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[200] 心のある世界  2001年5月12日 8時44分
わつい さん  e-mail 
物体を動かすのが力であるように、人間を動かすのはその人の心である。


なんらかの原因により、人間の心の中にある“動物の感情”(例えば、性欲)が活動を開始する。
あるいは、最初から動物の感情しか持っていない。
動物の感情が活動すると、知覚の活動が抑制される。
知覚が鈍ると、認識が五感に傾く。
五感に傾くと、眼先・耳先のことしかわからない。
眼先・耳先のことしかわからないと、眼先・耳先の喜びしかない。
眼先・耳先の喜びとは、例えば服装や髪型や体型の喜びなどである。
暇のあるかぎり、動物の感情を満足させようとしている。


『まず心から入る』と、人間が理解しやすくなる。

[199] 心の優劣  2001年5月6日 14時1分
わつい さん  e-mail 
ゲームを長時間やっていると、ゲームの世界に入りこむような感じがある。
ゲームの世界は現実とは別の世界だ。
動物の感情を活動させたときにも、別の世界に入りこむような感じがある。
ゲームの世界における心は、現実世界の中で活動する心とは別のものだ。
ゲームの世界の心は、な〜んかくだらな〜い感じがするね。
ゲームでは眼先から入って心が変わるが、
動物の感情を活動させるときは、まず心が変わって、しだいに現実世界に対する見方が変わる。
心が動物になると、知覚が働きにくくなり、五感だけになる。
眼先・耳先のことに強くとらわれるようになる。
眼先・耳先の世界が、この世のすべてだと思いこんでいる。

間(ま)を持たせて考えられない。頭を働かせる余裕がない。
つまり、五感における現象に対する知覚における実在的意味を与えられない。
大多数の大人は落ちぶれて知覚が働かず、五感と動物の心しか働かない。
人間が動物の上に立てたのは、人間の心が動物の心よりも優れているからだ。
心の優れた者が心の劣った者を支配する。
これが実在の世界における法則であり、『哲学第4原理』と呼んでもふさわしい。
人間の心を働かせると、知覚が働くようになる。
人間が動物に従属したり、人間と動物を対等と見なすことは間違っている。
 人間の心が平等と考えることは間違っている。
 自分の心と他人の心を平等と見なすとイライラする。
  原因は、実在においては自分の心と他人の心が平等ではないからである。
 くだらない心に自分が従う必要はない。
人間は他の動物を支配すべき存在であり、現にそうしている。
人間の心に較べると動物の心には何の価値もない。
人間にとって他の動物は、たんなる物に過ぎない。
動物は‘痛みの実験台’として、人間に弄ばれる(もてあそばれる)だけだ。
自分よりくだらないものに対しては、愛情なんか働かない。
だから女は男を愛するが、男が女を愛することはない。
支配・従属関係があるから世の中はうまく行くのだ。
ある程度までは男女平等を認められても、男と女が完全に平等になることは絶対にない。
女が男よりも動物的なのは、女にはY遺伝子がなく、
Y遺伝子の中に人間の心が書き込まれているからだ。
女には人間の心が足りないのだ。
 もっとも、たとえ男でも人間の心を活動させねば女にも劣る。
 宝の持ち腐れだ。
 男女平等になったのは男がだらしなくなったからなのか。
 強い者には弱い者に対する優しさがあり、弱い者には強い者に対する甘えがある。とにかく、
これが実在の世界であり、この事実を踏まえた上で人間社会を構成すべきである。

[198] ブ・チ・コ・ロ・ス  2001年5月6日 0時36分
わつい さん  e-mail 
見掛けのよさがいいか知覚の正しさがいいか
見掛けのよさとは服装や髪形や体型のよさのことだ
知覚の正しさなら、正しいかまちがいかがはっきりするが、
見掛けのよさはいいか悪いか曖昧だろうが

 もちろん、アニメを見るのは考えるうちには入らないさ
 アニメを見るのは考える切っ掛けをつかむためだ
知覚の正しさに較べれば見掛けのよさなどくだらないかぎりだ
むしろ見かけは悪いほうがいい様な気がする
もとから、そんなものに何の価値もないからだ。
自分のバカを肯定するほどふてぶてしくするな。
心がそこまで違うと、到底おまえらの気持ちはわからないし、わかりたくもないさ
おまえらは、心が暗く冷たく、人情もなく、ヒステリックで、楽しげがない。
声だけの空笑いばっかり。気持ち悪いことをすな。
頭を使って考える気がなく、頭に軟らかさがなく、いいかげんで、デタラメで、
何の考えも持っていないのに他人に言いがかりをつける。
なんで自分に考えがないのに、他人に間違いなんて言えるのか。
正しいとか間違いとか、何のことかわかっちゅうがか。
そんなことまでわかってなかったら、人間以下だ。
バカにもほどがある。
当然のことだが、価値には上下がある。
人間は知覚的動物だから、見掛けのよさよりも判断の正しさのほうが重要なのは当たり前だ。
判断の正しさは、勉強や仕事の上だけではなく、生活の上においても大事なことだ。
むしろ反対に、生活の上の判断が正しいからこそ、仕事や勉強がよく出来るのだ。
仕事や勉強は生活の一部だから当然だ。

たんに見かけがよくても生活がうまくいかなくて不愉快では何にもならない。
知覚が正しければ生活を楽にする工夫が出来る。
知覚が正しければ、たんに楽な仕事を選べるだけではなく、日常生活においてもよく考えながら生きているので、くだらない問題を抱えて悩まずに済むから楽しい。
例えば、子供のときから勉強して知覚の正しさを磨けば、将来楽な生活が出来る。
反対に、いくら子供のときから見かけのことばかり凝っても、将来のために何にもならない。
まったく、おまえらみたいな頭の働かんバカがいるから、いくら自分ひとりの生活に問題がなくても、おまえらに会うたびに自分が不快になる。
おまえらの不快感丸出しの頭の弱い態度を見ると、自分の頭の中が汚くなったような感じになる。
法に守られているからといって、いい気になるな。
さっさと仕事をやめて、家の中に退込ん(ひっこん)じょれ。
二度と会いとうないから、早よう死ね。

[197] バカは見たくない  2001年5月5日 14時19分
わつい さん  e-mail 
バカの汚い態度を見るのは嫌だ。
バカはグチャグチャしてダラダラして締まりがない。
だから人ゴミには出たくない。
バカのくだらない生き方は受け容れたくない。
自分もおまえらのようにはなりたくないからだ。
バカがつけ上がるのもほどほどにしろ!
ガラが悪いのはおまえらのほうだろが
いっぺん死ね はよう死ね

[196] 心をもとに戻す方法(精神分裂病の場合)  2001年5月3日 0時28分
わつい さん  e-mail 
心の中にある煩悩(実在に反する感情(*注参照))が激しく興奮すると、知覚の中に間違いが埋め込まれる。
知覚の中の間違いは、心の中にある煩悩の表現である。
異常な心と間違った知覚の複合体が五感≒実在と対立し、実在が自分の心にとって不快になり、自分が実在から孤立することになる。だから、自分ひとりでいるときには、異常な心と間違った知覚が仲良くやって、何にも困ることがない。
正常な心に戻るためには、間違った知覚を正し、煩悩の活動を停止させねばならない。
例えば、「他人は自分の気持ちに従うものではない(*注参照)。他人は他人自身の気持ちに従って(自分に反応して)行動しているまでだ。」と、毎日くりかえし唱えていれば(**注参照)、そのうち自分の心もそれを認めるようになる。
完全ではないにしても、次第により強く認めるようになる。
気合を入れて唱えればいっそう効果的かも。
自分が狂ったときにも、気合をいれて何かを念じたはずだ。
その反対のことをやればもとに戻れるかも。

*注)もっとも、自分の気持ちに従う他人‘も’いる。例えば、親・兄弟など。弟だったらケンカで無理矢理言う事をきかせられる。しかし、一般的には、みんなが自分の気持ちに従ってくれるわけではない。とくにガラの悪いやつなんかは。相手に見境のないところが煩悩の煩悩たるゆえんであろう。実際には、自分の気持ちに従ってくれる人もいるのだから、煩悩も完全に実在に反するわけではない。いわゆる、準実在的感情というやつさ。わざわざ従わない相手に無理矢理従わせようとするところが煩悩の盲目なところなのである。
**注)馬鹿正直に口に出さなくてもいい。頭の中で言葉の意味を考えることが大切。

躁鬱病の場合には、自分の心にはどうしても変えられない・かけがいのない感情があることを認めて、その感情を毎日言葉にして唱えていれば、次第に自分の行動や環境が自分の本心に従うようになり、事態が改善するかも。

[195] 頭(知覚)が働かない者の世界  2001年5月2日 10時11分
わつい さん  e-mail 
頭が働かなくなった者が五感の世界にとらわれるのだ。
五感にとらわれた者には、五感に従属する感情、
見かけの上だけのくだらない感情、
服装や髪型や体型に関する感情しかない。

頭が働かなくなった原因は、動物の心を働かせたからだ。
動物の心を活動させると、頭がもやもやして考えられなくなる。
人間まともに生きていれば自然に発展する。
それを阻害するのは自分自身だ。

[194] 眼先だけの人間関係  2001年5月2日 9時13分
わつい さん  e-mail 
他人にとらわれて作り笑いをするようなやつは、
眼先のことしかわからなくなった心の堕落した連中だ。
下品なことこの上ない。

