[2201] 恋愛 h18.2.14
知的好奇心を生き甲斐にする者が
愛情なんかを働かせるわけがない。
私が女性を好きだったのは
小学2年生の頃までだ。
[2202] 日本的精神(生きるよりも大事なこと) h18.2.14
人間が生きているのは、実在の法則を守るからではなく、生きる喜びや死ぬ苦しみを満足するためであるが、これは絶対的ではない。
結局は、どの感情を立て、どの感情を捨てるかだ。
日本人は、家の恥とか愛国心のために、生きる喜びや死ぬ苦しみの感情を捨てることがある。
[2203] 第3次世界大戦(つづき) h18.2.16
なにも戦争そのものをやらなくてもよい。
戦争は報復手段のひとつにすぎない。
要するに、復讐できればよいのだ。
そうしないと私の気が済まない。[私をいい目に合わせるのは無理である。]
これまでに私を痛めつけてきた者を含むすべての日本人に対して痛い目にあわすことができれば、手段・方法は何であってもかまわない(原油価格引き上げ、日本製品不買運動など)。
もっとも、どうしても日本と戦争したい国があれが、私は止めない。
私が死ぬ前に今すぐにやってもよい。
[2204] 日本国憲法廃止 h18.2.19
日本国憲法および基本六法を含むすべての法律を廃止する。
今後いかなる法律も日本国においては無効とする。
各自がそれぞれの“内なる法律”に従って行動せよ。
[2205] 『ソクラテスの弁明』 h18.2.19
ソクラテスは自分の信念を貫いた結果、国法に反することになっても、それでも自分の信念を曲げようとしなかった。
だから、堂々と毒杯を仰げたのだ。
けっして自分が生まれた国を愛するからではない。
[2206] 男尊女卑はやめよう h18.2.19
女の人は女に生まれたくて生まれてきたのではないから、女性をバカにするのはやめよう。
自分の選択の余地なく偶然の運で女性に生まれてきたのだから、女性をバカにしたらかわいそうだ。
[2207] 労働 h18.2.19
労働をお金に代えるのではない。
労働の“つらさ”をお金に代えるのだ。
だから、寝不足で仕事に出たときなんかは、労働のつらさが賃金を上回るので、割に合わないから、休んだほうがいいのである。[私的には、最低5時間(推奨6時間以上)の睡眠が必要である。]
[2208] 戦争はどうして起こるのか? h18.2.20
人間、切羽詰ると何をしでかすかわからない。
自分にお金がなくなると、泥棒したり強盗したりする。人殺しだってしかねない。
人間も国も同じことだ。
『このままでは自分が死ぬ。死ぬくらいなら、何でもやっちゃえ。』という場合に、戦争が起こるのだ。
その昔、世界恐慌で日本の経済が破綻して、お金がなければ物もなく、このままでは日本が滅びてしまうという危機があった。
どうしようもなくてヤケクソになった日本は世界を相手に戦争を開始した。
そして日本は戦いに破れた。
戦争の原因は経済の破綻にあることがわかったので、戦後に『世界銀行』が創られた。これで、貧乏な国がいつでもお金を借りられるようになった。経済が復興してから、少しずつ借りたお金を返せばよい。
いくら国際連合があっても、お金を借りられなければ戦争が起こる。[カントもそこまでは考えていなかった。]
…というわけで、現代では戦争は極めて起こりにくい。経済を安定化させるシステムが準備されているからだ。[してみると、サラ金やローンも犯罪の発生防止に少なからず役立っているのかもしれない。]
[2209] ベトナム戦争はどうして起こったか? h18.2.20
ベトナム戦争は貧困のために起こったのではない。
近代の戦争は経済的に余裕がある国どうしの戦いである。
ベトナム戦争は資本主義と社会主義の対立で起こったのだ。
資本主義から見れば社会主義が悪であり、
社会主義から見れば資本主義が悪であり、
資本主義と社会主義とは主義が違うから気が合わず、だから戦争が起こるのだ。
資本主義が正しいか、社会主義が正しいかは人間が決めることではなく実在が決めることだ。
資本主義でやってみてうまく行かなければ資本主義が間違っていることになるし、
社会主義でやってみてうまく行かなければ社会主義が間違っていることになる。
だから、資本主義と社会主義とでわざわざ争う必要はない。
それぞれの国が自分の主義でやってみて、長い目で見て最後に残ったほうが正しい主義ということになる。
技術や文化が発達すれば、資本主義や社会主義を超える新しい主義が誕生するかもしれない。
[2210] 文学の構造 h18.2.20
文学=元ネタ(事実)+脚色
元ネタは事実であって、大人にとってはすでにわかりきったことであっても、子供にとってはまだ目新しいことであったりする。元ネタは、一般性が高いことが、わかる(共感できる)人が多いので望ましいが、たとえ一般性が低くても、真実であればなんらかの見る価値がある。とにかく事実であれば、大人にとっても子供にとっても知らない人にとっては見て知る価値がある。
脚色は、元ネタに面白さ・可笑しさを足すための味付けだ。空想的なウソの作り話の部分である。ご飯にかける“ふりかけ”のようなものだ。
文学においてはほんらい脚色は飾りにすぎず、文学の真の価値は元ネタにこそあるといえよう。つまり、文学といえども、科学であり真実でなければならないのだ。
[2211] 法律について h18.2.20
法律を知っているのは法学部の学生ぐらいだから、1万人に1人もいない。あとの99.99%の人間は法律を知らずに暮らしている。
知らないことに従うことはできない。
だから、法律なんかあってもなくてもどうでもいいのだ。
罰を受ける覚悟があれば、法律なんか簡単に破れる。
[2212] 『太陽にほえろ』VS『西部警察』 h18.2.20
『太陽にほえろ』は人情厚く、キャラも渋くてかっこよかった。
『西部警察』はマンガっぽく、派手なアクションが売りで、キャラも男っぽかった。
私の父と母は『太陽にほえろ』(ほえろちゃん)が大好きで毎週欠かさず見ていたが、私は『太陽にほえろ』を1話も見たことがない。『西部警察』は高校生で旭の下宿に住んでいたとき、土曜の午後によく見ていた。
[2213] 法律とは何か? h18.2.21
憲法は最高位の法、法律の法であり、物理学における原理のようなものである。
基本六法は、憲法を具体化し、実際の問題に適用しやすいようにしたものである。
量子力学には多体系の問題があり、1個の粒子のときにはない不可弁別性とかボソン・フェルミオンなどの概念が登場する。
物理学における法則が実在する物質の性質を正しく記述するように、法律は実在する社会(すなわち人間集団)の性質を正しく記述するものでなければならない。
法律には、社会の現状を安定化する働きのほかに、発展向上させる働きもある。正しい法律の下では、その社会は現状維持されつつ進化発展するが、まちがった法律の下では、その社会は衰退しやがては滅亡する。
つまり、法とは人間社会についての科学にほかならない。法じたいを正しいとするのではなく、つねに実在する社会との関係においてその正当性・妥当性が反省されつづけねばならないのである。
[2214] 資本主義と社会主義 h18.2.21
資本主義では有能な者が無能な者よりも生き残りやすい。
社会主義では有能な者も無能な者も同等に生き残れる。
社会の進化発展を考えた場合、資本主義が社会主義より優れているのは明らかである。
そもそも社会主義は世界恐慌をきっかけに出来たのであり、現代では世界恐慌が起こりにくくなっているから、強いて社会主義を採るメリットは以前に較べて小さいと考えられる。
でも日本人は『日本の神話』にあるように、弱者に対して優しい感情を持っているから、その感情も大切にしたい。
[2215] 美について h18.2.21
知的好奇心(つまり考えること)を生き甲斐にする者が、“見た目のかっこよさ”の感情なんかを働かせるわけがない。
そんな感情に囚われる奴は、知的好奇心を失った、考えることを放棄した、人間としてのプライドのない、くだらない奴だ。
[2216] 金欲・物欲について h18.2.21
知的好奇心を生き甲斐にする者が、金欲・物欲など働かせるわけがない。
お金でできることは(生産ではなく)消費だけであり、他者への甘えにすぎない。
『ペンは剣より強し。』
人間にとっては言葉(すなわち知識)のほうが物や金より価値がある。
[2217] 幸福な社会とは? h18.2.22
