戻る


哲学絵日記


物と心の関係
平成13年8月10日
デカルトは存在するものを物と心(精神)とに分け、物と心は対立するものと考えた。
実在哲学では、心は感覚を荷う素粒子として物の仲間に入る。つまり、心は物の一種である。

バカ
平成13年6月9日
心で思ってばかりいて、頭(知覚)で考えることがないのがバカである。
心で思って‘ばか’りいるから、バカと言う(笑)。
自分で考えて、心から独立した客観的知覚的認識を得て、それに基づく心の思い直しがないかぎり、心は進歩しない。
勉強家は学校の紙の上の勉強に詳しい分、反対に常識に乏しいことがある。
勉強ができるからといってバカでないとはかぎらない。

バカが高じるとキチガイになる。
心の興奮が強くなりすぎると、もはや心の抑制が効かず、知覚が心に負けて、知覚が心に従属して、間違った(実在しない)知識(知覚における認識)を生む。間違った知識が五感を意味付けして、妄想体系が出来上る。
バカは一次的な心の興奮状態にすぎないが、キチガイになると死ぬまで心が興奮し続ける。キチガイはいくら表面的には冷静でも、頭の中ではいつも心が煮えたぎっているのだ。
キチガイにならないためには、つねに心を冷静に保つようにし、なるべく早く常識(日常生活における眼で見える物事についての理解)を身につけるようにしなければならない。

心へのとらわれ
平成13年6月9日
自分の主観(心の快不快感)ばかりにとらわれないで、冷静に対象を見つめよう。
自分の主観にとらわれすぎると、自分の心の世界から出られなくなる。
まず、実体(実在における対象)をあるがままに見よう。つまり、余計な思考をやめて、五感をそのまま受け入れよう。
次に、五感の経験をもとにして、そこから実体を考えてみよう。例えば、五感を分析することによって知覚におけるいろいろな概念が得られる。逆に、それらの概念の組み合わせとして五感を理解することができる。また、例えば、知覚は五感の世界にはないものの存在を仮定して、実在の世界について考えることができる。
実在哲学では、五感を通して実体を見るのであり、五感自体を肯定するのではない。
「あのヤロー頭にくる」とか言って眉を吊り上げて顔をしかめるかわりに、その相手が実際には何をしているのかを理解しよう。例えば、隣の席の不良が授業中に本のパラパラめくりをしているのを見て腹を立てて、自分も授業そっちのけで怒りに震えるよりも、「バカ息子が授業がわからないから暇つぶしをしているだけだ。バカの勝手だ。」と考えて、自分のするべきことをするほうが立派である。
自分の心で感じたことばかりを述べるのではなく、その対象自体について語ることが出来ねばならない。その後で、自分の心で何がしたいかについて、もう一度思い直してみればいい。例えば、バカが自分に言い掛かりをつけてきたとき、「バカは自分自身の心にとらわれていて、実体が見えていない。バカは実在の外のことを言っているのであり、自分はバカに付き合っていっしょに実在の外に出たくはないから、相手にしないほうがいい。」と考えれば、イライラせずにすむ。

分裂病と鬱病
平成13年5月27日
心を興奮させすぎると興奮したっきりになり、反対に心を抑制しすぎると抑制したっきりになる。
分裂病が“気合をこめて”感情を興奮させたように、鬱病は”気合をこめて”感情を抑制したのが原因である。

実在内存在と実在外存在
平成13年5月27日
五感を心で見るか知覚で見るかが問題だ。分裂病の人は自分の心を肯定しすぎる。例えば、自分の隣に不良がいる時、「あいつの態度は気に食わない」と思って憤るよりも、「他人の勝手だ」と考えて無視するほうが、人間的にはずっと優れている。
人間は五感を知覚で見ることによって実在の世界に入り、五感を(直接に)心で見ることによって実在の世界から出る。五感を知覚で見るよりも心で見ることを欲した者は、自ら実在の外へ出ようとする者である。
五感を知覚よりも心で見るようになると、心が知覚よりも五感に従属するようになるから、心の価値が低下する。心の価値が下がると、周りの人から悪口の幻聴などでいじめられ、社会的にも出世できなくなる。
五感に従属する心は動物の心であり、知覚に従属する心は人間の心である。人間の本質は、知覚と知覚に従属する人間の心である。

