[651] 受身の勉強 h14.5.21
数学の問題を解くのは受身の勉強である。
なぜなら、他人から自分に‘与えられた’問題を解くからである。
能動的な思考(勉強)とはそんなものではない。
自分が立てた原理(数学の公式のようなもの)に基づいて(=原理を適用して≡原理に当てはめて)自分からいろいろなことを考えることである。
自分が定義した概念(言葉)を使って考えること(文を作ること)である。

そうすると、自分にしか見えないことがわかってくる。
いくつかの明確に規定された原理に基づいて、自分の知覚界を論理的に体系化し、知覚界を整理する必要がある。
そうすれば、自分の知覚界がスッキリして、気持ちがよい。

[652] 個性 h14.5.21
心は感覚に従属する。
たしかに、自分の感覚界と他人の感覚界を同じにすれば、自分の心と他人の心はかなりの程度同じになる。
例えば、日本で学校教育を受ければ、生徒の心は大体同じようなものになる。
しかしながら、顔や身体が生まれつき自分と他人で違うように、心も生まれつき自分と他人とでは違っている。
だから、いくら感覚界を同じにしても、それに従属する自分の心と他人の心とは厳密には微妙に違っている。
人間の好き嫌いは後天的環境によってほとんど決まるのであり、先天的遺伝的要因は、好き嫌いの微妙な個人差を与えるにすぎない。

[653] 数学 h14.5.21
自分で概念を創り、その概念に関するいくつかの法則を見出すこと。
これが『数学』である。

[654] 感覚のランクと人の嗜好との関係(まとめ) h14.5.22
感覚のランクで大雑把に人の心(何が好きで何が嫌いか)が決まる。
五感型人間(むしろ動物)は格好のいい(わるい)のが好き(嫌い)である。
知覚型人間は認識の正しい(正しくない)のが好き(嫌い)である。
もっとも、心の微妙な違いによる細かい好き嫌いの違いはいろいろある。

[655] 生きがい h14.5.22
生きるとは、自分の心を満足することである。
人間は自分の心を満足するために生きている。
五感型人間にとっての生きがいとは、見た目がいいことである。
知覚型人間にとっての生きがいとは、真理がわかることである。
 自分の知覚界に哲学の原理を置く者にとっての生きがいとは、哲学の真理がわかることであり、
 自分の知覚界に科学の原理を置く者にとっての生きがいとは、科学の真理がわかることである。

[656] 心=心(感覚) h14.5.23
心は感覚の従属変数である。(‘数’の概念の拡張)
つまり、感覚界を変えると、それにつれて心も変わる。
例えば、数学の知識ばかりからなる感覚界の人は、数学が好きであり、
医学の知識ばかりからなる感覚界の人は、医学が好きである。
今の私は医学知識がゼロで医学が嫌いだが、もしも私が医者の息子として生まれていたら、頭(知覚)の中が医学のことでいっぱいで、医学が大好きないい医者になっていただろう。

[657] 日本とヨーロッパ h14.5.23
心の知覚従属性すなわち実在従属性においては、今のところ日本がヨーロッパよりも上である。
それは、日本人とヨーロッパ人の身なり(服装)や顔つきから察すればわかる。
ヨーロッパ人のほうが日本人よりも雰囲気が「女みたい」で動物的である。
つまり、日本人の心のほうがヨーロッパ人の心よりもまじめなのだ。
それは、日本画と西洋画を較べると、日本画に含まれている心のほうが現実的で、西洋画に含まれている心のほうが現実離れしてクレイジーに思われるからである。
日本人の心のほうがヨーロッパ人の心よりも実在の中にある。
明治初頭、日本が急速にヨーロッパ文化を吸収できたのも、この日本人の心に実在従属性によるのだ。
心の実在従属性においては日本がヨーロッパよりも優れており、このことをヨーロッパ人は大変恐れているのだ。
心の実在従属性つまり哲学(道徳)においては今もなお東洋が西洋よりも上だ。
ヨーロッパは日本に対して、この点を大変ねたんでおり、あわよくば日本文化をつぶそうとたくらんでいる。日本を科学も哲学もない国にしようとしている。
ヨーロッパが東洋の哲学を学ぶべきだとおもうが、ヨーロッパ人はそうしない。
日本はヨーロッパの科学を学べたけれども、ヨーロッパは日本の哲学を学べない。
それは、ヨーロッパにはインドのおしゃかさまのような哲学の天才がいなかったからである。
反対に日本にはガリレオやニュートンのような科学の天才がいなかった。
日本は科学に無知だったけれども、ヨーロッパには哲学のできそこないのキリスト教があった。
日本は科学に対する無知の自覚があったから西洋科学を全面的に受け容れられたけれども、ヨーロッパは先にキリスト教があったから、後から来た東洋哲学を受け容れられなかった。
ヨーロッパ人は哲学に対する無知の自覚が足りない。
ヨーロッパ人はキリスト教のような出来そこないの哲学を後生大事にして生きているのだ。

[658] 人はなぜ笑うか h14.5.23
心が穢(けが)れたから。
感覚界が五感界に堕落したから。

[659] ニヤニヤ笑い h14.5.23
感覚界が五感界か知覚界かどっちつかずの状態。
Hなギャグで感覚界が五感界に堕落しかけの状態。

[660] どうして人は母親に似ている女性が好きなのか? h14.5.24
人の好き嫌い(何が好きで、何が嫌いか)は、後天的経験的に獲得された感覚界によってほとんど決まる。先天的遺伝的要因は個人による細かい微妙な違いを与えるにすぎない。
子供は自分の近くにいる母親を見て育つ。
感覚界に母親の姿が記憶される。
心は感覚界に従属するから、心が感覚界に記憶された母親に従属し、母親が好きになる。
母親といっしょにいる環境において心が快感を求める結果、心はその母親の存在を許すようになっている。
感覚界が母親に関する情報で満ちており、その感覚界の中で心は満足を得ることに慣れているので、その母親を最も好むのである。
感覚界が母親に最もよく適応しているために、母親に似ている女性に対しては感覚界がよく適応できるので、心はそういう女性を好きになるのである。

[661] キリスト教と仏教の本質 h14.5.24
キリスト教の本質は、“五感界の肯定”である。
キリスト教における失楽園の意味とは、『人間に知覚界があるために人間は楽園である五感界を追放され不幸になった』ことである。
なんたる俗ウケか!
これに対して、仏教の本質は“知覚界の肯定”である。
仏教における失楽園の意味とは、『人間に五感があるために、人間は楽園である知覚界を追放され不幸になった。つまり、人間に五感があるために人間は五感界と複合する煩悩(動物の心)に苦しめられている。』ことである。
なんたる気貴さか!
キリスト教において知覚界は五感界を豊かにするための道具にすぎない。
これに対し、仏教において五感界は知覚界を豊かにするための手段にすぎない。