人間社会が幸福であるための条件は、社会が実在的または実在認識のもとになる実在性五感的に作られていることである。つまり、社会が知覚や実在性五感(眼や耳)と複合する心を満足するように作られていることである。
社会が分裂病の原因になる現象性五感的に作られていてはならない。つまり、分裂病の原因となる現象性五感と複合する心(すなわち性欲)を満足するように作られていてはならない。『(過度の喫煙が肺癌の原因になるように、)生殖を目的とする以外の過度の性交や自慰行為は分裂病の原因となる』ことを徹底的に教育しなければならない。
また、各人が自分の心や知覚界に明るく、自分が適応できる環境(学科や職場など)を適切に選択できねばならない。そのための機会をなるべく多く与えてやらねばならない。[私も九大教養部のとき、物理学の実験が面白くて物理学科への転科を考えたが、学生要綱に『原則として、他学科への転科は認めない。』と書かれていたので諦めたことがある。その結果、自分に向かない医学部で鬱病にかかって、異常な行動をとって身体を傷めた。]
[2218] 条件 h18.2.26
『幼い私から超能力を奪い、その後も私に嫌がらせをさせ続けてきた』
正当な理由を示せ。
ただし、正当とは、“この私が100パーセント完全に正しいと認めた”場合だけとする。
だれが理由を示してもよい。
私が死ぬまでに正当な理由を示せたら、
『日本は永久に戦争しないしされない国』としよう。
正当な理由を示せなければ、わけもわからずいたずらに私を苦しめ続けてきたわけだから、
『日本は存続するに値しない未開で野蛮な国と見なし、他国が日本を占領し日本の文化習慣を改めて日本国を廃止する』ことにしよう。
[2219] 戦争(BF2を遊んで思ったこと) h18.3.3
戦争の目的は、“敵の戦闘能力を奪う”ことにあるのであって、
敵を殺すことにあるのではない。
そんなわけで、私は通常『衛生兵』で遊んでいる。
(h18.3.6付け足し)
『征服モード』は陣地を取るのが目的であって、人殺しが目的ではない。
人殺しはやむをえない場合にのみ、許されるのだ。
最近の若い連中は、まるで人殺しを楽しんでいるかのようにプレイしている。全身に殺気がみなぎっている。
戦争にモラルが欠如している。
いくらゲームだからといって、ハメを外しすぎる。
自由なゲームの世界だからこそ、モラルを大切にしなければならない。
[2220] バカとキチガイの違い h18.3.4
バカは知覚の中に実在性概念がない(少ない)こと(つまり、実在に無知なこと)であり、
キチガイは知覚の中に現象性概念があることである。
勉強しないとバカにはなるがキチガイにはならず、
オナニーするとキチガイになりバカにもなる。
キチガイがバカだとはかぎらない。
ちなみに、アホは知覚が心に従ったために実在に反してしまうことである。
バカだとアホになりやすいが、アホだからといってバカとはかぎらない。
[2221] 明治維新の意(こころ) h18.3.4
『日本は遅れたヨーロッパにすぎない。日本独自の文化なんて、負け犬のいいわけだ。』
と福沢諭吉が言っていました。(鎖国ボケした日本に喝を入れた。)
[2222] 仏教の弱点 h18.3.5
釈迦が王子だったので、五感(つまり具体的生活)を軽視しがちである。
五感界すなわち具体的生活を無視して生きて行けるなんて、
お金持ちのボンボンにしかできないことだ。
ただ、人生の悩みの多くが五感界にあることも事実であって、五感界を無視して生きることが多くの悩みの解決につながることもまた真実であろう。
[2223] 男女平等 h18.3.5
男女の違いは性器の違いにすぎない。
女にも考え深い“いい女”がいるし、
男にも考えのない“悪い男”がいる。
東大・京大に受かる女を誰がバカだと言えるだろうか?
男でも女でも、その気になれば『考える愉しみ(思考欲・知的好奇心)』を生き甲斐にして生きて行けるのだ。
それでこそ知的生命体としての人間であるといえよう。
問題は人間であるか否かであって、男か女かではない。
男でも女でも、思考欲を捨てた人間は、眼で見たことしかわからない、外見(顔やスタイルなど)にしか気が向かない、くだらない者になるのだ。
もっとも、女性には月経があるから知覚界に若干の現象性イデアが発生するし、多少のハンディキャップはある。
しかし、それもわずかの差だ。
問題は思考欲を捨てるか捨てないかであって、月経があるかないかではない。
思考欲を捨てた男は思考欲を捨てない女にも劣る。
知的能力においては、男女差はないと考えてよい。
[2224] 五感界を実在界に近づける方法 h18.3.5
『実在は五感を超えたところにある。』
五感界に五感界の中にないもの(霊、空気とか力)を付け足すのがヨーロッパのやり方であり、
反対に五感界から五感界の中にしかないもの(例、色や肉体)を引き去るのがインドのやり方である。
[2225] 日本の文化 h18.3.6
インドのような知覚が五感から切り離された文化においては、数学のような抽象的学問が発達する。インドは知覚の国であり、数学の国なのだ。
反対に、ヨーロッパやアメリカは五感(実在性五感)の国だ。物の豊かな国である。
中国は味覚の国だ。
そしたら、日本は“心の国”かと言うと、そうではない。
心は五感や知覚と複合するから、インドには知覚で考える喜びがあり、ヨーロッパやアメリカには五感で見たり聴いたりする喜びがあり、中国には美味しいものを食べる喜びがある。
インドやヨーロッパや中国には独自の文化がある。
これに対し、日本には独自の文化がない。『独自の文化がない』自覚に立って、日本は昔から外国の文化を積極的に取り入れてきた。
『日本には独自の文化がない』から、“日本の思想”とか“日本的精神”とか“日本の文学”とか“日本の数学”とか“日本の物理”とかその他“日本の××”とか、日本の独自性にこだわってはならない。それは日本の衰退を招くだけだ。
とはいえ、現代においては、かつてヨーロッパがインド文化を取り入れて発展したように、多かれ少なかれすべての国が他国の文化を取り入れようとしている。
ひとつの文化には長所と短所の両面があり、自国の短所を他国の長所で補おうという発想だ。
そういう点では、『独自の文化のない』日本も他国も現代においては本質的には変わらないわけであって、そもそも『独自性にこだわらない』日本の昔からの長所が広く他国に受け容れられたと見てよいだろう。
[2226] 男尊女卑 h18.3.8
男尊女卑とは、女がバカで役立たずと決めつけることである。
一見、女に不利なようだが、
裏を返すと女が楽できる条件を作り出している。
ちょっと口先でバカにされるだけで、そのぶん仕事や勉強では楽ができる。
男尊女卑なんて言葉の上だけで、本当は女に有利な体制だ。
女は楽ができるほうがいいから、実際には男尊女卑を歓迎している。
女が楽するぶん、男が苦労しなければならない。
[2227] 『男が女になる病気』 h18.3.8
ようこそようこ第36話「猫子ちゃんのユウウツ」では、ようこが猫ちゃんの踊りを見て機嫌が治ったが、実際にはそう簡単にはいかない。
この病気の背後には鬱病がある。鬱病の一症状にほかならない。
つまり、『男が女になる病気』とは、自分が苦手な仕事や勉強に就かねばならなくなって、知覚(頭)の調子が悪くなって知覚が働かなくなって、それまで仕事や勉強で得られていた心の満足が得られなくなるので、くだらない見かけの良さや性器の快感に心が囚われてしまうことを言っているのである。
“男とは仕事や勉強ができる者であり、女とは見かけのいい者である。”と言う社会的偏見がこの病気の背後にはある。
だから、『男が女になる病気』を治すことは、鬱病を治すことにほかならず、@適当な気分転換を図る(例、テレビを見る)か、A自分が得意な仕事や勉強に戻るか、それでもダメならB精神病院に行くしかないのだ。
[2228] 戦いの勝ち方(BF2で遊んだ感想) h18.3.9
マルチプレイで遊んで2ヶ月も経てば
子供にもわかることだが、
戦いに勝つための方法は
『自分よりも強い相手と戦わない』
ことだ。
すると、第2次大戦のとき日本陸軍が中国と戦ったのは
よしんば勝つことがあったかもしれないからわかるとしても、
日本海軍がアメリカと戦おうととしたのはあまりにも無謀だ。
子供にもわかることを大人がしてはいけない。
[2229] BFVとBF2 h18.3.9
BFVの銃はBF1942の銃よりも集弾率がよい。
射撃の下手な私でもポンポン当たる。
しかし、BF2の銃は40年前のBFVの銃よりも集弾率が悪い。
どういうことだ?!
