[574] 心=心(感覚) h14.4.5
心は感覚(共同意識、五感、知覚)の関数である。
だから、心の問題は感覚の問題に帰着する。
自分の心を変えようと思ったら、自分の感覚を変えればよい。
心を善くしようと思ったら、自分の感覚を知覚化すればよい。
つまり、ことばを使って正しく考えるようにすればよい。
[575] “正しさ”の概念 h14.4.5
五感界はただ眼で見ただけの世界だから、五感界には見たことがあるかないかの区別があるだけで、“正しさ”の概念がない。
“正しさ”の概念は、みずから知覚界においてことばを使って物事を考える者にしかわからない。
自分で考えるから、“正しい”か“正しくない”かがわかるのだ。
つまり、“正しい”とは自分が考えたことと実在が一致していることである。
自分が考えたことに基づいて五感を見て、つじつまが合う説明の得られることが“正しい”ことである。
[576] オレが‘音痴’になった理由(ワケ) h14.4.5
オレには好きな歌がない。
小さい頃に、音楽が‘音色’であり、‘音色’が無であることを見ぬいたからだ。
[577] 保険 h14.4.5
保険は人の不安心につけ込んでいるだけだ。
賭け事(ギャンブル)の一種だ。
だから、私は医療保険にも厚生年金にも入っていない。
[578] 人間 h14.4.6
知覚と、知覚に従属する心が人間の本質である。
[579] 五感 h14.4.6
五感(現象)が知覚(実在)よりも大事なわけがない。
オバケ見てこわがりゆうがと変わらんやないか!?
[580] 無意味 h14.4.6
無意味とはわからないことである。
無意味=わからない
例えば、咳こみは何を言っているかわからないから、わからないとする。わからないと決めつける。
知覚界の中に、いわばわからないことを入れるゴミ箱を設けるのだ。
知覚界において五感じたいはわからないのだ。
五感じたいがわからなければ、五感に従属する心(煩悩、色)もわからない。
[581] 幻聴 h14.4.6
五感じたいの聞いたままの世界がわからなければ、
感覚波による幻聴の世界もまた同じようにわからない。
わからなければ、いずれ無意識化される。
[582] ことばの分類 h14.4.6
ことばは、わかることばとわからないことばに分類される。
わかることばは知覚の中に意味があり、
わからないことばは五感じたいの中に意味がある。
(注:五感じたいとは、知覚に従属しない五感のことである。)
さらに、わかることばは正しいことばとまちがったことばに分類される。
わかることばとは、いわゆる命題のことである。
[583] ものの見方 h14.4.7
例えば、君が女の子から「ブサイク」と言われたとする。
それは、君が本当にブサイクだからではなく、
女の子(のものの見方)がそういうものだからだ。
[584] 善と悪 h14.4.7
善とは感覚が知覚であることであり、
悪とは感覚が五感(または幻聴)であることである。
幻聴で苦しむ者は、自分自身が悪なのである。
[585] 知覚非従属性五感 h14.4.8
無意味=わからない=知覚非従属性五感
五感界には知覚に従属する部分(知覚従属性五感)としない部分(知覚非従属性五感)とがある。
[586] 私の夢と現実 h14.4.9
私の第一の夢は「早く楽に(苦痛を伴わずに)死ねる」こと。
しかし現実は、適当な死ぬ方法がなくて毎日困っている。親に頼んでもないのに勝手に産むな。真空の宇宙で静かにしていたほうがよかった。
私の第二の夢は「自由に考えごとをして暮らす」こと。
しかし現実は、仕事に束縛されて自由がない。自由さとは程遠い。仕事をやめていいほどの貯金がない。
私は物欲がないので、これ以上は望まない。
このように現実の私は夢がひとつも満足されなくて不幸である。
まったく、死ぬことすらできやしない。
[587] ブロック遊びとことば遊び h14.4.9
ブロック遊びとは、いろいろな形のブロックを組み合わせて家や車などの実物と同じもの(モデル)を作ることである。
ことば遊びとは、いろんな単語を組み合わせて宇宙や人間などの実物と同じものを作ることである。
君たちは、実物と同じものを作る前に行動に出てんだよ。
そんなにあせるなよ。
将棋やテレビゲームは、ブロック遊びよりも現実離れしていてくだらない遊びだ。
おもちゃにも、善いものと悪いものとがある。
[588] 日本人の哲学 h14.4.10
日本人は何かくだらない欲望をかなえるために、うわべだけ頭がいいフリをする。
心がくだらない動物で、その心を満足するために頭を使って仕事や勉強をする。
人間の皮をかぶった動物だ。
[589] 服 h14.4.10
服の色やデザインにこだわるのは、五感でしか見ていないので悪だ。
悪はしてはならない。
だから、服は着れるんなら、あとはどうでもいい。(知的な見方)
そういうのは動物にしか許されない楽しみなのだ。
人間のすることではない。
[590] バカ h14.4.11
バカはわけのわからないこと(見たまま聞いたままのこと、五感じたい、知覚非従属性五感)に反応してわけのわからないことを言うだけだ。
私の心を落ちつけてよく見れば、そいつらの頭の中身は空っぽだ。たわいない。とるに足りない。何もない。
なんで、そんなにわけのわからないことが好きなのかわかんないよ。
バカは考えがないからだよ。
それか、自分がバカになるようなことをしたからだよ。
ぼくたちとは住んでる世界が違うんだね。
[591] バカと人間のちがい h14.4.13
命題は、わかる(正しい、まちがい)、わからないに分類される。
バカはわからないこと(例、幻聴)に反応してわからないことを言う(例、咳ばらい)。
