[14601] どうして私は警察に訴えないのか? h24.4.7
私は日本政府が国家宗教で事件を起こして国民を殺していることを知っている。
しかし、私は警察に訴えない。
それは、警察が日本政府が国民を殺していることをすでに知っているからである。警察は政府が国民を殺しているのを見て見ぬふりをしているのである。警察がとっくの昔に知っていることを私が言ってもしかたがない。私が警察に馬鹿だと思われるだけだ。だから、私は警察に訴えないのである。
警察は日本政府に給料をもらって食わしてもらっているので、日本政府を逮捕して罰することができないのである。国民にとってはそんな警察なんかあってもしかたがない。
今の警察を政府といっしょに潰[つぶ]して、国民で別に新しい警察を建てたほうがいい。
[14602] どうして政府は国家宗教をやっているのか? h24.4.8
政府が国民を虐[いじ]めるためである。
政府は国民に政府が国民を虐めていることをバレにくくするために、国家宗教の神を天皇から別の人に変えてまで国家宗教をやっている。
政府の暴力団体は、人を殺したり人を嫌がらせたりするのが好きな性格異常者の集団だから、どうしても国家宗教をやらねばならないのである。国家宗教をやめるわけにはいかないのである。
昔の政府は暴力が使えたから、国民に国家宗教をやらせていたのである。あるいは、自分が国家宗教をやって国民を虐めていたのである。
しかし、今の政府は暴力が使えない。だから、今の政府は国民に国家宗教をやらせられないし、自分が国家宗教をやって国民を虐めることもできない。[しかしながら、実際には、政府は国民にバレないように気をつけながら、密[ひそ]かに国家宗教をやって国民を虐めている。]
つまり、今の国民は政府の命令で国家宗教をやらなくてもいいのである。
[14603] 政府は国民の役に立つ機関ではない。 h24.4.8
政府の政策とは、政府の暴力団体が国家宗教で国民を虐[いじ]めることである。
だから、例えば、明治維新は政府がやったことではない。日本の近代化は政府がやったことではない。政府はただ、いくつかの官営の工場を持っていただけである。それ以外の工場は、すべて国民が自分で建てて、自分で経営していたのである。つまり、日本の近代化は国民でやったことである。政府はただ、国民が近代化をするのを傍[そば]で見ていただけである。政府はただ自分が国民を嫌がらせて喜ぶために、軍事や国家宗教で国民を虐めていただけである。例えば、政府は第2次世界大戦で大勢の国民を殺して喜んでいたのである。政府は表では国民の死に涙[なみだ]しながら、裏では腹を抱[かか]えて笑い転[ころ]げていたのである。
今でも政府は国民のためになることを何もせず、ただ国家宗教で国民を虐めているだけである。政府の持ち会社が少し国民の役に立つことをやっているだけである。
大雑把[おおざっぱ]に言って、政府は国民の役に立たない。国民にとって政府は益[えき]よりも害のほうが多い。だから、国民は政府が要らない。したがって、国民は政府を無視して政府を潰[つぶ]せばいい。
[14604] 現代人の条件 h24.4.8
社会が正しいこととまちがっていることを決める。何が正しく何がまちがっているかは社会が決める。
昔の社会では、人間が自分の心に従うことが正しいことだった。反対に、人間が自分の心に従わないことがまちがっていることだった。だから、乱暴者が自分の乱暴な心に従って好き放題に暴力をふることができた。だから、乱暴者の集まりである暴力団体がおとなしい国民に暴力をふって国民を支配することができた。国民は暴力団体に従わねばならなかった。そうしなければ、国民は暴力団体に殺された。
今の社会では、人間が実在に従うことが正しいことだとされている。反対に、人間が実在に従わないことがまちがいだとされている。法律は実在する社会における人間の決まりである。一方、人間の心も実在する脳細胞の神経興奮で発生する感覚であるが、人間の心にとって気持ちがいいことが正しいことではなく気持ちの悪いことがまちがっているのでもなく、人間の心は実在について詳[くわ]しいことを知らない。人間の頭のほうが心よりも実在について詳しく知っている。人間の心よりも人間の頭のほうが優先する。だから、人間は頭で実在を知り、実在の中で自分の心を満足しなければならない。つまり、自分の心を自分の頭に従わせながら自分の心を満足しなければならない。法律は実在する社会における人間の決まりである。だから、みんなが法律を守らなければならない。だから、乱暴者が法律を守って暴力をふらなくなった。乱暴者の集まりである暴力団体がおとなしい国民に暴力をふらなくなって国民を支配することができなくなった。国民は暴力団体に従わなくてもよくなった。
社会の文明が進むと、人間が自分の心よりも頭で物を見るようになる。人間が自分の心よりも頭で動くようになる。それに連[つ]れて、国民が暴力団体(政府や暴力団や宗教団体など)に従わなくてもよくなるのだ。
自分の心よりも頭で物を見ることが現代人の条件だ。頭で実在を知り、実在の中で自分の心を満足することが現代人の条件だ。現代の社会では、頭で物を見る者ほど幸福になれる。今後はロボットみたいな人間がぞろぞろ増えていくだろう。
[14605] 売れる本の条件 h24.4.9
本を売るためには、みんなに受ける本を書かねばならない。
昔は心主義の時代だった。
人間の心はまちがっていることを面白いと感じ、正しいことをつまらないと感じる。
だから、昔は本を売るためには、わざとにまちがったことを書かねばならなかった。たとえ正しいことを言う場合でも、わざわざ無駄[むだ]なことを加えておとぎ話や小説にしなければならなかった。
しかし、今は知覚主義の時代である。実在主義の時代である。
今では、正しい本が善[い]い本であり、まちがった本が悪い本である。つまり、実在のことを正しく書いている本が善い本であり、嘘[うそ]の作り話を書いている本が悪い本である。
だから、今では本を売るためには、ただたんに正しいことを書けばいいのである。今の時代は、正しいことを書いた本がよく売れて、まちがったことを書いた本が売れないのである。
[14606] 私の著書『日本のアニメにおける国家宗教』について h24.4.9
私はこれまで自分が哲学や政府やアニメについて考えてきたことをまとめて一冊の本にした。私がこれまで自分の哲学日記に書いたことを論理的に理解しやすいように順序立てて、内容が重複しないように短く書いた。それが、『日本のアニメにおける国家宗教』である。私のもう一冊の著書『現代政府学〜政府は暴力団だった!』とは、表紙が違うだけで中身は同じである。現在両方ともヤフオクに出品して即決価格500円(送料込み)で売っている。電子出版社DL−MARKETでも売られている。
面白いかつまらないかの目で見たら、私の本はつまらないかもしれない。
しかし、正しいかまちがっているかの目で見たら、私の本には価値がある。
私を神とする国家宗教は私以外にはわからない。たとえ日本神道の者がわかっていても、私以外の一般の国民にはわからない。たとえ神武天皇を神とする国家宗教がわかる者がいたとしても、私を神とする国家宗教がわかる者は私以外にはまずいない。
私を神とする国家宗教の存在が、政府が戦後の今でも国家宗教をやっている強力な証拠である。政府は戦後の今でも国家宗教で国民の嫌がらせをしている。今の政府は暴力が使えなくなって滅んでいる最中[さいちゅう]だが、国民が『政府が今でも国家宗教をやっている』ことを知れば、ますます政府の滅亡は早くなるだろう。
この本は、私を神とする国家宗教(川野教)について書いている世界で唯一の本である。
正しいことを大事にする者は、ぜひ買って読まねばならない。
面白いと思うかつまらないと思うかはとにかく、まず正しいことを知らねばならない。それが現代人というものだろう。それが知覚主義の時代に生きる人間の取るべき態度だろう。
知覚主義の時代には、人間は考えることを最優先しなければならない。だから、私は政府について考えるためにしばらく仕事を休んでいたのである。
今は知覚主義の時代だから、面白さよりも正しさのほうが上だろ?絶対買えよ!
[14607] 心か実在か? h24.4.9
人間には「心」がある。心が幸福か不幸かを決める。心が喜怒哀楽躁鬱[きどあいらくそううつ]を決める。人間は自分の心を満足すれば幸福になれる。
しかし、人間は客観的には『実在』の中で生きている。
実在には法則がある。実在には人間が犯すことのできない法則がある。
だから、人間は実在に従わねばならない。人間は頭で実在を知り、実在の法則に従いながら自分の心を満足しなければならない。そうすれば、人間は最[もっと]も幸福になることができる。
例えば、法律は実在の社会における人間の法則である。だから、人間が社会の中で生きていくためには、法律を守らなければならない。政府の法律は嘘[うそ]の法律だから、守らなくていい。
[14608] 福祉とは何か? h24.4.9
政府が身体障害者を利用して国民から税金を取ることである。政府が国民の愛情を利用して国民から税金を取ることである。
政府はそうやって国民から取った税金を全部自分のものにしている。自分の遊び代に使っている。身体障害者には遊び代の残りのお金をほんの少しやるだけである。
政府は暴力団体である。暴力団体は国民を嫌がらせるのがおもな仕事である。政府の福祉は政府がふざけてやっているだけである。政府が馬鹿な国民をからかって遊んでいるのである。
国民は早く政府を潰[つぶ]して、国民の手でちゃんとした福祉会社を建てねばならない。
宗教団体も弱い者を助けるためと言って馬鹿な国民を騙[だま]してお金を取っている。宗教団体もなくなったほうがいい。
[14609] 自殺とは何か? h24.4.9
心主義では、人間はみな生きたいと思わねばならないとされていた。心主義ではみんなが自分の心を絶対的に肯定しなければならないとされていた。人間の心には“生きる衝動[しょうどう]”があるとされていた。だから。人間はみなどんなに苦しくても生きねばならないとされていた。つまり、人間にはみな“生きる義務”があった。[ショペンハウエルも同じことを述べている。ショペンハウエルが生きていた当時のドイツではこういう考えが主流だったのだろう。私が高知大学の1回生の頃、生協で中央公論のショペンハウエルの『意志の表象としての世界』の訳書を買ってひと夏かけて読破した。わけがわからずに読めたのは若さゆえだったのだろう。それこそ“意志”の強さで読んだのだ(笑い)。]
しかし、知覚主義では、人間は場合によっては死んでもいいとされている。人間には自分が生きるか死ぬかについて選択の自由があり、生きていても不幸でしかないと考えられる場合には死んでもいいとされているのである。
例えば、身体障害者は、心主義の社会ではどんなにつらくても生きていかねばならないが、知覚主義の社会では自分が死にたければ死んでもいいのである。安楽死を選ぶことができるのである。
人間は自分が幸福になるために生きている。しかし、その一方で、人間は実在の中で生きている。実在の中ではいくら自分が幸福になりたくても幸福になれない人間もいる。身体的精神的な理由で幸福になれない人間もたくさんいる。治らない病気にかかった者は一生苦しみ続けねばならない。そんな人間は生きる意義がない。だから、死んだほうがいいのである。
[14610] 心主義の社会と知覚主義の社会 h24.4.9
心主義の社会では、人間はみな自分の心を肯定しなければならなかった。乱暴者は乱暴にしなければならなかったので、乱暴者は国民に暴力をふらなければならなかった。一方、おとなしい者はおとなしくしなければならなかったので、乱暴者にどんなに暴力をふられてもけっして抵抗してはならなかった。
反対に、知覚主義の社会では、人間はみな実在に従わねばならない。法律は実在の社会における人間の法則である。だから、人間はみな法律に従わねばならない。乱暴者もおとなしい者も等しく法律を守らねばならない。乱暴者は法律を守りながら乱暴にすればいいのである。
昔の日本は心主義の社会だったので、乱暴者の政府がおとなしい国民に暴力をふっていた。今の日本は知覚主義の社会なので、政府は国民に暴力をふってはいけなくなった。
しかし、今でも政府は国民に隠れて国民を国家宗教で殺しているし、国民から税金を取っている。政府は法律を守っていない。だから、政府が悪い。したがって、国民は政府に従わなくていいのである。
[14611] どうして暴力団は自分の指を切るのか?☆ h24.4.10
昔の日本は心主義の社会だった。心主義の社会では、みんなが自分の心で物を見ていた。
心主義の社会では、暴力団体が暴力をふって国民を支配していた。
しかし、どんな不良でも国民に暴力をふるだけでは国民に嫌われて国民に仲間はずれにされて社会の中でやっていけなかった。どんな不良でも国民の機嫌[きげん]を取らなければ社会の中にいられなかった。
だから、政府は法律会社や水道会社やゴミの収集会社や学校会社をやって国民の機嫌を取っていた。
宗教団体は、神の教えに因[ちな]んだ国民の役に立つことをやって国民の機嫌を取っていた。
暴力団は自分で自分の指を切って国民の機嫌を取っていた。暴力団が一方的に国民に暴力をふるだけでは国民に嫌われるので、暴力団は自分で自分の指を切って国民に“おわび”をすることで国民の機嫌を取っていたのである。暴力団が刺青[いれずみ]をするのも、国民の眼を喜ばせて国民の機嫌を取るためだったのである。昔はみんなが銭湯[せんとう]に行っていたから、暴力団が国民を喜ばせる機会があったのである。
[14612] 今の国民は五感主義である。 h24.4.10
馬鹿は知覚が働かない。馬鹿は五感と心が働くだけである。
だから、馬鹿はテレビを見たりマンガを読んだりして喜ぶだけである。
昔はテレビやマンガがなかったから、昔の人のほうが今の人よりも知覚的だった。
もっとも、昔の人は心主義だった。だから、乱暴者が自分の心のままに乱暴にして国民に暴力をふっていた。
しかし、今では時代が変わった。だから、さすがに今の人は心主義ではない。
しかし、今の人は知覚主義ではない。五感主義だ。
今の日本人は眼先の喜びしかない。浅薄[せんぱく]だ。ガリ勉バカだ。
日本人に考える才能がないのが丸出しだ。
高校生まではみんな学校で勉強しているからそこそこ利口[りこう]である。
大人になって自分で考えなくなってから馬鹿になるのだ。
