[2101] 日本宗教の歴史 h17.11.29


[2102] 信者は人類の敵 h17.11.29
教団の信者(教祖も含む)は、間違った信条に基づいて思考・行動している。[例えば、古来からの言い伝えにあるというだけの理由で、医学の専門家の許しも得ずに勝手に薬(笑気ガス?)を使って赤ちゃんの息を止めて脳を酸素欠乏状態にして脳の活動を鈍らせて赤ちゃんの能力を奪うようなことをする。]
彼らは、正しい原理に基づいて思考・行動してる者にとっては邪魔である。
信者の議員は、国会や地方議会などの正しい会議の妨げになるから、議員を辞めて会議場からさっさと出て行け。

[2103] ソビエト連邦崩壊の真意 h17.11.30
ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊して資本主義に変わったのは、
私が医学部に入学して金回りがよくなりそうだったからだ。(結局、医者にはならず貧乏なままで終わってしまったけれど。)
それに、資本主義は個人主義だから、私が子供の頃から先生に利己主義者[りこしゅぎしゃ]だと言われていたからかもしれない。
ちなみに、ベルリンの壁が破れて東西ドイツが統合したのは、
私が医学のつまらない講義にイライラが来ていて、下宿で医学の本を読んで勉強しているとき、机の前にある壁を拳骨で打って凹ましたからだ。
それと、私がドイツ語が好きでゲーテファンだったこともある。

[   ] 文句言い h17.12.1
1.タイガー電気魔法瓶とく子さんの空気漏れをまだ直していない。
2.正露丸(大瓶)を戻していない。
3.私がせっかくCD革命(13000円)を買って、Flight Simulator2004やBattle Fieldシリーズを仮想CDーROM化したのに、誰かが私が留守にしている間に私のパソコンを勝手にいじって(最近1週間以内)、CD革命が使えないようにしている。パソコンの中では、CD−ROMドライブが一番傷みやすい部品だと思って、わざわざ私が購入したのに、これでは台無しだ。
4.私が最近買った自転車に、誰かが黒い汚れをつけている。
5.ようこそようこの『うらなってペンダント』の箱の中のトレイの上部が押しつぶされている。これは、商品が私のところに届いた後でつけられたものだ。
…信者は、物を平気で壊して何とも思わない非情な奴らだ。
私はみだりに物を壊す人が嫌いだ。そんなことをしたら、物がかわいそうだからだ。(それに、そもそも法に従っていない。)
全部、完全にもと通りにしろ(平成18年1月1日までに。買い替えてでも)。

[2104] 政治家は頭がよくなければならない。 h17.12.2
『風が吹けば桶屋が儲かる。』のことわざにある通り、
物事は、こうすればああなる、ああすればそうなるの積み重ねだ。
だから、政治家には“読み”の深さが要求される。
どちらの向きに風を吹かせるかを決めるのが政治家の仕事といえよう。

物理学者は心のない物質のことがわかるだけだ。
一方、人間には心があるから、政治家は、心のある人間のことがわかっていなければならない。
政治家は、どちらの向きに風を吹かして(つまり、政策を決めること)、より大勢の人々が喜べるようにしないといけない。
頭のいい政治家ほど、人も含めた物の動きについての“読み”が正確だから、それだけ物事がうまくいく。

昔、「神は頭がいい。」と考えられたから、神に政治を任せた。
しかし、実際には神には超能力があるだけで、必ずしも頭(知覚)がよいわけではない。
すべての神が政治家に向くわけではないのだ。
頭の悪い神よりも頭のいい人間に政治を任せたほうが世の中はうまくいく。

[2105] 知覚の時代 h17.12.2
頭の悪い神(超能力者)よりも頭のいい人間のほうがいい。
つまり、現代は『知覚の時代』だ。
知覚の優れた者ほど優利になれるのだ。
時代遅れの超能力者なんか、せいぜい見世物小屋の出し物にしかならない。
超能力者でも、偉くなりたければ、勉強して頭を鍛えるしかないのだ。

[2106] ヘーゲル h17.12.2
『理性的な者は実在的であり、実在的な者は理性的である。』
≡実在についての理論体系が論理的になればなるほど実在認識に近づく。
これはたしかに、“認識についての法則”すなわち哲学の命題だ。

[2107] 女の子はつらいよ。 h17.12.3
現代は『知覚の時代』だ。
なのに、女の子は本を読んでもわからない。(たまに、例外もいるけど。)
わからないから気持ちが落ち込む。
気持ちの落ち込みは、外見の喜びで補うしかない。
くだらない喜びだとわかっていても、それで喜ぶしか方法がないのだ。
女の子がお化粧するのも、本当はあまり楽しいことではないのだ。
     
[2108] 未知の大宇宙 h17.12.4
五感で見えても知覚で理解できないいくつかの自然現象がある。
そのひとつが癌。癌の存在は平安時代以前にもわかっていたが、いまだにその原因は不明であり、どうして正常細胞が癌細胞になるのかわからない。他にも、潰瘍性大腸炎やクローン病など、原因不明の病気は医学の世界にはいくらでもある。
20世紀初頭に、黒体輻射、光電効果、超流動・超伝導などの自然現象が発見され、しばらくこれらは謎だったが、数十年の後に量子力学や相対論の登場によって、これらの謎は見事に解決された。
数学の世界においても、近年4色問題やフェルマーの大定理などが解決されたが、ポアンカレ予想やリーマン予想など、いくつかのいまだに証明されていない問題がある。
私の赤ちゃんの頃の超能力についても、今はまだ謎だが、いつの日にか理論的に解決される日が来るであろう。

[2109] 宗教とは何か? h17.12.4
人間の心に愛や知的好奇心があるように、宗教的感情(宗教心)もある。
宗教的感情を適切に働かせると、生活が順調に行く。例えば、私も中3の冬までは日蓮宗に入って毎週1〜2分間仏壇に拝んでいた。それまでは、ほぼ順調に人生を歩んでいた。日蓮宗をやめてから半年も経たないうちに分裂病にかかり気が狂った。
“宗教的感情をいかに適切に働かせるか?”そのノウハウをまとめたものが宗教である。
『愛は盲目』と言われるように、行き過ぎた宗教心は実在を見失って、かえってうまくいかない。つまり、行き過ぎた宗教心はもはや宗教とは言えないのだ。

[2110] 宗教と哲学の違い h17.12.5
宗教は、概念(例、神の概念)が曖昧で論理的ではないから知覚を使わないでもやれる。
一方、哲学は、概念が明確で論理的だから知覚を使わないとやれない。
昔は学校や大学がなかったから知覚が鍛えられず、哲学がやれなかった。

[2111] 宗教は要らない。 h17.12.5
私は中3の冬に日蓮宗をやめたが、実はそれより1〜2ヶ月前にすでにオナニーが始まっていた。
だから、日蓮宗はオナニーつまり分裂病の予防には役立たなかったのである。
また、私の分裂病が軽快したのは、私が何かの宗教に入ったからではなく、私自身の哲学的考察があったからにほかならない。
一般に、宗教の教義は曖昧であり、たとえ教義を守っても不幸にならないわけではない。

宗教心を働かせて実在を見ると、実在が歪んで見える。例えば、念力でガラガラを回す赤ちゃんを“神”と見まちがう(宗教的妄想)。あれは、赤ちゃんの大脳から発せられた感覚波でガラガラが回っているだけだ。
宗教心を働かせて実在を見ると、実在が正しく見えなくなり、実在への適応性が低下する。
宗教に入らずに宗教心を働かさなくても生きるに何の支障もない。それどころか、宗教心のないほうが実在が正しく見えて、実在によりよく適応でき、気持ちよく生きて行ける。
宗教の教義は、古臭く時代遅れで不正確でまちがっている。

