[22601] 納税の義務は架空の法律である。 h28.3.26
この世(つまり現実)では『人間はみな平等である』から、納税の義務のような政府が国民に対して一方的に有利な「人間が不平等である」法律を作れるわけがない。だから、納税の義務の法律はこの世にはない法律なのである。あの世の法律なのである。架空の世界の法律なのである。だから、政府の民主主義は芝居なのである。政府の民主主義は芝居であって、政府が民主主義の芝居で納税の義務の架空の法律を作ったのである。納税の義務の法律が政府の民主主義が芝居であることを表している。政府の納税の義務の法律は芝居の上の法律だから、現実の上では守らなくていいのである。
政府の民主主義は芝居だから、政府の本体はそれとは別である。政府の本体は国民を脅[おど]す団体である。
この世(つまり現実)では『人間はみな平等である。』だから、国民と政府も平等である。国民が政府にお金を払って脅してもらうか、政府にお金を払わずに脅してもらわないかは国民個人の自由である。昔から日本は個人主義の国だから日本人はわがまま勝手が好きだから、多数決はあってもなくてもどうでもいい。
昔は文明が遅れていて昔の人は心の世界に生きていて昔の人は脅されるのが好きだったから、政府にお金を払って脅してもらって喜んでいた。
今は文明が進んでいて今の人は現実の世界に生きていて今の人は脅されるのが嫌いだから、政府にお金を払わず脅してもらわないようにして喜んでいる。今の人は政府を倒して、政府の掟会社[おきてがいしゃ]を潰[つぶ]して、法律会社を建てようとしている。
この世(つまり現実)では『人間はみな平等である。』だから、国民と法律会社は平等である。だから、国民が法律会社にお金をやって仕事をやってもらうか、法律会社にお金をやらず仕事をやってもらわないかは国民個人の自由である。国民はまじめに仕事をやる法律会社にお金を払って仕事をしてもらい、まじめに仕事をやらない法律会社にお金をやらず仕事をやってもらわなければいい。早く誰かが法律会社を建てて、国民が法律会社にお金をやって仕事をやってもらう世の中になればいい。
(『トラの威を借るキツネ』のおとぎ話がある。トラが国民みんなで、キツネが政府で、政府が民主主義をやって国民みんなの権力を借りて政府に国家権力があると言うのである。しかし、本当は政府の民主主義は芝居だから、現実においては政府は国民みんなの威を借りることができず政府には国家権力がない。政府は民主主義の芝居をやって自分に国家権力があるふりをしているだけで、本当は政府には国家権力がない。本当は国民は政府と平等であり、国民が政府の命令を聞くか聞かないかは国民個人の自由である。昔の国民は自分に“脅される喜び”があったから、自分の意思で政府の脅しを聞いて政府の命令に従っていた。反対に、今の国民は自分に“脅される喜び”がないから、自分の意思で政府の脅しを聞かず政府の命令に従わなければいい。つまり、『トラの威を借るキツネ』のおとぎ話自体がただの嘘[うそ]の作り話にすぎないのである。だから、おとぎ話なのである。おとぎ話は政府の民主主義の芝居と同じように芝居だから、おとぎ話の上では嘘をついてもいいから、「政府が国民みんなの威を借りて国家権力がある」という嘘の話を作ったのである。政府が民主主義の芝居の上で「国民みんなは政府に税金を払わねばならない」という嘘の法律を定めているのと同じことである。おとぎ話の作家はおとぎ話が芝居だから嘘をついてもいいことを利用して、みんなにまちがいを植え付けている。『泣いた赤鬼』のおとぎ話も、赤鬼が政府で、青鬼が幕府で、政府と幕府が違うように思わせているが、本当は政府と幕府は同じである。みんなはおとぎ話を読むときは注意しながら読まねばならない。アニメやマンガもおとぎ話と同じように嘘があるから、みんなは面白さに紛[まぎ]れてまちがいを植え付けられないように注意しながら読まねばならない。それを逆手[さかて]に取ったマンガもある。例えば、私は高校1年生のころ(今から約35年前)週刊少年ジャンプを毎週買って読んでいたが、そのころに『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のマンガに「タヌキの国では政府が国民からもらった税金でいろんな国民のためになることをやっているから、国民は政府にちゃんと税金を払わねばならない」紙芝居をやるシーンがあった。これは紙芝居だからわざとに嘘をやっているのである。タヌキは人を化かすから、タヌキを登場させることによって嘘の話であることを暗黙のうちにみんなに教えているのだろう。だから、本当はその反対である。つまり、『現実の人間の国では、政府は国民からもらったお金で国民を脅しているから、国民は政府に税金を払ってはいけない』のである。だから、国民は政府に税金を払わないようにして政府を倒さねばならないのである。)

[22602] カモウサギ h28.3.26
人間が夜空の星が動いているのを見て、考えられることは2つある。ひとつは「地球が止まっていて夜空の星が動いている」ことであり、もうひとつは『地球が動いていて夜空の星が止まっている』ことである。
昔の人は直感的に「地球が止まっていて夜空の星が動いている」と考えていた。そう考えない人は多数決に反するとして殺された。
今の人は論理的に『夜空の星が止まっていて地球が動いている』と考えている。そう考えない人はふざけて冗談を言っているとして無視される。
それと同じように、人間が政府が善いような悪いようなことをやっているのを見て、考えられることは2つある。ひとつは「政府が民主主義の団体であって政府はふだんは善いことをやっているが、政府がおっちょこちょいなのでときどきまちがえて悪いことをやる」ことであり、もうひとつは『政府が国民を脅[おど]す団体であって、政府は国民に自分が国民を脅しているのを見せて国民が「政府が身分が上で国民が身分が下だ」と思って国に身分制が出来ないために民主主義の芝居をやっている』ことである。
昔の人は“脅される喜び”があったから脅されるのが好きだったから、『政府が国民を脅す団体である』と考えていた。昔の人は政府にお金をやって脅してもらって自分の“脅される喜び”を満足して幸福に暮らしていた。
今の人は“脅される喜び”がないから脅されるのが嫌いだから、「政府が民主主義の団体だ」と考えようとする。しかし、本当は『政府は国民を脅す団体である。』今の人は政府にお金をやらないようにして政府に脅してもらわないようにして幸福に暮らさねばならない。この世では『人間はみな平等』だから、国民と政府は平等だから、国民が政府にお金をやって脅してもらうか、政府にお金をやらず脅してもらわないかは国民個人の自由だから、今の国民は政府に脅されるのが嫌だから政府にお金をやらず脅してもらわないようにしなければならない。
今から約30年前私が九州大学医学部医学科の学生だったころ、一般教養の科学哲学の講義で高橋先生が教壇で学生にカモウサギの絵を見せてなんに見えるか?と訊[き]いたことがある。見ようによってはカモにもウサギにも見える。しかし、その正体はひとつである。カモかウサギかどっちかひとつである。現実の世界ではカモとウサギの両方はありえないから、カモかウサギかどっちかひとつに割り切らねばならない。私はウサギだと思う。カモにしては背が高いからである。カモウサギの現物[げんぶつ]を持ってきて議論するといい。同じようなものに、ルビンの壷[つぼ]というのもある。壷か向かい合った人間の顔かどっちかというのである。私は壷だと思う。同じ顔の人間はめったにいないからである。この世(つまり現実)ではAとBの両方であることはありえないから、AかBかどっちかひとつに割り切らねばならないのである。

   
↑カモウサギ ↑ルビンの壷

[22603] 虐[いじ]めと脅[おど]しは違う。 h28.3.26
私は以前“脅される”を“虐められる”と書いていたが、“脅される”が適切な表現である。脅すのも虐めるのも実際にやっていることはほぼ同じであるが、厳密には違う。微妙に違う。人間の心は脅されることと虐められることを区別できる。人間の心にとっては虐められるのは嫌いだが、脅されるのは好きである。そのため、虐めることは仕事にはならないが、脅すことは仕事になる。虐める仕事はひとつもないが、脅す仕事は政治団体(政府や幕府のこと)や宗教団体や暴力団(軍事政権の国の政府は大きい暴力団である)や社長や番長や級長やガキ大将などたくさんある。もっとも、今では国の文明が進んでみんなが“脅される喜び”がなくなって脅されるのが嫌だから、脅す仕事は客がいなくなってどんどんなくなっている。
最近の脅す仕事は政府の民主主義の芝居を真似[まね]て人前で善い人の芝居をするようになっている。特に会社の社長とかはそうである。しかし、やっていることは以前と同じである。みんなは頭で考えて物を見るようにして脅す者の芝居に騙[だま]されないようにしないといけない。そもそも政府は国に身分制が出来るのを防ぐために民主主義の芝居をしているのであって、国民を騙してお金を取るために民主主義の芝居をしているのではない。だから、ほかの脅す者が政府の真似をして善い人の芝居をする必要はない。みんなは脅す者の芝居に騙されないようにして、さっさと脅す者を倒してなくさねばならない。
h28.3.28追記:今の日本が善い国なのは、脅す仕事がだんだんなくなっているからである。昔の国民は脅されるのが好きだったから、脅す者の脅しを聞いて脅す者にお金をやっていたから脅す仕事が繁盛していた。国中に脅す仕事があった。反対に、今の国民は脅されるのが嫌なので、脅す者の脅しを聞かなくなって脅す者にお金をやらなくなっているから脅す仕事がなくなっている。早く国民みんなで国中から脅す仕事をなくして国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。

[22604] テレビ局や新聞社は善い会社ではない。 h28.3.27
昔は国民みんなが脅[おど]されるのが好きだったから、政府が国民を脅す意義があった。だから、テレビ局や新聞社などが政府に協力して民主主義の芝居を流すのももっともだった。日本人は平等が好きだから政府が強いて民主主義の芝居をしなくてもいいが、念のために民主主義の芝居をしたほうが身分制が出来にくくて安心だからである。一種の保険みたいなものである。日本人の中にも不平等が好きな者がいるから、そういう者が面倒を起こさないためにも政府が民主主義の芝居をやったほうがいい。
しかし、今は国民みんなが脅されるのが嫌だから、政府が国民を脅す意義がない。だから、テレビ局や新聞社などが政府に協力して民主主義の芝居を流す必要がない。むしろ、テレビ局や新聞社は政府が国民を脅していることを暴露[ばくろ]して国民みんなに『今の国民みんなは脅されるのが嫌いだから、政府は国民を脅す会社だから、国民みんなは政府にお金をやるのをやめて政府を倒すべきである。』ことを教えて国民みんなを正しい方向に導くべきである。
それなのに、今のテレビ局や新聞社がそうしないのは、テレビ局や新聞社が政府からお金をもらっているからだろう。テレビ局や新聞社はお金のためなら国民みんなを不幸にしても平気なのだ。テレビ局や新聞社は善い会社ではない。テレビ局や新聞社はスポンサーからお金さえもらえれば悪い商品でも宣伝する。テレビ局や新聞社はお金さえもらえれば国民みんなに悪い思想を広める。国民みんなはテレビや新聞を見ないほうがいい。国民みんなは信頼できる本だけ読んで、あとは自分の眼と頭だけで考えたほうが正しいことがわかる。

[22605] どうして政府は国民に善いことをするのか? h28.3.30
政府は国民を脅[おど]す会社である。政府は国民にいろんな悪いことをして国民を脅す。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、政府は国民を喜ばせるために国民を脅す。国民は自分が幸福になるために政府にお金を払って政府に脅してもらう。
国民と政府は平等であるから、国民が政府にお金を払って脅してもらうか政府にお金を払わず脅してもらわないかは国民個人の自由である。
政府は国民を喜ばせるために国民を脅すのだから、政府が脅す以外に国民のために善いことをしなくてもいいはずである。それなのに、政府は(幕府も)国民のために善いことをする。政府は国民を脅すために国民から取った税金の一部で国民のためになることをする会社を経営したり、ときには自分でも国民のためになる事業をやったりする。
それば、政府が国民を脅すために国民に悪いことをするので国民は多かれ少なかれ政府に脅されるために不幸にされるので、政府が国民の機嫌[きげん]を取るために国民に善いことをするのである。政府が国民を脅すと、国民の“脅される喜び”が満足されて幸福になるが、それと同時に国民が政府に脅されるために悪いことをされて不幸にされるので、政府は国民に善いことをやって国民の機嫌を取って国民の不幸な気持ちを和[やわ]らげているのである。国民は政府に脅されて幸福になるが、その一方で政府に悪いことをされて不幸になる。国民は政府に悪いことをされて不幸になるよりも脅されて幸福になるほうが多いから政府にお金をやって脅してもらうのである。もしも、国民が政府に脅されて幸福になるよりも悪いことをされて不幸になるほうが多ければ、国民は政府にお金をやらず脅してもらわなくなるから、政府は国民に善いことをやって政府が国民を脅すために国民に悪いことをやって国民を不幸にした分を補っているのである。
昔は国の文明が遅れていて国民が心のままに生きていた。国民は“脅される喜び”があったから、政府にお金を払って脅してもらっていた。政府は国民を脅して国民に悪いことをして国民を不幸にした分を国民に善いことをやって国民の機嫌を取って補っていた。政府は国民を幸福にするが不幸にもする。総合的に政府が国民を幸福にしてくれるので、国民は政府にお金を払って脅してもらっていた。
しかし、今は国の文明が進んで国民が現実を知って現実の中で自分の心を満足して生きている。今の国民は現実の中で平和に暮らすためにみんなの人権を守っているので、自分や他人の人権を守っているので、“脅される喜び”がなくなっている。今の国民にとっては政府は国民を脅して国民を幸福にせず、国民に悪いことをして国民を不幸にするだけである。今の国民にとっては政府は要らなくなっている。政府は国民を脅す仕事をして国民からもらったお金(つまり税金)の一部を使って国民に善いこともやっているが、それなら国民が政府にお金を払わずに直接に国民のために善いことをする会社にお金を払って善いことをやってもらえばいい。政府は国民を脅すために国民にいろんな悪いことをして国民を不幸にするから政府がなくなったほうがいい。いくら政府が国民のために善いことをやっているからといって、政府は自分が国民を脅すために国民に悪いことをして国民を不幸にして国民の機嫌を取るために善いことをやっているだけだから、政府は国民を脅すために国民を不幸にするから、国民は政府を倒して国民に悪いことをして国民を不幸にする会社をなくして、国民が政府を介さずに直接に国民のために善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらえばいいのである。今の国民にとっては政府が善いことをやって幸福にしてくれるよりも、政府が国民を脅すために国民にいろんな悪いことをやって国民を不幸にするほうが多いから、総合的に政府が国民を不幸にしているから、国民は政府にお金をやらなくなって脅してもらわなくなっているのである。そもそも国民に“脅される喜び”がなければ政府は要らないから、国民は最初から政府がないと思って直接に善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらえばいいのである。
昔の国民が政府が国民を脅すために国民に悪いことをして国民を不幸にするのを知っていながらもわざわざ政府にお金を払って脅してもらっていたのは、政府が国民を脅して国民を幸福にするほうが政府が国民に悪いことをして国民を不幸にするよりも多かったからである。そうでなければ、昔の国民は政府にお金を払わず直接に善いことをする会社にお金を払って善いことをしてもらったはずである。政府は国民を脅すだけでも国民からお金がもらえるのだから、政府は強いて国民に善いことをしなくてもいいから、政府が国民に善いことをするのはほんのわずかなはずである。政府が国民に善いことをして国民を幸福にするのは、政府が国民に悪いことをして国民を不幸にするのに比べて少ないと考えられる。つまり、政府が国民を脅して幸福にする>政府が国民に悪いことをして国民を不幸にする>政府が国民に善いことをして国民を幸福にするである。昔の国民は“脅される喜び”があったから、政府が国民を脅して幸福にするほうが政府が国民に悪いことをして国民を不幸にするよりも多かったから、総合的に政府は国民を幸福にしていたから、昔の国民は政府にお金を払って政府に脅してもらっていた。しかし、今の国民は“脅される喜び”がないから、政府が国民を脅すために国民に悪いことをして国民を不幸にするほうが国民に善いことをして国民を幸福にするよりも多いから、総合的に政府は国民を不幸にしているはずである。だから、今の国民は政府にお金を払わずに政府を倒せばいいのである。
そういうわけで、今の国民は政府にお金(税金や医療保険費や消費税など)をやらなくなって政府に脅してもらわなくなって政府を倒している。今の国民は直接に国民のために善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらうようになりつつある。


[22606] 国家権力はあるか? h28.3.31
今は現実主義の時代である。今では国民みんなが法律を守って暮らしている。今では国民みんなが自分や他人の人権を守って暮らしている。そんな中で自分ひとりだけ法律を守らず自分の好き放題にやったらみんなに迷惑がられて仲間はずれにされて生きて行けなくなる。原理的には人間がどんな生き方で生きるかは国民個人の自由だとしても、実際にはみんなに合わせて法律を守るしかない。
反対に、昔は心主義の時代だった。昔は国民みんなが自分の心のままに暮らしていた。昔は国民みんなが“脅[おど]される喜び”を満足して政府に脅されて暮らしていた。そんな中で自分ひとりだけ法律を守って自分や他人の人権を守って暮らしたら、みんなの人権を侵す政府に対抗しなければならなくなる。しかし、国民みんなは政府に脅されて幸せなので、自分ひとりだけ法律を守って暮らす者はみんなを幸福にしている者(つまり政府)を攻撃することになってみんなに嫌われてみんなの仲間はずれにされて生きて行けなくなる。原理的には人間がどんな生き方で生きるかは国民個人の自由だが、実際にはみんなに合わせて自分の心のままに暮らすしかなかったのである。
今も昔もいつの時代でも国民は国民みんなの生き方に合わせて生きるしかない。原理的には人間がどんなに生きるかは個人の自由だとしても、実際には人間はみんなに仲間はずれにされては生きられないから、人間はみんなと同じ生き方で生きるしかない。そういうのを国家権力という。国家権力という概念があろうがなかろうが、とにかく人間はみんなと同じ生き方で生きるしかないのである。
今は現実主義の時代である。今では国民みんなが法律を守ってみんなの人権を守って平和に暮らしている。人間はみんなの生き方に合わせて生きるしかない。だから、国民は法律を守って暮らすしかない。政府も法律を守って暮らすしかない。それなのに、今の政府は昔と同じように国民を脅して国民にいろんな悪いことをやって国民の人権を侵している。政府が悪い。政府は国民を不幸にする。そもそも政府は国民を脅す会社である。政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にして国民からお金をもらう会社である。政府と国民は平等である。国民が政府にお金をやって脅してもらうか政府にお金をやらす脅してもらわないかは国民個人の自由である。だから、今の国民は政府にお金をやらないようにして政府に脅されないようにして政府を倒さねばならないのである。
今は現実主義の時代である。国民みんなは法律を守って暮らしている。だから、国民は国民みんなに合わせて法律を守って暮らさねばならない。国民は国民みんなに合わせて法律を守って暮らさなければならないが、法律は現実が決めるのであって国民みんなが決めるのではない。法律は実際に国民みんなが現実の世界で平和に暮らせるかどうかで決まるのであって、国民みんなの心で多数決をとって決めるのではない。法律は科学の方法に従って観察と実験で客観的に決まるのであって、国民みんなの主観で勝手に決めるのではない。(h28.4.4追記:今では法律は実験と観察で決める。法律は科学的に決める。国の特定の地域だけで法律を施行[しこう]してしばらく様子を見て、それでみんなが平和に快適に暮らすことができれば国全体でその法律を実施すればいい。法律の実験に使われる都市をモルモット都市と言う。)国民は国民みんなに合わせて法律を守って暮らさねばならないが、法律を守っていさえすればあとは個人の好き勝手にすればいいのである。国民は法律を守っていれば、それ以上国民みんなに合わせる必要はないのである。

[22607] どうして政府が建っているか?☆ h28.3.31
政府は国民を脅[おど]す会社である。政府は国民に対していろんな悪いことをやって国民を脅す。人間の心には“脅される喜び”がある。政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にすると同時に、国民に悪いことをやって国民を不幸にしている。政府は国民を脅して国民を幸福にして国民からお金をもらう会社である。政府と国民は平等だから、国民が政府にお金を払って脅してもらうか政府にお金を払わず脅してもらわないかは国民個人の自由である。国民は自分が政府に幸福にされれば政府にお金を払って脅してもらい、自分が政府に不幸にされれば政府にお金を払わず脅してもらわなければいい。だから、政府が建っているのは、政府が国民を脅して幸福にするほうが政府が国民に悪いことをして国民を不幸にするよりも多いからである。もしも、政府が国民を脅して幸福にするほうが政府が国民に悪いことをして国民を不幸にするよりも少なければ、国民は政府にお金をやって脅してもらわなければいいからである。
昔は文明が低くて昔の国民は自分の心のままに生きていたので“脅される喜び”があった。昔の国民は“脅される喜び”があったから、昔の国民にとっては政府に脅されて幸福になるほうが政府に悪いことをされて不幸になるよりも多かったから、政府にお金を払って脅してもらっていた。
反対に、今は文明が高くて今の国民は法律を守って暮らしているので“脅される喜び”を抑[おさ]えているので“脅される喜び”がない。今の国民は“脅される喜び”がないので、今の国民にとっては政府に脅されて幸福になるほうが政府に悪いことをされて不幸になるよりも少ないから、政府にお金を払わず脅してもらわなければいいのである。
そういうわけで、今では国民が政府にお金を払わなくなって政府に脅してもらわなくなって政府を倒している。政府は国民に対して善いこともやっているが、それはどうでもいいことである。政府は国民からもらった税金の一部を使って善いことをする会社にお金をやって善いことをやっているから、政府がなくても国民が直接に善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらえばいいから、政府はなくてもいいのである。
政府が国民からもらったお金の一部を使って善いことをやっているのは、政府自身が自分が国民を脅して国民をどれだけ幸福にしているのかわからないのが不安だったためだろう。政府は国民を脅すために国民からお金を取っているので、普通の会社と同じように善いことをしないといけない気持ちになって、善いことをする会社にお金をやって善いことをさせたりときどき自分でも善いことをやっていたのだろう。政府は自分の仕事が特殊すぎるためにみんなから仲間はずれにされるのが嫌なので、みんなに合わせるためにちょっとだけ普通の会社と同じように善いことをやっているのである。政府は自分の仕事がみんなと違いすぎるのが気まずいので、それをごまかすためにちょっとだけ善いことをやっているのである。政府は自分が国民みんなの“脅される喜び”を満足する仕事をやっているのがみっともないので、ちょっとだけまともに善いことをやって自分が普通の会社と同じだと思うようにしているのである。政府は自分が“脅す仕事”をやっているのが恥ずかしいので、いくらお金が儲[もう]かっても自分がまともな仕事をやっていないのがみっともないので、それを隠すためにちょっとだけ善いことをやって普通の会社と同じふりをしているのである。政府は民主主義の芝居をやっている上にちょっとだけ本当に善いことをやって自分が脅す仕事をやっているのを二重に隠しているのである。政府は自分の気休めのために善いことをやっているにすぎないのだ。政府が善いことをやるのは自分が脅す仕事をやっているのを隠すためだから、政府はあまりたくさん善いことをやらないのである。政府はちょっと善いことをやるだけなのである。水商売をやっている女性がほかの仕事をちょっとだけやって自分が水商売をやっているのをみんなに隠しているのと同じことである。一方、国民にとっても自分が“脅される喜び”を満足するために政府に脅してもらっているのはみっともないことなので、政府が善いことをやるのは自分が政府の世話になるのにとって都合がいいことなので歓迎している。政府自身にとっても国民にとっても政府が善いことをやるのは都合がいいことなので、政府は双方の合意の下[もと]で本来やる必要がないのにわざわざ善いことをやっているのである。麻薬の売買[ばいばい]と同じである。麻薬をやるのも売るのも悪いことなので、ほかの物を売るのに紛[まぎ]れてみんなにわからないようにしながら隠れて麻薬の取引をやっている。ここから赤太大字の終わりまでh28.4.3追記:自分がマンガを買うとき、マンガだけ売っている本屋よりもいろんな本を売っている本屋でマンガを買ったほうがマンガを買いやすいのと同じことである。つまり、昔の人は本当は自分が脅されるために政府の世話になっているのに、嘘[うそ]をついて自分が善いことをされるために政府の世話になっているふりをして政府の世話になっていたのである。そのほうが恥ずかしくないから政府の世話になりやすいからである。そのために、政府は脅しとはまったく関係のない善いことをやっているのである。昔の人は“脅される喜び”がいけない喜びであることを知っていたので、あからさまに自分の脅される喜びを満足するわけにはいかなかったのである。昔の人は政府に善いことをされることで隠しながら密[ひそ]かに政府に脅されて喜んでいたのである。人間が性欲を隠すためにパンツをはくのと同じである。しかし、今の国民には“脅される喜び”がないので、今の国民はコソコソ隠れて自分の“脅される喜び”を満足しなくていいので、政府はわざわざ善いことをやって自分が国民を脅す仕事をやっているのを隠さなくていいのである。むしろ、政府は自分が国民を脅す仕事をやっていることを国民みんなに公表して自分が国民みんなに早く倒されるようにしないといけない。
人間の心は人間が生まれつき持っている現実についての認識である。人間の心にはまちがいがいっぱいある。例えば、人間の心には“脅される喜び”がある。人間が自分の“脅される喜び”を満足すると悪いことをされて不幸になる。昔の人は現実を知らなかったので“脅される喜び”がまちがっている喜びであることがわからなかったので“脅される喜び”を満足するために政府や宗教団体や暴力団や社長や番長やガキ大将などに脅されて不幸になっていた。今の人は現実を知っているので、人間が現実の世界で幸福に暮らすためには法律を守らねばならないことを知っているので、“脅される喜び”がまちがっている喜びであることがわかったので“脅される喜び”を抑えて“脅される喜び”を満足しなくなったので政府や宗教団体や暴力団や社長や番長やガキ大将などに脅されなくなって不幸にされなくなっている。今の人は自分の心がまちがっていることを知っているので幸福に暮らせるようになっているのである。
人間の心が世界を創[つく]る。人間の心は時代によって文明によって変わる。昔の人の心には“脅される喜び”があった。だから、脅す仕事がいっぱいあった。今の人の心には“脅される喜び”がない。だから、脅す仕事がなくなっているのだ。

[22608] 今の国民は政府もろとも悪い会社を一掃[いっそう]すればいい。 h28.4.2
世の中には善い会社と悪い会社がある。つまり、国民を幸福にすることをする会社と国民を不幸にすることをする会社がある。
善い会社は直接に国民からお金をもらって仕事をすればいい。国民を幸福にすることは国民に需要があるから、国民を幸福にすることをする会社は国民と契約を取って国民からお金をもらって仕事をすることができる。
しかし、悪い会社は国民からお金をもらって仕事をすることができない。国民を不幸にすることは国民が要らないから、国民を不幸にすることをする会社は国民と契約を取れず国民からお金をもらえず仕事ができない。
だから、善い会社は政府があろうがなかろうがとにかく国民からお金をもらって仕事をすればいい。善い会社は、たとえ政府がなくなっても政府の代わりに国民からお金をもらって経営すればいいから政府なんかなくてもいい。反対に、悪い会社は国民からお金がもらえないから政府からお金をもらって仕事をするしかない。
そういうわけで、善い会社は国民からお金をもらって仕事をして、悪い会社は政府からお金をもらって仕事をしている。政府は国民を脅[おど]す会社だから、政府は悪いことをする会社にお金をやって悪いことをさせて国民を脅しているのである。
昔の国民は脅されるのが好きだったから、政府にお金をやって政府が悪い会社に命令して悪いことをさせて政府に脅してもらって喜んでいた。昔の国民は善いことも好きだったから、善い会社にお金をやって善いことをしてもらって喜んでもいた。
反対に、今の国民は脅されるのが嫌だから、政府にお金をやらず政府もろとも悪い会社を社会から一掃すればいい。今の国民は善いことが好きだから、善い会社にお金をやって善いことをしてもらって喜べばいい。
人間が善いことをしようが悪いことをしようが仕事をすることに変わりはない。人間はいつの時代でも他人を幸福にするために仕事をするのである。昔は国民みんなが脅されるのが好きだったから、多くの国民が国民みんなを幸福にするために悪い仕事をやって政府の命令で悪いことをやって国民みんなを脅していた。反対に、今では国民みんなが脅されるのが嫌だから、多くの国民は国民みんなを不幸にしないために悪い仕事をするのをやめて、善い仕事をやって国民みんなを幸せにすればいいのである。

[22609] 今の国民は脅されるのが嫌なので政府の命令でみんなの嫌がらせをしなくなっている。 h28.4.2
政府は国民を脅[おど]す会社である。政府は国民に命令して国民から高いお金を取ったり国民にいろんな嫌がらせをしたり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、政府は国民を幸福にするために国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足しているのである。政府は国民を脅すことを仕事にしている会社である。
人間はみな平等である。だから、国民と政府は平等である。国民が政府にお金をやって脅してもらうか、政府にお金をやらずに脅してもらわないかは国民個人の自由である。つまり、国民が政府にお金をやって政府の脅しを聞くか、国民が政府にお金をやらず政府の脅しを聞かないかは国民個人の自由である。
昔は文明が遅れていたので昔の国民は自分の心のままに生きていたので昔の国民は“脅される喜び”があったので昔の国民は脅されるのが好きだった。そのため、昔の国民は政府の命令を聞いて高いお金を払ったり自分が嫌なことをやったり他人の嫌がらせをしたり事件や事故を起こして他人を殺したり痛めつけたり逆に他人に殺されたり痛めつけられたりしていた。昔の国民は自分を幸福にするために政府の脅しを聞いて政府にお金を払ったり自分が嫌なことをやったり事件や事故で殺されたり痛めつけられたりしていた。昔の国民は他人を幸福にするために政府の脅しを聞いて他人からお金を取ったり他人が嫌なことをやったり事件や事故を起こして他人を殺したり痛めつけたりしていた。
反対に、今は文明が進んでいるので今の国民は現実の世界で幸福に暮らすために法律を守っているので今の国民は自分の“脅される喜び”を抑えていて“脅される喜び”がなくなっているので今の国民は脅されるのが嫌である。そのため、今の国民は政府の命令を聞かなくなって政府に高いお金を払ったり自分が嫌なことをやったり他人に嫌がらせをしたり事件や事故を起こして他人を殺したり痛めつけたり逆に他人に殺されたり痛めつけられたりしなくなっている。今の国民は自分を幸福にするために政府の脅しを聞かなくなって政府に高いお金を払ったり自分が嫌なことをしたり事件や事故で殺されたり痛めつけられたりしなくなっている。今の国民は他人を幸福にするために政府の脅しを聞かず他人からお金を取ったり他人が嫌なことをやったり事件や事故を起こして他人を殺したり痛めつけたりしなくなっている。
文明が進むと人間の心が変わる。昔の国民と今の国民は心が違う。昔の国民みんなは脅されるのが好きだったので、国民みんなが政府の脅しを聞いて国民みんながお互いに脅しあって幸福に暮らしていた。昔の国民みんなは脅されるのが好きだったので、政府にお金をやって政府を建てていた。反対に、今の国民みんなは脅されるのが嫌なので、政府の脅しを聞かなくなって国民みんながお互いに脅さないようにして幸福に暮らしている。今の国民みんなは脅されるのが嫌なので、政府にお金をやらなくなって政府を倒しているのである。

[22610] 今の日本人は現実に従いながら日本文化をやればいい。 h28.4.2
今は現実主義の時代である。今は世界中でみんなが現実主義をやっている。今では『人間はみな現実に従わねばならない。人間は現実を知って現実に従いながら自分の心を満足して現実の世界の中で幸福に暮らさねばならない』ことになっている。
今では文化人類学が出来て、『国民は自分の国の文化をやれば幸福になれる』ことがわかっている。心は一人一人違っているから、人間は自分の心を満足すればいいのである。日本人には日本人の心があるから、日本人の心とヨーロッパ人の心は違うから、日本人はヨーロッパ人の真似[まね]をせずに日本人の心を満足すればいい。
したがって、今の日本ではみんなが現実に従いながら日本文化をやればいい。みんなが現実に従いながら日本人の心を満足して幸福に暮らせばいい。
日本人は善い心を持っている。日本人は顔や身体は汚いが心が優れている。日本人の心は現実的である。日本人は現実的な心を持っている。日本人は現実が好きで非現実が嫌いである。日本人は現実で幸福になって非現実で不幸になるように出来ている。だから、日本人は自分の心を肯定して生きればいい。日本人は自分の心を正しく知って、自分が本当に好きなことをやって嫌いなことをやらなければいい。そうやって、日本人は幸福に暮らせばいいのである。
例えば、昔の日本人は現実に従っていなかったから自分の心のままにやっていたから“脅される喜び”があったから政府の脅しを聞いて政府に脅されて幸福に暮らしていた。今の日本人は現実に従っているから法律を守って暮らしているから“脅される喜び”がなくなっているから政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにして幸福に暮らせばいい。

[22611] 政府は善いことと悪いことの両方をやっているから、政府は国民を脅[おど]す会社である。 h28.4.2
政府は国民を脅す会社である。政府は国民を脅すために国民にいろんな悪いことをする。しかし、その一方で政府は国民にちょっとだけ善いことをやって自分が普通の会社と同じ善いことをする会社のふりをして国民が気軽に政府を利用できるようにしている。つまり、政府がちょっとだけ善いことをするのは国民が政府を利用しやすくするための触媒[しょくばい]なのである。
つまり、政府は国民に悪いことと善いことの両方をやっている。政府は国民にたくさん悪いことをやってちょっとだけ善いことをやっている。総合的には政府は国民に善いことよりも悪いことを多くやっている。だから、政府は国民を脅す会社なのである。政府は悪いことだけやるのでも善いことだけやるのでもない。だから、国民は政府を総合的に見て判断しないといけない。政府がちょっと善いことをやったからといって政府を善いことをする会社だと思ってはいけない。政府は有言[ゆうげん]で善いことをちょっとだけやって無言[むごん]で悪いことをたくさんやっている。だから、政府は国民を脅す会社なのである。
昔の国民は脅されるのが好きだったから、国民みんなで政府を建てて政府にお金をやって脅してもらっていた。政府は有言でちょっとだけ善いことをやって表向きは善いことをする会社だと思わせて裏では無言で国民を脅していた。国民は政府がちょっとだけ善いことをやって善いことをする会社だと思わせているおかげで恥ずかしがらずに政府にお金をやって政府に脅されることができて、無言で政府に脅されて無言で幸福になっていた。国民みんなは政府に脅されて幸福にしてもらったお礼に政府にお金を払っていた。昔は国民も政府もみんなが“脅される喜び”が悪い喜びであることを知っていたから本当はいけない喜びであることを知っていたから、国民は無言で政府に脅してもらって密[ひそ]かに自分の“脅される喜び”を満足して黙ってニヤニヤしながら喜んでいたのである。国民は政府に脅されて半泣きになりながらニヤニヤ笑って喜んでいたのである。セックスがいけない喜びであることを知りながら無言でセックスをやって喜んでいるのと同じことである。(『Di Gi Charat (ワンダフル版)』に登場するオレンジ色のクマのような形をした“何だコイツ(正式名称不明)”が昔の国民である。でじこが“何だコイツ”に山道で出会ったのは、山道が昔の日本だからである。昔の国民は政府に脅されて怒っているんだか泣いているんだか落ち込んでいるんだか笑っているんだか分からない顔をしていたのだ。“何だコイツ”が入っている箱が政府の脅しの喩[たと]えである。『デ・ジ・キャラット サマースペシャル2000』の第02話に登場したブラックゲーマーズが政府のことだろう。君たちも政府の脅しの虜[とりこ]にならないように気をつけてね。)
反対に、今の国民は脅されるのが嫌だから、国民みんなで政府にお金をやらなくなって政府に脅されないようにして政府を倒している。馬鹿な国民は政府に関心がなくて政府のことを知らないから社会科の教科書やテレビのニュースを鵜呑[うの]みにして「政府が国民みんなのためになることをやる善い会社だ」と思って政府にお金をやっているが、利口な国民は政府に関心があって政府のことを知っているから『政府は国民に悪いことをやって国民を脅す会社だが、今の国民は脅されるのが嫌だから、政府と国民は平等だから、今の国民は政府にお金を払わず政府に脅されなければいい』と考えて、政府にお金をやらないようにして政府に脅させないようにして政府を倒している。
人間の心には“脅される喜び”があるから、政府は国民を脅す会社である。人間の心には“脅される喜び”という変な感情がある。そのために政府という変な会社が建ったのである。人間の心に性欲があるから、性欲を満足する仕事があるのと同じことである。昔の国民が自分の“脅される喜び”を満足するために自分の手で“国民を脅す会社”を建てたのである。政府は人間の“脅される喜び”が作り出した怪物である。しかし、今の国民は脅されるのが嫌いである。今の国民は毎日法律を守って暮らしているために自分や他人の人権を守って暮らしているために自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。今の国民はもはや自分の“脅される喜び”を満足しなくていい。そのために、今の国民はわざわざお金を払って“国民を脅す会社”を建てなくなったのである。今の国民は政府にお金をやらなくなって政府を潰[つぶ]しているのである。

[22612] 今の国民は“脅[おど]される喜び”がないために政府を善いことをする団体だと誤解している。☆ h28.4.2
今では国の文明が進んで国民みんなが法律を守って暮らすようになって自分や他人の人権を守って暮らすようになって自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。そのため、今の国民にとっては“脅す仕事”があることが理解できなくなっている。だから、今の国民は政府を国民みんなのために善いことをやる会社だと思っているのである。しかし、本当は政府は国民を脅す会社なのである。
政府は国民を脅す会社である。政府は昔の国民がヨーロッパを真似[まね]ていた名残[なご]で今でも民主主義の芝居をやっている。政府は民主主義の“芝居”をやっているだけで、実際には政府は民主主義をやっていない。つまり、政府は国民の役に立つことをする会社ではない。しかも、政府は国民みんなに露骨[ろこつ]に自分が国民を脅す会社だと思わせないために、実際にちょっとだけ善いことをやっている。政府は法律会社(本当は掟[おきて]会社、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公は碇[いかり]シンジだが、碇は掟のことである。今の国民が政府の掟を法律だと信じて一生懸命に守っているので、それを皮肉って碇シンジと言うのである。あるいは、今の国民があまり政府の法律を信じていないのでカタカナでシンジと言うのかもしれない。)や学校会社や水道会社やゴミ会社や戸籍会社(役所のこと)などにお金をやって経営したりたまに善い事業をやったりして実際に善いことをやっている。政府が国民みんなに露骨に自分が脅す会社だと思わせると国民みんなが政府を敬遠[けいえん]して利用しなくなるので、実際にちょっとだけ善いことをやって自分が普通の会社と同じだと思わせて国民が恥ずかしがらずに政府を利用できるようにしているのである。国民にとってもそのほうが気軽に政府を利用できるので、政府がちょっとだけ善いことをやるのを歓迎している。政府は国民を騙[だま]しているのではなく、国民の了解の下[もと]で本来の自分の仕事とはまったく違うことをやっているのである。昔の国民には“脅される喜び”があったために、昔の国民は政府が脅す会社であることをよく知っていたので、政府がちょっとだけ善いことをやっているのを政府が嘘[うそ]をやっていることがよくわかっていたのである。昔の国民にとっては政府の民主主義の芝居が嘘であることはミエミエだったのである。今の国民には“脅される喜び”がなくなっていて、政府が民主主義の芝居をやったり実際にちょっとだけ善いことをやったりしているために、今の国民は政府が善いことをやる会社だと早合点[はやがてん]して政府を誤解しているのである。
昔(昭和40年=1965年ごろまで)は国の文明が遅れていて国民みんなが法律を守らず自分の心のままに好き放題に暮らしていた。ところが、人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。昔の人間はサル山のボスザルや自然の脅威[きょうい]と戦いながら生きていかねばならなかったので、“脅される喜び”があるほうが有利に生き残れるので、自然選択によって“脅される喜び”が身に付いてしまったのだ。昔の人間は自然に対する恐怖のあまり気が狂っていたから“脅される喜び”があったのだ。そのために、昔の国民みんなは自分の“脅される喜び”を満足するために国民みんなを脅す政府を建てて政府にお金を払って脅してもらって幸福に暮らしていた。今でもその名残で政府が国民みんなを脅しているのである。
しかし、今では国の文明が進んで国民みんなが法律を守っているので“脅される喜び”がなくなっている。そのために、今の国民は政府が善いことをする団体だと誤解している。しかし、本当は政府は国民を脅す会社である。今の国民は脅されるのが嫌である。政府と国民は平等である。だから、今の国民は政府にお金をやらず政府に脅してもらわなければいい。今の国民は自分が脅されるのが嫌なので政府の脅しを聞かず政府に税金を払わず政府を倒してなくせばいい。国民みんなで早く政府を倒して、国から脅しをなくして、今の国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。

[22613] 今の私は自分の正しい考えを実行している。 h28.4.2
政府は国民を脅[おど]す会社である。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にする。政府は国民を脅すことを仕事にしている会社である。政府は国民を脅すために国民に命令して高いお金(税金や医療保険費や消費税など)を取ったり国民の嫌がらせをやったり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりする。政府は国民を脅すために国民からたくさんお金を取れるからすごく儲[もう]かるのだ。昔から脅す仕事はぼろい仕事だと言われているのだ。
人間はみな平等である。だから、政府と国民は平等である。国民が政府の脅しを聞いて嫌なことをやって政府にお金を払うか、政府の脅しを聞かず嫌なことをやらず政府にお金を払わないかは国民個人の自由である。
昔は文明が遅れていて昔の国民は法律を守らずに自分の心のままに生きていたから昔の国民は“脅される喜び”があったから昔の国民は脅されるのが好きだった。昔の国民は政府に脅されるのが好きだった。昔の国民は自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の脅しを聞いて嫌なことをやったり政府にお金を払ったりしていた。
反対に、今は文明が進んで今の国民は法律を守って自分や他人の人権を守って生きているから今の国民は自分の“脅される喜び”を抑えて生きているから“脅される喜び”がなくなっている。今の国民は自分が脅されて自分の人権が侵されるのが嫌だから、今の国民は脅されるのが嫌である。だから、今の国民は政府に脅されるのが嫌である。今の国民は自分の人権が侵されないようにして自分が幸福になるために政府の脅しを聞かず嫌なことをやらず政府にお金を払わなくなっている。
今の私には脅される喜びがない。今の私は脅されるのが嫌である。だから、今の私は他人の脅しを聞かない。私は政府の脅しを聞いていない。私は実際に政府の脅しを聞かず嫌なことをやらず政府にお金を払っていない。今の私は立派に自分の意思表示をしている。今の私は日本の歴史を作っている。人類の歴史に貢献している。もちろん、政府と国民は平等だから、国民が政府の脅しを聞くか聞かないかは国民個人の自由だから、私が政府の脅しを聞かなくても政府は私に文句をつけたりしない。
要するに、人間は自分を幸福にすることをやり不幸にすることをやらなければいい。そうすれば幸福になれる。どれだけ正しく読めるかの問題である。つまり、自分がこれからやろうとすることが自分を幸福にするか不幸にするかについて自分が正しく判断できねばならない。正しく読むためには現実についての知識が要る。そのために、人間は他人から学んだり自分で考えたりして現実を知らねばならないのだ。
昔(古代以前)の日本は小さい県に分かれていた。それぞれの県に脅す会社があって県民が脅す会社に脅されて暮らしていた。県と県はしょっちゅう戦争をやっていた。そこに、駄洒落[だじゃれ]でみんなを脅す会社が現れて、日本中のみんなが面白いと思ってその脅す会社にお金を払って脅してもらうようになって日本が統一された。日本を統一したのはみんなの駄洒落を面白いと思う心だったのだ。これまでみんなは長い間ずっと“脅す喜び”があって脅す会社にお金を払って脅してもらって暮らしていたが、最近(今から約50年前)になってついにみんなの心から“脅される喜び”がなくなった。そのために、脅す会社が次々とみんなからお金がもらえなくなって倒産している。日本は大きく変わっている。

