[2001] 知・情・意 h17.10.9
知とは知覚、
情とは心(感情)、
そして意とは知覚と心の両方を考慮した
総合的判断のことである。
つまり、
早い話、
人間は正しくて幸せなことをすれば
よいのである。
[2002] 譲歩(譲り合い) h17.10.9
社会すなわち人間集団は、自分と他人の複合体である。
ところで、自分の心と他人の心は同じではない。
だから、人間すなわち社会の中での個人は自分の幸せをただ貫くだけではなく、
多少は自分の気持ちを譲って他人と折り合い(複合し)ながら生きていかねばならない。
[2003] 普遍的真理といえども絶対的なものではない。 h17.10.9
心は知覚(実在)に必ずしも従わなければならないわけではない。
例えば、物理学が苦手なら生物学を選択すればいいから、
必ずしも物理学の法則が普遍的なわけではない。
つまり、物理学の法則は普遍性が高くすべての物体に適用することができるけれども、
自分にとってその法則が嫌いなら、自分はその法則を使わない世界を選んで、
その世界の中で楽しくやっていけばいい。
つまり、普遍的真理は絶対的なものではなく、
心が真理を否定することもできるのである。
[私も医学生の頃までは、物質を細かく分けていった究極の粒子が素粒子だから、まず素粒子物理学を勉強しなければ、他の化学や生物学や社会学など理解できるわけがないと考えていた。しかし、それは違う。法則を使う人間の立場から言えば、一般常識さえ踏まえておけば、あとは自分のわかる自分の好きな法則だけを使って考えていけばいいのだ。]
[2004] 私が幸福でない理由 h17.10.10
@幼少の頃、私の神性(超能力)を奪った。乳幼児の脳に電気をかけたり打撃を与えたりすることはよくない。あとでどんな脳の障害になるかもしれない(ガラスコップにヒビが入って割れやすい状態)。余計なことだ。国はその責任を負う義務がある。
A私の父と母が私に『性感が分裂病の原因である。』ことを教えなかったこと。必要なことは子供に教えねばならない。
余計なことをするわ、必要なことはしないわで、私は不幸にされたのだ。
[2005] ガロア h17.10.11
集合をまず最初に考えて、その代数的構造を問題にした点が、
ブルバギの現代数学の方法と一致している。
[2006] 『学問に終わりはない。』陽明王 h17.10.11
私が医学生の頃、医者はうわべは明るそうに振舞っているけれども、じつは面白くない仕事であることを実感した。
つまり、医者の仕事は、人間の本来あるべき心を十分に満足できない職業なのである。
医者は人間の心を満足できないことに日々耐えながら辛抱強く働いているのだ。
現代社会では仕事が面白い仕事だけに偏ると社会が成り立たなくなるから、[1943]の4つの型に分類されるが、
産業革命以後、人間が肉体労働から解放されて、力仕事に従事する人間が要らなくなって社会構造が大きく変化したように、
五百年が千年か後の未来社会においては、技術的に仕事の制限が撤廃される結果、人間がつまらない労働から解放されるので、双対原理から導き出された社会がそのままの形で実現する。
『双対原理から導出される世界』について研究する意義がここにある。
《6ヶ月前からのつづき》
双対原理によって、五感界や知覚界から切り離して心自体をとらえたとき、
心の中には感情以外の部分があることがわかる。
それが超感覚器・超運動器である。
[2006] 科学とは何か? h17.10.11〜12
科学的方法では、実在界と感覚界の対応が眼と手だけに限られている。
一方、超能力のある世界では、実在界と感覚界の対応が眼と手以外の感覚器や運動器である点が、科学とは根本的に異なっている。
知覚は五感界の情報をもとにして、実在がどうなっているかを考えるところであり、[人間は知覚を働かせて五感界を実在化しながら見ている。]
いくら知覚で実在を考えたところで、新たに別の眼や手(感覚器や運動器)ができるわけではない。
つまり、超能力者における超感覚器・超運動器は生まれ付きのものであって、知覚とは無関係である。
[2007] もうひとつの可能性 h17.10.12
赤ちゃんは、生まれつき超感覚器・超運動器は持っていなかったが、後天的に自分の脳細胞を特定の配列に組立てることによって超感覚器・超運動器を作り出した。
しかし、幻聴を聴くときに用いられるテレパシー器官は、はたして自分の力で後天的に作り出したものであろうか?それとも、それは人間が生まれつき持っているものであろうか?たしかに私は高1のとき隣の席の不良の身体を操ろうとして幻聴が聞え始めたが、それよりずっと前小学校1,2年のとき、計算ドリルの問題を考えながらプール掃除をしていたとき空中から『この道を行け』という空耳が聞えたことがある。すると、やはりテレパシー器官は人間にとって生まれつきのものであろう。ただそれが後天的に使われなくなって休眠状態になっていたところに、高1のとき再活動がかかって、本格的に活動するようになったのだ。
すると、他の超感覚器・超運動器も、やはり人間にとっては先天的な生まれつきのものなのだろう。それらを再活動させることができれば、それらの力が発揮されるのだ。
[2008] 超感覚器・超運動器を活動させる方法 h17.10.12
まず、五感界・知覚界への心のとらわれ(いわゆる煩悩。例えば、性欲・金欲・物欲など)を断つ。
五感界・知覚界と心の複合が解けたら(解離)、本来の心自体を知覚で見るようにする。
すると、心の中にある『感情でない部分』が見えてくる。([1702]参照)
それが見えたら、その部分に力を入れて活動させる。
[赤ちゃんの頃の私は、よっぽど天井から吊っているガラガラの回るのが面白くて、自分でもやってみたかったのだろう。小学生の頃の私も、テレビのUチャンネルやおばあさんの腕時計のリューズを回しすぎて壊したし(もちろん手で)、私はなんでも物を回すのが好きなのだ。]
[2009] 代償 h17.10.12
私には、性欲・金欲・物欲がない。
つまり、私に女・金・物を与えても、私の心はちっとも喜ばない。
したがって、私の不幸を償[つぐな]うには、
手前らの苦痛と死をもってせねばならない。
(別に、そうしたからといって、私の心が喜ぶわけでもないが。世の中、嬉しくなくてもやらねばならないことがある。)
[2010] 人間の本能 h17.10.12
人間には頭の中に大きな知覚がある。
知覚に力を入れて活動させると、知覚が発達する。
知覚を働かせて考える喜びが人間の本能である。
[2011] 「子供の好きなようにさせる」のがいいのではない。 h17.10.13
私の両親は「子供の好きなようにさせる」のが教育方針だった。
しかし、「子供の好きなようにさせる」のが必ずしもいいわけではない。