人間はわかることに反応してわかることを言う。
わかる世界からわからない世界に入ることが狂うことである。
[592] 抗精神薬の薬理作用 h14.4.15
精神分裂病の治療に用いられる抗精神薬は、心を鎮静させ、幻聴・狂気複合体の複合を解くことによって、幻聴・五感から知覚への感覚の変更を容易にする。感覚が知覚に戻ったら、薬を止めて、知覚に従属する心すなわち人間的心の発達を促す。
分裂病では、知覚よりも五感・幻聴覚が優位だから、ほんらい抗精神薬は、心に作用するべきではなく、五感・幻聴覚を鎮静させ、知覚を五感・幻聴覚よりも優位にすべきである。より理想的には、ちょうど乗り物酔い薬が選択的に内耳の平衡覚だけを抑制するように、抗精神薬は幻聴覚だけを選択的にブロックするものであって欲しい。
[593] 認識界 h14.4.16
人間の認識界は、感覚界(幻聴、五感、知覚)とその感覚界に従属する心との複合体である。
認識界=感覚界+心(感覚界)
[594] どうしてぼくは金や物や出世に興味がないのか h14.4.16
物が豊かなのは五感界における価値観だ。
落ちぶれた人間どもがありがたがることだ。
出世で手に入るのは金であり、金で手に入るのは物だけだ。
地位とか名誉とかも、五感界において造られた価値だ。
ヨーロッパ人の大多数は五感界に住んでいる。こん、色ボケが!!
ヨーロッパには哲学がない。
人間の住むべき場所は知覚界であって五感界ではない。
人間にとっては知覚界(正しさ)に従属する心(例えば、物を作ったり、考えたりする喜びなど)しか認められないのだ。
日本人がヨーロッパの科学や数学をマネるのはいいことだが、色ボケまでもマネてはならない。それはヨーロッパの短所であって、短所までも受け入れるのは愚かである。
分析していい所だけを取り入れるのが日本のやり方やろうが!!
[595] いろいろな悪 h14.4.17
幻聴・狂気複合体の世界においては、他人の悪口を(幻聴で)言う者がとにかく悪である。
五感・動物的心複合体の世界においては、見かけの悪い者がとにかく悪である。
知覚・人間的心複合体の世界においては、正しくない者(まちがった者、わからない者)が悪である。
[596] 人間の心 h14.4.18
服だの女だの金だの、人間がダラクするのは、人間の心を鍛えていないからだ。
人間を救えるのは、自分の中にある人間の心だけだ。
[597] 知覚界から見た仕事 h14.4.18
仕事で手に入るのは金と名誉(地位)だけだ。
金では物しか買えない。
名誉は見栄だ。
物も見栄も五感界における価値にすぎない。
人間の住むべき場所は五感界ではなく知覚界だ。
知覚界においては仕事からは何も得られない。
知覚界から見れば仕事はくだらない。
だから人間は仕事に無関心なのだ。
現に私の実在哲学は、私の仕事から得られたのではなく、私の趣味(遊び)から得られたのだ。
いくら仕事を一生懸命やったって、(私程度の仕事では)人間の心は成長しない。
仕事なんかどうでもいい。
仕事の合間の遊びが人間の心(物を作ったり、考えたりする喜び)を伸ばすのだ。
[598] いさかいの構造 h14.4.19
普通の人から見れば、幻聴や五感(見たまま、聞いたまま)で見る者が悪であり、知覚(正しさ)で見る者が善である。
幻聴で悪口を言って嫌がれば、そいつが悪人なのだから、幻聴にこたえる者をいくらでも幻聴の悪口で懲らしめてよいことになる。
一方、幻聴病みの人から見れば、幻聴で他人の悪口を言う者が悪なのだから、自分に悪口を言う者を攻撃してよいことになる。
したがって、普通の人と幻聴病みの人との間ではケンカが絶えない。
[599] 幻聴 h14.4.21
聞いたままのことばの感じが悪いから不愉快に思っているだけのことだ。
わかることかわからないことかを区別すれば何のことはない。
[600] 五感に従属する心 h14.4.22
正確には、(知覚非従属性五感)従属性心である。
テレビやマンガや服や髪や化粧などの楽しみを言う。
安く容易に手に入る。金さえ払えば誰にでも手に入る。販売店が多い。
頭を使って考えなくても、パッと見れば誰にでもわかる。テレビなんかまさにそれだ。
しかしそれだけに質が低く、楽しさの量もほんのちょっとだ。
要するに、安っぽい楽しみなのだ。別になくったってかまわない。
私も休みの日などにアニメや特撮のLDを見るが、ほんのちょっと楽しいだけだ。かったるい喜びにすぎない。毎日毎日一日中アニメのLDばかり見ていたのでは、フヌケになってしまうだろう。
[601] 感覚波 h14.4.22
電子と電子を結ぶのが電波。
感覚子と感覚子を結ぶのが感覚波。
昔から‘気’と呼ばれているのがこれに当たる。
空耳(幻聴)を気のせいというのはまさにこのためだ。
気配とは気を配る、つまり感覚波を放出することである。
気配を察するとは、放出された感覚波を感知する(感覚波によって感覚子が励起され感覚が生じる)ことである。共同意識の世界である。
他人の認識よりは自分の眼で見たほうが確かだから、人間は感覚波をわからないこととしてゴミ箱に捨てることを選んだのだ。認識の正しさを目指して人間は進化しつづけるのである。
[602] 学問のランク h14.4.24
人間のセンス(感覚界)は、知覚界〜五感界まで連続的に分布する。
あるひとりの人間のセンスは、直線上の一点に位置する。
人間にとって知覚は善で五感は悪だから、
数学や物理は善い学問であり、
反対に美術、音楽、体育は悪い学問である。
いくらテストの点が欲しいからといって、数学・物理の得意な人が無理に生物や社会を勉強してはいけない。センス(感覚)が悪くなる。
五感で見えるのは文字であり、知覚で見えるのは文字の意味(概念)である。
