[1501] 道徳 h17.1.23
自分が幸福になるために、自分が不幸にならないために守るべき規則[定義]。
例えば、麻薬は一時的に快なだけで、禁断症状は不快だから、麻薬をやってはならないことは道徳である。反対に、数学や物理などの知的好奇心の感動がいいのは、それが純粋な快感であって、不快な副作用がないからである。
道徳を守れば自分が幸福になれるのだから、誰もそれを破る者はいない。
自分を幸福にする方法がわからないなら、せめて自分を不幸にしないように努めよう。
[1502] 女と男 h17.1.26
女は子供やペットを可愛がって遊ぶ(自分の心を満足させる)生き物である。
男は真理や真実を考えて遊ぶ生き物である。
女も男も“後で自分が不幸になる喜び”を選択しなければ、一生幸福で居続けられる。
[1503] 自我と他我 h17.1.26
自分ひとりの幸福だけを満足しようとすると、他人に反感を買って後で自分がもっと不幸になる。
だから、あまりわがままではいけない。
しかし、他人の反感を買わないために自分の幸福を犠牲にしすぎると、これまた自分が不幸になる。
だから、適度にわがままで適度に思いやりのあることが大切だ(としか言いようがない)。
[1504] 自殺 h17.1.26
幸福は贅沢だ。自分には自分を幸せに出来るほどの才能がない。
しかし、自分を不幸にしない方法ならある。
それが自殺だ。
自分の前途に不幸しかなければ、自殺したほうが好い。
どうせ死ぬんだ。
[1505] 明るく楽しい心 h17.1.26
女で頭(知覚)がいい人には、明るく楽しい心がある。
たとえ学問の知識はなくても、優れた知性がある。
反対に、バカでも学校に通えば知識は身につく。
他人の言いなりになっておとなしく勉強することしかない犬顔のバカ女には、明るく楽しい心がない。
そいつの心にはエッチなことしかない。
[1506] 男女平等 h17.1.26
たしかに、体力や知力については、統計的に見て、男が女よりも勝っていることは否めない。
しかし、幸福になろうとする気持ちは男も女も変わりない。
女が愛情で幸福になろうとすることと、
男が正義で幸福になろうとすることとは、そもそも優劣の比較の仕様がない。
体力や知力においては男尊女卑は仕方のないことだが、
心の満足においては男女平等なのだ。
男と女がつまらない能力の比較をしないで、
それぞれの幸福を追求するなら、女も男と同程度の幸福を得ることができる。
その点では、男女平等なのだ。
[1507] どうすれば勉強ができるようになるか? h17.1.26
現象性五感や空想的心に囚われて実在を無視するようなことをしないで生きていけば、
自然に知覚が実在性五感と複合して、実在のことがよくわかるようになる。
(塾や予備校で、受験知識を身につけるのは別問題。)
人間の心には生まれつき愛情や知的好奇心がある。
そのような喜びを大事にして、それらを満足させて行けば、いつかはものになり幸福になれる。
[1508] 性教育ではだめだ! h17.1.27
性教育では、『性器は子供を作るためにある』と教えるだけだ。
性器の刺激に伴う快感については一言も言及しない。
たしかに『性器は子供を作るためにある』が、性器をそれ以外の用途に使ってはならないとは言っていない。
学校は善いことをただ教えるだけで、悪いことがなぜいけないかについては何も教えてくれない。
頭がいい人ほど精神が自由であり、自分でいろんなことをする。
悪いことがなぜいけないか説明してくれなければ、当然悪いこともする。
こんなことだから、風俗業が世の中に蔓延し、人間社会が分裂病気質に染まって汚くなる。
学校できちんと教えてくれなかったばっかりに、精神病にかかって不幸になった人々が大勢いる。
そんな精神病者のために不幸にされた人々も大勢いる。
学校教育が不備なばっかりに大勢の人々が不幸にされている。
学校で性教育を教えるくらいなら、実在哲学でも教えたほうがまだましだ。
[1509] 知的好奇心 h17.1.27
子供は一生懸命本を読む。
子供は一生懸命機械をいじる。
子供には知的好奇心があるからだ。
大人は忘れている。
人間にはそんな心(正確には感情)があることを。
[1510] 幸福の安定性 h17.1.28
学問的興味とか知的好奇心とかは、一生続けても不幸にならない安定した幸福である。
反対に、性感(現象性五感)の快楽とか、妄想(空想性心)の快楽とかは、一時的に幸福なだけで必ず後で不幸になる不安定な幸福である。
人間の心には、いろんな感情がある。
安定した幸福の感情を満足させ、
不安定な幸福の感情を満足させてはならない。
[1511] 興味の広さ h17.1.28
私が数学や物理学が得意で、社会科や生物学(医学を含む)が不得意なのは、私の心が数学や物理学に興味(知的好奇心)があって社会科や生物学には興味がないからである。
私の心は生まれつきで、興味の有無は心で決まるので、私の得意不得意は変えられない。
もっとも、数学や物理学は実在が見えていて理解(知覚的認識)があり、反対に社会科や生物学は眼先どまりで十分な理解がなくいまだ実在が見えていないことも好き嫌いに関係がなくもない。つまり、私は実在に興味があるのであって、物の見かけに興味はないのだ。
東大の人は心の出来がいいので学問全般に興味がある。一方、私の心は出来があまりよくないので、学問の好き嫌いに偏り(ムラ、凸凹)がある。人によっては、知的好奇心がまったくない人もいる。そういう人は他の感情(愛情やおしゃれ気など)を満足させて生きていくしかない(みじめ)。
[1512] 人間の分類 h17.1.28
人間には、五感、知覚、心の3つの感覚がある。
それらの優劣関係によって、人間を@3つのA6つのB8つのタイプに分類できる。
@3つの分類
最も活動が強い感覚によって、五感型、知覚型、心型の3型に分類できる。
A6つの分類
感覚を活動の強い順番に並べて、
a)五感>知覚>心
b)五感>心>知覚
c)知覚>五感>心
d)知覚>心>五感
e)心>五感>知覚
f)心>知覚>五感
B8つの分類
五感、知覚、心の支配従属関係によって、2の3乗=8通りに分類できる。
[1513] イデアのある世界とない世界 h17.1.28
眼で見えず耳で聞こえない無形無音のイデア(概念)の存在を認める人と認めない人がいる。
イデアの存在を認める人は、知覚優位の感覚界で、五感が知覚に従属しており、五感を超えたところにある実在の存在を認める人である。
反対に、イデアの存在を認めない人は、五感優位の感覚界で、知覚が五感に従属しており、五感自体を実在だと考えている人である。
イデアの存在を認める人は、認識が抽象的一般的(普遍的)であって、現象性イデアや空想性イデアに冒されやすく、広汎性の精神障害である分裂病や躁鬱病などの精神病にかかりやすい。
反対に、イデアの存在を認めない人は、五感で見えることしか信じないから、認識が常に具体的特殊的であって、局所性の精神障害である神経症にかかりやすい。(⇒[1474]
神経症と分裂病の違い 参照)
私の心にとって興味があるのは、イデアのある世界であって、イデアのない世界ではない。私が数学や物理学が好きで、社会科や生物学が嫌いなのは、そのためなのだろう。近代以降の物理学においては、眼で見えない物(力や電磁場など)の存在が認められているから、イデアの存在を認めるほうに分がある。
[1514] 概念の創造 h17.1.28
アルキメデスは既存の質量の概念と体積の概念を組み合わせて比重の概念を創造した。
つまり、アルキメデスはアルキメデス以前の人が作った2つの概念を組み合わせることによって新たな一歩を踏み出すことができた。
このように、他人が作った既存の概念を学び、その上に自分が考えを加えることによって、新しいことが見えてくる。
[1515] 感情のランク h17.1.28
1)実在性感情…知的好奇心、人情(愛情、友情)など。
2)実在性五感性感情…おしゃれ気、音楽、美術など。
3)現象性五感性感情…性欲など。
4)空想性心…妄想、夢〔おねしょしないなら、現実と空想の区別は付いている。してみると、躁鬱気質は、大人になってもおねしょするタイプなのだ。〕、(麻薬)など。
1で満足行かない人は、2や3や4に快楽を求める。そうでもしないと生きてられるか。
人間は快感のために生きているので、快感なしには人生が成り立たないからである。
ただし、人間的に許されるのは、1と2まで。
3と4は一時的に快感が得られるだけで、長期的には不快になるから、禁忌である。
[1516] 面白本位 h17.1.29
人間は自分の心を満足させながら生きている。
面白いことが第一だ。
正しいのは、面白いと思ってよく考えたからである。
反対に、面白くなければ、いくら正しくても受け入れる気にはならない。
私が社会科や生物学が苦手なのは、私の心がそれらを嫌いだからである。
点数を取りたくて無理やり勉強しても、いつもクラスの平均点より下だった。
[1517] 幸福の肯定 h17.1.29
面白ければ何をやってもいい。
ただし、『後で不幸にならない』という条件の下で、『感覚しようがしまいが実際には実在の中にいる』我々にとって許される感情は極わずかしかなく、知的好奇心か人情かテレビを見たりゲームをしたりする喜びぐらいしかない。
自分が興味を持ったことを毎日考え続けていれば、自ずから認識は正しくなる。面白いと思って考え続けるから、自然に正しくなる。つまり、面白さと正しさの間には関係がある。[心と知覚の相互作用]。テレビゲームの世界でも、勝負に勝つためには正しくしなければならない。
ただし、何を面白いと思うかは各自の生まれつきの心で決まる。もっとも、いくら面白いものがあっても五感や知覚によって面白いものに出会わなければ心は面白いと思わないから、心が面白いと思うためには五感や知覚が必要である。
[1518] 人間の条件 h17.1.29
生物学者や社会学者は物の見方が五感的で汚くくだらない。眼先のことしかわからないのは人情がなく冷たい。
私の心が興味あるのは実在界であって五感界ではない。
実在の世界には論理性がある。
眼で見えないことしか認めない者には実在が見えない。
眼で見えないものがわかってこそ人間なのだ。
[1519] 共産主義と資本主義と実在主義 h17.1.30
