[23101] インドでは政府がそのまま悪いことをやっている。 h28.11.28
政府はもともと人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。そもそも人間は自然によっていろんな悪いことをされてきた。そのために人間の心には“悪いことをされる喜び”があった。だから、政府は人間を殺したり財産を奪ったり虐[いじ]めたりいろんな悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にするのである。
ヨーロッパでは時代が進むと文明が発達して人間の暮らしが便利になって人間が“善いことをされる喜び”を満足するようになったので、自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常だと思えて恥ずかしくなったので、政府が民主主義の団体の芝居をやって国民に善いことをするために税金を取るふりをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するようになった。中国も同様である。(古代や近代のヨーロッパではインド文化や中国文化を取り入れて文明が高かったが、中世のヨーロッパでは民族運動が盛んになってみんながインド文化や中国文化を追い出してヨーロッパ文化だけをやるようになったために、学問をやめて、政府を倒して宗教団体を建てたのである。けっして国民が政府や宗教団体の命令で学問をやめたのではない。みんなが学問をやめたために文明が遅れて暗黒時代になったのである。たぶん、中世のヨーロッパではみんながインド文化や中国文化で現実を無視して法律を守らなくなって自分の好き放題に悪いことをやるようになって世の中が物騒になって暮らしにくくなったので民族運動を起こしてみんながインド文化や中国文化をやめたのだろう。)
インドでは時代が進んでも文明が発達せず人間の暮らしが便利にならず人間が“善いことをされる喜び”を満足するようにならなかったので、自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常に思われず恥ずかしくなかったので、政府が何の芝居もせずそのまま国民に悪いことをし続けた。インドでは、みんながそんな社会を守るために「政府が身分が高い」ことにしていた。
古代や近代の日本ではヨーロッパ文化を受け入れていたので、政府が民主主義の団体の芝居をやって国民に善いことをするために税金を取るふりをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足していた。
中世(近世も含む)の日本ではアジア文化(インド文化と中国文化)を受け入れていたので、幕府が中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民のために善いことをするために年貢[ねんぐ]を取るふりをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足しながら、一方でインド文化で国民にいろんな悪いことをして(その中には国民から年貢を取ることも含まれる)国民の“悪いことをされる喜び”を満足していた。
今の日本では世界中の文化を受け入れているのでヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民のために善いことをするために税金を取るふりをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足しながら、一方でインド文化で国民にいろんな悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足している。今の政府(つまり国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体)は国民から取った税金から自分の給料を引いて残ったお金を善いことをする会社(法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所など)にやって善いことをやっている。(強盗と税金を取るのとは違う。強盗は相手の承認を得ずに相手からお金を取ることである。一方、政府が国民から税金を取るのは国民の承認を得て国民からお金を取っている。国民は自分が政府に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜ぶために、政府に税金を払うのである。)つまり、今の政府は割高で善いことをしている上に悪いことをやっている。
しかし、そもそも政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。今の日本ではますます文明が高くなって国民の暮らしが便利になって国民が“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのために、今の国民にとっては政府が要らなくなっている。これまでだって、国民は政府(や幕府)に自分の悪いことをされる喜びを満足してもらうために政府に税金を払ったりいろんな悪いことをされたりしていたのである。『人間はみな平等』だから、国民が政府に税金を払うか払わないか、国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民個人の自由である。国民が政府に税金を払わなくても国民は罰せられない。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいい。国民は政府を介さず直接に自分の手で善いことをする会社にお金をやって善いことをしてもらえばいい。
今の日本ではみんなが世界中の文化を統合して実在主義をやらねばならない。みんなが眼と頭で実在を知り実在の中で眼で見て心を満足して幸福に暮らさねばならない。つまり、実在主義と科学である。今は科学の時代なのである。

[23102] 暴力団とは何か?☆☆☆ h28.12.2
暴力団は日本では江戸時代や戦後になって現れた。つまり、暴力団は日本がインド文化を受け入れるようになると現れる。インド文化では国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体が大昔のまま何の芝居もせずにそのまま国民に悪いことをやっている。国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりしている。だから、暴力団はインドの政治団体と同じようにそのまま何の芝居もせずに国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体なのである。ただし、暴力団と犯罪組織は違う。暴力団は相手の承認を得た上で相手に悪いことをする。一方、犯罪組織は相手の承認を得ずに相手に悪いことをする。暴力団は犯罪組織とは違うから、周[まわ]りのみんなに追放されずに社会の中で安定に存在できるのである。
同様に、宗教団体も国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。宗教団体は神の教えを広める団体の芝居をして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。つまり、宗教団体は国民に神の教えに従って善いことをするためにお布施[ふせ]を取っているふりをして本当は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにお金を取っている団体である。宗教団体は国民から取ったお布施から自分の給料を引いて残ったお金で国民のために善いことをする。宗教団体は政治団体と同じように、国民を恥ずかしがらせないために善いことをする団体のふりをして国民から高いお金を取って悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体なのである。宗教団体と政治団体は芝居の種類が違うだけで中身は同じである。
文明の進んだ国では人々が“善いことをされる喜び”を満足しているために“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常に思われて恥ずかしいので、“悪いことをされる喜び”を満足する団体が民主主義の団体の芝居をしたり神の教えを広める団体の芝居をしたりしてみんなが恥ずかしがらずに自分の“悪いことをされる喜び”を満足することができるようにしているのである。
しかし、今の日本では文明がかなり発達して人々が“善いことをされる喜び”ばかり満足しているために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているので、政治団体や宗教団体や暴力団などの“悪いことをされる喜び”を満足する団体が全部滅んでいるのである。

暴力団は日本がインド文化をやっているときに現れる小さな幕府のようなものである。国鉄に対する私鉄のようなものである。昔は文明が低かったからみんなが“悪いことをされる喜び”を満足していたから、“悪いことをされる喜び”を満足する仕事は需要が高かった。儲[もう]かる仕事には誰でも参入していいのである。幕府や暴力団は芝居をせずに(つまり無い仕事をやって)“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。
仏教団体は日本がインド文化をやっているときに現れる宗教団体である。インド人は“頭で考える”ことが生きがいである。だから、仏教団体は日本人に“頭で考える”ことを勧[すす]める団体である。
天皇教や私教(川野延夫教)の団体は日本がヨーロッパ文化をやっているときに現れる宗教団体である。ヨーロッパ人は“眼で見る”ことが生きがいである。だから、天皇教や私教の団体は日本人に“眼で見る”ことを勧める団体である。
儒教や道教の団体は日本が中国文化をやっているときに現れる宗教団体である。中国人は“心で思う”ことが生きがいである。だから、儒教や道教の団体は日本人に“心で思う”ことを勧める団体である。
日本には世界中の宗教団体がある。日本人は昔から“頭で考える”ことと“眼で見る”ことと“心で思う”ことを統合してきた民族である。そのために、日本には『実在主義』という独特の文化がある。日本人は『実在に適応する』ことが生きがいである。
今では国の文明が高くなって生活に便利な物が発明されてみんなが“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。政治団体や宗教団体や暴力団は“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。今ではみんなにとって政治団体も宗教団体も暴力団も要らない。そのため今では政治団体や宗教団体や暴力団が滅んでいる。今ではみんなが世界中の文化を受け入れているだけである。暴力団は戦後に現れて今では滅んでいる。暴力団は短い命だった。
要するに、文化が変わると政治団体の芝居が変わり、文明が進歩すると政治団体そのものが滅ぶのである。

政府はそもそも国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府がヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体のふりをして善いことをやるのは国民を恥ずかしがらせないための芝居にすぎない。政府は割高[わりだか]で仕事をすることによって見かけで善いことをしているふりをして本当は悪いことをやっている。政府は割高で善いことをやって国民に損をさせて国民に悪いことをしている。押し売りがゴムひも1本を1万円で売るのと同じことである。政府の経済政策は国民が1円儲[もう]かるために国民から1万円取っているかもしれない。政府は国民から高い税金を取ってちょっとだけ善いことをしているだけなのである。その上、今の政府はインド文化でそのまま悪いことをやっている。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから政府に割高で仕事をしてもらって悪いことをされて喜んでいた。しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから政府に割高で仕事をされて悪いことをされると嫌なだけである。だから、今の国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒して、直接に善いことをする会社にお金をやって善いことをしてもらえばいいのである。その例がゴミ袋代である。今の日本の都市では国民がゴミ袋代に清掃料金を足したお金を払うことによって国民が直接に清掃会社にお金を払うようにしている。国民の力で『政府のない社会』にしている。今の国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったために政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなったから、政府が清掃会社にお金をやれなくなって清掃会社が直接に国民からお金をもらわねばならなくなっているのだ。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”が作り出した団体である。国民が政府に税金を払うのは政府に悪いことをしてもらうためである。しかし、今の国民は悪いことをされるのが嫌だから、政府に税金を払わなければいいのである。
h28.12.4付け足し:今の政府は割高で善いことをして、おまけに悪いことをする会社にすぎない。しかし、今では文明が高くなって国民は“悪いことをされる喜び”を満足していない。今の国民は割高なのが嫌だし、悪いことをされるのも嫌である。(政府が割高で善いことをするのがヨーロッパや中国のやり方で、政府がそのままいろんな悪いことをするのがインドのやり方である。)だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。幸い、日本では犯罪が少ないから国民が法律会社の世話にならなくていいし、私立学校があるからまたは自分で勉強すればいいから学校会社の世話にならなくていいし(特に学校に行かない大人にとっては学校会社はどうでもいい)、水道料金は税金とは別個に払っているから税金を払わなくていいし、ゴミ袋代として清掃会社に清掃料金を払っているから税金を払わなくていいし、役所のサービスは税金を払わなくても利用できるから、国民は政府に税金を払わなくていい。国民みんなは政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいい。(最近誰かが“国民から依頼を受けて悪いことをした者に相応の嫌がらせをする復讐会社”を建てたのも、今の国民が法律会社が要らないようにして政府に税金を払わなくてもいいようにして政府を倒すためである。)国民で“割安[わりやす]で仕事をする会社”を建てればいい。国民が直接に“割安で善いことをする会社”にお金をやって善いことをしてもらえばいい。例えば、国民で“悪いことをされる喜び”を満足する会社とは別に民主主義の団体(つまり国民のために善いことをする会社の集まり)を建てれば、政府よりも割安で国民は仕事をしてもらうことができる。つまり、今の政府の付属会社(法律会社や学校会社や清掃会社や水道会社や役所など)が政府(つまり“悪いことをされる喜び”を満足する会社)から離れて直接に国民からお金をもらって仕事をするようになればいいのである。抱き合わせ商法は国民にとって割高だから、善いことをする会社はそれぞれ別個に国民からお金をもらわねばならない。
日本は先進性が取り柄[え]の国である。国民みんなで早く日本を政府のない国にして日本を進んだ国にしなければならない。


[23103] 今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから政府が要らない。 h28.12.5
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。今は国際化の時代だから、日本政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民から税金を取って割高で善いことをすることによって悪いことをやったり、インド文化でそのまま悪いことをやったりしている。(政府は本当は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であって、民主主義の団体ではない。政府が本当に民主主義の団体つまり国民のために善いことをする団体なら割安で善いことをするはずである。しかし、実際には政府は割高で善いことをするから政府は民主主義の団体ではない。トラ(民主主義の団体のこと)の皮をかぶったキツネ(“悪いことをされる喜び”を満足する団体のこと)はしょせんキツネであってトラではないということである。政府は民主主義の団体ではないから、政府に国家権力があって政府が国民から強制的に税金を取れるというのは嘘[うそ]である。したがって、国民は政府に税金を払わなくていいのである。政府がどんな文化をやるにせよ、とにかく政府は“悪いことをされる喜び”を満足する団体なのである。)
昔は文明が低かったので国民が“悪いことをされる喜び”を満足していたので政府に悪いことをやってもらっていた。
しかし、今では文明が高くなって国民が“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。だから、今の国民は政府に悪いことをされなくていい。今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいい。政府の替わりに国民で安値[やすね]で善いことをする会社を建てて善いことをする会社にお金をやって善いことをしてもらえばいい。
h28.12.6追記:国のことは国民みんなで決めるのであって政府が決めるのではない。昔は国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していたから国民みんなで政府を建てた。反対に、今は国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していないから国民みんなで政府を倒せばいい。国民みんなで政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいい。
h28.12.12追記:国民みんなは馬鹿ではない。国民の中には『政府が“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、今の国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているから政府が要らなくなっている』ことを知っている者が大勢いる。だから、今の国民みんなでかなり前から政府に税金を払うのをやめて政府を倒して、国民みんなで政府がなくても自分たちが暮らせるように必要な会社を建てて、政府のない社会を作っているのである。
国民の真の敵は政府ではない。政府について誤解している馬鹿だ。早く国民みんなで政府のことを正しく理解して国民みんなで政府を倒さねばならない。

[23104] “悪いことをされる喜び”とは何か? h28.12.7
人間の脳は不快感が発生すると、それを抑えるために快感が発生するメカニズムがある。人間が重傷を負うと脳内麻薬(エンドルフィン)が分泌[ぶんぴつ]されて痛みを感じなくなるようなものである。昔の人はそのことを知っていて、政府に悪いことをしてもらって不快感を発生させてそれに伴って快感を発生させて快感を得ていたのである。それが“悪いことをされる喜び”の実体である。
昔の人は文明が遅れていて面白い物がなくて“善いことをされる喜び”を満足することができなかったからやむを得ず政府に悪いことをしてもらって“不快感に伴う快感”によって快感を得ていた。今の人は文明が発達して面白い物がたくさんあってテレビで好きな番組が見られるし自動車で好きなところに行けるし電話で好きな相手と話ができる。今の人は文明が発達して“善いことをされる喜び”を十分に満足することができるようになったから政府に悪いことをしてもらって“不快感に伴う快感”を得る必要がなくなった。
今の人にとっては政府が要らないから政府に税金をやらずに政府を倒せばいい。

[23105] 政府の“政”とは何か? h28.12.7
政府の“政”とはマツリゴトであり、マツリとは民主主義の団体の芝居のことである。幕府の“幕”とは民主主義の団体の芝居をしないことである。だから、政府の正体は幕府である。政府は民主主義の団体の芝居をする幕府である。
幕府については字を見てもそれ以上のことはわからない。政府も幕府も字の上では自分の正体を隠している。政府や幕府の実体は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。つまり、国民に悪いことをして国民に“不快感に伴う快感”を与えて国民を喜ばせる団体である。しかし、今では文明が発達して国民は“物を使って得られる喜び”が十分あるから“不快感に伴う快感”が要らなくなったから、政府が要らなくなったのである。そのために、国民が政府に税金を払わなくなって政府を倒しているのである。
今の国民が政府に税金を払うためには、国民が“不快感に伴う快感”が必要でなければならない。しかし、今の国民は文明が高くなって物や暇が豊かになっていろんな喜びが十分あるから、今の国民は“不快感に伴う快感”が要らないから政府に税金を払うことができなくなってしまったのである。そのために、政府が潰[つぶ]れているのである。
h28.12.10付け足し:政府が国民から高い税金を取っているのは国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためであって政府がいい給料をもらうためではない。だから、国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなければ政府に税金を払わなければいいのである。

[23106] 今の政府は善いことと悪いことの両方をやっている。 h28.12.10(→ヤフオク出品『政府学入門9』の商品解説に載せた。)
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の脳には「不快感に伴って脳内麻薬(エンドルフィン)が分泌されて快感を発生する仕組み」があるので“悪いことをされる喜び”がある。h28.12.12追記:大昔の人は自分で自分を痛めつけたり他人に自分を痛めつけてもらったりして快感を得ていた。そのうち社会が出来ると、人々に悪いことをすることを仕事とする政府が出来た。
ヨーロッパや中国は文明が発達する国なので、文明が発達すると人間が“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常で恥ずかしいことに思われる。そのために、ヨーロッパや中国では政府が民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って割高[わりだか]で善いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足している。
一方、インドは文明が発達しない国なので、インドでは人間が大昔のままに“悪いことをされる喜び”を満足しているので“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくないので、政府がなんの芝居もせずにそのまま悪いことをやっている。政府が白昼堂々と国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりしてあからさまに国民の“悪いことをされる喜び”を満足している。
今は国際化の時代である。世界中の国が世界中の文化をやっている。日本でもヨーロッパ文化や中国文化やインド文化をやっている。そのため、政府はヨーロッパ文化や中国文化で割高で善いことをやることによって悪いことをやったり、インド文化でそのまま悪いことをやったりしている。例えば、政府はヨーロッパ文化や中国文化で割高で国の景気をよくすることをやって、インド文化で国の景気を悪くすることをやっている。要するに、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。
昔は文明が遅れていて国民が“善いことをされる喜び”を十分に満足できなかったので「不快感に伴う快感」を利用して政府に悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して快を得ていた。
しかし、今では文明が発達して国民は“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民はテレビや自動車や電話などを使って幸福に暮らしているので「不快感に伴う快感」が要らなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。だから、今の国民にとっては政府が要らなくなっている。そのために、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。今の国民は割安で善いことをする会社を建てて、直接に自分の手で善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらうようになっている。例えば、今の国民は“割安で国の景気をよくする会社”を建てている。今の国民は国の景気をよくする会社に政府よりも安いお金を払って国の景気をよくしてもらおうとしている。
今の政府はヨーロッパ文化や中国文化やインド文化をバラバラにやっているが、国民みんなはそれらを統合した文化をやらねばならない。国民みんなは眼と頭で実在を知り実在に適応して実在の中で眼で見て自分の心を満足して幸福に暮らさねばならない。実在においては『人間はみな平等』なので、みんなは『人間はみな平等である』ことを守って善いことをして悪いことをやってはいけない。

[23107] 今の政府は国民から高いお金を取って面白いテレビ番組や面白いマンガを作っている。 h28.12.10(→ヤフオク出品『アニメのひみつ大百科』の商品解説に載せた。)
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の脳には「不快感に伴って脳内麻薬(エンドルフィン)が分泌される仕組み」がある。
ヨーロッパや中国では文明が進歩してみんなが“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常なことに思われて恥ずかしいので、政府が民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って割高[わりだか]で善いことをすることによって悪いことをやっている。
インドでは文明が進歩せずみんなが大昔と同じように“悪いことをされる喜び”を満足しているので“悪いことをされる喜び”を満足するのが正常に思えて恥ずかしくないので、政府がなんの芝居もせずにそのまま白昼堂々と国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりして悪いことをやっている。
今は国際化の時代である。世界中の国が世界中の文化をやっている。日本でもヨーロッパ文化や中国文化やインド文化をやっている。そのために、政府はヨーロッパ文化や中国文化で割高で善いことをやることによって悪いことをやったり、インド文化であからさまに悪いことをやったりしている。例えば、政府はヨーロッパ文化や中国文化で国民から高い税金を取って割高で善いことをやって面白いテレビ番組や面白いマンガを作って国民に悪いことをしている。私や天皇家などの国家宗教の神がキャラクターになっているのがその証拠である。
昔は文明が遅れていてみんなが“善いことをされる喜び”を十分に満足できなくて「不快感に伴う快感」を使って政府に悪いことをやってもらって“悪いことをされる喜び”を満足して快感を得ていた。
今では文明が進んでみんなが“善いことをされる喜び”を十分に満足しているので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今では文明が進んでみんながテレビを見たりテレビゲームをやったりして楽しく遊んでいるので政府に悪いことをして“悪いことをされる喜び”を満足してもらう必要がなくなった。だから、今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいい。
今の国民は政府に高い税金を払って面白いテレビ番組やマンガを作ってもらっている。割高である。国民は早く政府を倒して、“割安で面白い番組や面白いマンガを作る会社”を建てて、そういう会社に税金よりも安いお金をやって面白い番組や面白いマンガを作ってもらわねばならない。そうすれば、おこづかいが浮いて楽しいことがいっぱいできる。
今の政府は民主主義の芝居の一環[いっかん]としてアニメ会社やマンガ家にお金をやって面白いアニメやマンガを作らせている。アニメ会社やマンガ家は政府からお金をもらって給料がいい。そのために、アニメ会社やマンガ家は政府を擁護[ようご]するアニメやマンガを作っている。アニメ会社やマンガ家はアニメやマンガに政府についてのまちがった情報を入れて視聴者や読者が政府についての誤解を招くアニメやマンガを作っている。国民がアニメやマンガを見ると政府について誤解して政府の言いなりになる。だから、政府についてよくわかっていない国民はアニメやマンガを見ないほうがいい。国民は政府についてしっかりした理解を持ってからアニメやマンガを見ないといけない。

[23108] 今の国民は政府が要らないので政府を倒している。 h28.12.13
今は国際化の時代である。今では世界中の国で世界中の文化をやっている。今の日本政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の芝居をやって割高で善いことをやることによって悪いことをやったり、インド文化でそのまま悪いことをやって国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を奪ったりしている。例えば、政府はヨーロッパ文化や中国文化で国民から高い税金を取って国の景気をちょっとだけよくして、その一方でインド文化で国の景気を悪くしている。要するに、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。一方、国民は世界中の文化を統合して実在主義をやっている。実在においては『人間はみな平等である』ので、国民はみんなと平等にして善いことをやって悪いことをやらないようにしている。
今の日本では文明が進んでいろんな物が発明されて、国民がいろんな物を使って自分の“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びが得られるようになったので、国民は“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。そのため、今の国民にとっては政府が要らなくなっている。
今の国民にとっては政府が要らないので、国民は政府を倒している。国民は政府を倒すために政府に税金を払うのをやめたり、政府の付属会社の替わりになる会社を建てて政府の付属会社が要らないようにしている。国民は政府に税金を払うのをやめて、政府を金欠にして、政府の付属会社が独立民営化するのを促[うなが]している。順序が多少前後しても、結果的に政府がなくなればいいのである。たとえ政府が国民にたてついても、政府が文句を言っても、国民は政府を無視して一方的に政府を倒せばいい。今の国民みんなで政府のない社会にすればいい。

[23109] 政府の仕事は国民に悪いことをして国民を幸福にすることである。☆☆ h28.12.14
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。だから、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府の仕事は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にすることである。大昔の人間は政府に殺されたり財産を奪われたり虐[いじ]められたりして悪いことをされて幸福に暮らしていた。
ヨーロッパや中国は文明が進む国なので、みんなが物を使って便利に暮らして“善いことをされる喜び”を満足しているので自分が政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらうことが異常に思われて恥ずかしいので、政府が民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことをすることによって目立たないように悪いことをやるようになった。
一方、インドは文明が大昔のままで進まない国なので、みんながいつまでも大昔と同じ暮らしをしているので自分が政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらうことが正常に思われて恥ずかしくないので、政府が何の芝居もせずにそのまま国民を殺したり国民からお金を強盗したり国民を虐待したりして国民に悪いことをやりつづけている。
今は国際化の時代である。世界中の国で世界中の文化をやっている。そのため、日本政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをやったり、インド文化でそのまま悪いことをやったりしている。例えば、日本政府はヨーロッパ文化や中国文化で高い税金を取って国の景気をちょっとだけよくして、その一方でインド文化で国の景気を悪くしている。一方、国民は世界中の文化を統合して実在主義をやっている。つまり、今の国民は眼と頭を使って実在を理解して実在に適応して実在の中で眼で見て心を満足して幸福に生きている。実在においては『人間がみな平等である』ので、国民はみんなと平等にして善いことをやって悪いことをやらないようにしている。(h28.12.22追記:実在主義では眼と頭と心のすべてを使う。『知情意』の知は知覚で、情は感情で、意は五感である。意は意志で、意志とは自分が考えていることや思っていることを眼や筋肉を使って具体的に物にすることだから、広義には意は眼で見る五感になるのである。日本では眼と頭と心のバランスが重んじられる。偏[かたよ]るのはいけない。日本でアニメ産業が盛んなのは、アニメが眼と頭と心のすべてを使って作られているからである。)
昔の日本はまだ文明が遅れていたので、みんなは多かれ少なかれ“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ていたので、政府が必要だった。しかし、今の日本では文明がさらに進んでいろんな物が発明されて、みんなが“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているので、今の国民にとっては政府が要らなくなっている。そのため、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。国民は政府を潰[つぶ]すために政府の仕事を只[ただ]で利用している。国民で政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて政府が要らないようにしている。(民間の善いことをする会社は“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではないから国民から割高な料金を取ることができない。リーズナブルな料金を取らねばならない。政府(つまり政府本部と政府の付属会社)は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。反対に、民間会社は国民の“善いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために割高で仕事をする。つまり、給料がいい。反対に、民間会社は国民の“善いことをされる喜び”を満足するために割安で仕事をする。つまり、給料が悪い。民間会社が給料を上げるためには良い仕事をして人気を得るしかない。そこが全然違う。)今の国民は政府の悪い命令を聞かなくなっている。国民みんなで政府のない社会にしている。国民みんなで社会を改良している。
h28.12.16追記:つまり、人間には“悪いことをされる喜び”がある。政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。大昔の人は文明が遅れていて物がなくて“善いことをされる喜び”を満足できなかったのでおもに“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ていた。大昔の人は堂々と政府に人殺しや強盗や虐待などの悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。文明が進むと人間がしだいに物を使って便利に暮らすようになって人間が“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。昔の人にとっては自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが変に思われて恥ずかしいので、政府に民主主義の団体の芝居をしてもらってニセモノの国家権力で高い税金を取って善いことをしてもらって隠して強盗してもらって“悪いことをされる喜び”を満足するようになった。今では文明がさらに進んで今の人は物が豊かになって“善いことをされる喜び”を満足するだけで“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人にとっては政府が要らなくなっている。
国は国民の物である。政府も国民の物である。国民が自分の国を自分で作る。今の国民にとっては政府が要らない。そのために、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。国民は政府の仕事を只[ただ]で利用している。政府は国民からお金がもらえなくなって付属会社を民営化している。今の国民は政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて政府が要らないようにしている。今の国民は政府のない社会にしている。
政府の正体は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。近代の日本ではみんながヨーロッパ文化をやっていたので、政府は民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことすることによって悪いことをやっていた。現代の日本ではみんなが世界中の文化をやっているから、政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをして、インド文化でそのまま悪いことをやっている。中世の日本ではみんながアジア文化をやっていたので、政府(つまり幕府)は中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをやって、インド文化でそのまま悪いことをやっていた。政府はいつの時代でもどこの国でも国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、文化によって姿が変わるだけである。国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体がヨーロッパ文化をやると政府になり、アジア文化をやると幕府になっていただけである。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。今の国民は物が豊かになって“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足していないから、国民にとって政府が要らないから、国民みんなで政府を倒せばいいのである。

[23110] 今の国民が“政府を倒してくれる者”が現れるのをいくら待っても無駄[むだ]である。 h28.12.18
坂本竜馬が維新[いしん]をしたのではない。つまり、坂本竜馬が国民みんなを指揮して幕府を倒して幕府を政府に変えたのではない。
維新をしたのは国民みんなである。国民みんながアジア文化をやめてヨーロッパ文化をやるようになって、国民みんなが幕府(つまりアジア文化の政府)に年貢[ねんぐ]を納めなくなったから幕府が倒れたのである。“国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体”が国民みんなに合わせてアジア文化をやるのをやめてヨーロッパ文化をやるようになって幕府から政府に変わったから、国民みんなは政府に税金を納めて政府に高いお金を取られてちょっとだけ善いことをしてもらうことによって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすようになったのである。
坂本竜馬は自分が幕府に切り殺されることによって、国民みんなに暴力による革命をしないように教えただけである。国民みんなが暴力で幕府を倒すと、幕府に大きな被害が出るから、幕府は自分の身を守るために、国民みんなに「幕府を暴力で倒そうとした者は幕府に殺される」ことを教えるために坂本竜馬に命じて幕府を暴力で倒そうとして幕府に斬り殺されたことにしたのである。坂本竜馬が生まれたころにはすでに国民みんなによって幕府がだいぶ倒されていて、坂本竜馬はただ国民が暴力をふって幕府を倒さないように国民に注意しただけである。(鎖国令なんかない。中世のヨーロッパは文明が衰退したために、ヨーロッパの船がしばらくの間日本に来てくれなかっただけのことである。それを鎖国と呼んでいるだけのことである。日本がヨーロッパと鎖国したのではなく、ヨーロッパが日本と鎖国したのである。中世のあいだヨーロッパの船が日本に来てくれなかったから、日本はヨーロッパの文化をやらなくなってインドや中国の文化をやって、中国が鎖国していたから、日本も中国を真似[まね]て鎖国していただけである。日本にとってはいつの時代でも鎖国をすることよりも世界中の国と交流することのほうが大事である。だから、近代になってヨーロッパの船が日本に頻繁[ひんぱん]にやって来るようになると、さっそく日本はヨーロッパ文化をやるようになって中国文化をやめて中国の真似をやめて鎖国をやめたのである。昔から日本は日本と国交のある国の文化を受け入れていただけであって、景気のいい国の文化を受け入れていたのではない。)
だから、今の国民が“政府を倒す者”が現れるのを首を長くして待っているのはまちがっている。政府を倒すのは国民みんな自身である。今では国民みんなが文明が高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足して十分喜びが得られるようになって“悪いことをされる喜び”を満足する必要がなくなっている。今では国民みんなが“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。つまり、昔の人は嫌な思いをして楽しい思いをしていたが、今の人は嫌な思いをせずに楽しい思いをするようになっている。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。だから、今の国民にとっては政府が要らなくなっている。だから、今の国民みんなが政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいいのである。国民みんなで政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて、政府の付属会社が要らないようにすればいいのである。
国民みんなの指導者なんかいない。国民みんなが自分で考えて社会を変えねばならない。『人間はみな平等である』から、国民と政府も平等である。国民が政府に税金を払って政府に悪いことをされるか、政府に税金を払わず政府に悪いことをされないかは国民個人の自由である。国民は自分が政府に悪いことをされたくなければ、政府に税金を払わず政府を倒せばいいのである。
幕末の国民みんながアジア文化をやめてヨーロッパ文化をやるようになったから幕府に年貢を納めなくなって幕府が倒れて政府に代わったように、今の国民みんなが“善いことをされる喜び”だけを満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから政府に税金を払わなくなって政府が倒れてなくなっているのである。今の政府は税金の替わりに厚生年金や医療保険や消費税で国民からお金を取っているから、国民は厚生年金や医療保険に入らず消費税を払ってはいけない。政府の厚生年金や医療保険は割高である。民間会社が厚生年金や医療保険に参入して政府よりももっといいサービスをすればいい。(h28.12.23追加:実際に“消費税を取らない店”があるのは、国民が政府に税金を払うか払わないかは国民の自由だからである。国民が政府にお金をやりたくなければ“消費税を取らない店”で買えばいい。“消費税を取らない店”があることは、今の国民全員が政府に悪いことをしてもらっているのではないことを表している。国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなくて政府に悪いことをされたくなければ自分で政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされないようにすればいいのである。国民は自分が政府に税金を払いたくなければ払わなければいいのである。“悪いことをされる喜び”がある者は政府に税金を払って幸福になっている。“悪いことをされる喜び”のない者はお金で物を買って物を使って楽しく暮らして幸福になっている。人それぞれ自分が幸福になることをすればいいから、それでいいのである。日本中の“悪いことをされる喜び”のある者から税金を取れば政府ぐらいは経営できる。だから、“悪いことをされる喜び”のない者は政府に税金を払わなくてもいいのである。)
人の心は眼で見えないから他人にはわからない。国民がおとなしく政府に殺されたりお金を取られたり虐[いじ]められたりしているから、政府はてっきり国民が悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいると思って国民に悪いことをするのをやめないのである。だから、国民は政府に殺されたりお金を取られたり虐められたりするのをやめねばならない。国民は政府に税金を払うのをやめて自分が“悪いことをされる喜び”を満足していないことを形で示さねばならない。そうすれば、政府は眼で見て今の国民が“悪いことをされる喜び”を満足していないことがわかって国民に悪いことをするのをやめるだろう。政府はおとなしく国民に悪いことをするのをやめて国民から税金を取るのをやめて自分で潰[つぶ]れてなくなるだろう。
『私は“悪いことをされる喜び”を満足していない。だから、私は政府に税金を払わない。』そういう国民で私はありたい。
h28.12.20追記:革マル派や赤軍派も坂本竜馬と同じである。革マル派や赤軍派は政府に頼まれて国民みんなに「暴力で政府を倒してはいけない」ことを教えるために自分が政府に銃で撃たれて死んだのである。今は国民が政府を倒している時代だから、国民に「暴力で政府を倒してはいけない」ことを教える者がいるのである。実際には坂本竜馬も革マル派や赤軍派のように怖い顔をしていたのである。いつの時代でも国民が暴力で政治団体を倒すのはよくない。国民は政治団体にお金をやらないようにして平和的に政治団体を倒さねばならない。

[23111] 昔の日本人はときどき実在主義をやっていた。 h28.12.18
昔の日本ではヨーロッパの船が来た時代にはみんながヨーロッパ文化をやり、ヨーロッパの船が来なかった時代にはみんながアジア文化をやっていた。
ヨーロッパ文化とアジア文化が入れ替わる時代には世界中の文化が統合されてみんなが実在主義[じつざいしゅぎ]をやっていた。実在主義は昔の日本人がすでにやっていた。その後、みんなはヨーロッパ文化かアジア文化のどっちかひとつに偏[かたよ]ってやっていたのである。
今は国際化の時代である。世界中の国が世界中の文化をやっている。だから、今の日本ではみんなが世界中の文化を統合して実在主義をやらねばならない。
それなのに、今の政府はヨーロッパ文化と中国文化とインド文化をバラバラにやっている。今の政府は国民と違う文化をやっている。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を倒さねばならない。幕末に国民みんながアジア文化をやめてヨーロッパ文化をやるようになって、幕府が国民と違うアジア文化をやっていたから国民が幕府に年貢[ねんぐ]を払わなくなって幕府を倒したように、今の国民は政府が国民と違う文化をやっているから政府に税金を払うのをやめて政府を倒さねばならない。
そもそも政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。ところが、今の国民は文明が発達して物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足していない。今の国民にとっては政府が要らない。だから、今の国民は政府に税金を払わずに政府を倒せばいいのである。
政府が国民と違う文化をやっているからにせよ、国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったからにせよ、どちらにせよ国民は政府を倒さねばならない。だから、今の国民は政府を倒せばいいのである。

[23112] 今の国民は自分がいい給料をもらうために政府に勤[つと]めてはいけない。 h28.12.19
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は政府本部すなわち国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体と、政府本部の付属会社すなわち法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所やテレビ局や出版社やマンガ家などから成る。政府本部からお金をもらっていい給料で仕事をしている者は全部政府の付属会社である。(今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していないために政府が潰[つぶ]れやすいので、政府はテレビ局や出版社にお金をばら撒[ま]いて政府についてウソの情報を広めて国民を政府の言いなりにしなければならなくなっているのである。)政府はヨーロッパ文化や中国文化で国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民から高い税金を取って仕事をする。その上、政府はインド文化でそのまま悪いことをする。政府は国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐[いじ]めたりする。政府は国の景気を悪くしたりする。反対に、民間会社は国民の“善いことをされる喜び”を満足する会社である。民間会社は国民の“善いことをされる喜び”を満足するために安い料金で仕事をする。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために高い料金で仕事をするから給料がいい。反対に、民間会社は国民の“善いことをされる喜び”を満足するために安い料金で仕事をするから給料が悪い。
だからといって、今の国民は自分がいい給料をもらうために政府に就職してはいけない。
今の国民は文明が高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足して十分喜びを得ているので“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民にとっては政府が要らない。だから、今の国民は政府を倒さねばならない。今の国民は政府に税金を払わなかったり、政府の仕事を只[ただ]で利用したり、政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて政府の付属会社を要らなくしたりして、政府を倒さねばならない。今の国民は国から国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体をなくさねばならない。
昔の国民は文明が低くて物が貧しくて不便に退屈に暮らして“善いことをされる喜び”を満足するだけでは喜びが足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の国民にとっては政府が必要だった。昔の国民は政府に高い税金を払って、政府がいい給料だった。だから、昔の国民は自分がいい給料をもらうために政府に就職すればよかった。しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していないから、今の国民は自分がいい給料をもらうために政府に就職してはいけない。自分がいい給料をもらうために政府に勤めるという考えは古臭い。今の国民は政府に税金を払わず政府を倒さねばならない。今の国民がいい給料をもらうためには自分が一生懸命に働いていい仕事をして実力で稼[かせ]がねばならない。

[23113] 今の政府は役立たずである。 h28.12.20
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府の仕事は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にすることである。
しかし、今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足していない。今では文明が高くなって国民は物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして自分の“善いことをされる喜び”を満足して十分喜びが得られているから、自分の“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。だから、今の国民にとって政府は役に立たない。政府は役立たずである。政府は国民の役に立っていないから政府は偉くない。今の国民にとっては政府が要らない。今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいい。
しかし、政府の中には善いことをする会社(政府の付属会社のこと)がある。法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などの国民のために役に立つ会社がある。政府は民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをするために善いことをする会社を擁[よう]している(持っている)のである。
だから、今の国民は政府を倒して政府の中から善いことをする会社を取り出さねばならない。そのために、今の国民は政府に税金を払わず政府のお金を足らなくして善いことをする会社を民営化しなければならない。国民は政府の善いことをする会社を只[ただ]で利用して善いことをする会社をビビらせて善いことをする会社の独立民営化を促[うなが]さねばならない。税金は国民が自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府に払うお金のことだから、今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足していないから政府に税金を払えない。だから、政府の付属会社(つまり善いことをする会社)もお金をもらえない。政府の付属会社は国民からお金がもらえないのが嫌なら、政府から独立して民営化すればいいのである。そうすれば、国民は会社と契約してお金を払って仕事をしてもらうことができる。国民は政府の善いことをする会社の替わりに自分で善いことをする会社を建てて政府の善いことをする会社を要らないようにしないといけない。
『ドラゴンボールZ』のセル編で悟空がセルのお腹を殴[なぐ]って人造人間17号や18号を吐き出させたように、今の国民は政府にお金をやらないことによって政府を攻撃して善いことをする会社を政府から独立させて民営化している。悟空は私あるいは国民であり、ドクター・ゲロは戦前の政府本部であり、セルは今上天皇あるいは戦後の政府本部であり、人造人間たちは国民のために善いことをする政府の付属会社である。人造人間17号や18号は国鉄や郵便局のことである。(もともと国鉄は合理的に経営されていた会社ではない。国鉄は政府が国民から高い税金を取って国民に悪いことをするために不合理的に経営していた会社である。もともと国鉄はわざとにお金の無駄[むだ]使いをして国民に悪いことをするために空[から]の列車をいっぱい走らせていたのである。だから、たとえ国民が自動車を乗るようになって鉄道を利用しなくなっても、国民が“悪いことをされる喜び”を満足していれば喜んで政府に税金を払って政府が国鉄を経営できたはずである。今の国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府に税金を払わなくなったから、政府はお金が足りなくなって国鉄にお金をやれなくなってやむなく国鉄を民営化して合理的に経営するようにしたのである。)人造人間19号は民主主義の団体の芝居をやっている法律会社のことである。19号が中国人っぽいのは中国が民主主義の発祥地[はっしょうち]だからである。人造人間16号は戦争会社(つまり軍隊)のことである。戦争会社は戦後自衛隊となっておとなしくなったから政府本部に国民を虐[いじ]める手段として見捨てられたのである。戦前の国民は物が貧しくて“物を使って得られる喜び”がなくて“戦争をする喜び”があったから政府は国民のために善いことをするために外国と戦争をする戦争会社を建てたが、戦後の国民は物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らすようになって“物を使って得られる喜び”があって“戦争をする喜び”がなくなったから国民は戦争が嫌いになって戦争をしなくなったから戦争会社は自分の国を守るだけで外国に戦争をしないフヌケの自衛隊になったのである。(ちなみに、ブウ編は昭和40年ごろに日本が国際化されて政府がインド文化をやるようになって政府がそのまま悪いことをやるようになったことを表している。太った丸顔のブウがヨーロッパ文化をやっていた政府で、痩[や]せた面長顔のブウがインド文化をやるようになった政府である。痩せたブウが太ったブウを吸収して出来た最終形態のブウが世界中の文化をやるようになった政府である。フリーザ編は戦前の日本の歴史である。ナメック星は私が生まれ育った高知県である。(『ドクタースランプ』のペンギン村も高知県である。ペンギンは南極に住んでいて、高知県は日本の南にあるから、ペンギン村は高知県なのである。)ピッコロは私である。高知県は古臭くて戦前の日本なので悟空はフリーザとナメック星で戦ったのである。実際には、戦前はみんながまだ“悪いことをされる喜び”を満足していたので、政府に喜んで悪いことをしてもらっていて政府を倒さなかった。だから、フィクションの上で国民が政府と戦ったことにしたのである。そのために、悟空が宇宙に出て異星人ばかりいる星で戦うことにしてフィクション性を出しているのである。要するに、フリーザ編はウソの話である。)このように、実際に今の国民がやっていることがアニメになっているのである。悟空がセルと戦っているように、今の国民はすでに政府を攻撃している。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいいのである。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に悪いことをする会社だから、今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足していないから今の国民にとっては悪いことは嫌なだけであり政府がないほうがいいから、今の国民は政府を倒せばいいのである。

[23114] 今の国民にとっては政府がないほうがいい。だから、今の国民は政府を倒している。☆ h28.12.20
昔は国民が物が貧しくて“善いことをされる喜び”を十分に満足できなくて喜びが足りなくて“悪いことをされる喜び”を満足していたから、政府が国民から高い税金を取って付属会社にお金をやって割高で善いことをすることによって悪いことをやってよかった。国民は政府に悪いことをされて喜んでいた。
しかし、今は国民が物が豊かで“善いことをされる喜び”を満足して十分喜びがあって“悪いことをされる喜び”を満足していないから、政府が国民から高い税金を取って付属会社にお金をやって割高で善いことをやることによって悪いことをやってはいけない。政府がインド文化で国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりしてそのまま悪いことをするなどもってのほかである。
今の国民は悪いことをされるのが嫌である。今の国民にとっては政府がないほうがいい。だから、今の国民は政府を倒している。今の国民は政府に税金を払わなかったり、政府の付属会社を只[ただ]で利用したり、政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて政府の付属会社を要らなくしたりして政府を倒している。国民みんなで政府のない社会にしている。国民みんなで“善いことをされる喜び”を満足する会社だけからなる国、つまり国民が自由に契約できるリーズナブルな料金を取る会社だけしかない国にしている。国民みんなでそのまま悪いことをする団体のない国にしている。(カタワとか知恵遅れとか貧乏人とか年寄りとかは生きていても幸福になれない。早く死んだほうが幸福である。だから、福祉はやらなくていい。福祉の替わりに幸福になれない者が自由に安楽死できる制度を設ければいい。)

[23115] 人間の心には二重性がある。 h28.12.20
物質には粒子と波の二重性がある。粒子と波は反対である。それと同じように、人間の心には“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”の二重性がある。“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”は反対である。
人間の脳には不快感を感じると脳内麻薬(エンドルフィン)が分泌[ぶんぴつ]されて快感を感じる仕組みがある。人間の脳に「不快感に伴う快感」があるために、人間には“悪いことをされる喜び”があるのである。
昔は文明が遅れていて人間が物が貧しくて“善いことをされる喜び”が十分に満足できなくて“善いことをされる喜び”を満足するだけでは喜びが足りなくて“悪いことをされる喜び”を満足していたので、昔の人は“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”の両方があったのである。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府に悪いことをしてもらって喜んでいたのである。昔の人は政府に高い税金を取られて喜んだり、政府に殺されて喜んでいたのである。
今では文明が進んで人間が物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”だけを満足するようになったので、今の人は“善いことをされる喜び”が発達して“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”が退化してなくなったのである。オナニーやセックスをすると性欲が満足されて性欲が発達して性欲があるが、オナニーやセックスをしないと性欲を満足しないために性欲が退化して性欲がないのと同じである。今の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったので政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなって政府を倒しているのである。
今の人は自分が政府に税金を取られてうれしくなければ政府に税金を払わなければいい。今の人が政府に税金を取られてうれしいのは、「政府が民主主義の団体で国民のために善いことをする」と思っているからである。しかし、それは誤解である。政府は本当は悪いことをする団体である。政府は高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをやっているのである。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を喜ばせるために悪いことをやっている。しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているから、政府に悪いことをされてもうれしくない。だから、今の国民は政府に悪いことをされなければいい。今の国民は政府に税金を取られなければいい。つまり、今の国民は政府に税金を払わなければいいのである。
今から約30年前に放送されていたNHK教育の番組『やっぱりヤンチャー』で男の子のサルのモンタくんがフライパンでホットケーキを何度もひっくり返して喜んでいたのは、“善いことをされる喜び”をひっくり返した“悪いことをされる喜び”で見ていけば政府のことがよくわかることを表しているのである。

[23116] 今の国民は政府を倒している。☆ h28.12.20
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。今は国際化の時代である。今の政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をして国民から高い税金を取って善いことをすることによって悪いことをやったり、インド文化で国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりしてそのまま悪いことをやったりしている。
昔の国民は文明が低くて物が貧しくて“善いことをされる喜び”を十分に満足できなくて“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ていたから、政府に高い税金を取られたり、幕府に殺されたりして喜んでいた。
今の国民は文明が高くなって物が豊かで物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びが得られるから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。
今の国民は政府に悪いことをされるのが嫌である。今の国民にとっては政府がないほうがいい。だから、今の国民は政府を倒している。今の国民は政府に税金を払わなかったり、政府の付属会社の仕事を只[ただ]で利用したり、国民で政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて政府の付属会社を要らないようにしたりして政府を倒している。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するのが仕事だから、政府が国民から高い税金を取るのは政府のサービスだから、国民が政府のサービスを受けるか受けないかは国民の自由だから、国民は自分が嫌なら政府に税金を払わないようにして政府のサービスを受けなければいいのである。政府は自分が強盗のふりをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために民主主義の芝居をやって自分に国家権力があるふりをして国民が無理やり政府に税金を払わねばならないように思わせているだけだから、政府は本当は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であって民主主義の団体ではないから政府には国家権力なんかないから、国民は政府の民主主義の芝居を真[ま]に受けないようにして政府に税金を払わなければいいのである。つまり、政府の民主主義は強盗の出刃包丁の代わりだから、政府は本当は民主主義の団体ではなく政府はニセモノの民主主義をやっているだけだから強盗がオモチャの包丁を持っているのと同じだから、国民は政府の民主主義の芝居に脅[おど]されないようにして、政府に税金を払わなければいいのである。
今の政府は倒れている。政府はテレビ局や出版社にお金をやってウソの情報を流させて政府が倒れていないふりをしているが、本当は倒れている。国民は眼先で物を見ず頭で物を見て政府が倒れていると考えてこのまま政府を倒していけばいいのである。

