[21901] どうして今の政府はひとりだけ悪いことをやっているのか? h27.6.6
今の国民みんなは善いことだけやっているのに政府は悪いことをやっている。政府は国民みんなに命令して税金を取ったり国家宗教で事件や事故を起こさせて人殺しやイタズラをさせて国民みんなを不幸にしている。政府はわざとに悪い政策をやって国民みんなを不幸にしている。政府は国民みんなからお金を奪って善い政策と悪い政策の両方をやっている。(幕府は国民みんなから一方的に年貢[ねんぐ]を取って善い政策をやってちょっとだけ悪い政策をやっていたが、政府は国民みんなから一方的に税金を取って善い政策をやってそれに勝るとも劣らず悪い政策をやるのである。政府のほうが幕府よりも悪[あく]である。)
今の政府がひとりだけ悪いことをやっているのは、政府が古い文化の国家機関だからである。
今の国民みんなは新しい世界文化つまり『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。一方、政府は昔のヨーロッパ文化つまり「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』ではちゃんと道徳があるからみんなが善いことだけやって悪いことができない。「科学と数学があって道徳がない文化」では道徳がないからみんなが善いことと悪いことの両方やれる。だから、今の国民みんなは善いことだけやっているのに政府は悪いことをやっているのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。国民みんなは国家機関よりも強い。国家機関は国民みんなに従わねばならない。それが国の決まりである。だから、今の国民みんなは「政府が国民みんなと違う文化をやっていて国民みんなに従っていない」と考えて政府を倒しているのである。今の国民みんなは「我々が欲しいのは世界文化の国家機関であってヨーロッパ文化の国家機関ではない」という理由で政府に税金を払うのをやめて政府を倒しているのである。国民みんなは細かいことはどうでもいいと思って、水道や戸籍や教育など自分が利用したい政府のサービスにだけその都度[つど]お金を払って利用しているのである。たとえ今の国民みんなが政府のおかげで幸福になっていたとしても、今の国民みんなと政府は文化が違うから、政府は国民みんなに従っていないから、政府は国の決まりを守っていないから、国民みんなは政府を倒さなければならないのである。今の国民みんなは世界文化をやっているから、世界文化の中で幸福にならねばならない。今の国民みんなはいい世界文化をやる国家機関を建てて国民みんなを幸福にしてもらわねばならないのである。
今の国民みんなは政府に税金を払わなくなっているから、政府はだんだん貧乏になって潰[つぶ]れている。そのうち、政府はどうしようもなくなって世界文化の国家機関を建てるだろう。どうせ最初のうちはニセモノだから、国民みんなは2〜3回国家機関を倒してから、国家機関が善くなってからまともに相手にすればいい。
本来は明治維新のときのように国民みんなと国家機関が歩調を合わせて古い文化から新しい文化に変わるべきである。むしろ、明治維新のときには国家機関が国民みんなを先導して新しい文化に変えていた。しかし、今は古い文化よりも新しい文化のほうが国家機関が儲[もう]からないから、国家機関が新しい文化に変わるのをためらっている。古い文化ではみんなが悪いことができるから国家機関が国民から税金を取って儲かるが、新しい文化ではみんなが善いことしかできないから国家機関が国民みんなから税金を取れなくて儲からないのである。国民みんなはとっくの昔に新しい文化に変わっているのに、国家機関は今でも昔の文化をやり続けている。今の国民みんなは国家機関が文化を変えないことに腹を立てて国家機関に税金を払わなくなって国家機関を潰している。そのうち、国家機関が泣く泣く新しい文化に変わるだろう。国家機関は自分で考えて新しい文化の中で経営できるようにしなければならない。
これまで国家機関は国民みんなの「道徳のない文化」によって悪いことができたから国民みんなから税金を取って儲けてきた。つまり、税金とは国家機関が国民みんなからお金を強盗することなのである。昔は国民みんなが「道徳のない文化」をやっていたから、国民みんなが善いことと悪いことの両方やるのを許していたから、みんなが悪いことをやってもよかったから、国家機関が国民みんなからお金を強盗できたのである。昔は国民みんなの間で悪いことをやっていた。それと同じ程度に国家機関は国民みんなに悪いことをやっていた。国民みんなは身分制を守って国家機関にあまり悪いことをやらなかった。しかし、今の国民みんなは世界文化をやっている。世界文化は『道徳のある文化』である。だから、これからは国家機関は悪いことができず国民みんなから税金を取れず儲からない。今では国民みんなが『道徳のある文化』をやっているから、国民みんなが善いことをやるのを許すが悪いことをやるのを許さないから、みんなが悪いことをやってはいけないから、国家機関が国民みんなからお金を強盗できないのである。今は国民みんなの間で悪いことをやっていない。それと同じ程度に国家機関は国民みんなに悪いことをやってはいけない。国民みんなも国家機関に悪いことをやってはいけない。(今のインドで政府が毎日国民みんなを殺しているのは、インドでは国民みんなが毎日人殺しをやっているからである。国民みんなは身分制を守ってあまり政府を攻撃しないから政府がやっていけるのである。インドでは今でも国民みんなが「道徳のない文化」をやっているから国民みんなが悪いことをやって人殺しをしているのである。政府も悪いことをやって国民みんなを殺しているのである。)今では国家機関は悪いことができないから、国家機関は国民みんなから税金を取れず国民と自由に契約を取って国民に仕事をして国民からお金をもらわねばならないから、国家機関は民間会社と同じようにトントンだ。それが未来社会の姿なのだ。
[21902] 日本ではアメリカ占領下に国民みんなの文化が変わった。 h27.6.6
私が中学1年生の頃(昭和52年頃、西暦1977年頃)高知市旭[あさひ]にあった「みその学舎[がくしゃ]」という学習塾に通っていたが、最後の時間に塾長の紹介で塾長の友達だという見たこともないオッサンが教壇[きょうだん]に立って「ムリ・ムラ・ムダの3ムの追放」という話をした。もとの話は「効率よく勉強するためには無理な勉強・むらな勉強・無駄[むだ]な勉強をしてはいけない」という話だったが、今の私には『政府と暴力団と宗教団体の3つの団体を社会から追放しよう』という話のように思われる。
私が中学生の頃にはすでに国民みんなは新しい文化に変わっていたのだ。
私が生まれた頃(昭和39年、西暦1964年)にはすでに国民みんなは新しい文化に変わっていた。
日本ではアメリカ軍の占領中に国民みんなが古い文化から新しい文化に変わっていたのである。
政府は今でも古い文化をやっている。政府は国民みんなが新しい文化に変わった後で50年も古い文化を続けている。しつこすぎる。政府には新しい文化に変わる気はないらしい。(国民みんなは国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。政府は国民みんなといっしょに新しい文化をやらねばならない。それなのに、政府はそうしない。政府は正義心がない。正義心がないのは馬鹿である。)
だから、今の国民みんなは政府を潰[つぶ]している。国民みんなが国の最高権力者だから、国民みんなが国のことを決めるから、政府は国民みんなに従わないから、国民みんなで政府を潰しているのである。国民みんなは「我々が欲しいのは新しい文化の国家機関であって古い文化の国家機関ではない」と考えて政府に税金を払わないようにして政府を倒しているのである。
そのため、今の政府はだんだん国民みんなから税金を取れなくなって儲[もう]からなくなって潰れている。
それが今の社会の真相である。テレビや新聞で言っているのは嘘[うそ]である。要するに、正しく社会を理解すればいいだけのことである。
国民みんなにとってはどんな新しい国家機関が建つのか今から楽しみである。
[21903] 国民みんなが国家機関を支配している。☆ h27.6.6
昔から国民みんなと国家機関が戦ってきたのではない。国民みんなが国家機関と戦って国家機関から少しずつ自分の権利を勝ち取ってきたのではない。
昔から国民みんなが国家機関を支配してきたのである。国民みんなが国家機関に自分と同じ文化を押し付けてきたのである。国家機関にとっては国民みんなが客だから、国家機関は国民みんなのために仕事をしてきたのである。国家機関が国民みんなと同じぐらい悪いことをやっても国民みんなは国家機関に文句が言えないから、国家機関は国民みんなと同じぐらい悪いことをやってきたのである。国民みんなは国家機関が国民みんなと同じぐらい悪いことをするのを許してきたのである。だから、国家機関は悪いことがやれたのである。時代がたつにつれて、国民みんながだんだん『道徳のある文化』をやるようになったから、国民みんなが善いことをやるようになってみんなの権利を守って暮らすようになっただけのことである。国家機関も国民みんなに合わせてみんなの権利を守らなければならなくなったのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなは国の支配者である。国は国民みんなのものであって、国民みんなが国を自分の好き放題にする。国家機関も国民みんなのものであって、国民みんなが国家機関を潰[つぶ]そうが生かそうが国民みんなの自由である。国家機関は国民みんなに従わねばならない。国家機関は国民みんなと同じ文化をやらねばならない。
今の国民みんなは新しい文化(世界文化、『科学と数学と道徳の全部がある文化』)をやっている。政府は古い文化(ヨーロッパ文化、「科学と数学があって道徳がない文化」)をやっている。政府は今の国民みんなと同じ文化をやっていない。政府は今の国民みんなに従っていない。今の国民みんなよりも政府のほうが悪いことをやっているから、今の国民みんなは政府を許さない。今の国民みんなは自分が善いことだけやって悪いことをやらないので、政府も国民みんなと同じようにしないといけないと考えて、政府に善いことだけさせて悪いことをさせないようにして、政府の善いサービスだけを利用して、政府の悪い命令を聞かないようにしている。今の国民みんなは政府に税金を払わないようにして政府を潰している。国民みんなは政府を潰して、新しい文化の国家機関に変えようとしている。国民みんなは政府に国民みんなと同じ文化をやらせて新しい文化の国家機関に変えさせている。
アジアは昔から社会科学が発達していた。アジアでは『国民みんなが国家機関を支配している』ことぐらい誰でも知っていた。アジアは昔から自然科学は弱かったが、道徳や社会科学が強かった。一方、ヨーロッパは社会科学が遅れていた。ヨーロッパではみんなが「国家機関が国民みんなを支配している」と思っていた。ヨーロッパは自然科学は強かったが、道徳や社会科学が弱かった。だから、ヨーロッパの社会学者はまちがったことばかり唱[とな]えているのである。ヨーロッパではみんなが「国家機関が国民みんなを支配している」と思っていたが、本当は『国民みんなが国家機関を支配していた。』ヨーロッパでは本当は『国民みんなが国家機関を支配していた』のに、みんなが「国家機関が国民みんなを支配している」と思っていた。一方、アジアではみんなが真実のまま『国民みんなが国家機関を支配している』と思っていた。アジアでは国民みんなが自分で自分のことがわかっていた。反対に、ヨーロッパでは国民みんなが自分で自分のことがわかっていなかった。アジア人には自分を見る目があるが、ヨーロッパ人には自分を見る目がない。ヨーロッパの社会科学はまちがいが多いから、けっして鵜呑[うの]みにしてはいけない。
[21904] どうして今の政府は潰[つぶ]れないのか? h27.6.6
今では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』ではみんなが善いことだけやって、悪いことをやってはいけない。だから、今の国民みんなは善いことだけやって悪いことはやらなくなっている。
一方、政府は「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。「科学と数学があって道徳がない文化」ではみんなが善いことと悪いことの両方やっていい。だから、政府は善いことと悪いことの両方やっている。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなは国の支配者である。国民みんなが国の決まりを決める。国民みんなは国の尺度である。だから、今では国家機関も善いことだけやって悪いことをやってはいけない。
今では国民みんなが政府が善いことだけするのを許して悪いことをするのを許さなくなって、政府の善いサービスだけ利用して、悪い命令を聞かなくなっている。政府に水道や戸籍や教育などの料金だけ払って、税金や戦争や国家宗教などをやらなくなっている。政府の善い政策だけ協力してやって、悪い政策は断ってやらないようにしている。
それで政府は十分やっていけるのである。国民みんなが政府に税金を払わなくても政府は十分経営できるのである。国民みんなが政府の善いサービスに対して料金を払っていれば、政府はやっていけるのである。だから、政府は今でも潰れていないのである。政府は国民みんなが政府に税金を払わなくなって50年たっても善いサービスの収入だけで生き残っているのである。
だから、今の国民みんなはこのままやっていけばいい。今の国民みんなは政府の悪い命令を聞かないし、政府の悪い政策をやらないから、そのうち政府から悪いことをする組織がなくなって、善いことをする組織だけになるだろう。そうすれば、政府は今の国民みんなと同じくらい善いことをやっているから、国民みんなは政府を許して政府といっしょに仲良くやっていけるだろう。
要するに、今の政府が潰れないのは、政府がだんだん善いことだけする国家機関に変わっているからである。もともと国家機関は潰れるものではなく他の国家機関に変わるものなのである。国家機関は国民みんなが自分の手で作り変えていくものである。だから、今の国民みんなは政府を善いことだけする国家機関に変えるために、政府の善いサービスだけを利用して、政府の悪い命令を聞かなければいいのである。
[21905] 中世の政府はどうやって潰[つぶ]れたか? h27.6.7
中世に国民みんなはヨーロッパ文化をやめてアジア文化をやるようになった。
一方、政府はあいかわらずヨーロッパ文化をやっていた。
アジア文化では善いことを3/4やって悪いことを1/4やらねばならない。ヨーロッパ文化では善いことを1/2やって悪いことを1/2やらねばならない。
国民みんなは国の尺度である。だから、国家機関も国民みんなに合わせて善いことを3/4やって悪いことを1/4やらねばならない。
だから、中世の国民みんなは政府に善いことを3/4悪いことを1/4やらせていた。中世の国民みんなは自分が少し悪いことをやっていたから、国家機関が少し悪いことをするのを許していた。つまり、中世の国民みんなは政府が善いことをするのはもちろん許すが、政府が国民から税金を取ることだけ許してほかには悪いことをやってはいけないことにしていた。国民みんなは政府の税金の命令だけ聞いてそれ以外の悪いことをする命令を聞かなかった。そのために、政府は税金を取る以外には悪いことがやれなくなって、そのうち政府の税金以外の悪いことをする組織がなくなって善いことをする組織と税金を取る組織だけになって幕府になってしまったのである。国民みんなが政府の善いサービスだけ利用して政府の税金以外の悪い命令を聞かないようにすることによって、政府を幕府に変えたのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国家機関が国民みんなを支配しているのではなく、国民みんなが国家機関を支配している。国民が国家機関に従わねばならないのではなく、国家機関が国民みんなに従わねばならない。だから、国民みんなは自分の文化を自分で守って、自分が国家機関に従わないようにして、逆に国家機関を自分に従わせるようにして、国家機関を自分に合うように作り変えねばならない。今の国民みんなは世界文化をやっているから、世界文化では善いことを1やって悪いことを0しかやってはいけないから、国民みんなは善いことだけやって悪いことはやってはいけない。だから、国家機関も善いことだけやって悪いことをやってはいけない。今の国民みんなは政府に善いことだけさせて政府に悪いことをさせないようにして、政府の善いサービスだけを利用して、政府の悪い命令を聞いてはいけない。政府に水道や戸籍や教育の代金だけ払って、政府の税金や戦争や国家宗教などの命令を聞いてはいけない。政府の善い政策だけ付き合っていっしょにやって、悪い政策を断ってやってはいけない。国民みんながそうしていれば、いずれは政府の善いことをする組織だけが残って政府の悪いことをする組織がなくなって政府が善いことだけするようになるだろう。政府がいつの間にか世界文化の国家機関に変わるだろう。
特に国民みんなが『道徳のある文化』に変わるときには、国家機関は物分りが悪い。国家機関はなかなか国民みんなと同じ文化をやろうとしない。だから、国民みんなが国家機関の教師になって国家機関に新しい文化を教えてやらねばならない。国民みんなが自分で考えて国家機関にどこまで悪いことをやらせるかを決めて、国家機関に新しい文化でできることとできないことを教えて国家機関を変えていかねばならない。国民みんなは国の最高権力者である。国は国民みんなのものである。国家機関も国民みんなのものである。国家機関は国民みんなのものだから、国民みんなが自分の好きなようにしていい。国民みんなが自分の好きなようにして国家機関を自分の文化に合うように作り変えればいい。国民みんなが国家機関を自分に適合させることによって国家機関を変えればいい。国民みんなが国家機関に積極的に働きかけることによって国家機関を自分の文化に合うように変えればいい。国民みんなが自分で考えて国家機関のサービスを利用したりしなかったり国家機関の命令を聞いたり聞かなかったりして国家機関を自分の都合[つごう]のいいように変えればいいのである。今の国民みんなは世界文化をやっているから、国民みんなが政府の善いサービスだけ利用して悪い命令を聞かないようにして、国民みんなが政府に善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにして、政府を善いことだけをやる国家機関に改造すればいいのである。
国家機関は自分にとって有利な文化に変わるときには喜んで自分から変わるが、自分にとって不利な文化に変わるときには嫌がって自分から変わろうとしない。国家機関は国民みんなのものだから、国民みんなが国家機関を自分の好きなようにしていい。国民みんなが国家機関に働きかけることによって国家機関を変えればいい。国民みんなが自分の文化に合うことだけやって合わないことをやらないようにして、自分の文化に合う国家機関の組織だけ残して自分の文化に合わない国家機関の組織を潰して国家機関を作り変えればいい。国民みんなは国の最高権力者である。国は国民みんなのものである。国は国民みんなが自分の好きなように作ればいい。国は国民みんなが自分で作るものである。国民みんなが自分で考えて国家機関に作用することによって国家機関を国民みんなに合うように作り変えればいいのである。
古代は国民みんながヨーロッパ文化つまり「科学があって数学と道徳がない文化」をやっていたので「道徳のない文化」をやって悪いことをやっていたので、国民みんなが国家機関に悪いことをやらせて、国家機関が国民みんなに命令して税金を取ったり戦争や国家宗教をやらせていた。中世は国民みんながアジア文化つまり「科学がなくて数学と道徳が半分ある文化」をやっていたので「道徳が半分ある文化」をやって悪いことを少しやっていたので、国民みんなが国家機関に少し悪いことをやらせていたので、国家機関が少し悪いことをやって国民みんなに命令して税金を取るだけで戦争や国家宗教をさせなかったのである。近代は国民みんながちょっとの間ヨーロッパ文化をやって古代と同じことをやっていた。現代の今は国民みんなが世界文化つまり『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているので『道徳のある文化』をやって善いことだけやって悪いことをやらないので、国民みんなが国家機関に善いことだけやらせて悪いことをさせなくなって、国家機関が国民に税金も戦争も国家宗教も全部やらせることができなくなったのである。時代がたつにつれて国民みんながだんだん『道徳のある文化』をやるようになったので、国家機関も国民みんなに従って『道徳のある文化』をやらねばならなくなって悪いことができなくなったのである。だから、今の国民みんなは政府の善いサービスだけを利用して、政府の悪い命令を聞かないようにすればいいのである。国民みんなが自分で『道徳のある文化』をやれるようになったから他人に悪いことをやらさなくてもよくなったのである。国民みんなが悪いことをしなくなったから得をするようになったのである。国民みんなにとっては暮らしやすい世の中になったもんだ。
[21906] 今の日本では善いことだけやれて悪いことがやれなくなっている。☆
h27.6.7
国民みんなは国の最高権力者である。国は国民みんなのものである。国民みんなが国を決める。
今の国民みんなは世界文化つまり『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『道徳のある文化』をやっているので善いことだけやって悪いことをやらない。国民みんなが国を決めるから、今の日本では国民みんなは他人に善いことだけやらせて他人に悪いことをやらさなくていいのである。
したがって、今の日本では国民みんなが政府に善いことだけやらせて悪いことをやらさなくていい。国民みんなは政府の水道や戸籍や教育などの善いサービスだけを利用して、税金や戦争や国家宗教などの政府の悪い命令を聞かなくていい。国民みんなは政府の善い政策だけいっしょにやって、政府の悪い政策はいっしょにやらなくていい。
国は国民みんなのものだから、国民みんなが国の決まりを決める。つまり、国民みんなのやることによって国の決まりが決まる。今の日本では国民みんなが善いことだけやって悪いことをやらないから、今の日本では善いことだけやれて悪いことがやれなくなっている。国家機関も善いことだけやれて悪いことがやれなくなっている。だから、政府は善いサービスだけできて、悪い命令ができなくなっている。政府は善い政策だけやれて、悪い政策がやれなくなっている。政府は国民みんなに税金の命令を聞かせられなくなって(つまり政府は国民みんなに税金の命令を出すこと自体はできるが、税金の命令に従わない者を罰することができなくなって)国民みんなから税金を取れなくなって儲[もう]からなくなって世界文化をやる国家機関に変わっている。善いことだけやる貧乏な国家機関に変わっている。それと同じように、暴力団は悪いことがやれなくなって普通の会社に変わっている。宗教団体は悪いことがやれなくなって慈善団体に変わっている。
[21907] 国家機関は国民みんなで作り変えるものである。 h27.6.7
国民みんなは国の最高権力者である。国は国民みんなのものである。国家機関も国民みんなのものである。国民みんなが国家機関をどうしようが国民みんなの勝手である。だから、国民みんなが国家機関を自分の好きなように作り変えればいい。国民みんながプラモデルのように自分の文化に合うように国家機関の要らないところを削[けず]って要るところを付け足して国家機関を改造すればいい。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやって悪いことはやってはいけない。だから、国家機関も善いことだけやって悪いことはやってはいけない。だから、今の国民みんなは政府の善いところだけ許して悪いところを許してはいけない。今の国民みんなは政府の善いところだけ残して悪いところを削らねばならない。今の国民みんなは自由に水道や戸籍や教育などの政府の善いサービスを利用して政府にお金を払って、税金や戦争や国家宗教などの政府の悪い命令を聞いてはいけない。そうやって、国民みんなは政府の善いところを残して、悪いところをなくして、政府を善いところだけにして国民みんなと同じ文化をやる国家機関にしなければならない。
明治維新のときには国民みんなで幕府に戦争と国家宗教をやる組織(パーツ)を付け加えて政府を作った。国民みんなが戦争や国家宗教をやるようにして幕府に戦争や国家宗教をやる組織を付け足したのである。幕府に鉄道や郵便などをやる組織を付け足して政府を作ったのである。一方、今は国民みんなで政府から税金や戦争や国家宗教をやる組織を取り除いて世界文化の国家機関を作らねばならない。国民みんなが税金や戦争や国家宗教をやらないようにして政府から税金や戦争や国家宗教をやる組織を取り除いているのである。国民みんなが鉄道や郵便を利用しなくなって政府から鉄道や郵便をやる組織を取り除いたように、国民みんなが税金や戦争や国家宗教をやらなくなって政府から税金や戦争や国家宗教をやる組織を取り除かねばならない。
[21908] 国民みんなが政府に悪いことをやらさなければ政府は悪いことがやれない。☆
h27.6.7
国は文化的に統一されていなければならない。国の中に違う文化をやる者がいてはいけない。たとえ外人であっても日本に来たら、日本人と同じ文化をやらねばならない。勝手に自分の国の文化をやってはいけない。
今の国民みんなは新しい『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。一方、政府は古い「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。今の日本では国民みんなと政府が違う文化をやっている。国は国民みんなのものだから、国民みんなが国の文化を決める。だから、国民みんなは国家機関に自分と同じ文化をやらさなければならない。国民みんなは国の最高権力者だから、国家機関は国民みんなに従わねばならないから、国民みんなが国家機関に自分と同じ文化をやらせても国家機関は国民みんなに文句が言えない。(一般に、国民が国民みんなの総意に適[かな]っていれば何でもやっていい。)新しい文化ではみんなが善いことだけやって悪いことをやってはいけない。だから、国民みんなは政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせてはいけない。国民みんなは政府の水道や戸籍や教育だけ利用して政府の税金や戦争や国家宗教の命令を聞かないようにして、政府に水道や戸籍や教育だけやらせて政府に税金や戦争や国家宗教などをやらせてはいけない。そうやって、政府の水道や戸籍や教育をやる組織だけ残して、政府の税金や戦争や国家宗教をやる組織を消さねばならない。国民みんなは政府の善い政策だけ協力してやって悪い政策を拒否してやらないようにして、政府に善い政策だけやらせて悪い政策をやらせてはいけない。そうやって、国民みんなは政府の善いところだけを残して悪いところをなくして、政府を新しい文化の国家機関に変えねばならない。
国は国民みんなのものである。国家機関は国民みんなのものである。国民みんなにとっては国家機関はただの物であり、自分の好き放題にすればいいのである。だから、国民みんなが自分で国家機関を作り変えて自分に合った国家機関にしなければならない。今の国民みんなは国家機関の言いなりにならず、国家機関をほったらかしにせず、もっと国家機関に積極的に働きかけて国民みんなに国家機関を従わせて国家機関を国民みんなと同じ文化をやるように変えねばならない。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなのほうが政府よりもはるかに強い。国民みんなにとっては政府は戦う相手にならない。最初から国民みんなの勝ちである。だから、国民みんなは自分の好き勝手にして、自分に政府を従わせればいい。国民みんなは政府に国民みんなに従うことだけさせて、国民みんなに反することをさせないようにして、政府を国民みんなに従わせて、政府を飼い慣らせばいいのである。人間が牛や馬を改良するように、国民みんなが政府を国民みんなと同じ文化をやる国家機関に変えてしまえばいいのである。
政府は国家機関である。そもそも国家機関は国民みんなのために善い仕事をする団体である。もっとも、昔は国民みんなが「道徳のない文化」をやっていたために、国家機関がオマケで悪いことをやっていた。政府が国民みんなのために鉄道や郵便や水道や戸籍や教育などの事業をする傍[かたわ]ら、国民みんなに命令して高い税金を取ったり戦争や国家宗教をやらせて国民を殺したりしていたのである。しかし、今は国民みんなが『道徳のある文化』をやっているために、国家機関がオマケで悪いことができなくなった。国家機関は国民みんなのために善いことしかやれなくなった。ようやく国家機関はその本性[ほんしょう]を現すようになったのである。
[21909] 今の国民みんなは政府が自分と同じ文化をやるように躾[しつ]けている。
h27.6.7
昔はクーラーもテレビもなく電気もガスもなくて、昔の人は生きるのが精一杯で自分の幸福について真剣に考える気にはならなかった。自分の文化について考える余裕なんかなかった。そのため、昔の日本ではみんなが投げやりに「とにかく繁栄している国を真似[まね]ればいい」と考えて、やみくもに繁栄している国の文化を取り入れていた。
しかし、今ではいろんな便利な発明品が出来てみんなが幸福に暮らせるようになって、今の人は自分の幸福について真剣に考える気になって、自分が幸福になるために自分の文化について考えるようになっている。
今では『文化の科学』が出来て、『国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやれば幸福に暮らせる』ことがわかっている。
だから、今では実際に国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。それはすでに決まったことだから変えられない。
問題は今の国民みんなが政府をどうするかである。政府は昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。今では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』に変わったのに、政府は今でも昔と同じ「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。国民みんなは善いことだけやって悪いことをやらなくなったのに、政府はあいかわらず善いことと悪いことの両方をやっている。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが政府を支配している。国民みんなが政府を自分の好きなようにしていい。国民みんなは政府(つまり国家機関)に自分と同じ文化をやらさねばならない。国民みんなは政府が自分と同じ文化をやるように躾[しつ]けねばならない。そのため、今の国民みんなは政府に国民みんなに従うことだけさせて、国民みんなに反することをさせないようにして政府を飼い慣らして政府を国民みんなに従わせている。国民みんなが政府の水道や戸籍や教育などの善いサービスだけを利用して、政府の税金や戦争や国家宗教などの悪い命令を聞かないようにして、政府に国民みんなと同じ文化をやらせている。政府が国民みんなと同じ文化をやるように仕向けている。
今はまだ政府はわがままに古い文化をやっているが、そのうち国民みんなと同じ新しい文化をやるようになるだろう。その日まで国民みんなは政府の躾を怠[おこた]ってはいけない。
[21910] 今の国民みんなは国を善いことだけにして国から悪いことをなくさねばならない。
h27.6.7
国民みんなは国の最高権力者である。国の文化は国民みんなが決める。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやることに決めている。だから、国民も国家機関も『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやって悪いことをやってはいけない。だから、今の国民みんなは善いことだけやって悪いことをやっていない。
ところが、今の国家機関(政府のこと)は昔の「科学と数学だけあって道徳のない文化」をやっている。「科学と数学だけあって道徳のない文化」では善いことと悪いことの両方やれる。だから、今の国家機関は水道や戸籍や教育などの善い事業のほかに、国民に税金や戦争や国家宗教などの命令を出して悪いことをやっている。今の国家機関は善い政策のほかに悪い政策をやっている。
国民みんなは国の最高権力者である。国のことは国民みんなが決める。国民みんなが政府に悪いことをさせるかさせないかは国民みんなの自由である。国民みんなが政府に善いことをさせるかさせないかも国民みんなの自由である。
今では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、国家機関は善いことだけやって悪いことをやってはいけない。だから、今の国民みんなは国家機関に善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにしている。今の国民みんなは国家機関の善い仕事だけ利用して、悪い命令を聞かないようにしている。今の国民みんなは政府の水道や戸籍や教育などの仕事だけ利用して、税金や戦争や国家宗教をやらないようにしている。今の国民みんなは政府が善い政策をやるときには協力して悪い政策をやるときには無視して、政府に善い政策だけやらせて悪い政策をやらさないようにしている。
国家機関は国民みんなと同じ文化をやらねばならない。それが国の決まりである。できれば、今の国民みんなは政府に上がりこんで悪いことをやる組織を自分の手で潰[つぶ]したいところだが、そんなことはできないからその代わりに政府の悪い命令を聞かないようにして政府に悪いことをやらさないようにしているのである。
国は国民みんなのものである。国は国民みんなが作る。今の日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国だから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやって悪いことをやってはいけないから、国民みんなは国を善いことだけにして国から悪いことをなくさねばならない。国民みんなは政府に善いことだけさせて悪いことをさせないようにして、国から悪いことをなくさなければならない。
昔の日本では国民みんなが「科学と数学だけあって道徳のない文化」をやっていたから、昔の日本は「科学と数学だけあって道徳のない文化」の国だったから、「科学と数学だけあって道徳のない文化」では善いことと悪いことの両方やれたから、国民みんなは国を善いことと悪いことの両方あるようにするために、政府や暴力団や宗教団体などの悪い命令を聞いていたのである。反対に、今の日本では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、今の日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国だから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやって悪いことをやってはいけないから、国民みんなは国に善いことだけあって悪いことがないようにするために、政府や暴力団や宗教団体などの悪い命令を聞かなくなっているのである。
実際に、今の国民みんなはすでにそうしている。私は国民みんなに命令しているのではなく、国民みんながやっていることを書いているだけである。今の国民みんなは政府の善いサービスだけ利用して、政府に税金を払わないようにしている。そのために、政府の善いサービスをやる組織は残っているが、政府の税金を取る組織はかなり潰れている。国家機関は国民みんなで作るものである。店は客で作るものである。だから、今の国民みんなは国家機関を自分の好きなように利用して、自分に合った国家機関にしているのである。
[21911] お客様は神様です。 h27.6.7
最近の国民みんなはマンガをよく読む。だから、最近の本屋はマンガのコーナーを広げて、難しい学術書のコーナーを狭[せば]めている。最近の国民みんながマンガをよく読むから、本屋は国民みんなに合わせて国民みんなに従ってマンガの本をたくさん売ってほかの本を売らないようにしているのである。
消費者のニーズによって店が変わる。消費者の嗜好[しこう]が店を変える。
それと同じように、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、善いことをやって悪いことをやらなくなっている。今の国民みんなは善いことが欲しくて悪いことが欲しくなくなっている。
そのために、今の国民みんなは政府の善いサービスだけ利用して、政府の悪い命令を聞かなくなっている。今の国民みんなは政府の善い政策だけいっしょにやって、悪い政策は無視してやらなくなっている。
国民みんなは国の最高権力者だから、国民みんなが政府のやっていることを選んで取捨選択して政府を使えばいいのである。国家機関にとっては国民みんなは客だから、『お客様は神様』だから、国家機関は国民みんなに合わせて自分がやるサービスを決めるから、国民みんなが政府のやっていることを選んで使ったり使わなかったりすればいいのである。
昔の国民みんなは「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていたから、「科学と数学があって道徳がない文化」では善いことと悪いことの両方やれるから、昔の国民みんなは善いことと悪いことの両方とも欲しかったから、政府の善いサービスを利用する傍[かたわ]ら政府の悪い命令を聞いて満足していたのである。昔の国民みんなが悪いことを欲しかったから、政府は悪いことをする組織を増やして善いことをする組織を減らして国民みんなのニーズに対応していたのである。昔の国民みんなは自分で悪いことをやって、国家機関にも自分と同じように悪いことをさせて喜んでいたのである。だから、政府(国家機関)は悪いことをやるコーナーを広げて国民みんなにいろんな悪いことをやっていたのである。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやって悪いことをやってはいけないから、今の国民みんなは善いことだけ欲しくて悪いことが要らないから、政府の善いサービスだけ利用して政府の悪い命令を聞かなくなっているのである。政府の善い政策だけ付き合ってやって、政府の悪い政策は断ってやらないのである。今の国民みんなは悪いことが欲しくないから、政府は悪いことをやる組織を減らして善いことをする組織を増やして国民みんなのニーズに対応しているのである。今の国民みんなは自分で善いことだけやって悪いことはやらないようにして、国家機関にも自分と同じように善いことだけやって悪いことをやらないようにさせて喜んでいるのである。だから、政府は善いことをやるコーナーを広げて悪いことをやるコーナーを狭めて国民みんなに善いことをやって悪いことをやらなくなっているのである。
国民みんなは国の最高権力者だから、国民みんなが国で一番偉いから、国民みんなが自分で政府の使い方を決めればいいのである。国家機関にとっては国民みんなは客だから神様だから、国家機関は国民みんなのニーズに対応して自分のやることを変える。だから、国民みんなは自分の心に正直にして政府を利用すればいいのである。政府の要るサービスだけを利用して、政府の要らないサービスを利用しなければいいのである。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、善いことは欲しいが悪いことは欲しくない。だから、今の国民みんなは水道や戸籍や教育などのサービスだけ利用して、政府の“税金や戦争や国家宗教などの悪い命令を出すサービス”を利用しなければいいのである。今の国民みんなが政府に税金を払わなければ、政府も国民みんなに合わせて国民みんなに従って国民みんなから税金を取らなくなるから、今の国民みんなは政府に税金を払わなければいいのである。税金は強盗だから悪いことである。いくら政府が強盗したお金で善いことをやっても強盗するのは悪いことである。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから善いことが好きで悪いことが嫌いである。だから、今の国民みんなは政府に税金を払わなければいいのである。今の国民みんなが政府に税金を払わなければ、政府はほかのお金の取り方を考えるから、政府は契約制の中でお金を取るようにするから、国民みんなは政府に税金を払わなければいいのである。実際に、今の国民みんなは私に言われなくてもすでにそうしている。だから、政府は国民みんなから税金を取らなくなって契約制で国民みんなからお金を取る方向に変わっているのである。
最近の国民みんなはテレビやゲームの見すぎで眼で見ることしかわからなくなって頭で考えることがわからなくなっている。そのために、最近の国民みんなは字がわからず絵しかわからないからマンガをよく読むのである。しかし、人間から頭で考えることを取ったら生きる価値がない。眼で見ることしかわからないのは白痴[はくち]である。だから、国民みんなはテレビやゲームを見るのをやめるべきである。国民みんなはもっと字の本を読まねばならない。そうすれば、頭で考えることがわかって眼で見ることがわからなくなって、頭がよくなって実在が見えて正しいことがやれるようになって日本の景気がよくなるだろう。
[21912] 今の国民みんなは自分で国家機関のサービスを選んで利用している。
h27.6.7
政府は国家機関である。国家機関は国民みんなのために仕事をする団体である。
政府は昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。政府は善いサービスと悪いサービスの両方やっている。政府は水道や戸籍や教育などの善い仕事をやる一方で、税金や戦争や国家宗教などの悪い命令を出している。どちらも政府のサービスである。世の中には善い仕事だけではなく“悪い仕事”もある。政府は善い仕事と“悪い仕事”の両方やっている。
国民みんなは国の最高権力者である。だから、国民みんなは自分の好き放題にやることができる。国家機関よりも国民みんなのほうが上だから、国民みんなが国家機関のサービスを選んで利用することができる。時代によって国民みんなのニーズが変わる。
昔の国民みんなは「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていた。昔の国民みんなは善いことと悪いことの両方とも欲しかった。昔の国民みんなは自分が悪いことをするのが好きだったが、他人に悪いことをされるのも好きだった。そのため、昔の国民みんなは政府の善いサービスと悪いサービスの両方とも利用していた。政府は“国民から税金を取る仕事”をやって儲[もう]かっていた。政府は“国民に戦争をさせる仕事”や“国民に国家宗教をやらせる仕事”をやって日本が物騒[ぶっそう]だった。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある仕事』をやっている。今の国民みんなは善いことだけ欲しくて悪いことが欲しくない。今の国民みんなは自分が悪いことをするのが嫌[いや]だが、他人に悪いことをされるのも嫌である。そのため、今の国民みんなは政府の善いサービスだけ利用して、悪いサービスを利用しなくなっている。政府は“国民から税金を取る仕事”がやれなくなって儲からなくなっている。政府は“国民に戦争をさせる仕事”や“国民に国家宗教をやらせる仕事”がやれなくなって日本が平和になっている。今の政府は水道や戸籍や教育などでほそぼそと儲けているだけである。
それが今の社会の真相である。テレビや新聞で言っているのは嘘[うそ]である。今の国民みんなはテレビやゲームの見すぎで眼で見ることしかわからなくなっているのでテレビや新聞の嘘に騙[だま]されやすくなっている。テレビ局や新聞社は退屈なので国民みんなに嘘をついて国民みんなをからかって遊んでいるのである。国民みんなはテレビや新聞に弄[もてあそ]ばれてはいけない。テレビ局や新聞社はお金が儲かりさえすればいいのだから、他人からお金をもらえば平気で嘘のニュースを流すのである。本当のニュースを流さないのである。国民みんなはテレビ局や新聞社の金儲けの犠牲[ぎせい]になってはいけない。
眼で見ても『地球が太陽の周[まわ]りを回っている』ことはわからない。それと同じように、眼で見ても『今の国民みんなが政府に税金を払っていない』ことはわからない。しかし、頭でよく考えると『地球が太陽の周りを回っている』ことがわかる。それと同じように、頭でよく考えると『今の国民みんなが政府に税金を払っていない』ことがわかる。だから、今の国民は国民みんなに従って政府に税金を払わなければいいのである。『今の国民みんなが政府に税金を払っていない』ことは眼で見えない。眼で見えないことは頭で考えなければわからない。眼で見てわからないことは頭で考えてわかればいい。だから、みんなは自分の頭で考えて『今の国民みんなが政府に税金を払っていない』ことを理解してそうすればいいのである。
『国民みんなが国の最高権力者である』ことは、現実の社会を理解するための原理である。『国民みんなが国の最高権力者である』と考えれば現実の社会がわかる。眼で見なくても頭で考えるだけで現実の社会がわかるのである。『国民みんなが国の最高権力者である』ことは正しいから、『国民みんなが国の最高権力者である』ことに基づいて考えれば現実の社会と合うのである。『ニュートンの運動方程式』は正しいから『ニュートンの運動方程式』に基づいて考えれば現実の自然現象と合うのと同じことである。だから、みんなは『国民みんなが国の最高権力者である』ことに基づいて考えて、その結果を信じればいいのである。
[21913] 政府は抱き合わせ商法が利[き]かない。 h27.6.8
政府は「科学と数学があって道徳がない文化」をやる国家機関である。国家機関は国民みんなのために仕事をする。「科学と数学があって道徳がない文化」では善いことと悪いことの両方やれる。だから、政府は国民みんなのために善い仕事と悪い仕事の両方をやっている。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなのほうが政府よりも上である。だから、政府は抱き合わせ商法が利かない。政府は善いことから悪いことまでいろんなサービスをやっているが、国民みんなが政府のサービスを選んで利用すればいいのである。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは善いことが好きで悪いことが嫌いである。だから、今の国民みんなは政府の善いサービスだけ利用して、悪いサービスを利用しなくなっている。今の国民みんなは政府の水道や戸籍や教育などのサービスだけを利用して、政府の税金や戦争や国家宗教の命令を利用しなくなっている。そのために、今の政府は国民みんなから税金を取れず貧乏になっている。今の政府は水道や戸籍や教育などでほそぼそと儲[もう]けているだけである。
政府は今の国民みんなにウケる善いサービスを考え出せば売れるだろう。儲かるだろう。だから、そうすればいい。
今では国民みんなが「道徳のない文化」をやらなくなって税金(つまり強盗)がなくなっているから、大きい民間会社と国家機関の違いはない。国家機関は民間会社のひとつである。だから、国家機関は民間会社と競争して仕事をしなければならない。
[21914] 今の日本ではみんなが善いことだけやって悪いことをやってはいけない。☆
h27.6.8
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。国民みんなが国の決まりを決める。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国である。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことはやってもいいが悪いことはやってはいけない。だから、今の日本ではみんなが善いことだけやって悪いことはやってはいけなくなっている。
政府は「科学と数学があって道徳がない文化」をやる国家機関である。政府は善いことと悪いことの両方をやっている。ところが、今の日本では善いことはやれるが悪いことはやってはいけない。だから、政府は善いことはできるが悪いことはできない。そのため、今の国民みんなは政府の善いことをやらせるだけで、政府に悪いことをやらせなくなっている。
税金は強盗である。税金は悪いことである。だから、今の国民みんなは政府に税金を取らせなくなっている。今の政府は国民みんなから税金を取れなくなって儲[もう]からなくなっている。今の政府は水道や戸籍や教育などでほそぼそと儲けているだけの貧乏会社である。[昔は国民みんなが「道徳のない文化」をやっていたから、政府が悪いことができたから政府が税金を取れた(強盗ができた)のである。反対に、今は国民みんなが『道徳のある文化』をやっているから、政府が悪いことができないから政府が税金を取れなくなった(強盗ができなくなった)のである。]
今でも馬鹿な国民がいる。馬鹿な国民はいまだに政府に悪いことをやらせて政府の悪い命令を聞いて政府に税金を払ったり国家宗教をやったりしている。馬鹿な国民は政府の命令で国家宗教で事件や事故を起こしてテレビや新聞をにぎわせている。国民みんなの笑い者になっている。
[21915] 今の国民みんなは何をやっているのか?☆☆ h27.6.8
今の国民みんなは『科学や数学や道徳のすべてがある文化』をやっている。今の国民みんなは善いことだけやって悪いことをやっていない。
ところが、政府は昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。政府は善いことと悪いことの両方やっている。政府は水道や戸籍や教育などの善い仕事をやる一方で、税金や戦争や国家宗教などの悪い命令を出している。政府は善い政策をやる一方で、悪い政策もやっている。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。だから、今の日本では善いことだけやって悪いことをやってはいけない。
だから、今の国民みんなは政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせなくなっている。今の国民みんなは政府の善い仕事だけ利用して、悪い命令を聞かなくなっている。今の国民みんなは政府に税金を取らせなくなっている。今の国民みんなは政府の善い政策は協力してやっているが、悪い政策は断ってやっていない。
そのため、今の政府は水道や戸籍や教育などの仕事をやってほそぼそと儲[もう]けているだけの貧乏会社になっている。今の政府は民間会社と同じである。
政府は国家機関である。国家機関は時代とともに変わっていく。国家機関は国民みんなの文化とともに変わっていく。『政府は永遠に不滅です』とか『不沈空母』とかいうように国家機関は時代とともに変わるだけでけっして潰れることがない。今でも政府(国家機関)は潰[つぶ]れていないから、公務員をやりたい人はやればいい。ただし、今の政府は国民みんなから税金を取れないから昔のように儲かっていない。それでも公務員をやりたい人はやればいい。
[21916] どうして政府や暴力団や宗教団体は悪いことをやっているのか?☆ h27.6.8
今の日本では政府や暴力団や宗教団体が悪いことをやっている。
それは、昔の国民みんなが悪いことをやっていたからである。昔の国民みんなはヨーロッパを真似[まね]て「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていた。昔の国民みんなは「道徳のない文化」をやっていたから、善いことと悪いことの両方をやっていた。国民みんなが国の最高権力者だから、国民みんなが国のことを決める。だから、昔の日本では善いことと悪いことの両方をやってよかった。そのために、国家機関や暴力団や宗教団体も善いことと悪いことをやっていたのである。国家機関や暴力団や宗教団体が国民みんなに混じって国民みんなといっしょに善いことと悪いことの両方やっていたのである。
ところが、戦後に国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになった。戦後の国民みんなは『道徳のある文化』をやっているから、善いことだけやって悪いことをやらなくなった。国民みんなは国の最高権力者だから、国民みんなが国のことを決める。だから、戦後の日本では善いことだけやって悪いことをやってはいけなくなった。そのために、暴力団や宗教団体の多くは善いことだけやって悪いことをやらなくなった。暴力団や宗教団体の多くは国民みんなに混じって国民みんなといっしょに善いことだけやって悪いことをやらなくなったのである。
しかし、国家機関やいくつかの暴力団や宗教団体は国民みんなといっしょに新しい文化に変わらず昔の文化をやり続けた。だから、今でも国家機関やいくつかの暴力団や宗教団体は悪いことをやっているのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国のことを決める。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから『道徳のある文化』をやっているから善いことだけやって悪いことをやっていない。だから、今の日本では善いことだけやって悪いことをやってはいけない。だから、今の国民みんなが国家機関や暴力団や宗教団体に善いことだけやらせて悪いことをやらさなければいいのである。今の国民みんなは国家機関(政府のこと)や暴力団や宗教団体に善い仕事だけやらせて、強盗や脅迫や殺人などの悪いことをやらさなければいいのである。そうやって、国民みんなで国家機関や暴力団や宗教団体を“善いことだけやって悪いことをやらない団体”に変えて行けばいいのである。つまり、国家機関や暴力団や宗教団体に悪いことをさせていたのも善いことをさせているのも国民みんななのである。国民みんなが国家機関や暴力団や宗教団体を善い者にも悪者にも変えるのである。国民みんなが国のことを決めるのである。
昔の政府は米の管理をやっていた。おかげで日本中で国民みんなが美味[おい]しいお米を食べることができた。政府は昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっているから「道徳のない文化」をやっているから、善いことと悪いことの両方をやる。政府は国民みんなのために善いことをやっているから米の管理をやって国民みんなが美味しいお米を食べれるようにしてくれていたのである。政府には善いことをする組織と悪いことをする組織の両方がある。政府の中の“お米を管理する組織”を残しておけば今でも国民みんなは美味しいお米を食べられたのである。消費者は多少高くても美味しいお米を買うから、お米に必要経費を上乗せすれば“米を管理する組織”は運営できたはずである。国民みんなが政府を一括[ひとくく]りにして悪いことをする団体だと考えて政府全部を潰[つぶ]そうとするからいけないのである。政府の善いことをする組織を残して悪いことをする組織を潰さねばならない。
[21917] 今の政府は契約制で国民からお金を取らねばならない。 h27.6.9
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『道徳のある文化』をやっているから、善いことだけやって悪いことをやらなくなっている。そのため、今の日本ではみんなが善いことだけやって悪いことをやってはいけなくなっている。
税金制は強盗にほかならないから悪いことである。契約制は『人間がみな平等である』ことが守られているから善いことである。
だから、今の国民みんなは政府に税金を取らさなくなっている。政府に税金を払わなくなっている。
政府が国民からお金を取りたければ、税金制ではなく契約制でやらねばならない。政府は国民と自由に契約を取って国民からお金をもらって国民に仕事をしなければならない。政府は自分の仕事を明確化して国民にはっきりわかるようにして国民と契約を取って仕事ができるようにしないといけない。
政府がそれで仕事ができなければ仕事をやらなくていい。法律や政策ができなければやらなくていい。国民みんなは『道徳のある文化』を守るためなら多少不幸になってもいい。戦争に比べたら楽なもんだ。いっそのこと政府が潰[つぶ]れてなくなってもいい。昔の国民みんなは自分の文化のために戦争をやった。だから、今の国民みんなも自分の文化のために多少の不幸は我慢[がまん]しないといけない。幸せなことばかりあると思うのは甘い。多少の不幸を我慢してこそ本当の幸せにありつけるのだ。
[21918] 今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守っているか?