[2230] 真犯人は誰だ? h18.3.10
夏休みに母と兄と弟の3人で親戚のおじいさん家に遊びに来たときのことです。
母とおばあさんがおしゃべりをしている間に、おばあさんが大切にしていた腕時計が誰かに壊されてしまいました。リューズのネジを巻きすぎて中のバネが切られていました。
どうせ子供のやったことでしょう。兄か弟のどちらかがやったに違いありません。
兄は普段からいい子で、内気で無口でおとなしい性格でした。
弟は親の言うことをきかない悪い子で、家でもしょっちゅう親を困らせていました。
さて、真犯人は誰でしょう。
答えは兄です。
なぜなら、兄は好奇心旺盛で機械いじりが大好きでしたが、弟は機械のことには無関心で女の子のことにしか興味がなかったからです。
個人の性格を考慮すれば、誰がやったかやらないかぐらい、簡単にわかります。
さて、この兄の普通の人との徹底的な違いは、『女性に対する愛情が生まれつきまったくない』ことでした。
一説では、生まれる前母親のおなかの中でへその緒が首に巻きついて脳の血行が断たれたために、愛情を荷う脳細胞が死んでしまったためだと言われています。
そのため、産まれたときには、首の胸鎖乳突筋が切れて斜頚でした。しばらくの間、首にギブスをはめて“首のほきょう”をしなければなりませんでした。お母さんはすごくかわいそうに思いました。
[2231] 「お金が欲しい」と言うな。 h18.3.11
お金ではお金で買えるものしか手に入らない。
お金で買えるものの中で、もっと具体的に何が欲しいかを明らかにせよ。
[2232] 日本は悪い国だ。 h18.3.11
日本は幼い頃の私から超能力を奪う罪を犯した。
だから、日本は悪い国だ。
悪い国は罰を受けねばならない。
その罰とは、日本が潰れることだ。
超能力を奪うか奪わないかは国の判断によるのであり、
私から超能力を奪わなければ悪い国ではなかったし罰せられることもなかったが、
実際に私に手を出して超能力を奪った以上は、当然罰を受けねばならない。
これは私が決めたことではなく、大昔から決まっている『世界法』なのである。
だから、私がこんなところでつべこべ言ったところで大した変わりはなく、
とにかく罪を犯した悪い国は罰を受けて亡びなければならない定めなのである。[琉球国が沖縄県になったように。]
[2233] どうして日本は続いて来たのか? h18.3.11
『世界法』があるのに、どうして日本は今日まで続いて来ることができたのかを考えてみよう。
1)過去に超能力者がひとりもいなかった。
2)超能力者はいたが、超能力者の超能力を奪わなかった。
3)長らく日本は偏狭の国で、ヨーロッパの先進国が定めた『世界法』の適用から外れていたが、近年国際交流が盛んになって、ようやく日本も『世界法』の適用される国になった。
[2234] どうして私は殺されなかったのか? h18.3.12
日本が幼い頃の私から超能力を奪う際、口封じのために私と私の家族を殺してもよかったはずだ。
しかし、そんなことをすれば、かえって目立って騒ぎが大きくなるから、殺さずに超能力だけを奪った(消した)のだろう。
[2235] 超能力は奪わないほうがいい。 h18.3.13
私が小学2年生のとき、「頭で考えただけで何でもできたらどうする?」と私に訊いた級友がいた。
それは、たしかに自分にとっても他人にとっても危険なことに違いない。
しかし、たんに法律で規制しにくいからといって、
犯罪が起きる前に超能力を奪うのはやりすぎだ。
それは、善いことに使えば利益になるわけで、本人にとっては貴重な才能を失うわけだし、
それに、超能力を奪う際に、他の脳機能を傷害する危険性もあるからだ。
そもそも超能力にもエネルギー保存則が成り立つはずであり、食べ物のエネルギーを変換しているにすぎないので、そんなに大きなことができるわけもなく、とくに奪う必要はないだろう。
他人のことにちょっかいを出しすぎだ。
[2236] お金や物では弁償できない。 h18.3.14
超能力を奪った罪を、お金や物では弁償できない。
通常の犯罪だって、罪を犯した者が刑に服して報われるのであり、お金や物で弁償したって無罪になれるわけではない。
お金で無罪になれるんだったら、お金持ちが悪いことをしたい放題でしょうが。
[2237] お酒とタバコの違い h18.3.15
長家は適当に飲むと気持ちよくなるが、飲みすぎると酔って気持ち悪くなる。だから、お酒は飲みすぎても飲まなさすぎてもいかず、適量飲まなければならない。(若者は適量を知らない。自制が大事。)
一方、タバコはいくら呑んでも酔って気持ち悪くなることがない(私は呑んだことがないが)。つまり、タバコは底なしだ。
お酒は飲む量に上限があるから売れる量にも限りがあるが、タバコは底なしなのでタバコは無限に売れる。タバコは『売れる商品の条件』を満足している。
[2238] 物の豊かさとは? h18.3.15
生活の役に立たないガラクタを多く持っていることが、物の豊かさではない。(少しは持っていたほうが癒されるが。)
かといって、生活に必要な物がないのは不便である。
物は多すぎても少なすぎてもいけない。
[2239] 潔く死ね。 h18.3.16
これまで私に立てついてきた者は、私の味方にまわるな。
途中で自分の考えを変える奴は嫌いだ。
最後まで自分の信念を貫け。
曲げて生きるよりも貫いて死ね。
[2240] 心で見た世界 h18.3.17
自分を幸福にしなかった者が、生きようが死のうが、どうでもいい。
それが、“自分に心がある”という意味だ。
[2241] 昔と今 h18.3.18
昔は学校がなかったから、五感的で曖昧だ。
今は学校があるから、知的で明晰判明だ。
私も昔に生まれていたら、五感的で曖昧だったろう。
[2242] 五感から知覚から心へ h18.3.18
五感界においては、綺麗か汚いかが問題である。
知覚界においては、認識が正しいか間違いかが問題である。
心界においては、楽しいか楽しくないかが問題である。
学校ができて人間は知覚的になったが、今後人々が仕事や勉強から開放され余暇の時間が増えれば心的になるだろう。
【残念なこと】 h18.3.20
・毎月10日にFujisan.co.jpから送られてくる『月刊アニメージュ』が3月10日1階のポストで誰かに盗まれていた。新春特別号にはDVDが付いて来るので、以前から楽しみにしていた。Fujisan.co.jpに問い合わせてみたところ、たしかに配達されていた。再配達してくれたが、Fujisan.co.jpには費用と手間の両方かかるし、今後こんなことがなければいいが。
・3月16日夕方近所のスーパーの駐輪場で私の自転車の後輪がパンクさせられた。自転車は毎日生活に使うので壊されると非常に迷惑する。私の自転車のバルブはフランス式なのでタイヤパンドーが使えない。自転車屋が近所にないので修理が面倒だ。修理代にいくらかかると思ってんだ?![答え;3500円かかりました。]
[2243] 神の今と昔 h18.3.20
昔も今も神とは超能力を持った人のことである。
昔は男と女の違いが大げさだったように、神と人間の違いも大げさに受け取られていた。
今は男と女の違いがほとんどないように[染色体が1本違うだけだ]、神と人間の違いもほとんどない。
超能力は、現在の科学ではまだ解明されていない大脳の機能のひとつにすぎない。
いまや神は人間の一種にほかならないのだ。
[2244] 幼少の私はどうして超能力が使えたか? h18.3.23
これには2つの可能性が考えられる。
1)生まれつき私には普通の人にはない超能力器官があった。つまり、器官(五感)の問題。
2)超能力は生まれつき誰にでも備わっているが、その存在に気づきそれを使える者は極まれにしか出ない。つまり、知覚の問題。偶然に幼少の頃の私が人間に潜在的に備わっている超能力を発見してそれを使えた。私が自分の名前をいただいた日蓮宗の教義の中に超能力の秘訣が隠されているのかもしれない。私が中3のとき日蓮宗をやめるときに見た3つ目の像と関係があるのかもしれない。
[2245] 超能力と常能力 h18.3.24
眼で見て手足を動かすこと、耳で聞いて声を出すことを常能力と定義する。
これに対し、心眼で見て心手を動かすことを超能力と定義する。
超能力に較べて常能力は、
1)力が強い。例えば、足の力で身体全体を移動させることができる。超能力では質量の軽い物体しか動かせない(ような気がする)。
2)細かいことができる。手の指を動かせばかなり細かい作業ができる。超能力では、大まかな作業しかできない(ような気がする)。
3)簡単である。誰でも慣れれば眼や手足や耳や声帯を思い通りに動かせる。超能力は強い精神集中を必要とし、使いづらいのではないだろうか。
このように、日常生活を営む上では、超能力よりも常能力のほうが便利である。誰でも、常能力のほうを使い超能力は使わないだろう。
しかし、場合によっては、リモコンが家電製品に広く普及したように、超能力が常能力よりも有利なこともあるだろう。