五感で見れば、社会は人と人との関わり合いかもしれないが、
知覚で見れば、社会とは独立した意思を持った個人の集まりにすぎない。
人間関係といっても、他人が自分に(自分が他人に)反応しているだけのことだ。
個人の外に人間関係はなく、個人の内に人間関係がある。
人間関係とは、他人が自分をどう見ているかにほかならない。
それは正しいことも、間違っていることもある。
他人の自分に対する見方が自分の実体と同じであれば正しく、
自分の実体と違っていれば間違いである。
間違っていればくだらないだけだ。

五感の世界はただたんに見えるだけだが、
知覚の世界には認識が正しいか間違いかの区別がある。
認識の正しいことが人間のすべてだ。

もう少し落ち着いて、考える間を持って、人間を見てはどうかな。
人間なんて、感覚があること以外はふつうの物体と同じだ。
国語の教科書なんて紙の無駄だよなあ

[193] 人間としての道徳  2001年5月1日 23時30分
わつい さん  e-mail 
知覚で現実を見ることのできなくなった者にとっての道徳が、五感の上の道徳だ。
見かけがいいから頭が悪くてもいいのではなく、頭が悪いから見かけがいいのだ。
生まれつきいい人は別として、人間は服装や髪型や体型に凝ったりするもんじゃない。
知覚における認識の正しいことが、人間にとっての第一条件だ。

[192] 日本人のバカ  2001年4月30日 18時19分
わつい さん  e-mail 
日本人は‘生まれつきバカ’なんやから、これ以上バカになってはいけない!!
生まれつきのバカを正しい思想で支えてやってはじめて人間として生きていけるのだ。
たかが日本人ごときで、白人同等などと思いあがるな!
ノーベル賞もらえたがは、ヨーロッパ人(が作った原理)に従属したやつだけやろうが。

[191] 貧乏人は子供を作るな  2001年4月30日 18時19分
わつい さん  e-mail 
この世に生まれて来たって、やりたいことはなんにもできない。つらい、苦しい思いばっかりだ。できることなら、だれでも生まれてきたくない。人生が楽しいなんて大うそだ。とくに親が貧乏の場合、その子は人一倍つらい思いをしなければならない。ただでさえおもしろくない人生なのに、それはあんまりだ。親にしても子供のころには人生つまらないと思ったはずだ。生きていくのが嫌だったはずだ。子供に同じ思いをさせたくないなら、最初っから子供なんかつくんなよ!
大人になって他人の気持ちを考えるだけの心のゆとりができたなら、どうして自分の子供の気持ちを考えてやらんのだ。この世に生まれてよかったなんて思う人はひとりもいない。自殺するのに痛みが伴うからしかたなくいやいや生きているだけだ。それが人間の本音だ。それがわかるなら、たとえ結婚しても絶対に子供を作ったりするな!!もっとも、十分なお金があって、生まれてくる子に絶対楽しい思いをさせてやるだけの自信があるならいい。そいつが大人になって、どんな思いをしなければならなくなるかは話が別だが。
人生はおもしろくない。いくら人生に立ち向かってみても、おもしろくないものはいくらやってもおもしろくはならない。おもしろくないものに関われば関わるほど、おもしろくなくなる。
ひとたびこの世に生まれたからには死ぬまで生きていかねばならないが、地上にもうこれ以上不幸の種を増やしてはならない。

[190] 感覚についての誤解の原因  2001年4月30日 18時18分
わつい さん  e-mail 
我々人間が眼で見ることを見ることだと思っているのは、まさに眼で見た世界のことしか考えていないからだ。見ることは眼で見ることではなく、感じることすなわち脳細胞が神経興奮することだ。見ることの意味を五感から知覚的定義に移し変えねば、実在の世界が見えてこない。
知覚界の中に実在界と同じものを構成しなければ、実在の世界は見えてこない。

[189] 五感従属性感情  2001年4月30日 18時18分
わつい さん  e-mail 
勉強や仕事が眼で見ても理解できないと、頭(知覚)が働かないから、自然と心は知覚よりも五感に従属せざるを得ない。そうすると人間の心は“くだらなく”(死後にするな!)なる。例えば、減量とか服装とか自分の外見ばかり気にするようになる。Hなことばかり考えるようになる。逆にそんなくだらないことばかりする人は、頭の働かないバカなのである。人間の心は知覚に従属しないかぎり、その人間的な部分が働かず、真の人の心になれないのだ。
私も医学部にいたときは講義に出ても頭が働かず、心が落ちぶれていた。しかし、物理学科に再入学してからはなんとか人間の心を立て直したように思う。(残念なことに、年を食いすぎて就職先はなかったが。)そもそも医学じたいがくだらない学問でもある。医学では五感しか使わないからだ。

[188] いいわけ  2001年4月30日 18時17分
わつい さん  e-mail 
いいわけとはよーするにうその作り話をすることである。本当のことだけ言っていればいいのだ。

[187] 日本のバカヤロー  2001年4月30日 18時14分
わつい さん  e-mail 
弱い者、間違った者、悪い者を守るのが国や警察の務めなのか!?そんなことをするから弱い者、間違った者、悪い者が世間にはびこるのだ。
そもそも国や警察が間違っている。間違った者たちを間違った国が守ろうとするからいけない。警察は国のいいなりだ。国の決めた法にただ従っているのが警察だ。これでは国も警察も頼りにならない。自分が正義を貫こうとすれば、国や警察と対抗しなければならない。
正義は相対的に決まるのではない。多数決で決まるのではない。自分独りが正しく、国全体が間違っていることもありうる。
日本は私を幸福にしなかった。だから私はこの国を要らないものとみなす。
やられたらやり返すのがケンカの掟だ。


[186] 協調から闘争へ  2001年4月30日 18時13分
わつい さん  e-mail 
なぜあなたがたは(たとえうわべだけでも)他人(バカ)に合わせようとするのですか?
>そのほうが人付き合いがうまく行くから。
ちがーう!本当は、おまえの心が相手の心に負けているからだ。負けているから、おまえが嫌でも相手の心に従わざるを得ないのだ。協調心ではうまくいかない。闘争心を呼び覚ませ!強い心が弱い心を駆逐すべきだ。女が協調的なのは、心では他人に勝てないからだ。女では相手のいいなりにしかなれない。女が自分の好きな服を選ぶといっても、実際にはまわりの他人に合わせているだけだ。女は弱さの塊だ。現在を破壊するところに未来がある。明日の世界を切り拓けるのは強い心の男だけだ。
試験の点ぐらいなら女でもいい点がとれる。紙の上で指先を動かすことなどちょっと練習すればだれにでも出来る。ただたんに試験の点がいいだけで男女平等は大げさすぎる。一般化の行きすぎだ。試験制度が世の中をおかしくしている。
心の弱い者=従属者には、心の弱い者としての美徳(忠実、愛嬌など)がある。心の強い者=支配者には、心の強い者としての美徳(寛大さ、やさしさなど)がある。だから、心が弱いからといって必ずしも劣っているわけではない。心が弱い者としての美徳が備わっていれば、心が強い者としての美徳のない者よりも優れている。
自立できるのは支配者だけだ。従属する者はつねに見られる存在だ。

[185] 鬱病  2001年4月30日 18時13分
わつい さん  e-mail 
ハイチテンカンでウツ病になったんなら、社長にモンクいいに行って、もとのブショに帰してもらえばいいだろ
他人のいいなりにならずに、自分の心を肯定してみろ
他人のいいなりになってガマンすることしかできんがか!?
ここに居れと言われたら、自分から逃げ出すこともできんがやろうが

[184] 感情について  2001年4月30日 18時12分
わつい さん  e-mail 
人の心は遺伝子によって生まれつき決まっている。遺伝子が違えば心も違う。後天的に変わるのは各感情の感覚の(すなわち脳細胞としての神経興奮の)強さだけである。感情は活動させればさせるほど強く興奮するようになり、反対に活動させなければ次第に興奮は弱くなる。
反復する刺激によって発達した感情は、ちょっとした刺激が加わっても激しく興奮し強い感覚を発生し、反対に長期間刺激を与えず衰退した感情は、かなりの刺激を加えても興奮せず、それが荷う感情を生じない。発達した感情は抑制しにくく、衰退した感情は抑制しやすい。発達した感情を抑えるには、その活動を上回る強力な抑制が必要である。
人の心の中にある感情は生まれつき決まっている。それぞれの感情の強さが変わる(0〜∞)だけで、新しい感情が発生することはない。もっとも、それまで眠っていた感情がなにかの刺激で目を覚ます(活動を開始する)ことはありうる。

[183] 実在の世界  2001年4月30日 18時11分
わつい さん  e-mail 
マインドコントロールで他人を自分の意のままにできる世界は実在の世界ではない。
他人は自分と独立した心を持ち、他人は他人の心に従って生きているのが実在の世界だ。


[182] 哲学第三原理秘話 −空想(アニメや漫画)は本当におもしろいか?−  2001年4月30日 18時11分
わつい さん  e-mail 
絵に描いた餅より、食べられる餅のほうがいい。
空想の喜びなんかより、実在の喜びのほうがいい。
マンガが読めることよりも、働かないで暮らせるほうがずっといい。
人間が本当に喜べるのは、空想ではなく実在なのだ。
空想は実在からの逃避にすぎない。
言葉だけの喜びは青ビョウタンの負けイヌのキチガイの喜びだ。
心は実在の世界のみを対象とすべきだ。
心が実在に作用することによって実在を心に従え、
反対に実在が心に反作用することによって、心が実在に従う。
空想の世界は狂った心の原因になる。
空想の実在が分裂病を、空想の心が鬱病を引き起こす。
両者は“反対の”関係にある。だから、精神病はこの二つの病気しかない。
こうして単純に捉えられたからこの原理は正しい。
もっとも単純な理論が、もっとも正しい。