誰でも毎日テレビやマンガばかり見て、自分で考えなければ馬鹿になる。
反対に、毎日考えていれば利口になる。
日本人はもっと自分で考える練習をしないといけない。例えば、私の哲学日記のように、コンピューターを使って作文を書かねばならない。
日本人はヨーロッパ人よりも生まれつき馬鹿だから、そのぶん頭を使って頭を鍛[きた]えなければならない。自分の思考力を磨[みが]かなければならない。
今の国民が五感主義だから、国民が政府に騙[だま]されているのである。つまり、政府は国民にバレないと思って私を神とする国家宗教で国民を虐[いじ]めて遊んでいる。政府は教科書やテレビや新聞で“嘘[うそ]の記事”を流して国民の人気を取っている。政府は“嘘[うそ]の法律”を定めて国民から税金を取っている。
国民が知覚主義になれば真実がわかる。今の政府が国家宗教で国民を嫌がらせていることがわかる。政府が教科書やテレビや新聞で嘘を言っているのがわかる。政府が嘘の法律を定めていることがわかる。国民が知覚主義になれば、政府は本来暴力団体だが、今の政府は暴力が使えないから、国民は政府に従わなくてもいいことがわかる。
これまでの私の理屈が国民にわからないのは、国民が馬鹿だからである。国民はもっと頭を使って物を見る練習をしないといけない。そうすれば、私の書いている言葉の意味がわかるだろう。
政府から暴力を取ったらただのバカだが、国民から心を取ったらただのバカでもある。昔の国民は心で見る馬鹿だったが、今の国民は眼で見るだけの馬鹿である。馬鹿の質が違うだけである。国民は自分自身が馬鹿であることを知り、頭を使って善[よ]く生きて行かねばならない。
[14613] 今の国民は五感主義である。 h24.4.10
今の国民は心主義ではないから、乱暴者の政府が自分の心のままにおとなしい国民に暴力をふるわけにはいかない。
今の国民は五感主義である。五感でも法律はあるから、政府は国民の眼の前で法律を犯すわけにはいかない。だから、政府は国民の眼の届かないところで密[ひそ]かに国家宗教などで国民を殺して遊んでいるのである。
今の国民が政府に従っているのは、国民が五感主義だからである。五感の上では、眼先の上では、政府は毎日テレビや新聞に出て立派[りっぱ]な態度をして国民よりも偉い人なので、国民は政府に従っているのである。
しかし、本当は、今の政府は暴力が使えないために政府には権力がないので、国民は政府に従わなくてもいいのである。
国民がもっと知覚主義になれば、政府に従わなくなるだろう。
今の国民が政府に税金を払っているのは、五感の上では論理がないからである。今では人間はみな平等だから、政府と国民も平等だから、国民が政府に税金を払う必要はない。それなのに、国民が政府に税金を払っているのは、国民が五感主義であるために、矛盾したことがやれるからである。政府の定めた“嘘[うそ]の法律”では国民に納税の義務があることになっているから、国民は眼先で政府の法律に従って、政府に税金を払っているのである。
しかし、本当は、今の政府は国民に暴力がふれないから、国民から税金を取ることはできないのである。
国民がもっと知覚主義になれば、国民が政府に税金を払わなくなって、政府は潰[つぶ]れるだろう。
今の政府は今の国民が五感主義であることを利用して生き残っているのである。
要するに、今の国民が眼先のことしかわからない馬鹿だから、政府は国民を騙[だま]して儲[もう]けているのである。今は眼先でよければいい時代だから、政府は国民の見えるところで善いことをして、国民の見えないところで悪いことをしているのである。
今の国民がもっと頭がよければ、政府は滅んでいるのだ。今の国民が知覚主義であれば、政府はなくなっているのだ。
昔の国民は心主義だった。今の国民は五感主義である。未来の国民は知覚主義になるだろう。それまでの間は、政府は残り続けるのだ。
今の国民は五感主義である。だから、私のような知覚主義者は国民に受け容[い]れられず死ななければならないのである。
しかし、五感主義は実在主義である。実在主義は知覚主義である。だから、五感主義と知覚主義は区別できない。五感主義が抽象化して一般化して発展したのが知覚主義である。だから、五感主義の人でもある程度は私を支持することができるだろう。
[14614] 今の国民は知恵遅れである。 h24.4.10
今の国民は五感主義である。
今の国民は「見た目の雰囲気[ふんいき]」で動いているだけである。
今の国民は、見た目の雰囲気で政府が偉いから政府に従っているだけである。政府は見た目が立派[りっぱ]なだけで国民から税金を取っているのである。
今の国民が会社の社長に従っているのも、社長が見た目の雰囲気が偉いからである。
今の社会では化粧臭いヤサ男ほど偉いのである。
しかし、見た目の雰囲気だけで動くのは男らしくない。知恵遅れの女子供のやることである。
今の国民がもっと頭がよければ、『正しい考え』に従って動くことができて、政府や社長が滅ぶだろう。つまり、見かけが立派な奴[やつ]ほど本当は偉くないのだ。正しい人間ほど偉いのだ。
あいにく私は「見た目の雰囲気」がよくわからない。だから、私は政府や社長に従う気はない。私は自分の『正しい考え』に従って動くつもりだ。
[14615] 貴族とは何か?☆ h24.4.10
ヨーロッパは五感主義である。
だから、ヨーロッパでは「見た目の雰囲気」が物を言う。
貴族とは、見た目の雰囲気が立派な者である。
五感主義の社会では、見た目の雰囲気が立派な者が国民よりも上の者なのである。[つまり、五感主義の社会では、五感主義における優[すぐ]れた人間についての規定があり、それを満足する者が優れた人間だと認められていたのである。五感主義において優れた人間だと認められた者は他人に命令できる特権を与えられていたのである。]
ところが、戦後の日本では貴族制が廃止されている。
それは、アメリカが五感主義の国ではないからである。アメリカはインドと同じ知覚主義の国である。
ところが、今の日本は再び五感主義の国になっている。昭和40年頃にアメリカ軍が日本から撤退[てったい]してから、日本は再びヨーロッパ制になったからである。
だから、政府や社長が貴族化して国民よりも上の者になっている。
しかし、「見た目の雰囲気」は人によって感じ方が違う。「見た目の雰囲気」は主観によって違うので定まらない。「見た目の雰囲気」が立派[りっぱ]か立派でないかは客観的に一意的に定まらず曖昧[あいまい]である。いいかげんな誤魔化[ごまか]しである。
あいにく私は知覚主義なので、私には政府や社長が偉くない。私にはどうして政府や社長が偉いのかわからない。今の政府や社長は暴力が使えないから権力がないから偉くない。
五感主義では「見た目の雰囲気」が立派なだけの役立たずが世の中を支配する。だから、世の中がよくならない。反対に、知覚主義では実力のある者が世の中を支配する。だから、世の中がよくなる。例えば、日本は江戸時代にはインドを真似[まね]て知覚主義だったから、江戸時代には日本では実力のある者が出世したから、日本が発展した。国民はこのまま五感主義を続けるよりも、知覚主義に変えたほうがいい。
戦前には、貴族は政府や社長とは別だった。政府も社長も貴族ではなかった。だから、今では政府や社長が貴族としてやっていくのは無理だろう。そもそも政府や社長は暴力を使って国民を支配する乱暴者だった。今では政府も社長も暴力が使えないから、国民は政府や社長に従わなくてもいいのだ。
今では貴族制は廃止されている。だから、今は五感主義の時代ではない。今では暴力は廃止されている。だから、今は心主義の時代ではない。今は知覚主義の時代なのだ。だから、国民は貴族や政府や社長に従わなくていいのである。
結局、国民が貴族や政府や社長を倒したのだ。国民が知覚主義になったために、知覚主義に反する者がなくなったのだ。
[14616] 政府は貴族ではない。 h24.4.10
戦前の国会では、貴族の一部が貴族院の議員だった。国民の一部が衆議院の議員だった。つまり、戦前の国会は、暴力団体の政府と貴族と国民の3種類の人間が一同に会する場所だったのである。[戦前の国民は、心主義においても五感主義においても劣った者であり、何の取り柄[とりえ]もないカスみたいなものだったのである。]
だから、国民が政府ではないように、貴族も政府ではないのである。
だから、貴族は政府ではない。政府も貴族ではない。貴族と政府は別物[べつもの]である。
政府の中枢は暴力団体である。政府は『暴力』で権力があっただけである。一方、貴族は「見た目の雰囲気」で権力があったのである。つまり、政府は心主義で、貴族は五感主義で権力があったのである。だから、政府と貴族は別物である。
国会は法律を決めるところだとされている。しかし、法律は真の意味で国民全員で決めるものである。法律は国会が決めるものではない。
だから、国会なんかどうでもいい。国会は形の上だけで実質的な存在意義はない。形の上だけの人間なんかいなくてもいい。国会議員は要らない。国民が必要なのは法律であって、国会議員ではない。
[14617] 人々の主義によって人間関係が決まる。 h24.4.10
昔の人は心主義だった。人間は自分の心のままに好き放題にやってもよかった。むしろ、自分の心のままにやらねばならなかった。だから、乱暴者は乱暴にしなければならなかった。乱暴者は暴力をふらねばならなかった。反対に、おとなしい者はおとなしくしなければならなかった。だから、乱暴者が『暴力』を使っておとなしい者を支配していた。つまり、政府や暴力団や宗教団体などの暴力団体が『暴力』で国民を支配していた。
昔の人は五感主義だった。五感主義でも、人間に支配従属関係があった。五感主義では、「見た目の雰囲気」が立派[りっぱ]な人が偉い人だった。五感主義では、見かけの立派な人が立派でない者を支配していた。つまり、貴族が「見かけ」で国民を支配していた。
昔の日本では、みんなが大真面目[おおまじめ]に心主義や五感主義をやっていた。昔の日本はヘンテコな世界だった。
今の人は知覚主義である。知覚主義では、『人間が平等である』ことが人間社会の原理とされている。だから、知覚主義ではみんなが平等である。もはや、人間に支配従属関係はないのである。それが現代社会の位相[いそう]である。例えば、現代社会では社長も社員も平等である。もはや社員は社長に頭を下[さ]げなくていいのである。むしろ、下げてはいけないのである。
いつの時代でも、人々の主義によって人間関係が決まるのだ。時代が変われば人々の主義も変わり、人々の主義が変われば人間関係も変わる。世の中とは、そういうものだ。
[14618] どうして今の人は知覚主義になったか? h24.4.11
人類の文明が進んで、人間が頭(知覚)で実在のことが理解できるようになったからである。
昔の人は実在のことが理解できなかったから、おもに実在を五感で見ていた。昔の人は実在のことが理解できなかったから、自分の心のままに好き放題にやっていた。だから、昔の人は五感主義や心主義だったのである。そのために、貴族や暴力団体が国民を支配していたのである。
今の人は実在のことが理解できるようになったから、おもに実在を知覚で見るようになった。今の人は知覚で実在を知り、実在の中で自分の心を満足している。だから、今の人は知覚主義なのである。そのために、貴族や暴力団体が国民を支配できなくなったのである。
最近日本でもみんなが知覚主義になった。そのために、最近の日本では社会が大きく変化しているのだ。
今後は知覚主義の時代である。だから、みんなは自分の頭(知覚)を大事にしなければならない。みんなは毎日自分で考える練習をして自分の知覚を鍛[きた]えて思考力を磨[みが]かなければならない。
お金で物を見るのは五感主義である。今は知覚主義の時代である。だから、お金で物を見るのをやめねばならない。今は知覚主義の時代だから、知覚で実在についての知識を学んで、知識で物を見なければならない。
[14619] 政府に税金を払うよりも保険に入ったほうがいい。 h24.4.11
今では政府は暴力を使えないから、政府には権力がないから、国民は政府に従わなくてもかまわない。
だから、国民は政府に税金を払わなくてもかまわない。
政府に税金を払っても、自分を殺した犯人を牢屋[ろうや]にブチ込むことができるだけである。
一方、保険に入っていれば、自分が死んでも自分の家族がお金をもらえる。
だから、政府に税金を払うよりも、保険会社に保険料を払ったほうがいい。
子供は学校に通うよりも塾に通ったほうがいい大学に入っていい会社に入りやすい。
だから、政府に税金を払うよりも、塾に月謝を払ったほうがいい。
[14620] 政府の権力の源[みなもと]は心主義にある。 h24.4.11
貴族の権力(命令力)の源は、人々が五感主義を支持していることにある。
政府の権力の源は、人々が心主義を支持していることにある。
昔の人は五感主義や心主義を支持していたから、貴族や政府に権力があった。昔の人は貴族や政府に従わねばならなかった。
しかし、今の人は知覚主義を支持していて、五感主義や心主義を支持していないから、貴族や政府に権力(命令力)はない。
だから、今の人は貴族や政府に従わなくていい。
知覚主義では、『人間はみな平等だ』ということになっているから、もはや権力者はいない。
だから、今の人は誰にも従わなくていいのである。誰の命令を聞かなくてもいいのである。
[14621] 自業自得[じごうじとく] h24.4.11
昔の人は五感主義を支持していたから、貴族に従わねばならなかった。
昔の人は心主義を支持していたから、政府に従わねばならなかった。
昔の人が貴族や政府に従わねばならなかったのは、自業自得だったのである。
一方、今の人は知覚主義を支持しているから、もはや誰にも従わなくていい。
人々は長年の努力でようやく知覚主義を支持できるまでになったのだ。最近人々は実在のことが知覚で理解できるようになったから、知覚主義を支持できるようになったのである。
今後も人々は知覚主義を支持していかねばならない。そうすれば、誰にも従わなくていい。
[14622] キリストの身にもなってみろ! h24.4.11
キリストは死んだ後も裸で十字架に磔[はりつけ]にされている。
キリストは人々に醜態[しゅうたい]をさらしてみっともない。
ヨーロッパ人はキリストに恨[うら]みでもあるのか?
恨みがなければキリスト教なんかやめればいい。キリスト像も十字架も捨ててしまえ!