知覚があるから人間は他の動物を超えているのだ。
数学や物理の感覚が発達した人は、社会科や生物学のことばの中身が空っぽなことを見抜くから、社会科などが苦手である。
反対に社会科や生物学が得意な人は、数学や物理学のことばの中身が見えないから、数学や物理学が苦手である。
ひとりの人間のセンスは、知覚的か五感的かのどちらか一方なので、
数学が得意な人は物理も得意で、生物が得意な人は社会も得意だが、
数学・物理の得意な人は必然的に生物・社会が苦手であり、
反対に生物・社会が得意な人は、どうしても数学・物理学が苦手なことになるわけである。
まれに数学も物理も生物も社会も英語も国語も全部得意な人がいるが、善の感性と悪の感性の両方持っているのは哲学第二原理を知らないからである。たんなる試験主義者だ。
いくら記憶力がよくても、わからないことまで憶えるのはバカ。
[603] 犯罪 h14.4.24
犯罪の原因は五感にある。
見たまま聞いたままのことにとらわれるから犯罪を犯すことになるのだ。
[604] 実存主義 h14.4.24
文学者たちが自分たちを有能に見せるためにデッチアゲた屁理屈だ。
社会を狂わせ悪化させる原因である。
人間になれなかった動物たちの哲学だ。
[605] 愛 h14.4.25
女は愛によって救われるが、男は愛によって堕落する。
愛などしょせん女の道徳だ。
(私は医者には向かんなあ。)
実在哲学の世界においては愛は成立しない。
なぜなら、愛とは他人の喜びのために自分が努力することである。
他人の喜びとは他人の心を満足することであり、
他人の心は他人の感覚界によって決められている。
男にとっては、自分の感覚界よりも他人の感覚界を正しいとすることは許されないことなのだ。
女にとって愛は善だが、男にとって愛は悪だ。
男は女より知的であり、男の心は女の心より善であるから、女が男の心を満足させるために努力するのは、「自分より正しい者に従属する」ことにほかならないから、女にとって愛は善になるのである。
反対に、女は男より五感的であり、女の心は男の心より悪であるから、男が女の心を満足させるために努力するのは、「自分より正しくない者には従属しない」ことに反しているから、男にとって愛は悪になるのである。だから、男には愛情はいらないのだ。
[606] 音楽家 h14.4.25
モーツアルトといえども、くだらないことで程度がはなはだしいだけだ。
[607] 料理 h14.4.25
手間ひまかけて正確に作るからおいしい料理ができる。
手抜きでデタラメに作るからまずい料理ができる。
だから、高知の料理はうまく、
但馬の料理はまずいのだ。
ただおいしい料理を食べたいからといって、手間ひまかけて正しく作れるわけではない。
手間ひまかけて正確に作ったから、おいしい料理ができるだけだ。
見た目だけで終わって考えることをせず投げやりだから、まずいものしか作れないのだ。
おいしい料理を食べたいから作るのが女の料理であって、
手間を惜しまずに正確に作りたいから作るのが男の料理である。
食材を五感(舌先、眼先)で見てフィーリングだけでテキトーに作るのが女の料理であって、
食材を知覚で見て考えながら正確に作る(例、食材や調味料の重さを正確にメーターで測る。加熱温度と時間を温度計とストップウォッチで正確に測る。レシピを規格化する。)のが男の料理である。
洋食の心はおいしさにある。
和食の心は身体にいいことにある。
洋食における感覚は五感(舌先の味覚)であり、味覚と複合する心はおいしさである。
和食における感覚は知覚(体調のよさ)であり、体調のよさと複合する心は「身体元気で調子がいい」である。
[608] 明治維新 h14.4.25
明治初頭に日本が無選択的に西洋文化を吸収し始めた頃から日本の悪化が始まった。
明治時代に福沢諭吉が決めた路線に従って今まで日本は動いてきた。
平成の時代に生きる我々の使命は、西洋文化によって穢された今の汚い日本文化を洗い清め再び善化することにある。
[609] 太平洋戦争 h14.4.25
日本が戦争に負けたのはたんなる力の差であって、
日本の‘正義’が外国に負けたのではない。
日本の思想が間違っていたから負けたのではない。
[610] 税金 h14.4.26
日本を本当に善くするために使ってくれるのなら、いくら取られてもかまわない。
しかし、日本を悪くしたり、バカな政治家たちの‘色’代(五感的欲望を満足するための資金)に使われるのなら、1円も取られたくない。
[611] はやく人間になりたい! h14.4.26
五感の中に喜びを求めてはならない。(注:五感とは、知覚非従属性五感のこと。)
五感の中に現れるものについての理解(知覚的認識すなわち知識)を持て。
それを守れば人間になれる(または帰れる)。
[612] お金と五感 h14.4.27
お金では物しか買えない。
物は見栄であり、五感界における価値でしかない。
つまり、お金が中心の社会においては、五感界しか発達しない。
ただ見たまま聞いたままのことしかわからない人間(以下の動物)が増える。
[613] 文学と数学 h14.4.27
文学が、五感と五感に従属する心の表現であるとすれば、
数学は、知覚と知覚に従属する心の表現である。
[614] 善と悪 h14.4.29
早い話、人間が人間であることが善であり、
人間が人間でないことが悪である。
[615] 理解 h14.4.29
自分の知っている原理(例、哲T、U原理)が適用できる五感については、
知覚の目で見ることができる。
つまり、理解(正しい認識)がある。
[616] 学者は無益 h14.5.5
科学や数学を知ったからといって、人間は完全といえるか?