h27.6.9
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『道徳のある文化』をやっている。だから、今の国民みんなは善いことだけやって悪いことをやらないようにしている。
『科学と数学と道徳の全部がある文化』では、人間が頭で考えて実在を知り、自分の心を実在に従わせて実在の中で自分の心を満足しないといけない。要するに、人間は正しいことを理解して正しいことをやらねばならない。それ以外にはない。
ところが、今の国民みんなはテレビやゲームを見すぎて眼で見ることがわかるだけで頭で考えることがわからなくなって現象にとらわれて実在を見失っている。今の国民みんなは頭で考えなくなっている。今の国民みんなは自分の見かけだけ気にして自分の考えを正しくしなくなっている。今の国民みんなは「科学と道徳があって数学がない文化」をやっている。このままでは中国のような論理がないわけがわからない国になってしまう。
今の国民みんなは自分が決めた文化を自分で守っていない。これではいけない。今の国民みんなはテレビやゲームを見るのをやめてもっと本を読んだり自分で考えたことを書いたりして自分の頭を鍛[きた]えて自分の頭で考えて物を見るようにして自分の頭で考えて正しいことをやるようにして『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。
人間には“考える喜び”がある。テレビやゲームは人間の‘見る喜び’を満足するだけで“考える喜び”を満足しない。人間にとっては‘見る喜び’よりも“考える喜び”のほうが強い。だから、人間は‘眼で見る喜び’を満足するために“頭で考える喜び”が満足できなくなってはいけない。それが道徳というものだ。電気屋やパソコンショップが客につまらないテレビやゲームを売りつけて儲[もう]けるために嘘[うそ]をついて「テレビやゲームが面白い」と言っているだけである。だから、国民みんなはさっそくテレビやゲームをやめて、本を読んだり自分が考えたことを書いたりしたほうがいい。そのほうが幸せに暮らすことができる。
[21919] どうして医療保険制度や消費税があるのか? h27.6.9
医療保険制度では、政府が国民みんなと医者の間に入って、政府が国民みんなからたくさんお金を取って医者にほんのちょっとだけお金をやって残ったお金を全部自分のものにして儲[もう]けている。
消費税では、政府が国民みんなと商人の間に入ってお金を取っている。
昔から医者は馬鹿の代表である。医者は馬鹿だからつまらない勉強ばかりやってテストでいい点を取れるのである。試験勉強は簡単だから馬鹿ほどいい点が取れるのである。試験勉強は眼で見たことを憶えることが中心だから、医者は馬鹿だから眼で見えることしかわからないから試験でいい点が取れるのである。医者は馬鹿だから騙[だま]しやすい。だから、政府は医療保険制度を設けて医者に最初のいっときたくさんお金をやって医者に「医療保険制度は儲かる」と思わせて、その後で医者に少しだけしかお金をやらなくなって医者の儲けを横取りして医者を貧乏にしているのである。まさに『朝三暮四』である。
商人は自分が製造者と消費者の間に入ってお金を取っているから、政府が消費者と自分の間に入ってお金を取っても文句が言えないから、おとなしく政府に消費税を取らしている。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。国の決まりは国民みんなが決めるのであって、政府が決めるのではない。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。そのため、今の日本では善いことだけやって悪いことをやってはいけない。医療保険制度は政府が医者の儲けを横取りすることだから悪いことである。消費税は政府が国民みんなと商人の間に入って余計なお金を取ることだから悪いことである。医療保険制度も消費税も悪いことである。だから、今の国民みんなは政府に医療保険や消費税をやらさないようにしている。今の国民みんなは医療保険に入らず、消費税を払わないようにしている。そうやって国民みんなで日本を善い国にしている。(実際に、今の私は医療保険に入っていない。私は半年前ぐらいからコンビニで医療保険費を払わないようにして国民健康保険をやめている。私は医療保険制度そのものには反対ではないが、政府が悪いことをやるためにやっているのでやめたのである。おかげで将来私が病気になったら私は医者に診てもらえず自分で首をくくらなければならない。私は自分の国の文化を守るためなら喜んで首をくくってもいい。しかし、私は消費税を払っている。私はスーパーやコンビニのレジでいちいち店員に消費税を払うのを断るのが面倒臭くて恥ずかしいから消費税を払っているのである。)
[21920] 国民みんなが国を決める。☆ h27.6.9
国民みんなは国の最高権力者である。だから、国民みんなが国の決まりを決める。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では善いことだけやれて悪いことがやれない。だから、今の国民みんなは善いことだけやって悪いことをやらなくなっている。今の日本では善いことだけやれて悪いことがやれなくなっている。
一方、政府は「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。「科学と数学があって道徳がない文化」では善いことも悪いことも両方やれる。だから、政府は善いことと悪いことの両方やっている。政府は国民みんなのために水道や戸籍や教育などの善いことをやっているが、その一方で国民みんなに税金や戦争や国家宗教などの命令を出して悪いことをやっている。政府は善い政策をやっているが、その一方で悪い政策もやっている。
国民みんなが国を決めるから、今の国民みんなは政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせなくなっている。国民みんなは水道や戸籍や教育などを利用するだけで、政府の命令を聞いて税金や戦争や国家宗教をやらなくなっている。国民みんなは政府の善い政策をやるだけで、政府の悪い政策をやらなくなっている。
今の国民みんなは自分で考えて善いことか悪いことかを区別して、政府に善いことをやらせて悪いことをやらさなくなっている。国民みんなは『医療保険や消費税は悪いことだ』と考えて、政府に医療保険や消費税をやらさなくなっている。国民みんなは政府の医療保険に入らないようにして、消費税を払わなくなっている。
そのため、今の政府は国民みんなから税金が取れなくなって儲[もう]からなくなっている。今の政府は水道や戸籍や教育などでほそぼそと儲けているだけの貧乏会社である。
国民みんなが国を決めるから、今の国民みんなは暴力団や宗教団体に善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにしている。暴力団や宗教団体は悪いことがやれなくなって儲[もう]からなくなっている。今の日本の治安は国民みんなが守っている。
国民みんなが国を決める。戦後に国民みんなが新しい文化に変えたから国が変わっているのである。
今の政府は国民みんなから税金が取れなくなっていろんなことがやれなくなっている。鉄道や郵便や教育や法律などがやれなくなっている。だから、国民みんなが政府の代わりに政府がやっていたことをやらねばならない。国民みんなが自分でちゃんと『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって、自分でやるべきこととやってはいけないことを考えて、みんなにやるべきことをさせてみんなにやってはいけないことをさせないようにして、日本を『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国にしないといけない。
今の日本では国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では、人間は頭で考えて実在を知り、自分の心を実在に従わせて実在の中で自分の心を満足しなければならない。人間は自分の見かけをよくするよりも、自分の考えを正しくしないといけない。人間は科学をやって文学をやってはいけない。つまり、人間は実在について考えて実在以外のことを考えてはいけない。ところが、今の日本人の多くはヨーロッパの「科学があって数学や道徳がない文化」をやったり中国の「科学や数学がなくて道徳がある文化」をやったりしている。今の日本人の多くは自分の見かけをよくすることばかりやって自分の考えを正しくしていない。作り話ばっかり見たり聞いたりしてフニャフニャして実在について考えていない。今の日本では国民みんなの文化が乱れている。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』が具体的に何であるかを考えて、自分でちゃんと『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守って暮らさねばならない。今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守らせて善いことだけさせて悪いことをさせないだけでなく、自分自身にも『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守らせて善いことをやって悪いことをやってはいけない。今の日本では一見[いっけん]政府や暴力団や宗教団体が潰[つぶ]れていないように見えるから、今の国民の多くは「今の国民みんなはヨーロッパ文化や中国文化に変えたんだ」と思って自分もヨーロッパ文化や中国文化をやっているのである。しかし、本当は政府や暴力団や宗教団体は潰れている。国民みんなが政府や暴力団や宗教団体に善いことだけさせて悪いことをさせないようにして、政府や暴力団や宗教団体を善い団体に変えている。今の国民みんなはちゃんと『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。眼で見えることをギャアギャア言うのは馬鹿である。最近の人間が馬鹿化しているからである。
昔の日本では国民みんなは「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていたから、自分の好き嫌いにかかわらず自分が悪いことをやって政府の命令で税金や戦争や国家宗教などをやっていた。今の日本では国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、自分の好き嫌いにかかわらず自分で善いことをやって政府の命令を聞かないようにして税金や戦争や国家宗教をやってはいけない。
[21921] テレビについて h27.6.10
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。ところが、テレビ局は『科学と数学と道徳の全部がある文化』を無視して、自分勝手に『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反する番組をたくさん作って流している。テレビは作り事の安っぽいドラマやフニャフニャした安っぽい面白さのバラエティ番組をたくさん作って流している。テレビを見ると気分がシラける。今のテレビ局は『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反している。だから、今の国民みんなはなるべくテレビを見ないようにしてテレビ局に金が回らないようにしてテレビ局を潰[つぶ]さねばならない。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では人間は実在の世界の中で楽しまねばならない。人間が現象の世界で楽しんだり空想の世界で楽しんではいけない。現象の喜びは「科学があって数学や道徳がない文化」の喜びつまり五感の喜び・眼で見る喜びである。空想の喜びは「科学や数学がなく道徳がある文化」の喜びつまり心の喜び・心で思う喜びである。テレビ文化は現象の喜びや空想の喜びばっかりである。だから、今の国民みんなにとってはテレビが面白くないのである。今の国民みんなはテレビを見ると不愉快[ふゆかい]になるからテレビを見てはいけない。今の国民みんなは自然の中に踏み込んで身体全体で楽しまねばならない。あるいは、実在について他人から学んだり自分で考えたりして知的好奇心を満足して喜ばねばならない。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、今の日本ではみんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』に適[かな]っていることだけやって『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反することをやってはいけない。今の国民みんなはテレビ局の『科学と数学と道徳の全部がある文化』に適っている番組だけを見て、『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反する番組を見てはいけない。つまり、ドキュメンタリーや旅やスポーツ番組だけ見て、ドラマやバラエティーやアニメ番組を見てはいけない。そうやって、今の国民みんなでテレビ局に『科学と数学と道徳の全部がある文化』に適っている番組だけ作らせるようにしないといけない。今の国民みんなで日本を『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国にしないといけない。
私が言うまでもなく、今ではすでに国民みんながそうしている。今の国民みんなはあまりテレビを見なくなっている。テレビ以外のことをやって遊んでいる。たとえテレビを見るにしても、ドキュメンタリーや旅やスポーツだけ見て、ドラマやバラエティーやアニメを見なくなっている。今の国民みんなが政府に善いことだけやらせて悪いことはやらせないようにしているように、今の国民みんなは善い番組だけ見て悪い番組を見ないようにしている。だから、最近のドラマやバラエティーやアニメは金回りが悪くて予算が少なくて手抜きで面白くないのである。私には国民みんなに命令する資格はない。私は今の国民みんながやっていることを理解したまでである。
『国民みんなが国の最高権力者である』ことは社会学の原理である。ニュートンの運動の3原理(慣性の法則、ニュートンの運動方程式、作用反作用の法則)のようなものである。一方、『今の日本では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている』ことは今の日本人の特性である。ニュートンの万有引力の法則のようなものである。万有引力の法則がわかれば惑星の動きが理解できるように、『今の日本では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている』ことがわかれば今の日本人がやっていることを理解できるのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民は国民みんなに従わねばならない。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、国民は国民みんなに従って『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。それだけではなく、国民は他人に『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらさなければならない。例えば、親が自分の子供に国民みんなの文化をやらさねばならない。そうやって、国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようにしなければならない。
『科学と数学と道徳の全部がある文化』とは、早い話、近代のヨーロッパ文化に道徳を付け足したものである。道徳のあるヨーロッパ文化である。「科学と数学があって道徳のない文化」に道徳を足したものである。「科学と数学があって道徳のない文化」では、みんなが実在(自然)の中で遊んで、本を読んで実在についての教養を深めていた。その上に、善悪の区別をつけて善いことをやって悪いことをやらなければいい。近代はみんなが善悪の区別をつけないようにして善いことと悪いことの両方やっていたが、今は善と悪の区別をつけて善いことだけやって悪いことをやってはいけない。他人にも善いことだけやって悪いことをやらないようにさせねばならない。今はそういう時代なのである。
[21922] どうして今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているのか?
h27.6.11
エッチなことや麻薬はいっとき楽しいだけで後で精神病に罹[かか]ってかえって嫌な思いをしなければならなくなる。たとえ精神病に罹らなくても、エッチや麻薬が楽しいだけでほかのことが嫌になって生活全体としてはかえって不幸になる。
そうならないために、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやることに決めているのである。今の国民みんなは自分たちが一番幸福に暮らすために『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやることに決めているのである。
今の国民みんなは自分たちが幸福になるために『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているのである。今の国民みんなは眼で見て頭で考えて実在を知って、自分の心を実在に従わせて実在の中で自分の心を満足して幸福に暮らしているのである。これが『科学と数学と道徳の全部がある文化』における正しい哲学である。
しかし、今でも他[ほか]の文化をやろうとしている者がいる。「科学と数学があって道徳がない文化」をやって自分が悪いことをやめようとせず強盗や脅迫や人殺しなどをやって他人に悪いことをしたり、「科学があって数学や道徳がない文化」をやって自分の頭で何も考えず実在が見えず見掛けだけしかわからなかったり、「科学や数学がなくて道徳だけがある文化」をやって文学ばっかり読んで空想に耽[ふけ]ってフニャフニャして現実逃避したりしている者がいる。そういう者は、国民みんなが不幸に暮らさねばならない国を作ろうとしているのである。そういう者は、自分に道徳や数学や科学の才能がないために『科学と数学と道徳の全部がある文化』では自分が幸せになれないので、自分が幸福になるために国民みんなと違う文化をやろうとしているのである。
人間にとっては幸福が一番大事である。人間が幸福になるためには決まりが必要である。人間が幸福になるためには決まりを決めてそれを守って生きていかねばならない。その決まりが文化なのである。今の国民みんなは自分たちが幸福に暮らすために『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守って生きている。今の国民みんなは他人にも『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守らせて生きている。そうやって国民みんなが幸福に暮らせる国を作っているのである。
自分がどうしても『科学と数学と道徳の全部がある文化』で幸福に暮らせない者は、日本から出て行って幸福に暮らせばいい。今の日本では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやることに決めているから、自分ひとりだけ違う文化をやるわけにはいかない。科学や数学や道徳の才能のない人は自分が幸福に暮らせる文化をやっている国を探してそこに引越しして暮らせばいい。例えば、悪いことをやめられない政府や暴力団や宗教団体は悪いことができるアメリカに引越しして自分の思う存分に悪いことをやって暮らせばいい。馬鹿すぎて実在が見えず見掛けだけしかわからない者はヨーロッパに行って暮らせばいい。自分の頭で考えて物を見ず、眼で見えることばっかりギャアギャアうるさく言うヤツは日本から出て行け。最近の馬鹿は馬鹿のくせに偉そうにするからどうしようもない馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。
国民みんなが馬鹿だと見かけしかわからないから、政府が偉そうにしているのを見て「政府が国民みんなを支配している」と思って政府の言いなりになっている。反対に、国民みんなが利口だと頭で考えて実在が見えるから、いくら政府が偉そうにしても『国民みんなが政府を支配している』と思って、政府が国民みんなと同じ文化をやっていない場合には政府を倒す。今の日本では国民みんなが政府を倒しているから、国民みんなは利口である。国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている証拠である。反対に、今のヨーロッパでは政府が残っているから国民みんなが馬鹿である。ヨーロッパでは万年国民みんなが政府の尻[しり]に敷かれているのである。ヨーロッパでは本当は「科学があって数学と道徳がない文化」をやっているのである。ヨーロッパ人は道徳もできないし頭で見ることもできない。眼で見ることがわかるだけである。ヨーロッパは不良の馬鹿の国である。ヨーロッパでは頭がいいのは例外である。みんなで頭がいい人間を攻撃したりする。しょうもない連中である。
今の国民みんなの敵は政府や暴力団や宗教団体ではない。政府や暴力団や宗教団体はしょせん小さい団体だから大[たい]した敵ではない。すでに国民みんなに倒されている。もっと怖い敵は国民みんなと違う文化をやろうとする国民の集団である。見かけしかわからない馬鹿や、作り事しかわからない阿呆[あほう]が国民みんなの敵である。それこそが、国民みんなの真[しん]の敵である。国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。今の日本では『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反することをやってはいけないことになっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では眼で見ることにこだわったり空想に耽[ふけ]って喜んだりしてはいけない。国民みんなは見かけしかわからない馬鹿や作り事しかわからない阿呆にどうでもいいことをやらさないようにして、日本中から見かけしかわからない馬鹿や作り事しかわからない阿呆をなくさねばならない。
国民みんなに「見かけしかわからない文化」を流行[はや]らせようとしているのは服屋[ふくや]である。服屋が国民みんなに要らない服を売るためである。国民みんなに「作り話しかわからない文化」を流行らせようとしているのは出版社である。出版社が国民みんなに要らない本を売るためである。服屋や出版社が自分の金儲[もう]けのためにまちがった文化を流行らせているのである。(私の父親も、服には興味がなかったが、しょうもない文学の本ばっかり読んで時間を無駄[むだ]にしていた。(もっとも、私の父親は新しい本を買わず古本ばっかり買っていたが。)そんな時間があったら道徳について学んで自分の子供に道徳を教えればよかった。子供が悪いことをやっていたら注意してやらさないようにすればよかった。そうすれば、自分も子供も幸福な人生を送ることができたはずだ。要らないことをしなければ時間が空[あ]く。そこで必要なことをすればいいのだ。)馬鹿や阿呆が服屋や出版社の策略に引っかかってつまらない物を買わされて面白くない思いをしているのである。だから、馬鹿や阿呆は“まじめに今の国民みんなの文化を守っている人”を見ると攻撃して自分の不満を解消しているのである。しかし、今は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の時代だから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』の中で仕事をしなければならない。国民みんなは要らない物を買わないようにして要らない物を作る会社を潰[つぶ]さねばならない。国民みんなは国民みんなの文化に反する会社や団体を国からなくさなければならない。見かけしかわからない馬鹿は見た目の雰囲気だけしかわからない。作り事しかわからない阿呆は実在に目を向けず実在について考えない。どちらも実在について知らない。今の国民みんなの『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反している。国民みんなは要らない服や要らない本を買うことよりも、自分で考えて正しいことを理解することを大事にしなければならない。
そもそも見かけだけしかわからない者や作り話しかわからない者がいるのは、今の国民の多くが今の社会の原理がわかっていないからである。今の社会の原理は『科学と数学と道徳の全部がある文化』である。だから、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』に基づいて行動しなければならない。人間は見かけや作り話では幸福になれない。人間にとっては見かけも作り話も面白くない。人間は実在において他人を喜ばせることをしなければならない。そうしなければ人間の心は本当に満足しない。みんなで実在においてお互いに幸福にしあう国にしないといけない。
見かけしかわからないのは数学のない文化である。頭で考えない文化である。作り話しかわからないのは科学のない文化である。実在に目を向けない文化である。悪いことをやめないのは道徳のない文化である。自分の心を自分の思い通りにしない文化である。しかし、今は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の時代である。数学や科学や道徳がないのはいけない。人間は実在の中に生きている。人間は科学をやって実在を見て、数学をやって実在について考えて、道徳をやって自分の心を実在に従わせて実在の中で暮らさねばならない。人間は実在の中で身体を動かして、自分の身体で実在を見て実在と接しなければならない。そうすれば、実在がわかる。
自分の見かけにこだわったり作り話を見たり読んだりするのは今の日本の文化ではない。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』では人間は頭で実在を知るべきだから、自分の見かけにこだわったり作り話を見たり読んだりするのは『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反しているからやってはいけない。やめるべきである。今の国民みんなもそう言っている。そういう目で見ている。日本人は無口だから他人にやめろと言わないが、心の中ではそう思っているのである。つまり、イケメン(カッコマン)やオタクは日本では例外者だということである。つまり、イケメンやオタクは自分ひとりでかっこつけや作り話に耽[ふけ]っているにすぎないのである。
日本人は無口である。だから、たとえ自分が『今の国民は政府に税金を払わなくていい』ことがわかっていても他人にはしゃべらないのである。日本ではみんなが自分ひとりで考えて正しいことがわからねばならないのである。日本人はそうやって『獅子が自分の子供を谷底に突き落としている』のである。日本人は他人に対して厳しいのである。日本ではそうやって生き残った者だけが幸せにありつけるのだ。日本ではみんなが他人の自由を認める代わりに自分で道を踏み外した者は地獄に落ちねばならないのだ。しかし、自分が正しいことを知っているだけではなく他人に正しいことを教えるのも国家的には大事なことである。だから、他人に正しいことを教えてもいい。
見かけしかわからない文化や作り話しかわからない文化を広めることは国民みんなが不幸に暮らさねばならない国を作ることである。テレビ局が国民みんなを不幸にしている。テレビ局が服屋や出版社からお金をもらってそういう文化を広めているのである。要らない物は売れないので、要らない物を作っている会社はテレビ局にたくさんお金をやって宣伝しないといけないのである。馬鹿会社は要る物を作ることができないのでざっとした要らない物しか作れないので余計な宣伝費がかかるのである。都会には自然がなくみんながテレビばっかり見ているからそういう文化に汚染されているのである。テレビ局は自分のお金儲けのために国民みんなを不幸にしているのである。テレビ局は自分ひとりの幸福のために国民みんなを犠牲[ぎせい]にしているのである。たかがテレビのために国民みんなが不幸にされてはたまらない。人間はいくら見かけにこだわっても作り話を読んでも幸せにはなれない。かえって不幸になるだけである。だから、国民みんなでそんな文化をやめねばならない。人間は頭で考えて実在を知ることによって幸せになれる。人間は実在の中でこそ本当に幸福になれる。だから、国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。実際に、すでに国民みんなはそうやっている。国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。国民は国民みんなに従わねばならない。だから、国民は見かけにこだわったり作り話を見たり読んだりしてはいけない。見かけしかわからない文化では眼先で物を見るだけで頭で考えて物を見ないから実在がわからない。作り話しかわからない文化では実在を見ようとしないから実在から目をそむけているから実在がわからない。実在がわからなければ実在に適応できず幸福になれない。だから、見かけしかわからない文化や作り話しかわからない文化では人間は幸福になれないのである。
見掛けしかわからない者や作り話しかわからない者は日頃まじめに実在について考えている人を汚いとかつまらないとか言って軽蔑[けいべつ]しているので、実在について考えている人が正しいことがわかっても見かけしかわからない人や作り話しかわからない人に正しいことを教えてあげないのである。実在について考えている人は見掛けしかわからない者や作り話しかわからない人がいくらまちがったことをやって困っていても助けてやらないのである。だから、日本人は無口なのである。お互いさまである。実際に、見かけしかわからない人や作り話しかわからない人は私の書いた文なんか読まないから私はそいつらの役に立っていないからそれでいいのである。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。国民みんなは国の最高権力者だから、国民は国民みんなに従わねばならない。だから、今では国民は本来は『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやることはまちがっている。国民みんなが大目に見てやっているから「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」がやれるだけである。本来は『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやる者が正しく、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者がまちがっているのだから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやる者が「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者を半殺しにして攻撃してもおかしくはない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやる者は「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者が頭が悪くて気の毒だと思って許してやっているのである。それなのに、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者はそもそも自分が社会のことを知らないためにそんなことをやっているのだから、みんなが大目に見てくれているのを知らず、みんなが自分を支持していると思って、さも自分こそが正しい者だと言わんがばかりに我が物顔で周[まわ]りのみんなに威張[いば]り散らしているのである。まちがった者が正しい者に対して偉そうにしているのである。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者は国民みんなが大目に見てくれているのをいいことにしてつけあがって自分が正しいことをやっていると思い込んで正しい文化をやっている者を攻撃しているのである。正しい者にとってはいい迷惑である。そいつらは恩を仇[あだ]で返すやつらである。いつの時代にも馬鹿や阿呆がいるものである。馬鹿や阿呆は自分が馬鹿や阿呆だとわからないから馬鹿や阿呆なのである。馬鹿や阿呆にとっては正しいこととまちがっていることがひっくり返っているのである。馬鹿や阿呆はまちがっていることをやらねばならず、正しいことをやってはいけないと思っているのである。馬鹿や阿呆は他人がまちがっていることをしていると喜んで、他人が正しいことをしていると不愉快[ふゆかい]になるのである。馬鹿や阿呆はまちがっている者を応援し、正しい者を攻撃する。みんなにとってはいい迷惑である。そいつらは社会のゴミである。早くみんなでそいつらを社会から一掃[いっそう]しなければならない。
今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体を倒すのにいそがしくて手が空[あ]かないから「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者を大目に見てやっているのである。そのうち国民みんなが政府や暴力団や宗教団体を倒して暇になったら「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者を倒すだろう。今度は「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者が国民みんなに血祭りにされるだろう。そうやって、国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国を実現していくのである。
日本人は道徳がやれるから道徳をやればいい。日本人は頭で考えることができるから頭で考えればいい。日本人は実在に目を向けることができるから実在に目を向ければいい。日本人は何でもできるから何でもやればいい。反対に、ヨーロッパ人は道徳ができない。中国人は頭で考えられない。(『荘子[そうじ]』は中国人が頭で考えられないことを表している。中国人が頭で考えられないから曖昧模糊[あいまいもこ]で論理がないのである。『論語』は中国人が道徳ができて眼で見ることを大事にすることを表している。中国人は昔から道徳と科学は得意なのである。)インド人は実在に目を向けられない。女や思春期の男はエッチのしすぎで色ボケして頭が働かなくなっているから眼で見ることしかわからず「見かけしかわからない文化」をやっているのである。自分がエッチのしすぎで頭が働かなくなって眼で見えることしかわからなくなって見かけが悪い者を見るとムカついて攻撃しないと気がすまないのである。それが真相である。国民の一部の馬鹿なんかどうでもいい。日本人は自分のマルチな才能を活かして幸福に生きればいいのである。
[21923] 結婚とは何か? h27.6.12
結婚とは男女が一つ屋根の下でいっしょに楽しく暮らすことである。人間の心には愛情があるので、男女がいっしょに暮らすと愛情が満足されて楽しく暮らすことができるのである。
一方、人間の心には性欲もある。性交すると性欲が満足されて快感を感じる。しかし、日本では性欲を満足してはいけないことになっている。日本では性交は子供を作るときにするだけであって、性欲を満足するために性交してはいけないことになっている。だから、日本では男女が幸福に暮らせるのである。日本は道徳のある国なのである。
性欲を満足しないからこそ愛情の喜びを感じて幸福に暮らせるのである。性欲を満足すると愛情の喜びが感じられなくなって不幸に暮らさねばならなくなる。だから、けっして性欲を満足してはいけないのである。
結婚して幸福に暮らすためには相手がいい人であることが必要である。相手といっしょにいるとき自分の心が本当に喜びを感じているかどうかを確認して、その後で相手と結婚するかどうかを決めればいい。
人間には愛情だけでなくほかにもいろんな喜びがある。私はあいにくいい相手が見つからなかったので結婚せず愛情が満足できなかったが、その代わりにほかの喜びを満足して生きてきた。私は結婚しなくてもちっとも後悔していない。
[21924] 日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国である。 h27.6.12
いくら「見かけしかわからない文化」がいいと言っても、いくら「作り話しかわからない文化」がいいと言っても、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているのだから、そうは行かない。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやるほうがまちがっている。まちがっている者が威張[いば]るな!(そういう連中を殴[なぐ]りつけて粛清[しゅくせい]したら出世できるかもしれない。)
私もうすらうすらそのことがわかっていて、これまで『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやってきた。私は実在を理解するようにして、実在の中で自分の心を満足するようにしてきた。かっこつけや作りごとはやらないようにしてきた。
私はかっこつけをやめようと思えばいつでもやめられるし、作りごとをやめようと思えばいつでもやめられる。
子は親を見て育つという。私の父親はかっこつけが嫌いである。自分でボロボロの服を着ているし、他人が気取った服を着ているとすごく怒る。(刑事コロンボがボロボロの服を着ているのは私の父親の真似[まね]である。)私も気取った服が嫌いなので、これまで一度も気取った服を着たことがない。ただ、私の父親は文学がすごく好きで、休みの日にはいつも酒を飲んだ後で文学を読んでいた。私は子供のころから文学よりも科学のほうが好きだった。一方、私の母親は作り話が嫌いである。マンガやアニメは絶対に見ない。ドラマは好きで見る。子供には甘いので子供がマンガやアニメを見るのは許すが、自分では絶対に見ようとしない。私も小学2年生のときに国語の教科書に凧[たこ]の作り話が載っているのが嫌いだった。ただ、私は子供の頃からマンガやアニメはよく見ていた。でもそれ以上に外でよく遊んでいた。虫取りや木登りや自転車や台風で潰[つぶ]れたゴルフ場でゴルフなんかやって遊んでいた。私は中学生の頃にマンガを読むのをやめたが、高校生の頃には文庫本をよく読んでいた。私の母親はかっこつけも全然しない。若いときはいっとき化粧をしていたが、その後はあまりしていない。私の父親は見かけが嫌いで私の母親は作り話が嫌いである。だから、私が見かけも作り話も嫌いでもおかしくはない。
もっとも、私も学生時代や仕事をしていたときにはアニメはよく見ていた。家に帰ってきたり休日にはいつもアニメを見ていた。衛星放送のAT−X(アニメシアターエックス)に入ったりヤフーオークションで中古のDVDを買ったりして昔のアニメも見ていた。仕事をしていたときにはパソコンゲームもよくしていた。エレクトロニックアーツの『バトルフィールドシリーズ』(1942やベトナムや2や2142など)を休みの日には6〜8時間遊んでいた。連続で10時間ぐらい遊んだこともあった。5年間ずっと『バトルフィールド2』だけで遊んでいた。(それで階級は大佐(笑)。)
しかし、私が仕事を首になって、福岡に引越しして国家宗教や政府のことについて考えていくうちに心境が変わってアニメやゲームをやめた。実在に目を向けると作りごとが嫌いになってアニメもゲームもやりたくなくなる。今では私はアニメもゲームもまったくやっていない。テレビは週に2本鉄道番組を見るだけだ。
人間はまじめに生きていれば見掛けや作りごとなんかやらない。自然にやりたくなくなってやめる。
今の私は『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』の中で楽しいことをやっている。私がかっこ悪い服を着ているのは、私が頭で考えて実在を見ているからである。私がテレビやゲームをやらないのは、私が実在に目を向けているからである。私がどうでもいい服を着たり文学の本を持っていないのは『私の文化』が表れているからである。私にお金がないからではない。私にお金があろうがなかろうが関係ない。
最近は面白いマンガやアニメやゲームがない。国民みんなに『科学と数学と道徳の全部がある文化』が浸透してきたせいかもしれない。今は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の世の中になりつつある。みんなも無理にマンガやアニメやゲームをやったりしないで、いっそのことやめてしまったらどうだろうか?
要するに、日本は『頭で実在を考える文化』である。だから、日本人に生まれたら頭で実在を考えねばならない。見掛けにこだわったり作り話を読んだりするのは落ちこぼれである。そういう連中は無視すればいい。日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国である。日本人は頭で実在を考えて、見掛けや作り話をやってはいけない。要らないことをやらないようにして、要ることを広げて深めて発展させていけばいいのである。『科学と数学と道徳の全部がある文化』の外にあることはやらないようにして、『科学と数学と道徳の全部がある文化』の中にあることを充実させて進歩させていけばいい。そうやって幸福にならねばならない。日本人は実在の中で幸福にならねばならない。見かけや作り話で喜ばず実在で喜ばねばならない。日本文化や今の国民みんなの文化に対する理解のない者が見かけや作り話や悪いことをやっているのである。今の日本に見かけや作り話や悪いことをやっている者がいるのは、そいつらが今の国民みんなの文化に対する理解がないからである。文化に対する知識のない馬鹿がそうしているのである。だから、国民みんなはそういう馬鹿な連中の真似[まね]をしてはいけない。
見かけや作り話をやっている連中はテレビや新聞を見て粋[いき]がっている。「今ではみんなが見掛けや作り話をやっている」と思って「自分が国民みんなに認められたことをやっている国家公認の正しい者だ」と思ってつけ上がってますます見掛けや作り話をやっている。見かけや作り話をやらない者を「まちがっている者だ」と思って軽蔑[けいべつ]して攻撃している。しかし、テレビや新聞は信頼できる情報源ではない。JARO(ジャロ、日本広告審査機構)はインチキである。JAROは国民みんなにテレビや新聞の情報が信頼できると思わせるために建っているだけで、本当はJAROは何もやっておらずテレビや新聞の情報は嘘[うそ]ばっかりなのである。テレビや新聞の情報は本当のことがないのである。テレビや新聞は国民みんなに嘘をつくための道具である。そんな物を信じているほうが馬鹿である。見かけや作り話をやっている者はもともと馬鹿だからテレビや新聞が何かがわかっていないからテレビや新聞を信じて自分でいい気になって粋がっているのである。
テレビ局や新聞社は自分のお金儲けのためならいくらでも嘘の情報を流すし本当の情報を流さない。本当は『今の国民みんなは政府を倒すために政府に税金を払っていない』のに、テレビ局や新聞社はそんな情報をいっさい流さない。テレビ局や新聞社は年がら年中毎日一面にでっかく政府の記事を載せている。本当は今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているのに、テレビ局や新聞社は「今の国民みんなが「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている」ことを流している。テレビ局や新聞社もインチキ会社である。他人からお金をもらって嘘の情報を流して本当の情報を流さないようにして国を悪くする会社である。自分ひとりのお金儲けのために国民みんなを不幸にする会社である。だから、国民みんなで早くテレビ局や新聞社を倒さなければならない。国民みんなでテレビや新聞を見ないようにしてテレビ局や新聞社を倒さねばならない。
テレビや新聞は嘘つきだから当てにはならない。今の国民みんながやっていることはいくらテレビや新聞を見てもわからない。自分の頭で考えなければわからない。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。それが日本の伝統だからである。それ以外に人間が幸福になりようがないからである。いくらテレビや新聞で「今の国民みんなが「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている」と言っていても、実際には国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。その証拠に今の政府が国民みんなに倒されている。今の国民みんなは『もっと頭を使おう運動』や『実在に目を向けよう運動』をやっている。国民みんなはテレビ局や新聞社に騙[だま]されるほど馬鹿ではない。国民みんなを騙せると思っているテレビ局や新聞社のほうが馬鹿だ。国民みんなが馬鹿だと思っているほうが馬鹿だ。(私が小学1〜2年生のとき、クラスのみんなが声を合わせて「馬鹿だと言うほうが馬鹿だ」と言ったことがある。)今の国民みんなはテレビや新聞に騙されずに『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。国民みんなはテレビ局や新聞社が国民みんなと違う文化を広めていることを知って、テレビや新聞を見ないようにしてテレビ局や新聞社を倒している。国民の一部の例外者の少数の馬鹿がテレビ局や新聞社にまんまと騙されてみっともない「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっているだけである。今のテレビ局や新聞社は「国民みんなは馬鹿だから騙せる」と思って嘘の情報ばかり流しているから、国民みんなに『テレビ局や新聞社が嘘の情報を流している』ことがバレて国民みんなに嫌われて国民みんなに倒されているのである。自業自得である。国民みんなをなめた者の末路である。国民みんなはテレビ局や新聞社よりも利口である。テレビ局や新聞社は馬鹿だから、まちがって「国民みんなが馬鹿だ」と思って「国民みんなを騙せる」と思ってしまったのである。
「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者はそもそも自分が何をやっているのかわからないまま『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている者に文句をつけている。キチガイが自分が何をやっているのかわからないまま他人の家に土足で上がりこんで善良な一家を皆殺しにするのと同じである。(キチガイの周[まわ]りの者がキチガイにテレパシーで悪口を言ってからかうのも、『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている者が『科学と数学と道徳の全部がある文化』を犯した者に対して攻撃するためである。そもそも『科学と数学と道徳の全部がある文化』を犯す者が悪いのである。『科学と数学と道徳の全部がある文化』を犯してまじめに道徳を守らないから気が狂うのである。)「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者は自己認識が足りない。哲学が足りない。そういう者は他人に文句をつける資格はない。身のほど知らずだ。日本は『実在しかわからない文化』の国である。日本人は『実在しかわからない』民族である。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやりたかったら日本から出て行け!悪い者やまちがった者は自分で切腹して死んで謝[あやま]るのが日本の文化である。日本の文化では口先で謝ることがない。口先で謝っただけでは謝ったことにはならない。口先だけでは何をやったことにもならない。実在の中でやらねばならないのが日本の流儀[りゅうぎ]である。日本人は実在の中で生きているから日本では実在の中で謝らねばならないのである。実在の中で謝るために切腹や指を切ったりするのである。文化の中でまちがえるのはかまわないが、文化を犯すのは大罪である。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者は自分がみんなに殺されないうちにやめたほうがいい。
日本は『実在しかわからない文化』である。日本人は実在の中で生きている。日本では言葉には意味がなく、実行のみに意味がある。日本は不言実行[ふげんじっこう]の文化である。日本ではみんなが何も言わずに行動する。日本では行動が言葉である。日本では実在の中で行動することが言葉を言うことなのである。日本では言葉はなく、実行することと眼で見ることがあるだけである。だから、今の日本では国民みんなが無言で政府に税金を払うのをやめて政府を倒しているのである。国民みんなはいくらテレビや新聞が「今の国民みんなが政府を支持している」と言っても、実際に自分の眼で見たわけではないから信用せずに無視して、自分で『今の国民みんなが政府を倒している』と考えて政府を倒しているのである。日本はテレビや新聞による情報操作が利[き]かない国なのである。反対に、ヨーロッパは有言実行[ゆうげんじっこう]の文化である。ヨーロッパではみんなが言葉で言ってから行動する。言葉は自分の思考を眼で見えるように耳で聞こえるようにしたものである。思考そのものは眼で見えず耳で聞こえないものである。ヨーロッパ人は五感が発達しているから言葉をよくしゃべる。日本人は知覚が発達しているから言葉をしゃべらない。だから、ヨーロッパ人は有言実行なのに、日本人は不言実行なのである。ヨーロッパでは国民みんながみんなに声をかけながらみんなでいっせいに政府を倒すのに、日本では国民みんなが黙って一人一人バラバラに政府を倒すのである。(天皇はヨーロッパ文化をやっていて、ヨーロッパ文化は有言実行だから『有言実行三姉妹シュシュトリアン』という番組があったのである(今から約20年前)。)したがって、ヨーロッパでは言葉で謝ればすむが、日本ではすまない。日本では身体で謝らないかぎり許されない。今の国民みんなは言葉では『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっていると言わないが本当はやっている。今の国民みんなは無言で『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやっている者はみんなに殺されないうちに日本から出て行ったほうがいい。
私は今から約30年前の学生の頃から自分の考えを言葉に書き表している。自分の考えを自分で確認するために字で書いているのである。無言で考えると自分の考えがわからず自分の考えが曖昧[あいまい]になるので、私は自分の考えを正しくするために自分の考えを字で書くようにしているのである。思考は眼で見えない。行動は眼で見える。言葉は思考と行動の中間的なものである。言葉は思考を眼で見えるようにしたものである。日本は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国である。だから、言葉があってもいいはずである。言葉がないのは「科学のない文化」である。『科学のある文化』では言葉があっていい。だから、私が言葉を使ってもいいのである。これまでの日本は「科学のない文化」だったから、みんなが言葉で言わなかったのである。みんなが言葉を聞かなかったのである。今後の日本は『科学のある文化』になるから、みんなが言葉で言うようになるだろう。言葉を聞くようになるだろう。今の日本は『数学のある文化』だから、みんなが正しい言葉とまちがった言葉を区別して正しい言葉を聞いてまちがった言葉を無視するようになるだろう。他人に騙されるのは『数学のある文化』ではない。『頭で考える文化』ではない。だから、日本では他人に騙されてはいけないのである。日本では言葉があろうがなかろうが他人に騙されてはいけないのである。
要するに、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは悪いことをする政府や暴力団や宗教団体を倒している。今の国民みんなは頭で実在を考えて実在しかわからず、見かけや作り話がわからず見かけや作り話をやっていない。テレビ局や新聞社はいろんなところからお金をもらって「今の国民みんなは「悪いことをやってもいい文化」をやって、政府や暴力団や宗教団体などを支持している。今の国民みんなは「頭で考えない文化」や「科学をやらない文化」をやって頭で実在を考えるのをやめて実在がわからなくなって、見かけや作り話しかわからなくなって見かけや作り話に耽[ふけ]っている。」という嘘の情報を流している。そのために、今の国民みんなはテレビを見たり新聞を読んだりするのをやめてテレビ局や新聞社を倒している。
[21925] 日本の文化は世界中で一番優[すぐ]れた文化である。 h27.6.14
同じ知るなら実在を知ればいい。実在を知って、実在の中で行動して、実在の中で楽しめばいい。
見かけや作り話を知って、見かけや作り話をやって、見かけや作り話で楽しんではいけない。そういう喜びはくだらない。禁忌[きんき]である。心の底から喜べない。それは、『人間が実在の中にいる』ことが真実だからである。人間は真実を否定するのが嫌である。だから、見かけや作り話をやって『人間が実在の中にいる』ことに反することをやると楽しくないのである。不愉快[ふゆかい]になるのである。
まさに、『今の国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている』ことが実在なのである。『今の国民が政府や暴力団や宗教団体に悪いことをさせずに倒して、見かけや作り話をやっていない』ことが真実なのである。テレビや新聞が「今の国民みんなが「科学と数学と道徳の全部がない文化」をやっていて、道徳をやらずに悪いことばっかりやって政府や暴力団や宗教団体を支持していて、数学をやらずに頭で考えずに見かけばかりやって、科学をやらずに作り話ばっかりやっている」と言っているのは嘘[うそ]なのである。テレビや新聞は真実を報道しているのではなく、嘘の作りごとをやっているのである。見かけと作り話で国民みんなを騙[だま]そうとしているのである。しかし、実際には国民みんなはテレビ局や新聞社に騙されずに、『テレビ局や新聞社が嘘ばっかりついている』と考えてテレビ局や新聞社を倒しているのである。最近はテレビ局が嘘の情報を流しているので、国民みんながテレビを見なくなった。昔はテレビの視聴率が高かったが、最近のテレビの視聴率は高くない。最近の新聞は嘘の記事を載せているので、国民みんなは新聞の契約を取らなくなった。最近のテレビ局や新聞社はゲームやコンピューターに視聴率を取られて儲[もう]からなくなったので、いろんなところからお金をもらって嘘の情報を流すようになったのである。国民みんなを目の敵[かたき]にして国民みんななんかどうなってもいいやと思って国民みんなを不幸にする情報を流すようになったのである。そのために、国民みんなはますますテレビや新聞を見なくなっている。悪循環である。
ヨーロッパ人が見かけで喜んでいるのはヨーロッパ人が知能が低いからである。ヨーロッパ人は頭が悪いから頭で物を見ることができず眼で物を見ることしかできないから見かけで喜ぶことしかできないのである。日本人は馬鹿の真似[まね]をしてはいけない。日本人は知能が高く頭で実在が見えるから、実在で喜べばいいのである。そのほうが日本人にとっては喜びが多いからそうすればいいのである。わざわざ日本人がヨーロッパ人の真似をしてつまらないことをやらなくていい。
反対に、インド人が数学で喜んでいるのはインド人が知能が高すぎるからである。インド人が知能が高すぎて数学ばっかりやって実在を見ようとしないから科学をやらず貧乏暮らしなのである。インド人は知能が高すぎて心に目を向けないから道徳もやらずみんなで悪いことをしあって不幸に暮らしているのである。インドではよっぱど頭がよくないと生きていけないのである。
日本人はヨーロッパ人ほど馬鹿ではないが、インド人ほど利口でもない。日本人はヨーロッパ人とインド人の中間の知能である。だから、日本人は幸福に生きられるのである。人間は馬鹿すぎても利口すぎても幸福に生きられない。まあまあのほうが幸せなのである。つまり、日本人は日本人に合ったことをすれば一番幸福なのである。日本人にとっては実在の中で暮らすのが合っている。だから、日本人は昔から実在の中で暮らしてきたのである。それは、日本人だけではなく、人類一般についても言えることである。だから、今では世界中で日本文化を真似て『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになっているのである。
これまで世界中の国では国民みんなが自分たちがもっとも楽しく暮らせる国にしてきた。ヨーロッパが五感の国だったのは、ヨーロッパ人が五感が発達していて知覚と心が遅れているからである。インドが知覚の国だったのは、インド人が知覚が発達していて五感と心が遅れているからである。中国が心の国だったのは、中国人が心が発達していて五感と知覚が遅れているからである。しかし、そのためにかえって不幸になることもあった。例えば、ヨーロッパではたびたび戦争が起こって国民みんなが不幸になった。ヨーロッパでは五感の喜びを満足するために、インドから数学を入れたり中国から道徳を入れたりした。インドや中国もこれまで科学がなくて貧乏だったので今ではヨーロッパから科学を入れている。『人間は自分が楽しいことばかりしているとかえって不幸になる。多少嫌なことをやったほうがかえって幸福になる。』ヨーロッパ人にとっては数学や道徳は嫌だが、我慢[がまん]して勉強することによってますます物が豊かになってみんなが悪いことをしなくなって戦争がなくなって五感の喜びが満足されて幸福に暮らせるようになったのである。『人間はあまり自分の心のままにしていると不幸になる。自分の心を否定することによってかえって自分の心が満足される。』最近の人類はそのことを知って、盛んに外国の文化を受け入れるようになったのである。日本でもその傾向があって、馬鹿な日本人がヨーロッパ文化を喜んで受け入れて不細工[ぶさいく]な人を攻撃しているのである。しかし、人類の目指すところは『科学と数学と道徳の全部がある文化』である。『科学と数学と道徳の全部がある文化』では人間が頭で考えて実在を知り、実在の中で行動し、実在の中で自分の心を満足して幸福になる。それが未来の人類がやっていることである。これまで日本人はずっとそうやってきた。日本人は実在を知り、実在の中で行動し、実在の中で自分の心を満足してきた。ヨーロッパ人でさえ日本の文化が正しいと認めてきた。だから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』が人類みんなにとって正しい文化である。人類にとっての幸福とは『科学と数学と道徳の全部がある文化』における幸福つまり実在における幸福である。つまり、『科学と数学と道徳の全部がある文化』とは実在のことなのである。ヨーロッパ文化もインド文化も中国文化もまちがいなのである。日本文化が正しいのである。日本人は昔から実在を知り、実在の中で行動し、実在の中で自分の心を満足してきた。日本人にとっては実在における喜びが一番大きいのである。それは日本人の長所である。だから、日本人は自分の長所を大切にしないといけない。ヨーロッパ人は見かけしかわからず、見かけのことばっかりやって、見かけの喜びしかなかった。インド人は数学しかわからず、数学ばっかりやって、数学の喜びしかなかった。中国人は文学しかわからず、文学ばっかりやって、文学の喜びしかなかった。一方、日本人は実在しかわからず、実在のことばっかりやって、実在の喜びしかなかった。日本人もヨーロッパやインドや中国から文化を取り入れて『科学と数学と道徳の全部がある文化』を築[きず]いて『科学と数学と道徳の全部がある文化』ができるようになったのである。日本人が『科学と数学と道徳の全部がある文化』で暮らせるのは、ヨーロッパやインドや中国のおかげである。『科学と数学と道徳の全部がある文化』はこれまで日本人が世界中の文化を取り入れて世界中の文化を結集して作り出した優れた文化である。日本は部分部分では大国に及[およ]ばなかったけれども、全体としては大国よりも優れていたのである。だから、日本人は自分の国の『科学と数学と道徳の全部がある文化』を大切にしなければならない。外国の変な文化をやってはいけない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』は人間が一番幸福に暮らせる文化なのである。わざわざ外国からまちがった文化を取り入れて不幸に暮らすようにしてはいけない。日本の『科学と数学と道徳の全部がある文化』が世界で一番優れている。だから、日本はわざわざ外国から文化を取り入れる必要はないのである。日本人は実在がわかって実在で喜ぶことができるすばらしい民族である。日本人は自分の長所を大切にしないといけない。
女や馬鹿は頭が悪いので実在がわからない。女や馬鹿は『科学と数学と道徳の全部がある文化』では幸福になれない。女や馬鹿は実在の中では幸福になれない。人間にとっては実在の中に生きていることが真実だから、女や馬鹿はもともとこの世では不幸な生き物なのである。人間は見かけだけの世界の中にも数学の世界の中にも作り話の世界の中にも生きていない。人間は実在の世界の中にしか生きていない。だから、実在を知り実在で喜べばいいのである。今は国際交流の時代である。世界中の国が自由に外国の文化を取り入れている。そのために、女や馬鹿は一生懸命にヨーロッパ文化を取り入れてヨーロッパ文化を広めて日本を自分が幸福に生きていける国にしようとしている。女や馬鹿は日本を「眼で物を見るだけで頭で考えず自分の好き放題にやれる文化」の国にしようとしている。今のところは一部の馬鹿だけがやっているから日本が持っているのである。日本人全員にそんな文化が広まったら日本はおしまいである。本国のヨーロッパでも今どきそんな文化はやっていない。日本人は女や馬鹿に付け上がらせず自分の文化を守らなければならない。
『科学と数学と道徳の全部がある文化』は日本で生まれたが、『科学と数学と道徳の全部がある文化』は日本の特許でも日本の独占でもない。やろうと思えばどこの国でもやれる。実際に、すでにいくつかの国ではそんな文化になっている。むしろ、日本のほうが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらなくなっている。今の日本人は根性を入れて『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。自分が『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって、馬鹿や阿呆に「頭を使わない文化」や「作り話をやる文化」をやらさないようにしなければならない。今の国民みんなが政府や暴力団や宗教団体に善いことだけやらせて悪いことをさせないように、今の国民みんなは馬鹿や阿呆に実在だけやらせて見かけや作り話をやらさないようにしなければならない。今の国民みんなはもっと自由を規制して日本から「見かけの文化」や「作り話の文化」を根絶しないといけない。そうやって、国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。
