[201] 私の魔法少女遍歴 h14.1.3
『魔法の天使クリィミーマミ』の最終回を天からの声の命によって見る。
当時、私は故郷の高知を出て福岡に学生として暮らしていた。勉強しているとき、幻聴で「いま面白いアニメをやってるから見てェ」という声がしたので、即勉強をやめてテレビを見た。見たら、小さい猫がかわいいだけで、別に面白くなかった。その後、なぜか、小さい猫の代わりにピノピノが2匹と憶えていた。ステージの両脇に人間の腰の高さくらいある“宇宙人パピ”が1匹ずつ立っていたとずっと勘違いしていたのだ。(ひょっとしたら、何か別のアニメだったかもしれない。)
『魔法の妖精ペルシャ』新聞で題だけ見たような気がする。テレビは一回も見たことない。たぶん、当時の九州朝日の裏版『とんがり帽子のメモル』を毎回見ていたのでペルシャが見れなかったんだろう。メモルを見終わってから、ペルシャの後にある『キン肉マン』をしっかりと見ていた。メモルには相当ハマっていて、夏休み帰郷するのもためらったほどだ。それでも高知に帰ったら高知でもメモルをやっていたが、一週間前に福岡で見たものだった。帰省したとき、妹の小学館の学習雑誌で、「凍りついた学と力」と「真冬のライオン祭り」を読んだ。絵の綺麗なアニメだと思った。
『魔法のスターマジカルエミ』福岡放送で第1話だけ見た!第2話以降は打ち切りになって見れなかったからである。福岡では当時局が少なかったので、人気のないアニメは早々打ち切られることがたびたびであった。たとえ全国的に人気があっても、福岡で人気がないとだめ。例えば、ミスター味っ子、強殖装甲ガイバー、ブロック塀の後ろで一つ目のロボットが家の中をのぞいている変なSFアニメ(名前忘れた)など…。馬出(まいだし)のマルキョー(スーパー)の文具コーナーでマジカルエミの塗り絵が売っていたのを憶えている。キャラクターがやたら美形だったせいだろうか。見ただけで買わなかった。同じスーパーのレジの横で‘ペルシャの氷のペンダント’も売られていた。これも買わなかった。「田舎だから、放映もないアニメのおもちゃなんかが売っているのか!」と思った。してみると、ペルシャは福岡では放映がなかったのかもしれない。当時の私にとっては勉強勉強の毎日で、到底アニメどころではなかったのだ。ペルシャなんかどうでもいい!
『魔法のアイドルパステルユーミ』なぜかしっかり福岡でも放映されていた。
でも、同じく九州朝日の裏版『メイプルタウン物語』を見ていたためにユーミは見なかった。ただ、一回だけ、ユーミのEDで水玉に乗ったユーミを見た。当時は、朝日と日テレが競っていて、私は朝日派だったので、『魔法の妖精ペルシャ』→『魔法のスターマジカルエミ』→『魔法のアイドルパステルユーミ』が、『とんがり帽子のメモル』→『は〜いステップジュン』→『メイプルタウン物語』に完全に食われてしまったのだ。それだけ、メモルがすごい番組だったといえる。なんせ、私にペルシャを一度でも見てみようという気にさせなかったのだから…。してみると、福岡でもマジカルエミはあったかもしれない。メモルがおもしろすぎたため、私はメモルの後番である『は〜いステップジュン』を何の疑問も抱かずに一生懸命見ていたのだ。その上、『メイプルタウン物語』までも…。(当時私は20歳を過ぎていた。)魔法シリーズは、昔の東映の魔女っ子のイメージがあったので、女の子向きだから見んでもええわと思って油断してしまったせいも大いにある。
医学部の専門に上がってからは、いっそう勉強に忙しくなり、しばらくの間アニメと一切縁を切らねばならなかったのであった…。
私が本格的にアニメに再び戻ってきたのは、九州朝日の『魔法陣グルグル』からであった。
『魔法陣グルグル』は、ワタルとメモルの合成のような作品で、絵はダサいがギャグが新しくて面白く、私はすっかりグルグルの虜になってしまった。ひさびさに本気で笑える作品と出合った。グルグルをもっと見たかったので少年ガンガンを買った。マンガ雑誌をお金を出して買ったのは、アラレちゃんにハマっていた10代の少年ジャンプ以来だ。
それまでにワタルもビックリマンもあったが、私にここまでさせたのはグルグルがはじめてだ。とにかくこのときから自分にマンガを本屋で買う自信が付いた。もちろんグルグルの単行本も買った。最近グルグルの14巻を買った。ガンガンを買うのはやめたが、グルグルの単行本は今でも連綿と買い続けている。
本屋でマンガを買う度胸が付いたので、ついでに高橋留美子の『うる星やつら』ワイド版を全部買った。それまでにうる星やつらは、床屋の待合にソルト1号が出てくる回を読んだことがあるくらいだった。かわいいコックさんの絵描き歌の最後に礼が付いていたので変わったマンガだなと思った。福岡に来たときテレビでも放送されていたが絵柄が気に入らなかったので捨てた。OPが「殿方ごめん遊ばせ」だったのでディーンがやったところだが、当時の私は朝日系だったので、霞がかかったようなボンヤリした絵でないと見る気がしなかったのだ。故郷高知から出てきたばっかりで、高知にはNHK、NHK教育の他に民放は高知放送とテレビ高知の2局しかなく、テレビ高知は日テレ系だけど高知に老人が多いせいかアニメをあまりやってくれなくて、高知放送は朝日系でわりかしアニメが多かったからだ。小さい頃から朝日のアニメに慣らされて育った私の目にはアニメといえば東映動画のぼやけた絵しかなかったのだった。…ともかく、うわさではかねがねからうる星が面白いマンガであることは私の耳に伝わっていたので、単行本を買ったのだ。たしかに面白かったが、マンガが白黒だったので、飽き足らずLD−BOXも買った。その頃私はマンガの単行本がすでにカラー化されていると思っていたのだ。実際買ってみると旧態依然なので、時代は変わってもマンガは変わらんなと思った。私が子供の頃に較べると、雑誌は高くなったが、単行本は値段もあまり変わっていない。
マンガを買うようになると、前々からアニメが好きだったのでアニメ雑誌も買うようになった。AXというアニメ雑誌の「俺のヒロイン」というコーナーに香月舞が絵入りで紹介されていた。この絵は本物だと思い、さっそく予約を入れた。買って見てからあとで自分が見たことがあるのに気付いた。15年ぶりの御対面だった。念願の第2話から後が見れてうれしかった。それより前にフレッシュガンガンにペルシャのLD−BOXの紹介が出ていたが、妖精がボーイフレンドを女に変えるのがすごいのと、声優がぬーベーで美樹役をやった冨永みーないうだけでバカバカしい感じがしたので買わなかった。しかし、エミを見てその画質の高さに感動した私はすぐにペルシャのBOX1を買い求めに出かけたのであった。その後マミ、ユーミも買って、魔法少女の全部がそろった。さすがに、マミは外したとあとで思ったが、ほかのは大満足。こうしてようやく福岡で見逃した朝日の裏版を見ることができました。めでたしめでたし。これで私の魔法少女遍歴はおしまい。
参考資料:放映期間は中央局のもの。地方では若干異なる。
★『魔法の天使クリィミーマミ』83・7・1〜84・6・29
☆『とんがり帽子のメモル』84・3・3〜85・3・3
★『魔法の妖精ペルシャ』84・7・6〜85・5・31
☆『は〜いステップジュン』85・3・10〜86・1・12
★『魔法のスターマジカルエミ』85・6・7〜86・2・28
☆『メイプルタウン物語』86・1・19〜87・1・11
★『魔法のアイドルパステルユーミ』86・3・7〜86・8・29
★マミ、ペルシャ、エミ、ユーミは、福岡放送(日テレ系)で日曜朝9:30から放送されていた。
☆メモル、ジュン、メイプルタウンは、九州朝日(朝日系)で日曜朝9:30から放送されていた。
[202] キャラクター各論 h14.1.3
ペルシャは見るといい気持ちになるが、美形すぎて共感が難しいか。
優と舞は普通の女の子で共感しやすい。
顔型が優は丸くて舞は四角っぽくて、優のほうが舞よりも女の子っぽい。
ユーミは普通じゃないが、男にとっては共感しやすい。
ミホも舞と顔が似ていて共感しやすい。
モモは顔が普通だから共感しやすい。
[203] 話と絵 h14.1.3
私が若い頃マジカルエミの第1話で感動できたのは、
話の内容を感じていたからだ。
人間幼い頃は現実と空想の区別がついてない。
だから作り話にも乗れるのだ。
ところが人間年をとると現実が否応でもわかってくる。
そうなるともはや作り話の内容では感動できない。
作り話の意味など感じられないのだ。
だからアニメは絵であり、
キャラの表情と自分の感情の対応がすべてなのだ。
[204] 香月舞はなぜ体操服を着ているか? h14.1.4
それは体操服は男の子でも女の子でも着るからさっ。
[205] ペルシャとユーミ h14.1.4
ユーミはギャグが現実的でないけれど、
ユーミに対する見方は現実的である。
ユーミについては、現実の自分(男)を基にしてキャラを見ている。
ルパン3世の面白さと共通するものがある。
一方、ペルシャは現実からかけ離れて見ている。
ペルシャと一体化できる女の子の心理がようわからん。
男は現実的にものを見ようとするが、
女は空想そのものを楽しむことができる。
[206] 基本はユーミ h14.1.5
ペルシャやエミに見慣れると、
ユーミは見れたもんじゃない。
逆に、
パステルユーミが面白く見れるようになったら、
ペルシャやエミなんかお手の物だ。
空想を空想として楽しむよりも、
現実を基にして見たほうがおもしろい!
ユーミに対する見方を、舞やペルシャに応用すればよいのだ。
ユーミ(基本)→舞(易)→ペルシャ(難)
これが男にとっての魔法少女の楽しみ方なのだ。
[207] 男はケツから入る。 h14.1.5
女の子は、最初の優から入って、ペルシャ、舞で限界に達し、ユーミには付いて来れなかったが、
男の子は、最後のユーミから入って、舞、ペルシャで限界に達し、優で落ちこぼれだ。
女の子は頭の優からすんなりと入れるが、男はケツのユーミから強引に入らねばならないのだ。
[208] 作監各論 h14.1.5
洞沢由美子の絵は、純粋に女の子を描いている。
加藤鏡子の絵も、男と女の区別は厳格だ。
洞沢や加藤のペルシャや舞は、どう見ても女の子にしか見えない。
高倉佳彦の絵も、修正されたユーミ以外は一応女の子に見える。
しかし、岸義之の絵は、男の子にも女の子にも見える曖昧な不思議な絵だ。
[209] ファッションララ ハーバーライト物語 h14.1.5
Take me To the Sky…
ボロボロの服を着た小さな女の子がデザイナーに憧れている。
自分で一生懸命新しい服を考えて帳面にかいている。
お金持ちの女の子はただお金を出して服を買いさえすれば済むもんね。
シュリに服を作ってくれと頼まれたが、
果たしてどれだけのものが出来上がっていたかは不明。
そんなもん、ふつう子供に頼んだりするか?!