[181] 哲学第二原理発見秘話 −生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。−  2001年4月30日 18時10分
わつい さん  e-mail 
人は何のために生きているのか?人はどうして生きているのか?なぜデパートの屋上から飛び降りて死なないのか?それは落ちたらニ〜三分間は痛くて苦しいからである。この断末魔の苦しみが飛び降りのブレーキになっている。
すると人間が生きているのは、痛みが嫌だから、快さが好きだからである。つまり、人間にとっては生が快で死(ぬまでの断末魔の数分間)が不快だから、死なないで生きている。人間は自分の感情のために生きている。
知覚だけでは、○○すれば××になる因果関係がわかるだけだ。例えば、デパートの屋上から飛び降りれば死ぬし、飛び降りなければ死なない。知覚でわかることはそれだけで、飛び降りるか否かを決めることが出来ない。知覚においては、生きても死んでも同じことだ。
知覚では生きるべきか死ぬべきかが決められない。人間は心があるから生きているんだ。さらに、仮に生が不快で死が快ならば、人間は生きるのをやめて死のうとするだろう。人間にとっては、生きるべきか死ぬべきかの問題よりも、快か不快かのほうが重大なのだ。人間は快を求め、不快を避ける。快を作り出し、不快を消し去る。“人間は自分の感情を肯定する。”

[180] 哲学第一原理発見秘話 ー時間って何だろう?ー  2001年4月30日 18時9分
わつい さん  e-mail 
[十数年前のうららかな春の日に、お風呂に入りながら考えた。]
実在する世界は三次元空間と一次元時間からなる静止した四次元空間である。
それなのに人間には時々刻々と変化する現在の瞬間しか感じられない。
[ここで、脳のイメージを思い浮かべる。]
その原因は、人間の認識が大脳の働きによるからである。
大脳が活動するとき認識が生じる。大脳の活動は運動方程式に従う。
脳細胞が神経興奮するとき、“感覚”すなわち“自分に感じること”が発生する!
[このひらめきをノートに書き付けるために急いで風呂から飛び出した。]

[179] 弱肉強食  2001年4月30日 10時23分
わつい さん  e-mail 
人間の心は銘々みな違うから、社会は自分の心と他人の心のぶつかり合いとなる。
いわゆる、社会は万人の万人に対する戦いである。
自分の心より他人の心が弱ければ、他人をたたきつぶせばよいし、
自分の心より他人の心が強ければ、自分が戦って負ければよい。

[178] どうして黄金バットは俗悪なのか?  2001年4月19日 20時38分
わつい さん  e-mail 
黄金バットや妖怪人間ベムは俗悪番組といわれている。俗悪とは、つまるところ作品に含まれる思想がまちがっているということだろう。正義と悪の対立の構造が悪いのではない。それどころか、そういう構造で捉えることは現実において必要なことなのである。そうしないと、世の中に悪(まちがった思想)がはびこることになる。正義は尊ぶべきであり、悪はたたきつぶすべきである。正義と悪とは相対的なもの(つまり、正義にとって悪が悪であるように、悪にとっては正義が悪である。)ではなく、実在において正しい者が正義であり、実在においてまちがっている者が悪である。それでは何が俗悪なのか?人間の身体は心の表現である。人の態度をよく見れば、その人の心がよくわかる。男がブサイクなのは、男が気難しくしょっちゅう不機嫌だからである。(男なら自分のブサイクを否定するよりも、自分のブサイクを活かすことを考えるべきである。)反対に女が美しいのは、女がいつも現実に満足していて楽しいからである。身体の見たまんまが心である。昔のアニメが俗悪なのは、醜い肉体に美しい心が宿るとした奇をてらったところにある。
(追加)人間に心の違いがあるのはしかたがない。文句を言ったところで心の違いがなくなるわけではない。心の違いだけでいちいち他人に文句を言う者はいない。それでも他人に文句を言うのは、他人の考え方(思想)にまちがいがあるからである。考え方が正しいかまちがいかは実在においてわかる。最近まちがいが、正しさとまちがいを勝手に対等とみなしてつけ上がり気味であるが、本来は正しさとまちがいは不平等であり、正しさがまちがいをたたきのめすべきである。

[177] 微積分の心  2001年4月18日 20時52分
わつい さん  e-mail 
小学生のとき、自分の右手の親指と人差し指の腹をくっつけたりはなしたりしながら考えた。
『親指と人差し指がくっつく寸前の状態ってどんなものだろう?それは、くっついているのだろうかはなれているのだろうか?そのとき指のスキマはないんだろうかあるんだろうか?たぶん、それは‘ないとあるの中間’なんだろう。』そんなことを考えていた。
高校生になってそれが無限小の概念であることを知った。

[176] 五感は実在ではない。(つづき)  2001年4月18日 20時51分
わつい さん  e-mail 
実在は五感を超えたところにある。感覚のない実在の世界の中に脳細胞があり、脳細胞が活動(=神経興奮)することによって、はじめて‘感覚’が発生する。(哲学第一原理に至る道すじ。)

五感が実在であるとすれば、ただ見ればそれでおしまいであり、もはやこれ以上考える必要がない。しかし、実際には五感は人間に先天的に与えられた感覚であって実在じたいではないから、知覚によって五感の欠陥を補い、認識を実在に近づけねばならない。自分に感覚できる実在は、自分の知覚にほかならない。
知覚は五感よりも実在に近い(似ている)から、実在に従属すべき心は、五感よりも知覚に従属すべきである。目先・耳先の世界にとらわれてはいけない。(もっとも、知覚は五感から作られるから、五感を無視しすぎてもいけない。)五感の世界に対して、知覚的意味付けがなされることによって、実在の世界が見えてくる。

[175] 五感は実在ではない。  2001年4月17日 20時52分
わつい さん  e-mail 
いま‘自分に見えている’この世界は実在の世界ではなく、五感(とくに視覚)の世界である。実在の世界は五感で‘感覚’される以前の世界である。自分に感覚されない物体から反射された光が網膜に入り、インパルスが視神経を通って大脳皮質の視覚野にある脳細胞に達し、脳細胞を興奮させてはじめて‘見えている感覚’となる。(デカルトの本なんかによく出てくる図。)五感の世界と実在の世界には対応はあるものの、五感の世界そのものが実在の世界なのではない。
自分に見えている世界すなわち視覚界は、実際には自分の大脳の後頭葉の皮質にある。自分に見えている自分の姿は、自分の実体ではなく自分の後頭葉における感覚にすぎない。自分に‘見えている’無限に広がる空や大地は自分の身体の外にあるのではなく、じつは自分の頭の中にある感覚にほかならないのだ。
五感は大脳における感覚であって、実在じたいではない。実在は感覚化される以前の姿である。実在が感覚化されてはじめて自分に感じられる感覚となる。五感界(とくに視覚界)は感覚であって実在ではない。実在は五感を超えたところにある。

[174] バカは感情の肯定ができない  2001年4月17日 20時47分
わつい さん  e-mail 
くだらない汚らしい作り話をするばかりで、物と心がバラバラで、
感情を実在化しないから、いつまでたっても自分の感情を肯定できないのだ。

[173] 子供の見方と大人の見方  2001年4月16日 22時21分
わつい さん  e-mail 
子どもは他人の言葉をウノミにできるが、大人はまず正しい(善い)か、間違い(悪い)か判断し、正しい(善い)場合には受け容れ、間違っている(悪い)場合には拒絶(無視)する。
一般に、子どもは他人の作品(実在ではない。例えば、アニメやマンガ)をウノミにして、いわば自分の身をすっかり他人に任せっきりで、善いか悪いか自分の判断を加えずに、そのまま受け容れる(つまり、見る)が、大人は自分の判断を加えながら(例えば、数学の証明を読むときのように)、つまり作品の善い所は受け容れ、悪い所は無視しながら見る。つまり、大人は他人の作品に寄り掛からないで、自分の見方で見る。

[172] 幻覚あれこれ  2001年4月15日 11時30分
わつい さん  e-mail 
他人の聴覚細胞(大脳皮質の聴覚野にある脳細胞)と自分の聴覚細胞をつなぐのが幻聴(聴覚波)である。同様に、
他人の視覚細胞と自分の視覚細胞をつなぐのが幻視(視覚波)であり、
他人の味覚細胞と自分の味覚細胞をつなぐのが幻味(味覚波)であり、
他人の嗅覚細胞と自分の嗅覚細胞をつなぐのが幻嗅(嗅覚波)である。
他人の感情細胞と自分の感情細胞をつなぐのが幻情(感情波)である。
他人の知覚細胞と自分の知覚細胞をつなぐのが幻知(知覚波)である。
感覚の数だけ幻覚(感覚波)がある。
五感に較べると知覚や感情は孤独であり、幻覚が少ないようである。