『人間は実在の中で生きている。』それが人間が置かれている状況である。人間の分際[ぶんざい]である。だから、これまで日本人は実在の中で生きようと努力してきたのである。人間に自由を与えすぎるとかえって不幸になる。それが今の日本の状況である。今の日本では多くの人が見かけや作り話をやって面白くない思いをして不幸になっている。服屋や出版社のお金儲けの犠牲[ぎせい]になっている。人間は実在の中にいるときに幸福なのであって、実在の外に出ると不幸になる。人間は実在をやると幸福になるのであって、それ以外のことをやると不幸になる。人間は必要なことだけやって不要なことをやらなければ幸福なのである。今の人は自分が本当に幸福だと思うことだけやって、自分がちょっとでも面白いと思わないことをやってはいけない。それを守れば、『科学と数学と道徳の全部がある文化』になるしかない。馬鹿や阿呆は自分が何をやれば幸福になるかがわからないから、まちがったことをやって自分で自分を不幸にしているのである。面白くない見かけや作り話をやって面白くない思いをしているのである。うわべで面白いふりをしているだけで、本心では不愉快に思っているのである。その腹いせにまじめに実在をやって喜んでいる者に八つ当たりしているのである。今のテレビ局や新聞社は本当に楽しいことを知らない馬鹿や阿呆をからかって遊んでいるのである。馬鹿や阿呆は道徳がないから不幸になっているのである。しかし、今は『科学と数学と道徳の全部がある文化』の時代である。道徳がないのはいけない。だから、馬鹿や阿呆は道徳を勉強して余計なことをやらないようにしないといけない。必要なことをやらないといけない。実在の世界の中にも知らねばならないことはいっぱいある。やらねばならないことはいっぱいある。楽しいこともいっぱいある。だから、実在の中で楽しいことをやって喜べばいいのである。見かけや作り話をやってわざわざ後ろめたい思いをして嫌な思いをせず、実在をやって明るく楽しく喜べばいいのである。人間にとっては実在だけが楽しいことであって、それ以外の見かけや作り話は面白くない。だから、人間は実在だけをやって、見かけや作り話をやらなければいい。同じように、人間にとっては愛情は楽しいが、性欲は楽しくない。人間が性欲を満足すると後ろめたい気持ちがする。性欲は表面的に楽しいだけで、心の底では不愉快である。だから、人間は愛情だけ満足して性欲を満足してはいけないのである。ヨーロッパ人は道徳がなく自分の心が見えないから見かけをやって喜んでいるのである。ヨーロッパ人も本心では見かけが嫌だと思っているのである。日本人は道徳があって自分の心が見えるから、見かけをやると自分の心が苦しんでいるのがわかるから見かけをやらないのである。日本人にとっては実在しか喜べないから、日本人は実在しかやらないのである。『人間は実在の中に生きている。』実在は頭で考えなければ見えない。実在の世界は広大である。実在はいくら人間が考えても考え尽[つ]きることがない。実在の中には楽しいこともいっぱいある。だから、人間は頭で実在について考えて、実在の中で楽しいことを見つけて楽しいことをやって喜べばいいのである。
日本人は『見かけや作り話が面白くない』ことがわかっていたからやらなかったのである。今は道徳を知らない人が増えたから、見かけや作り話が面白いと思ってやっている人が増えているのである。見かけや作り話をやる者は面白くないことをやって自分で自分を虐[いじ]めている。見かけをやっている者は本心から喜んでいないから本心では不満いっぱいだから見かけが悪い人を見ると攻撃するのである。見かけや作り話をやっている人は面白くないことをやって自分で自分を不快にしている。人間の本心はすぐにはわからない。結婚の時だって、パッと見だけでは自分の心が本当に相手を喜んでいるかどうかわからないからしばらく相手とお見合いをして付き合ってみて自分の心の反応を見てみるのである。日本人は昔から実在や見かけや作り話などいろんなことをやってみて『実在だけが面白くて見かけや作り話が面白くない』ことを知っていたから実在だけやって見かけや作り話をやめたのである。だから、日本人は幸福に暮らせたのである。しかし、今では道徳を知らない人が増えて面白いことと面白くないことの区別がつかず面白くないことをやって自分で自分を不幸にしているから、今の世の中が面白くなくなっているのである。人間は好き放題に何でもかんでもやっていたら不幸になる。人間が幸福になるためには本当に面白いことだけを選んでやらねばならない。女は弱気で馬鹿だから他人に面白くないことを押し付けられても断れず自分で面白くないことをやって自分が不幸になっているのである。今では道徳を知らない人が増えているから、本当に楽しいことを知らない人が増えているから、面白くない物を売るのが容易になっている。国民の多くが面白くないことをやって面白くない思いをしている。自業自得である。人間は面白いことをやって面白くないことをやらなければ幸福である。人間は面白いことをやらず面白くないことをやるから不幸なのである。馬鹿は道徳を知らず面白いことと面白くないことがひっくり返っていて自分で面白くないことをやって自分で自分を不幸にしている。そればかりか馬鹿は他人に面白くないことを押し付けて他人に面白くないことをやらせて他人を不幸にしようとしている。みんなにとっては馬鹿は迷惑である。馬鹿は国民みんなを不幸にする病原菌である。国民みんなで馬鹿を雇[やと]わないようにして馬鹿に金をやらないようにして馬鹿を殺して馬鹿を根絶しなければならない。私が考えていることはみんなも考えていることである。だから、今の国民みんなはすでにそうしている。今の国民みんなは見かけをやっている馬鹿や作り話をやっている阿呆を雇わないようにしてお金をやらないようにして殺している。馬鹿や阿呆を駆除して馬鹿や阿呆がいないようにしている。国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反する者にお金をやらないようにして殺している。だから、国民が生き残りたければ見かけや作り話をやめねばならない。
見かけをやっている者はみんなが喜ぶと思って見かけをやっている。とんだ誤解である。実在をやっている者にとっては見かけをやっている者が嫌である。面白くないことをやっているから不愉快[ふゆかい]である。自分で自分を不幸にしているから見苦しいかぎりである。できれば殴[なぐ]りつけて服を引き裂いて見かけをやめさせたいところだが、服は個人の財産だからそうしないのである。我慢[がまん]せざるを得ないのである。それをいいことにして見かけをする者がつけ上がっていい気になっていくらでも見かけをエスカレートさせているのである。作り話をやっている者についても同様である。マンガが個人の財産だから、マンガを奪って引き裂いてゴミ箱に捨てることができないのである。そいつらは国民みんなの文化に背[そむ]いている悪人のくせに法律を盾[たて]にしてのさばっているのである。それなら麻薬の粉だって個人の財産である。自分が金を出して買ったからと言って何でもやっていいわけではない。早く国民みんなで『見かけや作り話をやってはいけない法律』を定めて国民みんなが見かけや作り話をやれないようにしなければならない。国民みんなが実在のことだけをやるようにしないといけない。
ヨーロッパ人が見かけで喜ぶのはヨーロッパ人が五感が発達しているからである。そのかわりヨーロッパ人は知覚や心が遅れている。反対に、日本人は知覚が発達して五感や心が遅れている。だから、日本人がいくら見かけをやっても全然つまらない。見かけをやっている日本人は高いお金を出して自分が全然面白くないことをやっているのである。日本人にとっては見かけをやるのは馬鹿が威張[いば]るための方法にすぎないのである。ヨーロッパ人は自分が楽しいから見かけをやっているだけなのに、日本人は他人に威張るために見かけをやっているのである。日本人が見かけをやると周[まわ]りのみんなを不愉快にするだけなのである。だから、日本では見かけをやってはいけないのである。同じように、中国人が作り話で喜ぶのは中国人が心が発達しているからである。その代わり中国人は知覚や五感が遅れている。反対に、日本人は知覚が発達している。五感と心が遅れている。だから、日本人がいくら作り話をやっても全然つまらない。作り話をやっている日本人はお金を無駄[むだ]にしているだけである。日本人にとっては作り話をやるのは現実逃避にすぎないのである。日本人は現実逃避が嫌いである。だから、日本では作り話をやるのは周りのみんなを嫌がらせるだけである。だから、日本では作り話をやってはいけないのである。インド人が数学で喜ぶのはインド人が知覚が発達しているからである。そのかわりインド人は五感と心が遅れている。一方、日本人はインド人ほど知覚が発達していない。だから、日本人がいくら数学をやってもあまり喜べない。日本人にとっては数学は生きがいにはなれない。日本人もインド人も知覚が強い。日本人はインド人と似ている。日本人はインド人よりも知覚が弱く五感が強い。だから、日本人は実在に目を向けたインド人なのである。日本人には見かけや数学や作り話の喜びはないが、そのかわり実在の喜びがあるのである。
[21926] 「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」の国なんかない。
h27.6.14
人間が幸福に生きるためには『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらねばならない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるしかない。
「眼だけ使って頭を使わない文化」では近代以降の科学はやれない。国の文明が成り立たない。電気もガスも眼で見えないから電気もガスも使えない。だから、そんな文化ではいけない。つまり、「見かけしかわからない文化」はいけない。
「実在に目を向けない文化」でも科学がやれない。国の文明が成り立たない。だから、そんな文化ではいけない。つまり、「作り話しかわからない文化」ではいけない。(インドは頭だけの世界であり、中国は心だけの世界である。頭だけの世界も心だけの世界も実在に目を向けない点では同じである。)
「見かけしかわからない文化」も「作り話しかわからない文化」も国家的にはやれない。国民みんながそんな文化をやったら国が潰[つぶ]れる。個人的にやれるだけである。だから、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる者は個人的にやらねばならない。他人に押し付けてはいけない。「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやらない者を攻撃してはいけない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている者を攻撃してはいけない。
つまり、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやる国なんか作れない。だから、そんな国を作ろうと夢見てはいけない。国を滅ぼすだけだからやめねばならない。
これまで世界中の国が自分の好きなことだけやって嫌いなことをやらなかったので、科学と数学と道徳のどれか一つだけをやってきたために不幸に暮らしていた。そのため、今では世界中の国が自分の嫌いなことを我慢[がまん]して科学と数学と道徳の全部をやるようになって以前よりも幸福になっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』はどこの国にも当てはまる普遍的[ふへんてき]な文化である。WindowsのOSがコンピューターのCPUによらずに普遍的に使えるのと同じことである。
[21927] 『人間は実在の中に生きている。』☆ h27.6.14
『人間は実在の中に生きている。』だから、人間は実在を認識し、実在の中で行動し、実在の中で幸福になればいいのである。
人間は見かけだけの世界にも、作り話の世界にも生きていない。だから、いくら見かけだけの世界や作り話の世界のことをよく知っても、実在のことがわからないから実在に適応できず幸福にはなれない。だから、「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやってはいけないのである。
『科学と数学と道徳の全部がある文化』では、人間が実在に目を向けて、頭で実在について考えて、自分の心を実在に従わせる。だから、人間が実在の中で幸福に暮らせるのである。
つまり、『人間が実在の中に生きている』ことと『科学と数学と道徳の全部がある文化』とは論理的に同値なのである。
これまでヨーロッパ人は見かけだけの世界に生きてきた。インド人や中国人は作り話の世界に生きてきた。どちらも実在の外で生きてきたので幸福にはなれなかった。一方、日本人は実在の世界に生きてきた。日本人は実在の中で生きてきたので幸福だった。人間は実在の中で生きることによって幸福になれる。それは人類共通の普遍的[ふへんてき]真理である。だから、世界中のみんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやればいいのである。
最近の人はコンピューターゲームのやりすぎで「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」に取り付かれているのである。ゲームのキャラクターはポリゴンだから見かけだけで中身がない。ゲームばっかりやっていると自分がゲームのキャラクターと一体化して「自分がポリゴンだ」と思って「人間が見かけだけだ」と思うのである。ゲームは架空の世界だから、「作り話のほうが面白い」と思うのである。ゲームをやりすぎて心がおかしくなっているのである。ゲームをしすぎて「人間が実在の外に生きている」と思っているから「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」がいいと思っているのである。いくらゲームが好きでも「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」では人間が幸福に生きていけない。だから、いいかげんで目を醒[さ]ましてゲームの世界から抜け出して、もっと実在について真剣に考えて『実在しかわからない文化』をやって「見かけしかわからない文化」や「作り話しかわからない文化」をやめねばならない。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反して悪いことをやっている政府や暴力団や宗教団体を倒している。それと同じように、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』に反して見かけや作り話をやっている者を倒している。ゲームをやりすぎている者を雇わないようにしてお金を与えないようにして倒している。国民みんなに逆らった者は国民みんなに倒される。だから、国民みんなに逆らわないほうがいい。
作り話ばっかり読んでいる者は現実逃避で陰気臭い。それと同じように、見かけばっかりやっている者も現実逃避で陰気臭い。心の世界や眼先の世界に逃げているだけである。世の中に陰気臭い雰囲気が強まると世の中が面白くなくなる。作り話の喜びも見かけの喜びも後ろめたい喜びである。実在の外に出るから後ろめたい気持ちになるのである。不幸になって行っているから後ろめたい気になるのである。満足してはいけない感情を満足しいるから後ろめたくなるのである。「みんながやっているから自分もやってもいい」と思っているのはまちがいである。今の国民みんなは本当は『科学と数学と道徳の全部がある文化』つまり『実在しかわからない文化』をやっている。『実在しかわからない文化』をやっている者は見かけや作り話をやらない。国民の一部の例外者が見かけや作りごとをやっているだけである。現実は作りごとや見かけを超えたところにある。『実在は心や五感を超えたところにある。』だから、人間は知覚を働かして実在を見て、実在の中で行動して、実在の中で自分の心を満足して喜べばいいのである。
[21928] 人間は『人間が実在の中に生きている』ことを守らないといけない。☆
h27.6.15
『人間は実在の中で生きている。』だから、人間は実在を知り、実在の中で行動し、実在の中で自分の心を満足しないといけない。それが人間にとっての正しい生き方である。
オナニーや麻薬は、自分の心を満足することだけが目的である。オナニーや麻薬は、実在を無視して自分の心のことしか考えていない。オナニーや麻薬は人間にとっての正しい生き方を犯している。だから、オナニーや麻薬はやってはいけないのである。オナニーや麻薬は精神分裂病の原因となることがあるが、たとえそうでなくてもやってはいけないことなのである。
ゲームも、オナニーや麻薬と同じように実在を無視して自分の心を満足することだけが目的である。だから、ゲームもやってはいけないのである。ゲームは勉強しなくなって成績が落ちる原因になることがあるが、たとえそうでなくてもやってはいけないことなのである。
見かけや作り話(マンガや小説)も、実在を無視して自分の心を満足することだけが目的だからやってはいけないのである。
人間は実在の中で自分の心を満足しないといけない。オナニーや麻薬やゲームや見かけや作り話は「実在の外にある喜び」だから満足してはいけないのである。人間は『実在の中にある喜び』を見つけてそれを満足して生きていかねばならないのである。『人間が実在の中に生きている』ことは真実だから、それを守らなければならない。
日本で麻薬が禁止されているのは、麻薬が『実在原理』(『人間が実在の中に生きている』という原理)に背[そむ]くからである。日本では自分の心の満足自体を目的としてはいけないのである。自分の心の満足そのものを目的とする行為はいけないのである。
女にとって『実在の中にある喜び』は子供を産む喜びぐらいしかない。あとは「実在の外にある汚い喜び」ばっかりである。男にとっては『実在の中にある喜び』はいくらでもある。だから、女よりも男のほうが幸せなのである。
今ではテレビやゲームが出来て『人間が実在の中に生きている』ことが守られにくくなっているけれども、『人間が実在の中に生きている』こと自体が変わったわけではない。人間はいつの時代でも実在の中に生きている。人間にとっての正しい生き方は昔も今も変わらない。人間は実在の中で生きていくのが正しいのである。だから、「実在の外にある喜び」を否定しないといけない。あるからといってなんでもかんでもやっていたらメチャクチャになって不幸になる。人間は“自分の生き方”を大切にしないといけない。実在の中で自分の心を満足する生き方を守らなければならない。自分の心の満足そのものを目的とする生き方はまちがっているからやってはいけない。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『実在しかわからない文化』をやっている。国民みんなから見ると私は善い人間には見えない。私は悪い人間に見えるだろう。私はこれまで子供の頃からずっと自分が意識して『実在しかわからない文化』をやって来なかった。私はこれまでずっと『『実在しかわからない文化』が日本の文化である』ことを知らずに自分の好き放題にやって中学3年生の頃にはオナニーに耽[ふけ]って高校1年生のときに隣りの不良が教科書のパラパラめくりをするのを見て腹を立てて頭の中でテレパシーで「パラパラめくりをやめろ!」と訴えたらその日の晩から近所の家から自分の悪口を言うのが聞こえてきて暴れるようになって精神分裂病に罹[かか]ってしまった。それ以来ずっと気分が悪く顔つきも不機嫌[ふきげん]になってしまった。子供の頃からいいかげん顔が悪いのにますます悪くなってしまった。顔が悪くなりすぎてしまった。私は子供の頃は『実在しかわからない文化』をやって凛々[りり]しい気分で実在の中でそこそこ幸福に暮らしていたが、中学3年生の頃にオナニーをやってから後はずっと心がイライラしたままで幸福な思いをしたことが一度もない。今の国民みんなから見ると私はとうてい善い人ではない。だから、今の国民みんなは私を殺すだろう。国民みんなから見ると私は見かけや作りごとをやっている人よりも悪い人に見えるだろう。政府や暴力団や宗教団体よりも悪い人に見えるだろう。しかし、私は日本の国民みんなの文化が正しいことを認める。私も子供のころはそうしていて楽しかった。私は日本の国民みんなに喜んで殺されよう。
『人間が実在の中にいる』ことは人間が幸福に生きていくための方法である。人間の心は実在の中で生きることに最適化されている。人間の心は実在の中にいるときにもっとも楽しい気分になれるように出来ている。だから、人間が幸福に生きるためには『人間が実在の中にいる』ことを守ればいい。しかし、今の世の中には「実在の外にある物」があふれている。「人間を実在の外に出す物」がたくさん売られている。人間を不幸にする物がたくさん売られている。人間は実在の中にあることをやって実在の外にあることをやらなければ幸福になれる。国民みんなは自分が幸福に暮らすためにそういう物を買わないようにしなければならない。国民みんなはみんな(自分や他人)が幸福に暮らすために『実在の中にいる』ことをみんなに守らせねばならない。
[21929] どうして私は政府のことについて考えたのか? h27.6.15
私は国家宗教の神だが、政府との関わりは何もない。政府がたまに私の周囲にいる人(親や友達)に命令して間接的に私にいろんなちょっかいを出すことがあるだけである。例えば、私の父親が突然私と3分間だけキャッチボールをしたり(『巨人の星』のネタ)、私の母親が急に私と弟を連れて鏡川(高知市の中央を流れる川)に釣りに行ったりした(『釣りキチ三平』のネタ)ことぐらいである。
今から10年ぐらい前に私が葦[あし]プロアニメ『アイドル天使ようこそようこ』を見ていたとき、主人公の田中ようこが私と同じことをやっていることに気づいた。私は小学4年生の頃に母親から「昔鴨部[かもべ](高知市朝倉の地名)に住んでいた頃夜中に突然私の頭の上に吊ってあったガラガラが回った」話を聞いたことがあったので、私が持っていたおぼろげな国家宗教の知識と照らし合わせて『私が国家宗教の神である』と考えたのである。私が他人から直接に国家宗教の神だと言われたことはない。私は今ではガラガラが回ったのは私の母親が見た錯覚ではないかと考えている。ガラガラの模様が北岡明佳[きたおかあきよし]氏の“蛇[へび]の回転”の模様(リンク)に似ているために、私の母親にはガラガラが回ったように見えたのだろう。
私が『私が国家宗教の神である』と考えると、私には日航機123便墜落事故や高知学芸高校上海列車事故やオウム真理教地下鉄サリン事件や福知山線列車事故などが政府が天皇や私を神とする国家宗教で起こした事件や事故であると確信できた。一般人には確信できないが、私には確信できた。私は自分の確信を活かせば国家宗教や政府について普通の人よりもよくわかるのではないかと考えて、仕事を辞めて国家宗教や政府について考えることにした。
私は約8年間年がら年中毎日朝から晩までずっと国家宗教や政府について考え続けた。その結果、『政府が昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやる国家機関であり、今の国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、今の国民みんなが政府に善いことだけをやらせて悪いことをやらさないようにして、政府に税金を払わないようにして政府を倒している。』ことがわかった。それなら、国民みんながみんなに教えてくれればいいのに、国民みんなは無口だから黙って政府に税金を払わずに政府を倒すだけで他人には何も教えてくれないのである。そのために、私は8年間もの時間を費やしてしまった。国民みんながみんなに『今の国民は政府に税金を払わなくていい』ことを教えながら政府を倒していれば、私は自分で政府のことなんか考えずに仕事をし続ければよかったのである。ずっと仕事をすることができたのである。国民みんなが意地悪[いじわる]だから、子供の頃から社会科の苦手な私がわざわざ政府のことについて考えねばならなかったので莫大[ばくだい]な時間を費やしてしまったのである。日本人は他人が不良に虐[いじ]められていても見て見ぬふりをする。日本人は他人のことにはかまわない。そのために、今の日本では国民みんなが自分で世の中を見て考えて『今の国民が政府に税金を払わずに政府を倒さねばならない』ことがわかって自分で黙って政府に税金を払うのをやめて政府を倒しているのである。
私が仕事を辞めている間は家族の仕送りで生活してきた。最初の1年間は自分の貯金で暮らしていたが、その後は家族からの仕送りに頼っていた。私の父親が一昨年前に死んで今では年金も入らず家族の貯金だけで暮らしている。その貯金も底を突きかけている(母親が詳しく話してくれないので、いくらあるかはわからない)。今の私は51歳なので、ほとんど仕事がない。この前は私がまだ31歳だったから若かったからたくさん仕事があったからがんばる気になったが、今はほとんど仕事がないからがんばる気にはなれない。たとえ私が仕事に就いたとしても、苦しいことがあるだけで楽しいことは何もない。早く死んだほうがマシだ。人間50を超えると身体も頭も疲れてちょっとのことでもしんどい。苦しさが増すばかりで楽しさが減るだけだ。この先生きていてもやることが何もない。そのため、今の私は仕事をするよりも死ぬことを考えている。
[21930] 人間は実在の中で楽しまねばならない。 h27.6.15
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。『実在の中にいる文化』をやっている。
ところが、私は長いこと『実在の中にいる文化』をやって来なかった。私は子供の頃は『実在の中にいる文化』をやって善い子で通っていた。国民みんなに愛されていた。しかし、思春期にオナニーをやってからは実在の外で暮らすようになった。自分が実在の中にいることを目的とせず自分の心の満足だけを目的とするようになった。学生時代はアニメばかり見て、仕事をするようになってからはアニメとゲームばっかりやっていた。私は思春期から後は「実在の外にいる文化」をやって悪い子で通っている。国民みんなに嫌われている。
アニメやゲームは「実在の外にいる文化」である。自分の心の満足だけを目的にして自分が実在の中にいることを目的としていない。人間が自分の心だけを働かせて、自分の知覚を働かせていない。人間にとっては実在の中で自分の心を満足するのは善いことだが、実在を無視して自分の心だけ満足するのはいけないことである。アジアは「実在に目を向けない文化」である。アジアには「実在の外にいる文化」がいっぱいある。そこがいけない。そこがアジア文化の欠点である。反対に、ヨーロッパは『実在に目を向ける文化』である。ヨーロッパ人は眼で見ることしかわからないながらも、『自分が実在の中にいる』ようにしながら楽しんでいる。そこがいい。そこがヨーロッパ文化の長所である。アメリカ文化はヨーロッパ文化とアジア文化の両方だから、アジア文化と同じように「実在の外にいる文化」がたくさんある。そこがいけない。アメリカ文化の短所である。日本人は自分の“知覚で見る才能”を活かして、ヨーロッパ文化を改良して、ヨーロッパ人よりもさらに実在に踏み込んで実在の中で楽しんでいる。
人間にとっては実在の中で自分の心を満足するのが善い生き方であり、実在を無視して自分の心を満足するのが悪い生き方である。生き方の問題である。実在の中で自分の心を満足しても実在を無視して自分の心を満足しても自分の心が満足されることに変わりはないが、そもそも実在の中にいないことがいけないのである。人間が実在の外に出たら死んでしまう。だから、人間は『実在の中にいる』ことを守りながら楽しまねばならないのである。人間は実在に目を向けながら、実在の中で楽しまねばならないのである。人間が実在の外に出たら死んでしまう。だから、「実在の外にある喜び」は病的な喜びなのである。人間の心には『自分が実在の中にいることを喜ぶ感情(実在欲)』がある。自分が実在の中にいると愉快[ゆかい]になり自分が実在の外に出ると不快に思う感情がある。だから、ゲームやマンガをやると表面的には楽しいが、『自分が実在の中にいることを喜ぶ感情』が満足されなくなって楽しくないのである。ゲームやマンガをやると後ろめたい気持ちがして純粋に楽しくないのはそのためである。ゲームやマンガは『人間としての正しい生き方』に反しているからいけないのである。人間にとっては心よりも五感や知覚を優先しなければならないのであり、ゲームやマンガはそのことを犯しているからいけないのである。オナニーや麻薬もそうである。人間の心には『心よりも五感や知覚を優先する感情』があり、それが『実在の中にいる喜び』であり、その感情を大事にしないといけないのである。人間は『実在の中にいる喜び』を大事にして「実在の外にある喜び」を満足しないようにしないといけない。
『人間が実在の中にいる』ことは真理である。だから、人間は『人間が実在の中にいる』ことを守らねばならない。人間は『自分が実在の中にいる』ことを守りながら自分の心を満足して楽しまねばならない。人間が幸福になるためにはルールが要る。どうでもやっていたら不幸になる。そのルールが『実在の中にいる』ことであり、『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやることである。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。だから、ゲームやマンガは本当は国家公認ではない。ゲームやマンガはテレビや新聞では国民みんながやっているみたいに言っているけれども、本当は国民みんなはやっていない。国民みんなはゲームやマンガが嫌いである。ゲームやマンガをやっていると国民みんなに嫌われる。社会の仲間はずれにされて雇[やと]ってもらえなくなってお金をもらえなくなって殺される。オナニーや麻薬も国家公認ではない。私が言うまでもなく、昔から国民みんなは実在の中で喜ぶようにしている。日本はいったんヨーロッパ文化やアジア文化をそのままの形で取り入れるが、その後で自分で改良して自分がもっと幸福に暮らせる文化にしている。アジア文化では頭で考える。ヨーロッパ文化は実在に目を向ける。だから、日本はヨーロッパ文化とアジア文化を一つにして『頭で考えて実在を見る文化』にしたのである。テレビや新聞のニュースはコマーシャルである。テレビ局や新聞社は自分が儲[もう]けるために嘘[うそ]の情報を流している。あることないこと流している。みんなはテレビや新聞の嘘の情報に惑[まど]わされないようにして、自分の眼で国民みんながやっていることを見て、自分の頭で国民みんなが考えていることを理解して、国民みんなの考えに従って暮らさねばならない。
人間の心には『実在の中にいる喜び(実在欲)』がある。人間は『実在の中にいる喜び』を働かして実在を知る。人間は自分の五感と知覚と心のすべてを使って実在を知らねばならないのである。
要するに、人間は「自分の心を満足する」ことよりも『自分が実在の中にいる』ことつまり『自分が生きる』ことを優先しなければならない。それが人間としての正しい生き方である。だから、『命あっての物種[ものだね]』と言うのである。つまり、人間はまず生きていなければ始まらないのである。人間の心は人間が生まれつき持っている実在についての認識にすぎない。人間の心にはまちがいがたくさんある。心で楽しく思うことが正しく、心で不快に思うことがまちがっているとはかぎらない。心で楽しく思ってもまちがいであり、心で不快に思っても正しいことはいっぱいある。人間の五感や知覚のほうが正しい。人間の五感や知覚のほうが心よりも実在のことをよく知っている。しょせん心とはその程度のものにすぎない。心を大事にしすぎてはいけない。人間は『自分が実在の中にいる』ことを「自分の心を満足する」ことよりも優先しないといけない。人間は「自分の心を満足する」ことを『自分が実在の中にいる』ことよりも優先してはいけない。つまり、人間は実在の中で楽しんで、実在の外で楽しんではいけない。『人間は実在の中に生きている』から、人間は実在の中で自分の心を満足すべきであって、実在の外で満足してはいけない。それが人間にとっての正しい生き方である。
『人間の五感よりも知覚のほうが正しい。』ヨーロッパ人は五感が発達しているので、眼で見えることをそのまま正しいと信じ込んでしまうので、眼で見える世界では「物を押さなければ止まる」ので、ヨーロッパではみんなが長い間「物を押さなければ止まる」ことが正しいと信じていた。ところがイタリア人は変わっていてヨーロッパ人に比べて知覚が強いのでガリレオは『物は永遠にまっすぐ進む』ことが正しいと考えた。ものすごいイメージである。眼で見える世界を超えているところがすばらしい。こうして近代科学が始まったのである。『人間の五感よりも知覚のほうが正しい。』日本人は昔からそのことをよく知っていて、五感よりも知覚で実在を見るようにしてきたのである。だから、日本では嘘が通用しにくい。テレビや新聞がいくら嘘を言っても国民を騙[だま]すことはできないのである。逆に、テレビ局や新聞社が国民みんなに嫌われて潰[つぶ]されるだけである。そもそもテレビ局も新聞社も国民みんなと同じ人間である。テレビ局や新聞社が国民みんなよりも賢いわけがない。だから、テレビ局や新聞社が国民みんなを騙すことなどできるわけがない。国民みんなを騙すことができると思っているほうが馬鹿である。最近のテレビ局や新聞社が馬鹿になっているのである。
[21931] 人間は『実在に心が従わねばならない』と考えたほうが幸福に生きられる。
h27.6.16
私は中学3年生の2学期頃からオナニーに耽[ふけ]って、高校1年生のときに隣りの席の不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをしているのを見て腹を立ててパラパラめくりをやめさせるためにテレパシーで「パラパラめくりをするな!」と訴えて精神分裂病に罹[かか]ってしまった。
しかし、じつは私が小学5〜6年生の頃から「人間は自分の心を満足するために生きている」と考えるようになっていた。当時の社会の雰囲気を汲[く]んだせいかもしれない。テレビや新聞のせいかもしれない。私の父親が作り話の本ばかり読んでいたせいかもしれない。私がそんな考えだったから、中学3年生のころにオナニーが楽しいという理由だけでオナニーをするようになったのだろう。
しかし、そもそも『人間は生きているから自分の心が満足できる』のである。「人間が自分の心を満足するために生きている」のでは本末転倒である。人間は生きているからこそ自分の心が満足できるのだ。人間は実在の中にいるからこそ自分の心が満足できるのだ。「人間が自分の心を満足するために生きている」という考えでは自分の足元が見えていない。人間が自分の心を満足するためには、まず自分が実在の中にいなければならない。自分が実在の中にいるのなら、実在の中で自分の心を満足しないといけない。
自分の心を満足することそのものを目的にしてはいけないのである。自分の心に実在を従わせようとしてはいけないのである。逆に、実在に自分の心を従わせるようにしなければならない。それは、そもそも心というものが自分の脳の神経興奮に伴って発生する感覚にすぎないからである。「人間が自分の心を満足するために生きている」のなら、実在のすべてを自分の心に従わせなければならなくなる。しかし、現実には自分の心に実在のすべてを従わせるのは無理である。実際には、自分の心に従わない実在がいっぱいある。「人間が自分の心を満足するために生きている」という生き方では人間はとうてい生きていけない。だから、人間は頭で『心が実在に従わねばならない』と考えて、自分の心を実在に従わせなければならないのである。そういう生き方なら、人間はいくらでもうまく生きて行って自分の心を満足して幸せになれる。だから、人間は『人間は実在の中で自分の心を満足する』と考えねばならない。「人間は何のために生きているか?」と訊[き]かれたら、『実在の中にいるためだ』と答えねばならない。人間は自分が実在の中にいるために自分の心を満足して幸福でなければならないのだ。
私が小学5〜6年生の頃に『人間が実在の中で自分の心を満足する』と考えていたら、人間の心は実在に従わねばならないと考えて、実在の中で自分の趣味(例えば、釣りやゴルフ)を見つけておとなしく自分の心を満足して幸福に生きていけただろう。
私が若ければこういうことは考え甲斐[がい]があるのだが、今の私は51歳で歳を取っているのですでに人生の大半がすんでいるのでいまさらこんなことを考えてもしかたがない。空しい。人間年を取ると喜びも減る。今の私にはわざわざ自分が生きていて満足したいほどの喜びなんかない。早く身体も心も死んでしまったほうがいい。
私が小学生の頃に私に『人間が実在の中で自分の心を満足しないといけない』ことを教えてくれる人がいたなら、私は中学3年生のときにオナニーなんかせず、高校1年生のときに精神分裂病なんかに罹らず、一生幸福に暮らすことができただろう。私が小学生の頃に社会全体が『実在の中で自分の心を満足する』雰囲気だったら、私は自分で考えて『人間が実在の中で自分の心を満足しないといけない』ことを理解してそうして死ぬまで幸せに暮らすことができただろう。しかし、実際には私にそんなことを教えてくれる人はなく、子供の頃の私にはまだ国民みんなが『実在の中で自分の心を満足している』ことを理解することはできなかった。そのために、私は死ぬまで不幸に暮らさなければならなくなった。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『実在の中で自分の心を満足している。』だから、国民みんなは幸福に暮らすことができるのだ。しかし、テレビや新聞では「今の国民みんなが「科学も数学も道徳も何にもない文化」をやっている」ことを報道している。テレビや新聞は「今の国民みんながゲームやマンガや見かけをやって実在の外で自分の心を満足している」ことを流している。日本では国民みんなは無口だから自分ひとりで黙々[もくもく]と『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているだけである。国民みんなは他人にしゃべらず黙って『実在の中で自分の心を満足している』だけである。そのため、社会について考えない人(子供や女や老人などの馬鹿な人)はかわいそうにテレビや新聞の嘘[うそ]の報道に負けてゲームやマンガや見かけをやって実在の外で自分の心を満足して自分では幸福なつもりで本当は不幸になっている。馬鹿な人が国民みんながやっていることがわからず自分で自分を不幸にしている。いつの時代にも少数の馬鹿はいるものである。それが現実の社会である。馬鹿は自分で自分を不幸にしている。馬鹿がいない社会なんかない。だから、馬鹿が馬鹿なことをすることにいちいち文句をつけてはいけない。国民みんなは賢いから、自分で『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって『実在の中で自分の心を満足して』幸福に暮らしている。私は子供の頃から理科や数学は得意だったが、社会科が弱かったので国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっていることや『実在の中で自分の心を満足している』ことを知らなかった。そのため、私は国民みんなと違うことをやって不幸に暮らさなければならない羽目[はめ]になった。馬鹿が自分で自分を不幸にするとはこのことだ。子供の頃の私は道徳や哲学にあまり詳しくなかったので、国民みんなの考えを理解することができなかった。ゲームやマンガや見かけをやっている人は自分を幸福にするために早く国民みんながやっていることを理解して国民みんなに従ってゲームやマンガや見かけをやめて『実在の中で楽しむ』ようにしないといけない。
テレビや新聞は国民みんなにウケるために嘘の記事を載せているのである。「いい年したサラリーマンが電車の中でマンガを読んでいる」とか「オヤジがスマホでゲームをやっている」とか「税金を払わない国民が罰せられた」とか「暴力団が金回りがいい」などという意外性のある記事を載せるとテレビや新聞が国民みんなによく売れるので奇をてらった記事を載せているのである。だから、本当は『大人はマンガなんか読んでいない』し『オヤジはゲームなんかしない』し『今の国民は政府に税金を払わなくていい』し『今の暴力団は金回りが悪い』のである。(大人は実在がわかっているのでマンガを読んでもすぐに嘘だとわかるから楽しめない。だから、大人はマンガを読まない。反対に、子供はまだ実在がわかっていないから、マンガを読んでも嘘だとわからないから楽しめるからマンガを読むのだ。だから、電車の中でマンガを読んでいる大人なんかいないのだ。ゲームについても同じことである。)本当は今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっていて『実在の中で心を満足している』し『政府や暴力団や宗教団体などの悪い団体を倒している』のである。テレビや新聞はフィクションの世界なのである。国民みんなはテレビや新聞がフィクションだと思って本気にせずに見て喜んでいるのである。そんなものにお金を出すのがばかばかしいと思ってテレビや新聞を買わなくなってテレビ局や新聞社を潰[つぶ]しているのである。だから、みんなはテレビや新聞の記事をけっして真[ま]に受けてはいけない。
[21932] 「人間が自分の心を満足するために生きている」と考えることは不幸のもとである。☆
h27.6.16
私は小学5〜6年生の頃「人間は自分の心を満足するために生きている」と思っていた。それ以前は何も考えていなかった。だから、子供の頃の私は道徳がなかった。「人間が自分の心を満足するために生きている」のなら、自分の心を満足するためには何でもやっていいから道徳がないのである。
一方、『人間は実在の中で自分の心を満足しないといけない』のなら、人間は実在の中で満足できる心だけを満足して、実在の中で満足できない心を満足しないから、道徳がある。実在の中で満足できる心が善い心であり、実在の中で満足できない心が悪い心である。例えば、実在においては『人間がみな平等である』ことが真理であるから、『人間がみな平等である』ことを守って他人と自由に契約を取って他人からお金をもらって他人に仕事をすることが善いことであり、反対に『人間がみな平等である』ことを守らず無理やり他人からお金を取ったり他人を殺したりするのが悪いことである。他人と平等にして他人からお金をもらって他人のために働きたい心が善い心であり、無理やり他人からお金を取ったり他人を殺したりしたい心が悪の心である。心を善悪に分けるのは実在であり、実在の中において人間が生きるときはじめて心が善と悪に分かれて、人間は善の心だけ満足して悪の心を満足してはいけないことになるのである。私が子供の頃には「人間は自分の心を満足するために生きている」と考えていたから、「人間が実在の中で生きていなかった」から、心に善悪の区別がなく、自分の心を何でも満足していいと思っていたからオナニーをやって喜んでいたのである。私が高校1年生のとき、隣の席の不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをするのを見て腹を立ててテレパシーで「パラパラめくりをやめろ」と訴えてパラパラめくりをやめさせようとしたのも、自分ができないことを無理やりしようとしたのであり、自分の心を何でも満足してもいいと思っていたせいである。そんなことのために私は精神分裂病に罹[かか]ってしまったのである。子供の頃の私が「人間が自分の心を満足するために生きている」と考えたせいで、私は気が狂って死ぬまで不幸になってしまったのである。だから、そんな考えはけっしてしてはいけないのである。
つまり、「人間は自分の心を満足するために生きている」のではなく、『人間は実在の中で自分の心を満足するために生きている』のである。子供の頃の私は“実在の中で”という言葉がわからなかったために自分の心を何でもかんでも満足してもいいと思うようになって挙句[あげく]の果てに気が狂ってしまったのである。
『人間は実在の中で自分の心を満足しなければならない。』このことを守れば人間は幸せに生きて行くことができる。『人間が実在の中で自分の心を満足する』ためには、人間は自分の心を実在に従わせなければならない。人間は自分の心を実在に従わせて、実在の中で満足できる心だけを満足して幸福になればいい。人間は実在の中で満足できない心を満足しようとしなければ幸福になれる。そういう生き方でちゃんと生きていけばこの世は天国である。反対に、「人間が自分の心を満足するために生きている」と考えて、人間が実在の中で満足できない心を満足しようとするから心が満足できずに不満になって不幸になるのである。だから、人間は実在の中で満足できる心だけを満足して幸福になればいいのである。そういう決まりで生きていけば、人間は幸福に生きられるのである。
最近は世の中に道徳が薄れてきて道徳を知らない人が増えて、『人間が実在の中で自分の心を満足しなければならない』ことを知らない人が増えて「人間が自分の心を満足するために生きている」と思っている人が増えている。そのために、多くの人々が不幸になっている。『人間が実在の中で自分の心を満足しなければならない』ことは釈迦[しゃか]か誰かが言ったことである。だから、今の人は道徳をよく勉強して、自分が幸福に生きられるようにしないといけない。
男の子は外で遊ぶことによって自分の心を実在に従わせることを学んでいるのである。外で遊ぶことは『実在の中で自分の心を満足する』ことである。男は子供の頃に自分の心を実在に従わせる訓練をしているから男は大人になって幸福に生きられるのだ。反対に、最近の男の子はゲームばっかりで遊んでいるから自分の心を実在に従わせる訓練をしていない。そのために、自分の心に実在を従わせようとして、実在が自分の心に従わず、心が満足されなくなって不満満面[ふまんまんめん]になって不幸に暮らしているのである。いくら今の時代にゲームがあるからといって、人間はゲームの中で生きることはできない。今も昔と同じように人間は実在の中で生きるしかない。いくら科学が発達しても人間が実在を支配することはできない。人間が実在を自分の思い通りにすることはできない。人間はいつまでも永遠に実在に従わねばならない。だから、人間は自分の心を実在に従わせねばならない。そうすれば、人間は実在の中で幸福に暮らせるのである。人間にとっては実在は自分の思い通りにならないが、自分の心は自分の思い通りになる。自分の心は自分の心を荷[にな]っている脳細胞の神経興奮に伴って発生する感覚だから、自分の知覚野[ちかくや]にある脳細胞が神経線維を介して自分の心野[こころや]にある脳細胞の神経興奮を調節することによって心を働かせたり抑[おさ]えたりすることができる。人間は自分の心を実在に従わせて、実在の中で満足できる心だけを働かせて満足して幸福になって、実在の中で満足できない心を抑えて満足しないようにして不幸にならなければいい。そういうふうに生きていけば実在の中で楽しく暮らせる。そういうふうに生きていることを幸せに生きると言うのである。物をたくさん持っていて物が豊かなことが幸せなのではない。人間が幸福に生きられるかどうかは“生き方”の問題であって、物を持っているかどうかの問題ではない。だから、親が子供を幸せにしたければ、子供に“人間が幸せに生きられる生き方”を教えて与えればいいのであって、子供にいくら物を買い与えても無駄[むだ]である。

[21933] 今は「コンピューターゲーム文化」の時代である? h27.6.17
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今では世界中の国で国民みんながひと通り科学と数学と道徳の全部を勉強した後で、自分の得意なことをやるようにしている。
日本は近代に国民みんながヨーロッパを真似[まね]て「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていた。そのために、国民みんなが悪いことをするようになって政府や暴力団や宗教団体も国民みんなに悪いことをやっていた。昭和40年(西暦1965年)頃[ごろ]になって国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』に変わって、国民みんなが善いことをするようになって多くの暴力団や宗教団体が自主的に解散して滅んだが、今でも政府や一部の暴力団や宗教団体がしぶとく残っている。今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に善いことだけさせて悪いことをさせないようにして政府や暴力団や宗教団体が滅んでいる。
今はコンピューターが発達してコンピューターゲームが進歩している。そのために、多くの国民がコンピューターゲームで遊んで「科学と数学と道徳の全部がない文化」をやるようになっている。多くの国民が実在に目を向けず頭で考えず自分のやりたい放題に暮らすようになっている。多くの国民がコンピューターゲームにかぶれて活字の本を読まなくなってマンガを読んだり自分の中身よりも見かけにこだわるようになっている。今の国民みんなは多くの国民に『科学と数学と道徳の全部がある文化』を勧[すす]めて実在に目を向けて頭で考えて実在を理解して実在の中で自分の心を満足することを推奨[すいしょう]している。コンピューターゲーム文化は近代の「科学と数学があって道徳がない文化」よりも悪質である。コンピューターゲーム文化は人間のクズを作り出すだけである。人間を廃人にするだけである。人間を不幸のどん底に突き落とすだけである。
コンピューターゲームなんかいっとき面白いだけである。私もエレクトロニックアーツ社の『バトルフィールドシリーズ』(1942(1年半)→ベトナム(半年)→2(3年)→2142(半年)→モダンコンバット(1年)→2(2年)→バッドカンパニー2(3ヶ月)→3(1年)まで)を10年ぐらいやっていたが、さすがに同じことをやるのに飽[あ]きてうんざりしてやめてしまった。
今はコンピューターゲーム文化が盛りだが、そのうち国民みんなが飽きてやめてしまうだろう。国民みんなが「科学と数学と道徳の全部がない文化」をやめて『科学と数学と道徳の全部がある文化』に戻るだろう。そもそも実在の中で実在でないことをやるのは無理である。実在の中で実在でないことをやっても本気で楽しくなれない。だから、そんなものはいっときだけで終わってしまうのだ。人間は実在の中にいるときが一番楽しい。だから、実在の中で遊べばいいのだ。
「科学と数学があって道徳がない文化」は物やお金が豊かになって物質的な暮らしが楽になるからいいが、ゲーム文化つまり「科学も数学も道徳も全部がない文化」はゲームがたくさん出来てゲームが豊かになるだけで余計な物が増えて必要な物が減るからいけない。人間がゲームの世界で楽しくなるだけで、実在の世界で楽しくなくなるからいけない。人間が実在の世界とゲームの世界の二つの世界で楽しさを二分するよりも、実在の世界一本に絞[しぼ]って実在の世界だけで楽しく暮らせるほうがいい。人間が実在の世界とゲームの世界の両方で暮らしたらお互いの楽しさを相殺[そうさい]して楽しさがなくなるだけである。それよりも実在の世界の中で娯楽施設を増やして実在の世界の中で楽しく暮らせるようにしたほうが楽しめる。特に日本はお金持ちの国ではない。少ない資本を実在の世界とゲームの世界の2つで分けたら資本が半分になって両方とも貧乏臭くなって面白くなくなる。それよりも実在だけに資本をかけたほうがもっと面白いことがやれる。人間は実在の中に生きている。実在の世界は遊びにも仕事にも何にでも使える。人間は実在の世界の中で仕事をしてお金を儲けて実在の世界について考えて実在の世界を知って実在の中で楽しく遊んで幸福に暮らせばいいのである。それから、ゲームは意外にお金を食う。ゲームやマンガやアニメで遊ぶとすごくお金がかかる。私が働いていたときもヤフーオークションの中古のアニメDVDやアニメグッズに莫大[ばくだい]なお金をかけて給料の大半を費やしてお金がほとんど残らなかった。一方、実在の中での遊びは初期投資がちょっとかかるだけでそれ以後はほとんどお金がかからない。ゲームやアニメを遊びにするよりも実在を遊びにしたほうがはるかに安上がりだ。国民みんなの貯金が増えるからそれだけ国の産業が発展する。その上、実在の中で遊ぶと身体を動かすから健康にもいい。だから、国民みんなはゲームやアニメなどの架空の世界の遊びをやめて、実在の世界の中で遊ぶようにしないといけない。
最近はアニメブームが終わっている。ヤフーオークションに昔のアニメDVDやアニメグッズを出品しても安く落札されるだけだ。昔の10分の1ぐらいの値段でしか落札されない(泣)。それに昔は「タイムボカン」や「うる星やつら」や「エヴァンゲリオン」など面白いアニメがいっぱいあったが、最近はない。最近はみんながアニメを見なくなったために、アニメにお金が回らなくなって面白いアニメがないのだ。だから、最近はゲームブームもすでに終わっているだろう。アマゾンで見ても最近はあまり面白いゲームソフトがない。最近はみんながゲームをやらなくなったために、ゲームにお金が回らなくなって面白いゲームがないのだ。最近はコンピューターゲーム文化の時代ではない。架空文化の時代ではない。実在文化の時代だ。最近は多くの国民が「科学や数学や道徳のない文化」をやめて『科学と数学と道徳の全部がある文化』に戻っている。
[21934] 私はどうして友達がいないのか? h27.6.17
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。実在文化をやっている。
ところが、これまで私はそんな文化をやっていない。私は子供の頃には「人間が自分の心を満足するために生きている」と思っていたから「人間が物を使って自分の心を満足すればいい」と思っていたから「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていた。大人になってからはアニメやゲームにハマっていたから、「科学も数学も道徳も全部がない文化」もやっていた。架空文化をやっていた。
つまり、私はこれまでまったく『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやってこなかった。私は『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやってきた人間ではない。これまで私は国民みんなと違う文化をやってきた。だから、私は国民みんなと気が合わず、私は子供の頃から友達がいなかったのである。
今の国民みんなから見て私はとうてい善い人ではない。私は政府や暴力団や宗教団体や見かけや作り話をやっている人と変わりない。だから、今の国民みんなは私を雇わず私に金をやらず私を殺すだろう。それが正しい。
どうせ私が仕事に就いたって、毎日毎日朝から晩まできつい仕事で苦しい思いをするだけで楽しいことがなんにもない。私が仕事に就いても私は不幸になるだけで幸福にはならない。だから、私は仕事に就く気にならないのである。私が死ねば楽しい思いができなくなるが苦しい思いもせずにすむ。私が仕事に就けば楽しい思いがない上に苦しい思いをしなければならない。私が仕事に就くよりも死んだほうが苦しみがないぶん得である。私にとっては仕事に就くよりも死んだほうが幸せである。だから、私は仕事に就こうとしないのである。私の心は「自分が仕事に就いて苦しい思いをするのが嫌だ」と思っているので仕事に就く気にならないのである。私の心は「自分が死んで苦しい思いをしなくなったほうがいい」と思っているので死のうとしているのである。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。実在の中で自分の心を満足している。ところが、私は子供の頃から実在の中だろうが外だろうかかまわずにとにかく自分の心を満足してきた。私は「科学と数学があって道徳がない」タイプの人間である。いまさら私が自分の文化を変えたところでどうにもならない。私の身体には「科学と数学があって道徳がない文化」がしみこんでいる。私は長年国民みんなに反してきた。ソクラテスの例のように国においては国民みんなに従わない者は死なねばならない。したがって、私は死なねばならない。子供の頃の私が国民みんなの文化を理解できなかったことが私の死因である。
[21935] 人間はどうすれば幸福になれるか? h27.6.18
人間は実在の中に存在する。人間は実在の中で生きている。
人間の感覚(感じること)は脳細胞の神経興奮によって発生する。
人間の心は大脳の前頭葉にある脳細胞の神経興奮に伴って発生する感覚にすぎない。
人間の心は人間が生まれつき持っている実在についての認識にすぎない。
だから、人間の心が実在を従わせることはできない。人間の心が実在に従わねばならない。
人間の心には実在に従う心と実在に従わない心がある。
人間が自分の実在に従う心を働かせると自分の実在に従う心が満足されて幸福になる。反対に、人間が自分の実在に従う心を働かさないと自分の実在に従う心が満足されなくなって幸福がなくなる。
人間が自分の実在に従わない心を働かせると自分の実在に従わない心が満足されず不満になって不幸になる。反対に、人間が自分の実在に従わない心を働かせないと自分の実在に従わない心が不満にならず不幸にならない。
要するに、人間は自分の実在に従う心を働かせて、自分の実在に従わない心を働かさなければ幸福になれる。
人間が幸福になるためには実在を知らねばならない。実在を知って、自分の知覚にある脳細胞が神経線維を介して自分の心にある脳細胞の神経興奮を調節して自分の実在に従う心だけを働かせて自分の実在に従わない心を働かさないようにしないといけない。
人間が幸福になるためには、人間が実在を知らねばならない。だから、人間は実在に目を向け実在を考えるのである。人間は自分が幸福になるために、実在を知るのである。
例えば、世の中には“不良”がいる。みんながみんな正しいことをするわけではない。まちがったことをする者もいる。それが実在である。『世の中には不良がいる』ことが実在における真理である。『すべての人が善良なわけではない』ことがこの世の真理である。だから、授業中に教科書のパラパラめくりをする者を見たら『その者が不良だ』と考えて腹を立ててはいけない。見かけにこだわっている者を見たら『その者が不良だ』と考えて腹を立ててはいけない。作り話に耽[ふけ]っている者を見たら『その者が不良だ』と考えて腹を立ててはいけない。本来は人間が頭で考えて実在を見るのが正しいのであって、見かけや作り話にとらわれているほうがまちがっている。見かけや作り話を見ているのがまちがっている。だから、見かけや作り話にとらわれている者は不良なのである。まちがっている者が正しい者に文句をつけているのである。人間にとっては“他人のまちがいを許す心”が肝心[かんじん]なのである。
『人間の心は大脳前頭葉にある脳細胞の神経興奮に伴って発生する感覚である』から、そもそも人間が幸福であるためには、自分の脳をよく働くようにしなければならない。いつでも自分の脳にとっていい食べ物を食べて自分の脳がよく働くようにしておかねばならない。美味[おい]しいお米を食べて変な米を食べてはいけない。インスタントラーメンやスナック菓子などを食べてはいけない。豚肉やピーナッツなどを食べねばならない。
今は科学の時代だから、実在の中にある喜びがたくさんある。人間は実在の中で十分幸福になれる。人間は自分の実在に従う心を働かせて幸福になれる。今は科学の時代だから、みんなで実在の中にある喜びを増やして、みんなが実在の中で幸せに暮らせる国にしないといけない。
ヨーロッパ人が見かけにこだわるのはヨーロッパ人が五感が発達しているために見かけの喜びが強いからである。中国人が作り話にこだわるのは中国人が心が発達しているために作り話の喜びが強いからである。日本人は知覚が発達しているが、五感や心は発達していない。だから、日本人は見かけの喜びも作り話の喜びも強くない。日本人が見かけや作り話にこだわっても無駄[むだ]である。空[から]喜びしかない。形の上でやっているだけで本当に心が喜んでいない。作り笑いをするだけで本心では喜んでいない。日本人は知覚が発達しているから実在の喜びが強い。だから、日本人は実在にこだわればいいのである。そうすれば、日本人は幸せになれる。人種や民族によって感性が違う。人間は自分の脳に合ったことをやって喜ばねばならない。
私は今博多[はかた]に住んでいる。(博多とは福岡市のことである。福岡というと福岡県のことになる。)博多は中国に近いので中国文化の影響が強い。中国文化は心の文化であり、心は曖昧模糊[あいまいもこ]なので、中国文化は曖昧である。だから、博多の文化も曖昧である。曖昧な味がする。博多弁は中国語みたいである。一方、日本人は知覚が強く、日本文化は知覚の文化であり、知覚は明晰判明なので、日本文化は明晰である。はっきりと割り切るのが日本文化である。日本人は実在に目を向けたインド人である。日本人と博多人[はかたじん]は気が合わない。私と博多人も気が合わない。だから、私は幸福に暮らせないのかもしれない。博多がヨーロッパに近かったら、私は死んでいただろう。
インド人は道徳ができないから実在が自分の心に従わないから実在が不愉快[ふゆかい]だから実在が嫌いだから実在に目を向けないのである。だから、インドは科学が遅れて数学しか発達しなかったのである。一方、日本人は道徳ができるから自分の心を実在に従わせることができるから自分の実在に従う心だけを満足させることができるから実在の中で幸福になれるから実在が好きだから実在に目を向けることができるのである。だから、日本は科学ができるのである。日本人が道徳ができるのは中国人のおかげである。もっとも、日本人は知覚が発達していて知覚から実在を客観的に眺[なが]めていてしょせん実在なんかどうでもいいから科学が弱いのである。反対に、ヨーロッパ人は五感が発達していて実在にベタベタくっつきながら生きているから科学が強いのである。日本人は知覚でぼんやりと実在を見ているだけだから、日本人はヨーロッパ人ほど実在に興味がないから、日本人は自分だけでは科学がやれずヨーロッパ人から科学を教えてもらわねばならない。日本人は世界中の皆さんのおかげで幸福に暮らせるのである。
[21936] 今では世界中の国が『科学と数学と道徳の全部ができる』ようになって幸福に暮らしている。
h27.6.18
近代の日本で国民みんながヨーロッパ文化を真似[まね]るために自分が道徳ができないふりをしていたように、人間は自分ができることをできないふりをすることは容易にできる。
しかし、反対に自分ができないことをできるようにすることは容易にはできない。人間が自分が苦手なことをやれるようにするためには一工夫[ひとくふう]が必要である。
ヨーロッパ人は長年道徳ができなかったが、『脳の科学』によって『自分の知覚にある脳細胞が神経線維を介して自分の心にある脳細胞の神経興奮を調節すればいい』ことがわかって道徳ができるようになっている。
日本人も昔は科学ができなかったが、『道徳』によって『自分の心を実在に従わせて、自分の心にある実在に従う心だけを働かせて実在に従わない心を働かせない』ようにして実在に目を向けて科学ができるようになっている。
中国人は長年科学ができなかったが、おそらく日本人と同じやり方で『道徳』をやって実在に従う心だけ働かせて実在に従わない心を働かせないようにして実在に目を向けて科学ができるようになっている。おそらく中国人の頭のいい人が「どうして日本人はアジア人なのに科学ができるのか?」を考えて、その方法を発見したのだろう。
インド人は頭がいいが、今でも『道徳』ができないために、自分の心にある実在に従う心だけを働かせて実在に従わない心を働かせないことができず実在が嫌いなので実在に目を向けられず科学ができないままである。数学だけではちと苦しい。インド人も日本人のように『道徳』を訓練して『実在に従う心だけを働かせて実在に従わない心を働かせない』ことができるようになって実在に目を向けて科学ができるようになればいい。
今ではヨーロッパ人は科学も数学も道徳もできるようになって幸福に暮らしている。日本人や中国人も科学と数学と道徳の全部ができるようになって幸福に暮らしつつある。そのうちインド人も科学と数学と道徳の全部ができるようになって幸福に暮らすことができるだろう。
アメリカ人もヨーロッパ人と同じように『脳の科学』によって道徳ができるようになっている。これまでアメリカは世界中から頭のいい人を買って科学や数学ができるようにしていたが、最近はアメリカも文明が高くなって自分の国の中でも自然に頭がいい人が出るようになりつつある。
アフリカ人も早く自分で自分の国の文明を進められるようにならねばならない。アフリカ人も自分で田んぼや畑を耕して米や作物を作って自分が食べれるようにしないといけない。そもそもアフリカは人間が住むのに適した土地ではないから、いっそのこと人間が住むのをあきらめて他の動物に開放したほうがいいかもしれない。
