[10901] どうして国民は政府に従うのか? h22.9.10
これまで、国民が政府に従ってきたのは、政府や神に権力があったからでも、政府が国民よりも身分が高かったからでも、政府が警察を使って国民を武力で脅[おど]したからでもなく、ただたんに『政府が国民に正しい命令を出す会社だった』からである。
昔は政府も国民も国家宗教や民主主義を支持していて、政府は国家宗教や民主主義のスペシャリストだったから、国民は政府が作った命令が正しい命令だと信じて政府の命令に従ったのである。たとえ結果がどうなろうとも、国民よりも政府のほうが正しかったから、国民は政府の命令に従わねばならなかったのである。[結果を認識にフィードバックさせるのは自然主義(科学)の方法であって、科学ができる以前には政府が国家宗教で命令を作って国民に命令を出すだけで、結果がどうなっても政府はいっさいおかまいなしだったのである。]
しかし、今は国民が自然主義を支持していて政府が国家宗教や民主主義を支持していて、国民が政府よりも正しくなっている。だから、今では、国民は政府の命令がまちがっていることがわかるから、国民は政府の命令に従わなくなったのである。国民は政府に逆らうようになったのである。
つまり、昔は政府が国民よりも正しかったから、国民は政府に従った。しかし、今は政府が国民よりも正しくないから、国民は政府に従わない。人間は正しい者に従えば自然に適応できて幸福に生きられる。だから、国民は正しい者には従うがまちがった者には従わない。ただ昔は人間が自然に従うための方法が、国家宗教や民主主義しかなかっただけのことである。
今の政府は国家宗教や民主主義などのまちがったプログラムのためにまちがった答えしか出せないオンボロコンピューターのようなものだ。国民は誰もそんなものを頼[たよ]りにしない。将来、国民よりも正しい(あるいは国民と同じ程度に正しい)会社が現れれば国民はその会社に従うだろう。それまでの間は国民は国民自身に従ってやって行くしかない。
ほとんどの国民は何も考えずにただ政府に従っているだけで、「どうして国民が政府に従うか」について考える者はほとんどいない。リンゴが落ちるのを見た者は大勢いるが、「どうしてリンゴが落ちるか」について考えた者がニュートン以外にいなかったのと同じことだ。これまで国民が政府に従ってきたのは、『人間は正しい者に従う』からだ。これまでは政府が国民よりも正しかったから、国民は政府に従ってきたのだ。しかし、今の政府はもはや国民にとって正しくない。だから、今は国民が政府に従うべきではないのだ。

[10902] 政府の負けだ。 h22.9.10
政府は私の議論に負けている。政府に反論の余地はない。
政府は終わりだ。
公務員は毎日役所に通うのをやめて、さっそく別の仕事を探さなければならない。
公務員は職業安定所に通って、いい仕事を探さなければならない。

[10903] どうして政府は戦後自然主義に変えなかったのか? h22.9.11
正しいだけが仕事ではない。
人間の仕事は正しいことをするだけではない。
人間の仕事には、正しくないことをする仕事もある。
例えば、音楽家や画家の仕事は正しいことをすることではない。芸能人の仕事も正しいことをすることではない。芸術家や芸能人の仕事は綺麗[きれい]な音楽や絵を作ったり面白い芸をすることである。
政府は戦前からずっと国家宗教や民主主義の仕事をしていた。
戦後、日本が自然主義に変わったときに、政府は自分がこれまでやってきた国家宗教や民主主義がそもそも正しいことではないことを知った。
そこで、政府は自分の仕事が正しいことをする仕事ではないことを知り、自分の仕事を芸術家や芸能人がするような正しさ以上のことを目的とした“高級な仕事”だと考えたのである。
それで、政府は自分の仕事を変える必要はないと考えて、戦後も同じ仕事を続けているのだ。
しかし、実際には政府の仕事は国民に正しい命令を出すことである。政府が国民に正しい命令を出すのは、国民が政府の正しい命令に従えば国民が自然に適応できて国民が幸福になれるからである。
戦前は、国家宗教や民主主義が正しい自然認識の方法だと考えられていたから、政府は国家宗教や民主主義で命令を作って国民に出していた。国民も政府の命令が正しいと考えて、喜んで政府の命令に従っていたのである。
ところが、戦後、日本に新しい自然主義が入ってきた。自然主義は国家宗教や民主主義よりも正しい自然認識の方法である。
だから、政府は国民に正しい命令を出すために、これまでの国家宗教や民主主義を捨てて自然主義を採用しなければならないのである。
政府は綺麗な芸術品を作る芸術家でも面白い芸をする芸能人でもなく、正しい命令を作る職人であることを忘れてはいけない。

[10904] どうして今でも国民は政府に従っているのか? h22.9.11
戦前まで国民が政府に従っていた名残[なごり]である。
戦前までは国民が政府に従い続けていたから、戦後も国民が政府に従っているのである。
しかし、戦前と戦後では、政府と国民の関係が違っている。政府と国民の関係が逆転している。
戦前は政府が国民よりも正しかった。だから、国民は政府に従った。
戦後は政府が国民よりもまちがっている。だから、国民は政府に従ってはいけない。[政府は戦後の今でも国家宗教や民主主義などのまちがった自然認識の方法で自然を認識している。だから、政府の考えは正しくない。一方、今の国民は自然主義の正しい自然認識の方法で自然を認識している。だから、国民の考えは正しい。]
いくら馬鹿でも、自分よりまちがっている者に従ったりはしない。
今の国民は馬鹿以下の馬鹿だ。
『人間は正しい者には従うが、まちがった者には従わない。』これまで人間はずっとそうしてきた。
だから、今の国民は人間ではない。
国民が早く人間になりたければ、政府に従うのをやめることだ。[今の人間は眼で見るだけで頭で見ていない。頭で見ないと正しいとまちがいの区別がない。だから、今の国民はたんに眼で見て政府に従っているだけなのである。そういう意味でも、今の国民は人間ではない。]
このまま国民が政府に従い続けると、政府は国民よりもまちがっているから、まちがっている人間が正しい人間を支配する世の中になって国中がメチャクチャになる。
だから、国民は政府に従ってはいけない。


[10905] どうして今でも政府は国民を支配しているのか? h22.9.11
戦前まで政府が国民を支配していた名残である。政府が国民に命令を出していた名残である。
戦前までは政府が国民を支配し続けていたから、戦後も政府が国民を支配しているのである。
しかし、戦前と戦後では、政府と国民の関係が違っている。政府と国民の関係が逆転している。
人間は自分よりも正しくない者を支配できるが、自分よりも正しい者を支配できない。
戦前は国民が政府よりも正しくなかったから、政府は国民を支配できた。
戦後は国民が政府よりも正しくなったから、政府が国民を支配することはできない。
国民が自然主義に変われたのだから、政府も自然主義に変われるはずだ。
政府が国民を支配したければ、政府は自然主義に変わらねばならない。

[10906] 能書[のうが]き h22.9.11
今の政府は自然主義(科学)をやっているふりをして、実際には国家宗教(神主義)や民主主義(政府主義)しかやっていない。
政府がテレビや新聞やラジオでやっていることを見れば政府は自然主義をやっているが、政府が実際にやっていることを見れば政府は国家宗教や民主主義しかやっていない。
今の政府は能書きが立派なだけで実力はないのだ。
それなら、国民は政府に従わない。

[10907] なぜ戦前は国家宗教をやっていたのか? h22.9.11
世界大戦以前にはまだ自然主義がなかった。
だから、日本が国家宗教をやらなければ日本は自然について何もわからなくなって日本は何もやれなくなる。たとえまちがっていても何もわからないよりはマシである。だから、戦前は、日本ではみんなが国家宗教をやっていたのである。[江戸時代は、国家宗教の代[か]わりに身分制があった。身分制では身分の高い者に身分の低い者が従わねばならない。江戸時代には、身分の高い幕府に身分の低い国民が従っていたから、日本は動くことができたのである。当時の幕府は最先端の西洋科学を積極的に取り入れて、自然についての正しい知識を身に付けて、国民に正しい命令を出せるように心がけていたのである。だから、江戸時代は日本が繁栄[はんえい]したのだ。当時の江戸は世界一の大都市だった。江戸時代には幕府は失業率0%、完全終身雇用制の夢の社会を実現していた。しかも、犯罪発生率0%の天下泰平[たいへい]の社会だったのである。]
民主主義といっても、日本ではみんなが国家宗教をやっていたから、民主主義は実質的には国家宗教にほかならない。戦前の民主主義は国家宗教に基[もと]づいた民主主義だったのである。民主主義といっても、実際には間接民主主義だったのであり、間接民主主義は政府主義にほかならないから、戦前の日本では国民は政府主義で国家宗教(神主義)をやっていたのである。[民主主義とは政府主義にほかならない。政府は国家宗教をやりたがっている。だから、民主主義ではついでに国家宗教がやれるのである。明治政府が国家宗教を始めたのもそのためである。反対に、政府は自然主義をやりたくない。だから、民主主義では自然主義をやらない。戦後の政府が自然主義をやらないのはそのためである。民主主義では国民の人権が認められない。だから、民主主義は政府にとって有利であり、国民にとって不利である。]
しかし、戦後は日本に自然主義が入ってきた。自然主義は国家宗教よりも正しい自然認識の方法である。つまり、自然主義は国家宗教よりも自然について正しいことがわかる。だから、戦後は日本では国家宗教をやめて自然主義だけをやればいいのである。
自然主義にとっては民主主義は要らない。だから、民主主義をやめればいい。例えば、国の法律は大勢の正しいことがわからない馬鹿議員が決めるよりも、一人の正しいことがわかる社会学者が決めればいい。だから、もはや国会は要らない。国会議員は要らない人間なのである。
今の日本や世界には優[すぐ]れた自然主義がある。日本は国家宗教や民主主義などの古臭いしきたりをさっさと捨[す]てるべきである。

[10908] なぜ今の日本政府はダラけているのか? h22.9.11
今の政府はまちがっていることがわかりきっている国家宗教や民主主義でわざわざまちがった命令を作って国民に出している。今の政府はまちがった命令を国民に出して国民を自然に適応できなくして国民を不幸にしている。
今の政府には国の中枢機関としての資格がない。今の政府は国民にも劣る馬鹿[ばか]である。
政府が国民を支配するためには、政府が国民よりも正しくなければならない。そうすれば、国民は政府に頼[たよ]って政府の命令通りに動くようになる。たとえ政府が国民よりも正しくなくても、政府が国民と同程度に正しければ、やはり国民は政府に従うだろう。
それなのに、今の日本政府が正しくしないのは、国民が政府よりも賢すぎるからである。今の政府は馬鹿が行く会社である。政府は頭のよさではとうてい国民にはかなわないと思って、国民に正しい命令を出すのをやめて、ヤケクソになって国家宗教や民主主義でわざとにまちがった命令を出して国民をいたぶって遊ぶようになったのである。
今の国民は頭がよすぎる。だから、政府は国民を支配するのを諦[あきら]めて、わざとに国家宗教や民主主義でまちがった命令を出して国民を苦しめるようになったのだ。
政府は自分の支配欲を満足できなくなったから、支配欲を満足する代わりに国民を虐[いじ]めて満足するようになったのだ。受験戦争に敗[やぶ]れたガリ勉馬鹿がグレて不良になるのと同じことである。
今は自然主義で自然のことがわかるから、国家宗教も民主主義も要らない。だから、国家宗教や民主主義をやる政府も要らない。政府は自分が国民に捨てられたから、怒[いか]り狂って国家宗教や民主主義を使って国民を殺しまくっているのである。

[10909] 税金制は要らない。 h22.9.11
たとえ税金制がなくても、法律の必要性を認めない国民はめったにいないだろう。
政府が国民にそこそこ『正しい命令』を出してくれれば、国民は政府に喜んで政治料金を払うだろう。
だから、政府は税金制によらなくても経営できるはずだ。
自然主義の世の中でも、政府は国民一人一人と契約を取ってやっていけるだろう。
NHKが『電波代』で経営できるぐらいだから、政府が『命令代』で経営できないことはない。
そもそも私が政府を気遣[づか]ってやることはない。自然主義の世の中では、税金制は国民の人権を否定することだから絶対にやってはいけない。たとえ政府でもやってはいけない。だから、いくら政府が認めなくても、政府は国民から税金を取ることはできない。今後は政府は国民から税金を取ってはいけない。

[10910] どうして国民は政府に従っているか? h22.9.11
国民がクソバカばっかりだから、頭の中で余計なことを考えて政府に従っているのだろう。頭の中でふざけたまちがった理由を考え出してわざわざ政府に従っているのだろう。[[10901]を参照。]
これまで国民が政府に従ってきたのは、『政府が正しかった』からである。政府が国民に正しい命令を出してきたからである。だから、政府はその名の通り“正しさを取り締まる(←政)機関(←府)”なのだ。
人間は正しい者には従うが、まちがった者には従わない。
人間は今日[こんにち]までそうすることによってなんとか自然に適応して生きてきたのである。

ところが、今の政府は国家宗教や民主主義などのまちがった自然認識の方法で自然を認識している。だから、政府の考えは正しくない。一方、国民は自然主義の正しい自然認識の方法で自然を認識している。だから、国民の考えは正しい。つまり、今では国民は正しいが、政府は正しくない。
したがって、今の政府は国民よりも正しくないから、国民は政府に従ってはならない。
国民が自然に適応して生き残りたければ、国民は政府の命令に従ってはならない。国民が自然に適応して幸福になりたければ、国民は国民自身の考え(自然主義の考え)に従うべきである。
政府に従って死ぬよりも、自然に従って生き残るほうがいい。だから、国民は政府に従わず、国民自身の考えに従えばいい。
この世から“国民にまちがった命令を出す機関”(政府のこと)がなくなれば世の中はうまく行くようになる。だから、国民は政府をなんとしてでも倒さねばならない。

[10911] テレビも新聞も嘘[うそ]つきである。 h22.9.11
テレビや新聞に載っている事件の大半は政府が起こしたのがミエミエなのに、テレビや新聞はこれまで一度も『政府が事件を起した』と言ったことがない。
テレビや新聞は見て見ぬふりをしている。
テレビや新聞は事実を報道していない。
テレビや新聞は嘘つきである。
テレビや新聞は視聴者や購読者を騙[だま]している。
テレビや新聞を見ても肝心のことを伏[ふ]せているので社会についての理解が深まらない。
今の日本では、政府が国家宗教や民主主義で政治を行[おこな]っている。
国家宗教では、世の中のすべてのことが神に従っていなければならない。だから、テレビや新聞の記事も神に従わねばならない。だから、政府が“神に従った事件”を毎日起しているのである。[私は私のことについて詳[くわ]しいから、テレビや新聞のどの事件が政府が私を神とする国家宗教で起したかがわかる。]
また、民主主義は実際には間接民主主義であり政府主義にほかならない。だから、民主主義では世の中のすべてのことが政府に従っていなければならない。だから、テレビや新聞の記事も政府に従っていなければならない。だから、テレビや新聞では政府が不利になるから絶対に『政府が犯人だ』と言わないのである。
つまり、政府が国家宗教や民主主義をやることは、世の中のすべてのことを神と政府のふたつに従わせることにほかならないのである。なぜなら、それが政府にとっての正しいことだからである。それが政府にとっての自然だからである。