[171] 感覚者の宿命としての幻聴  2001年4月15日 11時3分
わつい さん  e-mail 
幻聴が飛ぶ(または聞こえる)のは感覚がある者としての宿命である。
子供は目先でしか物を見ず、耳先でしか物を聞かないから、
幻聴の存在に気づかない。
大人は自分の頭の中で考えることが多いから、
感覚波の存在に気づきやすい。
物理学ではたいてい物があれば、それらをつなぐ波がある。
自分に感覚があれば、感覚波があってもしかたがない。
子どもは感覚の存在を知らないが、大人はそれを知っている。
子どもは他人のせいにできるが、大人はそれが許されない。
子どもは他人の目で自分を見るが、大人は自分の目で他人を見なければならない。
子どもは他人の目に甘えられるが、大人は自分の目しか頼れるものがない。
子どもは甘えの心があるが、大人は自律の心がある。
(もとい)音が空気の波であるように、幻聴は感覚の波なのだ。
つまり、音も幻聴も媒体の振動に他ならない。
実在する物は人間が好むと好まざるとにかかわらず実在する。
かつて電気も電気ウナギでビリビリくるものでしかなかったが、
今ではマクスウェルの方程式で記述されるまでの実在となった。

[170] どーして幻聴を不快に感じるのか?  2001年4月15日 10時29分
わつい さん  e-mail 
幻聴の悪口にしても、意味を与えているのは自分自身だ。
(哲学第一原理より、自分に感じられるのは自分の感情だけだからである。)
幻聴を不快に感じるのは、自分が幻聴の言葉に対して
その幻聴を発する者が感じているのと同じであろう
(自分の)不快な感情を代入している(当てはめている)からである。
わかる価値のない感情までもあえてわかる必要はない。
他人のくだらない感情など自分がわからないほうがいい。
いくら自分が事実を理解しなければならないとしても、
人間的価値の低いくだらない感情までも
強いてわかろうと努めることはない。
自分が不快な意味を与えなければ、幻聴などたんなる音にすぎない。
たんなる音で自分が困ることはない。

[169] いじめ  2001年4月14日 10時11分
わつい さん  e-mail 
いじめとは‘痛みの実験’である。
例えば、イヌの足を万力で潰して、血中アドレナリン濃度を調べる。
ウサギの眼に針を突き立てて、血管の充血を観察する。
心の差とはそれ程のものなのだ。
心の強い者が心の弱い者を‘痛みの実験台’にすることが自然の摂理である。
人間の心は強く、動物の心は弱い。だから人間は動物の頂点に立てた。
人間が人間の心を失い動物の心に堕落することは、みずからを痛みの実験台と化すことである。

[168] どうして人は他人の気持ちがわかるのか?  2001年4月14日 10時11分
わつい さん  e-mail 
人は眼で見える他人の頭に、他人の態度から推察される他人が感じていると同じであろう自分の感情を代入することによって、他人の感情がわかる。つまり、自分が感じる‘他人の感情’は、じつは自分自身の感情にほかならない。だから、機嫌のいい人にとっては皆が機嫌がよく見え、反対に機嫌の悪い人にとっては皆が機嫌が悪く見える。
しかし、実在から眼をそらしてはいけない。自分の機嫌がよかろうが悪かろうが、とにかく他人の気持ちを‘正しく’わかることが第一だ。現実逃避の青ビョウタンの喜びは要らない。

[167] 人間不平等論  2001年4月14日 10時10分
わつい さん  e-mail 
頭(知覚)だけで見ると男女平等になる。知覚はコンピューターと同じ(ただし感覚の有無の違いは除く)だから、だれでも教育を受ける機会さえあれば、よほどのことがないかぎり知識が身につく。
そもそも知識があるとは、多くのことを知っていることだ。感情においても多くの事を知っているほうが優れている。男にはY遺伝子があるから、女の感情よりも男の感情のほうがわかることが多く、ゆえに男の感情のほうが優れている。人類が生態系の頂上に立てたのは、人間の感情、なかでも男の感情のおかげだ。
頭のよさは表面的にすぎない。人間の本質は頭よりも心にある。心で見ると先天的に男が女よりも優れている。人間は不平等だ。

[166] バカ  2001年4月8日 22時34分
わつい さん  e-mail 
バカはくだらない所で良いのだ

[165] 日記  2001年4月5日 20時41分
わつい さん  e-mail 
日記は自分のために書く。
他人に甘えるな。

[164] 五感の上だけで威張るな  2001年4月5日 20時36分
わつい さん  e-mail 
何にもないのに、口先だけ(例、咳ばらい)で威張るな 
無意味な音を立てることしかできんがか、バカが
見かねたぞ カラいばりが
バカに礼などしよってたまるか
いい年こいて幻聴がまだ何だかわからんか、バカが
なにも考えてない 生まれつきのバカか

[163] 自分の心で作品を見よう  2001年4月3日 20時40分
わつい さん  e-mail 
作り話で喜ぶよりも、現実の中で培った自分の感情のほうが価値がある。
作品に自分の心を合わせるのではなく、自分の心で作品を見ることが大事だ。


[162] 大事なことーーー感情が現実を倒すことは出来ない  2001年4月2日 20時35分
わつい さん  e-mail 
感情が現実を否定することはできない。
なぜなら、感情は五感と同じ‘脳細胞の神経興奮(によって発生する感覚)にほかならない’からである。
神経興奮ごときが現実を思いのままに変えれるわけがない。
感情が現実に勝つことはできない。
感情は実現できることのなかから、いいものを選び出すことしかできない。

[161] 最近考えたこと  2001年3月31日 23時41分
わつい さん  e-mail 
3.22(木)人の頭が大きいのは、人の心が何を快とし何を不快としたかの結果である 人間の心には実在について知りたいよという知的好奇心がある つまり、人間は実在を知りたかったから、脳が大きくなったのだ  生物は、快ならば生きたく、不快ならば死にたい であるからして、生物が生き残るためには、気持ちが愉快でなければならない 人間にはもともとみなに知的好奇心があるから、実在を多く知り得た者のほうが幸福だったから、実在をあまり知らない者よりも多く生き残ったのである  人間はいくら環境に適応していても、‘自分の心’に適応していなければ、鬱病で自殺することになる 心が担体である人間を生きるか死ぬか‘選択’する アメーバやゾウリムシは環境への適応がすべてだが、人間のような感情のある生物はむしろ心への適応が生死を決定する 
3.23(金)楽に死ぬ方法(PART2) 科学実験セットを購入して、部屋の中で窓を閉め切って一酸化炭素を合成する
3.29(木)人間性とは、“頭を使って身体を使わない”ことである/なぜ他人の咳ばらいがいやなのか? 昔、幻聴があった時、自分がいやな気持ちになるたびに、幻聴のする方角に向かってゲホゲホ激しく咳ばらいをしていた だから他人が咳をするのを見ると、条件反射で自分の嫌な気持ちが甦るのだ 
3.30(金)日本社会では支配欲しか満足されない 支配欲とは、“他人にやりたくないことを無理矢理やらせる”ことである これはイジメにほかならない

[160] 日本  2001年3月27日 20時41分
わつい さん  e-mail 
日本人に出来るのはヨーロッパ人のカンニングだけだろうが
いくらカンニングでいい点取れてもそれは実力じゃない

戦争にだってはっきり敗けとるだろうが
日本の思想が正しくないからだ
日本の思想が“言葉の上だけ”だからいけないのだ。
現実と心がかみ合っていないから、
勝てない戦争を勝てると思っておもしろ半分にやり始めるのだ。
日本が悪い。
日本は世界の迷惑だ。
日本はヨーロッパを一生懸命まねて“目先だけ”は似たものになったかもしれないけど、
頭の中はパーだ。

[159] 個人性の感情  2001年3月27日 20時32分
わつい さん  e-mail 
政治家も医者も堕落した人間だ。クズだ。
総理大臣なんか“クズの中では”一番えらいやつだ。
まともに生きている人間が“個人性”の感情を捨てられるか。
他人にとらわれるのはみな自分で自分をダメにしたやつだ。
しょせん見栄張り代が欲しいだけやろが。
仕事は楽なのが一番いいのだ。

[158] 服装について  2001年3月19日 17時41分
わつい さん  e-mail 
他人の目を意識することが、気が弱いということである。
服装は自分では見えないから、自分自身にとっては何の意義もない。
服装は他人に見せるためのものである。
服装を凝るのは、気が弱い証拠である。

[157] 私のこれまでの人生で最高にウマかったもの  2001年3月17日 0時1分
わつい さん  e-mail 
1.山菜うどん・・・今から約20年前、高校の登山の時、西黒森(愛媛の山)の麓の茶店で食べた。 まるでうどんでないかのような、この世のものでないかのような味だった 芸術品と言っていい 
2.水・・・剣山の山頂付近、次郎笈側にある水場の水 ヌルッとしたのどごしがウメェ〜!!
3.かたくり・・・子供の頃母親が作ってくれた 片栗粉と砂糖を少量の水でとき、熱湯を加えて、最後に高知特産の生姜を入れる 
4.サバずし・・・おばあさんが作ってくれた 高知名物 頭付き姿造り 姿に似合わず美味い
とにかく、四国は美味いものが多いということなのだ。

[156] 鏡川祭り  2001年3月16日 21時6分
わつい さん  e-mail 
たしか俺が中学3年の夏、今から20年ちょっと前、高知名物‘鏡川祭り’の時、西の端にある見世物小屋で生きた‘一つ目小僧’が出ていた記憶がある。俺は怖くて表の垂れ幕の絵しか見なかったけど(実は家族みんなで出てきていたので単独行動はとれなかったのだ)、女の人が顔を伏せて泣きながら出口から出てきたのを見た記憶がある。本当かな

[155] ウソ  2001年3月13日 20時40分
わつい さん  e-mail 
物と心が分かれているから分裂病という。
(そういう意味では鬱病も分裂病といえる。)
ウソをつくから物と心が分裂する。