ともかく、超能力という力が実在する以上、その存在を無視することは物理学にとっては許されない。その力を応用すれば人類の生活にとって有益であるに違いない。
[2246] 超能力の原理 h18.3.24
X器官から幻聴波が出せるように、脳のどこかの器官を適当に活動させれば、脳細胞以外の物質と相互作用する感覚波が出せる(はずだ)。
[2247] アニメとゲーム h18.3.24
アニメは見るだけだが、ゲームは動くことができる。
ゲームをするときに活動する脳神経回路と、アニメを見るときに活動する脳神経回路とは違う。
ところが、アニメを見るときに活動する脳神経回路と、思考するときに活動する脳神経回路はほぼ同じである。
それは、考えることと見ることが本質的に同じだからである。
ギリシアの貴族は労働から解放されて、動かずに見ることしかしなかったから、考える能力がすさまじく発達したのだ。
ゲームは面白いけれども、ゲームをすることと考えることとは別事で、いくらゲームをしても考える能力は発達しないから、お酒と同じくほどほどに嗜むことにしよう。
[2248] 世界法の内容 h18.3.24
『神すなわち超能力者の超能力を奪った人類は、その後超能力者(だった者)に絶対服従しなければならない。』[たぶん昔からそうなっていたはずだ。]
超能力者の超能力を奪わず(消さず)に服従しないか、それとも超能力者の超能力を奪って服従する(言葉(音声または文書に限る、幻聴・テレパシーは不可)をできるかぎり実現する)かのどっちかだ。[超能力者の超能力を奪う(消す、弱める)目的で、ちょっとでも何かすれば、人類(政治家も含む)は超能力者に服従しなければならない。もちろん、超能力者を殺したり傷つけたりしてはいけない。一度超能力を奪ったあとで超能力が戻っても、二度と超能力を奪ってはならない。超能力を奪う処置は、1生に1回限り1時間以内に行わねばならない。]
たとえ、超能力者(だった者)がどんなに極悪非道の“ろくでなし”でも、たとえ気が狂っていても、人類は涙を飲んで超能力者に服従しなければならないのである。
例えば、超能力者が「全人類を皆殺しにせよ」と言えば、人類側の意見をさしはさむことなく、人類はみな死なねばならないのだ。
それほど世界法の内容は人類にとって厳しいものなのだ。
[2249] 宗教について h18.3.24
宗教とは、教祖が神すなわち超能力者の物まね(神様ごっこ)をすることである。
教祖は超能力者ではなく、普通の人間だから、教団の外では何の権限も持たない。
[2250] 損か得か h18.3.24
“私のネタを使ってアニメを作る”ことは、私が神だという理由で商品を買う人が大勢いるから、製作者にとってはお金が儲かって得になるが、私にとっては(見て楽しいことはあっても)1円の得にもならない。
…かと言って、私にとっては損にもならない。私はスポンサーではなく1円も出費していないからだ。
したがって、“私のネタを使ってアニメを作る”ことは、私にとっては得でもないが損でもなく、どうでもいいことなのだ。
[2251] 世界法の有効期限 h18.3.24
世界法(上述の赤字)は無限に有効である。
一人の神(超能力者だった者)の発言(もちろん文書でもいい)は、次の神が現れるまでの間、ずっと有効である。古い神と新しい神の発言が対立した場合には、新しい神のほうを採らねばならない。
神には、自分が神であることと世界法の内容(上述の赤字)を、なるべく早く(子供のうちでもいいから)はっきりと(言葉で、文書にして)教えてやらねばならない。
[2252] 人間性に男女差はない。 h18.3.25
女性でも男性と同等かそれ以上の人間的才能を発揮する者がいる。
たいてい、“いいとこのお嬢様”である。
このことは、生活環境が整いさえすれば、女性も男性と同等の才能が発揮できることを示している。
裏を返せば、女性が男性以下の才能しか発揮できないのは、生活環境(教育環境)が悪いせいだと考えられる。
女性が男性よりも生まれつき頭が悪く、教育しても無駄だと考えることが間違っているのだ。[そんな社会的偏見の中で育って、実力を身に付けられる女性がいるのだから大したものだ。]
教育環境が整いさえすれば、男性と女性の差はなくなるのだ。
【命令】たとえ大家・管理人・その他の人の許可があっても、私の許可なく私の部屋(戸から内側)に入るな。一般に、私には日本国籍があるので、私には日本の法律で保障されるすべての権利がある。さらに、私には世界法で保障される権利が加わる。世界法はすべての国の法律に優先するので、世界法で保障される私の権利を行使した行為・発言は、各国の法律にどんなに違反してもよい。
[2253] 欲に目がくらむ h18.3.26
麻薬をやることは快感だが、快感とは無関係に『脳内物質の動態に伴う不快な禁断症状の発生』がある。
これと同様に、性欲を満足することは快感だが、その快感とは別に『性感から発生した現象性イデアによる実在環境への適応障害に伴う不快感』がある(分裂病)。
同様に、ある種の欲望(出世欲や名誉欲や金欲など)を満足することは快感だが、その快感とは無関係に『自分が学習した実在性イデアのないことによる実在環境への適応障害に伴う不快感』がある(鬱病)。
けっきょく、物事の好いところだけを見て悪いところを見ないから、あとでひどい目に会うのだ。
[2254] 罰のない法はない h18.3.26
罰がなければ、法律は事実上無効である。
したがって、世界法に基づいて私が定めた命令に反したときの罰則をここで決めることにする。
今後、私が定めた命令に背いた場合には、罪の軽重を問わず一律に死刑とする。
命令に反したときから3日以内に違反者をどんな方法でもいいから殺さねばならない。(重い罪ほど、苦しい殺し方になる。)
私は平日は仕事で忙しく、休日の病院通いやゲームなどで暇がなく、また法律に詳しくないので、罰則について細かく規定ができず、一律に死刑にせざるを得ないのである。
私は、自分が悪いと知っていて悪いことをする者を許すことができず、そんな者は人間として存在する価値・資格がないので、殺してもよいと考えるのである。
[2255] 人の心は不思議 h18.3.26
BF(PCゲームのバトルフィールドの略)は銃で敵を撃ち殺すゲームである。
このゲームにはまる者が大勢いるところを見ると、人の心の中には“人を殺す快感”があるようだ。
トッププレイヤーになるほど、この快感が強いのだろう。
人の心はそれほど殺戮を欲しているのだろうか。
[2256] 日本はヨーロッパを支配できない。 h18.3.27
日本人はヨーロッパ人ほど頭がよくない。
バカがリコウを支配できるなんて、バカの思い上がりだ。
[2257] 規制撤廃 h18.3.27
日本政府は、これまで私に内緒で私の思考や行動を私の周囲の者(親族や友人など)を使って“なんとなく制限”してきた。つまり、これが日本が私を規制してきたということだ。
その一方で、私の思想や嗜好や生活習慣を、私に無断で勝手に日本全体に“なんとなく取り入れてきた”(青色とかやたらに詳しいマニュアルとかアニメのヒロインの顔とか)。つまり、これが日本国民が神としての私に服従するということだ。
日本が私を規制しても私はときどき不快な思いをしただけで幸福にならなかったし、逆に日本国民が私に服従しても日本国民は幸福にはならなかった(だろう)し、私も全然うれしくない。
無駄なことをしてきただけだ。
最近、私が自分が神であることに気付いたので、日本政府は私に対する規制を解いて、私の自由を認めることにした。(他の団体も、日本政府に準じてもらいたい。私の自由を保証するために、他人を規制するのはかまわない。)
そこで、私はこれまでの私の思想や嗜好や生活習慣の日本国民への“なんとなくの取り込み”を廃止して、その代わり、私が言葉で命令したことについては、人類側の意見をさしはさむことなく、全人類が絶対に従わなければならないとし、それ以外のことについては全人類の自由を認めることにする。
[2258] 最高神 h18.3.27
私は“最高神”である。
なぜなら、現在地球上に神(超能力者と確認された者)は、私ひとりしかいないからだ。
[2259] キリスト教徒に告ぐ h18.3.28
1)キリストが神である場合
世界法によれば『新しい神(の言葉)は古い神よりも優先する』から、キリスト教徒はキリスト教を捨てて、私の実在哲学を信奉しなければならないことになる。
2)キリストが神でない場合
キリストは宗教家の一人にすぎないから、キリスト教徒はキリスト教を続けてかまいません。
[2260] 新人類 h18.3.29
超能力を持った人間を新人類と定義する。
新人類は超能力のあるぶん人間よりも自由であり幸福である。
人間が知覚の発達したサルであるように、新人類は超能力の発達した人間である。
人類が新人類の芽を摘み取ることは生物全体としての進化の法則に反する。
実在において自然発生してくる新人類を人類が勝手に制御することは行き過ぎている。
超能力者が現れるたびに超能力を消していく人類(国連)のやり方には進歩がない。
それが、人類が人類を守るためだということはわかる。