[14623] どうして大阪には暴力団が多いのか? h24.4.11
大阪は人情の町である。大阪は心主義の町である。大阪ではいまだにみんなが心主義である。
心主義の町では、みんなが自分の心のままに好き放題にやっていい。むしろ、やらねばならない。[私も今から15年ぐらい前大阪の難波[なんば]に行ったとき、中学生ぐらいの子供が真昼間[まっぴるま]に人だかりの中で堂々と店の看板を足でまわし蹴[げ]りにして壊しているのを見たことがある。]
だから、大阪では乱暴者の集まりである暴力団がおとなしい者に暴力をふっておとなしい者を支配しているのである。暴力団が人々を暴力で脅[おど]して人々からお金を取ったり人々に嫌がらせをしたりしているのである。
日本の大阪以外の地域は知覚主義である。日本の大阪以外の地域ではみんなが知覚主義である。
知覚主義の地域では、みんなが法律を勉強して法律を守って社会の中で生きている。
だから、日本の大阪以外の地域では暴力団が儲[もう]からないので暴力団がいないのである。
今の日本には五感主義の町はないから、日本には貴族はいない。五感主義の社会では“貴族の規定”があって貴族の規定に当てはまった人が貴族なのだが、今の日本には五感主義の町はないから貴族はいない。
今の日本は(大阪以外の地域では)知覚主義である。知覚主義の社会では、学者が法律の範囲内で威張[いば]るのはかまわないが、貴族や暴力団体のような特権はない。知覚主義の社会では『人間がみな平等である』のが原理なので、支配者はいないのだ。
[14624] どうして政府は国家宗教をやるのか? h24.4.11
昔はこの世に人間を超えた神がいると考えられていた。人間の姿をした現人神[あらひとがみ]がいると考えられていた。昔は神主義があった。神主義では人間は神に従わねばならなかった。宗教団体が神主義で国民を支配していた。宗教団体は神の教えを口実にして国民から無理やりお金を取ったり国民を嫌がらせたりしていた。国民が命令に従わないときには暴力団体のように暴力をふることもあった。
一方、政府は暴力団体である。昔の社会は心主義だったので、みんなが心のままに好き放題にやってよかったので、乱暴者の集まりである政府が暴力でおとなしい国民を支配していた。
政府にとっては宗教団体が目障[めざわ]りだった。邪魔[じゃま]だった。政府は宗教団体に儲[もう]けを横取りされて癪[しゃく]だった。
そこで、政府は宗教をパロって国家宗教をやることにしたのである。政府は神を決めて神の情報を使った嫌がらせを国民にしたのである。政府は宗教を国民を虐[いじ]めるための手段にしたのである。政府は宗教団体の人気を落とすために、国家宗教で国民の嫌がらせばかりしたのである。[もっとも、日本はもともと神がいない国だから、日本には宗教団体がなく、政府は宗教団体と争う必要はなく、もっぱら国家宗教で国民の嫌がらせをするだけだった。]
つまり、政府は宗教団体に対するイヤミで国家宗教をやっていたのである。
しかし、今では科学が進んで、知覚主義が進んで、神がいないと考えられている。神主義はなくなっている。だから、今の政府はもはや国家宗教をやる必要はない。日本はもともと神がいない国だから、政府はなおさら国家宗教をやる必要はない。
[14625] 今では知覚主義は実在主義である。 h24.4.11
今でこそ知覚主義は実在主義だが、昔は知覚主義は実在主義ではなかった。
今は科学があるから、知覚で実在のことを理解できるようになったから、知覚主義が実在主義になった。
昔は科学がなかったから、知覚ではまだ実在のことが理解できなかったから、知覚主義は実在主義ではなかった。昔は知覚主義は数学主義のようなものだった。つまり、論理のある世界で空想的なことを考えるのが知覚主義だった。
科学によって、実在と知覚が結びついてから、知覚主義が実在主義になったのだ。
だから、今では知覚主義は実在主義だと考えていい。
[14626] 今の国民は知覚主義でなければならない。 h24.4.11
そもそも政府は暴力団体である。
政府は暴力で国民を脅[おど]して国民から税金を取って国民に軍事や国家宗教などで嫌がらせをする悪の団体である。つまり、政府は国を縄張りにしている大きな暴力団である。
政府の持ち会社が少し国民の役に立つことをやっているだけである。政府は自分が社会から追い出されないために、国民とのつながりをつけるために、国民の役に立つことをする持ち会社をやっているのである。
政府は国民の役に立たないことをやっているから、国民から税金を取るのである。政府が国民の役に立つことをやっているなら、普通の会社と同じように国民に仕事をして国民からお金をもらって経営できるはずである。政府が国民から税金を取っていることが、政府が国民の役に立たない会社であることの証拠である。
だから、国民が政府をありがたがるのはまちがっている。
国民にとっては政府は余計な嫌な邪魔者[じゃまもの]にすぎない。
昔の社会は心主義だったから、政府は自分の心のままに暴力を使っておとなしい国民を支配した。しかし、今の社会は知覚主義だから、みんなが法律を守らねばならないから、政府は暴力が使えず国民を支配できない。だから、今の国民は政府に従わなくていいのである。
今は知覚主義の時代だから、国民は真実を知って真実に従わねばならない。だから、国民は政府に従わなければいいのである。
昔の日本は五感主義や心主義の国だった。だから、貴族や政府が国民を支配した。今の日本は知覚主義の国である。だから、国民を支配する者は何もいない。したがって、政府が国民を支配してはいけない。政府が国民を支配するのはまちがっている。国民は知覚主義で押して行って、政府をなくさなければならない。貴族がなくなったように、政府もなくならねばならない。
[14627] どうしてアメリカは暴力団体を潰[つぶ]さなかったか? h24.4.11
戦後、日本はアメリカ軍に占領された。
アメリカは知覚主義の国であって五感主義の国ではなかったので、真っ先に貴族が潰された。
しかし、アメリカは心主義の国だった。だから、政府や暴力団や宗教団体などの暴力団体が残ったのである。
つまり、当時のアメリカは心主義の知覚主義の国だったのである。心主義の中で知覚主義をやっていたのである。[一方、ヨーロッパは心主義の五感主義の国だったのである。つまり、ヨーロッパは馬鹿の国だったのである。ヨーロッパでは天才は例外だったのである。私が高校生の頃に物理学を教わった馬島一[まじまかず]先生も「ヨーロッパはたまに天才が現れるだけで、それ以外は馬鹿ばっかりだ。ヨーロッパは馬鹿の国だ。日本人は天才はいないが、平均的な知的レベルは日本のほうが高い。」と言っていた。]
今では、世界中の国が知覚主義の国である。だから、今では世界中の国で政府や暴力団や宗教団体などの暴力団体が潰れているのだ。今後は、世界中の国が平等な国民だけからなる国になるのだ。
[14628] 『パニック』 h24.4.12
私は高校生の頃、開高健の『パニック』という作品を読んだ。
ある日突然一匹のネズミが走り出したために、他のネズミもいっしょになって走り出して、ネズミの群れ全体がひとつの方向に目的もなく走り出すという話である。
これは、今の国民がわけもわからずに政府を支持していることを言っているのである。
国民の一人が政府を支持したために、他の国民もいっしょになって政府を支持するようになって、国民みんなが政府を支持しているのである。いわゆる群集心理である。宗教家などがサクラを使うのは、この効果を利用するためである。
しかし、『パニック』の話ではネズミの大群は結局海に突っ込んで全滅した。ネズミの大群はまさしく国民の喩[たと]えである。
今の国民が政府を支持し続けるとやがて国民が全滅する。だから、国民は今のうちに政府を支持するのをやめねばならない。そういう主張の作品である。
[14629] 人々の生き方で支配者が決まる。 h24.4.12
戦前の人々は心や眼で生きていた。だから、暴力団体や貴族が支配する社会だった。心で見た世界では、乱暴な暴力団体がおとなしい国民よりも上の者に見えた。眼で見た世界では、雰囲気が立派な貴族が国民よりも上の者に見えたのである。
戦後の人々は頭で生きている。だから、支配者がいない社会になった。頭で見た世界では、人間はみな平等だから、支配者がいないのである。
人々が何で生きるかによって、支配者が決まるのだ。
人々が何で生きるかは、時代によって決まるのだ。
だから、今の人々は頭で生きるしかないのだ。だから、誰も支配者になれないのだ。今は支配者のいない時代なのだ。
人間は頭で物を見る生き物である。戦後になって、ようやく人間が人間らしく生きることができるようになったのだ。
[14630] 知覚主義が暴力団体を滅ぼす。☆ h24.4.12
暴力団体は、昔の人が心主義で生きていたから出来た物である。心主義の社会では、みんなが自分の心のままに好き放題にしていたので、心主義の社会では乱暴者が暴力をふってもよかったので、乱暴な暴力団体がおとなしい国民に暴力をふって国民を支配していたのである。[法律がないだけでは暴力をふれない。“乱暴な心”がなければ暴力をふれない。暴力をふるのは乱暴者の才能である。]
ところが、今の人は知覚で実在が理解できるようになって知覚主義で生きているから、暴力団体が滅んでいる。知覚主義の社会では、みんなが知覚で実在を知り実在の中で自分の心を満足しているので、法律は実在の社会における人間の法則なので、乱暴な暴力団体もおとなしい国民もみんなが法律を守らなければならなくなったので、暴力団体が国民に暴力をふらなくなって国民を支配できなくなったのである。[政府の法律は、昔の政府が暴力に物を言わして決めた“嘘[うそ]の法律”なので守らなくていい。「宗教の自由」も「納税の義務」も「憲法改正の手続き」も政府が自分の都合のいいようにでっち上げた“嘘の法律”である。法律は『人間がみんな平等である』原理と社会の具体的状況から論理的必然的に決まるのであって、政府が決めるのではない。今の政府は暴力が使えず今の政府には権力がないから、政府には法律を決められない。]
今では、国民に暴力をふる暴力団体がいけないし、暴力団体に従う国民もいけない。
政府は暴力団体である。政府は国を縄張[なわば]りにしている国家暴力団体である。
だから、今の国民は政府に従わなければいいのである。政府に税金を払わなければいいのである。政府の命令を聞かなければいいのである。
民主主義が独裁者を許さないように、知覚主義は暴力団体を許さない。
国のみんなが知覚主義になったら、暴力団体は消えるしかないのだ。
要するに、今はみんなが『頭で考えて楽しく生きていこう』という時代なのである。そんな時代には、暴力団体は生き残れないのだ。
[14631] 今の政府はどうして国家宗教で国民を虐[いじ]めているのか? h24.4.12
今の政府は国民に隠れて密[ひそ]かに国家宗教で国民を殺したり嫌がらせたりしている。
それは、今の社会ではみんなが暴力をふってはいけないからである。
政府の暴力団体は乱暴者の集まりである。
乱暴者は暴力をふるのが楽しみである。人生のただひとつの生き甲斐[がい]である。
ところが今の社会では暴力をふってはいけないことになっているから、政府の暴力団体も暴力をふれない。政府の暴力団体は暴力をふれずにストレスが溜[た]まっている。
だから、政府の暴力団体は自分のストレスを解消するために、密かに国家宗教で国民を虐めているのである。最近は政府が国民に暴力をふれなくなったために、政府の国民に対する嫌がらせがますます激しくなっているのである。政府は勝手に無名の国民(例えば、私)を国家宗教の神にして、国民にわからないように国家宗教をやって国民を虐めているのである。
政府の暴力団体は生まれつき心が凶暴な乱暴者の集まりだから、政府があるかぎり政府の国民に対する嫌がらせはなくならない。だから、政府の国民に対する嫌がらせをやめさせるためには、政府をなくならせるしかない。国民が政府に税金を払うのをやめて政府を倒すしかない。
[14632] どうして今でも政府に従っている国民がいるのか? h24.4.13
政府は暴力団体である。つまり、政府は国民を暴力で脅[おど]して国民を従わせる団体である。
しかし、今の社会では暴力が使えない。今の社会ではみんなが知覚主義になって、法律(社会における人間の法則)を勉強して法律を守るようになったから、暴力をふらなくなったのである。人間の心はみんなそれぞれ違っているが、頭は(知的障害者以外は)みんな同じなので、みんなが法律を守らなければならないのである。
だから、今の社会では政府が暴力を使えない。
したがって、国民は政府に従わなくてかまわない。
今でも政府に従っている国民がいるのは、正しいことがわかっていないからである。正しいことがわかっていないために、まちがったことをやっているのである。社会科音痴[おんち]なのである。
わざわざまちがっている者に合わせる必要はない。だから、国民は政府に従わなければいいのである。つまり、国民は政府の命令で政府に税金を払ったり戦争や国家宗教などをやらなければいいのである。
[14633] 暴力とイタズラは違う。 h24.4.13
政府が自分の命令を聞かない国民を殴[なぐ]ったり蹴[け]ったりして肉体的に罰するのが暴力である。
一方、政府が国民に隠[かく]れて密[ひそ]かに国家宗教で国民を殺したり嫌がらせたりするのはイタズラである。
今は暴力のない社会である。今は暴力のない社会だから、政府はイタズラしかできないのである。
政府が暴力を使えなければ、政府に権力(命令力)はない。だから、国民は政府に従わなければいいのである。
[14634] 今は知覚主義の時代である。 h24.4.14
戦前は、知覚主義がなかった。戦前は、五感主義や心主義があった。
五感主義で貴族が出来た。五感主義では“見かけが立派な者”が優[すぐ]れているので、見かけが立派な貴族が国民を支配したのである。貴族が国民に命令して国民から強制的にお金を取っていたのである。
心主義で暴力団体が出来た。政府や暴力団や宗教団体などの暴力団体が出来た。心主義では“心が乱暴な者”が優れているので、乱暴者の集まりである暴力団体が国民を支配したのである。心主義の社会では、みんなが自分の好き放題にできるので、心の乱暴な者が心がおとなしい者に暴力をふって命令できるので、乱暴者の集まりである暴力団体がおとなしい国民を暴力で脅[おど]して国民に命令して国民を支配したのである。暴力団体が暴力で脅して国民に命令して国民から強制的にお金を取ったり、国民に嫌がらせをしていたのである。
戦後は、新しく知覚主義が出来た。人間が知覚で実在のことが理解できるようになったので知覚主義が出来た。みんなが知覚で実在のことを知り、実在の中で自分の心を満足するようになった。人間の生き方が変わった。知覚主義が世界中の人々に浸透した。
