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[11701] 西暦30世紀の世界 h22.12.28
西暦30世紀になれば、また合理と不合理がひっくり返っているかもしれない。つまり、不合理が少数派で、合理が多数派になっているかもしれない。合理が悪で、不合理が善になっているかもしれない。
科学技術が発達しすぎたために、みんなが不合理な感情を満足させても他人と問題なく暮らせるようになるかもしれない。みんなが不合理な感情でも合理な感情でも自分が好きなほうを満足させながら自由に暮らせるようになっているかもしれない。
だから、未来社会はイギリス方式(近代方式)の政治が再び脚光を浴びるようになるかもしれない。
しかし、当分の間は人類は合理主義でやっていかねばならない。
現代の合理主義も未来人から見たら、遅れた野蛮な主義に見えるかもしれない。堅苦[かたくる]しい面白くない主義に見えるかもしれない。
しかし、とにかく今を生きる人間は今の時代の法[ほう]に従うしかない。今は合理主義の時代だから、みんなが合理主義でなければならない。それが今を生きる者の定めだ。

[11702] 国家宗教禁止法 h22.12.29
要するに、世界大戦までは人類みんなが不合理なことをやってもよかった。世界大戦までは成文法で合理なことをやってもよかったが、また不文法で不合理なことをやってもよかった。つまり、なんでもやってよかった。[ただし、古代~中世は合理なことをやってはいけなかった。]ただし、不合理なことをやるときには国家宗教に従って神の情報を入れねばならなかった。つまり、国家宗教とは古代の人が作った法律(不文法)だったのである。明治帝国憲法には国家宗教のことは明記されていないが、みんなが国家宗教のことを知っていて不文法として使っていた。
しかし、戦後は、不合理なことをやってはいけなくなった。経験の積み重ねによって、人類みんなが不合理なことをやめて合理なことをやるようになった。要するに、合理的とは成文法としての憲法を守ることである。
ただし、戦後も少数の国民は不文法の国家宗教を使って不合理なことをやっていた。政府も国家宗教を認めていた。
しかし、今は合理主義の時代である。合理主義の時代では政治機関は『多数決の原理』に従わねばならない。そうでない限り、国民は政治機関の命令に従わない。[このことは、今日[こんにち]では常識として認められている。たとえ政治機関がなんと言おうが通用する。]だから、合理主義の時代にはみんなが合理主義を守って不合理なことはやってはならない。つまり、国家宗教をやってはならない。だから、政治機関は憲法ではっきりと国家宗教を禁止しなければならない。つまり、『いくら国家宗教を使っても憲法に反することをやってはならない』ことを憲法で成文法として定めなければならない。国会議員の誰かがやってくれないだろうか?

[11703] 本当に今でも国家宗教が使えるか? h22.12.29
もしも、今でも国家宗教が使えるとしたら、神の情報を入れれば何でもできる。
しかし、実際には、国家宗教は禁止されているようだ。つまり、今は合理と不合理の両方が行けるから、合理もやれるわけで、今は合理を支持している国民のほうが多いから、被害者が合理で押して来たら加害者はすぐに負ける。
だったら、政府は国家宗教をやめるべきだ。例えば、国家宗教でテレビコマーシャルを作ったり、国家宗教で国会で定めた法律の名前を付けたりしてはならない。[例えば、家電リサイクル法は、名前が国家宗教で付けているだけで、実質的には合理的な法律だと思われる。]
政府は国民に思わせぶりなことをして国民をからかってはいけない。

[11704] 国家宗教は政府のイタズラ? h22.12.29
今では、国家宗教は政府の命令で信者がやっているだけである。信者は自分で勝手に国家宗教をやることはできないことになっている。信者が勝手にやると警察に捕[つか]まって罰せられる。要するに、信者は政府の道具である。
だから、国家宗教は政府がやっているのとほぼ同じである。
その他の国民は合理主義を守って合理的に生きている。
政府は国家宗教で不合理なことをやって、自分ひとりで国をメチャクチャにして喜んでいるだけである。
政府が国家宗教をやっても国民にとって利益になることは何もない。むしろ有害である。
つまり、国家宗教は政府が自分の不合理な心を満足させるためにやっているイタズラである。
しかし、そもそも政治機関は国民の心を満足させるためにある。政府自身の心を満足してイタズラをするためにあるのではない。そんなことのために、国民が政府に税金を払っているのではない。
今は合理的な時代である。合理的な時代においては、政府は国民の意見をまとめる機関にすぎない。政府は多数の国民の代理だから国民に命令できるのである。だから、今の政府のように国家宗教で余計なイタズラをする機関はもはや国民の多数の代理とはいえないから、国民に命令することができない。政府は日本で一番くだらない会社だ。だから、国民はさっさと政府を倒すべきだ。今の政府は民主主義の機関ではなく、国家宗教をやる機関にすぎない。そんな機関は国民は要らない。
今は合理主義の時代である。国民は合理主義の団体であり、政府は不合理主義の団体である。国民に対する政府は多勢[たぜい]に無勢[ぶぜい]である。政府が国民に勝てるわけがない。それなのに、今の政府は国民にケンカを売っている。政府は馬鹿だ。

[11705] どうして政府は戦後も国家宗教をやっているのか? h22.12.29
戦前の政府は合理主義の部と不合理主義の部のふたつの部から成っていた。
戦後、国民が合理主義になって政府の不合理主義の部はかなり縮小したがそれでも少し残った。
その戦後に残った政府の不合理主義の部が今でも活動して国家宗教をやっているのである。


[11706] どうして天皇がいるのか? h22.12.29
昔の人は不合理主義だったので、王や神を崇[あが]める心があった。つまり、昔の人は王や神を崇めることを喜びにしていた。
政府は昔の人の神を崇める心を満足させるために天皇を置いたのである。
しかし、今の人は合理主義なので、王や神を崇める心がない。
だから、今の人にとっては天皇は要らないのである。
昔は外人も神を崇めていたので、日本に天皇がいることで外人は日本を「上の者」として日本に従ったので日本が有利になっていたのである。
しかし、今では外人も合理主義になって神を崇めなくなったので、もはや天皇がいても仕方がないのである。

[11707] 戦争とは何か?☆ h22.12.29
昔の人は不合理主義だったので、人を殺したい心があった。だから、昔の人にとっては戦争が娯楽だった。
昔の人は喜んで戦争をやったので、世界中で盛んに戦争が行われていた。

昔は戦争に勝った国が負けた国を好き勝手にできる決まりがあった。
それで、昔は盛んに戦争をやっていたのである。
戦争に強い国が外国に戦争を仕掛けて戦争に勝って外国の財産を根こそぎ独[ひと]り占めしていたのである。戦争に負けた国は勝った国の植民地となって戦争に勝った国に国の全財産をやらねばならなかったのである。
それで、戦争に強い国がしこたま儲[もう]けていたのである。
もっとも世界大戦は外国の財産を奪うための戦争ではなく、ゲーム(国民の娯楽)のための戦争だったので、戦争に勝った国が負けた国の財産を取ることはなかった。それで、戦争に負けた日本も植民地にされなかった。
しかし、今の人は合理主義になったので、人を殺したい心がなくなった。それで、今の人は戦争をしなくなったのである。政府は国民に戦争をさせることができなくなったのである。植民地戦争もゲームの戦争もなくなった。戦争の時代は終わった。植民地は植民地戦争で維持されていたので、人々が戦争をやらなくなると植民地もなくなった。

[11708] 政治と戦争は無関係である。 h22.12.29
近代方式(イギリス方式)の政治の仕方[しかた]は、戦争とは無関係に全世界に広がった。近代の人は合理と不合理の両方の心を満足するやり方を好んだので、世界中の政府が自主的に近代方式を取り入れたのである。けっして戦争に負けて押し付けられたのではない。戦争は国の政治の仕方とは無関係に軍事力に物を言わせて行われていたのである。
しかし、今では現代の人は合理の心を満足して不合理の心を満足しなくなったので、近代方式の政治の仕方は嫌がられている。現代では、合理の心だけを満足する現代方式の政治の仕方が好まれている。現代の政治機関は近代方式をやめて現代方式にしなければならない。

[11709] 今の政府はどうして国家宗教をやっているのか?☆☆ h22.12.29
今の政府が今の国民を不合理的だと思っているからである。
今の政府が「政府が国家宗教をやると国民が喜ぶ」と思っているからである。今の政府は国民を喜ばせるために国家宗教をやっているのである。
[私が小学生の頃、友達の正岡淳之[まさおかあつし]君とよく遊んでいたが、正岡君は私といっしょに遊んでいる時によく「小さな親切大きなお世話」と言っていた。これは政府の国家宗教のことを言っていると思われる。政府は親切のつもりで国民に国家宗教をやっているのだが、結果的には国民に迷惑になっていることを言っている。正岡君は親の託[ことづけ]で親が政府に言いたいことを私に伝えていたのだろう。]
しかし、実際には、今の国民はそれほど不合理的ではない。
今の政府は国民を誤解している。
だから、政府は国家宗教をやってはいけない。

[11710] 合理主義の時代 h22.12.29
合理主義の時代においては、政府は国民をまとめる機関にすぎない。つまり、政府は多数決の原理に従っていなければならない。政府は民主主義でなければならない。政府は多数の国民の代理だから、国民に命令できるのである。例えば、政府は多数の国民の代理だから、国民から税金が取れるのである。
だから、政府がちょっとでも『多数決の原理』に反していると、政府は多数の国民の代理ではないから、国民は政府に税金を払わなくてもいいことになる。
つまり、合理主義の時代では、政府は国民になめられる存在なのだ。
しかし、それはしかたがない。政府がそれに耐[た]えられなければ、現代では政府は務[つと]まらない。

[11711] 政治機関の変遷[へんせん] h22.12.29
中世のローマ方式では、政治機関には不合理主義の部しかなかった。
近代のイギリス方式では、政治機関には不合理主義の部と合理主義の部の両方があった。
現代方式では、政治機関には合理主義の部しかない。
今の日本政府は、イギリス方式(近代方式)でやっている。不合理主義の部を減らした修正イギリス方式でやっている。[[11705]の図を参照。]
現代の政治機関には合理主義の部しか要らない。
中世の政治機関が合理主義者を死刑にしたように、現代の政治機関は不合理主義者を死刑にしなければならない。[合理主義者と不合理主義者は相互作用が強いから、どちらか一方に揃[そろ]えねばならない。]
だから、日本政府は不合理主義の部をなくさなければならない。


[11712] 現代人は修正イギリス方式ではない。 h22.12.29
現代人は合理主義だけで生きている。
現代人は今の政府みたいに修正イギリス方式で生きていない。つまり、“合理主義と弱めた不合理主義をいっしょにした主義”で生きてない。
だから、今の政府は現代人に適していない。
今の政府は現代人の心を満足しない。
だから、現代人にとっては今の政府が要らない。

[11713] 合理主義について h22.12.29
人間が不合理な心を満足すると幸福になるように、合理な心を満足しても幸福になる。不合理な心を満足すると一時的には幸福だが、あとで不幸になることが多い。合理的な心はあとで不幸になることがない。だから、人間はなるべく合理的な心を満足して、不合理な心を満足しないほうがいい。
合理主義でも若干[じゃっかん]の不合理が許されている。
マンガは不合理的だが、日本国憲法第23条学問の自由で許されている。
結婚は不合理的だが、日本国憲法第24条結婚の自由で許されている。
酒やタバコは不合理的だが、日本の法律では許されている。[[11596]を参照。]
だから、今が合理主義の時代だからといって、あまりギクシャクして考えなくてもよい。

[11714] 検閲[けんえつ]の禁止 h22.12.29
言論出版の自由は日本国憲法第21条で保障されている。
それにもかかわらず日本で政府が検閲をしているのは、日本には不文法の裏の法律があるからである。
今の日本政府は修正イギリス方式で政治をしており、日本政府には不合理主義の部があって、不合理主義では政府は国民よりも「上の者」だから政府が検閲をしているのである。
しかし、今は合理主義の時代である。政府は合理主義の部だけでなければならない。政府には不合理主義の部があってはならない。だから、政府は日本国憲法を犯してはならない。政府は日本国憲法第21条に従って検閲をしてはならない。例えば、政府は政府にとって不利なことを書いた本の出版を禁止してはならない。

[11715] 今の政府は国民から税金を取れない? h22.12.29
政府が国内暴力団を大目に見るのは、政府と国内暴力団が同じことをやっているからである。警察が国内暴力団を逮捕[たいほ]しないのは、国内暴力団が政府と同じことをやっているからである。つまり、政府も国内暴力団も合理法(成文法、日本国憲法)を犯して国民の不合理な心を満足させるサービスをやっているからである。
要するに、政府が国内暴力団を大目に見るのは、政府も国内暴力団も合理法を犯しているからである。
だから、国民が合理法を犯しても政府も合理法を犯しているから、政府は国民に文句が言えない。今の政府の不合理主義の部がやっているサービスは実際には国民のほとんど誰の心も満足させず自分の心を満足させるためのイタズラにすぎないから、国民が他人の心を満足させず自分の心を満足させるために合理法を犯してもかまわないはずである。
したがって、国民は合理法を犯してもいい。
例えば、国民は政府に税金を払わなくてもいい。
ただし、一般の国民はちゃんと合理法を守っているから、一般の国民に対しては合理法を犯す危害や損害を加えてはいけない。

