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[300] 正義は勝つ 2001年10月6日 11時21分
わつい さん e-mail
「正義は勝つ」ようにしよう。「正義が勝つ」べきであって、「力の強い者が勝つ」べきではない。ピストルで相手を殺せばすむような決着のつけ方はやめよう。武力行使はやめよう。正否の判定は議論でつけることにしよう。それが知的生物としての人間のとるべきやり方だ。その代わり、議論に負けた者は勝った者の言いなりだ。悪(無知)は善(知)に従属しなければならないからだ。
[299] ノイローゼ(神経症)と精神病 2001年10月6日 11時20分
わつい さん e-mail
ノイローゼ(神経症)とは、知覚や心の小さい部分的な異常である。知覚・心・五感からなるシステムの大きな枠組みは正常である。例えば、『みんなの前で歌うのが怖い』のは、実在についての知覚的認識のどこかに部分的な間違いがあるために、そんな心理状態に陥っているのである。その間違いを具体的に明らかにすることが、ノイローゼの治療である。
一方、精神病(分裂病とうつ病)は認識システムの大局的な異常であって、知覚・心・五感(・実在)の関係に大きな根本的な間違いがある。
[298] ヨーロッパの哲学はバカ 2001年10月6日 11時19分
わつい さん e-mail
カントとかヘーゲルとかの哲学は明らかにチンプンカンプンだ。
算数の答案としては零点だ。
あんなものでは「東洋の哲学のほうが上だ」と言いたくもなる。
しかし、ヨーロッパの自然科学のほうが発達していることは確かだ。
おそらく、語られていないところに本当の哲学があるのだろう。
[297] 分裂病の原因について 2001年10月6日 11時18分
わつい さん e-mail
分裂病の原因は、‘みずから実在を否定しようとした’ことにある。例えば、私の場合、隣の席の不良のパラパラめくりを見て腹を立てたが、すでにこれからして異常である。なぜなら、‘認識の正しさだけ’で人間を見るべきなのに、どうでもいい(重要ではない)無意味なこと(つまり、英語の本のパラパラめくり)に気をとられている。‘認識の正しさだけ’で不良を見るなら、ただの無視すべきバカに過ぎない。だから、このときすでに、自分の心がダラ気ていて、自分の心に隙があったのだ。パラパラめくりを見て腹を立てただけでも、すでに実在の否定だといえる。そのうえ、次に、『超能力を使って相手の精神を操ってパラパラめくりをやめさせてやる』と‘本気で’考えたことは、明らかに自分から積極的に‘実在の世界を否定した’ことになる。完璧な悪ノリだ。ふざけ過ぎている。連日の徹夜勉強による脳の疲れにも原因がある。このようにして実在の概念を喪失した者が苦悩している状態が分裂病である。
[296] 善と悪その2 2001年9月30日 20時21分
わつい さん e-mail
いくら数学や物理が出来て、心がそれらに適していても、必ずしも善人ではない。なぜなら、数学や物理だけでは、人間の価値や善悪がわからないからである。
善悪は、認識についての認識すなわち哲学の概念である。
心が知覚すなわち実在に従属することが善であり、
心が知覚すなわち実在に従属しないことが悪である。(自分に感覚できる実在が知覚にほかならない。)
例えば、分裂病は心が実在に従属しないから悪であるのはもちろんだが、うつ病は心が実在に従属しているから善ではあるが、自分の心を満足していないから快ではない。つまり、分裂病は悪であり、うつ病は善だが快ではない。人間はただたんに善であるだけでは生きていけないのだ。人間であるからには、まず善でなければならないが、その上に自分の心をも満足させねばならない。つまり、人間が生きていくためには、善である上にさらに快でなければならないのだ。
[295] 実在することとしないこと 2001年9月29日 16時14分
わつい さん e-mail
自分の五感の中には実在することとしないこととがある。
例えば、カエルの口が本当は同じ大きさなのに、外向き矢印の口のほうが内向き矢印の口よりも大きく見える。白い十字路に黒い玉がボンヤリ見える。しかし、犬が犬であることには違いない。
他人の考えの中にも正しいことと間違っていること、
すなわち実在することとしないこととがある。
他人の自分に対する誤解は実在しない間違いであるが、
それだからといって、その他人の考えることのすべてが間違っているのではない。正しいところは正しい。
咳払いは負けん気だけが強いバカの負け犬の遠吠えだ。勝ちたければ自分の頭を使って考えやがれ!
自分は実在の外にあることは無視し、実在の中にあることだけを考えればよい。
[294] 分裂病が治った! 2001年9月29日 11時40分
わつい さん e-mail
分裂病とは、‘つまづきの罠’のようなものだ。罠の正体がわからない間は、悩み苦しみ続けねばならない。罠の仕組みがわかり、それを外すことができれば、自分がつまづいた所から、また歩き出すことができる。
要するに、自分の考えが間違っていたというだけのことだ。とくに、人間に対するものの見方が間違っていた。人間とは何かがわかっていなかった。人間(自分や他人)に対して‘ふざけた’見方をしていた。
[293] 無矛盾 2001年9月29日 11時40分
わつい さん e-mail
数学の本質は無矛盾(矛盾がないこと)である。それが数学のルールである。例えば、無限の概念を古典数学に導入しても、全体として無矛盾な体系が作られれば、それでいいのだ。量子力学にしても、古典力学に不確定性原理を導入して、‘矛盾のない体系’ができればそれでいいのだ。それ以上に何も問題とすることはない。古典力学と量子力学の間には矛盾があってもかまわない。古典力学から見て量子力学はおかしいが、量子力学から見て古典力学はおかしくない(エーレンフェストの定理)。
同じように、古典哲学(=自然科学)に感覚の概念を導入して無矛盾な体系を作ればよい。それが実在哲学だ。
[292] 医者の人間観 2001年9月29日 11時39分
わつい さん e-mail
心と身体が、人間に対する見方の両極にある。
医者にとっては、「人間の本質は身体である。」
医者にとっては、五感(ただたんに眼で見えるだけの世界)が実在に他ならない。
医者にとっての理解とは、‘ただたんに文字が眼で見えるだけ’のことである。
医者は五感界の中だけでは頭がいい。
医者が偉いのは、五感界の中だけである。
しかし、実在の世界の中では、医者は眼先のことだけしかわからない認識の低いバカにすぎない。くだらないことばかりよくお出来になる。
[291] 善と悪 2001年9月29日 11時39分
わつい さん e-mail
心は知覚(実在の世界についての認識)に従属する。
正しい知覚に従属するのが善の心であり、
間違った知覚に従属するのが悪の心である。
[290] デカルト哲学 2001年9月29日 11時38分
わつい さん e-mail
『われ思う、ゆえにわれ在り』とは、
「認識の自分が実在の自分を理解することによって、認識の自分が‘実在の中に入る’。」ことだ。
[289] 人間に対するものの見方 2001年9月29日 11時37分
わつい さん e-mail
人間の本質は心である。
心には善悪の区別がある。
心の善悪を決めるのは知覚だ。
人間の価値は認識の正しさで決まる。
“認識の正しさ”で人を評価すべきである。
いくら数学や物理を勉強しても、‘人間に対するものの見方’はわからない。私が昔発狂したのも、‘人間に対するものの見方’が間違っていたからであった。ふざけていたからであった。
人間が、人間自身について、心の善悪について考えていないのは、あまりにも常識がなさすぎる。常識がないのは悪人である。善が悪に従ってはならない。
[288] 人間 2001年9月29日 11時34分
わつい さん e-mail
自分がただ生きているから自分が人間なのではない。
実在する人間についての正しい理解がないかぎり、自分は人間ではない。
人間は考える動物である。それが人間として生まれてきた者の宿命なのだ。
とくに人間の認識の構造(つまり、五感と知覚と心の関係)について正しく理解しなければならない。
知覚は実在を認識する。心と五感は知覚に従属する。
同様に、自分が人間社会を正しく理解しないかぎり、自分は社会の中の人ではない。
人の心は平等ではない。善が悪を支配すべきである。
また、自分が勉強とは何かを理解しないかぎり、いくら机に向かっていても自分は勉強していることにはならない。
勉強は、公式(法則)と公式の適用法の記憶に他ならない。
[287] 実在しない世界の中にいるバカ 2001年9月25日 19時41分
わつい さん e-mail
バカは実在について無知である。
無知であるゆえに、バカの心は悪である。
例えば、バカの咳払いは悪の心から発せられたものであり、
バカの頭の中にある実在しない世界においては意味を持つが、実在の世界の中では意味がない。
[286] 色即是空 2001年9月25日 19時40分
わつい さん e-mail
知覚には実在についての正しい知識がある。
だから、自分の知覚が自分にとっての感覚できる実在である。
五感には知覚に従属することとしないこととがある。
知覚に従属する五感が実在し、
知覚に従属しない五感は実在しない。
例えば、色は知覚の世界の中にはないから、たとえ眼では見えていても実在しないものとして無視される。
知覚においては正しいか正しくないかだけが問題だ。
正しい知覚で見た世界こそが実在の世界だ。
認識自体が実在を見る目なのだ。
認識したことが新たな目となり、さらなる認識を生む。
[285] 人間の価値 2001年9月25日 19時39分
わつい さん e-mail
人間の本質は心である。
心には善と悪の区別がある。
心が善か悪かは知覚が決める。
善の心とは正しい知覚に従属する心である。
人間の価値は認識の正しさだけで決まる。
認識の正しさは人によって違う。
人間の心は平等ではない。
悪は善に従わねばならない。
善は悪に従ってはならない。
[284] 男女平等 2001年9月25日 19時38分
わつい さん e-mail
男女同権の真の意味は、女性を男性と同等に扱うことである。
それによって社会を根底から合理化することが、男女同権を認めることの真の目的である。
つまり、女を男に上げることが男女同権の目的なのである。
けっして男を女に下げることではない!