みほとキッド。方や市長のバカ息子、方や服屋の貧しい娘。年も身分も違う二人だが、ともに親子のいさかいが絶えない。
みほが市長の家に行った帰りに海辺で空を見上げるシーンは
ベッドに寝ていた女の意味を考えているのではなく、
自分と同じ境遇にいるキッドのことを考えていたのだろう。
本当は二人とも悲しいんだ。
[210] なぜ魔法少女は魔法を使わないか? h14.1.5
魔法を使うと、「ひみつのアッコちゃん」のように
子供には受けるかもしれないけれど、
大人のファンには振られる恐れがあるためだ。(以下略)
[211] クリィーミーマミは別格 h14.1.5
ペルシャ以降の魔法少女は、男か女かわからない絵が多い。
クリィミーマミは真面目だから、そんなおかしなテイストはない。
[212] ファッションララビデオ h14.1.5
この正月休みファッションララLDを2回見たので、
今日はファッションララのビデオを見た。
もちろん、中身は同じである。
ビデオにはいくつかのノイズが見られた。
1.OPでみほが水玉の横で振り返っているシーン。水玉にヒビが入っている。
2.巨男登場の場面。巨男の頭にヒビが突き刺さっている。
3.キッドが海賊ディンキーの墓場でハーモニカを吹いているシーン。大きな白斑が見える。
4.みほがシュリのドレスをデッサンする場面。ヒビの群れが見える。
これとまったく同じノイズがLDにも見られる。
私はこれまでビデオを一回だけ見て後はLDばっかり見続けてきたから、今の今までヤフオクで不良LDをつかまされたと思っていた。たまたま今日ビデオを見て、ノイズがマスターテープのせいであることがわかった。LDは美品でした。2万円もしたんだもん。長い間出品者を疑ってすいませんでした。ごめんなさい。
このファッションララビデオには、LDには収録されていないセイカノートのCMが2本も付いている。おまけにanimateの広告までもついている。そのためか、値段も\11,800とLD\9,800よりも高い。
[213] ぼくのファッションララ h14.1.5
「きたねえ野郎だ!」キッドでなくても不満はある。
「ケンカはやめて!」逸る心をララのダンスで静めろ。
…そんな作品だったらいいなあ。
しかし、実物は暴力シーンばっかりで、ダンスはいまいち。
少年誌なら善が悪を倒して終わりだが、
魔法少女ではみんな仲良しでなければならないのだ。
[214] 女性はいつも楽しそうにしなければならない(男の身勝手) h14.1.5
幸せそうな少女を見ていると自分も幸せになる。
マンガでもいい。
女性のやさしさが世界を救う。
[215] 男のための魔法少女入門 h14.1.6
小さい頃に「魔法使いサリー」は見たことがあるけど、
「ひみつのアッコちゃん」から後の東映魔女っ子は見なかった。
なぜなら、東映の魔女っ子たちはあまりにも女の子らしすぎて、
男にとっては他人事に過ぎなかったからである。
私がノーマルな男だから、東映魔女っ子には興味を示さなかったのである。
私が魔法少女を本格的に見るようになったのは、
「魔法のプリンセスミンキーモモ(’82年)」からである。
ミンキーモモには、男にも共感できる要素が多い。
とりわけ作品の核ともいえるヒロインのキャラクターに、男の形質が含まれていることが重要だ。
自分がアニメのヒロインと一体になれるなんて、
これはもはやひとつの新しい快感…
モモ派にはぴえろの絵が慇懃(いんぎん)だという者もあるけど、
絵が慇懃だろうが奔放であろうが、キャラクターに
男の要素が含まれていさえすればよいのであって、
画風の違いなど問題にならない。
男はあまり小さなことを気にしてはならないのだ。
他の、男にもわかる魔法少女には、
「魔法の妖精ペルシャ」
「魔法のスターマジカルエミ」
「魔法のアイドルパステルユーミ」☆
「魔法のプリンセスミンキーモモ(’91年)」等がある。
※クリィーミーマミは森沢優が女の子っぽすぎて不適。
絵が綺麗なだけで見ているファンもいるが、それは
作品をたんなる絵として傍観しているにすぎず、
自分が作品の中に実感を持って参加してはいない。
作品を自分のものにしていない。
俺もクリマミは半年くらいは付き合って見たんだが、
ついにはわかるもんじゃないと思って一切見るのをやめにしたよ。
[216] ファッションララは男のための魔法少女である。 h14.1.7
人間は男女の区別に意外と敏感である。
ペルシャ→舞→ユーミで、ヒロインの男化は一応の結末を見た。
ララは男女の統合から分離への方向転換であって、ヒロインのみほは女の子らしく、ヒーローのキッドは男らしく設定されている。
クリィミーマミはヒロインの優はともかく、ヒーローの俊夫も女っぽくて、話も業界ネタが多く女の子が好きそうな話題で、ことごとく女らしさで塊めていた。だから、クリマミの世界には男の入る余地がなかった。しかし、ララではヒーローのキッドがワルでやたら男気が強く、街中をブチ壊し回り、男でも喜んで見ていられる。みほも男受けするキャラクターで、作品全体が男向きだといえる。そのためか、ビデオにもLDにもでっかいバイクの絵が載っている。
おまけ:マミとモモの比較
クリマミは女の子向きであるのに対し、ミンキーモモは男の子向きで、キャンディキャンディとゲッターロボほどではないにせよ、クリマミとモモとは作品の性格が正反対だと言える。
[217] どうしてパステルユーミは半期で終わったか? h14.1.8
洞沢の花園ユーミは正直言ってかわいくねーなー。
もし洞沢の描いたユーミがかわいかったら、番組の後半も続いていただろうな。
番組つぶしたのは、下田なんかじゃなく、洞沢のせいだな。
鴫野監督、あんたが悪いんじゃねえ。
岸が抜けて洞沢ひとりになって、そのたよりの洞沢もアカンかったら、そりゃおしまいだわな。
岸のユーミは顔がうんこのように汚い。ペルシャや舞と同じように地でやってくれたらよかったのに。
[218] 自分に適したアニメ h14.1.9
大人(38歳)の男のためのアニメじゃないと私には見れない。
男のためだから、女の子向きのアニメはダメ。「どれみ」は見れない。
大人のためだから、現実離れしすぎてダメ。魔法オチは使ってはならない。「ひみつのアッコちゃん」は見れない。
[219] カッパがくれた最後の魔法 h14.1.12
別れぎわに河童がペルシャに残してくれた最後の魔法…
「ペルシャったら魔法を使わなくたって自分の力でやりますの」
大人の考え方だ。偉いぞ、ペルシャちゃん。
人間の赤ちゃんになったミンキーモモでも同じ。
最後の夢はモモが自分自身でかなえなければならない。
香月舞も同じことをやっている。
「魔法を使うより自分でやったほうが面白い。」
心で宇宙が変わるわけないわな。
[220] 実在感 h14.1.13
絵をたんに絵としてだけ見ても面白くない。
絵を面白くするのは、絵と自分とのつながりだ。
現実の自分を基にして絵を見ないかぎり面白くはならない。
魔法少女は絵に実在感がある上に、キャラが男ぽくっていい。
反対に、絵が手抜きになればなるほど実在感が薄くなる。
魔法少女とうる星やつらは絵に実在感があるアニメだ。
ミンキーモモはまだ絵がマンガっぽい。でも、話もマンガっぽいからいいや。
[221] アニメと特撮とドラマと現実 h14.1.13
アニメは子供が見るものであり、ドラマは大人が見るものである。
子供は現実に無知だからアニメが楽しめるのであり、
大人は現実離れした絵の世界などバカバカしくて相手にしない。
実在感の有無が問題だ。
モモ派はぴえろの絵が慇懃(いんぎん)だというけれど、
それは絵に実在感があることの僻み(ひがみ)にすぎない。
ぴえろの硬い絵はアニメに実在感を出すためだ。
モモが実在から離れたマンガノリであるとすれば、
私は個人的にはぴえろのほうを応援したい。
もちろんマンガにも傑作と駄作の違いがあるのであり、
マンガであるからには話が楽しくなければならない。
実在感がないアニメにも面白いものはある。
実在感があるアニメか、ないアニメか、
人間の感性には幅があるから、
どちらか一方だけにしなければならないわけではない。
マンガにも多かれ少なかれ実在性は含まれているし、
ドラマにもマンガ的なところもある。
でも、男にとっては女向けのアニメがつまらなく、
女にとっては男向けのアニメがつまらないところを見ると、
心の世界にも男と女の違いは生まれたときからすでにあり、
それを犯してはいくらマンガでも成り立たない。
男が一生懸命女向けのアニメを見ても一向に面白くはなり得ないのだ。
そりゃ遺伝子が違うもんな。
いくら心が眼に見えないからといって、どうにでもなるものではない。
心はいつも本気だ。心に冗談は通用しない。
男でも我慢すれば女向けのアニメは見れるが、心の奥ではちっとも面白く思っていないのだ。それを変えることは出来ない。
そもそも男には現実志向性があり、女にはそれがない。
女の頭の中は現実よりも空想が支配しているのだ。
女の頭の中には現実とは別のもうひとつの世界があるのだ。
女は絵だけの世界を楽しみに出来る。
だから、洞沢由美子の絵はやたらコリコリなのだ。
少女漫画の世界は絵だけの喜びだ。
一方、男は何でも現実的に見ようとしたがる。
マンガでもアニメでも現実的に見る。
少年ジャンプのマンガはそういうところがある。
アラレちゃんにうんこが出てくるのも、鳥山明の絵がうますぎるので絵だけの喜びの世界に入りすぎるのを防ぐためだ。
男の世界はそうまでして現実的であらねばならぬのだ。
だから男は実在感のあるアニメじゃないと本当は気に入らない。
キャラに男っぽさがないと、他人と見なして飽きられてしまう。
自分と同じ者は仲間であり、違う者は敵なのだ。
岸義之の絵が下手なのに面白く見られるのは、絵が男の子か女の子かわからないほどに曖昧で、男が見てもヒロインに共感できるからである。
洞沢由美子の絵は岸からすれば女の子っぽいが、もともとキャラクターに男らしさが入っているので、男が見ても共感が成り立つのである。
振り返ってみると、昔の東映の魔女っ子たちは女の子らしかったので、男の見るもんじゃなかった。
ミンキーモモから後の魔法少女は男らしさがあるので、男でも見られるのだ。
昔の魔女っ子は空想だけのきれいごとにすぎない話が多かったが、
魔法少女には現実志向性がある。男に受けないわけがない。
1980年代前半は世の中の景気がよかったから現実志向性があった。
それでアニメの世界にも実在感が求められた。
現実肯定的な内容がウケる時代であった。
今の時代はゲームとか不景気とかで現実離れの傾向がある。
実在感のないアニメがそれに拍車をかけている。
男なら現実の世界に生きるのだあ。
全部のアニメが現実的でないのではなく、アニメの中にも現実的なものとそうでないのとがある。
現実的なアニメについては、大人の男が見ても楽しめる。
そういうアニメがたくさんあればいいのだが、今のところ私にとっては魔法少女とうる星やつらしかない。
特撮にも現実的なものとそうでないものとがある。
特撮だからといって必ずしもアニメより現実的とはかぎらない。
バッタのお面をかぶって怪人とプロレスごっこするだけの特撮では子供に受けるだけだ。
しかし、現実的な特撮は大人が見ても面白い。
レインボーマンは大人受けする要素がいっぱい詰まった、明らかに大人の見る目を意識してつくられた、大人のための特撮だ。
私が子供のとき見たときには、月の化身の蛇変化の術が異様にかっこ悪いと思った。しかし、電流人間エルバンダ(じつは最近まで名前を‘サンダーボルト’だと思っていた!!死ね死ね団幹部にボルトというのがいて、それと勘違いしたらしい。)を必殺技「稲妻脳天逆落とし」で倒してからは他の化身と同格にまでなった。エルバンダがコッパになったとき、月の化身もいっしょにフッ飛んでいた。とくにダイバダッタの出る回が面白かった(今でも)。
もちろん、ヘンテコなぬいぐるみが番組の後半に毎回出てきて盛り上がる子供っぽいノリもいい。それはぬいぐるみの出来次第だ。スペクトルマンなんかがいいねえ。
1970年代前半には少し大人を狙ったそんな特撮が多かった。
今やっているのでは、スタートレックがいい。セットに見ごたえがあるのと、ストーリーが奇想天外で面白いから。日本にはいいのがない。
とにかくアニメにしろ特撮にしろ、実在感のあるものは大人(現在38歳)の男の私にとっても十分面白いということだ。
ドラマは見たことないけど、現実的すぎて面白くないのでは?