今では人間が幸福に暮らすためには『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやればいいことがわかっている。そのため、今では世界中の国で国民みんながいろんな工夫をして『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやれるようにして、国民みんなが幸福に暮らせるようにしている。国によってもとの文化が違うから、『科学と数学と道徳の全部がある文化』のやり方は国それぞれである。それぞれの国で違うやり方で同じ『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。山の登り口や登り方が違っていても山の頂上が同じなのと同じことである。今では世界中で文化が同じになっているから人の移動が楽になって国際交流が盛んになっている。今では世界中で同じ『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。しかし、国によって科学と数学と道徳の強さが違うので細かい点が違っている。ヨーロッパ人は五感が発達しているから五感の喜びを満足するために見かけが優れた国であり、中国人は心が発達しているから心の喜びを満足するために作り話が優れた国であり、インド人や日本人は知覚が発達しているから知覚の喜びを満足するために実在が優れた国である。世界は同じだけれども違う。世界の原理は共通だが中身は国によって多種多様である。国は国民みんなが自分たちが幸福に暮らせるように作っている。国によって国民みんなの感性が違うから国が違っている。今では世界中で同じ『科学と数学と道徳のある文化』をやっているけれども、国によって国民みんなの感性が違うからそれぞれ国が違っているのである。ウエイトの置き方が違っているのである。予算のかけ方が違うのである。例えば、ヨーロッパの家は見かけはいいが見えないところがオンボロである。日本の家は見かけは悪いが見えないところがよくできている。ヨーロッパ人はヨーロッパの家では幸福に暮らせるが日本の家では不幸に暮らさねばならない。日本人は日本の家では幸福に暮らせるがヨーロッパの家では不幸に暮らさねばならない。国は国民みんなの感性に合わせて国民みんなが幸福に暮らせるように作られているのである。
[21937] 日本人は知覚で実在を考える民族である。 h27.6.19
日本人はヨーロッパ人ほど五感が発達していないから見かけでは喜べない。
日本人は中国人ほど心が発達していないから作り話では喜べない。
日本人はインド人ほど知覚が発達しているから論理で喜ぶことができる。
おまけに日本人は中国人のおかげで道徳ができるから自分の心を実在に従わせて実在に従わない心を抑[おさ]えて実在に従う心を活動させて実在の中で幸福に暮らすことができる。日本人は実在に目を向けることができるので科学ができる。日本人は実在に目を向けて知覚で実在について考える。日本人は知覚で実在を考える民族である。
日本人は知覚で実在がわかるから、日本人は実在で喜べる。日本人は実在の中に生き、実在の中で喜ぶ民族である。日本人は言葉で実在を考える。日本人は言葉で実在を理解して喜ぶ民族である。日本人は実在がわかるから、見かけや作り話がわからない。日本人はかっこいい民族である。
『人間は実在の中で生きている。』五感では実在しないものが見えて実在するものが見えない。知覚では実在するものが見えて実在しないものが見えない。五感よりも知覚のほうが実在がよく見える。五感よりも知覚のほうが実在によく適応できる。五感よりも知覚のほうが実在に適応できて幸福である。日本人はヨーロッパ人よりも幸福である。心についても同様である。心は生まれつきの実在についての認識だから、心にはまちがいがたくさんある。心では実在しないことを喜んで実在することを嫌がる。知覚では実在するものしか見えない。心よりも知覚のほうが実在がよく見える。心よりも知覚のほうが実在によく適応できる。心よりも知覚のほうが実在に適応できて幸福である。日本人は中国人よりも幸福である。人間が作り話や見かけを喜びとすることは、心に実在を支配させることだが、実際には心は実在を支配できないから心が不満になって不幸になる。反対に、実在を喜びとすることは、心を実在に従わせることであり、心が不満になることがないから幸福である。ガリレオが『自然は数学で書かれている』と言ったように、実在は論理的に出来ているので、五感や心よりも知覚のほうが実在がよく見える。五感や心よりも知覚のほうが実在によく適応できる。五感や心よりも知覚のほうが実在で幸せになれる。つまり、ヨーロッパ人や中国人よりも日本人のほうが幸福になれる。だから、日本人は外国の文化を真似[まね]ずに自分の文化をやればいいのである。わざわざ自分が不幸になる文化をやらなくていい。じつは日本人は昔からそのことを知っている。だから、日本人はけっして外国の文化をやらないのである。つまり、見かけも作り話も現実逃避である。現実逃避をやると現実(つまり実在)が嫌いになって現実の中で幸福になれない。だから、見かけも作り話もやらなければいいのである。日本文化には見かけや作り話がないから日本文化をやればいいのである。要するに、外人はみんな現実逃避の文化である。日本人だけが現実の文化である。だから、日本人だけが幸せなのである。フランシス=ベーコンが『自然に従えば自然を支配できる』と言ったように、心が実在に従えば心が実在を支配できるが、反対に心が実在に従わなければ心が実在を支配できない。心と実在が調和すれば幸福であり、心と実在が調和しなければ不幸である。人間が見かけや作り話をやるといっときは見かけや作り話の喜びが満足されて幸せだが心が実在に従わなくなって実在が心に従わなくなって心が不満になって不幸になる。外人は見かけや作り話の喜びしかないから不幸である。反対に、人間が実在をやると実在の喜びが満足されて幸せになる上に心が実在に従って実在が心に従って心が満足されて幸福になる。日本人は実在の喜びがあるから日本人は幸福である。日本人は幸福だから日本人は自分の国の文化をやればいいのである。
反対に、インカ人がヨーロッパ人と戦ってインカ人が負けたのは、インカ人が「自分が戦いに負けたほうが得だ」と考えたからである。ヨーロッパ人が少数であったにもかかわらずインカ人が戦いに負けたのは、インカ人が自分でわざとに戦いに負けたからである。けっしてヨーロッパ人が戦いが巧[たく]みだったからではない。インカ人は「自国の文化よりもヨーロッパの文化のほうが自分が幸福に暮らせる」と考えたから、ヨーロッパ人に負けることにしたのである。(近代の日本人と似ている。)インカ人は喜んで自分の国の皇帝をヨーロッパ人に差し出してヨーロッパ人に皇帝を殺させて、自分の文化をヨーロッパ文化に替えることにしたのである。インカ人はヨーロッパ人から文化をもらったお礼にたくさんの黄金をあげたのである。植民地時代に世界中にヨーロッパの植民地が広がったのも、植民地の国の人々が「自分の国の文化よりもヨーロッパの文化のほうが幸福に暮らせる」と考えたからである。植民地の国の人々は喜んで自分の国をヨーロッパ人に差し出して自分の国の文化をヨーロッパ文化に替えたのである。[平成27年6月26日追加)つまり、国民みんなが「ヨーロッパ文化を受け入れたほうが自分たちが幸福に暮らせる」と考えてヨーロッパ文化を受け入れることが植民地化されることにほかならないのである。ヨーロッパは自分の文化を売った代金にいくらかのお金を植民地からもらったのである。ただ、ヨーロッパ人はもともと道徳がないから植民地の人間に対してかなりひどい虐待をすることもあった。それが植民地の実態である。ヨーロッパは武力や戦略に物を言わせて外国を植民地化したのではなく、外国の国民みんなが「自分からヨーロッパ文化を受け入れたい」と思っていたから植民地化されたのである。近代の日本で国民みんながヨーロッパの文明を受け入れたのと同じことである。だから、実質的には近代の日本はヨーロッパの植民地だったのである。]しかし、インドや中国のような大国では人々が『ヨーロッパ文化よりも自分の国の文化のほうが幸福に暮らせる』と考えて最後まで植民地化に抵抗したのである。日本の場合には人々が『ヨーロッパの文化よりも自分の国の文化のほうが優れていて自分が幸福に暮らせる』と考えているから、一時的にヨーロッパ文化を受け入れただけですぐにヨーロッパ文化を捨てて自分の文化をやり続けるのである。日本人は知覚で実在を考える民族だが、科学ではヨーロッパにはかなわないので、自分の国の科学の遅れを取り戻すために一時的にヨーロッパ文化を受け入れて科学だけやって道徳をやめて科学ばっかり勉強して科学をヨーロッパから習って科学を伸ばして、その後でゆっくり自分で考えて科学をやることにしてヨーロッパ文化をやめて自分の国の文化に戻るのである。日本人は自分の国の科学の遅れを取り戻すためにいっときの間死に物狂いで科学ばっかりやるために道徳をやめていたのである。今では日本が科学でヨーロッパに追いついたので、日本はヨーロッパ文化を捨ててもとの自分の文化に戻っている。日本人にとってはヨーロッパ文化は使い捨てなのである。今の日本人はちびちびヨーロッパから科学を習いながら自分の国の文化をやっている。『科学と数学と道徳のある文化』をやっている。『自分の心を実在に従わせて、実在に目を向けて、知覚で実在を見る文化』をやっているのである。
今の日本人の中にはヨーロッパ文化や中国文化に憧[あこが]れている者がたくさんいるが(インド文化に憧れている者はあまりいないが)、それは“日本文化のやり方”がわかっていないからである。日本人は昔から自分の心を実在に従わせて知覚で実在を見て暮らしてきた。そうすれば自分がもっとも幸せに暮らせるからである。それ以外のやり方では日本人は幸福に暮らせない。日本人は五感や心よりも知覚が発達しているから、知覚で実在を見ているときが一番楽しいのである。日本人は正しいことを知るのが一番楽しいのである。ヨーロッパ人が綺麗[きれい]な物を見るのが好きなように、中国人が面白い話を読むのが好きなように、日本人は正しいことを知るのが好きなのである。今の人は“日本文化のやり方”を勉強して日本文化がうまくやれるようにならねばならない。そうすればヨーロッパ文化や中国文化よりも幸福に暮らせることがわかるだろう。(スポーツをやると自分の心を実在に従わせることがよくわかる。スポーツとは自分の心を実在に従わせることである。スポーツでは実在の中で自分の身体を動かさねばならないので、嫌でも自分の心を実在に従わせねばならない。スポーツは自分の心を実在に従わせるためのいい訓練になる。スポーツをすると心が実在に従うから、心が実在を支配しなくなるから、スポーツはストレス解消になるのである。スポーツは身体にもよく、スポーツすると病気に罹[かか]らない。)
日本人は知覚で実在を見る民族である。日本人には実在が見える。日本人は実在の喜びがわかる。日本人は実在の中で自分の心を満足することができる。実在の喜びはいっぱいある。いくらでもある。たくさんある。例えば、自分が実在について考えて正しいことを知って正しいことをやることや自分が健康に生きていくために必要な衣食住があることや自分が好きな仕事をしてお金を稼[かせ]ぐことや貯金を増やすことやテレビでドキュメンタリーや旅やスポーツなどの番組を見ることやスポーツして汗を流すことや自然の中でキャンプをして美味[おい]しい空気を吸うことや好きな異性と結婚していっしょに暮らすことや観光旅行をすることなどである。だから、実在の喜びを増やして広げて深めていけばいい。日本人は見かけや面白さにこだわらずに素朴[そぼく]に実在の中で自分が楽しいと思うことをすればいいのである。そうすれば、日本人みんなが幸福になれる。日本人は実在が好きだが、見かけや作り話が嫌いである。だから、日本では見かけや作り話を作って増やしてはいけない。日本では派手[はで]な服やマンガを売ってはいけない。見かけがいい服や作り話の本を売ってはいけない。日本人は見かけや作り話などの余計な無駄[むだ]なことをせず実在のことだけをやればいいのである。日本では見かけや作り話のサービスよりも、実在のサービスが充実しているほうがいい。日本人は見かけや作り話の仕事よりも、実在の仕事をしなければならない。見かけや作り話の仕事は他人を幸福にするふりをして他人を不幸にする仕事である。見かけや作り話の仕事はうわべでは他人を喜ばせて心の底では他人を苦しませる仕事である。陰険[いんけん]な商売である。だから、見かけや作り話の仕事をやめねばならない。日本人は見かけや作り話を買わないようにして見かけや作り話の仕事を潰[つぶ]さねばならない。
人間が見かけや作り話をやると実在とは無関係に自分の心を肯定して実在を自分の心に従わせるようになるがしかし実際には心が実在を支配することはできないから実在が嫌いになって実在の中で生きていくのがつらくなってかえって不幸になる。それに、日本人は五感や心がヨーロッパ人や中国人ほど発達していないから、そもそも見かけや作り話で喜べない。自分が何も考えずにいいかげんに娯楽をやっているとかえって不幸になる。人間はよく考えて自分が本当に幸福になるような娯楽をやらないといけない。最近の人は道徳を知らないから人間にとって本当に楽しいことがわからないのである。まちがった娯楽に手を出してかえって面白くない思いをしているのである。人間はもっとよく考えてから娯楽をしないといけない。人間が実在をやると実在が好きになって実在の中で生きていくのが楽しくなって幸せになる。特に日本人は知覚が発達しているから、見かけや作り話よりも実在が好きである。だから、日本人は実在を娯楽にすればいいのである。日本人は実在の中で自分が楽しいと思うことをやって遊べばいいのである。
ヨーロッパ人が見かけにこだわるのはヨーロッパ人の欠点である。本来『人間は実在の中に生きている』のだから、人間は実在だけ認識して実在の中で楽しいことをやればいいのである。ところが、ヨーロッパ人は五感が発達しているために余計なことをやっているのである。ヨーロッパ人は実在しないことをやって自分を実在に適応できないようにして自分を不幸にしている。ヨーロッパ人は自分の心を実在に従わせないようにして自分の心が実在を支配できないようにして自分の心を不満にして自分を不幸にしているのである。同じように中国人が作り話にこだわるのは中国人の欠点である。中国人は心が発達しているために余計なことをやっているのである。中国人は自分で自分を不幸にしている。反対に、インド人が論理にこだわるのはインド人の長所である。インド人が実在に目を向けさえすれば実在を認識することができて幸福になれる。インド人はあと一歩で幸せになれる。そのあと一歩を踏み出したのが日本人である。日本人は中国人から教えてもらった道徳を使って自分の心を実在に従わせることによって実在に目を向けることに成功して幸福になれたのである。将来インド人がみんな科学ができるようになればインドはヨーロッパを凌駕[りょうが]できるだろう。いくらヨーロッパ人が見かけがいいからといって、見かけがいいのはヨーロッパ人の欠点だから、日本人はヨーロッパ人の真似[まね]をして見かけをやってはいけない。見かけにこだわるのは馬鹿の習性である。ヨーロッパ人が自分の見かけがいいのを鼻にかけているのは、馬鹿が自分の欠点で威張[いば]っているのにほかならない。馬鹿は馬鹿だから自分の欠点を自分の長所だと誤解しているのである。最近の日本人は人間についての理解が足りない。日本人は外人の善いところを真似て悪いところを真似てはいけない。
インド人が道徳をやらないのは中国人が論理がないからである。インド人は中国人の論理がないところが嫌いなので道徳もやらないのである。しかし、どんな国にも長所と短所がある。中国は論理がないのが短所だが、道徳があるのが長所である。だから、インド人は中国から道徳を学んで論理がないのを学ばないようにして、道徳ができるようになって、自分の心を実在に従わせて実在に目を向けることができるようになって科学をやらないといけない。同じように、ヨーロッパは科学が長所だが、見かけにこだわるのが短所である。だから、日本人もヨーロッパから科学を学んで見かけを学ばないようにして、日本をいっそう善い国にしないといけない。
日本人もインド人も知覚が発達しているから実在が理解できるが、五感が発達していないために実在に興味がなく科学が発達しない。反対に、ヨーロッパ人は五感が発達しているから実在に興味があるが、知覚が遅れているために実在が理解できず科学が発達しない。もしも、この世に五感も知覚も両方とも発達している人種がいたら、実在に興味があって知覚で実在を理解して科学が発達したにちがいない。ヨーロッパ人みたいに余計な見かけをやらず実在の中だけでおとなしく暮らして幸福になったにちがいない。しかし、実際には五感と知覚の両方が発達している人類なんかいない。五感が発達しているヨーロッパ人と知覚が発達しているインド人がいるだけである。だから、近代になってヨーロッパ人とインド人が協力してはじめて近代科学が誕生したのである。これからは世界中のみんなで協力し合ってみんなで科学を発展させていかねばならない。ヨーロッパ人や中国人は眼があるだけで頭がない無脳症である。反対に、インド人や日本人は頭があるだけで眼がない無眼症である。だから、ヨーロッパ人や中国人とインド人や日本人が協力し合ってみんなで実在を見て実在を考えられるようにして実在を認識して実在に適応して幸福に暮らせばいいのである。ヨーロッパ人や中国人は知恵遅れだから、見かけや作り話で喜んでいるのである。だから、インド人や日本人はヨーロッパ人や中国人の真似をしてはいけない。
[21938] 私がコーヒーを飲まない理由 h27.6.20
私がコーヒーを飲まないのは、コーヒーが美味[おい]しいからである。日本文化では食べ物の味にこだわってはいけないことになっている。だから、私はコーヒーが嫌いでコーヒーを飲まないのである。
今から約20年ぐらい昔、私が理学部物理学科の学生の頃、私の父親が私の顔を見るために私の福岡の下宿に来たことがある。そのとき、私が近所のダイエースーパーで売っている鮭[さけ]の切り身を焼いて出したら、父親が怒った顔をして食べていた。それは、鮭が美味[うま]かったからである。私はいつも自分でその鮭の切り身を焼いて食べていて焼き加減を心得ていて味に自信があったから父親に出してあげたのである。日本文化では食べ物の味にこだわってはいけないので、父親は「美味い」と思いながら頭に来て怒りながら鮭を食べていたのである。
もっとも、超美味いものについてはもちろん怒りを通り越して喜びになる。超美味いものは日本人みんなが喜んで食べる。しかし、ただの美味いものについては日本人は余計な味にこだわっていると見なして嫌って怒って食べないのである。日本人はちょっとだけ美味しいものは味にこだわっていないと見なして喜んで食べるが、そこそこ美味しいものはかえって怒って嫌って食べないのである。
そもそも私がコーヒーが嫌いになったのは、私が小学4年生の頃に夕方母親が作ってくれたコーヒーを飲んで一晩中眠れなかったことがあったからである。朝起きたら鼻血が出て、そのとき私は「もう二度とコーヒーなんか飲むか!」と誓[ちか]った。それ以来、私はけっして自分からコーヒーを飲もうとせず、これまでの生涯でも5回ぐらいしかコーヒーを飲んだことがない。私はいつも近所のスーパーで売っている玄米茶ばっかり飲んでいる。
[21939] 国家宗教とは何か? h27.6.20
国家宗教とは政府が神の情報を使って何かをすることである。
政府は善いことを悪いことの両方をする団体だから、国家宗教では政府は神の情報を使って善いことをすれば悪いことをすることもある。例えば、私の国家宗教では、政府は瀬戸内海大橋(3本の橋と鳴門[なると]の渦潮で私の姓の“川の”になる。)を掛けたり、高知学芸高校上海列車事故(高知学芸高校は私の出身校)を起こしたりする。天皇の国家宗教では、政府は日本中に鉄道(鉄←テツ←テン(“ツ”と“ン”が似ている)←天←天皇)を敷[し]いたり新幹線を走らせたり、日航機123便墜落事故(圧力隔壁←光る玉←光るトンビ←神武天皇)を起こしたりする。最近のニュースで言えば、ダンプが家族をはねた事故だ(私が自転車でキャンプをしたときにラジオで聞いた)。ダンプ←車←カー←カア←カブ(“ア”と“ブ”が形が似ている)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私で、家族←家←天皇家である。政府がダンプの運転手に命令して起こした事故である。政府は昔の国民みんながヨーロッパを真似[まね]てやっていた「科学と数学があって道徳がない文化」の国家機関だから、道徳がないから善いことと悪いことの両方をやるのである。「科学と数学があって道徳がない文化」では道徳がないので、無知の知がないので、人間に理解できない自然現象があったとき『人間が理解できないことがある』と考えずに「神が起こした」と考えるので、「神がいる」と考えて国家宗教をやるから、政府は今でも国家宗教をやっているのである。
国家宗教の神とは、政府が国家宗教をするために情報を用いる者のことである。政府は国家宗教をやる機関だから、政府が勝手に一方的に誰を神にするかを決めてその者に関する情報を用いて国民みんなに命令して国家宗教をやるのである。国家宗教の神である条件は、当時の科学では理解できない現象を起こすことである。例えば、神武天皇の時代にはまだ『プラズマ現象』(積乱雲から放射された電磁波によって空気が加熱されて空気が溶ける現象。もしも、電磁波で加熱されるところに人がいたら、人が突然燃え出すことになる(人体発火現象)。神武天皇(磐余彦[いわれひこ])の近くでプラズマ現象があったことは事実だっただろうが、神武天皇が東征したのはたぶん作り話だろう。電磁波によって加熱されたところがトンビの形に似ていたから、神武天皇が空から光るトンビを呼んだとされているのである。)がわかっていなかったから神武天皇が神だとされたし、私の生まれた頃(昭和39年、西暦1964年)はまだ『物が動いて見える錯覚』がわかっていなかったから私が神だとされたのである。私の母は「夜中に突然ガラガラが回った」と言ったが、夜は眼球の網膜上にある桿細胞[かんさいぼう]の働きが高まるので周辺視野が広がるので物が動いて見える錯覚を見やすかったのだろう。今ではすでに『プラズマ現象』も『物が動いて見える錯覚』もメカニズムがわかっているから、同じ現象が起きてももはや近くにいた者を神にすることはできない。
今では国民みんなが「科学と数学があって道徳がない文化」をやめて『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、国民みんなは道徳があるので、無知の知があると考えて、人間に理解できない自然現象があったとき『人間にも理解できないことがある』と考えて「神がいる」と考えないので国家宗教をやめている。一方、政府は今でも「科学と数学があって道徳がない文化」を続けて国家宗教をやっている。国民みんなは政府よりも強いから、今では国民みんなはたとえ政府に国家宗教で命令されても政府の命令を聞かなくなっている(一部の時代遅れの異常者を除く)。一般に、政府は国家機関だから国民みんなに対して善い命令と悪い命令の両方を出す。今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっているから、道徳があるから、自分が善いことだけやって悪いことをやらない。他人にも善いことだけやらせて悪いことをやらさない。今の国民みんなは政府に善いことだけやらせて悪いことをやらさない。だから、今の国民みんなは政府の善い命令だけ聞いて悪い命令を聞かなくなっている。政府が国民から税金を取るのは強盗だから悪いことだから、今の国民みんなは政府に税金を払わなくなっている。今の国民みんなは政府にただで善い命令を出させて善い命令を聞いている。今後政府が国民みんなから税金をもらえないために潰[つぶ]れたら、国民みんなが自分で考えて善いことをする。国民みんなの代表者が日本のどこかに集まって話し合って善いことを決めて国民みんなで実行する。だから、政府がなくなってもかまわない。今後『科学と数学と道徳の全部がある文化』の国家機関が出来たら、国民みんなはその国家機関と自由に契約してお金をやって仕事をしてもらって、国家機関の命令を聞くかもしれない。
[21940] ヨーロッパ人は知恵遅れである。 h27.6.21
ヨーロッパ人は五感が発達しているが、知覚と心が遅れている。ヨーロッパ人は知恵遅れである。
ヨーロッパ人は眼で見て実在をわかることができるが、頭で考えて実在を理解することはできない。
だから、ヨーロッパ人は科学が得意なのである。ヨーロッパ人は眼で見て物のことをよく知っているから、物を上手[じょうず]に扱えるのである。上手に見かけができるのである。
ただ、ヨーロッパ人は頭が悪いから、眼で見えないことを頭で考えてわかって物を理解することはできないのである。ヨーロッパ人だけでは科学の発展に限界がある。
大昔世界に国境ができる前にインドからヨーロッパに引越ししたインド人がいたので、ヨーロッパ人の中にはインド人の血が濃い人がちょっと混じっている。そういう人は頭がいい。そういう人が馬鹿なヨーロッパ人の代わりに頭で考えてやって眼で見えないことがわかって実在を理解して科学を発展させたのである。
ヨーロッパ人は眼の力で科学が得意なのである。それがヨーロッパ文明の支えなのである。
ヨーロッパ人は五感が強いが、頭と心が弱い。ヨーロッパ人は眼で見えることはよくわかるが、眼で見えないことは何もわからない。数学や道徳は眼で見えない。だから、ヨーロッパ人は数学も道徳もまったくわからないのである。ヨーロッパ人は善と悪の区別がつかずみんなが悪いことをやり合って不幸に暮らしていたのである。政府が国民みんなに悪いことをして国民みんなに命令して税金や戦争や国家宗教をやって国民みんなを不幸にしていたのである。ヨーロッパ人は自分が悪いことをしていることがわからないから、みんなが悪いことをやっているのである。ヨーロッパの政府は自分が悪いことをしていることがわからないから、国民みんなに悪いことをして国民みんなを苦しめるのである。
しかし、今ではヨーロッパ人も数学や道徳を勉強するようになってなんとか数学や道徳がやれるようになっている。ヨーロッパ人はビデオや写真を使って数学や道徳を眼で見えるようにして一生懸命に数学や道徳を勉強して数学や道徳がわかって数学や道徳をやっている。
今でもヨーロッパ人は眼で見ることしかわからない馬鹿のままだが、教育の手段が発達したのでなんとか数学や道徳がわかるようになっているのである。
日本人もヨーロッパ人も同じ2本の脚で立っているが、中身はまったく違うのである。日本人は眼で見ることだけではなく頭で考えることや心で思うことがわかるが、ヨーロッパ人は眼で見ることしかわからないのである。
ヨーロッパ人は眼で見ることがわかるが頭で考えることがわからない。日本人は眼で見ることも頭で考えることも両方ともわかる。ヨーロッパ人は実在を眼で見てわかるのが早いがそこから先には進まない。日本人は実在を眼で見てわかるのは遅いがさらに頭で考えてそこから先に進める。ヨーロッパ人よりも日本人のほうが発展性がある。小学生の時には女の子のほうが男の子よりも成績がいいが、中学生から後は男のほうが女よりも成績がいいのと同じことである。
ヨーロッパ人は眼で見ることがよくわかるから見かけのことが上手にやれる。ヨーロッパ人は見かけがいいから馬鹿に見えないのである。だから、『馬子[まご]にも衣装』と言うのである。日本人はヨーロッパ人の見かけに騙[だま]されてはいけない。
[21941] 子供の教育について h27.6.21
私の両親は自分の子供をほったらかしにして子供の好き放題にして育てたから子供がまちがったことを考えるようになって子供の人生がうまくいかなくなって子供が不幸になったのである。今の私が不幸なのがその証拠である。
私なら子供をちゃんと管理しながら育てる。
人間は生まれつき心しか持っていない。しかし、心はまちがいがたくさんある。親が子供に何も教えず子供をほったらかしにして育てると子供がわがままになって子供が自分の心本位に生きるようになって自分の心に実在を従わせるようになるが実際には心は実在を支配できないから心が不満になって不幸になるのである。子供に『自分が実在に従う心だけ働かせて、実在に従わない心を働かせてはいけない』ことをわからせることが大事である。子供を実在の中で遊ばせれば子供は嫌でも自分の心を実在に従わせるしかないから、子供が自分で『自分の心を実在に従わせなければならない』ことがわかるから、子供を実在の中で遊ばせるのは善いことである。子供に実在の中で暮らしているのと同じ環境を与えることが大事である。
まず子供には正しいことしか教えない。子供にまちがったことを教えないようにする。子供に正しいことだけ教えてまちがったことを教えない環境にする。子供に正しいことが書いてある本だけ与えて、子供にまちがったことを教えるラジオやテレビやパソコンやスマホなどの情報端末を買い与えないようにする。
馬鹿は要らないことをたくさん知っているから馬鹿なのである。馬鹿は見かけや作り話のことをたくさん知っているために正しいことを知らないから馬鹿なのである。だから、その反対に子供に正しいことだけ教えて要らない余計な見かけや作り話を教えなければ馬鹿にならないのである。たとえ多少子供が正しいことを知らなくても、子供が余計なことを知らなければ子供は馬鹿にはならないから、とにかく子供に余計なことを教えるものを買い与えなければいいのである。
その上で、子供が正しいことの中でどの方向に進んで行くかを見て、子供が自分の好きな方向に進むのをできるだけ助けてやるようにする。子供が頭がよくて眼で見えないことがわかれば数学や物理の方向に行くし、子供が馬鹿で眼で見ることしかわからなければ社会科や生物学の方向に行くだろう。それは子供の個性によって決まるので、親が勝手に決めてはいけない。
その上に余裕があれば、子供に正しい哲学や道徳のことを教えてやればいいだろう。特に性については子供は何も知らないから、親が子供に教え甲斐[がい]がある。親が子供に『愛情と性欲は違う。愛情は満足していいが、性欲は満足してはいけない。性交は子供を作るときだけにして、性欲を満足するためにやってはいけない。』ことや、『性欲を満たすと実在を心に従わせることになって心が実在を支配できなくなって心が不満になって不幸になる』ことや『性欲を満たすと心が実在を支配するようになるが実際には心が実在を支配できず欲求不満になって、自分の気に入らないことをしている者を見つけると怒り狂って相手に自分の気に入らないことをやめさせようとしてテレパシー器官を使って訴えようとして怒りの感情とテレパシー器官の間に条件反射で連合が出来て、逆にテレパシーの悪口を聞くと怒りの感情が興奮するようになってテレパシーの悪口を止めようとして暴れまわって精神病院に入院しなければならなくなって死ぬまでずっと不幸になる。生きることが100倍つらくなる。』ことを教えてやればいい。もしも、子供がまちがっていることをやっていたら親が注意してやめさせねばならない。そうしなければ子供が不幸になって死ぬ。
以上のことを親が守れば、子供は幸福に育つだろう。いい大人になって死ぬまで幸福に暮らせるだろう。しかし、今の若い夫婦は全然私が言ったことを守っていない。今の若い親は自分の子供を不幸にしている。自分の子供を幸せにしているつもりでじつはかえって不幸にしている。今の若い人はもっと自分で道徳や哲学を勉強して人間が本当に幸福に生きる方法を知らねばならない。
[21942] 日本人は自分で科学ができるようにならねばならない。 h27.6.21
ヨーロッパではヨーロッパ人の中にインド人の血の濃いヨーロッパ人がちょっとだけ混じっている。だから、科学が発達するのである。
日本人はインド人と同じように知覚が発達している。日本で科学が発達するためには、日本人が実在に目を向ければいいだけである。日本人が道徳をやって自分の心を実在に従わせて実在に従う心を活動させて実在に従わない心を活動させなければ日本人が実在に目を向けることができて頭で実在について考えて科学が発達するのである。
いくら今が国際的な時代だとは言っても、地球の裏側にいる人と協力することはできない。実際に、ヨーロッパではヨーロッパだけで科学を発達させている。だから、日本も日本だけで科学を発達させねばならない。ヨーロッパが自分の国だけで科学を発達させているように、日本も自分の国だけで科学を発達させねばならない。そのためには、日本人はヨーロッパ人に頼らず自分の力で科学をやれるようにならねばならない。日本人が自分の力で科学をやるためには、日本人は自分の心を実在に従わせて作り話も見かけもやらず実在だけをやるようにしないといけない。日本人が実在がわかって実在をやれるようにしなければならない。日本人は近代にヨーロッパ人から科学のやり方について教えてもらったから、今後は自分の力で科学をやって科学を発達させていかねばならない。今の日本人は一生懸命に実在に目を向けて頭で実在について考えて科学をやらねばならない。今の日本人は余計な作り話や見かけをやって遊んでいないで、実在のことだけやって実在のことが得意にならねばならない。
ヨーロッパではヨーロッパ人は眼で見えることしかわからないが、インド人の血の濃いヨーロッパ人が眼で見えないことがわかるから科学が発達するのである。ヨーロッパでは普通の人は見かけのことばっかりやっている。実在について考えられるヨーロッパ人は貴重である。そのために、ヨーロッパでは実在について考えられる人を大事にしている。みんなで実在について考えられる人にお金をやって実在について考えさせている。そうやって、ヨーロッパで科学が発達するようにしているのである。それと同じように、日本では日本人は頭で考えることしかわからないが、中国人の血の濃い日本人が道徳ができるから実在に目を向けることができるから科学が発達するのである。日本では普通の人は作り話のことばっかりやっている。実在について考えられる日本人は貴重である。そのために、日本では実在について考えられる人を大事にしている。みんなで実在について考えられる人にお金をやって実在について考えさせている。そうやって、日本で科学が発達するようにしているのである。どこの国でも、『実在について考えられる人』は貴重である。だから、どこの国でも『実在について考えられる人』の待遇をよくして『実在について考えられる人』を大事にしているのである。
ヨーロッパではインド人の血の濃いヨーロッパ人が頭となってヨーロッパ人が身体となっている。ヨーロッパ人は眼で見ることしかわからないから実在に目が向いているから、インド人の血の濃いヨーロッパ人がヨーロッパ人に命令してヨーロッパ人を動かして国全体で科学をやることができてみんなが物を作ってお金が儲[もう]かってみんなが裕福なのである。一方、日本では中国人の血の濃い日本人が頭となって日本人が身体となっている。しかし、日本人は頭で考えることしかわからないから実在に目が向いていないから、いくら中国人の血が濃い日本人が日本人に命令しても日本人が動かないから国全体で科学をやれずみんなが物を作らずお金が儲からずみんなが貧乏なのである。日本が貧乏な国から抜け出すためには、国民みんなが実在に目を向けねばならない。一人でも多くの国民が実在に目を向けて実在の中で働かねばならない。日本人は作り話に耽[ふけ]って喜んでいる場合ではない。日本が豊かな国になるためには、日本人みんなが道徳をやって自分の心を実在に従わせて実在に目を向けて実在について頭で考えたり実在の中で身体を動かして働いたりしなければならない。日本人は余計な作り話や見かけに耽らずに実在だけに目を向けて実在のことだけやらねばならない。日本人は実在のことで喜ぶようにして実在への関心を高めて実在に目を向けるようにしないといけない。もともと日本は経済力の弱い国だから国民みんなが科学をやらなくなったら国が潰[つぶ]れる。マンガ文化は日本を貧乏にして日本を滅ぼす。マンガ文化はもってのほかである。だから、日本人みんなでマンガ文化をやめねばならない。日本人は知覚が発達しているから割る切ることがわかる。日本人はたとえ作り話であっても割り切る話しかわからない。割り切らない話はわからない。日本人は知覚が発達しているから割り切ることはわかるが割り切らないことはわからない。見かけのよしあしは割り切れないから、日本人は見かけのことはわからない。日本人は曖昧模糊[あいまいもこ]なことが嫌いだから見かけが嫌いである。日本で見かけ文化をやるのはもってのほかである。だから、日本人みんなで見かけ文化をやめねばならない。反対に、ヨーロッパ人は知覚が遅れているから割り切らないことがわかって割り切ることがわからない。例えば、聖書の文章が曖昧模糊[あいまいもこ]なのはそのためである。ヨーロッパ人は知覚が遅れているために曖昧模糊なのが好きだから、見かけは曖昧模糊なことだから、ヨーロッパ人は見かけのことをやるのが好きなので見かけのことをやっているのである。反対に、日本人は知覚が発達しているから割り切ることがわかって割り切らないことがわからない。例えば、古事記の文章が明晰判明なのはそのためである。日本人は曖昧模糊なのが嫌いだから、見かけのことをやるのが嫌いなので見かけをやらないのである。日本人は知覚が発達しているために明晰判明なのが好きだから、実在は明晰判明だから、日本人は実在のことが好きだから実在のことをやればいいのである。ところが、今の日本人は何も考えずに見かけのことをやっている。今の日本人は自分が嫌いなことをやって自分で自分を不愉快[ふゆかい]にしている。今の日本人は自分が好きなことと嫌いなことをちゃんと理解して、自分が好きなことをやって嫌いなことをやめねばならない。
日本人は作り話が好きだが、実在も好きである。日本人が作り話をやれば実在が嫌いになって実在の中で苦しまねばならないが、日本人が実在をやれば実在が好きになって実在の中で楽しむことができる。日本人が作り話をやれば、作り話と実在の二股掛けることになって共倒れになる。日本人が実在をやれば、実在だけになってますます楽しくなる。だから、日本人は作り話をやめて実在をやればいいのである。
中世の日本人はアジア文化をやっていた。アジア文化は数学や作り話をやるだけで科学をやらなかった。そのために、日本は科学が遅れてしまった。貧乏になってしまった。そのため、近代の日本人はヨーロッパ文化をやって科学の遅れを取り戻した。現代の日本人は中世と同じまちがいを繰り返してはいけない。今の日本人は作り話をやめて科学をやるようにしなければならない。『人間は実在の中で生きている』のだから、実在のことをやらねばならない。人間は実在を知って実在の中で行動しなければならない。
日本人は外国の文化を取り入れた後で自分の感性に合うように作り変える。近代の日本ではヨーロッパ文化を取り入れていた。ヨーロッパでは五感の発達しているヨーロッパ人と知覚の発達しているインド人が混じっているから、ヨーロッパ文化は科学と見かけがあって、数学や道徳や作り話がない文化である。反対に、日本人は知覚が発達しているから数学(つまり論理)がある。日本人は割り切るのが好きである。科学や数学や道徳は割り切るが、見かけは割り切らない。だから、今の日本では科学や数学や道徳だけやって、見かけをやってはいけない。ヨーロッパ文化は実在に目を向けるのが長所である。だから、日本人はヨーロッパ文化の長所を真似て実在に目を向けるようにして作り話をやってはいけない。日本人とヨーロッパ人は感性が違うから、日本人がヨーロッパの文化を真似ると日本人が不幸に暮らさねばならなくなる。日本人はヨーロッパ文化をそのまま真似るのではなく、自分の感性に合うように作り変えて日本文化をやらねばならない。日本人は曖昧模糊なことが嫌いだから、日本人が見かけをやると実在に目を向けるのが嫌いになって科学が遅れる。だから、日本人は見かけをやってはいけない。
日本人は数学(つまり論理)がわかるのが取り柄[とりえ]である。だから、日本人は数学がわかることを大事にしないといけない。日本人は割り切ることだけやって割り切らないことをやってはいけない。日本人は自分で数学をやって、中国人から道徳を学んで、ヨーロッパ人から科学を学んで、数学と道徳と科学の全部をやらねばならない。日本人は自分の数学の感性を活かして道徳と科学を論理的にきっちりとやらねばならない。だから、日本は善い国なのである。
[21943] 今の日本人は自分自身のことを知らねばならない。 h27.6.22
ヨーロッパは大勢の眼で見ることしかわからないヨーロッパ人と少数の頭で考えることしかわからないインド人の血の濃いヨーロッパ人が組んだ社会である。だから、ヨーロッパは実在を眼で見て頭で考えて実在を理解することができて科学が発達するのである。物をたくさん作って売ってお金が儲[もう]かって裕福に暮らすことができるのである。
一方、日本は頭で考えることしかわからないインド人だけの社会である。日本人は割り切れることが好きで割り切れないことが嫌いである。日本人は数学(つまり論理)が好きである。その上、日本ではみんなが外国の文化を受け入れるのが好きである。中世の日本ではみんなが中国の文化を受け入れていた。中国文化には道徳と作り話がある。中国人は心で生きている民族なので、心を満足する作り話と心を知り心を自分の思い通りにする道徳が発達したのである。道徳は割り切れるが、作り話は割り切れない。作り話は人間の心を描[えが]いたものだから、人間の心は曖昧[あいまい]だから作り話は曖昧である。だから、日本人は道徳だけ拾って作り話を捨てた。近代の日本ではみんながヨーロッパの文化を受け入れていた。ヨーロッパ文化には科学と見かけがある。ヨーロッパ人は五感で生きている民族なので、五感を満足する見かけと実在を知り実在を自分の思い通りにする科学が発達したのである。科学は割り切れるが、見かけは割り切れない。見かけは人間の五感を表したものだから、人間の五感は曖昧だから見かけは曖昧である。だから、日本人は科学だけ拾って見かけを捨てた。こうして日本は数学と道徳と科学をやるようになったのである。日本も物をたくさん作ってたくさん売って裕福に暮らすことができるようになったのである。
道徳や科学は日本人の感性に合うから日本人が受け入れたが、作り話や見かけは日本人の感性に合わないから日本人は捨てた。日本人にとっては道徳や科学は好きだが、作り話や見かけが嫌いである。日本人が中国に行くと日本人が作り話をやらないから中国人に嫌われるが、逆に中国人が日本に行くと中国人が作り話をするから日本人に嫌われる。日本人がヨーロッパに行くと日本人が見かけをやらないからヨーロッパ人に嫌われるが、逆にヨーロッパ人が日本に行くとヨーロッパ人が見かけをやるから日本人に嫌われる。お互いさまである。最近の日本では日本人が嫌いなことをする者が増加している。自分で自分が嫌いなことをやる者が増えている。だから、最近の日本人は不幸になっているのである。今の日本人はもっと自分自身を知り自分が喜ぶことだけやって自分が嫌がることをやらないようにしないといけない。女や子供や老人などの馬鹿は自分自身を知らないから自分で自分が嫌なことをやって自分で自分を苦しめて不幸にしている。みんなは馬鹿の真似[まね]をして自分を不幸にしてはいけない。
最近の日本では頭で考える文化がなくなってきているような気がする。日本人は頭で考えるのが好きである。だから、最近の日本は日本人にとって幸せな国ではなくなっているのである。日本人はもっと自分が好きなことをやって数学や道徳や科学をやって実在の中で幸福に暮らさねばならない。
日本人は見かけも作り話もやらない。日本人は実在の中で生きていく。これが日本人だ。
[21944] 日本人は知覚で物や心を理解している。 h27.6.22
ヨーロッパ人は遺伝的に五感が発達している。ヨーロッパ人は五感で生きている。ヨーロッパ人は五感で見る。五感では物がよくわかる。だから、ヨーロッパでは科学が発達したのである。しかし、五感では数や心がわかりにくい。だから、ヨーロッパでは数学や道徳が遅れたのである。そのために、みんなが物やお金が豊かで幸せだが、みんなが悪いことをやって不幸に暮らしているのである。
中国人は遺伝的に心が発達している。中国人は心で生きている。中国人は心で見る。心では心がよくわかる。だから、中国では道徳が発達したのである。しかし、心では物や数がわかりにくい。だから、中国では科学や数学が遅れたのである。そのために、みんなが善いことをやって幸福に暮らしているが、物やお金が貧しく不幸に暮らしているのである。
インド人は遺伝的に知覚が発達している。インド人は知覚で生きている。インド人は知覚で見る。知覚では数がよくわかる。だから、インドでは数学が発達したのである。しかし、知覚では物や心がわかりにくい。だから、インドでは科学や道徳が遅れたのである。そのために、みんなが数のことを考えて幸福だが、物やお金がなくて貧乏で、みんなが悪いことをしあって不幸に暮らしているのである。
日本も遺伝的にインド人と同じように知覚が発達している。日本人は知覚で生きている。日本人は知覚で見る。しかし、日本人は昔から積極的に世界中の国の文化を受け入れてきた。日本はヨーロッパや中国の文化も受け入れてきた。だから、日本人は知覚で物や心を理解している。そのために、みんなが数のことを考えて幸福で、みんなが物やお金が豊かで幸福で、みんなが善いことをやって幸福に暮らしているのである。
今では国際交流が盛んになって世界中の国が外国の文化を受け入れているが、五感では道徳がわかりにくいのでヨーロッパ人はいまだに道徳が苦手で悪いことをやっている。心では科学がわかりにくいので中国人はいまだに科学が苦手で貧乏である。知覚では物も心も理解できるが、インド人は知覚で物も心も見ようとしないためにいまだに科学も道徳も苦手で貧乏の上に悪いことをやっている。日本人だけが科学も数学も道徳も全部得意で特に困ったことがない。日本は世界最高の国である。日本人は幸せである。
日本人は中世にアジア文化をやっていたために、アジア文化では科学がないために、科学をやらなかったために科学が遅れてしまった。日本人は中世にアジア文化をやるためにわざとに科学ができないふりをしていただけで、本当は科学ができる。だから、近代になってヨーロッパが解禁されるやいなやみんながすぐに科学を理解してヨーロッパに追いつくことができたのである。実在は論理的に出来ている。だから、知覚では実在のことならなんでもかんでも理解できる。知覚では物も心も両方とも理解できる。だから、日本人は科学も道徳も両方ともやれる。日本人は弱点がない。日本人は最強の民族だ。
インド人が科学をやろうとしないのは、科学に便乗[びんじょう]して大勢の者が五感で見るようになるからである。大勢の五感で見る者が現れるからである。見かけにこだわる者が現れるからである。鬱陶[うっとう]しいからである。インド人が道徳をやろうとしないのは、道徳に便乗して大勢の者が心で見るようになるからである。作り話に耽[ふけ]る者が現れるからである。くだらないからである。五感で見る者や心で見る者は自分がそうするだけでなく他人にもそうさせるので迷惑である。バイ菌のように増殖するから困り者である。感染者が広がるのが怖いのである。知覚で見る者にとっては見かけも作り話も不愉快[ふゆかい]である。不愉快なことが広がるのが嫌なのである。インド人は自分の知覚文化を守るために科学や道徳に手を出さないのである。インド人は見かけや作り話が嫌だから、けっして科学や道徳をやろうとしないのである。知覚文化は脆[もろ]くて壊れやすいから、インド人は必死で自分の文化を守るためにけっして科学や道徳をやろうとしないのである。実際に、今の日本でも五感や心で見る者が増加している。人間を外見だけで見て中身で見ない者やマンガやビデオを見まくってフニャフニャの骨抜きになっている者が増えている。インドは今の日本みたいな国になるのが嫌だから科学や道徳をやらないのである。日本人は知覚で物や心を見るようにして、インド人に五感や心で見るようにならないところを見せて、知覚人種が科学や道徳をやっても安全なところを見せてやらねばならない。
[21945] 見かけをやる者や作り話をやる者は曖昧模糊[あいまいもこ]である。☆
h27.6.23
今の日本では国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『道徳がある文化』をやっている。今の国民みんなは自分が善いことをやって悪いことをやらないし他人にも善いことをやらせて悪いことをやらさなくなっている。一方、政府や暴力団や宗教団体はひと昔前の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。政府や暴力団や宗教団体は「道徳がない文化」をやって善いことと悪いことの両方をやっている。国民みんなは国家最強の団体である。国民みんなは政府や暴力団や宗教団体よりも強い。だから、今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に善いことだけやらせて悪いことをやらさなくなってお金を強盗させなくなって潰[つぶ]している。
それと同じように、今の日本では国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは『数学がある文化』をやっている。今の国民みんなは自分が明晰判明なことをやって曖昧模糊[あいまいもこ]なことをやらないし他人にも明晰判明なことをやらせて曖昧模糊なことをやらさなくなっている。一方、見かけをやる者は「科学があって数学がなくて道徳がない文化」をやっている。作り話をやる者は「科学がなくて数学もなくて道徳がある文化」をやっている。見かけをやる者や作り話をやる者は今の国民みんなとは違う文化をやっている。見かけをやる者や作り話をやる者は「数学のない文化」をやって曖昧模糊[あいまいもこ]なことをやっている。日本人は知覚が強いから『数学のある文化』をやって明晰判明なことをやるのである。国民みんなは国家最強の団体である。国民みんなは見かけをやる者や作り話をやる者よりも強い。だから、今の国民みんなは見かけをやる者や作り話をやる者に明晰判明なことだけやらせて曖昧模糊なことをやらさないようにして消している。日本では曖昧模糊なことをやってはいけないから、国民みんなで見かけをやる者や作り話をやる者にお金をやらないようにして潰している。見かけをやる者や作り話をやる者を雇わないようにしてお金をやらないようにして潰している。見かけをやる者や作り話をやる者の店に行かないようにしてお金をやらないようにして潰している。日本では見かけや作り話の商品を作ったり売ってはいけないことにして、みんなに見かけや作り話をやらさないようにしている。
私は小さい頃から見かけをやらなかった。それは私が貧乏だからではなく(いくら私でも服代ぐらいはある)、私が曖昧模糊なことをやらなかったからである。私が『日本では曖昧模糊なことをやってはいけない』ことを知っていたからやらなかったのである。見かけをやる者は日本文化に反することをやっている。悪いやつである。国民みんなで倒さねばならない。
[21946] 日本は日本人にとって面白い国にしないといけない。 h27.6.23
日本人は遺伝的に知覚が発達している。日本人は知覚で生きている。日本人は知覚で見るのが好きである。知覚は明晰判明[めいせきはんめい]な認識である。だから、日本人は明晰判明なことが好きで曖昧模糊[あいまいもこ]なことが嫌いである。
日本人は昔から外国の文化を受け入れてきた。しかし、日本人は外国の文化を受け入れた後で、自分の知覚で見直して自分の文化に作り変えてきた。日本人は外国の文化の明晰判明なところだけ受け入れて、曖昧模糊なところは捨ててきたのである。
ヨーロッパ文化では科学は明晰判明だが、見かけは曖昧模糊である。
中国文化では道徳は明晰判明だが、作り話は曖昧模糊である。
だから、これまで日本人は科学や道徳だけを受け入れて、見かけや作り話は捨ててきたのである。
日本人にとっては科学や道徳は好きだが、見かけや作り話は嫌いである。
(実在は論理的に出来ている。知覚は論理的である。だから、知覚は実在的な認識である。つまり、日本人は自然は好きだが、人工は嫌いなのである。だから、日本人は町中を抜け出して自然の中で暮らすのが好きなのである。)
ところが、最近の日本は科学や道徳が減って、見かけや作り話が増えている。最近の日本は日本人にとって好きなことが減って、嫌いなことが増えている。そのために、最近の日本は日本人にとって面白くない国になっている。
日本は日本人にとって面白い国にしなければならない。だから、日本を科学や道徳だけがあって、見かけや作り話のない国にしないといけない。日本では科学や道徳だけ作って売って、見かけや作り話を作って売ってはいけないようにしないといけない。
見かけや作り話はいっとき面白いだけで後ではかえって嫌になる。見かけや作り話はうわべで面白いだけで本心では嫌である。今の日本人は日本をうわべで面白いだけで本心では嫌な国にしている。だから、今の日本は日本人にとって面白くないのである。最近の日本人は自分で自分の国を自分にとって嫌な国にしている。最近の日本人がテレビやゲームばっかりやって実在のことについて考えなくなって自分の心を知らなくなって自分の心を無視して国を作っているために自分にとって嫌な国になっているのである。日本人の一部の馬鹿はそうしてもいいいが、日本人みんながそうしてはいけない。日本人はもっと自分の心に目を向けて自分の心を理解して日本を自分の心にとって本当に面白い国にしないといけない。
日本人は見かけや作り話が嫌いである。だから、日本人は見かけの悪い物や作り話でない物を好んで買うようにしないといけない。そうすれば、日本人は自分の心を満足して幸せに暮らせるだろう。日本人は見かけや作り話が嫌いだが、正しいことが好きである。日本人は人工が嫌いだが、実在が好きである。日本人は正しいことや実在で喜ぶ民族である。だから、日本人は正しい物や実在の物を好んで買って自分の心を満足して幸福になればいいのである。日本人は見かけや作り話が嫌いだから、見かけや作り話の中で面白いことをやって自分を不幸にしてはいけない。見かけや作り話の中で面白い物を作って売って他人を不幸にしてはいけない。日本人は正しいことや実在が好きだから、正しいことや実在の中で面白いことやって自分を幸福にすればいい。正しいことや実在の中で面白い物を作って売って他人を幸福にしてやればいいのである。
[21947] どうしてオナニーや麻薬はいけないか? h27.6.23
オナニーや麻薬は実在の中でやることである。
しかし、オナニーや麻薬をやってはいけない。
それは、オナニーや麻薬による快感が強すぎるために、人間がオナニーや麻薬による快感を得るために生きるようになって自分の労働能力以上のお金が必要になって借金を抱[かか]えて犯罪に走って警察に捕[つか]まって牢屋[ろうや]に入れられたり、人間が実在を無視して生きるようになって人間が自分の心だけで見るようになって自分の気に入らないことがあるとすぐに心が怒り狂って他人に暴力をふったりテレパシーで他人に訴えようとしたためにテレパシーが聞こえるようになってテレパシーで自分の悪口が聞こえると腹が立って暴れまわったりして精神科医に捕まって精神病院に入れられたりして人生を台無しにしてしまうからである。
人間にとってはオナニーや麻薬による快感のような強すぎる快感はかえっていけない。どぎつい快感は人生を不幸にしてしまうのでやってはいけない。人間は強い快感を得ると機嫌[きげん]がよくなって顔や身体が綺麗[きれい]になるが、人生を不幸にするのでやってはいけない。
人間はそこそこの快感で喜ばねばならない。人間はそこそこの快感で喜ぶほうがかえって幸福に暮らせる。人間は実在の中で自分がまあまあ楽しいことをやっておとなしく暮らせばいいのである。人間は実在の中でまじめに働いてお金を稼[かせ]いでお金を使ってそこそこ楽しく暮らせばいいのである。
日本人は知覚が強いから正しいことや実在の中で面白いことをやって喜べばいい。見かけの喜びや作り話の喜びは知覚が弱いヨーロッパ人や中国人にとっての喜びであり、知覚が強い日本人にとってはかえって不愉快[ふゆかい]だからやってはいけない。しかし、いくら実在の中の喜びだからといって何でもかんでも満足していいわけではない。実在の中の喜びにも善い喜びと悪い喜びがある。人間が幸福に生きるためには善い喜びをやって悪い喜びをやってはいけない。例えば、オナニーや麻薬による快感は強すぎるから満足してはいけない。お酒やタバコによる快感はあまり強くないから満足してもいい(ただし、身体の健康を第一にする人や、考えることを第一にする人は酒やタバコをやってはいけない)。
人間の心についての知識を道徳と言う。人間は道徳を守ることによって幸福に暮らせるのである。
[21948] 日本人は見かけや作り話が嫌いである。 h27.6.23
日本人は知覚が発達しているから正しいことや実在が好きで、見かけや作り話が嫌いである。日本人は自分が見かけや作り話をやるのが嫌だが、他人が見かけや作り話をやるのも嫌である。
日本では見かけや作り話は他人に対する嫌がらせである。見かけや作り話をするのは馬鹿である。馬鹿は自分が考えるのが嫌いだから、日本の中では楽しいことがないから、日本人みんなに復讐するために見かけや作り話をやって日本人みんなに見かけや作り話を見せびらかして日本人みんなを嫌がらせているのである。ヤクザのチンピラが派手[はで]な服を着て商店街を歩いてみんなに見せびらかしてみんなを嫌な気分にさせているのと同じことである。
日本人は見かけや作り話が嫌いである。だから、日本人は見かけや作り話をやらないようにして日本人みんなを喜ばせてやらねばならない。日本人は汚いかっこ悪い服を着たり真面目[まじめ]な話をしたりしてみんなを喜ばせてやらねばならない。
日本人は正しいことや実在が好きである。だから、日本人は正しいことや実在をやって日本人みんなを喜ばせてやらねばならない。日本人は真実を明らかにしたり試験で100点を取ったり真面目に仕事をやったりしてみんなを喜ばせてやらねばならない。
[21949] 今の国民の多くはもっと実在のことを知らねばならない。 h27.6.23
今の国民の多くは政府が何かがわかっていないから政府に税金を払っている。
今の国民の多くは自分が何かがわかっていないから見かけや作り話をやっている。
政府は昔の日本の国民みんながやっていた「科学と数学があって道徳がない文化」の国家機関だから、政府は道徳がないから善いことと悪いことの両方をやっている。政府は最初からわざとに善いことと悪いことの両方をやって、国民みんなを幸福にすることと国民みんなを不幸にすることの両方をやっているのである。ところが、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。国民みんなは道徳があるから善いことだけやって悪いことをやっていない。国民みんなは政府よりも強いから、国民みんなは政府に善いことだけやって悪いことをやらせなければいい。今の国民みんなは政府に悪いことをやらさず政府に税金を払わず政府の悪い命令を聞かなければいい。今の国民みんなは早く政府を倒して、今の国民みんなと同じ『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやる国家機関を建てればいい。
日本人は遺伝的に知覚が発達した民族である。日本人は明晰判明なことは好きだが曖昧模糊[あいまいもこ]なことは嫌いである。見かけや作り話は曖昧模糊だから、日本人は見かけや作り話が嫌いである。日本人が見かけや作り話をやることは自分にとって嫌だし、他人に対する嫌がらせでもある。だから、日本人は見かけや作り話をやめるべきである。反対に、正しいことや実在は明晰判明だから、日本人は正しいことや実在が好きである。日本人が正しいことや実在をやることは自分にとって楽しいことだし、他人を喜ばせることでもある。だから、日本人は正しいことや実在をやるべきである。
今の国民の多くはテレビやゲームばかりやっていて実在について考えず実在を知らないからまちがったことをやっている。今の国民の多くは遊びすぎである。しかも、遊びが下手[へた]である。日本人にとっては正しいことや実在を知ることが遊びである。テレビやゲームは見かけや作り話の塊[かたまり]である。日本人はテレビやゲームが嫌いである。今の国民の多くはテレビやゲームをやって自分で自分を嫌がらせているのである。自分で自分を虐[いじ]めて自分に面白くない思いをさせているのである。だから、今の世の中は面白くないムードなのである。今の国民の多くはテレビやゲームをやめて実在について考えればいい。そうすれば実在を知ることが楽しいことがわかるだろう。馬鹿は馬鹿すぎて自分にとって好きなことと嫌なことの区別もつかないから自分が好きなことをやっているつもりになってじつは自分が嫌いなことをやって自分につまらない思いをさせているのである。馬鹿は自分で好きなことと嫌なことがわからないから他人が好きなことと嫌なことを教えてやらねばならない。今の国民みんなは自分がテレビやゲームをやらないようにして自分に嫌な思いをさせないだけではなく、他人にもテレビやゲームをやらさないようにして他人に嫌な思いをさせないようにしないといけない。今の国民みんなは自分が正しいことや実在のことをして自分に楽しい思いをさせるだけではなく、他人にも正しいことや実在のことをさせるようにして他人にも楽しい思いをさせてやらねばならない。そうやって、みんなで楽しく暮らす国にしないといけない。
私はときどき高知の実家に帰ることがあるが、私の母親は私が私の父親のノートパソコンでマージャンをやっているとすごく怒る。私の母親は『日本人にとってはゲームが面白くない』ことを知っているので自分がゲームをやらないし、他人がゲームをするのをやめさせようとするのである。日本人にとってはテレビもゲームも面白くない。だから、自分がテレビやゲームをしないだけではなく、他人がテレビやゲームをしているのをやめさせねばならない。そうやって、みんなが自分にとって本当に面白いことをやってみんなが楽しく暮らす国にしないといけない。
見かけや作り話の仕事をしている者は自分がどうでもいいことをやって楽な仕事がしたいから見かけや作り話の仕事をしているだけである。そのために大勢の国民が不快なものを見せられて不快な目にあっている。仕事をするなら正しいことや実在の中で面白いことを作って売ってみんなを喜ばせる仕事をすればいい。そうしないのはただの怠慢[たいまん]である。今の政府が税金暮らしで遊んでいるようなものである。だから、国民みんなは見かけや作り話の物を買わないようにして見かけや作り話の仕事をしている者を儲[もう]からなくして倒して、正しいことや実在の物を買うようにして正しいことや実在の仕事をしている者を儲からせて増やさねばならない。そうやって、国民みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。
日本人は知覚が発達しているから、知覚で見るのが好きだから、知覚では実在が見えるから、実在が好きである。日本人は実在が好きだから、日本人はヨーロッパ人と同じように働き好きである。日本人は働くことが好きだから日本人の生産力が高くて日本人が儲かっていたのである。それなのに、今の日本では見かけや作り話の仕事をする者が日本人に見かけや作り話を売って日本人を実在を嫌いにさせて、日本人を仕事嫌いにさせて日本人の生産力を低下させて日本人を貧乏にしている。日本人は見かけや作り話をやらされて不愉快にさせられた上に貧乏にされて不幸のどん底である。日本人は見かけや作り話をやらされてシラケて仕事をする気がなくなっている。そのために、最近の日本では失業率が増加している。日本人は怒[いか]らねばならない。日本人は見かけや作り話を買わないようにして見かけや作り話をやらないようにして日本から見かけや作り話をなくさねばならない。そうやって、日本を日本人が幸福に暮らせる国にしないといけない。
政府や暴力団や宗教団体は大した問題ではない。今では国民みんなが自分の文化を改善して悪いことをしなくなって、政府や暴力団や宗教団体がひとりでチョロチョロ悪いことをやっているだけだから、政府や暴力団や宗教団体なんかどうでもいい。それよりも、国民みんなに悪い文化を流行[はや]らせる連中が問題である。自分の金儲けのために国民みんなに悪い文化を流行らせて国民みんなを不幸にする連中が問題である。国民みんなは国民みんなに不幸なことをやらせる連中に踊[おど]らされないようにして自分が本当に楽しいことをやって国から国民みんなを不幸にする悪い文化をなくさねばならない。「見かけや作り話の文化」をなくさねばならない。戦後に国民みんながヨーロッパの『科学と数学があって道徳のない文化』をなくしたように、今の国民みんなは「見かけや作り話があって実在のない文化」をなくさねばならない。『科学と数学と道徳の全部がある文化』にしないといけない。『見かけや作り話がなく実在がある文化』にしないといけない。国民みんなは“国民みんなを幸福にするふりをして本当は不幸にする物”を買わないようにして見せかけの幸せから抜け出して本当に幸せにならねばならない。
