[1401] 免疫 h16.9.11
性感が分裂病や神経症の原因だとしたら、結婚して子供を作った大人はみんな分裂病や神経症のはずである。
ちょうど、腐敗の原因が細菌にあるとすれば、地上の生物すべてが腐らねばならないように。
地上の生物が細菌の海の中にいても腐らないのは、生物に免疫機構が備わっているからである。
それと同様に、たとえ性感の経験があっても発狂しないなんらかのメカニズムが人間には存在するはずである。
いくら敏感な人でも、一度や二度の性体験で発狂することはないはずだから、おそらく、一夫一婦制や風俗業の取締りなどの性道徳によって、性感を体験する機会を減らす社会的工夫がなされているからだろう。〔私は、性感が分裂病や神経症の原因であることがわかるまでは、性感が悪いとは知らなかった。しかし、一部の人は、幼い頃から性感が麻薬のように悪いことだと考えているようである。してみると、麻薬も1度や2度なら問題ない?。薬でも飲みすぎると毒になるように、性感も麻薬も一定の用量が決まっていて、それを超えてやってはならないのだろう。オナニーやセックスにもマナーがある。その用量を決めることが国の責任となる日が来るかもしれない。つまり、法律で性感や麻薬(お酒)の用量が決められ、それを破った者は罰せられるのだ。そのほうがみんなが幸福に生きていけるのなら、早く実現されるべきだろう。早い話が、『オナニーしたら死刑になる』法律を作れ。なぜなら、オナニーして分裂病になって暴れたら、結局他人に迷惑が掛かることになるからだ。〕
[1402] 鬱病 h16.9.16
人間が生きるのは、たんに身体が生きていればよいのではなく、自分の心を満足させるためである。
それなのに、自分の心をよく考慮しないで、いいかげんに自分の人生の進路を選ぶと、自分の心にとって不幸な世界に自分が入る羽目になる。
自分の心をよく知らないから、自分の心の満足させ方が下手なのだ。
他人の心と自分の心とは違う。だから、他人のアドバイスは役に立たない。例えば、金欲のない自分が、金欲の強い友人からアドバイスを聞いてはならない。真に受けたら自分を不幸にするだけだ。私の心にとっては、金で物を買う喜びなど、大したものではない。人間同士がベタベタするのも嫌いだ。〔誰にとっても、他人とベタベタするのは嫌かもしれない。それを我慢すれば、より大きな幸福が得られるから、そうしているだけなのかもしれない。しかし、私の心にとっては見返りの利得がないから、そうしないのだ。/知覚は真か偽かですんなり割り切れるが、心はどの程度幸か不幸かだから安易に割り切れない。心に関しては、広く深く先まで読んで、はじめて総合的に幸か不幸か判断できるのだ。眼先の欲望だけにとらわれてはいけない。〕
自分の心にとっての幸福が何であるかを見極め、それを守っていけば自分が鬱病に罹ることは避けられる。要するに、些事に拘泥せず、自分の心に忠実に生きればよいのだ。
[1403] 人は何のために勉強するのか? h16.9.16
実在を知るのは、人間が幸福になるためである。
実在の世界を改良して、それを人間にとってもっと幸せな世界に作り変えるためである。
哲学を勉強する即ち感覚じたいの性質について知るのも、それによって自分がより幸福になるためである。自分の思考を効率よくできれば、楽に多くのことが理解できる。適切な感覚の使い方がわかれば、自分の心をよりよく満足できる。精神病の原因を知れば、不幸を避け幸福な人生を送ることができる。特に分裂病者にとっては、将来感覚波の性質がわかれば、それを遮断して幻聴から解放される日が来るかもしれない。
実在を知ること自体は無味乾燥でときには不快ですらあるが、それを活かせば今よりももっと幸福になれるのだ。
[1404] ほんとに『太った豚であるよりも、痩せたソクラテスのほうがいい』か?
h16.9.16
ソクラテスも食わねば生きられないように、ブタも考えなければ生きられない。
食うために考えるか、考えるために食うかの違いだ。
人間にとっては、食う喜びよりも考える喜びのほうが大きい。
人間が実在を知るのは、知ること自体が幸福か、あるいはそのことによって他の感情が満足されるためである。〔だから、自分の心に知的好奇心しかなければ(つまり、出世や金持ちになる喜びがなければ)、自分が嫌いな学問は勉強しないほうがいい。というか、自分が嫌いな科目を眠くなって勉強できないのは、自分の心に好きな科目に対する知的好奇心しかないためだから、嫌いな科目はいくら勉強しても無駄だ。/人間完全に無欲なら死ぬ。何かの欲があリ、それが満足されているから生きている。私に出世欲しかなかったら、分裂病にかかって出世を諦めた時点で私は死んでいただろう。〕
人生の本質は、実在への適応よりもむしろ自分の幸福即ち自分の心への適応にある。
そのことを忘れないためには、食の喜びも学問の喜びと同等に大切にしなければならないだろう。〔性感の喜びは、その時だけの喜びにすぎず、長い眼で見ればかえって自分を不幸にする。ちょうど‘火’と反対だ。火は、はじめの不快感をちょっと我慢すれば、あとで絶大な喜びを人類にもたらしたが、性感ははじめの一時快感なだけで、あとで絶大な不幸を人類にもたらすからやらないほうがいい。(人間の行動原理なんてそんなもんだ。正しいか間違いかよりも、快か不快かが問題なのだ。)性感も麻薬も、やったときは快だが、その分やらないときは不快になる(いわゆる禁断症状)。不快になって些細なことに対しても怒りっぽくなる。これまではなんでもなかった幻聴に対しても怒り狂う。そういう意味でも、性感や麻薬によって心が変質すると言える。(それにしても、性感を麻薬に喩えるのは、お上品すぎる。)〕
[1405] 眼先の欲望と真の欲望 h16.9.19
眼先の欲望と真の欲望とは違う。眼先の見え透いた欲望にとらわれると、真の欲望を満足できないことになる。[例えば、金で物が買えるだけで、本当に人間は幸福になれるのか?!金で買えないことにこそ、真の幸福があるのではないか。だから、人間が幸福になるためには、金は要らないのだ。]
本人は自分の心を満足できたつもりでいるが、じつは本心を満足していない。眼先の欲望を満足することで、かえって本心を不満に陥れている。これが、鬱病の原因(のひとつ)だ。
[1406] 分裂病者の心 h16.9.20
現五感(性感)から生成された現象性イデアは曖昧である。
したがって、現象性知覚と複合する心はダラ気ている。
(分裂病者は表面的には緊張しているみたいだが、中身の心はダラダラしている。)
[1407] 女心 h16.9.20
一般に、女性は男性よりも現象性五感が強い(現象性経験が多い)から、知覚界が曖昧で、心がダラ気ている。
[1408] 二重の独立 h16.9.20
他人の感覚は自分には感じられないから、人間同士の感覚は独立である。
その上、五感界に対する意味付けは各人の知覚界にあるイデアによって違うから、意味付けも独立である。
[1409] 経験が重要だ。 h16.9.21
経験が分解されたものがイデアである。
逆に、イデアを組合せて五感を見る。
だから、どんな経験をするか、つまり悪い経験を避け、善い経験を積むことが、人生において最も大事なことである。[悪い経験とは性感などの現象性五感による経験であり、善い経験とは視覚や聴覚などの実在性五感による経験である。]
[1410] 分裂病 h16.9.21
性感(性体験)から現象性イデアが生成される。
本来性感だけに限定されるべき現象性イデアが、空耳の現象性五感や視覚や聴覚などの実在性五感にまで適用を拡大したものが、分裂病である。[性感のやりすぎが原因だ。]
[1411] 躁鬱病 h16.9.21
作り話によって非実在性感情が増強(助長)される。
本来作り話の上だけに限定されるべき非実在性感情が、実在にまで適用を拡大したものが躁鬱病である。[でも、実際には、上の[1405]眼先の欲望と真の欲望で述べたように、“眼先の欲望を満足することで、かえって本心を不満に陥れている”ことが鬱病の原因であると考えられる。そもそも、作り話とは、実在か空想かを問わず、自分が現在置かれていない世界のことだから、過去の実在界も現在においては作り話のようなものである。過去に満足されていた感情が、環境が変わって現在満足されなくなって慢性の不満に陥ったものが鬱病である。眼先のこと(例えば、他人の評判や世間体を気にする臆病な感情)にとらわれて、自分の本心を満足しようとしないからそうなるのだ。]