[22614] 国民は自分の心のままに行動すればいい。☆ h28.4.3
政府は国民を脅[おど]す会社である。政府は国民に命令して国民から高いお金を取ったり国民の嫌がらせをしたり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、政府は国民を脅して国民の”脅される喜び”を満足して国民を幸福にしている。つまり、政府が国民を脅すのは国民を幸福にするための仕事なのである。政府は国民を脅すついでに国民に命令して国民からお金をもらっている。
人間はみな平等だから、政府と国民は平等である。政府は国民を脅す会社である。政府の商品は“脅し”である。国民は自分が脅されるのが好きなら政府の脅しを聞き、自分が脅されるのが嫌なら政府の脅しを聞かなければいい。
昔は国の文明が遅れていたので昔の国民は法律を守らずに自分の心のままに生きていたので昔の国民は“脅される喜び”があったので昔の国民は脅されるのが好きだった。だから、昔の国民は政府の脅しを聞いていた。昔の国民は政府の命令に従って政府に高いお金を払ったり嫌なことをやったりしていた。昔は国民が政府の脅しを聞いていたために政府の命令をなんでもかんでも聞いていたので、政府に権力(命令力)があった。
反対に、今は国の文明が進んでいるので今の国民は法律を守って自分や他人の人権を守っているので今の国民は“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっているので今の国民は脅されるのが嫌である。だから、今の国民は政府の脅しを聞かなければいい。
そういうわけで、今の国民は政府の脅しを聞かなくなっている。今の国民は政府の脅しを聞かなくなって政府に税金を払ったり嫌なことをやったりしなくなっている。今は国民が政府の脅しを聞かなくなったために政府の命令を聞かなくなっているので、政府に権力がなくなっている。政府は国民からお金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。

[22615] 国民を幸福にする会社は儲[もう]かり、国民を不幸にする会社は潰[つぶ]れる。☆ h28.4.4
人間はみな平等である。国民と会社は平等である。国民が会社にお金をやって仕事をやってもらうか、会社にお金をやらず仕事をやってもらわないかは国民個人の自由である。国民を幸福にすることをする会社は国民からお金をもらって儲かるし、国民を不幸にすることをする会社は国民からお金をもらえず潰れる。
政府は国民を脅[おど]す会社である。政府は国民に命令して高いお金を取ったり国民の嫌がらせをしたり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。そのほか、政府は国に身分制が出来ないために民主主義の芝居をやったり、国民が恥ずかしい思いをせずに政府に脅してもらえるようにするために実際にちょっとだけ善いことをやったりしている。
昔は国の文明が低くて昔の国民は法律を守らず自分の心のままに生きていたので昔の国民は“脅される喜び”があったので脅されるのが好きだった。だから、昔の国民は自分が幸福になるために政府にお金をやって政府に脅してもらっていた。
反対に、今は国の文明が高くて今の国民は法律を守って自分や他人の人権を守って生きているので今の国民は自分の“脅される喜び”を抑えて暮らしているので“脅される喜び”がなくなっていて自分や他人の人権が侵されるのが嫌なので脅されるのが嫌である。だから、今の国民は自分が幸福になるために政府にお金をやらなくなって政府に脅してもらわなくなっている。
時代が変わって文明が進歩すると国民の心が変わる。たとえ会社の仕事が変わらなくても人間の心が変わる。政府は国民を脅すことを仕事にしている会社である。昔の国民は脅されるのが好きだった。今の国民は脅されるのが嫌いである。だから、昔の国民は政府にお金をやって脅してもらっていたが、今の国民は政府にお金をやらず脅してもらわなくなっている。そのため、昔の政府は儲かっていたが、今の政府は潰れているのである。
昔は国民みんなが“脅される喜び”があったために政府の脅しを聞いていたので、国民みんなが政府に従って暮らしていた。国民みんなは政府の言いなりだったので自由がなかった。反対に、今は国民みんなが“脅される喜び”がないために政府の脅しを聞かなくなっているので、国民みんなが法律を守って平和にしてあとは自分の好き勝手に暮らしている。これが現代人の暮らしだ。

[22616] 今の国民は“脅[おど]される喜び”がないので政府の命令を聞かなくなって自由に暮らしている。 h28.4.4
政府は国民を脅す団体である。政府は国民に命令して高いお金を取ったり国民に嫌がらせをしたり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。政府は芝居の上で民主主義をやっているだけで(つまり、政府は芝居で自分が国民みんなの役に立つことをやっているみたいにするだけで)、現実の上では国民を脅して国民が恥ずかしがらずに政府に脅してもらえるようにするためにちょっとだけ善いことをやっているだけである。
人間はみな平等だから、国民と政府は平等だから、国民が政府の脅しを聞くか聞かないかは国民個人の自由である。
昔は文明が遅れていて昔の人は法律を守らずに自分の心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるので、昔の人は“脅される喜び”があって脅されるのが好きだったので、喜んで政府の脅しを聞いていた。昔の人は自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために一生懸命に政府の脅しを聞いていた。昔の人は政府の脅しを聞けば聞くほど自分が幸福になったので必死になって政府の脅しを聞いていた。昔の人は政府の命令をなんでもかんでも聞いていた。昔の人は政府の言いなりだった。だから、昔の政府には権力(命令力)があった。昔の人は政府の掟[おきて]を守って平和にして、政府の脅しを聞いて自分の“脅される喜び”を満足して幸福に暮らしていた。昔の人は政府に全財産を取られて殺されて幸福になっていた。
反対に、今は文明が進んで今の人は法律を守って自分や他人の人権を守って今の人は自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。今の人は自分の人権を侵されるのが嫌なので脅されるのが嫌なので、政府の脅しを聞かなくなっている。今の人は自分が幸福になるために政府の命令をまったく聞かなくなっている。今の人は政府の掟も脅しも無視している。今の政府には権力がない。今の人は法律を守って平和にして、あとは自分の好き勝手にして自分の心を満足して幸福に暮らしている。
文明が進むと人間の心が変わる。人間の心が変わると暮らしも変わる。昔の人は“脅される喜び”があって“脅される喜び”を満足するために生きていたので政府の奴隷[どれい]だった。昔の人は政府の言いなりだったので自由がなかった。今の人は“脅される喜び”がないので“脅される喜び”を満足しなくなって政府から解放されている。今の人は政府に従わなくなって、法律を守って平和にするだけであとは自分の好き放題にやっている。
今はまだ法律会社がないので、国民はテキトウに法律を守ってみんなと平和に暮らしている。そのうち政府が潰[つぶ]れてなくなって政府の掟会社もなくなって法律会社が建てば、国民みんなは法律会社に正しい法律を教えてもらってちゃんと法律を守って今よりももっと平和に暮らすことができるだろう。
h28.4.5追記:法律はそもそも国民一人一人が自分で守らねばならないものであって、法律会社があろうがなかろうが関係ない。法律会社が建つまでは国民みんなが自分で法律を勉強して法律を守らねばならない。国民みんなで法律に反する者を罰しなければならない。将来法律会社が建ったら、国民みんなが法律会社にお金を払って国民みんなに正しい法律を教えてもらって法律に反する者を取り締[し]まってもらえばいい。(日本国憲法は日本政府が定めた掟[おきて]であって法律ではないから、国民は日本国憲法を勉強して日本国憲法を守ってはいけない。例えば、日本国憲法第20条では宗教の自由が定められている。宗教とは国民が自分の“脅される喜び”を満足するために宗教団体に脅されることである。しかし、今は現実主義の時代だから、今の国民は法律を守って自分や他人の人権を守って自分の“脅される喜び”を抑えねばならないのであって、自分の“脅される喜び”を満足してはいけない。今の国民は政府や宗教団体や暴力団に脅してもらってはいけない。だから、法律では宗教は禁止されている。また、日本国憲法第30条には納税の義務が定められている。税金とは国民が自分の“脅される喜び”を満足するために政府の脅しを聞いて政府にお金を払うことである。(同じように、年貢[ねんぐ]も国民が自分の“脅される喜び”を満足するために幕府の脅しを聞いて幕府に払うお金である。)しかし、今は現実主義の時代だから、今の国民は自分の“脅される喜び”を満足してはいけないから、今の国民は政府に税金を払ってはいけない。法律では税金は禁止されている。だから、日本国憲法は心主義の時代の掟であって現実主義の時代の法律ではないのである。政府が定めた法律は日本国憲法に基づくから全部掟であって法律ではない。現実主義の時代においては政府が定めた法律は用がない。これから国民は自分でゼロから法律を考えて作っていかねばならない。昔は“脅される喜び”のある世界だった。今は“脅される喜び”のない世界である。昔と今は世界が違う。だから、社会の決まりも違うのだ。昔は人間が現実のことがわからなかったから人間が心の世界で生きていたから人間が心の世界で自分が幸福に暮らすために“脅される喜び”“先進国を真似[まね]る喜び”“戦争をする喜び”などの人間が生まれつき持っている心を満足していた。昔の人は現実を見ないようにしていたから、たとえ自分が現実で不幸になっても無視していた。昔の人は心の世界で自分の喜びを満足することしか考えていなかったのである。今は人間が現実のことがわかっているから人間が現実の世界で生きているから人間が現実の世界で自分が幸福に暮らすために法律を守るようになっているのだ。昔の人間は心の世界で暮らしていた。今の人間は現実の世界で暮らしている。昔と今では人間が暮らしている世界が変わっているために人間の心や社会の決まりが変わっているのだ。h28.4.15追記:近代の日本が戦争をやったのは、近代の国民が先進国を真似[まね]るのが好きでヨーロッパを真似ていたからである。日本が戦争をやった原因は日本人の“先進国を真似る喜び”にある。日本人は“先進国を真似る喜び”が強いからヨーロッパを真似て文明開化をアジアの国の中でいち早くやったが、それと同時に戦争もやったのだ。“先進国を真似る喜び”は善にも悪にもなる諸刃の刃[もろはのやいば]なのだ。戦後日本人は二度と戦争をしないと誓った。だから、今の日本人は自分の“先進国を真似る喜び”を満足してはいけない。今でもヨーロッパは先進国である。だから、今の日本人はヨーロッパを真似てはいけない。今の日本人は自分の国の日本文化をやらねばならない。今の日本人はヨーロッパ人を真似て格好[かっこう]をつけたり悪いことをやったりエッチなことをやったりしてはいけないのである。)

[22617] 人間の心に“脅される喜び”があるために政府が出来た。 h28.4.4
人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。昔の人間にとっては自然が脅威[きょうい]だったので、人間に“脅される喜び”があるほうが生きていきやすかったからである。
昔は文明が低くて昔の人は科学がなくて自然のなすがままにされていたし、昔の人は法律を守っていなくて昔の人は自分の生まれつきの心のままに生きていたから、昔の人には“脅される喜び”があった。昔の人は自分の“脅される喜び”を満足するためにみんなを脅す会社(つまり政府)を建てて政府の脅しを聞いて政府に脅してもらって幸福に暮らしていた。(それでも脅される喜びが足りない人は宗教団体や暴力団(任侠[にんきょう])に脅してもらってもっと幸福になっていた。)政府に脅されてお金を取られて痛めつけられた国民のほうが喜んでいるのであり、政府は仕事でしかたなく国民を脅しているだけだった。政府はみんなが恥ずかしい思いをせずに政府に脅してもらうことができるようにするためにちょっとだけ善いことをやって、みんなが政府に善いことをしてもらうために政府を利用するふりをできるようにして政府に脅されやすくした。特に日本人は“恥の感情”が強いから、日本政府は多めに善いことをやっていた。政府は身分制が好きな人が政府が国民を脅しているのを見て「政府が国民よりも身分が高い」と勘違いして身分制をやらないようにするために民主主義の芝居をやって自分が国民の役に立つことをやっているふりをしている。(昔の人間には“脅される喜び”があった。宮沢賢治の『注文の多い料理店』はそういう目で読まないといけない。国民が自分の“脅される喜び”を満足するために政府の脅しを聞くのはいいが、政府の脅しを聞きすぎると政府に自分の全財産を取られて殺されるから気をつけねばならないと教えているのである。国民が政府の脅しを聞くのもほどほどにしろということである。つまり、国民が政府の脅しを聞くか聞かないかは国民個人の任意[にんい]なのである。国民は自分で調節して政府の脅しを聞いたり聞かなかったりすればいいのである。国民が途中で政府の脅しを聞くのをやめてもいいのである。国民は自分が嫌なら政府の脅しを聞かなくてもいいのである。猫は政府のことである。最後に登場する2匹の犬は仏教や儒教などの道徳のことだろう。)
今は文明が高くなって今の人は科学で自然を自分の思い通りにすることができて自然に対する脅威がないし、今の人は法律を守って自分や他人の人権を守って暮らしているので今の人は自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。今の人は自分や他人の人権が侵されるのが嫌なので政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにしている。政府は国民を脅して国民からお金が取れなくなって潰[つぶ]れている。
昔の人の心には“脅される喜び”があったから、昔の人は政府を建てて政府に脅してもらって喜んでいた。今の人の心には“脅される喜び”がなくなっているから政府の脅しを聞かなくなって政府が消えてなくなっているのだ。

[22618] 政府は国民を脅[おど]すことを仕事にしている会社である。 h28.4.5
人間はみな平等である。国民と会社は平等である。国民が会社にお金をやって仕事をやってもらうか、会社にお金をやらず仕事をやってもらわないかは国民個人の自由である。
政府は国民を脅すことを仕事にしている会社である。政府は国民に命令して国民から高いお金を取ったり国民に嫌がらせをしたり事件や事故で国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。政府は国民を脅すときに国民に命令して国民からお金を取って報酬にしている。政府はテレビや新聞では民主主義をやっているが、あれは国に身分制が出来ないようにするための芝居であって、現実では国民を脅すことをやっている。つまり、テレビや新聞でやっているのは政府ではなく、現実でやっているのが本当の政府である。国民の多くは毎日テレビや新聞でどうでもいいことを眼にしているのである。国民の多くはテレビや新聞で政府の民主主義の芝居ばかり見て、政府が現実でやっていることを見ていない。そのために、国民の多くは政府を民主主義の団体だと誤解している。政府は騙[だま]すつもりがないのだから、騙されるほうが悪いのだ。(政府はよく猫[ねこ]に喩[たと]えられる。猫はおとなしいふりをしてじつは凶暴である。だから、国民みんなは政府が見かけで民主主義の団体をやっているだけで、本当は国民を脅す団体であることを知っているのだろう。)
昔(昭和40年=1965年ごろまで)は文明が遅れていて昔の国民は法律を守らずに自分の心のままに暮らしていた。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。そのために、昔の国民は自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の脅しを聞いて政府に脅されていた。
反対に、今は文明が進んで今の国民は法律を守って自分や他人の人権を守っているので自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。今の国民は自分の人権が侵されるのが嫌である。そのために、今の国民は自分が幸福になるために政府の脅しを聞かなくなって政府に脅されないようにしている。
そういうわけで、今では政府が国民を脅せなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。早く国民みんなで政府を潰して、法律会社を建てて、国民みんなの人権が守られている社会にして国民みんなで幸福に暮らさねばならない。
要するに、昔と今では国の文明が違うので昔と今では国民の心が違う。昔の国民は“脅される喜び”があったので自分が幸福になるために政府に脅されていた。今の国民は“脅される喜び”がないので自分が幸福になるために政府に脅されなくなったのだ。
政府や宗教団体や暴力団のような脅す仕事は客から高いお金を取れば取るほど客を脅して客を喜ばせられるから儲[もう]かる仕事である。しかし、いくら仕事自体が儲かる仕事であってもそもそも客がいなければ儲からない。昔は国民みんなが“脅される喜び”があったから政府の客がいくらでもいたから政府がすごく儲かった。しかし、今は国民みんなが“脅される喜び”がないから政府の客がいないから政府が儲からなくなって潰れている。

[22619] 国民が政府に脅してもらうか脅してもらわないかは国民が自分で決めればいい。 h28.4.5
人間はみな平等である。国民と会社は平等である。国民が会社にお金をやって仕事をやってもらうか、会社にお金をやらず仕事をやってもらわないかは国民個人の自由である。国民は自分で会社を利用するかしないか決めればいい。
政府は国民を脅[おど]すことを仕事にしている会社である。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、国民を脅せば国民が幸福になるから、国民を脅すことが仕事になるのである。政府は国民に命令して国民から高いお金を取ったり国民に嫌なことをやらせたり事件や事故を起こして国民を殺したり痛めつけたりして国民を脅す。政府は国民を脅すときに国民からお金を取って仕事の報酬にしている。国民にとっては自分の“脅される喜び”を満足することが恥ずかしいので、政府は国民が恥ずかしがらずにすむようにちょっとだけ善いことをやって国民が政府に善いことをやってもらうふりをして本当は政府に脅してもらえるようにしている。政府は身分制が好きな人が政府が国民を脅しているのを見て「政府が国民よりも身分が高い」と思って身分制をやらないようにするために民主主義の芝居をやっているのである。
昔は国の文明が低くて国民みんなが現実がわからなくて自分の心のままに生きていた。昔は国民みんなが“脅される喜び”があった。昔は国民みんなが自分の“脅される喜び”を満足して幸福になるために政府の脅しを聞いて政府に脅してもらっていた。
反対に、今は国の文明が高くて国民みんなが現実がわかるようになって現実の中で幸福に生きている。今は国民みんなが現実の中で幸福に生きるために法律を守ってみんなと平和にしているので自分や他人の人権を守っているので自分の“脅される喜び”を抑えているので“脅される喜び”がなくなっている。今の国民みんなは自分の人権が侵されるのが嫌である。今は国民みんなが政府に自分の人権を侵されないようにして自分が幸福になるために政府の脅しを聞かなくなって政府に脅されなくなっている。
今の国民は自分が政府に脅されるのをやめればいい。今の国民は自分で政府の脅しを聞かないようにして政府の命令で政府にお金を払ったり嫌なことをやったりするのをやめればいい。今の国民は自分のことは自分で決めればいい。自分の心のことは他人にはわからないから自分のことは自分で決めねばならない。そうやって、今の国民は自分で自分を幸福にすればいい。今は国民みんなが“脅される喜び”があることから“脅される喜び”がないことに変わっている途中だから、国民が黙っていては国民に“脅される喜び”があるかないかわからない。国民の心のことは政府にはわからないから、政府は今でも国民を脅す仕事をやっている。客が買いたいか買いたくないかわからなければ店をやってはいけないというのなら、全部の店が閉めなければならないことになる。実際にはそんなことはない。客が買いたいか買いたくないかわからないときには店を開ける。だから、今は国民が脅されたいのか脅されたくないのかわからないから、政府は今でも店をやっているのである。店が開いているからといってすべての客が店で買わねばならないわけではない。客が買うか買わないかは客自身が決めることである。だから、政府が今でも店をやっているからといって、政府が今でも国民を脅す仕事をやっているからといって、国民みんなが政府に脅されなければならないわけではない。国民が政府に脅されるか脅されないかは国民が自分で決めることである。国民が自分が脅されるのが好きなら、政府の脅しを聞いて政府にお金を払ったり自分が嫌なことをやったりすればいい。反対に、国民が自分が脅されるのが嫌なら、自分で政府の脅しを聞かないようにして政府に税金を払わないようにして自分が嫌なことをやらないようにして政府に脅されないようにすればいいのである。国民が自分に“脅される喜び”がなければ、自分が政府に脅されないようにして政府に態度で示して見せてやって、政府に自分に“脅される喜び”がないことをわからせてやらねばならないのである。(昔は心主義の時代だったから昔は多数決があったから国民は周[まわ]りの国民みんなに合わせて政府に脅されなければならなかったが、今は現実主義の時代だから今は多数決がないから国民は周りの国民みんなに合わせなくていいから、国民は周りのみんなにかまわずに自分で政府に脅されるか脅されないかを決めればいい。たとえ周りのみんなが政府に脅されていても自分が政府に脅されたくなければ脅されなければいい。今は多数決のない時代だから、国民はみんなに合わさず自分で判断しないといけないのである。)
今でも“脅される喜び”がある国民は自分の“脅される喜び”を満足するために政府の脅しを聞いて政府に脅されて幸福になっている。それは自分の勝手だからかまわない。しかし、“脅される喜び”がない国民は他人に脅されるのが嫌なので、“脅される喜び”のある国民が政府の命令で“脅される喜び”のない国民を脅してはいけない。“脅される喜び”のある国民が“脅される喜び”のない国民に迷惑をかけてはいけない。“脅される喜び”がある国民は“脅される喜び”がある国民同士で脅し合って幸福にならねばならない。昔は国の文明が遅れていて国民みんなが“脅される喜び”があったから政府が国民みんなを一律[いちりつ]に脅してよかった。しかし、今では国の文明が進んで国民みんなが“脅される喜び”があることから“脅される喜び”がないことに変わっているので、国民が“脅される喜び”があるかないかわからないので、政府が国民みんなを脅してはいけない。国民が政府の脅しを聞くか聞かないかは国民個人の自由である。国民が政府の脅しの命令を聞くか聞かないかは国民個人の自由である。だから、政府が国民に命令して国民から高い金を取ったり国民に嫌がらせをして国民を脅すのはかまわない。しかし、政府が自分勝手に事件や事故を起こして国民に暴力をふって国民を脅すのはいけない。政府が国民に命令してほかの国民からお金を取らせたり嫌がらせをさせたり暴力をふらせたりしてはいけない。政府は“脅される喜び”のない国民を強制的に脅してはいけない。政府は“脅される喜び”のある国民だけを脅さねばならない。今の政府はそういう決まりで国民を脅さねばならない。
“脅される喜び”だけについては昔のほうが今よりも幸福が多いが、心全体については今のほうが昔よりも幸福が多い。今のほうが昔よりもより多くの感情を満足できる。だから、今の人は現実主義をやって心主義をやめたのだ。人間は自分の幸福を目指[めざ]して生きている。だから、今の人は現実を知って現実の中で生きているのだ。人間は自分が幸福になるために現実主義をやらねばならない。人間は現実主義をやって法律を守って自分の“脅される喜び”を満足しないようにして政府の脅しを聞かないようにして政府をなくさないといけない。

[22620] 文明が進むほどみんなの“脅される喜び”がなくなる。 h28.4.6
大昔(縄文時代ごろ)は国の文明が低くてみんなが現実の世界をまったく知らなくて、みんなが現実の世界の外で生まれつきの心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるので、みんながあけっぴろげに盛大[せいだい]に“脅される喜び”を満足して幸福に生きていた。みんなが豪族にみんなの眼の前で正々堂々と脅してもらって“脅される喜び”を満足してもらって幸福になっていた。豪族がみんなを殺したり痛めつけたりみんなの財産を奪ったりしてみんなを脅してみんなを喜ばせていた。みんなが豪族の奴隷[どれい]だった。ニーチェの言う奴隷根性とは、人間の心に生まれながらに宿っている“脅される喜び”のことである。h28.4.14追記:ニーチェはギリシアの古典文学の研究中に当時の国民に“脅される喜び”があったことを発見して、今でも国民は隠して“脅される喜び”を満足して生きていることを知ったのである。
弥生時代ごろになると農耕生活が始まって国の文明がちょっと高くなってみんなが現実の世界の中でかなり暮らすようになって、みんなが現実の世界と心の世界の違いを意識するようになって、みんなが生まれつきの心のままに生きるのが恥ずかしくなった。みんなが“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなってみんなが隠しながら“脅される喜び”を満足するようになった。そのころにみんなが“脅される喜び”を満足するのがだいぶ弱まった。みんなが政府や幕府に隠しながら脅してもらって“脅される喜び”を満足して幸福にしてもらっていた。政府や幕府が密[ひそ]かにみんなを殺したりみんなの財産を奪ったりしてみんなを脅してみんなを幸福にしていた。みんなが政府や幕府の“隠れた奴隷”だった。([22597]の中ほどにあるh28.4.5追記を参照。)
そして、現代(昭和40年=1965年ごろ以降)では産業革命が起こっていろんな科学の発明品が出来て国の文明がさらに高くなってみんながますます現実の世界で暮らすようになってみんなが生まれつきの心のままに生きなくなった。みんなが現実の中で幸福に暮らすために法律を守って自分や他人の人権を守って平和に暮らすようになって“脅される喜び”を抑えて“脅される喜び”がなくなった。みんながあまりにも現実の世界の中で暮らすようになったために“脅される喜び”がなくなった。現実の世界の中で人間が幸福に生きるためには“脅される喜び”が邪魔[じゃま]だから、人間は“脅される喜び”を捨てたのだ。みんなが“脅される喜び”を満足しなくなって、みんなが政府の脅しを聞かなくなって政府の命令を聞かなくなって政府にお金をやらなくなって政府を潰[つぶ]している。政府がみんなを脅さなくなって潰れている。今ではみんながもはや奴隷ではない。
文明が進めば進むほどみんなが現実の世界の中で暮らすようになって心の世界の中で暮らさなくなってみんなが“脅される喜び”がなくなる。そのために世の中が変わっている。昔はみんなが“脅される喜び”を恥ずかしがらずに堂々と満足していた。みんなが豪族に脅してもらって幸福にしてもらっていた。今ではみんなが“脅される喜び”がなくなっている。みんなが法律を守ってあとは自分の自由にして幸福に暮らしている。
会社を潰[つぶ]すことは一人ではできないが、会社と解約することは一人でもできる。国民は自分が政府に脅されるのが嫌なら政府と解約すればいい。政府の脅しを聞かないようにして政府に脅してもらわなければいい。国民みんなが政府と解約すれば政府が潰れる。早く国民みんなが政府と解約して政府を潰して脅しのない社会にしないといけない。国民みんなが法律を守って自由に暮らす社会にしないといけない。

[22621] インドではヨーロッパ文化とインド文化が混じったために身分制が残っている。 h28.4.6
昔の人は“脅[おど]される喜び”があった。昔は世界中でみんなが“脅される喜び”を満足していた。
大昔(紀元前5世紀以前)のヨーロッパではみんなが堂々と自分の“脅される喜び”を満足して豪族に脅されて幸福に暮らしていた。おまけにヨーロッパ人は狩猟民族で動物を自分の好き勝手にするので身分制が好きだった。そのため、ヨーロッパ人は豪族がみんなを脅しているのを見て「豪族がみんなよりも身分が高い」と思って「自分にも身分がある」と思って身分制をやるようになった。身分制は脅しの余計なオマケだったのだ。(h28.4.7追記:つまり、本当は人間が不平等なのではなく、脅す者が脅される者を幸福にするために脅しているだけである。人間が不平等であるというのは、脅す者が脅される者を幸福にするために脅していることに対するまちがった解釈である。本当は『脅す者が脅される者を幸福にするためにわざわざ脅してやっている』のに、ヨーロッパ人は「脅す者が自分が幸福になるために脅される者を脅している」と誤解しているのである。本当は地球が太陽の周[まわ]りを回っているのに、太陽が地球の周りを回っていると誤解しているようなものである。人間が動物を殺して食べるのは自分が幸福になるためであって、動物を幸福にするために動物を殺して食べるのではない。だから、狩猟民族の目で脅す者が脅される者を脅すことを見てはいけない。農耕民族の目で見ないといけない。人間は作物を幸福にするために作物を育てるのであって、人間は自分を幸福にするために作物を育てるのではない。特に、今は文明が進んでみんなが“脅される喜び”がなくなってヨーロッパ人でなくても脅す者が脅される者を脅すのを見て「脅す者が自分の幸福のために脅される者を脅している」と誤解しやすいから注意しないといけない。(女はヨーロッパ人と似て自分の幸福のことしか考えないから、脅す者が脅される者を脅しているのを見ると必ず「脅す者が自分の幸福のために脅される者を脅している」と誤解するから身分制のもとになるから、みんなは女を警戒しないといけない。)物事を誤解すると事態が複雑になって問題が解決されなくなる。インドの身分制は『脅す者が脅される者を幸福にするために脅している』ことに対する誤解であって、インド人は「脅す者が自分を幸福にするために脅される者を脅す」と思っているのである。だから、まずインド人は脅す者が脅される者を脅しているのを見たとき『脅す者が脅される者の“脅される喜び”を満足して脅される者を幸福にするために脅してやっている』と考えねばならない。(アニメの『撲殺天使ドクロちゃん』のドクロちゃんがさくらくんを虐待するのは愛情の表現であるように、脅す者が脅される者を脅すのは脅される者を幸福にするためなのである。)そうすれば、『人間がみな平等である』ように思えて身分制がなくなって身分制に伴ういろんな社会問題が解決されるだろう。物事を誤解すると人間が現実から遠ざかる。今は現実主義の時代である。だから、人間は現実を正しく認識しないといけない。人間は現実を誤解してはいけない。人間には“脅される喜び”がある。脅す者はみんなの“脅される喜び”を満足してみんなを幸福にするためにみんなを脅しているのである。)
しかし、紀元前5世紀ごろになってヨーロッパでは農耕生活が始まって文明が高くなってみんなが“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなった。ヨーロッパ人は狩猟民族なので動物を騙[だま]して動物を捕らえるので嘘[うそ]をつくのが好きなので、政府が民主主義の芝居をやって自分がみんなを脅すのを隠しながら脅すようになった。みんなが隠れながら政府に脅されて幸福に暮らすようになった。ヨーロッパ人は眼先に弱いので「政府が国民と平等になった」と思って「人間に身分がなくなった」と思って身分制をやめた。政府が民主主義の芝居で隠しながら国民を脅すようになってからしばらくして紀元0年ごろに身分制がなくなった。みんなが身分制がなくなったうれしさのあまりキリスト教をやるようになった。
一方、大昔(紀元前15世紀以前)のインドでもみんなが堂々と自分の“脅される喜び”を満足して豪族に脅されて幸福に暮らしていた。インド人は農耕民族で作物を自分の子供のように育てるので平等制が好きだった。そのため、大昔のインドではみんなが身分制をやらずに和気あいあいで豪族に脅されていた。
しかし、紀元前15世紀ごろになってアーリア人(ヨーロッパ人の一種)がインドに攻めてきてインドにヨーロッパ文化を植え付けた。アーリア人は身分制が好きなのでインドでもみんなが身分制をやるようになった。
しかし、紀元前5世紀ごろになってインドでも農耕生活が始まって文明が高くなってみんなが“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなって、政府がちょっとだけ善いことをやって国民が政府に善いことをやってもらうふりをして政府に脅してもらえるようにした。インド人は正直なのが好きなので、インド人は芝居が嫌いなので、インドでは政府が民主主義の芝居をやらなかったので、インド人は政府がみんなを脅しているのを見て「政府がみんなよりも身分が高い」と思って「人間には身分がある」と思って身分制をやり続けた。
紀元0年ごろのヨーロッパでは身分制がなくなったのに、インドでは身分制が残っていた。インドではヨーロッパ文化とインド文化が混じったために身分制が消えずに残ってしまったのだ。
一方、中国や日本ではみんなが農耕民族で平等制が好きだったのでみんなが平等制をやりながら豪族や政府や幕府に脅されて“脅される喜び”を満足して幸福に暮らしていた。中国や日本にはアーリア人が入って来なかったので身分制が出来なかった。
しかし、今では世界中で文明が高くなっている。ヨーロッパではみんなが現実で幸福に暮らすために法律を守って自分や他人の人権を守って“脅される喜び”がなくなって政府に脅されなくなっている。みんなが法律を守って自分の自由にして幸福に暮らしている。インドでも文明が高くなって、みんなが現実で幸福に暮らすために法律を守って自分や他人の人権を守って“脅される喜び”がなくなって政府に脅されたり身分制をやったりしなくなっている。中国や日本でも文明が高くなってみんなが法律を守って“脅される喜び”を満足しなくなって政府の脅しを聞かなくなって政府に脅されなくなっている。今では世界中で政府が滅んでなくなっている。
日本人はインド人と同じで正直である。日本人は嘘[うそ]をつくのが嫌いである。日本には嘘をつく習慣がない。そのために、日本人には政府が民主主義の芝居をやっていることが理解できず、政府が本当に民主主義の団体だと思っている。今の国民に“脅される喜び”がないために、今の国民に『政府が国民を脅す団体である』ことが理解できなくなっているのと同じである。(今のヨーロッパでも日本と同じように国民に“脅される喜び”がなくなっているために国民が『政府が国民を脅す団体である』ことが理解できなくなっているために政府が倒れるのが遅れているのである。)政府は本当は国民を脅す団体であり、政府は自分が実際にやっていることとはまったく違う民主主義の団体である芝居をやっているのである。しかし、今では文化人類学が出来て、世界中の民族の性格がわかっている。ヨーロッパ人は日本人と違って嘘つきである。ヨーロッパ人は嘘をつくのが好きである。だから、ヨーロッパ政府は本当は国民を脅す団体なのに、嘘をついて芝居をやって自分が民主主義の団体であるふりをしているのである。ヨーロッパの国民が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしいから、政府が民主主義の芝居をやって、国民が政府に善いことをやってもらうふりをして政府に脅されやすくしているのである。日本では近代に国民みんながヨーロッパを真似[まね]ていたから、日本政府もヨーロッパ政府を真似て民主主義の芝居をやっているのである。今の日本では国民みんなは早く『日本政府は民主主義の芝居をやっているだけで、本当は国民を脅す団体である』ことを理解して、今の国民みんなは現実の世界で幸福に暮らさねばならないから法律を守らねばならないから自分や他人の人権を守らねばならないから自分の“脅される喜び”を満足してはいけないから政府の脅しを聞かず政府にお金をやらず政府を倒さねばならない。

[22622] 国民は政府や幕府に隠しながら脅してもらうために民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをやってもらっている。☆ h28.4.7
人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。そもそも人間は動物だったので、動物にとっては自然が脅威[きょうい]だったので、動物は“脅される喜び”があるほうが有利に生き残れるので、人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。
大昔(縄文時代のころ)、人間はまだ現実を何も知らずに、自分の心のままに生きていた。大昔の人は“脅される喜び”を堂々と満足して生きていた。大昔の人は露骨[ろこつ]にみんなが見ている前で豪族に脅してもらって自分の“脅される喜び”を満足してもらって幸福に暮らしていた。
昔(弥生時代のころ)になると、国の文明が高くなって人間は農耕生活をするようになって、人間が現実を知るようになって、人間がかなり現実の世界の中で暮らすようになって、自分の心のままに生きるのが恥ずかしくなった。昔の人は“脅される喜び”を隠して満足するようになった。昔の人はみんなに見られないように政府や幕府に脅してもらって自分の“脅される喜び”を密[ひそ]かに満足して幸福に暮らしていた。政府や幕府はみんなに隠しながらみんなを脅すために民主主義の芝居をやったりちょっとだけ善いことをやったりしていた。昔の人は政府や幕府に善いことをやってもらうふりをして本当は脅してもらって喜んでいた。
今(昭和40年=1965年ごろ以降)になると、国の文明がさらに高くなって人間が科学の発明品を使って快適に暮らすようになって、人間が現実を知って現実の世界の中で本格的に暮らすようになった。今の人は自分が現実の世界の中で幸福に暮らすために法律を守って自分や他人の人権を守って平和に暮らすようになって、自分の“脅される喜び”を抑えて“脅される喜び”がなくなっている。今の人は“脅される喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分や他人の人権が侵されるのが嫌なので自分や他人が脅されるのが嫌である。そのため、今の人は政府の脅しを聞かなくなって政府にお金を払ったり自分が嫌なことをやったりしなくなっている。
国の文明が進むと、人間が現実の世界の中で暮らすようになって自分の心のままに生きなくなって、“脅される喜び”がなくなる。そのために、政府や幕府のような国民を脅す仕事がなくなっている。

[22623] 悪いほうが有利? h28.4.7
今では国の文明が高くなって国民みんなが現実の世界で幸福に暮らすようになって“脅[おど]される喜び”がなくなっている。
そのために、国民みんなが政府や宗教団体や暴力団や社長などが国民を脅しているのを見て、脅す者が脅される者を脅しているのを見て「この世では悪いほうが有利だ」と思って自分も悪いことをやるようになっている。
未来の社会ではみんなが悪いことをやって暮らすようになるのだろうか?みんなが他人を殺して他人の財産を奪って暮らすようになるのだろうか?
しかし、本当は政府や宗教団体や暴力団や社長が国民を脅すのは国民を幸福にするためである。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるから、政府や宗教団体や暴力団や社長は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にしているのである。
政府や宗教団体や暴力団や社長は仕事で他人を脅してやっているのである。国民を脅している政府や宗教団体や暴力団や社長は面白くもなんともなくて、政府や宗教団体や暴力団や社長に脅されている国民が喜んでいるだけである。
政府や宗教団体や暴力団や社長は国民を脅す仕事である。政府や宗教団体や暴力団や社長は国民を幸福にするために国民を脅しているのである。政府や宗教団体や暴力団や社長は善い者なのである。人間はみな平等だから、政府や宗教団体や暴力団や社長と国民は平等だから、国民が政府や宗教団体や暴力団や社長などに脅してもらうか脅してもらわないかは国民個人の自由である。国民は自分が脅されるのが好きなら政府や宗教団体や暴力団や社長に脅してもらい、自分が脅されるのが嫌なら政府や宗教団体や暴力団や社長に脅してもらってはいけない。今の国民みんなは“脅される喜び”がなくなっているから、今の国民みんなは脅されるのが嫌だから、政府や宗教団体や暴力団や社長に脅されるのを断って脅しを聞かないようにしないといけない。今の国民は政府や宗教団体や暴力団や社長の命令を聞かないようにしてお金をやったり嫌なことをやったりしないようにして政府や宗教団体や暴力団や社長を倒さないといけない。会社員は経理部に「自分は社長に金をやるのは嫌だ」と言いに行って社長に金をやらないようにしないといけない。今は国民みんなが“脅される喜び”があることから“脅される喜び”がないことに変わっている途中だから、政府や宗教団体や暴力団や社長にとっては国民に“脅される喜び”があるかないかわからないから、政府や宗教団体や暴力団や社長は国民みんなを脅しているのである。人間の心は他人にはわからない。国民の心がわかるのは、国民に“脅される喜び”があるかないかわかるのは国民自身だけである。だから、国民が自分で政府や宗教団体や暴力団や社長に脅されるか脅されないかを決めねばならない。国民が自分が脅されるのが好きなら政府や宗教団体や暴力団や社長の脅しを聞いて脅されるようにして、自分が脅されるのが嫌なら政府や宗教団体や暴力団や社長を脅しを聞かないようにして脅されないようにしないといけない。そうして、国民が自分の態度で自分に“脅される喜び”があるかないか自分が脅されるのが好きか嫌いかを示してやらねばならない。国民が政府の脅しを聞くと、政府は「国民が脅されたいんだ」と思ってますます国民を脅すから、国民は政府の脅しを聞いてはいけない。
文学部は他人を脅す学部である。文学部は会社で他人を脅すことが仕事である。昔は国民みんなに“脅される喜び”があったから、会社に文学部を置いて、文学部が会社でみんなを脅してみんなを幸福にしていた。文学部がみんなに命令してみんなの稼[かせ]ぎを取ったりみんなを嫌がらせたりみんなに暴力をふったりしてみんなを脅してみんなを喜ばせていた。社員みんなは“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしいから、隠れて自分の“脅される喜び”を満足しているから、文学部は自分がみんなを脅しているのを隠すためにちょっとだけ善いことをするためにちょっとだけ楽な事務の仕事をやっているのだ。反対に、今は国民みんなに“脅される喜び”がなくなっているから、会社に文学部を置かないようにしてみんなが文学部に脅されないようにしている。
文学部はまちがいを研究する学部である。文学部は他人にまちがいを教えて他人にまちがいを植え付ける学部である。昔は心主義の時代だったから面白ければまちがっていてもよかったからそれでよかった。しかし、今は現実主義の時代だから、今は正しくないといけないからそれではいけない。今ではいくら面白くてもまちがっていてはいけない。いくら不愉快[ふゆかい]でも正しければいい。文学部は他人にまちがいを植え付けて他人を不幸にする学部である。だから、今では文学部は要らない。文学部は邪魔[じゃま]である。文学部はみんなにとって不幸のもとである。今の人間が欲しいのは現実における幸福であって面白い冗談ではない。だから、みんなで文学部を倒して文学部をなくさねばならない。
編集部がマンガ家の稼[かせ]ぎのほとんどを取ってマンガ家を缶詰にしてイビるのも、編集部が脅す仕事だからである。昔の国民は“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしかったので、“脅される喜び”を隠して満足していたので、編集部は編集部だよりを書いてちょっとだけ善いことをしながらマンガ家を脅していたのである。昔はみんなが脅されるのが好きだったので、マンガ家が編集部に脅されて喜んでいたのである。編集部がマンガ家を脅してマンガ家を喜ばせていたのである。しかし、今はみんなが脅されるのが嫌なので、マンガ家が編集部に脅されるのが嫌である。編集部はマンガ家を脅してマンガ家を嫌がらせているだけである。今のマンガ家は脅されるのが嫌だから、今のマンガ家にとって編集部はもはや用がない。だから、マンガ家は編集部と縁を切って、自分だけでマンガを電子出版して儲[もう]けを全部自分のものにしないといけない。今では国民みんなが脅されるのが嫌だから“脅す仕事”は要らないのである。
出版社やテレビ局や新聞社は“脅す会社”だから、昔の脅し制の社会がなくなったら自分も滅ばねばならないから、必死になって政府や宗教団体や暴力団の正体を隠しているのである。自分の正体も隠しているのである。出版社やテレビ局や新聞社は作家や芸能人や記者を脅すことが仕事である。出版社やテレビ局や新聞社は作家や芸能人や記者を働かせて作家や芸能人や記者の稼ぎを取って作家や芸能人や記者を嫌がらせることが仕事である。昔はみんなが脅されるのが好きだったからそれでよかった。しかし、今はみんなが脅されるのが嫌だからそれではいけない。今のみんなにとっては出版社やテレビ局や新聞社がなくなったほうがいい。今では作家や芸能人や記者が自分でドラマを作ったりニュースを流したりしてお金を稼[かせ]げばいい。今の人は自分が脅されるのが嫌なら、脅す者に脅されるのを断って、脅す者と縁を切って自分たちだけでやればいいのである。そもそも脅す者は仕事で他人の“脅される喜び”を満足して他人を幸福にするために他人を脅しているのだから、脅す者と脅される者は平等だから、どっちか言うと脅す者にとって脅される者は客だから脅す者よりも脅される者のほうが上だから、国民が脅す者に脅されるか脅されないかは国民個人の自由だから、国民は自分が脅されるのが嫌なら脅す者に脅されるのを断って脅されなければいいのである。国民は自分が脅しが欲しくなければ、いくら脅す者が脅しを売っていても買わなければいいのである。特に今は国民が脅されるのが嫌だから、脅す者は国民に要らない物を売っているから、脅す者は国民に土下座[どげざ]してどうか自分に脅されてくれと頼まなければならないから、脅す者が国民よりもずっと弱いから、国民は自分の気持ちのままに脅されるのを断って脅されなければいいのである。(h28.4.10補足:出版社は昔の心主義の世界がなくなったら自分が滅ぶから、昔の心主義の世界を一生懸命に護[まも]っている。昔の心主義の世界では国民みんなが政府の脅しを聞いていた。だから、出版社は政府の脅しを聞いて政府の命令で国家宗教をやって私や天皇をキャラクターにしたマンガやアニメを作っているのである。しかし、今は現実主義の時代である。今の国民みんなは現実の世界で幸福に暮らすために法律を守っている。今の法律では肖像権やプライバシー権が認められている。政府や出版社は法律違反である。国民みんなでマンガやアニメを見ない読まない買わないようにして出版社を潰[つぶ]して出版社を罰しなければならない。)
国民は正しい目で世の中を見て正しいことをしないといけない。そうして未来の社会を善い社会にしないといけない。