とくに今のドラマはネタ切れで退屈なかぎりだ(と思う)。
私が小さい頃は、「俺たちの旅」とか「走れ!K100」とか「日本沈没」とかいろいろあったな。
「走れ!K100」と「日本沈没」は全部見たけど、「俺たちの旅」は面白そうに思っただけで一度も見たことない。「太陽にほえろ!」も、雰囲気が嫌いでいっぺんも見たことない。小学2年のときマカロニがトイレでやられたことがクラスで話題になったけど、僕だけが知らなかった。ほかに石橋正次の出てるトラック野郎のが面白かった!
結局ドラマでも現実的すぎると面白くない、って言うか、ドラマの作り方が大人の曇った目で見た現実なのが子供のときから気に入らなかった。
ドラマの世界は私の目から見れば現実の振りをしている絵空事にすぎない。
すぐに男と女の話題にするのも、作家が視聴者をバカにしているみたいでつまらない。
ドラマは大人の汚い喜びばかり描いている。まずその大人観がふざけていて嫌だ。汚い喜びでは喜びたりえんちゅうのがわからんがか!
ドラマはいかにも現実を描いているようでじつはまったく描いていないというのが、私の個人的な見解だ。すべてのドラマがというわけではないが(なんせ知らないから)。
ドラマは実写だから油断しているのだ。眼に見えることが必ずしも現実ではないのに…。
[222] ユーミの分類 h14.1.13
男に生まれてよかった。
[223] アニメにありがとう h14.1.15
人間にはふざけた心がある。(私の哲学日記参照)
それを無難に満足させることが必要である。
何もしないとふざけた心が満足を求めて変なことをしでかす。
余計困る。
アニメはふざけた心を満足してくれる。
アニメのおかげで無事安泰に暮らせる。
アニメに一言お礼を言いたい。
ありがとう。
魔法少女はともかく、うる星やつらは面白い。
楽しめるものは大切にしよう。
[224] 特撮とアニメの違い(その1) h14.1.16
レインボーマンを見ながら考えたこと…
特撮は実在の世界の上に実在でない意味を構築することである。
そのため、ひとつの実体が二つ以上の意味を持つことになり、混乱する。
アニメは実在とは別の、絵の世界に意味を構築することである。
特撮とアニメでは土台となる世界が違うのである。
アニメは絵に始まり、絵に終わる。(私は似顔絵は下手だけれど。)
アニメは現実から意味を借りてくるけれども、その実体は紙の上の世界であって現実との関わりを持たない。
紙の上の世界なんて、なんだか勉強みたいだね…。
アニメは色や形では実体を真似られるけど、人間の肌合いや岩肌なんかの質感は全然表現できない。
[225] 特撮とアニメの違い(その2) h14.1.17
特撮にしろアニメにしろ、話の内容に突っ込んであれこれと考えても、しょせん作り話だから仕方がない。作り話についていくら一生懸命考えても何も得るものがない。
アニメは人生の教訓を得るために見るのではなく、楽しむために見るものだ。絵なり言葉なりが見て聞いて面白ければそれでいい。アニメを見て他人がうまいと思うコメントを入れることよりも、自分ひとりで面白さを感じることが一番大事なのだあ〜!!
アニメの世界の土台(基礎にあるもの)は絵であり、絵の動きがこの世界のすべてなのだ。
キャラクターのセリフなどどうでもいい。ムダ口にすぎない。絵で表現できないところの補いだ。
アニメでは“絵画的感覚”が一番大事だ。それを活かしたアニメが優れたアニメだといえる。
[226] アニメを楽しむために☆ h14.1.17
アニメを楽しむためにはアニメの世界に入ることが不可欠だ。
自分がアニメを見るのではなく、自分がアニメのキャラクターと一体化することが肝心だ。
アニメを見るときには、テレビを見ている自分の存在を忘れて、キャラクターに意識を集中しないといけない。
[227] 男向きの少女アニメ h14.1.17
男と女の間には広くて深い溝がある。
男には女のことがわからんし、女には男のことがわからんし…。
クリマミ(クリィミーマミの略)は女っぽすぎるので、男が見てもわけがわからん。
ペルシャ〜海モモまでは、クリマミの視聴率があまり振るわなかったので、はじめから男の子が見ても楽しめるように作られているのだ。
ありがたい。
クリマミとか東映魔女っ子とかがわかる男はヘンタイとしか言いようがない。
[228] 実在と非実在の狭間(はざま) h14.1.17
「ガロアの理論」(概念の創造力がすばらしい!)=「メンデルの実験」(数ある生物学者の中でも天才と呼べるのはコイツだけ)=「レインボーマン第2話」(ダイバダッタ)=「マジカルエミ第1話」(手品のトコ)
[229] 女の子になりたい男 h14.1.18
世の中にはよく女の子になりたい男なんてヘンなヤツがいるけど、それは現実には不可能だ。
他人の芝生が自分のよりも緑に見えているだけだ。
たとえ身体が女の子になっても、心が男のままでは、女の子の文化は楽しめない。
[230] どうして魔法少女はアニメなのか? h14.1.18
答え:子供では、まだ演技力が足りなくて芝居ができないから。
石ノ森魔法少女シリーズでは、ちゅうかなぱいぱいがオバン臭かった(ショック!!)。
いぱねまのほうが好き。
[231] 昔のテレビと今のテレビの違い☆ h14.1.18
昔のドラマ(アニメも)は、現実の人生そのままをテレビに表現していたので、その中には楽しみも苦しみも両方あった。レインボーマンなんかがこれだ。テレビを見ても仕事や勉強の続きみたいで、十分relaxできない。
今のドラマ(アニメも)は、テレビを人生を楽しむために利用するために見るので、楽しさだけしか含まない。私もこれに賛成だ。アニメはひたすら見て楽しければそれでいいのだ。うる星やつらや魔法少女なんか、楽しさ中心でいいアニメです。
仮面ライダーなんかも、ぬいぐるみのプロレスごっこに過ぎないが、正直言って子供の頃はレインボーマンよりも面白かった。
[232] 私流アニメの見方☆ h14.1.18
アニメは現実に従属すべきであって、アニメが現実を支配すべきではない。
男女アニメは、現実の自分を基にしてヒロインに共感して楽しむものであって、アニメのヒロインのキャラに自分がかぶれてはならない。
このほうが空しくなくていい。
[233] 男と女 h14.1.19
人間は自分のことしかわからない。
人間には自分と違う他人のことはわからないのだ。
人間にはわかりあえる(ここでは、心で共感できるの意味)部分もあるが、わかりあえない部分もある。
とくに男と女が絡むとそうである。
男と女の間にもわかりあえる部分はあるが、
男にとっては女の女性的な部分はわからず、
女にとっては男の男性的な部分はわからない。
人間の個性的な部分は他人にはわからない。
人間どおし共通する部分はわかりあえるが、
ちがう部分はわかりあえないのだ。
男の自分とアニメの女の子のキャラも共通するところが多ければ多いほどわかりあえる。
[234] 至上最高のアニメ h14.1.20
一言に楽しさといってもいろいろある。
クリィームレモン(ぼくは見たことないけど)のように、性欲が絡むともはや純粋な楽しさとはいえない。重苦しくなって不愉快だ。
アニメは(現実の人生も)明るく楽しくなければならない。
ミンキーモモは話は軽くて楽しいけど、絵が大まかでいまいち。
ぴえろのは、絵は細かくていいけど、話が現実的すぎてちょっと重たい。
ミンキーモモのマンガっぽい話のノリで、ぴえろの細かいリアルな絵なら最高のアニメになるだろう。
うる星やつらがまさしくそれだ。
[235] アニメの役割 h14.1.21
日常生活においては楽しめるものがまったくない。
このままでは心が落ち込んで頭が働かないバカになってしまう。
そこでアニメの出番です。
アニメで日常生活だけでは不足している楽しさを補っているんです。(^_^)v
[236] アニメ教え h14.1.21
ピエロの魔法少女は幼児向けで大人が見てもためになることがない。
女の子がナヨナヨしているのを見て喜んでいるだけだ。(アッホクサー)
うる星やつらからは、いいことを教えてもらった。
諸星と面堂のケンカを見て、男にとっての戦いの大切さを教えられた。
人生にはケンカも必要だ。
それなのに魔法少女の世界にはケンカがない。
女の子の世界は甘い。歪んでいて幼稚で汚い。
[237] 現実とアニメ h14.1.22
現実のことは大事だから他人に任せず、自分で考えよう。
だからアニメから学ぶことなんかない(ちょっとはあるけど…)。
アニメはただ見て楽しければいい。
アニメはドラマよりも特撮よりも楽しさ本位で、最高のエンターテイメントだ。
反面、アニメを見るからには、それだけしっかり現実のことは自分で正しく考えないといけないということだ。
ドラマや特撮は現実を茶化しているだけだ。
普通のドラマなんか、うる星やつらよりもくだらない。
まちがった教えしかないからだ。
つけたし h14.1.24
いくらアニメを見なくても、現実について考えることがなければ、
アニメを見て現実について考える者よりも劣る。
[238] ラムちゃん h14.1.22
魔法の国の王女様でないからといって、ふつうの女の子というわけでもない。
宇宙人の女の子。
うまい折衷だなあ。
うる星やつらではステキな女の子はみんな宇宙人だ。
そこがめぞん一刻との大きな違いだ。
[239] 絵が細かくリアルでかわいさUP h14.1.22
アニメの絵のディテールが細かくなると、表情がよく出てかわいさが上がる。
昔の動画なんか、絵がイヤイヤで、表情なかったし、アニメの女の子なんて全然かわいくなかった。
ずいぶん進歩したもんだ。
[240] 特撮 h14.1.22
特撮には、現実問題をぬいぐるみで味付けしたものと、現実とは無関係に純粋にぬいぐるみ劇を楽しもうとするものとがある。
レインボーマンやスペクトルマン(じつは見たことないから詳しく知らない)は前者であり、仮面ライダーやウルトラマンは後者である。
明るく気軽に楽しめる番組としては、後者のほうが優れている。
前者は理屈っぽくて面白くない。
アニメ番組も、一般には現実との結びつきが弱いから、後者に近い。
しかし、エヴァのように積極的に現実問題を取り込もうとしたものもある。
アニメを純粋に自分が楽しむために見る者にとっては、エヴァのような暗い作品は避けたい。
アニメをつまらない現実のつづきにしないでくれ!