しかし、現代は自然主義の時代である。日本でも世界でも人類の大半は自然主義である。だから、テレビや新聞も自然主義に従わねばならない。だから、テレビや新聞は政府を気遣[きづか]うことなく事実をありのままに報道すればいいのである。テレビも新聞も政府がやったら政府がやったと正直に言えばいいのである。

[10912] 『人民は弱し 官吏[かんり]は強し』 h22.9.11
星新一は『人民は弱し 官吏は強し』という小説を書いた。[わたしは中学生の頃に親友の和田高明[わだたかあき]君に勧[すす]められて新潮文庫の星新一のショートショートを読んだことがある。『人民は弱し 官吏は強し』は読んだことがない。]
『人民は弱し 官吏は強し』(昭和42年発表)とは、役人が偉そうだからぶっ殺せという意味である。
戦前は政府も国民もみんなが国家宗教や民主主義を支持していて、政府は国家宗教や民主主義のスペシャリストだったから、国民みんなが政府を正しいと信じて政府に服従していた。だから、戦前は『人民は弱し 官吏は強し』だったのだ。国民みんなが政府に服従していたから、国民が政府にちょっとでも逆らおうものならたちどころに政府や周りの連中にボコボコにされたのだ。
しかし、今は国民は自然主義を支持するようになっている。だから、国民が政府に逆らっても周りの連中は無関心である。政府も本当は自分のほうがまちがっていることを知っているから、国民が政府に逆らっても国民に手を出せない。つまり、今では『人民は強し 官吏は弱し』なのだ。

[10913] この世は正しい者が支配する。 h22.9.11
政府は今でも昔ながらに国家宗教や民主主義を用いて自然を認識している。一方、今では国民は自然主義を用いて自然を認識している。自然主義は国家宗教や民主主義よりも正しい自然認識の方法である。だから、今では国民のほうが政府よりも正しい。
この世は正しい者が支配する。今では国民が政府よりも正しい。だから、国民が政府を支配する。つまり、国民のほうが政府よりも強い。だから、国民が政府を好き勝手にできる。国民は政府の言いなりになることはない。今度は国民が自然主義で政府を攻撃することができる。国民は政府に税金を払わないことにして政府を餓死[がし]させて政府を滅ぼせばいい。
政府は国家宗教や民主主義をやる会社である。だから、自分が自然主義を支持していれば自分は政府に従ってはならない。むしろ、政府に逆[さか]らわねばならない。今では、自然主義が国家宗教や民主主義よりも正しいことは子供でも知っている。だから、いくら国民が政府に逆らっても、政府は国民を罰したりはしないだろう。政府が国民を罰したら、政府は本物のキチガイだとされて精神病院に入れられるだろう。

[10914] 民主主義をやる会社《まとめ》☆ h22.9.12
今の政府は民主主義をやる会社である。
明治政府から民主主義をやる会社である。
民主主義は実際には間接民主主義であり、間接民主主義は政府主義にほかならないので、民主主義は実質政府主義である。
今の政府は国家宗教をやりたいから民主主義で国家宗教をやっているのである。つまり、国家宗教は民主主義のオマケである。[[10907]を参照。江戸時代以前の政府は、当時はまだ民主主義が出来ていなかったから、純粋に国家宗教をやっていた。江戸時代は幕府が身分制をやっていた。戦前に比べて戦後は国民が国家宗教を支持しなくなったので、今の政府は国家宗教を政府だけで内密[ないみつ]にやっているのである。]
今の政府は自然主義をやりたくないから自然主義をやっていないのである。自然主義には人権の概念がある。そのために、政府は国民の人権を無視して好き勝手なことをやっている。
ところが、現代は自然主義の時代である。自然主義は民主主義よりも正しい自然認識の方法である。自然主義では自然について正しいことがわかるが、民主主義では自然について正しいことがわからない。政府は民主主義をやっているが、国民は自然主義をやっている。だから、国民は自然について正しいことがわかるが、政府は自然について正しいことがわからない。
人間は正しい者に従うことによって自然に適応して幸福に生きることができる。そのため、古来より国民はいつも正しい者に従ってきた。戦前までは、政府のほうが国民よりも正しかったので、国民は政府に従った。しかし、今の時代は政府よりも国民のほうが正しい。だから、今では国民は政府ではなく国民自身に従うのである。政府は国民に従うべきである。
将来、自然主義の政治機関が出来れば、国民はそれに従うだろう。

[10915] 幕府と政府とどっちが上か? h22.9.12
江戸時代の幕府は身分制をやっていた。当時は国家宗教(神主義)が滅んでまだ民主主義が出来ていなかったから、国家宗教も民主主義も両方ともやれなかったからである。身分制では、身分の低い国民は身分の高い幕府に従わねばならなかった。
幕府は自然主義哲学(つまり西洋科学)を勉強して国民に『正しい命令』を出すように努[つと]めていた。
そのため、江戸時代の日本は繁栄[はんえい]していた。
明治以降の政府は民主主義をやるようになった。民主主義は実質的には政府主義にほかならない。政府は政府主義(民主主義)で自然主義をやめて国家宗教をやるようになった。
政府は国家宗教や民主主義で国民に「まちがった命令」を出すようになった。
そのため、明治以降の日本は衰退[すいたい]している。
江戸時代の幕府は国民よりも正しかったが、明治以降の政府は国民よりも正しくない。
だから、幕府のほうが政府よりも上である。
民主主義なんかなくなったほうがマシだ。民主主義は古臭い国家宗教を甦[よみがえ]らせるからないほうがマシだ。民主主義は政府主義だから政府が汚職をするからないほうがマシだ。
日本は自然主義をやっていた頃[ころ]が一番うまく行っていた。
だから、日本は自然主義をやらねばならない。

[10916] 国家宗教も自然主義も同じである。 h22.9.12
今の政府は民主主義で国家宗教をやっている。なぜなら、民主主義は政府主義であり、政府は国家宗教をやりたいからである。しかし、民主主義や国家宗教では自然について正しいことがわからないから、政府はまちがった命令を国民に出して国民を自然に不適応にして国民を苦しめている。
一方、今の国民は自然主義を支持している。自然主義では自然について正しいことがわかるから、もしも政府が自然主義で政治をやったとすれば、政府は正しい命令を国民に出して国民を自然に適応させて国民を幸福にすることができる。
政府が国家宗教で政治をやっても自然主義で政治をやっても手間[てま]は同じである。勤務時間が同じなら同じである。
政府が自然主義で政治をやると政府は国民から税金を取れなくなるが、その代[か]わり政府は国民に『正しい命令』を出すことができるので国民が政府によく従うようになって政府が国民みんなと契約を取って政府が国民みんなから政治料金を取ることができる。つまり、お金の問題も国家宗教と自然主義とでそう変わらない。
今の状態のままでは、国民が政府の命令に従わなくなって国民が政府から離れていくばっかりだから、長い目で見れば政府にとっては自然主義で政治をやったほうが有利である。
国民にとっては政府が自然主義で命令を出したほうが自然に適応できて幸福になれる。
だから、政府は民主主義や国家宗教ではなく自然主義で政治をするべきである。つまり、政府は民主主義や国家宗教ではなく自然主義で国民に命令を出すべきである。
そうすれば、日本はよい国になるだろう。国民が政府に従って、国民が幸福に暮らすことができる明るく楽しい国になるだろう。

[10917] まちがった命令を出す会社と正しい命令を出す会社 h22.9.12
今の政府は国民にまちがった命令を出す会社である。
今の政府は民主主義や国家宗教などのまちがった自然認識の方法で国民にまちがった命令を出して国民を自然に不適応にさせて国民を不幸にしている。
もしも、今の日本に自然主義の正しい自然認識の方法で国民に正しい命令を出す会社があったとすれば、国民は政府よりもこの機関に従おうとするだろう。
なぜなら、国民が正しい命令に従えば自然に適応できて幸福になれるからである。
実際には、国民の多くは馬鹿だから自分で正しいことがわからないので、自分の代わりに他人に正しいことを考えてもらって他人の命令に従うのである。そのためになら、国民は多少のお金を出すことも辞[じ]さない。
だから、もしも日本に自然主義で正しい命令を出す機関があれば、国民はこの機関にお金を出して正しい命令を作ってもらって正しい命令に従うだろう。
反対に、今の政府に国民がお金を払っても、民主主義や国家宗教でまちがった命令を出すだけだから、お金の無駄[むだ]である。国民は政府にお金を払わずに政府の命令を聞かずに自分で考えたほうがいい。

[10918] 今の政府は民主主義の機関である。☆☆ h22.9.12
今の国民の多くは「政府が民主主義の機関だ」と考えている。
たしかに、今の政府は民主主義の機関である。
しかし、実際には、民主主義は民主主義でも間接民主主義すなわち議会制民主主義であって、間接民主主義は政府主義にすぎない。間接民主主義は、本来国民主義であるはずの民主主義を反対の政府主義に変えるための方法である。しかも、政府は民主主義すなわち政府主義を使って、自分が国家宗教をやりたくて自然主義をやりたくないという理由で、政府は国家宗教をやって自然主義をやらないことにしている。つまり、政府は民主主義によって本来民主主義の政治機関である自分を国家宗教の政治機関に変換している。[『ドン・キホーテ』で巨人が風車に変わったのは、その頃のヨーロッパ政府が民主主義を使って自分を国家宗教の機関に変えていたことを表している。つまり、巨人を風車に変えた“魔法”とは民主主義のことである。日本政府はヨーロッパ政府と同じ方法を使っていたのである。ヨーロッパ政府は国民には政教分離と言っておきながら、実際にはその後も国家宗教をやり続けていたのである。おそらく今でもやっている。]政府は国家宗教で国民にまちがった命令を出して国民を苦しめている。自然主義では国民に人権が認められているが、政府は自然主義をやらないから政府は国民の人権を認めず国民を動物扱いして好き勝手に国民の物を取ったり国民を殺したりしている。つまり、民主主義は、自然主義の時代にも政府が自然主義をやらずに済[す]ませる方法なのである。
つまり、今の政府は見かけは民主主義の政治機関だが、実質的には国家宗教の政治機関なのである。今の政府は国家宗教をやり自然主義をやらない政治機関なのである。
しかし、現代は自然主義の時代である。自然主義の時代に、政府のような国家宗教をやり自然主義をやらない機関があることはまちがっている。だから、政府はなくならねばならない。

[10919] 政治とは何か? h22.9.12
読書とは、読者が著者に考えてもらうことであるように、
政治とは、国民が政府に考えてもらうことである。
政治とは、国民が政府の命令に従って動くだけのロボットになることである。
しかし、そのために、国民の思考力が低下している。
国民が政府のまちがった命令に平気で従うようになっている。しかも、国民がいくら政府のまちがった命令に従って自分が不幸にされても政府に対して一言[ひとこと]も文句を言わない。
政府があると国民が自分で考えなくなって馬鹿になる。
だから、政府がなくなったほうがいい。
人間にとっては自分で考えることが大事である。
自分で考えれば、今の政府が国民にまちがった命令を出していることがわかる。今の政府に国民が従うべきでないことがわかる。

[10920] 他人の代[か]わりに考える会社 h22.9.12
昔、ある者が“他人の代わりに考える会社”を作った。
当時の人は自分で考えるのが面倒臭かったので、すぐにその会社に自分の代わりに考えてもらうことを頼んだ。人々はその会社の命令に従って幸福に暮らせるようになった。
その会社は人々の人気を集め急激に成長した。それが政府である。
しかし、そのうち、政府自身も自分で考えるのが面倒臭くなって、客である国民に正しい命令を出さなくなった。政府は国民に国家宗教でいいかげんなまちがった命令を作って出すようになった。国民は政府が手抜きで作ったふざけたまちがった命令に従って不幸にされるようになった。しかし、それでも国民は自分で考えるのが嫌だったので、政府のまちがった命令に従い続けた。
これまでずっと、国民も政府も両方とも自分で考えていなかった。政府は真面目[まじめ]に考えずにでたらめにまちがった命令を国民に出していたし、国民は自分で何も考えずに政府のまちがった命令に盲従して自分が不幸になっていた。
世界大戦後になってようやく国民は自分で考えるようになった。政府はいまだに自分で考えていない。国民は政府の命令がまちがっていることにようやく気づいた。国民は政府の命令に従うよりも自分で考えたほうがいいと思って政府の命令に従わなくなった。

[10921] 政府は滅ぶべきである。☆ h22.9.12
政府は民主主義の機関である。
しかし、政府は実質的には“国家宗教をやり自然主義をやらない機関”である。[[10918]を参照。]
政府は国家宗教で自然主義に反したまちがった命令を作って国民に出しているだけのことである。[国家宗教だからといって何か特別なことがあるわけではない。政府が国民にただたんにまちがった命令を出しているにほかならない。]
政治機関はそもそも国民が自分に正しい命令を出すために作ったのだから、今の政府は政治機関として失格である。
だから、今の政府は滅ぶべきである。
国民が支持するのは国民に正しい命令を出してくれる自然主義の政治機関であって、今の政府のような国民にまちがった命令を出す“国家宗教をやり自然主義をやらない政治機関”ではない。だから、国民にとっては政府は要らない。国民にとっては政府がなくなったほうがいい。
政府自身も“他人が作ったまちがった命令”に従うのは嫌[いや]なはずである。だから、政府は国民にまちがった命令を出してはいけない。

[10922] 宗教とは何か? h22.9.12
政府が神という“基準になる人”を決めて、神に世の中のすべてのことを従わせることである。
そもそも宗教は自然認識の方法であった。つまり、昔の人は宗教で自然のことがわかり自然に適応して生きていけると考えていた。神が科学で言うところの原理に相当すると考えられた。つまり、神に従っていることが正しいことであり、神に従わないことがまちがっていることだから、人間は神に従っていることをすればいいと考えた。だから、神に世の中のすべてのことを従わせれば、世の中のすべてのことが正しくなって、すなわち世の中のすべてのことが自然と同じになって人間は自然に適応して幸福に生きていけると考えた。
しかし、その後自然主義(科学)が出来た。自然主義のほうが宗教よりも優[すぐ]れた自然認識の方法だった。
そのため、今では宗教を用いることはなくなった。宗教の役目は終わったのだ。そもそも宗教なんかで自然のことがわかるわけがない。宗教は自然主義(科学)がわかるまでの一時[いっとき]だけの間に合わせにすぎなかったのだ。

[10923] どうして政府は宗教をやって科学をやらないのか?☆ h22.9.13
政府は民主主義すなわち政府主義で宗教をやって科学(自然主義)をやらない。
それは、政府が科学をやらなければ、政府は国民の人権を認める必要がなく、政府が国民に対して一方的に有利になれるからである。政府が国民を奴隷にできるからである。政府がいまだに国民から契約を取らずに税金を取っているのが、政府が科学をやっていない証拠である。
政府が宗教(国家宗教)をやるのは、科学をやらないためである。民主主義は主義の容[い]れ物にすぎず、この世には宗教と科学のふたつの主義しかないから、科学をやらなければ宗教をやるしかないからである。つまり、政府は科学をやらないために宗教をやっているだけなのである。
政府は宗教をやって科学をやらない。政府は国民の人権を無視して国民を奴隷扱いする。政府は好き勝手に国民の物を取ったり国民を殺したりする。これでは、国民が政府を支持しようがない。
政府は国民の支持で持っている会社である。だから、国民が政府を支持しなければ政府は潰[つぶ]れるしかない。
人間は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。人間は正しい者に従えば自然に適応できて幸福になれるが、反対に正しくない者に従えば自然に適応できなくなって不幸になるからである。科学は正しいが宗教は正しくない。今の政府は科学をやらずに宗教をやっている。だから、政府は正しくない。だから、国民は政府に逆[さか]らって政府を滅ぼすだろう。
江戸時代の幕府は自然主義で国民に正しい命令を出していたが、今の政府は国家宗教で国民にまちがった命令ばかり出している。今の日本は政府に駄目[だめ]にされているだけである。だから、国民は政府を倒さねばならない。日本から“国民にまちがった命令を出す機関”(政府のこと)を排除しなければならない。