共産主義:みんなの幸福のために、みんなが力をあわせて働くのは、すばらしいことだ。お金があると身分に上下の差ができて階級闘争が生まれるから、お金をなくそう。貧乏人が多い国では共産主義のほうが有利だ。
資本主義:有能な者が豊かになり、無能な者が貧しくてなにが悪い。個人の財産は才能に比例する。お金は個人の才能を大事にするためにあるのだ。
実在主義:才能の有無と、貧富の差とは関係ない。お金持ちなんて、ただお金のあることが才能なだけで無能な奴らばかりだ。個人の才能と財産とは無関係である。個人が才能を磨くのはお金のためではなく、才能自体のためである。お金なんてやらなくてもいい。
[1520] 夢 h17.1.30
人間は夜寝ているとき夢を見ることができる。
おねしょしないから、夢と実在の区別は付いている。
アニメは起きて見る夢だ。
ゲームは夢の世界で遊ぶことだ。
〔人間考えてばかりいると頭が疲れるので、アニメやゲームで頭を休めないといけないのだ。〕
[1521] 論理性 h17.1.30
実在には論理性がある。
だから、知覚で実在を認識すると論理的になる。
反対に、五感界には論理性がない。実在を五感で認識した生物学や社会学に論理性がないのは、それらが五感界の認識にすぎず、いまだ実在知に至っていない不完全な出来損ないの見苦しい汚い体系だからである。
[1522] 知的好奇心 h17.1.30
人への愛が友情や愛情などの人情であるように、一般的に『実在への愛』が知的好奇心である。人情は人間に対する知的好奇心であり、知的好奇心の特殊なものと見做せる。
知的好奇心すなわち実在への愛が自然科学や合理主義哲学の産みの親である。自然科学や合理主義哲学の体系全部が知的好奇心から生まれ出たのであり、自然科学や合理主義哲学の体系全部が知的好奇心の一点に集約されると言ってもいい。
昔プラトンは哲学を『知への愛』と言ったが、正しくは『実在への愛』と言ったほうがよい。〔プラトンの時代にはまだ哲学第一原理が知られていなかったので、実在の概念がなく、実在への愛と言えなかったのも無理はない。〕人間には実在への愛すなわち知的好奇心があるゆえに、実在を知ろうとするわけだ。
[1523] どうして私は社会科や生物学が苦手なのか? h17.1.30
答えは、私の心が社会科や生物学を嫌いだから。興味がないから。面白く思わないから。
社会科や生物学に共通する点は、それらがいまだ実在知でなく、五感界の認識に留まっていることだ。物の見方が論理的すなわち実在的ではない。
心が興味を持っていないことをいくらガリ勉(試験の点数を取りたくて無理やり勉強すること)しても、出来るわけがない。
私の心は好き嫌いの偏りが強く、嫌いなものに対しては大嫌いなので、いくら勉強しようとしても、心がいやいやを言って、勉強すること自体できないのだ。勉強できないから成績が悪いのだ。
東大の人は、心に好き嫌いがなく大体全部好きだから、何でもよく勉強できるので、成績がいいのだ。
しかも、心は生まれつきで変えようがないから、嫌いなものを好きにはなれない。私の心から見れば、社会化や生物学は嫌いだから、この世に存在しなければいい。勉強しても仕方がないから、勉強しなければいい。
心の好き嫌いを認めれば、社会科や生物学は嫌いだから、出来なくても全然かまわない。
喩えば、男にとって女なら誰でも好きなわけではない。好きな女もいれば嫌いな女もある。学問だって同じことだ。好きな科目があれば嫌いな科目があって当然だ。
ガロアやラマヌジャンやエジソンたちは、正規の学校教育を受けなかったために、知的好奇心が損なわれなかった。
現在の学校教育は嫌な科目でも試験の点数のために勉強しなければならないので、人間にとってかけがえのない知的好奇心が損なわれている。心の壊れた大人を大量生産している。〔もっとも、東大ぐらい心の出来のいい人なら、好き嫌いはないでしょうから、試験のために勉強しても心を損ねることはないでしょう。〕
知的好奇心が好きな科目と嫌いな科目を分けるのだ。
知的好奇心は自分が人間であることの証[あかし]だ。たかが学校ごときに壊されてたまるか!〔もっとも、大学まで行けば、自分の進路を選べるから、部分的には知的好奇心が認められてはいる。ただ、私の場合、中学生の頃から好き嫌いがはっきりしてきたので、そういう者にとっては、大学で進路を選べても遅すぎるのだ。〕
大人は試験から解放されているので、自由に自分が興味のあることを考えることができる。ただ、学生時代ほど暇がないのが残念である。
[1524] デビルマン並み(なかまのチャットより) h17.1.31
少年時代の私が今の私の先生というわけだ。
だから、愛情というのは誰かと一緒にいて楽しいと思うことになる。
かつて私にはそういう感情があった(し、今の私にもちょっとは残っているかも)。
したがって、人間同士が結婚するのは愛情のためであって、性欲のためではないことになる。性欲を満たすためだけならば、なにも結婚までしなくてもいい。
〔私が小学2〜3年生のとき、級友が学校にデビルマンのコミックを持ってきているのを見せてもらったことがあったが、最終第5巻のラストシーンの下半身を離断されたデビルマンの意味がまったくわからなかった。(もちろん、それは“性欲を超えた純粋な愛情”の意味である。不動明は最後に人間に戻れたのだ。)私がもっと大人で考え深ければ、その意味を解せたかもしれない。しかし、子供の私はあまりにも純粋無垢で無知だったのだ。〕
[1525] 論理の味 h17.1.31
数学や物理には論理がある。
五感界には論理性がないが、実在界には論理性がある。
したがって、実在を記述する言葉には論理性がある。
中学生ぐらいになると、知覚で論理がわかるようになる。心がひとたび“論理の味”を覚えると、もはや論理の味のしないものは不味[まず]くて食べる気がしない。例えば、社会科や生物学の記述は論理性がないから、“論理の味”を占めた心が受け付けない。〔実際、あんなものには理解がないから、たとえ学校の試験で点数は取れても、認識が脆弱すぎて実在に対しては歯が立たない。〕
生物学や社会科は知覚が弱くて論理の味がわからないバカがやるものだ。〔実際、講師や教師にもつまらない者が多い。〕
〔私の心は実在を求めるのであって、試験の点数を求めるのではない。〕
実在は論理的だから、いまだに論理的記述のない生物学や社会科は実在が見えていないから、間違いと見做してよく、無視してもかまわないのだ。
[1526] 人間の結婚は性欲を満足するためではない理由。 h17.1.31
@私が子供の頃、まだ性欲はなかったが、異性を好きになることはあった。誰かと一緒にいて楽しいと思うことが愛情である。人間は愛情のために結婚するのだ。
A結婚が性欲を満足するためにあるのなら、結婚した者すべてが分裂病にならなければならないが、実際にはそうなっていない(全人口の1割程度)。
B性欲を満足するだけなら、なにも結婚までしなくてもいい。もっと便利なところで済ませばいい。
[1527] 幸福を大事にしよう。 h17.1.31
自分を不幸にしないかぎり、あらゆる幸福を認めるべきである。
少しでも自分が面白いと思ったことは何でもやってみよう。
テレビゲームでもアニメでも面白いことはどんどん生活に取り入れよう。
[1528] 私の心の変遷図 h17.1.31
[1529] 面白本位 h17.2.5
私は子供の頃から、自分が面白いと思ったことは何でもやってきた。
読書(とくに図鑑をよく読んだ(見た)。小学館の『こども学習百科事典』が好きだった。)、プラモ作り(模型店でプラモデルを買ってきて家で組み立てる。TAMIYAの1500円の戦車のリモコンが好きだった。)、機械いじり(テレビのUチャンネルをグルグル回していたら、チャンネルが壊れてテレビが映らなくなった。嘘をついて弟のせいにした。休みの日におじいさんの家に行ったとき、おばあさんの腕時計のリューズをグルグル回していたらバネが切れて時計が動かなくなった。嘘をついて弟のせいにした。)、ズル休み(親の筆跡を真似た手紙を書いて、嫌な体育の授業を見学する。)、内職(退屈な授業のとき教科書の影とか机の下で江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを読んでいた。先生に見つかって拳固で頭を殴られた。)、万引き(友達と一緒に近所のスーパーで物欲しさとスリルを味わうためにやった。でも、最後には店員に見つかって、学校の先生が家に来た。親は青ざめていた。万引きは儲けに比べて見つかったときのリスクが大きいからやめたほうがいい。)、パンフ集め(高知駅で旅行のパンフレットを必要以上に大量に取る。)、いじめ(同じクラスにいる知的障害者の悪口を影で言う。)、汽車で遠出(放課後友達と一緒に、普通列車に乗って小旅行。帰りが夜遅くなって駅で親に怒られた。)、虫取り(かぶと虫やくわがたや、せみやてんとう虫やマメコガネなんかを片っ端から捕まえて虫籠に入れる。虫籠を洗うために虫ごと近所の水路に沈めたら、虫の悲鳴が聞こえた気がして、それ以後虫取りはやめた。)、ゴルフボール採り(近所のゴルフ場にロストボールを拾いに行く。)、差別(冗談で家の中で弟と○○とか言い合っていたら、弟が小学校でそれを真似て先生に見つかって、中学生の私まで呼び出しを食らった。教職員室で大勢の教師に囲まれて親と一緒に泣きながら謝った。)、自慰行為(中学生になった祝いに、親からラジカセを買ってもらった。中2の冬に風邪を引いて寝苦しかったので、ラジオをつけて深夜放送というものを生まれてはじめて聴いた。それがたまたま『鶴光のオールナイトニッポン』だった。それにハマって『かやくごはん』とか買った。子供は冗談と真実の区別がつかないので、余計な情報端末(ラジオ、テレビ、パソコン、電話など)を買い与えないほうがいい。)とか…。
みんな、私が心で面白いと思ったからやったことだ。
合理主義の世界観では、どうして私がこんなことをやったのか理解できない。
勉強と万引きを統一する概念は『面白さ』だ。〔人間を“ホモ・ルーデンス(遊ぶ生き物)”と言ったのも、うなずける。〕子供は(大人でも)、自分が面白いと思ったら、善でも悪でも何でもする。
自分はこれまでいろんなことを面白く思い、いろんなことをしてきたが、結局大半の面白さが不快に終わって滅んでしまい、今はわずかな面白さしか残っていない。知的好奇心(つまり、この実在哲学を考えること)、アニメを見ること、BF1942(バトルフィールド、Digital Illusion社製のPCゲーム)をすることぐらいしかない。