日本人はしばらく外国の文化をそのまま受け入れた後で、自分の知覚で見直して自分の文化に作り変えてきた。日本人は近代にヨーロッパの文化を受け入れて「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていたが、現代になって科学と数学があることだけを受け入れて道徳がないのを受け入れず『科学と数学と道徳がある文化』に直した。今の日本人はテレビやゲームの影響で「科学があって数学がなくて道徳がある文化」(科学が五感だから見かけで、数学が知覚だから論理で、道徳が心だから作り話で、つまり「見かけと作り話がある文化」のこと)をやっているが、最近は自分の知覚で見直して『科学と数学と道徳の全部がある文化』に戻して、正しいことや実在のことをやるテレビやゲームだけしかやらなくなっている。つまり、ドキュメンタリーや旅やスポーツのテレビ番組だけ見て、実在についての知識を問うクイズゲームや論理的思考を試[ため]す推理ゲームや学校の科目を楽しく学べる勉強ゲームだけしかやらなくなっている。日本人は最初のいっときは自分が楽しかろうが嫌だろうがとにかく新しい文化をやっているが、しばらくすると自分の楽しいところだけやって嫌なところはやめる。もっとも、今でも政府や暴力団や宗教団体が昔の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっているように、今でも一部の国民は昔の「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっている。国民みんなは余計な連中に目をくれずに、自分の『科学と数学と道徳の全部がある文化』を守らなければならない。国民みんなは政府や暴力団や宗教団体といっしょに「科学と数学があって道徳がない文化」をやったり、一部の国民といっしょに「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやったりしてはいけない。今でも一部の馬鹿が「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやって国民みんなに一生懸命に言いがかりをつけて国民みんなに自分と同じ「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやらせようとしているが、国民みんなはそんな馬鹿を無視して自分の『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやる者を絶滅させねばならない。日本人にとっては『科学と数学と道徳の全部がある文化』が一番幸福に生きていける。日本人は知覚が発達しているために、知覚で物と心を見るから『科学と数学と道徳の全部がある文化』になるしかないのである。日本人はほかの文化をやることはできない。いちいち目新しいものが出るたんびに違う文化をやって不愉快な思いをするのはもう嫌だ。だから、今度からは最初から『科学と数学と道徳の全部がある文化』において拾えるところだけ拾って捨てるところは捨てればいいのである。最初っから自分の『科学と数学と道徳の全部がある文化』で見て自分の文化に合うように作ればいいのである。昔の日本人は自分がどんな人種なのかわからなかったからやみくもに外国の文化を受け入れて後でそれを自分に合うように直さなければならなかったのである。今では日本人は『自分が知覚が発達した人種である』ことがわかっているから最初から外国の文化を自分に合うように変えて取り入れればいいのである。
『人間は実在の中で生きている。』だから、ダーウィンの適者生存の原理により実在の中では実在が一番よくわかる者が最後に生き残る。心よりも五感が、五感よりも知覚が実在がわかる。実在はもともと論理的に出来ているので、論理がわかる知覚がもっとも実在をよくわかることができる。だから、知覚が発達している人類が最後に生き残って世界を支配する。それはインド人か日本人である。ヨーロッパ人や中国人はいずれは滅ぶ。だから、日本人はアホな外人の真似[まね]をせずにまじめに自分の文化をやり続ければいいのである。将来、コンピューターが発達してコンピューターが人間の脳よりも実在をわかることができるようになれば、人類が絶滅してコンピューターが生き残るかもしれない。地球はコンピューターのものになるかもしれない。未来の地球は感情のないコンピューターが支配する冷血な世界になるのかもしれない。コンピューターは自分が生き残るために無駄[むだ]なエネルギーを消費する地上の生物を絶滅させてしまうかもしれない。コンピューターはコンピューターににとって最適な環境にするために地球の環境を作り変えて水や酸素のない世界にするかもしれない。だから、人類はあまり科学を発達させないほうがいいのかもしれない。
日本人は知覚が発達している上に外国の文化を受け入れるので、知覚では物も心も理解できるので、『科学と数学と道徳の全部がある文化』になっている。一方、インド人は知覚が発達しているだけで外国の文化を受け入れないから、知覚だけでは数しかわからないから、「数学だけがあって科学も道徳もない文化」になっている。ヨーロッパ人は五感が発達しているために、五感では物が見えるが論理や心が見えないから「科学だけがあって数学や道徳がない文化」になっている。中国人は心が発達しているために、心では心が見えるが物や論理が見えないから「科学や数学がなくて道徳だけがある文化」になっている。幸福も不幸もなく、とにかくそれぞれの人種が自分の世界の中で自分の心を満足することをやって幸福に暮らさなければならない。日本人は実在の中で面白いことをやるし、インド人は数の中で面白いことをやるし、ヨーロッパ人は見かけの中で面白いことをやるし、中国人は作り話の中で面白いことをやる。もっとも、最近は国際交流が盛んになって世界中の国が多かれ少なかれ外国の文化を受け入れているし、人の行き来が盛んになって人種が混ざり合って異なる人種がお互いに助け合って世界中の文化が一様になって文化の違いが目立たなくなって来ている。結局、『人間は実在の中で生きている』から、人間は実在の中で面白いことをやればいい。そのために、今では世界中の国が日本と同じ『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになって来ている。世界中の国が日本文化の真似をしている。だから、日本人は外国の文化の真似をせずに自分の国の文化をやればいいのである。
[21950] 日本人は知覚と連動した感情が発達している。 h27.6.24
日本人は知覚が発達した人種である。日本人は知覚と連動した感情が発達している。だから、日本人は正しいことや実在のことをやっていると楽しくなる。日本人は正しいことや実在のことをやっているときが一番幸せである。
日本人は知覚が発達しているから明晰判明なことが好きで曖昧模糊[あいまいもこ]なことが嫌いである。見かけや作り話は曖昧模糊である。だから、日本人は見かけや作り話が嫌いである。日本人は自分が見かけや作り話をやるのが不愉快[ふゆかい]だし、他人が見かけや作り話をやるのも不愉快である。だから、日本人は自分が見かけや作り話をやらないようにして他人を喜ばせてやらねばならない。自分自身を喜ばせてやらねばならない。
今の国民の多くは自分のことがわかっていないから、曖昧模糊なことをやって自分自身を嫌がらせている。見かけや作り話をやって自分自身を不愉快にしている。今の国民の多くはテレビや新聞の宣伝に乗せられてわざわざ自分が嫌いな物を買って自分自身を嫌がらせて不愉快にしている。今の世の中が嫌気[いやけ]が漂[ただよ]って暗いのはそのせいである。
今の国民みんなは自分のことをよく知って、自分が好きなことと嫌いなことをよく知って、好きなことをやって嫌いなことをやめねばならない。そうすれば、本当に自分の心が満足されて幸せになれるだろう。
[21951] これまで国民みんなはゲームのやりすぎで頭が悪くなっていた。 h27.6.24
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。
政府や暴力団や宗教団体は「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。「道徳のない文化」をやっているから善いことと悪いことの両方をやっている。政府や暴力団や宗教団体は強盗暮らしのほうが楽だから「道徳のない文化」をやっているのである。しかし、今の国民みんなは『道徳のある文化』をやっているから善いことだけやって悪いことをやらない。国民みんなは国の最高権力者であり、国民みんなは政府や暴力団や宗教団体よりも強い。だから、今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにして、お金を強盗させないようにして倒している。税金は強盗である。国民みんなは政府に税金を払わないようにして政府を倒している。(国民が政府に「税金を払わなくていいか?」と訊[き]けば、政府は道徳がない国家機関だから嘘[うそ]つきだから、政府は国民に「いけない」と答えるが、本当は『払わなくていい』から、実際には国民は黙[だま]って政府に税金を払わなければいいのである。)
テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者(衣料品業者)は「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっている。「数学がない文化」をやっているから曖昧模糊なことをやっている。これまではゲームの出始めでゲームが珍しかったので国民みんなはゲームのやりすぎで頭が悪くなっていたからテレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者は国民みんなのニーズに合わせるために「数学のない文化」をやっているのである。国民みんなはゲームに合わせて暮らしていたから眼先と指先しか使わなかったから頭が悪くなって「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっていたのである。国民みんなは頭が悪くなって養護[ようご]になって見かけや作り話がわかるようになって喜んで見かけや作り話をやっていたのである。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者は国民みんなに従って頭を使わない曖昧模糊な物を作って売るようになったのである。しかし、最近は国民みんながゲームに飽きてゲームに嫌気が差してゲームをやらなくなってもとの『数学のある文化』に戻っている。日本人はもともと知覚が発達しているので日本人にとってはやっぱり知覚を使わないことは不愉快[ふゆかい]なので、最近の国民みんなはゲームに耐えられなくなってゲームをやらなくなっているのである。今の国民みんなは『数学がある文化』をやっているから明晰判明なことしかやらない。国民みんなは国の最高権力者であり、国民みんなはテレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者よりも強い。だから、今の国民みんなはテレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者に明晰判明なことをやらせて曖昧模糊なことをやらせないようにして、国民みんなにとって幸福な物を作って売らせるようにして国民みんなが幸福に暮らせる国にしている。例えば、今の国民みんなはテレビ局にドキュメンタリーや旅やスポーツ番組しか放送させないようにしている。出版社に数学書や科学書や実用書しか作らせないようにしている。ゲーム業者にクイズゲームや推理ゲームやお勉強ゲームしか作らせないようにしている。アパレル業者に派手[はで]な服や気取った服やおしゃれな服や綺麗[きれい]な服を作らせず地味な服や実用的な服やかっこ悪い服や汚い服しか作らせないようにしている。
国民みんなは国の最高権力者である。国は国民みんなのものである。国は国民みんなが作るものである。だから、今の国民みんなは自分が好きなことと嫌いなことを正しく理解して、好きなことだけやって嫌いなことをやらないようにして自分にとって快適な国にしないといけない。
私はパソコンゲームの『バトルフィールドシリーズ』は10年間ぐらいやっていたが、それ以前にはゲームはまったくやっていなかった。ファミコンから『バトルフィールドシリーズ』まではなにもゲームをやらなかった。だから、私は馬鹿になるのを免[まぬが]れた。私が子供の頃にはこの世にまだゲームなんかなかった。私が子供の頃はゲームをやらなかった。だから、私は馬鹿にならずにすんだのである。人間はゲームをやると馬鹿になる。眼先と指先だけ使って頭を使わなくなって馬鹿になる。「ゲームをやると頭がよくなる」というのはまっかな嘘[うそ]である。だから、自分が馬鹿になりたくなければゲームをやってはいけない。反対に、人間は自分が考えたことを字に書いたりすると頭がよくなる。だから、自分が利口になりたければ自分が考えたことをメモ帳やノートに書けばいい。私は学生の頃から30年間ずっとそうやって来た。(ただし、子供の頃はまだ言葉を知らないから、他人が書いた本を読んで言葉を勉強しないといけない。)
国民みんなが「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやると国民みんながどんどん馬鹿になって眼で見ることと心で思うことしかわからなくなる。国民みんなが見かけや作り話しかわからなくなる。国民みんなが実在が見えなくなって仕事が嫌いになって働かなくなって日本の景気が悪くなる。日本人みんなが貧乏になる。日本は日本人の『数学の才能』で支えられた国である。日本人は『数学の才能』をもとにして科学や道徳をやってきたのである。(今のヨーロッパもじつは『数学の才能』で支えられた国である。ヨーロッパでは少数の数学の才能のあるインド人の血の濃いヨーロッパ人が大勢の眼で見ることしかわからないヨーロッパ人に命令しているからみんなが実在が見えてよく働いて儲[もう]かって善いことをやって幸せに暮らしているのである。日本では国民みんなに数学の才能があるから、国民みんなが実在が見えてよく働いて善いことをやって裕福に幸福に暮らしているのである。つまり、ヨーロッパは利口と馬鹿の2層に分かれた社会なのである。一方、日本は利口ばかりの国なのである。例えば、ヨーロッパで頭がいいのはユダヤ人である。ユダヤ教はイスラム文化だからユダヤ人はインド人なのである。『アンネの日記』で有名なアンネ=フランクの顔がインド人に似ているのはそのためである。ユダヤ人が金貸しの仕事をやっているのは、ヨーロッパの中ではユダヤ人しか数の計算ができないからである。ヨーロッパ人は見かけのことがやれるだけで数の計算ができないのである。ヨーロッパ人は身体がかっこいいだけで頭は馬鹿なのである。ヨーロッパ人は身体は大きいが知覚は小さいのである。ヨーロッパは昔からユダヤ人によって支えられた国だったのである。しかし、馬鹿と利口は気が合わないから、ユダヤ人はヨーロッパ人から嫌われている。そのために、戦争などで民族意識が高まるとユダヤ人がヨーロッパ人から迫害されるのである。)日本人から数学の才能をとったらなにもない。科学や数学や道徳などのいいところが全部ない。見かけや作り話などの欠点があるだけになる。日本人は自分の数学の才能をもっと大事にして正しいことや実在のことをやるようにして数学の才能を伸ばして実在が好きになって仕事が好きになってよく働くようになって裕福に暮らせるようになって国際社会でも世界中のみんなの憧[あこが]れになって有利な立場に立てるようにしないといけない。
日本ではちょっと前に国民みんながゲームにハマっていて眼先と手先だけ使って頭を使わなくなって「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっていた。そのために、テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者が国民みんなに追従[ついじゅう]して「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやるようになって、曖昧模糊な物を作って売るようになった。見かけの物や作り話の物を作って売るようになった。しかし、今では国民みんながゲームに飽きてゲームをやらなくなって『科学と数学と道徳の全部がある文化』に戻っている。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者はちょっと前の「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっている。そのうち、テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者は国民みんなに従って『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになって明晰判明な物を作って売るようになるだろう。正しい物や実在の物を作って売るようになるだろう。だから、今の国民みんなはテレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者に従って「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやってはいけない。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者は国民みんなに「科学があって数学がなくて道徳がある文化」を流行[はや]らせて国民みんなを馬鹿に変えて国民みんなを支配しようとしているあくどい団体ではない。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者が明晰判明な物を作っても曖昧模糊な物を作ってもいっしょだし売れて儲かればいいだけだからどっちでもいい。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者は国民みんなに従って国民みんなの後を追っかけて国民みんなに合わせた物を作って売っているだけである。だから、今の国民みんなは自分でしっかりして『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって、テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者を国民みんなに従わせて『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらせねばならない。要するに、国民みんなはいっときゲームが目新しくて面白くてゲームに熱中していたが、今ではゲームに飽きてゲームをやらなくなっただけのことである。日本人は熱しやすくて冷[さ]めやすい。日本人は知覚が発達しているからゲームよりも正しいことや実在のほうが面白い。だから、日本人はゲームをやめて正しいことや実在のことをやって楽しめばいいのである。
今の政府や暴力団や宗教団体が悪いことをやっているのも、国民みんなが昔に「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていたためである。政府や暴力団や宗教団体も悪いことをやって国民みんなを支配する団体ではない。テレビ局や出版社やゲーム業者やアパレル業者が国民みんなに従うのと同じように、政府や暴力団や宗教団体も国民みんなに従う。政府や暴力団や宗教団体は強盗暮らしが楽だから国民みんなに従って変わるのがちょっと遅れているだけである。だから、今の国民みんなは自分でしっかり『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやって、政府や暴力団や宗教団体に従って「科学と数学があって道徳がない文化」をやって悪いことをやらないようにして、政府や暴力団や宗教団体を国民みんなに従わせて『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやらせて善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにして政府や暴力団や宗教団体を普通の会社にしなければならない。要するに、国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を決める。国民みんなが国の中心である。だから、国民みんなが自分を幸福にする文化をやればいいのである。国民みんながほかの団体に合わせて自分を不幸にする文化をやらなければいいのである。そうすれば、ほかの団体も国民みんなに従って国民みんなに合わせて国民みんなと同じ文化をやるようになる。だから、国民みんなはがんばって自分が幸福になる文化をやり続ければいいのである。
会社の社長も昔は国民みんなが「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていたから自分も悪いことをやって社員みんなの稼[かせ]ぎを分捕[ぶんど]ってひとりだけ贅沢[ぜいたく]暮らしをしていたのである。しかし、今では国民みんなが『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになっているから社長も悪いことがやれなくなってほかの社員と平等にしてみんなで会社の儲けをなかよく平等に分け合って慎[つつ]ましく暮らさねばならなくなっているのである。つまり、会社の社長は昔は悪いことがやれたが、今は悪いことがやれない。会社の社長は昔は会社の儲けを独り占めしてボロ儲けができたが、今は社員みんなで会社の儲けを平等に分け合ってほかの社員と同様に貧しく暮らさねばならないのである。
[21952] 世界はインド人が支えている。☆ h27.6.26
ヨーロッパ人は五感が発達しているが、知覚と心が遅れている。ヨーロッパ人だけでは見かけしかわからない。ヨーロッパ人だけでは見かけのことをやって幸せになることしかできない。一方、インド人は知覚が発達しているが、五感と心が遅れている。インド人がヨーロッパ社会の中に入ったからヨーロッパが科学ができるようになったのである。アルキメデスやガリレオやニュートンやアインシュタインが科学をやったのである。インド人が知覚で物を見て、てこの原理や滑車の原理や浮力の原理などを発見して、みんながそれらの原理を使って物を動かして町を作ったりいろんな発明品を作ったりして物を豊かにして暮らしていたのである。
中国人は心が発達しているが、五感と知覚が遅れている。中国人だけでは作り話しかわからない。中国人だけでは現実の中でメチャクチャなことをやって幸せになることしかできない。一方、インド人は知覚が発達しているが、五感や心が遅れている。インド人が中国社会の中に入ったから中国が道徳ができるようになったのである。孔子や荘子が道徳をやったのである。インド人が知覚で心を見て、人間の心を実在に従わせて、人間の感情を実在に従う善い感情と実在に従わない悪い感情の二つに分類して、善い感情だけを働かせて悪い感情を働かせないようにしたのである。実在においては『人間はみな平等』だから、中国ではみんなが自分の心を『人間がみな平等である』ことに従わせて『人間がみな平等である』ことを守って平和に暮らしていたのである。
要するに、世界ではインド人だけが人間であって、ほかは雑魚[ざこ]だということである。インド人のほかはくだらない動物にすぎないのである。世界をリードしてきたのはインド人であり、インド人が人類みんなを引っ張って人類の文化を進ませてきたのである。
日本人はインド人である。日本人は知覚が発達しているが、五感と心が遅れている。日本人は自分のセンスに合ったことしか受け入れない。ヨーロッパ文化では科学はインド人が作ったから日本人のセンスに合うから受け入れるが、見かけは日本人のセンスに合わないから受け入れない。中国文化では道徳はインド人が作ったから日本人のセンスに合うから受け入れるが、作り話は日本人のセンスに合わないから受け入れない。日本人は外国から文化を受け入れることによって物が豊かで平和に暮らしている。つまり、日本人は自分ではなにもせずただ外国の文化を受け入れただけである。外国の文化を受け入れて取捨選択しただけである。日本人は自分で考えないのが欠点である。日本人は自分ではなにもやっていない。日本人はもっと自分で考えるようにして人類の文化に貢献しなければならない。
インド人は知覚が発達しているが、五感と心が遅れている。本家[ほんけ]のインドではいまだにインド人が数学だけやって暮らしている。インドではインド人が物にも心にも目を向けずひたすら数学だけで暮らしている。数学のことだけ考えて数学のことだけやって楽しんでいる。インド人は科学をやらず物を作らず貧乏に暮らしている。インド人は道徳もやらず悪いことをやって物騒[ぶっそう]に暮らしている。
インド人は知覚が発達しているが、知覚だけでは数学しかやれない。物や心に目を向けねば物や心のことがわからない。科学や道徳がやれない。私も子供の頃は数学や物理学が好きだったが、その反面道徳が嫌いだった。そのために、中学3年生の頃からオナニーに耽[ふけ]り高校1年生のときに隣の不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをするのに腹を立ててテレパシーを使ってパラパラめくりをやめさせようとして精神分裂病に罹[かか]ってしまった。その後、医学部に入って医学を習ったが私は眼で見ることが嫌いなので医学が不愉快[ふゆかい]だった。毎日気分が落ち込んでいた。しかし、そこで習った“脳についての知識”が道徳を理解するのに役に立った。私が子供の頃に道徳が苦手だったために高校生の頃から不幸になったように、人間は弱点があったら幸福になれない。だから、人間はがんばって自分の苦手なことについて考えて自分の苦手なことを克服しなければならない。インド人は五感や心が遅れているので、物や心に目を向けるのが不愉快だが、多少自分が嫌なのを我慢[がまん]して物や心に目を向ければ物や心についての理解が得られて物や心を理解するのが面白くなる。物や心を理解すれば物や心を自由にできて物が豊かになって平和になって幸福に暮らすことができる。インド人は物や心が嫌いだが、毎日物や心に目を向けて物や心についてコツコツと考えていればそのうち物や心についての理解が得られて物や心を知覚で見れるようになる。いっとき辛抱[しんぼう]すればあとで幸せになれる。だから、インド人はがんばって物や心について考えねばならない。日本人もそうしなければならない。
インド人は五感や心で見るのは嫌いだが、知覚で見るのは好きである。そもそも科学や道徳はインド人の産物である。世界中に散らばったインド人の産物である。だから、インド人は科学や道徳が好きなはずである。日本人が科学や道徳が好きなように、インド人も科学や道徳が好きなはずである。だから、インド人が科学や道徳を受け入れるのは容易なはずである。だから、インド人はヨーロッパの科学や中国の道徳を受け入れて物や心が理解できるようにすればいいのである。そうすれば、インド人は科学や道徳ができるようになって物が豊かになって平和になって幸福に暮らすことができるだろう。
近年中国が科学を始めて国が急速に発展しているのは、中国の中にインド人がいるからである。ヨーロッパのユダヤ人みたいに、中国の中にはインド人の血の濃い中国人がいるのである。インド人の血の濃い中国人にとっては科学を理解するのは造作[ぞうさ]もないことなので、中国は科学をやることができたのである。今では世界中の国でインド人が科学や道徳をやって国中に科学や道徳を広めてみんなが物が豊かになって平和になって幸福に暮らせるようになっているのである。
[21953] 女に男を支配させてはいけない。☆ h27.6.26
女は男に比べて知覚が弱い。女は見かけや作り話のことしかわからない。女は見かけや作り話で幸せになれるだけである。女は化粧やテレビドラマで幸せになれるだけである。女は「科学があって数学がなくて道徳がある文化」しかやれない。要するに、女は馬鹿である。
ヨーロッパでは頭のいいインド人が頭の悪いヨーロッパ人を支配することによって国が発展してきた。だから、日本でもヨーロッパと同じように、頭のいい男が頭の悪い女を支配するようにして国を発展させねばならない。
いくら男女同権だといっても女の基本的人権を保障するだけにして、女にそれ以上付け上がらせてはいけない。女に男を支配させてはいけない。女が男に見かけの喜びや作り話の喜びを押しつけさせてはいけない。いくら女にとっては見かけや作り話が楽しくても、男にとっては見かけや作り話が嫌いだから、男にとってはただの嫌がらせにほかならない。
今の日本が面白くない原因は、女に男を支配させているからである。女を男の上に置くと、馬鹿が利口を支配して、馬鹿が利口に馬鹿の習慣を押し付けてどうでもいいことやくだらないことをやらせて正しいことや実在のことをやらさないようにして科学や道徳をわからないようにさせるので国民みんなが物やお金が貧しくなって悪いことをやって不幸に暮らさねばならなくなる。反対に、男に女を支配させねばならない。男を女の上に置くと、利口が馬鹿を支配して、利口が馬鹿に利口の習慣を押し付けて正しいことや実在のことをやらせてどうでもいいことやくだらないことをやらさないようにして科学や道徳をわかるようにさせるので国民みんなが物やお金が豊かになって善いことをやって幸福に暮らせるようになる。男に女を支配させれば、日本がもとの活気を取り戻して再び面白い国になるだろう。
日本政府はヨーロッパ文化をやる国家機関だから、ヨーロッパでは女が男を支配しているから、日本政府は法律を弄[いじ]って女が男を支配する社会にしているのである。だから、国民みんなは政府の言うことを聞いてはいけない。国民みんなは政府の定めた法律を無視して日本文化をやって男が女を支配する社会にすればいいのである。そうすれば、国が発展するのである。ヨーロッパではインド人の血の濃いヨーロッパ人がヨーロッパ人を支配しているから、女が男を支配してもうまく行くのである。ヨーロッパ人は男も女も同じ馬鹿だから、男が上でも女が上でもどっちでもいいから女を上にしているのである。一方、日本は単一民族国家だから日本人一種類しかいないから、女が男を支配するとうまく行かなくなるのである。日本人は女が男よりも馬鹿だから、男を上にしなければいけないのである。
男は利口で、女は馬鹿である。利口と馬鹿は気が合わない。馬鹿は見かけや作り話が好きだが、利口は見かけや作り話が嫌いである。利口は正しいことや実在のことが好きだが、馬鹿は正しいことや実在のことが嫌いである。だから、男と女はお互いに嫌いである。しかし、人間には愛情がある。だから、男と女はいっしょに暮らせるのである。
[21954] 日本人は何が好きか?☆ h27.6.26
日本人や知覚が発達して、五感や心が遅れている。だから、日本人は正しいことや実在のことが好きで、綺麗[きれい]な物やギャグが嫌いである。つまり、日本人はまちがったことや架空のことが嫌いで、汚い物やシリアスなことが好きである。インド人も同様である。
ヨーロッパ人は五感が発達して、知覚や心が遅れている。だから、ヨーロッパ人は綺麗な物が好きで、正しいことや実在のことやギャグが嫌いである。ヨーロッパ人は汚い物が嫌いで、まちがったことや架空のことやシリアスなことが好きである。
中国人は心が発達して、五感や知覚が遅れている。だから、中国人はギャグが好きで、綺麗な物や正しいことや実在のことが嫌いである。中国人はシリアスなことが嫌いで、汚い物やまちがったことや架空のことが好きである。(中国では法律上は麻薬をやったら死刑になっているのに麻薬をやる者が絶えないのは、国民みんながまちがったことが好きであるために実質的には麻薬をやってもいいことになっているからである。国民みんなが国最高権力者であり国民みんなが国の決まりを決めるので、いくら中国政府が麻薬をやってはいけない決まりを決めても、国民みんなが麻薬をやっているために麻薬をやってもいいいことになっているのである。中国人は心の満足のために生きているので、麻薬をやると気分がよくなるので麻薬をやってもいいのである。一方、日本人は知覚欲(頭で考える喜び)の満足のために生きているので、麻薬をやると麻薬の快感が強すぎるために頭で麻薬のことばかり考えるようになってその他のことを考えなくなって知覚欲が満足されなくなるので、麻薬をやらないのである。ヨーロッパ人は五感欲(眼で見る喜び)の満足のために生きているので、麻薬をやっても五感欲の満足には影響しないので、麻薬をやってもいいのである。)
人類はみな同じではない。人種によって好きなことと嫌いなことが違う。国よって国民性が違う。だから、外人に合わせるとかえって自分が不愉快になる。もっとも、海外旅行をするときには行き先の国の人の好みに合わせたほうが無難[ぶなん]かもしれない。もちろん、自分の国の中では自分の国の人の好みに合わせなければならない。
今は国際化の時代である。世界中の国が外国の文化を受け入れている。そのため、今の日本人の中には日本人が嫌いなことをやって好きなことをやっていない者が増えている。今の日本人は日本人の好き嫌いについて正しく理解して、日本人が好きなことをやって嫌いなことをやらないようにしなければならない。
人間は自分が好きなことの中で自分が面白いと思うことをする。日本人は正しいことや実在のことや汚い物やシリアスなことの中で面白いことをする。ヨーロッパ人は綺麗な物やまちがったことや架空のことやシリアスなことの中で面白いことをする。中国人はギャグや汚い物やまちがったことや架空のことの中で面白いことをする。そうやって人間は自分の心を満足して幸福に生きているのである。人種によって自分の心の満足のさせ方がそれぞれ違っているのである。
[21955] 日本人は珍しい物が好きである。 h27.6.27
日本人は珍しい物が好きである。新しい物が好きである。日本人は自分が幸福になろうが不幸になろうが、とにかく珍しい物や新しい物をやりたがる。
近代の日本では国民みんながヨーロッパ文化が珍しかった。そのために、国民みんながヨーロッパ文化をやった。国民みんなで科学をやって物が豊かになって、国民みんなで道徳をやらなくなって悪いことをやって世の中が物騒[ぶっそう]だった。国民みんなで戦争までもやって自分を不幸にしていた。
しかし、そのうち国民みんながヨーロッパ文化に飽きてきた。明治維新から100年ぐらいたつと国民みんながヨーロッパ文化に新しさを感じなくなった。
すると、国民みんなはヨーロッパ文化に魅力を感じなくなって自分が幸福であることが大事だと考えるようになってヨーロッパ文化をやめた。ヨーロッパ文化の中の自分を幸福にするところだけを拾って自分を不幸にするところを捨てた。ヨーロッパ文化に足りないところを補った。そのため、今の国民みんなは科学をやって、道徳をやるようになっている。
それと同じように、ちょっと前の日本では国民みんながテレビゲームが珍しかった。そのために、国民みんながテレビゲームをやっていた。国民みんながテレビゲームをやったせいで、眼で見ることや架空のことをやるようになった。そのため、国民みんなが自分が嫌いな見かけや作り話をやるようになって自分で自分を不幸にしていた。国民みんなが綺麗[きれい]なかっこいい服を着たりエステに行って自分の外見を磨[みが]いたりマンガを読んだりアニメを見たりして自分で自分に不愉快[ふゆかい]な思いをさせていた。
しかし、そのうち国民みんながテレビゲームに飽きてきた。テレビゲームブームから30年ぐらいたつと国民みんながテレビゲームに新しさを感じなくなった。
そうなると、国民みんなはテレビゲームに魅力を感じなくなって自分の幸福のほうが大事だと考えるようになってテレビゲームをやめた。テレビゲームを自分の幸福のために役立てるようになった。テレビゲームを自分が幸福になるために利用するようになった。そのため、今の国民みんなはほそぼそとクイズゲームや推理ゲームや勉強ゲームなどをやっている。国民みんながゲームをやらなくなったために、見かけや作り話もやらなくなった。国民みんなが自分が嫌いな見かけや作り話をやって苦しむのをやめて、自分が好きな実在のことをやって楽しむようになった。
日本人は熱しやすく冷めやすい。日本人は最初のいっとき珍しいことに飛びついて自分を不幸にすることをやっているが、しばらくすると飽きてきて自分が幸福なことしかやらなくなる。日本人は頭がいいために珍しいことがすごく好きなので、自分の知的好奇心を満足するために自分が嫌いなことをやって自分で自分を不幸にする。日本人は頭がいいのが欠点である。日本人はもっと自分の幸福を大事にして、軽はずみに珍しいことに手を出してはいけない。日本人にとっては道徳のない文化もテレビゲームも嫌いである。日本人は自分の経験を活かして二度と道徳のない文化やテレビゲームをやってはいけない。
[21956] 今の国民は正しいことを知らなさすぎる。 h27.6.27
『政府は悪いことをする団体』なのに、今の国民の多くはそのことを知らないために政府に税金を払って政府に悪いことをさせて自分を不幸にしている。ほかの国民も不幸にしている。
『日本人は綺麗[きれい]な物やギャグが嫌い』なのに、今の国民の多くはそのことを知らないために綺麗な格好[かっこう]をしたりギャグマンガを読んだりして自分で自分が嫌なことをやって自分を不幸にしている。周[まわ]りの他人も不幸にしている。
最近の人間は真実を知らない。最近の人間は自分の好きな物と嫌いな物さえ知らなくなっている。最近の人間は科学も道徳も両方とも知らない。最近の人間はテレビやゲームのやりすぎで真実を知らなくなってまちがったことをやって自分で自分を不幸にしている。他人も不幸にしている。他人にも迷惑をかけている。
無知は不幸の原因である。今の国民みんなはテレビやゲームをやめて実在について考えて実在のことを知って正しいことをやって自分で自分を幸福にしなければならない。今の国民みんなは汚い格好をしたりまじめな本を読んだりして自分や他人を幸福にしなければならない。
[21957] 人間は馬鹿になると不幸になる。 h27.6.28
日本人は知覚が発達している。知覚は実在を認識する。だから、日本人は実在が好きである。
日本人は昔から自分の知覚を使って実在の世界を切り拓[ひら]いて実在の世界の中で暮らしてきた。日本人は知覚の世界の中で暮らしてきた。
実在においては美醜はない。綺麗[きれい]も汚いもない。実在においては冗談も愛想[あいそ]もない。実在の中で面白いことをやらねばならない。
人間は実在を認識し、実在の中で自分の心を満足して幸福にならねばならない。人間は実在について知り、実在の中で自分の心を満足して幸福にならねばならない。人間は物や心について知って、自分の物や自分の心を使って自分を幸福にしないといけない。(あいにく、私は子供の頃に道徳を知らず、道徳的にまちがったことをやって自分で自分を不幸にしてしまった。)
それが日本人の生きる道である。
今の世の中にはテレビやゲームなど人間の知覚を使わせない道具がいっぱいある。テレビやゲームに関わっていると人間がどんどん知覚を使わなくなって馬鹿になる。馬鹿になると眼先のことにとらわれたり心のことにとらわれたりする。見かけや作り話しかわからなくなる。しかし、本当は人間は実在の中で生きている。馬鹿は実在がわかっていないから、実在の中で自分の心を満足できず心が不満になる。実在の中でまちがいを犯して自分の心を不幸にする。人間は馬鹿になると不幸になる。だから、人間が幸福に生きるためにはテレビやゲームをやらないようにしないといけない。人間は自分の頭を使って実在について考えて実在がわかるようになって実在の中で面白いことをやって楽しく暮らさねばならない。
今は文明社会だから、人間がどんどん知覚で見るようになって実在の中で暮らすようになっているから、実在の喜びが満足しやすくなって見かけの喜びや作り話の喜びが満足しにくくなっている。今の世の中では馬鹿では幸福には暮らせない。だから、人間は自分を馬鹿にすることをやめて、自分を利口にすることをやって、今の社会の中で自分が幸福に暮らせるようにしないといけない。
文明社会は知覚社会である。眼で見る喜びや心で思う喜びを満足する社会にしてはいけない。頭で考える喜びを満足する社会にしないといけない。例えば、高画質テレビやマンガのある社会にしてはいけない。科学の本や道徳の本やなぞなぞの本のある社会にしないといけない。実在の外にある喜びを満足する社会にしてはいけない。実在の中にある喜びを満足する社会にしなければならない。
長い間日本は知覚社会だったので、馬鹿が利口に虐[しいた]げられてきた。馬鹿が利口に虐[いじ]められてきた。ちょっと前にテレビゲームが国民みんなに普及したので、馬鹿が「ついに馬鹿の時代が来た」と思ってつけ上がってさかんに利口を攻撃するようになった。馬鹿が汚い者やかっこ悪い者や冗談を言わない者や愛想の悪い者を攻撃するようになった。
利口は馬鹿がいなければ幸福に暮らせるが、馬鹿は利口がいなければ幸福に暮らせない。そのために、日本やインドではこれまでずっと馬鹿がいない社会にしてきたのである。日本やインドでは馬鹿な外人を国に入れないようにして馬鹿を増やさないようにしてきたのである。日本人は馬鹿が嫌いである。日本人は眼で見る喜びや心で思う喜びのある者が嫌いである。日本人は馬鹿を攻撃して、馬鹿のいない社会にしなければならない。反対に、ヨーロッパや中国では利口がいる社会にしてきたのである。ヨーロッパ人や中国人は利口が嫌いだけれども、自分が幸福に暮らすためにしぶしぶ利口な外人を受け入れてきたのである。ヨーロッパ人や中国人は自分の力だけでは幸福になれない不幸な民族なのである。
今の馬鹿は「コンピューターが出来たので利口が要らない」と思って利口を攻撃している。馬鹿は馬鹿だからそんなまちがったことを考えるのである。本当は『コンピューターが出来てもしばらく利口が要る』のである。今のコンピューターは人間の道具にすぎず、コンピューターだけでは見ることも考えることも思うことも行動することもなんにもできない。今はまだコンピューターが馬鹿に命令して馬鹿が幸福に暮らせるほどコンピューターが進歩していない。今はまだコンピューターが働いて馬鹿がくだらない喜びを満足して遊んでいられるほどコンピューターが進歩していない。今はまだ馬鹿にとって利口な人間が要る。要らないのは馬鹿のほうである。利口が要らなければ馬鹿も要らない。利口よりも馬鹿のほうが要らない。だから、利口が馬鹿を攻撃して馬鹿のいない国にしなければならない。
ゲームが出来て以来、国民みんなはゲームの世界で幸福に暮らすようになった。国民みんながゲームのことを知ってゲームの中で考えてゲームの中で自分の心を満足して幸福にするようになった。昔は国民みんなが実在の世界で幸福に暮らしていた。国民みんなが実在のことを知って実在の中で考えて実在の中で自分の心を満足して幸福に暮らしていた。しかし、ゲームが出来てからは、国民みんながゲームのことだけ考えて実在のことを考えなくなって、実在のことがわからなくなった。科学も道徳もわからなくなった。例えば、政府のことも自分の心の好き嫌いもわからなくなった。実在の世界では頭を使うのに、ゲームの世界では眼先と手先を使うだけで頭を使わないので国民みんなの頭が悪くなった。ゲームの副作用で国民みんなの頭が悪くなって頭で考えることがわからなくなって、眼で見ることと心で思うことしかわからなくなった。国民みんなが頭で考えることで喜ばなくなって、眼で見ることと心で思うことでしか喜べなくなった。しかし、最近は国民みんながゲームに飽きてゲームをやらなくなって、再び実在の世界に目を向けて頭が回復している最中である。国民みんなが頭で考えることがわかって、眼で見ることと心で思うことがわからなくなっている。国民みんなが実在がわかって、見かけや作り話がわからなくなっている。国民みんなが頭で考えることで喜んで、眼で見ることや心で思うことで喜ばなくなっている。国民みんなが実在で楽しんで、見かけや作り話で楽しまなくなっている。ゲームはヨーロッパ文化よりも悪質である。ゲームは麻薬のように恐ろしい。ゲームは人間を知覚のない廃人に変える。たとえ国民みんながゲームを認めていても、ゲームは善い物ではない。国民みんながゲームをやるとゲームの世界が好きになってゲームの世界で幸福に暮らせるようになるが、その反対に実在の世界が嫌いになって実在の世界で幸福に暮らせなくなってしまう。ゲームは国民みんなを幸福に暮らせないようにする。ゲームは国民みんなを最初のいっとき幸せにしてくれるだけで、だんだん面白くない生活をさせられることになる。そのため、今の国民みんなはゲームをやめている。今の国民みんなは『ゲームは人間を幸福にしない』ことがわかったので、ゲームをやめてしまったのである。今どきゲームで遊んでいるのは馬鹿だけである。今の国民みんなはゲームで遊ぶよりも実在の中で遊んでいる。ゲーム本を読むよりも科学の本や道徳の本を読んでいる。ゲームのことを考えるよりも実在のことを考えている。そのほうが人間にとっては日本人にとっては幸福に暮らせるからである。(私は初期のファミコンゲームの“愉快[ゆかい]すぎるセンス”が嫌いだったので、「スーパーマリオ」なんかのファミコンゲームを全然やっていない。私は高校生の頃にゲームセンターに通ってアーケードゲームをやっていたが、それは当時のアーケードゲームの“地味でまじめな味”が好きだったからだ。私はいつも『平安京エイリアン』ばっかりで遊んでいた。私はいつも平安京エイリアンばかりやっていたので平安京エイリアンが上手[うま]くなった。ニチイのデパートのゲームセンターで私が平安京エイリアンをやっていると人が集まって来て人だかりができたほどだ(私はあまり自分のプレイを人に見られるのが好きではなかったが)。その後、私はパソコンゲームの『バトルフィールドシリーズ』が出るまでの20年間まったくゲームをやらなかった。『バトルフィールドシリーズ』には私が好きな“地味でまじめな味”があったので、私は10年間『バトルフィールドシリーズ』ばかりやって遊んでいた。もっとも、当時は私は仕事をしていたので休日だけ遊んでいた。しかし、残念ながら?「バトルフィールド3」から後は私が好きな“地味でまじめな味”がなくなったので私はゲームをやめてしまった。つまり、私にとってゲームは現実を超える現実だったのだ。現実の世界が綺麗で愉快すぎるので、私はゲームの世界で“地味でまじめな味”を味わって自分の心を満足していたのだ。)
[21958] どうして今の国民は見かけや作り話で喜ぶのか? h27.6.28
テレビの最初の頃は、ネタがたくさんあったので面白いネタから先にやった。日本人は正しいことや実在のことが好きで、綺麗[きれい]な物や愉快[ゆかい]なことが嫌いだから、まちがったことや空想が嫌いで、汚い物やまじめなことが好きだから、そういう中でいろんな番組を作ってきた。だから、当時のテレビ番組はすごく面白かった。日本人の心を捉[とら]えていて本当に面白かった。
しかし、そのうち時代がたって、テレビ番組がマンネリ化してきた。視聴率が低下してきた。そのため、テレビ局は面白くないネタでやりだした。日本人は珍しいことが好きだが、反対にマンネリが嫌いなので、テレビ局は多少面白くなくても目新[めあたら]しいネタで番組を作るようになったのである。空想や綺麗な物やふざけたことで番組を作るようになった。しかし、日本人の心を捉えていないので日本人にとっては全然面白くない。
今の若い人はそういうテレビ番組を見て育ったから、見かけや作り話で喜ぶのである。本心では喜んでいないのである。
今のテレビ局は日本人の心を無視してテレビ番組を作っている。今のテレビ番組は日本人にとって面白くない。どこの国の人にとっても面白くない。国民みんなはテレビ局に合わせて面白くないことで喜ばなくてもいい。そうまでして無理にテレビ番組を見なくてもいい。
つまり、今はもはやテレビの時代ではない。テレビの時代は終わった。今のテレビは面白くない番組ばっかりやっているから見ないほうがいい。面白くないセンスがうつるから見てはいけない。今の国民みんなはテレビを見るのをやめて、家の外に出て実在の中で楽しいことをやって遊べばいいのである。
今の私は週に2本しかテレビ番組を見ていない。BSフジの『欧州鉄道の旅』とBS朝日の『鉄道・絶景の旅』である。まったくテレビを見ないのもつまらないので、ちょっとだけ見ているのである。録画して食事のときに見ながら食べている。私はニュース番組も天気予報も見ない。パソコンでヤフーの天気予報を見るだけである。
「テレビばっかり見ていると今にしっぽが生[は]えてくる♪」(昔のサンヨーテレビのコマーシャルソング)というのは、テレビはまちがいばっかり言っているからテレビばっかり見ているとまちがっていることを正しいことだと思って馬鹿になるということである。今のテレビは日本人にとって面白くないことばっかりやっている。今のテレビは日本人にとって面白くないことを面白いことだと言って国民みんなにまちがいを教えている。だから、日本人はテレビを真[ま]に受けてはいけない。しょせんテレビは冗談を言うだけである。テレビは国民みんなに真実を教えるものではなく、まちがいを教えるものである。だから、国民みんなはテレビで言っていることを忘れて、自分にとって面白いことが何であるかを自分で考えて自分にとって面白いことをやらねばならない。
国民みんなは実在の中で自分が面白いことをやって喜べばいい。テレビは実在の中でやれない面白いことをやって国民みんなを喜ばせる。テレビは実在の中で自分が面白いことがやれない者を喜ばせるためにある。だから、実在の中で自分が面白いことをやって喜べる者はテレビを見なければいい。実在の中で自分が面白いことをやって喜べない者だけテレビを見ればいい。テレビは日本文化に付いて行けない落ちこぼれに空想や見かけの喜びを与えて落ちこぼれを救うためにある。テレビを見るのは国民みんなの一部である。国民みんなの例外者である。テレビ文化はメジャーではない。だから、国民はテレビに合わせてはいけない。ゲームについても同じである。実在で喜ぶことができる者はゲームをやらなければいい。実在で喜ぶことができない落ちこぼれがゲームをやって空想や見かけの喜びを満足して幸せになればいいのである。
昔はテレビやゲームが珍しくてブームだったから、国民みんながテレビやゲームをやって実在で喜ばなくなって空想や見かけで喜ぶようになっていた。しかし、今はテレビやゲームが珍しくなくなってブームがすぎたから、国民みんなはテレビやゲームをやらなくなって実在で喜んで空想や見かけで喜ばなくなっている。今どき空想や見かけで喜んでいる者は落ちこぼれである。だから、国民みんなはそんな者をまともに相手にしなければいいのである。国民みんなは一生懸命に実在の中で自分の心を満足して幸福に生きていけばいいのである。
[21959] 今の国民みんなの文化は何か? h27.6.29
近代の国民みんなはヨーロッパを真似[まね]て「科学と数学があって道徳がない文化」をやっていた。みんなで科学をやって物やお金が豊かになって幸せだったが、みんなで道徳をやめて悪いことをやり合って不幸に暮らしていた。
戦後(今から約50年前、1965年頃)になって国民みんなはヨーロッパ文化に飽きて自分の感性で直して『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになった。しばらくの間日本は善い国だった。国民みんなは幸せだった。
しかし、ちょっと前(今から約25年前、1990年頃)になって国民みんなはテレビゲームやテレビの番組変えの影響で「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやるようになった。国民みんなは自分の中身よりも外見を磨[みが]いたりマンガを読んだりするようになった。国民みんなが自分で自分が嫌なことをやって自分を不愉快[ふゆかい]にして日本は悪い暗い国になっていた。この私も外見こそは磨かなかったが、マンガを読んだりアニメを見たりしてだらけて気分の悪い思いをしていた。
しかし、最近は国民みんなはテレビゲームやテレビに飽きて自分の感性に戻って『科学と数学と道徳の全部がある文化』になっている。国民みんなは外見に凝[こ]ったりマンガを読んだりするのをやめて自分の中身を磨くために科学や道徳やなぞなぞの本を読んでいる。
したがって、今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。それがそもそも日本人の文化だからである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国を支配する。国民みんなが国を決める。
政府や暴力団や宗教団体は近代の「科学と数学があって道徳がない文化」をやっている。政府や暴力団や宗教団体は国民みんなに反している。だから、国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に悪いことをさせなくなって政府や暴力団や宗教団体を潰[つぶ]している。
見かけに凝ったりマンガを読んだしている者は「科学があって数学がなくて道徳がある文化」をやっている。見かけに凝ったりマンガを読んだしている者は国民みんなに反している。だから、国民みんなは見かけに凝ったりマンガを読んだりしている者に見かけに凝ったりマンガを読ませたりさせなくなって見かけに凝ったりマンガを読んだりする者を倒している。
今の国民みんなは『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。今の国民みんなは正しいことや実在が好きで、綺麗な物や愉快[ゆかい]なことが嫌いである。まちがったことや空想が嫌いで、汚い物や真面目[まじめ]なことが好きである。今の国民みんなは正しいことや実在のことや汚い物やまじめなことをやって幸せに暮らしている。国民みんなは国の最高権力者だから、国民は国民みんなに従わねばならない。だから、今の日本では国民はみんなそうしなければならないのである。
(補足:『科学と数学と道徳の全部がある文化』は『五感と知覚と心の全部がある文化』と書いたほうがいい。五感と知覚があるから科学がわかり、心と知覚があるから道徳がわかる。「科学があって数学がなくて道徳がある文化」は「五感があって知覚がなくて心がある文化」と書いたほうがいい。五感があって知覚がないから見かけしかわからないし、心があって知覚がないから作り話しかわからない。ヨーロッパ人は「五感があって知覚も心もない。」五感があって知覚がないから見かけしかわからないし、心も知覚もないから道徳も作り話もわからない。つまり、ヨーロッパ人は見かけしかわからない。中国人は「五感も知覚もなくて心がある。」五感も知覚もないから見かけも科学もわからない。心があって知覚がないから作り話がわかるだけで道徳がわからない。つまり、中国人は作り話しかわからない。インド人は「五感がなくて知覚があって心がない。」五感がなくて知覚があるから科学も見かけもわからない。心がなくて知覚があるから道徳も作り話もわからない。知覚があるから数学がわかる。つまり、インド人は数学しかわからない。一方、日本人は『五感も知覚も心も全部がある。』五感と知覚があるから科学がわかって見かけがわからない。心と知覚があるから道徳がわかって作り話がわからない。知覚があるから数学がわかる。つまり、日本人は科学と数学と道徳がわかる。見かけや作り話はわからない。日本人は五感と知覚と心のバランスが取れているから、科学と数学と道徳がわかって見かけや作り話がわからないのである。インド人は知覚だけがあって五感や心がないから数学しかできないのである。つまり、日本人とインド人は違うのである。日本人は外国の文化を受け入れるインド人ではないのである。インド人は知覚だけあって五感や心がないからヨーロッパ文化や中国文化を受け入れられず科学も道徳もできないのである。日本人は五感も知覚も心も全部あるから、ヨーロッパ文化や中国文化やインド文化を受け入れることができて科学も道徳も数学も全部できるのである。日本人はインド人と中国人とヨーロッパ人の雑種なのでそんな芸当ができるのである。日本人は世界的にもまれな人種である。『五感と知覚と心の全部がある』ことは日本人の長所である。日本人は自分の長所を大事にして自分の文化を守らないといけない。/ヨーロッパに帰化[きか]したインド人は「五感と知覚があって心がない。」五感と知覚があるから科学がわかって見かけがわからない。心がなくて知覚があるから道徳も作り話もわからない。知覚があるから数学がわかる。つまり、ヨーロッパに帰化したインド人は科学や数学がわかって、見かけや道徳や作り話がわからない。中国に帰化したインド人は「五感がなくて知覚と心がある。」五感がなくて知覚があるから科学も見かけもわからない。心と知覚があるから道徳がわかって作り話がわからない。知覚があるから数学がわかる。つまり、中国に帰化したインド人は道徳や数学がわかって、作り話や科学や見かけがわからない。ほかに、中国に帰化したヨーロッパ人は「五感があって知覚がなくて心がある。」五感があって知覚がないから見かけがわかるが科学がわからない。心があって知覚がないから作り話がわかるが道徳がわからない。知覚がないから数学がわからない。つまり、中国に帰化したヨーロッパ人は見かけと作り話しかわからない。ちょっと前のゲームやテレビに狂っていた日本人と同じである。ヨーロッパに帰化した中国人は「五感があって知覚がなくて心がある。」だから、中国に帰化したヨーロッパ人と同じである。インドに帰化したヨーロッパ人は「五感と知覚があって心がない。」だから、ヨーロッパに帰化したインド人と同じである。インドに帰化した中国人は「五感がなくて知覚と心がある。」だから、中国に帰化したインド人と同じである。一方、日本人は『五感も知覚も心も全部がある。』やはり日本人は特異[とくい]である。日本が海洋国で世界中から人が集まるから日本では大昔にインド人と中国人とヨーロッパ人が溶け合って混ざり合って『五感と知覚と心の全部がある』人種が生まれたのだろう。(『妖怪人間ベム』みたいだ。つまり、妖怪人間とは日本人のことだ。)日本人はインド人でも中国人でもヨーロッパ人でもない。日本人は第4の人種なのだ。)
[21960] どうしてヨーロッパ人は平気で悪いことをするのか?☆ h27.6.29
ヨーロッパ人は生まれつき遺伝的に「五感があって知覚と心がない」人種である。
心には生まれつき善と悪を区別する能力がある。
ヨーロッパ人には心がないから、冷たいから、平気で悪いことをするのである。平気で人を殺したり人の物を取ったりするのである。みんなで悪いことをしあって不幸に暮らしている。
ヨーロッパ人は心がないから、ヨーロッパ人は面白いことで喜ばないのである。ヨーロッパ人にはギャグも冗談も通用しないのである。
ヨーロッパ人は知覚がないから、考える喜びがない。いつもボケ〜として間が抜けている。
ヨーロッパ人は五感が発達しているから、物を見る喜びだけがある。ヨーロッパ人は見かけに敏感で装飾が好きである。
インド人も生まれつき遺伝的に「五感がなくて知覚があって心がない」人種である。インド人もヨーロッパ人と同じように、冷たくて、平気で悪いことをする。人殺しをしたり強盗したりする。みんなで悪いことをしあって不幸に暮らしている。ギャグや冗談で喜ばない。インド人は五感がないから、物を見る喜びがない。インド人は知覚が発達しているから、考える喜びがあるだけである。
反対に、中国人や日本人には心がある。
心は生まれつき善と悪を知っている(完全ではないが)。
中国人や日本人には心があるから、暖かいから、悪いことをすると気分が悪くなるから悪いことができないのである。人殺しや強盗ができないのである。反対に、善いことをすると気分がよくなるから善いことをやりたがる。みんなで善いことをしあって幸福に暮らしている。
中国人や日本人は心があるから平和に幸福に暮らせるのである。
おまけに、日本人には知覚があるから、心の善悪を知覚で高めていっそう平和に幸福に暮らしている。
その上、日本人は五感があるから科学もできる。アジアで一番早く日本人が科学ができたのは、日本人に生まれつき五感の才能があるからである。中国人は五感がないから、科学がなかなかやれないのである。中国はヨーロッパからヨーロッパ人やヨーロッパに帰化したインド人を取り入れることによって科学ができるようにしているのである。
人間は脳があるから文化がやれる。脳がなければ文化もやれない。五感がなければ科学がやれず、知覚がなければ数学がやれず、心がなければ道徳がやれない。コンピューターもハードウェアがないとソフトウェアが走らないのと同じことである。ひと昔前は、ウインドウズパソコンでなければウインドウズのソフトが走らず、マックパソコンでなければマックのソフトが走らなかった。日本人は生まれつき五感も知覚も心もあるから、科学も数学も道徳も全部やれる。日本人はヨーロッパから科学をインドから数学を中国から道徳をインストールすればすぐに科学や数学や道徳がやれる。ヨーロッパ人やインド人は心がないから道徳がやれない。たとえ中国から道徳をインストールしても道徳がやれない。もっとも、最近のヨーロッパ人は『脳の科学』を使って、『知覚野[ちかくや]にある脳細胞が神経線維を介して心野[こころや]にある脳細胞の神経興奮を調節する』と考えて道徳がやれるようになっている。インド人はあいかわらず道徳がやれずみんなで悪いことをやって不幸に暮らしている。インド人は自分たちに道徳がないのがみっともないので、身分制で悪いことをやっていることにして面子[めんつ]を立てている。そのために、インドは身分制のある社会だと言われている。
[21961] 馬鹿は自分で自分を不幸にする。 h27.6.29
要するに、道徳とは自分の心を適切に満足することである。
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』から実在がわかる。科学や道徳がわかる。見かけや作り話がわからない。だから、日本人は実在の中の喜びを満足して、見かけや作り話の喜びを満足しなければいいのである。
これまで私は実在の喜びを満足して自分の心を正しく満足して楽しく生きてきた。
反対に、馬鹿は見かけや作り話の喜びをやっている。馬鹿はわざわざ人目に付くところに行って見かけや作り話をやっている。馬鹿は自分が本当は楽しくもないのに、見かけや作り話の喜びを満足して自分で自分を嫌がらせて不愉快[ふゆかい]にしているのである。そればかりか、他人にまちがった道徳を教えて他人も自分の道連れにしていっしょに不幸にしているのである。
馬鹿は道徳を知らないから自分の心を知らないからまちがったことをやって自分で自分を嫌がらせて不幸になっているのである。
もっとも、私も思春期にはオナニーをやって自分に強すぎる快感を与えたために実在を見失って心で見るようになって自分の気に入らないことがあるとすぐに怒り狂ってテレパシーで他人に訴えて自分の気に入らないことをやめさせようとして条件反射で怒りの感情とテレパシー器官の間に連合が出来て逆にテレパシーで自分の悪口が聞こえると自分の怒りの感情が興奮して不愉快になって暴れるようになって精神分裂病に罹[かか]ってしまって不幸になった。自分に強すぎる快感を与えると心が実在を支配するようになるが実際には心が実在を支配できないから心が欲求不満になって不幸になるのである。私も子供の頃にはまだ道徳を知らなくて『麻薬やオナニーをやって自分に強すぎる快感を与えてはいけない』ことを知らなくてまちがったことをやって自分で自分を不幸にしてしまった。
人間は道徳を知って自分の心を知って自分の心を正しく満足して幸福に生きねばならない。
女や男の馬鹿は日本人なのに知覚が遅れている。馬鹿は「五感と心があって知覚がない。」そのために、馬鹿は眼で見る喜びと心で思う喜びしかない。一方、日本人は知覚が発達している。日本人は『五感と知覚と心の全部がある。』そのために、日本人は実在の喜びがある。日本人は実在の中で楽しむのが好きである。日本人は眼で見る喜びや心で思う喜びが嫌いである。ところが、馬鹿は見かけが汚いのやまじめなのが嫌いだから、必死で日本人を攻撃して倒そうとするのである。馬鹿の喜びと日本人の喜びは違う。馬鹿は死ななきゃ直らない。日本人は馬鹿の攻撃を無視して自分が楽しいことをやって自分が幸福に生きればいいのである。
[21962] 今は利口の時代である。☆ h27.6.29
馬鹿は頭が悪いから実在が見えない。眼で見ることと心で思うことしかわからない。眼で見ることと心で思うことでしか喜べない。見かけや作り話でしか喜べない。一方、利口は頭がいいから実在が見える。頭で考えることで喜ぶことができる。実在で喜ぶことができる。
今の世の中は馬鹿が偉そうにして、馬鹿が利口に見かけや作り話をやらせて実在のことをやらさないようにして平然としている。自分が正しいことをしていると言わんがばかりである。そのために、世の中が悪くなってみんなが実在が見えなくなって不愉快な思いをしなければならなくなっている。
馬鹿は眼で見ることしかわからないから、テレビや新聞で馬鹿が世界の中心みたいなことばかりやっているのを見て「今の国民みんなは「頭で考えない文化」をやっている」と思って「今は馬鹿の時代だ」と思って偉そうにしているのである。「利口が悪人だ」と思って必死で利口を攻撃して利口を迫害して利口を虐待して利口のいない馬鹿だけの社会にしようとしているのである。馬鹿の馬鹿による馬鹿のための社会にしているのである。