[11716] 今の国民は政府に税金を払わなくていい。 h22.12.30
今は合理主義の時代である。合理主義の時代には、国民も政治機関も合理的にしなければならない。
政治機関が国民から税金を取るためには、政治機関は多数決の原理に従わねばならない。税金は国民が「政治機関があって欲しい」と思うから国民が政治機関に払うのである。だから、政治機関が国民から税金を取るためには、国民に「政治機関があって欲しい」と思われねばならず、そのためには政治機関が多数決の原理に従わねばならない。
ところが、今の政府は合理主義の部が多数決の原理に従っているだけで、不合理主義の部が多数決の原理に従わないことをやっている。
だから、今の国民は政府の合理主義の部には税金を払いたいが、政府の不合理主義の部には税金を払いたくない。ところが、今の政府は政府の不合理主義の部も国民から税金を取っている。これは不当である。
だから、政府は合理主義の部と不合理主義の部に分かれて、政府の合理主義の部だけが国民から税金を取るようにしなければならない。
政府がそうしないかぎり、国民は政府に税金を払わなくてもよい。

[11717] 政府はやることがない。 h22.12.30
政府は合理主義の部と不合理主義の部から成る。
戦前は国民が不合理的だったので、政府の不合理主義の部が国家宗教や戦争をやって国民を喜ばせた。
しかし、戦後は国民が合理的になったので、今では政府の不合理主義の部が国家宗教や戦争をやっても国民の誰も喜ばない。今の国民は国家宗教や戦争を馬鹿臭いと思うだけである。
政府の不合理主義の部はもはや仕事がない。[国内暴力団は、民間の不合理サービスをする会社である。今の国民は合理的になったので、国内暴力団も仕事がなくなって来ている。]
政府の合理主義の部の仕事もだんだん民間企業に取られて行って、政府はやることがなくなる一方だ。政府は国民を喜ばせる会社だが、民間企業が政府よりも先に国民が喜ぶ仕事をするので政府は仕事がない。しかも、政府よりも民間企業がやったほうが割安[わりやす]だから、ますます政府は仕事がない。
そのうち政府は仕事がまったくなくなって消えてしまうかもしれない。

[11718] 国民が政府に税金を払わないとどうなるか? h22.12.30
国民が政府に税金を払わないと、国民が法律(合理法、日本国憲法)を犯していることになり、国民が逮捕[たいほ]される。
しかし、それでは政府の態度があまりにも偉そうである。
政府も政府の不合理主義の部が法律を犯している。政府の不合理主義の部は信者に命令して犯罪を犯させている。オウム真理教の幹部が信者に命令して犯罪を犯させているのと同じである。オウム真理教の幹部が有罪なら、政府の不合理主義の部も有罪である。
政府は自分が法律を犯していても自分を逮捕しないのに、国民が法律を犯したからといって国民を逮捕するのは、政府があまりにも自分勝手である。それでは政府が自分を棚上[たなあ]げにしていることになる。今は合理主義の時代であって、政府と国民は平等だから、国民がいけないことは政府もいけない。対偶[たいぐう]を取れば、政府がいいことは国民もいい。
だから、国民は法律を犯してもいい。
つまり、国民は政府に税金を払わなくてもいい。
このように、政府があると、国民が法律を犯してもいいことになる。国民が法律を犯すと世の中がメチャクチャになる。だから、政府はなくなったほうがいい。

[11719] 国民は政府の不合理な命令を聞かなくていい。 h22.12.30
今は合理主義の時代である。合理主義の時代においては、政府と国民は平等である。
政府と国民が平等であるのに政府が国民に命令できるのは、政府が多数決の原理に従って政府が多数の国民の代理だからである。つまり、政府が多数の国民の代理である場合だけ、政府は国民に命令できる。
政府は合理主義の部と不合理主義の部から成る。
政府の合理主義の部は多数決で合理的な法律を作って国民に合理的な命令を出す。この場合には、政府が多数決の原理に従っているから、国民は政府の命令を聞かねばならない。
しかし、政府の不合理主義の部は多数決によらずに自分勝手に不合理な法律を作って国民に不合理な命令を出す。この場合には、政府が多数決の原理に従っていないから、国民は政府の命令を聞かなくていい。[政府の不合理主義の部が作った法律は国会を経ずに直接に行政機関に行って国民に命令が出される。不合理な法律に関しては罰則の規定はないと思われる。つまり、国民の自由意志で従うか従わないかを決めればいい。]
つまり、国民は政府の命令を何でも聞かねばならないわけではない。国民は政府の合理な命令を聞かねばならないが、政府の不合理な命令を聞かなくていい。政府が“合理な命令と不合理な命令を混ぜた命令”を出した場合には、国民が政府の命令を合理な部分と不合理な部分に分析して、政府の命令の不合理な部分を捨てて合理な部分だけにして政府の命令を聞けばいい。
今は合理主義の時代である。合理主義の時代には正しいことをやってもいい。今の政府は国民を誤解している。[[11709]を参照。]国民が政府の不合理な命令を聞かないのは、国民が政府のまちがいを修正してやることだから、やってもいいと考えられる。今では政府と国民は平等である。政府がやっていることは国民がやってもいい。政府が国会を経ずにつまり国民の承認を経ずに国民に不合理な命令を出しているのなら、逆に国民が政府の承認を経ずに政府の命令を無視してもいいはずだ。

[11720] 政府はイメージが悪い。 h22.12.30
今は政府がやっている仕事を民間会社が真似[まね]て、政府の仕事を民間会社が奪[うば]っている。例えば、クロネコヤマトの宅急便がそれである。[“クロネコヤマトの宅急便”とは、黒猫は見た者に不幸をもたらすと言われているから、政府が国民に毎日不幸を届[とど]けていることを表している。民間会社の政府に対するイヤミである。]
国民は「今の政府が国家宗教で不合理なことを国民にやらせている」ことを知っている。「今の政府が国民を不幸にしている」ことを知っている。
国民は今の政府に対して悪いイメージを持っている。
だから、国民は同じサービスなら政府よりも民間会社のほうを利用する。
だから、政府の仕事が民間会社にどんどん奪われているのである。政府の仕事がなくなっているのである。政府そのものがなくなっているのである。今に学校や警察や国会も民間会社がやるようになるだろう。
政府の不合理主義の部のために、政府全体が潰[つぶ]されているのだ。

[11721] 政府はどうして国家宗教をやっているか? h22.12.30
政府は国民を喜ばせる会社である。
政府は国民を喜ばせるために国家宗教をやっているのである。
政府は「戦前の国民が国家宗教を喜んでいたから、戦後の国民も国家宗教を喜ぶだろう」と思って今でも国家宗教をやっているのである。
しかし、政府が思うよりも国民の変化が速い。国民の変化が激しい。
今の国民は合理主義になって国家宗教を喜ばなくなっている。むしろ国家宗教を嫌がるようになっている。戦前の国民は不合理が好きだったが、今の国民は合理が好きなのだ。戦前の国民が米を食べていたのに、今の国民がパンを食べるようになっているのと同じことである。
だから、今の政府は今の国民を喜ばせるために、今の国民に合わせて不合理な国家宗教をやめて、なにか『合理的で面白いこと』をしなければならない。つまり、国家宗教は古い。国民は新しいことでなければ喜ばないのだ。

[11722] 若者はどうして馬鹿なのか? h22.12.30
今の若い人は「政府が国民のためになることをする正義の会社だ」と思っている。
それは、今の若い人が教科書の上だけで本の上だけで勉強しているからである。
今の若い人が自分の眼を使っていないからである。
人間は自分の眼で見て自分の頭で考えて自分の心で思って自分の身体で行動すれば一番うまく行く。
今の若い人は自分の眼で見ずに自分の頭で考えているから馬鹿なのである。うまく行かないのである。
今の若い人がもっと大人になって教科書や本を離れて自分の眼で見るようになれば、今の歳が行った大人が考えていることが自分にもわかるようになるだろう。つまり、今の大人が『政府は国民のためにならないことをする悪い会社だ』と考えていることがわかるようになるだろう。

[11723] 政府がなくなるとどうなるか? h22.12.30
政府がなくなると、国民みんなが自分で好き勝手なことをするようになる。
もっとも、今の人は合理的だから「万人の万人に対する戦い」にはならない。しかし、少数の例外的な不合理主義者が合理主義者に迷惑をかけることになる。
だから、国には『国民全員を合理主義に揃[そろ]える機関』が必要である。
税金でやろうがやるまいが、そういう機関が必要である。
もっとも、今の政府は合理主義の部と不合理主義の部の両方があって、今の政府があると世の中がややこしくなるから、今の政府は要らない。

[11724] 弁証法[べんしょうほう] h22.12.30
弁証法とは、この世が正反合で出来ているとする考え方である。正反合で発展するという考え方である。
政府の合理主義の部が“正”で、不合理主義の部が“反”で、政府は合理主義の部と不合理主義の部が“合”わさって出来ているのだ。政府は弁証法の理[り]に適[かな]っているから、政府が正しく、国民が政府に従えばうまく行くというのである。昔は弁証法が政治学の基本原理だと考えられた。
しかし、今は『多数決の原理』が政治学の基本原理だと考えられている。この世は多数が善[ぜん]で少数が悪であり、今は合理主義が多数で不合理主義が少数だから、政治機関は合理主義の政治をしなければならないのである。
弁証法はまちがいである。だから、合理主義と不合理主義をただたんに足し合わせてやっているだけの政府はまちがっている。国民が政府に従ってもうまく行かない。
だから、国民は政府に従ってはならない。国民は政府の合理主義の部だけに従わなければならない。

[11725] 人間とは何か? h22.12.30
不合理な心とは、人間の生まれつきの心である。人間の先天的な心である。例えば、不合理な心とは、人殺しをしたい心、他人の物を取りたい心、神や王を崇[あが]める心などである。麻薬欲や性欲などである。
合理な心とは、人間の後天的な心である。人間が実在の世界の中で試行錯誤を重ねて最終的に満足させてもいいと判断した心である。例えば、合理的な心とは、自分や他人の生命を守る心、自分の財産を守る心、考える心などである。テレビを見たい心、テレビゲームをやりたい心、酒やタバコをやったりする心などである。
昔の人は、実在の経験が足りなかったから、不合理的な心を満足していた。
今の人は、実在の経験を積み重ねて、合理的な心を満足するようになっている。
つまり、昔の人は不合理的な心を持っていたが、今の人は合理的な心を持っている。
それなのに、政府は不合理的な心と合理的な心の両方を満足させている。
政府は古代人と現代人の両方を喜ばせている。
しかし、今では古代人はいないから、政府は古代人を喜ばせなくてもいい。

[11726] 人類の思想の変遷[へんせん] h22.12.30
昔は不合理主義が多数で、合理主義が少数だった。
今は合理主義が多数で、不合理主義が少数である。
人類は時間をかけてしだいに不合理主義から合理主義になっていったのである。
それなのに、今の政府は不合理主義と合理主義の両方をやっている。
政府は民主主義を「国民全員の主義をやることだ」と誤解している。だから、政府は今でも不合理主義と合理主義の両方をやっているのである。しかし、民主主義は本当は『多数の国民の主義をやること』である。今では合理主義が多数であり、不合理主義は少数である。だから、政府は合理主義だけやればいいのである。


[11727] 宗教心で幸福に生きられるか? h22.12.31
宗教心とは神を崇[あが]める心である。現代では、普通の人には宗教心がないが、たまに宗教心がある人がいる。宗教心がある人は、神を崇めると幸福になることができる。
宗教心を満足しようとする人は宗教団体に入って信者になる。
ところが、宗教団体には幹部がいる。
幹部は神と組んで、信者にとって「上の者」となっている。
だから、信者は幹部の命令に何でも従おうとする。
幹部は信者の上の者に従おうとする心を利用して、信者に「全財産を出せ」と命令をして信者の全財産を奪う。
結局、信者は全財産を失って無一文[むいちもん]になって死なねばならない。
だから、宗教心では幸福には生きられないのである。
したがって、宗教はやってはならない。麻薬や賭博[とばく]をやってはならないのと同じことである。
戦後の国民が宗教をやらなくなったのは、宗教心が人間を不幸にすることを知ったからである。