[10924] 日本は精神病に罹[かか]っている。 h22.9.13
日本には政府という“国民にまちがった命令を出す機関”がある。
政府のために国民は自然に適応できなくなっている。政府のために国民が不幸にされている。
政府は日本の脳である。だから、今の日本は脳が狂っている。日本は精神病に罹っている。[『スタートレック(宇宙大作戦)』に精神病の話題が多いのも、今の世界中の国が精神病に罹っているからである。]
幸い、今は自然主義の時代だから、政府と国民は平等である。
今の政府はたんなる“国民にまちがった命令を出す機関”にすぎない。
国民は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。ただそれだけである。
今の政府は正しくない。だから、国民は政府に従わない。
国民にとって政府は要らない。だから、国民は政府を捨ればいい。
日本から政府がなくなれば、国民は自然に適応して幸福に生きることができる。

[10925] 民主主義は悪である。☆ h22.9.13
政府は民主主義を使って国家宗教をやって自然主義をやっていない。政府は民主主義を使って自然主義を否定して国民の人権を無視している。
政府が民主主義をやるのは、国民が民主主義を支持しているからである。昔、国民が国家宗教を支持していたから政府が国家宗教をやっていたのと同じことである。だから、政府に民主主義をやらせないためには、国民が民主主義を支持しなければいい。
国民が民主主義を支持しなければ、政府は自然主義をやるしかない。政府は国民の人権を認めるしかない。政府は国民に正しい命令を出すしかない。[江戸時代の幕府も真面目[まじめ]に自然主義をやっていたから、政府も民主主義がやれなければ真面目に自然主義をやるはずである。]
だから、国民は民主主義を支持してはいけない。国民は自然主義を支持しなければならない。

[10926] 国民は正しい者に従う。 h22.9.13
国民は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。これまでずっと国民はそうしてきた。
江戸時代の国民も身分制で幕府に従っていたのではなく、本当は幕府が正しい命令を出すから幕府に従っていたのである。[国民はこれまでずっと『正しい者』に従ってきただけである。それ以外の“何か”があると思うからいけないのである。]
江戸時代以前は国民が国家宗教を正しいと考えていたから、国家宗教で命令を出す政府に従った。
江戸時代は国民が自然主義を正しいと考えていたから、自然主義で命令を出す幕府に従った。[日本は江戸時代があったから、アジアで一番早く文明開化を迎[むか]えることができた。]
江戸時代以後は国民が民主主義を正しいと考えているから、民主主義で命令を出す政府に従っている。
しかし、民主主義の正体は国家宗教である。[[10918]を参照。]つまり、政府の正体は国家宗教をやる機関である。戦後の政府も戦前の政府と同じ民主主義だから国家宗教をやっている。今の政府は国家宗教でまちがった命令を出している。今の政府は正しくない。だから、国民は政府に従ってはいけない。
[松本零士著『ワダチ』で、新天地に旅立ったはずの山本轍[やまもとわだち]が昔の地球に戻っていたのは、明治時代以後の日本が江戸時代以前の日本に戻っていることを表している。つまり、轍とはこれまでに日本が辿[たど]ってきた日本の歴史のことである。私は小学高学年生の頃、『ワダチ』の単行本を買って読んだことがある。]

[10927] 政府は国民にまちがった命令を出す会社である。 h22.9.13
今の政府は国家宗教でまちがった命令を作って国民に出している。
政府がまちがった命令を出しているのは、政府が国家宗教をやっているからであり、政府が国家宗教をやっているのは政府が自然主義(科学)をやらないためである。政府が自然主義をやらないのは、政府が国民の人権を無視して国民を奴隷として扱うためである。
つまり、政府は政府自身のためにまちがった命令を出しているだけである。政府は国民のためにまちがった命令を出しているのではない。[現代では政府が国民の人権を無視しなくても、政府は十分幸福に生きていける。政府は自分の欲の出しすぎだ。それに、現代では国民の平等意識が高まっているから、政府が付け上がりすぎると国民に叩[たた]かれる。政府が国民の人権を認めても認めなくてもそう変わらない。だから、政府は国民の人権を認めて自然主義でやったほうがいい。]
これまで国民は正しい者に従ってきた。しかし、今の政府は自然主義をやらずに国家宗教をやっている。今の政府はまちがっている。だから、国民は政府に従わなければいい。[戦前までは政府が国民よりも正しかったから国民は政府に従った。しかし、戦後は政府が国民よりもまちがっているから国民は政府に従わない。人間界においては「正しい者がまちがっている者に従わねばならない」なんて決まりは成り立たない。だから、今の政府に国民を支配する資格はない。今の政府は“冗談で”国民を支配しているだけである。]
国民が政府の命令が正しいかまちがっているかわからなければ、国民は政府にその命令を出す『理由』を訊[き]けばいい。例えば、政府が工場長に「商品の色を青色にしろ」と言ってきたら、工場長は政府に「どうして青色にしなければならないか」を訊けばいい。政府が自然主義的に(科学的に)納得の行く回答を言わないかぎり、国民は政府の命令を聞かなければいい。

[10928] 今の政府は国民を支配できない。 h22.9.13
今の政府は国家宗教をやっている。今の国民は自然主義をやっている。
自然主義は国家宗教よりも優れた自然認識の方法である。つまり、自然主義では正しいことがわかるが、国家宗教では正しいことがわからない。だから、今では政府よりも国民のほうが正しい。
人間界では『正しい者がまちがった者を支配できる』ことになっている。
戦前までは、政府のほうが国民よりも正しかった。だから、政府は国民を支配できた。
しかし、戦後は国民のほうが政府よりも正しくなった。だから、政府は国民を支配できないはずである。
それなのに、今でも国民が政府に従っている。政府が国民を支配している。
だから、今の社会がまちがっている。国民を支配する政府がまちがっているし、政府に従う国民もまちがっている。政府も国民も両方ともまちがっている。このままの状態が続けば、社会のいたるところでまちがった者が正しい者を支配するようになって、社会全体がおかしくなる。社会全体がメチャクチャになる。
社会を正常化するためには、政府は国民に命令を出してはいけないし、国民は政府の命令を聞いてはいけない。しばらく政府と国民は絶交しなければならない。
国民に正しい命令が出せる機関が出来てから、国民はその機関に従えばいい。

[10929] 政府は国民に合わせねばならない。 h22.9.13
今の政府は民主主義を偽[いつわ]って国家宗教をやっている。
『ドン・キホーテ』の頃(1605年〜1615年頃)にもヨーロッパ政府は民主主義を偽って国家宗教をやっていたが、当時はまだ自然主義(科学)が出来たてのホヤホヤで国民の大半が国家宗教を支持していた。だから、政府が国民に合わせて国家宗教をやるのも無理はなかった。世界大戦後になるまでは、国民にはまだ自然主義が浸透していなかったのだ。[一方、日本では神武天皇教が国民に不評[ふひょう]だったので、江戸時代に入るやいなや国民は国家宗教をやめた。]
しかし、世界大戦後はさすがに一般の国民も自然主義をやるようになった。だから、今では政府も国民に合わせて自然主義をやらねばならない。
国の大部分は国民であり、政府は国のほんの一部にすぎない。だから、政府が国民を自分に合わせるようにすることは無理である。政府が国民に合わさなければならない。政府は国民に合わせながら、国民に命令を出さねばならないのである。

[10930] 国民革命 h22.9.13
戦前の国民は国家宗教を支持していた。
戦後の国民は自然主義を支持している。
戦前と戦後で国民は大きく変わった。
それなのに、政府は戦前も戦後も変わっていない。政府は戦前も戦後も国家宗教を支持している。
そのために、戦前は政府が国民よりも正しかったが、戦後は政府が国民よりもまちがっている。
人間は正しい者には従わねばならないが、まちがっている者には従ってはいけない。
だから、戦前は国民が政府に従わねばならなかったが、戦後は国民が政府に従ってはいけない。
これが正しい社会の姿だ。
それなのに、国民は今でもおとなしく政府に従い続けている。政府は国民が政府におとなしく従うのをいいことにして、国民にまちがった命令を出している。
だから、今の社会のほうがまちがっている。
だから、今の社会を直さねばならない。
つまり、今の国民は政府に従ってはならない。国民は政府の命令を無視しなければならない。政府が自然主義で国民に正しい命令を出すようにならないかぎり、国民は政府に従ってはならない。あるいは新しく自然主義で国民に正しい命令を出す機関が出来ないかぎり、国民は政治機関に従ってはならない。
国の大部分は国民であり、政府は国のほんの一部にすぎない。だから、政府が国民を変えることは不可能である。政府が変わるのは可能である。だから、国民が自然主義を支持している国では、国の政治機関が自然主義になるしかないのである。

[10931] 政府はどうして国家宗教で人を殺すのか? h22.9.13
政府は毎日国家宗教でいろんな事件を起してたくさんの国民を殺している。
政府が国家宗教で国民を殺すのは、それが政府にとっての真実だからである。
政府は国家宗教をやる会社である。
国家宗教では神に従うことが真実だとされる。
だから、政府は神に従う事件を起してこの世界を真実に近づけているのである。
この世界を真実に近づければ、国民は自然に適応できて国民が幸福になれるからである。
つまり、政府は国民を幸福にするために、神に従う事件を起して人を殺しているのである。
政府は国民を幸福にするための代金として国民から税金を取っているのである。

[10932] 自然主義における幸福とは? h22.9.13
自然主義では、自然に従うことが真実である。
だから、自然主義における幸福とは、自然の世界における幸福である。
一方、国家宗教では、神に従うことが真実である。
だから、国家宗教における幸福とは、“神に従う世界”における幸福である。
ところが、一般に“神に従う世界”と自然とは異なっている。
だから、たいてい国家宗教における幸福とは作り事の空想の世界における幸福にすぎない。例えば、キリスト教なら、聖書の世界の中で空想を膨らませて喜ぶのが関[せき]の山である。“神に従う世界”には自然界ではできないことが多いので、“神に従う世界”は大部分が空想的なのである。
ところで、政府は民主主義の機関である。民主主義は実際には間接民主主義すなわち政府主義であり、政府は国家宗教をやりたくて自然主義をやりたくないから政府は国家宗教をやって自然主義をやっていない。国家宗教では神に従うことは何をやってもいいとされている。自然主義をやらなければ人間の人権を認めなくてもかまわない。政府は国家宗教をやって自然主義をやっていないから、“神に従う方法”で国民を殺しているのである。[“神に従う方法”とは、神のネタを混ぜてやればいいだけのことである。例えば、神武天皇なら丸くて光る物とか、私ならグルグル回る物とかを混ぜてやればいいだけである。]
国民にとっては、政府に国家宗教で殺されることは“神に従う世界”においても幸福ではないが、政府にとっては国民の人権がなく政府が国民を自由にできるので国民はじっと耐[た]えるしかないのである。[[10931]の訂正。]
しかし、現代では国民が自然主義を正しいと考えている。『政府は国民に従いながら、国民に命令を出さねばならない。』[[10929]を参照。]だから、政府は自然主義で国民に命令を出さねばならない。政府だけが民主主義や国家宗教をやるわけには行かない。
『国民にとっては政府はいつも正しい命令を出す機関であらねばならない』[[10926]を参照]ので、国民が自然主義を支持している時代には、政府は自然主義のスペシャリストとして政府は国民よりも自然について詳[くわ]しくなければならず、政府は自然主義で国民に正しい命令を出し続けねばならない。
政府の命令がまちがいであることが国民に知られてしまうと、国民が政府の命令に従わなくなり、政府は潰[つぶ]れる。だから、政府はいつも国民に正しい命令を出し続けねばならない。
国民が民主主義を支持していると、政府に国家宗教で殺される。だから、国民はけっして民主主義を支持してはいけない。[[10925]を参照。]

[10933] 悪魔とは何か? h22.9.13
中世に彗星[すいせい]が現れたとき、「あんな物は“神に従う世界”にないぞ」という民衆の問いかけに困った教皇は苦し紛[まぎ]れに「あれは悪魔のせいだ」と答えた。
それ以後、“神に従う世界”にない物はみんな悪魔のせいだとされた。つまり、悪魔とは“神に従う世界”にはないが自然にはある物のことである。
自然についての新しい発見があるたびに、悪魔の種類がどんどん増えていった。
人々が“神に従う世界”の中では解決できない問題に出会ったとき、人々は悪魔の力に頼った。
実際に、“悪魔のいる世界”では“神に従う世界”では解けないいくつかの問題が解けた。
そうして、人々はいつしか神と悪魔の両方の存在を認めるようになった。
そうやって、人々はしだいに自然の認識へと近づいて行ったのである。“神に従う世界”から“自然に従う世界”へと移[うつ]って行ったのである。つまり、国家宗教から自然主義に変わって行ったのである。


[10934] 宗教における幸福とは? h22.9.14
宗教では、“神に従う世界”が真実だとされる。
だから、宗教における幸福とは、“神に従う世界”における幸福である。
つまり、“神に従う世界”そのものが幸福なのではなく、個人個人が“神に従う世界”の中で自分の幸福を見つけなければならないのである。
だから、宗教においても、自分の幸福と他人の幸福は別なのである。
自然界において、各自の幸福が違うのと同じことである。
もっとも、“神に従う世界”は大部分が空想的である。[[10933]の図を参照。]現代人は自然の世界の中でいそがしいから、“神に従う世界”なんかにかまっていられない。“神に従う世界”が自然とは違うことがわかった今となっては、もはや“神に従う世界”なんか相手にしている暇[ひま]はない。

[10935] 聖典とは何か? h22.9.14
宗教では、“神に従う世界”が真実だとされる。
だから、神とは科学における原理のようなものである。
聖典とは、神についての記述である。
だから、聖典とは原理についての記述である。つまり、聖典全体が古典力学におけるニュートンの運動の3法則と万有引力の法則を述べたようなものである。
したがって、聖典は真実の出発点にすぎない。聖典から派生[はせい]して連想される世界すべてが真実なのである。聖典を読んだ者一人一人が聖典に従う世界を考え出して、その世界の中で生きることがすなわち真実の中に生きることなのである。
もっとも、今では“神に従う世界”は自然とは違うことがわかっている。だから、あまり“神に従う世界”に適応しすぎるとかえって自然に適応できなくなる。自然に適応できなくなると不幸になる。だから、“神に従う世界”について知りすぎてはいけない。つまり、聖典を勉強しすぎてはいけないのである。
つまり、聖典とはニュートンの『プリンケピア』以前の自然科学の教科書だと思えばいい。宗教には科学のように“実験”の概念がないので、聖典は実験による修正がないので、聖典には今でも平気でまちがったことがたくさん書いてあるのである。聖典は自然についてまちがいの多い教科書である。そんなものを読む暇があったら、自分で自然について考えたほうがマシだ。今では自然主義による物理学や哲学や心理学の本がたくさん出ている。それらを読めば自然についての正しい知識が得られる。わざわざ聖典のような古いまちがった本を当てにしなくてもいいはずである。