子供はまだ人生の経験が足りないから、子供が自分の好きなようにすると、不幸になる場合がある。
例えば、私の弟の場合、弟の「好きなようにさせた」結果、学校にも仕事にも行かず自分の家の中ばかりに閉じ篭[こも]っているようになった。(信者の友達に唆[そそのか]されたのかもしれない。)その結果、内弁慶の青病短で、一日中日に当らないので、とうとう白血病にかかって死んでしまった。親のいいかげんな言葉が弟を殺したのだ。
「子供の好きなようにさせる」よりも、
「子供が幸福になるようにさせる」と言うべきであった。
[2012] 信者のみなさんへ h17.10.13
私は他人の言いなりで動く人間は嫌いだ。
他人からの命令ではなく、自分の意思で行動せよ。
[2013] 物欲 h17.10.13
物欲は、日本では昔から悪いこととされているが、
科学と物欲とは複合するから、
西洋ではむしろ善いことと考えられている。
物欲が肯定できるためには、それなりの知性が要求されるのだろう。
それとも、あまり知性が高くなくても楽しく生きていけるところが
日本のいいところなのかもしれない。
[2014] 神の正体 h17.10.13
神と言っても、じつは超能力者すなわち超能力を持った人間にすぎない。
超能力があるだけで人間よりも上というのは行き過ぎだ。
指導者(リーダー)すなわち大統領や政治家と言うよりは、
芸人かスポーツ選手と言ったほうがいい。
他人にはない才能があるというだけで、
何から何まで他人より上だと考えるのは間違いだ。
頭や心が悪ければ、むしろ人間よりも下だ。
[2015] アイドル h17.10.13
ファンがアイドルに期待しているのは、
そいつのボンボン気だ。
いいとこ育ちのボンボン気が甘くて気持ちいいから、
アイドルに接して、アイドルを見たり歌を聴いたりして、
そいつと同じ気持ちになろうとするのだ。
[2016] 私はどうして眼が悪くなったか? h17.10.14
中3の2学期頃にガリ勉していて
眼を本やノートに引っ付けて(10cmぐらい)斜めから見ていた。
それで半年の間に視力が1.0→0.3ぐらいに減った。
正しい姿勢(眼と本の間は約30cm)で勉強すれば、たとえガリ勉しても眼はそう悪くならない(と思う)。
[2017] 私はどうして斜視になったか? h17.10.14
まず、私には生まれつき軽度の外斜視があった。(へその緒を入れた箱の裏に書いてあった。)
でも、幼稚園、小学校、中学校通じて斜視でからかわれたり、自分でも困ったことは一度もなかった。
ただ、高知学芸中学校で隣の席にいた谷脇優子[ゆうこ]さんが休み時間に友達とお喋りしているときに「K君(私のこと)がキョロキョロ私のほうを見る」と言って嫌がっていたことがあった。(私は優子さんが好きだっただけに、かなりガックリきた。)
中3の2学期頃からガリ勉して眼を本やノートに引っ付けて斜めから見ていたが、
それでも視力が悪くなるぐらいで、べつに斜視にはならなかった。
ところが、高1の4月に隣の席の不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをしているのが気に障って、横目で睨[にら]みながら身体を操ろうとして必死に念をこめていたら、頭の中でどこか(右耳の奥)が壊れたように感じて横目が治らなくなって、その晩家に帰ったら近所の連中が自分の悪口を言う幻聴が聞えてきて、頭の中がチクチク痛くなってそれが気になってますます横目になった。
それ以来、25年間、多少はマシになったものの、一度も横目から開放されたことがない。
[2018] 特講題目 h17.10.16
物性論特論その1
『脳細胞工学』
脳細胞の特定の配列が感覚波を発生する。
感覚波と物質の相互作用=超能力
[2019] 日本神道の組織について h17.10.17
日本神道の信者は、私(=神=超能力者であった/である)の見方組と敵組の2つのグループに分かれている。
敵組は私が家(下宿の部屋)を留守にしている間または私が家で眠っている間に、私の家に勝手に入って、私の家の中にある物を勝手にいじって(例、パソコンやビデオデッキなど)、壊したり(例、タイガーVE電気魔法瓶とく子さん)、盗んだり(例、CASIOのデジタル腕時計)する。
これに対して、味方組はとくに何もしてくれない(一度だけ冷蔵庫に農協牛乳1L2本入れてあった)。何のためにいるのかわからない連中である。
敵組が誰であるか、見方組が誰であるかは私から見て大体見当が付くだけではっきりとはわからない。中には敵組と見方組を入れ替わったりする者もいるようである。
敵組も見方組も自分自身の判断だけではなく幹部の意向をうかがいながら(許可を得ながら)動いているようである。
敵組と見方組の両方に言えるのは、みんな嘘つきの芝居面したいやな連中だということだ。[人間は、自分の本心で動くべきだ。信者の態度はしたたかなだけで、かわい気がない。]
私自身は日本神道の信者ではない。(中3の冬まで日蓮宗に入っていました。)
[2020] 男の脳と女の脳 h17.10.17
しらとりれいこ著『獅子座流星群の夜』を読んで、男の脳と女の脳の違いについて考えてみました。
男は物を見て、考えてから思うが、
女は考えることがなく、物を見て、見たまんまを思うだけだ。
女は五感と心しかないから、心の表出が多いのだ。[女性の知覚が月経によって生じた現象性イデアに侵[おか]されて働きにくいからだ。]
男は五感と知覚と心があるから、心が知覚に表れるだけで五感に表れにくいのだ。
[2021] 宗教的感情 h17.10.17
私は中3の冬まで日蓮宗に入っていました(その後は無信仰です)。
それまでは週に一回ぐらい金[かね]のお椀を棒で2回叩いてチンチンと鳴らしてから眼を閉じて両手を合わせて「ナムミョウホウレンゲキョウ〜」と唱えていました。
日蓮宗をやめた理由は、新しい家に引越ししてお金がたくさん要るようになって毎月のお布施が払えなくなったからです。
「ナムミョウホウレンゲキョウ〜」の意味については何も考えませんでした。ただひたすらお母さんの後について念仏を唱えていました。
でも、こうしてお経を唱えることで中3の冬まではオナニーしませんでした。たとえ、オナニーしても気は狂いませんでした。
それは、人の心の中には『宗教的感情』という感情があって、その感情を毎日働かせ続けていれば人間として安泰に生きていける効果があるからです。
これが宗教の最大の発見といえるでしょう。宗教の存在意義がここにあるわけです。
たとえ「ナムミョウホウレンゲキョ〜」の意味を知覚で理解していなくても、『宗教的感情』を働かせさえしていればそれでいいのです。