[1412] 勉強の意義 h16.9.21
勉強すること自体が楽しい天才か、あるいは勉強していい大学に入っていい会社に入っていい待遇の生活ができることに満足できる秀才かでなければ、勉強しても無駄だ。よい待遇に憧れがなければ、強いて勉強しなくてもよい。もっと他の楽しい事をして過ごせばよい。[私も高校生の頃は、アラレちゃんの似顔絵を描いて少年ジャンプに送っていた。]
私の場合は、勉強自体が楽しいほどではなく、またよい待遇にそれほどの憧れもないから、そもそも勉強する必要がなかった。それなのに、一時期ガリ勉したおかげで、その後の人生が苦しみ多いものになってしまった。意義もないのに頑張った自分が間違っていた。自分が幸せにならないことをやってはならない。[じつは、学力テストで成績順位が発表されるのが面白くて、ついついガリ勉してしまった。それこそ3当4落並みに毎日勉強していたので、五感や知覚に疲れが溜まり、心も慢性不満になっていた。そのためもあって、高1のとき、隣の席の不良の態度に激昂してしまった。(でも、それだけで発狂することはない。発狂したのは、性感による知覚や心の変質のせいだ。)]
[1413] 怒りの質の違い h16.9.21
実在性知覚と複合する実在性心の怒りは一過性で、かなり激しくてもすぐに(普通1時間以内に)静まるが、現象性知覚と複合する現象性心の怒りは、執念深くてなかなか静まらない。そのために、一度何かで怒ると、その怒りが他のことにも向けられ、いつまでたっても(何年も何十年も、へたすれば一生)怒りが静まらない。
分裂病は、眼や耳で見えることに対する怒りで始まり、その怒りが空耳にも向けられるために、怒りが持続的になる。性感は若いうちだけだから、知覚から現象性イデアが忘れ去られると、心も実在覚(実在性五感と実在性知覚)と複合を取り戻して、怒りも静まる。ただし、このように心が正気に戻るには相当時間がかかる(何年〜何十年も)。
[1414] 知への愛(再考)△ボツ h16.9.23
私は以前に『知への愛なんかない。知覚が世界を選択する』と書いたが、
合理主義者も、五感界よりも実在界のほうが心がより満足されることを暗黙に知っていたところを見ると、
本当は、知覚が世界を選択するのではなく、やはり心が世界を選択するのである。
特定の文化文明の制約の下で、心が最も満足される世界を心が選択する。
例えば、現象界にいるよりも実在界にいるほうが心が満足される(ことがわかった)から、人間は現象覚を捨て実在覚を採って、現象界よりも実在界のほうを選択する。[だから、人間はパンツをはいて一夫一婦制なのだ。]
人類の文化が未来へ進み無知な過去へ戻ろうとしないのは、産業革命なんかで、
実在に適応したほうが心がより満足されることを知ったからである。
実在に適応するためには実在を知らねばならず、人間は心がより満足されるほうを愛するものだから、
そういう意味では、人間には知への愛が確かにあるといえよう。[もっとも、世界を選択するためには、人間に備わっている感覚の性質について知らねばならないから、そういう意味では、知覚があるから世界を選択することができるのであって、心だけではできない。]
[1415] 幸福原理 h16.9.24
テレビゲームでもアニメでも面白ければ買えばいいが、面白くなければ買ってはいけない。
人間は自分が幸せを感じるために生きている。[幸福原理]
幸せであるかぎり、何をやってもかまわない。反対に、不幸なことはやってはいけない。
問題は、自分にとって何が幸せで何が不幸であるかを具体的に知ることだ。〔幸福のために生きること自体が間違いなのではない。自分の幸福と不幸を取り違えることがいけないのである。とくに、若くて経験不足の場合、幸と不幸についての誤解が多い。例えば、オナニーは最初の半年間ぐらいは幸だが、その後は不幸になる。幸と不幸を正しく判断できるには、経験と推理が必要である。〕
幸と思って不幸だと災難だし、不幸と思って幸だと損だ。〔自分が幸になると思ってやった後で自分が不幸になったら取り返しのつかない災難だし、反対に不幸になると思ってやらないでチャンスを逃すと損失になる。〕
[1416] ガイドライン h16.9.24
人間の知覚や心に悪影響を及ぼさないセックスやオナニーの仕方(頻度や時間ややり方など)を決めること。
それを守れば老若男女ともに明るく楽しい性生活を送ることができる。
[1417] 五感の分類 h16.9.25
キリスト教では五感を全部肯定する。実在性五感も現象性五感も共に肯定する。すべての五感界(すなわち実在性五感界と現象性五感界の両方)を実在界と見做している。
仏教では五感を全部否定する。五感界が全部否定された無を実在界と見做している。
実在哲学では五感を[実在との関係から]実在性五感と現象性五感のふたつに分け、実在性五感は肯定し、現象性五感は否定する。〔現象性五感を(全部とまでは言わないが)否定するのは、そのほうが人間がより幸福になれるからである。〕実在性五感から作り出された知覚界を実在界と見做している。
[1418] 実在性五感から生まれる世界 h16.9.25
実在性五感から派生する世界には、実在界と空想界と狭義の現象界がある。
空想界とは作り話の世界であり、狭義の現象界とは実在性五感における現象すなわち眼や耳の喜びつまり、色形や音の美しさや醜さである。
実在界も空想界も狭義の現象界も、人間が幸福に生きるために存在する。自分の幸福にとって役に立たなければ、捨ててしまえばよい。〔テレビアニメやマンガやテレビゲームは空想界や狭義の現象界に属するが、面白いだけであまり有害ではない(面白すぎて夢中になって、仕事や勉強が手につかなくなる場合を除く)から、大いに利用すべきである。〕
[1419] 学ぶことと考えること h16.9.25
学ぶとは、物を見てイメージ(視覚像)を得て、そのイメージを分解してイデア(概念)を作ることである。〔例えば、‘感覚’と‘実在’の概念が、知覚界と五感界における時間の違いについての考察から作り出されたように。〕
考えるとは、自分の知覚の中にあるイデアを組合せてイメージと同じものを作ることである。
だから、自分の知覚の中に適切なイデアがなければ、いくら考えてもわからない(つまり、イメージと同じものが作れない)。
考えてもわからなければ、学ぶしかない。
学んで新しいイデアを得た後でもう一度考え直してわかればいい。
[1420] フロイト流無意識の実在哲学流言い換え h16.9.26
無意識とは、無形無音のイデアにほかならない。
意識とは、言葉と対応付けられたイデアのことである。
意識は無意識の氷山の一角。⇔言葉と対応付けられていないイデアが、知覚界には多数存在する。
[1421] 役に立たない日本の文化 h16.9.26
私は小学2年生のとき、降りしきる梅雨をぼんやり眺めながら、『自分が日本社会の中にいても一生幸福にはなれない』と考えた。
それで私は死にたくなって、その夜家出をしようとしたら、父親に発覚して止められた。
それから、父親の言うように我慢して生きて行くことにしたが、結局私は幸福にはなれなかった。
日本の文化・習慣などにおとなしく従っても、私の心は幸福を感じないのだ。〔例えば、私の心に出世の喜びなんか本当にあるか?出世は自分が偉くなるためだ。ところが、偉さは人工的な価値だ。自然主義者(実在主義者)の私にとっては、偉さなんかどうでもいいことだ。作りごとの偉さに浮かれている奴らのほうがアホだ。ナポレオンの辞書に不可能の文字がないように、私の世界には‘偉い’とか‘尊敬’とか‘軽蔑’の概念がないのだ。‘偉大’とか‘気品’とかは腰抜けの概念だ。〕
[1422] 進学校はつらいよ h16.9.26
私は中学2年のとき、近所の有名進学校に転入した。〔中国の列車事故で有名になった学校である。〕
それまでは、多少学校で嫌なことがあっても、大方満足していた。
ところが、進学校の授業はひとつも面白くなかった。
進学校は出世のために勉強するところであって、勉強自体の面白さを大切にするところではないからだ。
私がオナニーの道に入ることになったのも、進学校で勉強の面白さを失ったせいだ。
[1423] 私の心の特異性 h16.9.27
いくら医学部の退屈な勉強に耐えても、その向こうに幸せが…ない!