[10936] なぜ政府は国家宗教で人を殺すのか? h22.9.14
宗教では、“神に従う世界”が真実だとされている。
だから、神が戦争で人を殺したり、神が動物を殺したりすれば、その連想で“神に従う世界”の中では人を殺してもいいことになる。
今では、国家宗教をやっている者は政府しかいない。だから、政府が国民を国家宗教で殺しているのである。
もしも、国民が国家宗教をやっていれば、国民が政府を国家宗教で殺すこともある。例えば、伊藤博文[いとうひろぶみ]や原敬[はらたかし]や犬養毅[いぬかいつよし]などのように首相が殺されることがある。[これらの首相は「正しい者がまちがった者に従わねばならないまちがった社会」を作ってきた悪い首相だから殺されたのである。]
しかし、戦後は国民は自然主義をやって国家宗教をやめたから、今では国民が政府を国家宗教で殺すことはない。
政府はいまだに自然主義をやらないで国家宗教をやり続けているから、国家宗教で国民を殺しているのである。
しかしながら、現代では自然主義が正しい自然認識の方法とされている。国家宗教はまちがった自然認識の方法とされている。『人間は正しいことに従い、まちがったことに従わない』から、人間である限り自然主義をやり国家宗教をやめるべきである。それなのに、いまだに政府が国家宗教をやめないのは、政府が人間ではないからである。政府は早く人間にならねばならない。
国民は人間でない者まで相手にしたくないから、政府が人間でなければ国民は政府を相手にしない。
『国民はこれまで正しい者に従ってきたのであって、まちがった者には従わない。』政府が国家宗教をやり続けていてまちがった者である限り、国民は政府には従わない。政府が国家宗教をやっているかいないかはテレビや新聞の事件を見ればわかる。政府は毎日国家宗教をやっている。だから、国民は政府には従わない。
命令を出す者が命令を出される者よりもまちがっているなど言語道断[ごんごどうだん]だ。そんなくだらない命令者に誰が従うものか。

[10937] 自然主義の政治機関 h22.9.14
これまでの社会がうまく行かなかったのは、政府の政治のやり方がまちがっていたからである。
要するに、正しい政治のやり方を考え出せばいい。
法律は国会が民主主義で作るのではなく、法律に詳[くわ]しい学者が自然主義で作ればいい。政治機関が民主主義をやるとすぐに国家宗教をやるから、政治機関に民主主義をやらせてはいけない。
しかし、学者が特定の会社からお金をもらってまちがった法律を作ると困る。
だから、学者が作った法律は必ず公表して国民が誰でも見れるようにしなければならない。法律にはその法律を定めた学者の名前を付けて公表しなければならない。
国民からのクレームを受け付けるようにしなければならない。
まちがった法律を作った学者は罰せられねばならない。責任が重い場合には死刑にしなければならない。
そうすれば、学者は正しい法律を作らざるを得ない。これで世の中はうまく行く。

[10938] 民主主義は主義の容[い]れ物である。 h22.9.14
民主主義自体は主義ではない。民主主義は主義を決めるための主義である。
民主主義は多数決の原理で主義を決める。
国民の大半が国家宗教なら、国民みんなは国家宗教をやることになる。
国民の大半が自然主義なら、国民みんなが自然主義をやることになる。
世界大戦以前の日本では、国民の大半が国家宗教を支持していたから、国民みんなが国家宗教をやることになった。
江戸時代には、まだ民主主義がなかった。
国民の大半は国家宗教を支持していたが、多数決の原理がなかったので、徳川家の独断で国家宗教をやめて自然主義をやることに決めたので、国民みんなが自然主義をやることになった。徳川家こそがプラトンが夢に見た『哲人政治』を実際にやった一族だったのである。
国家宗教はまちがった自然認識の方法である。自然主義は正しい自然認識の方法である。
だから、国の政治機関が国家宗教をやると国民にまちがった命令ばかり出して国中がメチャクチャになる。
反対に、国の政治機関が自然主義をやると国民に正しい命令ばかり出して国中がキチンとする。
世界大戦以後の日本では、国民の大半が自然主義を支持しているから、民主主義によれば国民みんなが自然主義をやることになるはずである。政府も自然主義をやるはずである。それなのに、いまだに政府が国家宗教をやっているのは、やはり民主主義(特に間接民主主義)が政府主義だからである。
政治機関が国民から高い税金や政治料金を取るなら、せめて国民には正しい命令を出すべきである。国家宗教でまちがった命令ばかり出す政治機関なら国民にとってはないほうがいい。
民主主義をなくせば、政府は国家宗教をやれない。だから、国民は民主主義を支持してはいけない。

[10939] 日本政府が国家宗教をやる理由 h22.9.14
今の日本政府は民主主義を偽[いつわ]って国家宗教をやっているが、アメリカ政府もまたそのようにしている。
だから、日本政府が民主主義を偽って国家宗教をやるのは、アメリカ政府と仲良くするためだと考えられる。
しかし、お金では幸福は買えない。幸福は自[みずか]らの努力と才能によって勝ち得るものだ。
だから、日本政府はアメリカ政府と縁[えん]を切ればいい。
日本政府はアメリカ政府を無視して自然主義で政治をすればいい。
日本政府がガラの悪いアメリカ政府なんかと付き合って国家宗教をするよりも、日本政府が自然主義で政治をやったほうが日本の国際的な評判がよくなって日本が得をするだろう。
国というものは本来独立しているものである。だから、まず自分の国がうまく行くようにしてから他国と付き合うべきである。自分の国を駄目[だめ]にしてまで他国と付き合うことはない。

[10940] 宗教における幸福とは?☆ h22.9.14
宗教では、“神に従う世界”が真実だとされている。
しかし、“神に従う世界”そのものが人間にとって幸福な世界なのではない。
人間は“神に従う世界”の中から自分で自分にとっての幸福な小世界を見つけねばならない。
つまり、人間にとって幸福な世界は“神に従う世界”の一部分である。
例えば、神武天皇教では神武天皇が敵を殺したから他人を殺してもいいことになるが、他人を殺してもいい世界は人間にとって幸福な世界ではない。人間にとってかえって住みにくい世界である。だから、神武天皇に従う世界自体では他人を殺してもいいが、その上に人間にとっての幸福まで考えると神武天皇に従う世界が制限されて他人を殺してはいけない世界になるのである。
自然科学では原爆や水爆が作れるが、人間の幸福のためには原爆や水爆を使用してはならないのと同じことである。
だから、今の政府は神武天皇教や川野教で人を殺せると思って自由に人を殺しているが、本当は神武天皇教や川野教の世界に中にさらに法律があって、その法律では政府は国民を殺してはいけないことになっているのである。日本ではその法律がまだ出来ていないだけのことである。
しかしながら、今では“神に従う世界”は自然とは違っていることがわかっている。だから、わざわざ宗教をやって“神に従う世界”を信じて自然に適応できなくなって自然を自分の思い通りにできなくなって自然の中で不便な思いをしなければならなくなって自然の中で快適に生きていけないのは嫌[いや]である。だから、今では宗教をやりたい者はいない。反対に、科学をやれば、自然に適応できて自然を自分の思い通りにできて自然の中で自分の心を満足できて自然の中で快適に生きていける。だから、人間は宗教よりも科学を選んだのだ。今では、宗教における幸福よりも科学における幸福を問題にすべき時代なのだ。その解答が『人権』なのだ。

[10941] どうして今でも宗教をやる人がいるのか?☆ h22.9.14
科学には法律があるが、宗教には法律がない。
宗教には法律がないから、宗教では“神に従う世界”の中でやりたい放題ができる。
“神に従う世界”の中でやりたい放題をするために、今でも宗教をやる人がいるのである。

しかし、科学に法律があるから、宗教にも法律がなければならない。宗教の信者が幸福に暮らせるためには、宗教にも法律が必要である。
だから、宗教団体は宗教の法律を定めねばならない。例えば、今の日本政府は神武天皇教や川野教などの国家宗教をやっているから、日本政府は神武天皇教や川野教の法律を定めねばならない。

そもそも日本政府が国家宗教をやるのも、国家宗教には法律がないからである。
国家宗教に法律が出来たら、政府は国家宗教をやめて自然主義に変えるだろう。
だから、ぜひ国家宗教にも法律を作らねばならない。



[10942] 国民に命令を出す会社 h22.9.14
政府は国民に命令を出す会社である。
戦前までは、政府は国民に正しい命令(国民から見て正しい命令)を出していた。
しかし、戦後は、政府は国民にまちがった命令を出すようになった。[国家宗教の命令は、自然においてはまちがった命令にすぎないのである。]
国民に命令を出す会社が国民にまちがった命令を出して国民から強制的にお金(税金)を取るのはあんまりである。
したがって、今後は国民は政府の命令を聞かない。国民は政府に税金を払わない。
客に不良品を売りつけて金を取る会社がどこにある!?

[10943] 政府にまちがった命令を出させない方法 h22.9.14
政府にまちがった命令を出させないための確実な方法は、政府を潰[つぶ]すことだ。
政府を潰せば、将来政府に続く政治機関も国民にうかつにまちがった命令を出せなくなる。
だから、見せしめのために政府を潰したほうがいい。

[10944] 信者は威張[いば]れるか? h22.9.15
宗教には法律がないから、宗教では神に従うことは何でもできる。
だから、信者(宗教をする者)には神に従うことが何でもできる特権がある。
しかし、今の国民は自然主義(科学)を支持している。
自然主義に比べると宗教は劣った自然認識の方法である。
自然主義では正しいことがわかるが、宗教では正しいことがわからない。
だから、国民から見ると信者は馬鹿に見える。
国民は正しい者には従うが、まちがった者には従わない。
だから、国民は信者には従わない。
だから、信者は国民に対して威張れない。信者は国民に無視されるだけである。
今の政府は信者(国家宗教をする者)である。
国民は自然主義を支持している。
だから、国民は政府の命令を聞くべきではない。
戦前に国民が政府の命令を聞いたのは国民が信者だったからであって、
戦後は国民が信者ではないからもはや政府の命令を聞かなくていいのだ。
日本では政府は国家宗教をする者として決まっているようだ。
日本では宗教をするのが政府で、科学をするのが幕府である。
政府が政府であるかぎり宗教しかできないのだ。
今の政府は国家宗教で国民にまちがった命令を出しているだけである。
国民は自分がまちがいを犯したくなければ政府の命令に従ってはならない。

[10945] 国は宗教をやめたほうがいい。☆ h22.9.15
宗教をやる国は、宗教に法律がないことをいいことにして自分が神に従うことなら何でもやっていいと思っている。
だから、神が他人の物を取ったり他人を殺したりすれば、宗教をやる国は外国と戦争をして外国を占領してもいいと思っている。
しかし、今では世界中のほとんどの国が科学を支持している。
科学は宗教よりも正しい。
だから、科学をやる国は宗教をやる国よりも正しい。
人間は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。
だから、科学をやる国は宗教をやる国には従わない。
宗教をやる国は科学をやる国から軽蔑[けいべつ]されて無視されるだけだ。
この世には『正しい者がまちがった者を支配する』法則がある。[これまでヨーロッパやアメリカが世界を支配できたのも、この法則のためである。]
だから、科学をやる国が宗教をやる国を支配する。宗教をやる国は科学をやる国に征服される。

国が宗教をやるとかえって不利になるだけだ。
だから、国は宗教をやらないほうがいい。政府がなくなったほうがいい。

[10946] どうして今でも宗教をやる国があるのか? h22.9.15
中世の頃には、宗教がもっとも正しい自然についての認識だと考えられていたので、世界中の国が宗教が進んでいるヨーロッパに従っていたのである。
しかし、今では、宗教よりも進んだ科学がある。
今では科学がもっとも正しい自然についての認識だと考えられている。
だから、今では世界中の国が科学が進んでいる国に従っている。
日本のようにいまだに遅れた宗教をやっている国には世界中のどの国も従わない。世界中の国から軽蔑されて無視されるだけだ。
今の日本は中世のヨーロッパを追いかけているだけだ。みっともないからやめるべきだ。

[10947] どうして今でも宗教をやる人がいるのか? h22.9.15
昔は宗教(神主義)が正しい自然についての認識だと考えられていた。
しかし、今では宗教よりも科学のほうが正しい自然についての認識だと考えられている。
昔は宗教をやる人が正しい人だと思われていたが、今ではまちがった人だと思われている。
宗教をやる人が善[い]い人に思われていたのは中世までである。
今では反対に悪い人だと思われている。
だから、宗教をやめるべきである。

[10948] どうして今でも宗教をやる会社があるのか? h22.9.15
日本政府や民間の宗教団体は今でも宗教をやっている。
昔は宗教が正しい自然についての認識だと考えられていた。
昔は人々が宗教をやる会社を正しいと思っていたので、宗教をやる会社に従った。政府だけでは物足りないので、より多くの自然についての認識を得るために民間の宗教団体にも従った。昔は神を知ることが自然を知ることだったので、人々はできるかぎり多くの神について知ろうとしたのである。あるいは、一人の神についてできるかぎり詳[くわ]しいことを知ろうとしたのである。
しかし、今では宗教よりも科学のほうが正しい自然についての認識だと考えられている。[江戸時代(近世)の頃に宗教(神主義)が廃[すた]れたのは、新しく自然主義(科学)が生まれたからである。ガリレオやニュートンの物理学のような近代科学はまだ出来ていなかったけれども、『自然を認識する方法としての科学』はすでに出来ていたのである。その方法に則[のっと]って幕府は政治をしていた(つまり国民に命令を出していた)のである。]
だから、今では人々は宗教をやる会社をまちがっていると思って、宗教をやる会社には従わなくなった。
宗教をやる会社は時代遅れである。だから、宗教をやる会社は会社をやめるべきである。

[10949] 人間の法則 h22.9.15
人間には『正しい者には従うが、正しくない者には従わない』という法則がある。
今の政府は宗教をやっている。国民は科学をやっている。
科学は宗教よりも正しい。
だから、国民は政府よりも正しい。
したがって、人間の法則より、国民は政府に従わない。
政府は宗教をやる。幕府は科学をやる。
政府が幕府に変わるまで、国民は政治機関には従わない。
今の政府は国家宗教でまちがった命令を作って国民に出している。
まちがった命令を作るのは簡単である。正しい命令を作るのは難しい。
政府は自分が楽をしたいから、わざとに国家宗教でまちがった命令を作っているのだろう。
税金を払って政府にまちがった命令を出されるぐらいなら、税金を払わずに政府に命令を出されないほうがマシだ。
政府が国民から税金を取るなど100万年早いわ!