仏教にはいろんな宗派があって教義はそれぞれ違っていますが、みんな同じ『宗教的感情』を働かせているのです。だから、そもそも教義じたいはどうでもよく、ただ『宗教的感情(信仰心とも言う)』を働かすことができればどんな宗教であってもいいわけです。
私が日蓮宗をやめてからすぐ、オナニーしすぎて気が狂ってしまいました。
たとえ合理的には必要性が理解できなくても、日蓮宗を続けていればよかったと後悔しました。
[2022] 躁鬱病の対処法 h17.10.17
自分が[1948]の4つのタイプのうちのどのタイプに属するかを考えて、そこ(その世界)から外に出ないようにするとよい。
もしも、自分が躁鬱病にかかったら、それは自分が不適応な世界に迷い込んでしまったわけだから、もとの自分に適した世界に戻るようにすれば治るはずだ(もしくは軽快する)。
[2023] キリスト教は科学の産みの親 h17.10.17
キリスト教は科学の邪魔をしたと言われるけれども、
仏教国である日本は科学を産むことすらできなかった。
やはり、キリスト教は科学の産みの親だ。
眼で見える世界で新奇なことができるのは、神でも科学でも同じことだ。
[人間たちは、眼で見えない心の世界へ逃げ込んでいただけだ。]
日本にもキリストのような立派な神がいたら、
今頃は世界に君臨する科学大国となっていただろう。
[2024] 笑い h17.10.18
笑いには2つの型がある。
五感型と知覚型だ。
五感型の笑いには、(五感界における笑いだから)表情や身振りが伴うが、
知覚型の笑いは“無形無音”の笑いだから、表情がない。
[2025] 人生40年 h17.10.22
『幸福な者は生き、不幸な者は死ぬべきである。』
この真理を悟れる者は幸福であり、悟れない者は不幸である。
[2026] 偉さの概念 h17.10.22
人間が土よりも偉いと思うから、土をぞんざいに扱うようになる。
人間が物よりも偉いと思うから、物を壊しても平気になる。
偉さの概念がすべてを狂わすのだ。
だから、俺には偉さの概念がない。
[2027] 正しくて幸福なこと h17.10.23
正しいと言うだけなら、人殺しでも飛び降りでも、何でも実現できさえすれば正しい。
だから、正しいだけではダメだ。
幸福でなければ。
正しくて幸福でなければ、動機にならない。
例えば、「私が神だった/である(かもしれない)。」は真実かもしれないが、
それで私が幸福になることがなければ、私は何にもしない。
[2028] 私にとっての幸福とは? h17.10.23
今の私の心を不幸にしているのは、私の分裂病である。
私の分裂病のために、私は学業も正社員も諦めねばならなかった。(でも、この優先順位でいい。自分が分裂病であることを無視して、いくら勉強や仕事に打ち込んでも、それらは実らない。)
私の分裂病が治らないかぎり、私に人間らしい幸福はない。
[2029] 人間らしい幸福とは h17.10.23
人間の本質は(人と人との付き合いではなくて)知覚である。
だから、人間にとっての幸福は(眼先の五感界の幸福ではなくて)知覚界における幸福である。
そのためには、まず知覚界(=実在界)が認識できねばならない。
まず、知覚が働く喜び(知への愛)を満足しなければならない。
知覚が働く喜びを満足してはじめて、人間としての心を満足できるのだ。
[2030] 超能力者(神) h17.10.23
物質と相互作用する特殊な感覚波(≡念力波)を出せる者が超能力者である。[人間の脳の中にあるX器官と相互作用する感覚波(≡幻聴波)を出せる者は(分裂病者であって)超能力者とは言わない。]
今の私はガラガラを回せるほどではないが、ラップ音をたてる(心が緊張すると、近くのガラスや木の柱などがピシパシ鳴る)ことはときどきある。
すると、ラップ音をたてる程度の能力のある者は超能力者(いわゆる神)ということになる。[あるいは、増幅器を使って極わずかの力でも検出できる装置を作って、微弱な念力波(≡X器官以外の物質と相互作用する感覚波)を拾えるようにしてもいい。]
自分に超能力のある者は、国と掛け合って神と認定してもらうとよい。
[2031] 聖書 h17.10.23
聖書は科学ではなく文学である。
キリストの超能力をオーバーに書きすぎている。
キリストにいくつかの超能力があったことは認めるが、ない超能力を付け加えたり、ある超能力でも大げさに言ったりするのは嘘つきだからよくない。
例えば、プランク定数を変えてラクダを針の穴に通したり、『E=MC^2』に逆らって1個のパンを100個に増やしたりするのは、いくら超能力でもできそうにない。
真実と空想は区別すべきだ。
また、キリストに超能力があったことは認めるが、超能力があることと倫理道徳的に優れていることとは無関係だと思う。
自分の超能力にかこつけて、自分の倫理道徳までも相手に押し付けるのは便乗商法の汚いやり方である。
たとえキリストと言えども、何から何まで優れていたのではないと思う。
長所もあり短所もあるのが実在する人間(超能力者も含む)の姿だ。
[2032] ラップ音 h17.10.23
ガラスはSi(珪素)で、木の柱はC(炭素)で出来ている[W族元素]。
人間の脳細胞もC(炭素)で出来ている。
だから、脳細胞から出る感覚波とガラスや木の柱とが共鳴するのだ。
ガラガラはプラスチックで出来ているが、プラスチックはC(炭素)で出来ているから、ガラガラと脳細胞から出た感覚波とが共鳴してガラガラが回るのだ。
[2033] 子供と大人の違い h17.10.25
子供の目は他人から自分を見ている。
大人の目は自分から他人を見ている。
[2034] 数学と電化製品 h17.10.26
定理は取扱説明書、
証明は回路図のようなものである。
[2035] 私が体調不良になる原因 h17.10.26
私が2連休になると体調を崩して頭が痛くなるのは、
スーパーのおかずに含まれている『水』が生まれも育ちも南国高知の私の身体に合わないからだ。
以前、香住産の梨を夜食に食べたときにも、梨に含まれている『水』が合わなくて、
一晩中眠れず、翌日仕事を休まねばならなかった。
ゴマ焼酎紅乙女を『六甲の水』で湯割にして飲むと、
体調が回復するのは『六甲の水』が私の身体に合っているからだ。
それで、私の毎日の飲み水は全部『六甲の水』だ(月に6千円ぐらいかかる)。
他にも、スーパーでいろんな産地の『水』を売っているが、
私の身体に合うのは『六甲の水』だけだ。
[2036] 善・悪の再帰的定義 h17.10.28
善の感情とは、自分を幸福にする感情であり、
悪の感情とは、自分を不幸にする感情である。(感情の善悪の区別には、長い人生経験が必要である。)
実在と複合する感情もあるけれども、それらはたわいない。
そもそも“知覚を活動させる喜び”の感情が人間に実在を認識させるのであり、その感情のほうが重要である。