[23117] 文明が進むと政府が滅ぶ。 h28.12.21
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間には自分が殺されたり強盗されたり虐待されたりする喜びがある。政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする団体である。昔の人は人間に“悪いことをされる喜び”があることを利用して政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。昔は凄惨[せいさん]な(つまりむごたらしい)時代だったのである。
大昔の人は文明が低くてほとんど“善いことをされる喜び”を満足できず“悪いことをされる喜び”ばかり満足していた。大昔の人は政府に殺されたり強盗されたり虐待されたりして幸福に暮らしていた。
昔の人は文明がちょっと高くなって物を使って便利に暮らすようになってかなり“善いことをされる喜び”を満足するようになった。それでも昔の人は“善いことをされる喜び”を満足するだけでは十分な喜びが得られなかったので“悪いことをされる喜び”も満足しなければならなかった。しかし、昔の人は自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが変に思われて恥ずかしかった。政府は民主主義の団体の芝居をして国民から高い税金を取って少しだけ善いことをして国民に悪いことをするようになった。昔の人は政府に高い税金を取られて少しだけ善いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
今の人は文明がもっと高くなって物を使って便利に楽しく暮らすようになってますます“善いことをされる喜び”を満足するようになった。今の人は“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びが得られるので“悪いことをされる喜び”を満足する必要がなくなって“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今の人は政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなって政府を倒している。今の人はテレビやテレビゲームが自分の家に来た日に政府に税金を払うのをやめればいいのである。
人間は文明が進むと“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなる。人間にとってだんだん政府が要らなくなって政府が滅ぶ。
今の一部の人は政府のことを善いことをする団体だと誤解しているために政府に税金を払って政府が生き残っている。みんなが早く政府のことを正しく理解して政府を倒さねばならない。

[23118] 政府は民主主義の団体ではない。 h28.12.21
政府が民主主義の団体なら、国際化の時代になっても政府は民主主義の団体のままのはずである。政府は善いことしかしないはずである。しかし、実際には政府は国際化の時代になると国民を殺したり国民を虐待したり国の景気を悪くしたりして悪いことをするようになった。だから、政府は民主主義の団体ではない。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。近代の日本はヨーロッパ文化をやっていたから、政府はヨーロッパ政府を真似[まね]て民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取ってちょっとだけ善いことをやることによって悪いことをやっていた。現代の日本は世界中の文化をやっているから、政府はインド政府を真似て何の芝居もせずにそのまま国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したり国の景気を悪くしたりして悪いことをやるようになったのだ。ヨーロッパでは政府が民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取ってちょっとだけ善いことをすることによって悪いことをやっている。つまり、ヨーロッパでは政府はコストパフォーマンスの悪い仕事(バカ高い仕事、ボッタクリ(例えばコーヒー1杯20万円))をすることによって国民に悪いことをやっているのである。
政府は民主主義の団体ではない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府が国民から高い税金を取るのは国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするためである。政府が国民から高い税金を取るのは政府のサービス(つまり仕事)である。しかし、今の国民はますます文明が進んで物が豊かになって“善いことをされる喜び”だけ満足して“悪いことをされる喜び”を満足してない。だから、今の国民は政府に税金を払わないようにして政府のサービスを受けなければいい。今の国民にとって政府はないほうがいいから、国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒せばいいのである。
今の政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れつつある。政府は付属会社にお金をやれなくなって付属会社が民営化されつつある。国民と自由に契約してリーズナブルな料金で仕事をする会社だけしかない国になりつつある。

[23119] 科学の研究のしかた h28.12.22
人間が実在の対象を理解するには、自分の知覚において概念を考え出して概念を組み合わせて実在の対象と同じものを作り出すことである。例えば、人間が政府を理解するには、自分で“悪いことをされる喜び”という概念を考え出して、その概念を用いて『政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である』と表すことである。その認識に基づいて政府についていろんなことを考えるのが政府学である。そうすると、『今の国民は文明が進んで物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足するだけで“悪いことをされる喜び”を満足しないから政府が要らない。』とか『政府が国民から税金を取るのは政府の仕事だから、政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは客(つまり国民)の自由だから、今の国民が自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなくて政府に税金を払うのが嫌なら、政府に税金を払わなければいい。』ことなどがわかる。
同じように、人間が数学の世界の対象を理解するには、自分の知覚において概念を考え出して概念を組み合わせて数学の世界の対象と同じものを作り出すことである。例えば、ユークリッド幾何学における図形を理解するためには、自分の知覚において点とか線とか角とか並行とかの概念を考え出す。それらの概念を用いて『三角形は3つの直線からなる図形である』とか『円はひとつの点から同じ距離にある点の集まりである』と表して三角形や円について理解する。さらに、その認識に基づいて図形についていろんなことを考える。そうすれば、『三角形の内角の和は180度である』とか『ひとつの弦の円周角はみな同じである』とか『三平方の定理』などのいろんな図形の性質がわかる。
本当は、証明が先で定理が後[あと]にある。証明を要約したのが定理である。証明は定理が正しいことを説明するためにあるのではなく、証明の中から定理が見つかるのだ。証明が定理の生みの親だ。私が哲学日記の文章を書いた後でその文章全体を表す一文を考えたり文章の中の一文をピックアップしたりしてその文章のタイトルにするのと同じである。文章が証明で、タイトルが定理である。つまり、定理は証明の要約である。例えば、『今の国民は文明が進んで物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足するだけで“悪いことをされる喜び”を満足しないから政府が要らない。』ことから「今の国民にとっては政府が要らない」という定理が得られるし、『政府が国民から税金を取るのは政府の仕事だから、政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは客の自由だから、今の国民が自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなくて政府に税金を払うのが嫌なら、政府に税金を払わなければいい。』ことから「今の国民は政府に税金を払わなければいい」という定理が得られるわけである。とにかく、定理を発見するためにはやみくもに言葉でぞろぞろと考えねばならない。言葉でゴチャゴチャと考えたことの中からたまに単純で美しく面白いこと(つまり定理)が見つかるのだ。
人間は眼で見るだけでは対象を理解できない。対象を言葉で表してはじめて対象が理解できる。人間はまず対象を言葉で表さないとと考えが始まらない。
人間の脳には知覚がある。だから、その才能を活かしていろんなことを理解しないといけない。そうすれば人間は有利に楽しく暮らすことができる。
h28.12.24追記:人間は自分の知覚に持っている概念を組み合わせて実在する対象を理解することしかできない。だから、“悪いことをされる喜び”の概念を持っていないと、政府がちょっとだけ善いことをするのを見て「政府が国民のために善いことをする民主主義の団体だ」と考えることになる。学校の社会科の知識しかないと「政府が民主主義の団体だ」としか考えられない。そのため、「政府には国家権力があって国民は政府に従わねばならない」と考えることになる。あとは泥沼[どろぬま]である。そうやって、多くの国民が政府の言いなりになっている。(昔の人は自分が“悪いことをされる喜び”を満足していて人間に“悪いことをされる喜び”があることをよく知っていたから、政府が民主主義の団体ではないことがわかっていて政府と平等に付き合っていた。反対に、今の人の多くは自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなくて人間に“悪いことをされる喜び”があることを知らないから、政府を民主主義の団体だと思って政府に国家権力があると思っておとなしく政府に従っている。今の人は昔の人よりも無知でまちがっている。h28.12.25追記:学校で国民(子供のこと)に政府の正体を教えないのは、政府が国民を恥ずかしがらせないためである。今でも自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民はそこそこいる。政府はそういう国民を恥ずかしがらせないために社会科で政府が悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足していることを教えないのである。学校は国民に真実を教えるところではなく、国民が勉強ごっこをして楽しく遊ぶところなのである。学校では真実よりも国民の気持ちのほうが大事だから、けっして国民の気持ちを害[がい]することはしない。だから、学校では国民の気持ちを害する場合には本当のことを教えないのだ。だから、しょせん学校は勉強ごっこにすぎないのだ。学校では政府の正体を教えないから、国民は誰かに教わるか自分で考えて政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であることを知っていないといけないのである。テレビや新聞で国民に政府について本当のことを報道しないのも、自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民を恥ずかしがらせないためである。自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民にとっては自分が“悪いことをされる喜び”を満足することが恥ずかしいので、政府やテレビ局や新聞社は極力政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足していることを伏せているのである。政府やテレビ局や新聞社は自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民に恥をかかせないために政府が善いことをしていることしか報道しないのである。自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民は密[ひそ]かに政府に悪いことをされて喜んでいる。そのことが国民の政府についての理解を妨[さまた]げている。そういうのをありがた迷惑というのである。みんなが密かに性欲を満足しているので性欲に対する理解が遅れているのと同じである。性欲についての理解が遅れていることが精神分裂病の原因になっている。伏せたら何もわからなくなる。反対に、私は恥を恐れずに本当のことを言うのが好きだから、伏せずに本当のことを言うのだ。だから、理解が進むのである。恥の気持ちにとらわれて真実を見失うほうがもっと悪い。不幸の原因になる。そんなに感情的では人間がダメになる。真実よりも心を大事にすることは日本の実在主義に反している。人間は自分の気持ちよりも真実を大事にしないといけない。そうすれば本当に幸福になれる。)国民みんなは早く『人間の心には“悪いことをされる喜び”がある』と考えて『政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だ』と考えて政府のことを正しく理解しなければならない。そうすれば、『今の自分は“悪いことをされる喜び”を満足していないから政府の言うことを聞かなければいい』と考えて、政府の言うことを聞かくなる。国民が底なし沼から抜け出せる。国民が政府に税金を払わなくなって政府が倒れる。そうやって、国民が幸福に暮らせる国にしないといけない。国民みんなで早く政府のことを正しく理解して正しいことをやってまちがったことをするのをやめねばならない。

[23120] どうして政府の経済政策や外交は何の役にも立たないのか?☆ h28.12.22
テレビや新聞でやっている政府の経済政策とか外交とかも、政府が高い税金を取ってちょっとだけ善いことをすることによって国民に強盗まがいの悪いことをやるためにやっているのである。政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにやっていることなのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために、国民から高いお金を取ってほとんど役に立たないことをいろいろやっているのである。政府は最初から国民に善いことをするためではなく悪いことをするために、国民にちょっとだけ善いことをして国民から高いお金を取るために、ほとんど何の役にも立たない経済政策や外交をダラダラやっているのである。政府は国民に悪いことをするためにわざとに国民の役に立たないことをやっているのである。たまに政府が善いことをやるのはまちがって善いことをしてしまったからである。だから、政府は必ずその後で悪いことをして善いことを“修正”するのである。政府の仕事は悪いことをすることだから、政府は必ず悪いことをしないといけないのである。(日本の学者が役に立たない研究ばかりするのも、政府が悪いことをする団体だからである。日本の学者は国民に悪いことをするためにわざとに役に立たない研究ばかりしているのである。)
政府は国民のために善いことをする民主主義の団体ではない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。(h28.12.24追記:今でも多くの国民が「政府が国民のために善いことをしてくれる民主主義の団体だ」と思っている。今でも多くの国民が政府に甘えているために政府の正体が見えないままでいる。だから、土居健郎[どいたけお]著『甘えの構造』なんていう本があったのだ。)
昔の国民は文明が低くて物が貧しくて物を使って便利に楽しく暮らせなくて“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の国民は政府に悪いことをしてもらって喜んでいた。昔の国民は政府に高い税金を取られてほとんど役に立たないことをしてもらって幸福に暮らしていた。だから、昔の国民は喜んで政府に高い税金を払っていた。しかし、今の国民は文明が高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らせて“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民は政府に悪いことをしてもらっても不愉快になるだけである。今の国民は政府に高い税金を取られてほとんど役に立たないことをしてもらっても面白くないだけである。だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。政府が国民から高い税金を取って国民を嫌がらせるのは政府の仕事である。政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは国民の自由である。今の国民は自分が政府に高い税金を取られてほとんど役に立たないことをしてもらうのが嫌なら、政府に税金を払わず政府に仕事をしてもらわなければいいのである。
今の国民は政府に税金を払わなければいい。そうすれば、政府が潰[つぶ]れて、政府の付属会社が民営化されるだろう。国民と自由に契約してリーズナブルな料金を取る会社だけになるだろう。
政府はもともと国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、政府の経済政策や外交はほとんど何の役にも立たないのである。国民がいくら首を長くして待っても政府は国民の役に立つことをしてくれないのである。政府は最初から国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、国民がいくら政府に善いことをしてくれないと文句を言っても政府は善いことをしようとしないのである。早く国民みんなで政府を倒して政府をなくして、国民のために善いことをして国民の“善いことをされる喜び”を満足する会社を建てねばならない。そうすれば、善いことをする会社は国民のために役に立つ経済政策や外交をやってくれるだろう。
政府はもともと悪いことをする団体だから、国民がいくら政府に高い税金をやっても政府は善いことをしてくれない。国民がいくら政府にお金をやっても無駄[むだ]である。国民が政府に税金を払うか払わないかは国民の自由である。だから、国民は政府に税金を払わず政府を倒して、政府の替わりに善いことをする会社を建てればいいのである。善いことをする会社にお金をやって善いことをしてもらえばいいのである。

[23121] 今では政府が滅びつつある。 h28.12.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。
大昔(紀元前)の人は文明がすごく低くて物を使って便利に楽しく暮らせなかったから“善いことをされる喜び”を満足することができず“悪いことをされる喜び”を満足して幸福にならねばならなかった。大昔の人は政府に殺されたり政府に強盗されたり政府に虐待されたりして悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。(h28.12.24追記:今でもインド人はそうやって暮らしている。インド人は頭で考える喜びだけで生きているので、眼で見える世界はほったらかしで進歩しないのだ。インドは文明が進歩しない国である。インドは生きている太古[たいこ]の社会の化石なのだ。)
昔(紀元後)の人は文明がちょっと高くなってそこそこ物を使って便利に楽しく暮らすようになったのでかなり“善いことをされる喜び”を満足できるようになったので自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが変に思われて恥ずかしくなった。人間がふだん自分が服を着て暮らすようになったら裸でいるのが恥ずかしくなるのと同じである。それでも昔の人が“善いことをされる喜び”だけを満足したのでは喜びが少なくて足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得なければならなかった。そのため、昔の人は政府に善いことをしているふりをして悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に露骨[ろこつ]に殺されたり強盗されたり虐待されたりするのをやめた。昔の人は政府に民主主義の団体の芝居をしてもらって政府に高い税金を取られてちょっとだけ(つまり自分が払った税金に見合わないほどわずかな)善いことをしてもらったりほとんど何の役にも立たないことをしてもらったり善いことをしているふりをしてもらったりすることによって悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。
今(21世紀)は国際化の時代である。世界中の国で世界中の文化をやっている。ヨーロッパや中国は進んだ国である。インドは遅れた国である。そのため、日本政府はインド文化で国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりして悪いことをやったり、ヨーロッパ文化や中国文化で国民から高い税金を取ってちょっとだけ善いことをやったりほとんど何の役にも立たないことをやったり善いことをしているふりをしたりして悪いことをやっている。
今の人は文明がかなり高くなって物を使って便利に楽しく暮らすようになって“善いことをされる喜び”だけを満足して幸福に暮らしている。今の人は“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びが得られるので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人は政府が要らなくなっている。今の人は政府に税金を払わなくなって政府が滅びつつある。政府が国民からお金をもらえなくなってお金が足りなくなって付属会社を経営できなくなって政府の付属会社が民営化されつつある。国民と自由に契約してリーズナブルな料金で仕事をする会社だけになりつつある。
文明が進むと人の心が変わる。国の文明が高くなると国民が“悪いことをされる喜び”を満足することから“善いことをされる喜び”を満足することに変わる。国民の心から“悪いことをされる喜び”がなくなって“善いことをされる喜び”だけになる。そのため、国の文明が進むと国民が政府に幸福にされることから政府に不幸にされることに変わる。文明の進歩とともに国民の性格が変わるので国民にとって政府が要ることから要らないことに変わるのだ。今の国民は政府が要らないから政府を倒しているのだ。

[23122] 『論理的なことは実在的である。』 h28.12.24
私には人間の心に“悪いことをされる喜び”があるという実感はない。ただ、『人間の心に“悪いことをされる喜び”がある』と仮定すると、国民や政府のやっていることが論理的に説明されるから、『人間の心に“悪いことをされる喜び”がある』ことが正しいことがわかるだけである。
ヘーゲルが言ったように『論理的なことは実在的であり、実在的なことは論理的である』から、論理的に説明されることが実在的であり正しいのである。(人間は論理的に思考できるから、人間は実在を理解できるのである。)
だから、『人間の心に“悪いことをされる喜び”がある』ことが正しい。したがって、『人間の心に“悪いことをされる喜び”がある』ことに基づいて考えていけばいいのである。実際に、最近の私はそうしてきた。
今では文明が高くなって人間が物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らすようになって“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているから、私には“悪いことをされる喜び”の実感がないのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足しているだけである。政府は上の者でも国家権力がある者でもない。政府は“悪いことをされる喜び”を満足するという特殊な仕事をする会社にすぎないのである。『人間はみな平等である』から、政府と国民は平等である。ところが、今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していなくて政府が要らないから、今の国民は政府を倒せばいいのである。政府が国民から税金を取るのは政府の仕事だから、会社に仕事をしてもらうかもらわないかは客の自由だから、今の国民は政府の仕事を利用しないようにして政府に税金を払わないようにして政府を倒せばいいのである。今の国民は政府に税金を払わないようにして、政府の付属会社の仕事を只[ただ]で利用するようにして、政府のお金が足りないようにして政府の付属会社を民営化させればいいのである。国民と自由に契約してリーズナブルな料金で仕事をする会社だけにすればいいのである。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であって、上の者でも国家権力がある者でもない。だから、国民が政府にゴマをすっても何にもならない。政府にゴマをすると出世できると思うのは妄想である。だから、国民は政府に何にもしなければいいのである。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体にすぎない。国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足したければ政府の言うことを聞き、自分が“悪いことをされる喜び”を満足したくなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。
私にお金と暇と“考えるために適した環境”があれば、これまで自分が哲学日記で考えてきたことを『ぼくの政府学ノート』としてまとめて本にしたいと思っている。私の文はあまりうまくはないが、今のところ読んで政府のことが理解できるのは私の文しかない。だから、私が本を出せば売れるだろう(笑い)。私が手作業でチマチマ物を作るより、頭を使って文を作ったほうがよっぽど他人の役に立つと思うのだが。だれか、私にお金をくれる人はいませんか?連絡先>mko0@d9.dion.ne.jp(私のメールアドレス)まで。

[23123] 今の政府は国民を喜ばせようとして国民に嫌なことをやっている知恵遅れの養護の会社である。 h28.12.24
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。今は国際化の時代だから、政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民から高い税金を取ってちょっとだけ善いことをしたりほとんど役に立たないことをやったり善いことをしているふりをしたりすることによって国民からお金を強盗して国民に悪いことをやったり、インド文化でなんの芝居もせずにそのまま国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したりして国民に悪いことをやっている。
昔の国民は文明が低くて物が貧しくて物を使って“善いことをされる喜び”を十分に満足することができず“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ていた。昔の国民は政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていたので喜んで政府に税金を払っていた。
しかし、今の国民は文明が高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足していない。今の国民にとっては政府が高い税金を取ったりそのまま悪いことをしたりするのが嫌なだけである。
今の政府がやっていることは、知恵遅れの養護の子供がお腹がすいている赤ちゃんを喜ばせるために赤ちゃんに砂を飲ませて殺しているのと同じことである。養護の子供は赤ちゃんがミルクが欲しいことがわからないから砂を飲ませているのである。それと同じように、今の政府は今の国民の心をちっとも理解していないから今の国民が“善いことをされる喜び”しかないことがわかっていないから一方的に(つまりやみくもに盲目的に)国民を幸せにするために国民に悪いことをやっている。これでは国民がたまらない。国民にとってはいいありがた迷惑である。
今の国民にとっては政府が要らない。国民は赤ちゃんと違って政府に抵抗できる。政府が国民の心を理解してくれないのなら、国民が自分で自分の心を理解して自分で政府に悪いことをしてもらうかもらわないか決めねばならない。今の国民は“善いことをされる喜び”だけを満足していて政府に悪いことをされたくないから、今の国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒せばいいのである。政府が国民から税金を取るのは政府が国民を喜ばせるためのサービスだから、国民は自分が政府に悪いことをされるのが嫌なら、政府のサービスを断って政府に税金を払わなければいいのである。国民みんなで悪いことをする政府を倒して、国民から割高な料金を取る政府の付属会社の替わりに国民と自由に契約して国民からリーズナブルな料金を取る会社を建てればいいのである。
h28.12.25追記:他人の心のことは人間にはわからない。政府にとっては国民の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかわからない。だから、政府は昔と同じように国民みんなの心に“悪いことをされる喜び”があると考えて国民みんなに悪いことをしているのである。政府は国民みんなから高い税金を取ったり国民みんなを殺したり強盗したり虐待したり国の景気を悪くしたりして国民みんなに悪いことをしているのである。政府が国民と契約を取らずに国民から税金を取るのは、政府が国民から税金を取ることが政府が国民からお金を強盗することだからである。つまり、政府が国民から税金を取るのは悪いことなのである。国民が黙っているから政府が国民に“悪いことをされる喜び”がないことがわからないのである。国民がおとなしく政府に悪いことをされているから、政府はてっきり国民が悪いことをされて喜んでいると思って国民に悪いことをしているのである。だから、国民は自分の心を外に出さねばならない。国民は自分の心に“悪いことをされる喜び”がなければ、自分が“悪いことをされる喜び”を満足していなければ、政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされないようにすればいい。政府が国民に悪いことをするのは政府の仕事だから、国民が政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは国民の自由だから、国民は自分が政府に悪いことをして欲しくなければ自分で断って政府に悪いことをされないようにすればいいのである。例えば、国民は自分が政府に高い税金を取られたくなければ、政府に高い税金を払わなければいいのである。そうすれば、政府も国民の心がわかって、国民に悪いことをしない。だから、国民はどんどん政府の仕事を断ればいいのである。

[23124] 今の日本には“悪いことをされる喜び”を満足している国民と“悪いことをされる喜び”を満足していない国民の2種類の国民がいる。☆ h28.12.25
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は上の者でも民主主義の団体でもない。政府には上の者の特権や国家権力はない。政府は民間会社と同じただの会社である。だから、国民は政府と平等にすればいい。
昔は国の文明が低くて国民みんなが物が貧しくて物を使って便利に楽しく暮らせなくて“善いことをされる喜び”を十分に満足できなくて“悪いことをされる喜び”を満足していた。国民みんなが政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
今は国の文明が高くなって国民みんなが物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らせるようになって“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、今の日本には“悪いことをされる喜び”を満足している国民と“悪いことをされる喜び”を満足していない国民がいる。だから、“悪いことをされる喜び”を満足している国民は政府に悪いことをしてもらって、“悪いことをされる喜び”を満足していない国民は政府に悪いことをしてもらわなければいい。“悪いことをされる喜び”がある者は政府に税金を取られたり政府に殺されたり虐[いじ]められたりして幸せな思いをすればいい。(“悪いことをされる喜び”のある者は税金払って幸福になれるから得だなあ〜(イヤミ)。)“悪いことをされる喜び”を満足している者にとっては自分が政府に悪いことをされることが必要だから政府が必要悪なのである。法律を守って自分の“悪いことをされる喜び”を満足するなら他人に迷惑がかからないからかまわない。だから、自分の“悪いことをされる喜び”を満足したい者は法律を守りながら他人に迷惑がかからないようにしながら政府に悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足すればいいのである。反対に、“悪いことをされる喜び”がない者は政府にいくら税金を払ったり殺されたり虐められたりしても幸せになれないから、政府に税金を払ったり殺されたり虐められたりせずに、物を買って物を使って自分の心を満足して幸せな思いをすればいいのである。(私の祖先は黒田藩(福岡県)の幕府の武士だったから、幕府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するのであって自分自身の“悪いことをされる喜び”を満足しないから、私には“悪いことをされる喜び”がないのである。私の祖先は自分が国民に悪いことをするのが嫌で武士をやめて百姓になったぐらいだから、よっぽど“悪いことをされる喜び”がないのだろう。しかし、一般の国民には今でも“悪いことをされる喜び”がある者が多いのかもしれない。遺伝の差だ。だから、いまだに政府や宗教団体や暴力団が儲[もう]かっているのだ。遺伝的に“悪いことをされる喜び”の強い者は文明が高くなっても自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのだ。たとえ今の国民みんなが政府のことを誤解していなくて『政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことをちゃんと知っていても、政府に悪いことをされている者がそこそこいるのは、心に“悪いことをされる喜び”がある者がそこそこいるからである。生まれつき“悪いことをされる喜び”の強い者は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福になるしかないからそうしているのである。それが今の国民が政府に悪いことをされている最大の原因である。人は見かけによらぬものである。たとえ外見は自分と同じ人間でも、心は自分とは全然違うのだ。国民の一部の馬鹿は「政府が民主主義の団体であり政府に国家権力があるから国民は政府に従わねばならない」と誤解しているが、普通の国民は『政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことを知っている。だから、国民が政府に悪いことをされるかされないかは国民に“悪いことをされる喜び”があるかないかで決まるのである。(私は子供のころから社会科が苦手だったので40歳ごろまでは「政府が民主主義の団体だ」と思って政府の言いなりになっていたが、政府が国民を殺していることに気づいてから政府について考えて約10年かけて『政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことがわかった。社会科の苦手な私ですら自分ひとりで考えて10年ぐらいで政府のことがわかった。社会科の得意な人ならもっと早くわかるだろう。だから、普通の国民にとっては『政府が“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことぐらい常識だろう。私が政府に殴[なぐ]り込みをかけずに恥さらしにならずにすんでよかった(笑い)。哲学においても私は学生のころから自分ひとりで一生懸命考えて約30年かけてようやく『人間は大脳の古皮質よりも新皮質を働かせれば幸福になれる』ことがわかった。普通の人は子供のころからそんなことぐらい知っていて幸福に生きている。私がほかの人よりも遅れていただけである。政府のことについても同じである。私が子供のころから社会科や哲学が苦手だったのがいけないのである。))
人間には他人の心はわからない。政府には国民の心はわからないから、今の国民は自分で自分の心をよく知って自分の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかよく知って自分が政府に悪いことをされるかされないか決めねばならない。政府は民主主義の団体ではないから多数決は関係ないから、国民はみんなにかまわず自分の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかだけ考えて政府に悪いことをされるかされないか決めねばならない。いくら自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者が政府に高い税金を取られたり殺されたりして喜んでいるからといって、自分の“悪いことをされる喜び”を満足していない者が自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者を真似[まね]ると自分が不快な思いをして損をするだけである。だから、国民は他人を真似ずに自分の心に従わねばならない。
今の日本は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”を満足していない国民が増えて“悪いことをされる喜び”を満足している国民が減っている。政府に悪いことをされない国民が増えて政府に悪いことをされる国民が減っている。そのために、政府がだんだん国民から税金をもらえなくなって政府が滅んでいる。
昔の学者が政府について本当ことをみんなに言わなかったのは、昔はみんなが自分の“悪いことをされる喜び”を隠して満足していたので、みんなが自分の“悪いことをされる喜び”を満足していることを暴露[ばくろ]してみんなに恥ずかしい思いをさせてみんなの反感を買わないためである。自分がみんなを怒らせてみんなに殺されないためである。しかし、今は自分の“悪いことをされる喜び”を満足していない者が増えている。今は自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者があまりいない。今では自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者が幅が利[き]かなくなっている。そのため、今では自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者はみんなに自分が“悪いことをされる喜び”を満足していることを知られてもいい覚悟で政府に悪いことをしてもらっている。今では自分の“悪いことをされる喜び”を満足している者は、みんなに政府について本当のことを知られてもいい気持ちでいる。だから、今では政府について本当のことを言ってもいいのである。実際に、今の私がそうしている。だから、今では誰でも政府について本当のことを言えばいいのである。

[23125] 今では“悪いことをされる喜び”のある者が減っている。 h28.12.26
人間は自分の心を満足して幸福になればいい。人間の心はめいめい違う。“悪いことをされる喜び”がある者とない者がいる。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民に命令して国民から高い税金を取ったり国民を殺したり国民を虐[いじ]めたりして国民に悪いことをするから、政府に悪いことをして欲しい者は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらえばいい。反対に、政府に悪いことをして欲しくない者は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをしてもらわなければいい。
“悪いことをされる喜び”がある者は政府に悪いことをしてもらうと幸福になれるから、政府の悪い命令を聞いて政府に悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸せに暮らしている。
反対に、“悪いことをされる喜び”がない者は政府に悪いことをしてもらっても幸福になれないから、政府に悪いことをしてもらわず、別のことをして自分の心を満足して幸福に暮らしている。
今では国の文明が高くなっていろんな楽しい物が出来てみんなが“善いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、政府の言うことを聞く者が減っている。政府に税金を払う者が減っている。政府は儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れつつある。政府は付属会社を民営化しつつある。
国は国民みんなのものである。国は国民みんなで作る。昔は“悪いことをされる喜び”のある者の時代だった。昔は国民みんなが政府に高い税金を払ったり政府に殺されたり虐[いじ]められたりして政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。(いつの時代でも日本は世界中の文化をやっている。ただ、外国との国交が途絶[とだ]えると、その国の文化が日本に入らなくなるだけである。中世はヨーロッパが暗黒時代で文明が衰退したためにヨーロッパが日本に来なくなったから、日本はヨーロッパ文化がやれなくなってアジア文化の濃い国になっていたのである。近代はヨーロッパが文明が発達してヨーロッパが日本に頻繁[ひんぱん]にやってくるようになったから、日本は盛んにヨーロッパ文化をやってヨーロッパ文化の濃い国になっていたのである。近代の日本ではヨーロッパ文化だけでなくちょっとはアジア文化もやっていたから、日本政府はアジア文化で自分の“悪いことをされる喜び”を満足している国民に命令して国民を殺したり虐めたりしていたのである。)今は“悪いことをされる喜び”のない者の時代である。今では国民みんなが政府に税金を払わなかったり政府に殺されたり虐められたりしないようにして政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らしている。今では国民みんなが政府に税金を払わないようにしたり政府の付属会社の仕事を只[ただ]で利用したりして政府を潰して、割高で仕事をする政府の付属会社の替わりに国民と自由に契約してリーズナブルな料金を取って仕事をする民間会社を建てている。“悪いことをされる喜び”がない者にとっては政府に割高で仕事をしてもらっても嫌なだけだから、国民みんなで政府に税金を払うのをやめて政府を潰して、政府の付属会社の替わりに安い料金で仕事をする会社を建てている。

[23126] 人間には“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”の両方がある。☆ h28.12.26
人間の心にはいろんな喜びがある。“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”の2種類の喜びがある。
政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする会社である。
昔は文明が低くて人間が物が貧しくて“善いことをされる喜び”を満足できなかった。そのために、昔は人間が政府に悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。
今は文明が高くなって人間が物が豊かで“善いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすようになっている。そのため、今では人間が自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。
時代によって人間が満足する喜びが変わる。文明が低いと人間は“悪いことをされる喜び”を満足して、文明が高いと人間は“善いことをされる喜び”を満足する。今は文明が高い時代だから、人間は“善いことをされる喜び”を満足するようになっている。そのために、みんなは政府の言うことを聞かなくなって政府に税金を払わなくなって政府が滅んでいる。

[23127] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにある会社である。 h28.12.26
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。日本では昔から世界中の文化をやっている。特に今は国際化の時代だから、政府はインド文化を多めにやっている。政府はヨーロッパ文化や中国文化で民主主義の団体の芝居をやって国民のためにちょっと善いことをやったりほとんど役に立たないことをやったり善いことをやっているふりをしたりして国民に命令して国民から高い税金を取ることによって悪いことをやったり、インド文化で何の芝居もせずに国民に命令して国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したり国民を貧乏にしたりすることによって悪いことをやっている。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の命令を聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の命令を聞かなければいい。
昔は国の文明が遅れていて国民が物が貧しくて“善いことをされる喜び”を満足できなくて喜びが足りなくて“悪いことをされる喜び”を満足していた。そのため、昔の国民は政府の命令を聞いて政府に高い税金を取られたり政府に殺されたり虐[いじ]められたりして政府に悪いことをしてもらって幸福に生きていた。
今は国の文明が進んで国民が物が豊かになって“善いことをされる喜び”を満足して十分喜びが得られているから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、今の国民は政府の命令を聞かなくなって政府に税金を払わなくなって政府が潰[つぶ]れている。政府はお金が足りなくなって付属会社を民営化している。国民と自由に契約して国民からリーズナブルな料金を取る会社だけしかない国になっている。
しかしながら、今でも“悪いことをされる喜び”のある者がそこそこいる。生まれつき“悪いことをされる喜び”が強い者は文明が高くなっても“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ている。“悪いことをされる喜び”のある者は政府に高い税金を取られたり殺されたり虐められたりして政府に悪いことをされて幸福になれるから政府の命令を聞いて政府に悪いことをされればいい。反対に、“悪いことをされる喜び”のない者は政府に悪いことをされても不快になるだけで幸福になれないから、政府の命令を聞くのをやめて政府に悪いことをされなければいい。国民みんながめいめい自分が幸福になることをやって幸せに暮らせばいいのである。(“悪いことをされる喜び”があるからといって価値の低い人間とはかぎらない。“悪いことをされる喜び”の有無で人間の価値を判断してはいけない。実際に、文学者の小林多喜二[こばやしたきじ]や三島由紀夫[みしまゆきお]や川端康成[かわばたやすなり]やカメラマンの星野道夫[ほしのみちお]やマンガ家の臼井 儀人[うすいよしと]のように“悪いことをされる喜び”のある者のほうが勉強や仕事の才能があることもある。)
しかし、今では国の文明が高くなっているから、今では“悪いことをされる喜び”のない者のほうが“悪いことをされる喜び”のある者よりも幸福に暮らせるようになっている。そのため、“悪いことをされる喜び”のある者が減って“悪いことをされる喜び”のない者が増えている。政府の命令を聞く者が減って政府の命令を聞かない者が増えている。そのために、政府が国民からお金をもらえなくなって潰れている。
国は国民みんなの物である。国は国民みんなが作る。政府が建つか倒れるかは国民みんなが決める。政府が建つか倒れるかは国民みんなを見ればわかる。“悪いことをされる喜び”を満足する者が多ければ政府が建ち、少なければ政府が倒れる。今でも政府が建っているのは、いまだにそこそこ多くの国民が“悪いことをされる喜び”を満足しているからである。今の政府はジェンカの積み木のようにかろうじて建っているだけだ。将来“悪いことをされる喜び”のある者が減れば、政府は倒れてなくなるだろう。それはいつのことだろうか?

[23128] “悪いことをされる喜び”を満足しない者は政府の命令を聞かなければいい。 h28.12.27
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。そのために、政府は国民に命令して国民から高い税金を取ったり国民を殺したり国民を虐[いじ]めたり国民を貧乏にしたりする。政府は悪いことをやっているから怖いが、国民を幸福にするために悪いことをやっているのだから本当は優しいのである。
“悪いことをされる喜び”を満足したい者は政府の命令を聞いて政府に悪いことをしてもらえばいい。
“悪いことをされる喜び”を満足したくない者は政府の命令を聞かず政府に悪いことをされなければいい。
昔は国の文明が遅れていて国民みんなが物が貧しくて物を使って便利に楽しく暮らせず“善いことをされる喜び”を満足できず喜びが足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ていた。そのため、昔は国民みんなが政府の命令を聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。昔は国民みんなが政府に税金を払って政府を建てていた。
今は国の文明が発達して国民みんなが物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足して喜びを得ているので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、今は国民みんなが政府の命令を聞かず政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らしている。今は国民みんなが政府に税金を払わないようにして政府を倒している。
しかしながら、今でもそこそこ“悪いことをされる喜び”を満足している者がいる。生まれつき“悪いことをされる喜び”が強い者は文明が高くなっても自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きているからである。そのために、今でも政府が建っている。人間がどんな喜びを満足しようが人の勝手である。“悪いことをされる喜び”を満足しない者は政府の命令を聞かず政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らせばいいのである。民間会社が建っているからといって民間会社の物を買わねばならないわけではないように、政府が建っているからといって政府に悪いことをされねばならないわけではない。国民は自分で考えて自分の心を知って自分の心を満足して自分を幸福にすればいいのである。
“悪いことをされる喜び”は大脳の古皮質の喜びである。人間は大昔は弱い生き物だったからほかの動物に殺されたり食べ物を取られたり虐[いじ]められたりして生きていたから“悪いことをされる喜び”があるのである。人間は大昔は弱い生き物だったから、生物の世界ではほかの動物よりも下の位[くらい]で生きていたから、人間が低い位にいるように人間が低い位にいるときにもっとも幸せになれるように人間には“悪いことをされる喜び”があるのである。反対に、今では人間は強い生き物になって生物の世界では最も高い位で生きているから“悪いことをされる喜び”を満足しないほうがふさわしくなったのである。

[23129] 今では“悪いことをされる喜び”のある者でも“悪いことをされる喜び”のない者でも暮らせる社会になっている。☆ h28.12.27
人間の心には“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”の両方がある。
普通の会社は国民に善いことをして国民の“善いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。
政府は国民に命令して国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。
“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”はライバルである。“善いことをされる喜び”を満足する会社と“悪いことをされる喜び”を満足する会社はライバル会社である。
昔は国の文明が低くて“善いことをされる喜び”を満足する会社があまりなかった。そのために国民は“善いことをされる喜び”をあまり満足できず喜びが足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足する会社を利用していた。昔の国民は政府の命令を聞いて政府に悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。昔の国民は政府に税金を払って政府を建てていた。
今は国の文明が高くて“善いことをされる喜び”を満足する会社がたくさんある。そのために、国民は“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びが得られるので“悪いことをされる喜び”を満足する会社を利用しなくなっている。今の国民は政府の命令を聞かず政府に悪いことをしてもらわなくなっている。今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。
しかしながら、今でも“悪いことをされる喜び”を満足している者がいる。生まれつき“悪いことをされる喜び”が強い者は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きているのである。人間の心はめいめい違う。人間がどんな喜びを満足するかは人間の勝手である。だから、今でも“悪いことをされる喜び”のある者は政府の命令を聞いて政府に悪いことをしてもらって政府に税金を取られて幸福に暮らしている。反対に、“悪いことをされる喜び”のない者は政府の命令を聞かず政府に悪いことをしてもらわず政府に税金を払わず幸福に暮らしている。“悪いことをされる喜び”のない者は政府の付属会社の仕事を無料で利用して暮らしている。それが、“悪いことをされる喜び”のない者の特権である(貴族みたいでかっこいい!)。政府の付属会社は困って“悪いことをされる喜び”のある者でも“悪いことをされる喜び”のない者でも利用できるようにしている。つまり、政府の付属会社は半分民営化している。だから、今は“悪いことをされる喜び”のない者は政府に税金を払わずに政府の付属会社の仕事をその都度[つど]料金を払って利用すればいいのである。“悪いことをされる喜び”のある者は政府に税金を払った上に政府の付属会社の仕事をその都度料金を払って利用すればいいのである。政府に税金を払わないのは“悪いことをされる喜び”のない者の特権である。“悪いことをされる喜び”のある者は政府に税金を払えば幸福になれるから政府に税金を払えばいい。(“悪いことをされる喜び”のある者にとっては税金は自分が政府に悪いこと(政府に税金を取られることそのものも含む)をされて幸福にしてもらうための代金だから当然払うべきである。)“悪いことをされる喜び”のない者は政府に税金を払わなければ幸福になれるから政府に税金を払わなければいい。今の日本社会は“悪いことをされる喜び”のある者も“悪いことをされる喜び”のない者も両方が幸福に暮らせる便利な社会になっている。(これが『もりもりぼっくん』(東映不思議コメディーシリーズ6作目)が夢に見たロボットと動物が仲良く暮らせる社会である。ロボットが“悪いことをされる喜び”のない者で、動物が“悪いことをされる喜び”のある者である。)将来文明がもっと進んで“悪いことをされる喜び”がある者がいなくなれば、政府がなくなって民間会社だけになるだろう。

[23130] 今の政府は国民みんなに対して悪いことをやってはいけない。 h28.12.27
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は“悪いことをされる喜び”を満足している国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は民主主義の団体の芝居をやって善いことをする団体のふりをしているが、政府の真の目的は国民の“悪いことをされる喜び”を満足することである。要するに、政府はただの“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は国民の“善いことをされる喜び”を満足する団体ではなく、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体なのである。政府は国民の“善いことをされる喜び”を満足するためにある団体ではなく、国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにある団体なのである。
昔は国の文明が遅れていて国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していた。そのため、昔の政府は国民みんなに対して悪いことをしてもよかった。昔の政府は国民みんなから高い税金を取ったり国民みんなを殺したり虐[いじ]めたり貧乏にしたりしてもよかった。
しかし、今は国の文明が進んで国民みんなが“善いことをされる喜び”を満足することが増えて“悪いことをされる喜び”を満足することが減っている。今では“悪いことをされる喜び”を満足している者と“悪いことをされる喜び”を満足していない者の両方がいる。そのため、今では政府が国民みんなに対して悪いことをしてはいけない。今の政府は国民みんなから高い税金を取ったり国民みんなを殺したり虐めたり貧乏にしたりしてはいけない。今の政府は“悪いことをされる喜び”のある者に対してだけ悪いことをしないといけない。今の政府は“悪いことをされる喜び”のない者に対して悪いことをしてはいけない。それを犯すと政府が悪いことになる。政府が国民みんなに罰せられることになる。政府が悪ければ、国民は政府をまともに相手にせずにひたすら倒せばいい。
今の政府はまず国民を“悪いことをされる喜び”のある者と“悪いことをされる喜び”のない者に分けて、“悪いことをされる喜び”のある者に対してだけ高い税金を取ったり殺したり虐めたり貧乏にしたりしないといけない。
“悪いことをされる喜び”のある者は政府の命令を聞いて政府に高い税金を取られたり殺されたり虐められたり貧乏にされたりしないといけない。“悪いことをされる喜び”のある者は政府の付属会社にその都度[つど]料金を払って仕事をしてもらわないといけない。
“悪いことをされる喜び”のない者は政府の命令を聞かず政府に悪いことをされないようにしないといけない。政府に税金を払ったり殺されたり虐められたり貧乏にされたりしないようにしないといけない。“悪いことをされる喜び”のない者は政府の付属会社にその都度料金を払って仕事をしてもらわないといけない。政府の付属会社が料金を取らない場合には無料で利用してもいい。
たとえ政府がそういう決まりで動かなくても、国民みんながそういう決まりで動いて行って国民みんなが幸福に暮らせる国にすればいい。
今の政府が“悪いことをされる喜び”のない国民に悪いことをしているのは、今の政府が悪いことをしているからである。今の政府が『政府が“悪いことをされる喜び”のある国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である』ことや『今の国民の多くが“悪いことをされる喜び”を満足していない』ことを知らないことはありえないから、政府は故意[こい]に悪いことをやっているのである。今の政府が悪い。だから、今の国民は政府を倒さねばならない。今の国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒さねばならない。国民みんなの手で今の悪い政府を倒して、“悪いことをされる喜び”のある国民に対してだけ悪いことをする善い政府を建てねばならない。
今の政府は“悪いことをされる喜び”がある者もない者も見境[みさか]いなくすべての国民に悪いことをやっている。“悪いことをされる喜び”を満足する団体と悪いことをする団体(つまり犯罪組織)は混同しやすいので、政府は国民に「政府が悪いことをする団体だ」と思わせて政府に逆らえないようにするために見境いなく悪いことをやっている。今の政府は自分が生き残るために悪いことをやっているのである。“悪いことをされる喜び”がない者にとっては死ぬまでずっと政府に悪いことをされてはたまらない。だから、“悪いことをされる喜び”がない者はちゃんと政府に悪いことをされるのを断らねばならない。“悪いことをされる喜び”がない者は政府の命令を聞かず政府に税金を払ったり殺されたり虐められたり貧乏にされたりしないようにしないといけない。早く国民みんなで今の政府を倒して、新たに“悪いことをされる喜び”のある国民に対してだけ悪いことをする政府を建てねばならない。“悪いことをされる喜び”のない国民は政府に合わせて自分が“悪いことをされる喜び”を満足するようになるのではなく、自分に合わせて今の政府に悪いことをされないようにして今の政府に税金を取られないようにして今の政府を倒さねばならない。そうやって、自分が幸福に暮らせる社会にしないといけない。
そもそも今でも“悪いことをされる喜び”を満足している国民がそこそこいるのがいけない。今の文明社会では人間は“悪いことをされる喜び”を満足するよりもしないほうが人間が幸福に暮らせるはずである。“悪いことをされる喜び”を満足している者が本音[ほんね]で生きていないのがいけない。“悪いことをされる喜び”を満足すると自分が政府に悪いことをされて自分の多くの喜びが満足されなくなる。例えば、政府に高い税金を取られてお金がなくなって物が買えなくなって楽しいことができなくなる。自分が“悪いことをされる喜び”を満足するために自分の多くの喜びが満足されなくなって自分が慢性欲求不満になって不幸になる。これでは鬱病[うつびょう]と同じである。だから、“悪いことをされる喜び”のある者はいつも気持ちが落ち込んでいてつらい思いをして暗いのである。周[まわ]りのみんなにとっては鬱陶[うっとう]しくて迷惑である。だから、今の人間が幸福に暮らすためには“悪いことをされる喜び”を満足しないほうがいい。今では文明が発達して便利で楽しい物がたくさんあるから、そういう物を使って楽しく幸福に暮らせばいい。早く国民みんなで“悪いことをされる喜び”を満足するのをやめて政府を倒さねばならない。国に“悪いことをされる喜び”を満足する大きい会社を建ててはいけない。小さい会社だけにしないといけない。
政府は“悪いことをされる喜び”を満足する者がいるから建っているのである。だから、政府をなくすためには政府に訴えるよりも“悪いことをされる喜び”のある者に訴えたほうがいい。“悪いことをされる喜び”を満足している者に訴えて“悪いことをされる喜び”を満足しないようにさせればいい。“悪いことをされる喜び”を満足している者に訴えて今では“悪いことをされる喜び”を満足しないほうが幸福に生きていけることをわからせればいい。国から“悪いことをされる喜び”を満足する者がいなくなれば政府は消えてなくなるだろう。

