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[100] 哲学V原理 2001年1月29日 22時42分
わつい さん e-mail
人間は対立する感情と実在の両方を受け容れながら生きて行かねばならない。
現実の中で自分の感情を最大限に満足させよう。
現実をできるかぎり自分の感情に従属させよう。
例:医学が嫌いなら、思いきって医学部をやめよう。
ただし、現実に反する感情は抑制しよう。
例:超能力で他人の意思を操ろうとして気合を入れ過ぎないようにしよう。
現実に反する感情を肯定しすぎると分裂病になり、反対に
自分の感情に反する現実を肯定しすぎると躁鬱病になる。
[99] 神経症と精神病の違い 2001年1月29日 20時26分
わつい さん e-mail
神経症と精神病(=分裂病+躁鬱病)とでは問題になる感情の性質が異なる。
神経症における感情は普遍性が狭い。例:「エビが怖い」「ヒコーキが怖い」
精神病における感情は普遍性が広い。
例:「他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感」
「自分が有能である快感」
[98] 真善美 2001年1月28日 15時3分
わつい さん e-mail
人間にはいろんな喜びがある。
真とは知覚の喜びであり[正義の感情ゆえに真理が快感となる。]、
善とは感情の喜びであり[善とは自分自身を快にする快感である。]、
美とは耳目の喜びである。
[97] 冷静×常識=幸福 2001年1月28日 1時1分
わつい さん e-mail
人間として幸福に生きるためには、
‘冷静さ’すなわち感情の知覚への従属性が大事である。
もっとも、知覚が常識的[=現実的]でなくてはならないが...
だから、常識を甘く見てはならない。
いくらお勉強ができても、常識がなければ幸せにはなれない。
「常識を笑う者は常識に泣く。」
[96] 頭の中でやること 2001年1月21日 15時2分
わつい さん e-mail
なにもわざわざ自分を不快にする他人に手を出したり言いがかったりして
他人の気に食わない態度をやめさせなくても、
自分の頭の中にある不快な感情の活動[=神経興奮]を抑えれば不快ではなくなる。
[95] ムダな意味付けを取り除くと、はっきりわかるようになる。 2001年1月21日 7時35分
わつい さん e-mail
ふぅ〜、やっと『数学の小部屋』が完成したゾ。
正直言って、こいつぁなかなかの自信作だ。
モットーは、「とにかくわかりやすく」で作った。
おそらく日本一(世界一?)わかりやすい群論の解説だろう。
この前仕事しながら「群論がわかった!」と思ったことをまとめることができた。
大学生の時なんか、サッパリでしたもんねー
群論がわかりにくいのは、フランスの数学者集団ブルバギがいけないんだぁ〜
なんでもかんでも集合論に乗っけようとするから。
群っていうのは、そもそも数みたいに簡単なものなんだ。
集合なんか必要ないない。
インド人が数学が強いのは、数学が抽象的な世界であり、
現実の世界から余計な意味を取り除いて‘無’に近づけたものであるからだ。
ムダな意味付けを取り除くと、はっきりわかるようになる。
みんなぁ〜、ぜひ『数学の小部屋』を読んで
抽象的世界の素晴らしさをわかってくれ〜
[94] 心の表現としての世界 2001年1月20日 16時25分
わつい さん e-mail
人間は実在を選択する自由を持つ。
実在の法則の下に、人間の心が実在の世界において表現される。
『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』
すなわち、『他人が自分の気に入ることを言ったりやったりすることに対する快感』
を身震いするほど‘いきんで’肯定すると、
毎日幻聴が聞こえて不愉快でたまらない世界が出現する。
『他人の言葉や態度が自分の気に入らない不快感=気に入る快感』を肯定しすぎると、
幻聴という‘新しい五感’が出来、
(もともと幻聴は実在するが、使わないので聞こえない)
知覚は幻聴の記憶で充満した曖昧模糊な妄想体系と化し、
心は幻聴の悪口でいつも不愉快なことになる。
『他人の言葉や態度が自分の気に入らない不快感=気に入る快感』の表現された世界が、
精神分裂病者の世界である。
人間の心には、『実在への愛』[=物質主義]がある。
『実在への愛』は、
目や耳などの五感を実在へと向かわせ、
(代わりに他人の考えしかわからない幻聴は消え)、
知覚は実在に関する五感の情報を記憶し、論理体系化し、認識が実在の世界に近づき、
感情は実在の世界の中で満足されることとなった。
『実在への愛』が現代社会を生み出した。
『実在への愛』の表現としての世界が、現代の科学技術の世界である。
[93] 分裂病 2001年1月20日 14時50分
わつい さん e-mail
現実に他人が自分の気に食わないことをして自分が不快であるとき、
普通なら、感情が現実にかなわないことが暗黙のうちにわかっているから、
とくに何も考えなくても、ひとりでに、
不快な感情の方を抑えて目の前にある現実を受け容れるのに、その反対にわざわざ
『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』すなわち、
『他人が自分の気に入ることを言ったりやったりすることに対する快感』
を身震いするほど‘いきんで’肯定すると、
『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』に対する抑制のブレーキが外れて、この感情に対する抑制が効かなくなる。したがって、他人がチョットでも自分の気に入らないことをすると、不愉快でたまらなくなり、暴れまわるようになる。
分裂病は、幻聴があるかないかの五感の問題ではなく、
『他人の言葉や態度が自分の気に障るか否か』の‘感情の問題’である。
感情に手[=神経繊維]が届かないかぎり、この病気は治らない。
[92] 『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』 2001年1月20日 11時24分
わつい さん e-mail
『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』すなわち、
『他人が自分の気に入ることを言ったりやったりすることに対する快感』
を身震いするほど‘いきんで’肯定すると、頭の中に、
『実在とは、他人が絶対に自分の気に入ることしか言ったりやったりしない世界だ。』
という妄想ができあがる。
だから、その妄想にチョッとでも反することがあると、ムチャクチャ憤って、
なんとしてでも、『他人が自分の気に食わないこと言ったりやったりする』のを
止めさせようとして、暴れまわる。
幻聴だって、『他人が自分の気に食わないことを言う』ことに敏感になりすぎたために
ホンのチョットした他人の自分に対する悪口、しかも他人の頭の中で考えている悪口が、
自分にとってはどうしようもなく耐えがたいほどの苦痛に感じるようになったのだ。
すべては、『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』
が元となっている。
現実においては、『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』は成り立たない。たとえ、自分の身内や友人では成り立っていても、一般人に対してまでもは成り立たない。だから、一般人に対しては、この感情は抑えるべきである。
[91] 分裂病と鬱病 2001年1月19日 5時50分
わつい さん e-mail
現実と感情の対立のあるとき(つまり不快なとき)に、
ムリヤリ感情のほうを肯定しようとすると分裂病になる。
その感情は現実において認められないので、なるべく早く否定(抑制)しよう。
現実と感情の対立のあるときに、
現実を肯定しすぎると鬱病になる。
自分の我慢の限界を超えたら、素直に自分の気持ちを認めて肯定しよう。
[90] 幻聴でナヤマナイ方法 2001年1月18日 20時37分
わつい さん e-mail
幻聴は五感と同様、外界に対する感覚である。
幻聴そのものは、他人の脳からの聴覚子の放出なので、自分ではどうにもならない。
幻聴に対するナヤミの本質はーーー
『他人が自分の気に食わないことを言ったりやったりすることに対する不快感』である。
しかし、現実に幻聴がある以上、この不快な感情のほうを否定せざるを得ない。
つまり、これは邪魔な感情である。
[つづきは、下を見よ]
[89] 邪魔な感情を消す方法 2001年1月17日 22時47分
わつい さん e-mail
現実に反する感情は邪魔になる。
そんな感情はないほうがいい。
感情を荷う脳細胞をなくすことはできないが、
感情を感じなくすることならできる。
その感情の自分の頭の中における感覚の発生点の位置をつかみ、
そこにある脳細胞へ神経繊維を伸ばし、
その脳細胞の神経興奮を抑制すれば、
その感情の感覚は消える。
[88] 見るとは 2001年1月17日 21時18分
わつい さん e-mail
‘見る’とは、見るものと見られるものとの関係で成り立つのではなく、
脳細胞の神経興奮による感覚(子)の発生じたいが‘見る’ことである。
[補:見る=感じる]
[87] 悪口のすすめ 2001年1月17日 21時0分
わつい さん e-mail
悪い者を悪いと言わないから、悪い者がはびこるのだ。
現実の世界には、善い者もいれば悪い者もいる。
悪い者を悪いと言わなかったら、善悪の区別がなくなる。
そのうち善い者もいなくなる。
[86] 裏日本人は脳に元気がない。 2001年1月17日 19時42分
わつい さん e-mail
裏日本は青びょうたんの巣窟だ。
脳に元気がない。だから、
感情は弱気の腰抜けで他人のいいなり。その裏返しの誇大妄想(ツンツン気)がある。
知覚は曖昧でバカ。頭を使って考えてものを見る習慣がない。
五感だけは人並み。見たまんまのことしかわからない、心底情けない低脳。
日本人の質は年々どこまで低下するのか...