つまり、心が実在と複合するのは、知覚を活動させる喜びの感情(いわゆる知への愛、知的好奇心、知る喜び)を活動させた結果にほかならない。
“知覚を活動させる喜び”の感情は善の感情である。
ところが、医者はたいていこの“知覚を活動させる喜び”の感情を働かせていない。ただ、つまらないことを真面目に我慢して勉強している。これでは喜びが足りないから、彼らには金や物の喜びを与えてやらねばならないのである。
性欲は人間を不幸に陥れる感情だから、悪の感情である。
[2037] 聖書とユークリッド幾何学 h17.10.28
人間の心にはいろんな感情がある。
“愛の感情”を書き表したのが『聖書』であり、
“知覚が働く喜びの感情(知的好奇心)”を書き表したのが『ユークリッド幾何学』である。[キリストは知的好奇心だけでは人間が幸福に生きられないのを見抜いていたのであろう。]
聖書とユークリッド幾何学はヨーロッパの2大精神支柱である。[日本は文化が低いので、日本にはそんないいものはない。]
ところで、知覚が働く喜び(知的好奇心)は自分の文化生活を豊かにし、自分を幸福にするから善の感情であるのを認めるが、
キリストは最後に磔[はりつけ]にされて痛い目にあって死んだのだから、自分を不幸にしたのであり、行き過ぎた愛の感情は悪の感情であることになる。(『過ぎたるは及ばざるが如し』孔子)
適度な愛の感情は自他共に幸福にするから善の感情なのだろう。
[2038] ドラえもんとキテレツ大百科 h17.10.28
人間の心にはいろんな感情がある。
他人にやってもらう“甘え”の感情を書き表したのが『ドラえもん』である。(結局は、ドラえもんに甘えて使わせてもらった道具がうまくいかなくて失敗に終わるのだが。“甘え”の感情ではうまくいかないというニヒルな教訓。)
一方、自分がやる“自主独立”の感情を書き表したのが『キテレツ大百科』である。(これまた、ドラえもんの道具のようにうまくいかない。自分でやるのはいいことだけれども、便利な道具がときには不幸をもたらすという微妙な教訓。)
子供時代には“甘え”の感情のあるほうが自分を幸福にするから、“甘え”の感情は善の感情だが、大人になると“自主独立”の感情がないと自分を幸福にできないから、“自主独立”の感情のほうが善の感情になる。
一般に、アニメ(を含むあらゆる文学作品)は“なんらかの感情”の表現と考えられる。その“なんらかの感情”が自分にとって善の感情であると、そのアニメ(文学作品)は自分のお気に入りになるわけだ。
空想と実在の共通点は心にある。アニメや映画や文学などの空想の世界に込められた感情が自分にとって善の感情であるとき、その作品は自分にとって見るべき価値のある作品となる。
一方、科学や数学は“知覚を働かせる喜び”(知的好奇心)の表現と考えられる。科学や数学に対する知的好奇心が自分にとって善の感情であると、科学や数学がお気に入りになるわけだ。
こうして見ると、人類の文化のすべてが“なんらかの感情”の表現であると見なされる。その“なんらかの感情”が自分にとって善であると自分のお気に入りになり、反対に自分にとって悪の感情であると自分の気に入らないことになる。
[例えば、『らんま1/2』は“男が女になる喜び”の感情が描き表されている。“男が女になる喜び”の感情は私を不幸にしたから悪の感情であり、『らんま1/2』は私の気に入らないアニメということになる。]
[2039] えり子とようこ h17.10.28
えり子は“自主独立”の感情が、
ようこには“甘え”の感情が描き表されている。(ようことサキさんと山下社長のアットホームな雰囲気が、私の少年時代を髣髴とさせる。)
30才を越えた大人にとっては、もはや“甘え”(他者依存)の感情は自分を幸福にする善の感情ではなくなるので、『ようこ』の世界に入れなくなってしまうのである。
そんな方には、大人にとっての善の感情である“自主独立”の感情を描いた『えり子』をお勧めする。
要するに、『えり子』は大人向きで、『ようこ』は子供向きなのだ。
[2040] 学習と思考 h17.10.28
子供にとっては、まだ“甘え”(他者依存)の感情が善であり“甘え”の感情が強いから、他人が書いた本をよく読んで学習する。
一方、大人は“自主独立”の感情が強くなるから、自分で思考し自分で本を書く(少なくとも文を書く)。
[2041] 医者や看護婦の心 h17.10.28
医者や看護婦は他人が痛がったり苦しんだりしているのを喜んで見ている。
たしかに、人間の心にはそういう残酷な感情があるけれども、そういう残酷な感情は、他人が痛がったり苦しんでいるのをかわいそうに思う感情と葛藤するので、残酷な感情のほうを活動させないようにしている。
だから、私(の一族)は医者がやれないのだ。
[2042] 性欲は大人にとっても禁忌 h17.10.28
『性欲が分裂病の原因になる』ことは子供にとっても大人にとっても真理だから、大人になったからといって性欲を働かしてよいわけではない。
[2043] 親への礼はない。 h17.10.29
私の親が私に『性欲が分裂病の原因である。』ことを教えなかったばっかりに、私は分裂病にかかり不幸になった。それ以後ずっと不幸なままだ。
自分の親が自分を幸福にしてくれたのなら親に礼はするが、
自分の親が(親としての義務を果たさず)自分を不幸にしたのなら親への礼はない。
[私が20才のとき故郷の高知を出て福岡に来てから32才のとき九大理学部物理学科を卒業するまでの12年間、父も母も学費や生活費を一生懸命仕送りしてくれた。しかし、私の分裂病が治らなかったばかりに、それらはすべて徒労に終わってしまった。分裂病のために、私は正社員としての普通の会社への就職も大学院への進学も諦めねばならなかった。私が32才のとき、母に九大物理学科の大学院に受かったとウソの電話をかけたときには、さすがの私も涙せねばならなかった。]
[2044] アルプスの少女ハイジと母をたずねて三千里 h17.10.29
文学作品は、あるひとつの感情を言葉(や絵)で表現したものである。
『アルプスの少女ハイジ』は“自然への愛”(反都会主義)を、
『母をたずねて三千里』は“子供のお母さんに甘える感情”を表したものである。
私にとって『アルプスの少女ハイジ』は、つまらなかった。それは、私が田舎暮らしで自然に飽きていたからである。それに、そもそも人間にとっては田舎よりも都会暮らしのほうが快適である。そうでなければ、わざわざ都会なんか作るわけがない。
登山の経験者ならわかるだろうが、山に入って3日もすると麓が恋しくなってくる。それほど山での生活は辛くて厳しいものなのだ。ヨハンナ・スピリはウソつきだ。
