[1301] 変換と逆変換 h16.7.3
そもそも五感界は、人間の五感によって感覚化された実在界であり、五感によって歪められた(変換された)実在の姿である。
五感界には実在界にないものが見える代わりに、あるものが見えていない(例えば、原子、感覚子、心など)。つまり、五感界と実在界とは違う。
そもそも人間は実在界の中にいるのであって、五感界の中にいるのではない。
ゆえに、人間にとっては五感界よりも実在界のほうが大事だ。
人間には知覚があるから、五感界について考えることによって、五感界を実在界に逆変換することができる。五感は実在ではないから、五感界を考え直すことによって、五感界を実在界に戻してから、それについて考えたり思ったりしなければならないのだ。〔実在の中にあって五感界の中にないものを五感界の中に描き込むのもよい方法だ。〕
[1302] 感覚されない世界の存在 h16.7.3
子供は感覚された世界しか知らないから、五感界が実在だと考えている。だから、見ただけで終わりで考えようとしない。〔昔、アリストテレスの世界では、五感界がそのまま実在だった。〕
大人は感覚される世界の外に感覚されない実在界があることを知っているから、五感界と実在とを区別して考える。五感界は実在ではないから、大人は五感界を考え直すことによって実在を見る必要があることを知っている。
実在はどうなってるんだろう?
[1303] 心を磨く。 h16.7.7
男は実在を考えることで心を磨く。〔みんなと仲良くやるのは二の次、三の次だ。〕
女は赤ちゃんやペットの世話をすることで心を磨く。
[1304] 心を穢すと…。 h16.7.7
思春期に性感を使いすぎると、心が性感と複合して心が腐る。
心が実在よりも五感自体(見た目の印象)に関心が向くようになる。
取るに足りない他人の態度が気に入らないで激怒する。
必死になって超能力(テレパシー)を使おうとして、幻聴が聞こえ出す。
実在的意味のない幻聴を本気で相手にする。
〔ひとたび腐った心を元に戻すのは難しいし時間もかかる。〕
[1305] ヨーロッパは田舎だ。 h16.7.9
五感界は感覚であって、五感界の外に感覚できない(感覚する以前の)実在界がある。
実在を見るには知覚を使う。知覚とは、無形無音のイデア覚である。〔要するに、形とか音とかにとらわれない抽象的な実在認識が大事ということ。〕
本来我々は実在の中にいるのであって五感界の中にいるのではない。
ゆえに、我々が適応すべき世界は実在界であって五感界ではない。人間にとっての幸福は、実在の中にあるのであって、五感界の中にあるのではない。
しかるに、ヨーロッパの文化は明らかに五感界の文化であって、実在の文化ではない。彼らの心は眼先耳先の快楽だけであって、実在における幸福ではない。〔日本人の顔や体形が悪いのは、日本人の物の見方が奥深く実在的であるからだ。白人の顔形が格好いいのは、ヨーロッパの物の見方が性感に汚染されていてエッチなせいだ。エッチは、東洋人<西洋人<黒人の順に強くなる。私も、子供の頃、自分の弱点が自分のエッチさにあるとなんとなく考えたことがある。〕
ヨーロッパはせっかく天才が与えてくれた実在知(つまり科学知識)を五感の喜びのために悪用している。道徳がない。〔天才とは性欲がない者の事だ。異常な五感による汚い(つまり非実在的な)イメージやイデアがないから、実在がよく見えるのだ。性感は皮膚の触覚なので曖昧でぼやけていて、性感で見ても実在がはっきりとわからない。性感を強めれば強めるほど実在がわからなくなる。一方、勉強は実在を知ることだから、性感は勉強の邪魔になる。本気で勉強したいなら、性感は慎め。〕
ヨーロッパには科学はあるが哲学がない。いまだに‘感覚’の概念が一般に浸透していないために、五感界を実在だと勘違いしている。まるで子供だ。〔日本では貧乏がよい具合に作用して、五感界の無駄がない。日本は昔から実在主義の国家なのだ。〕
ヨーロッパのセンスは田舎だ!
ヨーロッパ文化は人類の恥だ!!〔悪い見本だから、けっして真似てはいけない。〕
[1306] 幻聴は実在する。 h16.7.12
実在の中に感覚(すなわち‘感じる’こと)がある。
感覚→感覚場→感覚波(普通、感覚場の変動は脳細胞の周りに局所的に発生するだけだが、脳細胞の組合わせ方によっては、遠達性の感覚場の変動も存在しうる。)→X器官(感覚波を送受信するアンテナ)→幻聴[電気のアナロジー]
ゆえに、幻聴もある。
[1307] 複合体 h16.7.12
五感・心・知覚は複合体を成す。
五感には視覚や聴覚などの正常な五感と、性感や幻聴などの異常な五感とがある。異常な五感が知覚における実在認識を妨げる原因になる。
正常な五感(視覚や聴覚)と複合する知覚や心は、健全な人間のもの。〔純粋な視覚や聴覚からは決して邪念が湧かない。かっこいいとかブスいとか余計なことを考えない。そういった不純な五感(現象)は、必ず性欲とか破壊欲などと複合している。性欲や破壊欲は性感から生まれる。そもそも性感がいけない。〕
異常な五感(性感や幻聴)と複合する知覚や心が神経症や分裂病。
異常な知覚(妄想)と複合する五感や心が躁鬱病。
[1308] 精神病 h16.7.12
感覚だけで実在のない世界に陥っている状態が精神病である。
“感覚”や“実在”の概念を喪失した状態が精神病である。
感覚や実在のある世界を知覚において構成すれば改善する。
[1309] 分裂病の原因について h16.7.14
幻聴自体の有無よりも、幻聴に対する心の反応が異常である。
幻聴だけなら空耳と言って、それだけで済む。気にしても利益ないし。
だから、幻聴ばかりを気にする心のほうが異常だ。〔幻聴を伝達する感覚波は、感覚が実在する以上、必然的に存在するわけだし。〕
心が狂う原因は性感にある。性感が心を狂わす。
性感で心が怒りっぽくなる。他人への寛大さが失われる。〔寛大さは知覚と複合する感情である。〕
例えば、不良の些細な態度に激怒する。正常な心なら、あんなに興奮することはない。ひとたび激怒すると、その後なんに対しても怒りっぽくなる。それこそ、どうでもいい幻聴に対しても。
幻聴そのものは、分裂病になる以前からある。ただ、それを気にするかしないかの違いにすぎない。性感によって怒りの感情が高まると、幻聴が気になるのだ。〔私の場合も、本格的な分裂病になる半年前、引越ししてから間もなく近所のおばさん&おやじ連中の実声に混じった幻聴らしい悪口と嘲笑が気になったが、母親に「そんなこと言う者はいない」と言われてすぐに鎮まった。本格的な分裂病になったのは、英語の授業中不良の教科書パラパラめくりに激怒してからだ。それ以前にも、小学2年生のとき、プールの溝掃除をしていたときに、大人の声で「この道(算数のこと)を進め」みたいな幻聴が聞こえたことがあった。〕
[1310] セックス h16.7.14
性交も本当に子供を作るためだけにやるのなら、性感があまり強まらないので許されるであろう。〔受胎から出産までは一年近くあるので、そんな頻度なら性感も一過性のものでしかない。心が変わるほどではないだろう。〕
だから、実在哲学が人類を絶滅に導くと言うのは当たらない。〔ただ、実在哲学の目に適う魅力のある女性はめったにいないのも事実だ。〕
[1311] オナニー h16.7.14
快不快だけなら、オナニーはやってもいいことになるが、
実在への適応性までも考慮すると、それはしてはいけないことになる。
いくら勉強や仕事がよくできても、他人の見えないところでオナニーすると、実在を肯定したいのか否定したいのかわからなくなって、心が分裂する。心に矛盾ができて、心が働かなくなる。
感覚界における五感・知覚・心の複合体が実在を肯定するものと否定するものの二つできて、統合が失われる。
[1312] 心の価値 h16.7.15
人間には(眼で見えないけれども)心がある。〔心は、じつは大脳前頭葉の神経興奮で発生する感覚だから、ミクロスコピックには眼で見えるのだが。〕
心は快不快感や幸不幸感を感覚する中枢(脳細胞群)である。
心は人間のすること(感覚することも含む)によって善くも悪くもなる。
勉強すれば(実在について考えれば)心が磨かれ心が善くなるし、
オナニーすれば心が穢され心が悪くなる。〔要するに、心は実在に従属していれば善であるし、従属していなければ悪なのだ。実在によって心の善悪が決まるのである。〕
…以上のことを中学生の頃の私は考えていませんでした。そのために、その後一生つらい人生を送らねばならなくなりました。
大事なのは試験の点数ではなく人間の心なのです。眼で見えないものを無視するガリ勉根性がいけません。
[1313] 分裂病の発症機序 h16.7.16
幻聴は分裂病になる以前からときどき聞こえることがあった。だから、分裂病にとって幻聴は(3主徴のひとつに数えられるけれども)本質的ではない。
性感によって変質した心における怒りの感情(ドロドロした怒り)こそが分裂病の本質である。〔視聴覚による心の怒りはカラッとした怒りである。〕
性感では実在はほとんど見えないから、性感においては実在が無視され、感覚そのものが問題になる。したがって、性感が創造する世界(性感と複合する世界)は、実在の存在しない感覚だけの世界である。
反対に、視覚や聴覚では実在がよく見えるので、視覚や聴覚の世界は感覚そのものよりも実在が問題になる。
五感には、性感や幻聴などの現象性(感覚性)五感と、視覚や聴覚などの実在性五感とがある。
眼や耳で実在を見て知覚で実在を考えて心を磨けば、心が正気に戻せる。
[1314] 自分の分割 h16.7.16
自分の脳をふたつに分けて自分a、自分bとする。〔リンゲル液に入れて十分酸素や栄養を補給すれば生きていられる。〕
自分aから見て自分bは他人だし、自分bから見て自分aは他人である。
『感覚の脳細胞への局在性』により、
自分aの思考は自分bには感じられないし、
自分bの思考は自分aには感じられない。
なぜなら、自分aとはaの輪郭の内側にある脳細胞の集合体にほかならず、自分bとはbの輪郭の内側にある脳細胞の集合体にほかならないからである。
つまり、自分aには、aの輪郭の内側に含まれる脳細胞の荷う感覚だけしか感じられないし、自分bには、bの輪郭の内側に含まれる脳細胞の荷う感覚だけしか感じられない。
同様に、クローン人間を作っても、クローンaとクローンbとは脳が互いに外側にあるから、クローンaとクローンbとは感覚が独立(互いに他人の感覚は感じられない)である。
X器官による感覚波通信は、これとはまったく別の問題である。
[1315] 性感 h16.7.17
性感とは、性器の触覚である。
性感では実在が見えない。
性感で見えるのは感覚だけである。
性感は現象の世界への入り口である。
[1316] 五感の分類 h16.7.18
性感では実在が見えずに感覚だけが感じられる。
このような五感を現象性五感(または感覚性五感)と呼ぶ。
精神病の本質は、感覚じたいにとらわれて実在を見失うことにある。その点は、元祖森田神経症も、その他の神経症も、幻聴神経症としての分裂病も、妄想神経症としての躁鬱病もみな同じである。
性感による腐ったイメージが人間の感覚界を蝕(むしば)んで行く。
性感によって感覚界が実在から切り離され、現象の世界(感覚だけから成る世界)に入る。そこは感覚だけがあって実在がない世界だ。
実在に対して敏感だった心が感覚じたいに対して敏感になる。そのために、実在においては無意味な幻聴が気になる。
視覚や聴覚では実在が認識されるが、性感や幻聴では実在が認識されず感覚自体が認識される。
視覚や聴覚では心が実在に対して敏感であるが、
性感や幻聴では心が実在に対してよりも感覚じたいに対して敏感である。
〔視覚や聴覚は、それ自体の存在を感じさせないほど実在的である。まさにそれだからこそ、人類は‘感覚’の概念を得るまでに多くの時間を要したのだ。〕
…
現象界からの脱出口は哲学第一原理にある。〔ふり出しに戻る。〕
[1317] ぷちこ、でじこ、うさだ h16.7.18
ぷちこは視覚や聴覚しかないから、実在界の中にいる。
うさだは性感を感覚したために、現象界の中にいる。〔色気バカ〕
でじこは無邪気で一番いい。〔一見、ヒステリーに見えるが、生まれつき怒りっぽいだけなのだろう。〕
[1318] 人はなぜ考えるのか? h16.7.23
感覚と実在とは別物である。
だから、五感の経験を素材として、知覚で実在を考えて、知覚で実在を見る必要がある。〔でも、いちいち考えないといけないのは、正直言って面倒くさい。〕
[1319] 理系の人 h16.7.24
物だけ見て、心を見ようとしない。と言うか、最初から心の概念がない。心はくだらないものであって、自分には心がないと思っている。
そのため、たとえ自分の心が悪で間違っていても、そのことには気付かず、眼先の不快な物に対してギャーギャー言うだけだ。
いっこうに自分の心を直そうとせず、手先で物を動かして問題を解決しようとするだけだ。
…超音速の物理学を考え、衝撃波を発見したマッハの哲学にも、心の概念がない。
五感中心主義で、知覚を思考の経済学だと言うのはかまわないが(私が中学生の頃、物理学を言葉の上の作りごとだと考えていたのと同じニュアンスでしょう)、『超音速の物理学』はすでに十分理論的(知覚的)ではありませんか?