男女同権の社会は、うわべでは女性にとって有利なようだが、実はむしろ女性にとってはつらい厳しい社会なのである。
女が男のようにして生きていかねばならない社会…
ちょっと‘正しさ’を追いすぎていはしないか?
いくら平等に教育しても女には知覚が足りないから、
実際には女が男と完全に平等になることはないだろう。
それでも、女性が昔より少しでも賢くなれば、社会の合理化にとっては意義あることだといえる。
[283] 勉強 2001年9月23日 23時22分
わつい さん e-mail
他人の書いた本を読むことが勉強なのではない。
現実の中で自分がいろいろ考えることが勉強なのだ。
特に学問のことでなくても、自分の身近にある現実について考えて理解を深めることは勉強に他ならない。
[282] うつ病と分裂病 2001年9月23日 23時22分
わつい さん e-mail
うつ病は正しいが面白くはない。
分裂病は面白いが正しくはない。
つまり、うつ病では、実在の世界の中には居るが、自分の心の世界の中には入っていない。
分裂病では、自分の心の世界の中にいて、実在の世界の中には入っていない。
だから、うつ病では、自分の心の世界の中に戻せばよい。
分裂病では、実在の世界の中に戻せばよい。
もっとも、普通の人でも多少は実在の世界の外に出ることもあるし、自分の心の世界の外に出ることもある。つまり、普通の人でも時には分裂病的であったり、うつ病的であったりすることがある。程度の問題だ。だから、分裂病もうつ病も、きっぱりと治るのではなく、徐々に良くなるものなのだ。
[281] ことばの意味その2 2001年9月23日 23時21分
わつい さん e-mail
ことばの意味は、知覚における単語と単語の論理的関係に尽きる。
しかし、ことばに対する感情がないわけではない。
知覚におけることばの意味に対する心で感じる感情はある。
だから、例えば、医学がいくら知覚においては正しくても、私の心にとっては面白くないのだ。
つまり、ことばには、知覚における意味と心における意味の二つの意味があるのである。
実在の中に生きる人間にとっては、知覚における意味を心における意味よりも優先しなければならない。それが‘まじめ’ということだ。人間にはまじめさが大事だ。
[280] 自分の進むべき道 2001年9月23日 23時20分
わつい さん e-mail
ただたんに正しいだけなら、医学でも数学でもどっちでも正しい。
医学も科学の端くれだから、正しいには正しいのだ。
しかし、私にとっては、数学は面白いが、医学は面白くない。
自分が面白いと感じるか感じないかは、自分の心が何を欲するかで決まる。
私は考えることが好きだから、医学よりも数学のほうが面白いのであり、
医者はお金が欲しいから、数学よりもお金が儲かる医学のほうが面白いと感じるのだ。
ただたんに正しいだけでは心に対する考慮が足りない。
自分が人間であるからには正しい道を歩まねばならないが、
その中でもさらに自分は自分の心が面白いと思う道を進まねばならない。
正しくて面白いのが自分の進むべき道である。
人の心は人によって違うから、人の進む道にもそれぞれ違いがある。
ただたんに正しいだけで自分の心にもない道を進むと、いくら他人にとってはそれがうらやましい幸福への道であっても、自分にとってはまぎれもない不幸への道なのであり、結局最後には自分がうつ病になって自殺しなければならないことになる。
人の心には生まれつきの違いもある(例えば、男と女の心の違いを考えてみよ。言わせてもらえば、女は考えることを楽しみにできるほどの生き物ではないのだ。)から、生きる道もそれぞれなのだ。
自分は自分が面白いと思う道を進め!
[279] 創られた世界としての五感 2001年9月23日 23時19分
わつい さん e-mail
五感だけの空間(世界)は人間が創り出した空間である。
知覚こそが実在する世界であり、
五感こそが実在しない世界なのだ!
人間の知覚の世界こそが実在の世界であり、
知覚を基礎としない五感だけの世界は実在の世界ではない。
…かと言って、知覚の世界は五感の世界を素(もと)に作られるのだから、
五感なくして知覚は成り立たない。
だから、まず心を落ち着けて五感を冷静に見ることから始めねばならない。
心と五感のつながりを断ち切って、五感そのものを見るのだ。
そうすれば五感から実在を知ることができる。
(これは、ティコ=ブラエが天体観測に数学を用いた場合に限ったことではなく、普通の日常生活においても多々あることである。要するに、見たまんまのことを余計な感情を入れずにそのまま書けばよいのだ。)
そうして知覚で実在がわかった後で、
心を知覚に従属させればよいのだ。
つまり、実在主義(注意!実‘存’主義ではない)においては、
まず知覚で実在を知り、
次に、自分の心と五感を知覚に従属させる。
知覚に従属した心が善であり、知覚に従属した五感が美である。
人間は五感内存在ではなく、知覚内存在つまり実在内存在であらねばならない。
[278] ことばの意味 2001年9月23日 23時19分
わつい さん e-mail
ことばの意味は、心で感じた感情にあるのではなく、
知覚で感じた論理的構造にあるのだ。
ことばの意味は、単語と単語の論理的関係に尽きる。
そうでなければ、わかったことにはならない!
心で感じるだけでは、わかったふりをしているにすぎない。
知覚でなければ深い理解が得られない。
ことばの意味は、心で感じるのではなく、知覚で理解するものなのである。
[277] 住み分け 2001年9月22日 9時32分
わつい さん e-mail
バカは五感の世界に生きている。
人間は知覚の世界に生きている。
バカには五感に対する感情しかないが、
人間には知覚に対する感情がある。
バカはお金や肩書きを欲しがるが、
人間は正しい知識を欲しがるものだ。
バカにはバカの道徳があり、
人間には人間の道徳がある。
バカが生きている世界と
人間が生きている世界は違うのだ。
[276] 性欲と分裂病の関係 2001年9月20日 22時8分
わつい さん e-mail
セックスもオナニーもガリ勉も脳が疲れる
脳が疲れると知覚が働かない
知覚が働かないと五感にとらわれやすい
心が五感にとらわれると分裂病になる
[275] 教授 2001年9月20日 10時54分
わつい さん e-mail
教壇の前で偉そうに講義を垂れて威張るやつがいるが、
本当に偉いのは理論を最初に考えた人だけだ。
お前はただ偉い人の真似事をしているだけで、
おまえ自身はもぬけの殻やろが!!
他人のまねごとで威張るな!!
[274] くだらない連中 2001年9月20日 10時53分
わつい さん e-mail
医者は金が欲しいだけが生きがいのくだらない連中だ。
医学じたいは全然おもしろくない。
本気でお金が欲しくなければ、とうてい医者など勤まらない。
政治家は肩書きが欲しいだけが生きがいのくだらない連中だ。
先生と呼ばれるほどのバカでなし。
私には、お金や肩書きだけを生きがいにできる人の気持ちがわからない。
[273] 幻聴について 2001年9月20日 10時52分
わつい さん e-mail
幻聴がないと考えるのはおかしい。
もし本当に幻聴というものがなければ、精神分裂病もないことになる。
でも、実際には精神分裂病はあるのであり、存在しない幻聴で悩むのは不自然である。
むしろ、もともと幻聴があるから、分裂病もあると考えたほうが、筋が通る。
幻聴の内容は無意味なことが多い。
バカの抵抗が知覚において無意味であり、それが無視され得るなら、幻聴も同じく無視され得るはずだ。知覚で何も考えておらず(私の哲学日記の内容と較べてみよ!)、心がだらしないから、たかが幻聴ぐらいのことで心がかき乱されるのだ。
分裂病の本質は、人間が知覚界を失ったために(激情に駆られて自分から知覚界を抜け出したために)、これまで意味を持たなかったことが意味を持つようになること、つまり、人間が知覚的存在からたんなる五感的存在に落ちぶれることにある。人間の心が知覚に従属する心から五感(幻聴も含む)に従属する心に堕落することにある。
結局、分裂病とは、脳における情報の流れが変化したために、人間の心が知覚従属性心から五感従属性心に変わることである。つまり、正しいか間違いか考えて見たり聞いたりしていたのが、ただたんに聞いた感じや見た感じのことしかわからなくなることである。要するに、‘ガラが悪くなる’のだ。
そもそも分裂病とは、自分の心を肯定して、実在つまり知覚界を否定することだから、その反対に『知覚界(五感界ではない!)の存在を肯定し、心が知覚に従属することを認めればよい』のである(私の哲学日記の最近の内容を見よ!)。自分が『そう』しなければならないことを、十分納得がいくまで理解できればよい。
うつ病では、現実を肯定しすぎて自分の心が否定されているから、その反対に『自分の心の存在を肯定し、現実が自分の心に従属すること(つまり、自分の希望をかなえること)を認めればよい』のだ(つまり、これが実在哲学第2原理!)。自分が『そう』でなければならないことを十分納得いくまで理解すればよい。
[272] 咳払い 2001年9月20日 10時51分
わつい さん e-mail
バカのできる抵抗はそれだけか
その抵抗は‘無意味’だ
[271] 現実主義 2001年9月16日 12時2分
わつい さん e-mail
アニメも数学も現実逃避である点では同じことだ
現実逃避とは、嫌な現実から積極的に逃げようとすることだ
他のことをして、嫌な現実について考えないようにすることだ
アニメを見たり、数学を考えたりして、嫌な現実を一時の間忘れるようにすることだ
しかし、現実から眼をそむけ、現実から逃げ回っているだけでは、現実における問題がいつまでたっても解決されない
現実についていつまでたっても何もわからないままではすまされない
小さいことだから、たわいないことだからといって、それを現実からの逃げ口上にするのはよくない
どんなに小さなことでも、現実に起きていることなら、それについて真剣に考えるべきだ
現実であれば、どんなに些細なことでもよく考えて、はっきりとした結論を下すべきだ
現実から絶対に逃げるな!