人の心は齢とともに気高くなっていくのではなく、これまで面白かったことが滅んだり、新しい面白さが芽生えたりするだけだ。同じ高さで面白さが増えたり減ったりするだけで、なにも高くなりはしない。
私はこれまで面白さでさんざん痛い目にあってきたが、今後も面白本位で生きていくつもりだ。他人がなんと思おうが、自分にとって面白さが不快に転じないかぎり、面白さを肯定する。眼や頭を働かせて実在を見ていれば、新しい面白さが見つかることだってあるかもしれない。
[1530] 面白さの制限 h17.2.6
面白ければ何をしてもいい。
ただし、この世には『哲学T原理』(認識が従う法則)があるから、本当に何をやってもいいわけではなく、面白さもある程度の制限を受ける。
『哲学T原理』によれば、現象性五感と空想性心の喜びは一時的に快なだけで長期的には不快になるから禁止され、実在性喜びだけが許される。もっとも、たとえ実在性喜びであっても、社会的・法律的・医学的に禁止される喜び(強盗、殺人、麻薬など)もあるから、実際には、より慎重な配慮が要求される。
[1531] 阿呆の構造 h17.2.6
面白いと思ってよく考えるから正しくなる。
反対に、面白いと思うことがなければ、考えようとしないから正しくならない。
つまり、正しくない人(俗に、頭の悪い人)は、心で面白いと思うことがない、心の冷たい人である。
[1532] 知ったかぶりの医学 h17.2.6
医学書の言葉には論理性がない。
一方、実在には論理性がある。
医学書には論理性がないから、実在が見えていない。だから、いくら本が分厚くても知ったかぶりにすぎない。
〔名探偵コナンも明智小五郎も、推理の筋(論理)が通ったとき、はじめて真実が見えたことになる。たんなる事実の寄せ集めの段階では、まだ真実は見えていないのだ。五感で見えない部分を知覚で補うことによって、はじめて実在が見えるのだ。〕
[1533] 心主義 h17.2.6
人間は面白さ(楽しさ)のために生きている。
だから、そもそも正しさなんかどうでもいい。
正しさは面白さを支えるために必要なだけだ。
[1534] 人の心は、みなそれぞれ h17.2.6
知的好奇心のある人は、自分から勧んで勉強や仕事をする(天才)。興味を持って一所懸命に考えるから真実が見える。『知的好奇心は真実の母。』
しかし、生まれつき知的好奇心のない人も大勢いる。そんな人はお金の喜びを基[もと]にして、いやいや勉強や仕事に励まなければならない(秀才)。そういう人は、仕事をするのがもともと嫌だから、楽な仕事に就きたがる。子供の頃から、親父顔(眠たそうな細目で丸くて太った顔)をしている。
しかし、貧乏人にはお金の喜びすらないから、そんな人はH(性欲)の喜びを基にして、仕事や勉強をするしかない(バカ)。そういう連中は分裂病予備軍で、社会的に危険な存在である。
それでも、人の心は生まれつきなので、自分の心の真実を受け入れて生きていくしかない。
[1535] 夢と実在 h17.2.8
人間は夜寝ているときに夢を見る。
夢の中では、自分が見ているだけではなく、行動もする。
しかし、夢の中では実在と関わらないから、実在の法則に従わなくてもいい。〔夢の中では気合で空を飛べたりする。〕
一方、人間は昼起きて仕事するときには実在の中で行動する。
実在の中で行動するときには、実在の決まり(法則)に従わなければならない。
もっとも、昼間起きているときでも、実在の中で行動せず、
本を読んだり、テレビを見たり、頭の中で自由に想像するときには、
実在と関わらなくていいから、実在の法に従わなくてもいい。
また、昼間ゲームをするときには、ゲームには行動を伴うが、
ゲームの世界と実在の世界とは違うから、
ちょうど夢の世界と実在の世界とで自分の行動の仕方が違うように、〔アメリカと日本とで車の走り方が違うように、〕
違う世界で同じ行動をすることはない。
人間は、夢とか実在とかゲームとか、複数の世界と関わりながら生きている。
自分が関わる世界(対象)によって、自分が従う決まりを変えて行動する。
自分が関わる世界は実在だけがすべてではないから、〔もっとも、夢もゲームも脳細胞の上に乗っているから、広い意味では実在であるが、〕
実在の中で押し潰された心を、他の世界で取り戻すこともできる。
〔P.S.ニーチェは『人は夢を見るために生きているのではない』とし、ニヒリズムでさえも夢をくだらないものだと見做したが、本当は人が夢を見るために生きていてもいいのだ。そもそも面白さがないと人生が成り立たない。実在の世界に面白さがなければ、夢の世界に面白さを求めるしかない。皇帝ネロは夢を見なかったために、実在の世界でストレスを発散しようとして町を焼いた。〕
[1536] 実在は人生の一部だ。 h17.2.9
人間は、夢とか実在とかゲームとか、複数の世界と関わりながら生きている。
人間にとっては実在よりも面白さ(楽しさ、幸福)のほうが大事だ。
でも、自分が起きて実在と関わらねばならない(実在の中で行動しなければならない)場合には、
『哲学W原理』(つまり、実在性五感と知覚だけを働かせて、現象性五感や空想性感情を働かさないこと)を守らねばならない。〔哲学W原理と言うよりも、哲学V定理と呼ぶべきだ。哲学原理と呼ぶべきは哲学T原理だけであって、その他はすべて、この哲学原理から導かれるから、哲学定理と呼ぶべきだ。まぁ、しょせん呼び名の違いにすぎないが。〕
反対に、夢やゲームの中では、『哲学T原理』(と言うか、実在の法則全部)を破ってもかまわない(破れるものなら破ってみろ!ただし、夢やゲームの中だけでだ)。
[1537] どうして、夢の中では空想性イデアが認められるのか? h17.2.9
夢では実在と関わらなくてもよいから、自分の心が肯定できる。
空想性イデアは、心が生まれつきだから仕方がないが、
現象性イデアは、後天的に“自分が起きているときに”作り出されたものだから、それを認めてはならない。
時間が経てば知覚界の中にある現象性イデアが活動しなくなって、夢の中でも性感を働かさなくなる。
空想性イデアも大人になれば子供のときほどは活動していないのかもしれない。
[1538] 世界の住み分け h17.2.9
夢やゲームに対しては、空想性イデアで見てもよい。
H(自慰や性交)に対しては、現象性イデアで見てもよい。
しかし実在に対しては、実在性五感から作り出された実在性イデアで見なければならず、空想性イデアや現象性イデアで見てはならない。
夢とHと実在を混同しなければよいのだ。
夢とHと実在を混同しなければ、空想性イデアも現象性イデアも実在性イデアも全部認められる。〔あくまでも、区別できればの話だが。Hは起きているときにやるので、実在との混同が起こりやすいのだ。〕
[1539] 世界間相互作用 h17.2.9
昼間実在の中で起きたことが、夜夢に出ることがある。
実在と夢の間には相互作用がある。
同様に、Hと実在の間にも相互作用がある[分裂病]。
夢と実在とHの相互作用は、知覚界において行われる(知覚界には記憶があるから)。
しかし、寝ていたりHばっかりしていたら生きていけないから、
やはり人間にとっては、実在がもっとも大事である。
[1540] 壁の崩壊 h17.2.9
夢とHと実在の間には世界を隔てる壁がある。
その壁が崩れてしまうのが精神病である。
夢と実在を隔てる壁が崩れたのが躁鬱病。
Hと実在を隔てる壁が崩れたのが分裂病。
[1541] 夢には記憶がない。 h17.2.9
夢は、睡眠中の心が五感に働いて見せているのであって、心が知覚に働くことはない。なぜなら、五感には記憶がないが知覚には記憶があり、夢が知覚で記憶されると、知覚界に空想性イデアが溜まって躁鬱病になってしまうからである。
同様に、Hの体験が記憶されると、知覚界に現象性イデアが溜まって分裂病になる。自慰や性交は実在の中で起きてするから記憶されて有害だが、夢精は夢の中でHをするから記憶されず無害なのだ。
[1542] 実在から夢への作用 h17.2.9
眼で見た実在性五感や知覚で考えた実在には記憶があるが、夜見る夢には記憶がないから、実在から夢への作用はあるが、逆に夢から実在への作用はない。つまり、昼間起きたことを夜夢に見ることはあるが、逆に夜夢で見たことに基づいて昼間実在を見るようなことはしない。〔例外的に、デジャビュでは夢の記憶があって、夢と実在が一致したときにハッとするわけである。〕
[1543] 受験ノイローゼ(抑鬱神経症の一種) h17.2.9
勉強は面白くない。〔勉強とは、自分が考えることではなく、他人に考えさせられることである。〕だから、勉強ばっかりしていると喜びが足りないから、夜中に裸で家の外を走り回ったりする破目になる。〔もっと子供の場合には、親に嫌な勉強を無理に押し付けられて、嫌な気分を解消しようとして、ノートにわけのわからない文字を書きつけたりすることがある(西丸四方『精神医学入門』より)。〕
『人間は快楽のために生きている。』のだから、勉強で快感が得られないのなら、生活の中に何らかの快感が得られるものを組み込まねばならない。例えば、面白いテレビ番組や漫画を見たりすることを日課に取り入れなくてはならない。〔10年後に幸福な生活が待っているから今の苦しみに耐えろと言っても心が納得しない。人間には今のことしか感じられない。今の瞬間に幸福のあることが大事なのだ。〕
[1544] 世界観の書きかえ h17.2.10
地球を中心に太陽が回っているのではなく、太陽を中心に地球が回っているのだ。
同じように、結婚は性欲を満足するためにあるのではなく、愛情を満足するためにあるのだ。〔第2の特異点‘性欲’の解消。学生時代に哲学を考え始めてからここまで来るのに20年かかった。第1の特異点‘精神’の解消(いわゆる心身問題の解決)が哲学T原理だ。これにも8年かかった。〕
一般に、人間の中にある下位の(動物的な)感情(食欲や性欲など)は、上位の人間の感情(知的好奇心や愛情など)を満足するためにあるのであって、それ自体を満足するためにあるのではない。〔もっとも、原則的には自分が不快にならないかぎり、上位下位に関わらずすべての感情を肯定してよい。〕
[1545] 分裂病 h17.2.10
幻聴(いわゆる空耳)は、この病気とは関係ない。〔空耳は私が小学2年生のとき、朝倉小学校のプールの横で聞いたことがある。そのプールの出入口のそばには日の丸の旗が立っていて、その旗の近くで空から男の声が聞こえてくるのを私以外にも聞いた者がいた。〕