もちろん、哲学的には、知覚こそが実在であって五感は実在の似姿だとするのが正しい。
だから、本来五感中心主義は正しくなく、人間の傲慢だ。単純化すると強力になるのは当たり前だ。
五感中心主義で死ぬまで上手く行ったのは、天才ならではの幸運だろう。〔と言うか、偶然上手く行ったから、その結果天才になれたのだ。〕
[1320] 純粋五感(私の普段の世界の特徴) h16.7.25
実在と感覚の区別がない。
だから、五感がそのまま実在である。
ただし、五感は視覚と聴覚(実在性五感)に限られている。だから、“純粋”五感なのだ。
知覚は五感(見たこと、聞いたこと)を憶えるだけだ。(試験ぐらいなら記憶だけでもなんとかなる。数学の問題を解くには、解き方を憶えればよいのだ。)
つまり、考えることがない。考えないぶん物憶えがよい。私が中学生の頃、よく級友達から「私には考えることがない」と言われていた。〔エッヘン〕
そう、私は考えないでただ見て憶えるだけの人なのだ。科学理論は言葉の上の作りごとにすぎない。(もちろん、本当は知覚で実在の世界を見ているのだ。だから、実際には五感界のほうが作りごとだ。)
心は五感(視覚と聴覚)に直結している。だから、形に敏感(現象的)だ。奇形や幽霊を異様に怖がるのもそのせいだ。心霊写真が作りごとだと(知識ではなく心で)わかったのは、高校生になってからだ。
…これが私の縄張りだ。たいてい日本人と言うのはそういうもんでしょう。(もちろん、哲学的には明らかに間違った世界である。でも、私の普段の生活はそんなもんだ。日本(とくに高知)の文化が遅れていると言われればそれまでだが。)
もっとも、少しは知覚も使う。
100%まったく考えないのでは生きていけないだろう。
[1321] 分裂気質の世界の構造 h16.7.26
実在と感覚の概念のない世界においては、自分が見たものや聞いたものがそのまま実在である。知覚は見たものや聞いたものを憶えるだけである。
心が五感と直接複合しているから、眼で見えることや耳で聞こえることに対して心が敏感である。だから、心霊写真や超常怪奇物を異様に怖がるし、また他人の自分に対する悪口やお伊達(おだて)にも敏感である。〔だから、幻聴で聞こえる言葉に対しても敏感である。〕
自分の心が性感で腐って悪になっても、本人に心の概念がないから、自分の心を正そうとせず、物をいじりまわって手先だけで問題を解決しようとする。
だから、幻聴を止めるには、それを発する人間を殺すしかない。
しかし、これは犯罪である。
だから、実在と感覚の概念のない世界では、分裂病(幻聴)の問題は解けない。
このように、分裂気質の世界には実在と感覚の概念がなく、世界の構造が普通の人と根本的に違っている。
それでも、運良く心が現象性五感(性感や幻聴など)で腐らずに生きていけたら、分裂病にはならずにすむだろう。
一方、実在と感覚の概念のある世界において、分裂病は解決する。
実在と感覚とは別だから、日頃から知覚で実在を考えていて、知覚に実在像(イデア)がある。
心は知覚と複合していて、実在のほうを向いている。〔たとえ知覚をあまり使わなくても、専ら(もっぱら)実在性五感を使用し現象性五感を使用しないようにすれば、心は感覚自体よりも実在のほうを向く。〕
ところで、幻聴は感覚であって実在ではない(つまり現象性五感だ)から、それはもはや無視されるべき情報にすぎない。
[1322] 年功序列 h16.7.26
年功序列の社会だから、おじいが偉いことになって、大人のセンス(知覚主義、実在主義)が一般に浸透する。
ヨーロッパの文化は、子供のセンス(五感主義、現象主義)だ。みっともないったらありゃしない!〔日本の実在性五感界とは違ってエッチさがある。性感と視覚とがごちゃ混ぜだ。日本の実在性五感界は、もっと視覚に純粋だ。〕
[1323] 精神病の世界 h16.7.27
感覚自体が創り出した実在しない世界と、それに複合する知覚や心から成る世界が、精神病者のいる世界だ。精神病者は自分の現象性感覚が創り出した実在しない世界の中にいる。つまり、実在の外で生きている。
性感が創り出した現象的世界が神経症の世界。〔心が愛や憎しみなどのドロドロした感情に満ちていて野蛮だ。〕
幻聴が創り出した現象的世界が分裂病の世界。〔自分の頭の中で他人の思考が聞こえるから、自他の区別が曖昧だ。心も自分と他人の仲の良し悪しにしか反応しない。仲が悪いとすぐ暴れる。常に他人の存在を意識している。人間関係ばかりに気が行って、個人の概念がない。現象ばかりで実在の概念がない。〕
悪の感情(煩悩)が創り出した世界が鬱病の世界。〔無能者や低能者が威張ろうとするから無理がいく。自分の身のほどを知れ!〕
実在性五感(視覚や聴覚)や知覚が創り出した世界が正常者の世界。〔実在性五感界は形や音だけから成る世界。実在性五感界には愛や憎しみはない。ただ、他人をちょっと好きや嫌いにになるだけだ。〕
[1324] 心の善化 h16.7.28
いったん現象性五感(性感や幻聴)によって実在から分離し悪化した心でも、実在性五感(視覚や聴覚)や知覚で実在を認識し、それらの世界と心が複合する(つまり、それらの世界の中で幸福を求め不幸を避ける)ことによって、心が実在に従属するようになり善化される。
心と実在との結びつきが一番大事である。
[1325] どうして分裂気質の者が分裂病になるのか? h16.7.29
そもそも、分裂気質の者は五感が実在だと信じているから、心が五感と直接複合しており、絵や言葉に対して心が敏感である。
こういう分裂気質の者が、他人の態度に腹を立てて、超能力(テレパシーやマインドコントロールやサイコキネシスなど)で他人の思考や身体を操ろうとして、自分の頭の中にあるX器官(テレパシーを送受信する器官)を必死になって働かせようとした結果、これまで休眠状態にあったX器官が本格的に活動を開始する。以後、毎日幻聴が聞こえるようになり、幻聴の悪口に心が敏感に反応して暴れまわる。〔空耳と幻聴の違いは、感覚の強さの違いにすぎない。つまり、感覚の弱いのが空耳で、感覚の強いのが幻聴だ。空耳では何が聞こえたのかはっきりしないが、幻聴では相手の言うことがはっきりわかる。〕
…以上のように、分裂気質の者が分裂病になるかどうかは、X器官を活動させたかさせないかで決まる。分裂気質そのものは(神経症的傾向があるにしろ)病気ではないし、性感は心がエッチになり怒りっぽくなり他人の批判のタネにされやすいけれども、分裂病の直接の原因ではない。〔数学者は意識を分散して同時に複数のことが考えられるし、連合弛緩が原因なら駄洒落は言えない。〕だから、たとえオナニーして心が汚れてもX器官を覚醒させなければ分裂病にはならない。(多少不良にはなるでしょうが。分裂気質も性経験も、心の善悪とは関係があるけれども、分裂病とは別問題です。)
よく分裂病になった者が、もっと早くから性教育を受けていればオナニーしなかったのにと後悔するが、大事なのは性教育よりも、自分の頭の中にX器官が存在しているという事実である。それを知らずに冗談のつもりでX器官を働かせたから、幻聴が聞こえるようになったのだ。
X器官を頭の中に持って生まれてきた自分、X器官を働かせようとした自分自身がそもそもの原因なのだ。X器官のない人はいくらオナニーしても(心はエッチにはなるけれども)全然幻聴は聞こえない。オナニーで分裂病になるなら、人類はとっくの昔に絶滅しているはずだ。
X器官を覚醒させたときと反対に、必死でX器官を頭の中で停止させようとすれば、幻聴は消えて分裂病は治るかもしれない。〔もっとも、幻聴のある世界の中で上手く生きていこうとするなら別ですが。そのためには、私の実在哲学をマスターする必要があるでしょう。〕
[1326] 感覚の強さについて h16.8.1
性感(オナニーやセックス)は繰り返すほどに強さを増す。
だから、最初の頃はほとんど何も感じない。つまり、感覚が弱い。
年にいっぺんぐらいなら、ほとんど何も感じないから、心もほとんど変質しないだろう。種の存続には問題ない。
幻聴も聞こうとするから聞こえるようになるのであって、聞こうとしなければあまり聞こえないものだ。心の関心が実在よりも現象の方を向いていることにこそ問題がある。心がふざけていてまじめさが足りない(すなわち、心が実在から分離していて、実在と複合していない)のは、性感に原因があるのだろう。〔いくら本で勉強しても、本の著者には性感の強い者が大勢いるから、なるべく実在を直接自分の眼で見るほうがよい。〕でも、幻聴が聞こえること自体はX器官(テレパシーの送受信アンテナ)のせいだ。
[1327] 五感の実在性について h16.8.1
マンガやアニメはくだらないと、よく言われる。
それは、マンガやアニメの内容が実在から分離している(すなわち現象的だ)からだ。
しかし、マンガやアニメの内容にも実在的成分が多く含まれている。(もっとも、実在成分が少ないものもあるけれども。私は、そういうものが好きではないからそもそも見ない。)実在成分が多いのが現代アニメの特徴だ(大人向けだから)。いくら実在的であるといっても、『サザエさん』まで行ってしまうと、もはやアニメを見る意義もないだろうが。
実在を見る視覚や聴覚も完全には実在的ではない。現象成分(いわゆる色)が含まれている。だから、知覚がそれを修正して実在認識に近けねばならないことがある。
性感に較べれば、マンガやアニメを見る視覚や聴覚は、ずっと実在的であろう。だから、あまり注意しなくてよい。(もっとも、性感が濃く混じったエッチなマンガやアニメには問題があるが。)
[1328] 五感主義と知覚主義 h16.8.2
五感主義では、五感界が実在であって、知覚は五感界の経験を記憶するためだけに存在する。
知覚主義では、知覚界が実在であって、知覚は五感の実在的成分を拾い、現象的成分を捨てるためにある。〔知覚は五感と心の間にあるので、知覚を心にとってのフィルターとも見なせる。〕
子供のうちは五感界だけで満足できるが、大人になると知覚で実在を考えてみたくなるものだ。
[1329] 修正五感主義 h16.8.2
実在性五感に限るなら、五感界はほぼ正しい(つまり実在に近い)。
しかし、ときには知覚で修正しなければならないこともある。
五感界を無視しようとする知覚主義者はバカが多い。
自分が知覚主義者だと言えるのは、東大トップかヨーロッパの天才だけだ。
ヘーゲルの合理主義は知覚一点張りで、理想化しすぎて現状と合っていない。〔リコウぶりすぎ〕
人間はそんなに知覚的ではない。
実生活においては、知覚よりも五感を使用することが多く、人間は五感なくしては生きられない。
実際には、ほとんど五感しか用いていない。それで困る場合にのみ、知覚を用いるにすぎない。〔そうでなければ、電化製品(例えば、テレビやパソコン)など使えたものではない。誰が内部の細かい仕組みなど知っていようか。消費者にとっては、ただスイッチを入れて動けばいいのだ。それ以上の知識は必要ない。それが思考の節約と言うものだ。自分の専門分野は知覚で見るけれども、それ以外のことでは眼先手先で実在と関わるにすぎない。そうしないと生きていくのに面倒だ。実在認識を分け合って生きているのが人間社会だ。〕