アニメや数学は、息抜きとして嗜(たしな)めばよい
[270] 人間の条件 2001年9月16日 12時1分
わつい さん e-mail
ただたんに身体が生きているからといって人間なのではない。
おとぎ話では、神様が動物にそれぞれ贈り物をなさったとき、人間に与えられたのは最後に残った考える頭だけだった。
その他の点では、人間は他の動物に劣るというわけだ。
考える頭だけが、万物の霊長としての人類のたったひとつの支えなのだ。
したがって、実在についての正しい知識を持った者だけが人間と呼ぶにふさわしい。
人間の価値は、実在についての認識で決まる。
しかし、それは男の場合だ。
女は、頭がパーだから、そんなこと言っても仕方がない。
だから、女は身体の価値しかない。
女は頭(認識の正しさ)で較べられないから、やむを得ず身体(の美しさ)で較べるしかないのだ。
女の心がいつまでたっても子供のままなのは、
女が実在について何の理解も持たないからだ。
女は一生かかっても、人間にはなれない。
子供だって、まだ幼いときには実在についてわかっていないから、人間と呼ぶに値しない。
女子供は人間の内に入らない。それが、女と子供についての正しい理解だ。
このように、人間が人間でいられるのは、考えることにおいて他はない。
人間が人間でいられるためには、つねに考えていなければならないのだ。
これが人間として生まれた自分に課せられた宿命なのだ。
[269]は、[270]と同文の投稿ミス。
[268] 生まれよりも育ち 2001年9月16日 12時0分
わつい さん e-mail
赤ちゃんの心はまだ悪である。
実在を知ることによって人の心は善くなる。
だから、人間にとっては生まれよりも育ちのほうが大事なのだ。
ヨーロッパ人も日本人も赤ちゃんのときには等しく心が悪い。
その後の育ち方の違いによって、ヨーロッパ人の心は善くなるが、日本人の心は子供のときの悪いままなのだ。
文化の違いだ。
ニュートンは天才だったが、その天才を生み出したのはイギリス全国民の文化的背景があってのことだ。
ニュートンの天才はニュートン一人の力ではない。
‘みんなでやる’のは、日本でもヨーロッパでも同じだ。
天才は人類の頂点であるが、
そもそもヨーロッパ文化のアベレージが日本よりも高いから、
ヨーロッパのほうが日本よりも天才を生み出しやすいのだ。
つまり、ヨーロッパのほうがみんなの頭がよく、
日本のほうがみんなの頭が悪いのだ。
日本の文化がヨーロッパの文化よりも間違いが多いために、たとえ赤ちゃんの時には同じであっても、大人になったら日本人のほうが頭が悪くなるのである。
[267] 実在 2001年9月15日 14時51分
わつい さん e-mail
人類の向かうべきところは実在しかない。
実在は自分の眼の前にあるが、見えていない。
考えることによってそこに近づくことはできるが、けっしてそこに到達することはない。
[266] 仕事 2001年9月15日 14時50分
わつい さん e-mail
仕事をしないと生きていけない社会制度がいやだ。
人生が面白くない。
仕事したい人だけすればいい。
[265] 日本哲学の欠点 2001年9月15日 14時50分
わつい さん e-mail
・忍耐→うつ病の原因。忍耐とは自分の心の否定である。自分の心を満足させることも考えねばならない。
・裏表→分裂病の原因。うそをついては、自分の心が成長しない。心がいつまでたっても、幼稚な子供のままだ。自我(自分の心)の統一を考えねばならない。
日本の哲学は眼先ばかりで、自分の心が見えていない。
もっと自分の心に目を開かねばならない。
[264] 理想の勉強法 2001年9月9日 17時45分
わつい さん e-mail
テストの点数にとらわれてはいけない。テストはゲームと同じだ。
60点ぐらいを目標に。
それなら家で勉強しなくていい。学校で集中して勉強すればいい。
家で勉強しなければ、友達と遊べる時間も増える。
原則として家では勉強しない。勉強するのは学校で。
英語の予習は教科書ガイドで済ませる。
自分の好きな得意科目だけ家でも勉強する。
結局、勉強よりも、どんな考えを持って生きているかのほうが大事。
大事なのは学校よりも家庭。
いい大学、いい会社に入っても、手に入るのはお金と肩書きだけ。
それで満足できるのは、頭を使いたがらないバカだけ。
いい大学、いい会社に入らなくても、自分の好きなことをして暮していけばいい。
[263] バカの感性 2001年9月9日 17時45分
わつい さん e-mail
バカというものは、他人の見た目の感じだけしかわからない。
他人の思想が正しいか間違いかなんて全然考えようとしない。
バカがバカなのは、そいつが生まれつきバカなのか、それとも人生の途中でバカに落ちぶれたかだ。
いくら他人がバカでも、自分がバカでなければいい。
自分は自分の道を進め。
[262] バカの世界 2001年9月9日 17時44分
わつい さん e-mail
デジタルビデオを撮って、録画したのを家族で見て、ニヤケているパパなんかは、お金持ちのボンボンだ。
コピーとって遊ぶことしかできんがか(訳:おできにならないのですか)。
バカは眼で見ただけで、それでおしまい。考えることがない。
眼でじかに見えるものに対する感情しかない。
バカは知覚に対する感情がない。
バカは最低の世界に生きている。
[261] 目の付けどころ 2001年9月9日 17時43分
わつい さん e-mail
人間は正しい知識を持っていることが大事であって、
見かけはどうでもよい。
バカは見かけにしか目を付けない。
心が落ちぶれるとバカになる。
[260] 人間は平等ではない 2001年9月9日 17時43分
わつい さん e-mail
優善な人種が劣悪な人種を支配すべきである。
これが実在界の摂理だ。
リンカーンもケネディーも、この原理に反したから殺された。
実在が彼らの死を認めたからだ。そうでなければ、暗殺だって成功しない。
やつらはたんなる人気取りだ。暗殺者が正しく、やつらが間違っているのだ。
人間が生きるべきか死ぬべきかは、結局のところ実在が決めているのだ。
死ぬべき人間が病気になって死ぬ。これが実在の摂理だ。いくら人間があがいても不治の病は治らない。
医者は劣悪な弱者の見方だから間違っている。
医療も福祉も原理に反している。そんな社会は滅亡する。
[259] 私の物理観 2001年8月25日 23時14分
わつい さん e-mail
【相対性理論】
問題は、動いている時空間において、時空間が変わらなくて物理法則が変わるか、それとも物理法則が変わらなくて時空間が変わるかだ。
後者が正しいとするのが、相対性原理である。とにかく、宇宙とはそんなもんだ。
ここに言う物理法則とは、光速度不変の原理のことである。
動いている時空間から見ても光の速度が変わらないためには、動いている時空間の長さや時間が変わらねばならないことは、直観的に明らかである。
以下略。(細かいことは物理学の本をよく読んで勉強しよう。)
【量子力学】
究極の物質とは素粒子である。
素粒子のイメージは点である。
はたして、宇宙を素粒子と素粒子の外にある空間とにきっぱりと分けられるのであろうか。そういうふうにして、素粒子と空間との接続は大丈夫なのであろうか。素粒子と空間との‘境目’は一体どうなっているのであろうか。
そんなことを考えると、不確定性原理やシュレーディンガー方程式ぐらいで片が付く(素粒子の運動がとらえられる)のは、あまりにも簡単すぎるぐらいに思えてくる。
そもそも、宇宙を素粒子と空間に分けてしまうことは完全にはできなくて、そのために本来点であるはずの素粒子の存在に空間的な広がりが生じるのではないだろうか。
ともかく、宇宙の構造は複雑なのである。
私の実在哲学も、いつかは物理学に仲間入りできるかもしれない。
日本人である私の心にとっては、どうも物理学というものが白々しいものに思えて仕方がない。実在の中に踏み込んでいく気持ちがいまひとつ起こらない。日本人に哲学や数学や文学はやれても、物理学はやれないものなのだ。
[258] 日本人に愛情はない 2001年8月25日 11時18分
わつい さん e-mail
日本人は他人の不幸を喜ぶクセがある。
例えば、ミンキーモモが車に轢かれて死んだのが、大ウケである。
葬式のときにも笑いをこらえるのにひと苦労する。
飛行機やヘリコプターが墜落するシーンに大喜びする。
日本人とヨーロッパ人では心の感じ方にかなり違いがあるようだ。
だから、日本人なら見ていいアニメでも、ヨーロッパ人にとっては見たらいけないアニメになったりするんだろう。
[257] 仕事が人間を不幸にする 2001年8月25日 11時18分
わつい さん e-mail
仕事のない社会(人々が仕事をしなくても人間として生きていける社会)が実現しないうちは、生まれてよかったと思う者はいない。(現時点において)人生は快より不快のほうがはるかに多く、人生は生きるに値しない。
人間にとっては、自由を奪われることが最大の不幸である。仕事は人生最大の不幸である。仕事があるかぎり人生に幸せはない。仕事があるから人生が狂ってくる。仕事が人間の夢や希望を奪う。人類が仕事から解放されないかぎり、人類に幸福はありえない。
今の世の中じゃ、早く死んだ者のほうが勝ちだ。こんな仕事は早くなくすべきだ。エンジンが人間を肉体労働から解放したように、コンピューターが人間を頭脳労働から解放する時代が早く来て欲しい。
[256] 立派な人 2001年8月25日 11時17分
わつい さん e-mail
立派な人とは社会的地位の高い人だ。
社会的地位の高い人が立派な人だ。
ただそれだけだ。
[255] 真の世界 2001年8月25日 11時17分
わつい さん e-mail
時間のあるのが真の実在の世界で、時間のないのが眼先の偽りの五感の世界である。
眼先の世界だけに心がとらわれて、真の世界を見失ってはいけない。