しかし、サルからヒトに進化するために100万年の長い時間を要したように、ヒトから新人類に進化するまでにはかなりの長い時間を要するのであり、人類と新人類の対立は長い時間が解決してくれるのではないだろうか。
新人類が徐々に増え人類が徐々に減っていけば、さほど問題はないように思われる。
人類にも新人類にも知性があるから、話し合えば互いに妥協点を見出せるはずだ。いきなり殺し合うことはないだろう。
とにかく、今の地球上に白人・黒人・黄人といろんな才能をもったいろんな人種がいて、それでも今の地球が全体としてなんとか上手くやって行けるのであれば、新人類の存在を放任してやってもいいのではないだろうか。
[2261] 人類から新人類へ h18.3.29
サルから人間へはいきなり進化したのではない。
サルの大脳皮質の知覚野が少しずつゆっくりと時間をかけて大きくなって発達して、やっと今の人間になったのだ。
だから、最初の頃の人間はほとんどサルと変わらず、サルにできないことがほんのちょっとできただけである。したがって、原始人類がサルといっしょに暮らしてもサル社会の掟[おきて]に背くことはほとんどなかっただろう。
だから、原始人類はサルとともに生き残ることができたのである。
そればかりか結婚して子供を作ることもできた。
そうして、人間の形質はサルの間に広く行き渡り、サル全体が人間に近づくことになったのである。
何万年という長い時間をかけて少しずつ進化を重ねることによって、現在のいろんなことがわかりいろんなことができる人類にまで進化することができたのだ。
だから、新人類の場合にも、まだ原始的な段階ではあまり超能力も強くなく、人類と共存してもほとんど問題は生じないはずである。結婚して子供を作れば、超能力の形質は広く人類全体に行き渡るだろう。
そうなれば、みんなが超能力を使えることになって平等になる。
その後も進化を重ねることによって、超能力の発達した超能力でいろんなことがわかりいろんなことができる新人類が現れるだろう。
だから、たまに人類の中に超能力を持った者が生まれても、その超能力(大脳皮質にある超能力野)は未発達で少しのことがほんのちょっとできるだけだから、超能力を消すに及ばず、むしろ温存して超能力の形質を人類全体に広めたほうがよい。
[2262] 私のキリスト観 h18.3.29
聖書の記述の真偽性はともかく、キリストは“幼少の頃イバラの冠をかぶらされた”ことがあったから『神』であったし、現在の宗教活動の原型を築いた『偉大な宗教家』でもあったと考える。
[2263] 高校までと大学からあとの違い h18.3.29
高校までは、いろんな学科を勉強するから、たとえ苦手科目で落ち込んでも得意科目で憂さ晴らしができるから、なんとかやって行ける。
しかし、大学からあととくに仕事においては、ひとつのことしかしないから自分が苦手な専門や仕事に就くと落ち込みを解消できない。
だから、進学や職業の選択が重要なのである。
[2264] 人間に相応しい喜び h18.3.29
服装や髪型なんかの見た目の喜びは動物の喜びであって、人間の喜びではなく、人間としての本心を満足してはいない。
不良(出来の悪い人間)の喜びは、鬱状態の(落ち込んだ)人間の喜びであって、病的な喜びにすぎない。
人間が生きるためにはなんらかの喜びを満足させねばならないが、不良は人間としての満足させるべき感情を間違っている。
人間にとっては、見た目の喜びよりも知性の喜びのほうが大きい。
だから、いくら見た目にこだわっても、さほどの喜びは得られない。
見た目の喜びは、知性の喜びが得られない者のみじめなつまらない喜びである。
ようこ「まちがって自分が苦手な医学部に入っちゃったから、知性の喜びを満足させられなくて、こんなになっちゃったの。あなたは私みたいになっちゃだめよ。」
[2265] 女流数学者ネーター h18.3.29
コワレフスカヤはともかく、ネーターは正直言って美人ではない。
ネーターが満足して生きていくためには、知性を満足させるしかなかったのだ。
[2266] 超能力で犯罪が起きたらどうするか!? h18.3.30
いくら超能力があっても、超能力を個人的に用いるかぎりでは問題はない。[超能力を試験のカンニングに用いても、大目に見れば許されるだろう。実際に、今でもテレパシーで他人の思考を読み取って解答を書いている者がいるかもしれない。]
超能力が問題になるのは、超能力が犯罪に用いられた場合である。
しかし、[2244]の2)にあるように、たとえ超能力の素質があってもそれを用いなければないのと同じであり、たとえ超能力が意識的に使えても他人前で使わなければ他人にとってはないと見做されるから、ある特定の個人における超能力の有無は実際には判然としない。
そもそも個人の超能力の有無が判然としないのに、超能力の犯罪への使用を問題にしても仕方がない。
潜在している超能力者は今も地球上に大勢いて、すでに犯罪に使用された例も少なからずあったのかもしれない。それでも、これまでにさほど大きな問題は生じていない。
国連や日本政府による超能力者の取り締まりも、実際には不徹底にならざるを得ないから、犯罪が問題になるという理由で、超能力者の超能力をわざわざ消す必要もないだろう。
[2267] 宗教的感性 h18.3.30
私が『愛の戦士レインボーマン』のダイバダッタや、インドの孤高の天才数学者ラマヌジャンに対して“高揚感”(つまり、超人への憧れ)を抱くように、他人が幼少の頃の超能力者だった私に対して同じような“高揚感”を抱くのだろう。
“高揚感”は一種の快感だから、人によってはすごく大事な感覚なのかもしれない。
[2268] 人間の相転移現象 h18.3.31
普通の人間でも、ある特定の条件下では神(超能力者)に相転移する。
これまでに現れた超能力者に共通する性質(貧乏育ち、両親の愛に恵まれた、とか)を調べれば、その条件がわかるかもしれない。
[2269] 直接入れと間接入れ h18.4.1
私が考えたことやしたことを人類の生活に取り込むのが“直接入れ”で、私の周りにいる者(親族や友人や先生など)を使ってその人たちの言ったことやしたことを人類の生活に取り込むのが“間接入れ”である。間接入れの場合、私が他人のすること言うことを見たり聞いたりすることが条件である(赤色の服とかインラインスケートとかバイクとか)。アニメを見ても、間接入れはかなり多く、大雑把に言って直接入れ:間接入れ=1:2ぐらいかな。
はたして、間接入れが人類が神に服従することになるのだろうか?政治家たちが神を使って人類をいいようにコントロールしているにすぎないのではないだろうか。
[2270] 科学と宗教 h18.4.2
科学とは“神”の概念を用いない神のいない世界観であり、宗教とは神のいる世界観である。
科学がニュートン以来快進撃を続けていることは、科学の『神がいない』という仮定が正しいことを示している。
たしかに神はいない。
しかし、それは人間の想像力で創られた架空の神であり、
超能力者は科学の世界の中でもなお存在するのだ。
[2271] 『男は子供の産めない女である。』 h18.4.2
男は子供を産まないぶん女よりも機能がひとつ少ない。
それだけ男が女よりも劣るのだ。
そのぶん、仕事や勉強で取り戻さなければならない。
[2272] 迷信 h18.4.3
私が生まれる前、昔あるところにひとりの超能力者がいた。
その超能力者はいくつかの超能力が使えた。
それを当時の人は目撃し、その事実を言葉で後世の人に伝えた。
そうして何代も重ねるうちに話は大げさになりあることないこと付け加わって、はじめの事実とはずいぶんかけ離れたものとなった。
超能力者はめったに現れないので、そんな話が事実によって修正されることもなかった。
いくつかのことしかできなかった超能力者はいつしか何でもできる神と呼ばれるようになった。
そこで私が生まれた。
幼少の頃の私は神の属性を“いくつか”持っていたので、ある人はそれを見て私を神だと考えた。
神にまつわる迷信を信じた人たちは、『私の超能力が人類を滅ぼすことになるかもしれない』と考えて、私の脳に処置をして、私の超能力を消すことにした。…
私の考えによれば、『初期の超能力者の超能力はまだ弱く未発達でほんの少しのことがほんのちょっとできるだけだから、超能力を消さずに温存してもほとんど社会的に問題にならない。超能力者と普通の人間は共存でき、超能力者の形質を人類全体にまで広げることができる。』
超能力者が人類を滅ぼすことになるか、それとも超能力者が人類を進化させることになるかは、実際にやってみなければわからない。
古い迷信よりも私の仮設を正しいと考えるなら、今度超能力者が現れたら、その超能力を消さずに温存して、超能力者の暮らしぶりを静かに観察してもらいたい。もしも、人類を滅ぼすほどの脅威(超能力者が全人類の1割以上を殺すこと)になれば、超能力者の超能力を消すなり、超能力者を殺すなりしてよいが、そうならないかぎり超能力者には手を出さないでもらいたい。
[2273] 超能力野 h18.4.3