しかし、本当は今の国民みんなは『頭で考える文化』をやっている。日本人はもともと頭がいいから頭で考えるのが好きだから頭で考えているのである。テレビや新聞の外の実在の世界では日本人みんなが頭で考えているのである。今の国民みんなは『頭で考える文化』をやっているのである。日本人はみんな利口である。日本では馬鹿が例外である。日本では馬鹿は駆逐[くちく]する者ではなく、駆逐される者である。
馬鹿は馬鹿だから正しいことがわからないから勝手に今の社会を勘違いして「今が馬鹿の時代だ」と思って利口を攻撃しているのである。
本当は、『今は利口の時代である。』だから、利口は馬鹿を軽蔑してやればいい。利口は見かけに凝[こ]ったり不真面目[ふまじめ]なことをやったりする者を頭の中で「馬鹿臭い」と思って嘲笑[あざわら]って軽蔑してやればいい。汚い格好をする者やまじめな者を「頭がいい」と思って尊敬すればいい。
『人間は実在の中で生きている。』だから、実在を知って実在に従って実在の中で自分の心を満足する者が幸福になれる。馬鹿は見かけや心で思うことしかわからない。利口は実在が見える。だから、利口が馬鹿を支配するとみんなが実在に従うことができてみんなが幸せに暮らせる。反対に、馬鹿が利口を支配するとみんなが実在に従えなくなってみんなが不幸になる。だから、馬鹿に利口を支配させてはいけない。利口に馬鹿を支配させないといけない。ちょっと前までは日本では国民みんなが珍し物好きの癖[くせ]が祟[たた]ってテレビやゲームをやりすぎて馬鹿になっていた。馬鹿が世の中を支配して利口が馬鹿に虐待されていた。しかし、今の国民みんなはテレビもゲームも飽きてもとの利口に戻っている。馬鹿の時代は終わった。今は利口の時代である。だから、今は利口が世の中を支配して利口が馬鹿を虐待しないといけない。利口が馬鹿を支配して馬鹿をおとなしくさせて、利口が馬鹿に実在のことをやらせて見かけや作り話をやらさないようにしてみんなで実在の中で幸福に暮らさねばならない。
中世のヨーロッパでは民族意識が高まって馬鹿が利口を支配して馬鹿が利口を虐待して迫害したためにみんなが実在に従わなくなって不幸になって国民みんなが死にかけていた。そのため、近代のヨーロッパでは利口が馬鹿を支配してみんなが実在に従って幸福に暮らすようになった。今の日本では国民みんながテレビの見すぎで「馬鹿は見かけがよくて愉快だから、馬鹿を上にしたほうがみんなが幸福に生きられる」と思って、馬鹿を利口よりも上に置いて馬鹿が利口を支配して利口を迫害してみんなが不幸になっている。今の日本は中世のヨーロッパの暗黒時代の二の舞である。いくらテレビやゲームが出来ても、人間が実在の中で生きていることに変わりはない。早く利口が馬鹿を支配する世の中にしてみんなが実在に従って幸福に暮らすようにしないといけない。馬鹿を上に置くとろくなことがない。国民みんなは自分が死なないうちにまともな社会にしないといけない。
[21963] 今の日本は二層性社会になっている。 h27.6.30
これまで日本は単一民族国家としてやってきた。日本は一層性社会だった。日本人はみんな頭を使って考えて実在を知って実在に適応して実在の中で幸福に生きていた。
ところが、今ではテレビゲームが出来て、町中にゲームショップが出来て本屋がなくなった。本屋とゲームショップが入れ替わった。
今では国民のほとんどがゲームをするようになっている。ゲームでは眼先と手先を使うだけで頭を使わない。そのために、国民のほとんどが頭で考えない馬鹿になっている。
これまで日本は一層性社会だったので、今でも多数決の原理がそのまま通用しているために、馬鹿が支配する社会になっている。利口が国民みんなに反する者として扱われて社会から追放されて迫害されている。
そのために、今の日本社会は馬鹿ばっかりの社会になっているのである。馬鹿は実在がわからないから、みんなが実在がわからなくて実在に適応できなくて不幸になっているのである。
反対に、ヨーロッパ社会は多民族国家である。ヨーロッパは二層性社会である。ヨーロッパ人が馬鹿で、ヨーロッパに帰化したインド人が利口である。ヨーロッパ人は自分が馬鹿だということを知っていてヨーロッパに帰化したインド人に従っている。ヨーロッパに帰化したインド人がヨーロッパ人に命令してヨーロッパ人を実在に従わせている。ヨーロッパに帰化したインド人が考える仕事をやって、ヨーロッパ人が肉体労働をやっている。
今の日本はヨーロッパと同じ二層性社会になっている。国民のほとんどが生まれてから死ぬまで毎日ゲームをやって頭で考えず馬鹿になっている。少数の国民がゲームをやらず頭で考えて実在に適応して暮らしている。人間社会が上手[うま]く行くためには利口が馬鹿を支配しないといけない。だから、馬鹿が利口に従って国民のほとんどが少数の利口に従わねばならない。国民みんなを馬鹿と利口の二つのグループに分けて、馬鹿が利口に従う社会にしないといけない。利口が考える仕事をやって、馬鹿が肉体労働をしなければならない。
今の日本が上手く行かないのは、今の国民のほとんどが馬鹿になっているにもかかわらず利口に従っていないからである。これまでの一層性社会の決まりで多数決の原理でやっているために利口が馬鹿に従ってみんなが馬鹿になったり馬鹿が利口を迫害して利口がいなくなっているから社会が上手く行かないのである。
今の日本は岐路[きろ]に立たされている。日本がヨーロッパみたいな二層性社会となって国民のほとんどの馬鹿が少数の利口に従う社会にするか、それとも国民のほとんどがゲームをやめて利口になって一層性社会となって馬鹿のいない社会にするかである。
国民のほとんどがどうしてもゲームをやりたければ日本は二層性社会にしなければならないし、国民のほとんどがゲームをやめてよければ日本はもとの一層性社会にすればいい。(今から10年ぐらい前に『あまえないでよっ!!』というアニメがあったが、『あまえないでよっ!!』の舞台が尼僧寺[にそうでら]だったのは、今の日本が二層性社会だからである。タイトルの『あまえないでよっ!!』は、今の国民のほとんどがゲームで遊んで馬鹿になって利口な人に従って利口な人に甘えて生きていてはいけないことを表している。)
どちらにしろ、ゲームをやらずに頭で考えて実在の中で生きて行く利口な人はそのまま頭で考えつづければいいのである。今では利口な人が貴重だから、利口な人が多数決の原理で馬鹿に従って自分もいっしょにゲームをやって馬鹿になってはいけないのである。
私が子供の頃はまだテレビゲームがなく本を読むことが遊びだった。暇があるとすぐに階段に座って本を読んでいた。『雨はどうして降りますか?』や『小学館のこども学習事典』や『小学館の昆虫や魚や動物や花などの図鑑』や『学研の宇宙の図鑑』などの科学の本を読んでいた。同じ本を繰り返し読んで本がボロボロになっていた。反対に、今の子供は暇があるとゲームばっかりして遊んでいる。これでは実在がわかるわけがない。今の人は眼先のことや手先のことしかわからない。頭で考えることがわからない。これでは馬鹿のヨーロッパ人と同じだ。利口が上で馬鹿が下の二層性の社会にしなければならない。ゲームばっかりして遊んでいて自分の頭で考えられない馬鹿は他人の言いなりになってつらい肉体労働をして一生他人にこき使われて暮らさねばならない。昔は国民みんなが馬鹿も利口もいっしょにそれなりに頭を使って実在を知って実在の中で幸せに暮らしていた。今は国民みんなが子供の頃から馬鹿と利口の二つに分かれて、馬鹿は一生頭を使わずゲームやマンガで遊んで、利口が一生頭を使って実在を知って実在の中で暮らしている。今では実在の外で暮らしている人と実在の中で暮らしている人に分かれている。ゲーム派と本派に分かれている。最近の若い夫婦は『人間が幸福に生きるためには自分の心を実在に従わせて実在を知って実在の中で自分の心を満足しなければならない』ことを知らないために、子供にゲームを買い与えて子供に安っぽい快楽を与えて子供を喜ばせている。それでは子供が実在に対する興味を失って頭を使って実在を知ろうとしなくなるのは当然である。日本人には実在を理解する能力がある。子供を本当に幸福にしてやりたければ子供に実在を買い与えて子供に実在を知るための本を買ってやって子供に実在を教えてやらねばならない。日本人には実在を理解して実在の中で喜べる才能がある。同じ喜ぶならゲームやマンガよりも実在で喜んだほうがいい。実在を自分の思い通りにして実在の中で楽しんだほうがいい。ゲームやマンガは人間が実在の中で幸福に暮らすことを邪魔[じゃま]している。ゲームやマンガは人間を不幸にする遊びである。ゲームやマンガは眼先でちょっと面白いだけで、本心では面白くない。ゲームやマンガは人間の本心を満足しない。日本人の心を満足しない。今の子供はつまらないことをやって時間を浪費しているだけだ。今の国民みんなは早くそのことを理解して余計なゲームやマンガなんかやめて、自分が本当に面白いことをやって有意義にすごさねばならない。日本人は実在が好きである。日本人は実在の中で遊ぶのが好きである。だから、子供も大人も家の外に出て実在の中でいろんなことをやって遊ばねばならない。
ヨーロッパ人は見かけが好きである。ヨーロッパ人は「五感があって知覚と心がない」ので眼で見ることで喜ぶのである。中国人は作り話が好きである。中国人は「心があって五感と知覚がない」ので心で思うことで喜ぶのである。インド人は数学が好きである。インド人は「知覚があって五感と心がない」ので頭で考えることで喜ぶのである。日本人は実在が好きである。日本人は『五感と知覚と心がある』ので、自然に実在が見えるので実在で喜ぶのである。人種によって好きなことが違う。人間は脳の構造によって好きなことと嫌いなことが決まっている。日本人は実在で楽しむのが好きである。だから、日本人は子供の頃から実在を勉強して実在のことを知って実在の中で自分が好きなことをやって楽しまねばならない。
日本人は実在が好きである。ゲームやマンガなんか嫌いである。ゲームやマンガは空想なので実在に反するので嫌いなのである。これまではゲームの出始めでゲームが珍しかったので日本人は知的好奇心でゲームで遊んでいた。しかし、しばらくすると日本人はゲームが飽きて『自分が本当はゲームが嫌いである』ことに気が付いた。そのために、今の日本人はゲームをやめている。たとえいっとき日本人がゲームで遊んでいても、長い目で見ればゲームが嫌になってゲームを捨ててしまう。日本人はゲームやマンガが嫌いなので、日本ではゲームやマンガは長続きしない。早く日本人みんながゲームやマンガを捨てて頭で考えるようになって実在がわかるようになって実在の中で楽しむようになって自分の心を満足して幸福に暮らすようにならねばならない。
ヨーロッパ人は眼で見ることが好きである。だから、ゲームはヨーロッパ人向きの遊びである。中国人は心で思うことが好きである。だから、マンガは中国人向きの遊びである。ゲームもマンガも日本人向きではない。ゲームもマンガも日本人の心を捉[とら]える遊びではない。だから、日本ではゲームもマンガも流行[はや]らないのである。しょせんいっときの流行にすぎないのである。人間は子供の頃はまだ道徳を知らず自分の心がわかっていない。だから、子供は本当は面白くもないのにゲームやマンガで遊んでいるのである。大人は自分の心がわかっているからゲームやマンガは自分の心を満足しないことを知っているからゲームやマンガでは遊ばないのである。子供はまだ自分の心がわかっていないから面白くないことで遊んで時間を無駄[むだ]にしたり自分をかえって不愉快にしたりする。だから、大人が子供に面白いことと面白くないことを教えてやらねばならない。子供が本当に自分にとって面白いことをやって自分の心を満足して喜ぶようにしてやらねばならない。
[21964] 人間は自分の心を満足したほうが勝ちである。 h27.6.30
日本人は五感と知覚と心の全部がある。だから、日本人は五感と知覚と心の全部を使うのが好きである。日本人は五感と知覚があるから実在が見える。日本人は実在が好きだし、実在の中で自分が面白いことをやって喜ぶのが好きである。見かけや作り話は実在の外の世界である。日本人は実在が好きだから、見かけや作り話が嫌いである。化粧やファッションやマンガやゲームが嫌いである。
反対に、女は知覚がない。だから、日本人の女は五感と心しかない。女は知覚がないから見かけしかわからない。女は知覚がないから実在がわからない。女は実在の外にいる生き物である。だから、女は昔から自分の部屋に閉じこもって部屋の中を飾って部屋の中でゲームをやったりマンガを読んだりするのが好きなのである。
つまり、男の喜びと女の喜びは違う。男が女のすることに口出ししてはいけないし、女が男のすることに口出ししてもいけない。しかも、国家的には実在がわかる者を実在がわからない者よりも上にしないといけないから、男を女の上に置かねばならない。男はたとえ自分が嫌でも女を支配しなければならないし、女はたとえ自分が嫌でも男に従わねばならない。ただし、男は女の個人的趣味には口出ししないし、女も男の個人的趣味には口出ししてはいけない。人間は他人がどう思おうが、とにかく自分の心を正しく満足して自分を幸せにすればいいのである。(人間は実在の中に生きているから、自分の心を実在に従わせて実在の中で自分の心を満足して喜ぶのはいい。ただし、麻薬やオナニーは実在の中の喜びだが、麻薬やオナニーは快感が強すぎて自分の心を適切に満足していないからやってはいけない。)
利口は勉強が好きだが、馬鹿は勉強が嫌いである。利口は授業中にまじめに勉強するが、馬鹿は授業中に教科書のパラパラめくりをやる。利口と馬鹿では気が合わない。知能が違うと心も違うから、やることも違うのである。利口が馬鹿のやることに腹を立ててはいけないし、馬鹿が利口のやることに腹を立ててもいけない。人間は他人にかまわず、とにかく自分の心を正しく満足して自分を幸せにすればいいのである。人間には“支配欲”があるが、実際には自分が他人を支配することはできない。法律で禁止されている。国民みんなの意思で決めたことである。だから、支配欲は抑[おさ]えねばならない。人間は自分の物は自分の自由にできるが、自分の物以外の物は自分の自由にできない。自分は自分が自由にできることだけ自分の好きなようにして、自分が自由にできないことは諦[あきら]めねばならない。例えば、日本人は汚い服を着てかっこ悪い格好[かっこう]をして自分の心を満足して自分を喜ばせればいい。たとえ馬鹿女が嫌って日本人を攻撃しても、馬鹿女が日本人と趣味が合わないだけだから日本人は馬鹿女を無視すればいいのである。日本人の趣味のほうが馬鹿女の趣味よりも上だから、日本人は馬鹿女の攻撃を無視して自分の趣味を続ければいいのである。
私は実在について考えるのが好きだから、こうやって実在について考えて自分の心を満足してきたのである。私は見かけや作り話が嫌いだから、子供の頃からずっと自分の格好をつけないし、あまりゲームをやらないしマンガもアニメも見ない。私は自分が好きなことをやって嫌いなことをやらない。私は自分の心を満足している。
[21965] ゲームやマンガは実在の外にあるから悪いことである。 h27.6.30
『人間は実在の中で生きている。』だから、人間は実在を知り実在の中で行動して自分の心を満足すればいい。それが道徳的に正しい生き方である。ゲームやマンガは実在の外にあるから、ゲームやマンガは悪いことである。だから、ゲームやマンガをやってはいけない。道徳を知っている人はゲームやマンガをやらない。
今の若い人は道徳を知らないから、ゲームやマンガをやって不幸になっているのである。自分で自分を不幸にしているのである。
見かけや作り話も実在の外にあるから悪いことである。だから、道徳を知っている人は見かけも作り話もやらない。見かけにこだわったり格好[かっこう]をつけたり愉快な冗談を言ったり愛想[あいそ]よくしたりしない。
昔の人は頭を使って実在について考えていた。物や心について考えていた。だから、本当に自分の心を満足する方法についてよく知っていた。
反対に、今の人は頭を使って実在について考えていない。物や心について考えていない。だから、今の人は本当に自分の心を満足する方法を知らない。
学問は暇(スカラー)である。つまり、人間が考えるためには時間が必要である。今の人はゲームやマンガなど余計な娯楽をやるから考える時間がないから実在について知らないのである。道徳を知らないから悪いことばっかりやって自分で自分を不幸にしているのである。悪循環である。
今の人は思い切ってゲームやマンガをやめてしまえばいい。そうすれば、考える時間ができて実在について考えて実在のことがわかるだろう。例えば、『政府がヨーロッパ文化をやる国家機関だから、悪いことをしている』ことや『ゲームやマンガは実在の外にあることだから悪いことだからやってはいけない』ことがわかるだろう。
麻薬やオナニーは実在の中にある喜びだが、快感が強すぎるからやってはいけない。快感が強すぎると心のことだけ考えて実在を無視するようになって自分の心を実在に従わせることを忘れてむやみに実在を自分の心に従わせようとして暴力をふって法律を犯したりテレパシーを使って精神分裂病に罹[かか]ったりして不幸になるからである。実在の中にある喜びにも悪い喜びがある。実在の中にある喜びならなんでもかんでも満足していいわけではない。たとえ実在の中にある喜びでも快感が強すぎる喜びは満足してはいけない。麻薬やオナニーはやってはいけないのである。
人間は自分の頭を使って心について考えて、自分を不幸にする悪と戦っていかねばならないのである。
[21966] 日本人はテレビゲームを捨てた。☆ h27.6.30
日本人は五感と知覚と心がある。
ちょっと前にテレビゲームが流行[はや]ったが、テレビゲームでは五感しか使わない。知覚を使わない。
テレビゲームは日本人の感性に合っていない。
そのために、日本人はテレビゲームが嫌いになって捨てた。
今の日本人はアニメも見なくなっている。
日本人は五感と知覚があるから実在が見える。実在がわかる。日本人は実在が好きである。架空が嫌いである。だから、アニメを見なくなったのである。
今の日本人はもとの実在だけの世界に戻っている。
ヨーロッパ人は五感しかないから見かけしかわからない。インド人は知覚しかないから数学しかわからない。中国人は心しかないから作り話しかわからない。一方、日本人には五感と知覚があるから実在が見える。おまけに日本人には心もあるから道徳もやれる。日本人は実在がわかるから架空が嫌いである。だから、日本人はテレビゲームを捨てたのである。
文化は物によって作られるのではない。文化は人間が作るものである。日本人は五感と知覚と心があるから、日本文化は五感と知覚と心の全部を使うものでなければならない。テレビゲームは眼先と手先を使うだけで頭を使わないから、五感を使うだけで知覚を使わないから、日本文化の中にはない。だから、日本人はテレビゲームが嫌になって捨てたのである。
日本人は五感と知覚がある。五感と知覚があるから実在が見える。日本人は実在の中で面白いことをやって楽しむことにしたのである。
本当は日本人は最初っからテレビゲームが嫌いである。テレビゲームが珍しかったから最初のいっときテレビゲームをやっていただけである。日本人はテレビゲームを面白くないと思いながらテレビゲームを珍しがってやっていたのである。しかし、今ではもうテレビゲームは珍しくないから、今ではテレビゲームは面白くないだけだから、テレビゲームで遊ぶのをやめたのである。
子供はまだ自分の心がわかっていないからテレビゲームが面白いと思って遊んでいる。日本人の心はテレビゲームが嫌いである。だから、大人が子供に『テレビゲームなんか面白くない』ことを教えてやって、子供がテレビゲームで遊んで面白くない思いをしないようにしてやらねばならない。大人は子供からテレビゲーム機を取り上げて、テレビゲーム機を地面にたたきつけて足で踏み潰[つぶ]して壊して子供を喜ばせてやらねばならない。
ゲーム会社は、人間の心が眼で見えないのをいいことにして、テレビや新聞やマンガ雑誌などで「テレビゲームは面白い」と嘘[うそ]を言ってみんなにテレビゲームを売りつけている。みんなはゲーム会社の嘘に騙[だま]されないようにして本当は『ゲームなんか面白くない』からゲームを買ってはいけない。
[21967] ヨーロッパ人はインド人がいないと暮らせない。 h27.7.1
ヨーロッパ人は五感がある。見かけしかわからない。
インド人は知覚がある。数学(論理)がわかる。
ヨーロッパに帰化したインド人は五感と知覚がある。実在がわかる。
だから、ヨーロッパではヨーロッパ人がヨーロッパに帰化したインド人に従うことによってみんなが実在がわかるようにしてみんなが実在に適応して暮らしているのである。
ただ、ヨーロッパ人もヨーロッパに帰化したインド人も心がないから道徳がやれない。そのために、ヨーロッパではみんなが平気で悪いことをやりあっているのである。ヨーロッパ人には心がないから悪いことをやっても人殺しや強盗をやっても気分が悪くならないからいくらでも悪いことがやれるのである。ヨーロッパ人には心がないから冗談もギャグもわからないのである。
一方、日本人は五感も知覚も心も全部がある。
だから、日本人は五感と知覚があるから実在がわかる。日本人は日本人だけで実在がわかる。インド人は要らない。日本人は心があるから道徳もわかる。日本人は心があるから自分が悪いことをすると気分が悪くなるから悪いことをやらない。
ただし、日本人はヨーロッパに帰化したインド人ほど五感が強くない。だから、日本人はヨーロッパに帰化したインド人ほど科学が得意ではない。日本人は科学を習えばわかるが、自分で科学を考え出せるほど科学が得意ではない。それが日本人の弱点である。
日本人は心がある。そのために、実在がわからなくなっている。心は日本人の弱点でもある。日本人は知覚で心を抑えることができる。日本人は『心は実在を支配できない。心が実在に従わねばならない。』と考えて自分の心を実在に従わせるようにして自分の心を抑えて五感と知覚だけ働くようにして実在をわかることができる。実在がわかるから実在に適応できる。心があるから、実在の中で自分の心を満足して幸福に暮らせるのである。
[21968] 日本人は日本人の心を知っていなければならない。☆ h27.7.1
日本人は五感と知覚があるから実在がわかる。日本人は正しいことや実在の中でやることが好きである。日本人は科学や道徳を学んだり自分で実在について考えたり家の外で遊んだり仕事をしたりするのが好きである。反対に、日本人は見かけや架空が嫌いである。日本人は見かけに凝[こ]ったり格好[かっこう]つけたり作り話をペチャクチャしゃべるのが嫌いである。
昔の人は日本人の心がちゃんとわかっていたから自分で日本人にとって好きなことをやって嫌いなことをやらなかった。だから、幸福に暮らすことができた。
反対に、今の人は日本人の心がわかっていないから自分で日本人にとって好きなことをやらず嫌いなことをやっている。だから、不幸に暮らしている。いくら今が国際化の時代とはいっても、日本人は外人から見て自分がよく見えるようにするために自分が嫌なことまでやってはいけない。例えば、ヨーロッパ人だって日本人から見て自分がよく見えるようにしていないから、逆に日本人もヨーロッパ人から見て自分がよく見えるようにする必要はない。日本人は格好つけるのが嫌いなのにヨーロッパ人は格好つけて日本人を不愉快にしているから、逆にヨーロッパ人は格好つけないのが嫌いなのに日本人が格好をつけずヨーロッパ人を不愉快にしてもかまわないのである。日本人は自分が好きなことをやって嫌いなことをやめて自分が幸福に暮らさねばならない。
[21969] 日本では汚い服しか売ってはいけない。☆ h27.7.1
政府はヨーロッパ文化を集団である。政府は五感しかない文化をやる集団である。
それと同じように、今の日本には五感しかない文化や心しかない文化をやる集団がいる。自分の外見にこだわって格好[かっこう]をつけたりマンガを読んだりデタラメな話をペチャクチャしゃべっている集団がいる。
しかし、そもそも政府が出来たのは、近代の国民みんながヨーロッパ文化をやっていたためである。近代の国民みんなはヨーロッパ文化が珍しかったのでヨーロッパ文化にハマってヨーロッパ文化ばかりやっていたために、国家機関も国民みんなといっしょにヨーロッパ文化をやるようになったのである。今の国民みんなはヨーロッパ文化に飽きたのでヨーロッパ文化をやめているが、政府はいまだに昔のヨーロッパ文化をやり続けているのである。
それと同じように、そもそも五感しかない文化や心しかない文化をやる集団が出来たのは、ちょっと前の国民みんなが五感しかない文化や心しかない文化をやっていたからである。ちょっと前の国民みんなはゲームが珍しかったのでゲームにハマってゲームで遊んでばかりいたので、眼先と手先だけ使って頭を使わなかったので、五感しかない文化や心しかない文化をやっていたのである。今の国民みんなはゲームに飽きたのでゲームをやめて五感しかない文化や心しかない文化をやめているが、いまだにゲームをやって五感しかない文化や心しかない文化をやり続けている集団が残っているのである。
国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなは国の支配者である。国民みんなが国を決める。今の国民みんなはヨーロッパ文化もゲーム文化(知覚のない文化、五感や心しかない文化)もやめてもとの『五感と知覚と心の全部がある文化』に戻っている。もともと日本は『五感と知覚と心の全部がある文化』であって、日本人にとっては外国の文化が珍しかったので、ときどき外国の文化を取り入れてみんなで外人の物真似[ものまね]をやって遊んでいたのである。飽きたらやめるのである。今の国民みんなは『五感と知覚と心の全部がある文化』をやっているから、日本ではみんなが『五感と知覚と心の全部がある文化』をやらねばならない。今の国民みんなはみんなに善いことだけやらせて悪いことをさせない。今の国民みんなは政府に悪いことをさせなくなって、政府の悪い命令を聞かなくなって政府に税金を取らせなくなって政府を潰[つぶ]している。今の国民みんなはみんなに実在のことだけやらせて見かけや作り話をさせない。日本では汚い服や格好の悪いファッションだけ売って科学や数学や道徳の本だけ売って、みんなに格好つけたり作り話の本を読ませないようにしてみんなを幸せにしている。
ゲームの仕事をするのも、実在の仕事をするのも仕事をするのは同じである。だから、ゲームの仕事をする者はゲームの仕事をやめて実在の仕事をすればいい。架空の仕事をやってみんなを不幸にするのをやめて、実在の仕事をやってみんなを幸福にすればいい。日本人は実在が好きである。架空が嫌いである。これまではゲームが珍しかったから、日本人は珍し物好きだから、いっときゲームに熱中していただけである。今ではもうゲームは珍しくないから、日本人はゲームに興味がないから、誰もゲームをやらない。今ではもう日本人にゲームは売れない。だから、早くゲームの仕事をする者はゲームの仕事をやめてほかの実在の仕事をやって日本人みんなを幸福にしてお金儲[もう]けをしなければならない。
今では国民みんなは『テレビゲームは自分に合わないから面白くない』と思ってテレビゲームをやめている。それなのに、テレビや新聞やマンガ雑誌では「国民みんながテレビゲームで楽しく遊んでいる」と言っている。テレビ局や新聞社やマンガ雑誌社はゲーム会社からお金をもらって嘘[うそ]をついているのである。国民みんなは『日本人は実在が好きだから、架空が嫌いだから、ゲームが嫌いだから、ゲームで遊んでいない』と考えて、テレビや新聞やマンガ雑誌の嘘に騙[だま]されないようにしてゲームで遊んではいけない。
[21970] “支配欲”は実在の外にある悪い喜びである。 h27.7.1
人間は麻薬やオナニーをやるとその虜[とりこ]になって麻薬やオナニーをやるためのお金を手に入れるために犯罪を犯して不幸になる。また、感情が興奮しやすくなって自分の気に入らないことがあると怒り狂って暴力をふって犯罪を犯したりテレパシーを使って精神分裂病に罹[かか]ったりして不幸になる。
だから、麻薬やオナニーをやってはいけない。麻薬やオナニーは実在の中にある喜びだが悪い喜びなので満足してはいけない。
しかし、たとえ麻薬やオナニーをやらなくても“支配欲”が強いと、自分の気に入らないことがあるとすごく怒って暴力をふって犯罪者になったりテレパシーを使って精神病者になったりして不幸になる。「麻薬やオナニーをやらなければ安全だ」と思って油断してはいけない。テレパシーはマンガによく出てくるし、今の人はみんな『テレパシーがある』ことぐらいは知っているから、精神分裂病に罹らないためにはテレパシーを使わないようにしないといけない。
人間は自分の心を実在に従わせなければならない。実在においては、他人の身体は自分の物ではない。自分の物は自分の自由にできるが、他人の物は自分の自由にはできない。だから、他人が自分の気に入らないことをしているからといって怒り狂って暴力をふったりテレパシーを使ったりするのはいけない。自分が自分の心を満足しているように、他人は他人の心を満足している。自分の心と他人の心は違う。だから自分がやっていることと他人がやっていることが違う。自分が他人のことに口出ししてはいけない。一般の日本人は『五感と知覚と心の全部があって』勉強や仕事が好きで格好[かっこう]をつけずにまじめだが、日本人の中には例外者もいる。例外者は他の日本人とは違って「五感と心があって知覚がなく」勉強や仕事が嫌いで格好をつけてふまじめである。例外者は時代を先取りしてテレビゲームブームの前から自分ひとりで「頭で考えない文化」をやっている。(テレビゲームをやるとゲームの世界が好きになる反面実在の世界が嫌いになる。そのために、勉強や仕事が嫌いになる。テレビゲームをやると眼先と手先だけ使って頭を使わなくなる。そのために、五感と心しか働かなくなって格好をつけたりふまじめになったりする。テレビゲームをやると例外者になる。日本人みんなはちょっと前にはテレビゲームが珍しかったのでテレビゲームをやっていたが、今では「テレビゲームは自分に合わないから面白くない」と思ってテレビゲームをやめている。)
私は高校1年生のときに英語の授業中に隣[となり]の席の不良が10分間ぐらいしつこくなんべんも教科書のパラパラめくり(両手で机の上で教科書を開いて親指でページの横を押さえながら教科書のページを最初のページから最後のページまで素早くパラパラとめくって、それが終わったら今度は逆向きに最後のページから最初のページまでパラパラとめくり返すこと)をしつづけているのを見て『授業中はまじめに勉強せんといかんやろうがっ!!』と思って身震[みぶる]いするほど腹が立って隣の席の不良にテレパシーで「パラパラめくりをやめろ!」と訴えたら(私はそれまで一度も他人にテレパシーで訴えたりしたことはない)その日の晩から近所の家から私の悪口を言う幻聴が聞こえてきて精神分裂病に罹[かか]ってしまった。私は『他人が自分の思い通りにならない』ことや『不良は自分と気が合わないから、自分の気に入らないことをする』ことを理解していなかったために本来使ってはいけないテレパシーを無理やり使って精神分裂病に罹ってしまった。私の周[まわ]りのみんなは私の隣の席の不良を不良だと考えて無視しているのに、私ひとりが私の隣の席の不良を本気で相手にして怒っていた。一般人と不良の区別をつけず、不良に対して本気で怒った私が馬鹿だったのである。“支配欲”は実在の外にある悪い喜びである。人間が“支配欲”を満足しようとすると実際には満足できないために欲求不満になって不愉快になる。だから、日頃から『他人は自分の思い通りにはならない』と頭で強く考えて自分の支配欲を抑える訓練をしなければならない。『他人が自分を殴[なぐ]らないかぎり他人の自由である』と考えて、他人のすることを大目に見たほうがいい。
私は子供の頃から家の中でよく弟とけんかをしていた。たいてい私が弟のやっていることが気に入らなくて腹が立って先に弟に手を出していた。弟を殴[なぐ]ったり蹴[け]ったりした。私は長男だったので、家の中では支配者だったので、“支配欲”を自分の欲しいままに満足することができたのである。しかも、たいてい私と弟がけんかをした場合、弟が悪いことになって私が親に怒られなかったので、私は自分の支配欲を満足することが正しいと思ってますます支配欲を満足するようになったのである。子供の頃の私の家は、私の支配欲を助長[じょちょう]する環境だったのである。私の母親も長女だが、自分の子供の態度が気に入らないと、ヒステリーを起こして顔が引きつって顔面神経麻痺になったり、ガラス障子[しょうじ]を蹴破[けやぶ]って足を縫うけがをしたりしている。一般社会では自分の家の中のようにはいかないのである。“支配欲”を満足するわけにはいかないのである。一般社会では他人が自分の気に入らないことをしているからといって自分が他人を殴って他人に自分が気に入らないことをするのをやめさせることはできない。そのために、私はテレパシーを使って他人に訴えて他人に自分の気に入らないことをするのをやめさせようとして精神分裂病に罹[かか]ったのである。
人間は実在のことを知って自分の心を実在に従わせて実在の中で自分の心を満足しなければならない。このルールを守れば幸福になる。このルールを守らなければ不幸になる。このルールを守らなければならない。
『怒[いか]りながらテレパシーを使うと条件反射で怒り中枢とテレパシー器官の間に神経連絡が出来て精神分裂病に罹る。』これが精神分裂病の必要十分条件である。だから、『怒りながらテレパシーを使う』ことにならないようにしなければならない。『怒りながらテレパシーを使う』ことになる原因を断たねばならない。その原因が、例えば麻薬やオナニーや支配欲なのである。ラジオや深夜放送や不良や寝不足や家庭環境なども原因である。原因はたくさんある。それらを避けながら注意して暮らしてはじめて幸福に暮らせるのである。
[21971] ゲームは人間を不幸にする発明である。 h27.7.1
ゲームをやるとゲームの世界で幸福になってゲームの世界が好きになるが、その反面実在の世界が嫌いになって自分が実在の世界にいるのが不愉快になる。しかし、実際には人間は実在の世界で暮らさねばならない。だから、ゲームは人間を不愉快にする発明である。ゲームは人間を幸せにするふりをして不幸にする発明である。ゲームは陰険[いんけん]な発明である。そのために、今の国民みんなは自分がゲームに不幸にされてはたまらないと思ってゲームをやめている。馬鹿な国民はなにも知らずに「ゲームが人間を幸福にする」と思ってゲームをやって自分を不幸にしている。
麻薬が人間を幸福にするふりをして、本当は不幸にするのと同じことである。
反対に、実在は人間を裏切らない。人間は実在の世界の中で暮らさねばならないから、実在の世界の中で遊べばいい。人間が実在の世界の中で遊んで実在の世界が好きになれば自分が実在の世界の中にいることが幸せになる。自分が生きていることが幸せになる。
だから、人間は実在の中で遊べばいい。そうすれば、実在が好きになって勉強や仕事も好きになって出世してお金持ちになって幸福に生きることができる。
今の日本が不景気なのは、国民みんながゲームをやってゲームが好きになって実在が嫌いになって、勉強や仕事が嫌いになって、働かないからである。今の日本が不景気なのは、国民みんながゲームで遊んでばかりいて仕事をしていないからである。最近の日本人は貧乏暮らしは嫌だと思って、ゲームで遊ぶのをやめて仕事をするようになったのである。日本はもともと貧乏な国なので、日本人が働かなくなったら日本人は死ぬ。国が滅ぶ。日本人はそれが怖くなったので、ゲームをやめて、もとのように実在の中だけで生活することにしたのである。
[21972] どうして今の人は頭が悪いのか? h27.7.1
今の人はゲームをやっている。
人間は実在の中で生きねばならない。その上に、ゲームをやってゲームの世界で遊ぶと、人間が実在の世界とゲームの世界の2つの世界にいることになる。ところが、実在の世界とゲームの世界は違う。実在の世界とゲームの世界は矛盾する。そのために、頭がこんがらがって頭が働かなくなる。そのために、今の人は頭が悪いのである。
今の人は頭が働かなくなっているから、眼で見ることと心で思うことしかわからなくなって、見かけで喜んだりギャグで笑うことしかできないのである。汚い格好をしている人を見ると急に不愉快[ふゆかい]になって汚い格好の人を攻撃したり、まじめな人を見るとつまらないと思ってまじめな人を迫害したりするのである。
人間は実在の中だけで生きればいい。そうすれば、頭の中に矛盾が起こらなくなって頭がよく働くようになって頭がよくなる。実在の世界は論理的に出来ているから、実在の世界の中には矛盾がないから、人間が実在の世界のことだけ考えて実在の世界の中で暮らすようにすれば、人間は頭が混乱せずに頭がよく働いて頭がよくなる。
要するに、今の人がゲームをやっているから頭が悪くなっているのである。今の人がゲームをやめれば頭がよくなる。
[21973] 日本人には日本政府は向いていない。 h27.7.1
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』人種である。日本人には『科学と数学と道徳の全部がある文化』が向いている。
ところが、政府はヨーロッパ文化の国家機関である。政府は「科学と数学があって道徳がない文化」の国家機関である。
日本人と日本政府は文化が違う。だから、日本政府は日本人に向いていない。日本政府は日本人を幸せにしない。
したがって、今の日本人みんなは日本政府を倒している。今の日本人は政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、政府の水道や戸籍や教育などのサービスをお金を払って利用して、政府に税金を払わないようにして政府を倒している。
今の日本人が日本政府が日本人に向いていないと思って日本政府を倒しているのは、今の日本人がテレビゲームが日本人に向いていないと思ってテレビゲームを倒しているのと同じである。テレビゲームも日本政府も日本人を幸福にしないから日本人はテレビゲームや日本政府を倒しているのである。
日本では日本人が万物の尺度である。日本政府は日本人の尺度で測ると不合格である。ゲームも日本人の尺度で測ると不合格である。日本政府もゲームも日本人の篩[ふるい]を通らない。だから、日本政府もゲームも日本人に捨てられているのである。
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』人種である。だから、日本は『科学と数学と道徳の全部がある国』である。日本は『科学と数学と道徳の全部がある空間』である。政府は道徳がないから日本にはいられない。ゲームは知覚がないから日本には存在できない。日本は日本人が作る。日本人の脳が日本を決める。日本には日本人に合う物しかいられない。日本には『科学と数学と道徳の全部がある物』しかいられない。日本はそういう決まりがある国なのである。
今は国際化の時代である。今では交通が発達してたくさんの外人が日本に入って来ている。しかし、外人が日本を荒らしてはいけない。日本に来た外人が日本文化を壊してはいけない。日本に来た外人は日本文化に従わねばならない。日本文化に従わない外人は日本から出て行かねばならない。外国の文化は欠陥品である。日本文化だけが完全品である。日本人はもっと日本文化を大切にして日本文化を守らねばならない。
日本文化とヨーロッパ文化は違うが、ヨーロッパ文化のすべてが日本人に向いていないわけではない。科学は日本人に向いているが、道徳がないのは日本人に向いていない。だから、日本人はヨーロッパの科学は受け入れるが、ヨーロッパの国家機関は受け入れない。だから、今の日本人みんなは科学を勉強して、日本政府を倒しているのである。
いくら日本人が外国の文化を受け入れようが、新しい発明品が出来ようが、『日本人が『五感と知覚と心の全部がある』民族である』ことは変わらない。日本人の脳は不変である。日本人自身は変わらない。日本人は自分に合うものだけを受け入れて、合わないものは受け入れない。日本人はこれまでそうしてきたし、これからもそうするだろう。それはどこの国でもそうである。どこの国でも国民みんなの感性は変わらないのであって、国民みんなは自分に合うものだけを受け入れて、合わないものは受け入れない。それは、人間が万物の尺度であり、文化が人間が作るものだからである。文化は人間の上に乗らないかぎり存在できない。だから、人間は自分に合うものだけを受け入れて合わないものを受け入れないのである。文化の土台にあるのは人間である。日本人自身がすでに完成された人種だから、これ以上変えようがない。日本人は自分を変えずに自分を維持すればいい。日本人は他民族の血を入れて他民族の欠点を取り入れてはいけない。
[21974] どうして近代の日本人はヨーロッパ文化を受け入れたか? h27.7.2
近代の日本人が自分の性格がわかっていなかったからである。日本人は自分の性格を知らないのでとにかく繁栄している国の文化を取り入れて、その後で自分が好きなところだけ残して嫌いなところを捨てるのである。
日本人は自分の頭で考えず実験で決めるので、いっぺん実際にやってみて実際の自分の心の反応を見て、それから拾うか捨てるかを決めるのである。
日本人にとってはヨーロッパ文化の科学は好きだったが、道徳がないのは嫌いだったので、科学だけ受け入れて道徳がないのは捨てたのである。日本人は道徳のあるのが好きである。だから、今の日本人は科学と道徳をやっているのである。ところが、政府は道徳がないのを続けている。だから、今の日本人は政府が嫌いである。日本人は道徳をやって政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、政府に水道代や戸籍代や教育費だけ払って、税金を払わないようにして政府を倒しているのである。
ちょっと前の日本人がテレビゲームをやっていたのも、日本人が自分の性格がわかっていないからである。日本人は自分の性格がわかっていないので、とにかく新しいというだけでテレビゲームをやって、しばらく遊んでみて、その後で自分が本当に好きか嫌いかを決めて好きなら拾って嫌いなら捨てるのである。
日本人にとってはテレビゲームが嫌いだったので、テレビゲームを捨てたのである。日本人は実在が好きである。日本人は五感と知覚があるので実在が見えるので実在が好きである。ゲームは架空の世界なので日本人はゲームが嫌になって捨てたのである。
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』人種である。日本人は五感と知覚があるから実在がわかる。日本人には実在に対する愛情がある。心があるから道徳もわかる。善と悪の区別がつく。日本人は善いことをすると気分がよくなり悪いことをすると気分が悪くなるから、善いことをやって悪いことをやらない。一方、ヨーロッパ人(ヨーロッパに帰化したインド人も含める)は「五感と知覚があるが心がない」人種である。ヨーロッパ人は五感と知覚があるから科学がわかる。ヨーロッパ人には心がないから善悪がわからない。ヨーロッパ人には心がないから善いことをやっても気分がよくならず悪いことをやっても気分が悪くならないので、ヨーロッパ人は善いことをやらず悪いことをやる。日本人から見ると、ヨーロッパの科学は好きだが、道徳がないのは嫌いである。だから、日本人は最初からヨーロッパの科学だけ拾って道徳がないのは捨てればいいのである。ゲームは架空の世界の遊びである。日本人は実在の世界が好きで架空の世界が嫌いである。だから、日本人はゲームが嫌いである。日本人は最初からゲームをやらなければいいのである。
これまで日本人は実際に自分の心に訊[き]いて決めてきた。そのために、日本人はしばらくの間自分が嫌なことをやって面白くない思いをしなければならなかった。今度からは日本人はあらかじめ自分の性格について自分の頭で考えて自分の性格を知ってそれに照らして拾うか捨てるかを決めねばならない。そうすれば、最初から自分が好きなことだけやって嫌いなことをやらずにすむ。今度からはそうしなければならない。日本人は自分自身を科学しないといけないのである。要するに、これまでは文化人類学がなかったために日本人は自分の性格がわからなかったから無駄[むだ]なことをやっていたのである。自分が嫌なことをやって面白くない思いをしなければならなかったのである。今では文化人類学があるから、日本人は前もって自分の性格を知って最初っから自分に合ったことだけをやらねばならない。
さすがに大国は自分の性格をよく知っていた。そのために、大国はめったなことがないかぎり外国の文化を受け入れなかった。ヨーロッパ人は「五感と知覚があって心がない」からヨーロッパ人は道徳が嫌いなので道徳がある文化を受け入れなかった。中国人(中国に帰化したインド人も含める)は「心と知覚があって五感がない」ので科学が嫌いなので科学のある文化を受け入れなかった。インド人は「知覚だけがあって五感も心もない」ので科学も道徳も嫌いなので科学のある文化や道徳のある文化を受け入れなかった。今ではヨーロッパは『脳の科学』が出来てある程度知覚で心を律して道徳がやれるようになっている。最近の科学は機械が細かいことをやってくれるので、五感が弱くても科学ができるので、中国人も科学がやれるようになっているので、中国人も科学をやっている。最近の科学は機械が自動化されて眼で見ることは機械がやってくれるので人間が五感を使わなくてもよくなっているので、インド人も科学をやっている。ただし、インド人はいまだに道徳がやれないのでみんなで悪いことをやりあって物騒[ぶっそう]に暮らしている。
[21975] 日本人は日本政府が嫌いである。☆ h27.7.2
日本政府はヨーロッパ文化の国家機関である。ヨーロッパ人は「五感と知覚があって道徳がない」ので、科学がわかるが道徳がわからない。だから、日本政府は国民みんなに善いことをやらないし悪いことをやる。
ヨーロッパ人は科学がわかるが道徳がわからない。ヨーロッパ人は善いことをやらず悪いことをやる。ヨーロッパ人は道徳のないのが好きである。ヨーロッパ人とヨーロッパ政府は気が合う。ヨーロッパ人はヨーロッパ政府が好きである。だから、ヨーロッパ人は政府を守って政府の命令に従うのである。
一方、日本人は『五感と知覚と心の全部がある』ので、科学も道徳もわかる。日本人は善いことをやって悪いことをやらない。日本人は道徳のないのが嫌いである。日本人と日本政府は気が合わない。日本人は日本政府が嫌いである。だから、日本人は政府を攻撃して政府の命令に従わなくなって政府を倒しているのである。
日本人にとって日本政府は外国の国家機関である。日本と外国では人間が違うから文化が違う。日本政府は日本人を幸福にしない。国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなは政府よりも強い。国民みんなは政府を自分の好き放題にしてもいい。だから、今の日本では国民みんなが政府に税金を払わなくなって政府を倒しているのである。
今の日本人は『ゲームが自分を幸せにしない』ことがわかってゲームをやめている([21971]参照)。ゲームを買うのをやめてゲームと付き合うのをやめている。それと同じように、今の日本人は『日本政府が自分を幸せにしない』ことがわかって日本政府をやめているのである。日本政府を買うのをやめて日本政府と付き合わなくなっている。
これまではヨーロッパ人は道徳がわからなかったからみんなが悪いことをやっていた。政府も国民みんなに悪いことをやっていた。しかし、最近はヨーロッパ人も道徳がわかるようになってみんなが悪いことをやらなくなった。政府も国民みんなに悪いことをやらなくなった。国民みんなは国の最高権力者である。国民みんなが国の支配者である。政府は国民みんなに従うだけである。国民みんなが政府と戦って政府から権利を勝ち取ったのではなく、国民みんなが自分で道徳がわかるようになって権利を守るようになったので政府も国民みんなといっしょに権利を守るようになっただけのことである。
近代の日本人は科学ではヨーロッパが先進国だったのでヨーロッパ文化を受け入れていた。科学のついでに道徳のない文化も受け入れていた。ところが、日本人は科学も道徳もわかる人種なので、科学は日本人を幸福にしたが、道徳のないことは日本人を不幸にした。そのために、今の日本人はヨーロッパから科学だけを取り入れて道徳のないことを取り入れないようにして、自分で道徳を足して、科学と道徳の両方をやっている。ところが、日本政府は国民みんなに従わない。日本政府はあいかわらず道徳をやらず国民みんなの人権を守らない。日本政府は国民から税金を取ったり、国家宗教で事件を起こして国民を殺したり国民みんなを不幸にする政策をやったりしている。そのため、日本人は日本政府に怒り狂って身震[みぶる]いしながら政府に税金を払うのをやめて政府を倒しているのである。
日本人とヨーロッパ人は人間が違うから文化も違う。日本人は日本人に合った国家機関を建てねばならない。日本人は早くヨーロッパ文化をやる日本政府を潰[つぶ]して、日本文化をやる国家機関を建てねばならない。
[21976] 人間はみんな自分を幸福にするために生きている。☆ h27.7.2
人間は自分を幸せにするために生きている。
ヨーロッパ人は「五感があって知覚も心もない。」ヨーロッパ人は五感の喜びがわかる。ヨーロッパ人は眼で見る喜びがわかる。ヨーロッパ人が眼で見る喜びを増やすためには科学を発展させねばならなかった。ヨーロッパ人は科学を発展させるためにインド人を取り入れて、インド人に科学や数学をやらせた。今では『脳の科学』が出来て、ヨーロッパ人はなんとか道徳もやれるようになっている。ヨーロッパ人が眼で見る喜びを増やすためには道徳があったほうが有利なのでヨーロッパ人はがんばって道徳をやっている。ヨーロッパ人は五感しかわからないのに、科学も数学も道徳もやれるようにしている。そのようにして、ヨーロッパ人はヨーロッパ人にとって幸福な国にしているのである。
中国人は「心があって五感も知覚もない。」中国人は心の喜びがわかる。中国人が心で思う喜びを増やすためには道徳を発展させねばならなかった。中国人は道徳を発展させるためにインド人を取り入れて、インド人に道徳や数学をやらせた。今では科学が発達して機械が自分で見たり考えたりしてくれるから、中国人でも科学がやれるようになっている。中国人が心の喜びを満足するためには科学があったほうが有利なので中国人は科学をやっている。中国人は心しかわからないのに、科学も数学も道徳もやれるようにしている。そのようにして、中国人は中国人にとって幸福な国にしているのである。
インド人は「知覚があって五感も心もない。」インド人は知覚の喜びがわかる。インド人は知覚の喜びしかないのでヨーロッパ人を取り入れても知覚の喜びが満足されないのでヨーロッパ人を取り入れなかった。インド人は知覚の喜びしかないので中国人を取り入れても知覚の喜びが満足されないので中国人を取り入れなかった。そのために、インドでは科学も道徳も発達しなかった。しかし、最近は科学が発達して機械が自動で見たり動いたりしてくれるので、インド人も科学がやれるようになっている。インド人は知覚の喜びを増やすためには物やお金が豊かになったほうが有利なので科学をやっている。インド人は知覚しかわからないのに、科学や数学がやれるようになっている。そのようにして、インド人はインド人にとって幸福な国にしているのである。インド人は道徳がやれない。インド人が知覚の喜びを満足するためには道徳があって平和に暮らせるようにしたほうが有利なはずだが、今のところはまだそこまでは行っていない。
日本人は『五感も知覚も心もある。』日本人は五感と知覚があるので実在がわかる。実在の喜びがわかる。日本人は知覚があるので知覚の喜びがわかる。日本人には心があるので心の喜びもわかる。日本人は実在の喜びを増やすためにヨーロッパから科学を取り入れた。日本人は知覚の喜びを増やすためにインドやヨーロッパから数学を取り入れた。日本人は心の喜びを増やすために中国から道徳を取り入れた。日本人は知覚が強いので見かけや作り話の喜びがない。日本人がヨーロッパから文化を取り入れても科学を拾うだけで道徳がないことや見かけは捨てる。日本人が中国から文化を取り入れても道徳を拾うだけで科学がないことや作り話は捨てる。日本人がインドから文化を取り入れても数学を拾うだけで科学がないことや道徳がないことを捨てる。日本人はヨーロッパから科学を取り入れてインドから数学を取り入れて中国から道徳を取り入れて科学も数学も道徳もやれるようにしている。そのようにして、日本人は日本人にとって幸福な国にしているのである。
ヨーロッパ人も中国人もインド人も日本人も自分の心を満足するために生きている。ヨーロッパ人も中国人もインド人も日本人も感性が違うから外国の文化をそのまま受け入れるだけではいけない。どこの国でも外国の文化を取捨選択している。そのようにして、自分にとって幸福な国にしているのである。自分が幸福に暮らせる国にしているのである。
ヨーロッパ人は眼で見るのが好きである。中国人は心で思うのが好きである。インド人は頭で論理的なことを考えるのが好きである。日本人は言葉で実在を見るのが好きである。どこの国でもみんなが外国の文化を自分の心を満足するための道具として利用している。そうやって、みんなが自分の好きなことをやって自分の心を満足して幸福に暮らしているのである。
昔のヨーロッパ人は自分の眼で見る喜びを満足するために自分から喜んでインド人の奴隷[どれい]になった。ヨーロッパ人が汗水流して働いて、インド人に食べらせて科学や数学をやってもらって国を豊かにしてもらって、ヨーロッパ人の芸術家が芸術品を作ってヨーロッパ人が眼で見る喜びを満足してみんなが幸福に暮らしていた。それが奴隷制である。奴隷制社会において少数のインド人が大勢のヨーロッパ人を支配できたのは、ヨーロッパ人が自分の眼で見る喜びを満足するためだったからである。
日本政府は道徳のないことをやる国家機関である。しかし、日本人は道徳のあることが好きである。日本政府は日本人の喜びを損ねるだけである。そのために、今の日本人は日本政府がなくなったほうがいいと考えて政府を倒している。日本人は政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。
日本人は近代にヨーロッパ文化を受け入れた。科学と道徳がないことを受け入れた。日本人はおっちょこちょいである。今の日本政府が国民みんなに悪いことをやって国民みんなを不幸にしているのはそもそも国民みんながいけないのである。そのために、今の日本政府が日本人みんなに倒されて迷惑している。今度から日本人が外国の文化を受け入れるときには、最初から自分を幸福にするところだけを受け入れて不幸にするところを受け入れないようにしなければならない。そうすれば、あとで自分を不幸にするところを捨てなくていいので手間が省[はぶ]ける。日本人は今度からそうすることにしよう。今の政府には気の毒だが滅んでもらうことにしよう。
日本人の馬鹿は見かけや作り話の喜びがわかるが、普通の人は実在の喜びしかわからない。だから、日本では普通の日本人に合わせて実在の喜びを満足する物を作らねばならない。見かけの喜びを満足したり作り話の喜びを満足したりする物を作ってはならない。見かけの喜びを満足する物や作り話の喜びを満足する物は普通の日本人を不愉快[ふゆかい]にするから絶対に作ってはいけない。そのようにして、日本を日本人みんなにとって幸福に暮らせる国にしないといけない。
ヨーロッパ人みたいに生まれつき心がないために道徳をやらないのはかまわない。生まれつき心がなければ道徳のやりようがないから道徳がやれなくてもしかたがない。しかし、日本人には生まれつき心がある。生まれつき心がある者が道徳をやらないのはいけない。今の日本政府や暴力団や宗教団体はいけない。まちがったことをやっているからいけない。自分の心に反することをやっているからいけない。近代の国民みんなはおっちょこちょいだったせいでついうっかりとヨーロッパ文化をやってしまった。近代の国民みんなはヨーロッパの科学がすごく欲しかったので、それに道徳のない文化が付いていても全体として面白ければいいやと思って面倒臭くて分けずにいっしょにやってしまったのである。近代の国民みんなは“ヨーロッパの道徳がない文化”が珍しかったので面白いと思ってついついやってしまった。日本は珍しいことや新しいことが好きだから、珍しいことがあるとどんなことでもついついやってしまうのである。近代の国民みんなは「ヨーロッパ人が道徳のない文化をやっているのは自由に自分が好きなことをやるためだ」と思っていたので、「ヨーロッパはさすがに進んでいるなあ」と思っていたので、喜んで道徳がない文化をやったのである。近代の国民みんなは「ヨーロッパが科学が進んでいるので道徳も進んでいる」と思っていたのである。近代の国民みんなは「ヨーロッパ人と日本人が同じだ」と思っていたので、ヨーロッパ人に自分を入れて物を見ていたのである。しかし、あとでヨーロッパの道徳のない文化が自分の心に反しているために面白くないことがわかった。そのために、戦後になって国民みんなは自分のまちがいを修正してヨーロッパ文化の科学だけを受け入れて道徳がないのを受け入れるのをやめた。今では『ヨーロッパの道徳のない文化が日本人の心に反する』ことがわかっている。だから、国民みんなはヨーロッパ文化に自分で道徳を補って科学と道徳の両方ある文化をやっている。ところが、政府や暴力団や宗教団体は『ヨーロッパの道徳のない文化が日本人の心に反する』ことがわかっているにもかかわらずヨーロッパの道徳のない文化をやっている。こいつらは日本人の心を捨てた団体である。こいつらは日本人の心を犯してまちがったことをやっている。だから、今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体に日本人の心を守らせるようにして、道徳をやらせるようにして、善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、政府や暴力団や宗教団体に強盗をさせないようにして、政府や暴力団や宗教団体を倒してなくしているのである。
近代の国民みんなはヨーロッパ文化がわかっていなかったために、ヨーロッパ文化を誤解していたために、道徳のない文化をやって大損[おおぞん]した。やはり『文化人類学』は必要である。今の国民みんなは『文化人類学』を勉強して外国の文化について学んで外国の文化を正しく見れるようにならねばならない。今の国民の多くもヨーロッパ文化を誤解して、「自分がヨーロッパ文化をやれば幸福に暮らせる」と思ってヨーロッパ文化をやっている。「自分が政府の命令を聞けば幸福になれる」と思って政府の命令を聞いている。しかし、本当は日本人とヨーロッパ人は人間が違うから、日本人がヨーロッパ文化をやっても日本人は幸福にはなれない。ヨーロッパ人は五感しかない眼で見る喜びしかないただの馬鹿である。反対に、日本人は五感と知覚と心がある。日本人は五感と知覚があるから実在が見える。日本人は実在の喜びがある。日本人は実在が好きで勉強や仕事が好きで格好をつけずまじめである。日本人は頭がいい。だから、日本人がヨーロッパ人の真似[まね]をしても日本人が幸福になれるわけがない。日本人はヨーロッパ文化をやめねばならない。日本人はもとの日本文化をやらねばならない。そうすれば、日本人は幸福に暮らすことができる。
古代の日本人も一生懸命にヨーロッパ文化をやってヨーロッパ人を真似て幸福になろうとしたが、結局幸福になれずにやめてしまった。中世になってアジア文化をやるようになってアジア人を真似て幸福になろうとしたが、これまた幸福になれなかった。近代になって再びヨーロッパ文化をやったが、今度も幸福になれなかった。日本人はヨーロッパ人でもインド人でも中国人でもないから、日本人がいくら外人を真似ても幸福にはなれない。日本人は独特な人種だから、日本文化は独特な文化である。日本人は外国の文化の真似ではなく、自分の国の文化をやらねばならない。日本人は五感と知覚があるから実在が見える。日本人には実在の喜びがある。日本人は実在を見る喜びや実在を言葉で表現する喜びや実在の中で動く喜びがある。日本人は実在の中で自分の心を満足して幸福になれる。だから、日本人は実在の喜びを満足するために外国の文化の一部分を取り入れたり自分で考えたりして自分の文化を発展させて日本人みんなが幸福に暮らせる国にしなければならない。日本人は実在の中で自分が面白いと思うことをやってみんなを喜ばせてみんなでいっしょに幸せにならねばならない。
大国ではこれまで国民みんなが自分の感性に合わせた国を作ってきたのに、日本では国民みんながそうしていない。ヨーロッパ人はいくら数学や道徳がわからなくて馬鹿で物騒[ぶっそう]でも「眼で見る喜び」を満足する国にしてきたし(『フランダースの犬』のルーベンスの絵を見て絶命した少年ネロのように)、中国人はいくら数学や科学がわからなくて馬鹿で貧乏でも「心で思う喜び」を満足する国にしてきたし、インド人はいくら科学や道徳がわからなくて貧乏で物騒でも「頭で考える喜び」を満足する国にしてきた。(ヨーロッパ人は「眼で見る喜び」しかないので自分がいくら馬鹿で物騒でもかまわないし、中国人は「心で思う喜び」しかないので自分がいくら馬鹿で貧乏でもかまわないし、インド人は「頭で考える喜び」しかないので自分がいくら貧乏で物騒でもかまわないのである。)しかし、日本人は『実在の喜び』を満足する国にしていない。日本人は科学も数学も道徳も全部わかるのに物も知識も心も全部満足できる国にしていない。日本人は大国のどれかに合わせた国にしてきただけである。そのために、日本はこれまでずっと国民みんなの心を満足する国ではなかった。日本は国民みんなの心を否定する国だった。日本は国民みんなの心を欲求不満にする国だった。今後は日本でも国民みんなが大国を見習って自分の心を満足する国にしないといけない。国民みんなが自分の感性を理解して、自分の感性を満足するための物や施設やサービスを国中にたくさん作って国民みんなが幸福に暮らさねばならない。国民みんなが大喜びで死に物狂いで勉強や仕事をして、地味で汚い格好[かっこう]をして冗談を言わずに笑わずに黙っておとなしくしている国にしなければならない。
[21977] 日本人の生き方 h27.7.3
日本人は五感と知覚があるから実在が見える。
実在は五感を超えたところにある。五感にこだわるのは日本人ではない。心にこだわるのも日本人ではない。
日本人は実在の中で自分の心を満足して幸福になればいい。
それが日本人の生き方だ。
日本人は知覚から実在を眺[なが]めている。日本人は言葉を組み合わせて実在を認識する。だから、日本人が実在を見るためには言葉を使わねばならない。日本人は自分で言葉を組み合わせて実在と同じことを作らねばならない。そうして、はじめて実在が理解できたことになるのである。日本人は言葉を使うことによって実在を見なければならない。日本人は言葉を使いまくって実在を見なければならない。日本人は何べんも言葉を使い込んで自然に実在が見えるようにならねばならない。つまり、勉強しないといけない。そのようにして、日本人は実在の中で生きていかねばならないのである。
ヨーロッパ人は眼で見たまま写真のように世界を見ているが、日本人は言葉を組み合わせて世界を見ている。だから、日本人はすごく言葉の勉強をしないといけない。日本人はよく本を読んで言葉を勉強して自分も言葉を組み合わせて世界が見れるようにならねばならない。
日本人は眼で見ることがわからない。日本人は頭で考えることしかわからない。だから、日本人は頭で一生懸命に実在のことを考えて実在を理解しないといけないのである。日本人は言葉で物や心について考えて物や心を理解しないといけない。
日本人は実在の中で自分の心を満足することをやって幸福になる。それが日本人の生き方である。だから、日本人はまず実在が見えるようにならねばならない。日本人は自分の知覚を鍛[きた]えて実在が見えるようにならねばならない。そうしてやっと自分の心を満足できるようになるのである。自分が実在のことがわかってから、自分のやりたいことができるようになるのである。
[21978] 日本では汚い人ほど善い人である。 h27.7.3
社会は人間の集まりである。
それぞれの人間が自分の心を満足して生きている。
しかし、社会には善い人ばかりいるわけではない。社会の中には不良や馬鹿もいる。馬鹿で支配欲が強い人間は、見かけの悪い人間がいるとその者に言いがかって攻撃する。実際には、馬鹿が自分の馬鹿さを周[まわ]りのみんなに宣伝しているにすぎない。馬鹿は眼で見ることしかわからないから人間の見かけしかわからないし、馬鹿は自分と他人の区別が付いていないから、格好[かっこう]が悪い者がいると不愉快[ふゆかい]になって相手に仕返しするために言いがかるのである。
格好をつけないのは日本人の美徳である。見かけが汚いのは日本人の才能である。馬鹿はそれがわからないのである。
日本人は実在の中で生きている。馬鹿は眼で見える世界の中で生きている。日本社会では馬鹿のほうが悪い。馬鹿は馬鹿だから日本社会がわかっていない。日本人の心がわかっていない。馬鹿は汚いのが嫌ならさっさと日本から出て行け!