[10950] 日本は文学の国 h22.9.15
文学には“正しさ”の概念がない。だから、“まちがい”の概念もない。
文学は正しさとまちがいの区別のない世界だ。
文学の世界においては、宗教は何か素晴[すば]らしいことであり、政府は国民が従わねばならない偉大な会社である。
しかし、実際には、宗教はまちがった自然についての認識にほかならず、政府は国家宗教で国民にまちがった命令を出す会社にすぎない。
日本は文学の国だから、いまだに宗教をやる者が後[あと]を絶たず、政府のような国民の役に立たないくだらない会社が大会社なのである。
宗教や政府を科学の目で見れば、それらはたんにまちがいをやっているにすぎず何の価値もない。
日本人は開きめくらだ。日本人は文学を読みすぎて頭がおかしくなっているのだ。日本人はもっと科学の目で物事を冷静に見なければならない。

[10951] どうして近世の日本では政府が幕府に代[か]わったか? h22.9.15
人間には『正しい者には従い、正しくない者には従わない』という法則がある。
近世の日本では、新しく出来た科学が正しいと考えられるようになったために、宗教がまちがっていると考えられるようになった。
政府は宗教をやる会社である。幕府は科学をやる会社である。
だから、国民は政府に従わなくなり、幕府に従うようになった。政府は潰[つぶ]れた。
ところが、幕末の日本にアメリカが来たとき、アメリカが宗教をやっていたので、日本人は再び宗教が正しいと考えるようになった。
それで、再び国民は政府に従い、幕府に従わなくなった。幕府は潰れた。
世界大戦後、日本がアメリカに戦争で負けたとき、アメリカが科学の国だったので、日本人は再び科学が正しく宗教がまちがっていると考えるようになった。
それで、戦後の日本人は政府に従わなくなった。現在は、国民が政府に従わなくなりつつある最中[さいちゅう]である。今のところ幕府はまだ出来ていないが、そのうち幕府が出来れば、国民は幕府に従うようになるだろう。そもそも、国民にはまちがった者に従わねばならない義務はないのである。国民は自分が正しいと思う者にのみ従えばいいのである。税金は自分が正しいと思う者に払えばいいのであって、正しいと思わない者に払わなくてもいいのである。国民が政府に従わなくなれば幕府が出来るのであって、国民が政府に従い続ける限り永久に幕府は出来ない。政府は政府であることしかできないので、いくら待っても政府が幕府に変わることはない。だから、国民が積極的に政府に従わないようにして意思表示をすればいいのである。そうすれば、社会は変わる。
現代では、科学が正しく、宗教がまちがいだと考えられている。だから、今後は科学一本でやって行こう。何かあるたびに、幕府と政府が入れ替わるのはもうイヤだ。

[10952] どうすれば政府を幕府に入れ替えられるか? h22.9.16
今は国民が科学をやっているのに、政府が宗教をやっている。国民と政府が矛盾している。これではいけない。
そこで、政府を幕府に入れ替えねばならない。科学は宗教よりも正しいのだから、国民が宗教に変える必要はない。
国民が政府に従わなければ、政府は潰[つぶ]れる。
政府が潰れれば、幕府が出来る。誰かが幕府を作ってくれる。

これまでも日本はときどき政治機関を入れ替えた。
だから、今の日本も政治機関を入れ替えることができるはずだ。
政治機関を入れ替えるために政治機関に逆らった国民が罰せられたという記録はない。だから、政治機関を入れ替えるためならば、国民は政府に逆らってもいいのである。そもそも政治機関は国のためにあるのだから、国をよくするためになら政治機関を入れ替えるのは当然である。だから、政府も認めるしかない。
今では、科学が宗教よりも正しいことは常識である。だから、政府は自分がまちがっていることを知っている。だから、国民が政府に逆らっても政府は国民に手出しはできないはずだ。科学が宗教よりも正しいかぎり、国民は思う存分政府に逆らうことができるわけだ。

[10953] どうして政府は幕府に変わろうとしないのか? h22.9.16
政府でも幕府でも待遇[たいぐう]は変わらない。むしろ、幕府のほうが政府よりも待遇がいいくらいだ。
それなのに、政府は幕府に変わろうとしない。
それは、政府自身が幕府に変わることはできないからである。政府は自分では幕府に変われないのである。
政府は政府であることしかできないのである。政府は国家宗教をやることしかできないのである。
だから、政府が幕府に変わるためには、国民に政府を潰[つぶ]してもらって、新しく幕府を作るしかないのである。
政府は国民に自分を潰して欲しいと思っている。だから、国民は政府を潰してやればいいのである。

[10954] どうして幕府が出来たのか? h22.9.16
近世の国民が宗教を信じなくなって、政府に従わなくなったからである。
近世の国民が科学を信じるようになって、科学で政治をする(国民に命令を出す)機関として幕府が生まれ、幕府に国民が従うようになったのである。
つまり、国民には『宗教を信じなければ政府に従わなくてもいい』自由がある。日本では昔から、国民のほうが政治機関よりも強いから、国民が自主的に政治機関に従うのをやめることができたのである。日本では、国民が政治機関に従わないことによって国民が政治機関を入れ替えてきたのである。国民が自分に適した政治機関を選んできたのである。日本人にとっては政治機関は自分で選ぶものなのである。[だから、その代わり日本の政治機関自身には自分の政治のやり方を変える機能が付いていないのである。つまり、政府は宗教ばっかりやるし、幕府は科学ばっかりやるのである。]一方、外国では国民よりも政治機関が強いから、『幕府』がないのである。外国ではこれまでずっと政府が宗教で政治をやり続けてきたのである。]
しかし、それと同時に国民には『科学を信じれば幕府に従わねばならない』義務もあるのである。

現代の国民は科学を信じている。現代の国民は宗教を信じていない。
だから、現代の国民は政府に従わなくてもいい。その代[か]わり、幕府には従わねばならない。
今のところはまだ幕府が出来ていないから、しばらくは国民が自由にやっていい。

[10955] 税金とは何か? h22.9.16
政府の命令である。
ところが、国民には『宗教を信じなければ政府に従わなくてもいい』自由がある。
現代の国民は宗教を信じていないから政府に従わない。だから、政府に税金も払わない。
現代の国民は科学を信じているから幕府に従う。だから、幕府に税金を払う。
将来、幕府が出来たら、国民は幕府に従うから、幕府に税金を払うだろう。

[10956] どうして政治機関は国民から税金を取れたか?☆ h22.9.16
人間には『正しい者には従い、正しくない者には従わない』という法則がある。いつの時代にも、人間はこの法則に従って動いてきた。
政治機関が国民に正しい命令を出していれば、つまり国民にとって政治機関が正しければ、上の法則によって国民は政治機関に従わねばならないから、政治機関が国民に税金を払えと言えば国民は政治機関に税金を払っていたのである。例えば、昔の政府や幕府は国民にとって正しい政治機関だったから、国民は政府や幕府の命令に従って税金を払っていたのである。
しかし、今の政府は国民にとって正しくない。今の国民は科学をやっているのに、政府はいまだに宗教をやっている。宗教は科学よりも正しくないから、政府は国民よりも正しくない。だから、国民は政府には従わない。だから、たとえ政府が国民に税金を払えと言っても、国民は政府に税金を払わないのである。[政府が国民から税金の取立てができるのは国民が政府を正しいと認めている場合であって、国民が政府を正しいと認めなければ政府は国民から税金の取立てはできないのだ。]

[10957] 神武天皇は超能力者ではない。 h22.9.16
神武天皇は超能力者ではない。
神武天皇の頭の上を飛んでいたトンビが超能力者だっただけだ。トンビに身体が光る超能力があっただけだ。超能力者のトンビがたまたま神武天皇の持っていた弓の先にとまっただけだ。
超能力者が熊野の山中で道に迷ったりするわけがない。
超能力者がわざわざ船に乗って何年もかけて大阪まで行くわけがない。
超能力者だったら、宮崎から大阪まで一瞬[いっしゅん]で空を飛んで行けただろう。
だから、神武天皇は超能力者ではない。[キリストは超能力者だったかもしれないが。]
神武天皇は国家宗教における神であって、超能力者ではない。
もしも超能力者が神だとしたら、トンビが神になっていただろう。トンビの子孫を皇居で飼っていただろう。

[10958] 国民は神の命令に従わねばならないか? h22.9.16
国家宗教において、神とは“基準になる人”のことである。
つまり、国家宗教においては、神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがっているのである。つまり、神と同じことが正しく、神と違うことがまちがっているのである。
だから、神が国民に命令をした場合、国民が神の命令に従わねばならないのではなく、国民が神と同じように他人に命令できることになるのである。つまり、他人に命令することが正しく、命令しないことがまちがいになるのである。だから、国民みんなが他人に命令ばかりして自分では何もしなくなるのである。
神が国民にいくら命令をしても誰も命令を聞いてくれない。神より会社の社長のほうがよっぽどマシだ。

[10959] 信者とは何か? h22.9.16
信者とは宗教(神主義)を信じている者のことである。つまり、神に従うことによって真実がわかると思っている者のことである。神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがいだと思っている者のことである。
昔は、人類みんなが信者だった。昔は、神について詳[くわ]しい者ほど自然について正しいことがわかる者として、みんなから尊敬された。
しかし、科学が出来た後では、信者が減った。科学のほうが宗教よりも自然について正しいことがわかるからである。宗教ではまちがったことしかわからないので、宗教をやっても時間の無駄[むだ]だから、みんなが宗教をやめたのである。
今でも信者がいるが、自然について正しいことがわからない者として、みんなから軽蔑[けいべつ]されて馬鹿にされている。
『人間は正しい者が好きで、正しくない者が嫌いである。』だから、今では宗教の信者はみんなの嫌われ者である。今の日本政府が国民に嫌われているのも、そのためである。

[10960] どうして日本の文学に神武天皇の光の玉や私ネタが出て来るのか? h22.9.16
国家宗教では、神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがいだとされている。つまり、神と同じことが正しく、神と違うことがまちがいだとされる。
日本の国家宗教では、神武天皇と私が神とされている。
日本政府は国家宗教をやる会社である。
だから、日本政府が日本の文学を正しくするために、日本の文学を神と同じにするために、日本の文学に神のネタ(神に関する情報)を入れたのである。日本政府が日本の文学者に命令して文学に神のネタを入れさせたのである。
政府は国を[宗教的な意味で]正しくするのが仕事なので、国中の物を神に従わさせているのである。つまり、国中の物を神に従わせることが、国中の物を神と同じにすることが政府の仕事なのである。日本のマンガやアニメや工業製品などに神武天皇や私のネタが入っているのも同じ理由である。
政府はそんな余計なことしかできないのだ。政府はそんな幼稚な仕事しかできないのだ。政府は建物や人物の見かけが立派なだけで、仕事の中身はオンボロなのだ。早く日本の政治機関が幕府に代[か]わって、幕府が国民に[科学的な意味で]正しい命令を出して欲しい。幕府が日本を[科学的な意味で]正しくして欲しい。[宗教ではいい仕事をやってはいけないという決まりはないから、政府は一部分いい仕事もやっているが、全体的に見れば要らない仕事ばかりやっているのだ。]

[10961] どうして私は本を出さないのか? h22.9.16
私は自分が考えたことを字に書くのは好きだが、
それ以外のことは好きではない。
だから、私は自分のホームページに自分が考えたことを書くだけで、
それを本にして売ろうとはしないのである。

[10962] どうして昔の人は宗教をやらねばならなかったか? h22.9.16
宗教では神に従うことが正しいとされる。つまり、宗教では、神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがいだとされる。
こんなやり方では、自然について正しいことがわかるわけがない。
しかし、昔は、自然認識の方法は宗教しかなかった。宗教以外にはなかった。
だから、宗教をやらないことは、自然について何もわからないことだった。何もわからなければどうしようもない。
だから、昔は、たとえまちがっていても宗教をやらざるをえなかったのだ。たとえまちがいでも、何もわからないよりはマシだからだ。それで、みんながしかたなく宗教を正しいと考えて宗教をやっていたのである。
しかし、今は宗教の他[ほか]に科学がある。科学は宗教よりも正しい自然認識の方法である。科学のほうが宗教よりも正しいことがわかる。
だから、今は宗教をやめて、科学をやればいい。国の政治機関は政府よりも幕府がいい。

[10963] 「実在の外に出る。」 h22.9.16
パスカルは、「宗教とは実在の外に出ることだ」と言った。
たぶん、科学から見て宗教がまちがっているから、宗教に対する皮肉の意味でこう言ったのだろう。
しかし、それは宗教に対する誤解である。[「宗教とは実在の外に出ることだ」という言葉は、宗教に対する誤解の原因にもなる。]
宗教も科学も同じ自然についての認識である。つまり、宗教は昔の科学である。宗教は科学以前の科学である。[宗教は昔の自然科学である。けっして幹部が信者を動物扱いして信者の人権を認めずに信者の財産を奪ったり信者を殺したりすることではない。自分勝手に宗教の意味を誤解して人間の人権を無視することは当然犯罪である。宗教にも人権はあるのであって、けっして宗教は人権を無視することではない。神は“基準になる人”であり、つまり神は人間だから、神が人間である以上神にも人権はあるわけで、神に従うことが正しいのだから人間にも人権があることになるのである。宗教と身分制は別であって、宗教と身分制を混同してはいけない。今の世界には身分制はない。[戦前までは身分制があったから帝国があったが、戦後は身分制がなくなったから帝国がない。]宗教ではたんに物としての自然がわかるだけであって、それだけではまだ“人間が幸福に暮らせる世界”にはなっていない。人間が幸福に暮らせる社会にするためには、宗教の上に法律が必要である。[[10940]を参照。 ]だから、昔の日本政府も宗教の上に中国から輸入した法律(例、大宝律令)を重ねて使っていた。だから、今の政府も宗教と法律(日本国憲法)を重ねて使うべきである。政府が法律を犯していいわけではけっしてない。つまり、宗教は法律ではなく自然科学なのである。[昔の中国にも自然科学はあった。ただ、中国は自然認識の方法として宗教を採[と]らなかっただけである。]/宗教よりも科学のほうが自然についてわかることが多い。だから、宗教よりも科学のほうができることが多い。宗教にはまちがいが多く、宗教では失敗が多い。政府は国民に命令を出す機関である。日本政府が自然認識の方法として宗教を採[と]ることは日本を不利にするだけである。だから、政府は宗教をやめて科学を採るべきである。政府が宗教だけしかやれないというのなら、国民が政府を倒して幕府に代[か]えるべきである。]
だから、「宗教とは実在の外に出ることだ」と言うよりも、単純に『宗教は科学よりもまちがった自然についての認識だ』と言うべきだ。そして、『宗教が科学に劣る自然についての認識である』ことを認めて、宗教をやめて科学をやるべきだ。
実際に、今の宗教は科学に負けて、やることが何もない。宗教は、毎日することもなくブラブラしている。
今の国民が政府に従っているのは、もしかしたら“実在の外にあること”を気にしているからかもしれない。つまり、国民は科学がわかるだけなので“実在の外にあること”がわからないが、政府は宗教に詳[くわ]しいから“実在の外にあること”がわかるので、そのために国民は政府におとなしく従っているのかもしれない。しかし、それは宗教についてのとんだ誤解である。実際には、宗教はまちがった昔の科学にすぎず、“実在の外にあること”なんかないから、国民はわざわざ政府に従う必要はない。政府はただたんに、“昔宗教で正しいと考えられていたこと”(実際にはまちがっていたり何にもならないこと)をいまだにやっているだけのことである。だから、政府なんかなくなったほうがいいのである。

[10964] 哲学と政治学 h22.9.16
世の中にはいろんな哲学がある。
しかし、正しい哲学は私の実在哲学しかない。
それと同じように、世の中にはいろんな政治学がある。
しかし、正しい政治学は私の政治学しかない。[私と同じことを言った人は、私の他[ほか]にもいたかもしれないが。]
世の中には、まちがった理論はたくさんあるが、正しい理論はひとつしかない。[たいていは馬鹿が利口ぶってデタラメなことを言っているだけだ。]
そのひとつを発見できることが実力だ。