戦後は、知覚主義が五感主義を倒したので、貴族がいなくなった。
今では、知覚主義が心主義を倒しているので、暴力団体がなくなっているのだ。
知覚主義では人間がみんな平等であることが原理だから、今では世界中の人間がみな平等になっているのだ。だから、今の社会にはもはや支配者はいないのである。
今は知覚主義の時代である。今の時代に五感主義や心主義をやっているほうが悪い。だから、国民は貴族や暴力団体を無視して貴族や暴力団体に従わなくていいのである。
[14635] アメリカはどうして自由の国なのか? h24.4.14
政府を建てるためである。アメリカが自由の国であれば、みんなが自分の心のままに好き放題ができるから、乱暴者がおとなしい者に暴力がふっておとなしい者を支配できるから、乱暴者が集まって政府を建てておとなしい国民を支配することができるのである。一方、おとなしい者は心がおとなしいから乱暴者に支配されても抵抗せずにおとなしく従うだけである。国民は政府に従うだけである。つまり、自由主義は心主義の言い換[か]えである。
政府が建つと、国民が政府に暴力で支配されて、国民の自由がなくなる。だから、アメリカは自由の国ではない。これは矛盾である。
この矛盾を解消するためには、アメリカは知覚主義をやるしかない。知覚主義の国では、みんなが法律を守らなければならないので、みんなに一定の自由が保障される。少なくとも、政府に支配されるよりも国民には多くの自由がある。
だから、アメリカが自由の国であるためには、アメリカは知覚主義をやらねばならない。
[14636] 理系と文系 h24.4.14
理系は知覚主義である。一方、文系は心主義である。
昔の社会では、みんなが心主義だったから、みんなが自分の心のままに好き放題にしてもいいと思っていたから、乱暴者の政府が暴力をふって乱暴にしておとなしい国民を支配できた。
今でも文系の人間は心主義である。だから、今の政府は文系の人間だけを支配すればいい。政府は理系の人間に手を出してはいけない。
文系の人間は死ぬまで政府に従えばいい。政府の命令で政府に税金を払って、戦争や国家宗教をやらされて虐[いじ]められればいい。
理系の人間は政府を無視して本当の法律を守って自由に自分の心を満足して暮らせばいい。
文学とは自分の心のままに好き放題に生きることである。法律を守るのは文学者ではない。自分で文学の道を貫[つらぬ]くと決めたら死ぬまでそうしなければならない。
[14637] 今は知覚主義の時代である。☆ h24.4.14
知覚主義者は古代ギリシアの頃からいた。例えば、浮力の原理を発見したり球の体積を求めたりしたアルキメデスがそうである。
しかし、昔はほとんどみんなが心主義や五感主義だった。昔は知覚主義者は例外だった。そのため、昔は五感主義や心主義の時代だった。だから、昔は知覚主義者も貴族や政府に従わねばならなかった。
世界大戦後からは、ほとんどみんなが知覚主義になった。今では五感主義者や心主義者は例外である。そのために、今は知覚主義の時代になった。だから、今は五感主義者や心主義者は真理に従わねばならない。つまり、貴族や政府は真理に従わねばならない。
法律学では『人間はみな平等である』ことになっている。だから、貴族や政府は国民と平等にしなければならない。
政府学では『政府は暴力団体である。しかし、今の社会では暴力が使えない。だから、政府は国民を支配できない。』ことになっている。だから、政府は国民に命令してはいけない。
[14638] どうして今の人は政府に従っているのか? h24.4.14
今の人は知覚主義である。知覚主義では真理に従わねばならないことになっている。
しかし、いくら知覚主義でもすべての真理を知っているわけではない。
その都度[つど]必要に応じて真理を知り真理に従うのである。
今の人は『今の社会ではみんなが法律を守って暴力を使わない』ことは知っている。
しかし、今の人は『政府が暴力団体である』ことを知らない。『今の政府が隠れて国民に嫌がらせをしている』ことを知らない。
今の人は社会科の教科書やテレビや新聞の記事を真[ま]に受けて「政府が国民の役に立つことをする機関だ」と思っている。今の人は政府が作った嘘[うそ]の情報に騙[だま]されているのである。政府は知覚主義を逆手[さかて]にとって、国民にまちがいを教えて国民を政府に従わせているのである。
だから、今の人は政府に従っているのである。
今の人は格好[かっこう]が立派なだけの見掛け倒しである。今の人はそんなこともわからないほど馬鹿なのである。それでも、今の人が知覚主義でやっていくと決めた以上は真理に従わねばならない。
今の国民は早く真理を知って真理に従わねばならない。
戦前の政府は国民に暴力をふることによって権力(国民に対する命令力)を得ていた。戦後の政府は国民に暴力をふらなくなったから、国民は政府に従わなくていいのである。
国民はもともと性格がおとなしいから警察があってもなくても変わらない。政府の暴力団体が国民に隠れて国民を殺したり嫌がらせをしているのが、日本におけるおもな犯罪である。警察は政府の暴力団体の犯罪を見て見ぬふりをしている。だから、灯台(←パトカーのサイレン)下[もと]暗しと言うのである。
国民は政府に税金を取られて嫌がらせをされるだけである。さっさと政府がなくなったほうがいい。
今の国民は幸せだから、政府について考える機会がないから、政府のことがわかっていないのである。このたび私が政府について考える機会を得て国民の代[か]わりに政府について考えてやったから、国民は私の考えに従わねばならない。
[14639] ルソー理論の欠点 h24.4.15
ルソーは法律のない社会では乱暴者が暴力を使っておとなしい者から財産を奪うから法律を作らねばならないとした。
法律はみんなの多数決によって決めればいいとした。
ルソー理論には矛盾がある。
法律をみんなの多数決によって決めるのは心主義である。多数決は、みんなが自分の心で物事を見て、物事の善し悪しを判断することだからである。
みんなが心主義だと、みんなが自分の心のままに好き放題にやってもいいと思っていることになるから、乱暴者が乱暴な心でおとなしい国民に暴力をふっておとなしい国民から財産を奪うことになる。
つまり、心主義によれば、みんなの多数決で法律を決めると同時に、暴力団体が暴力で国民を支配するのである。
だから、ルソー理論では社会がよくならないのである。
みんなが心主義であるかぎり、暴力団体(政府)が国民を支配することになる。心主義の世界の中では、暴力団体が国民を支配するのは解決されない。心主義の社会では、国民の多数決によって決められた法律が守られないのである。法律が暴力団体によって破られるのである。
暴力団体が国民を支配しないためには、みんなが心主義であるのをやめるしかない。
みんなが知覚主義なら、みんなが法律を守って暴力をふらないので、暴力団体が国民を支配できなくなる。法律は社会における人間の法則なので、知覚主義では頭で法律を知って法律を守らなければならないから、みんなが知覚主義ならみんなが法律を守るのである。
法律はみんなの多数決で決めるのはなく、つまりみんなが自分の心で決めるのではなく、法律学者が頭で考えて決めればいいのである。法律学者が『人間が平等である』原理を具体的な社会に適用して具体的な法律を決めればいいのである。法律は社会における人間の法則だから、法律学者がそれを客観的に認識すればいいのである。今では法律はみんなの心で決めるのではなく、実在が決めるのである。特定の地域においてある法律を施行[しこう]して社会が善[よ]くなれば、その法律を正しいとすればいいのである。実際に、これまで法律はおもにそうやって決められてきたのである。法律は社会に対する観察と実験の積み重ねによって作り上げられてきたのである。
これまでは「国民みんなが政府に従わねばならない」という法律でやってきた。しかし、それでは社会が善くなるのにも限界がある。だから、試[ため]しに特定の地域で『国民が政府に従わなくていい』という法律をやってみて様子[ようす]を見ればいい。それで社会が善くなれば、『国民が政府に従わなくていい』という法律が正しいのだから、その法律を国中や世界中でやればいい。そのほうが、頭ごなしに「国民は政府に従わねばならない」と決めるよりも、はるかに客観的で合理的である。幸[さいわ]い、今の政府は暴力が使えず政府には権力がないから、国民で自主的に「国民が政府に従わなくていい」法律をやってみればいい。それで社会が善くなれば、「国民が政府に従わなくていい」ことが正しいのだから、「国民が政府に従わなくていい」ことを国中や世界中に広げればいいのである。
このように、知覚主義にすれば、暴力団体が国民を支配することもないし、法律を多数決で決めることもない。人間はみんな平等だし、法律は法律学者が実在する社会に対する観察と実験によって決めるのである。
今ではすでにみんなが知覚主義である。だから、暴力団体(政府)が国民を支配しなくなっているし、国会が法律を決めなくなっているのである。国会が要らなくなれば、国会議員も要らなくなって選挙をやらなくてもよくなる。選挙をやらなければ、選挙カーのうるさい演説を聞かなくてもよくなる。国民は静かに暮らすことができる。
[14640] 政府の行政 h24.4.15
政府の行政とは、政府が戦争や国家宗教で国民の嫌がらせをすることである。あるいは、政府が国民の税金を国民にとって何の役にも立たないことに無駄遣[むだづか]いすることである。政府はもともと暴力団体だから、暴力団体は暴力で国民の嫌がらせをするだけだから、政府は国民の役に立つことをしないのである。
政府の者が国民の役に立つことをしたければ、政府から出て自分で会社を建てて事業をすればいい。普通の会社と同じように事業をすればいい。
政府は国民の嫌がらせをするだけだから、国民にとっては政府がなくなったほうがいい。
政府がなくなれば、国民が政府に税金を払わなくていいから国民のお金が溜[た]まる。国民のお金が溜まれば国民が自分で好きな事業ができる。国民が自分で好きな事業をすれば国民みんなが幸福になる。だから、政府がないほうがいい。
[14641] 実在を理解すれば、実在を支配できる。 h24.4.16
人間が実在を理解すれば実在を支配できる。人間が実在を支配できないのは実在を理解していないからである。
例えば、人間が政府を理解すれば政府を支配できる。
これまで人間が政府を支配できなかったのは、政府を理解していなかったからである。
だから、人間が政府を支配するためには政府を理解すればいいのである。
[14642] どうしてソビエトは社会主義をやめたのか? h24.4.17
社会主義は政府の国民に対する嫌がらせである。社会主義では国民の財産はすべて政府の財産になるからである。[たとえ政府がなかったとしても、社会主義では“国民の財産を管理する団体”が強い権力を持って国民を支配することになる。社会主義は資本家と労働者を平等にすることではなく、国民の財産を管理する団体と国民を不平等にすることである。国民の財産を管理する団体が国民よりも上の者になることである。]
ソビエト政府は国民の財産をすべて自分の財産にして、国民の財産を無駄遣[むだづか]いしていた。例えば、莫大[ばくだい]なお金を軍事に使っていた。軍事は国民のためにはまったく何の役にも立たなかった。ソビエト政府は国民の暮らしを豊かにすることにはほとんどお金を使わなかったのである。ソビエトでよかったのは戦車や戦闘機だけだったのだ。
ところが、最近はみんなが知覚主義になって実在を知り実在に従うようになった。法律は社会における人間の法則である。だから、みんなが法律を知って法律を守って暴力をふらなくなった。だから、暴力団体の政府が国民に暴力をふらなくなって権力(命令力)を失った。
そのために、ソビエトでは国民が政府の命令を聞かなくなって、社会主義が崩壊したのである。
今ではロシアでは国民が自分の財産を持つようになって資本主義をやるようになったのである。
中国でも文化大革命のとき政府が社会主義をやろうとしたが、国民ががんばって政府に抵抗したので政府の社会主義革命は失敗に終わった。
[14643] 政府の問題はすでに片付[かたづ]いている。 h24.4.19
『政府は暴力団体である。
ところが、今の社会では暴力が使えない。
だから、国民は政府に従わなくていい。』
今の政府は自分が生き残るために、必死になってテレビや新聞で嘘[うそ]の情報を流して国民に政府に従わなければならないと思わせて国民を政府に従わせている。
しかし、政府と国民は心は違うが、頭の出来は同じである。
政府は国民を騙[だま]し続けることはできない。
国民が政府に従うのもそう長くはないだろう。
[14644] 国民は政府に従ってはいけない。 h24.4.19
政府は心主義の機関である。政府は心で思うだけで、頭で考えない。
政府は頭で考えないから、政府の政策がうまくいったためしがない。
政府の政策は失敗ばかりである。[政府は『がんばれ!!ロボコン』のロボコンのように失敗ばかりである。政府は国民の人気(→ハートマーク)を得ようとしてがんばるが(じつは嘘[うそ])いつも失敗ばかりやって国民に迷惑をかけている。ロボコンが三輪車から四輪車に変わったのは、三輪車←三←川、四輪車←四←four←フォー←フで、合わせて川フ←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だからだと考えられる。つまり、川フの“フ”を入れるためにわざわざ途中から四輪車に変えたのである。しかし、だからといってロボコンは私ではなく、ロボコン自体は赤くて丸いから政府なのである。ロボコンがプロペラで空を飛ぶのは、プロペラ←白くて丸い←神武天皇の光るトンビ←神武天皇だからである。しかし、だからといってロボコンは天皇ではなく政府である。ちなみに、第三期から登場した「ロボちゃん」は当時『ロボチビ』と呼ばれていた。私はロボチビが結構気に入っていた。]
だから、国民は政府に従ってはいけない。
実際には、政府は国家宗教で国民の嫌がらせをするだけである。政府にとっては国民の役に立つよりも、国民を虐[いじ]めたほうが面白いからである。だから、国民は政府に従わないほうがいい。
[14645] 人間にはどうして好き嫌いがあるか?(改) h24.4.21
人間には、心で物を見るタイプと、眼で物を見るタイプと、頭で物を見るタイプがある。心で物を見るタイプは文学向きで、眼で物を見るタイプは科学向きで、頭で物を見るタイプは数学向きである。自分がどのタイプかは生まれよりも社会環境で決まる。
心で物を見る人は心で見えることが真実だと思っている。実在に従おうとせず、実在よりも自分の心の中に閉じこもっている。心で見えることが好きで、眼や頭で見えることが嫌いである。国語(文学)が得意である。