[11728] 税金の金額について☆ h22.12.31
昔は不合理主義の時代だったから、政治機関の税金の金額も不合理だった。つまり、税金はメチャクチャ高かった。
今は合理主義の時代だから、政治機関の税金の金額も合理的である。リーズナブルである。つまり、税金はメチャクチャ高くない。
だから、今では税金の金額は問題ではない。税金を払うか払わないかは問題ではない。
問題は、政治機関のサービスが国民を幸福にするかしないかである。
不合理サービス(不合理な心を満足するサービス)は一時的に国民を喜ばせるだけで、後[あと]でかえって国民を悲しませる。[[11725]を参照。]
合理サービス(合理的な心を満足するサービス)は恒久的[こうきゅうてき]に国民を喜ばせる。
政治機関は、国民を喜ばせるのが仕事である。だから、政治機関は国民の不合理な心を満足させてはならず、国民の合理な心を満足させねばならない。つまり、政治機関は不合理サービスをしてはならず、合理サービスをしなければならない。
人間の心には満足させてもいい心と満足させてはいけない心がある。人類は長い時間をかけてようやくそれらを正しく区別できるようになったのだ。政治機関も国民もその知識を活[い]かさねばならない。政府は国民に合理サービスをして不合理サービスをしないことによって、国民に人間が満足させてもいい心と満足させてはいけない心を教えてやらねばならない。
つまり、政治機関が善[い]い(満足させてもいい心と満足させてはいけない心を正しく区別できる)国では国民が幸福であり、政治機関が悪い(満足させてもいい心と満足させてはいけない心を正しく区別できない)国では国民が不幸であるということだ。

[11729] 不合理から合理へ☆ h22.12.31
不合理な人間は実在の経験が足らず、満足させていい心と満足させてはいけない心が正しく区別できない。
合理な人間は実在の経験が十分にあって、満足させていい心と満足させてはいけない心が正しく区別できる。
だから、不合理な人間は合理な人間を見習わねばならない。不合理な人間は合理な人間から、満足させていい心と満足させてはいけない心を教えてもらわねばならない。そうすることによって、みんなが合理な人間にならねばならない。
それが文化というものだ。
政府は教育かなにかによって、不合理な人間を合理な人間に変える工夫[くふう]をすべきである。けっして、不合理な人間と合理な人間の両方を満足させるために、不合理サービスと合理サービスの両方をやったりしてはならない。

[11730] どうして政府は国家宗教をやるのか? h22.12.31
国民には合理主義の国民と不合理主義の国民の2群がある。
政府は不合理主義の国民を幸福にするために国家宗教をやっているのである。
しかし、不合理主義の喜びは一時的に幸福になるだけで、長い目で見ればかえって不幸になる。
不合理主義の国民は実在についての経験が足らないために、満足してもいい心と満足してはいけない心が正しくわかっていないだけである。
だから、政府は不合理主義の国民を幸福にしているのではなく、実際には不合理主義の人間を不幸にしていることになる。
政府が不合理主義の国民を本当に幸福にしたければ、合理主義の喜びを満足させるべきであって、不合理主義の喜びを満足させるべきではない。
例えば、政府は国家宗教をやるべきではない。
国家宗教は、人類が経験の積み重ねによって最終的に捨てた喜びである。国家宗教には他人の言いなりになる副作用があって危険なので、人類は国家宗教をやらなくなったのである。[[11727]を参照。]
だから、政府は国民に国家宗教をやらせてはいけない。

[11731] 女と男の違い h22.12.31
女は「眼で見ただけで実在がわかる」と思っている。
女は実在をなめている。だから、女は実在がわからない。
だから、女は馬鹿である。
反対に、男は『頭で考えなければ実在がわからない』と思っている。
男は実在をなめていない。だから、男は実在がわかる。
だから、男は利口である。
男のほうが女よりも実在がわかっている。
だから、男のほうが女よりも人間が満足してもいい心と満足してはいけない心が正しくわかっている。
だから、女は男に従うべきである。そのほうが女も幸福になれる。不幸にならずにすむ。

[11732] 現代社会の原理の修正[[11698]を参照。] h22.12.31
政府は国民を喜ばせる会社である。⇒そのまま。
今は合理主義の時代である。⇒国家宗教は人間を不幸にする。
だから、政府は国民に国家宗教をやらせてはならない。
合理主義とは、現時点において人間が満足してもいいと考えられている心を満足することであり、人類はつねに合理主義だったと言える。だから、「今は合理主義の時代である」という言葉には特に意味がない。
つまり、国家宗教は近代までは人間を幸福にすることとして許されていたが、現代では人間を不幸にすることとして許されなくなったのである。タバコが肺癌[はいがん]の原因として許されなくなったのと同じである。酒も胃癌[いがん]の原因だからやめたほうがいい。

[11733] 不合理な仕事は儲[もう]かる。 h22.12.31
不合理な仕事は、客から不合理な料金を取れるから儲かる。
反対に、合理な仕事は、客から合理な料金しか取れないから儲からない。
だから、みんなが不合理な仕事をやりたがるのである。
しかし、最近は不合理な心を満足する者が減っている。
だから、不合理な仕事も客が減って儲からなくなっている。
したがって、最近はみんなが儲からなくなっているのである。
政府は不合理な仕事をすることによって国民から不合理な金額の税金を取っている。政府が不合理な仕事をするおかげで国民は不合理に高い税金を払わされている。
だから、政府は不合理な仕事をやめるべきである。

[11734] どうして昔の人は天皇に面会しようとしたか? h23.1.1
昔は不合理主義の時代だった。
昔の国民の多くは神を崇[あが]める心を満足して生きていた。
国民は神武天皇を神として崇めていた。
天皇は神武天皇と同じ者だと考えられていた。つまり、天皇も神として崇められていた。
だから、天皇と面会すれば、天皇と組んだことになり、国民よりも「上の者」と言うことになる。
国民よりも「上の者」になれば、国民に対して顔が利[き]くようになる。国民に命令できるようになって有利になる。
それで、昔の人は自分が国民よりも「上の者」となるために、盛[さか]んに天皇に面会しようとしたのである。[宮内庁御用達[くないちょうごようたし]も同じことである。]
しかし、今は合理主義の時代である。
今の国民の多くは神を崇める心を満足して生きていない。
だから、今ではいくら天皇と面会しても、国民からは「上の者」と見られない。
だから、今の人は天皇に面会したがらないのである。
今の人は学問やスポーツをする心を満足して生きているから、学者やスポーツ選手を崇めているので、有名な学者やスポーツ選手と面会すればひょっとしたら「上の者」と言うことになるかもしれない。ラーメン屋がスポーツ選手のサインを店頭に掲[かか]げておくのもそのためなのかもしれない。

[11735] 信者は雇[やと]わないほうがいい。 h23.1.1
信者は不合理主義者である。
不合理主義者は自分の不合理な心を満足して生きている。
不合理な心には、他人を殺したい心や他人の物を取りたい心や神や王を崇[あが]める心や世の中をメチャクチャにしたい心などがある。
それで、不合理主義者は仕事の上でわざとにまちがいを犯したりするのである。わざとに不良品を出して仕事をメチャクチャにして心の底で大笑いしているのである。
だから、信者はなるべく雇[やと]わないほうがいい。
信者は自分が宗教に入っているから自分が国民よりも神に近いので、自分が国民よりも「上の者」だと思い上がっている。しかし、今は合理主義の時代であり、今では国民のほとんどが神を崇[あが]めていないので、国民にとっては信者は「上の者」ではない。だから、強[し]いて信者を雇わなくてもいいのである。

[11736] 昔と今の違い h23.1.1
昔は今では満足させてはいけない心が満足させてもいいとされ、またその反対に今では満足させてもいいとされている心が満足させてはいけないとされていた。
そのために、昔の法律(不文法も含む)と今の法律は違っていた。
それだけのことである。
例えば、昔の法律では麻薬や国家宗教や戦争がやってもいいことだとされていたが、今の法律ではそれらはやってはいけないことだとされている。つまり、昔は麻薬をやりたい心や神を崇[あが]める心や他人を殺したい心を満足してもよかったが、今では満足させてはいけないとされている。
時代が進むにつれて、人類はしだいに適切に自分の心を満足するようになったのだ。

[11737] 政府はどうして国民から税金が取れるのか? h23.1.1
昔は不合理主義の時代だった。
政府は天皇と組んで、国民よりも「上の者」だった。
政府は国民よりも「上の者」だったから、国民に何でも命令できた。
だから、政府は国民に税金を出すように命令して、国民から税金を取っていたのである。政府は国民よりも「上の者」だったから、国民からいくらでも税金が取れたのである。それで、政府はすごく儲[もう]かっていたのである。
しかし、今は合理主義の時代である。
政府は国民全員に一律にサービスをやって国民全員からサービス料金を取っている。
政府が国民全員からサービス料金を取るためには、政府は国民全員が喜ぶことをしなければならない。政府は国民が喜ぶことをしないかぎり、国民からサービス料金を取ることができない。それが、政府が国民から税金を取ることができる『根拠』である。いくら政府が多数決の原理で国民の多数の代理になっても、そのことは政府が国民から税金を取れる根拠にはならない。合理主義においては、政府と国民はあくまでも平等であり、税金はサービス料金として考えねばならない。
政府が国民全員を喜ばせることができるためには、政府は国民全員に合理的なサービスをやらねばならない。つまり、政府は国民が満足してもいい心を満足させて、満足してはいけない心を満足させないようにしなければならない。
政府が国民全員から取るサービス料金の金額は、そのサービスに見合ったリーズナブルな金額でなければならない。けっして高すぎてはいけない。
今の政府の合理サービスと不合理サービスの両方をやるやり方では国民は幸福にされると同時に不幸にされて幸福と不幸が相殺[そうさい]されて政府は何もしていることにならない。今の政府が不合理サービスをやめれば、合理サービスを2倍することができる。そうすれば、国民も今の2倍喜ぶことができて満足だ。

[11738] 仏教について h23.1.1
仏教も宗教の一種である。
つまり、仏教も神を崇[あが]める心を満足することである。具体的な教義[きょうぎ]なんかどうでもいい。
合理的な人間は宗教をやらない。
だから、合理的な人間は仏教をやらない。
昔の人は宗教に入って神を崇[あが]める心を満足して幸福に生きていたが、今の人は神を崇める心がないから宗教に入っても何にもならない。

[11739] 政府は何もしていない。 h23.1.1
国民が自分で満足してもいい心と満足してはいけない心を考えて満足してもいい心を満足させて満足させてはいけない心を満足させていないだけだ。
国民同士[どうし]が満足してもいい心と満足させてはいけない心を教え合って暮らしている。国民同士でよりよい社会を作っている。

政府は何もしていない。
政府は国民が決めた法律を後[あと]で国会で決めて政府の法律にしているだけだ。
政府の仕事とは、国民の法律を政府の法律に書き写すことだけだ。
国の法律を作るのは国民であって、政府は国民に倣[なら]って法律を制定するだけだ。政府はお高ぶっているだけで、実際には国民の真似[まね]をしているだけだ。
政府は大[たい]した仕事をしていない。
国には民間の法律事務所と警察があれば事足[ことた]りる。例外者(変態)を処理すればいいだけだから小規模で十分である。
今の政府は自分が国民から税金を取るために国家宗教をしている可能性が高い。政府が国家宗教をすれば、政府が神と組んで国民よりも「上の者」となって国民に何でも命令できて国民から税金が取れるからである。
だから、国に税金を取る機関がなくなれば、国家宗教をやる機関もなくなる。日本から国家宗教をなくすためには、日本から税金を取る機関をなくさなければならない。

[11740] 国家宗教では脱税できる。 h23.1.1
政府は国家宗教をやっている。
国家宗教では、神の情報が入っていさえすれば何をやってもいい。
したがって、国家宗教によれば脱税は可能である。
なぜなら、脱税←ダツゼイ←ツイ←川ノ(ツ≒川、イ≒ノ)←川野(私の姓)←私だからである。
政府が国家宗教をやっているから、国民が国家宗教をやってもいい。
だから、国民は脱税してもいい。

[11741] 私と組めば儲[もう]かるか? h23.1.1
今でも、世界には国家宗教をやっている国がある。国民が国家宗教をやっている遅れた国がある。私は、国家宗教をやっている国が具体的にどこの国かは知らない。平成23年1月4日追記)国民が国家宗教をやっている遅れた国とは、例えばアメリカである。アメリカは犯罪者が作った国なので、アメリカの国民は犯罪を犯したいので国家宗教をやっているのである。]
私は、世界中の政府が神としている者である。私は国際宗教(世界宗教)の神である。
だから、私と組めば、それらの国に対しては顔が利[き]く。それらの国の国民に対して命令ができる。
たとえ、私自身は命令しなくても、私と組んだ者はそれらの国の国民に命令ができる。
今の日本政府は私と組んでいるとは言いがたい。今の日本国民は国家宗教をやっていないのに、今でも独[ひと]りだけで日本で国家宗教をやっている日本政府が私は嫌いである。
誰か私と組みたい人はいないだろうか?私はお金には興味がないので、生活費だけもらえばいいと思っている。私は現在仕事をしていないので、お金に困[こま]っている。