そもそも知覚界におけるイデアは五感界における経験の分析から出来たものであり、知覚の五感従属性を決して無視してはいけない。〔五感のイメージから知覚のイデアが作られる。だから、まず、五感界を黙って見ることが大事だ。これこそが、実在性五感主義である。知覚の実在性イデアが出来上がる前に、あせって五感界を無理に言葉で表現しようとすると、かえって言葉の意味が曖昧になって実在が理解できなくなる。これも御高ぶった勉強バカによくあるパターンだ。〕
五感界を知覚で修正することによって、(五感界+知覚界)が実在に近づいてゆくのだ。
[1330] 世界選択 h16.8.4
世界選択は心ではなく知覚でするのだ。
知覚が世界を選び、
心は選んだ世界に複合して働くだけだ。
人間は実在の中にいるから、
選ぶ世界は実在しかない。
実在とは、実在性五感だ。
実在性五感が創り出した世界が実在だ。
ただし、時々は知覚で修正しなければならない。
[1331] 実在性五感界 h16.8.6
五感界と複合する心は快不快を感じる。
知覚界と複合する心は幸不幸を感じる。幸不幸感と快不快感とは味が違う。
五感界と知覚界の間の矛盾に対して、心は不安を感じる。(不安は不安定の意味。感覚界の崩壊を示す。)
…
五感には2種類ある。視覚や聴覚などの実在性五感と、性感や幻聴などの現象性五感だ。〔ひとくくりに‘五感’とするからいけない。五感にも善玉や悪玉などいろいろあると考えるべきだ。〕
実在性五感と複合する心と、現象性五感と複合する心とは別だ。
実在性五感界に意識を集中し(つまり、実在性五感の活動を高めて)、心を実在性五感に複合させれば、現象性五感とは複合しなくなる(つまり、心が幻聴などに対して反応しなくなる)。〔実在性五感界は眼で見える形や色と耳で聞こえる音だけから成る世界なので、幻聴界に属する一切の意味が存在しないのだ。〕
[1332] オナニーと幻聴の関係 h16.8.7
性感は実在から切り離れた現象性五感である。性感では実在を見ることができず、性感界は実在しない世界である。
性感を活動させると、心が性感と複合し、心が実在から分離する。心が悪の心になる。
実在から切り離れた心が実在から切り離れた幻聴覚(X器官)を活動させる原因になる。〔正常の心では、テレパシーを使おうなどと思わない。〕だから、心が実在から切り離れてしまうほどオナニーしてはいけない。
オナニーと幻聴とは心で関係している(オナニー⇒悪の心⇒幻聴)。
オナニーと幻聴とは、“実在から切り離れた現象性五感”という点で共通している。
[1333] 解析学と代数学(和算の心) h16.8.7
私は解析学(微積分学)が好きではない。いくら解析学の本を読んでも、わかった気がしない。
それは、無限小が眼で見えないからだ。
眼で見えないものは、私の実在性五感の世界には存在しない。
代数学は形式的で、式が眼で見えるので親しみが持てる。
[1334] 作り話は面白いか? h16.8.7
作り話だから面白いのではない。作り話だろうが実在だろうが、その世界に面白さを盛り込めるかどうかだ。
ただ、作り話のほうが世界の規制がゆるく自由度が高いので、面白さを盛り込みやすいのだ。だから、一般に、作り話のほうが面白いと言われるにすぎない。反対に、実在の世界は世界の規制がきつく自由度が低いので、面白さを盛り込むのが難しい。でも、それだけに、やりがいがあるわけだ。
〔作り話の世界にも実在の世界と同じように真偽の区別がある。真か偽かは、その世界を形成する法則が決めている。ただ、作り話の世界のほうが、世界を規制する法則の数が少ないので、自由度が多いのだ。一方、面白いかどうかは、人間の心が決める。たとえ心で面白いと思っても、世界の法則に従わなければ、その世界の中では実現しない。世界の法則が少ないほうが、面白いことが実現しやすいのだ。世界に法則がなければ、面白いことがそのまま実現するが、世界に法則があるために、面白さが多少とも歪められてしまい、そのままの形では実現しない。〕
[1335] 女と男の違い h16.8.8
女性は男性よりも感覚自体の経験(痛み、かゆみ、頭痛など)が多いから、それだけ五感や知覚や心などの感覚界が実在から離れている。
それゆえに、実在界は男の物であって、女の物ではない。
いくら実在的でない仕事がもてはやされる時代になっても、『人間が実在の中にいる』ことには変わりない。
[1336] 連合弛緩(“ぼやけた”と“はっきりした”) h16.8.8
現象性五感(性感その他)は“ぼやけた”感覚なので、そこから得られるイメージ(五感の記憶像)やイデア(知覚概念)はみな“ぼやけて”いる(解像度の悪いテレビと同様)。したがって、イデアの表現としての言葉には論理性・明晰性(はっきり性)が薄く、連合弛緩を示す。
現象性五感と複合した心もぼやけたことに敏感に反応する。幻聴では、言葉のぼやけた意味が伝えられるから、現象性五感と複合した心は、幻聴に敏感に反応して暴れる。
反対に、実在性五感(視覚や聴覚)は“はっきりした”感覚なので、そこから得られるイメージやイデアはみな“はっきり”している。したがって、イデアの表現としての言葉には論理性が濃く、連合緊張を示す。
実在性五感や実在性知覚と複合した心も“はっきりした”ことに敏感である。
したがって、実在性五感や知覚をよく働かせて、心をそれらに複合させれば、心は“はっきりした”ことに敏感になり、“ぼやけた”ことに鈍感になるから、幻聴で伝えられる言葉のぼやけた意味に反応しない。〔“ぼやけた”と“はっきりした”は、現象(感覚自体の認識)と実在の言い換えである。実在性五感や知覚をよく働かせて、心をそれらに複合させれば、心は実在に敏感になり現象に鈍感になるから、幻聴で伝達される言葉の現象的意味に反応しない。現象界は感覚自体の意味から成り立っているが、実在界(知覚界)は実在する物から成り立っている。現象に敏感になれば実在に鈍感になるし、実在に敏感になれば現象には鈍感になる。現象界の中に居るか、実在界の中に居るかが問題だ。実在界から現象界の中に入ることが分裂病(神経症も)であり、反対に現象界から実在界に出られれば分裂病は治る。知覚界に実在的概念を得て、それで五感を見て(五感を知覚の中にある実在的概念で組み立てて、つまり五感で見えるものを言葉で表すことによって五感に対する実在的意味づけができて)、心を知覚に複合させることができればよい。あるいは、見ただけで考えなければいい。つまり、実在的五感(視覚や聴覚)を現象的五感(性感や幻聴)と複合した知覚の中にある現象的概念で意味づけなければいい。それは、実在を現象で意味づけることであり、やってはならないことである。しかし、幻聴や性感も感覚として実在するわけだから、それらを含む実在観の構築こそが目下の課題であり、幻聴や性感などの現象性五感を締め出した実在観では不備だと言える。実在性五感に較べれば現象性五感は汚くて近寄りがたいが、そこが医学的だといえよう。汚いことがなければこの世は易しいが、実際にはあるからそれらを認めないと仕方がない。それが現実の世界だ。病院は外見は白くて綺麗だが、中は汚いものだ。病人をこの世から締め出すと言う考え方では上手く行かない。それでは病人の発生を食い止めることができない。子供たちを現象界に導くエロ本やサイケ本には、多くの現象的概念(単語)がちりばめられており、その意味を得ようとして子供たちは自分から現象界に入っていく。大人は感覚界が十分に実在化されているから、ある程度の現象的情報にも耐えうる。しかし、感覚界が未熟な子供たちが現象的情報にさらされると、感覚界が現象化されて実在に適応できなくなってしまう。これが精神病だ。〕
[1337] 情報ウイルス h16.8.8
大脳は論理構造体である。
そこに現象性五感(性感など)による“ぼやけた”イメージが持ち込まれる(入力される)と論理構造体が崩壊する。〔SNG(スタートレックネクストジェネレーション)で、自己矛盾のある命題がボーグ艦を停止させたように(これは、データ少佐の発案で、実際に使用されることはなかった)。〕
反対に、実在性五感による“はっきりした”イメージを持ち込むと、論理構造体の乱れが修復される。
いわば、現象性五感による“ぼんやり”したイメージは大脳にとっての情報ウイルスであり、情報ウイルスがこれまで大脳に記憶されてきた情報に感染してそれらを現象化(曖昧化)するのだ(分裂病や神経症)。〔一般に、全般に広がったのが分裂病で、性感に限局しているのが神経症だと言われる。しかし、普通の分裂病では幻聴だけに限局しているものがほとんどなので、幻聴神経症と言ってもよく、情報ウイルスによる感染は情報の一部分だけにとどまっているようである。〕
反対に、実在性五感による“はっきり”したイメージは大脳にとっての情報ワクチン(抗体)である。情報ワクチン(実在的イメージやイデア)が現象化された情報をもとの実在的な情報に修復する。脳内情報を実在化する。例えば、‘感覚’や‘実在’の概念が情報ワクチンである。〔あまりにも脳内情報が実在化されすぎたため、現象性五感である性感に心が反応しないこともある(不感症)。しかし、それは自分が実在の中にいる証なので、むしろ人間として喜ぶべきことであろう。喜びは現象界の中ではなく実在界の中に作ればよいのだ。〕
[1338] 感覚はなぜ存在するか? h16.8.8
感覚子(感覚を荷う素粒子)が存在するから。
感覚子は、興奮した脳細胞自体かもしれないし、
または別の素粒子があるのかもしれない。
〔補足1:感覚子があるから感覚波があっても不思議ではないし、感覚波があるから幻聴があっても不思議ではないことになる。〕
〔補足2:感覚とは、“感じる”ことであり、何かを見ることではない。何かを見ることが感覚ならテレビカメラにも感覚があることになるが、テレビカメラの中では電子が動いているだけで、テレビカメラには“感じる”ことがない。“感じる”ことは、動物の脳細胞(神経細胞)にしかないのだ。(もっとも、生物を詳しく調べれば、植物の中にも感覚を持つ特殊なものがあるかもしれないが。)〕
〔補足3:哲学は、感覚の科学だ。〕
[1339] 躁鬱病 h16.8.8
人間は知覚の部品(概念、イデア)を組み立てて五感を見ている。つまり、知覚の中にある言葉(単語、概念)で五感で見えるものを組み立てて、五感を知覚的に見ている。そうして五感を実在的(あるいは現象的)に意味づけている。
躁鬱病では、実在界において満足されない感情を守るために、ニセの実在界(妄想界)を知覚に創リ出す。妄想界と心が複合している(感情防衛反応=実在からの逃避。妄想界を創ることで感覚界が実在から切り離される)。
妄想界には、実在とは違う概念(部品)がある。
妄想界の概念で五感界を意味づけるために、五感が誤解される。
誰だって、守らねばならない感情が実在において踏みにじられると、実在のほうを変えようとし、それができないと屁理屈をこねたがるものだ(イソップ物語『すっぱいブドウ』)。
屁理屈の世界に長く居すぎると、この病気にかかるのだろう。
…
人は何のために生きているのか?
何を求め生きてゆくのか?
