払ってはいけない。
政府に虐められるのは昔の人の遊びである。今の人はテレビを見たりゲームをやったりして遊んでいる。文明が進んで遊びの種類が変わっただけのことだ。
日本人は実在主義であって社会主義ではないから、多数決で動かなくていい。正しいことをすればいい。日本人は周[まわ]りのみんなに合わさずに、自分ひとりで正しいことをすればいい。たとえ周りのみんなが「政府が善いことをする団体だ」と思って政府の言いなりになっていても、自分は『政府が国民を虐める団体だ』と考えて自分が“虐められる喜び”を満足したくなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。
[23298] どうして日本はヨーロッパの植民地にならなかったのか? h29.7.14
スペインのピサロ将軍の軍隊が少数であったにもかかわらずインカ帝国を征服できたのは、スペインが戦争が巧[たく]みだったからではない。インカ帝国がヨーロッパ文化を受容できたからである。インカ帝国がスペインの文化を受容してスペインとなかよくなったから、スペインがインカ帝国を征服できたのである。征服とか植民地とはそういうものである。参考Wikipedia。
インカ帝国は日本と同じようにヨーロッパ文化を受容できる国なのである。だから、インカ帝国は途中でスペインと戦うのをやめてスペイン文化を受け入れてスペインとなかよくなったのである。インカ帝国はスペインとなかよくなったしるしに黄金をたくさんあげたのだ。
反対に、インドや中国はヨーロッパ文化を受容できない国だから最後までヨーロッパの植民地にならずにヨーロッパと戦ったのである。
ヨーロッパの周辺の国は多かれ少なかれヨーロッパ文化を受容できる国だからヨーロッパと戦わずにすぐにヨーロッパ文化を受け入れてヨーロッパとなかよくなったのである。つまり、ヨーロッパの植民地になったのである。アフリカや中近東の国の文化はヨーロッパ文化と似ている。だから、植民地時代にはヨーロッパがすぐにアフリカや中近東の国を征服して植民地にできたのである。
日本はヨーロッパから遠く離れているが、ヨーロッパ文化を受け入れられる国なのでヨーロッパと戦わずにヨーロッパ文化を受け入れた。だから、日本はヨーロッパと戦わなかった。日本は事実上ヨーロッパの植民地だったのである。日本人の多くは日本がヨーロッパの植民地にならなかったと思っているが本当は植民地だったのだ。もっとも、日本はヨーロッパ文化のすべてを受け入れたのではない。日本は日本文化で受け入れられるヨーロッパ文化だけを受け入れた。日本はヨーロッパ文化の全部ではなく一部を受け入れた。インカ帝国もそうだった。日本人とインカ人は遺伝子的に似ているので、両方ともヨーロッパ文化を(部分的に)受け入れられる体質だったのだ。インカ帝国の神が太陽なのは、インカ帝国が日本と同じ実在主義だからである。
[23299] どうして日本に著作法があるか? h29.7.16
日本には著作法がある。日本は著作法がある国である。それは、日本人みんなが“考える人”を大事にするからである。“考える人”を大事にしたほうが善い社会になるからそうするのである。“考える人”を大事にして“考える人”を増やして“考える人”が多いほうがみんなが幸福に暮らせるからそうするのである。“考える人”を増やしてみんなが“考える人”になったほうが善い国になるから“考える人”を大事にするのである。“考える人”を大事にするために著作法があるのである。
正しいことを考えるのは大変だが、他人が考えたことを書き写すのは容易である。他人が考えたことを書き写すのは馬鹿でもできる。馬鹿をいい待遇にしないために著作法があるのである。馬鹿をいい暮らしにして馬鹿を増やして馬鹿が多い国にしないためにみんなで著作法を守らねばならないことにしているのである。
だから、他人が私が考えたことを孫引きしてはいけない。他人が私が考えたことを本にして売って儲[もう]けてはいけない。
昔の本の時代にはみんなが“考える人”を大事にしていた。そのために、昔は“考える人”がたくさんいてみんなが考えて生きていて日本が裕福な幸福な国だった。しかし、今のテレビの時代にはみんなが“考える人”を大事にしない。みんなが‘きれいな人’や‘面白い人’を大事にするだけである。そのために、世の中からどんどん“考える人”が減って、馬鹿ばっかり増えて、みんなが考えなくなって日本が貧乏な不幸な国になっている。だからこそ、今は“考える人”を大事にしないといけないのである。著作法を絶対に守らないといけないのである。
[23300] ゴープロとアクションカムとどっちがいいか? h29.7.16
私は今ソニーのアクションカムを使っている。それは、ゴープロよりもアクションカムのほうがいいと思ったからである。
画質はゴープロのほうがアクションカムよりもちょっといいかもしれない。色味[いろみ]が濃いかもしれない。しかし、アクションカムにはリモコンがある。だから、アクションカムのほうがゴープロよりも使いやすい。
動画を見るのはせいぜい1〜2回である。動画を作った本人も1〜2回だし、ほかの人も1〜2回である。それに対し、動画を撮るのは毎回である。だから、動画の質よりも使い勝手のほうが大事である。要するに、動画は見るよりも撮るのが楽しい。アクションカメラは撮りやすさが第一で画質は第二だ。道具は使いやすさが一番大事だ。そういうわけで、私はゴープロよりもアクションカムのほうを選んだのである。もちろん、ゴープロのほうがアクションカムよりも値段が高いという先入観もあったが。
同じ理由で、私は一眼よりもコンデジを使っている。自分が撮った写真を見返すことはせいぜい1〜2回しかない。他人も1〜2回しか自分が撮った写真を見てくれない。それに対し、自分が写真を撮るのは毎回である。だから、写真の質よりも撮りやすさのほうが自分にとっては大事である。一眼は自分でレンズをいじったりして撮るのに時間がかかるが、コンデジは電源を入れてシャッターを押せばすぐに撮れる。だから、私は一眼よりもコンデジを使うのだ。