現実問題に関しては、私の実在哲学でもうたくさんだ!
エヴァよりガンダムよりマジンガーZのほうが名作だ。
レインボーマンよりも仮面ライダーのほうが作品としての完成度が高い。
現実から切り離れた独自の世界を構築している。
つけたしh14.1.24
レインボーマン見て物価問題を、スペクトルマン見て公害問題を、ミンキーモモ「まちがいだらけの大作戦」見て平和問題を考えるほうがおかしい。
テレビ番組を基にして現実を考えるのでは本末転倒だ。
テレビバカだ。(手塚治虫かぶれだ。)
実在する人間をマンガのキャラにたとえて言うなど失礼千万だ。
[241] 魔法少女の見どころ h14.1.22
どの作品もキーポイントはヒロインである女の子を好きになれるかどうかだ。
話の内容なんかどうでもいい。
君たちは理屈にこだわりすぎて本質が見えていない。
要するに顔や身体がかわいければいいのだ。
作品名
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主人公ヒロイン
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キャラデザ
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メイン作監
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顔や身体のいいところ
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魔法の天使
クリィミーマミ
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森沢優
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高田明美
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後藤真砂子
河内日出男
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TVのはザツで味がない。
「永遠のワンスモア」の優が表情が細かくていい。(とくに好きなところはない。)
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魔法の妖精
ペルシャ
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速水ペルシャ
|
岸義之
|
洞沢由美子
岸義之
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セーラー服と青い髪、長いまつ毛、細くて長い足、ちょっとタレ目なところ
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魔法のスター
マジカルエミ
|
香月舞
|
岸義之
|
岸義之
高岡希一
洞沢由美子
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体操服で露出度大、太もも(ちょっと太目はご愛嬌)、幼な顔、キラキラ眼
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魔法のアイドル
パステルユーミ
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花園ユーミ
|
洞沢由美子
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伊達真紅郎
上条修
下田正美
高倉佳彦
|
男っぽい顔、コロコロした身体(高倉)
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魔法のデザイナー
ファッションララ
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みほ
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岸義之
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高橋資祐
|
眼が大きい、ほっぺたがまっすぐなところ、さみしそうな笑顔、平たいあご、みっくが鼻でパフパフするところ
作監が「うる星やつら」で有名な高橋資祐だから、画質の高さは保証付き。
|
魔法のプリンセス
ミンキーモモ(新)
|
ミンキーモモ
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芦田豊雄
渡辺浩
|
三島利佳
堀内修
梶浦紳一郎
渡辺浩
とみながまり
|
旧作より新作のほうが男っぽくなっているのがうれしい。(一体何のアニメなんだ!?)
|
[242] 顔型 h14.1.23
作画監督が手入れするのは主に顔型すなわち顔の輪郭だ。
目や口などの顔の部品は専門のアニメーターがやっているから、キャラクターが違ってもあまり違いがない。
キャラクターの個性が最も強く表れているのが“顔型”だ。
[243] 新魔法少女シリーズへの期待 h14.1.23
パステルユーミの後半からやってくれ!それが筋(スジ)だろ。
→ファッションララ キッドのキメぜりふが毎回聴けるぞ
→アイドルココ ユーミのように顔が男に似ていていい。せめてOVAを作ってくれ。
[244] 女の子になりたい男の本音 h14.1.24
「女の子に変わりたい」は、「女の子が好き」の言いかえではないかな。
同じことだと思うよ。
[245] ヤフーオークション h14.1.25
自分ではたらいていないから、一万円以下のものしか買えんがやろうが!
[246] ぴえろ魔法少女シリーズ h14.1.29
シリーズ違っても絵柄が同じだし、飽きられるのも当然。
[247] アニメは繰り返し見よう。 h14.1.30
私は大学生のとき同じ物理の教科書を気に入ったものは10回以上、
気に入らないものでも少なくとも3回は読んだ。
読み込んでいくと理解が幾何級数的に深まる。
アニメだって1回見ただけで終わっては、何もわからないままで勿体ない。
少なくともがんばって3回は見よう。(ペルシャの小柳のやつなんか3回が限界。)
そうして見ているうちにだんだん良さがわかってくる。
何べんも見てキャラクターの身体の動きを憶えてくれば、
キャラクターとの一体感も増してくる。
師曰く、『繰り返しは学問の母。』
勉強もアニメも頭の働きとしては同じだ。
[248] レインボーマン h14.2.1
一見何気ない特撮のようだが、
じつはくだらない体育系の悪ノリで満ち溢れている。
古い日本人の思想の歪みがよく出ている。
川内康範が古いんだよ。
眼先では面白くても、心の奥ではなんか嫌な気持ちがする。
病的な概念の塊だ。
危険思想だ。
大人だって作品を見るからには、それの言いなりだ。
現実と作り事の区別なんか心の底ではできやしない。
だから、自分が見るものは慎重に選ばないといけない。
いい作品であるためには、根が健全でなきゃあいけない。
魔法少女やうる星やつらは、毒気のない真面目な洗練された内容のいい作品だ。
それで評価が高いんだ。
アニメだって病的なのはダメだ。
こんなのにかぶれるとこわ〜(-_-)
安全第一。
[249] 性転換 h14.2.2
うる星やつらの「原生動物の逆襲?!プールサイドは大騒ぎ」を見た。
残念なことに、前半は野郎ばっかり出てきて、肝心の女の子はちょびっと映るだけだった。
後半は、あたると面堂の二人舞台で、最後には面堂がイブに変えられてしまった。
それがどうした?
ヒロインがはじめから男っぽいのと、男が女に変わるのとは全然違う。
女の子が見ている“色の世界”をちょっと覗いていっしょに楽しんでいるのであって、
男と女が身体の上だけでいれかわったりする安っぽい面白さとはまったく別なのだ。
[250] 三島利佳の絵は本当にウマいか? h14.2.2
絵のウマさ、つまりモモの男っぽさだけで見れば、
わたなべひろし>梶浦紳一郎>堀内修>三島利佳>とみながまり
ってとこか。
三島の絵の旨味は、モモを左斜め下から見上げたときのあごのラインの丸みぐらいだ。
とみながまりの絵に似ている。ちょっと面長。
でも、三島が担当したとこの話がギャグっぽくて楽しいから、評価が上がるんだ。
[251] ぴえろとモモ(海) h14.2.3
モモを見た後でぴえろを見ると、
さすがにぴえろの絵は細かいことがわかる。
しかし、キャラが人の形をしていてそこそこかわいければ大差ないとも言える。
髪の毛の分け目が多かろうが少なかろうがどうでもいい。
簡単な絵のほうがわかりやすくスッキリしていていい。
不必要にコリすぎると重たい感じがして逆効果だ。(とくに美術)
モモのライトな絵柄が楽しさを上げている。
ぴえろの現実的な話も、ヘタをすると当たり前すぎてつまらない。
モモの空想的な話のほうがヘンテコリンで面白い。
誰でも哲学よりおとぎ話のほうがおもろいやろ?
もともとアニメは空想の産物だから、現実的でないほうが似合っているんだろう。
アニメは心を描くものだから、心が健全であれば具体的表現が現実的であろうがなかろうが関係ない。むしろ現実に縛られないほうが想像の楽しさがあっていい。
[252] アニメの価値 h14.2.8
アニメは動くマンガだから、アニメの基本はマンガにある。
マンガは現実の世界の中にはないものを描くことである。
それなら、現実でなければ何でもいいのか!?
それはちがう。
たとえ絵は非現実的であっても、心は現実の中になければならないのだ。
そうでないマンガもあるけど、それは何の価値もないくだらないマンガだ。
あまりおもしろくない話を、おもしろい絵で味付けしたのがアニメなのだ。
ぴえろ魔法少女シリーズなんか、まさしくそれだ。
たとえ話が非現実的であっても、それを書く者の心が現実的ならばいいのだ。
海モモなんか絵も話もブッ飛んじゃっているけど、心はやっぱり現実なのだ。
振り返ってみると、自分の文章にはあまりおもしろさがないが、それはおもしろさにとらわれると正しさを見失ってしまう危険があるからだ。おもしろさよりも正しさを優先したほうがいい。
もっとも、正しい上におもしろければ、言うことなしだが…。
[253] 空モモと魔法少女と海モモの関係 h14.2.8
空モモは話はおもしろいけど、絵はおもしろくない。
魔法少女は話はおもしろくないけど、絵はおもしろい。
空モモと魔法少女はキャラクターのコンセプトは似ているけれど、
作品のカラーは反対なのだ。
そして、海モモは話も絵も両方ともおもしろい。
最高アニメだ!!
|
おもしろくない話
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おもしろい話
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おもしろくない絵
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クリィミーマミ、
ファンシーララなど
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空モモ
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おもしろい絵
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ぴえろ魔法少女シリーズ
|
海モモ
|
[254] マンガ家の才能 h14.2.10
心が現実的であることがマンガの原則だ。
話や絵は多少非現実的であってもかまわない。
現実的な心で、どこまで話や絵を面白くできるかが、
マンガ家の腕の見せどころだ。
もちろん、アニメも同じ。
[255] レインボーマンの価値 h14.2.10
ダイバ=ダッタの気合からは学ぶべきものがある。
[256] 箱舟 h14.2.10
クリィミーマミの箱舟ってUFOの‘たとえ’だということが、
最近やっとわかった!
昔からある子供ネタを少しズラして使っているのだ。
UFO:クリィミーマミ 箱舟、マジカルエミ
宇宙人:クリマミ ピノピノ、マジカルエミ
妖怪:クリマミ 座敷わらし
幽霊:クリマミ 古い洋館の水の妖精
ペガサス:クリマミ
恐竜:クリマミ オジラ、ファッションララ ピグ&モグ
雪男:ペルシャ ボンボン
ミステリーサークル:?
超能力:クリマミ 内山誠、黒い牡鹿
河童:ペルシャ カッパ3匹
タイムマシン:クリマミ 亀、ペルシャ トビー
ウルトラマン:マジカルエミ
バミューダトライアングル:ミンキーモモ(空)
ケサランパサラン:?
人魚:ペルシャ みなみちゃん
[257] 魔法少女シリーズの弱点 h14.2.13
絵の出来が回毎にバラツキがあり、絵のできのいい回しか繰り返し見ないから、飽きる。
しかも、絵のできのいい回は4回に1回もない!