原子の(安定な)存在が、古典力学では説明できないように、
精神分裂病の存在が、キリスト教の世界観ではどうしても説明できない。
むしろキリスト教の世界の中では、精神分裂病が積極的に肯定すらされる。
しかも、彼ら(分裂病者たち)は決して幸福ではなく不幸なのだ。
一方、仏教の世界観では分裂病が“五感へのとらわれ(つまり、感覚界の五感化)”として見事に説明される。
したがって、キリスト教よりも仏教のほうが正しいのだ。

[662] 仏教もキリスト教も両方まちがっている。 h14.5.25
五感界において快と不快があるように、
知覚界においても快と不快がある。
五感界においては見た目のいいことが快であり、見た目の悪いことが不快である。耳障りのいいことが快であり、耳障りの悪いことが不快である。
知覚界においては認識の正しいことが快であり、認識の正しくない(まちがいまたは無意味)ことが不快である。真理を知ることが快であり、知れないことが不快である。
つまり、五感界・知覚界にかかわらず、それぞれの世界に楽しさと苦しさの両方がある。
仏教は知覚界を快とし五感界を不快とした。
キリスト教は知覚界を不快とし五感界を快とした。
ところが、実際には、知覚界にいるからといって必ずしも快ではなく、
五感界にいるからといって必ずしも快でもない。
キリスト教より仏教のほうが正しいが、仏教が完全に正しいわけでもない。
快不快が問題なのではない。
人間にしか知覚がなく、知覚があるために人間は万物の霊長になれたのだから、自分が人間として生まれたら快不快にかかわらず絶対に知覚を肯定しなければならないのだ。
知覚界が人間にふさわしい居場所であることは間違いない。

[663] 楽しい幻聴界 h14.5.25
五感界や知覚界に快と不快が両方あったように、幻聴界(共同意識界)にも快と不快の両方がある。
つまり、自分を嘲(あざわら)う不快な幻聴もあれば、自分を慰めてくれる楽しい幻聴もある。
実際私は20年も前から毎日女の人が私を好きだといっている幻聴が聞こえている。
だから幻聴界の存在自体が不快なのではない。
幻聴界にだって快なこともあれば不快なこともあるのだ。
だから快・不快の区別は、世界選択の基準にはならない。
五感界には‘正しさ’がない。
幻聴界にも、五感界と同様に‘正しさ’がない。
五感界も幻聴界も見たまま聞いたままの現象にすぎない。
知覚を使わない者は動物と同等のバカである。
人間は‘正しさ’のある知覚界すなわち実在界の中にいなければならない。
同じ楽しくやるなら、[パッと見だけで投げやりの]現象界の中よりも、実在界すなわち[人間がみずから考えることによって創り出した]知覚界の中のほうがいい。

[664] 出世ゲーム h14.5.27
日本文化(社会)の言いなりになればたしかに出世はできるかもしれないが、
人間として正しい生き方をしている保証はまったくない。

[665] キリスト教はまちがいである。 h14.5.27
キリスト教では五感界を肯定する。
五感界を肯定するということは、
知覚界すなわち人間性を否定するということだ。
人間が人間性を否定するのは矛盾である。【証明終わり】

[666] 概念の勝利【数学】 h14.5.27
ガロアだって『自己同型写像』の概念がわかれば五次方程式の不可解性が簡単に証明できることを発見したんだ。
アーベルはこの問題を方程式の形式として解いたが、ガロアはこの問題の本質が解の集合の構造にあることを見抜いたのだ。

[667] 原理の適用【物理学】 h14.5.28
ニュートンは「リンゴの落下」を『運動の第3法則』に当てはめることによって、“万有引力”を発見した。

[668] 動物の世界と人間の世界 h14.5.28
動物は眼で見える・耳で聞こえる世界だけで終わりであるが、
人間は眼で見える・耳で聞こえる世界に対し、さらに言葉(一般には、実在するイメージ)を使って考える。
動物は眼で見える世界の中に住んでいるが、
人間は言葉を使って考える世界の中に住んでいる。
動物の心は眼で見える世界と複合する(従属し且つ支配する)が、
人間の心は言葉を使って考える世界と複合する。

[669] どうして私は医学が嫌いなのか? h14.5.28
会社の入社試験の面接で、私が「あなたはどうして医学が嫌いなのですか?」ときかれたら、私はこう答える。:「私の親戚には医者がいなかったので、わたしは幼いころから医学とは縁がなかった。だから私の知覚には医学に関する知識がまったく入っていない。私の父親が公務員で会計課に務めていて算盤が得意で、休日に父親が家で算盤の練習をしたり残業したりしているのを見て育ったので、私は小さいころから算数が好きで、私の頭の中には数学に関する知識がいっぱい詰まっている。したがって私の心は数学を好きなように出来ている。私の心は数学向きに出来ていて、医学向きには出来ていない。だから私の心は医学が嫌いなのだ。もし私が今から医学を猛勉強して20年たって私の知覚が医学知識でいっぱいになったら、私の心は私の知覚に従属するので、わたしの心は医学が好きになるでしょう。でもそれではこれまでの私の20余年の人生が全部ムダになる。だから私はそんなことはしない。私はこれまで自分が進んできた道をこれから先もずっと進んでいくつもりだ。…」

[670] 神経症(ノイローゼ) h14.5.28
意識とは強い感覚であり、無意識とは弱い感覚である。
一般に、人間にとっての意識とは知覚であり、無意識とは五感である。
知覚に従属する五感については、知覚が意識で五感が無意識であるが、
知覚に従属しない五感については、五感自体が意識となる。
知覚に従属しない五感と複合する心は動物の心であり、それは原始的な不合理な反応(行動)を引き起こす。
知覚に従属しない五感が神経症の原因であり、その五感を知覚に従属させることができれば神経症は治る。
例えば、私のように他人の咳が気になるのは咳嗽ノイローゼだといえる。他人の咳はいくら理解しようとしても理解できるものではない。なぜなら、他人の咳の源は、その他人の知覚非従属性五感にあるからである。知覚に従属しないことは理解不可能であり、もともと理解不可能なものをいくら理解しようとしてもできるはずがない。そう考えれば、他人の咳はあまり気にならない。要するに、他人が赤ちゃんのおやけのように‘わけのわからない’ことを言うなら、そんなことはサッサとゴミ箱に捨ててしまえばいいのだ。([431]ことば 参照。)
例えば、エビは一見イモ虫のように見えるので、気持ち悪くて食べられないのはエビノイローゼだといえる。エビが昆虫でなくカニの仲間だと悟ってエビをカニのように見なすことができればエビノイローゼは治る。
精神分裂病では意識が五感(幻聴も含む)で無意識が知覚に逆転しており、分裂病は五感全体に広がった神経症と見なすことができる。
これに対し、神経症は多かれ少なかれ誰にでもある知覚非従属性五感が原因であり、その他の五感の大部分は知覚に従属しているので、正常な人間とほとんど変わらない。