[11742] どうして日本では国家宗教で事件が起きるか? h23.1.1
日本政府は、今の日本で国家宗教をやってもいいと決めている。
だから、日本国民は自分の神を崇[あが]める心を満足してもいいことになっている。
つまり、日本国民は神と組んでいる政府の言いなりになってもいいことになっている。
そこで、政府は政府の言いなりになっている国民に対して、神の情報を入れた人殺しなどの犯罪の命令を出して一般の国民に危害を加えさせているのである。こうして、日本では国家宗教で事件が起きるのである。
これが、日本国憲法第20条「宗教の自由」の実質的な内容である。
つまり、日本国憲法第20条で国民に「宗教の自由」を認めているから、日本では国家宗教で事件が起きるのである。
しかし、それでは、一般の国民の生活に支障を来たす。[戦前の国民は不合理的で国民みんなが国家宗教をやっていたから、政府の国家宗教による犯罪を容認していた。しかし、戦後の国民は合理的で国民のほとんどは国家宗教をやらなくなったから、政府の国家宗教による犯罪を容認しない。戦前の国民は不合理的で国民みんなが人殺しをしてもいいと思っていたから、戦争がやれたのである。戦後の国民は合理的で国民のほとんどが人殺しをしてはいけないと思っているから、戦争がやれなくなったのだ。]
だから、日本国憲法第20条「宗教の自由」は廃止しなければならない。[宗教も麻薬も同じことである。麻薬がいけないから宗教もいけない。]
もっとも、日本国憲法第20条は「宗教の“自由”」なので、国民には宗教をやる権利が認められているのであって、国民には宗教をやらねばならない義務があるわけではないから、日本国民は自分の神を崇[あが]める心を満足しなくてもいいから、日本国民は神と組んでいる政府の言いなりにならなくてもいい。つまり、日本国民は政府の国家宗教による命令(つまり神の情報を入れた命令)を聞かなくてもいいのである。

[11743] 日本国憲法第20条 h23.1.2
日本国憲法第20条は「宗教の自由」である。
日本国憲法第20条は、「政治家が自由に信者を使って犯罪を犯して国民に危害を加えてもいい。例えば、国民を殺害したり、国民を障害者にしてもいい」ことについて述べている。政治家の権利について述べている。[民間宗教の宗教家についても同様である。]
日本国憲法第20条に反対しない国民が鈍感[どんかん]である。馬鹿である。
日本国憲法第20条は、国民が政治家に「自分を殺してください」と訴[うった]えているようなものだ。
そんな危険な法は早く廃止しなければならない。

[11744] 政府はどうして国民から税金が取れるか?☆ h23.1.2
日本国憲法序文にあるように、政府が多数の国民の代理で国民に命令できるのなら、一般の国民はみんな国民に命令できることになる。
つまり、政府でなくても、多数の国民が支持していることをする者であれば、多数の国民の代理ということになるから、国民に命令できることになる。
だから、一般の国民も政府と同じように国民から税金が取れることになる。例えば、今ではリサイクルを支持している国民が多いから、廃品回収業者が国民から税金を取れることになる。
しかし、実際には、政府以外の国民は国民から税金を取れない。
ということは、政府が国民から税金を取るのは、政府が多数の国民の代理だからではない。例えば、今の国民のほとんどは「人を殺してはいけない」と思っているから、政府は国民みんなに「人を殺してはいけない」と命令することができるが、それ以外の命令をすることはできない。政府が自分で勝手に命令を作って国民みんなに命令をすることはできない。ところが、今の国民のほとんどは「政府に税金を取って欲しい」と思っていない。だから、政府は国民から税金を取ることができないのである。
また、今の国民は宗教心[しゅうきょうしん]すなわち神を崇[あが]める心を満足して生きていないから、憲法第20条は実際には死んだ法である。だから、国民は神と組んだ政府を「上の者」と思って政府の命令に従って政府に税金を払っているのでもない。
だから、政府が国民から税金を取ることにはなにも『理由』がない。したがって、国民は政府に税金を払わなくてもかまわない。
実際には、国民が政府に税金を払うのは、まさに日本国憲法第30条納税の義務があるからである。つまり、今の日本国民は自分の気持ちで政府に税金を払っているだけである。つまり、今の日本国民は「政府に税金を納める心」を満足させれば自分が幸福になれると思っているのである。しかし、政府は国民の国家宗教する心や一般に国民の不合理な心すなわち満足させてはいけない心を満足させて国民を不幸にしているし、また私が『[11739] 政府は何もしていない。』で述べたように政府は国民の真似[まね]をして国民の手柄[てがら](法律を作ること)を自分のものにするだけで大した働きをしていない。だから、国民が幸福になるためには政府は役に立たないしむしろ政府はなくなったほうがいい。だから、日本国民が幸福になるためには「政府に税金を払う心」を満足させるよりも『政府に税金を払わない心』を満足させたほうがいい。つまり、日本国民は「政府が要ると思う心」よりも『政府が要らないと思う心』を満足させたほうがいい。昔は「タバコを吸う心」を満足させることが幸福だと考えられていたが、今では『タバコを吸わない心』を満足させることが幸福だと考えられているのと同じことだ。
最近は内閣支持率が低いままだから、今の日本国民は本音[ほんね]では『日本政府が潰[つぶ]れて欲しい』と思っている。そろそろ日本国民が自分の本音を出してもいい頃[ころ]ではないだろうか?

[11745] 今の国民は政府が嫌いである。 h23.1.2
今の国民は合理的な心を満足して幸福になろうとしている。
しかし、今の政府は国民の不合理な心を満足して国民を不幸にしようとしている。
政府は多数決の機関でも民主主義の機関でもなんでもない。国民が自分で自分の合理的な心を満足させているだけだ。政府は仕方なく国民が合理的な心を満足することを認めているだけだ。政府は昔からずっと国民の不合理な心を満足させる団体である。政府は国内暴力団と同じである。政府は国民を幸福にするふりをして不幸にする団体である。政府は陰険[いんけん]そのものである。
だから、今の国民は政府が嫌いである。
昔の国民は昔の政府と同じように不合理な心を満足していたから政府と気が合っていたから政府と仲がよかった。
しかし、今の国民は今の政府と違って合理な心を満足しているから政府と気が合わないから政府とは仲が悪い。
今の国民にとっては政府は要らない。だから、国民は政府を潰[つぶ]さねばならない。

[11746] 日本人は麻薬をやってもいい? h23.1.2
日本国憲法第20条によれば、日本では国家宗教をやってもいい。
日本の国家宗教の神は神武天皇である。
だから、日本では神武天皇の情報が入ったことなら何をやってもいい。
麻薬は“白くて光るもの”である。麻薬は神武天皇の“光るトンビ”に似ている。
だから、日本では麻薬をやってもいい。
だから、日本では国内暴力団が麻薬を販売しているのである。
また、神武天皇は熊野[くまの]の山の中で道に迷った時にヤタガラスを空に放[はな]って進路を占った。
だから、日本では博打[ばくち]をやってもいい。博打も占いも似ているからである。
だから、日本では国内暴力団が博打をやっているのである。
また、神武天皇は剣[つるぎ]を使っていた。
だから、日本では武器を使ってもいい。
だから、日本では国内暴力団が刀や拳銃[けんじゅう]を販売しているのである。
つまり、国内暴力団はちゃんと日本国憲法を守って営業しているのである。だから、国民は国内暴力団に文句をつけてはいけないのである。

[11747] 国民は政府の法律に従ってはいけない。 h23.1.2
政府の法律をもとにしてはいけない。国民の習慣をもとにしないといけない。
政府の法律をもとにして国民の習慣を決めてはいけない。
国民の習慣をもとにして政府の法律を決めねばならない。
例えば、今の日本国民のほとんどは国家宗教をやっていない。これまでに日本国民は国家宗教でさんざん痛い目にあったから、今では日本国民のほとんどは国家宗教をやらなくなったのである。
だから、日本では法律で国家宗教を禁止しなければいけない。
今は国民が合理主義だが、政府はいまだに不合理主義である。つまり、政府はいまだに国民に人間が満足させてはいけない心を満足させようとしている。だから、政府の法律は当てにはならない。だから、国民は政府の法律を信用して使ってはいけない。いわば、政府の法律は“道徳の本”のようなものであって、政府の道徳の本には読者を不幸にするまちがったことが書いてあるのだ。

[11748] 政府の法律では国民は何をやってもいい。 h23.1.2
日本国憲法第20条によれば、日本では国家宗教をやってもいい。
日本の国家宗教の神は神武天皇である。
だから、日本では神武天皇の情報が入ったことなら何をやってもいい。
ところが、ほとんどすべてのことに神武天皇の情報が入っている。史実と駄洒落[だじゃれ]を使えば、ほとんどすべてのことに神武天皇の情報を入れることができる。
だから、日本では憲法第20条によってほとんど何でもできる。
日本では不合理なことは何でもできる。
日本は法律のない国と言っても過言ではない。
しかし、それでは国民の暮らしがかえって不便になる。
だから、憲法第20条もろとも政府がなくなったほうがいい。

[11749] 国家宗教はやめよう。 h23.1.2
日本国憲法第20条によれば、日本では国家宗教をやってもいい。
日本の国家宗教の神は神武天皇と私である。
だから、日本では神武天皇や私の情報が入ったことなら何をやってもいい。
日本では国民は神の情報が入ったことなら何をやってもいい。
政府は政府の言いなりになっている国民に神の情報が入ったことなら何をやらせてもいい。
これでは、日本がメチャクチャだ。日本がいい国にはならない。
だから、国家宗教はやめよう。
実際に、すでに国民のほとんどが自主的に国家宗教をやめている。
あとは日本国憲法第20条がなくなればいいだけだ。
憲法を改正させるか、あるいは日本政府自体をなくせばいい。

[11750] 憲法の矛盾 h23.1.2
日本国憲法第20条によれば、日本では国家宗教をやってもいい。
しかし、国家宗教をやると、憲法の他の条項[じょうこう](人権の保障)を犯すことになる。
だから、加害者がいくら国家宗教でやったからといって、被害者が憲法の他の条項で押してくれば、裁判では加害者が負けるかもしれない。
今では憲法第20条は憲法の他の条項よりも弱い法律なのかもしれない。
だから、日本国憲法第20条はなるべく使わないほうがいい。

[11751] 政府はありがたくない。 h23.1.2
政府があれば、自分が国家宗教による犯罪の被害にあったとき、裁判に訴えて加害者を有罪にすることができる。だから、国民にとって政府は弱い者を守ってくれるありがたい存在である。
しかし、そもそも国家宗教で犯罪を犯す者がいるのは、今の政府が憲法第20条で国民が国家宗教をすることを認めているからである。
だから、国民にとって政府はありがたくはない。
政府がなければ憲法第20条もないから、日本には国家宗教で犯罪を犯す者がいないから、国家宗教で被害にあう者もいなくなる。国家宗教で犯罪を犯す者がいなくなって、日本がずっと平和になる。
だから、政府はないほうがいい。
政府がなくなれば、日本には犯罪を犯す者がほとんどいなくなるから、民間の法律事務所や警察があれば十分である。

[11752] どうして日本政府は検閲[けんえつ]ができるのか? h23.1.3
日本国憲法第20条によれば、日本では国家宗教をやってもいい。
日本の国家宗教の神は神武天皇と私である。
だから、日本では神武天皇や私の情報が入ったことなら何をやってもいい。
例えば、検閲は検閲←ケンエツ←ンツ←ツン←川ノ(ツ≒川、ン≒ノ)←川野(私の姓)←私だから、日本政府の政治家は検閲をすることができる。それで、日本政府は検閲をして、政府にとって都合の悪い情報を載せた出版物を出版禁止にしているのである。そのために、日本国民の大半は、日本政府が社会科の教科書通りに国民の幸福を守ってくれる正義の味方だと思っているのである。しかし、実際には、日本政府は国民を幸福にするふりをして不幸にしている陰険[いんけん]な会社なのである。

[11753] どうして国民は法律に従うのか? h23.1.3
法律が正しいからである。法律に従えば幸福になれるからである。つまり、法律に従えば、満足してもいい心を満足させて、満足してはいけない心を満足させずに、幸福になれるからである。
しかし、今の日本国憲法には正しくない条項がある。
例えば、第20条は、国民がどんな心でも満足してもいいことを保障する。だから、国民は満足してはいけない心までも満足してしまうのでかえって幸福ではなくなる。
第30条は、国民が政府に税金を払わなければならない義務を述べている。しかし、今の政府は国民が自分で自分の心を適切に満足させているのをただ傍[かたわ]らで何もせずに見ているだけである。その上、第20条で国民が不適切に自分の心を満足させることを助長[じょちょう]している。これでは、政府は国民の幸福を妨[さまた]げるためにあるだけである。だから、国民にとって政府はなくなったほうがいい。だから、国民が政府に税金を払うことがまちがっている。
日本国憲法の第20条も第30条もまちがっている。だから、日本国民は日本国憲法には従わないほうがいい。国民は日本国憲法よりも現代社会の常識に従って暮らせばいい。
日本国民にとっては日本国憲法が要らない。だから、日本国民にとっては日本政府が要らない。だから、日本国民は日本政府を攻撃して日本政府をなくさねばならない。