オレも小さい頃はよくウソをついたもんだ。
テレビのUチャンネルを回しすぎてこわしたとき、
親が弟のせいにしたとき黙っていた。
おばあさんの家に遊びに行って
おばあさんの腕時計のリューズを回しすぎてこわした時、
おばあさんが「これはのんくんがやったの」ときいたので、
私はちがうと答えたので、弟のせいになった。
子供にはよくあることだっちゃ。

[154] なぜ人を好きになるのか  2001年3月11日 18時16分
わつい さん  e-mail 
人の心には理想の相手像がある。
現実の人がその理想像とどれだけ一致するかによって、
その現実の相手を‘どれだけ好きか’が決まるのだ。
完全に一致すれば100%好きだし、
部分的に一致すればそれ以下だ。
現実の人そのものが好きなのではなく、
心の中の理想像が好きなのだ。
100%好きな相手なんて、たぶん実在しないだろう。

自分の心の中の理想像をよく理解していなければ、
相手の選択を誤ってしまうだろう。

[153] 他人の気持ちなんかどうでもいい  2001年3月11日 16時47分
わつい さん  e-mail 
『親に孝行したいやろ』と友達に言われて医学部に行ったけど、
自分の『医学が汚い』と思う不快感にはかなわなかった。
自分には自分の心しか感じられない。
いくら自分の親が喜んでも、
その喜びを自分の喜びに出来なければ、
自分の動機にはなりえない。
人間は他人のためには生きられない。
自分のためにしか生きられないのだ。

いくら自分に『親に孝行したい』気持ちがあっても、
それよりも『医学が汚い』気持ちの方が強ければ、
強い気持ちに従わざるをえない。
そうしなければ、『親に孝行したい』どころではなくなるのだ。

[152] 但馬の人  2001年3月10日 12時55分
わつい さん  e-mail 
みんないじけバカだ。マズいものを喜んで食べる。

[151] 咳ばらい  2001年3月10日 12時54分
わつい さん  e-mail 
バカの出来ることは、ただ咳ばらいをするだけだ。
大人になって自分のバカがバレる機会がないからといって、デカいツラをするな。


[150] 夢をあきらめるな  2001年3月10日 12時53分
わつい さん  e-mail 
夢をあきらめるな。たとえ「仕事をしないで暮らす」ことが(完全には)できなくても、だからといって反対に仕事を肯定しようとするな。「仕事をするのは楽しいことだ。」と思いこんだりするな。創りごとのウソで心をいじけさせる(関東の人に多い)と、人の心を失うだけだ。

[149] 弱気  2001年3月10日 12時52分
わつい さん  e-mail 
かっこいい服は、弱気がにじみ出とるなあ。

[148] 咳ばらいの意味  2001年3月10日 12時51分
わつい さん  e-mail 
咳ばらいの意味は「おまえが悪い」だが、自分に悪い所がなければ、相手のほうが悪い。
 良い者を良い、悪い者を悪いと言うのは良い者であり、
 良い者を悪い、悪い者を良いと言う者は悪い者である。


[147] 読者のみなさんへ、お願い  2001年3月10日 12時50分
わつい さん  e-mail 
扉から入ってくれ。最近カウンターが増えんやないか。

[146] 私はどのようにして分裂病になったか  2001年3月10日 12時49分
わつい さん  e-mail 
眼に見えていることと違うことを頭の中で強く念じると分裂病になる。
例えば、「他人が自分の気に入らない」ことをしているとき、頭の中で「他人が自分の気に入らないことをしない」ことを強く念じると分裂病にかかる。私が高校一年生の時、通路を挟んで隣の席のOが授業中に英語の教科書をパラパラめくりしているのに‘激怒’して、そいつの態度を超能力で改めさせようとして、そいつを横目でにらみながら頭の中で「ヤメロー、ヤメロー」と身震いするほど必死で念じたら、横目と眼のまわりの痛みが治らなくなり、その後で家の近所の人の笑い声混じりの悪口が聞こえてきた。

しかし、五感と実在とは必ずしも同じではない。例えば、実在には眼には見えない時間やエネルギーなどがある。「他人がみんな自分の気に入る」世界は実在ではない。つまり、実在に反することを知覚で強く念じると分裂病になる。反対に、自分の心に反することを知覚で強く念じると鬱病になる。

[145] 私の感情  2001年3月10日 12時48分
わつい さん  e-mail 
『自分ひとりで暮らしたい』欲望が私には子供の頃からある。
先生から「無人島にひとりで住んだらええわ」と言われたほどだ。
その理由は、異なる人間がいっしょにいると、必ず感情の対立が起こるからである。
自分にとって他人は不快である。
だから、自分の眼の届く所には他人がいないほうがいい。

[144] 人間としての心  2001年3月10日 12時46分
わつい さん  e-mail 
ほんらい仕事はいやなものである。仕事していないときは楽しい。
仕事中でも頭の中で「あと8時間したら家に帰れる」と考えて気持ちを楽しくしているから、いやな仕事でも何とかつとまる。
目先の現実と、頭の中の現実(実在に近い)とは違うのだ。
目先ではいま自分が「仕事をしている」か「仕事をしていない」かのどちらかひとつだが、頭の中では「あと○時間すれば仕事から解放されて家に帰れる」とか「1ト月で○○時間仕事をしている」とか考えている。頭の中では、自分が「仕事をしている」か「仕事をしていない」かのどちらかひとつというわけではなく、「一ヶ月のうちに○○%の時間仕事をしている」ということになる。
目先では『仕事をしたくない』願望が「満足されている」か「満足されていない」かのどちらかひとつだが、頭の中では「○○%満足されている」ことになる。目先の喜びは有か無かのどちらかひとつだが、頭の中の喜びは有と無の中間なのである。
『人間の心は五感よりも知覚に従属する。』『五感よりも知覚が人間の心を支配する。』


動物の中でも人間だけが火を怖がらないのもそのためである。
つまり、火そのものはさわったら熱く危険で不快なものだが、上手く利用すると人間の生活に楽しさをもたらしてくれる快なものである。


例えば、他人が自分に向かって咳ばらいをした場合、その人が身体の病気でなければ、自分に対する嫌悪感を‘ことば’に表現したことになるが、それは実際には自分に攻撃しているわけではなく、その人にとっての心と実在のつながりを断ち切る自らキチガイになろうとする愚かな行為である。心と物とがかみ合っていない。しかし、そのことに対する認識が、当人にはまったくない。キチガイだから、たいしたヤツじゃない。(それとも、それが本人にとってはエライ人間のつもりなのか!?)自分のキチガイを棚に上げて他人に文句つけるな、バカ息子(親父)が。〔No.128:ことばの罪参照〕さらに、その人にとっては咳ばらいは‘他人を殴るかわり’であるらしく、不快感の出所は人間の心ではなく下等な動物の心である。あまりにも幼稚すぎて情けない。人間の中にある‘動物の心’を活動させれば動物になり、‘人間の心’を活動させれば人間になる。〔No.117:ケダモノ参照〕そのうえ、その人は自他の感情の違いを考慮していない。人間としての常識に欠けている。したがって、そいつは常識のないバカ、人間以下の動物の心の持ち主だから、自分と対等に相手をせず、自分よりも下に見て、心の中で軽蔑しながら対応してやればいい。

[143] 勉強  2001年3月10日 12時44分
わつい さん  e-mail 
だれだって『勉強はいや』だ。
自分の好きな科目ならなんとか我慢してできる程度だ。
自分の嫌いな科目なら気持ちが沈んでやる気が出ない。
勉強は嫌いだが、全然やらないのでは、
(現代の社会では)後で自分が不快な暮らしをしなければならなくなる。
かと言って、勉強ばっかりやってては、気持ちが落ち込む。
多少の不快さには耐えながらも、ほどほどにやることが必要。

しかし、ほんらい『勉強や仕事はないほうがいい』のであり、
そうでなければ人類がバカだ。
ただ現代の科学では、それが実現できないだけだ。
少しずつでも減らしていこう。
できるだけ、快なことを増やし、不快なことを減らしていこう。

[142] 再び精神病について  2001年3月4日 14時50分
わつい さん  e-mail 
人間の心にはいろいろな感情がある。
それぞれの感情はみな非実在的であり、
人は対立する感情と実在の両方を抱えながら生きていかねばならない。
感情の肯定しすぎ、感情の興奮しすぎが分裂病。
感情の感覚が強くなっているから、感情に反する実在に対する不快感が強い。
感情の否定しすぎ、感情の抑制しすぎが鬱病。
感情に反する実在に対する不快感を減らすために、感情に抑制がかかる。
知覚における非感情的・非実在的概念が、感情と実在のつながりを切る触媒になる。
(もっとも、実在哲学の世界では感情も実在の一部分であるが。)


[141] 実在と感情を一致させるとは  2001年3月4日 14時49分
わつい さん  e-mail 
感情には快と不快の区別がある。
実在には存在すると存在しないの区別がある。
実在と感情を一致させるとは、
快なものは存在し、不快なものは存在しないことである。
そのためには、快なものを作り、不快なものは消す。
存在するものを不快がらず、存在しないもので喜ばない。

しかし、例えば『仕事をしないで暮らしたい』感情のように、
部分的にしか満足されない感情がある。
この感情は(21世紀の現在の時点では)肯定しすぎると生きていけなくなり、
反対に否定しすぎると気分が落ち込むことになる。
ちょうど、ガリ勉バカが勉強ばっかりしていつも気分が沈んでいるように。
つまり、この感情は適度に活動していなければならない。
この感情に限らず、一般に人間の本心は非実在的なものである。
実在的な感情なんかありはしない。