もちろんNoだ。
だから、学者は人間の仕事に値しない。
科学に数学を使うように、科学や数学に哲学を使えばいいか。
しかし、実際に、哲学を知っている科学者や数学者がいるのだろうか?
私は具体的な名前をひとりも挙げることができない。
世の中にはエセ学者ばかりだ。
多少数学や科学の知識はあっても、生きがいは数学や科学の中にはない。
心は動物のままで、そこら辺の酔っぱらいと変わらないくだらないことばかりやりたがる。
例えば、学者のくせに結婚したりする。結婚するということは、動物なみの心である性欲を自分が積極的に肯定しようとする意思の表明にほかならない。そんなヤサグレ根性で人間の仕事の代表格たる学者が勤まるものか!学問の道を志すなら、結婚などはじめから問題外だ。
いくら学歴があるからといって、学問を甘く見るな!
勉強に落ちこぼれて知覚がはたらかなくなって人間の心が落ちこんで、五感でしか物を見れなくなり、五感の喜びしか感じられなくなったので、くだらない女の肉体なんかにすがって生きて行かねばならなくなったのだ。人間の心がウツ状態のままなのだ。
[617] 論理性 h14.5.6
論理性のない言葉は五感界の言葉であり、
論理性のある言葉は知覚界の言葉である。
論理性のない言葉を使う者は五感界の中に生きているのであり、
論理性のある言葉を使う者は知覚界の中に生きているのである。
[618] マンガ h14.5.6
大人は知覚的生物である。
しかし、子供は五感的生物として生まれてくる。
人間は五感的生物から知覚的生物に成長するのだ。
本来マンガは五感のことしかわからない子供のうちにしか読んではならないものなのだ。
近い将来、マンガは18歳以上は読んではならないものになるかもしれない。
[619] 失楽園 h14.5.7
人間にとっては、五感界にいるよりも知覚界にいるほうが幸福である。
つまり、人間にとっての楽園とは知覚界=実在界である。
ところが、キリスト教によれば、人間が‘リンゴの実を食べた’(性欲の味をしめた)ために知覚界から五感界に追放されたとしている。
これを失楽園という。
キリスト教では、知覚界から追放された後の五感界に堕落した人間が人間の真の姿だと考えられている。
キリスト教とは、五感界に追放された畜生(動物)どもの道徳なのである。
キリスト教を受け入れることは、五感界に堕落した畜生どもの世界観を受け入れることにほかならない。
これ以上堕落しないから安定ではあるが、くだらない。
それよりも、性器は増殖のためにのみあると規定して、知覚界に一生居続けるほうが人間にとっては幸福なはずである。性器に対して知覚的な意味付けをして、増殖のためだけに性器を使用するならば、性交に伴う快感は(ほとんど)感じられないから、人間は堕落しないはずである。
[620] 結婚 h14.5.7
動機がなければ行動は生じない。
いくら性器を増殖の道具と見なしても、結婚する動機がなければ、誰も結婚しようとしない。
男と女の間に成立する愛情は、やはり動物的感情であり、
結婚して喜べるのは、人間未満の動物だけだ。
つまり、女と女以下の男だけだ。
人間は結婚しない。
考えることは孤独な営みであり、人間は孤独な生き物だからだ。人間は孤独を愛するものだ。人間の喜びは知的であり、結婚の喜びとは別のものだ。
よって、人間は一代かぎりで絶滅する。
動物だけが結婚して子孫を増やす。
しかし、動物の子供の中にも、自分の人間性を自覚し人間になるものがときどき現れるから、人間が絶滅することもまたない。
自分の人間性に死ぬまで気づかず、人間にならなかった動物だけが結婚し、子孫を増やす。
いいなずけ(見合い結婚)というのは親の言いなりだから、いくら身なりはしっかりしていても中身は自分自身で判断できないバカなので、これまた人間ではない。
とにかく人間は一代かぎりで死なねばならない。
動物として生まれ、ひとたび人間になってしまった者は、人間として生きていくしかない。
そういうもんだろう。
偉い学者の中にも結婚した者はいるが、結婚後の業績はみな質が低下している。
学問の喜びはその学問自体の中にあるのであり、他に求めることがない。
人間である男にとって動物でしかない女はバカであり、男が女の心に従属することは許されない。だから、男が女に求婚することはありえない。逆に女が男に求婚することはありえるが、男が女の欲求を満たしてやる必要は(男が女の心に従属することになるから)これまたない。
学問の喜びのほかに結婚の喜びをも求めた者は、人間の喜びと動物の喜びとではランクが違いすぎるから、あちらが立てばこちらが立たずで、両方立てれば共倒れになる。
あなたは人間やめますか?それとも動物やめますか?