心を落ち着けて、自分の頭を働かせて、真の世界を考えて見るようにしないといけない。
人間は実在の中に生きている。
実在の世界は自分の知覚を働かせることによってはじめて見えてくる。
頭(=知覚)を使って考えなければ、実在は見えてこない。
考えて見ることによって、真の実在の世界が見えてくる。
心は、知覚で見た実在の世界に従う。
眼で見たものに対する心ではなく、頭の中で考えた実在に対する心であらねばならない。
[254] 親は子の不幸の種 2001年8月25日 11時16分
わつい さん e-mail
「バカは死ななきゃ治らない」の意味は、「いくら歳よりでもバカはバカ」ということだ。
ハッタリはやめましょう。
親のまちがいを子供に押し付けるのはいやらしい。
これで子供が幸せになれるもんか。
子供の不幸の種は全部親にある。
私が「哲学第1原理」を発見したとき、自分と親や先祖との縁が切れた感じがした。
まちがった思想は壊れやすいからいけない。
親や他人は当てにならない。自分以外の人間は当てにならない。
自分ひとりで考えるしかない。
[253] バカの世界 2001年8月25日 11時15分
わつい さん e-mail
バカは自分の頭の中で何も考えていない。
いつも他人の顔色ばかりを見ている。
バカは眼で見えるものに対する感情しかない。
バカは頭を使ってものを見れない。
バカの世界は五感が中心にある。
[252] 私の本音 2001年8月25日 11時15分
わつい さん e-mail
自分の気に入らないやつをその場でブチ殺せるような法律があったらいいなあ。
昔(江戸時代以前)は、今みたいな窮屈な法律がなくて自分勝手にやれていいなあ。
[251] センス 2001年8月25日 11時14分
わつい さん e-mail
社会科のセンスや国語のセンスではダメだ。
社会科や国語のセンスでは、字が眼で見えただけでわかったことになる。意味(論理的構造)がわからなくてもいい。
そんなセンスをいくら勉強して鍛えたところで、何もわかることがない。
数学にしたって、数学自体はどうでもいい。小学校の算数で実生活には十分だ。
しかし、数学のセンスは大事だ。数学で培われた論理的理解力は一生大切にしないといけない。
[250] 神と悪魔の中間者としての人間 2001年8月25日 11時13分
わつい さん e-mail
ある程度ルールを守りさえすれば、自分の心が肯定できる。
実在を神、自分の心を悪魔に喩えれば、
人間は神と悪魔の中間者だと言える。
[249] 心が実在に従属したほうが幸福になれる。 2001年8月25日 11時13分
わつい さん e-mail
日本人の多くは「幸せでありさえすれば、事実なんかどうでもいい」と信じている。(とくに南方系に多い)
しかし、これは言葉の上だけの絵空事にすぎない。思い上がりにすぎない。
日本人は考えが浅はかだ。日本人の常識はまちがっている。
実際には、認識は実在する脳細胞の活動によって成り立っているのであり、人間が実在の中で生きている以上、実在を無視することはできず、実在の中での幸福を願わざるをえない。
この世は実在がすべてなのだ。実在以外のものはなにも存在しないのだ。
言葉の上だけでは(例、アニメ、マンガ、小説、ドラマ)、本当の幸福はありえない。
人間は実在を受け入れることによって、より幸福になれる。
文学よりも科学のほうが人類を幸福にできる。
「幸せであるためには、まず事実が大事」なのだ。
[248] 心が知覚に従属しても無にはならない 2001年8月25日 11時12分
わつい さん e-mail
心が知覚に従属しても、心は必ずしも無になるわけではない。
たしかに制限されて狭くなる部分はあるが、それとは反対に解放されて広くなる部分もある。
例えば、車の使い方を勉強して車の免許を取れば、車の運転ができるようになる。
科学は人間の多くの夢を打ち消してしまったが、実在においては人間に多くの便利をもたらしたのだ。
[247] 善と悪の関係 2001年8月25日 11時12分
わつい さん e-mail
善は悪を支配すべきであり、悪は善に従属すべきである。
例えば、戦争の本質は人種間の闘争であり、優れた人種が劣った人種を支配するのが天の理である。
ゆえに、日本人は中国人を支配すべきであり、ヨーロッパ人には従属すべきである。
[246] 無から有は生じない 2001年8月22日 22時11分
わつい さん e-mail
脳は情報を処理するだけで、無から有を作リ出すことはできない。
情報のないところから、情報を得ることはできない。
頭の中のひらめきを当てにしてはいけない。
人間は、物を眼で見て、それを記憶し、物の特徴を分析することによって概念を作り、逆にそれらの概念を(自分の心を働かせながら)組み合わせることによって新しい物を創造する。
人間にできることは、ただそれだけだ。
(注:ケクレが夢の中で猿を見てひらめいたのは、ムダが取れたからである。)
知覚における概念は、五感における具体的事物についての観察から作られる。
知覚だけで考えていてもしかたがない。
言葉だけで考えてもわからなければ、物を自分の眼で見ればいい。
物質も情報も、無から有は生じない。
知覚における概念の出所は、五感における経験だ。
抽象概念は、具体的経験を元に作られる。
だから、他人の言葉からではなく、自分の日常経験を元にして考えることが大切。
[245] 幻聴に動じない心 2001年8月19日 18時8分
わつい さん e-mail
精神異常にとって、幻聴が聞こえるか聞こえないかはどうでもいい。
幻聴で気持ちが動きにくいのが正常者で、
幻聴で気持ちが動きやすいのが異常者だ。
幻聴なんか五感の仲間にすぎない。
要は、気持ち(心)の問題だ。
[244] 咳をする者 2001年8月19日 18時7分
わつい さん e-mail
咳をする者が加害者で、咳をされる者が被害者だ。
咳をされるのは、服が汚いからでも、顔が悪いからでもない。
咳をする本当の理由は、「幻聴が聞こえるから」だろうが。
咳をされる者より、咳をする者のほうが気狂い(キチガイ)なのだ。
いくら他人がまちがっていても、自分がまちがっていなければよい。
[243] 物か心か 2001年8月10日 14時40分
わつい さん e-mail
唯物論か唯心論か、どっちが正しいのか?・・・
原理を立てずに、いくら考えてもしかたがない。
哲学第1原理『心(認識)は脳細胞(物)の神経興奮によって発生する。』により、
心は物のひとつと考えられ、心は実在の中に埋め込まれる。
つまり、この世は唯物論の勝ちというわけだ。
現代物理の概念の中には、感覚を荷う粒子が存在しないから、
新たに‘感覚子’というものを考えてもよい。
そうすると、哲学第1原理は、
『脳細胞の神経興奮によって、感覚子が発生する。』と言いかえられる。
この原理によって、認識自体を思考の対象とすることができるようになる。
[242] 社会の実態が見えていない日本人 2001年8月10日 14時40分
わつい さん e-mail
多くの日本人は「みんなと仲良くする」ことが当然だと思っているが、じつはこれは言葉の上だけで、実際には個人の感情はみな違っているから、ホッブスが言ったように『万人の万人に対する戦い』こそが社会の実態である。
日本の国土が狭いから、日本人の感情が互いに似通っているというのはおかしい。
民族内のことであれば、日本人であろうが、フランス人であろうが、同じことのはずである。
個人の感情の違いについて、日本人が鈍感で、ヨーロッパ人が敏感なだけのことだ。
それも、やっぱり、日本人が頭が悪く、日本人が眼先のことだけしかわからないのにたいし、 ヨーロッパ人が頭が良く、ヨーロッパ人が眼に見えないことでもわかるからなのだろう。
ともかく、原理に取るべきはウソの作り話のきれいごとの「みんなと仲良くする」ことではなく、いくら汚くても正直に言った『万人の万人に対する戦い』のほうなのだ。
『万人の万人に対する戦い』であるからこそ、社会が成立するためには、さらにどうあらねばならないかを考えていかねばならないのだ。それが論理的思考というものだ。
[241] 眼先のことにとらわれやすい日本人 2001年8月10日 14時39分
わつい さん e-mail
日本人は頭が弱いから、眼先のことにとらわれるのだ。
眼先のことにだまされやすいのだ。
例えば、立派な恰好をした人をいい人だとすぐに思ってしまう。
本当は、頭の中には何もわかっていることがないのに。
奴らがいくら自分に攻撃(例えば、咳ばらい)をしかけてきたところで、
奴ら自身に正しい認識がなければ、決して自分が奴らに従う必要はない。
奴らが間違った原理に従っているだけのことだ。
間違った知識に従属するのは悪の心である。
だから、奴らにはくだらない心しかない。
間違いにとっては正しいことが間違いに見えるように、
悪の心にとっては善の心が悪に見えるのだ。
問題はどちらの原理が正しいかだ。
恰好だけ良くて頭が空(カラ)か、原理があって恰好が悪いか、どちらがよいかだ。
実際、私が自分の服を4年以上着替えないのは、服を買うお金がないからではなく、
自分の心の中に動機が存在しないからだ。
私の心は、そんな勉強の落ちこぼれの下品な根性は持たないのである。
クソボロの服を着て生きていくのが日本人らしさというものだ。
とにかく、日本人は頭が弱いからこそ、考えてものを見る習慣を養うことが大事である。
[240] 論理的に考えるとは 2001年8月10日 14時38分
わつい さん e-mail
論理とは、“まず原理をはっきりと立て”(じつはこれが難しい)、
その原理に従属するようにして考えることである。
原理は自分の経験の分析から得られる。
論理がなければ、行き当たりばったりのテキトウな思考しかできない。
そもそも頭で考えてものを見ないから論理的思考がないのだ。
政治家たちも大学出なのに、どうみても論理がわかってない。
どうせおまえらカンニングしかできんがやろうが。