[140] マジで怖かったもの  2001年3月4日 1時19分
わつい さん  e-mail 
その1:三つ目のネコ・・・小学4年のとき移動図書館で何気なくおもしろそうな本「日本世界なんでもNo.1、ふくろう文庫」(?)を借りて、家でパラパラ見ていてページをめくったら突然出た!図がとってもリアル。三つある中でも、真中の目がとくに怖い。あんまり私が怖がるので、親がおもしろがって本を開いて立ててテレビの上に置いて私をからかった。
その2:首が空を飛んでいる心霊写真・・・小学館の雑誌「小学4年生」の夏休み特別号のおだ辰夫の読者コーナーの扉に出ていた変な写真。はじめ見たときはただの集合写真と思ったが、右横にある解説図と較べながらよく見ると写真の上のほうに首だけが空を飛んでいるのが見えた。あんまり怖いので、その写真を切りとって針金でグルグル巻きにして近所の畑に捨てに行った。
その3:三面鬼・・・小学5年(?)のとき朝の三面記事でやっていた。長野の善光寺にあるやつ。夏の暑い盛りに、どこかの先生が口の中に手を差し込んで紙玉を取り出して「これは作り物ですな」と言っていた。しかし、私の目には先の三つ目の猫のこともあって、どうしても本物に見える。最近毎日放送で「超常怪奇物パート2」でも出ていた。私は今でも本物だと信じている。猫も人間も同じ哺乳類だから。

[139] 仕事も学校もやだよお  2001年3月3日 23時32分
わつい さん  e-mail 
大人になって仕事をしなければならないのは嫌だ。
しかし、大人になって仕事をするために、子供のときに学校があるのはもっと嫌だ。
こうして生まれてから死ぬまでずっと働かされる。こき使われる。
人生のいい時期に遊ぶ暇がほとんどない。
年とって面白いことがなくなってからやっと仕事から解放される。
バカバカしいとは思いませんか?
こんな世の中絶対おかしいよお


だれだって『仕事や勉強はいや』だ。
だから、それらをなるべく少なくするようにしなければならない。


[138] 心の強さ  2001年3月3日 19時48分
わつい さん  e-mail 
人間の心は動物の心よりも強い。
心の強い者が心の弱い者を支配することができる。
だから、人間は生態系の頂点に立つことができた。


弱い心の者は強い心の者に利用されるか、からかわれる。それが、イジメだ。
イジメられる者は、心がフニャフニャして弱いからいけないのだ。

心の強さは、人間が主観的に決めるのではない。
実在が客観的に決めるのだ。


[137] 他人に従う気持ちはやめよう  2001年3月3日 18時24分
わつい さん  e-mail 
私が小学生の時、周りのみんなが進学校に行くというので、自分もたいして行きたくもないのにつられて行ったら、お勉強バカばっかりで、自分にもガリ勉バカが伝染って頭の働きを悪くされて、おまけに自分がすっごく気に入らない奴が通路を挟んで隣の席にいて、身震いするほど怒ったら分裂病になって不愉快な毎日を送らねばならなくなり、貴重な青春を台無しにした。
分裂病からなんとか立ち直った頃、私の友達が医学部に行ったらいいというので行ったら、自分と合わなくて、毎日気分が落ち込んで鬱病寸前まで行って、結局医者を辞めねばならなくなり、人生を台無しにした。

他人と自分ではそもそも気持ちが違う。他人は、自分の気持ちのことまでは考慮してくれず、他人自身にとって幸福なことを言っているにすぎないので、他人の言いなりでは自分が幸福にはなれない。
他人に従う気持ち、他人に依存する気持ちは親に従う子供の気持ちの名残であろう。子供のころは、その気持ちは有益に働くが、反対に大人になると不利になる。大人は自分自身の気持ちに従ったほうが幸せになれる。

[136] 仕事から自由へ  2001年3月3日 13時30分
わつい さん  e-mail 
『仕事をしないで暮らしたい』とは言っても、『なにもやりたくない』という意味ではない。
同じことでも、他人から強制されてやるのは嫌だが、
自分の自由でやるのはいい。
自分が他人の感情に従って行動するのは嫌だが、
自分の感情に基づいて動くのはいい。
『自分が好きなことだけやって暮らせる』のは幸せだ。
だから、そういう社会を実現するようにしなければならない。

[135] 人類幸福への道  2001年3月3日 13時28分
わつい さん  e-mail 
『仕事をしないで暮らしたい』欲望が私にはある。
もしも私が農家の長男だったら、先祖代代受け継いできた田んぼを売ってお金に替えて
遊んで暮らすことができるのだが、現実には私は農家ではないから無理である。
またもしも私が千年後の科学技術の発達した世界に生まれて、ロボットが人間の代わりに仕事をしてくれるのだったら、私は働かなくてもよいのだが、現実にはまだ実現していない。
だから、『仕事をしないで暮らしたい』欲望を完全に実現することは不可能である。
しかし、部分的になら実現できる。
現に、今日は休日で私は仕事をしていない。明日も休みですることがない。
週休二日制は『仕事をしないで暮らしたい』欲望を、完全にではないにしても部分的にはかなり実現しているものといえる。
私が子供のころは半ドンしかなかったから、人類の歴史は確実にこの方向に進んでいるのである。
ゆえに、私の『仕事をしないで暮らしたい』欲望と現実との一致が高まり、私はより幸福になりつつあるのである。
でも、『仕事をやりたい』人にとっては、反対に不幸になりつつある。
私は運がよく、『仕事をやりたい』人は運が悪かったのだ。
『仕事をしないで暮らしたい』欲望は、現時点では完全に満足された状態からは程遠いが、感情には‘ファジー性’があるので、たとえ完全ではなく部分的にでも満足されれば、ある程度は喜ぶことができるのである。
今後、週休三日制、週休四日制、・・・と進んでいけば、いつかはきっとまったく『働かないでも暮らせる』社会が実現できるに違いない。
今はまだ『仕事をしないで暮らす』ことはできないが、それを嘆くだけに終わらず、『仕事をしないで暮らせる』社会の実現へと積極的に向かっていけば、未来においてはきっと実現されることだろう。

[134] 理論  2001年2月24日 23時16分
わつい さん  e-mail 
原理に基づいて実在を見たものが理論である。
よい理論とは、実在についてわかることが多い理論である。
原理の立て方によって、実在がわかりやすくなったりわかりにくくなったりする。
原理がいちばん大事である。

実在哲学の原理によれば、‘原理的には’
物体と感情の両方の存在を認めているから、
自然科学と人文科学のすべてがわかる。
実在哲学によればわからないことは(ほとんど)ない。
まちがった原理で実在を見て、頭がゴチャゴチャになって
こんがらがってわからなくなるような理論ではいけない。

[133] バカは死ななきゃ治らない  2001年2月24日 13時19分
わつい さん  e-mail 
正しい人間にとっては、
正しいことが正しく、間違っていることが間違っているが、
間違っている人間にとっては、
正しいことが間違いであり、間違っていることが正しいのだ。
 
正しいか、間違っているかを判断するのは人間であるが、
人間が正しいか、間違っているかを判定するのは実在である。
ところが、実在じたいは人間にとって感覚できないから、
人間は自己矛盾に陥らないかぎり、自分が間違っていることがわからない。
考えて実行して矛盾があることがわからないかぎり、自分の間違いに気づく
ことがない。
 喩えば、原子が潰れるのが理論なら、原子が潰れないのも理論(に基づいた実験)
 である。
 矛盾が生じたから、その理論(古典物理学)には欠陥があるのがわかる。
  
愚か者は思考に論理性がないどころか、そもそも思考することじたいがないから、
いつまでたっても自分の矛盾に気付けない。
自分が間違っていることがわからないから、良くなることがない。

[132] “創られた実在”と“創られた心”  2001年2月24日 13時14分
わつい さん  e-mail 
知覚が精神病、つまり不幸の原因である。
なぜなら、知覚が実在しないものや実在しないこころを創造するからである。
実在しないものやこころが、心と実在のつながりを妨害している。
鬱病では偽りの自分の心を創っている。
 他人から吹き込まれたタテマエの心を自分の本心と勘違いしている。
 例えば、『お金がもうかる』とか、『他人からバカにされない』とかいった
見えすいたくだらない気持ちを、
『美しさ』や『正しさ』などの自分にとって大切なかけがえのない気持ち
よりも優先すると、自分の本心が創りごとの心を不愉快に思って気分が落ち込む。
分裂病では偽りの実在を創っている。
 自分の心の世界を実在の世界と思いこんでいる。
 例えば、コックリさん(リーディング)や超能力(マインドコントロール、
 サイコキネシス、テレパシー、クレヤボヤンスなど)がある世界を、
 実在の世界と勘違いしている。
 例えば、『みんなが仲良しである』、『他人が自分の感情に従う』、
 『自分が一番正しい』、『他人が自分を尊敬する』世界
が、
 実在する本当の世界と考えている。
 分裂病者にとっては、自分の心に従う創造された世界のほうが自分の心に
 従わない実在の世界よりも楽しく、創造の世界に反する実在の世界が不快になる。