眼で物を見る人は眼で見えることが真実だと思っている。頭で見えることをただの言葉にすぎないと言って軽蔑している。眼で見えることが好きで、心や頭で見えることが嫌いである。生物学や医学や社会科が得意である。
頭で物を見る人は頭で見えることが真実だと思っている。論理のないたんに眼で見えることを理解ではないといって否認している。頭で見えることが好きで、心や眼で見えることが嫌いである。物理学や化学や数学が得意である。
人間が心で物を見るか眼で物を見るか頭で物を見るかは、親の育て方によって決まる。つまり、社会環境によって決まる。親が心で物を見るタイプだと子供も心で物を見るタイプになり、親が眼で物を見るタイプだと子供も眼で物を見るタイプになり、親が頭で物を見るタイプだと子供も頭で物を見るタイプになる。一般的には、人間は心と眼と頭を多かれ少なかれすべて使っているのであって、完全にひとつのタイプに割り切れるものではない。つまり、心のない人間はいないし、眼のない人間もいないし、頭のない人間もいない。
自分のタイプを変えるのは難しい。だから、人間には得意もあれば不得意もある。人間は自分が得意なことをやれば成功して幸福になれるが、反対に自分が不得意なことをやると失敗して不幸になる。だから、人間は自分が得意なことをやって不得意なことをやらないように注意しなければならない。
昔の人は心や眼で物を見るタイプだったが、今の人は頭で物を見るタイプである。社会の文明が高くなると、みんなが頭で物を見るようになる。
[14646] 未来の政治機関 h24.4.21
いろんなことをするのはやめよう。
警察だけに絞[しぼ]ろう。つまり、立法と司法だけにしよう。
そうすれば、国民は大喜びで自分からいろんなことをやるだろう。
そのほうが、国民にとって幸福な国になるだろう。
[14647] 物質の2重性と政府 h24.4.21
物質には粒子と波の2重性がある。
長い間物質が粒子であることと波であることをどのようにして統合するかが問題だった。
ハイゼンベルクが『不確定性原理』を考え出して統合できた。つまり、物質は位置が粒子であるときには運動量は波であり、反対に位置が波であるときには運動量は粒子なのである。
それと同じように、政府には悪と善の2重性がある。政府は国民を暴力で脅[おど]して国民から税金を取ったり国民に戦争や国家宗教をやらせたりする一方で、法律会社や水道会社やゴミの収集会社や学校会社などを建てて国民の役に立つこともやっている。
長い間政府が悪い会社であることと善[よ]い会社であることをどのようにして統合するかが問題だった。
私が『心主義の社会』を考え出して統合できた。つまり、心主義の社会ではみんなが自分の心のままに好き放題にやってもよく、政府は心が乱暴だから国民に暴力をふって国民を支配することができた。しかし、政府が悪いことばかりすると国民に嫌われて人間社会の中にいられない。だから、政府は国民の機嫌[きげん]を取るために、いくつか国民の役に立つことをやっているのである。社長がいつも暴力で会社のお金を自分のものにしているから、みんなに嫌われないために宴会で芸をするのと同じことである。つまり、宴会は役立たずの社長がみんなの機嫌を取って会社の中に置いてもらうためにやっているのである。
しかし、今は『知覚主義の社会』だから、みんなが法律を守って暴力をふってはならず、政府は国民に暴力をふれなくなって国民を支配できなくなった。政府は政権を失った。だから、今の政府はわざわざ国民の役に立つことをやって国民の機嫌を取らなくてもいい。社長も社員を支配できなくなったから、もはや社長はつまらない宴会芸をやらなくていい。今は知覚主義の社会だから、みんなが酒を飲まないので、宴会なんかやらなくていい。
[14648] どうして今の国民は政府に逆[さか]らわないのか? h24.4.23
今の国民はおとなしく政府に従っている。政府に税金を払ったり、政府の命令で国家宗教をやったりしている。
国民が政府に逆らっても税金が儲[もう]かるだけである。国家宗教の命令は一般の国民に対しては出ないから、税金が儲かるだけである。今の税金はあまり高くないから、政府に税金を払わなくても自分があまり儲かった気がしない。
だから、国民は政府に従っているのである。
しかし、お金の問題ではない。そもそも国民が政府に従うべきか否[いな]かが問題である。
今の社会では暴力が使えないから、国民は政府に従う必要はない。だから、国民は政府に従わなければいいのである。
それを実行するかどうかは個人の度胸[どきょう]の問題である。
男に生まれてきたら、一生に一度や二度は度胸を使うべきである。男だったらヤケクソで生きていくべきである。
福沢諭吉の時代には、人々は神に逆らうのが怖くて神の言いなりになっていた。宗教団体の言いなりになっていた。しかし、今の人々は神を恐れず平気で神に逆らっている。それと同じように、未来の人々は政府を恐れず政府に平気で逆らっているだろう。だから、今の人々も政府に平気で逆らえばいいのである。
[14649] スタートレック「タロス星の幻怪人[げんかいじん]」 h24.4.23
「タロス星の幻怪人」は前後合わせて2時間の長編で通常の映画よりも長く、ジーン・ロッテンベリーが特に力を入れた回である。
タロス星にはテレパシーで人間に幻[まぼろし]を見える宇宙人がいて、タロス星人に捕まった宇宙人が狭い檻[おり]の中に入れられてテレパシーで幸せな幻を見せられていると言う話である。
タロス星はアメリカ(一般には国)のことで、タロス星人は政府のことで、タロス星人に捕まった宇宙人は国民のことである。つまり、国民は政府に騙[だま]されて幸福な世界を見せられていると言うことである。
しかし、実際には、その反対である。今の国民は本当は政府に従わなくてもいいのに、政府に騙されて政府に従わねばならないと思わされているのである。つまり、今の国民は本当は楽園にいるのに、政府に檻の中に入れられている幻を見せられているのである。
早く国民は政府のテレパシーの幻から解放されて、本当の世界が見えるようになって、自由に暮らさなければならない。
一般に、テレビドラマやアニメは実際とは反対のことを言っている。実際のことも言っているが、必ず実際と反対のことも言っている。政府が文学者を使って世論操作をやっているのかもしれない。
例えば、『北斗の拳』では、実際の社会ではすでに暴力が死んでいるのに、いまだに暴力が使える世界を描[えが]いている。そのために、『北斗の拳』を読んだ者は、今の社会ではまだ暴力が使えると思って、暴力団体を恐れて暴力団体に従うようになるのである。政府や暴力団や宗教団体に従うようになるのである。だから、テレビやマンガはあまり見ないほうがいい。
例えば、『超時空要塞マクロス』では、戦後は政府と国民が仲良くなったと言っているが、実際には政府は国民の眼の前で堂々と国民に暴力をふらなくなっただけで国民に対する嫌がらせは続いている。政府は今でも国民を国家宗教で殺したり嫌がらせたりしている。今の政府は国民にわからないように国民を嫌がらせているのであって、嫌がらせていないわけではない。今でも政府は国民から税金を取っている。だから、国民は安心してはいけない。国民はきちんと政府を倒して政府をこの世から完全になくすべきである。[ゼントラーディ軍=ヨーロッパ型政府、監察軍=インド型政府、プロトカルチャー=政府が出来る以前の人類、マクロス=日本、ゼントラーディの地球攻撃艦隊=日本政府、マイクローン=国民]
[14650] 『裸の王様』は嘘[うそ]である。 h24.4.23
『裸の王様』のおとぎ話では、2人の仕立て屋が王様を立派に見せることになっている。王様に権力(命令力)を与えていることになっている。
王様とは政府のことであり、2人の仕立て屋とは政府の国家宗教団体と国会のことである。
つまり、『裸の王様』のおとぎ話では、政府は国家宗教団体と国会で国民の人気を得て国民の支持を得て国民を政府に従わせていることになっている。
しかし、実際には、政府は国民を暴力で脅[おど]して国民を政府に従わせていたのである。政府は暴力で権力を得て、国民に無理やり戦争や国家宗教をやらせていた。政府は自分が社会から追い出されないために国民と仲よくしなければならなかったので、いやいやしかたなく国民の役に立つことをする法律会社(国会や警察)や水道会社やゴミの収集会社や学校などをやっていたのである。政府は国の景気がよくなると、自分が国の景気をよくしたみたいにするだけである。本当は国の景気がよくなったのは国民の力であり、政府は何もしていないのである。政府は国の景気がよくなると税金を値上げするだけである。
『裸の王様』は嘘を言っている。まちがいを言っている。国民はおとぎ話の嘘を本気にしている。だから、今でも政府が生き残っているのである。
政府の持ち会社(つまり法律会社や水道会社やゴミの収集会社が学校など)が政府から独立すれば儲[もう]かるだろう。今は暴力の使えない社会だから、今の国民は政府の持ち会社に税金を払っているのであって、政府の暴力団体に税金を払っているのではない。政府の持ち会社が政府から独立しても、国民は政府の持ち会社に今の税金と同じくらいの料金を払うだろう。だから、政府の持ち会社は政府から独立したほうが儲かるのだ。
[14651] どうして中国は共和制なのか? h24.4.23
中国は共和制をやっている。中国では政府と国民が平等であることになっている。
しかし、政府と国民が平等なら、政府が国民から税金を取るわけがない。政府が国民に命令するわけがない。
だから、中国政府は嘘をついているのである。
中国政府は自分が生き残るために自分が国民を支配するために、嘘をついているのである。つまり、中国政府は「共和制」で国民の支持を得て、国民を政府に従わせているのである。
しかし、実際には、政府は国民から税金を取って国民に嫌がらせをするだけである。政府が国民の役に立つことなんかない。政府は役立たずバカの見本である。
実際には、中国政府は『暴力』で国民を脅[おど]して国民に命令していたのである。しかし、今では世界中で暴力が使えなくなっている。だから、今の中国政府には権力がない。だから、中国でも国民がさっさと政府に従わなくなって政府を倒せばいいのである。
[14652] 私の願い h24.4.23
今の私はヤフオクに自分の本を出品している。幸い、『アニメが10倍嫌いになる本』に1人だけ入札がある。
私が自分の本を売って食べていけることが私の願いではない。
私の本が売れるよりも、私が考えたこと(特に政府について考えたこと)を国中の世界中の人に理解してもらいたい。
そして、早く政府をこの世からなくしてもらいたい。
それが私の願いである。
私の考えを理解するためには、私の『アニメが10倍嫌いになる本』を買って読めばいいことは言うまでもない。
[14653] アメリカは知覚主義の国である。 h24.4.24
アメリカは知覚主義の国である。高いビルがその象徴である。アメリカは五感主義ではない。反対に、ヨーロッパは五感主義である。アメリカとヨーロッパは違う。
アメリカは新しく出来た国だから、知覚主義なのである。アメリカは知覚主義で楽しくやっていこうとする国である。アメリカはインドに似ている。[アメリカは知覚主義の国だが、アメリカにも政府がある。それは、いくらアメリカが新しい国だと言っても、アメリカが出来たのは今から約240年前だからである。その頃はまだ暴力団体が支配する世界だったので、アメリカにも政府があるのである。]
アメリカが景気がいいのはアメリカが知覚主義だからである。アメリカの景気の支えは知覚主義にある。
日本も知覚主義の時代は景気がよく、五感主義の時代は景気が悪い。だから、日本もアメリカを見習って知覚主義でやっていかねばならない。今後は世界的に知覚主義の時代だから、日本も知覚主義でやればいいのである。
[14654] 人間は自分の主義によって得意と不得意が出来る。 h24.4.24
人間は生まれたときは未分化だが、年を取ると教育環境によって心主義や五感主義や知覚主義に分化していく。つまり、人間は子供の頃は万能だが、大きくなると得意と不得意が出来る。私も小学生の頃は絵を描くことや社会科が好きだったが、中学生の頃に知覚主義になってからは絵を描くことや社会科が苦手になった。
人間が自分の主義を変えることは難しい。不可能である。人間は年を取ると自然に得意と不得意が出来るものである。だから、不得意なことを無理に勉強せずに、得意なことを大事にして、有利に生きていくべきである。
[14655] どうして今の世の中には馬鹿が多いのか? h24.4.24
今の世の中に馬鹿が多いのは人事部が馬鹿だからである。
馬鹿が馬鹿を選んでいるから馬鹿ばかりなのである。
人事部が頭がいいと頭がいい者を選ぶ。本当に有能な者を選ぶ。
だから、人事部は頭のいい者にしなければならない。
今の日本が不景気なのは、日本が馬鹿ばかりだからである。日本に馬鹿が多いからである。
日本が不景気から抜け出すためには、日本に利口を増やさねばならない。
そのためには、今の人事部ではいけない。
たとえ会社を乗っ取られても、役立たずよりはマシである。
だから、どんどん頭のいい者を選ばねばならない。お金持ちのボンクラばかり選んではいけない。ボンクラは働くふりをして会社のお金を持っていくだけだ。ボンクラは自分のくだらない遊びのために会社の資本金を持っていくだけだ。ボンクラは会社の資本金を自分のくだらない遊びのために使い込むだけだ。ボンクラは会社を自分の食い物にするだけだ。会社の資本金が減るから不景気になるのだ。ボンクラは他人の機嫌[きげん]を取るのが上手[じょうず]だから、仕事ができなくてもみんなの機嫌を取って生き残れるのだ。これまではみんなが心主義だったから、そういうことができたのだ。今後みんなが知覚主義になれば、そういうこともできなくなるだろう。ボンクラは死ぬしかないだろう。
最近コピー機が出来て本のコピーが取れるようになって本が売れなくなった。本が売れなくなったから頭のいい人が食べれなくなって死んで減った。だから、今の日本はボンクラ馬鹿が多いのだ。だから、今の日本は景気が悪いのだ。このままでは日本が潰[つぶ]れる。だから、本はなるべくコピーを取らずにお金を出して買わねばならない。ゲームやDVDを買うよりも本を買わねばならない。
政府も会社の資本金をくだらない国家宗教の遊びのために浪費している。だから、政府も要らない。日本が不景気から抜け出すためには、政府をなくさねばならない。
社長も会社のお金を自分の道楽のために無駄遣[むだづか]いするから、社長をクビにしなければならない。
[14656] 出版社は本末転倒だ。 h24.4.24
出版社は私の書いた『科学』を無視して、どうでもいい「文学」を作ることに躍起[やっき]になっている。
出版社は近視眼[きんしがん]だ。
文学は心の表現あるいは言葉の遊びである。一方、科学は真実の表現である。
出版社はどうでもいい文学は後まわしにして、まず科学を優先すべきである。