[23131] 政府は善いことをしている芝居をしながら悪いことをする団体である。☆☆ h28.12.28
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民に命令して国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したり国民を貧乏にしたりして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。
大昔の人は文明が低くて物が貧しくて“善いことをされる喜び”をほとんど満足できなくて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福になっていた。そのため、大昔の人は政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして幸福に暮らしていた。
昔の人は文明が少し高くなって物が少し豊かになって“善いことをされる喜び”をかなり満足できるようになったので自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが異常で恥ずかしいと思うようになった。しかし、昔の人はまだ物が貧しくて“善いことをされる喜び”を満足するだけでは十分な喜びを得ることができなかったので“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得なければならかなった。そのため、昔の人は隠して自分の“悪いことをされる喜び”を満足していた。政府は自分が悪いことをする仕事をしているのを隠すために善いことをする仕事をしていた。政府は国民を騙[だま]すためではなく、国民に恥ずかしい思いをさせないために善いことをする仕事をしていた。昔の人は政府に表で民主主義の団体の芝居をしてもらって政府に善いことをしてもらいながら、裏では政府の命令を聞いて悪いことをしてもらっていた。昔の人は表で政府に善いことをしてもらいながら、裏では政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。
今の人は文明が高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らして“善いことをされる喜び”を満足して十分な喜びを得ている。そのため、今の国民は“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、今の国民は表で政府に善いことをしてもらいながら、裏では政府の命令を聞かなくなって政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりしなくなっている。国民は政府の悪いことをする仕事を利用しなくても政府の善いことをする仕事を利用できるので、“悪いことをされる喜び”のない国民は政府の善いことをする仕事だけ利用すればいいのである。今の国民は政府に強盗されなくなって(つまり税金を払わなくなって)政府を倒している。政府はお金が足りなくなって自分が国民に悪いことをしているのを隠すために設けていた付属会社(法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所など)を民営化している。国民と自由に契約してリーズナブルな料金で仕事をする会社だけになっている。政府の善い仕事をする会社(付属会社のこと)が本当に善い仕事をしているなら、独立民営化して生きていけるから問題ない。政府の善い仕事をする会社が本当は善い仕事をしていないなら、民営化できず潰[つぶ]れるだろう。
政府は善いことをする芝居をしながら悪いことをする団体である。政府は善いことだけをする団体ではない。政府は表で国民を健康にしたり裕福にしたり愉快にしたりしながら、裏で国民を殺したり国民から強盗したり国民を虐待したり国民を貧乏にしたりしている。政府は善いことと悪いことの両方やっている。政府はそもそも国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に悪いことをする団体だから、善いことよりも悪いことを多くやっている。しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民は政府に悪いことをされても嫌なだけでうれしくない。だから、今の国民はさっさと政府に税金を払わないようにして政府を倒さねばならない。国民で善いことよりも悪いことを多くやる政府の替わりに“善いことだけをする会社”を建てて、“善いことだけをする会社”にお金をやって仕事をやってもらわねばならない。
政府が“善いことをされる喜び”を満足する団体なら「今の政府は国民に善いことをしているために偉そうにして国民に悪いことをしている」と考えられるが、本当は政府は“悪いことをされる喜び”を満足する団体なので『今の政府は自分が悪いことをしているのを隠すために善いことをしている』のである。人間には“悪いことをされる喜び”があるから、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをしているのである。
政府は国民に悪いことをする団体である。政府は善いことと悪いことの両方をやっているが、善いことよりも悪いことを多くやる。政府は国民を裕福にすることよりも貧乏にすることを多くやる。要するに、政府は国民を貧乏にする。だから、今の日本の景気がいいのは政府のおかげではない。国民のおかげである。国民ががんばっているからである。国民は政府に感謝するのではなく、自分自身に感謝しないといけない。
政府は善いことをしている芝居をしながら悪いことをする団体である。だから、政府は政[まつりごと](善いことをしている芝居のこと)をする府(団体のこと)というのである。反対に、幕府は善いことをしている芝居をせずに悪いことをしているから、善いことをする芝居の幕を下ろしているので幕府というのである。政府も幕府も同じ悪いことをする団体である。今の国民は政府の芝居に惑[まど]わされないようにして政府の正体を見失ってはいけない。今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していなくて政府に悪いことをされるのが嫌だからさっさと政府を倒して“善いことだけをする会社”を建てねばならない。

[23132] 政府は善い仕事と悪い仕事をやっている。☆☆ h28.12.29
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には自分が殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりする喜びがある。人間はずっと昔弱い生き物だったので、自分が弱い生き物であるために“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民に命令して国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の命令を聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の命令を聞かなければいい。
大昔の人は文明が低くて“悪いことをされる喜び”を満足していた。大昔の人は政府に善い仕事をしてもらわずに、政府に悪い仕事をしてもらっていた。大昔の人は政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。
昔の人は文明がやや高くなって“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなって隠して“悪いことをされる喜び”を満足するようになった。政府は善い仕事をやって隠しながら悪い仕事をするようになった。宗教団体のオウム真理教がパソコンショップや食堂をやって自分が悪い仕事をしているのを隠していたのと同じである。(実際には、オウム真理教が悪い仕事をしていることがみんなにバレバレでもかまわないのである。オウム真理教が善い仕事をやることによって多少信者(宗教団体に悪いことをされている人)の恥ずかしい気持ちを減らすだけでいいのである。人間の心はふだん“善いことをされる喜び”を満足していると善いことに対する感受性が高まって善いことをちょっとやっているだけで善いことをする会社に見えるのである。政府や宗教団体や暴力団がちょっと善い仕事をやっているだけで善い団体だと思ってしまう。そのために、国民が政府や宗教団体や暴力団に悪いことをしてもらっても恥ずかしくなくなるのだ。)昔の人は政府に善い仕事をしてもらいながら、政府に悪い仕事をしてもらっていた。昔の人は政府に健康に裕福に愉快にしてもらいながら、政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。政府は国民から強盗したお金(つまり税金)の一部を善いことをする会社にやって善いことをする会社を経営していた。
今の人は文明が高くなって“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今の人は政府に善い仕事をしてもらうだけで、政府に悪い仕事をしてもらわなくなっている。今の人は政府に健康に裕福に愉快にしてもらうだけで、政府の命令を聞かず政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりしないようにして幸福に暮らしている。政府が国民から強盗する(つまり税金を取る)のは政府の悪い仕事なので、今の国民は政府に悪い仕事をしてもらわなくなっているから政府に強盗して(つまり税金を取って)もらわなくなっている。つまり、今の国民は政府に税金を払わなくなっている。(h28.12.31追記:政府は相手の承認を得て強盗したお金で善いことをやっているのであって、相手の承認を得ずに強盗したお金で善いことをやっているのではない。だから政府のやっていることは犯罪ではない。一方、石川五右衛門は相手の承認を得ずに強盗したお金で善いことをしたから犯罪になって罰せられたのである。石川五右衛門は相手の承認を得ずに強盗したお金でいくら善いことをしても犯罪になることをみんなに教えるためにわざとにそうしたのかもしれない。政府は国民の承認を得て強盗したお金で善いことをやっている。政府が国民の承認を得ずに強盗したお金でいくら善いことをやってもいけない。政府がいくら国民のために善いことをするからといって政府が国民の承認を得ずに強盗することはできないから、国民が政府に強盗されるのが嫌なら政府に強盗されなければいいのである。つまり、国民は政府に税金を払うのが嫌なら払わなければいいのである。)今の国民は勇気を出して政府に税金を取られるのを断って政府に税金を取られなくなっている。今の政府は国民からお金を強盗できなくなって(つまり税金を取れなくなって)潰[つぶ]れている。政府は国民からお金をもらえなくなって善いことをする会社にお金をやれなくなって善いことをする会社を民営化している。国には国民と自由に契約してリーズナブルな料金を取って仕事をする会社だけになっている。
時代が進んで文明が高くなると国民が“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなる。国民にとって政府が要らなくなって政府に税金を取らさなくなって政府が潰れている。今では善いことをする会社だけになりつつある。
h28.12.30追記:国民が政府に悪い仕事をしてもらうかもらわないかは国民個人の問題であって、国民みんなで統一してどちらかひとつに決めることではない。今では国の文明が進んで国民が“善いことをされる喜び”を満足することが増えて“悪いことをされる喜び”を満足することが減って、政府に悪いことをしてもらいたい国民が減っている。政府に悪いことをしてもらいたい国民は少数派(マイナー)である。だから、政府に悪いことをしてもらいたくない国民は堂々と自信を持って政府に悪い仕事をしてもらうのを断ればいいのである。政府の命令を聞かず政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりしなければいいのである。政府に税金を取られなければいいのである。国民みんなで早く自分たちの心を満足する国にしないといけない。

[23133] 人間にとっては頭で考えることが一番楽しい。 h28.12.30
このごろ私は原付を買って原付の運転をするために夜中に1〜2時間ぐらい外を走っている。しかし、だんだん飽きてつまらなくなってきた。頭で考えるほうがずっと楽しい。乗り物などしょせん移動するための手段にすぎない。
人間にとっては頭で考えることが一番幸せなことである。バイクで乗り回したりすることはつまらないことである。自分の見かけをよくすることはつまらないことである。オナニーやセックスをすることはつまらないことである。
人間は自分が幸福になるために、面白いことをやってつまらないことをやってはいけない。
今の世の中は他人につまらないことを売る商売が増えている。(政府は国民に悪いことをする会社だから、政府が絡[から]んでいるかもしれない。政府が今の国民に格好[かっこう]付けばっかりやらせているのは、今の国民に頭で考えさせないようにして政府の正体を知られないようにするためかもしれない。)みんなは宣伝に引っかからないようにして自分が本当に面白いことをやって幸福にならねばならない。もっと世の中に他人に面白いことを売る商売を増やして、みんなが幸福に暮らせるようにしないといけない。
勉強とは自分で勉[つと]めて(つまり努力して)頭を働かせて考えて自分の“考える喜び”を満足させて自分の“考える喜び”を強めることである。自分の“考える喜び”を勉めて強めるから勉強と言うのである。勉強は自分で自分を幸せにすることである。勉強すればするほど自分の“考える喜び”が強まってますます自分が考えて幸福になれる。だから、みんなは自分が幸福になるために喜んで勉強しないといけない。

[23134] 今の国民は政府の善いところだけを拾[ひろ]って悪いところを捨てている。 h28.12.31
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には自分が殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりする喜びがある。人間の心には普通の“善いことをされる喜び”のほかに“悪いことをされる喜び”がある。物質には正物質のほかに反物質があるようなものである。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民に命令して国民を殺したり国民から強盗したり(つまり税金を取ったり)国民を虐待したり国民を貧乏にしたりする団体である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の命令を聞き、政府に悪いことをされたくなければ政府の命令を聞かなければいい。
大昔の国民は文明が低くて物が貧しくて物を使って便利に楽しく暮らせなかったために“善いことをされる喜び”をほとんど満足できず“悪いことをされる喜び”を満足して幸福にならねばならなかった。大昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”が普通の喜びだった。そのため、大昔の人は政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。大昔の人は政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりして幸福に暮らしていた。
昔の国民は文明が少し高くなって物が少し豊かになって物を使って便利に暮らすようになって“善いことをされる喜び”を満足することが増えて“悪いことをされる喜び”を満足するのが減った。そのため、昔の国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが変に思えて恥ずかしくなった。人間が服を着るようになると裸でいるのが恥ずかしいのと同じである。しかし、昔の国民は“善いことをされる喜び”を満足するだけではまだ十分な喜びが得られなかったので“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。そのために、昔の国民は隠して“悪いことをされる喜び”を満足するようになった。政府は新たに善いことをする団体を設けて隠して悪いことをするようになった。そのおかげで、国民は隠して政府に悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすことができた。昔の国民は政府に善いことをしてもらいながら、一方で悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。昔の国民は政府の法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などにその都度[つど]料金を払って利用しながら、政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりして政府に自分の“悪いことをされる喜び”を満足してもらって幸福に暮らしていた。政府は国民から強盗したお金の一部を善いことをする会社にやって善いことをする会社を経営していた。
今の国民は文明がさらに高くなって物が豊かになって物を使って便利に楽しく暮らすようになったのでますます“善いことをされる喜び”を満足するようになった。今の国民は“善いことをされる喜び”を満足するだけで十分な喜びが得られるようになったので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。そのために、今の国民は政府に善いことをしてもらいながら、悪いことをされないようにしている。今の国民は政府の法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などにその都度料金を払って利用しながら(お金を取らない場合は只[ただ]で利用しながら)、政府の命令を聞かないようにして政府に殺されたり強盗されたり(つまり税金を取られたり)虐待されたり貧乏にされたりしないようにしている。そのため、政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。政府はお金が足りなくなって、政府の善いことをする会社を民営化している。国に悪いことをする会社がなくなって善いことをする会社だけになっている。(h29.1.1追記:政府の法律会社は税金の法律を定めている。しかし、税金は政府が国民から強盗することである。税金は政府が国民に悪いことをすることである。だから、政府の法律会社は善いことをする会社ではない。政府の法律会社は悪いことをする会社である。政府の法律会社は国民を虐[いじ]めたり国民を貧乏にしたりする政策をやっている。政府の法律会社は政府本部に近すぎるので悪いことをやっている。一方、政府の法律会社は正しい法律を定めたり善い政策をやったりもするから、政府の法律会社は善いことと悪いことの両方やっている。政府の法律会社は自分が善いことを悪いことの両方をできるようにするためにわざわざ間接民主制をやっている。だから、国民は自分で考えて政府の法律会社の正しい法律を守ったり善い政策だけやって、まちがった法律を守ったり悪い政策をやってはいけない。しかし、国民がいちいち自分で考えて善いことだけやって悪いことをやらないのは面倒くさい。国民が全部自分で考えるのなら法律会社は要らない。だから、国民みんなで早く政府を倒して、国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に悪いことをする団体をなくして、国民のために正しい法律や善い政策だけをやる法律会社を建てねばならない。昔なら国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していたので国民みんなに悪いことをする団体があってもよかったが、今は国民のほとんどが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったので国民みんなに悪いことをする団体があってはいけない。だから、今の国民は国民みんなに悪いことをする政府を倒さねばならない。)
文明が進歩すると国民の心が変わる。国民が“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなる。そのために、国民が政府を建てることから政府を倒すことに変わっている。今の政府は倒れてなくなっている。
h29.1.1追記:政府は善いことをする団体で隠している悪いことをする団体である。そのため、政府のことをよく知らない者は「政府が善いことをする団体だ」と誤解している。「政府が善いことをする団体だ」と思っている者は『政府が悪いことをする団体だ』と考えて『自分は“悪いことをされる喜び”を満足していないから政府の命令を聞かなくていい』と考えて政府の命令を聞かず政府に税金を払わない者を嫌う。「政府が善いことをする団体だ」と思っている者はまちがっている。まちがっている者から見てまちがっているように見える者は正しい者である。まちがっている者がまちがっていると思って悪気[わるぎ]をかける者は本当は正しい者である。まちがっている者から見て正しいように見える者はまちがっている者である。まちがっている者は馬鹿である。悪気をかける者に正しい者はいない。人間は実在において正しければいい。だから、『政府が悪いことをする団体である』ことを知っている者は周[まわ]りを気にせずにとにかく自分が正しいことをすればいいのである。

[23135] 政府は民主主義の団体ではない。 h28.12.31
民主主義の団体とは要するに善いことをする団体のことである。(多数決そのものは人の心で決めることである。多数決は中国文化である。中国文化では物事は人の心で決めるので、国のことは国民みんなの多数決で決めるのである。ところが、人間の心は人間が生まれつき持っている実在についての認識であり、人間の心にはまちがいがたくさんある。だから、多数決で決めるとまちがいを犯す。だから、多数決で決めてはいけない。人間は自分の頭で物や心についてよく考えて決めねばならない。日本文化は実在主義なので頭で考えねばならないのである。日本は昔から世界中の国の文化を取り入れてきたから正しい主義なのである。東京が日本中の田舎[いなか]の文化を取り入れているから正しい主義なのと同じである。日本は世界中の国の文化を取り入れて文化を統合したから正しい主義なのである。アメリカは世界中の国の文化を取り入れているが文化を統合していないから正しい主義になっていない。そこが、日本とアメリカの違いだ。アメリカは付け焼刃[やきば]なのである。)
政府が民主主義の団体であるつまり政府が善いことをする団体であるというのは嘘[うそ]である。政府はそもそも悪いことをする団体であり、悪いことをする団体が国民を恥ずかしがらせないために善いことをする団体を設けて自分の正体を隠しているだけである。文明が進むと国民が“善いことをする喜び”をたくさん満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足するのが変に思われて恥ずかしくなって自分の“悪いことをされる喜び”を隠して満足するようになるから、政府は国民が利用しやすいように善いことをする団体を設けて自分が悪いことをする団体であるのを隠しているのである。そうすれば、国民は恥ずかしい思いをせずに堂々と政府の命令を聞いて政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜ぶことができるのである。
政府の正体は悪いことをする団体である。国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。昔の国民は文明が低くて“善いことをされる喜び”を十分に満足できなくて“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得なければならなかったから、表で政府の善いことをする仕事を利用しながら、裏では政府の命令を聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。政府は国民から強盗したお金の一部で善いことをする会社を経営していた。しかし、今の国民は文明が高くなって“善いことをされる喜び”を十分満足できるようになって“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得る必要がなくなっているから、表で政府の善いことをする仕事を利用するだけで、裏では政府の命令を聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の国民は政府の命令を聞かなくなって政府に強盗されなくなって(つまり税金を払わなくなって)いる。政府は国民からお金を強盗できなくなって倒れている。政府はお金が足りなくなって善いことをする会社を経営できなくなって、善いことをする会社を国民と契約して国民から直接に料金を取って仕事をするようにして民営化している。国から悪いことをする団体がなくなって善いことをする団体だけになりつつある。

[23136] 「おもろうてやがてダメージ」 h29.1.3
マンガ『魔法陣グルグル』のシュギ村編に出てくる有名なこの言葉は、昔の人は“悪いことをされる喜び”があったから政府に悪いことをされるのが面白かったが、今の人は“悪いことをされる喜び”がないから政府に悪いことをされるのが面白くなくて嫌になっているということである。
時代が進んで国の文明が高くなって国民みんなの心が変わると、たとえ政府が同じことをやっていても政府に対する国民みんなの印象が変わる。国民が“悪いことをされる喜び”があることからないことに変わると、国民が政府に幸福にされることから不幸にされることに変わる。そのため、昔の人は政府に税金を払って政府を建てていたが、今の人は政府に税金を払わないようにして政府を倒しているのである。
これ以後平成29年3月20日追加:政府は国民から税金をもらって遊びまわっている会社ではなく、国民から税金を強盗して国民にいろんな悪いことをして国民の“苦痛に伴う快感”(つまり国民が苦痛を感じるとそれを癒[いや]すために国民の脳内に快楽物質が分泌されて国民が快感を感じること)を満足して国民を幸福にする会社である。だから、『魔法陣グルグル』の単行本の第2巻では「楽チンに耐える修行」ではなく『悪いことをする修行』と言わねばならない。政府の人は本当は自分が国民に悪いことをするのは嫌だが国民を幸せにするためだと思って涙を飲んで国民に悪いことをしているのである。ただ、今の国民は文明生活に馴染[なじ]んで喜びが腐るほどあって“苦痛に伴う快感”が要らなくなっているから政府に悪いことをされるのは迷惑なだけだが。
そういう目で見ると「おもろうてやがてダメージ」もゴチンコ“拳法”だから、政府が国民に悪いことをする方法のひとつだから“政府が最初は国民に善いことをしておいてあとで悪いことをする”ことだろう。政府はそうやって国民に糠[ぬか]喜びの苦しみを与えて国民に“苦しみに伴う快感”を与えて国民を幸福にするのだ。「おもろうてやがてダメージ」というのは国の文明の進歩によって国民の感性が変わって国民にとって政府のやっていることが嫌になったことではなく、政府の国民に対する嫌がらせかたにすぎないのだ。
政府が国民に“苦痛に伴う快感”を与えていることを書いた文学はいくつかある([23204]を参照)。しかし、国の文明の進歩によって国民の感性が変わって政府がやっていることが嫌になったことを書いた文学はあまりないようだ。この段落の最後まで平成29年3月29日追記:アメリカのテレビドラマでは“大人は宗教団体の言いなりになって宗教団体に苦しみを与えられて喜んでいるが、子供は宗教団体の言うことを聞こうとしないシーン”がよくあるが、それは今では文明が進歩して今の人は“苦しみに伴う喜び”を得ようとしないことを表しているのだろう。大人の世界では国民が政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされているのに、子供の世界ではみんなが不良に悪いことをされなくなったのは、今の時代に生まれ育った者は“苦しみに伴う喜び”を得ようとしなくなっているからである。今の子供が大きくなって大人になれば、もはや政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされなくなるのだろう。だから、今ではだんだん政府や宗教団体や暴力団が滅んでなくなっているのだ。『起動戦士ガンダム』のニュータイプという概念も、単語だけだが、昔の人と今の人は違っていて昔の人は“苦しみに伴う喜び”を得ようとしたが今の人は“苦しみに伴う喜び”を得ようとしないという意味だろう。
これ以後平成29年3月21日追加:政府は国民を幸福にするために涙を飲んで国民に悪いことをする。反対に、政府は自分の恨[うら]みを晴らすために特定の国民に悪いことをしてはいけない。政府は必ず無差別にランダムに国民に悪いことをしないといけない。政府に権力があれば、政府は特定の国民を自分の好き勝手にすることができるが、政府に権力がなければ、政府は特定の国民を自分の好き勝手にできない。日本では国民が政府に従わず政府に権力がないから、政府は特定の国民を自分の好き勝手にできない。たとえ国民が政府の眼の前で「お前の母ちゃん出べそ」と言って政府を馬鹿にしても、政府はその国民に手出しができない。戦前に星製薬(作家の星新一の父親が経営していた会社)が政府に攻撃されたのは、ヨーロッパの真似[まね]をするために政府と星製薬が組んで打ったお芝居である。国民に「政府に権力がある」と思わせて国民をからかうためにやった三文芝居である。『おはよう!こどもショー』のヤラレマンとイビリマンのお芝居と同じである。星新一は作家だから『人民は弱し 官吏は強し』にはあることないこと書いているのだ。作家は生まれつき本当のことが言えないように出来ているのだ。作家は日本人の例外なのだ。また、政府は自分が儲[もう]けるために特定の会社からお金をもらってその会社を有利にしたり別の特定の会社を攻撃したりしてはいけない。反対に、外国では国民が政府に従って政府に権力があるから、政府は自分が気に入らなければ特定の国民を自分の好き勝手にできる。磔[はりつけ]にしたり火あぶりにしたりして殺すことができる。外国では国民が政府に従うのが好きだから国民は自分が死んでも喜んで政府の命令を聞くから、政府が国民を自分の好き放題にできるのである。外国では国民が政府に従うのが猛烈[もうれつ]に好きだから、政府に絶大な権力があるのである。外国では国民がちょっとでも政府の気に障[さわ]ったら政府に殺される。外国は恐ろしい国である。しかし、外人にとってはそういう国が好きなのである。
政府は無差別に国民に悪いことをしないといけない。政府は無差別に国民を殺したり虐[いじ]めたりしないといけない。政府はたとえ相手が自分が好きな人であっても仕事のために相手を殺さねばならないのだ。政府は自分が好きな人を殺さないわけには行かないのだ。政府は好きな人を幸福にするために好きな人を殺さねばならないのだ。それができない人は政府をクビにされるのだ。

[23137] 他人の心は知的に理解するしかない。 h29.1.6
ヨーロッパ人と日本人は違う。身体が違う。言葉が違う。心が違う。例えば、ヨーロッパ人には“戦争をする喜び”や“植民地を取る喜び”や“弱い者を助ける喜び”などがあるが日本人にはない。
それと同じように、昔の人と今の人は違う。身体が違う。言葉も違う。心も違う。例えば、昔の人には“悪いことをされる喜び”があったが今の人にはない。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が気持ちよくなるためにありったけのお金を政府に税金として払っていた。そのため昔の政府はすごく儲[もう]かっていた。反対に、今の人は政府に税金を取られるのが嫌なだけである。そのため、今の人は政府に税金を払わなくなって、政府が儲からなくなった。
だから、今の人が心で共感して昔の人をわかることはできない。今の人は頭で理解して昔の人をわかることしかできない。
だから、古文は知的な頭のいい人が得意とする分野なのである。例えば、ドイツの数学の帝王ガウスは古文が得意だった。私も中学生の頃は数学や古文が好きだった。外国文学も頭がいい人が得意な分野である。反対に、現代文は心で共感してわかるから心的な(感情的な)心が敏感な人が得意とする分野なのである。
今の人は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がないが、昔の人は文明が低くて“悪いことをされる喜び”があった。だから、今の人が昔の人の“悪いことをされる喜び”を心で共感してわかることはできない。今の人は『昔の人には“悪いことをされる喜び”があった』と考えて知的に昔の人の心を理解するしかないのである。そうすれば、『政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である』ことが理解でき、『今の国民は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がないから、自分が政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされなければいい』ことが理解できる。
厳密には、同じ時代の同じ国の人間の間でも心が違う。自分と他人の心は違う。だから、自分にとっては他人の心は心で共感してわかるものではなく、頭で知的にわかることしかできないのである。現代文も心ではなく頭でわからねばならないものなのである。だから、高田瑞穂[たかだみずほ]の『新釈現代文』のような本があるのである。
『人間に“悪いことをされる喜び”がある』ことはけっしておかしなことではない。これまでマンガ家やテレビの脚本家がみんなに変だと思わせるようなことをしてきたから変だと思うだけである。例えば、赤塚不二夫が変態のオカマの異魔人[いまじん](『赤塚不二夫の全部切りぬく本』に掲載)などというマンガを描いたから、みんなは『人間に“悪いことをされる喜び”がある』なんてバカバカしくてありえないと思っているのである。そのために、みんなは政府のことが理解できなくなってわけがわからないままおとなしく政府の言いなりになっているのである。みんなはマンガ家やテレビの脚本家などに踊らされないようにして、ちゃんと自分の目で真実を見なければならない。
h29.1.9追記:『政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことは、ひと昔前ならみんなの常識だった。昔はみんなが黙ってエッチなことをして性欲を満足して喜んでいたように、みんなが黙って政府に悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいた。今では文明が進んで、今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているために『政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である』ことがわからなくなっている。今の国民が性欲を満足しなくなっているために『性器が性欲を満足する器官である』ことがわからなくなっているのと同じことである。そのために、今の国民は「政府が民主主義の団体である」とか「政府が犯罪組織である」などと誤解してまちがったことをやっている。今の国民は早く政府のことを正しく理解して正しいことをやってまちがったことをやめねばならない。

[23138] 今の国民は実在が理解できるようになったために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。☆☆ h29.1.11
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には自分が殺されたり財産を奪われたり虐待されたり貧乏にされたりする喜びがある。人間の心は人間が生まれつき持っている実在についての知識であり、人間の心にはまちがいがあるから、人間の心は自分が悪いことをされると喜ぶのである。つまり、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民を殺したり税金を取ったり虐[いじ]めたり貧乏にしたりして国民を喜ばせる団体である。
大昔の国民は文明が低くて実在のことを知らず自分の心のままに生きていたので“善いことをされる喜び”をほとんど満足せずもっぱら“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいた。大昔の国民は自分のほうから政府に悪いことをしてもらって喜んでいた。
昔の国民は少し文明が高くなって実在のことが少し理解できるようになって“善いことをされる喜び”をかなり満足するようになった。昔の国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなった。しかし、昔の国民が“善いことをされる喜び”を満足するだけでは喜びが足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。そのため、昔の国民は政府に民主主義の団体(つまり国民に善いことをして国民の“善いことをされる喜び”を満足する団体)のふりをしてもらって隠して悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいた。
日本政府は国民を恥ずかしがらせないために民主主義の団体のふりをしている。政府は民主主義の団体ではなく、本当は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。だから、国民は国民みんなの総意によらず、自分が政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらいたいかもらいたくないかによって政府に悪いことをされるかされないかを決めねばならない。
今の国民は文明が高くなって実在を正しく理解できるようになって実在の中で喜ぶようになったために“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民は政府に悪いことをしてもらう必要がない。だから、今の国民は政府に悪いことをしてもらわなければいい。今の国民は政府にお金を強盗されないようにして、つまり政府に税金を払わないようにして政府を倒せばいい。政府の付属会社を民営化して、“善いことをされる喜び”を満足する会社だけにすればいい。
人間の文明が進んで人間が頭(知覚)で実在を理解するようになって人間が正しいことがわかるようになったから、人間は善いことをされると喜ぶようになったのである。つまり、人間は“善いことをされる喜び”を満足するようになったのだ。

[23139] 文明が高くなると人間は自分の心のままに生きなくなる。☆ h29.1.13
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、自分が殺されたり財産を取られたり虐待されたりする喜びがある。
政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする団体である。
大昔の人は文明が低くて実在を知らずに自分の心のままに生きていたので平気で自分の“悪いことをされる喜び”を満足していた。大昔の人は平然と政府に悪いことをされて喜んでいた。
昔の人は少し文明が高くなってそこそこ実在を知って実在の中で自分の心を満足するようになったのでかなり“善いことをされる喜び”を満足するようになった。つまり、“善いことをされる喜び”とは、人間が実在を知って実在の中で満足される喜びのことである。自分が病気を治してもらったり財産をもらったりいい待遇にされたりする喜びである。現代的には普通の喜びのことである。しかし、それでもまだ“善いことをされる喜び”を満足するだけでは喜びが足りなかったので、“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。昔の人は自分の“善いことをされる喜び”を満足するのが善いことであり、自分の“悪いことをされる喜び”を満足するのが悪いことだと思うようになった。人間には悪いことを隠してやる性質がある。だから、昔の人は政府に“善いことをする付属会社”で正体を囲[かこ]って民主主義の団体(つまり人間に善いことをして人間の“善いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする団体)のふりをしてもらって隠して政府に悪いことをしてもらって密[ひそ]かに自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいた。
今の人はますます文明が高くなって実在を知って実在の中で自分の心を満足するようになって“善いことをされる喜び”だけを満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今の人は政府に悪いことをされるのが嫌なので自分で政府の悪い命令を断って政府に悪いことをされないようにしている。今の人は政府に税金を払えと言われても政府の言うことを聞かないようにして政府に税金を払わないようにして政府を倒している。
文明が高くなると人間が自分の心のままに生きることから実在を知って実在の中で自分の心を満足することに変わる。昔の人は自分の心のままに生きて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して政府に悪いことをされて喜んでいたが、今の人は実在を知って実在の中で自分の心を満足するようになって自分の“善いことをされる喜び”を満足して喜ぶようになって自分の“悪いことをされる喜び”を満足するのが嫌になって自分で政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされないようにしている。
文明が進むと人間が“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府が要らなくなって政府が滅ぶ。だから、今の人は政府を滅ぼせばいいのである。世の中を人間の“善いことをされる喜び”を満足する会社だけにして、人間の“悪いことをされる喜び”を満足する会社をなくせばいいのである。

[23140] 大昔の人は実在に支配されていたので“悪いことをされる喜び”があった。☆☆ h29.1.13
大昔(弥生時代以前)の人は文明が低かったので実在を知らず実在に支配されていたので毎日自分が実在に悪いことをされてばかりいたので“悪いことをされる喜び”があった。つまり、自分が殺されたり財産を取られたり虐待されたりする喜びがあった。たとえ嫌な女房でも毎日いっしょに暮らしていたら好きになるのと同じである。『住めば都』というから、大昔の人にとっては実在に悪いことをされる世界が都だったから大昔の人は実在に悪いことをされることが幸福だったから“悪いことをされる喜び”があったのだ。大昔の人は毎日実在に鞭[むち]を打たれていたから実在に鞭で打たれるのが気持ちよくなって“悪いことをされる喜び”を持ってしまっていたのである。大昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福になっていた。政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする団体である。大昔の人は政府に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいた。
昔(弥生時代から昭和40年=1965年ごろまで)の人は文明がそこそこ高くなったのでそこそこ実在を知って実在を支配するようになって“善いことをされる喜び”を満足するようになった。しかし、昔の人は“善いことをされる喜び”を満足するだけでは喜びが足りなかったので“悪いことをされる喜び”を満足しないといけなかった。昔の人は自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが惨[みじ]めに思えて恥ずかしかった。そのため、昔の人は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体に善いことをする会社で囲って善いことをする団体のふりをしてもらいながら隠れて悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいたのである。昔の人は隠して自分の“悪いことをされる喜び”を満足したかったので、人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体に善いことをする会社で囲って隠して殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして悪いことをされて幸福になっていたのである。
今(昭和40年以降)の人は文明が高くなって実在を知って実在を支配するようになったので毎日自分が実在を使って善いことをさせてばかりいるので“善いことをされる喜び”だけになっている。今の人は実在に支配されなくなっているので実在に悪いことをされなくなったので“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのため、今の人は自分で考えて政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされないようにしている。今の人は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。今の人は政府の付属会社を政府から独立させて民営化している(つまり“悪いことをされる喜び”を満足する団体として国民と契約せずに国民からお金を強盗して経営するのをやめて、“善いことをされる喜び”を満足する会社として国民と契約して国民からお金をもらって経営するようになっている)。今の人は世の中から“悪いことをされる喜び”を満足する会社をなくして“善いことをされる喜び”を満足する会社だけにしている。
文明が高くなると、人間が実在に支配されることから人間が実在を支配することに変わる。人間が実在のなすがままにされて実在に悪いことをされることから実在を使って実在に善いことをさせることに変わる。人間が“悪いことをされる喜び”があることから“善いことをされる喜び”があることに変わる。人間にとって政府が要ることから政府が要らないことに変わる。だから、今の国民は政府を倒しているのである。
政府は人間が実在に支配されて実在に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”があることに便乗[びんじょう]して儲[もう]ける会社である。政府は実在の威を借るキツネである。しかし、今の人は文明が高くなって実在を支配するようになって実在を使って実在に善いことをさせるようになって“善いことをされる喜び”があるようになって“悪いことをされる喜び”がなくなったから政府に悪いことをされて幸福にしてもらわなくてもよくなった。だから、今の人は政府が要らなくなって政府を倒しているのだ。昭和40年ごろにカラーテレビとかマイカーとかエアコンとかがみんなに普及しだしたころから政府の時代ではなくなっているのである。

昔の人と今の人は感性がまったく違う。昔の人は文明が遅れていて実在に支配されていて実在に悪いことをされていて“悪いことをされる喜び”があったから政府に悪いことをされて喜んでいたので政府に税金を払って政府を建てていた。反対に、今の人は文明が進んで実在を支配するようになって実在を使って実在に善いことをさせて“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっているから政府に悪いことをされるのが嫌なので政府に税金を払わなくなって政府を倒している。

[23141] 民主主義とは何か? h29.1.16
近代の日本では国民みんなは文明がまだ低くて実在を支配することができなくてかなり実在に支配されて実在に悪いことをされていたので“悪いことをされる喜び”があった。近代の国民みんなは恥ずかしいと思いながら自分の“悪いことをされる喜び”を満足していた。それが近代の国民みんなの総意だった。だから、政府は民主主義で善いことをする付属会社で囲[かこ]って自分の正体を隠しながら国民みんなに悪いことをして国民みんなの“悪いことをされる喜び”を満足して国民みんなを喜ばせていたのである。つまり、民主主義というのは「国民みんなが密かに自分の“悪いことをされる喜び”を満足したい」ことの隠語[いんご]なのである。近代の国民みんなは恥ずかしくて「自分の“悪いことをされる喜び”を満足したい」ことをあからさまに言えなかったのでその代わりに「民主主義」と言っていたのである。近代の国民みんなは「自分の“悪いことをされる喜び”を満足したい」ことを恥ずかしくて口に出せなかったので、「自分の“悪いことをされる喜び”を満足したい」ことを伏せて中身を隠してかっこいい言葉で「民主主義」と言っていたのである。近代の日本では政府はたしかに民主主義の団体だったのだ。
しかし、今の日本では国民みんなは文明が高くなって実在を支配するようになって実在を利用して実在に善いことをされている。今の国民は“善いことをされる喜び”を満足するだけで“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。それが今の国民みんなの総意である。それなのに、今の政府は近代の政府と同じように善いことをする付属会社で囲って自分の正体を隠しながら国民みんなに悪いことをしている。今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”がないので政府は国民を嫌がらせているだけである。今の政府は民主主義の団体ではない。
近代の日本政府は民主主義の団体だったが、今の日本政府は民主主義の団体ではない。政府は善いことをする付属会社で囲って隠しながら国民みんなの“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。近代の国民みんなは隠して自分の“悪いことをされる喜び”を満足したかったから政府は国民みんなの総意に適[かな]っていたので民主主義の団体だったが、今の国民みんなは“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているので政府は国民みんなの総意に適っていないので民主主義の団体ではない。今の政府は民主主義の団体ではないから、今の政府には国家権力はない。今の国民は政府に従わなくてもかまわない。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府を倒せばいいのである。国民みんなで早く国民みんなに悪いことをする政府を倒して、国民みんなに善いことをする団体しかない国にしないといけない。

[23142] 『浦島太郎』 h29.1.16
浦島太郎は古代の日本政府のことである。古代の日本ではみんながヨーロッパ文化をやっていたので、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体はヨーロッパ政府を真似[まね]て善いことをする会社で囲って自分の正体を隠しながら国民に悪いことをやって国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を喜ばせていたのである。
だから、『浦島太郎』の玉手箱は政府自身のことである。玉手箱の中身は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、玉手箱の箱は政府の正体を隠すために設けられた善いことをする会社のことである。
浦島太郎がもといた村に帰ってみるとみんなが見知らぬ人になっていたのは、中世の日本ではみんながヨーロッパ文化をやらなくなってアジア文化をやるようになってしまったことである。
浦島太郎が玉手箱の蓋[ふた]を開けて死んでしまったのは、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体がインド政府を真似て善いことをする会社を取っ払って国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体のままで活動するようになったことである。つまり、浦島太郎が玉手箱を開けて死んでしまったのは、政府が幕府に変わったことである。玉手箱の中身は幕府だったのである。もっとも、実際には、中国政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体を善いことをする会社で囲っていたから、幕府も完全にむき出しのまま“悪いことをされる喜び”を満足する団体として活動していたのではなく、多少は善いことをする会社で囲って自分の正体を隠していたのである。

[23143] 『裸の王様』☆ h29.1.17
王様とはヨーロッパの政府のことである。つまり、善いことをする会社で囲って自分の正体を隠して国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体のことである。
そもそもヨーロッパ文化では政府は国民と平等だと考える。つまり、そもそもヨーロッパでは王様は裸なのである。
『裸の王様』の2人の仕立て屋とはアジア文化のことである。つまり、インド文化と中国文化のことである。痩[や]せっぽちの男がインド文化のことで、太った男が中国文化のことである。
インド文化ではみんなが大昔の社会を守るために身分制を設けて政府を上の者にしていた。中国文化では政府が民主主義で国民みんなの多数決をとって政府に国家権力があることにしていた。そのため、近代のヨーロッパにアジア文化が入ってくると、みんなが政府を上の者や国家権力がある者と見なすようになりかけていた。(ヨーロッパの近代=ルネサンス=ヨーロッパがアジア文化を受け入れていた時代は日本の近代=日本がヨーロッパ文化を受け入れていた時代よりも400年ぐらい早い。)つまり、王様の見えない立派な服とはインド文化の身分制や中国文化の民主主義のことである。
しかし、そのときヨーロッパにアフリカ文化が入ってきた。アフリカ文化では政府を国民と平等だと考える。あるいは、ヨーロッパ文化自身は政府を国民と平等だと考える。そのため、再びヨーロッパでは政府が国民と平等になったのである。それが、黒人や小さな子供が「王様が裸だ」と言ったことなのである。
ヨーロッパも日本と同じように、たとえインド文化を受け入れてもけっきょくインドの身分制までもはやらなかったのである。たとえ中国文化を受け入れてもけっきょく多数決までもはやらなかったのである。ヨーロッパや日本は前進する国であり大昔の社会を守らない国なので、個人主義の国であり多数決を採らない国なので、インド文化や中国文化をあまり本気で受け入れなかったのだ。

[23144] 『三匹の子ブタ』 h29.1.17
ワラの家を建てた長男のブタがインドのことである。木の家を建てた次男のブタが中国のことである。レンガの家を建てた末っ子のブタがヨーロッパのことである。オオカミは自然の脅威のことである。
長男のブタと次男のブタが狼に食べられたのは、インドも中国も自然に支配されていることを表している。(ここでは『三匹の子ブタ』の原典によっている。『トリビアの泉』より。)
末っ子のブタが自分を襲ってくるオオカミを逆に鍋[なべ]で煮込んで食べたのは、ヨーロッパが自然を支配して自然を使って自然に人間のために善いことをさせるようになったことを表している。
大昔の人間は文明が遅れていて自然に支配されて自然に悪いことをされていたが、今の人間は文明が進んで自然を支配して自然に善いことをさせている。そのため、大昔の人間は“悪いことをされる喜び”があったが、今の人間は“善いことをされる喜び”しかない。政府は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする団体である。大昔の人間は政府に悪いことをされて幸せだったので政府にお金をやって政府を建てていたが、今の人間は政府に悪いことをされて不幸なので政府にお金をやらなくなって政府を倒している。

[23145] 古い道徳と新しい道徳 h29.1.18
『ツァラトストラ』では綱[つな]渡り師が道化師に飛び越されて綱から落ちて死んだ。綱渡り師とは危ない人生を渡っている国民のことであり、道化師とは政府すなわち善いことをする会社で囲って自分の正体を隠している国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体のことである。綱渡り師は道化師に飛び越されて綱から落ちて死んで幸福だったのだ。
昔はみんなが政府に悪いことをされることが幸せだった。しかし、今はみんなが他人に善いことをされることが幸せである。道徳とは人間が幸福になるためにやるべきことである。つまり、昔はみんなが政府に悪いことをされることが道徳だった。今はみんなが善いことをしあうことが道徳である。
昔は文明が遅れていて人間が実在に支配されて実在に悪いことをされていたから、人間が“悪いことをされる喜び”を満足していた。そのために、昔は国民みんなが政府に悪いことをされて政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらって喜んでいた。昔は国民みんなが政府にお金をやって政府を建てていた。しかし、今では文明が進んで人間が実在を支配して実在を利用して実在に善いことをさせるようになったから、人間が“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。そのために、今では国民みんなが政府に悪いことをされて政府に“善いことをされる喜び”を不満にされて嫌がっている。今では国民みんなが政府にお金をやらなくなって政府を倒している。政府は死んだ。文明が政府を倒したのだ。

[23146] 私は神か? h29.1.21
昔はみんなが文明が遅れていて実在を理解していなくて実在に支配されていたから、自分がわからないことがあるとすぐに“わからないことの近くにいた人”を神にして“わからないことの近くにいた人”を拝[おが]んでいた。“わからないことの近くにいた人”はみんなに命令して贅沢[ぜいたく]な暮らしをして遊びまわっていた。
今はみんなが文明が進んで実在を理解して実在を支配しているから、自分がわからないことがあるとしばらく考えて理解するようになっている。たとえしばらく考えて理解できなくても、『自分にわからないことがある』と考えるようになっている。今はみんなが自分がわからないことがあっても近くの人を神にして近くの人を拝んだりはしない。“わからないことの近くにいた人”はみんなに命令できず普通の人と同じように暮らしている。
だから、私は今では神ではない。政府やその他の人が私を勝手に神にすることはできない。私は赤ちゃんのころに夜中に突然私の頭の上に吊ってあったガラガラ(ベッドメリーとも言う)が回ったのを母親が見たことによって神にされているが、今では私が夢の中でガラガラが回るのを見ていたのを母親がテレパシーで感じてガラガラが回る幻覚を見たと考えられている。だから、今の時代では私は神ではないのである。
私と同じように、神武天皇が戦[いくさ]の最中に光の玉を出したのも、今では上空にあった積乱雲から放射された強力な電磁波で空気が加熱されて出来たプラズマだと考えられている。だから、今では神武天皇も神ではない。キリストが生まれたときに頭の周[まわ]りが光っていたのも、キリストの母親が暗い厩[うまや]の中で見た眼の錯覚だと考えられている。だから、今ではキリストも神ではない。昔は文明が遅れていたのでみんなが実在を理解できなかったので神武天皇やキリストは神だったが、今は文明が進んでみんなが実在を理解できるので神武天皇もキリストも神ではない。今では文明が進歩したので神が死んだ。文明が神を殺したのだ。
今では私や神武天皇は神ではない。だから、今の政府が私や神武天皇を神にして国家宗教をやっていることはまちがっている。だから、国民みんなは政府の国家宗教を無視して相手にしなければいい。国民みんなは政府といっしょに国家宗教をやってはいけない。
政治団体や宗教団体が国家宗教の神の情報を使って悪いことをやっているのは、政治団体や宗教団体が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だからである。政治団体や宗教団体はみんなが“悪いことをされる喜び”を満足することとみんなが神に従うことを混ぜこぜにして国家宗教の神の情報を使ってみんなに悪いことをやっているのである。だから、普通の人は神の情報を使って悪いことをやってはいけない。普通の人がそんなことをすると警察に逮捕されて罰せられる。しかし、今では文明が高くなってみんなが実在を支配して実在を使って実在に善いことをさせるようになって、みんなが“善いことをされる喜び”だけしかなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなって、みんなが政治団体や宗教団体に悪いことをされるのを嫌がって政治団体や宗教団体に悪いことをされるのを断っているから、政治団体や宗教団体もみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を強盗できなくなって(つまり政府が国民から税金を取ったり宗教団体が信者からお布施[ふせ]を取れなくなって)潰[つぶ]れている。政治団体や宗教団体はみんなが神がいると考えなくなったこととみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなったために滅んでいるのである。