私は普通の人とは心の鍛え方が違うので、お金の喜びがないのだ。
医学自体に興味がないなら、さっさと医者をやめたほうがいい。
学問自体を興味としなければ、他のことをやったほうがいい。
…それで、私は医者も学問もやめにした。それは正しい判断なので後悔していない。〔医学は私を不幸にするので、私は医学を捨てた。同様に、エッチは他人にとっては幸福かもしれないが、私にとっては不幸になるので、私はエッチを捨てた。こんな風に自分の特異な感情を肯定していたら、他人と自分とは気が合わなくなるが、自分の幸福を守るためには、それも仕方がない。〕
[1424] 心は難しい h16.9.28
私は過去の人生において2度過ちを犯した。
1度目は、中学3年生の時オナニーが心地よくて、夢中になったこと。最初のうちは幸福だったが、半年ぐらいたつと心が汚れて(現象化されて)、何もかもが嫌いになった。毎日幻聴に苦しめられて暴れていた。生きているのが不快だった。それで私はオナニーをやめたが、すでに手遅れだった。〔オナニーをしても、まったく心地よく思わない人もいるそうだ。それはその人の生まれ持った心の長所だ。残念ながら、私の心にはそんな長所はなかった。〕
2度目は、20才の時お金が儲かるから(初任給50万円)という理由で医学部に進んだこと。ところが実際に医学部に進んでみると、医学の勉強が面白くなくて、毎日気持ちが落ち込んでいた。それまではそこそこ優等生で通っていた私も、急に成績が下がり落ちこぼれのひとりとなった。生きているのが辛く苦しかった。それで、私は医者をやめたが、その後の人生は人並み以下だ。
いずれも、自分の心についての無知が原因だ。自分の心の性質についてもっとよく知っていたら、私は幸福になれただろう。
[1425] 精神病の原因としての五感と心 h16.9.28
現象性五感から神経症や分裂病が、空想性心から躁鬱病が発生する。
もっとも、実在への適応を妨げない程度の現象性五感や空想性心なら認めてもよい。むしろ、実在性心だけでは満足できないので、これらを認めたほうがよい。ただし、現象性五感も空想性心も原始的な感覚なので、やりすぎると危険である。
[1426] 決まり h16.9.28
なんの決まりもなくいいかげんな生き方をしていると、自分が不幸になるばかりだ。
自分が幸福になるためには、“一定の決まり”を守ることが必要である。〔一定の決まりを守るから、自分は幸福になれるのだ。〕
その一定の決まりが作り出す世界(空間)が、自分が幸福になれる世界だ。
その一定の決まりを記述することが哲学だとも言える。
〔決まりを守れば守るほど、それだけ自分がより幸福になれるのなら、その決まりを完全に守ろうとするはずだ。決まりがないだけの自由さは、かえって自分を不幸にする。真の自由とは、自分で自分の心を満足する確固とした決まりを立てることであって、たんに決まりがないだけのことを言うのではない。〕
[1427] 不幸の原因 h16.9.30
自分が不幸になる原因は、自分で自分の心を満足しようとしないからだ。〔他人(とくに、母親や父親)が自分の心を満足してくれるのを当てにしているからだ(日本の悪い習慣)。〕
心が眼で見えないために、心の存在を無視して、幸や不幸について真剣に考えようとしない態度が、結局自分を不幸にする。自分の心についての無知が自分を不幸にする。自分を幸福にするためには、自分の心について知らねばならない。
心は眼で見えないが、大脳前頭葉の脳細胞が荷う感覚として実在する。心には幸と不幸のふたつの状態がある。心は事象の関数として幸と不幸のふたつの状態を取る(実際には、非常に不幸〜非常に幸福までの連続的な値を取る)。
幸を選択し、不幸を回避することによって、はじめて自分は幸福になれる。〔実際には、チャンスを逃すと難しいが。でも、これ以上不幸にはなりたくない。不幸になりたくなければ、自分の心を肯定するしかない。〕
[1428] 知覚主義にとっての心とは h16.10.1
心は人間が幸福感を味わうための道具である。
知覚が使用する感覚を選んで、自分の心をできるだけ満足行くようにする。
ソクラテスの喜びであろうとブタの悦びであろうと、利用できるものは何でも利用する。喜びの質が高かろうが低かろうが、自分を不幸にしないかぎり、すべての喜びを認めることにする。〔食べ過ぎて胃腸を壊して不幸になるなら、大食は控えねばならない。同様に、勉強しすぎて大脳を壊して不幸になるなら、勉強も控えねばならない。ソクラテスの喜びだって無条件に善いわけではない。〕
[1429] 読書について h16.10.1
他人の言葉は自分が考えてわかるものであって、自分が学んでわかるものではない。
自分独りで考えを深めていけば、他人から学ぶことはなにもない。
[1430] 実在性五感界について h16.10.1
実在性五感界(つまり視覚界)そのものは実在ではないが、実在を理解するもとになる基本的概念は実在性五感界からしか得られない。だから、実在性五感界についてよく学び考えていけば、いずれは実在界に到達できる。〔『虎穴に入らずんば虎児を得ず。』真実を得るには、間違いを通らねばならない。〕
[1431] 学校の向こうに幸せはあるか?! h16.10.1
『苦しみを乗り越えてより大きな幸せをつかむ。』とはよく言われるが、これは本当だろうか?
勉強とは、つまるところ自分が実在界に入ることだ。
実在界に自分の幸せがあるのだろうか?
たしかに、人間は実在を知ることによって、面倒な肉体労働や知的労働から解放されてきた。便利な電化製品を数多く作り出した。それを利用することで、快適な暮らしができる。だから、便利な道具を使える程度には、実在を知っていなければならない。だから、電化製品の作動原理としての物理や化学や生物学、さらにそれらを理解するための数学を知ることは、多かれ少なかれ役に立つ。数の計算ができねば、お金を使って物が買えない。だから、算数は大事だ。言葉を知らなければ、テレビやラジオが楽しめない。漢字の読みや意味がわからなければ、面白い本を読むことができない。だから、国語は大事だ。文学作品の登場人物の歴史的背景や舞台の地理的背景がわかれば、作品の鑑賞も深まる。だから、社会科も無駄ではない。こうしてみれば、学校教育も決して無駄ではない。
しかし、それは、自分の心が満足されるかぎりでだ。
自分の心の幸福にとって役に立たなければ、いくら事実や真実であっても、もはや知る価値はない。勉強もそこまでだ。
幸福は実在界の中だけにあるのではない。現象界や空想界にもある。〔もともと、こっちの世界のほうが多いか。〕
学校を卒業したら、あとは自分の心の満足を大事にして生きて行こう。
[1432] しっかり者 h16.10.2
子供の頃の私は両親から『しっかり者』だと見られていた。〔そのため、両親は私に対して一切口出ししなかった。私の自由を最大限認めていた。〕
それは間違いない。
問題は、『どうして私がしっかり者であったか』だ。〔それは、私の両親も当時の私自身もわかっていなかった。〕
答えは、子供の頃の私が現象性五感(つまり性感)とは無縁で、実在性五感(つまり眼と耳)しか使っていなかったからだ。〔だれでも実在性五感しか使わなかったら、嫌でも頭の良いしっかり者になる。〕
だから、いくら私でも現象性五感を使ったら、もはやしっかり者でも何でもない。普通のガキと同じかそれ以下だ。〔子供を良い子に育てるコツは、子供に現象性五感を使わせないことだ。そのためには、子供に、それ以外に満足できるもの(おもちゃとか本とか)を与えてやればいい。子供が性感の悦びの世界に陥らないためには、子ども自身が実在性五感界の中で(つまり、おもちゃとか本とかで)自分の心を満足させることが大事なのだ。そういうことを日課にするのが大事だ。勉強ばかりして、遊ばないと危険だ。勉強では、しょせん、心の満足が得られないからだ。〕
[1433] 修正実在性五感界における善人と悪人の定義 h16.10.2
善人とは(五感の中では)実在性五感しか使わない人で、悪人とは現象性五感(つまり性感)を使う人である。〔もっとも、実在性五感界自体は実在とは違うから、善人であっても必ずしも実在が見えているわけではない。実在が見えるのは、実在性五感界を捻った(ひねった)知覚界においてである。性体験のない子供の心は無垢で善であるが、知覚が未発達なので、幽霊を怖がったり、奇形を怖がったりする(幽霊は作家の作りごと、奇形はなんらかの原因による生物の発生の異常にすぎない。生物も物質であり、女性の胎内で作られる物であるかぎり、ある程度の不良品が出ても仕方がない)。〕
[1434] 科目の凸凹で悩んでいる中高生へのメッセージ(私の『一般向け掲示板』より転載)
h16.10.3
私の中高生頃の成績は、理数系は得意でしたが、社会科や生物は平均以下で科目間の成績の凸凹に苦労しました。ほかに、どうでもいいことですが、体育と音楽も苦手でした。
苦手な科目を勉強しようとすると、眠くなって勉強できなかった。私は、考えてわかるタイプであって、本から学ぶことはできないようです。
しかし、そんな理屈をこねたところで、勉強しなければならないものは勉強せねばならず、おかげで、苦手科目の勉強に厖大(ぼうだい)な時間を浪費しました。時間をかけた割には成績は上がりませんでした。
『得意なものがあれば苦手なものもある。それが人間だ。』自分の苦手を補うぐらいに得意であれば、それでいい。だから、苦手科目を無理に伸ばそうと悩まずに、ほどほどにして放りなさい。高校までは出席さえ良ければ進級できるから、苦手科目は20〜30点ぐらいで、よろしいんじゃないスカ?