弱く、歪んでいるよりも、
強く、まっすぐで行こう。
諸悪の根源は‘弱さ’にある。
『弱気のあるところ幸せはない。』〈名言〉
[85] 楽しさは脳の活動度に依存する 2001年1月17日 2時13分
わつい さん e-mail
脳特に前頭葉がよく活動=神経興奮しなければ、
感情細胞が感情を発生しなくなるので、
感情が感じられなくなる。
楽しさがなくなっては大変だ。
例えば、但馬の水はまずいから、こんな水でご飯を炊いて食べたら、
とたんに前頭葉が神経興奮できなくなり、楽しみがなくなる。
どんなに生活に工夫を凝らしても、肝心の脳が働くのを止めたら、
人間にとって一番大事な快感が失われてしまう。
だから、まず第一に『自分の脳を十分に活動できるような環境を整える』ことが必要である。
私は、水はスーパーでペットボトルに入っているもの(弱アルカリ性)を買ってきて飲み、
水道の水は絶対に飲まない。
米は食べず、代わりにバランス栄養食のビスケットを食べている。
但馬の人情に楽しさがないのは、まずい水や米を我慢して食べているせいだろう。
あれでは前頭葉が働かないからだ。おまけに大脳全体が働かないからバカだ。
自分もそうなりたくなければ、水も米も絶対に食べてはいけない。
[84] 感覚の局在性について 2001年1月14日 13時18分
わつい さん e-mail
自分の感情は自分の頭の前で感じ、
アニメは自分の頭の右横で感じ、
言葉は自分の頭の左上で感じる。
それ以外の部分では‘感じない’。
例えば、自分の感情は自分の頭の後ろでは‘感じない’。
自分の感情は他人の頭では‘感じない’。逆に、
他人の感情は自分の頭では‘感じない’。一般に、
他人の感覚は自分の頭では‘感じない’。逆に、
自分の感覚は他人の頭では‘感じない’。つまり、自他の感覚は独立である。
感覚は脳細胞の活動のある所に限局している。
例えば、自分の前頭葉の神経興奮で発生する感覚は、自分の前頭葉においてしか感じられない。
一般に、「脳細胞の活動に伴う感覚は、その脳細胞のある所にしか感じられない。」
これが自然法則だ。
‘感覚子’の概念を使うなら、
「脳細胞の神経興奮によって、感覚子が発生する。感覚は感覚子が荷っているので、その感覚子がある場所においてしか感じられない。」と言い換えられる。
そういうキマリが実在界には存在している。
これを『感覚の局在性』と定義する。
[83] 感情について(復習) 2001年1月14日 1時30分
わつい さん e-mail
感覚器や五感や知覚は実在する対象に従属するから、真偽の区別がある。
つまり、知覚的認識が実在する対象と同じ(具体的あるいは抽象的意味で)であれば真であり、知覚的認識が実在する対象と違えば偽である。
ところが、感情はまったく性質が違う。
感情はほんらい実在に従属しない。
感情は実在する対象によって快感を感じたり、あるいは不快感を感じたりする。
快感を感じるから真つまり実在と同じなのでも、あるいは不快感を感じるから
偽つまり実在と違うのでもない。
快・不快と真・偽とは何の関係もない。
感情は生まれつき遺伝で快・不快の感じ方があらかじめ決まっている。
感情が積極的に実在に対し自分勝手に快か不快かを決めるのだ。
五感や知覚が実在に対し受動的なのに対し、反対に感情は能動的なのである。
感情は、快不快の法則が支配するもうひとつの宇宙と言ってもよい。
しかし、生まれたままの感情に従っていては、快不快と真偽とが一致しないので、
実在においては誤りを犯すことになる。
だからこそ、感情を実在化する必要がある。
[82] どうして自分には他人の感覚が感じられないのか?(試論) 2001年1月14日 0時45分
わつい さん e-mail
感覚器が実在する対象と結合し、五感が感覚器と結合し、知覚や感情が五感または五感の記憶と結合することによって、脳細胞の共鳴が抑えられているためである。
例えば、音がしないばあい、鼓膜が振るえないから、鼓膜と聴覚細胞の間に結合があれば、聴覚細胞の神経興奮にブレーキがかかって、聴覚細胞が興奮できない。だから、自分の耳の近くで音がしなければ、たとえ隣人が音楽を聴いていても、それによって自分の聴覚細胞が共鳴して興奮することがないから、自分には隣人の聞いている音楽が感じられないのである。
[81] どうして自分には自分の感覚しか感じられないのか?(試論) 2001年1月14日 0時37分
わつい さん e-mail
脳細胞には‘共鳴’があるが、身体は自分と他人で別々である。
つまり、ほんらい自分の脳細胞の神経興奮すなわち感覚と
他人の脳細胞の神経興奮すなわち感覚は区別がないが、
自分の身体と他人の身体には区別がある。
脳細胞の興奮すなわち感覚が身体に従属することによって、
感覚(=脳細胞の神経興奮)が自分と他人で別々になった。
つまり、五感が感覚器に従属し、
知覚と感情が五感に従属することによって、
感覚全体が実在に従属するようになった。
ほんらい、感覚は自他で区別できないが、
感覚が身体に従属したために、
‘感覚も自他の区別を持つ’ようになった。
こうしてはじめて自分と他人がわかるようになった。
このように感覚には非局在性すなわち同種脳細胞間の共鳴がありますが、
暇がないので哲学原理を書きなおしてません。
あしからず。
[80] 幻聴のメカニズム(試論) 2001年1月14日 0時29分
わつい さん e-mail
幻覚が聴覚に多いのは、視覚よりも聴覚のほうが実在と五感の結合が切れやすいからだ。
眼の奥にある網膜と後頭葉にある視覚中枢の結合は切れにくいが、
耳の奥にある鼓膜と側頭葉にある聴覚中枢の結合は切れやすい。
鼓膜と聴覚中枢の結合が(部分的に)切れてしまったために、
以前は鼓膜からのインパルスによって神経興奮していた聴覚細胞が、
鼓膜から切断されて情報入力を失ったために、
他人の聴覚細胞と共鳴して活動するようになったのである。
幻聴のある者が、側頭葉の近くの皮膚にかゆみを感じるのは、
鼓膜と聴覚中枢の神経結合が切断されているためである。
鼓膜と聴覚中枢の結合を完全に取り戻せば、幻聴は消えるであろう。
そもそも、たとえ幻聴があっても、他人に非難されることがなければ、
幻聴は問題にならないはずである。
眼で見た物は実在感が高いが、耳で聞いた言葉は実在感が薄い。
だから、感情が実在を嫌悪したとき、
眼よりも耳のほうが接続が切れやすく、幻覚が多いのであろう。
[79] 感覚子を使わない認識論(試論) 2001年1月14日 0時25分
わつい さん e-mail
〈仮定〉
1.脳細胞の神経興奮により、その脳細胞の在る所だけに感覚が生じる。
2.同種脳細胞間には共鳴がある。
[78] 感覚の同時同所性原理について 2001年1月13日 23時0分
わつい さん e-mail
脳細胞の神経興奮により、その脳細胞の近くに感覚子が発生する。感覚子は時空間の中に存在する。感覚子には短い寿命がある。感覚子の発生には小さいエネルギーを要する。そして、
『感覚子が存在する時空点にいる人(正確には脳細胞)に、その感覚子が荷う感覚が感じられる。』
頭ごなしに、そのように考えることにする。それが‘原理’というものだ。
例えば、私の脳で考えている時、私の脳の在る場所に、私が考えている内容を荷った感覚子が発生しているから、私には私の考えていることが感じられる。反対に、他人の脳で考えていることは、他人の脳の在る場所にしかその感覚子が発生していないので、自分には他人の考えていることが感じられない。幻聴は、聴覚子の脳外放射として理解される。
[77] スーパーでお買い物♪ 2001年1月13日 22時39分
わつい さん e-mail
人の顔見るなりたごりかかるような半キチのいいなりになんかなれるか。
考えが足りん者の言うことなんか聞けるか。
半キチの言うことなんか聞いたら、自分がほんとのキチガイになるわ。
弱気なバカに従えるか。
まともな者の言うことしか聞く気になれんわ。
[76] 科学だけでは幸福になれない。 2001年1月13日 22時38分
わつい さん e-mail
いくらワープやタイムマシンができたって、
何が楽しいかがわかっていなければ、
かえって不幸になるかもしれない。
いくら頭がよくても、
感情に対する理解がなければ、
幸せにはなれない。
[75] 他人にわかること≠自分にわかること 2001年1月12日 20時34分
わつい さん e-mail
他人にもわかるのは五感だけだが、自分にわかるのは五感、知覚、感情のすべてである。
自分の知覚と自分の感情は他人にはわからないが、自分にはわかる。[わかる=感覚できる]
他人にわかることよりも、他人にわからないことのほうが大事。
自分にわかるすべてのことが大事である。
[74] バカはどーして外見にこだわるのか? 2001年1月11日 22時38分
わつい さん e-mail
バカは頭を使ってものを見ない。
それがクセになっている。
頭を使うのがメンドウくさくてイヤだからである。
だから眼先のことしかわからない。
人の心なぞトーテイわかるわけがない。
せいぜい人の‘外見’ぐらいわかるのがセキのヤマだ。
それしかわかることがない。
それほど頭の中が貧乏なのだ。
くだらない文化が流行るのは、国民の手本となる政治家たち
とくに総理大臣がくだらないからだ。
政治家だってうわべでは立派ぶっているが、一皮むけばバカ親父だ。
いくら東大卒でも役に立たなければただのバカと同じだ。
だれが政治家やっても景気がよくならないというのはウソだ。
そう信じ込ませよーとしているだけだ。
政治家としての才能がないならサッサとやめて他人に譲るべきだ。
天皇見てハタふる奴もイヤ。国民主権に反するからさ。
医療費を100%自己負担にしろ!
保険なんてしょせんは賭け事と同じさ。
人の不安につけこんでいるだけだ。
年金をハイシしろ!
そのひきかえに安楽死をみとめろ!
愛だの正義だのキレイゴトをぬかすな!
弱いもの、悪いものがはびこるだけだ。
1票の力は小さい。だから、1人1殺主義。
[73] 感覚の脳細胞への局在性(同時同所性)について 2001年1月10日 20時21分
わつい さん e-mail
仮に、自分の身体を左右まっぷたつにできたとする。そして、左半身と右半身を引き離したとする。そのとき、左脳で考えたことは左半身の感覚となり、右脳で考えたことは右半身の感覚となる。左脳で考えたことは右半身では感じられず、右脳で考えたことは左半身では感じられない。つまり、‘自分が左半分と右半分の二つになった’ことになる。また仮に、自分の脳から1個の脳細胞を取り出したときにも、自分の脳で考えたことは1個の脳細胞には感じられず、1個の脳細胞で考えたことは残りの脳では感じられないから、‘自分がふたつに分裂した’ことになる。
[72] 相手の気持ちがわかること 2001年1月9日 21時2分
わつい さん e-mail
ゲームは自分の主観を働かせて敵キャラを見るだけだ。
相手の「気持ち」をわかろうとするのではなく、
ただたんに自分ひとりの気持ちがわかるだけだ。
相手の‘外見’に対する自分の気持ちがわかるだけだ。
世の中にヨウジギャクタイなんか流行るのも、子供の気持ちがわからず、
自分の気持ちしかわからない親がいるからだ。
育児ノイローゼになるのなんかも、自分の気持ちしかわからない母親だからだ。
自分の気持ちしかわからない人間は冷たい。言葉や態度が冷たい。
イジメなんかでも、相手が泣くのを見たらかわいそうになってそこで止めるのが
キマリだ。
人間には他人の言葉や態度を見て、他人の気持ちがわかる能力がある。
いくら自分が気に入らなくても、この能力を捨てることはできない。
世の中には、その人自身の気持ちが不快な人間も多いから、
そんな人の気持ちをわかれば自分までもが不快になる。
それでも、この能力〈才能〉を捨てようとしてはならない。
キタナイ人間を見て自分が不快になるのだったら、その反対に
楽しいアニメのキャラを見て自分のキゲンを治せばいい。
相手の気持ちをわかるばっかりではタタカイには勝てなくなるが、
それでもいいじゃないか。
[71] 心の様相(現実≠実在) 2001年1月9日 20時34分
わつい さん e-mail
人間の心はいくつかの感情からなる。
個々の感情は豆電球のようなものである。
豆電球が灯ると、その感情を感じるわけである。
感情はしょせん脳細胞の活動にすぎないから、
感情は現実〈自分が今、実際に経験している実在〉に従わなければならない。
現実に従わない感情は消える(活動を停止する)。
現実に従う感情は活動する。
現実は実在の一部分にすぎないから、
活動している感情がたとえ現実的ではあっても、実在的とは限らない。
また、消えている感情でも、現実が変われば再び活動できることがある。
[70] 百姓 2001年1月7日 23時47分
わつい さん e-mail
見かけだけいい連中は、みんなHのためだ。
百姓にはHの喜びしかない。
百姓は気持ちがツンツンして周りの迷惑だ。
くたばれ!
[69] 但馬の気質 2001年1月7日 18時31分
わつい さん e-mail
但馬(近畿北部)の人間なんか、冷たい心の軽蔑バカばっかりだ。
他人をいやがったり嫌ったりする心ばかり強い。
服装にばかりやたらカッコつけて、頭の弱い田舎者丸出しだ。
仕事も下手で手抜きで、食い物がまずい。
人にまずいものばかり食わせて喜んで意地悪い。
第一水がまずい。泥臭い。
米もまずい。米が黄ばんで、すえた匂いがする。ベチャ飯ばっかり。
おかずの味付けが、みなにが辛い。それなのに濃い。
スーパーで売られている肉も魚も古いのばっかり。
牛乳は再生品ばっかり。牛乳の味がない。(年に2回ぐらい新品が売られることあり)
私の生まれた南国高知に較べたら正反対だ。
そこでは、
人のことは人の好き勝手にさせる。他人に口を出さないのが原則。
他人の言葉尻を取ってはいけない。人の心がわからないかん。
一番大事なのは心。しかし、自分の心に対しては客観的であらねばならない。
食い物がうまい。ただ、最近橋が架かってからは手抜き気味で味が落ちた。
人々が金儲け主義に堕落してしまった。
味付けが、甘くて薄味が主流。水がヌメリ気があってうまい。
豆腐が硬くておいしい・・・
やはり、南方系の人の心は温かく、北方系の人の心は冷たいようである。
[68] 他人を信頼するな 2001年1月7日 16時59分
わつい さん e-mail
自分に理解できることがなくなった哀れな人間が、他人の眼に頼ろうとするのだ。
自分の評価が自分でできないから、自分に対する他人の評価がどうしても気になるのだ。
他人の価値観がそんなに素晴らしく、自分の価値観がそんなにくだらないのか?
他人がそんなに信頼できる根拠が一体どこにあるというのだ?