宗教心を働かせて実在を見ると、実在がまちがって見えてまちがって動けて気持ちが悪い。
知的好奇心を働かせて実在を見ると、実在が正しく見えて正しく動けて気持ちがいい。
宗教心よりも知的好奇心を働かせたほうが幸福になれる。
人類にとって宗教心は悪であり、知的好奇心は善である。
もはや、宗教は要らない。

(追記)キリスト教には、宗教心だけでなく愛の感情が含まれている。
これに対し、日本の神道には、宗教心しか含まれておらず、くだらない。

[2112] 科学≡実在教 h17.12.8
人間の心の中には実在を知ろうとする感情すなわち知的好奇心がある。
知的好奇心を働かせながら知覚と五感で実在を見ると、実在が見えてくる。
つまり、眼で見える世界に知覚で一工夫加えると、認識がグッと実在的になる。

[2113] 勉強の意義 h17.12.9
勉強するのは、テストでいい点をとるためではなく、実在を知るためである。

[2114] 宗教VS哲学・文学 h17.12.9
科学は物(実在)についての知識である。
一方、宗教や哲学や文学は、心についての知識である。
ところで、心は実在に従属(複合)する。
ここで、実在とは、実際には自分が実在だと考えていることすなわち自分が持っている科学知識が実在である。
したがって、宗教は古いまちがった科学知識(実在観)に従属(複合)しているからまちがいであり[例えば、インドの宗教は近代科学誕生以前の実在観と複合しているから、インドの宗教を信じるかぎり、いつまでたっても近代科学は芽生えない。]、現代の哲学や文学は、新しい正しい科学知識に従属(複合)している[立脚している、根差している]から正しい。
宗教と現代科学が結びつくことは、まちがった心で過激に(強力に)物を動かすことだから大変危険である。

[2115] 善い文学とは? h17.12.10

文学とは、(美男美女のいる)空想世界における心の表現であり、
善い文学とは、心についての正しい知識のある文学である。
ところで、心は物(実在観)に従属する。
したがって、物(実在)についての正しい知識がなければ[なにも、物理学を勉強しろと言っているのではない。現代の科学文明の中で生きていればいいのだ。]、心についての正しい知識もありえない。
つまり、実在についての正しい認識がなければ、善い文学もまた生まれないのだ。

[2116] 宗教はキチガイの原因である。 h17.12.10
宗教は、人の心についての知識だが、
宗教は古いまちがった科学知識(実在観)に立脚しているから、心についての知識もまた古くまちがっており、今の新しい正しい科学知識(実在観)には適合しない。
宗教が教える心では、現在の社会に適応できない。
つまり、宗教に入ると、気が狂いやすい。[例えば、念仏を唱えても意味がわからないから、なんの役にもたたない。]
宗教を信じると不幸になる。(少なくとも、幸福にはならない。)
教祖は、心についてのまちがった知識を世の中に広めようとする悪人である。(教祖は超能力のない、ただの人間だ。)
教祖は社会を不幸にする原因だから、社会から抹殺すべきである。

[2117] 魔女狩り h17.12.11
本当に魔女を狩ったのではない。
本物の魔女なんて、そうザラにはいないからだ。
魔法を使える者たちを狩ったのではなく、魔法を信じる者たちを狩ったのだ(信者狩り)。
つまり、近代合理主義にたてつく不合理主義者たちを狩ったのだ。

[2118] 人間みな平等 h17.12.11
医学的には個人の身体に大きな違いはない。
だから、人間はみな“平等”なのだ。
現在では、たとえ内閣総理大臣といえども、斬り捨て御免は許されない。
現代は『知覚の時代』だから、頭のいい国家の要人に若干の優位性は認めているが、その権限は昔に較べると大幅に制限されている。
それなのに、宗教界では、実在における事実を踏まえずに、自分たちで勝手に人間の上下関係を決めている。              自分たちを神かなんかと同一視して、自分たちが人間よりも偉いと自惚[うぬぼ]れている。
自分たちが人間よりも偉いから、人間に対して何をしてもいいと思っている。
いつも、胸を張って斜め上を向いている。(実力で頑張るべきであって、宗教心で優越感に浸るのは青病単の空威張りだ。)
時代遅れのまちがった思想だ。
信者は、いくらうわべはいい人ぶっていても、頭の奥ではまちがった汚い思想がうごめいているのだ。
そればかりか、むりやり理屈をつけて、なにも知らない人を強制的に入信させたりする。
自分たちの中だけで宗教するのはかまわないが、外にいる他人に迷惑を掛けてはいけない。

[2119] 廃仏毀釈 h17.12.11
明治維新のはじめに、西洋の合理的精神が取り入れられた頃、
既存の不合理精神を焼き払うために廃仏毀釈がなされた。
ヨーロッパにおける魔女狩りと同じである。
(神道も仏教と同じく不合理主義だから、同時に焼き捨てられるべきである。神道には歴史的意義があるだけで、内容に真実性はない。キリスト教では、何度か宗教改革がなされて、現代性・真実性を取り入れている。)

[2120] 宗教の現在 h17.12.12
昔、宗教には物も心も入っていた。
それが17世紀に近代科学が芽生えて物については科学に敵[かな]わなくなったので、宗教は科学の分野から手を引いた。
それで、宗教の縄張りは心になった。
心は眼に見えないので、いいかげんなことが言いやすかったからである。
しかし、現代には哲学や文学や心理学がある。
これらは現代の科学すなわち実在観に立脚しており、
心についての知識も正確であり、
現代における心の適切な働かせ方を教えてくれる。
宗教はもはや物についても心についても出番がない。
いまや宗教は現代文化についていけない落ちこぼれの溜まり場にすぎない。

[2121] 『われ考える、ゆえにわれ在り。』 h17.12.13
哲学者は今も昔も、“どうして自分が存在するか?”を考える。
デカルトは、私が考えるかぎり、どうしても私が存在しなければならないことになるから、[“存在しない者が考えることはありえない”の対偶]
自分が存在する理由として、自分の思考を挙げた。
だから、われ思うでも、われ見るでも、われ在りとなる。

私は、自分が存在するのに理由なんか要らない、
『われ在る、ゆえにわれ考える。』と考える。[哲学第1原理]

[2122] ルネサンス h17.12.13
ルネサンスには商業が栄え、各地で大金持ちが生まれた。
『他人のために働くよりも、自分のために働くほうが幸せになれる。』
キリストの教えがまちがっていることを、人々はまざまざと見せ付けられた。
こうして人々の心はしだいに宗教から遠ざかって行ったのである。

[2123] 写真と絵の違い h17.12.13
写真は、網膜に映じた光学的映像をそのままフィルムに写したものだ。
絵は、もっと上位の大脳皮質視覚野に映じた対象の姿を紙に表現したものである。
つまり、写真は実在的、絵は現象的なのだ。
絵の価値はまさにそこにあるわけだ。

[2124] 『人を呪えば穴ひとつ』 h17.12.14
自分が他人を呪ったからといって、他人が死ぬわけではない。
自分の気が狂って、自分が早く死ぬだけだ。
だから、穴はひとつだ。