私がお金に余裕があれば都会に出かけてあちこち出版社を回ってもいいのだが、あいにく私にはお金がないのでそんなことはできない。
[14657] 国家宗教はアニメやマンガをつまらなくしている。 h24.4.25
そもそも国家宗教は政府の国民に対する嫌がらせである。政府は国民を嫌がらせるために私の情報をアニメやマンガに入れさせているのである。それでもアニメやマンガは面白いが、もとのアニメやマンガはもっと面白いのである。政府はアニメやマンガをつまらなくするために、私の情報を入れさせているのである。政府が国家宗教をやると、アニメやマンガが私の情報に縛[しば]られるから面白くなくなるのである。政府が国家宗教をやらなければ、アニメやマンガはずっと面白いのである。だから、国民は早く政府を倒して政府の国家宗教をやめさせねばならない。
[14658] 知覚主義 h24.4.25
実在に従う点では、五感主義と知覚主義は共通である。
眼で見えない物を見る点では、心主義と知覚主義は共通である。
つまり、知覚主義とは眼で見えない真実を見ることである。
[14659] 今の国民は政府のことがわかっていない。 h24.4.25
今の国民が政府のことがわかっていたら、政府はすでに滅んでいる。
政府が残っているのは、今の国民が政府のことがわかっていないからである。
今の国民は政府のことを知らない。今の国民は知覚主義だが、具体的な政府のことを知らないのである。
だから、今の国民は政府のことを知らなければならない。
私は政府のことを知っている。
だから、今の国民は私の本を買って読まねばならない。
ところが、私は作文がちょっと下手[へた]である。私はプロの作文書きではないので、私の作文は他人にはちょっと読みづらい。
だから、私が出版社に自分の作文を送って、出版社が私の作文の手直しをして、その後で私が出版社が書き直した作文の内容が正しいかどうかチェックすればいい。つまり、私が原著と監修をして、出版社が私の作文の手直しをすればいい。そうすれば、私の本はよく売れてみんなに読んでもらえるだろう。
西洋人は頭がいいから他人の論文を読んで自分で正しいかまちがっているかがわかる。だから、西洋では正しいことを書いた科学の本がよく売れる。日本人も西洋人を見習わねばならない。
[14660] 国が貧乏になると暴力団体が潰[つぶ]れる。 h24.4.25
暴力団体(政府や暴力団や宗教団体)にとっては国の景気がいいほうが都合[つごう]がいい。国の景気がよければ、国民にお金の余裕が出来て、暴力団体が国民からお金を取りやすいからである。
だからといって、暴力団体が国の景気をよくするわけではない。暴力団体は国民を暴力で脅[おど]して国民からお金を取ることが仕事であって、国の景気をよくすることが仕事ではない。暴力団体には国の景気をよくするほどの力はない。だから、暴力団体にとっては国の景気が悪くてもどうすることもできない。今の国民が仕事主義ではなく遊び主義で、会社の資本金を自分の遊びに使い込んで国の景気が悪くなっても、暴力団体にとってはどうしようもない。国民が自分のまちがいを考え直して主義が変わるのを待つしかない。
貧乏な国には暴力団体がない。例えば、アフリカには暴力団体がない。アフリカでは国民が貧しくて、国民が他人にお金をやるほどの余裕がないから暴力団体がないのである。
最近の日本は景気が悪くなってみんなが貧乏になっている。だから、国民が暴力団体にお金を払わなくなっている。暴力団体の経営が厳しくなっている。そのうち、日本がアフリカみたいになって暴力団体が滅ぶかもしれない。
[14661] 暴力団体も社長も役立たずバカである。 h24.4.26
暴力団体(政府)は国民を暴力で脅[おど]して国民から税金を取ったり国民に嫌がらせをするだけである。
暴力団体はいくら国の景気が悪くても国の景気をよくすることはできない。暴力団体は役立たずバカの見本である。
会社の社長も社員を暴力で脅して社員からお金を取ったり社員を嫌がらせるだけである。
社長はいくら会社の景気が悪くても会社の景気をよくする力はない。社長は役立たずバカの見本である。
暴力団体も社長も会社の資本金を自分の遊びのために使い込んで国の景気を悪くしている。
暴力団体や社長には、自分が社会や会社の除[の]け者にされて社会や会社から追い出されないために国民や社員の機嫌[きげん]を取る才能がちょっとあるだけである。善[い]い人みたいにしているだけである。
国の景気をよくするためには、暴力団体や社長をこの世からなくさねばならない。暴力団体や社長を社会や会社の除け者にして社会や会社から追い出さねばならない。
[14662] 科学が五感と知覚を統合した。 h24.4.27
科学が出来るまでは、五感と知覚がブチ切れていた。五感と知覚が別々だった。
科学が出来てから、五感と知覚がつながった。五感と知覚の境界線がなくなった。だから、五感主義のヨーロッパでも知覚主義をやってもいいことになった。知覚主義のインドでも五感主義をやってもいいことになった。
[14663] 昔の人は主観的であり、今の人は客観的である。 h24.4.27
昔の人は心で物を見ていた。だから、喜怒哀楽を感じていた。
今の人はまず頭で物を見る。次に、心で“頭で見た物”を見る。だから、今の人も喜怒哀楽を感じる。ただ、昔の人と今の人では物の見え方が違うから、物に対する心の感じ方も違う。
昔の人は実在に従わなかった。自分の心のままに好き放題にやっていた。
今の人は実在に従う。まず頭で実在を見てから、心で思う。つまり、まず実在に従ってから、次に自分の心で思う。そうすることで、実在への適応力を高めているのだ。
[14664] 科学と宗教は敵[てき]である。 h24.4.27
宗教には神がいる。昔は科学がなくて嘘[うそ]と真実の区別がなかったので、昔の人は嘘[うそ]の作り話を信じていたから、宗教には神がいるのである。
科学には神がいない。科学では知覚と五感が結びつかねばならないので、神が存在するためには、“眼で見える神”がいなければならないが、現在のところはまだ“眼で見える神”が見つかっていないので、科学では神はいないのである。
だから、科学と宗教は敵である。
要するに、科学は真実であり、宗教は嘘である。科学と宗教のケンカは真実と嘘のケンカである。科学が好きな人は真実を愛する人であり、宗教が好きな人は嘘を愛する人である。科学は真実を信じることであり、宗教は嘘を信じることである。宗教とは、みんなで嘘(冗談)を言い合って喜ぶことである。文学みたいなものである。今の人は知覚主義だから、嘘が嫌いだから、宗教が嫌いなのである。
科学と国家宗教も敵である。科学では人間は実在に従わねばならない。例えば、法律は社会における人間の法則だから、人間は法律に従わねばならない。だから、暴力団体は暴力が使えなくなって国民を支配できない。政府は暴力を使って国民に無理やり国家宗教をやらせられない。だから、科学があると国家宗教が滅ぶのである。科学が国家宗教を倒したのである。
[14665] 最近の子供は常識が足りない。 h24.4.27
今の子供はモラルが足りない。
昔から、男は見かけにこだわらないもの、女はこだわるものだと決まっている。
女は知覚の才能がなく、男は知覚の才能があるから、そうなのである。女と男は違う世界に住んでいるのである。男性ホルモンが知覚の活動を促進するから、男は知覚主義なのである。
それがわかっていたら、私の身なりにケチをつけるな!
[14666] 真理の表現 h24.4.27
今は科学の時代である。
科学とは真理を表現することである。
例えば、『政府は暴力団体だが、今の社会では暴力が使えないので、国民は政府に従わなくていい』ことは真理である。
だから、国民は真理を表現するために、政府に従わなければいいのである。
だから、実際に、私は政府に従っていないのである。私は自分がまだ政府の正体(つまり、政府が暴力団体であること)を知らなかった頃に政府に税金を払ったことはあるが、私はこれまで一度も政府の命令を聞いたことがない。
[14667] テレパシーなんか怖[こわ]くない。 h24.4.27
いい歳した大人は頭の中で他人に知られてはいけないことなんか考えない。
だから、いい歳した大人にとってはテレパシーなんか怖くない。テレパシーがあってもなくても変わらない。
反対に、若者は未熟だから頭の中で他人に知られてはいけないことばかり考えている。
だから、若者はテレパシーに弱いのである。若者にとってはテレパシーのある世界は耐[た]えられない。
人間にとって青年期は人生の最大の弱点である。
だから、みんなで若者を守ってやらねばならない。
そのためには、みんなが私の本を買って分裂病についての予備知識を持っていることが望[のぞ]ましい。
[14668] どうして昔は宗教があったか?☆ h24.4.28
昔は心主義の時代だったから、人間の心の世界には神がいるので、みんなが神に従っていた。だから、宗教があった。
今は知覚主義の時代なので、実在の世界には神がいないから、みんなが神に従わなくなった。だから、宗教が滅んでいる。
戦後の今は知覚主義の時代なので神がいないことが常識だが、戦前までは心主義の時代だったので反対に神がいることが常識だったのである。
今は知覚主義の時代なので神がいない。したがって、神がいたら殺さねばならない。
[14669] どうして聖書は蓋然的[がいぜんてき]なのか? h24.4.28
昔の人は心主義だった。昔の人は喜怒哀楽で物を見ていた。人間の心は曖昧[あいまい]である。聖書は昔の人が見たキリストの記録である。だから、聖書は曖昧なのである。蓋然的なのである。
反対に、今の人は知覚主義である。今の人は知識で物を見ている。人間の知覚は明晰判明[めいせきはんめい]である。だから、今の人の作文は明晰判明なのである。数学の数式のように論理的なのである。
昔の人の言葉と今の人の言葉は質が違う。人間の物の見方が変わったから、言葉も違うのだ。
[14670] 《要約》日本の歴史 h24.4.29
戦前までは心主義の時代だった。みんなが自分の心のままに好き放題にやれたので、乱暴者がおとなしい者に暴力をふって命令していた。だから、豪族や政府や幕府が国民を支配していた。ヨーロッパが景気のいい時代には政府になり、インドが景気がいい時代には幕府になった。
戦後は知覚主義の時代になった。みんなが実在に従うようになり法律を守るようになって、乱暴者がおとなしい者に暴力をふらなくなって命令できなくなった。だから、豪族も政府も幕府もその他の暴力団体も国民を支配できなくなった。
今は知覚主義の時代である。だから、国民は政府に従わなくていい。新しい時代が来たのだ。
[14671] ルネサンス h24.4.29
ルネサンスとは文芸復興ということである。つまり、知覚主義に戻ることである。
ヨーロッパはそれまで五感主義(つまり、眼で見るだけで頭で考えないこと)でやっていたが、ルネサンス以降は知覚主義(眼で見て頭で考えること)に変わったのである。
だから、今のヨーロッパは知覚主義の国である。日本では今のヨーロッパが五感主義の国だと誤解されているが、本当は知覚主義の国なのである。
ヨーロッパが五感主義でやっていた頃は景気が悪かった。インドに負けていた。だから、ヨーロッパはインドを見習って知覚主義に変えたのである。
今の日本もルネサンスしないといけない。
今は知覚主義の時代である。今どき五感主義はない。だから、日本は五感主義をやめるべきである。
ヨーロッパは歴史のある古い国だから、今でも昔の五感主義が濃く残っているのである。そもそも五感主義は古臭いまちがった主義である。人間が五感主義でやると動物並みのことしかわからなくなる。人間が五感主義でやると先に進まなくなる。だから、今の時代には最初から知覚主義でやればいいのである。
[14672] 宗教団体に入ることは暴力団に入るのと同じことである。 h24.4.30
宗教団体は、神に因[ちな]んだ善[よ]いことをして国民の機嫌[きげん]を取って、国民を暴力で脅[おど]して国民に命令している暴力団体である。
だから、宗教団体に入ることは暴力団に入るのと同じことである。宗教団体の信者は暴力団の組員と同じである。宗教団体に入っている者は、国民を暴力で脅して自分が国民よりも上の者になれるから入っているのである。宗教団体に入っている者はけっして善人ではない。
しかし、今の社会では暴力が使えないから、国民のほとんどは宗教団体を国民よりも上の者だと思わない。いまだに宗教団体を国民よりも上の者だと思っている古臭い者をカモにして、宗教団体は暴力を使わずに国民からお金を取って儲[もう]けているのである。
政府は、法律会社や水道会社やゴミの収集会社や学校会社などで国民の機嫌を取って、国民を暴力で脅して国民に命令している暴力団体である。
国民は政府に税金を払って政府に入って政府に守られているのではない。
政府に入っているのは公務員までである。
国民は政府の食い物にされているだけである。
しかし、今の社会では暴力が使えないから、政府は国民に命令できない。いまだに政府を国民よりも上の者だと思っている古臭い者をカモにして、政府は暴力を使わずに国民からお金を取って儲けているのである。
[14673] 国民で政府を建てればいい。 h24.4.30
今の政府は法律会社や水道会社やゴミの収集会社や学校会社などの国民の役に立つ仕事をやっている。そのために、国民は政府に税金を払うのをやめにくくなっている。
だから、国民で今の政府の国民の役に立つ仕事と同じ仕事をする会社を建てればいい。
今の政府の税金よりも安い料金にすれば、国民は全員政府の世話になるのをやめてそちらに入るだろう。
政府は国民からお金がもらえなくなって潰[つぶ]れて、政府の暴力団体が活動できなくなるだろう。政府の暴力団体が国民を戦争や国家宗教で殺したり嫌がらせたりできなくなるだろう。
日本は平和な国になるだろう。
[14674] どうして政府の仕事は抱き合わせなのか? h24.4.30
政府は法律会社や水道会社やゴミの収集会社や学校会社などをやっている。
しかも、政府はこれらの仕事を抱き合わせでやっている。政府はいろんな仕事をいっしょくたにして国民からお金を取っている。
それは、これらの仕事が政府の国民に対する“機嫌取り”にすぎないからである。政府は暴力団体であって、政府は国民に嫌われないようにするために、これらの仕事をやっているから、いろんな仕事が混ざっていて抱き合わせなのである。
そのために、国民は自分が利用しない仕事にまでもお金を払わなければならなくなっている。
国民にとっては大変お金の効率が悪い。お金の無駄[むだ]だ。
だから、国民は早く政府を倒して、抱き合わせ商法をしない個々別々の仕事をする会社を建てねばならない。
[14675] どうして私は『ようこそようこ』で自分が国家宗教の神とされていることに気づいたのか?