私が登山が好きだったのは、私が自然を愛していたからではなく、人間が嫌いだったからである。
一方、『母をたずねて三千里』は本放送ではほとんど見なかったが、私が高1のとき気が狂って旭の下宿に引っ越したとき、朝日放送で朝の6時15分から6時45分までベルトで再放送していたときには欠かさずに見ていた。フランチェスコ・メレリが自分の性格に似ていると思った。マルコのお母さんがなんとなく私の母親に似ているとも思った。
そもそも『ハウス(旧カルピス)世界名作劇場』がこの世にあるのは、私の父が読書好きで、世界文学全集を持っていたからだ。子供の頃、私はそれらを読もうとしたが、そもそもが大人向けの本で漢字が難しくて読めなかった。アニメの『世界名作劇場』で私がよく見たのは、ムーミンと、ロッキーチャック物語と、不思議“の”島“の”フローネだ。
[2045] 愛と憎しみ h17.10.29
愛と憎しみは表裏一体の対(ペア)である。
だから、愛の感情を肯定することは同時に憎しみの感情を肯定することになる。[キリストが言ったように、愛だけあって憎しみがないことはない。]
例えば、性欲においてカラダのいい女が快感でブサイクな女が不快であるように、愛の感情と憎しみの感情は本来同じひとつの感情(つまり色欲)の快の側面と不快の側面を見たものにすぎない。
知的好奇心においても、明晰判明な認識は快感であり、曖昧模糊な認識は不快である。
『可愛さあまって憎さ百倍』というように、愛の感情を太らせる(強める)ことは同時に憎しみの感情を太らせることにつながる。
[2046] 反オギノ氏法 h17.10.30
オギノ氏法とは、出産しないで性欲を満足する方法である。
反対に、
性交を3回までにすれば、
性欲を満足しないで出産だけすることができる。(反オギノ氏法)
[2047] かわいさの出し方 h17.10.30
人間の心には、もともと“かわいさ”の感情がある。
“かわいさ”の感情に気合を込めて活動させると、言葉や表情や身振りにかわいさが出せる。[10〜20才若返って見える。]
“かわいさ”は女性にとって善であり、女性において発達している。
一方、“美しさ”の感情はもっと五感的な(五感界との複合が強い、五感界の中における)感情である。
人間には、男にしろ女にしろ、五感界を超える魅力がなくてはならない。
[2048] 物理学者の幸福観 h17.10.30
物理学者の感覚界は、実在的かつ知覚的である。
したがって、物理学者にとっての幸福とは、『自分が実在についての正しい認識を持つ』こと、『みんなが実在に対して正直である』ことにある。
[2049] 感情の選択 h17.11.1
人間の心にはいろいろな感情がある。
どんな感情にしろ快と不快の両面を併せ持つ。
人間は快感を求め不快感を避ける傾向がある。
問題は、どの感情を働かし、どの感情を働かせないかの、
感情の選択にある。
[2050] 知恵の実 h17.11.1
たとえ楽園を追放されても、知恵の実を手に入れたい。
それが人間の本音だ。
[2051] 心 h17.11.3
人間の心には、自分を幸福にする善の感情と、自分を不幸にする悪の感情とがある。[感情の善悪は、各人の性別や年齢や生活環境によって異なる。もちろん、一般的に成り立つこともある。]
正しく感情の善悪を知り、感情を適切に働かせることは、人生を幸福にする。
[2052] 文芸復興(ルネサンス) h17.11.3
ヨーロッパでは中世まではキリスト教の“愛の感情”が支配していた。
しかし、それは限界に来ていた。
ギリシアの“知的好奇心”(つまり、知る喜び)を人の心に取り戻し、それを一般大衆に広めたのが、文芸復興(ルネサンス)である。
本来、“知的好奇心”と“愛の感情”とは排斥し合うものではなく、人間の幸福実現にとっては両方とも欠くことのできないものである。
[2053] どうして人類は神に従おうとするのか? h17.11.3
前にも述べたとおり、神すなわち超能力者と呼ばれる者には念力でガラガラを回したりする超能力がある。
しかし、それだけではない。
もし、それだけなら、普通の人には超能力がないから、超能力のない人が超能力のある人の真似をしても、なんにもならないからである。
じつは、神にはもうひとつの才能がある。
それは、『生まれつき心が純粋だ』ということである。
頭で考えて純情なフリをすることは、誰でもできることだが、
神は頭で何も考えなくても、生まれつき純情なのである。
むしろ頭で考えて心に覆いをすることが、生まれ持った純情さを損ねることになる。
つまり、神だけが心のままに欲しても不幸にならず幸福になることができるのだ。
だから、昔の人は“神の心”を頼りにして生きていけば自分たちも幸福になれると考えたのだ。
だから、人類は神に従おうとするのである。
[2054] 私を殺せば景気がよくなる? h17.11.3
今の日本や世界が不景気なのは、
今の私が分裂病で貧乏暮らしで、
そんな私に日本や世界が従わなければならないからである。
私が死ねば日本や世界が本来あるべき姿を取り戻すであろう。
[2055] どうしてキリストは“知る喜び”を禁止したのか? h17.11.3
上にも述べたように、キリストのような神にとっては、頭で考えて心に覆いをすることが、かえって生来の純情さを損ねることになる。
つまり、『神は考えない』ものなのだ。
キリストの“愛の感情”にとっては、“知る喜び”、“考える喜び”が邪魔だから、キリストは考え深い科学や数学を嫌ったのだ。
キリスト教がプトレマイオスの天動説を採用したのは、『認識の質が直観的』(見たまんま)だからである。
[2056] フェルミオン⇔ボソン転移 h17.11.4
超伝導体では、ある一定の温度を超えると電子群がボソンからフェルミオンに転移する。
これと同様に、バッタの群れも、ある一定の個体密度を超えると緑色のスマートな孤独相から茶色の頭でっかちの群生相に転移する。
[2057] 新約聖書 h17.11.5
要するに、“愛の感情”というのは、男と女がイチャイチャすることである。
分裂病の原因になる汚い情欲を肯定して、その言い訳(約)を長々と書いたのが、
キリスト教の『新約聖書』だ。
[2058] 神の出現 h17.11.5
神とは、全知全能で完全無欠で万能なものらしい。
誇大妄想狂か嘘つきの超能力者が現れないかぎり、神は出てこないだろう。
[私は生まれつき?分裂気質なので、神と名乗る気がしない。]
[2059] 愛について h17.11.5
ごめんなさい。m(__)m
私がキリスト教を誤解していました。
愛の感情とは、『自分を犠牲にして他人の喜びのために尽くす』ことです。
だから、たとえ自分が不幸になっても、他人が幸福になれば、自分はそうする。それが愛だ。