[23147] 都会人は自分が面白くないことをやって気持ちが落ち込んでいる。 h29.1.22
私が住んでいる福岡の下宿の周[まわ]りには“気持ちが落ち込んでいる者”が多い。おかげで毎日“気持ちが落ち込んでいる者”の落ち込んだ気持ちがテレパシーで私に伝わって私の気持ちも落ち込んで不愉快な目にあわされている。私が面白い作文が書けないのは私の周りに気持ちが落ち込んでいる者がいるせいである。
この前私が高知から福岡へ帰るとき列車の中にも気持ちが落ち込んでいる者がたくさんいた。大阪にも気持ちが落ち込んでいる者が多い。
この前私が高知の母親の家に住んでいるときには(平成29年1月2日から平成29年1月18日まで)周りに気持ちが落ち込んでいる者がいなかった。私は気持ちがよかった。だから、私は面白い作文が書けた。高知には気持ちが落ち込んでいる者がほとんどいない。
気持ちが落ち込んでいる者は鬱病[うつびょう]である。気持ちが落ち込んでいる者は自分で自分が面白くないことをやっているために自分の心が満足されていないから気持ちが落ち込んでいるのである。気持ちが落ち込んでいる者は馬鹿だから自分で自分の心がわからないから自分が面白くないことを面白いと誤解しているから自分で自分が面白くないことをやって自分で自分を面白くない目にあわせているから気持ちが落ち込んでいるのである。福岡や大阪などの都会には自分で自分の心がわかっていない馬鹿が多いから自分が面白くないことをやって気持ちが落ち込んでいる者が多いのである。
医者にも気持ちが落ち込んでいる者が多い。それは医者が自分で自分の心がわかっていない馬鹿だからである。
人間にとっては自分の頭で考えて新皮質を使うことが幸福である。ところが、都会人[とかいじん]は眼で見たり性欲を満足したりして古皮質を使うことが幸福だと考えているから自分で自分が面白くないことをやって自分で自分を不幸にしている。
例えば、マンガは絵を見ることではない。マンガ家の作り話に付き合うことである。絵が面白いのは芸術家であってマンガ家ではない。マンガ家は絵が下手糞[へたくそ]だから絵が面白くないから話で面白さを補っているのである。マンガ家は無理やり話を面白くするためにまちがったことを書いているだけである。人間にとってはまちがいは面白くない。人間にとっては作り話は面白くない。だから、マンガ家は絵も話も両方とも面白くない。マンガは面白くない。都会人は面白くないマンガを面白いと思って読んで自分で自分を不愉快な目に合わせて自分の気持ちを落ち込ませているのである。
都会は人が多くて都会人は眼先で他人に頼って自分で考えないから、都会人は自分で自分の心がわかっていないからわざわざ自分が面白くないことをやって自分で自分を不幸にしているのである。都会人は他人が面白いと言っていることをやるだけで、自分が本当に面白いと思うことをやらない。都会人は細かいことをよく知っているだけで道徳的には馬鹿である。
人間が幸福に生きるためには自分で自分が本当に面白いと思うことをしないといけない。自分が面白いことと面白くないことの区別が付かなくなったら人間はもうおしまいだ。都会人はおしまいの人間なのである。
私は最近カメラに凝[こ]っているが、実在を勉強するためにカメラで撮っているのである。実在を眼で見るためにカメラで撮っているのである。人間は頭で考えるだけではなく眼で見ることも大事なので眼で見る気持ちを養うためにカメラで撮っているのである。
脳細胞が神経興奮すると感覚が発生する。感覚はその感覚を発生した脳細胞がある所だけに存在する。だから、人間の認識は独立である。つまり、他人の認識は自分には感じられない。逆に自分の認識は他人には感じられない。人間には自分の認識しか感じられない。だから、都会人が他人の目を気にして自分が他人に気に入られるためにわざわざ自分が面白くないことをやるのはまちがっている。都会人が「自分がわからないこと」に基づくのはまちがっている。人間は『自分がわかること』に基づかねばならない。だから、人間は自分の心に基づけばいいのである。人間は本当に自分が面白いと思うことをやればいいのである。人間の大脳は新皮質が発達している。だから、人間にとって本当に面白いことは頭で考えることである。だから、人間が幸福になるためには頭で考えねばならないのである。人間は実在の中にいる。人間は実在を知って実在に善いことをさせれば幸福になれる。だから、人間は実在について頭で考えればいいのである。
もちろん私だってテレビは見る。しかし、私は週に2本の鉄道番組しか見ない。私はご飯を食べながら鉄道番組の録画を見るだけである。私はテレビをちょっとだけしか見ないから面白いのである。私はそれ以外の時間を自分が考えることに当てているから面白いのである。反対に、都会人は毎日朝から晩までテレビばっかり見ているから面白くないのである。都会人はテレビばかり見て頭で考えないから面白くないのである。今は国の文明が進んで人間が実在を支配して実在に善いことをさせている。人間が“悪いことをされる喜び”がなくなって“善いことをされる喜び”だけになっている。しかし、かといって人間が文明の利器を使っていさえすれば幸福になれるわけではない。人間は文明の利器をちょっとだけ利用して、もっと自分の頭で考えることを大事にしないといけない。そうすれば人間は幸福に生きられる。

[23148] オウム真理教は政府の真似[まね]をして国民みんなに政府のことを教えてくれた。 h29.1.24
オウム真理教は食堂でもパソコンショップでもない。ただ、オウム真理教が食堂やパソコンショップをやっているだけだ。オウム真理教の正体は宗教団体だ。つまり、オウム真理教に悪いことをされたい信者に悪いことをして信者の“悪いことをされる喜び”を満足して信者を幸福にする団体だ。
それと同じように、政府は法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などではない。ただ、政府が法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などをやっているだけだ。政府の正体は政治団体だ。つまり、政府に悪いことをされたい国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体だ。
オウム真理教は本来オウム真理教に悪いことをされたい信者に悪いことをするだけだが、今では国の文明が高くなって国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなってオウム真理教に悪いことをされたい信者が減っているので、オウム真理教はヤケクソになって信者でない一般人に対しても無差別に悪いことをして一般人に迷惑をかけた。そのために、オウム真理教の幹部や教祖が警察に捕まって罰せられた。
それと同じように、政府は本来政府に悪いことをされたい国民に悪いことをするだけだが、今では国の文明が高くなって国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府に悪いことをされたい国民が減っているので、政府はヤケクソになって政府に悪いことをされたくない国民に対しても無差別に悪いことをして国民に迷惑をかけている。そのために、政府の幹部や社長が警察に捕まって罰せられるべきである。警察が政府を罰しないのなら、国民みんなで政府を罰すべきである。しかし、警察は政府の持ち会社なので政府を罰してくれない。オウム真理教の食堂がオウム真理教の持ち会社なのでオウム真理教を罰してくれないのと同じである。だから、国民みんなが『人間をみな平等』にするために、政府が国民を殺した数だけ国民が政府の者を殺すべきである。あるいは、国民で政府の警察とは別に新しく警察(法律会社)を建てて、新しい警察に政府を罰してもらえばいい。今はまだ人間がのんびり落ち着いて暮らせるほどいい世の中ではないのだ。
オウム真理教は私たちに政府のことを教えるために自分の命を犠牲[ぎせい]にして政府の真似をしてくれたのだ。最近の人間はテレビを見たりゲームをやったりして言葉がわからなくなっているから、オウム真理教は実際に政府がやっているのと同じことをやってみんなに眼で政府がやっていることをわからせようとしたのだ。私たちはオウム真理教の教えを無駄[むだ]にしてはいけない。
昔の人間の心に“悪いことをされる喜び”があったのは、昔は人間が実在に支配されて実在に悪いことをされていたから、昔の“人間が実在に支配されていた世界”では“悪いことをされる喜び”のある者のほうが“悪いことをされる喜び”のない者よりも幸福に暮らせてより多く生き残ったからである。自然選択である。しかし、今は人間が実在を支配して実在に善いことをさせているから、今の“人間が実在を支配している世界”では“悪いことをされる喜び”のない者のほうが“悪いことをされる喜び”のある者よりも幸福に暮らせてより多く生き残るから、今では人間の心には“悪いことをされる喜び”がなくなっているのである。
キリスト教の教会は学校である。道徳の学校である。(もっとも、昔は人間が政治団体や宗教団体や暴力団に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足することが道徳だったが。反対に、今は人間がいろんな会社に善いことをしてもらって自分の“善いことをされる喜び”を満足することが道徳である。)キリスト教は学校会社ではない。キリスト教が学校会社をやっているだけのことである。教会はキリスト教の一部分にすぎない。キリスト教の正体は宗教団体である。つまり、キリスト教に悪いことをされたい信者に対して悪いことをして信者の“悪いことをされる喜び”を満足して信者を幸福にする団体である。しかし、今では文明が高くなってみんなが“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。キリスト教は信者が減っている。そのうちキリスト教はヤケクソになって信者以外の一般人に対しても無差別に悪いことをするかもしれない。警察はキリスト教の幹部や教祖を逮捕してキリスト教は潰[つぶ]れるだろう。仏教についても同様である。
人間には2種類いる。“悪いことをされる喜び”がある人間と“悪いことをされる喜び”がない人間がいる。人間は見かけだけではわからない。2種類の人間を混同しないように注意しないといけない。

[23149] 政府は身分が高い者ではないし政府には国家権力もない。☆ h29.1.24
政府が国民に悪いことをやるのは、政府がもともと国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体だからである。政府が身分制によって上の者の団体であったり、政府が民主主義によって国民みんなの多数決をとって政府に国家権力があるからではない。
身分制は頭だけで生きる人からなるインドの文化であり、民主主義は心だけで生きる人からなる中国の文化である。インドではみんなが頭で生きるために眼で見る世界を昔のままにしておくために政府を身分が高い者にでっち上げて政府が国民に悪いことをするのを保護しているのである。インドの政府が国民に悪いことをするのは政府がもともと国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だからであって、政府が身分が高いからではない。中国ではみんなが心で生きるために国のことを多数決で決める。中国の政府はみんなの多数決で国のこと決めるので中国の政府には国家権力がある。しかし、中国の政府が悪いことをするのは政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするためであって、政府が国家権力を使っているからではないのである。インドや中国では政府は国民よりも上の者である。一方、日本は眼と頭と心のすべてで生きる実在主義の国であり日本には身分制も民主主義もないから、政府は上の者ではなく、政府には国家権力もない。政府は国民と平等である。ヨーロッパも日本と同じく政府と国民が平等である。日本ではみんなが心主義ではなく実在主義だから、日本では多数決に権力はない。日本では実在についての正しい知識に権力がある。(女は馬鹿だから中国人のように自分の心だけで動いているから多数決に従うようになるのだ。)
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。政府は国民と平等である。だから、国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府のいうことを聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府のいうことを聞かなければいい。
昔は国の文明が遅れていて国民みんなが実在に支配されて実在に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”があったから、国民みんなが政府に悪いことをされて幸福になっていた。そのため、国民みんなが政府にお金を強盗されてつまり政府に税金を払って政府を建てていた。
今は国の文明が進んで国民みんなが実在を支配して実在に善いことをさせて“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がないから、国民みんなが政府に悪いことをされて不幸になっている。そのため、国民みんなが政府にお金を強盗させなくなってつまり政府に税金を払わなくなって政府を倒している。
法律は国民みんなの多数決によって決まるのではなく、『人間の平等性』と当時の文化や科学技術などによって決まる。要するに、法律とは人間が社会の中で幸福に生きるための決まりである。法律は国民みんなの多数決で決めるのではなく、人間の心や社会のことに詳しい人がよく考えて決めるのである。馬鹿は自分の心を理解していないから自分を不幸にすることを自分を幸福にすることだと誤解して自分で自分を不幸にすることをやって自分を不幸にする。世の中には馬鹿が多い。だから、多数決で法律を決めるとみんなを不幸にする法律が決まってみんなが不幸になる。世の中には馬鹿が多いから、国民みんなの多数決で法律を決めると「自分の好き勝手に他人を殺して他人の財産を奪っていい」法律が決まる。実際に、中国の法律はそんな法律である。これではみんなが幸福に暮らせない。世の中には馬鹿が多い。馬鹿に法律を決めさせるとみんなが不幸になる法律を決めるだけだ。だから、多数決で法律を決めてはならないのである。国民の心や世の中のことについて詳しい人がよく考えて法律を決めねばならないのである。法律とは国民みんなが幸福に暮らすための決まりである。『他人を殺してはいけない』法律では国民みんなが幸福に暮らせるが、「自由に他人を殺していい」法律では国民みんなが幸福に暮らせない。だから、『他人を殺してはいけない』法律は客観的に正しく、「他人を好き勝手に殺していい」法律は客観的にまちがっているのである。だから、自分勝手に『他人を殺してはいけない』法律を破って人殺しをした者は正しい法律を破ったことになるから有罪になって罰せられるのである。(平成29年2月19日追記:世界のどこの国でも利口よりも馬鹿が多い。しかし、日本文化は実在主義だから、考える気のない馬鹿が「どうせ自分がまちがっている」と思って弱気になって自分のまちがった意見を主張することがなく馬鹿がおとなしく他人の正しい意見に従うからみんなが正しいことをやってみんなが幸せになれる。一方、中国文化は心主義だから、考える気のない馬鹿が「自分が幸せになる」と思うだけで自分のまちがった意見を強引に主張して正しい意見を否定するからみんながまちがったことをやってみんなが不幸になる。このように実在主義は権力者が出ないだけではなく、ほかにも長所がたくさんあるのである。)反対に、利口は自分の心を理解しているから自分を幸福にすることと自分を不幸にすることの区別が正しくできるから自分で自分を幸福にすることをやって自分を幸福にする。だから、人間の心について詳しい人が法律を定めるとみんなを幸福にする法律を定めてみんなが幸福になるのである。人間の心は時代によって変わるから法律も時代によって変わる。昔の人間は“悪いことをされる喜び”があったから昔の法律では人間は政府に悪いことをされねばならなかったが、今の人間は“悪いことをされる喜び”がないから今の法律では人間は政府に悪いことをされてはいけない。だから、今の人間は政府に税金をやらないようにして政府を倒せばいいのである。(法律は国民が社会の中で幸福に生きるための決まりである。だから、法律を犯した者は自分で自分のまちがいを認めて自分の責任を取るために罰せられねばならない。刑務所の中だけが刑務所ではない。国や世界が刑務所である。法律を犯した者はみんなから嫌われて仲間はずれにされて仕事に就けなくて生きていけない。だから、法律を犯した者は自分から進んで罰せられてちゃんと自分の責任を取って社会に復帰しないといけない。)
古代ギリシアで民主政治が始まったのは、古代以前には“悪いことをされる喜び”を満足する団体がむき出しでそのまま悪いことをやっていたが、古代になると“悪いことをされる喜び”を満足する団体が自分の正体を隠すために善いことをする会社で囲いだしたということである。古代になると文明がやや発達して人間がそこそこ実在を支配して実在に善いことをさせるようになって“善いことをされる喜び”を満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなったので、みんなが政府に悪いことをされるのが恥ずかしくなって政府を善いことをする会社で囲わせて政府に密かに悪いことをしてもらうようになったのだ。古代ギリシアでは政府が“国の法律や国策をやる会社”をやっていた。ただし、政府の“国の法律や国策をやる会社”が国の法律や国策を決めるときには議論によって決めるのであって中国のように多数決で決めるのではなかった。古代ギリシアの政府の“国の法律や国策をやる会社”は実在主義で物事を決めていたから国家権力はなかったのだ。その一方で、古代ギリシアの政府は大昔の政府と同じように国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にしていたのである。
今の日本の政府の“国の法律や国策をやる会社”は民主主義をやっている。中国文化の心主義では多数決で物事を決めるので“国の法律や国策をやる会社”が民主主義をやれば国家権力が得られるが、日本文化の実在主義では多数決で物事を決めないのでいくら政府の“国の法律や国策をやる会社”が民主主義をやっても権力は得られない。今の日本は中国文化をやっていないので、政府の“国の法律や国策をやる会社”は国民と平等である。だから、国民が政府の“国の法律や国策をやる会社”のいうことを聞くか聞かないかは国民個人の自由である。今の日本の政府の“国の法律や国策をやる会社”は多数決に議論を取り入れて民主主義と実在主義を混ぜてやっている。政府の“国の法律や国策をやる会社”は多数決に議論を取り入れるために、あえて“間接”民主制をやっているのである。政府の“国の法律や国策をやる会社”は実在主義で善い法律や善い国策をやることもあるが、政府本部(つまり国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体)の命令や民主主義で悪い法律や悪い国策をやることもある。(今の政府の“国の法律や国策をやる会社”が政府本部の命令を聞くのは、政府の“国の法律や国策をやる会社”の中に“悪いことをされる喜び”を満足している者がいて、その者が「国民みんなは本当は自分と同じように“悪いことをされる喜び”を満足したいんだ」と思っているためかもしれない。自分がエッチなことをしている者が「みんなも本当はエッチなことをしたいんだろう」と思っているのと同じである。)今の国民は文明が高くなって“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足していない。だから、今の国民は自分で考えて政府の“国の法律や国策をやる会社”の善い法律や善い国策だけをやって悪い法律や悪い国策をやらなければいいのである。そうすれば、今の日本の国民は幸福に暮らすことができる。今の日本の政府の“国の法律や国策をやる会社”は善い法律や善い国策と悪い法律や悪い国策の両方をやっているので、国民はいつでも政府の“国の法律や国策をやる会社”が決めた法律や国策をやることができない。今の国民にとっては政府の“国の法律や国策をやる会社”は信用できなくて役に立たない。だから、国民みんなで早く政府の“国の法律や国策をやる会社”を倒して、新しく“善い法律や善い国策だけをやる会社”を建てねばならない。

[23150] 今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していないから悪いことをする会社がなくなればいい。 h29.1.27
国民みんなは国民に善いことをして国民の“善いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社の集まりである。一方、政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府の付属会社は国民みんなと政府の中間[ちゅうかん]である。政府の付属会社は善いことと悪いことの両方をやる。
政府は身分制や民主主義や国家宗教をやっているが、今の日本ではみんなが日本文化をやっている。日本文化には身分制も民主主義の国家宗教もない。だから、日本文化では政府は権力がない。インド文化ではみんなが頭だけで生きていて眼を使わないために身分制をやっているから身分が高い政府に権力があり、中国文化ではみんなが心だけで生きていて頭を使わないために民主主義をやっているから多数決をやっている政府に権力があり、ヨーロッパ文化ではみんなが眼だけで生きていて頭を使わないために国家宗教をやっているから神と親[した]しい政府に権力があるが、日本文化ではみんなが眼と頭と心の全部で生きていて身分制も民主主義も国家宗教もやっていないから政府には権力がない。日本文化では政府と国民は平等である。実際に、日本ではこれまでずっと政府や幕府と国民が平等でやってきた。だから、国民は自分が政府の言うことを聞きたければ聞き、自分が政府の言うことを聞きたくなければ聞かなければいい。(人間は生きている環境によって発達する才能が違う。ヨーロッパは農作物が育たないためにヨーロッパ人は動物を狩って生きねばならなかったので眼が発達した。インドは定期的に川が氾濫[はんらん]するのでインド人は考えて農作物を育てねばならなかったので頭が発達した。中国は環境がよすぎたので中国人は眼も頭も使わなくてよかったので心が発達した。お金持ちのボンクラが過保護のために眼も頭も使わないので心で思うだけなのと同じことである。(インドでは自国の文化の頭で考えることと中国文化の心で思うことが結びついて代数学が発達したのだろう。ギリシアではインド文化の頭で考えることとヨーロッパ文化の眼で見ることが結びついて幾何学が発達したのだろう。)そのうえ人間にはひとつのことばっかりやりたがる傾向があるのでインドでは頭を使う文化が発展し中国では心を使う文化が発展しヨーロッパでは眼を使う文化が発展してきたのだ。ヨーロッパ人は日本人よりも眼がずっと敏感である。ヨーロッパの建築が装飾に凝[こ]っているのはヨーロッパ人が眼で見る喜びを満足するためであってヨーロッパ人がお金持ちだからではない。日本は古くから外国の文化を分けへだてなく広く受け入れてきたから世界中の文化を取り入れて文化の偏[かたよ]りがないのだ。日本人にはひとつのことばっかりやる傾向がないのだ。/日本では政府と国民は平等である。一般に、日本では人間はみな平等である。日本の会社では社長と社員は平等である。社員はたとえ社長に挨拶[あいさつ]しても社長に敬意を払わず社長の名前を呼び捨てにすればいい。会社ではみんなが自分の仕事量に比例した給料をもらうようにすればいい。そうすれば、役立たずのお金を取るだけの社長なんかいなくなるだろう。積極的に仕事をして“仕事をする喜び”を勉[つと]めて強めて“仕事をする喜び”で生きるのが人間にとって幸福な生き方である。仕事をせずにお金だけ取って生きるのは不幸な生き方である。)
今の国民は文明が高くなって実在を支配して実在に善いことをさせているために、今の国民は“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。だから、国民は国民みんなに仕事をしてもらって、政府に仕事をしてもらわなければいい(つまり政府に悪いことをされなければいい)。政府の付属会社は善いことと悪いことの両方をやっているから、今の国民は自分で考えて政府の付属会社が善いことをするときだけ仕事をしてもらって悪いことをするときは仕事をしてもらわなければいい。国民にとってそんな会社は面倒くさいからいっそのことなくなってしまえばいい。
政府は国民からお金を強盗してつまり税金を取って悪いことをやっている。今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していないから政府にお金を強盗されるのが嫌である。政府と国民は平等である。だから、今の国民は政府にお金を強盗されるのを断って政府に税金を払ってはいけない。今の国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒さねばならない。政府の付属会社は政府から税金をもらえなくなって政府といっしょに潰[つぶ]れてしまえばいい。早く国中から悪いことをする会社がなくなって善いことをする会社だけになればいい。
今でも多くの国民が政府の付属会社が善いことをしているのを見て「政府が善いことをする団体だ」と誤解して政府に善いことをやってもらうために政府に税金を払っている。しかし、本当は政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に悪いことをする団体であり、政府は国民からお金を強盗して悪いことをするために国民から税金を取っているのであり、政府が国民から取った税金でいくつかの善いことをする会社を経営しているだけのことである。政府も政府の付属会社も国民に悪いことをする。今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していない。今の国民は政府や政府の付属会社に悪いことをされるのが嫌である。政府や政府の付属会社と国民は平等である。だから、今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府や政府の付属会社を潰せばいい。今の国民みんなで政府の付属会社の替わりに善いことをする会社を建てて善いことをしてもらえばいい。国民は政府の“国の法律や国策をやる会社”の命令を待つのではなく、自分で考えて自分で善いことをする会社を建てて善いことをすればいいのである。
医者は眼で見るだけで頭で考えないくだらない人間である。日本文化では医者は嫌われ者である。そのため、昔から日本では国民みんなが「医者をくだらない生き物だ」と思って医者の待遇を悪くしてきた。戦後の政府は国民に悪いことをするために医療保険制度を設けて医者の待遇をよくした。政府は国民みんなに嫌な思いをさせるためにみんなの嫌われ者である医者の待遇をよくしたのだ。しかし、政府には権力がなく政府と国民は平等である。今の国民は文明が高くなって“善いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足していない。だから、今の国民みんなは政府の言うことを聞かず医療保険制度に入らず医者にお金をやらないようにして医者の待遇を悪くすればいいのである。国民みんなでお金をもっとほかのことに使って人生を楽しく暮らさねばならない。

[23151] どうして人間に“悪いことをされる喜び”があるのか? h29.1.28
人間はずっと昔から大脳の新皮質が発達している。人間はずっと昔から頭がいい。人間はずっと昔から頭が心を支配している動物である。
しかし、昔はまだ人間が科学を知らなくて文明が低かった。昔はまだ人間が実在に支配されて実在に悪いことをされていた。
そのために、昔の人間は「人間は悪いことをされる生き物だ」と考えて生きていたから、心が「人間は悪いことをされる生き物である」ことに従って自分が悪いことをされると幸せになるようになってしまったのである。つまり、昔の人間の心には“悪いことをされる喜び”があったのである。人間の頭のよさが裏目に出て、昔の人間はそんな変な喜びを持ってしまったのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。昔の国民は政府に悪いことをされて幸福になっていたので、政府に税金を払って政府にお礼をしていたのである。
しかし、今は人間が科学を知って文明が高くなっている。今はもう人間が実在を支配して実在に善いことをさせている。
そのために、今の人間は「人間は善いことをされる生き物だ」と考えて生きているから、心が「人間は善いことをされる生き物である」ことに従って自分が善いことをされると幸せになるようになったのである。つまり、今の人間の心には“善いことをされる喜び”があるのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体である。今の国民は政府に悪いことをされて不幸になっているので、政府に仕返しするために政府に税金を払わなくなっている。今の国民は政府が要らなくなって政府に税金を払わなくなって政府を捨てているのである。昔の人間は相手に右の頬[ほお]を殴[なぐ]られたら左の頬も差し出したが、今の人間は相手に右の頬を殴られたら相手の頬を殴り返すのだ。

[23152] 日本文化には権力者がいない。☆ h29.1.31(ここから[23226]h29.3.17までは私が高知県高知市の母親の住んでいた家で書いた。ふだんは福岡県福岡市東区の下宿で書いている。しかも、今回はルーターを忘れたのでインターネットへつなげなかった。私は一ト月半の間ノートパソコンに自分で考えたことを打ち込むだけだった。だから、今回は正しいことがかなりわかった。やはり人間は自分ひとりで考えるべきなのだ。)
昔のインドは身分制をやって身分の高い者に権力があった。昔の中国は民主主義をやっていたので国家権力があった。つまり、多数決が絶対だった。昔の中国は間接民主制をやって国民みんなの多数決で政府の議員を選んだので、政府の議員はいったん自分が多数決で議員に選ばれたら自分に議員としての適性があろうがなかろうがとにかく議員をやれるので、政府の議員が自分が首にならないことをいいことにして好き放題に国のことを決めることができたので政府に権力があった。つまり、間接民主制は心主義の国において国民みんなの国家権力を政府の議員の権力に変換するシステム(制度)なのである。昔のヨーロッパは国家宗教をやって神や宗教団体に権力があった。一方、日本は昔から身分制も民主主義も国家宗教もやらず権力者がいないみんなが平等な国だから“大いなる和の国”と言うのである。昔のインドではみんなが頭で考えることだけで生きていたから眼で見ることをやらないために眼で見える世界を昔のままにしておくために“悪いことをされる喜び”を満足する団体を保護するために身分制を定めたが、日本はみんなが眼で見ることをやるので眼で見える世界を進歩させるために身分制をやらないのである。昔の中国ではみんなが心で思うだけで生きていたから眼で見て頭で考えることをやらないために多数決で物事を決めていたが、日本はみんなが眼で見て頭で考えるから多数決で物事を決めないのである。日本では『人間の心は人間が生まれ持った実在についての知識であり、人間の心にはまちがいがたくさんある』と考えるので心を当てにはしないので多数決はやらないのである。昔のヨーロッパではみんなが眼で見ることだけで生きていたので頭で考えることをしないために自分がわからないことがあったとき近くにいた者を神にして崇[あが]めていた。日本ではみんなが眼で見て頭で考えるので自分がわからないことがあったときには自分がわからないことを認めて自分がもっとよく考えて理解しなければならないと思うので神をでっち上げたりしないので国家宗教をやらないのである。日本文化では多数決に権力がないから、国民みんなの多数決で政府の議員が選ばれても首にならないわけではない。日本でも便宜的[べんぎてき]に多数決で物事を決めることがあるが、多数決は絶対ではない。例えば、学級委員を学級みんなの多数決で決めるが、実際に学級委員に学級委員としての適性がなければすぐに交代になる。日本では学級委員であるかないかを決めるのは実在であってみんなの心ではない。それに学級委員だからといってなんでも自分の好き放題にやれるわけではない。国家権力(学級権力)と個人の権力を混同してはいけない。学級委員であることが学級権力で決まっているだけであって、学級委員になんでも自分の好き放題にできる権力があるわけではない。学級委員は学級委員としての務[つと]めを果たさなければならない。だから、学級委員になってもなんにも面白くない。面倒臭いだけである。だから、誰も学級委員になりたがらない(笑い)。それと同じように、議員に選ばれたら議員としての務めを果たさなければならない。つまり、議員は国民が社会の中で幸福に暮らす決まりや国民が幸福に暮らす国の計画を決めねばならない。(昔は国民に“悪いことをされる喜び”があったので、政府は国民に“ほどよく”悪いことをやって国民を幸福にしなければならなかった。政府が国民に全然悪いことをしないのもいけないし、悪いことをしすぎてもいけなかった。反対に、今は国民に“悪いことをされる喜び”がないから、政府は国民にちょっとでも悪いことをやってはいけない。)中国ではみんなの心で決めるから多数決で議員に選ばれたら任期終了までずっと議員のままだから議員が国民を幸福にしようが不幸にしようが自分の好き放題に国のことを決められるから政府に権力があるが、日本では実在で決めるからたとえ国民の多数決で議員に選ばれても議員としての任務を果たさなければすぐに首になるから政府が国民を不幸にしたら政府が国民に倒されるから政府に権力はない。政治団体や宗教団体や暴力団に権力があると、政治団体や宗教団体や暴力団は国民に無理やり悪いことができる。反対に、政治団体や宗教団体や暴力団に権力がなければ、国民は自分が政治団体や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを拒否することができる。国民は自分を幸福にする政治団体や宗教団体や暴力団の命令を聞いて、自分を不幸にする政治団体や宗教団体や暴力団の命令を聞かなければいい。昔の外国では国民みんなが身分制や民主主義や国家宗教をやっていたので、政治団体や宗教団体や暴力団に権力があり、政治団体や宗教団体や暴力団と国民は不平等だった。外国では国民が政治団体や宗教団体に強制的に悪いことをされていた。反対に、日本では昔から国民みんなが身分制や民主主義や国家宗教をやっていないので、日本では政治団体や宗教団体や暴力団に権力はなく、政治団体や宗教団体や暴力団と国民は平等である。日本では国民が政治団体や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを拒否することができる。“悪いことをされる喜び”を満足する団体は権力を帯びると怖いが、権力を帯びなければ怖くない。日本は権力者がいない国なので、世界中の国が日本をうらやましがったのだ。(近代のフランスで革命があったのは、近代のフランス国民みんなが政府の民主主義を本気にして政府に権力があると誤解したからである。国民みんなが政府の命令に絶対服従するようになって、政府が悪すぎる命令を出して国民が耐え切れなくなって革命を起こしたのだ。フランス国民はルソーの理論に踊[おど]らされてフランス革命をやったのだ。江戸時代の東北地方の村で一揆[いっき]があったのは、村人みんなが身分制を本気にして幕府に権力があると誤解したからである。村人みんなが幕府の命令に絶対服従するようになって、幕府が悪すぎる命令を出して村人が耐え切れなくなって一揆を起こしたのだ。政治団体や宗教団体や暴力団が権力を持つと悪いことをしすぎて国が発展しなくなる。だから、政治団体や宗教団体や暴力団が権力を持たないほうがいい。)日本では昔から政府や幕府が自分が権力を得ようとして一生懸命に外国の真似[まね]をして自分ひとりで形の上で身分制や民主主義や国家宗教をやっているだけで、国民みんなは身分制や民主主義や国家宗教を無視して全然やっていない。日本で身分制や民主主義や国家宗教をやっても無駄[むだ]である。例えば、幕府が「下に下に」と言って大名行列をやっても、国民は大名行列の前で土下座[どげざ]せずに平気で大名行列の前を横切っていたのだ。江戸時代の国民は身分制をやることと自分の“悪いことをされる喜び”を満足することはまったく別のことだと考えて、自分が好きなだけ幕府に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足するだけで、けっして幕府に服従しなかったのだ。江戸時代には国民みんなが自分ひとりで身分制をやっている幕府を馬鹿呼ばわりしていたのだ。(今から約40年前の私が小学生のころは「江戸時代には国民みんなが幕府といっしょに身分制をやっていた」ことになっていたが、今では『江戸時代には幕府が身分制をやっていただけで国民みんなは身分制をやっていなかった』ことになっている。文化人類学の研究が進んで文化的な観点から社会を見ることが進歩して真実が明らかになってきたのだ。私が考えていることなんかも文化人類学の研究者から見れば当たり前のことにすぎないのかもしれない。)昔の日本では政府や幕府に権力がなく政府や幕府と国民が平等なのに政府や幕府が国民に悪いことをやっていた。それは、昔の人間の心には“悪いことをされる喜び”があり、政府や幕府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをする団体だからである。つまり、政府や幕府に権力がなく、政府や幕府が国民に命令できないのに、昔の国民が政府や幕府の命令に従ったのは、昔の国民に“悪いことをされる喜び”があり、昔の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分自身を幸福にするために、自分のほうから進んで政府や幕府の悪い命令を聞いていたからである。昔の日本には権力者はいなかったが、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体はあったのだ。昔の日本では国民みんなが政府や幕府と平等にしながら自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために自分のほうから政府や幕府の悪い命令を聞いて政府や幕府に悪いことをされて喜んでいたのだ。日本では政府や幕府に権力はない。だから、国民は政府や幕府の命令に従う必要はない。しかも、今の国民は“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民は政府の悪い命令に従わなければいいのである。税金は政府が国民からお金を強盗することである。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいいのである。(昔はみんなが文明が遅れていて実在に支配されて実在に悪いことをされていたために“悪いことされる喜び”があったので、みんなは自分が幸福になるために自分のほうから進んで政府に悪いことをされていた。昔はみんなが自分のほうから政府に税金を払って自分で政府に強盗されて自分で積極的に政府に悪いことをされて自分で自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福になっていた。そのため、昔は政府がみんなから税金をもらってすごく儲[もう]かっていた。しかし、今はみんなが文明が進んで実在を支配して実在に善いことをさせているために“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっているので、みんなは自分が不幸にならないために自分で政府に悪いことをされるのをやめて政府に税金を払わなくなって政府が滅んでいる。そもそも文明が発達したのは世界中の文化が統合されたからである。科学の発明はヨーロッパ文化とインド文化と中国文化のすべてが統合されて出来るのだ。イギリスやアメリカは発明の国である。イギリスやアメリカは世界中の文化を受け入れている国である。文明は文化に含まれる。文明はイギリス文化やアメリカ文化である。文明が政府を倒したのだ。いわば、世界中の文化が政府を倒したのだ。ヨーロッパ文化とインド文化と中国文化の3つの文化が協力して政府を倒したのだ。)
今では世界中の国でみんなが文化に対する理解を深めて、みんなが日本を真似[まね]て世界中の文化を取り入れて世界中の文化を統合して実在主義をやっている。今では世界中の国が身分制も民主主義も国家宗教もやらなくなって、権力者がいなくなって、みんなが平等になっている。政府が国民に強制的に悪いことをやれなくなっている。おまけに、今では文明が高くなってみんなが“善いことをされる喜び”だけを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。みんなが政府に悪いことをされるのを断って政府が税金を取れなくなって倒れている。
平成29年2月5日追加:日本文化には権力者がいないから、国民と政治団体や宗教団体や暴力団は平等である。近代の日本で国民みんながアジア文化をやめてヨーロッパ文化をやるようになったら(もっとも日本が外国の文化をやるといっても、日本文化の実在主義に適[かな]うかぎりで日本が外国の文化を受け入れるだけだが)、国民みんなは幕府を倒して政府を建てた。国民みんなは幕府に年貢[ねんぐ]を取られるのをやめて幕府を倒して政府に税金を取られて政府を建てるようになった。中世の日本で国民みんながヨーロッパ文化をやめてアジア文化をやるようになったら、国民みんなは政府を倒して幕府を建てた。国民みんなは政府に税金を取られるのをやめて政府を倒して幕府に年貢を取られて幕府を建てるようになった。それと同じように、昔は国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していたから、国民みんなは政治団体や宗教団体や暴力団にお金を強盗されて悪いことをされて政治団体や宗教団体や暴力団を建てていた。今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”を満足していないから、国民みんなは政治団体や宗教団体や暴力団にお金を強盗されるのをやめて悪いことをされるのをやめて政治団体や宗教団体や暴力団を倒せばいいのである。国民みんなが自分の文化や心に合った国にすればいいのである。

[23153] 日本人はずっと昔から日本文化をやってきた。 h29.1.31
日本人はずっと昔から日本文化すなわち実在主義をやってきた。日本人はずっと昔から世界中の文化を取り入れて世界中の文化を統合して人間が眼と頭と心のすべてを使う文化すなわち“実在主義”を創造して実在主義をやってきたのだ。毛利元就[もうりもとなり]の“3本の矢の教え”のように、ひとつの文化の欠点を他の文化で補って欠点のない文化にしてきたのだ。そういうことを日本人は何千年もかけてやってきたのだ。考えてみれば、眼や頭や心のどれかひとつしか使わない文化のほうが偏[かたよ]っていておかしい。(宮沢賢治の『注文の多い料理店』で2人の狩人[かりゅうど]とは日本人とドイツ人のことであり、二人の狩人を救った二匹の犬とはインド文化と中国文化のことである。ドイツも日本と同じように世界中の国の文化を取り入れて統合してきた国なのだ。(平成29年2月16日追加:ドイツ人は自分たちの住む場所を変えることによって自分たちが取り込む文化を調節している民族である。中世のドイツ人はインド文化を取り入れて文明を進歩させるために南のほうに移住した。これをゲルマン民族の大移動というのである。)日本人がヨーロッパ文化に呑[の]まれて「政府に権力がある」と思って政府の言いなりになってしまうのをインド文化と中国文化が救ってくれたのだ。日本人は昔からヨーロッパ文化とインド文化と中国文化が統合された“実在主義”をやってきた。実在主義では政府に権力はなく政府と国民は平等なので国民は自分が嫌なら政府の命令を聞かなくてもいいのだ。国民は自分が好きなだけ政府の悪い命令を聞いて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分を幸福にすればいいのだ。しかし、さすがの宮沢賢治も“悪いことをされる喜び”には触れなかった。『人間の心に“悪いことをされる喜び”がある』ことまでは書かなかった。当時の人にとっては『人間に“悪いことをされる喜び”がある』のは当然のことだったので“悪いことをされる喜び”が問題にされることはなかったのだ。今では文明が高くなって人間から“悪いことをされる喜び”がなくなっているので、“悪いことをされる喜び”が問題とされるようになっているのだ。それに、やはり昔の人にとっては人間に“悪いことをされる喜び”があることは人間の恥部[ちぶ]だったので、あまり公言されることはなかったのだろう。/平成29年2月14日追加:ムンクの『叫び』も“3人の黒服の男”がインド文化と中国文化とヨーロッパ文化の3つの文化ことで、“叫んでいる男”が権力者のことである。3つの文化が権力者を殺しにやって来たのだ。3人の男が渡っている“橋”は外国のことである。外国からインド文化や中国文化やヨーロッパ文化が伝わったのだ。ムンクが住んでいる国(ノルウェー)にとってはヨーロッパも外国なのである。黒田清輝[くろだせいき]の『湖畔[こはん]』でも“橋”は外国のことである。女が持っている団扇[うちわ]は神武天皇の光る玉のことである。外国つまりヨーロッパから日本に国家宗教が伝わってきたことを表している。ムンクの『叫び』では右の大きい男が権力者で左の黒服の3人組に今まさに殺されそうになって悲鳴をあげているのである。ムンクの『叫び』では大きい男がまさしく叫んでいるのであって、大きい男が世界の叫び声を聞いているのではない。ムンクが「大きい男が世界の叫び声を聞いている」ことにしたのは自分が権力者に攻撃されるのを避けるためのでっち上げの嘘[うそ]である。権力者はみんなの稼[かせ]ぎを自分の遊びに使い込むだけである。ヨーロッパでは権力者がいなくなってからみんなが豊かに暮らせるようになった。一方、ムンクの『太陽』は絵が抽象的すぎて何を描[か]いているのかわからない。たぶん権力者がいなくなって世の中が明るくなったことを言っているのだろう。当時はまだ文明が遅れていてみんなの“悪いことをされる喜び”がなくなるところまでは行っていないから“悪いことをされる喜び”がなくなったことを描いているのではないだろう。ヨーロッパが世界中の文化を受け入れて文化が統合されて日本と同じように実在主義になったことを言っているのだろう。日本の国旗が日の丸だから『太陽』なのだ。つまり、『太陽』とは日本のことなのだ。ニーチェが「神が死んだ」と言ったのもみんなが文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなったために神が死んだのではなく、みんなが外国の文化を取り入れて世界中の文化をやるようになって文化が統合されて日本と同じように権力者がいなくなったから神が死んだのだろう。そのころに権力のある宗教団体や政治団体や暴力団は滅んでなくなったが、その核[かく]となる国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体は生き残ったのだ。しかし、昭和40年=1965年ごろに文明が急激に進歩してみんなから“悪いことをされる喜び”がなくなると国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体もついに滅ばねばならなくなったのだ。平成29年2月19日追記:ムンクは『日本文化が権力者を倒した』ことを絵にしたが、今のところはまだ『文明が“悪いことをされる喜び”を満足する団体を倒した』ことを描いた絵がない。誰かがそんな絵を描けば世界的に有名になれるだろう。/平成29年2月15日追記:東映オリジナルアニメ『ビックリマン』の魔肖[ましょう]ネロの身体の中に潜んでいる光る玉が“悪いことをされる喜び”を満足する団体のことである。魔肖ネロは民主主義をやって権力を得ようとしている政治団体のことである。ピエロは年寄りのサーカス団員が人気を得ようとして厚化粧をしているから民主主義で国民みんなの人気を取って権力を得ようとしている政治団体のことなのである。魔肖ネロは戦前のヨーロッパ文化を受け入れて国家宗教と民主主義をやっていた日本政府のことである。近代以後は世界中の国で日本文化をやるようになって政治団体が権力を失った。だから、魔肖ネロが倒されたのだ。デカネロンは戦後の世界中の文化を受け入れて国家宗教と民主主義と身分制をやっている日本政府のことである。日本文化ではデカネロンも権力を得られずデカネロンも倒されてデカネロンの身体から抜け出た光る玉が萎[しぼ]んで消えてしまった。今ではみんなが文明が進んで“悪いことをされる喜び”がなくなってしまったのでついに“悪いことをされる喜び”を満足する団体も滅んでしまったのである。みんなは現実の世界を『ビックリマン』と同じにして現実の世界で政府を滅ぼさねばならない。/平成29年2月15日追記:中国でも昔から孔子がヨーロッパ文化をやったり荘子がインド文化をやったりして外国の文化を受け入れようとしてきた。しかし、日本のように文化の統合までには至らなかった。中国は心主義のままだった。洪自誠[こうじせい]が『菜根譚[さいこんたん]』を書いて中国人みんなに日本の真似[まね]をさせて世界中の文化を受け入れて統合させようとしてもうまくいかなかった。(采根とは日本のことである。日本人が貧しくて、日本の形が草の根に似ているからだろう。采根譚とは日本についての話という意味である。)昔は世界中どこの国でもみんなが外国のことがよくわからずみんなが「自分の国が一番幸福だ」と思っていたので外国の文化をなかなか受け入れようとしなかった。昔はみんなが「世界中の文化を混ぜ合わせるともっと善い文化が出来る」「世界中の文化を統合すると権力のない国が出来る」ことを知らなかった。近代になってみんなが外国のことがよくわかるようになってみんなが「日本は世界中で一番幸福な国だ。日本は自分の国よりも幸福だ」ということを知ってから日本の真似をして世界中の文化を積極的に受け入れて文化を統合するようになったのだ。日本は文化においては世界一の先進国なのだ。外国よりも3千年は早い。ただ、日本は文明においては後進国だ。だから、日本は文明の先進国であるヨーロッパから文明を取り入れねばならなかったのだ。日本でみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなったのもヨーロッパのおかげだ。/平成29年2月16日追記:マンガ『巨人の星』の大リーグボール1号は政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だということである。大リーグボール2号は政府が民主主義をやって権力を得ようとしていることである。大リーグボール3号は今では世界中の国でみんなが世界中の文化を受け入れて世界中の文化を統合して日本文化をやっているために政府が権力が得られず国民と平等になっていることである。しかし、これだけでは人間の心に“悪いことをされる喜び”があるかぎり政府は滅ばない。『巨人の星』には今ではみんなが文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなったことが描[か]かれていない。大リーグボール4号があればよかったなあ(笑い)。けっきょく、肝心なことはテレビでは言わないようだ。『タイガーマスク』でも、タイガーザグレートは権力のことで手下の3人衆が政治団体や宗教団体や暴力団のことである。タイガーザグレートが下敷きになって殺されたリングの照明がムンクの『太陽』と同じように日本文化のことである。タイガーマスクは、これまで一度も外国の文化をそのままの形では受け入れず外国の文化をことごとく倒してきた日本人のことである。『タイガーマスク』でもやはり文化のことを描くだけで、“悪いことをされる喜び”がなくなったことは描かれていない。これでは半分しか描いていない。日本文化で権力が倒せることは日本人にとってはとっくの昔からすでにわかっていることである。日本文化では権力は倒せるが“悪いことをされる喜び”を満足する団体そのものは倒せない。“悪いことをされる喜び”を満足する団体を倒せるのはヨーロッパ文化だ。日本文化とヨーロッパ文化が組んで世界中の“悪いことをされる喜び”を満足する団体を倒したのだ。/平成29年2月18日追加:アンデルセン童話の『裸の王様』の最後に登場する「王様は裸だ」と言った子供は日本人のことである。日本人は世界中で一番背が低いので子供なのである。日本文化では権力がないので王様つまり政府が裸なのである。昔の『裸の王様』で最後に「王様は裸だ」と言ったのは黒人だった。近代の最初のころはアフリカ文化で政府の権力がなくなったが、近代の最後のころは日本文化で政府の権力がなくなったのだ。/平成29年2月18日追加:近代の日本がアジアの常任理事国に選ばれてみんながいい待遇で暮らせたのは、ヨーロッパ人が日本人から日本文化をもらったことに対するお礼である。ヨーロッパ人は日本人から日本文化をもらった換[か]わりに日本人に自分のお金をやったので日本人は裕福に暮らせたのだ。しかし、今ではもうヨーロッパ人はお礼をやめている。今の日本は常任理事国ではなくなってヨーロッパ人がお金をくれなくなっている。だから、今の日本はシケて幸福ではないのだ。例えば、日本にスーパーダイエーがあったのはイギリス人(つまり大英帝国人)が日本にお金をくれていたからである。昔私が学生のころに住んでいた福岡県福岡市箱崎にあったスーパーダイエーは美味[おい]しい物ばかり売っていた。今では箱崎のダイエースーパーはなくなっている。今後は中国人やインド人が日本人にお礼をしてくれるかもしれない。/平成29年2月18日追加:安藤昌益[あんどうしょうえき]が『自然真栄道[しぜんしんえいどう]』で「武士は刀を捨てて農具を持って百姓[ひゃくしょう]といっしょに田んぼを耕[たがや]せばいい」と言ったのも本気ではない。安藤昌益は本当は『武士はみんなから年貢[ねんぐ]をもらってみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にするのが仕事だから武士はいなければならない』ことを知っていたが、ついつい調子に乗ってワルノリして自分が身分制に反対するついでに「武士なんかなくなればいい」と言ってしまったのである。安藤昌益は「権力が要らない」と言ったまでで「“悪いことをされる喜び”を満足する団体が要らない」と言うつもりはなかったのだ。安藤昌益がもっと正確に言ってくれれば私がこんなことをわざわざ書く必要はなかった。学者がワルノリしていいかげんに言うと後世の人が誤解して困る。学者はワルノリするのをやめてもっと正確に表現することを心がけて欲しい。安藤昌益は『日本ではいくら幕府が身分制をやっても権力が得られないから、幕府は無駄[むだ]なことをやめておとなしく適切に国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にすべきである』と言えばよかったのだ。)
 左:ムンクの『叫び』右:『太陽』
古代や近代の日本人はヨーロッパ文化を受け入れたが、ヨーロッパの科学や芸術を受け入れただけで、国家宗教や五感主義(現象主義)までもは受け入れなかった。
中世の日本人はアジア文化を受け入れたが、インドの数学や哲学や中国の文学や道徳を受け入れただけで、インドの身分制や生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい](人間が動物と共存する制度)や中国の民主主義までもは受け入れなかった。
平成29年2月7日この段落を追加:日本人はいつの時代でも世界中の文化を取り入れてきた。古代や近代にヨーロッパ文化だけを取り入れて、中世にアジア文化だけを取り入れたのではない。ただ、古代や近代にはヨーロッパが発展してヨーロッパに科学の発明が多かったから日本はヨーロッパの科学の発明を多く取り入れて、中世にはヨーロッパが衰退してヨーロッパに科学の発明が少なかったから日本はヨーロッパの科学の発明をほとんど取り入れなかっただけのことである。例えば、江戸中期の平賀源内がヨーロッパ文化を取り入れたのも、日本がいつでも世界中の文化を取り入れている証拠である。日本は近代になってヨーロッパの科学を多く取り入れるようになったがアジア文化も取り入れ続けた。近代の政府は焚書坑儒[ふんしょこうじゅ]をやったが、国民みんなは政府を無視して世界中の文化を取り入れていたのである。
人間は日本文化でもっとも幸福に暮らせるのだから、人間は努力して日本文化をやればいいのである。日本人はずっと昔から『人間は日本文化すなわち実在主義でもっとも幸福に生きることができる』ことを知っていた。だから、外国の文化をそのまま受け入れることはしなかった。日本人は日本文化で受容できる分だけしか外国の文化を受け入れなかった。日本文化で受容できない分の外国の文化は受け入れずに捨てた。そのようにして、日本人はずっと昔から日本文化で受容できる分の外国の文化だけを受け入れて日本文化の内容を太らせて充実させて来たのだ。日本人は日本文化を充実させて自分たちがより幸福に暮らせるようにして来たのだ。
特撮番組『スーパーロボット レッドバロン』(1973.7.4〜1974.3.27)では、日本で作られた巨大ロボットレッドバロンが世界中の巨大ロボットと戦ってことごとく倒した。巨大ロボットは文化の喩[たと]えである。日本文化は世界最強の文化なのだ。
左:レッドバロン
今の人はテレビや映画にかぶれて「人間は見かけで決まる」と思っているが、『人は見かけによらぬもの』が日本文化である。日本文化では人間は眼だけを使うのではなく眼と頭の両方を使わねばならない。人間は眼と頭の両方を使って実在を見ないといけない。実在の中で眼で見て心を満足しないといけない。そうすれば、人間は幸福に暮らすことができる。ところが、今の人間は眼だけを使って不幸に暮らしている。今の人間は眼で見る世界の中で自分の心を満足しているだけである。今の人間はまちがった生き方をして自分で自分を不幸にしている。人間は幸福に暮らさねばならない。だから、今の人間は日本文化をやらねばならない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、国民にまちがった生き方を広めているのである。国民は政府の言いなりにならずに、自分で自分を幸福にする生き方をしないといけない。
平成29年2月4日追加:日本文化では『政府も見かけによらぬもの』である。みんなはテレビで政府のニュースを見るだけではなく、もっと広く世の中のことを眼で見て頭でよく考えて政府の正体を見極めねばならない。政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であることを理解しないといけない。みんなは自分の心について頭で考えて、自分の心に“悪いことをされる喜び”がないことを知って、自分で政府に悪いことをされないようにしないといけない。
平成29年2月10日追加:日本は実在主義の国である。日本人は身分が高い者にも国民みんなの総意にも神にも従わず、実在に従うだけである。日本ではみんなが実在について自分の眼で見て自分の頭で考えて実在を理解して、実在の中で自分の心を満足するように行動すればいい。それが日本人の行動原理である。人間は実在に従うともっとも幸福に生きられる。だから、日本ではみんながそうすればいい。日本人は民主主義ではなく個人主義だから他人のことはどうでもいい。自分で正しいことを考えてその通りに行動すればいいのである。そうしてはじめて一人前の日本人と言えるのだ。
平成29年2月19日追加:日本文化では昔から『雰囲気の悪い人が善い人である。雰囲気の善い人は悪い人である』ことになっている。雰囲気のいい人は他人に従うから実在に従わない。雰囲気の悪い人は他人に従わないから実在に従う。日本文化では実在に従う者が善い人だから、雰囲気が悪い人が善い人なのである。日本文化では外見や雰囲気が善い人は実在に従わないから悪い人であり、外見や雰囲気が悪い人は実在に従うから善い人である。だから、日本人は昔から不細工[ぶさいく]で無愛想[ぶあいそう]で渋面[じゅうめん]食って無口で笑わないのである。外見がいいのはヨーロッパ文化である。雰囲気がいいのは中国文化である。人の外見や雰囲気とかは当てにならない。人間の本当のよさは外には表れないものである。