うる星やつらだと、絵の出来が常にいいから、全部の回を繰り返し見れて飽きが来ない。
そのうえ魔法少女とうる星やつらを掛け持ちした作監が多くて、みんながうる星やつらばかり手入れして、魔法少女は手抜きなので、なんだかそこがミジメ。
つまり、魔法少女はぼくにとって2番目にいいアニメなのだ。
最高アニメはうる星やつらだ。
〓〓〓ぼくのアニメランキング〓〓〓
第1位 うる星やつら
第2位 魔法少女シリーズ(ペルシャ、エミ、ユーミ、ファッションララ、海モモ、ファンシーララ?←目下、研究中)
[258] ぴえろ魔法少女とモモの違い h14.2.17
アニメであるかぎり、心は現実的である。
とくにテレビの場合は規制がうるさいから。
心が現実的であるかぎり、話や絵は多少非現実的であってもよい。
それがアニメのルールである。
ぴえろ魔法少女は、話まで現実的である。
あくまでも現実の中での面白さを描こうとしている。
モモは話が多少空想的である。
空想の世界まで広げて、その中で面白さを描こうとしている。
だからモモのほうがぴえろよりも世界が広い。
ぴえろのほうが、ちょっと大人のテイストがある。
絵は話に従うから、
話が現実的だと絵も現実的であり、
話が非現実的だと絵も非現実的になる。
モモの絵には実在しないいろんな変なものが出てくるが、
ぴえろの絵に出てくるのは大体実在するものに限られている。
絵ではキャラクターとか色とか絵柄とか工夫して、
精一杯楽しく見れるようにしてくれている。
キャラクターが男にも女にも見えることはなぜか共通である。
[259] 【緊急報告】ファンシーララ H14.2.17
背景があまりにもリアルすぎて、写真のトレースみえみえ。
篠原みほの中性感はなかなか。作監にもよるけど。とくに、○と○がグッド!(今しばらく研究中。追って報告する。)
放映期間が短くて、グッズがない!のが残念。
テレビ東京系にしては上出来。
テレビ大阪だけあって、話が無理やり面白い?
旧魔法少女シリーズに比べて、話しにギャグが入って、楽しく見れる配慮が施されている。
とりわけ、第22話「スクープ!ララの正体」は超傑作で、ぜひ第1話にしてもらいたいくらい。これまでの魔法少女の‘お高い’イメージを完璧にブチ壊してくれた。
それにひきかえ実際の第1話「みほ、華麗なる変身!」は第1話としては押しが弱い。もっとグッとくるものがないと、私みたいに本放送で第1話だけで放ってしまう。第1話をありったけ面白さでかためておいて、第2話からワガママでやればよかった。あと見たのは、気まぐれに第23話「お姉ちゃんのボーイフレンド」ぐらい。ここもそれ程のことない。
ファンシーララ、よーく見るとなかなか面白い。例のごとく、回にもよるけど。
[260] セーラームーン h14.2.20
絵はかわいい(中性感まである!)けど、話と心が暗すぎて非現実的だ。
くだらないアニメだ。
アニメには、いいアニメと悪いアニメがある。
選んで見よう。
[261] TVA 魔法のスター マジカルエミ コレクションBOX(1) h14.2.22
マジカルエミDVD−BOX発売が5月下旬に決まったそうだ。
ヤフオクでマジカルエミのところを見ていたら、マジカルエミDVD予約受付が出ていた。
OVA“雲光る”
絶対買おうな!!
cf.“光る雲”を見たい方はこちらへ。「永久機関」の下にあります。(疲れてきた…)
[262] 俊夫 h14.2.22
クリィミーマミには俊夫が毎回出てくる。
森沢優の絵は明らかにたいしたことないが、俊夫の絵は結構細かい。
俊夫は美しい。俊夫も女にも男にも見える。
本当の主役は俊夫で、きっと女の子ならハマるキャラなのだろう。
残念ながら、私は男なので、俊夫を見ても面白くはない。
俊夫の服装が男の子なので。
[263] 魔法少女今昔 h14.2.22
みんなは昔のほうがいいと言うけど、
それはたんなる思い込みじゃないかな?
昔の絵はマンガっぽいし、要するにヘタだ。
今の絵のほうが技術的にはうまくなっていると思う。
ペルシャとファンシーララとを較べると、
ペルシャはマンガでララは劇画のようだ。
はっきり言って、ララはペルシャより絵がうまい。
マジカルエミとファンシーララとを較べても、
中性感ではララのほうがエミよりも上回っている。
しかし、昔の絵には昔の絵のよさが、
今の絵には今の絵のよさがある。
ペルシャの絵にもエミの絵にもララの絵にもそれぞれ違った味わいがある。
りんごとみかんとスイカの味がそれぞれ違うのと同じことだ。
一長一短で、一概にどれがいいとは言いかねる。
今の絵は昔の絵に較べて悪くなった点もあるけど、反対によくなった点もある。
それに絵の上手下手だけが、アニメの価値を決めるのではない。
ララがテレビ東京系のせいで『安っぽく』見られがちだけど、
上にも言ったとおり、
背景はともかく、動画のレベルは確実にUPしている。
アニメの専門学校ができて、アニメーターの絵を描く技術は格段と向上している。
昔のアニメに思い入れる気持ちはわかるけれど、それが今のアニメを否定する向きばかりなのは行きすぎではないか。
もっと冷静に今のアニメを見ようとすれば、そのよさがきっとわかるはずだ。
いつまでも昔はよかったしか言えないのでは、すでに頭が老化していると言われても文句は言えない。
それに、比較アニメ論をやってるわけじゃないし、
強いて昔と今とを較べなくてもいいじゃない。
それぞれのアニメのよい点悪い点を認めることが、そのアニメを最もよく理解することではないだろうか。
[264] 魔法少女アニメの見方 h14.2.23
私も最初見たときはファンシーララを絵柄が『安っぽい』アニメだと思ってがっかりしたけれど、
要するに、
魔法少女は中性感が命だ。
中性感とは、キャラクターが男にも女にも見えることだ。
中性感を基に見ていけば、ファンシーララも名作だと言える。
あのマジカルエミを超えた?とさえ言われている。
ペルシャにしろ、エミにしろ、ユーミにしろ、
とんで海モモにしろ、さらにファンシーララにしろ、
魔法少女のヒロインには必ず中性感があり、
しかもそれは時代を追うごとに濃くなっている。
中性感さえわかるようになれば、多少絵柄が予算で見劣りしても、
アニメを面白く見続けることができる。
いきなりペルシャからはちょっと難しいから、まず初心者は、
ユーミの第2話、第3話あたりから入るのがいいだろう。
(洞沢由美子先生のユーミには、あまり中性感がない。)
中性感さえつかめてしまえば、
魔法少女アニメなんてもうこっちのものだ。(^^)v
[265] 天使になるもんっ! h14.2.24
最近Yahoo!オークションで買ったDVDvol.1(第1・2話)を見た。
きれい。…しかし、絵が整いすぎる。
ディスペルの言うように『美は不完全なものにこそ宿る』のよっ。
魔法少女シリーズのように、多少ぎごちない絵のほうが人間臭くていい。
※おわび:2/25から私の勤務がこれまでの昼勤から夜勤に変わりました。そのため私の知覚のはたらきが以前に比べてよくありません。そのぶん記述した内容の信憑性[しんぴょうせい]が低くなります。まちがいが多いかもしれません。注意してお読みください。
[266] 無題 h14.3.2
これまで毎日、お風呂上りの就寝前に
うる星やつら(後期)と魔法少女シリーズ(最近は主にファンシーララ)を一話ずつ見ていたけど、今週は夜勤だったので、見たアニメは
なし
でした…。
これからもしばらくは夜勤が続きそう。
せめて休日には魔法少女シリーズを見続けることにしよう。
[267] ファンシーララ第5話「ビックリ驚天動地の巻」 h14.3.5
他局のイヤミ言える立場じゃねえだろ。
マジカルエミ第21話はどうした?
[268] 魔法少女シリーズの楽しみ方 h14.3.8
魔法少女シリーズは、中性感に尽きる。
中性感とは、キャラクターが男にも女にも見えることである。
まず、パステルユーミ(洞沢作監以外の回がよい)を見て、中性感の概念をしっかりつかむ。
〈私の場合はパステルユーミから入ったが、わかりやすければ何でもいい。〉
あとは、中性感を味わいながら、ペルシャやエミやユーミや海モモやファンシーララなどのLDやムックを見て楽しむ。
[269] 香月舞とペルシャ h14.3.12
香月舞、たしかに中性感はペルシャよりも濃い。
しかし、女っ気がなさすぎて、つまらない。眼が大きくてスカートをはいているだけでは女の子とはいえない。中性感がミエミエすぎて物足りない。
そのてんペルシャは絶妙のブレンドだ。
夜勤の休日にオールナイトで見ても朝まであきがこない。
[270] 千葉順三の絵 h14.3.26
千葉順三氏は有名なペルシャの作監である。第24話「あみかけのセーター」、第43話「チューリップの求婚」、第46話「行かないで!学と力」を担当された。
はじめて千葉順三の絵を見たときは、第24話はキクチミチタカ氏が原画を担当されたから見れるとしても、43話と46話は正直言ってヘタクソで見れたもんじゃなかった。
ところが、花園ユーミを見て“中性感”の概念をヒラメき、さらに海モモとファンシーララを見て“中性感”の概念にみがきをかけたあとでは、43話と46話がおもしろく見れるようになった。
千葉順三の絵(とくに第43話)は明らかにファンシーララを超えている。
絵のよしあしは、つくづく見る目によるものである。
岡豊や三原武憲や小柳信行の絵だって、何かの概念(キーワード)をたよりにして見ていけば、おもしろく見られるのかもしれない。
洞沢の絵がウケやすいのは、“美”や“かわいさ”といった概念が昔から日本にあるからだろう。これに対し、“中性”の概念は最近できた人工的な概念だから、魔法少女アニメを見て強めないかぎり、“中性感”に対する感受性が育たないのだ。
[271] 中性と両性の違い h14.3.26
“中性”とは魔法少女のヒロインのように、ひとりの人物が男にも女にも見えることである。なぜか、これまですべて女の子として扱われている。男の子として扱われたものはない。
“両性”とは、変身ポンポコ玉(塩沢ときの「シャラーップ!」で有名)やらんま1/2のように、男が女に、あるいは女が男に変わることである。ひとりの人物が男にも女にもなれることである。
“両性”は話の進行において重要な役割を果たすのが常だけれども、反対に“中性”じたいが話の進行に関与することはない。
[272] つばさちゃんの秘密 h14.3.29
ファンシーララのライバルである夢野美樹は篠原みほのママから「つばさちゃん」と呼ばれている。
ファッションララのDreamin'(小杉保夫)から取ったのだろう。
[273] マジメかオモシロか h14.4.12
昔の魔法少女がウルトラマンだとすれば、ファンシーララはスペクトルマンだ。(注:昔の魔法少女とは、クリィミーマミ〜パステルユーミを指す。)
昔の魔法少女はまじめすぎて物足りなかった。おもしろいのはホント、絵だけ。
ファンシーララは絵にも話にもおもしろさをふんだんに採り入れてくれてサービス満点。言うことなし。(ヤフオクの評価みたいになった。)
でも、まずウルトラマンがなければスペクトルマンもまたありえなかったように、今のファンシーララがあるのは、昔の魔法少女があってこそ。
絵の出来は、ファンシーララのほうが昔の魔法少女よりも上だと思う。
理由は、動画の線がガタガタしていないし、色が明るくきれいで楽しいからです。
これほどまでにおもしろくやるためには、15年もの長きにわたる飛躍的な作画力の進歩を待たねばならなかった。昔の魔法少女は、まだぴえろの作画力が足りなかったために、あまりおもしろいことは(やりたくても)やれなかったのだ。
[274] 昔の魔法少女とファンシーララ h14.4.15
おもしろさで見れば、昔の魔法少女≪ファンシーララ
理由は、ファンシーララなら全話見れるが、昔の魔法少女は4話に1話しか見れないから。
中性感で見ても、昔の魔法少女<ファンシーララ
理由は、香月舞より篠原みほのほうが中性感が強いから。
でも、かわいさで見れば、昔の魔法少女>ファンシーララ
最近の女の子はかわいくないので今となっては貴重品。
楽しさはひとつではない。
楽しさには、おもしろさとか中性感とかかわいさとかいろいろあるんだ。
[275] 楽しさとは何か? h14.4.15
作品に自分の感性を合わせて見れば、何でも楽しく見れる。
ただ自分の感性を合わすことには限界がある。
すべての作品が楽しく見れるわけではない。
自分の感性になるべくあった作品を選んで見よう。
時間と伴に自分の感性も変わる。
これまで楽しくなかった作品が、突然楽しく見れることがある。(例、ファンシーララ)
昔見た楽しい作品は感性の合わせ方を心得ているので、依然として楽しいままだ。(例、ペルシャ、エミ、ユーミ、海モモ)
[276] ファンシーララはなぜ楽しくないのか? h14.4.17
ファンシーララの絵には‘かわいさ’があまりなく、昔の魔法少女は‘かわいさ’が中心(とくに力がこもっているのがユーミ。無理やりかわいくした。)だったので、昔の魔法少女を見慣れた者は‘かわいさ’の感性以外持っておらず、ファンシーララの第一印象は‘かわいくない’、つまり楽しくない(つまらない)ことになる。
ところが、海モモをくり返し見て‘中性感’を鍛えた後では、‘中性感’に対する感性が鋭くなっているので、ファンシーララのような‘中性感’の濃い作品を楽しく見れるようになる。
‘中性感’をテコにして楽しく見れるようになると、ファンシーララの話の‘おもしろさ’もついでにわかってくる。
これほどリアルでおもしろい話はほかにない。昔の魔法少女は暗く悲しい話ばっかりでおもしろくなかった。15年かけてネタを溜め込んだだけのことはある。ぴえろ万歳!!