[11754] 税金とは何[なん]だったのか? h23.1.3
国民が自分の不合理な心を政府に満足させてもらうために政府に払うお金である。
明治から世界大戦までは、国民は自分が政府に戦争をさせてもらうために政府に税金を払ったのである。政府以外には自分に戦争をさせてくれないので、政府に戦争代として税金を払ったのである。つまり、戦争は国民にとってゲームだったのである。国民は政府にゲーム代として税金を払っていたのである。
中世では、自分が人殺しや強盗をしても政府が無罪にしてくれるので、政府に自分を無罪にしてくれるための代金として税金を払ったのである。つまり、税金とは国民の自由代である。国民が好き勝手にするためのお金だったのである。政府は日本を国民が自由に何でもできる国にしてくれていたので、政府が日本を無法地帯にするための代金として国民は政府に税金を払っていたのである。一方で、政府が国民に正しい法律を守らせてくれるために政府に税金を払う国民がいたが、それはそれらの国民の誤解である。それらの国民は自分で自主的に正しい法律を守っていただけで、政府はそれらの国民に対してはまったく何もしていない。
昔の国民はとにかく自分が好き勝手にしたい放題をやれば自分は幸福になれると考えていた。しかし、そうやっても結局幸福になれなかったので、今の国民は考えを変えて、自分の心を適切に満足させたほうが自分が幸福になれると考えるようになった。それで、今の国民は自分で自分の心を適切に満足させているのである。国民はもはや政府に戦争をさせてもらったり、日本を無法地帯にしてもらう必要はない。今の政府には国民のためにやることがない。だから、政府はなくなればいいのである。

[11755] 「長者[ちょうじゃ]」「蓮池[はすいけ]」 h23.1.3
私が高知学芸中学校の3年生の頃、私の同級生の西川君と浦山[うらやま]君がときどき授業中に「長者」「蓮池」と大声で言い合って馬鹿にし合っていた。[哲学日記[5008]を参照。]
当時の私は西川君が蓮池(高知県土佐市蓮池)と言うところに住んでいて、浦山君が長者(高知県高岡郡越知[おち]町長者)と言うところに住んでいて、どちらも田舎[いなか]だから、お互いに馬鹿にし合っているのだと思っていた。
しかし、本当は、「長者」とはお金持ちのことでつまり天皇のことである。「蓮池」とは斜め(斜[はす]←蓮[はす])に行けということである。つまり「長者」「蓮池」で「天皇が落ちぶれてしまえばいい」ということである。西川君と浦山君が共同で伏せて自分たちの願いを言っていたのである。

[11756] 「弱肩[じゃっけん]」「ゴリラ」 h23.1.3
私が高知学芸校孝の2~3年生の頃、私の同級生の倉田[くらた]君と小原[おはら]君がときどき授業中に「弱肩[じゃっけん]」「ゴリラ」と大声で言い合って馬鹿にし合っていた。[哲学日記[3135] や[11355]を参照。]
当時の私は小原君が野球の時に外野から投げたボールがキャッチャーに届かなかったために試合に負けたことを倉田君が馬鹿にして「弱肩」と言い、小原君がそのお返しに倉田君の顔がゴリラに似ているので「ゴリラ」と言っているのだと思っていた。
しかし、本当は、「弱肩」とは弱権つまり弱い権力のことである。「ゴリラ」とは日本政府のことである。日本政府が人間の遅れた心を満足しようとするので人間以下のゴリラに喩[たと]えられているのである。だから、「弱肩」「ゴリラ」で「日本政府の権力が弱くなればいい」ということである。倉田君と小原君が共同で伏せて自分たちの願いを言っていたのである。
私の級友が「長者」「蓮池」とか「弱肩」「ゴリラ」とか言っていたのは、政府に対して抗議をするためだろう。プラカードを持ってデモ行進をするのと同じことだ。私が国家宗教の神であることを知って、私が政府に対して顔が利[き]くと考えて、私の周[まわ]りで政府に訴[うったえ]えたいことを伏[ふ]せて言っていたのだろう。

[11757] どうして今の政府は国家宗教をやっているか? h23.1.3
日本政府は国民の不合理な心を満足させる会社である。国内暴力団と同じである。
ところが、今では国民のほとんどが合理的になって社会が合理的になって、日本政府のやることがない。
だから、日本政府は国家宗教をやって無理やり仕事を作ってどうでもいいことをやっているのである。日本中に神武天皇や私の情報を入れる仕事をやっているのである。合理的にはまったく無意味なことである。
つまり、日本政府が国家宗教をやるのは政府自身の暇つぶしのためにすぎない。
政府は自分が国家宗教の無駄[むだ]な仕事をやるために、国民から税金を取っているのである。お金の無駄である。
今の政府は国家宗教をやるために存在しているだけである。今の政府は国民にとって役に立つことをやっていない。
今の政府は国民にとって要らない。だから、国民は政府を潰[つぶ]さねばならない。

[11758] どうして国民は政府の命令を聞くのか? h23.1.3
国民が政府の命令を聞けば国民が幸福になれるからである。
政府は国民を喜ばせる会社である。
だから、政府は国民を喜ばせる命令を出すのである。
昔の国民は不合理的だったから、政府は国民を喜ばせるために不合理な命令を出した。
今の国民は合理的だから、政府は国民を喜ばせるために合理的な命令を出さねばならない。
しかし、国家宗教の命令は不合理的である。
だから、今の国民は政府の国家宗教の命令を聞いてはいけない。
昔の国民は神を崇[あが]める心があったので、日本政府の“日本中に神の情報を入れる仕事”が面白かったから、大喜びで政府の神の情報を入れる命令に従った。しかし、今の国民は神を崇める心がないので、日本政府の“日本中に神の情報を入れる仕事”がつまらないので、もはや政府の神の情報を入れる命令には従わない。
政府の命令が合理的な場合だけ、国民は政府の命令を聞けばいい。
政府が合理的な命令を出さなければ、今の国民にとって政府は要らないから、国民は政府を潰[つぶ]せばいい。

[11759] 「メーレー」「リターダー」 h23.1.3
私が今から7年前に兵庫県養父[やぶ]市にある近畿ネオマックスで働いていた頃、磁石を切断するための前工程として“熱で溶かした接着剤を使って磁石をカーボン板に貼[は]る仕事”をしていた。
そのとき、「メーレー」「リターダー」という名前の付いた磁石があった。
「メーレー」とは命令のことである。「リターダー」とは英語で遅れているということである。だから、「メーレー」「リターダー」で「命令が遅れている」ということになる。
私は別に命令を出す者ではないから、「命令が遅れている」と言われてもどうしようもない。

[11760] 政府とは何か?税金とは何か? h23.1.3
政府は国民を喜ばせる会社である。だから、政府が国民を喜ばせるときだけ国民は政府の命令に従えばよく、政府が国民を喜ばさなければ国民は政府の命令に従わなくていい。
税金は政府が国民を喜ばせることをしたことに対する報酬[ほうしゅう]である。だから、政府が国民を喜ばせたときだけ国民は政府に税金を払えばよく、政府が国民を喜ばさなければ国民は政府に税金を払わなくていい。
政府は国民を喜ばせる会社である。政府はしょせんいかがわしいインチキ臭いサービス業である。今のところ人間の幸福を測る客観的なメーターがないからやって行けるだけである。だから、政府は国民にとってそれほど大事な会社ではない。政府はテレビやマンガみたいなものだ。
政府のサービスもNHKの電波も同じだ。NHKは国民と契約を取っているから、政府もそうしないといけない。政府が国民と契約を取らないと、そのうち国民は政府に税金を払わなくなるだろう。政府が国民と契約を取れるためには、政府はしっかりと国民を幸福にしなければならない。

[11761] 国家宗教は古い。☆ h23.1.3
政府は国民を喜ばせる会社である。だから、政府のやることは全部面白[おもしろ]くなければならない。[政府はもともと国民を喜ばせる会社である。たまたま政府が国民を喜ばせるために始めた国家宗教の副作用で政府が国民よりも上の者になっただけのことである。だから、政府はけっして国民よりも上の者の会社ではない。]
国家宗教では「不合理的で面白いこと」をやる。
国家宗教は昔の人の娯楽である。昔の人は不合理的だったから、国家宗教で笑い転げたのである。昔の人は人殺しを楽しいことだと考えていたので、国家宗教では必ず人を殺すのである。
しかし、今の人は合理的だから、国家宗教は今の人にはウケない。今の人は人殺しを楽しいことだと考えていないので、人殺しをする国家宗教が嫌いなのである。
だから、政府は国家宗教をやめるべきである。
政府は今の人にウケるように、『合理的で面白いこと』をやらねばならない。
最初は難しいかもしれないが、そのうち慣れれば国家宗教のように楽にやれるようになるだろう。

[11762] 私の思考法 h23.1.3
考えるとは、自分の思考を対象に近づけることである。自分の思考を対象に合わせることである。
合うというのは程度の問題である。完全に合うこともないし、完全に合わないこともない。
ちょっとでも腑[ふ]に落ちない(つまり、自分の思考と対象が合っていない)気がしたら、徹底的に自分の思考を改良する。
そうすれば、だんだん真実がわかってくる。
自分の思考を対象に近づけることの積み重ねによって、しだいに真実がわかってくるのである。

[11763] 国民は政府の命令を聞かなくてもかまわない。☆ h23.1.3
政府は国民を喜ばせる会社である。だから、政府は今の国民が喜ぶことをしないといけない。
国民が政府の命令を聞くのは、政府が国民を喜ばせることをするからである。政府が国民を喜ばせることをしなければ国民は政府の命令を聞かない。
政府は国民を喜ばせることをするから国民からお金が取れるのであって、国民を喜ばせることをしなければ国民からお金が取れない。
国民が政府の命令を聞か“ねばならない”『理由』はない。だから、国民は政府の命令を聞かなくてもかまわない。国民は政府が自分を喜ばせるから政府に従うのであって、政府が自分を喜ばさなければ政府には従わない。だから、大事なのは、政府が実際に国民を喜ばせることである。[[11744]を参照。]
もともと政府と国民は平等である。だから、国民は自分が同意しないかぎり政府の命令を聞かなくてもかまわない。例えば、国民は自分が納得しなければ政府に税金を払わなくてもかまわない。国民は政府が国民と契約を取ってから政府に税金を払えばいいのであって、政府が国民と契約を取るまでは政府に税金を払わなくてもいいのである。
政府が国家宗教をやれば、国家宗教を支持する国民からはお金が取れるが、国家宗教を支持しない国民からはお金が取れない。反対に、政府が国家宗教をやらなければ、国家宗教を支持しない国民からはお金が取れるが、国家宗教を支持する国民からはお金が取れない。今は国家宗教を支持する国民よりも国家宗教を支持しない国民のほうが多い。だから、政府はお金を多く取るために国家宗教をやらなければいい。政府が少数の“国家宗教で犯罪を犯す者”を取り締[し]まれば、大勢の国家宗教をやらない国民がますます喜んで政府にお金を払う。だから、政府は自分がお金を儲[もう]けるために、“国家宗教で犯罪を犯す者”を取り締まればいいのである。
政府が大勢の国民を満足させる政策をやり、リーズナブルな価格の税金を取れば、国民は政府に税金を払うだろう。NHKの番組は面白くない。しかし、国民はNHKに毎月おとなしく視聴料を払っている。だから、政府が国民を嫌がらせるほどのことをしなければ、国民は政府におとなしく税金を払うだろう。

[11764] 政府はどうして国民と契約を取って税金を取らないのか?☆ h23.1.3
今では会社は国民一人一人と契約を取って料金を取るのが常識である。
それなのに、いまだに政府が国民と契約を取って税金を取っていないのは、政府が国民に自由に政府に税金を払うことを認めているからである。
国民が政府に税金を払わなければならない『理由』はない。だから、日本国憲法第30条はまちがっている。だから、国民は日本国憲法第30条に従わなくてもいい。[[11744]を参照。]
つまり、今の国民は自分が政府に税金を払いたいから払っているだけなのである。だから、払いたくなければ払わなければいいのである。
政府は今どき国民と契約を取らずに国民から税金を取っている。
政府はまったくいい度胸[どきょう]をしている。
それなら、国民は政府の度胸を買って好き勝手に税金を払ってやろうじゃないか。

[11765] どうして古代の日本は戦争をしたのか? h23.1.3
古代の日本は朝鮮と戦争をやって任那[みまな]を植民地にした。
古代の日本が戦争をやったのは、日本政府の開店記念特別サービスだったからである。
日本に日本政府が出来た記念に日本政府は気合を入れて国民に戦争をさせてやったのである。
古代の日本国民は戦争で人殺しができて大喜びだった。昔の人は人殺しを人間にとっての最高の喜びだと考えていたので、当時の日本国民は大喜びだったのである。
こうして、日本政府は客を獲得することに成功したのである。
その後、日本政府は戦争はお金がかかるから戦争をやめて、日本をどんな犯罪でも犯せる国にすることに政策を変更した。古代の日本では国民が朝鮮に行って人殺しの欲望を満足していたので国内は平和だったが、中世の日本では国民が国内で人殺しの欲望を満足するようになったので国内犯罪が急増して国民の暮らしは不便になった。

[11766] 政府は国民と無契約で税金を取れない。 h23.1.3
政府は国民を喜ばせる会社である。
政府は国民が喜ぶサービスをする会社である。例えば、政府は法律に違反する者を取り締[し]まるサービスをして、法律を守っている大勢の国民を喜ばせている。
今日的[こんにちてき]には、国民を喜ばせる会社が国民から強制的に一方的に税金を取ることはできない。会社は国民と契約をしてサービス料金を取らねばならない。
政府は大きい会社だが、原理は他の民間会社と同じである。だから、政府も他の民間会社と同じように国民と契約して税金を取らなければならない。