(戸土野正内郎『悪魔狩り』より)
…
人間は本当に自分の心が満足されなければ躁鬱病にかかる。
現在の自分が躁鬱病でないなら、自分の心が多かれ少なかれ満足されていることの証拠だ。
つまらない眼先の欲望にとらわれて自分の本心を見損なうな。
[1340] 内向型と外向型 h16.8.9
内向型人間は実在が見えている。
他人眼(ひとめ)に頼らないから孤独なのだ。
反対に、外向型人間は実在がわからないから、いつも他人の眼ばかり気にしている。
他人面(ひとづら)をよくしようとして懸命に働く。
つまり、内向型は実在性五感に基づくハッキリ型で、外向型は現象性五感に基づくボンヤリ型だ。
外向型人間は現象性五感(性感など)で感覚界が汚れていて、実在を見る目を失っているから、他人に頼らねばならないのだ。
[1341] 曖昧(あいまい) h16.8.9
神経症や分裂病の原因になる現象性五感も、躁鬱病の原因になる実在に従属しない悪の感情(煩悩)も、ともに“曖昧”な感覚である。〔感情は一般的に曖昧だが。〕
一方、実在性五感やそれに複合する知覚は“明晰”な感覚である。
曖昧な感覚が論理構造体としての大脳を崩壊させる精神病の原因である。
曖昧な感覚は古皮質が、明晰な感覚は新皮質が荷っている。
[1342] ボンクラ h16.8.9
“ぼんやり”して実在に暗いのがボンクラだ。
ボンクラは、ぼやけたことには敏感ではっきりしたことには鈍感だ。
現象性五感(性感など)や心を働かせすぎると、ボンクラになる。
[1343] 勉強バカ h16.8.12
言葉の意味がよくわからずに本を読むと勉強バカになる。
知覚界に明晰判明な概念がないから実在がわからず、
自分と同じ勉強バカがボンヤリした言葉で書いた本のことしかわからないのだ。
[1344] 精神病まとめ h16.8.12
感覚界が実在的であろうが現象的であろうが、
人間は実在の中にいるのであり、人間は実在に適応しなければ生きられない。
したがって、心の幸不幸や快不快よりも、実在への適応性(正しさ)のほうが優先する。
生きていれば、そのうち心が満足される(かもしれない)。
正常者の感覚界は、実在性五感(視覚や聴覚)とそれに複合する実在性知覚や実在親和性心から成り、実在に十分適応している。
躁鬱病者の感覚界は、実在性五感と妄想界(準実在性知覚)と準実在親和性心から成る。妄想界とは、一般的には実在だが、現在の当人にとっての実在ではない実在である(だから、‘準’実在)。現在の実在の中で満足されなくなった心が知覚界に創り出した別の実在界である。知覚界のイデアが実在性五感から作られているので、実在的ではあるのだが、当人が現在置かれた状況と合っていない。
神経症者の感覚界は、五感(実在性五感と性感)とそれに複合する準現象性知覚と準現象親和性心から成る。‘準’現象性知覚とは、性感から作られたイデアにより‘少し穢れた’知覚界のことである。
分裂病者の感覚界は、五感(実在性五感と幻聴や性感)とそれに複合する現象性知覚と現象親和性心から成る。現象性知覚とは、性感や幻聴などから作られた現象性イデアによって‘多いに穢れた’知覚界である。知覚界のイデアが現象性五感から作られていて現象性(例えば、曖昧性)を帯びている(⇒連合弛緩)。現象性五感が性感と幻聴の2つもあるので、知覚界の現象化がとりわけ強い。心が現象性知覚界(略して現象界)と複合していて実在性知覚と複合していないので、現象性意味を含んだ言葉の幻聴に過敏である代わりに実在(勉強や仕事など)への関心がない。だから、成績が悪い。
一般に、人間の感覚界は実在界と現象界の中間にあり、完全に実在的でもなければ現象的でもない。
五感 | 知覚 | 心 | |
正常 | 実在性(視覚、聴覚) | 実在性イデアが多い | 実在親和性が高い |
躁鬱病 | 実在性 | 妄想界(準実在性イデア) | 準実在親和性 |
神経症 | 実在性、性感 | 現象性イデアが少ない | 準現象親和性 |
分裂病 | 実在性、性感、幻聴 | 現象性イデアが多い | 現象親和性が高い |
[1345] 俺が社会科を嫌いな理由 h16.8.12
社会科の文は、たんに事実を列挙しているだけで、事実を束ねる理解がない。
なぜ?どうして?を考えることが科学であって、それがなければただの新聞記事だ。
社会科はただ事実を列挙するだけで、なぜ?どうして?を全然考えないから嫌いだ。
あれなら眼が見えて耳さえ聞こえれば書ける。人間の頭は何のためについているのか!?
文章に知覚性すなわち人間性が感じられないから文学には成れない。〔文学には、知覚性とか人情(実在と複合する善の心)とかが必要だ。〕
事実ではなく、自分が考えたことを書くべきだ。自分を出せ。それでこそ人間の文章だ。
社会科の文は、最低にくだらない文だ。〔社会学者は自分のスケベ心を覆うために研究のフリをしているだけだ。〕
[1346] 本音の喜び h16.8.12
性感による快感は人間性と矛盾しているので後ろめたい。
だから、性感は本音では喜べない。
人間の喜びは、現象界ではなく実在の中にある。
文化は実在の喜びを全人類に安価で供給するためにある。
[1347] 知覚を中心として見た感覚界 h16.8.15
実在界よりも現象性五感界や悪の心界(実在に従属しない感情の世界)を肯定しようとすると、実在界に適応できなくなる。
現象覚(現象性五感のこと)や悪の心(実在に従属しない心)に実在を従属させることはできない。なぜなら、現象覚や心を含むすべての感覚は実在する脳細胞が荷っているからである。実在の上に乗っているものがその土台になっている実在を否定することは、自分自身を否定するにほかならない。しょせん、それらは脳細胞に刻まれた実在についての誤解にすぎないのだ。
〔上図では、ひとつの心しか描いていないが、実際には心の中には実在に従属する善の感情と実在に従属しない悪の感情の2種類があるのであり、このうち躁鬱病の原因は悪の感情の肯定にあるのであって、善の感情は肯定してよい、むしろ肯定しなければ異常になるのである。しかし、そもそも感情の善悪がわかるためには、知覚で実在が見えていないといけないから、やはり日ごろから知覚を鍛えていないといけない。知覚の活動(神経興奮)が心の活動を上回るところまで行かねばならないのだ。女性でも知覚を鍛えれば、ある程度は強まるはずだ。女性というだけで十分な教育を受けられず、知覚が弱いままで、精神病にかかりやすいのは気の毒だ。〕
〔実在性五感だけからでは、厳密にはアリストテレス力学しかできない。たしかに、眼で見える世界では、『物体は押さないと止まる』のだ。知覚が実在性五感を超えるところまで行って、はじめてニュートン力学が成り立つのだ。知覚は言葉の使用によって発達するから、諸君も(できるだけ)毎日言葉を使って考えよう。自分が考えてみれば自分がわからないところがわかるし、自分がわからないことを考えるなかで新しいことがわかるものだ。反対に、自分が考えようとしなければ、なにも始まらない。だから、考えよう。〕
[1348] 気質と病気の関係 h16.8.15
感覚界における五感支配性の強い者が分裂気質である。
感覚界における心支配性の強い者が躁鬱気質である。
感覚界における知覚支配性の強い者が神経質である。
分裂気質の者が現象性五感(性感や幻聴覚など、つまり実在から独立した・切り離れた五感)を働かせると、分裂病にかかって不快になる。
躁鬱気質の者が悪の感情(実在に従属しない感情、現状(本人が置かれている現在の状況)において満足されない感情)を働かせると、躁鬱病にかかって不幸になる。
神経質の者でも、まちがった知覚を働かせるとノイローゼにかかって不安になる(認識と実在が一致しなくて、心がイライラする)。
[1349] 実在を中心として見た感覚界 h16.8.17
本来人間は実在の中に居る。人間が生きていくためには実在に適応しなければならない。生きていれば、そのうち心が満足されることもあるだろう。
人間は視覚や聴覚などの実在性五感にしがみついて知覚で考えたり心で思ったりしながら生きていけば、実在に適応して上手に生きていける。
その一方で、感覚についてのなんの知識も持たず、感覚の働かせ方を誤ったために、実在に適応できなくなってしまった哀れな人々がいる。
幼い頃の現象性五感の記憶のために五感や知覚の中に汚い(現象的な)イメージやイデアが潜んでいて、それが後世において悪さを働くのが神経症だ。学者が間違った仮説を立てたために実験事実を説明できなくてイライラするのとは違う。そんなことは健康な人にもあることだ。神経症と不安症とでは、誤解の“情報の質”が違う。神経症では誤解の情報の質が曖昧で現象的であるのに対し、不安症では誤解の情報の質が明晰判明で論理的なのだ。不快感と不安感は微妙に違う。
もう少し年を取って、青少年の頃に現象性五感を働かせると、なにしろ多感な時期だから知覚や心が容易に現象性五感に汚染されてしまう。そのうえ、心がせっかく幼児期に押さえ込んでいた幻聴覚まで再び覚醒させてしまったのが分裂病だ。そのころはエッチな大人の世界への憧れが強いから、人生のうちで最も危険な時期だ。誰だって、新しい未経験の世界には好奇心を抱いて、そこに乗り込もうとする。ただ、性感や幻聴が実在から切り離れた現象性五感だという認識が不足していたのだ。親が補ってくれればよいが、なにしろ口にし難い話題だ。身体が下に落ちることを知らずに崖から飛び降りたら、誰でも怪我をする。それは仕方がない。二度と崖っぷちに近寄らなければよいのだ。タイムマシンが発明されるか、ナノマシンで脳内シナプスの書き換えができる時代が来るまでは、それで我慢するしかない。それ以上は仕方がないと考えるしかない。
さらに歳を取って、それまでたまたま運良く満足されていた心が、自分を取り巻く実在が急に変わって満足されなくなってしまったのが躁鬱病だ。それまでずっと心で生きてきた人生が、ここに来て急に心の支えを失った。これまでの強運が一挙に裏目に出たのだ。たとえ薬で心を抑えることはできても、それだけでは心が満足されず、死ぬしかないだろう。〔一人くらい死んでも、世の中困りはしない。癌細胞がいなくなってせいせいするだけだ。結局、個人がいなくなっても、社会が存続できればいい。実存の視点では自分とは掛け替えのないものだが、社会的には一人の人間なんかいてもいなくてもあまり変わらないどうでもいいようなものだ。いざとなっては、後者の視点を取ることも必要かも知れぬ。自分ひとりが死んでも、人類が生き続ければいいのだ。社会のために自分がいないほうがいいと考えるなら、早く死ね。〕
[1350] アニゲー(アニメとゲームのことなのだろう、たぶん) h16.8.17
日本人の心は生まれつき実在的ではないから、心を実在に従属させると、ほとんど心を肯定できなくなる。
それで、実在の外に出て、自分の心を満足させねばならないわけだ。
でも、心は前頭葉の脳細胞の活動で発生する感覚だから、身体が生きていないと心も満足できない。
身体が生きているためには、心を実在に従わせねばならない。
心を否定したり肯定したりしながら生きているのが人生だ。
[1351] イデア h16.8.17
物質においても情報においても、無から有は決して生じない。
五感のイメージ(視覚像など)の記憶の‘分析’(細かい部分に分ける・特定の性質を抽出することなど)から、知覚におけるイデアが作り出される。だから、まず、五感の経験がなければ知覚のイデアは生まれない。『沈黙は金。雄弁は銀。』つまり、黙って見ることが考えて喋ることに優先するのだ(知覚の五感従属性)。〔プラトンは知覚における概念を心にまで一般化して‘愛のイデア’などと言ったが、ここでは知覚の概念に限定する。実在哲学では、感情はイデアと見なさない。感情は知覚におけるイデアに作用して、イデアを結合させる動機となる。〕〔知覚の五感従属性(悟性)とは反対に、ひとつの五感に対する言葉(イデア)による多様な解釈が成り立つこと、すなわち五感の知覚従属性(理性)もある。知覚において実在性イデアが現象性イデアに打ち勝ち、五感に対する実在的意味づけができることが、分裂病が治るためには不可欠なのだ。分裂気質と正常者では、世界の大きな枠組み(実在と、五感、知覚、心の関係)が違うので、まずそこから直さなければならない。実在哲学の哲学第1原理から第2、第3原理を経て次第に直って行くのだ。(実在哲学概論参照)〕
イデアは単語として表現される。
知覚におけるイデアは五感における単語に対応する。
躁鬱病では、パーツ(イデアのこと)の一つ一つは実在性五感から作り出されたので正常だが、パーツの結合は実在に従属しない感情に基づくので実在と合っていなくておかしいのだ。