したがって、精神病から立ち直るには、知覚が心や実在を認識すればいい。
鬱病では自分の本当の心を認めねばならない。
 例えば、『自分は汚いことには興味がない』、『自分のすることが正しくないと
 気がすまない』
とかいった、自分の心の奥にある本当の気持ちをわからなければ
 ならない。
分裂病では、実在の世界を受け容れなければならない。
 例えば、『他人の思考や行動は自分の思い道理にはならない』(なぜなら、感覚が
 あるだけだから)、『みんなが仲良しではない』(なぜなら、人によって感情が
 違うから)
ことなどを、理解しなければならない。
 
知覚が実在を認識することによって、心と実在のつながりが回復され、
再び幸福な人生をやり始めることができる。

[131] 政治家のオッサンたちへ  2001年2月22日 21時18分
わつい さん  e-mail 
『仕事をせずに暮らしたい』、『楽に早く死にたい』が私の夢である。
なのに、アンタらはそれを実現する能力(ちから)がない。
だから、アンタらは要らない。

他人にたよってもムダだ。自分のことは自分でするしかない。

[130] 他人の感情  2001年2月22日 20時33分
わつい さん  e-mail 
他人の感情じたいは感覚できないが、身振りやことばを通して推測することはできる。
つまり、自分にとって他人の感情はわかる。
それでも正当な理由がなければ、他人の感情に従属する必要はない。


[129] 医者の心  2001年2月21日 20時25分
わつい さん  e-mail 
医者や看護婦は汚いものが好きである。
しかし、(もと研修医であった)私は汚いものが嫌いである。
汚いものが好きな者は医者を続けられるが、
汚いものが嫌いな私は医者を辞めねばならなかった。

[128] ことばの罪  2001年2月20日 21時16分
わつい さん  e-mail 
・知覚が感情と実在のつながりを分断する。知覚が精神病の原因である。
 動物は知覚が小さいから、感情と実在のつながりが切れにくい。動物に精神病はない。
・ことばはものではない。実在主義において、(ものから切り離された)ことばは認められない。
 ものとこころ(こころも、もののうち)以外は認められない。
 ことばじたいにはなんの価値もない。ことばだけなのはカラいばりだ。
☆ことばの世界(すなわち知覚)が、ものとこころのつながりを分断する。
 ことばとは知覚である。(字ヅラではなく、意味)
 
ことばともの、ことばとこころをつないで、‘ものとこころをつなぎなおす’必要がある。
・もののしあわせに較べたら、ことばのしあわせなど、とるに足りない。たわいない。


[127] 和(つづき)  2001年2月18日 20時30分
わつい さん  e-mail 
『みんなと仲良くしたい』、つまり『他人が自分の感情に従って欲しい』気持ちが自分にはある。
しかし、現実には自分の感情と他人の感情は違うから、「他人が自分の感情に従わない」ことがある。
ところで、(自分にとっての)幸福とは(自分の)感情と現実とが一致していることである。
いまの場合、自分が他人に「自分の感情に従え」と命令することはできない。
つまり、この場合には、現実を感情に近づけることはできない。
だから、逆に自分の感情を現実に近づけねばならない。
つまり、自分の『他人が自分の感情に従って欲しい』気持ちを抑えなければならない。


そもそも『他人が自分の感情に従って欲しい』気持ちなど、
『自分が仕事をしないで暮らしたい』気持ちや『自分が楽に死にたい』気持ちに較べれば、
大したことはない。
他人のことはどうでもいい。


[126] 和  2001年2月18日 19時27分
わつい さん  e-mail 
『みんなと仲良くやろう』という気持ちが人にはある。
しかし、現実には人の顔や身体がみな違っているように、人の心もみな違っているのであり、心が違うということは人間同士は‘気が合わない’、つまり「みんなと仲良くやれない」ことになる。
「万人の万人に対する戦い」(byホッブス)こそが、人間社会の実体なのだ。
いくら『みんなと気が合いたい』気持ちがあっても、現実には「みんなと気が合っていない」のだ。
夢は『みんなと仲良くやりたい』のだが、実際には「みんなと仲良くやれない」のだ。
人間の気持ちを変えることはできなくもないが、自分の心を他人の心に従属させ、他人の心を自分の心に従属させて、自分の心と他人の心を同じにしようとすると、人の心の個性が失われ、個人的には満足できることの大部分を失うことになり、けっきょく大損になる。
だから、「みんなの心を同じにする」よりは、「人間同士の心の違いを認める」ほうがいい。
したがって、「人間同士は気が合わない」ことにならざるをえない。
しかしながら、気が合わないという理由だけで人間同士がいちいち戦っていては、
社会が成り立たなくなり、社会のメリットが失われるので、これまた大損である。
そこで、「気が合わないという理由で、他人を攻撃すること」を禁じる必要がある。
『みんなと仲良くやる』ことは、「他人が自分の気に入らないからといって、他人を攻撃しない」という意味で可能なのである。
いくら『仕事をしないで暮らしたい』気持ちがあっても、「仕事をしないでは暮らせない」のが現実であり、実際には『仕事をしないで暮らしたい』気持ちを抑えねばならないように、
『みんなと仲良くやりたい』気持ちはやまやまだが、「自分と気が合わない他人がいる」のが現実なので、その気持ちは抑えなければならない。


[125] 動機  2001年2月18日 19時4分
わつい さん  e-mail 
自分に感じられないものが自分の動機になることはない。
自分に感じられないものは、自分のとっては無に等しいからである。
例えば、他人の気持ちじたいは自分には感じられないから、
他人の気持ちのために自分が動くことはない。
動機はすべて感情である。
よって、自分が動くのは自分の感情のためだけである。
けっきょく、動機となるのは、自分自身の感情だけしかない。
例えば、愛情は他人の喜び(快)を自分の喜び(快)とすることであり、
結果的には他人の利益になるかもしれないが、
動機はあくまでも自分の喜びにあるのである。
なぜなら、自分にとっては自分自身の感情しか感じられないからである。
人間は、他人に対する愛情がなければ、他人の気持ちのためには動けないものなのだ。
しかも、特定の対象(例えば、人間)に対する愛情の有無は、自分の感情で客観的に決まるのであって、自分の知覚が自由に決められるものではない。
例えば、私にとって「魔法の妖精ペルシャ」なら見る気になるが、「魔法の天使クリィミーマミ」はどうしても見る気になれないようなものである。

[124] 女の子の心  2001年2月18日 13時38分
わつい さん  e-mail 
『子供を作りたい』気持ちが女の子の心にはある(らしい)。
しかし、男の心にはない。
だから、男の私は結婚もしないし、子供も欲しくない。

[123] 仕事について  2001年2月17日 22時52分
わつい さん  e-mail 
いくらいい仕事でも、仕事で拘束されたのでは、牢屋の中の囚人と大差ない。

大人になって仕事するために、子供の時に勉強させられたのではたまらない。
せっかく大人になって勉強しないですむようになっても、
さっそく仕事が待ち構えているのでは、
まったく人生アホくさい。
勉強も仕事も両方ともつまらない。
なんで人間に生まれてきたというだけで、
こんなにおもしろくないことばっかりやらされないかんのか。

民主主義は全人類を貴族ではなく奴隷に変えた。

[122] 夢  2001年2月17日 22時49分
わつい さん  e-mail 
すでに目の前にあることや、すぐにできることなんかは本当の夢じゃない。
例えば、柔道のオリンピックで優勝することなんかは全然夢がない。
夢は、すでに目の前にあってはならないのだ。
夢は、現実の中にないことでなければならない。
夢は現実にないからこそ、実現する価値があるのだ。
例えば、「仕事をしないでも暮らせる社会」なんてものは、
いまだ地球上に存在したためしがない。
しかし、そんな社会があればいいなあと思う心は確かにある。
だから、その実現に向かって一歩だけでも進まなければならない。
例えば、ロボットや人造人間を作って人間の代わりに仕事をさせればいい。
「仕事をしないでも暮らせる社会」は今は夢だけど、
1000年後には実現しているかもしれない。
現実を夢に近づける努力をすれば、いつかは夢が現実になる日がくる。

[121] 感情  2001年2月17日 18時34分
わつい さん  e-mail 
『自然を自分の意のままに操りたい心』もまた、人間(とくに私)の中にある強い感情のひとつである。
この感情は、科学を推し進める強力な駆動力となる反面、行き過ぎると客観的認識の妨げにもなる。
『人間は自然に従属することによってこそ、自然を支配することができる。』(byベーコン)
普段の生活では、知覚による制限つきでかろうじて満足されている。
しかし、そもそも知覚の制限のないほうが、ずっと満足される。
レインボーマン第2話「レインボーマン誕生」における感動の源でもある。
感情を知覚の制限から解放できれば、ノリがよくなる。

[120] 仕事  2001年2月17日 6時29分
わつい さん  e-mail 
われわれの行く手には二つの分かれ道がある。
ひとつは、「死ぬまで仕事でこき使われる社会」に通じる道であり、
もうひとつは「生まれてから死ぬまで仕事をせず、みんなが自由に生きることのできる社会」に通じる道である。
「仕事は他人のためになる立派なことだ」「仕事は神が人に与えたもうた天職だ」「仕事が人間の価値を決める」といったたわごとのために、一生つらい思いをさせられるのはごめんだ。
「仕事は奴隷のすることだ」「やりたい仕事なんかひとつもない」「仕事なんかくそくらえ」が私の本当の気持ちだ。
人類の未来を仕事地獄から解き放ち、人々にとっての自由な天国にしようじゃないか。