この病気の実体は、性感と複合する心による五感への意味付けである。〔正常では、実在性五感(視覚や聴覚)や実在性知覚と複合する心による五感への意味付けが行われている。〕
この病気の本質は“性感”にある。
[1546] 人間はなぜ夢を見るか? h17.2.10
夜寝ているときは、感覚器が活動を停止し、五感が心の支配下に入る。
夢では、昼間実在の中で否定されていた心が活動し、心が五感界に表現される。
つまり、人間が夢を見るのは、心の満足を得るためである。
ところで、知覚には記憶があるが、五感には記憶がないから、夢の内容は記憶されない。仮に夢が記憶されたら躁鬱病になるが、夢に記憶がないために人はいくら夢を見ても躁鬱病にはならないのだ。
人間は五感に記憶がないことを利用して、自分の心を満足する秘術を知らず知らずに心得ているのだ。
[1547] ゲーム h17.2.10
ゲーム(PCゲーム)は起きている時にするから、当然ゲームの内容は記憶され、心にも影響がある。
一般的には、ゲームの内容は非実在だから、ゲームをすると心が異常になる(DOOM3やHALF-LIFE2などの怪物や宇宙人が出てくる『妄想性ゲーム』や、成人向け恋愛アドベンチャーゲームなんかのHな『現象性ゲーム』の場合)。
しかし、BF1942(バトルフィールド)のような『実在性ゲーム』なら、ゲーム内容が実在に近いので、いくら遊んでも心が実在から離れてしまうことはない。
まったく、すごいゲームが出たもんだ。
[1548] つまらない女 h17.2.11
医学部にいた女は、知識はあるが知性がない。〔私の母には知識はないが知性がある。〕
ただ金で持っているだけだ。(俗に言う、お金持ちバカ)
[1549] なぜ幼児期の性体験は神経症になるのか? h17.2.11
人間は実在を知らずに生まれてくる。乳児期は心の世界の中で生きている。母への愛情は、生まれつきの心の中にあって、その愛情で母親を見るから好きになるのだ。
幼児期になると眼や耳が働き始めて五感界が出来てくる。ところで、イデア(概念)がイメージ(視覚像)から作り出されるために、幼児期にはまだイデアがなくイメージしかわからない。そのために、幼児期には認識が具体的特殊的で、性体験が狭い範囲に留まって神経症になる。
青年期になると知覚が発達してイデア的思考が出来るようになり〔男の子が眼で見えないものがわかるようになり、女の子が共感できる世界から離れて行ってしまう時期(スイートミント第46話『希望をくれたほうき星』参照)。女の子はイメージ的思考ができるだけで、イデア的思考ができず、子供のままなのだ。〕、認識が抽象的一般性を帯びてきて、性体験が広い範囲に広がってしまうために分裂病になる。
[1550] 例外に真理あり h17.2.11
キュリー婦人やコワレフスカヤは、物理や数学がよくできた。
だから、女性も男性と同じように知覚があるのだ。
女性でも男性と同じように分裂病になる者がいるから、女性に知覚がないわけではない。
[1551] 子供のきまりと大人のきまり h17.2.11
子供はまだ眼先のこと(具体的イメージ)しかわからないから、眼先のきまりを教えるしかない。
でも、大人になると言葉(抽象的イデア)がわかるようになるから、論理的な説明のほうが納得しやすい。
[1552] 学校でくだらんこと教えるな! h17.2.12
勉強は実在を知るためにある。
実在には論理性がある。〔哲学W原理より、知覚自体は論理的とはかぎらない。知覚が実在を認識する場合にかぎり論理的なのである。〕
ところが、社会科や生物学は記述が非論理的だから実在認識ではない。
したがって、社会科や生物学は勉強する価値がない。
実在覚(実在性五感や実在性知覚)で見たら、社会科や生物学は(幻聴と同じように)無意味である。
だから、私の心は社会科や生物学を勉強する気にはならなかったのだ。
[1553] バッチ処理 h17.2.12
人間は同時に2つ以上のことを考えることができる。
頭の中で空想的なことを考えて自分の心を満足させながら、同時に実在的なことを考えて眼先の面白くない仕事をこなすこともできる〔ながら勉強、ながら仕事〕。
[1554] 縮重 h17.2.14
量子力学では「異なる二つの状態が重なって同じに見える」ことを「縮重」と言う。
知覚界においては子供を作るための性交と自分の性欲を満足するための性交とは異なるが、
五感界においては同じ性交にしか見えない。
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[1555] 特異点解消 h17.2.15
1)哲学T原理『脳細胞の神経興奮で感覚が発生する。』=‘精神’の解消
身体から切り離れた認識の主体としての精神というものは存在しない。
2)『結婚は性欲のためではなく愛情のためにする。』=‘性欲’の解消
性欲のない世界が成立する。性欲がなくても人間社会は成立する。
性欲こそ分裂病の原因である。人間にとっては、性欲のある世界は不幸であり、性欲のない世界が幸福である。性欲は人間の心の中にあってはならない。
[1556] 性欲のある世界から性欲のない世界へ h17.2.15
ユークリッドの第5公準を肯定しても否定しても論理的体系ができることが知られている。
太陽が地球の周りを回っていても、逆に地球が太陽の周りを回っていても、ともに論理的に無矛盾な体系ができる。数学と違って物理学の場合には、観測によって理論と実在とが結びつくので、天動説より地動説が実在に近いことがわかる。
哲学においても、哲学T原理のない体系と哲学T原理のある体系(すなわち実在哲学)が考えられる。前者に比べて後者の有利な点は、これまで長い間謎だった精神分裂病の原因が明らかになることである。実在哲学の理論によれば、分裂病の原因は性欲であることが判明した。そこで、性欲のある世界と性欲のない世界の二つの世界が考えられる。ところで、人間社会において精神分裂病者は少数しかおらず、『性欲保有者は分裂病者であり、分裂病者は性欲保有者である』ことから、ほんらい人間社会は性欲のない世界であることがわかる。〔ちょうど、太陽系の実体が地球を中心に太陽が回るのではなく、太陽を中心に地球が回っているように、人間社会の実体は性欲を持った者同士の集まりではなく、性欲を持たない者同志の集まりなのである。つまり、性欲はそもそも人間の心にあってはならないのだ。性欲のある者に人間である資格はなく、性欲を捨ててはじめて人間となり得るのだ。男と女がくっつくのは、性欲(性器の快感)のためではなく、愛情(いっしょにいて楽しいと思う気持ち)のためである。〕テレビやラジオでは、みんなが毎日Hなことをしているようなことを言うけれども、じつはそれらはみな作り話の冗談なのである。しかし、厳密には全人口の1割程度が分裂病者だから、全人口の1割の人々が性欲肯定派で性欲のある世界の中で暮らしており、残りの9割の人々が性欲否定派で性欲のない世界の中で暮らしている。
性欲のある世界では、一時的には幸福だが、そのうち分裂病にかかるので長期的には不幸である。性欲のない世界のほうが人間にとっては幸福である。早く全人類が性欲のない世界の中で健全に暮らせる日が実現して欲しいものである。〔道に迷ったら、来た道を引き返して、最初にまちがったところまで戻るのがルールだ。〕
[1557] お酒 h17.2.16
お酒は弱い睡眠薬なので、人はお酒を飲むと夢と実在の中間状態になる。
知覚における空想性イデアの活動が活発になり、空想性イデアで実在を見るので、あたかも幼児期に戻ったかのようになる。
人工的に躁鬱病を作り出しているようなものだ。〔躁状態になる人がいれば、鬱状態になる人もいる。〕
[1558] 分裂病と躁鬱病 h17.2.17
分裂病では、性欲を満足させると心理的メカニズム([1369]図参照。イデアは眼で見えないので、内面的でわかりずらい)によって、最後には自分の心が不快になる。
躁鬱病では、ある感情(誇大感、偉大感、つまり自分が他人よりも偉いこと)を満足させると、物理的社会的メカニズム(物は眼で見えるので、外面的で理解しやすい)によって、最後には自分の心が不快になる。〔医者が患者にそのメカニズムを理解させようとしないから、いつまでたっても治らないのだ。才能がある分野では偉大感は満足されるが、才能がない分野で偉大感を満足させようとすると無理がある。〕
分裂病でも躁鬱病でも、本来満足すべきでない感情を満足させたために、最後には自分の心が不快になる。だから最初の感情を満足させなければいいのだ。
[1559] どうして私は幸福になれないのか? h17.2.17
[1534]より、世の中にはお金や物の欲望を持った者(秀才、凡才)が多い。
民主主義の原理『最大多数の最大幸福』より、世の中はお金や物の欲望を持った者が満足できるように作られている。
一方、私は自分の知的好奇心を満足するために生きているので、そんな世の中にいても幸福になれず、生きているかぎり不幸である。〔子供の頃から、私にはそんな気がしていた。私が大学4年生の時、文部省から(たったの)4万円いただいたが、私はその意味を『お金をやるから、貧乏人はとっとと出て行け』と受け取った。私の周りの連中は私を乞食扱いして大学からつまみ出そうとしたのだ。私はお金を貰うために勉強しているのではない。〕
自分が幸福になりたければ、たとえ自分の心の中に知的好奇心や愛情などの人間的に優れた感情があってもそれらを満足させてはならず、代わりに金や物の欲望などの人間的にくだらない感情を満足させる生き方を取らねばならない。とりわけ、自分の子供に幸福な人生を送らせたければ、子供の心の中にあるお金や物の欲望のみを伸ばし、それ以外の知的好奇心や愛情や性欲などの感情を絶対に育ててはならない。
[1560] どうすれば、私は幸福になれるか? h17.2.18
今の世の中では、私と周囲の他人とは満足させる感情が違うので気が合わず、私は幸福にはなれない。今の世の中では、私が生きているかぎり私は不幸を味わうことになる。
したがって、私が幸福になれる方法は存在せず、不幸にならない方法は私が死ぬしかない。
“薬物とビニール袋の併用”(『145人の自殺者』より)によって、私は永遠の不幸から逃れることができるのだ。
日本国はすみやかに薬物を解禁せよ!