ところが、神経症や分裂病では、パーツが現象性五感から作り出されたために、パーツの一つ一つが異常なのだ。現象性五感から作り出された異常なパーツが少なくともひとつは存在する。
神経症では、幼児期の性体験から異常なイデアが作り出される。しかし、分裂気質でなければ、知覚や心に対する五感の支配が弱いので、異常なイデアは知覚の狭い範囲に限局する。〔大人は知覚や心が実在性五感で十分に実在化されているから、一度や二度の性体験では知覚や心が崩れないのだろう。〕
その上、分裂病では、幻聴覚から異常なイデアが作り出される。分裂気質では、知覚や心の五感従属性が強いので、異常なイデアが知覚の広い範囲を犯すのだ。そのために、神経症よりも同じ性体験に対する反応が大きく出ることになる。現象性五感から作り出されたイデア、およびそれに‘感染された’(論理和や論理積を取って作り出された)イデアは非論理的で曖昧なので、言葉の連合弛緩を示すことになる。
[1352] 曖昧情報(あるいは、脳とコンピューター) h16.8.17
大脳は有機物でできたコンピューター(情報処理装置)である。
五感の感覚器から入力された情報に対し、思考し、記憶し、処理された情報を筋肉に出力し筆記したり発言したり行動したりする。
不適切な入力情報に対しては、装置が混乱する場合がある。
たとえば、0と1しか受け付けない装置に、0.5を入力したとすれば、この装置はそれを0とみなしてよいのか1とみなしてよいのかわからなくて混乱する。混乱して自動停止して眠ってしまうかもしれないし、場合によっては爆発して発狂してしまうかもしれない。実際に、コンピューターにウイルスが感染する(入力される)とコンピューターは発狂して情報処理ができなくなって、ときにはCPUがクラッシュしてしまうこともある。〔実際に、ウイルスではないが、私が昔持っていたソーテックのパソコンは、CDレコーダーを取り付けたとたんに壊れた。おそらく、過剰な情報入力の負荷にCPU(Celeron500MHz)が耐えられなかったのだろう。その頃はまだ電化製品リサイクル法ができていなくて、燃えないゴミに無料で出せた。ハードディスクに私的な情報を入れたままだったので、他人が修理してばれてしまうかもしれないとあとで心配になった。〕インターネットではフィルターを設けてウイルスを篩い分けるようにしているが、フィルターの隙間を狙う新たなウイルスが後を絶たない。コンピューターにとってのウイルスは、人間の大脳にとっての現象性五感のようなものだ。分裂気質では、フィルターの目が粗いために、知覚や心への有害な情報入力を防ぎとめられない。正常者では、五感に対して実在的言葉(イデア)で意味づけするので、要らない現象的意味はゴミ箱へ捨てられるから、知覚や心が現象的情報に犯されないのだ。
コンピューターは確実に人間に近づきつつある。コンピューターの病気で人間の精神病を理解できても不思議はない。
もっとも、曖昧概念が実在を理解する上で役立たないとは限らない。実際に、量子力学では確率の概念が用いられている。〔もっとも、私個人としては確率概念は嫌いで、波動関数Ψを確率としてではなく波として理解しているが。〕
しかし、量子力学は観測装置で実在としっかり繋がっているのに対し、性感や幻聴などの現象性五感は実在に対して盲目であり実在から分離しているので、神経症や分裂病者の現象的世界観を量子力学といっしょにすることはできない。
[1353] 心 h16.8.17
心はほんらい先天知(生まれつき備わった知識)のようなものだろう。つまり、心にとって快であることが実在において真であり、不快であることがまちがいなのだ。心が完全なら、人間はただ快を求め不快を避けて生きていれば、実在に適応しながら楽しく生きていけるはずだ。
五感は心に外界や内界の(身体の外や身体の中の)情報を整理して入力するためにある。五感から入力された情報に対して心は情報処理し、処理した結果を全身の筋肉に出力して行動する。いわば、心はパソコンのCPUのようなものだ。
人間以外の動物は、心で快や不快を思って行動するだけなのだろう。(イルカやクジラは違うかもしれないが。)『飛んで火に入る夏の虫。』たとえ心に間違いがあっても、それを修正することはできない。『一寸の虫にも五分の魂。』小さな虫にだって、快や不快を思う心がある。だから、みだりに虫や動物をいじめてはいけない。
しかし、人間には他の動物にはない知覚がある。
人間は、すでに心が常に正しくはないことを知っている。つまり、必ずしも快感が正しくはなく、不快感が間違いではないこと、というか、快感に従うことが快感を増し、不快感を避けることが不快感を減らすとはかぎらないことを知っている。もはや心は当てにはならない。知覚が心の間違いを修正することができる。ある行動の結果を知覚が正しく予測して、その予測に対して心が快か不快かを判断することによって、その行動をとるべきか否かが事前に決定される。つまり、知覚のある人間には先を見る能力がある。知覚の中に実在と同じ構造を作ることができるので、未来が予測できるのだ。先天知としての心の欠点を後天知(生まれた後で獲得した知識)としての知覚が補っているのだ。
このように、心は昔、真偽の判断と快不快の判断を一手に引き受けていたわけだが、知覚が心に取って代わって実在認識となってしまった今となっては、知覚が真偽の判断に、心が快不快や幸不幸の判断に(つまり知覚が正しいことを考えて、心が楽しいことを思うことに)それぞれ専念できるわけである。昔のパソコンにはRAMしかなかったが、今のパソコンではハードディスクとメモリーに分かれたようなものだ。人間には進化したハードウェアが生まれつき備わっているから、進化した情報処理ができるわけだ。
それにしても、心は何のために残っているのだろうか?人間にはいまだ実在について判らないところがあって、それを他の動物のように心で補っているものとすれば、知覚で実在を理解し切った未来においては、もはや心は不要の長物となってしまうことだろう。つまり、実在を理解し尽くした未来の人類にとっては、もはや快感も不快感も味わうことがなくなってしまうのだ。したがって、今の人間のほうが未来の人間よりも幸せだということになる。心を失った未来人は、ただ知覚を拠り所として生き延びるだけなのだ。昔の人間が幸せを感じる心を持っていたことを羨ましく思うことすらできないのだ。
[1354] 言葉 h16.8.17
言葉にはいろいろある。
口に出して喋る言葉もあれば、
頭の中で喋る言葉もあり、〔私はこれが多い。幼稚園の頃は独り言をいちいち口に出していたが、小学校からあとは頭の中で唱えるだけだ。〕
頭の中で言葉に出さずに考えている言葉(というか、イデアの反応)もある。
ラマヌジャンのような天才はイデアの反応だけで思考できる。彼は思考の結果だけを言葉にした。そのために、他人ばかりか本人自身でさえも自分の数式がなぜ正しいのかわからなかったそうだ。
しかし、普通の人は、知覚で考えたことをいちいち言葉に出して、それから再び考える。考えたことが常にはっきりしていることが、実在性思考・論理的思考においては大事なことだ。自分の思考を言葉にして、眼で見て確認しているわけだ。知覚を五感に置き換えているといってもいい。知覚の思考の自由さを五感の確実さで補っている。これがいわゆるデカルトの方法で、こうして一段一段確実に登っていけば、どんな高いところにも安全に登ることができる。
[1355] オナニー h16.8.18
オナニーする時は、性器の快感と同時に、なにか後ろめたさを感じる。
性器の快感か、それとも後ろめたい不快感か、どちらに従うかが問題だ。
心主義の立場では、性器の快感のほうが後ろめたさの不快感よりも強いので前者に従うことになり、いつまでたってもオナニーをやめられないことになる。
一方、実在主義の立場では、性器の感覚は実在に従属しない現象覚で、心の快不快を問わず現象覚(で発生した現象性情報)は実在的感覚界(実在と複合し、実在に適応した感覚界)にとって有害だから、オナニーをやめねばならないことになる。〔アニメやマンガの世界も実在界ではないが、物語のベースとなるのが実在界で、それに空想がちょっぴり加わっただけだから、現象性五感の世界に較べると、はるかに実在的だといえる。もっとも、18禁のものは、多少とも現象性概念が取り込まれているから、五感に対する知覚の支配性が弱い分裂気質の人や子供は見ないほうがいい。〕
[1356] 五感の分類 h16.8.18
五感には2種類ある。
視覚や聴覚などの実在性五感と、
性感や幻聴などの現象性五感である。
実在性五感で見えるのはほぼ実在だが、
現象性五感で見えるのは実在ではない。
[1357] 精神病の原因について h16.8.18
精神病の原因は、非実在性情報の大脳への入力にある。
性感や(実在の中で満足されない)感情などの非実在性情報が知覚を侵食した結果、実在への不適応が起こる。
[1358] ブロック遊びと理解 h16.8.18
五感界の経験(イメージ)をバラバラにしてイデア(概念)を作る。実在性五感(視覚)からは実在性概念が出て来る。
そのイデアを使って実在する物と同じ構造体を作ればよい。
ブロック遊びでは、あらかじめバラバラに分解されたブロックを使って実体と同じもの(視覚構造体)を作ればいいので、自分の手で実体を分解しブロックを作る手間が欠けている。ブロック遊びの欠点はそこにある。つまり、ブロック遊びでは、構成力は鍛えられるが、分解力が育たない。(知覚の五感従属性の欠落)
本の勉強も、ブロック遊びと同じで、あらかじめ他人によって分解された単語が与えられるだけで、分解する以前のもとの意味(五感で経験されたイメージ)が得られない。しかも、ブロックと違って単語の意味が眼で見えない分わかりにくい。だから、本の勉強だけでは、言葉の意味が曖昧になり、かえって実在が理解できなくなる。
自分の眼や耳で経験(イメージ)を得て、それを自分の思考によって分解して概念を作り出すことが一番大事だ。あとは、それらをただ組合せて実在と同じものを作ればいいだけだ。
[1359] おとなの世界 h16.8.19
大人は自分の感覚界を制御してエッチでないようにできるから、
エッチをやっていいときにエッチができるのだ。
大人はエッチであるとないとの切替ができるから、エッチをやってもいいわけだ。
〔子供は、切替が不十分だから、現象界に呑み込まれてしまう(神経症や分裂病の原因)。もっとも、現象性五感は多かれ少なかれ実在性感覚界にとって有害だから、無いに越したことはない。〕
[1360] 感覚の科学 h16.8.19
問題)S(r,t)の従う方程式を求めよ。
1)脳細胞の興奮と関係があることは確かである。
2)普通は脳細胞の近傍に限局しているが、脳細胞の組合せ方(神経回路の構成)によっては遠達性の波動(感覚波)も発生し得る。
そのような方程式と解を求む。
非線形波動は、ときとして遠達性の波動を生じる。感覚波はソリトンの一種である。
感覚波の性質について研究が進めば、感覚波ケージ(感覚波の遮断装置)が作れるかもしれない。つまり、電磁場と相互作用するのが電子(一般には荷電粒子)で電子の運動を制御すれば電磁場が操作できるように、感覚場と相互作用するのが脳細胞だから、脳細胞の運動(神経興奮)を制御すれば感覚場が操作できるから、感覚波を発生したり感知したり遮断したりできるはずである。つまり、X器官を感覚子(興奮した脳細胞)のカーテンで包めば、感覚波が遮断されて幻聴が聴こえなくなる。〔アメリカ的にはこの見解で十分だろうが、唯物的すぎて下品だ(SNG;スタートレックネクストジェネレーションにも同じような話があった。感覚波に敏感なベタゾイドの青年が未知の宇宙船と交信し、最後には大脳皮質で出来ているその宇宙船の中に入って感覚波から開放されるのだ)。たとえ、この見解が100%正しいとしても、分裂病については的を得ていない。ただ物理現象としての幻聴の解釈が正しいだけだ。幻聴には物理的側面と心理的側面の両方がある。心理面にこそ、分裂病の核心があるのだ。〕
[1361] 感覚力 h16.8.19
興奮した脳細胞は感覚を荷うから、興奮した脳細胞を感覚子と見做す。
感覚子の間に働く力、それが感覚力だ。〔幻聴が聴こえるのは、感覚子の間に力が働くからである。〕
感覚力を媒介するのが感覚場である。
X器官は、感覚場のソリトン波を発生・吸収する器官である。あたかも水面(みなも)を伝うソリトン波のように、感覚場の波動方程式は非線形であり(水面波の方程式も非線形)、普通の脳細胞から発生した波は分散して消滅するが、X器官から発生した感覚波だけはソリトン波で減衰せずに遠くまで伝わる。これが感覚波の実体である。〔感覚子が水面に浮かぶウキのように、水面をたたいて波を起こしたり、逆に波によって上下に動いたりする。一般の波は分散して減衰するので、もとの波が持っている情報が失われるが、ソリトン波は波の形が崩れないので情報が保たれる。だから、ウキを動かしてソリトン波を起こせば、ソリトン波によって情報は伝達される。〕