[2125] 天皇制 h17.12.14
合理主義すなわち実在主義においては、人間はみな平等であり、たとえ神すなわち超能力者といえども、大脳の構造が一部変化した人間にすぎず、人間の一種にほかならない。
超能力者が“特別な人間”であるのは確かだが、超能力があるだけで“人間よりも上”だというのはオーバーだ。偏見すぎる。(“特別な人間”と“人間よりも上”とは、別な概念である。)
知覚や心や五感や肉体の才能だってあるはずだ。
それに、初代天皇はおそらく超能力者だっただろうが、今の天皇には超能力がないから、ただの人間にすぎない。
ただの人間がどうして人間よりも上だということになるのか。
天皇制は不合理主義の象徴である。
合理主義の下[もと]では、天皇制は認められない。

[2126] どうして天皇制があるのか? h17.12.15
昔、日本には超能力を使える人がいた。
超能力者は普通の人よりも優れているように見えた。
そこで、人々はめったに現れない超能力者を保護してその形質を絶やさないために、超能力者を“天皇”と呼び[天皇の定義]、天皇の血を代々受け継ぐ“天皇制”を作り上げた。
しかし、実際には超能力を使えたのは初代の人だけで、二代目以降は超能力のない普通の人間だった。
超能力の形質は劣性遺伝であるらしく、超能力者の男性と超能力者の女性とが結婚しないと、超能力のある子供が生まれないのだ。
それに、私のように、たとえ天皇の子孫でなくとも、超能力を使える人間が突然変異(?)で生まれてくることがある。
したがって、現在の天皇は形骸にすぎず、天皇の定義からすると、私のほうが天皇だということになる。

[2127] 超能力者は“人間よりも上”か? h17.12.15
現代は『知覚の時代』だ。
我々が暮らしているこの世界はデカルトが切り拓いた世界であり、我々はデカルトの夢の中で生きているようなものだ。
デカルトは頭(知覚)がよかった。だから、現代においては知覚のよい者は普通の人間よりも上だと言える。
ところで、超能力者は超能力があるだけで必ずしも知覚がよいわけではない。[超能力とは、五感が進化した特殊な感覚器・運動器を用いて発現された能力である。]
したがって、超能力者は“特別な人間”とは言えても、“人間よりも上”とは言えない。
でも、オリンピックとかあるから、知覚だけが人間の尺度ではない。
しかし、野球や相撲がなくても現代文明は成り立つが、知的労働者がいなければ現代文明は滅びるから、やはり知覚が最も重要な尺度であるといえる。
同様に、超能力者がいなくても現代文明は成り立つから、現代において超能力者の存在意義はあまりない。

[2128] 教祖の正体 h17.12.15
神道の教祖は、天皇家か宮内庁の者である。
天皇家の権威・権力を守るために、新たに現れた超能力者の超能力を合法的あるいは非合法的手段を用いて消し去っている。
しかし、そもそも天皇制は超能力者の形質を保護するために国民が協力して作り上げたものだから、今や超能力のない天皇家を守ることに意義はない。新たな超能力者の出現を阻[はば]もうとすることは天皇制の主旨に反する行為である。
天皇家や宮内庁がこれまで私に対してしてきたことは間違っている。
かと言って、天皇も仕事だから、なにも天皇を辞めよとは言わない。ただ、天皇の権限を大幅に制限して、二度と他人の子に手出しをできないようにしなければならない。

[2129] 新しい天皇制 h17.12.15
天皇制は超能力者の形質を保護するために国民が協力して作り出した制度である。
超能力を持った子孫を増やし、ゆくゆくは国民みんなが超能力を使えるようになることが天皇制の本来の目的であった。
つまり、天皇制とは、人類の品種改良にほかならない。
しかしながら、超能力者の形質は極まれにしか現れず、いくら血筋で継[つな]いでも、すぐにその形質は消失してしまい、うまくいかなかった。実際、今の天皇に超能力はなく、血筋で継ぐやり方では超能力は保てない。いくら天皇家の系図がはっきりわかっていても、超能力者が現れなければ何の役にも立たない。[頭のよさのほうがよく遺伝されるので、徳川家のほうがまだましだ。]
たとえ、同時代に超能力者の男女が現れて結婚して超能力を持った子供が生まれても、近親結婚を続けるかぎり、遺伝的に脆弱になってうまくいかない。
しかし、現代には遺伝子工学の技術がある。
超能力の形質を荷う遺伝子の配列を同定し、その遺伝子をすべての人類のDNAに組み込めば、全人類が超能力者すなわち天皇になることも夢ではないのだ。

[2130] どうして“神”に従わなければならないか? h17.12.17
“神”は超能力者のことである。
超能力者は超能力(例えば、幼い頃の私の場合、念力でガラガラを回すような才能)を持っているが、他の能力においては普通の人間と変わらない。
ところで、自分が他人に従うのは、その他人の考えが正しいすなわち実在的であると判断される場合だけである。
神は超能力があるだけで、思考(考え)は必ずしも正しくはないから、むやみやたらに神の意見(考え)に従う必要はない。むしろ知覚は普通の人間と変わらないから、意見(考え)の採択においては普通の人間と同等に扱ってよい。
とくに心も普通の人間と変わらないから、趣味・嗜好の採択においても普通の人間と同等に扱うべきである。つまり、“神”が好きなことであっても、自分が(すなわち自分の心において)好きでなければ、それは採らなくてよい。例えば、“神”が青いものや緑のものが好みでも、自分がそういう色合いのものが嫌いなら、それらを買わなくてよい。
(追記)もっとも、“神”すなわち超能力者には超能力があるから、超能力器官から知覚界に概念が生成され、知覚界においてそうした概念を用いて思考することができ、知覚と心が複合するから、普通の人とは若干知覚や心が変わっているかもしれない。つまり、五感しかない普通の人では決してわからないことが超能力者にはわかり、そうした思考に基づいて五感しかない普通の人にはできないことが超能力者にはできるかもしれない。
だから、超能力でしかわからないことについては、人間は“神”に従うしかない。
しかし、視覚・聴覚などの五感を用いてわかることについては、神でも人間でも変わらないから、そうした事柄については神も人間も同格であり、神の思考の真偽について人間が検討できるのだ。むしろ、逆に、神が人間の正しい考えに従わねばならないことも多い。
もっとも、私の場合には、幼いときに超能力を消去されたから、超能力器官から生成される概念もないし、そうした概念を用いて考えたこともない。[どのようにして幼い頃の私の超能力が消去されたかは、私の父母が知っているかもしれない。詳しく知りたければ父母に訊け。私が小学1,2年の頃に若草町の県営住宅の玄関で母にアルファベットのAからZまで復唱するように言われたのは、超能力が消去されたときの合併症としての記銘力障害のテストだったのかもしれない。]今の私の知覚界にある概念は、普通の人と同じ五感から生成されたものである。したがって、私の心も普通の人と特に変わりはない。
今の私には普通の人がわからないことがわかるわけではない(むしろ、普通の人がわかることが私にはわからないことが多い)から、私の知覚や心に他人が従う必要はないのだ。