子供の頃、自分は自分の両親を絶対的に信頼していた。
自分の友達も信頼していた。
その名残だ。
そういう子供心は捨てるべきだ。
自分を幸福にするのでないかぎり、信用するに値しない。
他人の言うことを聞いて自分が不幸になったら、それこそ自分が大バカだ。
他人に言いがかりをつける喜びしかない者の‘気持ち’なんかわかる値打ちがない。
そんなやつの言うことなんか無視して、自分のやりたいようにやればいいのさ。
[67] アニメ 2001年1月6日 21時27分
わつい さん e-mail
自分を支えているのは、自分の周りの人間ではなく、自分の前頭葉にある自分の感情である。
快感は自分を生に導き、反対に不快感は自分を死に導く。
アニメは人間の教科書だ。
アニメのキャラクターの動きを見ていると、キャラクターの気持ちがわかってくる。
人間よりもアニメのキャラクターの方が表情や態度が派手で、気持ちがわかりやすい。
いくら、脳が別々で、他人の感覚が自分に直接には感じられなくても、
他人の言葉や行動を介して、間接的に他人の気持ちをわかることは可能だ。
いくら自分が不機嫌の時でも、アニメの女の子が笑っているのを見ると、
自分も心の中では笑わずにはいられない。
[66] 他人に頼るな 2001年1月6日 16時7分
わつい さん e-mail
私は他人の眼を見ない。なぜなら、他人に頼る必要がないからだ。
自分の間違いを他人にいちいち直してもらわなくてもいい。
他人はそれほど正しくない。
自分は自分の好きなようにやっても困ることがない。
だから、自分が正しい。
他人は要らない。
自分の問題は自分で考え、自分の行動は自分で律する。
他人に考えてもらう余地がない。
たとえ物の上では他人に頼らなくてはならなくても、
心の上では他人に頼らなくてもいい。
[65] それでも幻聴は実在する。 2001年1月5日 0時36分
わつい さん e-mail
幻聴は感覚波であって実在する。
しかし、人間の感情にとっては感覚波の存在が不快であるらしい。
他人に知られない裏の生活があった方が人間にとっては都合がいいからだ。(私としては、裏表のある生活が嫌いだ。なぜなら、人間の本心には裏表がないからだ。)
そこで、人々は感覚波を無きものにしようとした。
「この世に感覚波が存在しない。」ことを真実と信じ込ませようとした。
しかし、嘘は真実にはかなわない。
(自分に感じることすなわち)感覚が存在するならば、感覚波も存在するのが自然だ。
真実を受け容れることは最初は苦痛だが、それを利用すればより多くの幸せが得られる。
例えば、ニュートン力学が出来た当時は利用価値がないので無視されたが、
理論が実生活にまで応用され始めるといきなり重要性が増した。
感覚波の存在を受け容れれば、快感子を放射する人工衛星を作って地上に向けて放射すれば、全人類が何もしなくても幸福になれる。
たとえ幻聴が実在しても、
自分に他人から非難されることがなければ、
幻聴は問題にならないはずだ。
幻聴が聞こえて暴れないかんのなら、まず他人に非難されないようにしろ。
[64] ニセ実在哲学 2001年1月4日 23時4分
わつい さん e-mail
Yahoo!かGooかで「実在哲学」を検索すると、
一番上に、『妖怪的電波帝国 俺はケツの穴が大好きだーーー!!』というのが出る。
ケツの穴が好きだろうが嫌いだろうがこの人の自由です。
それには文句は言いません。
ただ、本当のことを言って欲しいと思います。
うその作り事ばかり言う人は嫌いです。
本当のことをいって上手く行くなら、それはどんなにひどいことであっても
事実として認めなければなりません。
しかし、ウソの冗談ばかり言って、信用置けない情報を周りに撒き散らすのは
いけないことだと思うのです。
わざとに嘘をついて、心を濁(にご)して、本当の気持ちを
見えにくくするようなことはやめましょう。
マンガも文学の端くれですから、人間の本心を描き出すのが仕事だと思います。
本心の表現でしたらどんなに変わっているように思われても真実だからいいんですけど、
他人にウケようとしてわざわざくだらない感情をいれて描きたがるのはうそつきだから
いけません。
嘘をつくのは自分の見栄を張るからで、自分の心に対して十分客観的になりきれていない
からだと思います。
物も心も正しく見れてこそ大人の人間なんだと思います。
[63] 腰抜け 2001年1月3日 8時36分
わつい さん e-mail
他人が自分に文句つけたからといって、
例えば自分に「新しい服を買え」と言ったからといって、
それに従うのは、
自分が他人の機嫌を取ったというよりも、
自分が腰抜けなだけだ。
そんなに自分が腰抜けになることが楽しいことなんですか?
自分にちゃんとした理解があれば、
自分が自分の心をよくわかっていれば、
つまり、自分がしたいこととしたくないことがはっきりわかっていれば、
例えば、自分が新しい服を買っても自分が楽しくならないことがわかっていれば、
自分がただぼんやりと生きているのでなければ、
絶対に、他人の言葉に従うことはない。
要するに、いくら他人が自分に文句をつけてきても、
自分が他人の言葉に従わなければいいのだ。
自分で自分を幸福にすることが善であり、不幸にすることが悪である。
自分が自分の感情にとって本当に楽しいことを理解し、
自分で自分の感情を満足することは善いことである。
[62] どうして他人の感情に自分が従わなければならないのか? 2001年1月2日 18時20分
わつい さん e-mail
どうして他人の感情に自分が従わなければならないのか?
他人は自分の感情にちっとも従わないのに。
「自分が汚い服を着ている」のが他人の気に入らないからといって、
自分が着たくもないのに他人のいいなりになれるか!
自分の気持ちを無視して一方的に命令できると思い上がる方が常識がない。
おまえらが服装ばかりにこだわるのは、それしか取り柄がないからだろが。
見る者よりも見られる物であるのは腰抜けの証だ。
おまえらの中に宿っている弱気がそうさせるのだ。
そもそも人間はみな見る者であるはずだ。
見て→考えて→思って→行動する。これが人間の行動パターンだ。
だから自分が他人に見られるのではなく、他人が自分を見るのだ。
そんなことがわからないのは、受身な気持ちにならせる弱気が世界観を歪めているからだ。
他人と自分は別々だ。
他人は他人自身の主義に従い、自分は自分自身の主義に従う。
こう言う自分だっていくらか弱気に駆られているのだ。
自分自身の弱気に負けたほうが地獄行きというわけさ。
[61] 超常現象 2001年1月1日 15時5分
わつい さん e-mail
UFO、超能力、心霊写真...
最近、テレビでは嘘だ本当だのと議論するのが流行っているようだが、そんなの
最初っから嘘に決まってるっしょ。
嘘を真実らしく見せて、視聴者をどこまで怖がらせることができるか。
それがテレビマンの腕の見せ所でしょ。
俺も子供の頃は、本気(マジ)で怖かったなあ。
あんな怖い番組をもう一度見てみたいよ。
昨晩見た「宇宙人の解剖」なんか、
あまりにも宇宙人が人間に似すぎるぅ〜。
まったく別の恒星系で発生して進化した生物が、
ほとんど地球人と身体の構造が同じなのはおかしすぎる。
遠くからUFOをぼんやり眺めるまではよかったが、
宇宙人は突っ込みすぎだ。
[60] 人間にとっての喜び 2001年1月1日 14時0分
わつい さん e-mail
人に「服を買え」って言うけど、おまえらだっていい服着ているワリには
ちっとも楽しそうじゃねえじゃねえか。
いくら顔で笑っていても、心はちっとも喜んでない。
心で喜んでいると、周りにも楽しい雰囲気が漂うはずだ。
それがちっとも感じられない。
うそつきは嫌いだ。他人を騙す奴は嫌いだ。偽善者は嫌いだ。
そんなん道徳じゃないよ。
むしろ他人にとらわれているだけに汚らしい感じがする。不愉快だ。
全然嬉しくない。
他人をからかうのもいいかげんにしろ。
最近の人間は、顔を操ることは出来ても、心を操ることは不得手なようだな。
それに、本当に楽しくなければやらなければいいじゃないか。
いい服着て格好つけても、要するにそれって他人の目にとらわれているだけのことでしょ。
自分が情けなくない?
他人のいいなりになるって格好悪いことじゃない?
自分に後ろめたいこともないのに、なんで他人の目を気にするの?
他人の目がどうでもよければ、格好なんてつける必要ないじゃない。
最近、本当に楽しんでいる人間を見かけなくなったな。
どうして本当に楽しいことをしないのかな。
うわべの格好よさばっかり気にして。
どうして自分の心を肯定しないのかな。
俺なんか面倒臭くて3年間同じ服ばっかり着てるよ。しかもボロいの。
男に生まれてくりゃあ、格好つけても張り合いないしね。
楽しくないことは最初からしないほうがいいよ。
もっと他の楽しいことをしようよ。
人間に生まれてきて、目先の喜びしかないんじゃ情けないよ。
浅薄さがイヤっちゃ。かえって下品だ。
別に勉強とかじゃなくっても、もっと頭を使えばいいだろ。
考えて物を見ていない。
人間の取り柄は頭しかない。頭を使わなければ人間じゃない。
物は豊かになっても、認識の質は低下している。
くだらない、汚らしい心ばっかりだ。
私は人嫌いじゃなく、くだらない心の人間が嫌いなだけだ。
とにかく、最近の風潮はなっていない。
「とにかく楽しければいい」ってことは認めよう。
しかし、目先の楽しさが人間にとっての本当の楽しさであるとは到底思えない。
目先の楽しさなんて、上滑りで浅薄で、無味に等しい。
人間にとっての喜びがわからないバカが目先の喜びしかないのだ。
人間以下が威張るな。
[59] 男と女の違い 2001年1月1日 1時34分
わつい さん e-mail
女は基本的に現実に満足している。反対に、
男は現実に対して不満である。
だから、男はすぐにケンカをして、自分の気に入らない者を消そうとする。
つまり、男のほうが気難しいのだ。
女の感情は寛大に出来ている。
だから、男よりも女のほうが幸せだ。
感情が取り換えられるものならば、ぼくの心を女の心に入れ替えてくれ。
[58] 他人の命令は自分の動機に従わねばならない。 2000年12月31日 0時35分
わつい さん e-mail
他人が自分に命令しても、命令の内容が自分の動機=欲求=快の感情の中になければ、自分はその命令には従えない。いくら他人が自分に命令に従うことを欲しても、他人の欲求心は自分には全く感じられないからである。例えば、他人が自分に「新しい服を買え!」と言っても、自分がそうしたくなければ、その気にはなれない。その気がなければ何もしない。
自分は他人の命令に積極的に抵抗するわけではないが、他人の命令に従わないことにおいて他人に抵抗しているともいえる。
[57] 自分の動機となり得るのは自分の感覚だけである。 2000年12月30日 18時41分
わつい さん e-mail
他人の感覚は自分には感じられない。
他人が自分をどんなに思おうが、それは自分には感じられないから、
自分の動機となり得ない。
自分の動機となり得るのは、自分の感覚だけである。
自分が他人の態度を見て、それを自分が勝手に意味付けして、それに反応しているにすぎない。
全部自分の感情に振り回されているだけのことだ。
自分の感情のことだけしか考えていない。
自分にとって感じられないものは、絶対に自分の動機とはなり得ないから、他人の感情は自分の目的にはなり得ないのだ。
例えば、他人の気に入られようとして自分の身なりを整えるのは、本当は他人を喜ばすためなどではなく、自分が他人に嫌われるのが怖いからなのだ。なぜなら、自分には他人の喜びは感じられないが、自分の恐怖なら感じるからだ。自分にとって他人の喜びは動機にならないが、自分の恐怖なら動機となる。恐怖を動機として行動するのは腰抜け野郎だ。他人が自分を好こうが嫌おうが自分の知ったことか。他人に振り回されるのは見苦しいことだ。感覚の独立性が理解できていれば、みだりに他人の感情には従わないものだ。感覚が見えていない気狂いが、決まって他人に言いがかりをつけたがる。感覚を無視している者は、人間を物としてしか見ていない。知覚が働かず、五感でしか物を見ないバカにとっては、人間は心のない物でしかない。実在の人間が見えてもいないバカに、誰が従うものか。バカに従う者はもっとバカだ。それが自分の恐怖とあらば、喜んでその恐怖を抑制するとしよう。自分自身も腰抜けってことか(苦笑)。けっきょく、自分で自分の感情が操れないほうが悪いってことか。なるほど。
[56] 可能な限り、感情を肯定しよう 2000年12月30日 16時45分
わつい さん e-mail
以下、実在は
1.宇宙全体、または
2.実際に、自分が生まれてから死ぬまでの間に経験する実在≡世界
の二つの意味のどちらかで用いることにする。
「実在」の方が「世界」よりも、言葉的に‘かっこいい’からである。
普通は、1よりも2の意味で用いられる。
「感情は脳細胞の神経興奮にすぎない」から、感情は実在にはかなわない。
いくら身震いするほど興奮しても、実在に反する欲望=感情は実現されない。
実在に反する感情は抑制され=押し潰され=否定され、活動=神経興奮できなくなる。
実在を選択することによって、感情の消滅を食い止めることが出来る。
とくに、正義とか美感とかウエイトの高い(私にとってかなぁ)感情の抑制は
避けねばならない。致命的になる。=鬱病
そのためには、可能な限り、自分にとってウエイトの高い感情を肯定し、
実在を感情に従属させねばならない。
つまり、実在を選択せねばならない。
例えば、美感のあるアニメだけを見て、美感のないアニメを見ないように