[23154] 政府はどうして善いことをする会社で囲うのか?☆ h29.2.3
政府が自分を法律会社や学校会社や水道会社や清掃会社や役所などの善いことをする会社で囲うのは、政府が民主主義をやるためである。政府は自分が民主主義をやって権力を得るために善いことをする会社を建てているのである。つまり、政府にとっては善いことをする付属会社は自分が権力を得るための道具なのである。政府は国民のために善いことをやって国民みんなの支持を得ることによって権力を得ようとしているのである。国が中国文化を受け入れる時代には、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体が中国政府を真似[まね]て民主主義をやるために善いことをする会社を建てるのである。マンガの政府のキャラクターに眼がいっぱいあるのは民主主義のことである。例えば、7つの眼の羊とは民主主義をやっている政府(つまり国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体)のことである。『黄金バット』のナゾーに5つの眼があるのも日本政府が民主主義をやっているからである。宗教団体や暴力団が善いことをする会社を建てるのも自分が民主主義をやって国民みんなのためになることをやって国民みんなの支持を得て自分が権力を得るためである。
しかし、日本文化の実在主義では、いくら政府が民主主義をやっても権力は得られない。政府は無駄[むだ]なことをやっているだけである。日本文化では政府には権力はなく、政府は国民と平等である。マンガの政府が逆三角形で表されるのは、政府に権力がなく国民と平等であることである。
日本では政府と国民は平等である。国民は自分を幸福にする政府の命令を聞き、自分を不幸にする政府の命令を聞かなければいい。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから自分を幸福にするために政府の悪い命令を聞いていた。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから自分を不幸にしないために政府の悪い命令を聞かなくなった。政府が国民から税金を取るのは政府が国民からお金を強盗することであり政府が悪いことをすることである。今の国民は政府の税金の命令を無視して政府に税金を払わないようにして政府を倒しているのである。宗教団体や暴力団についても同様である。(H29.2.5追加:“悪いことをされる喜び”を満足する団体が善いことをする会社を建てたり選挙をやったりして民主主義をやれば国民みんなの支持を得て権力が得られるから「天狗の隠れ蓑[みの]」と言うのである。しかし、それは中国文化での話であって、日本は中国文化をやっていないから日本ではいくら“悪いことをされる喜び”を満足する団体が民主主義をやっても権力は得られないのだ。文学やおとぎ話は国民に外国の文化を植えつけるために使われることがあるから、みんなは注意しないといけない。)
政府が自分を善いことをする会社で囲うのは、国民を恥ずかしがらせないためではなく、民主主義をやって自分が権力を得るためである。つまり、“悪いことをされる喜び”については今から約50年前(昭和40年=1965年ごろ)に変化があっただけだ。人類の歴史はみんなが“悪いことをされる喜び”を堂々とあけっぴろげに満足していた大昔とみんなが“悪いことをされる喜び”を恥ずかしがって満足していた昔とみんなが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった今の3つの時代に分かれるのではなく、みんなが“悪いことをされる喜び”を満足していた昔とみんなが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった今の2つの時代に分かれるだけだ。今から約50年前に時代は変わった。それ以前の人間は実在を知らず実在に支配されて実在に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”があった。そのために、みんなが自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために自分のほうから進んで政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされて政府や宗教団体や暴力団がみんなに強盗して儲[もう]かっていた。それ以後の人間は実在を知って実在を支配して実在に善いことをさせて“善いことをされる喜び”だけあって“悪いことをされる喜び”がない。そのために、みんなが政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされなくなって政府や宗教団体や暴力団がみんなに強盗できなくなって潰[つぶ]れている。時代が進むと文明が発達してみんながじょじょに実在を支配するようになって実在に善いことをさせることが増えて実在に悪いことをされることが減ってみんなにじょじょに“善いことをされる喜び”が増えて“悪いことをされる喜び”が減っていったが、それでも今から約50年前まではまだみんなに“悪いことをされる喜び”があったのだ。しかし、今から約50年前に文明が急激に発達して今ではすでにみんなが“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。超伝導体の温度を冷やしていくとじょじょに抵抗値が減っていって、ある温度から突然抵抗値が0になるのと同じことである(下図参照)。今ではみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのために、世の中が大きく変わっているのだ。フランシス・ベーコンが「知は力なり」とか「自然に従えば自然を支配できる」とか言ってから400年以上たってようやくそれが実現したのだ。


[23155] 今では世界中の国で“悪いことをされる喜び”を満足する団体が滅んでいる。☆☆ h29.2.6
昔はみんなが文明が遅れていて実在を知らず実在に支配されて実在に悪いことをされていたので“悪いことをされる喜び”があった。そのため、昔の人は人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりしていろんな悪いことをされて幸福になっていた。“悪いことをされる喜び”を満足する団体はみんなからお金を強盗して儲[もう]かっていた。
しかも、昔は世界中のほとんどの国で文化が偏[かたよ]っていたために“悪いことをされる喜び”を満足する団体に権力があった。昔のインドではみんなが頭だけを使う頭主義で生きていたので、眼を使わないために眼で見る世界を昔のままにするために“悪いことをされる喜び”を満足する団体を身分が高いことにして保護していた。昔の中国ではみんなが心だけを使う心主義で生きていて多数決が絶対的だったので、“悪いことをされる喜び”を満足する団体が善いことをする会社を建てたり国民みんなの選挙で議員を選んだりして民主主義をやって権力があった。昔のヨーロッパではみんなが眼だけを使う五感主義で生きていて頭を使わないために自分にわからないことがあったときすぐに近くにいた人を神にして崇[あが]めていたので、“悪いことをされる喜び”を満足する団体が神を奉[たてまつ]って権力があった。暴力団はインド文化が生んだ身分が高い“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、政治団体は中国文化が生んだ民主主義をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、宗教団体はヨーロッパ文化が生んだ国家宗教をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。昔の世界では文化が偏っていたために“悪いことをされる喜び”を満足する団体に権力があった。そのために、“悪いことをされる喜び”を満足する団体が無理やり国民みんなに悪いことをやって、国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足する団体にひどい仕打ちを受けていた。昔の世界では“悪いことをされる喜び”を満足する団体が権力を使って国民から重税を取って“悪いことをされる喜び”を満足する団体だけが裕福でその他の国民は糞[くそ]貧乏だった。一方、昔の日本ではみんながインド文化や中国文化やヨーロッパ文化を統合して眼と頭と心のすべてを使って実在主義で生きていたので、“悪いことをされる喜び”を満足する団体に権力がなく国民と平等だった。そのために、国民は自分が好きなだけ“悪いことをされる喜び”を満足する団体に悪いことをされていたので、“悪いことをされる喜び”を満足する団体は国民にあまり悪いことをしなかった。(平成29年2月9日追記:身分制や民主主義や国家宗教による権力は文化の偏りによって発生する権力である。いわば権力は文化の欠陥であり恥[はじ]なのである。権力者が出る文化は不完全なまちがった汚らしい文化である。権力は人を幸福にするときには要らない。なぜなら人を幸福にすることはみんなが自分のほうから喜んでやるからわざわざ命令しなくていいからである。例えば、遊ぶことはみんなが自分から喜んでやるからわざわざ命令してやらせなくてもいいから権力が要らない。また例えば、法律は国民が社会の中で幸福に暮らすための決まりだから、法律は国民が自分が幸福になるために自主的に守るものである。けっして誰かの権力によって守るのではない。けっして国民みんなの権力によって守るのではない。それが実在主義における法律観である。権力は人を不幸にするときに要る。権力は無理やり他人を不幸にするときに要る。なぜなら人を不幸にすることはみんながけっして自分のほうからやらず他人の命令によってのみやるからである。だから、権力は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体と結びつくのである。権力は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体が国民に無理やり悪いことをするときに使われるのである。『過ぎたるはなお及ばざるが如[ごと]し。』昔の人には“悪いことをされる喜び”があったから昔の人に悪いことをすると喜んだが、悪いことをしすぎるとさすがに嫌がったのだ。だから、革命や一揆[いっき]があったのだ。(人間には“悪いことをされる喜び”があるから、人間は善いことをされると幸福になるだけではなく悪いことをされると幸福になることがある。そこを広げて考えればいいだけである。人間に“悪いことをされる喜び”があるから『蓼[たで]食う虫も好き好き』というのかもしれない。人間が善いことをされると幸福になり、悪いことをされると不幸になるだけなら世の中は簡単である。人間が悪いことをされると幸福になるから、世の中には政治団体や宗教団体や暴力団のような“悪いことをされる喜び”を満足する変な団体がある。もっとも、今は簡単な世の中になりつつあるが。人間の心は複雑である。人間には“悪いことをされる喜び”があるように“善いことをされる不快さ”があるのかもしれない。人間は便利すぎると面白くないからやりがいを感じるためにあえて面倒なことをすることがある。例えば、自動車の代わりにわざわざ自転車で行くことがある。それも“善いことをされる不快さ”によるのかもしれない。人間に“善いことをされる不快さ”があるために、また変な仕事をする団体があるのかもしれない。人間に“善いことをされる不快さ”を与えないことを仕事とする団体があるのかもしれない。)権力には文化の偏りによって生まれる権力のほかに戦争による権力がある。昔は国民みんなが文明が低くて実在を支配して実在に善いことをさせることができず“物を使って遊ぶ喜び”がなくて“戦争をする喜び”があったために戦争をやっていたので、戦争による権力があった。昔は戦争が男の娯楽だった。そのため、ヒトラーのような国民みんなの“戦争をやりたい気持ち”によって発生する権力があった。国民みんなが戦争をやるためには総指揮官つまり総統が必要なので総統に国民みんなを自分の好き放題に動かすことができる権力があったのである。今は国民みんなが文明が高くなって実在を支配して実在に善いことをさせることができるようになったので“物を使って遊ぶ喜び”ができて“戦争をする喜び”がなくなって戦争をしなくなったので、戦争による権力もない。戦争があったからヒトラーは権力者になっただけで、戦争がなければヒトラーはただのおっさんだったのだ。)
今では世界中の国で“悪いことをされる喜び”を満足する団体が世界中の文化を足し合わせて身分制や民主主義や国家宗教をやって権力を得ようとしている。身分制とは自分が上の者だと思って自分の待遇をよくしたり他人を下の者だと思って他人を虫ケラのように扱うことである。民主主義とは善いことをする会社を建てたりみんなの選挙で議員を選んだり政党を設けたりすることである。国家宗教とは神を立てて神を奉[たてまつ]ることである。例えば、暴力団がスーパーを経営しながら国家宗教で組や組長の名前を決めて大きい家に住んだり高級車を乗り回したりして国民に無差別に暴力をふるのは、暴力団が民主主義や国家宗教や身分制をやって権力を得るためである。(例えば、山口組←山と口、山←ヤマ←カフ(ヤ≒カ、マ≒ブ)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私、口←○←光る玉←神武天皇のトンビ←天皇家、山口組の組長の町田忍?←町田←町←都会←東京←天皇、忍←シノブ←シブ←川ブ(シ≒川)←私というように、暴力団も国家宗教をやっている。)宗教団体が食堂やパソコンショップを経営しながら神を奉って無差別に(つまり信者であろうがなかろうがおかまいなしに)人殺しをするのは、宗教団体が民主主義や国家宗教や身分制をやって権力を得るためである。政府が国会をやりながら神の情報を使った事件を起こして国民を無差別に(つまり政府に悪いことをされたい国民であろうがなかろうがおかまいなしに)殺したり嫌がらせをしたりするのは、政府が民主主義や国家宗教や身分制をやって権力を得るためである。政府がテレビや雑誌で国家宗教の神を登場人物やキャラクターにしたドラマやアニメやマンガをやっているのは、政府が国家宗教をやって自分が権力を得るためである。つまり、政府が国家宗教の神を登場人物やキャラクターにしたドラマやアニメやマンガをやっているのは自分ひとりのためであって、国民のためではない。政府は国民みんながヨーロッパ文化をやっていることを利用して自分が権力を得ようとしているだけである。しかし、今の世界中の国では国民みんなが日本と同じように世界中の文化を取り入れて世界中の文化を統合して実在主義をやっている。そのため、今の世界中の国では“悪いことをされる喜び”を満足する団体が権力がなくなって国民と平等になっている。しかも、今の世界ではみんなが文明が高くなって実在を知って実在を支配して実在に善いことをさせているために“善いことをされる喜び”だけあって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのために、今の世界ではみんなが“悪いことをされる喜び”を満足する団体に悪いことをされるのを断って悪いことをされなくなっている。世界中の国で“悪いことをされる喜び”を満足する団体がみんなからお金を強盗できなくなって潰れている。今の世界では人間の“悪いことをされる喜び”を満足する団体がなくなって人間の“善いことをされる喜び”を満足する団体だけになりつつある。
平成29年2月8日追加:政府には権力がない。だから、国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民個人の自由である。政府の“法律や国策をやる会社”は善い法律や善い国策をやっているが、一方で政府本部(つまり国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体)の命令で悪い法律や悪い国策もやっている。政府の“法律や国策をやる会社”は善い法律や善い国策と悪い法律や悪い国策の両方をやっている。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから政府の“法律や国策をやる会社”の言うことを全部聞いて善い法律や善い国策と悪い法律や悪い国策の全部をやって幸福に暮らしていたが、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから今の国民は自分で考えて政府の“法律や国策をやる会社”の言うことを聞くか聞かないか決めて善い法律や善い国策だけやって悪い法律や悪い国策をやって自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。しかし、これでは今の国民にとっては面倒臭い。国民は細かいことや複雑なことまでもはわからない。政府の“法律や国策をやる会社”は国民をおちょくっている。だから、今の国民は政府といっしょに政府の“法律や国策をやる会社”を倒せばいい。今の国民で新しく“善い法律や善い国策だけをやる会社”を建てればいい。

[23156] どうして政府は私を国家宗教の神にしたのか? h29.2.6
日本は昔から日本文化をやっているだけでヨーロッパ文化をやっていない。日本文化には国家宗教はない。だから、政府がいくら国家宗教をやっても政府は権力が得られない。
だから、昭和40年=1965年ごろに政府が私を新しい国家宗教の神にしたのはフェイントである。
『日本では政府に権力がないから、政府の支えは国民の“悪いことをされる喜び”だけである。しかし、今の国民は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は政府に悪いことをされるのを断ればいい。』国民にそのことが知られたら政府はすぐに滅ぶ。そのため、政府は国民に「政府の支えは国家宗教である。政府は権力によって支えられた団体である」と思わせて国民の目を欺[あざむ]いて自分が生き残るために私を国家宗教の神にしたのである。政府は国民に「政府が国家宗教をやれば権力が得られる」と思わせて自分が国民に無理やり悪いことをやるために、私を神とする国家宗教をやっているのである。しかし、日本では国民みんなが国家宗教をやらないから、いくら政府が自分一人で国家宗教をやっても権力は得られず無駄[むだ]である。
今度もまた政府が一人だけでなんにもならない国家宗教をやってみんなに馬鹿呼ばわりされるだけである。

[23157] 昔の人は文明が遅れていたので心の病気に罹[かか]っていた。☆ h29.2.7
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が遅れていて昔の人は実在を知らず実在に支配されて実在に悪いことをされて暮らしていたので“悪いことをされる喜び”があった。昔の人は心の病気に罹[かか]っていた。昔の人は“悪いことをされるとうれしい病”に罹っていた。そのため、昔はみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを喜ばせる団体があった。昔の人は心の病気だったから、心の病気の人を喜ばせるために政治団体や宗教団体や暴力団などという変な団体があったのである。
今は文明が進んで今の人は実在を知って実在を支配して実在に善いことをさせて暮らしているので“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は心の病気が治っている。そのために、今ではみんなが“悪いことをされる喜び”を満足する団体が要らなくなって“悪いことをされる喜び”を満足する団体が滅んでいるのである。国民みんなが政治団体や宗教団体や暴力団にお金を強盗されなくなって政治団体や宗教団体や暴力団が滅んでいるのである。

[23158] 今の世界では文化の偏[かたよ]りや文明の遅れがなくなって人間が正常に暮らせるようになっている。 h29.2.12
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民を殺したり国民に強盗したり国民を虐待したり国民を貧乏にしたりして国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。
日本文化では政府に権力はない。国民と政府は平等である。国民は自分を幸福にする政府の命令を聞いて、自分を不幸にする政府の命令を聞かなければいい。
昔の国民は文明が低くて実在に支配されて実在に悪いことをされていたから“悪いことをされる喜び”があった。昔の国民は政府に悪いことをされて自分が幸福になるために政府の悪い命令を聞いていた。今の国民は文明が高くなって実在を支配して実在に善いことをさせているから“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は政府に悪いことをされないようにして自分が幸福になるために政府の悪い命令を聞かなくなっている。今の国民は政府に強盗されないようにするために政府に税金を払わなくなって政府を倒している。
文化の偏[かたよ]りは権力者を生み出して人間を不平等にして権力者が自分の好き放題にみんなに悪いことをするようになる。文明の遅れは人間の心に“悪いことをされる喜び”を生み出して人間が自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために自分のほうから悪いことをする団体に悪いことをされるようになる。昔の世界では文化の偏りや文明の遅れがあったために人間が不平等になって人間の心に“悪いことをされる喜び”があったために人間が異常な暮らしをしていた。今の世界では文化の偏りや文明の遅れがなくなって人間が平等になって人間の心に“悪いことをされる喜び”がなくなって人間が正常に暮らせるようになっている。
日本は文明は遅れているが文化は進んだ国である。日本は文明は後進国だが文化は先進国である。日本は外国から進んだ文明を取り入れて自分の文化を守っていけばいいのである。
ヨーロッパ人は眼がいいから眼で見ることに基づいて頭で考える。反対に、日本人は頭がいいから頭で考えることに基づいて眼で見る。ヨーロッパ人と日本人では実在の知り方が違う。日本人は日本人の長所を活かして実在を知らねばならない。
私は子供のころから理科は得意だったが社会科が苦手だった。そのために、私はこれまで政府のことや権力のことがわからなかった。反対に、文系の人間は子供のころから理科は苦手だが社会科が得意で政府や権力のことがよくわかっている。文系は理系が社会科が弱いことを利用して社会の中や会社の中で自分が権力があるふりをして理系から稼[かせ]ぎを奪って儲[もう]けている。理系は社会のことについてよく考えて社会のことをよく理解して文系に騙[だま]されないようにしないといけない。理系は文系に自分の稼ぎを取られないようにしないといけない。
平成29年2月13日追加:社会のことがわかっていない人が会社に入ると「政府には権力があるから国民は政府の命令を聞かねばならない」と思って政府の命令を聞いて自分の会社を破壊したり欠陥製品(毒の入った食品やブレーキのかからない自動車や火事になるストーブなど)を作って人殺しをしたりする。だから、社会のことがわかっていない人を会社に入れてはいけない。重役にしてはいけない。本当は『政府には権力がないから国民は政府の命令を聞かなくていい。今の国民は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民は政府の悪い命令を聞いて悪いことをやらなければいい』から、今の国民は自分で考えて政府の善い命令と悪い命令を区別して善い命令だけを聞けばいいのである。
平成29年2月13日追加:国は国民一人一人の集まりである。国の文化を決めるのは国民一人一人である。国の文明が進むか遅れるかを決めるのも国民一人一人である。国民一人でもできることがある。国民一人でもやらねばならないことがある。国を作るのは国民一人一人である。国民は自分一人で正しい文化や進んだ文明をやって国民みんなが幸福に暮らせる善い国にしないといけない。

[23159] 教育とは何か? h29.2.14
教育とは、親が子供を善い人間にすることである。善い人間とは幸福な人間のことである。だから、教育とは親が子供を幸福にすることである。
人間は自分の大脳の新皮質を働かせて古皮質を働かさなければ幸福になれる。人間は自分の古皮質を働かせないようにしながら新皮質を働かせれば幸福になれる。人間が幸福になるためには古皮質を働かせず新皮質を働かせることがコツである。つまり、善い人間とは大脳の新皮質が働いて古皮質が働かない人間のことである。
だから、教育とは子供の新皮質を働かせて古皮質を働かせないことである。そのためのひとつの方法が勉強である。ダイヤブロックのような知育玩具で遊ぶのも効果がある。私の『哲学日記』のように自分が考えたことを字にして書きとめるのも効果的である。(もっとも、子供はまだ言葉をあまり知らないから、子供に無理に自分の考えを書かせないほうがいい。子供はまず他人の本を読んで言葉の勉強をしないといけない。)
親が子供をそのように育てれば、子供は喜びが増えて善い人間になって幸福に生きることができる。
不幸にも、私の両親はそういう親ではなかった。私の親はよい教育者ではなかった。私の親は「子供の好き放題にさせれば子供は幸福になれる」と考えて、子供につべこべ言わず子供をほったらかしにして親が子供を管理しないで育てた。いわゆる放任教育である。そのために、私は思春期にオナニーをして古皮質を働かせて新皮質が働かなくなって喜びが減って悪い人間になって不幸に生きねばならなくなった。私が不幸から抜け出すためには早く死ぬしかなくなった。私は自分が不幸でない世界に行くためには死ぬしかないのだ。みんなはそうならないようにしないといけない。精神分裂病やテレパシーがどうのこうのよりも、とにかく古皮質の世界は人間にとって不幸である。人間にとっては新皮質の世界が幸福であり、古皮質の世界は不幸である。
親は子供をそんなに不幸にしてはいけない。私の親は人間について考えようとせず人間というものがわかっていなかったために、自分の子供に正しい教育ができず子供を幸福にできなかった。私の親は自分の子供に正しい教育をせず自分の子供を不幸にしたために自分自身も面白くない思いをしなければならなかった。(平成29年5月1日追加:私の親は子供に子供の好きなことをやらせたが、子供が幸福になることをさせればよかったのだ。親は子供に子供の好きなことをやらせるのではなく、子供が幸福になることをさせればいいのだ。子供は自分にとって幸福なことがわかっていないから、子供に子供の好きなことをやらせると子供は自分が不幸になることをして不幸になってしまう。例えば、子供は性欲が幸福だと誤解して、性欲に嵌[はま]って不幸な人生を送らねばならなくなる。だから、親は子供が幸福になることを子供にさせればいいのだ。そういう観点から人間を見れることが大事なのだ。)
人間の新皮質と古皮質は拮抗[きっこう]する。つまり、人間は新皮質を働かせれば古皮質が働かなくなり、古皮質を働かせれば新皮質が働かなくなる。人間は新皮質と古皮質の両方を働かせることはできない。人間にとっては古皮質を働かせるよりも新皮質を働かせるほうが幸福である。だから、人間は新皮質だけを働かせて古皮質を働かさなくなる。つまり、人間は考える喜びだけを満足して愛情や性欲を満足しなくなる。人間は生物的に失敗作である。人類はいつかは滅亡するだろう。人間は自分が幸福になりたい。だから、考える人間が増えて異性とくっつく人間が減る。だから、人類は滅びるのである。それが人類の運命ならばしかたがない。人間は人類の運命を受け入れて自分が幸福に生きていかねばならない。人間は個人の幸福を人類の生存よりも優先しなければならない。
平成29年3月10日この段落を追加:人間にとっては親が愛情や性欲のために結婚した時点ですでに親はまちがいを犯している。親は人間の幸福が何かがわかっていない。だから、人間は自分の親を見習ってはいけない。人間は自分が“考える喜び”を満足して幸福に生きるようにして、自分の親みたいな不幸な人間にならないように努力しなければならない。
「人間が異性とくっついて愛情や性欲を満足すれば幸福になれる」のは政府が国民を不幸にするためにでっち上げたデマである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、『ツァラトストラ』の道化師が綱[つな]渡り師の頭の上を飛び越えて綱渡り師が足を滑[すべ]らせて綱から落ちて死んだように政府は国民の人生の道を誤らせて国民に悪いことをするためにまちがったデマを流しているのである。昔の国民は文明が低くて“悪いことをされる喜び”があったから政府に悪いことをされると幸福だったが、今の国民は文明が高くて“悪いことをされる喜び”がないから政府に悪いことをされると不幸である。だから、今の国民は政府の嘘[うそ]に騙[だま]されないようにして、自分が正しい考えを持って正しく生きていかねばならない。
政府は学校で子供たちに正しい社会科の知識を教えず子供たちにまちがった社会科の知識を植えつけて子供たちを政府の言いなりにしようとしている。例えば、政府は子供に『日本では民主主義をやっても権力が得られない』ことを教えずに民主主義をやって子供に「政府に権力がある」と思わせている。
政府は学問を馬鹿にしている。政府は学問を軽蔑[けいべつ]している。政府は学問の敵である。日本は実在主義の国だから、国民にとっては学問(つまり実在についての正しい知識)のほうが政府よりも上である。だから、国民は学問のためにみんなにまちがったことを教える政府を倒さねばならない。
人間は実在に従えばもっとも幸福になれる。人間は正しいことをやればもっとも幸福になれる。だから、国民は自分で正しいことを考えて正しい考えを実践[じっせん]して幸福にならねばならない。例えば、『政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから国民に悪い命令を出す。一方、政府は民主主義をやっているから国民に善い命令も出す。(政府が民主主義をやるのは国民に善いことをするためではなく自分が権力を得るためである。政府は国民のためではなく自分自身のために民主主義をやっているだけである。つまり、民主主義の実体は政府主義なのである。政府は自分が国民に支持されて権力を得ればいいだけだから、本当に善いことをせずにやっているかやっていないかわからないことを言うだけなのである。それが民主主義というものである。政府がテレビや新聞に出るのも民主主義をやって自分が権力を得るためである。テレビや新聞は政府が民主主義をやるための道具である。政府は本来国民に悪いことをするだけであって、民主主義をやって自分が権力を得るためにいやいやしかたなく善いことをやっているにすぎないのである。だから政府は大々的[だいだいてき]に善いことをせずちょっとだけ善いことをするだけなのである。もっとも、日本文化は心主義ではないから、いくら政府が民主主義をやっても権力は得られないが。それなら、政府は民主主義をやめたらいいが、世の中には政府が民主主義をやっているのを見て「政府に権力がある」と思う馬鹿もいるから政府は飽きずに民主主義をやり続けているのである。早く国民みんなが『政府に権力がない』ことを理解して政府に従うのをやめて欲しいものである。日本文化は実在主義だから、会社が国民を本当に幸福にすることをすれば権力が得られる。)政府は国民に善い命令と悪い命令の両方を出す。ところが、日本文化では政府と国民は平等だから、国民が政府の命令を聞こうが聞くまいが国民個人の勝手である。だから、たとえ政府が善い命令を出しても国民は政府の善い命令を聞かなくていい。たとえ店が品物を安く売って客にとってお買い得であっても、客が品物を買わなくてもいいのと同じことである。だから、たとえ政府が善い命令を出しても、国民は自分が不幸になってもよければ政府の善い命令を聞かなくていい。』ことが正しいから、おとぎ話の『嘘つきとオオカミ』のように国民は自分が政府の善い命令と悪い命令をいちいち区別するのが面倒臭ければ政府の命令を全部無視していっさい聞かなければいいのである。国民は“善いことと悪いことの両方をやる団体”“善いことをちょっとしかせず悪いことをいっぱいやる団体”である政府と縁[えん]を切って政府に税金を払わずに政府を倒して、国民みんなで新たに“善いことだけをする団体”を建てればいいのである。今は国際化の時代である。日本はインド文化を受け入れている。そのために政府が身分制をやっている。このまま政府を放っておくと政府はいつまでも自分が権力を得るために身分制をやって無差別にみんなに悪いことをする。政府は自分が権力を得られもしないのにいたずらに身分制をやって国民に悪いことをする。(江戸時代の幕府も権力が得られもしないのにいたずらに身分制をやって国民みんなの迷惑だった。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないからなおさらである。)だから、今の国民みんなで早く政府を倒さなければならないのである。日本文化では人間はみな平等だから、政府が国民に身分制をするなら、逆に国民が政府に身分制をしてもいい。国民は政府に対して身分制をやって政府を虫ケラのように扱えばいい。誰も文句を言わないから、国民は政府の者を無差別に殺したり虐待したりすればいいのである。
平成29年2月15日追記:本当は『テレビやマンガを見たりゲームをするよりも自分で考え事をするほうが面白い』のに、政府はみんなに「テレビやマンガを見たりゲームをするほうが面白い」ことを広めてみんなに面白くない思いをさせている。今の世の中が面白くない雰囲気なのは、みんなが毎日面白くないことをやっているからである。みんなは政府の嘘に騙されないようにして、自分の心で面白いか面白くないかを決めて自分が本当に面白いことをやって自分で自分を幸福にしないといけない。

[23160] 日本では国民は政府に従わなくてもいい。 h29.2.14
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。
そのうえ、今の政府は身分制や民主主義や国家宗教をやっている。
今では「政府に権力がある」と思っている国民と「自分には“悪いことをされる喜び”がある」と思っている国民が政府の悪い命令を聞いているだけである。
だから、国民は自分が「政府に権力がある」と思わず「自分には“悪いことをされる喜び”がある」と思わなければ政府の悪い命令を聞かなければいい。
今の国民が「政府に権力がある」と思ったり「自分には“悪いことをされる喜び”がある」と思っているのは誤解である。そんな者は早く自分の誤解を直して政府の悪い命令を聞くのをやめねばならない。
日本は実在主義の国である。日本ではみんなが実在に従わねばならない。日本では政府に権力がないから、日本では国民は政府に従わなければいい。日本では国民が政府に従わないことが許されている。日本はそういう国である。日本ではみんなが日本文化で物事を考えればいいのである。だから、日本では国民は政府に従わなければいいのである。日本では国民がなんでもかんでも政府の命令を聞かなくていい。国民は自分が幸福になるときだけ政府の命令を聞いて、自分が不幸になるときには政府の命令を聞かなければいいのである。しかも、今の日本では文明が高くなってみんなが実在を支配して実在に善いことをさせているから“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の文明水準で人間に“悪いことをされる喜び”があることはありえない。「自分に“悪いことをされる喜び”がある」と思っている者は自分で自分の心がわかっていないためであって本当は『自分には“悪いことをされる喜び”がない』のである。だから、今の日本ではみんなが政府の悪い命令を聞かなければいいのである。
例えば、今の私は故郷の高知へ帰って両親の遺産相続をやっている。預金の遺産相続は銀行がお金を取らないのでいい。しかし、不動産(つまり土地と家屋)の遺産相続は役所が高いお金を取るので納得がいかない。(不動産の遺産相続の代金は不動産の評価額の0.4%である。例えば評価額1千万円で4万円である。バカ高い!定額になっていないのもインチキ臭い。反対に、ものすごく狭い土地で評価額10円の土地なら只[ただ]になるのもおかしい。)役所は書類の仕事をしているだけだからそれほどお金がかからないはずである。私は役所にお金を払いたくないのではなく仕事に見合うお金をちゃんと払いたいのである。せいぜい5千円までしか払いたくない。国民は役所の言いなりになっていてはいけない。私は政府の役所の世話にはなりたくない。どこか別の会社がもっと安い料金で不動産の遺産相続の仕事をやってくれないものだろうか?
私が役所に不動産の遺産相続の代金(登録免許税)を払わないと不動産の遺産相続ができないから私が困る。だから、私は嫌でも不動産の遺産相続の代金を払わねばならない。一方、政府の仕事は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足することだから、税金は政府の仕事代つまり国民が政府に悪いことをしてもらうための代金だから、国民が政府に税金を払わないと政府に悪いことをされないから、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから今の国民は困らない。だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。(幕府に払う年貢[ねんぐ]の貢は貢[みつ]ぐだから身分制を表している。政府に払う税金の税は悦[えつ]に字の形が似ているから“悪いことをされる喜び”を表している。)政府は民主主義をやって自分が権力を得るために水道会社をやっている。水道代は国民が水を利用したことに対して支払うお金であって政府に悪いことをされるために払うお金ではないから、国民は心配せずに水道代を払えばいい。今の国民は政府に税金を払わないようにして政府に悪いことをされないようにして政府を倒せばいいのである。政府の法律会社や学校会社は税金でやっているから国民に悪いことをするためにある。政府の法律会社や学校会社は政府が民主主義をやって権力を得るためにいやいやしかたなく善いことをちょっとやっているだけである。要するに、政府は悪いことをする団体であり、民主主義をやって自分が権力を得てもっと悪いことをするためにちょっとだけ善いことをやっているにすぎないのである。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、政府は今の国民にとってほとんど役に立たない。だから、今の国民は水道代だけ払って水道会社だけを残してほかの政府を潰[つぶ]せばいいのである。
不動産の遺産相続の代金は国民が遺産相続のために払うお金であって自分が政府に悪いことをされるために払うお金ではない。不動産の遺産相続の代金は税金ではないから登録免許“税”と呼ぶのは不当である。不動産の遺産相続の代金は税金ではないから、役所は不動産の遺産相続の代金を仕事に見合った金額にしてもっと安くしないといけない。

[23161] 今の日本では国民が政府を倒している。 h29.2.15
人間は知覚が発達している。人間は知覚が心を支配している。昔の人間は文明が遅れていて実在に支配されて実在に悪いことをされていたために「自分が悪いことをされる生き物だ」と考えていたので“悪いことをされる喜び”があった。とにかく、昔の人は文明が遅れていて苛酷[かこく]な環境で暮らしていていつも苦しい生活をしていて苦しみに慣れて苦しみを欲するようになったために“悪いことをされる喜び”があったのだ。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は国民に悪いことをすることが仕事である。税金は国民が政府に悪いことをしてもらうための代金である。政府が国民と契約せずに国民から税金を強盗するのは政府の洒落[しゃれ]である。政府は自分が悪いことをする団体だから、そのことを出すためにわざわざ国民と契約せずに国民から税金を強盗しているのである。昔の人間は毎日実在から虐待を受けていたために“悪いことをされる喜び”に目覚[めざ]めていたので政府に悪いことをされて幸せだった。昔の人間は政府に税金を払って政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
日本は昔から世界中の文化を取り入れて世界中の文化を統合して実在主義をやってきた。そのために、政府に権力がなく政府と国民は平等である。国民が政府の悪い命令を聞くか聞かないかは国民の自由である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の悪い命令を聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の悪い命令を聞かなければいいのである。
今の国民は文明が発達して実在を支配して実在に善いことをさせているために「自分が善いことをされる生き物だ」と考えるようになって“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がない。今の国民は政府に悪いことをされるのが嫌である。だから、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。政府は国民からお金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。今の国民にとっては政府が要らないから、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を倒している。
それが今の日本社会の現状である。今の日本では国民が政府を倒していることはわかりにくいが本当は倒しているのである。論理的には国民が政府を倒していることになるから、実際に国民が政府を倒しているのである。日本文化は眼と頭の両方を使う。眼で見えないことは頭で見ればいい。頭では政府が国民を倒していることになるから実際にも国民が政府を倒しているのである。人間は論理的に動くから、今では国民が政府を倒さざるを得ないのである。人間が意識していようがいまいがとにかく人間は実在に従う。人間がまちがいを何も知らなければひとりでに人間は正しいことをする。だから、今の国民は政府を倒すことになるのである。だから、今の国民は政府を倒していいのである。今の国民が正しい考えで固めまくったら政府を倒すことになるから、今の国民は政府を倒せばいいのである。

[23162] 今の政府は国民の誤解で建っているだけである。 h29.2.16
今の日本では「政府は民主主義や国家宗教や身分制をやっているから政府には権力がある」と思っている国民や「今の国民には“悪いことをされる喜び”があるから、今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の命令を聞いて政府に悪いことをされている」と思っている国民や「政府が民主主義で国民のために善いことをやっている」と思っている国民が政府の命令を聞いて政府に税金を払っている。今の政府はそういう国民のおかげで建っている。
しかし、本当は『政府には権力がない。』『今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。』『民主主義とは、政府が国民のために一生懸命に善いことをすることではなく、政府が自分が権力を得て(つまり政府が国民みんなを従わせて)もっと悪いことをするためにしかたなくちょっとだけ善いことをすることである。』(ドリフターズの『8時だョ全員集合!』で加藤茶が「ちょっとだけよ。あんたも好きねえ」と言っていたのは政府の民主主義のことである。政府は民主主義でちょっとだけ善いことをやって権力を得てたくさん悪いことをやっている。ヌーディストがみんなに裸を見せてみんなを幸福にしているふりをして本当はみんなの性欲を刺激してみんなの大脳の古皮質を活動させてみんなを不幸にしているのと同じことである。)
つまり、今の日本では政府は国民の誤解によって建っているのである。国民の誤解が政府の支えである。
だから、誰かが国民みんなに正しいことを教えれば政府は倒れる。
今の国民は『政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府が民主主義をやるのは政府が国民のためにちょっとだけ善いことをすることによって権力を得て政府が国民にもっと悪いことをするためであって、政府が国民に善いことをするためではない。日本文化では政府がいくら民主主義や身分制や国家宗教をやっても権力が得られず、国民と政府は平等である。国民は政府の命令を聞く必要はない。今では文明が発達して国民には“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民は政府に善いことをしてもらうときだけ政府にお金を払って、政府に悪いことをしてもらうときには政府にお金を払わなければいい。(あるいは、国民が政府になにも善いことをしてもらわないときには政府にお金を払わなければいい。例えば、国民は政府に相続税を払わなければいい。国民が相続の手続きがすべてすんだ後では政府にしてもらうことはもはやなにもないから、政府にお金を払わなければいい。)税金は国民が政府に悪いことをしてもらうために払うお金だから、国民は政府に税金を払わなければいい。国民みんなで政府を倒して、新しく“国民に善いことだけをする団体”を建てればいい。』ことを理解して、それを実行すればいい。国民みんなで早く日本を国民が幸福に暮らせる国にしないといけない。
日本は実在主義の国である。実在主義では人間は正しいことに従わねばならない。人間は正しいことを知って正しいことをやって生きていかねばならない。