[2131] 工場における不良品・異材混入の一原因についての考察 h17.12.21
ときどき工場内で不良品が発生したり、異なる素材が正規品に混入していたりすることがある。
これらは物理的に偶然に発生したのではなく、人為的に故意に発生したとしか考えられない場合がある。
つまり、工場内の何者かがわざとに不良品や異材混入を作り出したとしか考えられない場合がよくある。
それは、“先代の神”(私が生まれる前にいた神=超能力者)がムラ気で意地悪だったために、工場内で働いている神道の信者が先代の神の性格を真似て、あるいは教祖の指令を受けて、トラブルを起こしているせいである。
会社にとっては損失が出て迷惑なかぎりだが、信者にとっては先代の神を真似たり教祖の指令に従うことは名誉ある善い行為にほかならないのである。
実際に、私が伊賀上野のキャノンの工場で信者らしい人と一緒に働いていたとき、私が部品の数を数えていたら、隣で一緒に働いていた信者らしい人が私の眼の前で、私がせっかく時間をかけて数えた部品の山に余計な部品を放り込んで、それまでに数えた部品の数をわからないようにされたことがある。
もし、工場で発生したトラブルが信者による妨害工作と考えられる場合には、どんなに現場の監督者が信者に正しい理屈を並べて注意したところで、本人は『たかが人間ごときが何を言うか』と高をくくって少しも応[こた]えないから、こんな狂信者に対しては重要なポジションを外すか、いっそのことクビにするしかない。

[2132] 信者の医者 h17.12.21
先代の神を真似たり、教祖の指令で、わざとにまちがった治療をしたり、患者を平気で痛めつけたりする。
信者の医者は怖いよ〜。

[2133] 信者の運転手 h17.12.21
先代の神を真似たり、教祖の指令で、わざとに駅で停まらなかったり、カーブでスピードを落とさなかったりする。
信者の運転手は怖いよ〜。

[2134] 子供と大人の違い h17.12.22
心で(つまり、快不快感で)わかるのは子供だ。
大人は頭(知覚)でわかるものだ。
それだけに理解力が要求されるが…。
だから、大人になるまでに理解力を身につけよう。

[2135] 言いたいこと h17.12.23
1)実力で威張れ!肩書き(例、役職名)で威張るな!
2)五感のこと(例、見掛けのかっこよさ)しかわからないのはバカの証拠だ。知覚で考えながら見る習慣をつけよう!

[2136] 物への囚われ h17.12.26
物への囚われを断つことは、
実在界と感覚界の繋がりを断つことだ。
科学がやれない代わりに、
数学と空想的な文学が発達するだろう。

[2137] 神は人間である。 h17.12.26
今の皇族の先祖である初代天皇は、おそらく神すなわち超能力者であったに違いない。
天皇制が施行され、初代天皇が人間の女性と結婚して子供を作れたということは、初代天皇と人間の女性とが生物学的に同種である、すなわち初代天皇が人間であることを意味している。

[2138] 仕事がやれるかやれないか h17.12.27
仕事がやれるかやれないかは、知識と技能によるのであって、夢(願望)にはよらない。
たとえ、やりたかろうがなかろうが、仕事にとって必要な知識と技能がありさえすれば、その仕事はやれるのであり、
反対に、いくらやりたくても、仕事にとって必要な知識と技能がなければ、その仕事はやれない。

[2139] 挨拶(これは哲学ではなく、私見だが。) h17.12.27
『他人と自分が会ったとき、(盲でないかぎり)眼で見ればわかるから、わざとらしい挨拶は要らない。
挨拶したって、自分にとっても他人にとってもなんの得にもならない。』
これが、私が小学生の頃から持っている挨拶についての考えであって、それ以来この考えを否定する原理はいまだ見つかっておらず、この考えは今も少しも変わらない。

[2140] 言葉 h17.12.27
言葉は聞き手(読み手)がわかりやすいように使おう。
言葉がわかりにくいのは、聞き手に理解力が足りないからではなく、話し手(書き手)の言い方が下手だからだ。

[2141] 文学 h17.12.27
文学は空想と実在の混合物である。
空想はおもしろいけれどくだらない。
実在はつまらないけれど価値がある。
だから、文学を読むときには、
まず文学の中にある空想的成分と実在的成分を分離し、
実在的成分のみを抽出しなければならない。(空想的成分は無視すればいい。)
そうして抽出された実在的成分について、自分の実在における経験をふまえながら云々[うんぬん]すればいい。
自然科学における理論と実験の関係のように、文学をたんなる作り話として捉えずに、自分の実生活における経験とつなげることが大事だ。(こう書くと、レポートはA。)

理系の人は、日ごろ実在(物)だけを相手に考えているから、対象のすべてを真に受けようとする。
文学の空想的成分と実在的成分を分離せずに、文学の全部を見て、
ちょっとでも実在的でない部分があると、すべてがまちがいだと決め付ける。
理系の人は読まなくていいことを読んで、読まなければならないことを読んでいない。

文学の基本はイソップ物語だ。
人生の教訓は辛[つら]いから、空想のオブラートで包んで飲みやすくするのだろう。
例えば、酸っぱいブドウが、防衛機制だ。
文学とは、早い話が、人間論だ。人間のいろんな性質を(おもしろおかしく)書き表したものだ。
でも、人間の性質については、医学や心理学や哲学で真面目に論じればいいから、
文学の本質は、実在的でないおもしろさのほうにあるともいえる。
文学がくだらない作り事だといわれる所以[ゆえん]は、ここにあるのだ。
文学の価値は実在的(物)でないところにあるのだから、言葉や絵でしか表現できないのは当然だ。
“人間はありえないことで可笑しいと思う”ことも、人間の性質のひとつなのだ。
(“人間が実在することで面白く思う”こともまた、人間の性質のひとつである。)

[2142] 私が幼い頃(1〜3才頃)に“何かをされた”と考えられる理由 h17.12.27
私が九大医学部を1年間でクビにされて、それまで院内の連絡用に使用していたポケットベルが要らなくなったので、ポケベルを解約するために千代町のパピヨン24内にあるNTTまで行ったら、下宿で使用している電話機の回線までも切られてしまったことがある。
私が電話を切られたことに気付かずにいたら、突然父親が飛行機で私のところに来た。(父親は飛行機嫌いである。)
そのとき父親は、私に「なんかせられたかと思うて心配になって来た。」と言った。 
私はいつも下宿の中ばかりにいるから、誰かに『なんかせられる』心配なんかない。おかしなことを言うものだ。(私が幼い頃、鴨部のトタン板の借家に住んでいた頃、誰かに『なんかせられる』ことがあったのかもしれない。詳しいことは私は知らないから、父親か母親に訊いてくれ。)
その後、下宿の電話が不通になっていることが判明し、もう一度NTTまで行って電話を繋げてもらった。

[2143] 超能力を大切にしよう。 h17.12.28
デカルト曰く、『自分が持っている感覚のすべてを活かして実在を見よ。』
感覚の種類が多いほど、わかることが増えて有利になる。
超能力者の超能力も感覚の一種だから、その感覚を用いて何かわかることがあるはずである。
もしかしたら、それが自然認識(実在認識)の大発展につながるかもしれない。
それによって人類の生活が飛躍的に進歩するかもしれない。
だから、こんど超能力を持った子供が生まれてきたら、その超能力を大切にして、超能力を自由に使いながら幸せな暮らしができるようにしてやって欲しい。

[2144] 心についても知覚でやる。 h17.12.28
心の問題は知覚の問題に置き換えることができる。
例えば、『私は○○が楽しい。』と言ってしまえば、あとはこの命題の真偽について知覚で検討すればよいだけである。
このように、知覚は心の問題についても扱う(考える)ことができる。

[2145] ハイデガーの思想 h17.12.30
『自分の価値を他人が決める。』(躁鬱気質、外交的性格)
しかし、他人が本当に考えていることは、自分にはわからない。(∵感覚の局所性より)
わからないことを基にしている。
明晰判明さに欠けている。
真実がない。正義心がない。
偉さしかない。
まるで女の思想だ。
戦争を引き起こす。
生きる価値ある者の思想ではない。