私の感情についての善悪の分類によれば、愛の感情を満足すれば自分が不幸になるのだから、『愛の感情は悪だ。』ということになる。
したがって、愛の感情は満足してはいけないのだ。
[私は小学生の頃から、先生に利己主義者だと呼ばれていた。私の思想は反キリスト教的だ。しかし、日本とはそういう国なのだ。]
でも、ちょっぴり愛のあるほうが幸せになれる気がする。
[2060] 幻聴に対する気構え h17.11.5
私は高1のとき分裂病にかかって幻聴が聴こえ出した。はじめは聴こえるだけだったが、2週間ぐらいして相手に訴えたいと強く念じると幻聴で話もできるようになった。
それ以来、約25年間毎日幻聴が聴こえている。
高1〜高2までは幻聴が聴こえるたびに腹がたってベランダに飛び出して乾電池を近所の家の窓ガラスに投げつけたりして暴れていたが、高3頃になると少しは慣れてきた。
さすがに九大に入ると幻聴で悪口を言い掛けて来る者はいなかった。医学部でも物理学科でもいなかった。
医学部2回生のとき、教養部の物理学実験が面白かったので、理学部物理学科へ転部しようと思ったが、せっかく入った医学部が勿体なかったのでやめた。
専門課程に上がるとき、馬出[まいだし]や箱崎周辺の下宿探しをしていて、昼飯を小さなラーメン屋でとったとき、幻聴で「物理学科に来てぇ〜」とか「来るなぁ!」とかザワザワ聴こえていたが、『自分は幻聴を相手にしない』ことに決めていたので、無視して物理学科へは行かなかった。
[2061] 心の分析 h17.11.10
キリスト教では心を肯定し、
仏教では心を否定する。
私は心を善い感情と悪い感情の二つに分ける。
善い感情を働かせると自分は幸福になり、
反対に悪い感情を働かせると自分は不幸になる。
問題は、自分にとって何が善い感情で悪い感情であるかを、
自分が知っていることである。
[人生には、幸福と不幸の2つのアトラクターがある。そのどちらに近づくかは、感情の働かせかたによって決まる。]
[2062] ウザイやつら h17.11.10
自分の判断によらず他人の命令で動いていれば、どんな非情なこと・残酷なことでも実行できる。
これを無責任主義と言う。
自分ひとりでは度胸がなくて何もできないが、大勢でやればたとえ悪いとわかっていることでも平気で実行できる。
これを集団心理と言う。
教祖が大勢の信者の無責任主義と集団心理を利用して私ひとりを咳ばらいやガン飛ばしや悪気かけなどで攻撃させて不快な目に会わしている。私の作業服やズボンに穴を開けたり破いたりする。大勢で私の機嫌を損ねておいて、私の機嫌をとるのは私自身独りだけだ。
信者は、アウトソーシングだけでなく、住友(近畿NEOMAX)の正社員の中にもいる。
鬱陶しいやつらだ。
戦後の学校教育は『自分で考える力を育てる』ためにあるのだから、他人の言いなりで動く無責任主義は今日では通用しない。したがって、教祖も信者も自分のしたことに対して等しく責任を持たねばならない。
[2063] 日本はキライ! h17.11.11
国会か教団かは知らないが、これまで決議が遅れたために、私の家(マンションの部屋)の中のいろんな物が壊されたり盗まれたりした。
遅すぎる。
もっと早く決めて欲しい。
[2064] 教祖と国会議員との関係 h17.11.11
教祖は国会議員にお金を握らせて、自分の意のままに操っているらしい。
国会議員に頼んで、私の家(マンションの部屋)に無断で押し入っても罰せられないように、法律を書きかえさせているらしい。
[2065] 『痛み』の感情 h17.11.13
私が飛び降り自殺をしないのは『痛み』の感情があるからである。
つまり、私は『痛み』の感情を肯定しながら生きている。
『痛み』の感情があるから、苦痛の原因となることを避け、そうすることが自分が幸福であることにつながるのだ。
このように人間は、知的好奇心(考える喜び)のほかにも『痛み』などのいろんな感情を肯定しながら生きている。
[2066] うそつきは不幸の始まり h17.11.13
あったことをなかったことにしたり、なかったことをあったことにしたりして、実在を偽ることは実在主義に反する。
それは一時的には幸せかもしれないが、長い目で見れば不幸の原因になる。
[2067] 超能力は子供の特権 h17.11.13
私が小学2年生の頃、算数の計算ドリルの問題を考えながらプール横の溝掃除をしているとき、空から大人の声で『この道を行け』と聴こえたことがあった。
それから高校1年で分裂病にかかるまで幻聴が聴こえたことは一回もなかった。
それは、大人は自分の眼と手だけで思考するように成長するからである。(知覚も使うけど)
子供のうちは、まだ五感が眼と手だけに制限されていないから超能力が使えるのかもしれない。
[2068] 実在性五感療法 h17.11.13
分裂病者は幻聴覚を使いたがる。そのため、知覚が幻聴覚と複合し、実在が見えなくなっている。
実在を眼や耳などの実在性五感で見るように訓練すれば、知覚と実在性五感との複合が強まり分裂病がよくなるはずである。
[私も、らんま1/2のシャンプーちゃんのきれいな顔がよく見たいと思って、自分の眼に気合を入れてテレビを見たとき、分裂病がかなりよくなった気がする。]
[2069] 論理欲 h17.11.14
人間の心には『論理欲』と呼ばれる感情がある。
『論理欲』は自分の思考に論理(認識すなわち命題間に相互に矛盾がないこと)があると満足し、
論理がないと不満になる。
[2070] 暴力団 h17.11.14
暴力団は、日本社会に“不合理性”を浸透させるために存在していた。
日本に暴力団があったのは、先代の神(私が生まれる前にいた超能力者)が不合理だったからである。
今の教団の構成員(信者)も先代の神が残した不合理性を守るためにいるのだから、
暴力団と同じだ。
[2071] もしも7億円もらえたら h17.11.15
私;さっそく今の仕事をやめる。もう2度と仕事しない。
父;7億円では物足りない。東京の一流会社に勤めて欲しい。(想像)
母;他人の反感を買うのが嫌だから、停年まで頑張って仕事を続けてもらいたい。(想像)
[2072] 神は実在主義 h17.11.16
たとえ神(すなわち超能力者)といえども実在に従わなければならない。
神は実在の中に居て、実在する物の性質を使って、
その不思議な力を現すのである。
[2073] 土方 h17.11.16
土方(土木作業員)がいなければ、建物が建てられないから、みんな宿無しだ。
それは困る。
だから、社会にとっては、土方は必要不可欠な存在である。
したがって、社会は土方の人が満足して生きていけるように作られていなければならず、
そのためには土方の人のセンスで楽しめるような施設(例えば、パチンコ店や酒屋など)が各市町村に設置されていなければならない。