人間の喜びはひとつしか許されない。
これが実在界の法則だ。何でも自分の思い通りになるわけではない。
偉い学者といえども哲学には無知であり、ただ闇雲に結婚したにすぎない。彼らは判断を誤ったのだ。おそらく、そこには自分の幸福がないことをあとで知って後悔したであろう。
[621] 育児 h14.5.7
アマラ・カマラは人間に育てられても、けっきょく人間にはなれなかった。
母親は女であり、女は動物だから、赤ちゃんを母親だけで育てると子供は動物にしかなれない。いい子に育つのではなく、いい子ぶりっこにしか育たない。
女の赤ちゃんはしょせん動物どまりだから母親だけに育てさせてもいいが、
男の赤ちゃんは父親にも育てさせないと‘人間らしさ’が身に付かない。
私の父親の父親は、戦時中出兵していたので、私の父親は母親(つまり私のおばあさん)ひとりの手で育てられた。そのために私の父親は‘人間らしさ’が十分身に付かず、フニャフニャでアイマイなダメ人間になってしまった。
[622] 愛と憎しみ h14.5.9
人間であっても動物であっても、善を愛し悪を憎む。善を好み悪を嫌う。
ただ、善と悪の定義が人間と動物とでは違う。
動物にとっては、善とは見たままがいいこと・他人をほめることであり、悪とは見たままが悪いこと・他人の悪口を言うことである。だから、動物は見かけのいい者・他人をほめる者(≒やさしい者)を愛し、見かけの悪い者・他人の悪口を言う者を憎む。
人間にとっては、善とは知覚的であることであり、悪とは五感的(または共同意識的)であることである。だから、人間は知的である者を好み、五感的である者を嫌う。
このように、人の好き嫌いは、その人の感覚界で(感覚が五感的か知覚的かで)決まる。
男は知的で、女は五感的だから、男は女が嫌いである。だから男は女と結婚しない。
女と結婚するような男は女以下の男だけだ。動物男が見かけのいい女を愛したのだ。
人間としての男は知的である者を好むから、男が愛するのは男だけだ。
しかし、それは人の持つ認識の正しさを愛したのであって、格好のよい肉体を愛したのではないから、互いに瞳を見つめ合うことはあっても、男どうしが裸で抱き合うようなことはしない。
知覚の有無と身体のかっこよさとは独立(無関係)である。
だから女が見かけのいい男を愛することはありえる。
しかし知覚のある男が知覚のない女を好きになることはありえないから、
互いに愛し合うに至らず、結婚は成立しない。
けっきょく、女と結婚するような男は、女以下のヤサ男だけなのだ。
ほんらい男は独身である。
だから遺伝子的にも男のほうが女よりも多く生まれてくるのだ。
つまり、男の中で人間になれるのは5%=20人に1人ということだ。
[623] 女 h14.5.9
たしかに女はよく喋るが、言葉が五感的で、認識が投げやりだ。
パッと見だけで終わって、そこから先を自分で考えようとしない。
だから見かけの印象しかわからないのだ。
母親も女の一人である。
男の私も小学生ごろまでは母親を正しいと信じていたが、中学生になると友達に母のことを「継母(ままはは)」と言ったりして、心の底では母を嫌っていた。
男が大人になって知覚が目覚めると、五感しかない女の一人である母親は愛する対象に値しなくなるのだ。
私が中学生のとき、同じクラスに私の母に雰囲気が似ている女の子がいて、私はその子が好きだったが、その女の子が影で私のことを「顔がわるいからイヤ」と言っているのを聞いてガッカリした。教室の床が180度回転したような気がした。私がフラれたからガッカリしたのではない。しょせん女は女でしかないことを知って、ガッカリしたのだ。
その後私は二度と女性を愛することはなかった。
たまに男を好きになることはあったが…。
[624] 情操教育 h14.5.9
子供にわざわざ音楽を聴かして、子供をバカに変えとるだけやないか!