[2146] 女性はバカではない。 h17.12.30
女性も男性も知的水準は同じである。
ただし、女性には多少のハンディキャップはある。
しかし、それは子宮内膜脱落に伴う弱い現象性イデアの発生程度であって、
そんなに大きなものではない。[一般に、実在しないことを根拠にしてはいけない。]
その程度のことで、人間がそんなにバカになるわけがない。
現に、頭のいい女性は並みの男性よりも頭がよく、
頭の悪い男性は並の女性よりも頭が悪い。
したがって、学業や職業の選択において男女差をつける必要はない。
一番いけないのは、自分の頭が悪い原因を自分が女性であることにして怠けてしまうことだ。
それが、ひいては人類全体の文化水準の低下につながる。

[2147] 自殺法 h17.12.30
特定の施設に自らの意志で赴いて自殺を手助けしてもらう法。
メルシトロンとかあるから、安楽死も医学的には十分可能なはずだ(点滴注射程度の痛みはあるけど)。
ボケ老人が身内に唆されて自殺に追いやられた場合でも、
自分で判断できないほどボケた老人は脳死とほとんど同じで生きる価値はないから問題ないはずだ。
老人をいじめて自殺に追い込むことなら今でもできるはずだから、今と変わらないはずだ。
子供のうちは知覚が未熟で自己判断に間違いが多いから自殺は認められないが、
いい歳こいた大人なら自殺の権利を認めてよいはずだ。
日本には昔から切腹の習慣があるが、これは恥をかいて生きるよりは死んだほうがいいからやるのであって、『人生が幸福ならば生き、不幸ならば死ぬ』という合理的判断に基づくものである。
努力して抜け出せる不幸ならば、あえて死ぬ者はいないはずだ。
人生には永久に抜け出せない不幸がある。そんな人生は拷問に他ならず、生きる価値はない。
一体なんの根拠があって、自殺を認めないのか。

[2148] 教えんとわからん h17.12.30
私が小学3年生のとき、友達と一緒に万引きしたのは、親が私に『万引きしたらいかん』と教えなかったからだ。前もって教えてくれていれば、たぶんやらなかっただろう。
私が中学3年生のとき、オナニーに耽[ふけ]って精神分裂病に罹ったのは、親が私に『オナニーしたら分裂病になる。』ことを教えなかったからだ。教えてくれなかったばかりに、その後の人生はふいになってしまった。
[子供は、エッチでも残酷でもない。ただ、知らなかっただけだ。]
人間は他人が教えてくれないと、自分が経験したことしかわからない。
自分が経験した後では手遅れになることもいっぱいある。それを防ぐのが教育だ。
親が子供に教えるのが気まずいからといって、子供の一生を不幸にしていいのか。

反対に、親が私に教えてくれたこともある。私が気安く女性と結婚しないのは、母が『結婚したらお酒をやめると約束をしたのに』とか、父が『もっとおとなしい人かと思うちょった。』とか言うのを私が耳にしたことがあったからだ。

[2149] 麻薬はどうしていけないか? h17.12.31
麻薬はやり始めの一時が楽しいだけで、その後ずっと苦しみが続く。
だから、長期的に見れば、やらないほうがいい。

[2150] ダイエットはムダ h17.12.31
男性は女性の心に惹[ひ]かれるのであって、身体に惹かれるのではない。
自分の身体の美にこだわる女なんかごめんだ。

[2151] 分裂病とは? h18.1.1
分裂病とは、“不愉快な気分が起きている間ずっと続く心の病気”である。
けっして、感情が無くなる病気ではない。
“気分がずっと不愉快”だから、
『死神博士』や『レインボ−マン』で見たように、壁をガリガリ指で引っかいたり、
ちょっとのこと(幻聴も含む)で腹を立て、親や他人に暴力を振ったりするのである。
入院中は薬で不愉快さが若干抑えられているが、治ったわけではない。
オナニーすると、知覚に曖昧な現象性イデアが湧いて、実在が理解できなくなり、実在の世界が嫌いになるので、実在の中に居るかぎり不愉快な気分が続くのである。
でも、人間は実在の外では生きていけない。人間とはそういう生き物だ。
実在の中に戻らないかぎり、この病気は治らない。
眼や耳を働かして、知覚に明晰判明な実在性イデアを得て(悟性すなわち知覚の五感従属性)、[逆に五感を知覚で論理的に考えて]実在が理解できるようになると(理性すなわち五感の知覚従属性)、実在の世界が好きになる。
統合失調症と言うな!語感が曖昧だ。
分裂病と言え!!

[2152] 実在一家 h18.1.1
私が子供のときから、ずっと、
父も母も実在的(+α)な雰囲気のする人だ。
だから、私も実在的だ。

[2153] お墓は建てんでいい h18.1.2
『一般に、実在しないことを根拠にしてはいけない。』
感覚は脳細胞の神経興奮によって発生するのであり、
死んだら感覚はもはや生じない。
つまり、先祖の霊魂は実在しない。
実在しないのならわざわざ墓を建てる必要はない。
お墓にお金をかけて、一体何になるの?
(家の窓からお墓が見えたら、誰だって嫌でしょう。)
先祖の記録を残したいなら、文字や写真にすればいいでしょう。

[2154] 戦争ゲームをして感じたこと h18.1.2
戦争では、ひと目で敵か見方か区別の付く服を着る。
銃で打つのは正当だ。
勝つために戦っているのではない。
まるでゲームだ。
偉い人が人の命をおもちゃにできるなんて行きすぎている。

[2155] 日常語 h17.1.3
実在の世界には、
数学や物理学の概念で書けない(書きにくい)“法則”がある。
そんな“法則”を扱うのが、哲学、医学、生物学、化学、社会学、その他だ。
そういった学問では、日常語を使う。
数学や物理学でも日常語を使って考えることがあるから、日常語と縁がないわけではない。

日常語だからといって曖昧さが許されるわけではない。
言葉(概念)使いが下手だから不正確にしか書けないと考えるべきだ。
それぞれの学問にはその学問独自の概念(言葉)があり、
適切な概念を用いて正確に表せば、何でもはっきり書けるはずだ。

自分の脳と他人の脳は離れているから、
自分の考え(アイデア)は、そのままでは他人に伝わらない(他人が感じられない)。
自分の考えを他人に伝える(教える)ためには、言葉が必要だ。
自分の考えを言葉に表して、それを他人に伝えねばならない。[言葉では表すことと伝えることがいっしょだが、文字では表すことと伝えることが別である。]
じつは、自分の考えを自分で確認するためにも、言葉が必要なのである。

具体的な言い方が好きか、抽象的な言い方が好きかは、個人の好みによる。[私は抽象的なほうが好き。]

[2156] 万物斉同 h17.1.3
中国には、『万物斉同』の考えがある(荘子)。
これは、人間もそのほかの物体も同じ物だということだ。
物に“感覚”を付け加えたら、人間の認識がわかる。
これが実在哲学のアイデアだ。

[2157] 朝鮮 h17.1.3
子供の頃から朝鮮漬けが好きでした。
福岡に住んでいた頃には、よく辛子明太子を食べました。
母も辛子明太子が大好きです。

[2158] 神 h17.1.4
神の本来の意味(定義)は、『奇跡を起こした人』のことだ。
問題は、奇跡とは何かだ。
私は、奇跡とは超能力のことだと考える。
つまり、超能力者が神なのだ。