[1362] 実在界と現象界の関係 h16.8.20
実在界を現象界に従属させるのではなく、逆に現象界を実在界に従属させよ。
つまり、現象界から実在界を見るのではなく、逆に実在界から現象界を見よ(意味づけせよ)。
〔実在界の中に現象界を作れば、現象界が実在ではなく現象にすぎないことがよくわかる。〕
[1363] 世界からの脱出 h16.8.20
子供の頃の俺の世界は、実在性五感界だった。
しかし、その世界には苦しみばかり多くて、幸せが少ししかなかった。
それで、俺は脱出口を探していた。
俺が中学3年(15才)の頃、ようやく脱出口‘性感’を発見した。
その先に待っていたのは現象界(現象性五感界)だった。
半年間は私も幸福だった。
しかし、ほどなく幻聴が聴こえ始めて、その世界も苦しみに満ちた地獄となった。〔自分が他人の感覚界に口出ししようとしたら、誰でも嫌がるだろう。それで、彼らは悪口を言って、自分にそこから出て行って欲しいのだ。感覚波が嫌なのはお互い様だ。〕
もとの世界のほうが幸せだったので、私はそこに帰りたかった。自分が現象界に来たことを後悔した。
そこで、私は再び脱出口を探し始めた。〔いくら世界から出たくても、具体的に脱出口が見つからないかぎり出られない。〕
私が28才の春、ついに第2の脱出口“哲学T原理”を発見した。
それで苦しみは多少和らいだが、特に楽しいこともなかった。〔その間、数学や物理学の世界にも出会った。私はそれらをよく理解したが、心から幸せな気持ちにはなれなかったので、途中でやめた。面白くないことは、さっさとやめたほうがいい。いくら理解が出来たところで、幸せになれなければ、そんな世界の中に居ても仕方がない。〕
今の私は修正実在性五感界(知覚の五感従属性を考慮した知覚界)の中に居る。これは以前の知覚界とあまり変わらない。
今の私の世界にも苦しみばかりで幸せがない。私は今の世界に満足していない。
私は生まれてこのかた、笑ったことがない。
私が幸せになれる世界など、果して存在するのだろうか?〔幸せになるためには生きていることが必要だから、ある程度実在に適応しなければならない。しかし、ただ生きているだけでは幸せにはなれない。〕
私の人生は幸せ探しの旅だ。
[1364] 感覚波は電波ではない。 h16.8.21
医学部時代に脳波計というものを見た。頭に心電図と同じ吸盤を取り付けてそれで頭の各部の電位差を計るのだ。
でも、観測される電流が数ミリアンペア程度なので、これで電波を起こすには弱すぎる。
もし、感覚波が電磁波なら、頭にアルミホイルを巻きつければ、それで幻聴は止まるだろう。〔実験した人はいないが、たぶん無駄だろう。携帯電話で実験してみればいい。鉄筋コンクリートの建物の中でラジオが聞こえにくくなるのは、このためだ。〕実際に、精神科の病棟に、頭にアルミホイルを巻きつけている人はいない。見たことがない。
それに、脳波の動きは複雑すぎて、電波をよほど解析しないと、他人が何を考えているかまではわからない。常に脳全体が活動していて、あちこちの脳細胞の作る電波が重なり合っていて、複雑すぎてわからないのだ。脳から微弱な電磁波が出ていることは確かだが、その脳波を分析して、他人の伝えたいことを知るのはまず絶対に不可能だろう。もし、他人の思考を探る“脳波ラジオ”のようなものがあったなら、とっくに実用化されているだろうし、それでノーベル賞を貰った人もいるはずだ。今はICのある時代だし、ラジオも感度が高いものがあるので、感覚波が電磁波ならとっくにひっかかっているはずだ。
だから、感覚波は電波ではない。
[1365] 幻聴の分類 h16.8.22
1)悪口…性感的意味(ドス黒い意味)を帯びている。
2)好意的な言葉…「好き」とか「私と同じ」とか甘い言葉。
3)平叙文…客観的な言い方の言葉。
私は、ドス黒い心が嫌いだ。性感的意味が付かなければ、幻聴などどうでもいい生活雑音にすぎない。知覚や心が性感で汚れて、それまで生活雑音の中に埋もれていた幻聴に対して知覚界から悪気の意味(現象的イデア)が付くようになって、心が不快になりだしたのだ。自分でわざわざ雑音の中から不快な意味を拾い出して、それで自分の心を不快にさせているにほかならない。
知覚界の中から現象的イデアを追い出して、実在的イデアで五感を意味づければ、幻聴など無意味な雑音にすぎず、幻聴はもとの生活雑音の中に戻っていくはずだ。
[1366] 心(その2) h16.8.22
人間の思想や行動に秩序を与えるのは、心である。
知覚だけだと、原理に従うか従わないのか、かえってどうでもよくなり不安定になる。
心があるから、知覚が立てた原理に従おうとするのだ。
つまり、自分が原理に従おうとするのは、自分が幸せになれるからだ。
知覚が立てた原理を守ろうとするのは、原理を守ったほうが守らないよりも心が幸福だからだ。
その世界の中に居たほうが、自分が幸せになりやすいからだ。
[1367] 感覚波は電磁波かもしれない。 h16.8.23
よく、幻聴の聴こえはじめに、「雑音(ノイズ)の中から他人の悪口が聴こえてきた」というのがある。
ここでノイズというのが、他人の脳が作り出す電磁波で、その複雑な電磁波の中から、自分が‘気に掛かる’情報だけを拾い出しているのだ。
気に掛かる前はただの雑音だったのが、気に掛かり出してから言葉だけが聞こえるのだ。
聴覚にしても、いろんな音が入り混じった雑音の中から自分の必要な音声だけを抽出しながら聞いているというではないか。
それができるなら、幻聴覚(脳波アンテナ)についても同じことができるはずだ。
つまり、人間の脳の中には電磁波を感じる器官(X器官)があり、幻聴とは他人の脳の内部から発せられる電磁波を自分のX器官で感じ取ることなのだ。〔脳波計は頭の表面での測定なので検知される電流が弱いが、脳の内部では電流が強いので十分なパワーの電波が発生し得る。〕
そもそも幻聴の実体が電磁波であろうが感覚波であろうが関係ない。同じことだ。
問題は、幻聴が聴こえるか聴こえないかではなく、幻聴が気になるかならないかだ。
幻聴が気になるのは、性感から生まれた現象性イデアでX器官で聴こえる生活雑音を意味づけて、その中から不快な言葉を引っ張り出して見ているからだ。幻聴で聴こえる言葉の現象的意味が気に障るのだ。だから、現象的イデアが知覚になければ、幻聴はX器官で聴こえるノイズの中に紛れて聴こえなくなるはずだ。
[1368] 性的イデアが分裂病の原因だ。 h16.8.23
性感から作り出された“ドス黒い陰気臭いイデア”(現象性イデア群)で聴覚や幻聴覚を見るから、その中に含まれるドス黒い陰気臭い意味が浮き出て見えて、それで心が不快になるのだ。幻聴そのものはたんなる言葉にすぎず、そこから陰気臭いドス黒いイデアが作り出されることはない。幻聴に対する知覚の意味付けが陰気臭いために、心が不快になるのだ。
だから、知覚の中にドス黒い陰気臭いイデアがなければ、それらに対する陰気臭い意味づけもなく、心は不快にならない。まずは陰気臭いイデアの素になる性体験を作らないことだ。それがだめなら、実在性五感(視覚や聴覚)から得られた実在性イデアを強めて、知覚界から陰気臭いイデアを追い払うしかない。(実際には、知覚界の中に弱い感覚の記憶として残るが。)
ただし、どんな世界にしろ快だけあって不快のない世界はない。ただ、快不快の質がそれぞれの世界によって違う。自分の好きな質の快不快感がある世界を選択するしかない。〔要するに、自分の心にとって快が多く不快が少ない世界を選べばよい。〕
[1369] 神経症と分裂病 h16.8.23
性感から知覚の中に現象性イデア群が作られる。その広がりは、悟性(知覚の五感従属性)の弱い神経症では狭く、悟性の強い分裂気質では広い。
知覚の現象性イデア群と心の現象性感情とが複合している。
現象性イデア群と実在性五感が複合しているのが神経症で、現象性イデア群と幻聴が複合しているのが分裂病である。
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[1370] 躁鬱病 h16.8.23
心には実在と複合する実在従属性感情と、実在と複合しない非実在従属性感情とがある。普通には、実在従属性感情だけが活動し、非実在従属性感情は押し殺されて働かなくなっている(心の知覚従属性、即ち理性)。
しかし、非実在従属性感情が本人にとって掛け替えのない感情である場合がある。その場合には、感情の抑制が効かず、非実在従属性感情が知覚の中に妄想体系を作り出し、その妄想体系で五感を意味付けする結果、ますます実在に適応できなくなる(躁鬱病)。
本当に掛け替えのない感情なら、それを守るために必死で努力しろ!それが出来ないなら自殺しろ。〔論理的には、‘掛け替えのない’感情が満足されないから、もはや死ぬしかないのは当然だ。〕
[1371] 合理と実存の関係 h16.8.24
合理哲学と実存哲学の関係は、方程式論と群論の関係と同じである。〔ラグランジュは「根の入れ換えによって方程式の係数は不変である」ことを知っていたが、入れ換えそのものを取り扱かうことはしなかった。‘入れ換え’そのものは、まだ方程式論の行間に潜んでいたのである。それを沈黙の暗黒から引きずり出し置換群と名づけて議論の中心に据えたのが、ガロアである。〕つまり、合理哲学の行間を読んだのが実存哲学だ。合理哲学が行間に暗黙のうちに述べたことを明るみに引っ張り出したのが実存哲学なのだ。〔合理哲学の行間に潜んでいたもの、それは“心”である。〕
合理主義は実存主義である。合理主義の目的は、実存主義と同じく心の満足にある。つまり、人が合理哲学に従おうとするのは、そのほうが幸福だからである。〔合理哲学では感覚についての真理を述べただけで、どうして自分がそれらの真理を知ろうとしたかの動機については触れていなかった。〕ヘーゲルの合理主義哲学は古いキリスト教よりも幸福な世界だ。ヘーゲルが合理主義を力説したのは、ヘーゲルにとっては実在界が五感界よりも幸福だったからだ。
実在界の哲学が合理主義(知覚主義、実在界の道徳律、つまり実在界において感覚が従うべき規則)で、五感界の哲学がキリスト教(五感主義、五感界の道徳律、つまり五感界において感覚が従うべき規則)である。合理哲学の世界のほうが過去のキリスト教の世界よりも幸福になれる。ヘーゲルは新時代の聖書を書こうとしたのだ。実在界における道徳律としての新しい聖書を書こうとしたのだ。すなわち、世界精神が新しい神だ。
実在界の物理学がニュートン力学で、五感界の物理学がアリストテレス力学である。アリストテレス力学の世界よりもニュートン力学の世界のほうが人間が幸福に生きていける。ニュートン力学のおかげで大量生産ができて、私たちが安く品物を買うことができる。さらに、古典力学の世界よりも量子力学や相対論の世界のほうが幸福である。こうして私がパソコンで遊べるのも、量子力学から出来たトランジスターと相対論から出来た原子力発電所のおかげだ。〔もっとも、それらを発明したのは私ではないし、私が物理学を勉強しても面白く思うほどではない。私はただパソコンで遊びたいだけだ。嫌なことはしないで楽しいことだけするのが、賢い生活というものだ。自分が嫌なことをしない罰として、お金を支払って物を買うのだ。〕実在の世界がわかればわかるほど、新しい物が発明されて、人々が幸福になる。
私の修正実在性五感界にも“精神病にならない”という長所がある。〔精神病は不幸の象徴だから、それがないのは大事なことだ。〕それに、知覚主義の世界では五感の経験から新しい概念を作れないが、修正実在性五感主義の世界では新しい概念が作れる。