[239] 愛について(再考) 2001年8月9日 22時31分
わつい さん e-mail
愛とは他人の喜びを自分の喜びにすることである。他人の快が自分の快になることである。
愛情の目的は自分の喜び(快感)であって、他人を喜ばせるのはそのための手段にすぎない。
人間の本質はエゴイストであって、人間は自分の心以外のものを目的にすることはできない。
人間を動かすものはその人自身の心であって、他人の心ではない。
心がはたらかねば、いかなる行動も生じない。心が動くから身体も動くのだ。
人間は快を求め不快を避けるだけだ。
たとえ自分が不快であっても、他人にとって快であれば、それをするのが愛である。
例えば、赤ちゃんのウンコまみれのオムツを素手で洗えるのは、母親の愛情があるからだ。
だから、年老いて子供への愛情が冷めてくれば、子供に対する不快感ばかりが高まってくる。
[238] 哲学と科学技術と社会制度 2001年8月6日 22時9分
わつい さん e-mail
哲学とは、認識についての認識であり、自然科学や人文科学の基礎となるものである。
科学技術にしろ社会制度にしろ基礎科学としての哲学が下敷きになっている。
だから、哲学がまちがっていて、その応用としての科学技術や社会制度だけがよいということはありえない。
日本の科学技術や社会制度が遅れているなら、日本の哲学がまちがっていると考えるべきである。
日本はヨーロッパと較べて、すべての点において下と見てよい。
[237] 強者の道徳と弱者の道徳 2001年8月5日 10時53分
わつい さん e-mail
人間の心は平等ではない。人間の心には善悪すなわち上下の区別がある。
強者は自分の心が他人の心よりも勝っているので、他人との戦いを好む。
反対に、弱者は自分の心が他人の心よりも劣っているので、他人との協調を好む。
心のくさったくだらない奴ほど、他人とベタベタしようとする。
[236] 正しい怒り 2001年8月5日 10時52分
わつい さん e-mail
英語の授業中に英語の本のパラパラめくりをして遊ぶのは間違っていることなので、そのことに対して怒るのは当然である。だから、その怒りは正しい。ただし、だからといって、怒りの興奮のあまり、自分の持っている超能力で他人の身体を乗っ取り、他人を自分の意のままに動かせるなどと考えることは間違っている。その点においては、自分の心が悪かったのだ。
[235] 日本社会 2001年8月5日 10時52分
わつい さん e-mail
日本社会は‘利口ブリ、いい人ブリ、有能ブリ’の社会である。
出世できるかできないかは、利口ブリ、いい人ブリ、有能ブリが上手か下手かで決まる。
利口ブリ、いい人ブリのために金が要るだけだ。
奴等は善人ではない。なぜなら、知識がないから。まったくのカライバリだ。頭の中が空っぽのカスだ。
奴等にできるのは、利口ブリ、いい人ブリ、有能ブリがせきの山だ。
世の中、利口ブリバカ、いい人ブリバカ、有能ブリバカが多すぎる。
奴等をまともに相手にしてはいけない。バカがうつる。
[234] 日中戦争 2001年8月5日 10時51分
わつい さん e-mail
中国は日本よりも科学技術および社会制度において劣っている。
中国人は日本人よりも実在について無知である。
実在について無知な者は心が悪であり、実在について知識のある者は心が善である。
ゆえに、中国人は日本人よりも悪である。
善が悪を支配することは正義である。[社会の第1原理]
したがって、日本が中国を侵略することは正当である。
正当だから成功したのだ。
こうして日本の中国との戦争は正当化されるが、
日本のアメリカとの戦争は正当化されない。
なぜなら、アメリカ人もヨーロッパ人のはしくれであり、日本はヨーロッパの科学技術や社会制度をマネたにすぎず、モノマネがホンモノを超えることはできないからである。
日本の中国との戦争は天の理法にかなっているが、アメリカとの戦争は反している。
日本の敗戦の原因は、アメリカ人を中国人と同等に低く評価したことにある。
[233] 社会制度 2001年8月5日 10時51分
わつい さん e-mail
社会制度とは、人間の集団についての自然科学にほかならない。
実在する人間が見えていなければ、いい社会制度は作れない。
実在哲学において、人間の感情その他の感覚が脳細胞の神経興奮で発生するとし、
感覚(精神)を実在の中に埋め込むことができたように、
社会科学もニュートン力学のように、実在する人間集団に関するいくつかの原理とそれらから論理的に演繹された命題(認識)から成らねばならない。
原理は人間にとって動かすことのできない、どうにもならないことである。
だから、人間の心はいかに原理を適用し組み合わせるかの中に表さねばならない。
しかし、それでは、心に暗くなりがちである。
だから、実現できるかできないかを別として、実在から切り離し心自体を知る・述べることにも価値がある。
[232] 社会の法則 2001年8月5日 10時50分
わつい さん e-mail
社会とは二人以上の人間の集まりである。
社会においては人間の“支配・従属関係”が本質的である。
人間の心には上下の違いがある。
心の善い者が上であり、心の悪い者が下である。
心の下の者は心の上の者に従わねばならない。[社会における第1法則]
例えば、学校があるのはそのためである。
心の善い者は正しい知識を持っているから、その正しい知識を他者に伝える場所が必要であり、それが学校である。
正しい知識を学ぶことによって、同時に心も善化される。
学校の意義を理解していない者が、登校拒否になる。
[231] 日本国憲法は何であるべきか? 2001年7月28日 23時13分
わつい さん e-mail
日本国憲法は、実在する日本社会についての‘認識’である。
ちょうどニュートン力学が、実在する物体の運動についての‘認識’であるのと同様である。
認識であるから、間違いだってありうる。
日本国憲法は、たんなる人間側の都合のいい取り決めではない。
日本国憲法が、実在する日本社会、すなわち実在する日本人の集合に関するものである以上、
それら固有の性質に従わねば、うまくいかないからである。
ちょうど、自然科学において物体についての法則が人間の都合で変えられないのと同様である。
日本国憲法は、日本人の実体と日本人の心の両方に一致していなければならない。
とくに日本人には日本人固有の心がある。
日本国憲法が日本人の心を汲んでいなければ、
いくらそれを具体化したところで、決して日本人を幸福にすることは出来ないであろう。
(例えば、切腹した者は、その死とひきかえに無罪にしてあげたらどうかな。)
[230] 医者の心 2001年7月28日 23時12分
わつい さん e-mail
医者は他人の悪口を言いたいだけだ。
他人の身体の悪口を言いたいから医者をやってるんだ。
近所の貧乏人の悪口を言いたいからお金が欲しいんだ。
金は悪口を言うための手段だ。
医者には他人の悪口を言う喜びしかない。
医者が一生かけて育てた感情は、他人の悪口を言う子供じみたくだらない喜びだけだ。
医者が生きる動機は、他人の悪口を言いたいがためだ。
勉強や仕事を一生懸命やるのも、けっきょくそれが目的なのだ。
医者は心が病気で腐っている。
医者はうわべでは他人の役に立っているが、心の底では他人の悪口を言いたいだけの偽善者だ。
医者には『他人の悪口を言いたい心』だけしかない。
あとは、場合に応じてその具体的な現れ方が違うだけだ。
[229] 真・善・美は三位一体 2001年7月28日 23時11分
わつい さん e-mail
知覚における実在についての正しい認識が真。
真理に従属する心は善。
善なる心の五感における表現が美。
[228] 日本国憲法反対!! 2001年7月21日 14時37分
わつい さん e-mail
アメリカ人の心を日本人に適用してもうまく行かない。
アメリカ人の心と日本人の心は違うからである。
日本にはアメリカのように土地も資源もエネルギーもない。
日本人の心はそんな何もない日本で長年培われてきたのだ。
そんな日本がどうやってアメリカ人の心で生きていけるというのか。
日本人はアメリカ人の定めた日本国憲法に従ってはいけないのだ。
[227] 日本国憲法 2001年7月19日 9時8分
わつい さん e-mail
現在の日本国憲法は、そもそもアメリカが勝手に日本に押し付けたものであって、日本人自身の手で作り出したものではない。だから、それは日本人の心に合致していない。いくら日本人がアメリカ人の作った憲法に従っても幸福にはなれない。日本国憲法は日本人をダメにする、日本人を不幸にする憲法である。
日本国憲法はまちがっている。いくら安国参拝が憲法第9条に反していようと、憲法じたいがアメリカ人が自分の国の憲法をマネていいかげんに作ったものだから、日本人がそんなアメリカがかった日本人には到底似合わない憲法に従う必要はないのである。日本人は日本人の心に従えばいいのだ。
[226] 戦闘民族日本人 2001年7月15日 12時46分
わつい さん e-mail
古来より日本人は戦争好きである。盛んに隣国の朝鮮や中国に出兵してきた。日本人があまりにも好戦的なので、聖徳太子があえて和を重んじて余りある戦闘意欲を抑えこまねばならなかったほどだ。第2次大戦後GHQがやって来て、民主主義、平和主義を押し付けたのも、日本人の戦いを愛する心を踏みにじり、日本人を心のないフヌケた輩に洗脳しようとしたためである。
日本人はケンカ好きである。他人と争うことが好きな人種である。日本人にとっては生きるも死ぬも同じことだ。死を恐れていては戦争はやれない。日本人ほど戦争に向いた人種はない。核均衡理論も死を恐れない日本人には成り立たない。日本が核兵器を持てば必ず世界を征服できる。
日本人は戦闘民族である。だから、日本人の心には愛はない。日本人はいくら他人とうわべで仲良くしているときでも、心の底ではつねに他人と戦っているのだ。協調よりも闘争だ。戦いこそが日本人の本音だ。