[625] 知覚界における衣食住仕事 h14.5.9
衣…サイズが合っていれば十分。デザインは無視。
食…身体とくに脳によいものを摂る。味は食えれば十分。
住…生活に便利なポジションにあるのがよい。一人一部屋の広さで十分。
仕事…上の衣食住を支える生活費を稼げる程度で十分。私は子供のころからやりたい仕事がまったくない。
☆原理は(紙の上よりも)実生活において実践されることが一番大事である。
[626] 人は何のために生きているか!? h14.5.9
人は自分の認識を高める(五感→知覚)ために生きている。
人間の善性はここにしかない。
人間にとっての善とは、正しく認識し正しく行動することだ。
[627] 分裂病と鬱(うつ)病 h14.5.9
分裂病も鬱病も、人間の心の価値が低下するのは共通である。
人間の生活は、物(環境)と感覚(知覚または五感・幻聴)と心の相互作用である。
分裂病では、感覚じたいが知覚から五感に変化したために心の価値が低下する。
鬱病では、実在つまり人を取り巻く環境が変化したために、これまで活動していた知覚がはたらけなくなり、知覚と複合する人間の心も活動できなくなって気分が落ちこみ、かわりに五感と五感に複合する動物の心が優位になって、心の価値が低下した状態である。
人間はだれでも自分が人間でありたいと思う。人間が人間の心を失ってはならない。
分裂病にならないためには、自分の感覚をつねに正しく保たねばならない。正しさを考慮しながら感覚することをこころがけるとよい。
鬱病にならないためには、自分の知覚の活動を保てるような環境を自分が積極的に選択しなければならない。自分の道は自分が選ばなければならない。面倒くさがって他人を当てにして自分がやらないでは済まされない。
ついでに:ノイローゼ(神経症)は幼児退行の一種だから、限局性の(特定のひとつのことだけに限られた)分裂病と見なせばよい。
感覚の正しさを考慮していれば、これにもかかることはない。
[628] 親のメンツ h14.5.10
私が小学3年生のとき、ふくろう文庫の『記録なんでも日本一世界一』にのっている“三ツ目のネコ”のリアルな絵を見て夜も眠れないほど怖かったが、私の父親母親が見ても、「それが何でェ」と言っただけで、なんとも思わなかった。
「どうして大人は怖いと思わないんだろう。さすがは大人だ。大人はこれぐらいのことで怖がってはいけないのか。大人が生きていくのって厳しいなあ。」と私は思った。
[629] 人間性 h14.5.10
人間性=知覚=実在
[630] 人間の法則 h14.5.10
人間の法則は自然科学の法則とは少しちがう。
自然科学の法則は絶対に犯すことはできないが、
人間の法則は人間が自分から破ろうと思えばカンタンに破ることができる。
ただし、それを破った者はもはや人間ではなくなる。
つまり、人間は壊れやすい。
人間が人間の法則に従うかぎり、人間でありつづけられるのだ。
[631] 与は如何にして哲学第一原理に到達せし乎 h14.5.11
まず、最初に、
『眼で見える時間のない動きのある世界と、頭の中で考えて見える時間のある静止した世界と、どちらが本当の世界なのか?』を考えた。
私は後者の『頭の中で考えて見える時間のある静止した世界(いわゆる4次元宇宙)』が真の世界であるとした。
なぜなら、真の世界においては、どうしても‘時間’が存在しなければならないと考えたからである。
そこで、次に、「それではどうして眼では物が動いているように見えるのか?」を考えた。
眼で見える世界というのは、実際には大脳後頭葉皮質の活動(=神経興奮)であるはずだ。
つまり、眼で見える動いている世界は、大脳後頭葉皮質にある脳細胞の神経興奮の時間的変化で創られているのだ。
つまり、自分に‘感じられる’世界は、脳細胞の神経興奮によって生成されているのだ。
つまり、自分が‘感じている’この世界は、自分の脳細胞の神経興奮で発生する。
自分の眼で見える世界だけでなく、自分が頭で考えたり、自分が心で思ったりする世界のすべてが、それぞれ自分の大脳の後頭葉、中頭葉(頭頂葉)、前頭葉にある脳細胞の神経興奮によって発生しているのだ。
こうして哲学第一原理は得られた。
約20年前のとある入浴中の数分間の出来事であった。
[632] 思考とは何か? h14.5.11
思考=思(心で思う)+考(知覚で考える)
知覚で考えることと、心で思うこととは連動している。
知覚と心とは複合している。
[633] 中国思想 h14.5.13
中国思想によれば、人間の本質は仁(の心)であり、
仁とは人が二人いること、つまり他人を思いやることだ。
他人を思いやるとは、実在哲学の言葉で言い換えると、他人に従属することだ。
ところが、実在哲学第二原理の系は『正しい者には従属し、正しくない者には従属しない。』だから、上の中国思想『正しかろうが正しくなかろう(まちがい、または無意味)が、すべての者に従属せよ。』と矛盾する。
つまり、中国思想はまちがいなのだ。
中国には快不快の概念だけで、真偽の概念がない。
[634] 人間は本能的に思考しなければならない。 h14.5.13
考えんから、見かけのことがわかるがやろうが!
バカだから考えんというががわからんがか!
人間考えることやめたらおしまいやろうが!!