[10965] 政府は国家宗教をやる会社である。 h22.9.16
戦前までは、政府が国家宗教をやる会社であることは常識だった。
戦後、天皇は人間宣言をした。つまり、天皇は神をやめた。[神武天皇は神をやめたとは言っていない。]
しかし、政府は宗教をやめるとは一言[ひとこと]も言っていない。
だから、今でも政府は国家宗教を続けているのである。
日本では、宗教をやるのが政府で科学をやるのが幕府と決まっているから、今の政府は政府だから宗教をやっているのである。
政府は見かけは民主主義をやっているが、中身は国家宗教をやっているのである。政府は民主主義で包[つつ]んだ国家宗教をやる会社なのである。今の国民の大半は科学をやっているが、それでも政府は民主主義を議会制民主主義で政府主義に変換して宗教をやっているのである。
ところで、宗教はまちがった自然についての認識である。
だから、政府は宗教でまちがった命令を作って国民に出しているのである。
したがって、国民は政府の命令に従ってはいけない。
国民は政府に従うよりも、自分で正しく考えて行動すればいい。
国民が政府に従わなくなれば、政府が潰[つぶ]れる。あとは、国民が自分でやるなり、幕府を作るなりして好きにやればいい。[たぶん、その頃まで私は生きていないから、あとは残った者同士で好きなように決めてやればいい。]
人間には『正しい者には従い、正しくない者には従わない』という法則がある。いつの時代にも、人間はこの法則に従って動いてきた。
人類は、これまで一度もこの法則から外[はず]れたことがない。
だから、今の国民は政府に従わなくなりつつある。未来の人から見れば、政府は世界大戦後すぐに滅んだように見えるだろう。

[10966] 幽霊会社 h22.9.17
今の政府は宗教をやっている。一方、国民は科学をやっている。
科学は宗教よりも正しい。
人間は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。
だから、国民は政府に従わない。
政府は国民に命令を出す会社だが、国民が政府に従わない。だから、政府はすでに原理的には潰[つぶ]れている。
今の政府は形が残っているだけである。
だから、政府は幽霊会社である。
政府は今に影も形もなくなるだろう。

[10967] 自然主義の政治 h22.9.17
今の国会はすぐに政党を作って国民のくだらない感情を満足する国を作ろうとする。今の国会は政府のオマケなので、政府の馬鹿がうつってくだらないことしかやらないのである。
今の政治は国家宗教の政治である。宗教はまちがった自然認識の方法なので、今の政治は原理的にまちがっているチャランポランな政治である。
自然主義の政治とはそんなものではない。
自然主義の政治では、人間社会を観察して人間社会の中に潜[ひそ]む『客観的法則』の帰納的発見に努[つと]める。科学的世界における人間の幸福すなわち『人権』の発見に努める。
そして、政治機関は人間社会において『客観的社会法則』を満足させるように努める。
科学の時代には、政治も科学的にやらねばならない。それができなければ政治機関は要らない。

[10968] 神とは何か? h22.9.17
科学でも宗教でも、まず“何か”を正しいと決めなければ話が始まらない。
その“何か”が原理である。
科学では、まず具体的経験を正しいと考えて、具体的経験を帰納して原理を得ることになっている。
しかし、宗教には“帰納”という概念がない。
だから、宗教における原理は神だが、神であることに根拠は何もない。宗教では神を直感で決めているだけである。つまり、政府がテキトウに神となる人間を決めているだけである。例えば、私もその一人である。
だから、宗教ではいくら神に従ってもいい結果が得られる(つまり、人間が自然について正しいことがわかって自然を自分の思い通りにできて自然を使って自分の心を満足して幸福になれる)とは限らないのである。

それに、科学では“実験”という概念があるから、科学では実験によって否定された認識は捨てられる。科学では、認識を実験の篩[ふるい]にかけて正しい認識だけを残す。
しかし、宗教には“実験”という概念がないから、いくら認識がまちがっていても捨てられることがなく、まちがった認識がいつまでもそのまま残っているのである。宗教では、いくら認識がまちがっていても、原理となる神が代[か]わることはないのである。つまり、宗教は投げやりのやっつけ仕事なのである。[だから、最近政府がこれまでの神から私に神を代えたのは、たんなる政府の気まぐれにすぎない。2000年に一度ぐらいは、政府が神を入れ替えてもいいことになっているらしい。]
したがって、科学のほうが宗教よりも認識が正しいわけである。自然について正しいことが知りたければ、宗教よりも科学をやったほうがいい。

[10969] 『浦島太郎』とは何か? h22.9.17
昔の政府は、当時正しいと考えられていた宗教や法律を使って国民に精一杯[せいいっぱい]正しい命令を作って出していた。
国民にとって政府は正しい政治機関だったから、国民は政府の命令に従ったのである。
国民は政府に国民の命令代および管理代として税金を払っていたのである。
政府は国民に命令を出すかっこいい会社だったから、国民にとって政府に入るのが憧[あこが]れだったので、浦島太郎の話が出来たのである。
江戸時代頃に玉手箱の話が付け加わったは、江戸時代頃になると宗教よりも科学が正しいと考えられるようになって、これまで政府がしてきた仕事が全部まちがいだと見なされるようになったからである。
浦島太郎がもとの村に帰ってみるとみんなが知らない人ばかりになっていたのは、政府だけが宗教をやっていて国民が科学をやるようになったことを表している。浦島太郎が玉手箱を開けて死んでしまったのは、国民が宗教がまちがっていると考えるようになって国民が政府に従わなくなって政府が国民に倒されたことを表している。
宗教がまちがいだと考えられるようになってから、政府は国民から税金を取れなくなって潰[つぶ]れたのである。つまり、玉手箱の落ちは、幕府の政府に対するイヤミだったのである。[政府が国民に隠れて国家宗教で汚いことをやっていたとすれば、浦島太郎がもとの村に帰ったとき見知らぬ人ばかりになっていたことが説明が付かない。だから、この仮説はまちがっているのである。]

[10970] 今の政府は馬鹿である。 h22.9.17
政府は戦後も国家宗教で国民を殺している。
政府はそこら辺[へん]のいかがわしい民間宗教団体と同じように宗教を誤解して宗教をやっている。[[10963]を参照。]
今の政府は国家宗教を人殺しの道具だと思っている。
今の政府は完全に馬鹿である。
今の政府は国家宗教をやる機関ではなく、ただたんに『まちがいをやる機関』である。
だから、国民は政府に従わないほうがいい。
民間のクズ会社はダラダラまちがいながらやるのが好きだろうが、国の中枢である政治機関はキチンと正しくしなければならない。政治機関はまちがいが許されない。だからこそ、国民も政治機関の職員が高給であることを認めてきたのである。今の政府はまちがいばかりだから、国民は今の政府に給料をもらう資格はないと考えている。
今の政府は自分のことを「国民を支配する機関」だと思っている。しかし、実際には、政府は『国民に正しい命令を出す機関』である。政府は国民に正しい命令を出してこそ、国民を支配できるのである。これまでずっと政府はそうしてきたのである。だから、これまでの政府は国民を支配できたのである。政府は何もないのに国民を支配できたわけではない。しかし、今の政府は国民に国家宗教でまちがった命令ばかり出しているから、国民を支配できない。『人間は正しい者には従うが、正しくない者には従わない。』このままでは、国民は政府から離れて行って政府に逆らうようになるだろう。今の政府は国民を支配する会社ではない。今の政府は自分のことを考え直さなければならない。つまり、今の政府による政府の定義は悪い定義(bad defined)なのである。
そもそも常識的に考えて、「まちがった者が正しい者を支配する社会」は安定に存在できない。反対に、『正しい者がまちがった者を支配する社会』は安定に存在できる。だから、国民を支配する機関(国民に命令を出す政治機関)は国民よりも正しくなければならないのである。
「まちがった者が正しい者を支配する社会」は衰退するが、『正しい者がまちがった者を支配する社会』は発展する。だから、日本を発展させるためには、日本の政治機関は政府のような国民にまちがった命令を出す機関ではなく、幕府のような国民に正しい命令を出す機関でなければならない。
あるいは、今の政府は自分のことを「国家宗教で国民を殺す会社」だと思っている。しかし、実際には、国家宗教は昔の自然科学だったのであり、国家宗教は国民を殺す道具ではない。だから、政府は国家宗教の使い道をまちがっている。今では国家宗教よりも科学のほうが正しいと考えられているから、政府は国家宗教ではなく科学を用いるべきである。政府が国家宗教をやることしかできなければ、国民は政府を倒して科学の政治機関を作らねばならない。[日本政府は科学がやれない。なぜなら、もしも日本政府が科学をやれたなら、日本に幕府は出来なかったからである。]

[10971] どうして人間は麻薬をやると暴れるのか? h22.9.17
[昨日政府インターネットテレビで『体と心をボロボロにする薬物乱用』を見た。私は最初ダイエット薬のことだと思っていたが、見てみると麻薬のことだった。]
人間はつねに自然に従っていなければならない。人間は自然に従うから、自然を征服できるのである。自然に従う者ほど、自然を征服できるのである。
人間が麻薬や性行為をやると、人間が麻薬や性行為に従うようになって、人間が自然から離れてしまう。[[4959]の図を参照。“感覚”という目で見ると、図の意味がわかる。物という目だけではわからない。]
麻薬や性行為はマンガの強力なやつと思えばいい。
人間には普段[ふだん]は気付かないがテレパシー能力がある。
正常な人間はテレパシーよりも自分の知覚や五感を信頼しているので、テレパシーを無視して生きているのである。

しかし、麻薬や性行為をやって人間が自然から離れてしまうと、普段は無視していたテレパシーを気にするようになる。
おまけに、麻薬や性行為が気持ちよすぎて不快感に対して我慢[がまん]ができなくなっているので、ほんのちょっと不快なことにでも過敏に反応するのである。テレパシーの悪口がムチャクチャ腹が立つのである。
だから、麻薬や性行為をやった人間はテレパシーにとらわれてバットを振り回して暴れるのである。
麻薬は白くて光るから、国家宗教によれば麻薬はやってもいい。しかし、科学では麻薬は人間の認識を狂わすから麻薬はやってはいけない。だから、宗教は科学よりもまちがっているのである。

[10972] 警察と学校は政府のオマケ h22.9.17
昔の政府は、国家宗教と法律で国民に正しい命令を作って出していた。
しかし、今の政府は法律を無視して国家宗教だけで国民を殺す命令を作って国民を殺している。
今の政府は、経済学の法則を無視して国家宗教で日本を不景気にする命令を作って日本を不景気にしている。
今の政府は日本人を殺すためにある日本を滅ぼすためにある政治機関である。史上最悪の政治機関である。
政府に日本を滅ぼされる前に、国民が日本政府を滅ぼさねばならない。
今の政府には警察や学校が付いているが、それはあくまでも政府のオマケである。
警察と学校は他の政治機関(例えば幕府)にも付いている。
だから、警察と学校を大事にするために政府を残すのはまちがっている。
だから、政府といっしょに警察や学校をなくせばいい。
政府をなくした後で、科学と現代法で国民に正しい命令を出す政治機関が警察と学校を作ればいい。

[10973] 日本の決まり h22.9.18
日本では、政府は宗教をやるものと決まっている。幕府が科学をやるものと決まっている。
日本では、政府は宗教しかやらない。幕府は科学しかやらない。
今の政府が宗教をやっているのも、政府だからである。
日本では、政府が自分から幕府に、幕府が自分から政府に変わったりはしない。
日本では、政府が自分から政府をやめることがないし、幕府が自分から幕府をやめることもない。
その代わり、日本では国民が政治機関よりも強い。
国民が政治機関に従うか従わないかを決めることができる。
国民が政治機関を選択できる。
そうすることで、これまで日本は世界の先進国の一員となって来たのである。
今の国民は科学を支持している。だから、今の国民は政府に従わない。したがって、政府は潰[つぶ]れる。
その後で、徳川家康みたいなのが現れて、幕府を作ってくれるだろう。
国民が幕府を気に入らなければ、幕府も潰れるだろう。
[外国では、政府は科学と宗教の両方をやっていて最近は宗教をほとんどやっていないから、国民は政府がほぼ正しいと見なして政府に従っているのだろう。一方、日本政府は宗教だけやって科学をやらない。だから、日本政府は外国の政府に負けている。したがって、日本は外国に負けるだろう。]

[10974] 宗教をなくさねばならない。 h22.9.18
日本には、いまだに宗教を信じる者がいる。
宗教を信じる者は聖典に頼るだけで、自分で積極的に自然のことについて考えようとしない。
日本が後進国になるのは宗教を信じている者のせいだ。
日本がアメリカやヨーロッパに負けるのは宗教を信じている者がいるせいだ。
日本から早く宗教をなくさねばならない。

[10975] どうして政府が潰れたのか? h22.9.18
かつて日本の中世に政府が潰[つぶ]れたのは、国民が宗教をまちがいだと考えるようになって、国民が宗教をやっている政府に従わなくなって、政府が国民から税金を取れなくなったからである。
今の国民も宗教をまちがいだと考えており、今の政府は宗教をやっている。[科学の利器[りき]に囲まれて生活している現代において、宗教を信じるほうがまちがっている。]
だから、今の国民も政府に従わない。政府は国民から税金を取れなくなって潰れるしかない。
税金は政治機関の命令代である。政治機関が正しい命令を出すなら国民は税金を払わねばならないが、政治機関がまちがった命令を出すなら税金を払わなくてもいいのである。今の国民にとっては、宗教をやる機関が正しい命令を出すとは考えられない。だから、政府に税金を払わなくてもいいのである。
税金は国民が自分が従っている政治機関に払うものであって、自分が政治機関に従わなければ払う必要はない。
つまり、国民と政治機関の関係は、国民と民間企業の関係と同じである。つまり、最初から国民と政治機関は平等なのである。国民が政治機関に従うようになってから政治機関の身分が上がるのであって、国民が政治機関に従わなければ政治機関の身分は下がるのである。政治機関の身分は変動制なのである。

[10976] 中世の日本政府は宗教をやっていたか? h22.9.18
日本は科学の国ではない。
ということは、日本は宗教の国でもない。
なぜなら、宗教は昔の科学だからである。
日本には自然について考える習慣がなかったので、宗教もどうでもよかったはずである。
日本は当時の世界の情勢に合わせて国家宗教をやっていただけで、実際にはあまり国家宗教に乗り気ではなかった。だから、日本は政府の中にそこそこの住居を構[かま]えて天皇を置いていただけで、日本各地に教会を建てて神武天皇の話の普及に努[つと]めなかったのである。
日本政府にとっては国家宗教なんかどうでもよかったのである。[日本人全員にとっても国家宗教はどうでもよかったのである。]
今の日本政府が自然科学の研究をやっていないように、中世の日本政府も国家宗教をやっていなかった。中世の日本政府は国家宗教よりも法律を主[おも]にやっていた。中世の日本政府は国家宗教の研究を民間に任[まか]せて、自分は法律ばかりやっていたのである。
昔から日本政府の仕事は国家宗教ではなく法律だったのである。日本政府は世界観として国家宗教を採[と]っていたというだけで、実際の仕事内容は法律だったのである。

[10977] どうして今でも宗教をやる人がいるのか? h22.9.18
宗教はまちがった自然認識である。
不良はまちがったことが好きである。
だから、今でも不良が宗教をやっているのである。