実存哲学のように、心そのものを問題にしても仕方がない。〔数学や理科の嫌いな人にとっては実在は住みよい世界ではない。実在の世界に住んでも心の満足は得られない。人間が幸福になれる世界は実在だけとは限らない。実在も一時は幸福な世界だったが、実在の世界の中にもいろんな不幸がある。幸福になるためには実在の外に出ることも必要だ。〕心は複合する世界に応じて働くから、心が最も幸福になるような世界を具体的に作らないといけない。ところで、心は前頭葉の脳細胞の活動だから、脳細胞を生かす範囲内で、心を最大に満たすような世界がいい。私にとっては、実在の中ばっかりに居るよりも、多少空想を楽しめるような世界のほうがいい。〔実存主義者は、文学の世界にこそ幸福があるというが、それは行きすぎのように思われる。心は実在によって多少否定されたほうが、かえって幸福なのだ。実在の外に出すぎると、心の存在自体が危うくなる(身体を壊して、心を荷っている前頭葉の神経興奮が保てなくなる)から、実際には不幸を増しているだけだ。つまり、自分が幸福であるためには、実在の外に出すぎても内に居すぎてもいけないのだ。〕私にとって、実在は嫌いではないが、面白いほどでもない。〔だから、本当は『実在主義』なんて言うほどではない。〕とはいえ、世界観がどうであれ、そもそも人間の実体としての肉体は実在の中にあるのだから、実在をあまり無視しすぎてはいけない。要するに、幸福に生きていくためには一定のルールが要る。ルールが創る世界の中で心が満足される。だから、そのルールは絶対に守らなければならない。〔かつて私は実在性五感界から現象性五感界に出たために不幸になった。それは、実在性五感と現象性五感の区別を知らなかったからだ。実在性五感だけを働かせていれば私は幸福だったが、私が実在性五感だけを働かせるルールを破って現象性五感を働かせたために、私は不幸になった。と言うより、そもそも実在性五感界には、感覚についてのルールが存在しなかった。だったら、自分が幸せな世界から出ないようなルールを新たに作ればよい。そのルールが見えるためには、‘感覚’の概念を作り出さねばならない。子供の頃の私は、そうしなかったために、そのルールが見えずルールを犯すはめになった。実在性五感主義では実在性五感と心しか使わないが、修正実在性五感主義では実在性五感と知覚と心が使われる。知覚は五感で見えない実在の部分を補う。実在性五感界(略して実五界)では、‘感覚’は眼で見えないから存在しないが、修正実在性五感界(略して修実五界)においては眼で見えなくても実在するもの(知覚でとらえられるもの)は存在できるので、‘感覚’が存在することになり感覚についての法則がわかるのだ。〕要するに、各人が自分の心を満足するような世界を、自分に備わった感覚を用いて創造すればよいのだ。
[1372] 真偽の選択 h16.8.25
知覚は真偽を判断できるが、知覚だけでは真偽を選択することはできない。
なぜなら、真を拾い偽を捨てねばならない理由、つまり原理を守らなければならない理由が知覚界の中には存在しないからである。知覚界の中だけで原理を守らなければならない理由を与えようとすると、その理由を与えねばならない理由がさらに必要になり、どこまで行っても終わらない。だから、知覚界の中だけで原理を守らねばならないようにはできない、つまり真偽の選択はできないのである。
一方、心は快不快を判断し、さらに快不快を選択できる。つまり、心には快を求め不快を避けようとする傾向がある。
知覚を心に複合させれば、真偽を選択できるようになる。つまり、真を求め偽を避けることができる。
知覚が真理を求める(原理を守る)のは、そのほうが心が快になるからである。
〔キルケゴールの書いた本に『あれかこれか』というのがあった。私は読んだことがないが、おそらく、キルケゴールも真偽の選択の問題について考えたのだろう。心がなければ真偽の選択はできない。合理主義の裏側に潜む不合理さに注目したのが実存主義だ。人間とは根本的には自分の心を満足するためだけに生きている不条理な存在なのだ。〕
[1373] 感覚の選択 h16.8.25
自分がどの感覚を使うかは、自分が決めねばならない。
自分が幸福になるように、自分が使う感覚を選択しなければならない。
心は人によって違うから、使う感覚も同じではない。
例えば、修正実在性五感主義では、実在性五感(視覚と聴覚)と知覚と心の使用が許され、それ以外の感覚を使用してはならない。それが今の私のルールだ。〔だから、眼や耳で楽しめるマンガやアニメや音楽はOK。エッチは現象性五感だからダメ。〕
[1374] 感覚波遮断実験 h16.8.25
生きているクジラの脳の中に、頭を突っ込んで幻聴が聴こえなくなるかどうかを調べる。
[1375] 空耳と幻聴の違い h16.8.25
ただたんに音声が聞こえるだけで意味を伴わないのが空耳で、空耳に現象的な意味(ドス黒い意味)を伴うのが幻聴である。〔たとえ幻聴が精神病者の作り話であったとしても、それでは空耳がなぜ聴こえるかがわからない。空耳は普通の人でもときどき聴こえることがある。やはり、X器官があると考えなければならない。〕
[1376] かつて実在界は人間にとって幸福な世界だと信じられていた。 h16.8.26
デカルトは『精神指導の規則』(岩波文庫)の中で「実在研究のためにはすべての感覚を用いよ」と述べた。
しかし、この言葉は厳密には正しくない。
五感には実在性五感と現象性五感があり、現象性五感を働かせるとかえって実在がわからなくなるからだ。
だから、厳密には「実在研究のためには、すべての実在性感覚(実在性五感と、そこから作り出されたイデアから成る知覚)を用いよ」となる。…
デカルトのいた当時は実在界の研究がまだ始まったばかりで、デカルトは実在界こそが人間にとっての新たな楽園であると信じていた。
しかし、それから3百年。
私のような実在を理解しても面白いと思うほどではない人間にとっては、実在界の中にいてもあまり幸福ではない。多少は人間の空想性を認める世界のほうがいい。
[1377] 頭の切り替え h16.8.26
私が高1のとき、隣の席の不良の不真面目な受講態度を見て文字通り怒り狂ったのは、実在を現象性イデア(とそれに複合する心)で見ていたからだ。
冷静に見れば、授業中に教科書をパラパラめくりしていたって、直接に周りの他人に迷惑が掛かるわけではないから、なにも怒るほどのことではない。それを怒り狂ったのは、現象性感覚に憑り付かれて実在を見失っていたからだ。
いくらテレビで空想番組(アニメやドラマ)を見たからといって、実在に対しては知覚を使って実在的見方をしなければならないように、実在覚が現象覚に呑み込まれてはいけない。
要するに、感覚の切り替えが大事なのだ。実在と空想とは違うから、違う対象に同じ見方を適用するわけにいかないのは当然だ。
[1378] (修正)実在性五感界の特徴 h16.8.26
1)「愛がない。」
これは、他の世界からの(修正)実在性五感界に対する批判である。愛の感情は性感によるので、実在性五感界にはないのだ。
2)実五界にはただ見るだけで「考えることがない。」(これも他の世界からの批判)「悟性はあるが理性がない」と言われたこともある。
たしかに実五界には五感と心しかないから考えることも理性もないが、実五界を改良した修実五界には知覚があるから、理性(すなわち五感や心に対する知覚の支配)もある。
五感は実在についての完全な認識ではないから、知覚で五感の不足を補ったりムダ(余分)を取り除いたりする必要がある。
実五界においてはイデア(眼で見えないが実在するもの)の存在が認められず、そのために感覚のルールがわからなくて現五感(現象性五感の略)を使って不幸になったのだから、イデアの存在を認めない実五界よりもイデアの存在を認める修実五界のほうが不幸になりにくいぶん幸福なのであり、実五界よりも修実五界のほうを選択すべきである。
3)「無口だけれど、悪気がない」(これは友人が私を紹介するときの言葉)
悪気とは現象性イデアおよびそれに複合する感情のことであり、現象性イデアは性感の経験から生まれるから、(修)実五界には悪気が存在し得ない。
無口なのは、私が直観能力(直接に物を観る能力)に長けているからだ。五感を現象覚や心の言葉で余計な意味付けをしない習慣が私にはある。〔物を見てすぐに「好き」とか「嫌い」とか言うのは男じゃない。実在をまず認めることが大事だ。実在がわかった後で心で見たほうが、もっと楽しい人生になるだろう。〕
実五界は実在に関する情報の源(みなもと)である。知覚や心を働かせずに、実在性五感を‘あるがままに’見て実在性直観(実在的イメージ)を得て、その分析から実在的概念(イデア)を得て、逆にそれらの概念を総合して(組合せて)五感を見れば(意味付けすれば)、実在がよく見えていい。
[1379] 現象性イデアの一例 h16.8.27
現象性五感から現象性概念が作り出される。例えば、幻聴から‘自他不可弁別性’のイデアが作り出される。
〔反対に、肉眼からは実在性イデアが作り出される。みんなも実在を肉眼で観察して、視覚界から実在性イデアを生成しよう。〕
[1380] 幸せは実在を超えたところにある。 h16.8.28
人間は実在の内にいすぎても外に出すぎても幸福になれない。〔実在の外に出すぎると、心の土台としての身体の存在が保てなくなり、心が心自身を否定することになるからである。〕
実在の中から外に出たり、実在の外から中に入ったりしながら生きていこう。
〔勉強ばかりして我慢しすぎると、裸で外をうろつく羽目になる。だから、実在についての知識ばかりでなく心の満足も日常生活に取り入れなければならない。〕
[1381] 子供を実五界から出さない法 h16.9.2
実五界(実在性五感界)から外に出なければ、私は出世できたはずだ。〔子供の頃の私は理数系が得意だったから、順調に行けばその分野で出世できただろう。出世の喜びもあったはずだし、その分野での成功の喜びも得られたはずだ。しかし、今の私には、そのどちらもない。喜びの少ない人生になってしまった。今の私の実在における生活は、ただ自分の肉体の生存を支えるだけのものにすぎない(泣)。〕
今の私が出世していないのは、思春期に実五界から出て現象界に入ってしまったからである。〔実五界から出たら、不良か気狂い(きちがい)かになるだけだ。〕
私が実五界から出たのは、実五界に対する不満があったからだ。
私は貧乏育ちなので、好きな物を十分に買ってもらえず、実五界に満足できなかった。〔子供の実五界には、物をいっぱい持っている喜びか、テストでいい点を取る喜びしかない。私には物を持っている喜びがなかったので、どうしてもテストでいい点を取らねばならず、そのため嫌いな科目を無理やり勉強しすぎて、欲求不満になってしまった。(その他の貧乏なバカには、マンガやテレビを見る喜びしかない。だから、マンガやテレビの存在も重要だ。でも、そういう喜びは弱いから、どうせすぐ現象界に出てしまうだろう。)〕
子供を実五界から出さないためには、好きな物を買い与えて実五界に満足させてやればいい。実五界の中に居たいと思う気持ちを育ててやれば、実五界から出ようとしないはずだ。
[1382] 躁鬱気質と分裂気質 h16.9.2
ほんらい実五感(実在性五感、つまり視覚や聴覚)から実在性概念(イデア)を作り出さねばならないのに、そうしないで(その手間を掛けずに)、生まれ持った先天知であるところの心の概念で五感を意味付けして見ているのが躁鬱気質の人である。見えているのは、本人自身の『心の世界』であって対象自体ではない。〔『考えるより見るが易し。』十分な実在性概念を持たずに、手持ちの概念だけでいくら考えても、実在のことはわからない。つまり、利口ぶってすぐに喋りたがるのは、アホに多い。心は性感よりは上品だが、実在知でないことに変わりはない。実在は実在知(実在から得られた概念)で見るべきだ。〕
同様に、後天的現五感(現象性五感、つまり性感)から作り出された現象性イデアで五感を意味づけて見ているのが、分裂気質の人である。〔分裂気質の人は、五感の活動が強く、経験の概念化が激しい。だから、分裂気質の人にとっては性感は禁忌(きんき)なのだ。〕見えているのは、本人自身の『性感の世界』であって、対象自体ではない。
[1383] 分裂病は統一病である。 h16.9.3
普通の人は実在(知覚界)から現象や空想を見ている。現象や空想が感覚にすぎず実在ではないことを知っているので、たとえ一時的に現象や空想を見て楽しむことがあっても、実在と接する時には感覚の切替が効くから、実在に適応して生きていける。普通の人は、実在と現象をきちんと区別していて、実在は実在覚で見て、現象は現象覚で見る。
一方、分裂気質の人は現象から実在(というか五感界)を見ている。分裂気質の人は現象覚(性感および性感に従属する知覚界や心界)が強すぎるために、実在と現象の区別ができず、感覚の切替が効かなくて、実在に対してまでも現象覚で見る。だから、実在に適応できなくなる。分裂病の人には世界が現象界のひとつしかなく、感覚の切替が効かないから、分裂病というよりもむしろ統一病と言うべきだ。
ちなみに、躁鬱気質の人は空想から実在(というか五感界)を見ている。心の活動(興奮)が強すぎるために実在が見えなくなっている。空想と実在の区別がないからこれも統一病だと言える。〔マンガやテレビについても、空想と実在を混同するから混乱する。空想と実在を区別できれば混乱しない。現代人は複数の世界を抱えて生きる宿命にあるのだ。〕