超能力と言ったって、何でもできるわけじゃないけど。
ほんの一つか二つのことができただけだ。
『一般に、実在しないことを根拠にしてはいけない。』
したがって、“私がかつて少しだけ超能力を持っていた”事実から論理的に導かれること以外は何も認めて(考えて)はならない。
人間(つまり、超能力を持っていない人)でも神でも勝手にこれ以外のことを認めてはならない。
作り事は許さないし、あってはならない。
それが、実在に従うということだ。(実在に従わないと、結局は上手く行かないことになるでしょうが。)

[2159] 政治家 h17.1.4
善い政治家とは多くの国民を幸福にする政治家であり、
悪い政治家とは多くの国民を不幸にする政治家である。
善い政治家はありがたいが、悪い政治家はいないほうがいい。

[2160] 躁鬱病 h17.1.4
ある時期を堺に、急激な生活環境の変化によって、それまで満足されていた自分の心が満足されなくなり、慢性不満状態に陥ること。
社交的とか外向的とか作家に多いとか関係ない。
自分の心が見えていない人がかかりやすい。
他人の心を満足するために、自分の心が犠牲になりやすいからだ。

原因となっている感情以外の感情を満足することで乗り越えることもあるが、原因になっている感情のウエイトが高すぎるとどうしようもないことも多い。
そうなると、生活環境をもとに戻すか、せいぜい薬で不満感を抑えるしかない。

[2161] 女の生き甲斐は美か? h17.1.4
美女はブ男よりも美しいが、
美男はブ女よりも美しい。
だから、美が生き甲斐かどうかは、男女の性別にはよらない。
美以外の生き甲斐(満足すべき感情)を持とうとしない女のほうが間違っている。

[2162] 不幸のアトラクター h18.1.5
不幸のアトラクター(蟻地獄)に一度落ちたらなかなか抜け出せない。
そこに導いた者が悪いのだ。
『オナニーしたら分裂病になる。』という立て札でも立てていてくれたら、誰も近寄らないはずだ。

[2163] アホな神は人類の迷惑 h18.1.5
もしも私の頭がアホすぎたら、ヒトラーみたいに勝てない戦争をおっ始めたかもしれない。
今時、少数の小国で全世界を支配するなんてできるわけがない。
世界地図を見たらわかる。

[2164] 帰省 h18.1.5
正月や盆休みに帰省するのは、自分が出世した立派な姿を故郷の親に見せてみんなで喜ぶためである。
だから、出世していない人は親と会っても、みんなで気不味くなるだけだから、帰省しないほうがいい。

[2165] 五感と結びつく心と知覚と結びつく心 h18.1.7
私の父も母も、終戦直後だったので、中学校しか出ていない。
それなのに、心は五感よりも知覚(実在)と結びついている(複合している)。
本当の勉強は、机の上ではなく、生活の中でやるものだ。

[2166] 自己犠牲(すなわち愛)は善か? h18.1.7
今時、自己犠牲の感情(すなわち愛)のために就職する者がいるのだろうか?
多少の自己犠牲を効かしたほうが、かえって自分が幸福になりそうな気はするが。
でも、行き過ぎた自己犠牲は、自分を不幸にするに違いない。

[2167] 進化について h18.1.8
ハイギョは何億年もの間、同じ姿をとどめていて、ちっとも進化しない。
それは、環境が同じだからだ。
ハイギョとハイギョが住んでいる環境のマッチング(適合)が良すぎて、両者が同じ状態に保たれるために、両者とも変化しない(つまり、進化しない)のだ。

反対に、生物が環境を変え、逆に環境が生物を変える(ダーウィンの自然選択)と、生物も環境もともに進化する(変化する)ことになる。

[2168] 許すとは h18.1.9
あったことはあったことで、あったことをなかったことにはできない。
私が他人を許すのは、私の判断に間違いがあったときだけだ。
たとえ芝居でも、やったことに変わりはないから、許されない。

[2169] エッチと戦争 h18.1.10
性欲と破壊欲は人間の心において連動する。
そのように人間の脳は出来ているからだ。
つまり、性欲を強めると破壊欲も強まる。
性欲の強まった者が窓ガラスを割ったり、他人に暴力を振るったりするのは、このためである。
性欲を肯定する社会は、戦争を肯定する社会である。

[2170] 支配欲と戦争 h18.1.10
戦争の動機は支配欲にある。
支配欲とは、他人のすることに自分が手出し・口出ししたがる感情である。
支配欲を肯定すると戦争に至る。
ところが、戦争は自他共に利益を生まず、不幸な結果に終わることが多い。
だから、支配欲を肯定してはいけない。
[性欲と支配欲も連動している。]


[2171] 第3次世界大戦 h18.1.11
私は高1のとき分裂病に罹って以来、さんざん近所の連中に不愉快な目に合わされ続けてきた。
それは今でも続いている。
私が死ぬまでに幸福になる見込みはほとんどない。
私はこれまでずっとやられっぱなしだ。
これでは私の気が済まない。[先代の神が決めた‘きまり’を採るか採らないかは人間が決めるのだから、人間にも責任がある。誰がやったかわからないから、日本人全員がやったと考えざるを得ない。]
そこで、私が死ぬまでに幸福になったと私自身が認めなければ、第3次世界大戦を始めることにする。[私が死ぬまでに『私の人生は最高に幸せでした。』と私が書かないかぎり、私は幸福ではなかったと見なしてよい。]
日本が全世界を相手に戦うか、もしくは全世界が日本を相手に戦うかだ。
勝った国は負けた国を何でも自由にできる。
どちらかが完全に勝利するまで最後の1人になるまで戦ってもらいたい。

諸君が生き残るチャンスがひとつだけある。
それは日本軍が全世界の軍隊を相手に勝利することだ。
それでは諸君健闘を祈る。

[2172] 『美と崇高の感情についての考察』 h18.1.12
美や崇高の感情は、日本人にもある。
ただ、日本の文化の中でそれらの感情を肯定してもあまり幸福にはならないので、日本ではそれらの感情にあまり重きは置かれないのだ。(つまり、それらの感情は日本においては善ではない。)

[2173] 共役する感情(conjugated emotions) h18.1.12
愛と憎しみ、尊敬と軽蔑(偉さと卑しさ)とかは共役する感情である。
つまり、片方の感情を強めると他方の感情も強まる。
片方だけの感情を強めることはできない。なぜなら人間の心(大脳前頭葉前野)がそのように出来ているからだ。
私には偉さの感情がないが、それと共役する軽蔑の感情もまたないのだ。

[2174] 赤ちゃんとお母さん h18.1.12
最近は、自分の赤ちゃんを本当にかわいいと思うお母さんがいなくなったし、
逆に、自分のお母さんを本当に優しいと思う赤ちゃんもいない。

[2175] 神は減る一方、か? h18.1.13
神とは、人間の理解を超えることをした者のことであり、
人間の理解できることは時代とともに増える一方だから、
神の出現は時代とともに減少する一方である。
ただ、人間の進化の速さが科学によって加速されたら、
神は増えるかもしれない。

[2176] 観念論 h18.1.16
観念論においては、
対象の解釈(意味)が、対象だけではなく、
対象と個人が知覚に持っている概念(イデア)群との関係で決まる。
つまり、対象の意味=f(対象、個人が知覚に持っている概念群)。