苦手科目をなくそうとウジウジ勉強するより、得意科目ひとつにかけるほうが男らしくてかっこいい生き方です。〔要するに、面白楽しく生きればよいのだ。その上で、正しく勉強すればいい。〕
しかし、大学では苦手科目も合格点を取らねばならないですから、それなりの“工夫”が必要です。私は文系が苦手で、出席がよければ単位をくれる科目はCかBかで通りましたが、レポートだけで通る科目は文系が得意な友人Wにレポートを頼んで書いてもらってAをもらいました(面倒くさいので、自分の字で書き直さずに、そのまま出しました)。W君が他の大学に変わってからは、図書館の地下書庫で先生が知らなさそうな文献を探して丸写しでしたね。それから、もう時効が来ているからばらしますが(21年前)、別の友人Y君に数学の試験の代理を頼まれて、学生証の写真を張り替えて受験してやったこともあります(ばれたら退学だから、真似をしてはいけません)。報酬は、酒とおつまみだけ。その友人の大学時代の成績でAが取れたのは、私が代理で受験したこの数学だけだったそうです(アホ)。
[1435] ☆自己鬱病 h16.10.4
『あいつを殺してやりたい。』『あいつが気に入らんから痛めつけてやりたい。』
いくら自分の心を肯定すべきとは言っても、実現しようのない自分の怒りの感情をいくら強めても仕方がない。
ましてや、自分の過去をわざわざ思い出してまで、憎しみの感情を強める必要はない。
それは自分自身をうつ状態にしていることにほかならない。
(追加h16.10.7)自分が実現できる範囲内で、自分の心を満足させることを考えよう。
仕事が苦しく不快なものであれば、それを乗り越えて生きるためにも楽しい遊びは必要だ。
人生が辛く苦しいものになりすぎると、心が拒絶反応を示して、自分自身をますます不幸な目に合わせようとして、いろんなおかしなことをやり出す。
そうならないためにも、自分の心を満足させる工夫を毎日の生活の中に取り入れなければならない。
[1436] よいマンガとは? h16.10.6
よいマンガとは、それを読むことによって自分が幸せな気分になれるマンガである。つまり、マンガから得られた概念がマンガ以外の実在を見るのにも役立ち、そうして見ることによって心が幸せになるマンガがよいマンガである。マンガはマンガ自身の中だけで完結しているのではない。マンガを読むことによって得られるイデア(概念)は普遍性を持ち、マンガ以外の実在を見るのにも使われる。
反対に、悪いマンガとは、それを読むことによって結果的に自分が不幸な目にあうマンガである。
[1437] どうして中高生の頃の私は社会や生物が苦手だったのか?! h16.10.4
中高生の頃はいわゆる第2次反抗期で、自分の心を肯定する時期に当たる。
もともと自分の心にとっては社会や生物が嫌だったから、本格的に社会や生物が苦手になったのだ。〔好き嫌いは心にとっては事象の関数なので、心の好き嫌いまでもはどうにもならない。〕
小学生の頃は、まだ親や先生の言いなりでまだ自分の心が肯定できていないから、社会や生物が本当は嫌でも仕方なく勉強していたのだ。だから、そこそこ点が取れていたにすぎない。小学生の子供の自分と、中高生の大人の自分とは違うのだ。
〔してみると何でも勉強がよくお出来になる万能の東大生は、一生掛けても自分の心が肯定できない不具者だということになる。だから、東大生の言葉はただ正しいだけで面白さがない、というか心が入っていない無機的な文章ばっかりなのだ。〕
[1438] 私流学問の方法 h16.10.6
自分の経験から得たイメージを思考によって分解してイデア(概念)を作る。
あとは、それらのイデアを組合せてわかることを考える。
[1439] ゲーム(PCゲーム) h16.10.7
お金でソフトを買うことは、お金さえあれば誰でもできる。
問題は、そのゲームで遊べるかどうかだ。
自分に才能がなければ、ゲームで遊ぶことによる面白さは得られない。
〔読書にも面白さがある。本を読んで自分の感想を書けば、ゲームと同じように能動的な楽しさがある。/マンガを読むだけでは仕事にならない。自分でマンガを描くところまで行かないと仕事にはならない。自分から情報を出すことが大事なのだ。〕
ゲームが上手に出来て高得点を取ることよりも、そのゲームをやって楽しめることのほうが大事なのだ。上手くてつまらないよりも下手でも面白いほうがいい。
したがって、いくら上手くてもつまらなければやるべきではない。反対に、いくら下手でもやって面白ければやればいい。〔ゲーム選びのコツは、何が自分にとって楽しいかをまずよく知ることだ。例えば、私の心にはそもそも他人を殴ったり撃ち殺したりして喜ぶ感情がないので、ViceCityやBattlefield1942では遊べない(買って損した)。一方、空を自由に飛びたい欲求があるので、FlightSimulatorでは(下手糞でも)遊べるのだ。面白いかそうでないかは自分の心が決めることだ。いくらゲームが実在よりも自由が多く、実在の中で満足できない感情でもゲームの世界の中で満足させることができるとは言っても、もともと生まれつき自分の心の中にそんな感情がなければ満足の喜びは得られない。/アメリカ人やヨーロッパ人は狩猟民族だが、日本人は狩猟民族ではないから、生き物を撃ち殺す快感が日本人の私にはないのだ。〕
[1440] 幸福原理(‘みんなのチャット’から抜粋) h16.10.10
大原則『面白いことはすればよいし、反対に面白くないことはしてはいけない。』たとえ面白くないことをする時でも、その先にもっと面白いことがあるならやればいいし、反対に、たとえ面白くても、その先にもっと面白くないことがあればやってはいけない。“先読み”が大事だ。
問題は、何手先まで読めるかということと、どれだけ自分の心に対して正しい理解があるかということだ。
〔人生は、基本的には心の肯定でなければならない。正しいことも正しくないことも、すべてが心のためなのだ。心が満足されれば、正しくても正しくなくてもどうでもいい。/自分の心と他人の心とは違うので、むやみに自分が他人に追従してはならない。〕
[1441] 意味付け h16.10.12
五感界を現象性イデアで意味付けるのではなく、実在性イデアで意味付けよ。
五感界に対する意味付けは各個人が知覚界に持っている無形無音のイデア群によって決まる。
イデア群が異なれば、五感界に対する意味付けも異なる。
五感界に対する知覚界における意味付けと心が複合する。
したがって、知覚界にあるイデア群が異なれば、心の感じ方も違ってくる。
知覚界の中にあるイデア群の質を、実在を学ぶことによって高めることが大切である。
[1442] 心の存在 h16.10.14
実在のすべてが心にとって面白いわけではない。
実在の中に自分の心にとって面白いものと面白くないものとがある。
自分が一度徹底的に不幸な目に会えば、『自分に心がある』ことがよくわかる。
だから、実在を選択することによって、自分の心をなるべく満足のいく様にしなければならない。
[1443] 感覚の正しい使い方 h16.10.14
@自分が使う感覚と使わない感覚を決める。(実在性五感を使い、現象性五感を使ってはならない。≡分裂病・神経症の予防)
A感覚間の支配・従属関係を決める。(実現できない感情を強めてはならない。つまり、心は知覚に従属しながら肯定しなければならない。≡鬱病の予防)
[1444] 見かけの喜びVS人間らしい喜び h16.10.14
見かけの喜びを超えた心の奥で感じる人間らしい喜びが大事だ。
見かけの喜びなど薄っぺらでちっぽけなものにすぎない。
人間らしい喜びのほうがもっと深くて大きい。
眼先のつまらないこと(喜びの小さいこと)にこだわるほうが愚かだ。〔喜びの大小から言うと、人間らしい喜びのほうが見かけの喜びよりも大きい。人間らしい喜びとは、多少とも知覚を使う喜びである。喜びの大きさだけで言えば、五感や実在の喜びよりも、文学(つまり空想)の喜びのほうが大きい。実在であろうがなかろうが、喜びの大きいほうが勝ちだ。(もっとも、空想にはまりすぎて、あとで実在において不幸になってはいけない。空想をわかるのだって、多かれ少なかれ知覚を使うから、人間的センスを磨かねばならない。マンガやアニメやゲームだって、実在する本やDVDやCD-ROMである以上、実在する物と見なせばよい。現代においては、空想も実在なのだ。もちろん、内容は実在しないが。実在しないと知りつつ楽しむのがコツだ。夜に夢を見るなら、できるはずだ。一方、自分が考えて真理に到達するのも喜びだ。その喜びがあるから考えるのだとも言える。お金持ちは、他人が作った物をお金で買う喜びしかないから哀れだ。)〕
[1445] 性欲 h16.10.15
性欲の感情が悪いと言われるのは、一時的に楽しいだけで、あとで大きな不幸に会うからだ。
性感から生成される現象性イデアが知覚を害したために、五感界に対する意味付けが不快なものになる。〔幻聴に対してだけではない、普通の視覚や聴覚に対しても不快になる。不良が不良であるのは、性感を自慰や性交などで働かせたために、実在に対して不快になったからである。不良とは、幻聴のない性感ノイローゼ患者なのだ(←かっこ悪い)。〕
つまり、実在に従属した視覚や聴覚から生成された実在的イデアで五感界を実在的に見るのではなく、実在から“独立した”性感から生成された現象性イデアで五感界を現象的に見るために、五感界の実在的意味に鈍感になる反面、現象的意味に敏感になる。〔現象的に見るとは、感覚を実在に対する認識としてではなく感覚自体として見ることである。そういう見方は、実在を無視していて、ふざけていて冗談臭い。視覚や聴覚は実在に対する認識だが、性感は感覚だけしかなく現象そのものだ。〕とくに幻聴に関しては、幻聴の多くは自分に対する悪口だが、悪口というものにはそもそも現象的な(ムードだけの)意味しかなく実在的には無意味なものなので、実在性イデアで幻聴を意味づけると無意味で無視されるが、現象性イデアで幻聴を意味づけると険悪な雰囲気を不快に感じて暴れまわることになる。〔もっとも、視覚や聴覚じたいは実在に従属してはいない。知覚界において視覚や聴覚から作リ出された実在性イデアを組み立てて作った実在像で五感界を見直すことによって、五感界が実在的に理解される(意味付けされる)のだ。/視覚や聴覚は明晰判明でハッキリしているが、性感は曖昧模糊でグニャグニャしている。分裂病者の言葉遣いや心がグニャグニャしているのは、このせいだ。勉強や仕事では言葉を使うから、成績が低下するのは言うまでもない。〕