戦争からはや50年。アメリカ(下品なヨーロッパ人)も引き上げたし、そろそろ日本も自分の心を取り戻してはどうかな。
[225] 子供と大人の勉強のしかたの違い 2001年7月15日 12時45分
わつい さん e-mail
子供(中学生くらいまで)は知覚が未発達なので、知覚が五感に従属している。自分の考えの正しさを眼で確かめないと気が済まない。一生懸命手を動かして英単語カードを作ったり、問題集を解いたりする。
大人(高校生からあと)は知覚が発達していて、五感が知覚に従属する。問題を解くのは、記憶と適用にすぎないので、ただひたすら本を読んで要点の記憶に専念する。公式と公式の適用のしかた(つまり例題)を読んで憶える。眼で見て憶えるだけで、手は(本の余白に書きこみをする以外には)ほとんど動かさない。
子供は知覚よりも五感をよく使い、大人は五感よりも知覚をよく使う。
子供の勉強のしかたでは眼はよくなるかもしれないが、頭がよくならない(知覚が発達しない)。
子供は物事(例えば勉強をすること)の本質が見えていない。そのためにムダな骨折りばかりやっている。
いい年こいたら、子供の勉強のしかたをやめて大人の勉強のしかたに切り替えるべきである。
大人心が‘見る’ことにあるのにたいし、子供心は‘見られる’ことにある。
子供のやり方では子供心しか発達しない。
子供心では真実が見えて来ない。
「自分が他人に見られる」のではなく、「他人が自分を見る」のだ。
[224] 不確定性原理 2001年7月8日 11時31分
わつい さん e-mail
量子力学では不確定性原理からボルンの原理が導かれる。
逆に言えば、ボルンの原理から不確定性原理が導かれることでもある。
ボルンの原理とは、感覚によって波動関数が収束することだ。
不確定性原理とは、物質の存在が確率的になることだ。
つまり、“この世に感覚が存在するから”、物が波にも粒子にもなることになる。
感覚つまり精神の存在によって、物質の存在が波動関数になっているといえる。
(相対性理論とは空間が対等であることにすぎないのだから、相対性理論においては感覚は存在していないが、量子力学には感覚がある。量子力学が真実であれば、感覚の存在もまた真実である。)
[223] おばけ 2001年7月8日 11時30分
わつい さん e-mail
子供は‘お化けがいる’という目でものを見るから、
いないところにもお化けが見えて、怖い思いをすることになる。
いわゆるパレイドリア。
大人は‘お化けがいない’という目で見るから、
心霊写真を見てもトリックかパレイドリアだと考えて怖がらない。
恐怖の感情は暗い危険な場所へ人間を近づけないために役に立つが、
近づく必要が生じた場合には、かえって邪魔になる。
無闇やたらに何にでも怖がることはかえって自分を不利にする。
お化けは実在しないのだから、そんなもの怖がってもしょうがない。
実在しないものを怖がることは、実在への適応を妨げ、自分にとって不利益なことだ。
しかし、恐怖の感情がまったくなくなれば、刃物を持って暴れまわる男や高速で走っている車などに平気で近づくことになるから、これまたかえって実在に適応できなくなる。
恐怖の感情があること自体は悪くない。
怖がるべきことと怖がらざるべきこととの区別のつくことが大事であり、
その区別は実在を知ることによって身に付くのである。
[222] 日本人はバカで悪である。 2001年7月8日 11時30分
わつい さん e-mail
日本人は悪の民族である。
したがって、自分の悪を否定して無理に善くなろうとするのではなく、
自分の悪性を肯定して、あまり善くなろうとしてはいけない。
人間は生まれた時には実在について無知であり、したがって心は悪であるが、実在を知り、心を正しい知識に従属させることによって心が善化される。
日本人はヨーロッパ人ほど知覚が発達していないから、日本人はヨーロッパ人ほど実在を知ることが出来ず、したがって日本人はヨーロッパ人ほど心が善化されない。
心の善化にも限界がある。
善か悪かを割り切るのではなく、どこまで悪人が善くなれるかという程度の問題なのである。
いくらヨーロッパ人がいろんな賞を作って全人類を善化しようとしたところで、
知覚が遺伝的に未発達な人種にとっては無理な注文である。
悪人がこの世で生きていくためには多少の心の善化も必要であるが、
あまりいい子ちゃんバカにはなるな!
日本人には多少のバカさが必要なのである。
[221] 理性と悟性 2001年6月30日 8時37分
わつい さん e-mail
理性とは自分の心を落ち着けて五感を知覚で見ることである。
悟性とは自分の心を自分の知覚に従わせることである。
[220] 日本人としての自分 2001年6月29日 23時37分
わつい さん e-mail
人類はアフリカで誕生した。
人類はもともとアフリカに適応している。
アフリカは住みよい土地だからアフリカ人は頭を使わなくても生きていけるが、
ヨーロッパは寒いのでヨーロッパ人は頭を使わなければ生きていけない。
アフリカ人は頭を使わなかったので人類誕生のときのままであるが、
ヨーロッパ人は頭を使わねばならなかったので頭が良くなった(知覚が発達した)。
日本は温帯にあるので、日本人はアフリカ人とヨーロッパ人の中間である。
日本人はアフリカ人ほどバカではないが、ヨーロッパ人ほど利口でもない。
日本人はアフリカ人に較べれば利口だが、ヨーロッパ人に較べればバカだ。
日本人はいくらかバカな人種である。
この事実を認めた上で、哲学を構築しなければならない。
自分がヨーロッパ人ならば完全な合理哲学も可能であろうが、
日本人のひとりである自分にとっては、
自分のバカさを考えに入れないでやっても、実際にはうまくいかないのだ。
自分が成功するためには、自分の長所だけを伸ばそうとするのではなく、
自分の欠点も含めて自分のすべての個性を伸ばそうとしなければならない。
つまり、勉強や仕事ばかりすればよいのではなく、
自分の心を喜ばせるために遊び時間を作る必要がある。
日本人はヨーロッパ人ではない。
日本人なら自分のバカさを認めて生きて行かねばならない。
日本人はアフリカ人ではない。
日本人はバカ過ぎてもいけない。多少は知的であるべきだ。
[219] 善と悪 2001年6月23日 10時55分
わつい さん e-mail
心は知覚に従属し思い直すことによって変化する。
善とは正しい知識によって実在化された心であり、
悪とは間違った知識あるいは無知識によって実在化されない心である。
つまり、善とは正しい心であり、悪とは間違った心である。
心が知覚と関係することによって、心に善と悪の区別が出来る。
人の心は生まれつき悪であり(心の全部が悪だとは限らないが)、心が正しい知識に従属することによって少しずつ善くなる。
[218] 寝不足に御用心 2001年6月17日 13時48分
わつい さん e-mail
寝不足が続いて、頭(知覚)が働かなくなると、
五感を頭で見れなくなり、心で見るようになる。
すると、心にとらわれが強くなる。
心が興奮しやすくなり、危険である。
そのうえ心に抑制を掛けるべき知覚の働きが弱まっているので、
心の興奮を止められない。
寝不足の疲れで不愉快なところに、さらに不快な刺激が加わると、
心の興奮が抑制できる限界を超えてしまい、気が狂ってしまう。
こう言う私も、高一の時には、
毎日夜遅くまで勉強していて寝不足続きだった。
高校の校長が毎週朝礼で二当三落(解説:毎日二時間しか寝ない者は大学に受かるが、三時間以上寝るやつは落ちること)とか言って生徒をあおるので、
私も勉強こそが正義だと信じて、勉強をバカにするやつが許せなかった。
そこにバカ息子が現れて英語の教科書のパラパラめくり遊びをはじめたので、
どうしても自分の怒りを止められなかった。
認識は脳細胞の神経興奮(で発生する感覚)なのだから、
脳細胞を疲れさせ脳細胞の調子を狂わす寝不足は禁物である。
勉強は勉強すること自体が目的なのではなく、正しい知識を身につけ頭が良くなることが目的なのだ。
勉強時間には最適の長さがあるのであり、ただめったやたらに長く勉強すればよいのではない。
勉強するのも程ほどに。
[217] 五感、知覚、心 2001年6月17日 11時38分
わつい さん e-mail
五感は意味の容れ物にすぎない。
中身の意味は知覚か心である。
知覚には真・偽の区別がある。
真とは実在的であり、偽とは実在的でないことである(数学の場合を除く)。
感情には快・不快の区別がある。
快とは気持ちいいことであり、不快とは気持ち悪いことである。
知覚には快不快感はないが、
知覚にも心にも五感にも感覚(自分に‘感じる’こと)がある。
そもそも知覚と心の間に関係がなければ、
快不快の区別と真偽の区別とは一致しない。
つまり、心の世界と実在の世界とは、世界を支配する法則が違っている。
知覚と心に関係ができた時、
知覚が心よりも強ければ、心が知覚に従い、
反対に心が知覚よりも強ければ、知覚が心に従う。
心は実在の中に存在する脳細胞の神経興奮(で発生する感覚子)にほかならない。
実在の世界の中に心があるのであって、
心の中に実在の世界があるのではない。
ゆえに人間においては、認識が実在的であらねばならず、
したがって、知覚が心よりも強くあらねばならない。
[216] 分裂病と鬱病 2001年6月17日 9時2分
わつい さん e-mail
自分の心へのとらわれが強すぎて、永久に自分の心にとらわれてしまって、現実の世界に出て来れなくなったのが分裂病だ。
自分の心にとらわれている時に、さらに自分から自分の心を‘強いて’(解説:痙攣するほどメチャクチャ激しく力をこめて)興奮させると、心の興奮が静まらなくなる。心の興奮が強い状態が続くと、幻聴が聞こえる。逆に幻聴が聞こえる時は、心の興奮が続いている証拠である。心の興奮が強いと幻聴が聞こえるのは、心にそういう性質があるからである。