[2177] カント批判 h18.1.16
カントにとって善とは、『自分にとって快なことを他人に対してやり、自分にとって不快なことを他人に対してしない。』ことであった。
しかし、観念論では、対象の意味は対象と個人が知覚に持っている概念群との関係で決まるのだった。
だから、個人によって知覚に持っている概念群が違うから、対象の意味が違うし、対象の意味が違えば(たとえ心が個人によって違わなくても)心の反応も違ってくるので、自分にとって快なこと・不快なことと他人にとって快なこと・不快なこととは違うから、カントの言っている善の定義は成り立たないはずである。
むしろ、観念論における善とは、『他人にとって快なことを他人に対してしてやり、他人にとって不快なことを他人に対してしない。』となるはずである。
カントの言っていることは矛盾している。

[2178] 鬱病 h18.1.20
新しい環境に適応するためには知覚が働かねばならないが、
その知覚の働きが心の不満足感によって妨げられている状態。


[2179] 観念論から見た精神病 h18.1.20
対象の意味は、対象と個人が知覚に持っている概念(イデア)群の両方によって決まる。
つまり、対象の意味=f(対象、個人が知覚界に持っている概念群)。
分裂病では、性感から生成された現象性イデアによって対象の意味が曖昧になり異常になる。
つまり、分裂病における意味=f(実在する対象(実際には五感)、性感から生成された現象性イデア)=曖昧。
鬱病では、新しい環境に適合しない(これまでに自分が獲得した)実在性イデアによって対象の意味が無になり、心が不満になる。
つまり、鬱病における意味=f(実在する対象(実際には五感)、新しい環境に適合しない実在性イデア)=無。

[2180] 念波取り h18.1.20
↓以下の内容は、私が幻聴で聞いたことである。
私の思考や体験が『ようこそようこ』や『マリーベル』や『ぱにぽにだっしゅ』などのアニメになって現れるのは、私の頭の中で思考したことを遠く離れたところにいて幻聴(テレパシー)で聴く“念波取り”と呼ばれる専門家(幻聴のプロフェッショナル)がいるからだ。
“念波取り”が私の思考を聴き始めた(聴いて書き留め始めた)のは、私が高1のとき分裂病に罹ってからではなく、私の幼稚園の頃からだ。
その”念波取り”も私のプライバシーを守るとかいう理由で去年で終わり、今年からは私のホームページか、私の近くにいる人から私のことを聴いているらしい。
“念波取り”は、幻聴だけではなく、幻視(私が見た視覚像がテレパシーで他人にも見えること)もあるようだ。
“念波取り”は、1日3〜4交替制で、“念波取り”の専門家に支払う金額は1人あたり年間数億円もかかるそうだ。

[2181] 政治家が悪い? h18.1.20
↓以下の内容は、最近私が幻聴で聞いたことである。
私が赤ちゃんの頃、医学に疎い私の両親をだまして私の脳を酸欠状態にして私の超能力を奪い、その後も親がちょっと目を離した隙にヘンな薬を私に飲ませて私の脳の活動を鈍らせ、私が高1のとき発狂した後は、近所に住んでいる者を使って毎日私にさんざん“ガンを飛ばさせて”私に苦痛を与えつづけさせたのは、『小林』という名の政治家らしい。
その政治家は法律を自分勝手に解釈して、法律に触れない(?)範囲で、私を攻撃してきた。
その政治家は、私が赤ちゃんの頃に超能力を発揮して“神様”になったことに対し、“神様”である私に較べて人間である自分が偉くないことに嫉妬して、これまで約40年の長きにわたって私を痛めつけてきた。
私を痛い目に合わせた人は、報酬として2万円貰えるそうだ。

[2182] どうして私をテレビ番組や商品などに取り込んできたか? h18.1.21
↓以下の内容は、私が幻聴で聞いたことである。
言い伝えによると、『神様を番組や商品などに取り込むと、いいことがある』からだそうだ(笑)。

[2183] お金はどこから出ていたか? h18.1.21
↓以下の内容は、私が幻聴で聞いたことである。
去年までは国連が日本にお金をくれていたが、今年からは日本だけでお金を出さねばならなくなった。
(金額の詳細は不明。)

[2184] 知的な親には神が生まれにくい h18.1.21
知的であるとは、知覚界に眼や耳などの実在性五感から生成された実在的概念が多いことである。
一方、赤ちゃんは親を見て育つ。赤ちゃんは親の真似をする。
だから、親が知的だと、その赤ちゃんも眼や耳などの実在性五感を使おうとし、超能力器官を使おうとしないから、超能力が現れにくく神様にはなれないのである。

[2185] 私の親 h18.1.21
私の親は私に『オナニーすると分裂病に罹って一生苦しむ。』ことを教えてくれなかった。
それは、私の親が医学に疎いからでもある。
つまり、私の親の世界には穴(実在認識の欠陥)があり、私の親の世界の中では人間が幸福には生きて行けないのだ。
欠陥のある世界には、また無駄(実在しない余計なこと)もある。[空即是色]
私がいくら親の言うことに従っても、私が幸福に生きて行けるわけではない。

[2186] 人は何のために勉強するか? h18.1.22
私だって、小学校低学年の頃は国語・算数・理科・社会みんなそこそこできた。
ところが、小学校高学年の頃になると、算数・理科は得意で、国語・社会は苦手になった。つまり、得意と苦手の違いができた。
それは、私の心にとっては算数・理科が面白く、国語・社会がつまらなかったからである。
こうして、ひとたび得意・苦手の違いができると、得意な科目は勉強し、苦手な科目は勉強しないから、年を取るごとに得意・苦手の違いが激しくなり、私の知覚界には算数・理科の概念ばかりが占めるようになった。
国語はともかく、社会の時間はほとんど寝ていた。家で社会科を勉強しようとしても眠くなって、勉強することさえできなかった。それで、社会科のテストはいつも50点前後だった。
どうして私の心が算数・理科を選び、国語・社会を捨てたかはよくわからない。生まれつきの私の性分かもしれないし、私が育った家庭環境や学校のせいかもしれない。それは、生まれつきの自分の心と自分が育った環境の両方のせいなのだ。NHKの『大河ドラマ』を見て育てば、私も歴史が好きになったかもしれないが、私が小学生の頃は夜7時に寝る習慣だったので、『大河ドラマ』は見れなかったのである。一方、私が小学生の頃に(親が買ってくれて)よく読んだ小学館の『こども学習百科事典』には理科のことばかり書かれていたから、それで理科が得意になったのだろう。社会科の本は一冊も持っていなかった。
理由はどうあれ、ひとたび私の心が算数・理科を選び、国語・社会を捨ててしまったあとでは、もはやどうしようもない。それは私の心が『勉強することの面白さ』を本位に出来てしまっているから、もはや仕方がないことだ。私がよく読んだ『こども学習百科事典』が面白さ本位に書かれていたせいかもしれない。
このように、ひとたび心が得意・苦手に分化してしまうと、もとの得意・苦手の区別のない未分化の状態には戻らない[分化原理]。つまり、『心の好き嫌いの区別が一度出来てしまったら、もはやどうしようもなく、嫌いなことを好きにはなれないし、好きなことを嫌いにもなれない。』これは人の心についての“法則”であって、人間の脳がそのように出来ているかぎり、その法則に逆らうことはできないのである。[双対原理に基づくと、“医者に(私にはない)物や金の喜びがある”ことの説明が付かないので、双対原理はまちがっていると考えられる。/私は中高生時代、この分化原理を思いつかなくて、“自分がなぜ社会科や生物学が苦手なのか”わからなくて、苦手科目を克服しようとして無駄な努力をした。“分化原理”によれば、一度苦手になった科目は死ぬまで苦手なままだから、いくら勉強してもほとんど成果は得られず、無理していい点を取ろうとして頑張らずに、“そこそこの点で我慢”したほうがいい。他の好きなことに時間をかけるか、寝たほうがいい。勉強をサボるのはいいが、その代わり結果の悪さは覚悟せねばならない。]
一方、東大に行くような人は国語・算数・理科・社会(おまけに体育や音楽までも)が全部得意だ。そんな人の心は『試験で良い点を取ることの面白さ』か『高い地位や名誉を得る喜び』を本位に出来ているのだろう。
東大の人と私とでは心の中にある感情の働かせ方が違うが、とにかく、人の知覚界には、その人の心を満足する情報(知識)が詰まっているのである。そして、人は知覚によって環境に適応する。だから、自分の知覚の中にある情報(知識)を見れば、自分が適応できる環境や自分が適応できない環境がわかる。自分に適応できる環境を選んでいけば成功して幸福になることができるし、反対に自分に適応できない環境を選んでしまったら失敗して不幸になってしまう。得意・苦手の区別ない何でもできる人は自分が適応できる環境を詳しく知らなくてもいいが、得意・苦手のある人は自分が適応できる環境や適応できない環境を前もって十分よく知っている必要がある。自分に得意・苦手の区別があるのに、自分が適応できる環境かできない環境かの区別も付かず、自分で自分に適した進路を選ぼうとしない人は、もはや救いようがなく不幸にならざるを得ない。