原則的には『楽しければ何をしてもいい』が、性欲はあとで不幸になるから働かせてはいけないのだ。〔たとえ結婚していても、慎んで性欲を活動させることだ。みだりにやりすぎてはいけない。どこまでいいかは、親や先輩に聞いたり自分で考えたりして、自分で決めろ。(私には関係ないことだ。)〕
[1446] 空想の楽しみ方 h16.10.16
空想を空想として楽しむのはいいが、実現できないとわかっている空想を実在の中で必死に念じるのは、自分を不幸にしているにほかならない。
実在の中での夢は実在に従いつつ肯定しなければならない。
実在の中での夢と作り話の空想とは区別すべき別物である。
〔人間は夜頭の中だけで夢を見ることができるから、この能力を使えば昼間も頭の中だけで空想を楽しむことができるはずである。〕
[1447] オナニーと幻聴の関係について h16.10.17
オナニーして性感を活動させると、その経験によって知覚界に現象性イデアが発生する。
人間はイデアを組合せることによって五感界を理解するから、知覚界に現象性イデアがあると、五感界が現象的に意味付けされることになる。
五感の中でも実在性五感である視覚や聴覚は実在的意味を多く含み、他方現象性五感である性感や幻聴覚は現象性意味を多く含むから、性感によって知覚界が現象的になると、知覚と実在性五感との結合(複合)が弱まる反面、知覚と現象性五感との結合が強まる。つまり、物に対する見方が実在的から現象的に変化する。
一方、心と知覚は複合しているから、知覚が現象的になると心も現象的になる。つまり、心は五感の現象的側面(現象的意味)に敏感になる。
ところで、性感はともかく、幻聴の多くは自分に対する悪口で不快な現象的意味を多く含んでいるから、生まれつき現聴覚(空耳)のある者にとっては幻聴が不快に感じられることになる。
心は快を求め不快を無くそうとするから、不快な幻聴を消そうとして幻声(感覚波)を発する者を攻撃する。
五感には記憶がないが知覚には記憶があるので、ひとたび知覚界の中に生成された現象性イデアはその後も長く活動し続けることになる。その間ずっと、幻聴などに対する現象的意味付けが行われ、それに伴う不快感に悩まされ続けることになる。
オナニーをやめてから数十年が経ち、知覚界から現象性イデア(の活動、神経興奮)がなくなると、幻聴に対する現象的意味付けが消え、幻聴に対する心の不快感もなくなる。
〔現象性イデアを荷う脳細胞群の活動をなんらかの方法で抑制できれば、もっと早くよくなるだろう。方法としては、例えば、内感法;現象性イデアを荷う脳細胞群の脳における位置を“内感(フィーリング)で”つかみ、そこに目掛けて抑制性ニューロンを伸ばして気合いで抑制を掛けること。他に、薬や電気ショックなどがある。とにかく現象性イデアの源であるオナニーをしないことが一番大事だ。〕
[1448] 善悪の拡張された定義 h16.10.19
善とは自分を幸福にする思想や行為であり、
悪とは自分を不幸にする思想や行為である。
性欲は一時的には快だから善であるが、長期的には不快になるので悪だから、悪と見做すべきである。(とくに空耳保持者にとっては、分裂病にかかる危険性が大きいので、強烈に悪である。)〔子供が出世できるかできないか幸福になれるかなれないかは、子供の親が子供に性欲が悪いことを教えるか教えないかによって決まる。〕
[1449] イデア界の幸福 h16.10.19
私は知覚主義者だ。
だから、眼先の五感にもとらわれないし、自分の心にもとらわれない。
つまり、私には眼先の喜びがない。私は金でも物でも喜ばない。
空想の作り話の喜びもあまりない。心のことにも興味がない。
しかし、私はイデアのことに詳しい。私にはイデアとイデアの味がよくわかる。
無形無音のイデア界こそが私の縄張りなのだ。私に最も相応しい世界なのだ。私が最も慣れ親しんだ世界なのだ。
〔社会科や生物学は五感界だし、国語は心界だ。だから、私にとって社会科や生物学はくだらないことだし、国語はあほらしいこととして嫌ったのだ。試験の点がどうあれ、人間として居るべき場所は、イデア界であって、五感界や心界ではない。〕
[1450] 医者の下卑た感性 h16.10.20
医者は五感界のことしかわからない。〔少数の例外はあるとしても。〕
だから、奴らには、五感界の喜び、すなわち金や物の喜びしかない。〔人間以下のくだらない心。医学をやるのも、人間の身体のことしかわからないからだろう。〕
奴らにはイデアを解する能力が欠如している。〔要するに、知覚が弱い。ただのバカ。目先で利口ぶるだけ。〕
奴らにとっての言葉は、ただ視覚像(イメ−ジ)を文字や音声に対応付けたものにすぎない。〔分析能力が低い。思考が粗雑。非論理的。〕
[1451] 第3の道 h16.10.20
人間の心には“面白さ”という感情がある。面白さの感情を活動させる話(絵)が、面白い話(絵)である。
これに対し、美しい物や豪華な物を見て喜ぶのは“物欲”という五感と複合する感情である。
知覚における無形無音のイデアと複合する喜びは、心本位の作り話の面白さとも、五感本位の物欲とも違う。いわば、第3の道である。
〔アニメに関して言えば、葦プロ作品は“面白さ”を大事にし、ぴえろ作品は絵の“綺麗さ”(と“真面目さ”)を大事にしている。結局、私は綺麗さよりも、面白さでなければ十分な満足が得られなかった。それも、そもそも『デ・ジ・キャラットにょ』という面白性の強い作品に出会えて、自分の心が面白さに目覚めてはじめてわかったことだ。それまでは、ぴえろ魔法少女にかぶれていて、『ミンキーモモ』もたんに絵の綺麗さだけで見ていた。/昔から日本人には面白さで喜ぶ天賦の才能がある。それなのに、心の冷たい西洋人の真似をして無理してつまらないことで面白がる(面白いフリをする)から欲求不満になって、もっとくだらない心を満足させねばならない羽目になって非行に走るのだ。西洋人は物が豊かで頭がよいが、心が喜んでいるかはわからない。楽しければ実在にこだわらないのが日本人本来の行き方だ。最近の日本は、西洋文明を受け入れすぎて心が十分満足できなくなってしまっている。心主義を取り戻すべきだ。時代の進歩と共に、心の満足も増大すべきだ。日本人は、もっと自分の心に敏感であらねばならない。学校教育や他人の言いなりになって勉強や仕事をするな。自分の心で厳しい取捨選択をすべきだ。そうしないと、自分の人生が不快になるばかりだ。/金持ちのバカは、金や物はいっぱい持っているが、心は重苦しくて幸福そうではない。空喜びばっかりだ。人間の心をなめて幸福について真剣に考えていないからそうなるのだ。〕
[1452] 面白さ h16.10.25
波長7600Å〜8300Åまでの光は赤く見え、波長3600Å〜4000Åまでの光は青く見える。
理由はない。ただ対応があるのみである。
これと同じように、人間の心には“面白さ”という感情があり、知覚や五感の特定の情報に対して“面白さ”の感情が活動(神経興奮)する。
理由はなく、ただ対応あるのみ。
五感に対する“面白さ”はただ眼が見えさえすれば・耳が聞こえさえすればわかるが、知覚に対する“面白さ”は知覚界にイデアがないかぎりわからない。だから、知覚に対する“面白さ”は五感に対する“面白さ”よりも高級だといえる。
実在性五感に対する“面白さ”は現象性五感に対する“面白さ”よりは上品だが、眼さえ見えればわかるので、威張るほどのものではない。ただ、眼さえ見えれば誰でも“面白さ”がわかり楽しめるという点では、万人向けであって容易に楽しむことができるから便利である。
[1453] 分裂病 h16.10.26
眼や耳は正常に見えているが、見えているものに対する知覚における意味付けが異常である。
知覚界において五感に対する非実在的意味付けが行われている。〔つまり、実在に対して盲目な性感から生成された現象性イデアによって五感界が非実在的に意味付けされている。〕
実在が見えずに実在の中で行動しても、当然うまく行かない。〔眼や耳では見えているが、頭(知覚)では見えていない。人間にとって物が見えるとは、ただたんに眼や耳で見えることを言うのではない、知覚で見えることを言うのだ。だから、知覚で物を見る習慣の強い人ほど分裂病に罹り[かかり]やすいともいえる。反対に、眼先だけでしか物を見ない人(社会科や生物学がよくお出来になるような人)にとっては、知覚界がどんなに現象性イデアで汚れようが、いっさいおかまいなしなのだ。眼先だけでしか物を見ない人は、眼がつぶれないかぎり安泰だが、人間性が低い。知覚で物を見る人ほど分裂病に罹りやすいのは、心で物を見る人ほど躁鬱病に罹りやすいのと同じ理屈だ。〕
[1454] 実在性五感VS現象性五感 h16,10.26
いくらマンガを読んだり情事(オナニーやセックス)をしたりしても、結局人間は実在の中で生きている。〔人工物も実在の上に、つまり実在する物を組合せて作られているので、広い意味では実在だといえる。人工物も実在の一部分である。〕
だから、実在がよく見える実在性五感のほうが実在がほとんど見えない現象性五感よりも、実在の中で生きていくためにはふさわしい感覚だといえる。〔結局、実在の存在が感覚の適・不適を決定するのだ。〕
[1455] 空耳とくしゃみ h16.10.26
太陽を見るとくしゃみが出るように、空耳を聞くとくしゃみが出る。
くしゃみ中枢の神経連絡を逆行性にたどって行けば、空耳中枢に行き当たる。
[1456] Existenceの二つの方法 h16.10.26
Existenceとは『実在の外に出る』ことである。
感覚された実在は知覚だから、知覚の外に出ることにほかならない。
知覚の外に出るには二つの方法がある。