[11767] 政府は国家宗教をやってはならない。 h23.1.4
政府が国家宗教をやると、政府が信者に犯罪を犯させて、警察が犯罪を犯した信者を逮捕して、法律を守っている大勢の国民を喜ばせていることになる。
これでは、国民が政府に馬鹿にされているようで不愉快である。
政府自身も犯罪を犯していることになるので、国民は政府も警察に逮捕して欲しいと思う。政府が警察に逮捕されないと国民はこれまた不愉快である。
政府は国民を不愉快にするので、国民は政府と解約して政府に税金を払わなくなる。
だから、政府は国家宗教をやってはいけない。政府は国民に国家宗教をやらせてはいけない。

[11768] どうして国境があったのか? h23.1.4
昔の人は人を殺すことを喜びだと考えていた。
しかしながら、さすがに同じ国の人間は殺しにくかった。そのために外人を殺していた。
つまり、国境は人殺しのためにあったのだ。
しかし、今では世界中の人が人殺しを喜びだと考えなくなった。
今は国際化の時代だから、世界中どこでも国民が満足させている心や満足させていない心はほぼ同じである。つまり、世界中で法律がほとんど同じである。
だから、今では国境は要らなくなったのだ。

[11769] どうして国には政治機関がひとつしかないのか? h23.1.4
今は国際化の時代だから、世界中どこでも国民が満足させている心や満足させていない心はほぼ同じである。今は交通機関が発達して、世界中の人間が入り混じっているから、世界各地域の文化が溶け合ってひとつになっているのである。
だから、世界中どこの国や地域でも法律はほとんど同じである。
だから、たとえ政治機関すなわち『法律サービス(つまり、法律に違反する者を取り締[し]まるサービス)』をする会社が新たに現れてもやることはほぼ同じである。自動車保険の会社のように、サービス内容はどの会社でもほぼ同じである。
だから、国に法律サービスをする会社が複数あってもひとつあっても変わりはない。複数あるとイザコザが起きて面倒である。だから、いつしか国には法律サービスをする会社がひとつだけになったのである。
ところで、政府は国家宗教をやる会社である。幕府は国家宗教をやらない会社である。
中世の日本では、幕府が何度か現れたが、いつも政府に負けていた。それは、当時の日本では、まだ国民の多くが「法律を犯すほうが幸福だ」と考えていたからである。
しかし、今は国民のほとんどが国家宗教をやらなくなっている。つまり、今の日本では、国民の多くが『法律を守るほうが幸福だ』と考えている。
だから、今の時代なら、政府よりも幕府がイケる。
昔の国民は「法律を犯すほうが幸福だ」と考えていたから法律サービスをする会社が要らないと考えていたが、今の国民は『法律を守るほうが幸福だ』と考えているから法律サービスをする会社が要ると考えている。だから、昔よりも今のほうが国民にとって政治機関の需要が高い。だから、昔よりも今のほうが政治機関が儲[もう]かるはずだ。
政府とは法律サービスをする会社であり、国家宗教とは法律がないことだから、国家宗教は無政府主義の別名である。つまり、国家宗教を押し進めていけば政府が要らないことになる。政府が無政府主義を支持しているのでは話にならない。だから、政府は国家宗教をやめねばならない。政府が国家宗教をやらないほうが矛盾がなくていい。
昔は国家宗教でさえ法律サービスだったのかもしれない。つまり、国民が法律を犯すことをする際[さい]に必ず神の情報を入れねばならない約束を作ることによって、昔の政府は国民が法律を犯すことを防[ふせ]ごうとしたのかもしれない。立ち小便禁止の場所に鳥居を書くのと同じことである。それが結果的には逆効果になってしまったのである。だから、国家宗教を一概[いちがい]に悪いことだと考えてはいけないのかもしれない。[平成23年1月19日追記)マニ教が滅んだのもそのためである。つまり、マニ教では世界中の神を神にしているが、それでは国家宗教でできることが多すぎて規制にならない。マニ教の地域では犯罪が多すぎて国民が暮らしにくい。だから、マニ教が滅んだのである。宗教に道徳が含まれているのも、麻薬中毒者による犯罪を減らすためではないだろうか。つまり、宗教に道徳を入れるのは国民みんなが麻薬をやっている時代において、麻薬による犯罪を抑[おさ]えるために昔の人が考え出した工夫[くふう]ではないだろうか。]

[11770] 政府は本来合理主義である。 h23.1.4
政府は国民を喜ばせる機関である。
そうでなければ、国民がわざわざ政府に税金を払うわけがない。
だから、政府は国民を喜ばせる機関である。
昔の政府は国民を喜ばせるために国民に法律を守らせようとした。「国民が法律を守れば国民が自分の心を適切に満足することができて国民が幸福になれる」と政府が考えたからである。
しかし、当時の国民はまだ「法律を犯すことが幸福だ」と考えていたので、せっかく政府が作った法律をなかなか守ってくれなかった。そこで政府はやむを得ず“神の情報を入れれば犯罪を犯してもいい”ことにした。それが現在の国家宗教である。つまり、政府は正しかったが、国民が政府についてきてくれなかったので、政府は泣く泣く方針を変更しなければならなかったのである。
しかし、今では国民は『法律を守ることが幸福だ』と考えるようになったので、神の情報を入れて犯罪を犯す者はほとんどいなくなっている。だから、政府は今ではわざわざ国家宗教をやる必要はないのだ。
政府は本来の合理的な政府に戻って、国家宗教をやめて国民に法律を守らせるべきである。

[11771] 法律があるから政府がある。 h23.1.4
今の政府は日本国憲法第20条すなわち国家宗教をやっている。
国家宗教では何でもやっていい。
だから、国家宗教があれば法律は要らない。
政府は法律をやるためにある。
法律が要らなければ政府も要らない。
今の政府はデタラメの塊[かたまり]である。
そんなものはなくなったほうがいい。

[11772] 国民は政府に税金を払わなければならないか? h23.1.4
政府は国民を幸福にする会社である。税金は政府が国民を幸福にするサービスをするための代金である。
政府は多数決の原理で法律を決めている。
政府は国民を幸福にするために法律に基づく国を作っている。
政府が活動しなければ国民が満足できる国が作れないから、国民は政府が活動できるようにするために税金を払わなければならない。
そういう理屈で政府は国民から税金を取っている。
しかし、政府は理屈だけが立派で、実際にはその通りに実行していないかもしれない。
政府が本当に国民を喜ばせているかどうかは国民が政府の仕事の『結果』を見て判断することであって、政府自身が判断することではない。
だから、憲法第30条(納税の義務)は無効である。
したがって、政府は国民と契約を取って国民から税金を取らねばならない。
今の国民のほとんどは政府のサービスに満足しているから政府に税金を払っているのである。けっして憲法第30条があるから払っているのではない。今の国民は自分で知らず知らずに正しいことをしているのである。

[11773] 法律とは何か? h23.1.4
政府は国民を幸福にする会社である。政府は国民を幸福にするサービスをする会社である。
法律とは、政府のサービス内容である。法律の各条項は、政府の客である国民に対して満足させる事柄について述べているから政府のサービス内容と見なすことができる。
私は日本国憲法第20条と第30条が嫌である。
だから、私は政府と契約しない。だから、私は政府に税金(サービス料金)を払わない。
政府が私と契約を取りたければ、日本国憲法から第20条と第30条を除[の]けろ!

[11774] 契約の契約 h23.1.4
日本国憲法第30条は納税の義務である。
つまり、憲法第30条は、国民が政府と契約しなければならないということである。
ところで、憲法は政府と国民の契約であると考えることができる。憲法は、政府のサービス内容について書いているから契約である。現代では政府と国民は平等だから、国民は政府と契約をする/しない自由があるから、政府の法律は政府の国民に対するサービス内容について記した契約書と見なすことができる。[政府は「日本の憲法は国民の多数決で決めた」と言っているが、じつは外国の憲法の書き写しである。もっとも、客である国民にとっては、憲法の決め方なんかどうでもよく、憲法にあるサービス内容がよければいいだけである。]
だから、憲法第30条は「国民が政府と契約しなければならない」という契約である。
“契約しなければならないという契約”は契約として無効である。
だから、憲法第30条は無効である。

[11775] どうして憲法第20条(宗教の自由)があるか? h23.1.4
国民が政府に税金を払うのは、政府が民主主義だからである。政府が国民の心を満足する国を作っているから、国民はそのお礼に政府に税金を払うのである。
日本国憲法に第20条があるのは、今でも「法律を犯すことが幸福だ」と考えている日本国民がいるからである。政府はそれらの国民のために第20条を定めているのである。つまり、憲法第20条は“法律を破るためにある法律”なのである。
しかし、国民は学校の社会科で習った宗教観で第20条を見ているから、国民のほとんどは国家宗教をやっていないのである。今の国民のほとんどは『法律を守ることが幸福だ』と考えているので国家宗教をやらないのである。
一方、政府も国民のひとりであり、政府は法律に詳[くわ]しいから、政府は今でも実際に国家宗教をやっているのである。政府は国民に命令して日本中に神の情報を入れさせたり、神の情報を入れた犯罪を犯させたりしているのである。
今では憲法第20条を使っているのは、政府ぐらいのものである。

[11776] 国民はどうして政府に税金を払うのか? h23.1.4
今は契約の時代である。
それなのに、政府は国民と契約を取っていない。
つまり、今では国民が政府に税金を払おうが払うまいが国民の自由である。
それなのに、今の国民のほとんどが政府に税金を払っている。
それは、今の国民が政府に税金を払いたいからである。今の国民は政府に自主的に税金を払っているのである。
今の政府が国民を喜ばせてくれるので、そのお礼に国民は政府に税金を払っているのである。
政府は出来たときからずっと民主主義である。国民は政府が自分の心を満足させてくれたお礼に政府に税金を払ってきたのである。
しかし、実際には、いつの時代にも、国民が自分で自分の心を満足させてきたのである。昔の国民は人を殺したかったから人を殺したのであり、今の国民は人を殺したくないから人を殺さないのである。
政府の役目は例外者の処理である。例外者を罰するのが政府の務[つと]めである。
だから、政府は小規模でいい。今みたいに国民全員から税金を取るほどのものではない。戦前は世界大戦という大目標があったから政府を大きくしなければならなかった。しかし、戦後は政府の目標がなくなったから政府は小さくてもいいのである。
だから、やはり国の政治機関は民営化すればいいのである。
そうすれば、国民は政府に税金を払わなくてもいい。
実際には、政府を残すか潰[つぶ]すかは国民みんなが決めることである。どうなるかは私にもわからない。

[11777] 政府は民主主義である。☆ h23.1.4
政府は国民を喜ばせる会社である。つまり、政府は民主主義である。政府は最初からずっと民主主義だったのである。
国民は政府が自分の心を満足させてくれたから、そのお礼に政府に税金を払ってきたのである。日本国憲法第30条(納税の義務)は蛇足[だそく]である。
ところで、今の国民のほとんどは『法律を守ることが幸福だ』と思っている。
だから、政府の法律も国民に合わせて『法律を守る法律』にしなければならない。憲法第20条(宗教の自由)のような「法律を破る法律」があってはならない。
それでこそ、国民は政府に満足して、政府に税金を払う気になるのである。
政府は昔からずっと民主主義を続けてきた。それが政府の人気の秘訣[ひけつ]である。そのために、政府は2000年もの間[あいだ]続いてきたのである。だからこそ、今の政府は憲法第20条をやめねばならないのである。

[11778] 民間会社の時代 h23.1.5
政府は民主主義の会社である。たとえ将来国民の多くが人殺しをしたいと思って政府が国民に第3次世界大戦をやらせて全人類を滅ぼすことになっても、それでも政府は政府が潰[つぶ]れるときまでずっと民主主義を貫[つらぬ]かねばならない。
ところが、今は民間会社の時代である。つまり、今の国民の多くが「政府よりも民間会社のほうがいい。」と思っている。「政府がなくなったほうがいい。民間会社だけのほうがいい。」と思っている。
だから、今の政府は政府自身を潰[つぶ]さねばならない。だから、今の政府は付属機関を次々[つぎつぎ]に民営化して年々規模を縮小しているのである。
政府の原理は『民主主義』だから、政府はたとえ自分が滅んでも民主主義を守らなければならないのだ。
今は民間会社の時代である。だから、政府はさっさと滅ばねばならない。