[1561] 経験を大事にしよう。 h17.2.18
五感界のイメージが知覚界のイデアに分解され、逆に知覚界のイデアが組合されて別の五感界のイメージが理解される。
実在を理解するためには、知覚界にイデアを持っていることが必要であり、知覚界のイデアは五感界のイメージから作られるので、五感界の経験が重要であることになる。〔もっとも、考えることも必要だ。いくら経験が多くても考えなければ何にもならず、ただの娯楽に終わるだけだ。デカルトは経験を積むために諸国を旅行したが、スキー旅行なんかはたんなる娯楽にすぎない。〕
他人の見ていないところで性感を満足するような淫らな経験をすると、人間にとって認識の主座である知覚界が乱れてしまう。
日頃から良い経験を積むように心がけることが大切である。
[1562] 眼先の心と頭の奥の心 h17.2.18
心は五感界に複合するが、知覚界にも複合する。
たとえ眼先の五感界に不満があっても、頭の奥の知覚界に不満がなければ、よしとしよう。
[1563] 感覚波写真 h17.2.19
X器官の脳細胞に含まれる感覚波を感知する物質とAg+を混ぜてフィルムに塗れば、感覚波の写真が撮れる。
感覚波の存在が示されれば、幻聴の実在性が証明される。
[1564] 病的な感情と健全な感情 h17.2.19
病的な感情は、満足させると一時的には幸福であるが、長期的には不幸になる。
健全な感情は、いくら満足しても、自分が不幸になることはない。
人間の心の中には、愛情や知的好奇心などの健全な感情があれば、反対に性欲や偉大欲などの病的な感情もある。
結婚や性交は、異性や子供への愛情を満足させるためにあるのであって、性欲を満足させるためにあるのではない。勉強や仕事における成功(つまり出世)は、知的好奇心(知識欲、技術欲)を満足させるためにあるのであって、偉大欲を満足させるため(自分が他人に対して威張るため)にあるのではない。〔性欲や偉大欲などのくだらない感情に囚われるから、道を誤るのだ。〕
[1565] 実在よりも感情について知るべきである。 h17.2.20
実在なんて関係ない。
大事なのは、自分の心の中にあるどの感情を肯定し、どの感情を否定するかだ。
実在に関する知識なんかどうでもいい。〔実在は知的好奇心の興味の対象とならないかぎり問題ではない。〕
感情に関する知識のほうが大事だ。
感情についても法則がある。どの感情が自分を幸福に導き、どの感情が自分を不幸に導くかを正しく知り、自分を幸福に導く感情を働かせ、自分を不幸に導く感情を働かさないことだ。〔自分が明日死ぬことがわかっていれば、刹那的な快楽を追求してもよいが、自分の寿命があと数年〜数十年あると予想されるなら、一時的には快楽でもその後で不快になるような感情を満足させてはいけないことになる。〕
[1566] 性感は生まれつきの感情ではない。 h17.2.20
性感は、性器の刺激によって知覚界に現象性イデアが生じ、現象性イデアが心に作用することによってはじめて快感となる。
つまり、性感は後天性の感情である。
だから、いくらエロ本を見ても、知覚界に現象性イデアがなければ、心は何も感じない。
ただし、エロ本で学んだ知識が自分の性器を刺激するきっかけ(引き金)になりかねないので、その点には注意が必要である。
〔これに対し、偉大感は生まれつきの感情である。たまたま自分が他人よりも上手にできることがあって周りの人から褒められたとき、偉大感の快感を感じるのは誰でもだ。しかし、自分に才能があって威張るのが前提となるので、自分に才能がないのに偉大感だけを満足させようとすると、結局は不幸になる(鬱病)。〕
[1567] 躁鬱気質 h17.2.20
自分の偉大感を満足させるため、すなわち自分が他人に対して威張るために、外向的なのである。
反対に、内向的人間は偉大欲がない、すなわち他人に対して自分が威張りたい欲がないために内向的なのである。
[1568] 善と悪 h17.2.20
善の感情…知的好奇心(正義)と愛情
悪の感情…性欲(現象性五感と複合)と偉大感(実在性五感と複合)
善の感情とは、実在従属性(志向性)感情であり、われわれを幸福に導く。
悪の感情とは、実在非従属性(乖離性)感情であり、われわれを不幸に導く。
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[1569] キリスト教は仏教よりも正しい。 h17.2.23
『アダムとイブは蛇に唆[そそのか]されてりんごの実をかじったために楽園から追放された。』
ここで、蛇とは男性性器で、りんごの実は女性性器のことだから、したがって蛇に唆されてりんごの実をかじるとはセックスのことで、楽園とは実在性知覚界と複合する実在性心界のことである。
このように、キリスト教でも性交は悪とみなしている。〔もっとも、キリスト教では楽園追放すなわち分裂病の原因を悪魔の仕業と考えている。一方、実在哲学では分裂病の原因を知覚界における現象性イデアだと考えている。つまり、知覚界における現象性イデアが悪魔の実体というわけである。〕
仏教の世界よりもキリスト教の世界で生きたほうが人間が賢くなれる。キリスト教は実在を真剣に見つめているが、仏教は実在から目をそむけて空想の世界に逃れている。キリスト教からは自然科学が生まれたが、仏教からは何も生まれなかった。キリスト教の世界のほうが仏教の世界よりも幸福になれる。
宗教とはつまるところ人間観(人間自身についての認識)・人生観である。実在する人間の姿を正しくとらえている宗教が善い宗教である。〔ちょうど、天動説よりも地動説が実在する宇宙の姿を正しくとらえていたように。〕キリスト教の人間観は仏教の人間観よりも正しかったので、今ではキリスト教国が全世界を支配している。日本は歴史的地理的制約の下で過去に仏教国であることを強いられてきたけれども、仏教はまちがいだから、早く仏教的世界観から脱け出したほうがよい。〔仏教が日本人向けの宗教なのではなく、日本人が仏教向けに作られた民族なのだ。日本人が仏教を作ったのではなく、逆に日本人が仏教に作られたのだ。しかし、そもそも仏教はまちがっている(キリスト教に実在的概念が多いのに比べて、仏教にはくだらない空想的概念が多い)から、まちがいに立脚するのは早くやめたほうがいい。〕
[1570] 実在の中にある心 h17.2.24
『ゴクドーくん漫遊記』の作者の中村うさぎの最近の生活態度についての感想
「ガラ悪ぅ〜 アホ丸出し。実在と夢の区別がついていないんじゃないの? 実在と夢とじゃ向きが違うんだよ 面白くあろうがなかろうが真実は真実だ。人は真実を発見するために考える。反対に、夢は真実であろうがなかろうが面白くなければいけない。面白さは心でわかるものだ。実在の中にある心と、心の中にある実在とは違う。心主義の末路は不幸だ。」(私のアニメ日記[451]より抜粋)
われわれにとっての実在とは、(感覚される前の実在ではなく、感覚された後の実在すなわち)自分の知覚界にある実在についての真実の命題すべてから成り立っている世界である。したがって、“実在の中にある心”とは、心が実在に従うこと、つまり知覚界にある命題が張る(作り出す)世界の中で心を働かせる(その世界の中で楽しみを求め苦しみを避ける)ことである。心が実在に従う『気構え』のことである。反対に、‘心の中にある実在’とは、心が実在を従えること、つまり実在を知ろうともせず闇雲に楽しいことはやり嫌なことはやらないことである。実在に心が従わない気構えのことである。
たしかに、“実在の中にある心”は(気構えとして)大切なことだが、これではまじめすぎて喜びが足りない。喜びが足りないと、心が不足を補おうとして勝手に『異常な行動』をとる(例えば、裸で家の外をうろついたり、自慰行為をしたりする)ことがある。そのために、かえって不幸になる。だから、たとえ悪いこととは知っていても、ときにはテレビを見たりゲームをしたりして‘実在の外にある心’を無難に満足させることも必要となる。それで心が喜びを得て満足すれば、丸く収まる。
[1571] 実在性五感 h17.3.1
眼や耳が悪いと言うのは、仏教の作り事だ。
眼や耳は実在性五感だから、知覚における実在認識においてはなくてはならないものである。
眼や耳の経験なしには、真実は得られない。
眼や耳を大切にしよう。
見よ!聞け!語れ!