[22624] 政府が隠して国民を脅[おど]すのは、昔の国民が隠して脅されたかったからである。 h28.4.8
人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。“脅される喜び”とは自分が殺されたり虐[いじ]められたり自分の財産を取られたりする喜びのことである。人間は大昔弱い生き物だったので周[まわ]りの動物に脅されて生きていたのでそんな喜びがあるのである。
昔の国民は“脅される喜び”があったが“脅される喜び”が動物ぽくってかっこ悪いと思って“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の国民は密[ひそ]かに隠れて“脅される喜び”を満足していた。人間が生殖行為を動物ぽくってかっこ悪いと思って恥ずかしがって隠してやるのと同じことである。政府(や幕府)は国民の要望に応[こた]えて民主主義の芝居をやったりちょっとだけ善いことをやったりして隠しながら国民を脅していた。
要するに、政府は国民を脅す会社である。政府がいくら民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをやって自分が国民を脅していることを隠しても政府が国民を脅していることに変わりはない。政府が隠そうが隠すまいがとにかく政府は国民を脅している。政府が民主主義の芝居をやったりちょっとだけ善いことをやったりするのは自分が国民を脅すのを隠すためだから、政府は国民を脅す会社である。
昔は国の文明が低かったために、昔の国民は半分心の世界にいて半分現実の世界にいた。そのために、昔の国民は隠しながら“脅される喜び”を満足していた。昔の国民は政府に民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをやって隠してもらいながら政府の脅しを聞いて政府に脅してもらって幸福になっていた。(昔の国民が脅されるのが好きだったのに革命や一揆[いっき]を起こしたのは、当時の政府や幕府が国民の幸福のために国民を脅さずに自分の幸福のために国民を脅していたからである。当時の政府や幕府に悪気[わるぎ]があったので国民は怒って政府や幕府を倒したのである。h28.4.23追記:あるいは、たとえ国民に“悪いことをされる喜び”があったとしても本来は国民が政府や幕府の言うことを聞くか聞かないかは国民個人の自由なのに([22617]参照)、政府や幕府が無理やり国民に言うことを聞かせたので、国民が頭に来て暴力に訴えて政府や幕府を罰したのかもしれない。その場合、非は政府や幕府にあるのであって国民にはない。国民が政府や幕府を罰するのは正当である。)
今は国の文明が進んで、今の国民はかなり現実の世界の中で暮らすようになった。そのために、今の国民は“脅される喜び”を満足しなくなっている。人間に“脅される喜び”があると人間が殺されたり財産を取られたりして人間が現実の世界の中で幸福に暮らせないから、今の国民は“脅される喜び”を捨てたのである。今の国民は脅されるのが嫌なので、いくら政府が民主主義の芝居やちょっと善いことをやって自分が国民を脅しているのを隠していても政府の脅しを聞かなくなって政府に脅されなくなっている。
政府が隠して国民を脅すのは、昔の国民が隠して脅されたかったからである。今の国民は隠していようがいまいがとにかく脅されるのが嫌である。だから、今の国民は政府に脅されなくなったのである。今の国民は政府の脅しを聞かなくなって政府にお金をやらなくなって政府を倒しているのである。今の国民は脅されるのが嫌なので、今の国民は自分が“脅される喜び”を満足しないことが恥ずかしくないので、みんなの眼の前で正々堂々と政府に脅されるのを断って政府に脅されなくなっている。
今の国民は脅されるのが嫌だから、早く政府の脅しを聞くのをやめて政府にお金をやるのをやめて政府を倒さねばならない。今の国民は法律を守って自由に暮らしたいから、早く法律会社を建てて法律会社にお金をやって法律の仕事をやってもらわねばならない。
h28.4.10この章の最後まで追記:政府は自分が国民を脅すのを隠すために民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをやっているのだから、政府は国民のためにはちょっとだけしか善いことをしない。国民がいくら政府を頼っても政府は国民のためにはほとんど役に立たない。そもそも政府は国民を脅す会社だから、政府は国民のために善いことをする会社ではないから、政府を頼るほうがまちがっている。政府に脅されたくない者にとっては政府は何の役にも立たないのである。今では国民みんなは政府に脅されたくないから、今の国民みんなにとっては政府は何の役にも立たない。だから、国民みんなは早く政府を倒せばいいのである。
特に日本人は“甘えの気持ち”が強いから政府が善いことをやってくれる団体に見えるのである。しかし、本当は政府は国民を脅す団体である。政府はテレビや新聞で民主主義の芝居をやって、国民の眼の前でちょっとだけ善いことをやるだけである。政府は隠れて国民を脅している。国民に“甘えの気持ち”があるから政府が隠れて国民のためにたくさん善いことをやってくれていると思うのだ。国民が自分で隠れて便所の下駄[げた]をそろえているから、政府も国民みんなのために隠れて善いことをやってくれていると思うのだ。しかし、本当は政府は隠れて国民を脅している。昔の国民みんなは“脅される喜び”があったから、昔の国民みんなにとっては政府は隠れて善いことをやってくれていた。しかし、今の国民みんなはW脅される喜び”がないから、今の国民みんなにとっては政府は隠れて善いことをやっていない。むしろ隠れて悪いことをやっている。宝くじのハズレくじをありがたがっているのと同じである。自分がわからない物をいいと思うのは馬鹿である。おめでた馬鹿である。政府の中身は国民を脅す団体である。今の国民にとっては政府がなくなったほうがいい。だから、今の国民は早く政府を倒せばいいのである。

[22625] 昔の国民は国民みんなを幸福にするために政府に就職して国民みんなを脅[おど]していた。 h28.4.8
人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。人間は生まれつき他人に殺されたり他人に虐[いじ]められたり自分の財産を取られたりするのが好きである。人間は大昔動物に脅されて生きていたので、人間には“脅される喜び”がある。
政府は国民を脅す会社である。政府は国民を殺したり国民を虐[いじ]めたり国民の財産を奪ったりして国民を脅す。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が遅れていたので、昔は国民みんなが現実を知らず現実の世界の外にいて自分の心のままに生きていたので“脅される喜び”があった。昔は国民みんなが脅されると幸福になっていた。そのために、昔の国民は一生懸命に勉強して政府に就職して国民みんなを脅してやって国民みんなを喜ばせていた。政府に入って民主主義の芝居をやる者もいた。民主主義の芝居をやる者は自分が国民を脅して国民を幸福にすることができないのでガッカリしていた。
しかし、今は文明が進んでいるので、今は国民みんなが現実を知って現実の世界の中で幸福に生きているので“脅される喜び”がなくなっている。今は国民みんなが法律を守って自分や他人の人権を守ることが幸福である。今は国民みんなが脅されると不幸になる。そのために、今の国民は政府に就職しないようにして国民みんなを脅して不幸にしなくなっている。今の国民はテキトウに遊びながら勉強して民間会社に就職して国民みんなに善いことをやって国民みんなを喜ばせるようになっている。将来、法律会社が建ったら、国民は一生懸命に勉強して法律会社に就職して国民みんなに法律を守らせて国民みんなを幸福にするだろう。
仕事は国民みんなを幸福にするためにある。人間は他人を幸福にするのが好きである。人間は他人を不幸にするのが嫌である。人間は他人を幸福にするために仕事をやる。政府は国民を脅す会社である。昔の国民みんなは脅されるのが好きだったので、昔の国民は国民みんなを幸福にするために政府に就職して国民みんなを脅していた。反対に、今の国民みんなは脅されるのが嫌なので、今の国民は国民みんなを不幸にしないために政府に就職しないようにして国民みんなを脅さないようにしないといけない。
そもそも政府は国民みんなを幸福にするために国民みんなを脅している。政府が国民みんなを脅すのは仕事である。政府と国民は平等である。国民が政府にお金を払って脅してもらうか政府にお金を払わず脅してもらわないかは国民個人の自由である。昔の国民は脅されるのが好きだったから、政府にお金を払って脅してもらっていた。反対に、今の国民は脅されるのが嫌だから、政府にお金を払わず脅してもらわなければいい。今は国民みんなが脅されるのが好きなことから嫌いなことに変わっている途中だから、国民は人によって脅されるのが好きだったり嫌いだったする。国民は自分で自分の心を知って、自分が脅されるのが好きなら政府にお金を払って脅してもらって、反対に自分が脅されるのが嫌なら政府にお金を払わず脅してもらわないようにして、自分で自分を幸福にしないといけない。例えば、私は昭和39年(1964年)1月22日生まれである。私は昭和40年ごろに生まれたので脅されるのが嫌である。もしも私が20年早く生まれていたら一生死ぬまで脅されるのが好きだっただろう。脅されるのが好きか嫌いかは国民によって違う。人間は自分の心は自分にしかわからない。だから、国民は自分で自分の心を知って、自分の心に応じて政府に仕事をしてもらったり仕事をしてもらわなかったりして自分で自分を幸福にしないといけない。

[22626] どうして人類みんなは私を神にしたのか? h28.4.8
大昔(縄文時代のころ)は国の文明が低すぎたので、みんなが“脅される喜び”を堂々と満足して、みんながみんなの眼の前であけっぴろげに豪族に殺されたり虐[いじ]められたり財産を奪われたりして喜んでいた。豪族は民主主義の芝居もちょっとだけ善いこともやらずにずけずけとみんなを脅しまわっていた。ヨーロッパ人は狩猟民族だから自分が生きるために動物を殺して食べるから自分の幸福しか考えないから、ヨーロッパではみんなが自分の眼の前で豪族がみんなを脅しているのを見て「豪族が自分の幸福のためにみんなを脅している」と思って「みんなが自分の幸福のためにみんなを脅してもいい」と思ってみんなが自分の好き勝手に悪いことをやって身分制(つまり奴隷制[どれいせい])をやっていた。そのために、悪いことをやる人が上の身分になって有利な暮らしをして、善いことをやって悪いことをやらない人が下の身分になって不利な暮らしを強いられていた。つまり、身分制の実態はみんなが自分の幸福のために悪いことをし合うことである。人間の身分は人間が悪いことをする度合いに応じて決まるのである。悪いことをする者は身分が高く、善いことをして悪いことをしない者は身分が低い。つまり、みんなが自分を幸福にするために悪いことをやる社会では、悪いことをする者が有利で暮らしぶりがよくて、悪いことをしない者が不利で暮らしぶりが悪い。暮らしぶりのいい者は身分が高く、暮らしぶりの悪い者は身分が低いから、悪いことをする者が身分が高く、悪いことをしない者が身分が低いのだ。大昔のヨーロッパ社会はみんなが自分を幸福にするために悪いことをし合う社会だったのである。反対に、アジア人は農耕民族で作物を幸福にするために作物を育てるから他人の幸福しか考えないから、アジアではみんなが豪族がみんなを脅しているのを眼の前で見ても「豪族がみんなのためにみんなを脅している」と思って「自分もみんなのために善いことをしないといけない」と思ってみんなが善いことをやり合って幸福に暮らしていた。大昔からアジアでは身分制はなかった。大昔は世界中で豪族がみんなを幸福にするためにみんなを脅していた。例えば、大昔のエジプトでピラミッドを建てたのは、当時のエジプトの豪族(つまり国王)がみんなを脅してみんなの“脅される喜び”を満足してみんなを幸福にするためである。豪族が国民に無駄[むだ]な骨折りをやらせて国民を脅すためにピラミッドを建てたのである。ナスカの地上絵も同じである。
昔(弥生時代のころ)になると農耕生活が始まって国の文明がちょっと高くなって、みんなが“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなって隠して“脅される喜び”を満足するようになった。みんなが政府や幕府に民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをして隠しながら殺されたり虐められたり財産を奪われたりして喜ぶようになった。そのころに、みんなの暮らしが大きく変わった。ヨーロッパでは政府が隠しながら国民を脅すようになったために、みんなが政府が国民を脅しているのが眼で見えなくなったために、みんなが頭の中で考えて政府が国民を脅しているのを見るようになったために、みんなが「政府はみんなのために善いことをやっている」「政府がみんなの幸福のためにみんなを脅している」と思うようになって「みんなが他人を幸福にすることをしないといけない」と思うようになって身分制(つまり奴隷制)がなくなった。みんなが自分の好き勝手に悪いことをするのをやめて善いことをするようになった。善いことをやる人がいい暮らしができて、悪いことをやる人が悪い暮らしをしなければならなくなった。そこで、みんなは世の中が大きく変わったのを祝福してキリストを新しい神にした。
今(戦後の昭和40年=1965年ごろ)になると電化生活が始まって国の文明がかなり高くなって、みんなが本気で現実の世界の中で幸福に生きようと思ってみんながとうとう“脅される喜び”を満足するのをやめた。みんなが政府に隠しながら殺されたり虐められたり財産を取られたりして脅されるのをやめた。そのころに、みんなの暮らしが大きく変わった。そこで、みんなは世の中が大きく変わったのを祝福して私を新しい神にした。
つまり、神とは時代の区切りである。時代が大きく変わると神が変わる。文明が大きく進歩すると神が変わる。今では文明が急速に発達したのでみんなが私を神にした。これまではみんなが“脅される喜び”を満足して生きていた。これからはみんなが“脅される喜び”を満足するのをやめて現実の世界の中で自分の心を満足して生きていく。みんなが法律を守ってみんなと平和にして、あとは自分の心を知り自分の心を満足して幸福に生きていく。
神はみんなが時代が変わったことを祝福して新しい時代への目標として設けるものである。モーゼは奴隷制(身分制)をなくすためにいた。キリストは脅し制をなくすためにいた。(キリストの十字架像は、昔の人に“脅される喜び”があったことを表している。しかし、それと同時に昔の人の“脅される喜び”をやめて行こうという意志を表してもいる。キリストの十字架像は人間の“脅される喜び”を具体化したものだから、人間がキリストの十字架像を見ることは人間が自分に“脅される喜び”があることを認識することだから、キリストの十字架像は人間に「自分に“脅される喜び”があってはいけない」と思わせて“脅される喜び”をなくす作用があるのだ。あるいは、ニーチェの言うように、キリスト教は奴隷道徳なのかもしれない。つまり、キリスト教は隠して“脅される喜び”を満足している人間が幸福に生きるための方法を教えているのかもしれない。例えば、キリストの「右の頬[ほお]を打たれたら左の頬も差し出せ」という教えは奴隷根性すなわち“悪いことをされる喜び”の表れである。つまり、昔の人は自分が虐待されるのが好きだったから、自分が右の頬を打たれたら自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分がもっと幸せになるために喜んで左の頬も差し出したのである。キリストは「人間には“悪いことをされる喜び”があるから“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていけばいい」ことをみんなに教えたのである。昔のことだからしかたがない。今となっては古臭い。キリスト教には“脅される喜び”を否定することと肯定することの両方の意味があるのかもしれない。)一方、私はやることがない。あえていえば、私は労働制をなくすためにいるのかもしれない。今ではまだ人間は仕事をしないといけないが、未来では人間が仕事をせずに暮らせるようになっているかもしれない。しかし、人類が自分の夢を実現するためにわざわざ神を設ける必要はない。そんなことのために私が神にされるのは嫌だ。私は自分の人生が幸福でなかったからますます嫌である。どうしても神が欲しい人は現実の人間とは別に想像で神を作って神を信じればいい。
そもそも神はみんなを脅すためにいる。大統領や首相がみんなを脅すためにいるのと同じである。昔の人は“脅される喜び”があって脅されるのが好きだったので、神がみんなを脅していた。神がみんなを脅すことに乗っけてみんなに正しい教え(道徳)を守らせて世の中を善くしていた。しかし、今ではみんなが“脅される喜び”がなくなって脅されるのが嫌いである。だから、神は成り立たない。今は神がいない時代である。だから、今ではみんなが私を神にしてはいけない。今ではみんなが神に脅されるのをやめて、自分で未来の目標を掲[かか]げてそれを実現するために生きていかねばならない。
今は文明が高くなってみんなに“脅される喜び”がなくなっている。そのために、大昔のヨーロッパと同じようにみんなが政府が国民を脅しているのを見て「政府が自分の幸福のために国民を脅している」と思って「みんなが自分の幸福のためにみんなを脅せばいい」と思ってみんなが悪いことをやるようになっている。そのうち、みんなが自分の好き放題にみんなを殺したり虐めたり財産を奪ったりする社会になる。今の人間は自分の人権を侵されると不幸になるから、未来の社会はみんなが悪いことをし合ってみんなが不幸に暮らさねばならない社会になる。そんな未来は嫌である。未来になれば科学が発達するからみんなは物は豊かになるだろうが、いくら物が豊かでもみんなで悪いことをし合ってみんなが不幸に暮らさねばならない社会は嫌である。だから、そうならない今のうちにみんなで早く政府を倒して、この世からみんなの誤解を招きやすい“脅す仕事”をなくさねばならない。(自分の幸福のために他人に悪いことをするのが犯罪で、他人の幸福のために他人の“脅される喜び”を満足するために他人に悪いことをするのが脅しである。犯罪はいけないが、脅しはいい。犯罪と脅しは紛[まぎ]らわしい。)“脅す仕事”は世の中が悪くなる原因だから早めに取り除かないといけない。そもそも『政府は国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にするために国民を脅している』のだから、今のみんなに“脅される喜び”がなければ、今のみんなは政府に脅されるのを断って政府に脅されないようにすればいい。今のみんなは政府に脅されるのを断って政府の命令で政府にお金をやるのをやめて政府を倒してなくせばいい。政府の命令で自分が嫌なことをやるのをやめて自由に幸福に暮らせばいい。みんなで早く政府を倒して、みんなが善いことをし合って幸福に暮らせる明るい未来にしないといけない。
今では国の文明が高くなって、人間が現実がわかるようになって、今の人は現実の世界の中で幸福に暮らしている。今の人は現実の中で幸福に暮らすために“脅される喜び”が邪魔[じゃま]になって“脅される喜び”を抑えて“脅される喜び”がなくなって政府の脅しを聞かなくなっている。今の人は現実の中で幸福に暮らすために平和が必要になってみんなと平和にするために法律を守っている。国民みんなで早く政府を倒してみんなが政府に脅されないようにして、法律会社を建ててみんなで法律を守って自由に暮らさねばならない。
h28.4.12追記:法律会社以外にも、“国民みんなのために何か善いことをやる会社”でもいい。ただし、人間はみな平等だから、国民と会社は平等だから、会社は国民と契約を取って仕事をしてお金をもらわないといけない。契約を取れさえすれば“国民みんなのために何をやっているのかわからない会社”でもいい。会社が契約を取ることだけで国民を喜ばせることができるなら“契約を取ること自体が仕事の会社”でもいい。もっとも、今は現実主義の時代だから法律は守らないといけない。そもそも政府と国民は平等である。だから、政府も国民と契約を取って仕事をしてお金をもらわないといけない。ただし、政府の場合にはスーパーやコンビニと同じように商品を売ることと契約を取ることが一体化している。政府の商品は“脅し”である。政府は“脅し”を売る店である。国民が政府から“脅し”を買った時点で国民が政府と契約を取ったことになる。つまり、国民が政府の脅しを聞いた時点で国民が政府と契約したことになる。国民が政府と契約するかしないかは国民の自由だから、国民が政府の脅しを聞くか聞かないかは国民の自由なのである。国民は自分が政府に脅されたければ政府の脅しを聞いて政府と契約して、自分が政府に脅されたくなければ政府の脅しを聞かず政府と契約してはいけないのである。今の国民みんなは自分が脅されるのが嫌だから、自分が政府に脅されるのが嫌だから、自分で政府の脅しを聞かないようにして自分が政府に脅されないようにして自分が政府に殺されたり虐[いじ]められたりお金を取られたりしないようにして自分を幸福にすればいいのである。

[22627] 政府は国民を脅[おど]して国民を幸福にする仕事である。☆☆ h28.4.9
大昔(古代以前)は文明がすごく低かったから、人間が現実をまったく知らずに自分の心のままに生きていた。人間の心には“脅される喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔動物だったから、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりして生きていたから、人間の生まれつきの心には“脅される喜び”があるのである。そのため、大昔の人はあけっぴろげに“脅される喜び”を満足していた。大昔の人はみんなの眼の前で堂々と豪族に殺されたり虐められたり財産を取られたりして脅されて喜んでいた。
昔(古代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなって、人間が現実を知って自分の心のままに生きなくなった。人間が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなった。そのため、昔の人は隠しながら“脅される喜び”を満足するようになった。昔の人は政府や幕府に民主主義の芝居やちょっとだけ善いことで隠しながら殺されたり虐められたり財産を取られたりして脅されて喜んでいた。
今(現代)になると電化生活が始まって文明がさらに高くなって、人間が本格的に現実を知って現実の中で自分の心を満足して生きるようになった。“脅される喜び”は人間が現実の中で幸福に生きるために妨[さまた]げになるので、人間が”脅される喜び”を満足しなくなった。そのため、今の人はいくら政府が民主主義の芝居をやったりちょっとだけ善いことをやっていても政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりして脅されなくなった。今の人は自分で政府の脅しを聞くのをやめて政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりするのをやめて政府に脅されないようにしている。
要するに、政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にするためにある。政府は国民を脅して国民を幸福にすることが仕事である。政府は国民を脅して国民を幸福にする会社である。政府は国民を脅すときに国民からお金を取って自分の仕事の報酬にしている。政府と国民は平等だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。しかし、今の国民には“脅される喜び”がない。今の国民は脅されるのが嫌である。だから、今の国民は政府に脅してもらわなければいい。今の国民は政府に脅してもらうのを断って政府の脅しを聞かないようにして政府にお金(税金や医療保険費や消費税など)を払ったり自分が嫌なことをやったりせずに政府に脅されなければいいのである。今の国民は自分で政府の脅しを断って政府の脅しを聞かないようにして自分で自分を幸福にしなければならない。
今の人にとっては『人間が殺されたり虐められたり財産を取られたりするのが嫌である』ことが常識である。それだけ今の文明が発達して人間が現実の世界の中で生きるようになったからである。反対に、大昔の人にとっては「人間が殺されたり虐められたり財産を取られたりするのが好きである」ことが常識だった。大昔は文明が低くて人間が現実の世界の外で自分の心のままに生きていたからである。人間の生まれつきの心は自分が殺されたり虐められたり財産を取られたりするのが好きなのである。大昔はみんなが自分が殺されたり虐められたり財産を取られたりする喜びのために生きていた。だから、大昔は奴隷制[どれいせい]があったのである。しかし、今ではそんな人間はいない。文明が人間の心とは無関係に発達してしまったのである。文明が一人歩きして人間の心を置き去りにしてしまったのである。人間は自分の心にかまっていられない。人間は文明の中で自分の心を満足するのが宿命である。
政府は国民を脅す会社である。政府と国民は平等だから、政府が国民を脅すのは仕事だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。昔の人間は現実の世界の外で幸福に暮らしていて“脅される喜び”を満足していて脅されるのが好きだったので自分が幸福になるために自分から政府に脅されていた。しかし、文明が進むと国民が現実の世界の中で幸福に暮らすようになって“脅される喜び”を満足しなくなって脅されるのが嫌になって自分が幸福になるために政府に脅されなくなった。そのために今の政府は滅んでいる。

[22628] 政府は隠れて国民を脅[おど]す会社である。 h28.4.9
人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔は弱い動物だったから、ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりしていたから“脅される喜び”がある。昔は人間の暮らしがすごく過酷[かこく]だったので、人間が早く死んだほうが幸福だったので、人間が早く死ぬために人間に“脅される喜び”があったのかもしれない。人間が凍死する前に身体が熱いと感じて裸になって死ぬのと同じである。人間には“生きる喜び”と“死ぬ喜び”の二つがある。“脅される喜び”は“死ぬ喜び”の一種なのかもしれない。
大昔(古代以前)は文明が低くて、人間が現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていたので“脅される喜び”があった。大昔の人にとっては“脅される喜び”を満足するのが当たり前だったから、豪族に堂々とみんなの眼の前で脅されていた。豪族はみんなに見せ付けるようにしてみんなを脅してみんなを喜ばせていた。
昔(古代)になると農耕生活が始まって文明がちょっと高くなって、人間がちょっと現実を知って現実の中で生きるようになった。そのため、昔の人は“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなって隠して”脅される喜び”を満足するようになった。昔の人は隠して“脅される喜び”を満足していたから、政府や幕府に隠して脅されていた。昔の人は隠して“脅される喜び”を満足していたから、政府や幕府はみんなに合わせて自分も隠して国民を脅していた。政府や幕府は隠して国民を脅すために、民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをやって自分が善いことをする団体のふりをして、国民みんなの眼に見られないようにしながら密[ひそ]かに国民みんなを脅して国民みんなを喜ばせていた。政府や幕府の本業は脅しである。だから、政府や幕府は国民をたくさん脅して、民主主義の芝居や善いことをちょっとだけやっている。政府や幕府にとっては脅しが本業であって、民主主義の芝居やちょっとだけ善いことをするのは副業である。政府や幕府は副業を国民の眼の前でやって本業を隠れてやる変わった会社である。政府は隠して国民を脅すために、民主主義の嘘[うそ]の理由(昔の国民には政府が隠して国民を脅していることは先刻承知[せんこくしょうち]だから、たいてい嘘であることがミエミエである)をつけて国民を脅したり、口の堅い国民に命令して政府の代わりに国民を脅させたりしている。昔の人は政府に脅されるのが好きだったから、特に文学者は自分の心の世界に生きているから脅されるのが大好きだから、小林多喜二[こばやしたきじ]は政府に虐待されて喜んで死んだし、三島由紀夫[みしまゆきお]は政府に切腹を命じられて喜んで死んだのだ。
今(現代)になると電化生活が始まって文明がかなり高くなって、人間が本気で現実を知って現実の中で生きるようになった。そのため、今の人は“脅される喜び”が邪魔[じゃま]になって“脅される喜び”を満足しなくなった。今の人は“脅される喜び”を満足しないのが当たり前だから、自分で政府の脅しを聞くのをやめて政府に脅されないようにしている。今の国民は自分が政府に脅されるのは嫌だし自分が政府の代わりに他人を脅すのも嫌だと思って政府の脅しを聞くのをやめて自分が脅されたり自分が他人を脅したりしなくなっている。
そういうわけで、今の人は政府に脅されるのを断って政府の脅しを聞かないようにしている。今の人は政府の命令を聞かなくなって政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりしないようにしている。政府は国民みんなからお金がもらえなくなって潰[つぶ]れている。
国民は自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために自分で政府の脅しを聞いて政府に脅してもらう。だから、国民にとって政府は自分が脅してもらって幸福になるためにある。国民にとっては政府が国民を脅すことは仕事である。人間はみな平等だから、国民と政府は平等だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。国民みんなが本気で現実の中で生きるようになったのは、今からわずか約50年前のことである。今は国民みんなが“脅される喜び”があることから“脅される喜び”がないことに変わっている途中である。国民みんなが“脅される喜び”があることから”脅される喜び”がないことに変わるにはしばらく時間がかかる。そのために、今では“脅される喜び”がある国民と“脅される喜び”がない国民の両方がいる。人間の心は眼で見えないから、眼で見ても国民に“脅される喜び”があるかないかわからない。だから、国民は自分で自分に“脅される喜び”があるかないか考えて、自分に“脅される喜び”があれば政府の脅しを聞いて、自分に“脅される喜び”がなければ政府の脅しを聞かないようにしないといけない。早く国民みんなが現実の世界の中で生きるようになって国民みんなが“脅される喜び”がなくなって国民みんなが政府に脅されないようにして政府を倒さねばならない。
政府が善いことをする会社なら、国中の全部の仕事を政府がやっているはずである。しかし、実際には国中のほとんどの仕事は民間会社がやっている。政府はちょっと善いことをやっているだけである。だから、政府は善いことをする会社ではない。政府はほかの民間会社がやらない仕事をやっている。政府は特殊な仕事をやっている。政府は国民を脅す仕事をやっている。政府は国民を脅す会社だから、政府は自分が国民を脅すのを隠すために善いことをやっているだけだから、あまりたくさん善いことをせず、自分が国民を脅すのを隠せる程度にしか善いことをしないのである。昔は文明が低くて昔の人には“脅される喜び”があったから、昔の人は自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために、みんなでお金を出し合って政府を建てて、政府にお金を払って脅してもらって幸福に暮らしていたのである。政府が大きい会社なのは、昔の国民には“脅される喜び”があったので、政府が国民からお金をたくさん取れば取るほど国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にしたからである。昔の国民は自分が政府に脅されれば脅されるほど幸福になったから政府に自分のあり金全部やっていたから、政府はすごく儲[もう]かっていたから政府は大きい会社なのである。しかし、今は文明が高くなって今の人には“脅される喜び”がないから、今の人にとっては政府が要らなくなっている。むしろ、今の人にとっては自分が幸福に暮らすために政府が邪魔[じゃま]である。だから、今の人は政府にお金をやらないようにして政府を倒せばいいのである。
今の政府はサービスがよすぎて無料で国民を脅している。今の政府は只[ただ]で国民みんなに“脅し”を売ってくれている。今の国民は脅しが要らなくなって、今の国民に脅しが売れなくなって脅しが売れ残って余っているので、政府は出血大サービスで国民みんなに只で脅しを売っているのである。(だから、昔(今から25年ぐらい前)にNHK教育の人形劇『あつまれじゃんけんぽん』で猫のペルちゃん(声;矢島晶子)が「都会には只で物を売ってくれる店がある」とみんなに言っていたのである。つまり、ペルちゃんが言っているのは、『今の国民は政府の脅しをお金を出して買わなくなっている』ということである。つまり、『今の国民は脅されるのが嫌になって政府の脅しを聞かなくなって政府に税金を払わなくなっているために、政府が無料で国民みんなを脅している』ということである。)今の国民にとっては政府の脅しはありがた迷惑である。今の国民にとっては政府の脅しは只でも要らない。だから、国民みんなで早く政府の脅しを聞かないようにして政府にお金をやらないようにして政府を倒して政府に脅しを売られないようにしないといけない。国民みんなで政府に脅されないようにして幸福に暮らさねばならない。
昔の国民みんなは“脅される喜び”があったから『政府が国民を脅す会社である』ことをちゃんと知っていた。もっとも、昔の国民みんなは隠して自分の“脅される喜び”を満足していたから『政府が国民を脅す会社である』ことをみんなの前で言わなかった。しかし、今の国民は“脅される喜び”がないから政府のことがわからなくなって「政府が民主主義の団体だ」とか「政府が犯罪組織だ」と誤解している。政府は昔の時代の会社である。昔は国民みんなが“脅される喜び”があったから、“脅される喜び”のある世界で政府を理解しないといけない。『政府は隠れて国民を脅して国民の”脅される喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。』政府は国民みんなの眼に見られないようにしながら国民みんなを殺したり虐めたり財産を取ったりして国民を脅している。今の国民は“脅される喜び”がないから、今の国民にとっては政府が要らないから政府にお金をやらないようにして政府を倒せばいいのである。今では国民みんながこのことをわかるようになって来ているから、国民みんなが政府の脅しを聞かなくなって政府が倒れているのである。
政府は国民を脅す会社である。昔の国民が自分が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくて隠して脅されたかったから、政府は国民に合わせて隠して国民を脅すために民主主義の芝居をやったりちょっとだけ善いことをやったりして自分が善い団体のふりをしながら国民の眼に付かないように密かに国民を脅しているのである。政府は自分が国民を脅すのを隠すために善い団体のふりをしているだけだから、そもそも政府は国民を脅す団体であって善いことをする団体ではないから、政府はたくさん国民を脅してちょっとだけしか善いことをしない。政府は自分が国民を脅しているのを隠すために善いことをしているだけだから、政府はちょっとだけしか善いことをしないのである。政府は大昔の豪族が善い団体のふりをして自分が国民を脅すのを隠すようになっただけだから、政府は国民を脅すのを隠すためにちょっとだけ善いことをしているだけだから、政府は国民を脅すことはたくさんするが善いことはちょっとだけしかしないのである。要するに、政府は国民を脅す団体である。政府は国民を脅すことはたくさんするが善いことはちょっとだけしかしないから、大雑把[おおざっぱ]に見れば政府が善いことをやっているのは政府が国民を脅しているのに比べて無視していいから、政府は国民を脅す団体である。国民と政府は平等である。だから、国民が政府の脅しを聞きたければ聞き、国民が政府の脅しを聞きたくなければ聞かなければいい。昔の国民は政府の脅しを聞きたかったから聞いていた。今の国民は政府の脅しを聞きたくないから聞かなければいい。今の国民みんなは早く政府の脅しを聞かないようにして政府にお金をやらないようにして政府を倒さねばならない。
今の国民にとって政府が国民を脅しているのがわかりにくいのは、昔の国民が自分が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくて隠しながら政府に脅されていたからである。今の政府が善い団体のふりをして国民を脅しているために、今の国民にとって政府が国民を脅していることがわかりにくいのは、昔の国民が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしかったのがいけないのである。今の国民は昔の国民の気持ちをわかってやって、政府が国民が恥ずかしがらずにすむようにわざわざ善い団体のふりをして隠しながら国民を脅してくれているのをわかってやって、今の自分には“脅される喜び”がないから脅されるのが嫌だから政府を利用しなければいいのである。政府は国民を脅す会社だから、政府に脅されたい者だけが政府の脅しを聞いて政府に脅されればいいから、今の国民は自分が脅されるのが嫌で政府に脅して欲しくなければ自分で政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにすればいいのである。
人間が精神分裂病に罹[かか]るのは人間の心に“怒りの感情”があるからである。人間が他人のしていることが気に入らなくて“怒りの感情”をいたずらに興奮させて他人のしていることに腹を立てて、その後で他人のしていることがいちいち自分の気に障[さわ]るようになるのが精神分裂病である。人間が鬱病[うつびょう]や神経症(ノイローゼ)に罹るのは人間の心に“見栄[みえ]の感情”があるからである。人間が他人に気に入られようとして自分が嫌なことをいやいや我慢[がまん]してやるのが神経症や鬱病である。特定のひとつのことが嫌なのが神経症で、自分の置かれている環境全体が嫌なのが鬱病である。それと同じように、人間が政府に脅されているのは人間の心に“脅される喜び”があるからである。昔は文明が低くて昔の人は“脅される喜び”があったから政府に脅される病気に罹っていたが、今は文明が高くて今の人は“脅される喜び”がないから政府に脅される病気が治っている。今の人は“脅される喜び”がないから、自分で政府に脅されなければいいのである。今の人が自分が本当は政府に脅されるのが嫌なのに、みんなに自分が変だと思われないために自分の“見栄の感情”を満足するために自分が政府に脅されなければならないと思っていやいやしかたなく政府に脅されているのは神経症である。“政府神経症”である。今は現実主義の時代だから、国民は法律を守ってみんなと平和にして、あとは自分の心を満足して自分を幸福にして暮らせばいい。人間はそれぞれ自分の心を満足しているから、自分の心と他人の心は違うから、他人が自分の気に入らないことをするのを認めねばならない。自分も他人の気に入らないことをしているから、逆に他人が自分の気に入らないことをするのを許さねばならない。そうすれば、“怒りの感情”を抑えて精神分裂病に罹らず、“見栄の感情”を抑えて鬱病にも罹らず幸福に生きていけるだろう。“政府神経症”にも罹らず自分が政府に脅されるのが嫌なら他人の目を気にせずに自分が政府に脅されるのを断って政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにして幸福に生きていけるだろう。


[22629] 今の国民は政府に脅[おど]されるのが嫌だから政府を倒せばいい。 h28.4.11
政府は国民を脅す会社である。人間の心には“脅される喜び”がある。つまり、“自分が殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。政府の仕事は国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にすることである。
昔の国民は“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくて隠して“脅される喜び”を満足していたので、政府は隠して国民を脅している。政府は自分が国民を脅すのを隠すために、民主主義の芝居をやったり、付属会社にお金をやったり、たまに自分でも善いことをやったりしている。政府は自分が国民を脅すのを隠すために必要十分な善いことしかしない。だから、政府はちょっとだけしか善いことをしない。政府は隠れて国民を脅している。政府は国民の眼につかないようにしながら国民を殺したり虐めたり国民の財産を取ったりしている。政府は国民にはっきりとわからないようにしながらじわじわと国民を脅している。国民は政府に密[ひそ]かに脅されている。今の国民に政府が国民を脅しているのがわかりにくいのはそのためである。政府は国民が眼で見てもわからないように隠して国民を脅しているから、国民は頭で『政府が国民を脅す会社だ』と考えてわかるしかないのである。地球が人間が眼で見てもわからないように太陽の周[まわ]りを回っているから、人間は頭で『地球が太陽の周りを回っている』と考えてわかるしかないのと同じことである。国民は『政府が国民を脅す会社だ』と考えて世の中を見ることによってはじめて政府がどんなことをして国民を脅していることがわかるのである。例えば、私は今から約11年前に『政府が私の情報を使って国家宗教をやっている』と考えて、ようやく政府が高知学芸高校上海列車事故を起こしたことがわかった。国民は『政府が国民を脅す会社だ』と考えて、それなら今の自分がどうすればいいかがわかればいいのである。
政府の本体は国民を脅す会社である。政府は国民を幸福にするために国民を脅している。政府が国民を脅すのは仕事である。政府は仕事で国民を脅している。政府と国民は平等である。だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。
昔の国民は隠して脅されるのが好きだったから、政府の脅しを聞いて政府に脅されていた。
今の国民は隠そうが隠すまいがとにかく脅されるのが嫌だから、政府の脅しを聞かず政府に脅されなければいい。
今の国民みんなは早く政府を倒して、政府をなくさねばならない。面白くない政府の民主主義の芝居をなくして、政府の付属会社を民営化して、国民がそれらの会社にお金をやって仕事をやってもらえばいい。会社は国民からお金がもらえなければやっていけない。会社の命運は国民が握[にぎ]っている。国民が政府にお金を払わなければ、政府の付属会社は困って自分から政府から独立して民営化するだろう。だから、国民は政府にお金を払わなければいいのである。国民が自分で善いことをする会社を建てて国民からお金をもらって仕事をすればいい。そうすれば、国民は政府に脅されて不幸にされずに、自分がやりたいことを会社にやってもらって幸福に暮らすことができる。


[22630] 政府は国民に気づかれないようにしながら国民を脅[おど]している。 h28.4.11
昔の国民は“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしかったので隠れて“脅される喜び”を満足していた。昔の政府は民主主義の芝居をやったり付属会社を経営したり善い事業をやったりして自分が善い団体のふりをしながら国民の眼の付かないところで国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりして隠れて国民を脅していた。
政府は国民の眼で見えないように隠しながら国民を脅しているので、国民は自分が気づかないまま政府に脅されている。国民は自分が知らないうちに政府に脅されている。今の国民は“脅される喜び”がないから今の国民は自分が脅されると不幸になるから、今の国民は自分が知らないうちに政府に脅されて不幸にされている。昔の国民は“脅される喜び”があったから昔の国民は自分が脅されると幸福になるから、昔の国民は自分が知らないうちに政府に脅されて幸福になっていた。今の国民はその反対である。ただ、私のように国民の中には何かのきっかけで『政府が国民を脅している』ことに気づく者がたまにいる。そういう者は『政府が国民を脅している』ことを知っている。(『宇宙戦艦ヤマト』に登場するガミラス星人は地球人と反対に放射能で元気になる。地球人は放射能で病気になるのに、ガミラス星人は放射能で健康になる。それと同じように、昔の国民は政府の脅しで幸福になったが、今の国民は政府の脅しで不幸になる。同じ政府の脅しでも人によって幸福になるか不幸になるかが違うのだ。だから、今の国民が幸福に暮らすためには政府を倒して政府の脅しのない社会にしなければならないのだ。)
今の政府は隠して国民を脅して国民を不幸にしている。今の国民は自分が気がつかないまま政府に不幸にされている。人間が眼に見えない放射線を浴[あ]びて自分が知らないうちに病気になるのと同じである。政府は年がら年中頭をひねって国民に知られないようにしながら国民を脅す方法を考えて実行している。例えば、政府は国民が好きなものをなくして嫌いなものを増やして国民が毎日不愉快[ふゆかい]な気分で落ち込んだ気分で生活しないといけないようにして国民を脅している。昔の国民にとっては政府が隠して国民を脅すのは有益だったが、今の国民にとっては政府が隠して国民を脅すのは有害である。だから、今の国民は早く政府を倒さねばならない。
そもそも政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を脅すことを仕事にしている会社である。国民が会社にお金をやって仕事をやってもらうか会社にお金をやらず仕事をやってもらわないかは国民個人の自由である。だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。昔は文明が遅れていて昔の国民は“脅される喜び”があったから昔の国民は脅されると幸福になったから、昔の国民は自分で政府の脅しを聞いて政府に脅されて幸福に暮らしていた。今は文明が進んで今の国民は“脅される喜び”がないから今の国民は脅されると自分の人権を侵されて不幸になるから、今の国民は自分で政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにして不幸にならないようにしている。今の国民は政府の脅しを聞かないようにして政府に税金を払わないようにして政府を潰[つぶ]している。そのために、今の政府はかなり潰[つぶ]れている。早く国民みんなで政府の脅しを聞かなくなって政府を潰して、国民が自分が知らないうちに政府に不幸にされないようにして、国民みんなが幸福に暮らさねばならない。

[22631] 政府は国民を脅[おど]すことと、自分が国民を脅すのを隠すことの二つのことをやっている。 h28.4.11
大昔(縄文時代)は文明がすごく低くて、大昔の人は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“脅[おど]される喜び”がある。つまり、人間の心には“自分が殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。そのために、昔の人は堂々と豪族に脅されて幸福に暮らしていた。豪族はみんなを脅すことだけやっていた。
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなって、昔の人は少し現実を知って現実の世界の中で生きるようになった。そのために、昔の人は“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしくなって、政府や幕府に隠して脅してもらって幸福に暮らしていた。昔の人はうわべだけまともぶって、心の中では大昔と同じように自分が政府や幕府に脅されて喜んでいたのである。政府や幕府は国民を脅すことと、自分が国民を脅すのを隠すことの二つのことをやっていた。政府は自分が国民を脅すのを隠すために、民主主義の芝居をやったり、付属会社にお金をやったり、たまに自分でも善いことをやったりした。政府は自分が国民を脅すのを隠すために善いことをやっているだけだから、政府はちょっとだけしか善いことをしないのである。政府はもともと国民を脅す会社だから、善いことをやる必要がないから、いやいや善いことをやるだけで善いことをほとんどしないのである。昔の人にとっても政府の脅しが目当てだったので政府が善いことをするのはどうでもよかったので、政府は善いことを飾り程度にしかやらなかったのである。
今(現代)になると電化生活が始まって文明がさらに高くなって、今の人は本気で現実を知って現実の世界の中で生きるようになった。人間が“脅される喜び”を満足すると現実の世界の中で幸福に暮らせない。そのために、今の人は“脅される喜び”を満足しなくなって、政府に脅されるのを断って政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにして幸福に暮らしている。政府は国民を脅すことをいっぱいやって、自分が国民を脅すのを隠すために善いことをちょっとだけやっている。今の人にとっては政府が善いことをするのが欲しくて政府の脅しが要らないので「小さな親切大きなお世話」と言うのである。反対に、昔の人にとっては政府の脅しが欲しくて善いことは要らなかったので「大きな親切小さなお世話」だったのである。
政府は国民を脅す会社である。政府の売り物は“脅し”である。商品を買うか買わないかは客が自分で決めることである。だから、今の国民は自分で考えて政府に脅されるか脅されないか決めねばならない。今の国民は現実の中で幸福に生きねばならないから“脅される喜び”を満足してはいけない。だから、今の国民は政府に脅されてはいけない。今の国民は自分で政府の脅しを聞かないようにして政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりしないようにして自分を幸福にしないといけない。