ひとつは、@現象性五感に出ること。〔夜に情事をするようなもの〕
もうひとつは、A空想性心に出ること。〔夜に夢を見るようなもの〕
しかしながら『実在の外に出る』とは言っても、本当は実在の中に居る〔現象性五感や空想性心などの感覚を荷う脳細胞は実在の中にある〕のだから、しょせんそれらは感覚の上だけの作り事にすぎない。
[1457] 鬱病と分裂病 h16.11.2
鬱病は実在性イデア群による五感界に対する間違った(実在的でない)意味付けであり、
分裂病は現象性イデア群による五感界に対する間違った意味付けである。
鬱病ではイデア自体は実在的だが、イデアと五感界の対応が非実在的であり、
分裂病では現象性イデアそのものが非実在的である。
鬱病では、自分の心(自尊心など)を満足しようとして五感界と知覚界の対応が異常であり、分裂病では、性欲を満足しようとして非実在的な現象性イデアが知覚界の中に発生している。
ともに実在に対する適応が上手く行かないことによる不快感がある。
鬱病では、五感界と知覚界の対応が正常だと心が満足されず不快になり、反対に対応が異常だと実在に適応できないことによる不快感が生じる。不快感から逃れようとして、その二つの状態の間を行ったり来たりする。どちらにしても不快である。
分裂病では、性欲を満足すると現象性イデアが発生して他の五感界(空耳界や実在性五感界)が不快になり、反対に現象性イデアを発生しないように性欲を我慢していると性欲が満足されなくて不快になる。どっちにしても不快である。
多かれ少なかれ何かが不快なのは仕方がない。その不快感を他のところで補う工夫こそが大事なのだ。躁鬱病や分裂病を助長する自尊心や性欲以外の感情を満足させて心を快に保てばよい。
[1458] 主客未分の大脳辺縁系 h16.11.4
大脳辺縁系における感覚界は原始的な世界で、そこでは客観知(対象知、つまり知覚や五感)と主観知(心)とが未分である。
一方、大脳皮質では五感と知覚と心とが明確に区別される。
大脳辺縁系は主客未分の世界であり、大脳新皮質は主客已分(いぶん)の世界なのだ。〔分裂病で自他の区別がないのは、大脳辺縁系の世界だからだ。〕
[1459] 仕事と遊び h16.11.6
仕事とは身体を満足することである。
遊びとは心を満足することである。
(ところで、心は前頭葉の脳細胞の神経興奮で発生するから、)
身体あっての心であって、
心あっての身体ではない。
[1460] ゲーム h16.11.6
日常生活では満足されない感情でも、モニターの中の世界においては満足することができる。
一般に、感情はある特定の状況下において満足されるものである。例えば、勉強や仕事の喜びは勉強や仕事をしている時に満足されるのであって、睡眠中や食事中には満足されない。テレビを見る喜びだって、テレビを見ている時だけにしか満足されない。
あらゆる状況下において満足されるのは、“生きている喜び”ぐらいしかない。
だから、ゲームの喜びもモニターの中だけでしか満足されないけれども、他の感情と較べて特殊なものではない。
ゲームはモニターの中だけの人間によって創造された世界であって実在の世界ではないが、実在性五感(視覚と聴覚)しか用いないからやってもかまわない。(ただし、スケベゲームを除く。それは上辺は視覚や聴覚しか用いないが、意味は現象性五感(性感など)にあるからである。スケベゲームをやるたびに、現象性イデアの興奮が強められるのでよくない。)
[1461] 心身症と分裂病 h16.11.8
心身症は大脳皮質と自律神経系の関係である。大脳皮質と自律神経系(脳幹)の間に相互作用(神経連絡)があるために、大脳皮質のトラブルで自律神経系の調子が崩れる。
分裂病は大脳皮質と大脳辺縁系の関係である。大脳皮質と大脳辺縁系の間に相互作用があるために、大脳辺縁系の興奮しすぎで大脳皮質の調子が崩れる。〔性感の刺激によって大脳辺縁系が興奮する。大脳辺縁系は情動を司る(つかさどる)脳である。大脳皮質における人間的な感情と大脳辺縁系における動物的な情動とは区別すべきである。大脳皮質と大脳辺縁系と自律神経系の間に神経連絡があるために、お互い完全に独立ではありえないのだ。これに較べて、躁鬱病は大脳皮質内の異常と言える。自尊心の感情は人間固有のものだからだ。〕
[1462] 善悪の分かれ目 h16.11.11
分裂病者の言葉の意味は大脳辺縁系にある。
大脳には善い部分(新皮質)と悪い部分(辺縁系)とがある。
善い部分を使ったら善い人間になるし、悪い部分を使ったら悪い人間になる。
[1463] 不幸の国日本 h16.11.11
『日本は実在性五感において満足できる国ではない。自分が一生この国で生きていても幸福にはなれない。』
小学2年の私はこう考えてその晩家出を企てたが、父親に見つかって止められてしまった。
私が小さいころから仕事に関心がないのも、そのためだ。
[1464] 『天才とキチガイは紙一重』 h16.11.22
天才もキチガイもイデアで五感を見るところは同じである。
ただし、天才は実在性五感から作られた実在性イデアで、
キチガイは性感から作られた現象性イデアで見るところが違う。
それ以外の人は、‘ただ見て憶えるだけの人’である。五感で見るだけで知覚で考えようとしない。
[1465] 母と父の生き様 h16.11.24
母は『子供をかわいがる喜び』を肯定して生きていった。
父は『仕事で成功する喜び』を肯定して生きていった。
善い人間的な感情ならば肯定できる。
私はといえば、育児にも仕事にも興味がない。
[1466] 女 h16.11.26
実在性五感から見れば、女には一円の価値もない。
現象性五感においてはじめて価値を持つのだ。
[1467] イデア h16.12.2
人間には知覚があるからイデアで五感を見ることができる。
実在性五感(視覚や聴覚)から実在性イデアが生成される。実在性イデアで五感を見るから実在に適応できる。
性感から現象性イデアが生成される。現象性イデアで五感を見るから分裂病になる。
心から空想性イデアが生成される。空想性イデアで五感を見るから躁鬱病になる。[国語の世界は紙の上だけにとどめ、実在の中にまで持ち込むべきではない。]
性感も心も実在性知覚に従属させることによって、正常に機能する。
[1468] 『感情は量より質が大事』 h16.12.2
有名なJ.S.ミルの言葉だが、この言葉の意味は、
『ほんのちょっとした喜びでも質が高ければ大事にしなさい』ということだ。
勉強や仕事の喜びや考える喜びなんかは、ほんのちょっと楽しいだけだが、
そのちょっと楽しいことを大事にしていけば人間として幸福に生きていける。
反対に、眼先や耳先の喜びや性感の喜びは強烈だけれども、
人間としては不幸な生き方であるというわけだ。
もっとも、私に言わせれば、『感情の質が高かろうが低かろうがとにかく楽しければいい。』
性感の喜びがいけないのは、それが後になって分裂病の不幸と結びつくからだ。
眼先や耳先だけの五感の喜びがいけないのは、いずれ自分が年を取って醜くなれば満足できなくなるからだ。
これに対し、勉強や仕事や考える喜びは、満足すればするほど大きくなる。自分が死ぬまでずっと楽しいままだ。
喜びの量の多さを大事にすれば、自然に質も高くなる。
[1469] 分裂病と躁鬱病 h16.12.4
人間だけに知覚があり、人間は知覚の中にあるイデアを組み合わせて五感を見る。
実在にほとんど従属しない五感から現象性イデアが生成され、
現象性イデアで五感を見ることによって分裂病的認識が生じる。
実在に従属しない感情から空想性イデアが生成され、
空想性イデアで五感を見ることによって妄想が生じる。
五感に実在性五感と非実在性五感があるように、
心にも実在性心と非実在性心がある。
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正常者は、実在性五感から作り出された実在性イデアで実在性五感や現象性五感や心を見ているから、実在に適応して幸せに生きていける。
神経症者や分裂病者は、実在とつながりの薄い現象性五感から生成された現象性イデアで実在性五感や現象性五感(とくに空耳)や心を見ているから、物事の現象的意味ばかりに敏感で、実在に適応できず不幸である。
躁鬱病者は、実在とつながりのない空想性心から生成された空想性イデアで実在性五感や現象性五感や心を見ているから、物事の空想的意味ばかりに敏感で実在に適応できず不幸である。
[1470] 感情と情動 h16.12.5
大脳皮質における心が感情で、
辺縁系における心が情動である。
感情は人間的な心であり、
情動は動物的な心である。
感情は善い心であり、
情動は悪い心である。
大脳皮質を働かせば善人になり、
辺縁系を働かせば悪人になる。
[1471] どうしてヨーロッパ人が世界を支配したのか? h16.12.5
知覚の実在性五感への従属性が強いのがヨーロッパ人(白人)で、
知覚の現象性五感への従属性が強いのがアフリカ人(黒人)で、
知覚の心への従属性が強いのが東洋人(黄人)である。
ところで、実在性五感は実在との結びつきが強く、
現象性五感は実在との結びつきが弱く、
心は実在との結びつきがないから、
実在性五感に従属する知覚が実在を最もよく認識することができ、
逆に知覚が実在を最も支配できるわけである。[要するに、実在への適応性が最大。]
…
世界史とは、ヨーロッパ人による地球支配の歴史である。
いずれ、黒人や黄人は地球上からいなくなるだろう。
[1472] 鬱病 h16.12.7
実在とは無関係に自分の心を満足させると一時的には快になるが、そのかわりあとで実在に適応できなくなり、不適応ゆえの不快感に悩む。[性欲を満足させたために、実在や空耳に不適応になって不快になる分裂病と同じ理屈だ。私の場合も、お金欲しさに医学部に入ったが、医学の講義について行けず不快になった。私の場合、お金儲けの喜びよりも、講義を理解できる喜びのほうが大事であった。]
心と実在とは別物である。心を満たせば実在は満たされず、実在を満たせば心は満たされない。
実在の中で快を探せばいい。
[1473] 心 h16.12.6