(追記)土方が雨天の日に仕事しなくても日当がもらえるのは、おそらく先代の神がたくましい男を気に入っていたからであろう。
[2074] 科学的センス h17.11.17
せっかく学校で、数学や科学を勉強したのだから、
そのセンスで物事を見なければならない。
そうしないのは、考える気がなく怠慢だ。
神通力や念力は物理的な『力』の一種と見なすべきである。
[2075] 文学 h17.11.17
文学は実在的でもないし、論理的でもない。
つまり、文学の世界には制限がなく、自由度が高いのだ。
その分、心が(つまり、楽しいことや面白いことを)表現しやすいわけである。
つまり、ジョークの長くなったのが文学である。
[ ] ひさしぶりの命令 h17.11.18
教祖は信者を使って、無断で私の家に入らせて物を壊させたり盗らせたりする。
教祖のような常識のないバカを相手にするな。
[2076] 五感と心の対称性 h17.11.19
五感についても心についても知覚で考える。
どの五感を活動させ、どの五感を活動させなければよいか、どの感情を活動させ、どの感情を活動させなければよいかに関する法則がある。
感情に善悪の区別があったように、五感にも善悪の区別がある。
視覚、聴覚などの実在性五感は善の五感であり、性感などの現象性五感は悪の五感である。
もっとも、五感は実在を見るためにあるが、感情はそれ自体を見るのみである。つまり、感情は感情以外の何かを見るためにあるのではない。
\ | 善(活動させるべき感覚) | 悪(活動させてはならない感覚) |
五感 | 実在性五感(視覚、聴覚) | 現象性五感(性感) |
心 | 善の感情(知的好奇心、愛、優しさなど) | 悪の感情(性欲、残酷さなど) |
感情は、人間が積極的に考え行動するためにある。
[2077] 五感と感情の共役 h17.11.19
実在性五感と知的好奇心、現象性五感と性欲とは共役[きょうやく]する五感と感情である。
味覚と食欲も共役する五感と感情である。
[2078] 人間 h17.11.19
人間の大脳(とくに知覚)が発達しているのは、
知的好奇心が善の感情だからである。
[2079] 鬱病の簡単な捉え方 h17.11.19
現象性五感すなわち性感が分裂病の原因であるように、
悪の感情が鬱病の原因である。
働かせてはならない感情を働かせているために鬱病になるのだ。
実在性五感を働かせることが分裂病の治療になるように、
善の感情を働かせることが鬱病の治療になる。
[2080] 右の頬を打たれたら… h17.11.19
『右の頬を打たれたら、右の頬を打ち返せ。』
最初にけんかの原因を作った奴が悪い。
[2081] ∃と∀ h17.11.20
∀→∃は正しい。
∃→∀は間違い。
一つか二つの超能力が使えるだけで、なんでもできると考えることは間違っている。[誰かが宝くじに当たったからといって、みんなが当たるわけじゃない。いわゆる“欲目”。冷静沈着に実在を見るようにすれば、それくらいわかるはずだ。]
大昔は、∃と∀の概念がなかったから、こんな混乱が起きたのだろう。
[2082] 作り事よりも実在が大事 h17.11.21
実在にはムダがない。
実在認識は実在に対する過不足のない(必要十分な)認識である。
実在にムダを足すと作り話ができる。
実在よりも作り話のほうに気が向くのはバカだ。
他人の作った作り話に踊らされるよりも、自分の目で実在を見るように努めねばならない。
[2083] 天皇 h17.11.21
天皇は職業の一種である。
世襲制であるところにその特徴があるが、
誰でもがやりたいわけじゃない。
[2084]人間の本質は知覚である。 h17.11.21
考えることをやめたら、人間の負けだ。
考えることをやめないかぎり、人間に負けはない。
[2085]反語はやめよう。 h17.11.21
今からおよそ3年前、福知山のメガネの三城で「度はきつくしないでいい。」と言ったら、ちゃんと言葉通りに度のゆるいメガネを作ってくれた。
そのちょっと前に、豊岡のAITYの隣にある小さな個人のメガネ店で、同じことを言ったら、言葉と反対に度のきついメガネを作ってくれた。
私は仕事以外のときはメガネを掛けない主義なので、度のきついメガネでは外すと眼が痛くなるので困るのだ。
私は今の度のゆるいメガネに大変満足している。
度のきついメガネは予備用として家に置いてある。
[2086] 科学以前の時代 h17.11.21
愛の感情と知的好奇心の感情とは対立する。
中世までは、ヨーロッパではすべての概念に愛の感情がこもっていなければならなかった。例えば、物が動くのは、かわいらしい妖精が物を押すからであって、無機的な力が物に働くからではなかった。
それが科学を阻害した。
ルネサンス期の人間主義は、人間の心の中にある知的好奇心の感情を人間に取り戻すことにあった。キリスト教の愛の感情よりも、ギリシアの知的好奇心の感情を優先させることにあった。
せっかく人類がつかんだこのチャンスを、二度とムダにしてはならない。
(追記)そもそも『人間の本質は知覚』なのだから、それを無視してはうまくいくはずがない。
[2087] 人間は知的好奇心だけでは生きていけない。 h17.11.22
人間は知的好奇心だけでは生きていけない。
知覚だけでは、A⇒B(AならばB)がわかるだけだ。例えば、ビルの屋上から飛び降りたら死ぬことがわかるだけだ。
死の苦しみや生の悦びがあって、はじめて人間は生きていけるのだ。
[2088] 今度超能力者が現れたら… h17.11.22
今度超能力者が現れたら、放って置け。
その理由、
1.空耳のように、超能力は子供のときしかない。大人は五感が眼と手に制限されているので、超能力を使わない。
2.たとえ成長して超能力が残っても、エネルギーが大きくない。超能力といえども物理的な“力”の一種であり、しょせんは人一人の力だから、そのエネルギーはさほど大きなものではない。エネルギーが大きくなければ、大事には至らない。
それに、超能力者といえども、何から何までできるわけではない。使える超能力の種類には限りがある。それ以外のことはできない。
3.もしも、超能力を使った犯罪が起きたら、手段で証拠付けることは難しいけれども、動機で犯人を推測することなら可能である。犯人が超能力者で、あらかじめ使える超能力の種類がわかっていれば、その超能力を使ってできる傷痕の型がわかるので、ある程度物的にも証拠付けることができるはずである。
それに、今後科学が発達して、感覚波に関する知識が増えれば、犯行に使われた感覚波(念力波)を感知し写真に撮ることができるようになるかもしれない。
超能力者が悪意を持って他人に超能力で攻撃を仕掛けてきたら、容赦なく殺せ。