[22632] どうして今の国民は『政府が国民を脅す団体である』ことを知らないのか? h28.4.12
大昔(縄文時代以前)は文明がすごく低かったので大昔の人は自分の“脅される喜び”をずけずけと恥じ臆面[おくめん]もなく満足していた。豪族はみんなの眼の前で堂々とみんなを脅していた。だから、豪族が国民を脅していることがわかりやすかった。国民みんなが『豪族が国民を脅している』ことを知っていた。
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなって昔の人は“脅[おど]される喜び”を満足するのが恥ずかしくて隠れて“脅される喜び”を満足していた。そのために、政府は隠しながら国民を脅していた。政府は民主主義の芝居をやったり(政府が具体的に何をやっているのか言わない場合は芝居である)、付属会社にお金をやったり、たまに善い事業をやったりして自分が善い団体のふりをしながら、国民の眼につかないように隠れて国民を殺したり虐[いじ]めたり財産を奪ったりして国民を脅していた。
今(現代)でも政府は隠れて国民を脅している。だから、今の国民が眼で見ただけではなかなか政府が国民を脅していることがわからない。大人が隠してエッチをしているから、子供が大人がエッチをしていることを知らないのと同じことである。しかも、昔の人は自分が“脅される喜び”を満足するのが恥ずかしかったので『自分が脅される喜びを満足している』ことや『政府が国民を脅す団体である』ことをはっきりと字にして言わず喩[たと]えて伏せて言うだけだったので、本を読んでも『政府が国民を脅す団体である』ことはわかりにくい。そのうえ、今では電化生活が始まって文明がかなり高くなって今の人は現実の世界の中で自分の心を満足して生きているために“脅される喜び”がなくなっているので、今の人にはますます『政府が国民を脅す団体である』ことがわかりにくくなっている。
そういうわけで、今では『政府が国民を脅す団体である』ことを知っている者は少ないのである。今の国民には『政府が国民を脅す団体である』ことがわからないいろんな理由があるから、今の国民が『政府が国民を脅す団体である』ことを知らなくてもけっして恥ずかしくはないのである。年寄りから聞いた者や、たまたま政府が変なことをしているのに気づいて自分で考えた者だけが『政府が国民を脅す団体である』ことを知っているのである。星の中に変な運動をする星があることに気づいて自分で考えた者が『地球が太陽の周[まわ]りを回っている』ことを知ったのと同じである。
昔の人もみんなが隠れて政府に脅されていたので、はっきりと『政府が国民を脅す団体である』ことを知っている者は少なかった。昔の人のほとんどは政府が何かがはっきりとわからないまま政府の言う通りにしてなんとなく自分が幸せに暮らして喜んでいただけだったのである。
国民みんなが知っていようがいまいがとにかく『政府は国民を脅す団体』である。政府は年がら年中毎日国民に気づかれないようにしながら密[ひそ]かに国民を殺したり虐めたり財産を取ったりして国民を脅している。昔は文明が低くて昔の国民は“脅される喜び”があったから、昔の国民は政府に隠して脅してもらって幸福に暮らしていたのでよかった。しかし、今は文明が高くて今の国民は“脅される喜び”がないので、今の国民は政府に隠して脅してもらって不幸に暮らしている。今の国民は政府が何かがわからないまま政府の言う通りにしてなんとなく自分が不幸に暮らして苦しんでいるのである。昔の国民は自分が幸福に暮らすために政府にお金を払っていた。今の国民は自分が不幸に暮らすために政府にお金を払っている。昔の国民は自分がわけがわからないまま政府の言う通りにして幸福に暮らしていた。今の国民は自分がわけがわからないまま政府の言う通りにして不幸に暮らしている。
今の国民は政府に隠して脅されて不幸に暮らしている。このまま今の国民が政府に隠して脅されて不幸にされていてはいけない。『政府は国民を脅す団体である。』つまり、政府は国民を脅して国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を脅すことが仕事である。人間はみな平等なので、政府と国民は平等なので、国民が政府に脅してもらうか脅してもらわないかは国民個人の自由である。昔の国民は“脅される喜び”があったから脅されるのが好きだったから政府に脅してもらえばよかったが、今の国民は“脅される喜び”がないから自分の人権を侵されるのが嫌だから脅されるのが嫌だから、政府に脅してもらわなければいい。今の国民は自分で政府の脅しを聞かないようにして政府にお金をやったり自分が嫌なことをやったりしないようにして自分を幸福にすればいいのである。今の国民にとっては政府は要らないから、国民みんなで早く政府を倒せばいいのである。
政府は国民みんなのために善いことをする民主主義の団体ではなく、自分が善い団体のふりをして国民みんなに隠しながら国民みんなを脅す団体である。昔の人は脅されるのが好きだったが脅されるのが恥ずかしかったので、政府は昔の人のために自分がみんなを脅しているのを隠してみんなに自分がみんなを脅しているのがわからないようにしながらみんなを脅してくれていたのである。政府が隠そうが隠すまいがとにかく政府は国民を脅している。要するに、政府は国民を脅して国民を幸福にする会社である。政府と国民は平等だから、国民が政府に脅してもらうか政府に脅してもらわないかは国民個人の自由である。今の国民は自分が脅されるのが好きなら自分で政府の脅しを聞いて政府に脅してもらい、自分が脅されるのが嫌なら自分で政府の脅しを聞かないようにして政府に脅されないようにしなければならない。今では国民のほとんどが脅されるのが嫌だから、早く国民みんなで政府を潰して脅しのない国にすればいいのである。

[22633] 昔と今では国民みんなの心が違う。 h28.4.12
ヤクザ(暴力団)は今も昔も同じである。ヤクザは今も昔もみんなを殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりしてみんなを脅[おど]している。それなのに、昔のヤクザはみんなの人気者だったが、今のヤクザはみんなの嫌われ者である。それはみんなの心が変わったからである。昔はみんなが脅されるのが好きだったが、今はみんなが脅されるのが嫌いである。
ヤクザと同じように、政府も今も昔も同じである。政府は今も昔も同じように国民みんなを殺したり虐めたりお金を取ったりしてみんなを脅している。ただし、政府はヤクザと違ってみんなを恥ずかしがらせないために自分が国民みんなを脅しているのを隠しながらみんなを脅している。昔の人は“脅される喜び”があって脅されるのが好きだったが、自分が“脅される喜び”を満足するのがかっこ悪いと思っていたので“脅される喜び”を隠して満足していた。そのために、政府はわざわざ民主主義の芝居をやったり、付属会社にお金をやったり、たまに自分でも善いことをやったりして自分が善い団体のふりをしながら、国民みんなの眼につかないところで密[ひそ]かに国民みんなを殺したりいじめたりお金を取ったりして国民みんなを脅して、国民みんなに恥ずかしい思いをさせないようにして国民みんなを脅している。
昔は文明が低くて国民みんなが現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。そのため、昔の人は脅されるのが好きだった。しかし、今では文明が高くなって国民みんなが現実を知って現実の世界の中で幸福に生きている。現実の世界の中で自分が幸福に生きるためには“脅される喜び”が邪魔[じゃま]なので今の人は“脅される喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分の人権を侵されるのが嫌だからと脅されるのが嫌である。昔の人は脅されるのが好きだったから自分を幸福にするために自分からヤクザに脅されていた。反対に、今の人は脅されるのが嫌だから自分を幸福にするために自分からヤクザに脅されなくなった。そのために、ヤクザは自分がみんなを脅してお金がもらえなくなってお金が儲[もう]からなくなって滅んでいる。ヤクザは隠さずにみんなを脅している。だから、隠すのが嫌いな人は政府に脅してもらわずにヤクザに脅してもらっていた。宗教団体も同じである。宗教団体は神に因[ちな]んだことをやってみんなを殺したり虐めたりお金を取ったりしてみんなを脅している。神が好きな人は政府に脅してもらわずに宗教団体に脅してもらっていた。宗教団体やヤクザもみんなに掟[おきて]を守らせて世の中を平和にしていた。昔の日本では多くの人が脅されるのが好きだったが、脅されるのが恥ずかしくて、神が嫌いだった。そのために、昔の日本では多くの人が政府や幕府に脅してもらっていた。もっとも、古代や近代には国民みんながヨーロッパを真似[まね]て国家宗教をやっていたので、政府に国家宗教で脅されて満足していた。今ではみんなが脅されるのが嫌なので、政府に脅されなくなっている。政府は隠して国民を脅しているので、そのお返しに今の国民は隠して政府に脅されなくなっている。今の国民はみんなの眼につかないようにしながら自分ひとりで密かに政府の脅しを聞くのをやめて政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりしないようにして政府に脅されないようにしている。
昔は国民みんなが脅されるのが好きだったが、人によって脅されるのが恥ずかしかったり、脅されるのが恥ずかしくなかったり、神に従うのが好きだったりした。そのために、昔はみんなが自分の心に応じて自分で選んで政府に脅してもらったり、ヤクザに脅してもらったり、宗教団体に脅してもらったりしていたのである。政府の脅しだけで飽き足りない人はヤクザや宗教団体にも脅してもらっていた。反対に、脅されるのが嫌いな人は政府にも暴力団にも宗教団体にも脅してもらわなかったのである。国民が政府や幕府に「自分は脅されるのが嫌いだ」と言って穏[おだ]やかに脅されるのを断ったら、政府や幕府は「“蓼[たで]食う虫も好き好き”と言うから世の中には変わった者もいるもんだ」と言って笑って脅さなかったのである。政府や宗教団体は隠しながら脅すから国民をあまり脅さない。暴力団は隠さずに堂々と脅すから国民を派手[はで]に脅してくれる。昔の国民はあまり脅されるのが好きではなかったから政府や宗教団体に脅してもらっていた。日本人は自尊心が強くて神に従うのが嫌だから、日本人のほとんどが政府や幕府に脅してもらっていた。“脅しマニア”の国民は政府や宗教団体の脅しでは物足りなくて暴力団にきつく脅してもらっていた。ときどきヤクザが仕事熱心のあまり客を脅しすぎて客を殺して新聞に顔が出たりしていた。
政府や幕府にとっては宗教団体やヤクザが強くなるのが怖かったので、政府や幕府は宗教団体やヤクザが大きくなると攻撃して潰していたのである。例えば、天草四郎の乱とか太平天国の乱がそうである。
反対に、今では国民みんなが脅されるのが嫌だから、今ではみんながヤクザにも宗教団体にも政府にも脅されなくなっている。もっとも、いつの時代にも変わり者はいるから、今でも脅されるのが好きな人は自分で政府や暴力団や宗教団体のところに行って脅してもらって喜んでいるのである。大事なのは、人間が自分の心を正しく知り自分の心を正しく満足して自分を幸福にしなければならないことである。
昔は国民みんなが脅されるのが好きだったが、今では国民みんなが脅されるのが嫌いである。そのため、昔はヤクザに人気があったが、今はヤクザに人気がない。今では国民みんながヤクザに脅されなくなってヤクザが潰[つぶ]れている。それと同じように、昔は政府に人気があったが、今は政府に人気がない。そのために、今では国民みんなが政府に脅されなくなって政府が潰れているのである。

[22634] 政府は自分が国民を脅[おど]すのを隠すために善いことをやるだけである。 h28.4.12
政府は国民を脅す会社である。政府は国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりして国民の“脅される喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府が善いことをやっているのは自分が国民を脅すのを隠すためだから、政府はちょっとだけしか善いことをしないのである。だから、いくら国民が政府に善いことをやってくれるのを期待しても無駄[むだ]である。昔の人が自分が脅されるのが好きだったが脅されるのが恥ずかしかったので、政府は国民が恥ずかしがらずにすむようにちょっとだけ善いことをやって隠しながら国民を脅しているのである。政府の民主主義は自分が国民を脅すことを隠すための飾りにすぎないのである。
政府はただの国民を脅す会社である。政府の民主主義は自分が国民を脅しているのを隠すための芝居である。政府は本当は民主主義ではない。だから、政府には国家権力も何もない。政府と国民は平等である。国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。
昔は文明が低くて国民みんなに“脅される喜び”があって国民みんなが脅されるのが好きだったので国民みんなが自分から政府の脅しを聞いて政府に脅されていた。国民みんなは自分で自分の“脅される喜び”を満足して自分が幸福になるために自分から望んで政府の脅しを聞いていた。国民みんなは政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりして快感を感じていた。
しかし、今は文明が高くて国民みんなが現実の世界の中で幸福に生きるようになって“脅される喜び”が邪魔[じゃま]になって国民みんなが“脅される喜び”を満足しなくなって脅されるのが嫌になったので国民みんなが自分から政府の脅しを聞かなくなって政府に脅されなくなった。国民みんなが政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりしなくなって幸福になっている。国民みんなは法律を守って他人と平和に暮らしながら、自分の心を知って自分の心を満足して幸福に暮らしている。
そういうわけで、今では国民みんなが政府の脅しを聞かなくなって政府にお金を払わなくなって政府が滅んでいる。昔の人は心の世界の中で暮らしていたので“脅される喜び”を満足して生きていた。今の人は現実の世界の中で暮らしているので現実の世界の中にある喜びを満足して生きていかねばならない。

[22635] 今の国民は“隠して脅[おど]される喜び”がないので政府の脅しを聞かなくなっている。☆ h28.4.13
大昔(縄文時代)は文明がすごく低かったので大昔の人は現実をまったく知らず現実の世界の外で幸福に暮らしていた。人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。そのため、大昔の人は恥臆面[はじおくめん]もなく豪族に脅されて自分の“脅される喜び”を満足して幸福に暮らしていた。豪族は自分がみんなを脅してみんなを幸福にしていることをみんなに示すために、わざわざみんなの眼に付くところで派手[はで]にみんなを殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりしていた。
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなって昔の人は少し現実を知って現実の世界の中で幸福に暮らすようになった。しかし、昔の人はまだ“脅される喜び”があった。昔の人は脅されるのが好きだったが脅されるのが恥ずかしかったので、昔の人には“脅される喜び”と“恥の感情”がいっしょになって“隠して脅される喜び”があった。昔の人は政府に“隠して脅して”もらって幸福に暮らしていた。(昔のヨーロッパ人に“脅される喜び”と“神に従う喜び”の両方があったのでそれらがいっしょになって“神の情報を使ったことで脅される喜び”があって、昔のヨーロッパ人が“神の情報を使ったことで脅される喜び”を満足するために政府の“神の情報を使った脅し”を聞いていたのと同じことである。)政府は“隠して脅す”ために、民主主義の芝居をやったり、付属会社にお金をやって経営したり、たまに自分でも善い事業をやったりして自分が善いことをやる団体のふりをして、国民みんなの眼につかないところで国民みんなを殺したり虐めたりお金を取ったりして密[ひそ]かに国民みんなを脅していた。(旧約聖書のアダムとイブの失楽園の話も『人間が文明生活をするようになったために性行為が恥ずかしくなって性器を隠すためにパンツを履[はく]くようになった』ことを表している。だから、人間が農耕生活をするようになったために脅されるのが恥ずかしくなって隠して脅されるようになってもおかしくはない。聖書の上では人間は文明が進むと不幸になることになっているが、実際には人間は文明が進むと幸福になる。文明が進むと人間は病気や飢えや退屈から解放されて幸福になる。文明が進むと人間が現実の中でできることが増えて幸福になる。人間の楽園は心の世界ではなく現実の世界にある。人間は自分が幸福に生きるために現実の世界を目指[めざ]さねばならない。)
今(現代)になると電化生活が始まって文明がかなり高くなって今の人は本気で現実を知って現実の世界の中で幸福に暮らすようになった。人間が現実の世界の中で幸福に暮らすためには“隠して脅される喜び”が邪魔[じゃま]なので、今の人は“隠して脅される喜び”を満足しなくなった。今の人は政府の脅しを聞かないようにして政府に隠して脅されるのを断って自分が政府に隠して殺されたり虐められたりお金を取られたりしないようにして幸福に暮らしている。(眼に見えない物がないと考えると電波が眼に見えないから電波がないことになる。しかし、電波はある。ラジオやスマホが使えるから電波がある。科学では眼で見えない物があると考える。だから、『政府が国民の眼に見えないところで国民を脅している』と考えてもいいのである。)
要するに、昔の人は“隠して脅される”のが好きだったので、政府の脅しを聞いて政府に隠して脅されて幸福になっていた。反対に、今の人は“隠して脅される”のが嫌いなので、政府の脅しを聞かず政府に隠して脅されなくなっている。今の人は政府の脅しを聞かなくなって政府に隠して殺されたり虐められたりお金を取られたりしなくなって自分を幸福にしている。
人間は自分で自分の心を満足して自分を幸福にすればいい。自分で自分を幸福にした人間が幸福に暮らせるのであり、自分で自分を幸福にしなかった人間が不幸に暮らさねばならないのだ。

私は自分の興味で政府について考えた。そして10年ぐらいかけて政府のことが理解できた。ただそれだけだ。私は仕事で政府について考えたのではないから1円も儲[もう]からない。私が考えたことは当然著作権で保護される。他人が私の考えを利用すると犯罪になって罰せられる。今後、私は以前のようにどこかの工場で作業をやって働くか、あるいは仕事がなくて自殺するかのどちらかだろう。私は普通の人ほど身体が健康ではないから普通の人よりも10年ぐらい早死にするだろう。

[22636] 人間は現実を自分の眼で見て自分の頭で考えて現実を知らねばならない。☆ h28.4.13
眼で見る世界では「太陽や星が地球の周[まわ]りを回っている。地球が宇宙の中心である。」
同じように、眼で見る世界では「政府が国民のために善いことをやっている。政府は民主主義の団体である。」
しかし、眼でよく見ると星の中には変な動きをする星(惑星)がある。どうして変な動きをするかについてよく考えると『地球が太陽の周りを回っている』ことがわかる。さらに考えて行くと、『慣性の法則とか力の法則とか作用反作用の法則などの力学の法則』がわかる。
同じように、眼でよく見ると政府はときどき変なことをやっている。例えば、私の情報で作られたアニメがある。どうして私の情報で作られたアニメがあるかについてよく考えると『政府が私の情報を使って悪いことをやっている。政府が国民を脅[おど]す団体である』ことがわかる。さらに考えていくと、『人間の生まれつきの心には“脅される喜び”がある。政府は国民の“脅される喜び”を満足するために国民を脅して国民を幸福にする会社である。政府が国民を脅すのは仕事だから、国民と政府は平等だから、国民が政府に脅されるか脅されないかは国民個人の自由である。昔は文明が遅れていて人間が現実を知らずに現実の世界の外で自分の心のままに生きていたから、昔の国民には“脅される喜び”があったから脅されるのが好きだったから、自分から政府の脅しを聞いて政府に脅されていた。反対に、今は文明が進んで人間が現実を知って現実の世界の中で幸福に生きているから現実の世界の中で人間が幸福に生きるためには“脅される喜び”が邪魔[じゃま]だから今の国民は“脅される喜び”を抑[おさ]えているから今の国民には“脅される喜び”がないから脅されるのが嫌だから、政府の脅しを聞かず政府に脅されなければいい』ことがわかる。
人間は現実を自分の眼で見て自分の頭で考えねばならない。そうすれば真実がわかる。真実がわかれば、あとは真実に従って自分の心を満足して自分を幸福にすればいい。人間が『力学の法則』に従って行動すれば、いろんな発明が出来て幸福に暮らせる。蒸気機関や工作機械や自動車などが出来て、人間がそれらを使って幸福に暮らすことができる。同じように、人間が『政府は国民を脅す会社だが、今の人間には“脅される喜び”がないから今の国民は脅されるのが嫌だから、政府に脅されるのを断って政府の脅しを聞かなければいい』ことに従って行動すれば、自分が幸福に暮らせる。今の国民は政府の脅しを聞かず政府に殺されたり虐[いじ]められたりお金を取られたりしないようにして幸福に暮らせる。

私は子供のころから性格がナイーブである。内気である。私は生まれつき人前で話すのが苦手である。だから、私は人前で話したりしない。私は自分の考えを字に書くだけである。馬鹿は何を話してもわかってくれない。馬鹿にわかることなんかない。馬鹿に話しても無駄[むだ]である。馬鹿は無視したほうがいい。だから、私は話さない。しかし、世の中のすべての人が馬鹿というわけではない。たまには馬鹿でない人もいる。私はそういう人のために自分の考えたことを公開して自分の考えたことが他人にも読めるようにしているのである。
 
[22637] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。 h28.4.13
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。(“悪いことをされる喜び”は、これまでの“脅される喜び”と同じものである。)つまり、人間の心には“自分が殺されたり虐[いじ]められたりお金を取られたりする喜び”がある。人間の心は人間が生まれつき持っている現実に対する認識であり、人間の心には現実に対するまちがいがたくさんあるから、人間の心には“悪いことをされる喜び”があるのである。人間はずっと昔(数万年前)はほかの動物のエサだったから、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、今でもそのころの名残[なごり]で“悪いことをされる喜び”があるのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。政府は“悪いことをする仕事”をする会社である。政府は国民のために悪いことをする。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
大昔(縄文時代)は文明が低くて大昔の人は現実を知らずに現実の世界の外にいて自分の心のままに生きていたから大昔の人は“悪いことをされる喜び”があったから、大昔の人は“悪いことをされる喜び”をそのまま満足していたから、豪族にみんなの眼の前で悪いことをされて幸せに暮らしていた。大昔の人は悪いことをされるのが好きだったから、大昔の人は自分が幸福になるために豪族に殺されたり虐められたり財産を取られたりしていたから奴隷制[どれいせい]の社会だったのである。つまり、大昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために自分から奴隷をやっていたのである。大昔の人は自分が奴隷をやりたかったから奴隷をやっていたのである。むしろ、豪族のほうが自分が仕事でみんなに悪いことをするだけで、自分がみんなに悪いことをされず自分の“悪いことをされる喜び”が満足されずに面白くない思いをしていたのである。奴隷制の社会では奴隷が幸福で豪族は不幸だったのである。(日本も例外ではない。日本も大昔は奴隷制だったのである。)
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって少し文明が高くなって、昔の人は少し現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足するようになって昔の人は“悪いことをされる喜び”があったが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかったので、政府や幕府に隠して悪いことをされて幸福に暮らしていた。政府や幕府は隠して悪いことをするために、民主主義の芝居をやったり付属会社にお金をやって経営したりたまに自分でも善い事業をやったりして自分が善いことをやっているふりをして、自分が国民の眼につかないようにして国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをやっていた。昔の人はあからさまに悪いことをされるのが嫌だったから、昔の人は自分が幸福になるために政府や幕府に隠して殺されたり虐められたり財産を取られたりしていたから“隠れ奴隷制”の社会だった。昔の人は奴隷になりたかったが、奴隷であることが恥ずかしかったので、うわべは政府や幕府と平等にして隠れて奴隷制をやって喜んでいたのである。昔の“隠れ奴隷制”の社会では、隠れて悪いことをされている国民みんなのほうが幸福で、隠れて悪いことをしている政府や幕府のほうが不幸だったのである。だから、そういう社会が安定に存在できたのである。
今(現代)になると電化生活が始まってかなり文明が高くなって、今の人は本気で現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足するようになって今の人にとっては“悪いことをされる喜び”が現実の世界の中で幸福に生きるためには邪魔[じゃま]になるので“悪いことをされる喜び”を抑[おさ]えて“悪いことをされる喜び”がなくなったので、むしろ今の人にとっては自分の人権を侵されるのが嫌なので悪いことをされるのが嫌なので、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをされないようにして幸福に暮らしている。今の人はちょっとでも悪いことをされるのが嫌になったから、今の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをされなくなったから奴隷制がなくなった。今の人はようやく自分が奴隷をやるのが嫌になって奴隷をやめたのだ。今の人は“悪いことをされる喜び”がないから、自分が奴隷になりたくないから、政府が要らなくなったから、自分が政府の言うことを聞くのをやめて政府にお金をやらないようにして政府を倒しているのである。今の国民は法律を守ってみんなと平等に平和に暮らして、あとは自分の心を知って自分の心を満足して幸福に暮らせばいいのである。今の“奴隷制のない社会”では、隠れて悪いことをされている国民みんなのほうが不幸で、隠して悪いことをしている政府のほうが幸福だから、国民みんなが不満になって政府を倒しているのである。そういう社会は不安定だから、社会を安定にするために国民みんなで国民みんなを不幸にする政府を倒しているのである。国民みんなで政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされないようにして政府にお金をやらなくなって政府を倒しているのである。政府は国民みんなにかなわないからおとなしく国民みんなに倒されているのである。
時代が進むと文明が高くなって人間が自然に支配されることから自然を支配することに変わって人間が動物に食べられることから動物を食べることに変わって人間に“悪いことをされる喜び”がなくなる。昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったが、今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。昔の国民は悪いことをされると幸福になったが、今の国民は悪いことをされると不幸になる。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は昔の国民を幸福にしていたが、今の国民を不幸にする。そのため、今の国民は政府に悪いことをされるのを断って政府の命令を聞かなくなって政府に悪いことをされなくなって幸福に暮らしている。政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。要するに、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する機関(つまり会社)である。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて喜んでいた。反対に、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなって政府を倒しているのである。
今ぐらい文明が高ければ普通の人なら自分で考えて『政府が国民に悪いことをして喜ばせる会社だから、今の国民には“悪いことをされる喜び”がないから、政府に悪いことをされるのを断って政府に悪いことをされなければいい』ことがわかってそうするはずである。そうしないのは馬鹿である。だから、テレビや新聞はからかい気味にみんなに「政府が悪いことをする会社である」ことを教えているのである。今は文明社会だから、今の人はもっと現実に関心を持って現実について考えて現実を知らねばならない。
今の政府は国民みんなに「政府が自分の幸福のために悪いことをする犯罪組織である」と思わせて生き残ろうとしている。そのために、政府は大人の刑事ドラマや時代劇や子供のアニメや特撮などで現実の政府や幕府や暴力団とは違う話をやらせて国民みんなに政府に対する誤解を植え付けようとしている。政府はドラマやマンガが作り話であり作り話では何でもやっていいことを利用して、ドラマやマンガでまちがった話(つまり、政府や幕府や暴力団が自分の幸福のために国民に悪いことをする犯罪組織である話)をやらせて国民に“悪いことをされる喜び”を満足する団体に対する誤解を植え付けようとしているのである。しかし、「政府が自分の幸福のために悪いことをする犯罪組織だ」とすると、これまで大勢の国民が自分が政府に悪いことをされて不幸なのにおとなしく政府に従っていたのが納得行かない。いくら政府が嘘[うそ]をついて国民を騙[だま]そうとしても、しょせん嘘は嘘である。嘘ではつじつまが合わないから、しょせん嘘では国民を騙すことはできない。今の国民は自分で考えて『そもそも政府や幕府や宗教団体や暴力団は国民の幸福のために国民に悪いことをする会社である。政府や幕府や宗教団体や暴力団は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために悪いことをする会社である』ことがわかっている。それなら、昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったのでおとなしく政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていたことが納得できる。反対に、今の国民は自分に“悪いことをされる喜び”がないので政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなって政府にお金をやらなくなって政府を倒しているのである。

[22638] 『ムンクの叫[さけ]び』 h28.4.14
『ムンクの叫び』の真ん中の叫んでいる男は政府である。左の橋を渡って近づいてくる3人の殺し屋は国民である。
政府がもうすぐ国民みんなに倒されるから怖くなって叫んでいるのである。(ムンクは真ん中の男が自分であって、地球の叫びを聞いているのだと述べているが嘘[うそ]である。)
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する機関(つまり会社)である。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったので政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。政府は国民からお金を取って儲[もう]かっていた。反対に、今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府が国民からお金を取れなくなって滅んでいるのだ。
『ムンクの叫び』はマンガやアニメによく出てくるから、ムンクの叫びの真ん中の男は政府である。(例えば、『超くせになりそう』の角田[つのだ]くんは政府である。角田くんがムンクの叫びをやっていたから角田くんは政府である。角田くんは番長だから政府である。第24話「スター誕生!俺は角田だ!」では「角田くんが古い」とみんなに言われていた。だから、政府の時代は古いのだ。第39話(最終回)「ラストオブアイドル」が座談会なのは登場人物がすべて実在する人間であることを表している。主役の大鳥なぎさが私で、モモコ・プリシラが皇太子である。上岡龍[かみおかりゅう]は政府である。)一方、『ムンクの太陽』は文明や科学のことだろう。太陽がみんなの心を変えて政府を倒したのだ。h28.4.20追記:つまり、『ムンクの叫び』は政府の世界が終わることを表している。『ムンクの太陽』は新しい世界が始まることを表しているのだ。これまでは国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足する時代だった。これからは国民みんながいろんな新しい喜びを満足して生きる時代になるのだ。
h28.5.18追記:あるいは、ムンクの『叫[さけ]び』では、真ん中の青白い顔をした男が“悪いことをされる喜び”を満足している国民で、左の橋の上の3人の黒服の男が政府と宗教団体と暴力団である。昔の人は政府や宗教団体や暴力団に命令させて悪いことをさせていたので政府や宗教団体や暴力団が高いところにいるのである。ムンクの『叫び』は、人間が“悪いことをされる喜び”を満足して生きる時代が終わることを表している。ムンクの『太陽』は、人間が物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きる時代が来ることを表している。

[22639] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する機関である。☆ h28.4.14
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサだったので人間ほかの動物に殺されたり虐[いじ]められたり食べられたりするために生きていたので、そのころの名残[なごり]で人間には“悪いことをされる喜び”がある。
大昔(縄文時代)は文明がすごく低くて大昔の人はまったく現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていたので恥臆面[はじおくめん]もなく“悪いことをされる喜び”を満足していたので、豪族に堂々とみんなの眼の前で殺されたり虐められたり財産を取られたりして悪いことをされて幸福に暮らしていた。
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなって昔の人は少し現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して暮らすようになった。昔の人は“悪いことをされる喜び”があったが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかったので隠して“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は隠して“悪いことをされる喜び”を満足するために政府や幕府に隠して悪いことをされて幸福に暮らしていた。政府や幕府は隠して悪いことをするために、国民みんなの眼の前で民主主義の芝居をしたり付属会社にお金をやったり自分でも善い事業をやったりして自分が善い団体のふりをしながら、国民みんなの眼の届かないところで密[ひそ]かに国民みんなを殺したり虐めたり財産を奪ったりして国民みんなに悪いことをやっていた。昔は国民みんなが“悪いことをされる喜び”があったので政府や幕府に悪いことをされればされるほど幸福だったので、国民みんなが政府や幕府にお金を取られれば取られるほど幸福だったので、政府や幕府は国民みんなを幸福にするために国民みんなからありったけお金を取ってすごく儲[もう]かって毎日お金を湯水のように使って遊びまわっていた。
今(現代)になると電化生活が始まって文明がかなり高くなって今の人は本気で現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して暮らすようになっている。今の人は現実の世界の中で自分が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分の人権が侵されるのが嫌なので悪いことをされるのが嫌である。今の人は自分が隠して悪いことをされないために政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをされないようにして幸福に暮らしている。政府は国民みんなに隠して悪いことができなくなって国民みんなから財産を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する機関である。ところが、時代が進むと文明が高くなって国民みんなが現実の世界の中で自分の心を満足して暮らすようになって“悪いことをされる喜び”が邪魔になって“悪いことをされる喜び”がなくなる。そのため、今の国民は政府が要らなくなって政府を無視して政府に金を払わなくなって政府が潰れている。人間の“悪いことをされる喜び”がなくなると政府も消えてなくなるのだ。
今の人は政府に対する正しい理解がないために政府が何かがわからないために政府の言うことを断れず政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて不幸にされている。今の人は早く政府に対する正しい理解を持って政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされないようにして幸福にならねばならない。

[22640] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにある。 h28.4.14
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する機関である。政府は国民が自分の“悪いことをされる喜び”を満足するためにある。国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるのである。政府は国民が自分を幸福にするためにある。政府は国民のためにある。だから、国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないかは国民個人の自由である。国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないかは国民が自分で決めればいいのである。
昔は文明が低くて国民が“悪いことをされる喜び”を満足して生きていた。昔の国民は悪いことをされるのが好きだった。だから、昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
反対に、今は文明が高くて国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今の国民は悪いことをされるのが嫌である。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。
文明が進むと人間の心が変わる。昔の人は自分が殺されたり虐められたりお金を取られたりしたら幸福だったが、今の人は自分が殺されたり虐められたりお金を取られたりしたら幸福ではない。そういうふうに人間の心が変化してきたのである。昔の国民は悪いことをされるのが好きだったが、今の国民は悪いことをされるのが嫌いである。そのために、昔は政府が国民みんなからお金を取って儲[もう]かっていたが、今では政府が国民みんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
国民が政府にお金をやらなければ、政府の付属会社はお金に困って政府から独立して民営化して国民から直接お金をもらって仕事をするようになる。だから、国民は躊躇[ちゅうちょ]せずに政府にお金をやらなければいい。政府が国民のためにあるように、政府の付属会社も国民のためにある。世界は国民のためにある。国民が自分に要る会社にお金をやって要らない会社にお金をやらないようにして、国民が自分で会社を残すか潰すか決めればいい。国民が自分で自分にとって善い国を作ればいいのである。

[22641] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。 h28.4.14
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりして国民に悪いことをする。政府は自分を幸福にするために国民に悪いことをしているのではなく、国民を幸福にするために国民に悪いことをしているのである。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。政府は国民のために国民に悪いことをしている。政府よりも国民のほうが上である。だから、国民が政府に悪いことをされるかされないかは国民が自分で決めればいい。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされればよく、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が低くて国民が現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに暮らしていた。人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物のエサとして生きていたので“悪いことをされる喜び”がある。昔の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
しかし、今(昭和40年=1965年ごろ以後)は文明が高くて国民が現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して暮らしている。今の国民にとっては“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は悪いことをされて自分の人権を侵されるのが嫌である。今の国民は悪いことをされるのが嫌なので、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。
そういうわけで、今では国民みんなが政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。政府は人間の“悪いことをされる喜び”とともに滅んでいるのだ。

[22642] どうしてマンガ家は出版社に稼[かせ]ぎのほとんどを取られるのか? h28.4.15
マンガ家は印税のために出版社に稼ぎのほとんど(95%以上)を取られている。マンガ家は出版社に比べてあまりにも不利である。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が低くて昔の人は現実を知らずに現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサだったので、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”があるのである。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、他人に悪いことをされていた。例えば、国民は政府や宗教団体や暴力団(ヤクザ)に悪いことをされていた。社員は社長に悪いことをされていた。マンガ家は出版社に悪いことをされていた。特にマンガ家は自分の心の世界に生きているから普通の人よりも“悪いことをされる喜び”が強いから、マンガ家は出版社の言いなりになって悪いことをされて喜んでいたのである。マンガ家は自分で自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために出版社に崖[がけ]から突き落とされて殺されたり、カンヅメにされて遊べないようにして虐められたり、自分の稼ぎのほとんどを出版社に取られたりして悪いことをされていた。
しかし、今(昭和40年=1965年ごろ以後)は文明が高くなって今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。人間が現実の世界の中で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]になるので、今の人は自分で自分の“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分が悪いことをされて自分の人権が侵されるのが嫌である。そのため、今の人は自分が幸福になるために、他人に悪いことをされなくなっている。今の人は自分で他人に悪いことをされるのを断って悪いことをされないようにしている。例えば、国民は政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされないようにしている。社員や社長に悪いことをされないようにしている。マンガ家は出版社に悪いことをされないようにしないといけない。マンガ家は自分が現実の世界の中で幸福に暮らすために自分で出版社に殺されたり虐められたりお金を取られたりして悪いことをされるのを断って悪いことをされないようにしないといけない。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔の人は自分が殺されたり虐められたりお金を取られたりするのが幸福だったが、今の人は自分が殺されたり虐められたりお金を取られたりするのが不幸である。そういうふうに人間の心が変化してきたのである。今の人は今の自分の心を満足しないといけない。今の人は自分が悪いことをされるのが嫌だから自分で他人に悪いことをされるのを断らねばならない。国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないようにしないといけない。社員は社長の言うことを聞かず社長に悪いことをされないようにしないといけない。マンガ家は出版者の言うことを聞かず出版者に悪いことをされないようにしないといけない。マンガ家は出版社と縁を切って自分でマンガを電子出版して稼ぎを独[ひと]り占めして出版社を飢え死にさせないといけない。そうすれば、マンガ家は都心の豪邸で暮らして毎日贅沢[ぜいたく]な食事をして休日には自分の好きなところに行って遊びまわって幸福に暮らせるだろう。
昔の人は悪いことをされるのが好きだったから悪いことをするのが仕事になった。反対に、今の人は悪いことをされるのが嫌いだから悪いことをするのが仕事にならない。今の世の中には“悪いことをする仕事”はあってはならない。だから、国民みんなで他人に悪いことをされるのを断って“悪いことをする仕事”をなくさねばならない。昔の社会では“悪いことをする仕事”が美味[おい]しい仕事だったから、厳しい試験や資格を設けてみんなで奪い合っていたのである。今の社会ではそんな仕事はないから、今ではみんなが自分が有利に生きていくためには自分の仕事の才能を磨[みが]いてまじめに働くしかない。
今後は“悪いことをする仕事”がなくなるから、今後は実力主義の社会になる。実力主義の社会ではみんなが他人の稼ぎを取れないから、みんなが自分で働いて自分で稼がねばならない。仕事の才能がある者が豊かになって幸福になって、仕事の才能がない者が貧乏になって不幸になる。みんなは自分が幸福になるために、自分の仕事の才能を磨くために小さいころから勉強しなければならない。今後はみんなで働いてみんなで儲けてみんなで豊かに暮らせる社会になるだろう。

[22643] どうして昔の政府には権力があったのか? h28.4.15
昔の政府は国民に何でも命令できた。昔の政府は国民に嫌なことでも命令できた。昔の政府は国民に命令して国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりできた。昔の政府には権力(つまり命令力)があった。
それは、昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったからである。昔は文明が低くて昔の人は現実を知らずに現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。ところが、人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔動物のエサだったので、動物に殺されたり虐められたり食べられるために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”があるのである。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。昔の人は“悪いことをされる喜び”があったので自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、自分から政府の言うことを聞いて政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりして悪いことをされていたのである。そのために、政府に権力(命令力)があったのである。昔の人は悪いことをされるのが好きだったので、政府が悪いことをしてくれたので、自分から喜んで政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていたのである。
しかし、今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。今は文明が高くて今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。ところが、人間が現実の世界の中で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”は邪魔[じゃま]である。そのため、今の人は自分の“悪いことをされる喜び”を抑[おさ]えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分の人権を侵されるのが嫌だから悪いことをされるのが嫌である。そのため、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。だから、今の政府には権力(命令力)がないのである。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔の人は“悪いことをされる喜び”があった。今の人は“悪いことをされる喜び”がない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。だから、昔の国民は自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていたから、昔の政府は国民に何でも命令できたから昔の政府には権力があった。反対に、今の国民は自分が幸福になるために政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなくなったから、今の政府は国民に何も命令できないから今の政府には権力がないのである。今の政府は国民に命令して国民からお金を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れているのである。

[22644] 政府は国民に悪いことをして国民を幸福にする会社である。 h28.4.16
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサだったので、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをしている。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。国民が政府に仕事をしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。“悪いことをされる喜び”を満足したい国民は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされればよく、“悪いことをされる喜び”を満足したくない国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。
昔は国の文明が低くて昔の人は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。昔の人は“悪いことをされる喜び”があった。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、政府の言うことを聞いて政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりして悪いことをされていた。
今は国の文明が高かくなって今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の人は美味[おい]しい物を食べたり綺麗[きれい]な服を着たり快適な家に住んだりして自分の心を満足している。人間が現実の世界の中で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので、今の人は“悪いことをされる喜び”を抑[おさ]えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分が悪いことをされて自分の人権を侵されるのが嫌である。今の人は自分が悪いことをされないために、政府の言うことを聞かなくなって政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりしなくなっている。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔の人は悪いことをされるのが好きだったから、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福だった。今の人は悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされないようにして幸福にしている。そのため、政府は国民からお金が取れなくなって潰[つぶ]れている。
今ぐらい文明が高ければ、誰でもこれぐらいのことがわかって当たり前である。それなのに、なかなかわかっている人がいない。今の人が毎日余計なことをして遊びまわって考えていないのが悪いのである。今の人はもっと頭を使って考えながら生きていかねばならない。

[22645] 国民みんなが悪いことをすると国が貧乏になって発展しなくなる。☆ h28.4.16
今の政府は国民に「政府が自分の幸福のために国民みんなに悪いことをする犯罪組織だ」と思わせて国民みんなを支配しようとしている。そのために、政府はテレビやマンガなどで「幕府や暴力団が自分の幸福のために悪いことをする犯罪組織である」テレビ番組やマンガを作らせて国民みんなに政府に対する誤解を植え付けようとしている。
そのため、今の国民の多くは「政府が自分のために悪いことをする犯罪組織だ」と思っている。今の国民の多くは「政府が毎日悪いことをやっているから自分も悪いことをやってもいい」と思って平気で悪いことをやっている。このままでは、日本が国民みんなが悪いことをする国になる。
国民みんなが悪いことをする国といえばインドである。身分制とは国民みんなが悪いことをすることである。国民みんなが悪いことをする国では、悪いことをする者ほど有利で暮らしがいいから身分が高く、反対に悪いことをしない者ほど不利で暮らしが悪いから身分が低い。だから、身分制というのである。インドは大昔はほかのアジアの国と同じようにみんなが善いことをやっていた。政府は国民みんなのために悪いことをやってあげていた。しかし、今から約3500年前にヨーロッパ人系のアーリア人がインドに侵入してきたときにアーリア人が「政府が自分のために悪いことをやっている」と思って「みんなも自分の好き勝手に悪いことをやってもいい」と思って悪いことをやりだした。それが国民みんなに広まって国民みんなが悪いことをやるようになったのである。ヨーロッパ人は狩猟民族だから動物に悪いことをするから悪いことが好きなので、本当は『政府が国民のために悪いことをしてやっている』のに「政府が自分のために悪いことをしている」と思って世の中が歪[ゆが]んでしまったのだ。それ以後は、インドでは悪い者ほどいい暮らしができて、善い者ほど貧乏に暮らさねばならなくなって、悪いことをする才能しかない馬鹿が国を支配するようになって国が貧乏になって発展しなくなってしまったのである。
国民みんなが悪いことをするようになると国が貧乏になって発展しなくなる。国民みんなが不幸になって苦しまねばならなくなる。それではいけない。
今の日本政府は自分ひとりが生き残るために国民みんなを犠牲[ぎせい]にしようとしているのである。
本当は『政府は国民みんなのために悪いことをする会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをするのである。政府が国民に悪いことをやるのは仕事である。政府は国民のためにある。政府は国民のために仕事をやっているのだから、国民が政府の主人だから、国民が政府に仕事を頼むか頼まないかを決めればいい。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから政府の言うことを聞かず政府に悪いことをしてもらわなければいい。』国民みんなはテレビやマンガの嘘[うそ]に騙[だま]されてはいけない。今の国民みんなは悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。今の国民みんなには“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民みんなにとっては政府は用がない。だから、今の国民みんなは政府の言うことを聞かず政府にお金を払わず政府を潰[つぶ]せばいい。
今では悪いことをしたい者が政府を支持している。自分の好き放題に悪いことをやりたい者が政府の味方をしている。悪いことをするのが好きな者は意地汚い貧乏馬鹿である。悪の心は国を滅ぼす原因である。今の国民みんなは政府といっしょに悪いことをやりたい者を倒せばいいのである。

[22646] 政府は自分が悪いことをしているのを隠すために善いことをするだけだからちょっとだけしか善いことをしない。 h28.4.16
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサだったので、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
大昔(縄文時代)は文明が低くて国民みんなが動物同然の暮らしをしていたので、国民みんなが公然と“悪いことをされる喜び”を満足していた。そのために、大昔の国民みんなは豪族にあけっぴろげに悪いことをされていた。豪族が国民みんなの眼の前で堂々と国民みんなを殺したり虐めたり財産を取ったりしていた。豪族は悪いことをするのが専門だった。豪族は悪いことだけしていればよかった。
昔(弥生時代)になって少し文明が高くなって国民みんなが農耕生活をし始めると、国民みんなが悪いことをされるのが恥ずかしくなった。国民みんなが『“悪いことをされる喜び”が動物ぽくって人間にふさわしくない』と思うようになったので、国民みんなが隠しながら“悪いことをされる喜び”を満足するようになった。そのために、昔の国民みんなは政府や幕府に隠しながら悪いことをしてもらうようになったのである。政府や幕府は国民みんなの眼の前で民主主義の芝居をやったり、付属会社にお金をやったり、ちょっとだけ善いことをやったりして自分が善い団体のふりをしながら、国民みんなの眼の届かないところで国民みんなを殺したり虐めたり財産を取ったりして悪いことをやっていた。政府の正体は悪いことをする会社だから、政府の民主主義は芝居なのである。政府が実際にちょっとだけ善いことをやっているのも芝居なのである。政府や幕府は悪いことをすることとそれを隠すことの両方しなければならない。政府や幕府は悪いことをするのが本業で、善い団体のふりをして悪いことをやっているのを隠すのが副業である。政府や幕府が善いことをやるのは自分が悪いことをやるのを隠すためである。だから、政府や幕府はほとんど善いことをやらない。政府や幕府はもともと悪いことをやる会社であって善いことをやる会社ではないから、政府や幕府はちょっとだけしか善いことをしないのである。昔の国民は政府や幕府に悪いことをしてもらうために政府や幕府を利用していたのであって、善いことをしてもらうために利用していたのではない。
今(現代)になってかなり文明が高くなって国民みんなが電化生活をし始めると、国民みんなが悪いことをされるのが嫌になった。国民みんなが『“悪いことをされる喜び”は現実の世界の中で幸福に生きるために邪魔[じゃま]になる』と思うようになって、国民みんなが“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。国民みんなが“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなった。今の国民みんなは悪いことをされて自分の人権を侵されるのが嫌である。そのために、今の国民みんなは自分で政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなった。政府は悪いことをたくさんやって善いことはちょっとだけしかしない。今の国民は善いことが欲しくて悪いことは要らない。だから、今の国民は政府が要らなくなって政府にお金をやらなくなって政府を倒している。悪いことをやる会社がちょっと善いことをやるからといってそれをありがたがるのは馬鹿である。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。人間に“悪いことをされる喜び”がなくなる。政府は悪いことをする会社である。昔の人は悪いことをされたかったから、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の人は悪いことをされたくないから、政府の言うことを聞かなくなって政府にお金をやらなくなって政府が潰[つぶ]れているのである。