心には快・不快の区別があるが、そもそも実在から独立した(実在とは無関係な)感覚なので、心そのものの肯定は実在への不適応をもたらす(躁鬱病)。
また、心を性感などの現象覚に従属させると、心が現象(物事の中に潜む“どす黒い”意味)に敏感になって実在に鈍感になり、実在に適応できなくなる(分裂病)。
心は実在覚と複合させた場合にのみ、我々を幸福へと導くのだ。
[1474] 神経症と分裂病の違い h16.12.7
神経症の感覚界は眼先で五感的であって、
分裂病の感覚界は概念的で知覚的である。
感覚が五感優位か知覚優位かによって症状が違ってくる。
\ | 眼先型(五感型) | 概念型(知覚型) |
現象性精神病 | 神経症 | 分裂病 |
空想性精神病 | 抑鬱神経症 | 躁鬱病 |
[1475] 空耳と幻聴の違い h16.12.13
空耳はいつも聞こえている。
ただ、それが(実在性五感から作られた)実在性イデアで意味づけられているために無視されている。
空耳の多くには現象性意味しかないからだ。
ところが、ひとたびオナニーやセックスなどの性体験によって知覚の中に現象性イデアが生じると、それまでなんでもなかった空耳が現象性イデアで意味づけられるために“どす黒い”意味を持ち、空耳に対して敏感に反応するようになる。
つまり、空耳が現象性イデアで意味づけられたものが幻聴である。[分裂病者は幻聴を発する他人を攻撃するが、その原因が自分の性体験にあるのでは他人を攻める資格はない。人前に出たときだけまともぶって裏ではみだらなことをしてもいいというのは身勝手だ。自分に都合のいいことだけ考えても、実在の世界では通らない。]
[国語の文だって、実在性イデアで意味づけるかぎり無意味であるが、心から作り出された空想性イデアで意味づけることによってはじめて意味を帯びてくる。国語のセンスの悪い人は、空想性イデアの存在を認めない人である。]
[1476] 分裂病の原因 h16.12.13
知覚の中にある現象性イデアを荷っている脳細胞が悪い。だから、この脳細胞の活動をとめればいい。
[いくらセレネースなどによって辺縁系の活動を抑えても、すでに新皮質に現象性イデアができた後ではほとんど効果がないのはこのためである。]
[1477] 眼先型と概念型 h16.12.14
眼先のことしかわからない人は、社会科や生物学は得意だが、反対に数学や物理学は不得意である。
概念的なことがよくわかる人は、数学や物理学は得意だが、反対に社会や生物は不得意である。
眼先のことしかわからない人は、眼で見えることなら何でもわかるが、眼で見えないことになるとさっぱりわからない。眼に見えることに関しては物覚えがよい。
概念がよくわかる人は、論理的につじつまが合うことはよく理解するが、ただたんに眼で見えただけでは事実とは認めない。概念が見えてこないかぎり、一切の眼に見える事実を受け入れようとしない。
眼先のことしかわからない人の感覚界は主に五感からなり、知覚が五感に従属するが、
概念がよくわかる人の感覚界は主に知覚からなり、五感が知覚に従属する。
眼先型の人間と概念型の人間とでは生きている世界が違う。
自分が眼先型か概念型かを区別し、自分の感性に適した世界を選んだほうが幸福に生きていける。
[1478] まとめ h16.12.17
大原則『人間は幸せになるためにあるいは幸せであるために生きている。』
ところで、
1)現象性五感を働かせると、一時的には快だがあとで不快になる。【分裂病】
2)心を働かせると、一時的には幸だがあとで不幸になる。【躁鬱病】
したがって、
3)実在性五感を働かせる。
ことが自分が幸福であるための必要条件である。
[1479] 表と裏 h16.12.18
人間は知覚空間に住んでいる。
五感空間では眼先のものしか見えないから、表と裏が通用するが、
知覚空間には記憶があるから、表と裏は通用しない。
知覚空間にいる者にとっては、表と裏の区別はないのだ。
[1480] イデアと力 h16.12.19
哲学におけるイデアは、物理学における力と同じだ。
どちらも眼では見えないが実在する。
[1481] 知覚界の中にいる人間 h16.12.21
イデアは眼で見えないが実在するので、その存在を認める。
知覚のある人間だけが、イデアを見ることができ、
イデアでイメージを見ることができる。
人間だけが言葉で表現する喜びを知っている。[眼で見えないイデアの存在を認めず、イメージだけしかわからないのが、眼先型人間。でも、心だって眼で見えないから、それなら、イデアだって認めてもいいだろう? そもそも眼先型人間は、知覚に現象性イデアや空想性イデアがいっぱいあるから、イデアでイメージを見れず(つまり、知覚で五感を見れず)、その結果眼先のことしかわからないのだ。国語やエッチの得意な人は、知覚が実在から独立していて(切り離れていて)、実在のことがわからない反面、国語(文学)やエッチのことがよくわかりそれらを楽しむことができるのだろう。君は、そんな人間になりたいと思うか? せっかく人間に生まれてきたのに、一生実在が見れないままで死んでもいいと思うか?? 国語やエッチにそれだけの価値があると思えるか??? …俺も子供のころは知覚空間の中にいたが、思春期に知覚の中に現象性イデアが湧いてからは、眼先のことしかわからなくなりかけていた(五感界に追放されかけていた)。人前で大声で笑ったりしていた。そんなに“落ちぶれ”たくはないね。]
カントールは『数学の本質は、その自由性にあり』と言ったが、
そもそも人間にとっての“自由”とは、五感に束縛されないイデアの存在を認めること、つまり知覚界の五感界からの独立を認めることだ。[カントールは“集合”の概念を最初に認めた人だ。集合は知覚界に存在するのであって、五感界には存在しない。クロネッカーは知覚界の五感界への従属性を主張した。現代数学では、知覚界の五感界からの独立、知覚界による五感界の支配が認められている。]
数学は知覚界の中でやるので、五感界によって制限されない。
人間は知覚界の中にいて、知覚界から物を見るのだ。[もっとも、知覚界の中にある概念(イデア)は五感から得られるが。毎日実在性五感だけを働かせていれば、そのうち知覚に(実在性)イデアができ、出来たイデアで五感界を見ていれば、新しいイデアの発見がある。]
[1482] ゲーム h16.12.21
私は最近ゲームにはまっている。
毎日遊ばないと禁断症状が出るくらいだ。
ところで、当然のことだがゲームは実在ではない。
でも、実在性五感しか用いないから実在のようなものだ。[エロゲーは、現象性イデアを用いるから禁忌。]
実在であるかないかは対象によるのではなく、自分が用いる感覚によるのだ。
[1483] 実在の存在 h16.12.23
哲学第一原理『感覚は脳細胞の活動によって生じる。』
ことにより、
五感界は感覚に過ぎず、
五感界の外(ほか)に『実在が存在する』ことになる。
〔つまり、哲学第一原理から実在の存在が出てくるのであって、実在が最初から存在するわけではない。哲学第一原理がわかるまでは、実際には当人にとって実在は存在していないのである。〕
現代においては、知覚界は五感界から独立している。(もっとも、知覚界の構成要素であるイデアは、五感界の経験から作られるけれども。)つまり、近代以前においては知覚界が五感界の中にあったが、今や知覚界は五感界の外に出ている。したがって、知覚界において実在についての仮説を立て、それが五感界において実証されたとき、その仮説は実在(についての正しい命題)であると見なされる。たとえば、‘力’や‘感覚’は眼に見えないけれども、それらの概念を用いて五感界が論理的統一的に説明されれば、それらは実在する物であると見なされる。
[1484] 人間の発達 h16.12.24
赤ん坊や子供には、まだ(実体験≡実在性五感による経験にせよ性体験≡現象性五感による経験にせよ)経験が足りないから、知覚界が心に支配されている。知覚界の中に空想性イデアが多く、そのために五感界に対する認識が空想的である。(当人にとっては、その空想的な世界が実在に見えるわけである。)
青年になると性体験に迷い込むために、知覚界が現象性五感≡性感と複合している。知覚界の中に現象性イデアがあり、そのために五感界に対する認識が現象的になっている。(当人にとっては、その現象的な世界が実在に見えるわけである。)
大人は実在性五感の経験を積んで来たから、知覚界が実在性五感と複合している。知覚界の中に実在性イデアが多く、子供の頃の空想性イデアや青年の頃の現象性イデアをおおかた忘れてしまった(つまり、それらのイデアを荷う脳細胞が神経興奮しなくなった)ために、五感界に対する認識が実在的である。
[1485] 音楽療法 h16.12.24
実在性五感のひとつである聴覚とそれに複合する心を活性化させることによって、アッチの世界(つまり、精神病者が暮らしている現象性五感界(分裂病)や心界(躁鬱病))からこちらの世界(つまり、正常者が暮らしている実在性五感と複合する認識界)に引き出してやること。
これで正気に戻るなら、絵を見たりアニメを見たりすることで、実在性五感のひとつである視覚とそれに複合する心を刺激して、こっちの世界に連れ出すことができるかもしれない。〔私だって『らんま1/2』のシャンプーちゃんの顔を一生懸命見ようとしたんだよ。(平成17年7月6日付け足し:シャンプーちゃんは、美形に変えたお兄ちゃん(今の私のこと)でしゅよ(笑)。)〕
このように、音楽を聴いたりアニメを見たりすることは、けっして無駄なことではなく、人がこっちの世界にいることにとって欠かすことのできないことなのである。
[1486] 漫画 h16.12.24
知覚界にある空想性イデアを、絵で五感界の中に表現したもの。
空想性イデアは実在しない(という点ではくだらない)けれども、
漫画家の心と自分の心に同じ感情があれば、わかり合える。
[1487] なぜ私は笑わないか? h16.12.28
私は声を出して笑ったことがほとんどない。
これまでの生涯に2〜3度ぐらいしかない。(中一、高二のとき、あとあったかな?)