反対に、現実の世界へのとらわれが強すぎて、永久に自分の心の世界に入れなくなったのが鬱病だ。
自分の心が現実に対して不快さを感じて耐えている時に、さらに自分から自分の心を‘強いて’抑えすぎたため、心の抑制が外れなくなって、心が興奮しなくなる。自分の心が活動しなくなると、生きる動機を失って、自殺に至る。人間の生存を支えているのは、知覚ではなくて心だからである。心が興奮できなくなるのは、心に対する抑制がずっと続いているからである。だから、薬剤などで抑制をはずせば、心が再び活動できる。
教訓:『心に対しては興奮させすぎも、抑制しすぎも、両方いけない。心が適当に興奮していることが大切なのだ。』
[215] あの野郎、腹が立つ 2001年6月16日 11時41分
わつい さん e-mail
「あの野郎、腹が立つ」といくら心で思っても、
自分に現実についての理解がなければ、
自分のほうが間違っているかもしれない。
だから、まず事実を考えよう。
事実がわかった上でも、なおかつ「あの野郎、腹が立つ」のなら、
それは相手が本当に悪いからだ。
その怒りは肯定していい。
[214] 問題 2001年6月16日 11時40分
わつい さん e-mail
分裂病が治りにくいのは、知覚において解決すべき‘問題’が難しいからである。それは実在哲学で常日ごろ考えているような、一般性の広い哲学的問題であって、自分自身に関する問題である。
分裂病における悩みは、主として幻聴に対するキョーレツな不快感であるが、つまりは“お化けが怖い”のと同じことだ。“お化けが怖い”のを治すためには、お化けがいないことを理解すればよいように、幻聴が不快なのを治すためには、幻聴とは何かを理解すればよいのだ。
実在するものについての恐怖といえば、私の場合、“口唇裂〔みつくち〕”(知らない人はYahoo!検索で勉強してね)なんかは中学生頃まではすごく怖かったけれど、大学生ぐらいになるとさすがに怖くなくなった。理由ははっきりしないけど、なんらかの人体に関する客観的理解を知らず知らずのうちに自分が得たためであろう。
お化けにしてもみつくちにしても、一般性の狭い神経症的な恐怖(不快感の一種)ではあるが、それは問題にしている感情の一般性(適用範囲)の広さの違いにすぎず、分裂病における一般性の広い不快感についても同様のことが言える。幽霊が怖いのも、あの野郎が頭にくるのも、幻聴を嫌がるのも、みな心の働きとしては同じことだ。したがって、神経症(恐怖症)も分裂病も“実在についての正しい理解”が得られれば治るのだ。幽霊が実在しないことが理解できれば幽霊が怖くなくなったように、幻聴とは何かが理解できれば、もはや幻聴で嫌がることもない。病気によって解くべき‘問題’が違う。知覚において‘問題’に関する正しい理解が得られれば、それと共役(相互従属)する心も正気に戻る。実在が不快なのは、実在に対する理解がないからである。とにかく、考えなければ問題は解決されないのだ。
[213] お化けなんか怖くない 2001年6月10日 0時24分
わつい さん e-mail
心には‘思い直し’がある。
私は子供の頃はお化けが怖かった。
テレビで心霊写真を見た夜なんかは寝汗でびしょびしょになって眠れなかった。
気が狂う寸前だった。
なのに、大人になると心霊写真を見ても怖くなくなった。
理由は、幽霊が存在しないことをはっきりと理解したからである。
人間の精神は脳細胞の活動で発生するのであって、脳を離れて精神(感覚)だけが存在し得ないのだ。
頭(知覚)で幽霊がいないことがわかると、心でも怖く感じないものだ。
したがって、心霊写真は全部トリック(作り事)である。
ついでに、超能力やUFOなんかもみなトリックである。
ひとつインチキがばれると、‘芋づる式’に全部がインチキであることがわかる。
今日もテレビで心霊写真を見たが、まったく怖くなかった。
会場の見学者も私と同様で、雰囲気が昔とずいぶん変わったものだ。
[212] 知覚で興奮しよう 2001年6月9日 12時33分
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心が興奮しすぎると実在の外に出る。
頭(知覚)で一生懸命正しいことを考えれば実在の中に入れる(戻れる)。
弱い心に負けるな。
[211] 分裂病の異常な感情 2001年6月9日 12時32分
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分裂病では人間のナマの心が強くオモテに表れるのであって、新たに異常な感情が生じたわけではない。例えば、1.幻聴:他人のウワサ話が気になる。自分の評判ばかりを気にする。2.被視妄想:他人の目を気にする。見た目を気にして髪形や服装に凝る。1と2とでは、ともに他人に寄り掛かる感じがある。3.プレコックス感(自分の心の世界に行ちゃってる感じ):自分の心で感じたことばかり言って、客観的実体が見えていない。例、オバケやユーレイが怖い。
このように、分裂病者の心とふつうの人の心の違いは、程度の差しかない。
[210] 西洋哲学の流れ 2001年6月2日 16時12分
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『食欲は思考欲よりもくだらない。』(byジョン・シュチュアート・ミル)
感情に質の差(上下)の違いがあるのは、知覚に真と偽の区別があるのと同じことだ。
知覚に真偽の区別があるように、心には上下の区別がある。
合理主義が実在を発見した。人間というものは、とにかく正しなければならない。
功利主義は合理主義に感情を付け加えた。人間は正しいだけでは満足できない。正しい上に楽しくなければならない。
実存主義は合理主義が導入した実在の概念を取っ払った。たとえ紙の上だけでも、楽しければそれでいい。(例、テレビゲームの世界)
プラグマティズムは実在の概念のない功利主義である。知覚の正しさにこだわらない。現実において、真理であろうがウソであろうが、とにかく愉快になるならそれでいい。
時代が進むにつれて、認識が甘くなっていくようである。
いくら科学が発達しても、人間は実在の外に出ては生きていけない。
“精神病”の存在がそれを教えている。
[209] バカとキチガイ 2001年6月2日 16時11分
わつい さん e-mail
バカとキチガイはちょっと違う。バカは頭でものを(つまり知覚で五感を)見ず心でもの(五感)を見る傾向が強いが、心の興奮の程度が弱いので、実在の外に出たきりにはならず、なんとか実在の内に留まっている。キチガイは心の興奮が強すぎるので、実在の中に戻って来れず、実在の外に出たきりになる。分裂病者がいくら表面的には冷静でも、心の中では荒れまくっているのだ。バカとキチガイとでは心の興奮の程度が違う。バカよりもキチガイのほうが心の興奮が強い。バカは一時的・反応的なキチガイ状態である。ふつうの人でもアニメやマンガを見るときには、一時的に実在の外に出ているが、やめるとすぐに実在の内に戻れる。
バカは頭が働かないから、ものを心で見ざるを得ない。とくに私の住んでいる但馬(兵庫県北部)にはバカが多い。高知や福岡では見たこともないようなとてつもないバカがいる。こいつらは自分の心だけでものを見ていて、実体が見えていない。私には感じているものをバカは感じていないし、反対に私には感じないものをバカは感じている。バカの気持ちが私にわからないのも無理はない。
心霊写真で怖がるのはバカである。本当はトリック写真にすぎない。奇形児を怖がっているようではバカである。医者として失格である。科学的には発生の異常にすぎない。心を冷静に保てば実体が見えてくるはずなのだが...私もけっこうバカだなあ。
頭でものを見れるためには、あらかじめ頭で考えて理解を持っていなくてはならない。なにも理解を持たなければ、ものを心で見ることしかできない。頭でわからないから、心に流されることになる。
バカやキチガイについての理解がなければ、自分の心でただ汚いとしか感じられない。バカやキチガイについての理解があれば、彼らの態度をいくらか寛大に見ることができる。あらかじめ自分が暇なときに頭でよく考えて、バカやキチガイについての理解を持っておくことが、自分が彼らと接した時に不快にならないコツである。
[208] エライ人ほどバカで済む。 2001年6月2日 16時10分
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他人の書いた本を読むよりも、自分の眼で見える世界の物事について考えることのほうが大事である。自分の五感界に現れる現象について、その知覚的すなわち現実的意味を理解しなければならない。現実から目をそらすな。冗談の世界に逃げるな。
私は高一の時、隣の席にいた市議会議員のバカ息子の‘英語の本パラパラめくり遊び’に腹を立てて気が狂ったが、それ以前にこのテの人間に対する対処法を知っておけば気が狂わなくても済んだはずである。バカは無視して気に掛けないのが一番いいのだ。私が小学生、中学生の時にも身近に不良はいた。不良というものについてもっとよく考えておくべきだったのだ。
人が社会の中で生きていくためには、他人のことも理解しておく必要がある。
この市会議員のバカ息子のように、会社の上役は自分で考える必要のないお金持ちのボンクラ育ちであって、まともに相手にする価値のない何の考えもない頭の弱いバカばっかりだ。自分のバカを補うために、他人の目に付く服や髪なんかを立派にする。うわべが偉いだけで、頭の中はカラッポで何にもない。
エライ人ほどバカで済む。エライ人が正しいと思っているのは大まちがいだ。
[207] 「生きるべきか死ぬべきか」再考 2001年5月27日 13時28分
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一見、知覚で強引に「生きる」に決めればいいように見える。
しかし、「知覚で強引に「生きる」に決めればいい」理由は何だ?