人間は五感を知覚で見ることによって実在の世界に入り、五感を自分の心で見ることによって実在の世界から出る。知覚における‘正しさ’の本質は‘実在的である’ことである。五感を知覚よりも心で見ることを選択した者は、実在の世界から出ていかねばならぬのだ。五感を心で見るか知覚で見るかは各自が自由に選択できることであり、自分自身が決めることであって、決して他人のせいにはできないのだ。
‘五感を知覚で見る’とは、心を落ち着けて心を働かさせずに物事を冷静にありのままにとらえることである。例えば、チコ=ブラエが天空における惑星の位置を数字にして書き記したように、今日あった出来事を言葉にして日記に記録することなどである。
そもそも人間は実在について無知の状態で生まれてきたのであり、生まれたての赤ん坊は実際にはまだ実在の外にいるのである。成長するにつれて実在についての知識を蓄え、しだいに実在の世界の中に入っていくのだ。知覚よりも心を肯定する者はせっかく築いた自分の人間としての成長を自分でブチ壊しているのだ。
心よりも知覚を肯定したって、心がなくなるわけではない。心がまったく活動できなくなるわけではない。実在の世界の中でも肯定または準肯定できる感情がある。例えば、『仕事をしないで暮らしたい』という感情。もっとも、この感情は現実の中では完全には満足され得ないが。それでも、60%ぐらいは満足される。これを‘準(ファジー)肯定’できる感情と言う(前に述べた)。例えば、NHK教育テレビを見て、「メンデルがエンドウ豆の数を数えて遺伝の法則を発見した」ことに涙を流して感動する。このすばらしい感動こそ実在の中の喜びなのだ。一般に、実在の世界の中にある単純な法則を知ることは喜ばしいことである。この喜びこそ実在の世界の中で肯定される感情なのだ。例えば、子供が‘外で遊ぶ’のは、子供が‘実在の中に入る‘ことである。家の外での遊びの中で‘実在の中にある心(実在に従属する心)’が培われるのだ。
心の興奮が落ち着かねば、実在が見えてこない。心が落ち着くといっても、心の興奮がないわけではない。知覚すなわち実在の世界に従属してもなお、心は活動し得る。心のその部分こそが人間としての心である。
実在の世界の中にある感情が、いわゆる‘善の心’だ。反対に、実在の世界の外にある感情が‘悪の心’だ。要するに、眼の向け先が実在にあればいいのである。
実在の外に出た者は、自分の眼で実在するものを見ようとせず、幻聴で他人の言葉に振り回されることになる。眼や耳では実在するものを見たり聞いたりできるが、幻聴では他人の言葉しか聞こえない。

ふつうの日常生活では実在の外に出たきりになるほど、感情が興奮することはない。例えば、アニメを見たりマンガを読んだぐらいでは全然問題ないし、また性欲を活動させたくらいでも大丈夫である。なぜなら、もしそんなことで狂っていたら、とっくの昔に人類は絶滅してしまっているからである。
人が狂うには、もっと気合を込めて身震いするほど激しく感情を活動させねばならない。だいたい性欲の2倍ぐらいの興奮の所にボーダーラインがある。それを超えると、実在の外にいつづけねばならなくなる。もっとも、たとえ狂うほどではなくても、知覚から独立に心を活動させることは、多かれ少なかれ自分を実在の外に出やすくさせることであるから、やりすぎには注意を要する。
精神科医になり立ての医者は、オナニー(自慰行為)こそが分裂病の原因だと自分勝手に信じ込んでいるが、これは間違いである。人間の脳はそんなにヤワではない。人が分裂病にかかるのは、オナニーよりもずっと強い怒りや憎しみの感情を自ら積極的・能動的に高めたときだけである。
鬱病では五感を知覚で見ることは正しいけれども、心の存在を忘れている。分裂病ではそもそも五感を知覚で見ないことから間違っている。心の興奮においては、鬱病と分裂病とは過抑制と過興奮とで正反対であるといえるが、その発症機序においては分裂病のほうが鬱病よりもより深い異常であるといえる。