[671] 人間らしい生活 h14.5.30
昔のギリシア人のように、一日中自由にのびのびと考えごとをしたり他人と議論したりして暮らすことが、最高に人間らしい生活である。人間としてもっとも幸福な生活である。
今のように動物的なくだらない欲求(衣・食・住・性など)を満足するお金を得るために、一日中仕事に明け暮れて過ごすことは、まったく人間らしからぬ生活である。人間の心が泣いている。
人間にはいろんな欲求があるが、人間的な欲求と人間未満の動物的な欲求とを区別しながら生きて行かねばならない。

[672] トラウマ h14.6.2
トラウマとは、幼児期の強い五感の活動が記憶となって残ったものである。
一般に、感覚は強く活動(神経興奮)すると記憶(履歴)になる。
五感的印象が強すぎると、知覚への従属が阻害される。
一般に、強い感覚が弱い感覚を支配するので、強い感覚ほど支配されにくいのである。
だから、ひとたび五感が強く活動しすぎるとなかなか知覚に従属されなくなるのである。
だから、トラウマは神経症の原因になる。
また、例の‘三つ目の猫’の場合、大人は十分知覚が鍛えられていて物事を知覚で見る習慣が見についているので、三つ目の猫を見ても目が三つあることがわかるだけでほかに何も感じないが、子供はまだ知覚が十分に発達しておらず知覚で見ることがあまりなく、物事は主に五感で見るので、三つ目の猫を見るとその形態に心が反応してすごくこわいのである。その印象があまりにも強すぎると、三つ目の猫に対する五感的印象と恐怖心が記憶になって死ぬまで残る。これがトラウマである。
後日譚として、私が高校生のとき友人といっしょに街の本屋さんに行って同じ本を見つけて‘三つ目の猫’を見たけど、そのときは小学生のときほどには怖くなかった。ちょっと不気味だったけど。さすがに高校生にもなると、いくらか知的に物が見れるようになったんだなあ。
小さい子供をあまり怖がらせるとトラウマになって一生残る可能性があるので、そういうことはやめましょう。
昔、私の両親が私にした仕打ち『朝ごはんを食べているときに三つ目の猫の絵を無理やり私に見せようとしたこと』はまちがっていた。
大人になって知覚が発達してから、刺激が強いものを読みましょう[18禁の法則]。
女の子にエッチな話をするとすぐに顔が真っ赤になるのは、やはり女の子が五感でしかものが見れないことを示している。

[673] オナニー h14.6.2
オナニーをすると感覚が五感的になる。
ここでの五感には幻聴が含まれない。
感覚が五感に堕ちただけでは幻聴は始まらない。
オナニーだけでは分裂病にはならない。
ところで、五感界における道徳はキリスト教である。
キリスト教における心の捉え方は愛と憎しみである。
愛が善の心で、憎しみが悪の心だ。
愛の心があるかぎり、感覚は五感のままである。人間は五感界の中に居続けることが出来る。
しかし、憎しみの心にとらわれると、感覚は五感から共同意識(幻聴)に堕ちる。人間は五感界から共同意識界(幻聴界)に追放される。
オナニーだけでは幻聴は始まらないが、その上に憎しみの心が引き金となって幻聴が引き起こされる。
セックスの時には愛の心が働く(活動する)から、たとえ感覚が五感に堕ちても救われる。時間が経てば、感覚は五感から知覚に戻る。
オナニーの時には愛の心がないから、他人に対する憎しみの心にとらわれやすく、容易に幻聴界に引き込まれる。ひとたび幻聴界に堕ちると、他人の悪口ばかり聞こえるので、ますます憎しみの心に駆られ、一生幻聴界から抜け出せない。

[674] 仏教とキリスト教の関係 h14.6.2
知覚界における道徳は仏教である。
仏教では人間が知覚界に居ることが前提となっている。
仏教における心の捉え方は正義と煩悩である。
正義が善の心で、煩悩が悪の心だ。
正義とは心が知覚=実在に従属している状態である。
煩悩とは心が五感=現象に従属している状態である。
キリスト教における愛の心も憎しみの心もともに煩悩に含まれる。
仏教から見れば、ヨーロッパ人はほとんど全員悪人ということになる。
ヨーロッパでは一握りの天才だけが正義の心を持っているにすぎない。
逆にキリスト教から見れば、インド人や日本人は不思議な心を持った人種ということになる。正義の心を捉える概念がキリスト教にはないからだ。

[675] 美少女アニメ h14.6.2
アニメを見ているときにも、感覚が五感に堕ちているが、愛の心を持って見ているので、五感から下には堕ちないのだ。

[676] 男の道徳と女の道徳 h14.6.2
男は正義。女は愛。
男は知覚界に生きているから、男にとっての善は正義。
女は五感界に生きているから、女にとっての善は愛。
男は正義のために生き、女は愛のために生きる。

[677] 五感界の心と知覚界の心 h14.6.2
五感界は眼で見たままの世界だから、五感界における心は自分と他人の関係に関するもの、つまり愛と憎しみである。
これに対し、知覚界は自分の頭の中で考えた世界だから、知覚界における心は自分自身に関するもの、つまり正義と煩悩である。

[678] 人間、バカ、キチガイ h14.6.3
オナニーとは性欲(五感の一種)の快感を肯定することである。
感覚が知覚から五感にだんだん変わっていく。
知覚を使う喜びがなくなり、性欲の喜びだけになる。
オナニーすると知覚が働かなくなるから(五感しかない)バカにはなるが、これだけでは必ずしも幻聴の聞こえるキチガイにはならない。
オナニーして現象界(=五感界)に居る者が、さらに憎しみの感情に駆られて興奮するとキチガイになる。これは現象界の法則であって、論理的には理解できない。キチガイになる寸前に、憎い人の頭の上に‘黒い穴’が見えることがある。
人間→バカ→キチガイ
キチガイが愛の感情を取り戻すと、五感界に帰れる。バカにまで戻れる。
バカやキチガイが正義の感情を取り戻すと、知覚界まで帰れる。人間に戻れる。
キチガイ→バカ→人間

人間の認識界には、五感界の前に共同意識界(源識界とも言う)という何だかよくわからない感覚の世界があり、この世界においては憎しみの感情が許されているかわりに、幻聴が聞こえる。
共同意識界(=源識界)を自分の眼で見えること・耳で聞こえることだけで捉えた世界が五感界である。
だから、自分の眼で見えないこと・耳で聞こえないこと(つまり幻聴)は五感界においては除去される。