h24.4.30
ドラマや映画では物質的な制約が厳しいので私の情報を入れにくい。私の情報を入れても薄くしか入らない。
それに比べてアニメやマンガでは物質的な制約がないから私の情報を入れやすい。私の情報を濃く入れられる。
だから、私は『ようこそようこ』のアニメを見て自分が国家宗教の神とされていることに気づいたのである。
私は気づくべきことで気づいたのだから、少しも変なことはない。少しもおかしなことはない。
あえておかしなことといえば、私が40歳にもなってアニメを見続けていたことだろう。
もしも、この世にアニメというものがなかったら、私は一生死ぬまで気づかなかっただろう。
『ようこそようこ』がもう少し面白くなかったら、私は第4話まで見ていなくて気づかずに終わっていただろう。首藤アニメは陽気だから見てしまったのだ。
[14676] 政府は国民の眼の届かないところで悪いことばかりしている。☆ h24.4.30
政府は国民から税金を取って、国家宗教で悪いことばかりしている団体である。ただ、政府は自分が社会から追い出されないために、国民の機嫌を取るために、法律や水道やゴミの収集や学校など国民の役に立つことをちょっとしているだけである。
昔はみんなが心主義だったので乱暴者が暴力をふりたい放題だったので、政府が国民に暴力がふれたので、政府がいくら悪いことをやっても国民は政府に逆らえなかったのである。
しかし、今ではみんなが知覚主義になって暴力をふらなくなったので、政府が国民に暴力がふれなくなったので、政府が悪いことをすると国民は政府に逆らうことができるのである。
国民は政府に従うのをやめて、さっさと政府を倒すべきである。
今の政府は国民の眼の届かないところで悪いことばかりしている。政府は国民に隠れて密[ひそ]かに国家宗教で国民を殺したり嫌がらせたりしている。だから、政府は国民に“眼で見るだけで頭で考えない教育”をしている。若者は政府の教育に騙[だま]されて、テレビや新聞では政府がいいことばかりしているので政府を善[い]い団体だと思って政府を支持している。今の政府は国民に「五感主義の教育」をして国民を馬鹿に変えている。政府が国民に「五感主義の教育」をしたために、今の日本人が頭が馬鹿[ばか]になって遊び主義になって熱心に仕事をしなくなって日本が不景気になっているのである。
国民は政府の悪い教育に騙されずに、早く政府を倒さねばならない。
五感主義では理由が要らないが、知覚主義では理由が要る。今は心主義の時代ではないから、今の政府は暴力が使えないから、政府と国民は平等であり、国民が政府に従わなくていい。国民が政府の命令を聞いたり、政府に税金を払ったりしなくていい。政府は嘘[うそ]の法律を作って国民の眼を欺[あざむ]いて、国民が政府に従わねばならないことにしているのである。政府は国民に五感主義の教育をして国民を眼で見るだけで頭で考えないようにさせて、国民に政府に従わねばならない理由を考えないようにさせて、国民に嘘の法律を信じさせて国民を政府に従わせているのである。しかし、本当は今は知覚主義の時代だから、国民は正しくないことをしなくてもいいから、国民は政府の嘘の法律に従わずに本当の法律を守って自由にやればいいのである。
[14677] キリスト教の本質 h24.5.1
キリスト教の本質はマンガである。
昔の人はキリストを超能力者だと思って空想の世界で喜んでいたのである。
昔の人は心主義だったので、空想の喜びを大事にしていたのである。心主義では本当だろうが嘘[うそ]だろうがとにかく面白ければいいので、昔の人はキリストの超能力を信じて喜んでいたのである。
反対に、今の人は知覚主義つまり実在主義なので、実在の喜びを大事にするようになったのである。
今の人にとっては空想の喜びは要らない。だから、今の人は宗教をやらなくなったのである。
人間にとっては実在の世界の中で一生懸命に生きていくことが大事である。
空想の世界で喜ぶことはどうでもいい。
最近になってようやく人類はそのことがわかったのだ。
[14678] 昔の人と今の人の違い h24.5.2
昔の人は、正しいことがわからないまま楽しいことをやっていた。
今の人は、正しいことがわかってから楽しいことをやるようになった。
昔の人は正しいことがわからなくてもよかったので勉強しなかった。
今の人は正しいことがわかっていなければならないので勉強しなければならない。
例えば、今の人は政府について正しいことを知っていなければならないので、私の本を読まねばならない。学校の社会科の教科書だけでは勉強が足りない。
[14679] 今の日本の食事がまずい訳[わけ] h24.5.3
今の日本の食事はまずい。
それは、まずい←不味い←不味←フミ←ミフ←川フ(ミ≒川)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私だからである。
政府は国民を嫌がらせるために私を神とする国家宗教で日本の食事を不味くしているのである。
反対に、昔の日本の食事は美味[うま]かった。
それは、美味い←うまい←うま←馬←馬鹿←天皇家(天皇家は眼で見るだけで頭で考えないので)←神武天皇だからである。
昔の社会は心主義だったので、政府は好き放題に暴力を使って国民からたくさんお金を取って稼[かせ]いでいた。しかし、一方で政府は自分が社会から追い出されないために国民の機嫌を取らねばならなかった。そのために、政府は神武天皇を神とする国家宗教で日本の食事を美味くしていたのである。
反対に、今の社会は知覚主義なので、政府は暴力が使えなくて権力がなくて国民に命令できなくて滅んでいる。政府は国民を地獄へ道連れにするために、私を神とする国家宗教で日本の食事を不味くして国民に精一杯[せいいっぱい]嫌がらせをしているのである。今の政府は国民の機嫌を取るのをやめて、国民の嫌がらせ専門なのである。
国民はこれ以上政府に不愉快[ふゆかい]な目に合わされないために、さっさと政府を倒したほうがいい。
[14680] 日本の景気をよくしなければならない。 h24.5.6
今の日本は景気が悪い。
だからこそ、日本の景気をよくしなければならない。
日本の景気をよくするためには、日本人みんなが知覚主義でやらねばならない。政府は国民のお金を戦争や国家宗教で無駄遣[むだづか]いするだけだから、政府をなくさなければならない。もはや国民には暴力団体の政府に遊ばせている余裕はない。[江戸時代には、幕府が戦争や国家宗教をやらずお金を無駄遣いしなかったから、日本人はみんな豊かだったのである。]
日本の景気が悪いと日本人みんなが飢え死にすることになる。だから、何が何でも日本の景気をよくしなければならない。
[14681] 法律会社 h24.5.6
今は知覚主義の時代だから、民主主義ではなく真理主義だから、法律会社には国会は要らない。
法律会社の仕事は『国民の人権を守る』ことである。法律会社の仕事は、社会における人間の法則である法律を定めて、法律の違反者を罰することによって国民の人権を守ることである。[理想的には法律会社が犯罪の発生そのものを未然に防ぐことが望ましいが、今はまだ現実的には難しいので、今のところは法律会社が犯罪者を罰することによって犯罪の発生を防ぐことで我慢[がまん]しているのである。]
法律会社に自分の人権を守って欲しい国民は、法律会社と契約して法律会社に料金を払う。
法律会社に自分の人権を守って欲しくない国民は、法律会社と契約せずに法律会社にお金を払わない。
そうすれば、法律会社は国民からお金をもらえる。
さらに、法律会社は、会社を人間に喩[たと]えて、「会社にも権利がある」と考えて、「会社の権利を守る」ことを仕事にして会社からもお金を取れるかもしれないが、国民が納得いかなければ取れないかもしれない。
これまでは、政府が暴力に物を言わして会社から無理やり会社税を取っていたのであって、合理的には法律会社が会社からお金を取るのは難しい。会社は人間がお金を稼[かせ]ぐための道具であって、道具には権利がないから、法律会社が会社からお金を取るのは無理だと考えられる。
法律会社は暴力団体ではないから、不合理的な理由で国民や会社からお金を取ってはならない。あくまでも自由契約でなければならない。国民や会社が納得行けば、法律会社は国民や会社と契約が取れてお金を稼ぐことができるだろう。法律会社にとっては“国民や会社が法律会社と契約する合理的な理由”を考え出すことが仕事だと言えるだろう。
法律会社は、法律会社と契約を取らなかった国民をその場で殺すことができる。法律の上ではそれでかまわない。しかし、この世は法律がすべてではない。そんな会社は国民に嫌われて潰[つぶ]れてしまうだろう。[今の政府は政府に税金を払っている国民までも殺しているから法律会社ではないことがわかる。]
[14682] 他人から習ったことはまちがいである。 h24.5.7
人間は他人[たにん]から学んだまちがいを自分の力で直していかねばならない。
デカルトも『方法序説』でそう言っている。
私は親から心主義を学んだ。つまり、私の親は子供に「自分の好きなようにやれ」と言って子供を甘く育てた。そのために、私の弟も私も幸福になれなかった。[人間は心主義で生きていても幸福にはなれない。灯台もと暗しと言うように、心主義では心自体が見えない。だから、心主義では精神病にかかりやすい。いまだに精神病がわかっていないのは、心主義のせいである。私の親自身は、親の親からかなり厳しく躾[しつ]けられたようである。昔の心主義の時代には、かえって今よりも教育は厳しかった。当時の親は子供に対して拷問[ごうもん]まがいの教育をしていたようである。だから、私の親は人生がうまくいったのだ。つまり、昔の親は子供に暴力をふっていた。つまり、親は子供に命令するために子供に暴行していた。だから、政府も国民に暴力をふっていたのだ。政府は国民に命令するために国民に暴行していたのだ。今は親が子供に「自分の好きなようにやれ」と言う時代である。だから、国民も自分の好きなようにやっていいはずである。国民が政府の言うことを聞かず政府に従わなくてもいいはずである。今の政府はイタズラで国民を殺している。イタズラで国民を嫌がらせている。つまり、今の政府は国民に“命令のない暴行”をやっている。だから、今の政府は国民に“暴力”をふっていないと言い訳[いいわけ]をしている。国民は政府に従おうが従うまいが政府に殺される。国民にとっては政府に従うほうが損である。だから、国民は政府に従わないほうがいい。]私は30歳の頃になってやっと論理がわかった。心主義でも数学の試験で点が取れるが、それは“数学みたいなこと”をやっているのであって数学をやっているのではない。私は自分で思考を重ねて30歳の頃になってようやく知覚主義が正しいことがわかったのである。私が論理がわかった頃に『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する』という哲学第一原理もわかった。
私は政府については灰色だった。つまり、政府の正体がわからないままだった。社会科の教科書には「政府は国民を幸福にしている」と書いてあった。私は40歳の頃から政府について考え出して、48歳になってようやく『政府が悪い暴力団体である』こと(政府学第一原理)がわかった。
アインシュタインも言っているように、子供の頃に親や学校から習ったことは全部まちがっている。
それを自分の力で直していくのが人生と言うものだ。
[14683] 学校は子供を勉強嫌いにさせる機関である。 h24.5.7
私は小学中学年の頃までは国語算数理科社会全科目が得意だった。もっとも、体育と音楽は苦手だったが。
しかし、中学生の頃からはっきりと社会科や生物学が苦手になった。それは、男性ホルモンが私の知覚の活動を促進して私が知覚主義になったからである。その頃から、私は論理的なことしか受け入れられなくなったのである。
だから、中学生以降の私は社会科や生物学が嫌いだった。
一般に、誰にでも苦手科目がある。そのために、誰もが勉強が嫌になる。考えるのが嫌になる。
政府は国民に考えることを嫌いにさせるために学校や大学をやっているのである。政府は国民を知覚主義にさせないために、国民みんなを強制的に学校や大学に通わせているのである。そうやって、政府は国民を自分で考えないようにさせて、国民に政府の正体を知られないようにさせて、国民を政府に従わせているのである。
幸い私は大人になってから家族を持たなかったので考える時間の余裕があったから考えることを日課にして知覚の働きを取り戻した。しかし、一般の国民は仕事や家族のために考える暇がないから、多分学校で考えるのが嫌になったきりで死ぬまで自分で考えようとしないだろう。死ぬまで馬鹿のままだろう。
将来、政府が潰[つぶ]れてなくなれば、国民が自分の感性に合ったことだけを自分が好きなことだけを勉強すればいいようになるだろう。そうすれば、国民は頭がよくなって仕事が得意になって、日本が大[おお]いに発展するだろう。
[14684] 私のほうが社会科の教科書よりも正しい。 h24.5.8
私は学校の社会科の教科書で「政府が国民のためになることをする」と習った。
しかし、政府はそれに反することをたくさんしている。例えば、政府は戦争や国家宗教で大勢の国民を殺している。戦争や国家宗教が国民のためになることだとは考えられない。
一方、私の考えでは『政府は悪い暴力団体である。』
政府は私の考えに反することをひとつもしていない。政府には“国民の機嫌[きげん]を取る機関”が付いているだけである。
だから、私の考えのほうが正しいのだ。
私が『政府が暴力団体である』という原理から考えたことはすべて正しいのだ。
[14685] 精神病の原因は政府である。 h24.5.8
私は高校1年生のとき、隣の席の尾立[おりゅう]君が英語の授業中に教科書のパラパラめくりをしているのを見て腹を立てて精神分裂病に罹った。
私は高知で浪人中に、親友の和田[わだ]君から医学部に行けと勧[すす]められて医学部に行ったが医学の講義が面白くなくて鬱病[うつびょう]に罹った。
尾立君も和田君もおそらく政府の指示で私にちょっかいを出したのだろう。政府は私に政府の正体を見破られないようにするために、私の周[まわ]りにいる尾立君や和田君を使って私を精神病に罹[かか]らせたのだろう。
政府は私以外の者に対しても周[まわ]りの者を使ってちょっかいを出して精神病に罹らせているのだろう。政府は知覚主義の者(いわゆる頭のいい者)に将来自分の正体を見破られないようにするために、知覚主義者の周りの者を使って知覚主義者にちょっかいを出させて精神病に罹らせているのだ。精神病者の大半は、政府によって精神病に罹らせられた者なのかもしれない。
もっとも、今の社会では暴力は使えない。だから、昔のように政府が直接に知覚主義の者を凶器で殺すことはない。今では、政府はただ知覚主義者の周りの者を使って知覚主義者を精神病に罹らせようとすることができるだけである。
そのために、結局、今の政府は私に正体を見破られることになったのだ。あとは、国民が私の考えを信じるかどうかの問題だ。
正直言って、国民のほとんどは馬鹿である。自分で考えて政府の正体を見破ることができない知能の低い馬鹿である。[もしも、そうでなかったら、とっくの昔に政府は滅んでいる。]しかし、さすがの馬鹿でも私が正しい答えを教えてやればわかるだろう。どんなに難しいなぞなぞでも、一度答えがわかれば易しくなるのと同じことだ。だから、今では私の哲学日記や私の本のヤフオクの出品の商品の情報を見たかなりの者が政府の正体を知っているだろう。
[14686] どうして政府は国家宗教をやるのか? h24.5.9
少し前に「+2℃の発熱素材HEAT−X[ヒートクロス]」というアパレルの宣伝で“ぬくぬくま”という着ぐるみの熊が楽しそうに踊[おど]る宣伝があった。
熊は熊←クマ←カブ(ク≒カ、マ≒ブ)←川ブ←川野延夫[かわののぶお](私の名前)←私のことである。
国会で国会議員が突然脈絡[みゃくらく]のないことを言ってみんなで笑っているのも国家宗教である。国会議員は私が最近体験したことを少し変えて言っているのである。
政府は国民に国家宗教をやると何かいいことがあるかのように思わせるために、国家宗教をやっているのである。
しかし、当然のことながら、実際には何もいいことはないのである。政府が国家宗教をやったからと言って、国はちっともよくならないのである。
政府は陰[かげ]で国家宗教で国民を殺したり嫌がらせたりしているのである。
国民は政府の思わせぶりに騙[だま]されて政府を支持してはいけない。
今の政府は暴力が使えなくて権力がないから、国民はさっさと政府を倒さなければならない。
将来政府が再び暴力を使うようになって権力を取り戻すかもしれないから、国民は政府が暴力を使えない今のうちに政府を倒さねばならない。
[14687] 政府と私の戦い h24.5.9
政府は国民に「政府が国民のためになることをする善[い]い団体である」と言っている。