[10978] 世界大戦はどうして起きたか? h22.9.18
日本だけなら神武天皇教で戦争をすることができるが、神武天皇教をやっていたのは日本だけだったから、世界全体が神武天皇教で戦争をするのは無理である。だから、世界大戦は「国家宗教」で起こったのではない。
世界大戦は『植民地政策』で起こったのである。
日本はアジアやアメリカを植民地にしようとしていた。
ドイツはヤケクソになってヨーロッパの国を植民地にしようとしていた。
[ドイツは植民地政策に出遅れてしまったので、すでに世界中の国がヨーロッパの他[た]の国に取られてしまっていたので、ドイツは思い切ってヨーロッパを植民地にしようとしたのである。]
そのために、世界全体を巻き込む戦争になったのである。

世界大戦後は、世界的に植民地政策をやらないことになった。植民地政策が“国の犯罪”だと見なされるようになった。
そこで、これまでの植民地が次々と独立していった。
戦後は植民地政策がなくなった。だから、戦争もなくなったのである。
世界大戦は植民地政策をする国とその他の国の戦いだったのである。世界大戦はけっして政府が国民に殺し合いをさせて楽しむ“闘人[とうじん]ゲーム”ではなかったのである。

[10979] 宗教は昔の自然科学である。 h22.9.18
人間はいきなり正解に到達できるわけではない。
人間はまちがいを経[へ]なければ正解に到達できないのである。
宗教は人間がまだ自然がわからなくて暗中模索していた頃の出来損ないの科学である。
近代科学が出来てから、ようやく人間は自然のことがわかったのである。
宗教はまちがった自然科学である。
だから、現代においては宗教を学ぶ意義などないのである。

[10980] 戦前の日本政府は国家宗教をやっていたか? h22.9.18
明治から世界大戦までは、日本政府は近代科学と国家宗教の両方の科学をやっていた。
国家宗教は、実質的には形骸[けいがい]にすぎなかった。
近代科学に比べると国家宗教は何もできないからである。幕末にアメリカが来日したとき、アメリカが国家宗教をやっていたので、日本はアメリカに付き合って国家宗教をやっただけのことである。[国民は一度江戸時代に国家宗教を捨てた。捨てたものは捨てたものである。だから、明治時代以降の国家宗教は以前の国家宗教としての意義はなく、ただの形の上の飾りにすぎなかったのだ。]
ヨーロッパは江戸時代の日本を見て日本を正しい国だと思って日本に技術協力をしてくれた。
日本はヨーロッパの助けを得て、アジアで一番早く近代化することができた。
日本は近代化によって軍事力を強めて植民地政策に乗り出そうとしていたのである。国民も政府の『植民地政策』に賛成だったので、政府に喜んで従ったのである。だから、戦争は政府の国民に対する命令というよりも、国民自身の意思というべきである。つまり、国民は植民地に憧[あこが]れていたから、政府に協力して戦争をやったのである。
明治から世界大戦までは、日本政府は植民地政策に全力投球していたのだ。国家宗教なんかやっている暇[ひま]はなかったのだ。国民も植民地が欲しかっただけで、天皇などどうでもよかったのだ。

[10981] 日本政府は今後どうすべきか? h22.9.18
明治維新から世界大戦までは、日本政府は近代科学と国家宗教の両方の科学をやっていた。
だから、日本政府が科学をやれないということはない。
国家宗教は事実上形骸[けいがい]にすぎなかった。
政治機関は国民に正しい命令を出さねばならない。
だから、今後日本政府が日本の政治機関を続けるとすれば、日本政府は国家宗教を形骸としてやるだけにとどめて[例えば、天皇を皇居に置いておくだけにとどめて]、日本政府は科学と法律によって正しい命令を作って国民に出すべきである。科学に比べると国家宗教でやれることは何もないから、いっそのこと日本政府は国家宗教をやめてもよい。
日本政府の態度が改まらなければ、国民は日本政府を“狂った政治機関”と見なして倒すだろう。

[10982] 宗教に対する誤解 h22.9.18
今の民間宗教団体や日本政府は「宗教が法律を犯せることだ」と考えて、平気で法律を犯している。
しかし、それは宗教に対する誤解である。
宗教は昔の自然科学にすぎない。
だから、いくら宗教を信じても、今の法律が犯せるわけではない。
だから、民間宗教団体や日本政府は真面目[まじめ]に法律を守らねばならない。

[10983] どうして徳川家康は天皇を殺さなかったのか? h22.9.19
当時は国民が国家宗教を信じなくなっていたから、わざわざ殺す必要がなかったからである。
天皇は国民が国家宗教を信じていてこそ値打ちがあるのであって、国民が国家宗教を信じなくなれば一文[いちもん]の値打ちもないのである。江戸時代の頃には、国民が国家宗教を信じなくなっていたから、天皇はどうでもいい存在に成り果てていたのである。当時の天皇はただのおっさんになっていたのである。だから、徳川家康はわざわざ京都に天皇を殺しに行かなかったのである。それに、天皇はあくまでも神武天皇の代理なので神武天皇さえいれば代理である天皇なんか死んでもかまわない。たとえ天皇が死んでも、天皇家が断絶しても、日本政府は神武天皇を神とする国家宗教をやることができる。天皇は生きていても死んでもどうでもいい。だから、徳川家康はわざわざ京都に天皇を殺しに行かなかったのである。[幕府は政府を倒していない。だから、政府を倒したのは国民である。国民が政府に従わなくなって政府を倒した後で、幕府が日本の政治機関になったのである。]

[10984] どうして幕府が倒れたのか? h22.9.19
明治になって江戸幕府が倒れたのは、幕府がずいぶん前からヨーロッパの国が植民地政策をしているのを知っていたにもかかわらず植民地政策をしなかったからである。国民は幕府を腰抜けだと思ったので、幕府を倒したのである。
一方、政府は植民地政策に乗り気だったから、国民は政府を大いに支持したのである。
日本が世界大戦で敗[やぶ]れるまでは、日本政府に対する日本国民の人気は絶大だったのである。

[10985] 政治機関の値打ち h22.9.19
政治機関は国民に命令を出す会社である。政治機関は毎日数え切れないほどの命令を国民に出しているのである。
政治機関は国民に正しい命令を出してこそ値打ちがある。
しかし、今の政府は国家宗教でまちがった命令やどうでもいい命令を出すだけである。
そんな“ざっとした”政治機関はこれまで見たことがない。[ざっとした=お粗末[そまつ]な]
だから、今の政府には値打ちがない。
今の政府は国民にとってどうでもいい存在である。
今の政府はただの駄目[だめ]会社である。
国民は政府の命令に従う必要はない。国民は政府に命令代(税金)を払う必要はない。
[今の国民は自分で何も考えず政府の言いなりになっている。少しは国民も自分の頭を使って政府を見たらどうだ?]
今の政府は自分の仕事内容を誤解している。政府の仕事は国民に正しい命令を出すことである。
自分の仕事を他人[たにん]に教えてもらわねばならない会社がどこにある?

[10986] 社会科に対する誤解 h22.9.19
今の日本政府は、日本の歴史や世界の歴史を誤解して(まちがって解釈して)、これまで政府が国民にまちがった命令ばかり出してきたと思って、平気で国民にまちがった命令を出している。[これまで政府が国民を動物扱いしてきたと思って、平気で国民を動物扱いしている。]
国民にまちがった命令ばかり出してきた会社が国民を支配できるわけがない。
『人間は正しい者に従うが、まちがった者に従わない。』
『正しい者がまちがった者を支配する社会は安定に存在できて発展するが、反対にまちがった者が正しい者を支配する社会は安定に存在できずに衰退する。』
そういう常識が、今の政府にはわかっていない。
今の政府は社会科が苦手[にがて]すぎる。
政府はもういっぺん小学校からやり直したらどうだ?

[10987] 税金とは何か?☆ h22.9.19
国家宗教や民主主義によって、政府が国民からお金を取ることを決めるのはおかしい。
税金は、国家宗教や民主主義の外にあることである。
カール=マルクスの『資本論』によれば、税金は政府の労働に対して国民が払うお金である。
税金は、政治機関が国民に命令を作って出すための費用である。
だから、税金は国家宗教や民主主義とは別の原理によって決まることなのである。
税金は、経済学の法則によって決まることなのである。
政治機関は国の持ち物だから、国民が政治機関の資本家である。政治機関は国民からお金をもらって働く労働者である。だから、税金を決めるのは主[おも]に国民であって政治機関ではない。[したがって、今の政府が税金を決めているのはまちがいである。]だから、これまで国民が政治機関がまちがった命令を出していると思ったとき、国民は政治機関に税金を払うのをやめたのである。例えば、中世末期に国家宗教がまちがっていると思われるようになったとき、国家宗教を世界観に採[と]っている政府がまちがった政治機関だと思われて、国民が政府の命令に従わなくなって政府に税金を払わなくなって政府が潰[つぶ]れたのである。その後で、日本に政治機関がなくなって地方分権の戦国時代になってその中で一番正しい命令を出せる徳川幕府が新しい日本の政治機関になったのである。[鎌倉幕府や室町幕府は政府に比べて政治(つまり国民に正しい命令を出すこと)がうまくなかったので、あとで政府に代[か]わられたのだ。鎌倉幕府や室町幕府の頃はまだ国家宗教が信じられていて、当時の幕府は日本の第2政府にすぎず、国家宗教をやらなかった徳川幕府とは質が違う。徳川幕府は日本人みんなが国家宗教を信じなくなって日本政府が滅んだ後に出来た幕府である。]
政府にとっては国民が社長である。政府が国民からお金をもらいたければ、政府は国民に正しい命令を出して真面目[まじめ]に仕事をするしかないのである。しかし、今の政府は日本や世界の歴史を曲解してまちがった仕事ばかりしている。今の政府は国家宗教でまちがった命令を作る機関になっている。だから、国民は今の政府に給料(税金)をやらなくていいのである。
政府は、国民が資本家になって経営している“命令を作る工場”である。命令が政府の製品である。政府の製品が不良品なら、国民は政府を潰して他の会社に入れ替えるしかない。
政府は国民に正しい命令を作ることが仕事である。だから、政府がちゃんと仕事をしないと、国民は政府に給料をやらずに首にするのだ。
政府は国民に命令を出す会社だが、政府は無制限に命令を出せるわけではなく、政府は“国民が政府に従わねばならない命令”は出せないのである。だから、国民が政府に従おうが従うまいが国民の勝手である。国民はお金に関しては政府にとって社長だから、政府に税金をやるかやらないかは国民が自由に決められる。政府が真面目に仕事をしなければ、国民は政府に給料(税金)をやらない。今の政府は国家宗教でまちがった命令を出す会社である。今の政府は前代未聞[ぜんだいみもん]の劣悪[れつあく]な仕事ぶりである。政府がそんなことでは、国民は政府に給料をやれない。今の政府はもう駄目[だめ]だ。国民は政府とは別の政治機関にしか給料をやる気にはなれない。
税金は、経済学の法則によって決まることである。だから、政府が真面目に仕事をしないと、政府に給料は出ない。政府がふざけた仕事をすると政府は首だ。今の政府は国家宗教でふざけた仕事をしているから首だ。政府は他[ほか]の仕事をやりたいから、わざと首になるようにしたのだろう。国民は戦後の政府には失望した。国民としては、もっと社会科に強い常識のある真面目な会社に日本の政治機関をやってもらわねばならない。社会科に弱い政治機関なんか政治機関としては失格だ。
今の政府に比べればどんな政治機関でもいい政治機関で通るから、今なら誰でもやる気さえあれば日本の政治機関が作れるだろう。
今の政府は国家宗教を使ってまちがった命令ばかり作っている狂った政治機関である。国民にとっては今の政府はないほうがマシだから、今の政府に税金を払わなくてもいい。いっぺん試[ため]しに政府を潰してみて、それで日本がよくなれば、しばらく政府がないままやって行こうじゃないか。[今の政府は国家宗教で犯罪を起こしているから、政府がなくなれば犯罪が減るので、警察のことは気にしなくてもいい。]国民にまともな命令を出せる機関が現れてから、国民はその機関に税金を払ってその機関の命令に従うことにしよう。それまで、しばらくの間[あいだ]は政治機関に税金はおあずけだ。
税金は経済学の法則で決まるのであって、政府が国民からいくら税金を取るかを決めることはできない。
しかし、今のところはまだ税金の額を決める経済学の法則は出来ていない。だから、国民が、政府に払う税金の額を自由に決めればいいのである。国民が政府に税金をやりたくなければやらなくてもいいのである。つまり、今のところ税金は、国民による自由料金制なのである。一応の目安としては、(政府から提出された金額)×(自分が考える政府の命令の正しさ%)を政府に払えばいい。
そもそも今の社会科学には『政治機関を扱う理論』がない。だから、これまで政治機関は自分勝手にやれたのだ。それはつまり国民が政治機関を自由にできるということでもある。これまでは、政治機関と国民の力関係でテキトウにやってきたのだ。[日本では、国民が政治機関よりも力が強い。]私の考えでは、『政治機関は国民に正しい命令を出す機関である。だから、国民は政治機関の命令が正しければ従い、正しくなければ従わない。政治機関は国民に正しい命令を出すために、最新の社会科学を用いるべきである。政治機関が十分正しい命令を出せるときだけ、国民は政治機関の命令に従い、政治機関に経済学の法則で決まった額の税金を払えばよい。』これでいいはずだ。反対に、「国民は政治機関に絶対服従しなければならない。」という原理では、この世が政治機関の意のままになって世の中がうまく行くわけがない。だから、そんな原理は理論的に捨てられるのだ。

[10988] 政府は法律を扱う仕事である。 h22.9.19
宗教は昔の科学である。
逆に言えば、科学は現代の宗教である。
政府は宗教を世界観にしているが、広い意味では科学も宗教だから、政府は科学を世界観にすることができる。
だから、明治政府は近代科学を世界観に採[と]ることができたのである。
しかしながら、政府はそもそも宗教や科学を扱うことが仕事ではない。
政府の仕事は法律である。[法律は国民の人権すなわち国民の幸福を保障するものである。だから、政府は国民の人気があったのである。]
政府の仕事は法律に従う国を作ることである。
政府の仕事は法律に従う国を作るために国民に命令を出すことである。
政府の仕事は『法律』が基[もと]になっている。
政府の仕事は宗教や科学が基ではない。
政府の縄張りは宗教や科学ではなく、法律である。
ところが、今の政府はそんなことがわかっていない。今の政府は宗教を法律だと考えて、毎日朝から晩まで宗教でまちがった命令ばかり作って国民に命令を出している。今の政府は国民の人権を侵害するすなわち国民の幸福を破壊する命令を出している。今の政府は日本を狂わせている張本人[ちょうほんにん]である。今の日本がいい国だと思えるのは、政府と同等のクズだからである。まともな人間にとっては、今の日本は全然いい国ではない。
したがって、日本国民は今の日本政府を国民に命令を出す機関としては認めない。日本国民は今の日本政府を政治機関として不適格だと見なして排除する。

[10989] 考えることと言うこと h22.9.19
人間にとって考えることと言うことは別である。
人間の脳においても、考えることは右脳であり、言うことは左脳であり別である。
人間は考えるときには言うことができず、反対に言うときには考えることができないようになっている。
最近の人間は眼で字を見たり手で字を書いたりするだけで、頭で考えることが不足している。もっと考える能力を鍛[きた]えるべきである。