[635] 動物性 h14.5.14
動物性=五感=現象
[636] 考えること h14.5.14
考えるとは、概念と概念の反応だ。(A+B→C+D)
記号を見るのではなく、概念で考えるのだ。
私がK大の数学科にいたころは、数学の本を読んでもただ記号が見えるだけで、記号の意味=概念がさっぱりわからなかった。つまり、そのころの私はまるきりバカ(定義:知覚がはたらかない者)になり果てていたのだ。人間としては不幸だった。バカになりきれれば別の世界が拓けていたかもしれないが、そのころの私には人間としてのプライドを捨てる勇気がなかったのだ。
[637] 人間が幸せになる方法 h14.5.15
正しさか楽しさか、どちらを優先するかがポイントである。
人間が幸せになりたかったら、
まず人間らしく正しくすることだ。
その後で自分の幸せを考えればよい。
動物の幸せを人間が求めても、けっきょく人間は幸せにはなれない。
人間は人間にふさわしい幸せを求めなければ幸せにはなれないのだ。
[638] 理学部と文学部 h14.5.15
理学部の認識=知覚には、ムダがない。
文学部の認識=五感は、ムダばっかりだ。
(ただし、正確には、五感の中にも知覚に従属する部分はある。)
[639] コミュニケーション h14.5.15
言葉にせよ絵にせよ、感覚界の表現である。
言葉による表現・読解は左脳コミュニケーションであり、
絵による表現・読解は右脳コミュニケーションである。
言葉だからといって、意味は必ずしも知覚的ではない。五感的(以下)のこともある。
絵だからといって、意味は必ずしも五感的ではない。知覚従属性五感のこともある。
言葉や絵を見れば、それを書いた人の感覚界がわかる。
『心は感覚界に従属する。』から、その人の感覚界(つまり、五感で見たり知覚で考えたりしていること)がわかれば、その人の心(つまり、心で思っている気持ち)も(ほぼ)わかる。
「(ほぼ)」というのは、人間の心が先天的・遺伝的に違いがあるからであるが、ここではその違いを強調しないことにする。むしろ共感に重点を置くことにする。つまり、自分が他人の感覚界を正確に理解すれば、それに従って感覚される心の反応(=気持ち)も自分と他人とでは(大雑把には)同一であると考えることにする。自分と他人とで心の反応に違いがあるのは、自分と他人の心に生まれつき違いがあるからではなく、そもそも自分と他人の感覚界に違いがあるからであると考える。つまり、自分と他人の感覚界が同じになれば、自分と他人の心も同じになるのである(もちろん、部分的にだが)。表現力と読解力が完全であれば、それは可能である。表現力と読解力を完全にするためには、勉強が必要になるわけである。
[640] 認識界の構造 h14.5.15
人間は自分の理解のある実在の部分については知覚の目で見れるが、理解のない部分については五感の眼でしか見れない。だから、一般に人間の認識界は知覚界と五感界が混じっているのだ。
したがって、人間の心も、知覚に従属する人間の心と五感に従属する動物の心が混じっていることになる。
つまり、
認識界=(知覚+人間の心)+(五感+動物の心)
または、
認識界=(知覚+人間の心)+(五感+動物の心)+(共同意識+キチガイの心)(共同意識は五感に含めてもよい。)
となる。(五感には正しさがない。共同意識には自他の区別がない。たとえ自他の区別がなくても、正しさを考慮すれば、共同意識(つまり、幻聴)には耐えられる。)
[641] 感情的 h14.5.16
女は感情的なのではない。
五感的なのだ。
そして男は冷静(無感情)なのではなく、
知覚的なのだ。
[642] 優しさとは何か? h14.5.17
優しさとは、実在哲学の言葉で言い換えると、『他人が自分の心に従属する(してくれる)こと』である。
だから、例えば、女に優しい男なんかいない。男が女の心に従属することは実在哲学第二原理の系『正しい者には従属し、正しくない者には従属しない。』に反するからである。
[643] 気が合わない h14.5.18
心は感覚に従属する。
感覚界が同じだと心も同じであり、感覚界が違うと心も違う。
感覚界を中心にして考えるとよい。
とくに、知覚界が違いすぎると、心も違うので、気が合わなくなる。
例えば、医学部の人と数学科の人では、知覚に入っている知識が違うので、まったく気が合わないのである。
医学部の人は親が医者の人が多いので、小さいころから医学知識を憶えて育っていて、知覚界には医学や生物学の知識がいっぱい詰まっており、心も医学や生物学に興味を持って考えられるようになっている。
一方、数学科の人の知覚界には数学の知識しかなく、心もそれ向きにできているので、数学のことなら自分から積極的に考えようとするが、医学や生物学のことは自分から考えようとする気力がさっぱり湧かず、そのため試験は再試になることが多い。数学科の人は医学や生物学をたんなる暗記科目だと考えているが、 じつは医学や生物学においても数学と同じように自分から考えようとする気力が大事なのである。それがないから試験に落ちるのである。教官のせいにして怨んではいけない。
一般に、感覚界(五感界〜知覚界)が違う人どうしでは、心も違うから気が合わず、
感覚界が似ている人どうしでは心も似ていて気が合う。
[644] わかれば好きになる h14.5.18
心は感覚界に従属する。
医者の息子は医者になる。
幼いときから医学知識を憶えながら育った人は、知覚界が医学知識で満たされており、したがって心も医学に向くように出来ているからである。
一般に、どんなことでも、知識を憶え、その知識に基づいて心を働かせて考えていれば、心と知識との親和性が高まり、どんなことでも好きになる。
さらに、一般に、知覚だけにとどまらず、五感についてもわかれば好きになる。