[11779] 創作について h23.1.5
創作[そうさく](フィクション)は嘘[うそ]である。
「『仮面ライダー』のショッカーの首領が政治家の喩[たと]えだ」と思った者が政府に入って政治家になって本当に悪いことをやったら国民の迷惑である。
ショッカーの首領が政治家の喩えであることはおそらく正しいが、かといって日本政府が『仮面ライダー』のショッカーのような悪の組織であると考えるのはまちがいである。マンガの作者は現実の世界からイメージを借りているだけであって、マンガで現実のことを述べているわけではない。
中途半端[ちゅうとはんぱ]に頭がいいと、かえって他人に迷惑をかけることがある。
創作は嘘である。要職に就[つ]いた者は、創作と現実を混同しないで欲しい。創作を本気[ほんき]にして現実の中で暴れるのはみっともないからやめて欲しい。
『ガリバー旅行記』の空飛ぶ国ラピュタも政府の喩えだが、それは政府が国家宗教の副作用で国民よりも上の者になってしまったからであって、けっして政府が悪者だから国民に対して偉そうにしていたわけではない。だから、『ガリバー旅行記』を読んで、政府を悪者だと思ってはいけない。
政府は昔から民主主義である。政府は国民に従って国民の心を満足する国を作ってきた。だから、政府は国民の味方である。ところが、国家宗教の副作用で政府が国民に上の者と見られるようになり、国民が政府に対してイヤミを言うようになったので、マンガ家や小説家がそれに便乗[びんじょう]して、政治家のイメージを借りて政治家を悪役にした話を作っていただけのことである。だから、作り話を本気にして、政府を国民の敵だと思ってはいけない。

[11780] どうして幕府が出来たか?☆ h23.1.5
昔は国民みんなが人殺しをしたいと思っていた。それで、国民に人殺しをさせてくれる政府を作った。
しかし、時代が進むにつれて、国民の中にしだいに人殺しをしたくないと思う者が現れるようになった。それで、国民に人殺しをさせない幕府を作った。しかし、中世の頃はまだ人殺しをしたい者が人殺しをしたくない者よりも多かったので、幕府は出来てもすぐに人殺しをしたい者によって倒された。
近世になると、日本では人殺しをしたい者よりも人殺しをしたくない者のほうが多くなったので、日本では人殺しをさせる政府が倒れて人殺しをさせない幕府になったのである。←※重要。
近代になって日本は開国したが、世界中ではまだ人殺しをしたい者が人殺しをしたくない者よりも多かったので、日本では政府が再び治めることになった。政府は世界大戦すなわち国際人殺し大会をやった。
現代になると、世界中でも人殺しをしたい者よりも人殺しをしたくない者のほうが多くなったので、世界中で政府が国民に倒されている。政府の正体は民主主義の機関ではなく、やはり国民に人殺しをさせる機関だったのだ。江戸時代の日本で政府が幕府に代[か]わらねばならなかったのがその証拠だ。もしも政府が民主主義の機関だったら、江戸時代の政府は国民に合わせて人殺しをしてはいけない機関となって江戸時代にも生き残れたはずである。
政府は国民に人殺しをさせる機関である。だから、国民のほとんどが人殺しをしたくないと思うようになった今でも政府は憲法第20条(宗教の自由)を残しているのだ。やはり政府は今の国民の味方ではない。今の国民は政府を倒すべきである。今の政府は国民の敵である。だから、国民は政府に税金をやるべきではない。政府は強がっているだけで、実際には政府は国民よりも弱い。江戸時代に政府が幕府になったのがその証拠だ。だから、国民がその気になればすぐに政府を倒せる。
政府は民主主義ではない。つまり、政府は国民を喜ばす会社ではない。だから、国民にとっては政府は要らない。
政府は人殺しをさせる機関である。つまり、政府は人殺し自体を楽しいことだと考えているのである。しかし、今の国民にはそんな喜びはない。だから、今の国民にとっては政府は要らない。
今の国民は政府に満足して政府に税金を払っているが、だからといって政府がいい会社とは限らない。政府は人殺しをさせる会社である。一方、今の国民は人殺しが嫌いである。一般に、政府は国民の心を不適切に満足させるためにある会社である。一方、今の国民は自分の心を適切に満足するようになっている。だから、今の国民にとって政府はなくなったほうがいい。だから、国民は政府を倒したほうがいい。政府は人殺しを楽しみだと考えるバカ息子の塊[かたまり]である。国民は政府を倒さねばならない。

[11781] 国民は政府に税金を払うべきではない。 h23.1.5
政府が民主主義であれば、政府は国民を幸福にする会社だから、つまり政府は国民の心を満足してくれるから、国民は政府に税金を払うべきである。
しかし、実際には、政府は民主主義ではなく、しかも現代では政府は不合理主義で国民は合理主義で政府と国民の主義が違うから、政府は国民を幸福にする会社ではないから、つまり政府は国民の心を満足してくれないから、国民は政府に税金を払うべきではない。
政府はそもそも不合理主義の会社である。昔は国民が不合理主義だったから、たまたま国民と政府の主義が同じだったから政府が国民を幸福にする会社だったから、つまり政府が国民の心を満足してくれたから国民が政府に税金を払っていただけのことである。しかし、今は国民が合理主義になったから、国民と政府の主義が違うから政府は国民を幸福にする会社ではないから、つまり政府は国民の心を満足してくれないから国民は政府に税金を払ってはいけない。
つまり、今では合理主義の社会の中に不合理主義の団体である政府があるだけのことである。政府は国民と主義が反対である。だから、いくら国民が政府に税金を払っても政府と国民では主義が違うから政府は国民の心を満足してはくれない。今では国民が合理的な心を満足して生きているのに、政府は不合理な心を満足させてくれるだけだから、国民にとって政府は役に立たないのである。だから、国民は政府に税金を払うべきではない。
政府は不合理主義の会社である。政府は不合理な心を満足させる会社である。つまり、政府は国民に宗教と戦争をやらせるしか能[のう]がない会社である。ところが、今の国民にとっては宗教も戦争も面白くないから、今の国民にとっては政府は要らない。だから、国民は政府に税金を払うべきではない。
国民が政府に税金を払うのは、政府が国民を幸福にしてくれるからである。しかし、今の政府は国民を幸福にしてくれないから、国民は政府に税金を払わないのである。
政府は2000年の歴史のうち1950年は政府が国民を幸福にして国民から税金を取って儲[もう]けてきた。ところが、最近の50年は政府が国民を幸福にしていない。だから、政府はもうじき滅ぶだろう。

[11782] 永久機関 h23.1.5
もしも民主主義の政治機関があれば、永遠に不滅だろう。
民主主義の政治機関は、いつでも国民を幸福にするので国民は喜んで政治機関の命令を聞いて国民は喜んで政治機関に税金を払うだろう。民主主義の政治機関は国民に人気があってすごく儲[もう]かるだろう。
誰かそんな機関を作ってはくれないだろうか?

[11783] 国民は政府の命令を聞くべきではない。 h23.1.5
政府が民主主義であれば、政府は国民を幸福にする会社だから、つまり政府は国民の心を満足してくれるから、国民は政府の命令を聞くべきである。
しかし、実際には、政府は民主主義ではなく、しかも現代では政府は不合理主義で国民は合理主義で政府と国民の主義が違うから、政府は国民を幸福にする会社ではないから、つまり政府は国民の心を満足してくれないから、国民は政府の命令を聞くべきではない。
政府はそもそも不合理主義の会社である。昔は国民が不合理主義だったから、たまたま国民と政府の主義が同じだったから政府が国民を幸福にする会社だったから、つまり政府が国民の心を満足してくれたから国民が政府の命令を聞いただけのことである。しかし、今は国民が合理主義になったから、国民と政府の主義が違うから政府は国民を幸福にする会社ではないから、つまり政府は国民の心を満足してくれないから国民は政府の命令を聞いてはいけない。
つまり、今では合理主義の社会の中に不合理主義の団体である政府があるだけのことである。政府は国民と主義が反対である。だから、いくら国民が政府の命令を聞いても政府と国民では主義が違うから政府は国民の心を満足してはくれない。今では国民が合理的な心を満足して生きているのに、政府は不合理な心を満足させてくれるだけだから、国民にとって政府は役に立たないのである。だから、国民は政府の命令を聞くべきではない。
政府は不合理主義の会社である。政府は不合理な心を満足させる会社である。つまり、政府は国民に宗教と戦争をやらせるしか能[のう]がない会社である。ところが、今の国民にとっては宗教も戦争も面白くないから、今の国民にとっては政府は要らない。だから、国民は政府の命令を聞くべきではない。
国民が政府の命令を聞くのは、政府が国民を幸福にしてくれるからである。しかし、今の政府は国民を幸福にしてくれないから、国民は政府の命令を聞かないのである。
政府は2000年の歴史のうち1950年は政府が国民を幸福にして国民は政府の命令を聞いて政府は国民から尊敬されていた。ところが、最近の50年は政府が国民を幸福にしていない。だから、政府はもうじき滅ぶだろう。

[11784] どうして最近の国民は合理的になったか? h23.1.5
最近は合理的な心を満足できるオモチャがたくさん出来たからである。例えば、テレビやテレビゲームや自動車やパソコンなどが出来て、国民が合理的な心を満足して喜ぶようになったからである。
そのため、不合理な心を満足して喜ぶ国民が減ったので、政府の人気がなくなって、政府が潰[つぶ]れているのである。

[11785] 政府の構造 h23.1.5
政府はそもそも不合理主義の会社である。国民に宗教や戦争をやらせるしか能[のう]がない会社である。政府は国民の“神を崇[あが]める心”や“人殺しをする心”を満足させるために国民に宗教や戦争をやらせるのである。
しかし、その一方で、政府は国会や警察や学校など国民のために民主主義のサービスもやっている。[中世の頃から政府は民主主義のサービスをやっている。]
つまり、政府は不合理主義の部と民主主義の部のふたつの部から成っている。

いくら不合理主義だからといって不合理だけでは人間は満足に生きられない。国民は政府のサービスに満足してくれない。だから、政府にはおまけで民主主義の部が付いているのである。つまり、国会も警察も学校も不合理主義の政治機関である政府のおまけなのである。
世界大戦までは人類は不合理主義だった。だから、不合理主義の政府が人類の心を満足してくれたから、人類は政府の命令を聞き政府に税金を払ったのだ。
しかし、世界大戦後は人類は合理主義になった。だから、不合理主義の政府が人類の心を満足してくれなくなったから、人類は政府の命令を聞かなくなり政府に税金を払わなくなったのだ。
今の政府は民主主義の部が国民の心を満足してくれるが、不合理主義の部が国民の心を不満にしているので、相殺[そうさい]されてサービスとは言えない。今の政府は国民の心を満足しているとは言えない。だから、国民は政府の命令を聞かないし政府に税金も払わない。
世界人類が合理主義になった時代には、もはや政府は要らないのだ。政府は生きられないのだ。日本が近世に入って、国民が合理主義になったために政府がなくなって幕府が出来たのと同じことだ。

[11786] 日本人は合理的な民族である。 h23.1.5
政府は不合理主義の政治機関である。反対に、幕府は合理主義の政治機関である。
日本には幕府があるが、外国には幕府がない。ヨーロッパにさえ幕府がない。
日本はすでに近世に幕府があったが、ヨーロッパは現代の今でさえ幕府がない。
日本は科学ではヨーロッパよりも後進国だったが、日本は哲学ではヨーロッパよりも先進国だったと言える。ヨーロッパは自然科学に優[すぐ]れていたが、日本は社会科学に優れていたのだ。
日本人は合理的な民族である。それが日本人の特徴である。
だから、日本には政府は似合[にあ]わない。日本には幕府のような合理主義の政治機関があればいい。[幕府は国民に国家宗教をやらさなかった。幕府が鎖国をしたのは、幕府が国民に戦争をやらさなかったということだ。幕府は国内犯罪に対しても厳しかった。武士は刀を国内犯罪を取り締[し]まるために持っていたのである。それが、当時の日本国民の意思だったからだ。当時は政府よりも幕府が民主主義だったのだ。しばらく国民は合理主義に満足してやっていたが、幕末になると国民の考えが変わって、国民は合理主義と国際化を天秤[てんびん]にかけて国民にとっては合理主義よりも国際化のほうが幸福だと考えたので、アメリカを日本に来させて開国させて幕府を倒したのである。『政府でも幕府でも政治機関というものは出来たときからずっと同じことをやるしか能[のう]がない』ので、国民は日本の国際化のために幕府を倒さなければならなかったのである。民主主義の政治機関があれば、国民が政治機関をわざわざ倒す必要はなくなるのだが。]
日本の繁栄[はんえい]を支えているのは日本の合理主義である。だから、日本は合理主義を大事にしないといけない。

[11787] 国家宗教は遊びだった。 h23.1.5
中世や近代の日本では国民が国家宗教をやっていた。
しかし、国民は天皇を本当に神とは思っていなかった。
国民は政府を本当に「上の者」と思っていなかった。
つまり、国民は国家宗教を「遊び」として楽しんでやっていたのである。国家宗教は国民にとって冗談でやっている“神様ごっこ”にすぎなかったのである。
国民は本音[ほんね]では天皇をバカと思ったり政府を空威張[からいば]りバカだと思って軽蔑[けいべつ]していたのである。

[11788] 宗教の自由 h23.1.5
日本国憲法第20条は宗教の自由である。
日本国憲法第20条は、日本国民が自由に宗教をやってもいいと述べている。
つまり、日本国憲法第20条は、日本国民が自由に宗教をやらなくてもいいと述べている。
だから、いくら日本政府が国家宗教で命令を出しても、国民はそれに従わなくてもかまわない。
国民が政府の国家宗教の命令に従おうが従うまいが国民の自由である。

[11789] 幕府を作りたい人募集! h23.1.5
今の国民は合理主義を支持している。
それなのに、日本政府は不合理主義をやっている。
だから、今の国民は政府を支持しない。
今の国民にとっては不合理主義よりも合理主義のほうが幸福である。
だから、国民は政府を倒して合理主義の政治機関か民主主義の政治機関を作らねばならない。
しかし、今は幕末のように国民が外国の政治機関に頼んで日本政府を倒してもらうわけにも行かない。
だから、日本国民自身の手で日本政府を倒さねばならない。
近世において、日本は独力で政治機関を政府から幕府に変えることに成功した。
それは、幕府を作ろうとするヤル気のある者がいたからである。
どこかにそんなバカはいないだろうか?