[22647] これからは日本人の時代である。 h28.4.16
ヨーロッパ人は狩猟民族である。狩猟民族は眼を使って動物を狩るから眼がいい。ヨーロッパ人は眼で見る喜びが強い。だから、ヨーロッパ人は美形である。狩猟民族は動物を殺したり虐[いじ]めたり食べたりして動物に悪いことをするから悪いことが好きである。ヨーロッパ人は美形だが悪いことが好きである。一方、日本人は農耕民族である。農耕民族は頭を使って作物を育てるから頭がいい。日本人は頭で考える喜びが強い。その反面、眼で見る喜びが弱い。だから、日本人は不細工[ぶさいく]である。農耕民族は作物に水をやったり光をやったり肥料をやったりして作物に善いことをするから善いことが好きである。日本人は不細工だが善いことが好きである。ヨーロッパ人は眼がいいだけで頭が悪い。反対に、日本人は眼が悪いが頭がいい。ヨーロッパ人は眼で見る喜びしかない。日本人は頭で考える喜びがある。人間は眼で見ても現実はわからない。人間は頭で見なければ現実がわからない。日本人のほうがヨーロッパ人よりも現実が見える。日本人のほうがヨーロッパ人よりも現実の世界の中で幸福に暮らすことができる。今では文明が高くなって人間が現実の世界の中で生きている。だから、今の世界では日本人がヨーロッパ人よりも有利である。
今の日本人はテレビやビデオの見すぎやゲームのやりすぎで眼で見ることしかわからなくなっている。頭で考えることがわからなくなっている。そのために、今の日本人は現実がわからなくなっている。今の日本人は現実の中で幸福に暮らせなくなっている。このままではいけない。人間は現実で幸福に生きることをテレビやゲームで幸福に生きることよりも優先しないといけない。日本人は当分の間テレビやビデオを見たりゲームをやるのをやめたほうがいい。

[22648] 政府は悪いことをする会社である。☆☆ h28.4.16
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔はほかの動物のエサだったので、人間はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。国民がみんなの眼の前で政府に悪いことをされるのは恥ずかしいので、政府は国民みんなの眼の前で民主主義をやったり付属会社にお金をやったりちょっと善いことをやったりして善い団体のふりをしながら、国民みんなの眼の届かないところで密[ひそ]かに国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをしている。政府は国民が恥ずかしがらずにすむようにちょっとだけ国民に善いことをやって隠しながら国民に悪いことをやっている。
要するに、政府は悪いことをする会社である。政府の正体は悪いことをする会社だから、政府が民主主義をやったり付属会社にお金をやったりちょっとだけ善いことをやったりするのは芝居である。政府は自分のために悪いことをしているのではなく、国民のために悪いことをしている。政府にとって国民は客である。だから、国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかを決めればいい。
昔は文明が低くて昔の国民は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があった。だから、昔の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今は文明が高くて今の国民は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の国民は現実の世界の中で幸福に生きるために“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをされる喜び”を抑えているので“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は自分が悪いことをされて自分の人権が侵されるのが嫌である。だから、今の国民は自分が悪いことをされないようにして自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
時代が進んで文明が高くなると人間の心が変わる。昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったが、今の国民には“悪いことをされる喜び”がない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民の幸福のために国民に悪いことをやっている。だから、国民は自分が幸福になれば政府の言うことを聞いて政府に悪いことをやってもらえばよく、自分が幸福にならなければ政府の言うことを聞かず政府に悪いことをやってもらわなければいい。だから、昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。今の国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなくなっている。そのため、今の政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府は人間の“悪いことをされる喜び”が作り出した会社なのだ。昔は文明が低くて国民みんなに“悪いことをされる喜び”があったから、昔の国民みんなは自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府を建てて政府に悪いことをしてもらっていた。今では文明が高くなって国民みんなに“悪いことをされる喜び”がなくなっているために、今の国民みんなは政府が要らなくなって政府が潰れているのだ。

[22649] 今の国民は政府の掟[おきて]ではなく法律を守らねばならない。 h28.4.17
政府や幕府は国民に悪いことをする会社である。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから、昔の国民は自分が幸福になるために政府や幕府の言うことを聞いて悪いことをされていたのである。
政府や幕府は悪いことをする命令に善いことをする命令を混ぜて出すことによって国民みんなに善いことをさせていた。それが掟である。政府や幕府はそうやって国民みんなに“みんなと平和に暮らす決まり”を守らせて世の中を平和にしていた。政府や幕府は悪いことを“善用”[ぜんよう]して善いことをやっていたのだ。悪いことを善いことをするために利用して善いことをやっていたのだ。
今の政府もそうやって国民みんなに掟を守らせている。だから、政府の付属の法律会社は本当は掟会社である。政府の憲法や法律は本当は掟である。
しかし、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、政府の言うことを聞かないから政府の掟も守らなくていいのである。たとえ国民が政府の掟を侵しても法廷でシラを切り通せば無罪釈放ですむのである。ただし、今は文明が高くて国民みんなが現実の世界の中で幸福に生きているから、国民みんなが現実の世界の中で幸福に生きるために法律を守っているから、法律を守らないといけない。今の国民は政府の掟を守らなくていいが法律を守らないといけない。そうしないと周[まわ]りの国民に反感を買って社会の中で暮らせなくなる。つまり、今の国民はちょっとぐらい悪いことをしてもいいがすごく悪いことをしてはいけないのだ。
早く国民みんなで政府を倒して法律会社を建てて、法律会社にお金をやってちゃんと法律を守らせてもらわねばならない。それまでの間は、国民みんなが自分たちで法律を勉強して法律を守らねばならない。国民みんなで法律の違反者を罰しなければならない。(h28.4.22追記:ただし、市販されている法律の本はどれも、政府が民主主義の団体だと思って政府が定めた法律を法律だと考えているから注意しないといけない。政府はそもそも悪いことをする会社であって民主主義の団体のふりをしているだけで本当は民主主義の団体ではないから、政府には国家権力がないから政府は法律を定められないから、国民は政府の法律を守らなくていい。政府は民主主義の団体のふりをしているだけだから、政府は嘘[うそ]の法律を定めている。例えば、納税の義務はまちがった法律である。国民は納税の義務の法律を守らなくていい。国民は自分で考えてまちがった法律と正しい法律を区別して、まちがった法律を守らないようにして、正しい法律だけを守るようにしないといけない。国民は市販されている法律の本を熱心に勉強しすぎて自分がまちがった法律を守るようになってはいけない。それではかえって逆効果である。)国民みんながボランティアで有償または無償で犯罪者を罰しなければならない。それが“必殺仕事人”である。国民からお金をもらって恨[うら]みを晴らす“復讐[ふくしゅう]会社”もそんな会社なのかもしれない。相手が悪いとわかったら頭の上から鉄筋を落として潰[つぶ]したり車で轢[ひ]き殺したりして罰するのだ。たとえ大金を積まれて頼まれても依頼主が悪いとわかったら容赦[ようしゃ]なく依頼主を殺すのである。もらったお金は貧しい子供たちに寄付するのだ。今の国民が“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の言うことを聞かなくなっているから、復讐会社が建つのである。復讐会社は将来の法律会社の前身[ぜんしん]なのだろう。
つまり、昔(昭和40年=1965年ごろ以前)の国民には“悪いことをされる喜び”があった。今(昭和40年=1965年ごろ以後)の国民には“悪いことをされる喜び”がない。今の国民は“悪いことをされる喜び”にサヨナラしている。そのために世の中が大きく変わっている。国民は政府の言うことを全部聞くのをやめて政府にお金をやるのをやめて政府を潰[つぶ]して、政府の付属会社を全部民営化して、新しく法律会社を建ててやって行けばいい。
政府が国民に悪いことをやるのは仕事である。政府は国民のために悪いことをやっている。政府が悪いことをやるのは国民を幸福にするためである。そもそも政府は国民のためにある会社であって、政府自身のためにある会社ではない。政府は国民を幸福にすることをやって不幸にすることをやってはいけない。政府が国民を幸福にするなら政府は建っていてもいいが、政府が国民を不幸にするなら政府は自分で潰れねばならない。人間の心は眼で見えないから、政府は国民の心がわからない。国民の心は国民自身にしかわからない。政府に国民の心がわからなければ、政府が国民に国民の心を訊[き]けばいい。政府は国勢調査で国民みんなに「あなたは悪いことをされるのが好きですか?」を訊[き]いて統計を取って、今の国民のほとんどが悪いことをされるのが嫌いなら政府は国民のために自分で潰れねばならない。そうすれば、世の中が早く動いてそれだけ国民みんなが幸福に暮らせるだろう。

[22650] 政府は国民に悪いことをする会社である。 h28.4.17
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔動物のエサだったから、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。
政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民に命令して国民に悪いことをして国民を喜ばせる会社である。
政府は悪いことをする会社である。政府の正体は悪いことをする会社だから、政府が善いことをするのは芝居である。政府は国民みんなの眼の前で善いことをして、国民みんなの眼の届かないところで密[ひそ]かに悪いことをしている。国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしいから、政府は国民が恥ずかしい思いをせずにすむように隠して国民に悪いことをしているのである。政府は国民の眼の前で善いことをちょっとだけして、国民の眼の届かないところで悪いことをたくさんやっているのである。
政府が悪いことをするのは仕事である。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをする。国民が悪いことをされたら喜ぶから、政府は国民を喜ばせるために国民に悪いことをやっている。政府は自分のために国民に悪いことをやっているのではなく、国民のために国民に悪いことをやっている。政府が隠して国民に悪いことをやっているのも国民のためである。政府が国民の眼の前で国民に悪いことをすると国民が恥ずかしがるから、政府は国民を恥ずかしがらせないために国民の眼の届かないところで国民に悪いことをしている。政府は国民を幸福にすることをする。政府は国民のためにある。だから、国民が自分で政府に仕事をしてもらうかしてもらわないか決めればいい。国民が悪いことをされるのが好きなら政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらえばよく、国民が悪いことをされるのが嫌なら政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。
昔の国民は現実の世界の外で自分の心のままに生きていて“悪いことをされる喜び”があったから、自分で政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今の国民は現実の世界の中で幸福に暮らすようになって“悪いことをされる喜び”がないから、自分で政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないようにしないといけない。
今の国民は政府の言うことを聞かなくなって政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりしないようにしている。政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。政府の付属会社が政府から独立して民営化したり、国民で法律会社を建てたりしている。

[22651] 国民は政府の作り話や芝居に騙[だま]されてはいけない。 h28.4.17
政府がテレビやマンガで「政府が自分のために国民に悪いことをする犯罪組織である」と思わせる番組やマンガを作らせているのは政府の国民に対するイタズラである。政府が馬鹿な国民をからかって遊んでいるのである。もともとテレビ番組やマンガは作り話なので、作り話の上では正しいことでもまちがったことでも何でもやっていいので、政府は嘘[うそ]の作り話を作って国民にまちがいを植え付けて国民をからかって楽しんでいるのである。政府は社会科の教科書で前もってみんなに世論操作のことを教えているから、自分が世論操作をやってもいいと思って世論操作をやっているのである。国民は政府の作り話に騙[だま]されず、自分で『政府が国民のために国民に悪いことをする会社である』と考えて、今の自分は悪いことをされたくないから政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないようにしないといけない。
政府の本業は悪いことをすることだから、政府が善いことをやっているのは芝居である。芝居の上では正しいことでもまちがったことでも何でもやっていいから、政府は口先で大きいことを言ったり自分に国家権力があることにして偉そうにしているのである。政府は本当はただの悪いことをする団体にすぎない。政府は本当は悪いことをする団体だから、政府は最初から民主主義の団体ではないから政府には国家権力がないから国民は政府に従わなくていい。例えば、国民は政府が定めた納税の義務の法律を守らなくていい。国民と政府は平等である。国民は自分が悪いことをされるのが好きなら政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて、自分が悪いことをされるのが嫌なら政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。政府は善いことをする団体ではなく悪いことをする団体である。政府は悪いことをする団体であって、政府は民主主義の団体ではない。政府は民主主義みたいなことをやっているだけで、本当は民主主義をやっていない。だから、政府には国家権力も何もない。政府はただの悪いことをする団体にほかならない。国民は政府の芝居に騙されないようにして、政府の正体を見極めてさっさと政府を倒さねばならない。今の国民は悪いことをされるのが嫌だから今の国民にとっては政府は要らないから早く政府を倒さねばならない。
今は文明が高くなって今の国民は自分で考えることが好きである。だから、政府は国民が政府について考えて国民を楽しませるために作り話や芝居をやって自分の正体を隠しているのである。政府は国民のために作り話や芝居をやって国民に自分の正体がわかりにくくしているのである。だから、国民は自分を幸福にするために政府について考えて政府の正体を知らねばならない。政府が国民に自分の正体をバラして自分で潰れたら国民が面白くないので、政府はわざわざ国民に自分の正体を隠して国民が自分で政府を倒さねばならないようにして国民が楽しめるようにしてくれているのである。政府は大きい会社だからそれくらいのことはするのである。政府は国民を幸福にする会社である。だから、国民は政府のナゾナゾを解いて政府の正体を知って政府の言うことを聞かないようにして政府にお金をやらないようにして政府を倒して幸福にならねばならないのだ。
今の国民みんなは政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府を倒していい。それなのに、今の国民の多くはそうしない。それは、国民の多くが頭の中でまちがったことを考えているからである。国民の多くは「政府が民主主義の団体で国家権力があるから逆らえない」「政府は犯罪組織だから逆らったら殺される」と思っておとなしく政府の言うことを聞いて政府に高い税金を払っている。政府の命令で人殺しをすることもある。国民の多くは自分の妄想にとりつかれて自分で自分を不幸にしている。くだらないテレビやマンガの見すぎだ。自業自得だ。この世では馬鹿は損をする。国民みんなは早く正しいことを知って正しいことをやって得をしないといけない。
この段落と次の段落h28.4.19追記:テレビ番組やマンガは作家が自分の汚い気持ちを書き表しているだけである。テレビ番組やマンガは作家が自分の汚い心で喜ぶことを書いているだけである。作家は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きているからまちがった心がたくさん残っているから心が汚いのである。国民がテレビ番組やマンガを見ると作家の汚い気持ちがうつる。自分も汚い気持ちになる。国民が汚い気持ちになると国民が現実をわからなくなって現実の世界でまちがいを犯して不幸になる。汚い気持ちは不幸の原因である。だから、国民は自分が不幸にならないためにテレビ番組やマンガを見ないほうがいい。
マンガ家がいくらがんばってもマンガには価値がない。マンガは現実を描いていないからマンガには価値がない。マンガ家は価値がないことでがんばっているだけである。人間はどうせがんばるなら価値があることでがんばればいい。価値がないことでがんばってはいけない。人間が哲学を勉強すれば価値があることとないことがわかる。人間が哲学を勉強すれば自分がやらねばならないこととやってはいけないことがわかる。マンガ家は哲学を知らないから価値がないことでがんばっているのである。マンガ家は価値がないことをやっているだけである。価値がないことをやるぐらいなら何もやらないほうがマシである。人間は自分の人生を無駄[むだ]にしないために哲学を勉強しなければならない。マンガ家はたとえ有名でも偉くない。たとえ無名でも現実的な仕事をやった人のほうが偉い。
この段落h28.4.21追記:仕事は他人のためになることをすることである。仕事は他人を幸福にすることである。他人のためにやるのが仕事であり、自分のためにやるのは仕事ではない。今は現実主義の時代である。今では多数決がないから今の人は自分の心を満足することばかりやっているが、仕事は他人のためにすることだから、仕事は自分のためにやってはいけない。だから、作家も国民みんなのために作品を書かねばならない。だからといって、作家が国民を喜ばせるために国民の誤解に合わせて国民の誤解を煽[あお]る作品を書いてはいけない。国民の誤解を助長する作品を書いてはいけない。そんなことをしたら国民が不幸になるだけである。仕事は他人のためになることをすることだから、仕事は他人を幸福にすることだから、作家は国民に正しいことを教える作品を書かねばならない。作家は国民を幸福な人生に導く作品を書かねばならない。テレビ番組やマンガは形式はテレビ番組やマンガでも、中身は現実の教科書でなければならない。今の人は道徳を知らない。今の人は道徳に疎[うと]くなっている。そのため、今の人は不幸に暮らさねばならなくなっている。人間には善い心と悪い心がある。善い心とは自分が幸福になる心であり、悪い心とは自分が不幸になる心である。いくら今の人が自分の心を満足しているからといって自分の善い心を満足しないといけない。悪い心を満足してはいけない。テレビ番組やマンガはみんなに善い心を満足させることを教えないといけない。

[22652] 政府は民主主義の団体ではないから政府には国家権力はない。政府は悪いことをする団体だから政府と国民は平等である。☆ h28.4.17
政府は悪いことをする団体である。政府は民主主義の政治団体のふりをしているだけである。昔の国民は政府に悪いことをされたかったが、みんなの眼の前で自分が政府に悪いことをされるのが恥ずかしかったので、政府は国民が恥ずかしがらずにすむように民主主義の団体(つまり善いことをする団体)のふりをして悪いことをしていた。政府は国民の眼の前で民主主義の団体のふりをして、国民の眼の届かないところで国民に悪いことをしていた。政府は民主主義の団体のふりをして国民に悪いことをすることによって、国民が恥ずかしがらずに“悪いことをされる喜び”を満足できるようにしていたのである。政府の権力の源[みなもと]は本当は国民の“悪いことをされる喜び”にあるのだがそれだと国民が恥ずかしいと思うので、政府は国民を恥ずかしがらせないために民主主義の団体のふりをして自分の権力の源が民主主義による国家権力にあるふりをしたのだ。昔の国民は政府に悪いことをされて喜んでいる自分自身をかっこ悪いと思っていた。そのため、昔の国民は政府に民主主義の団体のふりをして隠して悪いことをしてもらうことによって自分の恥ずかしさを軽減してもらっていたのである。政府は今でも民主主義の芝居をやっている。政府は民主主義の団体のふりをしている悪いことをする団体である。政府はニセモノの民主主義の団体である。政府は民主主義の団体のふりをしているだけで本当は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。政府は自分に国家権力があるふりをしているだけで本当は国家権力はない。だから、国民は政府に従う必要はない。政府には国家権力はない。政府には国家権力はないから、政府は法律を作れない。だから、国民は政府の作った法律なんか守らなくていい。国民は納税の義務(憲法第30条)を守らなくていい。政府は民主主義の団体のふりをするためにちょっとは国民に善いことをするが、政府は本当は国民に悪いことをする団体なのである。政府は国民の眼で見えないところでたくさん悪いことをやっている。
要するに、政府は悪いことをする団体である。人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民のために悪いことをしているのであって、自分のために悪いことをしているのではない。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。だから、国民と政府は平等である。国民が政府に仕事をしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。(政府は民主主義の団体ではないから、国民が政府に仕事をしてもらうかもらわないかは国民みんなで決めることではないから、国民が政府に仕事をしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。国民が自分で決めればいいことである。)政府は悪いことをすることを仕事にしている会社だから、政府はそこらへんの民間会社と同じだから、国民が政府に仕事をしてもらうかどうかは国民個人の自由である。国民が政府に悪いことをして欲しければ政府の言うことを聞き、国民が政府に悪いことをして欲しくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから、悪いことをされるのが好きだったから、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の国民は”悪いことをされる喜び”がないから、悪いことをされるのが嫌いだから、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないようにしている。そのために、今では政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。国民みんなで早く政府を潰して、この世から悪いことをする団体をなくして、国民みんなで幸福に暮らさねばならない。

[22653] 政府は民主主義の団体でも犯罪組織でもない。政府は悪いことをする団体である。☆ h28.4.18
政府は悪いことをする団体である。政府は民主主義の団体ではない。政府は民主主義の団体のふりをしている悪いことをする団体である。政府は悪いことをする団体が民主主義の団体のふりをしているだけである。人間の心には“自分が悪いことをされるのが恥ずかしいと思う気持ちがある”ので、政府は国民が恥ずかしがらずにすむように民主主義の団体のふりをして隠しながら国民に悪いことをしているのである。政府は民主主義の団体のふりをしているだけで本当は民主主義の団体ではない。政府は国家権力があるふりをしているだけで本当は国家権力はない。だから、国民は政府に従う必要はない。
政府は悪いことをする団体である。しかし、政府は犯罪組織ではない。政府は国民のために悪いことをするのであって自分のために悪いことをするのではない。人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。政府と国民は平等である。国民が政府に仕事をしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。国民が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、国民が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。政府はスーパーやコンビニと同じように国民と契約を取らない会社だから、国民が政府の言うことを聞くことが政府と契約することである。だから、国民が政府と契約したくなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。(『デ・ジ・キャラットにょ』のゲマ団が「善い人のふりをしてじつは悪い人」と言っているのは「政府が民主主義の団体のふりをしている悪いことをする団体である」ことを表している。ゲマ団が「悪ですからなあ〜」と言っているときの手足のひょうきんなふりが「政府が犯罪組織ではない」ことを表している。政府は国民を面白がらせるために国民に悪いことをやっている。だから、国民には“悪いことをされる喜び”があるのである。)
昔は文明が低かったので昔の国民は現実の世界を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔はほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったので、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今は文明が高くなったので今の国民は現実の世界を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。人間が現実の世界の中で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]である。今の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を抑えているので“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は自分が悪いことをされて自分の人権が侵されるのが嫌である。そのため、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないので、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなくなっている。
政府は今の国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。国民みんなで早く政府を潰して悪いことをする団体をなくして国民みんなが幸福に暮らせる社会にしないといけない。
今の国民が政府に税金を払っていないか払っているかを見れば、政府についての理解があるかないかがわかる。国民は自分が政府や国民みんなに馬鹿だと思われてなめられないために政府に税金を払ってはいけない。

[22654] 今ではみんなの“悪いことをされる喜び”を満足する仕事がなくなっている。 h28.4.18
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサだったのでほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
大昔(縄文時代)は文明がすごく低くて人間がまったく現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。大昔の人は恥臆面[はじおくめん]もなく“悪いことをされる喜び”を満足していた。大昔の人はみんなの眼の前で堂々と豪族に悪いことをされていた。みんなは豪族に“悪いことをされる喜び”を満足してもらって幸福だったのに、豪族だけが“悪いことをされる喜び”を満足してもらえず不満満面だった。みんなが奴隷[どれい]のように暮らしていた。だから、大昔は奴隷制の社会だった。
昔(弥生時代)になると文明が少し高くなって農耕生活が始まって人間が少し現実を知って現実の世界の中で暮らすようになった。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなった。昔の人は政府や幕府に隠して悪いことをしてもらった。政府や幕府は国民に恥ずかしい思いをさせないために善い団体のふりをしながら隠して国民に悪いことをしていた。みんなが隠れて奴隷制をやっていた。だから、昔は“隠れ奴隷制”の社会だった。
今(現代)になると文明がかなり高くなって電化生活が始まって人間が本気で現実を知って現実の世界の中で暮らすようになった。人間が現実の世界の中で幸福に暮らすためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]である。今の人は“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分が悪いことをされて自分の人権を侵されるのが嫌である。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。今ではみんなが奴隷制をやめている。だから、今は市民制の社会である。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔の人は“悪いことをされる喜び”があった。今の人は“悪いことをされる喜び”がない。そのため、今ではみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にする仕事がなくなっている。今では国際連合や政府や宗教団体や暴力団や社長や文学部がなくなっている。今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して幸福に生きていくのだ。(今では世界中のみんなが悪いことをされるのが嫌になって国際連合の言うことを聞かなくなって国際連合にお金をやらなくなって、国際連合が潰[つぶ]れている。そのため、今の国際連合はアフリカ人に乞食[こじき]をやらせてみんなからお金をもらってお金を儲[もう]けている。政府も身体障害者に乞食をやらせて国民みんなからお金をもらってお金を儲けている。)

[22655] 昔と今では人間の幸福になり方が違う。☆ h28.4.18
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”つまり“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔は文明が低くて人間が現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。昔の人の心には“悪いことをされる喜び”があった。政府はみんなに悪いことをしてみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にする会社である。そのため、昔の人は自分が幸福になるために政府に悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人にとっては政府に悪いことをされることがたったひとつの生きがいだった。昔の人の娯楽は政府に悪いことをされることしかなかった。昔の人にはそんな喜びしかなかった。昔の人はそうやって貧しくても一生懸命に幸福に生きていたのだ。昔の人が幸福に生きるためには政府はなくてはならない存在だった。昔はみんなが自分が幸福になるために政府に悪いことをしてもらっていたから、政府がみんなに悪いことをするためにみんなからたくさんお金を取って儲[もう]かった。政府はみんなを幸福にするためにみんなに悪いことをやっていた。政府が悪いことをやるのはみんなを幸福にするための仕事だった。
今は文明が高くなって人間が現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の人は自分が幸福になるために美味[おい]しい物を食べていい服を着て快適な家に住んでいる。今の人は自分が幸福になるために身体も心も健康にしている。今の人はテレビを見たりコンピューターをやったり乗り物に乗ったりする楽しみがある。今の人は“悪いことをされる喜び”があると自分が幸福に生きていけないので“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。現代の文明社会で人間が暮らしていると自然に“悪いことをされる喜び”がなくなる。今の文明はそれぐらい発達している。今の人はむしろ自分が悪いことをされると不幸になる。そのため、今の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。政府は悪いことをする会社である。今の人が幸福に生きるためには政府はまったく要らない。政府がなくなったほうがいい。だから、今の人は政府にお金をやらなくなって政府を潰[つぶ]している。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。そのために、昔と今では人間の幸福になり方が違う。昔の人は“悪いことをされる喜び”があったので、自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらって“悪いことをされる喜び”を満足していた。今の人は“悪いことをされる喜び”がないので、自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。今の人は自分が幸福になるためにもっと別のことをやるようになっている。
今の人にとっては政府に悪いことをされるのが嫌なのに、昔の人にとっては政府に悪いことをされるのが娯楽だった。そういうのをカルチャーショックと言うのである。今の人は心の違いを乗り越えて昔の人のことを理解して政府のことを理解して、今の自分がすべきことをしないといけない。昔の人は悪いことをされるのが好きだった。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをしてくれる会社である。今の人にとっては政府に悪いことをされるのが嫌だから、今の人は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされず政府にお金をやらず政府を倒さねばならない。

[22656] 今の政府が国民に悪いことをするのは政府の犯罪である。 h28.4.18
政府は悪いことをする会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをする。だから、政府は政府に悪いことをされたい国民だけに悪いことをして、政府に悪いことをされたくない国民に悪いことをしてはいけない。
それなのに、今の政府は国民が政府に悪いことをしてもらいたいかしてもらいたくないかを問わずに自分勝手に事件を起こして国民を殺している。政府は今の国民が政府に悪いことをされたくないのに飛行機を墜落させたり船を沈没させたり列車を脱線させたり自動車を衝突させたりして国民を殺している。暴力団の団員が勝手に自分に悪いことをされたくない国民を殴[なぐ]ったりするのと同じことである。その場合には、殴った暴力団員が悪い。だから、その暴力団員が罰せられる。暴力団の団員が勝手に国民を殴ったからといって暴力団が犯罪組織になるわけではない。暴力団は国民のために国民に悪いことをする団体であって、自分のために悪いことをする犯罪組織ではない。暴力団の中にたまたままちがって悪いことをした者がいただけのことである。それと同じように、政府が国民の承認を得ずに勝手に悪いことをした場合には、政府が悪い。だから、国民みんなで政府を罰すればいい。人間は誰でもまちがいを犯す。政府もたまにまちがって悪いことをすることがあるから、国民みんなで政府がまちがったことをした分だけ政府を罰すればいい。政府が勝手に国民に悪いことをしたからといって政府が自分のために国民に悪いことをする犯罪組織になるわけではない。それでも政府は国民のために悪いことをする会社なのである。政府や暴力団は仕事柄[しごとがら]犯罪を犯しやすい職業である。政府や暴力団は自分がつい出来心でまちがいを犯した場合にはすみやかに自分の罪を償[つぐな]わねばならない。森の石松が自分の罪を償うために自分で自分の片目を潰[つぶ]したように政府や暴力団は自分勝手に悪いことをした場合には自分が悪いことを認めて自分で自分を罰しなければならない。政府や暴力団は犯罪を犯すことがあるが、けっして犯罪組織ではないのである。
『人間は本来法律を守るものである。』たまに法律を犯した人間がいたからといって、「人間が法律を犯すものだ」と考えない。人間が法律を犯したのは法律を犯した人間のまちがいだから、法律を犯した者を罰すればいいだけである。それと同じように、『政府は本来国民のために悪いことをする会社である。』たまに政府が国民のために悪いことをしないことがあったからといってヤケクソになって「政府が自分のために悪いことをする犯罪組織だ」と考えてはいけない。政府が国民のために悪いことをしなかったのは政府のまちがいだから、政府(の一部の者)を罰すればいいだけである。人間がちょっとまちがいを犯したからといって「その人間がいつもまちがいを犯している」と考えないのと同じことである。人間は誰でもまちがいを犯すことがあるから、まちがいを犯した分だけ償[つぐな]わせればいいのである。
本来政府は国民のために国民に悪いことをする会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをする。政府は国民のために国民に悪いことをするのであって、自分のために国民に悪いことをするのではない。政府は国民のために悪いことをする会社であって、政府は自分のために国民に悪いことをする犯罪組織ではない。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。会社に仕事をしてもらうかしてもらわないかは国民が決めることである。だから、国民は自分で政府に仕事をしてもらうかしてもらわないか決めればいい。今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、自分で政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされないようにすればいい。
国民みんなはけっして今の政府が勝手に国民を殺したからといって「政府が自分のために悪いことをする犯罪組織だ」と思ってはいけない。今の政府は「国民みんなが昔と同じように政府に悪いことをされたい」と思って悪いことをやっているのである。それは政府の誤解である。今では国民が政府に悪いことをされたくなくなっている。国民が政府に悪いことをされたいかされたくないかを確かめもせずに勝手に国民に悪いことをした政府が悪い。国民みんなで政府を罰して政府に罪を償[つぐな]わせればいい。本当は、今では国民みんなは昔と違って政府に悪いことをされたくない。国民みんなは『政府は国民のために悪いことをする会社だ。今の政府がまちがって犯罪を犯しているだけだ。』と考えて、自分が政府に悪いことをされたくないから自分で政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされないようにしないといけない。
たとえ万一、今の政府が「これからは自分が犯罪組織となって国民みんなに自分の好き勝手に悪いことができるようにしよう」と思って国民に悪いことをやっていたとしても、それならなおさら今の国民にとってはそんな会社は自分を不幸にするので要らないから、今の国民は自分を幸福にするために政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないようにして政府にお金を取らさないようにして政府を倒せばいい。政府は昔も今も悪いことをする会社である。今の政府が勝手に国民に悪いことをする理由が何であれ、とにかく今の国民にとっては政府が要らないから、今の国民は自分の幸福のために政府の言うことを聞かず政府にお金を取らさず政府を倒せばいいのである。とにかく国民は自分が幸福になることをやって不幸になることをしなければいい。国民は自分を幸福にする会社を建てて自分を不幸にする会社を倒せばいい。そうやって国民にとって幸福に暮らせる国にすればいい。政府は悪いことをする会社である。政府は悪いことをする会社だから、国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりするのである。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があって政府に悪いことをされたかったから、政府にお金をやって政府を建てて政府に悪いことをされていた。昔の人は昔の人にとって幸福な国にしていた。反対に、今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくて政府に悪いことをされたくないから、政府にお金をやらず政府を倒して政府に悪いことをされないようにしないといけない。今の人は今の人にとって幸福な国にしなければならない。
アメリカ政府やヨーロッパ政府は今でも悪いことをやっている。今の日本政府はアメリカ政府やヨーロッパ政府を真似[まね]て悪いことをやっているのかもしれない。ヨーロッパ人は狩猟民族である。ヨーロッパ人はずっと昔は猛獣に囲まれて暮らしていたので猛獣によく食べられていたので、ヨーロッパ人は“悪いことをされる喜び”が強い。そのため、今のアメリカやヨーロッパではみんながいまだに“悪いことをされる喜び”が強く残っていてみんなが政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福になっている。今でもヨーロッパやアメリカでは政府がみんなのために悪いことをやって儲[もう]かっている。反対に、日本人は農耕民族である。日本人はずっと昔は木の実や作物を食べて暮らしていたので、日本には猛獣があまりいなかったので、日本人は“悪いことをされる喜び”が弱い。そのため、今の日本ではみんなが“悪いことをされる喜び”がなくなってみんなが政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の日本では政府がみんなを幸福にするために悪いことができなくなって潰[つぶ]れている。日本人とヨーロッパ人は人種が違う。日本人とヨーロッパ人は心が違う。だから、今の日本政府がアメリカ政府やヨーロッパ政府を真似てやってもうまくいかない。政府が残るか潰れるかは国民みんなが“悪いことをされる喜び”があるかないかで決まるだけである。国民みんなが政府に悪いことをされるのが好きか嫌いかで決まるだけである。今のアメリカやヨーロッパでは国民みんながまだ“悪いことをされる喜び”があるから政府が残っている。今の日本では国民みんなが“悪いことをされる喜び”がなくなっているから政府が潰れている。日本政府は自分が生き残るのをあきらめてさっさと自分で潰れたほうがいい。

[22657] 今の政府は儲[もう]からなくなってみんなに善いことができなくなっている。 h28.4.19
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。
昔は文明が低くて昔の人は現実を知らずに現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。だから、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して生きていた。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために自分で政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。政府はみんなに悪いことをするためにみんなから高いお金を取ってすごく儲かっていた。政府はみんなのために悪いことをして儲けたお金でみんなのために善いことをいっぱいしてやっていた。もちろん、政府は国民みんなを恥ずかしがらせないために隠れて国民みんなに悪いことをやっていた。政府が悪いことをやって儲けたお金で善いことをやっていたのは自分が悪いことをやっているのを国民に隠すためではなく、お金が儲かりすぎたためである。昔の国民はお金持ちの政府にお願いして善いことをやってもらっていたのである。
しかし、今は文明が高くなって今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の人は自分が現実の世界の中で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをする喜び”を抑えて“悪いことをする喜び”がなくなっている。今の人は自分が悪いことをされるのが嫌になっている。今の人は自分が幸福になるために自分で政府の言うことを聞かないようにして政府に悪いことをされなくなっている。今の政府はみんなからお金を取れなくなって儲からなくなっている。政府は悪いことができなくなってお金が儲からなくなってみんなのために善いことができなくなっている。政府は付属会社にお金がやれなくなって、政府の付属会社は政府から独立して民営化している。今の政府はお金がないから、今の国民は政府にそっぽを向いて政府に善いことをしてもらおうとしなくなっている。
政府はもともと国民のために悪いことをする会社である。政府は国民のために善いことをする会社ではない。政府は国民のために悪いことをやって儲けたお金で善いことをやっていただけである。しかし、今では国民が政府に悪いことをされたくなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府にお金をやらなくなっているので政府が儲からなくなっている。今の政府はお金が儲からなくなってお金がなくなってみんなに善いことができなくなっている。だから、今の人がいくら政府に頼んでも政府は善いことをやってくれない。今の人は自分で善いことをしないといけない。今の人は自分で会社を建てて自分で善いことをやって自分で儲けないといけない。今はそういう時代である。

[22658] どうしてヨーロッパ人は神に祈るのか?☆ h28.4.19
ヨーロッパ人は狩猟民族である。狩猟民族は獲物を狩るために眼ばかり使って頭を使わないのでヨーロッパ人は馬鹿である。ヨーロッパ人は頭が悪くて、頭で考えるのが嫌いである。そのため、ヨーロッパ人は自分にわからないことがあったとき、自分が考えるのが嫌なので、すぐに神のせいにして神がやったことにする。だから、ヨーロッパ人は神を信じて神に祈るのである。神はヨーロッパ人が自分が考えるのが嫌なので自分が考えなくてすむようにするためにでっち上げた架空の生き物なのである。神はヨーロッパ人の“考えることを嫌う気持ち”が生み出した架空の生物である。だから、昔から神を崇[あが]める者は馬鹿なのである。ソクラテスは考えることが好きだった。ヨーロッパ人は考えることが嫌いだった。ヨーロッパ人はソクラテスが嫌いだった。そのために、ヨーロッパ人がソクラテスを死刑にしたのが『ソクラテスの弁明』である。
一方、アジア人は農耕民族である。アジア人は農耕民族で作物を育てるために頭を使っていたのでアジア人は利口である。天文学や幾何学は農業を起源とする学問である。アジア人は頭がよくて自分の頭で考えるのが好きである。そのため、アジア人は自分にわからないことがあったとき、自分でよく考えるようにして、安易に神のせいにしなかった。だから、アジア人は神を信じず神に祈らないのである。
ヨーロッパ人が神を信じて神に祈るのはヨーロッパ人が馬鹿だからである。ヨーロッパ人は頭が悪くて考えるのが嫌いだから神を信じるのである。日本人は利口だからヨーロッパ人の真似[まね]をしてはいけない。
ヨーロッパが科学が得意なのは、ヨーロッパに移住したインド人が科学をやったからである。大昔にヨーロッパ人がインドに移住したように、逆にインド人がヨーロッパに移住したのである。インド人はアジア人だから頭がいい。科学をやったのは全部インド人である。ヨーロッパ人は科学がわからない。ヨーロッパに移住したインド人が眼で見ることと頭で考えることが結びついて科学が得意だったので、ヨーロッパは産業が発達して豊かな国になったのである。ヨーロッパ人だけでは何もできない。ヨーロッパ人は格好[かっこう]がいいだけで馬鹿である。ヨーロッパ人は見掛け倒しである。おまけにヨーロッパ人はずっと昔動物を殺したり動物に殺されたりしていたから、心が悪くて“悪いことをされる喜び”が強い。ヨーロッパ人は“悪いことをする喜び”も“悪いことをされる喜び”も両方とも強い。ヨーロッパ人は眼がいいだけでほかにいいところがない。日本人はヨーロッパ人よりもインド人や中国人を見習ったほうがいい。

[22659] 政府が儲[もう]けたお金で善いことをやるのは民主主義の団体のふりをするためではない。 h28.4.19
人間の生まれつきの心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の生まれつきの心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので“悪いことをされる喜び”がある。ずっと昔の人間が弱い動物だったので“悪いことをされる喜び”がある。
昔は文明が低くて昔の国民は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。そのため、昔の国民は“悪いことをされる喜び”があった。昔の国民は悪いことをされるのが好きだった。昔の国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをしていた。
昔の国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足しているのをみんなに見られるのが恥ずかしかったので、政府は国民を恥ずかしがらせないために、民主主義の団体のふりをして隠れて悪いことをしていた。政府は民主主義の団体みたいにしているだけで、本当は民主主義の団体ではない。政府には国家権力はない。国民は政府に従う必要はない。国民は政府が定めた納税の義務の法律を守って政府に税金を払う必要はない。政府は本当は悪いことをする会社である。国民と政府は平等である。だから、国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、自分が政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔の国民みんなは“悪いことをされる喜び”があったので自分が幸福になるために政府に悪いことをされたかったので、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。政府は国民みんなに悪いことをするために国民みんなから高いお金を取ったのですごく儲[もう]かっていた。政府は悪いことで儲けたお金で国民みんなのために善いことをやっていた。政府は自分が儲けたお金で国民みんなのために役に立つ事業をやっていた。昔の国民は政府にお願いして善いことをやってもらっていた。政府は国民みんなの願いを聞いて国民みんなのために善いことをやっていた。政府は自分がお金が儲かったから国民みんなのために善いことをやっただけである。政府が国民みんなのために善いことをやるのは民主主義の団体のふりをするためではない。政府が民主主義の団体のふりをすることと政府が儲けたお金で善いことをするのは別である。
しかし、今は文明が高くなって今の国民は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の国民は現実の世界の中で自分が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の国民は自分が悪いことをされるのが嫌である。
今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”がないので政府に悪いことをされたくないので、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民みんなに悪いことができなくなって国民みんなから高いお金を取れなくなって儲からなくなっている。政府はお金が儲からなくなって国民みんなのために善いことがやれなくなっている。政府は国民みんなの願いが聞けなくなって国民みんなのために善いことがやれなくなっている。政府はお金が足りなくなって付属会社を経営できなくなって、付属会社を独立民営化させている。今の国民は政府にお願いするのをやめて、自分で会社を建てて自分で国民からお金をもらって善い事業をやっている。
いくら政府が儲けたお金で善いことをたくさんやっても、政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをやって国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。しかし、今では文明が高くなって今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”がないので政府に悪いことをされたくない。そのため、今の国民みんなは政府の言うことを聞かないようにして政府にお金を取らさないようにして政府を潰[つぶ]して、直接自分で善いことをする会社にお金をやって善いことをやってもらうようになっている。
誰かが「政府の言うことを聞かなくてもいい」とか「政府に税金を払わなくていい」と言ってもそれだけでは正しいかまちがっているかがわからない。理由を付けて説明してくれなければ正しいことがわからない。正しいことがわからなければ実行できない。『人間には“悪いことをされる喜び”があるから、政府は“悪いことをされる喜び”を満足する会社だから、今の国民は文明が高くなって“悪いことをされる喜び”がないから政府の言うことを聞かず政府に税金を払わなければいい。』このように理由を付けて説明すれば「政府の言うことを聞かなくてもいい」ことや「政府に税金を払わなくていい」ことが正しいことがわかる。正しいことがわかれば実行できる。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わなければいいのである。国民みんなで早く政府を倒して、悪いことをする会社をなくして、国民みんなで幸福に暮らさねばならない。
政府は悪いことをする会社である。政府は民主主義の団体でも犯罪組織でもない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。国民は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらう。政府は国民のためにある。だから、国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは国民に“悪いことをされる喜び”があるかないかで決まるだけである。国民が政府の言うことを聞くか聞かないかは政府の政策とか内閣支持率とか最近政府がどんな事件を起こしたかで決まることではない。今の国民は自分の心に“悪いことをされる喜び”があるかないかを知って、自分の心に”悪いことをされる喜び”がなければ政府の言うことを聞かなければいいのである。政府の言うことを無視して政府に税金を払わなければいいのである。反対に、自分の心に“悪いことをされる喜び”があれば政府の言うことを聞いて政府に税金を払ったり殺されたり虐められたりすればいい。国民は自分の心に対して正直にして自分で自分の心を満足して自分を幸福にすればいいのである。