知覚だけでは原因と結果の因果関係が客観的にあるだけで、
生きるのも死ぬのも同じウエイト(重み)しかない。(既出)
それなら、知覚で強引に「死ぬ」に決めてもおかしくはない。
つまり、いくら知覚だけで強引に「生きる」に決めたつもりでも、
その裏には強引に「死ぬ」に決めたというもうひとつの意味があり、
実際には言葉の意味が不安定なのである。
したがって人間が生きて行くためには、
知覚以外に感情が必要である。(証終)
心の存在を無視して心の満足を得ようとしない者は、
自分の心を押し殺しすぎた結果、鬱病にかかり、
最後に生きる動機を失って自殺することになる。
[206] 無知は怖い 2001年5月20日 23時18分
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おれは「鬱病が実在する」ことを知っているから、自分の心を無視してはならないといっているんだぞ。
「現実だけ知っていればいい」と思っている者は、この世に鬱病があることを知らないからだ。
いくら強気でも実在を知らないのはいけない。
[205] これが幻聴の正体だ! 2001年5月20日 12時33分
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自分が眼で見たり耳で聞いたりしている自分の身体の外にある‘この世界’は、実際には‘自分の頭の中’に生じた‘この世界’の感覚にほかならない。つまり、自分の脳細胞の神経興奮によって‘この世界’の感覚が生じている。
したがって、自分の身体の外から他人の声が聞こえてくるように感じられる幻聴も、実際には自分の脳の上の現象にすぎない。自分が頭の中で考え事をしているとき、同時に自分の脳にある、自分の身体の外の位置の感覚を担う脳細胞が活動すれば、自分にとってはあたかも自分の身体の外から他人の声が聞こえてくるように錯覚されるのだ。自分が自分の頭の中で作り出した他人の声が幻聴なのである。
[204] 漫画の値打ち 2001年5月13日 0時24分
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私が小学生のころ、小学館の学習雑誌の別冊付録にウルトラマンの漫画が出ていた。
かっこいいウルトラマンとかっこわるいウルトラマンのどっちが本当の正義の見方かという、なかなか考えさせる内容であった。
たしか、悪の凶悪星人がかっこいいウルトラマンのぬいぐるみを着て、かっこ悪い本当のウルトラマンと戦うが、凶悪星人のほうがかっこいいから、地球人がニセウルトラマンのほうを味方して本物のウルトラマンをいっしょにボコボコにする、といった残酷な内容であったと思う。
絵もうまくなくてギャグもとくになかったけど、今になってもまだ憶えている。
(そのほか、「やっとでたマン」でハエがブーンと飛んでくるカットもインパクトがあったので憶えている。)
漫画の値打ちは絵やギャグよりもそんなところにあるんだなあ。
[203] 記憶と適用 2001年5月12日 8時48分
わつい さん e-mail
勉強の本質は記憶と適用だ。
過去の記憶をもとにして一般化された認識すなわち法則を得、その法則を現在の直面する問題に適用して解決することは、勉強でも日常生活でも同じことだ。
[202] キュリー夫人は動物の心でノーベル賞を取った。 2001年5月12日 8時47分
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男にはY遺伝子がある。
女にはY遺伝子がない。
Y遺伝子の上に人間の感情が乗っている。Y遺伝子を持たない女性には動物の感情しかない。
女性の精神活動はすべて動物の心が動機である。だから女性はセンスが下品だ。
男だって、人間の心を活動させなくなったら、女と同じだ。
男には、戦いを喜びにかえる能力(ちから)がある。
戦いとは、敵を殺すことだ。
野球みたいな女々しいのは、戦いじゃない。作りごとのお遊戯だ。
眼が見えて指先が動けば勉強はできる。知覚がなく五感だけでも勉強は出来る。
それでも一生懸命がんばれば、ノーベル賞は取れる。
動物の心だけでノーベル賞を取るのは大変だね。
可能性は少ないけど0じゃないとゆーわけだね。
でも最近は女の人がノーベル賞を取らないね。
百年も遡らないといけないんじゃ、取らないのと同じことだね。
女は仕事をまじめにやるにはやるが、仕事の“目的”がくだらない。
動物的だ。たいてい、眼先の見栄を張るためだ。
見栄を張るためにお金がいるから働くまでだ。
男のように純粋に仕事の“正しさ”に打ち込んでいない。
見栄を張るとは、いい人ぶることだ。
いい人ぶるためには、とにかく他人に見えなくっちゃいけない。
つまり、見栄とは他人の眼に“見え”ることだ。
例えば、大きな家を建てたり、外国車に乗ったりするのは、心が落ちぶれて、心がただたんに“見掛けがいい”ことだけにとらわれて、他人の眼に見えるようにしなければならないからである。
心がすでに知覚の正しさから離れて五感の見掛けの良さだけにとらわれているから、そんな態度をとるハメになるのだ。
とくに見栄を張らず、他人の眼にとらわれていなくても、“見掛けの良さ”しかわからなければ同じことだ。
知覚の正しさに生きる者は、五感の上で自分がいい目に会わないといって嘆いてはいけない。だから、男はキビシーのだ。(泣)
ただし、人間であるいじょう、“知覚の正しさに伴ういくらかの快感”は得られる。それで満足しなければならない。
女には、“知覚の正しさに伴う快感”がない。このため、男の目的が知覚にあるのに対し、女の目的は五感にしかない。男の目的が知的満足感にあるのに対し、女にはただ見た目がいいだけのくだらない喜びしかないのだ。
医学がいまだに非論理的で知識のゴタゴタに過ぎないのは、医者が眼先の喜びだけを求めて、学問としての“正しさ”をおろそかにしているからだ。
[201] ハッタリ(まず眼から入るバカをだます方法) 2001年5月12日 8時44分
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おまえの一体何が正しいのか。
自分は間違っていない。
間違っていない者を間違いだと言う者が、間違いである。
では、そいつが間違いであるのに、そいつが自分にケチをつけてきたとき、どうして自分のほうが間違いだと思うのか。
それは、そいつが眼先・耳先だけで正しい者のフリをするのが上手だからである。
眼先・耳先の“ハッタリ”(他人の頭を欺く術)にだけは自分よりも長けている。
落ち着いて論理的に考えれば、そいつのほうが正しくない、そいつが無知だ、
そいつが正しいか間違いかもわからず、ただ自分にケチをつけたいからつけているだけで、そいつが決して正しく、自分が決して間違っているわけではない、
そいつの頭が悪すぎることがわかるはずだ。
正しいことが人間としてのルールだ。
空威張りのボンクラが。
知恵遅れが。考えてからものを言え。
正しくないのに、他人のことに口出しするな。
自分がそいつに従う必要はない。
そんなバカなど取るに足りない、たわいない。
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