しなければならない。美感のないアニメを見ると、不快を通り越して鬱状態になる。
なかでもクリマミは最悪だ。
いくら買うときお金がかかっても、つまらないアニメは思いきって見るのをやめよう。
近所のスーパーでも、いいおかずを売っている店を選んで買出しに行かねばならない。
面倒臭がって(これもひとつの不快感)いいかげんにやっていると、
体調を崩してつらい思い(もっと大きな不快感)をする。
兄弟どうしの間では、身体を張ったケンカが出来るが、
普通は、それは許されない。
可能でないなら、その感情は否定されねばならない。
他人の態度が自分の気に入らないからといって他人にケンカを売ったりするのは、
やめにしよう。(俺もそうだったな)
実在は感情の敵だが、
「感情が脳細胞の活動=神経興奮である」ために、
実在を否定しすぎると、自分の脳細胞が神経興奮できなくなり、
早い話が生きて行けなくなり、感情も消える。
精神と物質とは切り離せないのだ。
感情が活動できるためには、いくらかは実在に従わねばならない。
感情全体として幸福であるためには、いくつかの感情を犠牲にせねばならない。
感情が実在を受け容れねば、感情自身が成り立たない。
感情には現実的な喜びと、非現実的な喜びとがある。
いくら現実的な喜びでも、条件が変われば満足されなくなる。
例えば、ケンカを売る喜びも、子供のうちは許されても、大人になればタダでは済まない。
例えば、他人に勝つ喜びだって、世間の広さを知れば常に自分の上がいることがわかるから、他人と競争しても無駄なことがわかる。感情は人によって違うから、自分は自分の感情を満足することだけを考えればいい。向上と競争は違う。自分は自分の道を進めばいい。競争欲はやめよう。
例えば、自分の周りがいい人ばっかりとも限らない。ある時期までは運がよくて満足されていても、いつまでもそううまくはいかない。
現実的だと思っていた喜びも、じつは非現実的だったことがあとでわかる。
特殊な条件下でかろうじて成り立っていたにすぎない。
反対に、非現実な喜びでも、条件が変われば満足される。
例えば、マンガを読んでいるときには、マンガの人になってマンガの世界を楽しむことができる。私はやらないが、ゲームだってそうだろう。
もっとも、あんまり非現実性が度を過ぎると、感情が異常になりすぎて問題になることもあるが。だから、ある程度のセーブも必要。それが、マンガを長く楽しむコツだ。感情はじかに眼には見えないものだからこそ、大切にしなければならないのだ。
[55] 世界の選択 2000年12月29日 22時51分
わつい さん e-mail
‘自分が実際に経験する実在’は、実在=全宇宙の極々一小部分である。
これを‘世界’と定義する。
実在においては感情は全部否定され無になるが、
世界においては残る感情がある。
自分が世界を上手く選択すれば、多くの感情が残り、自分を幸福にすることができる。
自分が世界を下手に選択すれば、活動できる感情がなくなり、自分を不幸にすることになる。
人間わがままであるべし。
自分が好きな世界を選べば幸せになり、
自分が嫌いな世界を選べば不幸になる。
世界を積極的に選ぶことが大事。
これを面倒くさがっておろそかにすると、後で苦しむことになる。
好きか嫌いかぐらいいい年こいたらわからにゃいかん。
他人は自分の感情については何も知らない。
他人の言葉にばかり頼って、
自分で自分の感情を理解できないではいけない。
[54] バラの花はなぜ赤い? 2000年12月28日 18時59分
わつい さん e-mail
バラの花からは波長3,800Åの光が反射される。
その光が眼に入り網膜のロドプシンに捕らえられて神経電気信号に変換される。
そのインパルスが視神経を経て大脳の後頭葉皮質まで伝わり
脳細胞が神経興奮すると
”赤色の感覚を荷う感覚子が発生”し、
「赤い」と感じることになる。
[53] 感覚は神経細胞(⊃脳細胞〉にしかない。 2000年12月28日 18時45分
わつい さん e-mail
腰椎麻酔をすれば足の手術ができる。
だから、足自体には感覚はない。
爪や髪の毛を切っても痛くないから、それらにも感覚はない。
すべて脳と神経繊維でつながってはじめて感覚が生じる。
膝蓋腱反射のとき脊髄に”ズーン”と鈍い感じがするから、
脊髄(腰髄)にも感覚がある。
なぜなら、脊髄には多くの神経細胞があるからだ。
つまり、厳密には脳だけではなく、
脳と脊髄、つまり一般に神経細胞に感覚がある。
普段は脳を問題にすることが多いので、
とくに脳細胞と言ったにすぎない。
脳を麻酔すれば脳細胞の活動=神経興奮が止むから感覚がなくなる。
さすがにこうなってしまっては、
「われ思うゆえにわれあり」も適用外というわけだ。
(デカルトの頃には、まだ麻酔がなかった。)
[52] 五感+α 2000年12月27日 20時34分
わつい さん e-mail
五感+力 =力学
五感+原子=化学
五感+内臓=医学
五感+感覚=実在哲学
五感(五感界のこと、私は五感界のことをたんに五感ということが多い)に、
実在する眼に見えないもの(五感界にないもの)をひとつ加えると、
ひとつの理論体系ができる。
[51] 適用(あてはめ)−実在哲学の試験勉強への応用ー 2000年12月26日 20時42分
わつい さん e-mail
教科書や参考書には「例題」が載っているだろう。
例題には、公式・法則(つまり、一般的命題)の具体的問題への適用法、即ちあてはめかた
が説明してある。それを暗記して、まねすればいい。
つまり、試験問題を解くには、1.公式と2.公式の適用法(つまり、あてはめかた)の
ふたつを記憶すればいい。
記憶する時には、自分でノートに字を書いて問題を解いたりするよりも、
ひたすら本を繰り返しよく読むこと。本の大事な所に線を引く程度でよい。
そうすれば、楽(らく)に、効率よく勉強できる。
あまった時間は遊びに使える。
実在哲学を理解すれば、正しい勉強の仕方がわかる。
江戸時代の塾といったら、今の大学並みのセンスがあった。
真理を学ぶことが目的だった。
それなのに、今の塾(某大手予備校)は試験勉強のことにしか目がない。
勉強といったら、試験勉強しかない今の世の中は下品だ。
[50] 五感>知覚? 2000年12月24日 22時16分
わつい さん e-mail
知覚従属性感情において、知覚が五感に従属するとは、
知覚が五感界の中だけに留まらねばならぬという意味では到底なく、
知覚で考えられた結果が五感界の具体的事物と食い違ってはならぬという意味である。
知覚界には五感界にないさまざまな概念がある。
例えば、数とか原子とか力とか内臓とか感覚とか、いろいろある。
実際には、自分の持っている知覚情報に基づいて五感⊃眼で見えることを解釈するから、
知覚界が五感界を含んでより広いといえる。
その意味では五感が知覚に従属する。
しかし、自分が知らないことに関しては五感が知覚よりも詳しいから、
その場合には知覚が五感に従属しなければならない。
[49] 賭け事 2000年12月24日 14時16分
わつい さん e-mail
確率に頼るのはバカだ。
自分に理解できることがないから、わからないでもいい賭け事に走るのだ。
賭け事はわかるものではないから、バカにでもできる。
子供を産むのだって、出来のいいのが生まれるか出来の悪いのが生まれるか
わからないから、賭け事と同じだ。遺伝子操作を認めるべきだ。
数学における確率は、わからないことを合理的に考えるのが目的だから、
いちかばちかのやけくそでやる賭け事とは違う。
確率的に見れば、賭け事は全部不利に決まっている。
賭け事には手を出さないのが、最も有利だ。
[48] 幻聴 2000年12月24日 13時7分
わつい さん e-mail
幻聴は実在する。
なぜなら、分裂病では実在を不快に感じるのであり、
分裂病者は幻聴を不快に感じるから、
幻聴は実在するのである。
発病以前にも、ときどき幻聴のような体験は誰にも大概あるものだ。
だから、幻聴と分裂病とは関係ない。
むしろ幻聴のない世界のほうが壊れやすい作り事=妄想にすぎない。
一般には、幻聴のない世界のほうが自分の精神に自由があり楽しいからだ。
しかし、幻聴が誰かの脳から発射された聴覚子であることがわかってみれば、
幻聴も普通の聴覚と同じことだから、
特別に気に病むことはない。
自分の考えと、他人の言葉の区別がつきさえすれば、なんてことはない。
そもそも幻聴は誰にも乳児期・幼児期にはあった。
気持ちだけ伝わる感情子の放出がそれである。
母親が赤ん坊が泣き出す前に泣くのがわかるのはそのためである。
人間が言葉を憶え、言葉を使うようになると、
言葉ほうが幻聴によるよりも確実な情報伝達の手段だから、
いつか幻聴は忘れ去られていった。
それが再び甦ったのが、分裂病の幻聴なのである。
〈幽霊の補足〉
感覚子には数ミリ秒程度の‘寿命’があるから、人間死ぬとほとんど同時に、
感覚子も出なくなる。たとえ幽霊が感覚子の塊だったとしても、
そもそも感覚子に寿命があればやはり幽霊は実在できない。
[47] 幽霊 2000年12月24日 12時34分
わつい さん e-mail
幽霊即ち人間の肉体から分離した精神は実在しない。
なぜなら、精神つまり感覚は、脳細胞の活動=神経興奮によって
‘脳細胞の近く’に発生する感覚子にすぎないからである。
人間死んだら、脳細胞の活動も止むから、感覚子も発生しなくなり、
つまり精神が消える=なくなる。
人間死んだら精神活動も同時に止まる。
後は何もない。だから、幽霊はいない。
したがって、墓を立てる必要もなく、葬式もやる必要はない。
古臭い仏教のくだらない作り事に振り回されることはない。
意味のない無駄なことは大嫌いだ。
[46] 分裂病 2000年12月24日 12時18分
わつい さん e-mail
考えたり行動したりする動機はみな感情にある。
感情が肯定できるためには、感情の実在化がある程度は必要である。
「感情が実在する」という意味は、
快感・不快感としての感情自体は実在するけれども、
感情の内容は実在的ではないということである。
だから、たとえ感情の実在化がある程度はできたとしても、
実在に反する感情までも肯定してよいわけではない。
感情はしょせん脳細胞の神経興奮なのだから、
感情が実在を支配できるわけがない。
実在に反する感情を無理に肯定すると分裂病になる。
分裂病では、感情の実在化ができず、実在が不快だから、
実在において自分の感情が肯定できず無感情になり、
動機となる感情がないから無知無為になる。
感情の実在化によって分裂病はある程度は改善する。
感情を実在化すれば、実在が不快でなくなるから、実在への適応性が高まる。
感情を完全に実在化することはできない。
そもそも感情は非実在的なものなので、
感情を完全に実在に従属させようとすると、
感情が全部否定され、感情が全く活動できなくなる。
これが鬱状態である。
人間の感情にはどこか実在化されていない部分が常にある。
人間が実在のすべてを認識しないから、それが許されるのだ。
そのほうが人間にとっては幸せなのだ。
だから、自分がこれまで自分の感情を肯定してうまくいったからといって、
たまたま自分にとって不快なものに出会ったとき、
それを一概に否定しようとしてはいけない。
やはり、自分にとってどうしようもない実在は受け容れねばならないのだ。
人間いくつになっても自分の感情を絶対肯定できるのではない。
[45] 感情は実在する 2000年12月23日 23時1分
わつい さん e-mail
感情は前頭葉にある脳細胞の神経興奮によって発生する感覚にすぎない。
ということは、同時に
「感情は実在する」ということでもある。
実在するものならば、他の物質と同様に無視するわけにはいかない。
エネルギーや資源が重要なのと同等に、感情もまた重要なのだ。
感情をどうでもいい冗談のようにしか捉えられない者は、
本当の苦しみを知らない者だ。
苦しみを経験すれば、感情の大切さがわかるはずだ。
[44] 他人にとらわれない心 2000年12月23日 22時48分
わつい さん e-mail
他人にとらわれるのはきたない。
例えば、ゲラゲラ大声で無理に笑ったりするのは見苦しい。
実在第一原理によれば、他人の認識≒感覚は自分には感じられない。
その他人に対してとくに愛情もなければ無視してよい。
他人への愛情や友情が自分の幸福の妨げになれば、
例えば、他人が自分を殺そうとした場合には、
愛情や友情を否定すべきだ。
他人の姿は自分の眼には見えるけれど、
他人の感覚は自分には感じられない。
ということは、逆に
自分の姿は他人の眼には見えるけれど、
自分の感覚は他人には感じられないということだ。
自分の考えていることや思っていることじたいは他人にはまったくわからない。
五感でわかるように表現しないかぎり、自分の考えや気持ちは他人にはわからない。
黙っていてもわかってくれるのは、肉親の間だけだ。
それを赤の他人にまで一般化しては=押し広げては、間違いになる。
実在哲学第一原理によれば、自分に感じられるのは自分の感覚だけだから、
他人のことにとらわれるのは第一原理に反することになり、
第一原理を受け容れた心=感情にとっては、不快に⊃汚く感じられるのだ。
反対に、他人にとらわれのない潔い態度は快に⊃美しく感じられるのだ。
ただたんに眼で見えることしかわからない動物の心よりも、
感覚性を考慮した心のほうが人間的で実在的なのだ。
[42] 哲学への入り口 2000年12月23日 11時3分
わつい さん e-mail
今から10年前に考えたこと
・時間のある4次元の世界が本当の世界で、
時間のない眼で見える世界がウソの世界である。
・それではどうしてウソの見せかけの世界があるのか?