知覚界=実在する概念だけで構成された世界…煩悩が許されない、正義しか許されない
五感界=自分の眼で見えること・耳で聞こえることだけで構成された世界…憎しみが許されないが、煩悩が許される、正義がない
源識界=共同意識界=五感と五感以外の感覚(幻聴で聞こえること)で構成された世界、五感と幻聴が混じった世界、五感界+幻聴界…憎しみの感情が許される、愛がない
源識界<五感界<知覚界の順に実在に近づいてゆく。
認識の目的は実在の真の姿を知ることにある。ミミズよりは人間のほうが実在の真の姿が見えている。

憎しみの感情を持った者は危険で、周囲の人間の管理下に置かれねばならないので、幻聴が聞こえることになる。
憎しみの感情のない者は比較的安全なので、自分の眼や耳で行動する自由が与えられるが、正しいとはかぎらないから周囲の人間の監視が付きまとう。
煩悩のない者は考えが正しいから、自分の考えだけで行動する自由が与えられる。周囲の者の監視はもはや必要ない。
源識界<五感界<知覚界の順に自由に近づいてゆく。
人間が自由を獲得するために、感覚は進化してゆく。

[679] 但馬の人 h14.6.3
考える習慣のないパーばっかりだ。
そいつらの頭の中は服格好のことばっかりだ。
これだから百姓は困る。

[680] 幻聴 h14.6.3
自分の幻聴子(感覚子の一種)と他人の幻聴子の共鳴現象

[681] 心理学 h14.6.3
五感界(=現象界)における現象について研究すること。
五感界の法則を発見すること。
例えば、Weber-Fechnerの法則、『五感界に居る者は、憎しみが強すぎると源識界に入る。』法則など。

[682] 知育玩具と五感育玩具 h14.6.3
ステレオは聴育玩具で、テレビは視育玩具だ。
これらは五感の発育を助けるだけのガラクタだ。
ダイヤブロックは子供のための知育玩具だ。私もずいぶん子供の頃はお世話になった。車や家などの実物に似せて作るよりも、ビー玉をブロックの溝に乗せて転がす仕掛け(いわゆる無限連鎖)を作るのが好きだった。
大人はダイヤブロックでは遊べない。
大人にとっての知育玩具は‘ことば(概念)’だ。ことばのブロック遊びだ。自分が知覚界の中に作ったことばのブロックを組み合わせて実在する世界を表現する(=楽しい世界を創造する)ことだ。

[683] 意識界の遷移 h14.6.3

五感界に‘正しさ’を付け加えると意識が知覚界に移る。
五感界に‘憎しみ’が付け加わると意識が源識界に移る。

『感覚が心に従属する。』こともある。
人間の心に煩悩(例、オナニーの快感)が付け加わると、人間の心がしだいに動物の心に変わり、それに伴って感覚が(人間の心に複合する)知覚からしだいに(動物の心に複合する)五感に変わる。
さらに、動物の心に他人への憎しみが付け加わると心がキチガイの心に変わり、それに伴って感覚が(動物の心に複合する)五感から(キチガイの心に複合する)源識(幻聴のある五感界)に変わる。
私の経験によれば、他人(隣の席の不良)を憎んだ後に幻聴が聞こえ始めたので、心の変化のほうが感覚の変化よりも先立つ、すなわち『感覚が心に従属する。』ことになる。
『心が感覚に従属する。』ことと『感覚が心に従属する。』ことを合わせて、『心は感覚と複合する(従属且つ支配)する。』と言える。
心は人間の大脳前頭葉にある脳細胞の神経興奮によって発生する感覚であり、眼には見えない。それは眼に見えないけれども実在するのであり、大事にしなければならないのである。

[684] 自他の区別 h14.6.3
自分の考えをことばに出したり(独り言)、文字に書いたりすれば、自他の区別がしやすくなる。
私は幼稚園のころから独り言ばかり言っていた。

[685] 日本の仏教 h14.6.4
お経を読んでも何を書いているのかわからない。
非論理的記述だ。
著者は五感界の中にいる。
感覚が穢れている。
そんな者に知覚界のありがたみを説く資格はない。

[686] 無矛盾な記号体系の存在 h14.6.5
数学の帝王ガウスですら無限はひとつだと考えていた。
カントールは‘一対一対応’の概念を使って無限には2種類(アレフゼロとアレフ)以上あることを発見した!
そしてカントールは古くからある数論に‘無限(極限じゃないよ)’の概念を取り込んだ無矛盾な記号(=概念)体系『集合論』を構成した!!
それを見たルベーグは、カントールを真似て古くからあるリーマン積分に‘加算無限個の区間’の概念を取り込んだ無矛盾な記号体系『ルベーグ積分論』を構成した!!!
いわば古典数学が‘有限’と‘極限’の数学であるのに対し、現代数学は‘無限’の数学だと言えよう。
また、物理学のほうでは、プランクは古くからあるニュートン力学に‘量子’の概念を導入し、論理的に矛盾のない記号(=概念)の体系『量子力学』を構成した。量子力学の理論体系の上に実験(五感界における経験)を乗せて、つまり五感界における実験を知覚界における理論に従属させることによって、われわれは実在を捉えることができる。

[687] 失恋して発狂した女 h14.6.5
女性は頭がパーだから、五感界(現象界とも言う)の中で生きている。
だから女性は他人に恋をする。
五感界は見たまま・聞いたままの世界だから、恋に理由はない。
漠然としたワケならある。
つまり、相手の見たままの感じがいい(五感従属性心が快だ)から、恋をするのである。

 一般に、理由がなく(自分で理由がわからないまま)行動する者は、五感界の中で生きているのだ。動物と同じなのだ。
 理由によらないからといって、感情によるのではない。
 感情(つまり心)は一般に五感にも知覚にも従属し、五感だけに従属するのではないからである。知覚に従属する感情もある。
 理由によらない者は五感によって行動しているのである。見たまま・聞いたまま(つまり現象)のイメージに従ってボンヤリと動いているだけだ。現象界の中をフラフラとさまよっているだけだ。
恋が実ればいいのだが、ときにはフラれることもある。
ここで注意!
たとえ自分がフラれても、フッた相手を憎んではいけない!!
憎しみが強すぎると自分が五感界の外(つまり、幻聴のある源識界)に出なければならなくなるから。
フラれてしまったら、さっそく新しい相手をさがしに出かけよう。
愛(一種の心の余裕)のあるかぎり、あなたの五感界は永遠に守られるでしょう。