現実と心
平成13年5月20日
人間にとってもちろん現実は大事だが、自分の心に目を向けることも忘れてはならない。
‘現実だけ’になってはいけない。現実のことだけしか考えられなくなってはいけない。
現実にばかり目を向けて自分の心に目を向けないと鬱病にかかりやすく、反対に自分の心にばかり目を向けて現実に目を向けないと分裂病にかかりやすくなる。
現実と心の両方に目を向けて、両者を互いに他に従うようにさせるとよい。

動物の心(例、性欲)を活動させて知覚が働かなくなると、(現実に対する)自分の心にばかり目が向くようになる。このとき、分裂病になりやすい。
平たく言えば、“認識が感情的になりすぎる”ことが分裂病の原因である。
認識が感情的になりすぎるかどうかは、その人自身の問題であって他人のせいではない。
反対に人間の心が働いているときは、認識が知覚的で知覚が働けば現実がよく見えるから、自分の心よりも現実のほうに目が向いていて、分裂病にはなりにくい。しかし、いっぽうで自分の心が無視されやすく、知らず知らずに自分にとって不快な人生を選択してしまう。
“認識が現実的になりすぎる”ことが鬱病の原因である。

知覚が働くと現実がよく見え、知覚が働かないと現実に対する自分の心の反応しか見えない。
女がワガママなのは、知覚がよく働かないために現実が見えず、自分の心の反応しか見えていないからである。
男が女に対して寛大になれるのは、女がバカだと思ってやれるからである。
女は現実よりも自分の心のほうに目が向きやすく気が狂いやすいから、女には優しくしなければならないのだ。
自分の心が向かうべきものは現実の世界であって、空想の世界ではない。現実の中に生きねばならない人間にとって、現実を逃避しても真の幸福は得られない。空想の世界における幸福は、かりそめの幸せにすぎない。

人がケンカするのは、自分の心を不快にする原因を取り除き、自分が感じる不快感を減らすためである。
ところが、分裂病にかかる直前には、自分が不快であるとき、その原因を取り除こうとする合目的的な行動を取らずに、反対にわざわざ自分の不快感を自分で高めようとする。
その結果、自分の認識が感情的になり、感情が自分でコントロールできる限界を超えてしまい、感情に歯止めが利かなくなって暴れまわる。
よーするに、“人間が感情的になりすぎた”のが分裂病である。
分裂病では現実よりも自分の心を肯定している。
人間というものは、つねに自分の感情に対しては冷静であらねばならぬものなのだ。

科学と文学
平成13年5月20日
心に目を向けるのが文学であり、物(実在)に目を向けるのが科学である。
心は○○が好き、××が嫌いといった多くの感情の集まりである。
心から物への作用により物の組み合わせが変わり、
逆に物から心への作用により感情の活動(神経興奮)の強さが変わる。
人間は快感がなければ生きていけない。”[哲学U原理]

認識システムとしての人間の弱点
平成13年4月30日
〈要約〉
知覚は五感よりも広い。だから知覚には実在についての誤解が生じやすい。
知覚が五感を解釈(意味付け)する。だから知覚の誤解は正しにくい。
自分の頭を使って考えぬかないかぎりは、自分の間違いには気づかない。
人間の感覚の世界においては、五感よりも知覚が広い。
そのため、五感に対する解釈は、知覚によってまちまちになる。
知覚によって五感に対する意味付けが変わる。
しかも、それらの知覚の中で正しいものはひとつしかない。
すなわち、実在と一致した知覚だけが正しい。
人間は自分の感覚しか感じることができない。
よって、人間にとっては自分の知覚が実在にほかならない。
自分の知覚に間違いがあれば、その知覚に相互従属する心は狂った心になる。
正常な心の中に潜む煩悩の力で正しい知覚に非実在的な命題(例えば、マインドコントロールで他人が自分の思い通りになる)が付け加わり、五感に対する間違った意味付けで膨れ上がると妄想体系ができる。
知覚の中に間違いがあると、五感と知覚に矛盾(つまり、眼で見たことと頭で考えたこととの間に食い違い)が生じ、心がイライラして不愉快になる。
知覚を実在と同じにするには、アイデア(例えば、感覚、ことばの上だけのからいばり、心の不平等など)を思いつかねばならない。
知覚が実在と同じになれば、イライラ感は消え、心も正常で穏やかになる。