自分が知覚界において考えたことを言葉で表すことは自分の思考を明晰にするのに大いに役立つ。
おとなしく他人の本を読んで黙って勉強していればいいわけではない。
[1572] 子宮病(ヒステリー) h17.3.1
性感(性器の刺激)は知覚界に現象性イデアを生成し、分裂病の原因になる。
一般的に、内臓の感覚は多かれ少なかれ知覚界に現象性イデアを生成する。
とくに女性の場合、月経時の子宮内膜の剥脱に伴う痛みは知覚界における現象性イデアの生成が著しく、女性の知覚界を実在認識から遠ざける主因となっている。〔女流漫画家のモヤモヤした濁った感性もこの現象性イデアのせいなのだろう。〕内臓痛のない男性は、それによる知覚界の歪み[ゆがみ]がないので、女性よりも実在認識が得意なわけである。
女性の生理痛による認識の歪みは昔からヒステリー(子宮病)と呼ばれている。生理痛によって発生する現象性イデアと性感(自慰や性交)によって発生する現象性イデアとは性質が異なるので、発現する病態もヒステリーと分裂病とでは異なっている。
このように自慰や性交以外にも、内臓器の刺激による認識の歪みがある。これは身体から精神(感覚界)への作用であって、いわば“身心症”(心身症の逆)と呼ぶべきものである。
〔妊娠は女性を月経の苦しみから解放してくれるので、女性にとっては赤ちゃんが天使に見えるのだろう。〕
[1573] 実在の中にある心(その2) h17.3.1
実在が面白くないのは、自分が実在に面白さを入れないからだ。
実在を面白くしたかったら、自分が努力して実在を面白くするしかない。
大事なのは、物と心の結合だ。〔物と心を結合すれば幸福になる。精神病では、物と心が切り離れて別々だから不幸なのだ。知覚と心の両方を働かさないと、幸福にはなれない。〕
[1574] 仏教とキリスト教 h17.3.1
仏教では五感を否定する。
したがって、五感を断たれた仏教は自分の心を見るしかない。
仏教では心について(知覚で)考えるので、仏教は心については詳しい。心中心の文化だ。〔仏教では人の心には108個もの煩悩(非実在性感情)があると言う。わが実在哲学では性欲と虚栄心の2個しかない。(それにしても、この数、元素の種類と似ている。)あのムニャムニャやってる念仏には、性欲や虚栄心が非実在性感情であるという意味が入っているのだろう。それにしても、色即是空つまり現象性五感としての性感が空想性感情としての性欲を生み出すというのは正しいとしても、この逆の空即是色つまり空想性感情が現象性五感を生み出すというのは性欲については当てはまるとしても、必ずしも正しくない。なぜなら、空想性感情のひとつである虚栄心は実在性五感としての眼や耳と複合するだけであり、現象性五感とは無関係だからである。だから、仏教の教えには不正確なところがある。〕
しかし、その反面、物については無知だ。〔心は厳しい修行で鍛えてあるから多少のことではへこたれないが、原始時代から進歩がない貧乏暮らしに耐える毎日。〕
日本の、言葉の上だけの楽しみしかない、くだらない文化のルーツは仏教にある。〔文学は‘実在の外にある心’の気構えなので、物の世界とは切り離れている。文学の作り事を楽しむためには、物の世界と切り離れた気構えでなくてはならない。その気構えの出来ない者、物の世界と切り離れた思考の出来ない者は、文学を楽しむ資格がない。もっとも、その気構えが出来すぎると、こんどは“実在の中にある心”の気構えが出来ずに物の世界がわからなくなって阿呆になるが。〕
反対に、キリスト教では五感を肯定する。〔仏教では五感を不幸の原因であるとして否定するが、これは仏教の誤解である。不幸の原因は五感にあるのではなく、性欲にあるのだ。例えば、服装や髪型の格好をつけるのは、耳目への囚われのせいではなくて、異性にもてたいといういやらしい性欲のためである。性欲のない純粋な五感は実在に関する貴重な情報であり、肯定すべきものである。(もっとも、それ自体が実在とまでは行かないが。)数学は性欲とは独立(無関係)だから、数学による実在の観察は実在知(自然科学)を大いに発展させた。〕
したがって、キリスト教では物については詳しい。物中心の文化だ。〔キリスト教では物の幸福しかない。キリスト教では物の意味の誤解がある。物とは五感で見えるものではなく、知覚で見えるもののことだ。(そもそも、キリスト文化は性欲で汚れた感じがある。外人の顔や体形がかっこいいのは、キスシーンやベッドシーンがさまになるように作られているからだ。)日本も明治以降は西洋の自然科学を取り入れたからキリスト教国のひとつになったが、五感の上の(五感界の中の)幸福しかないのは情けない。キリスト教の間違いまで鵜呑みにしてはいけない。医学部の学生にも、心の卑しい者が大勢いた。日本は仏教を取り入れる以前には天道すなわち知覚の文化であった。日本人の心のルーツはここにある。だから、日本人は、仏教文化にもキリスト教文化にもそのままでは満足できない。それらに手を加えて、自分の心に満足いくように手直しする必要がある。そこに日本文化の独自性がある。例えば、日本人は五感の無駄を嫌う。無口を尊び、おしゃべりを嫌う。私が服装や髪型に興味がなく、人と会っても挨拶をしないのはそのためだ。今の若者は自分の心にもないことをするから不幸なのだ。〕
しかし反面、心については疎い。〔人間にとって、何が幸福で何が不幸であるかを知らない。だから、キリスト文化は性欲で汚れているのだ。性欲は不幸な分裂病の原因だから、絶対に許してはならない。カントやヘーゲルの哲学が性欲を扱わないのも、裏で性欲を認めているからだ。あるいは、西洋人が性感に寛大なのは、性感で現象性イデアが発生しにくい脳の構造だからかもしれない。しかし、日本人は敏感だ(現象性イデアが発生しやすい)から、西洋人の真似をしてはいけない。でも、フロイトが幼児期の性感が神経症の原因であると言っているから、やはり性感が神経症や分裂病の原因であるのは西洋人と日本人の違いによらず人類共通の法則であり、性欲を肯定するのは西洋人の間違いなのだ。〕
幸福は物と心が結合するところに生まれる。
物の知だけでも、心の知だけでも、片手落ちで幸福とはいえない。
〔私の実在哲学は、哲学T原理によって心の問題を物の世界の中で考えることができるようにしただけだ。それによって、精神病の不幸の原因は明らかにできたが、何が幸福かという微妙な問題は、なおかつ今後の課題である。〕
[1575] 白痴と気狂い h17.3.2
白痴は知覚界が狭小で実在性イデアが少ないが、異常なイデアがない。
気狂い[きちがい]は知覚界は広大だが、異常なイデア(現象性イデアや空想性イデア)がある。
ゆえに、白痴は気狂いではない。気狂いは白痴以下だ。
[1576] まじめなゲーム h17.3.2
BF1942(Battle Field1942)のまじめさは、私の実在哲学のまじめさを超えている。〔そこら辺の勉強よりもまじめだ。〕
いわゆる、あげゲームだ。〔まじめさとは実在性ということになるかな。〕
反対に、SOF(Soldier of fortune)なんかのまじめさは、日常生活のまじめさ以下なので、遊ぶと暗い気持ちになる。
いわゆる、さげゲームだ。
〔鳥山明のマンガのまじめさが高橋留美子のマンガのまじめさよりも上だというのと同じ理屈だ。(ドラゴンボールZ第27話あたりが最高潮!この面白さは映画を超えている。)〕
[1577] 実在と心の調和 h17.3.5
自分が満足すべき感情と満足すべきでない感情とを知り、自分が満足すべき感情を働かせ満足すべきでない感情を働かさないことだ。なぜなら、人間の心には実在と調和する感情と調和しない感情があり、調和しない感情を働かすと心と実在が離ればなれになってしまうからだ。実在と調和しない感情とは、性欲や虚栄心などである。性欲や虚栄心以外は、無難な感情とみなしてよい。〔性欲や虚栄心は精神病の原因となる有害な感情である。〕
性欲や虚栄心は実在乖離性の感情であり、それ以外の感情は実在親和性感情かあるいは実在と無関係な感情である。つまり、性欲や虚栄心は実在との間に斥力が働き実在から離れて行く感情であり、それ以外の感情は実在との間に引力が働き実在へ近づいていく感情であるかあるいは実在との間に力が働かない感情である。つまり、知的好奇心や愛情は実在に近づく感情であり、反対に性欲や虚栄心は実在から遠ざかる感情である。それ以外の、文学において働く感情は、実在と無関係な感情である。
要するに、人間は性欲と虚栄心を働かせてはならず、それ以外の感情を働かせて楽しく生きればいいということだ。
[1578] 実在の中にある心と実在の外にある心 h17.3.6
“実在の中にある心”とは、知覚界において実在だと考えられる世界(物の世界)の中で自分の心を満足させようとする気構えである。
一方、‘実在の外にある心’とは、知覚界において実在でないと考えられる世界(アニメやゲームなど、絵や言葉だけの世界)の中で自分の心を満足させようとする気構えである。
マンガやアニメやテレビゲームを嗜む[たしなむ]者にとっては、‘実在の外にある心’から“実在の中にある心”への切り替えが要求される。
[1579] アエンとアートマン h16.3.6
アエンは物しか見ないから一つ目の悪魔であり、
アートマンは物と心の両方を見るから二つ目の調和の神なのだ。
〔このネタは、前にもやった。〕
[1580] 実在とは何か? h17.3.7
人間にとっては、五感で見えているものが実在ではなく、知覚で考えているのが実在である。人間は、五感で実在を見るのではなく、知覚で実在を見るのだ。〔しかし、知覚における実在性イデアのルーツは五感にあるから、知覚の五感従属性も否定はできない。そうでなければ、古典力学(地動説)や相対論や量子力学は生まれなかっただろう。観測装置の進歩が科学に革命をもたらすのだ。観測装置は科学が作ったものだから、科学には自己革命性があるといえる。〕
正常では知覚界に実在性イデアがあるから実在がわかり実在に適応できるが、分裂病で知覚に現象性イデアが出来たり、躁鬱病で知覚に空想性イデアが出来たりすると、実在がわからなくなって実在に適応できなくなる。
しかし、マンガやアニメやテレビゲームは実在ではない。しかし、それらは本やテレビの中だけの世界である。