殺すには、機関銃で10人がかりで十分だろう。
[2089] 代償 h17.11.22
赤ちゃんの頃の私には“ガラガラを念力で回す”超能力があった。
しかし、その能力は他の人類にとって危険であるという理由で、私から超能力を奪う代わりに、そのお詫びとして人類が私に従わねばならないと決めた。(国際法)
そういう訳で、新たな超能力者が現れるまでは、人類は私の性質を取り込む義務があるのである。
でも、今度から超能力者が産まれてきたら、その超能力を奪わずに、人類と超能力者とが協力して、超能力の謎を解き明かして欲しい。そのほうが、人類にとって利益になるはずだ。
[2090] 政治家 h17.11.22
政治家は楽そうにしているが、政治家になるまでが大変だ。(だいぶ前に、和田君から国防省に配属された柴田君がなかなか書類のハンコがもらえず帰りが遅くなって3時間しか寝れない日がずっと続いていると聞いたことがある。)
おいしい仕事には苦労がつきものだ。
[2091] 神の定義 h17.11.23
神とは超能力が使える者のことである。
超能力とは、ガラガラを回すなどの念動力のことである。テレパシーを除く。
念動力とは、可視的物体を筋肉(手や息など)を使わずに動かす(一般に、状態を変化させる)ことである。
[でも、神は神よりも超能力者と呼ぶほうがふさわしい。]
[2092] 神の定義(その2) h17.11.23
神とは、脳以外の物質と相互作用する感覚波を感知または放出できる者をいう。(例えば、サイコキネシスやクレヤボヤンスなど)
テレパシーは、脳と脳の間の相互作用だから、テレパシーを使える者は神とは呼ばない。
[2093] 今度超能力者が生まれてきたら(その2) h17.11.23
1)その時代の科学力・技術力で対処できるなら、なるべくそのまま何もせずに放置しておいてもらいたい。
2)その時代の科学力・技術力で対処できないと考えられれば、残念ながらやむを得ず超能力を奪うしかない。その場合、できるだけ他の能力を損なわないことが望ましい。
[2094] 代償(その2) h17.11.23
超能力者から超能力を奪った場合、その実施者(教団なり国なり世界なり)が責任を持ってその代償を支払わなければならない。
代償は、お金で行うものとする。(私の場合、アニメやドラマなどに取り込んだりしても、少しも面白くなかった。いくら面白くないことをしてもちっとも代償にはならない。)
その超能力を使って一生涯稼げると考えられる金額を支払え。それから、超能力を奪う際に損傷された他の能力についても弁償せよ。(私は金額の算出の仕方がわからないので、細かいことは専門家の方に任せたい。)
私が“有利にも不利にもならない”ようなフェアな金額を決めて欲しい。
その他、余計なことは一切しなくていい。
これは私と実施者との問題であって、関係のない他人を巻き添えにしたくないからだ。
これまでのふざけたまじめさのないやり方にはもうウンザリだ。
[2095] どのようにして私の超能力を奪ったか h17.11.27
『私が小さいとき、突然私の息が止まって青い顔になって、母が急いで“富田さん”(升形の富田小児科)に連れて行ったことがあったそうだ。(詳しくは知らない。)』(プロフィールより)
母親の言葉をもとにして考えると、『呼吸を止めて脳を酸素欠乏状態にして脳の活動を停止させた』のだろう。
その際、脳の他の機能(記憶機能、運動機能など)も傷害された可能性が大きい。
[2096] 宗教VS科学 h17.11.28
宗教は、あることないことデッチ上げて言う。宗教は、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりしてうそつきである。
一方、科学はある(実在する)ことしか言わない。科学は、あることはあるとし、ないことはないとし、正直である。
実在主義においては、宗教よりも科学のほうが正しい。
宗教は、心の慰みのための作り話にすぎない。
うそつきのいいかげんな言葉を信じて、それに従ってもうまくいかない(思い通りにはいかない)。
事態が悪化するだけだ。
私にできないことをいくら他人にせがまれても、私にはできない。
今の私は、子供のころのような超能力を使うことがないからだ。
作り話のくだらない宗教に関わるよりも、科学を勉強して実在のことを知るほうがいい。
超能力に対しても、宗教的にではなく、科学的な目で見るべきだ。
私に対しても、くだらない宗教の作り話に基づいて見るのではなく、真実をありのままに見るべきだ。
ガリレイの言ったように、『他人の書いた本によって自然を見るべきではなく、自然そのものがひとつの書物であり、それは数学の言葉によって記述されている』のだ。
今から約40年前、日本の片田舎に“物質と相互作用する感覚波の出る赤ちゃん”がいた。
ただ、それだけのことだ。
[2097] 愛への知 h17.11.29
人間の本質は知覚である。
五感も心も知覚で考える。
人間の心(大脳前頭葉前野)には愛の感情がある。
愛の感情は、それを活動させると人間を幸福へと導くから善の感情である。
[2098] 概念の添加 h17.11.29
新しい概念を添加する(付け加える)と、これまで理解できなかったことが、論理的に理解できるようになることがある。
例えば、『テレビアニメで自分の家族とそっくりなキャラクターがいた』場合、通常の概念体系では理解できないが、“神”(すなわち超能力者)の概念を既存の自分の概念体系に添加すると、この現象が論理的に理解できるようになる。
[2099] 無限の知覚界 h17.11.29
このように新しい概念を知覚界にどんどん添加することによって、実在する現象がどんどん論理的に理解できるようになって行く。
[2100] 局所性原理(再説) h17.11.29
哲学T原理は、『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。』であった。
これを補うものとして、局所性原理『感覚は、それを荷う神経細胞がある場所においてのみ感じられる。』がある。
したがって、他人の感じる感覚は、自分の五感(視覚)で見たその他人の脳細胞がある場所だけでしか感じられないから、その外にいる自分にはまったく感じられないことになるのである。逆に、自分の感じる感覚は、自分の外にいる他人には感じられないことになるのである。
ひとつの胴体にふたつの頭がある奇形児においても、右の頭と左の頭とは自分の眼で見て空間的に離れているから、右の頭で感じることは左の頭には感じられず、逆に左の頭で感じることは右の頭には感じられない。
ふたご(一卵性双生児)についても同様である。
実在哲学における局所性原理は、量子力学におけるボルンの原理のようなものである。