[22660] 政府は悪いことをする団体である。政府は犯罪組織でも民主主義の団体でもない。 h28.4.19
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔動物のエサとして動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので人間には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをするのであって、自分を幸福にするために国民に悪いこをするのではない。だから、政府は犯罪組織ではない。
人間の心には“悪いことをされるのを恥ずかしく思う気持ち”がある。文明がそこそこ高くなると人間が自分が悪いことをされて喜ぶのをみっともないと思うので、人間には“悪いことをされるのを恥ずかしく思う気持ち”がある。政府は国民に恥ずかしい思いをさせないために民主主義の団体のふりをして隠して国民に悪いことをしている。政府は民主主義の団体のふりをしているのであって本当は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力がない。だから、国民は政府に従わなくていい。政府は本当は悪いことをする会社である。国民と政府は平等である。国民が政府に悪いことをしてもらうかしてもらわないかは国民個人の自由である。
昔は文明が低くて昔の人は現実を知らず現実の世界の外で自分の心のままに生きていた。昔の人はやみくもに自分の心を満足して生きていた。人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。だから、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して生きていた。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらっていた。政府は国民に悪いことをして国民から高いお金を取ってすごく儲[もう]かったので、儲けたお金で国民のために善いことをやっていた。付属会社にお金をやって経営したり、国民の願いを聞いて善いことをやったりしていた。
今は文明が高くなって今の人は現実を知って現実の世界の中で自分の心を満足して生きている。今の人は心の世界の外にいる。今では人間の住んでいる環境が昔と全然違うので人間が働かせる心も昔とまったく違っている。今の人が現実の世界で幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”が邪魔[じゃま]なので“悪いことをされる喜び”を抑えて“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人にとっては自分が悪いことをされるのが嫌である。だから、今の人は自分が悪いことをされないようにして自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって儲からなくなったので、国民のために善いことがやれなくなっている。付属会社にお金をやれなくなって付属会社を独立民営化させたり、国民の願いを聞けなくなっている。
政府は悪いことをする会社である。政府は犯罪組織でも民主主義の団体でもない。国民は自分が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいいだけである。今の国民は政府に悪いことをされたくないので政府の言うことを聞かなくなっている。政府は国民からお金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。国民に悪いことをする会社がなくなって国民が幸福に暮らせるようになっている。
政府はいつも無言で国民から税金を取ったり国民に命令するだけである。政府はいちいち理由を説明してくれない。だから、国民が自分で考えて説明を補わねばならない。政府は悪いことをする会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをするために国民から税金を取ったり国民に命令するのである。国民が政府に悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、政府に悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。今の国民は政府に悪いことをされたくないから政府の言うことを聞かなければいい。今の国民は政府に税金を払ったり政府の命令を聞かなければいい。国民みんなで早く政府を倒して悪いことをする団体をなくしてみんなで幸福に暮らさねばならない。
政府は悪いことをする会社である。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをしている。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。政府は国民のためにある。政府は国民に従わねばならない。だから、国民が自分で政府に悪いことをしてもらうかしてもらわないかを決めればいい。国民が政府を利用するかしないかを決めればいい。国民が政府に悪いことをしてもらいたければ政府の言うことを聞き、政府に悪いことをしてもらいたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。今の国民は悪いことをされるのが嫌だから政府に悪いことをしてもらいたくない。だから、今の国民は政府の言うことを聞かなければいい。今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払ったり政府の命令を聞いたりしなければいい。
人間には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするためにある。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を気持ちよくする施設である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”のためにある。政府は国民のためにある。だから、政府を利用するかしないかは国民が自分で決めることである。昔の国民には“悪いことをされる喜び”があったから、昔の国民は悪いことをされると気持ちよくなったから、昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の国民には“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民は悪いことをされると気持ち悪くなるから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなければいい。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しないから“悪いことをされる喜び”がないのである。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたから“悪いことをされる喜び”があったのである。性欲を満足しなければ性欲がなく、性欲を満足するから性欲があるのと同じことである。昔の人は娯楽が少なかったから“悪いことをされる喜び”を満足して快楽を得ていた。昔の人は酒を飲むように政府に悪いことをされて気持ちよくなっていた。今の人は娯楽がたくさんあるから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今では“悪いことをされる喜び”よりも楽しいことがたくさんあるから、今の人には“悪いことをされる喜び”は要らなくなったから、今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから政府が用なしになって政府にお金をやらなくなって政府が潰[つぶ]れているのである。政府は昔の人のオモチャであって今の人のオモチャではない。今の人は政府が要らなくなって政府を捨てている。

[22661] 今の人にはいろんな喜びがある。☆☆ h28.4.20
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔動物のエサとして動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府が国民を殺したり虐めたりお金を取ったりするのは国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするためである。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをするのだから、政府が国民に悪いことをするのは仕事だから、政府は自分の好き嫌いにかかわらず国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをするのである。政府は悪いことをされる国民がかわいそうになって泣きながら国民に悪いことをやる。政府は国民の幸福のためだと思って自分の感情を押し殺して冷酷非情になって国民に悪いことをやる。政府は自分の好き嫌いで国民に悪いことをしないために国家宗教で神とした人間の情報を使って客観的に悪いことをやる。政府は国民のために悪いことをしているのであって、自分のために悪いことをしているのではない。だから、政府は犯罪組織ではない。国民がみんなの眼の前で政府に悪いことをされる(例えば、鞭[むち]で打たれる)と国民が恥ずかしいので、政府は国民が恥ずかしがらずにすむように民主主義の団体のふりをして隠しながら国民に悪いことをする。政府は毎日テレビや新聞に出て民主主義の団体のふりをしているのである。悪いことを隠すためには善いことをするのが一番だから、政府は自分が民主主義の団体のふりをして自分が善いことをやっているふりをして自分が悪いことをやっているのを隠しているのである。政府は民主主義の団体のふりをしているのであって本当は民主主義の団体ではない。だから、政府は国家権力がない。国民は政府に従わなくていい。政府は法律を作れない。国民は政府が作った納税の義務の法律を守らなくていい。政府は本当は国民に悪いことをする団体である。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
昔(今から50年ぐらい前まで)は文明が遅れていた。昔の人は物が貧しくて喜びがほとんどなくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらっていた。人間は幸福でなければ生きていけないから、昔の人には“悪いことをされる喜び”しかなかったから、昔の人はしかたなく“悪いことをされる喜び”を満足していたのである。昔の人は物が貧しかったから“悪いことをされる喜び”を満足していたのであって、昔の人がけっして落ちぶれていたから“悪いことをされる喜び”を満足していたわけではない。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていたから、政府に権力(つまり命令力)があった。政府はみんなからお金を取れば取るほどみんなの“悪いことをされる喜び”を満足してみんなを幸福にしたので、政府はみんなからありったけお金が取れた。政府はお金がすごく儲[もう]かったので、儲けたお金で国民みんなに善いことをやってあげていた。政府はみんなの尊敬の的[まと]だった。
今は文明が進んでいる。今の人は物が豊かになって喜びがたくさんあるから“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったので”悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人はむしろ悪いことをされるのが嫌である。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなった。政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって儲からなくなった。政府はみんなに善いことができなくなった。政府は人気がなくなった。
文明が進むと人間の暮らしが変わる。人間にいろんな喜びができて“悪いことをされる喜び”がつまらなくなる。人間が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなる。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。そのために、今の人は政府が要らなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府にお金をやらなくなって政府を倒している。政府は儲からなくなって付属会社を民営化している。国民が政府に頼らず自分で会社を建ててみんなからお金をもらってみんなのために善い事業をやっている。
今では文明が発達していろんな物がある。いろんな喜びがある。政府は“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は時代遅れの会社である。今では新しい喜びがたくさんある。これからは新しい喜びを満足する会社の時代だ。
昔もすべての会社が自由競争の原理に従っていた。ただ、昔は文明が遅れていてみんなが物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから、みんなが政府(つまり悪いことをする会社)の言うことを聞いて政府にお金を取らせていたので政府が大儲けしていた。しかし、今は文明が進んでみんなが物が豊かになっていろんな喜びがあるから、“悪いことをされる喜び”よりももっと面白い喜びがいっぱいあるから、みんなは“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府にお金を取られなくなって政府が儲からなくなって潰[つぶ]れているのだ。
社長や文学部も政府と同類である。社長や文学部は会社の中の政府である。社長や文学部は社員を殺したり虐めたりお金を取ったりして社員に悪いことをして社員の“悪いことをされる喜び”を満足して社員を幸福にする仕事である。社長や文学部は社員に悪いことをするために会社に通っているのである。社長や文学部は社員に悪いことをすることが仕事である。昔の社員は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから社長や文学部に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足してもらって幸福になっていた。しかし、今の社員は物が豊かになって“文化的な生活を営[いとな]む喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”を満足していないから“悪いことをされる喜び”がない。今の人は物が豊かになったために物を使っていろんな喜びを満足するようになったから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから”悪いことをされる喜び”がない。今の社員は悪いことをされるのが嫌である。社長や文学部は社員に悪いことをするのが仕事だから、社長や文学部は社員の幸福のためにあるから、社員は自分が悪いことをされるのが嫌なら社長や文学部の言うことを聞かなければいい。そうやって社員は社長や文学部にお金を取らさないようにして社長や文学部を潰[つぶ]して会社から社長や文学部をなくせばいい。会社から“悪いことをする仕事をする者”をなくせばいい。そうやって会社を現代的にすればいい。要するに、昔の社員は“悪いことをされる喜び”があったから自分が幸福になるために会社の中に社長や文学部を設けて社長や文学部に悪いことをされていた。反対に、今の社員は“悪いことをされる喜び”がないから自分が悪いことをされるのが嫌だから自分が幸福になるために会社の中から社長や文学部を追い出して悪いことをされなければいいのである。

[22662] 政府は国民を貧乏にするだけでお金持ちにしない。 h28.4.21
今の私は仕事をしていない。今の私は親の仕送りで生活している。しかし、このままでは私が親の貯金を使いきってしまって親も私も死なねばならない。だから、そのうち私は仕事をするようになるかもしれない。私は働いてお金を稼[かせ]ぐようになるかもしれない。
しかし、だからと言って政府が私の情報を使った国家宗教で日本を豊かにするわけではない。
政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。だから、政府はたとえ国民を貧乏にすることはあっても国民をお金持ちにすることはない。いつの時代でも政府は国民を貧乏にするだけである。
近代の日本が豊かになったのは、国民みんなで産業革命をやったからである。国民みんなで生産力を上げたから、国民みんなが物やお金が豊かになったのである。近代の政府は国民に悪いことをするために国民を貧乏にしていただけである。政府は国民を貧乏にする命令を国民に出して国民を貧乏にしていただけである。近代の国民は物が貧しかったから“悪いことをされる喜び”しかなかったから悪いことをされると幸福になったから、政府に貧乏にされて政府に悪いことをされて幸福になっていたのである。近代の国民は自分でお金を稼ぎながら政府に貧乏にされて幸福に暮らしていたのである。政府が富岡製糸工場を建てたのは政府が民主主義の団体のふりをするためである。政府は民主主義の団体のふりをするためにちょっとだけ善いことをするからちょっとだけ工場を建てたのである。
今の政府も国民に悪いことをして国民が貧乏になる命令を国民に出している。政府は国民みんなの眼の前では民主主義の団体のふりをするから、政府はテレビや新聞では自分が国民を豊かにする政策をやっているふりをしている。国民は政府がテレビや新聞で国民を豊かにする政策をやっているふりをしているのを真[ま]に受けて、政府の国民を貧乏にする命令を聞いて貧乏になっている。このままでは国民みんなが貧乏になりすぎて国が滅んでしまう。今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民みんなは悪いことをされると不幸になるから、今の国民みんなは政府に不幸にされているだけである。国民みんなは早く政府のことを正しく理解して、『政府が民主主義の団体のふりをしている悪いことをする団体である』ことを理解して、今の自分が悪いことをされるのが嫌なら、今の自分が貧乏にされるのが嫌なら、政府の言うことを聞かないようにして政府の国民を貧乏にする命令を聞かないようにして貧乏にならないようにしないといけない。日本広告機構(JARO)は、国民にテレビでやっていることが全部本当のことだと思わせることによって政府が本当に民主主義の団体であると思わせるためにあるのである。日本広告機構は政府が建てた機関である。JAROがテレビで「自分がテレビでみんなが嘘をつかないように見張っている」と言っているのがそもそも嘘なのである。JAROは本当は何にもやっていない。テレビでやっているのは嘘ばっかりである。(JARO←ジャロ←ジャろ←ジろ←シふ(“ジ”の濁点を“ろ”に移すと“ふ”になる)←川フ(シ≒川)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私。私は子供のころときどき親に嘘[うそ]をついていたから、政府が私の情報を使って国家宗教をやってJAROを建てたのである。)国民は『政府が言っていることをやっていることが裏腹である』ことを理解して、政府が民主主義の団体のふりをしているのを真に受けないようにしないといけない。国民は政府が民主主義の団体のふりをしていることと政府が隠れて悪いことをやっていることを混同してはいけない。今の国民は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がない。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府と国民は平等だから、国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないかは国民個人の自由である。今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していないから、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社だから、今の国民にとっては政府に用がないから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされてはいけない。今の国民は政府にお金を取らさず政府を倒さねばならない。早く国民みんなで政府を倒して悪いことをする団体をなくしてみんなで幸福に暮らさねばならない。
今ではみんなが物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して生きている。今ではみんなが“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。お金持ちは物を使って遊んでいるので“悪いことをされる喜び”がない。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。そのため、今の国民は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。しかし、今でも貧乏人は物が貧しく物を使っていろんな喜びを満足することができない。今でも貧乏人は“悪いことをされる喜び”しかない。今でも貧乏人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされている。今では貧乏人が政府の言うことを聞いているだけである。政府の言うことを聞くのは貧乏人だけである。政府は貧乏人を幸福にする会社である。今の人が貧乏人を馬鹿にするのはそのためである。国民は自分に“悪いことをされる喜び”があれば政府の言うことを聞き、自分に”悪いことをされる喜び”がなければ政府の言うことを聞いてはいけない。
要するに、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。“悪いことをされる喜び”から展開される世界がある。その世界について知ることが“政府論”なのである。『地球が太陽の周[まわ]りを回っている世界』が本当の世界であって「太陽が地球の周りを回っている世界」が嘘[うそ]の世界である。それと同じように、『人間に“悪いことをされる喜び”がある世界』が本当の世界であって「人間に“悪いことをされる喜び”のない世界」が嘘の世界である。『人間に“悪いことをされる喜び”がある世界』では、今の国民は“悪いことをされる喜び”がないから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府の命令を無視していい。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府の命令を聞かなければいいのである。国民みんなは早く正しい世界を理解して、正しいことを考えて正しいことをしないといけない。すでにかなりの人がそうしている。国民はみんなに遅れないためにそうしないといけない。

[22663] 人間は政府の言うことを聞いて“悪いことをされる喜び”に目覚[めざ]めてはいけない。 h28.4.21
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔言葉がなくて言葉を使わなかったので“テレパシー”で自分の意思を他人に伝達していたのと同じことである。
政府は悪いことをする会社である。人間の心には“悪いことをされる喜び”があるので、政府は国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。人間はみんなの眼の前で自分が悪いことをされるのが恥ずかしいので、政府は民主主義の団体のふりをして隠しながら国民に悪いことをしている。(宗教団体や暴力団もみんなを恥ずかしがらせないために、善いことをやっているふりをしながら隠れてみんなに悪いことをしている。宗教団体は発展途上国の人々に中古のラジオをやったり、暴力団はスーパーを経営したりして善いことをやっているふりをしている。社長や文学部もみんなを恥ずかしがらせないために、善いことをやっているふりをしながら隠れてみんなに悪いことをしている。社長はみんなの前で演説をやったり、文学部は身嗜[だしな]みをきれいにしたりみんなに愛想[あいそ]よくニコニコしたりして善いことをやっているふりをしている。)政府は民主主義の団体のふりをしているのであって本当は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。政府は法律を定められない。国民は政府が定めた納税の義務の法律を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする会社である。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が遅れていて昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。政府は国民に悪いことをするために国民からたくさんお金を取って儲[もう]かっていた。政府は儲けたお金でみんなのために善いことをやっていた。
今(昭和40年=1965年ごろ以後)では文明が進んで今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足している。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされると不幸になる。今の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の人は政府にお金を取られたり政府の命令を聞いたりしなくなっている。
今の政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。政府は付属会社を民営化している。国民は自分で会社を建ててみんなからお金をもらってみんなのために善い事業をやっている。早く国民みんなで政府を倒して悪いことをする会社をなくして幸福に暮らさねばならない。
人間の脳には“テレパシー器官”がある。人間が“怒りの感情”に駆[か]られて自分の“テレパシー器官”を使ってテレパシーが聞こえるようになって苦しまねばならなくなるのが精神分裂病である。それと同じように、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間が政府の言うことを聞いて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して“悪いことをされる喜び”に目覚[めざ]めて、自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府の言うことを聞いて政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりするようになるのが“政府言いなり病”である。精神分裂病があることが“テレパシー器官”がある証拠であり、政府があることが“悪いことをされる喜び”がある証拠である。“テレパシー器官”や“悪いことをされる喜び”は今でも人間にある。今の人は“テレパシー器官”や”悪いことをされる喜び”を働かせていないからそれらがないだけであって、それらを働かせればそれらがあるようになる。人間は自分の“怒りの感情”に駆られて“テレパシー器官”を働かせないようにして、政府の言うことを聞いて自分の“悪いことをされる喜び”を働かせないようにして幸福に生きていかねばならない。

[22664] 今でも政府や宗教団体や暴力団をやってもかまわない。 h28.4.22
この世では、どんな仕事をやろうが人の勝手である。だから、今でも“悪いことをやる仕事”をやってもかまわない。国民は他人の“悪いことをされる喜び”を満足して他人を幸福にするためなら“悪いことをやる仕事”をやってもかまわない。国民は他人を幸福にするためなら他人を殺したり虐[いじ]めたり財産を取ったりしてもかまわない。だから、今でも政府や宗教団体や暴力団が“悪いことをする仕事”をやっているのである。会社の中では社長や文学部が“悪いことをする仕事”やっているのである。
ただし、もちろん、国民は他人とちゃんと契約を取ってから他人に“悪いことをする仕事”をしないといけない。他人の了承を得てから他人に“悪いことをする仕事”をやらないといけない。自分勝手に他人に“悪いことをする仕事”をやってはいけない。他人に“悪いこと”を押し売りしてはいけない。つまり、国民は悪いことをされたい者にだけ悪いことをやってもよく、悪いことをされたくない者に悪いことをやってはいけない。国民は相手が悪いことをされるのを認めたときだけ相手に悪いことをしないといけない。相手が悪いことをされるのを断ったら相手に悪いことをしてはいけない。相手が悪いことをされたくないのに悪いことをした場合には犯罪になって罰せられる。
昔は文明が遅れていてみんなが物が貧しくてみんなが“悪いことをされる喜び”しかなかったから、みんなが幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかったから、“悪いことをする仕事”が大いに流行[はや]っていた。政府は国民みんなに大雑把[おおざっぱ]に悪いことをやるだけだから、もっと悪いことをされたい人は自分で宗教団体や暴力団に悪いことをしてもらって幸福になっていた。政府や宗教団体や暴力団がみんなに悪いことをしてみんなからたくさんお金を取って大儲[おおもう]けしていた。政府や宗教団体や暴力団は余ったお金でみんなに善いことをやったりヘリコプターでお金をまきちらしたりしていた。
しかし、今では文明が進歩して物が豊かになってみんなが物を使っていろんな喜びを満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって、“悪いことをされる喜び”を満足している者が減っている。今では“悪いことをする仕事”は流行[はや]らない。儲[もう]からない。赤字になる。倒産する。だから、国民は“悪いことをやる仕事”はやらないほうがいい。
今ではかつての大手の政府や宗教団体や暴力団がほそぼそと残って“悪いことをやる仕事”をやりつづけているだけである。政府や宗教団体や暴力団はだんだん客がいなくなって潰[つぶ]れてなくなっている。人間が山に登るのは、人間に“山に登る喜び”があるからである。それと同じように、“悪いことをする仕事”があるのは“悪いことをされる喜び”がある人がいるからである。しかし、今では物が豊かになって“悪いことをされる喜び”がある人が減っている。そのために、“悪いことをやる仕事”がなくなっているのである。

[22665] 国民みんなが”悪いことをされる喜び”のある国には“悪いことをする仕事”がある。 h28.4.22
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
人間の心には“悪いことをされる喜び”があるから、人間に悪いことをして人間の“悪いことをされる喜び”を満足して人間を幸福にする仕事がある。人間は自分の幸福のために生きているから、人間に欲望があれば、必ずその欲望を満足する仕事がある。政府は国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。国民はみんなの眼の前で自分が悪いことをされるのが恥ずかしいから、政府は国民に恥ずかしい思いをさせないために民主主義の団体のふりをして隠しながら国民に悪いことをしている。(昔の人がみんな“悪いことをされる喜び”を満足して生きていたことは文学作品にも歴史書にも書かれていない。それだけ昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”が恥ずかしかったのだ。みんなが恥ずかしいと思っていることは文学や歴史書に書かれないのだ。人間がウンコをすることが文学や歴史書に書かれていないように“悪いことをされる喜び”を満足することも文学や歴史書に書かれていないのだ。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足することが恥ずかしいと思っていたが、自分が生きていくためには自分を幸福にしなければならなかったので自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったので、昔の人は自分が政府に善いことをしてもらっているふりをして隠しながら政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足していたのである。政府は本当は悪いことをする会社だから、政府は民主主義の団体ではない。政府は民主主義の団体のふりをしているだけで本当は民主主義の団体ではない。政府は民主主義をやっているふりをして本当は民主主義をやっていない。政府は国民のために善いことをやっているふりをして本当は国民のために善いことをやっていない。だから、政府は国民のためにちょっとだけしか善いことをやっていない。大雑把[おおざっぱ]には政府が善いことをやっているのを無視していい。政府は善いことをやっていないと見なしていい。要するに、政府は悪いことをする会社だから、政府は国民に悪いことをするだけである。政府は国民を殺したり虐めたり財産を取ったりするだけである。政府は民主主義の団体のふりをしている悪いことをする団体である。政府は善いことをしているふりをして本当は悪いことをやっている。だから、政府は善いことをほとんどせず悪いことばかりやっているのである。政府は昔も今も永遠に国民に悪いことをする会社である。政府は自分が滅んでなくなるまでずっと国民に悪いことをしつづけるのである。
昔は文明が遅れていてみんなが物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったので、みんなが自分が幸福になるために自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今は文明が進んでみんなが物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足しているのでみんなが“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。今ではみんなが悪いことをされるのが嫌である。だから、今ではみんなが自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。世の中には変わり者がいるから、今でも“悪いことをされる喜び”のある少数の者が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされている。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたから“悪いことをされる喜び”があった。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がない。今の人は自分が悪いことをされないようにして自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府はみんなに悪いことをできなくなってみんなからお金を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。

[22666] 政府は民主主義の団体のふりをしているだけだから善いことをしない。 h28.4.22
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物のエサだったのでほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民に悪いことをする会社である。政府は国民を幸福にするために国民を殺したり虐めたりお金を取ったりする。国民はみんなの眼の前で政府に悪いことをされるのが恥ずかしいので、政府に民主主義の団体のふりをしてもらって、自分が政府に善いことをしてもらうふりをして隠しながら政府に悪いことをされて“悪いことをされる喜び”を満足している。政府は民主主義の団体のふりをしているだけだから、国民にろくすっぽ善いことをしないし、国家権力もない。政府は法律を定められない。国民は政府が定めた納税の義務の法律を守らなくていい。政府はそもそも悪いことをするためにある会社だから善いことをしないのは当り前である。政府にとっては悪いことをすることが仕事であり善いことをするのは仕事ではないから、政府はお義理[ぎり]程度にしか善いことをしないのである。そもそも政府にとっては善いことをやるのは仕事ではないから、政府は善いことをやるのが嫌だから、政府はいやいやしかたなく善いことをやるだけである。政府は見かけだけ善い団体であればいいだけだから善いことはほとんどしなくていいのである。国民にとっては政府が悪いことをしてくれればいいだけだから、国民にとっては政府は自分が国民に悪いことをするのを隠す程度に善いことをしてくれればいいだけだから、政府は悪いことをいっぱいやって善いことはほとんどしなくていいのである。政府は国民が恥ずかしい思いをしなくてすむように悪いことをやればいいから、なるだけたくさん悪いことをやって善いことは最小限しかしないのである。そもそも政府は悪いことをする会社である。国民が政府に求めているのは“悪いこと”だから、国民は政府に“悪いこと”をやってもらいたいのであって善いことをやってもらいたいのではないから、政府は国民のために悪いことをたくさんやって善いことは自分が悪いことをするのを隠すために必要最小限しかしないのである。だから、政府は悪いことをたくさんやって善いことをほとんどしないのである。政府は悪いことをする会社である。政府は悪いことをするのが仕事であって、善いことをするのが仕事ではない。だから、政府は悪いことをいっぱいやって、善いことはほとんどしないのである。政府は自分が善い団体のふりをするために善いことをちょっとやるだけである。政府は自分が悪いことをやって儲[もう]けたお金で善いことをやったりするが、それは政府の仕事ではない。政府自体の仕事は“国民が恥ずかしがらずにすむように悪いことをやること”だから、政府は善いことをするふりをして悪いことをすればいいから、政府は善いことをするふりをしているのであって本当に善いことをしているのではないから、政府はちょっとしか善いことをしないのである。政府は善いことをする芝居をしているだけで本当に善いことをしているのではないから、政府はちょっとだけしか善いことをしないのである。
要するに、政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民のために国民に悪いことをやっているのだから、政府が国民に悪いことをするのは仕事である。だから、政府と国民は平等である。国民は政府に悪いことをして欲しければ政府の言うことを聞き、政府に悪いことをして欲しくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔は文明が低くてみんなが物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。みんなは自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。それが昔の人にとってのたったひとつの喜びだった。
今は文明が高くなってみんなが物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足している。みんなが“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなった。大昔の人間が言葉が発明されると“テレパシー”がつまらなくなって“テレパシー”を使わなくなったのと同じことである。今ではみんなが悪いことをされるのが嫌である。みんなは自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
そういうわけで、今では政府がみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。

[22667] 政府は悪いことをいっぱいやって善いことをちょっとしかしない。 h28.4.22
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために国民を殺したり虐めたり財産を取ったりして国民に悪いことをする会社である。国民は政府にあからさまに悪いことをされるのが恥ずかしいので、政府に民主主義の団体のふりをしてもらって政府が国民に悪いことをやっているのが国民に露骨[ろこつ]にわからないようにしてもらいながら政府に悪いことをされている。
そもそも政府は悪いことをする会社である。政府の仕事は悪いことをすることであって、善いことをすることではない。政府は国民を幸福にするために悪いことをいっぱいやって、自分が悪いことをするのを隠すためにちょっとだけ善いことをやっている。だから、政府は悪いことをたくさんやって善いことを少ししかしないのである。
要するに、政府は悪いことをする会社である。政府は国民にいっぱい悪いことをやって善いことは少ししかしない。政府は国民の眼のつかないところで密[ひそ]かに悪いことをいっぱいやって、国民の眼の前で民主主義の団体のふりをするために善いことをちょっとだけやっている。つまり、政府は国民の眼の届かないところで国民にたくさん悪いことをして、国民の眼の届くところでは国民にちょっとだけ善いことをしている。
昔は文明が遅れていてみんなは物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。みんなは自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足するために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらっていた。
今は文明が進んでみんなが物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足している。みんなは“悪いことをされる喜び”がつまらないと思って“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。みんなは悪いことをされるのが嫌である。だから、みんなは自分が幸福になるために自分が悪いことをされないために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをしてもらわなくなっている。
そういうわけで、今では政府がみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府がテレビや新聞でやっているのは民主主義の団体のふりをしていることだけである。政府は国民の眼で見えないところで国民に悪いことをたくさんやっている。国民は眼で見えることだけで安心してはいけない。今の国民は悪いことをされると不幸になるから、政府に悪いことをされて不幸にされている。国民みんなで早く政府を倒して政府に不幸にされないようにしてみんなで幸福に暮らさねばならない。
人間には“悪いことをされる喜び”がある。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社だから、政府は国民に悪いことをたくさんする。しかも、国民は政府にあからさまに悪いことをされるのが恥ずかしいから、政府は国民を恥ずかしがらせないために、国民の眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをやって、国民の眼の見えないところで国民に悪いことをやっている。昔の国民が自分が政府に悪いことをされるのをみんなに見られるのが恥ずかしかったために、政府が国民の眼で見えないところで国民に悪いことをするようになったのである。(今から約35年前、私が高校生のころに「最近の虐めは人目につかないところでやるようになって陰湿になった」と言っていたのはこのことである。当時の私は政府のことだとまったく気づかず、本当に虐めのことだと思っていた。)国民は頭の目で政府が悪いことをたくさんやっているのを見て、今の自分は悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かないようにして政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりしないようにして政府に悪いことをされないようにしなければならない。

[22668] いつの時代でも人間は自分の心を満足して幸福に生きている。 h28.4.22
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。
大昔(縄文時代)は文明がすごく低くてみんなが物がすごく貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。大昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、豪族に悪いことをしてもらっていた。
昔(弥生時代)になると農耕生活が始まって文明が少し高くなってみんなが少し物が豊かになった。昔の人は依然[いぜん]として“悪いことをされる喜び”しかなかったが、“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなった。そのために、昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために、政府や幕府に善いことをして隠してもらいながら悪いことをしてもらっていた。政府や幕府はみんなの眼で見えないところでみんなを幸福にするためにいっぱい悪いことをして、自分が悪いことをするのを隠すためにみんなの眼で見えるところでちょっとだけ善いことをした。みんなが便所の下駄[げた]を整頓してみんなの眼の見えないところで善いことをするのと同じことである。政府や幕府は悪いことをして儲[もう]けたお金で、みんなのために善いことをやってくれた。
今(現代)になると電化生活が始まって文明がかなり高くなってみんながかなり物が豊かになった。今の人は物を使っていろんな喜びを満足している。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。そのため、今の人は自分が幸福になるために、政府に悪いことをしてもらわなくなった。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に殺されたり虐められたりお金を取られたりしなくなって悪いことをされなくなった。政府は悪いことができなくなってお金が儲からなくなって潰[つぶ]れている。政府は付属会社を民営化している。国民は政府に頼らず自分でみんなからお金をもらって善い事業をするようになっている。
いつの時代でも人間は自分の心を満足して幸福に生きてきた。時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。時代によって人間の心が違う。そのため、時代によって人間のやることが違うのだ。大昔の人は“悪いことをされる喜び”があって“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなかったので豪族にそのまま悪いことをされていた。昔の人は“悪いことをされる喜び”があったが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなって政府や幕府に善いことをして隠してもらいながら悪いことをされるようになった。今の人は物を使っていろんな喜びを満足するようになって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっているので政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。

[22669] 昔の人は政府に隠して悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。 h28.4.22
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物のエサだったから、そんな喜びがあるのである。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しかったので昔の人には“悪いことをされる喜び”しかなかったので昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていた。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたがみんなの眼の前で自分が政府に悪いことをされるのが恥ずかしかったので、昔の人は政府に善いことをして隠してもらいながら悪いことをしてもらっていた。政府は“民主主義の団体のふり”をして隠しながら悪いことをやっていた。政府は国民の眼で見えないところで国民を幸福にするためにいっぱい悪いことをやって、国民の眼で見えるところで民主主義の団体のふりをするためにちょっとだけ善いことをやっていた。国民は政府にいっぱい悪いことをやってもらっていっぱい“悪いことをされる喜び”を満足してもらって幸せいっぱいに暮らしていた。
昔の国民にとっては自分の“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしいことなので、政府は国民に恥ずかしい思いをさせずに政府を利用することができるようにするために自分が本当は悪いことをやる会社なのに「自分が民主主義の団体だ」と嘘[うそ]の宣伝をしていたのである。こういうのを“嘘も方便”というのである。政府は国民の眼で見えるところで自分が民主主義の団体であることを宣伝して、国民の眼で見えないところで悪いことをやっていた。政府は自分が民主主義の団体であることを宣伝するために善いことをやっているのだから善いことはちょっとしかしなかった。政府は本当は悪いことをする会社だから政府は国民の眼で見えないところで悪いことをいっぱいやっていた。昔の国民は政府の宣伝とは裏腹に『政府が本当は悪いことをやる会社である』ことをちゃんと知っていて政府に悪いことをやってもらっていたのである。(今の国民がそんなことを知らないほうが悪い。)
政府は本当は悪いことをする団体であって、民主主義の団体ではない。政府は民主主義の団体のふりをしているのであって本当は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。政府は法律を定められない。国民は政府が定めた法律を守らなくていい。特に国民は政府が定めた納税の義務の法律を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする会社である。政府は仕事が変わっているだけでただの会社である。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
今は文明が高くて今の人は物が豊かになったので物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。今の人は悪いことをされるのが嫌なので、政府に悪いことをされないようにしている。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に殺されたり虐められたり財産を取られたりしなくなっている。政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰[つぶ]れている。

[22670] 政府はどうして民主主義の団体のふりをするのか? h28.4.23
昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしいと思っていた。
そのため、政府が正直に『自分が悪いことをする団体だ』と言うとみんなが恥ずかしがって寄ってこなかった。これでは政府が潰[つぶ]れる。そこで、政府は嘘[うそ]をついて「自分が民主主義の団体だ」と言った。そうするとみんなが喜んで政府を利用するようになった。それ以後、政府は「自分が民主主義の団体だ」とみんなに嘘の宣伝をするようになったのである。みんなも政府が嘘の宣伝をしていることを知っていて『政府が本当は悪いことをする会社である』ことを知っていて政府を利用していたのである。
政府は自分が嘘の宣伝をするために民主主義の団体のふりをしているだけだから、政府は善いことはちょっとしかしない。政府は本当は悪いことをする会社だから、国民の眼の見えないところでいっぱい悪いことをやっている。つまり、政府は悪いことをいっぱいやって善いことは少ししかしない。
幕府も政府と同じである。幕府は民主主義の団体のふりはしなかったが善い団体のふりをしていた。幕府が正直に『自分が悪いことをする団体だ』と言ったら国民が寄ってこなかったので、幕府は嘘をついて「自分が善いことをする団体だ」と言って国民が恥ずかしがらずに幕府を利用できるようにしたのである。幕府とは“隠れて悪いことをする団体”という意味である。政府も幕府と同じように隠れて悪いことをする団体だが、民主主義の団体のふりをするので政府と言うのである。
政府も幕府も宣伝とは裏腹[うらはら]に本当は悪いことをする団体である。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府や幕府に悪いことをされたかったから、政府や幕府の言うことを聞いて政府や幕府に悪いことをされていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”を満足せず自分が悪いことをされるのが嫌なので、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなった。政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。

[22671] 政府は民主主義の団体のふりをしながらみんなに悪いことをしている。☆ h28.4.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しくて昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福に暮らすためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかし、農耕生活が始まって文明が少し高くなったために、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足したかったが、みんなの眼で見えるところで自分が“悪いことをされる喜び”を満足したくなかった。そのために、政府はみんなの眼で見えないところで密[ひそ]かにみんなに悪いことをして、自分の正体を隠すためにみんなの眼で見えるところで「自分が民主主義の団体である」ふりをして、政府がみんなの眼に見えるところでみんなに悪いことをしているのがわからないようにしながらみんなに悪いことをしていた。こうして、昔の人は恥ずかしい思いをせずに安心して政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらうことができた。昔の人は自分が恥ずかしい思いをせずに自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福に暮らすために、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。例えば、政府は密かにストーブの設計担当者に命令してストーブから火が出るように設計させて国民を虐めていた。政府は密かに自動車の設計担当者に命令してブレーキが利かなくなったりエンジンが爆発するように設計させて国民を虐めていた。政府は密かに原子力発電所の設計担当者に命令して地震で原子力発電所が壊れるように設計させて国民を虐めていた。政府は密かに原子力発電所のオペレーターに命令して原子炉が暴走するように操作させて原子炉を爆発させて放射能をまきちらして国民を虐めていた。また、政府は密かに“強い悪気が出る者”を住ませて四六時中強い悪気を出させて近所の者を不愉快[ふゆかい]な気分にする。
政府は本来悪いことをする会社だから、政府はみんなの眼で見えないところでみんなを幸福にするためにみんなにたくさんを悪いことをしている。政府は自分の正体を隠すためにみんなの眼で見えるところで「自分が民主主義の団体である」ふりをしているだけだから、政府はみんなのために善いことは少ししかしない。だから、政府はみんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやって、みんなの眼で見えるところで善いことを少ししかしないのである。
政府は本当は悪いことをする団体であって、民主主義の団体ではない。政府は自分が民主主義の団体のふりをしているだけであって本当は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。国民は政府に従う必要はない。政府は法律を定められない。国民は政府が定めた法律を守る必要はない。特に国民は政府が定めた納税の義務の法律を守る必要がない。政府は本当は悪いことをする会社である。政府は仕事が変わっているだけでただの会社である。政府と国民は平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらうか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをしてもらわないかは国民個人の自由である。
今は文明が高くなって今の人は物が豊かになって今の人は物を使っていろんな喜びを満足している。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は自分が悪いことをされるのが嫌である。そのため、今の人は自分が悪いことをされないようにして自分が幸福に暮らすために、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。国民みんなで早く政府を倒して密かにみんなに悪いことをする会社をなくしてみんなで幸福に暮らさねばならない。

[22672] 人間には“テレパシー”がある。☆ h28.4.23
人間は大昔言葉がなかった。人間は大昔“テレパシー”で自分の意思を他人に伝えていた。
昔になると文明が高くなって言葉が発明されて人間が言葉で自分の意思を他人に伝えるようになった。人間にとってはテレパシーよりも言葉のほうが便利だったので、人間は言葉を使ってテレパシーを使わなくなった。
人間の脳には“テレパシー器官”がある。人間がテレパシーを使わないからテレパシーがないだけであって、テレパシーを使えばテレパシーがある。性欲を満足するから性欲があるのであって、性欲を満足しなければ性欲がないのと同じである。人間が“怒りの感情”に駆[か]られて自分がテレパシーを使おうとするとテレパシーが使えるようになって、他人の悪口がテレパシーで聞こえるようになって悶絶[もんぜつ]して苦しまねばならなくなる。これが精神分裂病である。みんなは自分がテレパシーで苦しまないために絶対にテレパシーを使おうとしてはいけない。
テレパシーの実体は電磁波だろう。そうでなければ、感覚波[かんかくは]だろう。感覚子[かんかくし]の振動によって発生する波動だろう。どちらにしろ、眼で見えるものではない。
性欲は古い感情である。テレパシーは古い意思伝達手段である。だから、性欲とテレパシーは仲間である。性欲を満足しているとだんだんテレパシーが使いたくなる。人間がテレパシーを使うと精神分裂病に罹[かか]って苦しまねばならなくなる。だから、人間は性欲を満足してはいけない。人間は性欲を感じるほどエッチなことをやってはいけない。性欲がないようにしてエッチをしないといけない。h28.4.28追記:“悪いことをされる喜び”も古い喜びである。性欲と“悪いことをされる喜び”は仲間である。性欲を満足していると“悪いことをされる喜び”も満足したくなる。人間が“悪いことをされる喜び”を満足するとお金を取られて殺されてカタワにされて物を使っていろんな喜びを満足することができなくなって喜びが減る。だから、性欲を満足してはいけない。人間が性欲を満足すると“テレパシー”を使いたくなったり“悪いことをされる喜び”を満足したくなったりして不幸になる。だから、人間は性欲を満足してはいけない。
人間の脳に“テレパシー器官”があるように、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったので“悪いことをされる喜び”を満足していたので“悪いことをされる喜び”があった。今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足しているために“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているから“悪いことをされる喜び”がないのである。“悪いことをされる喜び”があるのが旧人類で、“悪いことをされる喜び”がないのが新人類(ニュータイプ)である。人間がテレパシーを使うとテレパシーがあるように、人間が“悪いことをされる喜び”を満足すると“悪いことをされる喜び”があるようになる。そうなるといくらでも相手に悪いことをされて喜ぶようになって相手に殺されたり全財産を取られたりする。みんなは自分が“悪いことをされる喜び”で苦しまないために絶対に政府や宗教団体や暴力団などと関わらないようにして“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。
h28.5.1追記:性欲とテレパシーと“悪いことをされる喜び”は仲間である。性欲もテレパシーも“悪いことをされる喜び”もぜんぶ古臭い感覚である。縄文時代の原始人がやっていたことである。現代人にはふさわしくない。だから、現代人は性欲やテレパシーや“悪いことをされる喜び”をやってはいけない。そうすれば、幸福に生きられるだろう。
マゾヒズム(性的虐待)は性欲と“悪いことをされる喜び”がいっしょになったものである。性欲と“悪いことをされる喜び”は仲間だからいっしょになるのである。本来は性欲と“悪いことをされる喜び”は別のものである。
h28.5.2追記:性欲を満足すると眼で見えることが気になる。性欲と五感は仲間である。性欲も五感も古臭い感覚だから仲間である。性欲を満足すると五感が鋭くなって眼で見えることがすごく気になる。性欲を働かせると眼で見えることしかわからなくなって頭で考えることがわからなくなって馬鹿になる。つまり、性欲が強い者は眼で見ることしかわからず、眼で見ることしかわからない者は性欲が強い。要するに、エッチは馬鹿であり、馬鹿はエッチである。“性欲”を満足すると、“眼で見えること”しかわからなくなって他人のしていることが気になって、他人が自分の気に入らないことをしているとすごく腹が立って、他人に“テレパシー”で訴えてテレパシーが聞こえるようになってテレパシーで他人の悪口が聞こえて暴れるようになって精神分裂病に罹[かか]って死ぬまで不幸に暮らさねばならなくなる。性欲や五感やテレパシーや“悪いことをされる喜び”は仲間である。全部古臭い感覚である。人間が古臭い感覚を働かせるとろくなことがない。だから、人間は性欲や五感やテレパシーや“悪いことをされる喜び”などの古臭い感覚を働かせてはいけない。
心も古臭い感覚である。心は人間が生まれつき持っている現実についての認識だからである。心も性欲や五感やテレパシーなどの仲間である。人間は性欲を働かせると心が高ぶって感情的になる。人間が“性欲”を満足すると、感情的になって他人に“すごく腹が立って”精神分裂病に罹りやすいのはそのためである。だから、人間は心もあまり働かせないほうがいい。人間はそこそこの幸福で満足してあまり行き過ぎた幸福を求めてはいけない。人間はそこそこの喜びで満足してあまりドギツイ喜びを求めてはいけない。
インド人に善悪の区別がなく道徳がないのはインド人が心を働かさないからである。インド人は“考える喜び”があって知覚をよく働かせるので心が働かないのである。インド人は知覚をよく働かせるのでインド人は五感を働かさないので科学が発達しないのである。インドは昔から科学と数学の国として知られている。本来インドは科学が得意なのだが、知覚主義に行き過ぎてしまったから科学が苦手になったのだ。インドはこれまでの知覚主義を修正して“現実について考える知覚主義”にすればいい。インド人が現実主義になれば、現実において幸福に生きるためには法律を守らねばならないことがわかって悪いことをやらなくなって身分制がなくなるだろう。(インド人は自尊心が強くてヨーロッパ人が自分よりも科学が得意なのが気に入らなくて科学をやらなくなって現実について考えなくなったのだろうが、ヨーロッパで科学をやったのは本当はインド人である。ヨーロッパに行ったインド人が科学をやったのである。だから、科学はもともとインドの文化である。だから、インド人は科学をやって現実について考えればいいのである。日本人もインド人である。だから、日本人も『科学は自分の文化だ』と思って科学をやらねばならない。)一方、ヨーロッパは昔から芸術の国として知られている。インド人は知覚中心の文化である。だから、インド人は人種が進んでいるのである。インド人は進んだ人種である。反対に、ヨーロッパ人は遅れた人種である。ヨーロッパ人は古臭い人種である。人間の脳は脳幹、古皮質、新皮質に分かれている。ヨーロッパ人は生まれつき古皮質が発達している。インド人は生まれつき新皮質が発達している。ヨーロッパ人はインド人を入れたから科学が発達したのである。ヨーロッパ人だけでは眼で見えることしかわからないから科学ができない。今は科学の時代である。今は知覚の時代である。今の人は知覚や“考える喜び”や“物を使って満足される喜び”などの新しい感覚を働かせて、性欲や五感やテレパシーや“悪いことをされる喜び”や心などの古臭い感覚を働かせてはいけない。そうやって人間は未来に向かって進んでいかねばならない。
h28.5.9追記:性欲や五感や心やテレパシー器官は古皮質である。それらの感覚は『仲間』であってひとつの感覚を働かせるとほかの感覚も働きやすくなる。人間が性欲を満足させると古皮質全体の働きが高まって五感や心やテレパシー器官が興奮しやすくなる。だから、オナニーやセックスをして“性欲”を満足すると、いつもより“五感”が敏感になって他人のやっていることがすごく気になって、“感情的”になって他人が自分の気に入らないことをしているとすごく腹が立って、“テレパシー器官”を使いたくなって他人をどうにかしようとして躍起[やっき]になってテレパシーを使って訴えようとしてテレパシーが聞こえるようになって精神分裂病に罹[かか]って他人の悪口の幻聴が聞こえて不愉快[ふゆかい]になって暴れ回るようになって他人の家に乱入して警察に捕まって精神病院に送られて入院させられて一生を台無しにするのである。だから、人間はふざけて性欲を満足してはいけない。人間は古皮質ではなく新皮質を使って快感を得ないといけない。それが人間にとっての道徳である。