分裂病も躁鬱病も非実在的イデアで実在を見ることによる実在への不適応である。分裂病では後天性の現象性イデア(性感的イデア)で、躁鬱病では先天性の心性イデアで実在(というか五感界)を見ることによって、実在へ適応できなくなっている。
[1384] 仲間 h16.9.3
使う感覚によって所属する世界が決まる。
同じ世界の中に居る者同士は仲間だが、違う世界の中に居る者同士は仲間ではない。
仲間でない者が同じ規則に従う必要はない。〔他人のことに口出しするな。〕
[1385] 「頑張れ」 h16.9.4
医者が躁鬱病の患者に対して「頑張れ」と言うのは、患者に自分の心を否定して実在に適応せよと言う意味である。
しかし、人間が生きているのは自分の心を満足するためだから、これでは患者に「死ね」と言っているのと同然だ。
だから、躁鬱病の人に「頑張れ」と言うと自殺することになる。
「頑張れ」にはもうひとつの意味がある。それは、自分が今置かれている状況を打開して、自分の心を肯定して生きていくことだ。どうせ自殺することになるのなら、今一度死ぬ気で頑張ってみればどうだろうか。
[1386] エロ本 h16.9.4
私が小学3年生の時、友達にエロ本を見せられたことがあったが、なんとも思わなかった。〔そのエロ本は、宅地の原っぱに建っているプレハブの中のシンナー袋の隣にあった。〕
それは、そのころの私にはまだ性感の経験がなかったからだ。〔じつは、写真がぼやけていてはっきり見えなかった。それに、小学校に上がるまでずっと母親といっしょにお風呂に入っていたし。〕
性感の経験のない者にとっては、エロ本など無意味だ。
[1387] 偏執気質と万能気質 h16.9.5
現代人は複数の世界を抱えて生きる宿命にある。
いまここに、科目によって好き嫌いの激しい生徒がいたとする。彼は、好きな科目のセンスで嫌いな科目を見ているから、嫌いな科目がわからなくなり、ますます嫌いになるのだ。
その反対に、科目による好き嫌いがあまりない生徒がいたとする。彼は、科目に応じてセンスを切り替えられるので、正反対の性格の科目が両方とも理解できるのだ。いわば、両方の世界に適応して生きていけるのだ。
実在界と現象界についても、偏執気質では実在界か現象界かどちらか一方の世界しか認めないが、万能気質では両方の世界の並存が認められる(もっとも、時間的には違っているが)。そのため、偏執気質では実在界から現象界を見るか、反対に現象界から実在界を見るかのどちらかだが、万能気質では実在界と現象界とが独立に頭の中に存在している。偏執気質において、実在界から現象界を見れば、現象界が否定され実在に適応して生きていけるが、反対に現象界から実在界を見た場合、実在が現象的に意味づけられて実在に不適応になる(分裂病)。
[1388] モデル h16.9.5
ふたつの異なる世界AとBとがあったとする。
AとBの相違を認めつつ、AとBとを統一する方法が、“モデル”の考え方である。〔モデルとは、ニセ物の意味である。〕つまり、AとBを統一するには、世界Aの中に世界Bと同じ構造体を作ればよいのだ。
例えば、
実在哲学の[1316]の図は、実在界の中に作った現象界のモデルにほかならない。
数学は実在する脳細胞の上に作られた世界だから、実在界の中に作ったモデルといえる。
地動説の座標系を地表に採ったら天動説になるので、天動説は地動説の中に作ったモデルといえる。
マンガやアニメも、実在する紙やテレビの上に作られた世界なので、実在界の中に作った空想界のモデルだといえる。
[1389] 自業自得 h16.9.5
病気とは、自分で自分の身体を痛めつけることである。
分裂病では、幻聴に対して自分の知覚界にある性感から作り出された現象性イデアで意味づけることによって自分の心を不快にしている。
わざわざ自分で自分の心を痛めつけているから自業自得だ。
〔幻聴で伝わるのは言葉だけであって、言葉の意味づけは自分がしているのだ。他人の言葉に対して、自分が自分の知覚の中にあるイデアを用いて意味付けをしているのだ。〕
[1390] X器官 h16.9.5
感覚波を神経興奮(電気的変化)に変換する素子。
人間の大脳のどこかにある。
空耳や幻聴に関与する。
感覚場についてはまだなにもわかっていない。だから、X器官を使って
『まず測定から始めよ。』
[1391] 天才 h16.9.5
天才とは、実在界の中に幸福のある者である。
私は、教師が面白かったことへのお礼に勉強しただけのことで、勉強そのものが好きなわけではないから、天才ではない。私にとって実在界は自分が生きるために必要だから、仕方なく関るだけである。
[1392] うたかたの素粒子 h16.9.6
典型的な素粒子の寿命は約10の−23乗秒であるそうだ。
それに較べて感覚子の寿命すなわち脳細胞(一般には神経細胞)が興奮している時間は数ミリ秒と比較的長い。
感覚子が生成・消滅する時には、感覚場に影響を及ぼす。
通常の感覚子では遠達性の波動は生じないが、X器官のように感覚子が特定の配置をとると遠達性の波動(感覚波)を発生しうる。〔ちなみに、赤ちゃんは脳の活動(神経興奮)が活発だから、赤ちゃんの脳の周りには拡散性のボワボワした波動が発生している。〕
[1393] 分裂病の本質 h16.9.6
普通の人にも空耳はある。だから、幻聴は分裂病の本質ではない。〔例えば、私が小学2年生の時に算数ドリルの問題を考えながらプールの溝掃除(みぞそうじ)をしていた時、空から大人の声で「この道を歩め」とはっきり聞こえたことがあったが、それっきりで何もなかった。〕
分裂病の本質は、性感から作り出された現象性イデアと、それに複合する心にある。だから、幻聴でなくても、普通の口から発せられた言葉に対しても、分裂病者は現象性イデアで意味付けして怒り狂って暴れたりする。〔例えば、私の場合、性感から作り出された現象性イデアで隣の席の不良の教科書パラパラめくり遊びを見たために怒り狂ってテレパシーを使おうとして幻聴が聞こえるようになったのであって、そもそも実在性イデアで見たならそんなバカ気たことは思わなかったはずだ。〕
[1394] 統一気質 h16.9.6
私が中学高校生の頃、社会科や生物学がわからなかったのは、数学や物理学の見方で社会科や生物学を見ていたからである。社会科や生物学がわかるには、それに相応(ふさわ)しい見方をしなければならなかったのだ。そもそも、小学高学年の頃から歴史が苦手だった。算数や理科は好きだったから、その頃からすでに統一した見方をしていたのだ。私の心にとっては、数学や物理学の世界のほうが社会科や生物学の世界よりも快適だったのだ。しかし、現象の世界を覚えてしまうと、数学や物理学の世界よりもいっそう現象界のほうが快適なので、見方が現象的な見方に統一されてしまった。ところが、実在を現象覚で見ると、実在がわからなくなり実在に適応できなくなる。こうして私は分裂病になってしまった。〔一般に、分裂病では実在に対して嫌になるというが、幻聴に対しても嫌がるから、実在界に対しても現象界に対しても全てに対して嫌なのだ。まさに地獄だ。〕
ところが、私の友人は、私とは反対に、社会科や生物学は得意で数学や物理学は苦手だった。得意不得意は私と反対だが、共通していることがある。それは、私も私の友人も、自分の心にとって一番幸福な世界の中に居ようとしたことだ。〔素直でいい。もっとも、出世や名誉だけが喜びなら、科目によらずに勉強し全科目でいい点が取れるだろう(いわゆる東大気質)。私の心には、出世や名誉の喜びがあまりないので、科目の味を大事にしたかったのだ。〕
[1395] 火 h16.9.7
人類は火に対する恐怖を克服し、より豊かな(幸福な)生活を手に入れた。〔心は、それ自身を否定することによって、より満たされることがある。『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。』このことは、あるレベルまでは通用するが、そのレベルを超えると無理のようだ。例えば、私の場合、小学校や中学校の数学や理科なら楽しく勉強できたが、高校生になるとちょっと苦しくて、大学になるともはやお手上げで嫌なだけだった。病気でも、薬や注射ぐらいなら許せるが、手術は嫌だ。手術を受けるくらいなら死んだほうがましだ。実在を受け入れて幸福になるには限界がある。その限界は、個人の知覚や心の出来によって決まるようだ。〕
[1396] 統一気質と切替気質 h16.9.8
物事に対する見方を統一したがるのが統一気質で、物事に対する見方を統一せずに物事に応じて切り替えられるのが切替気質である。〔本当は、統一の反対語で分裂としたかったのだが、これでは以前用いていた分裂気質と同じになってしまうので、ここではやむを得ず切替気質(きりかえきしつ)とした。〕
統一気質の中には、実在を現象覚(つまり、性感と性感から作り出された現象性イデアとそれらに複合する心)で見る分裂病および神経症や、実在を空想覚(つまり、実在に適応しない感情と妄想の複合体)で見る躁鬱病がある。〔分裂病と神経症の違いは、発症した時期による。多感な時期に発症すると広汎性の分裂病になり、幼児期に発症すると局在性の神経症になる。〕
切替気質では、実在に対しては実在覚(つまり、実在性五感とそれから作り出された実在性イデアとそれらに複合する心)で、情事に対しては現象覚で、テレビやマンガなどの娯楽番組に対しては空想覚で見て、自分が見る物に応じて自分の見方(使う感覚)を切替えることによって適応している。〔どこまで感覚の切替が利くかは、個人の素質による。例えば、私は感覚の切替が苦手であって、同時に二つ以上の感覚が働いてしまう。〕
実在主義の切替気質では、実在覚を第一に考え、現象覚や空想覚をニヒル(否定的消極的)に見ているので、現象覚や空想覚に浸(ひた)り切ることはない。しかし、実在主義でない統一気質では、実在を軽(かろ)んじているので、分裂病では現象覚に浸り切りになり、躁鬱病では空想覚に浸り切りになる。〔いわゆる辞書的意味での分裂気質は、情事における心の動き(感情のないプラトーのあとで、一過性の激しいオルガスムスが来る)を気質に言い換えたものであり、躁鬱気質は文学における典型的な心の動き(苦しみを乗り越えたところに楽しさがある)を気質に言い換えたものである。〕
[1397] 感覚波は感覚子ではない。 h16.9.8
なぜなら、幻聴の聞こえない人がいるから。もし、感覚波が感覚子の放射であるとすれば、感覚波を浴びたすべての人に幻聴が聞こえるはずだが、実際には幻聴が聞こえない人がいるから、感覚波自体が感覚子なのではない。やはり、感覚波と感覚子とは別物であり、感覚波がX器官において神経興奮に変換され、さらにそれが聴覚野の脳細胞を興奮させてはじめて‘聞こえる’ことになるのである。だから、X器官の覚醒していない人にとっては、感覚波は感じられないのだ。
電子と電波(光)が別物であるように、感覚子と感覚波とは別物であり、感覚子の発生・消滅・加速などによって感覚波が発生するのである。
[1398] 科学以前の科学 h16.9.8
本に言葉で書かれたものだけが科学なのではない。
科学的認識の素になる、科学以前の、肉眼でとらえた生(なま)の実在観(実在的イメージ)こそが、最も大事なことなのだ。
[1399] 楽しさと正しさ h16.9.8
楽しさは本人にとっては大事だが、他人にとっては感じられないからどうでもいい。
他人にとって大事なのは、認識の正しさだけだ。〔つまり、楽しさは個人的価値しかないが、認識の正しさは普遍的価値を持つ。…というのは極論で、マンガやテレビのような娯楽が成立するのは、製作者と視聴者の間で心の共感がある(つまり、製作者の心で面白いと感じたものを、視聴者の心でも面白いと感じる)からで、このように楽しさの共有もあるから、楽しさにも多少の普遍的価値はあるのだろう。反対に、他人にとって利用価値のない真理は、たとえ正しくても個人的価値しかないだろう。〕
[1400] 分裂病者は気高い? h16.9.9
現象界には、はじめは気持ちよかったので入ったが、あとで不快になったので出たかった。
それなら、現象界をやめて、自分の心にとってもっと幸福な他の世界を探せばよい。〔なにも単一世界である必要はない。複数の世界を掛け持ちして最も自分の心が満足できるようにすればよいのだ。例えば、私の修正実在性五感界には現象の喜びはないが、実在と空想の喜びはある。〕
なかには、一生現象界の中に入ったきりの者もいるだろう。そいつらに較べれば、現象界を不快に思うだけ、分裂病者のほうがまだしも気高い心を持っているといえる。