知覚を働かせずに、ただ眼で見るだけの生活を続けていると、そのうち五感だけで見て知覚で考えないことが好きになる。例えば、テレビばっかり見ていると、知覚界つまり考える世界が嫌いで、眼で見るだけの世界のほうが好きになり、いつしか眼で見るだけの世界を実在の世界だと信じるようになる。眼で見える世界の中だけで楽しく生きていくことを考えるようになる。知覚が五感に従属してしまう。
このようにして、人間は任意の感覚界(五感界〜知覚界)に馴染むことができる。
人間を任意に決めた感覚界に馴染ませることができる。
一般的日本人の感覚界は、日本政府によって五感界に規定されている。
五感は共同意識よりは上だが、知覚よりは下だ。
問題は、日本政府が決めた感覚界をそのまま受け容れることにあるのではなく、そもそもいかなる感覚界が人間にとって最もふさわしいかを考えることにある。
私はそれを知覚界であるとした。
私のように一般的日本人と違った感覚界を持った人間は、一般的日本人と心も違っていて、気が合わないことになる(笑)。
一般的日本人が眼で見るだけで頭(知覚)で考えないのなら、当然他人(日本政府)の言いなりになるわけだ。
[645] コミュニケーションその2 h14.5.19
他人の絵を見ることも他人の言葉を聴くことも、他人の感覚界を自分が見て憶えることであり、他人の感覚界と自分の感覚界が同じになっていく、したがって他人の心と自分の心がしだいに同じになっていくことである。
逆に、自分が絵を描いたり自分が言葉を喋ったり書いたりすることは、自分の感覚界を他人が見て聴いて憶えることであり、他人の感覚界を自分の感覚界と同じにする、したがって他人の心を自分の心と同じにさせることである。
コミュニケーションによって、自分の感覚界と他人の感覚界したがって自分の心と他人の心がしだいに同じになっていく。
反対に、コミュニケーションがなければ、自他の感覚界や心は同じにならずにすむ。
[646] 『知覚=実在』の証明 h14.5.20
知覚で見るとは、物事を正しいか正しくないか(間違いまたは、わけがわからない=無意味)かの区別で見ることである。
正しいとは、考えたことが実在と一致していることである。
だから知覚界は実在界に一致している。【証明終わり】
[647] 男の五感界 h14.5.20
女は五感どまりだけれども、男には五感のほかに知覚がある。
女には現象しかわからないが、男には実在がわかる。
男の五感は知覚に従属する。
知覚は実在だから、男は五感でも実在に近いものが見えている。
男は知覚も五感も実在的である。
例えば、ウエディングドレスは女の眼には‘きれい’に見えても、私のような男の眼にはたんに‘白い’としか見えない。
[648] Ψ【量子力学】 h14.5.20
素粒子像は点ではなくて雲である。古典力学で物体を点と見なすことに慣れすぎているから、量子力学がわかりにくいのだ。
人間の頭の中では‘点’が一番イメージしやすい単純な形だけれども、宇宙は人間の頭の都合で出来てはいない。素粒子が雲だと言ったら雲なのだ。素粒子は一個の(ひとかたまりの)雲なのだ。もとから雲であるものに、いくら点のイメージを当てはめても合うはずがない。
Ψの雲そのものが素粒子の真の姿であり、宇宙にとっては(ちょうど人間の頭にとっての点のように)最も基本的な存在形態であって、‘雲’の意味についてこれ以上解説することが出来ない。
|Ψ(物理量)|^2によって、Ψと観測された物理量との関係をつけることができる。このことは本来シュレーディンガー方程式によって証明すべき事柄だけれども、今のところその証明は未完成だから、『ボルンの原理』と言ってすませる。
[649] 考えることによって世界は楽しくなる。 h14.5.20
心はつねに楽しさを求める。だから心を正しい原理に向けさせればよいのだ。正しい原理に基づいて考えるように努めよう。動かしてはいけないいくつかの原理のある世界の中で、心を働かせて積極的に考えよう。
正しい原理に基づいて積極的に考えても、心は一向に表に現れないが、これは梵我一如の方法に適(かな)っているからよいのである。けっきょく、なんやかや言っても、心は正しい原理に基づいて自分にとってできるだけ楽しい世界を作るように働いているのである。
どんな原理を採るかによって、心の働き方が変わるから、個人の原理の採り方によって個人の心の性格がほとんど決まる。例えば、哲学の原理を採れば哲学の心になり、科学の原理を採れば科学の心になる。科学は物の知つまり対象知だから、(科学の原理しかない感覚界と複合する)科学の心は相手を痛めつけたり殺したりしたい気持ちで満ちている。反対に、哲学は心の知つまり自己知だから、哲学の心は自分の認識のほうを変えようと努める。
[650] 壁の崩壊 h14.5.20
人間が社会的存在であるかぎり、壁つまり自他の境界を作ることはできない。
自他の境界はもとから存在しないと言ってもいい。
そもそも自他の境界の有無が問題なのではなく、正しいか正しくない(間違いまたは、わけがわからない=無意味)かのほうが問題なのだ。
自分であれ他人であれ、とにかく正しい者が善く、正しくない者が悪い。
自分は正しい者には従い、正しくない者には従わなければいい。
ついでに:阿部公房の作品に『壁』と言うのがあるが、あの作品は精神分裂病の人はこういう世界の中に生きているんですよということを書いてあるのだ。いくら書いたのが理Vの人だからといって、S・カルマ氏のまねなんかしちゃいけないよ。カフカの『変身』も精神分裂病の人が頭の中で感じている世界のこと(実在哲学の言葉で言えば、認識界=感覚界+心界のこと)を書いている。
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