[23163] 国民が自分の手で自分が幸福に暮らせる社会にすればいい。☆ h29.2.16
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府の仕事は国民に悪いことをすることである。もっとも、今の政府は民主主義をやっているから国民のために善いこともやっている。つまり、今の政府は悪いことと善いことの両方をやっている。
日本文化では政府に権力はない。政府と国民は平等である。国民は政府の命令を聞く必要はない。国民は自分が幸福になるときだけ政府にお金を払って政府に仕事をしてもらって、自分が不幸になるときには政府にお金を払わず政府に仕事をしてもらわなければいい。昔から日本ではみんながそうやって来た。
今では文明が高くなって国民は“善いことをされる喜び”だけあって“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民は政府に善いことだけをしてもらって政府に悪いことをしてもらわなければいい。税金は国民が政府に国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりしてもらって政府に悪いことをしてもらうための代金である。だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。(たとえそうでなかったとしても、税金は国民にとって何のために使われているかわからないお金だから国民が政府に税金を払う義務はないから、国民は政府に税金を払わなければいい。)水道代は国民が水道を使って政府に善いことをしてもらうための代金である。だから、今の国民は政府に水道代を払えばいい。今の国民は自分が政府に善いことをしてもらうときだけお金を払って悪いことをしてもらうときにはお金を払わないようにして、政府の中の善いことをする会社だけを残して悪いことをする会社を潰[つぶ]せばいい。そうやって今の国民の心に合った社会にすればいい。
政府が決めた法律や国策についても、日本文化では政府に権力はなく政府と国民は平等だから、国民が政府が決めた法律や国策をやれば自分が幸福になると思ったらやればよく、反対に国民が政府が決めた法律や国策をやっても自分が幸福にならないと思ったらやらなければいい。つまり、国民は自分を幸福にする法律や国策だけやって、自分を幸福にしない法律や国策をやらなければいい。今の国民は“善いことをされる喜び”しかない。だから、今の政府は善い法律や善い国策しかやれないのである。例えば、税金は政府が国民から一方的にお金を取ることである。今の国民にとっては政府に一方的にお金を取られることは自分を幸福にしないから政府に税金を払わなければいいのである。そうやって国民みんなで税金制を廃止にすればいいのである。(政府が善いことをやるのは政府が民主主義をやって権力を得て政府がもっと悪いことをするためである。要するに、政府は悪いことをする会社だから、政府のやることは全部悪いことをするためにやっているのである。政府は国民に“悪いことをされる喜び”を与える会社だから悪いことばかりするのである。政府は悪いことをするためだけにあるのである。だから、政府が要るのは政府に悪いことをされると幸福になる人だけである。今の人は自分が悪いことをされると不幸になるから政府が要らないのである。)ただし、今の政府が今の国民を引っ掛けてからかうために今の国民にウケそうな悪い法律や悪い国策を決めることがあるから、国民は注意しないといけない。日本では政府と国民が平等なので、国民が自分で考えて政府の言うことを聞くか聞かないか決めて自分がちょうどいい具合に政府に悪いことや善いことをされて自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。日本では権力者がいないから、政府は国民に法律や国策を命令しているのではなく提案しているにすぎない。政府が言うことをやるかやらないかは国民一人一人の自由である。政府が決めた法律や国策をやるかやらないかは国民個人の勝手である。そのようにして国民と政府が平等に付き合うことがこれまで日本人が長い間やって来たことである。今でもやっていることである。それが日本社会の実態である。日本では政府が国の意思決定機関ではなく、国民みんなが国の意思決定機関なのである。(平成29年2月17日追加:多数決と民主主義はまったく違う。多数決は国民みんなで賛成か反対かで手を上げて数の多いほうで決めることである。一方、民主主義は政府が自分の権力を得るために国民に支持されることをやることである。民主主義は多数決を利用しているだけであって、民主主義と多数決は同じものではない。日本文化では政府に権力がなく政府と国民は平等だから、国民は自分が幸福になるときだけ政府の言うことを聞き、自分が幸福にならないときには政府の言うことを聞かなければいい。日本文化は実在主義であり心主義ではないから、日本文化は個人主義であり社会主義ではなく、日本文化には多数決がないから、国民は自分で考えて決めねばならない。政府が決めた法律や国策をやるかやらないかは国民が他人に頼らずに自分で考えて決めねばならない。人間は実在において本当に幸福になれる。人間の心は実在を知らない。だから、国民は実在をなにも知らずに直感的に自分の心で決めるのではなく、眼と頭で実在をよく知ってから実在の中で自分の心を満足するように決めねばならない。みんなが眼や頭を使って実在を知ろうとせずに直感的に自分の心だけで自分を幸福にするか不幸にするかを判断して手を上げて数の多いほうで決めるのが本当の(つまり本場中国流の)多数決である。日本のようにみんなでよく話し合ってからみんなで正しいことをよく理解してから手を上げて数の多いほうで決めるのは実在主義であって本当は多数決ではない。日本の多数決は形の上で多数決なだけであって本当は実在主義なのだ。)
こういうことは政府について詳[くわ]しい人なら誰でも知っている。しかし、そういう人は政府についての知識をみんなに教えてみんなに広めようとしない。それは、今の法律では学問の自由は認められているが、学問の義務は認められていないからである。つまり、正しいことを知っている人が自分の知識をみんなに教えて広めねばならない義務がないからである。そのために政府についての学問が遅れている。正しいことはみんなに教えてみんなに広めてみんなが知っているようにしないといけない。そうすれば、みんなが幸福に暮らせるようになる。
「政府は善いことをする団体であり、ときどきまちがって悪いことをする」のは天動説の周天円[しゅうてんえん]的な考え方である。『政府は悪いことをする団体であり、民主主義をやって自分が権力を得るためにいやいやしかたなく善いことをやっているだけである』のが地動説的な考え方である。周天円的な考え方はプトレマイオス的でありアドホック(つまり行き当たりばったり)な修正であり進歩がない。地動説的な考え方はコペルニクス的であり革新的であり進歩がある。学問ではたとえまちがっていても思い切って割り切ったほうがいい。みんなは多少まちがっていても革新的な考えを取って社会を進めたほうがいい。
平成29年2月17日追加:“力”は眼で見えないからあるかないかわからない。“力”を使って自然が無矛盾に説明できたから“力”が存在することになる。それと同じように、“悪いことをされる喜び”は眼で見えないからあるかないかわからない。“悪いことをされる喜び”を使って社会が無矛盾に説明できたから“悪いことをされる喜び”が存在することになるのである。『実在的なことは論理的であり、論理的なことは実在的である』からだ。眼で見ることではなく頭で考えることに根拠を置くのが善い意味でのインド文化である。
最近のガキはガリ勉臭くなって眼で見ることにしか根拠を置かない
のがいけない。
平成29年2月21日追加:星を見ない者は「地球が止まっている」と思っているが、星をよく見て星についてよく考える者は『地球が動いている』ことがわかる。それと同じように、政府を見ない者は「政府が善いことをする団体だ」と思っているが、政府をよく見て政府についてよく考える者は『政府が悪いことをする団体である』ことがわかる。真実はたいてい直感とは反対である。(インド文化では頭で考えるだけで眼で見ない。ヨーロッパ文化では眼で見るだけで頭で考えない。古代のヨーロッパではインド文化をやっていたのでみんなが頭で考えて地動説やニコマコス倫理学をやっていた。中世のヨーロッパではインド文化をやめてヨーロッパ文化をやっていたのでみんなが眼で見るだけになったので天動説やキリスト教をやっていた。近代のヨーロッパでは再びインド文化をやるようになったのでみんなが頭で考えるようになって地動説やプラトン哲学をやるようになった。文化によって天文学や道徳が変わるのである。だから、一番大事なのは文化である。文化こそ影の主役だ。文化によってみんなが踊[おど]らされているだけなのだ。)

[23164] 人間がみな平等であれば世の中はうまく行く。☆☆ h29.2.17
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。
日本文化では政府に権力がない。日本でいくら政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっても政府は権力が得られない。政府と国民は平等である。国民は政府の命令を聞く必要がない。国民は自分で政府の言うことを聞きたければ聞き、聞きたくなければ聞かなければいい。
今では国の文明が高くなってみんなが“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今ではみんなが善いことをされたいだけで悪いことをされたくない。
政府は悪いことをやる会社である。政府は悪いことをすることが仕事である。税金は政府が国民に悪いことをするためのお金である。つまり、税金は国民が政府に悪いことをしてもらうための代金である。政府が善いことをするのは民主主義をやって自分が権力を得るときだけである。政府は民主主義をやって自分が権力を得るためにいやいやしかたなくちょっとだけ善いことをしているだけである。
だから、国民は自分が政府に善いことをしてもらうときだけお金を払って、それ以外のときにはお金を払わなければいい。例えば、国民は政府に簡易裁判や一般人向けの大学教養セミナーや水道やゴミの回収や証明書を発行してもらうときだけお金を払って、税金を払わなければいい。
そうすれば、政府は自分がお金を儲[もう]けるために善いことだけやって悪いことをやめるだろう。政府が国民に悪いことをしなくなって善い世の中になるだろう。
政府は本来悪いことをやる会社である。もともと悪いことをやる会社が善いことをやるから面倒臭くなる。日本では政府がいくら民主主義をやっても権力が得られないから無駄[むだ]である。政府は民主主義をやめて善いことをやめて悪いことだけやって国民みんなからお金をもらえなくなってさっさと潰[つぶ]れたらいい。国民で善いことをする会社を建ててお金を払って善いことをしてもらえばいい。
国民は自分が政府に善いことをしてもらうときだけお金を払って税金を払わなければいい。税金は政府が何の仕事をするためのお金なのかわからないから、政府が悪い仕事をするためのお金なのかもしれないから、政府と国民は平等だから、国民は自分が政府に税金を払うのが嫌なら大字税金を払わなければいい。国民が政府に税金を払わないために政府の法律会社や学校会社や役所などが潰れたら、国民で法律会社や学校会社や役所などを建ててお金を払って仕事をしてもらえばいい。(平成29年2月19日追加:税金は政府がやっている“何かわからないこと”(善いことか悪いことかもわからない)に対して国民が払うお金である。国民が政府がやっている何かわからないことに対してお金を払わねばならないなら、国民はそこらへんの民間会社がやっている何かわからないことに対してもお金を払わねばならないはずである。民間会社が政府と同じように国民みんなからお金を取れるはずである。しかし、実際にはそんなことにお金を払う国民はいない。だから、国民は政府に対しても何かわからないことにまでお金を払わなくていいのである。つまり、国民は政府に税金を払わなくていいのである。国民は政府に税金を払わない換[か]わりに、政府に“何かわからないこと”をしてもらわなくてもいいのである。)

[23165] 昔は“悪いことをする仕事”があった。 h29.2.17
昔の人は文明が低くて実在に支配されて実在に悪いことをされていたので、昔の人には“悪いことをされる喜び”があった。そのために、昔は“悪いことをする仕事”があった。政治団体や宗教団体や暴力団がみんなからお金をもらってみんなに悪いことをしてみんなを喜ばせていた。(みんなはたとえ表面的には嫌がっていても、心の奥では喜んでいた。)昔の社会には善いことをする仕事と悪いことをする仕事の両方があったのである。
今の人は文明が高くて実在を支配して実在に善いことをさせているので、今の人には“善いことをされる喜び”だけがあって“悪いことをされる喜び”がない。そのために、今では“悪いことをする仕事”がなくなりつつある。政治団体や宗教団体や暴力団がみんなからお金をもらえなくなって潰[つぶ]れつつある。今の社会には悪いことをする仕事がなくなって善いことをする仕事だけになっている。
文明が進むと人間の心が変わる。そのために、文明が進むと仕事も変わる。昔は“悪いことをされる喜び”を満足する仕事がたくさんあった。今では“善いことをされる喜び”を満足する仕事が増えて“悪いことをされる喜び”を満足する仕事がなくなっているのだ。

[23166] 原始時代はみんなが平等に幸福に暮らしていた。☆ h29.2.18
昔は世界中の国で文明が低くてみんなが実在に支配されて実在に悪いことをされていたので“悪いことをされる喜び”があった。そのため、みんなが“悪いことをされる喜び”を満足する団体にお金を払って悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。昔はみんなが平等に幸せに暮らしていた。
しかし、そのうち“悪いことをされる喜び”を満足する団体が自分の国の文化の偏[かたよ]りを利用して権力を得てみんなに無理やり悪いことをするようになった。インドでは“悪いことをされる喜び”を満足する団体が身分制をやって権力を得るようになった。中国では“悪いことをされる喜び”を満足する団体が民主主義をやって権力を得るようになった。ヨーロッパでは“悪いことをされる喜び”を満足する団体が国家宗教をやって権力を得るようになった。みんなが不平等になって、“悪いことをされる喜び”を満足する団体が上になって国民みんなが下になって、国民みんなが不幸に暮らさねばならなくなった。幸い、日本では世界中の文化を受け入れて世界中の文化を統合して日本文化(つまり実在主義)をやっていたために文化の偏りがなかったので“悪いことをされる喜び”を満足する団体が権力を得られず、みんなが平等だったのでみんなが幸福に暮らすことができた。日本では“悪いことをされる喜び”を満足する団体は形の上で身分制や民主主義や国家宗教をやるだけで国民みんなと平等にしていた。
今では世界中の国でみんなが日本を真似[まね]て世界中の文化を受け入れて世界中の文化を統合して日本文化をやっているので“悪いことをされる喜び”を満足する団体が権力がなくなって国民と平等になっている。その上、今は世界中の国で文明が高くなってみんなが実在を支配して実在に善いことをされているので“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのために、世界中の国で国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足する団体が要らなくなって“悪いことをされる喜び”を満足する団体にお金をやらなくなって悪いことをしてもらわなくなって幸福に暮らしている。今では世界中の国で“悪いことをされる喜び”を満足する団体が滅んでいる。今では再びみんなが平等に幸せに暮らすようになっている。
もともとこの世に権力なんかない。いっときまちがって権力が出来てしまっただけである。(日本は関係ないが。)だから、早く人類みんなで権力をなくさないといけない。
文化や文明が変わると人間の心も変わる。インド文化ではみんなが暴力団を上の者だと思って従ってしまう。つまり、人間が頭だけ使って眼と心を使わない文化ではみんなが身分制をやる団体に従うようになる。中国文化ではみんなが政治団体を上の者だと思って従ってしまう。つまり、人間が心だけを使って眼と頭を使わない文化ではみんなが民主主義をやる団体に従うようになる。ヨーロッパ文化ではみんなが宗教団体を上の者だと思って従ってしまう。つまり、人間が眼だけ使って頭と心を使わない文化ではみんなが国家宗教をやる団体に従うようになる。要するに、インド文化や中国文化やヨーロッパ文化ではみんなが自分でわざわざ変な決まりを決めて変な決まりを守っているために権力者が出来て権力者が悪いことをしすぎてみんなが嫌な目にあわされているというわけである。
一方、日本文化ではみんなが上の者がいないと思って何者にも従わない。つまり、人間が眼と頭と心の全部を使う文化ではみんなが従う者がいない。日本文化では権力者がいないので権力者がみんなに悪いことをしすぎることもなくみんなが幸福に暮らすことができる。インド文化や中国文化やヨーロッパ文化が日本文化に変わるとみんなの心が変わってみんなが従う者がいなくなって権力者が滅ぶ。文明が遅れているとみんなが“悪いことをされる喜び”があって“悪いことをされる喜び”を満足する団体にお金を払って悪いことをされて喜んで“悪いことをされる喜び”を満足する団体が栄える。つまり、人間が実在に支配されている文明ではみんなが実在に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”があるので、悪いことをするのを仕事にする団体がみんなに悪いことをしてみんなが幸福になってみんながお金をくれるので儲[もう]かる。反対に、文明が進むとみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなって“悪いことをされる喜び”を満足する団体にお金を払わなくなって悪いことをされなくなって“悪いことをされる喜び”を満足する団体が滅ぶ。つまり、人間が実在を支配する文明ではみんなが実在に善いことをさせて“悪いことをされる喜び”がないので、悪いことをするのを仕事にする団体がみんなに悪いことをしてみんなが不幸になってみんながお金をくれないので潰[つぶ]れる。今は世界中の国で文化や文明が変わって人間の心が変わっている最中[さいちゅう]である。日本ではみんなが日本文化をやって文明だけを上げればいい。それが成功すれば日本は幸福な国になる。今後の世の中が楽しみだ。

[23167] 今の国民は政府に善いことだけをしてもらえばいい。 h29.2.18
昔の国民は文明が遅れていて実在に支配されて実在に悪いことをされていたために“悪いことをされる喜び”があった。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は悪いことをするのが仕事である。政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりするのが仕事である。政府は民主主義をやって自分が権力を得るために善いこともやっている。政府は悪い仕事と善い仕事の両方をやっている。政府は悪い仕事をいっぱいやって善い仕事をちょっとだけやっている。政府は、悪い物に混じって善い物をちょっとだけ売っている店のようなものである(下図参照)。
日本文化では政府に権力はなく、政府と国民は平等である。だから、国民は自分が幸福になることだけを政府にしてもらい、それ以外のことを政府にしてもらわなければいい。本屋と国民は平等だから、国民は自分が欲しい本だけ買って、欲しくない本を買わなければいいのと同じである。
今では国の文明が高くなって国民は実在を支配して実在に善いことをさせて悪いことをされなくなっているために“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。だから、今の国民は政府に善いことだけをしてもらって、悪いことをしてもらわなければいい。
例えば、今の国民は政府にお金を払って水道やゴミの回収や証明書の発行などをしてもらって、それ以外のことにお金を払わずしてもらわなければいい。税金は政府が国民に何をするのか言わずに一方的に国民からお金を取ることだから、国民はそんなのが嫌だから、国民は政府に税金を払わなければいい。たぶん税金は政府が国民に悪いことをするための仕事代である。昔の国民は文明が遅れていて“悪いことをされる喜び”があったから政府に悪いことをされて幸福になるために政府に税金を払っていたが、今の国民は文明が進んで“悪いことをされる喜び”がないから政府に悪いことをされて不幸にならないために政府に税金を払わなければいいのである。政府が「税金は政府が国民のために善いことをするためのお金である」と言っているのは嘘[うそ]である。政府は国民に悪いことをする団体だから嘘をつくのである。今の政府は自分が身分制をやって権力を得るために勝手に国民を殺すぐらいだから国民に嘘をつくことぐらいなんでもないのである。だから、国民は政府の言うことを真[ま]に受けないようにして政府に税金を払わなければいいのである。政府は国民みんなが『政府が悪いことをする団体である』ことぐらい知っていると思って『政府の言うことを真に受けてはいけない』ことぐらいわかっていると思って国民に嘘をついているのである。だから、政府の言うことを真に受けるほうが馬鹿なのである。
国民が政府に税金を払わなければ政府の法律会社や学校会社などが潰[つぶ]れる。だから、国民で新しく法律会社や学校会社を建ててお金を払って法律や学校の仕事をしてもらえばいいのである。たとえ法律会社や学校会社がなくても国民が自分で法律や勉強をすればいいから、いっときの間法律会社や学校会社がなくても大丈夫[だいじょうぶ]だから、みんなは政府の法律会社や学校会社がなくなるのを心配しなくてもいい。
国民みんなで自分を幸福にする会社にお金を払って自分を幸福にする会社を建てて自分を不幸にする会社にお金を払わず自分を不幸にする会社を潰して自分を幸福にする会社だけにして幸福に暮らせるようにすればいいのである。
平成29年2月19日追加:政府が悪い団体であろうが善い団体であろうがとにかく日本文化では政府には権力がなく政府と国民は平等だから、国民は自分が気に入れば政府の言うことを聞き自分が気に入らなければ政府の言うことを聞かなければいい。たとえ政府が悪い団体であっても国民にとって政府が自分の気に入ったことをすれば政府にしてもらえばよく、たとえ政府が善い団体であっても国民にとって政府が自分の気に入らないことをすれば政府にしてもらわなければいい。税金は政府が何をするのかわからずに一方的に国民からお金を取ることだから、今の国民は税金が気に入らないから税金を払わなければいい。今の国民は政府が善いことをすることに対してだけお金を払ってやってもらえばいい。そのようにして、今の国民は政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、自分が幸福に暮らせるようにすればいい。


[23168] 政府は悪いことをする団体である。 h29.2.19
民主主義とは悪いことを仕事にする団体が自分が権力を得てもっと悪いことをするためにちょっとだけ善いことをすることである。
政府は民主主義をやっているから悪いことをする団体なのである。反対に、普通の会社は民主主義をやっていないから善いことをする団体なのである。
政府は悪いことを仕事にする団体である。政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を喜ばせる団体である。税金は政府が国民のために悪いことをするための仕事代である。
日本文化では政府には権力がなく政府と国民は平等であり、今の文明では国民は“悪いことをされる喜び”がなく悪いことをされるのが嫌である。だから、今の国民は政府に税金を払わず政府を倒せばいいのである。

[23169] 暴力団を見れば政府のことがわかる。☆ h29.2.19
暴力団は民主主義も国家宗教もやっていない。暴力団は身分制をやっているだけである。つまり、暴力団は善いことはやらずに悪いことをしているだけである。(厳密には、暴力団はスーパーなどを経営してちょっとは民主主義もやっているが。暴力団は“近似的に”善いことをやらずに悪いことだけやっているのである。)
しかも、暴力団は潰[つぶ]れない。それは、暴力団が法律に適[かな]っているからである。
暴力団が合法的に経営できるのは、暴力団が国民の“悪いことをされる喜び”を満足しているからである。それ以外に、説明のしようがない。
したがって、人間の心には“悪いことをされる喜び”があって、この世には“悪いことをされる喜び”を満足する仕事があるのである。
暴力団以外にも宗教団体や政治団体も“悪いことをされる喜び”を満足する仕事である。暴力団は身分制をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、宗教団体は国家宗教をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、政治団体は民主主義をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。(暴力団と政府は同じ“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。同じ穴のムジナ(アナグマのこと)である。だから、暴力団と政府は仲がいい。暴力団と政府は童話の『泣いた赤鬼』の青鬼と赤鬼の関係である。つまり、暴力団が悪役で政府が善い役をやって、暴力団が政府の人気を上げている。そのかわり、暴力団は政府に保護されている。つまり、暴力団が多少悪いことをやっても政府の警察に大目に見てもらっているのだ。そうやって、暴力団と政府は共生[きょうせい]しているのだ。)
政府は民主主義をやる“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は民主主義で善いことをちょっとだけやって、国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために悪いことをたくさんやっている。
日本文化では政府が民主主義をやっても権力が得られず、政府と国民は平等である。しかも、今の文明では国民に“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民は政府に善いことだけしてもらって、悪いことをしてもらわなければいい。例えば、今の国民は水道代やゴミの回収代や証明書の発行代などだけ払って、税金を払わなければいい。税金は政府が何かわからないことをするための代金だから、政府が悪いことをするための代金かもしれないから、今の国民はそんなお金を払うのが嫌だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。今の国民は政府に税金を払わない換[か]わりに、政府に何かわからないことや悪いことをやってもらわなければいい。
今の国民は政府に善いことだけやってもらってそれ以外のことはやってもらわなければいい。そうやって、今の国民は幸福に暮らせばいい。
政府と暴力団は同じ“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府の税金は暴力団のミカジメ代と同じである。暴力団は国民に悪いことしかしない。だから、政府の税金は政府が国民に悪いことをするための代金なのである。政府が民主主義で善いことをする代金は税金とは別にその都度[つど]国民から取るようになっているのである。暴力団の経営するスーパーがミカジメ代とは別に国民からお金を取るのと同じである。つまり、政府は暴力団のデラックス版なのである。暴力団のスーパーで買った客が暴力団にミカジメ代を払って自分に悪いことをして(つまり自分に暴力をふって)もらわなくてもいいように、政府の善いことをする会社にお金を払って善い仕事をしてもらった国民が政府に税金を払って自分に悪いことをしてもらわなくてもいいのである。(前にも言ったが、『ビックリマン』の聖ボットヘラクライストの魔力逆転ソードに「聖極楽拳」と書かれているのは、ヘラクライストが幕府のことで幕府が暴力団と同じように国民に暴力をふって国民を喜ばせる団体であることを表している。つまり、人間に“悪いことをされる喜び(暴力をふられる喜び)”があることを表している。人間とはそういう生き物なのだ。人間に“悪いことをされる喜び”があるのは変なことだが真実なのだ。相対性理論で『物体が動いていると時間が延びたり長さが縮んだりする』のが信じられないが真実であるように、『文明が遅れていると人間に“悪いことをされる喜び”がある』のも信じられないが真実なのである。物体が止まっていると時間が延びたり長さが縮んだりしないように、文明が進むと人間に“悪いことをされる喜び”がないのである。)暴力団のスーパーで買う客と暴力団にミカジメ代を払って自分に悪いことをしてもらう客が別であるように、政府の善いことをする会社にお金を払って善い仕事をしてもらう国民と政府に税金を払って自分に悪いことをしてもらう国民は別なのである。暴力団と政府は構造的には同じだからそれでいいのである。オウム真理教の食堂でお金を払ってラーメンを食べたからといってオウム真理教に入信して高いお金を払って痛い目にあわなくてもいいのと同じことである。政府はもともと国民から税金をもらって国民に悪いことをする団体であり、あとから民主主義をやるために善いことをする会社をくっつけたから、税金と善いことをする代金は別なのである。国民は政府の国民に悪いことをする団体と善いことをする会社を別に利用してもいいのである。実際に、私は福岡市の市民税を3ヶ月分払っていないが東区の区役所をよく利用している。

[23170] 今の国民は政府に善いことだけやってもらい悪いことをやってもらわなければいい。 h29.2.20
昔の低い文明では国民に“悪いことをされる喜び”があった。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は国民に悪いことをするのを仕事にしている会社である。税金は政府が国民に悪いことをする仕事の代金である。政府は国民から税金をもらって国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっている。一方、政府は民主主義をやって自分の権力を強めてもっと悪いことをするために、善いことをちょっとだけやっている。政府は国民からその都度[つど]料金をもらって国民に善いことをやっている。政府は悪い仕事と善い仕事の両方をやっている。
日本文化では政府に権力はなく政府と国民は平等である。国民は政府に自分が幸福になることをやってもらい、自分が不幸になることをやってもらわなければいい。
今の高い文明では国民に“悪いことをされる喜び”がない。今の国民は政府に善いことだけやってもらい悪いことはやってもらわなければいい。
したがって、今の国民は政府に税金を払わず政府に悪いことをやってもらわずに、政府にその都度料金を払って善いことをしてもらえばいい。そうやって、今の国民は自分が幸福に暮らせるようにすればいい。

[23171] どうして最近の日本人は馬鹿になったのか? h29.2.20
最近は家電製品が発達して男が独身でも楽に暮らせるようになった。
そのため、頭のいい男が結婚しなくなった。『人間は大脳の古皮質よりも新皮質を使えば幸福に暮らせる』から、頭のいい男は結婚して愛情や性欲を満足せずに独身で“考える喜び”を満足して生きるようになった。
そのため、頭の悪い男だけが結婚するようになった。頭の悪い男は愛情や性欲が生きがいだから、たくさんセックスをしてたくさん子供を作る。そのために、最近の日本は人口が増えたのである。親が馬鹿だと子供も馬鹿だ。だから、最近の日本人は馬鹿になったのである。最近の日本人が眼や心の喜びばかり満足するようになったのはそのためである。このままでは日本はおしまいだろう。最近の日本の文化は人間が眼と心だけ使って頭を使わない文化になっている。ヨーロッパ文化と中国文化の中間になっている。最近の日本では人間は幸福に生きられない。早く死んだほうが幸せかもしれない。
昔は頭のいい男が自分が生活するためにいやいやしかたなく結婚して子供を作っていた。だから、頭のいい人が多かった。今は頭のいい男が正直に独身で生活して子供を作らなくなっている。だから、頭のいい人が減っている。男が“考える喜び”を満足するためには女が邪魔[じゃま]だから、女がいないほうがいいのだ。
『人間は大脳の古皮質よりも新皮質を使えば幸福に暮らせる。』人間は知恵の実を食べたから(つまり“考える喜び”を満足するようになったから)ほかの動物よりも幸福になったのだ。人間は“考える喜び”を満足することによって楽園で暮らすことができるのだ。平成29年2月26日追加:アダムとイブが自分の恥部[ちぶ]をイチジクの葉で隠したときに人間は楽園に向かって出発したのだ。つまり、人間は自分の大脳の古皮質を働かさなくなって新皮質を働かせるようになってから幸福に暮らせるようになって行ったのだ。

[23172] 今の国民は政府全部を潰[つぶ]している。 h29.2.20
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体である。政府は民主主義をやって自分が権力を得るために善いこともちょっとだけやっている。政府は悪い仕事と善い仕事の両方をやっている。政府には悪いことをする会社(つまり政府本部)と善いことをする会社(つまり政府の付属会社)の両方がある。政府に悪いことをされたい国民は政府の悪いことをする会社に税金を払って悪いことをしてもらい、政府に善いことをしてもらいたい国民は政府の善いことをする会社に料金を払って善いことをしてもらっている。
政府の悪いことをする会社と善いことをする会社の間ではお金のやり取りがある。例えば、昔は政府の国鉄が政府の悪いことをする会社からお金を借りて新幹線を建てた。今でも政府の法律会社や学校会社は国民から直接に仕事代をもらわずに、政府の悪いことをする会社からお金をもらって法律や教育の仕事をやっている。地域によっては政府の清掃会社も政府の悪いことをする会社からお金をもらって仕事をやっている。逆に政府の悪いことをする会社が政府の年金や医療保険をする会社からお金をもらって悪いことをしている。
今では国の文明が高くなって国民みんなが“悪いことをされる喜び”がなくなって政府に悪いことをされたい国民が減って政府の悪いことをする会社に税金を払う国民が減って政府の悪いことをする会社が儲[もう]からなくなっている。政府の法律会社や学校会社は政府の悪いことをする会社からお金をもらえなくなって潰れている。国民で新しく法律会社や学校会社を建ててお金を払って仕事をしてもらうつもりである。(日本は実在主義の国である。実在主義では法律は国民が社会の中で幸福に生きるための決まりである。だから、国民は自分が幸福になりたければ自分から法律を守るはずである。だから、日本では原則的に警察は要らない。実在主義では権力者がいないから、法律会社には権力がないから、国民は法律会社が定めた法律を守らなくていい。国民は自分が幸福になるときだけ法律会社が定めた法律を守ればいい。法律会社は国民に法律を提案するだけで法律を強制することはできない。たとえ法律会社がなくても国民みんなが自分で考えて法律を作るから、法律会社も要らない。日本では法律会社はあってもなくてもどうでもいい。日本では法律会社は法律の仕事をしたい人のためにあるだけである。日本では法律会社は法律の仕事をやりたい人が法律の仕事をやって楽しむためにある。また、日本は実在主義の国だから、国民が自分が実在に従うために実在のことを知るために自分から勉強する。だから、日本では学校は要らない。日本では法律会社も学校会社も要らない。政府が法律会社や学校会社を建てているのは国民から余計なお金を取って国民を貧乏にするためである。政府が学校会社を建てているのは国民に余計な無駄[むだ]なことをたくさん教えて国民が実在のことを知るのを邪魔[じゃま]するためである。政府が学校会社を建てているのは国民に政府について本当のことを教えないためである。税金は政府が国民に悪いことをする仕事をするためのお金であり、政府は国民に悪いことをするために法律会社や学校会社を建てているのだから、政府は税金で法律会社や学校会社を建てているのである。政府の法律会社は悪い法律や悪い国策をやるためにあるのであり、政府の学校会社は悪い教育をやるためにあるのであり、税金は政府が国民に悪いことをやるためのお金だから、政府は税金で法律会社や学校会社をやっているのである。政府は悪いことを税金でやっているのであり、逆に政府が税金でやっていることは悪いことである。(もっとも、日本文化では政府には権力がないから、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民は政府の法律会社や学校会社に従って悪い法律や悪い国策をやったり悪い教育を受ける必要がなく、自分で勝手に善い法律や善い国策をやったり善い教育を受ければいい。)政府は民主主義で法律会社や学校会社を建てているふりをして国民に「法律会社や学校会社は善いことをする会社であり国民にとってはどうしてもなくてはならない会社である」と思わせて国民をからかって遊んでいるのである。だから、今の国民は政府の法律会社や学校会社が潰[つぶ]れてもいいから政府に税金を払わなければいいのである。/昔は国中に不良がいた。不良は個人でやっている暴力団である。昔は国の文明が低くてみんなが“悪いことをされる喜び”があったから、不良は近所のみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを喜ばせるために悪いことをやっていたのである。不良が悪いことをするのはみんなに対する親切だったのである。みんなは不良に悪いことをされて表面的には嫌がっていたが内心では喜んでいたのだ。昔は親が子供を喜ばせるために子供を虐[いじ]めていたから、みんなに“悪いことをされる喜び”があったのだろう。昔は親が子供を喜ばせるために幼児虐待をやっていたのである。昔は親が子供をかわいがるために子供を虐めていたのである。昔はみんなに“悪いことをされる喜び”があったので、みんなが悪いことをされて幸福になっていたので、世の中に濁[にご]った雰囲気が漂[ただよ]っていた。しかし、今では国の文明が高くなってみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなっている。だから、今ではみんなに悪いことをする不良もいなくなっているのである。今では不良がいないから法律会社も要らない。国民は法律会社がなくてもたいして困らない。国民はのんびり法律会社を建てればいい。/政府の学校会社が子供にまちがったことを教えるのも政府が国民に悪いことをするためである。私が中学3年生のとき生物学を教えていた矢野清八郎[やのせいはちろう]先生が「私が教科書にまちがいがあることを見つけて出版者に手紙を送ったらお礼に感謝状をもらった」と言ったのは、『政府の社会科の教科書にはまちがいが書いているから信じてはいけない』と言っているのである。矢野先生は頭のいい生徒なら自分の言っていることがわかるだろうと思ってそんなに伏せて言ったのだ。しかし、教育とは頭の悪い生徒にわかるように教えることである。だから、善い先生は子供に『政府は善いことをする会社ではなく悪いことをする会社だ。政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりする会社だ』と教えねばならない。)
今では政府に悪いことをされたい国民が減って政府の悪いことをする会社に税金を払う国民が減って政府の悪いことをする会社が儲からなくなっている。(今でも政府に税金を払っているのは君だけかもしれない。)そのために、政府の悪いことをする会社が政府の善いことをする会社からお金をもらって国民みんなに悪いことをやっている。それでは悪いことをされたくない者まで悪いことをされることになって迷惑である。それではもはや政府が悪いことをするのは仕事ではない。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、政府の悪いことをする会社が生き残ってみんなに悪いことをするのが嫌である。そのため、今の国民は政府の善いことをする会社とは別に善いことをする会社を建てて政府の善いことをする会社にお金をやらないようにして政府の悪いことをする会社にお金を回さないようにしている。今の国民は政府全部を潰している。
政府は昔の“悪いことをされる喜び”のある国民が建てた悪いことをする会社である。だから、政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをする。今でも政府が残って国民に悪いことをやっている。昔の国民はまったく余計なものを残してくれたものだ。昔の国民と今の国民は“趣味”が違いすぎる。今の“悪いことをされる喜び”のない国民は政府が邪魔[じゃま]になって政府を倒している。早く国民みんなで政府をなくして今の国民みんなが幸福に暮らせる社会にしないといけない。

[23173] 国民みんなが消費税を払わなければ消費税はなくなる。 h29.2.21
日本文化では政府に権力がなく国民と政府は平等である。だから、国民は政府が決めた法律や国策を自分がやりたければやればよくやりたくなければやらなければいい。
例えば、国民は政府が定めた消費税の制度を自分がやりたければやればよくやりたくなければやらなければいい。
国民が政府に消費税を払っても国民にとっては何の得にもならない。国民は政府に余計なお金を取られて損をするだけである。国民は消費税の制度をやりたくない。だから、国民は政府に消費税を払わなければいい。
消費税は政府が国民からお金を強盗して国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにやっているだけである。しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”がない。だから、今の国民にとっては消費税は嫌なだけである。だから、今の国民は消費税をやらなければいい。
日本文化では政府と国民は平等だから、政府は国民に消費税の提案をできるだけで消費税を強制することはできない。消費税の制度をやるかやらないかは国民個人の自由である。国の制度は国民みんなで決めるものである。だから、国民の多くが消費税を払わないことにすれば消費税の制度はなくなる。だから、今後は国民みんなで消費税を払わないようにして消費税をなくしていけばいい。消費税を取る店と取らない店(例、福岡県糟屋郡粕屋町[かすやぐんかすやちょう]のミスターマックス)があるのは、国民が政府に消費税を払うか払わないかが自由である証拠である。国民はなるべく消費税を取らない店で買うようにすればいい。
国民は自分を幸福にする法律や国策をやり、自分を不幸にする法律や国策をやらなければいい。そのようにして、国民は自分で自分が幸福に暮らせる国にすればいい。
平成29年2月26日追加:今私は高知に帰って母親の遺産相続をしているが、私の母は私の祖父からもらった固定資産(つまり不動産、土地や家屋)を役所に登記しただけで固定資産税を第1期分しか払っていない。固定資産税を最初の1回払っただけでその後はまったく払っていない。私の母は(昔の人だから)「国民がお金に余裕がないときには税金を払わなくてもいい」ことを潜在的に知っていたようである。もちろん、私の母は警察に捕まらずに自由に生活していた。だから、今の国民は自分にお金の余裕がないことにして税金を払わなければいいのである。“お金を持っている喜び”が“悪いことをされる喜び”よりも強い人は政府に税金を払わなければいいのである。

[23174] 『白雪姫』 h29.2.22
白雪姫とはヨーロッパのことである。ヨーロッパが雪で覆[おお]われた国だから白雪姫なのである。
7人の小人とはヨーロッパの7つの国のことである。(どこの国かは知らないが。)
白雪姫が魔女の毒リンゴを食べて眠りについたのは、中世のヨーロッパがヨーロッパ文化をやりすぎて文明が衰えて暗黒時代になっていたことである。魔女とはヨーロッパ自身のことであり、毒リンゴとはヨーロッパ文化のことである。
白雪姫が王子様のキスで目覚めたとは、近代のヨーロッパがインド文化を受け入れて発展するようになったことである。王子様とはインドのことである。インド文化が男の文化だから王子様なのである。反対に、ヨーロッパ文化は女の文化だから姫なのである。王子様のキスとはインド文化のことである。ディズニーアニメの『白雪姫』の王子様の顔が黒くて長くてインド人ぽくて王子様らしくないのはそのためである。

[23175] 『シンデレラ』 h29.2.22
シンデレラとは灰だらけという意味であり、ドイツのことである。ドイツは後進国の工業国で煙突がいっぱい立っているからシンデレラなのである。
ドイツは昔は貧しい国で周[まわ]りの国から戦争を仕掛けられて嫌な目に合わされていたが、あとで工業で発展して一番豊かな国になった。シンデレラが王子様と結婚したのはドイツがインド文化をやって豊かな国になったことである。王子様はやはりインド文化のことである。
シンデレラがガラスの靴を履[は]いたのは、ドイツがイタリアに倣[なら]って科学をやったということである。イタリアは国の形が脚[あし]に似ていて、ヨーロッパで一番早くから科学をやっていたから、シンデレラがガラスの靴を履くとはドイツがイタリアを真似[まね]て科学をやるということなのである。ガラスは透明だから眼で見えないものつまりイタリアの文化の科学のことである。(ゲーテの『ファウスト』の第3部で述べているのも、ドイツがギリシア文化をやっていることである。ドイツの正体はギリシアなのである。『ファウスト』は、ドイツにおけるヨーロッパ文化や中国文化やインド文化の取り込みをファウストやグレートヘンやメフィストなどの恋愛物語に喩[たと]えて書いているのである。)

[23176] 『ピノキオ』 h29.2.23
ピノキオはアメリカの国のことである。ジュセッペおじいさんはヨーロッパのことである。“ジュセッペ”というのがいかにもヨーロッパ人らしい名前である。コオロギは日本のことだろう。日本の国の形がコオロギに似ているからである。日本がちっぽけな虫ケラのような国だからコオロギなのである。アメリカは日本を見習って世界中の文化を受け入れて善い国を作ろうとした。要するに、『ピノキオ』のおとぎ話はアメリカの歴史である。けっして、アメリカの国民が政府に騙[だま]されてさんざん苦労させられる話ではない。
ピノキオが木で出来ているのは、アメリカが最初のころはみんなが木の家に住んで大変貧しかったということである。一方、ヨーロッパはみんなが大理石の家に住んでステーキを食べて豪華に暮らしていた。
ピノキオが嘘[うそ]をついて悪いことをして鼻が高くなったのは、アメリカはもともとヨーロッパ文化をやっているからみんなが嘘つきで悪いことをすることである。ヨーロッパ人は悪りこと師[わりことし]で鼻が高いから、ピノキオが悪いことをすると鼻が高くなったのだ。
ピノキオがサーカスの団長に唆[そそのか]されてロバに変えられたのは、アメリカが中国文化やインド文化を受け入れたためにみんなが娯楽にふけったり働かなくなったりして怠け者になったことである。インド文化や中国文化ではみんながあまり働かないので、アメリカは中国文化やインド文化を受け入れたためにみんなが働かなくなってしまったのだ。
ピノキオがジュセッペじいさんのあとを追って海に出てクジラに呑[の]まれたのは、アメリカが中世のヨーロッパと同じように自分の国から中国文化やインド文化を締[し]め出してヨーロッパ文化だけをやるようになったために文明が衰退して暗黒時代になって国の景気が悪くなってみんなの生活が苦しくなったことである。
ピノキオがクジラのお腹[なか]の中で知恵を絞[しぼ]ってクジラのお腹の中から脱出したのは、アメリカが近代のヨーロッパと同じように中国文化やインド文化の取り込み方を変えて上手[うま]く文化を取り入れることができるようになって暗黒時代から抜け出したことである。アメリカがどうやって中国文化やインド文化を取り入れているかは秘密なので煙[けむり]なのである。(平成29年2月26日追加:アメリカは日本文化をやったからうまく行ったのかもしれない。昔のアメリカは日本を真似てインド文化や中国文化を取り入れたからうまく行かなかったのだ。日本文化は世界中の文化が統合された独自の文化である。日本人は昔から勤勉勤労である。アメリカはまわりくどいことをせずに最初から日本文化をやればよかったのだ。平成29年2月27日追記:私は日本で生まれて育ったから日本文化を自然に受け入れた。外人が日本文化を取り込むためには“橋渡し”が必要である。デカルト座標が代数学と幾何学を結びつけるのと同じである。外人が日本文化を取り込むためには日本画を飾ったり盆栽[ぼんさい]を植えたりすればいい。ヨーロッパ人は眼で見ることはわかるから絵を飾るといいだろう。)
こうしてアメリカは豊かな国になって、みんなが人間として幸せに暮らせるようになったのだ。ピノキオはようやく人間になれたのだ。
アメリカは外国の文化の取り入れ方を変えて自分の国の文化を改良してみんなが幸福に暮らせるようになった。日本もアメリカと同じように外国の文化を取り入れて発展して来た国である。日本人が幸福に暮らせるのは日本文化のおかげである。日本人は日本文化を大切に守って育てていかねばならない。『金の卵を産むニワトリ』のおとぎ話の老夫婦のように、日本人は自分がもっと儲[もう]けようとして面白半分に日本文化をいじくりまわして日本文化を台無しにしてしまってはいけない。金の卵を産むニワトリも文化のことである。
これ以後平成29年2月26日追加:文化人類学はずっと昔からあった。世界中の国が紀元前から外国の文化を取り入れて自分の国の文化を改良してきたので、文化についての学問は昔からあった。戦後から始まったのではない。それなのに、文化人類学が伏せられていたのは、昔はみんなが文明が遅れていて“悪いことをされる喜び”があったために政府の悪い命令を聞いていたからである。みんなが政府の「文化についての研究を公開するな」という命令を聞いて文化人類学を公[おおやけ]にしなかったのである。政府は自分が権力を得るために文化についての研究を禁止していたのだ。戦後になって文化人類学の研究が公開されるようになったのは、今ではみんなが文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の悪い命令を聞かなくなって、みんなが政府が「文化の研究を公開するな」というのを無視してみんなの前で堂々と研究するようになったためである。
政府は国民にお金を払って国民に悪いことをさせてきたのではない。政府が国民の待遇をよくしたり国民に出世させたりしてやる換[か]わりに国民に悪いことをさせてきたのではない。昔の国民は文明が遅れていたために“悪いことをされる喜び”があったから政府の悪い命令を聞いてきたのである。(政府にしたって、政府がいちいちそんなことをしていたら自分のお金がなくなるから、政府はそんなことをしない。政府はそんなに気前のいい会社ではない。)昔の国民は自分が悪いことをされるのが好きだったので、自分のほうから政府の悪い命令を聞いて政府に悪いことをされて喜んでいたのである。昔の国民は「みんなが政府に悪いことをされるのが好きだ」ということを知っていたので、政府の命令でみんなに悪いことをしたのである。反対に、今の国民は文明が進んで“悪いことをされる喜び”がなくなっているので政府の悪い命令を聞かなくなっている。今の国民はたとえ自分が政府からお金をもらったり政府に自分の待遇をよくしたり出世させてもらったりしても政府の悪い命令を聞かなくなっている。今の国民は「みんなが政府に悪いことをされるのが嫌だ」ということを知っているので、政府の命令でみんなに悪いことをしなくなっている。

[23177] 『天狗[てんぐ]のうちわ(源五郎ぶな)』 h29.2.24
『天狗のうちわ』も、『ピノキオ』と同じようにヨーロッパ人が悪いことをする話である。
源五郎が天狗を騙[だま]してうちわを奪ったのは、源五郎がもともと悪い人だったということである。天狗は鼻が高いからヨーロッパ人のことで、うちわはヨーロッパ文化のことである。ヨーロッパの国の形がうちわに似ているからである。
源五郎がうちわで鼻を扇[あお]ぐと鼻が伸びたのは、源五郎がヨーロッパ文化をやって悪いことをしまくったことである。
源五郎がうちわを裏返して鼻を扇ぐと鼻が縮まったのは、ヨーロッパ文化とアジア文化は反対でアジア人は鼻が低いから、源五郎がアジア文化で善いことをすることもあったことである。
源五郎がうちわで鼻を伸ばしすぎて雲の上にいる天狗に見つかって伸びた鼻を橋に結び付けられたのは、源五郎がヨーロッパ文化をやって悪いことをしすぎて政府の警察に捕まって橋の橋脚[きょうきゃく]に身体を縄[なわ]で縛[しば]りつけられたことである。日本政府はヨーロッパ政府を真似[まね]して自分が権力を得るために民主主義や国家宗教をやっていたから雲の上にいるのである。しかし、実際には日本では大昔からみんなが日本文化をやっていて、日本文化では政府が何をやっても国民が自分が政府に従わねばならない気持ちになれず政府が権力が得られないから、政府は本当は国民と同じ地面の上にいたのである。日本では政府が雲の上にいるのはおとぎ話の上だけである。
源五郎が橋から落ちて死んだのは、橋に身体を縛られていた源五郎が川が増水して水に浸[つ]かって溺[おぼ]れ死んだことである。悪いことをした源五郎はこうして死刑にあって殺されたのである。
日本人がたとえヨーロッパ文化を受け入れてもヨーロッパ文化をやりすぎて悪いことをしてはいけないという教訓である。
ちなみに『浦島太郎』で浦島太郎が浜辺[はまべ]で子供たちに虐[いじ]められている亀を助けたのは、日本文化ではみんなが国家宗教が嫌いで国家宗教をやらないが、日本政府が国家宗教をやっているからである。日本では政府が自分ひとりで国家宗教をやっているだけで、国民みんなは国家宗教をやっていない。政府が一人だけ浮[う]いている。だから、政府が雲の上にいるのかもしれない。
日本文化は実在主義である。昔からそうである。日本人は『人間が実在主義をやればもっとも幸福になれる』ことがわかっていたから実在主義をやっているのである。ところが、今の人間は五感主義や心主義をやっている。人間はそんなやり方では幸福になれない。今の世の中に幸せな雰囲気がないのは、今の人間が自分が不幸になる主義をやっているからである。だから、哲学や道徳がよくわかっている人は今の人間を無視して五感主義や心主義をやらないのである。文明がいくら進んでも実在主義は変わらない。なぜなら、文明そのものが実在主義だからである。もっとも、文明はイギリスやアメリカの文化であり五感に寄った実在主義だが。一方、日本の実在主義は知覚に寄っている。
日本人は知覚主義をやれない。五感主義や心主義もやれない。日本人は知覚主義や五感主義や心主義が入り混じった総合主義である。日本人は一芸には秀[ひい]でていないが、いろんなことができるので強いのである。日本人は自分の才能が劣っていることをいろんなことをやることによって補[おぎな]っているのだ。
日本文化にも弱点はある。権力者がいないことが日本文化の長所だが、日本文化は長所ばかりではなく短所もある。日本文化は世界最高の文化ではない。日本文化は無敵ロボットのレッドバロンではない。だから、日本人はうぬぼれてはいけない。例えば、日本文化ではみんなが自分でやろうとせずすぐに他人に頼りたがる。日本文化は眼と頭と心を均等に働かせるために一芸に秀でていないので、いつも一芸に秀でている外国が先にやってしまって日本が外国に遅れている。日本は外国の真似[まね]ばかりである。実際に、科学は日本では生まれなかった。人間にとっては眼や頭や心を均等に働かせるよりも、才能が偏[かたよ]っているほうが大事なのである。つまり、人間は眼と頭と心の全部を働かせねばならないが均等に働かせるのではなく偏って働かせるほうがいいのである。眼や頭や心のどれかひとつだけを働かせてほかを働かせないことにこだわってはいけないということである。日本文化は欠点がないが最強ではない。日本文化は欠点がないが長所もあまりない。完全なものは欠点がないが長所がなくて弱い。反対に、不完全なものは欠点があるが長所があって強いのだ。それから、人間にとっては他人から学ぶよりも自分で考えるほうが面白い。だから、日本人ももっと自分で考えることを大事にしたほうがいい。
昔は私が考えたようなおとぎ話の社会科的な文化的な意味なんか子供でもわかった。だから、おとぎ話なのだ。しかし、今は大人でもわからなくなっている。今の人間はテレビやゲームばっかりやって遊んで頭で考えなくなっているために頭で考える能力が大幅[おおはば]に低下している。もはや日本文化ではない。テレビやゲームをやると頭が悪くなる。「ゲームをやると頭がよくなる」のは嘘[うそ]である。今の人間はテレビやゲームをやめてもっと自分の頭で考えて暮らさねばならない。私は以前(今から約5〜6年前)自分が考えるためにテレビやゲームが邪魔[じゃま]になるのでテレビやゲームをやめた。今の日本ではみんなが日本文化をやりながら文明を高くすればいい。今の人間は文明を高くしたために日本文化がやれなくなっている。今の人間は文明の高くしかたが下手[へた]だ。今の人間はもっと上手に文明を取り入れて暮らさねばならない。例えば、私のように自分が考えたことをパソコンで打ち込んでインターネットを使ってみんなが見れるところにアップするのを趣味にすればいい。そうすれば日本文化と文明が共存できる。私が作文を書くのはダイヤブロックで遊んだり工作をしたりするのと同じことである。私にとっては作文を書くこと自体が目的なのである。私にとっては自分の作文をお金で売ったり他人に見せて威張[いば]ることが目的ではない。自分の考えは自分の言葉(概念)を組み合わせて自分で作るものなのである。
日本文化は実在主義である。人間は実在に向かわないかぎり幸福になれない。テレビやゲームの上では贋物[にせもの]の幸福しか得られない。心の上だけのフニャフニャしたかったるい幸福しか得られない。人間は実在の中でなければ本当の喜びは得られない。だから、人間は実在を見て実在について考えて実在の中で行動しなければならないのだ。