脳波計なりCTスキャンなりMRIなりを用いれば、大脳における超能力野の部位がわかるだろう。(すでに、ある程度のことはわかっているような気がする。)
[2274] 人類への宿題 h18.4.3
超能力は個人的使用にとどめれば問題はない。
超能力が問題になるのは、それが犯罪に用いられた場合である。
【命令】次に超能力者が現れるまでに犯罪に超能力が使用されたことを明らかにする判定方法を確立せよ。
次に超能力者が生まれても超能力を消してはならない。超能力者の超能力を人類が消さなければ、当然人類が超能力者に服従する必要もない。
超能力者が人前で超能力をいくら見せびらかしてもかまわない。
もちろん、リンゴの皮むきなどの超能力の個人的使用はいくらでもかまわない。子供のケンカぐらいなら超能力を使ってもかまわない。
【命令】超能力が犯罪に使用された科学的証拠がないのに、超能力者を犯罪者扱いしてはならない。科学的証拠を立てられない場合、超能力者は無罪である。
超能力者の超能力が犯罪に使用されたと科学的に証明できれば、超能力者も普通の人間も分けへだてなくその罪相応の罰を与えればよい。(原則として、超能力を消すことを禁止する。)
人類には高度に発達した知性があるから、今の調子で科学が進めば、次に超能力者が現れるまでには何らかの超能力の判定法が見つかっているだろう。
それができなかったら、人類の怠慢だ。
諸君の健闘を祈る。
[2275] デカルトはどうして殺されたか? h18.4.3
『デカルトは王妃クリスチーナの家庭教師としてスウェーデンに招かれたが、早朝出勤が身体にこたえて肺炎にかかって死んだ。』
デカルトは人類で最初に完璧な科学的世界観(つまり、神のいない世界観)を提唱した人だ。デカルトの『我思う、ゆえに我在り。』の言葉は、自分の存在が神とは関係ないことを主張している。
このことが、信心深い連中にはデカルトが神にたてついたと見なされて、うわべは派手に軍艦に迎えられてめでたく出世したかのように見えて、じつは極寒の地へ送られるという不利な待遇にされてしまった。
背後にキリスト教が絡んでいることは、王妃の名前を見てもわかる。
追加)神の正しい意味がわかっていない愚かな信者たちがデカルトを殺したのだ。神とは“人類の中にたまに現れる超能力を持った者”のことであり、『キリストのような超能力者がいようがいまいが、それとは無関係にデカルトは存在した。』ことは、とにかく真実だ。
[2276] 超能力犯罪の鑑定法 h18.4.3
1)通常の凶器や手などを用いた犯罪を消去法で除外する。つまり、まず“普通の犯罪でない”ことを確定する。
2)超能力に特有の“超能力痕”を検出する。これには、事実の蓄積と研究の積み重ねが必要である。
3)DNA判定や指紋やアリバイ証明などを併用して、犯人の絞り込み[しぼりこみ]に役立てる。
4)優秀なウソ発見器があれば、普通の人間の場合と同じく、超能力者の取調べに役立つはずだ。もちろん、当人の性格・気質を見れば、だいたい犯罪者かどうか区別がつくはずだ。
…こんなことを考えるくらいなら、いっそ科学の力で何か道具を使って、身体の周りにバリアーでも張って超能力を無効化することを考えたほうがいいだろう。
[2277] 超能力の検出法 h18.4.3
超能力者が超能力を使うとき、強い感覚波が放射される。
だから、その感覚波を検出できるレーダーを作れば
いつどこで誰が超能力を使ったかがわかる。
[2278] 超能力者は人間よりも優秀か? h18.4.3
超能力者は超能力のある人間と見做される。
超能力は五感の一種(いわゆる第六感)と見做される。
超能力者は超能力があるぶん普通の人間よりも五感の種類が多い。
しかし、教育の普及した現代においては五感よりも知覚の重要性が高い。
つまり、超能力の有無よりも知覚がよいか悪いかのほうが人間の価値を決める。
しかし、超能力器官から知覚界に特殊な実在性イデアが作り出され、それを用いて普通の人間にはわからないことでもわかる可能性があるから、超能力も超能力者にとっては大事な才能である。[だから、他人が勝手に超能力者の超能力を潰してはならない。]
一般に、超能力者の認識は広く浅くで、普通の人間の認識は狭く深くだと言える。
大雑把に言えば、超能力者のほうが普通の人間よりも認識が多様で優秀だと言えるが、超能力だけが人間の優劣を決めるのではない。他に運動能力とか歌の上手下手とか顔や体型のよしあしとかもある。眼が見えなくても指先の触覚から実在性イデアを作って位相幾何学を大成した数学者もいる。
身体の器官の違いにもかかわらず男女平等がなされたように、大脳皮質の超能力野の有無の違いもいずれは乗り越えられるのではないだろうか?
[2279] 超能力の原理(その2) h18.4.3
私が小学生の頃、私の母親は気が濃かったから、赤ちゃんの頃の私も気が濃かったはずだ。[どうでもいいことだが、私の母親は眼がかわいい。]
気とは人間の身体の位置の不確定性によって生じた確率波だ。
人間の身体の位置の不確定性を高めればガラガラに手が届いて回すことができるのでは?
物の形(位置)にとらわれないで物を見れば、確率波が収縮することはない。[荘子も物の動き(運動量)で見ればいいと言っていた。今から2000年前にすでに中国では不確定性原理が知られていた!?]
赤ちゃんはまだ視覚が発達していないから、それができる。
[2280] 思うことより考えることが優先 h18.4.4
実在が何であるかがわかってから心でやりたいことを考えないと、
出来ないこと叶わないことが増えるだけだ。
だから、まず知覚で実在について考えて実在を知らねばならない。
追加)孔子の『学びて思はざればすなわち罔(くら)し、思ひて学ばざればすなわち殆(あやう)し。』の“思う”とは“考える”の意味である。学ぶとは、自分が考える代わりに他人に考えてもらうことである。他人の考えを自分が真似ることである。だから、学びすぎると自分で考えようとしなくなる。反対に、学ばなければ自分で考えざるを得ない。自分の眼で見て、自分の知覚で考えるしかない。
[2281] 生物の進化は人類で終わりか!? h18.4.4
それは人類の思い上がりだ。
生物の進化が人類で終わりならば、いずれ人類はかつての恐竜のように滅亡するだろう。
人類が滅亡しないためには、人類がさらに進化するしかないのだ。
人類が種としての子孫である新人類を残してこそ、人類の未来がある。
新人類は、人類の系統樹の新しい枝だ。
枝を刈り取れば人類の樹は伸びるかもしれないが、枝を刈り取ってばかりいたら種としての適応性が狭くなり、何かのきっかけで人類の樹そのものが枯れてしまうだろう。
人類の遺伝子が新人類の中で生き残るとしたら、新しい可能性を新人類に託してみたらどうだろうか。
[2282] 人類存亡の危機 h18.4.5
超能力者自身の超能力を使ってもできることは知れている。
超能力者の超能力(念動力;サイコキネシス)が問題になるのは、それが核ミサイルの発射ボタンを押すことに用いられたような場合である。
それはたしかに危険である。
だから、核ミサイルのような物騒な兵器を持つ・作るのをやめましょう。
[2283] 管理者 h18.4.5
管理者は神と人類の両方の様子を見て、人類が神にちょっかいを出すように人類に命令(指令)する。
管理者が神に命令することはない。
神(私)は管理者の正体を知らない。国会議員かもしれないし、何かの教団の人かもしれないし、他の誰かかもしれない。一人かもしれないし、グループかもしれない。管理者が私に命令を出せないところを見ると、管理者はたぶん人間だろう。
これまで約40年間、管理者が神と人類を操作して、いったい誰が幸せになっただろう。少なくとも私は幸せになっていない。管理者は無能だと思う。事態を悪化させているのは、管理者の管理が下手なせいだろう。管理者が人間だったために、これまであまりにも人類に有利で神に不利すぎたのではないだろうか。
私のこのたびの[2257]の最後にある提案は、これまで人類側にあった管理者を神側の私に移すことである。
神と管理者が一体化したぶん、正確かつ効率よく管理ができるから、これまでよりも上手く行くはずだ。そうすれば、神も人類もともに幸福になるだろう。
[2284] 超能力者を許す国と許さない国 h18.4.5
いずれ世界は超能力者の超能力を(脳に処置をして)消す国と、消さずに温存する国の2つに分かれるだろう。[超能力者の超能力を消さずに温存する人々が集まって国を作ってもいい。]
超能力を消す国に超能力者が生まれたら、超能力を温存する国に移してやってそこで育ててやってもらいたい。
超能力者の超能力を消すことしか考えない国の人々は、やがて現在のサルみたいになるだろう。
[2285] 超能力者とキチガイ h18.4.5
超能力者は生まれつき超能力野が普通の人よりも発達しているから、テレパシー能力が強く分裂病になりやすい。
今度超能力者が生まれたら、この点に注意して育ててやってもらいたい。
【刑罰】 h18.4.7
私が仕事に出て留守にしている間に、無断で私の部屋に忍び込んで、
1)私の毎日飲んでいる睡眠薬2錠を床に撒き散らかした者(物の有り難味がわからんのか!)