[688] ‘おもしろさ’とは何か? h14.6.5
生まれつき何がおもしろくて何がおもしろくないかが決まっているのではない。
おもしろさは基[もと]になる世界に応じて変わる。
はじめに基になる世界があって、その世界によって何がおもしろくて何がおもしろくないかが決まるのだ。
五感界におけるおもしろさはたんに見た目がいいことであり、
知覚界におけるおもしろさは真理がわかることである。
五感界におもしろさがあるように、知覚界にもおもしろさがある。
知覚界だからといっておもしろさがないのではない。
知覚界で楽しめなければ、自分には人間としての才能がないということだ。
たとえ生まれつきの心は同じでも、感覚界のとり方によって心の様子が違ってくるのだ。
そして感覚界のとり方は、心とは独立に(無関係に)自分で勝手に決めることができる。
私は哲学第二原理によって知覚界を善とし五感界以下を悪とした。
理由は、自分が人間であり、人間が知覚のある生物である以上、人間である自分は知覚界に居なければならないと考えたからである。
五感界に居るのは動物だ。源識界に居るのはキチガイだ。
人間である自分が五感界や源識界に居つづけることは許されないのだ。
そこらへんの、知覚と五感が両方ある(つまり、頭が良くて見かけもいい)ような男は、‘従属’の概念を知らない五感と知覚がバラバラのデタラメ男だ。頭もルックも両方いいのは、知覚か五感かどっちが善くてどっちが悪いかわからないチンプンカンプン男だ。たぶんそいつは人の心について何の理解もないのだ(ただのボンクラ)。それか知覚があるフリだけのハッタリ男だ。
五感と知覚はバラバラ(独立)なのではなく、人間において五感は知覚に従属するのだ。
知覚界に居る人間は、五感を知覚に従属させて物を見るのだ。
だから五感界だけの価値(つまり格好がいいこと)を認める必要がないわけである。

[689] 人間、バカ、キチガイにおける意識と無意識 h14.6.5
人間(知覚型人間)にとっては知覚が意識であり、五感と源識は無意識である。
バカ(五感型人間むしろ動物)にとっては五感が意識であり、知覚と源識は無意識である。
キチガイ(精神分裂病者)にとっては源識が意識であり、知覚と五感は無意識である。

[690] 遊び h14.6.5
本来知覚界の中に居る人間が、一時的に五感界か源識界に出ること。

[691] 正義と愛 h14.6.6
知覚界に生きる人間にとっての善とは正義である。
正義とは自分の心が正しい認識に基づいて働いていること、自分の心が実在に従っていること、つまり正しいことを守ることである。
五感界に生きる人間(本当は動物)にとっての善とは愛である。
愛とは他人に優しく親切にすること、困っている人を助けてあげること、他人をけっして憎まないこと、などである。
何もなければ人間は人間として生きていくことすらできない。
人間が幸福に生きていくためには、正義か愛の心が欠かせない。
現代人はただ楽しければそれでいいという快楽主義に堕落しているが、ただ楽しくなりたいという気持ちがあるだけでほかに何もなければ、そもそも具体的現実的に快楽になどなれやしないのだ。人間は正義か愛の心を守ることによってこそ、幸福にありつけるのだ。

[692] 哲学第一原理と第二原理 h14.6.6
哲学第一原理『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。』は、知覚界(すなわち実在界)における認識論であり、
哲学第二原理『善とは心が実在に従うことであり、悪とは心が実在に従わないことである。』は、知覚界(すなわち実在界)における善悪の定義である。
つまり、私の実在哲学は知覚界(すなわち実在界)における哲学なのである。
その他の日本の哲学(人と人との出会い、共同主観、etc)はいまだ五感界における哲学にすぎない。眼先・耳先のエセ哲学にすぎない。

[693] どうして幻聴は聞こえますか? h14.6.7
そもそも生まれたての赤ん坊の居る自他の区別がない源識界においては、他人の思考が自分の思考と同様に意識化される。
それが人間の成長とともに、眼や耳が開くようになると、自分の身体と他人の身体は別物であり、自分の身体は自分の大脳が支配し、他人の身体は他人の大脳が支配することがわかる。五感界においては自分と他人の区別があるので、自分の思考は感覚が強められて意識化され、反対に他人の思考は感覚が弱められ無意識化される。
ところが、他人に対する憎しみの感情に駆られて『あいつの態度が気に食わんから、神よ、あいつの身体を自分の思い通りに動くようにしてくれ!』などと自分が他人の身体を支配しようなどと本気になって考えると(マンガの読みすぎ)、自分と他人の混同が生じ、自分と他人とを区別できなくなる。感覚界の構造が変化し、感覚界が五感界から源識界へ戻る。自分と他人を混同し、自分の思考と他人の思考を区別できなくなった結果、他人の思考が自分の思考と同様に意識化される。すなわちこれが幻聴である。
感覚波による感覚子間の共鳴にせよ、もしくは感覚の局在性原理がないにせよ、とにかく自他の区別のない世界においては他人の思考が意識化され幻聴が聞こえるのだ。

[694] 悪い勉強法 h14.6.7
ぼくが中学生のころは、英語の単語カードを何十個も作ったり、数学のわかりきったやさしい問題までもいちいち手で全部解いて答えが正しいかどうか確認していた。
明らかにそのころの私は五感界の中に生きていたのである。本の上の勉強ばかりして、自分の人生についてことばを使って考えることがまったくなかった。
五感界が意識で知覚界が無意識だった。
こんな人間、いつ狂ってもおかしくはない。
あんのじょう、高校に上がるやいなや発狂した。
知覚界にまで昇ることのできなかったバカな子供の悲しい末路であった。

[695] 日本人の従属根性 h14.6.8
日本人は他人をまねることしかできない。
歴史的には、はじめに中国、次にインド、最後にヨーロッパをまねしてきた。
今はヨーロッパのまねをしている最中である。
ヨーロッパの長所は科学で、短所は哲学である。
だから、ヨーロッパに科学をまねるのはよいが、哲学をまねるのはよくない。
日本人は他人の長所と短所が分からないまま、他人のすべてをまねようとする。
他人の短所までもまねるのはバカ。

[696] 火 h14.6.8
動物は火を五感で見て恐れるだけだが、
人間だけは火を知覚で見て理解することができた。
火の実体が見えた人間だけが、人間の心を満足させるために火を利用することができる。

[697] 六感界 h14.6.8
共同意識界=源識界の別名。
五感界+幻聴(第六感)界=六感界。
五感界ー(自他の区別)=六感界、
六感界+(自他の区別)=五感界、
五感界+(自他の同一視)=六感界、
六感界ー(自他の同一視)=五感界。
六感界に複合する心には、他人に対する憎しみの感情がある。