[2187] 男か女か h18.1.24
男か女かの区別よりも、人間であるかないかが大事だ。
人間とは、知覚する動物のことだ。
男らしさ女らしさは、すべて知覚するかしないかの違いから来ている。
古いまちがった習慣にすがって生きつづけるか、それとも新しい正しい生き方に踏み出せるかだ。
(生まれつきの男女の違いにこだわるのは、努力をしない怠け者の証拠だ。)

[2188] パソコン h18.1.24
パソコンには、ホームページや通販などいろんな使い方があるが、
私に言わせれば、やはりゲーム機だ。
それが、PC8001からの伝統だ。

[2189] 数学 h18.1.29
明確な概念を考え出すことが数学だ。
例えば、1とか2とかは、それ自体は実在しないが、
人間が実在における経験から(知覚界の中に)考えて作り出した明確な概念である。

[2190] 第3次世界大戦(つづき) h18.2.3
私は生まれてこのかた40年間大勢の者たちによって苦しめられてきた。
仕返しをしなければ気がすまない。
耐えるばかりでは自分がアホだ。
誰がやったか特定できれば、その者たちだけに復讐すればよいのだが、
私には誰がやったのか特定できない。
命令する者も命令に従う者もみんな悪い。
したがって、私の加害者全員に復讐するためには、加害者すべてを拾うためには、日本人全員に復讐する(痛い目にあわせる)しかない。[たとえ加害者リストがあったとしても、それが正しいことが証明できなければ信用できない。]
以前、九大教養部の英語の講師が講義中に「日本人はみんな中流階級」と言っていたから、おそらくそんな理由で幼い頃の私から超能力を奪い、その後も私の善性を奪い私を悪人にするために、私の邪魔をしつづけてきたのであろう。[外国は、私の邪魔をしても得になることはないから、関係ないだろう。]

手段も方法も問わないから、私の死後外国のどこかの国(複数可)が日本に対し宣戦布告して欲しい。
勝った国は日本を自由にしてよい。

[2191] 私が小さい頃(小学1,2年生頃)に聞いた母の言葉 h18.2.7
『頭でわかるんじゃなくて、心でわかるようにしなさい。』
この言葉を、実在哲学的に解釈すると、
“心を知覚における実在認識に従属させよ”となる。
いわゆる、梵我一如だ。
『梵我一如』そのものの意味は、
“自分の五感界(つまり、自分が見たり聞いたりしていること)が、自分の感覚にすぎない”ことを悟ることだ。

[2192] ボロは着てても心はニシキ♪ h18.2.8
私は“貧乏”な家庭で生まれ育った。
心の分化原理によれば、私の心は貧乏な生活において幸福になるように出来てしまったので、他の生活では幸福になることはできないのだ。
だから、私に贅沢を与えても、私の心は幸福になるどころか、かえって不幸になるだけだ。

[2193] どうしてガラガラは回ったのか? h18.2.8
私の母は気が濃い。
赤ちゃんの頃の私は母を真似て身体から“濃い気のビーム”を出し、それをガラガラの一部に当てることによってガラガラを回したのだろう。

[2194] 贅沢は敵だ! h18.2.8
物が豊かになると、物に気をとられて自分自身を見失う。
自分自身を見失うと不幸になる。
だから、物の豊かさを求めるのは愚なのだ。
物がなくても、自分自身があればそれでいいのだ。

[2195] 知的好奇心を大切にしよう! h18.2.8
コンピューターがあると、自分の作文がアップロードできるので、考えることが楽しくなる。
コンピューターのない人は、ノートと鉛筆があれば、自分が考えたことを書く楽しみが持てる。
コンピューターもノートもなければ、せっかく自分が考えても、それを書き残す楽しみがないから、自分で考える楽しみがしぼんでしまう。
自分で考える楽しみ・喜びを育て膨らませるためには、コンピューターやノートが必要不可欠である。[小さい子供には、学ぶ喜びがあるから、なにか本を買って学ぶ喜びを満足させてあげるとよい。学ぶより先に考えさせてはならない。]
ヘタにお金をケチって、これらの道具を買わないと、自分で考える喜びがなくなる。
自分で考える喜びを失うと、エッチな喜びか非行の喜び(麻薬やバクチなど)に流れてしまう。
たとえ自分の子供がバカだと思っても、子供の考える喜び・学ぶ喜びを大切に守ってやらないといけない。

[2196] アホリズム2題 h18.2.10
『考え続ければ、きっと答えが見つかる。』
『なぜか?と疑問を持つことが、新しい発見のきっかけになる。』

[2197] 分析と総合 h18.2.12
自分の『経験』を、知覚界で“分析”して概念を作る(分析)。
他人の言葉を理解するときは、自分の概念と記号とを“対応付け”て、
自分の概念を“組立て”て、ひとつの塊として理解する(総合)。

[2198] アホリズム2題 h18.2.13
『物を見るより先に言葉を読ませてはならない。』
言葉は知覚界におけるイデアや五感界におけるイメージを、音声や記号に対応付けて表したものだから、もとになるイデアやイメージがなければ無意味である。私が幼稚園に入る前は、父親母親が私にいろんな物を見せるために、いろんな所(動物園や南国博覧会や鏡川の河原や旭の水源地や朝倉の忠霊塔やうぐるす山など)に連れて行ってくれた。私に小学館の図鑑やこども学習百科事典を買ってくれたのは、私が小学校に上がってからだ。私の“子供時代”の教育は、まさに理想的だと言っていい。

『学ぶより先に考えさせてはならない。』
考えるとは、自分の知覚界に持っている概念(イデア)を分析したり総合したりして、実在する対象と同じものを作ることだから、まず概念のもとになる経験を実在性五感界や本などから学んで取り入れなければならない。無から有は生じないのだ。

[2199] 鉄腕アトム h18.2.14
自分に心がないからといって、
他人の心をアテにするなよ。

[2200] デカルト的直観 h18.2.14
他人の評価に頼るよりも、
自分自身の直観の正しさを信じることにしよう。


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