しかし、私は面白くなかったわけでもない。
私の世界においては無形無音の存在が認められているので、
心が楽しければそれで満足であって、
わざわざそれを声で五感界の中に表現しなくてもよいのだ。
[1488] 非日常の実在 h16.12.28
精神病者は精神病院の病棟の中にいて、社会から隔離されているため、一般人の目に触れない。そのために、精神病についてはよく知られていないし、その存在すら知らない人が多い。したがって、たいていの人の世界観は精神病抜きに成り立っている。
しかし、精神病は実在する。精神病院の中には気がおかしくなった人が大勢いる。実在するなら、無視することはできない。実在するのなら、その原因について考えなければならない。すなわち、『どうして人は精神病にかかるのか?』を問わねばならない。精神病が実在しなければ、つまり人間が気が狂わなければ、人間の精神は無制限に自由だが、実際には精神病というものがあるから、無制限に自由というわけにはいかない。つまり、精神病が存在(実在)しなければオナニーやってもいい(性感を味わってもいい)が、精神病があるからオナニーをやってはいけないのである。
ガリレオの斜台の実験にせよ、木星の衛星にせよ、光電効果にせよ、水星の近日点の移動にせよ、それらは日常生活の外側にあって、その存在が知られるまでは実在するとは考えられていなかった。つまり、それらは“非日常の実在”であった。顕微鏡や望遠鏡やその他の観測装置や実験装置の発明によって、五感界が拡大され、日常生活の範囲内では得られないことを人間が経験できるようになった。このような非日常の実在について考えることが、実在認識を推し進めてきた。
箱庭暮らしの偏見などなんの価値もない。実在から目をそむける態度が、あとで命取りになる。
P.S.自分の楽しみよりも、実在を知ることが大事。それが人間として生まれてきた者にとっての宿命だから。自分の楽しみしか考えないのは、空しいとは思いませんか?
[1489] 経験×思考=実在 h16.12.28
ただ見るだけではダメ。
それはまだ実在性五感界にすぎない。
実在性五感界と実在界は違う。
経験を基にして思考することによって、知覚界が実在に近づく。
[1490] なぜ私は社会科や生物学が嫌いなのか? h16.12.29
社会科つまり歴史や地理は過去や遠くの地球の状態を知ることだし、生物学は実在する生物について知ることだ。
対象が実在であることに相違ない。
だが、記述の仕方に理性がない。明晰判明さが足りない。言葉遣いが曖昧だ。
つまり、社会科や生物学は、実在を対象にしているけれども、実在に対する見方が知的すなわち実在的ではない。出来損ないの不完全な概念を用いてダラダラ書いているだけだ。認識に芸術性がない。人間性がない。〔実在に対する汚い(知的でない)見方を学校で生徒に押し付けるとは何事だ?!〕
社会学者や生物学者にはバカが多い。〔シュレディンガーの『生命とは何か?』は名著で、生物学を急激に発展させたが、反対に生物学者に物理学の教科書を書かせたらわけのわからんものができるだろう。〕
だから私は嫌いなのだ。〔私は子供の頃から社会科や生物学が苦手だった。教科書を開いて勉強しようとしても、すぐに眠たくなって、勉強すらできなかった。社会科や生物学があるおかげで5教科テストでは点が伸び悩み、一流大学への進学を断念せねばならなかったのだ。〕
[1491] 気の合う仲間 h16.12.29
自分が相手にする対象(物)はなんだっていい。
自分と同じような『物の見方』をする連中とは気が合う。
自分と気が合うか合わないかは、取り扱う物によって決まるのではなく、物に対する見方によって決まるのだ。
かつて私と医学部の連中とは物の見方が違うので気が合わず、医学の成績も振るわなかった。
[1492] 天才について h17.1.6
1)ガロアの場合
他人から学んだ(習った)概念を複雑に組み合わせて理解するのではなく、概念そのものを自分で考え出した。だから、ガロアの理論が理解できるのは当時ガロア自身しかいなかった。
2)ラマヌジャンの場合
普通の人は五感が知覚より強く五感が意識で知覚が無意識だ〔フロイトも、五感を意識、知覚を無意識と呼んでいた〕が、ラマヌジャンは知覚が五感よりも強く知覚が意識で五感が無意識だった。ラマヌジャンはイデアを見る目(すなわち知覚)が普通の人よりも発達していた。言葉で考えなくても、イデアで考えられた。(言葉はイデアにおける思考を表現するための手段にすぎない。言葉に拘泥しない大らかさが大事だ。)
[1493] 結婚について h17.1.12
相手の実体(実在における姿)が好きだから。(実在に従属する感情なら許されるので、実在する相手を好きになっても一向にかまわないのである。)
そのためには、相手の実体を見る目を自分が備えていなければならない。(大人になるまで待て。子供は空想的にしか物を見ないし、青年は現象的にしか物を見ない。物を実在的に見れるのは大人になってからだ。)
実在空間(実在界)において、相手(知覚や心や五感などの感覚も含めて)と一緒にいることが自分の心にとって幸福に感じられるなら、結婚すればよい。
もっとも、お金と時間に余裕があればの話だが。(そうでないと、衝動的な幸福のために結婚しても、将来不幸になってうまく行かない。)
[1494] 性交について h17.1.12
子供の実体が好きだから。(親にとっては、子ども自身の幸不幸は無視されている。親はただ、自分の幸福を得たいためだけに子供を作るのだ。子供にとってはこの世に生まれてくることは災難だ。)
子供と一緒にいることが幸せだと思ったから。
人間にとっては、性交は子供を得るための手段にすぎない。性交に伴う快感なんてとんでもない(あくまでも冗談)。(実在界においては、現象性五感や空想性心は無視されるので、性感は存在しないし、存在してはならないのである。それが人間的な生き方だ。)
[1495] 数学的精神 h17.1.13
実在するものを実在的に見ないよりも、
実在しないもの(たとえば、ユークリッド幾何学の‘線の太さのない’三角形)を実在的に(知覚的に)見るほうがよい。
《愚痴》医学部の連中にとっては、ただたんに眼で物を見れさえすればよく、それ以上考えようとしないので、医学部の連中と私とは気が合わなかった。つまり、医学部の連中にとっては眼で見えるものが実在であって、私にとっては眼で見えないものが実在なので、医学部の連中と私とは考え方が根本から違っていた。(五感界は実在への入り口にすぎず、眼で見えるのは実体の形だけであって実体そのものではない。)
[1496] 戦争について h17.1.14
男は好戦的な生き物と大昔から決まっているが、戦争すると後で文化や文明が破壊され生活が不便になって不幸になるので、たとえ戦争すること自体が幸福であっても生活全般を考慮すると戦争を否定したほうが幸福だから、戦争は否定しなければならないのである。
[1497] 性交について2 h17.1.19
むかし鶴光のオールナイトニッポンで、『子供は快楽の副産物』だと言ってたが、それは間違っている。
性交は子供を作るためにするのであって、快楽を味わうためにするのではない。
性交してもはじめの3回までは無感だし、一年に一度位してもほとんど何も感じないから、子供を作るために性交するのなら、知覚が現象性イデアに冒されることはない。〔普通の夫婦は、生涯に2〜3人の子供しか産まないので、問題ない。〕
大事なことは、たとえ性交しても、その快感に囚われてはいけないことだ。〔その‘危ない橋’を渡るのは、幸福の質の違いがわかる者だけに許されることだ。〕
性感が快感なことは誰でも知っているが、それをやってはならないこともまた真実なのである。
[1498] 我々の幸福はどこに求めるべきか? h17.1.21
現象性五感界や空想性心界は、一時的に快(幸福)なだけで、長期的に見れは不快(不幸)の原因だから、これらを認めるわけにはいかない。これらの世界に幸福を求めても一時だけ(半年間ぐらい)しかうまく行かないから、やめたほうがいい。
我々人間の幸福は実在界か、せめて実在性五感界(視覚界や聴覚界)に求めるべきである。〔頭の良い者は実在界に幸福があるが、バカな奴は実在性五感界にしか幸福がない。〕
[1499] 実在に対する心 h17.1.22
実在を知覚で認識することは大事だが、そうして認識された実在を心で感じることもまた大切である。
私が子供の頃には心が活発で愛情や友情に敏感で恋人(片思いに終わったけど)や友人がたくさんいたが、大人になってからは心の活動が鈍って愛情や友情もなくなって恋人も友人もいなくなった。
物や知識に対する好奇心も大人になってからは鈍くなった。私が小学校の2,3年生のとき、電気記号や漢字の旧字体に興味を持って、学校の図書館で古い本を調べて帳面につけていたことがある。たんなる興味だけで、知識としては何の役にも立たなかったが。むしろ、学校で習う普通の漢字には魅力を感じなかったので、国語の漢字テストは私の苦手なもののひとつであった。私が数学や理科が得意で、社会科や国語が苦手なのも、結局は私の心が興味を持つか持たないかにかかっていたのだ。受験勉強や就職試験で成績がよいのは一時だけのことで、最後には自分の興味を大事にして生きている者が勝つ。
大人は歳をとって勉強や仕事の疲れで脳の活動が鈍って鈍感になっているので、もはや心で興味を感じることもなく、何事も知ろうともしないし、知って喜ぶこともない。ただ身体が生きているだけで、人情も好奇心もない。
人間いくら歳をとっても、実在に対する心を失ってはならない。
[1500] 大脳新皮質における幸福が人間にとっての幸福である。 h17.1.23
大脳新皮質界すなわち実在界における人情(愛情や友情)や知的好奇心こそが人間の喜びであり、大脳辺縁系すなわち現象界における性欲は動物の喜びであって人間にはふさわしくない。
大脳辺縁系の幸福など、性感だけしかない。性器の刺激によって辺縁系の活動が亢進すると、性感のことしかわからなくなって、愛情や友情などの人情が廃り、物や知識に対する好奇心も失せる。恋人や子供に対する愛情がなくなり、『結婚は性欲の満足のためにするのであって、子供は快楽の副産物にすぎない』と本気で思うようになる。
食事や性交は、大脳新皮質における喜びを満足するためにあるのであって、それ自体の快感に囚われてはならない。
また、衣服や装飾品などの喜びは実在性五感界の喜びであって、お金がかかるだけで何の価値もない。