私は国民に『政府は国民の嫌がらせをする悪い団体である』と言っている。
国民は政府を信じるだろうか、それとも私を信じるだろうか?これは、政府と私の戦いである。
しかし、[14684]から、今の国民が“論理的に考えること”がわかっていれば、私の勝ちになる。
今は知覚主義の時代だから、私の勝ちである。
そもそも、暴力が使えない社会になった時から、実質的には政府は負けているのである。
だから、政府を倒したのは、私というよりも暴力の使えない社会にした国民なのである。
国民が政府に従わねばならなかったのは政府が暴力を使えたからである。政府は自分の命令に従わない国民を暴力で殺していたから、国民は政府に従っていたのである。今の社会では暴力が使えないから、国民は政府に従わなくなったのである。『暴力団体ー暴力=ただの団体』だから、今の国民は政府に従わなくなっているのである。
[14688] 税金について h24.5.10
税金は政府の国民に対する嫌がらせである。
政府は国民と契約を取らずに国民からお金を取っているから嫌がらせである。
しかし、今の社会では暴力が使えないから政府には権力がないから、政府は国民から無理やりお金を取れない。
だから、国民は政府に税金を払わなくてもいいのである。
要するに、政府は国を縄張りにしている暴力団である。
しかし、今の社会では暴力が使えないから、政府は無力なのである。
[14689] アメリカはどうして夜の国なのか? h24.5.10
アメリカは夜の国と言われている。
それは、アメリカがイギリスに比べて西にあるからではない。
夜の国の国旗は真っ黒である。
無政府主義の旗も真っ黒である。
つまり、アメリカは無政府主義の国だから夜の国と言われるのである。
アメリカに対して、日本は太陽の国と呼ばれている。
日本が太陽の国と言われるのは、日本が政府の国だからである。太陽は赤色であり、赤色は血の色であり、政府は人殺しを得意とする暴力団体だから、太陽の国は政府の国なのである。
しかし、今は暴力が使えない社会だから、もはや政府は強くない。
だから、日本は政府の国をやめるべきである。
[14690] ボロは着てても心の錦[にしき] h24.5.10
『ボロは着てても心の錦』は、日本の言葉ではなく、アメリカの言葉である。
知覚主義とは、眼で見えない物を頭で考えて見ることである。
アメリカは知覚主義の国だから、眼で見えない物を頭で見るので、ボロは着てても心の錦なのである。実際に、アメリカではみんながこぎたない格好[かっこう]をして明るく陽気にやっている。アメリカは知覚主義の国だから、政府が滅ぶ寸前である。
反対に、日本は心主義や五感主義の国だから、ボロを着ていたら心もボロいと思うのである。日本では昔から「馬子[まご]にも衣装」といって、馬鹿がいい服を着て威張[いば]っている国である。
日本は戦後のアメリカ占領下のとき一時的に知覚主義をやっていたので、ボロは着てても心の錦と言っていたのである。
知覚主義者(いわゆる頭のいい人)にとっては、日本は住みにくい国だ。
このままでは日本は馬鹿の国になるだろう。
[14691] どうして日本人は心主義なのか? h24.5.11
日本人は不細工[ぶさいく]である。
だから、日本人は笑っていないと様[さま]にならない。見苦しい。
だから、日本人は心主義なのである。いつも機嫌[きげん]よくしなければならないのである。
しかし、そもそも日本人が五感主義だから、日本人が笑っていないと様にならないと思うのである。
日本人が知覚主義になれば、心頭滅却すれば火もまた涼[すず]しと言うように、たとえ顔が不細工でも耐[た]えられるのだ。わざとらしく機嫌よくしなくてもいいのである。
だから、日本人は心主義をやるよりも知覚主義をやったほうがいい。
[14692] インドには哲学第一原理はない。 h24.5.11
インドは昔から哲学の国として名高い。
しかし、私が発見した『哲学第一原理』はインドにはない。
“感覚”(すなわち自分に感じること)が存在するという考えは、たしかに古くからインドにある。“感覚”の概念はとっくの昔からインドにある。
しかし、『感覚が脳細胞の神経興奮によって発生する』という考えはインドにはない。
だから、哲学第一原理はインドにはないのである。
インドには科学がない。つまり、インドには知覚と五感を結びつけるという考えがない。感覚は知覚における概念であり、一方脳細胞は五感における概念である。だから、インドには哲学第一原理はないのである。
したがって、哲学第一原理すなわち『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する』ことは、私が世界で始めて発見したのである。
しかし、今ではインドも科学を取り入れているから、そのうち知覚と五感を結びつけるようになるだろう。インド人も『哲学第一原理』が理解できるようになるだろう。
例えば、インドには輪廻転生[りんねてんせい]という考えがある。つまり、人間が死ねば他の動物に生まれ変わるという考えがある。しかし、私の哲学第一原理によれば、輪廻転生はない。すなわち、人間が死ねば脳細胞の神経興奮がなくなるから感覚がなくなる。つまり人間が死ねば、すべてが終わりになる。だから、インドの哲学はまちがっている。やはり人間は知覚だけでは実在のことがよくわからないようである。デカルトが言ったように、『人間が実在を知るためには自分が持っているすべての感覚を使わねばならない』のである。
私の哲学第一原理によれば、人間は死ねばすべてが終わりになる。だから、人間の霊魂[れいこん]はない。したがって、墓は要らない。実際に、日本では最近の若い人は墓を建てなくなっているようである。日本もなかなか哲学の進んだ国である。古い慣習にとらわれずに、自分で考えて正しいと思うことをやればいいのである。
『政府は暴力団体である。つまり、政府は暴力を使って国民に命令する団体である。しかし、今の社会では暴力が使えない。だから、国民は政府に従わなくてもかまわない。』ことも真実である。最近の若い人はコンピューターの世界にバーチャルなお墓を建ててお参りをしている。それと同じように、国民はコンピューターの世界にバーチャルな政府を建ててそれに架空の税金を払えばいいのである。
[14693] 政府は国民に善[い]いことをする団体か、悪いことをする団体か?
h24.5.11
政府は国民に「政府は国民に善いことをする団体だ」と言っている。社会科の教科書やテレビや新聞のニュースではそう言っている。
しかし、国民の中には私のように『政府は国民に悪いことをする団体だ』と考えている者がいる。かなりの者がそう考えている。
政府が国民に善いことをする団体なら、普通の会社と同じように会社のサービスを利用する客からお金をもらって経営しているはずである。電気会社やガス会社も国民と契約を取って仕事をしているのだから、政府も国民と契約を取って仕事をしているはずである。政府が国民に善いことをする会社なら、国民のほうから政府に頼[たの]んで政府に仕事をしてもらうはずである。
政府がそうせずに、国民から無理やり税金を取って経営しているのは、政府が国民に善いことをする団体ではないことの証拠である。政府が何をやっているのかわからないのは、政府が国民に悪いことをする団体だからである。政府は国民に悪いことをやっているから、政府は国民に自分が何をやっているのか言えないのである。
だから、私が言っているように、政府は国民に悪いことをする団体なのである。[政府が国家宗教で国民を殺していることは、政府が悪い暴力団体と考える以外に説明のしようがない。]
昔は暴力が使える社会だったから、政府は暴力を使って国民に命令することができた。だから、政府は悪いことができたのである。政府は国民を暴力で脅[おど]して国民から税金を取って儲[もう]けたり、国民に戦争や国家宗教をやらせて国民を虐[いじ]めて喜んでいたのである。
しかし、今は暴力が使えない社会になったから、もはや政府は暴力を使って国民に命令することができない。だから、国民は政府の命令を聞かなくていい。政府は国民から税金を取れなくなって潰[つぶ]れるしかない。
いまだに国民が政府に従っているのは、国民がまちがっているからである。国民が「政府に従わねばならない」と思っているからである。だから、国民は自分の考えを変えて、政府に従うのをやめねばならない。
[14694] 政府は猫[ねこ]である。 h24.5.11
昔から政府は猫だと言われている。猫は人前でおとなしいふりをしてじつは凶暴な動物である。つまり、昔から国民は政府が陰[かげ]で人殺しをしている悪い暴力団体であることを知っていたのである。
しかし、昔の社会では暴力が使えたから、国民がいくら政府が暴力団体であることを知っていても、国民にとってはどうしようもなかった。国民は自分が政府に暴力をふられて殺されないために、政府に従うしかなかった。
しかし、今の社会では暴力が使えない。だから、国民が政府が暴力団体であることを知っていれば、国民にとっては有利である。暴力の使えない社会では、暴力団体の政府は国民を暴力で脅[おど]して国民に命令できないから、国民は政府に従わなくてもかまわない。だから、政府が暴力団体であることを知っている国民は政府に従わなくてもいいのである。
[14695] 政府がなくても国はやっていける。 h24.5.11
政府は国を運営する機関ではない。
政府がやっていることは、政府の“国民の機嫌[きげん]を取る機関”が法律や水道やゴミの収集や学校をやっていることと、政府の暴力団体が戦争や国家宗教をやっているだけである。[[14568]の図を参照。]
政府がそれ以上のことをやっていると思っているのは、国民の妄想[もうそう]である。社会科の教科書やテレビや新聞でやっているニュースは全部嘘[うそ]である。国民が社会科の教科書やテレビや新聞のニュースから妄想をでっち上げたのである。[だから、国民は直接に自分の眼で見たことしか信じてはいけない。政府が口先で言っていることは信じてはいけない。]
実際には、国のほとんどのことは国民がやっているのである。
だから、『国破れて山河あり』と言うように、政府がなくなっても国民はちっとも困りはしない。むしろ、国民に嫌がらせをする政府がいなくなって清々[せいせい]するだけだ。そもそも政府は暴力団体だから、政府が国民の役に立つわけがない。
だから、国民はみんなで協力して早く政府をなくさねばならない。
[14696] 政府はどうして国民を殺すのか? h24.5.11
政府は戦争や国家宗教で国民を殺しているが、人間を殺したぐらいで金をくれる人はいない。たとえ何万人も殺しても、1円もくれない。
だから、日本政府がいくら日本国民を殺したからといって、ヨーロッパやアメリカが日本に金をくれたりはしない。
日本政府は人殺しが好きだから、国民を殺しているだけである。
世の中にはいろんな人がいるから、人殺しの好きな人がいても不思議[ふしぎ]ではない。
[14697] 日本はヨーロッパを真似[まね]るのをやめるべきである。 h24.5.12
国は国の人間みんなの好きなように作るものである。
昔の日本で政府や幕府などの暴力団体が国民を支配していたのは、日本人が心主義だったからである。[暴力団体は国民よりも人数が少ないのに、暴力団体が国民を支配することができたのは、みんなが心主義だったからである。心主義では人間は自分の心のままに好き放題にできるので、乱暴者の暴力団体がおとなしい国民に暴力をふって国民を支配できたのである。国民は心主義だったために国民は暴力団体が国民に暴力をふることを承認していたから、暴力団体が自由に国民に暴力をふることができたのである。]
今の日本で政府や幕府などの暴力団体が国民を支配できなくなったのは、日本人が心主義ではなくなったからである。
今の日本で政府が政治機関なのは、日本人がヨーロッパ文化を取り入れているからである。
江戸時代の日本で幕府が政治機関だったのは、日本人がインド文化を取り入れていたからである。
今の日本がフローリング(板張りの床)とパンなのは、日本人がヨーロッパ文化を取り入れているからである。
反対に、江戸時代の日本が畳[たたみ]と米だったのは、日本人がインド文化を取り入れていたからである。[私としては、畳のほうが家の床に傷が付きにくいから畳のほうがいいと思う。畳のほうが柔らかくてゴロ寝ができるから畳のほうがいいと思う。米のほうがパンよりも美味[おい]しいから米のほうがいいと思う。ヨーロッパ人もできれば米を食べたいが、ヨーロッパでは寒くて米が育たないから、しかたなく不味[まず]いパンを食べているのである。だから、日本人がわざわざヨーロッパ人を真似してパンを食べることはない。]
今の日本が五感主義(眼で見るだけで頭で考えない主義)なのは、日本人がヨーロッパ文化を誤解してヨーロッパ文化を取り入れたつもりになって五感主義をやっているからである。五感主義の国が先進国であるわけがない。だから、ヨーロッパは五感主義の国ではない。ヨーロッパは歴史の古い国で昔の文化がよく残っている。昔は今よりも五感主義だったから、ヨーロッパが五感主義のように見えるだけである。ヨーロッパは上辺[うわべ]は五感主義だが、じつは知覚主義なのである。五感主義はヨーロッパの欠点のようなものである。
そもそもヨーロッパが世界で一番善[い]い国なのではない。
知覚主義が世界で一番善い主義なのである。
だから、日本人は知覚主義をやればいいのである。
[14698] インドにはどうして時間の概念がないのか? h24.5.12
インドは知覚主義の国である。
知覚には時間がない。
だから、インドには時間の概念がないのである。
だから、インド人は昼間寝て夜起きているのである。
昔のギリシアで「飛ぶ矢は飛ばず」と言って物体の運動が理解できなかったのは、知覚には時間の概念がないからである。だから、中世のヨーロッパでは人々が実在を理解するために知覚主義をやめて五感主義になったのである。プラトンからアリストテレスに変わったのである。そのために、中世のヨーロッパでは文化が衰退して景気が悪くなったのである。
しかし、ガリレオが“時間軸”を考え出して、知覚でも時間が理解できるようにした。だから、知覚で物体の運動が理解できるようになって物理学が発展した。空間軸と時間軸を組み合わせれば、物体の運動が理解できるのである。
だから、今ではインドでも時間があるだろう。
[14699] 暴力団と政府の関係 h24.5.12
暴力団も政府も同じ心主義で成り立っている。
だから、暴力団も政府も仲間である。同じ穴のムジナである。
今では、暴力団も政府も悪者だと考えられている。
この前暴力団の組員が市役所の職員に嫌がらせをする事件があった。暴力団は政府をやっつければ国民の人気が取れると考えて、市役所の職員に嫌がらせをしたのである。
逆に、政府が暴力団体の取締[とりしま]りをするのも、国民の人気を得るためである。今では、暴力団も政府も両方とも悪者なので、暴力団も政府も国民の人気を得るためにお互いに攻撃し合っているのである。
宗教団体も政府も同じ心主義で成り立っている。
だから、宗教団体も政府も仲間である。
今では、宗教団体は悪者だと考えられている。
政府が宗教団体の取締りをやるのは、政府が悪者の宗教団体をやっつけて国民の人気を取って少しでも長く生き残るためである。
宗教団体が国民の人気を得たければ、暴力団と同じように政府をやっつければいい。
しかしながら、今では心主義そのものが滅んでいる。滅びつつある。だから、政府も暴力団も宗教団体もみんな滅んでいるのだ。国民が暴力団体に従わなくなって暴力団体が滅んでいるのだ。
“万有引力”で地球が太陽に引っ張られているように、人々の“心主義”が暴力団体を支えていたのだ。しかし、今では心主義がなくなっているから、暴力団体は支えを失って滅んでいるのだ。
[14700] どうして昔の教育は厳しかったのか? h24.5.12
昔の心主義の時代には、親が子供に拷問[ごうもん]まがいの厳しい教育をしていた。
それは、心主義の時代には、親が子供に「心」で教えなければならなかったからである。親が子供に心でわからせるためには、子供に「痛みや苦しみ」を与えるしかなかったのである。親が子供を折檻[せっかん]で殺すのが日常茶飯事[にちじょうさはんじ]だったのである。
一方、今の知覚主義の時代には、親は子供に『頭』で教えればいい。親が子供に『知識』を与えることによって子供を教育すればいいのである。
子供にとっては楽な時代になったもんだ。
また、昔の心主義の時代には、みんなが心で思うだけで頭で考えていなかったので、はっきりとわかることがなかった。だから、昔の親は子供に教えることがなかった。親はただ子供を折檻して子供に言うことを聞かせることしかできなかった。
反対に、今の知覚主義の時代には、みんなが頭で考えているので、はっきりとわかることがある。だから、今の親は子供に教えることがある。親は自分が知っている知識を言葉でわかりやすく子供に教えてあげればいいのである。