[698] マンガの世界と実在の世界の類似点 h14.6.9
マンガの世界ではマンガで決めたルール(設定)の下[もと]でなるだけおもしろいことを考える。
実在の世界でも実在する法則(原理)の下でなるだけおもしろい(楽しい)ことを考えて生きる。
マンガの世界では実在の世界よりも人間にできることが若干拡張されているが(例、悟空がカメハメ波を打てる)、
マンガの世界も実在の世界も一定のルールの下でなるべくおもしろいことを考える点では同じだ。
付記:おもしろいと楽しいとはちょっと違う。おもしろいは知的な喜びで、楽しいは五感的な喜びである。実在の世界では実在する法則の下でおもしろいことを考えるが、現象(=五感)の世界では現象の法則の下で楽しいことを考える。

[699] 神はどこにいるか? h14.6.10
もともと知覚界に居た人間が五感の快感を覚えて、堕落して五感界に入りこむと、しきりに神とか悪魔とか口走るようになる。これを『五感界に居る人間は神や悪魔を見る。』の法則と呼ぶ。
神や悪魔は人間の五感界(=現象界)に中にいるまぼろしにすぎない。実在の世界には神も悪魔もいない。
西洋人は色バカだらけだ。

[700] 分裂病の治し方 h14.6.10
仮に、今自分が六感界(幻聴付き五感界)に居るとする。
六感界の情報に‘自他の区別’を付ける、つまり自分の五感と他人からの幻聴(第六巻)とを区別し、自分の五感の感覚を強め意識化し(頭の中で考えてことばの世界を創れ!)、反対に他人からの幻聴の感覚は無視して無意識化する。これで六感界が五感界に変換される。
次に五感界の情報に‘真・偽・無意味の区別’を付ける、つまり正しい情報と正しくない(まちがいと無意味)情報とを区別し、正しい情報だけを意識化し、正しくない情報は無視して無意識化する。これで五感界が知覚界に変換される。
これで分裂病は治った。

以上は理論的には正しいが、実際には分裂病では‘自他の区別’が著しく傷害されていてここを直すことは不可能であることが多い。
そもそも幻聴が邪魔になるのは、幻聴が聞こえることじたいではなく、幻聴で聞こえる正しくないこと・無意味なことに対する自分の心の反応である。だから、幻聴を五感に含めて考えて六感として扱い、この六感界に対して‘真・偽・無意味の区別’を付け、偽・無意味の情報を無視し無意識化すれば、六感界の中の正しいことだけが意識化(考えてことばの世界を創れ!)されて残り[情報のウエイト付け]、こうして得られた世界に心を複合させれば、もはや心が乱れることはない。この方法でも分裂病は治るはずである。
もっとも、この方法では幻聴の中の正しいことはあいかわらず聞こえることになるが、自分の考えであれ他人の考えであれ、とにかく正しければよいのだから、とくに問題にはならない。

要するに、『(自分も含めて)バカとは何か?』を理解できれば、分裂病は治る。

[701] 世界選択 h14.6.10
六感界、五感界、知覚界のどの世界においても快と不快の両方がある。
だから、快か不快かは、世界選択の決め手にはならない。
快・不快と世界選択はまったく別問題である。
快・不快は置いといて、人間である自分がどの世界に住むべきかを純粋に考えねばならない。
動物の中でも人間だけに知覚があり、知覚があるために人類は万物の霊長に立つことができたのだから、人類の一人としての自分は当然知覚界を選ぶべきである。

[702] 考えること h14.6.10
『われ考えるゆえにわれあり。』デカルト
『人間は考える葦である。』パスカル

‘考える’ことこそが人間の本質であり、
人間は考えなければ堕落する。
‘考える’習慣が一番大事だ。
考える(=自分でことばを使う≠他人の書いた本を読む)習慣がないと、感覚は五感のままである。
知覚で考えないから、五感にとらわれるのだ。

いくら仕事が有能でも、家に帰って風呂入って食べて寝るだけの毎日では、誰でもバカになる。

図の解説:実体を五感で見て、さらに五感を知覚で見る。
知覚とは実体を2度見ることだ。
ドイツでは‘考える’ことを‘2度感じる’と表す。さすがは理論家の国ドイツだ。

[703] 和 h14.6.10
聖徳太子が言った『和』とは、うわべはみんなと仲良くすることだが、実態は他人への『従属』にほかならない。
正しい人に従属することは大事だが、相手が善人か悪人かも分からずに、やたらに相手に従属してはいけない。

[704] アエンと大いなる仮面[コドワより] h14.6.11
アエンは一つ目だが、大いなる仮面には目が二つある。
このことは、アエンは物を見る目しかないが、大いなる仮面は物と心の両方を見る目を持っていることを意味している。
アエンはカーゴ(贈り物)を人類にもたらしてくれたが、はたしてそれだけで人類は幸福といえるのだろうか?
人間は五感の喜びだけに甘んじて生きていてよいのだろうか?
それが人間の真の姿といえるのだろうか?

[705] より善い社会のために h14.6.11
社会は個人の集まりである。
個人を哲学第二原理の下で善人と悪人に区別し、善人を活かし悪人を殺し、善人だけから成る社会を作ることが社会を善くすることである。善人とは正しいこと(実在の法則)に基いて行動する者であり、悪人とは正しくないこと(まちがったことや無意味なこと=五感の上だけのこと)に基いて行動する者である。
悪人の存在を許すことは優しさではない。それは自分の臆病にすぎない。
正義の心を奮い起こし、悪人をこの世から追放し消し去ることが、人間としての自分にとっての義務である。
そのためのシステムを構築し維持することが、社会にとっての使命である。
例えば、試験制度はそのためにある。いい待遇を目当てに試験勉強するのは邪道である。

[706] 喜びの質 h14.6.11
『ブタとして幸せに生きていくよりも、人間として不幸に生きていくほうが、まだしも幸せだ。』ミル

[707] ミスタースポック h14.6.11
私が中学生のころ憧れていた。
知覚は異常に発達しているけど心がない。
たんなる‘いいなりロボット’にすぎない。
他人に出された問題には早く正確に答えられるが、一人で自分から考えようとしない。
他人にとってのたんなる道具にすぎない。
こんなのは人間じゃない。
人間には人間としての心があるからだ。
人間は、たとえ他人に出された問題には遅く不正確にしか答えられなくても、一人で自分から考えようとする。
私はスポックにはなりたくない。