それは、眼で見える世界が脳の働きによるから。
・自分の脳の外にある世界は自分に感じられない。
「自分に感じられない世界」がある。
それが実在の世界なのだ。
・自分に感じられること‘感覚’と、
自分に感じられないこと‘実在’とがある。
実在が自分に認識されて、はじめて自分の感覚になる。
自分に感じられるのは、自分の感覚だけだ。
・実在の中に脳があり、脳の神経興奮によって感覚が生じる。
動物には脳があるから感覚があるが、
コンピューターには脳がないから感覚がない。
コンピューターの中ではただたんに電子が動いているだけだ。
・知覚=頭で考えることも感情=心で思うことも
‘自分に感じられる’から自分の感覚であり、
自分の脳における現象である。
感情も脳細胞の神経興奮にすぎない。
・知覚は五感よりも実在に近い。しかし、
知らないことについては五感が知覚よりも実在について正しい。
[41] 孤独 2000年12月22日 22時12分
わつい さん e-mail
人間どうしは、
たとえ実在や五感で認識を共有できても、
知覚や感情では孤独であらざるを得ない。
[40] 自分の感情は自分が満足しなければならない。 2000年12月17日 20時56分
わつい さん e-mail
自分の感情がわかるのは自分以外にはいない。
だから、自分が自分の感情を満足しなければならない。
他人に自分の感情を満足してもらおうとしてはならない。
自分の感情を知っているのは自分だけだ。
自分が何を好きで、何を嫌いか正確にわかるのは自分以外にはいない。
他人にはそれが正確にはわからない。
なぜなら、感覚の脳細胞への局在性により、
他人に感じられるのはその他人自身の感覚だけであって、
他人の脳と自分の脳は離れているから、
他人には自分の感覚が感じられないからだ。
だから、自分の感情は自分が理解しなければならず、
自分の感情は自分が満足しなければならない。
[37] 自分が頼れるのは自分自身の感情だけである。 2000年12月17日 19時3分
わつい さん e-mail
人間は自分の感情を満足することだけを考えればよい。
自分の感情は自分でなければわからない。
だから、他人には頼れない。
他人は自分の感情を満足するために利用すべき道具なのだ。
他人の感覚は自分には感じられない。だから、道具だ。
自分に感じられるのは自分の感覚とくに自分の感情だけだ。
それ以外のものは問題にならない。
自分に感じられないものが自分の動機になることはない。
自分に感じられるのが自分の感情だけであり、
自分の感情を知る者は自分ひとりだけだから、
自分は自分自身以外頼るものがいない。
無から有は生まれない。
知覚におけるさまざまな概念はすべて五感か感情から得られたものだ。
知覚は情報を加工しているだけであって、情報を無から生み出すことはできない。
実在についての知識を得たければ、実在を‘観察’し、‘記憶’し、
そこから思考によって概念を作り出すしかない。
つまり、知覚における概念は、五感における具体的認識から
無駄なものを除く(抽象化する)ことによって作り出される。
五感をバラバラに壊した概念を用いて、人間は逆に
概念を用いて五感における具体的事象を構成的に捉えることができる。
知覚におけるさまざまな概念を組み合わせて、
五感における具体的事象を表現することができる。
五感を概念を用いて分析することができる。
これが言葉である。
一方、自分の感情から得られた概念(例、快・不快)を用いて、
自分の感情を理解することもできる。
これも言葉である。
自分にとっては自分の感情だけがすべてであり、
それ以外は自分の感情を満足させるための道具にすぎない。
自分が頼れるのは、自分以外の他人ではなく、
自分自身の感情しかないのである。
芸術性 投稿日:12月17日(日)11時38分30秒
投稿者:わつい
芸術とは美に優れていることだ。
だから、芸術とは楽しいことだ。
反対に、現実じたいには美がない。たとえあっても、わずかしかない。
だから、現実そのものは楽しくない。
だれも現実を受け容れたくはない。
現実は自分の幸福が増す場合にのみ受け容れるべきである。
自分を不幸にしてまで現実を受け容れてはならない。
不幸の意味がわかっていれば、絶対にそんなことはできないはずだ。
自分の実体験が足りないから、自分の不幸を甘く見るのである。
現代っ子は人から聞いた言葉ばっかりで、自分自身の経験が足りないのだ。
現実が人によって違うって、バカなことを言うな
本当に現実の中に生きていれば、実在が唯一であることが理解できるはずだ。
人間の実在に対する認識が人それぞれなのだ。
認識の真偽は実在によって判定される。
認識が任意であることは実在においては許されない。
現実はだれにとってもおもしろくはない。
それをおもしろいと考える者は、受験ノイローゼだ。
現実をおもしろいと信じ込んで、嫌な勉強を無理にやろうとしているのだ。
哀れなことだ。
自分の快・不快ですらわからなくされている。
これでは感情が無意味だ。
せいぜい国語でいい点を取るだけだ。国語でいい点を取ることが感情なのだ。
そうやって、文部省のいいようにされている。完全にいいなりバカだ。
個人の感情の快不快まで、感じかたまで、他人に決めることはできない。
国語でいい点を取るから、感情が優れているわけではない。
たいていは、うわべだけで要領よくやっているにすぎない。
作家じたいがそういうざっとした連中だ。
自分の感情を他人に立派に見せることだけは達者だ。
そいつらの本音はバカ息子だ。
うわべと本心が分離してしまっている。うわべだけよくて、本心はバカのままだ。
本気で実在を受け容れようとしないからだ。
その点、理系の学生のほうが正直だ。本気が大事だ。
感情の実在化においては、理系の方が文系よりは上だ。文系はウソつきだ。
いくら文系が楽しくても、実在を無視している感情のほうが価値が高いとは思えない。
しょせん空想は現実にはかなわないのだ。
しかしながら、実在ばっかり受け容れるとうっとうしくてやっていけない。
人間が実在を受け容れるのは、あくまでも自分の楽しみを増すためだ。
自分の楽しさが減る場合には、無理してまで実在を受け容れてはならない。
理系の学生は、真実でありさえすればなんでもいいと思っている。
その結果が、現在の学校教育だ。
無理に事実を押し付けて、あれでは人生が拷問だ。
学校のなかった昔にはあんなことはなかった。
昔のほうがまだマシだ。
事実の受け容れすぎもまたいけないということだ。
現実を楽しく見れるのなら、現実的でなくてもいい。
人間は空想で現実を見ることができる。
空想が楽しければ、たとえ現実じたいが無味乾燥でも、現実を楽しく感じることができる。
これが芸術だ。
自分の頭の中に楽しい空想の世界を容れることができれば、現実が楽しく見える。
空想と現実とは切り離れたものではない。
空想と現実を切り離して理解できるほど、人間は要領よくはいかない。
そもそも人間の感情にとっては現実も空想も同じなのだ。
感情は快か不快かがわかるだけで、真偽の区別まではできないからだ。
いくら眼や頭(知覚)で空想と実在を区別できても、
心の奥では現実と空想の区別はないのだ。
人間は本質的には感情的であるから、いざとなれば自分の心で行動する。
眼や頭はブレーキにならない。
この点は大人も子供も変わらない。
そもそも数字の上で20歳を越えたからといって急に子供が大人になれるわけがない。
だから、たとえ芸術といえどもある程度は現実的であらねばならない。
いくら感情が楽しいからといって、感情が実在を離れすぎてはいけない。
楽しすぎても、楽しなさすぎてもいけない。
ほどよく感情が活動できねばならない。
これが芸術についてのルールだ。
[36] 支配・従属関係 2000年12月16日 21時36分
わつい さん e-mail
強い者が弱い者を支配し、逆に弱い者は強い者に従属する。
同様に、知覚における認識(命題)の間にも、支配・従属関係がある。
他の命題を論理的に従えるもっとも強い命題が「原理」である。
例えば、哲学第一原理「感覚は脳細胞の神経興奮によって生じる」ことから、
感情も感覚の一種であるから、「感情も脳細胞の神経興奮によって生じる」ことになり、
感情とはそんなものだったのか!、ということがわかるわけである。
つまり、感情とは人間の前頭葉前部にある脳細胞(群)が、五感や知覚からの
インパルスによって神経興奮させられた時に発生する感覚にすぎない。
ちょうど、スイッチを入れれば電灯が光るのと同じことだ。
ただたんに前頭葉にある脳細胞が神経興奮しただけで感情が感じられるのだ。
だから、頭に穴をあけて電極棒を突っ込んで感情を荷う脳細胞を興奮させれば、
他に原因が何もなくても感情が生じるのだ。
ナント、感情とはそれだけのことだったのだ!!