ことばとは
平成13年4月30日
ことばとは、知覚における概念を五感における文字や音声に対応付けた
ものである。
ことばとは、いわば概念につけた‘名前’である。

人間の心の構造
平成13年4月30日
人間は知覚的動物である。だから、その価値は‘知覚の正しさ’にある。
人間の価値は、自分の心をいかに働かせたかで決まる。
つまり、自分の心の人間的部分を働かせば価値が高まり、
反対に動物的部分を働かせば価値が低くなる。
人間が幸福であるためには自分の心の価値を高めねばならない。
さもなければ、周囲の他人からいじめまわられる存在となるであろう。
いじめとは、痛みの実験動物となることである。

心とは
H13.4.21
心は大脳皮質の前頭前野に位置する。
気合を入れるとオデコの奥が熱くなるのは
心がここにあるからである。
心は多くの感情から成る。
それぞれの感情は実在において‘部分的に’満足される。
感情は非実在的というよりも、準実在的(ファジー)である。
実在において完全にかなうもの(満足度100%)もあれば、
完全にかなわないもの(満足度0%)もある。
ふつうは、その中間である。
〈補足〉前頭葉の皮質にある脳細胞(感情細胞)の
神経興奮によって感情が発生する。

バカの構造
H13.4.21
バカは心でわかることがないから上辺だけ立派だ。
バカには人の心が見えていない。

どーして他人の感情が自分にわかるのか?
H13.4.14
哲学T原理により、自分には自分の感情しか感じられない。
そこで、自分が感じている感情を自分の眼(視覚)で見える
他人の頭の中に代入して、他人の感情とみなしている。

感覚器と五感と感情と知覚の関係
H13.4.14
実体から反射された光が眼(感覚器)に入る。
網膜細胞の神経興奮が大脳半球の後頭葉の視覚中枢に届く。
視覚中枢にある視覚細胞が興奮すると、視覚の感覚を生じる。
その視覚の感覚が、前頭葉の感情において快または不快の感情を生み出す。
また頭頂葉の知覚において概念の組み合わせとして分析される。
例えば、チューリップの花を見た場合、
後頭葉の視覚中枢ではチューリップの色と形を感じ、
前頭葉の感情では、その美しさを感じ、
頭頂葉の知覚では、その色と形を持ったものがチューリップという花の
集合に属することがわかる。

哲学T原理
ー 自律の最高原理 ー
H13.4.14

キチガイ
H13.4.14
創られた心が自分自身の心への適応を妨げ、
創られた実在が実在への適応を妨げる。
ありもしない立派な心を信じることが躁鬱病を生み、
ありもしない自分に都合のいい世界を信じることが分裂病を生む。

お金持ちになることが立派だからといって、
自分が‘本気で’お金持ちになりたくもないのに、そう信じて行動することが、
いざというとき自分の心の支えにならず、心が落ち込んだままになる。
他人が(超能力で)自分の思い通りになると信じて他人の自由を認めないと、
いつまでたっても他人の存在を認められない。

物質に法則があるように、人の心にも変えられない部分がある。
それを考えに入れながら生きることが大切なのだ。
例えば、私は医学が嫌いだから医者を仕事にしてはならないし、
車に酔いやすいから、車の免許は持っていない。

哲学V原理
ー 物と心の相互依存性 ー
H13.4.14
この原理は正しい。
なぜなら、最も簡単に‘図に描ける’からである。

《手順》
1.まず心のままにやってみる。
2.ダメなら物(実在)を受け容れる。
3.修正された心でもう一度やってみる。
4.それでもダメならもう一度実在を受け容れる。
くりかえし...