マンガやアニメやテレビゲームでは、自分が見る対象が実在(物の世界)の外にある本やテレビだから、それらが実在でないことが意識されるが、精神病では自分が見る対象が本やテレビの外にある実在(物の世界)なので、それが実在であると意識される。マンガやアニメやゲームでは、実在でないと意識される対象に対して非実在性イデア(現象性イデアや空想性イデア)による意味付けが行われるのみであり、実在であると意識される対象に対してはやはり実在性イデアによる意味付けが行われるから、実在に対する正しい理解ができて実在に適応できる。精神病では、実在であると意識される対象に対しても、現象性イデアや空想性イデアによる実在的でない意味付けが行われるので、実在に対する誤解が生じ、実在に適応できなくなる。
マンガやアニメやテレビゲームは、実在界の中に作られた空想界モデル(いつわりの夢)だといえよう。マンガやアニメやテレビゲームは、実在の中に作られた特別な例外的な空間とみなせばよい。本やテレビの中では、実在界の中では認められない空想性イデアを働かせることが許されるのだ。例えば、どんなにブスでも、マンガの世界では少女マンガのヒロインになって実在の中では絶対に味わえない喜びを味わうことができる。
[1581] 躁鬱病の原因 h17.3.7
分裂病の原因は、非実在性五感すなわち性感(性器の感覚)にある。
躁鬱病の原因は、非実在性感情(実在において満足されることのない感情、虚栄心の一般化)にある。〔例えば、私の場合、医者として成功する願望があったが、実力がとうてい及ばなかったので、この夢は実現せず、私は医学部の4年のあいだ不快な気持ちを味あわねばならなかった。この夢と現実のギャップの苦しみから逃れるためにウソの作り話(空想性イデア)を考え出すのが躁鬱病なのだが、私にはそういう癖がなかったので、見習い医者を1年間勤めただけで医者としての道を諦め医学部を去ることにした。私の場合、“医者として成功する願望”(非実在性感情)が容易に諦めがついたから一過性の抑うつ神経症(ノイローゼ)ですんだ。もし自分の願望を諦め切れなかったら、躁鬱病になって一生閉鎖病棟の中で暮らすことになっていたかもしれない。自分が医者になることよりも、自分が理解できることを考え続けること、自分が理解できないことを考えないことの欲求が私にとっては強かった。むしろ私にとって理解できない医学の道を捨てることができて、せいせいしたぐらいだ。願望を捨てられるか捨てられないかは、その願望の強さによるのだろう。私にとっては医者になる願望などどうでもいいことだったから、容易に捨てることができたのだ。〕
分裂病が五感による知覚の異常であるに対し、躁鬱病は心による知覚の異常である。分裂病では性感を働かせたために知覚界に現象性イデアが発生し、躁鬱病では非実在性感情を働かせたために知覚界に空想性イデアが発生する。現象性イデアや空想性イデアなどの非実在性イデアで五感界を見ることによって実在への不適応が起こる。
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[1582] 仏教における実在への適応法 h17.3.8
仏教では、そもそも五感に目を向けないから、分裂病の原因としての現象性五感(性感)は防げる。〔仏教では、五感を知覚に従属させる気構えがある。しかし、逆に知覚における概念が五感から作り出されることが無視されているために、科学知(実在認識)が妨害される。また、五感界に目を向けようとしないからこそ、五感自体にも疎く、現象性五感(性感)を悪と知らずにそれに陥る危険性もある。〕
仏教では、五感に目を向けないかわりに、心に目を向けるので、心のことについては詳しい。
心を幸せをもたらす善い感情と苦しみをもたらす悪い感情とに分け、善い感情を働かせ悪い感情を働かさないことによって幸福に生きることが出来る。〔仏教では実在の存在を認めない。じつは、善い感情とは実在において満足される感情であり、悪い感情とは実在において満足されない感情である。善い感情を働かせ、悪い感情を働かさないことで、実在への適応を成り立たせているのだ。/キリスト教では心を物に従属させるが、反対に仏教では物を心に従属させる。キリスト教では物の世界が実在だが、仏教では心の世界が実在なのだ。〕
[1583] 面白VS真実 h17.3.8
面白であろうがなかろうが真実は真実だ。
真実であろうがなかろうが面白は面白だ。
面白よりも真実が上だ。〔心よりも実在。楽しさは正しさには敵[かな]わない。正しさ(実在)の中で楽しくやればいい。〕
[1584] 虚栄心 h17.3.10
五感と複合する感情(虚栄心、見栄)を強めることは不幸への道であり、
実在と複合する感情(実在心)を強めることが幸福への道である。
服格好なんかの五感に囚われて、思考するのを忘れ実在を見失ってはならない。〔中村うさぎも虚栄心が強い。〕
[1585] 超能力 h17.3.10
各自にとって感覚の存在は自明である。
だから、自分の感覚と他人の感覚を仲介するもの(感覚波)も存在するはずだ。
これがテレパシー(いわゆる空耳)だ。
しかし、神経細胞以外の物質には感覚がないから、
神経細胞とその他の物質の間には直接に相互作用がなく、
サイコキネシス(念動力)は存在しない。
物を動かすには自分の筋肉を介するほかはない。
人間は、言葉や文字を覚え、自分の思考を自分の声帯や指の筋肉を動かして空気や紙に表現する術を身に付けたので、
もはや直接にテレパシーを使おうとしないのだ。〔感覚波では、文字のように記録できないし、言葉のようにマイクで拾えない。情報化社会においては、テレパシーは利用価値の低い伝達手段として無視される。でも、X器官を合成できる未来科学なら感覚波を拾えるようになって利用価値が生まれるかもしれない。〕
[1586] 哲学T原理の意義 h17.3.11
物理学における量子化法すなわち粒子と波の統合がシュレディンガー方程式(粒子の方程式に波動性を入れる)であるように、
物と心の統合が“哲学T原理”である。
哲学T原理の世界(つまり、実在哲学の世界)においては物と心の区別がない。物と心を統一的に扱える。
[1587] 第3の精神病 h17.3.13
社会科や生物学(医学も)は、五感知であって実在知ではない。
社会科や生物学は、五感界への適応であって実在界への適応ではない。
彼ら(社会学者や生物学者たち)は、五感界を実在だと信じており、実在が見えていない。知覚が五感に従属する(悟性)だけで、知覚が五感を支配すること(理性)がない。〔原理を立てて物(視覚像)を見る習慣は理性を鍛える。原理によって実在が見える。言葉(イデア)で物(イメージ)を見る習慣のない者は、五感知どまりだ。しかし、『考えてわからなければ、物から学ぶ』しかない。自分が新しいことに出くわしたとき、自分がいくら考えてもわからなければ、対象に関する経験を分析してそこから新しいイデアを得るしかない。悟性だけでは(知覚が五感界の中に留まるので)実在が見えないし、理性だけでは(手持ちのイデアが限られるので)新しいことがわからない。『学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し』(論語)〕
彼らの心は、ただ五感界と複合するだけで、実在と複合しない。五感の喜びだけあって、実在の喜びがない。
躁鬱病ではないが、実在が見えておらず、実在への適応性が低い点では、精神病に近いものがある。
私は、これを第3種精神病『知盲症』と名づける。
〔私が子供の頃から社会科や生物学が苦手だったのは、私の心が実在知と複合していて、五感知を受け入れなかったためである。論理性のないものには実在性がないことを私の心が感じ取っていたために、社会科や生物学をくだらない真に受けるに値しないものとみなし、無視しようとしたのだ。〕
『実在は五感を超えたところにある。』のが哲学的真実であって、五感自体は実在ではない。知盲症では、実在でないもの(五感界)を実在だと考えているから、実在に適応できず、不幸である。社会科や生物学(医学も)に関係する世界は知盲症の世界であって、分裂病や躁鬱病と同様に心の異常であり、実在においては不幸である。
実在が見えるためには『実在は五感を超えたところにある』気構えでなければならない。〔たとえ勉強がなくても、その気構えでいれば無意識に実在が見える。〕彼らにはその気構えがない。
実在には論理性があるのに、彼らには論理性がないから、知覚も心も両方とも汚い。〔私が医学部に進んだのは、自分が汚い知盲の世界に入ることであって、自分で自分を不幸にすることにほかならない。たとえ医学の対象としての人間の身体は実在であるとしても、医学そのものには論理性がないから実在知ではない。人間の身体には未知の部分が多いから、それにチャレンジするのはいいとしても、医学の勉強は断片的事実の鵜呑みにすぎず、実在知のないアホに有利だ。〕
[1588] デカルト哲学と我が実在哲学 h17.3.13
デカルト哲学では心身問題を解決できない。デカルトは『我思う、ゆえに我あり。』と言うことで、キリスト教の神様のいない世界を作ろうとした。ヨーロッパをキリスト教に侵される以前の世界に戻したかったのだ。〔『我考える、ゆえに我あり。』=「私は頭がいいから人間として生きる価値がある。バカはとっとと死ね。」の意味ではない。/宗教は無駄な(実在しない)作り事(空想性イデア)が多い。神様より物のほうが役に立つ。合理主義哲学とは、実在教つまり無神教だ。デカルトはキリスト教に置き換わるべき新しい宗教を作ろうとしたのだ。〕
我が実在哲学では、哲学T原理によって心身問題が解決される。だから、デカルト哲学と実在哲学は同じものではない。デカルト以降の合理主義哲学では心(感情)の問題を取り扱えなかった。我が実在哲学では精神病の原因さえも明らかにできた。
[1589] 幸福への道 h17.3.15
@性感を働かさない。⇒分裂病(五盲病)の予防。
A自分の心を満足するように生きる。(非感情性実在(自分の感情を満たさない環境)を選択しない。眼先のどうでもいい感情を満足しようとして、心の奥にある大事な感情を不満足に陥らせてはならない。)⇒躁鬱病(心盲病)の予防。〔妄想形成に至ったのが躁鬱病で、至らないのが抑鬱神経症〕