快感を荷う感情細胞を興奮(活動と同義)させるのに、
日ごろ人間はやっきになっているわけである。
[35] 愛情3 2000年12月16日 21時4分
わつい さん e-mail
愛情とは、他人の快を自分の快とし、
他人の不快を自分の不快とすることだ。
愛情がときとして自分の幸福の妨げになることがある。
その場合には、愛情を否定すべきである。
感情全体としての快感が最大になるようにすればいい。[最大感情の最大幸福の原理]
感情の対立なんかは、なにも個人同士の争いでなくても、
一人の人間の頭の中にでもあるもんだ。
[34] 人間における情報処理 2000年12月16日 19時48分
わつい さん e-mail
眼で見て→頭で考えて→心で思って→身体で行動する。
これが個人における情報処理課程である。
社会は個人の集まりに過ぎない。
実在するのは社会ではなく、ひとりひとりの個人だ。
社会というのは、人間関係によって関係付けられた個人の集合体である。
個人と個人はどんなに身体が近くにいても、
感情の世界はまったく異質であり、
認識の世界は全然別々である。
つまり、生まれた時から遺伝によって個人の感情は違っており、その上
生育環境によって受け容れる実在のルールも違っているから、
個人の認識の世界はかなりの違いがあるといえる。
これが、実際に銘々が感じている世界なのだ。
実在する世界は一意的で、そういう意味では万人共通であっても、
実際に銘々が感じている世界は、個人固有のものである。
つまり、実在する世界は共通であるが、
個人の認識の世界は独立なのだ。
感覚まで考慮すると、社会は個人にバラバラになるのである。
人間間の社会関係も、個人の外にあるのではなく、
各個人が持っている認識のひとつにすぎないと解される。
個人の認識なくしては社会関係も成り立たないのだ。
人間同士の社会関係も、本来は自分が楽しく生きるためにあるのである。
自分が幸福になる場合のみ実在を受け容れるべきである。
自分が楽しくなければ、うっとうしい社会関係など否定すればいい。
[33] 愛情2 2000年12月16日 19時23分
わつい さん e-mail
愛情はエゴイズムである。
つまり、愛情とは、
‘自分の快感のために’他人を快とし、
‘自分の不快感のために’他人を不快にしないことである。
愛情においても自分の快・不快感だけが問題であり、
他人はそのための道具にすぎない。
[32] 愛情 2000年12月16日 18時40分
わつい さん e-mail
愛情とは他人の快を自分の快と感じ、反対に
他人の不快を自分の不快と感じることだ。
こう言えば聞こえはいいが、
要するに、愛情はエゴイズムということだ。
自分に感じられるのは自分の感情だけだから、
愛情もけっきょく自分の快・不快しか問題にしていない。
愛情はエゴイズムだ。
愛情があるから、
自分の感情と他人の感情が関係づけられ、
他人の快・不快を考えるにすぎない。
けっきょく、人間は自分にとって快なことはやり、不快なことはやらないだけだ。
だから、愛情のかわりに敵意があれば、
他人を不快にして自分が快になろうとする。
愛情も敵意もともに自分が快になればよいだけだ。
人間は自分が快になることしか考えていない。
これが人間というものだ。
[31] われ思うゆえにわれあり。 2000年12月16日 17時59分
わつい さん e-mail
感覚の同時同所性の原理即ち感覚の脳細胞への局在性により、
他人の感覚は自分には感じられない。逆に、
自分の感覚を他人が感じることもない。
「われ思う、ゆえにわれあり。」とは、感覚を考慮せよということだ。
他人の感覚を自分が感じないのだから、
根本的には自分にとって他人のことはどうでもいい。
自分が快であれば、いくら他人が不快でもいい。
それがすべてだ。
人間には愛情がある。
愛情とは他人の快を自分の快と感じ、反対に
他人の不快を自分の不快と感じることだ。
愛情は特定の他人に対して感じられる。
だから、それ以外の他人は自分にとってはどうでもいい。
愛情は例外的だ。
やっぱり、自分のことだけを考えればいいのだ。
快・不快は冗談ではない。
それが冗談なのは、経験が足りないからだ。
実感が足りないからだ。
自分の感情に対しては真剣でなければならない。
自分が不幸になるからだ。
この世に一つしかないものを、自分と他人が奪い合ったら、
どちらかが幸せになり、どちらかが不幸になる。
他人の幸せのために自分が不幸になってはならない。それでは、
自分の幸せのために他人に不幸になってもらおう。
たとえ、それが女子供であろうとも。
[30] 実在の一意性 2000年12月16日 17時36分
わつい さん e-mail
実在の世界は一意的である。
実在についての認識には、正解と不正解がある。
認識は自由であるが、実在についての正しい認識は唯一である。
実在の世界は認識によらず、客観的に存在する。(ただし、量子力学的効果を除く)
実在が認識の真偽を判定するのであって、逆に
認識が実在の真偽を判定するのではない。
なぜなら、認識即ち感覚は‘実在の中にある’脳細胞の活動に他ならないからである。
たかが脳細胞の神経興奮に、実在の真偽を左右できるほどの力はない。
感情は、感情を荷う脳細胞の活動によって発生する感覚子だから、
感情も一意的である。
つまり、あるひとりの人の感じる感情はまさにその人が感じるそのひとつの感じしかなく、
他人の認識によって変わることがない。
他人の気持ちがわかるとは、まさにその他人の感じる感情と同じ感情を自分が感じることである。
感覚の脳細胞への局在性より、他人の感情じたいを自分が感じることはないが、
自分の感情で他人の感情を類推すれば、
ある程度までは他人と同じ感情を自分も感じることができる。
物が表で、心が裏だ。
裏を読むとは、人の心(感情)を読むことだ。
感情も、脳細胞の神経興奮によって発生する感覚の一種であるから、
自分の感情も他人の感情もともに、客観的に捉えられる。
つまり、感情の感覚子としては、実在の中に一意的に存在している。
感情が主観的といわれるのは、
感情そのものが固有(つまり、特定の個人にしか感じられない感情がある)であったり、
個人によって事物と感情の対応関係が違っていたりするからである。
感じ方は銘々に違いがあるが、一人の人間の感じる感情は一意的である。
[29] プログラム 2000年12月16日 10時27分
わつい さん e-mail
バカに従う者はもっとバカだ。
バカは自分自身が不快だから、他人に口出しして他人も不快にしようとする。
バカには人間同士の感情の違いが理解できていないらしい。
バカは自分が他人に口出しできる権利がないことが理解できていないらしい。
つまり、バカは現実の世界を受け容れておらず、現実が見えていない。
バカの非現実的な世界観は現実に適応できず理解するに値しない。
もっとも、こういうバカのいるのが、また現実でもあるのだ。
自分を不幸にしたくなければ、バカには従わないほうがいい。
[28] 日本の心 2000年12月10日 15時48分
わつい さん e-mail
ヨーロッパ人の感情と日本人の感情は違う。だから、日本人がヨーロッパ人の真似をして大きな家に住んでも幸せではない。日本人は橋の下のあばら屋に住んでこそ幸せなのだ。日本人は脂ぎった贅沢な感じよりも、枯れた貧相な感じのほうを好むものだ。
明治時代以降、日本は西洋文明を盛んに取り入れてきた。しかし、そのせいで、うわべと心とがバラバラになってしまった。日本人は西洋文明では十分に満足できない。それなのに、今の日本人はそのおもしろくないことを毎日一所懸命にやっている。心でものを見ていないから、こんなチンプンカンプンなことになるのだ。まるでチンドン屋だ。ただたんに優れている者を真似ればいいのではない。自分にとって楽しくなければ、そもそも何にもならないのだ。
日本人のくせに、愛がどうのこうのとキリスト教にかぶれてしまった者がいる。おまえいっぺん自分の顔を見たことがあるがか!?日本人に愛情が似合うと思うか?!日本人は冷酷非情なものと昔から決まっている。ヒョロヒョロしていて薄ら笑みを浮かべて一体何考えているのかわからないのが典型的な日本人像だ。愛情みたいな脂臭いものは日本人には似合わない。日本人に愛情なんか最初からない。うわべだけヨーロッパ人の真似をするのはみっともない。
[27] 競争はやめよう 2000年12月10日 14時54分
わつい さん e-mail
上には上がいる。たとえ日本の総理大臣でもアメリカの大統領にはかなわない。競争欲は完全には満足されない。だから競争にはこだわらない方がよい。
人間には競争欲以外にも多くの感情がある。それらを満足させるようにすれば、生きていくには十分である。他人と自分を比較しないで、競争欲以外の自分の感情を満足すればよい。
ヨーロッパ人は、明らかに日本人よりも頭がいい。遺伝的に知覚、つまり大脳新皮質が発達している。だから、あまり頭がよくなろうと考えてはいけない。自分の経験が足りないから、自分の頭がよいなどと思いあがったりするのだ。要するに、人生は楽しければいいのだ。楽しさこそが大事なのだ。
[26] 実在哲学の3原理 2000年12月10日 11時10分
わつい さん e-mail
知覚における認識は、論理によって主従関係がある。つまり、「○○であるゆえに××である」とき、○○は××を論理的に支配し、逆に××は○○に論理的に支配される即ち従属することになる。例えば、「お金がないから、欲しいものが買えない」場合、「お金がない」という命題が「欲しいものが買えない」という命題を論理的に支配しているわけである。数学や物理学では命題間の論理関係が明確である。
他の全ての命題を論理的に支配する命題が原理と呼ばれる。数学では公理とも呼ばれる。例えば、古典物理学におけるニュ−トンの3法則が原理である。
実在哲学には3つの原理がある。
T.脳細胞の活動によって感覚が発生する:脳細胞原理
U.自分の感情を肯定すべきである:感情原理
V.実在と感情の対立は永久になくならない:対立原理
これらは実在する法則であり、自分の感情がこれらの法則を受け容れることによって自分の感情が発展:進化するのである。
[25] 私の勉強法 2000年12月7日 20時45分
わつい さん e-mail
私は小学生の時は家では全然勉強しなかった。私が中学高校性の時はいちいちノートに鉛筆で字を書いて勉強していたが、大学に上がってからはいちいちノートに書くのがめんどうくさいのでただたんに本を読むだけの勉強に切りかえた。それでも平均95点はとれた。そもそもテストで点を取るには、教科書参考書の内容を”記憶”し、その記憶を与えられた問題に”適用”(当てはめて解くこと)すればよいだけだ。だから試験勉強のメインは本の内容を記憶することだ。そのためにはいちいち字を書くことは不必要むしろムダであり、自分の眼と頭(記憶中枢)を働かせばよいだけだ。つまり本を”くりかえし”読むことが最も効果的である。あと、自分が本を読んでいておもしろいことを考えついたら、本の余白に書きこみをしていた。こうすれば理解が深まる。
[24] 無意識 2000年12月7日 20時32分
わつい さん e-mail
フロイトの言った無意識とは、感覚のない認識のことである。しかし、実在哲学の第一原理によれば、脳細胞が神経興奮すると必ず感覚が発生するから、感覚のない認識すなわち無意識はありえない。なんらかの脳細胞の興奮が引き金となって不適応な行動を引き起こしているいじょう、脳細胞の神経興奮が必ずどこかにあるはずだ。ゆえに必ずその場所に感覚が発生するはずだ。感覚がないなんてありえない。すなわち無意識はありえない。
脳幹から大脳皮質全体への賦活性の神経分布(いわゆる網様体賦活系)が存在する。脳幹の活動度〈神経興奮の激しさ〉が上がると大脳皮質の感覚が強まり、反対に脳幹の活動度が下がると大脳皮質の感覚が弱まるだけのことである。
フロイトの言っている無意識は、実際には、具体的内容がよくわからない感情のことである。これを”無”意識と呼ぶのは不適切である。”不明”意識と呼ぶべきであろう。
[23] 真理なんかくそくらえ! 2000年12月6日 20時23分
わつい さん e-mail
自分の感情を肯定すべきである。自分が幸福になる場合にだけ実在を受け容れるべきである。真理なんかくそくらえ!そもそも正義の心(感情)がなければ真理なんかなんの意義もない。正義の心とは真理を快、虚偽を不快に感じる心だ。だから正義心なんかないほうが善い。善とは自分自身を快にすることであり、悪とは自分自身を不快にすることだ。自分の脳と他人の脳は空間的に離れていて、他人の感覚は自分には感じられないから、他人のことはどうでもいいのだ。
[22] 現実と非現実の区別 2000年12月5日 20時25分
わつい さん e-mail