[22673] 政府は国民に悪いことをして国民を幸福にすることが仕事である。 h28.4.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをすることが仕事である。おまけに政府は国民に恥ずかしい思いをさせないために、みんなの眼で見えないところで密[ひそ]かに国民に悪いことをして、みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをして、国民がみんなの眼で見えるところで政府に悪いことをされていないようにしながら国民に悪いことをしている。
要するに、政府は悪いことをする会社である。政府はみんなの眼で見えないところで国民を幸福にするためにたくさん悪いことをして、みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをするためにしかたなく善いことをちょっとやっている。政府は国民を幸福にするために国民に悪いことをする。政府は仕事が変わっているだけでただの会社である。政府と国民は平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないかは国民個人の自由である。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福に暮らすためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。(昔は親の幼児虐待が多かったのも親が子供の“悪いことをされる喜び”を満足して子供を幸せにするためである。昔は物が貧しかったので子供がオモチャで遊べなかった。子供はオモチャで遊ぶかわりに親に虐待されて遊んでいたのである。)
今は文明が高くて今の人は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなって幸福に暮らしている。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。人間の心が変わると幸福になり方が変わって暮らしが変わる。昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったので自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府はみんなの眼で見えるところでは民主主義の団体だが、みんなの眼で見えないところでは悪いことをする団体である。政府はみんなの眼で見えるところで善いことをして、みんなの眼で見えないところで悪いことをする。今の人は“悪いことをされる喜び”がないから、善いことをされると幸福になり、悪いことをされると不幸になる。だから、政府はみんなの眼で見えるところで今の人を幸福にして、みんなの眼で見えないところで今の人を不幸にしている。政府は本当は悪いことをする会社であって民主主義の団体ではないから、政府はみんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやって、みんなの眼で見えるところで善いことをちょっとだけやっている。政府はみんなの眼で見えないところで今の人をたくさん不幸にして、みんなの眼で見えるところで今の人をちょっとだけ幸福にしている。総じて、政府は今の人を不幸にしている。今の人にとっては政府は要らない。だから、今の国民みんなは政府の言うことを聞かないようにして政府にお金を取らさないようにして政府を倒して政府に不幸にされないようにして幸福に暮らさないといけない。

[22674] 政府は表でちょっとだけ善いことをやって裏でたくさん悪いことをやっている。 h28.4.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをすることが仕事である。政府は国民がみんなの眼で見えるところで悪いことをされて恥ずかしい思いをしないために、みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをしてみんなの眼で見えないところで国民に悪いことをしている。政府はみんなの眼で見えないところで国民を幸福にするために国民に悪いことをたくさんやって、みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをして国民に善いことをちょっとだけやっている。政府は本当は悪いことをする会社であって、民主主義の団体ではない。政府は国家権力がない。国民は政府に従わなくていい。政府は法律を定められない。国民は政府の法律を守らなくていい。特に国民は政府が定めた納税の義務の法律を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする会社だから、政府には国家権力がないから、政府と国民は平等だから、国民が政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされないかは国民個人の自由である。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。そのため、昔の人は政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。
今は文明が高くて今の人は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。そのため、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなって幸福に暮らしている。今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金が取れなくなって潰[つぶ]れている。
時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。人間の心が社会を決める。人間の心が変わると社会も変わる。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったから、自分が幸福に生きるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。そのため、政府がみんなを自分の好き放題にできた。今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくなっているから、今の国民は悪いことをされるのが嫌だから、自分が幸福に生きるために政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなくなっている。そのため、政府がみんなを好き放題にできなくなってみんなにお金をもらえなくなって潰れてなくなっている。今の国民は物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。みんなの人気がある商品を作った会社が儲[もう]かっている。

[22675] 昔の人が悪いことをされるのが恥ずかしかったために、政府が民主主義の団体のふりをするようになった。 h28.4.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔は弱い生き物だったのでほかの動物に悪いことをされるために生きていたので“悪いことをされる喜び”がある。“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。
昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったので“悪いことをされる喜び”を満足していたが、農耕生活が始まって文明が少し高くなったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。(アダムとイブがリンゴを食べてから裸でいるのが恥ずかしくなってパンツをはくようになったのと同じである。つまり、人類が文明が進歩するとエッチをするのが恥ずかしくなって隠してエッチをするようになったのである。アダムとイブがリンゴを食べたとは、人類が農耕生活を始めたことである。つまり、人間は文明が進歩すると“動物的な喜び”を隠して満足するようになる。
そのため、昔の人はみんなの眼で見えるところでは“悪いことをされる喜び”を満足せず、みんなの眼で見えないところで“悪いことをされる喜び”を満足したかった。
政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民の要望に応[こた]えて国民を恥ずかしがらせないために、みんなの眼で見えるところでは民主主義の団体のふりをして善いことをちょっとやって、みんなの眼で見えないところでは悪いことをする会社をやってたくさん悪いことをやるようになった。
そういうわけで、政府は表では民主主義の団体のふりをして善いことをちょっとやって、裏では悪いことをやる会社をやって悪いことをたくさんやっているのである。政府には表と裏の二つの顔があるのである。
昔の人は自分が恥ずかしい思いをせずに“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすために、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今の人は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしているので、“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。今の人は自分が幸福に暮らすために、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
政府はテレビや新聞では民主主義の団体をやっているが、それは国民に恥ずかしい思いをさせないための工夫である。政府は本当は悪いことをする会社である。政府はみんなの眼で見えないところでは悪いことをたくさんやっている。昔の国民は“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていたから、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。今の国民は物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしていて、悪いことをされるのが嫌だから、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
政府はみんなの眼で見えないところで悪いことをやる会社をやっている。昔の人は恥ずかしい思いをしながら“悪いことをされる喜び”を満足して生きていた。昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”を満足することは恥ずかしいことだった。他人に言えることではなかった。昔の人は周[まわ]りのみんなに秘密にしながらコソコソと政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。昔の人にとっても今の人にとっても“悪いことをされる喜び”は恥ずかしいことである。“悪いことをされる喜び”を満足することも“悪いことをされる喜び”を満足するのをやめることも両方とも恥ずかしいことである。“悪いことをされる喜び”は触れてはいけない話題(タブー)である。ウンコのことをみんなの前で話さないのと同じである。だから、今の人は他人に黙って自分ひとりで勝手に政府の言うことを聞かなくなっているのである。今の人は他人にしゃべらずに勝手にひとりで政府に税金を払わなくなって政府の命令を聞かなくなっているのである。(もっとも、私は勇気を持ってみんなの前でしゃべってもいいと思うが。)昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”以外に喜びがなかったから自分が幸福になるためにたとえ恥ずかしくても“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。昔の人にはそんなざっとした喜びしかなかった。昔の人はわざわざみんなの眼で見えないようにしながら“悪いことをされる喜び”を満足していたのである。政府はわざわざみんなの眼で見えないところで悪いことをして民主主義の団体の芝居までしなければならなかったのである。反対に、今の人は物が豊かで“悪いことをされる喜び”以外にたくさん喜びがあるから“悪いことをされる喜び”よりももっと面白い喜びがあるから自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分で喜びを選んで満足することができる。今の人は贅沢[ぜいたく]である。幸せである。

[22676] “悪いことをされる喜び”は禁断の喜びである。 h28.4.23
政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。もっとも、“悪いことをされる喜び”はタブー(禁断の喜び、つまり満足してはいけないことを知っていながら満足する喜びのこと)だから、政府はみんなに恥ずかしい思いをさせないために、みんなの眼の前で民主主義の団体の芝居をやってみんなの眼で見えないところで隠れて悪いことをやっている。
政府は本当は悪いことをする会社であって、民主主義の団体ではない。政府はみんなに恥ずかしい思いをさせないために民主主義の団体の芝居をやっているにすぎない。悪いことをする団体は人前に顔を出せないので、人前に顔を出すときには民主主義の団体のお面をつけねばならないのである。政府は本当は悪いことをする団体である。政府はみんなの眼で見えないところでたくさん悪いことをやっている。
政府は悪いことをする会社である。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
昔の国民は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから、自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。昔の国民が“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったら喜びが何にもなくなって生きていけなくなるので、昔の国民は悪いと知りながら“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったのである。昔の国民にとって“悪いことをされる喜び”を満足することは必要悪だったのである。
今の国民は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して悪いことをされるのが嫌だから、自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
政府は長年悪いことをやってみんなを幸せにしてきた。しかし、今では国民にとって政府は用がない。このへんで国民は政府とお別れすることにしよう。
人類は長年自分の“悪いことをされる喜び”と戦ってきた。農耕生活が始まったころに“悪いことをされる喜び”は滅びかけていたがしぶとく生き残ってきた。ようやく今になって文明が高くなって人類は“悪いことをされる喜び”を倒すことができた。人類が“悪いことをされる喜び”に勝った。

[22677] 昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないと思いながら満足していた。 h28.4.23
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔はほかの動物のエサとしてほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人は”悪いことをされる喜び”を満足しなければ生きていけなかった。しかし、昔は農耕生活が始まって少し文明が高かったので、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないと思っていた。
そのため、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないと思いながら満足しなければならなかった。そのために、昔の人は“悪いことをされる喜び”を隠して密[ひそ]かに満足しないといけなかった。つまり、昔の人はみんなの眼で見えるところでは“悪いことをされる喜び”を満足せず、みんなの眼で見えないところで“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。
政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は昔の人の要望に応[こた]えて、みんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやって、みんなの眼で見るところでは民主主義の団体のふりをして善いことをちょっとだけやっていた。政府は本来悪いことをする会社であって民主主義の団体ではないから、政府は悪いことをたくさんやって善いことはちょっとしかしなかった。昔の人は政府に悪いことをしてもらいたかったのであって善いことをしてもらいたかったのではないから、政府はみんなの眼で見えないところで悪いことをいっぱいやってみんなの眼で見えるところでは民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをやっていたのだ。政府が民主主義の団体のふりをするのは人前で自分が悪いことをする会社でないふりをするためにすぎないから、政府は強いて善いことをやる必要はないから、政府は善いことはちょっとだけしかしないのである。政府は国民を幸福にするために悪いことをするのだから、政府は国民を幸福にするために一生懸命に悪いことをたくさんやってくれるのである。一方、政府は自分が悪いことをやる会社でないふりをするために民主主義の団体のふりをしているにすぎないから、善いことはちょっとしかしかしないのである。
要するに、政府は悪いことをする会社である。政府と国民は平等である。国民が政府に悪いことをやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
昔の人は物が貧しくて自分が幸福に生きるために隠して“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったので、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。
今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。そのために、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
政府は悪いことをする会社である。政府は国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府は国民に悪いことをするためにあるのであって、善いことをするためにあるのではない。国民もそのことを知っている。昔の国民は“悪いことをされる喜び”があったので、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをしてもらっていた。今の国民は“悪いことをされる喜び”がなくなって悪いことをされるのが嫌なので、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今では政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。

[22678] 昔の人にとって“悪いことをされる喜び”は禁断の喜びだった。☆☆ h28.4.24
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔は文明が低くて昔の人は物が貧しくて昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかったので“悪いことをされる喜び”を満足して生きていかねばならなかった。しかし、昔は農耕生活が始まって少し文明が高くなって昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”が動物的な喜びだと思われるようになった。
昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足したかったが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。
昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないと思いながら満足しなければならなかった。
昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足したかったが公[おおやけ]に満足するわけにはいかなかった。
昔の人は“悪いことをされる喜び”があったが”悪いことをされる喜び”は隠れて満足しなければならなかった。
つまり、昔の人にとって“悪いことをされる喜び”は禁断の喜びだった。
そのために、政府は本当は悪いことをする会社なのに民主主義の団体のふりをしてみんなの眼の見えないところで密[ひそ]かに国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったのである。 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は国民の禁断の喜びを満足する会社である。そのために政府は自分の正体を偽[いつわ]って隠れて仕事をしなければならなかったのである。国民も政府に善いことをしてもらうふりをして密かに政府に悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていたのである。
国民は表では政府に善いことをしてもらっていたが、裏では政府に悪いことをされて自分の”悪いことをされる喜び”を満足して幸福になっていたのである。国民と政府はそういう関係だったのである。国民は表では政府が悪いことをすることに文句を言っているが、裏では自分が政府に悪いことをされて自分の“悪いことをされる喜び”を満足してもらって幸せになって喜んでいるのである。国民と政府は心の友なのである。国民と政府は仲良くけんかしているのである。国民と政府はけんかするほど仲がいいのである。
だから、政府は本当は悪いことをする会社なのである。政府は国民に悪いことをして国民の”悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社なのである。政府と国民は平等だから、国民が政府に悪いことをされるかされないかは国民個人の自由である。国民は自分が幸福になるために自分で政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされるのだから、自分が幸福にならなければ自分で政府の言うことを聞くのをやめて政府に悪いことをされなければいいのである。
昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから、政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされて幸福に暮らしていた。
今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしていて、“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がないから、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなった。
今の政府はみんなに隠れて悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。“悪いことをされる喜び”は禁断の喜びなので、今の国民は密かに自分ひとりで“悪いことをされる喜び”を満足するのをやめて密かに政府の言うことを聞くのをやめて密かに政府に税金を払うのをやめて政府の命令を聞くのをやめている。国民は自分が政府の言うことを聞かなくなったのをみんなにナイショにしている。国民みんなは黙って政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。政府は密かに潰[つぶ]れている。
普通の喜びはみんなの眼の前で満足すればいいが、禁断の喜びは隠して満足しないといけない。“悪いことをされる喜び”は禁断の喜びだから、政府は隠して国民の“悪いことをされる喜び”を満足している。国民も隠して自分の“悪いことをされる喜び”を満足している。国民と政府がいっしょになって隠して“悪いことをされる喜び”を満足している。国中のみんなでグルになって隠して“悪いことをされる喜び”を満足している。だから、愚連隊[ぐれんたい]というのである。そのために、国民にとっては政府のやっていることが理解しにくくなっている。国民は政府についてよく理解して自分が政府を利用するかしないか正しく決めねばならない。

[22679] 女と男の違い h28.4.24
女は食べるために考える。男は考えるために食べる。女は食べるために仕事をする。男は仕事をするために食べる。女はくだらない生き物である。女は動物である。男は人間である。女は眼で見ることがわかるだけで眼で見る喜びしかない。男は頭で考えることがわかって頭で考える喜びがある。

[22680] 人間は考える世界に生きている。 h28.4.24
考える世界には貧乏も金持ちもない。考える世界には考えるか考えないかがあるだけだ。考える世界には正しいかまちがいかがあるだけだ。眼で見える世界には貧乏や金持ちがある。馬鹿は眼で見える世界で生きているだけだ。馬鹿は考えることがわからない。馬鹿はかわいそうな生き物だ。

[22681] インド人は現実に興味を持てばいい。 h28.4.24
インド人は考える世界に生きている。考える世界には生も死もない。インド人は死を恐れない。インド人は宝の持ち腐れだ。インド人は現実に興味を持って考えればいい。そうすればインドは発展するだろう。インドは文明が高くなるだろう。インド人が楽に暮らせるようになってもっと頭で考えることができるようになってもっと幸福に暮らせるようになるだろう。
h28.4.27追記:インド人は物の世界ではなく言葉の世界にいる。人間は物の世界よりも上の世界にいながら物について考えればいいのである。

[22682] 今の人は“悪いことをされる喜び”や“眼で見る喜び”をやめればいい。☆ h28.4.24
今では文明が進歩して今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。
そのついでに“眼で見る喜び”もやめればいい。”眼で見る喜び”は動物的な喜びである。女やヨーロッパ人が“眼で見る喜び”が好きである。”眼で見る喜び”はくだらない喜びである。人間は文明が進むと動物的な喜びを隠して満足するようになってそのうち満足するのをやめる。だから、今の人は“眼で見る喜び”をやめればいいのである。“考える喜び”は人間的な喜びである。今では文明が高くなって今の人は物が豊かになって物を使って“考える喜び”を満足して幸福に生きればいいのである。今の人は物が豊かになっていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“眼で見る喜び”がつまらなくなって“眼で見る喜び”を満足するのをやめて“眼で見る喜び”がなくなればいいのである。
今では喜びがいっぱいある。今では喜びを選べる。人間は自分にとって面白い喜びを満足してつまらない喜びを満足しないようにして幸福に暮らせばいいのである。
悪い人間はみんなを騙[だま]してみんなにつまらない喜びを売ってみんなにつまらない喜びを満足させようとする。例えば、今の政府もその一人である。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっているいるのに、政府は「政府は国民みんなを好き放題にする犯罪組織だ」と嘘[うそ]をついて今の人を騙して今の人を政府の言うことを聞くようにさせて今の人に“悪いことをされる喜び”を満足させようとする。人間はひとたび“悪いことをされる喜び”に目覚[めざ]めると死ぬまでずっと“悪いことをされる喜び”を満足しつづける。オナニー(自慰行為[じいこうい])と同じである。相手に殺されたり全財産を取られたりする。みんなは悪い人間に騙されないようにして自分で考えて本当に面白い喜びだけを満足しないといけない。
“悪いことをされる喜び”が昔の人にとっては面白いが今の人にとってはつまらないように、“眼で見る喜び”は馬鹿にとっては面白いが利口にとってはつまらない。“悪いことをされる喜び”が昔の人でないと喜べないように、“眼で見る喜び”は馬鹿でないと喜べない。文明が高くなると人間が物が豊かになって利口になる。文明が高くなると人間に“悪いことをされる喜び”や“眼で見る喜び”がなくなる。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”や“眼で見る喜び”はつまらない。だから、今の人は“悪いことをされる喜び”や“眼で見る喜び”を満足するのをやめて“悪いことをされる喜び”や“眼で見る喜び”がなくなればいいのである。

[22683] 昔の人は”悪いことをされる喜び”を隠して満足していた。《まとめ》☆☆ h28.4.24
人間の心には”悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)動物に殺されたりいじめられたり食べられたりするために生きていたので人間には“悪いことをされる喜び”がある。
大昔(縄文時代)の人は物がすごく貧しかったので“悪いことをされる喜び”しかなかったので、大昔の人は自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足するために、豪族の言うことを聞いて豪族に悪いことをされていた。
昔(弥生時代)の人は物が貧しかったので“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていたが、農耕生活が始まって文明が少し高くなったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが悪いことだと思っていた。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないと思いながら満足していた。昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”は禁断の喜びだった。そのために、昔の人は政府に民主主義の団体のふりをしてもらって隠して悪いことをしてもらっていた。政府はみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをやって、みんなの眼で見えないところで悪いことをいっぱいやっていた。(政府は民主主義の団体のふりをしている悪いことをする会社である。政府は民主主義の団体ではないから政府には国家権力はない。国民は政府に従う必要はない。政府は法律を定めることができない。国民は政府が定めた法律(例えば、納税の義務)を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする団体である。政府が国民に悪いことをするのは仕事である。政府は国民と平等である。だから、国民が政府に悪いことをしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。)
今(昭和40年=1965年ごろ以後)の人は物が豊かなので物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は”悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。今の人は自分が幸福に暮らすために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。
政府は隠して悪いことをする会社である。しかし、今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなって政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをされなくなっている。今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。政府はお金がなくなって付属会社を民営化している。国民は自分でみんなからお金をもらってみんなのために善い事業をしている。

[22684] 政府は隠れて悪いことをする会社である。 h28.4.24
要するに、政府は隠して国民に悪いことをやって国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。人間の心には“悪いことをされる喜び”があるから、政府は国民を幸福にするために国民を殺したり虐[いじ]めたり財産を取ったりして国民に悪いことをする。人間は文明が高くなると“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしくなるから、政府は国民に恥ずかしい思いをさせないために隠して悪いことをやっている。政府は隠して国民に悪いことをするために、みんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをやって、みんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやっている。政府は隠して悪いことをする会社である。政府が隠して国民に悪いことをするのは仕事である。政府と国民は平等である。国民は政府に隠して悪いことをされたければ政府の言うことを聞き、政府に隠して悪いことをされたくなければ政府の言うことを聞かなければいい。
昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから、昔の人は自分が幸福になるために政府に隠して悪いことをされたかったから、政府の言うことを聞いて政府に隠して悪いことをしてもらっていた。
今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足するようになっている。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”よりも楽しい喜びがいっぱいある。今の人は“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は悪いことをされるのが嫌である。今の人は自分が幸福になるために政府に隠して悪いことをされたくないから、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをしてもらわなくなっている。
今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府が国民に隠れて悪いことをやるのは仕事である。どんな仕事をするかは人の勝手だから、政府が隠れて悪いことをやる仕事をやってもいい。ただし、政府は国民と契約をとって国民に仕事をしないといけない。政府は国民に政府に隠して悪いことをしてもらいたいかどうか訊[き]いてから国民に隠して悪いことをしないといけない。政府は自分勝手に国民に隠して悪いことをしてはいけない。政府は“隠れて悪いことをすること”を国民に押し売りしてはいけない。昔は文明が低くて昔の人はみんな“悪いことをされる喜び”しかなかったから、昔の人はみんな政府に隠して悪いことをされたかったから、政府は国民みんなに隠して悪いことをしてよかった。しかし、今では文明が高くて今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなっているから、今の人は政府に隠して悪いことをされたいかされたくないかわからないから、政府は国民一人一人に訊いてから政府に隠して悪いことをされたい者だけに隠して悪いことをしないといけない。しかし、今の政府は国民に隠して悪いことをして欲しいかどうか訊かずに勝手に国民みんなに隠して悪いことをしている。それは政府の犯罪である。だから、政府が悪い。国民で政府を罰しなければならない。国民がこれまで政府に悪いことをされた分だけ逆に国民が政府に悪いことをしないといけない。そうして国民で政府を粛正[しゅくせい]しないといけない。今では“悪いことをされる喜び”がある国民が少なくなっているから政府は要らない。国民みんなで早く政府を倒して、国民に隠れて悪いことをする会社をなくして、国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。

[22685] 人間は自分で自分の心にある喜びを満足して幸福に生きている。 h28.4.24
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。(今では高校の倫理社会でニーチェの“奴隷根性”を習うから、人間に“悪いことをされる喜び”があることは公認である。ちなみに私は中学生のころは文庫本で北杜夫や畑正憲やなだいなだや星新一などの本を読んでいた。高校生のころ文庫本でプラトンやニーチェやショペンハウエルやゲーテなどの本を読んでいた。特にプラトンの本をよく読んだ。大学生のころは寺田寅彦やデカルトの本をよく読んでいた。その後は自分で考えたことを書くばっかりで何も読んでいない。)
大昔の人はすごく物が貧しかったから、大昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかったから、大昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。大昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足するために豪族に悪いことをされていた。大昔の人は豪族に殺されたり虐められたり財産を取られたりして幸福に暮らしていた。
昔の人は物が貧しかったから、昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかったから、昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。ただし、昔の人は農耕生活が始まって少し文明が高くなったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の人は隠して“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らしていた。昔の人は隠して“悪いことをされる喜び”を満足するために政府に隠して悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府にみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼で見えないところでいっぱい悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。昔の人は自分が幸福になるために隠して自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために、政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされていた。だから、多数が少数に従っていた。政府に権力(命令力)があった。昔の国民みんなが政府に従っていたのは、政府が国民みんなを武器で脅[おど]したからでも、政府が国民みんなに善いことをして国民みんなを幸せにしたからでもなく、昔の国民みんなが隠れて自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるためだったのである。政府は自分の権力を利用して国民に掟[おきて]を出して国を平和にしていた。
今の人は物が豊かだから、今の人は物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”よりも楽しい喜びがいっぱいある。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”はほかの喜びを満足するために邪魔[じゃま]だから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しないようにして幸福に暮らしている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しないために政府に隠れて悪いことをしてもらわなくなっている。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをしてもらわなくなっている。今の人は政府に隠れて悪いことをしてもらわないようにして幸福に暮らしている。今の人は政府の言うことを聞かなくなっているので、政府に権力(命令力)がなくなっている。
人間はいつの時代でも自分の心を満足して幸福に生きている。人間は自分の喜びを満足して幸福に生きている。ただし、時代が進むと文明が高くなって人間の喜びが変わる。そのために、人間の暮らしが変わる。昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかったから、昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったから、昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足して自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”がないから、今の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから、今の人は自分の“悪いことをされる喜び”を満足しないようにして自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
国民にとっては政府は自分の“悪いことをされる喜び”を隠れて満足するための道具である。昔の人にとっては“悪いことをされる喜び”が喜びだったから、昔の人にとっては政府が必要だったから、政府が建っていた。反対に、今の人にとっては“悪いことをする喜び”が喜びでなくなってしまったから、今の人にとっては政府が要らなくなったから、政府が滅んでいるのだ。

[22686] 昔の人は“隠れて悪いことをされる喜び”があった。☆ h28.4.24
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔は動物に悪いことをされるために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。しかも、昔の人は農耕生活が始まって少し文明が高くなって“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのために、昔の人は“隠れて悪いことをされる喜び”があった。政府は国民の“隠れて悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府が隠れて国民に悪いことをするのは仕事である。政府と国民は平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらうか、政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをしてもらわないかは国民個人の自由である。昔の人は自分が幸福になるために自分の“隠れて悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったので、政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府にみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼で見えないところでたくさん悪いことをやってもらって幸福に暮らしていた。
今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人にとっては“隠れて悪いことをされる喜び”は自分が幸福に生きるために邪魔[じゃま]である。そのために、今の人は“隠れて悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“隠して悪いことをされる喜び”がなくなっている。だから、今の人は自分が幸福になるために政府に“隠して悪いことをされる喜び”を満足してもらってはいけないので、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠して悪いことをしてもらわなくなっている。政府は今の人に悪いことができなくなってお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
昔の人と今の人では心が違う。昔の人には“隠れて悪いことをされる喜び”があったが、今の人には“隠れて悪いことをされる喜び”がない。政府は国民の“隠れて悪いことをされる喜び”を満足する会社である。昔の人には政府が必要だったから政府が建っていた。反対に、今の人にとっては政府が要らないから政府が滅んでいる。

[22687] 政府は国民を幸福にするために隠れて国民に悪いことをする会社である。 h28.4.25
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は文明が低くて物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなくて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていたが、農耕生活が始まって少し文明が高くなって悪いことをされる喜びを満足するのが恥ずかしくなったので、隠れて“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は隠れて自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために、政府に民主主義の団体のふりをしてもらって隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の人はみんなの眼の前で政府に民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼で見えないところで政府にたくさん悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。昔の人は自分が幸福に暮らすために政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。
今の人は電化生活が始まって文明が高くなって物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きているので、“悪いことをされる喜び”がつまらなくなって“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって“悪いことをされる喜び”がなくなっている。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”はほかの喜びを満足するために邪魔[じゃま]だから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分が幸福に暮らすために自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされないようにしている。政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民を幸福にするために国民に隠れて悪いことをやって隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足する。政府が隠れて悪いことをするのは仕事である。政府は隠れて悪いことをするために民主主義の団体のふりをしている。政府は本当は悪いことをする会社であって民主主義の団体ではないから、政府には国家権力はない。国民は政府に従う必要はない。国民は政府が定めた法律(例えば納税の義務)を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする会社である。政府と国民は平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをされないかは国民個人の自由である。昔は文明が低くて国民みんなは隠れて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に生きていたので、国民みんなが政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされていた。今では文明が高くて国民みんなは物を使っていろんな喜びを満足して“悪いことをされる喜び”を満足しないようにして幸福に生きているので、国民みんなが政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなっている。政府は国民みんなに隠れて悪いことができなくなってみんなからお金が取れなくなって潰れている。
昔は文明が低くて昔の人は現実を知らずに自分の心のままに生きていた。昔の人は自分の心に従って生きていた。そのために、昔は国のことは国民みんなの多数決で決めた。昔は多数決があったので国民はみんなと違うことはやれなかった。昔はみんなが政府の言うことを聞いていれば、自分も政府の言うことを聞かなければならなかった。しかし、今は文明が高くて今の人は現実を知って現実に従って自分の心を満足して生きている。今の人は現実に従って生きている。今の人は正しいことに従えばいい。だから、今の国民はたとえみんなが政府の言うことを聞いていても、自分が政府に隠れて悪いことをされたくなければ自分は政府の言うことを聞かなければいい。今の国民は周[まわ]りのみんなを無視して自分で政府の言うことを聞かないようにして自分で自分を幸福にすればいいのである。
時代が進むと文明が高くなる。文明が高くなると物が豊かになって人間の満足する喜びが変わって人間の心が変わる。人間が物を使っていろんな喜びを満足するようになって、“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって奴隷制がなくなる。政府や宗教団体や暴力団や社長や文学部がなくなる。文明が高くなると人間が現実を知って現実に従うようになってみんなに従わなくなって多数決がなくなる。人間が個人主義になる。人間がみんなを無視して自分だけ正しいことをやるようになる。文明が進歩するといろんなことが変わるのだ。

[22688] 文明が高くなると政府が滅ぶ。 h28.4.25
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、”殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は文明が低くて物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかも、昔の人は農耕生活が始まって文明が少し高くなって“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足したかったが“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかったので隠して”悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は隠して”悪いことをされる喜び”を満足するために、政府に隠して悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府にみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてもらってちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼に見えないところでたくさん悪いことをやってもらっていた。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に隠して悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
今の人は文明が高くて物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足するとほかのいろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足されないために、政府の言うことを聞かなくなっている。政府は今の人に悪いことができなくなって今の人からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
そういうわけで、今では政府が滅んでいる。今の政府が滅んでいるのは文明が高くなった証拠だ。今の国民は政府が滅ぶのを喜んで見ている。

[22689] 人間は自分の喜びを満足して幸福に生きている。☆ h28.4.25
この世には“悪いことをされる喜び”がある。だから、“悪いことをされる喜び”のある世界で物事を考えねばならない。そうすれば正しいことがわかる。
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間には“悪いことをされる喜び”がある。ギリシア悲劇は観客が登場人物が不幸な目にあうのを見て登場人物に共感して自分も“悪いことをされる喜び”を味わって幸せになるためにあるのである。
昔の人は文明が低くて農耕生活をしていて物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人は自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足していた。もっとも、昔の人は農耕生活をして文明が少し高かったから“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の人は“悪いことをされる喜び”を隠して満足していた。昔の人は自分が幸福になるために、政府に隠して悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に民主主義の団体のふりをして密かに悪いことをしてもらった。昔の人は政府にみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼で見えないところでたくさん悪いことをしてもらった。昔の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらった。(私が私の親を見ても、私の親には微妙に“悪いことをされる喜び”があるのがわかる。自分が悪いことをされたときニヤリと笑ってなんとなく喜んでいる。昔の人には“悪いことをされる喜び”があったのである。もっとも、私の父親は「学級に虐[いじ]めっ子がいるせいで学校が嫌だった」と言っていた(スタートレック宇宙大作戦第37話「おかしなおかしな遊園惑星」に虐めっ子が出てくる)。だから、あんまり“悪いことをされる喜び”はなかったのだろう。それから、私の親は人間を心で見る。直接に心で心を見る。悪気がないのが善人であり、悪気があるのが悪人である。私が落ち込んだ気持ちでいると親は私に悪気があると思って私をすごく嫌う。政府は国民を幸福にするために悪いことをしている。政府は悪気がない。だから、昔の人はいくら政府が悪いことをしても政府を悪人だと思わず、政府が善い人だと思って政府に悪いことをされていたのだ。)
政府は隠れて国民に悪いことをする会社である。政府はみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをして、みんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやっている。(日本人は甘えの気持ちが強いから、政府が見えないところで善いことをたくさんやっていると思っているが、本当は政府は見えないところで悪いことをたくさんやっているのである。)政府は隠れて国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする。政府が隠れて国民に悪いことをするのは仕事である。政府は民主主義の団体ではないから政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。国民は政府が定めた法律(特に納税の義務)を守らなくていい。政府は本当は隠れて悪いことをする会社である。政府は仕事がヘンテコなだけでただの会社である。政府と国民は平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされるか、政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをされないかは国民個人の自由である。昔の人は自分が幸福になるために自分で政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらっていたのである。
今の人は文明が高くて電化生活をしていて物が豊かである。今の人は自分が幸福になるために物を使っていろんな喜びを満足している。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足するといろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人は自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足しないために政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをしてもらわなくなっている。(世の中には善いことをする会社だけではなく、悪いことをする会社もある。人間の心には“善いことをされる喜び”だけではなく“悪いことをされる喜び”もあるからである。しかし、今ではみんなが物が豊かになって“悪いことをされる喜び”がなくなって悪いことをする会社がなくなって善いことをする会社だけになっている。善と悪の対称性が崩れている。)
そういうわけで、今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。人間はいつの時代でも自分の喜びを満足して幸福に生きている。時代が進んで文明が高くなると人間の満足する喜びが変わって人間の心が変わる。政府は隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたから、昔の人にとっては政府が必要だったので政府が建っていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”を満足していないから、今の人にとっては政府が要らなくなって政府が潰れているのである。人間は自分が幸福になるために生きている。今の人は自分の心を満足するために政府の言うことを聞くのをやめて政府に悪いことをされないようにして幸福に暮らせばいいのである。今の人は“悪いことをされる喜び”がないから政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府の命令を無視して幸福に暮らせばいいのである。早く国民みんなで自分を幸福にすることをやって政府を倒してみんなで幸せにならねばならない。
テレビ局や新聞社や出版社は政府と同じ“隠れて悪いことをする会社”である。テレビ局や新聞社や出版社は政府と同類である。だから、テレビ局や新聞社や出版社はみんなに正しいことを教えないのである。テレビ局や新聞社や出版社は自分が生き残るためにみんなにまちがったことばかり教えているのである。そのために、社会が発展するのが遅れている。文明が発達するのも遅れている。テレビ局や新聞社や出版社は国民にまちがいばかり教えている。だから、国民がいくらテレビや新聞や本を見ても正しいことはわからない。ますますまちがいがわかるだけである。国民みんなはテレビ局や新聞社や出版社に頼らずに自分の眼で見て自分の頭で考えて正しいことを理解しないといけない。今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”がないから、国民みんなはテレビ局や新聞社や出版社の言うことを聞かないようにしてテレビ局や新聞社や出版社に隠れて悪いことをさせないようにしないといけない。国民みんなはテレビ局や新聞社や出版社の言うことを聞かないようにしてテレビ局や新聞社や出版社にお金を取らさないようにしてテレビ局や新聞社や出版社を潰さねばならない。
h28.5.4この段落を追記:知覚はすべての人間に平等に備わっている。だから、人間が人間を騙[だま]すことはできない。特に相手が自分よりも人数が多い場合には絶対に相手を騙すのは無理である。だから、いくらテレビ局や新聞社や出版社が国民みんなに嘘[うそ]の情報を流して国民みんなを騙そうとしても、国民みんなは騙されない。テレビ局や新聞社や出版社は無駄[むだ]な努力をしているだけだ。今のテレビ局や新聞社や出版社が「自分が国民みんなを騙せる」と思ってまちがった情報ばかり流しているほうが馬鹿だ。今では多くの国民がすでに『政府や宗教団体や暴力団などが悪いことをしていないふりをして悪いことをする会社である。テレビ局や新聞社や出版社も政府と同類である。』ことを知っている。だから、テレビ局や新聞社や出版社は無駄な努力をせずに、さっさと真実を報道すればいいのである。テレビ局や新聞社や出版社は自分が国民みんなに嘘[うそ]つき呼ばわりされて嫌われて倒される前に、本当のことを流して国民みんなに謝[あやま]ればいいのである。もっとも、今の国民みんなは“悪いことをされる喜び”を満足していないから自分が悪いことをされるのが嫌だから、テレビ局や新聞社や出版社は悪いことをする会社だから、今の国民はテレビ局や新聞社や出版社が嫌いだから、いくら今頃[いまごろ]になってテレビ局や新聞社や出版社が真実を流して謝っても許さないだろう。今の国民みんなはテレビ局や新聞社や出版社にお金を払わなくなって潰[つぶ]すだろう。
今の“隠れて悪いことをする会社(あるいは者)”は自分が犯罪組織と化してみんなからお金を奪って楽に暮らすつもりでいる。しかし、そんな社会が安定に存在できるわけがない。みんなは犯罪組織を許さないから、犯罪組織がみんなに倒されるはずである。それならみんなが悪いことをする国になればいいが、みんなが悪いことをする国ではみんなが幸福に暮らせるわけがない。今の人は『法律を守ってみんなと平和にして、自由に自分の心を満足して生きることが幸福だ』と考えているから、みんなが法律を無視して悪いことをする国では今の人は幸福に暮らせない。現実的に考えると、そんな国で人間が幸福に暮らすことは無理である。どちらにしろ“隠れて悪いことをする会社”が犯罪組織と化してやっていくことはできない。今の“隠れて悪いことをする会社”は無謀なことを企[たくら]んでいる。“隠れて悪いことをする会社”は文系だからそんな現実性のない馬鹿げたことを考えられるのである。国民みんなで早く“隠れて悪いことをする会社”を倒して、みんなが善いことをして幸福に暮らす国にしなければならない。そうしないかぎり今の人は幸福に暮らすことができないからそうするしかない。
今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなっている。そのために“隠れて悪いことをする会社”がひとりでに犯罪組織化している。つまり、今の人にとっては“隠れて悪いことをする会社”が犯罪組織に見えるようになっている。“隠れて悪いことをする会社”は昔も今も同じことをやっているのに、今の人はかつての善い人が悪い人に見えるようになっている。今の人は悪いことをする者を許せない。だから、今の人は昔の“隠れて悪いことをする会社”を倒しているのである。今の人は“隠れて悪いことをする会社”に悪いことをさせなくなってお金を奪われないようにして倒している。(政府については民主主義の団体は芝居だから政府から民主主義の芝居を引き算すると、政府は国民からお金を強盗しているだけである。昔の人は“悪いことをされる喜び”があったから強盗されて喜んでいたが、今の人は”悪いことをされる喜び”がないから強盗されると腹が立つだけである。だから、今の人は政府に強盗させないために政府の言うことを聞かなくなって政府にお金を取らせなくなって政府に税金を払わなくなって政府を倒しているのである。)どちらにしても同じことである。今の人が“悪いことをされる喜び”がなくなって悪いことをされるのが嫌になって“隠れて悪いことをする会社”に仕事をしてもらうのを断ってお金を払わなくなって“隠れて悪いことをする会社”を倒すのも、今の人が“悪いことをされる喜び”がなくなって今の人にとって“隠れて悪いことをする会社”が犯罪組織に見えるようになって“隠れて悪いことをする会社”に悪いことをさせないようにしてお金を奪われないようにして“隠れて悪いことをする会社”を倒すのも同じことである。今の時代では昔の“隠れて悪いことをする会社”はしょせん生き残れないのである。
昔の人は“悪いことをされる喜び”があったから“隠れて悪いことをする会社(あるいは者)”はみんなのために仕事をしていた。みんなを喜ばせてみんなの役に立っていた。だから、昔は“隠れて悪いことをする会社”が建っていた。みんなが“隠れて悪いことをする会社”にお金をやって“隠れて悪いことをする会社”を建てていた。しかし、今の人は“悪いことをされる喜び”がないから“隠れて悪いことをする会社”はみんなのために仕事をしていない。みんなを喜ばせずみんなの役に立っていない。遊んでいるだけである。だから、今は“隠れて悪いことをする会社”が潰れている。今ではみんなが“隠れて悪いことをする会社”にお金をやらなくなって“隠れて悪いことをする会社”を潰している。この世から“隠れて悪いことをする会社”をなくしている。今ではみんなが“隠れて悪いことをする会社”が要らない。だから、みんなで“隠れて悪いことをする会社”を潰しているのだ。

[22690] 今のみんなは今のみんなにとって幸福に暮らせる国にしている。☆ h28.4.26
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府はみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをして、みんなの眼で見えないところでたくさん悪いことをする。政府はみんなの眼で見えないところでみんなを殺したり虐[いじ]めたり財産を取ったりして悪いことをする。政府は国民の”悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために隠れて悪いことをしている。政府が隠れて悪いことをするのは仕事である。だから、国民は自分が幸福になれば政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらい、自分が幸福にならなければ政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをしてもらわなければいい。
昔の人は文明が低くて物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかったから自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足していた。もっとも、昔の人は農耕生活をしていて文明が少し高くて“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。昔の人は政府に隠れて悪いことをされると幸福になったから、政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされていた。
反対に、今の人は文明が高くて物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の人にとっては“悪いことをされる喜び”は自分の幸福にとって邪魔[じゃま]だから“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人は政府に隠れて悪いことをされると不幸になるから、政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなっている。
今の人は政府に隠れて悪いことをされるのが嫌になって政府の言うことを聞かなくなっている。政府に税金を払ったり政府の命令を聞かなくなっている。今の人は自分たちが幸福に暮らすために“隠れて悪いことをする”政府を倒している。今の人は“隠れて悪いことをする”政府を倒すために隠れて政府の言うことを聞かなくなって隠れて政府に税金を払わなくなって隠れて政府を倒している。
いつの時代でもみんなは自分たちが幸福に暮らせる国にしている。時代が進むと文明が高くなって人間の心が変わる。昔と今ではみんなの心が違う。昔のみんなは自分たちが幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足していたから“悪いことをされる喜び”が満足できる国にしていた。昔のみんなは政府や宗教団体や暴力団や社長や文学部や番長やガキ大将などの“隠れて悪いことをする会社(あるいは者)”を設けて自分たちが幸福に暮らせる世の中にしていた。反対に、今のみんなは自分たちが幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足していないから“悪いことをされる喜び”が満足されない国にしている。今のみんなは政府や宗教団体や暴力団や社長や文学部や番長やガキ大将などの“隠れて悪いことをする会社”を潰して自分たちが幸福に暮らせる世の中にしている。
今の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足しないほうがいいから、今の人は“隠れて悪いことをする会社(あるいは者)”にお金をやらなくなって“隠れて悪いことをする会社”をなくしている。今の人が幸福になるためには“テレパシー”を使わないほうがいいから、今の人が“テレパシー”を使わないようにして“テレパシー”をなくしているのと同じことである。
国民はこれまでずっと毎月政府に税金を払ってきたから、自分が死ぬまでずっと政府に税金を払わねばならないと思っている。政府に税金を払わないことが悪いことだと思っている。そのために、国民は政府に税金を払うのがやめられなくなって払い続けているのである。しかし、そもそも税金は国民が自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府にお金を取られて幸福になるために払うのである。昔の人は物が貧しくて自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足しなければならかったから政府に税金を払っていた。今の人は物が豊かになって自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけなくなったから、政府に税金を払わなければいいのである。今の人はこれまでの自分を断ち切って勇気を出して政府に税金を払うのをやめて、自分で自分を幸福にすればいいのである。今の人は自分の気持ちに正直にして自分が政府に税金を払いたくなければ払わなければいいのである。国民がどんな喜びを満足するかは国民個人の勝手である。国民はたとえ周[まわ]りのみんなが政府に税金を払っていても、自分が政府に税金を払いたくなければ政府に税金を払わなければいいのである。