[11790] 国民は政府に税金を払わなければならないか? h23.1.6
国民が国家宗教をやっているのであれば、国民は神を崇[あが]めているから、神と組んでいる政府が国民よりも上の者ということになるから、国民は政府の命令に従って政府に税金を払わなければならない。
しかし、今の国民は国家宗教をやっていないから、この理屈は成り立たない。
政府が民主主義の機関であれば、政府は国民を幸福にするから、つまり国民の心を満足するから、国民はそのお礼に政府に税金を払わなければならない。
しかし、実際には、政府には不合理主義の部があり、今の国民は合理主義だから、政府と国民は主義が違うから、政府は国民を幸福にしないから、つまり政府は国民の心を満足しないから、国民は政府に税金を払わなくていい。
日本国憲法第30条は納税の義務だが、国民のほとんどは当然税金に反対だから民主主義では納税の義務が決まるわけがない。政府が国民から強制的一方的に税金を取ることは民主主義(つまり、政府が国民に従うこと)に反するから、「政府が国民から強制的一方的に税金を取っていい」という法律が民主主義で決まるわけがない。だから、憲法第30条は明らかに政府が作った“嘘[うそ]の法律”であって無効である。[憲法第30条の納税の義務は国民にとって一方的に不利な法律だから、そんな法律が民主主義で決まるはずがない。それと同じように、日本国憲法第20条は宗教の自由だが、今の国民のほとんどが宗教をやっていないから民主主義では宗教の自由が決まるわけがないから、憲法第20条も“嘘の法律”である。]
だから、今の国民には政府に税金を払わなければならない理由がない。
政府と国民はもともと平等である。だから、政府は国民と契約を取らねば税金も取れない。しかし、実際には今の政府は国民と契約を取っていない。だから、国民は政府に税金を払わなくてもいい。それが嫌なら、政府は国民とちゃんと契約を取らねばならない。
現代は国民が合理主義だから、国民が不合理主義の政府を倒すべき時代である。今の国民は政府の味方ではなく、政府の味方は誰もいない。だから、今の政府は弱い。政府は国民を味方につけてこそ強いのであって、国民を味方につけない政府は弱い。今の政府には国家権力はなく、あるのは政府自身の権力だけである。今では政府の権力よりも国民の権力のほうが強いから、国民は政府を倒してやればいいのである。

[11791] どうして日本国憲法第20条と第30条は法律になっているのか? h23.1.6
日本国憲法第20条(宗教の自由)と第30条(納税の義務)は民主主義ではとうてい決まりそうにない。
それなのに、なぜか法律になっている。
それは、国家宗教によるからである。
日本の国家宗教の神は神武天皇である。
しかし、古事記の記述を見ても、神武天皇は特に法律を作らなかった。
だから、神武天皇の史実によって、国家宗教で法律を作ることは無理である。
しかし、神武天皇に関する駄洒落[だじゃれ]によって国家宗教で法律を作ることは可能である。
つまり、法律の中に神武天皇の情報を混ぜれば法律を作ることができる。
例えば、そうして作ったのが、日本国憲法の第20条と第30条である。
なぜなら、神武天皇→天→ten→10→十[じゅう]だからである。
あるいは、神武天皇→光る玉→0だからである。
日本国憲法第20条と第30条には十や0が入っているから、国家宗教によればそれらを定めることができる。
日本国憲法第20条と第30条は政府が民主主義によらずに神武天皇の国家宗教によって自分勝手に作った“嘘[うそ]の法律”である。
特に第20条については、国家宗教を使って国家宗教の法律を定めているから、いわゆるくりこみ法である。つまり、国家宗教を“二重”に使っているから第“20”条なのである。

[11792] 国民は政府に税金を払わなければならないか?☆ h23.1.6
憲法第30条は第20条に基づいて定められている。つまり、国家宗教を使って定められている。
ところが、今の国民のほとんどは国家宗教をやっていない。
憲法第20条によれば、国民は政府の国家宗教の命令に従わないことができる。[[11788]を参照。]
憲法第30条は政府の国家宗教の命令だと見なすことができる。
だから、国民は憲法第30条に従わなくていい。つまり、国民は政府に税金を払わなくてもいい。
これで、国民はやっと政府に税金を払わなくてもよくなった。^^
政府は今後収入がない。政府は潰[つぶ]れたも同然だ。

[11793] 国民が政治機関を決める。☆ h23.1.6
古代の日本国民は不合理主義だった。だから、日本国民は不合理主義をやる政府を作った。
近世になると、日本国民は合理主義になった。だから、日本国民は政府を倒して新たに合理主義の幕府を作った。当時の世界はまだ不合理主義の段階にあったので、日本が合理主義の国であるためには、日本は鎖国しなければならなかった。[いわゆる『東洋の道徳』というやつである。つまり、日本は自然科学では遅れていたが、社会科学では進んでいたのである。]そのために、日本国民は幕府に鎖国をさせた。
近代になると、日本国民は合理主義を反省するようになった。日本が合理主義の国であるためには日本は鎖国をしなければならなかったが、そのために日本は文明が遅れてしまった。合理主義の副作用で日本の文明が遅れてしまったのである。そこで、当時の国民は合理主義をやめることにした。そこで、日本国民は幕府を倒して再び不合理主義の政府に戻した。日本が不合理主義を採[と]ったのは、文明開化のための犠牲[ぎせい]である。しかし、その結果、日本は世界大戦で負けることになった。
現代になると、人類みんなが合理主義になり、日本国民は再び合理主義になった。科学の時代になって、人類が自分の合理的な心を満足して幸福に暮らせるようになったからである。[[11784]を参照。]世界中の国の社会科学が進歩して人類みんなが合理主義になったからである。日本で国民が西洋の自然科学を学んで自然科学が進んだように、西洋で国民が日本の社会科学を学んで社会科学が進んだので、人類みんなが合理主義になったのである。だから、今の日本国民は政府を倒して新たに合理主義の政治機関を作ろうとしている。現在はその途中である。今の日本国民は合理主義だから、不合理主義の政府を倒すのは正しいことである。いつまでも日本の中枢[ちゅうすう]に居座[いすわ]っている日本政府のほうが悪い。だから、国民は政府を倒すことを躊躇[ちゅうちょ]してはならない。

[11794] 人文科学と自然科学 h23.1.6
要するに、人間にとっては人文科学と自然科学の両方があればいいのである。両方あれば幸福なのである。
中世の日本には、人文科学も自然科学も両方がなかった。
近世の日本には、人文科学はあったが自然科学がなかった。
近代の日本には、自然科学があったが人文科学がなかった。
現代の日本には、人文科学と自然科学の両方ともある。日本政府をなくせば完璧[かんぺき]になる。

[11795] どうして「神は死んだ」のか? h23.1.6
ニーチェは19世紀末に「神は死んだ」と言った。
それは、当時のヨーロッパに正しい人文科学が生まれたからである。
それまでは、ヨーロッパには正しい人文科学がなく、人々は神を崇[あが]める心や人殺しをする心や他人の物を奪う心などの不合理的な心を満足して生きていた。性欲や麻薬欲や賭博[とばく]欲などの不合理な心を満足して生きていた。[人殺しをする心や他人の物を奪う心を満足することが戦争である。昔は戦争で勝った国が負けた国を好き勝手にすることができたのである。昔は正しい人文科学がなかったから、何をしてたかわかったもんじゃない。戦争で勝った国は負けた国の財産を根こそぎ奪って儲[もう]けていた。そうやって出来たのが帝国である。]
19世紀末になってヨーロッパに正しい人文科学が生まれて、ヨーロッパの人々が合理的な心を満足して生きるようになって、神を崇める心を満足しなくなって宗教をやらなくなったから「神は死んだ」のである。
人間は自然科学だけではなく人文科学もわかっていないと幸福には生きられないのだ。

[11796] どうして神の情報を入れれば何でもやっていいのか? h23.1.6
宗教とは神を崇[あが]めることだが、神の情報を入れれば何でもやっていいことでもある。
昔はまだ正しい人文科学がなかったので、昔の人は不合理な心を満足して出鱈目[でたらめ]に生きていた。神を崇めたり、人を殺したり、人の物を奪ったり、その他もろもろの不合理な心を満足して生きていた。
それで、昔の人は「神の情報を入れれば何をやってもいい」という決まりを作ったのである。
しかし、今は正しい人文科学があるから、今の人は合理的な心を満足してお行儀[ぎょうぎ]よく生きねばならない。神を崇めたり、人を殺したり、人の物を奪ったり、その他もろもろの不合理な心を満足してはならない。そうして真面目[まじめ]に生きていれば、出世していい目にあって幸福になれる。

[11797] 政治機関は要らない。 h23.1.6
幕府も政府も国民の意見を聞いてくれなかった。
幕府も政府も民主主義ではない。
幕府も政府も国民が作ってやったのに、出来た後では偉そうにして国民に従わない。
だから、政治機関は作らないほうがいい。
国民が今の政府を倒したら二度と政治機関を作ってはならない。
民間の法律事務所と警察があれば十分だ。
たとえ政治機関を作るとしても政治機関と国民を平等にするために契約制にしなければならない。
国民が自分の国を好きなように作っていいのだから、あとで国民の不利にならないように最初から民間の法律事務所や警察を作ることにすればいいのだ。
これまで国民はヘンテコな政治機関ばかり作ってきたからうまく行かなかったのである。これまで国民は大雑把[おおざっぱ]にいいかげんにしか考えずに政治機関を作ったから、国民が自分が作った政治機関に自分が苦しめられる羽目[はめ]になったのである。最初からちゃんとした会社を作ればよかったのだ。
政治機関というものは、細かいところは時代に応じて変わるが、大きいところは変わらないので、政治機関の原理は最初に出来た時と同じままなのである。例えば、日本政府が不合理主義の部と民主主義の部で出来ていることは、政府がなくならないかぎりいつまで経[た]っても変わらないのである。[[11785]参照。]政府は変わらないが、国民は変わる。今では国民が合理主義で、政府が不合理主義で、国民と政府は矛盾している。だから、国民はいやがうえにも政府を倒さなければならないのである。

[11798] ヨーロッパは先進国である。 h23.1.7
今のヨーロッパは自然科学も人文科学も両方できる。
だから、ヨーロッパの政府は国家宗教なんか国民にやらせていない。戦争も国民にやらせていない。

一方、今の日本は自然科学ができるだけで人文科学はできない。
だから、日本の政府は国家宗教を国民にやらせている。もっとも、戦争は国民にやらせていない。
日本は江戸時代には人文科学がよくできていたが、今はかえってできなくなっている。
今では日本は自然科学ではヨーロッパと同じくらいだが、人文科学ではヨーロッパよりも遅れている。
このままでは日本はヨーロッパに遅れてしまう。日本はヨーロッパほど幸福な国ではなくなってしまう。
だから、日本もヨーロッパに倣[なら]って自然科学と人文科学の両方ができるようにならねばならない。日本政府はヨーロッパの政府に倣って国家宗教や戦争などの不合理なことを国民にやらせてはいけない。
日本政府にヨーロッパの政府のような柔軟性がないというなら、日本国民はやむを得ず日本政府を倒さねばならない。徳川幕府に次[つ]ぐ新たな幕府を150年ぶりに作らねばならない。

[11799] 今の日本政府は国民を幸福にしない。 h23.1.7
政治機関は国民にとって幸福な国を作るためにある。
人間が幸福であるためには、自然科学と人文科学の両方が必要である。
ところが、今の日本政府は日本を自然科学だけあって人文科学のない国にしようとしている。
これでは、日本が国民にとって幸福な国にはならない。
だから、今の日本政府は早くなくなったほうがいい。

[11800] 政治機関は国民の先生である。 h23.1.7
人間が幸福であるためには、正しい自然科学と正しい人文科学の両方が必要である。
中世の日本政府は国民にまちがった人文科学を教えていた。[昔の日本には自然科学がなかった。]
近世の江戸幕府は国民に正しい人文科学を教えていた。
近代の日本政府は国民にまちがった人文科学と正しい自然科学を教えていた。
現代の政治機関は国民に正しい人文科学と正しい自然科学を教えるべきである。
しかし、今の日本政府は近代の日本政府と同じように国民にまちがった人文科学と正しい自然科学を教えている。
今の日本政府は国民を幸福にしない。今の日本政府は国民を不幸にしている。
だから、今の日本政府は国民にとって要らない。
日本を幸福な国にするためには、日本政府がなくなったほうがいい。


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