[23178] 私が赤ちゃんのころにガラガラが回ったわけ h29.2.24
私が赤ちゃんのころに夜中に突然私の頭の上に吊[つ]ってあったガラガラ(ベッドメリー)が回ったのを私の母親が見た。そのために私は神にされている。
ガラガラが夜中に突然回ったのは、ガラガラのゼンマイがなにかに引っかかって一時的に動かなくなっていたのが何かのきっかけで引っ掛かりがはずれて動いたからだと考えられる。私が小学生のとき「エリーゼのために」の曲が流れるゼンマイ仕掛けのオルゴールを持っていたが、いったん鳴り終わっていたオルゴールが突然鳴り始めることがたびたびあった。たぶんオルゴールの鍵盤[けんばん]がドラムのくぎに引っかかっていたのがなにかのきっかけではずれて再び鳴り始めたのだろう。ガラガラが回ったのも同じ理屈である。
ガラガラがたびたび突然回りだすことがあったのは、そのガラガラが不良品だったためだろう。
それで私が神なんだから、国家宗教なんていいかげんなものである。
私が理学部物理学科の学生のとき母親が私のところに遊びに来て、夕方食事をするために下宿の近くの「餃子[ぎょうざ]の王将」に連れて行ったが200円のラーメンを食べて「たまあ安い」と言って驚たのを店の人が見て笑っていた。(“たまあ”とは土佐弁で“非常に”の意味である。)驚きやすい人はちょっとのことでもよく驚く。だから、母親はガラガラが突然回ったことぐらいで大げさに騒ぎまくったのだろう。
そもそも政府は自分が国家宗教をやって権力を得るために私を神にしただけである。だから、私が神である理由なんかどうでもいいのである。国民みんなは馬鹿馬鹿しいから政府に付き合っていっしょに国家宗教をやってはいけない。政府が権力を持ったら政府が国民にもっと悪いことをするようになって国民が不幸になるだけである。国民みんなは自分が不幸にならないために国家宗教をやってはいけない。
私は国家宗教の神である。私は自分が国家宗教の神であることを確信する。今ではヨーロッパ文化つまり眼で見るだけで頭で考えたり心で思ったりしない文化はなくなりかけているし、世界中のみんなが文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなって世界中の政府やその他の“悪いことをされる喜び”を満足する団体はもうすぐ潰[つぶ]れるから、おそらく私が最後の国家宗教の神だろう。今では世界中でみんながヨーロッパ文化をやらなくなって国家宗教をやらなくなって神や宗教団体に従わなくなっているから、私が国家宗教の神であるのは“権限のない肩書き”である。だから、みんなは私を普通の人間だと思って付き合って欲しい。
平成29年3月4日追記:昭和40年=1965年ごろにみんなにテレビが普及してみんながテレビを見て喜ぶようになって政府に悪いことをされて喜ばなくなって政府に税金を払わなくなって政府の収入がどーんと減って政府が危機を感じた。そのために、政府は国家宗教の神を急遽[きゅうきょ]天皇家から私に替えたのだ。国会の人気がないときに首相や内閣を入れ替えるのと同じことだ。国家宗教の神を替えてもあまり効果はないと思うが、政府は何もせずにはいられなかったので私を神にしたのだ。政府はだめもとで私を神にしたのだ。
平成29年3月15日追加:政府が私を神にしたのは私が生まれたころに文明が急に高くなってみんなにテレビやゲームやパソコンなどが普及してみんなの生活が大きく変わったからである。国家宗教では文明が高くなってみんなの生活が大きく変わると神を替えることになっているのである。国家宗教の神がモーゼからキリストに替わったのも、当時の文明が高くなってみんなの生活が大きく変わったからである。キリストが「新しい酒は新しい皮袋に入れろ」と言ったのはそのためである。みんなはキリストにぜひ新しい時代が来たみたいなことを言って欲しかったのだ。私も「今ではみんながテレビやゲームやパソコンで楽しく暮らしている」と言った。国家宗教の神は本来誰でもいいのだろうが、私の母がガラガラが回ったことで騒ぎまくったので私が新しい時代の神なのである。当分の間は私が神でやっていくだろう。もっとも、日本では国民と政府が平等であり、私は政府が自分を神にすることを承認していないから、政府が私を国家宗教の神にすることはできないから、今後は私が国家宗教の神ではなくなっていくだろう。今度また文明が高くなってみんなの生活が大きく変わることがあれば国家宗教の神がまたほかの誰かに替わるだろう。ヨーロッパ人は生まれつき神や宗教団体に従うのが好きだからそうやって喜ぶだろう。反対に、日本人のようなヨーロッパ人以外の人種は生まれつき神や宗教団体に従わないからどうでもいいことである。
日本は日本文化をやる国だから、日本ではみんなが日本文化をやっているから、日本でヨーロッパ文化をやってはいけない。(ただし、日本文化で受け入れられる分のヨーロッパ文化は日本でやってもいい。)自分がどうしてもヨーロッパ文化をやりたければヨーロッパに行ってやるしかない。日本人が自分の心を本気で満足すれば日本文化をやることになる。ヨーロッパ文化をやりたい日本人は自分の本心を満足していないからである。本気で生きていないからである。人間は自分の本心を満足しないかぎり幸福にはなれない。日本人が幸福になるためには日本文化をやるしかない。日本人は本気で生きると法律を守るようにうまく出来ている。刑務所の中に入っている者は自分の本心を満足せずにふざけて生きている者である。日本人は自分に自信を持って正直に生きればいいのである。

[23179] 『侍[さむらい]ジャイアンツ』と『巨人の星』 h29.2.25
『侍ジャイアンツ』とは身分制をやっている政府のことである。ジャイアンつまり巨人とは政府つまり民主主義をやっている国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体のことである。政府は自分が権力を得てもっと悪いことをするためにいやいやしかたなく民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっているのである。侍つまり幕府は身分制をやっていたから、『侍ジャイアンツ』の侍とは身分制のことである。
ハイジャンプ魔球は、今の政府が身分制をやっていることである。今の政府が国民みんなを虫ケラ扱いして自分の好き勝手に殺したり虐待したりしていることである。政府は身分制をやることによって自分が権力を得ようとしている。しかし、日本ではみんなが日本文化(つまり実在主義)をやっているから政府がいくら身分制をやっても権力が得られない。改良版のエビ投げハイジャンプ魔球は、政府が国家宗教と身分制をゴチャ混ぜにして国家宗教の神の情報を使って事件や事故を起こして国民を殺したり虐[いじ]めたりしていることである。エビ投げのエビは、エビの身体が円柱形だから天皇家であり、エビ←えビ←ビえ←カブ(ビ≒カ、え≒ブ(“え”の上の点と右下の斜め線を右上に移す))←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だから、エビとは天皇家と私の両方の国家宗教の神のことである。
大回転魔球は、今の政府がたくさん悪いことをしていることである。回るとはよく働くことであり、政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、政府がよく回ると悪いことをたくさんするのである。今の政府が昔の政府よりもたくさん悪いことをするのは、今の国民みんなが文明が高くなって実在を支配して実在に善いことをさせて実在に悪いことをされなくなって“悪いことをされる喜び”が減っているから、その分を政府が補って政府が国民みんなに悪いことをして国民みんなの“悪いことをされる喜び”を甦[よみがえ]らせるためである。しかし、しょせん政府一人がいくらがんばって国民みんなに悪いことをしても、文明の進歩はそれ以上だから、国民みんなの“悪いことをされる喜び”を甦らせることはできない。国民みんなの“悪いことをされる喜び”は年々減っていくだけである。政府は無駄[むだ]な努力をしているだけである。政府は文明の進歩には勝てないのである。
分身魔球は、今の政府が世界中の政府の真似[まね]をして身分制や民主主義や国家宗教などをありったけやって自分が暴力団や政治団体や宗教団体の全部をやって権力を得ようとしていることである。しかし、日本文化では権力者がいないから、いくら政府が身分制や民主主義や国家宗教をやっても権力は得られない。政府は自分ひとりで形の上で身分制や民主主義や国家宗教をやっているだけであって、国民は政府と平等に付き合っている。政府の本体は“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくなっているから、今の国民は自分で政府の悪い命令を聞くのをやめて政府に悪いことをされなくなっている。今の国民は政府に税金を払うのをやめて、政府の善いことをする会社の替わりに民間会社を利用して政府にお金を回さないようにして、政府を倒している。人間は自分が幸福になることをしなければならないから、今の国民にとっては政府は自分の幸福の邪魔[じゃま]だから、今の国民は政府を倒しているのである。
『巨人の星』は、政府の正体が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり(大リーグボール1号)、政府は民主主義をやって権力を得ようとしているが(2号)、日本文化では政府がいくら民主主義をやっても政府は権力が得られず政府と国民は平等である(3号)ことを言っている。
一方、『侍ジャイアンツ』は、今の政府がインド政府を真似て身分制をやって、国民の“悪いことをされる喜び”を甦らせるためにたくさん悪いことをやって、自分が権力を得るために身分制や民主主義や国家宗教などをやっていることを言っている。
『巨人の星』は、昔の政府がやっていたことについて言って、『侍ジャイアンツ』は今の政府がやっていることについて言っている。『侍ジャイアンツ』は『巨人の星』の続編なので新しいことを言ったのだ。『巨人の星』だけでは政府について言い足りなかったので、『侍ジャイアンツ』をやって言い足りないことを補ったのだ。原作は両方とも梶原一騎[かじわらいっき]である。
『巨人の星』ではピッチャーの星飛雄馬[ほしひゅうま]が私であり、キャッチャーの伴宙太[ばんちゅうた]が政府である。『侍ジャイアンツ』ではピッチャーの番場蛮[ばんばばん]が私であり、キャッチャーの八幡太郎平[はちまんたろへい]が今上天皇である。番場蛮が高知市出身なのは私がそうだからである。番場蛮は私の心の姿であり、八幡太郎平は今上天皇の心の姿である。もっとも、実際には私は子供のころから運動が苦手でいつも野球はいやいやしかたなく付き合いでやっていた。守備はいつも外野のライトかレフトだった。打順は憶えていないがたぶん最後のほうだった。星飛雄馬と番場蛮は両方とももとは私であり同じ人である。漫画家によって私のデフォルメのしかたが違うので違う人に見えるのである。
『巨人の星』も『侍ジャイアンツ』も今から約40年前のアニメである。しかし、今でも政府が建っている。残念ながら『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』が言いたかったことは国民には伝わらなかったようである。国民みんながテレビを見すぎて眼で見るだけで頭で考えなくなったために、せっかく『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』が政府のことについて言ってもみんながわからなくなってしまったのだ。みんながテレビを見すぎたために、みんなが絵を見たり現実にありえないことで喜ぶだけで肝心の現実的な意味を理解して喜ばなくなった。人間は実在を離れては生きられないし、実在の中でしか幸福にはなれない。みんなはテレビばっかり見るのをやめて、もっと自分で考えるようにしないといけない。

[23180] 『パンドラの箱』 h29.2.26
パンドラの箱とは政府の国会議事堂のことであり、パンドラの箱を開けると中から悪魔がいっぱい飛び出してきたのは政府が悪いことをやる会社だからである。政府が国民に悪いことをやって国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だから、政府は国民に悪いことをいっぱいやっているのである。
パンドラの箱の底には希望が残っていた。それは嘘[うそ]である。日本やヨーロッパは個人主義の国だから、昔の人はテレビやゲームをやらずに暇な時間に自分で考えて頭がよかったから『政府が自分が権力を得るために民主主義をやっているが、日本文化やヨーロッパ文化では政府が民主主義をやっても政府に権力が得られない』ことを知っていたから、政府に善いことを望んだりはしない。本当はパンドラの箱の底には、みんなの“悪いことをされる喜び”が残っていたのである。みんなは表面的には政府が悪いことをやるのを嫌がっていたが、内心では喜んでいたのである。だから、みんなは政府に自分を幸せにしてくれたお礼をするために政府に税金を払っていたのだ。
おとぎ話にも善いものと悪いものがある。『裸の王様』はみんなの国の文化や政府の権力に対する理解を助けるので善い話だ。『パンドラの箱』は嘘を書いているのでみんなの政府に対する理解を妨[さまた]げるので悪い話だ。

[23181] 学校とは何か? h29.2.26
ショペンハウエルは『読書とは自分で考えないことである』と言った。
それと同じように、『学校とは自分で考えないことである。』
政府は子供に自分で考えさせずに子供を馬鹿に変えるために学校を建てているのである。
人間は自分で考えて物事を理解する。他人から教えられても物事を理解しない。だから、政府はわざわざ学校を建てて子供に自分で考えようとしない悪い癖を身につけさせて子供を馬鹿に改造しているのだ。政府は子供に“自分で考える喜び”を与えず子供を自分で考えないようにして子供を馬鹿な大人にするために国中に学校を建てているのだ。
そもそも政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。だから、政府は子供に悪いことをするために学校を建てているのである。
法律会社も同じことである。そもそも法律は国民が自分で考えて作って自分でみんなに教えて自分で守って自分で犯罪者を罰するものである。政府の法律会社は国民が自分で法律のことをやるのを邪魔[じゃま]するために建てているのである。政府が子供に自分で考えて物事を理解するのを邪魔するために学校を建てているのと同じである。政府が法律会社を建てているために、国民が自分で法律をやらなくなって国の法律が進歩するのが遅れている。国が善くなるのが遅れている。だから、国民は政府に甘えて政府に法律をやってもらわずに、自分で法律をやらねばならない。
日本ではみんなが日本文化(つまり実在主義)をやっている。日本文化では政府に権力がなく、国民と政府が平等である。だから、国民は政府の言うことを聞かなくてもかまわない。国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民が自分で決めればいい。国民が政府が決めた法律や国策をやるかやらないかは国民個人の勝手である。だから、国民がテレビや新聞で政府が決めた法律や国策を見て、国民が自分で考えてそれをやるかやらないか決めればいいのである。そうすれば、国民が法律を政府任[まか]せにせずに、自分で法律のことをやることができる。国民で国を善くすることができる。
学校も同じことである。学校を建てているから国民が自分で考えなくなって実在を知らなくなるのである。学校は国民に実在のことを知らないようにさせるために建っているのである。日本文化では政府と国民は平等だから、国民は政府の言いなりにならずに自分でやればいい。だから、国民は政府に甘えて学校で実在のことを教えてもらおうとせずに、自分で家に帰って実在について考えて実在を知らねばならない。国民にとって政府の学校は無駄[むだ]だからなくなったほうがいい。
私は高校生のころまでは本をよく読んでいたが、大学生になって自分で考えたことをノートに書くようになってからはほとんど本を読まなくなった。大学の教科書や参考書以外は本を読まなくなった。
私が大学生になってほとんど本を読まなくなったのは、自分で考えることを大事にするためである。
『読書とは他人に考えてもらって自分で考えないことである』から、私は本を読まなくなったのである。
これ以後平成29年2月27日追加:日本は実在主義の国である。実在主義ではみんなが実在に従う。法律とは人間が社会の中で幸福に暮らすための決まりである。実在においては、人間がみな平等であるとみんなの心がもっともよく満足されて幸福である。だから、日本ではみんなが『人間がみな平等である』ことを守る。だから、日本は犯罪のない善い国なのである。
国民みんなが法律を守るか守らないかは文化によって決まる。たとえ法律があっても国民みんなが法律を守らない文化の国では法律がないのと同じである。日本文化ではみんなが眼と頭と心のすべてを使って実在を知って実在に従うからみんなが法律をよく守るから安心して暮らせる。ヨーロッパ文化ではみんなが眼で見るだけで頭も心も働かせないから幸福であるかないかの区別もないからみんなが法律を守らないので物騒[ぶっそう]である。インド文化ではみんなが頭で考えるだけで眼も心も働かせないからみんなが眼で見える世界を原始時代のままにしているから原始時代には法律がないからみんなが法律を守らないから物騒である。中国文化ではみんなが心で思うだけで眼も頭も働かせないからみんなが自分がやりたいことを衝動的にやるからみんなが自分が幸せになりさえすれば何でもやるからみんなが法律を守らないから物騒である。日本以外の国ではみんなが法律を守らないから物騒である。日本人は外国に行くときには注意しないといけない。

[23182] フランス革命 h29.2.26
当時のフランスではみんながアジア文化を受け入れて自分の国の文化を改善するためにがんばっていた。しかし、そのために政府が身分制や民主主義をやることによって権力を持つようになってみんなにますます悪いことをするようになってみんなを好き放題に殺したり重い税金を取るようになった。
みんなは自分がアジア文化をやることによって幸福になるか不幸になるか得か損かをよく考えた上で、最終的に不幸になる損になると考えたからアジア文化をやめて政府を倒すことにしたのである。みんなで協力して政府をぶち殺したのである。
その後、みんながヨーロッパ文化をやることにしたから、ナポレオンはヨーロッパ人が大好きな戦争をやってみんなを喜ばせてみんなの機嫌[きげん]を取ったのである。
今の日本でもみんなが政府があることによって自分が幸福になるか不幸になるか得か損かをよく考えて政府を残すか潰[つぶ]すか決めている。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だが、今では国の文明が高くなってみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなったから、政府があっても政府が国民に悪いことをして国民が不幸や損になるだけである。だから、今ではみんなが政府を潰しているのである。
日本でも江戸時代に東北の村で一揆[いっき]があったが、それは身分制によるものではなく、冷害のために米が不足して国民と幕府の間で米の取り合いになったからである。日本では昔からみんなが日本文化をやってインド文化なんかやっていない。江戸時代の東北の村でもみんなは日本文化をやって身分制なんかやっていない。幕府が武器で脅[おど]して国民から無理やり米を奪ったので国民が怒って幕府を殺して幕府から米を取り戻して幕府を殺した国民が罰せられた。食糧不足のときには法律なんかあったもんじゃない。“悪いことをされる喜び”なんかあったもんじゃない。みんなが“悪いことをされる喜び”を満足している暇なんかない。食欲のほうが“悪いことをされる喜び”よりも上だ。だから、飢饉[ききん]のときにはみんなが幕府なんかどうでもよくなって幕府を倒したのだ。今は文明の時代である。今では文明が高くなって食糧不足がない。みんなは文明を大事にしないといけない。国の文明が高くなるとみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなる。政府はみんなの“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。だから、今のみんなは政府を倒して政府のない世の中にしないといけない。

[23183] 政府はたんなる悪いことをする団体である。☆ h29.2.26
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではないかもしれない。
もしも、政府が国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体なら、国民が文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がなくなれば、政府はそれを見て自分で潰[つぶ]れて自分から国民に悪いことをするのをやめるはずである。しかし、実際には、今では国民が“悪いことをされる喜び”がなくなっているのに、政府は今でも昔と同じように国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっている。だから、政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではないのである。政府はただたんに国民に悪いことをする団体なのである。だから、今でも政府は国民に“悪いことをされる喜び”がなくなったことに対応せずに国民に“悪いことをされる喜び”があろうがなかろうがおかまいなしに国民に悪いことをやり続けているのである。
ただし、昔は国の文明が低くて国民みんなに“悪いことをされる喜び”があった。日本文化では昔から政府に権力がなく国民と政府が平等である。だから、昔は国民みんなが自分から政府の悪い命令を聞いて政府に悪いことをされていたのである。(江戸時代の幕府は身分制はやっていないが悪いことはやっていた。幕府の仕事は悪いことをすることだから、幕府は国民のために悪いことをしないといけないから自分の好き嫌いにかかわらず悪いことをやっていた。幕府は悪いことをするのが仕事だからランダムに国民を殺したり虐待したりしていた。私の祖先は武士だったが人に悪いことをするのが嫌だったので自分の意思で武士を辞めて百姓になった。武士は悪いことをするのが仕事である。たとえ殺す相手が自分が好きな人であっても仕事のために殺さねばならないのだ。人間はたとえみんなを幸福にするためであっても自分が嫌なことをやってはいけない。私は社会よりも自分を優先した私の祖先が立派だと思う。私も医者が嫌だったので医者を辞めて一時[いっとき]工場で働いていた。)
今は国の文明が高くなって国民みんなが“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。日本文化では昔から政府に権力がなく国民と政府が平等である。だから、今は国民みんなが自分から政府の悪い命令を聞かないようにして政府に悪いことをされなければいいのである。いくら政府が悪いことをする団体だといっても、国民が政府と平等にすれば、政府も国民と平等にせざるを得ない。国民が自分から政府に従うから政府が権力を持つのであって、国民が自分から政府に従わなければ政府は権力を持たない。日本文化では国民が眼や頭や心のひとつだけを使わず国民が政府に従う理由がないから国民が政府に従わない。日本文化では国民が政府に従わないから、政府には権力がない。国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかは国民が自分で決めることである。日本文化では国民が政府に従わないから、国民が政府に悪いことをされるのを断れば、政府は国民に悪いことができない。だから、国民は自分が政府に悪いことをされるのが嫌なら、政府に悪いことをされるのを断ればいいのである。日本文化では国民が政府に従わず政府に権力がない。だから、政府が自分が権力を得るために身分制や民主主義や国家宗教をやっているのは国民に対するからかいである。政府は馬鹿な国民が政府の芝居に引っかかって政府に従うのを見て喜んでいるのである。(ヨーロッパのような眼や頭や心のどれかひとつだけを使う文化では国民みんなが従う者つまり権力者が発生する。ヨーロッパは眼だけを使う文化だから科学が得意で産業が発達してみんなが物やお金が豊かだったが、みんなが権力者に自分の稼[かせ]ぎのほとんどを取られて貧乏だった。ヨーロッパはけっして権力者がいたから物やお金が豊かだったのではない。権力者は国民に無理やり悪いことをして国民を不幸にするだけである。反対に、日本は眼と頭と心のすべてを使う文化だから科学があまり得意ではなく産業が遅れてみんなが物やお金が貧しかったが、権力者がいなかったのでみんなが自分の稼ぎを取られずわりと豊かに暮らせた。日本では国民が政府や幕府に無理やりお金を取られていたのではなく、国民が自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分を幸福にするために自分のほうから喜んで政府や幕府にお金を取られていたのである。ヨーロッパでは、国民が自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分を幸福にするために政府にお金を取られていたことに便乗[びんじょう]して、政府がヨーロッパ文化の時代には国家宗教をやったりアジア文化の時代には身分制や民主主義をやったりして権力を得て国民から無理やり重い税を取って国民を苦しめていたのである。)
今でも政府が国民に悪いことをやっているのは、その国民が自分から政府の悪い命令を聞かないようにしていないからである。その国民がおとなしく政府の悪い命令を聞いているからいくらでも政府に悪いことをされるのである。
国民みんなは日本文化をよく理解して、日本文化では国民が政府に従わないから政府と国民が平等であることがわかって、今の文明では人間の心に“悪いことをされる喜び”がないことがわかって、自分から政府の悪い命令を聞かないようにしないといけない。そうやって国民みんなが政府に悪いことをされないようにして、国民みんなが幸福に暮らさないといけない。
政府はただの国民に悪いことをする団体である。もっとも、昔は国民が“悪いことをされる喜び”があったから、昔の国民にとっては政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする団体だったから、国民は政府に自分を幸福にしてくれたお礼に税金を払っていた。昭和40年=1965年ごろまでは政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体だったのである。しかし、今は国民が“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民にとっては政府はただの悪いことをする団体にすぎない。今の国民にとっては政府は国民を不幸にする団体である。このまま政府を置いておいたら政府はいくらでも国民に悪いことをし続ける。だから、今の国民はさっさと政府に税金を払うのをやめて政府を倒して自分が幸福にならねばならないのである。政府はただの悪いことをする団体だから国民に悪いことをするだけで、自分で国民に“悪いことをされる喜び”があるかないかを判断して残ったり潰[つぶ]れたりしてはくれない。国民が政府を潰さないかぎり政府は潰れない。だから、国民が自分で政府の悪い命令を聞かないようにして政府を潰さねばならないのである。
昔の日本のように国民みんなが“悪いことをされる喜び”のある国では、政府のような悪いことをする団体が仕事としてやっていける。政府が国民みんなに悪いことをして国民みんなを幸福にして国民みんなからお礼にお金をもらえる。しかし、今の日本のように国民みんなが“悪いことをされる喜び”のない国では、政府のような悪いことをする団体はもはや仕事にならずやっていけない。政府が国民みんなに悪いことをして国民みんなを不幸にして国民みんなからスカンを食らうだけでお金をもらえない。今の国民みんなは政府にお金を払わずに政府を倒せばいい。
昔の国民は文明が遅れていたために心が病気になって心に“悪いことをされる喜び”があった。そのために、昔の国民は政府や宗教団体や暴力団などの悪いことをする団体に悪いことをされて喜んでお礼にお金を払っていた。今の国民は文明が進んで心が健康になって心が“善いことをされる喜び”だけになって心に“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのために、今の国民は悪いことをする団体に悪いことをされるのが嫌になってお金をやらなくなっている。文明が遅れているとみんなの生活が不便なだけではない。みんなが心が病気になってみんながキチガイになっておかしなことをやるようになる。政府や宗教団体や暴力団がキチガイではなく、国民みんながキチガイだったのである。今の国民は科学をよく勉強して文明を大事にしないといけない。
それと同じように、昔の世界のほとんどの国では文化が偏[かたよ]っていたためにみんなが心が病気になってみんなが特定の団体に従っていた。ヨーロッパのように眼だけを使う文化ではみんなが頭を使ってはいけないためにみんながわからないことがあったときにすぐに近くにいた者を神にして神を奉[たてまつ]ったのでみんなが国家宗教をやる団体に従わねばならない気持ちになって宗教団体に権力があった。インドのように頭だけを使う文化ではみんなが眼を使ってはいけないためにみんなが眼で見える世界を古臭いままにしておくために身分制を定めて古臭い“悪いことをする団体”を身分が高いことにしたのでみんなが身分が高い団体に従わねばならない気持ちになったので暴力団に権力があった。中国のように心だけを使う文化ではみんなが頭を使ってはいけないためにみんなが多数決で物事を決めるのでみんなが民主主義をやる団体に従わねばならない気持ちになって政治団体に権力があった。一方、日本では眼と頭と心のすべてを使う文化であるためにみんなが心が健康でみんなが従う団体がなかった。日本文化では国民みんなが従いたくなる者がいないから、日本には権力者がいないのである。つまり、眼や頭や心のどれかひとつを使う文化ではみんなが“特定の団体に従ってしまう病”に罹[かか]っていた。悪いことをする団体はみんなの“特定の団体に従ってしまう病”を利用して国家宗教や身分制や民主主義をやって権力を得てみんなを自分の好き放題にした。一方、日本人はバランスの取れた文化をやっていたのでそんな病気に罹らなかった。それだけではなく、日本人は外国の偏った文化を受け入れても自分の文化で取捨選択して外国の文化の善いところだけを拾って、みんなが“特定の団体に従ってしまう病”に罹ったりせず権力者が生まれなかった。日本では昔からみんなが眼と頭と心のすべてを使う文化をやっていたので、外国のようにみんなが特定の団体に従いたい気持ちになって特定の団体の言いなりになるようなみっともないまねをしなかったのである。みんなが特定の団体の言いなりになると、特定の団体がみんなを自分の好き放題にしてみんなが不幸になる。そんなことで外人はこれまでさんざんひどい目にあってきた。日本人は日本文化のおかげでそんな目にあわずにすんだ。だから、日本人は日本文化を大事にして守り続けなければならない。ヨーロッパ文化は眼で見て喜ぶだけである。インド文化は頭で見て喜ぶだけである。中国文化は心で見て喜ぶだけである。日本文化は実在を見て喜ぶ。日本文化と比べたら外国の文化は全部くだらない文化である。ヨーロッパ文化もインド文化も中国文化も全部くだらない非実在的な文化である。だから、日本人は外国の文化をやってはいけない。日本ではみんなが眼と頭と心のすべてを使う文化をやってみんなが自分の文化を練習して自分の文化を上手にやれるようにならねばならない。日本文化ではみんなが眼と頭を使って実在を知って実在の中で眼で見て心を満足する。日本文化は実在主義である。実在主義においては特に頭の働きが重要である。だから、日本人は特に頭を大事にしないといけない。人間は古皮質を働かせず新皮質を働かせると幸福になるから、頭を働かせると幸福になるからちょうどいいのである。
文化が偏っていると“特定の団体に従ってしまう病”に罹る。文明が低いと“悪いことをされたい病”に罹る。文化や文明の異常によって人間の心が病気になる。人類は長い年月をかけて文化や文明を改善することによってこれらの病気を克服してきた。政府や宗教団体や暴力団は昔の“悪いことをされたい病”の名残[なごり]である。みんなで早く昔の人の心の病気の後始末[あとしまつ]をして、新しい時代にしないといけない。
平成29年2月28日追記:文化の土台は人間である。文化よりも人間のほうが深い。文化よりも人間そのものが問題だ。日本に日本文化があるのは、そもそも日本人が中国人とインド人とヨーロッパ人の混血つまり雑種だからである。日本人は雑種だから日本文化がやれるのである。ほかの国民は純血だからインド文化や中国文化やヨーロッパ文化のどれかひとつしかやれず日本文化をやれないのだ。外人が日本文化をやっても形の上で真似[まね]ているだけでしょせん付け焼刃[つけやきば]にすぎない。日本人と外人は人間が違う。日本人は外国の文化をやれないし、外人も日本の文化をやれない。日本人は外国のことは放[ほう]っておいて、自分の生まれ持った才能を活かして日本文化をやって幸福に暮らせばいいのである。
平成29年3月1日追加:権力者がいないことが日本文化の特長だが、日本文化が人間がもっとも幸福に暮らせる文化とはかぎらない。けっして日本文化が最高ではない。権力者をなくすためには人間が眼と頭と心の全部を使えばいいだけである。眼や頭や心のどれか1つだけを使ってほかの2つを使わないことにこだわるのをやめさえすればいい。だから、今後世界中の国が文化に対する研究をやって自分の文化を改善していけば、改善された外国の文化のほうが人間が幸福に暮らせるようになるかもしれない。日本文化は人間が眼と頭と心のすべてを均等に使うために自分が得意なことがない。日本文化は権力者がいないことを維持しながら外国の文化と同じように眼や頭や心のどれか1つに偏っていることを許したほうがいい。
(平成29年3月8日追加:『スタートレックボイジャー』の第68/69話に出てくる生命体8472は日本人のことである。浮遊衛星都市ボーグは政府のことである。日本人は政府が身分制をやっても民主主義をやっても国家宗教をやっても政府に従うようにならない。日本人は遺伝子が複雑すぎて眼と頭と心が均等に発達しているために自分が従う団体が存在しないのだ。そのために、日本では昔から政府に権力がなく国民と政府が平等であり、国民は政府が決めた法律や国策をやらず自分で法律や国策を考えてやっているのだ。日本では国民が政府に“苦痛に伴[ともな]う快感”を与えて欲しいときだけ自分のほうから政府の言うことを聞けばいいのである。)
平成29年3月8日追加:ヨーロッパ人は眼で見ることがわかるだけである。インド人は頭で考えることがわかるだけである。中国人は心で思うことがわかるだけである。日本人は眼で見ることも頭で考えることも心で思うことも全部わかる。日本人は眼で見ることと頭で考えることの両方がわかるので実在がわかる。外人と日本人の遺伝子が違うからそうなっているのである。外人は大陸に住んで日本人は小さい島国に住んでいるけれども、日本人のほうがまともで外人のほうがカタワなのである。日本人はこれまでに何万年も時間をかけてインド人と中国人とヨーロッパ人を交配[こうはい]してきて遺伝子の欠陥が少ないから優れた人種なのである。反対に、外人は近親相姦[きんしんそうかん]を繰り返してひとつの人種の中で交配しただけだから遺伝子に欠陥が多いのである。日本人にも欠点はあるが、日本人には外人よりも劣った点はいろいろあるが、総合的には日本人のほうが外人よりも上なのである。

[23184] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではない。 h29.2.28
政府は悪いことをする団体であって、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではない。
ただ、昔は国の文明が低くて昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったから、結果的に政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にしていた。だから、昔の政府は国民からお金をもらって食べていけた。
今は国の文明が高くて今の国民には“悪いことをされる喜び”がないから、今の政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足せず国民を幸福にしていない。だから、今の政府は国民からお金をもらえず潰[つぶ]れているのである。
今の政府は自分が権力を得るために身分制や民主主義や国家宗教などをやっている。しかし、日本文化では政府には権力がなく政府と国民は平等である。日本では政府と国民が平等だから、政府が国民に悪いことをするときには国民の許可が要る。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に悪いことをされるのを許せばよく、自分が政府に悪いことをされるのが嫌なら政府に悪いことをされるのを断ればいい。
政府は悪いことをする団体であって、国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体ではない。そのため、政府は国民の心に“悪いことをされる喜び”があろうがなかろうがおかまいなしに同じように国民に悪いことをする。だから、国民が自分で政府に悪いことをされるかされないかを決めねばならない。国民は自分に“悪いことをされる喜び”があれば政府に悪いことをしてもらい、自分に“悪いことをされる喜び”がなければ政府に悪いことをしてもらわなければいい。政府はいちいち国民の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかを調べて国民に悪いことをやったりやめたりしてくれないから、国民が自分で自分の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかを知って自分で政府に悪いことをしてもらったりしてもらわなかったりしなければならないのである。
政府は悪いことをするのを仕事にしている会社である。政府は国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりするのが仕事である。昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったから、政府が悪いことをするのが仕事になるのである。政府は国民にたくさんいろんな悪いことをやっている。税金は政府が国民に悪いことをする仕事の代金である。もっとも、政府は自分が民主主義をやって権力を得るためにちょっとだけ善いことをやっている。だから、国民は政府に善いことをやってもらうときだけお金を払って、悪いことをやってもらうときにはお金を払わなければいい。つまり、国民は政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代だけを払って、税金を払わなければいい。そうやって政府の善いところだけを残して悪いところを潰して、国民にとって暮らしやすい社会にすればいい。(政府や宗教団体や暴力団は仕事で悪いことをしている。だから、政府や宗教団体や暴力団は悪いことをしてもいいのである。反対に、国民が勝手に人を襲って人を殺したり人の物を奪ったりするのはいけない。そんなことをすると犯罪になって罰せられる。国民は自分が悪いことをしたければちゃんと政府や宗教団体や暴力団に勤[つと]めてから悪いことをしないといけない。ただし、日本文化では権力者がいないから国民と政府や宗教団体や暴力団は平等だから、日本では政府や宗教団体や暴力団は国民の許可を得てから国民に悪いことをしないといけない。だから、国民は自分が悪いことをされたいときだけ政府や宗教団体や暴力団が自分に悪いことをするのを許して悪いことをしてもらって、自分が悪いことをされたくなければ政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを断って悪いことをされなければいい。)
国民が政府に税金を払わなければ会社を首になるかどうかは私にはわからない。私は自分が政府について考えるために仕事を辞[や]めたのであって、就業中に政府に税金を払わなかったために首にされたのではない。私が以前仕事をしていたときにはおとなしく毎月政府に税金を払っていた。当時の私は政府についてなにも知らなかったので会社に言われるとおりに税金を払っていた。そもそも会社と政府は関係ないから、国民が政府に税金を払うか払わないかは国民個人の勝手であるはずである。国民が政府に税金を払わないと会社を首になるかどうかは実際にやってみないとわからない。日本は権力者のいないみんなが平等な国であり、今は国の文明が高くなって国民に“悪いことをされる喜び”がないから、国民が政府に税金を払わないのが普通である。それで会社が文句[もんく]をつけるなら会社が悪い。そんな馬鹿な会社は自分のほうから辞めてしまえ!今では国民が政府に税金を払わないのが普通である。だから、会社は国民に政府に税金を払うことを勧[すす]めてはいけない。会社は国民から税金を取ってはいけない。少なくとも会社は国民に税金を払うか払わないか訊[き]いてから国民から税金を取らねばならない。
日本政府には昔から権力がない。日本政府は昔から国民の“悪いことをされる喜び”だけで支えられたか弱い団体である。しかも、今の日本では国の文明が高くなって国民が“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の日本政府は脆弱[ぜいじゃく]である(つまり脆[もろ]くて弱い)。(私が九州大学理学部物理学科の学生のころ六本松の教養部で国際関係論で「核を考える」の講義を受けたとき高田助教授が「脆弱という言葉を憶えておけ」と言ったのはそのためだろう。つまり、高田助教授は「日本政府は先が長くないから、君たちは公務員にならないほうがいい」と言いたかったのだろう。そんなことを言いたかったら「核を考える」よりも「政府を考える」の講義をすればよかったのに。)日本政府は国民に“悪いことをされる喜び”がなくなればすぐに潰[つぶ]れる。だから、今の国民は自分の心に正直にして素直[すなお]に政府に税金を払うのをやめて政府を潰せばいいのである。
政府の問題は簡単である。世の中には解かねばならない問題がほかにもたくさんある。国民みんなは政府の問題をさっさと片付けてもっと先に進まねばならない。国民みんなが今よりもっと幸福に暮らせる国にしないといけない。

[23185] 客のために店がある。 h29.2.28
はじめに客ありき。その後で、客が欲しい物を売ったりサービスをしたりする店が出来る。それが商売の原理である。
昔は国の文明が低くてみんなが実在に支配されていて実在に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”があった。そのため、昔はみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にする仕事があった。それが、政府や宗教団体や暴力団である。昔はみんなが政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされて幸せになってお礼にお金を払っていたので、政府や宗教団体や暴力団がすごく儲[もう]かっていた。
今は国の文明が高くなってみんなが実在を支配して実在に善いことをさせて“善いことをされる喜び”だけになって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのため、今はみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にする仕事がなくなっている。今ではみんなが政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされても嫌がるだけで喜ばなくなってお礼にお金を払わなくなったので、政府や宗教団体や暴力団が儲からなくなって潰[つぶ]れている。
時代が変われば人間の心も変わる。人間の心が変われば店も変わる。昔はみんなに“悪いことをされる喜び”があったので、政府や宗教団体や暴力団などの悪いことをする団体が儲かっていた。反対に、今はみんなに“悪いことをされる喜び”がないので、政府や宗教団体や暴力団などの悪いことをする団体が儲からなくなって潰れている。客のために店があるのであって、店のために客があるのではない。いくら店があっても客がいないと店が成り立たない。今でも悪いことをする団体はたくさんあるが、今では“悪いことをされる喜び”のある者がいなくなっているので、悪いことをする団体が仕事ができなくなってお金を稼[かせ]げなくなって潰れているのである。
テレビや新聞で「政府や宗教団体や暴力団が儲かっている」と言っているのは嘘[うそ]である。今では政府や宗教団体や暴力団が潰れかけているからテレビ局や新聞社にお金を払って嘘を流しているのである。政府や宗教団体や暴力団は嘘のニュースを流すことによってみんなに「今でも大勢の人が政府や宗教団体や暴力団の客になっている」と思わせて集団心理を利用してみんなを客にしようとしているのである。本当は、政府や宗教団体や暴力団は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であり、今の文明水準では人間に“悪いことをされる喜び”があるわけがないから、政府や宗教団体や暴力団が儲かるわけがない。国民みんなはテレビや新聞の嘘のニュースに引っかからないようにして政府や宗教団体や暴力団にお金をやってはいけない。売れる物は宣伝しないが、売れない物は宣伝する。売れる物は宣伝しなくてもよく売れるので宣伝しないが、売れない物は宣伝しないと売れないので宣伝しなければならない。今では政府や宗教団体や暴力団が儲からなくなっているので宣伝しなければならなくなっている。そのためにテレビや新聞で「政府や宗教団体や暴力団が儲かっている」と嘘の宣伝をやっているのである。テレビや新聞は「政府や宗教団体や暴力団が儲かっている」芝居をやってみんなに芝居を眼で見せて嘘を信用させようとしているのである。テレビや新聞が「健康食品やダイエット食品がよく売れている」芝居をやってみんなに信用させて売ろうとしているのと同じことである。国民は売れない物は買わないほうがいい。テレビや新聞で宣伝している物は買わないほうがいい。だから、今の国民は政府や宗教団体や暴力団にお金を払って悪いことをされてはいけない。
今の政府や宗教団体や暴力団は民主主義をやって自分が権力を得るために善いことをやっているのではなく、自分が悪いことをやっても儲からなくなったので自分の仕事を変えるために善いことをやっている。今の国民は善いことをされたいだけで悪いことをされたくない。今の国民にとっては善い仕事が要るだけで悪い仕事は要らない。今では善いことをする仕事は儲かるが、悪いことをする仕事は儲からない。だから、今では悪いことをする会社がなくなって善いことをする会社だけになっているのである。
政府や宗教団体や暴力団にとって国民は客である。客は店に対して偉そうにしていい。だから、今の国民は政府や宗教団体や暴力団に対して偉そうにして、自分にとって政府や宗教団体や暴力団の仕事が面白くなくて要らなければ仕事をしてもらうのを断ればいいのである。今の国民は政府や宗教団体や暴力団にお金を払わないようにして悪いことをされないようにすればいいのである。

[23186] 今の国民は自分で善い経済政策をやらねばならない。 h29.3.1
政府は悪いことをする会社である。ただし、政府は民主主義で自分が権力を得るために善いことをちょっとだけやっている。
政府が法律会社や学校会社をやっているように、政府は経済会社もやっている。(政府の図の法律会社と学校会社の間に経済会社があると想像してもらいたい。)
政府の経済会社はたくさん悪い経済政策をやって、ちょっとだけ善い経済政策をやっている。政府の法律会社がたくさん悪い法律や悪い国策をやって、ちょっとだけ善い法律や善い国策をやっているのと同じである。政府の学校会社が子供にたくさん悪い教育をやって、ちょっとだけ善い教育をやっているのと同じである。もちろん、政府の経済会社や法律会社や学校会社は最初からわざとに悪いことをやっているのであって、まちがって悪いことをやっているのではない。
日本は日本文化をやっている。日本文化では政府に権力はなく国民と政府は平等である。国民は自分で考えて政府の経済会社が決めた経済政策をやるかやらないかを決めればいい。国民が政府の経済会社が決めた経済政策をやるかやらないかは国民個人の自由である。
今の日本では文明が高くなって国民に“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は善いことをされて悪いことをされたくない。だから、今の国民は善い経済政策をやって悪い経済政策をやってはいけない。
だから、今の国民は政府の経済会社が決めた悪い経済政策をやってはいけない。今の国民は政府の経済会社が決めた善い経済政策だけをやらねばならない。今の国民が自分で考えて善い経済政策をやればいい。
政府の経済会社はたくさん悪い経済政策をやってちょっとだけ善い経済政策をやる。今の国民にとっては政府の経済会社はほとんど役に立たない。だから、今の国民は政府の経済会社を潰[つぶ]せばいい。今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府の経済会社を潰せばいい。国民みんなで“善い経済政策だけをやる経済会社”を建ててお金をやって仕事をやってもらえばいい。(本当は政府が決めたのではないから“政策”と言うべきではないが、ほかにいい言葉が見つからないからやむを得ず政策と言うことにする。)善い経済政策だけをやる経済会社は今の国民にとって役に立つから国民みんなからお金をもらって儲[もう]かるだろう。
おまけ平成29年2月28日:政府の経済会社は悪い経済政策をいっぱいやって善い経済政策をちょっとだけしかやらない。
昔は国の文明が低かったために国民が気が狂っていて“悪いことをされる喜び”があったから政府の経済会社の命令で悪い経済政策をやって貧乏に暮らして喜んでいた。お礼に政府にたくさん税金を納めていた。日本中の会社が政府に不景気にしてもらって貧乏にしてもらって幸福にしてもらったお礼に政府に法人税をたくさん払っていた。
しかし、今は国の文明が高くなっているために国民が正気になって“悪いことをされる喜び”がなくなっているから、政府の経済会社の悪い命令を聞いて貧乏に暮らしてもうれしくない。だから、今の国民は政府の経済会社の悪い命令を聞かなければいい。政府に税金や法人税を払わなければいい。国民みんなで早く政府を倒して政府の経済会社を潰[つぶ]して、国民みんなで“善いことだけをする経済会社”を建ててお金をやって仕事をやってもらえばいい。“善いことだけをする経済会社”は国民を儲からせれば人気が出て国民からお礼にたくさんお金をもらって給料が増えるから一生懸命に善い仕事をするだろう。
国民が政府に税金を払うか払わないかは任意[にんい]である。国民が政府に税金を払えば政府に悪いことをされて、政府に税金を払わなければ政府に悪いことをされないだけである。昔の国民は気が狂って“悪いことをされる喜び”があったから自分が政府に悪いことをされて喜ぶために政府に税金を払っていた。お金のある国民は政府にたくさん税金を払って政府に多めに悪いことをされて人よりも幸福になっていた。お金のない国民は政府に税金を払えず政府に悪いことをされず幸福にしてもらえなかった。お金のない国民が偶然に政府の事件や事故で巻き添えを食って悪いことをされて幸福になると、自分が儲けたと思って喜んでいた。今の国民は正気になって“悪いことをされる喜び”がないから自分が政府に悪いことをされないために政府に税金を払わなければいい。国民みんなで政府に税金を払わず政府を倒して国民みんなが幸福に暮らせるようにすればいい。
昔の人にとっては人間に“悪いことをされる喜び”があるのが当たり前だった。国民が政府に悪いことをされて喜ぶのが当然だった。昔の人は今の人みたいに人間に“悪いことをされる喜び”がなくなるなんて夢にも思わなかったのだ。昔の人から見たら今の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足していない不幸な人間に見えるだろう。