頭(知覚)では現実(実在)と非現実(空想の世界)の区別がつくが、心(感情)は快か不快かしかわからないので、心では現実と非現実の区別はできない。現実と非現実の区別は、頭ではできるが心ではできない。心は現実と非現実を対等に見る。例えば、アニメやマンガを見て培われた感情で現実も見る。だから、非現実と現実とは心を介する相互作用がある。例えば、非現実がHだと、現実においてもHになる。だから、非現実がどうでもいいわけではない。自分が認識する非現実(例、アニメやマンガ)を慎重に選択する必要がある。
デタラメに生きていては自分が不幸になる。自分で自分を不幸にするのはやめましょう。
[21] H 2000年12月4日 20時15分
わつい さん e-mail
Hをすると、Hをしていないとき不満がたまるので、ちょっとしたことにでもすぐ腹を立てるようになる。怒りっぽくなる。Hをしすぎると、HをしないときにH欲が満足されないことによる持続性の欲求不満の不快感があるので、その上に他の刺激による不快感が加わると、忍耐の限度を超えてしまって立腹する。これでは実在を冷静に見ることができない。実在を受け容れることができない。したがって、Hはやめるべきである。
麻薬でも同じように欲求不満で怒りっぽくなる。いわゆる禁断症状が現れる。一般的に、辺縁系を使う重い快感は欲求不満に陥りやすく危険である。やはり、大脳新皮質を使う軽い快感(見たり聞いたり考えたりする楽しさ。例えば、アニメやマンガ)が、軽い欲求不満しかなく無難でよい。
[20] 感情の違い 2000年12月3日 19時4分
わつい さん e-mail
自分の感情と他人の感情は違うから、自分が幸せな他人を真似ても必ずしも自分が幸せになれるわけではない。もっと自分の本当の気持ちを知り、それを自分で満足させねばならない。他人は自分の本心をまったく知らない。たとえ長年付き合った友人でも自分の気持ちはわかってない。自分の気持ちは自分ひとりしか知らない。大事な自分の進路を友人の意見なんかで決めてはいけない。友人は友人の気持ちで言っているだけだ。自分の気持ちと友人の気持ちは違うから、友人の言う通りにしてはいけない。
[19] 要語解説:感情C 2000年12月3日 10時20分
わつい さん e-mail
感情は五感や知覚に反応して生じる。同時に複数の感情が反応する。二者択一の場合には、和の快量が大きくなる方を選択すべきである。人間は知覚によって将来を予想する能力がある。その予想に対してまた感情反応がある。だから、現在と未来の両方の快量を考慮し和をとって考える必要がある。
[18] 要語解説:感情B 2000年12月3日 9時57分
わつい さん e-mail
感情とは、前頭葉にある脳細胞の活動(神経興奮のこと)によって発生する感覚である。仏教で人間には108つの煩悩があるといわれるように、前頭葉にはいろいろな感情がある。それらの感情は快感または不快感を帯びている。質量が物体についてのひとつの量であるように、快感・不快感は感情についてのひとつの”量”である。物体には形や硬さなどの他の量があるように、感情にも快・不快感以外の量がある。例えば、寂しさの感情には多少の不快感が含まれているが、他にも寒さや孤独感といった感じも含んでいる。感情は見たり考えたりしたことに反応して生じるが、一般的には複数の感情が反応するようである。だから、快不快感を考える際には、個々の感情の快不快感の和をとって考えねばならない。とくに、あちらが立てばこちらが立たずの二者択一の場合には、一方が快なら他方が不快になるので、不快をマイナスの快と見て、和の快量が大きくなる方を選択すべきである。
前頭葉にはたくさんの感情がある。しかし、個々の感情の調節はできない。なぜなら、前頭葉の脳細胞へ至る神経繊維は、ひとつの神経核から前頭葉全体に分布しているからである。たしか、脳幹にある放線核とか紫放線とか言うものだったと思う。人間の脳の構造がそうなっているいじょう、個々の脳細胞の活動の制御は不可能なわけだ。だから、感情の活動の調節は大まかにならざるを得ない。つまり、全般的に活動を促すか、全般的に活動を抑えるか、どちらかひとつの調節しかできない。しかし、感情が実在を受け容れると変化することがあるから、知覚や五感から感情へ局所的に分布する神経繊維を介する細かい調節もあるようである。
人間の身体に病気があるように、人間の感情にも病気がある。感情の病気には、前頭葉に広汎に分布する神経繊維を介する調節が絡んでいる場合と、五感や知覚から前頭葉に局所的に分布する神経繊維を介する調節が絡んでいる場合がある。前者は精神病、後者は神経症と呼ばれる。感情が非実在的であるために、感情と実在とは対立し、あちらが立てばこちらが立たずの二者択一の関係にある。ために、感情を強引に肯定すれば実在が否定され、反対に実在を強引に肯定すれば感情が否定される。前者は分裂病、後者は鬱病と呼ばれる。分裂病では、自分の感情を絶対肯定した結果、実在が嫌でたまらなくなり実在が受け容れられず実在に不適応になる。鬱病では、実在を絶対肯定した結果、自分の感情の不快感が高まりすぎその不快感を抑えるために感情全体に抑制がかかりやる気が出なくなる。早い話、感情が活動しすぎるのが分裂病で、感情が抑制されすぎるのが鬱病である。健康な感情は活動が適度な状態にある。感情は興奮しすぎず抑制しすぎずに活動させるのがよい。精神病では、前頭葉に全汎性に分布する神経繊維が絡んでいるから感情全体を一塊と見て、感情全体が活動しすぎるか抑制しすぎるかのふたつの状態しかないから、精神病には分裂病と鬱病の2種類しかないことがわかる。これに対し、神経症では前頭葉にある個々の感情へ至る局所的に分布する神経繊維が関与するから、個々の感情の数だけ病気の種類がある。一度抑制されていたあるひとつの感情が再び活動するようになったのが神経症である。神経症についてはフロイトの理論が正しい。しかし、フロイトは分析的な見方しかしなかったので神経症は理解できたが精神病は理解できなかった。精神病も神経症も一度かかると治らないから、常日頃かからないように気をつける必要がある。
[17] 要語解説:感情A 2000年12月2日 23時24分
わつい さん e-mail
感情が非実在的であることを説明しよう。感情は快な感情と不快な感情に分類される。ところで、快な感情が実在に、不快な感情が非実在に必ずしも対応するわけではない。快な感情・不快な感情と実在・非実在との間に相関がない。ゆえに、感情は実在的ではない、つまり非実在的なのだ。経験の少ない者にとっては”感情の非実在性”を納得できないかもしれない。”感情の非実在性”とは、平たく言えば感情が間違っているということだ。自分の感情が間違っていることは、感情自体にとって受け容れがたいことだ。しかし、それは事実だ。例えば、ギャグマンガはおもしろいが、そこに描かれている事はたいていは事実ではない。これは、人間が非実在的なことを愉快に感じるからだ。これが人間のホンネだ。ゆえに、感情は実在的ではない。反対に、学校の勉強は嫌なものだが、教科書に書かれている事はまぎれもない事実だ。このことは、嫌な事にも真実があることを意味する。ゆえに、感情は実在的ではない。そもそも、感情が生まれつき実在的ならば、みんな良い子で、学校で勉強する必要がない。これは、現実的でない。だから、感情は非実在的だと考えればよいわけだ。
このように、感情は実在的ではないが、かといって感情を捨てて生きるわけにもいかないのだ。感情のない人間は生きることができない。なぜなら、感情がなければ「ビルから飛び降りれば死ぬ」ことを止められないからである。たとえ「ビルから飛び降りない」ことを約束にしても、ではなぜその約束を守る必要があるかがわからない。知覚でわかることは、「ビルから飛び降りれば死ぬ」「ビルから飛び降りなければ死なない」ことだけであって、どちらを選べばよいかについては何も教えてはくれないのだ。感情があってこそ生きるための選択が可能になるのである。しかし、感情の本質が、快・不快感であってみれば、生きることの選択を絶対視することもできない。つまり、人間は快だから生きるのであって、不快ならば死を選ぶ。自分の将来が不快なことばっかりで愉快なことがなければ、死んだ方がよい。例えば、老人になると病気が多く入院しても痛い検査ばっかりで病気が治るわけでもなくいいことがない。これのどこに生きる価値がある?!生きていること自体が拷問じゃないか!自分の未来に快がなければすぐに死ぬのが賢明だ。このほうが哲学的には合理的だ。他人はどう思うか知らないが、とにかくこの私は嫌だ。だいいち、年とって老人になれば、脳が萎縮して脳細胞数が減って感覚が弱くなるから、快感が減るのだ。いつまでも若い時と同じようにはいかない。「人間が死すべきこと」は認めがたい事実かもしれないが、いつかは社会的にも受け容れられる日が来るだろう。安楽死が認められれば、老人福祉も医療費も両方要らなくなるから税金が減り、老後の貯金が要らないから感情の活動の盛んな若い時にもっと遊べる。このほうが哲学的には合理的だ。老人にとっても病気にかかって苦しむ前に死ねるから幸せである。いくら金持ちでも病気にかかれば貧乏人と同じ苦しみを味わわねばならないことになる。問題は、安楽死を認めると自殺者が殺到するから社会が混乱し、人口が減ることだ。社会の混乱はどうにかなるかもしれないが、人口の減少はどうにもならない。人口が減ると困るのは国民の税金だけに頼って生活している国会議員の連中だ。人口と税金は比例するから、人口が減ると公務員の収入も減ることになる。公務員のエゴイズムのために、先の国会では安楽死が見送られることになった。ふざけるにもほどがあるぞ!哲学的には、生きるか死ぬかよりも、快か不快かの方が優先する。不快な生よりも快な死のほうがいい。感情原理に従えばこの結論しかない。人間にとっては、たんなる真理なんかどうでもいいはずだ。問題なのは快か不快かだけだ。戦前の遅れた思想の持ち主がいなくなれば、安楽死も認められるだろう。私が定年になる前にそうなってもらいたいものだ。
[16] 要語解説:感情 2000年12月2日 20時27分
わつい さん e-mail
脳細胞の活動によって感覚が生じる。これが哲学第一原理であった。だから、感情も脳細胞の活動によって生じる感覚の一種である。人間の感覚は五感、知覚、感情に分類され、それらの間に相互作用がある。感情と五感・知覚との違いは、感情が快・不快感を伴う点である。
感情は、ただたんに大脳の前頭前野の脳細胞群の神経興奮によって発生する感覚にすぎない。木魚を叩けば音が出るように、前頭葉の脳細胞が神経興奮すると感情という一種の音のようなものが発生するのだ。それ以外の原因を持たない。もちろん、前頭葉の脳細胞が興奮するためには、そこへの五感や知覚からの神経繊維を介する入力が必要である。これによって、感情と五感・知覚の間に対応関係が生じる。五感・知覚と実在の間には対応があるから、実在と感情の間にも対応があることになる。このように、感情は遺伝によって生まれつき決定されていて、後は五感や知覚に反応して感覚を発生しているにすぎない。
感情の具体的内容を知ることは難しい。なぜなら、感情は後天的に獲得された知識や眼で見える物体や耳で聞こえる音などの上に表現されねば現れないからである。素材がなければ感情は表現されない。素材が変われば表現も変わる。さらに、感情は実在を受け入れることによって状態が変化する。個々の感情の活動度(感覚の強さのこと)が修飾されるのだ。後天的に新しい感情が獲得されることはありえない。生まれつきあった感情が経験によって少し変調されるだけだ。
感情は遺伝によって決まる。人の顔・身体が遺伝によって決まり、それらが人によって違うように、感情も人によって違う。だから、自分と他人では気が合わない。このままではケンカになるから、人は他人に対してはクールでなければならない。そもそも、人は自分の感情に対してもクールでなければ、自分の感情を味わって楽しむことができないのだ。感情は人生を楽しむためにこそあるのだ。だから、知覚が感情に支配されてはならない。感情の過度の興奮は絶対に禁忌だ。もとい、自分が他人を受け容れるとは、自分が他人に対してクールであることだ。他人を無視せずに、他人を冷静に観察できることが、他人を受け入れることである。もちろん、特定の事がらに関しては自分と他人とが感情的に共感できることはある。それは、自分と他人の感情に共通部分があるからである。その点においては共感できる。とくに、親兄弟の間では、遺伝子に共通部分が多いから、あかの他人よりも共感できるものだ。しかし、一般的には人間同士の間には感情の対立があると見てよかろう。気が合うよりも気が合わないほうが一般的である。これが実在の世界であり、この状況を受け容れねば、社会の中で生きていくことができない。
感情は非実在的である。だから、感情だけに従っては実在との食い違いが大きくなり実在に適応して生きて行くことが出来ない。もしも感情が生まれつき実在的ならば、人間は学校に行って苦労して勉強しなくてもよいだろう。そんなにうまくは行かない。それは、感情が実在を知らない、つまり非実在的だからと考えるわけだ。例えば、子供がニンジンを嫌がって食べないが、これではビタミンA不足になる。感情がビタミンAの存在を知らないからだ。みんなも子供のころにはニンジンが嫌いだったが、それを受け容れて大人になったのだ。人生のハードルは至る所にある。