そこで相談だが、今のぴえろの絵はけっこうケバいので、ペルシャのようなケバいキャラに非常によくマッチしていると思う。ぜひもう一度ケバいイロッポ〜いキャラでアニメをやって欲しい。篠原みほ一人だけで終わらせるのはもったいない。篠原みほよりも女寄りの中性感(ウットリ)でもう一度やって欲しい。
[277] 中性感について h14.4.17
花園ユーミはどう見ても女装した男の子にしか見えない。カワイイ。
速水ペルシャは女の子になりすぎてしまった男の子のようだ。ウットリ。
香月舞は男と女の中間すぎてむしろ味ウスだ。
篠原みほぐらいキツくやってくれないとウマミが出ない。オカシイ。
海モモは香月舞と篠原みほの中間くらいだ。[上図参照]
香月舞→海モモ→篠原みほ路線しかないのは寂しい。
ぜひ、ペルシャ路線を作りましょう。人気あったんだから、今度も成功するでしょう。
花園ユーミ路線でも歓迎します。番組はどうなるか知らんけど。
[278] 花園ユーミ h14.4.17
ついでに花園ユーミのことについても書いてあげよう。ブヒヒヒヒ…
はじめて花園ユーミを見たときは正直言ってかわいかった。とくに洞沢先生のところが。
しかし海モモをくり返し見ているうちに、洞沢先生よりも伊達真紅郎先生とか上条修先生とかの絵のほうがウマく見えるようになってしまった。洞沢先生の絵は物足りなく思えた。それだけ‘中性感’が楽しかったのだ。
そして今では、やっぱりもとの洞沢先生のところが好きでよく見ます。とくに第一話がユーミの表情が細かくて大好きです。
‘中性感’はファンシーララに譲ることにしよう。
[279] キャラが描き手を選ぶ h14.4.19
ペルシャ:洞沢(前期)、キクチミチタカ
香月舞 :岸、高岡
ユーミ :洞沢
海モモ :わたなべひろし、梶浦紳一郎
ララ :???(研究中)
[280] 写真と絵の違い h14.4.19
写真は‘実体’の表現である。
絵は‘見たまま’の表現である。[私の哲学日記を参照]
写真は実体の表現であるが、絵は人間の五感界の表現である。
絵がわかるとは、五感じたいがわかることである。
絵には写真にはないものがある。
写真には‘正しさ’しかない(まさしく真を写すのだ)が、絵には‘美しさ’、‘かわいさ’などいろいろな性質がある。
絵には実在の世界にはない‘魔法’とか‘中性感’といったものまである。
特撮の世界には‘怪獣’とか‘変身’とか‘巨大化’とかもある。
見たままの絵の世界も空想の特撮の世界も、実在しないという点では同じである。
見たままの世界には、実在の世界にはないものがある。
見たままの世界は人によって異なる。人によって見え方がちがう。人によって見えているものがちがう。
女の絵は‘美しさ’とか‘かわいさ’とかが主体である。例えば、洞沢由美子や後藤真砂子など。
男は女よりも知的だから、男の絵には‘美しさ’や‘かわいさ’があまりなく、赤塚不二夫のギャグマンガ風なタッチである。男性ならではの‘女の子に対する想い(憧れ?)’が表れている。女性の女の子に対する思いと、男性の女の子に対する想いには質の差がある。
‘中性感’には、女の子になりたい男の気持ちがよく表れている。あるいは、男になりたい女(の子)の気持ちの表れなのかもしれない。
‘中性感’は男の作監の絵によく出ている。例えば、岸義之、千葉順三、高岡希一、伊達真紅郎など。
こうしてみると、アニメって、つくづくバカか女・子供の世界なんだと思う。大人たちが白目で見るのも無理はない。
アニメよ、さらば…か?!
[281] 特撮とアニメの違い h14.4.19
特撮もアニメも実在しない点においては同じである。[前述]
ここでは、特撮とアニメの違いについて考えてみよう。
特撮は、実在しないがわかることを実在する物体を用いて表現している。いわゆる、男のマンガ。知的な非実在の世界。非実在を知覚で見た世界。まちがいではあるがわからなくはない。
アニメは、わからないことをそのまま絵で表現している。いわゆる、女の子のマンガ。五感的な実在の世界。実在を五感的に見た世界(とくに魔法少女なんか)。つまり、女の子の目で見た実在の世界なのだ。(コンガールの絵を思い浮かべながら)女の子はこんな風に自分の家を見ているのか!?(オレはパステルユーミの背景が好き。色合いが明るいから。クリマミの背景はフンイキあるけど、ペルシャのはベチャべチャしていていまいち。)
最近は非実在を五感で見た世界なんてのもある。例えば、アキハバラ電脳組、コレクターユイなど。実在離れしすぎて私は好きじゃない。
[282] マジカルエミの世界 h14.4.21
マジカルエミにあるのは一種の《かっこつけ》だ。
ペルシャのようなイロッポさも、
ユーミのようなかわいさもなく、
ただ突っ張っているのがマジカルエミの世界だ。
ツッパリでいじけてて不良っぽいのが香月舞なのだ。
香月舞に魅かれる連中も同じ性格なのだろう。
某掲示板のレギュラー陣を見ればそのことがよくわかる。
ファッションララでもイケるんじゃないかな?
[283] 花園ユーミ h14.4.25
サザエさんが見れるんやったら見れるハズやろが。
いい顔もわるい顔もいかんのか。
“ふつうの顔”やったらいいんか。フ〜ン。
[284]性格 h14.4.21
ある日“雲光る”を検索したついでに、マジカルエミ掲示板をのぞいてみた。
そこは不愉快な書き込みが削除された後だった。
私はぜひその不愉快な書き込みを見たいと思った。
しかし、管理者がすでに削除していたので、残念ながら見ることはできなかった。
レギュラー陣らしい人達がコメントをしていた。
私はそのコメントを読んでこう思った。
コワイお兄さんたちね。なんてガラの悪い人たちなんでしょう。
たぶん消されたカキコミよりもフユカイなコメントだった。
そのとき私にはひとつの疑念が湧いた。
どうしてマジカルエミのファンにはガラの悪い連中が多いんだろう。
まるでファッションララにでも出てきそうな人たちのように思えた。
そこでマジカルエミの香月舞について考えてみた。
香月舞は本心では将君のことが好きだが、
いつもアカンベーをしたりそっぽ向いたりして
自分の本心を認めようとしない。
私はなんだかかわいくないなと思った。
つまり、香月舞というキャラは、姿形こそかわいい女の子であるが、
その本体である心は
ツッパリでカッコつけばっかりの不良少女なのだ。
いわゆるスケ番みたいな女。
ツンツンしている女は、わしゃ好かん。
(ちなみに、エミについては、頭が異様に後方に出っ張っているので、ヘンだ。)
マジカルエミのファンも香月舞と性格が似ているから、
香月舞に心を魅かれるのだろう。
つまり、マジカルエミファンは、
ツッパリでカッコつけばかりの不良なのだ。
お金持ちで勉強嫌いの子供はそういうタイプだ。
だからマジカルエミのような高級感の漂うアニメにハマるのだろう。
そういえば、エミのOPで舞がコンガールで雨宿りしているところに将君が来て舞が将君のスネを蹴っ飛ばすシーンがある。
一般にアニメのOPというのは、作品の短い自己紹介みたいなものだ。
OPを見れば大体作品のあらすじはつかめる。
マジカルエミの場合は、舞ちゃんが将君を足蹴りにして、
ジョギングしている将君を振り向いて微笑んでいるから、
舞がムッツリ助べえのような表裏のある印象を受ける。
ペルシャの場合は、ペルシャが魔法で大人に変わり、大人ペルシャを学と力の両方が好いていること以外よくわからんOP&EDだが、
本編では大声でウッスラパーといったり、大好きな学と力の胸に平気で飛び込んでいくところなどを見ると、
天真爛漫で陽気な性格(ちょっと下品なくらい。その下品さがたまりませ〜ん。)ということがわかる。
思っていることをすぐ言葉や態度に出すから明るくて好き。
感情表現の点から見てもペルシャのほうがおもしろい。
香月舞なんかいっつも立ちんぼだ。
そういえば、森沢優も立ちんぼづくしだったな。
ムリヤリ体操なんかもしてた。
花園ユーミのOPでは、恭平さんにまだ子供だと見られながらも憧れている気持ちや、お花が大好きで純真なところがよく現れている。
魔法のところはただクルクル回るだけで何ができるのかがサッパリわからんが。
花園ユーミはかわいくて無邪気な性格なのだ。
とにかくかわいい。一番かわいい。
私は大好きだ。
クリィミーマミのOPでは森沢優と俊夫がイチャイチャしていておもしろくない。
まだ小学生ごときが男女でイチャイチャするなどナマイキだ。
大人になったらステキに変われるというのはわかるが、
子供のときと大人になったときとのギャップがモノスゴいと思いませんか。
クリマミの森沢優の性格は、頭の中が俊夫のことばっかりでつまらない。
伊藤和典が社会派だからか。
こんな愛情など動物の感情にすぎんわ!人間以下や!!くえだらん!!