[10990] 社会学者は役立たずだ。 h22.9.19
これまでに社会学者が政治機関の理論について考えていてくれたら、戦後の政府が国家宗教で政治をすることはなかったはずだし、政府のまちがった政治のために大勢の国民が被害にあうこともなかったはずだ。
社会学者が机[つくえ]に座っておとなしくしているだけで、自分で何も考えようとしないのがいけないのだ。
社会学者にも責任がある。
肩書きだけが学者で、本当はただの役立たずだ。社会学者は馬鹿の代名詞だ。人間のクズが偉そうにしているだけだ。
これまでにまともな政治機関についての理論がなければ、とりあえず私が最近考えた理論を政治機関についての理論としなければならない。だから、国民は今の政府を無視してやっていかねばならない。政府は国民から税金が取れずに潰[つぶ]れるしかない。気が狂った政治機関なんかもはや殺す以外に治す方法がない。

[10991] 宗教をなくすべきである。 h22.9.19
宗教は昔の科学である。宗教は科学以前の科学である。
科学は正しい自然についての認識であり、宗教はまちがった自然についての認識である。
だから、科学の国は正しい国であり、宗教の国はまちがった国である。
『この世は正しい者が支配する。まちがった者は正しい者に支配される。』という法則がある。
だから、宗教の国は科学の国に支配される。科学の国は有利になり、宗教の国は不利になる。科学の国は先進国になり、宗教の国は後進国になる。
だから、国を有利にするためには宗教をなくさなければならない。

[10992] 神武天皇教は植民地政策である。 h22.9.20
古代日本において日本政府は神武天皇教を作った。
神武天皇教においては、植民地政策をすることが正しいことだった。
当時の日本国民は植民地政策に憧[あこが]れていたので、日本政府を支持した。それで、日本政府は日本を支配することができたのである。
日本は朝鮮に出兵して任那[みまな]を植民地にした。
しかし、実際にはあまり儲[もう]からなかったので、その後撤退[てったい]した。
宗教は昔の科学である。科学では実現できるすべてのことが人間にとって幸福なわけではない。科学で実現できることの中で人間にとって幸福なことだけをやればいいのである。[[10941]の図を参照。]だから、例えば、神武天皇教では、植民地政策をやっても国民が幸福にならなければ、植民地政策をやめてもいいのである。
それで、その後は、日本政府は中国から法律を取り入れて主[おも]に法律をやることにした。日本政府は、神武天皇教よりも法律に従う国を作ることに力を入れた。神武天皇教は実質上休眠状態に入ったのである。
中世の終わりになって、世界的に科学が正しく宗教がまちがいと考えられるようになって、日本でも神武天皇教がまちがいだと考えられるようになって、神武天皇教を世界観としていた政府が倒れた。新しく科学的世界観に立脚した幕府が生まれて、日本を支配した。
幕末にアメリカが日本に来て、国民は世界中で植民地政策をやっていることを知った。国民は植民地政策を支持した。当時の国民は日本が近代科学で武装すれば植民地政策は成功すると考えたのである。ところが、幕府は植民地政策をやろうとしなかったので国民は幕府を倒した。幕府は鎖国政策を原理としていたので植民地政策ができなかったからである。
一方、政府には神武天皇教の世界観があり、神武天皇教は植民地政策だから、政府は植民地政策をすることができた。それで、国民は政府を支持したので、幕府に代[か]わって政府が日本を支配することになった。
明治から世界大戦までは、日本政府が植民地政策をやってきた。しかし、日本は戦争に負けて、植民地政策は結局失敗に終わった。[日本が戦争に負けても天皇が殺されなかったのは、日本が天皇の命令で戦争をしなかったからである。日本は日本人みんなの総意で植民地政策のために戦争をやったのである。]
要するに、日本は古代と近代の2回植民地政策のために戦争をやったが、どちらも実力不足で失敗に終わったということである。
戦後の世界では、植民地政策が国際法で犯罪と認められることになったので、世界中の国が植民地政策をやれなくなった。日本は神武天皇教が要らなくなった。それで、天皇が人間宣言をしたのである。だから、今の天皇も要らない。今後日本では神武天皇も天皇も両方とも要らない。
日本ではすでに江戸時代から、宗教よりも科学が正しいと考えられている。だから、明治から世界大戦まで神武天皇教は植民地政策のためだけにあったのである。明治以降は、神武天皇教は宗教ではなかったのである。
世界大戦後は、日本政府は日本国憲法の実現に力を入れるべきである。つまり、日本政府は日本国憲法に従った国作りに励[はげ]めばいいのである。けっして、宗教を法律と考えて、宗教に従った国作りに励んではいけない。

[10993] 宗教は法律ではない。☆ h22.9.20
宗教は法律ではない。
なぜなら、宗教と法律は重ねてやれるからである。例えば、神武天皇教と大宝律令は重ねてやれる。だから、宗教と法律は対立するものではない。だから、宗教は法律ではないのである。
一方、宗教と科学は重ねてやれない。例えば、キリスト教と近代科学は重ねてやれない。だから、宗教と科学は対立するものである。だから、宗教は科学と同じものである。つまり、宗教は昔の科学である。宗教は科学以前の科学である。もっとも、日本では明治から世界大戦まで神武天皇教と近代科学を重ねてやっていたが、当時の神武天皇教はすでに宗教ではなくたんなる植民地政策になってしまっていたので、神武天皇教と近代科学は対立せずに重ねてやることができたのである。日本では、江戸時代から宗教はなくなっていたのである。
法律は、宗教でも科学でもやれる。神武天皇教の上に大宝律令があったように、近代科学の上に日本国憲法がある。法律は、一定の世界観における人間の幸福についての命題である。法律は基[もと]になる世界観が変わってもあまり変わらない。つまり、人間の幸福は宗教でも科学でもあまり変わらない。人間の幸福は昔も今もあまり変わらないのである。


[10994] 今の政府について h22.9.20
法津は人間の幸福についての命題である。
これまでの政府は法律に従う国作りをしてきた。
だから、これまで国民は政府のおかげで幸福だった。
だから、国民は政府を支持してきた。
しかし、今の政府は法律をほったらかしにして宗教に従う国作りをしている。
宗教は昔の科学であり、宗教では神に従うことが何でも正しいとされる。だから、宗教には人間を幸福にする命題と不幸にする命題の両方がある。
[古代の宗教では、国民が支持する政策に合わせて神を決めた(聖典の話を作った)のであり、今のように先に神を決めてから神に従うことは何でもやってもいいとすることはなかった。[宗教は作り方は法律と同じだったが、出来た後では科学と同じだったのである。昔は科学がまだ出来ていなかったので、宗教が科学のポストに付くことができたので、宗教が科学と同じように見なされたのである。]今の宗教は本来の宗教ではない。今の宗教は、宗教のやり方に問題がある。そもそも今は科学の時代だから、宗教をやってはならない。今では宗教がまちがいだとわかっているから、宗教をやってはならない。]
今の政府は主[おも]に宗教の中の人間を不幸にする命題を拾[ひろ]って国民を不幸にしている。
だから、国民は今の政府を支持してはいけない。
今の政府は歴史を曲解して宗教や政府自身の意味を変えてまちがったことをやっている。
今の政府はくだらなすぎる。今の政府は駄目[だめ]だ。
国民が今の日本政府の命令を聞くたびに、日本は悪い国になって行くだけである。だから、国民は政府の命令を聞いてはいけない。

[10995] 『浦島太郎』とは何か? h22.9.20
浦島太郎とは日本政府のことである。
浦島太郎が助けたカメに連れられて竜宮城に行ったのは、日本政府が神武天皇の国家宗教で国民の支持を得て日本を支配する大きな会社になったことを表している。
浦島太郎が竜宮城でタイやヒラメの舞い踊りを見たのは、その後日本政府が法律に従う国作りをするために日夜事務処理に明け暮れていたことを表している。
浦島太郎が乙姫に玉手箱を開けてはいけないと言われたのは、日本政府が国家宗教の正体(つまり、神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがっているとする決まりにすぎないこと悪事をやってもいいこと)を国民に知られないようにしなければならなかったことを表している。
浦島太郎がもとの村に帰ってみると見知らぬ人ばかりになっていたのは、国民が国家宗教を支持しなくなって科学を支持するようになっていたことを表している。
浦島太郎が玉手箱を開けて死んでしまったのは、国民に国家宗教がまちがっていることを知られてしまったために日本政府が滅んでしまったことを表している。
つまり、『浦島太郎』とは、古墳時代から江戸時代までの日本政府の一生である。

[10996] 日本は宗教の国ではない。 h22.9.20
日本では江戸時代になると日本人みんなが宗教をまちがいだと考えるようになり、宗教をやらなくなった。つまり、日本では江戸時代にすでに神は死んでいた。[宗教はまちがいである。宗教をやる者はまちがい好きである。まちがい好きなんか日本人としてはもってのほかである。だから、宗教は絶対にやってはいけない。人間ならいかに苦しくても科学的方法の中で活路[かつろ]を見出さねばならない。安易にまちがいに逃[に]げてはならない。]
明治維新から世界大戦までは、日本が植民地政策をするために、日本政府が植民地政策のシンボルとして国家宗教(神武天皇教)をやっていただけである。当時の日本文学に神武天皇の光の玉が登場したのは、植民地政策を盛り上げるためである。
世界大戦後は、日本は植民地政策をやめたから、日本政府は国家宗教をやってはいけない。国民は政府が国家宗教で作った命令に従ってはいけない。例えば、天皇や私に関する情報をマンガや工業製品に入れたりしてはいけないのである。
国民は政府の命令の言いなりになるのではなく、自分の頭を使って政府の命令が正しいかまちがっているかを判断し、正しい命令にだけ従いまちがった命令に従ってはいけない。最近の政府の命令にはまちがったものが多いから、国民は政府の命令に素直[すなお]に従ってはいけない。

[10997] どうして政府は歴史を曲解したのか? h22.9.20
歴史の教科書がただたんに事実を列記してあるだけで、事実についての考えをまったく述べていないからである。
だから、歴史の教科書からいろんなまちがった歴史理論が生まれるのだ。
それでも、時間をかけて論理的に考えていけばまちがった理論は修正されてしだいに正しい理論になって行く。
その正しい理論を書いた歴史の本があれば、歴史を曲解する者もいなくなるはずだ。例えば、戦後の政府が国家宗教で国民を不幸にすることもなかったはずだ。
政府が歴史を曲解したのは、歴史の教科書の書き方に問題がある。歴史の教科書は、数学や物理学の教科書のようにもっと理論的に筋[すじ]が通るように書かれていなければならない。具体的事実よりも抽象的考えに重点を置いて書かれていなければならない。
日本政府の人は、休日などに歴史をよく勉強して自分で正しい歴史理論を考えて欲しい。日本政府の人は、他人に命令を出す立場上、まちがいは許されないことを忘れないで欲しい。

[10998] 宗教をやる者を消さねばならない。 h22.9.21
科学は正しい。宗教はまちがっている。科学では自然がわかる。宗教では自然がわからない。科学ではできることが多い。宗教ではできることがほとんどない。[宗教では、神(つまり特定の人間)が原理とされる。つまり、宗教では神に従うことが正しく、神に従わないことがまちがいだとされる。こんなやり方で自然について正しいことがわかるわけがない。つまり、宗教は論理的ではあるが、宗教にはニュートンの運動の3法則のような正しい原理がないのである。宗教は科学以前の科学である。宗教は中途半端[ちゅうとはんぱ]な科学である。]
科学をやる国は正しい国である。宗教をやる国はまちがった国である。科学をやる国はできることが多い進んだ国である。宗教をやる国はできることがほとんどない遅れた国である。
人間は正しい者には従うが、まちがった者には従わない。[学校でも成績のいい者はみんなに相手にされるが、成績の悪い者はみんなに無視される。]
だから、世界中の国は科学をやる国には従うが、宗教をやる国には従わない。
だから、科学をやる国は有利であり、反対に宗教をやる国は不利である。
今の日本では、日本政府や民間の宗教団体が宗教をやっている。
日本に宗教をやる者がいるせいで、日本が不利にされている。
だから、日本から宗教をやる者を消さなければならない。

[10999] どうして戦後の政府は国家宗教で国民を苦しめるようになったのか?☆ h22.9.21
政府が世界大戦を、政府が国民を殺し合わせて楽しむ“殺人ゲーム”だと考えたからである。
政府には国民を苦しませることができる特権があると考えたからである。
また、政府は自分がこれまでずっと国家宗教で国民に命令を出し続けてきたと考えた。
それで、戦後の政府は国家宗教で命令を出して国民を苦しめるようになったのである。
しかし、実際には、世界大戦は植民地政策をする国とその他の国との戦争だった。日本国民は植民地政策に乗り気で積極的に戦争で戦った。たとえ政府の命令がなくても国民は自主的に戦争に行って戦った。むしろ、政府は国民に動かされて植民地政策をやっていただけである。
明治以降は政府は植民地政策のついでに国家宗教をほそぼそとやっていただけである。
日本では江戸時代以降は誰も宗教をやらなくなった。
日本政府は古墳時代に植民地政策のために国家宗教をやっていただけで、飛鳥時代以降は国家宗教から手を引き、主[おも]に中国から輸入した法律に従う国作りをやってきた。[飛鳥時代以降の国家宗教の事業といえば、和歌集を作ったことぐらいである。]
だから、全部が政府の誤解である。
戦後の政府は歴史を曲解して、政府の仕事を法律に従う国を作ることから宗教に従う国を作ることに変えてまちがったことをやっていたのである。戦後の政府は国家宗教で国民を嫌な目にあわせる命令を作って国民に出しているのである。[政府が国家宗教で国民にとって面白いことをしていたのは、戦前までである。戦後の政府は反対に国家宗教で国民にとって面白くないことばかりするようになったのである。]
だから、政府が悪い。政府にすべての責任がある。
政府は責任をとって政治機関をやめなければならない。
戦後の政府はテレビやマンガの見すぎでセンスが狂っているのだろう。今の政府はテレビやマンガを真似[まね]て政治をやっているのだ。政府がテレビやマンガで「戦争は政府が国民を殺し合わせて楽しむ殺人ゲーム」みたいに言っているのを見て、政府はテレビやマンガの冗談を本気にして実際に国民を不幸にして楽しんでいるのだ。[私が知っているところで言えば、『愛の戦士レインボーマン』(実写版)のキャッツアイ編第4話「マカオの殺人ショウ」がまさにこの例[れい]だ。ちなみに、キャッツアイとは猫の眼だが、猫の眼は白く光るので、白く光る粉である麻薬のことである。]
日本政府は飛鳥時代から江戸時代までは植民地政策から手を引き法律に従う国作りをしていたのだから、今の政府もそのようにすればよかったのだ。世界大戦後は飛鳥時代と思って、政府は日本国憲法に従う新しい国作りに励[はげ]めばよかったのだ。

[11000] 今の世の中は変だ。 h22.9.21
政府が国家宗教で国民を苦しめる命令を作って国民に出しているのも変だが、
政府の国民を苦しめる命令におとなしく従っている国民もまた変だ。
政府も変だし、国民も変だ。
政府はそもそも国民が支持する政策を実現するためにある機関である。けっして政府は国民を支配するためにある機関ではない。
だから、政府が国民の意思に反したことをする場合には、国民は政府を倒せばいい。
今の国民の意思は、現代法(日本国憲法)に従う国を作ることである。日本は江戸時代に宗教をやめたから、今の国民の意思は国家宗教をやらない国を作ることである。科学をやる国を作ることである。
しかし、今の政府は国家宗教(川野教や神武天皇教)に従う国を作っている。
国民の政策と政府の政策は違っている。
だから、国民は政府に協力してはならない。国民は政府を倒して政府を排除しなければならない。
国民がかつて中世の政府や近世の幕府を倒したように、今の政府を倒さねばならない。


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