[119] 幸福になるための方法〈例2〉  2001年2月16日 23時32分
わつい さん  e-mail 
1.感情じたいを現実から切り離してとらえる:
  例、『〈私だけでも〉楽に死にたい』
2.現実を感情に近づける:
  CO2が溜まっていそうな窪地を見つけてテントを張る。
  医者に100万渡して、麻酔をかけて殺してもらう。
3.感情を現実に近づける:
  欲望そのものの実現はあきらめて、しかたなく生きる。

 夢は現実にないからこそ、実現しなければならない。

[118] 幸福になるための方法〈例1〉  2001年2月16日 23時20分
わつい さん  e-mail 
1.感情じたいを現実から切り離してとらえる:
  例、『(私だけが)仕事せずに暮らしたい』
2.現実を感情に近づける:
  ロボットを作って人間の代わりに働かせる。
  遺伝子操作で感情のない人間(ゾンビ)を作って働かせる。 
  これでは、実現までに時間がかかりそうだ。
  もう1000年遅く生まれてくればよかった。
3.感情を現実に近づける:
  欲望そのものの実現はあきらめて、なるだけ楽な仕事をさがす。
  (でも、現実にはナカナカない。)

[117] ケダモノ  2001年2月14日 20時18分
わつい さん  e-mail 
セキやクシャミをして吠えるのは、人間以下の動物の心だ。
二本足で立って、手がチョッと動くだけだ。
格好が人間なだけで、中身の心は動物以下だ。


[116] 現実の喜びと空想の喜び  2001年2月13日 21時25分
わつい さん  e-mail 
現実の喜びに較べたら空想の喜びなど取るに足りない。たわいない。
例えば、『仕事せずに暮らせる』喜びに較べたら、『マンガやアニメを見る』喜びなんか
ふぬけてかったるい。
『マンガやアニメを見る』喜びは、喩えば、ただ美味しいだけで栄養のない
紅茶やコーヒーを飲むようなものだ。
本当はお腹がすいた時に食べるご飯が、一番美味しいのだ。

[115] 私の願い  2001年2月13日 21時15分
わつい さん  e-mail 
『私だけでもいいから仕事をせずに暮らせるようにして欲しい』
それがダメなら、せめて『私だけでも安楽死できるようにして欲しい』


[113] 他人へのとらわれ  2001年2月11日 10時37分
わつい さん  e-mail 
いくら他人が自分に文句つけてきても、
自分が他人に従わなければならない理由がなければ従わなければいい。
誰にも、‘自分が他人に嫌われるのはいやだ’という気持ち(感情)はある。
しかし、そんな気持ちにとらわれて、自分自身の気持ちを否定していては、自分が損をする。
例えば、「身なりが汚い」といって他人が自分にケチをつけてきても、自分は「そんなどうでもいいこと(=やったところで大して楽しくもないこと)いちいち面倒臭くてやれるか」という気持ちがあるので、他人を無視する。
‘自分が他人に嫌われるのはいやだ’という気持ちなんか、抑制して消してしまえばいい。

[112] くだらない価値観  2001年2月10日 8時52分
わつい さん  e-mail 
見かけにこだわる。
くだらない価値観だ。
おとなしすぎる。

政治家は大喜びだろう。
バカが増えたほうが支配しやすいからだ。

[111] 幸福とは  2001年2月9日 20時36分
わつい さん  e-mail 
幸福とは実在(現実の意)と感情が一致していることであり、反対に
不幸とは実在と感情が一致していないことである。
実在と感情を一致させるにはふたつの方法がある。
ひとつは、実在を感情に従属させることであり、
もうひとつは、逆に感情を実在に従属させることである。
実在を感情に従属させるとは、例えば自分が欲しいものを買うことである。
感情を実在に従属させるとは、例えば自分のおこづかいが足りなくて
欲しいものをあきらめることである。

[110] 生と死  2001年2月9日 20時24分
わつい さん  e-mail 
五感と知覚だけでは、生と死のウエイトが同じになる。生=死。
感情においては快>不快で、快を得るためには生きていなければならず、
死ぬまでには断末魔の苦しみ(不快感)があるから、生>死となる。
人間は感情があるから生きていられるのである。

[109] 観測問題  2001年2月8日 20時23分
わつい さん  e-mail 
観測問題とは、「波束の収縮はどうして起こるのか?」ということだ。
‘多粒子系になると系の量子状態が不安定になるので収縮が起こる’という考え方と、
‘たんに見たから収縮が起こる’という考え方とがある。
私は、先の感覚のない唯物的な考え方(ボルンの原理が要らない)よりも、
後の‘たんに見たから’のほうを支持する。
なぜなら、実在の世界には、いわゆる物質とは異なる‘感覚’(感じること)が存在するからだ。
‘見る’とは‘感覚が発生する’ことだ。つまり、
『感覚子が発生すると波束が収束する。』
シュレーディンガーの猫の場合、
ネコの脳で感覚子が発生するから、ネコのところで波束は収縮するのだ。

[108] 量子力学  2001年2月7日 23時6分
わつい さん  e-mail 
わかると思うからわからなくなる。
わからないと思えばわかる。
量子力学における‘わかる’とは、‘確率がわかる’ことなのだ。

宇宙は謎に満ちている。
シュレーディンガーの猫が生きているか死んでいるか二つに一つとか、
実体は一意的であるなどと、
まだよく知らないことを人間が勝手に決めつけてしまってはいけない。
これまでの常識は忘れてしまって、
確実にわかるところから考えを進めねばならない。
ネコさんは、観測前には生きている猫と死んでいる猫の中間であると
認めざるを得ない。
わからないことを認めれば、そんな猫でもありえるのだ。
量子力学の世界には、‘シュレーディンガーの猫’という
生きているか死んでいるかよくわからないヘンテコな猫が生きている。

[107] 感情  2001年2月7日 20時23分
わつい さん  e-mail 
感情は実在と同等かそれ以上重大であるのに、一向に顧みられていない。
もっと感情に目を向けなければならない。


『仕事のない社会をつくって欲しい。』
仕事はドレイのすることだ。
仕事なんかおもしろくない。
私は子供のころからやりたい仕事がなくて困っていた。
今でも毎日つまらない思いをしながら働いている。
現在は生活のために仕事が必要であるとしても、将来はやめて欲しい。
人間は苦しむために生まれてきたんじゃない。
仕事を肯定する社会なんかマッピラだ。


『安楽死をみとめて欲しい。』
生きるのが楽しいのはホンのひとにぎりの人達だけだ。
私のような人生には快楽よりも苦痛が多すぎる。
これでは生きていてもワリにあわない。
私は子供のころから生きていてもしかたがない、早く死にたいと思っていた。
不幸な死ぬべき人間が死ねないから犯罪が増加する。
自分を殺せないから他人を殺さねばならなくなる。
不幸な人間がまわりの他人を不幸にする。
不幸な人間がいなくなれば、地上は楽園になる。


[106] キムチ鍋  2001年2月6日 20時0分
わつい さん  e-mail 
きのう、スーパーのキムチ鍋(銀皿つき)を買って食べたら、
寝汗をかきすぎて、あやうくカゼをひくところだった。
この季節、辛いものはなるべく避けることにしよう。

[105] 幸せになる方法  2001年2月4日 19時50分
わつい さん  e-mail 
‘実在を感情に従属させる’と、実在が変わる。逆に、
‘感情を実在に従属させる’と、感情が変わる。
こんなことを繰り返していたら、そのうち感情と実在の食い違いがなくなる。
ということは、実在に満足している、幸せであるということだ。


[104] 他律  2001年2月1日 22時50分
わつい さん  e-mail 
バカは自分で考えるよりも他人が考えることのほうが正しいから、
自分の頭で考えないで他人の眼に頼ってばかりいる。
バカは他人の言うことならなんでもきく。
バカは自律できないから、いやがうえにも他律になる。
バカは他人に頼れないと困るから、
他人に自分をかまってくれるように、いい服を着る。
バカは他人に頼るためなら何でもする。
バカほどあいさつが上手である。

[103] 哲学V原理下書き補足2  2001年2月1日 20時20分
わつい さん  e-mail 
‘感情を実在に従属させる’とは、ありのままの現実をそのまま心に受け容れることである。(いわゆる悟性)
だから、自分のまわりの連中が「眼先のことしかわからないお勉強バカ(進学校に多い)」ばかりだと、そんな環境で‘感情を実在に従属させる’と、自分自身も「眼先のことしかわからないお勉強バカ(進学校に多い)」になってしまうことになる。

[102] 哲学V原理下書き補足  2001年1月31日 20時29分
わつい さん  e-mail 
‘実在を感情に従える’とは、自分のまわりの現実を自分の気に入るように
頭と身体を使ってつくりかえることである。
逆に、‘感情を現実に従える’とは、現実に反する感情を抑制し、
現実に適う感情を興奮させることである。
つまり、感情を調節して、現実を嫌わないように、
現実の中で楽しむようにすることである。
自分の頭の中にある感情細胞に神経線維を介してはたらきかけ、
感情細胞の神経興奮のはげしさを変えることで、
感情の感覚の強さを変化させることができる。


実在を感情に従え、逆に感情を実在に従えて、実在と感情の対立がなくなれば、
この世は幸せでいっぱいになる。
反対に、実在と感情の対立を強めると、不幸になる。

[101] 哲学V原理下書き  2001年1月30日 20時19分
わつい さん  e-mail 
人間は対立する感情と実在の両方を抱えながら生きて行かねばならない。
実在を感情に従わせたり、逆に感情を実在に従わせたりして、
実在と感情の対立はしだいに解消されていく。


実在を感情に従わせないのが躁鬱病で、逆に
感情を実在に従わせないのが分裂病である。