[708] 絵と製図 h14.6.12
絵は五感で描く。
製図は知覚で描く。
絵はバカバカしくて子供の頃から嫌だった。

[709] 善悪と貧富 h14.6.12
数学・物理は善い学問であり、反対に体育・音楽は悪いくだらない学問である。([602]学問のランク参照)
ところが、数学者・物理学者は貧乏人の代表であり、反対にスポーツ選手・音楽家はお金持ちの人が多い。
善い仕事ほど貧乏で、悪い仕事ほど豊かである。つまり、
『仕事の善悪と、仕事の報酬とは反比例する。』法則がある。
こんな社会制度はまちがっている。
このままでは社会が悪化の一途をたどる。
お金だけで見れば、たしかにスポーツ選手や音楽家は大きなお金を動かせるので有能であるが、善悪の観点から見れば彼らほど眼先・耳先のことだけが立派で知覚がカラでくだらないものはない。彼らほど実在的でない者はいない。
このままにしていてはいけない。
早く数学者・物理学者がお金持ちになり、反対にスポーツ選手や音楽家が貧乏人になるような経済に作り変えねばならない。
数学の定理を一個発見したら貴族にして、死ぬまで一生御殿で遊んで暮らせるような世の中にして欲しい。
運動しか能がない動物よりも頭を使える人間を優利にしなければならない。

今の五感型社会は古い。そんな社会の中では善い人間が育たない。
今の五感型社会を知覚型社会に早く作り変えねばならない。
社会を善くするために、すなわち善い人間だけから成る社会を作るために、政治・経済が協力しなければならない。
政治・経済自体を目的にしてはいけない。
権力やお金のためだけに社会があってはならない。
人間の人間による人間のための社会を一刻も早く実現しなければならない。
雰囲気がくだらない五感型社会なんかもうイヤダー!!
どこの田舎の国のマネしよりゃー!
日本人じしんの心を取り戻せ!!
‘清き明き心’とは知覚すなわち実在に従属する心のことだ。

[710] 『吉凶はあざなえる縄の如し』 H14.6.15
どの感覚界においても快と不快の両方があることを意味している。
どの感覚界がとくに快でどの感覚界がとくに不快とかいうことはない。
快不快と感覚界とは別問題である。
だから、快不快は別にして、人間としての自分がどの感覚界を選べばよいかだけを考えねばならない。
自分が人間であるからには、本当は知覚界が一番楽しいのだ。人間は議論好きな動物なのである。五感界(六感界)には濁った汚い味のする喜びしかない。

[711] 子供の哲学と大人の哲学 h14.6.15
五感界における善とは他人を愛することであり、悪とは他人を憎むことである。
知覚界における善とは認識が実在に従うことであり、悪とは認識が実在に従わないことである。

キリスト教は五感しかない子供の哲学である。子供時代を無難に過ごすための教えがキリスト教にほかならない。大人になったらもはやキリスト教は要らない。大人は合理主義に則って生きていけばいい。デカルトも『方法序説』の中でそんな風に述べている。
反対に仏教は知覚の発達した大人の哲学である。子供のための哲学が日本にはない。日本では赤ん坊がいきなり大人になり、そのぶん大人があまり大人らしくない。
人間はみな五感しかない子供として生まれてくる。
知覚で物事を見れるようになるまでには時間がかかる。
子供と大人とは物の見方が違う。大人は正しい方を選ぶが、子供はまだ正しい方がわからないから、たんに見た目の格好がいい方を選ぶことしかできない。
子供には子供にふさわしい哲学が、大人には大人にふさわしい哲学がなければならない。
キリスト教は子供の哲学であり、仏教は大人の哲学である。
ヨーロッパには子供の哲学はあるが大人の哲学はない。だから、ヨーロッパでは大部分の大人が子供のままであり、キリスト教を超える哲学を理解し得た極一部の大人(たとえ無名であっても)だけが真の大人になれる。
反対に、日本には大人の哲学はあるが子供の哲学はない。だから日本では大部分の子供や大人が子供未満(つまりバカ未満)であり、仏教を理解できた極一部の人間だけが大人になれる。

キリスト教は‘現象の法則’で満ちている。
反対に仏教は‘実在の法則’で満ちている。
現象の法則は知覚のない子供のほうがよくわかる。例えば、人の頭の上に白い輪や黒い穴(これは私も見たことがある)が見えるのは現象界においてである。現象界においては神や悪魔が実在するかのような錯覚に陥る。日本のオバケや妖怪も、科学を知る以前の昔の日本人には実際に見えていたことである。心霊現象も五感だけで物を見る人にとっては本当に見えることなのである。もちろん見えるだけで実在はしない。それらはすべて人間の五感のイタズラなのである。
反対に、実在の法則は知覚のある大人の方がよくわかる。知覚界においては、例えば、『実在する脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。』ことが見えている。知覚界においては‘脳細胞’や‘感覚’が見えている。これらも‘黒い穴’に負けてはいない。知覚界において考えることによって、認識の真の姿が見えてくる。

[712] そこら辺のやつ H14.6.16
何も考えずボーとしてテキトウに楽しく暮らしたいだけだ。
わけのわからない連中だ。ガラ悪い。

考えないのなら人間ではない。人間の皮をかぶった動物だ。
彼らの行動に理由なんかない。現象界の中で(五感の反応だけで)いいかげんに生きている、取るに足りない動物にすぎない。

[713] 天才 h14.6.16
ガロアは知覚が発達しすぎていたために、五感だけしかない人間から成る社会とは気が合わなかった。
ガロアにとっては社会の中で生きていくことが不愉快過ぎたために、決闘による自殺の道を選んだのだ。

[714] 快・不快と世界選択 h14.6.17
六感界、五感界、知覚界のどの感覚界においても快と不快の両方があり、どの世界がとくに快で、どの世界がとくに不快ということはない。
だから、‘自分がどの世界の中で生きていくか’という問題と、快・不快とは切り離して考えられる。
『自分が人間である。』ことのほうが、『自分が楽しい。』ことよりも優先する。
人間の本質は知覚だから、当然人間である自分としては知覚界を選択すべきことになる。世界選択に自分の‘人間性’を反映させれば、人間性とはすなわち知覚であるから、自分は知覚界を選ぶしかない。
知覚界を選択した自分にとっての次なる問題は、‘知覚界すなわち実在界においていかにして自分が快であり不快でないようにするか’である。
快・不快の問題は、自分がどの世界の中で生きていくかを決めたあとで考えるべきである。
快・不快を決めるのは、(後天的経験的に形成された)各自の知覚界と複合した(先天的遺伝的に形成された)各自の心だから、それは各個人によって違っており、各個人の問題である。
心が実在に従属するかぎり、心は肯定できる。
各自が信じる原理の下[もと]で、なるべく自分の心にとって楽しいことを考えて実行していけばよいのだ。

[715] いろいろな善悪 h14.6.17
六感界(幻聴つき五感界)における善とは他人に不快に思われないことであり、悪とは他人に不快に思われることである。
五感界(眼で見たままの世界)における善とは格好がいいこと(つまり、眼で見たままに対する心の反応が快)であり、悪とは格好が悪いこと(見たままに対する心の反応が不快)である。
知覚界(五感界や六感界に対してことばで考えた世界)における善とは認識が正しい(実在と一致する)ことであり、悪とは認識が正しくない(間違いおよび無意味)ことである。