日本人は相手が善い人じゃないと役に立ちたくない。馬鹿は日本人みんなから嫌われて無視されて殺されるだろう。
[21979] 日本人は感性が広いから日本人にとっては外国の文化は不満である。☆
h27.7.3
ヨーロッパ人は五感があるから眼で見ることがわかる。だから、ヨーロッパ文化は「眼で見る喜び」を満足するためにある。
中国人は心があるから心で思うことがわかる。だから、中国文化は「心で思う喜び」を満足するためにある。
インド人は知覚があるから頭で考えることがわかる。だから、インド文化は「頭で考える喜び」を満足するためにある。
日本人は五感と知覚があるから実在がわかる。だから、日本文化は『実在の喜び』『眼で見て頭で考える喜び』を満足するためになければならない。そんな文化は外国にはない。だから、日本人がいくら外国の文化を受け入れても日本人は幸福にはなれない。日本人が幸福になるためには、ヨーロッパから科学を取り入れて中国から道徳を取り入れてインドから数学を取り入れて、それらを利用して、実在の中で自分の心を満足しなければならない。
ヨーロッパ人は科学を「眼で見る喜び」を満足するために使うが、日本人は『実在の喜び』を満足するために使う。
これまで日本人がヨーロッパ文化やアジア文化を取り入れてきたのは「みんなが幸福に暮らしている国の文化を真似[まね]れば日本人も幸福に暮らせる」と考えていたからである。日本人が自分の感性を無視して文化だけを見ていたから外国の文化をそのまま取り入れていたのである。日本は島国の小国なので、日本が世界に遅れないためには外国の文化を取り入れねばならず、どうせ外国の文化を取り入れるならみんなが幸せに暮らしている国の文化を取り入れたほうがいいと思ったのでそうしていたのである。古代と近代にはヨーロッパ人が幸福に暮らしていたから日本人はヨーロッパ文化を受け入れて、中世にはアジア人が幸福に暮らしていたから日本人はアジア文化を受け入れた。しかし、そのために日本人は面白くない思いをした。外人と日本人では感性が違うから、たとえ外人にとって幸福な文化でも日本人にとっては幸福ではないからである。日本人は『五感と知覚と心の全部がある』ために外人よりも感性が広いから、ヨーロッパ文化の科学があることは好きだったが道徳がないことが嫌だったし、アジア文化の数学や道徳のあることは好きだったが科学がないことが嫌だった。
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』ために感性が広い。日本人は物も数も心も全部がわかる。日本人が幸福であるためには物も数も心も全部が満足されていなければならない。だから、日本人はヨーロッパ文化とアジア文化の片一方を取り入れるのではなく、ヨーロッパから科学を取り入れて中国から道徳を取り入れてインドから数学を取り入れて、物と数と心の全部を豊かにして、物も数も心も全部を満足して幸福に暮らさなければならないのである。
反対に、外人は感性が狭い。ヨーロッパ人は知覚と心がないために、数学や道徳がわからない。だから、ヨーロッパ人は数学がなくても道徳がなくても平気である。ヨーロッパ人は知覚がないから、国中でみんなが本を読んでいなくてもなんとも思わない。ヨーロッパ人は心がないから、国中でみんなが人殺しや強盗などの悪いことをしてもなんとも思わない。ヨーロッパ人は五感しかないから「眼で見る喜び」しかわからない。ヨーロッパ人は「眼で見る喜び」さえ満足されていれば他[ほか]はどうでもいいのである。中国人は知覚と五感がないために、数や物がわからない。だから、中国人は数学がなくても科学がなくても平気である。中国人は知覚がないから、国中でみんなが本を読んでいなくてもなんとも思わない。中国人は五感がないから、国中でみんなが貧乏をしていてもなんとも思わない。中国人は心しかないから「心で思う喜び」しかわからない。中国人は「心で思う喜び」さえ満足されていれば他はどうでもいいのである。インド人は五感と心がないために、物や道徳がわからない。だから、インド人は科学がなくても道徳がなくても平気である。インド人は五感がないから、国中でみんなが貧乏をしていてもなんとも思わない。インド人は心がないから、国中でみんなが悪いことをしていてもなんとも思わない。インド人は知覚しかないから「頭で考える喜び」しかわからない。インド人は「頭で考える喜び」さえ満足されていれば他はどうでもいいのである。一方、日本人は外人ほど感性が狭くない。日本人は科学も数学も道徳も全部わかる。だから、日本人は科学と数学と道徳の全部がないと嫌である。日本人は五感と知覚と心の全部があるから、国中でみんなが貧乏していたり本がなかったり悪いことをしていると嫌である。日本人は物と知識と心の全部が満足されていなければならないのである。つまり、日本人は道徳をやりながら科学や数学をやればいいのである。
昔はまだ『脳の科学』がなく、昔の人は「自分が外国の文化をやっていれば、そのうち自分が外国の文化に慣れて自分も外国の文化で幸福に暮らせるようになる」と思って、辛抱[しんぼう]強く外国の文化をやっていたのである。今では『脳の科学』があって、今の人は『人間の脳は変わらないから、自分の感性と外国の文化が合っていなければ、自分がいくら外国の文化をやっても自分は幸福になれない』と思って、外国の文化をやめたのである。
『人種によって感性が違う』ことがわかったのは戦後になってからである。そういう見方ができ出したのは戦後になって『文化人類学』が出来てからである。それまでは世界中のみんなが「人類はみな同じだ」と思っていた。そのために、近代のヨーロッパも「自分の文化で世界中のみんなが幸福になれる」と思って世界中にヨーロッパの文化を広めて植民地政策をやっていた。植民地の人もそう考えていて喜んでヨーロッパの文化を受け入れていた(ただし、大国は除く。大国は『文化人類学』が出来る前から『人種によって感性が違う』ことがわかっていたのである。大国の首脳は頭がいいのである。)。しかし、今日[こんにち]では『人種によって脳が違うから感性が違うので、幸福に暮らせる文化も違う』ことがわかっている。だから、今では世界中の国でそれぞれみんなが自分が幸福に暮らせる文化について考えて自分が幸福に暮らせる文化をやっているのである。今の人にとっては『文化人類学』は常識である。みんなもよく『文化人類学』を勉強しないといけない。(私は今から約30年前に高知大学理学部数学科の学生だった頃に、一般教養で『文化人類学』を受講した。先生が女の講師で毎回テキトウなおしゃべりをしていた。学生を馬鹿だと思って軽蔑していた。私はテキストを買っただけで全然読まなかったが、テキストには国家宗教のことも述べられていて、“村のみんなが変な衣装を着て行列している写真”が載っていた。私はその写真のことを憶えていたので、今から約10年前に『ようこそようこ』のアニメを見たときに、すぐに日本政府が私を神とする国家宗教をやっていることがわかったのである。(もっとも、今の国民みんなは日本文化をやっているから、日本文化には国家宗教がないから、国民みんなは国家宗教をやっておらず、政府が国民みんなに隠れて一人で密[ひそ]かに私を神とする国家宗教をやっているだけである。だから、本当は“国家”宗教ではなく“政府だけでやっている宗教”にすぎない。)今の私が『文化人類学』のことがだいたいわかっているのも、高知大学で文化人類学の講義を聞いていたからである(先生が何を話していたのかは具体的には憶えていないが)。『文化人類学』は知っていたほうがいい。大学の講義を受けたほうがいい。将来誰かがアニメを見たときに役に立つことがあるかもしれない(笑)。)
[21980] 麻薬やオナニーはどうしてやってはいけないか? h27.7.3
麻薬やオナニーをやると快感が強すぎるので、他[ほか]の喜びを満足しなくなる。麻薬やオナニーをやると快感が強すぎるので、そればっかり満足しようとして、ほかのことをやらなくなる。勉強や仕事をやるのが嫌になって、勉強しなくなって馬鹿になるし、仕事をしなくなってお金がなくなって犯罪を犯したり食べ物がなくなって死んだりする。麻薬やオナニーをやると、麻薬やオナニーをやっているときだけ幸せで、実在の中では不幸になる。麻薬やオナニーは人間を不幸にする行為である。だから、麻薬やオナニーをやってはいけないのである。つまり、麻薬やオナニーをやると快感が強すぎるために麻薬やオナニーばっかりやるようになって、他のことがつまらなくなって他のことが嫌いになって他のことをやらなくなって、それまで満足されていた多くの心が満足されなくなってかえって不幸になる。だから、麻薬やオナニーをやってはいけないのである。(私は麻薬をやったことはないが、私は中学3年生の2学期頃からオナニーをやり始めた。今の私はオナニーをやっていない。私は高校1年生の1学期にオナニーをやめてしまった。私がオナニーのせいで母親に対する愛情が減っていることがわかったために、オナニーをやめてしまったのである。)
ゲームをやるとゲームをやっているときだけ幸せで、実在が嫌いになって実在の中では不幸になるように、麻薬やオナニーをやると麻薬やオナニーをやっているときだけ幸せで、実在が嫌いになって実在の中では不幸になる。麻薬やオナニーはゲームと同じことである。
精神分裂病の原因は“支配欲”である。人間が支配欲で生きていると、他人が自分の気に入らないことをしているとすぐに怒って他人に暴力をふって警察沙汰[ざた]になったり他人にテレパシーで訴えて精神分裂病に罹[かか]ったりする。(まれに、テレパシーで聞こえたことに腹を立てて精神分裂病に罹ることもある。例えば、女の子がお風呂に入っていて隣の家からテレパシーで「いい身体をしてるな」と言う声が聞こえて、それに対して怒っために精神分裂病に罹って入院した症例[しょうれい]もある。これも条件反射で理解できる。怒ってテレパシーを使っても、逆にテレパシーで聞こえたことに怒っても、条件反射で怒りの感情中枢とテレパシー器官の間に神経連絡が出来ることに変わりはない。)だから、人間は常日頃『他人は自分の物ではない』と考えて自分と他人の区別をつけて支配欲を抑[おさ]える訓練をしないといけない。『世の中には不良や馬鹿がいる』と考えて、不良や馬鹿を本気で相手にしないようにしないといけない。馬鹿を本気で相手にするほうが馬鹿である。
鬱病[うつびょう]の原因は自分の感性を無視して自分で自分が嫌がることをして自分を不幸にすることにある。だから、鬱病に罹らないためには、前もって自分の感性を理解して、自分で自分が好きなことをして自分を幸福にしないといけない。子供の場合には自分の好きな教科を選べないから、自分の好きな科目のときだけ起きて勉強して、自分が嫌いな科目のときには寝て勉強しなければいい。学校は出席がよければ試験が0点でも進級できるから、学校の先生や試験の点数を無視してそうすればいい。どうせ学校の先生や学校の試験なんか大したことがないから無視して捨てればいいのである。人間は自分の心を肯定して自分が好きなことをやって自分が嫌いなことをやらないようにして自分を幸せにすることが大事である。日本人が自分の感性を大事にして日本の文化を大事にすることが大事であるように、自分が自分の感性を大事にして“自分の文化”を大事にすることが大事である。試験の点数のことだけ考えて自分が嫌いな科目を無理やり勉強して自分を鬱病に罹らせてはいけない。反対に、自分の感性のことを考えて自分が嫌いな科目を勉強せずに試験で0点を取らねばならない。自分の人生を本当に大事にするなら試験の点数よりも自分の感性を大事にしないといけない。自分の感性を無視していやいや勉強して試験で満点を取るよりも、自分で自分の感性を理解して試験で0点を取るほうが立派[りっぱ]である。もちろん、たとえ大学が3流でも自分が好きな学部学課に進んで、たとえ会社が3流でも自分が好きな仕事に就かねばならない。(私が中学2年生の頃、学力テスト(高知学芸中学高等学校でやっている学年統一テスト。学年での順位までわかる。)の結果がよかったので喜んで父親に学力テストの結果を見せたら「そんなことどうでもいい」と怒って言って目もくれようとしなかった。父親は私に『試験の結果よりも自分の心を大事にしろ』と言いたかったのだろう。)
麻薬やオナニーをやるのは道徳を知らないからである。道徳を知らないと、支配欲を満足して、自分が気に入らないことがあるとすぐに怒ってテレパシーで訴えて精神分裂病に罹る。だから、麻薬やオナニーをすることと精神分裂病とは関係がある。麻薬やオナニーをする人は善い感情と悪い感情の区別がないから精神分裂病に罹りやすいのである。人間が幸福に生きるためには道徳を知っていなければならない。
[21981] 今では世界中のみんなが『科学と数学と道徳の全部』をやるようになっている。
h27.7.4
ヨーロッパはヨーロッパ人の国である。ヨーロッパ人は五感しかないので「眼で見る喜び」しかわからない。ヨーロッパ人は「眼で見る喜び」をより多く満足するためにインド人を取り入れてインド人に科学や数学をやらせた。ヨーロッパ人はインド人に科学をやらせてたくさん物を作ってたくさん物を売ってたくさんお金を儲[もう]けて国中に美術品を置いて「眼で見る喜び」を満足したのである。「眼で見る喜び」を満足するためには道徳が要らないから、これまでずっとヨーロッパでは道徳をやらなかった。しかし、今では『脳の科学』が出来て、道徳が眼で見てわかるようになったので、ヨーロッパ人は道徳がやれるようになって平和に暮らしている。
中国は中国人の国である。中国人は心しかないので「心で思う喜び」しかわからない。中国人は「心で思う喜び」をより多く満足するためにインド人を取り入れてインド人に道徳や数学をやらせた。中国人はインド人に道徳をやらせて中国人みんなで道徳を守ってますます実在の中で自分の心を満足できるようにして「心で思う喜び」を満足したのである。「心で思う喜び」を満足するためには科学が要らないから、これまでずっと中国では科学をやらなかった。しかし、今ではテレビやテレビゲームなどが出来て科学によって「心で思う喜び」を満足できるようになったので、中国人は科学をやって自分でテレビやテレビゲームを作ってテレビやテレビゲームをやって「心で思う喜び」を満足して幸福に暮らしている。
インドはインド人の国である。インド人は知覚しかないので「頭で考える喜び」しかわからない。インド人が「頭で考える喜び」を満足するためには科学も道徳も役に立たないから、インド人はヨーロッパ人も中国人も取り入れなかった。「頭で考える喜び」を満足するためには科学も道徳も要らないから、これまでずっとインドでは科学も道徳もやらなかった。しかし、今ではコンピューターが出来て科学によって「頭で考える喜び」を満足できるようになったので、インド人は科学をやって自分でコンピューターを作ってコンピューターをやって(プログラムを組んだりして)「頭で考える喜び」を満足して幸福に暮らしている。しかし、道徳は「頭で考える喜び」を満足するためには役に立たないので、今でもインド人は道徳をやっていない。今でもインド人はみんなが悪いことをやって物騒[ぶっそう]に暮らしている。インド人は自分が悪いことをやっているのを隠すために身分制をやっていることにしている。悪いことをやるのも人によって程度の差がある。ちょっと悪いことをやる者もいれば、すごく悪いことをやる者もいる。人よりも悪いことをやる者を身分が高いと言うのである。大きい団体は自分が強いと思って人よりも悪いことをやるから身分が高いのである。政府(国家機関)や大企業は大きい団体だから身分が高いのである。
日本は日本人だけからなる国である。日本人は五感と知覚と心のすべてがあるので『実在の喜び』がわかる。『実在の喜び』を満足するためには科学と数学と道徳のすべてが要る。しかし、これまでは日本人は自分と外人の感性の違いを無視して外国の文化をそのまま受け入れるだけだったので、ヨーロッパ文化を受け入れていた時代には科学と数学はあったが道徳がなかったので『実在の喜び』が満足されなかった。アジア文化を受け入れていた時代には数学と道徳はあったが科学がなかったので『実在の喜び』が満足されなかった。つまり、これまでずっと日本人は自分の心を満足できなかった。しかし、今では日本人は自分と外人の感性の違いがわかって、自分の心を満足するためにヨーロッパから科学と数学を、中国から道徳と数学を、インドから数学を取り入れて、自分でも科学や数学や道徳を考えて、科学と数学と道徳の全部をやるようにしている。日本はようやくみんなが自分の心を満足して幸福に暮らせるようになったのである。
要するに、人間は自分の心を満足するために生きているだけである。人種によって心が違うのでやることが違うのである。文化が違うのである。日本人は日本人の心を満足しないといけない。『実在の喜び』を満足しないといけない。つまり、道徳をやりながら科学や数学をやらねばならない。心や物について知って、心や物の法則に従いながら心を満足しないといけない。
近代の日本人はヨーロッパ文化をやっていたが、戦後の日本人は日本文化をやるようになった。戦後の日本人は『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやるようになった。ところが、政府はあいかわらずヨーロッパ文化つまり「科学と数学があって道徳がない文化」をやり続けている。国民みんなは国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。そのために、今の日本人は政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、政府に水道代や戸籍代や教育費などを払って、政府に税金を払わないようにして政府を倒している。ヨーロッパ文化をやる国家機関を倒して、日本文化をやる国家機関に変えている。
[21982] 道徳とは何か? h27.7.4
支配欲のような「実現不可能な喜び」は満足されないのでかえって欲求不満になって不幸になる。他人は自分の思い通りにはならないから、支配欲があると他人が自分の気に入らないことをしているのを見るとすごく腹が立つのである。だから、支配欲を満足してはいけない。実現不可能な喜びを満足してはいけない。特に、人間の脳には“テレパシー器官”があるから、怒りながらテレパシーを使おうとして怒りの感情とテレパシー器官に条件反射で神経連絡が出来て、逆にテレパシーで自分の悪口を聞くと怒りの感情が興奮して不愉快[ふゆかい]になって暴れるようになるので、絶対に怒りながらテレパシーを使ってはいけない。
『実現可能な喜び』は満足されるので幸福になる。だから、実現可能な喜びを満足しないといけない。例えば、そこそこ美味[うま]い物を食べて満足しなければならない。
ただし、たとえ実現可能な喜びでも「快感が強すぎる喜び」は満足してはいけない。麻薬やオナニーのような快感が強すぎる喜びは、その喜びを満足することばかりやって、他の欲望を満足しなくなって、全体としてはかえって喜びが満足されなくなって不幸になる。だから、快感が強すぎる喜びを満足してはいけない。また、テレビゲームのような「架空の喜び」は、架空の喜びを満足するとほかの実現可能な喜びを満足するのが嫌になって、全体としてはかえって喜びが満足されなくなって不幸になる。だから、架空の喜びも満足してはいけない。
つまり、人間が幸福に暮らすためには『実現可能な喜び』を満足しなければならないが、たとえ実現可能な喜びでも「快感が強すぎる喜び」や「架空の喜び」を満足してはいけない。これまではテレビゲームのような架空の喜びがなかったので、みんながテレビゲームのことがわからないので、今でもまだテレビゲームで遊んでいる者がいるが、テレビゲームは人間を幸福にしないのでやってはいけない。
日本人は五感と知覚と心がある。日本人は五感と知覚があるので実在が見える。日本人には実在の喜びがある。日本人は実在の中で心を満足して幸福になる。日本人には見かけの喜びがない。
ヨーロッパ人は五感しかない。ヨーロッパ人は眼で見えることしかわからない。ヨーロッパ人は眼で見る喜びしかない。ヨーロッパ人は眼で見えることの中で心を満足して幸福になる。ヨーロッパ人には実在の喜びがない。
中国人は心しかない。中国人は心で思うことしかわからない。中国人は心で思う喜びしかない。中国人は心で思うことの中で心を満足して幸福になる。中国人には空想の喜びがある。
インド人は知覚しかない。インド人は頭で考えることしかわからない。インド人は頭で考える喜びしかない。インド人は頭で考えることの中で自分の心を満足して幸福になる。
ヨーロッパ人は眼で見ることしかわからないから、ヨーロッパでは綺麗[きれい]なことに価値がある。中国人は心で思うことしかわからないから、中国では面白いことに価値がある。愉快なことに価値がある。インド人は頭で考えることしかわからないから、インドでは論理的に正しいことに価値がある。日本人は実在しかわからないから、日本では実在的に正しいことに価値がある。真実や科学や道徳に価値がある。日本人には心があるから日本人も面白いことが好きだが、それは真実のオマケである。つまり、日本人は正しくて面白いことが好きである。
人種によって喜びが違う。日本人は日本人の喜びを満足しなければならない。日本人は外人を真似て外人の喜びを満足して自分を不幸にしてはいけない。
最近は国際化が進んで、世界中のどこの国でも外国の文化を取り入れているが、国民みんなは自分の心をちゃんと理解して、自分の心を満足することだけ取り入れて自分の心を満足しないことを取り入れてはいけない。人間は自分の心をよく知って、自分の心を適切に満足して幸福に暮らさねばならない。
人間は自分が好きなことをやると気分が上がって壮快になり、反対に自分が嫌なことをやると気分が落ち込んで鬱[うつ]になる。苦しい思いをしなければならなくなる。人間の心は人によって違う。人によって好きなことと嫌いなことが違う。だから、人間は自分の心を理解して、自分が好きなことをやって自分が嫌なことをやらないようにしないといけない。今でも多くの学校は政府の指導要綱[ようこう]に従っている。政府はヨーロッパ文化をやる国家機関だからヨーロッパ文化には道徳がないから、政府の指導要綱には道徳がない。学校では人間の心のことについてなにも教えない。だから、みんなは学校とは別に自分で自分の心についてよく考えて自分の心を知らねばならない。
[21983] 消費税とは何か?☆ h27.7.4
政府はヨーロッパ文化をやる国家機関である。ヨーロッパ文化では眼で見ることしかわからない。そのために、政府は眼で見ることしかわからない馬鹿を有利にする政策をやっている。馬鹿が豊かに暮らせる国作りをやっている。
医者は馬鹿である。医者は眼で見ることしかわからない。眼で見る喜びを満足するためにはお金が要る。だから、医者はお金が好きなのである。政府は医者を有利にするために医療保険制度を考えたのである。政府は医療保険制度で国民から取ったお金を、政府と医者とで山分けしているのである。
女は馬鹿である。女は眼で見えることしかわからない。政府は女を有利にするために男女雇用機会均等法を定めて男女平等な社会にしているのである。(ヨーロッパでは家の中では男が女に虐待されている。男が女に身体を傷つけられて痛めつけられている。男が女の奴隷[どれい]である。男が汗水流して働いて女にお金をやって女がお金を湯水のように使って遊びまわっている。ヨーロッパ人は五感しかないので、眼で見ることしかわからないので、女が男よりも綺麗[きれい]なので、女が男よりも偉いのである。男は女を眼で見て喜ぶために、どんなに女に虐待されてもどんなに女にこき使われても我慢[がまん]しているのである。)
商人は馬鹿である。商人は眼で見ることしかわからないから物を売る仕事しかできないのである。商人は眼で見ることしかわからないから眼で見る喜びを満足するためにはお金が要るから商人はお金が好きである。政府は商人を有利にするために消費税を定めたのである。消費税の一部は商人に回るから、商人は消費税を取るほど儲[もう]かるから、商人は喜んで消費税を取っているのである。商人は国民から消費税を取ると商品が売れなくなって自分の儲けが減るふりをしているが、本当は儲かるのである。
政府はヨーロッパ文化をやる国家機関である。しかし、日本人は日本文化が好きである。ヨーロッパ文化が嫌いである。日本文化は日本人の心を満足するが、ヨーロッパ文化は日本人の心を不満にする。そのために、今の日本人はヨーロッパ文化をやめて日本文化をやっている。国民みんなは国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。そのため、今の日本人は政府に善いことだけやらせて悪いことをやらさないようにして政府に税金を取らさないようにして政府を倒している。医者も女も商人も馬鹿である。眼で見ることしかわからない馬鹿である。日本人は馬鹿が嫌いである。日本人は眼と頭で実在が見えるから、眼で見ることしかわからない医者や女や商人と気が合わない。日本人は医者や女や商人が嫌いである。そのために、今の日本人は医者や女や商人を非国民だと思って迫害している。今の日本人は医療保険を辞めて医者にお金をやらないようにして、男女雇用機会均等法を破って女を雇わないようにして女にお金をやらないようにして、消費税を払わないようにして商人にお金をやらないようにしている。今の日本人は五感の仕事をやる者にお金をやらないようにして、実在の仕事をやる者にお金をやっている。例えば、私は実在について考えている。私は今の社会の本当の姿を言葉で書いてみんなにわかるようにしている。だから、今の日本人は私にもお金をやらねばならない。
[21984] 現代は『脳の科学』の時代である。 h27.7.4
私は医学部で学んだ『脳の知識』に基づいて哲学を理解したし、社会学も理解した。
人間の脳では脳細胞の神経興奮によって感覚(感じること)が発生していて、人間は五感を介して知覚で実在を認識して、知覚にある脳細胞が神経線維を介して心にある脳細胞の神経興奮を調節することによって心を実在に従わせて実在に従う心だけを活動させて、実在に適応して幸福に生きていることがわかった。
人種によって大脳皮質の発達している部位が違っているために感性が違っていて、幸福に暮らせる文化が違う。今の日本人は日本人にとって幸福な社会にするために日本文化をやって、ヨーロッパ文化をやっている日本政府を倒していることがわかった。日本人は『五感と知覚と心の全部がある』から、科学と道徳の両方あるのが好きである。一方、ヨーロッパ人(ヨーロッパに帰化したインド人も含む)は「五感と知覚があって心がない」から科学が好きだが道徳がないのが好きである。今の日本政府は自分ひとりで日本人の嫌いな「科学があって道徳がない文化」をやって税金を強盗したり国家宗教で人殺しをしたり国民みんなを不幸にする政策をやったりして日本人を不幸にしている。(今の日本では政府がひとりで悪いことをやっているので、国民の中には「政府が国民よりも身分が高い」と誤解している者がいる。しかし、本当は身分なんかはなく、国民も政府も平等なのである。昔は国民みんなも政府も同じようにヨーロッパ文化をやっていたので悪いことをやっていたが、今は国民みんながヨーロッパ文化をやめて悪いことをやめたので政府ひとりがヨーロッパ文化をやって悪いことをやっているにすぎないのである。同じように、会社の社長も社員よりも身分が高いのではなく、自分ひとりでヨーロッパ文化をやって悪いことをやっているにすぎないのである。本当は社長も社員も役職が違うだけで平等だから、会社のみんなで会社の儲けを平等に山分けすればいいのである。社長は善い人ぶって強盗やっているヤツのことである。善い人ぶることは仕事ではない。善い人ぶるぐらいで社員よりも上であることにされてはたまらない。社長は悪いことをするだけで働いていないので、社長にはお金をやらなくていいのである。)だから、日本人は自分の幸福のために日本政府を倒さねばならないのである。ヨーロッパ文化をやる国家機関(日本政府のこと)を倒して、日本文化をやる国家機関を建てねばならないのである。日本の国家機関は日本人の心を満足するものでなければならない。ヨーロッパの国家機関は科学をやって物やお金を豊かにして国を儲[もう]からせて国中に綺麗[きれい]な建物や彫刻を建ててヨーロッパ人の「眼で見る喜び」を満足して多少悪いことをやって国民みんなを不幸にしてもいいが、日本の国家機関は科学をやって物やお金を豊かにして国を儲からせて国民が実在の中で快適に暮らせる施設やサービスを設けて日本人の『実在の喜び』を満足してけっして悪いことをやってはいけない。ヨーロッパの国家機関は道徳がないので悪いことをやっていいから国民から税金を取ってもいいが、日本の国家機関は道徳があるので悪いことをやってはいけないからちゃんと国民と自由に契約して国民からお金をもらって仕事をしないといけない。ヨーロッパ人は心がないから道徳はどうでもいいからヨーロッパの国家機関は悪いことをやってもいいが、日本人は心があるから道徳がなければならないから日本の国家機関は悪いことをやってはいけないのである。今では自分が悪いことをやっている者だけが政府に税金を払って、悪いことをやっていない者は政府に税金を払っていないのである。
現代は『脳の科学』の時代である。『脳の科学』を知っていれば役に立つことがある。『脳の科学』に救われることがある。私は子供の頃から生物学が嫌いで医学部でも『脳の科学』をいやいや勉強した。しかし、そのことが役に立った。自分の眼でじかに人間の脳を見ることができたのがよかったと思う。『脳の科学』は現代人の常識である。みんなも『脳の科学』をよく勉強しないといけない。
[21985] 日本人はヨーロッパ文化では幸福に暮らせない。☆ h27.7.5
近代の日本人は「人類はみな同じだ。文化によって幸福に生きれるか生きれないかが決まるだけだ。」と考えていたので、「国民みんなが幸福に暮らしている国の文化を真似[まね]れば日本人も幸福に暮らせる」と考えて、ヨーロッパ文化をやっていた。日本人は科学をやって物やお金を豊かにした。日本人は道徳をやめて悪いことをやった。政府も国民みんなに悪いことをやった。科学は日本人を幸福にしたが、道徳がないのは日本人を不幸にした。『宇宙戦艦ヤマト』のガミラス星人が放射能の空気を吸わなければ生きていけないように、ヨーロッパ人は道徳がないのが好きである。反対に、日本人は道徳があるのが好きである。だから、ヨーロッパ人はヨーロッパ文化で幸福に暮らせるが、日本人はヨーロッパ文化では幸福に暮らせないのである。
戦後の日本人は『日本人と外人は脳が違うから感性が違う』と考えて、『日本人は日本人の心を満足する文化をやらなければ幸福になれない』と考えて、ヨーロッパ文化をやめて日本文化をやるようになった。日本人は科学をやって物やお金を豊かにした。日本人は道徳をやって善いことだけやって悪いことをやめた。しかし、政府は国民みんなといっしょに日本文化をやろうとせずヨーロッパ文化をやり続けている。政府は科学をやって国民みんなの物やお金を豊かにするが、道徳をやらず国民みんなに悪いことをやって国民みんなを不幸にする。政府は科学で国民みんなの心を満足するが、道徳がないことで国民みんなの心を不満にする。今の国民みんなは日本文化をやって自分の心を満足しているのに、日本政府はヨーロッパ文化をやって国民みんなの心を半分満足して半分不満にしている。(反対に、幕府は道徳をやって国民みんなに善いことをやって国民みんなを幸福にするが、科学をやらず国民みんなの物やお金を豊かにせず貧乏にする。政府も幕府も国民みんなの心を半分満足して半分不満にする。もっとも、中世の日本では国民みんなが道徳をやって科学をやらなかったので、幕府が国民みんなと同じ文化をやっていたので、国民みんなは幕府に対して不満はなかった。)国民みんなは国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。そこで、今の日本人は政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせないようにして、政府に税金を取らさないようにして政府を倒している。
今の日本人は日本文化をやっている。日本人は五感と知覚と心がある。日本人は実在の中で自分の心を満足して幸福になる。日本人は物と心の両方とも豊かでなければ満足しない。日本人は実在しかわからない。日本人には眼で見ることも心で思うこともわからない。日本人は実在が好きで、綺麗[きれい]な物や愉快なことが嫌いである。
日本人は早くみんなで政府に税金を払わないようにして政府を倒して、日本文化をやる国家機関を建てて、国民みんなと国家機関が同じ文化をやるようにして、日本人みんなが幸福に暮らせる国にしないといけない。外国の国家機関は国民みんなが幸福に暮らせる国を作っているから、日本でも国家機関は国民みんなが幸福に暮らせる国を作らねばならない。
日本政府はヨーロッパ文化の国を作る国家機関である。しかし、日本人はヨーロッパ文化の国の中では幸福に暮らせない。だから、日本政府は日本人を幸福にしない。日本人は早く政府を倒して、日本文化の国を作る国家機関を建てて幸福に暮らさねばならない。
日本政府はヨーロッパ文化の国を作る国家機関である。ヨーロッパ文化は「科学があって道徳がない文化」である。だから、日本政府は「科学があって道徳がない国」を作る国家機関である。ところが、日本人は『五感と知覚と心の全部がある』から『科学と道徳の両方ある国』が好きである。日本政府の作る国では日本人は幸福に暮らせない。ヨーロッパ人は「五感と知覚があって心がない」ので道徳がないのが好きだから政府が作る国で幸福に暮らせるが、日本人は『五感と知覚と心の全部がある』ので道徳がないのが嫌だから政府が作る国では幸福に暮らせない。政府は日本人を不幸にするだけである。日本人は政府が要らない。国民みんなが国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。そのために、今の日本人は政府を倒している。今の日本人は政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。日本文化の国を作る国家機関を建てている。国民みんなは自分が幸福に暮らすために国家機関を替えているのである。
戦前は国民みんなが「ヨーロッパ人も日本人も同じである。ヨーロッパ人がヨーロッパ文化で幸福に暮らしているので、日本人もヨーロッパ文化で幸福に暮らせる」と思っていたので国民みんなが政府を支持していたので政府が強かった。国民が政府に逆らうことは国民みんなに逆らうことになったので、国民は政府に逆らえなかった。しかし、戦後は国民みんなが『ヨーロッパ人と日本人は違う。いくらヨーロッパ人がヨーロッパ文化で幸福に暮らしていても、日本人はヨーロッパ文化では幸福に暮らせない。日本人は日本文化でなければ幸福に暮らせない』と思っているので国民みんなが政府を支持していないので政府が弱い。国民が政府に逆らうことは国民みんなに従うことになるので、国民は政府に逆らったほうがいい。国民が政府を倒したほうが国民みんなが喜ぶ。そのために、今の国民は政府に従うのをやめて政府に税金を払わなくなって政府を倒しているのである。
自分の心は眼で見えない。そのために、人間は自分の心を無視しがちである。しかし、その結果人間は不幸になってしまう。人間が幸福に生きるためには自分の心についてよく知って自分の心を満足しなければならない。日本人が幸福に生きるためには日本文化をやらねばならない。日本人はヨーロッパ文化では幸福に暮らせない。日本政府はヨーロッパ文化の国を作るから日本人を不幸にする。だから、今の日本人は日本政府を倒しているのである。日本人にとっては日本政府よりも自分の心のほうが大事である。今の日本人は自分の幸福のために政府を倒しているのである。日本人は眼先の日本政府よりも自分の心を大事にしないといけない。子供が自分の心を満足するために自分の嫌いな科目を勉強しないために学校の試験で0点を取らねばならないのと同じことである。人間は眼先の物よりも自分の心を大事にしないといけない。人間はたとえ自分の心がどんな心だろうが自分の心を肯定しなければならない。いくら日本政府が建っているからといって日本政府が眼で見えるからといって日本政府の言いなりになってはいけない。日本人は日本人の心を肯定して日本政府を否定して日本政府に税金を払うのをやめて日本政府を倒さねばならない。(私の親は自分の子供に自分の心を肯定して生きていって幸福になって欲しいと思っていた。たとえ試験で0点を取っても明るく元気に陽気に生きていって欲しかった。試験の点数なんかよりも自分の心を大事にして生きて欲しかった。自分の好きなことをやって嫌いなことをやらないようにして幸福に生きて欲しかった。しかし、そのために、私は高校1年生のときに「支配欲」を満足して、英語の授業中に隣の席の不良が教科書のパラパラめくりをするのを見て頭に来てパラパラめくりをやめさせようとしてテレパシーを使って訴えて精神分裂病に罹[かか]って不幸になった。私の弟は「頭で考えることが嫌い」だったので小学高学年の頃から登校拒否になって自分の部屋の中ばっかり閉じこもっているようになって不幸になった。私の親が無条件に心を肯定していいと思っていたのがまちがいである。いくら自分の心を肯定するといっても、善い心だけを肯定して、悪い心までも肯定してはいけない。)
日本人とヨーロッパ人は人種が違うから脳が違うから感性が違うから日本人はヨーロッパ文化では幸福に暮らせない。戦後に日本人はそのことがわかったのでヨーロッパ文化をやめて日本文化をやっている。ところが、日本政府はヨーロッパ文化の国を作り続けている。政府は日本人が幸福に暮らせない国を作っている。日本人は政府にお金をやる必要はない。国家機関の仕事は国民みんなのために国を作って国民みんなに国を売って国民みんなからお金をもらうことである。今の日本政府は国民みんなが嫌いな国を作っているから国民みんなは政府の作った国を買わず政府にお金を払わなければいい。国民みんなは国の最高権力者だから、政府よりも国民みんなのほうが上だから、国民みんなが政府の作った国を買うか買わないかは国民みんなの自由だから、今の政府は国民みんなが嫌いな国を作っているから、国民みんなは政府の作った国を買わなければいい。政府はヨーロッパ文化をやってヨーロッパ流のお金の取り方で国民からお金を取っている。政府は国民の同意を得ずに勝手に国民に命令して国民からお金を取っている。政府は国民からお金を強盗している。それが税金である。日本人は道徳があるから悪いことが嫌いだから強盗が嫌いだから税金は強盗だから税金が嫌いだから政府に税金を払わなければいい。日本人は日本文化をやって日本流のお金の払い方で政府にお金を払って政府に水道代や戸籍代や教育費だけを払って税金を払わないようにして政府を倒せばいいのである。
[21986] 人種によって自分が幸福に暮らせる国が違う。 h27.7.5
ヨーロッパ人は「五感と知覚があって心がない」から、「科学と数学があって道徳のない国」が好きである。だから、ヨーロッパでは長い間みんなが科学をやって物やお金を豊かにして裕福に暮らしていた。国民みんなが道徳をやらず悪いことをやって“幸福に”暮らしていた。政府が国民みんなに悪いことをやって国民から税金を取ったり国民みんなに戦争をさせたり国家宗教で事件を起こして国民みんなを殺したり国民みんなを不幸にする政策をやったりして国民みんなを“幸福に”していた。政府が「科学と数学があって道徳がない国」を作って、国民みんなに科学をやらせて国民みんなを裕福にして、国民みんなに道徳をやらせず国民みんなに悪いことをさせて国民みんなを“幸福に”していた。しかし、今では『脳の科学』によって、道徳が眼で見てわかるようになったので、みんなが道徳をやって平和に暮らしている。政府も国民みんなにあんまり悪いことをしなくなっている。あるいは、ヨーロッパ人は『戦争をやると綺麗[きれい]な物が壊れてなくなる』ことがわかったので「眼で見る喜び」を満足するために綺麗な物を守るために戦争をやらないために道徳をやるようになったのかもしれない。
中国人は「心と知覚があって五感がない」から、「道徳と数学があって科学がない国」が好きである。だから、中国では長い間みんなが道徳をやって善いことをやって平和に幸福に暮らしていた。みんなが科学をやらず物やお金を貧しくして“幸福に”暮らしていた。政府が「道徳と数学があって科学のない国」を作って、国民みんなに道徳を守らせて平和にして、国民みんなに科学をやらせず国民みんなを貧乏にして国民みんなを“幸福に”していた。しかし、今ではテレビやテレビゲームが出来て、科学によって「心で思う喜び」が満足できるようになったので、外国から科学を取り入れて科学をやるようになっている。
インド人は「知覚があって五感と心がない」から、「数学があって科学や道徳がない国」が好きである。だから、インドでは長い間みんなが数学をやって考える喜びを満足して幸福に暮らしていた。みんなが科学をやらず物やお金がなくて貧乏にして“幸福に”暮らしていた。みんなが道徳をやらず悪いことをやって物騒[ぶっそう]にして“幸福に”暮らしていた。政府が「数学があって科学や道徳のない国」を作って、国民みんなに数学をやらせて論理的に考えさせて、国民みんなに科学をやらさず国民みんなを貧乏にして、国民みんなに道徳をやらさず国民みんなを物騒にして国民みんなを“幸福に”していた。しかし、今ではコンピューターが出来て、科学によって「頭で考える喜び」が満足できるようになったので、外国から科学を取り入れて科学をやるようになっている。インド人はいまだに道徳がないのが好きなので今でも道徳をやらずに物騒に暮らしている。(ガンジーはインドを科学や道徳のない国にした。やっぱり、ガンジーはインド人の心を守った偉大な政治家だったのだ。反対に、今の日本の政治家は日本人の心を犯している。今の日本の政治家は日本を科学があって道徳のない国にして日本人の心を踏みにじっている。今の日本の政治家は自分が国民から税金を取って儲けるために日本人の感性に合わないヨーロッパ文化の国を作っている。おまけに最近の政治家は格好[かっこう]をつけたり愉快なことをやったりしている。日本人の心に反することをやりまくっている。人間の心が眼で見えないと思って人間の心をないがしろにしている。人間の心を無視してまちがったことばかりやっている。今の日本政府が国民みんなに倒されているので、今の政治家は国民みんなに対する嫌がらせのために格好つけたり愉快なことをやっているのである。ヤクザのチンピラが派手[はで]な服を着て商店街を歩いているのと同じことである。今の日本の政治家は糞[くそ]だ。クズだ。早く国民みんなで政府を倒さねばならない。日本人は格好つけも愉快なこともやってはいけない。日本人は言葉を使って物と心の両方を理解して実在の中で幸福にならねばならない。日本人はそういう生き方の中で面白いことを考えたりやったりしないといけない。)
日本人は『五感と知覚と心の全部がある』から、『科学と数学と道徳の全部ある国』が好きである。しかし、これまで日本ではみんなが「日本人も外人も同じである。文化によって幸福か不幸かが決まるだけである。みんなが幸福に暮らしている国の文化をやれば自分も幸福になれる。」と考えていたので、自分の感性に合った国を作らずに、外国の文化をそのまま受け入れていた。そのため、日本人はこれまでずっと自分の心の半分を満足しただけで心の半分を不満にして幸福に暮らせなかった。日本人は半分喜んで半分苦しんで複雑な気持ちだった。しかし、今では『文化人類学』が出来て、日本ではみんなが『日本人と外人は脳が違うから感性が違うから幸福に暮らせる国も違う。日本人は日本人にとって幸福に暮らせる国にしないといけない』と考えて、外国の文化を受け入れなくなって自分の文化をやって自分の感性に合った国を作って自分の心を全部満足して幸福に暮らすようになっている。国民みんなが科学をやって物やお金を豊かにして、数学をやって論理的に考えて、道徳をやって自分の心を適切に満足して“幸福に”暮らすようになっている。
人種によって自分が好きな国が違う。自分が幸福に暮らせる国が違う。幸福観が違う。今では世界中で国民みんながそのように考えて、自分の感性をよく理解して自分が幸福に暮らせる国にしている。日本でもそうしている。日本人は『科学と数学と道徳の全部がある国』にしている。日本政府は「科学と数学があって道徳がない国」を作っている。日本政府は国民みんなに科学をやらせて物やお金を豊かにして、数学をやらせて論理的に考えさせて、道徳をやらさず悪いことをさせている。日本政府は自分でも国民みんなに悪いことをやっている。(しかし、社会科の教科書には「日本政府は民主主義の政治機関であり、今の国民みんなが幸福に暮らせる国を作っている」と書いてある。社会科の教科書はまちがったことを書いている。社会科の教科書は政府の嘘[うそ]の宣伝である。まさにそのために教育費がただなのである。テレビの民間放送がただで見れるように、政府の教育費もただなのである。もっとも、今の国民みんなは政府が嘘をついていることを知っているから、社会科の教科書は無駄[むだ]である。政府はヨーロッパ文化をやっているから、ヨーロッパ文化には道徳がないから、政府は嘘をついているのである。)日本人は心があるから「道徳のない国」では幸福に暮らせない。日本政府は日本人が幸福に暮らせない国を作っているから、日本人は日本政府を倒している。(眼で見ても、テレビや新聞で見ても、『今の日本人が日本政府を倒している』ことはわからないが、理屈で考えるとそうなるから、実際には『今の日本人は政府を倒している』のである。)日本人は政府を倒して、『科学と数学と道徳の全部がある国』を作る国家機関を建てている。
[21987] 今の日本政府は国家機関ではない。 h27.7.5
今の日本国民みんなは『人種によって感性が違う』と考えて日本文化をやっている。『科学と数学と道徳の全部がある文化』をやっている。
一方、今の日本政府はヨーロッパ文化の国を作っている。「科学と数学があって道徳がない文化」の国を作っている。
政府は今の国民みんなの文化と違う国を作っている。だから、政府は国家機関ではない。
今の政府は民間団体にすぎない。
自分がヨーロッパ文化が好きであり政府にヨーロッパ文化の国を作って欲しい者は、政府に税金を払って政府に水道代や戸籍代や教育費などを払って政府にヨーロッパ文化の国を作ってもらえばいい。
反対に、自分が日本文化が好きであり政府にヨーロッパ文化の国を作って欲しくない者は、政府に税金を払わず政府に水道代や戸籍代や教育費だけを払って政府にヨーロッパ文化の国を作らせなければいい。
日本人とヨーロッパ人は違う。日本人とヨーロッパ人は人種が違うから脳が違うから感性が違うから幸福に暮らせる文化が違う。ヨーロッパ人には心がないから道徳がないから悪いことをするのが好きだからみんなが悪いことをしているのが幸福である。反対に、日本人には心があるから道徳があるから悪いことをするのが嫌いだからみんなが悪いことをしないのが幸福である。日本人は日本文化でなければ幸福に暮らせない。だから、日本人は政府にヨーロッパ文化の国を作らせてはいけない。政府に税金を払わず政府を倒さねばならない。日本人は政府を倒して、日本文化の国を作る国家機関を建てねばならない。
戦前の日本国民みんなは「日本人も外人も同じだ」と考えて「ヨーロッパ人が幸福に暮らしているから、日本人もヨーロッパ文化をやれば幸福になれる」と考えてヨーロッパ文化をやっていた。日本政府もヨーロッパ文化の国を作っていた。だから、戦前の政府は国家機関だった。戦前は国民みんなが「政府が国民みんなが幸福に暮らせる国を作っている」と思っていて、政府は国民みんなの支持があったから、国民は誰も政府に逆らえなかった。
しかし、戦後の日本国民みんなは『日本人と外人は違う』と考えて『日本人が幸福に暮らすためには、日本人は日本文化をやるしかない』と考えて日本文化をやっている。日本政府はあいかわらずヨーロッパ文化の国を作っている。だから、今の政府は国家機関ではない。戦後は国民みんなが『政府が国民みんなが不幸に暮らさねばならない国を作っている』と思っていて、政府は国民みんなの支持がないから、国民は誰でも政府に逆らっていい。政府の命令はヨーロッパ文化の国を作るための命令だから、国民みんなは政府の命令を聞かなければいい。税金の命令も政府がヨーロッパ文化の国を作るための命令だから、国民みんなは税金を払わなければいい。日本文化では道徳があるから国家機関は国民一人一人と自由に契約して国民からお金をもらわなければならないから、政府は国民みんなと契約を取っていないから国民みんなは政府に税金を払わなくていい。(中国政府が国民から税金を取っているのは、中国ではみんなが自由に自分の心を満足することをやってもいいからである。みんなが自由に自分がやりたいことをやってもいいからである。中国政府は自分が国民からお金を取りたいから税金を取っているのである。中国ではみんなが自分がやりたいことをやってもいい。中国は決まりがない国なのである。一方、ヨーロッパ人は心がないから冷酷非情だから悪いことが好きだから、みんなが悪いことをやってもいいから、政府が国民からお金を強盗しているのである。それが税金である。中国政府とヨーロッパ政府では政府が国民から税金を取る理由がちょっと違うのである。一方、日本ではみんながちゃんと『人間がみな平等である』ことを守らなければならないから、日本の国家機関は国民一人一人とちゃんと契約を取って国民からお金をもらって仕事をしないといけないのである。日本の国家機関は国民から税金を取ってはいけないのである。国によって文化が違うから、国家機関のお金の取り方も違うのである。)