とにかく、いくら感情の快・不快感が激しくても、しょせん感情は前頭葉の脳細胞の活動にすぎないのだ。感情の実体は、前頭葉の脳細胞の神経興奮によって生じる快感または不快感を荷う感覚子なのだ。このことを考えれば、自分の感情に対していくらかは冷静になれるだろう。
[15] 要語解説:感覚 2000年12月2日 13時5分
わつい さん e-mail
感覚とは、平たく言えば”自分が感じる”ことである。例えば、注射針を突き刺されたとき痛いと感じるその痛みが感覚である。この”自分が感じる”という点においては、眼で見ることも、耳で聞こえることも、自分が考えることも、自分が心に思うこともみな自分が感じるから、これらは全部自分の感覚である。そして、これらはみな自分の脳細胞の活動(神経興奮のこと)によって生じているのである。
感情には喜怒哀楽のいろんな情感があるが、そのひとつの性質に”自分に感じる”ことがある。この”自分に感じる”ことにおいては、五感も知覚も同じである。眼で見える色や形も、頭で考える言葉や図も、みな”自分に感じる”という性質がある。そこでこれらをまとめて感覚と呼ぶ。
そして、これらの感覚が生じる原因として、自分の脳細胞が活動(神経興奮のこと)したからと考える。脳細胞が神経興奮することによって、その同じ場所に同じ時刻に感覚が発生するのだ。脳細胞によって、発生する感覚の種類が異なる。ひとつの感覚が発生するのに必要な脳細胞の数についてまではよくわからないが、それはどうでもいい。大体のイメージとしては1〜100個といったところか。大事なのは感覚を荷う脳細胞の数ではなく、脳細胞の位置にある。つまり、自分の頭のどこでその感覚が発生しているかが問題なのだ。それはすでに大脳についての医学が明らかにしている。感情は前頭葉の前の方、知覚は頭頂葉、視覚は後頭葉、聴覚は側頭葉で発生する。大体はこれでいいのだ。細かい個々の感覚については、もっと細かい位置がわからねばならない。将来の医学に期待しよう。しかし、自分の内感によって感覚を担う脳細胞(脳細胞群といった方が妥当かもしれない)の位置をつかみ、その脳細胞(群)の活動を抑えたり促したりすることは可能である。
こういうわけで、自分の脳の上だけで、自分の感覚の発生を制御することができることになる。発生する感覚の強さを変えることができる。
「脳細胞の活動と同じ位置同じ時刻にその脳細胞が荷う感覚が発生する。」これを、かつて私は感覚の”同時同所性原理”と呼んだ。だから、自分の脳には自分の感覚が生じ、他人の脳には他人の感覚が発生する。自分の脳と他人の脳は違う場所にあるから、自分の感覚は他人には感じられず、他人の感覚は自分には感じられない。つまり、個人の感覚は独立なのだ。例えば、医者の目の前で患者がいくら苦しんでいても、その苦しみそのものは医者にはまったくわからないのだ。同情はできるが、それはあくまでも医者自身の類似の経験を思い出すことによる医者自身の感覚である。感覚そのものは、脳の位置が違うかぎり別々のものなのだ。
感覚子の概念を使わなくても、”同時同所性の原理”があれば、ある程度までは人間の認識を理解することができる。ただ、感覚子を用いれば、感覚の実在性が明らかになっていいし、また脳細胞から離れた感覚の理論を構成することができる長所がある。感覚子を発生させる物質を認識子と呼ぶ。認識子は脳細胞の中に含まれている。それが何であるかまでは、今のところはわからない。リセプターかもしれないし、DNAかもしれない。私は医者を辞めているので、それについての研究ができない。分子レベルで言えば、脳細胞の中に含まれる認識子が変形すると、感覚子が発生するのである。HPでは、感覚子の寿命が数ミリ秒と述べたが、これはもちろんテキトウで実際のところはわからない。感覚子が何個発生するかもわからない。わからないが、抽象的に議論するには十分だ。感覚子1個のエネルギーもよくわからないが、私のイメージでは光子程度は必要だと思う。ただ、感覚は複雑だから光子よりも複雑な構造を持ったテンソルなのだろう(テキトウ)。これ以上のことは、未来の認識科学の発展に期待しよう。とにかく、「脳細胞の活動によって小さいエネルギーを持った感覚子という粒子が真空状態から新たに生まれる」と考えれば十分だ。この括弧の中を、かつて私はその重要性を鑑み”哲学第一原理”と称した。今でもその重要性は変わることはないが、もっと簡単に感覚の”脳細胞原理”とでもしようかと考えている。
この”脳細胞原理”はあまりにも唯物論的な感じがするかもしれない。しかし、この原理によって説明できない人間に関する具体的な現象が現れないかぎり、むやみに否定することはやめよう。私の哲学は自然科学の方法と同じにしたいのだ。脳細胞原理によって説明できないことが見つからないかぎり脳細胞原理を信じることにしようというわけだ。こうでなければ、そもそも議論というものが成り立たないだろう。哲学においても論理は必要なのだ。つまり、私の哲学は、この”脳細胞原理”で人間に関する一切の物事を見ていこうとするのが目的なのである。まず原理を立てねば議論が始まらない。基礎があいまいなままではいけないのだ。
そろそろ昼飯だ。つづきは後で。
[14] 電卓論法 2000年11月28日 20時25分
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電卓は、自分が生きようとか死のうとかいう意志を持たない。
人間の知覚は電卓と機能的には同じである。(ただし、感覚の有無の違いはある。)
したがって、人間は知覚だけでは生きるべきあるいは死ぬべき理由を持たない。
その理由は感情の快・不快感に求めねばならない。
つまり、人間は快感あるゆえに生き、不快感あるゆえに死ぬのである。
[13] 都会 2000年11月22日 20時26分
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都会は人と人が密集している。感情は個人によって違うから、誰にとっても他人は不快である。ゆえに都会は田舎よりも不快であることが多い。人は自分の感情を抑制して不快感を消去しようとする。ゆえに、都会は田舎よりも抑うつ傾向にある。
都会に遊び場が多いのは、抑うつ気分から解放されるために遊び場が必要だからである。
[12] 医者の適性 2000年11月22日 20時20分
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医者としての適性を勉強面から考える。
・人間は生物に属するから、生物学は必須である。実際、医学部の講義は高校の生物学がわかっていないとついていけない。
・論理的思考は要らないから、数学は要らない。
・英語はできたほうがよい。臨床レポートを書くとき英論文を読まされることがある。
したがって、医学部入学試験は「生物学と英語」だけでいい。医者としての適性のない者を医学部に入れないためにも、とくに生物学を必修にすべきである。
[11] 勉強するかしないか 2000年11月20日 20時15分
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勉強するよりも試験で悪い点を取るのがイヤならば、勉強すべきであり、はんたいに
試験で悪い点を取るよりも勉強するのがイヤならば、勉強するのをやめるべきである。
試験で悪い点を取るのに慣れたら、勉強しないですむので楽でよい。
勉強するかしないかは、自分で自分の心のことをよく考えて決めるべきである。
[10] 理性 2000年11月16日 20時21分
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理性の本来の意味は、はっきりしたことに対する感情である。
人間の心には理性がある。
[9] 芋けんぴ 2000年11月5日 16時50分
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母から送ってもらった芋けんぴ
けんぴが尖っているので袋が破れてた
[8] 運、不運 2000年10月30日 20時23分
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運がよいとは、感情と実在(身辺の環境)が比較的一致していることである。反対に運が悪いとは、感情と実在が対立していることである。運がよければ、実在に従属しているだけで幸福であるし、また実在が感情に従属していて幸福である。しかし、不運になるとそうはいかない。そうなると、感情の活性化や、感情の抑制、つまり自分の感情を適度に活動させることが必要になるのである。
[7] 割り切れないこと 2000年10月28日 7時33分
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自分の感情と他人の感情の違いすなわち対立も絶対になくならない。
他人に従うことは自分にとって不快である。多少は我慢(自分の感情を抑制して不快感を消す)しなければならないが、行きすぎると自分の感情が活動しなくなってウツ病になる。感情においては自分が他人を支配することが快だから、少しは他人に逆らって自分の好き勝手にやってみよう。
他人を従わせることは快である。しかし、行きすぎると自分が気難しくなって、他人のチョッとしたことにでも腹が立つようになる(不快になる)から、ワルノリはダメ。実在への適応がなくなりブンレツ病になる。感情において他人を従わせることが快ならば、実在において他人が自分に従わないことが不快になるが、その不快感はチョッと抑えよう。
感情が適度に活動していることが大切。
[6] 中間、あいまい 2000年10月26日 20時28分
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自分の感情と他人の感情とは異なる。しかも対等である。自分が他人を支配する(快感)か、それとも自分が他人に従属する(不快感)か。じっさいは、その”中間”である。一方だけに偏ることはない。支配しすぎでも従属しすぎでもなく、適度に支配・従属しているのがよい。つまり、”あいまい”がいい。
[5] 5 2000年10月21日 8時39分
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ヨーロッパも、アメリカも、ロシアも、中国も大きな国だ。反対に日本は小さな国だ。小さな独立国では国際競争には勝てない。近くにいい国がない。日本って資源がなくバカばっかりでだれが組むか!?メリットがない。どうしようもない。ヘタしたらまた戦争かも!?国力が衰えないうちに・・・とか。
不況でガリ勉バカ(ウツ病〉が増えて、ますます世の中が暗くなる。
[4] 4 2000年10月20日 23時54分
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日本はロクな頭もないのに、(ミエで)頭のいい国のマネをしすぎる。毎日2〜3時間そこそこの手仕事をして、あとはマンガなんか読んでブラブラしているほうがずっと楽しいのではないか。日本人なんて、バカがリコウぶっているだけだ。
魔法少女を見あきないのは、それが知的なおもしろさではなく、情的なおもしろさであるからだ。
[3] 3 2000年10月20日 23時44分
1 さん e-mail
感情を肯定し、現実を否定したほうがよい。例えば、試験の成績が思ったより良くて、数学科か医学部か進路を迷ったとき、自分が数学を『好き』ならば、好きか嫌いかはっきりしない医学よりも『確実に好き』である数学を選んだほうがよい。(一定の快感が”保証”される。)数学よりも医学のほうがもうかるから現実への適応度が高いと考えられるが、好きか嫌いかはっきりしないカケゴトのようなマネをしてはいけない。まして医学〈生物学のようなもの〉が嫌いなのでは、絶対に医学部へは進学しないほうがよい。
大学の数学は高校の数学とはちがうが、それでも好きであれば、いつかは理解できる。
[2] 2 2000年10月20日 23時31分
1 さん e-mail
表面的な態度〈行動様式〉は環境で変わっても、奥にある本心は不変である。つまり、感情の実在化(一般に世界化)は表面的にすぎず、実在と本心の対立は絶対になくならない。
[1] 1 2000年10月20日 23時21分
1 さん e-mail
実在(一般に世界)従属性感情があるのなら、例えば勉強すればどの教科でも好きになれるはずである。少なくともキライにはならないはずである。しかし、自分の経験によればそんなことはない。ということは、感情は世界に従属することはないことになる。つまり、たとえ勉強するにしても、それでは不快感がたまりすぎるから、『遊びの時間(快感を活動させる時間〉』もしっかり組み込んでおくべきである。不快感がたまりすぎるとウツ病になる。
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