[716] 男の哲学と女の哲学 h14.6.17
女の哲学はキリスト教(女・子供に人気がある)。
男の哲学は仏教(女人禁制)。

[717] ことばを使って考えてことばの世界を創れ! h14.6.17
いわば分裂病は階段から足を滑らして下にコケてしまった状態だ。
いま君が六感界に居るんなら、『ことばを使って考えて』六感界とは別なもうひとつの新しい『ことばの世界を創れ』ばいい。
その世界は君がもと居た世界であって、その世界から六感界を眺めて暮らせばいいのだ。 

毎日毎日『ことばを使って考えて』ことばの練習をしていれば、そのうち少しずつ『ことばの世界が創れ』てくる。
新しいことばの世界ができてくれば、そのうち六感界よりも新しい世界のほうが感覚が強くなり、新しい世界のほうが意識になり、古い世界のほうが無意識になって、心が六感界との古いつながりを断ち、新しい世界のほうとつながりが出来て、正常に戻る。

[718] 悪をブチ殺せ! h14.6.18
哲学U原理の下に善と悪が区別される。
善とは知覚のある者であり、悪とは知覚のない者である。
善悪の区別の次元は実在する。[次元上げの方法]

善人を生かし、悪人を殺し、善人だけから成る社会を作ることが、社会の中に住む人間にとっての義務である。
悪人を殺すことも善である。善人を殺すことは悪である。

最近善悪の区別のつかないフヌケ人間や善悪の区別のつかなくなったコシヌケ人間が増えている。
悪人が倒されなくなったから、悪人がはびこるのだ。

悪を倒すことは善である。
善の知覚人間が悪の五感動物に負けてはならない。

[719] 躁鬱病 h14.6.19
躁鬱気質とは、五感や知覚などの感覚は働くが、それらの感覚と心との複合が足りない人のことを言うのではなく、五感や知覚でわかることの範囲が非常に狭い人のことを言うのである。感覚と心との複合はある。
そんな人は自分の感覚でわかることの中に居るときは大活躍するのだが、自分の感覚でわかることの外に出てしまうと感覚(五感や知覚)が一切働かなくなって心も活動しなくなる。これがいわゆるうつ状態である。
学校に通っているときはいろんな科目があって、たとえ自分に不得意な科目で落ち込んでも、反対に得意な科目で挽回できて鬱状態を中和できていたんだが、大人になるとひとつの仕事だけになるので、不得意な仕事に当たると落ち込んだきりで立ち直りが効かない。
いくら鬱気質の人でも自分の得意な仕事の中にいるかぎりは鬱病にはならない。だから、進路や仕事の選択は慎重にしなければならないのである。
『同じ会社の不得意な部署にいるよりも、別の会社の得意な部署にいるほうがいい。』

[720] 分裂病 h14.6.19
分裂気質とは、自分の心にとらわれの強い人のことを言うのではなく、知覚に較べて五感が発達している人のことを言う。理性(ことばではっきりと考えること)はないが、悟性(眼で見たことをそのまま悟ること)はある。
知覚が五感に従属し、五感が意識で知覚が無意識である。
分裂気質の人が知覚において五感界にありえないこと(例えば、他人の身体を自分が自由に操ること)を考えると、五感界に対して意味付けをしている無意識の知覚界に異常が発生し、五感界への不適応が起こる。これが分裂病である。
このように分裂気質の人の世界は五感と知覚(とそれらに複合する心)だけから成る。分裂気質の人にとっては五感界がそのまま実在界なのである。だから、カントは分裂気質といえる。
ところが、実際には『実在は五感を超えたところにある。』(実在哲学のことわざ)
つまり、実在する物体を眼で見て五感になるのであって、五感じたいが実在ではない。デカルトはそう考えていた。カントは哲T原理を知らなかったのだ。

科学では知覚を実在と考え、文学では五感を実在だと考える。
デカルト哲学は科学の哲学であり、カント哲学は文学の哲学である。
現代においてデカルト哲学は、あえて哲学などと言うまでもなく、すでに無意識化しているほどにわれわれの常識と化している。
つまり、現代は科学の時代なのだ。

[721] 人生の支え h14.6.19
数学や物理が少しばかり出来たところで、ふつうの人にとっては人生の支えにはとうていならない。
人間として生きるとは何かについての理解を持たねばならない。
それがわかれば、具体的なことはほとんど問題にならない。

[722] 分裂病 h14.6.20
ふつうの人にとっては知覚が実在で五感が現象だが、分裂気質の人にとっては逆に五感(または六感)が実在で知覚が五感に従属する現象にすぎない。
五感界の中に居る人は五感界の法則を犯さなければ死ぬまで五感界の中に居られる。知覚界(=実在界)の中に居る人が知覚界の法則を犯さなければ死ぬまで知覚界の中に居られるのと同じことである。
五感界の中にも‘自他の区別’は厳存するから、五感界の中に居る者が知覚でそれを破るようなことを本気で考えるともはや五感界の中には居られなくなる。そうなると六感界(幻聴付き)の牢屋の中で暮らさなければならなくなる。不快な幻聴の聞こえる世界(しかも、本人にとってはこの世界が実在の世界にほかならない)の中で、もがき苦しみつづけねばならなくなるのである。

知覚は五感界にはないことでも考えられる。(だから人間は不幸になると、キリスト教では考えた。)知覚で‘自他の不可弁別性’を考えると気が狂うが、‘空気’や‘万有引力’を考えても気が狂わない。
それは‘自他の不可弁別性’は実在しないが、‘空気’や‘万有引力’は実在するからである。
五感は六感よりも実在に近く、さらに知覚は五感よりも実在に近い。
人間は実在に近づくと正気になり、実在から遠ざかると狂気になるのだ。

六感界とは、幻聴が実在している世界である。
六感界では、幻聴が現象ではなく実在である。
実在界=知覚界(知覚界とは感覚化された実在界にほかならない)において、幻聴は実在ではなく現象(たんに感覚されるだけで実在しないこと)となるのである。もっとも五感界においてもすでに幻聴は現象である。なぜなら、ただたんに眼で見える世界においても‘自他の弁別性’は存在するからである。

分裂病はもともと五感界の中に居る分裂気質の者が、五感界の中にないことを考え出すことによって起こる病気である。実在することを考え出すと天才になり、実在しないことを考え出すとキチガイ(分裂病)になる。
昔ハインロートが言ったことはまちがいである。人間が理性を失っただけでは分裂病にはならない。むしろ悟性を失った者が分裂病になりやすいのだ。


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