B五感自体にとらわれない。(言葉(実在性イデア)で物(視覚像)を見る習慣をつける。実在を見失うな。)⇒知盲症の予防。
C実在(人間にとっての楽園、生物界における人間の縄張り)はそこにある。
[1590] 躁鬱病の治し方 h17.3.15
気分が落ち込むのは、自分の心の中に満足されていない感情があるからである。〔人間はバルカン人と違い心がある。〕
自分の今の生活に不満があるのなら、自分の心の中にある満足されていない感情を突き止め(眼先のどうでもいい感情を満足しようとしたために、心の奥にある大事な感情が満足されていない)、その感情が満足できるように自分の生活を変えればよい(非感情性実在(自分の感情を満たしていない環境)から感情性実在(自分の感情を満たす環境)への転換)。多少の犠牲はやむをえない。
[1591] 読書 h17.3.16
読書は、自分の知覚にすでに持っているイデアと他人の書いた言葉とを対応付けたり組み合わせたりしている(つまり、自分の持っているイデアを組み合わせて(ときには分解して)他人の言葉を理解している)だけで、読書自体から新しいイデアを得ることはできない。
新しいイデアを得ることができるのは、自分の五感の経験だけからである。
〔私は小学生のとき塾に通わずに外で遊びまくっていたので、それだけ他の生徒よりも五感の経験が多く、知覚界に手持ちのイデアが多いのだ。それが、あとになって数学や理科の理解の助けとなった。〕
[1592] 実在道は出世道とは違う。 h17.3.16
実在道では、実在知以外のものを相手にしないから、社会科と生物学は無視する。
これでは、社会科と生物学の試験が0点になって、出世できない。
しかし、自分の幸せを真剣に考えるなら、試験なんかどうでもいい。
学校がまちがったことを教えているだけだ。
自分の幸福を犠牲にしてまで、試験でいい点を取らなくてもいい。
[1593] 哲学第1原理の意義(その2) h17.3.17
“感覚”の概念が、五感界に属さず、知覚界(実在界)に属するために、哲学第1原理は五感界においてとらえた認識ではなく、知覚界(実在界)においてとらえた認識を表している。
アリストテレス力学が五感界における物理学(物質についての知識体系)で、ニュートン以降の力学が知覚界(実在界)における物理学であるように、哲学第1原理以前の哲学は五感界における哲学(認識についての知識体系)で〔日本の哲学は特にそうである。〕、哲学第1原理以降の哲学が知覚界(実在界)における哲学である。
物質が質量(スカラー量)を荷っているように、神経興奮した脳細胞は感覚(テンソル量)を荷っている。
物質の質量が物質によって違うように、脳細胞の感覚は脳細胞によって違う。
物質以外の所に質量が存在しないように、神経興奮した脳細胞以外の所に感覚は存在しない。
物質と物質が重力波で影響しあう(万有引力)ように、脳細胞と脳細胞は感覚波で影響しあう(テレパシー;空耳)。
[1594] ゲーテのファウスト h17.3.18
〔今から20年前、私が学生だったころは、ゲーテのファウストをよく読んだものだ。文庫版は全部買って持っていた。〕
第3部ワルプルギスの夜は、
『性交は愛情のためにするのであって、性器の快感のためにするのではない。』ことを書いている。
第4部老夫婦のつましい生活は、
『眼先のつまらない感情(老夫婦の粗末な家が目障り)のために、心の奥にある大事な感情(老夫婦をいたわる心)を犠牲にしてはならない。』ことを書いている。
つまり、ファウストの後半は、第3部ではゲーテ流の分裂病論、そして第4部では彼自身もそれに悩んだといわれる躁鬱病論を述べているのだ。
実際、ファウストは劇の中で躁鬱病にかかったあとですぐに死んでしまう。
〔ちなみに、楳図かずおの『アゲイン』はゲーテのファウストをギャグマンガ化したものである。〕
[1595] 幸福への道(その2) h17.3.19〜20
@は物(実在)が見えていること。([1589]参照)
Aは自分の心が見えていること。
Bは物(実在)と心の両方が見えるため。
物と心の両方が見えていることが幸福の条件である。
分裂病とは物が見えなくなることであり、
躁鬱病とは自分の心が見えなくなることである。
つまり、分裂病では、性感を働かせたために知覚界に現象性イデア(曖昧イデア)が発生し、現象性イデアが実在の理解を妨げている。
躁鬱病では、知覚界に自分の心(にとっての幸福)に対する誤解があるために、自分の心の満足が妨げられている。かつて天動説が実在(物)に対する理解を妨げていたように、自分の心に対する誤解が自分の心を不幸に陥れているのだ。例えば、私の場合、『自分が医者になってお金を儲けて親に孝行する』ことが自分の心にとっての幸福だと考えていたが、実際には『自分が理解できることを考えること、自分が理解できないことを考えないこと、つまり、自分が実在界の中に居ること、五感界の中に居ない』ことが自分の心にとっての幸福であることを、医学部に入ったあと幸福を失ってから、やっと気づいた。
分裂病では、知覚に実在(いわゆる外界)に対する誤解があるために、実在に適応できない。
躁鬱病では、知覚に自分の心(いわゆる内界)に対する誤解があるために、自分の心を満足できない。〔心は眼で見えない。それだけに心に対する誤解が多い。/人間の本心は汚いものではない。知覚がわざわざありもしない汚い欲望をふざけて考え出して(あるいは、くだらないマンガを真似て)自分の本心を不幸に陥れているのだ。/空想性イデアが躁鬱病の原因ではない。空想性イデアは、夜見る夢や本やテレビなどの限られた空間の中だけで満足すべきものである。〕
躁鬱病における妄想体系は、知覚における『偽りの心』が作り出した体系であって、それが本心を不幸にしている。躁鬱病における“頑張る”の意味は、知覚における『偽りの心』を満足することであって、頑張れば頑張るほど、自分の本心を苦しめることになるのである。
いわば躁鬱病とは、知覚が作り出した『偽りの心』と本心との戦いである。『偽りの心』が本心を苦しめることだ(自己いじめ病)。
分裂病では、性感によって知覚界に現象性イデアが発生し、そのイデアで五感(とくに空耳)を見ることによって歪んだ実在認識が生じている。
躁鬱病では、知覚における自分の心に対する誤解から『偽りの心』が生まれ、それを満足しようとすることによってかえって自分の本心が不満に陥っている。(『偽りの心』をいくら満足しても、実際には何の快感も得られない。)
分裂病は、性感を働かせるのをやめ、知覚界における現象性イデアの活動がなくなり、耳目を働かせて知覚界に実在性イデアを得て〔日常生活においては、耳目界(実在性五感界)を実在界とみなしても差しつかえない。〕、五感(とくに空耳)に対する実在性イデアによる意味付けが回復すれば治る。
躁鬱病は、自分の本当の心を知り、それを満足するように努めて行動すれば(自分の置かれている環境を自分の本心が満足できるように変えれば)治る。
[1596] 分裂病と躁鬱病は双対関係 h17.3.20
躁鬱病において物と心を入れ替えると分裂病になる。
分裂病では現象性五感(性感)を働かせたために、現象性五感が作り出した『偽りの実在』を見ることになる。『偽りの実在』に適応する代わりに、本当の実在に不適応になる。〔性感から得られた現象性イデアが分裂病の原因であることが多いが、一般に、性感から現象性イデアが生じなくても、知覚に非実在的認識があれば、分裂病になりうる。〕
分裂病と躁鬱病とは、物と心を入れ替えた双対[そうつい]の関係にある。
[1597] 物と心の調和 h17.3.20
五感知覚複合体が実在と自分の心の両方を正しく認識し、実在と自分の心の両方に適応していることが幸福である。
[1598] 作り事の心から本当の心へ h17.3.22
科学でも幼稚なうちは天動説のように作り事の実在しか見えていない。
西洋では、物についてはかなり正確な知識が得られているが、
心についてはいまだに幼稚な作り事の心しか見えていない。(金や物や出世なんかのちゃらけた欲望が人間にとっての本当の幸せだといえるか?!)
自分にとっての本当の心が見えていないうちは、いくら物の知識が発達していても、真の幸福は得られない。
[1599] 分裂病と躁鬱病 h17.3.23
物に対する誤解が分裂病で、
自分の心に対する誤解が躁鬱病である。
つまり、分裂病では実在において何が正しく何がまちがっているかがわからず、
躁鬱病では自分の心において何が快で何が不快であるかがわかっていない。
したがって、分裂病では物(実在)に適応できず、
躁鬱病では自分の心を満足できない。
[1600] 物と心 h17.3.24
物が見えねば心も見えない。心が見えねば物も見えない。〔色即是空、空即是色。つまり、分裂病者は躁鬱病にもかかりやすく、逆に躁鬱病者は分裂病にもかかりやすい。〕
物が見えれば心も見える。心が見えれば物も見える。
生物学者(医者も含む)や社会学者は五感だけ用いて知覚を用いない。〔社会科とか生物学とかは、実在を理解する能力のない知覚障害者たちの機嫌をとるためにあるだけのくだらないエセ学問にすぎない。〕
生物学者や社会学者(医者)は物も見えなきゃ心も見えない。〔文学者が昔から医者を嫌うのは、医者が物も人の心も両方見えない愚者だからである。〕よって、彼らに幸福はない。しょせん、彼らの幸福(例えば、金や物やおしゃれ)など形骸にすぎない。〔ヨーロッパ文化の猿まねだ。〕
五感界においては物も心も両方見えない。五感界においては物も心も両方見失う。〔五感界つまり眼や耳で見える世界の中だけで無理やり心をとらえようとするから、本当の心を見失う。人間の心はほんらい五感界の中にあるものではない。物と同様、心は実在するものだから、実在において心をとらえねばならない。『実在は五感を超えたところにある。』実在は五感界の中にはない。五感界が実在の中にある。五感界は実在の一部分にすぎず、五感では見えない実在の部分がいっぱいある。五感界を実在の相の下[もと]においてとらえよ。〕
知覚界において物と心の両方見える。〔実在において物や心を理解し、その理解を五感界に言葉として表現せよ。〕
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