というわけで、私は森沢優のような男にベタベタする女なんか好きではないのだ。
以上まとめると、私はベタベタ優とツッパリ舞が嫌いで、
純情ペルシャとキャワユ〜イユーミちゃんが好きだということになる。
私のようないい男に好かれるためには、まず第一に性格のいい女の子でなければいけないんだよ。わかったかな。
ここまでくれば、篠原みほについても述べないでは済まされないだろう。
篠原みほはOPでいきなりカケッコで登場し、
次の場面では一人ぼっちでションボリしているかと思うと、
フッ切れたようにララに変身して歌っている。
このことから、みほの性格は元気で、さびしがり屋で、ノーテンキで陽気だということになる。
本編を見ると、のんびり屋でおっとりしたところもある。
いつもヘラヘラしている。(とくに声が)
ヘラヘラみほと呼ぼうかな。
けっこう自分と共感できる、気持ちのいいキャラである。
ファンシーララのおもしろさは、名脚本家望月智光氏の才能があったればこそ。
伊藤和典は、本人はどんな性格だか知らんが、
脚本に見栄がしみこんでいるみたいで、
そのほうが一般の日本人には受けやすいのかも知れんが、
ワシャスカン。
あ〜あ、それにしても昔の魔法少女シリーズの話はつまらなかったなあ。
絵的には十分だったけど。
話がファンシーララくらいおもしろければ完璧でしたのに。
[285] 見かけだけでは何もわからない。 h14.4.22
昨日はそれぞれの魔法少女がどんな性格なのかを見てきた。
今日は、私がなぜペルシャとユーミと篠原みほが好きであり、森沢優と香月舞が嫌いであるのかを考えてみよう。
マジカルエミのファンは香月舞と同じツッパリ型の性格である。
性別と身体の違いをぬきにすれば、エミのファンと舞とは同じであるということだ。
好きか嫌いかは心で決まるが、さらにその心は各人の持つ思想によって決められている。
だから、要するに、人間にとっては、自分と同じ者は好きであり、自分と反対の者は嫌いであり、自分と独立(無関係)の者は無関心であるということだ。
性別と年齢と肉体の違いを超越した世界においては、マジカルエミファンのこわいお兄さんたちと、かわゆい香月舞とは同じ人間だということだ。
ここで‘かわゆい’香月舞と述べたが、‘かわゆい’のはあくまでも外見であり、心とは根本的には無関係なのだ。
いくら舞の外見がかわいい女の子でも、中身の心はツッパリの不良にほかならない。
私はツッパリの不良ではない、他人前でイキがったりはしないから、明らかに香月舞とは違うのであり、したがって香月舞のファンではないことになる。
要するに、ツンツンした人って私は嫌いだ。
これまでの私が香月舞を好きだったのは、主にその外見にほれ込んでいたからにすぎない。
しかし、第5話では弟にやさしいお姉さんだったり、
第13話では父親にウソをついてまで自分のやりたいことをするといった、
じつに多様な性格を見せている。
だから、心で見ても、香月舞のすべてが嫌いなわけではない。
ペルシャは好きな男のために尽くす献身的な性格だ。
ところが私には好きな人がいないから、ペルシャの気持ちがわからない。
これまでペルシャが好きだったのは外見においてだ。
いい年こいたら、他人のことはどうでもよくなるから、自分よりも他人のために生きるような生き方をすることはできない。
かといって、ペルシャのような人は、自分の母親のように女性としては偉い立派な人だと思う。
でも、自分は男であり、他人の心のために自分を犠牲にするような生き方はしたくないのだ。
男なら、自分自身の心のために生きるべきだ。
だからペルシャも好きにはなれない。
Acalaさんは、BBS ya PELSIANに書き込んでくれたお客さんに対し、とても丁重に応対をしている。そんなところがペルシャに似ているといえるだろう。
ユーミとみほはいつもマンガを描いていてお気楽なので僕と同じだ。
僕も小学生の頃はよくマンガを描いて友達に見せていた。
マンガを描くってことは、ものを考えて作ることであるから、
たとえ実在的ではなくても知的労働だといえる。
だから、マンガを描こうとする気持ちは“人間の心”なのだ。
ユーミとみほ、そんな二人はとってもステキだ。
オレと同じだ。
みほはあきるちゃんとあんなちゃんと二人の友達がいるが、
僕も小学生の頃はよく二人の友達と一緒に三人で遊んでいた。
そういえば、ユーミも三人組(強、ユーミ、健太)だったっけ。
これも僕と同じだ。
ユーミもみほも海モモも、最近の女性は男のために生きるのではなく、自分のために生きるのだ。
そんなところが私と共感できて嬉しい。
最後に、森沢優はいつも俊夫とベタベタしていて、愛のために生きてるってカンジ。
しかし、私に言わせれば、こんな愛情などくだらない動物の感情にすぎない。
人間はこんなくだらない感情に流されて生きていてはいけない。
だから森沢優は嫌いだ。
でも、香月舞のようにくだらん愛情をうわべでは否定しながらも、結局最後には肯定して結婚するような卑怯な奴よりは、
森沢優のように最初っからたとえくだらなくても愛情を肯定し続けて結婚するほうが矛盾がなくて良い。
実際に、大部分の男は男女の愛などくだらないことはわかっている。
それなら、結婚なんかするなよな。この私のように。
そんなタワイのない感情に流されてはならない。
人間の心があれば、男女の愛情のようなくだらない動物の心に流されることは絶対にない。
それができなきゃ、人間失格だ。
香月舞は自分の愛情を否定しようとしているけど、ほかに人間らしい取り柄がない。
趣味で手品をやっているけど、うまくないので取り柄とはいえない。
勉強できなくて自分の家に閉じこもって、好きだからといってダラダラヘタなマンガ描いているやつらと変わらん。
以上まとめると、
森沢優:愛に生きるくだらん人間。キライ×
速水ペルシャ:好きな人のために尽くす。お母さんみたいで立派だけれど、共感はできないから△。(ただし見かけは◎)
香月舞:ツッパっていて不良。キライ×。(見た目はかわいい)
花園ユーミ:マンガを描いて自由に遊び放題。共感◎
海モモ:空モモみたいに背負ってない。主体性がある。共感◎
篠原みほ:同上。いつもヘラヘラしていてお気楽極楽。共感◎
つまり、オレが好きなのは、自己中心で生きているユーミと海モモとみほの三人だ。
オレと彼女らは、たとえ性別や年齢や身体は違っていても、心は同じだ。
優やペルシャや舞は、愛情で動いているやつらだ。
オレとは根本的に違うタイプの人間だ。
見かけだけのカワイコちゃんはそろそろ卒業なのかなァ。
[286] キャラクターのランク h14.4.24
森沢優:いつも俊夫にくっついてベタベタしているので、心は愛情ばっかり。
ペルシャ:好きな人のためになら自分を犠牲にして善いことをしなければならないので、心は愛情が強く、しかもいくらか知的でもある。いい人みたいだけど大したことない。イザというときに役に立ってくれない。自分からやるだけに、他人の要求には応じてくれないのだ。
香月舞:将君のことが好きだが、手品にも関心があるので、けっこう知的。手品ができた嬉しさのあまり飛び跳ねたので、かなり知的。
花園ユーミ:恭平さんに憧れてはいるものの、遠くから眺めているだけで、直接の接触はほとんどない。マンガを描く才能が、小学生にしてすでにプロ並みなので頭がいい。
篠原みほ:相川ひろやに憧れているが、身近に好きな人はいない。ヘラヘラしていて楽天的なので頭がいい。
海モモ:海モモに至っては憧れの人も好きな人も一人もいない。DRYな性格なので頭がいい。私と同じだ。
優から舞までは、男への愛に生きるタイプなので、私との共感は×。
しかも、香月舞はかわいげのないツッパリ不良型なので、共感は××。
舞は将君に心がとらわれて顔を赤らめたりするので頭はパーだ。
うわべでいくらリコウぶっても、本音はバカだ。
愛情の強い人間はバカだ。
頭がバカだから、愛情などというくだらない感情にすがって生きて行かねばならないのだ。
人間失格だ。
ユーミからみほまでは、自立して一人で生きていくタイプなので、私との共感は◎。
身体で見ると、ペルシャ以降はみんな‘中性’だったが、
心で見ると、香月舞までは愛があるから女の子であり、
ユーミ以降は自主性があるから‘中性’(というか、男)なのだ。
[287] “かわいさ”とは何か? h14.4.25
“かわいさ”とは子供における善である。
善とは知的であることだ。
知的な子供がかわいいのだ。
知的な目で物事を見れる子供がかわいいのだ。
自然の中で遊んだり、物を作って遊んだり、マンガを描いて喜んでいるのがかわいい子供なのだ。(補:マンガを描くには、正確な観察力が要求されるので、マンガを描くことは知的作業なのである。)
反対に、お人形さんで遊んだり、遊園地で遊んだり、テレビやマンガを見て喜んでいるのはかわいい子供ではない。
例えば、名探偵コナンのコナン君は知的ではあるが、考えることややることが子供らしくないのでかわいくない。
パステルユーミ第10話「いたずらオバケに御用心」では、ユーミが大人顔負けのオチをきかせて頭のキレるところを見せつけてくれたので、ユーミはかわいいのだ。
パステルユーミ第19話「花びらのステップ」では、ユーミが恭平さんの誕生日プレゼントにあげるために、くまのぬいぐるみを作っている。森沢優は、たんに既製の金型に流し込むだけのバレンタインのチョコレートだったし、ペルシャでは学と力のかんたんな2D人形にすぎなかった。ユーミのような若干10歳の少女が自分ひとりの力だけでぬいぐるみまでもこしらえてしまうところに、ユーミの知的水準の高さが滲み出ていて余りあるのだ。(偉いぞユーミちゃん。)
花園ユーミは魔女っ子倶楽部4人組の中でもダントツに頭がいいのだ。
花園ユーミは恭平さんに憧れているが、その憧れは”ほんのちょっとだけ好き”ということだから、むしろユーミの恋愛に関するクールさを示しているといえる。花園ユーミは絵の才能があるから、恋愛ごときくだらぬ感情には流されようがないのだ。そこがまたかわいいのだ。
毎回魔法を使うたびごとにユーミの絵の才能が発揮されているわけだから、ユーミは毎回かわいいのだ。
パステルユーミが早く終わってしまった原因は、鴫野監督にあるのでも洞沢作監にあるのでもなく、人の姿形だけを見て善い人か悪い人かを判断する大勢の視聴者たちにあるのである。
[288] 『天なる DVD vol.1』を見て考えたこと h14.5.6
祐介たちは、夏海を見て、いい女だと思った。
ノエルなんか問題外だ。
ノエルなんか見掛けだけかわいくて中身はカラだからだ。
そういわれると、さすがに夏海には‘いい女’感がある。
いい女とは、一言で言うと、頭がいいということである。
祐介たちは中学生にしてすでにいい目を持っている。
お目が高い。
最近までノエルしかかわいいと思わなかった私とはえらい違いだ。
普通中学生ってそんなにレベルが高いの?!