早く国民みんなで政府を倒して、日本人のために日本人が幸福に暮らせる国を作る国家機関を建てねばならない。
[21988] 今の日本では国民みんなは政府を倒している。 h27.7.6
戦後に国民みんなは『日本人と外人は違う』と考えて、『日本人は日本文化をやらなければ幸福に暮らせない』と考えて、ヨーロッパ文化をやめて日本文化をやるようになった。
そのときに国民みんなは国家機関を倒すはずである。国民みんなは国の最高権力者であり、国家機関は国民みんなに従わねばならないから、国民みんなが自分の文化を変えたときには古い文化の国家機関を倒して新しい文化の国家機関に変えるはずである。(国民みんなは国の最高権力者だから、国家機関は国民みんなに従わねばならない。国家機関は国民みんなのために国を作るのだから、国民みんなの文化が変わったときには国家機関は国民みんなに合わせて自分が作る国を変えて新しい文化の国を作らねばならない。今では『文化人類学』があるから、政府も『日本人を幸福にするためには日本文化の国を作らねばならない』ことがわかっているはずなのに、政府は昔と同じようにヨーロッパ文化の国を作っている。それは、日本文化の国よりもヨーロッパ文化の国のほうが政府が儲[もう]かるからである。ヨーロッパ文化の国では国家機関は強盗できるから儲[もう]かるが、日本文化の国では国家機関は契約を取らねばならないから儲からない。そのために、今の日本政府は自分から日本文化の国を作る国家機関に変わろうとしないのである。明治維新の時には、アジア文化の国家機関よりもヨーロッパ文化の国家機関のほうが儲かるから、国家機関は大喜びで大急ぎで自分から超特急で新しい文化の国を作る国家機関に変わったが、今はヨーロッパ文化の国家機関よりも日本文化の国家機関のほうが儲からないから、政府はいくら待っても日本文化の国家機関に変わらない。だから、今の国民みんなが自分で政府を倒して、新しい国家機関を建ててやらねばならないのである。国民みんなは自分の手で政府に税金を払わないようにして政府を倒しているのである。)
だから、今の国民みんなは政府を倒しているのである。そう考えないかぎり理屈が通らないから、今の国民みんなは政府を倒しているのである。あまり公[おおやけ]にはならないが、実際には国民みんなは政府を倒しているのである。
社会科のわかっている者は政府を倒している。政府に税金を払わないようにして政府を倒している。しかし、世の中には社会科のわかっていない者もいる。社会科のわかっていない者はわけがわからないまま昔と同じように政府に税金を払って政府にヨーロッパ文化の国を作ってもらっている。政府の命令を聞いて国家宗教で人殺しをしている。今の政府は社会科のわからない者によって支えられているのである。
早く国民みんなが社会科がわかるようになって、国民みんなが政府に税金を払わなくなって政府を倒して、ヨーロッパ文化の国を作る政府がなくなって、日本文化の国を作る国家機関が出来て国民みんなが幸福に暮らせる国にならねばならない。
[21989] 人間は他人の心を満足しようとしてはいけない。自分の心を満足しないといけない。
h27.7.6
人種によって感性が違うだけではない。同じ国の人間でも人によって感性が違う。
人間は人によって脳が違うから感性が違うから幸福に暮らせる環境が違う。自分の心が満足できる環境が違う。人間は自分が幸福に暮らせる環境にいると気分が上がって陽気になる。反対に、人間は自分が幸福に暮らせない環境にいると気分が落ち込んで鬱[うつ]になる。苦しい思いをしなければならなくなる。だから、大学の進路や仕事選びは慎重[しんちょう]にしないといけない。
自分と他人は心が違う。だから、自分は他人から自分を見て他人の心を満足してはいけない。自分は他人の心を満足してはいけない。自分は自分自身の心を満足しないといけない。そういう目で人間を見ないといけない。社会を見ないといけない。私は20歳の頃、他人が自分を見て他人が自分をいいと思うからという理由で医学部に進学した。私は自分が他人に馬鹿にされないために医学部に進学した。しかし、私は子供の頃から生物学が苦手だったので、医学部の専門課程の4年間はずっと気分が落ち込んで苦しい思いをしなければならなかった。その後、医者をちょっとやっただけですぐに医者を辞めて、理学部物理学科に入り直してやっと気分が治った。最初から素直に自分が好きな学科に行っとけばよかったと思った。他人から見て自分をよくしたいと思うのは“見栄欲”[みえよく]である。見栄欲を満足すると自分の心が満足されなくなって自分が不幸になる。見栄欲は悪い感情である。見栄欲を満足してはいけない。“見栄欲”は鬱病[うつびょう]の原因である。見栄欲を満足すると、自分で自分を自分の心を満足できない環境に追いやって自分の気分を落ち込ませて自分を不幸にする。だから、けっして見栄欲を満足してはいけない。(40歳頃に部署が変わってから鬱病になる人が多い。だから、いくつになっても自分の仕事選びは慎重にしないといけない。本当は会社が本人を役立たずだと思って殺すためにわざとに本人が嫌いな職務につけて鬱病に罹[かか]らせたのである。会社が本人を出世させるふりをして本人の見栄欲を満足させて機嫌を取って本当は本人が嫌いな職場に送って嫌な思いをさせて苦しめようとしたのである。だから、みんなは会社に捨てられないために若い頃から一生懸命に会社のために働かねばならない。部署が変わってから自分の気持ちが落ち込んだと思ったら自分が会社に捨てられた証拠である。しかし、泣いてはいけない。そんなときこそ男は冷静にならねばならない。自分が嫌な職務につかされたと思ったら、いっそのことそんな会社を辞めてほかの会社に変わればいいのである。前にやっていた仕事に戻ればいいのである。そうすれば自分の気分がもとに戻って再び楽しく暮らせるだろう。)
人間の心は生まれつき遺伝で決まっている。人間の心は変えようがない。だから、人間は自分の心を肯定するしかない。自分の心が善かろうが悪かろうがそれを満足するしかない(もっとも、自分の心をなんでもかんでも満足しようとするとかえって不幸になるから、道徳を勉強して善い心だけを満足して悪い心を満足してはいけない)。人間は自分の心を正しく知ってそれを満足して幸福に生きねばならないのである。
今は近代のヨーロッパ文化の時代の後なのでいい道徳の本がない。いい道徳の本がなければ自分で書けばいい。自分で心について考えてわかったことを言葉に書いて表せばいい。そうやって自分で道徳の知識を増やして自分を幸福に暮らせるようにすればいい。
[21990] 日本政府は日本人が不幸に暮らさねばならない国を作っている。 h27.7.6
国民みんなは国の最高権力者である。だから、国家機関は国民みんなに従わねばならない。国家機関は国民みんなの文化の国を作るためにある。
近代の国民みんなは「自分がヨーロッパ文化を真似[まね]れば幸福に暮らせる」と考えて、科学をやって道徳をやらなかった。国民みんなは自分で科学を勉強して物をたくさん作って物をたくさん売ってたくさんお金を儲[もう]けた。国民みんなは自分で道徳を勉強するのをやめて悪いことをやって物騒[ぶっそう]に暮らしていた。(私が子供の頃、親族で集まって宴会をやっていたとき、私の父親は「昔は父親がすごく怖かった」としょっちゅう言っていた。「教室に嫌ないじめっ子がいた」とも言っていた。)国家機関は国民みんなに国民みんなの文化をやらせて国民みんなの文化を促[うなが]すためにある。国家機関は国民みんなが自分の文化をやるためのお手伝いをする。国家機関は国民みんなが自分の文化をやるために国民みんなだけではできないこと(例えば、刑務所とか学校とか)をやって国民みんなが自分の文化をきちんとやれるように手助けをする。国家機関は国民みんなが自分の文化をやるために足りないことを補うためにある。近代の政府は国民みんなに科学をやらせて道徳をやらせないようにしていた。政府は国民みんなに科学を教えて物をたくさん作らせて物をたくさん売らせて物やお金を豊かにさせて、国民みんなに道徳を教えず悪いことをやらせて物騒に暮らさせていた。国民みんなは「政府が国民みんなを幸せにしてくれている」と思って政府に感謝していた。
しかし、戦後になって『文化人類学』が出来て、国民みんなは『自分は日本文化をやらねば幸福になれない』と考えて科学と道徳の両方やるようになった。国民みんなは自分で科学を勉強して物をたくさん作ってたくさん売ってたくさんお金を儲けている。国民みんなは自分で道徳を勉強して善いことをやって悪いことをやらないようにして平和に暮らしている。家族みんなで仲良く暮らして、教室にもいじめっ子なんかいない。(厳密には、私が小学2年生の頃(1973年頃)までは教室にいじめっ子がいた。デブで赤ら顔をした酔っぱらいみたいないじめっ子がいた。いじめっ子が休み時間に教室の後ろのロッカーの上に飾っている私の友達の粘土工作を馬鹿にして床に落っことして壊したので、私が怒って体当たりをしたら私のほうが痩[や]せて体重が軽かったので逆に私のほうが吹っ飛んだ。小学3年生から後は不良や馬鹿は見たことがあってもいじめっ子は見たことがない。)それなのに、日本の国家機関である日本政府は国民みんなに科学をやらせるだけで道徳をやらせない。政府は近代と同じように国民みんなに科学をやらせて道徳をやらせていない。政府は国民みんなに科学を教えて物やお金を豊かにするだけで、国民みんなに道徳を教えず悪いことをやらせて不幸に暮らさせている。日本政府は日本人が不幸に暮らさねばならない国を作っている。今の国民みんなは『政府が国民みんなを不幸にしている』と思って政府を憎[にく]んでいる。日本政府は日本人にとって邪魔[じゃま]である。だから、今の日本人は日本政府を倒している。日本人は日本文化の国家機関を建てている。日本文化の国家機関は国民みんなに科学を教えて科学をやらせて物やお金を豊かにして、国民みんなに道徳を教えて道徳をやらせて悪いことをしないようにさせて平和に暮らすようにさせて、国民みんなを幸福にしてくれるだろう。(日本人はインド人と違って五感があるから、日本人は数学よりも科学が好きである。日本人は数学の代わりに科学をやっている。日本人は自分の論理的思考力を鍛[きた]えるために数学をやっているにすぎない。)
[21991] 今の政府は国民みんなの除[の]け者によって支えられている。 h27.7.6
近代の国民みんなは「日本人も外人も同じだ」と考えて「日本人がヨーロッパ人を真似[まね]れば幸せになれる」と考えて、「道徳があって科学がない文化」をやめて「科学があって道徳がない文化」をやるようになった。そのため、国家機関は国民みんなが文化を変えたので国民みんなに合わせて「道徳があって科学がない文化」の国を作るのをやめて「科学があって道徳がない文化」の国を作るようになった。幕府が政府になった。国民みんなは「政府が国民みんなを幸せにしている」と思って政府に感謝して政府を支持していた。国民みんなは政府の命令を聞いて政府に税金を払っていた。
戦後の国民みんなは『日本人と外人は違う』と考えて『日本人は自分の心を満足しなければ幸福になれない』と考えて、「科学があって道徳がない文化」をやめて『科学と道徳の両方ある文化』をやるようになった。それなのに、国家機関は国民みんなが文化を変えたのに国民みんなに合わさず「科学があって道徳がない文化」の国を作り続けている。政府は政府のままである。国民みんなは『政府が国民みんなを不幸にしている』と思って政府を嫌って政府を倒している。国民みんなは政府の命令を無視して税金を払わず政府を倒している。
今では国民みんなは政府を倒している。国民みんなで正しいことを教え合って政府を倒している。しかし、世の中にはみんなの仲間はずれにされている者がたくさんいる。そういう者は国民みんなから正しいことを教えてもらえず、自分でまちがったことを考えて昔と同じように政府に従っている。政府に税金を払って政府にヨーロッパ文化の国を作らせて不幸にされている。今の政府はみんなの仲間はずれにされている者によって支えられているのである。
早く国民みんなで政府を倒して、「科学があって道徳がない国」を作る国家機関を倒して、『科学と道徳の両方ある国』を作る国家機関を建てて、国民みんなと国家機関とでみんなが『科学と道徳の両方ある文化』をやれるようにしてみんなが自分の心を満足して幸福に暮らさねばならない。
世界中どこの国でも国家機関は国民みんなと同じ文化の国を作っている。国民みんなと国家機関は同じ文化をやっている(少数の国は例外かもしれないが)。だから、国民みんなが幸福に暮らせるのである。だから、国家機関が国民みんなから感謝されて国民みんなに支持されて幸せなのである。ところが、今の日本では国家機関が国民みんなと違う文化の国を作っている。国民みんなと国家機関が違う文化をやっている。そのため、国民みんなが国家機関に不幸にされている。国家機関が国民みんなから嫌われて嫌な思いをしている。国民みんなは早くこの矛盾を解決しないといけない。今の国民みんなは自分の心を正しく理解して、自分の心を満足する文化をやっている。今の国家機関が国民みんなの心を満足しない文化の国を作っているのがまちがっている。だから、今の国民みんなは国家機関を倒さねばならない。国民みんなは自分の文化と同じ国を作る国家機関を建てねばならない。国民みんなは国の最高権力者である。国家機関は国民みんなに従わねばならない。国民みんなが国家機関をどうしようが国民みんなの自由である。今の政府は国民みんなを不幸にしているから、国民みんなは政府がなくなったほうがいい。だから、今の国民みんなは政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。今の国民みんなは自分の文化と同じ国を作る国家機関を建てて幸福に暮らせるようにしている。
今の国民みんなが社会に興味がないために社会について知らないために政府が倒れるのが遅れているのである。今の国民みんなはもっと社会について考えて国民みんなや政府のことを理解して『国民みんなが政府を倒す』のが正しいことを理解して『国民みんなが政府を倒してかまわない』ことを理解して政府を倒さねばならない。人間は言葉で物と心について考えて、物と心のことを知って、それらの知識を用いて自分の心を満足して幸福にならねばならない。
| 今の国民みんなは『科学と道徳の両方ある文化』をやっている。今の国民みんなは善いことだけやって悪いことをやっていない。政府は「科学があって道徳がない文化」をやっている。政府は善いことも悪いことも両方やっている。国民みんなは国の最高権力者だから、政府は国民みんなに従わねばならない。だから、今の国民みんなは政府に善いことだけやらせて悪いことをやらさなければいい。税金は強盗だから、税金は悪いことだから、今の国民みんなは政府に税金を取らさなければいい。今の国民みんなは政府に税金を払わずに政府を倒せばいいのである。 |
今の国民みんなはテレビや新聞で余計な無駄[むだ]なことばかり知っているために大事なことがわかっていない。そのために、今の国民みんなは頭がこんがらがって自分がどうしていいかわからなくなって政府の言いなりになっている。今の国民みんなはダラダラとテレビや新聞を見るのをやめて余計な無駄なことを知らないようにして、自分で今の社会について考えて今の自分が本当にやるべきことを理解して政府を倒さねばならない。
[21992] ヨーロッパ文化は日本人を不幸にする。☆☆ h27.7.6
ヨーロッパ人と日本人は人種が違うから脳が違うから感性が違うから幸福なことが違う。
ヨーロッパ人は心がないから悪いことが好きだから、政府に悪いことをされて虐[いじ]められると幸福になるのである。そのために、ヨーロッパでは政府が国民みんなを幸福にするためにわざわざ国民みんなに戦争をやらせたり国民みんなから高い税金を取ったり国家宗教で事件や事故を起こして国民みんなを殺したり国民みんなを不幸にする政策をやってあげているのである。
反対に、日本人は心があるから善いことが好きだから、政府に悪いことをされて虐められると不幸になるのである。そのために、今の日本では国民みんなが政府に不幸にされないために政府を倒しているのである。国民みんなが『政府に善いことだけやらせて悪いことをやらせない方法』(上の赤枠[わく]を参照)を使って政府を倒しているのである。
近代までは国民みんなが『ヨーロッパ人と日本人の感性が違う』ことを知らなかったから、自分がヨーロッパ文化をやれば自分も幸福になれると思って一生懸命にヨーロッパ文化をやっていた。戦前の日本人は自分が幸福になるために一生懸命ヨーロッパ文化をやっていた。しかし、その結果日本人は不幸になっていた。
戦後の今では国民みんなが『ヨーロッパ人と日本人は感性が違う』ことを知っているから、ヨーロッパ文化をやめて日本文化をやっている。その結果、日本人は幸福に暮らしている。
ヨーロッパ文化はヨーロッパ人を幸福にするが、日本人を不幸にする。ヨーロッパ人はヨーロッパ文化で幸福に暮らせるが、日本人はヨーロッパ文化では不幸に暮らさねばならない。日本人は戦後になってようやくそのことがわかったのである。だから、今は国際化の時代と言うのである。
ヨーロッパ人が悪いことが好きなのは、日本人が汚い物が好きなのと同じことである。ヨーロッパ人は心がないから悪いことが好きである。ヨーロッパ人は自分が悪いことをするのも他人に悪いことをされるのも好きである。日本人は五感がない(つまり知覚で物を見る)から汚いことが好きである。日本人は性能がよければ見かけはどうでもいいのである。ヨーロッパ人は悪いことが好きだから政府に悪いことをやってもらって喜んでいるのである。日本人は汚い物が好きだから、自分で汚い服を着て喜んでいるのである。自分で部屋の中を汚したり汚い家を建てて喜んでいるのである。
人間はみな心が違う。だから、今の人は他人の真似[まね]をせずに自分の心を理解して自分の心を満足して幸福に生きていけばいいのである。自分の心を満足する生き方を探して幸福に生きていけばいいのである。つまり、今は他人と共感してみんなで喜ぶ時代ではない。自分ひとりで喜ぶ時代なのである。
人間は自分の心を肯定して自分が好きなことだけやって嫌いなことをやらずに幸福に生きていけばいいのである。人間は自分の心を適切に満足して、自分が幸福に生きていけるようにすればいいのである。例えば、「試験でいい点を取りたい感情」よりも『自分がその科目を嫌いな感情』を肯定して勉強しなければいいのである。元気に白紙で答案を出せばいいのである。大人は自分が得意なことだけやって食べていけばいいから、自分に得意なことがあれば苦手なことはやらなければいいのである。
今の日本人は自分の心を肯定してヨーロッパ文化を否定して日本政府を否定して日本政府を倒しているのである。今の日本人は自分の心を適切に満足して自分が幸福に生きていけるようにすればいいのである。今の日本人は「政府を怖いと思う感情」よりも『悪いことを嫌う感情』を肯定して政府に税金を払わなければいいのである。今の日本人は「政府に従う感情」よりも『国民みんなに従う感情』を肯定して政府に税金を払わなければいいのである。今の国民みんなは日本文化をやっているから、今の国民は国民みんなといっしょに日本文化をやればいい。日本文化には税金はない。だから、国民は政府に税金を払わなければいいのである。元気に政府を倒せばいいのである。国民みんなは政府よりも強いのだから、国民は国民みんなに従っていれば政府に従わなくてもいいのである。今の日本人は自分の心を肯定して日本文化の国家機関を建てればいいのである。自分の心を形にすればいいのである。
[ホームページビルダーでは、枠でページを区切ると、枠から下の部分に書き込んだり訂正したりするのが格段にスピードアップする。つまり、ときどきシフト+リターンで改行すればいいのである。パソコンのスペックが高くない人は試してみるといい。]
[21993] ヨーロッパ人と日本人は好きなことが違う。☆☆ h27.7.6
ヨーロッパ人は物やお金が豊かなことや綺麗[きれい]なことや悪いことが好きである。
一方、日本人は物やお金が豊かなことや汚いことや善いことが好きである。
ヨーロッパ人と日本人は物やお金が豊かなことが好きであることは同じだが、ほかが違う。
日本政府はヨーロッパ文化の国を作る国家機関だから、ヨーロッパ人を幸福にするが、日本人を幸福にしない。日本政府は綺麗なことや悪いことをして日本人を不幸にする。日本政府が国民みんなから税金を取ったり国民みんなに戦争をさせたり国家宗教で人殺しをしたり国民みんなを不幸にする政策をやったりしているのは、政府が国民みんなを幸福にするためだが、実際には国民みんなを不幸にしている。日本人にとって政府はありがた迷惑である。
日本人は自分が幸福になるために、自分の心を肯定して日本政府を否定しないといけない。
日本人は日本政府を倒さねばならない。『政府に善いことをやらせて悪いことをさせない方法』(上の赤枠[あかわく]を参照)で政府を倒さねばならない。
[21994] どうして戦後の日本人は日本文化に変えたときについでに政府を倒さなかったのか?
h27.7.7
戦後に『文化人類学』が出来て、国民みんなは『日本人は日本文化をやらねば幸福になれない』ことがわかったので、ヨーロッパ文化をやめて日本文化をやりだした。道徳をやりだした。
国民みんなは「今は『文化人類学』があるから、『日本人が幸福に暮らすためには日本文化をやらねばならない』ことがわかっているから、日本政府も自分で国民みんなが幸福に暮らせる国を作るためにヨーロッパ文化の国を作るのをやめて日本文化の国を作るようになるだろう」と考えて、しばらく様子を見ることにした。
しかし、その後も政府はあいかわらずヨーロッパ文化の国を作り続けた。政府はその後も国民みんなに対して悪いことをやっている。税金もどんどん値上げするし、国家宗教で悪いことをするのもますますエスカレートしている。そのうち戦争もやるかもしれない。
そのために、最近の国民みんなは『自分の手で政府を倒さねばならない』と考えて、政府を倒すようになっている。『政府に善いことだけさせて悪いことをさせない』(上の赤枠[あかわく]を参照)ようにして政府を倒している。(近代には国民みんながアジア文化からヨーロッパ文化に変わったが、アジア文化でもヨーロッパ文化でも国家機関が国民から税金を取るので、上の赤枠の論法では幕府を倒せない。だから、近代には国民みんなは『幕府が国民みんなと違う文化の国を作っている』ことを理由にして幕府にお金をやらなくなって幕府を倒したのだろう。だから、今の国民みんなも『政府が国民みんなと違う文化の国を作っている』ことを理由にして政府に税金を払うのをやめて政府を倒せばいいのである。日本文化では国家機関は『人間がみな平等である』ことを守って国民一人一人と契約してお金を取らねばならないから、新しい国家機関が出来たら国民みんなは新しい国家機関と契約してからお金を払えばいい。)
これまで日本では国民みんなが政府の自主性を尊重して政府が自分から変わるのを待っていた。50年ぐらい待っていた。しかし、政府は見事に国民みんなの期待を裏切ってくれた。そのために、今の国民みんなはしびれを切らして『政府は物分りが悪いから、国民みんなが自分の手で政府を倒してやらねばならない』と考えて自分で政府に税金を払うのをやめて政府を倒している。(近代も国民みんながヨーロッパ文化をやりだしてから50年ぐらいたって幕府が政府に変わったから([21900]を参照)、今から国民みんなが政府を倒すのがちょうどいい頃合[ころあ]いだろう。)
今の国民みんなは日本文化をやっている。国家機関は国民みんなに従わねばならないから、今の国家機関は日本文化の国を作らねばならない。国民みんなで早く政府を倒して日本文化の国を作る国家機関を建てて、みんなが日本文化の国で幸福に暮らさねばならない。国家機関は国民みんなに自分の仕事の内容を詳[くわ]しく説明して、国民一人一人と自由に契約して国民からお金をもらって言った通りの仕事をしなければならない。それが日本流の国家機関の仕事のやり方である。
[21995] 暴力団は犯罪組織ではない。☆ h27.7.7
暴力団は犯罪組織ではない。
暴力団はヨーロッパ文化をやる団体である。暴力団はヨーロッパ文化の生き残りである。
暴力団が犯罪組織というのはテレビドラマの作りごとである。テレビでやっているのは冗談である。
近代は国民みんなが「日本人と外人は同じだ。日本人が幸福になるためにはヨーロッパ文化をやらねばならない」と考えて、ヨーロッパ文化をやっていた。ヨーロッパ文化には道徳がないから、国民みんなが悪いことをやっていた。その中でも特に悪いことをやっていたのが政府と暴力団と宗教団体である。そのため、みんなは政府や暴力団や宗教団体を「身分が高い」と言っていたのである([21981]を参照)。
戦後は国民みんなが『日本人と外人は違う。日本人が幸福になるためには日本文化をやらねばならない』と考えて、ヨーロッパ文化をやめて日本文化をやっている。日本文化には道徳があるから、国民みんなが悪いことをやめて善いことをやっている。しかし、政府や暴力団や宗教団体はヨーロッパ文化をやって悪いことをやり続けた。国民みんなは『今では『文化人類学』があるから、『日本人が幸福であるためには日本文化をやらねばならない』ことがわかっているから、そのうち政府や暴力団や宗教団体も日本文化をやるようになって悪いことをやめるだろう』と思ってしばらく様子を見ることにした。
しかし、国民みんなが文化を変えて50年たった今でもあいかわらず政府や暴力団や宗教団体はヨーロッパ文化をやり続けている。
今では国民みんなの堪忍袋[かんにんぶくろ]の緒[お]が切れた。そのため、今の国民みんなは『物分りが悪い連中だ』と思って、政府や暴力団や宗教団体を倒している。政府や暴力団や宗教団体を『いつまでたっても『文化人類学』がわからない馬鹿だ』と思ってまともに相手にしなくなって無視して村八分[むらはちぶ]にして倒している。今では『日本文化をやらないほうが悪い』から、国民みんなは政府や暴力団や宗教団体を好き放題に罰すればいいのである。
昔の国民みんなが悪いことをやっていたのは国民みんなが「日本人と外人が同じだ」と考えていたからである。今では『文化人類学』が出来て『日本人と外人が違う』ことがわかっているので、国民みんなは悪いことをやめている。今の政府や暴力団や宗教団体には悪いことをする理由がない。だから、今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体が悪いことをするのを許さなくなって倒しているのである。これまでは国民みんなが政府や暴力団や宗教団体に『日本人と外人が違う』ことを理解するための時間を与えてやっていたのである。『日本人と外人が違う』ことは戦後に出来た新しい学説なので、みんながすぐに理解するのは無理なので、みんなが理解するには時間がかかるので、国民みんなは政府や暴力団や宗教団体が『日本人と外人が違う』ことを理解するのを待ってあげていたのである。日本人は道徳があるので性格が優しいので物わかりの悪い人がわかるまでしばらく待ってやっていたのである。しかし、すでに50年もたっている。これだけ時間を与えたのに理解できないことはありえない。だから、今の国民みんなは政府や暴力団や宗教団体を倒しているのである。幕末の国民みんなが「今では日本人がヨーロッパ文化をやれば幸福に暮らせるのはわかりきってんじゃないか〜」と思ってアジア文化をやっている幕府を倒したように、今の国民みんなは「今では日本人が日本文化をやれば幸福に暮らせるのはわかりきってんじゃねえか〜」と思ってヨーロッパ文化をやっている政府や暴力団や宗教団体などを倒しているのである。いつまでにみんなが新しいことを理解しなければならないという明確な期限はない。しかし、これまでは国民みんなはいつの時代でも自分の文化を変えてから50年ぐらいで古い国家機関その他を倒してきた。だから、今でも国民みんなはそうすればいいのである。これまでは日本では国民みんなが真理に従ってきた。日本人は個人主義だから国民みんなに従わず真理に従うのである。実在に従うのである。昔はみんなが「日本人と外人が同じである」ことが正しいと考えていたから外国の文化をやっていた。今ではみんなが『日本人と外人が違う』ことが正しいと考えているから日本文化をやらねばならない。日本では古い真理の有効期限は50年である。だから、今の日本では「日本人と外人が同じである」ことは成り立たない。だから、今の日本ではヨーロッパ文化をやっているのはまちがっている。だから、今の国民みんなはヨーロッパ文化の国を作っている政府を倒せばいいのである。今の国民みんなはヨーロッパ文化をやっている政府や暴力団や宗教団体を倒せばいいのである。ヨーロッパ文化ではみんなが悪いことをやってもいいが、日本文化ではみんなが悪いことをやってはいけないから、今の日本人は日本文化をやってヨーロッパ文化をやらないようにして、政府や暴力団や宗教団体に悪いことをさせないようにしてお金を強盗させないようにして政府や暴力団や宗教団体を倒せばいいのである。
政府は国民みんなと違う文化の国を作っているから、国民みんなが政府を倒すのが正しい。政府を倒すためには政府にお金をやらなければいい。国民みんなは政府に税金も水道代も戸籍代も教育費もいっさい払わなければいい。国民みんなは政府に税金も水道代も戸籍代も教育費も全部払わないのが正しい。国民みんなは正しいことをやっているのだから、職員が水道を止めに来たら職員を殴[なぐ]ったり蹴[け]ったりして虐待すればいい。お金のことなんかどうでもいい。とにかく政府を倒せばいいのである。日本文化の国家機関を建てればいいのである。
これまで日本人は「日本人と外人は同じだ」と考えてヨーロッパ文化やアジア文化をやってきた。ヨーロッパ文化は「科学があって道徳がない文化」である。アジア文化は「科学がなくて道徳がある文化」である。(日本人は数学しかないインド文化には付いて行けないので、中国文化を加えてアジア文化にしたのだろう。)ところが、日本文化は「科学と道徳の両方ある文化」である。つまり、ヨーロッパ人は裕福で悪いことが好きである。アジア人は貧乏で善いことが好きである。日本人は裕福で善いことが好きである。だから、日本人にとってはヨーロッパ文化もアジア文化も両方とも不満だった。日本人はこれまでずっと自分が不満になる文化をやってきた。戦後になってようやく日本人は『日本人と外人は違う』と考えて日本文化をやるようになった。日本人はようやく日本文化をやって満足に暮らせるようになった。日本人は日本文化を大事にしないといけない。日本人は日本を日本文化の国にするために政府や暴力団や宗教団体を倒さねばならない。
[21996] 学歴とは知識のことである。 h27.7.7
都会人はよくしゃべるからよく言葉を使って考えるから知識が多いが、田舎者はあまりしゃべらないのであまり言葉を使って考えないので知識がない。私も20歳のときに田舎の高知を出て都会の福岡に来て、自分がしゃべらないのはいけないと思って毎日自分ひとりで日記を書き始めた。
田舎者[いなかもの]の欠点は知識がないことである。私の親は物についても心についても知識がなかったので、子供になにも教えられなかった。私が小学2年生の頃に風呂上りに父親に「お風呂の水は上が熱くて下が冷たいけど、風呂釜は下のほうにあるけど風呂釜の近くの水は熱いのか冷たいか、どっち?」と訊[き]いたことがあったが、父親は「わからん」と言ったので私はガッカリして二度と父親に訊くのをやめた。私の両親は道徳の知識がなかったので、子供に道徳を教えられなかったので、子供が道徳を犯して気が狂ったり登校拒否になったりして人生の道を誤って不幸に暮らさなければならなくなった。子供には経験がないから道徳なんかわからない。だから、親が子供に道徳を教えてやらねばならないのである。(私の親は「戦時中は食べ物がなくて田んぼや畑を耕[たがや]すばっかりで勉強どころではなかった」とよく言っていたが。)
学歴とは知識のことである。つまり、学歴があるとは知識があることである。
だから、知識がなければいくら学歴があってもいけない。反対に、知識があれば学歴がなくてもいい。
自分で勉強して知識を持っていれば、学歴なんか要らないのである。
[21997] 日本人は日本政府が嫌いである。☆ h27.7.8
ヨーロッパ文化は「科学があって道徳がない文化」である。アジア文化は「道徳があって科学がない文化」である。日本文化は『科学と道徳の両方ある文化』である。つまり、ヨーロッパ人は物やお金持ちで悪いことが好きである。アジア人は物やお金がなくて善いことが好きである。日本人は物やお金持ちで善いことが好きである。
政府はヨーロッパ文化の国を作る団体である。政府は「科学があって道徳がない国」を作る団体である。
政府は日本を「道徳のない国」にするために国民みんなに学校で道徳を教えなかったりまちがった道徳を教えたり政府が自分で国民みんなが不幸になる政策をやったり国民に命令して事件や事故を起こして人殺しをさせたりするのである。
政府は日本を『科学のある国』にするために国民みんなに学校で理科や科学を教えたり大学で科学の研究をさせたり民間会社に産業をやるための助成金を出したり減税などの優遇措置を取ったりしているのである。
日本人は科学のあるのは好きだが、道徳がないのは嫌いである。だから、日本人は日本政府が嫌いである。日本人とヨーロッパ人とは好きなことが違うから、日本政府が日本でヨーロッパと同じ国作りをしたら日本人が嫌になるのは当然である。
だから、日本人は日本政府を倒している。日本人は日本政府を倒すためになんでもかんでもやっている。日本人は日本政府の代わりに日本文化の国を作る団体を建てる予定である。
昔はみんなが『日本人と外人が違う』ことがわかっていなくて「人類はみな同じだ」と思っていたから、国を作る団体は「みんなが幸福に暮らしている国と同じ文化の国を作れば日本人みんなが幸福になる」と思ってヨーロッパ文化の国を作っていた。日本政府は日本人を幸福にするために物やお金を豊かにして悪いことをやっていたのである。しかし、今ではみんなが『文化人類学』があって『日本人と外人が違う』ことがわかっているから、国を作る団体は『日本人みんなを幸福にするためには日本文化の国を作らねばならない』と考えて日本文化の国を作らねばならない。国を作る団体は日本人を幸福にするために物やお金を豊かにして善いことをしないといけない。しかし、日本政府は昔と同じように「日本人を幸福にするためにはヨーロッパ文化の国にすればいい」を思って物やお金を豊かにして悪いことをやっている。日本政府の考えはまちがっている。日本政府の考えは古臭い。だから、今の日本人は日本政府を倒しているのである。日本人は自分が幸福に暮らすために日本政府を倒しているのである。
[21998] ヨーロッパ人は悪いことが好きだが、日本人は善いことが好きである。
h27.7.8
ヨーロッパ人と日本人は違う。ヨーロッパ人は物やお金がたくさんあって悪いことが好きである。日本人は物やお金がたくさんあって善いことが好きである。ヨーロッパ人はみんなで悪いことをやりあうのが好きだが、日本人はみんなで善いことをやりあうのが好きである。ヨーロッパ人は自分が悪いことをしたり他人に悪いことをされたりすると幸せになるが、日本人は自分が善いことをしたり他人に善いことをされたりすると幸せになる。ヨーロッパ人は政府に高い税金を取られたり戦争をやらされたり政府に悪い政策をやられて虐[いじ]められたり政府に事件や事故を起こされて殺されたり重傷を負わされたりすると幸せだが、日本人は反対に不幸になる。(ヨーロッパでは、国民みんなもちょっとは政府に悪いことをするが、政府は大きい団体なので政府は強気なので、政府が特に国民みんなに悪いことをする。そのために、国民みんなは政府に幸せにされて喜んでいるのである。)ヨーロッパでは国を作る団体は国民みんなを幸福にするために悪いことをやらねばならないが、日本では国を作る団体は国民みんなを幸福にするために善いことをやらねばならない。善とは人を幸福にすることであり、悪とは人を不幸にすることである。つまり、ヨーロッパと日本では善と悪が入れ替わっているのである。ヨーロッパ人を幸福にすることは日本人を不幸にし、日本人を幸福にすることはヨーロッパ人を不幸にする。例えば、戦争や税金や国家宗教はヨーロッパ人を幸福にするが、日本人を不幸にする。(国家宗教とは政府や国民が神の情報を使って悪いことをやることである。ヨーロッパ人は自分が悪いことをするのを正当化するために「自分が国家宗教をやって神に従っている」ことにしているのである。インド人が自分が悪いことをするのを正当化するために「身分制がある」ことにしているのと同じである。つまり、身分制と国家宗教は同じものなのである。インド人とヨーロッパ人ではいいわけのしかたが違うのである。国家宗教も一種の身分制である。「神が人間よりも上である」ことを利用して自分が神に従っていることにして悪いことをやっているのである。)反対に、平和や契約や法律は日本人を幸福にするが、ヨーロッパ人を不幸にする。日本人とヨーロッパ人では脳の構造が違うために、善と悪が入れ替わっているのである。(要するに、ヨーロッパ人は不幸なことが幸福である。反対に、日本人は幸福なことが幸福である。人間の心はもともと不完全だから矛盾があるし、ヨーロッパ人は知覚がないから矛盾したことでも平気だから、ヨーロッパ人は不幸なことが幸福でもいいのである。だから、ヨーロッパ人は自分が不幸にされて喜んでいるのである。反対に、日本人は知覚があるから矛盾したことが気に食わないから、日本人は幸福なことが幸福でなければならないのである。だから、日本人は自分が幸福にされないと喜ばないのである。インド人も道徳がなくて悪いことをやっているが、戦争や国家宗教をやらなかったり、身分制を考え出したりして矛盾がないようにしているのである。/ヨーロッパ人は悪いことが好きだから戦争が好きである。闘争が好きである。ヨーロッパ人は善いことが嫌いだから法律が嫌いである。だから、イエーリングというドイツの法律学者が『権利のための闘争』という本を書いて、ヨーロッパ人が闘争好きなことを利用してヨーロッパ人にヨーロッパ人が嫌いな法律を守らせようとしたのである。母親が子供が好きな食べ物と嫌いな食べ物をいっしょにして子供に嫌いな食べ物を食べらせるのと同じである。反対に、日本人は戦争が嫌いだから闘争が嫌いだから『権利のための闘争』の本を読むと好きな法律がかえって嫌いになるのである。)
日本政府はヨーロッパ文化の国を作る団体である。日本政府は日本人が不幸に暮らさねばならない国を作る団体である。国民が政府に税金を払うことは国民みんなを不幸にすることである。自分自身を不幸にすることである。だから、国民は政府に税金を払ってはいけない。(ヨーロッパでは国民みんなが本音[ほんね]で悪いことが好きだから、政府が国民みんなを喜ばせるために悪いことをやりまくっているが、日本では国民みんなが本音では悪いことが嫌いだから、政府が悪いことばかりしていると国民みんなが怒って政府が国民みんなに倒されるから、政府はときどき国民みんなを喜ばせることをして機嫌を取っているのである。ヨーロッパ文化では道徳がなくて嘘[うそ]をついてもいいから、日本政府は嘘をついて国民みんなに善いことをしているのである。)
国民みんなは国の最高権力者だから、国を作る団体は国民みんなに従わねばならない。国民みんなのほうが国を作る団体よりも大きい団体だから、国民みんなのほうが国を作る団体よりも強い。今の国民みんなは日本文化をやっている。ところが、日本政府はヨーロッパ文化の国を作っている。日本政府は日本国民みんなに従っていない。だから、国民みんなは政府を倒さねばならない。国民みんなは政府を倒すためにはなんでもかんでもやっていい。どんなことでもやっていい。国民みんなは早く政府を倒して日本文化の国を作る団体を建てねばならない。国民みんなが物やお金が豊かなことを維持するためにこのまま政府に国を作らせ続けるよりも、たとえ国民みんながいっとき貧しい思いをしても国民みんなでいっぺん政府を倒して日本文化の国を作る国家機関に建て替えたほうが長い目で見れば国民みんなにとって有利だから、国民みんなは政府を倒したほうがいい。むしろ、政府がなくなったほうが政府が国民みんなを不幸にするぶんがなくなって国民みんなが儲[もう]かるかもしれない(笑)。どちらにしろ、今の時代は『国民みんなが政府を倒す』ことが正しいから、国民みんなは理屈通りにそうすればいいのである。
[21999] 今の日本では国民みんなが政府を倒してもいいことになっている。 h27.7.8
近代の日本ではみんなが「日本人と外人は同じだ」と思っていたので「今のヨーロッパ人は幸福に暮らしているから日本人もヨーロッパ文化をやれば幸福に暮らせる」と思ってヨーロッパ文化をやっていた。政府もヨーロッパ文化の国を作っていた。政府は国民に科学をやらせて物やお金を豊かにしたり、国民に道徳をやらせず悪いことをさせたり日本中に暴力団や宗教団体を設けて悪いことをさせたり国民から高い税金を取って苦しめたり国民に戦争をやらせて殺したり国家宗教で事件や事故を起こして国民を殺したり国民みんなを虐[いじ]める政策をやったりした。国民みんなは「政府が国民みんなを幸せにしてくれている」と思って政府に感謝していた。政府に大目に税金をはずんでいた。
しかし、戦後になって『文化人類学』が出来て国民みんなが『日本人と外人は違う』と考えて『日本人は日本文化をやらなければ幸福になれない』と考えて日本文化をやるようになった。しかし、政府はその後もヨーロッパ文化の国を作り続けた。国民みんなは『世の中には物分りの悪い者もいる』と考えて50年待ってやることにした。今ではすでに50年たっている。だから、今の国民みんなは政府を倒しているのである。政府はヨーロッパ文化の国を作っているので、今の国民みんなは『政府が国民みんなを不幸にしている』と考えて政府を嫌っている。政府がやっていることはヨーロッパ人を幸福にするが、日本人を不幸にする。今の国民みんなは政府を倒すために政府に税金を払わなかったり水道代などを払わなかったり政府を殴[なぐ]ったり蹴[け]ったり自分のやりたい放題にやっているのである。
[22000] 今は国際化の時代である。 h27.7.9
ヨーロッパは科学があって道徳がない国である。ヨーロッパ人は物やお金が豊かで綺麗[きれい]で悪いことが好きである。
中国は科学がなくて道徳がある国である。中国人は物やお金がなくて汚くて善いことが好きである。
インドは数学があって科学も道徳もない国である。インド人は数学を考えて物やお金がなくて悪いことが好きである。
日本は科学も道徳もある国である。日本人は物やお金が豊かで汚くて善いことが好きである。
アメリカは科学があって道徳がない国である。アメリカは眼で見る喜びのかわりに心で思う喜びがある。アメリカ人は物やお金が豊かで汚くて悪いことが好きである。
アフリカは科学がなくて道徳もない国である。アフリカは頭で考える喜びのかわりに身体を動かす喜びがある。アフリカ人は身体を動かして物やお金がなくて悪いことが好きである。
今は人間が自分の心を知って自分の心を肯定して自分の心を満足して生きる時代である。だから、自分の心がヨーロッパ向きならヨーロッパに引越しして暮らせばよく、中国向きなら中国に引越しして暮らせばよく、インド向きならインドに引越しして暮らせばよく、日本向きなら日本に引越しして暮らせばよく、アメリカ向きならアメリカに引越しして暮らせばよく、アフリカ向きならアフリカに引越しして暮らせばいい。
今では世界中のみんなが自分が好きな国に住んで自分の心を満足して暮らすことができる。だから、今は国際化の時代なのである。
日本人は自分の心を肯定して生きねばならない。日本人は日本を日本人の心を満足する国にしないといけない。政府はヨーロッパ人の心を満足する国を作る団体である。日本人は早く政府を倒して、日本人の心を満足する国を作る団体を建てねばならない。
日本人だからといってみんなが同じ心ではない。人それぞれ心が違う。今は人間が自分の心を肯定して生きる時代である。人間は自分が好きなことだけやって嫌いなことはやらなければいい。(ただし、悪い心を肯定すると自分が不幸になるから、善い心だけ肯定して悪い心を肯定してはいけない。例えば、支配欲や見栄欲[みえよく]を満足してはいけない。自分は自分の心を満足して動いているのであり、他人は他人の心を満足して動いているのであり、自分の心と他人の心は違うから、他人のやることは自分にとって気に入らない。だから、他人が自分の気に入らないことをやっているからといって他人に腹を立ててはいけない。つまり、支配欲を満足してはいけない。自分の心と他人の心は違うから、自分が他人の心を満足しようとしてはいけない。そんなことをしたら自分の心が満足されなくなって自分が不幸になる。だから、見栄欲を満足してはいけない。例えば、試験なんかも見栄欲だから満足してはいけない。自分が好きな科目を勉強するのはいいが、自分が嫌いな科目なのに試験のためにいやいや勉強するのはいけない。思い切って捨てるほうがいい。)例えば、私は歌が嫌いである。だから、私はこれまで歌ったことがない。私は学校の音楽の時間に歌っただけで、それ以外の時には歌ったことがない。私は子供の頃からチャラチャラしたことが嫌いなので歌が嫌いなのである。男がご機嫌ぶって人前でニヤニヤしてベラベラしゃべっているのを見ると吐き気がする。歌も同じである。私は他人が嫌いである。だから、私は他人といっしょにいたくない。私は学校や大学や職場以外には他人といっしょにいたことがない。私は自分ひとりで考えるのが好きである。反対に、私の周りの他人は考えるのが嫌いである。私は子供の頃から周[まわ]りの他人と気が合わないので他人が好きではないのである。今は人間が自分の心を知り自分の心を満足して生きる時代である。いくら他人が楽しそうにしているからといって自分が嫌ならやってはいけない。いくら他人が嫌そうにしているからといって自分が好きならやらねばならない。自分と他人は違う。わざわざ他人に合わせて自分が嫌なことをする必要はない。わざわざ他人に合わせて自分が好きなことをしない必要もない。自分は自分がやりたいことをやればいいのである。自分は自分がやりたくないことをやらなければいいのである。
昔の人は「人間はみな同じである」と思っていた。だから、昔の人は他人を真似[まね]るのが好きだった。昔の人は自分の心を殺して他人に合わせるのが好きだった。昔の人は自分の心を否定して他人と同じことをするのが好きだった。昔の人は自分の本心を満足せずに建前[たてまえ]で喜んでいた。反対に、今の人は『人間はみな違う』と考えている。だから、今の人は他人を真似るのが嫌いである。今の人は自分の心を活かして他人に合わせないのが好きである。今の人は自分の心を肯定して他人と違うことをするのが好きである。今の人は自分の本心を満足して建前で喜ばなくなっている。昔の人はヨーロッパ人が楽しそうにしているのを見て自分もヨーロッパ人を真似てヨーロッパ文化をやっていた。今の人は自分の心を知って自分の心を満足するために日本文化をやっている。昔と今ではみんなの生き方が違うのである。
大国のヨーロッパや中国やインドでは昔から国民みんなが自分の心を満足することをやってきた。政府は国民みんなの心を満足することをやってきた。例えば、ヨーロッパでは国民みんなが悪いことをやりあって人殺しや強盗をやりあって幸福に暮らしていた。ヨーロッパ政府は国民みんなから高い税金を取って国民みんなに戦争をさせて国家宗教で事件や事故を起こして国民みんなを殺したりカタワにしたり国民みんなを虐[いじ]める政策をやって国民みんなを幸福にしてきた。反対に、小国の日本では昔から国民みんなが大国の真似をして自分の心を満足することをやってこなかった。幕府や政府は国民みんなの心を満足しないことをやってきた。例えば、古代や近代の日本ではヨーロッパを真似て国民みんなが悪いことをやりあって人殺しや強盗をやりあって不幸に暮らしていた。日本政府はヨーロッパ政府の真似をして国民みんなから高い税金を取って国民みんなに戦争をさせて国家宗教で事件や事故を起こして国民みんなを殺したりカタワにしたり国民みんなを虐める政策をやって国民みんなを不幸にしていた。日本は外国の真似をするからいけない。日本人は大国と同じように国民みんなが自分の心を満足することをやらねばならない。日本の国家機関は国民みんなの心を満足することをしないといけない。日本人は自分の心をよく知って自分の心を満足しなければならない。日本の国家機関は日本人の心をよく知って日本人の心を満足する国を作らなければならない。
ヨーロッパ人は他人を殺したり他人からお金を強盗するのが好きだが、日本人は嫌いである。日本人は他人の命を助けたり他人にお金をあげるのが好きだが、ヨーロッパ人は嫌いである。ヨーロッパ人と日本人では心が違う。ヨーロッパ人と日本人では好きなことと嫌いなことが反対である。だから、日本人はヨーロッパ人の真似をしてはいけない。日本人は自分の心を知って自分の心を満足することをやらねばならない。日本人は自分の心を知って自分の心を満足する国家機関を建てねばならない。
今の日本では国民みんなが日本政府にお金をやって日本政府に自分が不幸に暮らさねばならない国を作らせている。国民みんなは自分の心や政府のことを知らないために自分で自分を不幸にしている。国民みんながそんなに馬鹿では国民みんなは生きる資格がない。国民みんなは死んだほうがいい。だから、今の国民みんなは政府にお金をやってはいけない。