[22691] 今の人は自分が幸福に暮らすために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。 h28.4.26
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は文明が低くて物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。もっとも、昔の人は農耕生活をして少し文明が高かったから自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の人は隠れて“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は自分が幸福に生きるために、政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に隠れて悪いことをしてもらうために、政府にみんなの眼の前では民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをしてもらって、みんなの眼で見えないところではありったけ悪いことをしてもらっていた。
政府は“隠れて国民に悪いことをする会社”である。政府は隠れて悪いことをするためにみんなの眼の前では民主主義の団体のふりをしてちょっとだけ善いことをやって、みんなの眼で見えないところでは国民にありったけ悪いことをやっている。政府は民主主義の団体ではなく、本当は隠れて悪いことをする会社である。政府は民主主義の団体ではないから政府には国家権力はない。だから、国民は政府に従わなくていい。政府は本当は隠れて悪いことをする会社である。隠れて悪いことをする会社が法律を作れるわけがない。だから、国民は政府が定めた法律(特に納税の義務)を守らなくていい。政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民を幸福にするために国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に隠れて悪いことをやっている。政府は国民のために隠れて悪いことをやっている。政府が隠れて悪いことをやるのは仕事である。だから、国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをやってもらうか、政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをやってもらわないかは国民個人の自由である。
今の人は文明が高くて物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足するとほかの喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。だから、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをやってもらわなくなっている。今の人は政府に税金を払わなくなって政府の命令を聞かなくなっている。今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府は昔の人の“悪いことをされる喜び”が生み出した会社である。政府は国民からお金をもらって隠れて国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。政府の仕事は隠れて国民に悪いことをすることである。つまり、税金は国民が政府に隠れて悪いことをしてもらうためのお金である。昔の人は文明が低くて自分が幸福になるために自分の“悪いことをされる喜び”を満足していたから政府を建てて政府にお金をやって政府に隠れて悪いことをさせていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”がなくなっているから政府が滅んでいる。今の人は文明が高くなって自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから政府が要らなくなって政府にお金をやらなくなって政府が滅んでいるのだ。
政府は隠れて悪いことをする会社だから、政府は民主主義の団体のふりをしてちょっとだけしか善いことをしない。政府はちょっとしか国民の役に立つことをしない。国民で政府とは別に会社を建てればもっとみんなのために役に立つことをする。政府は隠れて悪いことをする会社だから、政府は自分が悪いことをしているのを隠すために善いことをするだけだから、政府は悪いことはノリノリでするが善いことはいやいやしかたなくするだけである。例えば、国民が自然災害にあったとき、政府はちょっとだけしか支援をしないが、国民で“支援会社”を建てればたくさん支援をしてくれる。支援会社が国民みんなから“支援保険金”を取ることにすればお金が集まる。だから、国民みんなで早く政府を倒して、政府と別に国民の役に立つことをする会社を建てればいいのである。そうすれば、国民みんなは今よりもっと幸福に暮らせるだろう。今の国民には“悪いことをされる喜び”がないから、“善いことをされる喜び”しかないから、善いことをする会社だけ建てて悪いことをする会社を建てなければいい。そうやって国民みんなで幸福に暮らせばいい。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民に恥ずかしい思いをさせずに国民に悪いことをして国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために、国民みんなの眼で見えないところで悪いことをたくさんやって、国民みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをして善いことをちょっとだけやっている。政府は善いことよりも悪いことをずっと多くやっている。要するに、政府は悪いことをする会社である。国民の多くは眼で見えることしかわからないからテレビや新聞で政府を見て政府が善いことだけやっていると思っている。しかし、本当は政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために悪いことをたくさんやっている。政府と国民は平等だから、国民が政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは国民個人の自由である。昔の国民は隠れて悪いことをされたかったから政府に税金を払って政府に隠れて悪いことをされていた。今の国民は隠れて悪いことをされたくないから、政府に税金を払わなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなっている。政府は国民から税金をもらえなくなって潰れている。今の政府は潰れて当然である。しかし、国民の多くは政府が民主主義の団体であり善いことだけやっていると思っているから政府が潰れるわけがないと思っているから政府が潰れているのがわからない。政府は国民の多くに知られずに密かに潰れているのである。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民の眼で見えないところで悪いことをやって、国民の眼で見えるところで自分の正体を偽[いつわ]るために民主主義の団体のふりをして善いことをやるだけである。しかし、善いことは政府でなくてもできる。国民で善いことをする会社を建てればできる。したがって、政府は国民の眼で見えないところで悪いことをするためにあるだけである。政府が自分が悪いことをする会社であることを隠すためには善いことをしないといけないから、政府はいくつか善いことをやっているのである。本来は国民で善いことを全部やればいいのだが、国民が善いことを全部やってしまうと政府が悪いことをやっているのを隠せなくなるから、国民が政府に悪いことをやっているのを隠させるために国民が善いことを全部やらずに政府にいくつか善いことをやらせているのである。善いことは政府でなくてもできるが、悪いことは政府でなければできない。政府は悪いことをするためにあるだけである。昔の国民は物が貧しかったから物を使っていろんな喜びを満足できなかったから、昔の国民が幸福になるためには隠れて“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったから、政府に税金を払って政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。反対に、今の国民は物が豊かだから物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしているから、今の国民が幸福になるためには隠れて“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから、政府に税金を払わず政府に隠れて悪いことをさせないようにしなければならない。国民みんなで早く政府を倒して、隠れて悪いことをする会社をなくしてみんなで幸福に暮らさねばならない。政府がなくなれば、もはや政府が悪いことをするのを隠すために善いことをする必要がない。国民が自分でみんなからお金をもらってみんなのために善いことをすればいいのである。
国民にとって政府は隠れて自分の“悪いことをされる喜び”を満足させるための道具である。国民は政府に悪いことをやらせるために政府に税金をやって政府を生かしているのであり、政府に悪いことを隠させるために政府に民主主義の団体のふりをさせて善いことをいくつかやらせているのである。だから、国民が政府に悪いことをやらせなければ政府に税金をやらず政府を倒して自分で善いことをやればいい。昔の国民は自分が幸福に暮らすために政府に悪いことをさせねばならなかったから、政府に税金をやって政府を生かして政府に民主主義の団体をふりをさせて善いことをいくつかやらせていた。今の国民は自分が幸福に暮らすために政府に悪いことをさせてはいけないから、政府に税金を払わず政府を倒して自分で善いことをやればいいのである。
要するに、政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民から税金をもらって国民に隠れて悪いことをして隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足することが仕事である。政府は民主主義の団体ではないから、政府はただの会社だから、国民が政府に仕事をしてもらうかしてもらわないかは国民個人の自由である。昔の国民は物が貧しくて物を使って幸福になることができず、自分が幸福になるために自分の“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったから、政府に税金を払って政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。今の国民は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしているから、隠れて“悪いことをされる喜び”を満足すると自分の喜びが減るので、自分が幸福になるために隠れて自分の“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから、政府に税金を払わなくなって政府に隠れて悪いことをしてもらわなくなっている。今では政府を誤解している者が政府に税金を払って政府に隠れて悪いことをしてもらっているだけである。国民みんなで早く政府のことを理解して、政府に税金を払うのをやめて政府を倒さねばならない。


[22692] 政府は民主主義の団体のふりをして自分が悪いことをする団体であるのを隠している。☆ h28.4.27
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたから人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間が動物のエサとして生きねばならない過酷な世界では“悪いことをされる喜び”があったほうが幸福に生きられるから人間には“悪いことをされる喜び”がある。理由はどうあれ、とにかく人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)の人は文明が遅れていて物が貧しかったので物を使っていろんな喜びを満足することができず“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかし、昔の人は農耕生活をしていて文明が少し高かったので“悪いことをされる喜び”が野蛮で下品に思えたので自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の人は“悪いことをされる喜び”を隠して満足していた。昔の人は政府に隠れて悪いことをしてもらって自分の“悪いことをされる喜び”を隠れて満足させていた。政府は隠れて国民に悪いことをするために、みんなの眼で見えないところで国民に悪いことをやって、みんなの眼で見えるところでは民主主義の団体のふりをして善いことをやっていた。政府はみんなの眼の前で民主主義の団体のふりをすることによってみんなからは政府が悪いことをやっているのが眼で見えないようにして隠して悪いことをやっていた。だから、政府が民主主義の団体のふりをするのは建前なのである。政府は民主主義の団体の裏側で悪いことをしているのである。
政府は隠れて悪いことをする団体である。政府は表で民主主義の団体のふりをして裏で悪いことをする団体である。政府は表と裏の両面がある団体である。政府は表で民主主義みたいなことをしているだけで本当は民主主義をやっていない。政府は表で民主主義の団体みたいな団体であって本当は民主主義の団体ではない。政府は国民がもろに政府に悪いことをされて恥ずかしい思いをしなくてすむように国民みんなのために役に立つみたいなことをやって自分が悪いことをするのを隠しているのである。本当は政府が民主主義の団体みたいなことをするのは嘘[うそ]だからいけないことだが、政府は国民に恥ずかしい思いをさせないために民主主義の団体みたいなことをしているのだから特別に民主主義の団体みたいなことをしてもいいのである。こういうのを“嘘も方便”とか“必要悪”とかいうのである。つまり、本来は嘘をつくのはいけないことだが、みんなのためになるなら特別に嘘をついてもいい。政府は本当は正直にみんなの眼の前で堂々と悪いことをしないといけないのだが、みんなに恥をかかせずみんなのためになるから特別に嘘をついて民主主義の団体のふりをして隠しながら悪いことをやってもいいのである。つまり、政府は“必要悪”で民主主義の団体のふりをしている。詐欺[さぎ]団体は自分のために自分の金儲けのために嘘をつく。政府は国民を恥ずかしがらせないために国民のために嘘をつく。だから、政府は詐欺団体ではない。詐欺団体は悪いが、政府は詐欺団体ではないから政府は悪くない。政府が国民に悪いことをするのも必要悪だし、政府が民主主義の団体のふりをするのも必要悪である。政府は必要悪ばっかりである。政府は自分が悪いことをしているのを隠すために民主主義みたいなことをやっているだけで、政府は本当は民主主義をやっていない。政府は民主主義をやっていないから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。国民は政府の法律(例、納税の義務)を守らなくていい。政府は本当は悪いことをする団体である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために悪いことをやっている。政府が隠れて悪いことをするのは仕事である。政府と国民は平等である。国民が政府に隠れて悪いことをしてもらうかしてもらわないかは国民個人の自由である。政府は民主主義をやっていない。政府は民主主義みたいなことをやっているだけで本当は民主主義をやっていない。政府は善いことをやっているみたいにしているだけで本当は善いことをやっていない。だから、政府はあまり善いことをしないのである。政府は少ししか善いことをしないのである。政府は本当は悪いことをやる団体だから、政府は自分が悪いことをやっているのを隠すために民主主義をやっているだけだから、政府はもともと嘘で民主主義をやっているだけだから、政府は本気で民主主義をやらずにいいかげんに民主主義をやっているだけだから、政府は民主主義みたいなことをやっているだけで民主主義をやっていないから、政府はあまり善いことをしないのだ。
今(昭和40年=1965年ごろ以後)の人は文明が高くなって物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人が“悪いことをされる喜び”を満足するとほかのいろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。そのため、今の人は政府に隠して悪いことをしてもらわなくなっている。今の人は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わなくなっている。
今の政府はみんなに隠れて悪いことができなくなってみんなからお金をもらえなくなって潰[つぶ]れている。今では利口な国民は政府の正体がわかって政府の言うことを聞かなくなって政府に税金を払っていない。馬鹿な国民は政府の正体がわからず政府の言うことを聞いて政府に税金を払っている。利口な国民は「自分が利口だから得をすべきだ」と思って馬鹿な国民に政府の正体を教えてやらない(そんな根性がある者は本当はたいして利口ではないが)。利口な国民は政府のヒントを教えてやるだけで政府の正解そのものを教えてやらない。だから、国民は自分で考えて政府の正体をわからねばならない。国民は私の文を読んで自分で政府の正体を理解しないといけない。国民は政府の正体を知って正しいことをしないといけない。政府は民主主義の団体ではなく、隠れて悪いことをする団体である。政府は隠れて悪いことをする団体である。政府は自分が悪いことをしているの隠すために民主主義の団体のふりをしているだけである。政府は民主主義の団体のふりをしているのであって民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。政府には国家権力はないから、政府は普通の会社と同じである。政府と国民は平等である。国民が政府に隠れて悪いことをしてもらうかもらわないかは国民個人の自由である。国民は周[まわ]りのみんなに合わせて自分が政府に隠れて悪いことをしてもらうかもらわないかを決めなくていい。国民はたとえ周りのみんなが政府の言うことを聞いていても、自分が政府の言うことを聞きたくなければ聞かなければいい。政府に隠れて悪いことをされたい者は政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされればよく、政府に隠れて悪いことをされたくない者は政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをされなければいい。
今の人が政府の言うことを聞いているのは、今の人に“悪いことをされる喜び”があるからではなく、今の人が政府のことがわかっていないからである。実際に私もそうだった。私は生まれてからずっと完全に“悪いことをされる喜び”がないが、約10年前までは政府についてまったく何も知らなかった。そのため、私は毎月まじめに政府に税金を払っていた。だから、利口な人は今の人のことがわかっていない。利口な人はまちがっている。利口な人は利口ではない。利口な人は他人を馬鹿にできない。だから、政府のことを知っている人はみんなに政府のことを教えねばならない。みんなで早く政府のことを知ってみんなで正しいことをするようにならねばならない。

[22693] 今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。☆ h28.4.27
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、人間の心には“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりして生きていたから、人間に“悪いことをされる喜び”があるほうが幸福に生きていけたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。理由はともかく、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)は文明が遅れていて昔の人は物が貧しくて物を使っていろんな喜びを満足することができなかった。昔の人は“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかも、昔の人は農耕生活をしていて文明が少し高かったので“悪いことをされる喜び”が野蛮で下品だと思っていて“悪いことをされる喜び”を満足するのが恥ずかしかった。そのため、昔の人が幸福に生きるためには隠れて“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。昔の人は自分が幸福に生きるために政府は隠れて悪いことをされていた。昔の人は政府にみんなの眼で見えないところで悪いことをして、みんなの眼に見えるところで民主主義の団体のふりをしてもらった。昔の国民は自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に税金を取られたり殺されたり虐められたりしていた。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府はみんなの眼で見えないところで国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをして、みんなの眼で見えるところで民主主義の団体のふりをしている。政府は本当は悪いことをする会社だから、政府は裏で自分が悪いことをやっているのを隠すために表で民主主義の団体みたいなことをやっているだけだから、政府は表でいいかげんに民主主義をやっているだけだから、政府は善いことをあまりしない。政府は裏でまじめに悪いことをして、表でいいかげんに善いことをするだけである。政府は本当は悪いことをする会社だから、政府は裏で自分が悪いことをやっているのを隠すために表で民主主義の団体みたいなことをやっているだけだから、政府は表でニセモノの民主主義の団体をやっているだけで本当の民主主義の団体をやっていないから、政府には国家権力はない。政府は裏で自分が悪いことをやっているのを隠すために表で何かやればいいだけだから、政府は表で民主主義の団体の真似[まね]ごとをやっているにすぎない。政府は表で何かをやって裏で自分が悪いことをしているのを隠せばいいだけだから、政府は表でどうでもいいことをやっていればいいだけだから、政府は表で“民主主義の団体のお芝居(ドラマ)”をやってお茶の間の国民みんなを楽しませているのである。国民は政府の民主主義の芝居を真[ま]に受けて「政府が国民のために善いことをやってくれている」と思って感激して喜んでいる。しかし、本当は政府は民主主義の団体の芝居をやっているだけで本当に民主主義の団体をやっていないから、政府は芝居の上で善いことをやっているだけで実際にはあまり善いことをやっていないから、国民は政府の民主主義の芝居を見ても時間の無駄[むだ]である。政府は裏で自分が悪いことをしているのを隠すために表で“民主主義の団体の芝居”をやっている。政府は表で“民主主義の団体の芝居”をやっているのであって、本当に民主主義の団体をやっているのではない。だから、政府には国家権力はない。政府は民主主義の芝居の上で国家権力があるだけで、本当は国家権力がない。政府は民主主義の団体の芝居をやっているから、芝居の上ではなんでもありだから、政府は現実の世界にはない「納税の義務の法律」を定めている。「納税の義務の法律」は現実の世界にはない架空の世界の法律だから、国民は守らなくていい。一般に、政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているだけで本当の民主主義の団体をやっていないから、政府の法律は芝居の上の法律であって本当の法律ではない。だから、国民は政府の法律を守らなくていい。国民はたとえ政府の法律を犯しても法廷でシラを切れば無罪放免ですむ。ただし、今は現実主義の時代でみんなが平和に暮らすために法律を守っているから、国民はみんなが決めた法律は守らないといけない。そうしないと仲間はずれにされて社会の中で暮らせない。要するに、政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって本当に民主主義の団体をやっているのではない。政府は民主主義っぽいことをテキトウにやっているだけで、本当に民主主義をやっているのではない。だから、政府には国家権力はない。政府はテレビや新聞で民主主義の団体みたいなことをチャラチャラやっているだけで、本当に民主主義の団体をやっていないから、政府には国家権力はない。だから、国民は政府に従う必要はない。国民は政府が定めた法律(例、納税の義務)を守る必要はない。政府は本当は悪いことをする会社である。政府は隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にするために隠れて国民に悪いことをやっている。政府が隠れて国民に悪いことをするのは仕事である。政府と国民は平等である。国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
今(昭和40年=1965年ごろ以後)では文明が発達して今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足している。今の人が“悪いことをされる喜び”を満足するとお金がなくなったり殺されたりカタワにされたりしてほかのいろんな喜びが満足できなくなって喜びが減る。だから、今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。隠れて“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。だから、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをしてもらってはいけない。今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払ったり政府に殺されたり虐められたりしてはいけない。(今のカタワは自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府に虐められた者である。政府はそういうカタワのために福祉をやっている。今の国民はそんな者のために福祉をする必要はない。今の国民は政府に金をやる必要はない。)
そういうわけで、今の政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。昔は文明が遅れていて国民が“悪いことをされる喜び”を満足したほうが幸福に生きることができたから、国民は自分が幸福に生きるために政府に悪いことをしてもらっていたから、政府が国民からお金を取って政府が建っていたのである。今では文明が発達して国民が“悪いことをされる喜び”を満足しないほうが幸福に生きることができるようになったから、国民は自分が幸福に生きるために政府に悪いことをしてもらってはいけなくなったから、政府が国民からお金を取れなくなって政府が潰れているのである。今後は、政府がなくなって、政府の付属会社が民営化して、国民が自分でみんなからお金をもらってみんなのために善い事業をするようになるだろう。

[22694] 政府が表でやっているのはどうでもいいことである。☆☆ h28.4.28
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は裏で自分が悪いことをやっているのを隠すために表でどうでもいいことをやっている。政府は表で民主主義の団体の芝居をやって国民を喜ばせている。国民も政府が表でどうでもいいことをやっているのを知っていて、政府の民主主義の団体の芝居を見て喜んでいる。
『政府が裏で悪いことをして、表でどうでもいいことをやっている』のは国民みんなの常識である。これまで国民はずっとそういう目で政府を見てきた。国民にとっては政府が裏で悪いことをしているのが目当てであって、政府が表でやっているのは裏で悪いことを隠すためのどうでもいいことだと思っているから、政府の民主主義の芝居をテレビドラマだと思って楽しんでいた。
政府が表でやっているのは民主主義の団体の芝居だから、政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって民主主義の団体をやっているのではないから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。政府は裏で悪いことをして表で民主主義の団体の芝居をする団体である。そんな団体に法律を定められるわけがない。国民は政府の法律(例、納税の義務)を守らなくていい。政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているだけであって民主主義の団体ではない。政府は芝居で国民みんなに法律を守らせているのであって本当は国民みんなに法律を守らせていない。だから、国民は本当は政府の法律を守らなくていい。国民が政府の法律を犯しても法廷でシラを切れば無罪放免になる。(スタートレック宇宙大作戦第12,13話「タロス星の幻怪人[げんかいじん]」で軍規を犯して軍法会議で死刑を宣告されたスポックが死刑を免れたのもそのためである。)ただし、今では国民みんなが政府とは別に法律を定めているから、国民が国民みんなの法律を犯すと仲間はずれにされて社会で生きていけなくなるから国民みんなの法律を犯してはいけない。
政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって民主主義の団体をやっているのではない。政府は見かけで国民の役に立つことをしているふりをするだけで、実際には国民の役に立つことをやっていない。政府は見かけで働いているふりをして、実際には働いていない。だから、政府は善いことをあまりしない。いくら役者がテレビドラマで善いことをやっても実際には善いことをやっていないのと同じことである。反対に、政府は裏で悪いことをやっている。政府は裏で本気で悪いことをやっている。だから、政府は悪いことをたくさんするのである。眼で見えることがあると思うのは馬鹿である。眼で見えることをやっていると思うのは馬鹿である。眼で見えないことがないと思うのは馬鹿である。眼で見えないことをやっていないと思うのは馬鹿である。反対に、眼で見えることがないと思うのは利口である。眼で見えることをやっていないと思うのは利口である。眼で見えないことがあると思うのは利口である。眼で見えないことをやっていると思うのは利口である。政府はみんなの眼で見えるところで善いことをやっている芝居をして、みんなの眼で見えないところで悪いことをやっている。だから、政府は善いことをやらずに悪いことをやっているのである。眼で見えることが確実だと思うのは馬鹿である。科学ではときどき正しいことがあるが、性格的には馬鹿である。眼で見えることはいくらでも捏造[ねつぞう]が利くから証拠にはならない(スタートレック宇宙大作戦第40話「宇宙軍法会議」にもそういう話がある)。理屈が通っていることが正しいと思うのが利口である。(医者は理屈がわからずに事実を憶えるだけである。だから、医者は馬鹿である。政府は国民みんなに「馬鹿のほうが儲[もう]かる」と思わせて国民みんなを馬鹿に変えるために医療保険制度を設けて医者の待遇をよくしている。国民が馬鹿になれば文明が低くなって物が貧しくなって国民が自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足するようになって政府の言うことを聞くようになって政府にありったけお金を払うようになるから、政府は自分が儲かるために医者の待遇をよくしているのである。つまり、政府は『医者が馬鹿である』ことを利用してお金を儲けているのである。国民みんなは文明を発達させて物を豊かにして物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らして“悪いことをされる喜び”を満足しないために、『利口のほうが儲かる』社会にするために、医療保険制度に入らないようにして医者の待遇を悪くして医者を貧乏にしないといけない。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は裏で悪いことをして、自分の正体を偽[いつわ]るために表で民主主義の団体の芝居をやっている。政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって民主主義の団体をやっているのではない。だから、政府は国民に善いことをあまりしないし、国家権力もないのである。政府が表で本当に民主主義の団体をやると、政府が裏で悪いことをして表で善いことをして政府が矛盾することをやることになる。この世では矛盾することは存在しない。人間は矛盾したことをやれない。そのため、政府は自分が矛盾することをしないために裏で本当に悪いことをして表で嘘[うそ]で善いことをやっているのである。だから、政府は表では本当に民主主義の団体をやらずに民主主義の団体の芝居をやっているのである。政府は本当は悪いことをやる会社だから、政府には悪のプライドがあるから、政府は絶対に善いことをしない。嘘[うそ]は悪いことである。だから、政府は嘘をついて民主主義の団体の芝居をやっているのである。だから、政府は善いことをあまりしないし、国家権力がないのである。人間は矛盾したことはしない。善いことをやる人は悪いことをしない。たとえしたとしてもちょっとしかしない。反対に、悪いことをやる人は善いことをしない。たとえしたとしてもちょっとしかしない。政府は悪いことをする会社である。だから、政府は悪いことをして善いことをしない。たとえ善いことをしたとしてもちょっとしか善いことをしないのである。
政府は表で民主主義の団体の芝居をやって、裏で悪いことをする会社である。政府は民主主義の団体ではない。だから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。国民と政府は平等である。だから、国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
昔は文明が低くて昔の国民は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”を満足して生きていた。昔の国民は“悪いことをされる喜び”が野蛮で下品だと思っていたので、自分が幸福に生きるために“悪いことをされる喜び”を隠して満足していた。そのため、昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に税金を払って政府に隠して悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
今は文明が高くて今の国民は物が豊かで物(例、テレビや車やコンピューター)を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の国民は自分が“悪いことをされる喜び”を満足するとお金がなくなって命がなくなってカタワにされていろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので、自分が幸福に生きるために“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。そのため、今の国民は政府の言うことを聞かなくなって政府に税金を払わなくなって政府に隠して悪いことをしてもらわなくなっている。
今の政府はみんなに隠して悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。政府は表で民主主義の団体の芝居をやって、裏で悪いことをやる会社である。政府は隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。昔の国民は“悪いことをされる喜び”を満足していたから政府が必要だったから政府が建っていた。今の国民は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから政府が要らなくなったから政府が潰れているのだ。

[22695] 今の国民は物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。 h28.4.28
人間には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔ほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりするために生きていたので、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の国民は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の国民が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。もっとも、昔の国民は農耕生活をやっていて少し文明が高かったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが野蛮で下品だと思っていて表で“悪いことをされる喜び”を満足するのが嫌だった。そのため、昔の国民は隠れて“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。昔の国民は政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の国民は政府に裏で悪いことをしてもらって表で民主主義の団体の芝居をしてもらっていた。昔の国民は政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをやってもらって幸福に暮らしていた。
政府は隠れて悪いことをやる会社である。政府は隠れて悪いことをやるために、裏で悪いことをやって、表で民主主義の団体の芝居をやっている。政府は裏で国民を幸福にするために国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために国民に悪いことをしている。政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって、民主主義の団体をやっているのではない。政府は見かけで民主主義の団体をやっているだけであって、本当に民主主義の団体をやっていない。政府は芝居で国家権力があるだけで、本当は国家権力はない。だから、国民は政府に従わなくていい。政府は芝居で国民に法律を守らせているだけであって、本当は国民に法律を守らせていない。だから、国民は政府の法律を守らなくていい。国民は納税の義務を守らなくていい。(国民は本当は自分の“悪いことをされる喜び”を満足するために政府に税金を払っているのであって、政府に国家権力があるから政府に税金を払っているのではない。)政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国家権力がないから、政府は国民と平等である。だから、国民が政府に仕事をやってもらうかどうかは国民個人の自由である。
今の国民は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の国民が“悪いことをされる喜び”を満足すると物を使っていろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の国民が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけなくなっている。そのため、今の国民は政府の言うことを聞かず政府に悪いことをされなくなっている。今の国民は政府の言うことを聞かず政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたりしなくなっている。
今の政府はみんなに悪いことができなくなってみんなからお金が取れなくなって潰[つぶ]れている。人間が“悪いことをされる喜び”を満足する歴史はここで終わるのだ。今後は人間は物を使っていろんな喜びを満足して生きていくのだ。だから、みんなに人気がある商品を作る会社が儲[もう]かるのだ。

[22696] 政府は裏で悪いことをやって表で民主主義の団体のふりをする会社である。 h28.4.28
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間には毒を美味[うま]く感じる味覚があるように、人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)ほかの動物よりも弱かったから“悪いことをされる喜び”がある。
昔(昭和40年=1965年ごろ以前)の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”しかなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。もっとも、昔の人は農耕生活をしていて文明が少し高かったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが下品で野蛮に思えたので、隠れて“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は隠れて政府に悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に裏で悪いことをしてもらって、表で民主主義の団体のふりをしてもらった。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に隠れて殺されたり虐められたりお金を取られたりして幸福に暮らしていた。昔の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞いて悪いことをされていたので政府に権力(命令力)があった。(昔の人には“みんなと平和に暮らす喜び”があったから自分で法律を守ってみんなと平和に暮らしていた。一方、昔の人には“悪いことをされる喜び”もあったから政府に悪いことをされていた。昔の人は法律を守ってみんなと平和に暮らしながら政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされて幸福に暮らしていた。昔の人は政府(幕府も含む)や暴力団などの“仕事で悪いことをする者”が悪いことをするのは許していたが、それ以外の一般人が悪いことをするのは許さなかった。それが時代劇の世界である。今の政府や暴力団は現代社会の中で時代劇をやっているのである。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は裏で悪いことをして表で民主主義の団体のふりをする会社である。政府は民主主義の団体のふりをしているだけで、本当は民主主義の団体ではない。だから、政府はあまり善いことをしないし、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。政府は本当は民主主義の団体ではないから、政府は法律を定められない。国民は政府の法律を守らなくていい。国民は納税の義務を守らなくていい。政府には国家権力がないから、政府と国民は平等である。だから、国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
今(昭和40年=1965年ごろ以後)の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に生きている。今の人が“悪いことをされる喜び”を満足すると物を使っていろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっている。今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。今の人は自分が幸福になるために政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっているから政府に権力がなくなっている。
時代が進んで文明が高くなると人間の心が変わる。人間の生活が変わる。人間が満足する喜びが変わる。昔の人は自分が幸福に生きるために“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったから政府の言うことを聞いて政府にお金を取られたり殺されたり虐められたりしていた。反対に、今の人は自分が幸福に生きるために“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから政府の言うことを聞かず政府にお金を取られたり殺されたり虐められたりしなくなっている。今の人には“悪いことをされる喜び”がなくなっているから、政府が滅んでなくなっている。

[22697] 今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなったから政府が滅んでいる。 h28.4.28
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取れらたりする喜び”がある。人間はずっと昔(数万年前)は動物に殺されたり虐められたり食べられたりして生きていたから、人間に“悪いことをされる喜び”があったほうが幸福に生きられたから、人間にはそのころの名残[なごり]で今でも“悪いことをされる喜び”がある。
昔(1965年ごろ以前)の人は物が貧しくて“悪いことをされる喜び”を満足して幸福に暮らすしかなかった。しかも、昔の人は農耕生活をしていて少し文明が高かったので“悪いことをされる喜び”を満足するのが野蛮で下品だと思っていた。そのため、昔の人は隠れて“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。昔の人は政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に裏で悪いことをしてもらって、表で民主主義の団体のふりをしてもらっていた。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府のサービスは隠れて国民に悪いことをすることである。政府は国民のために悪いことをして、国民のために自分が悪いことをやっているのを隠している。だから、政府は犯罪組織でも詐欺[さぎ]会社でもない。政府は国民の“羞恥心[しゅうちしん]”を刺激しないようにしながら国民の“悪いことをされる喜び”を満足して国民を幸福にする会社である。そのために、政府は裏で悪いことをして、表で民主主義の団体のふりをしている。政府は裏で本当に悪いことをやっている。政府は裏で実際に国民を殺したり虐[いじ]めたりお金を取ったりしている。政府は表で民主主義の団体のふりをして自分が悪いことをやっていないふりをしている。政府は表で自分が悪いことをやっていないふりをするために、嘘[うそ]をついて民主主義の団体のふりをしているのである。政府は民主主義の団体のふりをしているだけで、本当は民主主義の団体をやっていない。政府は表で見かけだけ民主主義の団体っぽいことをしているだけであって、本当に民主主義の団体をやっているのではない。だから、政府はあまり善いことをしないし、政府には国家権力もない。政府は国民に法律を守らせているふりをしているだけで、本当に国民に法律を守らせているのではない。だから、国民は政府の法律を守らなくていい。納税の義務の法律を守らなくていい。今では法律学という学問があるから、政府がなくても国民ですぐに法律を作れるから、政府の法律なんか要らない。政府は民主主義の団体ではないから、政府には国家権力はないから、国民と政府は平等である。国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
今(1965年ごろ以後)の人は物が豊かで物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足するとほかの喜びが満足できなくなって喜びが減る。今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。そのため、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなっている。今の人は政府に税金を払わず政府に殺されたり虐められたりしなくなっている。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府が表で民主主義の団体のふりをしているのは自分が悪いことをやっていないふりをするためである。政府は国民のために善いことをする会社ではない。政府は国民のために悪いことをする会社である。昔の人は自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったから、政府の言うことを聞いて政府に悪いことをされていた。反対に、今の人は自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけないから、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。そのために、政府がみんなに悪いことができなくなってみんなからお金を取れなくなって滅んでいるのである。

[22698] 政府は表で自分が悪いことをしていないふりをするために民主主義の団体のふりをしている。 h28.4.28
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔には動物よりも弱くて動物の餌食[えじき]だったから、今みたいに万物の霊長ではなかったから、“悪いことをされる喜び”があった。人間は当時の名残[なごり]で“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は物が貧しくて物を使っていろんな喜びを満足することができなかった。昔の人が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかも、昔の人は農耕生活をしていて文明が少し高くて“悪いことをされる喜び”を満足するのが野蛮で下品だと思っていた。そのために、昔の人は隠れて“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかった。昔の人は政府に隠れて悪いことをしてもらった。昔の人は政府に裏で悪いことをしてもらって、表では悪いことをしていないふりをしてもらうために民主主義の団体のふりをしてもらっていた。
政府は隠れて悪いことをする会社である。政府は国民の“羞恥心[しゅうちしん]”を刺激せずに国民の“悪いことをされる喜び”を満足しないといけない。そのためには、政府は裏で国民に悪いことをして、表で国民に悪いことをしていないふりをしないといけない。政府は表で国民に悪いことをしていないふりをすればいいだけである。そのために、政府は悪いことをする会社から一番遠いイメージの民主主義の団体の芝居をやっている。本当に善いことをするのは大変だが、善いことをしているふりをするのは簡単である。だから、政府は自分が楽をするために本当に民主主義の団体をせず、民主主義の団体のふりをしているのである。政府が民主主義の団体のふりをするだけでも政府が悪いことをしていないふりをするのには十分だから、政府はそうしているのである。できれば政府は自分が楽をするために表で何もやりたくないが、政府が表で何もやらないと国民が心の目で見て政府が悪いことをしているのがわかって恥ずかしくなって政府に悪いことをされるのが嫌になるから、政府は国民に恥ずかしい思いをさせないためにわざわざ表で民主主義の団体のふりをして国民の心の目が利かないようにして楽しい気分で政府に悪いことをされるようにしてやっているのである。国民は政府に悪いことをされているのがわからないようにしながら政府に悪いことをされて幸福になっている。政府は国民に政府が国民に悪いことをしているのがわからないようにしながら国民に悪いことをして国民を幸福にしている。そのために、政府は表で民主主義の団体の芝居をしながら裏で悪いことをしているのである。政府も国民の“悪いことをされる喜び”を上手に満足して国民を楽しませるためにいろいろ努力しているのだ。政府は表で国民に政府が悪いことをしているのをわからないようにすればいいだけだから、政府は本当に民主主義の団体をする必要がなく、民主主義の団体の芝居をすればいいのである。政府は本当に善いことをする必要がなく、善いことをするふりをすればいいだけである。政府の仕事は国民の“悪いことをされる喜び”を満足することだけであって、それ以外にはないのである。政府は形の上で民主主義の団体の真似[まね]をするだけで、本当は民主主義の団体をやっていない。政府は表で民主主義の団体のふりをしているだけで、本当に民主主義の団体をしていない。だから、政府は善いことをあまりしないし、政府には国家権力がない。国民は政府に善いことを期待しても無駄[むだ]だし、政府に従わなくてもいい。政府は表で民主主義の団体のふりをしているだけだから、政府は本当は民主主義の団体ではないから、政府は法律を定められない。国民は政府の法律を守らなくていい。国民は納税の義務の法律を守らなくていい。政府は本当は国民と平等である。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらうか、政府の言うことを聞かずに政府に悪いことをしてもらわないかは国民個人の自由である。
今の国民は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足している。今の人が“悪いことをされる喜び”を満足するといろんな喜びが満足できなくなって喜びが減る。今の人は自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけなくなっている。そのために、今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に隠れて悪いことをされなくなっている。今の人は政府の言うことを聞かなくなって政府に税金を取られたり政府に殺されたり虐められたりしなくなっている。
今の政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。昭和40年=1965年をまたぐと国民の生活が大きく変わった。国民の喜びが大きく変わった。国民が“悪いことをされる喜び”を満足することから“悪いことをされる喜び”を満足しないことに変わった。国民が政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをされることから、政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをされないことに変わった。政府が建つことから政府が潰[つぶ]れることに変わった。今の政府は潰れている。そのうち政府がなくなるだろう。今の国民には“悪いことをされる喜び”がないが、今の国民は昔の国民が“悪いことをされる喜び”を満足して生きていたことを忘れてはいけない。

[22699] 政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。☆ h28.4.29
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。つまり、“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔はほかの動物に殺されたり虐められたり食べられたりして生きていたから、人間に“悪いことをされる喜び”があったほうが幸福に生きられたから人間には“悪いことをされる喜び”がある。人間にはそのころの名残[なごり]で“悪いことをされる喜び”がある。理由はともかく、人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は物が貧しくて自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足するしかなかった。しかも、昔の人は農耕生活をやっていて文明が少し高かったから“悪いことをされる喜び”を満足することが野蛮で下品だと思っていた。そのため、昔の人は“悪いことをされる喜び”を隠れて満足しなければならなかった。昔の人は自分の“悪いことをされる喜び”を隠れて満足するために政府に隠れて悪いことをしてもらっていた。昔の人は政府に裏で悪いことをしてもらって、表で民主主義の団体の芝居をしてもらっていた。昔の人は政府の言うことを聞いて政府に隠れて悪いことをしてもらって幸福に暮らしていた。
政府は隠れて国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は国民の“羞恥心[しゅうちしん]”を刺激しないようにしながら国民の“悪いことをされる喜び”を満足している。政府は国民に政府が国民に悪いことをやっているのがわからないようにしながら国民に悪いことをしている。そのために、政府は裏で悪いことをして、表で国民に政府が裏で悪いことをやっているのをわからなくすることをやっている。そのために政府は表で民主主義の団体の芝居をやっている。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足することが仕事である。それ以外のことは仕事ではない。政府が表で善いことをやっているのは自分が裏で悪いことをやっているのをわからなくするためである。政府は善いことは自分が裏で悪いことをやっているのをわからなくする程度にしかしない。だから、政府は国民に善いことはあまりしない。政府は裏で自分が国民に悪いことをしているのを隠すために表で民主主義の団体の芝居をしているのであって、政府は民主主義の団体ではない。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するためにあるのだから、政府は国民の“悪いことをされる喜び”以外のいろんな喜びを満足するためにあるのではないから、政府は民主主義の団体ではない。政府が民主主義の団体の芝居をやるのは国民に自分が裏で悪いことをしているのをわからなくするためであって、面白い芝居をやって国民を喜ばせるためではない。政府は表で民主主義の団体のふりをしているだけであって、民主主義の団体ではない。だから、政府は国民にあまり善いことをしないし、国家権力もない。政府は国民にあまり善いことをしないから、政府に善いことをして欲しい国民にとっては政府は要らない。政府には国家権力がないから、国民は政府に従わなくていい。政府は国家権力がないから、政府は法律を定められない。国民は政府の法律を守らなくていい。国民は納税の義務の法律を守らなくていい。要するに、政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足するために建っているだけである。政府はただの会社である。政府と国民は平等である。だから、国民が政府の言うことを聞いて政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらうか、政府の言うことを聞かず政府に“悪いことをされる喜び”を満足してもらわないかは国民個人の自由である。
今の人は物が豊かになって物を使っていろんな喜びを満足して幸福に暮らしている。今の人が“悪いことをされる喜び”を満足するとほかのいろんな喜びが満足できなくなって喜びが減るので、今の人が幸福に生きるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけなくなっている。そのため、今の人は政府の言うことを聞かず政府に隠れて悪いことをされなくなっている。今の国民は政府にお金を取られたり殺されたり虐められたりしなくなっている。政府は国民に悪いことができなくなって国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたから、昔の人にとっては政府が必要だったから、政府が建っていた。反対に、今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなっているから、今の人にとっては政府が要らないから、政府が潰れている。今の国民みんなで早く政府を潰して、国民に隠れて悪いことをする政府を倒して、国民みんなで幸福に暮らさねばならない。
そもそも私が政府について考えるようになったのは、私がアニメ(葦プロ制作アニメ『アイドル天使ようこそようこ』)を見ていてアニメの主人公が私だと気づいたからである。本来は政府は私に気づかれないようにして私を主人公にしたアニメを作らねばならない。その時点で政府は失格である。政府は国民に気づかれないようにしながら国民に悪いことをしなければならない。しかし、今の国民の中には政府が悪いことをしていることに気づいた人がいる。そういう人は自分が政府に悪いことをされたくないから、政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。自分が政府に不幸にされないために政府に税金を払わなくなって政府に殺されたり虐められたりしなくなっている。今は高度情報化社会である。国民はいろんなところからいろんな情報を得ることができる。そのために、政府が悪いことをしていることが国民に気づかれやすくなっている。政府が潰れやすくなっている。政府が潰れて当たり前である。だから、国民みんなで早く政府を潰さねばならない。

[22700] 政府の仕事は国民の“悪いことをされる喜び”を満足することである。☆☆ h28.4.29
人間の心には“悪いことをされる喜び”がある。“殺されたり虐[いじ]められたり財産を取られたりする喜び”がある。人間はずっと昔動物以下だったからそんな喜びがある。理由はともかく人間には“悪いことをされる喜び”がある。
昔の人は物が貧しくて自分が幸福になるために“悪いことをされる喜び”を満足しなければならなかったが、自分が“悪いことをされる喜び”を満足するのを野蛮で下品だと思っていた。そのため、昔の人は自分が幸福になるために自分が“悪いことをされる喜び”を満足していないふりをしながら“悪いことをされる喜び”を満足していた。昔の人は汚かった。そのため、昔の人は政府に悪いことをやっていないふりをしながら悪いことをやってもらっていた。
政府は国民に悪いことをやっていないふりをしながら国民に悪いことをやればいい。政府は裏で国民を殺したり虐めたりお金を取ったりして国民に悪いことをやって、表で自分が悪いことをやっていると思われないようにすればいい。政府は表で国民に「政府が悪いことをやっていない」と思わせることをやればいいだけである。そのために、政府は表で民主主義の団体の芝居をやっている。
政府は国民の“悪いことをされる喜び”を満足する会社である。政府の仕事は国民の“悪いことをされる喜び”を満足することだけであって、それ以外にはない。そのために、政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって、民主主義の団体をやっていないのである。政府は民主主義の団体の芝居をすることまではやれるが、それ以上はやれないのである。
政府は表で民主主義の団体の芝居をやっているのであって、表で民主主義の団体をやっているのではない。政府は表で民主主義の団体をやっていない。だから、政府は国民に善いことをあまりやらない。政府に善いことをやって欲しい国民にとっては政府は要らない。政府は表で民主主義の団体をやっていないから、政府には国家権力はない。国民は政府に従わなくていい。政府は国家権力がないから法律を定めることができない。だから、国民は政府の法律を守らなくていい。国民は納税の義務の法律を守らなくていい。
政府は裏で悪いことをやって表で民主主義の芝居をやる会社である。政府は民主主義の団体ではない。政府はただの会社である。だから、政府と国民は平等である。政府が裏で悪いことをやって表で民主主義の芝居をやることは政府の仕事である。国民が政府に仕事をやってもらうかもらわないかは国民個人の自由である。
今の国民は物が豊かになって自分が幸福になるためには“悪いことをされる喜び”を満足してはいけない。今の国民は政府の言うことを聞かなくなって政府に悪いことをされなくなっている。政府は国民からお金を取れなくなって潰[つぶ]れている。
人間は自分の喜びを満足して幸福に生きている。時代が進むと文明が高くなって人間の暮らしが変わる。人間が満足する喜びが変わる。昔の人は“悪いことをされる喜び”を満足していたので政府が儲[もう]かっていた。今の人は物を使っていろんな喜びを満足しているので物を作る会社が儲かっている。今の人は“悪いことをされる喜び”を満足しなくなって政府が潰れている。みんなの満足する喜びによって国が決まるのだ。

人間は考えればわかる。考えなければわからない。考えれば考えるほどよくわかるようになる。だから、人間は最初は無理やりにでも考えなければならない。考えているうちにしだいにわかるようになる。
デボノの『頭脳のメカニズム』(講談社ブルーバックス、私はこれまでにこの本を3回読んだ。今でも保存している。)に『思考とは自分の脳に脳細胞の活動パターンを刻むことである。』と書いてあった。だから、人間は自分が考えれば考えるほど自分の脳に思考パターンが深く刻まれていってだんだんよくわかるようになるのである。
人間はたとえ最初はわからなくても考えているうちによくわかるようになる。人間はわからないから考えなければいいのではなく、わからないからこそ考えなければならないのである。人間は自分がわからないことにチャレンジすることが大事なのである。


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