2)私の34型テレビのブラウン管の左上隅に磁石をつけて青色を緑色にした者
は死刑…と言いたいところだが、『住居侵入罪』や『器物破損罪』を適用して、それなりの処分をつけてもらいたい。警察のかた、よろしく。
[2286] 昔の神と今の神 h18.4.8
大昔の神(超能力者)は、超能力を消さずに育ったから、知覚に超能力器官から生成されたイデアがあり、心は知覚や五感(普通の五感と超能力器官)と複合するから、心も普通の人間とは違っていただろう。感覚界全体が普通の人間とは違うし、おまけに当時の科学知識(実在についての知識)のなさも手伝って、当時の人にとっては人間とはまったく違う生き物に見えたに違いない。
しかし、現代の神は、超能力が現れてからまもなく小さい頃に超能力を消されるので、知覚も心も普通の人間とほとんどまったく変わりない。さらに現代には科学知識も豊富で実在を分析的に冷静に正確にありのままに見れるから、たとえ超能力を消さずにおいたところで、神は(ユリ・ゲラーや関口少年みたいに)超能力がある人間と言うだけで、そんなに人間とは違う者とは見ないはずだ。
[2287] 超能力者にとっての超能力を消してはいけない理由 h18.4.8
超能力者の超能力を消すために、超能力者の脳に電気的、化学的(薬学的)、力学的、熱的処置などを加えたと考えられる。(外傷を残さないため、手術はしない。)あるいは、脳を長時間不眠状態にして脳を疲労させるなどの処置をとったかもしれない。
脳は非常に繊細で壊れやすい器官であるから、
超能力を消す際に、超能力野以外の皮質にも機能低下が生じ後遺症になる。(感情鈍麻や乗り物酔い、言語障害、運動障害など)
また、超能力を消す際に脳のどこかに壊れやすい部分ができ、それが将来なにかの刺激で壊れて精神障害・身体障害を引き起こす原因になる。(精神分裂病、肥満など)
いくら周囲の人間の安全を確保するためだとはいえ、これでは本人が一方的に不利すぎる。(超能力が他人の安全を守るために使われることだってあるかもしれない。これまで神がたびたび現れたにもかかわらず、現在人類が地球上に生存していることは、過去において神が人類を滅亡させることがなかったことの証拠である。)
そもそも、超能力がどれだけ危険かもわからないのに、闇雲に行うのは合理的態度ではない。
『実在が長い時間をかけて生み出したものを、人間の手で潰してはならない。』
[2288] くだらない欲望に囚われるのはなぜか? h18.4.9
人間はなんらかの喜びがなければ生きられない。
自分の心の中にある高尚な欲望(『考える喜び』)や普通の欲望(「テレビを見る喜び」や「ゲームをする喜び」など)を満足しないから、くだらない欲望(後述)を満足しなければならなくなるのである。
人間の心には『考える欲望』がある。それがあるから大脳が発達したのだ。人間にとっては『考える喜び』が最大の喜びであり、人間が『考える喜び』を満足することは、人間に相応[ふさわ]しい生き方である。
[2289] オカマ h18.4.9
人間の心の中には“異性に変わる喜び”がある。
高尚な喜びや普通の喜びを満足しないために“異性に変わる喜び”を満足しなければならなくなった者がオカマになるのだ。
“異性に変わる喜び”は、現実には叶わないから苦しみにすぎない。一般に、実現できない欲望を持つことは苦しみにほかならない。さっさと諦めて、他の欲望に変えたほうがいい。
また、たとえ“異性に変わる喜び”が医学的に可能であったとしても、異性に変わったあとで自分が幸福であるかどうかはわからない。つまり、“異性に変わる喜び”は異性に変わるまでの喜びであって、異性に変わった後ではもはや喜びではなくなる。そうなってしまったら“異性である喜び”が満足されるかされないかが問題であって、これは“異性に変わる喜び”とはまったく別の問題である。ちょうど、“結婚する喜び”と結婚後の生活が幸福かどうかが無関係であるように。
このように、感情自体を満足することと、その結果もたらされた事態に満足するかどうかは別問題であって、自分の行動の引き起こす結果を知覚で考えて予想して、その結果に対する自分の心の反応を把握していなければならない。
人間の心は実在について盲目であって、感情だけでは闇雲なので、感情を満足した結果が必ずしも幸福だとはかぎらないのである。
[2290] 個人主義と集団主義 h18.4.9
人間は本来個人主義である。
大昔、人間は家族単位で野山で暮らしていたからだ。
それが集団生活に入ったのは、個人で暮らすよりも集団で暮らしたほうが生活が便利だからである。人々は個人の自由と引き換えに集団の便利さを手に入れた。こうして人々は集団主義化していった。
ところが産業革命以後、いろんな生活道具や電化製品が発明されて、人々の暮らしは他人に頼らなくても済むようになり、再び個人主義化しつつある。いまや、人間は個人の自由と生活の便利さをともに手に入れた。やはり、人間にとっては孤独が一番心地よいのだ。
[2291] 日本政府はどうして私の邪魔をしてきたのか? h18.4.10
1)私が九州大学理学部物理学科を再受験したとき、2次試験の1週間ぐらい前から隣の部屋にいる誰かが“重苦しい気”を出して、私の気分を落ち込ませて私の試験勉強を妨害した。(試験はなんとか合格した。)
2)私が九州大学理学部物理学科を卒業して就職活動をしたが入れてくれる会社がなく、やむなくアウトソーシングのネクスターに雇われて名古屋に赴任したとき、夜勤で働いていたが毎日隣の部屋の住人が昼間一日中ミニコンポでロックをガンガンかけて、私の睡眠を妨害していた。おかげで私は毎日眠れずほぼ1年間寝不足でフラフラだった。
3)私が豊岡のタジママンションに住んでいたとき、私が昼勤から夜勤に変わって約半年後、私の上に会に住んでいた人が入れ替わってから、毎昼電気ドリルで床や壁に穴を開ける音がうるさくて眠れなかった。引越ししようとして勝手に休みを取ったらクビにされた。
4)豊岡でクビにされて、今の職場に変わってきてからも、隣の部屋の住人がステレオをかけたり壁を叩いたりして、うるさくて約半年間眠れない日が続いた。
以上の事実から帰納的に考えられることは、『日本政府が私を“誘導”して日本政府の得になるようにしようとした』ことである。
古来より人類(と神?)が定めた法があって、その法に基づいて政府が神をある程度“誘導”でき、その結果によって政府が儲かったり損したりする。神が幸福になれば国が儲かり、反対に神が不幸になれば国が損をするようになっている。今の私が不幸だから、日本が不景気なわけである。
私は最近までそんな決まりがあることをまったく知らず、人間側の勝手な取り決めで私に無断でやっていただけのことである。
直接入れ(取り込み)や間接入れ(取り込み)もその一例であって、人類側が五感やテレパシーを使って神である私のしたことや言ったことや見たことや考えたことを知り、人類側の力でそれを生活の中に取り入れるのであって、けっして神(私)が超能力を使って人類の生活に取り込ませているのではない。
1)については、私が医学部を出て医者を1年勤めた後で年を食っていたから、再入学してますます年を食って就職が不利になるよりも、父親が勧めたように公務員の採用試験を受けて公務員になったほうが私のためになると考えたからだろう。
2)については、OS(アウトソーシング)の会社に入って一生きつい仕事で待遇の悪い生活をするよりも、“何か別の仕事”に就いたほうがいいと考えてOSの仕事を辞めさせようとしてやったのだろう。
3)については、豊岡に4〜5年もいて、OSの会社の中でも出世する見込みがないし、このまま豊岡にいても生活に代わり映えがしないから、私を豊岡から追い出すために“子連れのヤクザ風の男”を雇って嫌がらせをさせたのだろう。
4)については、営業の久保木が私を気に食わなくて、チンピラの熊本や松田を私の隣の部屋に入れて、ステレオをガ鳴らせたり壁をコンコン叩かせたりして私を眠れないようにしたのだ。
このように“誘導”は私を苦しませただけで一度も幸福にしたことがなく、下手な“誘導”のおかげで私の人生は不幸になってしまった。今後も上手く行くとは思えない。ほんらい私を幸福に導くはずの“誘導”が、ことごとく裏目に出てしまった。つまり“私の邪魔”にしかならなかったわけだ。
[2292] “取り込み”の意義 h18.4.10
『“取り込み”は、昔の人が神様の真似をしたら自分も神様になれると思って始めたそうだ。でも、実際には、いくら神の思想や習慣や嗜好を真似たところで、肝心の超能力が身に付くわけではないから、無駄なことをしてきただけだ。』[『…』は幻聴で誰かが私に教えてくれたことである。面白いと思ったので載せた。以下は私の考えである。]