どーして、人はキチがいになるか?
H13.4.14
超能力などの実在しない概念によって、心と物(実在)のつながりが
切断される。
本気でお金持ちになる気がないのに、頭だけでお金持ちになりたいと
思って行動するのも、心と物のつながりを切る。
物と心の結合が断ち切られているのがキチガイである。

五感と知覚と実在の関係
H13.4.14
知覚には五感にはない概念が含まれている。(例、空気、電波など)
実在には知覚にはないものがある。
科学がたったの300年で終わるはずがないからである。
自分の知覚の外に、自分がいまだ知らない実在の世界が広がっている。
知覚のほうが五感よりも広く、
さらに実在は知覚よりも広い。

平成13年4月7日
概念とは
解説)コロやポチを自分の眼で見、記憶することから
それらの共通部分として‘犬’の概念が作り出される。
逆に、‘犬’の概念に当てはまるものとして
例えばシローが犬だということがわかる。

平成13年4月7日
認識子
解説)視細胞の中にあるロドプシンが光子によって変形するように、
脳細胞の中にある認識子(タンパク質の一種)が神経興奮によって
変形すると、感覚子が発生する。

平成13年4月2日
・幻聴のメカニズム
解説)脳細胞Aから発射された感覚波を脳細胞Bが浴びると
脳細胞Bが‘励起’して脳細胞Bのある所に感覚が生じる。
 ふだんは、音がしないときには音の感覚が生じないように、
聴覚細胞には抑制がかかっている。その抑制がはずれると
感覚波を浴びただけで聴覚細胞が興奮し、
感覚が生じるようになる。
これが幻聴である。

平成13年3月28日
論理とは
論理とは、普遍法則を具体例に適用するものの考え方である。

平成13年3月3日

平成13年1月3日
解説)前頭葉にある脳細胞が神経興奮すると、
快または不快感を伴った感情の感覚が生じる。
頭頂葉にある脳細胞が興奮すると、
快・不快感のない知覚の感覚が生じる。
後頭葉にある脳細胞が興奮すると、
五感のひとつである視覚が生じる。

平成12年12月28日
人間の心はいろいろな感情の集まりである。
「感情はしょせん脳細胞の神経興奮にすぎない」から、実在にはかなわない。
いくらケイレンするほど気張っても、実在に反する願いはかなわない。
自分の心を実在に従属させるとき、実在に反する感情は消え、
実在に反しない感情だけが残る。
つまり、人間年をとればとるほど、活動できる感情の数は減る。

自分の感情を実在=全宇宙に従属させれば、
感情は非実在的だから、感情は全部否定され無になるけれども、
‘実際に自分が生まれてから死ぬまでの間に経験する実在’は、
実在の極々一小部分にすぎない。
制限された実在だから、それに従属しても感情全部は否定されない。
残った夢(快の感情)がある。
人間、いくら大人になっても少しは夢が残っている。
(若干、大人になると増える快感もある。
 また、一度捨てた夢が甦ることもある。)

人間の無知さのゆえに幸福がある。
だから、『60にして心のままに欲すれども則を越えず』などと
思いあがってはいけない。油断大敵。
感情と実在の対立は死ぬまでなくなりはしない。

大人の感情は数が少ないだけに希少価値がある。
子供のように気安く夢を捨てるわけにはいかないのだ。

平成12年12月24日
五感従属性感情
・感情が五感に従属する。
・知覚はないに等しい。
・言葉は音に、文字は記号にすぎない。
・五感界を実在界だと誤解している。
知覚従属性感情
・感情が知覚に従属する。
・五感に対する知覚による意味付けがある。
・言葉や文字に知覚的意味がある。
・五感界を知覚界において意味付けることによって、知覚界が実在界に近づく。