私が遅れていたんだなあ。(いえいえ、そんなに謙遜されなくてもけっこうですよ。)
大人がエロ本を見ていい女だと思うようになるのは堕落だとしか言いようがない。
中学生のほうがずっと進んでいる。
ぴえろのアニメに出てくる中学生は気品があるなあ。
ノエルの裸のことしか目に入らなかった自分とはえらい違いだ。立派立派!
[289] DVD h14.5.9
今年のゴールデンウィークに高知へ帰ったとき、家の近所の電気屋で東芝DVDプレーヤーSD−3500プログレッシブ対応¥24,500−を買った。
なんせ、うちのテレビベガ34型30万円のプログレッシブは走査線1、050本(普通のテレビの2倍)のプログレッシブなのだ(ウソ)。おかげでアニメなんかはセル画の質感アリアリで、セル画のヌラヌラ・テカテカしたところまで見られてしまうのだ。
買ってよかった♪
しかし気になることがある。
ヤフオクで1,000円で買った「天なるDVD1巻」を再生すると、ときどき画面に横のシマシマ模様が見えた。
bicbicのWeb通販で5,220円で買った「幻夢戦記レダ」のときは、きれいに再生できた。
DVDのディスクによって画面にシマシマがあったりなかったりするんだね。こりゃあえらいこっちゃ!
5/25発売のマジカルエミ・コレクションBOX某所Web通販¥31,500−でこんなのがあったらガッカリするなー。
[290] 私の考えた魔法少女シリーズ第6弾 h14.5.11
《コンセプト》人は善い人を愛する。そして、善い人とは男女にかかわらず知的な人である。
女の子だからって頭がよくていけないわけがない。
名探偵コナンのような推理ものでいこう。コナンの女の子版(バージョン)。女の子なら“知性”と美ぼうとかわいさを兼ね備えるわけだ。美ぼうよりもかわいさよりも知性こそが大事であることを忘れてはならない。
名探偵コナンでは毎回死人が出るが、そんな怖い大げさな事件ではなく、もっとかわいい感じのする、ささいな、たわいのない、日常的な、小っぽけな事件がいい。
例えば、教室の集金袋が机の中から突然消失した。集金係の女の子が泣き出した。友達の貧乏な女の子が疑われて仲間はずれにあって困っている。そこで、当の魔法少女が若干の魔法(というかアイテム)なんかも駆使して、真犯人を究明する。(オチはプロの脚本家に考えてもらおう。)また、リカちゃん人形盗難事件なんてのもいい。
ポイントはトリックのネタにあるのではなく、あくまでも魔法少女の知的さや優しさの見せ方にあるのだ。これなら、いつまでもアキがこない。
こうして見ると、『は〜い、ステップジュン』なんかも、(絵をリグッたアラレちゃんではなく)知的な少女を描こうとした作品であることがわかる。
[291] 魔法少女の中で一番男らしいのは…? h14.5.13
パステルユーミは赤い服とちょっとボサボサした髪がかわいくて女らしい。身体の丸みが柔らかくて女らしい。
香月舞は男にしか見えない。身体が硬すぎる。女らしいところがもっと欲しい。
ペルシャは大きな眼とモジャモジャした長い髪の毛が女らしい。セーラー服は男でも着れるからそんなに女らしさを盛り上げていない。
篠原みほはなんだかわからんけど、けっこう女らしい。ファッションララのみほはあんまり女らしくない。ピグとモグがかわいらしい。
ついでに、森沢優はキャラデザがかんたんすぎて女らしいところがない。
というわけで、魔法少女の中で最も男らしいのは花園ユーミちゃんではなく、香月舞さんのほうでした。
香月舞と森沢優は見てても退屈。他のは大体いける。キャラクターは女らしいほどに盛り上がる。
これはたしかに女の子だと見る者に感じさせる何かひとつ強いインパクトになる特徴がいる。例えば、ペルシャの長い髪と男としてはスマートすぎるその肢体、ユーミの丸顔と丸みを帯びた身体(肩はばが小さい)、篠原みほの丸顔系なところとか。森沢優や香月舞とみほ(ファッションララ)にはそれがない。
岸義之はキャラデザがへただ。
[292] 洞沢大先生 h14.5.15
洞沢大先生がいないと魔法少女シリーズは成り立たない。
女の子を女の子らしく描けるのは洞沢大先生だけだ。
私の考えによれば『女性は五感的存在』だ。
洞沢大先生の絵は最もよく女性の不可知さ、とらえどころのなさを描けていた様に思う。
女の子の、現実から浮遊して存在している様な、くもりガラスを透して物事を見ているような感じがよく出ていた。同じ女の子の一人としての洞沢大先生の眼で見た女の子の女の子による女の子のための五感的な世界観が描かれている点が素晴らしい。女の子って人の顔を細かくよく観察しているなあ。こんなにかわいくデフォルメして見ているのか!?『心は感覚に従属する。』女の子ってこんな優しい穏やかな楽しい気持ちでいるんだな。
これに対し、他の作監の絵は線がハッキリしすぎてムードがない。男の作監の絵は、男の眼で見た女の子の像であって男の知的な世界観の表現にすぎない。かわいさもパターン化されていて味気ないものだ。とくに岸作監はパンチラの多用ぐらいが関の山だ。
男の作監の‘中性感’のある絵は『かわいい女の子に生まれ変わりたいっ!!』というムサ苦しい男のはかない願望が表れているのだ。
つけたし:特撮は3Dのアニメであって、特技監督の感覚する世界(五感〜知覚)が表現されている。『心は感覚に従属する。』のだから、特撮を眼で見れば、自分も特技監督の心で感じていることと(ほぼ)同じことを自分の心でも感じることができる。心で共感できる。
ノン・フィクションの映画も特撮と同様に3Dのリアルなアニメと見なせばよい。
[293] 背景 h14.5.15
ペルシャではギャグっぽく、
マジカルエミではシリアスに、
ユーミではファンキーなムードがよく表れている。
ペルシャの背景はうる星やつらに、
ユーミの背景はバカボンやおそ松くんの背景によく似ている。
[294] 加藤鏡子作監 h14.5.15
加藤鏡子作監はマジカルエミの舞を見てもわかるように、女性の作監のワリには何だか中性感がある。
これはスポンサーなどの意図により故意に‘中性感’を出そうとしたためであろう。
これはイケナイ。
男の作監が女の子のキャラに‘中性感’をつけると味が出るけれど、女の作監が女の子のキャラに‘中性感’をつけようとしてもうまくいくわけがない。
女の作監ならば、洞沢大先生のようにかわいコ絵に徹するべきだ。
加藤鏡子作監の回のうる星やつらのラムちゃんは女の子らしさがよく出ていて非常にかわいかったよ。
[295] ファンシーララ h14.5.15
ファンシーララでは大西貴子や池田和美などの女性の作監も上手にみほやララの‘中性感’をよく出していた。
それでも男の作監のときとくらべると、‘中性感’が弱く、正統派の女の子らしかった。
大雑把に言って、ファンシーララでは絵柄が‘中性感’で統一されていた。
昔の洞沢大先生のようなかわいコ絵がなかった。(いや、最終回からひとつ前の回の絵はけっこう気合が入っててかわいかったよ。)
統一感は高まったが、反面単調モノトニー(『物と似ているのは単調』昔友達がよく言っていたギャグ)でもあった。
絵柄が多少ちがっていたほうが、広い視聴者層を狙えるし、昔の魔法少女ファンも取り込むことができたはずだ。
なんと言っても、‘中性感’と‘かわいさ’は魔法少女の二本の柱なのだから。
[296] 知覚非従属性五感界 h14.5.17
絵とは五感界(特に視覚界)の表現であって、実体ではない。
例えば、ペルシャの実体は誰もまだ見たことがない。
実在するかもしれないし、していないかもしれない。
我々に見えるのはただ、洞沢由美子の見たペルシャや、岸義之の見たペルシャだけだ。
テレビのブラウン管に映し出された像は、それぞれの作画監督の五感界の中にあるペルシャなのだ。
だから、同じペルシャでも作監によって顔が違っているのだ。
実体としてのペルシャは(もし実在しているとすれば)細胞の塊だ。さらには原子の塊だ。素粒子の塊だ。
それが、人間に感覚されて、実体が五感界の存在に変換されると、‘かわいさ’や‘中性感’を帯びてくる。
女性では‘かわいく’変換され、男性では‘中性’に変換される。
実在界の実体には‘かわいさ’や‘中性感’はないが、五感界の対象にはそれらの性質が存在する。
知覚非従属性五感界において‘かわいさ’や‘中性感’が存在する。
それは実在から切り離れているけれど、冗談として許すことにしよう。
絵はそれぞれの作画監督の五感界(の表現)である。あとはただ、それを眼で見て我々自身の心で感じればよいのだ。
[297] 横山大観作『麗子像』 h14.5.17
荒々しい中にも落ちつきのあるタッチである。
父親の娘に対する厳しい中にも優しさのある視線が感じられる(クッサー)。
[298] 瀬戸大橋の絵 h14.5.21
この前テレビで瀬戸大橋(尾道今治ライン)の絵を見た。
瀬戸内海の大自然と一体化した瀬戸大橋の姿はまことに壮大であった。
それと、旅のゆったりとくつろいだ気持ちが海面に漂う靄(もや)と潮のうねりに表現されていた。
絵というのは、自分や他人の気持ちを形や色としておもいっきりクサ〜く表現することである。
クサければクサいほど高く売れる。
要するに、写真に人の気持ちを混ぜたものを絵に描けばいいのである。
魔法少女の絵は、岸義之の設定にそれぞれの作監の気持ちが混じって描かれていた。
[299] (知覚非従属性五感)従属性心 h14.5.20
五感には知覚に従属する部分としない部分がある。
知覚に従属する部分は正しいか間違いかの区別しかないが、知覚に従属しない部分には独特の意味がある。
女は赤ちゃんに似ている形に対して「かわいい」と感情する。‘かわいさ’は女性的な五感従属性心である。
男は男にも女にも見える形に対して「おっ、いい女」と感情する。(千葉順三の絵は行き過ぎていたけれども。)‘中性感’は男性的な五感従属性心である。
[300] 感覚界と心界 h14.5.21
女性は、感覚界(ここでは、知覚非従属性五感界のこと)の中にある‘幼児形(赤ちゃんに似た形)’に対して、心は‘幼児感(いわゆるかわいさ)‘を感情する。
男性は、感覚界の中にある‘中性形(男にも女にも見える形)’に対して、心は‘中性感(一種のおかしさ)’を感情する。
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