“取り込み”(入れ)の風習はなんにもならないからやめたほうがいい。
[1948]にあるように人間社会は感性の違ういろんな人間から成り立っているので、人類が個人一人の感性に偏ると、多かれ少なかれ社会の発展が阻害されるから、一般大衆への取り込みは廃止したほうがいい。
それでも、どうしても“取り込み”たい人は取り込んでも可いが、そうでない人は取り込まなくてよい。
[2293] 浅野先輩のこと h18.4.10
浅野耕太先輩は、私が4才のとき鴨部から若草町に引っ越してきてから14才のとき福井町に引っ越すまでの10年間、仲のよい友達だった。
県営住宅の私の棟のひとつ北の棟に住んでいて、道を隔てて隣同士だった。
私に『いなかっぺ大将』のマンガを読ませてくれたり、バンカースで遊んだり、いっしょに虫取りしたり野球したりビー玉したりパン(メンコ)したり、ゴルフ場に連れて行ったり“光る石”が取れるところに連れて行ったりしてくれた。
ときどき私の前で「日本一の日雇い人夫だ」(巨人の星)とか「コバンザメ」とか「肉ダンゴにするぞ」とか子供の私にとっては意味不明のことを言って独りで笑うことがあった。
私が中2のとき高知学芸中学校に編入して髪を切って坊主にしたときも私の頭を見て笑ったし、私が中2のとき猛勉してストレスが溜まってはだかで2階の窓から外に抜け出そうとしているのを向かいの窓から見て笑ったりした。
このように浅野先輩は宗教的には私の敵役であったが、先輩が私に対してしたことは、悪い(?)マンガやゲームを教えたり、たまに「コバンザメ」とか「肉ダンゴ」とか軽く私の皮肉を言ったりしただけで、普段は仲良く遊んでいた。
浅野先輩は、小学生のうちから『刑事コロンボ』シリーズを読んだりして、もともと頭のよい人だったが、私の敵役に相応しい活動を認められてかどうか、高卒後、現役で京都大学に入学され、その後もトントン拍子で出世し現在京都大学助教授に至っている。
私もこんな立派な先輩がいて光栄に思う。
[2294] 神について(スタートレックを見た感想) h18.4.11
私がスタートレックすなわち『宇宙大作戦』をはじめてテレビで見たのは小学6年生のときでした。ミスタースポックが好きで、自分が大きくなったらスポックのような人になりたいと思いました。
みなさんもご存知の通り、宇宙には物質(素粒子)と運動方程式があります。
科学では物質も運動方程式もはじめからそこにあると考えますが、宗教では物質や運動方程式を誰かが創ったと考え、その誰かを“神”と呼ぶのであります。人間が自然に働きかけ畑や村を創ったように、神は宇宙を創ったのであります。つまり、神とは人間の自然に対する積極的・能動的な働きかけを象徴するものであります。あえて式で書けば『神=人間^2(人間の2乗)』といったところでしょう。ヨーロッパやアメリカでは、神とはそんな風に考えられています。[理念的な神と実在の超能力者を混同してはいけません。]
一方、東洋では人間は自然の一部であり、人間が周りの自然と調和しながら生きるという発想があります。人間はありのままの自然を受け容れながら生きている。人間が自然に働きかけるだけでなく、自然が人間にも働きかける、そこに調和があるのです。
人間がありのままの自然を受け容れるという点で、東洋思想は西洋科学と軌を一つにする。だから、東洋においては西洋科学を受容しやすい。東洋思想は科学そのものだと言ってもいいでしょう。『実在は従属することによって支配できる。』(フランシス=ベーコン)という言葉が、人間の自然との調和の精神を余すところなく我々に伝えている。東洋においては、人間にとって自然は神の名の下に支配すべきものではなく、まず人間がその前にひれ伏して従属すべきものであり、むしろ西洋科学が東洋思想を受容することによって誕生したかとさえ思わせる節があるのであります。
いわば、東洋においては『神はいない』のであり、人間は自然に対し受動的・被動的であって、人間は自然の一部分として自然と一体化して生きているのであります。
[2295] 私の願望 h18.4.11
静かにのんびり暮らしたい。
[2296] 神様ごっこ h18.4.14
心の中に“異性に変わる喜び”がある者がいるように、心の中に“神に変わる喜び”がある者がいる。
ただ普通の人間にとっては、たとえ心の中に“異性に変わる喜び”があっても、他の喜びを満足させることで十分満足して生きて行けるから、“異性に変わる喜び”なんか必要ない。どうせ、自分のイメージ通りに異性に変われる者なんかいないから、そんな欲望があっても仕方がなく、むしろない(働かせない)ほうが幸せなのである。
同様に、“神に変わる喜び”についても、どうせ人間が全知全能の神になんか変われるわけがないから、無駄なあがきにすぎない。そんな実現できない感情を持つと、ストレスが溜まって不快になる。精神的に不健康だ。諦めて捨てたほうがよっぽど幸せだ。だから、普通の人間には“神に変わる喜び”なんかないし、たとえあってもそんなものを働かせて生きてはいない。
“取り入れ”は“神に変わる喜び”を満足するための行為であるが、“神に変わる喜び”を満足させて生きている者は、人類のほんの一部の例外者にすぎない。他の大勢の者にとっては、“神に変わる喜び”なんか不要だから、“取り入れ”なんか迷惑だ。したがって、“神に変わる喜び”のある者にだけ、神(超能力者)に関する情報を与えて、その他の者には与えないほうがいい。“神に変わる喜び”のある者は、そういう人向きの宗教に入って、その宗教から神(超能力者)に関する情報をもらえばいい。わざわざマスコミを使って神(超能力者)に関する情報を流す必要はない。そのほうが無駄がなく情報の経済性がよい。
それに、たとえ超能力者が普通の人間よりもできることが多いとはいえ、全知全能の神といくつかの超能力が使えるだけ(で欠点だらけ)の超能力者とは明らかに別物だから、いくら超能力者を真似たってとうてい神を真似たことにはならない。やることが幼稚で曖昧だ。バカバカしい神様ごっこにすぎない。
[2297] ラップ音と超能力 h18.4.14
私は今でも心が緊張すると、眼の前にある柱やガラスなどが「ピシッ」ときしむことがある。
これが“ラップ音”である。
つまり、“緊張する感情”と“柱やガラスなどの物質”との間には相互作用がある。
緊張する感情を特定のリズムで活動(神経興奮)させれば、エネルギーが伝達されて物体を動かせるかもしれない。[洗濯板を棒でこすってガリガリ鳴らすと、たらいの水が跳ねるように。]
ラップ音は有名な心霊現象で、ラップ音を鳴らせる者は私以外にもいるだろうから、その者は潜在的に超能力者の才能(サイコキネシス)を持っていることになる。その者は訓練次第で超能力者になれるだろう。
ラップ音を鳴らせる者が人類の中に大勢いて、超能力者になるかならないかは本人の頭(大脳)の使い方次第で決まるとすれば、超能力は自分の力で獲得した後天的な才能ということになるから、それを他者が奪うことはもはや犯罪だと言ってもいいだろう。
[2298] 考える欲望 h18.4.14
考える欲望は、なにかあることをただ考えればそれだけで満足されるのだから簡単だ。
学問といっても、しょせんは言葉を使うことにほかならない。
[2299] 私のもの h18.4.16
私が働いて得たお金で私が買った物(例えば、コンピューター、ソフトウェア、オモチャや自転車など)は私のものである。
私のものに他人が手を出してはならない。
また、他人が私に(買って)くれた物やお金は私のものである。例えば、親や親戚が私にくれたお小遣いは私のものである。私の部屋に前に住んでいた人が私に残してくれた物(布団や食器など)は私のものである。
私の身体は(出生以後は)私のものである。私の許可なく私の身体に手を出してはならない。[ただし、私が事故・その他の病気で自己判断できない場合には、親族の許可があれば、診断・治療を行えるものとする。]
空気、光など、私の身体の周りの環境は私のものである。
私の著作物(日記や写真など)は私のものである。例えば、私の『哲学日記vol.1』は私が大学ノートに書いたものだから私のものなので、私に返さねばならない。
私の肖像権も私のものである。
[2300] 人間の限界 h18.4.16
身体のお腹側が暑くて、背中側が寒いと体調が崩れる。
人間は全身の体温を調節することはできるが、身体の一部分の体温を調節することはできないからである。
むしろ、全身が暑いか寒いかのほうがいい。