[23187] 国民は自分で考えて善い法律や善い国策をやらねばならない。 h29.3.1
政府は国民に悪いことをする会社である。ただし、政府は民主主義で自分が権力を得るためにちょっとだけ善いこともやっている。政府はたくさん悪いことをやってちょっとだけ善いことをやっている。(昔『おはよう!こどもショー』にイビリマンとヤラレマンが出てきたのは、政府が悪いことをする会社だからである。イビリマンが政府で、ヤラレマンが国民である。イビリマンはいつも「お前らビシビシいびってやるからな!覚悟しとけよ!!」と言って鞭[むち]をしごいていた。ヤラレマンは「今日も元気にヤラレに来たよ〜ん」と言って楽しそうにはしゃいでいた。ヤラレマンは毎回楽しそうにイビリマンにやられていた。それが昔の文化なのである。)
政府の法律会社は悪い法律や悪い国策をたくさんやってちょっとだけ善い法律や善い国策をやっている。
日本では日本文化をやっている。日本文化では政府に権力がなく国民と政府は平等である。だから、国民が自分で政府の法律会社が決めた法律や国策をやるかやらないかを決めればいい。国民が政府の法律会社が決めた法律や国策をやるかやらないかは国民個人の自由である。
今の日本では文明が高くなって国民が“悪いことをされる喜び”がなくなっている。国民は善い法律や善い国策をやりたくて、悪い法律や悪い国策をやりたくない。だから、今の国民は政府の法律会社が決めた善い法律や善い国策だけをやって、悪い法律や悪い国策をやらなければいい。
そのため、政府の法律会社は国民をからかうために“一見[いっけん]善い法律や善い国策のように見えるが本当は悪い法律や悪い国策”をやっている。国民の多くは馬鹿だから、政府の法律や国策が善い法律や善い国策だと思って悪い法律や悪い国策をやって日本を悪い国にしている。今の政府は“一見[いっけん]善い法律や善い国策のように見えるが本当は悪い法律や悪い国策”をやって国民を不幸にしている。例えば、政府がだいぶ前に所得倍増計画をやったのは、政府が国民にたくさんお金をやってお金の価値を低下させて物価を値上げさせてインフレにして国民が暮らしにくくするためである。これまでの世界で起きた恐慌[きょうこう]はほとんどすべて政府がわざとにやったことである。医者が所得倍増計画をやった田中角栄を殺したのは、本当は政府全部が悪いのに首相一人が悪いとみんなに思わせるためである。例えば、今の政府が男女雇用機会均等法を定めているのは、やる気のない女をたくさん会社に入れて会社を儲[もう]からなくして国民を貧乏にするためである。そもそも女は新皮質がない生き物である。女は喜びが少ないことしかできない。女は新皮質がなくて実在が見えないから世の中を悪くして喜ぶだけである。つまり、女は悪人である。だから、昔は女を家の中に入れて閉じ込めて社会から隔離[かくり]して女に悪いことをさせないようにしていたのだ。女は馬鹿だから今では国民は政府に税金を払う必要がないのに払っている。政府が男女雇用機会均等法を定めたのは馬鹿な女から税金を取るためである。今では男が政府に税金を払わなくなってきているから、政府は女から税金を取らねばならないのである。例えば、今の政府が消費者保護法を定めているのは、食品にたくさん保存料を加えて国民に不味[まず]い物を食べさせて国民を苦しめるためである。例えば、今の政府が医療保険制度をやっているのは、国民から医療の名目で高いお金を取って国民を貧乏にするためである。医療費は本当は安い。手術代も薬代も本当は只[ただ]同然である。国民が医療費が高いと勝手に思い込んでいるだけである。政府は国民の医療に対するまちがったイメージを利用して国民から不必要に高いお金を取って国民を貧乏にして虐[いじ]めているのである。
政府は悪いことをする会社である。政府の法律会社は悪い法律や悪い国策をやる。日本文化では国民と政府が平等である。今の国民は“悪いことをされる喜び”がない。政府の法律会社が馬鹿な国民をからかって遊ぶために“一見善い法律や善い国策だがじつは悪い法律や悪い国策”をやることはよくあることである。だから、今の国民は政府の法律会社が決めた法律や国策をやってはいけない。国民は自分で考えて善い法律や善い国策をやらねばならない。日本文化では国民が自分で考えて自分を幸福にしないといけないことになっているからそうしなければならない。今の国民にとっては政府の法律会社は要らない。今の国民は政府に税金を払うのをやめて政府の法律会社を潰[つぶ]せばいい。国民で“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”を建ててお金をやって仕事をやってもらえばいい。国民が“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”が決めた法律や国策をやって幸福に暮すことができれば、国民は“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”にたくさんお金をやって“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”が儲かるだろう。反対に、国民が“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”が決めた法律や国策をやって幸福に暮すことができなければ、国民は“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”が名ばかりだと思ってお金をやらなくなって“善い法律や善い国策だけをやる法律会社”が儲からずに潰れるだろう。
これ以後平成29年3月2日追加:オウム真理教地下鉄サリン事件では悪い命令を出した教祖と教祖の悪い命令を聞いて実行した実行犯の両方とも罰せられた。今の日本では政府が悪い法律や悪い国策を定めて多くの国民が政府の悪い法律や悪い国策を聞いてやっている。だから、悪い法律や悪い国策を定めた政府と政府の悪い法律や悪い国策を実行した国民の両方ともが罰せられねばならない。それでは数が多くて日本の刑務所が足りない。国民は自分が無責任ではすまない。日本では政府には権力がなく国民と政府が平等なので、国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民の自由なので、政府の言うことを聞いた国民にも責任がある。今の国民は自分が悪いことをされるのが嫌だから、悪いことをした者を訴える。国民が政府の言うことを聞いて悪いことをしたら国民が犯罪者になって罰せられる。国民が政府の言うことを聞くときには慎重にしないといけない。
政府は悪いことをする会社であり、政府は国民から税金をもらって悪いことをするのが仕事である。税金は国民が政府に悪いことをやってもらうためのお金である。今の日本ではみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなって悪いことをされるのが嫌なので悪いことをしてはいけなくなっている。国民が政府に税金を払って政府が国民みんなに悪いことをしたら政府に税金を払った国民にも責任がある。政府に税金を払った国民が罪[つみ]に問われる。だから、国民は政府に税金を払ってはいけない。(反対に、昔の日本ではみんなが“悪いことをされる喜び”があって政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのが好きだったから、誰かが政府の命令を聞いて悪いことをやって自分が悪いことをされた場合には、政府の命令で悪いことをやった者に感謝していた。政府に税金を払った者に感謝していた。昔と今では世の中の仕組みが違うのだ。)

[23188] 善いマンガとは? h29.3.1
赤塚不二夫の『天才バカボン』ではめん玉つながりのおまわりさんがしょっちゅう「国家権力をなめるなよ!」と叫[さけ]んで拳銃を発砲する。本当は日本政府には権力がないのに、マンガの上では政府に国家権力があることになっている。ムンクの『叫び』のほうがずっと善いマンガだ。
善いマンガとは内容が正しくて、絵や言葉がふざけているマンガである。反対に、悪いマンガとは内容がまちがっていて、絵や言葉がまじめなマンガである。
人間は見かけはまちがっていても、中身が正しければいいのである。
ムンクの『叫び』だけを見て意味がわかる者はあまりいない。ムンクの『叫び』を200ページぐらいのマンガにして詳しく意味を描[か]いてもいいかもしれない。

[23189] 今の国民にとって政府は要らない。☆☆ h29.3.1
政府は悪いことをする会社である。ただし、政府は民主主義をやって自分が権力を得るためにちょっとだけ善いことをやっている。政府は悪いことと善いことの両方をやっている。政府は悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけやっている。
日本は日本文化をやっている。日本文化では政府に権力はなく国民と政府は平等である。国民は自分が幸福になるときだけ政府の言うことを聞き、自分が不幸になるときには政府の言うことを聞かなければいい。政府はけっして国家最高の意思決定機関ではない。
今の日本は文明が高くなって国民に“善いことをされる喜び”だけがあって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は善いことだけされたくて悪いことはされたくない。
政府は悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけしかしない会社である。今の国民は善いことだけされたくて悪いことをされたくない。だから、今の国民にとっては政府は要らない。今の国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒せばいい。今の国民は政府にお金をやらないようにして政府をなくせばいい。今の国民で“善いことだけをする会社”を建ててお金をやって善いことだけやってもらえばいい。
実際には、政府は善いことをちょっとだけやっているから、今の国民にとっては政府はまだ必要である。今の国民は政府の善い仕事だけお金を払って利用して、悪い仕事にはお金を払わず利用しなければいい。例えば、国民は政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代だけ払って、政府に悪いことをするための代金(つまり税金)を払わなければいい。(国民がオウム真理教の信者(つまりオウム真理教に悪いことをされる人)にならなくてもオウム真理教の食堂やパソコンショップを利用できるように、国民は政府の“信者”(つまり政府に悪いことをされる人)にならなくても政府の水道会社や清掃会社や役所を利用することができる。)今の国民は政府の中の善い会社だけを残して、悪い会社を潰[つぶ]せばいい。そうやって国民が自分で自分が幸福に暮らせる社会にすればいい。

[23190] 今の国民は政府に善いことだけやってもらって悪いことをやってもらわなくなっている。 h29.3.1
政府は悪いことをする会社である。もっとも、政府は民主主義をやって自分が権力を得るためにちょっとだけ善いことをやっている。政府は善いことと悪いことの両方をやっている。政府はたくさん悪いことをやって善いことをちょっとだけやっている。(だいぶ前に政府の首相かなんかが「みんな善い人」といやみったらしげに言っていたのは、政府が自分が悪いことをする会社だからである。)
日本文化では政府には権力がなく国民と政府は平等である。国民は自分が幸福になることだけ政府にやってもらい、自分が不幸になることを政府にやってもらわなければいい。
昔の日本は文明が低くて国民が実在に支配されて実在に悪いことをされて気が狂っていたので国民に“悪いことをされる喜び”があった。つまり、昔の国民は自分が殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりするのがうれしかった。一方、国民に“善いことをされる喜び”もあった。昔の国民は悪いことをされても善いことをされても幸福だったので、政府に悪いことと善いことの両方やってもらっていた。昔の国民は政府が決めた悪い法律や悪い国策や善い法律や善い国策を全部やっていた(国策には経済政策も含まれる)。税金は国民が政府に悪いことをやってもらうためのお金である。昔の国民は政府に税金を払って悪いことをやってもらって、政府にその都度[つど]料金を払って善いことをやってもらって幸福に暮らしていた。つまり、昔の国民は政府に税金を払って政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりして、政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代や汽車代や郵便代を払って幸福に暮らしていた。昔の国民は政府に税金や料金を払って政府に悪いことと善いことの両方をやってもらっていたので、政府が儲[もう]かっていた。(昔の人には“悪いことをされる喜び”があったから自分のほうから積極的に政府に悪いことをされていたのである。万有引力でリンゴが落ちるのと同じことである。愛情や性欲で男と女がくっつくのと同じことである。心は人間を動かす力である。/昔の人は自分が悪いことをされるのがうれしかったが、一方で平和に暮らしたくもあった。そのため、昔は国民みんなで「悪いことをする会社は悪いことをやってもいいが、それ以外の者が悪いことをやってはいけない」ことにしていた。)
今の日本は文明が高くて国民が実在を支配して実在に善いことをさせて悪いことをさせなくなって正気になっているので国民に“善いことをされる喜び”だけがあって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は自分が殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりするのが嫌である。今の国民は善いことをされると幸福だが悪いことをされると不幸なので、政府に善いことだけやってもらって悪いことをやってもらわなくなっている。今の国民は政府が決めた悪い法律や悪い国策をやらず、政府が決めた善い法律や善い国策だけをやっている。今の国民は政府に税金を払わなくなって悪いことをやってもらわなくなって、政府にその都度料金を払って善いことをやってもらって幸福に暮らしている。つまり、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府に殺されたり強盗されたり虐待されたり貧乏にされたりしなくなって、政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代などを払って幸福に暮らしている。今の政府は鉄道会社や郵便会社をやめたので善いことをする会社が減って悪いことをする会社が残って、政府が悪いことをする会社であることが目立つようになっている。今の国民は政府にお金をやらなくなって政府のような“悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけやる会社”を潰[つぶ]している。政府の替わりに“善いことだけをする会社”を建ててお金をやって仕事をやってもらう予定である。そのようにして、今の国民は自分で自分が幸福に暮らせる社会にしている。
平成29年3月2日追加:日本では政府に権力がなく国民と政府が平等である。そのため、日本では国民が自分で考えて政府の言うことを聞くか聞かないか決めることになっている。それなのに、今でも多くの国民が政府に税金を払っている。今でも多くの国民は政府が「政府は国民から税金をもらって国民のために善いことをやっている」と嘘[うそ]をついているのを本気にして政府に税金を払っているのである。政府が嘘つきなのが悪いのではなく、国民が世間知らずなのが悪いのである。マンガが嘘を描いていることを知らずにマンガに描いていることを真[ま]に受けてやって犯罪になって警察に捕まるのと同じことである。今の政府が消費者保護法を定めて嘘のない社会にしているのは、政府が国民に「政府が嘘をついていない」と思わせて国民を騙[だま]してからかうためである。国民は自分でよく考えて自分が幸福になることをやって不幸になることをしないようにしないといけない。政府は悪いことをする会社であり、税金は国民が政府に悪いことをしてもらうためのお金である。けっして政府は善いことをする会社であり、税金は国民が政府に善いことをしてもらうためのお金ではない。国民はそういう目で政府を見て、政府の嘘に引っかかってはいけない。

[23191] 私はどのようにして『人間に“悪いことをされる喜び”がある』ことがわかったか? h29.3.2
日本は昔から権力のない国である。そのため、日本ではみんなが権力を知らない。日本人が権力とは何かがわかっていないことが日本に権力がない証拠である。
そのために、私は先に「権力のない国で国民が政府に税金を払うのはなぜか?」を考えた。権力については後から考えた。
国民が政府に税金を払うのは、国民が政府に強盗されるのと同じである。国民が政府に悪いことをされるのと同じである。
人間は自分が幸福になることをやり、不幸になることをやらないものである。
したがって、人間には“悪いことをされる喜び”があることになる。
しかし、実際に今の私が自分の心を見てみると“悪いことをされる喜び”がない。
だから、昔の人には“悪いことをされる喜び”があったが、今の人には“悪いことをされる喜び”がないことがわかる。
昔は国の文明が低かったが、今は国の文明が高い。
したがって、国の文明が低いと国民に“悪いことをされる喜び”があるが、国の文明が高いと国民に“悪いことをされる喜び”がないことがわかる。
したがって、政府は悪いことをする会社であり、昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから自分から望んで政府に悪いことをされていたが、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから自分で断って政府に悪いことをされなくなっていることがわかる。(平成29年3月15日追加:日本では政府や幕府に権力がないので政府や幕府が“苦痛を伴う快感”を与える団体であることがわかりやすい。いわば、ガリレオの斜台[しゃだい]の実験なのだ。ガリレオの斜台の実験では摩擦抵抗がないので『慣性の法則』がわかりやすかったように、日本では政府や幕府に権力がないので『政府や幕府が“苦痛を伴う快感”を与える団体である』ことがわかりやすいのだ。)私はこれだけのことがわかるのに約10年かかった。そのあいだ親から約2000万円も仕送りしてもらった。だから、もしも昔の人間の心に“悪いことをされる喜び”があることがまちがっていたら、私は自分には人間として生きる価値がないから死んでもいいと思っている。
権力については約一月前[ひとつきまえ]におとぎ話の『裸の王様』から教わった。外国ではみんなが眼や頭や心のどれか1つを働かせてほかの2つを働かせないためにみんなが特定の団体に従わねばならない気持ちになって特定の団体に従っている。ヨーロッパ人は生まれつき眼だけが発達していて眼を使うのは好きだが頭や心を使うのが嫌いであるために宗教団体に従わねばならない気持ちになって宗教団体に従っている。中国人は生まれつき心だけが発達していて心を使うのは好きだが眼や頭を使うのは嫌いであるために政治団体に従わねばならない気持ちになって政治団体に従っている。インド人は生まれつき頭だけが発達していて頭を使うのは好きだが眼や心を使うのは嫌いであるために暴力団に従わねばならない気持ちになって暴力団に従っている。(詳しい説明はこれまでのところを参照。)一方、日本人は生まれつき眼と頭と心が均等に発達していて眼や頭や心をすべて使うのが好きであるために自分が従わねばならない気持ちになる団体がなく特定の団体に従わない。だから、ヨーロッパでは宗教団体が権力団体であり、中国では政治団体が権力団体であり、インドでは暴力団が権力団体であるのに、日本には権力団体がないのである。日本人にとっては最初から権力なんかどうでもいいことである。日本では政府と権力は関係がない。(国民が特定の団体に従うかどうかは生まれつきで決まる。一方、昔は世界中の国でみんなが悪いことをする団体に悪いことをされていた。日本では国民みんなが特定の団体に従わないように、国民みんなが悪いことをする団体に悪いことをされない国はなかった。だから、国民が悪いことをされる団体に悪いことをしてもらうかどうかは生まれつきによらない。遺伝的に決まることではない。文化によらない。国民が悪いことをされる団体に悪いことをしてもらうかどうかは後天的に決まるだけである。つまり、国民が悪いことをされる団体に悪いことをされていたのは、昔は国の文明が遅れていてみんなが年がら年中毎日朝から晩まで実在に悪いことをされていたために“悪いことをされる喜び”があったからである。たとえ原因がどうであれ、先天的であれ後天的であれ、今の国民に“悪いことをされる喜び”がないことは事実だから、事実に基づかねばならない。先天的に遺伝的に人間みんなに“悪いことをされる喜び”があるとすれば、国の文明が高くなるとみんなが“善いことをされる喜び”をたくさん満足するようになったために“悪いことをされる喜び”が抑[おさ]えられているから、今の国民には“悪いことをされる喜び”がないのだろう。人間の大脳の新皮質と古皮質が拮抗[きっこう]するように、人間の“善いことをされる喜び”と“悪いことをされる喜び”は拮抗するのだろう。“悪いことをされる喜び”が先天的であろうが後天的であろうが、今の国民に“悪いことをされる喜び”がないことに変わりはないのである。私は『昔の人は文明が遅れていて実在を知らなかったために実在に支配されて実在に悪いことをされていたので“悪いことをされる喜び”があったが、今の人は文明が進んで実在を知っているために実在を支配して実在に善いことをさせるようになったので“悪いことをされる喜び”がない』という説明がもっともかっこいいと思うのだが。あるいは、国の文明が遅れていて人間に面白いことがないと人間は死ぬ欲望が働いて“悪いことをされる喜び”を満足するようになる。昔はそうだった。今は国の文明が進んで人間に面白いことがあるから人間が生きる欲望が働いて“善いことをされる喜び”を満足するようになっているのかもしれない。/国民に“悪いことをされる喜び”がある理由なんかどうでもいい。国民が今の自分に“悪いことをされる喜び”があるかないかが問題なだけである。日本では政府に権力がなく、国民と政府が平等である。政府は悪いことをする会社であり、政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをするのが仕事である。政府は自分の好き勝手に国民に悪いことをやっているのではなく、仕事で国民に悪いことをやっている。国民は自分に“悪いことをされる喜び”があれば政府に税金を払って自分に悪いことをやってもらえばよく、自分に“悪いことをされる喜び”がなければ政府に税金を払わず自分に悪いことをやってもらわなければいいだけである。国民は自分で自分の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかをよく知って政府に税金を払うか払わないか決めねばならない。)
日本文化は権力者がいないことが長所である。日本文化はみんなが法律を守って平和であることも長所である。日本文化には長所が多い。しかし、反対に日本文化はみんなが一芸に秀[ひい]でていないことが短所である。日本文化はみんなが他人から習[なら]うだけで自分で考えないことも短所である。日本文化には短所も多い。日本で科学が生まれなかったのがその証拠である。今では世界中の国で文化についての研究が進んでみんなが自分の国の文化を改良している。日本でもみんなで自分の国の文化を改良して国民みんながもっと幸福に暮らせる文化にしないといけない。
文化の土台は人間である。文化は人間の特徴が外に表れたものである。人間が文化を決めるのであって、文化が人間を決めるのではない。文化よりも人間そのものが大事である。文化はその国の人間がもっとも幸福になるように出来ている。だから、人間は自分の国の文化をやれば幸福になり、外国の文化をやっても不幸になるだけである。『血は水よりも濃い』とはそういうことである。血とは人間で、水とは文化のことである。今では遺伝子工学が進んでいるから、人間が自分の好きなように遺伝子を組み替えて人間を作ることができる。この世でもっとも幸福に生きることができる人間を作ればいい。
とにかく、人間は実在の中にいるから、人間が幸福になるためには実在を知って実在の中で幸福になれるようにしないといけない。そういう文化が人間がもっとも幸福になれる文化である。そういうことのできる人間がこの世でもっとも幸福な人間である。そんな文化や人間がある国にしないといけない。
日本人は生まれつき眼と頭の両方が発達しているから、いやがうえにも実在が見える。だから、日本人は実在において幸福になるしかない。日本人は実在以外のところでは幸福になれない。日本人には眼だけの喜びや頭だけの喜びや心だけの喜びがない。日本人はそういう人種なのである。
これまで外国では権力団体が国民みんなを支配して国民みんなにひどいことをやって国民みんなをつらい目に合わせてきた。しかし、外国では権力団体はみんなの“悪いことをされる喜び”を満足することに乗っかってみんなが自分に従いたくなる気持ちを利用して多めに悪いことをやっていたのである。今では世界中の国で文明が高くなってみんなに“悪いことをされる喜び”がなくなっている。だから、外国では権力団体が悪いことができなくなっている。権力団体は権力があるだけでは悪いことはできない。権力のない“悪いことをされる喜び”を満足する団体でもやっていけるが、権力のある“悪いことをされる喜び”を満足しない団体ではもはややっていけないのだ。そのために、今では外国でも権力団体が儲[もう]からなくなって滅んでいる。今では文明が発達していろんな新しい物が出来て人間がいろんな物を使って遊んでいる。今の人間にとっては“自分が遊ぶ喜び”のほうが“悪いことをされる喜び”や“権力団体に従う喜び”よりも強くなっている。そのために、みんなが悪いことをされなくなったり権力団体に従わなくなったりして悪いことをする団体や権力団体が滅んでいるのだ。
昔は文明が低くてテレビやゲームやパソコンがなかったのでみんなが戦争をやって遊んでいた。今は文明が高くなってテレビやゲームやパソコンがあるのでみんなが戦争をやって遊ばなくなっている。戦争は過酷だが本質は遊びである。人間にとっては戦争をするよりもテレビやゲームやパソコンで遊ぶほうが面白いので、今の人間は戦争をやらなくなったのである。そのために、今の世界には戦争はない。だから、自衛隊は要らない。自衛隊の戦艦や戦車や戦闘機は何の役にも立たない鉄クズだ。政府は戦争会社(つまり自衛隊)を設けて国民から余計なお金を取って国民を貧乏にしているだけだ。日本では政府に権力がなく国民と政府が平等である。国民が政府に戦争会社をやらすかやらさないかは国民が自分で決めることである。国民は政府に税金を払わないようにして政府や戦争会社を潰[つぶ]せばいい。そもそも政府は悪いことをやる会社である。だから、政府のやることはたいてい悪いことなので今の国民は自分が悪いことをされるのが嫌なら政府に税金を払わず政府を潰せばいいのである。人間にとってはテレビやゲームやパソコンで遊ぶほうが悪いことをする団体に悪いことをされるよりも面白いので、今の人は悪いことをされる団体に悪いことをされなくなったのかもしれない。片意地を張っていると変な喜びに陥[おちい]る。面白くない喜びに陥って苦しむことになる。今の人は素直に文明を受け入れてテレビやゲームやパソコンで面白いと思うことも大事なのだ。

[23192] 今の政府は儲[もう]からない。 h29.3.2
政府は悪いことをする会社である。もっとも、政府は民主主義をやって自分が権力を得るためにちょっとだけ善いことをやっている。政府は悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけやる会社である。大雑把[おおざっぱ]には、政府は悪いことをする会社である。
昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから、昔の政府がやっていることは国民みんなを喜ばせた。昔の政府がやっているのは仕事だった。そのために、昔の政府は国民みんなからお礼にお金(つまり税金)をもらって儲かっていた。
今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の政府がやっているのは仕事ではなくただの嫌がらせである。そのために、今の政府は国民みんなからお礼にお金をもらえなくなって儲からなくなって潰[つぶ]れている。
昔の人は“悪いことをされる喜び”があったから政府に悪いことをされて喜んでいた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”がないから政府に悪いことをされて嫌がっている。人間は自分を喜ばせてくれる者にはお金を払うが、自分を嫌がらせる者にはお金を払わない。そのため、昔の人は政府にお金を払ったが、今の人は政府にお金を払わないのだ。
このまま政府が悪いことをし続けても政府は儲からないだけである。
このへんで政府は潔[いさぎよ]く潰れてなくなるしかない。
政府が民主主義をやるために建てた善いことをする会社は、政府とくっついている民間会社と見なすことができる。昔は政府が建っていたので、たまたまいくつかの民間会社が政府とくっついていただけのことである。政府の仕事は悪いことをすることであり、政府の善いことをする会社の仕事は善いことをするである。政府と政府の善いことをする会社はまったく違う仕事をやっているのであり、本来政府と政府の善いことをする会社は別の会社である。だから、国民は政府とは無関係に政府の善いことをする会社を利用すればいいのである。国民は政府に税金を払わずに、政府の善いことをする会社にお金を払って仕事をやってもらえばいいのである。
昔は政府が景気がよかったので、政府の善いことをする会社は政府からお金をもらえるので政府とくっつきたがっていた。しかし、今は政府が景気が悪いので、政府の善いことをする会社は政府にお金を取られるので政府と分かれたがっている。だから、今は政府の善いことをする会社は政府と分かれて離れて独立すればいいのである。

[23193] 今では政府が潰[つぶ]れている。 h29.3.3
政府は悪いことをする会社である。この世では人間がどんなことをしようが人間の勝手である。政府が悪いことをする会社であることに理由はない。政府は悪いことをする会社だから悪いことをする会社なのである。
日本では政府に権力がなく国民と政府が平等である。日本では国民が政府に従わない。だから、政府が国民に悪いことをしたくても国民が悪いことをされたくなければされなければいい。国民が政府に悪いことをされたいときだけ政府に悪いことをされればいい。
これまで政府が潰れずに生き残ってきたのは、昔の国民に“悪いことをされる喜び”があったからである。昔は政府が国民に悪いことをすると、国民が喜んでお礼に政府にお金(つまり税金)をくれたので政府は生き残ってこれたのである。
文明と“悪いことをされる喜び”の間には関係がある。国の文明が低いと国民が実在に支配されて実在に悪いことをされて国民に“悪いことをされる喜び”がある。反対に、国の文明が高いと国民が実在を支配して実在に善いことをさせて悪いことをさせなくなって国民に“善いことをされる喜び”だけがあって“悪いことをされる喜び”がなくなる。(江戸時代には国民に“悪いことをされる喜び”があった。江戸時代には国民が幕府に虐[いじ]められて喜んでいた。時代劇が面白いのは、国民の“悪いことをされる喜び”がナンセンスで滑稽[こっけい]だからである。)
今では国の文明が高くなって今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。今では政府が国民に悪いことをしても、国民が嫌がって政府にお金をくれなくなったので政府は潰[つぶ]れているのである。
今でもテレビや新聞では政府が元気に建って活き活きと活動している。テレビや新聞は嘘[うそ]をつける。テレビ番組や新聞記事には責任者がいないからいくらでも嘘をつけるのである。本当は今では政府が潰れている。国民みんなはテレビや新聞の嘘に惑[まど]わされないようにして政府を潰さねばならない。

[23194] 今の国民は政府に税金を払わなければいい。 h29.3.3
日本では政府に権力がなく国民と政府が平等である。だから、国民は自分が好きなら政府の言うことを聞き、自分が嫌なら政府の言うことを聞かなければいい。
税金は政府が国民から一方的にお金を取ることである。税金は政府が何をするのかわからずに国民が政府にお金を払うことである。政府が国民から取ったお金で国民を殺したり虐[いじ]めたりして悪いことをやっているかもしれない。それでも国民は自分が何のために政府にお金を払ったかわからずに政府にお金を払ったのだから政府が何をしようが文句を言えない。たとえ政府が言葉や活字で「政府は国民から税金をもらって国民のために善いことをする」と言っても契約ではないから信用できない。
今の国民にとっては政府が国民から税金を取るのは嫌である。だから、今の国民は政府に税金を払わなければいい。
今の国民が政府に税金を払わなければ、政府は国民からお金の取り方を変えるだろう。あるいは、すんなり潰[つぶ]れてなくなるだろう。どちらにしろ、今の国民にとっては得である。
日本人は日本人の特性を活かして幸福に暮らせばいい。ヨーロッパ人は眼だけ強くて頭と心が弱いから宗教団体に従う。インド人は頭だけ強くて眼と心が弱いから暴力団に従う。中国人は心だけが強くて眼と頭が弱いから政治団体に従う。それが人種の本能である。虫が光のほうに飛んで行くのと同じことである。一方、日本人は眼と頭と心が均等に強いから自分が従う団体がない。それが日本人の強みである。だから、日本人は自分の強みを活かして幸福に暮らせばいいのである。
日本には権力者がいない。日本には国民が従う者がいない。日本では国民は自分が好きなことをやって嫌なことをしなければいい。例えば、今の国民は政府に税金を払うのが嫌だから政府に税金を払わず政府を潰[つぶ]せばいい。そうやって日本人は自分で自分が幸福に暮らせる国にすればいい。

[23195] 『北風と太陽』 h29.3.3
『北風と太陽』のおとぎ話の北風とは悪いことをする団体がみんなに悪いことをすることであり、太陽とは悪いことをする団体が民主主義をすることである。
悪いことをする団体は国民に悪いことをするだけではあまり悪いことはできないが、民主主義をやって国民のためにちょっとだけ善いことをすれば権力が得られてますます国民に悪いことができるという話である。スイカに塩をふればますます甘くなるようなものである。みんなは悪いことをする団体が悪いことをするので怖いからあまり悪いことをする団体の言うことを聞こうとしないが、善いことをすれば怖さが和[やわ]らぐから、悪いことをする団体が善いことをすればみんなが悪いことをする団体の言うことをよく聞くようになるのである。民主主義の原理はそういうものである。
民主主義は悪いことをする団体にとってはありがたいことでも、国民にとってはありがたいことではない。おとぎ話の暖かい挿絵[さしえ]とは裏腹に、国民にとっては嫌なおとぎ話である。
今の国民は文明が高くなって悪いことをされるのが嫌である。北風も太陽ももうたくさんだ。

[23196] どうして政府は国民に悪いことをするのか? h29.3.3
政府は悪いことをする団体である。
今の政府は「国民が悪いことをされると国民が喜ぶ」と思って国民に悪いことをやっているのである。
今の政府は「昔の国民が悪いことをされて喜んでいたから今の国民も悪いことをされると喜ぶだろう」と思って今の国民に悪いことをやっているのである。
今の政府は今の国民を喜ばせるために国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっているのである。
しかし、実際には今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。今の国民は政府に悪いことをされてもうれしくない。嫌なだけである。
日本では政府に権力はなく、政府と国民が平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければされればよく、政府に悪いことをされたくなければされなければいい。税金は国民が政府に悪いことをやってもらうためのお金である。今の国民は政府に悪いことをされたくないから政府に税金を払うのをやめて政府に悪いことをされないようにすればいい。

[23197] どうして人間には“悪いことをされる喜び”があるのか?☆☆ h29.3.3
今では普通の人間には“悪いことをされる喜び”がない。
しかし、今でも人間が悪いことをされると“悪いことをされる喜び”を感じるようになる。じつは、人間の脳は“悪いことをされる喜び”を感じるように出来ている。人間が悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために快楽物質(エンドルフィンなど。脳内麻薬とも言われている)が脳内で分泌されるようになっているので、人間は“悪いことをされる喜び”を感じるのである。(少し前に“癒し”という言葉が流行[はや]ったから、たぶんこの説が正しいだろう。)例えば、国民が政府に税金を取られると嫌な気持ちになるのでそれを癒すために脳の中で麻薬に似た物質が分泌されて気持ちがよくなる。だから、国民は自分が気持ちよくなるために自分のほうから政府に税金を取られようとするのである。(少し前に“きもチンよか”という言葉が流行ったから、たぶん正解だろう。)とくに昔の人は敏感だから、誰かが政府に殺されたり虐[いじ]められたりしたニュースを聞いただけで脳内麻薬が分泌されて幸福になっていたのである。だから、“他人の不幸は蜜[みつ]の味”というのだ。
要するに、“悪いことをされる喜び”を満足するのは昔の人の悪い遊びである。
昔の人は喜びがなかったから、悪いことをする団体に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を感じて幸福になっていた。
今の人は喜びがあるから、“悪いことをされる喜び”よりも楽しいことがいっぱいあるから、悪いことをされる喜びが要らなくなった。
そのため、今ではみんなが悪いことをする団体の世話にならなくなって、悪いことをする団体が滅んでいるのだ。
今でも善い喜びがない人は、暴力団や宗教団体や政治団体などの悪いことをする団体に世話になってお金を払って悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福になっている。みんなはそうならないように注意しないといけない。
日本には権力者がいない。国民が従う者がいない。国民と悪いことをする団体は平等である。だから、国民は自分が悪いことをされたければ悪いことをする団体にお金を払って悪いことをしてもらえばよく、自分が悪いことをされたくなければ悪いことをされる団体にお金を払わず悪いことをしてもらわなければいい。昔の人は楽しい遊びがなくて喜びがなかったから、悪いことをする団体に悪いことをされて喜んでいた。今の人はいろんな楽しい遊びがあっていっぱい喜びがあるから、悪いことをする団体が要らなくなって悪いことをする団体に悪いことをされなくなっている。悪いことをする団体はお客が減ってお金がもらえなくなって潰[つぶ]れている。
昔は国の文明が遅れていたのでみんなにはテレビやゲーム(テレビゲームのこと)やパソコンなどの遊びがなかった。そのため、“悪いことをされる喜び”がみんなに重宝[ちょうほう]されていた。みんなは“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。政府は国民みんなに悪いことをして“悪いことをされる喜び”を与える団体である。昔の国民にとっては政府が自分に喜びを与えてくれるたった一つの団体だったので政府にありったけのお金(つまり税金)を払って政府を大事にしていた。反対に、今は国の文明が進んでいるのでみんなにはテレビやゲームやパソコンなどの遊びがたくさんある。そのため、“悪いことをされる喜び”がほかの喜びに比べて見劣りするようになって、“悪いことをされる喜び”がみんなに卑下[ひげ]されている。みんなは“悪いことをされる喜び”を満足して暮らさなくなっている。今の国民は政府が要らなくなって政府にお金を払わなくなって政府を潰している。
昔の人は喜びがなかった。昔の人が悪いことをする団体に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足して喜びを得ることは苦肉の策だった。昔の人にはそんな下品な喜びしかなかったのだ。反対に、今の人は喜びがたくさんある。今の人は悪いことをする団体に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足する必要がなくなっている。そのため、今の人は悪いことをする団体が要らなくなってお金をやらなくなって潰しているのだ。
時代によって人間が幸福になるための方法が違う。今では人間がテレビやゲームやパソコンをやることによって幸福になっている。そのひとつ前の時代は人間が悪いことをする団体に悪いことをされて幸福になっていた。今の人にとってのテレビやゲームやパソコンは昔の人にとっての悪いことをする団体と同じものである。昔の人はテレビやゲームやパソコンがなかったので悪いことをする団体を使って喜んでいた。今の人間はテレビやゲームやパソコンで喜ぶようになって、悪いことをする団体が要らなくなって捨てているのだ。
昔の人にとって悪いことをする団体は自分に喜びを与えてくれる善い者だった。暴力団が国民を殴[なぐ]って国民からお金を取ることは、じつは暴力団が国民をいたぶって国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を喜ばせて、国民が自分を喜ばせてくれたお礼に暴力団にお金をやっていたのだ。本当に喜んでいたのは暴力団ではなく国民のほうだったのだ。
法律会社や学校会社や水道会社は政府という悪いことをする団体のオマケであって本体ではない。みんなはオマケと本体をひっくり返してはいけない。テレビに出ているのは政府のオマケであって、政府の本体は奥にひっこんでいるのだ。政府という悪いことをする団体が民主主義をやって権力を得るために法律会社や学校会社や水道会社などの善いことをする会社をやっているのであって、法律会社や学校会社や水道会社などの善いことをする会社の組み合いが自分が善いことをしているのを威張[いば]って国民を虐[いじ]めるために政府という悪いことをする団体をやっているのではない。

[23198] 今の国民は政府を潰[つぶ]しながら政府に仕事をやってもらっている。☆ h29.3.3
政府は悪いことをする会社である。政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをするのが仕事である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民にいろんな悪いことをやっている。政府は自分が権力を得るために民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっている。政府は悪いことをたくさんやって善いことをちょっとだけやっている。大雑把[おおざっぱ]には、政府は悪いことをやっている。
日本文化では政府には権力がなく、国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをしてもらい、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて喜びを感じる。(暴力団は麻薬を売っているのではない。日本では麻薬を売ると法律に反するからである。暴力団は国民をいたぶって国民の脳内に快楽物質を分泌させて喜びを与えているのである。暴力団はちゃんと法律を守っているから建っていられるのである。日本は実在主義である。日本人は実在の中で幸福にならねばならない。麻薬は実在の外で幸福になるから日本ではやってはいけないのである。)
昔は国の文明が低くて国民はテレビやゲーム(テレビゲームのこと)やパソコンがなくて喜びがなかったため、国民は政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を得て幸福になっていた。国民は政府に税金を払って政府に悪いことをされて喜んでいた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今は国の文明が高くて国民はテレビやゲームやパソコンがあって喜びがあるため、国民は政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を得て幸福にならなくなった。国民は政府に税金を払わなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。
政府は民主主義でちょっとだけ善いことをやっている。今の国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、今の国民は政府に水道代やゴミの回収代や書類の発行代などを払って政府に仕事をやってもらっている。今の国民は政府に税金を払わず政府を潰しながら、その一方で政府にお金を払って仕事をやってもらっている。人間はずうずうしくなければ生きていけない。
政府は国民を殺したり虐待したり貧乏にしたりしたあげく国民からお金を強盗している。政府が国民に悪いことをして喜んでいるのではなく、国民が政府に悪いことをされて喜んでいるのだ。
国民が政府に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して喜んでいるのである。しかし、今では国民はテレビやゲームやパソコンで遊んで喜んで、政府に悪いことをされて喜ばなくなった。だから、今の国民は政府に税金を払わなくなって政府を潰[つぶ]しているのだ。今の国民にとってはテレビやゲームやパソコンを使っていかに楽しく暮らすかが問題なのだ。

[23199] 政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをする会社である。 h29.3.4
人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて喜びが得られる。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民に“悪いことをされる喜び”を与えて国民を幸福にする会社である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民にいろんな悪いことをやっている。
日本では政府に権力がないから、国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをしてもらい、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
今の人はテレビやゲームやパソコンがあるから、テレビやゲームやパソコンを使って喜びを得て楽しく暮らしている。
昔の人はテレビやゲームやパソコンがなかったから、政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を得て楽しく暮らしていた。昔の人は政府に税金を払って政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。(昔の人は喜びがなかったので、政府に悪いことをされて喜ぶことが必要だった。だから、“必要悪”というのだ。/昔の人にとっては人間に“悪いことをされる喜び”があることは当たり前すぎて文学に書く気にもなれなかった。文学はもっと変わったことを書かないとサマにならない。だから、文学には“悪いことをされる喜び”が出てこないのだ。)
今の人はテレビやゲームやパソコンで十分な喜びが得られるので政府が要らなくなって政府に税金をやらなくなって政府を潰[つぶ]している。(暴力団の構成員の人数や政府の公務員の人数のグラフが時間的に階段状に減少しているのは、テレビやゲームやパソコンが普及したときにみんなが暴力団や政府が要らなくなって暴力団や政府の人数が急激に減少するからである。新しいオモチャが出来るたびに暴力団や政府の人数が減っている。そのうち、暴力団や政府がいなくなるだろう。この世では強い者が勝って弱い者が負ける。オモチャのほうが暴力団や政府よりも強いのだ。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやって善いことをちょっとだけやっている。今の人は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、今の人は政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代を払って政府に善いことをやってもらっている。


[23200] 今の国民は政府に悪いことをされて喜ばなくなっている。☆☆ h29.3.4
@人間には“悪いことをされる喜び”がある。A日本文化では政府に権力がない。B今は国の文明が高くなってテレビやゲームやパソコンがある。これらの3つのことがわかっていれば政府は潰[つぶ]れる。
人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間は悪いことをされると苦痛を癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて喜びを感じる。
政府は国民から税金をもらって国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は毎日国民を殺したり強盗したり虐待したり貧乏にしたりして国民に悪いことをやっている。
日本文化では政府に権力がなく、国民と政府は平等である。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府に税金を払って政府に悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府に税金を払わず政府に悪いことをされなければいい。
昔は国の文明が低くて国民がテレビやゲームやパソコンで喜びが得られなくて、政府に税金を払って政府に悪いことをされて喜びを得て幸福に暮らしていた。政府は国民から税金をもらって儲[もう]かっていた。
今は国の文明が高くなって国民がテレビやゲームやパソコンで喜びを得て幸福に暮らせるので、政府に悪いことをされて喜ばせてもらわなくてもいいので、政府に税金を払わず政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰れている。要するに、テレビやゲームやパソコンが政府を倒したのだ。テレビやゲームやパソコンが政府の天敵である。
政府は自分が権力を得るために民主主義をやってちょっとだけ善いことをやっている。国民は政府にお金を払って善いことをやってもらっている。例えば、国民は政府に水道代やゴミの回収代や証明書の発行代などを払って政府に善いことをやってもらっている。今の国民は政府に税金を払わず政府を倒しながら、何食わぬ顔で政府にお金を払って善いことをやってもらっている。今の国民は政府を殺しながら政府を利用している。今の国民は政府の寄生虫である。
政府の法律会社は悪い法律や悪い国策をやっている。政府の学校会社は子供に悪い教育をやっている。今の国民は政府に税金を払わず政府の法律会社や学校会社を潰して、国民で新しく法律会社を建てて善い法律や善い国策をやったり、新しく学校会社を建てて子供に善い教育をやったりしようとしている。
今の政府は国民に社会科の教科書やテレビや新聞などでまちがったことを教えて国民にまちがったことをやらせている。今の政府は国民に「政府が国民から税金をもらって国民に善いことをやっている」ことを教えて国民から税金をもらって国民に悪いことをやっている。社会科の教科書やテレビや新聞は国民にまちがったことを教えて国民を不幸にしている。「今の政府が国民にまちがったことを教えている」ことを知っている国民はまちがったことをやらず正しいことをやっている。今の国民にとってはテレビやゲームやパソコンで遊ぶほうが政府に悪いことをされるよりも面白いので、政府に税金を払わずに政府を潰している。今の国民みんなは早く「政府が国民にまちがったことを教えている」ことを知ってまちがったことをやらないようにして正しいことをしないといけない。
テレビを見ること自体は悪くないが、政府がまちがったことを教えているのを見るのは悪いことである。物には善いところと悪いところの両方がある。だから、人間が自分で考えて自分が幸福になるように上手[じょうず]に物を利用しないといけないのである。今の人はただ漫然[まんぜん]とテレビやゲームやパソコンを使うのではなく、自分が幸福に暮らせるようにテレビやゲームやパソコンを上手に使わねばならない。それが今後の人類の課題である。例えば、私にとっては今のテレビ番組はつまらないので週に2本の鉄道番組以外は全然見ないようにしている。必ず録画に撮って食事をしながら見るようにしている。私はニュース番組も天気予報も年末の紅白歌合戦も新春の芸能人隠し芸大会も見ない。そうやって自分が楽しく暮らせるようにしている。今のテレビ番組なんか面白くないから見ないほうが幸福に暮らせる(笑い)。(私が今度引越ししたら、田舎[いなか]は鉄道番組をやっていないので、もうテレビを捨ててしまってテレビを見なくてもいいと思っている。その代わりYouTubeの動画を見ようと思っている。)
要するに、人間にとって一番大事なことは『どうやって幸福に暮らすか?』だ。この一つにすべてのことが含まれる。この中に自然科学も社会科学も人文科学も全部含まれる。人間はいつの時代でもどんなところでも自分が置かれている状況の中で自分がもっとも幸福に暮らせるようにしないといけない。自分が幸福になることをまじめに正しくやった者が一番幸福になれるのだ。昔の人にとっては政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのが自分が幸福になるための方法だった。今の人にとってはテレビやゲームやパソコンを使うことが自分が幸福になるための方法なのだ。今の人はテレビやゲームやパソコンを使って政府や宗教団体や暴力団を使わないようにして自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。(ハイテク社会の中で人間が上手に道具を使って幸福に暮らすための知識を紹介した『文明社会』という名前の雑誌があってもいい。)
テレビやゲームやパソコンは道具にすぎない。だから、テレビやゲームやパソコンを使うこと自体は喜びではない。『人間は古皮質を使わず新皮質を使うと幸福になれる』から、人間は自分の新皮質を使って幸福になるためにテレビやゲームやパソコンを使えばいいのである。人間は自分の“実在について知る喜び”や“実在について考える喜び”を満足するためにテレビやゲームやパソコンを使えばいいのである。
パソコンはデザインが悪いのは許せるが音がうるさいのは許せない。パソコンのファンの音がうるさいと考えごとをするために邪魔[じゃま]になるからである。だから、パソコンは絶対に音が静かなものでないといけない。私は富士通のデスクトップパソコンが好きだが、残念ながら値段が高い。


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